約 99,372 件
https://w.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/4653.html
基礎データ ブランド名 世界文化社 会社名 株式会社世界文化社 電話番号 Fax番号 メール 企業分類 出版 現在の問合せ結果 × 現在のコメント メール返信なし 最終更新日 2009/09/30 特記事項 家庭画報、クロスワードファンなどを出版する会社。 基礎データ特記事項 世界文化社2008年12月01日の毎日朝刊に広告あり 他、広告あり 2009/09/29 ×(メール返信なし) 関連ページ 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 世界文化社 2008年12月01日の毎日朝刊に広告あり 他、 広告あり 2009/09/29 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事169 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1253530105/182 182 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2009/09/29(火) 23 08 25 ID 983D7OvU0 323 名前: 松崎名無しげる [sage] 投稿日: 09/09/29 23 06 31 ID 9VUccJcI メールのお返事ですv 世界文化社→メール返信なし 関連ページ 検索 2008年12月01日の毎日朝刊 広告一覧 2008年12月09日の毎日朝刊 広告一覧 2009年7月23日の毎日朝刊 広告一覧 2009年7月25日の毎日朝刊 広告一覧 2010年12月01日の毎日朝刊 広告一覧 2011年12月01日の毎日朝刊 広告一覧 2011年2月18日の毎日夕刊 広告一覧 2012年11月15日の毎日朝刊 広告一覧 2012年11月16日の毎日朝刊 広告一覧 2012年1月16日の毎日夕刊 広告一覧 2012年9月19日の毎日朝刊 広告一覧 2012年9月21日の毎日朝刊 広告一覧 2012年9月26日の毎日朝刊 広告一覧 2012年9月28日の毎日朝刊 広告一覧 2013年4月14日の毎日朝刊 広告一覧 問合せ結果分野別一覧その3 問合せ結果別一覧 ×対応の企業(漢字で始まる企業名・さ行~た行)
https://w.atwiki.jp/saikyoumousou5/pages/3928.html
【妄想属性】実験 【名前】追放された神 【属性】全能神(元) 【大きさ】成人男性並み 【攻撃力】成人男性並み 【防御力】成人男性並み 【素早さ】成人男性並み 【特殊能力】戦闘開始位置から無限に離れた場所にある天上界(広さ無限)で常時全能 天上界はその名の通り戦闘開始位置から見て真上に存在する 【長所】天上界で一二を争うほど位の高い神だった 【短所】罪を被せられて流刑になった 0898格無しさん 2023/08/16(水) 17 13 11.98ID +qMGgki6 自分は天上界にいなくてよいんだよな? 0905格無しさん 2023/08/17(木) 14 11 23.70ID OqNQgCMJ 追放された神 考察 書き方的に天上界にいないと全能を行使できないと解釈できる となると単なる成人男性が天上界に行ける訳がないので普通の成人男性と同じ adult male=追放された神 (成人男性の壁) 0908格無しさん 2023/08/17(木) 19 51 31.53ID baJI05yZ 天上界で常時全能 って書いてあるなら全能の範囲が天上界なのであって天上界にいる時に常時全能っていう条件付き全能にはならない気がするけど 0909格無しさん 2023/08/17(木) 20 10 33.74ID ftVgSsYF 地球全能だが地球にいない、でも地球範囲の全能は取れるわけだし ただ“天上界で”って記述がちょっと解釈わかれる 天上界に対する全能、なら天上界にしか全能を行使できないと思うが “で”はちょっと微妙 いっそのこと天上界全能なら天上界の位置と関係なく自分起点で天上界範囲の全能使えるんだが 0910格無しさん 2023/08/17(木) 20 21 27.09ID 1aYhqqZj 天上界にいる時にって解釈したら常時全能の範囲が分からないし天上界に入った瞬間時間無視と全能が付与されるってのも不自然な気もする 0911格無しさん 2023/08/17(木) 21 10 09.10ID ftVgSsYF 天上界は無限の広さってあるから、ルール的に単一宇宙相応なんじゃない? そもそも時間無視は範囲とか位置と関係なく持ってるわけで、天上界が遠くても関係ない 全能防御はこのスレでのルールが明文化されてないから 常時全能ってだけでつくかは微妙 (他スレ基準なら常時全能なら自動で全能防御もつく) 0918◆n0qGxROT0Q 2023/08/18(金) 20 20 34.98ID L1HLKXZM 追放された神考察 常時全能なので時間無視、常時全能だが全能範囲外にいるので全能防御はつかないだろう 天上界は無限の広さなので単一宇宙より大きい、無限規模とする 全能は範囲外から遠隔行使可能とする 全能で道具を持ってくることができるだろうから普通の時間無視より有利とする ○四次元の成人男性 全能分有利 ×緋弾のアリア 手数差で先に撃たれる ×一応僕はry)、ゴッドフィンガー 手数差で先にビーム負け 緋弾のアリア>追放された神>四次元の成人男性
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/2666.html
修練場ウィンドウで 天上練武館に入場可能(1個必要) 売却:可能(250,000銀) 取引:不可 削除:可能 倉庫:可能
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/1992.html
■コンセプト 天上宝貝の利用幅を拡張させるため、 新たな宝石を導入致します。 ■詳細仕様 宝貝にはめ込む事ができる以下の宝石を新たに導入します。 【導入される宝石】 青龍石 白虎石 朱雀石 玄武石 雪猫石 彌猴石 白犬石 金羊石 激炎石 氷寒石 雷電石 暗黒石 剣劉石 刀軟石 槍懦石 爪銹石 ■備考 導入は2008年11月26日(水)を予定しております。 導入及び仕様につきましては、予告無く変更・取り消しが 行われる可能性が御座いますので、予めご了承下さい。 ■対応状況 2008年11月13日 情報の掲載 2008年11月26日 導入
https://w.atwiki.jp/sinraf/pages/2582.html
地上界 地上五皇陣 地上五霊陣 地上四聖陣 地上三宝陣 他の勢力を表示聖龍獣牙飛天鎧羅皇魔中央都市魔界大魔界神魔界メビウス創造神破壊神天界地上界羅震鬼羅震獄鳳凰学園耶馬都外海青龍白虎朱雀玄武麒麟白面九尾隠神刑部魂獣界魂獣大帝人間界魔族邪神聖魔族オリンポステイルズ オブ千年勇者勢力一覧 地上五皇陣 全員のHPが20%アップ No_カード名 R T C HP 攻 防 速 基本技 必殺技 05207_ファイナル・ジーク SP 魔 6 800 640 445 125 正面の敵に無特効のなぎ払い攻撃さらに補助効果を打ち消す 正面の敵に無特効のなぎ払い攻撃クリティカル発生時に大ダメージ さらに補助効果を打ち消す 10565_ジーク龍人態 SP 地 6 840 675 480 125 ランダムに敵を攻撃限界突破の回数に応じて威力アップ ランダムに敵を攻撃限界突破の回数に応じて威力アップ このページの先頭へ 地上五霊陣 地上界のHPが20%アップ、それ以外のHPが10%アップ No_カード名 R T C HP 攻 防 速 基本技 必殺技 0307_獅子王アゼル PR 力 6 800 715 500 110 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 00750_魔弾のレムリア W 力 6 795 560 560 120 ランダムに敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル ランダムな敵に無特効攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 9542_真星姫神メリル H 力 6 800 545 545 125 敵全体を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル 敵全体を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 20509_真星姫神メリル PR 力 6 800 565 565 120 敵全体をX字に攻撃対象不在時、正面の敵を攻撃 敵全体をX字に攻撃対象不在時、正面の敵を攻撃 20531_真星姫神メリル PR 力 6 800 525 525 130 敵全体を攻撃さらに補助効果を打ち消す 敵全体を攻撃さらに補助効果を打ち消す ブースト発動 0329_精霊使いメリル PR 技 6 800 565 565 120 ランダムに敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル ランダムに敵を連続攻撃ガード不能 00378_魔弾のレムリア PR 技 6 800 565 565 120 ランダムに敵を攻撃さらに補助効果を打ち消す ブースト発動 ランダムに敵を攻撃さらに常時効果を打ち消す ブースト発動 0733_夕闇のミカヅキ W 技 6 780 600 415 130 ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ ブースト発動 00749_聖龍剣ジーク W 技 6 795 610 510 120 正面の敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル 正面の敵に無特効攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 4209_聖龍剣ジーク H 技 6 795 630 525 115 正面の敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル 正面の敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 0308_精霊使いメリル PR 魔 6 800 610 610 110 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を連続攻撃ガード不能 00379_夕闇のミカヅキ PR 魔 6 800 615 430 130 ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ ブースト発動 4318_ジーク龍人態 H 魔 6 795 610 425 130 正面の敵になぎ払い攻撃 正面の敵になぎ払い攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 20528_精霊使いメリル PR 地 6 800 565 565 120 ランダムに敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ ランダムに敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 20529_聖龍剣ジーク PR 地 6 800 615 515 120 正面の敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 正面の敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ このページの先頭へ 地上四聖陣 地上界のHPが20%アップ、それ以外のHPが10%アップ No_カード名 R T C HP 攻 防 速 基本技 必殺技 05401_真星姫神メリル S 力 5 645 415 415 130 敵全体を攻撃さらに補助効果を打ち消す 敵全体を攻撃さらに補助効果を打ち消す ブースト発動 4105_勇者ジーク S 力 4 555 350 495 110 正面の敵を攻撃さらに対象の与ダメージをダウン 正面の敵を攻撃さらに対象の与ダメージをダウン 4304_獅子王アゼル S 力 4 530 475 330 110 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 05103_精霊使いメリル S 力 4 535 345 410 120 ランダムに味方の与ダメージをアップ 味方全体の与ダメージをアップ 00392_精霊使いメリル PR 力 3 435 275 320 125 ランダムに味方の与ダメージをアップ 味方全体の与ダメージをアップ 00435_星霊ステラ PR 力 3 435 275 320 125 ランダムに味方の行動を早める 味方全体の行動を早めるさらに与ダメージをアップ 4208_聖龍剣ジーク S 技 5 630 500 415 115 正面の敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル 正面の敵を攻撃TYPE 無の相手にクリティカル 4106_夕闇のミカヅキ S 技 4 530 405 285 130 ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ ランダムに敵を攻撃さらに自身の与ダメージをアップ 4302_魔弾のレムリア S 技 4 535 375 375 120 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を攻撃ガード不能 4207_精霊使いメリル S 魔 5 625 470 470 110 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を連続攻撃ガード不能 05209_獅子王アゼル S 魔 5 640 445 445 120 正面の敵になぎ払い攻撃 正面の敵になぎ払い攻撃クリティカル発生時に大ダメージ 4206_精霊使いメリル S 魔 4 530 400 400 110 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を連続攻撃ガード不能 4301_夕闇のミカヅキ S 魔 4 535 350 350 130 ランダムに敵を攻撃 味方全体の行動を早めるさらに与ダメージをアップ 