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※注意事項元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。 ※注意事項生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。 ※注意事項出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。 ※注意事項兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。 ※注意事項現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。 石谷貞清(いしがや さだきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】十蔵(新訂寛政重修諸家譜)、左近将監藤原貞清(干城録) 【生年】文禄3年(1594年)(逆算) 【没年】寛文12年9月12日(1672年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】79歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】1500石(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】従五位下左近将監(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】大番、御腰物持、御徒頭、御目付、水口城在番、江戸北町奉行(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷清定 (五郎大夫)(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】今川家家臣久嶋與平の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】板倉内膳正重昌の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷武清、都筑彌左衛門爲基の妻、本多百助信賢(孫十郎。本多百助信次の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】土入(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 武蔵国多東和泉村で生まれる。(寛永諸家系図伝) 慶長14年(1609年)、16歳の時に徳川秀忠に召出され大番となる。(新訂寛政重修諸家譜) 慶長18年(1613年)、18歳の時、 辻忠兵衛久吉に「武功を挙げる気質ではない」と惜しまれた時、石谷貞清は憤り、「どうしてそのような事を言うのか。未来の事は判らないだろう」と応じた。是に対し辻忠兵衛久吉は、「武辺を心がける者は命を惜しむものだ。石谷貞清の友人はみな命を軽く見るものばかりなので、どうでもいい時に命を落とすであろう。武功を挙げる機会が来ても、その頃には命は無く残念な事になるだろう。」と答えた。石谷貞清はこの後心を改めたという。(干城録) 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、兄の所領の土民7~8人を従士とし、騎兵に混じって従軍した。(干城録) 元和元年(1615年)、大坂夏の陣では土岐山城守定義の指揮下で江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年(1615年)、徳川秀忠の駕篭を追いかけていた際、家僕1人に具足櫃を持たせて居たという。(干城録) 元和元年(1615年)、石谷貞清は、駿府で徳川秀忠の軍勢に追いつき、かねてから親しい近習の士に会い、「江戸の守備に残された事が悔しく推参した。重い法令を破ったため処刑されれても悔しくは無い。徳川秀忠に参上を伝えて欲しい。」と願ったが、「主君は法令を堅守させる。どうして許すものか。もしこんな事を許したら、命令を無視して後に付き従ってくる者がたくさん現れるであろう。それで処刑が行われればよくない事である。」と諭すものが多かった。(干城録) 元和元年(1615年)、浜松まで付従った際、徳川秀忠より名前を尋ねられた。(干城録) 元和元年(1615年)、舞坂に到着した際に、徳川秀忠が「これまで側を離れず付従っていた者に十蔵という者が居るが、これは誰だ?」と訊ねられた。御側の者が、彼は石谷九十郎の弟ですと答えた。(兄の石谷友之助清正が九十郎を称したかは寛永諸家系図伝にも記載が無く不明だが、原文のまま記載する。)石谷貞清は「この度の従軍を許してもらえなかった事が悔しく、此処まで参上しました。」と徳川秀忠に伝えた所、徳川秀忠は頷いただけだった。(干城録) 元和元年(1615年)、京都に到着した際、この行動に感心した徳川秀忠より黄金三枚を賜った。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年(1615年)、伏見に到着した後、老中が石谷貞清を呼び出した。石谷貞清は命令違反の処罰を受けるのであろうと思っていたが、命令違反を犯しても従軍した奇特さを評価されて黄金3枚を賜った。(干城録) 元和元年(1615年)、合戦では徳川秀忠本陣にて斥候を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 元和元年5月7日(1615年)、前橋旧蔵聞く書には、大阪城に火がついた際、石谷貞清は徳川家康に従っていたと記録がある。(干城録) 元和元年5月8日(1615年)、大阪城が陥落した日の夜は雨が激しかった。石谷貞清は永井直勝の陣屋に居たが心もとなく思い、徳川秀忠の寝所に近侍し、むしろや畳を持って雨を防いでいた。徳川秀忠はこれを怪しく思い、灯り障子を開けて名を尋ねることが2回あった。(干城録) 元和2年1月9日(1617年)、上総国金剛寺村、上総国山邊郡に300石の領地を与えられ、御腰物持を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 東金への御遊猟より帰る際に石谷貞清は篭の側に付き従っていたが、徳川秀忠の意に反する事があり恐怖しながら付き添っていた。新宿に着いた際に、石谷貞清が宿にて風呂屋に入ろうとした所、老中より召出しがあった。老中からは「先ほどの罪を反省し謹慎蟄居せよ。」と言われたが、石谷貞清は「それは徳川秀忠の命令なのか、老中の考えなのか。」と問い返した。老中は「主命では無いが、先の状況を察するに謹慎蟄居するべきである。」と答えたので、石谷貞清は「しかしなるほど、小身の者が蟄居謹慎してしまったら、誰が見つけ出してくれるのか。」と言って、結局老中の命令に従わなかった。翌日の移動時には徳川秀忠の駕篭のすぐ脇から離れて、駕篭の先にて付き従った。この日ある池に白鳥が降り立った際に、徳川秀忠がそれを鉄砲で撃ち止めた。石谷貞清は裸になって池に飛び込み、大森半七もそれに続いたが、石谷貞清の方が白鳥を捕らえて徳川秀忠に差出した。その後、鹿狩をしようといって板橋に移動した時、徳川秀忠より石谷貞清に対して刀を持てとの命令が下り、御刀の役を務めたが、この時より徳川秀忠の機嫌が直った。徳川秀忠には、この頃御鷹野に出る際に御刀の役を勤めさせる厳選された麾下の士10人がいたが、石谷貞清はこの内の1人であった。(干城録) 諸侯に確執が起きて反乱が発生しようかという際に、旗本の中で武勇の者を遣わし宥めたら良かろうと評定した結果、久世三左衛門広宣か石谷貞清を除いてはその任に耐える者は居ないだろうとの話になり、先ずは石谷貞清を召出した。年寄衆は石谷貞清に向かい「このような命令を与えるには誰が良いだろうか?」と、その考えを訊ねたので、石谷貞清は「久世広宣が適任であろう」と答えた。人々もそうであろうと思い、また、「もう1人追加するとしたら誰か」と聞いた。石谷貞清は「決めがたいので答えられない」と答えたが、「強いて答えるなら誰か」と言われるので、「久世広宣の副使となるのは石谷貞清しかいない」と自ら答えた。人々は最初からそう思っていたので、良く自ら言い出したと石谷貞清を評価し、その両名が仰せを承り使いを務めた所、無事確執は止んだ。(干城録) 元和4年5月(1618年)、相模国愛甲郡に200石を加増される。(新訂寛政重修諸家譜) 元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に急遽宇都宮から帰還する事があり、徒歩で供を務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に故ありて急遽下野国宇都宮から帰還する事があった。この時書院番の某と石谷貞清が徳川秀忠の馬の左右にあった。極めて逸物であったので鐙にあわせて馳せて付き従ったが、某は大手御門の所で力尽きた。石谷貞清は少しも怯まず玄関まで同行したので、とても関心され褒賞を賜った。(干城録) 寛永2年7月27日(1625年)、領地の朱印状を賜わる。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永9年7月5日(1632年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 御徒組の徒士の家に鶴が降りた際に、薪割りの男が木片を投げた所、それが当たって鶴が死んでしまった。驚いて騒ぎになったが生き返らなかった。その問題の報告を受けたので、組頭がその者を捕らえて、その家の主人を軟禁し、急ぎ石谷貞清の所へ報告に来た。石谷貞清はこの日他所に招かれており夜遅くに帰宅したが、この世の終わりかというような顔で組頭は待っていた。石谷貞清は声を掛け、「鶴は死んで落ちたのか?」と言ったが、組頭は「いいえ、殺してしまいました。」と答えた。石谷貞清は声を張上げて「死んで空から落ちたというのなら、毒などに当たったのかもしれない。明日登城して報告しよう。」と言ったので、組頭はその真意を察して落ち着いた。そうして翌日、石谷貞清は前述のように報告し、問題無く事は済んだ。その上、鶴は毒に当たったという理由で食べるには危険なので、その鶴は下賜され、組の某に与えたので、人々はこの処置に感心しあった。(干城録) 寛永10年4月16日(1633年)、御目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永10年8月(1633年)、徳川家光が品川に御出でになり麾下の士の乗馬を御覧になった際に、石谷貞清は命令を受けてこの指揮を行った。(干城録) 寛永10年8月26日(1633年)、洪水により被害を受けた畿内の堤防の検分調査を行った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永10年12月26日(1634年)、甲斐国山梨郡、八代郡に1000石の加増を賜り、合計1500石の知行となった。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永11年4月(1634年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた。(干城録) 寛永11年6月(1634年)、徳川家光の上洛の際に供を務めた。