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問題 問題画像 問題文 次のお札で有名な人物が、代表的な著書が発表した時の年齢が若い順に並べてください。答えは、番号のみをスペースで区切って入力してください。1 夏目漱石『坊ちゃん』2 新渡戸稲造『武士道』3 樋口一葉『たけくらべ』4 福澤諭吉『学問のススメ』 回答 3 4 2 1 解説 樋口一葉 → 福沢諭吉 → 新渡戸稲造 → 夏目漱石 諸説あるが樋口一葉が23歳、福沢諭吉が37歳、新渡戸稲造が38歳、夏目漱石が44歳 補足 Hard/hq039、Hard/hq079と同じ問題です。
https://w.atwiki.jp/tracking_quizshow/pages/191.html
問題 問題画像 問題文 次のお札で有名な人物が、代表的な著書が発表した時の年齢が若い順に並べてください。答えは、番号のみをスペースで区切って入力してください。1 夏目漱石『坊ちゃん』2 新渡戸稲造『武士道』3 樋口一葉『たけくらべ』4 福澤諭吉『学問のススメ』 回答 3 4 2 1 解説 樋口一葉 → 福沢諭吉 → 新渡戸稲造 → 夏目漱石 諸説あるが樋口一葉が23歳、福沢諭吉が37歳、新渡戸稲造が38歳、夏目漱石が44歳 補足 Hard/hq039、Hard/hq179と同じ問題です。
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【女大学・10】 女は常に心遣いをしてその身を固く慎み守るべきだ。 朝は早く起きて、夜は遅く寝て、昼は寝ずに家の中のことに心を配り、織り裁縫を怠るべきでない。また、茶や酒などを多く飲んではならない。 歌舞伎、小唄、浄瑠璃などの乱れたものを見聞きしてはならない。宮寺などすべて人の多く集まるところへは老齢になるまではあまり行くべきでない。【女大学評論・10】 婦人が内を治めて家事に心を配り、織り物や裁縫を怠るべきでないというのはもっともな教訓で、婦人にとっては大切な務めである。 西洋の婦人にはややもすれば衣服を裁縫する法を知らない者が多い。 この点において、私は日本婦人の習慣をこそ貴ぶ者である。世の中がどんなに発展しようとも、家がどんなに裕福になろうとも、糸針の一事は婦人のために必要であり、高尚な技芸として怠ってはならぬことである。 また、茶酒などを多く飲むなという。茶も過度に飲めば健康に害があり、言うまでもなく酒量が過ぎることについては男女共に慎むべきことである。 これも本文の通りにて異議はないが、歌舞伎、小唄、浄瑠璃を見聞きしてはならない、宮寺などへ行くことも遠慮しろというのはいかがなものであろうか。不審に思われる。 人生楽あれば苦あり、半々あるのは常である。苦楽が平均してよく働きよく遊び、それで人生が成立するという道理は女大学の作者も許すところであろう。 それならば、夫婦が一緒に家にいるのはその苦楽を共にする契約であるのだから、一家が貧しくて衣食住にも困るなら確かに歌舞伎音曲など楽しむ余裕などないだろう。夫婦共に辛苦して生計にのみつとめるべきである。 しかし、その努力した結果、多少の財産を成した場合には、平生の苦労の憂さ晴らしのために夫婦子供が連れ立って物見遊山も差し支えないであろう。 これもまた女大学の作者だって許さないわけではないだろう。つまり、よく働いてよく遊ぶとはこのことである。 このように本文の意味を考えてみると、歌舞伎云々以下は家の貧富に言及しておらず、ただ、婦人たる者は芝居見物はよくない、鳴り物を聴くことはよくない、老齢になるまでは宮寺への参詣も差し控えよと、厳しく婦人に禁じながら暗に男子のほうへは自由を与えているように見える。 人生の苦楽を共にしながらその歓楽の一方は男子だけのものとして、女子には生涯苦労の一方のみを負担させようとするというだろうか。無理無法も甚だしいといえよう。 この社会の実際としては、婦人は内を治め、男子は外で働けという。 その内外の趣意を濫用して、男子が外で奔走するのは実業経営社会交際のためだけではない。その経営交際と称して酒を飲み花柳に戯れる者が多いのだ。 政府と民間問わず、我こそは紳士と自称している俗輩が、何々の集会、宴会といって会合を持つのは、果たして実際の議事、真実の交際のために必要であるか否か。 