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太陽と月と星がある 第ニ三話 ぼたぼたと滴り続ける雨の音 「 ――君、ぽいよね。ね、ちょっとこうやってみて」 短い直立した角に黒と灰の混ざった髪、耳は丸くて黒い筋模様が入ってる。 包帯で隠された正体。 カモシカのマダラ。 二重で大きな瞳に愛嬌のある鼻。 顎はやや細め。 肌は日焼けしていて、全体的に筋張ってる。 ネコの国に落ちて一般人に拾われたマダラに飢えてるヒトメスっぽく、ジャックさんの口調を真似してノリよく。 とりあえず、褒める。 目が覚めてから、少し頭が混乱し日付を数日間違えたんだけど、カモシカ的にもその方が都合がよかったらしい。 私は……盗まれたんじゃなくて、売られたんだと思っている方が。 ちなみにお値段はなかなかよかった。中古だとバレていないからだろう。 「誰?」 「ていうか、声もちょっと似てるかも。目元とか、カッコいい所がにてるかな」 人数が多い事で有名なアイドルグループの名前を適当に上げ、似てるを連呼。 髪の毛をこうして、と軽くいじるとまんざらでもなさそうな声で、ふーんといいながら顔をこすり付けてきた。 髪をいじられてるせいか、膝に乗られてなのか、尻を撫でているからかは謎。 ……クソエロジカ。 「カモシカって、ホントにマダラの人多いの?ラっ君だけじゃないよね?」 「男の半分くらいはマダラだぜ」 「そーなんだー♪じゃ私超ラッキーだね!」 太腿を抓られたので、間抜けな声を上げてしなだれかかる。 微かに黄みがかった茶色の瞳は、あの人と違う。 マダラなので体毛も薄い。 そういうわけで……非常に――わかりやすい。 本当にいるんだなぁ……女なら誰でもいいなんていう人種が、ジャックさん以外に。 あ、ヒトメス好きの特殊性癖という可能性もあるかな。 「ホントかっこいーよね」 鼻の下を伸ばすって、こういう表情なんだなとはじめて知った。 だって、あの人は、こんな馬鹿っぽい顔しないし。 「それにアソコなら大勢の」 「アソコ?」 長い尻尾の房を撫でつつ様子を窺うと、タン、と軽い音がして髪を引っ張られた。 半拍遅れて、顔を歪め痛いと小さく言う。今度はもっと早く言わないと。 「またコイツ?アンタいい加減にしなさいよ」 私を憎憎しげに睨み付けているのは、褪めた金髪に二本の角の女。 こっちのエロ鹿と同じくカモシカ。 さっきの音は跳んだ音だったらしい。山岳地帯に住むだけあって走り幅跳びとか得意らしい。 抵抗しても意味がないので大人しく殴られる。蹴りも入った。しまった。悲鳴出すの忘れた。 カモシカというのは、山岳地帯に住んでいるとかで、男女共にムキムキしている。 三度ほど殴られたところで、マダラではないシカ男が制止に入った。 「フィロメラ、いい加減にしろ。ヒトなんかに嫉妬してどうする」 「フェフは黙って!」 マダラがその場から離れていくのをシカ女が見咎め、金切り声を上げて追いかける。 その場に残された私は藁屑満載の木箱に手を付け上半身を起こし顔を擦り、髪の毛を軽く整えた。 足が痛い。 スカートが少し裂けてる。 脇腹が痛む。 ところでカモシカというのは、なんというか……背が高い。 よって見下ろされる私には影が差す。 ひりつく唇を歪めて笑顔を作る。 褐色の草食獣特有の大きな瞳を見つめて7秒。 シカ男は溜息をついて私を担ぎ上げた。 体が上下する。肩が腹部を圧迫して気持ち悪い。 シカ男の長くて鋭い角が体を突き刺しそうで、怖い。 この納屋は隣に馬車置き場が併設されているので、ちょっとした一軒家ぐらいの大きさがある。 それこそ、宿にあぶれた外国人を泊めることができるぐらいには。 シカ女とマダラの怒鳴り合う声がかすかに聞こえる。 シカ男は息を吐くと、近くにあった藁束の上に私を降ろした。 てっきり荷馬車に戻されると思っていたので、意図が掴めずしばらく見つめる。 ……と。 「なに?」 無邪気そうに見えることを祈りつつ、首を傾げる。 マダラを見て喜んでるバカなヒトメスに見えるように。 ヒトが大勢いる所に連れてって貰えるなんてラッキーありがとう なんて言う、世間知らずな。 逃げ出そうなんて、欠片ほども思ってないように。 「あ、そうだ。痛み止めある?少し欲しいんだけど、もらえないかな」 返事がない。 赤くなった箇所を撫で、かさぶたになってる膝をちょっといじる。 服の内側に藁屑が入り込んだのか、お風呂に入ってないせいか、肌がチクチクする。 虫が出るのはまだ早いと思うんだけど、ネコの国は暖かいからなぁ……。 噛まれると膿むからヤだなぁ。 「お前、ウソをついてるな」 心臓が飛び跳ねる。 顔を上げて首を傾げ、笑みを作ってみた。 「何のこと?」 シカ男は表情のよくわからないシカ顔の口を曲げてでっかい臼歯をむき出した。 「お前が落ちたばかりだというのはウソだ。お前は奴隷として扱われるのに慣れてる」 「そんなことないですよー?ちょっと天然とは言われるけど」 普通の女の子がすれば可愛らしい仕草を真似て、ちょっと首を曲げて肩を竦める。 殴られた。 まぁそうだろうな。 私なんかがやっても逆効果だ。 次はやらないようにしよう。 それにしても藁って、どう考えても美味しくないなぁ……。 口に入った藁をこっそり吐き出しながらぼんやり考える。 腕を捻り上げられ、反射的にばたつくものの、両腕を背中に回されて縛られた。 …… ……あ、しまった。 つい習慣で黙ってしまった。 「なにするの?」 脅えて聞こえる事を祈りたい。 上目遣いで表情を窺うも、あいにくシカの表情は陰でわからない。 ……鼻息荒い。白目が赤い。キモイ。 しかし、ヒトメス一匹に随分と警戒したものだと思いながら、蓑虫よろしく肘を突いて這いずろうとすると首根っこを掴まれる。 スカートを捲り上げられ下着が下される。 イヌと違って、においを嗅ぎださないだけよしとしよう。 断りもなく指で弄られ、不快感で死にそうになるのを耐えて感じてるような声を出す。 毛深い 気持ち悪い。 吐きそう。 ぐちゃぐちゃと内臓をかき回される不快さを藁の束に顔を突っ込んで誤魔化す。 痛みを流す為にハァハァと荒い息を吐き、早く終わるように体をくねらせた。 痛みも屈辱も箱に詰め込んで、暗い川に投げ捨てろ *** この大型トラックのような、荷馬車の前部はカモシカ三人のスペース、後部は檻になっている。 入り口は後部から外鍵を開けるしかない。 厚い布地を巻き上げると重厚な錠前が目に入る。 やたらと仰々しい音を立てる所を見るに、どうやら結構錆びついてるみたいだ。 年季が入ってるとも言う。 薄暗い檻の中で、最初に目に入るのは固められた干草の山。 それから雑多な臭い。 ゴミ回収車にゴミ袋を突っ込むのと同じくらいの気軽さで檻に押し込まれる。 下半身の鈍痛と頬骨の痛みをどうやって紛らわそうか。 そのまま蹲り、ゆっくり息する。 コレぐらい、全然大丈夫。 体を丸め、納屋の屋根に当たる雨音に耳を澄ます。 雨はずっと止む様子を見せない。 雨がやまない限りは、出発しない。 出発しないという事は、まだ時間があるっていう事だ。 目を瞑り痛む部分を撫でる。 私がこの……ヒトに変装していたカモシカ達に捕まって数日。 目が覚めたときには既に都市を抜け、土砂降りの中を走っていた。 流通の要である街道は、国同士を結ぶだけあって舗装されてるし、それなりに整備されて入るけど、なにせ走るのは生き物。 雨で足を滑らせて事故があっても困ると、ネコの国を出る前に街道のひとつにある宿場町で足止めを余儀なくされた。 冬の休みにあわせ旅行者が多く、宿屋はネコ優先で客を取り、私達…というかカモシカ連中は納屋で寝泊りを余儀なくされ不満らしい。 まぁ……それを利用しようとしてるわけだけど。 だってほら……私、性格悪いし。 不意に布を上げられ、体を丸めたまま硬直する私に檻越しにマダラが左右を気にしつつ手を差し入れてきた。 「ほら、痛み止めだ」 「あ…りがとうございます」 床に置かれた薬の包みに目をやって、お礼を言うとマダラは目を細めた。 シカ男とマダラはあまり仲良くはないようだと薄く考える。 「雨で全然進まないから2人ともイラついててさ」 口を曲げて笑顔を作る。 「……あの、実は私…あなたに言わなきゃいけないことがあるの」 一回分である粉薬を三つに分けた。 三分の一を懐に仕舞う。 ここには私の他に二人の男のヒトがいる。 一人は日本人の鉄葉さん。三十代独身。落ちる前は私も知ってる有名な会社で働いてたそうだ。 指を無くし自暴自棄になって、無理やり車を運転し崖から落ちたらこっちだったらしい。 無精ヒゲが生え、痩せた頬、日本人の平均の顔色が思い出せなかったけど、どう考えても血色がいいとは思えない。 おまけにこの納屋に泊まる為にこの納屋の持ち主のネコに一晩貸し出され、ひどい熱をだしていた。 軽く揺すって起こして、薬を水と一緒に飲ませる。 何度か噎せながら、それでも最後まで飲んでくれたので少し安心。 カモシカは、ヒトと同じくらいの寿命だそうなので薬の分量もあまり変らないと思うけど、落ちて間もないのであまりこっちの薬へ耐性がないので不安がある。 下に敷いていた湿った干草を掻き寄せて端に積み、乾いてるのを敷きなおす。 汗で汚れたワイシャツを脱がせて、赤い蚯蚓腫れが無数にある肌を拭く。 体を動かして再度寝かせ、上にボロい布を被せる。 少し考えて干草を積み体を覆う。 シャツは後で何とかして洗おう。 「悪夢だ」 鮮明なうわごと。 こういう目に合ったのは、どうやらはじめてだったらしい。 もう少し干草を積んで枕代わりにしておこう。 あと一人は隅から動かない、憎悪の篭った緑の瞳に茶髪の白人の兵士。 あいにく迷彩服は裂けたり泥がついたりで国がわからない。 私の下手な英語にも答えてくれないし。 顔に白っぽいヒゲがぽよぽよ生えてるところからみるに、私と同じくらいか少し年上……あ、白人だし老けて見えるだけで年下かも。 右足に怪我をしているけど、触らせないので手当てが出来ない。 おまけに左腕もヤバイ感じに腫れている。 カモシカ達は、自国に戻るまで保てばいいと思っているらしい。 そんなに医療技術があるんだろうか。 少なくとも、ネコの医者に見せるよりは安上がりなんだろうけど。 「これはただの痛み止めだから、とりあえず飲んで」 薬と素焼きのカップを差し出すも、当然無視される。 彼は隅に座ったまま動こうともしない。 しょうがないのでカップに薬を溶き、一口啜る。 ……甘苦くてマズイ。 そしてカップを差し出すが、受け取ろうとしないので最後まで口に流し込んで彼の襟首を掴んで口移しで流し込む。 床に押し付けて鼻を摘んでそのまま動かずにいると、諦めて飲み込んだ。 ジャックさん直伝ののませ方は、中々の効果があるらしい。 カップに壷から水を汲んで差し出すと、今度はそのまま飲んだ。 後味が悲惨だもんなぁ……。 頭をちょっとだけ撫でると、きょとんとした表情を浮かべた。 年下だと思えば、うん、ヒト換算でサフと同じくらいなのかも。 ポケットからハンカチを取り出し、壷から水を溢しながら濯いで傷口を拭う。 血は止まっているものの、得体の知れない黒いねばねばした汚れは…油かな? 石鹸が欲しいなぁ……。 ない物ねだりしても仕方ないので、とりあえず腕の傷を綺麗にすると、腫れは膿んでいるからだとわかった。 パンパンに腫れあがり今にも膿が弾けそうだ。 触るだけで痛そうに顔を顰めている。 暴れるのを無理やり抑えてブーツを脱がせ、ズボンを強制的に捲り汚れた包帯を解くと、赤黒い傷が目に入った。 臑の傷は血は止まっているけど穴が大きくて、臑肉が千切れそうだ。 まいったな……。 隠しをバタバタと探り色々出す。 包帯一巻きと裁縫セット、ビーズが数粒、飴玉、ボタン。 小銭の入った予備財布。 萎れた黄色い花は、台所においている鉢植えのを折ってしまったヤツだ。 バックとコートがあれば、もう少し色々入ってたんだけど。コート、どこ行ったんだろう。 裁縫セットの中には白と黒の糸と、針に小さな鋏。 せめて消毒液と化膿止めが欲しい……。 無害な飴を選んで食べさせると、物凄く微妙な表情を浮かべつつ大人しくなめはじめた。 子供は素直が一番。 できるだけ傷を綺麗にし包帯を巻きつけ、端を黒い糸で縫いつける。 これで多少動いても肉がもげる事はないだろう。 本当は、縫合するべきなんだろうけど……。 というかもっと専門的な治療とか……もっとちゃんと自分で勉強しなきゃ。 薬が効いてきたのか、瞬きを繰り返し上半身が安定しなくなってきたので横たわらせ腕を握る。 腫れてる所をゆっくり揉み解す。 ブチリという音と共に大量の膿が飛び出しても彼は悲鳴を上げず、朦朧とした顔のままだった。 痛みで昨日も眠れなかったようだから、体力も限界だったんだろう。 汗と膿を拭き取り、重い体をぶつけないようにゆっくり動かし、鉄葉さんの隣に寝かせる。 汚れた干草を集めて端に押しやる。 彼が座っていた辺りに期待を込めて探るも、木の床と鉄の棒が無常に立ちはだかるばかりだ。 そもそもこっち側だとカモシカ達の住居部分だから、作りがしっかりしてそうだし。 少し気落ちしたけど、仕方ない。 他の手段を考えなきゃ。 息遣いを感じて瞼を開くと、マダラ男がほっとしたような表情を浮かべていた。 「どうかしたの?」 「あの薬、のまなかったのか?」 「アレなら…2人に。2人とも痛がってたから……」 マダラ男の顔には赤い…殴られたような痕。 「アレな、一回の量じゃないんだ。ヒトには強すぎるって」 まぁ、知ってるけど。 どうやら、今後薬をもらうのは難しくなりそうだ。 「そうなの?じゃあ、2人とも大丈夫かな?」 2人は私達の会話で起きる様子もない。 「まだしばらくはこのままだろうな」 そう言って嘆息するマダラ。 思案する私をよそに辺りを…というか、干草の山に目をやり、それから顔を顰めた。 「なんか、臭うな」 ……お風呂、入ってないしね。 雨の降りしきる中をタライを抱えてうろつく私。 濡れない所から眺めるカモシカ達の視線を感じつつ、洗濯に励む。 いや、乾かないけど。 この時期にしては恐ろしいほどの雨に宿屋からは喧騒が溢れ、逆に外では全くというほど人を見ない。 そもそも宿の裏手、納屋の横なんていうところに来る人は宿の人間だけだし。 だからカモシカ達も安心して私を外に出せるわけで。 幸い、井戸の上は屋根があるのでゆっくり洗い物ができるのが助かる。 ついでに押し付けられたカモシカ達の衣類を洗う為に石鹸があるのも助かる。 井戸から汲み上げた水は凍りつくほど寒いけど。 感覚の無い手足で何とか洗い物を終え、ついでに自分も洗うとだいぶ気分がマシになった。 カモシカの方も見ているのに飽きたのか、シカ男しか残っていない。 井戸周りに生えていた見覚えのある植物を毟って端を齧るとレモンミントと蓬を混ぜたような味がした。 もう少し抜いて葉を齧っていると、シカ男が目付きを不穏なものにして腕を掴まれる。 痛いな。 「何してるんだ」 「お腹がすいたから。食べる?」 シカの顔というのも、意外と表情豊かだ。 腕が放されたので、パリパリと残りを齧る。 筋張ってるなぁ……まぁ、本来は蕗と同じく茎を食べるものだけど。 喉に詰まるのをどうにか呑み下す。 「結構美味しいよ?」 笑顔を作って葉っぱを差し出すと案の定、無視された。 手に持ったままのをそっと洗い物の下に隠す。 カモシカの女もマダラの姿も見えず、納屋の中は微かに家畜の鳴き声が聞こえるだけだ。 当然のように押さえつけられ服を毟られ、吐き気と眩暈が止まらない。 寒くて、体が震える。 見上げた納屋の天井は高く、出口は遠い。 歯を剥きだして笑うシカは随分と醜悪だとぼんやり思う。 ……生臭い。 ぼんやりとされるがまま動かずにいると、金属を叩く音がした。 何度も何度も鳴り響くので、シカ男は舌打ちし体を離す。 感覚の薄れた指を変な方に曲げないように注意しながら体の向きをかえると、音の正体がわかった。 鉄葉さんだ。 どうやってかあの布をめくりこちらを見て格子を叩いている。 ……何か、あったんだろうか。 シカ男と何か口論を始めたらしい。 ぼんやりと座っていると、足音荒くシカ男が戻ってきて私の髪を掴みあげた。 痛い。 「売女がっ!ヒトの分際でッ」 同じ所を二度殴るかな、普通。 まぁ、シカにオリジナリティを求める方が間違ってるか。 鉄葉さんが何か言うと、シカ男は手を止め、私を射殺しそうな勢いで睨みつけた。 「さっさと戻れ!」 意味がわからないまま荷物をまとめて檻に近づくと、鉄葉さんは格子に手を掛けこちらを奇妙な顔で見ている。 表情の意味がわからないまま、シカ男に押され檻に入る。 バサリと布が落とされ、薄暗い檻の中で干草とヒトの臭いが鼻に触った。 「だいじょうぶかい?」 覗きこまれた顔も、意味の分からない表情を浮かべている。 うん、ヒゲがあるからだろう。きっと。 「君の言うとおり、本当に我々は高価なんだね。自殺を仄めかすだけで慌てて… みただろう?」 半分笑ったような、……自嘲と軽蔑の混ざった声色。 鉄葉さんは落ちたばかりで何も知らない状態だったので、一応色々おしえたけど、あの時は全然信じてはいなかった。 けど、自分がネコに嬲られ、納得したらしい。 鉄葉さんは他にも色々言いながら、私の手に水の入ったカップを握らせた。 干草の山が掻き分けられ、中央の辺りが少しスペースができている。 心なしかここだけ温度が高いみたいだ。 金髪の彼はまだ眠っていたけど、呼吸は楽になっている。 鉄葉さんは私を座らせ、もって帰ってきた洗濯物の中から適当な布を取り出し、腫れた箇所に押し当てた。 井戸で洗ったばかりなので、当然冷たい。 なんか、顔近いな。 「あの……」 言葉が思いつかず、口を半開きにしてしばらく鉄葉さんの無精ヒゲの生えた顔と寝癖ではねた短い髪やうっすら残る蚯蚓腫れを眺めた。 「あんまり見つめられると、照れるな」 目を落とす。 押さえ付けられた時にできた赤い痕と、藁の屑を払い落し、再度目を上げた。 「さっきの……もしかして、……助けて……くれたんですか」 「私なんかを庇ったら、後でひどい目に合わされるかも知れないとか、思わなかったんですか?」 私の言葉に鉄葉さんは無精ヒゲを引っ張り、困ったみたいに眉を潜めた。 悲鳴を上げても泣いて懇願しても誰も助けてなんかくれなかったから、泣くのも助けを呼ぶ事もやめたのに。 あの人みたいなことをされると、困る。 そんな風に期待してしまうような事をされると、困る。 自分で何とかしなきゃいけないのに。 ……困る。 「いいですか?今後こういう事はしないで下さい。貴方まで恨みを買う事はないですから」 私は、慣れてるから、大丈夫だ。 大丈夫。 まるであの人のような表情を浮かべて押し黙る鉄葉さんに笑顔を作って、私は1つ提案する。 声が聞こえたら困るから、字に書いて。 「それはいいけどね」 同意を得られたようで何より。しかし鉄葉さんは、そわそわと落ちつかない様子だ。 「どうかしましたか?」 「どうかしましたかって……あのね」 何故か天を仰ぎ、嘆息する。 「その涙が止まったら続きを話そう」 *** 「薄気味悪い天気ね」 カモシカ女の高い声とそれに応じるシカ男の声がこちらまで響く。 つまり今御者しているのは、マダラだ。 あの三人の中で、リーダーはシカ男、シカ女が二番目、マダラが一番下っ端らしい。 あの土砂降りの中を無理やり抜けると、一時間もしないうちに空は快晴になった。 道も冬らしく乾燥しているようで、平坦な道のりで揺れが少ない。 幸い、まだ辛うじて馬車酔いは耐えられる範囲。 カモシカ達が、ネコの魔法とかイヌの軍がどうとかと言う会話が漏れ聴こえたので、私は不精髭がちょっと汚い鉄木さんと視線を交わし指で字を書いた。 <雨の原因は、魔法だと予想している?> <雨を降らす魔法があるかは知らない。でも、可能性はある?偶然あの場所が実験に使われていたのかも> 晴れたお陰で、幌の中も明るくなったのは少し嬉しい。 手元が暗くなる。 目の前の金髪頭が邪魔なので、ちょっとつつくと不満そうな顔をされた。 彼は洗ってみたら茶髪じゃなくて金髪だったレオ……正確にはレオナール…鉄木さん曰く多分フランス人の兵士。 こっちもヒゲ。カイワレのようなまばらなヒゲ。抜きたい。 欧米の人らしくやたらとボディタッチが多いのは引く。 今も私の肩を抱いてくるのがちょっとウザイ。 まぁ……兵士とはいえ、おそらく年下だし言葉が通じないしで不安が大きいのだろうから、仕方ないけど。 金髪碧眼の男の子は人気があるそうなので、手足が不自由かもしれないとい危険があってもカモシカ達は確保したかったんじゃないかと私は推測した。 少し体を動かすよう手振りで伝えると、レオはこちらへ投げキスして少し離れた。 「フランス人て、よくわかんないですね……」 「君の方がミステリーだよ」 どういう意味かと見返すと、鉄木さんは目を逸らした。 レオは一番揺れる檻の端で準備体操を始めるている。 格子を掴んで運動するので、キィキィと金属音が耳障りだ。 一方、鉄木さんは熱が下がったけど、未だ憔悴した様子が痛々しい。 この人は私と違って大学院も出てるし、機械を作ったりする会社で勤めていたりで、……買われたのが噂の猫井ならこんな事をされずに済んだんじゃないかと思う。 まさに、知識は力なり。 私と違い、鉄木さんには容姿以上の十分な価値がある。 彼の今後の身の振り方を考える上では好都合だ。 ただ問題な事に、カモシカ達も鉄木さんを有用だと考えているみたいで、本人曰くネコとの交渉はかなり時間が掛かっていたとか。 マダラが零した言葉やシカ女の言葉を総合すると、王都まで売りに行くまでに死にそうな怪我や病気のヒト。 様々な理由で市で売れなかった(2の日までに市場に辿り着けなかったとか)を安く買い集めるのが彼等の仕事らしい。 それなのにレオや鉄木さんを買ったというのは、それだけの価値があるという事なんだろう。 一方、私は逃げ出す素振りを見せないようにしているので、カモシカ達は比較的安易に私を外に出す。 やはり虐待を受けてたと言って、古傷を見せたのが効いたらしい。 少し前にネコに殴られた痕が痣になっていたのがダメ押し。 あのままいるよりはこっちの方がずっとマシだと、私が心底思っているようにみせるというのも、なかなか大変だ。 簡単な地図を描く手を休め、蕗を口に含むとレモンに似た酸味が口に広がった。 水で流し込み、血の味を洗い流す。 「よく食べる気になるね」 複雑そうな表情でみる鉄木さんにおもわず苦笑。 落ちたばかりの人には、しょうがない話だ。 鉄木さんは昼食として渡された固いパンをちびちびと齧り、顔を顰めている。 「ドッグフード以外はどれもイケるようになりますよ」 無論、そういうネーミングではないけど。 冬が厳しく、雑食とはいえ基本肉食のイヌは肉類を食べないと体がもたない。 しかし家畜の数は限られている。 とすれば、その家畜を最大限利用するという事で出来上がったのが、家畜の骨や臓物類を粉末にし加工された……アレ。 ビスケット風なお煎餅だと思って食べるとヒドイ目に合う一品……。 イヌ的にも乾パンか脱脂粉乳という扱いらしい。 まぁ、……食べたけど。 以前を思い出し暗澹たる気持ちになっていると、鉄木さんが目を伏せた。 馬車が止まる。 乗り降りする音が聞こえ、布を上げられた。 蕗を干草の下に隠す。何食分かのパンが手に当たり、そろそろ別の隠し場所を探さなきゃなと思う。 明るくなった車内にマダラの顔は逆光で霞んで見える。 基本的にマダラが私達の世話係で、顔を合わす機会が多い。 「休憩だ。川あるから、水汲みにいくか?」 鉄木さんと顔を合わせ、頷く。 「この2人も出たら駄目かな、体腐っちゃう」 マダラが困った風なので軽く肩を竦める。 「駄目なら……しかたないね」 溜息。 「ここらはちょっと物騒だからな」 国境が、近いからだろうか。 「一人ずつでも駄目かな」 上目遣いで甘えた口調をしている自分の姿は、正直誰にも見られたくない。 鉄木さんと考えた作戦だ。 一度提案をして断られると、次の提案を断りにくくなるとか何とか……。 心理学的だのマーケティングだのいわれても、理解できないのが残念だ。 レオが急に顔を突き出し、マダラに向かってあの鼻に掛かった言葉で話しかけると、マダラがあっさり頷く。 「塩ぐらいなら後でやるよ」 レオはなおも何か話し、マダラから笑いをとる事に成功する。 レオがカモシカと会話しているのは初めて見た。 「待って、言葉通じるの?」 マダラがきょとんとした表情を浮かべ、レオが更に何か話す。 「お前、コイツの言語わからないのか?」 「ふ、フランス語わかる日本人の方が珍しいかな……」 この世界は何故か日本語が通じる。 私は今まで、『日本語が』通じるんだと思っていた。 そうじゃ……なかったのか。 落ちた人間はこちらの言葉が通じる。 けど、落ちた人間同士は……。ああ、そんな事、考えてもいなかった。 だって、私は今まで……。 マダラがきょとんとした表情を浮かべているので、無理やり笑顔を作る。 鉄木さんも一部始終を聞いてたので、こちらに向かって軽く頭を頷かせた。 私も頷き返し、マダラに顔を寄せる。 「なら、レオに言ってもらえる?御飯残すなって」 マダラがそのままレオにそう繰り返すとレオが何事か答え、マダラが苦笑する。 「マズイから無理」 フランス人らしいコメント。 空は先程までの快晴が嘘のように曇り始めている。 よく見れば、曇っているのはここらへん上空だけ……他の部分は驚くほど綺麗な青空なのに。 シカ男をシカ女は地図を見ながら話し合っているのを横目に、私はマダラに監視されながら川縁へ降りた。 水が冷たい。 「もうすぐ国境を越えるから、しばらく外には出られないぞ」 水壷を洗う私の横でマダラが語るのを真面目な顔で聞き、できるだけ甘えたような口調で尋ねる。 「どうして?」 マダラは肩を竦め、人気の無い川岸を指差した。 一瞬、人影が見えたのは気のせいだろうか。 私よりも目や耳が利くはずのマダラが気にしていないようなので、勘違いだろう。 「ここからはずっと山だからな。イヌの山賊なんかが出易いし、道も狭いし。あぶないだろ?」 確かにうっすら見える山脈は上の方が少し白く、下の方がこんもりと茂っている。 登山の経験はほとんどないし……、随分大変そうだ。 川を覗きこむと、ちらちらと黒い魚影が見え隠れする。 「ねぇ、魚捕れたら食べちゃだめ?」 カモシカ達の間では、私は大食いとして認識されているようなので試しに言ってみたけど、マダラは首を横に振った。 残念だ。 「そろそろ戻ろう。まだ進まないと」 頷いて腰を上げる。 大き目の石を数個ポケットに忍ばせ、岸辺に咲く花や草を無造作に毟る。片手分しか取れないのが残念だ。 片手で持つには、水壷はやや重い。 「コレ、美味しそう」 「それは火通さないと食えないぞ」 頷いてそれもポケットにしまう。確かこの葉は、潰して塗れば血止めに使える。 名残惜しく川を眺めた。 この下流に沿っていけば、運河に辿り着けるはずだ。 そしたら。 甲高い声が響き、驚いて顔を上げるのと轟ッという水音が私を包むのは、ほぼ同時だった。 *** 耳に入った水を抜き、服と髪を絞る。 さむい……。 くしゃみをひとつして、濡れた服…まだ服、ちゃんと洗えてないから薄汚れたのを着込む。 風邪を引いたら困るから、馬車に戻ったら脱がなくては。 距離的にはそんなに流されていないと思うけど……。 鉄砲水はそんな大したものでもなかったらしく、特に怪我をすることもなく私は下流に打ち上げられた。 冷えて痺れる指先を擦り合わせ、立ち上がる。 水壷はさすがに割れてしまっただろうな……。 周囲を見回しても破片すら見当たらず肩を落とす。 八つ当たりされないといいけど……無理だろうな。 目に付いた草花を毟り、一口齧ると苦さで吐き気がした。カラッポの胃が絞られる感触。 水で口を濯ぎ人心地をつく。 風の音に混ざる足音にはっとして耳を澄ます。 不器用に藪を掻き分ける音と石を踏む音、川の音に以前の記憶を呼び起こされ、心臓が恐怖で高鳴った。 あの人は、来ない。 慌てて上流の方へ駆け出す。 背後からの足音に焦りながらバランスを踏み外しそうになりつつ、どうにか前に進むとシカ顔が正面に飛び出した。 こけてつまずく。膝をぶつけた。痛い。 「わー良かった!迷ったかと思っちゃった!迎えに来てくれたの?ありがとう!」 腕を強く掴まれ、正直痛いのを気がつかないフリして、抱きつく。 シカ男の服は乾いているので羨ましい。 シカ男は戸惑ったように私を見て、背後から息荒く駆けつけたマダラを振り返った。 「見つけたぞ」 私は笑顔を作り、手を振る。 マダラは笑顔でシカ男の肩を叩いた。 「ホラ、言っただろ。逃げないって」 ……今は、ね。 檻に戻され代わりにレオが出る。いちいち人の顔を触らなくていい。あと投げキスもいらないし。 鉄木さんは私から一部始終を聞き終えると眉間に皺を寄せた。 「どうして」 そのまま一人で逃げなかったんだと、疲れたきった掠れ声。 低い声はお父さんに少し、似てるかもしれない。 記憶にある顔はぼやけて自信が無い。 母さんにいたっては、殆ど覚えてない。 でもひとつ言える事がある。 間違っても聞かれたりしないように首に手を回し、モミアゲと髭が一体化しつつある耳元で囁く。 「みんなで逃げる為に戻ったんですよ」 私は落ちてからずっと父さんや母さんに見せられないような事をしてたけど、それでもコレだけは曲げるわけにはいかない。 父さんなら、一人で逃げたりしない。 母さんは、子供を見捨てたりしない。 鉄木さんは諦めて天井を睨み、何事か考え始めていた。 請われるまま、この世界の話をする。 何かの役に立つかもしれないから。 丈夫な檻、馬にカモシカ三人。コレをどうにかしないと、帰れない。 野営するために止まったのは少し開けた場所で、意外にも先客が居た。 声から察するに、トリ。 しかもかなりの大勢らしく、カモシカ達が場所を変えるべきか相談しているのが壁越しに辛うじて聞こえた。 鉄木さんとレオはトリを見たことが無いらしく興味津々という風だったが、荷馬車の中からでは見えないし、リアクションを起こしようも無い。 こういう時に声を出すと、後で報復されるので黙っておく。 「アンタが舌噛んだら、このメス娼館に売り飛ばすわよ、か」 口の中でそっと呟く。 鉄木さんに対してシカ女がいった言葉は、それなりの威力があった。 お陰で鉄木さんはむやみに自分の命を秤に掛けなくなったのは、幸いなんだけど。 トリがカモシカに話しかけ、無愛想にあしらわれているようだ。 不満げな鳴き声や囀り、羽音が遠ざかる。 ポケットを探ると、固いものに指が触れた。 ビーズだ。 鮮やかな色が、……ちゃんとご飯を食べてるだろうか。 しばらくビーズを指でもてあそんでから、檻の隙間から外へ放り投げた。 ぴちゃんという水溜りに落ちる音が聞こえ、トリの羽を動かす音。 トリは目敏く、鮮やかな色をした物が好きだ。 一層賑やかになったのを尻目に、荷馬車が緩やかに動き出した。 ここで野営するのは諦めたらしい。 溜息を押し殺して、もう一度、ビーズを投げた。 作戦失敗。 夜、予想通り熱が出た。 吐き気を堪えて、カモシカの出す…普段なら速攻捨てている睡眠薬入りのスープを飲み干す。 少なくとも、お腹は膨れるし温かくはある。 2人はパンに塩やら砂糖をかけて食べ、一口スープをすすって顔を顰めてたので残りをもらう。 私は2人よりも薬の耐性があるので、朝には目が覚めるはずだ。 鉄木さんとレオがお互いに言葉を教えあっているのを聞きながら、干草の中にもぐりこむ。 夢を見た。 マッシュルームカットのニワトリ男達がパンクな服装で歌を歌っている。 逃げたくても体が重くて動けず、耳を押さえようとしても私の耳は兎耳でどこまでも聞こえてくる……とてつもなく恐ろしい悪夢だった。 「ホントどんくさいわね!」 シカ女の蹴りに悲鳴を漏らして、体を丸める 開いた口に落ち葉入り込む。気づかず噛み締め、苦味とカビの味で吐きそうだった。 だってほら、小さい虫とか混ざってそうだし。 一通り芸の無い侮蔑を投げつけ息を切らせたシカ女が他の手段を思いつかないうちに立ち上がり、こぼした薪を拾い集め、周囲を見渡して食べられそうな物を探す。 どんぐりは苦いんだっけ、じゃあ……茸とか…木に生えたサルノコシカケっぽいのは、さすがに食べる気がしない。 歩きながら少しばかり燃えやすい物を拾いつつ、走りにくいよう縛られた足で再び転ばないように注意しながら荷馬車に戻る。 早くも暮れかかった空はどんよりと曇り、また雨が降りそうだった。 荷馬車の横では、馬達が近くの木に繋がれ餌を食んでいる。 シカ女に背中を小突かれたたらを踏む。 焚き火の横で足を縛られた鉄木さんとレオが、シカ男に見張られながら火に当たっていた。 うっすら漂う食べ物のにおいに唾がわく。 この冬の時期に山道に入ろうとする人はいないらしく、カモシカの国へと繋がるこの街道で同じように足止めされている人の姿は見えない。 御者台に腰掛けているシカ男にしか女が近寄り、真剣な表情をして話し始めた。 「―― の形跡ならあったわ。――ぐらいに―――」 シカ女の声は高いので聞こえるけど、シカ男の声は低いので聞き取りにくい。 私は拾った薪を一纏めにして、焚き火の横に座った。 ……暖かい。 シチューの入った器を抱えたレオが足を引きながら私の背後に回って、横に座り込む。 鉄木さんが位置をずれて詰めてくる。……狭い。 レオは相変わらず何を言っているか解らないし。 頬に手が触れ、葉っぱをとってくれたのを見れば、少なくとも怒ったわけではないようだ。 鉄木さんは匙を私に持たせると、ちらりとシカ男達の方に目を走らせた。 「大丈夫かい?」 頷いて、レオが差し出した固体物の見えない茶色っぽいシチューを口に含む。 バターの濃厚な塩味と、煮込まれた野菜の甘い味、今日は薬を入れない日だ。 喉が焼けるような味に咳き込むと、更に焼いたパンをシチューにつけて口元に押し付けてきた。 ああ、そうやって食べればいいのか。 古くて固くなったパンでも、焼けばもうちょっと食欲をそそるものになる。 シチューにつけて柔らかくなったのを口に頬張ると、香ばしい味がして、なかなか美味しいと思う。 