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《書 誌》 提供 TKC 【文献番号】 28055209 【文献種別】 判決/札幌高等裁判所(控訴審) 【裁判年月日】 平成12年 3月16日 【事件番号】 平成11年(う)第59号 【事件名】 傷害致死(変更後の訴因傷害致死幇助)被告事件 【審級関係】 第一審 28045242 釧路地方裁判所 平成9年(わ)第184号 平成11年 2月12日 判決 【事案の概要】 被告人は、親権者兼監護者としてD等に対するAのせっかんを制止してDらを保護すべき立場にあったところ、Aが、本件傷害致死を行った際、直ちにこれを制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易にDを保護することができたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もってAの本件傷害致死を容易にしてこれを幇助した、として起訴されたが、無罪が言い渡されたため、検察官が控訴した事案において、被告人は、Aの暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえない等として、原判決を破棄し、懲役2年6月を言い渡した事例。 【判示事項】 〔高等裁判所刑事裁判速報集〕 内縁の夫の幼児虐待を制止しなかった被告人の行為が、傷害致死罪の不作為による幇助に該当するとして、これらを否定して無罪とした原判決を破棄し、懲役2年6月、執行猶予4年を言い渡した事例 〔判例タイムズ(判例タイムズ社)〕 被告人が親権者である3歳の子供を同棲中の男性が暴行によりせっかん死させた事案において、被告人は右暴行を制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易に子供を保護できたのに、その措置を採ることなくことさら放置したとする傷害致死幇助罪の公訴事実について、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないなどとして無罪とした原判決を破棄した事例 【要旨】 〔高等裁判所刑事裁判速報集〕 被告人の行為は、同人の作為義務の程度が極めて強度であり、比較的容易なものを含む一定の作為により可能であったことにかんがみると、作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきであって、不作為による幇助犯の成立要件に該当する。 【裁判結果】 破棄自判 【上訴等】 確定 【裁判官】 近江清勝 渡辺壮 嶋原文雄 【掲載文献】 判例時報1711号170頁 判例タイムズ1044号263頁 高等裁判所刑事裁判速報集(平12)号227頁 【参照法令】 刑事訴訟法397条 刑事訴訟法380条 刑事訴訟法382条 刑事訴訟法400条 刑法62条 刑法205条 【評釈等所在情報】 〔日本評論社〕 門田成人・法学セミナー550号 不作為による幇助の成立要件 中森喜彦・現代刑事法3巻9号 傷害致死行為に対する不作為による幇助の成立を認めた事例 橋本正博・ジュリスト臨時増刊1202号148頁 不作為による幇助――作為義務を肯定した事例 大矢武史・朝日大学大学院法学研究論集4号83頁 内縁の夫による自己の子供に対する虐待行為を阻止しなかった被告人に,無罪を言い渡した第一審判決を破棄して,傷害致死幇助罪の成立を認めた事例 大塚裕史・別冊ジュリスト189号172頁 〔刑法判例百選1 第6版〕不作為による幇助 齊藤彰子・別冊ジュリスト166号166頁 〔刑法判例百選1 第5版〕不作為による幇助 《全 文》【文献番号】28055209 傷害致死(変更後の訴因 傷害致死幇助)被告事件 札幌高裁平一一(う)五九号 平12・3・16刑事部判決 主 文 原判決を破棄する。 被告人を懲役二年六月に処する。 原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。 理 由 本件控訴の趣意は、検察官佐藤孝明作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人古山忠作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。 論旨は、要するに、「被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚したAと同棲を再開するに際し、自己が親権者となっていたC及びD(当時三歳)を連れてAと内縁関係に入ったが、その後、AがDらにせっかんを繰り返すようになったのであるから、親権者兼監護者としてDらに対するAのせっかんを制止してDらを保護すべき立場にあったところ、Aが、同年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南《番地略》所在の甲野マンション一号室(以下「甲野マンション」という。)において、Dに対し、顔面、頭部を平手及び手拳で多数回殴打し、転倒させるなどの暴行(以下「本件せっかん」という。)を加えて、Dに硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市内の市立釧路総合病院において、Dを右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行(以下「本件傷害致死」という。)を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、甲野マンションにおいて、Aが本件せっかんを開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちにこれを制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易にDを保護することができたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もってAの本件傷害致死を容易にしてこれを幇助した。」旨の訴因変更後の公訴事実に対し、原判決は、不作為による幇助犯の成立要件として「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらずこれを放置したこと」を掲げ、被告人に具体的に要求される作為の内容として、Aの暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定した上で、被告人が、AのDへの暴行を実力により阻止しようとした場合には、負傷していた相当の可能性があったほか、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあり、被告人がAの暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったことにかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないとして、被告人に無罪を言い渡したが、(一)関係証拠によれば、被告人は、Aへの強い愛情や肉体的執着から、Aに嫌われることを恐れ、Aの機嫌をうかがう余り、AがDらに暴力を振るっても、見て見ぬ振りをしていたことが認められ、Aの暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったものとはいえない上、(二)不作為による幇助犯が成立するには、不作為によって正犯の実行行為を容易ならしめれば足り、その不作為が正犯の実行に不可欠であることや、作為に出ることにより確実に正犯の実行を阻止し得ることを要しないというべきであり,被告人に具体的に要求される作為は、Aの暴行を実力をもって阻止する行為に限られるものではないから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認及び法令適用の誤りがある、というのである。 そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討する。 第一 本件において認められる事実について 原審で取り調べられた関係証拠によれば、本件においては、要旨次のような事実が認められる。 一 被告人とAが知り合った経緯等 1 被告人は、平成四年八月二七日、Bと婚姻し、Bとの間に、平成五年三月二七日、長男Cを、平成六年五月二八日、二男Dをもうけたが、その後、Bと不仲になり、平成七年九月ころからC及びDを連れて別居し、同年一二月一八日、Bと協議離婚し、C及びDの親権者となり、二人を引き取った。 2 被告人は、釧路市内のスナックで働いていた平成八年三月ころ、客として来店したAと親しくなり、同月二一日ころ、Aと朝まで飲み歩き、そのままドライブに出かけた後、自らAに同居を申し出、翌二二日ころから、Aが当時住んでいた同市昭和北三丁目のアパート(以下「昭和北のアパート」という。)で、C及びDを連れてAと同棲するようになり、勤めていたスナックも辞めた。 二 昭和北のアパートでの生活状況及びAと婚姻した経緯等 1 被告人は、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころ、帰宅が遅くなったことなどから、Aと口論になり、その際、反抗的な態度をとったことに激昂したAから、マイナスドライバーの先端を首筋に当てられ、赤い痕が残るほど力を込めて押し付けられるなどの暴行を受けた。 2 被告人は、同年八月ころ、Aと口論になった際、かみそりで手首を切って自殺しようとしたところ、それに気付いたAからかみそりを取上げられ、手拳や平手で顔面や肩を多数回殴打されるなどの暴行を受けた。 3 被告人は、昭和北のアパートに居住していた当時、このほかにもAから暴行を受けたことが何度かあったが、その都度、暴行を受けた数日後にAの留守を見計らって釧路市内の実母方に逃げ、しばらくすると、Aから、戻るように優しく言われ、子供を可愛がり、暴力は振るわないなどと約束されて、再びよりを戻すということを三、四回繰り返していた。 4 被告人は、その間の平成八年六月ころ、Aの子を妊娠したことを知り、同年七月二日、Aと婚姻し、また、Aは、同年一〇月三日、C及びDと養子縁組をし、被告人とAとの間には、平成九年一月二二日、長女F子が生まれた。 5 Aは、昭和北のアパートに居住していた当時、CやDの食事の行儀が悪いときなどに、しつけ程度に二人の頬を平手で殴打していたほか、立たせたり、正座させたりしていた。 6 Aは、被告人と同棲を始めたころ、鳶職人として働き、月収約二〇万円を得、生活も安定していたが、平成八年八月ころ鳶職を辞め、同年一〇月ころからは職を転々とするようになり、全く仕事をしないときもあって、生活が不安定になった。 三 Aと離婚した経緯及び星が浦のアパートでの生活状況等 1 被告人は、平成九年二月ころ、Aに暴力を振るわれたことから、Aの留守を見計らい、三人の子供を連れて実母方に逃げ、その後、実母から強く言われたこともあって離婚を決意し、Aもこれに応じたことから、同年三月六日、C及びDの親権者を被告人として協議離婚した。しかし、その数日後、Aから、前同様に優しく言われてよりを戻すこととなり、当時Aが昭和北のアパートを引き払って釧路市星が浦大通のアパート(以下「星が浦のアパート」という。)に住んでいたことから、同所で、三人の子供とともにAとの同棲生活を再開した。 2 被告人は、同年五月ころ、Aと口論となり、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをしたところ、激昂したAから、両肩と両腿を手拳で殴打され、更に手や足を殴打するなどの暴行を執拗に加えられ、手足が腫れ上がって歩行も困難な状態となった。 3 Aは、星が浦のアパートに居住していた当時、CやDの食事の行儀が悪いときなどに、二人の頬を平手で殴打するなどしていた。 四 材木町のアパートでの生活状況等 1 被告人は、前記三の2の暴行を受けた数日後、今度こそAと別れようと決心し、Aの留守を見計らって実母方に逃げたところ、実母からAと別れるよう強く言われ、今度Aの所に戻れば親子の縁を切るとまで言われた。そして、子供達との独立した生活をするため、生活保護の受給手続を進めるとともに、釧路郡釧路町豊美にアパートを見付け、平成九年六月初めころ、同所に転居することとなった。 2 被告人は、右アパートヘの引っ越しの当日、突如現れたAから、前同様に優しく言われ、「やくざの卵売りの仕事だが、仕事も決まった。」などと言われて、またもAとやり直すことにし、翌日ころには二人で釧路市材木町のアパート(以下「材木町のアパート」という。)を新たに借り、同所で、三人の子供とともにAと同棲生活を再開した。なお、Aは、同年六月六日、C及びDと協議離縁している。 3 Aは、同月初めころから、暴力団の関与する川上郡弟子屈町硫黄山での蒸し卵売りの仕事を手伝うようになり、これをしている間、半月ごとに約一五万円の手当を得ており、被告人らは、安定した生活を送り、また、Aが被告人やC及びDに暴力を振るうこともなくなった。なお、被告人は、同年七月ころ、Aとの間の第二子を懐妊したことに気付き、Aにもその旨伝えた。 4 Aは、暴力団関係者との人間関係の悩みなどから、蒸し卵売りの仕事に嫌気がさし、同年一〇月一日、世話になっていた暴力団組長方に置き手紙をして仕事を辞めてしまい、材木町のアパートも引き払って、被告人及び三人の子供とともに北海道内各地を自動車で転々とした後、同月一〇日過ぎころから、川上郡標茶町のAの実家に身を寄せた。 5 Aは、実家に身を寄せるようになってから、CやDを長時間正座させたり、起立させ、平手や手拳で殴打したりするなどのせっかんを度々加えるようになったが、被告人は、これを見ても、制止することなく、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、また、自らも、Dが夜尿をしたときに一、二度頬や臀部を叩いたことがあった。 五 甲野マンションでの生活状況等 1 Aと被告人は、Aの両親から現金一〇万円の援助を受け、平成九年一〇月二五日ころ、甲野マンションを借り、三人の子供とともに同棲生活を始めたが、このころ、被告人は、妊娠約六か月の状態にあり、Aも、そのことを知っていた。 2 Aは、甲野マンションに移ってから、何度か被告人に対し、別れ話を持ち出しては子供を連れて出て行くように言い、同年一一月初めころ、「出て行け。」などと言って被告人の頬と肩を平手と手拳で七、八回殴打し、更に、その数日後、被告人を正座させた上、同様に言って手拳等で肩と両腿を五、六分ほど殴打し続けたが、いずれの際も、被告人は、「これまで何度も黙って出て行ったりして迷惑をかけていたから、もう出て行ったりしない。」などと言って、何ら抵抗することなくAの暴行を受け入れた。また、Aは、これらとは別の機会に、被告人に裸で甲野マンションから出て行くよう命じ、その際、被告人は、三人の子供とともに裸になり、子供達を連れて玄関まで行ったものの、Aに制止され、屋外に出ることはなかった。 3 Aは、甲野マンションに入居して以降、新たな仕事に就く当てもなく、生活費にも事欠くようになったことなどから、不満や苛立ちを募らせ、その鬱憤晴らしなどのため、ほとんど毎日のように、CやDを半袖シャツとパンツだけで過ごさせた上、長時間立たせたり、正座させたりするなどしたほか、平手や手拳で顔面や頭部を殴打するなどの激しいせっかんを繰り返すようになった。なお、Aは、CやDを注意したときには、一〇回に八回程度は、右のような暴行に及んでいた。 4 他方、被告人も、同年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、Aのせっかん等によってかなり衰弱しているC及びDを並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、Dに対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていた。 5 被告人は、AがCやDに激しいせっかんを加えていたのを見ても、CやDを助けるための行動には出ず、CやDが助けを求める視線を向けても、無関心な態度を示していた。 6 被告人一家は、甲野マンションに入居して以降、一日一、二回の食事しかとれず、その食事も満足にできない状態であったため、Dは、星が浦のアパート時代には一五・五キログラムあった体重が、死亡当時には一一・七キログラムにまで減っており、同年齢の児童の平均体重より三・二キログラムも劣る極度のるい痩状態にあった。 六 平成九年一一月二〇日の状況等 1 Aと被告人は、平成九年一一月二〇日午後二時ころ、F子を連れてAの友人であるG方へ向かったが、その際、Aは、CとDに留守番をさせ、半袖シャツとパンツだけの姿のDに壁に向かって立っているよう命じ、CにはDを見張っているよう命じて外出した。 2 Aと被告人は、同日午後三時四〇分ころからG方で過ごし、ビールを飲むなどして歓談し、同日午後六時四五分ころG方を辞去したが、Aは、帰途、機嫌が良かったこともあって、G方を訪ねる前に被告人が食べたいと言っていたドーナツを買ってやることにし、スーパーマーケットに寄ってドーナツ等を買った。 3 Aと被告人は、F子とともに、同日午後七時一五分ころ甲野マンションに戻ったが、Aは、子供部屋のおもちゃが少し移動していたため、Cに誰が散らかしたのかと尋ねたところ、Cが「Dちゃん。」と答えたことから、Dが言い付けを守らずおもちゃで遊んでいたと思い込んで立腹し、隣の寝室で立っていたDの方に向かった。 4 被告人は、右のAとCのやりとりを聞き、AがDにいつものようなせっかんを加えるかも知れないと思ったが、これに対しては何もせず、数メートル離れた台所の流し台で夕食用の米をとぎ始め、Aの行動に対しては無関心を装っていた。 5 Aは、Dを自分の方に向き直らせ、「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などと強い口調で尋ねたものの、Dが何も答えなかったため、更に大きな声で同じことを尋ねたが、Dがそれにも答えず、Aを睨み付けるような目つきをしたため、これに腹立ちを募らせ、「横目で睨むのはやめろ。」などと怒鳴り、Dの左頬を右の平手で一回殴打し、続いて「お前がやったのか。」などと怒鳴ったが、Dが同様の態度をとったため、Dの左頬から左耳にかけての部位を右の平手で一回殴打したところ、Dがよろけて右膝と右手を床についたので、Dの左腕を掴んで引き起こした上、また同様に怒鳴ったが、なおもDが同様の態度をとり続けたことから、腹立ちが収まらず、Dの左頬を右の平手で一回殴打した上、更に「お前がやったのか。」などと怒鳴りながら、一発ずつ間隔を置いてDの頭部右側を手拳あるいは裏拳で五回にわたり殴打した。すると、Dは、突然短い悲鳴を上げ、身体の左から倒れて仰向けになり、意識を失った。 6 被告人は、Aが寝室でDを大きな声で問い詰めるのを聞くとともに、頬を叩くようなぱしっという音を二、三回聞いて、やはりいつものせっかんが始まったと思ったものの、これに対しても何もせず、依然として米をとぎ続け、Aの行動に無関心を装っていたが、これまでにないDの悲鳴を聞き、慌てて寝室に行ったところ、既にDはAに抱えられ、身動きしない状態になっていた。 7 Aと被告人は、その後、Aの運転する自動車にDを乗せて病院に向かい、同日午後八時一〇分ころ、市立釧路総合病院に到着したが、Dは、直ちに開頭手術を受けたものの、翌二一日午前一時五五分ころ、Aの暴行による硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害に伴う脳機能障害により死亡した。 8 被告人は、右病院で、担当医師から、Dの命が助からない旨の説明を受け、これを聞いてAの身代わり犯人となることを決意し、待合室にいたAに対し、「私がやったことにするから、あなたは昼から出かけたことにしておいて。」などと言ってAの身代わりになることを申し出た上、医師の通報により右病院に臨場した警察官に対し、自分の犯行である旨虚偽の申告をし、同月二一日午前三時一〇分、傷害致死罪により緊急逮捕され、捜査段階では終始一貫して自分の犯行である旨虚偽の供述をし、同年一二月一一日、同罪により起訴され、同月二四日に至り、初めて同房者にAの犯行である旨を告白した。 以上のような事実が認められる。 第二 原判決の事実認定及び法令の適用について 一 原判決は、前記第一とほぼ同旨の事実を認定しながら、被告人の内心の意思や動機等について、被告人の原審公判供述及び各検察官調書謄本(原審乙18ないし20)(以下「被告人の供述」と総称する。)に依拠して、被告人は、(1)甲野マンションでAから強度の暴行を受けるようになって以降、Aに愛情は抱いておらず、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えていた、(2)しかし、Aが働くこともなく家にいて留守になることがなかったことから、逃げ出そうとしてAに見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいた、(3)甲野マンションに入居した後、Aからは出て行けと何回か言われていたけれども、Aの言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っているものと思っていた、(4)Aから激しい暴行を受けたときの恐怖心や、AがCやDに暴力を振るっているのを側で見ていて、Aから「何見てんのよ。」などと怒鳴られたことがあったことなどから、Aに逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、Aが逆上してCやDに更に酷いせっかんを加えるのではないかと思い、CやDを助けることができなかった、(5)身代わり犯人になったのは、Dを見殺しにしてしまったという自責の念から自分自身が罰を受けたかったためであり、Aをかばうつもりはなかった、との事実を認定している。 二 そして、右事実認定を前提に、(一)不作為による幇助犯が成立するためには、他人による犯罪の実行を阻止すべき作為義務を有する者が、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置しており、要求される作為義務の程度及び要求される行為を行うことの容易性等の観点からみて、その不作為を作為による幇助と同視し得ることが必要と解すべきであるとした上、(二)被告人には、AがDに対して暴行に及ぶことを阻止すべき作為義務があったと認めながら、(三)その作為義務の程度は極めて強度とまではいえないとし、(四)被告人に具体的に要求される作為の内容としては、Aの暴行をほぼ確実に阻止し得た行為、すなわちAの暴行を実力をもって阻止する行為を想定するのが相当であり、AとDの側に寄ってAがDに暴行を加えないように監視する行為、あるいは、Aの暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした上で、(五)被告人が身を挺して制止すれば、Aの暴行をほぼ確実に阻止し得たはずであるから、被告人がAの暴行を実力をもって阻止することは、不可能ではなかったが、そうしようとした場合には、かえって、Aの反感を買い、被告人がAから激しい暴行を受けて負傷していた相当の可能性のあったことを否定し難く、場合によっては胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もある上、被告人は、Aの暴行を実力により阻止することが極めて困難な心理状態にあったのであるから、被告人がAの暴行を実力により阻止することは著しく困難な状況にあったとし、(六)右状況にかんがみると、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することはできない旨判示している。 第三 原判決の事実誤認について 一 しかし、Aの当審公判供述を含む関係証拠及びこれによって認められる諸事実に照らすと、前記第二の一の被告人の供述(1)ないし(5)は、いずれもたやすく信用することができない。すなわち、 1 被告人がAから強度の暴行を受けるようになったのは、前記第一の二のとおり、Aと同棲を始めた直後の昭和北のアパート時代からのことで、同棲開始後間もない平成八年四月中旬ころには、Aからマイナスドライバーの先端を首筋に押し付けられて赤い痕が残るほどの暴行を受け、同年八月ころには、手首を切って自殺を図り、平手や手拳で顔面等を多数回殴打され、平成九年五月ころには、灯油を少量かぶって焼身自殺をする振りをし、手拳等で手足を殴打されて歩行もできない状況になるなど、強度の暴行を何回も受け、その度にAの留守を見計らっては実母方に逃げていたのに、被告人は、ほどなくAに戻るよう優しい言葉をかけられてはよりを戻すということを幾度も繰り返し、とりわけ同年五月ころ、星が浦のアパートから実母方に逃げた際には、実母から、今度Aの所に戻れば親子の縁を切るとまで言われ、生活保護の受給手続まで進めながら、数日後にはAとよりを戻して材木町のアパートで同棲するようになっていることなどに加え、原審公判廷においても、「母親としてじゃなく、女として、あの人のことが好きだというんで戻っていた。」などと供述していることに照らすと、被告人が、甲野マンション入居後、それまでと比べてさほど強度とはいえない暴行を二度ほど受けたからといって、にわかにAに愛情を抱かなくなり、Aの下から逃げ出したいと考えるようになったとは思われず、被告人の供述(1)はたやすく信用できない。 2 Aが家にいて留守になることがなくても、被告人は、Aから常時監視されたり、監禁、拘束されたりしていたわけではなく、原判決も指摘するように、Aが寝ているときもあったのであるから、常識的に考えれば、被告人が甲野マンションを出る機会や方法はいくらでもあった上、現に被告人は、これまで家出をする際には、子供達を残して単身実母方に逃げ帰り、後から子供達を迎えに行ったり、所持金のないまま子供達を連れてタクシーで実母方に逃げ帰り、実母に料金を払ってもらったりするなど、臨機の方法でAの下を逃れていたのであるから、Aが家にいて留守になることがなかったとしても、被告人が逃げ出せずにいたとは考え難く、また、被告人がこれまで家を出ようとしてAに見付かり、そのために暴行を受けた事実はなかったことに照らすと、そのようなことを恐れて逃げ出せずにいたとも考え難いので、被告人の供述(2)はたやすく信用できない。 3 標茶町の実家に身を寄せたとき以降、被告人に嫌気がさし、別れたいと思い、被告人にも繰り返しその旨話していた旨のAの原審公判供述や、甲野マンションに入居後、週に三、四回被告人から性交を誘われたが、本件までの約四週間に一、二度応じたのみである旨のAの当審公判供述に加え、職も蓄えもないAが、自分の子であるF子のみならず、被告人やその連れ子で自分とは既に離縁しているC及びDまで扶養しなければならない状況に置かれていたことや、これまで別れ話を持ち出したことのなかったAが、甲野マンションに入居後は、被告人に何回も出て行けと言い、C及びDに対し、ほとんど毎日のように激しいせっかんを繰り返すようになったことなどに照らすと、Aの出て行けとの言葉は本心であり、被告人もこれを察知していたものと認めるのが相当であるから、被告人の供述(3)はたやすく信用できない。 4 被告人が、これまでに、Aのせっかんを制止しようとしたために、Aから自己や胎児に危険が及ぶような激しいせっかんを受け、あるいは、C及びDに対するせっかんが更に激しくなったという事実はなく、被告人は、本件に至るまで、Aのせっかんを制止しようとしたことすらないほか、標茶町時代及び甲野マンション入居後、AがC及びDに激しいせっかんをしているのを見ても、「あんた達が悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放ち、Aのせっかんに加担するような態度をとっていた上、自らも、本件直前の平成九年一一月一三日ころには、さしたる理由もないのに、Aのせっかん等によってかなり衰弱しているC及びDを並ばせ、「お前達なんか死んじゃえばいいのに。」などと言いながら、二人の顔面や頭部等を殴打し、腰部等を足蹴にして、二人をその場に転倒させるせっかんを加え、同月一五日ころにも、Dに対し、平手で顔面を殴打し、その場に転倒させるせっかんを加えていたことなどに照らすと、被告人がDらを助けなかった理由が、Aに逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、Aが逆上してDらに更に酷いせっかんを加えるのではないかと思ったことにあるとは考えられず、被告人の供述(4)はたやすく信用できない。 5 被告人は、現にAの身代わり犯人になっているのであるから、常識的には、Aをかばおうとする意思があったものと考えられるほか、本件当夜、意識を失ったDを病院に搬送した後、医師からその原因を尋ねられても、自己やAが殴打したとは答えず、「転んだ。」などと嘘を言い、Dが助かる見込みがないことを医師から知らされた後、警察官から任意の取調べを受けた際にも、自分がせっかんを加えていたと述べる一方で、当初は「今日は殴っていない。」と述べるなど、Dを見殺しにしてしまったという自責の念のみでは説明の付かない言動をしていた上、緊急逮捕後警察官から本格的な取調べを受けた際には、Aを愛している旨を繰り返し述べる一方で、Aの自己に対する暴力についてはほとんど述べず、「Aが、CとDを殴ったことは一度もない。」などと、あえて虚偽の事実を述べるなど、Aをかばおうとする意思がなければ説明の付かない言動をしていたことに照らすと、被告人の供述(5)はたやすく信用できない。 二 以上によれば、被告人の供述(1)ないし(5)に沿う事実はいずれもこれを認めることができず、前記第一の事実、とりわけ、被告人が自ら申し出てAとの同棲を開始し、Aから何回も暴力を振るわれながら、Aとの内縁ないし婚姻関係を継続していたこと、本件の五か月余り前からは、Aの暴力の有無にかかわらず、実母方に逃げることもなかったこと、甲野マンション入居後は、Aから別れ話を持ち出され、子供を連れて出て行くように言われ、暴力まで振るわれたのに、最後まで出て行かなかったこと、標茶町時代以降、AがDらに激しいせっかんをしているのを見ても、これを制止せず、かえってAのせっかんに加担するような態度をとり、本件直前ころには、自らもCやDに相当強度のせっかんを加えていたこと、本件直後Dの命が助からない旨を聞かされるや、躊躇なくAの身代わり犯人となることを決意し、自ら申し出て身代わり犯人になり、一か月余り虚偽の供述を維持していたことなどに照らすと、被告人が本件せっかんの際、Aの暴行を制止しなかったのは、当時なおAに愛情を抱いており、Aへの肉体的執着もあり、かつ、Aとの間の第二子を懐妊していることもあって、Dらの母親であるという立場よりもAとの内縁関係を優先させ、AのDに対する暴行に目をつぶっていたものと認めるのが相当であるから,被告人がAの暴行を制止しなかった理由として、被告人の供述(4)に沿う事実を認定した原判決には、事実の誤認があるといわざるを得ない。 