十中の八、九は会議のために集まるのではなく、会議の名を利用して集まるものだ。交際のために飲むのではなく、飲むために交際するものだ。 その飲食、遊戯の時間は男子が内を外にする時間であり、すなわち醜体百戯、芸者と共に歌舞伎をも見物し小唄、浄瑠璃をも聴き、酒に酔い、あるいは花を弄ぶなど淫れ(うかれ)に淫れながら、内の婦人は決まって女大学の教えの範囲内に引きこもってひとり静かに留守を守っているということで、安心してますます佳境に入る時間である。 このように、女大学の作者が特に婦人をいましめて淫らなことを見聞きするなと禁じているこの教訓は、男子には遠慮なく淫らな行いをさせる自由を与えているにすぎない。 女を内に幽閉し、男を外で好きなようにさせている。一家の害悪を止めることなく却ってこれを奨励しているのである。 こればかりでなく、不品行で狡猾な者は、自分の獣行を勝手にしようとして、さすがに妻から不平を言われ、それならばと策を案じて妻の歓心を買いその機嫌を取ろうとして、衣装でも何でもその妻の望むがままに買い与え、芝居見物、温泉旅行、季節ごとの行楽、何一つとして思いのままにならないことはないようにする者がいる。 こんなことをしたら、俗にいうお心よしの妻は身の安楽さを喜び、世間の贅沢な付き合いに浮かれて自分の内を外にし、家の中の取り締まりはさておき子供の教育さえいい加減にしてしまうと同時に、夫の不義、不品行をもいい加減に見てあたかも平気な顔をすることがないとはいえない。 まさにこれは好色な男子の得意とするところで、ひどい者になると妻、妾が一つ屋根の下に同居し、たとえうわべの嘘でもその妻が妾と親しくして、妻も子を産み、妾も子を産み、双方の中はとても睦まじいなどというおかしな話がある。禽獣界の奇いよいよ奇なりといえるだろう。 今年の春の頃、ある米国の貴婦人がわが国に来遊して日本の習俗を見聞きする中で、妻妾同居云々の話を聞いて最初は大いに疑っていたが、ついにその事実を知ると 「私は確かにこの話を知ったけれども、さて、帰国したときにこれを婦人社会の友人たちに語っても容易に信じてくれる人はなく、却って目立ちたがって嘘を伝える者であるとされて、その他の報告までも信用を失うことになってしまうでしょう。 日本の婦人たちはこの世に生きても実に生き甲斐のない人たちです。気の毒な人たちです。憐れむべき人たちです。私たち米国の婦人は片時もこのような境遇に安んずることはありません。死を決してもなお争わなくてはならない、いや、日米、国が違っても、女性は同胞姉妹です。 私たちは日本の姉妹のためにこのような怪事を打破して悪魔退治の法を考えなくてはなりませんね。」 ・・・と、歯を食いしばって憤り、涙を払いながら語ったことがあったのだ。 私はこの話を聞いて他人事とは思えず、新日本の一大汚点を摘発され、大いに恥じ入った次第である。 条約改正、内地雑居もわずかに数ヶ月のうちにあり、なおこのままにして国の体面を維持しようとするというのか。その厚顔ぶりはただ驚くべきものだ。 東洋も西洋も同じく人間の世界であるというのに、男女の関係ではその趣がこのように違う。日本においては青天白日の下一妻数妾あり、妻と妾が同居し、妻と妾が親しくしていることもある。 つまりその親愛が嘘であっても、男子が世にもあられぬ獣行をはたらきながら、婦人には柔和忍辱のこの頂上まで至らせているのは上古蛮勇時代の遺風であり、特に女大学の教訓はその頂上に達している結果であることにほかならない。 代々の婦人たちが自分から結婚の契約に伴う権利を忘れて、かりそめにも夫の意に逆らうのは不順である、その醜行をとがめるのは嫉妬であると信じて、一切万事これを黙々と付し去るだけではなく、当の敵である加害者の悪事を隠しかくまって、自分でそれが婦人の美徳であると認識するのは文明の世において権利とは何なのかをわきまえていないことだといえるだろう。 夫婦が同居して、夫が妻を扶養するのは当然の義務である。 しかし、その妻がわずかな美衣、美食を与えられて満足してしまい、自分にとって大切な本来の権利を放棄しようとするのは愚かなことでなくて何だろうか。 だから、夫婦が苦楽を共にするという一事は決してなおざりにしてはならない。苦でも楽でもそうだが、それを隠して共にしようとしない者は夫であって夫ではない、妻であって妻ではない。 あくまでも議論しあうことだ。時にはそのために騒ぎを起こすこともやむを得ない。