(干城録) 寛永12月10月(1635年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた際に、獲物の鳥を賜った。(干城録) 寛永13年2月25日(1636年)、東福門院和子の病気に関連して、京都に赴き御使いを務めた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永13年6月26日(1636年)、新たに寛永銭を鋳造する事となり、命令を受けて東海道に赴き近江国坂本に到った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永14年10月(1637年)、松倉豊後守の領地である領地肥前国高来郡にてキリシタンの賊徒が蜂起し、有馬原の旧城に籠城したと報告があったため、板倉内膳正重昌が御使に任命され、石谷貞清は御目付として遣わされた。この時同地に到達したら、有馬玄蕃頭豊氏、立花飛騨守宗茂、鍋嶋信濃守勝茂などの兵を集めて賊徒を誅伐せよ、もし兵が足りなければ細川越中守忠利、松平筑前守忠之の兵も集兵せよとの命令を受け、その夜江戸を発って同地に赴いた。(干城録) 寛永14年11月9日(1637年)、島原の乱が発生したため、命令を受けて上使板倉内膳正重昌の副使となり同地に赴いた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永14年12月6日(1638年)、風波に遮られてこの日嶋原に着陣した。(干城録) 寛永14年12月20日(1638年)、暁頃に先ず賊兵の様子を見てみようと、板倉重昌と石谷貞清は相談し、鍋島勝茂、立花宗茂に内容を伝え、少し鉄砲を撃ち掛けたところ、立花宗茂の兵が思いのほか外城近くに進軍したので、城中から激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、寄せ手に戦死者が多数出た。石谷貞清は軍勢を制して、最初から城攻めにするわけではないと兵を整え、石火矢を用意し、近いうちに総攻めにしよう、と命令を下した。(干城録) 寛永15年1月1日(1638年)、攻城戦の時に賊徒が鉄砲を使用して防御したため、友軍に戦傷者が多く発生し敗走した。板倉重昌と供に馬を巡らせて諸卒を督戦したが、進軍が停滞したため自ら塀を乗越えて城内に突入しようとした。この時に板倉重昌は鉄砲に当たり戦死した。石谷貞清も奮戦したが、槍を切り折られ甲冑指物も損傷し負傷もしたため撤退した。この日石谷貞清の従士3人が戦死し、全軍においても戦傷者が多数発生した。友軍の損害が大きかったため敵の夜襲を想定し、石谷貞清は負傷に耐えて諸陣を巡見し、不慮の自体が発生しないように警戒厳重にし、細川越中守忠利、松平(黒田)右衛門佐忠之、松平(嶋津)大隅守家久達に援軍の依頼を出し、その上で江戸に合戦の戦況を報告した。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年1月1日(1638年)、軍備は総て整ったとの報告があったので、東雲の頃から諸軍一斉に攻め込んだ。賊兵も弓、鉄砲で激しく防御したので、寄せ手は乱れ撤退しようとした。板倉重昌、石谷貞清は馬を乗廻して督戦したが、進軍しかねる形勢であった。やがて両人は三ノ丸と出丸の間の5~6間ほど南の方の堀に取り付き城内に乗入れようとしたところ、鉄砲が雨よりも激しく、石もまた多く投げつけられたので、ついに板倉重昌は鉄砲に撃たれ、石に押し潰されて死んでしまった。石谷貞清は携えていた鑓を斬り折られ、賊徒の攻撃で鑓疵を受けたが、家臣の湯浅角大夫が助けに来て、鑓でその賊徒を突き落とした。城中からは激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、湯浅角大夫はこのために深手を受けて戦死した。こんな次第で石谷貞清はなお諸軍を督戦したものの、取って返して戦う者は居なかった。賊兵は石谷貞清の指していた幟を取ろうとして争いあっていた。このような激しい戦いに、石谷貞清は兜は砕け、鎧は千切れ、手傷をも受けてはいたが、従士の助けによって、かろうじて自分の陣地に帰る事ができた。この時左右より鉄砲を放たれ大変であったが、巧妙に撤退した手腕を、人は皆は美称した。この戦いで石谷貞清の家人で戦死する者は3人、負傷する者は多かった。このように石谷貞清は手傷を受けてはいたが、夜襲の可能性を考慮し、傷に耐えて4回諸軍の陣を見廻った。(干城録) 寛永15年1月1日(1638年)、この日、板倉重昌の子である板倉主水佑は父の弔い戦をしようと思ったが、士卒を多く討たれて思い通りにならなかった。石谷貞清に頼み諸軍に加勢を頼んだが、負傷者が多くどこも承諾しなかったので、むなしく思い留まった。(兵家茶話には、板倉主水佑が弔い戦をしようと石谷貞清に願出た所、石谷貞清は承諾したと言って、細川忠利の陣から突き出した柵を引き除けて、思う存分戦って敵の首を取り、一揆衆を城内に追い込んだと記しているが、2月28日の戦いを混同した物であろう。)このような状況であったので、寄せ手の戦死負傷が多かったため、細川越中守忠利、松平筑前守忠之などに急いで援軍を差し向けるように指示を下した。また、この様子を江戸に報告した。(干城録) 寛永15年2月26日(1638年)、三浦志摩守、村越七郎左衛門が御使として嶋原に着陣した。石谷貞清は両人を伴い船に乗り、海に出て城の様子を偵察し、戸田左門氏鉄のところに行って、「今日、海上より城を偵察したところ、賊徒が海岸に出てきて海草を取っていた。これは兵糧が尽きたのでないだろうか。また本丸に引っ込んでいる様子であったので、近いうちに総攻めをしよう」と言った。(干城録) 寛永15年2月27日(1638年)、夜、榊原飛騨守職直が本丸に討ち入り賊徒を撃殺し、榊原左衛門佐職信も乗り込んで火を放ったので、諸軍は一斉に攻めかかった。石谷貞清はその際、戸田氏鉄のところに居て離れていたので、この様子を見て馳せ参じた頃には賊徒は本丸に入り、程なく夜になってしまったので、敵には遭わなかった。(干城録) 寛永15年2月27日(1638年)、諸軍が敵城に攻入った。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年2月28日(1638年)、暁天、板倉主水佑と石谷貞清は伴に、細川忠利の陣の方から進んで柵を破り、たくさんの賊徒をことごとく平定した。(干城録) 寛永15年2月28日(1638年)、石谷貞清は板倉主水佑重矩と供に城に突入し、この日賊軍は平定された。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永15年3月5日(1638年)、石谷貞清は島原より江戸に帰還し、使用した甲冑指物等を御覧に入れた。その後、島原の乱における軍令違反を咎められ、蟄居処分となった。(新訂寛政重修諸家譜) このような状況で、ある時、老中は石谷貞清を招き、「この度の板倉重昌の戦死は石谷貞清が逸り過ぎたせいでは無いかと聞いたが、どういうことか」と、訊ねられたので、石谷貞清は「私の采配が悪いとは言うが、松平信綱、戸田氏鉄を派遣したと聞いた以上、急いで城を攻め落とさないとならなかったのです。その両人は戦後の仕置きをするために派遣された、と聞いたので、冷静で居られるわけが無い。ひたすら年内に城を攻略しないとならないと思っていたが、その甲斐無く元旦の戦いで板倉重昌を戦死させてしまった。かれは戦死という冥加を叶える事は出来たが、石谷貞清は生き長らえて、みっともなくもこんな事を言われるのは悔しいことです。」と、言った所、この後この謹慎処分が解除されたという。(干城録) 寛永15年12月30日(1639年)、蟄居処分を解かれた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永18年12月15日(1642年)、与力10騎、同心50人を預けられた。(新訂寛政重修諸家譜) 正保2年9月23日(1645年)、命令により近江国水口城を守備した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安2年(1649年)、畿内の洪水調査のための同地に赴いた。(干城録) 慶安3年閏10月10日(1650年)、洪水被害の調査のため、畿内及び近江国・伊勢国などを巡見した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年6月18日(1651年)、に江戸北町奉行に就任した。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年8月16日(1651年)、従五位下左近将監に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安4年(1651年)、油井正雪、丸橋忠弥等の反乱計画が判明した際、石谷貞清は騎兵を連れて丸橋忠弥を捕らえた。油井正雪は駿河において自殺した。(干城録) 万治2年1月28日(1659年)、職を辞す。(新訂寛政重修諸家譜) 万治2年7月27日(1659年)、致仕。養老料として廩米600俵を賜る。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 板倉内膳正重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘。)(新訂寛政重修諸家譜)※板倉氏の項。 石谷貞清の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷武清(いしがや たけきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】五右衛門、五兵衛、五右衛門(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】寛永4年(1627年)(逆算) 【没年】宝永7年3月4日(1710年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】84歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】2500石(近江国→下総国豊田郡、下総国岡田郡。相模国→上総国武射郡、上総国山邊郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】布衣、従五位下長門守(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】御小姓組、御徒頭、御目付、禁裏附、寄合(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷武清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】板倉内膳正重昌の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】喜多見五郎左衛門重恒の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷武清、都筑彌左衛門爲基の妻、本多百助信賢(孫十郎。