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【新女大学・10】 女子が成長して家庭や学校の教育が終了したならば男子と結婚する。 結婚は生涯の一大事であるから、西洋諸国においては男女がお互いに見て択び、 互いに行き来して親しみ、いよいよ決心した後父母に告げ、その同意を得て結婚式を行うという。 この点、日本においては趣が異なっている。 日本では男子、女子のために配偶者を求めるのは父母の責任である。 その男女が年頃に達したならば辛苦してこれを探索し、 ああでもないこうでもないと選んだ結果、いよいよこの人物ならばと父母の間で内決して、 まず本人の意向を問い、本人が父母の決めた人に異存がないと答えたなら、 そこで初めて成立するということになる。 だから、表面から見ると子女の結婚は父母の意であって、 本人はただ結果を仰ぐのみであるかのようにも見えるが、実際にはそのようなことはない。 父母は単なる発案者であり決議者ではない。 これを本人に告げて可否を問い、もし「この人ではだめ」ということならば強いることはできない。 この場合はただちに白紙に戻し、また別の人物を探索するのだから、 外国人などが日本流の結婚を見て「父母が決めてしまうのか」と言うのは、 実際を知らない者の言うことであるから取るに足らない。 たとえば封建時代に武家は百姓や町人を斬り棄てると言いながらも実際には斬り棄てた者がないように、 そう言われているだけで習慣として実際には許されないことである。 ただし、世の中は広く、実の父母が金銭のために娘を売ることさえあるくらいだから 所謂親の威光を以って娘に嫁入りを強いる者もいるだろう。 これは昔の馬鹿侍が酔狂に道端の小民を手打ちにするのと同様、 情け知らずの非人として世間の人から顰蹙を買い排斥されるべきものであるが、 実際にはこういう者がいないというわけではない。 そういう極端な例を除いて、概していえば、日本における結婚でも女子に大きな不平はないといってよいだろう。 新女大学メニュー 新女大学-11
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【女大学・4】 婦人は夫の家を自分の家とするわけだから、中国では嫁入りすることを「帰る」と言う。 たとえ夫の家が貧しくても夫を恨むことなく、天から自分に与えられた運命であると認識し、一度嫁入りしたらその家を出ないことが女の道であるというのが昔の聖人の教えである。 もしその女の道に背き、婚家を去るならば一生の恥である。婦人には七去といって、悪いことが7つある。1、舅姑に従わざる女は去るべし。2、子なき女は去るべし。妻をめとるのは子孫相続のためだからだ。しかし婦人の心が正しく、行儀よくして妬む心がなければ、去らなくとも同姓の子を養うべし。 3、淫乱ならば去る。4、嫉妬深ければ去る。5、癩病などの悪い病気があれば去る。6、おしゃべりで慎みなく、物言いすぎるは親類とも仲悪くなり、家が乱れるから去るべし。 7、物を盗む心あるは去る。 この「七去」はみな聖人の教えである。女は一度嫁に入ってからその家を出された場合、たとえ富貴なる夫と再婚したとしても女の道にはずれることとなり、大いなる恥である。【女大学評論・4】 男子が養子に行くのも女子が嫁入りするのも、その事実は少しも違うことがない。養子は養家を自分の家とし、嫁は夫の家を自分の家とする。 当然のことであるが、その家の貧富貴賎、その人の才能のあるなし徳のあるなし、その体の強さ弱さ、その容貌の醜美にいたるまで、よく吟味するのは全て婚約の前にすることだ。 裏に表に手を尽くして吟味に吟味を重ね、双方ともに「この人ならば」と決断していよいよ結婚した場合、家の貧乏などを離縁の口実にしてならないことは女の道であるに限らず、また男の道として守らなければならないことである。 最近の男子の中には往々にしてこの道を知らない。 幼いときから他人の家に養われて衣食はもちろん、学校教育のことにいたるまでも、一切養家の世話に預かり、年頃になってからその家の娘と結婚する者がいるが、養父母はまずこれにて安心と思いのほか、この養子が立派に成長して一人前になって社会に頭角をあらわすと同時に、養家の窮屈なのを嫌って離縁復籍を申し出て、ひどい者になると結婚した妻を捨てて実家に帰るか、または独立して第二の妻をめとり、意気揚々顔色しゃあしゃあとして恥じることのない者がいる。 