三 そうすると、被告人は、Aの暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえず、前記第二の二の原判決の判示を前提としても、被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視することができないとはいえないから、右事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。 第四 原判決の法令適用の誤りについて 一 後述する不作為による幇助犯の成立要件に徴すると、原判決が掲げる「犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置した」という要件は、不作為による幇助犯の成立には不必要というべきであるから、実質的に、作為義務がある者の不作為のうちでも結果阻止との因果性の認められるもののみを幇助行為に限定した上、被告人に具体的に要求される作為の内容としてAの暴行を実力をもって阻止する行為のみを想定し、AとDの側に寄ってAがDに暴行を加えないように監視する行為、あるいは、Aの暴行を言葉で制止する行為を想定することは相当でないとした原判決には、罪刑法定主義の見地から不真正不作為犯自体の拡がりに絞りを掛ける必要があり、不真正不作為犯を更に拡張する幇助犯の成立には特に慎重な絞りが必要であることを考慮に入れても、なお法令の適用に誤りがあるといわざるを得ない。 二 そこで、被告人に具体的に要求される作為の内容とこれによるAの犯罪の防止可能性を、その容易性を含めて検討する。 1 まず、AとDの側に寄ってAがDに暴行を加えないように監視する行為は、数メートル離れた台所の流し台からAとDのいる寝室に移動するだけでなし得る最も容易な行為であるところ、関係証拠によれば、Aは、以前、被告人がAのせっかんの様子を見ているとせっかんがやりにくいとの態度を露わにしていた上、本件せっかんの途中でも、後ろを振り返り、被告人がいないかどうかを確かめていることが認められ、このようなAの態度にかんがみると、被告人がAの側に寄って監視するだけでも、Aにとっては、Dへの暴行に対する心理的抑制になったものと考えられるから、右作為によってAの暴行を阻止することは可能であったというべきである。 2 次に、Aの暴行を言葉で制止する行為は、Aを制止し、あるいは、宥める言葉にある程度の工夫を要するものの、必ずしも寝室への移動を要しない点においては、監視行為よりも容易になし得る面もあるところ、関係証拠によれば、Aは、Dに対する暴行を開始した後も、D及び被告人の反応をうかがいながら、一発ずつ間隔を置いて殴打し、右暴行をやめる機会を模索していたものと認められ、このようなAの態度にかんがみると、被告人がAに対し、「やめて。」などと言って制止し、あるいは、Dのために弁解したり、Dに代わって謝罪したりするなどの言葉による制止行為をすれば、Aにとっては、右暴行をやめる契機になったと考えられるから、右作為によってAの暴行を阻止することも相当程度可能であったというべきである(被告人自身も、原審公判廷において、本件せっかんの直前、言葉で制止すれば、その場が収まったと思う旨供述している。)。 3 最後に、Aの暴行を実力をもって阻止する行為についてみると、原判決も判示するとおり、被告人が身を挺して制止すれば、Aの暴行をほぼ確実に阻止し得たことは明らかであるところ、右作為に出た場合には、Aの反感を買い、自らが暴行を受けて負傷していた可能性は否定し難いものの、Aが、被告人が妊娠中のときは、胎児への影響を慮って、腹部以外の部位に暴行を加えていたことなどに照らすと、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性は低く、前記第三の三のとおり、被告人がAの暴行を実力により阻止することが著しく困難な状況にあったとはいえないことを併せ考えると、右作為は、Aの犯罪を防止するための最後の手段として、なお被告人に具体的に要求される作為に含まれるとみて差し支えない。 4 そうすると、被告人が、本件の具体的状況に応じ、以上の監視ないし制止行為を比較的容易なものから段階的に行い、あるいは、複合して行うなどしてAのDに対する暴行を阻止することは可能であったというべきであるから、右1及び2の作為による本件せっかんの防止可能性を検討しなかった原判決の法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかというべきである。 第五 破棄自判 以上によれば、論旨はいずれも理由があるから、刑訴法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、当審において更に次のとおり判決をする。 (罪となるべき事実) 被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚したAと再び同棲を開始するに際し、当時自己が親権者となっていた、元夫Bとの間にもうけた長男C及び二男D(当時三歳)を連れてAと内縁関係に入ったが、その後、AがDらにせっかんを繰り返すようになったのであるから、その親権者兼監護者としてDらに対するAのせっかんを阻止してDらを保護すべき立場にあったところ、Aが、平成九年一一月二〇日午後七時一五分ころ、釧路市鳥取南《番地略》甲野マンション一号室において、Dに対し、その顔面、頭部を平手及び手拳で多数回にわたり殴打し、転倒させるなどの暴行を加え、よって、Dに硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市春湖台一番一二号市立釧路総合病院において、Dを右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、右甲野マンション一号室において、Aが前記暴行を開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちに右暴行を阻止する措置を採るべきであり、かつ、これを阻止してDを保護することができたのに、何らの措置を採ることなく放置し、もってAの前記犯行を容易にしてこれを幇助したものである。 (証拠の標目)《略》 (補足説明) 1 不作為による幇助犯は、正犯者の犯罪を防止しなければならない作為義務のある者が、一定の作為によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、右一定の作為をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、以上が作為による幇助犯の場合と同視できることが必要と解される。 2 被告人は、平成八年三月下旬以降、約一年八か月にわたり、Aとの内縁ないし婚姻関係を継続し、Aの短気な性格や暴力的な行動傾向を熟知しながら、Aとの同棲期間中常にDらを連れ、Aの下に置いていたことに加え、被告人は、わずか三歳六か月のDの唯一の親権者であったこと、Dは栄養状態が悪く、極度のるい痩状態にあったこと、Aが、甲野マンションに入居して以降、CやDに対して毎日のように激しいせっかんを繰り返し、被告人もこれを知っていたこと、被告人は、本件せっかんの直前、Aが、Cにおもちゃを散らかしたのは誰かと尋ね、Cが、Dが散らかした旨答えたのを聞き、更にAが寝室でDを大きな声で問い詰めるのを聞いて、AがDにせっかんを加えようとしているのを認識したこと、Aが本件せっかんに及ぼうとした際、室内には、AとDのほかには、四歳八か月のC、生後一〇か月のF子及び被告人しかおらず、DがAから暴行を受けることを阻止し得る者は被告人以外存在しなかったことにかんがみると、Dの生命・身体の安全の確保は、被告人のみに依存していた状態にあり、かつ、被告人は、Dの生命・身体の安全が害される危険な状況を認識していたというべきであるから、被告人には、AがDに対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない作為義務があったというべきである。 ところで、原判決は、被告人は、甲野マンションで、Aから強度の暴行を受けるようになって以降、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えていたものの、逃げ出そうとしてAに見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいたことを考えると、その作為義務の程度は極めて強度とまではいえない旨判示しているが、原判決が依拠する前記第二の一の被告人の供述(1)及び(2)は、前記第三の一の1及び2で検討したとおり、いずれもたやすく信用することができないから、右判示はその前提を欠き、被告人の作為義務を基礎付ける前記諸事実にかんがみると、右作為義務の程度は極めて強度であったというべきである。 3 前記第四の二のとおり、被告人には、一定の作為によってAのDに対する暴行を阻止することが可能であったところ、関係証拠に照らすと、被告人は、本件せっかんの直前、AとCとのやりとりを聞き、更にAが寝室でDを大きな声で問い詰めるのを聞いて、AがDにせっかんを加えようとしているのを認識していた上、自分がAを監視したり制止したりすれば、Aの暴行を阻止することができたことを認識しながら、前記第四の二のいずれの作為にも出なかったものと認められるから、被告人は、右可能性を認識しながら、前記一定の作為をしなかったものというべきである。 4 関係証拠に照らすと、被告人の右不作為の結果、被告人の制止ないし監視行為があった場合に比べて、AのDに対する暴行が容易になったことは疑いがないところ、被告人は、そのことを認識しつつ、当時なおAに愛情を抱いており、Aへの肉体的執着もあり、かつ、Aとの間の第二子を懐妊していることもあって、Dらの母親であるという立場よりもAとの内縁関係を優先させ、AのDに対する暴行に目をつぶり、あえてそのことを認容していたものと認められるから、被告人は、右不作為によってAの暴行を容易にしたものというべきである。 5 以上によれば、被告人の行為は、不作為による幇助犯の成立要件に該当し、被告人の作為義務の程度が極めて強度であり、比較的容易なものを含む前記一定の作為によってAのDに対する暴行を阻止することが可能であったことにかんがみると、被告人の行為は、作為による幇助犯の場合と同視できるものというべきである。 (法令の適用) 被告人の判示行為は、刑法六二条一項、二〇五条に該当するところ、右は従犯であるから、同法六三条、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。 (量刑の理由) 本件は、当時三歳の男児Dの親権者兼監護者であった被告人が、内縁の夫AによるDに対する激しいせっかんを阻止せず、AによるDの傷害致死を容易にしてこれを幇助したという事案である。 被告人は、甲野マンションに入居して以降とりわけ激しくなったAのDらに対する恒常的なせっかんを放置し続けていたもので、本件は起こるべくして起きた事案といってよい。被告人は、本件せっかんの当日、A及びF子とともに五時間余り外出し、その間、電灯もストーブも点いていない暗く寒い室内で、半袖シャツとパンツだけの姿で起立させられていたDを思い遣ることなく、Aが帰宅するなり、おもちゃを散らかしたといえる状況もないDを問い詰め、暴行に及ぼうとしたのを認識しながら、Dの母親であるという立場よりもAとの内縁関係を優先させ、AのDに対する暴行に目をつぶり、AやDの姿が見通せない台所の流しで夕食用の米をとぐなどしていたもので、動機に酌量すべきものはほとんどない。被告人は、AがDに対して暴行に及ぶことを阻止しなければならない極めて強度の作為義務を負っており、かつ、比較的容易なものを含む一定の作為によってこれを阻止することが可能であったのに、何らの作為にも出ず、母親として果たさなければならない義務を放棄していたもので、被告人が当時妊娠約六か月の状態であったことを考慮しても、犯行態様は決して芳しいものではない。Dは、Aの暴行及びこれを阻止しなかった被告人の不作為により、硬膜下出血等の傷害を負い、直ちに病院に搬送されて手術を受けたものの、既に手遅れの状態となっており、受傷から七時間足らずで死亡したもので、その結果は誠に重大であり、Aから連日のように無慈悲かつ理不尽なせっかんを加え続けられた挙げ句、おもちゃを散らかしたとの濡れ衣を着せられて、いわれのない激しいせっかんを受け、全身に新旧多数の打撲傷や痣、皮膚の変色を残したまま、僅か三歳六か月の幼い命を奪われたDの無念さは察するに余りあり、実父であるBが、Aに対する厳罰を望んでいるほか、Dを助けなかった被告人も許せない旨警察官に供述しているのも、誠に無理からぬところである。加えて、被告人は、本件犯行後自ら進んでAの身代わり犯人となり、緊急逮捕後は一貫して自分がDを殴って死亡させたのであり、Aは無関係である旨の虚偽の供述を繰り返し、逮捕後一か月余りを経た起訴勾留中に、ようやく真犯人がAである旨を同房者に打ち明けたもので、犯行後の行状も甚だ芳しくない。以上のようにみてくると、被告人の刑事責任は誠に重い。 しかしながら、本件傷害致死の正犯者はあくまでAであり、被告人の幇助の態様は不作為という消極的なものであったこと、被告人自身もAからしばしば相当強度の暴力を振るわれており、前記妊娠の点をも併せ考慮すると、被告人が期待された作為に出なかったことについては、一概に厳しい非難を浴びせ難い面もあること、被告人自身、本件により自らが腹を痛めたDを亡くしており、自責の念を抱いていること、被告人は、累犯前科を有するAと異なり、これまで前科なく生活しており、原審係属中の平成一〇年五月二七日勾留取消決定により釈放された後は、飲食店従業員として稼働していること、被告人にはDのほかに三児があり、現在C及びF子は施設に入所しているものの、いずれは同児らを引取り、自ら養育していくべき責任があること、被告人には釧路市内に住む実母がいて、将来も折あるごとに被告人の相談に乗り、被告人を監督していくものと期待されることなどの諸事情も認められ、これらを前記諸事情と併せ考えると、この際、被告人に対しては、直ちに実刑をもって臨むよりも、Dの冥福を祈らせつつ、社会内で更生の道を歩ませるのが相当と考えられる。 (原審における求刑 懲役三年) よって、主文のとおり判決する。 (裁判長裁判官 近江清勝 裁判官 渡邊壯 嶋原文雄)
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茹だるような暑さに、堪らず学校指定の夏服用ベストを脱いで鞄に仕舞い込む。 七月にはいると期末テストさえ終われば、学校全体はもうすっかり夏休み気分だ。 ろくにクーラーも効いていない校内からはとっとと退散することにして、相変わらず部活動で賑やかな校舎をあとにした。 この高校は学長の方針で全校生徒が必ず何かしらの部活動に入っていなければならないのだが、運動があまり得意ではなくインドアの趣味もそこまでない私は、郷土文化研究部、という部活に所属している。 活動内容といえば年に一度の文化祭の時に部室で郷土文化の資料展示をする位で、所謂、避難場所扱い。噂によれば三年連続で同じ資料を展示する猛者もいるとかいうのだから、驚きだ。 そんな部活だが、年一回の発表の場だけはやらねばならない。つい先日になって顧問からこの課題を改めて伝えられたので、夏休みの宿題は七月中に全て終わらせるタイプの私は九月に控える文化祭展示のための資料を集めに、今日は街を探索することにしていた。 夏休み中にそんな事をやるなんて、真っ平ゴメンだからだ。 校門から伸びる桜並木を終えて十字路に立ち、少し考えてから左に曲がる。 気持ちは直進で入れる遊歩道から二両編成のローカル線が走る無人駅に向かいたいのだが、それでは家に帰るだけだ。そして十字路を右へ行くとこの町唯一の商店街だが、そこには郷土文化といえるような代物が置いてあった記憶はない。寂れ具合が現在の郷土文化、と捉えるなら話は別であろうが。 なのでここで何かを探そうと思ったら、選択肢は左しか無かった。 灘らかに登っていく道を暫く歩いてみると、古めかしい木造の建築物が並ぶ中に、いくつかの町工場らしきものがあるのが見える。 更にその先を眺めてみれば一向に畑と林と山肌しか見られなかったので、この辺りの建物を見学してみる事にした。 地域性からか、この辺りの人々はとても人当たりが良く、職場見学には喜んで応じてくれる。 だが見た限りでは肥料や農薬の工場と、林業を営む材木屋の倉庫、そして水道管の修理工房等等、郷土文化というには些か首を傾げたくなるものばかりが立ち並ぶ。 勿論何れも暮らしには重要なものなのは分かるのだが、これを持ち帰ったら流石に顧問に怒られそうだ。 そうして更に次の場所を求めて水道管修理工房の主人に礼を言ってから歩き出した矢先、遠くから響く微かな音が風に乗って耳に届いた気がした。 音に誘われて歩いて行くと、辿り着いたのは小さな倉庫みたいな場所だった。 開けっ放しの扉から中を覗き込むと、古めかしい窯が先ず目に入る。その他にも見慣れない道具が立ち並んでいるので何かの制作工房の様だが、その詳細はわからない。 そこに再び、チリンと透明な音が鳴る。その音の出処を目線で辿ると、それは入り口の雨避けトタン屋根の端に吊るされた、瓢箪みたいな形をした風鈴だった。 「その風鈴、形が珍しいでしょう。名前はそのまんま、瓢箪型風鈴。ウチの作品だよ」 しばし観察していたところに今日の日照りみたいにカラッと明るい声を掛けられて振り返ると、勝気そうな表情のお姉さんが立っていた。 上はTシャツ、下は作業服。そして首からタオルを掛けている。先程までの工場のおじさん等とは違い、主婦や公務員以外でこの町ではなかなか見かけない若い年齢層の女性だった。 「あなた、峰高の生徒ね。余りの暑さに、ここの風鈴に涼を求めにきたのかしら」 自身の高校の略称よりも、風鈴に涼を、の部分に反応して目を見張る。瞬間的には、理解できなかったのだ。 「・・・年代的にイマイチぴんと来ないか」 私の反応を見てそう言うと、お姉さんは自分の背後に親指をむけて指し示した。 「暑いでしょ。ここで会ったのも何かの縁よね、上がっていきなよ。冷たいお茶位は出せるよ」 言うが早いか、こちらの返答を聞かずにお姉さんは歩きだしてしまった。 あまり慣れていない展開だけど、ここはせっかくなのでついて行くことにした。どううがった見方をしても、今のお姉さんが不審な人には見えないし。 招かれた家は、これでもかというほど純和風。ガラガラの玄関を通って木の感触が足の裏から伝わる廊下を案内されて、縁側のある広い部屋に入った。 部屋の側面いっぱいに広くとられた縁側の半分は簾で太陽の熱線を遮断し、しかし風を呼び込んでいる。そしてその脇には、ここにも風鈴。先程のものよりもやや小振りだが、風に揺られて鳴らす音は等しく透明だ。 しばし部屋の中を観察していると、先程のお姉さんが氷とお茶に満たされたグラスを二つ持って入ってきた。 「はは、珍しい?」 その言葉に、素直に頷く。自分の家とは構造が全く異なり、まるでドラマのセットを見ているような気分だった。 屋根裏には、まっくろくろすけが住んでいそう。 思った通りに伝えると、お姉さんは声をあげて笑った。 「流石に近所にトトロは住んじゃいないけど、まっくろくろすけはいるかもね」 あんまり自然に笑いながらいうものだから、まるで初めて会った気がせずに、気がつけばすっかり寛ぎながら今日の目的を話していた。 「へぇ、郷土文化研究部、ねぇ。そうはいっても、ここは昔からの伝統産業って言えるほどのものはあんまり無いかもしれないね。だのによくそんな部を作ったもんだ」 あっけらかんとそういうので、この風鈴は違うのかと少し残念に思い、そう言った。 するとお姉さんは風鈴についてそう言われたことが嬉しかったのか、また明るく笑いながら口を開く。 「ここの風鈴は、私の爺ちゃんがこっちに来て作り始めたんだ。元は東京の技術だね」 そうして、お姉さんは風鈴のちょっとした歴史を披露してくれた。 元をたどれば風鈴とは風鐸(ふうたく)と呼ばれる魔除け道具であった事。ルーツが紀元前の中国である事。世界中に様々な形で広まっている事等等。 「よく市場にオモチャみたいな価格で流れているものは、その全てが型を使って作られたものだね。色形はまぁまぁだけど、あれじゃあ肝心のものが抜けてるんだ」 妙に含む言い方で言葉を終えたので突っ込んで聞いてみると、お姉さんは縁側の風鈴に目線をむけた。 つられてそちらに顔を向ければ、丁度のタイミングで風に吹かれた風鈴が、また透明な音を奏でる。 あ、と声にだして反応すると、お姉さんはにこりと笑った。 「そ、音さ。音一つで涼しさを思わせる本物の響きは、流石に手作りにしか出せない。涼を奏でる。それこそが風鈴の真骨頂ってわけ」 その言葉に感心した調子で声を上げると、お姉さんはちょっとだけさみし気に笑いながら、でもね、と言葉を続けた。 「風鈴の役割は、そろそろ終わりかけてる。今は此処みたいに風を呼び込む夏じゃなく、締め切ってエアコンだからね。ま、麓の簾屋さんも同じ事を言ってたけどね」 確かにそうだなぁ、と思いながら自宅を省みる。居間と各自の部屋にはエアコンがあり、今の時期は窓を開けることが殆ど無い。 「ここは下に比べりゃ高地だからまだ縁側に簾と風鈴だけでも涼を得られるけれど、十年後は分からない。私が子供の頃に比べてでさえ、今は異常に暑いからね」 毎年のように異常気象、前年を上回る猛暑と言われ続けて、もはや自分にとっては毎年美味しくなったと言われる不思議飲料ボージョレーと同じ感覚でいたものだけど、いずれは今が温いと思うほどに暑くなるのだろうか。 「郷土文化というよりは、今までの日本文化そのものが消えようとしているのかもしれないね。でも其れは、仕方のないことかもしれない。風鈴も簾も風を呼び込むこの家も、その時の需要に応じて生まれた文化。そしてエアコンもその他の色んな電化製品も今の住宅構造も、今の需要に応じて生まれた文化さ。流行り廃りは世の常よ。爺ちゃんがきいたら、ばかもーん、って怒るだろうけれど」 部屋の奥にある仏壇に、それとなく目が向く。お爺さんは今を嘆いているのだろうか。 でもこのお姉さんは、今に肯定的だ。柔軟な考えを持っているし、否定をしない。 なのに、何故ここにいるのだろう。そんな疑問が浮かび、聞いてみた。 「あはは、答えは単純」 そう言って背伸びをし、お姉さんは部屋の空気をいっぱいに吸い込んだ。 「ここが、好きだから」 気がついたらお爺さんの手伝いで風鈴作りをしており、昔ながらの制作方法と、火の調整が大変らしいコークス窯と呼ばれる炉を用いたここの風鈴は、実は地域を超えて評判がいいらしい。 ちょっと自慢なんだよ、なんていいながら話してくれた。 「文化を守る、なんて大義名分は別に無いけど、私は運がいいと思っている。なにせ此処に生まれて、ここを好きになれて、好きな事をして暮らしているんだからね」 そう言ってお姉さんは自分のグラスに満たされた麦茶をぐっと呷る。 私も倣って喉に流し込むと、冷たい麦茶がすごく美味しくて、簾から流れ込む風が気持ち良くて、風鈴の音がとても涼しい。 夏なんて外に出ればひたすら暑いだけで好きじゃなかったけど、初めてここで日本の夏、みたいなものを肌身に感じて、なんとなく目の前のお姉さんがここを好きだと言っている感覚が分かる気がした。 お姉さんも私の表情からそれを読み取ったのか、にこりと笑った。 「また、おいでよ。ここは夏は風の住処で、秋は紅葉が燃えて、冬は囲炉裏がまたおつなもんなんだ。そして春になれば、新緑に合わせてよく薫る。そんな、日本の家。郷土文化研究部の題材には、悪くないかもよ?」 その言葉に私が大きく頷くと、またお姉さんは明るく笑ってくれた。 お土産になんと風鈴をひとつ頂いてしまい、別れを惜しみつつも家路に着く。 耐えきれなくて道すがらに風鈴の舌を戒めから解き放つと、チリンと鳴ったその音に、心にふわりと風が吹いた気がして涼しくなる。 そんな感覚は知らないはずなのに何故か懐かしい気持ちになって、それがなんでか嬉しくて、自然と足が軽くなった。 夕暮れでまだまだ蒸し暑い帰り道に、私は涼やかな表情で一人鼻歌交じりに駅へと向かっていく。 九月の文化祭までに彼処に通いつめて、あの場所を皆が知ってくれる様にしようと密かに心に決めながら。 今年の夏休みは、例年より少し涼しく過ごせそうだ。 2011/7/16 物書きの集い・お題企画 「風鈴」 より
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ばすえのさかばでながしたなみだはきょうもかなしいあじがうぇーい【登録タグ は カオスP 初音ミク 曲】 作詞:カオスP 作曲:カオスP 編曲:カオスP 唄:初音ミク 曲紹介 歌は世につれ世は歌につれ。それでは歌っていただきましょう。初音ミクさんで「場末の酒場で流した泪は今日も哀しい味がうぇーい」。 イラスト:シマシマ 歌詞 唐突に俺登場 俺が空気支配 ヤバすぎるだろ?うぇーいwwww SNSチェックしてマジ充実しすぎでしょ 会いたいとか遺産あげたいとか メールわんさか来て止まらん 人気ありまくりリア充生活 知らないアドレス え?迷惑メール? みんなの楽しそうな写真見つけちゃった ブラウザすぐバックして見なかったことにしちまえ 誘われてないとかハブられてるなんて 都市伝説の類 キョロキョロしてない ぼっちじゃないから くちばし何色? とりあえず言う うぇーーーーーいwwww 顔色うかがい うわっつらだけの嘘笑顔 いじられキャラ維持 イージーモードですし おどけたふりして毎日演じてるピエロ 「消えろ」と言われた 癒えろ俺の心 YELLOW 危険信号 無邪気なあの頃 夕暮れまでよく遊んだ 損得勘定何にもない世界 人間関係築くのはかくも難し 我が苦も泪とともに流れてくれ 気になるあの娘が俺見て微笑んでくれた ここぞとばかりに言うしかないだろう 大地の呼吸聞き そして放つ うぇーーーーーーーーいーーーーー!!!! コメント 名前 コメント