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女大学評論-1(親の教え) 女大学評論-2(女性の美しさ) 女大学評論-3(男女の区別) 女大学評論-4(婚家を去る、七去) 女大学評論-5(義親と実親) 女大学評論-6(夫=主君) 女大学評論-7(義兄弟姉妹と実兄弟姉妹) 女大学評論-8(女の嫉妬心) 女大学評論-9(おしゃべり) 女大学評論-10(女の楽しみ、妻妾) 女大学評論-11(占い) 女大学評論-12(家計) 女大学評論-13(男女の交流) 女大学評論-14(女性の装い) 女大学評論-15(妻の権限) 女大学評論-16(里帰り) 女大学評論-17(妻の役割) 女大学評論-18(使用人の躾) 女大学評論-19(女性の性質) 女大学評論-20(まとめ)
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【女大学・17】 下僕を多く使っていても、すべてのことを自分で辛労を堪えて勤めるのが女の作法である。 舅姑のために着物を縫い食事をととのえ、夫に仕えて衣服を畳み敷物を掃き、子を育て汚れを洗い、常に家の中にいてみだりに外へ出てはならない。【女大学評論・17】 下女、下男を多く使っていても、婦人である者は万事自分からつとめて、舅姑のために着物を縫い食事を整え、夫に仕えて着物を畳み敷物を掃き、子を育てて汚れを洗い、常に家の中にいてみだりに外へ出るなという。婦人は多忙である。 果たしてこれが一人の力でできることか、そのあたりはさておくとしても、とにかく家を治める婦人の心がけとしては非常によい教えである。 体の許す限りは努力するべきであろうが、本文中で耳障りなのは夫に仕えてというその「仕」の字である。 もともと「仕える」とは、君臣主従などという上下の身分で使うもので、下の者が上の者に接する場合に使う字である。 ならば、妻が夫に仕えるというのなら、その夫妻の関係は君臣主従に等しく、妻もまたこれ一種色替りの下女であるとの意味を丸出しにしたものである。私は断じてこれを許さない。 営業は男子の役割であり、一家の中のことを経営するのは妻の役割である。 衣服、飲食を整えて家の清潔に注意し、子供を養育することはすべて人生において大切なことであるから、男子の外の役割と比較した場合、難易軽重があるわけではない。 だからこの家の中の経営を以って妻が夫に仕える作法であるというのなら、夫が外のことにつとめるのは妻に仕える作法であると言わざるを得ない。 男女が結婚して一つ屋根の下に同居し、内外を区別して各々その半分ずつを負担し、苦楽を共にして同じように心身を労するのに、何のためにこれを君臣主従のような関係にしなければならないというのであろうか。ばかばかしいことこの上ない。 もしかすると、戸外の業務は家庭内のことに比べて心労が大きい、また、その仕事の成果も大きいのだから、と言う人がいるかもしれないが、夫が病気になったとき妻が看病するときの心配、苦労は果たして大きくないというのであろうか。 妊娠の十ヶ月の苦しみを経て出産の上、夏の日も冬の夜も、寝食も十分せずに子供を育てるその心労は果たして大きくないというのであろうか。 子供に暑さ寒さに合わせた衣服を着せ、無害の食物を与え、言葉を教え行儀を仕込み、怪我もさせぬように心を配って、成人させるというその成果は果たして大きくないというのであろうか。 要するに、夫婦の仕事に軽重、大小の別などというものは存在しないのが事実であるから、これを争う必要もないのだ。 これを政治の世界で例えて言うならば、妻が家庭内のことを治めるのは内務大臣であり、夫が戸外の経営にあたるのは外務大臣である。 両大臣は共に一国の国事経営を負担する者であるから、その名称に内外の別こそあれ、身分的には軽重がない。 だからつまり女大学の「夫に仕えよ」云々の文は、内務大臣が外務大臣に仕えよと言っているのと同じである。これはおかしなことであろう。 一国において行われないことは一家にも行われるべきでないと認識するがよい。