本多百助信次の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷清成、佐野内蔵丞政信の妻、喜多見重政(喜多見五郎左衛門重恒の養子となる)、内藤十之丞忠廣の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】高木貞右衛門爲治の妻(嫡子石谷清成の子)、京極伊織高沖の妻(嫡子石谷清成の子)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(嫡子石谷清成の子)(新訂寛政重修諸家譜) 【法名】宗英(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 寛永20年2月20日(1643年)、徳川家光に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 寛永20年6月16日(1643年)、御小姓組に入る。(新訂寛政重修諸家譜) 正保2年12月28日(1646年)、廩米300俵を賜る。(新訂寛政重修諸家譜) 慶安元年4月(1648年)、徳川家光の日光社参に従った。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年3月6日(1658年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年閏12月25日(1659年)、廩米300俵を加増される。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶元年閏12月28日(1659年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜) 万冶2年7月27日(1659年)、父である石谷貞清の家督相続。先に賜った廩米600俵は、父である石谷貞清の養老料に宛てられた。(新訂寛政重修諸家譜) 寛文3年4月(1663年)、徳川家綱の日光社参の供をした。(新訂寛政重修諸家譜) 寛文11年3月26日(1671年)、御目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝元年3月19日(1673年)、禁裏附となり、近江国内に1,000石加増され、合計で2,500石を領有した。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝元年7月1日(1673年)、従五位下長門守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜) 延宝7年12月6日(1680年)、務めを辞し寄合に入った。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄4年4月4日(1691年)、近江国の領地を下総国豊田郡、岡田郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄11年6月(1698年)、相模国の領地を上総国武射郡、山邊郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄16年7月22日(1703年)、致仕。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 板倉内膳正重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘)(wikipedia) 延宝元年3月19日(1673年)における1000石の加増は、寛文12年9月12日(1672年)に死没した父の石谷貞清の養老料廩米600俵を改めたものであろう。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷清成(いしがや きよなり)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】三大夫(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】慶安2年(1649年)(逆算) 【没年】元禄2年8月5日(1689年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】41歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】 【官位】 【役職】 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷武清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】榊原左衛門職信の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重章の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【兄弟】石谷清成、佐野内蔵丞政信の妻、喜多見重政(喜多見五郎左衛門重恒の養子となる)、内藤十之丞忠廣の妻、高木貞右衛門爲治の妻(義妹)、京極伊織高沖の妻(義妹)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(義妹)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷榮清、高木貞右衛門爲治の妻(石谷武清の養女となる)、京極伊織高沖の妻(石谷武清の養女となる)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(石谷武清の養女となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】 【略歴】 万治2年8月13日(1659年)、11歳の時に徳川家綱に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 家督相続前に死没した。石谷清成死没時(元禄2年8月5日(1689年))に息子の石谷榮清は8歳(生年、延宝9年(1681年))と幼く、石谷清成の父である石谷武清が孫達を養子として引き取ったようである。(図書助論考) 石谷榮清(いしがや よしきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】十郎右衛門、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】延宝9年(1681年)(逆算) 【没年】享保9年7月19日(1724年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】44歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(甲斐国→遠江国榛原郡、城東郡、下総国岡田郡→下総国岡田郡、下野国河内郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】 【役職】小普請、御小姓組番士(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷清成(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重章の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】松平源大夫定隆の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷榮清、高木貞右衛門爲治の妻(石谷武清の養女となる)、京極伊織高沖の妻(石谷武清の養女となる)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(石谷武清の養女となる)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷眞清、徳永頼母昌主の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】祐山(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 元禄16年7月22日(1703年)、祖父である石谷武清の家督相続。小普請となる。(新訂寛政重修諸家譜) 元禄16年8月12日(1703年)、徳川綱吉に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 宝永2年5月(1705年)、甲斐国の領地を遠江国榛原郡、城東郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 享保3年3月16日(1718年)、御小姓組の番士となった。(新訂寛政重修諸家譜) 享保9年5月(1724年)、下総国岡田郡の領地を割って、下野国河内郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷眞清(いしがや さねきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】主膳、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】正徳3年(1713年)(逆算) 【没年】延享元年10月28日(1744年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】32歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】 【官位】 【役職】御小姓組(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷榮清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】 【義父】 【妻室】松平主計頭康納の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷眞清、徳永頼母昌主の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷澄清、斧之助(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】道麟(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 享保9年9月29日(1724年)、12歳の時に父である石谷榮清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 享保20年4月9日(1735年)、御小姓組に入った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷澄清(いしがや すみきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】五右衛門、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】享保14年(1729年)(逆算) 