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しんしんと雪の降り積もる雪原は踏みしめられた足跡を即座に白く上塗りしていき、重苦しく灰色に染め上げられた空からは今が日中だとは思えぬほどに、ちっとも光が漏れてこない。 ロアーヌ北方の関所を抜けてから数日。 本行軍演習の折り返し地点となるポドールイへと向け、ロアーヌ騎士団はその日の予定を突然の降雪によって大幅に遅らされてしまったものの、着々と行軍していた。 今登っている峠を越えれば間も無く街が見えるはずなので其処まではこのまま突っ切ってしまおうという指揮官の判断の元に、彼らはこの悪天候の中で速度を緩める事なく前進する。通常の歩行よりも雪が体力を余計に奪うため非常に過酷な行程だが、そのような事態でも脱落する者もなければ弱音を吐く者すらも居ない。それは、彼らが一人の例外もなく強靭に鍛え上げられた屈強なる騎士であることを示していた。 本行軍演習の現在の指揮官はパットンという男で、間も無く世代交代を迎えるロアーヌ騎士団の新世代の中の気鋭の一人だ。因みに本行軍演習に参加している騎士達はほぼ全てが新世代組で構成されており、パットンも勿論その同期である。今回は幾つかのルートを交代して幾人かが指揮をとりながら進める形をとっており、中間地点たるポドールイまでが彼のターンだというわけだ。 ところで如何せんこのパットンという男は好戦的な性格で突撃陣形を好み、その行軍も荒々しさが垣間見える。 それはこの降雪の中の強行軍にも十二分に現れており、これにはあとで文句をつてやろうなどと皆が一様に考えているなどという事は、この雪の中の行軍の正当性を確信して止まないパットンには想像もつかぬ事であった。 一行はポドールイに到着後予め用意された場所にて宿を取り、翌日には領主である伯爵の元に挨拶に訪れてから現地で演習を行い、その完了を以てロアーヌへと帰還する予定だ。 やがて一行は長く険しかった峠を登りきり、そこから眼下に仄かに明かりの灯る街を見下ろす。 気がつけば辺りに降る雪は穏やかな表情へと移ろい、見上げれば立ち込めていた暗雲も疎らになっている。 辺りには宵闇が訪れ、それまで無言であった騎士達の間にも俄かに安堵の表情が垣間見えた。 「・・・あーつっかれた!おいパットン!無茶苦茶だぞお前!」 雪除けの帽子を取りさってバタバタとはたきながら早速文句を飛ばしたのは、タウラスだ。 血気盛んな世代の中では一番の慎重派であり、突撃思考のパットンとは真逆の防御に重点を置いた陣形や戦術を好む。因みにこの両者は全く意見が合わないことから、何かにつけ突飛な提案をするパットンに最初に突っかかるのが常にこのタウラスなので、パットンは彼のことを自分と同じく好戦的な性格だと捉えている。 「何をいう。この行軍のお陰で夜中を待たずにポドールイにたどり着けたんだろうが」 「アホか。ここは元々夜中にもならないし昼間にもならないだろ」 「アホとはなんだ、アホとは!」 「おーおーアホをアホと言って何が悪いんだ!?」 次第に子供の喧嘩の様を呈し始めるそれは最早恒例行事のようなもので、誰もそんな二人の言い争いに口を挟もうとは思わない。 そんな二人の口喧嘩を慣れた様子で聞き流しながら、本演習に参加する紅一点であるカタリナはタウラスと同じく雪除けの帽子をとりさった。そうする事で帽子の中で窮屈そうにしていた長い銀髪を漸く外気に解放してやりつつ、彼女はもう一度ゆっくりと空を見上げる。 そこには、タウラスの言うように昼間でもなければ夜中と言うほどまで暗すぎるわけでもない、俗に『宵闇』と言われる空がある。このポドールイと言う街の周辺は、どうした訳か一年を通して常にこの状態を維持している。ここには昼が訪れることもなければ、真夜中が訪れることもない。まるでここだけ時が止まっているかのように、ずっとこの宵闇が横たわっているのだという。 まるで眠りを誘う揺り籠のように穏やかに身を包むその宵闇に、カタリナは不思議と安心感を覚える。それが人ならざるものと隣り合わせの感覚であることを知っているはずの彼女だったが、それでもこの宵闇は、あまりに優しい。 「・・・大体一年ぶり、か・・・」 煌々と輝く宙空の月を見上げ、小さく呟く。するとまるでその声に歓喜するように降り注ぐ雪の結晶が一陣の風によってふわりと舞い上がり、ポドールイの街の明かりへと吸い込まれていった。 ギギギ・・・と具合の悪そうな不快な音を立てながら開いた扉の中に積もった埃の厚みや内装の古めかしさから、この場所は長らく使われていなかった事が伺える。入り口近くの一部だけが物置として利用されている様だが、それ以外の空間の大部分は伽藍堂だ。 ここはすぐ横に建つ宿の納屋を増改築して作られた、大所帯宿泊用の別棟だという。 死蝕以前はこうした行軍演習も頻繁に行われており毎年お世話になっていたらしいのだが、死蝕以後は情勢や予算の関係上行われていなかったためここも使われる事がなく、長いこと放置されていたらしい。 二人の口喧嘩もそこそこに無事街にたどり着いた一行は宿の主人に挨拶を済ませたあと、まず本日世話になるここの掃除を全員で始めた。大の大人が十数人も集まっていたので何ら滞る事なく、掃除は一時間程度ですんなりと終わらせた。あとは明日にこの地を治める伯爵への謁見を行うまでは自由時間となるので、若き騎士達は本演習の束の間の休息を求めて街へと繰り出す算段をしていた。 「カタリナ。久しぶりに一杯付き合えよ」 行軍用の装備を解いて軽くなった肩を回しながらそう声をかけてきたのは、コリンズだった。 彼はカタリナと年齢的にも近く、騎士団候補生時代から数えて十年来の付き合いになる。 このコリンズという青年は疾風の如き速攻戦術を尊び、フラッグ戦の様な演習では右に出るものがない程の実力を誇っている。並びに同期の中でも飛び抜けて統率力があり、周囲にも気の利く兄貴分だ。だが、多少うっかり屋なのが玉に瑕といったところか。 因みに彼は過去に三度ほどカタリナに思いの丈の告白をし、三度とも振られている。それでも一切めげる様子のないところがまた、彼の長所でもあるのだろう。 「あ、うん。行くけど・・・少し街を見回ってから合流してもいいかしら」 「おう。じゃあここの宿の隣んところで飲んでるぜ。おーい、いこーぜブラッドレー」 コリンズはカタリナの返答に軽快に頷いたかと思うと、奥で荷物の整理をしていた青年に声をかけた。 呼ばれて振り向いたブラッドレーは返事をする代わりに軽く手を上げ、寝床の準備を終えてからこちらに歩いてくる。 コリンズと幼馴染であるというこのブラッドレーという青年は、本演習の筆頭指揮官を任されている。すべての面で優秀な成績を収める彼は昔から器用貧乏と呼ばれてきたが、それを自らの持ち味として凡ゆる戦術や陣形指揮に通じ、また同世代の若き騎士達の特性をよく把握して臨機応変な作戦立案と采配の妙を発揮してきた。それらを最大限に活かして癖の強い今の世代の騎士団をよく纏め、本行軍演習に於いてもよく率いている。 「お前がいつ潰れても大丈夫にしておいたぞ」 後方の寝床を親指で指しながらブラッドレーがにやりと笑って言うと、コリンズも思わず口の端を吊り上げる。 「はっ、そいつは有難いな。何なら二人分用意しておいてもいいんだぜ。お前とカタリナをそこに転がしてやる」 「馬鹿言え、カタリナは別室だ」 「わーってるよ。相変わらず冗談が通じねぇなぁ」 以前であればカタリナも同じくこの場所で皆と共に雑魚寝であっただろうし彼女自身は全くそれで問題ないと考えていたが、今回彼女だけ宿の一室を拝借する事になったのは他の面子の総意であるらしい。 その理由をカタリナが聞こうとするまでもなくブラッドレーが面と向かって彼女に「寝ているお前は目の毒だからな」と言い放ったものだから、これには有無を言わさず従わざるを得なかった。 二人が軽口を叩きながら出て行くのを見送ったカタリナは、自身も行軍用装備をその場に纏めて宿泊施設をあとにした。 この町に舞い降りる雪と、それに余すこと無くその身を預ける純白の街並みは、とても幻想的で、只々美しい。 町を包む宵闇を見上げれば、薄らと広がる雲の合間から顔を覗かせる、煌々と輝く大きな月。月齢は満月を過ぎ、これから下弦に向かわんとする所か。 今年もまた、この地で舞踏会は開かれたのだろうか。そんな事を、カタリナは考える。 このポドールイでは年に一度、領主たるレオニード伯爵がその居城にて催す絢爛なる舞踏会がある。その舞踏会にて伯爵の目に留まった女性は伯爵の甘美なる吸血行為によって夜の眷属へと生まれ変わり、永遠の命と美しさを得る。 そう、このポドールイの地を治めるレオニード伯爵とは、世に言う吸血鬼であるのだ。 それ故このポドールイという地は夜の王たる彼の領地として在るべく常に宵闇を纏い、その居城は現世と常世の狭間に存在しているとも言われている。 カタリナは周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりとした足取りで商店街を抜けていった。 降り積もる純白と宵闇で此処は一見どこも同じ風景に見えてしまうものだから、時折立ち止まって一年前の己の記憶の在り処を手探りしては、またゆっくりと歩き出す。 人通りの疎らな中央広場を抜け、まるで童話の中の世界のようにクラシカルな作りの宿屋通りに入る。しかし宿屋通りと言っても、今は開店休業のような状態で何処も空室だらけだ。 この宿屋通りが最も賑わうのは年に一度、舞踏会の開かれる直前。それ以外の期間は宿を閉めてしまっているところも多い。 静かな宿屋通りを抜けて行った先には、ぽつぽつと民家が立ち並ぶ地区がある。 絶え間なく降り積もる雪を踏みしめながら向かった先には、一軒の家。その庭先には、老人と大きな一頭の犬、そして数頭の子犬がそれらの周りを駆け回りながら戯れていた。 「おや・・・」 「・・・お久しぶりです」 カタリナの気配に気がついて顔を上げた老人が気がついたのに合わせ、彼女は軽くお辞儀をした。 飼い主の動きに合わせて来訪者に気がついた子犬が、直ぐ様好奇心をむき出しにして彼女の足元に駆け寄る。 「子犬が、生まれたんですね」 「あぁ」 すり寄ってくる子犬たちをしゃがみ込んで撫でながら、ふと昨年の事を思い出す。 昨年の舞踏会にこのポドールイを訪れた彼女は、この老人に宿を提供してもらったのだ。 その時は子犬はおらず、確か大型犬が二頭だったと記憶している。 その時にいたはずのもう一頭が見当たらないので老人に聞いてみると、彼は表情を変えずに言った。 「死んだよ」 「・・・そうでしたか」 老人の当然の事のような物言いに多少面食らいながらも、カタリナは首を垂れる。 宵闇の国の住民は、死に関する観念もまた自分たちとは別なのだろうか。ふと、そんな事を考えながらじゃれ付く子犬を撫でた。 そのまま一言二言だけ交わし、カタリナはその場を立ち去った。名残惜しそうに彼女を見つめながら尻尾を振る子犬を背にして宿屋通りまで戻ったカタリナは、中央広場を今度は入口方面に折れていく。 居並ぶ服飾店も今はすっかり閑古鳥が鳴いているようで、窓から店内を覗いても店員も見当たらない。降り注ぐ雪以外には何の動きもないその光景を見ていると、まるでここも時間が止まってしまったかのように感じる。 そんなことを思いながら歩いて行った先には、やはり一年前と何も変わらぬ様子でひっそりと宝飾類を飾り並べた店の軒先が見えて来た。 「いらっしゃいませ。あら・・・貴女は確か、目利きのお嬢さんね」 「・・・覚えて下さっていたのですか。どうも、お久しぶりです」 以前と全く変わらぬ様子の店主である老淑女に、カタリナは会釈を返す。 こちらもまた、一年前に立ち寄った場所であった。 ここの宝飾類は品揃えが見事であったことを覚えていたので、また立ち寄りたいと彼女は考えていたのだ。ロアーヌで待つモニカへの手土産には、此処以上の場所が思いつかない。 「ふふ、中央通りを抜けてこんな町の外れまで足を延ばすお客様はそんなに多くないですもの。その上貴女ほどの選別眼をもった人なら、当然覚えているわ」 「・・・光栄です」 以前とは違ったデザインも散見される宝飾台をゆっくりと眺めながら、一年前に購入したものは送り主にも非常に好評であったことを店主に伝える。すると店主は上品に笑みを浮かべ、今年入荷したという新作を踏まえて幾つかの商品を並べながらそれぞれの特徴を語っていった。 どれも素晴らしい細工のものばかりであったが、矢張り原石の持ち味を良く表しているシンプルなものに目がいく。 「では・・・これとこれ、あと、こちらも頂けますか?」 「まぁ・・・相変わらず良い目でいらっしゃるわね。今回は、男性へのプレゼントかしら?」 今回彼女が選んだのは三つの装飾品だ。確かに三つ目は男性が身につけても可笑しくないシンプルなものだが、流石にこの店主は聡い。 カタリナは何となく気恥ずかしさを感じて笑みを浮かべながら会釈で誤魔化し、以前と同じく相場に比べて安価な代金を支払い店を後にした。 携帯していた鞄に購入品を仕舞い、ゆっくりとした足取りで町の中央通りへと歩いて行く。 道中ふと空を見上げれば、街を包む宵闇が視界に揺らめいた。 ふんわりと舞い降りてくる小さな雪の結晶を見つめ、自らの目前に降り注ぐそれを手のひらで受け止めようとする。 その時、世界が唐突に揺れた。 (・・・何!?) 驚きの表情を浮かべながら、慌てて姿勢を保とうとする。体勢が安定し辛い雪道で姿勢を低くしながら体の均衡を保つようにしている間、時間にすれば数秒程だろうか。視界が細かく縦横に揺れた。 (地震か・・・珍しいな・・・) 揺れが漸く治まってきた頃合いを確認し、カタリナはゆっくりと姿勢を戻した。 周囲を見渡すと、積雪地域に良くあるとんがり屋根に積もっていた雪が道端に落ちており、近くの店の軒先に吊るされた看板はまだ揺れている。 街の様子を観察しつつ余震があるかも知れないと多少警戒をしながら中央通りまで歩いたカタリナは、そこで何やら前方が騒がしいことに気がつき、視線を送る。 それは、彼女らが世話になる予定だった宿舎の方向だった。 「・・・さーて、どうするかー」 抱えていた荷物を勢いよく地面に下ろして一息つき、コリンズは後方に向き直った。 そこには、先の地震によって倒壊を起こした宿舎の木片が折り重なっていた。これらは倒壊直後にロアーヌ騎士団によって周辺家屋や通行の邪魔にならぬように集められたものだった。 地震が治まってからここまでの作業は小一時間ほど。自分たちの荷物と隣接する宿が置いていた荷物も可能な限りは引き出したところで、宿の人間が用意してくれたホットワインで体を温めながら騎士達は一箇所に集まった。 「改めて、今日の寝床はどうしたものか」 ブラッドレーがそう言うと、騎士団の面々は方々で唸った。 残念ながら皆が生粋のロアーヌ民であり、この辺りの土地勘も知り合いもないので、そのあたりは頼れない。 中央広場からは「宿屋通り」と言われる一画が存在しているが、この時期は運営しておらず、所有者はその大半が出稼ぎに出ているのか利用交渉も抑もできない。 「流石に、ここで野営は厳しいな。凍えてしまう。かと言って、この人数で泊まれる場所なんてなぁ・・・」 タウラスがホットワインを口に含んで、そう言った。それは変わりようのない事実で、皆が一様に項垂れる。 「カマクラでも作るか!あったかいらしいぞ」 「・・・お前のその楽観も、今は指摘する気にならんなぁ」 「なんだと!?」 パットンの思いつきにタウラスが疲れた表情で反応すると、それにパットンが突っかかる。しかし寒さ故かそれも長続きはせず、直ぐまた方策を求めて唸り始めた。 そこで皆と同じくホットワインを飲みながら荷物の上に座って唸っていたカタリナは、唐突に、その場の空気が変わったことを感じ取った。 自分たちを包み込む宵闇が、その『濃度』を増したように感じられたのだ。 そしてそれと同時、その場に珍客が現れたことを察知して思わず身震いをしながら立ち上がった。 「・・・おや、これはこれはカタリナ様。お久しゅう御座います」 カタリナが振り返った先には、態とらしく(まるで、さも人間であるかのように)寒気除けの暖かそうなコートを羽織った老年の紳士が立っていた。 カタリナは全身に感じる強烈な違和感をものの数秒でなんとか押さえ込み、平然とした風に直立して老紳士に向かい合った。 「・・・ご無沙汰しております。して、レオニード城の執事である貴方が、何故此方へ?」 カタリナとその老紳士を交互に見ている他のロアーヌ騎士の皆の前で、会話が続く。 「先に、地震がありましたので。伯爵様が城下町の様子を気にかけておられましたものですから」 「・・・そうですか。隅々まで確認したわけではありませんが、目に見えた被害はここだけの模様です」 道の端に積み上げられた瓦礫に一瞬だけ視線を向けながら地震後ここまでの状況を軽く説明するカタリナに、老執事は薄く頷いた。 「左様でしたか。それは我らポドールイの民を手助けして頂き、誠に有難う御座います」 そう言って深々とお辞儀をする老執事に会釈を返したカタリナに、すくりと上半身を起き上がらせた老執事は優雅に腕を伸ばした後に、考え込むようにそっと自らの顎に指を当てた。そのあまりに自然で不自然な光景にカタリナが以前と変わらず違和感を感じていると、老執事はカタリナを、そしてその他のロアーヌ騎士達を見つめて言った。 「して、その話からすると・・・我らを助けてくださった英雄が今宵安らかに休める場所を確保できていないものとお見受け致します。それでしたら、如何でしょう。我らが城へいらしては。伯爵様も歓迎されることでしょう」 老執事のその申し出に、思わずカタリナはぎょっとする。あの城に、泊まるというのか。そんな事をして自分たちは、果たして正気のまま戻ってくることができるのだろうか。 背後で他の皆がこの老執事の申し出を有難がっているのを余所にカタリナだけが一人戦慄気味にそのような事を考えていると、まるで老執事はそんな彼女の思考を理解しているかのように自然な笑みを浮かべて見せた。 「ご心配なく。無事に舞踏会を終え、我が城と我が同胞は安らいでおります。あの城が少々騒がしくなるのは、年に一度、舞踏会の時のみ。今は、心身ともに安らかにお休み頂けましょう」 そう言って不気味な微笑みを絶やさぬ老執事に、カタリナは数度の瞬きの後、折れるように小さく頷いた。 「・・・申し出、有り難く思います。是非、お言葉に甘えさせて頂いて宜しいでしょうか」 「ええ。それでは早速、御案内いたしましょう。ロアーヌと此処では気温が違いますからな、冷えすぎても体に毒でしょうからな」 カタリナの言葉に満足そうに頷いた老執事か踵を返しゆっくりと歩き出すと、ロアーヌ騎士団の面々は荷物を持ち上げてその後に続いた。 「編成はどうする?」 「予定通り五人編成を三部隊でいこう。内訳は・・・」 城の一室を借りてブラッドレーを中心に円陣を組みながら軍議が開かれる中、胸の下で腕を組みつつ直立姿勢でそれに耳を傾ける振りをしながらカタリナはなぜこのような事になってしまったのか、とばかり己に問うていた。 事の始まりは、地震。そう、地震であった。 その地震のおかげで元々の宿泊予定だった城下町の宿舎が崩れ、執事の厚意もあり恐れ多くもレオニード城に宿を求める事になったのだ。 そして本遠征の折り返し地点であるこのポドールイでは、元来戦闘演習用の洞窟があり、そこで少人数編成部隊運用の演習をしてからロアーヌへと帰還する予定であった。その内容としては古来伝統的な五人編成を一括りとした部隊編成でその洞窟を攻略し、最深部まで行って戻ってくる、というものだ。 この洞窟周辺も無論、領地管理は伯爵たるレオニードが行なっている。なので伝統的に遠征軍はレオニードに謁見してからその洞窟へと向かうのだ。 しかし、ここで第二の誤算が発生した。 先の地震により、この演習用洞窟までもが内部崩落を起こしたというのだ。その事実は、一夜の宿の御礼とともに演習実施の報告を行いにブラッドレーがレオニードに謁見した際に発覚した。 レオニードはその席で崩落の事実をブラッドレーに伝え、そして彼が押し黙り今後の動きについて考えているところにある一つの提案をしたのであった。 「しかし、この城の地下ってのはそんな物々しい場所なのか?」 コリンズは、そういいながらカタリナへと視線を向けた。それに倣ってその場の全員から視線を受けたカタリナは、言葉に詰まる。 レオニードが提案してきた内容というのは、なんとこのレオニード城の地下空間を演習に利用してはどうか、というものだった。 曰く『しばらく使っていない間に、どうも地狼か何かが住み着いている気配があってね。城のものではなかなか手が出せず困っていたところでもある。どうだろう、謝礼も出すのでここはひとつ、演習代わりに地狼討伐を引き受けてはくれないかな?』だそうだ。 「え、まぁ・・・ちょっと、物騒・・・かしら」 実際のところはちょっとどころではないのだが、確かに一年前に彼女が訪れた時よりは、城内に漂っていた甘く優しく強制的に包み込んでくるような感覚は薄い。これならば以前のような危険は少ないかもしれない。 それにレオニードは、少なくとも今の時点の彼女の私見では無益な殺生を好むタイプではない。ロアーヌとの関係値もあるわけであるし、そう滅多な提案はして来ないだろう。そう踏んだカタリナは、でも大丈夫よ、と周囲に微笑んで見せた。 それをみて頷き返したブラッドレーが話を続ける。 「伯爵様からお預かりした見取り図によれば、地下部分も大きく分けて三つに分かれているようだ。地下水脈、焉道、地下墓地・・・だな。伯爵様は地下水脈あたりの地狼を駆除してくれればいいと仰っていたが、一晩の寝床の恩もある。三部隊でそれぞれ範囲を分けて、行けるところまで駆除を行いながら進んでいこうと思う」 「それならうちの部隊は当然地下墓地だな。最終地っぽいし」 パットンがそう言うと、珍しくタウラスも即座に同意した。 「そうだな。ブラッドレーにコリンズ、それにお前と俺とあとはカタリナとなれば、この部隊が群を抜いて練度が高い。担当については異論はないな」 「だろ? ならあとは陣形どうする?」 「あー・・・俺、一度あれやってみたいんだよな。インペリアルクロス」 「うわでた。ほんとアバ伝好きだなーお前。しかしまぁあの陣形は今でこそ軍事採用されてないが、確かにバランス良さそうだな!」 「だと思うんだ。俺のパリイはあの陣形でこそ真価を発揮すると思うんだよ!」 こうなると存外仲が良いタウラスとパットンは、なにやら共通の話題で盛り上がっているようだ。 カタリナはそんな二人や他部隊への指示に動いているブラッドレーらを横目に、改めて地図に目を落とした。 (・・・礼拝堂からの入り口ではなくなっているわね。まぁあそこ通ったら拷問器具がある地下牢だから、流石に見せたくはない、か。しかし本当に大丈夫なのかしら・・・今更だけど心配になってきたわ・・・) カタリナのそんな心配をよそに演習会議は滞りなく進み、間も無く演習開始の運びとなった。 先ほどから絶え間なく鼻をつく異臭は、一体何のものなのか。それは至る所に散見される腐った水と、血と、屍肉と。はたまた、それに群がる齧歯類の糞尿のものか。何れにせよ、それは魑魅魍魎の如き姿の妖魔を相手に此処まで進軍して来た若きロアーヌの精鋭たちをより一層に疲弊させるには十分なものだ。 一言で言えば、情勢は最悪であった。 先行部隊及び追従部隊は初期の地下水脈すら攻略できずに、おめおめと逃げ帰ってきた。 しかしカタリナ達にも、それを責めることは出来なかった。なにしろ、そこにいたのは件の地狼だけではなかったのだ。闇に紛れて強襲をかけて来る巨大な蝙蝠や遥か昔の地層からアビスの瘴気に中てられて動き出した骸骨、同じく瘴気に狂った水霊等、訓練生上がりの若手が相手をするには荷が勝ちすぎていた。 そこで急遽ブラッドレーは自部隊を先頭に配置。後続二部隊を行軍補助、補給地点確保に回し、全部隊一丸となっての攻略に作戦の変更をした。 現状はこの作戦変更が功を奏し、結果ロアーヌ騎士団は地下墓地までの進軍を成功させるに至った。 腐った土を盛ってそこに松明を突き刺し、その場の全員がやっとの思いで腰を下ろす。彼らの先に口を開けている空間は、今いる場所よりも更に深く暗い闇を抱いている。瘴気も一段と濃さを増しており、この先はこれまでの比ではない攻略難度を誇るであろうことが容易に伺えた。 「各自装備の点検を終えたら行くぞ。長期滞在は瘴気にやられそうだ。また、現存する前衛の傷薬が消費された時点で本演習を終了とする。備なしに進むには、ここは危険すぎる」 ブラッドレーの指示に全員が浅く頷き、手早く損傷の確認を行う。 演習用に用意した傷薬はその大多数が既に消費されており、城主レオニードから餞別に頂戴した高級傷薬も前線部隊各員に既に配布済みとなっていた。あとは補給線確保部隊が多少残すのみとなっている。 因みに、特に敵の第一撃を受け止めるタウラスはその消費速度が最も高く、彼だけ少々消毒液臭い。 短い休息を終えて迅速に準備を整えた部隊一行は、地下墓地へと足を踏み入れる。 「・・・やべぇな、これ」 深淵の如き空間へと立ち入り数歩進んだコリンズが、堪らずそう呟く。 その言葉に全力で同意する様に、他の四人も唾を飲み込んだ。 重く、只管に重く黒く濁った瘴気。それが暗い通路内に満ち満ちている。 全員がその瘴気をかき分ける様にして一歩ずつ進むが、今まで感じたことのない様などす黒い瘴気に、全身が『これ以上進んではならない』と危険信号を発しているのがわかる。 (幼い頃に見た死蝕とは違うけれど・・・これはもっと暗い・・・絶望。そう、誰かの絶望が形取られた様な・・・そんな瘴気) 隊列の中央に位置しながら歩みを進めていたカタリナは、この深淵をそのように感じ取っていた。 地下墓地とは、名の通りならば誰かの墓地であろうか。その誰かの死に絶望した者の意識が、この空間に満ちているのかもしれない。それは、ひょっとしたらこのポドールイの伯爵家に連なる何者かであろうか。 しかし、伯爵家は遥か昔からレオニードその人が当主として座している。そうなれば、一体ここにある絶望とは、誰の、何のものなのであろうか。 周囲の警戒は怠らずにそのようなことを考えながら、それでも果敢に隊は進んで行く。 そして永遠にも思える暗い道のその先に、唐突に明かりのないどす黒くて広い空間が現れた。 間違いない。この空間に、地下墓地の主がいる。そう五人は感じ取った。 そういえば、ここまでの出鱈目な瘴気の渦の最中、何故か唯の一度も妖魔と遭遇することはなかった。それはきっと、ここの空間の主が静寂を好むからなのだろう。そうでもなければ、こんな馬鹿げた濃度の瘴気の中で何も起きないことの理由が全く以て説明できないのだ。 だが、ここまで無作法にも戦装束で侵攻して来た余所者に、主がいつまでも座して待っているはずも無い。 「・・・くるわよ!」 漆黒の闇の中に浮かび上がったのは、身の丈が人の倍はありそうな、骨のみに朽ちたガーゴイルの体。其れが、凸陣を成して三体。そして、その上には朽ちかけた宵闇の外套を纏った髑髏姿の異形の化け物が此方を見下ろしていた。 そのあまりに異様な姿に騎士達が度肝を抜かれていたその刹那、異形の化け物はその巨体から全く想像できないほど素早く突進を繰り出して来た。 「うがっ!!?」 分厚い金属を打ち砕くような凄まじい衝突音と共に、最前列にいたタウラスが全身鎧を纏ったまま構えた盾ごと軽々と後方へ吹き飛ばされる。 それにカタリナが気づいたのはタウラスが自分の横を吹き飛んで行く様を横目に見ての事だったが、しかし負傷したであろう彼の元へと駆け寄る余裕など全く無かった。 既に異形の化け物は、第二波を繰り出そうと彼女に狙いを定めていたからだ。 (・・・回避・・・出来ない・・・!) タウラスに比べカタリナは軽装であるが、今まさに繰り出されんとする異形の一撃はこの暗闇の中でも余りに素早く正確で、彼女の素早さを以てしても回避できる未来が全く想像できなかった。 「・・・ッ、マスカレイド!!」 突撃してくる巨大なる異形に対し、カタリナは軽く後方に飛ぶように地を蹴り、手にしたマスカレイドを振り抜いた。 直後、先ほどのタウラスと同じようにカタリナが後方に吹き飛ぶ。だが顕現した紅い刀身が重い一撃を受け止め、そして予め後方に飛んだ事で衝撃そのものはほぼ受け流すことに辛くも成功していた。 空中でなんとか姿勢を持ち直し飛ばされた先の壁に両足をついたカタリナは、間髪を入れず横に飛ぶ。 そこに一瞬遅れて異形の巨大な拳が大きな破砕音と共に打ち込まれ、壁面が砕け飛ぶ。 「うおおおおお!!」 その隙を突き、コリンズ、パットン、ブラッドレーが陣を成す三体のガーゴイルの足に其々斬りかかる。 そして狙い通り三体のガーゴイルの足を切り飛ばすと、そのまま崩れるように凸陣は解かれた。 するとガーゴイルの上に乗っていた髑髏の異形が崩れるガーゴイルを足蹴にしながら後方に跳び退り、その何も映し出さない空虚なる眼底をガーゴイルを斬りつけた騎士達へと向けた。 そして次の瞬間、髑髏が突き出した左の手から、何かが噴き出し始める。 それが何なのかを騎士らが確認する前に、突如として強烈な目眩に彼らは襲われた。 「・・・ツ、これを吸い込むな!」 ブラッドレーがその場の全員に知らせるように叫ぶ。だがそうして口を開いた拍子に彼が最も吸い込み、猛烈に咳き込んで間も無くその場に倒れこんでしまう。 慌てて口元を押さえながらコリンズとパットンが倒れている二人を庇うように布陣するが、しかし片腕で口元を押さえていても呼吸をしている以上は徐々に吸い込んで行くのか、二人もそう間を置かずに膝から崩れ落ちてしまった。 (・・・くっ・・・私も少し吸い込んだか・・・。まずい・・・この状況、どうすれば・・・) 彼らとは離れた場所に着地していたカタリナは、髑髏の繰り出した謎の攻撃を直接は浴びずに済んでいた。だが、軽い目眩を覚えたことから、多少の損害はあるようだった。そしてその損害の有無に関わらず、状況はあまりに絶望的だ。既に仲間の騎士は四人が倒れ、次には自分に向かって今の攻撃が放たれるのも時間の問題。なんとかしてあの攻撃を回避する方法はないものか。刹那の間に考えを巡らせる。 だが今の彼女が持ちうる手札に、そんな方法は何も思い浮かばなかった。そもそも倒れた騎士達が何をされたのかすら、不明なのだ。 (・・・恐らくは毒、のようなもの。吸い込むな、とブラッドレーが叫んでいた・・・。気体か、粉末に近いようなものか。いずれにせよ、私にはそれを防護する装備はない・・・。しかも時間が経てば経つほど毒が回っていく感覚がある・・・だとしたら、先手必勝しか・・・!) 大剣マスカレイドの柄を両手で握りしめ、軽い目眩を振り払うようにして軽く頭を振り、いざ突撃せんとしてカタリナは身を低く構えた。 だが、彼女が飛び出すより一瞬早く、彼女と髑髏の間に宵闇の外套を纏った人物が颯爽と舞い降りた。 「助太刀しよう」 「・・・は、伯爵様!?」 緋色の髪を靡かせながら突如として現れたのは、なんと城主レオニードだった。 カタリナが驚きの声をあげると、レオニードは彼女に対して下がるよう指示を出し剣帯からレイピアを抜き放つ。 「あれは、死人ゴケだ。生身の人間が肺に吸い込むか肌に大量に付着すると、そこから全身が毒され次第に正気を失い、やがて死に至る」 洒落にもならないその言葉に、しかし冗談のような雰囲気は微塵もない。カタリナは突撃体勢を解き、言われるままに後ろに下がった。 それとは対照的に一歩前へと進んだレオニードは、突き出したレイピアで威嚇するようにしながら髑髏に対峙する。 髑髏は何故かそれ以上死人ゴケとやらを吐き出すことはなく、レオニードも髑髏を睨むばかりで動かない。そうした膠着状態が、しばしの間続いた。 (何かの力の応酬が、彼らの間にあるみたい・・・。悍ましいほどの瘴気が彼らの間で、なにか目的をなして蠢いているような、そんな感覚・・・) カタリナはマスカレイドの大剣化を解き、堪らず地に膝をつきながらそのように感じた。このとてつもない量の瘴気に当てられたのか、または先の死人ゴケというもののせいなのか、体がうまく言うことを訊かなくなってきている。両者は未だ動かないが、この状態が長く続けば自分は元より、先に倒れた四人がより危険に思われた。 そして彼女がそのような事に思いを巡らせた刹那、場の膠着を破ったのは、対峙する両者ではなかった。 『グォォォオオオオオオッ!!!』 コリンズらに足を切り飛ばされたはずのガーゴイルの骸骨三体がここにきて足の再生を果たし、側面からレオニードに襲いかかってきたのだ。 だが、それに対してレオニードは姿勢を崩さず一歩も動くこともなく、そのガーゴイルを一瞥しただけだった。 それで、ガーゴイルは止まった。 それは、後ろでその光景を見ているカタリナですら思わず背筋が凍るほどの、圧倒的な支配。王たる彼の一瞥だけでガーゴイル達はその力を理解し、畏れ、戦意を喪失してしまった。 彼の視線が動いた事で揺らいだ瘴気に触れただけで、カタリナは途轍もない悪寒を感じた。それが真正面から繰り出されたのだとしたら、果たして正気を保つことなど出来るものなのだろうか。 ガーゴイルが止まったことに大した興味も抱かず視線を異形の髑髏に戻したレオニードは、次には何故かレイピアを下ろしながら口を開いた。 「・・・やはり、私の不死者に対する支配も貴方には通じぬか。ここは長引くのが本意ではない。この場は退かせよう。それでよいかな?」 レオニードがまるで異形の髑髏に話しかけるようにそう言うと、髑髏はしばし動かずにいたものの、次の瞬間には闇の中にするりと姿を消していった。それと同時に、ガーゴイルたちも一瞬にして崩れ、塵となった。 その様子を見届けたレオニードは抜き身のレイピアを鞘に仕舞い、渦巻く瘴気の中で場違いなほど優雅にカタリナへと振り返る。 「よく此処まで来たものだ。君も彼らも、やはり人間においては非常に優秀なのだな」 レオニードはまるで世間話でもしているかのように、そう言った。だが、カタリナが確認できたのはそこまでだった。彼女の意識は既に毒に侵され、朦朧としていたのだ。 そしてこちらに近づいて来るレオニードの姿をぼんやりと映し出したのが、彼女がみたそこでの最後の光景だった。限界を迎えた彼女の体は全身が一斉に崩れ落ち、それと共に世界は暗転していった。 身体が、燃えている。 いや、燃えているのは自分ではなかった。自分ではない誰かが燃えているのを、自分は見ているのだ。 燃える何者かの周囲には人があつまり、その燃える身体をずっと見続けていた。自分は、さらに離れた場所からそれを見ている。 それは、とても悲しい光景であった。何故あれは燃えているのか。何故周りの人間はそれを見ているだけなのか。何故自分もまた、それを見ているだけなのか。 悲しい。この世の全てが、ただただひたすらに悲しい。 憎い。この世の全てが、ただただひたすらに憎い。 だが、もういい。何もなかった事にしょう。全部、喰らうとしよう。 そこで、ぷっつりと光は途切れた。 「目が覚めたようだね・・・何を、泣いているのだ?」 うっすらと目を開ければ、目に映ったのは、天蓋。左に顔を向ければ、窓のない部屋に閉鎖感を感じさせぬように絵画や置物があり、次に右へと向けば、そこには小さなテーブルの上にワイングラスが乗っており、そのすぐ横には、緋色の艶やかな長髪を靡かせたレオニードが随分と寛いだ様子で椅子に腰掛け、こちらを見下ろしていた。 そして、ひんやりと目尻を伝う感覚に、そこで初めて自分が涙を流していることにも気がついた。 「・・・ここは」 「君は以前にも来たことがあるはずだ。城の地下にある、私の私室だよ」 もう一度、部屋を見渡す。言われてみれば、確かに見覚えがある調度品の数々だった。一年前には横目に眺めた天蓋付きベッドの寝心地はこういうものだったのか等と場違いに思い耽り、そしてレオニードへと向き直った。 「・・・他の騎士達は、どうなりましたでしょうか」 「案ずるな。全員無事だ。今は我が城の者達が治癒をしているよ。しかし生きた人間の世話をするのが久しいようだから、四苦八苦しているようだがね」 真顔でレオニードがそう応える。これはポドーリアンジョークの類だろうか。