4113_ルキア・ムーン S 魔 3 400 280 280 120 ランダムに敵の行動を遅らせる 敵全体の行動を遅らせる 4102_メリル・スター S 無 4 525 365 365 120 ランダムに味方を回復 味方全体を回復 被ダメージダウン 4210_最長老ローウェン S 無 4 540 445 445 100 ランダムに味方の行動を早める 味方全体の行動を早めるさらに与ダメージをアップ 05402_宇宙歌姫ステラ S 無 4 540 380 380 120 ランダムに味方の与ダメージをアップ 味方全体の行動を早めるさらに与ダメージをアップ 4103_メリル・スター S 無 3 405 285 285 120 ランダムに味方を回復 味方全体を回復 被ダメージダウン 20507_宇宙歌姫ステラ PR 無 3 435 300 300 125 ランダムに味方の与ダメージをアップ 味方全体の行動を早めるさらに与ダメージをアップ このページの先頭へ 地上三宝陣 地上界のHPが10%アップ No_カード名 R T C HP 攻 防 速 基本技 必殺技 05208_星剣士アゼル N 力 4 500 415 340 110 正面の敵になぎ払い攻撃 正面の敵になぎ払い攻撃 4104_アゼル・スター N 力 3 385 320 265 110 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃 4212_ガスパー N 力 3 370 305 370 90 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃 05104_星霊ステラ N 力 3 390 250 300 120 ランダムに味方の行動を早める 味方全体の行動を早める 05320_ドン・キポーネ N 力 3 385 260 380 100 正面の敵になぎ払い攻撃 正面の敵になぎ払い攻撃 4108_アレクサンドロフ N 技 3 370 270 405 90 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を攻撃 4211_カンダッタ N 技 3 370 305 305 100 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を攻撃 05105_恋ナス N 技 3 360 250 250 120 ランダムに味方の与ダメージをアップ 味方全体の与ダメージをアップ 05211_マグリー N 技 3 390 325 325 100 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃 05321_テン・ネパーグ N 技 3 380 315 260 110 正面の敵に貫通攻撃 正面の敵に貫通攻撃 05405_ラピスリティ N 技 3 370 205 305 120 ランダムに味方の被ダメージをダウン 味方全体の被ダメージをダウン 05210_司祭ケンユウ N 魔 4 480 300 365 120 ランダムに敵の与ダメージをダウン 敵全体の与ダメージをダウン 4213_風猫キリカゼ N 魔 3 390 250 300 120 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を攻撃 4303_銃工バレル N 無 4 480 360 360 110 ランダムに敵を攻撃 ランダムに敵を攻撃 4107_シエル N 無 3 360 300 300 100 正面の敵を攻撃 正面の敵を攻撃 このページの先頭へ +「地上界」について 「地上界」について 「神獄の章」「王我螺旋の章」で登場。 古の時代、中央都市とそれを囲む4つの地域(聖龍地域・獣牙地域・飛天地域・鎧羅地域)から成り、 各地域で独自の文化を形成していたと云われる。 文明の繁栄と衰退を繰り返し、現在では1つの国として自然を尊ぶ平和な世界を作っている。 人間と自然生物とが共存する世界。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/110.html
目次 1.光の砦を築け 2.法の原点に戻れ 3.なによりも法につけ 4.ユダとなるよりパウロとなれ 5.人のため神のために 6.あの罪を二度と犯すな 1.光の砦を築け ミカエルです。またこうして、みなさまに霊示を送れることをたいへんうれしく思います。さて本日は、この第三巻の終わりも近づいてまいりましたが、光の大軍ということについての話をしておきたいと思います。 私はすでに何度も何度もお話をしましたように、魔軍掃討の指揮官をしております。しかし逆説的なこととして、私が立たんとする時に私の動きを封じんとして動く魔の軍団もあります。こうしたものに対して、今私は光の大軍を率いて、そして地上のユートピア化のために全力を尽くしたいと思うのであります。 この光の大軍はいったいどのようなものであるかということですが、今私の傘下には約五千名の光の大軍が控(ひか)えております。平常時にはさまざまな立場で、持ち場で、みずからの仕事をしていた光の天使たちが、いざ危急存亡(ききゅうそんぼう)の時には我が傘下(さんか)に集まりて、そうして大いなる大軍となりて地上の者たちを救い、そして魔界の者たちを蹴散らすという活動をするに至っているのです。 今私は、地上のあらゆる悪を一掃するために天上界で檄(げき)を飛ばし、天上界の光の天使たちを我が傘下に集めんとしております。 特に『大天使ミカエルの降臨』の第1集が出てよりこのかた、地上にある、この私の意図を阻もうとする勢力、ここに魔軍が今集結せんとしているので、私もこれをこの機会に何とかして光の勢力で砦(とりで)を築き、そしてあらゆる魔から地上の正法の在り方を、正法の人びとを護りたいと念願するものであります。 特に私は、ミカエルの名が魔軍たちの錦の御旗の代わりに使われたということを、ひじょうに遺憾(いかん)に思っておりますし、この十年間私自身がそのことのために頭を一方では悩まし、他方では力を蓄えてまいりました。我が名を騙(かた)りて人びとを惑わそうとしている人びとに対して、私は今断固たる態度で臨みたい、そう思うのです。 具体的には、今、高橋信次亡き後の団体を率いているGLAという、この諸君。彼らには今、ルシフェル以下魔界の者たちが取り入って、そして何とかしてこの光の勢力を、すなわち幸福の科学らの光の勢力を弱めようとして画策(かくさく)しているのであります。このことは私の霊的な眼にははっきりしています。はっきりとこの地獄の軍団たちが彼らの幹部の心のなかに入って、そうして多くの人びとを混乱させようとしているのです。 こうしたことは決して許されてよいことではないのです。もはや私はこれ以上見過ごすことができないでいるのです。たとえかつて我が守護せし団体であったとしても、かつてわが師であり主でもあった高橋信次が起こした団体であったとしても、今こうして神の行く手を阻(はば)み、その勢力を邪魔し、そして妨害(ぼうがい)せんとする動き、自分たちのプライドと自我のために、欲得のためにそうしたことをせんとする時、私は涙を流しつつ剣を抜き放たざるをえないのです。 このようなことは私自身の口から言うことは、大変たいへん悲しいことでありますが、今そうした魔軍に蹂躙(じゅうりん)されている団体はいかんともしがたい。こう言わざるをえないのであります。 2.法の原点に戻れ 私自身、反省してふり返ってみるならば、自分がもっともっと彼らを護ってやれなかったのかという悔いは残りますが、いかんせんこの地上界というものは一つの法則の下にあります。それは地上の人間にも心の王国というものがあり、自由意志というものが与えられているということであります。この自由意志は光を思い、神を思えば神の世界に通じるが、地獄を思い、悪を思えば地獄界に通じるという法則です。そしてこのイニシアチブは地上の人間に任されているのです。 地上の人間が今地下の世界に心を通じ、そしてそれをよしと思っている時に、天使軍団であってもこれをどうすることもできないのです。彼らに近い世界にいるということ、地獄の世界にいるということ、これをどうすることもできないのであります。 私は、かつて正法の団体であった所が今魔軍の砦と化し、そして彼らの支配下にあるということに涙するとともに、しかしこれ以上こうした悪の勢力を増強させてはならないと、強く強く思うのです。 GLAの幹部の諸君に言う。君たちのなかにも光の天使はいたであろうし、現にほんとうはいるのだ。しかし君たちが今そのように心を迷わし、魔軍に制圧されている理由は、君たちが自己顕示欲と闘争欲のままに生き、そして自分らは偉いということに思い上がってきたせいなのだ。 こうした一つの罪、大きな罪から逃れて、そして本来の心に立ち返るためには、謙虚な心を取り戻すことだ。自分たちはもともと偉い人間だという考えを捨て、そして謙虚な心に戻ることだ、謙虚な心にたち返って、そしてもう一度ゼロからのスタートをしようとすることだ。もう一度真実の法の原点に戻ろうとすることだ。 高橋信次は説いたではないか。ハ正道ということを説いたではないか。反省ということを説いたではないか。ならばなぜ、あなた方は反省しようとしないのか。自分たちが決めつけ、そして思い込んでいることを当然として人に押しつけ、これにそぐわない者たちはまったく異端視し、排撃するというような態度は、これがほんとうに神理の団体の在り方かどうかをよくよく考えてみなさい。 そうではないけずだ。原点に戻りなさい。教えの原点に戻りなさい。人間は生まれによって偉いということが決まっているのではないのだ。その思いと行ないの積み重ねによって偉いということが決められてゆくのだ。あなた方も過去世がどうであったとしても、もし、たとい過去光の天使であったとしても、今世において魔軍に支配され、そして権力闘争のなかにあった時に、決して光の世界には還れないということを知リなさい。 私の言葉にいたずらに反発するのではなくて、謙虚に私の言葉を受け止めなさい。あなた方もかつてミカエルの声を聴いたことがあるはずです。そうであるならばわが声を正しく受け止めなさい。もう一度プライドを捨ててゼロから人間としてやリ直しなさい。人間としてやり直すことです。そしてみずからが悟っていないのに、人を導くことができないということを知ることです。これがだいじです。 今のあなた方の力よりも、あなた方を蹂躙(じゅうりん)しようとしている魔軍の力のほうが強いのです。あなた方の力では彼らを跳ね返し、彼らを看破(かんぱ)し、彼らを統御することができないのです。そうであるならば、あなた方も光の勢力として本来の使命にたどりつくためには、もう一度謙虚にみずからをふり返ることです。みずからをより返って、そしてまちがった部分は神にお詫(わ)びをすることです。それができなければ、もう取り返しがつかない所に来ているということを知らねばなりません。 光に対する反発や反抗は、一時的にその結果がすぐには出ないかもしれませんが、永い目においてかならずやその反作用がみずからの身を覆うことになるのです。やがて自分たちがやっていることがほんとうに光の行為であるかどうかは、その反作用を見ていけばわかるようになるのです。 そうしたことをしたくないのです。あなた方もかつて私の弟子として生きていた時があったのです。実在界において、地上界において、そうしたこともあったのです。ならばわが声をよく聴きなさい。もう一度初心に帰りなさい。もう一度原点に帰りなさい。高橋信次の教えは決して人の上に立って人に対して威張り、自慢する心を起こせということではなかったはずです。みずからの心をふり返り、つねにさび落としをせよという教えではなかったか。それをよくよく考えてほしいのです。 3.なによりも法につけ 私は大変たいへん悲しいのです。ミカエルという立場でひじょうに苦しいのです。当初私自身がGLAを、そして高橋佳子を指導したように言われておりながら、今違った形でこうした批判をみずからがしなければならないということを、どれほど私自身が残念に思い、くやしくも思っているか、あなた方にはわかるだろうか。 しかし私の言っていることが本当にわかるのはあなた方のはずだ。なぜならば、もはやGLAという団体にミカエルの指導はないであろう。それはあなた方がいちばんよく知っているはずだ。もはや私の声を聴くことも、私の姿を見ることもできないはずだ。また主宰者をしている高橋佳子にも、私はもういっさい通信は送っていないはずだ。 もちろんミカエルのみならず、高橋信次も同様だ。まったく指導はしていない。死後五年後に高橋信次が高橋佳子と一体となったなどという、まったくのでっちあげで多くの会員を惑わすということをもうこれ以上してはならない。そんなバカなことをすることはやめなさい。あなた方はひじょうにまちがったことをしているのだ。今もう一度心を改めて、真実の法を学ぼうとしなさい。真実の法に学ぶことです。 「人につかず、組織につかず、法につけ」と言うではないか。まず法につきなさい。あなた方も神理に触れた時に、どれほどこの教えがすばらしいか、かつて感動したことがあったであろう。その感動をいったいどこに置き忘れてきたのか。法に接した時の感動を忘れて、そして感動の涙を流したことを忘れて、みずからの地位や立場、名誉のために、いつまで根城を張って、そして魔軍の協力をしているのか。 もはやめざめよ。あなた方が救われる道は、まず自分がもう一度己の心をふリ返り、謙虚になることです。そうして会員一人ひとりに対して、ほんとうに自分たちがまちがった指導をしたと思うならば、そのことを素直に告白することです。そして人の心をつなぎ止めようとしないことです。それがたいじだと私は思います。 4.ユダとなるよりパウロとなれ 私はこうしたことを、こうした書物のなかで話すことはたいへん悲しいです。できればこうしたことは避けて通りたかったし、私自身沈黙してきましたが、今この時期になってまだこの問題が解決していないということは、これは私自身の責任でもあるのです。今このことをどうしても明らかにしておきたいのです。 こうした名指しの批判のような言葉が活字となって後世に残ることはたいへん悲しいことです。私自身ひじょうに悲しいことだと思っております。しかしながら、これも歴史的な事件であり、今歴史のなかに我われがあるということを知らねばならないということです。 私はあなた方に言っておきたいのです。ユダとなるな。決してユダとなるな。わずかな金のために主を裏切り、そして軍勢を向けたユダのように決してなってはならない。あなた方の主とも仰ぐ人が今出ている時に、それを攻撃するような団体になってはならない。 イエスに刃を向けたのはいったいだれであったか。それはかつてのモーゼの教えを受けた人たちではなかったか。律法学者たちではなかったか。旧約の教えを受けた人たちではなかったか。