不義理不人情、恩を知らない人にあらずの者であるけれども、世間にこれをとがめる人がいないのはおかしなことである。 広い世の中にはずいぶん悪い婦人もいるものだが、その挙動を見聞きして嫌う人はいるけれども、男性と女性を比べてみればそういった悪人は男子のほうに多いのである。このあたりを見ると私は「女大学」よりも「男大学」の必要性を感じるくらいだ。婦人に七去という離縁の理由を記しているが、1、舅姑に従わざる女は去るべしとある。 婦人の性格が粗野で根性が悪く、夫の父母に対して礼儀がなく不人情ならば離縁もしかるべきだ。2、子なき女は去るべし。とある。実にいわれもなき口実である。 夫婦の間に子がない原因が男子にあるか女子にあるか、それは生理上解剖上精神上病理上の問題であり、今日進歩している医学もなおいまだその真実を断言できるわけではない。 夫婦が同居して子供のできなかった婦人が偶然に再婚して子供を産むことがある。みだらな男子が妾など何人もいながらついに一人もできなかったという例がある。 これらの事実もわきまえず、この女には子ができないと断定するのはつまり無学の憶測であるといえる。 子なきを理由に離縁するといえば、家に婿養子をとった場合の配偶者の娘が子供を産まないとき、子供のできない男は去るべしとして養子を追い出さなければならないわけだ。 だからこの一説は女大学の作者もよほど勘弁したのか最後に文章を足し、婦人の心が正しければ子がいなくても去らなくてもよいと記したのは、さすがにこの離縁の法に無理があることを自覚したためであろう。 また、妾に子があれば妻に子がなくても去らなくてよいとはもともと余計な文章であり、何のために記したのか理解できない。 推測するに、本文の始めに子なき女は去るべしとまず宣言して、文章の末に至ったとき、妾に子があれば去らなくてよいと書いたのは男子に妾をとる余地を与えて、暗々に妻をもって自分の地位を固くしようとするため、妾をとることの悪さに言及することなく、かえってこれを夫にすすめているのではないかと深読せざるを得ない。 また実際、古くから大名などが妾をとるとき、奥方からすすめられることがある。男子が醜悪をさらしながらその罪を妻に分かつとは陰険であること甚だしい。女大学の毒筆には力があるのである。3、淫乱ならば去れという。 わが国日本において、古来から今に至るまで男子と女子のどちらが淫乱であろうか。 その淫乱の深浅厚薄はさておくとしても、淫乱を実際にたくましく実行するのは男子に多いか女子に多いかは詮索に及ばず明白である。 もし男女が同様に淫乱であれば離縁される、とあれば、男子で離縁を言い渡される者は女子に比べたら大多数となるであろう。これもまた方角違いの教えである。4、嫉妬深ければ去れという。これもまた理解しがたい教えである。 夫婦が同居しての夫の不品行は、取りも直さず妻を虐待することである。 共白髪を誓ったはずの妻がこれを争うのは正当防御、あるいは誤ってのことである。これを称して嫉妬深いというのか。これは離縁の理由とするに足らないことである。5、らい病のような悪しき病があれば去れという。根拠のないこと甚だしい。 らい病は伝染性にて、しかたなく犯されることがある。もともと本人の罪によるものではない。 それを婦人が不幸にして悪しき病にかかったのを以って離縁とは何事か。かりそめにも夫としての人情があれば、離縁はさておき手厚く看病して、たとえ全快に至らなくてもその軽快を祈ることが人間の道であろう。 もし、妻の不幸に反して夫がらい病にかかったらどうするというのであろう。妻はこれを見捨ててさっさと家を出なければならないというか。私は甚だ不同意である。いや、作者先生もおそらく不同意ではないのか。 「孝婦伝」などを見れば何々女は貞操無比、夫の悪しき病を看護して何十年一日のごとし云々と称賛しているものが多い。 先生もおそらく称賛者の一人であることは疑いのないことである。それならば悪疾の妻には会釈もなく離縁しながら、夫に悪疾あれば妻に命じて看病しろというのか。