しかしジョークにしては随分とタチが悪いなと感じたが、そこは追求せずに素直に礼を述べ、ゆっくりと上半身を起こそうとした。そこで初めて自分が一糸まとわぬ姿であることに気がつき、努めて冷静を装いつつ胸元を隠すように寝具で覆いながら起き上がった。 「・・・あの、伯爵様、恐れ入ります」 「ふむ、なんだね」 体に特に異変がないことを心中で確認しつつ、レオニードに話しかける。彼は優雅にワインを傾けながら、気安く返事を返してくれた。あまりにこの状況を当たり前のように振舞っているが、駄目だ。この空気に、易々と流されてはいけない。 「何故、私はここにいるのでしょうか・・・?」 他の騎士達と共に寝かされているのならばいざ知らず、なぜ彼女だけが一人、城主レオニードの私室で寝ているのか。しかも、全裸である。それは当然に感じるべき、大いなる違和感であった。 特に体に違和感を感じてはいないが、よもや自分は既に吸血鬼にさせられてしまったのか。そんな不安も過るが、さもそれを見透かすようにレオニードは薄っすらと笑みを浮かべながら膝の上で手を組んでみせた。 「城の者が君をここまで運び、治癒を施した。君がどうやら、この城の深淵に縁があると感じたようだ。因みに、私は意識の無い者に手をかける様な無粋者ではないから、安心してよい」 「・・・そうでしたか、重ね重ね、有難う御座います」 どうにも自分がここにいる理由になっているのか彼女にはいまいち分かりかねる返答であったが、聞き直しても同じ様な答えしか返ってこなさそうでもあったので、彼女はそのまま飲み込むことにした。取り敢えず吸血鬼にはなっていないらしいので、それで良しとすることにしたのだ。 そして、次にはレオニードが差し出して来たハンカチをみて、そういえば自分は涙を流していたのだということを思い出した。浅くお辞儀をしながらそれを受け取り、目尻を拭う。もう既に涙は止まり彼女の感情を揺さぶるものはなかったが、彼女は起き上がる寸前まで見ていた夢のことを、目の前の人物に話そうと思った。 「夢を、見ました。誰かが・・・燃えている夢でした。私は、それを見ているだけでした」 妙に、生々しい夢だった。鮮明に燃え揺れる炎の揺らめきを覚えている。その熱さを、肌が感じたことも。そして燃える何者かの周りにいた人々の、狂気が入り混じった声を。そして、その光景がどれほど悲しいもので、どれほど憎いものだったか。己の内に渦巻いた絶望が、如何に大きなものだったのか。 レオニードは、カタリナのその話を静かに聞いているだけだった。そしてカタリナが夢に見た光景を話し終えると、テーブルに用意してあった真水をカタリナに勧め、自分はワインを一口、口に含む。 「・・・恐らくは地下で出会った『あれ』の瘴気に当てられて、そんな幻覚を見たのだろう」 「幻覚・・・ですか」 「そう、幻覚だよ。恐らくそれは、『あれ』の記憶だ」 ひとりでにワインのデカンタが浮かび上がり、レオニードの手元のグラスに中身を注いでいく。そんな非現実的な光景を、ここならば当然こんなこともあるだろうと特に気にもとめずに横目に見ながら、カタリナはレオニードの言葉の続きを待った。 「『あれ』は、私の父だよ」 そう短く言い切ったレオニードの言葉に、カタリナは何故だか妙に得心した。あのような異形の存在を親だと告げられたら普通ならば飛び上がるほど驚き、そして恐れ慄くといういものだろう。しかし彼女には、全くそのような気は起きなかった。それは、夢の中で感じた、あれの心象に触れたからだろうか。 その様子に何処か満足気にも見える表情で頷いてみせたレオニードは、ワイングラスを片手に言葉を続ける。 彼の父親は、彼と同じく夜の眷属であった。 彼らの眷属は平時の姿形が人に近く、しかし人では非る者。彼ら夜の眷属は人の歴史の裏側に潜む様にして、常に人と共に存在し続けていた。 彼らは不老不死の肉体を持ち、数年に一度、時折思い出した様に腹を空かせて人を喰らう。そして喰らえばまた闇に潜み、夜に世界を揺蕩う。そうして、永劫の時間を蠢き続ける者達。それが夜の眷属だった。 彼らは基本的に繁殖をすることがない。己が朽ちる前に子孫を残し種を生き繋ぐという行動原理が、不老不死たる彼らには存在していないからだ。 故に彼らには新たな個体が産まれることはなく、その数は常に一定。その眷属は、世に数体しか存在しない者だった。 ある時、一つの個体が人里に降り立った。『食事』をする為だった。彼らは食事の際、人間社会で云うところの『旅人』を装い、人間の集まりの中に潜み、そして選定した獲物を闇に乗じて狩る。 だが彼−この個体の姿形はまるっきり人間の青年だったので、彼、とする−が潜んだ村は、流行病の疫病に侵され、村全体が殆ど死に体となっていた。 彼は、空腹だった。だが、このような状況では食事どころではない。疫病に冒された人間達はどれもがとても不味そうで、これでは食えたものではないと感じた。かといって今から雪深いその村を去り別の人間の集まる場所へと向かうのも、とても骨の折れる話だった。 そこで、彼はふと考えた。 彼らは悠久の時を生きるが故に、蓄える知識量も経験も、人間の比ではない。つまり彼は、今目の前の人間達が訳も分からず苦しんでいる疫病の治癒に関しての知識も、持ち合わせていた。 だから彼は、他所に移動する面倒よりもこの病に倒れた人間を治し、そして食そうと、そう考えたのだ。 熱帯や亜熱帯の地方と違って寒冷地には、通常の疫病は殆ど流行らない。菌類が媒介となる生物を通じて感染し辛いからだ。そもそも疫病を細菌が齎す物だということも人間は知らないようだが、彼は知っていた。だからこうして寒冷地で流行する病気は殆ど種類がなく、一つの解決方法さえ知っていれば何の事は無い代物だった。 彼はそれこそ瞬く間に村の人間らを全て治してしまった。 村の人間は、彼を神の御使いと讃えた。人々は彼を囲い、祝い、祭り上げた。 彼は特段それに気をよくしたわけでもなかったが、しかしこの状況は非常に便利なのではないか、とは感じた。 この状況を利用できるものかと思い彼は試しに、人間の中から一人を選び差し出すように、要求をしてみた。人間は、若い女の肉が最も柔らかく食べやすい。だから、若い女の贄を要求した。 するとどうだ。その集団のなかの年頃の娘達は、我先にと名乗り出て来たのであった。これは彼にとって、とても興味深いことだった。これならば自分がここに居続ける限り、食事が非常に楽になるのではないか。そう考えた。 そして彼は、その地に城を築くことにした。そして城に招かれた若き娘は、外に出ることは叶わないが、永遠の幸福を約束される。そのように村人に伝えた。 彼がそうした動きをし始めると、彼の眷属も興味を持ち、その地に集まった。城が築かれ、そこには夜の眷属が住まい、毎年若い娘を一人差し出すことによってその地の繁栄を約束するようになった。 村は城下町となり、そこはやがて、ポドールイという国となった。 城に召し上げられる娘達は、毎年喜んでその身を捧げた。永遠という地獄をよくもまぁ求めるものだ、と、城の主人となった彼は思ったものだった。 そしてある年、一人の娘が城に召し上げられた。 その娘は、今までの娘と違い、彼に対して怯えた。私は永遠など欲しくは無いのです。そう、彼に告げたのだった。彼は今までと違う反応を示したその娘に小さな関心を抱き、直ぐには喰らわず娘を観察することにした。 永遠を拒否した娘は、甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をした。人間以外を食したことのない彼が少女の作る料理を初めて口にした時など、今まで食べたどの人間よりも豊かな味だと感じた。だが、それで飢えは凌げなかった。そして、用意されたワインを飲んだ。まるで血の色のようなその飲み物は、しかし血などとはまったく違う果実味溢れる味わいで、彼は血が無いときに血の代わりに飲むのならばこれしかないと確信したほどだ。だが、これでも飢えは凌げなかった。 娘は、永遠を恐れつつも、一方で彼を慕った。彼は自分を慕う娘を食すことを、いつの間にか考えなくなった。 そして彼は娘と、子を成した。夜の眷属と人間の混血が誕生したのだ。玉のような赤子を産んだ娘はとても喜び、彼もそんな娘と赤子を見て己の行為と思想の変化を興味深く思った。 だが彼は、食事をしなくなってから己の中の何かが時折酷く疼くようになっているのを感じていた。 日に日に窶れ時折正気を失ったように暴れるようになった彼に対し、娘は自分を喰らって欲しいと申し出た。しかし彼は、それを拒否した。だが、頭で拒否ししようとも黒い衝動が、娘の華奢な体をいつ引き裂いてしまうか、彼には分からなかった。 だから、彼は娘を城の外に逃がす事にした。そして同じ眷属のものに対し、自分が正気を失ったら滅してほしいと願い出た。彼の眷属は彼が何故そのような決断に至ったのか理解できなかったが、承諾した。 そのまま彼は滅ぶつもりだったのだ。それで自分は娘を、人を喰らわずに済む。そう考えた。 だが、彼よりも先に娘は死んだ。 永遠なる幸を約束された城から歴史上ただ一人舞い戻った娘を、民は平穏を乱す凶兆と捉えたのだ。 魔女として捕らえられた娘は、火刑に処された。 娘が燃える最中に騒ぎを聞きつけ城下町へと駆けつけた彼は、そこで生まれて初めて涙というものを流した。涙とともに叫び、怒り狂い、異形へと変貌した。そしてその場の人間を片っ端から喰い千切る中、彼の言葉を聞き届けた他の眷属により、願い通りに滅ぼされた。 だが彼の断末魔の怨念は彼の朽ちた肉体を真なる不死者へと変貌させ、その地にその魂を留まらせた。彼の眷属は、そうして不死者となった彼を、城の地下深くに封印した。彼らを以てしても、もはや彼を滅することは叶わなかったのだ。 「ふふ、退屈な話をしてしまったかな?」 「・・・いえ、お聞きできてよかったです。私の中に流れ込んできた感情の一端の正体が、分かりました」 カタリナがそういって頭をさげると、レオニードは微かに笑みを浮かべながらワイングラスを傾けた。 「私は、いずれ父を滅する。だがこの数百年は、力を付けども付けども、あれを滅することは叶わない。聖なる力が効くのかとも考えたが、どうやらそういうわけでも無いようでね。かの聖杯を以てしても、あの存在を消し去ることは出来なかった」 空になったワイングラスをテーブルに置き、レオニードはグラスを通じてその先をぼんやりと眺めるように視線を軽く落とした。 「だから、最近は考えを変えてみたのだ。力では滅せられぬのならば、他のなにかで父の怨念を解くことは出来ないものか、とね」 「・・・それでは、舞踏会はそのために・・・?」 カタリナが思わずそう呟くと、レオニードは首を傾けるようにしてカタリナに視線を送り、彼女をして思わずどきりとするほど妖艶な笑みを浮かべて見せた。 「まぁ、あれは実益も兼ねているがね。我が眷属は今や人を喰らうことはないが、血を欲する故、そのためでもある。そしていつか父が母を見出したように、私が我が眷属に大いなる変化を齎すことで・・・何かがわかるかもしれない、と」 レオニードが言わんとすることは、カタリナには全ては分からない。だが怨念というものが強い思念のことを指すのであれば、その元となった事象に対する何らかの解決方法を提示してやることでしか解放されることがないのは、理屈が解る気がする。そう思うと、今目の前にいる存在は確かに人間とは全く異なる生命であるものの、その魂の本質は同じところにあるのではないか。そのようにも、感じられてくる。 「そういえば、私は母の顔を覚えておらぬのだが・・・ここの執事長をしている者が君のことを、どことなく母に似ていると言っていたな。まぁ彼らに人間の顔の見分けがつくとは思わないから、大いに気のせいだと思うがね」 レオニードのその言葉に、カタリナは思わず二、三度瞬きをしてみせた。ひょっとして自分をここに連れてきたのは、その執事長ではないだろうか。 そんなことをカタリナが考えていると、レオニードはゆっくりと椅子から立ち上がった。 「さて、それでは私は失礼するとしよう。着替えはそこのクローゼットに入っているはずだ。準備が出来たら、上に来るといい」 一方的にそれだけいい、レオニードはさっさと部屋を後にしてしまった。 そうして一人部屋に残されたカタリナは、レオニードが去っていった扉をしばし眺めた後、徐に両手を広げて上半身をベッドに投げ出した。ぼすん、という音と共に柔らかな素材のベッドが彼女の全身を受け止めてくれ、その極上の寝心地は最高級の寝具のそれに間違いないと確信する。何も身につけていない状態でこのような行為、はしたないことこの上ない所業だと我ながら感じる。が、誰もいないから見られることもないというか、そもそもこの近くには生きた人間がいないのだから構うものか等と妙に開き直ったものだった。 目が覚めた直後にも確認したが、体には特に違和感を感じない。疲労もなければ、あの異形から受けた「死人ゴケ」とかいうものの後遺症らしきものもなにもない。状態は、至って正常そのものだ。 あの異形の化け物・・・レオニードの父は、あれほどの絶望とともに一体何年あの場所にいるのだろう。 ふと、当面の心配事がなくなった頭でそんなことを考える。 レオニードが生まれた直後だとしたら、通説では魔王とすら面識があるという噂を信ずるならば六百年は経っていることになる。そのような長い時間絶望に浸り続けた魂とは、果たして浄化するなどということが可能なものなのだろうか。 あまりに途方もなく想像のつかないその内容に、カタリナはすぐさま考えることをやめた。彼女が考えたところで、この事態はなにも進展しない。それにここは常しえの宵闇が支配する、時を刻むことを忘れた街だ。時間という概念がそのまま通用するものとも思えない。 ひょっとしたらこの宵闇は、そんな意味も持っているのだろうか。彼女がこの宵闇を優しいと感じたのは、これ自体が悲劇の二人の鎮魂を願ったものだからなのだろうか。 そんなふうに次々と無責任に浮かんで来る想像を振り切るように、カタリナは勢い良く起き上がり、そのままベッドから立ち上がった。そして、部屋の壁に設えられた大きなクローゼットに視線を向ける。 「・・・準備って、なにかしら」 その夜(といっても宵闇に覆われたポドールイには夜も何もないのだが)レオニード城では、城の地下の地狼を退治してくれたロアーヌ騎士たちに対して感謝の意を込めた、小さな宴が催された。 年に一度の舞踏会には及ばぬ規模だが、城の執事や給仕たちは総出でポドールイ伝統の持て成しをし、大いにロアーヌ騎士たちを歓迎した。騎士達もその時ばかりは戦装束を脱ぎ、スーツに身を包んでその宴を楽しんだ。 宴の最中には、特別に目立つ存在が二つ。 一人は城主レオニードで、彼は黒を基調とした燕尾服に、宵闇の外套を羽織ったいつものスタイルだ。 そしてもう一人は、妖しくも美しい真紅のドレスに身を包んだカタリナだった。彼女の纏う真紅のドレスは、まるで揺らめく炎のようだった。 それはポドールイの古い風習に則ったもので、この地では寒気が強くなる前に長い冬を無事過ごせることを願い、祭りが催される。そこでは毎年、その年に染められた中で一番深くて赤い色のドレスに身を包んだ地元の娘が、炎を前に踊るのだ。それは、過去に非情の死を遂げた一人の娘に対する鎮魂のためなのだというが、その娘が一体何者なのかは地元の人々でさえ、もう誰も知るものはいない。 そしてその赤いドレスの娘のダンスの相手役は、これも村に古くから伝わる宵闇の外套を纏った男性が務めるのが習わしだ。これも何故そのような格好で、これが誰を表しているのか、誰も知るものはいない。 まるで古い童話の中の世界のように二人が手を取り合い優雅に踊る様を騎士達は囲い、ある者は囃し立て、ある者は大いに嘆いた。 そうしてポドールイの宵闇は、いつ果てるとも分からず続いていく。 番外編一覧に戻る TOPに戻る
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「それでー、これが皆で撮ったプリクラ」 「うわー……近すぎじゃないですか?」 風紀委員一七七支部、そこで佐天は椅子の背もたれを抱えながら初春に携帯の画像を見せる。 画像とは、美琴、当麻、一方通行、佐天でダブルデートをした日に撮ったあのプリクラだ。そ の時は三種類をデータとしてQRコードで携帯に送ったのだが、今初春に見せているのは一方通 行渾身の出来のあの一枚だ。 「そっかなー? 御坂さんと上条さんも同じ感じじゃん?」 「でも御坂さんたちはお付き合いしてるんですよね?」 「え? まだしてないよ? 多分」 否定はしきれない。四人で遊んだ時はそんな風では無かったけど、あの後二人でどこかに行 った様だからもしかすると付き合い始めたのかもしれないし、相変わらずあの微妙な距離感な のかも知れない。 「それでもあの二人はもとから仲良かったじゃないですか。佐天さんはこの日に初めてこの男 の人に会ったんですよね? そう考えるとやっぱり近すぎますよー」 「いやぁー、この時はもう結構仲良くなれてたしさ。上条夫妻の雰囲気にも飲まれちゃったと 言うか」 「んーー」 初春が可愛らしく人差し指を唇にあて、ディスプレイを凝視している。頭の花は今日も元気 に咲いていた。悪戯で毟ってやろうかと佐天は手を伸ばしたが、途中で初春に気付かれて手を 払い落された。スカートは捲り放題な女の子のくせに頭の方はガードが堅い。女の子としてそ こはせめて逆なんじゃないかと言いたいが、言った後に初春のスカートガードが堅くなったら 佐天としては面白くないので黙っておく事にした。 「なに唸ってんの?」 椅子を立って、今度は背もたれでなく初春を抱きかかえるようにして後ろに立つ。頬をプニ プニと突いても初春は怒らないし、指でつまんで横に伸ばしても「ひゃめてくらはいよ」と言 うだけで抵抗はしない。頬をいじった流れのまま手を頭、というか花に持って行く。 やっぱり払い落とされた。 「これ、一方通行さん? に佐天さんの胸当たってませんか?」 「ふぇ?」 「かるーくですけど、ほらこの肘のとこが」 初春から携帯を奪い取る。今まで気付かなかったが確かに当たってるような当たってないよ うな微妙なラインだ。だが、見れば見る程怪しい。 「いやっ、でもこの時一方通行さんは何も言わなかったしっ」 「密かに佐天さんのおっぱいを楽しんでたかもですよ?」 「一方通行さんを変な風にゆーなっ!」 パチンと軽く初春の花……ではなく鼻にデコピンする。正確に鼻の頭を撃ち抜かれた初春は 両手で鼻を押さえて涙目で「うぅ~~、冗談じゃないですか~」と唸っていた。 佐天はディスプレイを待ち受け画面まで戻すと、携帯を閉じた。胸が当たっているか当たっ てないか。そんな事は一刻も早く忘れたいのだが、そう思えば思うほど思考はあの時当たって いたのか当たってなかったのかで埋め尽くされる。 画像を見る限りはグレーゾーンだがあの時は当たってたなんて全く思わなかった訳だから実 際当たってないとは思うが、でも今考えるとかすかに一方通行の肘が当たっていたような気も する。しかしもし当たっていたんなら一方通行の性格だったら「おィ、胸当たってンぞ」ぐら いは言ってきそうなものだし、でももしかしたら一方通行はむっつりスケベで当たってるのも 承知で黙ったたのかも知れないし、でももしあの時当てったいたとしたら当てに行ったのは一 方通行の肘を掴みに行った自分な自分な訳だからそう考えると一方通行は全然悪くない気がす るしでもでもそれならそれなら…… 佐天が思考の沼にはまって行く中、初春はデコピンの痛みから抜け出したのか支部に備え付 けてある電気ポットの前で二人分のお茶っ葉を急須に入れていた。 「佐天さん緑茶でいいですよね?」 「あぇ!?」 初春によって思考の泥沼から引っ張りだされた佐天が素っ頓狂な声をあげる。初春は「は?」 と急須から目を離し、意味がわからないと言いたげな顔で振り返った。その時、甲高い電子音 と共に風紀委員支部の入り口が開かれる。二人がそろって入口を見ると、そこにはどうしよう もなく暗い顔をした白井黒子が立っていた。 「今、白井さんの分のお茶も入れますね」 「白井さんおはよーございます」 二人を無視して黒子は自分の席まで行くと、力なくドカッと椅子に身を沈めた。目はうつろ で、口から魂が抜けてしまっている。 「ど、どうしたんですか?」 「お姉様の……お姉様の様子がおかしいんですの」 ギリっと歯を食いしばりながら苦虫を噛んだような表情で黒子は答えた。 「進化したんですか? ライチュウですか?」 「初春黙って」 ボケを軽くスルーされた初春はふてくされたように頬を膨らました。それでも手は止めずに 三人前のお茶を手際良く用意している。沸騰したお湯を急須の中に入れて軽く回す。緑茶の匂 いが鼻腔をくすぐる。出来あがった緑茶をコポコポと湯呑みに入れて佐天と黒子の前に置くと 次は自分の分の湯呑みに緑茶を注いだ。 そのお茶を黒子はズズッと啜り一息つく。そしてゆっくりと口を開いた。 「最初にお姉様が少し変だと気付いたのは一週間ぐらい前の事でしたわ」 一週間前と言えばちょうどダブルデートをした日だ。そんな事を考えながら佐天は初春の入 れたお茶を啜るが、佐天にはまだ少し熱かったようだ。舌を軽く火傷したのか少しヒリヒリと した感覚が残る。 「珍しくお姉様が門限通りに帰ってきましたの。それで私と一緒に寮の夕飯を食べていたんで すけど、ずっと携帯の画面を見てはにやけ……画面を見てはにやけ、私の甘いピロー……いえ、 ディナートークは完全にスルーされ続けましたわ」 「それいつも通りじゃ」 「初春黙って」 「そうですの。これぐらいだったらいつも通りですの。でも、一度お姉様の着信音が鳴ったと 思ったら、お姉様は『ヒョウッ!!』と言って動かなくなってしまったんですの」 「白井さんが御坂さんの新ギャグに笑ってあげなかったからですよ」 「初春黙って」 「随分と長い間固まってたのでどうしたのかなー、何か変だなーと思って失礼と知りながら私、 お姉様のケータイのディスプレイを覗いたんですの」 「なんでいきなり淳二さんなんですか?」 「初春黙って」 「えっ、今のもダメですか?」 「するとそこには……」 黒子の身体がガタガタと震えだす。どんな恐ろしいものが映っていたのだろうかと佐天は息 をのんだ。初春は、お茶のお代わりを注ぎに行った。 「あろうことかお姉様とあのクソ忌まわしき類人猿のツーショットが映っていたんですの!! それも肩がくっ付きそうなほど寄り添って仲睦まじく歩く姿でですわ!! 怖いなー、バック の夕焼けが美しいなー、綺麗な画だなーってマジふざけんじゃないですわ!!!!」 口から火を噴きそうな勢いで黒子は椅子から立ち上がって吠えた。ガルルルルと野生の獣の そうな殺気を纏っている。湯呑みに残っていた緑茶を飲み干し、初春にお代わりを要求する。 すぐに出来あがったアツアツの緑茶も一気飲みして、そして熱すぎて佐天に吹いた。 「あっついですわ!! もぅイロイロあっついですわ!!!!」 「熱いの私ですよっ!」 佐天が黒子の吹いたアツアツの緑茶が掛かった顔を押さえながらのた打ち回る。初春が急い で持ってきたフキンも、なぜかアツアツだった。 「アッツ!! ちょっと初春!? なんでフキン熱いの!?」 「そっちの方が面白いかなって思いまして」 「面白くなーいっ!!」 学園都市の治安を守るはずの風紀委員の支部でドタバタ劇が繰り広げられる。佐天は初春に 馬乗りになり、片手で往復ビンタをしながらもう片方の手ではスカートをバッサバッサとめく る。パンツどころか臍辺りまで露わにされている初春は「佐天さんやめて――!」と悲鳴を上 げるだけだ。 「それからと言うものお姉様は事あるごとにクソ類人猿を探しに学園都市中を徘徊するように なってしまわれたんですの! 上手くクソ人猿に会えた日は夜中まで私相手にノロケ話披露す るんですの! 私散々お姉様が好きって言ってるのに生き地獄ですわ! 上手くクソ猿と会えな かった日は私が慰めるんですのよ!? シュンとしてるお姉様可愛いなーとも思いますけれどや っぱり納得いかないんですの!! あのクソ! お姉様を悲しませるんじゃないですの!!」 ギャーギャーと思うままに騒いでいると、支部の入口の電子ロックが解除されゆっくりとド アが開き始める。今この瞬間まで騒いでいた三人が一気に静かになりドアの先を見つめる。固 法先輩にでもこの状況を見られたら確実に怒られる。部外者の佐天も含めて。そもそも部外者 を普通に入れている黒子と初春はさらに怒られるだろう。 ドアが開き切ると、そこにはこの騒ぎの間接的な主役が立っていた。 「みんな、おはよー。ごめんね初春。また勝手にロック解除しちゃった」 いつものノリで美琴が挨拶する。しかし誰も返事は返さなかった。代わりに三人の目線が美 琴に突き刺さる。 「なに、どうしたの? すごい静かだけど……」 「広い意味で全部御坂さんのせいです」 「へ? なんで?」 美琴が支部内を見渡す。何か液体で濡れた床、スカートを顔の位置までめくられさらに頭の 上で絞るように紐で縛られまるで逆テルテル坊主の様になり、パンツと臍が丸見えのまま悶え ている恐らく初春。その上で横腹を親の敵のようにくすぐる佐天。黒子はゼェゼェ息を切らし ていた。 「お姉様! 昔のお姉様に戻ってくださいまし!」 突然の黒子の大声に美琴は体をビクつかせた。黒子の足元では初春っぽいものが黒子から離 れる様にゴロンと一回転する。そのせいで初春にマウントポジションをとっていた佐天は転が り落ちた。 「朝の挨拶かと思えば当麻! 昼の挨拶かと思えば当麻! 夜の挨拶かと思えば当麻! 私もう耐 えられませんの!!」 「ちょっ、黒子やめ……」 黒子が美琴の両肩をがっしり掴んで揺さぶる。おかげで美琴の頭は振り子のようにグワング ワンと揺れていた。 「最近では胸のサイズを気にするようになったのか怪しげなバスト増量通販グッズを買い漁っ たり、バストの増量マッサージがのったファッション雑誌のみを買い漁ってお風呂で実践して みたり! そんな必死なお姉様も萌え萌えですがそれが毎日とあっては流石にキツ……」 アイアンクローの要領で美琴が黒子の頭を掴む。口元はヒクヒクと微妙に動き、いびつな笑 みを浮かべている。 「なぁ~んでアンタは風呂の中の事まで知ってるのかしらねぇ~~」 「そ、それはもちろんお姉様にいつ何時危険が襲うか分からないのでドアの隙間から覗いてる からですの」 「そぉ~、それはアリガトねぇ~。でも危険は迫って来ないから大丈夫よ、だから一生私のお 風呂覗くんじゃないわよ?」 ギリギリと渾身の力を込めた美琴の指が黒子の側頭にめり込んでいく。黒子が両手で美琴の 腕を引き離そうとするが指に瞬間接着剤でも付けていたのか全くビクともしない。かすれる様 な声で美琴に手を離すように言ってみるが…… 「やめ……お姉……指……食いこ………」 言葉にならない。 「そういえば、佐天さん」 「はい!?」 目の前の圧倒的光景に茫然としていた佐天の声が思いがけず裏返る。美琴は佐天の方に目を 向けるが決して黒子の頭からは手を離さない。美琴の腕を掴んでいた黒子の手が、重力に従う ように力なく垂れる。 「この前はアリガトね?」 「い、いえ私の方こそ無茶言ってすみませんでした」 一応受け答えはするが、黒子が気になってしょうがない。気のせいでなければ黒子は泡を吹 いている。 「後、写真……送ってきてくれて……」 可愛らしく頬を薄ピンク色に染めながら手を握って口元に持っていき、恥ずかしそうに佐天 から目線を反らす。もう片方の手は相変わらず黒子を締め上げているのがなんともシュールだ。 「いえ、アレは私が勝手にやった事ですし……凄く綺麗だったんで思わず撮っちゃいました」 「やだっ! 綺麗とか! って夕焼けがよね!! 今思いっ切り感違いしちゃったわ!」 「御坂さんと上条さんも含めてですよ」 「~~~~~~っ」 言っといて何だが、照れ隠しに黒子を振り回すのはどうかと思う。黒子の身体はまるで旗の 様に右へ左へはためいていた。 「佐天さん、あれから一方通行と連絡取ったりしてる?」 美琴が落ち着いた所でようやくアイアンクローから解放された黒子は、土下座をするような 形で両側頭を押さえていた。よく見ると美琴が掴んでいた部分にはくっきりと指の跡が見てと れる。 「いやー、全然ですねぇ」 ダブルデートの日から一週間、一方通行とは会ってもないし連絡も取っていない。別れ際に メールをするとは言ったものの誘う口実も見当たらずダラダラと時間は過ぎて行ったのだ。一 方通行から連絡が来るかもと淡い期待も多少持っていたが、それもない。 「あんのバカは……よくもまぁ佐天さんを放っておけるわね。まーでも一方通行に佐天さんは 勿体無いけど」 「そ、そんな事ないですよっ。一方通行さん優しいし気が利くし……ちょっとカッコ良かった し……むしろ私には勿体無い感じですよ」 優しくて気が利いてカッコいい? 普段無駄話ぐらいしかしない美琴にはよく理解できない単 語が並ぶ。優しくて気が利いてカッコいいのは当麻だろうと言いそうになったがギリギリ踏み とどまる。そんな事言ってしまった日には黒子が全力でウザくなるだろう。今でさえ若干ウザ いのに。それに佐天に自分が当麻を好きな事がばれるかも知れない。たとえばれても佐天なら 応援してくれるだろうが、やっぱりどこか恥ずかしさが残る。声に出してソレを言ってしまっ たら当麻の顔も見れなくなってしまいそうだ。 「でもその一方通行さん。私はプリクラでしか見てないですけど寂しがり屋っぽい顔してませ んか? 目も赤いし、多分ウサギさんですよ。今頃佐天さんに会えなくて泣いてますよ」 初春が緑茶を湯呑みに入れながら言った。今度は美琴が増えたので四人分だ。 「初春マジバカ春」 「あははっ、でも確かにそうかもねー。知り合った最初の方は良く暇だからってメールしてき てたし。まぁ打ち止めとか同居人が出来てからはそれも無くなったけど」 初春が四人分の湯呑みをトレイに載せて危なっかしい足取りで運ぶ。その途中、いまだ土下 座でこめかみを押さえている黒子の頭の上に「熱いので気を付けてくださいね」と湯呑みを置 いた。 「え? 初春? これじゃ私動けませんのよ?」 「佐天さん、御坂さんどうぞー」 黒子は無視して二人にも緑茶を渡し、空いている席に腰を掛ける。ちょうど佐天と美琴の間 に座るような位置関係だ。 「御坂さんって前から一方通行さんと仲良しだったんですか?」 美琴と一方通行が昔頻繁にメールをしていたと聞き、佐天は少し興味がわいた。あの日の二 人を見る限りでは美琴が当麻に付きっ切りだったというのもあるが、二人の関係がよく分から なかったからだ。普通に話してたし仲が悪いという訳ではないだろう。そもそも仲が悪いので あればあの日のデート要員にすらならないはずだ。 「んー。別に仲良しって訳でもないわよ。ただの……まぁ会ったら話す程度の友達ね」 歯切れ悪く美琴が答える。もう少し突っ込んで聞きたい気もするがこれ以上のことは望めな いだろう。 「そうなんですか」と佐天が返した後、天使が……いや、佐天が通った様に会話がなんとな く止まった。妙な沈黙に耐えられなくなったのか、初春が「ル・ミュヒョロペーゼ・アウアウ !」と摩訶不思議な呪文を唱えるが誰も反応しない。ビックリするほど滑った初春は熟れたト マトの様に真っ赤になった顔を両手で覆い隠し俯いた。 「そう言えば上条さんとのデートはどうだったんですか?」 佐天が話題を変えてみる。こういう時は何か話すきっかけを作ればいいだけなのだ。 「デェェェエェェトォオォォォォォォオ!?」 黒子が過剰に反応するが頭の上に熱いお茶が乗っているので顔をあげる事は出来ない。