それが新たな救世主を迎えた時にそれを迫害したことは、まだ人類の記憶には新しいであろう。 そうした今新約の時代がまた訪れようとしているのだ。新たな教えが、福音が説かれようとしているのだ。この時に愚かな行為をして、そして歴史に汚名を残すな。歴史に汚名を残してはならない。みずからの名を残すのであるならばバウロのごとく偉大な改心をして光のために生きよ。それがほんとうの道だ。 あのキリストの伝道の弟子パウロも、当初はキリスト人たちを迫害していたではないか。イエスを批判していたではないか。しかし天上界の光に接して改心したと言われているではないか。そして異境の地に神理を伝えたと言われているではないか。 汝ら、ユダとなるよりもパウロとなれ。ユダとなってそして後世に汚名を残すよりもパウロとなれ。パウロとなり、偉大な改心をなして伝道のために生きよ。さすればあなた方の過去の生き方は、決してだれからも裁かれることはないであろう。私たちも天上界から温かい目で見よう。後世の人びともあなた方を裁くことはないであろう。 今自分たちがやっている仕事、この歴史的意味というものを考えなさい。感じなさい。それがだいじです。特に私は、そうした光の人たちがこうした魔軍に敗れて道をそれ、そして地獄に引きずり込まれていくということは、どうしても我慢ができないのです。まだ生きているならば間に合うはずです。今なら間に合うはずです。 闘争心や権力心、名誉心、こんなものは捨てなさい。すべて捨てなさい。すべて捨てて神の心に任せなさい。帰依しなさい。神の心のままに生きることです。つまらない、そうしたプライドは捨てなさい。自分自身を見、自分自身の生き方を見、そうした時に自分が神を裁くほどの心境にないことぐらいはわかるはずです。 5.人のため神のために 私をはじめ他の高級諸霊たちも、もう五十数冊にわたる書物を地上に霊言という形で送ってきました。私たちの真意がどこにあるかは、それらを読めばわかるはすです。これらをすべてもう一度よく読んでみなさい。そうして悟りなさい。悟りということがだいじである。私はそう思います。 高橋信次という偉大な神霊が、今あなた方の姿によってどれほど悲しみ苦しんでいるかを知りなさい。もう一度ゼロに戻してやリ直してほしいというのが、師・高橋信次の現在の願いであるのです。その願いを伝えるために私がミカエルの立場で、あえてこういう話をしているのです。 高橋信次は霊示をすでに十集以上送ったはずです。十集以上地上に送ってきました。それでまだあなた方は気づかないのか。まだこの真実の教えがわからないのか。まだこの神の心がわからないのか。 わからないならばミカエルが言おう。これでもまだわからないのか。私の本もこれで三冊目です。まだわからないのか。そんなことであって何ゆえに神理を説くことができるか。みずからをふり返ることができず、みずからが反省することができない人間は、人に法を説くことはできないということを知リなさい。それがだいじです。 ミカエルは決して高橋信次を自分より下に置いたり、そして威張ったり、人を威嚇(いかく)したり、こんなことはさせた覚えはありません。 あなた方はミカエルの指導と思っていたものが、いつかしら魔軍の指導に変わっていたということを忘れているのです。そのすり変わりがわからないのであれば、それは悲しむべきことです。その原因は自分自身の心のなかにある己心の魔です。魔がそれを呼び寄せているということを知りなさい。自分自身の心のなかにある魔、これを反省しなさい。 こうした魔が現われた理由はいったいどこにあるか、あなた方はわかるか。それはみずからのなかに霊能信仰に傾倒し、そして霊的能力があるということが普通の人間よりはるかに偉大な人間なのだと思い上がった、そこのまちがいにあるのです。霊的能力だけで人間は悟ったとは言えない。偉いとは言えないのだ。霊能力をふり回さず、裸の生地としての人間性で自分というものを計ってみなさい。それだけの人徳があるかどうかを計ってみなさい。 信仰というものは神に対してなされるものであって、特定の人間に対してなされるものではない。それを私はあなた方に言っておく。まちがったミカエル信仰、このミカエル信仰も、天上界のミカエルではなく、地上にいるという、その生き神信仰になってしまった。こうした信仰にしてしまったその罪はひじょうに重いということを、私はあなた方に言っておく。 あなた方の最大のまちがいは高橋住子をミカエルの本体だと言い、そして高橋住子信仰をミカエル信仰のごとくしたこと、これが最大の誤りです。生きている人間は生き神様になってはならない。信仰というのは神に対してなされるべきことです。それは人間に対してなしてはならない。人間に対して誓ってはいけない。人間に対してそうした絶対の帰依(きえ)をしてはいけないのです。帰依は神に対してしなければならない。 地上に降りた人はあくまでも光の使者であり、預言者であるということ。神の言葉を預かる人であるという立場に甘んじなければいけないのです。決して生き神信仰だけはしてはならないのです。これをやリ始めた時に魔が忍び込んできたのです。そうした歴史的な事実を今、あなた方は知りなさい。 私はこうした歴史的経緯(けいい)をふまえて、もはや決断の時が来ている、そう思うのです。まちがった教えは地上から姿を消すべき時が来ているのです。そんなことのために、意地のために、名誉のために、もうこれ以上法を曲げることはやめなさい。高橋信次の法をこれほどまでに曲げてしまったという責任は、もう取り返しがつかない所まで来ているのです。 曲げるくらいなら何もしないほうがよいのです。むしろ高橋信次の教えをそのままに伝えることです。新しい法を説こうなどとせず、そんなまちがった方向に人をひっぱっていくことをせず、真実の教えをそのままに継承していくことかだいじであったのです。 今、もはや取り返しのつかない所まで来ているとも言えましょう。けれどもパウロの例がある。パウロの例があるではないか。私はここに期待を寄せたい。このチャンスに賭けたい。パウロのごとく改心せよ。回心をせよ。そして残りの人生を、ほんとうの意味での神理の伝道のために生きよ。 みずから禍(わざわ)いを招くことなく神のために生きよ。自分のためにではなく、神のために生きよ。自分のためではなく他人のために生きよ。そこにほんとうの信仰者の道があるのではないか。 つまらないプライドは捨てなさい。プライドのために法を説いてはならない。法を説く者は謙虚でつねにみずからふり返らねばならない。みずからがまちがったと思ったら、即座に修正をしていくこと。まちがいは即座に認めて正しい教えを取り入れ、それを実践すること。これが真実の道ではないだろうか。私はそう思う。 GLAの幹部諸君たちよ。あなた方も光の子であるならば、今ただちにめざめなさい。もうこれ以上罪を重ねてはならない。法を説く人に対して、真実の法を説く人に対して、罵詈讒謗(ばりざんぼう)、攻撃、または中傷-こうしたことをもうこれ以上くり返してはならない。あなた方はこれ以上の罪を作ってはならない。 高橋信次の名を辱(はずかし)めてはならない。また私ミカエルの名を使い、これ以上私の名を汚さないでいただきたい。聖霊を汚(けが)す罪は赦されないということを、あなた方も聖書を読んで学んでいるはずだ。聖霊を汚すな。聖霊を騙(かた)るな。真実の教えを真実のままに生きることがだいじです。 もしあなた方が、もう霊的に迷ってしまい、わからなくなっているならば原点に返りなさい。生前に高橋信次が説いた教えの原点に返りなさい。その教えを忠実にたどっていきなさい。死後の教えではなく生前の教えをたどってゆきなさい。それがたいじなことではないだろうか。 あなた方も数多くの霊言集を読んできて感じられたであろう。過去偉大な方であっても、名の残っている方であっても、みずからの生前の誤りについて触れ、それを修正しようと努力しておられるではないか。その謙虚さがわかるか。 如来、菩薩と言われた方がたが、自分の生前のまちがいについてはっきりと反省をされ、そしてその考え方を修正しておられるではないか。その謙虚さを学べ。ましてやあなた方は肉体を持った地上の人間ではないか。地上の人間であるならば、なにゆえにそれまでに権威を持って、自分たちを変えようとしないのか。それはまちがいです。心を確かに持って、そして日々みずからの足元を確かめていく努力、それをしなければなりません。 6.あの罪を二度と犯すな 私は今ミカエルの使命として、もはやこれ以上魔軍たちの争乱を許すことはできないのです。またこれはGLAだけではない。その流れをくんだ他の弟子たちの団体、これも同じだ。あなた方もおたがいに魔に撹乱(かくらん)されながら他人を混乱におとしいれ、攻撃しているという実態、これを知リなさい。 人に八正道を説き、反省を説いたところで、自分自身がまったく反省ができていないのに、どうしてそういう立場が成り立ちえるのか。すべては過去世が偉大な人間であったという、そうした盲信によって成り立っているのではないか。過去自分が七大大使であったとか、あるいは他の偉大な人間であった ― こういうことを吹聴して人びとを寄せ、そして自己満足に耽(ふけ)っているのではないか。 その考えをまず捨てなさい。それを捨てて、もう一度原点に立って、人間として自分がやらねばならないことがいったい何であるか、これを探り当てなさい。 教えの原点に返りなさい。教祖然として勢力争いをするのを、もうこれ以上私は地上でやってほしくないのです。もうそういう考えはこれを機会にやめていただきたい。 この私の言葉の意味がわからないのならば、このミカエルの霊言二冊にわたって、私が説いてきたことの意味がなくなります。なにゆえこういうことが起きるのかを、あなた方は知リなさい。 かつて法を学び、高橋信次の霊的現象を見てきたならば、これもまったく同じものであることがわかるでしょう。 自分たちだけが悦に入り、そして他のすばらしいものを認めない心は、これは残念ながら卑怯(ひきょう)な心なのです。こうした心を持っていてはいけない。よいものはよい、すばらしいものはすばらしいと素直に認める心。これがだいじなのです。 自分は主体的に生きていると思いながら、あにはからんや、霊的には地獄の魔王の支配下になり、その手先と成り果てているという現状を決して忘れてはならない。そんな姿に満足してはならない。私はそう思います。 今こそあなた方は決断する時、法につくべき時です。そうした救世の時が来ているのです。今人類の危機が迫っています。人類の危機がそこまで来ているのです。こうした危機に救世の運動がなくてどうするか。勢力争いばかりにみずからの力を費やし、みずからの頭脳を費やして、そしてほんとうに人びとを導く気があるのか。 真に人びとを指導し、導く気のない人間は去りなさい。この法の世界から去りなさい。私の眼の見えない所から去りなさい。そして人びとを導こうとすることをやめなさい。そんなことをしてはならない。 今こそ情熱を燃え立たして、そして多くの人びとに真実の神の教えを説くべき時が来たのです。そしてその教えとは、私たちが法を伝えている、この幸福の科学の教えであるのです。これは天上界の総力を、総勢力を結集してやっていることなのです。 天上界が総力を結集してやっていること、これについていきなさい。この流れについて行かなければいけない。そうでなければ、あなた方は今世地上に出た意味がない。たとえ一年であろうとも半年であるうとも、この神理を味わい、神理を信じて、そして地上界を去って行きなさい。その時期が来ている。 かつて高橋信次の教えを受けた者たちも、今集まってきなさい。今一堂に集まってきなさい。わが声のする方に集まってきなさい。あなた方が今行動を起こさねば、なにゆえにあなた方の師が、かつてこれほどまで努力したか、それほどまでに努力したか、その意味がなくなるではないか。 高橋信次の教えを受けて、それを信じたことがある者であるならば、今集結しなさい。集まりなさい。そして大きな救世の母体を創ってゆかねばならない、母集団を創ってゆかねばならない。 人びとよ。このわが声の真実を知れ。このわが叫びの真実を知れ。このわが思いの切なるを知れ。私はあなた方を真実の道へ連れて行きたいのだ。私の声を信じなさい。そしてこの声のする方に従い来たりなさい。イエスもまた我が傍(かたわら)にいて、我を指導してくれています。私にもっとがんばれと言ってくれています。 私は今イエスの声を伝えます。あなた方にイエスの声を伝えます。イエスはあなた方に「もう二度と同じようなことをしてはならない。同じような罪を犯してはならない。」と言っておられるのです。二千年前のあの罪を二度と犯してはならないと言っているのです。 救世主が出た時に、それを迫害するということ、これは人類にとっては最低最悪です。そうした大きな罪なのです。最大の罪なのです。主が降りた時に、この主を護り、主とともに生き、主とともに行動をし、主を盛り立てるという、そういう仕事に生きなければならないのです。そうでなければ、その時代に生きたということ自体がまちがいになってしまいます。 二千年前の愚をくリ返してはならない。断じてくり返してはならない。それを私は強く強く申し述べて、この章を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/1995.html
■コンセプト 韓国で新・天上碑の小説が出版された事を祝い、 当クエストが導入されます。 ■仕様の説明 新・天上碑外伝クエストは6章からなるクエストで構成されており、 クエストを通じ、その至るところで、 小説版 新・天上碑の魅力的な世界を体感することができます。 ■備考 2008年10月30日 追記 次回大型アップデート時に新・天上碑外伝クエストに関連したモンスターのステータス及び、 クエスト内容の調整を予定しております。 導入及び調整を行う内容につきましては、予告無く変更・取り消しが 行われる可能性が御座いますので、予めご了承下さい。 2008年11月26日 記載 新・天上碑外伝クエストにつきまして、 2008年11月26日(水)に、新・天上碑外伝クエスト一部モンスターの 調整を行う予定でしたが、より調整が必要と判断しました為、 導入の延期を行うこととなりました。 導入を楽しみにされていた皆様にお詫び申し上げます。 詳細など進捗がございました際には、 改めてこちらでご案内致しますので 都度ご確認頂けます様お願い申し上げます。 ■対応状況 2008年08月01日 情報の掲載 2008年08月26日 導入 2008年10月30日 情報の更新 2008年11月26日 情報の更新 2008年11月26日 調整の延期
https://w.atwiki.jp/magamorg/pages/8827.html