ますます理解できないことである。6、おしゃべりで慎みない云々は去れという。これは漠然として取り留めのないことである。 要するに婦人がおしゃべりだと自然に親類との付き合いも丸くいかなくなり、家に波風を起こすから離縁しろとの趣意であろうが、多言寡言には一定の標準を定めることなど難しい。 ある人にはおしゃべりであると聞こえてもまたある人にはおとなしいと聞こえることもあるし、その反対もある。たとえおしゃべりでも、わずかにこの一点を根拠にして容易に離縁とは納得できない。7、物を盗む心あれば去れという。 物を盗むにも軽重がある。ただこれだけのことで離縁の当否を判断できるとは思えない。民法の親族編などを参考にして決めたほうがよい。 以上、1~7にについてはいろいろと文句はあるけれども、つまり婦人の権力を取り縮めて自由をなくし、男子には思い通りに妻を去らせる権利を持たせようとしているというほかはない。 「女大学」は古来から女子社会のバイブルであると崇められ、一般の教育に用いて女子を戒めるのみならず、女子がこの教えに従って萎縮すればするほど男子のために便利であるがゆえ、男子のほうがかえって女大学の趣意を唱えて自分の我が儘をほしいままにしようとすることが多い。 ある地方の好色の男子が常に不品行を働き、妻の苦情に我慢できず、一策を案じて妻をキリスト教会に入会させたという。その目的はただ女性の嫉妬心を和らげて自分の獣行をたくましくしようとの計略であったから、妻の苦情がついにおさまることがなくて失望したとのおかしな話がある。 この世の中の男子に女大学の主義を云々するのは、多くはこういった好色の男子のすることで、我田引水といわざるをえない。女子は油断禁物である。 さて、女大学の離縁法は以上に記したる七去であるが、民法親族編第812(3)条に、夫婦の一方は以下の場合に限り離婚の訴を提起することができると書かれている。1、配偶者が重婚を為したるとき2、妻が姦通を為したるとき3、夫が姦淫罪に因りて刑に処せられたとき4、配偶者が偽造、賄賂、猥褻、窃盗、強盗、詐欺取財、受寄(財)物費消、贓物に関する罪若しくは刑法第175・260条に掲げたる罪に因りて軽罪以上の刑に処せられまたはその他の罪に因りて重禁錮3年以上の刑に処せられたるとき 5、配偶者より同居に堪えざる虐待または重大なる侮辱を受けたるとき 6、配偶者より悪意を以って遺棄せられたるとき7、配偶者の直系尊属より虐待または重大なる侮辱を受けたるとき 8、配偶者が自己の直系尊属に対して虐待を為しまたは(これに)重大なる侮辱を加えたるとき 9、配偶者の生死が3年以上明ならざるとき10、婿養子縁組の場合において離縁ありたるときまたは養子が家女と婚姻を為したる場合において離縁若しくは縁組の取り消しありたるとき これは今日わが国民一般が守るべき法律で離縁が許されるのは以上の10箇条に限るということであり、その他はいかなる場合においても双方の相談合意がなくては離縁することができないということだ。 三行半の離縁状などは昔の物語であり、今日は全く別世界であると思わなくてはならない。 だから女大学七去の箇条中、1、舅姑に順ならざるの文字を尊属虐待侮辱などの意味に解釈すれば離縁の理由になるかもしれないが、その他はどれ一つとして民法にあてはまるものがないようだ。法律に当てはまらない離縁法を世に公にするのは人に誤解を与える恐れがある。 例えば国民の私裁復讐は法律では許されないことである。だから今新たに書物を書いて「盗賊または乱暴者あればこれをとりおさえた上で打つなり斬るなり思う存分に懲らしめてよい。親の敵は政府の手を煩わすに及ばない。孝子の義務としてこれを討ち取るがよい。曾我の五郎十郎こそ千載の誉れである。末代までの手本となれ。」などと書き立てて出版したとしたら、発売を禁止されるかもしれない。なぜかといえばこれは現行の法律の旨に背くことだからである。 これも小説物語の戯作ならばまあ発売禁止にならなくてすむかもしれないが、家庭の教育書、学校の教科書としては異論が出ること必須である。 女大学は小説でもなく、戯作でもなく、女子教育のバイブルとして、地方では今なお崇拝されるものでありながら、そのバイブルの中に書いてある内容は明らかに現行の法律に背いているものが多い。 それが人々に与える影響は大きく、人々を誤解させて法の上での罪人にさせてしまうことにもなりかねない。教育家はもちろん政府においても注意しなければならないことである。