【没年】安永9年1月24日(1780年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】52歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(遠江国→遠江国、上総国長柄郡、上総国山邊郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】布衣(新訂寛政重修諸家譜) 【役職】御小姓組、中奥番士、御徒頭、西ノ丸目付、西ノ丸御先鉄砲頭、寄合(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷眞清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】松平主計頭康納の養女(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】坪内伊豆守定堅の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷澄清、斧之助(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷因清、坪内主税定安の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】 【法名】義豊(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 延享元年12月22日(1745年)、父である石谷眞清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦6年4月10日(1756年)、御小姓組に入る。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦8年12月12日(1759年)、中奥番士となる。(新訂寛政重修諸家譜) 宝暦11年6月(1761年)、遠江国の領地を割って、上総国長柄、山邊両郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 明和8年5月1日(1771年)、御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 明和8年12月18日(1772年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜) 安永3年2月15日(1774年)、西ノ丸目付となる。(新訂寛政重修諸家譜) 安永6年11月25日(1777年)、西ノ丸御先鉄砲頭となる。(新訂寛政重修諸家譜) 安永7年5月6日(1778年)、役を辞去して寄合に移った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷因清(いしがや よりきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】榮蔵、十蔵(新訂寛政重修諸家譜) 【生年】宝暦9年(1759年)(逆算) 【没年】寛政6年5月6日(1794年)(新訂寛政重修諸家譜) 【寿命】36歳(新訂寛政重修諸家譜) 【知行】(遠江国榛原郡→遠江国豊田郡、遠江国城東郡)(新訂寛政重修諸家譜) 【官位】 【役職】御小姓組番士(新訂寛政重修諸家譜) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】石谷澄清(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】坪内伊豆守定堅の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】 【妻室】石谷清昌の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】石谷因清、坪内主税定安の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】豊吉、榮次郎、石谷直清の妻(新訂寛政重修諸家譜) 【養子】石谷直清(新訂寛政重修諸家譜) 【法名】宗石(新訂寛政重修諸家譜) 【略歴】 安永2年3月25日(1773年)、15歳の時、徳川家治に御目見。(新訂寛政重修諸家譜) 安永9年4月4日(1780年)、父である石谷澄清の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 天明元年5月7日(1781年)、御小姓組番士となる。(新訂寛政重修諸家譜) 天明5年9月(1785年)、遠江国榛原郡の領地を遠江国豊田・城東二郡に移された。(新訂寛政重修諸家譜) 的を射て時服を賜った。(新訂寛政重修諸家譜) 【備考】 石谷直清(いしがや なおきよ)(新訂寛政重修諸家譜) 【呼称】善次郎(新訂寛政重修諸家譜)、十蔵(寛政譜以降旗本家百科事典) 【生年】安永7年(1778年)(逆算) 【没年】文化14年5月20日(1817年)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【寿命】40歳(逆算) 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】 【役職】小普請、書院番、使番、火事場見廻(寛政譜以降旗本家百科事典) 【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜) 【実父】仁賀保大膳誠善(新訂寛政重修諸家譜) 【実母】小出織部英好の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【義父】石谷因清(新訂寛政重修諸家譜) 【妻室】石谷因清の娘(新訂寛政重修諸家譜) 【後妻】 【兄弟】豊吉(義兄)、榮次郎(義兄)、石谷直清、石谷直清の妻(義妹)(新訂寛政重修諸家譜) 【子息】石谷穆清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【養子】 【法名】 【略歴】 仁賀保大膳誠善の3男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜) 石谷因清の死の間際にその娘を妻として養子となった。(新訂寛政重修諸家譜) 寛政6年8月3日(1794年)、17歳の時に石谷因清の2500石の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜) 寛政6年8月3日(1794年)、小普請となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文化4年1月11日(1807年)、書院番より使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文化9年12月16日(1813年)、火事場見廻を兼務した。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 石谷穆清(いしがや あつきよ(ぼくせい))(寛政譜以降旗本家百科事典) 【呼称】鉄之助、因幡守、長門守、大和守(寛政譜以降旗本家百科事典) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】諸大夫(因幡守?)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【役職】小普請、書院番、使番、火事場見廻、目付、大阪町奉行、普請奉行、勘定奉行、江戸北町奉行、御留守居次席扱い、一橋家老、講武所奉行、西ノ丸留守居、講武所奉行(寛政譜以降旗本家百科事典) 【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実父】石谷直清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】石谷鉄之丞(寛政譜以降旗本家百科事典) 【養子】 【法名】 【略歴】 文化14年8月4日(1817年)、父である石谷直清の家督相続。小普請となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保2年3月23日(1831年)、書院番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保8年1月11日(1837年)使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保8年(1837年)9月10日、布衣を許される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保14年2月19日(1843年)、火事場見廻を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 天保15年9月10日(1844年)、目付となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永2年12月24日(1850年)、堺奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永2年12月25日(1850年)、諸大夫となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永5年5月19日(1852年)、大阪町奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 嘉永75月20日(1854年)、普請奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政2年8月9日(1855年)、勘定奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政5年5月24日(1858年)、江戸北町奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政5年(1858年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年(1859年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月28日(1860年)、御留守居次席扱いとなる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年6月5日(1862年)、一橋家老を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年8月20日(1862年)、講武所奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年閏8月25日(1862年)、西ノ丸留守居となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年(1862年)12月23日、江戸北町奉行時代に、飯泉喜内の取調べ中に問題があったとして隠居、謹慎を命じられる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年1月14日(1863年)、謹慎を解除される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治2年1月20日(1865年)、 再び講武所奉行となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応元年閏5月16日(1865年)、隠居手当てとして300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応2年11月18日(1866年)、御役御免。