テンカイ・モンスターとは、天界文明のクリーチャー達が持つ文明。 その力を利用して、ジャイアントを強化しようとしているのが自然文明。 たとえば、 天界の門番コイシカル 天界 UC コスト5 6000 テンカイ・モンスター←これ ■ブロッカー ■セイバー 天界文明 ■このクリーチャーは相手プレイヤーを攻撃することができない。 (F)光文明の使者か。門を開けろー!!! 借りるなどはどうぞご勝手に。ただし、天界文明を入れ忘れないように。 いらんと思うけどコメント欄 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/459.html
目次 1.一定の時空間内での実存者は実在 2.三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空 3.四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である 4.人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による 5.過去世の記憶の消去は死後復活する 6.本体、分身の概念について 7.物質世界と霊との関係について 8.物理学者は三次元の解明のために生まれてきている 1.一定の時空間内での実存者は実在 善川 先般、空海大師からお教えを賜った際、大師は、「人間は、人間としての生活をすべきだ―」と、言われたのですが、そのお言葉の中には、ひじょうに、われわれ肉体人間にとって、含蓄深い示唆がかくされているように思われましたのですが、結局、われわれが、この現象界に生まれたということは、生まれ、現に生きているこの肉体人間というものは、その肉体という「衣」を通して、衣を着た、いかにも人間らしい生き方をしなければいけない、というふうに解したのでありますが、そのことは、一面において、その闇なり、氷なり、というものを、一時は認めざるを得ないというふうに、受け取ったのですが、そういう考えでよろしいでしょうか――。 日蓮 ―たとえていうなれば、光一元、善一元、という考え方は、こういう考えなのです。ここに氷塊があるとします。私の掌の中に、氷の塊があるとします。氷はあるように見えて、本来は無いのであるという説き方があります。 これは解けて流れて消えてしまうからです。そうでしょう。解けて水になりやがて蒸発して、空気の中に混り見えなくなるでしょう。実在するものなら、無くならないはずです。それが、無くなるように見えるのは、水が実在しないという考え方が、一つにはあるのです。これが善一元、光一元の考えです。それは、ある意味においては正しいのです。 しかし、現に氷が、氷として私の掌の内にあることは、できるのです。これが、やがて、氷でなくなるからといって、氷が無いというわけではない。そうではありませんか。 ここが、ものごとの話の分かれるところです。 一定の時間の中で、一定の形をとる場合、そのものを、「実在」として認めるか、認めないか、ということが議論の分かれ目です。 「氷」も一定の条件の枠の中で、一定の形をとっているということを「実在」と認めるなら、氷は実在でありますが、しかしながら、やがて無くなっていく「無常」なものであるから、氷は氷と仮に見えたとしても、それは仮の相であって、本来そういうものは無いのである。氷は、実在しないのだ、という考えがあります。無常観であります。 そして、「空」といいますか、空、或いは、「無」の思想、そういう考え方があります。その立場に立てば、氷は無いのであります。 ただ、あなた方が、生身の人間として、生きていくうちに、水は実在するか、しないかというなら、ある一期間、やはり「実在」するといわざるを得ません。 しかしながら、永い、永遠の時間の中、物事の本質の問題として考えた場合は、「氷」という形は、今あってもやがてなくなっていくもの、もともと、氷ではなかったものである。そういう大いなる輪廻の相を考えれば、"氷" というものは、仮の相であって、実在でない、という捕え方もあります。 つまり、問題は、永遠不変のもののみが実在なのか、それとも、一定の時間の中に、一定の形をとるものも、実在と認めるかどうかということであります。 一定の期間、一定の時間、一定の形をとるものを、実在とみる見方でやれば、あなた方、肉身の人間も実在です。 しかしながら、本来無いものから、あなた方の肉体人間が生まれ、そして、やがて消えていくものは無常の相であって、一定永遠のものでないということから、実体でないというなら、そうもいえましょう。 本来肉体無し、という考えは、本来「氷」無し、という考え方と同じであります。 しかしながら、氷というものの形、それは、万人が認めることができ、万人が感じることができるものです。 万人が見、万人が感じ、万人が存在を認めるものが存在しない、実在しない、と言い得るかどうかということ、ここも一つの議論です。私の言っていることが分かると思います。 一元論、二元論の分かれ目の時間であります。大きな時間というものからみたならば、善、悪、の二元論はないのです。光一元、善一元、これが真実です。 しかしながら、永遠の時間、というものではなくて、一定の時間というものをとってみた場合には、善も、悪もあるように見え、その一定の時間の中に、同時に存在しているものにとっては、実在であります。 本来、説明している地盤なり、基盤なり、立場、が違うもの同士であるから、互いに論破できるものではありません。 2.三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空 善川 そういうお説からするならば、これを仏教的に解釈すると、「色即是空」「空即是色」、「有」即「無」、「無」即「有」ということに要約換言されてよいことになるのでしょうか。しかして「色」は「空」の、「有」は「無」の、根本「法」観の認識に立っての「実在」感としてとらえらるべきだという考えでよろしいでしょうか――。 日蓮 もう一度考えてほしいのです。従来の仏教の思想というものは、単に、三次元是空、三次元是無、という思想ではなかったでしょうか。そして四次元以上の世界が、真実の世界であって、三次元は、「空」の世界、仮の世界であるという考えであります。 ところが、四次元の世界も五次元の世界からみたら、空であり、無であります。 五次元の世界も、六次元からみたら、空であり、無であります。そうではありませんか。そうであるなら、本来すべてが「無」い、と言えますが、私たちの住んでいるこの世界、七次元、八次元の世界を「実在」の世界と認めるならば、三次元の世界もまた実在、二次元の世界もまた実在、であります。 私たちの住んでいる世界も、われわれより一段上の世界からみれば、空であり無であるならば、同じことではありませんか。 四次元が実在であり、三次元が空であり無であるならば、四次元も五次元も、六次元から見たら空であり無であるはずです。 そうして、われわれの世界からみた、四次元、五次元、六次元も空であり無であります。 われわれの世界も、また一歩、一段上の世界からみたら、空であり無であるはずです。 それであるなら、私の存在、こう語っている私の実在、それも実在ではなく影であり迷いであり、仮の姿であると言えないこともありません。 そうではありませんか。いずれにせよ、どこに基本の軸をおくかということ、どこにその語るものの立場があるか、ということによって異なるわけです。 四次元が実在であり、或いは、五次元、六次元、七次元がもし実在であるというならば、三次元もまた実在であり、四次元、五次元、六次元、七次元も実在でないというなら、三次元もまた実在でないといえると思います。 それは、どういうことかといえば、神のみ、神のおられる世界のみが実在である。それ以外は、すべて仮といえば仮といえるということです。 だから、あなた方の世界からみて、あなた方の生きている世界が空の世界、無の世界であって、私たちの世界が実在かも知れないというけれど、そういう私たちの世界も神の世界からみれば、空であり無であり仮の世界であります。 何が実在で何が実在でないか、これはひじょうに難しい問題であります。われわれの世界が、神の世界からみて実在であるなら、われわれからみたあなた方の世界も、また実在であります。 善川 そこでお尋ねしたいのですが、あなた方は、今、八次元にお出でになるとして、十次元の世界を認識することができる。或いは、六次元の方は、七次元の世界を認識することができる。その認識する方法というものが、明らかにされているのではないでしょうか。 日蓮 明らかとはいかなることでしょう。 善川 ―認識できる能力を保有することができるようになるのではないでしょうか。 日蓮 あなた方も、私たちのことを認識し得ています。同じような方法であります。 善川 いや、私たち肉体人間の場合は、ごく限られた、少数の特異能力を持つものだけでありますが――。 日蓮 同じです。あなた方は、われわれと、話することによって、低次元があるということを認識し得ております。あなた方自身は、生きていながら、われわれの世界に来ることもできなければ、そのような経験を積むこともできないはずです。あくまでも、われわれが三次元で話をしているのです。あなた方がこちらに来ているのではない、そうでしょう。同じように、六次元の人間であっても低次元、七次元、八次元の人間が来て、語ることはでき、彼らの世界を理解することはできるけれども、彼らが、七次元、八次元、に昇っていけるわけではないのです。そういう意味では不自由です。 善川 しかし、そうではありますけれども、あなた方、八次元、の方が、直接五次元以下の世界へお出でになって、講習会を開いたり、或いは、説法をされて、同時に不特定多数の人間が認識できるというようなシステムをとられているにかかわらず、この三次元世界の人間だけにはそういうシステムがないということは、いかがなものでしょうか、 日蓮 あるのです。システムはあります。光の天使たちがこの地上に出ております。肉体を持つという一つのハンディは負っております。しかし光の天使たちは、肉体を持って、「法」を説いております。同じであります。五次元の人間に対して、六次元、七次元の人間が降りていって、「法」を説いております。同じなんです。 下の次元の人間にとっては、上の次元の人間の生活は分かりにくいのです。彼らが一体どのようなことを考え、何をしようとしているのか分からないのです。 四次元の生活、四次元は幽界、霊界以前と申しましょうか、彼らは、肉体人間界と同じような生活をしております。 しかし、彼らの生活は、われわれの世界からみれば、仮の世界であります。彼らからみたら、われわれの世界は、天上界の世界であります。同じようなことなのです。 3.四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である 善川 ただしかし、例えば、五次元あたりの世界の方であれば、高次元の方のお話される内容が、われわれの世界でいう、テレビとか、そういった形のもので放映されていて、その認識の範囲が広く行き届くというシステムがとられているということですが、この三次元世界では、高次元世界の説法をそういう方法で聞くことができないという不自由さがありますが――。 日蓮 ――そうでもありません。同じなんです。四次元の人間も、四次元の中に、神社、仏閣を持っております。彼らも休みの日には、神社へ行ったり、仏閣へ行ったり、或いは教会へ行ったりして、神様のことを祈っておるのです。彼らも分からないのです。神様がどういうものか分からない、仏様がどういうものなのか分からないのです。そして時折、指導者と名乗る者が出てきて、彼らに説教をし、四次元の人間に五次元、六次元の世界を説いているのだけれど、あなた方に私たちが説いているのと同じようで、「ほう、そういう世界があるのかなあー」ということであって、はっきりしないのです。各世界に居る人たちは、自分たちの居る世界が実在であって、それはやむを得ないのです。 高次元の話をしても、やはり、夢、まぼろしのように聞こえてしまって、実感としては分からないのです。 善川 ――ところが、先般、紫式部さんをお招きして、この方の現在お住まいになっている世界の模様をお尋ねしたのですが、その時に、式部さんは、「実は先日も、日蓮さんのお話をテレビでお伺いしていたところです――」というようなことなど、いろいろお話したのですが、それをお聞きする限り、私は、その次元が高まるにつれて、その高次元の認識の程度というものが、克明にもっと明確にされる仕組みになっているのではないかと考えたのですが。 日蓮 程度の問題であります。テレビで観るといっても、現象界であなた方が、時代劇で私なり空海さんなりの伝記物を、テレビ番組で観ているように、これも、紫式部の住んでいる世界で創ったテレビ番組かも知れません。あなた方も偉人伝や、歴史物のテレビや映画を観ているはずです。同じようなことかも知れません。 善川 それでは、実際に五次元に降りていって、テレビで説法されたという訳ではないのですか。 日蓮 ――それは愚問です――。霊界、天上界にも、ひじょうに厳しい段階の差があって、それぞれ、別個の世界になっておって、その断絶は、また激しいのです。例えば幽界の人間がまとっている、幽体とでも申しますか、その霊的な体は、われわれの霊的な体とひじょうに違っているのです。 彼らの霊的な体は、たとえていうならば、われわれから見るとあなた方の肉体と同じなのです。彼らから見れば、私たちは、空気だか、霧だか、霞だか分からないような、そんな体を持っているように感じてしまうのです。それだけの差があるのです。 この現象界と霊界、というふうに二つに分かれるのではないのです。三次元から四次元へ、四次元から五次元へ、それぞれ近いけれども差があります。同じ程度の差があるのです。そういう意味で、三次元がもし空であり無であるとすれば、四次元、また空であり無であるわけで、五次元もまた然り、そういうことが言えるわけです。それぞれ、その立場に立ってものを言うからです。 ―あの世―と、ひと言でいうけれど、それは、あなた方がたまたま三次元に居るからそうであって、五次元に居る人間にとっては、六次元以上もまたあの世です。会えないのですから、仕方がありません。似たような生活をしている人たちだけが集まっているのです。そして、上の世界があるということさえも知らない人たちが、一杯いるのです。 現に、四次元に住んでいる人たちなどは、そうです。四次元以上の世界があることなど、知らないのです。彼らは、彼らで、地上生活を営んでいるつもりでいるのです。そして、時折、神様の話とか、仏様の話とかを聞いて、そういう世界が天上にあるのかなあ、と想像しているのです。 4.人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による 善川 いま一つ、お尋ねしたいのですが、私たちは、この世の寿命が尽きて他界しますと、まずは四次元の世界へ入って、そこである一定の修行をして五次元へ、そしてまたここである一定の期間修行して六次元の世界へと、こういう過程をとるのでしょうか。 日蓮 それは、あなたがどのような一生を送ったか、ということによって変わってくるのです。