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【女大学・16】 女は自分の親の家を継がず、舅姑の跡を継ぐのだから、自分の親よりも舅姑を大切に思い、孝行をしなくてはならぬ。 嫁に入った後は自分の親の家に行くのも稀なことにするべきだ。 ましてや他の家へは、おおかたは使いを遣わして安否を尋ねること。また自分の故郷のよいことを自慢して褒め語ってはならない。【女大学評論・16】 女は自分の親の家を継がず、舅姑の跡を継ぐから云々とある。 これも前に書いたとおり、婿養子を迎えた家の娘は親の家を継ぐのである。他の家に嫁いで舅姑の跡を継ぐ者と、生まれた家に居座って父母の跡を継ぐ者と、両方いるのである。これに気づかないのは、女大学の作者の全くの手落ちであるといえるだろう。 まあ、そんな手落ちのことはさておくとしても、自分の親よりも舅姑を大切に思い孝行せよとは、人情の実際においてできないことである。もし無理に強いれば虚偽となる。教育家の注意すべきことである。 また、嫁いだ後はめったに実家に行くなという。他の家に対しても自分からはあまり行かずに使いを遣わせて安否をたずねよという。これも無用の注意であろう。 女子が結婚すると家事に忙しくて、特に子供などが生まれると外出は自然と億劫になるけれども、父母を親しみ慕うのは人間の自然な情であって、決して悪いことではない。家事の都合がつくならば、忘れぬようにちょくちょく里の家をたずねて両親の機嫌を伺い、一緒に食事などをして楽しむがよい。 他人と付き合うのもこの通りで、自分の家を大事に治めたなら、暇なときには自分からその相手の家をたずねて自由に行き来するがよい。 「嫁入り」は「入牢」ではないのだから、憚ることはない。 また、実家の親を誇ってほめ語るなとは念入りな注意だ。確かに、いたずらに我が身内の美を吹聴することは、婦人に限らず誰でも慎むべきことである。
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【女大学・20】 以上の条文は幼いときからよく教えるべし。また書き付けて折々読ませることを忘れてはならない。現在の世の人は、女に衣服道具など多く与えて婚姻させるよりも、この条文を十分に教えることが一生身を保つ宝となるだろう。 昔の言葉に「人は100万銭を出して娘を嫁がせることは知っていても、10万銭を出して子を教育することは知らない」というのがある。 これは本当にその通りだ。女子の親である人はこの真理を知らなければならない。【女大学評論・20】 最後に、以上のことは幼いときからよく教えろ云々、現代の人は女子に衣服、道具など多く与えて結婚させるよりもこの教えを云々、昔の言葉に人はよく100万銭を出して女子を嫁に出すことは知っていても10万銭を出して子供を教えることを知らないといい、女子の親である人はこの理屈を知らないでいてはだめだと。 以上19条の結論は親切な教えである。 私も女大学作者の誠意を非難はしないが、女大学が書かれてから200年余りもたった今日において、人智の進歩、時勢の変遷を視察し、既往の事実に徴して将来の幸福を求めようとするときには、必ずしも昔の人の教えに服従することはない。あえて反対を試みてもかまわないのである。 そもそも、昔、封建門閥の時代に政治をはじめとして人間を万事圧制して組織していた世の中では、男女の関係も自然と世の中の風潮に従って、男子は君主のごとく、女子は臣下のごとく、その尊卑は区別があった。 それと同時に君主である男子は貴賎、貧富、身分の違いがあっても、婦人の前ではまるで時の将軍大将のように傍若無人な態度を取り、婦人を冷遇したり無視したりするだけではなく、ひどい者になると淫乱しまくり、配偶者を虐待、侮蔑する者もいたが、世間にはこれを咎める者もいなかった。かえってその虐待、侮蔑の下にひれ伏し従う者を賢婦貞女と称していた。 