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【女大学・18】 下女を使うにも心を用いるべきだ。言う甲斐のない下郎は立ち居振る舞いが悪くて知恵がなく、心がねじれていて言う事もはしたない。 夫のことや舅姑小姑のことなど、自分の心に合わないことがあったらみだりに誹り聞かせて、それを却って主人のためと思っている。婦人がもし知恵がなくてこれを信じれば、きっと恨みのもととなる。 もともと夫の家はみな他人だから、恨み背いて恩愛を捨てることも簡単である。用心して、下女の言葉を信じて大切な舅姑小姑の親しみを薄くしてはならない。 もし下女がひどくやかまくて悪い人間ならば、早く追い出すべきだ。このような者は、必ず親類の仲を言い妨げ、家を乱す元となる者だから、恐れるべきだ。 また、卑しき者を使った場合は気に合わないことが多い。それを怒り罵ってもやまないから、せわせわしく腹が立つこと多く、家の中が静かにならない。 欠点があれば折々言い教えて誤りを直すべし。少しの過ちは我慢して怒るべからず。心の中では哀れんでも、外には行動を堅く戒めて怠らぬように使うべきだ。 与え恵むべき事があれば、お金を惜しむべからず。ただし、自分が気に入ったからといって役にも立たない者にみだりに与えるべきでない。【女大学評論・18】 この一章は下女の取り扱い法を教えているものだ。 第一に彼らの言うことを軽々しく信じて、舅姑小姑との親しみを薄くしてはならない、口が軽い者はきっと家族や親類の間に波風を立てるもとになるからすみやかに追い出すべし、卑しい者を使うと自分の意に合わないことが少なくないから、みだりに腹を立てることなくよく教えて使うべし、与え恵むべきことがあれば財を惜しんではならない、但し自分が気に入ったからといってみだりに与えるべきではないという。全て非難すべき点がない。 特に、心の中ではあわれんでも、態度としては行動を堅くして使うべし……の一句は、私も深く同意するところである。
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【女大学・2】 女は容貌よりも心が美しいのがよい。 心の美しくない女は心騒がしく眼恐ろしく、人を怒り言葉が下品で口ばかり人に先立って人を恨み妬み、自分ばかりを誇って人をそしり笑い、人に勝ったような顔をしているのは全て女の道として間違ったことである。 女はただやわらかに従って貞信を心がけ、情け深く静かであるのがよいのだ。【女大学評論・2】 冒頭第一に「女は容貌よりも心が美しいのがよい」とある。 女子の生まれつきの容貌を重んずるのではなく、心の美しいものがよいと書いて文章に力をつけているのはなかなかの技だが、これは単に文章家の技として見るべきものにすぎない。 その後の婦人の悪徳を並べ立てる箇条は字の如くまさに悪徳だが、心騒がしく眼恐ろしく云々、いかにも上流の人間にはあってはならないことであり、必ずしも女の道として間違っているだけではとどまらない。 もちろん男の道としても間違っていることである。心気粗暴、眼光恐ろしく、ややもすれば人に向かって怒り、言語粗野にして悪口を言い、人の上に立とうとして人を恨み妬み、自分ばかりを誇って他人をそしり、人に笑われながら自分の姿をかえりみず得意になっているのは実に下品なふるまいであり、男女にかかわらずそんな不徳は許されるものではない。 人間たるものは和順、貞信、人情深く心静かなのがよい。まことに申し分のない教訓でありそうありたいことだが、この文章においては特にこの教えを婦人のほうへばかり持ち込み、これこれは女の道として間違っている、女の道はかくあるべし、と女ばかりを戒め、女ばかりにすすめるとは全く理解できない。 例えば女は妊娠するのが天性の約束であるために、妊娠中はこれこれこういうことに気をつけるべしと、特に女子に限って教訓を言うのはとてももっともなことだけれども、男女ともにおかしてはならない不徳を書き並べて、男女ともに守らなければならない徳義を示して、女ばかりを責めるとはおかしいのではないか。 犬が人に噛み付いて却って夜の番ができないのは悪い犬であり、能力のない犬である。 この悪い犬の特性を雌犬のほうにばかり話を持ち込んで、雌犬が人に噛み付いて夜の番ができないのはよくない、とばかり言うのはおかしい。雄犬なら悪くても能力がなくてもかまわないというのか。議論片落ちであるといえるだろう。 女大学の作者は有名な大先生であるけれども(貝原益軒だと言われているが根拠はない)、全て支那流で論じているために、どうしても男尊女卑の癖が抜けないようだ。 実際には夜にきちんと番をしないで、ともすれば人を叱り倒して人を虐待するような振る舞いをするのは男子のほうに多いのだが、そこを大目に見過ごして一人だけ女性の不徳をとがめるのは、いわゆる儒教主義のひねくれた見方であるといえよう。