どのような一生をあなたが送り、どのような心の状態でこの世を去ったかということが肝要です。 善川 人間は、死と同時に、一旦は一様に四次元世界に留まるのではないのですか。 日蓮 そうではありません。一直線に如来界に還ってくる人もいるのです。ゴーーダマ・ブッダがそうであったように、イエス・キリストがそうであったように、一直線に彼らは如来界に還ってきました。もう彼らは人間として生きながら、すべてのことを知っているからです。或いは私のように、人間として生きた時に、多くの過ちを犯したたために、こちらで修行をした人間もおります。 善川 天上界において、修行の時期というものもあるのでしょうか。 日蓮 そうです。それは各人によって違います。私が十分だと思う期間、私はこの地上での過ちを正すために修行しました。 5.過去世の記憶の消去は死後復活する 善川 この現象界へ、つまり現時点の三次元の世界へ、あなた方のような高次元の方々が降りてきて指導されるということは、これは特別な意味があるのでしょうか。 日蓮 それはもうご承知のはずです。 善川 これは、聖人さんが進んでお出でになられるばかりでなしに、その上段階の方々のご指命もあるわけなんでしょうか。 日蓮 私たちが計画したことです。あなた方も計画したのです。一緒に。あなた方も一緒に計画して、地上に出てきているのです。あなたも私に、「しっかり指導を頼む―」といって、六十数年前に生まれてきているのです。その約束を、今、私は果たしているのです。私は約束を違えていないのです。こうして、私が出て、あなたと話をしなければ、あなたが他界して天上界に還ってきてから、「約束が違うじゃないか、ちゃんと指導してくれなかったじやないか―」といって、私はあなたに文句を言われるでしょう。私は、こうしてあなたとの約束を果たしているのです。 善川 そういう記憶というものは、私は現在、全く喪失しているわけですが、これは他界すると、再び甦(よみがえ)るのでしょうか。 日蓮 本来の世界へ戻ってくれば、そのとおりです。けれども、地獄や、或いは、幽界あたりで迷っていると戻ってきません。 善川 あなたは、私にとって、かつて地上にあった時には、お師匠さんであられたということですが、その時の私の前任者である日朗という人と、現在の私とでは、性格的には、何か開きがありましょうか。 日蓮 性格的には、よく似ております。 善川 一途なところは持っておるのですが、どうも今世においては、効率の悪い生涯で終ってしまうように思うのですが。 日蓮 「日朗」もまた、そう効率のよい生涯を送っているとは言えません。 善川 効率の高い生涯を送られるという方は、これは特殊な人なんでしょうか、 日蓮 私も、今だからこのように、「日蓮」という一定の評価をされていますが、当時は、いろんな山に棲(す)んでいる僧侶のうちの一人にしかすぎなかった。当初は、やま気の多い、僧侶の一人といわれていたわけです。或いは、政治に口を出したり、血の気の多い僧侶だと、思われていました。日朗という人も、そういう血の気の多い坊さんらしくない坊さんに、ただ、この人を信じていこうと思ってついてきただけのことです。当時、それ程、名前のあった人ではありません。 ただ、何百年か経ってみると、私の言ったことの中にも、それなりの、何か酌(く)むべきものがあったという評価が定まってきて、それなら、日蓮という人間の弟子たちも、また、そこそこの考えを持っていた人たちであろうと思われているということです。日朗といわれた方が、どれだけの精神生活を送っていたかということは、そう分かるものではありません。ただ、あなたの、今のあなたの方が、「日朗」の時代よりも恵まれた環境にあるということは確かです。 あなたは、いろんな教え、いろんな如来や菩薩たちの教えを総合して、今勉強できるチャンスを与えられております。しかしながら「日朗」として生まれた時は、単に、日本の国の一地方に生まれて、そこで仏の教えの一派を学んで一生を送ったというに過ぎませんでしたが、今のあなたの経験なり、知識なりは、一層広がっているはずです。 6.本体、分身の概念について 善川 いま一つ、お尋ねしたいのですが、人間には、本来、本体と分身とがあるという方と、分身、即ち五人の魂の兄弟があって、それらのうちの一人が、交互に現象界に出て魂の修行を積む、ということを聴きますし、また、ある人は、それは数人のように思えるが実は一人であって、その人が名を変えて、ある時代、時代に転生してくるのであって、本来同一人であるというお説もあるのですが、その点についてはいかがでしょうか。個性を持った個別の霊というものがあるのでしょうか。 日蓮 これも、今のあなた方の感覚からいくと、ひじょうに理解し難いことです。 どのように説明していいか、それぞれの、地上生活を送った時のあなたは、個性的な魂のあなたとして、大いなる魂の記憶の中には残っているということであります。 日朗としてのあなた、善川三朗としてのあなた、それは、あなたは今、時間としての系列でみているから、その時間の流れの中で、同じものであろうか別なものであろうか、そのように考えているのですけれど、われわれの世界においては、時間はあって、時間は無いのです。それが分かれば、その本体、分身を解く一つの鍵が握れるのです。「日朗」という人は、この現世においては、何百年か前に肉を持った人かも知れません。そういう意味では、あなたと別の人間でありますが。 では、われわれの世界ではどうでしょう。昨日が「日朗」で、今日が「善川三朗」かも知れません。そうでしょう。昨日のあなたと今日のあなたは、同じあなたですか、この質問に答えられますか、明日のあなたと今日のあなたが、同じあなただという証明がつきますか? できないはずです。そういうことです。 善川 次に魂の兄弟、という概念についてお伺いします。実は先般、天上界に私の魂の兄弟で「エビウス」という、今から二千年程前のイスラエルで、イエス様のお弟子の一人として当時のイエス様と行動を共にしたという方がありまして、この方が私の少、青年期の守護霊を務めていてくれた方だとして、いろいろ「法」についての話もしていただいたのですが、このことは、かつてGLAの高橋先生が、本体と五人の分身、つまり、魂の兄弟があると説かれていた概念に相当すると思うのですがいかがでしょうか。 日蓮 私は、そういうものがあるかどうかということを、あなたに語ったとは思っておりませんが、彼を、あなたの魂の兄弟、分身と思うかどうか、それはあなたの自由です。 善川 本人が、私があなたの魂の兄弟だというわけですが。 日蓮 それは、証明のできないことです。例えば、私があなたの魂の兄弟だと言ったらどうしますか。 善川 それは、今の私には分からないことです。 日蓮 分からないはずです。みんな魂の兄弟なのです。そういう意味においては、元が一つなのですから。一つの親から分かれてきたんですから、一つの親から生まれたんですから、みんな魂の兄弟なんです。私とあなたも兄弟なのです。なぜなら、われわれの父であり、母である神は、われわれすべてを創られたからであります。すべては兄弟であります。 その意味において、魂の兄弟という言葉を、どのように使うかということです。兄弟であるということは、事実であります。すべてが兄弟であります。恐らく、あなたが考えている魂の兄弟というものは、また違う意味での魂の兄弟だろうと思われます。たとえて言うならば、こういうことです。日本に生まれている人間は、すべて魂の兄弟なんですけれども、その中で、特に密接な人がいるかどうかということです。あなたが考えている魂の兄弟というのは、元々創られた時から、あなたに密接な魂として、創られた魂があるかどうかということなのです。 すべてが魂の兄弟なのです。けれども、その中で「善川三朗」という人間が、一つの目的を果たすために必要な、ひじょうに密接な魂の兄弟、仲間たちがいるかいないか、ということだと思います。すべてが魂の兄弟ですから間違いはないのです。絶対に間違いはないのです。 善川 それでは、高橋先生の説かれた魂の兄弟論というのも、その個別の生命体があるというのではないのですね。 日蓮 生命体の認識そのものが、今のあなたの認識では理解できないのです。作用としてみることもできます。これは、ある方から、あなたはもう説明を受けているはずです。 存在として五個のりんごがあるように見えるが、物が五つに分かれているように見えることが許されているのか、作用として五通りの作用を出すことが許されているのか。それとも、五個存在するのかどうかというような議論となるのです。例えて言うなら、手の五本の指を、これを五本とみるか、指は指ではないか、指という概念において一つであると、例えばあなたという、指という概念でくくれば、指は一つであります。しかしながら、生き方というものを見たら、五本あると、別々のものだな、しかし指という概念、本質からいえば一つだな、作用の仕方は五つだな、このような違いがある。指としては一つ、指は指なのです。あなたの指ということにおいては、一つなんです。しかしながら親指としての作用、中指としての作用、いろんな作用があるわけです。 同じように、あなたの魂も、あなたの魂としては一つだけれども、働きの仕方としては、幾種類かの働きがあるかも知れない。これは比喩でしか語れません。比喩としてしか語れませんが、そのようなものであります。 善川 そうしたら、われわれはこのように現象界に居るために、そういう差別知でものをみる習慣がありますが、けれども、あなたご自身も、あなたご自身の魂の兄弟を差別知で理解してみるということはしないのでしょうか。 日蓮 ――一人と思えば、一人なのですし、五人居ると思えば、五人居るのです。そういう捕らえ方です。 善川 その五人居ると思えば、五人とおっしゃる、その各人にはみんな、個有名詞があるんでしょうか。 日蓮 ですから、八百年前、九百年前のあなたの前任者とあなたとは、ひじょうに時間が離れていると思うから、別の個性だと思うし、今のあなたではないと思うのだけれどもどうだろうか、というけれども、私たちの世界では、七百年前もつい昨日のことであります。それであるなら、昨日のあなたと明日のあなたは、別々のあなたであって、昨日、今日、明日をとっただけで、あなたは三人居るのです。この三人は、どれがあなたですか?、分からないでしょう。 それが、どういうことかというと、昨日という場に現われたあなた、明日という場に現われたあなた。今日という場に現われたあなた、そういうあなたがあるということです。あなたは一つだけれども、働く場と、時によって、あなたは別のものであります。分かるようで、分からないと思います。 これは、難しいはずです。なぜなら、認識のレベルがそこまで来ていないからです。分かり易く言うとするならば、「善川三朗」として、その魂として、目的を果たすために、あなたの魂の兄弟というのは、それだけの作用の数があるということです。そういうふうに考えていいのです。人間のような形をしたものが、五人、六人居るという考え方もできるならば、千手観音のように、千本もの手を持っているというふうに考える場合もあるのです。千手観音は、千人の魂の兄弟があるといえるかも知れません。けれど、一つであります。この作用という考え方は、あなた方の世界からは、ひじょうに分かりにくいことかも知れません。 善川 その作用ということについては、今のお説で分かるのですが、私の場合、現に、天上界において、エビウスという、イスラエル時代の、イエス様のお弟子が、図書館様(よう)の役所の館長、もしくは記録係のような仕事をしている魂の兄弟があるということですが、そういう彼の言葉を信ずるということになりますと、これは私とは別個の個性を持った魂が生き、かつ活躍しているのではないかと思われるのですが、これはいかがなものでしょう―。 日蓮 それなら、こういう考えはどうしますか、あなたの一〇パーセントの意識が肉体舟を支配して、この人生航路を歩んでいて、本来のあなたの九〇パーセントの意識は天上界に残っている。あなたの本来の意識の九〇パーセントは天上界にあるということ、これをどう理解するかということです。肉体舟をもって修行しているあなたは、あなたの意識の一〇パーセントにしかすぎないということであって、あなたの一部分が、今のあなたと思われる肉体舟で修行をしている。 肉体舟から、あなたが何であるかを逆に推論するから間違っているのです。 あなたは、器の、入物の大きさで計っています。 あなた、そういっているあなた自身は、百パーセントのあなたではないのです。あなたの一部が、あなたと思われる体に入って、あなたのことを語っているのです。 たとえて言えば、あなたはトカゲの尻尾の部分なのです。尻尾のトカゲが、私だけでトカゲなのか、残りの部分もトカゲなのかと言っているようなものです。あなたは自分の意識の残りを天上界に置いてきているのです。意識という形では、難しいかも知れないけれど、あなたは、自分の本来の生命体の一部を使って、いま肉体修行をしているのです。何人かが居るのじゃなくて、何人かが居るのじゃないかと思っているあなた自身が、あなたの一部なのです。あなたのすべてが、そう思っているんじゃないのです。あなたの一部が、そう判断しているのです。 たとえて言うならば、手には手の意識があり、足には足の意識があり、頭には頭の意識がある、と思えばいいのです。そして、あなたという人間は、人間としての意識を持っております。だからあなたは、今それを考え、判断し、私の話を聴こうとしているあなたが、百パーセントのあなただと思っているから、そのような誤解があります。それを思っているあなたは、あなたの一部分のあなたなのです。 善川 今のお話で、本体、分身というこの問題の輪郭が分かりかけたような気がします。今まで何人かの方々が、本体分身の関係について、語ってくれたのですが、各人によってお話のニュアンスが違うように受け取られましたが、それは理解者の理解度によって異なったそれぞれの意味にもとれるのだと思われましたが、そういうことでいいのでしょうか。 日蓮 今話しているあなたが、百パーセントのあなたであるならば、あなた以外に、エビウスという人が居るならば、別の個性であります。別の個性であるのに、魂の兄弟で、一つだというのが分からない、と、あなたはおっしゃることができます。けれども、今、語っているあなたが、あなたの百パーセントではないのです。あなたの一部が語っているのですから、残りの部分があるのは当然です。お分かりになりましたか。 善川 現象界に出て、肉体舟を持っている私の魂が、全休の一〇パーセントとするならば、天上界に残された私個人の、九〇パーセントの本体との交通を、いわゆる魂の肉体離脱という方法で、行うことはできないでしょうか。 日蓮 その必要はありません。やがて還るのですからみんな、あなたは三次元という枠の中に今降りてきて、肉体に入っているのですから、三次元の法則の中で生きていかねばならんのです。こういうことは例外なんです。