その風潮は上流社会でも下流社会でも同様で、嫉妬は婦人の敗徳であると教えれば下流社会もこれを聞き習い、やきもちは女の恥などと唱えて、あえて自分から結婚契約の権利を放棄して苦欝の淵に沈んでいた。 そればかりか、男子の狂乱が子孫に悪影響を与えることをを棚に上げ、こういった弊害を知らないのは奇怪なことである。 ただ驚くべきことだが、社会圧制が久しいものとなるとそれは国民一般の習慣を形成して人々に浸透していった。 政治上では君々たらざるも臣々たらざるを得ずというに等しく、婦人の道は柔和忍辱、盲従して、夫々たらざるも妻々たざるを得ずとして、もっぱらその一方の教えに力をこめて、自分を封建社会の秩序に適応させ、また、間接的にその秩序が成り立つのを手助けしていたような・・・そんな特別な時勢の中で執筆された女大学なのだから、その内容は現代から見ればこそ奇怪なものと思えるが、その当時は決しておかしいものではなかった。 弓矢鎗剣は今の軍器としては無用の長物であり、ただ一種の玩具であるが、昔は一本の鎗で三軍の成敗を決したこともあった。昔は利器であったが、今は玩具である。 このような今と昔の相違を名づけて「人智の進歩」「時勢の変遷」という。学者は特にこれに注意すべきである。 私は女大学を女子教訓における弓矢鎗剣と認識する。 現代となっては少しも重要な内容ではないし、その内容の是非についてはさておき、女大学の作者が女子を教えるということの必要を説くことの、その熱心さについてはただ感服するほかはない。 よって、今、私の腹案としてある女子教育説の大意を次に記し、これを「新女大学」として、今は亡き女大学の作者に提示しようと思う。 作者先生も200年の変遷を見て、もしかしたら首肯されることがあるだろう。女大学評論終。
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【女大学・11】 巫女などの言いぐさに迷って、神仏を汚し近づきみだりに祈ってはならない。 人間の勤めをよくするときは祈らなくても神仏は守ってくださるだろう。 【女大学総論・11】 巫女などの言うことに迷って神仏を汚し、みだりに祈るべきでないというのは私も同感である。 およそ、その迷いは不学無術から起きることである。 もし、今日の男子と女子で比べてどちらがこれに迷う者が多いかと尋ねて、女子に多いというならば、それは女子の 教育が足りないためである。 だから私は彼女たちが迷信を信じるのをとがめるのではなく、 その原因である無学を除くために文明の教育をすすめるのである。
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【女大学・6】 婦人には特別な主君がない。夫を主人と思い敬い慎みて仕えるべきだ。軽んじて侮ってはならない。 総じて婦人の道は人に従うにあり、夫に対するには顔色言葉使い慇懃にへりくだって、素直に従うことである。おごって無礼であってはならない。これが女子第一の務めである。 夫からの教訓があればその仰せに背いてはならない。疑わしきことは夫に問うてその指揮に従わなくてはならない。夫から問われたならば正しく答えなくてはならない。その返答がおろそかになるのは無礼である。 夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従わなければならぬ。怒り争いてその心に逆らってはならない。 女は夫をもって天とするのだから、返すがえすも夫に逆らって天の罰を受けるべきでない。 【女大学評論・6】 婦人には主君がないという。この主君とはそもそも何者であろうか。 女大学の作者は封建時代の人であるから、何事においても全てその時代の有様を見て立論しているから、君臣主従とは藩主と士族との関係のことをさしているのであろうか。士族たる男子には藩の公務があるけれども妻はただ家の中にいるがためにに婦人には主君がないと言い放っているのであろうか。 もしそうであれば、百姓や町人は男子でも藩務に関係がないのだから男女ともに主君がないと言わなければならない。これは不都合な言い方である。 もしかすると、百姓は年貢を納め、町人は税金を払うわけで、これもお国のためにすることだから、やはり主君がいると言う人がいるかもしれない。 