テレ ポートでどければいいだけの話なのだが、自分の把握し切れていなかった美琴の行動に混乱し てそこまで頭が回らないようだ。 「で、デートじゃないわよっ! ただ二人で遊んだだけよ」 「世間じゃそう言うのはデートって言うんですよ」 初春の突っ込みにジトッと睨みつける。 「私、何かおかしな事言いましたかね?」 「御坂さん、何でもかんでも噛みついちゃダメですよー」 ネコか何かをなだめる様に佐天が美琴の頭をポンポンと叩く。まったくそんな事をされては 年上の面子が丸つぶれだと美琴は大人しくなった。 「あの服着て行きました?」 「どこ行ったんですか?」 大人しくなった事を見計らうように二人は美琴を質問攻めする。お年頃なだけあってやっぱ り気になるのだ。佐天もデートはしてみたがアレはダブルデートだったし、二人でのデートと は少し違うものがあると思う。それに本人から直接は聞いてないが、美琴が当麻を好きなのは 見てとれる。というか分かりやす過ぎる。好きな人と一日二人っきりになるのはどんな気分な のか、ぜひとも聞いてみたい。 「あの服は着て行ったわよ。アイツが見たいってゆーから……」 フムフムと何が分かったのかはよくわからないが佐天と初春がうなずく。少しずつ美琴の声 が小さくなるもんだから聞き逃さないように二人の顔が美琴の顔に近づいて行く。ソレを避け るように美琴は俯いてしまったため、二人の顔がニヤけている事に気付かない。 「それで待ち合わせした後はふつーに……、えっと……ボーリング行ってお昼ご飯食べて…… で、その後どーしよっかってなって……」 さらに大きく佐天と初春はうなずく。顔はもうとろける様程にニヤケ切っている。初春が小 声で「ホテル? ホテルなんですか?」と囁くのを佐天が頭を後ろから叩く。幸い美琴は照れ を隠すので精いっぱいで聞こえていないようだ。照れは隠せていないのだが。 「カラオケ……行きました……。それでおしまい」 ムハーーと二人が息を吐く。その瞬間後ろから叫び声が聞こえた。 「カラオケェェエェェェェエエェ!!」 言うまでもなく黒子だ。床と強制キス状態のため声は籠っているがそれでもハッキリと聞こ える。 「ダメですわお姉様! 若い殿方と密閉された個室に二人きりなんて!! そんなもんもうラブ ホとイコールですのよ!! ああっ!! これでもうあのクソバカ類人猿の汚い棒によってお姉 様の神聖なる処女ま……」 コンクリート片を地上十メートルから叩き落としたかのような轟音が支部内に響く。黒子の 頭に乗っていた湯呑みは復元など到底不可能なほどに粉々に粉砕され、床のタイルも黒子の頭 を中心に波紋のようにひび割れて、ところどころコンクリートが見え隠れしている。 美琴が黒子の頭を撃ち抜いた足を上げ、「帰るっ!」とだけ言い残し顔を真っ赤にしたまま 振り返る事なくドアから出て行った。 「大丈夫ですよー! 初春と私はそんな事考えてませんよー!」 「そうですよ! どうせやるなら家かホテルが良いですもんね!」 二人が必死でフォローするが聞こえているのかもわからない。足元では「お姉様が……私の お姉様が……神聖なるお姉様が……」とぶっ飛んだ妄想癖の持ち主が自らの妄想によって泣い ていた。 「白井さん、危ないんで動かないでくださいね」 泣いている黒子の頭に乗っている湯呑みの破片を佐天が丁寧に取り除いていく。初春もロッ カーから箒とチリトリを取り出して黒子を中心に散乱した破片を掃き始めた。 「痛いとことかありませんか? かなり強く踏みつけられてましたけど」 「……心」 「大丈夫そうですね」 「あっ、足もとはまだ破片あるんで気を付けてください」 佐天は黒子の頭から湯のみの破片を全て取り除くと、黒子を後ろからはがい締めにするよう にして立ち上がらせ、スカートに着いた埃や手では取りにくい細かい破片を払った。黒子の顔 があった部分にはくっきりと黒子の顔が転写されている。風紀委員一七七支部の床に浮かび上 がった黒子の顔。それは鬼の形相で間違って踏んでしまおうものなら容赦なく呪われそうな雰 囲気を醸し出している。 今度から支部に来る時は踏まない様に注意しよう、と佐天は一人心に誓った。 「白井さん、これどうしたらいいんでしょう? このままだと絶対に個法先輩に怒られますよ ね?」 初春が箒の柄でひび割れた床をコンコンと叩く。割れた湯呑みは黒子の私物なため、割ろう が無くそうが爆発させようが買い直せばいいだけの話なので無かった事には出来る。しかし、 この床だけはどうしようもない。自分たちではどうする事も出来ないし、業者に頼むにしても 基本的に支部は部外者立ち入り禁止のため色々な書類を書かないといけない。その書類は個法 先輩の許可がないと作成できない。 「……模様替えですの」 「模様替え?」 初春が首をかしげる。模様替えをした所で何になると言うのか、ヒビが直る訳でもないだろ う。 「机を移動させてこれを隠すんですの。それ以外に怒られない道はありませんわ」 「あっ、なるほどー」 納得したように初春はパンッと柏手を打った。確かにそれなら気付かれる事は無いかもしれ ない。早速キャスター付きの椅子をどかして机を運ぶ準備にかかる。 「よくそんな悪知恵が働きますね」 少し呆れながらも佐天は初春の持っている机に手を掛けて手伝い始めた。机の上の荷物を下 ろさずに運ぼうとするものだから結構重い。ガリガリと引きずってなんとか机を運ぶとひび割 れの半分が隠れる。「次はこっちですの」という黒子の指示で二つ目の机も同じようにして運 ぶと、綺麗にひび割れを隠す事が出来た。 それにしてもなんで黒子の顔には傷一つないんだろう。残りの机も不自然にならない様に並 べながら佐天は思った。床にくっきり顔の跡が出来るほどの強さで頭を踏みつけられたにも関 わらず黒子の顔は美しい。きめ細やかな肌には擦り傷一つ付いてないし、赤くすらなっていな い。動機はアレだが、俯いて元気のない憂い顔の黒子はなかなかクルものがあった。 「佐天さんどうしたんですか? なんかボーっとしてますけど」 「ん? いや、なんでもない」 黒子にときめいてました。なんて言えるわけがない。佐天は適当にごまかすも、それが初春 の何かに触れたようだった。いきなり初春のテンションが上がる。 「もしかして一方通行さんのこと考えてたりですか!?」 「へ!?」 「考えてたりだったんですね!!」 佐天は何も言ってないのに疑問は確信になったようだ。さっき恥ずかしめを受けたお返しと ばかりに一気に攻め立てる。 「御坂さんの話聞いて燃え上がっちゃったんですね!」 「いやいや、私そんな事一言も言ってないよ?」 「連絡しましょう! さっそく一方通行さんに連絡取っちゃいましょう!」 「今日の初春うざい!!」 最初に運んだ机では黒子が机を運ぶのを手伝いもせずに藁と紐を取り出して何かを作ってい た。傍らには釘とトンカチが置いてある。 一方通行さんは! だーかーら! セロリ!! 初春マジうぜェ!! ギャーギャー騒ぎなが らも佐天と初春は手は休ませずに机を運ぶ。そして最後の机を運びきった所で突如として支部 に警報音が鳴り響いた。佐天と初春は言い合いをやめ、黒子も壁に向かって藁人形に釘を打ち つけるのをやめる。 支部に鳴り響く警報音。これは学園都市内で事件が発生した事を意味する。 「初春、ナビよろしくですの!! 私は現場に向かいますわ!」 「わかりました!」 イヤホンとマイクを付けながら黒子が指示を出す。その顔はさっきまでのものとは違い完全 に仕事の顔だ。それは初春も同じで、すでに移動させたばかりの机に座りパソコンと向き合っ ていた。手は高速でキーボードをタイプし、ディスプレイには次々と文字や写真が一面に詰ま ったウィンドウが開かれる。 「えっ? へ?」 二人のあまりの切り換えの速さに佐天は付いて行けず交互に二人を見ることしかできないで いた。 「佐天さんごきげんようですの」 それだけ言い残し黒子はテレポートで一気に建物の入り口まで飛んだ。初春の見るディスプ レイには街の地図が表示され、その上には赤い丸と黄色い三角形が映っている。赤い丸が事件 現場で、黄色い三角形が黒子の現在位置だ。黒子が付けて出たイヤホンとマイクには小型のGP Sが付いており、それで黒子の現在位置を把握できるようになっているらしい。 地図を確認しながら初春は黒子に道順を示す。パソコンのスピーカーからは黒子の声で「了 解ですの」と返って来た。黄色い三角形が赤い丸へと動き出す。その動く速度から見てテレポ ートは使わずに走っているのだろう。テレポートを使った方が早く現場に付けるのは百も承知 だが、ソレをすると電波が飛び飛びになり初春が発する正確な情報が得られないためだ。正確 な情報は現場で最大の武器と成り得る。その事を知っている黒子は初春からの情報が届くまで はテレポートは使わずに移動するようにしているのだ。 「今回は能力者同士のケンカみたいですね。データバンクによるとLEVEL3の発火能力者と念動 力者みたいです」 『まったく……人騒がせな連中ですわね』 「ちょっとレベルが高いですけど白井さんなら大丈夫だと思うんでさっさと捕縛しちゃってく ださい。今のところ怪我人の報告はありませんが人通りの多い道ですので周りには十分気を付 けてくださいね」 『わかりまし……あ゛あ゛っ!!』 スピーカーから大音量で黒子の声が響き、思わず佐天と初春は耳を塞ぐ。 「初春! 十秒……いえ、五秒だけ時間を頂きますわ!!」 「へ? なにかあったんですか?」 初春の問いかけに黒子は答えない。代わりに佐天が口を開いた。 「ねー初春。コレ白井さん道ずれてない?」 佐天がパソコンのディスプレイを指差す。初春が見ると、確かに黒子の現在位置を表す黄色 い三角形は目標地点である赤い丸の二本前の角を曲がって移動していた。三角形が飛び飛びで 表示される事から今はテレポートを使って移動しているのだろう。 「白井さん!?」 『死にさらせぇぇぇえぇぇぇえぇえぇ!!』 スピーカーからはドスの利いた低い怒号と人が吹き飛んで何か金属をまき散らしたかのよう な乱雑音が聞こえてくる。音声だけのため佐天と初春には何が起きたか解らない。解るのは黒 子が何かしたという事だけだ。 『目標の駆逐完了ですわ。今からケンカの方止めてきますの』 「何したんですか!? 白井さん今風紀委員の腕称してるんですよ!? あんまり目立つような 事は!!」 ディスプレイの三角形が一瞬消えたかと思うと、今度は丸に重なるようにして表示された。 スピーカーから『ジャッジメントですの!』と黒子の声が聞こえるのでどうやら現場には到着 したらしい。 「あーもー、白井さん大丈夫でしょうか」 「大丈夫じゃない? ほらっ男の人の悲鳴聞こえるし」 支部にガチャガチャと騒がしい戦闘音が広がる。かなり激しそうだが黒子が劣勢ではないの はよくわかる。男の悲鳴は聞こえど、黒子の悲鳴は全く聞こえず、むしろ怒りを撒き散らすか のような罵声しか聞こえない。 「そっちじゃないですよー。その前のやつです……一般人に危害加えてたりしてなきゃいいん ですけど」 初春がはぁ、と机に肘を立て悩ましげに溜め息をついた。能力者同士の喧嘩の鎮圧に行った のにココまで心配されないのは黒子の実力を信用しているからか、どうでもいいのか。是非前 者であって欲しいと佐天は思った。 黒子が現場に到着してから一分。すでに事件を鎮静化出来たのだろう。さっきまでの戦闘音 は聞こえなくなり、代わりに黒子と誰かの話声が聞こえる。おそらく警備員への引き継ぎを行 っているのだろう。 「はっや……」 「白井さんが行くといつもこんなもんですよ。圧倒的力で対象をねじ伏せますから」 これにて一件落着、というように初春が伸びをする。パソコンのディスプレイからは赤い丸 がいつの間にか消えていた。 「そう言えば、佐天さんそろそろ帰った方がいいですよ。事件がありましたしそろそろ個法先 輩がココにくるかもなんで」 「そうだね。怒られんのは嫌だしそろそろお暇させて……」 電子音が鳴り、支部のドアのロックが外される。噂をすればなんとやら。開いたドアの向こ うには巨乳でメガネなお姉さんが立っていた。 * * * 「うん! 炊飯器使ってない割には中々美味いじゃん!」 「あのなァ黄泉川、普通パン焼くのに炊飯器なンて使わねェンだよ」 「このサラダに掛かってるドレッシング結構好きかもってミサカはミサカはドバッとドレッシ ングを追加してみる!」 「バカかてめェは。そンな事したら味きつすぎて食えたもンじゃねェぞ」 午前七時。打ち止めと黄泉川がテーブルを囲み朝食を取って、一方通行は台所で昨日の夕飯 で使った食器と今朝の調理で使った器具を洗っている。朝食はトーストに半熟の目玉焼き、そ れとキャベツを適当にちぎって盛り付け、そこにキュウリとトマトを乗せた簡単なサラダだ。 黄泉川家では主婦業は一日交代のローテーションが敷かれており一昨日は黄泉川、昨日は芳川 だったため今日は一方通行の日なのだ。打ち止めはこのローテーションに入っていないが毎日 皆の手伝いをしてなんとなく絡んでいる。 「やベェ、眠ィ……」 「まだ起きたばっかりなのにだらしないよってミサカはミサカは注意してみたり」 「うっせェな……こちらと芳川に合わせて朝の四時から起きてンだよ。つーか朝四時ってなン なンだよ、ほぼ夜じゃねェか」 「一回寝ればよかったじゃん?」 「ンな事して起きれなかったらお前仕事に遅れンだろうが。今日起こすの俺の担当なンだから よォ」 今ココにいない芳川は実験の都合とか何とかで朝五時には家を出なければならず、今日の主 婦当番の一方通行はそれに合わせて朝食を作らなければいけなかったため、朝四時から起きっ ぱなしなのだ。 「つーか腹減ってきたな。もっかい朝飯食ってやろうか」 朝食は芳川と一緒に取ったため、朝七時の時点ですでに三時間ほど経過している。育ち盛り の男子としては小腹が空き始める頃だ。 「眠かったりお腹減ってたり忙しいねってミサカはミサカは家庭的一方通行の身体を心配して みたり」 「打ち止め、次家庭的と言ったら昼メシ抜いちまうぞ?」 「ごちそうさまじゃん!」 黄泉川は食器をまとめて流し台に置き、ドタバタと洗面所に向かった。適当に櫛で髪を梳か してからいつものように後ろで一つにまとめる。年頃の女性とは思えないほどの工程の少なさ で身支度を整えていく。 今、黄泉川が置いた分の食器も洗い終え、流し台の周りに飛び散った水をフキンで綺麗に拭 き取った後、一方通行はパッパッと手の水気を弾きタオルで拭きながら、この後は洗濯機を回 して掃除をして……と頭の中で予定を組み立てる。芳川と黄泉川が食事以外のこの二つを意地 でもしないため、一方通行のローテーションの時にやらなければ永遠に終わらないのだ。 ちなみに先ほど一方通行が洗っていた昨日の分の食器も、本来なら芳川がしなければならな いのだが、昨晩は夕食後に芳川が死んだように眠りに着いたため仕方なく一方通行が行ってい た。二人は働いているのだから仕方ないと割り切ってはいるが、それでも結構不公平なのでは ないかと一方通行は思う。 「ごちそうさまでしたー!ってミサカはミサカは食器をガチャガチャ言わせながらあなたに渡 してみる」 「……洗いもン終わった瞬間に持ってきやがって……」 打ち止めから食器を受け取り再度洗い物を始める。昼食まで残していてもいいのだが、洗い 物はすぐ洗うと言うルールが一方通行の中に出来ているためそうもいかない。 「打ち止めー打ち止めー」 黄泉川が歯ブラシを咥え、口の周りに白い泡を付けたまま打ち止めを呼ぶ。郵便受けを覗い てきたのか左手には封筒が握られていた。 「なにー? ってミサカはミサカは駆け寄ってみたり」 「問題じゃん。これって何でしょーか?」 左手の封筒を親指と人差し指で挟んでヒラヒラと宙を泳がす。その顔には軽く笑みを浮かべ ていた。 「封筒?」 「そのまんまじゃん」 「お前なァにゆったりしてやがるンですかァ? 人に朝から起こさせといて遅刻しましたとか になるンじゃねェぞ?」 打ち止めがピョンピョンと飛び跳ね封筒を渡すように催促する。「そこまでバカじゃ無い じゃん」と黄泉川は歯ブラシをシャコシャコと上下に動かしながら封筒を打ち止めに渡した。 打ち止めが受け取った封筒の宛名は『打ち止め様』となっている。送り主はどうやらどこか の企業名が書かれているようだ。 「ミサカ宛て!? って事はまさかまさかのまさかかも! ってミサカはミサカは幸せ指数をほ んのちょっとだけ上げてみたり!」 ビリビリと手で打ち止めが封を切る。ソレを見てもっと綺麗に封切れよと腹の中では突っ込 みを入れるが、謎のハイテンションでウキウキしている打ち止めの水を差すのも悪い。一方通 行は取りかけた鋏をそっと元の場所に戻した。 手で切ると言うか乱暴に破ったため案の定封筒は真ん中あたりまで破れてボロボロになった が、そんな事はお構いなしに打ち止めは中身を取りだした。中身は一枚のコピー用紙と二枚の 長方形型のチケットの様なものだ。打ち止めがコピー用紙はそっちのけでチケットの文字が印 刷されている側を凝視する。そして数秒間だけ固まり、両手を勢いよく真上に上げた。 「キターーーー!! ってミサカはミサカは喜びを爆発させてみる!」 「朝から一体なンなンだよ」 「今日が最後の発表だったから尚更嬉しいってミサカはミサカは封筒にちゅーしてみたり!」 「よかったじゃん! 何回も諦めずに手紙出してみるもんじゃん!」 黄泉川の発言で一方通行は「あァ……」と全てを理解した。打ち止めが今クルクル回りながら 両手で端を持って掲げているのは、一ヶ月ほど前に打ち止めが懸賞で応募した犬と猫が主役のハ ートフル映画の試写会のチケットだ。あまりに熱心に応募していたし、何度も何度もへたっぴな 説明をされたからよく覚えている。 「一緒に行こうねってミサカはミサカはお誘いしてみる!」 「もちろんじゃん! して、その試写会の日程っていつじゃん?」 チケットにはなにも書いていなかったため恐らく打ち止めが放り投げて床に落ちてたままに なっているコピー用紙に時間と場所が書かれているのだろう。一方通行が紙を拾い上げて確認 すると予想通り上映場所までの簡易な地図と日程が書かれてあった。 「今度の土曜だな」 「ハッピーサタデー! ってミサカはミサカはガッツポーズしてみたり!」 「……一方通行、もっかいお願いするじゃん」 「だから今週の土曜、明後日だっての」 確認してから、黄泉川の表情が曇る。テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話を手 に取ると一つ一つの動作を確認するようにゆっくりと操作をし始めた。 「なにしてンだよ?」 一方通行が問いかけるも歯ブラシを咥えたまま片手を突き出し無言で『待って』のポーズ。 いつも打ち止めと一緒に騒がしくしている黄泉川にはあまり見られない貴重なシーンだが、あ まりいい事ではないのかもしれない。携帯電話を食い入るように覗きこんでいるため前髪が垂 れ、横顔はほとんど見れないが、なんとなく困っているようなそんな表情をしている気がする。 打ち止めも先程とは違う不穏な空気を察したのか、チケットが当たった喜びもどこかに消え去 ったかのように黙って眉をハの字にしている。 携帯電話を閉じ、「今スケジュールを確認したんだけど……」と前置きをしてから黄泉川は 打ち止めに深々と頭を下げた。後ろで一つにまとめている黒い長髪が肩を滑ってスルリと落ち る。 「その日、警備員の会議があるからいけないじゃん」 「えぇ――――!! ってミサカはミサカは途中から空気でなんとなくそんな気はしてたけど 一縷の望みを託してた分やっぱり全力で叫んでみる!」 「ホントごめんじゃん! この会議はどうしても休めないじゃん」 パンッと両手を合わせて本当に申し訳なさそうな顔をしながら再度頭を下げる。 「ミ、ミサカはどうしたらいいの!? ってミサカはミサカはアタフタしてみる!!」 「そうじゃん! 一方通行が一緒に行けばいいじゃん!?」 「ソレ! ナイスアイデア! あなたが私を連れてって! ってミサカはミサカは腕にしがみ付き ながらお願いしてみる!!」 「いや、っつーかよォ。誰が連れてくとかの前に、お前この日、カエル医者ンところの定期健 診の日だからそもそも行けねェンだわ。時間もモロ被りだしな」 「えぇ――――!?」 まさかの衝撃的事実。昼の情報番組で組まれていた特集を見てからずっと観たいと、少しで も早く観たいと思っていた。だからさまざまな番組の映画の宣伝を兼ねたプレゼントコーナー にも応募したし、お小遣いをはたいて買った中身には全く興味のない雑誌の懸賞にも応募した。 それでようやく手に入れた念願の試写会。懸賞に外れるならまだしも、手元にチケットがある のに、懸賞に当選したのにこんな形で棒に振るなんて考えられない。打ち止めは体全体を使っ て一方通行の腕をブンブンと振り回し抗議する。 「その日はお休みして! その後は休まず行くから! 絶対行くから!」 「それはダメじゃん。落ち着いてはいるけど身体の調子もまだ少し不安定だし何かあってから じゃ遅いじゃん」 「じゃあ次の日! 日曜日に行く事にすればいいよ! ってミサカはミサカは必死で提案して みる!!」 「そンなもン、カエルに迷惑掛かンだろうが。今まで散々迷惑かけてンだから止めとけ」 「~~~~~っ!」 我慢しきれず地団駄を踏む。あれだけ待ち望んだのに神様はなんて酷い仕打ちをするのだろ うか。本当なら定期健診なんてほっぽり出して映画を観に行きたい。しかし一方通行と黄泉川 の言うことだって分かる。分かるから、余計に映画に行けない事が悔しい。打ち止めの目に熱 い涙がじんわり浮かんだ。それでも涙を零さないようにとギュッと唇を噛んで小さな手を握り しめる。手の中のチケットがグシャリと潰れた。 そんな打ち止めを見て二人が何も思わないはずがない。ある日大量の手紙を買ってきたと思 ったら、それに黙々と下手な字で何かを書き始めた。どれだけ書くんだと聞くと全部と返って くる。手伝おうかと言っても自分でやりたいと二人の手を取る事は無かった。少しでも手紙が 目立つようにと手紙の枠を蛍光ペンで塗ったり、シールを貼ったりして工夫もした。それでも 抽選に落ち続け今日が最後の発表の日。そこでようやく試写会を当てたのだ。だから出来れば 行かしてやりたい。だが打ち止めの身体と映画の試写会、どっちが大切かなんて分かりきって いる。未だ不安定な打ち止めの身体がどうにか安定して欲しい。黄泉川も今この場に居ない芳 川も、一方通行だって顔には出さないが気持ちは同じだ。 どうか打ち止めが無事に成長していきますように…… 「まァ、今回は運がなかったって諦めるンだな」 「一般上映まで待てばいいじゃん?」 なんの慰めにもならないが言うしかない。とにかく定期健診には行かせなくてはいけない。 身体が不安定な分、いつ何が起きても不思議ではないのだが、月に一回でもカエル顔の医者の 言葉をもらえればそれで得れる安心もある。 「でも……お手紙とかでお小遣い使っちゃったから映画を観るお金なんて残ってないよ……っ てミサカはミサカは肩を落としてみる」 言葉にして噛みしめるのが辛い。とうとう打ち止めの目から堪えていた涙の粒が落ちる。 「……」 何も言えない黄泉川の横で、一方通行は一歩前に出た。 「金なら稼ぎゃァいいだろうが」 今回の事は、もうなにも出来ないが次に繋がる何かは出来る。一方通行は打ち止めの手の中 でグチャグチャになっているチケットを取りあげた。 「この試写会のチケットいくらなンだよ」 「え?」 状況を上手く飲み込めないのか、打ち止めは零れた涙も拭かずにキョトンとした顔をした。 そのやり取りを見て黄泉川は一方通行には見つからない様に軽く微笑んで打ち止めの両肩に後 ろから手を置いた。 「一方通行がそのチケット買ってくれるって言ってるじゃん」 「えっ? えっ?」 涙を拭いてから打ち止めは上から自分を覗き込んでいる黄泉川の顔を見る。黄泉川は打ち止 めに優しい笑みを向け「ほら、一億円とか言っちゃうじゃん」と背中を押した。 「現金は……今ねェから後で銀行でおろして渡す。オラ、いくらで売ってくれンだよ。ダフ屋 さンよォ」 「ホントに? ホントにいいのってミサカはミサカはあなたを見上げてみる」 「俺が自分の意思で買うっつってンだからいいんだよ」 「でもミサカがあなたに映画の事話した時はあんまり興味なさげだったってミサカはミサカは 一ヶ月ぐらい前ののことを思い出してみたり……」 「お前があまりにも熱心に説明するから観たくなっちまったンだよ。俺のキャラには合わねェ 映画だとは思うがな」 「そうなんだってミサカはミサカはちょっと嬉しくなってみる」 さっきの涙が嘘だったかのように、打ち止めに小さいタンポポの花のような笑顔が咲く。 「で、売ってくれンのか? くれねェのか?」 「売る! 売ります! ってミサカはミサカは宣言してみる!」 これが正しいか正しくないかと言えば、おそらく正しくは無いだろう。それでも一方通行に はこんな方法しか思いつかなかったが、これで打ち止めが笑顔になるならそれでいいと、そう 思う。 「あっ、でも……」 打ち止めが一方通行に振り返る。 「あなた一緒に映画に行く友達いるの? ってミサカはミサカは素朴な疑問をぶつけてみる」 「なンの心配してンだよ。それぐらいいるに決まってンだろ」 「そうじゃん。あの携帯のプリクラの女の子でも誘えばいいじゃん」 「女の子? ってミサカはミサカは彼から遠く離れた存在の名称を反復してみる」 「綺麗な黒髪でー……」 「ババァァあァァ!! なァあァァンでそれ知ってンですかァァァああァ!!?」 一方通行が黄泉川を黙らせようと飛びかかる。黄泉川はソレを軽く往なして一方通行のポケ ットから携帯電話を取り出して打ち止めに放り投げた。とあるマンションの一室で二人の笑顔 の花が咲き、一人の恥ずかしい物がぶちまけられる。黄泉川の出勤時刻はとうの昔に過ぎ去っ ているが、黄泉川も一方通行も、今はそれを気にする事は無い。皆で楽しく笑えていれば、そ れだけでいいのだ。
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夕暮れ間近の駅のホームは、帰宅の途に着く学生達の姿が目立った。 髪を染め、シャツのボタンを第2ボタンまで開け、短い丈のスカート姿の学生達のグループもいれば、 校則をしっかり守った服装をし、参考書片手に電車を待つ学生もいる。 少女もまた、この駅を利用している学生の一人だった。 耳が隠れる程度の黒髪、膝が隠れる程度の丈のスカート。 猫背気味に立つその姿は活発な雰囲気からは程遠かった。 むしろ、教科書を片手に電車を待つ姿は優等生そのものである。 やがて、電車がホームへと滑り込んできた。 降りる人間が降りたのを見計らいながら、少女は電車の中に入って一番端の手すりがある席に座る。 少女が座ってから程なく、電車は動き出した。 隣に座った人間に迷惑にならないようにしながら、少女はホームで電車を待っていた時と同様に 教科書を片手に勉強を開始した。 揺れる電車の中で文字を読んでも酔わないのか、少女は顔色一つ変えることなく不定期にページを捲っている。 時折、眠そうに目を擦りながらも少女はけして教科書から目を離そうとはしなかった。 内容をよく咀嚼ように、ゆっくりと、時には前のページに戻りながら少女は教科書を読み進めていく。 少女が電車に乗ってから約一時間。 次の停車駅を告げるアナウンスが流れてから数秒ほど遅れて、少女はそのアナウンスに反応する。 教科書を鞄へとしまい、制服のポケットから携帯電話を取りだして時刻を確認し、少女は席を立ち上がった。 * * * ドアの前へと立ち、電車がホームに到着するのを待つ少女の瞳はどこか曇っている。 数分後、電車がホームに到着しドアが開いた瞬間、少女は素早く電車から降りて歩き出した。 少女は早足で改札を抜け、そのまま住宅街がある方向へと歩いていく。 十分程歩いただろうか、やがて少女の目の前には建築されてから数年程度と思われるマンションがあった。 少女はマンションの中へと進み、エレベーターに乗って8というボタンを押す。 程なく、少女を乗せたエレベーターは目的の階に到着した。 エレベーターを降り、少女は一番奥のドアまで一直線に歩く。 鞄から鍵を取り出し、ドアを開けて少女は素早く中へと体を滑り込ませるように入って鍵を閉めた。 ただいま、と挨拶をすることなく少女は廊下を進み、リビングへと足を踏み入れる。 部屋の灯りを点け、黒い革張りのソファーへと鞄を放り投げて少女は大きく溜息を付いた。 そのまま、少女はリビングから一旦姿を消す。 次にリビングに現れた少女は、部屋着と思しき淡い紫のジャージを着ていた。 少女は携帯電話を操作し、アラーム設定をした後…ソファーへと浅く腰掛ける。 先程放り投げた鞄から教科書、ノート、プリントの束そして筆記用具を取り出した少女は、それらをソファーの目の前にある 焦げ茶色の低いテーブルへと広げた。 間を殆ど置くことなく、少女はシャープペンシルを片手にプリントへと視線を向ける。 A4サイズのプリント数枚の束にぎっしりと詰め込まれた問題、それらを少女は教科書やノートを見ながら一心不乱に解いていった。 少女がそのプリントの束を半分ほど片付けた頃、携帯電話のアラームがけたたましい音を立てる。 「ここまでしかでけへんかった…早くご飯食べて片付けんとあかんなぁ」 シャープペンシルをテーブルに置き、携帯電話のアラームを止めた少女はうーんと一つその場で伸びをする。 携帯電話の時刻は、夜の六時半だった。 少女は立ち上がるとリビングからキッチンへと移動し、冷蔵庫の中身を確認する。 「あー、そろそろ買い出しにいかんとなぁ。 今日はもう買い物行きたくないし、ある材料で何とかしよ」 そう言って、少女は冷蔵庫から鮭の切り身、バター、ほうれん草を取り出した。 少女は手際よく調理を進めていく。 二つあるコンロを同時に使い、かたやほうれん草を煮るためにお湯を沸かし、かたやフライパンをしかけて火をかけ。 料理を作ることに手慣れているのだろう。 少女は二十分もしないうちに鮭のバター焼きとほうれん草のおひたしを完成させた。 インスタントスープの素を開封し、マグカップに中身を零し入れてお湯を注ぎ入れ、淡いピンクのご飯茶碗へと軽くご飯を盛ってリビングへと戻る。 「…いただきます」 抑揚のあまり感じられない声が無音のリビングへと響く。 テレビを点けることもなく、目の前の食事を淡々と少女は片付けていった。 無表情に食べ進めていく姿は、食事を楽しむと言うよりも食べなければいけないから食べるというような義務感すら漂わせていた。 食事を片付けた少女は、素早く食器類をまとめて流し台へと運ぶ。 手早く洗い物を済ませた少女は、晩ご飯を食べる前と同様にテーブルの上に勉強道具を広げて勉強を再開した。 少女がプリントの束を片付けた時には、既に時計の針は夜の十一時を回った頃だった。 勉強道具を片付け別室へと鞄毎戻った少女は、机の所に貼られた時間割に視線を向ける。 明日の授業に必要な教科書類を鞄へと詰め、ハンガーに掛けられた制服のポケットにハンカチとティッシュを詰め、 少女はタンスから下着を取り出して浴室へと向かった。 シャワーを浴び、髪と体を洗った少女は湯船へと浸かる。 目を伏せ溜息をつきながら、少女の視線は浴室の天井へと向いていた。 「あー、しんど。 早く中学卒業したいわほんまに」 温かい湯船に浸かりながら、少女は過去を思い返す。 今も尚少女を苦しめる、悲しい過去を。 * * * 少女が生まれたのは、滋賀県にあるそこそこ大きな街だった。 天真爛漫でおてんばだった少女の人生がねじれ始めたのは、少女が八歳になる年のこと。 両親に連れられ、ドライブに出かけていた少女は突如―――車が大破する“ビジョン”を見た。 自分の乗る車ではなく、その前を進行する他人が乗った車、それが反対車線から来たトラックとぶつかるというビジョン。 両親はそのことを知る由もなく、少女を横目に楽しそうに会話している。 話さなければ、そうしなければ巻き込まれてしまう。 少女は楽しげに会話をしている両親へと、自分の見たビジョンを話した。 そんなわけないじゃない、そう言って微笑む母親。 それに同調し、速度を緩めることなく前の車の追うように車を運転する父親。 両親の頬が引きつったのは、少女がその未来を告げた数分後。 たまたま、信号に引っかかった少女達が見た光景は―――僅か百メートルほど先でトラックと衝突し大破した乗用車だった。 その一件から、少女は不定期にビジョンを見るようになる。 小学校でも、家にいる時でも…不意にそのビジョンが現れ、少女はその度に周りの人間に見たビジョンの内容を告げ続けた。 最初のうちは、ただの偶然だろう、そう周りの人間は高をくくっていた。 だが、どんな些細なことでもそうなると“予言”する少女は―――いつしか、両親から疎まれ、級友達からはイジメを受けるようになる。 進学し、中学生になっても尚そのイジメは続き、両親の態度は変わらない。 深く傷ついた少女は、転校すればこのイジメから逃れられるのではないかという想いから、両親に転校させてほしいと願い出た。 その願いは聞き入れられ、少女は中学二年生の春に故郷から遠く離れた都会の街の中学校へと転校する。 だが、そこでも―――少女はイジメのターゲットに選ばれてしまったのだった。 ビジョンを見れるようになった頃から受け続けたイジメによって、少女は幼い頃の天真爛漫さ、活発さを失っていた。 誰と会話をするにしても、何処かおどおどとした態度は―――いじめる理由としてはうってつけである。 少女にとって不幸だったのは。 彼女達は、けして目に見えるような痕跡を残すようなイジメ方をしないということだった。 ねちねちと罵詈雑言を浴びせ、周りの目を盗んでは脇腹などの服に隠れて見えない部分を少し強く殴るだけ。 だが、周りの目を盗み常に心ない言葉を浴びせ続けられ、時には暴力を振るわれるのは多感な年頃の少女にはかなり辛いことだった。 少女が電車での移動時間も、家に帰ってからも勉強に精を出す理由。 それは、いじめてくる少女達から逃れるために、少女達ではけして進学出来ないようなレベルの高校へ進学するためだった。 元々勉強が出来る部類だった少女だが、地方と都心部の学校ではかなりレベルが違う現実があった。 故郷の進学校なら余裕で進学できる程の成績を修めていても、都会の方の進学校を目指すとなると事情が変わってくる。 息抜きにテレビを見たり、読書する時間などを惜しんで少女は勉強に励んでいた。 レベルの高い高校にさえ進学すれば、イジメから逃れられるに違いない。 だが、少女は気付いていなかった。 それこそは、かつての自分が取った行動と何の変化もなく、自分自身が変わらなければ今と同じ結果になるのが目に見えているということを。 少女は風呂から上がり、服を着替えてベッドに入る。 明日もまた、周りの目をかいくぐっての罵詈雑言に身を晒されることに諦念を覚えつつ、少女は眠りの淵へと落ちていった。 少女は夢を見ていた。 自分に心ない言葉を浴びせ、今までにないくらいの暴力を振るう少女達。 いつまで続くのかと思った光景は場面転換し、少女は駅に一人立っていた。 自分とは思えぬほど、目の前の少女は暗い空気を纏って佇んでいる―――それこそ、電車が来たら飛び込んでしまいそうな程に。 その光景に、早く終われ、終われと叫ぶ少女が最後に見たのは…涙を流しながら自分へと話しかける、見たことのない女性の姿だった。 「…嫌な夢見たわ。 てか、この夢…まさか、予知夢じゃないやろな…」 携帯電話のアラームと共に起きた少女は、起きて早々溜息混じりに呟いた。 背中にかいた汗、起きても尚まざまざと思い出せる程のリアルな夢は―――予知夢なのではないかと思わせるには十分すぎる程だった。 少女が有する能力―――“予知-プリゴニクション-”。 その名の通り、未来に起こる出来事について前もって知ることができる超能力であり、現在の知識・情報を基にした推測や演繹の類いではなく、 全く未知の事柄をも知覚することができる能力である。 物心付いた頃とは違い、今ではその能力を自在に行使出来るようになった少女。 だが、こうして…眠っている間に予知能力が発動することは今まで無かったことだった。 当たって欲しくない、そう思うのとは裏腹に、少女は見た夢が的中することを感覚的に悟る。 いっそ、その未来を現実のものにしないために学校を休むことさえ考えたが、少女は結局シャワーを浴びた後学校へ行くことを選択した。 レベルの高い進学校に行くことを希望する以上、成績も勿論のことだが、内申書のことを考えると体調が余程悪くない限り 欠席することは躊躇われる。 少女は溜息を付きながら、制服に着替えて家を後にした。 * * * 心ない言葉を浴びせられながらも、今日の授業は全て終わった。 早く帰宅して勉強しなければと、少女はいつものようにいそいそと帰宅するために教科書類を鞄に詰めていた、その時だった。 「光井ー、この後予定ないよな。 うちらと一緒に遊びにいこうぜ」 少女―――“光井愛佳”は背後から聞こえてきた声に、背中が震えるのを感じた。 愛佳をいじめる主犯格の少女が発した言葉は、言葉だけならただ遊びに誘っているようにしか聞こえない。 だが、愛佳はその言葉が純粋な“遊び”ではないことを感じる。 拒否して逃げ出したかった。 だが、そうしたら―――言葉と“軽い”暴力だけで済んでいるイジメが、さらにエスカレートするかもしれない。 今でも心ない言葉に傷つき、時には学校に行きたくないと思いながらも必死に登校しているというのに、 これ以上何かされたら心が折れてしまいそうだった。 声がした方に振り返り、愛佳は不本意ながらも首を縦に振る。 ニヤリと笑った少女達の顔に寒気すら覚えながら、愛佳は鞄を両手に抱えて少女達の後を追いかけていった。 少女達の後を追った愛佳が見たものは、寂れた児童公園。 人っ子一人見当たらない公園は、遊具がさび付き、漂う空気はただただ寂しさだけを伝えてくる。 嫌な予感がして、愛佳は思わず立ち止まる。 だが、愛佳の背中を少女達の一人は乱暴に押して、砂場の方へと無理矢理歩かせていった。 「てかさー、いい加減お前学校辞めろよ。 見ててうざいんだけど」 「そーそー、いつも勉強できるんです、あんた達とは違うんだって言わんばかりに、 偉そうにしちゃってさー、勉強出来るから何だっつーの」 「超絶ブスだし、勉強以外何も取り柄もない暗くてつまんない子だしねー」 「何とか言えよ、その口は何のためにあるんだよ!」 言葉と共に、愛佳の鳩尾にめり込んだ蹴り。 痛みもかなりのものだったが、それ以上に精神的ダメージの方が大きかった。 今まで、言葉でごちゃごちゃ言うのと軽く殴る以外何もしてこなかった少女達が、いきなり激しい暴力を振るってきた。 監視の目がない時でもそこまでの暴力を振るってはこなかった少女達の行動は、体よりも心に遥かに大きなダメージを与える。 砂場に転がった愛佳は、為す術もなく少女達の暴力をその身に受け続けるしかなかった。 愛佳の耳に、顔とか目に見えるところは止めておかないとまずいぞという声や、目に見えない範囲ならどこ殴ってもいいんだよね、 という耳を覆いたくなるような確認の声が届く。 太ももに、鳩尾に、腕に、肩に。 制服に隠れて見えない箇所へと、今まで堪えていたものを吐き出すかのように繰り出される攻撃に、愛佳はただただ歯を食いしばる。 早く終わって、早く終わって、そう念じ続けるしかなかった。 やがて、愛佳への攻撃の手が止む。 ようやく終わったのかと息をついたその瞬間、愛佳は身に起こったことが信じられずに固まった。 「あー、ごめーん。 埃まみれで可哀想だったから、つい水かけちゃった」 「うわー、この季節に水かけるとかひどくない?」 「えー、綺麗にしてあげようとしただけだしー」 「そうそう、別に悪いことしてないしうちら。 あ、鞄も埃まみれで可哀想だから洗ってあげようか」 その言葉に、愛佳は思わず止めてと叫んだ。 だが、その願いは叶えられず―――愛佳の鞄は水をかけられていく。 愛佳のアイデンティティとさえいえる、大切な勉強道具が濡れていった。 水によって教科書も、ノートも参考書の類も…何もかもが濡れていく。 「てか、本当ブスでガリ勉しか取り柄ないくせに男に色目使ってんじゃねーよ」 「そうそう、あんたがどんだけ好きでも無駄なんだし、ガリ勉はガリ勉らしく勉強だけしてればいいんだよ」 「ま、勉強できてもその容姿じゃ彼氏なんてこれから先出来ないだろうけどねー」 「はは、勉強が恋人ってねー、ほーんと、可哀想」 口々にそう言いながら、少女達は鞄を放り捨てて去っていった。 後に残されたのは、濡れ鼠になった愛佳と無残な姿になってしまった大切な勉強道具達。 痛みに顔を引きつらせながら、愛佳は這うように鞄の元へと歩み寄る。 暴力を今まで振るってこなかった少女達が何故急にこんなことをしたのか、愛佳には見当が付かなかった。 鞄を抱え、立ち上がった瞬間に愛佳の中にストン、と答えが落ちてくる。 今日、愛佳は隣の席の男子が教科書を忘れたので教科書を見せてあげたのだ。 せいぜい、思い当たることと言えばそれくらいしかない。 まだ異性に興味を覚えたことのない愛佳は知らなかった。 その男子は、イジメの主犯格である女子が密かに好意を寄せていた男子であったことを。 取り立てて会話があったわけじゃない、ただ見せて欲しいと言われたから見せただけで、それ以上の他意はなかった。 無論、仲良くなる気なんてなかったし、寧ろ、忘れてくるくらいなら置き勉でもすればいいのにと思ったことを覚えている。 「…そんなしょーもないことで、何でうちがこんな目にあわなあかんねん!」 言葉と共に愛佳の口から漏れてきたのは嗚咽だった。 何も悪いことなんてしていないのに、何故こんな目に遭わなければならないのか。 教科書を見せてあげただけ、たったそれだけのことすら彼女達は許してくれない。 とぼとぼと駅へと向かう愛佳の胸に過ぎったのは、これから先への不安だった。 * * * 電車を待つ愛佳の目は何処までも虚ろだった。 ずぶ濡れの姿に加え、水が滴り落ちる鞄を持った愛佳を周りの人間は遠巻きに眺めるだけ。 愛佳の心を支配するのは、暗い感情だけであった。 能力に目覚めた時からイジメを受けながらも自分なりに必死に頑張ってきたけれど、頑張るだけ無駄なんじゃないか。 一生懸命頑張って、希望通りの進路に進めたとしてもまたこういう目に遭うんじゃないか。 そもそも、何故こんな力を持って生まれてきたのだろうか。 この力さえなければ、今頃故郷から遠く離れた地で一人孤独に暮らすことなく、友達や家族と共に笑いあえていたはずだった。 未来なんて見えなくたっていいのに、こんな力必要なんて無いのに。 この力がある限り、これから先生きていてもいいことなんて訪れないのではないか。 例えこの力を使わなくても、この力を有している限り自分にとって不幸な出来事がずっと続くかも知れない、愛佳はそこまで思い詰めた。 暗い感情に支配された愛佳は、まもなく電車が来るというアナウンスに導かれるようにふらふらと歩き出す。 一歩一歩、黄色の線を越え、後一歩踏み出せばホームへ落下する。 その刹那だった。 愛佳の体は突如後ろへと引かれる。 ホームに尻餅をついたのと、電車がホームへ滑り込んだのはほぼ同時だった。 「…何があったかあーしには分からんけど、でも、そう簡単に命を粗末にしたらダメやよ」 低く、怒気を孕んだ声に愛佳はとっさに後ろを振り返る。 愛佳と同じように尻餅をついていたのは、愛佳の視た“予知夢”の最後に現れた女性だった。 * * * 女性に促されるまま、愛佳は一旦駅の改札を出た。 そのまま、女性が歩いていく方向に着いていった先にあったのは、先程とは別の児童公園。 女性はベンチに座ると、隣に座るように促す。 スカートが乾いていないままベンチに座ったせいか、ひどく冷たくて気持ちの悪い感覚が愛佳の下肢に走った。 顔を顰めた愛佳の姿に女性は小さく微笑みながら、何があったか話して欲しいと懇願するように呟く。 その声に込められた切実さに突き動かされるように、愛佳は口を開いた。 物心付いた時に目覚めた能力のせいでイジメにあっていたこと、そのせいで都会の学校へと転校することになったこと。 転校してきたけど、結局昔と変わらずイジメを受け続けていること、そして、さっき今までになかったようなことまでされて、 もう、生きていても仕方ないんじゃないかと思ったことを一気に話す。 「―――努力したって、未来なんて変わらへん。 幾ら未来が見えても、それを変える為に努力しても何も変わらん。 努力しても何も変わらへんのに、ただ今の辛い時間が続くだけなのに生きるとか正直アホくさいですわ」 言い切った愛佳は、女性の方を振り返って目を見開く。 見ず知らずの愛佳のために―――女性は涙を流していたのだった。 「ちょ」 「何で、何で転校してくるくらい行動力あるのに、その子達に抵抗せんの? 未来は変えられへんってキミは言うけどさぁ、未来は変えられるんだよ、キミ次第で。 はっきり止めてって言って、暴力振るわれるなら全力で抵抗すればいい」 「そんなん出来たら苦労せんわ! 何も知らんと偉そうに言わんといて!」 「確かに、あーしは何も知らんよ、キミがどれだけの想いを抱えているかなんて、100%分かるわけじゃない。 でもね、未来なんか変わらへんなんて言ってても、心の何処かで未来を変えたい、そう思ってることくらい分かる。 後ほんのちょっとや、今あたしに食ってかかったみたいに想いをぶつけて、精一杯抵抗すればいい。 そうせんと、何も変わらんよ、本当に」 涙を流しながら、真剣な眼差しを向けてくる女性に愛佳はただ呆気に取られるしかなかった。 どうして、この女性は見ず知らずの他人の話を信じ、他人のために涙を流すことが出来るんだろう。 今まで、自分のために涙を流して真剣な想いをぶつけてくれた人間はいなかった。 いじめてくる人間、それを見て見ぬ振りをする人間ばかり。 そういうものだと思っていたし、自分のことを想ってくれる人間が現れるなんて考えも及ばなかったこと。 「―――あーしも、キミと同じ、能力者や。 助けを求めるキミの声が聞こえたから、ここにいる。 でもな、あーしはキミにこうして説教は出来ても、それ以上の行動は出来ん―――何でか、分かるよね?」 「…自分の未来は、自分で切り開くしかない。 誰かや何かが未来を変えてくれるって期待したって、自分の思い通りになんて動いてくれへん。 せやから―――自分で頑張るしかない」 「そういうこと。 周りに一人でも信頼出来る人間がいるなら、その人と一緒に頑張ることも出来るだろうけど、 今キミの周りにそういう人がいないのなら、辛くても自分だけで頑張るしかない」 そう言って、女性はベンチから立ち上がって歩き出す。 背筋をピンと伸ばして歩くその姿は、自分とさほど身長は変わらないはずなのにとても大きく見えた。 その背中が去っていくのが名残惜しくて、愛佳は女性へと声をかける。 「あの、よかったら―――愛佳と友達になってください!」 「キミがちゃんと勇気を振り絞って行動することが出来たら、その時はここに来ればええ。 ―――ここは、過去と向き合いながらも一生懸命未来を切り開いていこうとしている子達が集う場所やから」 言葉を紡ぎながら、女性はポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、さらさらと何か書いていく。 程なく、女性はボールペンを仕舞い、メモ帳から切り破いて少女へと手渡し―――微笑みながらその場から“消えた”。 突然の事態に驚きながらも、愛佳は手渡されたメモ帳の切れ端を大事そうにその手に包む。 愛佳のために泣いて怒って、真剣に向き合ってくれた女性。 この女性、そしてそこに集う人達の元へと行くためには、今の自分のままじゃいけない。 事態を変えるために大した努力もせず、心ない言葉や暴力を受け止め続けるしかない自分のままでは駄目なのだ。 まだ、正直怖くないかと言えば嘘になる。 嫌だと言葉で、態度で示しても結局何も変わらない可能性だってあるのだから。 それでも、何もしないままでは本当に何も変わらない。 神様なんていやしない、自分の未来は―――この手で切り開くしかないのだ、例え、そのために深く傷つき涙を流すことになろうとも。 愛佳は大きく息を吸い込むと、ベンチから立ち上がって駅へ向かって歩き出す。 体はズキズキと痛むし、濡れた服の感触が気持ち悪い。 顔を顰めながら、少し猫背気味に歩く愛佳の姿は、何故か不思議と明るい空気を纏っている。 帰り道を歩く愛佳の胸を満たすのは―――未来への希望だった。 * * * 翌日、愛佳はいつものように学校へと姿を現す。 相変わらず、少女達は愛佳に向かって心ない言葉を浴びせた。 だが、愛佳はその言葉に対しておどおどとした様子を見せるどころか、少女達をキッと睨み付ける。 放課後になり、愛佳はいつもと同じように帰宅準備をした。 今までとはどこか違った空気が面白くないのか、案の定―――少女達は鞄を持って帰ろうとする愛佳に声をかける。 「光井、これから一緒遊びにいこうぜー」 「帰宅部だし、どうせ用事もないでしょ」 「…ええで、ちょうどうちもあんたらに言いたいことあったし」 低く小さな声だった。 だが、確かに―――今までの愛佳とは違うことを感じ取った少女達は、そのことに内心驚きながらも愛佳を連れて歩き出す。 昨日と同じ公園へと連れて来られた愛佳。 調子こいてんじゃねーよ光井のくせに、という主犯格の少女の声が合図となり、少女達は一斉に愛佳に向かって襲いかかる。 抵抗なんてするはずがない。 所詮光井、少し生意気な態度を見せていても殴ればいつも通りだと想っていた少女達に―――愛佳は飛びかかった。 蹴られたら蹴り返し、殴られたら殴り返し。 必死になって愛佳は少女達に抵抗する。 向こうは四人、こっちは一人というかなり不利な状況など今の愛佳の頭にはこれっぽっちも浮かばない。 先に根を上げたのは少女達の方だった。 地面に膝を付きながら愛佳を睨み付けてくる少女達に向かって、愛佳は大きな声を上げる。 「あんたらがいくらいじめてきても、うちはもう逃げへん! 殴ったら殴り返すし、蹴ったら蹴り返すし、言われたら言われ返したる! 覚悟しとき、今までやられてた分も含めて今度からきっちり返したるからな!!!」 愛佳の叫びに、少女達は弾かれるように公園から退散する。 殴り合いの際に放り投げた鞄を拾い上げ、愛佳は駅に向かって歩き出した。 いつも乗る電車とは逆方向に行く電車が来るホームへと立つ愛佳。 背筋をピンと伸ばして立つ姿は、もういじめられっ子には見えないほど凛とした空気を纏っていた。 電車に乗り込んだ愛佳は、鞄から教科書の代わりに小さな紙片を取り出す。 その小さな紙片を見つめて、愛佳は小さく微笑んだ。 (待っててくださいね、うち、ちゃんと勇気出して頑張ったから) 小さな紙片に書かれていた文字―――“喫茶リゾナント”とその建物の住所。 電車に揺られながら、愛佳はその紙片を大切に胸ポケットへと仕舞い込む。 女性、そしてそこに集う仲間達のために何が出来るだろうか。 何が出来るかなんて分からないけれど、分かっていることがある。 未来を予知出来る能力“予知-プリゴニクション-”。 それで未来を知ることが出来るならば、そこに集う“仲間達”と共に…今日のように未来を切り開くために戦おう。 虚ろな目をした少女はもう何処にもいなかった。 超能力組織リゾナンターへと、この日第6番目の能力者が加わる。 誰も知りうることのない未来を視ることのできる、幼き予知能力者“光井愛佳”。 その目が見つめるのは、希望か絶望か。 その答えは―――愛佳以外誰も知ることはなかった。
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初めに ここは某掲示板である2ちゃんねるのVIP+にあるスレ『皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって』の専用Wikiです 配信者も少しずつ増え、スレ内で情報を書き込むことも多くなったので作成しました 主に新しい配信者が現れたときや配信者のURLが変更になった場合更新します Wiki制作 チップ◆ChipfCodaE 配信者募集中 只今垂れ流しラジオをしてくれる方を募集しています もし配信の仕方がわからないけれどやってみたいと思ったのであれば現行スレに書き込んでください できるだけ丁寧に教えます いつでも待っています 現行スレ したらば掲示板 過去スレ したらば掲示板(現在現行スレ兼) 垂れ流しラジオ舞台裏 http //jbbs.shitaraba.net/radio/28493/ 過去スレ 2014/04/30~ 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって 7曲目 http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1398784317/ 2013/12/18~2014/01/21 チップチューン垂れ流しラジオするから聴いていって http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1387374728/ 2014/01/21~2014/02/10 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1390232988/ 2014/02/10~2014/02/16 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって3曲目 http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1392036567/ 2014/02/16~2014/02/21 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって 4曲目 http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1392561992/ 2014/02/21~2014/03/01 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって 5曲目 http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1392912956/ 2014/03/01~2014/04/30 皆で垂れ流しラジオをするので聴いていって 6曲目 http //hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1393681936/ 更新履歴 取得中です。
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夜。 太陽が沈みほとんどの人が家に帰る時間。薄暗い路地を私は走っている。心臓がばっくんばっくんと打って要求している。動くことをやめるように。走ることをやめるように。 でもそんなこと今は聞いていられない。肺の中の酸素をすべて使い切っても、腕や足がぼろぼろになったとしても、私は走らないといけないんだ。だって、そうでしょ? 私の後ろには私を喰らわんとする化け物がいるんだから。 「……はぁ……はぁ……んく……うあ……」 口からはもうまともな言葉も出て気やしない。だらしのなく出てくるよだれもぬぐう暇さえない。ひたすら走って、走って、走るのみ。それ以外私にはどうしようもできなかった。その化け物を一目見て直感でわかった。逃げなくてはいけないんだって。理由なんてわかんない。ただ、変だ、って。そう思った。異質。異常。異なっている。根本的に私とは違うものだって。 「ん……くっ……んん……あっ!」 空き缶。どこかの誰かが捨てたのであろうそれを踏んだ。気をとられてしまい私の足は互いにもつれ合いあっけないほど簡単に転んでしまった。 「いっ……た……」 ひざ、ひじといった部分から伝わってくる痛み。すりむいたんだ、きっと。でも、もうそんなの関係ない。体はとうに限界を迎えていた。足も心臓も肺も何もかもが。立ち上がれない。動けない。逃げられない。 「いや……やぁ……」 目から涙が流れる。痛みのせいなんかじゃない。これから襲いくることへの恐怖が。私の心を芯から染めきっていた。ひたすらに怖くて、仕方がない。震えが止まらない。何もできない。 顔を上げるとそこには。 化け物が立っていた。 目が覚めると地面に寝転がっている。こんな癖、私にあっただろうか。いやない。それではなぜ。 しかし、いくら考えてもその答えは分からない。とりあえず周囲の状況を確認してみることにしてみた。 とりあえず、空が暗い。つまり夜だ。記憶に残っている最後の景色も夜であったことからそんなに時間は経ってはいないはず。 「いったい……何が……?」 服についた汚れを払い、落ちていた荷物を拾い上げる。念のため中身を見てみたが何も盗られていないみたいだ。なぜ、倒れていたのかはわからないが何事もなかったみたいなので気を取り直して家に帰ろうと、一歩前へ進んだそのときだ。 「ふぇ?」 軽い。あまりにも軽すぎる。荷物のことだけではない。とにかく体全体がまるで風船でできているのではないかと疑うほどに軽い。そのことに思わず自分でも間抜けな声を出してしまった。 「気のせいじゃ、ない……?」 実験だ。とりあえずその場で軽く垂直に飛んでみよう。 「およ?」 その場でジャンプしたにもかかわらずほとんど音が立たない。それどころか力を入れた瞬間自身の体は下から誰かに押し上げられたように浮き上がり約一メートルほど飛んでいたのだ。 おかしい。私自身体力に自信があるわけではないし過去にここまでの跳躍したこともない。というよりここまで飛び上がれるものは本当に人間なのか、とそこまで疑える。 けど数分が経過しているが特に体に痛みが出ているわけでもないしこのよくわからない力を利用するのも悪くはないかもしれない。 と、そうこうしているとのどが渇いてきた。 どこかに、自動販売機でも置いてないかな。 なんか飲みたくてしょうがない。 そうだ、珍しく紅茶でも買おう。家に帰ったら、 赤ワインでも飲もう。 「う、ううん……」 地面にうつぶせになって倒れている私。何が、あったんだっけ。とにかくいつまでも寝ているわけにはいかないし、立ち上がらないと。 「よっこら、っと……え?」 立ち上がってみてびっくりした。だって、私の着ている制服が血まみれなんだから。びっくりした私は思わず服を脱いで確認した。ここ、路地裏だし大丈夫だよね……? 「うわどうしよこれ……」 首周りから胸にかけて汚れているようでまだ少しぬれていることから時間はそこまで経っていないみたいだけど。でも、なんで? 不思議に思った私はとりあえず首をさすってみた。すると、予感はしていたが液体の残っている感触があり、その手を見てみるとやはり血でぬれていた。 「え、ていうかこれ大丈夫なの? もしかしたらやばい?」 いったい私は気を失っている間にどれくらいの血液を失ってしまったのだろう。三分の一失っただけでショック状態になるとか聞いたことある気がするけどどうだっけ? けれども今のところ私の体に異常はないし大丈夫、なのかな。あ、服どうしよう。下に着ていたセーターは大丈夫だったからそれでいいかな。いいよね。どうせ家は近いんだし。 「帰ろうっと」 落ちていた通学かばんを拾い上げていざ歩こうと足を前に出す。うん、大丈夫。ぜんぜん大丈夫じゃん私。あれ? そういえば怪我したような気がするけど傷とかないや。まぁいいよね。それになんか変なことがあったにもかかわらずすごく気分がいい。 それにしてもなんか忘れてる気がするけど……忘れたってことはたいしたことないよね。 あーなんかお腹空いちゃった。それにのども渇いちゃったし。 あ、そういえばダイエット用に野菜ジュース買っといたんだ。 赤い、色の、野菜ジュース。 早く、飲みたいなぁ。 おそらくもし私を見ている人がいたら不審に思うだろう。浴びるようにペットボトルの中の紅茶を飲んでいる変な人がそこにいるのだから。すでに三本目。気づけば私は二千円分の紅茶を買い、そしてもう半分以上を飲み上げてしまっている。 理由はいたって簡単なもの。のどが渇いているからだ。乾いている。渇いている。干からびている。 それこそ砂漠の中にある砂のように。いくらつばを飲み込んでもその渇きは癒えず、とうとうつばさえもでなくなり紅茶をがぶがぶ飲む始末。 それでも、渇きは癒えない。それどころかどんどん酷くなる一方だ。胃の中が紅茶でいっぱいになっているだろうにもかかわらずだ。明らかに異常なこと。けど対処の仕様がない。わからない。 「飲みたい……」 何を? と思わず心で問う。もちろん答えは返ってこない。 「飲みたい……」 いいながらもその口は今もなお紅茶を含んでいるはずなのに。 「ノ……ミ……タ……イ……」 かすれた、音にもならない声が、私にだけ染み渡る。それは、まるで私自身へ私自身が要求しているように。 「AAAAAAAAAAAAAAAAA!!」 気づけば私はガムシャラに走っていた。声という音域を外れ、獣じみた叫びを放ちながら。 頭の中でささやく。甘く、芳醇に、私を誘う。 チヲ、ノメ、ト。 アタタカク、アカク、アマク、イケルモノノ、チ。 チヲ、ノメ、ト。 「ただいまー」 ドアを開き、玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。と、ここで向こうからいい匂いが漂ってくる。それは私の鼻をくすぐって、つい反射で口の中でよだれが出てきてしまう。この匂いはたぶんビーフシチュー、なのかな。 「お母さーん、今日ってもしかしてビーフシチュー?」 「そーよー。よくわかったわねそこからー。玄関でしょ今いるの?」 そういえばそうだ。私って、こんなに鼻がよかったっけ。 「まぁいいわ。そんなことよりさっさと着替えて着なさいねー」 はーいと返事をして私は階段を上り自室へ向かう。リズムよくトン、トン、トンと。 部屋に入ってひとまず着ている服を脱ぐ。するりと衣が脱げ落ちていく。人が自分を繕うためにつけている人間としての鎧が。 今の私は下着姿。この状態で部屋の外をうろつけば確実に軽蔑の視線が私に向けられるだろう。 「軽蔑……」 って私はいったい何を考えてるの! そんなの変態じゃない変態! 露出狂じゃあるまいし…… 「……あーもー! そんなことよりご飯、ご飯!」 思わず出てきた邪まな考えを振り払いちゃっちゃと着替えを済ませると部屋を逃げるように飛び出した。 「あらあら。いくらおなかが空いたからってそんなにあせらなくても誰も盗らないわ」 あまりにもどたばたと駆け下りたためかお母さんがそんなことを言い出す。息を整えながらイスに着いて料理が出されるのを待つ。 「うふふ、誰に似たのかしらねぇ。お父さんかしら?」 