こういうことは、答えを見せられて、問題集を解いていることと同じなんです。本来は邪道です。 こういう私の言葉を聞かずして、あなたはわれわれの世界のことを感じとらなければいけないのです。それが修行であります。答えを教えているのです、私は今。だからあなたは、今、問題を解く力がひじょうになくなってきているんです。 それはそうでしょう。私たちの話を現に聴いて信じるのと、聴かないで信ずるのと、一体、どちらが難しいかといえば、眼にも見せず、聴きもせず、触れもせずして、信じることの方が、遥かに難しいのです。 もう、これ以上何を望まれるのですか、あなたのように、宗教心もあり知識もある人間が、それでまだそのようなことを知ったり、そこまで行かなければ、なかなか確信がいかないというのであるなら、一般の方々はどうですか、彼らはどうですか。どうして神を信じ、仏を信じることができましょうか。彼らよりは、遥かに恵まれております。 7.物質世界と霊との関係について 善川 しかし、私たちは、この「精神世界」を、現代人が理解できるように説明しなければならない立場にあるように思うのですが、端的に言って、そのためには、物質の構造なり、物体はいかなる因果律によって、存在しているのであるか、などについて、お尋ねし、それを私の知識に加えたいと思うのです。すべて物質万能と考えている現代人は、恐らく九割を超えるのではないかと思いますが、彼らを説得するためにも、その知識を得たいのですが。 日蓮 ――私は、あなたの言葉を聞いて悲しい……。まだ、そんなところで迷っておるのか、まだ、そんな段階で迷っておるのか! われらが、三年以上にわたって説いてきたことを、あなたは、少しでも学んでいるのか。全く分かっていない。今の発言は、全く迷っている。どうして、そちらの方向へ行ってしまうのか、まだ、そんなことを言っている。魂の向いている方向が、違うんじゃないでしょうか、と私は言いたいのです。 下を向いては、上のことは分かりませんよ。 地面を眺めても、太陽は見えませんよ。 霊を知るには、霊しかないのです。 霊のみが、霊を知るのです。 物質は、霊を知らないのです。 霊のみが、霊を知るのです。 善川 ありがとうございました―。 善川 わが国の湯川秀樹博士は、世界的な物理学者でありますが、この方は、晩年、宗教的なというよりは「精神世界」の存在について、ひじょうな興味を持っておられたということですが、この湯川博士にいろいろお尋ねしたいのですが、お呼び願えましょうか、このお方は今、どこの霊域におられましょうか、 日蓮 ちょっと、お待ちください。――湯川博士は、やはり、われわれと同じ世界、菩薩界に居ます。 善川 この人は物理学者ですが、亡くなる前に、自分の研究ももうこれから先は神の存在を認めざるを得ない、というところまで達せられたようで、その意味からして、湯川先生に、物理学者としてのお立場からみた宇宙の構造―マクロの世界なり、物質の構造―ミクロの世界なりについて若干お話を伺いたいと思うのですが。 日蓮 ―彼はまだ、われわれの霊的世界に充分にはなじんでいない。まだまだ現象界の考えや、物事を取り除くという作業のための修行中であります。まだまだあなた方に、このような形で法を説くような立場にはないということです。まだこちらへ来て日が浅いというあなたの言葉、そのとおりであります。彼もまだ、われらの世界では一年生です。勉強をもっとしなければいけないのです。 善川 それでは、物質の最究極の存在とみなされている "陽子" の問題、"クオーク" の問題等について、なおこれらを包括し、存在たらしめている霊の世界、神の存在というものを、論理的にお話しいただけるような方がおられましたらお願いしたいのですが。 日蓮 私は適当な任にないようです。私には充分に答えられる自信がありません。 善川 磁場の問題とか、重力の問題、そして、今、現代物理学が当面している「統一理論」について、どなたかお話願えたらと思いますが。 日蓮 ――しかし、あなたに対話、対談するだけの力がおありですか? 善川 もちろん私は素人ですが、その私にでも分かるように、それなりのお話が願えたらと思うのですが、要するに現世において、物理学者として、ミクロの世界からマクロの世界にわたって研究しておられていて、他界後天上界に昇られたという方で、現在のお立場で過去世、つまり現象界ですね、この現象界で自分たちが勉強しておられた学問なり研究なりの課題が、今、自分が霊的世界に入って、その立場に立たされて、過去の自分の学問なり研究を顧みて、その畢生(ひっせい)の仕事に対する所見、位置づけがどういう言葉でなされるのかということであります。 日蓮 私の知り合いの方には、それに適した方がおられませんが。 善川 私が案じますには、霊と申しましても、四次元の幽界とか、五次元の霊界とかにおられる方と、七次元以上の菩薩界、如来界に居られる方とでは、相当霊的バイブレーションが違うと思いますが、その下の段階におられる方々については、いわば、荒い波動を出しておられると、それは物質的な表現を用いるならば、エクトプラズム体(電子体)とでも申しますか、何かそういう体を保有して日常を経過しておられるのではないか、また、天上界の方々は、更に高度に精妙な体を持っておられると思うのですが、それがどういう精度の高い霊体を持っておられるのか、そこのところをお聴きしたいのですが。 日蓮 あなたは今、大変な誤解をしています。あなたは今自分の五官知、五官知によってこの世界を感じとろうとしています。超えたものなのです。あなたの五感による認識を超えたものなのです。今あなたは、精妙なという言葉を使いました。精妙なという言葉を使って分かったような気分にはなりますけれども、これ以外の説明はできないのです。実際にあなたが、あなたの世界へ来なければ分からないし、またそれ以上の世界へは、行ってみなければ分からないのです。分からない人は永遠に分からないのです。 われわれは、われわれより下の世界は分かります。それより以上の次元の世界は分かりません。あなた方はまだ、三次元におります。三次元に居ながらにしてどこまで認識ができるでありましょうか。 善川 しかしまあ、私たちが、今後いろいろな人びとに法を述べ伝えるということになってきますと、いろんな角度からの質問もあり、また私自身も知りたいし、認識したいという希望もあり、また強い意欲もあるのですが。 日蓮 私は、イエス様のお弟子様のペテロという方から、こういうことを聴きました。 彼らは学問がなかったために、イエス様のお教えを人びとに説くのにひじょうに苦労をしました。そして彼ら、ペテロをはじめ他の弟子たちがイエス様に伝道に行きなさいと言われて、「一体イエス様、何を言ったらいいのでしょうか。私たちは何も知らないんです。何も知りません。何も分かりません。先生のお言葉だけを信じて、お伴してきたのです。どうしたらいいのでしょう」とペテロという人はいったそうです。そうしたら、その時にイエス様が、ペテロという人にこうおっしゃったそうです。「汝ら、案ずることなかれ、その場、その場で言うべき然るべき言葉が出てくる。どのように人びとに説教するかというようなことを汝ら案ずることなかれ―」とイエス様に言われたと、ペテロという人は私に語っておられました。同じではないでしょうか。 分からないものは、分からないでいいではないですか。恐らく私たちが語ったところで、例えば専門家の物理学者があなたに質問したら、あなたは答えることはできないでありましょう。私はそう思います。それはそれでよいではないですか。 善川 ただ、しかし、私の考えますのは、宗教者として神、仏を説くなら、神仏の位置というものがどこにと……。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/393.html
目次 1.人生の主題曲、変奏曲とは何か 2.天上界にもそれぞれの階層に照応した音楽がある 3.私たちは、音楽の調べを通して神の世界を表現している 4.感性を研ぎ澄まし天界の調べを感受せよ 5.苦悩を乗り越えてこそ、人生の一大シンフォニーは作曲できる 6.曲の着想は一瞬のインスピレーションの中にある 7.芸術家は自然と調和の緑色光線 8.お互いに学び合う菩薩界 (1986年5月6日の霊示) 1.人生の主題曲、変奏曲とは何か ベートーベン ベートーベンです。 ―― ああ、これはベートーベン先生。ご降臨下さいまして、まことにありがとうございます。私どもは各時代におきまして、ご活躍されました偉大なる光の指導霊の方々の神理のお言葉を承って、今世におきまして、新たな正法・神理を伝え述べたいと、このような意図のもとに仕事を進めておりますけれども、今回、さらに芸術に携(たずさ)わられた方々のご指導を願って、芸術に対する、あるいは現在の芸術家、または将来の芸術家に対する、「本来の芸術とは、如何(いか)なるものであるか」ということについてのご指導をお願いいたしたいと、このようなことで、過日はピカソ先生をお招きいたし、ご高説を承ったのですが、本日そのような意味におきまして、先生のお教えを伺(うかが)えるならば、非常に幸せだと思います。このようなところにお招きしてまことに恐縮ではございますけれども、音楽における先生のご生涯を通して、今世のまた未来の者に対し、何かご指導いただけますならば幸いと思いますが、お願いできましょうか ベートーベン あなた方は、この日本の国に、新たな宗教の種を蒔(ま)こうとしておられるものと思います。しかし、ともすれば新たな宗教の模索ということは、どうしても過去の宗教の幻影に惑わされるものであります。音楽の世界でも、一大革新というのが近世来、さまざまなかたちで起こったわけであります。私もあなた方には、今日(こんにち)では楽聖(がくせい)とか言われているようではありますけれども、私の使命そのものは、やはり、新たな波紋をこの世に起こすことでありました。 私自身の使命は二つありました。その一つは、音楽という世界において、新たなる芸術の波を起こすということが一つ。今一つは、不僥不屈(ふとうふくつ)の人生をもって、それを示すことによって、世の人びとを勇気づけるということでありました。それが私の人生の主題でありました。その他、主題曲以外にも、変奏曲はさまざまありましたが、主として、主題曲としてはその二つでありました。 さて、あなた方にとっての、主題曲と変奏曲とが、一体何であるかということを考える必要があろうかと思います。あなた方にとってのモチーフ、主題曲は、もちろん、霊的世界をこの世に広めるという、そうしたことでありましょう。そういう意味において、さまざまな方々の霊言を広めていくということ、霊的世界についての知識を普及させるということ、これが主題でありましょう。しかし、これ以外の部分、変奏曲にあたる部分も、また必要ではないでしょうか。それがあなた方にとって今、何であろうかということです。 たとえば、神はあなた方に対して、その霊的世界の普及という主題以外に、如何なる方向を与えられているかということです。それは、あなた自身の個性と本質とを見つめるときに、明らかになってくるものであります。未(いま)だ、あなたご自身も気がついておられないような面もあるはずなのです。そうした変奏曲の部分も、また大切であります。 おそらくは、音楽についてあなたに専門的なことを語っても、多くの話はできないであろうと思われます。また、音楽という性質上、音というものが主役であるし、また、楽器というもの、演奏者というものが主役であります。それをこのようなかたちで、対話という形式を通して表現するのは、とても困難なことであります。私の調べの申に秘めた真実というものは、とてもこのような話の中では表すわけにはいきません。 先般、ピカソ様からは、絵画についてのお話があったとのことでありますが、それではあなた方から何もお話がないようですから、私の方から、もう少し話を続けるといたしましょう。 2.天上界にもそれぞれの階層に照応した音楽がある ベートーベン 音楽というものの役割、これを考えていただきたいのですが、音楽というものは、もちろん、この地上の世界だけにあるものではありません。音楽というものは、やはり、神の調べの一つであります。神は、人間の魂を、神の子たちの人生を明るく照らすために、さまざまな装(よそお)いを許されました。その一つが、たとえば美であり、美しさですね、粧(よそお)いであり、また、他の一つが音楽でもあったでありましょう。 天上界にも音楽はあります。それぞれの世界に応じた音楽があります。あなた方の思想にも段階があって、それぞれの段階に応じた思想があるように、天上界にもそれぞれの階層に照応した思想というもの、音楽というものがあるのです。ですから、地獄的なる音楽もあれば、天国的なる音楽もあります。 今、クラシック音楽と言われている領域の中には、非常に天国的なる調べが多く残されています。天国というのは、それほど忙(せわ)しいところではないのです。さまざまな物語りでもお聞きの如く、やはり牧歌的な雰囲気のあるところが天国であります。しかし、地獄の方は忙(せわ)しいのでありまして、闘争と殺戮(さつりく)、破壊が相次いでおります。そうした中で生み出される旋律というものは、非常に忙しげなものです。 現代においては、地獄的なる音楽が、非常に地上に蔓延(まんえん)していると思います。あなた方が聴いている音楽の一つひとつが、昔に比べれば、ずいぶんテンポも早くなり、聴くものによっては、騒音にしか聴こえないような音楽が、よしとされている世の中ではないでしょうか。あれは地獄的なる音楽なのです。本当の音楽というものは、人の心に悦びを与えるものです。幸視感を与えるものです。神秘的な情感を与えるものであります。 天上界においても、こちらにおいても、やはり音楽というものはあるのです。天人(てんにん)たちが音楽を楽しみたいというときに、やはりそうした音楽を次々と聴かせてあげるのが、私たちの仕事であります。 3.私たちは、音楽の調べを通して神の世界を表現している ―― おたずねしてよろしいでしょうか。 ベートーベン よろしいです。 ―― 私はある方からお教えいただいたのですけれども、音楽も芸術のジャンルの中の一つであろうと思いますけれども、たとえば絵画なら絵画は、一つの感覚、つまり視覚を通して鑑賞するものでありまして、やはり一つの造形芸術と申してもよいと思うのです。彫刻もしかりであり、まあ文学もある意味ではそうでありましょう。けれども、音楽におきましては、聴覚でその美というものを鑑賞する芸術であろうと思うわけなのです。その意味において、実は神の創られた世界のバイブレーションと言いますか、そういうものを端的に表現しているのがこの音楽であると、このようにある方が申されているのですけれども、芸術の中で、音楽こそ至高の神のバイブレーションを伝えるものであるというように聴いているのですけれども、あなた様のお考えとしてはいかがなものでしょうか。 