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 井伊直弼とは親交があったと言われる。安政5年(1858年)に始まったとされる安政の大獄では、井伊直弼に反抗的な幕府官僚が排除されている。石谷穆清は、この時期に重要な江戸北町奉行に就任し行政や司法を預かり、寺社奉行松平宗秀、勘定奉行池田頼方、大目付久貝正典、目付神保長興などと伴に五手掛として安政の大獄における一連の処断(主な受刑者として吉田松陰、飯泉喜内、橋本左内など)に関わったとされる。井伊直弼側の人物と見られる一方で橋本左内などの処分に関して流罪を主張するなど、井伊直弼に対して必ずしも従順であったわけではない様子が見て取れる。安政7年3月3日(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、文久2年6月5日(1862年)に南紀派の井伊直弼と対立していた側の一橋家老を僅かな期間ながら勤めており、文久2年に行われた文久の改革で安政の大獄の処断に関わった者が処分されているが、この際も文久2年12月23日(1862年)に隠居謹慎が命じられたものの、文久3年1月14日(1863年)には謹慎が解除されている。この時に息子である石谷鉄之丞に恙無く家督相続が行われており、石谷鉄之丞は文久3年1月19日(1863年)に諸大夫(従五位下安芸守?)に任じされている事から、処分は形式的なものに過ぎなかったものと考えられる。また石谷穆清は、ペリー来航に伴い危機感を覚えた江戸幕府による、軍備の西洋式の近代化のため安政3年(1856年)に正式に発足された、講武所奉行を務めている。(図書助論考) 石谷鉄之丞(いしがや てつのじょう)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【呼称】安芸守(寛政譜以降旗本家百科事典)、公清(史料徳川幕府の制度) 【生年】 【没年】 【寿命】 【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【官位】諸大夫(安芸守?)(寛政譜以降旗本家百科事典) 【役職】小姓、進物番、小納戸、使番、小姓、頭取介、寄合、使番(寛政譜以降旗本家百科事典)、小姓頭取(史料徳川幕府の制度) 【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実父】石谷穆清(寛政譜以降旗本家百科事典) 【実母】 【義父】 【妻室】 【後妻】 【兄弟】 【子息】 【養子】 【法名】 【略歴】 安政5年5月29日(1858年)、小姓となり、切米300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年6月2日(1859年)、進物番を兼務する。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月14日(1860年)、小納戸として役料300俵を賜る。(寛政譜以降旗本家百科事典) 安政6年12月16日(1860年)、布衣を許される。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久元年8月24日(1861年)、小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年11月23日(1863年)、父である石谷穆清の家督相続。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久2年11月24日(1863年)、父である石谷穆清が、北町奉行を務めていた頃の取調べ中に問題があったとして免職となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年1月19日(1863年)、諸大夫となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 文久3年9月1日(1863年)、使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治元年6月22日(1864年)、再び小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 元治2年4月10日(1865年)、頭取介となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応2年6月(1866年)、第二次長州征伐の陣容の中で、御小姓頭取衆に名前が記載される。(御進発供奉御役人付) 慶応2年11月6日(1866年)、御役御免となり寄合に入った。(寛政譜以降旗本家百科事典) 慶応3年10月31日(1867年)、再び使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典) 【備考】 戻る
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【江戸城下武家屋敷名鑑 上 人名編 (朝倉治彦) 1988 抜粋】 人名 地域名 No. 年代 石谷因幡守 西久保之内(港区虎ノ門2~4丁目) 83 文久2戌年(1862年) 石谷金之丞 雉子橋御門・清水御門外(千代田区九段南1丁目) 21 文久元酉年(1861年) 四谷之内(5)(新宿区信濃町、大京町、霞岳町) 103 文久2戌年(1862年) 石谷左衛門 小石川御門内(千代田区三崎町2・3丁目、飯田橋2・3丁目) 28 寛政4子年(1792年) 石谷七之助 竹橋御門・清水御門・田安御門内/半蔵御門内(千代田区北の丸公園) 16 延宝年中より元禄11寅年以前(1673頃~1698年以前) 四谷之内(5)(新宿区信濃町、大京町、霞岳町) 103 享保5子年(1720年) 石谷十助 番町之内(5)(千代田区一番町、麹町1・2丁目) 35 延宝頃より元禄9子年迄(1673頃~1696年) 元禄10丑年(1697年) 元禄11寅年(1698年) 元禄12卯年以後(1699年以後) 石谷十蔵 半蔵御門外(千代田区麹町1~3丁目、隼町、平河町1・2丁目、永田町1・2丁目) 39 享保年中以後(1716~1736年以後) 石谷周防守 小石川御門内(千代田区三崎町2・3丁目、飯田橋2・3丁目) 28 文化5辰年(1808年) 文政7申年(1824年) 天保4巳年(1833年) 天保5午年(1834年) 石谷鉄之丞 半蔵御門外(千代田区麹町1~3丁目、隼町、平河町1・2丁目、永田町1・2丁目) 39 文政10亥年(1827年) 天保6未・7申年(1835・1836年) 石谷隼人 番町之内(1)(千代田区九段北1~3丁目) 31 享和元酉年(1801年) 市谷之内(3)(新宿区市谷加賀町1・2丁目) 111 天保元寅年(1830年) 石谷肥前守 番町之内(1)(千代田区九段北1~3丁目) 31 寛政4子年(1792年) 寛政6寅年(1794年) 石谷備後守 牛込之内(1)(新宿区北町、中町、南町、横寺町、箪笥町、細工町、納戸町、北山伏町、南山伏町、二十騎町) 114 宝暦,明和年中(1751~1772年) 戻る
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【出典】ふるさと探訪 掛川の古城址 (林隆平) 昭和54年10月1日 戻る
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現在資料調査中&HP工事中 since 2017.2.4~逐次加筆訂正 著書名:安倍七騎に関する資料調査 著者名:松浦図書助 ※出典・参照の記載が必要な場合は、上記を引用文書及び著者名としてください。必要なければ不要です。本ホームページの題名が変なのは、デスクトップマスコット"伺か"その他を置いたのが先だった為です。 目次 1.本稿について 2.狩野氏 3.末高氏 4.石谷氏 5.朝倉氏 6.海野氏 7.杉山氏 10.資料置場 サイト内検索 検索 データバックアップ※筆者専用 1.本稿について 駿河国安倍郡の伝承には、安倍七騎と言われる武士の集団がある。この武士団については幕府編纂の『寛永伝』『寛政譜』などには記述が見当たらず、また伝承において人名などに異同が多いため、地域に居たと伝わる英雄の物語を、土地の古老などが言い伝えてきたようなものであったのだろう。そして、これらの言い伝えの残渣を『駿河記』などが記録し、今に伝わったと考えられる。筆者は遠江石谷氏の履歴をあたる上で遭遇した、この『安倍七騎』という集団について、石谷氏の周辺事情を考慮するために本稿を記録するものである。従って、その視点には大きな偏りがある事を注意点としてあげつつ、かくの如く後述するものである。 2.狩野氏(狩野九郎兵衛、狩野弥八郎朝久) 狩野氏は藤原南家工藤氏を祖とし、八介に数えられた狩野介を称する伊豆の大族である。駿河国安倍郡には狩野貞長という人物が居たと見られ、その子孫の活動が幾つか見られる。 引用できる資料を現時点では見つけられていないため、下記のリンクを記載し、後日資料を発見した場合にはそれを使用する。 安倍の狩野氏探訪レポート へのリンク 貞長の曾祖父にあたる「時光」の時代に駿河安倍郡に移り住んだ狩野氏の一族があり、勢力を拡げ、貞長の代に安倍城を築いたと言われます。 安倍の狩野氏と徳川家康のかかわりは、特筆すべきものがあります。徳川家康は、小山城の戦いで、狩野軍の活躍に目をつけていました。家康は、天下統一後、31代狩野景信の家にやってきて、自分の家臣にならないか、と勧めました。しかし、狩野家は、代々武田に仕えてきたので、今更徳川家に仕えるわけにはまいりませんと、せっかくの機会を断りました。家康は、その心構えがたいそう気に入り、自分の着ていた裃(かみしも)をその場で脱いで景信に与えました。その後、狩野景信は、家康から百石を与えられ、家臣になります。 狩野九郎兵衛(史話と伝説 静岡中部) 落合村。御神君御紋付頂戴 。嘉永7年(1854年)10月 駿府浅間流鏑馬役の狩野九郎兵衛嫡男が石谷氏へ進上した『駿河国安倍七騎姓名覚』に記載される人物。永禄・天正年間に武田信玄の家臣となり、遠州小山籠城戦、甲斐、信州川中島の戦い、高遠城の戦いなどに従軍し、数度の軍功によって武田家より御朱印を頂戴したという。 (補記)前述の記載と組み合わせると、狩野景信の事と考えられる。 狩野弥八郎朝久(史話と伝説 静岡中部) 落合 。今川・武田の頃に活躍したという。後に紀州徳川家に仕えた。 狩野弥次郎(史話と伝説 静岡中部) 落合村村長、富右衛門の先祖に狩野弥次郎という安倍七騎の人物がおり、家蔵の古文書武田氏の判形に(永禄十三年二月、土屋右衛門尉、狩野弥次郎殿)と記載があるという。 (補記)前述の狩野弥八郎朝久の事か? 狩野修理佐(寛政譜) 妻 :末高正長の娘 今川家臣。 