「もうそんなのどうでもいいよぅ……あ、それよりお姉ちゃんは?」 「多分、勉強中よ。あの子は今大事な時期だから。邪魔しちゃだめよ」 お姉ちゃん。私より二つ上で、いわゆる受験生。今、すごく忙しいみたいで、いっしょにご飯を食べることすら滅多にない。いい大学目指してるんだって。 「さ、ご飯にしましょう? 今日はビーフシチューよ? って、知ってるわよね」 「あぁもうお腹ぺっこぺこだよ! いただきまーす!」 全力で走っている私。人間では到底出せそうもないスピードで動くこの体は目的もなくただひたすらに走り回る。 むしろ、考えたくはなかった。私の頭を巡りに巡る思考回路を封鎖するために。自身がそうではなくなる恐怖。いつのまにか人道から外れたことを考え、そして実行してしまうそうな。そんな思考。 走っても走っても、逃げども逃げども、ソレが離れることなどない。なぜなら、それは私の頭の中で生きているからだ。ソレは腐っていて、それでいて、魅惑な息を私の脳髄に吹きかける。落ちてしまえば楽だろう。いや、楽に違いない。けれども、私に残されたヒトカケラの"人"が。ソレをかたくなに拒み続けていた。 走りに走って、いつのまにか路地裏の方に来てしまっていた。ここまで来るのに時間はそんなにかかっちゃいない。三分か、四分くらいだろう。それでも心臓はほとんど正常に鼓動を繰り返している。 どうかしている。普通じゃない。体も、心も。 「どうなっているのか……全くもって……」 途端。心臓の衝動。誰か、いや、何かからの非道なまでの圧力によって締め付けられている。 「アッ……ガッ……ケハ……」 止まる。心臓が。コドウが。イノチが。トマル。オワル。 「ウ、ア、コン、ナ、ノッテ……クヒッ」 カエルがひしゃげたような音を出しながら、私の体は落ちていく。路地の、冷たいアスファルトの上へ。 さようなら。 誰に言うわけでもないが、なんとなく、頭の中でそう呟いていた。 さようなら。 「あーあ。今日ももう終わりかー」 そんなことを、私はお風呂場で誰に言うわけでもないけど、言っていた。 「また明日も学校……あー休みたーい」 口ではこうは言っているが、実際は冗談だ。 もしも、明日いきなり台風が来て学校にいけなくなったりとか、大雪が降っていけなくなったりとか、インフルエンザが急に流行って臨時休校になったりするんだったらいいけど。 どうせ、そんなことはおきっこないんだから。だから、半ば諦めがちに学校に通っている私。 いかなきゃいけない。そう自分に言い聞かせて、毎日、登校する。 「はぁ。やんなっちゃうなぁ」 私は普段はこんなこと、考えない。だってせっかくの晴れてる心も一気に台無し。曇り空。 そういえば私、なんでこんなこと考えちゃったんだろ……? 「う~……あぁもう! 分かんないからパス!」 ぱしゃとお風呂の中に顔だけ潜ってネガティブな思考はシャットダウン。ぶくぶくぶくと泡が出ている。ほんとはお行儀悪いけど誰もいないんだから気にすることはないよね。 「おーい、いもうと~」 「っひゃあ!」 予想だにしていなかったのは私も姉ちゃんもおんなじみたいで向こうも驚いたようで。 「ちょ、ちょっと何、大丈夫!?」 「あ、ごめん驚いちゃってそれで……えへへ」 「まったく……どうせあんたのことだからお風呂でぶくぶくしてたんでしょ」 ばれてる…… 「ど、どうして分かったの?」 「だって昔はよくいっしょに入ってたじゃない。あんたいつもやってたし」 「そんなにしてたっけ?」 「してたしてた。それはもうぶくぶくぶくぶく。しまいにはよく母さんにしかられたかな」 そういえばもう何年くらい入ってないのかなお風呂。小学校くらいまではいっしょに入ってたけど二人とも中学にあがってしばらくしたら、いつのまにか入ることはなくなってた。 「いつのまにか、いっしょに入ることなくなったよね」 「え? ああ、そりゃいつまでもいっしょってわけにはいかないでしょ?」 「まぁそうなんだけど……あ、そういえばさっき私のこと呼んだけどなんだったの?」 「いきなり話が変わったわね……そういえば、なんだっけ。ああ次私入るからって言おうとしたのよ」 「なんだ、それだけなのか」 「あのねぇ……それだけなのに話を伸ばしたのはあんたの方でしょ」 「えへへ、ごめんごめん。もうちょっとしたらあがるから」 ほんとに頼むわよ、と言うと姉ちゃんはそのまま洗面所を立ち去っていった。 私も、もう上がらないとね。 もちろん風呂上りは、ダイエットのためのトマトジュースを思いっきり飲み干す。 いつもは、にんじんジュースだけどね。そういう気分なんだ。 そういう、ね。 一つの体が、そこにあった。 薄暗く、ひんやりとした空気がじめっと肌に触るそこはいわゆる路地裏と呼ばれている場所。 その体はピクリとも動きはせず、もしも誰かがそれを見たら救急車を呼ぶかそれともその状態を確かめに行くか。人によっていくらでも取る行動はあるだろう。 だが、もし勘の鋭いものがそれを見たとしたら。おそらくほとんどの者がこうするだろう。 "全力で逃走する" しかし幸か不幸かそれを目撃したものは誰一人としていなかった。 "それ"が、至って平然と立ち上がる姿を目撃したものも。当然いなかった。 「けひ……キひゃ……」 鳥か獣がか細く啼いたような、そんな音が体の口から洩れた。 体は、周囲に散乱していたプラスチックの群れを全く認識していないのか。踏み、蹴散らし、時にはすっ転びそうになりながら。その場を後にしようとした。 そのとき、体はその動きを停止し、辺りを見回し始めた。 当然その辺にゴミ屑同様に撒き散らされているプラスチックの塊を探しているわけではない。 鼻をヒクヒクと震わせて、何かのニオイを嗅ぎ取ろうとしている。 と、ある一点を向くと、それらの動きを全て停止させた。 そこには、女がいた。 制服を着ていて、通学かばんと思わしき物から携帯電話を取り出している。どこから見ても学生なのは明らかだった。 しかしそんなことはカレにはなんの関係もなかったのだった。 「あ、メール。 なんだお母さんか。 えっと……"ご飯できたから早く帰りなさい"……はいはい。わかってますよーだ」 少女は、そのメールを読み終わるとすぐさまその返事を打ち込み始めた。 「"りょーかいいたしましたお母様。すぐさま帰宅いたします"……っと」 内容を打ち終わりそれを送るべく送信ボタンを押す。携帯電話の画面には、紙が折られ紙飛行機になり、それが飛んでいくという映像が流れている。それが三度ほど繰り返されたとき、画面には"送信完了"の文字が映っていた。 「もぉーこのぐらいでいちいちメールなんか送ってこなくていいのにー」 そう言いながら携帯電話を折りたたむとかばんの中にテキトーに突っ込んだ。 家に帰ろうと、視線をかばんから戻すべく顔を上げると そこには、見たこともない男の顔があった。 「あーやっぱりお風呂上りはこれだよねー!」 お風呂から上がって早速私はトマトジュースを飲み干していた。よく友人などからは味の事をたびたび聞かれるけどそれはまったく問題ない。なぜならこのトマトジュースを含んだ野菜ジュース類は母が考案しそして何度も行われた細かい調整でようやく完成したジュースなのだ。(そのときの失敗作は私たち姉妹が強制的に始末させられたのだけど)もちろんまずいわけはない。 「そう言ってくれるとこっちも嬉しくなるわねー」 キッチンの流し台でお母さんは今日の晩御飯に使われた食器を洗い流している。手伝ってあげようかとも思ったけど私がお風呂に入っている間にほとんど終わってしまっていたようなので今日はやめておいた。 「それにしてもまたパパ帰りが遅いわ……ここのところいつも残業ばっかり。食事用意してるこっちの身にもなってほしいわ!」 そう言うとお母さんは頬を膨らませる。いい年してるのにって突っ込むと怒られるからしないけど。 「でもさぁ、そういうときって普通先に言っておくもんじゃないの?」 「確かにそうなのよね……ま、今日はたまたま残業が入っちゃったってことにしておくわ。そして食器洗い終了っと」 見てみると確かに流し台には一枚も食器は残っておらずそして全てがきれいに拭かれていた。 と、突然お母さんが欠伸をし始めた。それを見て思わず私も欠伸がうつってしまった。 「あらもう欠伸する時間帯……? 一日ってほんと短いのよね」 背伸びをしながらそんなことを言うお母さん。言ってることは共感できるけど。 「じゃ、私もう寝ちゃうから早百合もさっさと歯磨きして寝なさいね?」 「は~い」 口ではこうだけど実際はそんな気は毛頭ない。だってテレビ見るんだもん。夜更かしは学生の特権なんですって誰か言ってた気がするし。どうしても見たいし。別にいいよね。 すでにお母さんは自分の寝室に移動している。つまりここのテレビ独占し放題。バレると後が怖いけどね。 前に友達に聞いたんだけどわりと自分の部屋にテレビがある人も多いらしく私としては羨ましいの一言。ズルイぞ。 「さてさて、まずはスイッチを……オン!」 プツン、というなんだか歯切れのいい音がなり徐々にテレビの画面が明るくなる。なんかこういう瞬間ってドキドキするの私だけ? 「おっとっと音を下げて……っと。これでよし。何から見ようかな……」 そのとき、あまりテレビから聞くことのないプーンという音が二度すると、画面上部にはニュース速報の文字が流れている。 「こんな時間に速報かー。あれかな。地震とか?」 というより他に思いつかなかっただけなんだけど。 ゆっくりと流れてくるニュース。しかし私の予想に反して、"地震"の二文字はなく。代わりにこの二文字が流れていた。 「殺……人?」 "連続猟奇殺人事件" 普段全くお目にかかることのない文字が勢ぞろいで、私の目に飛び込んできた。 薄暗かった路地に月明かりが差し込む。 劇場の舞台にスポットライトが当てられたように、彼らに光が当てられる。 うつ伏せに倒れた少女と、そこに馬乗りになって少女に抱きついているように見える男。 月明かりの美しさ。それによりさらに極まるその行為から垣間見える異常さ。 よく見れば少女の首筋から血が流れており男はおぞましくもその血を音を立てながら啜り飲んでいた。 「キヒ……キヒヒヒャハ……」 ユラリとよろめきながら立ち上がる男。 淡い青色の月光と、病的なまでに白い肌と、口元にべったりと付いた赤朱色のコントラストはどこか芸術的な絵画のような。そんな印象を思わず抱いてしまうほど、月明かりは美しかった。 「ヒヒヒヒャハハハハハハハ……ヒヒハハハハハハハハ!!」 ケタケタとニヤニヤ笑いながら上に、空に向け、高笑う男。 一度膝を曲げたかと思うと普通では考えられない跳躍で跳び上がると、そのままこの場を風のように去っていった。 男の高笑いは、いつまでもその場にこだまし続けていた。 この倒れている少女が起き上がるのは実にそれから数分後のことである。 しかし一方で、こことは違う場所に話は移る。 「んで、着いた訳なんだよな。相棒?」 「……相棒というのは止して頂けませんか。一応、指揮権は僕にあるので」 そこには、二人の人間がいた。 ただいるだけならばそこまで気にすることはない。問題は彼らの見た目である。 まず一人は、長身で赤色の髪、銀色に輝くそれは見事な鎧を装着し、腰には長めの剣と思わしきものまで差している。 もう一人は、低身長気味で水色の髪、鎧とまではいかないが丈夫そうな革服と胸当てや肘当てといったものを装備し、腰には先ほどの剣よりぐっと短く、おそらくレイピアのようなものを差していた。 二人が並ぶとその身長差はよりはっきりと目立ち、もう一人の方はまるで子供のように思えて仕方がない。 「まあなあ、そりゃこんな見た目じゃどっちが上かなんて人目見ただけじゃ見抜くのは一苦ろ」 「それ以上僕の容姿について言及するということは覚悟ができていると思っていいんですよね?」 ジロリと睨むその蒼眼に思わずたじろいでしまう長身の人。流石にこれはまずいと咄嗟に言い繕う。 「あっははははは……冗談っすよ冗談……ったくちょっと触れただけですぐコレだからな……」 「何か、言いましたか?」 ボソッと呟いた筈の文句がなぜ耳に届いたのか、相手には見えぬよう苦々しい顔をしながら返事を返す長身の人。 「いえいえほんとになんでもありませんよほんとうに」 「……どうやら、任務より先に上の者への口の聞き方を教育しなければならないようですね?」 長身の人、それを聞くと今度は深々と頭を垂れ、実に丁重な雰囲気で言葉を述べ始める。 「……先ほどからのご無礼お許しください。どうやら自分は初任務に舞い上がり多少冷静な判断に欠けていたようで……」 低身長の人、一つため息を吐くと、怒る気力がなくなったような、それでいて重々しく。 「あなたの言葉に付き合っても無意味なので、この件はなかったことにします。ですが」 「もちろんこのことは今後一切口には出しません。誓ってでも」 「よろしい。それじゃ早速行動を開始します」 そういうと、彼らはその場を後にした。 後に残ったのは、ただ静けさばかりだった。 私は、テレビの画面に釘付けになっていた。 そのとき流れていた映像は全てどこかに吹き飛び、映るのは文字だけだった。 "今日午後10時ごろ、浦歩市内で血まみれの死体を見たという人が相次ぎ警察が調査をしたが死体は見つからず 見間違いだと思われていたが一人の警官が死体を発見したと通信機で同僚に報告したがその警官は行方不明に 現在その警官を捜索するとともに今回の騒動の真相を探っている" 「血まみれ……」 そう、私にも覚えがある。あのとき、路地で倒れていたとき。私は少しではあったけれど血が流れていた。 もしかして、何か関係があるのだろうか。そのときの記憶はあいまいなんだけど……できるなら思い出したくない。 なぜかはわからないんだけど、怖い。思い出そうとすると、黒い影がチラチラと頭を横切る。怖くって仕方ない。 「こらっ!」 「ひゃあ! テレビ勝手に見ててごめんなさいごめんなさいごめん」 「バーカ、わたしだよわ・た・し」 後ろから突然怒鳴られた私は思わず自分でもマヌケなほどに飛び上がってしまった。 見てみればお母さんじゃなくてお姉ちゃんだし。 「もう……脅かさないでよ」 「あっはははごめんごめん。あんまり真剣になってテレビ見てるからつい」 「つい、じゃないよもう。ほんとに心臓止まるかと思った」 「悪かったって、ごめん。んで、何か面白そうな番組でもあったの?」 連続殺人事件があったんだってー、なんて、言えるわけない。勉強に集中したいだろうし。それに今私が言わなくたって明日のニュースとかで見るだろうし、今言うべきことじゃないと思った。 「え、あ、ううん……別になかったよ」 「え~? 本当かな~? あんなにまじまじ見てる早百合珍しいと思ったけどね~?」 「ほ、本当だよ! そ、それよりお姉ちゃんは何しに来たのさ!」 なんか私ってごまかすのが下手な気がする……けど、お姉ちゃんはそのことを気にした様子もなく答えた。 「私? いやちょっとのどが渇いたからさ。ジュースでも飲みにきたってわけ」 「そっか。ところでなに飲むの?」 「もちろん母様特製スペシャルジュースに決まってるでしょ! あれ美味しいんだよねー」 スペシャルジュースというのはお母さんがお姉ちゃんの健康を気にして作り出したある意味お姉ちゃんのためのジュースだ。そのせいかお姉ちゃんもそれを一番のお気に入りにしているみたい。 「やっぱりそうだと思った。あーあ私ものど渇いちゃったなぁ」 「じゃあ飲めばいいんじゃない?」 「だって入れるのめんどくさいし……あ、そうだお姉ちゃんついでに私のも入れてよ」 「やーだよめんどくさい自分でやりな」 「むー、けちー」 「それに私の分はすでにやっちゃったからね」 気づくとお姉ちゃんはすでにコップを持っていてその中にはオレンジ色の液体が入っている。いつのまに。 仕方がないのでぶつぶつ文句を言いながらも私はキッチンの冷蔵庫に向かう。すぐそばでお姉ちゃんが飲んでいるのはどう見ても私に対するあてつけだ。全く私の分くらい入れてくれたっていいのに。 とりあえず何を飲むか選ぼう。えーと、うーむ、そうだ。トマトジュースにしよう。お風呂上りにも飲んだけど。 「お、トマトジュースなんて珍しいね。もしや、ダイエット中?」 私が冷蔵庫からトマトジュースの入ったボトルを取り出しているとそんなことを言ってきた。 「違うよ! なんていうか気分?」 「ふーん。あっそ」 それだけいうとさっさとまたジュースを飲み始めた。私も気にしないでさっさと飲むことにした。 不思議と飲み終わるのに大して時間はかからなかった。大きいコップを使ったはずなんだけどな。 隣を見るとお姉ちゃんがまだ飲んでる。 そういえばお姉ちゃんって結構スタイルいいんだよね。でもモテるなんて話し聞いたことないなぁ。 細い。お姉ちゃんの体って。よくこんな体で生きていられるよね。 ほんと、この首なんて、力を入れると折れてしまいそうで。 「ん? どうしたの?」 「っ!?」 急に振り返ったお姉ちゃんに気づいて慌てて私は手を引っ込んだ。 今私なに考えてたの? どうしてお姉ちゃんの首を触ろうとしたの? 「あ、う……」 「さ、早百合? どうしたの、顔色悪いよ?」 「ご、ごめんなんでもない……ちょっと外の空気、吸ってくるね」 「あっ、早百合!」 一分一秒も早くこの場から逃げ出したかった。何もかもが恐ろしくてたまらなかった。何より、私自身に。 私……いったいどうなっちゃったの? 「ったくキリがねぇぜこりゃあよ!」 「確かにこのままでは埒が明きませんね」 人通りの少ない少々寂れた商店街。そこに普段より多くのニンゲンがいた。 いや、正確にはニンゲンの形をしたモノ。とでもいえばいいのだろうか。 なぜなら彼らの動きは明らかに人という枠を超えたまさしく人外と呼ぶに相応しいものでまたそれに対峙している二人も人智を超えた目を疑うような光景を繰り広げていた。 剣を持つ二人の人間に対して老若男女の七体の化け物。しかしそのうちの三体はどういうわけか氷漬けにされている。 残りの四体はバラバラの動きで二人を仕留めようと彼らに襲い掛かる。あるモノは上から、あるモノは回り込んで後ろから、またあるモノは正面からとそれぞれの動きはバラバラながらもそのどれもが強力なパワーで攻めてくる。 それを主に捌いているのが長い剣を持った男。ときどき捌ききれないのがきたらもう一人と見事な連携で立ち回っていた。 「そこまで冷静に言うかフツーよォォ! アイツらはまだ7体もいるんだぞ!?」 「……ちょっと時間を稼いでください。まず僕が奴らの足止めをします……十数秒ほどですが」 「それで! どんくらい! 持たせりゃ! いいんだ!」 そういっているうちにも相手は休むこともなく攻め続けてくる。それを切り払ったり押し返したりしながら長身の男は聞いた。 「そうですね……20……いや15秒持たせてください。何とかしてみせます」 「何でもいいから早いとこ足止めって奴を! こっちは持ちそうにねぇんだぞ!」 「わかりました!」 そういうと手に持っていたレイピアに形状の似た剣を何かの絵を描くかのように振り回し始めた。 そしてさらに何かを唱えている。 水の神よその偉大なる業を我の前に示し給えいかなる時であろうとも我と共に在れ―――― イル・オン・ディヌ・ミカノズミ―――― 「フリージス・ミストッ!!」 その言葉を唱えると、化け物たちの周りを薄い霧のようなものが包み込み始める。 それを意に介せず再び攻撃を仕掛けようとする化け物だが、不思議なことにその体は全く動こうとしない。いや、動こうにも動かすことができないのだ。なぜなら、その体は瞬く間に凍りついているからだ。 そして、数秒もしないうちに七個の少々気味の悪いオブジェが出来上がっていた。 「ふぃー。助かったぜぇ……」 「僕は今のうちに次の呪文に取り掛かります。ですから……」 「んなことはわかってんだよォ!!」 そう言うと再び剣を構えなおし七個のオブジェどもへと向かって駆け出した。 しかし、普通ならば凍っている物を斬るというのは簡単なことではない。が、長身の男はそれを気にしている様子はない。 「見せてやるよ。俺のフレイム・エンチャントの力を!」 突如、彼の持っている剣を包み込むように淡い火が出たかと思うと、瞬く間に紅蓮に揺らめく炎へと変わった。それは一見、その剣自体が燃えているようにもとれるがそうではない。あくまでも剣の周りに炎が現れたに過ぎないのだ。 「アンタには悪いがよ、跡形もなく消えてもらうぜ? 後始末が面倒なんでな!」 一番近くにいた化け物へ、紅蓮の剣を頭部へと、振り下ろす。 その炎は、氷を、髪を、皮膚を、肉を、骨を、脳を、何もかもを、焼き尽くした。 剣が完璧に振り下ろされたそのときには、そこにオブジェはなく、ただ少量の水と炭が下に落ちていた。 「か~、やっぱり俺もまだまだって奴か……なんて、無駄口言っている場合じゃねぇな!」 そして彼は突撃する。残りの化け物どもを殲滅するために。 と同時に彼は気づいていた。化け物どもを封じ込めている氷がすでに融け始めていることに。 それでも彼は走る。自身の任務を遂行するために。何より、彼と共にきた相棒を死なせないために。 「オラオラオラァァァッ!!」 横に、縦に、斜めにと剣を振る。化け物は一体、また一体と焼失していく。だが、よく見ると彼の剣を包んでいたはずの炎が化け物を斬るたびにだんだんと弱まってしまっている。それに伴って彼自身も、たった数回剣を振っただけなのにも関わらずまるで全力疾走で400mを走ってきたように呼吸が荒くなってしまっていた。 パキィンといった、何か薄いものが割れるようなそんな音が響いた。 見ると化け物どもは自分を覆ってしまっているその氷を、強引に力業で破り、体の自由を取り戻していた。 そして、長身の男を獲物として確認すると、三体の化け物が、彼に向かって襲い掛かる。 それに対する彼は疲労困憊してしまっているのか剣を構えることもなくだらりとした様子でうつむいていた。 「後は任せても、いいんだよな?」 「ええ、もちろんです」 化け物どもの頭上。そこには、コンクリートなどで固められた巨大な塊ができあがっていた。 よく見れば周囲にある建物の一部の壁などが大きく削れていたり剥がれていたりしている。 重力の影響を受けてそれが落下すると、下にいた化け物どもはその塊に押し潰されてしまった。 「……俺たちの完全勝利……ってところ、だな」 「どうも危なかったようにも見えたのは気のせいですか?」 「あ、あれはほら、演出だ! 演出!」 「その割には本当に疲労していたように見えましたけど……まぁそれはそれとして」 と、ちらりと巨大な塊を見やると困ったような顔をする。 「これ、放置しておくにも行かないので後片付けお願いしますね」 「ちょちょ、おい! さっきの戦いで疲れてるんだぞ! できるわけないだろ!」 「あれ? それは演出じゃなかったんですか?」 「ぐ……わかったよやるよやればいいんだろ! クソ!」 「口の利き方」 「りょ、了解しました……」 「あの塊は僕の方で解除しておきますのでそれの片付けと下敷きになってる体とかも焼いてください」 「……人使い荒くないか」 「それじゃがんばってくださいね」 そこまで言うと言いたい事は全て言ったとでもいうようにその場を離れ商店街の出口の方向へ歩いていく。 「あ、おいちょっと待て……畜生、後で覚えてやがれよ……」 振り返ってその巨大な塊を見て、しばらくそれを眺めているだけだったが、一言だけボソッと呟いた。 「あぁ……帰りてぇ」 「あぁ……帰りたいよもぅ……」 あのとき、お姉ちゃんから逃げ出した私は家から飛び出して当てもなく一人町を彷徨っていた。 流石にパジャマで出たわけじゃないけどそれでも薄着で寒い。玄関にかけてあったコートを着て出たけどそれでも寒くて仕方ない。 「でも、あんなことがあった後で帰れるわけないじゃん……」 自分で自分が、いやになる。ていうか、本当に私はどうしちゃったんだろう。さっきから変なことを考えてる。 家に帰る前も、家に帰ったときも、お風呂のときも、お姉ちゃんのときも。 「ほんとなんでなのかなぁ」 そう口に出してみたけど、本当は違う。心の奥深くで、誰かが叫んでる。今はまだ小さくて聞こえないけど薄々気づいてる。 ただそれに耳を傾けたくないだけなんだ。だって、それを聞いてしまったらもう。 今の私に戻れないような気がして。 「……あ、ここ……」 考え込んでて気づかなかったけど、私はここを知っている。 錆付いてしまったアーチ上の看板と、両端にたくさんのお店が並んでいて。 小さいとき、それも保育園とか小学生のときにお母さんに連れられ一緒に買い物に来た商店街。このころはまだお姉ちゃんとも一緒だったっけ。 「まだあったんだこの商店街……看板が錆びちゃってて何ていう名前なのか結局今もわかんないけど」 子供の頃の足だとなんだか遠く感じていたこの場所も、今となっては数分で着いてしまう。そのことを思うとなんだか感慨深いような気がした。 懐かしさに誘われるままに私は商店街の通りへと歩みを進めていた。右に肉屋さん、左に八百屋さんとそれこそテレビや漫画で出てきそうなそんなお店が立ち並んでいる。他にも居酒屋さんとかあるけどそのどれもが古臭さを感じさせるほどに壁がひび割れていたりシミができていたり。 しばらく歩いていると少し奇妙な物を見つけた。大小と様々な大きさの瓦礫が道路に散らばっているのだ。周囲を見回してみると付近の建物の壁が所々壊れていておそらくそれが瓦礫となったのだろうと考えられるけど。 「でもなんで? 地震とかあったわけじゃないし、普通こういうのって誰かが片付けるもんじゃ……」 いくら考えても答えなんか出るわけもなく。ただむなしく時間が過ぎるだけ。 「というか寒っ……流石にちょっと薄着だったかなぁ」 いつまでも外をぶらぶら歩いてたって仕方ないよね。うん、いい加減帰らないとね。お姉ちゃんも心配してるよきっと。 そう思って今まで来た道を戻ろうと、振り返る。振り返った私の視線の先に誰かがいる。見た感じ男の人だ。でもなんだろう。私はこの人を知っている……というより、見たことがある……? アレコレ考えているうちに男の人はこちらの方向に近づいている。おぼつかない足取りというか少しふらつきながら。お酒でも飲んで酔っ払ってるのかな。なんて考えていた。 それは、あっという間の出来事。気が付いたそのときには男の姿が消えていて。 私が状況を把握しようとしたそのときには男の姿が目の前に現れていて。 「あ……あ……」 思い出しかけていた記憶が一気にフラッシュバックした。私は帰り道の途中に出会っていたんだ。あの化け物に。 そして、小さくもはっきりと聞こえてしまったんだ。 チヲ、アタタカイチヲノメ、って。 男の顔が月明かりに照らされる。あの時見たのと変わりのない青白い顔。でも、一つだけ違っていたものがあった。 それは、私がそれを見ても。 異質だとは感じなかったことだった。 「ちょっと横にズレてもらえるかいお嬢さんよ!」 大きく響き渡る男の人の声。でもそれは目の前の化け物から発せられたものじゃない。むしろ後ろから聞こえている。 咄嗟の判断で横に飛びのいた私は慣れないことをしたせいか転んでしまった。 「いったた……そ、それより、今のは一体何?」 化け物がいる方を見てみるとそこには変な格好をした人がいる。鎧とか剣とか着けて、髪も赤いし、まるでどこかのゲームから抜け出してきたんじゃないかと思うほどの格好。どんなコスプレでもここまで精巧にはできないんじゃないか。 茫然自失としているともう一人、私の方に近づいてくる。 「大丈夫、ですか」 小さめの身長で青い髪をした人が話しかけてきた。私と同い年、いやもしかしたら年下かも…… 「う、うん大丈夫……というかあの人助けなくてもいいの?」 「ええ、どうせ相手は一体、問題ないでしょう。それに、あの人元気が有り余ってるみたいですしね」 「?」 くすくすと笑ってるのはちょっと理由はわかんないけどとにかく問題ないらしい。 それにしても不思議だ。本当に私は現実を見ているんだろうか。人が剣を振り回して化け物と戦うなんて。とてもじゃないけど信じられない。 そもそもこの人たちは一体何者なんだろうか。 「あの、あなたたちは一体……」 「何者か、ですか。確かに気になることです。しかし言ってしまってもいいのか……」 「言っちゃってもいいんじゃねーの?」 いつの間にか、赤髪の人はすでに化け物を倒してしまったようだ。化け物の姿はもうどこにも見えない。何をしたのか見てればよかったかな。 「今回のことを含め、私たちの存在は知られてはならないと言われているのを忘れましたか?」 「だけどよ、もう完全に色々見られちまったし手遅れじゃないか?」 「忘却の術を使えればいいのですが生憎僕は使えませんしその術者はいるのは向こう側ですからね。事態を軽く見すぎていました」 なんだか、私を置いて話がどんどん進んじゃってるけど、どうもこの人たちとは関わってはいけなかったみたいで…… あれ? もしかして私大変なことに巻き込まれてるとか……? 「あと、もう一つ気がかりが残ってるんですよ。彼女について」 「え? わ、私?」 「ええ。そうです」 「おいおい。別にこの子は単なる一般市民ってやつだろ? 特に気になることなんてないんじゃあ?」 そう。私はどこかの秘密捜査官でもないしスーパーヒーローってわけでもない。これといって目をつけられることなんてないはずなんだけど。 ただ、今私が気になっている点を除けばの話だけど。 「なぜあなたは生きているんですか?」 いきなり何を聞いているんだろう。なぜ生きてるって言われても説明できないんだけど。 「なぜ生きてるって言われても……心臓が動いているから?」 「いえ、そうではなく、あの怪物を前にしてなぜ生き延びているかということです。何の力もないはずのあなたが、どうしてです?」 「そ、それは……」 言ってしまってもいいのだろうか? 私が抱いている一つの仮定。それはとても不確かなものだし誰かに言ったとしても信じてもらえそうにもないほどだ。 でもこの人たちなら? どこかのゲームや漫画から抜け出てきたような「まるでファンタジー世界」なこの人たちなら? いやでも待って。この人たちの目的はどうみてもあの化け物を退治すること。 もし、もしも私がその仮説を話しちゃったら…… 「ん? そりゃ単純に俺たちの発見が早かったからだろ? 何の問題も」 「1分40秒。私たちが彼女を発見してからそこに向かうまでの時間です」 「それがどうかしたのか? というかよく計れたな」 「効率的に考えるのは重要なことだと思っていますから。そんなことより問題はその時間です。考えてみてください。あの怪物たちは満たされることのない欲求を満たすために常に獲物を探し回っているんですよ。そこに格好の相手が現れたら。もうわかりますよね」 「……おい。そりゃ本気で言ってる、ってのかよ……」 「はい。本気も本気ですよ僕は」 そして、ゆっくりと私の方へ向き直る。ああ、とうとう言われてしまうんだ。でも不思議だ。そのことに対しての恐怖はないのだから。 きっと薄々自分でもわかっていたから。今まで悩んでいたのはそれを受け入れる勇気がなかったからなんだって。 これが私の出した結論の答えあわせだ。 「あなたは……恐らくあの怪物と同等の存在。つまり……」 ――吸血鬼、なんですよ。 覚悟はしていた。そうであろうとは思っていたし受け入れようとも思っていた。だけどやっぱり現実って言うのは思い通りになんて行くわけはなかったようで。はっきりと明確に告げられた解答を聞いた私は内心、というかすでに足まで震えて動揺しまくりだった。 「ちょっと待て! もし彼女がそうだとして、だとしたら今頃彼女も人を襲ってるんじゃないのか!?」 「恐らくと言ったのはそこが気になるからです。こればかりは彼女から聞き出さないといけないんですが……いいですか?」 その「いいですか」というのが自分にあてられたものだと気づいた私は慌てて返事を返す。 「は、はい。 といっても私自身も混乱してるから説明しにくいんだけど……」 私はこれまでのいきさつを彼らに話した。 帰り道の途中に化け物、彼らの言う吸血鬼に会ったこと。 家に帰ってから変な思考が浮かんでしまうこと。 お姉ちゃんを傷つけてしまいそうになったこと。 家を飛び出してあの吸血鬼と再び会ったこと。 全てを話し終わると彼ら二人はなにやら考え込んでいるようだった。 「なぁ、これってどういうことなんだ?」 「彼女の話から思うに吸血鬼に咬まれているのは間違いないでしょう。ですがどういうわけか彼女はこうして正気を保っている。といっても非常に足場の悪い状態ですが」 「吸血鬼化するのは個人差はあってもほとんどの人間が一時間以内でなることは確認されてるんだろ?」 「はい。しかしすでに数時間は経過してます。通常ならありえないことですが彼女に限っては例外のようです」 「それってこの子は吸血鬼にならないってことか?」 「それは違うでしょう。現に襲われてませんしそれにそれらしい症状のようなものも出てるようですしね」 「だったらいったい……」 「ただの仮説にしか過ぎませんが、もしかしたら彼女には"抵抗力"があるのかもしれません」 「"抵抗力"……?」 あれ、なんだろう。眠くなってきちゃった。ああそういえば今って深夜なんだっけ。とんでもないものを見たせいで忘れてた。 それにしても私が吸血鬼か。人の、もう今は人じゃないみたいだけど。人生っていうのはこうも簡単に変わっちゃうのか。 ごめんねお姉ちゃん、お母さん、お父さん。私もう会えなくなっちゃうかも。 特にお姉ちゃんには、一言謝りたいなぁ。 ごめんって。一言でいいから。 ああ、コレが実は夢で起きたらベッドの上。 ってならないよねうん。 さようなら。みんな。 「一種の抗体みたいなものがあると思っています。だからこそああしていられるのでしょうね」 「……んで、どうするんだい。この子をさ。気が付いたら名前も聞かないうちに眠っちまってるし」 「抗体があろうとなかろうと連れて行くのは決めていました。色々と見られてしまいましたし、それに……」 「それに……なんだ?」 「い、いえ何でもありません! き、気にしないでください!」 「その慌てっぷり……なかなかレアだな」 「そんなニヤニヤと僕のことを見ないでください! み、見ないでったら!」 「クックック……いやぁ今日はいい物を見られたな本当」 「い、いつか酷い目にあわせてやるんだから……!」 ――先日起こった奇妙な失踪事件についてのニュースです。新しく入った情報によりますと現時点で失踪者数は40名を超えており今回の調査で新たに、東野 輝美さん、岡島 正志さん、中山 治朗さん、下塚 早百合さん、吉山 晴海さんが今回の事件に関係していると―― 終