レオが私の背中に手を回すと、密着した部分がとても温かい事に気がついた。 ……熱があるのかもしれない。 その事を鉄木さんに告げると、鉄木さんは妙な表情を浮かべて私とレオの額に手を置き、それから自分の額に手をやった。 「平熱だと思うよ。君が冷え過ぎなんだ」 そうなのか。 鉄木さんとレオが寒いのか更に体を寄せてくるので、真ん中の私はぎゅうぎゅうと押され食べにくい。 なんか、三人で体を寄せ合う姿に、電線に止まった雀の姿を連想する。 饅頭のように膨らんだ冬の小鳥。 食べながら吹き出した私に、2人は一杯に目を見開き、それから口を真一文字に結んで顔をそれぞれ別のほうに向けた。 ……まぁ、いきなり笑ったら気持ち悪いか。 器のシチューをパンでこそぎ、最後まで食べきると久しぶりにお腹がいっぱいになった気がする。 食べている間に戻ってきたマダラが、シカ男に更に指図されているのが見えた。 じっと見ているとこちらに目を向けたので、笑みを作って小さく手を振る。 「スティーブ・マックィーンの映画が観たいな」 私は鉄木さんのほうを向かずに手を振り、視界の隅でシカ女が不快そうに顔を歪めるのに気がついて、手を止めた。 姿勢を戻して焚き火に手を翳す。 左右に顔をやって、なんとなく視線を足元へ落とす。 尻尾も全身もさもさの毛がなくても、男の人というのはなんかちょっと苦手だ。 でっぱった喉仏や無精ヒゲや固そうな体毛なんか、凄い違和感。 特にレオは肌が白い分、胸毛とか腕毛とか……お父さんもヒゲ濃かったけど……。 って、何考えてるんだ。私。 顔を膝に埋めてぼんやりと揺れる火を眺め、レオに髪を撫でられるまま放っておく。 私より背が高いからといって、あまりいい気にならないで欲しい。 「じゃあ、イヌの国を通っていくの?」 ゆらゆらと揺れる焚き火の下、マダラが地面に簡単な地図を描いていく。 イヌの国と湖を挟んでカモシカの国、ずっと先の方に目的地。 「この道が使えないなら、こっち側を通って行くしかないだろうな」 「遠いの?」 「まだかかるな」 向いた目線を追いかけても、黒々とした闇に覆われ見当がつかない。 今夜も空は雲で覆われ、月も星も見えない。 普段二つの月に照らされているこの世界においては、珍しいほどの暗闇。 「そう」 私はよく手入れされたマダラの顔を見上げ、笑顔を作った。 頬にできたあざは、もう殆ど目立たなくなっている。 荷馬車から聞こえる歌は、ミスチルから、サザンに変わった。 シカ女は車内で眠り、シカ男は周囲を巡回しているはず。 私はマダラの服に手を掛け、一瞬躊躇した。 私の躊躇いをどう受け取ったのか、マダラが私を引き寄せる。 ……くそ。 地面が背中に冷たい。 肋骨を辿る指は男にしては細く、女に比べれば太い…マダラだからだ。 肩に手を回し、首にかじりつく。 ヒトメスの調教されっぷりを堪能させていると、マダラは低い呻き声をもらし下半身をもぞつかせ、馬の尻尾に似たハタキのようなのを私の体に忙しなく打ち付けた。 体を離そうとしてきたので、軽く膝を曲げて押し、上下を反転させる。 顔の横を流れる髪が邪魔だけど、目隠しにはちょうどいい。 もう歌は聞こえない。 瞼から鼻筋に沿ってイヌっぽく舐め、唇を軽く噛み舌を絡ませる。 片手でマダラの目を塞ぎ、首筋に顔を埋める。 期待と欲望に満ちたマダラのベルトを外し、一物を取り出す。 なんとも正直な状態になっているのは、幸か不幸か。 「日頃のお礼に、……ね」 私は股間に手をやり、や さ し く 掴み、笑うと、マダラの背後に立つ鉄木さんとレオが、ヒゲ面を歪ませ同じように笑った。 干草で編み上げた縄で幾重にも手足を縛り、溜めておいた鎮痛剤を先に縛り上げられていたシカ女とマダラの2人に飲ませる。 催眠効果があるのは実証済み。 木に繋がれていた馬の縄を切る。 蹄の辺りがフサフサした馬達は、不安げに嘶く……シカ男に聞かれたかもしれない。 レオは長い鉄の棒を片手に周囲を警戒しながら馬を落ち着かせようとしている。 鉄木さんがトリの旅人から歌と引き換えに手に入れた金切り鋸は、歯がボロボロに崩れ、役には立たなそう。 小さなナイフやボウガンも一応奪ったものの……。 「鉄木さん、馬乗れます?」 「タイヤ付ならね」 軽く肩を竦められた。 しかもこの暗闇の中、足元すら覚束ないし……。 「ラパン」 頭上からの声に振り仰ぐ。レオは私を変な風に呼ぶ。 カモシカの持っていた剣を腰に帯び、長い鉄の棒を片手に持ったレオが手綱をつけただけの馬に騎乗していた。 上着は染みだらけで片袖も半分ないし、元の色のわからないほど汚れたズボンも包帯が巻かれ、お風呂も入ってないヒゲ面だけど。 「レオって、フツーの兵隊さんですよね?」 「案外、いいところの出身だったのかもね」 頬髭をガリガリと掻き鉄木さんが嘆息し、荷物を背負いなおす。 中身は食料ぐらいしか入っていないので軽い。 「僕達は歩いていこう。明るいならともかく、この暗闇で初心者が乗るのは危険だ」 「わかりました」 レオが馬に乗れるのは誤算だったけど、コレはいい誤算だ。 ポクポクとレオが馬を歩かせ始めたので、私はその少し前に立ち方向を確かめる。 「こっちが川でしたから、下っていけば……」 うちに帰れる。 空が白々と染まり始めた頃、風を切る奇妙な音が聞こえたような気がして私は足を止めた。 数秒遅れて鉄木さんが止まる。 馬の足音がしない。 振り返れば、馬に乗ったシカ男がボウガンを構えていた。 「まったく、困ったものだ。……なんぞにかぶれるから奴隷が助長する」 草食獣に有るまじき目付きの悪さ。 尖った角を振り、シカ男の声には隠しきれない苛立ちが混ざっていた。 鉄木さんが息を呑み、足元で砂利が鳴る。 私は無言でポケットの中の石を詰めた小袋を握り締めた。 こちらに背を向けたレオの肩から、細い棒が突き出ているのに今更気がつく。 撃たれたんだ。 「逃げたら撃つぞ」 レオが短く答え、シカ男は鼻を鳴らした。 シカ男はボウガンをしまい、腰から剣を引き抜いた。 白い刀身が日を浴び目を刺す。 「行こうっ」 「え!?」 腕を掴まれ引っ張られた。 足を取られコケかけるのを更に引っ張られ、仕方なく走る。 レオがチラリとこちらに目をやり、ただの鉄の棒を槍のように構え、不敵に笑った。 シカ男も笑っている。 「誑し込んだわけか、大したモンだ」 レオが鋭く何か答え、シカ男と問答しているのが背後に聞こえる。 「み、見捨てるんですかッ!」 上擦った声で問うと鉄木さんは苦しげに喘ぎながら斜面を登り、足を滑らせかけた。 咄嗟に手をかし斜面を上がる。 遠くに白い山脈が見え、反対には森に囲まれた街道が見える。 あの道を行けば。 「本当に見捨てるんですか?」 鉄木さんは私よりも背が高いので、支えるのには少しの苦労が必要だった。 「僕達が行って、何が出来る?」 間近で見た瞳はよくみればダークブラウン。 日本人の瞳は、黒じゃなかったっけ。 「彼なら馬で逃げられる。だとしたら僕等は足手まといにならないように、できるだけ遠くへ逃げるしかない」 ああ、そうだ。 鉄木さんも、カモシカ達にとっては価値があるんだ。 「……わかりました」 私は頷き、街道に沿って歩き出した。 いつレオが追いついてもいいように、時々後ろを振り返る。 「私……マダラじゃなくて、レオを誘惑すればよかった」 太陽が空の真中に来た頃、とうとう疲れ果てて茂みの中で倒れ込むようにして体を休めながらそう呟くと、鉄木さんは地面に伏せた顔を上げた。 「なぜ?」 ここしばらくずっと檻の中だったから、体が予想以上に鈍っている。 もっと早く進む方法を考えないと、カモシカに捕まらなければ、他に捕まる。 「そうすれば、レオも絶対一緒に来ようとか、考えたかも」 あまりの下らなさに少し笑える。 落ちたばかりでこっちの価値観に染まっていない人にとっても、私なんか論外だ。 その日は一日、雨が降らなかった。 *** 蝉の鳴き声、老人達がベンチに腰掛けていた小さな神社、朱い鳥居の上に木々のざわめき。 縁の割れた石段を下ると長年やってる豆腐屋があって、友達が二階の窓から手を振った。 さよなら。 アスファルトには丸やバツのチョークの掠れた落書き。 門柱の上には猫が丸くなっていて、顎の下をくすぐると迷惑そうに欠伸する。 白い自転車に乗ったお巡りさんが警邏をしているのとすれ違う。 振り返ってもその警察官は、父さんじゃない。 嗚咽のような風になぶられ涙のような雨が頬を伝う。 運行停止のアナウンスに数少ない乗客が不安げに身動ぎする。 屋根のない駅に降ろされ、慌てた様子で他の人が改札へ向かう。 その時、足を止めたのは小さな泣き声。 周囲の人はもう足早に行ってしまって、誰も居ない。 雨の音がひどすぎて、何も聴こえない。 もしも、……生き物だったら。 ローファーの中に水が染みて情けない気分になる。 たかが十数メートル。 踵を返すと、靴がきゅっと鳴って少し面白いと思いい無理やり口の端を曲げる。 音の先、ホーム下を恐る恐る覗き目を凝らすと、手の平サイズの…ライトを点滅させた携帯電話。 生き物じゃなくて良かったと息を吐くのと、山の斜面を滑り落ちる泥に巻き込まれるのと、どっちが先立っただろう。 そして私は、イヌの国のゴミ捨て場で息を吹き返した。 *** もしかして、鉄木さんにとってはカモシカの繁殖所に行った方がよかったんだろうかという疑問が離れない。 知識があるから、優遇されるのは間違いないしそれにレオだって……。 私は自分が逃げたいが為に、2人を利用したのだろうか。 答えが出ないまま、鉄木さんの合図で足を止め、近くの木の下に座り込む。 向こうから、疾走する蹄と車輪の音が聞こえ、更に身を低くして草むらに体を隠すと、木々の隙間から街道を抜ける一台の馬車が見えた。 猛スピードで通り抜けるそれの半分扉が壊れているのが見える。 黙ったまま2人で顔を合わせそのままじっとしていると、その後ろから騎馬したイヌが複数追いすがって行った。 少なくとも、イヌ達は統一された服装をしていない。口々に何か叫びながら、玩ぶように馬車に矢を射掛けている。 あっという間にそれらは見えなくなり、しばらく様子を伺ってから街道に出ると地面には弓矢が落ちていた。 「馬車強盗?山賊かな」 鉄木さんは弓矢を拾うとそう呟き、左右を見回して私の腕を引っ張った。 「仲間が増えたら困るからね。イヌは鼻が良さそうだし、アイツラに捕まったら元も子もない」 「そうですね……」 ふと場違いな明るい黄色に目が引かれた。 馬車から落ちたものだろうか。 泥まみれのぬいぐるみ、長い尻尾には黄色いリボン。 ……チェルも、似たようなのを持ってたなぁ……。 不意に泣き出しそうになって、慌てて目を擦ってぬいぐるみを拾い上げた。 ここは日本じゃないから警察も居ないし、誰も助けになんか来てくれない。 ただ馬車が逃げ切れる事を祈るしかない。 「行こう」 頷いて、感覚のない足を動かす。 コレがこっちじゃ普通の事なんだから、仕方ない事だから慣れなきゃいけない。 大丈夫、慣れる。諦めればいいんだ。簡単な事なんだから、大丈夫。 なのに……なんでこんなに辛くて仕方ないんだろう……慣れたはずなのに。 2人で無言で歩き、足もとが見えない夕闇の中、あの馬車が横転しているを見つけた。 車輪がひどく壊れ、そのため動かすことが出来なくて捨て置かれたらしい。 飛び出して中を覗き込んでも人の気配はなく、ただ散乱した衣服や僅かな血のあとが、何が起きたかを克明に語っていた。 馬も連れて行かれたのか……それとも? 街道に入らず木の陰に隠れるように立ったままの周囲を見張っている鉄木さんに頷き、踵を返そうとした時、小さな呻き声。 「だ、だいじょうぶ!?」 目を凝らすと横転した馬車の窓から体が飛び出したのか、馬車のほんの小さな隙間に小さな子供の姿を見つけた。 「鉄木さん手伝って!怪我人です!!」 近くに見えるものを総動員してなんとか荷台を持ち上げ、横たわる小さな怪我人を引っ張り出す。 抱き上げようとしたけど、重い。 「代わろう」 鉄木さんに任せ、馬車の幌をカモシカから盗った短剣で出来るだけたくさん切り取る。 多少の食料と刃物以外は持って居なかったので、布地は凄く貴重だ。 「川の方へ行きましょう。怪我の手当てしなきゃ」 「暗くてよくわかりませんでしたけど、お金持ちっぽいですね。この子」 血を拭うと傷は案外大きくない事がわかった。 ぬいぐるみを横に置いて、上から幌を毛布代わりにかける。 拾ってきた衣類を身に纏い、少しまともな外見になった鉄木さんは複雑そうに子供を見下ろし恐る恐る乱れた髪を撫でた。 「コレ…が、イヌか。セッター系かな?こっちに男の子がスカートをはく習慣はないよね?」 「普通はないとおもいます」 緩くウェーブのある髪に分厚い垂耳、肌の色はチョコレート色、身長から見るに小学生高学年ぐらいだろうか。 洒落たシルクのブラウスには馬車から引っ張り出したときについた泥の筋がついてしまっている。 瞼が切れたのかひどい痣もあるので布を濡らして目の上にそっと載せると、小さく呻き声が上がった。 「母様?」 ぎくりと鉄木さんの肩が跳ねる。 私は答えずに怪我のない頬を指で撫でた。 「寝心地悪いでしょうけど、少し我慢して寝ていてください」 ひっと息を呑み、体が固まる。 「あなたは誰」 硬い声の中に含まれているのは、怯えと不安。 まさかこっちの方がよっぽど怖がっているとは、思いもよらないんだろう。 けど。 困った顔でこちらを見る鉄木さんに頷き、冷たい布を少しずらす。 「……こんばんわ」 明るい鳶色の瞳が一瞬戸惑い、大きく見開かれた。 「別にヒトなんか、珍しくもないわ。わたしにだって、アポロがいるもの」 女の子はそう言って毛布代わりの幌布を剥ぎ取り、お尻の下に引いた。 手入れのされた尻尾に繊細そうな長い毛が絡み付いている。 彼女は上着のポケットから櫛を取り出すと、丁寧に縺れをほどきはじめた。 動くたびに膝上のぬいぐるみが落ちそうになるのを律儀に戻している。 ……よほどの金持ちなんだろうか?それなら護衛くらい雇っていそうなものだけど。 何はともあれ、しっかりしているみたいだし人の居る所まで連れて行けば大丈夫だろう。 それに……いざという場合でも、この位の子なら私達でもなんとかなる。 「あなた達、もしかしてルカパヤンに行く途中?」 女の子は一通り尾の手入れを終えると、首を傾げてそう言った。 「ああ、そうなんだ。でも道に迷ってね」 言葉に詰まった私に代わり、鉄木さんが淀みなく話を進めた。 女の子は、イヌらしく年上に見える方を立てることにしたらしい。 鉄木さんのほうに向き直ると、ようやく少し笑った。 「アポロもルカパヤン生まれなの。人に教えちゃダメだって言われてるけど、あなた達はヒトだし問題ないわよね」 繁殖場でもあるのだろうか。 少し暗澹とした気持ちになる。 鉄木さんを値踏みするように上から下まで眺め、特にヒゲを興味深そうに見つめた。 「お嬢さん、名前を聞いてもいいかな?」 「人に聞く前に、自分が言うのが先だって習わなかった?」 きっぱりといわれ、鉄木さんがヒゲ顔を歪め苦笑する。 鉄木さんが自分と私の事を紹介すると女の子はトーリィと名乗った。 裕福な商人の娘らしい。 「母様とアポロと私の三人で叔父様の所へ行く途中だったんだけど……ねぇ、2人を知らない?」 彼女の問い掛けに答えられず、思わず鉄木さんを見る。 鉄木さんはしばらく考え、ボサボサのヒゲを扱いた。 「明日の朝、探しに行こう。さっきは君しかいなかったし、こんなに暗くちゃ何もわからないからね」 そう言って鉄木さんはトーリィの肩を慰めるように叩く。 唇を噛み締め俯く姿に思わず抱きしめる。 小さい背中。 子供が泣くのは、苦手だ。 彼女が眠った事を確認してから、鉄木さんは私を少し離れた所へ連れ出した。 「公共機関に彼女を預けるのが最善だろうね」 イヌの警察関係がどれくらい信頼できるのか、という疑問はあったけど考えればきりがない。 馬車から持ってきた革紐…多分、馬具の予備を適当な長さに切り取り、お互い首に巻いた。 首輪の代わりだ。 女の子にノラヒト付よりは、ヒト召使だと思われた方がいいだろう。 「あえて言うなら、家出した令嬢に付き添う召使二人って所かな」 「召使いにしては、私達ガラ悪過ぎです」 鉄木さんは、久しぶりに笑った。 翌朝、 「もしかしたら、アポロと母様は馬で先に行ったのかもしれないわ」 馬車周りを調べ、私達が無言で顔を見合わせていると彼女はそういい始めた。 「だから、またここに戻ってくるわ。わたしを迎えに」 そういって座り込み、てこでも動きそうにない。 彼女は現状をわかっていないのか、……信じたくないだけかもしれない。 鉄木さんも子供にきついことを言いにくいのか、困ったようにこちらをみている。 結構丸投げだ。 「なら手紙を残していくっていうのはどうですか?ここじゃ寒いし」 まぁ……とりあえず、ここを離れたいだけとはいえないし。 子供にここで長時間過ごさせるのも問題だ。 「確かに。お父さんの方に知らせが行ってるかもしれないしね。近くの家に居た方がお互い安心だろう?」 窮余の策にトーリィは不承不承頷く。 そうと決まれば話は早い。 手紙代わりに使えそうなものを探し、三人で馬車をあさ事になった。 「これなんかどうだろう」 鉄木さんが見つけたのは書類の裏紙。 一応文章に眼を通し、トーリィに渡す。馬車の保証書なんてあるとは知らなかったけど。 トーリィは座席に隙間に入り込んでいた折れた色鉛筆で文章を綴りはじめたので、一番無傷に近い御者台を覗いた。 めぼしい物はやはりないけど、この皮袋は役に立つかもしれない。 私とトーリィを見比べていた鉄木さんに袋を手渡し、更に漁る。 しゃがみ込んで隅っこをごそごそしていると、馬の嘶きが聞こえた。 トーリィが声を上げて飛び出す。 鉄木さんがすぐさま馬車裏から出ようとしたのを押し留め、傾いだ車輪の下から覗く。 馬の足に人の足、トーリィの小さな足。 泥染みのついた足が、一歩後ずさった。 鉄木さんに手でトーリィと指差し、持っていたわずかばかりの食料を押し付ける。 「あの子と、逃げてください」 深呼吸する。 何気ない様子を装い、足音を立てて正面に回った。 馬に乗ったイヌがこちらを見たので、私もそちらを向く。 茶色い目にだらりと下がった長い舌。 荒い息遣いにケダモノの体臭。 皮の鎧らしき物を纏ったイヌ2人に馬に乗ったのが一人、と、その向こうで表情を強張らせている少女の姿。 どうみても、トーリィの家族にも、警察にもみえない。 盗賊にみえた。 「たすけて!」 もしも、助けを求めている子供がいたら。 そんなもんだって、諦めるのはもう嫌。 私は叫んで来た方へ向かい、真っ直ぐに走り出した。 ちらりと振り返って見えたイヌは二人、イヌは逃げるものを追う。 それが価値の低いほうでもそうなのか……そこまで判断が回らなかったらしい。 幸運な事に。 足裏の痛みを無視して必死で走る背後からはイヌの鳴き声が増えてく。 斜面を転がり落ち、痛む関節を誤魔化しながら河原に降り浅瀬を越える。 できるだけ、遠くへ。 腐りかけた丸太橋を駆け抜け、藪の中へ飛び込むと、むき出しの手足に容赦なく枯れた枝が刺さった。 目の前に現れたイヌに避けきれずぶつかり地面に転がる。 「手間掛けさせやがって」 背中を踏まれ、身動きが取れない。 「ヒトかよ、ツイてんな」 笑い声で頭蓋骨が軋む気がする。 荒い鼻息が気色悪くてもがけば、何がおかしいのか大笑いだ。 「ヒトが、女とどう違うか比べてみるか」 目脂が汚らしい眼を睨みつけて、蹴ろうとして足を上げると掴まれ地面に押し付けられる。重い。 「コイツ、口利けねぇのか?」 口に汚れた指が突っ込まれ噛みつくと笑いながら平手打ちされた。 ぬるりと熱い感触が鼻を伝う。 顔を舐められ息が出来ない。 「コラ顔傷つけんな」 「腹にしとけ」 「腹もだめだろ。すぐ死ぬぞ」 水っぽい胃液を吐くと、ジャンケンで負けた黒イヌに引きずられた。 浅い川底に押し付けられ鼻にも耳にも水が入り込む。 痛みと息苦しさで暴れると、後頭部を掴まれ頭ごと水の中に押し込まれ息が出来ない。 「だからよーガキか女連れて来いつっただろうが、このクソどもがッ」 一番体の大きい赤イヌに、焦茶イヌが殴り飛ばされる。 「手間かけさせんじゃねぇぞオラ!」 アレが、群れのボスなんだろうか。 ついでとばかりに焦茶を寄ってたかって蹴ったり殴ったりしている他のイヌを一瞥し、赤イヌはつまらなそうに私を見た。 私といえば、ご丁寧に手を後ろで縛られ身動きできないまま、襟首を掴まれぽたぽたと冷たい滴を垂らしている。 雑巾の気分だ。 俯けば、胸元が半分裂け新しく出た血で点々と汚れている。 まぁ……元々汚れてたけど。 元々何かの施設だったのか、向こうに見える石造りの建物の周囲は開けていて見通しがいい。 ぼんやり周囲を見ていたら、軽く殴られた。 あー…瞼、切れたかも。 なにしろ口も切れているので息がしにくくて、頭がふらふらするので数えにくいが、イヌは十人以上。 トーリィを攫う為に来たのが五人。ボスの近くに居たのが二人、残りは空手で戻ってきてはボスイヌに叱咤されている。 「ヒトっつてもよー。フツーの女と同じじゃねぇか」 ずぶ濡れでピッタリと肌に引っ付いたままの服が引っ張られ、裂ける。 「見ろよこの白さ。そこらの田舎娘じゃ到底かなわねぇ、さぞイイモノ食って、ヌクヌク生きてきたんだろうなぁ」 イヌの目にチラつく黒いものには、覚えがあった。 「コレ一晩で30は掛かるってハナシだ。スゲーよなァ、クソネコに妹は2セパタで人生買い叩かれたってのによォ」 息が出来ない。 気管に食い込んだ指は硬い毛に覆われ、鋭い爪はいかにも不潔で、あとで感染症を起こすのは間違いない。 いや……その前に 無意識に足が空しく宙を掻く。 不意に圧力が抜け、体が地に落ちる。 冷たく獣くさい空気を吸い込んでは吐き出す。 舌がびりびりする。 頬にあたる地面が冷たい。ぶつけた足が痛い。 「お前等、順番に使っていいぜ。最後まで潰すんじゃねぇぞ」 「ボスは使わないんで?」 下っ端っぽい甲高い声が尋ねる。 「ハッ オレはヒトなんかいらねぇ」 鼻で笑うのは結構だけど……。 「だが、コイツを売っていい女買うのもいいな。豪遊できるぜ」 あーそう来たか。 イヌの不審げな目を見て、血の味のする唇をゆがめる。 「私に比べられるのが怖いんでしょ。下手糞だってばれたらヤダもんね」 何をいわれたのか浸透するのに少し間があったようで、口を塞がれるまで猶予があった。 「手下の前で見せられないくらいなんでしょ」 お腹を蹴られ悶絶する。 ああくそ、いたいいたいいたい 「ちょっと躾が必要みたいだな」 嗜虐の悦びに満ちた声。 髪を掴み上げられ、体を仰け反らす。 鼻痛い。目が痛くて開けてられない。頭も体もみんな痛い。 「おい」 近くのが慌てて細い月を思わす刃物を差し出すと、ボスイヌはそれを私の耳元にぴたりと当てた。 冷たいナイフの感触。 硬直する私の耳元でブチブチと切られる音。 顔の横に長い髪が降り注ぐ。 イヌは適当に切り取った髪を指先に絡め、においを嗅いだ。 「クセェ家畜の臭いだ」 「アンタに比べたらマシ」 にっこり笑って答えると、即座に殴り飛ばされた。 イヌの涎って、どうしてこんなにクサイのだろうか。 て、いうか今何時だろ、夕方のセールにはもう間に合わない頃……かな? 二人分の体重に押しつぶされたままの腕は、痛みを伝えてくるのが厄介だ。 動かされると、簾のように切られた傷が余計に……。 「あーらら、楽しそうなコトしてるじゃなーい?」 場違いな甲高い幻聴。……肩、痛いなぁ……。クソへたくそ。 「いーれーて♪」 圧し掛かったイヌの顔が奇妙な具合に歪んでいる所を見ると、どうやら幻聴ではなかったらしい。 痛む目を動かすと、奇妙なモノが見えた。 ……下着姿の女……長い耳を顔の横で振っている……うさぎ。 ウサギがこちらを向くと大きな胸がぶるんと揺れ、イヌの顎が一斉にかくんと落ちる。 思わず体を動かそうととしたが、痙攣のように少し動いただけだ。 ウサギらしく一足飛びで私の前に仁王立ちして腰に手を当て胸を張る…きょにゅう。 強調された部位に劣等感が刺激される。 「ナニナニー?こういう時は呼んでよ☆」 謎のキメポーズ、緑色に光る瞳。 「な、なんだテメェ!」 我に返ったイヌの罵声に歯を剥き出し笑うウサギ。 あいにく、イヌはズボンを戻しながらなので迫力がない。 「ただの、通りすがりデス☆」 白い歯を見せる笑顔に背中がゾクゾクしてくる。 別に肉食系のように歯並びが悪いわけでもないのに、妙に……怖い。 「やぁん、スゴーイ緊縛!緊縛?ちょっとヤらせて触らせて♪」 ウサギは適当な事を言うと、さっさとこちらへ向き直りイヌを軽く押しのけた。 さしたる力を込めたとも思えなかったけど、イヌは無様に地面に転がり、他のイヌ達はあまりの身勝手さに呆気に取られている。 「おじょーさん心配しないで。思い切り可愛がってあげる♪」 そういってウサギは下着に手を掛け、勢いよく下すとブルンと…… ……ぶるん? ダッシュで逃げようとしてたものの、立ち上がる事すらできず、地面にダイブする。足、捻った……。 イヌ達のほうからもどよめきが上がり、何人かが思わず尻尾を丸めたのが目に入る。 「すげぇコレがフタナリってやつか」 食い入るように見つめるのも、何人か。 一方こちらといえば、自慢げに見せびらかしている。 ブラブラし過ぎ。 黒い長いし太いしなんか形が!!! パニックに陥った私や手下イヌとは対照的に、ボスイヌは大爆笑だ。 それを見たウサギも爽やかに微笑する。 「というわけで、チェンジ♪」 「いいだろう」 ボスイヌへ抗議の声を上げようとした手下が他の手下に殴られ黙る。 「ありがと☆ ハイハイ、痛くしないからねー」 「はあああああああああああああ!?」 逃れようと全力で暴れるもあっさり掴まれ唇奪われた。 ぬるぬるしたものが口いっぱいに溢れ、吐き出そうとしても叶わない。 我に返り、舌に噛み付こうとしたものの、一足早く顔が離れる。 素早く胸を揉まれ、驚きと違和感で変な声を上げると、ウサギは緑の瞳を爛々と輝かせ、股間のアレを一層膨らませていた。 おかしい物理的におかしい無理無理無理無理 きゃーとかいいつつまだ血の出る傷をぺろりと舐めると、唾液が糸を引く。 必死で足を閉じようとしても、あっさり力負けした。 何度も掻き毟られてでこぼこになった太腿の痕に柔らかそうな唇が触れ、男でもイヌでもネコでもない舌の感触。 「やっやだやだっ!」 ジタバタと暴れる様を見て、何がおかしいのかウサギは鼻の下を伸ばした。 「ヤダ、カワイイ」 ウサギらしくイカレら事を口走るのをどうにかしようと、腹筋を使って上半身をもたげ頭突きを試みるも失敗。 「もうちょっと肉つけないとダメだねー♪」 無遠慮に揉みしだく手を見たくないので、ニヤけた顔を睨みつけた。 あの調教師は白ウサギだった。 白も黒もキライになりそうだ。ホントにウサギというのは理解不能としか言いようがない。 「オイまだかよー」 イヌの野次に対し、ウサギは眉を吊り上げ股間の極悪無比なモノを揺らすと、イヌ達は一斉に後ろへ後ずさった。 「女の子を泣かしていいのは、キモチイイ時だけって知らないの?」 そういって私の顔を覗きこむので、霞んだ目で睨みつける。 「……キヨちゃん?」 手の力が抜けたので、必死に暴れてウサギの下から転がり抜け出ると、すぐにイヌに捕まった。 ボスイヌが短くなった髪を掴む。 「なんだウサギのねーちゃんーやめるのか。オイ、どいつでもいいぞ。どっちがえらいかキッチリ仕込んでやれ」 もがくと舌打ちされ、手が振り上げられた。 喉が鳴る。 「ちょっとーオシオキはそういう風にしちゃダーメ☆あ、やべ」 ぐっと引っ張られ、体が宙に浮く。 いや、抱き上げられた。 「テメェ!魔法だと!?」 首を曲げると白くて大きな歯が見えた。 いかにも柔らかそうな毛並みに顔には大きな傷がある。 「と、いうわけで山賊イヌ君達、キヨちゃんは返してもらうよ☆」 なにが、というわけになるのか不明だけど、、ジャックさんは左手をキツネの形にしてツンと指先をこめかみにくっつけ、謎のポーズをキメる。うざい。 挑発にイヌ達はそれぞれ武器を手に取りじりっと詰め寄った。 無言で突き出された槍の切っ先を後ろへ飛んで避けた先にボウガンの矢が地面に刺さる。 「ジャックさん、なんでここに!」 抱えられたまま尋ねると、ジャックさんはどこからか取り出した卵らしいのをイヌに投げつけた。 イヌの顔面に当たったそれは、ひしゃげピンクの煙を吐き出す。 もうもうと立ち上る煙を吸い込んだイヌ達は咳き込みがくりと膝を折りはじめている。 「凄くない?オレ魔具なし性転換よ?凄い魔力食うんだよアレ。持続時間五分だけど」 「……後で、一回殴ろう」 「キヨちゃん本音が漏れてる」 完全に隙をつかれたイヌを尻目に、まっしぐらに林を抜け、傾いた太陽に向かって走る。 しばらく林の中を通り、街道へは出ずに開けた場所にたどり着く……大量の水…巨大な川…じゃなく湖だ。 「もしかして、道迷ったんですか?」 反対岸まで結構あるし、船も見当たらない。 艀にはボートらしき物があるのが見えるけど、あそこまでは少し距離がある。 よっこらせっと降ろされ、足首が水に浸かる。……膝、笑っているし。 それ以上どこにもいけないという事にイヌも気がついたのか、包囲網が少しずつ小さくなってきた。 「てめぇ飼い主か?フザケた真似しやがって」 「違いますぅーおにいちゃんですぅー♪」 イヌの恫喝にジャックさんはそう答え、私の体をしっかりと抱き……。 「あんまり引っ付かないでくれます?当たるから」 「当ててんだよ♪」 ……あとで三回殴っておこう、棒で。 「所でさーこのまま大人しく帰る気ない?今なら無傷で帰れるよー。オレ温和だし?」 ジャックさんの言葉は、まさに火に油、イヌ達は一斉に低い唸りを漏らした。 「ウサギの生皮剥いでその上で孕むまでマワしてやる」 「イヌ孕むぐらいならドジョウ孕むわ。ていうか、口開かないでくれる?発酵に失敗した乳製品みたいなニオイがするから」 口を塞がれた。 「キヨちゃん、お兄ちゃん、今真面目なお話してるから」 返答代わりに眉を吊り上げる。 「ねぇねぇー最終チャーンス☆今すぐ水から上がって息が切れるまで走れば、いい事あるかもよ?」 ひたひたと水が押し寄せては引く。 ジャックさんはイヌから目を離さず、いつもの飄々とした口調で牽制しているけど……。 「ウサギってのは、本当にイカれてるな。ガキでももうちょっと巧くホラ吹くぜ」 イヌ達はニヤニヤ笑い、私達を捕まえてどうするか、怖気を奮うようなことを楽しげに話し合っている。 ギラギラとした琥珀色の目に、黄ばんだ牙にだらりとよだれが伝っているのが不愉快で、……怖かった。 「お前ら、好きにしていいぜ。でもまだ殺すなよ」 十人強のイヌが武器を構え、じりじりと近寄ってくる。 「所でジャックさん……さっきも訊きましたけど、なんでここにいるんですか?」 このまま奥まで走って、泳いでしまえば逃げられるだろうか? ジャックさんが逃げる時間ぐらい、稼げるといいんだけど。 イヌ達の動きを視界の隅に見ながらジャックさんを見上げると、ジャックさんはだらりと髭を下げ、鼻をひくひくさせた。 「え……だってオレ、キヨちゃんのお兄ちゃんだし」 何を言い出すんだろうか。 怖さのあまり、頭がどうかしちゃったんだろうか。 「ほら、今のうちに感動のあまり感涙したり抱きついてくれていいよ!」 意味不明のことを口走りながら、ジャックさんが宙に描きだすと光と共に矢が落ち、向かい来るイヌが一斉に足を取られて転げまわる。 「魔法だ!散れ!」 ボスイヌの号令にイヌが遠ざかりかけ、ジャックさんがなぜか凄く不満そうな表情を浮かべた。 「感激のチューとか、感謝のチューをすべきだよね。フツー、あ、お礼エッチでもいいけど」 「……なんの?」 「これのー」 ジャックさんがさっと手を挙げ、振り下ろす。 同時に干潮のように足元の水が引き始めた。 ふわふわの体毛についた滴を浴びて、ジャックさんが嬉しそうに笑う。 「殺しちゃだめだよ。がっくん」 そして *** 「だから言ったのにねぇ~ホラ、警告したじゃん?親切だよねオレ」 ジャックさんが氷漬けになった最後の一人を縛り上げ、他のと纏める。 木や氷を工夫し、檻のようなモノのを作ってしまったのには、ただ感心するしかない。 「もうー結局オレばっかりじゃん」 「すみませんっ」 立ち上がろうとしたら無理やり肩を押され、仕方なく倒木に腰を下す。 「動くな」 怒られて、思わず外套に顔を埋める。 この外套はジャックさんのものではなく……変温動物用に防寒の効いた素敵な代物……つまり、その。 中が血や泥で汚れるからいいと固辞したら、簀巻きにされそうになったりしたわけだけど。 相変わらず、……意味不明な人だ。 ジャックさんが触れるたびに絶叫を上げるイヌを眺めながら倒木の上で三角座りをしていると、爬虫類な瞳と視線が交わった。 ……気まずい。 何を言えばいいのかわからず、湿地帯のような足元に目を落とす。 水の精霊使い……一応話は聞いた事があったものの……。 湖を氾濫させイヌの群れを溺死寸前まで追い込んだり、人の頭ぐらいの大きさの雹を降らせて撲殺しようとしたり、体内の水分を抜いてミイラにしようとしたり……。 ジャックさんが居なかったら、大量殺人犯だ。 まぁ……ヘビというのは龍の血を引いているそうだし、容姿からみても日本昔話からみても、天候操作はお手の物って感じだけど。 イヌのミイラはちょっと……色々問題だ。本人的、世間的にも。 「ところで……仕事はどうしたんですか?」 あとチェルとサフは。 私の言葉に、スリムでヘビでかっこいいゴジラ顔がちょっと歪む。 「お前」 言い掛けた言葉を遮りくしゃみしてしまった。 ぐしゅぐしゅしていると、ドスドスと落ち着きなく周囲を歩き回り始め、ジャックさんにニヤニヤされている。 「あ、そうだ!女の子がお母さんを探しているんです。あいつらに襲われて逸れてしまって!」 立ち上がった拍子にぐらりと視界が真っ暗になり思わずへたり込んでしまった。心臓がバクバクいっているし、体全体が粘るように重い。 