雑記(駿河記) 永禄13年2月3日、土屋右衛門尉より狩野孫次郎へ、計5貫700文・1石2斗・1人の知行を与えられた。 永禄13年2月20日、土屋右衛門尉より狩野弥次郎へ26貫・1人を与えられた。 天正2年12月18日、市川宮内助より狩野修理亮へ軍役の支度が命じられた。 天正3年9月21日、武田勝頼所用の晴信朱印にて狩野次郎兵衛へ小山籠城の事で感状が与えられた。 内牧の狩野氏城跡はかつて狩野介貞長という宗良親王配下の人物の拠点であった。応仁以前、今川義忠の頃、駿河狩野氏は心ならずも従っていた今川氏に謀反しているという噂がたったが、甲斐国に続く安倍奥に拠点があったために討伐されなかった。しかし、遠江国の狩野宮内少輔というものが、遠江国の軍勢を率いてこれを討伐し、駿河狩野氏は滅亡したという。今川義忠は、遠江国の河井・堀越・湊の領を支配し京都の台命を待っていたが、遠江の狩野氏がこれを掠めとるなどの問題を起こした。また、狩野宮内少輔が巨海氏と伴に義忠の掛川入部を邪魔するなどの問題が重なり、寛正6年、今川義忠は背いた狩野宮内少輔の拠点江ある遠江府中の城を攻め落とし、狩野氏は自害した。その後、今川義忠は、朝比奈泰煕を掛川に配置し遠江国の監察を命じた。 3.末高氏(季(末)高石見守、末高某) 末高氏は『寛永伝』『寛政譜』等では藤原氏支流として記載されているが、徳川家康に仕えたという末高正長以前についてはなんら記載がなく不明である。今川氏真の時代には500貫の領地を有していたというから、1村支配クラスの中核領主層と言えるだろうか。 末高石見正長(寛永伝、寛政譜) 別名:末高石見守政本 法名:源光 子:末高新蔵正頭、朝倉六兵衛在重の妻、狩野修理佐の妻、末高正久の妻 初めは今川氏真に仕えて駿河国安倍郡の内に500貫文の地を領有した。今川氏真が没落した後は武田信玄、武田勝頼に仕える。武田勝頼が滅亡した後は郷里に帰って閑居した。後に、徳川家康に同地を割って宅地として安堵されたと言う。 (補記)末高石見守の呼称を残す事から、断定はできないものの同人物と推察される。 末高新蔵政頭(寛政譜) 実父:末高正長 武田家に仕える。信濃国諏訪原において戦死した。 (補記)天正3年(1575年)8月頃の諏訪原城の戦いで戦死したものか。 末高正久(寛永伝、寛政譜) 生没:天文23年(1554年)~寛永16年(1639年)4月13日 別名:小次郎、末高隼人政行 法名:源領 実父:久野伊賀守(武田家家臣) 養父:末高正長 妻 :末高正長の娘 子 :末高正宣 備考:久野伊賀守(武田家家臣)の次男 末高正長の長男である末高正頭が戦死したため、末高正長の娘を妻としてその跡を継ぐ。徳川家康より仕官の話があった際に元来の所領の安堵を願い出たが許されなかったので、仕官を断ったと言う。徳川忠長の時代にも仕官の話があったが断ったと言う。生涯郷里にて蟄居した。 (補記)久野伊賀守は5代遠江久野城主久野伊賀守宗憲の事? 末高正宣(寛永伝、寛政譜) 別名:忠右衛門 末高政信 実父:末高正久 妻 :朝倉六兵衛在重の娘 徳川家康に仕え300石を賜る。後に命令を受けて徳川頼宣に付属されるが、後年病を得て駿河国安倍郡平野に閑居した。 雑記(駿河記) 安倍郡村岡 山の央の段に古墳あり、天安是春居士、機雲玄了居士、霊高院殿月慶珠栄大姉、心岫貞安大姉、雲室妙泉信女などの記載がある。正保年間頃まで末高氏の子孫権兵衛が居住していたが、その頃、弟が武蔵国に居住していたためここを引き払って江戸に出て裏四番町に居住したという。その後は今小平野の源兵衛が支配したという。 続次編系譜の末高氏の項には、 半左衛門正路 半左衛門正勝 半左衛門正矩 正徳6年御留守居知行671石とある。 末高氏は古くから安倍の住人で、今川家の家臣となり軍役を務め、状今川軍記残編の中に記載があるという。 4.石谷氏(石谷重郎左衛門、石谷弥兵衛) 安倍七騎の石谷氏は、遠江国を本貫とする石谷氏の事と推定される。これは足久保の石谷氏が旗本となったという記載から考えると、石谷氏はこの遠江石谷氏の一族しか該当者が見当たらない事に加えて、遠江石谷氏の一族が安倍郡足久保村の在住の浪人となっていた事が尾張藩の史料から確認されるためである。但し、いつの頃から足久保に拠点を持ったのかは定かではない。石谷氏一族の詳細については筆者のHPの別ベージ参照の事。 石谷十郎右衛門政清(寛永伝、寛政譜、干城録、袖師町誌、武蔵国風土記稿、他) 生没:文亀3年(1503年)~天正2年(1574年)4月15日 別名:十郎右衛門尉、石ヶ谷十郎左衛門政清、十郎左衛門、重郎左衛門、西郷政清 法名:龍月道隆(寛永諸家系図伝)、和光院殿盛山道隆居士(掛川市誌) 実父:二階堂清長 子 :入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、(高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) ) 藤原南家二階堂氏。遠江国佐野郡西郷に生まれ西郷氏を称するが、石谷村に移住し石谷氏を名乗る。西郷十八士の長として今川義元・氏真に仕え、永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。元亀2年3月10日(1571年)に徳川家康に仕える。 (補記)石谷重郎左衛門の呼称も残り、また一子の子孫が安倍郡足久保村に居住している事から、断定は出来ないものの同人物と推察される。 入澤五右衛門行重(寛政譜、石ヶ谷家家系図) 別名:入沢五右ェ門清宗 実父:石谷政清 石谷政清の長男。武田家に仕える。入澤氏を称する。 (補記)武田氏の研究(柴辻俊六)に拠れば、『甲陽軍鑑』中の武田水軍岡部忠兵衛配下の駿河先鋒衆に、入沢五右衛門という人物がいる。同一人物かは不明。 石谷清重(寛政譜、士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図) 生没:生年不明~元和9年(1623年)1月11 別名:又太夫、又大夫、海野又太夫 実父:石谷政清 子 :石谷清春、女子 石谷政清の5男。士林泝洄に拠れば、徳川秀忠の家臣として関ヶ原の戦いに従軍したとされる。史料としての正確性が疑問な袖師町誌などに拠れば、海野又太夫を称して書院番500石を得るが、病を得て駿河国足久保に退去したとある。 石谷弥兵衛清春(士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図) 生没:生年不明~万冶3年(1660年)1月29日 別名:海野又十郎 法名:寒松院殿功安善忠居士 実父:石谷清重 子 :石谷弥兵衛清勝、石谷清宣、清時、清村 士林泝洄に拠れば、駿河国安倍郡足久保村の浪人であったという。 (補記)正確性が不明ながら石ヶ谷家家系図の情報も上記に記載する。 雑記(本川根町史) 天正4年 徳川家康の支援を受けた安倍元真が川根の大橋伏にいた小長井長門守と談合し、安部地域に侵攻。津渡野を城を攻め落とし、水見色城を陥落させた後、城代を務めていた朝比奈弥太郎が大洞山へ撤退する所を、家臣の池口弥蔵がその首を討ち取った。続けて足久保の石谷氏を討とうとした所、池口弥蔵は脇差が鞘走り太ももをを負傷したため撤退した。 5.朝倉氏(朝倉六兵衛在重) 越前朝倉氏朝倉景高の子孫と伝えられるが、遠縁という説もある。安倍七騎の筆頭とも伝えられ、武田家臣の土屋右衛門尉から、海野氏や狩野氏などのともに朝倉在重宛ての書面がいくつか残っている。後年の流れからいっても、実際の所領規模については不明瞭な点はあるが、地域の取り纏め役を担っていた事は確定的であると考えられる。 ※文化年間、沓谷源院に住む僧侶が言うには、安倍には朝倉を名乗る2家がある。1つは柿島の越前より来た朝倉数馬家、1つは昔から安倍谷に居る長妻田の朝倉又兵衛家。白髪神社棟札にある朝倉孫六郎は又兵衛の先祖である。 朝倉孫三郎(駿河記) 実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏)? 兄弟:朝倉六兵衛在重? 柿島の白鳥氏が言うには、越前から立ち退き駿河国安倍郡松留村に居住し、後に柿島村に移住した? (補記)下の朝倉在重の事か? 朝倉在重(寛永伝、寛政譜) 別名:弥六郎、河内守 実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏) 子 :朝倉六兵衛尉在重? 日下部氏。越前国から駿河国安倍郡に移住する。 (補記)現在、朝倉六兵衛尉在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。年代的には朝倉景高の後に朝倉河内守在重、朝倉六兵衛在重と続いてもおかしくはないが…… 朝倉在重(寛永伝、寛政譜、駿河記) 生没:天文14年(1545年)~元和元年(1615年) 別名:弥六郎、六兵衛尉、六兵衛、在宣、河内守 法名:全勝 実父:朝倉河内守在重? 妻 :末高石見守の娘 兄弟:権兵衛、朝倉弥刑部 子 :朝倉宣正、朝倉在重、望月与太郎の妻、末高正宣の妻、(朝倉六兵衛、望月十右衛門の妻、長守左衛門の妻、海野弥兵衛の妻、狩野勘兵衛の妻、菅谷十兵衛の妻(駿河記)) 朝倉貞景の遺領を孝高・景高兄弟が争った件で、越前より駿河安倍に移住した。天正・文禄の間に徳川家康に仕える。天正12年長久手合戦で騎兵として敵陣に乗り込んだ際、敵に馬を射られ危機に陥った。その際に婿である望月与太郎が馳せてきて、馬から降りて在重を助けて味方の陣に帰った。徳川家康は感心し、この際に駿河国安倍郡に移住したという。関東移封の際、在重は安倍郡を去りたくない理由があり、これに従わなかった。この後、中村式部少輔一氏が駿河国を領有し、駿河の国侍を登用した際に、これに仕えた。徳川家康が駿河国に隠居した際には、在重に対して関東移封に従わなかった事を責められたものの許され、再度徳川家康に仕えた。 (補記)現在、朝倉河内守在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。 朝倉宣正(寛永伝、寛政譜) 生没:天正元年(1573年)~寛永14年(1637)2月6日 別名:藤十郎 官位:従五位下筑後守 実父:朝倉六兵衛尉在重 実母:末高石見守正長の娘 妻 :土井小左衛門利昌の娘 子 :朝倉宣親、朝倉正世、朝倉宣季、屋代忠興、伊東主膳正祐豊の妻、加藤民部大輔明利の妻、正高 駿河国柿島に生まれる。天正18年小田原陣の時に召出されて徳川秀忠に仕え、200石を賜り大番となる。その後、使番となる。慶長5年の上田城攻めの際には徳川秀忠に従い参戦した。牧野右馬允康成と子の駿河守忠成とともに刈田の奉行となって敵の城に近付いたが、城中より兵が出てきて鉄砲を放ち、刈田に出ていた徳川勢を撃とうとした。この際に朝倉宣正は牧野親子とともに木戸口押し寄せ戦った。この際に城兵は矢倉の上から弓で防戦したが、宣正は塀の下に取り付いて矢倉の上の敵兵を槍で攻撃した。この槍のけら首を矢倉上の敵兵が掴んで奪おうとし、宣正は槍を手放さず抵抗したが、槍のけら首が折れてしまったので撤退した。その後、槍のけら首は敵から宣正に返還された。この上田の合戦において朝倉宣正は、小野次郎右衛門忠明、中山勘解由照守、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、鎮目半次郎惟明、斎藤久右衛門信吉とともに、上田七本槍として称された。しかしながら、刈田奉行ながら合戦して軍法に背いたとして、徳川秀忠の命令により上野吾妻の留守番を命じられたが後に赦され大番に戻った。