それならば、その年貢なり税金は男子だけが働いた結果ではない。男女が共に力を合わせて公用を勤めた結果であるのだから、そのうちの女だけが主君につかえていないというのは不都合な言い方である。 結局、風権流儀の考え方で婦人に主君なしなどと言うのはそれ自体矛盾に満ちた荒唐無稽の言い草であると言わねばなるまい。 まあ、それは枝葉末節の議論であろうから、さておくとして本質的な問題はその先にある。 婦人が夫を軽んじたり侮ったりしてはならない、というのはまことにもっともな教えで、確かに守らなければならないことだろう。 しかし、よく考えてみれば、現在の男女の間柄においてこの慎み敬うということに関しては、その弊害の大きいものを矯正しようとするなら、私としてはむしろ夫のほうをより強く戒めたいと思うのだ。 だいたい、男というものは、とにかく粗野で慎みのない性質を持っているものだから、この教訓は確かに男たちに向かって諭したほうがよろしい。もともと婦人は物事に対して繊細な神経を持っていて、男子に比べるとものに感じやすいのだ。 そこで、世間の夫たちの行状を観察すれば、とにかく無礼無作法粗野暴言を吐き散らし、威張り散らして、家人を驚かせて家庭の調和を破ることが多い。 ならば、慎み、敬い、ということを心して暮らすべきなのは、男子第一の務めであると言わねばならないだろう。 つぎに「夫からの教訓があればその仰せに背いてはならない。疑わしきことは夫に問うてその指揮に従わなくてはならない。夫から問われたならば正しく答えなくてはならない。その返答がおろそかになるのは無礼である。夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従わなければならぬ。怒り争いてその心に逆らってはならない。」などと言っている。 これはもしその夫が知徳円満な君子人であれば確かにその教訓に従って、または何でも疑わしいことがあったら質問して教えを乞うべきであることにも一理はあるが、これらはその夫の人物いかんによることである。 単に夫だからといってわけもわからない無法なことを命令されてそれに盲従するなどというのは、妻たる者の道ではない。 ましてやその夫が立腹し癇癪を起こして乱暴をするなどというのは言語道断である。少しもそんな者に従うべき道理がない。そういうときは、まともに相手にして妻も一緒に争ってはならない。 まずは、これは病気なのだ、発作なのだと見放してとにかくその場をなんとかすかしたりおだてたりしておさめておき、あとで正気になったときを見計らってよく妻のほうから夫を教訓するというのがやむを得ぬ処置である。 しかし、その無法な夫が立腹している事柄の理非曲直を問うことなくして、ただもう夫だから従えなどというのは、あきれた暴言である。そんなことが通るとすれば、まさに婦人は男子の奴隷にすぎないということになる。 最後の一段に「女は夫を以って天とする」云々とあるが、もう何を言ったらいいのか。まじめに批評する気にもなれない。 もし妻が夫をを天とあがめよというのなら、夫は妻を神として崇敬するべきだ。 妻が夫に逆らって天罰を受けるなというのなら、反対に妻を虐待して神罰を被ることなかれと私はぜひ言っておきたいのである。
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【新女大学・14】字の如く舅姑は舅姑であり、嫁は嫁である。 もともと親でもなく子でもないのだから、その親子でないこその真実の実際における 和合のしかたを講じるのが人情の本来の姿であろう。 これは私の特に注意することである。 近づけばさらに近づき、遠ざけてもなおますます近づこうとするのが夫婦の間であるが、 近づけば常に衝突し、遠ざければ却って近づくのが舅姑と嫁との間である。 そのため、女子が結婚したときは夫婦共に父母を離れて別に新家を設けるのが一番良いのだが、 結婚のありかたは一様ではなく、家の貧富や職業の事情も違うから、 結婚したからといって必ず別の門戸をつくることがなかなか難しいこともあるだろう。 しかし、新夫婦はせめて親世帯と台所を別にしたほうがよいと私はあくまでも主張する。 