「ちょっとダメだよー痛いの止めてるからって治ったわけじゃないんだからね!」 ジャックさんの声が頭に響く。 「すみません」 大人しく頷き、手を倒木がある辺りに伸ばすと、引っ張り上げられ、何とか立ち上がる。 「ところで、女の子って美人?」 「……たぶん」 嘘は言ってない。 「エェェ!そういう事は早く言ってよ!」 「え……すみません」 眼を瞬かせ、しばらくうごかずにいるとようやく視界が明るくなってきた。 少し、目を閉じていた方がいいかな。 「とりあえず、近くの人家を探してそこで待ち合わせようって……ちょっともう場所わかりませんけど」 「馬車壊れてた所だよね。あそこなら、すぐ近くに衛兵所あるから大丈夫」 短くされた髪が撫でられる感触にちょっと違和感。 ……悪くはないけど。 ずり落ちかけた外套が肩の上まで引っ張られ、外気が遮断された。 厚い布地は、男性用で丈が長いので足首近くまで届く。 これいいな、あったかい。 「そうか」 低くてかっこいい声におもわずうっとりしそうになり、慌てて正気に戻る。 「ごごごごごめんなさいすみませんっあれジャックさんは!?」 慌てて周囲を見回しても、霞んだ視界に黒ウサギの姿は影も形もない。 「向こうへ走って行った」 スキップにしてはありえない超高速で跳ねて行くジャックさんの姿を想像し、深く納得する。 でもこの山賊達どうすればいいんだろうか。 縛られているとはいえ、このまま放置していくのもなんだ。 その旨を告げると、理知的なヘビフェイスがしばらく思案し、どさりと倒木に腰掛けた。かなり疲れているらしい。 「俺達が見張っていればいいだろう。おそらくそのまま通報してくるはずだ」 「そうですか」 喋りながら腕に力込めるのやめてもらえないだろうか。 なんというか……胸が詰まる。 「コレ、苦しくないか?外すぞ」 慎重な手つきで、首に食い込んだ革紐が外された。 泥と血が縫い目に入り込んでいて、汚らしい。 私と一緒だ。 無感覚の頬と瞼を擦り、その擦った手を見れば爪は割れてるし指は青緑だし……。 鏡がなくてよかった。外套を使わせてくれてよかった。少なくとも、今はコレを隠せる。 「痛いだろうが、もう少し我慢してくれ」 ぎこちない仕草で撫でられるのを感受しかけ、大切な事を思い出した。 「仕事どうしたんですか?!クビになっちゃいますよ?」 チェルが路頭に迷う姿を連想し怖気が走る。 ジャックさんはいい。開業医だし、家賃収入もあるけど! 「お前…ちょっと黙ってろ」 「黙りません!」 ちょっと引き攣る口をどうにか動かし言い返す。 「サフはまぁ、自分でアルバイトしてるし意外としっかりしてるからいいですけど、チェルはどうするんですか!お父さんの自覚ないんですか! お仕事だって、ネコと違って真面目に働くのがポイントなのに、欠勤したら意味ないじゃないですか! そりゃ水の精霊使いだから資格とかありそうですけど、不安定な状態は大変なんですよ?警察に不審者扱いされても文句言えないじゃないですか! それに収入が無いと何かあったときこま…………」 お金が無いと、病気や怪我の時困るし、それ以外でも色々お金があった方がいい。 欲しい物だってあるだろうし……あ、……そっか。 あまりに嬉しかったから、思いつかなかった。 「キズモノ中古でも売れる場所、見つけたんですね。どれくらいの値段でした?」 チェルとサフにお別れを言う時間はあるだろうか。 髪は伸びるからいいとして、問題は外傷だ。 どうも何本か骨が折れているし、体中痣だらけだし。 また変な刃物傷付けられちゃったし。 額に形がいい鱗付の手が触れる。 下瞼を少し押され覗き込まれ、すこし黄味がかっているもののまだまだ穏やかな秋の色をした瞳にどきどきした。 「熱が出たな。怪我のせいか」 かすかに眉間に皺が寄るのを感じる。 「質問に答えて下さい。いくらだったんです?上乗せできるよう努力しますよ」 目の前をチラつく赤い舌を引っ張ってやろうかと思いながら再度尋ねると、綺麗な指先が目元から唇へ優しく上下してきた。 ムカついたので姿勢を変え、肘を胴に当てた。 外套越しなので大した威力はないが、意図は伝わったらしい。 驚いたように爬虫類な瞳が見開かれ、まじまじとこちらを見つめてくる。 この人に見つめられるのは……正直、悪くない。 って違う。 「質問に答えて下さい。いくらで売ったんですか」 どうせ売られるなら、売られないように努力する必要は無い。 私に外套を使わせているせいですっかり冷えてしまった鱗のある肌を無事な親指と人差し指で抓った。 「お前、何を言っているんだ?怪我のせいか?」 困惑した声色に滲むのは……心配だろうか。 売れなくなる心配? 「馬鹿にするな。お前と子供一人二人、養える程度の甲斐性はある」 背中に回された手の感触。 黙ってその全てを堪能する。 いつまでこうしてられるんだろう……。 「私……あなたのなんですか?」 少しでも長く一緒に居られるなら、なんでもよかった。 「カナイ」 なんのつもりだか、ひょいとヘビの口角が頬に当たったのでお返しに舌を甘咬みする。 「カナイだ」 二度いった。 「カナイって何です?」 穏やかな瞳がきょとんと瞬く。 ……かわいい頬擦りしたい抱きしめたい。 「連れ合い、伴侶、ああ、妻、女房とも呼ぶがそっちでは使わない名称か?」 考える暇もなく平手打ち。 「いつから?」 よほど驚いたのか、口を半開きにしたまま動かないので、ちょっと頬を抓った。 「い・つ・か・らお…お嫁さんのつもりだったんです?」 私の問い掛けに、訝しげだった瞳が欝金色の輝きを帯びて見開かれる。 「いつって、お前……まさかわかってなかったのかッ!」 後半が絶叫じみてたので口を塞いだ。 しばらくして動揺が収まったようなのでしぶしぶ離す。 「おおお前、何考えてるんだ。自覚ないとかいうなよ。惚れてもいない女と褥を共にするはずがないだろうそれに俺は散々求婚したしお前だってちゃんと受け入れたからこそ」 意外にも、ヘビの顔色というのは変わるものらしい。 必死な姿にしばらく考えて、クビをひねる。 「求婚?」 プロポーズだ。つまり。なにかそれっぽい事を言ったことがあっただろうか? 実はいわれてたのに、気がつかなかった私が悪いのだろうか。可能性はある。 ちょっと後ろめたい気持ちが湧き上がってきたので、頬を掴んだままの指を外す。 「そうだ!種族が違うからといって省略したりはしてないぞ俺は!ちゃんと伝統に則り求婚の踊りを」 「わかるか」 ぐーで殴っておく。 そのあと、それ以上動くと怪我が悪化するからやめてくれと騒いだので仕方なく今回の尋問は中止した。 ――― 一年後 ――― 氷の上で私がジャンプすると、隣のチェルが驚愕と感動の面持ちでこちらを見た。 「キヨカ、凄い」 「慣れ慣れ」 手をパタパタさせ、ついでに遠くのリーィエさんを招き寄せる、ついでに耳あて付の帽子を少し直す。 リーィエさんが不安げな面持ちでスケート靴の紐をもう一度結びなおし、恐る恐る氷の上に乗る。 滑った。 「フニャー!」 手をバタつかせ暴れるので、腕を掴んで引っ張り氷の中央で軽くレッスン。 すぐ逃げようとするので、真ん中まで連れて行かないと練習にならないのが困る。 「大丈夫ですよ、ヒトでも一時間あればそれなりに滑れるくらいですから」 「氷は、困る水は困る」 困るじゃなくて、ただ単に嫌なだけじゃないかと思いつつ宥めすかして滑る練習。 このスケート靴は、リーィエさんの会社で改良し、こちらの世界の住民の巨体でも支えられるよう作りかえられたものだ。 当初は氷の上で遊ぶというアイディアを拒否していたネコも多かったけど、リーィエさんとジャックさんの説得で試作を重ね、販売まで後一歩までたどり着いたのは記念すべき事だと思う。 「リーィエさん、落ち着いて。ヒトですら出来るんですよ?」 私の小声の挑発になんとかバランスをとって立ち上がったリーィエさんは凄く嫌そうな顔をした。 「私の友人を卑下しないで」 嬉しくて抱きつくと、バランスを崩し甲高い悲鳴が上がり、氷の向こう側の見物客と自称保護者、それにイヌの国からやってきた商人とその家族が色めき立つのがわかった。 仲良しぶりを見せ付けておこう。 いいでしょう。私には、こんなにいい友達が居るの。 チェルを挟み込んで氷の上でぐるぐる回し友達に悲鳴を上げさせる。 面白がってチェルが笑う。 誰かの持ち込んだラジカセからは、トリのロックバンドによるフランス語の歌が流れてきて頬が緩む。 私には歌詞がわからないけど、重要なのは、それが彼の声だっていう事。 へっぴり腰のイヌとネコがやって来たので手を振って歓迎すると、2人はあわてて逃げ出しそれをチェルと追いかける。 繋いだ手の先で引っ張られた彼女がまたも悲鳴を上げた。 視界の隅で、加わりたくてうずうずしている姿が見えたので手を振って誘う。 足を踏み出し、即座に表面で転び、各所で悲鳴と笑い声が弾ける。 別にネコでもイヌでもネズミでも、ヘビでもウサギでもトラやトリ……ヒトも。 似たような風景が、いつかもっとたくさんの所で見れるといい。 太陽が照り、月は霞み、星が煌く。今は見えなくとも、そこにあるのは変らない。 それさえわかっているなら、いつか 追伸。天国のお父さんとお母さんへ 通りすがりに寒いのを堪えて氷を維持しているかっこいい私の旦那さんに感謝の口付けをしたら、氷が全部解けて大変な事になりました。
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月と星が瞬く夜に咲く花 雪の降る景色に混ざる桜の花びら。 子供の頃から見慣れたその風景はあのあたしが住んでいたあの村だけの現象なんだなとしみじみと噛み締めながら妖しい『夜桜』を見下ろしていた。 理屈ではわかっている。 本や教科書を読んでも桜の花びらが空に舞っている始まりと出会いの季節は『春』に分類され、既に透き通る白い雪が降ることがない。 たまに低気圧の問題の異常気象で何年かに一度は起こるらしいがなんとも夢のない話ではないだろうか。 では毎年の様に訪れる雪と桜の同時に舞うあの村は果たしてどんな秘密があるのか、野暮だよね、これは。 「どうしてあんな下らない嘘なんか付いちゃったのかな……」 あたし、蓮沼綾花と社冬美の嫉妬がまさか幼馴染で親友だった彼女1人を苦しませて自殺するなんて考えてもいなかった。 謝っても償いきれない罪があたしと冬美ちゃんの間に生まれただけの最悪な結果だけが残ってしまった。 そんなことが親友のみんなにばれてしまわないかってビクビクしながら保身のことを考えているとかずるい女だよね。 そんな後悔を胸に沈んだ状態であたしは金田一君の通う不動高校という場に放り込まれておじさんが潰される光景を目に焼き付けられて、意識が遠のいて……。 目が覚めると雪影村のものとは違う桜の木と大きくてオシャレな洋館が聳え立った場所に眠らされていたのだった。 あの出来事は夢ではなく現実の出来事であると忠告するかの様にデイパックも添えられた状態で、だ。 まずは状況把握をしながら周辺の探索をする。 どうやらこの洋館は『夜桜亭』との名前らしいのが中に侵入して把握出来た。 深夜という時間帯にぴったりな名前だな、と空元気を起こしながら思った。 宿泊する様な造り方で客室も何個か見付けられた。 「3日間泊まるぶんには問題ないけど……」 殺し合いという発言をした九条さんという弱弱しい男が脳裏を過ぎる。 そんなことを仕掛けてくる様な人物が0ではない以上安心するのは不可能だし、そもそも1人では不安だな……。 「金田一君か……」 小学生の頃わずか2週間くらいの付き合いでしか無かったのだが、まだ村での幼馴染グループの中で話題になるほど彼の存在は強く印象に残っている。 一緒に名前の出された明智健吾と高遠遙一という名は誰なのかわからないが、どうして金田一君の名前があの人から飛び出したのか、どうでもいいことだと理解しても懐かしい名前が頭から離れない。 また、こんなよくわからない島で再会する時が来るのではないかと期待の様な感情が湧き上がる。 考え事をしながら歩みを進めて1階での探索を終え、2階に上がり最初の部屋を空けようとした時であった。 そのドアの向こうから微かだが男女の声が交互に耳に入ってくる。 「もしかして悪い会話でもしてんじゃねーべか」 たまに出る訛りが口から出てしまう。 周りは雪影村の人ではないとすればちょっと恥ずかしい。 赤くなりながら、悪いと心の中で頭を下げつつドアに近付き盗聴をしてしまう。 『……すみません。俺は、そもそもこの部屋にいちゃいけない人間なんだ……』 若い男の贖罪の言葉。 自分を責めた口調、まるであたしと同じ心境を彼は持っているのではないだろうか? 浮かぶ幼馴染の顔――葉多野春菜に何度も何度も頭を下げる。 果たして彼女があたしたちを赦すなんてありえない日がくるのだろうか……。 ◆ 「俺がこんなこと言える資格も義理もないですが、一言いいですか?」 「な、なによ……?」 あっけからんとした口調でとんでもない爆弾発言をした彼女に星は気まずそうに茉莉香に物申した。 「月江さんも陰険ではないでしょうか?」 『インケーン』ではない、『陰険』である。 つまり、星の言いたかったことはマジである。 「流石にそのイタズラはシャレにならないですよ!?」 「一緒に遊ぶ仲だった友達の母親を間接的に殺している人殺しに言われたくないわよ!」 素直に謝らずに一言、一言余計なことを口に出す茉莉香。 多分神小路陸って人と再会できても彼女すんなり謝ることが出来ない人だな、と失礼ながら心の中で思った。 いや、思う資格すら俺にはないと星は否定するかもしれない。 「本当に和解したいのなら素直になりましょう。俺の部活に天元先輩って人がいるんですけど先輩はきちんと俺の話を聞いてくれる人でしたよ」 「知らないわよそんな人!?」 どんどんどんどん泥沼に走り、火に油を注ぐ2人。 やがて根負けした様に星が出入り口のドアに手を付ける。 「俺はこれから海峰を探しにいきます。それと差し出がましいですが月江さんが神小路さんに謝っていたかったともし本人を見かけたら伝えておきます」 「ちょっと余計なことしないでよ、これはあたしの問題よ」 茉莉香が身を乗り出すのを見計らった様にドアを開ける星。 そのまま茉莉香と別れようとしたが、そのドアに張り付いていた若い女性が潜んでいた。 「ぐす……」 同じくバトルロワイアルのスタート地点が夜桜亭であった蓮沼綾花である。 彼らの謝りたい人、罪、自分と写し鏡である様な境遇であり自分の仕出かしたことに押しつぶされそうになっていた。 『殺されていい人間なんていないのよ!』という茉莉香の言葉。 葉多野春菜だって当然殺されていい人間ではなかった。 全てが遅すぎたのだ……。 ◆ 「全く星君が泣かせたものだとばかり……」 「いまのいままで月江さんとただ喋っていただけなんだけど……。大体俺には人を泣かせる資格なんてないよ」 「てか、星くん色々な資格無さすぎでしょ……」 平手打ちを一発もらってしまった星であったがそれを綾花が違いますと静止したのだ。 せめて平手打ちをくらう前に静止をして欲しかったと思った星であった。 で、当の泣いていた綾花はというと……。 「ご、ごめんね……。勝手に自分の心境と合わせちゃって……、あたしだって馬鹿しちゃったんだもん……」 ポケットのハンカチで涙を拭う綾花。 これは別れるに別れにくくなった星。 茉莉香も茉莉香でこれはあたしの相談室なのかとちょっと的外れなことを考えていたりしていた。 なんかもう乗りかかった船だ。 「えーと、あなたの名前は?」 「は、はい。蓮沼綾花です」 「じゃあ綾花ね!」 女が2名に増えて居心地の悪い星。 「あたしと星くんの過去や過ちを聞いたからってわけでもないけどさ、……話して楽になるなら聞くよ!それで一緒に謝りたいってなら協力はするし、黙ってて欲しいって言うんなら絶対に口を割らないし」 姉御肌で困った人を見捨てることが出来ない茉莉香。 こんな自分の命も危ない地において自ら首を突っ込もうとしているのだ。 「あたしとその親友の社冬美って子がいるんだけどね……」 そして語り始めた。 ――うれしい色だったはずが許されない色に『してしまった』罪を。 ちょっとした嫉妬が巻き起こした親友を殺してしまった話を……、2人に綾花は語ったのだ。 ◆ 「うれしい色だったはずが許されない色だったなんて もうだめ死ぬしかない、か……」 当然そこには殺意なんて全くない。 星に至っても綾花に至っても――本人はまだ知らないが茉莉香に至っても。 ちょっと歯車がズレただけで、噛み合わないでは済まない程の結果が待っている。 それこそ歯車そのものが壊れてしまったみたいに……。 「子供の時はそんなことなかったのになー……、凛、美咲、あかり、光太郎、忍、亮、心平、金田一、陸」 ふとカブスカウトのメンバーの名前が漏れてくる。 凛とは姉妹になったが他の人物とはあれ以降会っていない……。 「金田一君……、やっぱり知っているんだね……」 「え?」 「え?」 綾花にとって金田一とは雪影村に短い期間の滞在ながら幼馴染全員に好かれ未だ仲間だと思われている古い親友。 茉莉香にとって金田一とはカブスカウトのメンバーで協力しあった親友。 星にとって金田一とはオセロをやろうと誘ってきてくれた人懐っこい人だ。 全員に金田一という男はいい奴というのが根付いている。 「綾花、その春菜って子のことなんだけどさ……」 どう説明しようか。 いや、回りくどい言い方は伝わらないだろう。 ストレートにこの感想を伝えよう。 「インケーン」 「え?」 「もう、あんたも星くんもインケンなのよ!好きな人がいたら好きってずばっと言いなさいよ!それだけで絶対変われたはずよ!たとえ断られたとしてもそんな結果になっちゃった現実よりは少し変われて幼馴染同士偽りなく笑いあえた仲になれたかもしれないのに……」 なれたかもだ。 不安定なパラレルだ。 もしもの数だけ違った世界に成り得たかもしれないのだ。 もし、安易な嘘を伝えなかったら? もし、スズメバチを水筒に入れるのを思い留まったら? もし、自分が我慢して親友の志望校を祝福できたら? もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし……。 「でも起こってしまったことは受け入れて罪を償わなくちゃいけないわよ!消せる罪なんてないけど、隠すぐらいなら、ごまかすくらいならあたしはそれでいいかな?ってそう思う」 茉莉香はまた、良い事を言った気分になっていた。 さっきは全然響いていなかった星も、わずかばかり心に響いて虚無が少し埋まった感じがした。 「綾花、あんたはその島津くんって人にも謝りなさい。それがスタート地点じゃないかってあたしはそう思う」 「島津君に謝る……」 綾花は冬美と共に隠そうと保身をしていた。 それを自ら告げろと茉莉香は言うのだ。 でも、なんとなく隠し続けて罪悪感で押しつぶされるずっとずっとマシになる様な気がした。 それがたとえ彼に嫌われ、絶交になったとしても……。 「うん」 綾花は大きく頷いた。 よし、このまま行動しようと茉莉香が仕切ろうとした時だ、星が窓に近付き、開ける。 そしてゴソゴソとなにかよくわからない行動に出た。 もともと掴みにくい人物だなと印象を持っていた茉莉香の中でますますそれに拍車に掛かった。 「星くん?なにしてるの?」 綾花の質問にきょろきょろ仕出して何故か焦りながら言葉を紡ぐ。 「杞憂だったらそれでいいんだ」 「ん?」 そして突然大きな声で星は問いかける口ぶりで叫びだした。 「な、何者だ!?」 彼女らは会話をしていて気付いていなかったが、蚊帳の外に置かれた星は異変がないか辺りを見渡していて異音がしたのだ。 しかも人為的な音だ。 それを察知した星はとにかく保険を売っておいた。 茉莉香や綾花の様に物分りのいい人物ばかりが揃うとはとうてい思えない。 しかもわざと音をたてている様な不自然に荒らしているかの音……。 やがて星のその声に釣られる様に1人の茉莉香たちよりも大きく年をくった女性が姿を現す。 「あら?龍之介はいないのかしら?」 文だけでは異常もなく人を訪ねる言葉である。 だが、雰囲気は目が血走り右手には大きな斧を握りしめている。 ◆ 巽紫乃は育てた息子ではなく、産んだ息子を選んだ女だ。 どんなにその息子に虐げられようと、実の息子が1番可愛いのだ。 リゾートの会員権とかそんなものどうでもいい。 巽龍之介が巽家の跡取りになることだけが夢なのだ。 そして、自分が巻き込まれたのなら息子の龍之介が巻き込まれた可能性も0ではない。 でも、0ではないというだけで危惧してはならないのだ。 どう足掻いても息子だけは生かさないといけない。 このバトルロワイアルにまだ巻き込まれたかすらわからないのに彼女は龍之介以外の皆殺しを目的に島を探索していた。 そしてようやくそのターゲットが一気に3人も発見したのだ。 1人男がいるが、まだ全員年端もいかない者たちだ。 くぐった修羅場は段違いだと自負していた。 だから彼女は3対1でも不利とは全く考えていなかった。 だが慢心もしていない、とてもやっかいな思考回路をしていた。 ◆ 「な、なによあのおばさん!」 茉莉香はすぐに逃走しようとするが出入り口が紫乃に塞がれている。 窓から逃げられなくはないが背中を見せるのはとても危険だ。 というか場所も悪くここは2階、飛び降りて死にはしないだろうが、怪我をするかもしれない。 だがその怪我が致命的に機動性を失うのは確実だ。 何かをなして成功させるには可能性を限りなく100に近づけなければ辞めておいた方がいいだろう。 「こ、この!」 茉莉香は拳銃を向ける。 だが手が震えて標準が定まらない。 当然だ、見おう見まねだしこんなものを使うことになる人生も歩んでいないのだから。 綾花は恐怖で足が竦んでいるし、星の武器はなんかニッチなハンガーでろくに対応が出来ない。 星が全長200mの形状記憶合金製ワイヤーで作られたハンガーの束なんて言い出した時きちんと使い方を考えておくべきだった、完全に他人事だったとここでも新しい後悔が生まれる。 「チックショー!このインケンを通り越したイジョーシャー!」 もう自分が何言ったのかもわからないまま引き金を弾く。 しかし紫乃は避けるでもなくただ軌道を外しただけであった。 「威勢がいいのは口だけかしら」 斧を見せびらかす様に1歩1歩3人に近寄る。 「う、うおおおお!!!」 唯一の男の星が紫乃に体当たりをする。 ドンと当たり少し怯んだがそんなに体育会系でもない星の攻撃は有効打とは程遠かった。 そのまま紫乃が星の肩を掴み床に叩き付けられ情けなく倒れこむ。 「あら?最初は龍之介よりも若い男の子からかしら」 斧の刃の向きが星に重なる。 振り落とされれば大きなダメージがあるのは想像に難しくない。 (まだ、海峰に謝っていないんだ!こんなところで死ねない!勝負に口を出した者は殺されてその生首を血溜まりに置かれる……、まんまこのババアじゃないか!) 自分は殺されても文句は言えないが、こんな狂ったババアに殺されるものだったら文句を言ってやる、てか文句しかない。 こんなこと、星には言う資格はないかもしれないが資格とか関係なく絶対嫌だ。 「なにしてやがんだ!」 威勢の良い男の声と同時にまたこの部屋に素早く入り込む人物の影が現われた。 (だ、誰だろう?) 助かったのか?、星の体に斧が喰いこまれる展開がまだ訪れないらしい。 「おりゃあああ!」 「きゃあ」 と、その影が星の体当たりよりも勢いのある突進で紫乃を直撃させるかの如く襲った。 「なんなんだこの危ない女は!?」 「し、島津君!?」 「お、お前綾花か?」 銃声が聞こえて隠れて近寄ってみたらとんでもない出来事が起こっていたのを見過ごせずそのまま飛び込んできたのは島津匠であった。 雪影村の綾花の幼馴染であり、真っ先に謝らなければならない相手だ。 「ここは俺に任せろ!みんなを連れて逃げろ!」 だが、島津は知らない。 綾花と冬美が恋人の春菜の死の原因を作ってしまったことに……。 もし、知っていれば綾花の方を見殺しにしていたかもしれないのに。 彼も彼でまた春菜が亡くなったばかりであり自暴自棄気味になっていたのであった。 もし、生への執念があればもっと慎重にかつ冷静に島津という男は動けたはずだったのだ。 謝るとは言ったがこんなすぐに再会するとは思ってもいなかったし、まだ心が割り切れてもいない綾花は返事も返せずただ気まずそうに目を逸らす。 それを素早く察知した茉莉香は島津の言葉にフォローをする。 「で、でもここは2階よ!?」 「ちっ、そうだった。なら食い止めるしかないのか……」 島津が紫乃に向く。 紫乃は一撃を喰らわせた島津が1番のやっかい者だと判断した。 (こういう男は可愛い龍之介の1番の害になるのよッ!!) その優しさはあの征丸の姿と重なる。 豹変したあの顔はダメだ。 そんな顔、あの女を思わせる顔。 見るな見るな見るな……。 斧を握る拳がギリリと強くなる。 そこでまた置いてきぼりをくらった感じで床に転がっていた星はユラユラと立ち上がる。 「星くん!?大丈夫!?」 茉莉香は心配して星に声を掛けるが彼は返事をしなかった。 何故かというとそのまま何事も無かった様に、でも申し訳なさそうに茉莉香たちに背を向けて、紫乃の後ろを走って通り抜け部屋から逃走を始めたのだ。 ぽかんと茉莉香、綾花、助けに入った島津は開いた口が塞がらなかった。 「ほ……」 なんだこれは。 まるでいま心配した自分が馬鹿ではないか!? 確かに綾花と出会わなければ自然消失して別れていたかもしれない仲だったがだからと言ってこんな命の掛かった瞬間に女を見捨てて一目散に逃げる男だったのか。 お前もうその海峰って奴からまたぶん殴られてこいよ(流石に殺されるのは寝覚めが悪い)。 「星桂馬のインケーン!ヘタレ!オタクー!ネクラー!インケーン!インケーン!」 こんなのが自分の断末魔になるのか。 (ちょっと星くんを頼っているみたいで癪に触る……) 女の子らしく悲鳴を挙げた方がいいか? なんだその気持ち悪いあたしに似合わないキャラは? 「ふふふ、命が惜しいわよね。1人くらいなら見逃してあげるわ」 紫乃は、あんなもやしみたいなヘタレ男は龍之介にとって全く害にならないと判断した。 むしろ龍之介ならば簡単に返り討ちにしてみせるだろうと。 「じゃあ、あなたから!」 島津に斧を振り回すが動体視力でどうにか躱す。 スポーツマンの島津だが斧なんていう殺意の塊を振り回されるのは初めてでどこまでそれが持つのか。 どちらが音を上げるのが先か、指摘するまでもない。 そして、音が上がる。 いや、叫び声の方だ。 先ほど星が保険にと開けていたドアから、普段のおどおどしたキャラを捨てて勇気を出して、頼りになるぞとアピールをしている声であった。 「俺はここにいるよ!!!!」 ◆ 星桂馬は紫乃の気配を察知した時保険を掛けていた。 どう役にたつのかよくわからない全長200mの形状記憶合金製ワイヤーで作られたハンガーの束を窓から乗り出しずっと引っ張り伸ばし続けた。 たかが建物の2階だ、200mもあるはずもなくちょっと伸ばしただけで地面に辿り着く。 余ってまだハンガーの原型が残っている部分を窓枠に引っ掛けた。 星特製ロープ替わりのハンガーだ。 だが金属でツルツルしてロープの様にすんなりと降りられないだろう。 あるだけまだマシ、本当にしょうもない使い道であった。 そしてどさくさに紛れて走った星はすぐ外へ出て、そのハンガーが飛び出している場所へ辿り着く。 「はあはあ……」 もう既に息が上がっていたがこのままでは全員あのおばさんに殺されてしまう。 だがこんなところで休憩なんてしていられない。 自分が海峰に頭を下げる様にみんなで頭を下げる、そんな傷の舐め合いの様な関係だが同じ境遇の人間を肌で感じると意外と情が移るものらしい。 「俺はここにいるよ!!!!」 自分はまだ逃げていないよと存在をアピールした。 さっき茉莉香の散々と罵倒した声は夜桜亭中に響いていたが、わざと聞こえていなかった風だけ装っていよう。 綾花が窓から顔を出す。 中がどんな状況であるかだけ、下からは確認出来ない。 「これをロープ変わりに降りてきて蓮沼さん」 「ってこんなの無理だよ……」 ――至極もっともだった。 「うん、無理ねこんなの……」 後から続いて茉莉香もハンガーを見て呟いた。 なんて無茶を要求するのだこの男は。 「もし無理だったとしても俺がキャッチするから」 お前も無理だろう、と茉莉香と綾花のこころがリンクした。 「まずいきなり自分は階段使って逃げ出した癖にあたしたちにこれをやれってそれっておかしくない?」 折角頑張ったのに女子に総スカンを喰らいちょっと見捨てようかなと思い始めてきた星。 それを叱る声が部屋の男から星の耳に届く。 「ごちゃごちゃ言ってねーで下に行け!」 「は、はい」 2人素直に窓に乗り出し茉莉香が先にハンガーに手を付けた。 「くっ……、星桂馬のアホォォォォォォ」 とりあえず男を見せた茉莉香。 「島津くんも早く」 「無理だ!」 綾花の言葉に諦めた声を挙げた。 紫乃の攻撃を1人で防いでいる状態だ。 背中を見せた途端綾花もハンガーを使っている茉莉香も突き落とされて怪我、最悪死亡が予想される。 「それに、わかるだろ?」 首で右腕を指し、綾花は瞬間悟ってしまった。 そうだ、彼はもう野球をしていないのはもう肩より上に上げられないからだ。 そんな人がハンガーを使って下に降りられるかどうかと言われたら……。 ◆ 「早く喰らいなさいよ」 何回もう避けただろうか。 何回もう斧が振られただろうか。 お互い限界が近い。 生き残れるかどうかは執念の差といっていい。 「島津くん、あたしと冬美はあなたに謝らなくてはいけないの……」 え?と疑問が浮かんだ顔になるがその表情が変わったのを目撃したのは向き合って対峙している紫乃のみであった。 「ごめんなさい……、春菜の自殺はあたしたちの嘘が原因だったの……。お腹に赤ちゃんが出来たんじゃないかってあたしは思っているんだけど」 赤ちゃん……? それは自分の子ってことなのか? でも何故それで自殺なんか……? そこから綾花1人で2人ぶんの自白がなされた。 信じていた幼馴染からの、それこそ世界が逆転するかの様な告白。 目の前の女のことよりも優先して殺してやりたいくらいの殺意が湧き上がる。 「そっか……」 でもそんなことして何になる? 泣きながら謝っているし、それこそ自分に対しても死なないでって涙を流している親友だ。 今更綾花と冬美を殺してどうなる? それこそ普通の奴なら一生墓まで持っていこうとする秘密であるだろう。 それがもし偶然俺がそのことを村で知ってしまったとしたら俺はその殺意に身を任せていたかもしれない。 だが、それがこの目の前のおばさんと同じ顔になる俺って想像すると、すっげー醜いなって客観的に思う。 「俺はお前と冬美を絶対に許さねえ!許せるもんかよそんなこと!」 悔しさで涙が溢れてくる。 それをチャンスだとまた紫乃は襲うがそれもまた寸でカットする。 「こ……こっちは終わったわよ……!」 よほどびびったのか疲れたのか安堵の声と混ざった茉莉香の声でおそらく手を振っているのだろうなとなんとなく目に浮かぶ。 「これさ、もし冬美と会ったら一緒に伝えて欲しいんだけどさ……」 そろそろ体が限界だと訴えてくる島津の体。 でも最後に許せないこの女たちに伝えなくちゃいけないんだ……。 「許す……、努力だけはしてみようと思う。大好きだった野球と同じでずっとずっと努力してみるよ……」 憎い人を殺す、それだけしか問題の解決方法がないわけではないのが人間だから。 許す、許さない、それだけで成り立っているわけじゃないのが人間だから。 事件が解決したわけではないが、それでも区切りを付けられるのが人間だから。 (春菜……、俺もお前のところへ……) 本来の正史のルートからほんの少し歯車の外れたルート。 これもまた1つの事件の終着点であったのだ……。 【島津匠@雪影村殺人事件 死亡】 「ふぅ……、疲れたわ……」 結局1人しか始末出来なかった。 なんか自分には無かった甘酸っぱい青春って感じがしてものすごく胸クソの悪いものであったけど。 もう何回振ったかもわからない斧を床に置いた。 遺言を言った途端いままでの苦労はなんだったの?ってくらいあっけなく頭に攻撃をもらって瀕死になりとどめを刺した。 顔面に振り下ろした時に手でガードすればまだもう少し持ちこたえたかもしれないのにそれをしなかったのを見ると手が上がらなかったか、単に生きるのを諦めたのかそんなのはわからない。 どうでもいい。 二兎追う者は一兎も得ず、いやこの場合四兎追う者は一兎も得ずか。 そうならない様にいちばん強そうな男から確実に消す方向へシフトしていた。 「デイパックの回収したし……」 まずは休憩をしよう……。 死体のある部屋では誰かに見られる場合もある。 この洋館のどこか隠れられる場所を確保して体力と腕を回復させよう。 「龍之介……待っててね……」 海より深く、山より高い母の愛は自分が悪いことをやっているという認識もないまま目を血走らせているのであった……。 【一日目/黎明/夜桜亭(吸血桜殺人事件)】 【巽紫乃@飛騨からくり屋敷殺人事件】 [状態]疲労(大)、腕の疲れ [装備]雪夜叉の斧@雪夜叉伝説殺人事件 [所持品]基本支給品一式、島津のランダム支給品1~2 [思考・行動] 基本:龍之介を生還させる(龍之介が参加しているとは言っていない)。 0:龍之介の害になる人物、というか参加者全員の始末。 1:隠れて疲労を癒せる場所を探す。 [備考] ※参戦時期は、仙田猿彦始末後。 ※本人も龍之介が参加していない可能性も考慮してのスタンスです。 ※基本話は噛み合いません。 ◆ 「島津くん……」 冬美のぶんも含めた島津の想いを受け取った綾花は泣く泣くハンガーに飛びついた。 あとちょっとってなった時、手を放してしまったのだが茉莉香の必至な助けで怪我なく降りられた。 その後星はごめんと2人に謝っていた。 もはや完全に尻に敷かれる星なのであった。 「大丈夫よ、あの島津くんっていの一番に逃げ出した星くんと違ってすっごく強かったしあんなおばさんをやっつけちゃってるよ!」 綾花を元気付けさせる為にそう言って肩をバンバンと叩く。 だがあの少し後ものすごく嫌な音が部屋から聞こえたのだがそんなの違うと全員で否定した。 「いつまでもネチネチって月江さんもやっぱりインケンじゃ……、いえなんでもないです。俺には言う資格ないよ」 卑屈に笑いながらワイヤーを回収する星。 とりあえずあのおばさんが追ってくるのも考慮して夜桜亭の敷地内から脱出をする為足を進める。 「とりあえずさ……、しばらくあたしたちで固まって行動して探し人を探さない?」 「そうだね、やっぱりさっきみたいな問答無用で襲ってくる人もいるみたいだし……」 茉莉香の昔水筒にスズメバチを入れてしまった相手、神小路陸。 親友の開桜学院の入学辞退の書類を勝手に出して母親を自殺までさせてしまった相手、海峰学。 まだ生きていると信じているけれど、――島津から受けとったメッセージを伝える為に一緒に罪を犯してしまった相手、社冬美。 この3人に邂逅する為、走り出す。 ◆ 3人の決意を見守る『夜桜』が花びらを散らす。 それは彼らの先の未来を闇だと告げているのか、逆に光と告げているのか。 まだ、それはわからない。 ――どうしたら最後まで頑張れるの? ――その答えを探して辿り着く為。 ――あなたの心の鍵を探し求める。 ――誰のこころにも秘められた想いがある。 ――真っ白なスタートライン。 そして、ここから始まってく――AMAZING STORY―― 【一日目/黎明/夜桜亭周辺(吸血桜殺人事件)】 【月江茉莉香@狐火流し殺人事件】 [状態]疲労(小) [装備]明智警視が高遠に撃った銃@獄門塾殺人事件 [所持品]基本支給品一式 [思考・行動] 基本:殺し合いから脱出する。 0:星くんと綾花と行動する。 1:カブスカウトのメンバーや両親などがいたら、優先的に合流する。 2:陸に会ったら謝りたい(素直に謝るとは言ってない)。 3:海峰と冬美の探索。 4:あのインケーンを通り越したおばさんとは関わらない。 5:何?このインケーンなパーティーは!? [備考] ※参戦時期は、陸に再会する前。 ※本人に悪気は全くないのにちょっとアレです。 ※海峰学が星くんを殺そうとしていた事を知りました。 ※蓮沼綾花と社冬美の罪を知りました。 ※多分このパーティーのリーダーです。 ※というか本人がリーダーだと自負しています。 【星桂馬@血溜之間殺人事件】 [状態]疲労(小) [装備]全長200mの形状記憶合金製ワイヤーで作られたハンガーの束@香港九龍財宝 [所持品]基本支給品一式 [思考・行動] 基本:殺し合いから脱出する。 0:月江さんと蓮沼さんと行動しながら海峰を探す。 1:海峰に謝る。 2:俺は殺されても文句言えない(文句を言わないとは言ってない)。 3:もうインケンでいいよ……。 4:あのおばさんとか含めて全く俺の罪に関係ない人に殺されそうになったらさすがに文句は言う。 [備考] ※参戦時期は、海峰に拘束されて母親の死を聞かされてから、殺害されるまでの間。 ※本人に悪気は全くないものの、切羽詰まると保身に走りがちです(後で反省はします)。 ※茉莉香が神小路陸の水筒にスズメバチを入れた事を知りました。 ※綾花と冬美の罪を知りました。 ※茉莉香から尻に敷かれつつあります。 ※本人は意図していないですが何故か空気になりがちです。 ※茉莉香が叫んだ『星桂馬のインケーン!ヘタレ!オタクー!ネクラー!インケーン!インケーン!』という言葉は聞こえなかったことにしました。 【蓮沼綾花@雪影村殺人事件】 [状態]疲労(小) [装備]なし [所持品]基本支給品一式、ランダム支給品1~2 [思考・行動] 基本:殺し合いから脱出する。 0:茉莉香ちゃんと星くんと行動する。 1:冬美に会って島津くんの言葉を伝える。 2:島津くん……。 [備考] ※参戦時期は、春菜自殺後。 ※茉莉香が神小路陸の水筒にスズメバチを入れた事を知りました。 ※海峰学が星くんを殺そうとしていた事を知りました。 ※たまに素で訛りが入ります。 ※冬美の呼び方が呼び捨てになったり、ちゃん付けになったりします。 024 Boo Bee MAGIC 時系列 012 安い誤解 010 首刈られ女子with壁 投下順 012 安い誤解 001 月と星 月江茉莉香 001 月と星 星桂馬 GAME START 蓮沼綾花 GAME START 巽紫乃 GAME START 島津匠 GAME OVER