慶長7年安房国へ唐船が漂着したとき、命令を受けてこれを検視した。後に100石を加増され、慶長9年に組頭となりさらに200石を加増され、慶長10年に使番となり200石を加増され、慶長16年にさらに200石を加増された。この年、徳川家康の上洛に付き従った。慶長18年禁裏造営の際に京に赴き、完成の後1000石の加増を受けた。この後、和泉堺政所職を務め芝山小兵衛正親に代わって帰る。この後徳川家康の命令で徳川秀忠の家臣となった。慶長19年大坂陣の時は江戸の守備を担当し、同年12月6日に徳川秀忠より御書を賜った。この後1,000石を加増され、元和3年12月、従五位下筑後守に叙任された。元和5年に3,000石を加増される。元和7年に4,000石加増される。合計で10,000石を領有し、松平忠長の御付家老となった。これ以前に徳川家康より御書および御家紋付き團扇を賜った。元和8年6,000石を加増され、寛永2年10,000石をさらに加増され、遠江国において合計で26,000石を領有し、掛川城を拠点とした。寛永8年松平忠長閉居に伴い、主君への諫言が不十分だった事を咎められ、酒井阿波守忠行の所へお預けの身となった。松平忠長はこれを嘆き、問題は自分のせいだとして、宣正を赦免するように尾張藩徳川義直、水戸藩徳川頼房、千姫に対して申し入れをしたため、宣正は罪を赦され、駿河国帰って国政を正し、諸氏を指揮せよと徳川秀忠より命じられた。寛永9年松平忠長が改易となり、宣正も松平下総守忠明にお預けの身となって大和国郡山に蟄居となった。 朝倉在重(寛永伝、寛政譜) 生没:1584年(天正11年)~慶安3年(1650年)11月19日 別名:仁左衛門尉 官位:従五位下石見守 実父:朝倉六兵衛尉在重 実母:末高石見守正長の娘 妻 :牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛某の娘 子 :朝倉重宣、朝倉重興、朝倉重利、牧野越中守儀成の妻、兼松又四郎正尾の妻、海野氏の妻、岡田源五郎某の妻、松平庄九郎忠久の妻、朝倉氏の妻、土井大炊頭家臣大野市左衛門定歳の妻、某 元和元年大坂陣の時、朝倉在重は牧野右馬允康成と子の駿河守忠成の軍に属して出陣した。同年5月7日、在重は牧野親子と轡を並べて天王寺に出撃した際、白母衣に半月の指物、もう一人は柄連(ゑづる)の指物を指した武者が2名攻め寄せて来た。在重は柄連の指物を指した方の敵兵と槍を合わせ討ち取り、首を牧野右馬允の陣に持参した。大阪城陥落後に召出され、徳川秀忠の家臣となった。命令により書院番となり、その後御膳番を務めた。寛永2年7月27日、目付となり、領地の朱印を賜り于上総国望陀、下総国葛飾の2郡の内に500石を賜った。後に布衣を許される。この後、徳川家光に仕え、寛永7年4月に使番となり下総国葛飾郡に500石を加増された。寛永9年肥後国熊本城を細川越中守忠利に与えることになったので、同年6月16日命令を受けて同地に赴き、城の引き渡しの任務を務めた。寛永10年、美濃国大垣城を松平越中守定綱に与える際に、同地に赴いて命令を伝えた。同年12月26日、甲斐国八代郡において1,000石を加増され、合計で2,000石を領有した。寛永11年3月28日、目付となって豊後国萩原に赴いた。寛永12年、戸田左門氏銕に美濃国大垣城を与えることになったので、同年7月晦日に同地に到り、城の引き渡しの役を務めた。寛永13年7月13日、池田光伸が幼少であるため目付を命じられ、因幡国に赴いて政務を監督した。寛永16年大和国郡山城を本多内記政勝に与える事になったので、同年3月3日に同地に到って命令を伝えた。同年7月18日に江戸町奉行となり、寛永18年1月2日、従五位下石見守に叙任された。墓所は四谷の全勝寺。 雑記(駿河記) 上落合には大石某という国人が住んでいたが、柿島の朝倉が夜討ちで切り従え自らの被官にしたという。このため上落合は朝倉の所領となった。 6.海野氏(海野惣右衛門、海野弥兵衛本定) 駿河海野氏の海野本定は海野幸氏から数えて9代目であり、有名な信濃国海野氏の支族とされる。安倍元真の婿となり井川七ヶ村を継承し、武田家・徳川家に仕え、井川の殿様と称されるようになった。単純に所領規模をみると、安倍七騎に数えられる氏族の内では海野氏の勢力が突出していると考えられるが、他の諸将と比べ、海野本定自身の戦働きの逸話は伝わらない。戦場を得意とするよりも治世を主とする人物であったのだろうか? 海野本定(駿河記) 生没:生年不明~元和3年(1617年)6月3日 別名:弥兵衛尉 法名:松雲 実父:海野泰頼 妻 :安倍大蔵元真の娘 子 :海野元重、海野兵左衛門、海野縫右衛門 海野弥兵衛(あるいは安倍大蔵)は、津渡野城の高瀧将監を焼き討ちし滅ぼした。海野本定は、はじめ武田家に仕えたという。天正7年1月23日、穴山信君より海野弥兵衛尉へ、江尻へ行くように伝えられる。天正7年10月25日、土屋右衛門尉より海野弥兵衛へ、25貫、また新恩として計12貫400文を配下分を含め与えられる。天正10年以降に安倍大蔵元真の娘を妻として、安部井川の家督を継いだ。徳川家康の家臣となり、駿河国から信濃国への山道案内人などを務める。また、徳川家が駿河国を納めて後、朝倉六兵衛とともに、御茶壺の管理、御巣鷹係、材木管理、金山御用などを務めた。また、徳川家康は天然の要害である井川に有事の備えとして鉄砲弾薬庫を設置し、海野氏に管理を委託した。 海野七郎太郎(駿河記) 岩崎住人。海野七郎三郎と兄弟。武田家より嫌疑を受け、江尻城から派遣された人物に捕縛される。江尻守衛の土屋右衛門尉の下に引き出され拷問の上梟首された。 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる 海野七郎三郎(駿河記) 田代住人。海野七郎太郎と兄弟。武勇絶倫であったという。武田家より嫌疑をうけ、捕縛命令が出る。田代住人に謀られ落とし穴に落とされて討ち取られ、兄の七郎太郎とともに梟首された。怨霊となったので八幡社に弔われた。 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる。 海野弥兵衛元重(駿河記) 生没:生年不明~寛文5年7月1日 実父:海野本定 子 :海野正成、海野信典 海野兵左衛門(駿河記) 実父:海野本定 子 :海野兵左衛門、津田治兵衛 紀州藩徳川頼宣に仕える。 海野縫右衛門(駿河記) 実父:海野本定 紀州藩徳川頼宣に仕える。 海野五左衛門正成(駿河記) 実父:海野元重 徳川忠長に仕え500石を賜る。忠長没落の後は亀井能登守に預けられて石見国で死没した。 海野弥兵衛信典(駿河記) 実父:海野元重 巣鷹役、井川七ヶ村支配 【雑記】 郷島村長 海野惣右衛門 永禄13年6月16日武田家市川備後守、原隼人祐からの海野竹千代への書状を所有。 7.杉山氏(杉山仁左衛門、杉山小太郎右衛門) 今川家臣。俵峰村。 【雑記】 俵峰 杉山氏 明応3年9月20日、今川氏親より杉山太郎衛門へ俵峰半分を与える書状。天文21年10月11日、今川義元より杉山小太郎へ年貢緒役に関する書状。永禄6年4月10日、今川氏真より杉山小太郎と望月次郎右衛門へ三河国急用につき棟別銭許可の書状。永禄10年9月24日、今川氏真より杉山小太郎へ屋敷の竹木に関する書状。天正元年10月7日岡部正綱より杉山小太郎へ合力のためと志田郷三輪分の5貫文を渡すという書状。天正2年12月18日、市川宮内助より杉山小兵衛へ24貫文の宛がい状。元亀2年12月24日、朝比奈駿河守信直、横田康景から俵峰村弓兵5人を定める書状。天正3年9月21日、杉山小兵衛へ小山城篭城戦の戦功を賞する書状。 10.資料置場 ★大村五郎左衛門 ⇒大石五郎右衛門(朝倉在重の義弟)の事か?朝倉在重と不仲になり暗殺される。 安倍七騎に数えられる大村氏は俵澤の大村彦六郎の事か。先祖は信濃国国人で安倍に移住した。今川家・武田家からの書状がある。 ★長島甚太右衛門 ⇒不明 長島某という武人の屋敷が、内匠にあったという(駿河記) ★望月四郎右衛門 ⇒望月與太郎?朝倉在重の娘婿。 『駿河記 上巻』 〇里 中西 里人望月氏云昔源賴朝卿治世に、此所に某と云武士あり。幕府に忠節ありて、井河七鄕を賜ひて勢ひ猛なりしと傳。今此屋敷跡に、中西次右衛門と云貧民住す。彼武人の子孫と云。然共彼家舊記亡て未ㇾ詳。 雑記曰、壽永二年の秋、木曾義仲反逆の時、木曽が郎從海野・望月・仁科・高科・根津・風間等の者謀て、信濃國より駿河・遠江の國へ山路を越て、間道を經て、軍兵を出さむとて、駿河安倍の地侍仁科彌七と云者、淸水冠者の供したる海野小太郎幸氏が叔父なれば、仁科彼が催促に應じ、賴朝卿に内通し、計略を以て彼徒を討んとて、安倍鄕の地侍柿島の朝倉、落合の狩野、平野の末高、俵峰の杉山、足久保の石貝、千頭の大間等を促し、木曾が軍を猪用に引入悉く討取、其首を鎌倉に送り實檢に入けり。各恩賞を賜ふ。仁科に猪用七鄕を賜ふと云云。 此事正史には不見ども、若くは實説にやあらなむ。當村小里中西の古屋敷仁科の居地なるか、尚重て可考。 ※寿永二年(1183年)。柿島の朝倉は旗本朝倉氏の家伝では越前朝倉氏の分流なので年代が合わない。朝倉氏は源平合戦時代頃に朝倉を称しているので、安倍地域に分流があるかという疑問。石貝が遠江石谷氏の事なら家伝で石谷を名乗ったのが1500年代。正史ではなく雑記?なので、人名他の信憑性に疑問。 用宗城跡……今川家の時、関口刑部少輔または一宮出羽守随羽斎が守衛するという。天正7年9月、武田勢駿河先方の、三浦兵部少輔(兵部助義鏡)、向井伊賀守正重をはじめとして、400余人で守備した。19日、徳川勢である松平甚太郎家忠・牧野馬之允康成が攻め込んできて、向井・三浦勢は奮戦したが1万余の徳川勢に敵わず、三浦は一色左京に討たれ、向井は尾崎半蔵に討たれて落城した。その後武田勢は朝比奈駿河守信置、長谷川左近、須藤左門、石原五郎作、天野角右衛門、桜井兵庫、朝比奈市兵衛、朝比奈小隼人、矢部弥三郎、庵原伝内、久野角之助、等を配置して籠城した。天正9年5月5日、用宗城の城兵は浜遠目にて三河勢と合戦し多くが討たれた。同年武田氏没落の際には、朝比奈氏が開城し庵原郡草ヶ谷城に引き籠ったと伝わる。 (考察)用宗城は安倍川の河口周辺にあることから、水運を利用し安倍川利用を考えると、安倍郡の勢力が水軍に加わってもおかしくはないか。 今川氏真文書 駿河国中田寺方小笠原分百姓職之事 右。如前々可相計。但前々者脇屋隼人西尾左近衛門。為三人雖抱来。従乱中有在所。隼人令死去。剰左近衛門者遠州小笠原方へ相越云云。然者海野可為壹人百姓。去年正月始。父子一類阿部相退。末高令談合。致一揆奉公由申條。郷中諸事。縦雖為私領。不可有相違。就彼名職。天澤寺殿御判形続印判。雖令所持。乱中失却之由申之條。重申付者成。仍如件。 永禄十三年六月十五日 海野宗意 〇同前 駿河国石田郷龍雲寺並定源寺領百姓職之事。 右。如前々可相計。但前々は為四人雖抱来。孫七郎清兵衛両人者。従乱中関東に欠落。五郎兵衛は今駿府有之云云。弥七郎事は父捨置。海野同然に。自最前阿部へ相退。加一揆之由申條。在所へ罷帰上は。可為一人百姓。縦雖為私領不可相違者也。依如件。 永禄十三年六月十五日 西谷弥七郎 南矢部住民与兵衛望月氏家蔵古文書 南矢部之内。望月右衛門四郎屋敷之竹木山林。共不可伐取之。若自当城見伐之者於相伐者。以此印判可申理者也。仍如件。 天正八年辰七月十九日 江城(朱印) ※江尻城、穴山信君朱印 同家へ弓免許状、慶長20年卯八月一日、松七右衛門家久(花押)、望月角蔵殿と有。又一通、 火夢想之鉄砲一流。雖為天下無双徳。御執心。