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【新女大学・16】 子供の養育は婦人の専任であるから、たとえ富貴の身分であったとしても自然の理に従って自分の乳を授けるべきである。 病気または健康上の差し支えにより乳母を雇うことになっても、朝夕の注意は決して怠ってはならない。 授乳の時期を過ぎた後も、子供の食生活や衣服に心を配って細かいことまでも見逃さないようにするのは婦人の天職を奉ずることであり、その代理人はいないはずである。 食事や衣服は有形のものだから誰の手から与えても同様であるかのように見えるが、これを与えるについては無形である母の徳が大切であり、その感化力は有形物に優れること百千倍であることを忘れてはならない。 蚕を養うにも家の者が自分でするのと雇い人に任せるのとではその生育に違いがあるという。ましてや自分の産んだ子供についてである。人任せができないのは言わずとも明白であろう。 世の中の婦人の中にはこの道理を知らず、多くの子供を持ちながらその着物のほころびを縫うのは面倒だ、食事の世話は煩わしいということで下女の手に託し、自分は友達との付き合いや物見遊山などにふけって、悠々閑々たる者がいるが、これは気の毒なことである。 もちろん、婦人の遊楽は決して咎めてはならないことである。日頃の憂さを晴らし、養生のためといえば花見をするのもよいだろうし湯治も賛成である。集会や宴席の付き合いも有意義なことであろう。 しかし、外出するにあたって子供を家に残し、夫婦の留守中に下男下女に預け、生まれたばかりの赤ん坊は無理に牛乳で養われるという例もあるようだ。 これはまるで雇い人に任せた蚕のようなものである。その成長がどうなるかは自分で考えればよくわかることだ。 昔の大名や良い家柄の子供に心身が暗弱な者が多かったのも、貴婦人が子を産みながら子を養育する方法を忘れていたためである。この点はよく考えなければならないことである。 私は婦人の外出をやめろとは言わない。むしろ外出をすすめて婦人が活発な人生を送ることを願う者であるが、子供の養育という天職を忘れて浮かれた生活をするようなのは決して許せない。 この点については、西洋流のやりかたに感心させられるものが非常に多い。 また、婦人はその境遇から家にいて家事をつかさどるわけだが、生理や病理について多少の心得がなくてはならない。 家族の病気に手治療などは決してしてはならないことだけれども、急病や怪我などのとき、医者が来るまでの間には頓知や工夫が必要であるが、いたずらにうろたえて病人のために却って害になることも多い。これは用心しなければならない。 たとえば子供が腹痛のときには「例の黒焼きの妙薬がある」などと薬剤学的にはわけのわからぬものを服用させてはならない。 緊急の場合は医者が来るまでに腰湯やパップを使ったり、またはしばらく排便がないといえば浣腸をしたりというような外用の手当ては恐る恐る用心しつつ施してもよいが、内服薬は一切勝手には与えず、ただ医者の来診を待つのがよい。 あるいは高いところから落ちて気絶した者がいた場合は酒か焼酎を飲ませ、または切り傷ならばとりあえず消毒綿を使って縛っておくくらいにして、その他に余計の工夫は無用である。 ある人が剃刀の傷に袂草(袂の隅にたまったゴミ)をつけて血を止めたのはよかったが、その袂草の毒にあたって大きな病気にかかったことがあった。 つまりこれは無学の罪である。くれぐれも心得ておくことだ。 これらのことについては世間に原書もあるし翻訳書もあるから、これを読むのはさして苦労することではない。婦人のためには面白い教養となることであろう。 新女大学メニュー 新女大学-17