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太陽と月と星がある 第二二話 目を開くと、カーテン越しに薄暗い灰色の空が見えた。 あの時と同じ凍えた空。 温暖なネコの国といっても、この街は山が近いので気温も低くめなここしばらく。 御主人様もヘビだけあって寒いのが苦手で、先日とうとうコタツを購入した。 ネコの国に暮らすようになって数年経っているはずなんだけど、なんで今更買おうと思ったのか判断に苦しむ所です。 クリスマスの翌日だったし、もしかして自分への御褒美 とかだろうか。 ……幸い、コタツ代の為に売り払われる様子もないので私には関係ないわけですが。 念の為に貯めていた小銭は、今度の時の為にとっておこう。 「お前は、からおけぼっくす に行った事はあるのか」 「まぁ……そこそこ」 ペラペラとサフが片し忘れた雑誌を捲りながら御主人様が問い掛けてきたので、私はチクチクとボタンを付け直しながら適当に答えました。 そう、カラオケボックス……以前まるごと?落ちてきたとかで、最近では地方進出も進みこちらでも類似施設が作られはじめてます。 季節が冬に入ってから工事をしている現場をみた覚えがありませんが……。 そう考えると、ちゃんと診療所をあけるジャックさんは比較的真面目だと言えます。 ……雨が降ったら半休だけど。 「なにか?」 雑誌を伏せ、私の手元をのぞく御主人様は無表情です。 ……頭撫でられました。 ……もう終わりですか。もうちょっと触ってくださっても……いや、いやいやいや。 「ちゃんと出来ているな」 裁縫を褒められたようです。 家庭科の授業を真面目に受けてよかった。 「カテーカ?」 ……うっかり口に出してしまったようで、御主人様は不審げな表情を浮かべています。 「勉強科目のひとつです」 近くのチラシに、それっぽい単語を書き並べると御主人様は理解できたらしく納得した表情になりました。 「国が花嫁修業をさせるとは、さすがはヤマトナデシコの国だな」 ……どこでそんな言葉覚えてきたんだろう。 「男女一緒ですよ?」 「男も嫁になる習慣があるのか」 一瞬、黙っておこうかと思いましたが、それで恥をかいたら悪いのでとりあえず否定。 更に詳しく日本の義務教育について話すと、御主人様は非常に感銘を受けたらしくうんうんと頷きました。 なんとなく遠足やら課外授業の話をすると、更に食いつきます。 ……次は何を話そうかと首を捻った所で、我に返りました。 なんだか嬉しそうにしている御主人様が、なんか斜めに見えます。 御主人様はいつでも美形ですが、嬉しそうにしてると格別だとしみじみ感じます。うん、この角度も素敵。 「なに首曲げている」 「何故でしょうね?」 首が痛くなってきたので元にもどし、針山に針をもどして御主人様を眺める。 御主人様は真顔が無表情ですが、…チェルやサフの話を聞いている時は優しげな顔をしてたりジャックさんの話を聞いているときは笑ったり呆れたりしてるわけですが。 ですが、私があった事を報告してるときとかは無表情だし、でなきゃちょっと怒ったみたいな顔だったりする事の方が多いのですが。 「もしかして、あっちの事に興味あったりするんですか?」 「お前は余り話さないからな」 そうかな? あー……そうかも。 うん、ちょっと喋り過ぎたかもしれない。 御主人様が日本の事とかに興味があるなら、出来るだけ出し惜しみして引き伸ばしておこう。 そうしよう。 所で何で私コタツから引っ張り出されているんでしょうか。 腕きつ過ぎ尻尾巻き過ぎです。 ……いいけど。 なんで背中ぺしぺしするんだろうか。 御主人様は最近特によく判らない行動が増えたと思う。 深く追求してもきりがないので、最近は出来るだけ流すようにしていますが。 「からおけぼっくす、か……」 憂いげな口調のターバン巻いた物凄い美形の口からカラオケとか聞くと凄いシュールです。 マイクを握る姿を想像しようとしましたが、色々無理だと思いました。 「歌好きなんですか?」 「お前が好きだろう」 御主人様顔近い近過ぎ息があたりますよ。 ……頬を引っ張るのはやめていただけないでしょうかと思わなくもないのですが。 「試しにちょっとうたってみろ」 「は?」 目がマジですよ?御主人様。 「ジャックの前では歌えて、俺の前は嫌なのか」 「めっひょうもありまひぇん」 ……爪立てずに痛くない程度に引っ張るという、高等技術です。 御主人様はしばらく頬をぐにぐにしてから、指を離した。 なんとなく、指の感触が残って気になる。 「なら、なにか歌ってくれ」 「お前、トリは――お前、穀物ばかりだし、羽根もよく抜けるぞ」 選曲に失敗しました。 「それに羽を広げると風を起こすし、飛べない種族もいるし、真っ白の羽だと光を反射するからな。しかも石を呑むんだぞ」 空気に耐え切れなくなったので家をでると当然のような顔をして御主人様が(トカゲ男バージョンで)付いて来ました。 そして懇切丁寧にトリについて詳しくお話して下さってます。 ただの歌詞なのになにか、琴線に触れるものがあったのか……。 うっかり普通の邦曲とか歌わなくてよかった。恋愛系のとか。 「飛ぶというのは魅力的かも知れないが……いや、他の種族でも魔法を使えば……くっ」 何を言ってだろうか、この御主人様。 しかもなんでちょっと悔しそう?トリに関して嫌な思い出でもあるんでしょうか。 「ウロコよりもハネがいいのか?」 顔近いです。 なんか、必死ですよね。 なんだか面倒なので取り合えず首を横に振っておきます。 「ウロコ派です」 仕方なく付け耳をいじって気を紛らわそうとすれば、目障りだとばかりに手を取られました。 チラリと見やれば、先程の必死さはどこへ行ったのか、大変晴れ晴れとした面持ちです。 心なしか、尻尾も元気そうです。 ぐいぐいと手を引っ張られ何故か私を店舗側に押しやり、歩きにくくて仕方ありません。 今日は2のつく日で、しかも新年はいって初の市という事で、道路は馬車や荷馬車がひっきりなしでただでさえ道を狭く感じているというのに。 地方とはいえ、それなりに大学とか映画館がある都市なのでそれなりに人も多く、思わず眼を奪われます。 あと山の幸とか。 あまり突っ込んで不審がられたら怖いので、他の人に訊いた事はないのですが……。 ジャックさんだったら聞かなくても色々と説明してくれるのに……。 顔見知りの姿を見つけ軽く挨拶するたびに、御主人様がいちいち人物説明を求めてくるのが少々ウザイです。 「所で、どこに行くんですか?」 ゴジラ顔が固まりました。 通行の邪魔になるので端により反応を待つと、しばらくして水でも掛けられたようにばちばちと瞬きし、ギクシャクとした動きで首を回してます。 ……関節、柔らかいですよね。 「むこうだと、こういうときどこへ行く?」 「むこう?」 「お前の、国」 意味不明です意味不明過ぎて頭痛すらしてきたような気がしますが頑張って解読します。 今日は祝日で、今は特に意味もなく外出中……っていうことでいいのかな。だとしたら 「休みの日に出かけるといえば、買い物とかカラオケとか遊園地とか図書館とか美術館、…映画…スポーツ観戦…あとは家で」 友達とだべるとか。 家族と出かけるっていう人もいるだろうけど、兄弟の居ない私には縁のない話で。 うん、あと部活もあったかな。試合観に行くとかとか。 「あまりこちらと変らないな」 「そうですね」 知ってるけど。 「念を押すようだが…余暇は井戸掘りとかまじないを行うとかではないんだな?」 御主人様が冗談をいえるとは知らなかったのですが。 ……なんで、真顔? *** ネコの国には映画館があります。 他の国にあるかどうかは知りませんが、少なくともここにはあります。 映画館はちょっと古びた建物で、面には大きく主演の俳優や女優が描かれた看板絵が掲げられています。 改装前の地元の映画館がこんな感じだったような気がします。 もしくは、イメージとしての昔の映画館。 にもかかわらず、結構な大入りです。 看板絵の横には大ヒット上映中とデカデカと幟が立てられ、ファングッズを売る屋台が所狭しと軒を並べポップコーンやコーラっぽい飲み物も売っています。 子連れやカップル友達同士など、さまざまなネコ達…と時々イヌとか、が集いみんな楽しそうです。 「そんなに珍しいか」 御主人様、どことなく上機嫌です。 まぁ、映画おもしろいですもんね。 こっちのがどういう話が多いのかは知りませんけど、面白そうですもんね。 「そうですね、映画館に近寄る事自体、五年ぶりぐらいなので」 「…四年じゃなかったか?」 ウロコ顔が出来うる範囲限界の訝しげな表情です。 「イヌの国で四年で、こっちでもう一年ですから……どうかなさいましたか?」 何故か眉間に皺が寄ってます。不穏な雰囲気です。 悪い事を言っただろうか。 とばっちりを食わないうちに早く逃げよう。うん。 「じゃあ、終わった頃にまたこちらに伺いますので」 そう言ってダッシュで逃げようとしたら足払いを掛けられ、豪快に地面に転がりました。 ……痛い。 何が痛いって、周囲の好奇心に満ちた目が。 ヒソヒソ聞こえる憶測に満ちた声を聞こえない事にしつつパタパタと埃を払い、…石畳でよかった。 御主人様は何故か異様に動揺した様子で私の手を掴むとぐいぐいと人気のない方へ引っ張っていきます。 手、汚れてんですけど……。 「すまん、まさかあんなに転がるとは」 訳のわからない事をいいながらベンチに私を強引に座らせ、膝をのぞこうとするので取り合えず押し留めます。 とっさに手をついたのでほとんど無傷だし。 「お前がいきなり走るからだぞ」 「すみません」 とっさに謝ると御主人様は眼を逸らし、何かごちゃごちゃと続けていましたが良く聞こえませんでした。 ……御主人様と並んでベンチに腰掛けたりすると、妙な連想をしてしまって困るんですけど。 「今から質問をするから、正直に答えろ」 「はい」 ・ ・ ・ ・ ・ ・。 ……わー、何ですかこの沈黙。 都合よくデート中のサフやナンパ失敗中のジャックさんでも現れないかと周囲を見回しますが、映画館の裏側の公園には人っ子一人いません。 精々、もこもこした小動物がびょんびょんと跳ねまわっているくらいです…あっ 「トロローっおいでーっ」 形容し難い鳴き声をあげながらやって来たのはジャックさんと同居している神出鬼没の怪生物。 もっふりした毛並みが堪らない謎のトトロもどきです。名づけてトロロ。 つやつやもこもこふわふわです。 膝の上でくぐもった鳴き声を上げ体をこすり付けてきたので私も喜んでもふり倒しました。 御主人様は、一応の経緯は知っているものの相性が合わないのか、時々微妙な眼差しでみてます。 もふもふもこもこ。 「それで…あの」 御主人様は半眼でトロロを見ていましたが、しばらく見つめて意を決したようにもこもこした頭に手をやりもふもふと撫でそれから私の頭も撫でました。 「映画、嫌いなのか」 「え?」 手が止まりました。 「それとも、俺と観るのが嫌なのか?」 ウロコ顔がどうも傷付いたような雰囲気を醸しています。 「……すみません、話が見えないんです…が」 「映画、観たくなかったのか?五年ぶりなんだろう」 意味もなく立ち上がると、トロロが膝から転げ落ちかけたので慌ててまた座りなおしました。 ううん、聞き間違いかな?うん。 「あの、もしかして聞き違いだと思うんですけど……あの、その……」 無意味にトロロをもふもふして、御主人様が怒っていないかどうか確認。 ……怒っては……いないようです。 「もしかして、私も映画観ていいんですか?チケット代掛かりますよ?そもそも公共施設はペットきん」 頭を撫でる指先にぐっと力が入りました。 痛いです。 地味に痛いです御主人様。 夢の様な二時間のあと。 余りに真剣に見すぎたせいで目がシパシパします。太陽が眩しくて仕方ありません。 足元までふらついていたのか、御主人様が腕を組んでくれました。 体格差があるので、ほとんどしがみ付くような形になり申し訳ないと思うのですが……。 「すっごい面白かったです!本当にありがとうございます」 御主人様は私を見下ろすと、軽く息を吐いて空いた手で頬を掻きました。 マフラーが当たって、痒いんだろうか。 「映画なんて、二度と観れないと思ってました」 目がシパシパするし、暖かい館内から寒い野外に出たので鼻水まで垂れそうです。 「目がウサギだ」 御主人様が私の顔をハンカチで強く擦ると瞼がヒリヒリと痛みました。 「次は、図書館だな…ここからだと大学まで距離があるが大丈夫か?」 大学……敷地内に入り、思わず息がでました。 予想以上の広さに途方に暮れる私とは対照的に、御主人様は慣れた様子で…まぁ勤務しているので当然なんですが、ずんずんと進んでいきます。 しかし、全然人が居ません。 時折遠くの建物に明りが入っている程度です。 聞けば冬休み中との事。 横切った食堂らしき建物も封鎖され、寒々しい感じです。学食とか、興味あったんだけどな……。 大きな木や、石碑、教室などをぽかんと眺めているとぐいぐいと引っ張られ危うくこけそうになりました。 大学って、こういう感じだったのか……。 そりゃ、世界が違うからもしかしたら全然違うかもしれないけど……でもなんとなく、テレビで見た断片的な『大学』のイメージを裏付ける感じで。 「ちゃんと前見て歩け」 チラリと見上げると、御主人様はなんともいえない表情を浮かべ、私の頬に軽く触れた。 ……今日、御褒美率高すぎじゃないだろうか。 「正直、今すぐ家に帰りたいところだ。あいつらもまだだろうしな」 思わず愕然としたのをどうにか繕い、軽く頷くと私は買い物のリストを取り出しました。 「では私は市場によってから帰りますから、先にお帰り下さい」 「冗談だから、その眼はやめろ」 頭をガシガシ触るのはやめて欲しいです。 御主人様は学校の先生なだけあって、図書館の人とも仲が良いらしく、入口で速攻捕まりなにやら話し込んでしまいました。 大学の図書館、大きさは向こうの市立図書館と同じぐらいだと思うのですが、地下階もあり階段の方からは薄暗い雰囲気が立ち込めています。 ……超、行きたい。 いやいや、一応部外者の私としてはあまり御主人様の傍を離れすぎるというのも……うん、どうせこっちの文字で書かれたものばかりし、専門書とかよくわかんないし。 経済とか、経営入門……商業…さすが、ネコの国だけあってそういう本が充実してます。 うん、開いてもさっぱりです。 御主人様が居れば、ちょっとは説明……うーん、どうだろう? でも、せっかくだし私でも読めるような本とか教えてくれたりとか……チラリと御主人様をみれば、まだ話し込んでいます。 料理の本とか、あったりしないかな。 案内図を見る限り多分…そんなに遠くないみたいだし…うーん…天井ギリギリまである本棚を見上げると、なんだか頭がくらくらしそうです。 ちょうど梯子もあることだし、一番高い所の棚とか、見てみようかな。 いや、別に本が見たいわけじゃないんだけど……梯子使ってまで見る本棚ってはじめてみたし。 ……ん…?あれ。 「―――で?」 「昔、ネコが木から降りられなくなってレスキュー隊が呼ばれる面白ニュースがやっていたのを思い出しました」 「俺はお前が何故本棚に張り付いているのかを訊きたい」 とっさに本棚を掴んだ腕がプルプルしてきました。 ついでに片足だけ乗っている傾いだ梯子もカタカタと音を立てています。 「梯子が…ちょっとバランスよくなかったみたいで、ぐらっと」 御主人様は深く溜息をつくと、梯子を元の位置に戻しました。 私は両足を慎重に動かし、痺れてきた指先をゆっくりと滑らせ本を一冊抜きとり、足元を確認しながら梯子を降り…… ……なんで手を広げてるんでしょうか。 よくわからないまま床に立つと、御主人様は不機嫌そうな素振りで梯子をガタガタ言わせ、根元が少し斜めになっているのを見て更に不機嫌そうになりました。 「気をつけろ」 「すみません」 あまり怒ってはいないようです。 心の広い御主人様でよかった。 「俺は少しまた向こうで話してこなければならないのだが」 チラリと眼を向けた先には、さっきの職員さんに加え……ネコの女性やイヌが居ます。 なんか、めっちゃ皆様こっち見てますね。 御主人様、大人気。 「冬休みなのに、人多いんですね」 「研究の為に資料を取りに来た連中だ」 ……御主人様、仕事ないんだろうか。 「俺はウチでやるから良いんだ」 そういえば、よく部屋に篭ってカリカリしたりチェルがサフが居ない時は居間でカリカリしてます。 「……こっちの方が、能率よくお仕事できると思うんですけど」 「家で晩飯が食べたいんだ」 何故か耳が熱くなったので、本を掴みなおし顔を扇ぎ、なにやらヒソヒソと話している人達の方を軽く一瞥し、冷静そうな声がでるように深呼吸しました。 「どうぞ、お話してきて下さい。私あっちの席でこの本読んでいますから」 うん。本読んでれば邪魔にはならないし。 「悪いな」 ……今日、頭撫で過ぎです。 私、尻尾が生えてなくて良かった。 私はしばらく御主人様の背中を見つめた後、なにやらスキップでもしたくなるのを堪えて、古びた椅子を引き腰掛け本を開きました。 有名古典文学です。 超有名ですが、不幸な事に私は今まで読んだことがありませんでした。 しかし、まさかの翻訳です。 確かに古くて有名なものならそれだけ発行部数が多いというわけで、こちらに落ちてくる可能性もぐんと増えるわけで。 一人ぐらいは、日本の本をこちらの文字に翻訳しようなんていう物好きが居てもおかしくありません。 分厚い表紙になにやらパリパリとする変色した紙、古い本特有の仄かな異臭。 文章の文字は、古いだけあって所々掠れたり、今では恐らく使われないような単語があったりして、ちょっと読みにくい字です。 私はわくわくしながら古びた装丁を眺め、表紙の文字をゆっくりと読み返しました。 『我輩は、ネコである』 著:ナツメ・ソウキッ?誤訳だろう。きっとそうだ。 私は期待に胸を躍らせてページを開いた。 目を開くと、ゴジラとガメラのハーフが。 驚きの余り仰け反って、そういえば力尽きて机に突っ伏してたのを思い出した瞬間、椅子が空転し床にぶつかる寸前、背後から支えられ危うい所で止まりました。 「大丈夫か」 「すすみません、ちょっとビックリして」 テーブルの上の本は開かれたまま、難解な文字を晒しています。 本を一瞥し、御主人様は何か言いたげな表情を浮かべましたが、傍らのイヌ男性…?をちらりと見て尻尾を軽く振り、私の手を引っ張りました。 素直に椅子から降りて、隣に立つと何故か肩に手を回し、そっと引き寄せてきます。 「キヨカだ」 イヌ男性は眼を瞬かせ、ぱたりと尻尾を振ると私と御主人様を交互に見比べ、もう一度交互に見ました。 「君……ちょっと若過ぎじゃないかい?いや、ヘビの常識的には問題ないかも知れないが、ウサギって」 何の話だろうか。 一方御主人様は何故か不敵な笑みを浮かべています。 「悪いな」 ……なんなんでしょうか。この腕は。 「ご馳走様。馬に蹴られない内に帰るよ僕は」 げんなりとした表情を浮かべるイヌの人。 「ああ、帰って独り身を謳歌すればいい」 御主人様は背を向けるイヌの人に手を振り、私の耳元に口を近づけるとある事を囁きました。 ……何考えているんでしょうか。 「頬でいい」 じっと見つめると 頼む、と言われてしまいました。 ……御主人様なんだから、頼まなくたって命令すればいいだけなんですけど。 あんまり、命令しないんですよね。御主人様なのに。 御主人様に言われたら、どんな事だってせざるをえないのに。私に頼んでくれる御主人様。 だから…・ ・ ・ なんだけど。 「じゃあ、目瞑って下さい」 背伸びして顔を寄せたけど、マフラーが邪魔だったので開いてる部分に変更したら御主人様の尻尾がベシベシと床を叩き、 音に驚いたイヌの人がこちらを振り向いたので私は取り合えずダッシュで逃げようとしましたが、素早く尻尾が巻きついてきたので何故かもう一回する羽目になりました。 このゴジラ顔だと、口のつくりが違うので困ります。 非常に困りました。 というか、公共の場で何をやってるんでしょうか。私。 ……私のせいじゃありません。 御主人様が素敵な声で頼んだりするからです。 そうです御主人様でなきゃこんな事絶対にしません、頼まれたってお断りです。うん!大丈夫、全然私ノーマルだし! うん。 御主人様じゃなきゃ、絶対嫌だし!! …… うん? *** 「あの、所でさっきのイヌさんはどういう――」 人気のない構内で、やけに響く自分の声に驚いて口を閉じると、前方の大きな背中が止まった。 踏み止まり損ねて鼻がぶつかる。 図書館と違って、大学の構内は人が少ないので間抜けな姿を見ている人がいないのが救いかも。 鼻を撫でていると、御主人様が上から乱暴にゴシゴシ擦り手を離しました。 「同僚だ。それと、イヌではない」 「……へぇ」 そうか、同僚なのか。 ……仲、良さそうに見えたけど、どうなんだろう。 ていうか、イヌじゃなきゃ、ナニ。 御主人様はとある部屋の前で止まると、扉を念入りに調べてから鍵を取り出した。 「いいんですか?勝手に入って」 「俺の研究室だからな」 戸を引くと上から黒板消しが落ちてきた。 ボフンと粉塵が舞い、ターバンが白くなる。 「……お約束ですね」 「ネコはこういうのが好きでな」 御主人様、相当苦労しているらしい。 ターバンを解くと寒かったのか一瞬体を震わせ、私を部屋の中に引っ張り込むとしっかりと扉を閉め暖房をつけました。 部屋の中には絨毯に大きなソファーと大量の書籍で埋まった卓、棚には所狭しと変な薬草ぽいのとか骨とかが置かれていて。 ……ちょっと、埃っぽい。 むしろ、何この胡散臭い部屋。 私の中のレッドアラームがガンガン鳴り響いてますよ。 具体的にいうと、初めてジャックさんの部屋に入った時級の駄目感。 「たくさん物があるんですね」 「全部こっちへ移したからな」 御主人様は、棚をごそごそやると中から変な色の壜を取り出し、フタをとると一気に呷り、顔を顰めました。 ……なんだろ。 私の不思議そうな目線に気がついたのか、御主人様は壜を軽く揺すって咳払いをひとつ。 「補給用だ」 「補給用ですか」 オウム返しに答えると、御主人様がすっと壜を差し出した。 受け取って、ちょっと一口。……微炭酸? 「甘いですね」 後味が…なんだろ。ヘン。 「魔力補給用の栄養剤だ。それぐらいなら害はないだろう」 御主人様は、私の微妙な表情を見て噴き出すと、更に戸棚を引っ掻き回し、干した杏を取り出しひとつ口に放り込み残りを私に持たせた。 ……あ、袋破けそう。 仕方なく両手でお皿のように持って、御主人様の探し物が終わるのを待つ。 一体何を探しているんだろう。 「食わないのか」 御主人様はふと振り返り、こちらをみてしばらく固まったあと、ひとつ手に取り私の口元に突きつけました。 「これはアンズという果物の一種で、栄養素も高い。甘いぞ。口直しだ」 知ってるけど……杏と御主人様を交互に見上げしばらく考えてから口を開けてみた。 「あーん」 開けた口に杏が押し込まれ、掠めた指先を反射的に舐めると御主人様の尻尾がバタンと床を打ちつける。 やはり、気に食わなかったんだろうか。 もぐもぐしながら考えていると、御主人様はようやく目当ての物を見つけたらしく堆積した物で埋もれたソファーにどっかりと腰をかけ、 雪崩のように襲ってくる紙の束を押しのけ、場所を空けてバシバシとそこを叩きました。 ……座ってもいいらしい。 杏をこぼさないように足元に注意しながら横に座ると、おもむろに肩に手が回され、もうひとつ口に押し込まれた。 ついでにほかのモノまで押し入ってくる。 こっちは手がふさがっていると言うのに、何を考えているんでしょうか。 ぐちゅぐちゅと水音がして、みっともないというか、食べ物を粗末にしちゃいけませんとか。 そんな事を思いつつやっと離してもらえたので、ごっくりと口の中のものを飲み下す。 なんか、餌もらう雛みたいだ。 「いつまで持ってる気だ」 杏のことですか。自分が持たせたんじゃありませんか。 笑いを含んだ声にムキになって言い返しそうになり、慌てて口を噤む。 ちょっと私、反抗的っぽい。 うっかりジャックさんに接するみたいな受け答えになっている事に気がついてちょっと反省。 ……でも、落とさないように必死なっているというのにその言い草とか、どうでしょう。 頑張って手を伸ばし、多分大丈夫じゃないかと期待できそうな変なお皿っぽいのの上に杏の袋を置く。 すぐさま、腰に手を回され、ぴったりとひっつきあう。 尻尾がぐるりと体を巻き……なんといいましょうか。 ……ていうか、ココ大学なのに何してんだ。この人。 そういうの、どうかと思うわけですが。 ……ま、まぁ…五百歩譲ってこうやってくっついてるのはイイとして。 ちょっと埃っぽいけど。 というか、ウッカリ動くと危険だと気がついても後の祭り。 主に雪崩的な意味で。 「この後、どうされるんですか?」 「そうだな」 まだお昼くらいだから、時間はたっぷりある。 買い物をして家に帰って、頑張って料理を作ってもいいかもしれない。 御主人様にできる御礼といえばソレぐらいだし。 コートのボタンが外され、特に理由はないけど今日は御主人様が家にいると思い出して着替えたセーターの下にひやっとした手が滑り込む。 相変わらずぎこちない仕草で下着のホックを外そうと悪戦苦闘している目前のゴジラ……ちょっとごつごつしたヘビの顔を見つめ、素朴な疑問が湧いた。 「そのままで出来るんですか?」 「できる」 ……へぇー……。 ヘビ顔のままだと、見慣れなくて妙な気分ではあります。 あ、でも眼は一緒だし、声も一緒だし、頬をなでる指も一緒だし。 怖くはないからいいけど。 ……息荒いです。御主人様。 首筋にひやっとした舌が這いずり、なんだか背中がむずむずする。 「あの……やっぱりこれ以上はやめた方がいいんじゃないでしょうか」 尻尾で私を巻き寄せ、膝に載せると……あ、そうか、膝あるのか、なんか凄く変な感じだと思いながら、キャミソール越しに胸を揉みしだく御主人様を凝視していると、ウロコ顔がぎょろりと動い た。 「このままでは駄目なのか」 駄目って言うか。 手が離れる。 目の前の深刻な顔をしたゴジラ。 シュールすぎです。 唇といっていいものかどうか微妙な口元からはシュルシュルと細い舌がのぞいてて、ちょっと可愛い。 「そういうのがお好みならヤブサカではありませんが、衛生面ですとかを考えるならシャワーを浴びられる所がいいと思いますが、どうでしょうか」 よいしょと膝から降りて、隣に座る。 拳を開いて、うっかり近くの本の山を崩しそうになって慌ててスカートの裾を掴む。 明るいと余計なモノとか、見えたりするしね。うん。やっぱり暗い方がいいな。どんな顔されてるか、見ないで済むし。 いつだって準備と用心は大事ですよ。 御主人様は髪に指を絡め引き寄せ、溜息交じりにキスをした。 「お前、本当に風呂が好きだな」 「自分だって好きじゃありませんか」 というか、御主人様なんか余裕で二三時間は出てこない。 いや、洗うのが大変な長い尻尾だから仕方ないかもしれませんが。 「なら風呂で続きをするか?」 ……前、試した時の事が蘇り、言葉に詰まる。 寒いし、毒あるし。 「服が濡れると風邪を引くのでよくないと思います」 何故私の口をつつくんでしょうか。 笑わなくて結構ですから。 いやあの。 何で天井が見えるんでしょうか。 そりゃー床に対して平行だからですって 「全然身動きできませんよココじゃ!」 足を振り起き上がろうと腹筋を使おうとしたらあっさり押さえつけられ馬乗りにされた。 ……ヘビ乗り?ん?ヒト乗り? 「なら動くな」 御主人様、無茶すぎます。 2メーター弱とはいえ、ゴジラ似の爬虫人類に押し倒されるって、フツーにB級映画っぽいなぁ……。 折りしもここは大学で、研究室で。 怪奇!トカゲ人間現る!ってカンジ。 いやでも私もウサミミ付けてるからどっちかというと………C級パロディか。 だったらせめてナイスバディな金髪美女じゃないと駄目かな…うーんせめて巨乳……巨乳じゃないと。 ……全部の条件当てはまらないなぁ、私。 いやむしろウロコのある巨乳美女が一番ベストなのかな。 うーん……難易度高い。 そんな事を考えつつ、埃っぽいソファーの上でまな板の鯉の私。 動くなって言われたし、そもそも動くとドサドサとなんか落ちてきそうで怖いし。 首筋を舐められたり胸を触られても、視界の隅に謎生物の骨格標本があるとそちらが気になって仕方ないし。 「なぁ、コレ使ってみてもいいか」 「御自由にどうぞ……なんですかソレ」 トカゲ男のまま憮然とした表情をしても可愛いなと思いながら御主人様の手にある薄い包みに目をや―― ……アレ、今あの標本動かなかった?気のせい?気のせい? 「おい」 「はい?」 目の前で包みをプラプラされて気がついた。 「えーっと……コンドーム?」 しかも、多分ノーマルなの。 割と普通の色の、妙なトゲトゲやら妙な物体がついているわけでもないソレは、正直、目新しい。 しげしげと見てから、御主人様を見上げると本人も居心地が悪そうな表情を浮かべている。 「実は、これを使うのは初めてなのだが……」 ……今後の為に練習したいって、事……だろうか。 だとしたら、……ヤ…じゃなくて困るな。私、お払い箱って事だし。 御主人様がヘビ女性を連れて街を歩いたり、一緒にコタツ入ってたりご飯食べてるのを想像すると……。 チェルもサフも楽しそうで、……私の居場所はどこにもない。 ……私の人生なんか……そんなものなのかな。 「どうします?私がつけましょうか?ご自分で着けてみます?