大筒小筒之儀。令相伝候畢。以来深重懇望之方於有者。堅以起請文可被成御相伝候。雖然至御弟子免状之事者。可為一国拾人者也。依如件。 元和七年七月七日 伯民部少輔政永 保田七右衛門尉守重(花押) 望月長兵衛殿参 益津郡 中村 〇御所松 此里瀬戸川堤の本に、方五六間の際荊棘生繁りたる内に、大なる松樹あり。里人御所松と呼。其由来を詳にせず。産土神に南朝の帝を祭り、あるいは蔵王権現を祭る所以あることなり。按るに、南朝の皇子宗良親王或は興良親王、遠江国より当国へ御座を被遷たることあり、其時御船に召れて此湊に(焼津湊)着せ給う時に、安倍郡の住人狩野介貞長入江蒲原等の人々御迎に出て、親王の御船をむかへ、暫時此處に輿を駐めさせ憩せ給ひしを以て御所の号あるか。仍て後人其處に吉野の御神等を斎祭るものなるべし。委説は安倍郡に載こゝに略す。(但神祖毎度此辺に御遊覧ありし地なれば若くは其遺蹟か) 志太郡 【鵜綱】 里正松浦氏は先祖肥前の松浦渡辺氏の子孫にて、松浦源二郎勝と云者、今川貞世に仕へ遠江に住す。其子源太夫今川泰範に奉仕し、応永十二年酉六月二日没。子孫此處に蟄し、当主に至て二十二代と云伝たり。されども證とすべき子文書なし。其真偽未詳。 【下之郡】 〇小地名 矢先 松井 中田 阿弥陀ヶ谷 横目入道ヶ谷 入道ヶ谷は長慶寺向、花倉谷川の南、横目の内の池名なり。 伝云、鎌倉の時代葉梨入道と云者居住の地なり。按に入道は左大臣武智磨公四男乙磨より十三代、二階堂従五位下駿河守維行と云者、駿河国守護職に補し、こゝに隠居して葉梨入道と称。事蹟不詳。 【仮宿】 里民幸次郎(天野氏)と云者の由緒に云、先祖は天野次郎右衛門尉景氏と云武人なり。永禄年小田原北篠氏に仕へ、船手奉行にて伊豆国韮山城に在住す。景氏駿河国安倍郡井川の住士海野弥兵衛空(名)を妻とし、一子多宮を産、天正十三年乙酉没。同十八年三月関白秀吉公北條家征伐の時に多宮韮山城にありと雖も、幼弱たるによって母とともに主従六人にて当城を落、夜に紛れ密に小舟に乗て遁去て駿河清水湊に上り、安部山中に引、海野氏の家に蟄し、其後岡部郷仮屋所村小柴と云地に在住す。多宮後に助右衛門と改、元和五年没。自爾今に至て十代民間にあり。末年舊記失て口碑に伝のみと云云。藤泰井河に至る時、海野氏の宅に於て其家系を視るに、安倍氏の嫡女天野伝四郎妻と記せり。海野本定は安倍氏の婿にして井川の家督を続たり。其説符号せり。実説と聞ゆ。依てこゝに其伝を記す。 按に天野氏は伊豆国君澤郡天野村の世々住人。天野遠景政景・光家等の古墳ありと云。若は此系統の子孫にやあらむ。 海野兵左衛門(うんの へいざえもん) 生年不詳~寛永十九年(~一六四二) 和歌山藩士。初代藩主徳川頼宣に仕える。名は良次。父弥兵衛本定は、武田信玄、勝頼に仕え、天正年間に徳川家康に仕える。兵左衛門は父本定の勤功により、新規に家康に召し出され、切米二百俵を与えられる。その後駿河で頼宣に付けられ、知行三百石を与えられ、目付となる。頼宣の紀伊転封後、たびたび役替、加増があり、勘定奉行に昇進し、一千百五十石を与えられ、彦坂九兵衛光政と共に藩政に参与する。寛永十九年五月十四日没する。なお、七代兵左衛門勤は、家督六百石より側用人、勘定奉行、加判之列など枢要な役職を歴任し、一千七百石にまでかぞうされている。 小山誉城 (三百藩家臣人名事典 第五巻 発行者:菅英志 1988.12.20) 戻る 名前 届くか不明なコメント
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Facebookのノート機能がいつのまにか消えていたので、仕方がないからこちらに移管。 【辞世 但し辞世的な意味ではないが】------ 真澄む夜の 静寂(しじま)に袖は 濡れずとも 数限りなく 星屑の降る 心憂き 夢も希望も 断ち切れば 桜も吹雪く 狂気なりけり 【歌】------ 真澄む夜の 静寂(しじま)に袖は 濡れずとも 数限りなく 星屑の降る 心置く 真澄む夜風は 吹き抜けて 今も昔も 羽衣を松 こころ松 風はちとせに 吹き留(と)めて 真澄まぬ空に 降れる夜の雨 霞吹く 春の淡風 そよぎつつ 真澄む心の 空ぞ色めく 忘れ草 勿忘草の 生い茂り 真澄む野の風の なぐ(凪ぐ.薙ぐ)ばかりなる 真澄たる 月の鏡は 昇るとも 影も映さぬ 昼の空かな いく人も 歯牙にも掛けぬ 矢嵐も 真澄うき夜に 星射れぬほど 霞吹く 春の淡風 そよぎつつ 真澄む心の 空ぞ色めく 歳月(としつき)に 重ねて守る 三十一(みそひと)の 文字の曲輪(くるわ)に 秘める城影 春霞む 心に影を 描くとも 朧に滲む 筆ぞ物憂き くち枯れて 八千夜に千夜を 重ねても 言葉も出来ぬ 松のうらはら こい深き 青葉に影を 隠すとも 照れば透け見ゆ 言葉なるべき 歳を経ても 降り敷き止まぬ 白雪に 我が通い路の 関も見ゆまじ 春陽増す 見渡す野辺の 桜木は 散ると散らぬと 心占めおく まつ風や ま澄む凪間の 浦波に かい無き舟を おきに留めつつ 心占む ま澄む夜の闇 深ければ 道行く人の 影も残さじ 寄せ来ては 思いも果てぬ 浦波は ただ松風の 心もの憂き あい深き 青葉の影に 隠すとも 照れば透け見ゆ 言葉なるべき 【雑歌】------ 心憂き 夢も希望も 断ち切れば 桜も吹雪く 狂気なりけり 歳月(としつき)に 繁る青葉を 切り掃けば 久遠に誇る 鄙の山城 百歳(ももとせ)を 染めにし闇に 星屑の 儚なかるとも 絶えぬ影かな 徒(いたずら)に 人をも寄せぬ 古城(ふるしろ)の 独り占め得(う)る 山桜花 かねてより 春告鳥は 死に絶えて あたら散りゆく 梅の花かな 二重三重(ふたえみえ) 波は幾重に 重ね掛け 寄せては返す 松のうらはら よに騒ぐ 夢希望なる 星芥 掃きて棄てれば やみぞ静けき 雪つまる 我が身の末を 書き染める 筆に浸すが 血では虚しき 知恵深き 堀に心の 壁高き 城も守れる 寂寥(せきりょう)の風 心ならず 頭(かしら)に雪は 降り積もり 歩くゆき路の 啼くや悲しき 【鎮魂歌】------ 浦波は 心僅かに 騒ぐとも 代は連なる 羽衣の松 散らば散れ 雨にぞ花は 散れるとも 若葉彩る 敷島の春 【用済みだが、歌の出来は良いので】------ 想へども 手には届かぬ 彼(か)の空の 闇世を照らす 淡い夜の月 きれぎれの くも間に輝る この月を どこに眺める の辺のかれ松 光差し 露地にぞ覘く 水面月(みなもづき) 澄みてまどけき 今日のこの夜 散る花は 降らる涙か 過ぐ日々か 河面を隠し 春風や尽く 戻る トップページ
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武将名 こさいそういつ 竜の師 UC虎哉宗乙 美濃出身で「天下の二甘露門」と称された名僧。甲斐の快川紹喜に師事した後、伊達輝宗に招かれて米沢・資福寺の住職となった。輝宗の嫡男・政宗の学問の師となり、強い影響を与えたといわれる。また、伊達成実や片倉小十郎にも教育したといわれる。「孤掌は鳴りがたし。結束せよ」 出身地 美濃国(岐阜県) コスト 1.5 兵種 槍足軽 能力 武力4 統率8 特技 伏兵 計略 天下の二甘露門 伊達家の味方の武力が上がる。 必要士気4 Illustration 伊藤一磨 伊達政宗の学問の師として有名な高僧も登場。 武力こそ物足りないものの、コスト1.5槍で高統率の伏兵持ちと、総合的には良好なスペック。 計略の天下の二甘露門は、伊達家の味方の武力を+4する采配。 範囲は自身を中心とした円で、直径は戦場の横幅半分ほどの広さ。 効果時間は5.5c。(3.02B) 前線への采配や後方陣などと違い勢力限定であるが、 その分、自身も計略範囲に入っており、かつ武力上昇が+4と士気効率はかなり高い。 ただ、効果時間は(当初より幾分伸びたものの)5.5cとあまり長いとはいえず、 また自身の中心円+足の遅い槍兵であるため、この計略一本で攻城ライン付近まで攻め上がる事は難しい。 サブ采配要としての武力上昇値は十分なので、他の計略とのコンボや、 同士気程度の相手の計略を見てからの、後出し全体強化などの用法がメインとなるだろう。
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武将名 こおりかげなが R桑折景長 伊達家臣。天文11年、稙宗の嫡男・晴宗を擁し、政変を起こして稙宗を幽閉、その後の天文の乱で晴宗が勝利すると、勲功第一として伊達家臣団最上位にまで上りつめた。晴宗の晩年は冷遇されたが、輝宗の代に再び重臣として登用された。「感情が邪魔をするなら、 そんなものはいっそ捨て去れ」 出身地 陸奥国(福島県) コスト 2.0 兵種 竜騎馬隊 能力 武力7 統率7 特技 伏兵 計略 冷血の奇策 伊達家の味方の統率力が上がり、敵の統率力を下げる。対象に敵がいる場合は、味方に対しての効果が大きくなる。 必要士気4 Illustration Wolfina 福島県民以外には耳慣れないと思われるが、「桑折」と書いて「こおり」と読む。 イラスト・計略名とも、どうもこの読み方から来ている感がある。 冷血の奇策の効果範囲は直径4部隊半ほどの前方円で回転可能。自部隊は円の内部、後方寄りに位置する。 統率上昇/低下値は範囲内に味方部隊しかいない場合に統率+2、 敵部隊を含んでいる場合は味方の統率+4、敵の統率-4となる。 効果時間は味方に対して10C弱、敵に対しては統率10相手に6C弱、統率1相手に6C強。(ver2.22D) 統率差8を作り出す、とだけ聞くと色々悪さができそうではあるのだが、 もともと妨害ダメ計も極端な脳筋武将も統率依存の高い計略を持つ武将も少ない伊達家においては 特筆するほどの相乗効果を生みだす相手がほとんどいないのが残念なところ。 R中野宗時とは両者とも天文の乱で晴宗の勝利に貢献しながら、その後の興亡が対称的となっており それを踏まえてかイラストが同じ絵師、イメージが氷と炎、カード裏のセリフなど色々と対になるようにデザインされている。 計略は統率操作&ダメ計と相性が良いので、敢えてこのカードを使うのであればコンビを組ませたい。 人によっては「桑折貞長」の名の方に聞き覚えがあるかもしれないが、景長と同一人物である。
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UC石川昭光 R片倉重長 C川島宗泰 R香の前 C後藤信康 C鈴木元信 SR伊達政宗 UC原田宗資 R茂庭綱元
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武将名 わたりごぜん UC亘理御前 伊達成美の正室。父は亘理重宗。明朗な人柄であり、気難しい猛将の成美とも良好な仲を築いた。後年、夫と共に伏見に移り住んだが、文禄4年に若くして世を去った。やがて成美は突如、伊達家から出奔を遂げている。「きゃっほー!  いっちゃえやっちゃえー!」 出身地 陸奥国(宮城県) コスト 1.0 兵種 竜騎馬隊 能力 武力2 統率3 特技 気合 魅力 計略 狂竜の砲火? 範囲内の最も武力の高い伊達家の味方の武力が上がる。さらに竜騎馬隊であれば残弾数が回復し、弾数の回復速度が上がる。 必要士気3 Illustration 鈴木玖? 女性武将ながら武力統率共に足を引っ張らない数値、おまけに気合魅力とくればデッキに 入れない理由がないハイスペック竜騎馬隊。 計略は範囲内の最高武力の味方の武力を+2し、竜騎馬隊であればリロード速度を上げる。 計略中はリロードがだいたい2cで完了する。 効果時間は9.3c(3.20D)