例えば家を相続する男子に嫁を貰うか、または娘が婿養子を迎える場合でも、 新夫婦と親夫婦は一家に同居せず、片方は近隣なり または敷地内の別戸なり、またあるいは家計が許さないならば 同じ屋根の下でも一切の世帯を別々にして、つまりは新夫婦と 親夫婦の接点を少なくすることが非常に大切なことである。 新婦にとっての老夫婦は血のつながりのある父母ではないのに加え、 世代も違い、衣服、飲食などありとあらゆることにおいて考えや嗜好が違うのは当然のことであり、 その違う者同士が互いに触れ合うときには衝突するのが運命なのである。 これでは家が双方の感情を害する媒体になってしまう。 それに対し、互いに遠く離れて互いに見ていても見ないふりを して、互いに家庭内の秘密に立ち入らないようにすれば、 新世帯も親世帯も独立した家計での自由な生活を得ることができる。それだけではない。 遠ざかるからこそ互いの心が近づき、遠めに見るからこそ憎しみ合うこともなく、 舅姑と嫁との間も知らず知らずのうちに和合して、 家庭の団欒を守ることができるのである。 つまり、このことによって新夫婦はますます互いにひかれ合い、親夫婦とは衝突しないように避けて遠く離れてこそ互いにひかれあうということである。 世間では無数の老人夫婦が息子に嫁を迎えたり娘に養子を貰ったりしている。 無理に同じ屋根の下に同居して衝突を起せば 「これほど手近いところで優しく世話してやっているのに不平をいうとは何事だ」 などと愚痴を漏らす者が多い。 このような話はよく聞くことだが、その手近いところで優しくお世話される、 ということこそが苦痛の種なのであるとなぜわからないのだろうか。 結局これは人の罪ではなく、悪い習慣のせいである。 新旧の夫婦が共に自分たちで不愉快だと知りながら、近く接して自分たちで苦しんでいる。 人生のありかたとしては最もばかばかしいものといってよいであろう。 新女大学メニュー 新女大学-15
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【新女大学・12】女子の結婚は男子と同様、他の家に嫁入りする者もあり、実家にとどまって婿養子を迎える者もあり、 あるいは男女共に実家を離れて新家をおこす者もある。 その事情はどうであっても、結婚した以上は夫婦は共白髪まで、苦楽を共にするという契約を守り、 かりそめにも背いてはならない。 女子が生涯独身であればその身は却って気楽なものだが、それではすまないということで結婚するのはある意味苦労の種を自ら求めるようなものであるともいえるが、 男女が家庭を共にするのはこの世のさだめであるから、その家庭の楽しみは苦しみを償ってあまりあるものである。 結婚は独身時代の苦楽がそれぞれ倍になるのが運命である。 快楽も大きい代わりに苦労もまた多い。 夫婦はまさしく一身同体である。 妻が病気のときには夫の身をも苦しめ、 夫の恥辱のときには妻の心を痛ましめ、その感じるところにはほんのわずかの違いもない。 世の中の男女の中にはこういった苦労の道を知らずに、結婚はただ快楽の一方のみと思って、 苦労がこれに伴うのを忘れて、男子が老いた妻を棄てて妾をつくり、 婦人が家の貧苦を嫌って夫を置き去りにするなどの怪事がある。 つまり、結婚の契約を重んじない非人である。慎むべきことである。 新女大学メニュー 新女大学-13
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【新女大学・4】 女子がさらに成長すれば文字を教え、針持つ術を習わせ、次第に進んで手紙の書き方、算盤の一通りを授けて、日常の衣服を仕立て、家計の出納を帳簿に記して勘定ができるまでにするのがよいが、これは決して簡単なことではない。 父母は心して教えるべきことである。 また、台所での作業全般はもともと女子が知っておくべきことであるから、たとえ下男下女を大勢使う身分であっても、飯の炊き方はもちろん、料理献立、塩や味噌の始末に至るまでも事細かに心得ておくべきだ。 自分で直接手を下すわけでなくても、一家の世帯はそういった内容を全く知らずには維持できないのだから、娘時代からこれに慣れておくのは大切であると知っておくべきである。 新女大学メニュー 新女大学-5