私は無しでも一向に構いませんが」 そして付け方がわからず、ヘビの女の人に振られ…それは可哀想かも。 別に私は、御主人様に不幸になって欲しいわけじゃない。むしろ逆なんだ……けど。 ゴム使ったり、気を使わない方が楽なので、私を手元において置くってのがいいな。うん。 「ない方がいいのか?」 御主人様が真剣な口調で尋ねてきたので、思わず首を振ってうなずく。 「ええまぁ」 「そうか」 思案した口調でそういい、しばらく見詰め合う。 妙な表情を浮かべた御主人様の顔を見てふと気がつき、 それからなんか、じわじわと顔が赤くなってくるのがわかった。 「ちち違いますッナマの方がイイとかそんなんじゃないです!誤解です違います曲解しないで下さい!!」 ひどく熱い顔を手で押さえてゴロゴロと悶える私の頭上に容赦なく本が雪崩れてくる。 ……痛い。 埃っぽいし。狭いし。 動きを止めて、ぜーはーと息をついてから、さり気無く体を離そうとしても、足をがっちり固定され動けない。 ……ゴジラの笑顔って…凄い迫力。 「わかった。なら今回だけな」 何が! 結局私が自分でブラを外したあたりで突然いつもの美形に戻った御主人様は、混沌とした紙類の海に埋もれていてもやっぱり美形だった。 ほんのちょっとばかり余裕のありそうな表情のまま私を組み伏せ、服を捲り痕跡を残してく姿は中々面白い。 口を塞がれ、ぬめぬめとした長い舌が絡み、スカートの内側でもよからぬ動き。 時折、私の顔を見ては顔を撫でたりする。 ……考えてみれば、明るい所でするのは初めてなので、それなりに新鮮味があるのかも……。 それにその……普段は即座に奥に突っ込んでるのに、今のところは浅くついては、抜けない程度に引くという行為を繰り返してるのも新鮮というか。 よくわからない。 て、いうか、なんか。 いつもと、ちょっと違うし……。 ……奥突っ込まないんだろうか。 十分ほぐれてるし、濡れてると思うんですけど。 いや、別にどうでもいいんですけど、落ち着かないというか……。 思ったことが顔に出たのか、なんなのか…唇が放され唾液が糸を引いた。 体が離れ、湿った音と共に軽い喪失感。 深呼吸を繰り返しても、さっぱり空気が吸えている気がしない。 そのはずだ、尻尾が巻きつき胸を圧迫してるんだから。 ……重い。 こちらが必死になって呼吸を整えているというのに、御主人様は濡れたソレに薄ゴムを嵌めようと悪戦苦闘している。 それを眺めていると、キッと睨まれたので仕方なく視線を外す。 何なら口ではめてもいいんだけど……。 「できたぞ」 どこか自慢げな声に目を戻せば御主人様の局部からそそり立つ完全体のアレが薄いゴムに包まれている。 もはや、なんと答えればいいのかわからず無言で頷き、体を動かすと物凄く湿った感触がした。 ……濡れすぎ。 だって……ゴジラもキライじゃないけど、やっぱりこう……美形が目前でちょっと切なげだったり苦しげだったり、 …もしかしたら……な感情かもしれない表情でく…口付けてくれたり目が合った瞬間に微笑んでくれたりとかすると、やっぱり、その。 ゆっくりと挿入された感触に、一瞬背筋が反り返る。 ゴム効果でちょっと普段より……ちょっと違うような気がしないでもない。 「締めるな」 「ごごめんなさい」 御主人様はあんまり動かない。 締め付けたままぐちゅぐちゅと……奥に突っ込まないんだろうか。 「ところで、何で急にゴムなんか?」 御主人様が私の背中に爪を立てた。 驚いて息を詰まらせると、押し殺した声でさっきと同じ事を囁かれ慌てて力を抜くように努力する。 「ここで汚れたら、困るだろうが。お前が」 御主人様の声、凄く色っぽくて、耳元で囁かれると内容が頭に入らなくて困る。 それでもなんとか咀嚼して、どうやら気遣ってもらったらしいという事は理解できた。 ……それなら最初からここでしなければいいと思うんだけど。 御主人様は、また行為に没頭する事にしたのか半端に突いては戻すという行為を繰り返して、非常に……いやいやいやいや、うん。 御主人様の好きにすればいい。 別に全然どうってことないし。 もっと、グリグリしてほしいとか、そういうんじゃないし! 早く奥の方に入れて欲しいとか、別に思わないし! 前の方のアレが別の部分をヌルヌルと普段以上にこするからといって、別にどういうわけでもないし! ……素股と同時に突かれるってどうなのと思わなくもない……けど。 これって、ヘビだけの特権……かな。 頑張って両方とも気持ちよくなってもらうべく、私も太腿に力を入れてゆっくり体を動かした。 御主人様が合わせて背中に腕を回し、奥の方にぐいぐい熱い……いや、ちょっとひんやりなものが入ってくる感触に思わず溜息が洩れる。 御主人様、結構早い方なのに今日は頑張るなぁ……。 汚名返上ですね。 知ってるの、多分私だけだけど。 長い尻尾がぐるぐると体に巻きつき、挙句にこうやって奥のほうまで押し込まれてると、首輪ももらえないし、仕方なく置いてもらってるとしても、今だけは御主人様の所有物っぽくて、ちょっと いいとおもう。 服の下に潜り込んだ手が、優しい手つきで柔らかくて醜い辺りを撫でられると、やけに肌が熱くなる。 触るのは、面白いかもしれないけど、見られたらきっとどん引きする。 でもこの人に触ってもらうのは、受け入れてもらえてるみたいで、嬉しい。 てゆーか、ぶっちゃけ この人に優しくしてもらえると、死ぬほど嬉しい。 そんな答えが光速で飛来し心臓に突き刺さり棘を出して爆発して、色々な部分が一斉に不治の病にかかった。 しまった。これは治らない病気のアレだ。 動きが止まった私を、御主人様が不審に思ったのか顎を引き寄せ柔らかく口付けてきたりしてきた。 困る困る凄い困る。 物凄い勢いで取り乱してしまいそうになったので、今までの人生であった嫌な事を思い出すことに専念しようと思ったのに、出来ない。 「あ、あの、こうしてもいいですか?」 口が勝手に動き出し、手を背中に回して、肩口に顔を埋める。 御主人様は今日動くなって言ったのに、こんなことしたらマズイだろうなという、経験則による感想が黄色いアラームを鳴らしてるのに。 ぎゅっと抱きしめてくれて、髪の毛撫でるなんて反則過ぎる。 *** 買い物用のメモを取り出すと、御主人様が頭上から覗き込みシュルシュルと舌を動かして考え深げな声を出しました。 「今日はトリか」 「大きいの買っていきましょう。セールですから」 そう言った拍子にお腹が鳴った。 ……考えてみれば、色々したせいでお昼抜きなんだけど、御主人様はお腹がすかないんだろうか。 「今日は、本当に人が多いですね。ネコの日効果でしょうか」 ツンツンなんていう可愛らしいものじゃなく、ぐいぐいと引かれる手に視線を上げると、ゴジラ顔が屋台の一角を指しています。 「アイスでも食べるか?」 「どうせ食べるならオールドファッションライムバニラアイスを頂きたい所ですが、……寒いのでどうでしょう?」 コタツで食べるならともかく。 いや、御主人様が食べたいというなら……いくらでも合わせるけど。 「冷たいものを食べたら、体冷えて辛くないですか?温かい物の方がいいんじゃありませんか?」 御主人様は冷血動物だし。 さっき運動して、体温が上がっただろうけど食べ物はあったかい物がいいだろう。 「たとえば、うどんとか、おでんとか……ラーメンとか」 微かに記憶にある醤油とダシの味を考えると胃が情けない声をあげたので、気を逸らすべく私はゴジラ顔を熱心に見つめた。 「もしのんびりしたいなら、ダッシュで買い物して帰って作りますが」 御主人様は、ゴジラ姿に変身していても、精神集中が乱れたり、魔力が切れると元の美形に戻ってしまうらしい。 つまり、できるだけ元の姿でいる方が疲れないって事だと思う。 だとしたら、私に出来る事は気を回すぐらいの事なので、これからはもっと色々頑張りたい。 うん、頑張る。超頑張る。 もはや、何度目かわからない決意に苦笑いする自分は、なんなんだろう。 「ラーメンか……」 思わせぶりな口調にどきりとして見上げれば、御主人様は憂い気な表情を浮かべています。 あ、そうか。 猫舌だから無理なわけだし、そもそもここらへんにはラーメン屋がないって前に言ってたし。 うどんもちょっと熱いし、おでんはカツオ出汁が効いてて美味しいけど時間がかかる。 うーん…温かくて、御主人様も食べられて、手早く作れる物……むう。 「カレーとラーメンどっちの方が好きだ?」 「両方ですが?」 質問の意図を掴みきれず戸惑いながら返答すると、ゴジラ顔の眉間に深い皺が寄った。 「実は、最近屋台を見つけてな」 「ラーメンですか!?」 あ、しまった。声が上ずってる。 我侭言っちゃだめだってば。 「で、でも熱いの苦手ですよね。いいです。全然あの、全然いいです。そんなあの……無理しないで下さい」 「でも食べたいんだろう?」 うっかり……頷いてしまった。 大学を出て繁華街方面、オフィス街との境目、大通りから裏道を抜けたところで小さな屋台と、テーブルとベンチ。 それから赤い暖簾が見えた。 「いいか。ちゃんと座ってるんだぞ。間違っても店主を見ようとするな」 「わかりました」 謎の注意に内心首を捻りつつラーメンに期待を高ぶらせる。 「やっほーほら、あのコがマイシスター」 「へー」 暖簾からひょいっと現れたのは、よく見慣れた黒ウサギ。 その隣に座っていたのは…… 「あの、なんですか?」 「見るな。そのまま大人しく座れ」 何故か御主人様に視界を塞がれた。 おかげでジャックさんの隣の人の姿がよく見えない。 「やーねーヘビって嫉妬深くって」 面白そうな口調のジャックさんに、掠れたハスキーな笑い声が重なる。 「黙れ」 険悪な表情の御主人様に促されるまま、ベンチに腰掛けメニューを探す。 「えーっと……じゃあ、私はとんこつラーメン大盛りチャーシュー二倍で」 何故かジャックさんが吹いた。 ゲフゲフと噎せる声と、大うけしている隣の人と心配そうな…多分店主の若い男性の声。 御主人様は、お酒とおつまみを頼んで、メニューを見直した。 「美味いのか?ラーメンとは」 「ええ、と。多分。私は週一で食べるくらい好きでしたけど。初体験ですか?」 「ああ」 知らない人が居るので、ちょっと小声で答える。 「キライっていう人は多分居ないと思うんですけど……」 ジャックさんと隣の人は、やけに盛り上がってるので気になって仕方ないんだけど、体を動かそうとすると御主人様がブロックしてくる。 おかげで、ジャックさんの隣の人も店主さんの方も見えないので、凄く気になるんですけど……。 「あの、隣の人知ってる方ですか?」 「いや。だがお前は見なくていい」 どういう意味だろ。 「ねぇねぇキヨカちゃん。ウサギってさー」 ハスキーな声が近づくと、御主人様が全力でガードしてきた。 そしてさり気無く私の隣に座るジャックさん。 「キヨちゃんここは野菜大盛り塩ラーメンチャーシュー抜きでしょ」 「え、何言ってんですかチャーシュー抜きとかありえませんよ」 「おまたせしました」 涼やかな声に驚いてみれば、店主は白いネコのマダラらしい涼やかな風貌の美青年。 ネコのマダラは凄く少ないそうで……生でみるのは初めてだ。 へーっと思いながらラーメンとご主人様用のビールとつまみを受け取ってお礼を言う。腕のキラキラしてるのは…鱗? 御主人様はジャックさんに肩を掴まれ真剣に話し合っている。 「あのー冷めますよー。先食べてもいいですか?」 とんこつのいい香りにゴマの香りと焦がしネギに真っ赤な紅生姜。 縮れた黄色い麺に白濁したスープ。 蕩けんばかりのふっくらチャーシュー。 「先、食べますよ?」 「ウサギなのに肉食えるの?」 ひょいっと顔を覗かせたのは、これまた……センパイを連想させる綺麗系の………紫な巻き角さん。 「悪食なんです」 答えてから、ふと気がついた。 その人が手に持っているのも、チャーシューたっぷりのラーメン。 「アナタは、肉食べられるんですか?…どうみても草食…」 「―――悪食だから☆」 整った顔が変な風に歪んでいる。 「そうですか」 頷いて顔をラーメンにもどす。訊いちゃいけなかったらしい。 それはともかく、 とんこつラーメン。 夢にまで見たラーメン。 早く食べないとのびちゃうラーメン。 箸を握り締め、湯気が目に滲みるのを耐えて待ってても話しは終わる様子がない。 ……。 戻ってきた御主人様は、やや疲れた様子で席に座ると泡の消えたビールを飲んでおもむろに野菜炒めをフォークで突き刺した。 「それが、とんこつラーメンか」 「いえ、これは醤油ラーメンです」 メンマがコリコリして美味しい。ワカメも美味しい。 麺をひと掬いしてふうふうしてから差し出す。 「はい、あーんっ」 隣で前歯剥き出しにしている黒ウサギには小さく切ったチャーシューを放り込むと、無言でジタバタしていた。 どうでもいいことですが、ゴジラな御主人様がラーメン食べて熱ッとか言うのって凄く萌える。 結局、御主人様はつけ麺を選び、私は幸せな気持ちのまま隣に座りなおした。 「つけ麺も美味しいですよね」 箸が苦手なのでフォークでクルクルしている姿が可愛い。 「ねぇーキヨちゃんバッファロー・ビルかドクトルレクターって知ってる?」 「いいえ」 紫な人とジャックさんは謎の会話で盛り上がっているので適当に受け答えし、御主人様を眺めていると騒がしい足音が近づき、紫さんが慌てて立ち上がった。 なにか弁解している紫さんと説教している……でっかい…イヌ男性……ぐんじんぽい。 「どうした」 「え、いえ」 プルプルと嫌な記憶を振り払い、お冷を一口。 「最近ねぇー黒髪の女の子が襲われる事件が増えてるんだってさ。キヨちゃんも気をつけてね」 ジャックさんはそう言って、花柄刺繍のハンカチを取り出し、使い方をレクチャーしてくれた。 付け耳と一緒で、衝撃を与えると光るらしい。 「俺の傍を離れなければ問題ない」 御主人様は憮然とした表情でジャックさんに抗議したけど、軽くいなされてしまった。 首根っこを掴まれ、コネコみたいに引きずられていく紫さんを見送る。 「そういえば、私マダラの人はじめてみました。結構ビックリしますね」 途端に表情を無くし、無言でつけ麺を大口で頬張る御主人様。 「あーカッコイーと思う?ネコミミー」 屋台のカウンターには新しく来たお客さんが座っているので、店主の姿は見えない。 「そうですねーもてそう」 「キヨちゃんもそう思うんだ~だってーがっくん」 御主人様、無言でつけ麺に胡椒をかけ…かけ過ぎです。 「辛くなっちゃいませんか?」 「味がしない」 財布でも落としたような空ろな口調になってしまいました。 ……なんで? *** 「えー今日トリニクゥー?ならオレ様に特大サラダつけてよキヨちゃん。あの上の茶色いカリカリ多めで」 「わかりました。……あの、腕掴むのやめて下さい」 超ご機嫌なジャックさんに引っ張られるようにして市場へ。 御主人様はすっかり萎れたようになっています。 何でだか見てはいられないので、腕を掴むジャックさんの耳を捻り腕を開放してもらうと、御主人様の隣に滑り込む。 「トリじゃなくってカエルにしますか?季節外れですが、少しぐらいは売ってるかもしれません!」 何故か、どんよりした面持ちで見返されました。 「どうかしました?」 「マダラ」 ネコの子供達が大騒ぎしながら目の前を横切っていく……先頭、チェルだし。仲が良くていいことだと、思う。 楽しそうなので見送るだけにして、再び御主人様に目線をもどす。 「マダラなラーメン屋さんでしたね。美味しかったです!本当にありがとうございます」 御主人様もマダラだし。 眼福だったし、お腹もいっぱいだし。 ……御主人様、頭痛か目が痛いのか、目付きが不穏ですよ。 何か、不満な事でもあったんだろうか? でも御主人様も結構食べてたという事は、ラーメン自体が問題なわけじゃないだろうし。 「キライなんですか?マダラ。ご自分だって、えーっと……ナーガなのに?」 「ラミアだよ。キヨちゃん」 どうでもよくありませんが、重い顎を頭に載せるのはやめて欲しいと思います。 ……でも顎の下の毛がモフモフです。口がニンニク臭いけど。 「古代においては男の場合はナーガと総称されていたが、剣聖ナーガラジャに憚り男もラミアと称するようになったので間違いでもないな」 「へぇー」 「ふーん」 モコモコする顎を頭でグリグリしてモフモフを味わっていると、御主人様は更に目付きを不穏にしてつけ耳とジャックさんの耳を掴み、ぐっと引き剥がしてきました。 「お前は帰れ!帰って仕事しろ」 「じゃあキヨちゃん、今から開けるから行こっか!」 「駄目だ!」 2人は本当に仲が良い。 御主人様とジャックさんはひとしきり殴り合ってから、再度私を間に睨みあった。 ……狭い。 現在市場では大規模なイベントが行われていて、賑やかな音楽が聞こえてきたり、普段は見かけない種族の人達が大勢居てかなり混雑している。 地面に敷物を敷いてその上でアクセサリーや謎の物体を売っている怪しげなネコに、揃いの艶やかな衣装を着て自慢の喉を披露するトリ達。 ……人力車…みたいなので縦横無尽に走り回るイヌに客席には澄まし顔で座る…ネコの国では珍しくキツネの家族。 もしかして雑貨屋さんの親戚かもしれないとチラリと思った。 ……今、建物の上をジャンプして行ったのは……スパイダーマン? 眼を丸くした私の目線をヘ二人が追い、またああだこうだと議論を始める。 まさに、異世界情調溢れるって感じ……。 なんとなく付け耳を撫で、少しだけ息をつく。 ほんの少し、当然の事なんだけど……疎外感。 それを感じなくなるような日が、来るんだろうか。 いつの日か……。 自然と俯きかけたので背筋を正し、人の波を縫うように前へ突き進んでいると、目立つ黄色が目に入った。 明るい黄色のミニスカ制服に小さな帽子を被ったネコ美人が片手に小さな旗を持って引き連れる団体さんは、物凄い厚着の…あ、ヘビだ。 しかも御主人様と違ってカラフルな模様のウロコで……え? 思わず見比べると、私の疑問に答えるように自分の地味な色合いの鱗を撫で、ヘビの団体さんに軽く会釈しました。 鮮やかな模様のヘビ男性が、厚手のコートを着込んだきつめの美人を守るような位置にずれて少し列が乱れる。 何事か囁きあい、男性が手に持った杖が石畳を叩く音に御主人様が目を細め…私が服の袖を引いたのに気がついて微かに首を曲げた。 「あの……ナンパなら、私がいないところでして下さい」 間違いない。この目付きはバカだと思われてる。 幸い、私の声は相手にも聞こえたらしく、カラフル鱗の男女の雰囲気が少し緩んだ。 「え、ナンパ?どこで!?」 黄色い帽子のネコ美人をガン見していたジャックさんが、きょろきょろと左右を見回しふざけた声を上げたので、背中をつついてコートを少し引っ張る。 ついでにさり気無く御主人様もひっぱり団体さんから距離をとると、彼らはあっという間に人の波に紛れていく。 これでよし、と。 奇妙な表情をしたままの御主人様の顔を見上げ、笑顔を作ってみる。 確か、ヘビの邦…は、長年戦争が続いていて……私には想像も出来ないことがあるんだろう。 「尻尾ない人もいるんですね」 思いついたことを口にしてみた。 御主人様は、やっぱりヘビとか言いつつトカゲだったんだろうか。 いや、ゴジラだから恐竜系?……トカゲか。 「始祖が異なるからな、彼らはおそらくケツアルコァトル家の」 意味がわからない。 御主人様はしばらく瞑目して、私の唇を撫でました。 「ヘビは龍神と人が交わって生まれた種族だと言われているのは知っているな?」 世界種族辞典か、ヘビの料理本か何かに載っていたはずだ。 「始祖も様々だからな、特に始祖の血が濃いといわれるそれなりの血筋であれば……なんだ」 胡乱な御主人様にジャックさんがいつもの前歯剥き出しな不気味な笑顔でつっと服屋の一角を指す。 「落ちモノのフリソデだって。欲しい?」 目を向けた先には、綺麗…だけどなんだか謎の花柄着物が吊るされていた。ちなみに薄手で、浴衣っぽい。 近づいて値札を見る。 「200セパタ……」 つまり、四十万円くらい。高い。 お店のネコが手もみしながら近寄ってきたので、慌てて手を振って御主人様の元へ戻る。 「アレ、落ちモノじゃないですよ。多分…なんか日本人用って感じじゃないです、お風呂のお色気シーンで使ってそうですもん。しかも振袖でもないし」 しばらくきょとんとした顔をして、それから瞳がキラキラしてきた。 「お風呂!そっか!フリソデはヒメハジメーで使うんだよね!二種類買っちゃう!?」 しばらく能天気な顔を見つめ、息を吐く。 ……本当に悪意があるわけじゃないっていうのは、判ってるんだけど。 「生憎、着付けは出来ません。あと振袖は、成人式とかお祝い事の時に着るものです……私も本当は今年着る筈でしたが」 向こうに居たら、きっとレンタルのを友達と一緒に選んでただろう。 唇を噛んで着物から目を逸らし、今日買うべき物を頭の中で読み上げて、ついでにチェルが欲しがっていたお菓子を追加する。 ああ、アレは早くしないと売り切れるからすぐ行かなきゃ。うんそうだ。そうしよう。 「私、ちょっと向こうで買い物してきますから、いつもの酒屋さんの所で待っぐぇッ」 最後まで言う前にジャックさんに背中から思いっきり抱きしめられ、内臓が口から出るかと思った。 幸い腕はすぐに放され、ふらつく私の目に入ったのは地面にめり込むジャックさんと、止めを刺そうとする御主人様と……わくわくした顔のチェル。 「やめて下さい。子供の前です」 「キヨちゃん、なんか違う」 即座に復活したジャックさんが私の後ろに隠れて耳元でぼそぼそ言うのが、ウザい。 「チェル、遊んでたんじゃないの?」 「遊びしゅーりょー!」 しゃがみこんで尋ねると体当たりの勢いで抱きつかれ、地面にしりもちをつきかけ、何とか耐える。 背中に手を回して、何とか立ち上がる。 凄くご機嫌。 今日は泥まみれでもないし、漆喰も灰もついていないみたいで助かるかな。主に洗濯的な意味で。 ……所帯じみてるな…私。 まぁ、家政婦みたいなものだから、いいのか。 「あのねーあっちでいっぱい屋台あるんだよ!すごくおいしそーなの!」 知ってるけど。 御主人様が何か言いたげなのを気がつかないフリをして、チェルをそのまま抱いて歩くと、ジャックさんがチェルを奪い肩に乗せた。 視界が高くなってチェルのテンションが更にヒートアップしているけど……ジャックさんは耳掴まれても嬉しそうだからいいか。 しかし御主人様、いきなり顔を近づけるのはやめて下さい。手首掴まないで下さい。尻尾を腰に回さないで下さい。 焦ります。 「何を怒っている」 「怒ってません」 とんだ勘違いだ。 ゴジラ顔がジーっとわたしをみて尻尾を離した。 ゴジラな体型にしては意外なほど綺麗な手がゴシゴシと顎をこすり、何か思案している。 見ていても仕方ないので、黙々と歩いていると前方から猛烈な勢いで尻尾の曲がった白黒ネコが着物に向かってダッシュしてきたのでそっと避けた。 向こう側には小柄な黒ネコのお姉さんが呆れた目をして腕組してる…多分、観光客なんだろうなー……。 きっと新婚に違いない。 「さっき、フリソデで成人式とか言っていたな」 「日本だと二十歳で大人と法律的にも認められるので、お祝いにみんなで集まって振袖とか着たりするんです」 いらない情報だとは思いつつ、一応説明すると御主人様は更に微妙な表情を浮かべました。 ジャックさんに肩車されたチェルの歓声に一瞬気を取られてから、すぐにこちらに圧し掛かるようにして口を開く。 「成人は確か、15、6だと文献にはあったぞ。女なら、10に満たなくとも嫁に行くと」 「国際的に見ればありますけど……そういう所は平均寿命がアレな所とか……」 だからイヌの国は、マニアックな変態揃いだと思ってた。 そもそも役人に賄賂代わりにヒトあてがう娼館の客なんか、ろくでもない変態に決まってるんだけど。 「だが、ニホンの成人は、男は十五ぐらいだと聞いたが。ヘビだって大半は二十歳で成人だぞ」 しばらく様子を窺っても、御主人様の表情は変らなかった。 マジで言ってますね、これは。 「人生50年とか言ってた時代はそうらしいですが、何百年も前の話し出し。今の日本の平均寿命80歳だし、100歳越えだって少なくありませんよ」 驚愕するトカゲ男!!といいたい所だけど、表面上表情が変化する様子はない。 但し、動揺はしているらしく尻尾がバタバタしているので付近の人には大迷惑ぽいですよ。 「だ、だが、お前の歳ならチェルぐらいの子供がいるのが通常だろう?」 「チェルが15ぐらいでお婿さん連れてきたらどうします?」 「許さん」 0.1秒で否定しました。この御主人様。 十年後が楽しみです。チェル、絶対美人になるし。 ……まだそのとき、私が居ればいいんだけど。 「私、落ちたの……14の時で、彼氏なんていませんでしたけど」 ……私、なんでこんなこと言ってんだろう。 もしかして、私は …… 到った結論に我ながらげんなりした。 私、本当に性格悪いな。 御主人様が動揺しているのをよい事にこっそり袖を掴み、少しだけ後ろを歩く。 「二十歳で成人ですが、大学生とかそこらへんか働きはじめとかで、結婚する人は少ないと思います。普通もうちょっと待つかなって」 ……こちらを必死な目で見る御主人様。 普段は穏やかな目の色が、ちょっとテンパってるらしく、長い尻尾を屋台にぶつかりこけた。 キラキラした物が宙を舞い、ネコの悲鳴が重なる。 「大丈夫ですか」 「大丈夫じゃないのはお前だ」 意味不明な御主人様にヌルい眼をしたジャックさんと水飴をくわえ上機嫌なチェルがからかいの言葉を投げかけたが、あまり耳には入っていないらしい。 ……ジャックさんの頭、水飴でツヤってるけどいいのかな……。 落ちて汚れたから買い取れという店主はジャックさんに任せて、落ちてしまったアクセサリーを拾い集め、お店に返す。 御主人様は、どことなく苦しげな顔つきをしていますね。 深く寄った眉間の皺を背伸びして指で撫でると、凶悪無比なゴジラ顔が物凄く困惑した表情に変った。 ……かわいい。 ちらちらする舌も可愛い。 やっぱりカエル探そうかな。具合悪いなら、尚更。 「ねぇ、どれが欲しい?好きなの選んでー☆」 「最低三つニャ。にゃんにゃら全部買い取ってくれても買わないニャ」 渋い顔のネコとジャックさんから察するに、ジャックさんがうまいこと話をまとめてくれたらしい。 肩から下ろされ、目を輝かせて覗き込むチェルの邪魔にならないように後ろに下がり、ちょっとだけ覗き込む。 露天にしては、女の子向けの……結構可愛いのが揃っている。 細部を見ればちょっと作りが甘いというか粗雑ではあるんだけど。 素材はいいのに、勿体無いなぁ……。 植物や文字の彫られた指輪や、ビーズを繋げたネックレス、ティアラにブレスレット、ピアスなんかも色々。 「ちーねぇ、このお姫さまみたいなのとえーっとねぇ」 「ネズミの癖にお目が高いにゃーこの髪飾りは10セパタにゃー」 「高ッちょ500センタしないよこれーちょっとー吹っかけ過ぎぃー」 「にゃにをいうニャ!この原料だけで1セパタはかたいニャ!」 「えーじゃー505センタ」 「ボッタくりニャー!?」 きゃあきゃあと楽しそうなのを余所に、屋台の下にまだ指輪が落ちていたので拾い上げて泥を払う。 作り手が違うのか、ちょっと雰囲気が違う。 「コレ、綺麗ですね」 桜色の石がついた細い指輪はシンプルだけどちょっといい。 「指輪は別口から仕入れたヤツニャからお勧めしないニャー」 あんまり売る気がなさそうな雰囲気なのは、仕入れた先と仲が悪いのかな。 「いくらなんですか?」 「これは5セパタニャー委託モノニャから値引きできないニャ」 「へぇー」 「そこを値引きするのがネコでしょ」 「山猫と交渉するのはイヤにゃ」 はっきり言い放つネコに苦笑するジャックさんを見る限り、多分ソレは真実なんだろう。 泥を拭ってちょっと薬指にはめてみる。 サイズピッタリ。 「お前はソレか」 驚いて慌てて指輪を外す。 「ち、ちがいます。すみません……」 「指輪ならこれとかこれもあるニャー。勧めはしにゃいけど、買うなら買うといいニャ。さっきも売れた黒髪に似合うペアリングもあるにゃー」 どんどん取り出され焦って御主人様とジャックさんを見れば、2人とも好き勝手に批評している。 「キヨちゃん手かしてー」 手は、一時期よりはだいぶよくなったけど、相変わらず手荒れで皮がむけていて気持ち悪い。 茹でた後干からびた海老みたいだ。 「いえ、私は結構ですから」 そうジャックさんに言うと、顎をつかまれぐぎっとまわされた。 御主人様が吐息のかかる位置で私を睨み、ちらちらと赤い舌を伸ばしました。 「買ってやる」 ……本気だろうか。 しばらく考えてから指輪を一瞥し、それから端の革製品を指す。 「なら……どうせなら、コレを……」 御主人様は、細工の粗い革のチョーカーを見て嫌そうに顔をゆがめた。 「奴隷みたいだから、駄目だ」 「そうですか」 やっぱり、……そうなのか。 頷いて諦め、チェルが熱心に覗き込んでいる方を見る。 ビーズを繋いだ単純なつくりの腕輪が欲しいみたいだけど、あいにくサイズが大きすぎるみたいだ。 というか…これなら繋ぎなおせばいいような気がする。 ビーズの色が綺麗だから、それがいいのかな。 「えーっと……すみません、……コレを」 御主人様がネコに向かって頷くと、ネコは嬉しそうに頷き、ブレスレットを私に手渡した。 「えー!ちーもほしい」 ピョコピョコと跳んで口を尖らすチェルに微笑み、ブレスレットを二重にしてぷにぷにした手首に通すと、顔が輝いた。 「お前用だろうが」 付け耳を引っ張られて頭が傾ぐ。 「いえ、私は……」 「コレなら在庫があるニャー運がいいニャ!」 ネコが眼を輝かせてブレスレットを取り出し、勝手に私の腕にはめた。 「にゃーぴったりニャ!」 「キヨカとおそろい!!」 チェルの喜びように水をさすのも気が引けて、手首に当たるビーズの感触がなんともいえず、思わず眼を落とす。 装飾品……贅沢品、自分を飾るもの。無くても、生活には関係しないモノ。 こういうの、娼館以来だ。 あの頃は、いつも寒くてどこか痛くてお腹がすいてて……孤独で。 「じゃあ、コレとコレ二つでー」 ジャックさんは値下げ交渉をはじめ、御主人様はむっつりとしたままお金を支払った。 喜び勇んで髪を飾り、自分と私のブレスレットを見比べては笑顔を浮かべるチェルはいいんだけど……。 「あの、帰ったらちゃんとこの分お返ししますから、大丈夫ですよ」 御主人様にそう囁くと眉間にぐっと皺が寄った。 「それぐらい買ってやると言っただろう」 押し殺した低い声も美声だなと思いつつ、私は頷く。 「でも、ジャックさんからお給料頂いてますし、私が使う物ですから」 ……なんで睨むんだろう。 「買ってやる」 唸り声に軽い恫喝が含まれていたので、私は大人しくうなずいた。 御主人様は私の飼い主じゃないから、私に対してお金を使う必要は一切無いんだけど……。 大体、映画や図書館につれてもらえただけで本当…感謝してるし。 けど、それを説明するには人が多過ぎる。 突然派手な音楽が鳴り響き、周囲のネコ達がぎょっとしたように音の方を向いた。 見れば拡声器に半被姿のネコが台の上に立って、音割れした声で中央広場から何かのイベントが始まるというアナウンスをはじめている。 「みんなよくこの音平気だよね……」 最初の音声で耳を押さえて倒れたジャックさんが、苦虫を飲み込んだような絶望交じりの表情を浮かべていた。 無理もないか。 「音楽のイベントみたいだし、きっと物凄くウルサイですよ」 「ちー行きたい!」 ……そういうと思った。 空は少し雲がではじめているけど、まだ十分明るい。 どうせすぐ飽きるだろうから、ちょっとのぞいて、それから買い物をして帰ればいい。 そう提案すると、いつの間にか鯛焼きの大袋を抱えたジャックさんが頷いて一個づつ私達に渡し、顔をキリッとさせた。 「じゃ、オレりっちゃんをストーキングしてくるよ!晩御飯までには帰るから!!」 ……。 「どこにリーィエさんいるんですか?」 「んー三丁目の角で、屋台物色してるみたいだから☆んじゃね♪」 ……ジャックさんには、大音量をもうちょっと聞かせておいた方が、世間の為になる気がする。 チェルと私に頬ずりし、御主人様の攻撃を軽やかにかわすと、それこそウサギらしい軽快な走りで、黒い垂耳があっという間に人混みの中に姿を消した。 鯛焼きを抱えたままのチェルがきょとんとしたまま見送り、私の顔と御主人様を見比べそれから猛然と鯛焼きに齧り付く。 ……拗ねてるらしい。 掴んだ拳を所在投げに下した御主人様と顔を見合わせる。 この子、本当に可愛い。 「俺は少し用事がある。すぐ戻るから、噴水で待ち合わせで構わないか?」 「わかりました」 御主人様は手に持った鯛焼きをチェルに渡し、頭を撫でてから路地に入り姿を消した。 しばらくその背中を見送り、チェルの手を握って広場を目指す。 「人いっぱいだね」 「はぐれたら、噴水の前で待ち合わせだからね」 「わかってるよー!」 広場の最奥には舞台が据え付けられ、その周囲には予想通りの人だかり。 噴水は入って左側の方にあり、幸いな事にそちらの方が人がまばらだ。 「カラオケ大会だって。ジャックさんいなくて正解だね」 「ちーは歌スキー。あのねぇ今日学校で黒ネコのタンゴ歌ったんだ」 「へぇー……」 噴水の縁に腰掛け、ぼんやりと舞台の方を見やる。 チェルは周囲の様子を窺ってから、舞台がよりよく見える位置まで移動してぴょんぴょんはねてる。 キュロットから出ている細い尻尾が上下に揺れてかわいい。 既に舞台ではカラオケが始まっていた。 ……ていうか、テレビ局っぽいのもいるからもしかして、…舞台の上には、デカデカと『出張:のど自慢』の看板。鐘まであるし。 『猫になりたい』という曲を歌い始めた縞ネコが即座に鐘1つで失格になる。 その後も、野次が飛んだり、拍手喝采を受けたりなかなか面白いけど、案の定チェルは飽きてしまったらしく欠伸を1つ。 「がっくん遅いねー」 「もうちょっと待ってね」 退屈なのか、うろついては通りすがりのネコに好奇の視線を向けられているので、正直気が気じゃない。 なにせチェルは可愛いし、小さいし、なによりネズミだし。眼を離したら誘拐されそうで。 