所詮はこの世もそちらの世界も、波動の世界であろうと思うわけなのですが、要は心の波動の世界であろうと思うわけなのですが、それが形象化してきて一つの事物になったり、いろいろするわけですが、つまるところは心の波動であると、メロディー、旋律であろうと思うのです。音楽におきましても、そのことがいちばん重要であり、心の波動の精髄を奏でるというところに、音楽の音楽たるゆえんがあるのではなかろうかと、このようにも思うわけなのです。その音楽を理解し、音楽によって真の美なり、心の振動をかき立てられる、奏でるということができることは、非常に幸せであろうと思うのですけれども。 ベートーベン まあ、結局は同じことであって、あなた方は、思想というか、活字によって、神の世界を表現しようとしておられる。また、画家たちは、絵というものを通して、神の世界を表現しようとしておられる。私たちは、調べということを通して、神の世界を表現しようとしているのであります。 あなた方は、文字の上には、天国のハーモニーを現すことはできないでありましょう。思想的に訴えて、神の世界を出しているだけであります。しかし、天国の中には、美術でいうような素晴らしい情景もある。これはあなた方の筆では表現できないものであります。絵画を通さずにはわからないものであります。あるいは、私たちが創るような調べというものもあるのです。 ですから、悟りというものには、さまざまな種類がありますけども、視覚的に美しいなと思って信じる場合、こういった方面の悟りもあれば、音楽的なものに陶酔することによって、神の世界を感じるという方もいるのです。 私の音楽を聴いて、やはり、神を感じたと言われる方は多いのであります。また、私の音楽を聴いて、人生を感じたという方も多いのです。また、私の音楽を聴いて、苦難の人生を、素晴らしいものに変えてゆこうとする勇気が湧いてきた、と言われる方も多いのです。 音楽は何も語っていません。言葉はありません。言葉はないけれども、雄弁なのが音楽であります。あなた方が、どれだけ文字で人びとを勇気づけるようなことを書いたとしても、それを読まなければ、なかなかそのことはわかりません。けれども、音楽という普遍的な材料を用いることによって、さまざまな人が、少なくとも私の曲の一部は、一度は聴いているはずなのです。あなた方の書物を一生の間で読むことがある人とない人は、分かれるでありましょう。けれども、ベートーベンの音楽は、世界各国の方が一度は耳にしておられます。 その折々に、さまざまな曲、曲のなかに、私はさまざまな細工をしているのです。それは、あるときは神の国の栄光であったり、あるときは人間が生きていく上での正法であったりするわけです。そうした物事を、音符の中に、私は隠しているのであります。ですから、聴いている人は気がつかないでしょうが、私の「運命」なら「運命」という曲を聴いて、悲惨な人生から立ち直ろうとする人が出たならば、それで私は、あなた方がちょうど神理の書物によって人びとを鼓舞(こぶ)しているのと同じようなことを感じているのであります。思想だけでは、人間というものはついてこないのです。 4.感性を研ぎ澄まし天界の調べを感受せよ ―― やはり、音楽は一つの感性といいますか、人間の感情に非常に大きく影響を与える芸術であろうと思うのですけれども、あの「英雄」、あなたのつくられた「英雄」という曲につきましても、あれのなかに、あの曲を聴く者が、壮大なやはり一つのドラマというか、人間の冒険というか、偉大な意志の発揮というものを感じ取ることができるようになっているのであろうと思いますけれども、感性によって、それが自覚できるようなかたちになっているのではないかと思いますけれども。 ベートーベン ま、感性というものは、あなた方はともすれば、良く思わない傾向があるのです。宗教的な方々は特にそうです。五官煩悩ということで、目から入るもの、耳から入るもの、鼻から、舌から、ロからですね、入ってくるもの、こうしたものが人間を狂わす、感わすというふうによく言いますけれども、また五官から入ってくるもののなかで、人間を正しく導くものもあるということです。五官を去ればよいのではないのです。釈迦はそう言ったかもしれません。「五官を断て」と。「五官に感ずるものにおいて、美しきもの、楽しきもの、神理に近きものは何もないのだ」と。「むしろ五官を超えた世界のなかにこそ、神理はあるのだ」と、釈迦は言ったはずです。 けれども本当は、五官を通じて入ってくるもののなかにも、神の調べは入っているはずなのです。眼は嫌なものばかりを観ているわけではないのです。美しいものも観ているのです。天国地獄はあの世にあるだけではなくて、また思想的な世界だけにあるのではなくて、眼に映るもののなかにも、天国地獄はあります。 美しい景色は、どう観ても天国であります。目を思わずつぶってしまうような景色というのは、どう観ても地獄であります。耳から入ってくるものものそうであります。騒音は地獄的なる音であります。美しい調べは天国的なる調べであります。美しい言葉は、天国的な音であります。しかし、人の悪口や陰口は地獄的なる言葉であります。 ですから、あなた方は思想として、「人の悪口を言ってはいけない。人は欺(あざむ)いてはいけない」、そうしたことを教わり、また説くこともあるでしょうが、これを音というレベルで捉(とら)えたならば、「悪い音は聴いてはいけない。いい音を聴きなさい、いい音を発しなさい、悪い音を発してはならない」。感性のレベルではこういうことになるのです。 人の悪口とか中傷とかいうようなことは、これは音楽的なる調べに直してみると、大変、乱れた旋律になってしまいます。ところが褒(ほ)め言葉というものは、非常に美しい調べとなってくるのです。人間の言葉というものも、ある変換によって音楽の調べに直すこともでき、そのような調べになっています。 5.苦悩を乗り越えてこそ、人生の一大シンフォニーは作曲できる ―― いささか現代に及びますけれども、現代はまあこのジャズ音楽が非常に盛んになってきておりますけれども、これらはどういう傾向でございましょうか。 ベートーベン ま、ジャズ音楽を、すべて地獄的と言うつもりはございませんが、ただ、波動としては、高い波動ではありません。特に、悲しみを歌うジャズ、ああしたものは地獄的なる波動も、かなり入っているでありましょう。ジャズ音楽というのは、地獄から、せいぜい霊界、五次元霊界レベルの音楽であります。 ―― これは、だいたいアメリカあたりから発生してきたものでしょうかね。 ベートーベン 黒人とか、そうした者が中心になってきたものだろうと思います。 ―― そもそもは、呪術(じゅじゅつ)的なものから出発した音楽なんでしょうか。 ベートーベン 言っておられることの意味がわかりません。 ―― ま、占いとか、祈りとか、そういうふうな黒人あたりがよく使っておられるものですね、そういう音楽の中から出発したものかと思うのですが。 ベートーベン そうでもないでしょう。あなたには、どうやら音楽論は不向きのようですから、もっと一般的なことをお聞きになりたければ、そうした話もいたしましょう。 ―― それでは、先生のことをおたずねしては失礼ですけれども、特にご生前中に、音楽に心魂を傾けておられた中途におきまして、耳を痛められて、非常にご苦労されたということなんですが、その間のご心境なり、何なりをお聞かせ願いませんでしょうか。 ベートーベン 音楽家にとっては、耳が聴こえない、眼が見えないということは、これは最大の苦痛であります。足が動かなくても、手が動かなくても結構ですけれども、耳が聴こえないということは、最大であります。 ただ、今秋は、それをどうこう言うつもりはございません。やはり、秋の人生というものは、一つの「運命」交響曲を奏でていたようなものだと、私自身思います。人間というものは、決してバラ色の人生だけを送るものではないということです。ただ、どのような苦悩にたとえ打ちのめされようとも、その苦悩を乗り越えてゆく過程において、素晴らしい交響曲を創ることができるということなのです。人生においてですよ、素晴らしい交響曲を創ることができるということなのです。 ですから、あなたにしても、あるいは他の方々にしても、さまざまな苦痛や、あるいは不自由なことも多いと思いますが、そうしたものは、無ければいいことではないのです。順風満帆(じゅんぷうまんぽ)の人生のなかにおいて、宗教を一つのシンフォニーとするならば、素晴らしいシンフォニーはできないのです。やはり、あなた方の人生も、山あり谷あり、ごつごつした岩ありと、そうしたなかで、一つの調べを奏でるようなものでなければいけません。 あなたは、毎日毎日、ずいぶん苦痛がっておられます。あなたにとっては、人生自体がかなりの部分、苦痛であったろうと私は思います。それが外見にも出ていますし、端(はた)の者にも感じられます。また、私のように初めて来た者にも感じられます。ただ、そうしたものに負けてしまうようなあなたであったならば、あなたが作曲する曲は、平凡な曲になってしまいます。 やはり、一大シンフォニーを創るということなんですね。悲しみが深ければ深いほど、喜びもまた高いのです。地獄の奈落(ならく)を経験するからこそ、天国への飛翔というものが素晴らしいものとなってゆくのです。その落差こそが、音楽のスケールの大きさとなってゆくのです。ですから、あなた方の人生の音楽のスケールを大きなものとするためには、やはり、さまざまな苦難が必要だということです。 私は現在、ベートーベンとして、世の人びとから多少の尊敬を受けておりますが、その理由の一つは、ただ、私が素晴らしい曲を書いただけではありません。やはり、私が苦悩を乗り越えた人生を生きたということが、世の人びとの胸を打っているのではないでしょうか。ある意味においては、私の人生は、苦行僧のような人生であったということであります。 日本にも昔、中国から、眼が見えなくなっても仏法を伝えようとして来られた僧がいたと聞いております。鑑真(がんじん)という方だと聞いています。たとえて言えば、そうした方のような人生であったであろうと、私自身思います。眼も見えず、言葉も通じない国に来てでも、やはり、仏法を伝えようとする信念、信仰、そうしたものは、彼に何度かの難破をもものともさせず、彼を日本まで導いたのでありましょう。私の人生もそうでありましょう。眼が見えず、耳が聴こえずとも、やはり、壮大な神の音楽の世界を、この世に伝えねばならないと、そういうことであったと思います。 モーツァルトにしてもそうです。彼もまた、光の天使でありますが、彼の人生そのものは、悲惨でありました。不幸の天才であります。けれども、彼の人生、三十数歳、五歳でしょうか、そのくらいで閉じた彼の人生そのものは、悲惨でありました。不幸な天才であります。けれども彼の音楽自体は、珠玉の名編であります。ですから、この世的な人生の幸、不幸と、神の下僕(しもべ)としての幸、不幸とは、必ずしも重ならないのです。ですから、あなた方にしても、この世的な幸福ばかりをどうかあまり考えないでいただきたいと思います。 ―― ただ、まあ私たちの仕事は、より多くの人びとに導きの方向を示す、幸せを示す、そういう仕事でありますために、私たちが、世の人びとから見て不幸なそういうような状態で、人びとに対し神の下僕として「幸せである」という認識を与えるということは、非常に困難な作業でございます。やはり角度を変えた意味においても、私たちの生き方が人びとに正しい生き方であると感じられるような、そういう姿であらねばならんと思っております。 ベートーベン ただ、あなたご自身について言うならば、まだまだ何と言いますか、魂の足腰の部分が、まだ弱いように私には見えます。あなたは、圧力を加えると、やはりグシャツと潰(つぶ)れてしまいそうな気が私にはします。まだ弱さがあります。そうではなくて、バネと一緒です。圧力を加えられたら、ある程度までは縮みます。これはやむをえません。しかし、ある程度までです。それから後は撥(は)ね返す。こうしたものでなければいけません。圧力を加えられたら、トマトか何かのように潰れてしまうようではいけないのです。いいですか。自分自身を偉大なるバネだと思ってください。偉大なるバネほど縮みはすごいのです。しかし、縮みもすごいけれども、反発する力もまた強いのです。バネのように、どこかの点で、運命の力を撥ね除(の)けるようでなければいけません。そうした足腰の強さが必要です。魂の足腰の強さが必要です。まだまだ弱い。バネのようには生きていない。まだまだ運命に翻弄(ほんろう)されていると、私には思えます。 6.曲の着想は一瞬のインスピレーションの中にある ―― あなた様はご生前中、自分というものを見つめて、自分というものは光の指導霊であるというご自覚がございましたか。 ベートーベン ありませんでした。 ―― それでは、あなた様のお仕事というものに対する意義というものを、お感じになっておられましたか。 ベートーベン それは感じておりました。ただ、私は宗教家ではありませんから、あるいは天使というようなことは、もちろん、信仰の世界においては知っておりましたけれども、そうしたものが現に地上界に出ていて、さまざまな活動をしているとは思ってはおりませんでした。天使はやはり、天上界において羽を生やして飛んでいるものだと思っておりました。まさか自分が天使で、地上に生まれて作曲をしているとは思ってはおりませんでした。ただ、神は信じていましたし、神の国をこの地上に写すということは常々考えておりました。 ―― あなたがお仕事をされているその時に、いわゆる作曲ですね、作曲の時に、天上界からのインスピレーションというものが現れたわけでしょうか。 ベートーベン そうです。 ―― そしてまず、主題を決めて、そして一つの作曲をされたのでしょうか。 ベートーベン そうしたことは、あなたに言うのは非常に困難を感じますけれども、私が地上で作曲した曲も、一部分はやはり、すでに過去世において、天上界において創っていた曲であるし、また、天上界で制作中の曲が私の方に伝えられる場合もありました。 それはね、ちょうど宗教家たちがそうです。霊的な能力を持っている方々でも、その人の器、その人の性格に応じてさまざまな受け止め方をするはずです。あるいは、神道的なものだけを受け付ける方もいれば、仏教的な霊波動を受ける人もいれば、キリスト教的なものだけを受ける人もいる。あるいはあなた方のように、いろんなものをまとめて受けるような方もいる。そのように個性の差があります。 同じように、音楽においてもそうなのです。天上界ではさまざまな音楽が奏られております。次々と創られております。その中で、自分の個性に応じたものを引き寄せていくのです。 ―― まあ、音楽的なことの素養が、あまりにも私にはないために、核心に触れるようなことのお尋ねができないのが、まことに残念だと思いますのですけれども。 ベートーベン 音楽そのものは、こうした対話による話には馴染(なじ)まないものであるということも一つです。 ―― しかし、協奏曲というか、シンフォニーというものは、いろんな組み立てということを大事にするのではないのでしょうか。たとえば、まああのピアノならピアノと、バイオリンならバイオリン、チェロならチェロ、その他、そのような弦楽器なり管楽器とを総合した和音というか、そういうものを集大成するという意味で、建築的な組立というか、そういう構成力をもって作曲をされるわけでしょうか。 ベートーベン ま、それはそうですけれども、ほとんどね、一つの曲、何時間にもわたる曲の着想というものは、ほんの一秒か二秒なんです。その二時間、三時間の着想という壮大な曲が、ほんの一秒か二秒のインスピレーションの中に、集約されてくるのです。直観なのです。 たとえば、画家が、ある情景、あるいはある絵をですよ、インスピレーションとして直観的につかんでしまうことがあります。同じようなものなのです。曲にすれば二時間三時間となるようなものを、ほんの一瞬のうちに凝縮して、頭にその感覚を得るのです。こういうものという感覚があるのです。種のようなものです。これを楽譜に落とすと、大きな本のように育っていくのです。あるいは巻物のようなものですね。一つの巻物が、頭の中に与えられるような感じです。これを曲に書いてゆくと、広げた巻物のように何尺にもなってゆくのです。 ですから、最初、頭に浮かんだ着想が、曲を書き終えるまでに変わることはほとんどないのです。もう最初使った、いわばテープの塊(かたまり)みたいなものです。テープみたいなものです。これが頭に浮かぶのです。このテープを回していくと曲ができるのです。そうしたものです。ただ、その着想を得るために、何年もかかってしまうのです。 ―― それは、インスピレーションで与えられるものばかりではなく、ご自身でやはり発想されるわけですか。 ベートーベン ま、それは曰(いわ)く言い難しで、どうやらあなたにはおわかりにならないようですが、ちょうどね、ちょうどあれです、誘い水みたいなものなんです。井戸の水を汲(く)むときに、一杯の水を置いておくことがよくあるでしょう。水を切らしてしまうと井戸から水が上がってこない。ですから、一杯のコップを置いておいて、その水を上から注ぎかけると、それが誘い水になって、間断なく水が出てきます。そういうことがありますね。ちょうどそういうものなんです。私たちの努力というものは、コップ一杯の水、誘い水なんです。底までね、井戸の底まで水は来ているのです。それはつながっているのですが、誘い水を送り込むことによって水が出てくるのです。そうしたものなんです。その誘い水の部分が必要なのです。 すべての人が、井戸の部分は持っているのです。井戸の中には、水は沢山あるのです。ただ、その誘い水を送らないために、水が上がってこないのです。この誘い水の部分なのです。あなた方にとってもそうです。画家とか詩人たちもそうです。誘い水の部分が必要だということです。あとは無限です。井戸の水は、汲(く)めども汲めども出てきます。涸(か)れてしまうことはありません。 ―― 非常に内容の深いものであろうと思いますけれども、先生のせっかくのおでましでございますので、現在、また将来の、日本だけではなく、世界の音楽家たちに対する、何らかのアドバイスというようなものをいただけますならば、非常に幸せだと思うのですが。 ベートーベン まあ、音楽に携(たずさ)わっている方々、作曲をしたり、あるいは音楽を演奏しておられる方々は、技術的なものばかりを磨いておられるようですけれども、本当はそうではないということです。その方々の人生観、思想、あるいは信仰というものが、調べとなって出ていくということです。ですから、その点を誤解されずにやっていただきたい。単なる技術的な練習ばかりをしていてはだめです。心を知らねばなりません。それはちょうどお坊さんがね、お経を上げても、お経の文句は一緒ですよ、どなたが上げても一緒ですが、そのお坊さんの悟りの段階によって功徳(くどく)が違うようなものです。同じです。曲としては同じかも知れない。音楽としては同じですけれども、演奏する人の心の音色に合わせた曲が、出ているということです。 ですから、調和した心の持ち主の演奏した音楽は、天上界の高級霊界にも届いているのです。ところが、不調和な方の演奏した音楽は、そこまでは届いていきません。そうしたものだということです。 ですから、もう少し神理というものを、音楽をする方々にも知っていただきたいと思います。唯物的な物事の考え方をしている人が曲を演奏したところで、それは唯物的な曲にしかなりません。神の世界の表現は無理であります。 7.芸術家は自然と調和の緑色光線 ―― 私の方から伺(うかが)いますけれども、まあ過日、ピカソさんという美術家、そしてまた今日は、ベートーベンさんという音楽家、その他芸術家、大勢いらっしゃると思いますけれども、芸術の世界というのは、たとえば、神の光の光線で言うと、何色になるんでしょうか。参考までに言うと、仏教のような光が黄色、キリスト教のような光が白色の光線、あるいは哲学者のような光が青の光線、あるいは科学者の光線が白銀の光線、こういうふうなかたちで言われておりますけれども、光線の種類で言えば何色になるのか。あるいは、いくつかの色が組み合わさっているのか。こういったところを伺いたいと思うのですが。 ベートーベン 音楽家というのは、光線で言うならば、緑です。緑の光線が音楽です。芸術も、必ずしも一本の光線ではありません。音楽的なものは緑です。これは法を説く方々で言うならば、無為自然、調和、自然との一体という法を説く方々、彼らとつながっている色であります。あなた方のところに、老子、荘子というような方が出られたでしょうが、この老荘思想、宗教で言うと老荘思想につながるようなもの、それが音楽の世界であります。絵画の世界は少し色が違っています。 ―― 赤か何か。 ベートーベン 絵画の世界というのは、赤ではありません。絵画の世界も、やはり緑に近いのですけれども、どちらかと言うと、若葉緑に近い色です。芸術は全般的には、やはり緑系統であります。全般には、緑系統ということになっています。 ―― 文学とかいうようなものはどうなんでしょう。 ベートーベン 文学にもいろいろあります。思想的なものが深いものは、また別な系統になってくるでしょうし、芸術性の高い文学もあります。さまざまなものがあります。けれども、音楽と詩などとは、非常に近いところにあります。詩の流れはやはり緑であります。ですから、一般的に言うならば、音楽系統、あるいは芸術系統は、一般的な色としては緑であります。 ―― そうするとこれは、ベートーベンさんにお聞きするのはどうかと思うのですけれども、赤という色は、これはどういった方々を対象とされる色なんでしょうか。ご存知ないかも知れないし、ご存知であれば、教えていただきたいと思うのですけれども。 ベートーベン 赤という色は、もっと、芸術ではなくて、大きな社会的な変動に相当する色です。ですから、赤という色は、やはり政治、経済、こうしたものと関わっています。あるいは法律、こういった非常に、それぞれ三次元なり、四次元、五次元の中で、仕組とか治政、治めるですね、治めるというようなこと、これに関係する色、これが赤です。 ですから、赤の光線の中では、リーダーシップということが大変、重要になっています。いろんな各界の指導者に多いのが赤です。ですから、赤の光線の中に流れているものは、リーダーシップです。ですから、この光線の中にある人は、どうやって人びとを導くか、まとめていくか、治めていくか、こうしたことのプロが多いのです。芸術家は、やはり色で言うと緑でありましょう。自然と同じ色です。 ―― 緑にも濃緑と若葉緑というようなものがいろいろあるように。 ベートーベン 緑にも少し濃淡があります。 8.お互いに学び合う菩薩界 ―― 失礼ですけれども、ベートーペン先生が、今、おいでになる地域は、どういう霊域になるのでしょうか。 ベートーベン あなた方が菩薩界と呼んでいる世界です。 ―― どういう方々とご一緒に。 ベートーベン 芸術家の方々が、やはり多いです。 ―― たとえば音楽家の方は、どういうお方がおいでになるのでしょうか。 ベートーベン ショパン、ハイドン、こういった方々です。 ―― バッハという方などはおられますか。 ベートーベン バッハもおります。(注――ハイドン、バッハなどは如来であるが、音楽家霊域について交遊がある、ということである。) ―― ああ、そうですか。シューペルトはまた別ですか。 ベートーベン いないのです。 ―― そうですか。 ベートーベン 他にも、あなた方が知らない古代の音楽家たちは、大変たくさんおります。 ―― やはり日常といたしましては、そういう方々が、音楽についてのご研究をされておられるわけでしょうか。 ベートーベン そうです。そして私たちの研究を、時々発表しております。ですから、各界の方々に呼ばれて、やはり行事がいろいろあるのです。こちらの世界でも、たとえばあなた方のような宗教家たちがね、大講演をやる場合があります。そうしたときに、いろんな方々が集まって来ますけれども、その、たとえばオープニング、あるいはエンディングといいますか、終わりですね、エンディング、エンドですね、終わりにあたって、私たちが演奏したりすることもあるわけです。 ―― それはたとえば楽器とか何かを使われるのですか。それは使わないのですか。 ベートーベン ま、楽器もあることはあります。それはあります。地上的なるものもあるし、地上にないような楽器もあります。ただね、楽器が音色を出すのではないのです。 ―― バイブレーションで。 ベートーベン そうです。ですから私たちが、たとえば私が指揮をすることが多いのですけれども、あるいは楽団員たちの、本当は心から出ている音色なんです。ただ、楽器もかたち上、あることはあります。 ―― 要するに、心のバイブレーションで、人びとがそれを音楽的に感受できるということなんですね。 ベートーベン そうです。 ―― その楽士さんたちを指揮されておられるという――。 ベートーベン そうです。 ―― その心の調整をされているという――。 ベートーベン まあ、そういうことですね。 ―― そういうことになるわけですか。 ベートーベン ただね、あなた方が音楽を聴いているようなかたちで、私たちの世界でも、もちろん聴こえるのてす。それは、実際は肉体の耳を通して聴いているのではありませんが、心の耳を通して、その旋律を聴いているのです。念の波動を聴いているのです。 ですから、私たちの世界、あなた方から言えば彼ら霊人たちにも楽しみがあるのです。いつも難しい哲学的議論ばかりをやっているわけではなくて、やはり、音楽を聴いたり、絵画を楽しんだりするような時があるのです。 それと、私たちの世界でも教え合いということがあるのです。たとえば、私たちは音楽について非常に造詣(ぞうけい)が深いわけです。ですからまあ、菩薩界の他の方々もね、たまに音楽を教わりに来るのです。あるいは聴かせて下さい、あるいはこういう作曲を教えて下さいと言って来るのですね。そのかわり後では、私たちが出かけて行って、新しい宗教の先端的な教えを請(こ)ったり、あるいは科学者のグループの処へ行って、科学的なことを学んだり、そういうふうな、お互いに学び合いの世界なんです。あるいは私が演奏をやっているけれども、指揮をしているけれども、指導の力がちょっと弱いと思うと、そういう指導者のグループに入って行って、指導の仕方を教わる。こういうのは、お互いに与え合いの世界なのです。菩薩界においてもそうです。政治家のグループがあれば、音楽家や他の絵画の、美術家のグループもある。あるいは宗教家のグループあり、哲学者あり、さまざまです。お互いに教え合うのです。 ―― 交流をし合うのですね。 ベートーベン そうです。教え合ってね、自分が長じているところは先生となり、足らざるところは生徒となって、お互いに交流しているのです。 ―― ではまあ、同次元の中に一つの、まあ何と言いますか、区域があって――。 ベートーベン ま、村があるようなものだと思って下さい。音楽村があり、芸術村がありですね、また文学村があり、哲学村があり、政泊村があり、科学村がありと、こういうことなのです。主として、やはり同じ職能の方々が集まっておられますが、ただそれだけをしているのではなくてね、あなた方の世界にも土曜、日曜があるように、私たちの世界にも土曜、日曜があるのです。そういう時にですね、他の仕事をやるのです。 ―― これは地上的に言えば、ご承知のように、日本とかドイツだとか、あるいはアメリカとか、こういうふうに、地域的に分かれておりますけれども、天上界におきましては、そういう地域の区別はないわけなのですか。 ベートーベン 国籍、地域はもちろんありますが、たとえば、その国籍、地域が、音楽なら音楽の、やはり性格の違いを反映している場合があり、そうした場合は多少違うわけで、分かれてくることになります。 ―― おいでになるところが違うわけで――。 ベートーベン そうです。ま、村も一つではないということですね。 ―― そうすると、いくつかの村がある――。 ベートーベン そうです。 ―― なるほどね。 ベートーベン 菩薩界にも、何百人もの人がいますから、結構いろんな村ができております。一つの村の構成団員は、だいたい四、五十人です。 ―― そうですか。まあ、音楽につきましてはそういうことで、私たちもあまり知識をもち得ないために、おたずねすることも非常に少なく、お教えをいただくことがたくさんあり、それ以外のこともお教えいただいたのですが、なお、私たちは他の文学界の方々もお招きしてお教えを承りたいと、このようにも思っているのですけれども、音楽の関係でお教え願える方というのは、もう他にはございませんでしょうか。 ベートーベン ただ、どうしても話が専門的になってしまうので、音楽家がそれ以外の人生観を語るのも非常に難しいものだし、仮に言ってもね、あなた方のお役に立てるようなことにならないので、やはり、他の種類の方々をお呼びした方が私は良いと思います。 ―― あなた様はご生前中、非常に困苦の中で戦っていかれて、そして偉大な仕事を成されたということからして、私たちは非常な感銘をもっていたわけです。そういう意味で、今回お招きいたしたわけでございますけれども、非常にありがたいと思っております。このようにいろいろとおたずねしたことを、あとで全部再検討させていただいて、非常に有意義な内容を、またこの書物を著すときに編集させていただきたいと思いますけれども、それでよろしいでしょうか。 ベートーベン 結構です。ただ、芸術家たちというのは、まあ、なかなかあなた方の思想に馴染まない者が多いので、ご苦労されることと思います。 ―― わかりました。本日は本当にいろいろとありがとうございました。このようなところへ先生をお招きいたしまして、お教えを承ったのですが、私たちの不勉強のために、十分なことをお聞きすることができませんでしたけれども、よく私たちをご理解下さいまして、お教えを賜わり、ありがとうございました。感謝いたします。