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侯爵フランツの怒り様といったら長年共にロアーヌを支えてきた側近や近衛の将軍、政務官等ですら初めて見る程のもので、最早それは誰にも止められない様相だった。 荒々しく玉座から立ち上がりながら怒りも露わに叫ぶフランツによって、この翌日にはロアーヌ全領土に通告が成されることとなる。 其れこそは、未来のロアーヌ侯爵たるミカエルの名を大々的に国民に知らせるものであった。 自室のバルコニーから城下町を眺める少女は、美しく整った眉を可愛く顰めると、無言で部屋に戻る。 其処では普段こそ侍女が一人いるだけだったが、今は侍女以外に部屋の入り口に常に二人の武装した兵士が直立し、部屋の中は少し窮屈な印象だ。 しかし少女は、その様なことで眉を顰めた訳ではない。今彼女の頭の中には、怪我を負って療養中である敬愛する兄の事があった。 つい先日、少女は八つ年上の兄とともに二人でいる所を何者かに襲われ、兄の獅子奮迅の応戦によって辛うじて命を救われた。 だがそこで酷い怪我を負った兄は、血を流しながら地に膝をつき、慌てて駆けつけた衛兵により治療院へと運ばれた。少女は騎士団に連れられて宮廷内に戻り、それ以来数日を過ぎた今でも、兄と顔を合わせられていない。 術師の治療により怪我の方は殆ど治っているとの事だが、厳戒態勢が敷かれたままなのだ。 普段から愛用している特注の椅子にゆっくりと腰掛けると、少女は一つ深い溜息をついた。 連日の殺伐とした訓練場の空気に愚痴をこぼす者も多い中、周囲の男連中の中では一際目立っている可憐な顔つきの銀髪の少女は、表情一つ変えずに騎士団長の叱咤に耳を傾けていた。 「諸君も連日聞き及んでいようが、この厳格なるロアーヌの領土内で、あろう事か侯爵様のご子息が襲われるという真に遺憾な出来事があった。これは国家の規律を揺るがす大事件であり、我々ロアーヌ騎士団も顔に泥を塗りたくられたに等しい!故に、二度とこの様な事が有ってはならない!諸君等宮廷騎士とその候補生は、今まさにその真価を今一度問われているのだ!これよりは一切の油断なく己を磨き、このロアーヌの秩序そのものとして行動する様に!」 ガシャリ、とその場の騎士達が剣を翳すと、直ぐに散開して騎士団は訓練へと移った。 列の中にいた少女はその背中に背負った華奢な身体に不似合いな大型の剣を振り抜くと、いつもの練習相手である同期を相手に、剣を正眼に構えた。 練習用の剣とはいえ直撃すれば骨折は免れないであろう勢いで少女が剣を振り抜き、青年が其れを辛うじて受け流す。 周囲にも増して激しく展開されるその剣戟に、負けじと全体の乱取りに締まりが加わる。それを見ていた騎士団長はぴくりとも表情を崩さずにいると、やがてその場を離れていった。 その後も暫し剣戟の音は場内に響いたが、やがてそれは少女の行うそれを抜かして止んでいく。 「カタリナ、今日は俺と勝負だ」 打ち合いの合間に間合いをとった所で、一人の青年が少女と相手の中に割り込んだ。途端に周囲から冷やかしの声援が飛んでくることに青年は舌打ちをするが、それに対して少女はふぅと一息つくと首を鳴らし、来いと合図をする。 それに顔を引き締めた青年が喝と共に素早く打ち込むと、体躯で負ける少女はあえて正面からそれを受ける姿勢を取り、遠心力の乗らない柄の付近を選んで受け止める。 火花が散るそのタイミングを見計らって少女は身体を右にずらし、勢いを殺されきらずに前のめりになった青年の脇腹を凪ぐ様に剣を振った。しかしそれを予期していた青年が渾身の力で無理矢理剣を横に凪ぐと、周囲に増して軽装であった少女は瞬時に垂直に飛び上がり、身体の下を剣が通過していく様を空気に感じながら青年の頭に掌を載せつつ優雅に着地する。そしてバランスを崩しかけた青年の頬に剣ではなく手を当て、円らなその瞳を細める。 「・・・残念ですね、コリンズさん。先手の速攻は相変わらずキレがいいですが、まだ二の手が弱いみたいです。今回もお酌はお預け、ですね」 少女のその言葉と共に、周囲からはどっと歓声が沸き起こる。 悔しがるコリンズ青年は、再戦時の勝利を誓いながら引き下がるのであった。 「やっぱもうカタリナに勝てるのは、ラドム将軍クラスくらいかぁ・・・」 「そんな事はないわよ、ブラッドレー。貴方の攻守のバランスの良さは、本当に見習いたいくらい。それにコリンズさんの速攻にしても、私にはまだ真似できないわ」 カタリナと呼ばれた少女が長い髪をかき上げながらそう言うと、ブラッドレー青年は肩を竦めた。 「宮廷騎士団で正規を抜かして最も強い候補生にそう言われても、嬉しくも何ともないな」 その言葉に、周囲からは笑いと溜息が混じって聞こえてくる。 それに今度は、カタリナが肩を竦める番だった。 合同訓練を終えて周囲の喧騒から離れる様に退避したカタリナは、いつもそうしている様に裏庭にある井戸で水を汲んで顔を洗う。 そうして一息つくと、井戸の脇に立て掛けていた練習用の大剣を握り直して、これまた習慣に則ってその場で素振りを始める。 これは騎士を目指して仕官したその日からの、彼女の習慣だった。 家柄は貴族の生まれであり、更には女性の身であるにも関わらず騎士を目指すカタリナには、常に周囲からの好奇の視線や不躾な言葉が付き纏った。 だがそれに対してカタリナは一切口で返すことは無く、その行動で返答してきた。 その結果、剣の腕は最早候補生仲間では全く太刀打ち出来ぬものとなり、正規の騎士ですら舌を巻く程となる。 だがそれで満足するような彼女ではなく、更なる高みだけを目指してこうして日々訓練に明け暮れていた。 宮廷の裏側のこの庭は普段から寄る人間もいないので、彼女専用の練習場所と言えよう。 因みにこの裏庭の一角には常に丁寧に手入れされた小さな花壇があるが、恐らく彼女とは被らない時間帯に誰かが世話をしているのだろう。一度もその人物とは会った事が無いので、それを気にする事はなかった。 大振りの連撃練習の後にフルーレを用いた追撃への流れを確認し、いつしか空が茜色になり始めた頃に漸くカタリナは練習を終えて再び顔を水で洗った。 と、丁度その時だった。木々に隠れた場所で微かな物音をカタリナは察知し、反射的に腰のフルーレを抜き放ちながら物陰に視線を向け、誰何する。 すると物陰からは存外あっさりと人影が現れたが、それが頭から足元までローブを被った大層怪しげな出で立ちであったものだから、カタリナは警戒を濃くして視線を鋭くした。 だがローブの人物は直ぐにそれを頭のフード部分だけ剥ぐと、その中からはカタリナの銀髪と対象的な眩い金髪が現れ、そして妙に見覚えのあるその顔にカタリナはまず驚き、そして次に跪いた。 其れこそは先日単身で暗殺者を撃退しながらも名誉の負傷を負ったという、侯爵フランツの息子であるミカエルその人だったからだ。 「・・・これは、大変失礼をいたしました。私は宮廷騎士団所属の騎士候補生、カタリナ=ラウランと申します。此度の無礼、何なりと処分は謹んで受ける所存です」 それだけ言って下を向いたカタリナに対し、ミカエルはゆっくりと首を横に振った。 「・・・いや、私は影だ。ミカエル様の身辺をお守りするにあたり、此度の事件を機に任務についたのだ。気にしなくていい」 その言葉にカタリナが多少驚いた様子で顔を上げると、年相応のあどけなさが残るその表情に影は目を細めた。 「そうでありましたか。お務めご苦労様です。しかし、この様な所にいて宜しいのですか?」 今は大変な時期であろう事を察してのカタリナのその質問に、しかし影は肩を竦める。 「今ミカエル様は、部屋の内外に衛兵が待機してお守りしている。むしろ私の出番はないので、この機会に更なる任務完遂の為に剣の訓練でもと思ってな」 それにカタリナがまた受け答えながら頷くと、なんと影は折角だからとカタリナを訓練に誘ってきた。 一通りのメニューをこなし終わっていたカタリナがこの影の腕に興味をそそられて申し出に迷わず応じると、早速互いにフルーレを構えて軽やかに打ち合いを始める。 (・・・ん、この影、強い・・・) 剣先を交えての探り合いで影の実力が高いことを感じたカタリナは、一気に勝負を決める為に瞬間的に加速して鋭い突きを放つ。しかし影は外陰をはためかせながら回避し、実に的確なカウンターを撃ち出してきた。 それに脇腹を掠められながらもカタリナがさらに反撃を繰り出そうとする姿勢でベテラン顔負けのフェイントを挟むが、それにも全く引っかからない。 手強い相手にカタリナが一旦距離を取ろうとバックステップを踏んだところに、影は蛇がうねる様なしなりを持たせた突きを繰り出してくる。しかしその突きの合間に一瞬の隙を見付けたカタリナがそれを絡め取る様にしながら剣を跳ね上げると、影の持つフルーレはその手を離れて空高く舞った。 其れがクルクルと宙を舞って地面に突き刺さると同時、影は軽く息を吐きながらニヤリと笑った。 「・・・強いのだな。流石は宮廷騎士団の最年少訓練生にして最強の呼び名高い、ヒルダ様以来で初の女性騎士候補だ」 そこまで知っていたのか、といった表情で今度はカタリナが肩を竦めた。 緊張感の後に心地よい風が柔らかく髪に当たるのを感じながら、こちらも一息つく。 「・・・過大評価です。私より強い人は、幾らでもいます。貴方にしても、そう。その腕の怪我が無ければ、今の突きを私は回避出来なかった」 打ち合いの最中で最後の突きの時に見えた隙は、腕にあるであろう怪我を庇ったが為のものだとカタリナは見抜いていた。 「・・・ふっ、敵わんな」 まるでミカエル本人の様な口振りで言いながら笑うものだから、カタリナもその見事な影っぷりにクスリと笑みを漏らした。 「・・・よい手合わせだった。礼を言うよ、カタリナ。また頼む」 「ええ、此方こそ・・・えっと、何と呼ばせてもらうのが良いのでしょうか」 カタリナが首を傾げながらそう問うと、影はふむ、と顎に手を当てた。 「・・・影、は流石にあれだな。では、マイケルでどうだ」 「・・・主がMichael、だからですか? そのまんま。捻りもないのですね」 「許せ。帝王学は兎も角、ボキャブラリーは未だ勉強中だ」 影がそう言ってからお互いに小さく笑い合うと、この日は空が暗やみ始めたのを合図に分かれた。 裏庭に何日かに一度現れるその影との手合わせは、いつしかカタリナのちょっとした楽しみになっていた。 良い練習相手であるというのはもちろんの事だが、特にその言動や思想に影とは思えぬ程の風格と誇りを感じとり、カタリナは純粋にこの青年に敬意と好意とを抱き始めた。 最初の手合わせで気付いた怪我も不治の古傷ではなかった様で、あれから数週間たった何度目かの手合わせの時には、遂にカタリナが一本取られる場面もあった。 そんな時には少しだけ影が若者らしく控え目ながらも喜んで見せたものだから、カタリナは全く悔しがる気が起きずに素直に褒め称えた。 「いや、じわじわと悔しくてな。いずれ一本取れる様になりたいとは思っていたのだ」 「ふふ、お見事でした。マイケルのその呻りのある突きは強力ですね。特に今日は、鋭さがピカイチでした。中々拝見しない技ですが、どの様に修得なされたのですか?」 手合わせの後には何時の間に習慣になったか、井戸の淵に二人して腰をかけて話をする様になっていた。 影はカタリナの質問に対し、以前に強い相手と戦った時に閃いたものだと気さくに話してくれる。 「強い相手、ですか。いいですね。私の周辺では、競えるのは正直マイケルくらいしか居ません。もっと強い方々は、まだ騎士候補生であり女である私を、お認めにはならない。まぁ、タイミングがあれば挽回したい位で、今は其れを急ぎ求めている訳でもありませんが」 そんなことより今は己を磨くことが先決なのだ、と笑うカタリナに、影は優しい笑みを浮かべた。 「ふむ・・・しかしそうなると、カタリナから一本取ったのは私が初という事か?」 「ん・・・そうですね。連日騎士団仲間や候補生が挑んではきますが、そこでは一度も負けたことはありませんから」 しれっとカタリナが言うと、影は珍しく声をあげて笑った。 「はっはっは、騎士団連中も大変だな。しかし物珍しさはあろうが、そうも連日挑んでくるのは良く皆に好かれている証拠か」 「いえ、皆して面白がっているのです。私から一本取ったら晩の酒盛りの時に私にお酌を任せられる、なんてルールを決めた様で。まぁ、それを否定しない私も大概ですけれど」 カタリナが肩を竦めながら言うと、影はふむと答えながら顎に手を当ててからにやりと笑った。 「という事は、私はカタリナからお酌をしてもらう権利を得たというワケだな」 普段見ることがないそのいたずらっぽい笑みにカタリナは内心どきりとしながら、それを察せられまいと発展途上の胸を張る。 「マイケルが望むのなら。騎士に二言はありませんから」 「そうか。ではそうだな・・・お酌を頼む訳ではないが、今度少し遠乗りに付き合ってもらおう。よいか?」 意外なその申し出にカタリナがキョトンとしながらも頷くと、次に騎士団の練習が午前で終わるタイミングで日取りだけ決め、いつもの様に空の色合いを見て二人は分かれた。 数日後、早めに訓練を終えたカタリナが裏庭に向かうと、其処では普段のローブ姿ではなく大変に高級そうな貴族衣装を身に纏った影の姿があった。 カタリナがそれを見て驚いていると、対する影はいつもの調子で口を開く。 「カタリナも着替えてくると良い。これから南の湖の丘に行こうと思う。裏門の所で落ち合おう」 「え・・・あ、はい。分かりました。少々お待ちになっていてください」 慌ててぺこりと頭を下げながら家へと駆け戻ったカタリナは、自室に戻るや否や鎧を急いで棚に戻し、浴場で素早く汗を流した。 その急ぎ様に何事かと給仕の者が声をかけてくるが、カタリナは何でもないと言ってまた部屋に駆け戻った。 (・・・あ、何を着ていけば良いのかしら・・・) 普段から騎士装束しか身に纏わない彼女は一瞬そこで思い悩んだが、何故かそこでタイミング良く給仕の一人が部屋に入ってきてドレスを手渡す。 「お嬢様、お出かけでございましたら、是非に此方を」 「え、あ、有り難う」 とにかく影を待たせてはいけないと思ってそのドレスを受け取り、手を貸してもらいながら急いで袖を通す。 淡いピンクの色合いに控え目な模様の刺繍が随所に施された優美なデザインながらも、スリムなロングスカート部分はスリット付きで機能性もあり、帯剣と乗馬も可能にしている。サイズも驚く程にフィットしており、それは正に、カタリナの為に仕立てられた様な品だった。 「このドレス、とても着心地がいいわね。有り難う。いってくるわ!」 騎士の嗜みとして忘れずフルーレを腰に装着し、わたわたと出て行くカタリナ。 それを柔かに見送った給仕は、そこで漸くほっと胸を撫で下ろした。 「・・・まさか侯爵家からドレスが届くなんて何事かと思ったけど・・・お嬢様、がんばっ!」 グッと握りこぶしを作りながら密かに声を上げる給仕の声は、ドレス姿で見事に馬に跨るカタリナの背中に向けられていた。 結局三十分程も待たせてしまったが、何時の間にかローブを羽織って身なりを隠した影は表情一つ崩さずにカタリナの姿を見て頷くと、早速二人は拍車をかけて出発した。 城下町を迂回する様に進路を取って三十分程も進むと、間もなく小高い丘から見下ろせる湖に辿り着く。 遠く更に南には山頂が雲に覆われたタフターン山が見え、ここからそこまでの間には突き抜けるような青空と、低い位置にある大きな白い雲が幾つも浮いていた。 「・・・風が気持ちいいですね」 空に目を細めながらカタリナが呟くと、ローブを脱いだ影はそれを肯定しながら馬を降りた。それに合わせてカタリナも降りると、影はカタリナに振り返って目を細めた。 「似合っているな、そのドレス」 唐突なその言葉に、思わずカタリナはほんのり顔を赤くしながら俯いて礼を言う。 「マイケルも、その姿は本物のミカエル様かと見紛う位ですね。まるで本当の双子のよう」 「はは、よく言われる。まぁそれでこその影だからな」 それから二人は、丘の上の柔らかい草に腰を下ろして幾つもの他愛の無い話をした。 影が宮廷内のちょっとした小話を披露すると、カタリナは騎士団の間にあるモニカファンクラブの話などをしてみせる。 表面的には二人とも和やかだったが、しかしその内心でカタリナは普段より幾分か鼓動が跳ね上がっているのを感じていた。 幼い頃に死蝕を経験してから本格的に騎士を目指しはじめた彼女は、それから只管に剣の修行と、貴族、そして騎士としてあるべき教養の修得にずっと向き合ってきた。 そんな中でこんな穏やかな時間を過ごすことなど一切考えていなかったし、実際になかったからだ。 加えて明かせば、彼女は十の歳に騎士団に候補生として仕官したその日に姿を見たミカエルに、仄かな憧れの念を抱いていた。すらりとして洗練された立ち姿勢と美しい金色の髪、そして何より誇り高きその眼差しに、カタリナは強く惹かれたのを今も鮮明に覚えている。 そんなミカエルと同じ姿で、そして誇りに溢れた瞳を持つこの影を名乗る青年に、カタリナは自覚できる程の胸の高鳴りを感じていたのだ。 「・・・そういえばカタリナは、絵を描くのが趣味だといっていたな」 ふと影が以前に聞いた話を思い出して言うと、カタリナはゆっくりと頷いた。 「・・・はい。普段はあまりそこに割く時間は有りませんが、たまにこんな美しい風景を見ると、無性に筆を取りたくなります。この時を、この気持ちを、何かに描いておきたくて・・・」 そういいながら空を見上げるカタリナの横顔を見て、影は自然と笑みをこぼした。穏やかな風に揺れる銀髪は彼女にとても似合っていて、普段は見ないドレス姿がまた彼女の持つ生来の美しさを引き立てている。 「・・・私も似たように感じる。だが私は絵をかける程器用ではないから、こうしてたまに見にくるのだ。すると、以前とはまた違った美しさも見えてな。この美しい風景とこの国を我が身が背負える事に、私はより一層の誇りを感じるのだ」 風を受けながら立ち上がってそう言う影に、見上げるカタリナは思わず心を奪われた。 それは正に王者の言葉で、誇り高いその意志と力強い瞳に、カタリナも思わず立ち上がって同じ方向を見つめる。 「・・・はい。私も、そう感じます。騎士としてこの国を、民を、そして君主を守れる事に・・・誇りを感じます」 こうしてここに立っているのは、本当にミカエルの影なのだろうか。 そんなことを、ふとカタリナは考えた。 同じ顔であるだけでは、このような気高さは得られない。同じ格好であるだけでは、このような誇りは纏えない。 きっと自分の隣にいるのは、本当の王者であるのだ。いずれはこの国を背負い、未来に自分が仕えるべき人物なのだ。 そう心で確信したカタリナは、気がつけば影に向き直り、ゆっくりとその場に跪いた。 「・・・まだ騎士ですらない私ですが、必ずや・・・貴方とこの国をお護りします。この胸の内にある、武人の誇りにかけて」 その言葉を聞いた影もまたカタリナに向き直り、力強く頷いた。 「・・・宜しく頼む」 一瞬太陽を覆い隠した雲から、漏れ出でる光が二人に注ぐ。 思わず口をついてもっと強く想いの丈を曝け出してしまいそうになるが、カタリナは思い留まった。騎士として仕えられるだけで自分には十分だと、そう感じたからだ。 それから二人はどちらからともなく微笑み合うと、自由気ままに草を食んでいた馬を呼び寄せ、颯爽と帰路についた。 それから影は、裏庭に姿を見せることが無くなった。 あの遠乗りから一月もした頃にカタリナがいつもの様に裏庭に向かうと、井戸の脇に一通の手紙があった。 カタリナへ、と書かれた封筒の裏面には、Michaelの文字。 井戸の淵に腰を掛けて手紙を開くと、そこにはいよいよ影として常にミカエルのそばを離れずにいる様になったという事と、もうここで会うこともないだろうが元気で、とだけ短く文末に添えられていた。 「・・・問題ないわ。ここで会えずとも、私の誇りは常に、貴方と共にありますから」 少しだけ強がって、自分に言い聞かせるようにそう口にする。だが、それは間違いなくカタリナの本心だった。 そしていつもと変わらず、大剣を手に取って素振りを始める。その太刀筋は以前に増して冴え渡り、風を切るその音は、木陰からそっと立ち去る人影にもしっかりと届いていた。 「・・・うむ」 「うむ、じゃないですよフランツ様。覗き見とは、ご趣味がよろしくない」 丁度裏庭を見下ろせるバルコニーから枠に肘をついて下を見下ろしていたフランツの小さな呟きに、呆れ果てた様子の側近が言った。 「・・・お主も同じようなものだろう」 「私はフランツ様の後をついて回るのが仕事なだけですから」 しれっと言う側近に、フランツは大いに顔をしかめた。 これより一年の後、カタリナは正式に初代ロアーヌ后妃ヒルダ以来で初となる女性でのロアーヌ騎士として称号を得ると共に、ミカエルの妹であるモニカの護衛兼侍女としてフランツより大抜擢され、ロアーヌ侯家に代々伝わる聖剣マスカレイドをその手に預けられた。 余談であるが、後日カタリナが侍女として宮廷に上がった初日、すれ違ったミカエルが彼女に対して口にした「相変わらず似合っているな、そのドレス」という言葉は、一年前以来で二度目のドレス着用であったカタリナにとって大変な驚きと衝撃であったと、後にカタリナ本人から話を聞いたモニカが兄に語ったという。 兄がその時に見せた何とも言えぬ微笑みの表情は、モニカには忘れられぬものとなった。 番外編一覧に戻る TOPに戻る
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134 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 37 53.62 ID ??? 実は携帯だと合っているという話。 さて報告もないようだし、おつまみでも。 俺が8年ぶりにTRPG復帰して間もない頃。 オンセでポリフォニカRPGしてたら、GM(困)が尋問しようという時に やたらNPCに無駄口(放せ、無実だ、俺は何も知らん等)連発させ、ログが 凄まじい勢いで流れるので黙らせるためそのNPCを縛った。 俺のPCは所長のためそういうことは率先してやってた。 で、アフタープレイで困は開口一番 「お前のキャラはそんなんじゃないだろ!」 とキレてきた。法治国家でそんなことする奴があるか! お前じゃなくて他のPCがやらなきゃいけないはずだ! とまくしたててくる。(ちなみに他のPCは学生と精霊) お前が決めるなよ、とスルーしたら、しまいに俺を困PL扱いしてきた。 時間も遅かったためハイハイワロスワロスで落ちたが、彼が何を言っているのか今でもイミフだ。 135 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 40 53.83 ID ??? 確かに意味わからんな。 ポリフォニカとやらの様式美に触れたとかそんなんじゃないのか 136 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 43 18.61 ID ??? ポリフォニカっていうと凄い作画が残念だったアニメという記憶しか無いが 所長ってのは敵を尋問するのはいいが縛っちゃいかんクラスだったりするのか …いや、尋問するのに黙らせるのは確かに困るな 137 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 47 31.54 ID ??? つーか所長って何の所長?刑務所長か何か? 所長だから率先してとか言われても意味が解らない。 138 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 54 02.28 ID ??? ポリフォニカが何なのか知らんが 学生とかが若さゆえの暴走するのは良いが 分別のある大人が率先して暴走するのはいかん 嗜める立場だろ って事を言いたいんじゃね そういう事なら 納得するかどうかはともかく理解はできる。 139 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 00 54 50.33 ID ??? 全然違うんだろうけど、 134のPCがふと脳裏に浮かんだカサンドラ獄長ウィグルでイメージが固定された 「そんなキャラじゃないだろ!」は黙らせるなら縛る前に蒙古覇極道だろ!って意味で 142 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 01 28 34.52 ID ??? シーンとして尺を取るのが間違い ネゴシエイターでも尋問官でもないから会話で引き出すのは無理 抵抗する精神力や心がデータ化されてるなら、それを削るけど MPは別に減っても弱気になるわけじゃないし 大抵は生命力しかデータになってないから、わかりやすく相手が弱るのはそれを削るしかない 143 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 01 30 29.01 ID ??? そもそもライトファンタジー系のTRPGだと 戦闘、殺人は平気だけど倫理観は現代人っていう ご都合主義の感性をもってる事が前提だしな 146 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 07 25 40.60 ID ??? 「ログが流れるから」という理由での拘束なのに一抹の不安を覚えなくもない 147 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 07 29 07.04 ID ??? まぁメタに踏み込んでしまうが、実際全く意味のない情報でログが流れると、必要な情報が整理しづらい、ってのはオンセではしゃーない。 だから雑談用とセッション用のチャンネルを分けるわけで。 148 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 09 45 02.95 ID ??? 134 PL発言で「描写を細かくしすぎるとログが流れてしまうので『無実を主張して騒いでいる。こちらの話を聞くつもりはなさそうだね』程度で済ましてもらう訳には行きませんかね」とか言うのはNGなのか? それに逆切れして相手が騒ぎ出したら「ログが流れてしまうので『GMは描写が必要な物だと主張して騒いでいる。こちらの話を聞くつもりはなさそうだね』程度で済ましてくれ」と言うとか。 150 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 09 58 28.89 ID ??? 稀に情報を埋没させるために意図してぎゃんぎゃんわめいてログ流すGMいるし 153 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 10 55 41.91 ID ??? 重要アイテムとネタアイテムを同時に発見させられて PLのwwwwで流れる、みたいなトラップは食らったことがある 154 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 10 57 39.56 ID ??? ふつうログくらい取っておくものじゃないのか? 155 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 11 06 47.08 ID ??? 154 長いログを1文字1文字チェックできる人は、そんなに多くない。 156 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 12 00 38.33 ID ??? おめーウチなんか重要アイテム・キーワードは色変えで一目でわかるようにしろというPLが存在するんだぜ まあウチはどうやら前スレ3の鳥取なんだがな…… 157 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 12 05 16.46 ID ??? オフラインセッションなんて会話をすべて録音とか録画してセッション中に再生しなくてもプレイできてるからな 158 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 12 17 43.13 ID ??? 156 ネタバレ軍師様の鳥取かよw 前スレ 3め面白そうな情報を逃してたな スレ294