屋台は知り合いがいるらしくさっき挨拶してたから、大丈夫だと思うんだけど。 一応、警備員らしきネコの姿もあるし。……サボってるけど。 しかし、この広場でも様々な種族がいる。 大半は観光客らしく、物珍しげに建設中のカラオケボックス(寒いので冬は工事中止)を指差していたり、猫技の営業所のショーウィンドを覗き込んでいるのが見えた。 あとはのど自慢大会を見物して、ゲスト審査員のトークに湧いたりしている。 ……噴水は、石造りなので座ってると冷える。 隣に腰掛け足をぶらぶらさせているチェルは完全に飽きているらしく、つまならそうにブレスレットをいじくりはじめてしまった。 うちに帰ったら、長さを調節した方がいいだろう。 チェルのアクティブさを考えるとすぐなくしてしまいそうだけど……私も小さい頃はそんなもんだったと思うし。 そんな事を考えつつ人混みを眺めていると、不意にぶちりという音と小さな物が石畳に零れる音。 呆然としたまま動かないチェルの手の中には、千切れたブレスレットと僅かなビーズに切れた紐と、地面に広がる鮮やかなビーズ。 しばらくあっけにとられ、それからチェルは顔を真っ赤にしてぼろぼろと泣き始める。 私は地面に落ちたビーズを拾い集め、ポケットに仕舞った。 ……怒るのは、簡単なんだけど。 しゃくり上げているチェルの頭を撫でて、私のを外して手に渡す。 「交換しよう、ね。だから泣かないで」 ……しまった、何がいけないのか余計に泣き出してしまった。 困った。……お母さんなら、こんな時どうしたんだろう。お父さんは、どうしてくれたっけ。 コートを掴まれ、鼻水を啜るのでちり紙を取り出して洟をかんでやる。 「せっかく買ってもらったのに、がっぐんに、おこられる……きらいっていわれる」 ぐしゅぐしゅになった顔のままそんな事を言い出したので、頬と鼻をもっと擦ってから小さな体をぎゅっと抱きしめた。 「子供が嫌いになるお父さんなんか居ないから、大丈夫」 「がっくんお父さんじゃないもん。ちーのお父さん、ネコにやられてしんじゃったもん。ちーはただのいそーろーだもん」 ……やっぱり、そうなのか。 抱き上げるとちょっと重い体を膝に乗せてコートでくるんだ。 ジャックさんがくれたコートは、お古だというわりに新品としか思えないぐらい清潔で暖かい。 「そんな事ないよ。あの人、照れ屋だからちゃんと言えないだけで、チェルのお父さんの代わりになりたいと思ってるよ」 根拠はないけど、確信はある。 チェルのふわふわした髪は、冬の埃っぽい風に巻かれてすこしざらついていた。 私は体を洗ったりしてあげることは出来るけど、一緒にお風呂には入れないから、御主人様がよく一緒に入っている。 算数と理科ぐらいなら何とかなるけど、それ以外の宿題はサフと御主人様が教えたりしてる。 公立の学校か、私塾かどっちの方がチェルにとっていいのかサフとジャックさんと私も交えて真剣に検討した事だってある。 プレゼントを渡す為に、街中のおもちゃ屋を廻ってた事だってある。 結局、諦めきれず、王都から取り寄せる事になってたけど……。 それでもって、私はそういう所も好きなんだけど。 「何ビービー泣いてるの。チビ助」 荒い息をしながらイヌが覗き込んできたので驚いて危うく噴水に転げ落ちかけた。 腕を掴まれて、何とか止まる。 イヌと言っても……サフだから、大丈夫だ。 「サフ、今日バイトじゃないの?」 「終わった。そしたらチビの泣き声が聞こえて」 「な゙い゙でな゙い゙!」 サフは舌を出して喘ぎながら、私に顔をくっつけたままくぐもった声を上げるチェルの髪を乱暴に撫でる。 「誰かにいじめられた?キヨカは大丈夫?がっくんかジャックは?」 鼻がくっつきそうな勢いで顔を突き出し、ニオイを嗅がれた。 ……あの時、ゴム使ってもらえてよかったかも。 場違いな感想がちらりと浮かび、恥ずかしくなり首を勢いよく横に振る。 「大丈夫。買ったばっかりのが壊れちゃって、ビックリしただけだから」 千切れた紐とビーズを見せると、サフは瞬きして深く息を吐いた。 「よかった」 「よかったじゃねー!!」 背後から可愛らしい怒声が響き、サフがビクリと体をこわばらせた。 「あ、ニキさん」 つかつかと歩み寄ってくる白ネコに手を振ると、ニキさんは一瞬眼を見開き、それから気を取り直し、再び口を開いた。 「ちょっと聞いてよキヨカ!信じらんねーのコイツ、アタシの事置き去りにしてダッシュするし!」 「ごめん」 サフは冬に入って毛が一層モコモコしただけでなく、なんだか一回り以上大きくなった気がする。 日光を浴びて輝く灰銀の毛並みは白味が増えて、娼婦に人気のあった人気役者に似ているかもしれない。 一方ニキさんは中学生ぐらいに見えるので、歳ほとんど変らないはずなのに性別の違い以上の、種族の差がはっきりとしていた。 「今日、デート?」 「うん」 「いや別に」 顔真っ赤にして照れるニキさんを好ましげにみているサフ。 「いいね」 そう言うと、一層赤くなって長い尻尾を膨らませてサフの背中に隠れた。 「ち、違うって言ってるだろ!ぐ偶然あったんだよ!」 可愛いなぁ……。 褐色の指はサフの指と絡んで、離れようとしない。 邪魔したら、悪いかな。 「あっちの露店の方で、ニキさんが好きそうなこういうの売ってましたよ」 「へ、へぇー」 ニキさんはパシパシとサフの背中を叩いてから、隣に腰掛けた。 ……そういうつもりじゃなかったんだけど。 チェルの腕にはめたブレスレットを見せる。 「ふーん……」 「ちょっと不良品混ざってましたけど。コレぐらいなら、後で自分で何とかできそうですしね」 裁縫セット持ってるけど、今やったらビーズをこぼしそうだし。 「キヨカってマメだよなー。イヌみたいだよな。そういうとこ」 褒められたのか、けなされたのか判断がつかず、曖昧に笑って誤魔化す。 ニキさんは、特に意図があるわけでもないらしく、ビーズを眺めてちらっとサフを見た。 「ほしーなーこーゆーの」 買わせる気満々だ。 サフは、魔法を勉強する傍ら、アルバイトに励んでいる。 魔法を勉強するにも色々と掛かるそうなので、大変だと思う。 チェルが鼻を鳴らして体を動かし始めたので腕を緩めると、もぞもぞとした動きで隣に座りへたれた耳を私の体に押し付けた。 細長い尻尾が体に回り、ちょっとむずむずする。 軽く事情を説明しつつ三人で話をしていると、落ち着いたチェルが握った指をにぎにぎして何か言いたげな表情を浮かべていた。 「僕、がっくん探してくるよ。ニキ、悪いけどちょっと待ってて」 居心地の悪そうな表情を浮かべたサフが、ニキさんに囁いてチェルの頭をポフポフと叩くと眦を上げたチェルが拳を振る。 「バカサフー!」 ビックリするほど大きな声は、少し嗄れていた。 サフは薄蒼の瞳を心配そうにしてから、私を見て頷き猛ダッシュで駆け出す。 ピンと張った尻尾は、風にはためく旗のようだ。 「あのね」 大きな瞳が躊躇って揺れ、睫に残る涙が光る。 「ちーのこと、お父さんはどう思ってるかな」 難しい質問だ。 まぁ、少なくともチェルは私と違って…… 「幸せになって欲しいと思ってるに決まってんじゃん」 ニキさんは私の膝越しに顔を突き出し、ハッキリと言い切った。 「つかさ、サフのバカもおんなじこというんだよな。下らない事でいちいち悩んでさ、バカなの?」 鼻を鳴らし、金色の瞳をキラキラさせて。言い方はきついけど、声色には気遣いと優しさが含まれている。 サフが、ニキさんの事好きな理由がちょっとわかった。 「ちーバカじゃないもん!ネコじゃないからいろいろ考えるだけだもん!」 膝の上で、逆転トムとジェリーが始まりそうです。 ニキさんがつんつんとチェルの鼻をつつく。 大変、猫っぽい。 ニキさんは、ムキになったチェルが食って掛かるのを軽い動きで翻弄する。 噴水の周りをぐるぐると追いかけっこが始まったので、私は足を引っ掛けないように体を寄せた。 ほとんどの人はのど自慢の方を観に行ってるので、こっちの方は人がまばらだからいいけど……。 広場の中央を、大きな荷物を抱えたお婆さんがよろよろとしながら横断していくのが目に入った。 そんなに混んではいないとはいえ、往来があるからいかにも大変そうだ。 思わず腰を上げ、お婆さんに近寄る。 「良かったら荷物持ちましょうか」 ネコのお年寄りらしく、目が細くて皺が寄った顔に白髪。猫耳は艶のない白毛が多い。 何百歳なんだろうか……。 五百歳以上とか、ソレぐらいかもしれない。 お婆さんは目をしょぼしょぼさせ、もごもごしながら悪いね、とか助かる、みたいな事を言ったので私は笑顔を作ってチェル達の方を向いた。 2人は、笑いながら追いかけっこをしている。 もう大丈夫だ。 「すぐ戻るから!」 私はそういって手を振った。 *** 広場の反対側は、古くからある住宅街が広がっている。 いい感じに古びた煉瓦作りのアパートに、ペンキのはげかけた木戸。 塗り直しされたばかりのような小さな家の前には、子供用のバケツや縄跳びなんかが無造作に転がり、石畳には無数の白墨アート。 半分崩れかけの壁にはカラフルなペイント。 そこで私は―――迷子になっていた。 ……いや、ちゃんと道は覚えていたはずなんだけど。 お婆さんの家まで荷物を届け、…幸い、恰幅のいいお母さん!なネコが迎え入れてくれ、お茶でもどうかというのをお礼を言って断り……。 それなら、と頂いた飴を握ってニヤニヤしていたら……道に迷ってしまったわけで……。 大規模な市が行われているという事もあり、ほとんど人は見かけないし、時折見るのは迷子か探検にやってきた風の観光客。 道を訊いても、明るく「わからない!」と返されたりして……。 いいのか、ネコって、それで……。 物売りがいればそっちで訊く所だけど、みんな市場の方へ出張してしまっているらしく全く姿が見えない。 時折目にする人は、妙にせかせかとした足取りで通り過ぎ、とてもじゃないけど道を訊くような雰囲気ではないし……。 市場の目前まで出たものの、道路の真ん中に工事中のまま放置された場所があったために迂回する。 ああいう工事現場は、道路が陥没とか水道管が破裂以外の要因の可能性があるので、近づかない方がいいそうだ。 魔法が関係してるかもしれないとか……。 難しい。 塗りつぶされた道路標識をむなしく眺め、左右を見渡すと女性2人組の姿が目に入った。 近寄ってみると、なんと片方はネコではなく、もう片方は女性でもなかった。 褪めた金髪に角が二本で二等辺三角形の耳の長身の女性と、黒髪に頭に包帯を巻いた男の……ヒト……。 2人とも似たような服装をしていて、立場に差があるようには見えない。 おまけに……首輪も見えない。 その事に気がついた瞬間、心臓が大きな鳴った。 2人の関係って、何だろう。 ヒトが堂々とあんなふうに歩くのはやっぱり危険だから、隣の人は御主人様…なんだろう。 けど、男のヒトにはそういう暗さが見えない。 むしろ、なんだか……。 だとしたら、もしかして……そうなのかな。え、っと、でも……だとしたら…… 冬の寒くて乾いた風が吹きつけ、妄想から立ち直る。 凝視する私に気がつき、不審そうな眼差しを向ける2人の視線に頬が熱い。 私は赤面して謝りさっきの道を戻り、角を曲がり……更に道に迷った。 更に寂れた建物に人の気配がない。 窓から何か噴出したように紫や黒に染まった壁。 ガラスの割れたまま放置された窓から僅かに見える室内は、壊れた家具が散乱している。 一体いつから干されていたのかわからないくらい黒ずんだ洗濯物。 張り紙がベタベタと張られた建物の横には干からびた……。 たしか、ここの辺は再開発地区……だったと思う。 古い所なので、看板の大半は日で晒され文字が読めないし、石畳も所々朽ち果て植物が生えていた。 建物の大半も取り壊し中か、廃墟としか言いようのない惨状に目を背け、私は周囲を見渡しやっと見覚えのある物を見つけた。 街の東側にある鐘楼。 鐘楼へ向かえば、市場から更に離れてしまうのは百も承知だけど、道がわからない以上、仕方ない。 迷ったまま、このあたりをうろつくのは嫌だった。 すぐに陥没し苔むした石畳に足を取られてこける。 手の平がじんじんとするのを撫で、立ち上がる。 早く、ウチに帰りたい。 足元に影が差すのは、俯いてるせいだ。 「お嬢さん、どうしたんだい?」 背筋を伸ばして正面を向くと、灰髪猫耳のお婆さんが居た。 住民第一号を発見!というナレーションが脳裏に蘇り、何故か少し笑えた。 「こんにちは。すみません、市場への道を教えてもらえませんか?」 お婆さんは、焦点の位置がわかりにくいくすんだ色の瞳でこちらを見た。 「綺麗な黒髪だねぇ。染めてるのかい?」 「いえ、違います。地毛です……あの、市場への道を教えていただけませんか?」 もしかしてボケてるのかもしれないと、ちょっと不安に駆られる。 「ああ、いいよ。こっちだよ」 お婆さんは、体に見合わぬ力で私の腕を掴んだ。 反射的に振り払いかけるも、腕が全然動かない。 ……ネコだからかなぁ……お年寄りなのに、やっぱり私より力が強い。 ほとんど引きずられるようにして、見知らぬ区画を突き進む。 ……私、思うんですけど、このお婆さん完璧にボケているような……。 どんどん鐘楼が遠ざかる。 「あ、あのですね、すみません、迷っている私が言うのもなんですがこの道はちょっと違うような気が…するんですけど……」 腕を掴む手の力を抜いてもらおうと、地味に努力している私にお婆さんは僅かに指の力を緩めました。 「家に孫がいるからね、アレに案内させようと思ったんだよ」 「そ、そうですか!すみません。ありがとうございます!」 疑った自分が恥ずかしい……。 うろたえる私を気にする様子もなく、お婆さんは歩を進める。 いや、でも孫の人に案内してもらうのも悪いし、地図とか描いて貰えれば……。 「ここだよ」 着いたのは、他に比べれば比較的マシ…という風なアパートの一階。 窓は目張りがしてあって、中は見えない。 ひび割れた階段を上り、鍵をあけて部屋にお邪魔するとひどく生臭い。 生ゴミ出し忘れだろうか。 壁紙が剥げた部屋に古びたテーブルと椅子。 部屋の隅にゴミが積み上げられている。 お婆さんは気にする様子もなく奥の部屋への扉を開く。 マネキンがチラリと見えた。 布らしき物がぶら下がっているなー…と思ったのが先か、強烈な異臭に後ずさりしたのが先か。 思わず口元を押さえる。 「あの――お孫さんは?」 こんな臭いの中、人が居られるとは思えなかった。 お婆さんは私の前に立つと、口元を歪めた。 黄ばんだ歯に、驚くほど赤い舌。 身を翻して部屋から飛び出そうとしたけど、ウサ耳を引っ張られたたらを踏む。 振り返れば、先程までの老いた姿は無く、赤と黄の毛をしたネコは狂喜に爛々と輝く瞳に真っ赤な口を開き、べろりと舌なめずりをした。 背中にべったりとした汗が噴出す。 掴まれた腕を振り解こうと身を捩ると、鋭い痛みが走り、袖がザックリと裂ける。 更に鉤爪が襟首に突き刺さり、首を締め付けられ頭が白くなった。 ……マズイです。超マズイです。 不意に首から手が離され、私は噎せながら床に膝をつく。 喉の奥に胃液の味がする。 「絞め殺すと、皮が汚くなるからな」 力の抜けた私の両手掴み吊るし上げるとネコは荒い息を吐いてしばらく様子を伺い、それからおもむろに顔を寄せてきた。 ざらざらとした痛みと生暖かい感触が頬を舐める。 「柔らかい」 ゴツンという音は、腰骨がテーブルにぶつかる音。痛い。 荒い鼻息に息が詰まる。 ねちゃねちゃとした唾液が頬を伝う。 臭い。 死ぬほど生臭い。 キモイ。 肩甲骨に当たるテーブルが痛くて堅くて冷たい。 調子に乗って更に体を押し付けてたので、勢いをつけて足を振り上げる。 一瞬の間のあと、物凄い悲鳴。 拘束が解けた。 ネコは股間を押さえて床に転がったので、痺れる指先で隠しに入った防犯用ベルを投げつける。 ベルはネコの頬に当たると同時に凄まじい音量の警笛を鳴らし始めた。 即座に踏み潰され音が止まる。 あと、なにか 恐怖で痺れた頭を必死で巡らせ、渡されたばかりのハンカチを取り出し床に叩きつけると、あっという間に部屋の中が真っ白になった。 煙幕だ。 視界を奪われた狼狽と怒りの声に押され、テーブルにぶつかり床に倒れこむ。 ネコが怒りに任せて家具を叩き壊す音に竦みそうになる体を叱咤して、立ち上がらずに四つんばいで扉があるはずの方へ向かうも、脇腹に衝撃。 痛みで目が霞む。 ウサ耳と髪を掴まれて足が宙に浮く――ブチッという音と共に耳が引きちぎれた。 そのまま床に落ちた私が体を丸めると同時に、焼けつくような眩い光が重なる。 飛び起きて外へ飛び出そうとするも、ガラスが破られる音に慌ててテーブルの下に潜り込む。 「確保しろー!!!」 「シャミ・セ! 連続女性殺害容疑、及び公務執行妨害ぐっワッ!」 「魔法無効符を使えッ!」 ドタドタという騒がしい複数の足音と罵声が重なる。 焦げた臭いとイヌとネコの吠える声。 体を丸めたままやり過ごし、頭を抱えて心の中で百まで数える。 頭を抱えた腕がガタガタと震えててるのがわかった。 音が収まらないので更に三百まで数える。 やっと視力が戻り、白煙も完全に消えた室内をテーブルの下から覗けば、スラックスの足が三本。 ブーツが二本。 ブーツの上のズボンは見覚えのある制服だ。 確か……。 「被害者は?ウサギの女性が居たはずだ」 テーブルの下を覗き込まれ、スーツ姿の青い眼のダルメシアンと目が合う。 差し伸べられた手を首を振って、頭をぶつけないようにしながらテーブルの下から這い出ると、手錠を掛けられ猿轡までされた赤黄のネコが目に入った。 所々焦げたり毛が毟られたりしてるようだ。 ……考えてみればコイツ、あまり性差の無い服とはいえ女装したままだし。 このまま護送されるんだろうか。 幸い気絶しているのか目は閉じられたままだけど、警察のネコが警戒したまま様子を窺っている。 引き攣れた声でダルメシアンにお礼を言うと、黒い斑のある尻尾がパタパタと振られた。 「無事確保、搬送願います」 無線…だろうか。 肩掛け鞄みたいなのから線で繋がった受話器っぽいのに向かい、制服のネコが告げる。 ……怖かった。 膝、笑ってるし。 「変身、変装の名手だ。脱走に注意しろ。それでル・ガルで女性警察官が被害にあっている」 「イヌと一緒にしないで欲しいね。今回は特例として受け入れしたが、今後このような機会があるとは……」 イヌとネコの警察官同士は、あまり仲が良くないらしい。 ハリウッドなら、ここで手を握り合う所なのにとぼんやり考える。 膝が震えているのを叩いて、周囲をもう一度見回す。 スーツのネコが私の肩に手を載せた。 すこし、ほっとして見上げるが、ネコはこちらを見ずに他のネコの方を向いている。 ……それなのに、なんで他の人達は、そんな目でこっちを見ているんだろう。 無意識にウサ耳を撫でようとして、それが無い事を思い出す。 少し離れた所にある床に踏みにじられた黒くて、長いもの……。 凍りついた私を余所に、眉間に皺を寄せたダルメシアンが隣のシェパードに向かって口を開く。 「先輩、こういう場合、どうなります?」 「どうもなにも、飼い主を探して居なければ、しかるべき…あ、いや」 「ニャ!?王都まで持っていけば、フローラ様が高額で買い取ってくれるニャ!」 制服のネコが興奮した口調でイヌの会話を遮る。 「それは職権乱用でしょう。そもそも見たところ落ちたてでもないようだし」 「首輪もないし、ペットじゃないんじゃないの?」 「ノラ?それにしては―――」 「どちらにしても、証拠品として当局に収容ですね」 「ボーニャス確定♪」 ……冗談じゃない。 肩に手を載せたままのネコは私を見ない。 こちらを向いているのに、私を見ているのは…誰も……いえ、シェパードの蒼眼。 サフに似た澄んだ空の瞳。 私は眼を落として痛む腕を撫で、小さく溜息を吐く。できるだけ無力で気力がないように。 私が逃げるとは思っていないらしく、会話に熱中して誰も注意を払っていない。 そしらぬ顔で様子を窺うと、開かれた扉を背にした制服ネコは、会話に加われず興味なさそうに体を左右に軽く揺すっている。 私はもう一度、足を撫でて震えが止まった事を確認した。 身を捩って肩に載せられた手から逃れる。軽い抵抗。 ビリッという布が千切れる音と、ネコの驚愕した声。 爪が刺さってたのか。 扉に突進する私を抑えようとするダルメシアンに、シェパードがさり気無くぶつかった。 思わぬ助力に注意が向きそうになるのを堪えて、私は扉の前であっけにとられたままのネコにダイブした。 さすがのネコも驚き体をそらし、隣のネコにぶつかる。 道路に勢いよく転がり、全身が痛い。 手を使って立ち上がり、近くの路地に飛び込みそのまま黒と橙の街を走り抜ける。 将棋倒しに巻き込まれたスーツネコが叱咤の声を上げるも、巨体のネコに押しつぶされ身動きが取れない。 タイミングを逃したダルメシアンは埃と血のついた尻尾を恨めしく見つめた。 上官たるシェパードは、興味のなさそうな表情で夕暮れの街を駆け抜けるヒトメスの後姿を見送っている。 「先輩、こういう場合は――」 「犯人は無事確保できてるから、問題ないな。今回の被害者は不在だが、これだけ状況証拠もあるわけだし」 これで国に帰れると、内心安堵の息を吐くイヌ2人。 無論、それぞれ恋人や、どういうわけかついて来てしまった人物の事をを考えているわけだが。 「ボーナスがああああ!!」 「コラはやくどけ!重い!!」 三度角を曲がって、足音が追いかけてこないかどうか耳を澄ませ、どうやら大丈夫そうだと判断して私は体を折った。 思い出したように腕が痛い。 手首から血が滴りつづけ、白いコートは猫毛と埃と血で汚れてしまった。 ボサボサの髪を手櫛で整え、慰みにいつもの柔らかい感触を握ろうとして気がついた。 そうだ。ウサ耳もないんだ。 市場へ戻れば人が増えるから、今のうちに何とかしなくちゃ。 ひりつく頬を擦って気合を入れなおす。 これがフード付のコートだったら良かったんだけど……まぁ、考えても仕方ない。 周囲を確認しつつ路地を進んでいくと、少し開けた場所に出た。 馬車の停留場だ。 近隣の村や町を行き来する馬車や、街の中を走る辻馬車、それに市場へ売りにきた荷馬車が置かれている。 幸い、持ち主たちは市の方にいるようで人は少ない。 管理人や警備員のが巡回して気のない会話をしているのが目に入り、路地に引っ込む。 ……ここからなら、裏道通れば家に戻れる。 見つからないように注意しながら進んでいくと、聴き覚えのある歌が聞こえた。 声の方向に、それに予想もしなかった人物が居る。 さっきのカモシカとヒトだ。 二人はこちらを見て、一瞬動揺したようだった。 そりゃ、そうだろう。 だって、ヒトに会うなんてそうそうある事じゃない。 私は引き攣った顔に、どうにか友好的な笑みを浮かべて―――
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太陽と月と星がある 第二十話 「ただいま帰りました。…チェル?」 冬服が心底欲しい今日この頃、買い物から帰ると、なにやら楽しげな声。 散かった玄関を片付け、荷物を抱えなおし居間を覗くと可愛らしい耳と尻尾の小さな女の子と目が合いました。 言うまでも無くチェルですが、家の中だというのに頬を赤くしふわふわの髪の毛がはねています。 「おかえりーあのねぇ」 てててっと、細い尻尾を宙に浮かせ駆け寄ってくる姿は、毎日見てもあきません。 かわいいなぁ……思わず頬を緩ませていると、首筋に変な感触と共に生暖かい息が吹きかけられました。 「食事にします?お風呂にします?それとも、ワ・タ・シ?」 ……キモイ。 「あー…ジャックさん。お久しぶりです。おかえりなさい」 「え、何その反応。なんでそんな殺伐としてんの、オレ泣いちゃうよ?…せっかくお土産買ってきたのに」 いきなり床にのの字を書き始めましたが、無視して食材を台所に運び込み片します。 んー……通る所でしゃがまれると邪魔です。 てこでもどきそうに無いから、迂回しよう……。 チェルが出しっぱなしにしたお菓子も戸棚に仕舞い、特売の瓶詰めを一まとめにして片して。 青物、高いし。キツネの国からの輸入品て、結構高いんですよね。漬物とか、味噌とか醤油とか。 節約してるけど、お金無いし…御主人様にねだるわけにもいかないし。 いえ、ねだるの禁止というわけではありませんが、……そうやってお金を掛けさせたら、私がいる意味がないわけですから。 私がいた方が、お金がかからなくてお得だって。 ……あ、 「ジャックさん。言い忘れてたんですけど」 「なになに?感動の再会?」 パブパブとスリッパを鳴らして駆け寄るジャックさん。 旅装は埃まみれ泥まみれで妙に煤けた様子で、以前はふんわりしていた毛皮も薄汚れ、なんか生臭い……。 ああ、なんか夢に見そうです。 「こないだまでのお給料、まだ貰っていないんですけど、いつくれますか?あとお風呂入って下さい。服、出しておきますから」 ちゃんと冬物出して用意してあるし。 だからのの字かくのやめてください。邪魔だから。 「港町行ったら、ロリキツネが居てねぇ。袴越しの太腿が細くってねぇえへへへへへへ」 そういって、生ニンジンをボリボリと齧り終えると口元を拭って肉抜きのシチューをパンで拭って頬張ります。 チェルは嬉しそうにその挙動をいちいち真似するのが、……可愛いけどやめて欲しいです。 「キツネの国は入れなかったんだけどね!関所で荷物没収されそうになってさあ~このしょっぱいカンジが帰ってきたーってカンジ!」 「いやなら食べなくていいですよ」 お皿を片そうと縁を掴むと、慌てた様子で引っ張られました。 「もうーキヨちゃんの テ レ 屋 さ ん ☆」 久々に聞くと、一層ウザ…いえいえ。 「あとねぇましゅつんったよ。ショタいニャンコとかねぇ、ぼいんぼいんとかねぇ。塩ぽいけどいいよねあそこ。海草美味いし」 ぼりぼりむしゃむしゃ と、口の端から食べかすをこぼしながらひっきりなしです。 喋りながら食べるので所々何を言っているのかわかりません。 あまりの勢いに食欲をなくしたのか、サフは良く動く口をぽかんと眺めたまま動かないし。 「ジャック、あーんっ」 焼きケールを差し出すチェルに感動の面持ちのジャックさん。 「ちーちゃんやさしいいいいいいオレ大感激ッ後でお小遣いあげるからね!」 「やったぁー!ジャックだーいすきっ」 御主人様が何というかと思い少し観察しましたが、御主人様はぼんやりとした様子で杯を重ねるだけでまったく手をつけていません。 なんだか不安になり、自分でも冷めかけのシチューを食べてみましたが、多分いつもと同じ味です。 しょっぱいのか……ちゃんとレシピ通り作ってるはずなんだけど……。 御主人様の調子が悪いのか、私の舌がおかしいのか……。 真剣に考える私とは真逆の、とてつもないハイテンションの二人を見ていると、なんだか頭が痛くなってきました。 「んでぇー南をぐるーっといって、あータコもいいよ。タコも吸盤がこう、きゅううっって」 チェルを腹に載せ、語り続けるジャックさん。 立て板に水とはこのことかと、感心するばかりです。 チェルはお土産の人形に夢中で話を流しているのに気がついているのか、いないのか。 まぁ、聞かなくていい内容なので、なんら問題ありませんが。 サフはお土産の変な柄のシャツを枕に、やっぱりお土産の骨付き肉を齧りながらパタパタと尻尾を振りながら寝そべり、ジャックさんに撫でられるままです。 ちなみにジャックさんの頭は私の膝の上にあります。 重いです。 ちなみに肩には御主人様が持たれかかり重いです。 御主人様が片手でもてあそんでいるのは持っているのはジャックさんからもらった謎の箱です。 カラフルな包み紙が恐怖を誘います。 なんか、ああいうのみたことありますよたしか……娼館の前とかで売ってるの。 「カモシカって、マダラ多いって知ってたけど、ホントに多くってさぁーびっくりしたよ。帽子被るとヒトみたいでさ」 御主人様はやけに眠そうです。 本格的に冬眠でしょうか。 しかしアレです。 眠そうな御主人様も素敵です。美形です。あまりにカッコイイので、直視できないぐらいです。 もう少し体を寄せてもらえるといい感じなのですが、あいにく私の膝には錘があるので動けません。 しかしいい感じです。 体を寄せてゴロゴロふさふさしているサフは暖かいし、チェルはジャックさんのお腹で涎垂らして寝ているし。 御主人様は優しいし。 ジャックさんはうすらやかましいですけど。 「所でジャックさん」 「なんだいキヨちゃん」 黒に見えるような深緑色の瞳はお酒を呑んだせいか、ちょっと潤んでいます。 まぁ、好き勝手旅行してきたのは間違いないんでしょうけど。 お風呂入って毛が綺麗になったのでよく見てみれば、少し痩せたような気もします。 ネコの国は平和なので、国中どこへ行っても概ねどうにかなるそうですが、他の国はそれなりに物騒らしいとか何とか、言われた事があった気がします。 何か耳が所々はげてるし、薄っすらと怪我とかしてるみたいだし。 チェルもサフも嬉しそうだし、御主人様の友達だし。 今日は急すぎて普通のしか用意してなかったわけだし。 「……明日の晩御飯、何が食べたいですか?頑張りますよ」 「キヨちゃん!」 がばっと体を起こしました拍子に床に落ちたチェルはふにゃふにゃ言いながら目元を擦っています。 サフが盛大に溜息をついて突っ伏ました。 御主人様は欠伸をして、私に持たれかかってきます。重いです。 床、絨毯敷いてありまるので、つっぷしても痛くはありませんけど…このサフやチェルが引っかいて尖った所がちくちくして……。 ……コタツ欲しい。 正確に言うと、コタツ用敷布団……アレなら、ちくちくしないし……。 ていうか、御主人様、尻尾癖悪いです。重いです重いです。 「あのーキヨちゃん、お兄さんの話しきいてる?」 垂れた耳が目の前でぷらぷらしています。 ……耳の中も汚れています……お風呂だけじゃ取りきれないのかなぁ……。 「明日、うどんでいいですか?」 「せめてフォークで食べれるものにして!ていうか、ヌカ喜び?オレ歓迎パーティー的なものは?」 御主人様の絡み具合が酷いので、なかなか下から抜け出せません。 御主人様重いです……。 ジタバタしているとジャックさんが引っ張り出してくれたので、何とか座りなおします。 スカートが乱れていたので直すと、舌打ちされました。 ……って、なんでしなだれかかってくるんですか、御主人様。重いです重いです。 気がつくと、またもや床に近い位置です。頑張れ、私。 「そういえば、キヨちゃんの分のお土産、キッチンに置いてたんだけど、気がついてた?」 寝惚けて抱きついてきたチェルを膝の上でモフリながらジャックさんが手招きしてきたので、御主人様ごと何とか近寄ります。 「オミヤゲ?」 洗ってようやくこざっぱりしたので、触られても不快ではありませんが、頭を撫でるのはどうなんでしょう。 「うん」 頷くと、石鹸の匂いがほんのり漂い、サフがくしゃみしました。 「ジャック、キヨカの石鹸使うのやめてよ」 「いや、アレ、別に私のってワケじゃ……」 頂き物で、もったいないし…色がパステルカラーだから御主人様は絶対使わないし、サフは毛皮用のだから違うだけで…その。 言いかけた私を無視しジャックさんはサフに飛び掛り、チェルごともふもふします。 「ほーらフローラルフローラル」 「わぁぁんっむかつくっおっさんなのに!おっさんなのにー!」 悶えるサフの姿はかなり面白いのですが、こちらも訊きたいのでなんとかジャックさんを振り向かせます。御主人様、重いです。 「オミヤゲって、私に?」 長いヒゲが垂れ、鼻がヒクヒクしています。 ……触りたい。 手の平でぐっと押したいです。凄いプニプニしてそう。 「……ヒトって、旅のお土産買って配ったりしないの?」 「しますけど」 てっきり、私の分は無いと思ったんですけど。 だって、私……ヒトだし。 「なんかねぇーゾウの香辛料屋行ったら調合済みカレー粉ってのがあったんで、もしかしてこ」 「尻尾邪魔どいて邪魔邪魔じゃまッ重いッッ!!!」 *** 「りぴーとあふたーみー お兄ちゃん」 「お兄ちゃん」 「大好き」 「大好き」 「お兄ちゃん 大好き☆」 「おにいちゃんだいすき」 「何かちょっと棒読みだったり目が死んでるけどささいなことさ。いざゆかんめくるめく兄妹あっやっやめてぇっみみはだめみみはらめぇっっ」 御主人様がジャックさんを締め上げていますがなんら問題ありません。 というか、眠いなら無理しないで寝ればいいのにと思うのですが。 御主人様の行動は謎に満ちています……。 一方私は包み紙を抱きしめ、妙に凝った字で書かれた説明書の解読に努めます。 カレーです。 念願のカレーです。 これでカレーライスとかカレーパンとかカレーうどんとかカレーコロッケとか出来ちゃうわけです。 粉なのでちょっと要領違うかもしれませんがなんら問題ありません。 カレーです。 包装の上からでもわかるカレー臭です。 見紛う事なきカレーです。 「……くさい」 サフが不満そうなので、防水を兼ねて保存用のビンの中にしまう事にします。 きゅっとフタを締めればにおいません。 カレーです。 念願のカレーです。 仕舞おうとした私を、チェルがキラキラと輝く瞳で見つめています。 「あ、これ、このままじゃ食べられないから、ちょっと我慢してね」 「えー… 」 物凄く嫌な予感がします。 チェルはジャム一瓶空にした前科があるので油断できません。 「我慢してね」 「うん!」 念の為に、踏み台つかっても届かない所に隠しておきましょうか。 しかし……大の男が台所で戯れるのはやめて欲しいものです。 「キヨちゃぁぁぁんたすけてぇぇぇぇ」 みちみちみちと締め上げられるジャックさん。 サフは呆れてお風呂に入りに行ってしまいました。 御主人様も眠いならやめればいいのにと思うのですが…きっとジャックさんが帰ってきたのが嬉しいんでしょう。 「ほらがっくん、キヨちゃんも喜んでるからやめてぇぇえぇぇ!」 御主人様がじろりとこちらを見ました。 半眼です。 「オマエ、食い意地張ってるな」 今更、何をいってるんだろう。 無言で見つめ返すと、御主人様は目を逸らし尻尾の拘束を解きました。 すんすんいいながら私に飛びつくジャックさん。 ……重い。 「うーんここら辺に肉がいいカンジについたね!あっもしかしてちょっと成長してる!?ウソ!よしもっと育つように狼国秘伝のマッサージ術を駆使して進ぜよう!これはねぇーなんだっけ精霊の加護を取り入れるための祭儀を応用したもので、ボインボインで相手を悩殺して裏切らせないようにするんだって凄いよマジで」 ……台所の床は、居間の床よりも、冷たい。 ジャックさんの重みで潰れる私の視界の隅で、瞳を欝金色に輝かせた御主人様が大きく尻尾を撓らせているのが見えました。 *** 翌日 「キヨちゃぁぁあん、寒いよー寒いよーおかしいよね、ここネコの国なのに」 歩きながらすがり付いてくるジャックさん。 ジャックさんは私よりも横も縦も長いので、通行の邪魔な事この上ありません。 「あ~キヨちゃんパイ買ってこう。ミニスカ!ミニスカ!アンニャー」 駆け出すジャックさんの後頭部には、床で寝たせいで変な寝癖がついているのですが気がついていないらしく、跳ねる度にふわふわと上下しています。 まぁ……この世界の男性はおおむね毛なわけですから、ああいう寝癖が付いている人は少なくありませんが……。 ……時々、ハサミで切りたくなります。 ……バリカンでも構いませんけど。 虎刈りとか、モヒカンとか。 結局泊り込んだジャックさんは、昼過ぎになって一度も自宅に戻っていない事と、荷物がすべて宅配されてくる事を私に告げてきたので、 こうやって向かっているのですが、何かと購入したり顔見知りに挨拶をしたりで一向に進みません。 ……まぁ、一応クリニックの方は掃除していたのであとはジャックさんの居住部分だけだし、そもそも診療は明日からだし、そんなに気にしなくてもいいわけですが。 ぼんやりとお店の前で待っていると、ジャックさんが超ハイテンションでお店から飛び出してきました。 「ちょっと!キヨちゃん聞いたよ!アルバイトの話しあったんだって!?」 両手に抱えたパイの包みから、ふんわりといい匂いが漂います。 ここのリンゴパイ、絶品なんですよね。 「何で断っちゃうのさぁぁあーお兄ちゃんミニスカ見たかったよ!接待されたかったよ!」 そう言って、パイを抱え込みながら悶えるジャックさん。 ミニスカミニスカと連呼しないでほしいのですが。 あ、今凄い目で見られました。 他人のフリ、したいです。 クリニックの裏手に回り、鍵を開けると埃と、ほんの少し篭ったニオイがしました。 「ちゃんと生もの処分しましたよね?私こっち側入ってませんから、関知していませんよ?」 「もっちろーん。防犯はバ……あーれー?ごめん、ちょっとパイ持って」 不意にジャックさんは真顔になり、私にパイを渡すと耳を半分ほど立ち上げ周囲をきょろきょろと見回しました。 「クリニックの方だけだよね。掃除したの」 「もちろんです。魔法陣崩したら困るって言っていましたよね」 ジャックさんはそうは見えませんが、ウサギだけあって魔法使いです。 クリニックやその周りには、防犯防火の魔法陣が張られ、室内は冷房用の魔法陣が設備されている……らしいです。 私にはサッパリわかりませんが、魔法に敏感なタイプの人はクリニックにはいると気分が悪くなってしまう場合もあるとか。 御主人様もその一人で、出来れば近寄りたくないと以前漏らしていました。 近寄りたくないって……ただでさえ、異種族っていう事で敷居高いみたいなのに…… ……本末転倒という気がしますが……いいんでしょうか……。 それはともかく、ジャックさんは宙に向かって指をくるくるし、首を捻りながら薄暗い室内に足を踏み入れました。 「そこで待ってて」 意外と真剣な口調で言われたので仕方なく戸口で待っていると、隣の建物から喫茶のマスターが出てきたので軽く挨拶を交わします。 マスターは、短い毛並みにアッシュグレイに薄く黒い縞の入った渋い中年ネコ男性です。黒エプロン姿がよく似合っています。 あの喫茶で出している自家製ビスケットはサックリしていて絶品なのです。 マスターは、最近コタツを新たに購入したことと、猫井のコタツの類似品が出回っているので、全体的にコタツの価格が急落中らしいという話を披露してくれました。 ……ちょっといい事を聞きました。 深く聞こうと、色々尋ねている最中、会話を遮る甲高い音……。 耳を澄ますと室内からドタンバタンという騒がしい物音と、ジャックさんの悲鳴が聞こえ……聞こえない事にします。 ……マスターについていって、美味しいミルクティーを味わい、常連さんのネコのお年寄り方とコタツトークで盛り上がっていると、ボロッボロになったジャックさんが店内に現れました。 ドリフみたいな姿にお客さん達とマスターは言葉を失い、目を逸らします。 ……ネコだなぁ……。 「どうしたんです?」 「……何かねぇ…紳士が……オレの秘蔵本をね……」 意味不明のことを呟きながらしゃがみ込んでしまったので、仕方なくパイとジャックさんを置いて偵察する事にします。 薄暗い室内をまずどうにかすべく、窓を開け放つと冷たい風が吹き込み、篭った空気が一新されます。 続いて清掃具入れから箒を取り出し大雑把に床を掃き、散乱した家具や調度品を元の位置に戻し……寝室とかも見たほうがいいんだろうなぁ……。 恐る恐るノブを回すと、まず乱れたベッドと、散乱したピンクの雑誌が見えました。 とてもじゃないけど、一ヶ月以上留守にした人の寝室とは思えない乱れっぷりに目を見張り、やや緊張しながら箒を握りなおし、油断なく室内を見渡すと……隅っこでごそごそとしているのは…… 「ちょっとジャック…兄さん!」 めそめそしながら紅茶にジャムを入れているジャックさんに詰め寄る私。 「動物居るのに旅行に出かけるって、サイッテーじゃないですか!」 私の腕の中でふわふわのトトロもどきが小さく暴れるので頭をよしよしして慰めます。 常連のお年寄り達はトトロもどきを認めると、毛艶がどうとかそれぞれ勝手に批評していますがそれは置いておいて。 「ナニソレ」 ティーカップにスプーンを突っ込んだジャックさんがきょとんとしているので、私は口を閉じ大人しく抱かれているトトロもどきに目を落としました。 私も、御主人様が拾ってそれから脱走したトトロもどきがジャックさんの家に住んでいたとは夢にも思いませんでしたが……。 「知らない?」 「知らない」 「……ごめんなさい」 もふもふが体をこすり付けてきたので遠慮なくもふり、マスターから差し出されたクッキーを半分に割って与えると、トトロもどきは嬉しげな鳴き声を上げました。 「いいけど。オレはあれよ?紳士がめっちゃ寛いでたから」 「意味わかんないです。問題はこの子です。窓も戸も閉まってたのに何で居るんですか」 「……さぁ?つか、知り合い?」 でっかい顔傷ウサギが首を傾げても可愛くないのですが。 「……まぁ、一応……でも野良みたいですよ。このコ、飼ってないなら、一体どこから?」 もふもふと体をこすり付けてきたのでぎゅうぎゅうと抱きしめると長い尻尾がくるんと体に巻きつきました。 これはいい防寒です。ふかふか。 「あー…もしかして天井裏から?隙間あるし、でなきゃ2階からかもねぇ」 「は?」 そんな忍者じゃあるまいし。 しかし意外な事にマスターが頷きました。 「確かに、鳥なんか潜り込んだりしますね」 「そういうものですか?」 「そういうものです」 「そうですか」 「え、ごめん。何でそこで納得するの?おかしいよね?」 ジャックさんがスプーンを振って声高に主張するのを聞き流しつつ、私はマスターの煙突掃除の苦労話に相槌を打ちました。 ジャックさんちはビルの1Fですので2Fとの間に空間があります。 一度天板を外して魔法陣を書き込んでいるのを見せてもらった事があるので、そこがそれなりのスペースを持っているというのはわかります。 私は頷き、トトロもどきの頭を撫でました。 つやつやさらさらもふもふです。 アレからどうしているのか心配でしたが、元気にしていたようでよかった。 床に降ろすとふわふわした体を擦りつけ、親しげな鳴き声を上げてくれたのを見る限り、この子も私の事を覚えていたようです。 ……もふもふふわふわ。 しゃがんで撫で繰り回していると、マスター達が目を丸くしてこちらを見ていたので、私はこほんと咳払いをして、ジャックさんの服を引っ張りました。 「帰りますよ!すみませんお邪魔しました。後で支払いに来ますので」 「今のいいよーいいでしょーこれ妹!オレの妹!アハハハハいいだろーこれでミニスカナースなんだぞー羨ましいだろー」 意味不明の事を言っているジャックさんを引っ張り喫茶店を出ると、宅配用の馬車が通りを来るのが見えました。 取り合えず大量の荷物を受け取り、大量の郵便物の仕分けをしている最中もトトロもどきはひょこひょこと足元に纏わり付いて離れません。 ……和みます。 ジャックさんは階上の家賃回収と、中々忙しいです。 一通り分別し終え、寒いので窓を閉め、紅茶を入れる頃になってジャックさんが戻ってきました。 取り合えず大量の請求書を渡します。 公共料金や、薬品などの請求書に加えて、旅行先で何をしでかしたのかネコの国以外からも請求書が来ています。 最初は鼻歌交じりに開封していたのが、だんだんテンションが下がってきました。 チラリと見えた数字は、まぁ常識の範囲内でしたが、なにせ枚数が枚数です。 私は虚ろな目になってきたジャックさんを放置し、二ヶ月前のカレンダーを剥がしました。 そうか…そろそろ年の瀬かぁ……訊く所によると、大晦日は年越しに鐘が鳴らされるそうなので出来ればお蕎麦を用意したい所です。 それからコタツも。 年末はどこもお休みになってしまうでしょうから、その前に色々買いだめて置かなくてはいけません。 私は凍り付いているジャックさんを振り返り、内心溜息をつきました。 あの様子では、お給料や、前借なんて期待できそうもありません。 となれば、他で稼ぐしかないわけで。 「あのージャックさん」 「おにーちゃん」 ……今夜はカレー今夜はカレー…あ、えーと肉なしなら問題ないかな。うん。 「お兄ちゃん、実はアンミャラでバイトしようとしたら反対されてしまって、良かったら口添えお願いできませんか?もちろん、こっちもサボりませんから」 どうせこちらでやるのは雑用だし、患者さんもほとんど来ないし。 「つーことは、ナースとウェイトレス?」 「そうなりますね」 どちらも制服なので、私服のことを考えなくていいし。 「こっちではお兄ちゃんで、あっちではお客様?」 「私、外でアルバイトするの初めてなんですが、……楽しそうだと思いませんか?」 お金が入るっていう事もあるけど、御主人様やジャックさんに助けてもらわなくても出来るって証明したいって、言ったら笑われるだろうから言いませんけど。 ……お金を貯めたい理由は他にもいっぱいあるし。 「まぁ、ちょっと時間厳しいかもしれないけどねぇ……おきゃくさま…・・・」 両手で請求書を握り締めジャックさんは無言で頷き、請求書の角をトントンと叩いて綺麗に重ね……首をかしげたまま動かなくなりました。 見ればぼたぼたと鼻血を垂らしています。 旅の疲れが出てきたんでしょうか。 ちり紙を取り出して鼻に押し込み、ソファーまで誘導して寝かせる間も何かブツブツと呟いています。 まぁいつもの事だし……。 濡れタオルを顔上に載せ汚れた部分を拭うとすぐ真っ赤になりました。 「問題は、髪の毛なんですよね。耳見えたら困りますから、結ばなくて済むぐらいの長さに切ってもらえると助かるんですが」 具体的に言うと肩より上くらいで。 耳が隠れるならショートでも構いませんが。 詰め紙が真っ赤になってしまったので新しいのに取替え、指に血がついたので手とタオルを洗いました。 冷たい水が手に滲みます。 ……手荒れ、治んないなぁ……。 「まだ寝てた方がいいですよ」 明日からの診療に備えてクリニック内の掃除に励んでいると、赤くなったちり紙を突っ込んだままのジャックさんがうろうろと歩き回り始めました。 薬品の入った棚を開けアレコレと調合を始めたので私は埃を立てないように箒をしまいました。 ジャックさんは本職だけあって手際がとてもいいです。 あっという間にクリーム色の軟膏を作ると、それをビンに移しフタを締め、処方箋を書きます。 「コレ、りっちゃんとこ届けてくれる?終わったら帰っていいから」 頷いて受け取ると、ジャックさんは安楽椅子までふらふらと歩いて、どっかりと腰掛け目を閉じました。 ……なんか、変な感じ。 「晩御飯、食べられますか?大丈夫ですか?」 指で丸を作ったから、大丈夫だと思うのですが……。 どうしちゃったんだろう。 私は寝室にトトロもどき用のベッドを作ってから、診療所を後にしました。 *** リーィエさんの部屋は、仕事場である工場の一室です。 こちらでは、落ちモノを扱っているそうで、外は有刺鉄線に危険を示す黄色と黒の標識が目に付きます。 落ちモノの機械に使われている鉄は、こちらで出来るものより質がいいそうで、使い道がわからないものや使えないものはこちらで分解され、ネジひとつから売られていくそうです。 いわゆるリサイクル工場……というのが、リーィエさんの説明でしたが……。 んー…以前通った際、教えられただけなので、中に入るのは初めてです。緊張します。 柵越しに思いっきり覗いてみれば、そこは下町の工場のような雰囲気で、所々焼き焦げのあるネコ男性が陽気に喋りながら廃材?を分解したり箱詰めしていました。 思いっきりお仕事中です。 ……どうしよう。 躊躇っていると、手ぶらのツナギ姿のネコ男性が目の前を通りかかったので、とっさに手を上げて注意を引こうと一歩踏み出した瞬間、 目の前に火花が散りました。 ガシガシと顔を擦る私の頭を撫でるリーィエさん。 うう…お借りしたタオルが信号機です。 「リー!湯沸いたから、使わしてやんな」 工場長さんの言葉にリーィエさんが立ち上がり、手を引っ張りました。 「立って、キヨカ」 私は頷いて立ち上がると、服からボタボタと垂れるカラフルな染料が地面に抽象画を描いています。 ……一体、誰が予想したでしょうか、アポなしで入ろうとすると警報装置が作動してタライが侵入者に炸裂するなんて。 ええ、標識をちゃんと見ていなかった私が悪いんです。 ええ、ちゃんとありました。 『無断進入禁止』って。 ……車…じゃなくて、馬車の事だと思ったんです……。 だって、普通…タライって……。 「しかし、ウサギの魔法は凄い。面白いぐらい光った」 とても楽しそうなリーィエさんに力なく頷く私。 カラーボールが炸裂する寸前、付け耳から物凄い光がでました。 何が何かわかりませんが、そのおかげでタライの直撃は免れたようですが……液体まではどうにもならず、全身が凄い事になっています。 私はウサギ耳をジャックさんから貰ったわけですから、ジャックさんが前もって何かしていたと考えるのが自然……なんだと思いますが。 多分、警報装置的な……だと思いますが……。 …一言、……言って欲しかった……。 ああ…靴の中までべちゃべちゃします……。 幸い、警報機の作動と光のおかげで、工場の人全員が見物にやって来て、その中でリーィエさんも含まれていたのでなんとか事情を聞いてもらえ、お風呂も貸してもらえる事になったのですが。 ……コレが落ちモノ狙いの泥棒とかだと、カラフルな姿のまま警察へ連行されるそうです。 まぁたしかに、抑制効果は見込めます……。 幸い、こちらで用意されている特別調合石鹸でならあっさり汚れが落ちるそうなので、それだけが救いです。 しかしリーィエさんがご機嫌です。 鼻歌交じりです。 「風呂場ココ。服はココで、この洗剤でないと落ちないので預かる。服は貸す」 排水溝の前で髪の毛と服の裾を絞る私に細かく説明してくれるリーィエさんのツナギにも染料が点々とついています。 「ごめんなさい。お仕事中なのに。服も、ありがとうございます」 頭を下げると、髪と耳からぽたぽたと垂れます。 「どうせ暇。納品先が空で、仕事にならない」 「…カラ……」 「王都の連中はコタツに入って、会社に出てこない」 お風呂場はなんというか、外です。 囲いがあり脱衣所は小屋なので、いいんですけど…意外としっかりしています。 結構、こういう事多いんじゃないかとチラリと思いました。 「あ…ごめんなさい。忘れてました。私、コレを届けに来たんです」 やっぱりドロドロの手提げの中から、何とか中は無事だった軟膏と処方箋を渡すとリーィエさんは少し驚いた表情を浮かべました。 「アレ帰ってきたの」 「昨日はい。診療は明日からですが。診療所にいますよ」 靴を脱いで逆さにし、靴下も脱いで絞ります。 ……足跡ついた。 情けない気持ちが表情に出てしまったのか、リーィエさんは顔を背け、肩を震わせ無言でその場を去りました。 ……寒いから、早くお風呂に入ろう。 奇妙な匂いのする石鹸で全身とウサミミと尻尾を洗い、躊躇いつつ脱衣所に置かれた服に腕を通すと、かなり気持ちが落ち着いてきました。 もう一度付け耳の位置を確認して、髪の毛を整えてと。 身長はリーィエさんの方が高いので、サイズも多少大きめですがそんなにおかしくは無い感じです。 ちょっとウエスト余りますが……。 意を決して脱衣所の戸を開けると、リーィエさんが満面の笑顔でした。 「ピッタリ」 「すみません。ちゃんと洗ってお返しします」 リーィエさんはぷるぷるを首を振ると、満足そうに頷き私の手を引っ張りました。 「せっかくだから、見学」 「いや……あの、」 促されるまま……靴まで借りて、工場内へ。 工場内では見た事のあるようなものや、まったく見当が付かないものが整然と並べられあるものは箱に詰められ、あるものは山積みになっています。 ≪火気厳禁≫ ≪魔法禁止≫ ≪落ちモノ注意≫ などという標語のような標識も沢山貼られています。 「こっちこっち」 手を取られ、引かれるまま中を進んでいくと、扉があり、そこを開くと一段高くなった座敷の上(畳ではない)の上にホワイトボードと……。 「コタツ……」 「企画室」 ……いや、なんか間違ってます。 沢山の座布団とかなり大きなコタツ。 ホワイトボードには「目指せ、ボーナスでマイコタツ!」とデカデカと書かれ、横に落書きがあったり。 リーィエさんは突っかけを脱ぐと、ぱたぱたと座敷に上がり、私を引っ張りました。 「ちょっと話そう」 尖った耳をパタパタさせ、瞳は煌いています。 ……私の負け。 座布団までお借りしてコタツに足を入れるとじんわりとした温もりが素足に伝わってきました。 一応お風呂入って温まっていますが、やっぱり暖かさの種類が違います。 「ここで、落ちモノの用途を調べたりする」 そう言いながら箱を引き寄せ中に納まっていたタイヤのないミニ四駆やリコーダーの真ん中だけや、テレビのリモコンのフタなど様々なものを取り出しました。 「種類を知らずに売ると足元を見られる」 あーなるほど。 私が頷くと、リーィエさんは満足気に頷き、ミカンをくれました。 ……なんでミカンがこんなに普及しているのか謎です。 ミカン農家の人達が農園ごと落ちたりしたんだろうか。……あ、でもミカンて江戸時代から普及してたんだっけ……。 「コタツはいい。人類の叡智」 うっとりした口調のリーィエさん。 普段はキリッとしている野性味たっぷりな彼女もコタツの前ではネコです。 ……仕事、いいのかなぁ……。 そう問うと、リーィエさんは悲痛な表情を浮かべ、肩までコタツに潜り込みました。 「コレが終わるまで、練習に行けない。ボーナスも出ない」 悲痛です。 私はテーブルの上に散らばった落ちモノを眺めました。よく分からない金属片、ピーラーの刃が無いもの。 ミカンの白い筋剥きを始めるリーィエさん。……そこに栄養があるのに。 「ゴミにしか見えないのに、売れそうなの探すのムリ」 ぽつりポツリと語るところによると、なんとこのガラクタの中から、こちらでも量産でき、売れる(売れそうではなく)モノを発見しなくてはいけないとか。 もちろん、失敗の方が多いので普段の業務が主体でも、それが出来ないと……。 「大変ですね」 二つ目のミカンを食べながら同情すると、リーィエさんはこっくり頷き、ミカンの薄皮を剥いて口に含みました。 「キヨカ、食べ方が大雑把過ぎる」 「リーィエさん、ちっちゃい子みたいな食べ方ですよね」 まぁ、食べ方はそれぞれです。 私は布巾で手を拭い、ガラクタを手に取りました。 どれも綺麗に洗われ、磨かれています。 ……でも、どれも半端なんだよなぁ……。 「もし、見つかったものが大ヒットになったら結構もらえたりするんですか?」 「かなり。魔洸コタツみたいに特許とか」 金鉱探し……私はちょっと真剣に見つめてみました。 ……んー…ピーポー君の頭部だけとか、どう考えてもヒット商品にはならないかな……。 「私、結構詳しいんですけど……」 「実は、それを期待してる」 頬が赤いですよ。リーィエさん。 私がつつくと照れたようにふにゃっと笑い、更にミカンを勧めて来ました。 「もしヒットしたら、キヨカの取り分ださないとジャックに食われるから、大丈夫。まかせて」 「一応、草食ですよあの人」 細長い金属片、イヤホン、のびきったカセットテープ、千切れたストラップ、ボタン電池……。 「これ、なんでしょうね。なんか見覚えあるんですけど……」 長さ三十センチくらいの細い金属片には何かで溶接していたらしい三本の折れ口。 刃は磨かれたために一層鋭くなっていて、触れた手が切れそうです。 「それは、機械の部品。多分裁断機の」 切る……うん、これは違う。もっと、別の。 「すけいと…?」 紙を掲げたリーィエさんとぽかんとした顔の工場の人達。 工場内部に集まってみれば、ツナギの男性が十人弱と、思ってたより小規模なようです。 「氷の上を滑るのに使うものです。橇の下につけるものと同系統でしょう?」 「……そり」 後ろの方で橇についての会議が始まってしまいました。 ……そうです。ここは温暖なネコの国。 雪は降りますが、あまり積もりません。 その上、冬は室内に篭るのが基本です。 私は紙にスケート靴を描き、懸命に説明しましたがみなさんあまりピンと来ないようで……。 リーィエさんが無言でスパナを握り締まるとよそ見していた黒ネコさんがピシリと姿勢を正しました。 ……リーィエさん、もしかしていつもそういう事を?とちょっと心配になってきました。 他の人達はごそごそとコタツに入りつつ、ミカンを配り、ついでにアイスを買いに行くジャンケンまではじまっています……。 「ウソとはいわないが、お嬢さんの勘違いじゃないかにゃ?」 そういってミカンを剥くキジトラさん。 「尖った靴で踊ったり走ったりだなんて、……さすがウサギニャ」 ピンクのツナギの黒ネコさんは急須にお湯を注ぎながらうっとりとした口調です。 「そんなので上に乗るのにゃんて……痛きもちいいカンジがいいかもしれないニャ」 「さすがウサギ。えろい」 赤ネコさんの寝言にぶちネコさんが合いの手を入れ、更に妄想を垂れ流しています。 ……ああ、今まさにネコは好色という意味が理解できました。 皆さん下ネタトークです。まるで中学校のようです。 ……まぁ、努力はしたし。しょうがないか。 「キヨカ、ごめん。後で制裁しとく」 「いえいえ、じゃあ、私そろそろ帰りますね」 お腹、ミカンでいっぱいだし。 すまなそうな表情のリーィエさんに笑い、靴を履きます。 ……やっぱ、ちょっとリーィエさんのだと大きいなぁ……。 「……キヨカ」 リーィエさんはなおも何か言いたげだったので、私はしばらく考えました。 えーっと…… 「よく考えたら、ローラースケートとあんまり違わないから売れなさそうだし、気にしないで下さい」 何故か沈黙が落ちました。 「ろうらあすけいと」 誰かがぼそりと呟き、部屋の中に重い空気が漂います。 「にっくき猫井のアレか!?」 殺気混じりです。 「アレなぁ……ウチの娘も欲しがってなぁ……」 「朝っぱらからガリガリガリと」 「石畳なもんだからすぐ壊れるくせにぼったくりやがって」 「魔洸ジェット式だぁ?ンにゃもん兵器だろうがふざけやがってこのクソクソクソ」 「おもちゃは誰がやっても遊べるからおもちゃにゃあああ!」 「だが待って欲しいそれだと大人のオモチャの立場が」 「あほかぁぁぁああ!!」 「こら魔法禁止だ!減棒にゃっがあああ!てめやりやがったな!!死ね!死ね!」 何故か場外乱闘まで始まりました。 コタツは引っ繰り返り、ミカンが宙を舞っています。 ……リーィエさんまで……嬉々として参加しています。 …… かえろ。 *** 帰り道、見知った匂いを嗅ぎつけ近寄ると、向かってくるのに気がついた彼女はその場で立って待ち、目の前で笑ってみせた。 どういうわけか記憶の何かが喚起され……眼を瞬かせる間にそれはすぐに消え、隣で大きなバッグを抱えた作業着姿の美人がにやりと笑い、軽く肩を叩いて別れの挨拶をしていく。 「じゃーね。リー」 髪の毛と同色の真っ白な尻尾が宙をくねって近づいた僕の鼻先をくすぐった。 「よぅ」 それから、何を言うわけでもなく、僕の強めに胸元を叩き恥ずかしげな表情に変る。 「馬ァ鹿」 くすくすと笑う彼女にさっき買ったタイヤキをひとつ差し出すと、わかってんじゃねぇかと罵られぽかぽかと叩かれた。 「アンコ苦手なんだよなー」 「知ってるよ」 そう答えると、きゅっと瞳が窄められむっとしたような表情のまま、タイヤキを半分に千切る。 零れ落ちるマヨネーズに小さく悲鳴を上げて、慌てて口で受け止めようとする様が可愛イイよなーっと考えて、口の端がニヤニヤしてきた。 いいだろ。コレ、僕の彼女なんだぜ、と全世界に向けて自慢したい。 「ハムマヨってのにしたんだけど」 「早く言えよ。馬鹿ッ」 ハムの飛び出た上半分を口に押し込まれ中身の熱さに眼を白黒させると、彼女はけらけらと笑い声を上げる。 「コレ、結構いけんじゃん」 「そうだね」 火傷した口の中を冷まそうとハァハァと息を荒げるのを面白そうにしているってことは、わかってやったのかなとチラリと考え――まぁ、いいかと思い返す。 某ウサギ曰く―――男は度量、らしいしね。 特にネコ相手なら。 「あークソ、ダイエット中だったのに」 二つ目を頬張りながら悔しげな表情を見ていると、彼女の動きがぴたりと止まった。 そそっと自分の後ろに回りこみ、身を隠す。 「…なに?」 「オマエのツレ」 背伸びをして人込みの向こうを見てみれば、よく見覚えのある影が二つ。 「あのウサギ居なくなったんじゃねぇの?」 「いや、昨日まで旅行に行ってただけで……ていうか、そんなに怯える事ないと思うんだけど」 そういうと、ぐっと睨まれ路地裏に引き込まれた。 「バッカ。ウサギだぞ?油断したら凄い事されるに決まってんだろーがっ」 身に覚えがないわけでもない訳でもないので曖昧に笑って誤魔化そうとしたら顔を近づけられ、金色の瞳で睨まれる。 「何で笑うんだよ」 「いや、べつに……」 別に何かされたわけーじゃないらしいのに、ウサギに纏わるただの伝聞で、天下のネコが脅える姿が、面白くて、少し、いとおしい。 「あー…ただし、キヨカ以外、な。アイツは別」 急に恥ずかしそうになって、長い尻尾を体に絡ませもじもじし始めたので、思わず呆気にとられると、 逆に睨まれ叩かれ外をきょろきょろしてから首根っこを掴まれ大通りに戻りながら早口でだって、とかつまり、とか小さく言い始めた。 「アイツさ、なんか、…ウサギらしくないんだよな。どっちかっていうと、イヌっぽいていうかネコみたいな時もあるし、ネズミみたいだったりとかさ」 ぎくりとなって、冬空を見上げて言葉を捜す。 空は薄い雲と褪めた青色をしている。暖かなネコの国は雪が降るのはまだ先だろう。 今頃、故郷は重い鉛色の空をしているのかな。 「あーうん、僕と同じでこっちの常識とかまだちょっとズレるんだよね。」 はじめてあった時、包帯に巻かれて、艶の無い長い黒髪と暗い色の瞳で、スラムの子供みたいに痩せ細っていて。 「んでも、ちょっとズレ過ぎじゃねー?」 ついっと顔を寄せられ、瞳は煌いてピンク色の舌がちろりと唇から覗く。 ……ちゅーしたい欲望が湧き起こって、周りの事を忘れた瞬間。 「もしかして……キヨカってひにゃあああああっっ!?」 「わわわん!?」 いきなり顔にしがみ付かれ爪を立てながら頭上に登ろうとする彼女に焦って暴れると、肩をぽんぽんと叩かれ聞きなれた低い声が落ち着けと命令してきた。 「かっしょくっこもえええええー!」 聞き覚えのある…バカ声。 「ニャァーニャーッニ゙ャー!!」 「ん~ちょっとここんところに贅肉があるねぇーおにいさんが痩身マッサージをしてあげぽッ ぐぁっ あ っ」 鈍い音から察するに、手の離せない自分の代わりに制裁を下してくれたらしいので素直に感謝する。 「がっくん帰り?」 「ああ」 頭の上でにゃぁにゃぁと泣いているのを剥がして抱きしめ、黒い変態をゲシゲシと踏みつける。 一回行き過ぎたはずなのに、なんでここに居るのかわからないけど、ジャックならなんでもありだろう。 「もう警察連れて行こうよ」 「後でキヨカが迎えに行く羽目になるからダメだ」 ああ、このヘビ真顔で言ってるよ。 溜息をついて小さく震える彼女を撫でて……ちょっと瞳が恐怖以外の感情で潤んでいるような気がするのは無視して、黒いのを近くのゴミバケツに押し込もうとして揉み合いになり、力負けした。 首を掴まれ、ズルズルと引きずられる。……早く、身長伸びないかなぁ……。 仮にもイヌなんだけど、僕。いつになったら力で勝てるようになるんだろ。 「あっはっはフサフサわんわーん」 「ヘンタイッサフを離せッ!もうなんなんだよ!キヨカ見習えッ!」 ……勇ましくいうのは嬉しいけど、なんでがっくんの後ろから。 「いや、大学の事でちょっと相談乗ってもらったりとかしてるし」 アレ、なんだろ。この敗北感。 キヨカ・キサラギ 親族で構成されたキャラバンでイヌの国の辺境を横断中、当時名を馳せていた凶悪な盗賊団に襲撃され彼女以外は皆殺し。 幼い彼女自身も大怪我をしているところをひっそりと暮らしていた年老いたひとりの…… 「ヒトに育てられるなんて事あんの?つーか、何ノラヒト?いんの?そんなの」 お詫びに買ってもらった緑色のアイスを齧りながらニキは胡散臭そうにジャックを睨んでいる。 確かにヒトに育てられたってのは、ウソじゃない。 つーか、それ以外全部ウソじゃんと思ったものの、口を挟まずに置く。 頭の回るネコのはずなのに、あっさり信じてくれたニキに罪悪感を持たないわけじゃないけど。 「居ますよーノラ。ああいうところなら、自給自足できるからね。シュバルツカッツェなら場所選べばヒトが自分で食べてく事だって」 がっくんが首を押さえているのでかなり大人しいジャックは、通りすがりのお姉さん方の胸やら尻やらを見ながらそういう。 「そんなわけでぇーキヨちゃんは落ちモノ知識が豊富なんだよ!ヒトに育てられてるからね!その分アレな部分はこうお兄さんが愛とか込めて手取り足取り」 「最後のは余計だ」 ガスガスとお仕置きされるのを二人して眺め、なんとなく絡めたままの指を離す。 「帰るよ。キヨカに宜しく」 「うん」 ミントの味がした。 それから何故かさっきの倍増しでジャックを蹴る保護者を止めた。 *** 「ぼくはぽぷらのえだになるー ぽぷらのエダって、アレ?オオカミの呼び名的な?」 普段は垂れっぱなしの耳が半分ほど立ち、しばらくぴくぴくさせていたジャックがぼんやりした口調で呟いたので、自分も耳を澄ます。 少し開いたキッチンの窓からは、野菜を煮込む柔らかい匂いと細い歌声。 残念ながらこの声が聞こえるのはイヌが限界らしく、ウロコ顔は寒さに引き攣った顔のままだ。 ちょっと優越感。 彼女が着てから慌てて取り付けた三重の鍵を開けているとぱたぱたという軽い足音が近づいておかえりなさいの二重奏。 いつも通り纏め髪のキヨカとお土産を期待するチビネズミが出てくると思いきや 「う、ウサギっ娘…もえぇええええええーーー!!!!」 黒い疾風と化したジャックが廊下でのたうちまわり、その腕の中でマネキンそっくりな事になっているキヨカと目が合った。 「……おかえりなさい」 乾いた声に思わず姿勢を正して返事をするも、バカの歓喜の声でかき消される。 「ふとももももぉぉーもえーもえーあぁっまさかのまいすいーとしすたーぁ!」 くんかくんかして頬擦りして悶えてるし……。 「ジャック、キモイ」 「あははははは。なんといわれようとこの手は離さんッ離しはしないぜよーさぁめくるめくかんどぐぉっ」 がっくんは抱き上げたチビの足をジャックのみぞおちに降ろし、緩んだ腕の隙間からキヨカを引き抜いた。 チビは足をぐりぐりしてからぴょいっと床に飛び降り、二人から頭をなでられて満足そうだ。 いや、別に羨ましくなんか……。 「バカゲのくせによだれでてる。きもーい」 生意気なチビのこめかみをぐりぐりするために追いかけると即座にキヨカの後ろに回りこみあかんべーとしてくるのがムカツク。 一方、みぞおちを押さえてジタバタしているジャックを氷点下の瞳で見下ろすキヨカはウサミミをつけたままだ。 ジャックのせいで髪の毛もぐしゃぐしゃだという事を告げると、慌てて手櫛で直し、上着の裾をちょっと引っ張ってそれからこっちに向き直った。 「服、借りたんですがどうですか?」 言葉はみんなに向けられたものだけど、目線は一人だけで、それに気がついたとき腹の中にちりっとしたものが走った。 ほんの、ちょっとだけ。 黒絹みたいな髪に少し淡い黒のウサミミ、細い首に珍しく襟のない…セーターにえーと確か、ミニボトムとかいう短パン。 こんなカンジの服をした女の子は結構いるから、珍しくキヨカも流行に沿ったオシャレをしてるってことだろう。 なんとなく活動的で、普段と雰囲気が違う。 「けっこう、かわいい」 「アリガト」 嬉しそうに微笑む顔を見たら動悸が激しくなった。 ああ、尻尾振りまくってるよ……自分の感情に素直すぎる尻尾をどうにかしたい。 イヌほど尻尾の動きが感情に直結して無いネコにはいつも笑われるこの特徴が、時々悔しい。 うんこら叩くなじゃれるなチビ。 「あーもしかして、服のために尻尾付けてんの?と、いう事は!色々服買ったらずっとつけっぱなしにしてくれいたいいたいがっくんそこはらめぇっ」 キヨカはミシミシと音を立て締められるウサギを見て溜息をつき、ではまだ火つけっぱなしなのでーといってキッチンへ去った。 細い腰の下でゆれるふわふわな尻尾とそのあとの曲線が妙に……なんか。 いやほら、普段露出少ないし、ちょっと新鮮なだけだし…あ、僕にはニキがいるし。うん。 「バカシッポっ!」 「だから噛むな掴むなあっ!」 *** 久しぶりに診療所の扉を開くと、黒づくめだったりピチピチの皮ジャケットだったり、金ネックレスでスーツなネコやイヌが並んでいました。 一斉に視線がこちらに集中し、穴だらけになりそうです。 みなさん、あまり医者が必要なようには見えません。 いや、外には見えない病気……水虫とか、内臓系とか……いやでもいくらなんでもこんなに大勢……。 食中毒にしては切羽詰ってないし。 うーん…予防注射でもないだろうし。 「……性病…突発的に流行しているんですかね」 背後で手をワキワキさせていたジャックさんは、私の言葉に首を捻り頭越しに行列を見つめ、そっと元の位置に戻りました。 さすがに久しぶりの診療とあって、シャツも白衣もキッチリとノリがかかっており、清潔さを醸しだしています。 深緑の瞳は理知的に輝き、手入れを怠らないふわふわの毛に覆われた体からはコロンを漂わせたジャックさんは、 見るからに医者です!な威厳と親切そうな雰囲気と、職務に忠実そうな真面目で誠実そうな口調でこう囁きました。 「オレ、ちょっと具合が悪いから休診にしようか。そんでもって、お医者さんといけないナースでしっぽりねっとり」 「ぐーでぶちますよ?」 全員、借金取りでした。 「やぁーアレだね。ナース服もオーダーメイドだと高いね!もう苦労したよ~だってちょっと眼を離すとすぐにサイズが」 問診表を挟んだままのボードを耳の付け根に振り下ろすと鈍い音がしました。 悶えるジャックさんとは対照的にルフイアさん(神経性胃炎)は微動だにせずに、私の顔をまじまじと見つめ、トリートメントの効いた尻尾をパタパタと振っています。 「キヨカさんは、何でも似合いますよ!ピンクも十分似合ってますよ」 「ありがとうございます」 ……悪気は無いに違いがありません。 さっきだって、診療再開祝いにドーナッツと花をくれましたし……。 ルフイアさんは、自分の言葉に照れたように鼻を掻くと不意に真顔になりました。 「しかし、借金取りが扉の向こうにいるとは、落ち着きませんね」 そう、借金取りの人達はジャックさんが逃げるのを心配しているのか暇なのか、キッチンでおやつをつまみコタツは無いのかと駄々をこねているのです。 ルフイアさんはイヌだけあって複数人がいるのに気がつき心配してくださったので、事情を打ち明けたのですが……。 「よろしければここをやめて、うちでアルバイトというのはどうですか?編集長には自分が説明しますから!なんなら専属アシスタントとして170年位ボクと一緒に」 この上なく真摯な眼差しでルフイアさんはそういって、私の手をそっと握りました。 「えー、キヨちゃんいないとお客さんこないからダメェー」 握られた手の上にガスガスと手刀を落とし、無理やりもぎ離すジャックさん。 ……まぁ、読みは出来ても、書きはまだイマイチな私に編集のアルバイトって、絶対無理だと思うわけですが。 ……て、いうか。 「先生、次の患者さんがお待ちですが」 もっちりもふもふなトトロもどきを膝の上であやしながら、私は疲れた首を片手でぐりぐりと揉み解しました。 トトロもどきもすっかりジャックさんに慣れたらしく、常に互いの距離を測る仲です。そして時々威嚇します。 「フツー…借金取りまで来るって、ないですよね」 「年の瀬やからのう、まぁ、時期が悪かったにゃ」 ピチピチ皮ジャケさんがペタペタと請求書の束を捲りながらそういえば、黒づくめさんが無言で頷き領収書にサインをしています。 ジャックさんは、昨日不在だった所へ家賃の催促に行って回収できた分を全て返済に充て、それでも足りず銀行へ。 ……正直、どうかと思います。 赤紙が貼られないだけマシでしょうか。 「ほな、失礼させてもらいますにゃ。またのご利用をお待ちしておりますにゃー」 最後だけ営業スマイルの皮ジャケさんと黒づくめさん。 大変紳士的ですが、それが怖いんだとジャックさん曰くです。 あと金ネックレスとイヌの人はいらいらとした様子でジャックさんの帰りを待っていたりするのですが。 というか、旅の資金が足らないからって、全国展開の街金で借りちゃうってどんだけでしょうか。 ジャックさん、意外と金銭面ダメダメです。 私が何とかしなきゃ……取り合えず、経費削減……ナース服、売れないかな。 「ねーちゃんが風呂に行ってくれればすーぐ返せるニャ。ウサギならむしろ大喜びで行くべきニャそんでさっさと利子つけて満額返すべきニャ」 ぶちぶち言う金ネックレスさんにうんうん頷くイヌさん。 わりと言っている事が無茶苦茶だと思いましたが、部外者の私は聞こえないフリをする事にします。 さっきの皮ジャケさんとは違う所らしく、お互い微妙な挨拶を交わしていたのが笑えましたが。 膝のトトロもどきがおなかをすかせたらしく、盛んにテーブルの上を気にしているので昨日の残りのアップルパイの切れ端を千切ってあげると、 からだの半分位まで口をあけて飲み込み、もぐもぐと咀嚼しています。 和みます。癒されます。 何せモフモフのふかふかですから。 ……もふもふ。 「それで……一体、どれ位お借りしたんですか?」 膝から目を離し二人に問いかけると、二人は同時に弾かれたように背筋を強張らせました。 イヌの人はギクシャクと動くと紅茶を啜り、手入れの悪い毛羽立った尻尾をバタバタを振っています。 「にゃーひゃく…ニャニャッここういうのは、本人以外プライバシーに関わるからいえニャイニャッ!つぁああつっひみゃっ」 何故か金ネックレスさんは慌てた様子で紅茶を飲むと熱かったのか、尻尾を膨らませて大暴れです。 タオルで拭いてあげると、ひどく決まり悪そうに耳を伏せ、少し潤んだ眼でこちらを見て、それから逸らしました。 「あーニャーそのミニスカは冷えそうだからやめたほうがいいニャ。それにいくらウサギでも、ここはネコの国だという事を忘れない方がいいニャ。でないと裏道とか危ないニャ」 ……なんなんでしょうか。いきなりいい人です。 非常に真摯な言い方に、思わず素直に頷いてしまいました。 「これは仕事着ですから、大丈夫です。外では絶対着ませんから」 ピンクのナース服とか、ありえません。 「そそうニャ、それがいいニャ!うにゃん、用事を思い出したニャーぽち帰るニャ」 いきなり振られたイヌの人、…ぽち…あだ名…でしょうか、は、きょとんとした表情で私と金ネックレスを見比べました。 「けどアニキ今日は追い込みかけて今月中に全額返済させないと、ボーナス出ないって」 「ううううるさいニャ!また来ればいいニャ!じゃ、じゃあ…今度は邪魔にならない時間に来るニャ……えーっと…キヨカちゃん」 何故か超いい笑顔です。 直視できないほど超派手シャツに金ネックレスの、見るからにその筋なネコの満面笑顔……。 ぽち…さんは、困惑したように立ち尽くし、それから頭を下げて狭そうに戸口を潜り、金ネックレスさんはそわそわとした様子のまま出て行きました。 残った食べ散らかされたおやつとお茶のカップがひどく間抜けに見えます。 トトロもどきと顔を見合わせましたが、あいにく小動物的にも判断不能だったのか、膝から飛び降りるとぴょこんぴょこんと外へ飛び出していってしまいました。 仕方なくテーブルを片付け、いつでも帰れる準備に取り掛かっていると、ひどく困惑した顔のジャックさんが戻ってきました。 手に抱えているのは大きな封筒と重要なものを入れるバッグ。 「キヨちゃん、なんかした?ウシジマ君凄い笑顔だったんだけど」 「うしじま?」 「ラララ金融のウシジマ君」 問い返してから、さっきの金ネックレスのネコが白地に黒い模様で、まるでホルスタインのようだった事に思い当たりました。 「よく知りませんけど、今日は用があるので、また来るそうです」 私が更に詳しく説明すると、ジャックさんはがくりと肩とヒゲを落とし溜息をつき、ごそごそと封筒を開いてチラシやなんか色々取り出しました。 「ちょっとツテ頼ってさぁ、出張診療する事になったんだけど、一緒に来てくれる?」 「わかりました。借金早く返さなきゃいけませんしね。出来るだけ協力します」 ちゃんと払う気があるのはいいことです。 どんな事をするのか、わくわくしながら次の説明を待っていると、ジャックさんの目付きがやたらと爛れたものに変化しました。 「なんでキヨちゃんがここにいるのか、ナゾだよね……ホント、人生ってわかんないもんだよね。おかしいよね」 私はお茶を注ぐと、姿勢を正して椅子に座りました。 今のは……えーっと……使えないくせに、どうしているのかって意味でしょうか? 半年以上経って、今更言われても困る気がしなくもありませんが、なにせ寿命も違うからには月日の概念も私とは異なるのでしょう。 まぁ、私を働かせても利点はセクハラで訴えない事と、遅刻しないという事だけだから、当然なんですけど。 私、ヒトだし、医学知識も無いし、魔法だって使えないし、体力も無いし、得意な事も役に立たない事ばっかりだし。 「あれ?もしもーし?ハロー?ないすつぅーみーちゅぅー?」 指先をクネクネさせるジャックさん。 意味不明です。 私が見つめ返すとほっぺたを両脇とも引っ張られました。 ……痛い。 しばらくして手が離されたのでヒリヒリする箇所を撫でてたら、顎にそっと手を添えられついっと上向きになり でぃーぷなちゅーをされました。 ……ここ数日、御主人様調子が悪いのか、私に飽きたのか、触るだけでそれ以上の事はしてないんですよね。 考えないようにしてたけど、飽きたのかなぁ……やっぱり。 やはりこう……肉体的訴求力に欠けるというか……ジャックさんの持ってるエロ本のような……迫力というか……。 御主人様の負担にならないように、自分にかかる分は自分で稼いで、家事とか頑張ったつもりだけど、やっぱり要らないかな。 完璧に飽きられる前に、もっと役に立つって所アピールしようと思ったんだけど。 ああ、何というか、この毛の感触が何というか、イヌよりも鼻面が出ていないのでくわれる。と、いうカンジじゃありませんけども。 イヌよりも短く、ヘビよりは面積のある舌がぺろぺろと唇の内側を舐められている最中、かちりと前歯が当たりました。 ふ、と微笑む深緑の瞳。このあたりイヌに比べ、精神的余裕を感じます。 腐った肉の缶詰臭はしませんが、ニンジン臭いです。 因みに私はニンジンは生では食べない飲まない主義に転向しました。 口蓋や歯茎を軽く吸い上げ、舌を絡めカプカプと甘噛し、音を立てて唾液を吸われてやっと顔が離れたので、手元にあったマグカップを思いっきり顔に叩きつけました。 カップは割れずジャックさんがよろめいただけだったので、更に椅子を掴み大きく振りかぶり投げつけ……残念、はずれです。 「お兄ちゃんが大好きなのに、恥ずかしくって、つい暴れちゃう♪なんというツンデレ、可愛いよツンデレ。笑うと超可愛いよツ・ン・デ・レ☆」 奇怪な踊りを行いながら、奇妙な言葉を口走っています。 ジャックさんの脳味噌はいつでも常夏過ぎて液状です。キモチ悪いです。 耳から出ないように、この雑巾を詰めておけば少しはマシになるでしょうか。 「やめてぇっ!そんな所にそんなの入らないようっ ダメェっ そんな所さわっちゃらめぇっ」 耳から雑巾を生やしてさめざめと泣くジャックさんを見たら、少し気が晴れた。 *** 「そういうわけで、出張診療を行う事になりました。今夜から」 私の報告に無反応の御主人様。眼が空ろです。美形台無しです。 鱗も心なしか元気がありません。 念の為に目の前で手をひらひらさせても無反応です。 思い切って肩を揺すってみても無反応です。 尻尾をそっと撫でてみても無反応です。 寒さの余り、冬眠通り越して凍死状態なのかと思い、いつものように毛布を掛けて湯たんぽを差し入れるとやっと瞼が落ちました。 微かに聞こえる寝息。 ……モンスターのボス的風貌の美形がこんな無防備でいいんでしょうか。いや、よくありません。 例えばです。 私がウサギで、ジャックさんのような行動を取る事に疑問を微塵も持たなかったらどうなるでしょうか。大変です。 添い寝とセクハラぐらいはします。 イヌだったら、とっくに襲っています。 大変危険です。 ですが、私はヒトなのでそんな日本なら逮捕されて社会的に抹殺されても当然な……倫理に憚るような事はしません。 でも一応触るのは、奴隷的に御主人様の事が心配だからです。 それ以上の意図はありません。下心もありま……た、多少は役得だと思っていますが。 けして不埒な目的があってしているわけでわなく……ですね。 ん……微妙に肌の張りもなく、憔悴したようです。 最近御飯ちゃんと食べていないみたいだし……こういうのって、やっぱりヘビ同士ならわかるかなぁ……。 勝手に調べた医学書にも、病気のような事は書いていないし、ジャックさんも生返事だし。 完璧に寝入っているようなので、そっと頬に指をあてるとひんやりとした肌。 御主人様は髭が生えないようなので、お父さんや先生と違って青くはなら無いし、剃刀やけもしないようです。 僅かに開いたままの薄い唇は、舌が見えないと本当にヒトと同じように見えます。 指で触れれは微かに呼吸をしているのがわかり、感触は私よりも少しだけ硬くて…… 私と違って、肌荒れしにくいのかもしれません。 ……いいなぁ。 少し押せば微かな呻きが聞こえ、それすら……そのー…なんというか……。 そこらのモデルなら裸足で逃げる顔の完璧なラインだとか、好みなことこの上ない顎の線だとか……。 幸い、寸前で正気に返る事が出来ました。 けど、しばらく……御主人様の顔をまともに見ることができそうも無い。 *** ネコの国、夜の繁華街。 二つの月が冴え冴えとした光を放つ空の下、白と黒の二人連れ……私とジャックさんです。 ジャックさんは白衣の上にいつもの黒いロングコート、私は……ジャックさんのが何故か持っていたお洒落な白のコートです。 とても、暖かです。 これらは発狂した水着とか暴力的な下着とか危ない制服とかと共に、クローゼットの奥に眠っていたのをお借りしたのですが…… ……深く考えたら、負けだと思ってます。 大通りでは鮮やかなネオンが灯され、それなりに賑やかです。 仕事帰りと思しき集団が大声で歌ったり、喧嘩したりお店から叩き出されたり、酔っ払いが吐瀉物を撒き散らし、隅では小競り合いに仲裁役が加わった大乱闘。 角やお店の前には、肌も露わな服装のイヌやネコの女性…と時々男性が客を待ち、黒服がカモを引っ張っています。 思わずしみじみと眺めていると、袖をくいくいと引っ張られ、見上げればジャックさんが複雑そうな表情で髭を上下させていました。 「キヨちゃん、お兄ちゃんちょっと恥ずかしい」 「ごめんなさい」 猫民と書かれた黒い看板のお店からは、いい匂いが漂い、入り口では普通の格好のネコ達がたむろし、黒いエプロン姿の店員と話しています。 「アレは、居酒屋だね。最近流行りみたいだよ。値段の割りに御飯も美味しいって、刺身とか」 お刺身……食べたいです。 うん、でもカレー今度、食べられるし。 ジャックさんに手を引かれ……というか、腕を組むというか…というか腕ごと引っ張られ、蹴躓きつつ移動する私。 おお、大道芸まで始まりました!すごいー!エエ!四本!? 思わず立ち止まろうとして転げかけ、危うい所で引っ張りあげられ……うん、ちょっと落ち着こう私。 「ナニ、珍しいの?」 「そうですね、こっちでは初めてです」 ジャックさんは、じゃあしょうがないねぇと呟くとやや速度を落としました。 「今度じっくり見せてあげるから、今日はコレで勘弁してね」 茶目っ気のある仕草でそう言って、ジャックさんはウィンクした。 どうやら、気を使ってくれた…ようで。 ……気を、使ってくれたようで。 足元の、アスファルトではない転びやすい石畳と、回された腕と、免符罪である付け耳を順繰りにみたら、不意に何か込み上げてきたので、空を見上げた。 周囲が明るいので、星はあまり見えない。 首輪も鎖もないから、寒くても肌が金属で冷たくもならない。 「所で、出張診療ってどこへ行くんです?」 ジャックさんはがっちりと回していた腕を放し、長い耳をカリカリと掻きました。 「……なんですか?」 「普通、そういうのは一番最初に聞くべきだと思うよ」 「以後そうします」 ジャックさんは微妙に首を斜めにしつつ、近くの屋台で串焼きを買いひとつを私にくれました。 櫛に刺さったお肉にこってりしたソースが掛かっていて、香ばしいニオイを放っています。 ジャックさんが持っているのはケールの輪切りやトマトもどきや小さな球体状の…多分野菜の串焼きです。珍しい。 「ウサギ用じゃなくて、ダイエット用だってさ」 「奥が深いですね」 いただきますを言ってからあつあつのお肉に齧り付くと、熱さに少し火傷しそうになりました。 ……このフチの焦げ過ぎなカリカリが!こってりソースと脂身の薄くて硬い肉に絡んで苦味とソースの甘み。 屋台特有の、おうちでは出せない味です。 えーっと、しょうゆがちょっと焦げてる感じで、あとなんだろ、トマトと、辛口のソースと胡椒かな、コレ。 御主人様、こういうの好きな気がする。なんとなく。 「悪食ウサギ」 何がおかしいのか、ジャックさんは串焼きを食べながら一人ブフブフと笑うので、私は指先でジャックさんを突きました。 「だって、ジャック兄さんの妹ですから」 そう囁くと、ジャックさんはビックリしたように瞬きし、ニヤリと笑いました。 「いいね、その調子だよ。妹よ」 その後に流しのドーナッツ売りから出来たてドーナツと、閉店間際の果物屋さんの所で切り売りされたメロンもどきとパイナップルもどきを購入し、 半分こにして食べて、お腹がいっぱいです。 そうして到着したのは、えーっと……クラブハウス。 外装は綺麗な屋敷ですが、中は改装してあり、中では賑やかな音楽が流れ大勢の人達が楽しそうにお酒を飲んだり、舞台の上では歌手が拍手を浴びています。 ジャックさんは慣れた様子でそのままずんずん進んでいくので、私も慌てて後を追いました。 赤コーナァー ブラッディ・レオーナァァ―― ぐわんぐわんと反響する喚声に思わずよろめくと首を掴まれずるずると引っ張られ、足元の白い線を越えた瞬間、外部の音が一切遮断されました。 「大丈夫?」 ぺたりと尻をついたのは、ジャックさんの膝の上……。 『医者:待機中』 斜め右の柱には、そう書かれた札が貼られ、下には白い線とその内側には複雑な文字がチョークで書き込まれています。 ジャックさんの防音仕様魔法陣です。 四方は白い布で仕切られテントのようになり、入口部分だけ半分ほど開かれています。 斜め上に視線を向ければ、一段高くなった舞台の上にリングが設置され、レフリーを挟んで睨み合う二人の選手。 観客席では、様々な毛色のネコが大盛り上がりです。 どうやら、安全を期して医療チームも用意されていますとか、何とか言ったらしく、 観客や、関係者らしき人達が一斉にこちらに目線を向けたので、なんとなく笑顔を向けてみる私。 ……思いっきり、眼を逸らされました。 確かに、簡易ベッドや担架、山のような医療品が準備されているし、ジャックさんは医者だからまったくもって間違いはないんですが……。 人選に問題があったというか……服装規定を拡大解釈するジャックさんの脳味噌に問題があるというか……。 前回までここにいた人は急遽旅行に出かけてしまったとかで、仕方なくジャックさんにお鉢が回ってきたそうです。 普通、休みの時の代理って、予め決めておくような気がするんですけど……。 いくらなんでも、衝動的過ぎるというか……ジャックさん曰く「だって、ネコだよ?」だそうです。 でもいくらなんでもいくら急遽借り出す事になり、賃金も安く押さえられるからってジャックさんを選択しなくても……。 いや、まぁ、借金返済のためには大変ありがたい話だし、そもそもジャックさんが一体どういう経路でこのお仕事を貰ったのかわからないので何とも言えない訳で……。 私はズレたニーソックをちょっと引っ張り自分の椅子に座りました。 「このままでいいのに……」 物凄く残念そうにジャックさんが呟くのを聞こえなかったことにし、手元の紙に目を落とします。 最初に渡されたぺらぺらのパンフレットには、選手の簡単なプロフィールや必殺技など…それと、協賛のお店の広告。 第一回戦目は、ブラッディ・レオナVS白い霹靂グレートストロンガーX……きっと、そういうもんなんでしょう。 魔法無用の一本勝負! だそうなので試合自体の進行は早いのか、少し眼を離した間に既に試合は佳境です。 赤コーナーの赤毛のネコが対戦相手の白ネコに膝蹴りを腹に喰らい、大きくよろめきました。 そのまま顎に大きく振られた拳が激突し、ポストコーナーに追い詰められ一方的な連打です。 為す術もなく、リングに沈んだ赤の選手はレフリーにカウントを取られ、第一試合は終了らしく、青い旗が揚がりました。 ……なんというか……。 「あ、負けちゃった。ヤダーもう出番?」 いそいそと席から立ち上がり、物凄く嬉しそうに準備体操をはじめるジャックさん。 しょうがないので私も同じように準備体操をしてから、準備された道具を手に取り、二人で魔法陣の外に出ると喚声がぴたりと止まりました。 指差さないで欲しい……。 いつもと同じ格好のはずなのに、白衣で歩くだけで胡散臭さ150%増しのジャックさんと……私がついていくのをドン引きした表情の観客が見ています。 「・・ … … ・」 ジャックさんが何かを言ったものの、BGMうるさくまったく聞こえません。 顔を寄せて問い返すと頬にキスされたので手に持った黒い金棒をヒットさせてからリングの上に登ると、レフリーがビクリと震えてリングの隅によりました。 私は倒れこんだままの選手の脈を計り、救急セットからお絞りを取り出し顔の血を拭きます。 毛が邪魔でよく分かりませんが…軽症みたいですが…意識が朦朧としているのか、しきりに手を上げてウニャウニャと言っているので要診断です。 遅れてきたジャックさんの指示で担架に乗せられ運ばれる選手を心配そうに見送る選手の身内らしい人。 リングを降りる前に周囲を見回すと、目の合った数人が一歩後ずさりしました。 立ち尽くす私の肩を叩く軽い感触に、振り返れば親指を立て凄くいい笑顔のジャックさん。 ノリの効いていた白衣はいつの間か赤い水玉模様がトッピングされています。 私は、心の中で深い溜息を吐きリングから降りました。 *** 「ルー君、キミ暇だよね」 聞こえなかった事にして、手元の音封石を再生していると、再び肩を叩かれた。 「10秒以内に返事してねーゴー、ハチーッ」 編集長の指先では小さな火球が回転しているのを確認し、咄嗟に手元の防御符を引き寄せる。 ここはネコの国であり、当然上司も同僚も後輩もネコであるからには、常に備えを怠らないのが実直だけが取り柄のイヌとしては当然の事だ。 案の定、そのまま火球を当てれば防御符が発動し、自分も火の粉を被るおそれがあると気がついた編集長は、何事もなかったように煙草に火を移し僕の鼻先へ煙を吹きつけ、気だるげにこう告げた。 「なんかさぁー例の、猟師×漁師、アレ落ちそうだから、ちょっと穴埋めになんかどうにしかしてきて」 「え…僕、八連勤で……」 「明日の午後の便に乗せるから、正午までに私のデスクね」 「あの明日休みで今もうとっくに終業時刻を過ぎて」 「じゃー帰るから、あとよろしくー」 カツカツと、ハイヒールが床を痛めつける音が遠退くのを確認し僕は机に顔を埋めた。 平社員で、外国人である僕の立場は弱い。 だが、こんな暴虐が許されちゃうのが社会の厳しい所だ。でもあえて言おう。 「……まじふざけんな、ァんの勘違い行かず後ゲェーッ」 「マイ灰皿忘れちゃった」 嫣然と微笑む…帰ったはずの上司の姿に、僕の舌がこわばる。 歪んだ口元と目じりには、僕の一か月分の食費と同額位する高級化粧品でも隠しきれない小皺と弛み。 赤く塗られた指先は、僕の手の上に重ねられ、ちびた紙煙草の端が見える。 カチカチに固まった鼻先に届く、ぶすぶすと焦げる毛の臭い。 僕は必死で泣き出さないように、微笑み返した。 「――と、いう事があったんです」 半分垂れた耳を一層しょんぼりさせ、ルフイアさんがそう零すと、ジャックさんは深く頷きました。 「まったくだね!オレもさぁー色々あったよ。学会でエロ実験はじめちゃった人とかさぁー新作エロ用品に夢中になって納期すっぽかした魔女ッコとかさ」 私は簡易ベッドの上で俯く選手の血塗れの額を拭い、少し毛を切ってから絆創膏を貼り付けました。 お次は茶ぶちネコ、恋人らしいネコ女性が頭を撫でています。 「いやだぁーなんでナースが黒いんだよう。おかしいよね?おかしいよね?」 「ハイハイ。アンタが速攻負けるのが悪いんでしょ。早く帰ってあとでベッドでもう一試合するにゃ」 ……ここでいちゃつくのはやめて欲しいな……。 ちらりとそう思っていちゃつく二人を見やると、二人は何故か肩をビクつかせ黙り込みました。 わかってもらえて何よりです。 どうやらジャックさんは、音量調節してくれたらしく、試合が終わったかどうかぐらいは判断つくぐらいの大きさの悲鳴と喚声が遠くに聞こえます。 早い所終わらせないと、次の人来ちゃうんですよね……。 ジャックさんのアバウト過ぎる説明にやや頭痛を感じたのですが、どうやらここでは素人同士の…格闘を見世物にしているようです。 そういえば有りました。そういうの。……天下一武道会的な意味で。 一応見物料と参加費で運営費を賄っているらしく、それなりにライトな感じです。 女性も多いし。 回転を早くする為に制限時間付き、審判判定有りなので、ほとんどお遊び感覚のようで……。 何回か勝ち残ればちょっと賞金が出るので、飛び入りもOKとか。 恋人にちょっといい所を見せたい人とか、お小遣いが欲しい若者とかが主な参加者らしくあまり殺気立った様子がないので、安心して見られるというか……。 全体的に明るい雰囲気で、時々コスプレっぽい仮装をした人が観客から歓声を受けていたり、変な名前をコールされたり楽しそうです。 審判は、巨大な黒い……ネコ?にしては耳の形と…骨格がやけに逞しいというか……。 「あの審判さんは、もしかしてトラさんですか?」 「トラだねぇ。あホラホラ、薄っすら縞模様だ。染めてるのかな」 手を翳して、驚いたようにいうジャックさん。 「一応地毛だそうですよ?まぁ、外見はあのように地味ですが、体力とアッチが物凄いとかで…モテモテらしいです」 ルフイアさんは手元の手帳をパラパラと捲り、続けました。 「ただ、ネコに騙されて借金を背負わされここで働いている為、大変なネコ嫌いだそうです。ああ、ホラちょうど」 あ、赤選手にキレのいい蹴りを顔面に叩き込まれ、鼻血を出した青選手が手を振りはじめました。 指先に奇妙な光が灯り……即座に審判に張り倒され、リング外に投げ出され、客席に落下しスタッフに取り押さえられています。 「あの通り、ルール違反をした選手の制圧役として大活躍中なんですよ」 それは果たして審判の仕事だろうかという疑問が過ぎりましたが、取り合えず流そう……。 「所で、なんでルフイアさんがここに居るんです?」 恋人に慰められている茶ぶちさんの傷に脱脂綿を押し当てつつ尋ねるとルフイアさんは素敵な笑顔を浮かべました。 ……訊いてはいけなかったようです。 私は傷口に赤チン(仮名称)を振りかけ茶ぶちさんの手当てを終えました。 取り合えず、今いる人はコレで終了。 「ちょっと飲み物買ってきますね」 手を拭ってそう告げると、ルフイアさんが半分垂れた耳をピクリと動かし、慌てた様子で立ち上がりました。 「お供します」 「えーじゃあ、オレも」 いそいそと出かける準備を始めるジャックさんを見て、一瞬眩暈を覚えたものの辛うじて耐えます。 「……仕事して下さい」 「みてごらんルーくん。ブラックナースに相応しい死んだ魚の瞳にゾクゾクするね!」 「先生の趣味にはいつも感嘆するばかりです。できたら注射器持って欲しいですね」 「いいねーそれ!キミィ中々わかってきたね!」 ダメだこの人達。 更にルフイアさんは肩掛け鞄から大量の雑誌を取り出し広げ始め、ジャックさんはその一冊を開いて奇声を上げ始めたので気がつかれない内にその場から抜け出す事に成功しました。 地下階の方はリングと観客席でごった返しているので、ひとまず出口に近いはずの地上階まで出てみることにします。 黒のナース服などというキワモノを身に着けていますが、幸い上に羽織ったコートのお陰で特に奇妙な視線を向けられる事はなく。 ていうか、ピンクとか黒とか……ジャックさん一体こんなの、どこで買ったんだろう。 これが借金の理由だとしたら、いくらカレー粉という素敵なお土産を貰っていても許容できない域ではあります。 一般常識を弁えた社会人のする事でしょうか。 ……あー、 …でもジャックさんだもんなぁ……。 なんだか心の中で解決してしまった事に軽く虚脱感を覚えつつ、周囲を見れば暗めの店内には楽しげに会話している男女が多数。 基本的に、ネコばかりです。 まぁ、ネコの国だから当然ですが。 ……よく考えたらこういうお店、初めてなんですよね。 イメージしていたお洒落なバーというよりは、ハリウッド映画の……アクションというか刑事モノの……ストリップバー的です。 地上階より地下の方がやたらと広いって、一体どういう事なんだろう……。 ファンタジーだから仕方ないか。 やっとの事で見つけた板書されたメニュー表には飲み物の他におつまみなんかが表示されています。 ……お茶は置いてないから、ミルクにしといた方がいいのかな。 炭酸だと、ジンジャーエールがあるけどコレ…私が知ってるものなんだろうか。 暗澹たる気持ちでメニューを眺めていると、なんだかチクチクと刺さる視線を感じたので、少し離れて検討していると生暖かい息遣いを感じました。 頭を上げるとネコ男性がじっとこちらを見ています。 赤と黄色の混ざった短毛に、夜なので瞳が尖っています。 「何か御用ですか?」 私が問い掛けると、男性はなおをこちらを向いたものの目線を合わさずに軽く尻尾を揺らしました。 「きれいな黒髪だ」 「ありがとうございます」 「染めてる?」 「いいえ」 美容院のアンケートかなんかだろうか。いやでもここ美容院じゃないですよ。 「この前のイヌも真っ直ぐで黒かったのに、後で見たら染めてたからやっぱり 」 その声はだんだんと低くなり、最後の方はほとんど聞き取れませんでした。 て、いうか、独り言ですよね? はい、私そっちにいませんよ? そっちは壁ですよ? 異様に居心地が悪いのでそっと後退りして、向きを変えた瞬間、誰かにぶつかりました。 一瞬からだが強張ったものの、小声で謝罪して擦り抜け……られませんでした。 「にゃあ」 「……こんばんわ」 借金取りのウシジマさんでした。 後門の電波さん前門の借金取り。 ……借金したのは私ではないので別に脅える必要はないのだという事を思い出し、ちょっと緊張が解きます。 「す、すみませんちょっと失礼しますッ」 どうにか横を擦り抜け、急いで戻ろうとするものの、人の出入りが激しく中々前に進めません。 「くろいかみ」 がっちりと肩を捕まれ、生暖かい息が首筋に掛かりました。 「いや、あの私今ちょっと急いでまして仕事中なんです」 「気にしなくていい。すぐに 」 一瞬、何かが腐った臭いがしました。 掴まれた肩にギリギリと力がこもり、動けません。 心臓が高鳴り、すっと指先が冷たくなるのを感じました。 ジャックさんはあそこを離れられないし、御主人様はいません。 「いや、困ります。残念ですが、次の機会で」 後ずさる足が妙に絡むのを、どうにか動かし距離を広げようとしても、すぐに近づいて来ます。 「気にしなくていい」 だっと背中に嫌な汗が湧いてくるのを感じました。 息臭い毛も臭い目がヤバイヤバイヤバイ 「だから、気をつけろっていったニャ」 黒ブチ白ネコが、半眼になり腰に手を当て私を下から上まで舐めるように見てから、腕を掴みました。 ぐっと引き寄せられ呆気にとられていると、黒斑のある瞳を器用にウィンクさせクルリと背後に回される私。 ……ナニ、これ。 「にゃあのオンナになんか用かにゃ?」 ……なにそれ。 三毛なバーテンダーに慣れた様子でアレコレと注文するモノスゴイ趣味の柄シャツに金ネックレスを身に着けた目付きの悪いネコ…。 ……なんで私は仕事中なのに、借金取りさんの愚痴を聞いているんでしょうか。 それは変な人から助けてもらったからです。 モノは言いようとか、臨機応変とか、それぐらいはわかります。うん。ちょっとびっくりしたけど。 ああ、へぇ…王宮の方は男子禁制なんですか。それは大変ですね。 手に持ったままのグラスには、茶色い……コーヒー牛乳みたいな飲み物…ウシジマさんお勧めのカルアミルクが入っています。 ……おごりです。 おごりで異性からミルクを貰うというのも、結構笑えます。 子供扱いですか。 ほぼ間違いなく私の倍以上どころかもっと長く生きてるわけですから、一向に構いませんが。 しかもこれ、ホント甘い…本気で子ども扱いです。 まぁ……新鮮な経験です。 この後どうなるのか、とても興味があるのですが、一応仕事中だという事も思い出しました。 ジャックさんの分の飲み物も買って早く戻らなきゃ。 グラスに残っていたのを一気に飲み干し、お礼を言って席から立つと一瞬眩暈を感じ、足元がふらつきます。 ……もういい時間だし、疲れてるのかな……。 体がぽかぽかして、ちょっと頭がぼーっとするし、水とか買って戻ろう。 「にゃん?」 腰に回された腕が邪魔で上手く歩けない。 見上げたネコは、ネコらしく目が光ってわりと面白い。 ……ヒゲつんつんしたい。 耳の内側とか口元とかが、やっぱりこの人も暑いのかピンク色になってる。プニプニしてそう。 …ああ、ダメだって。 「あの、下にジャックさんいるんでダイジョウブです。ごちそうさまでした。このお礼はまたいつか」 ぐらぐらする頭を何とか下げて、元来た方に……ああ、水買わなきゃ。 一回外に出て、確か屋台とかで売ってたはず。 うん、外でなきゃ。 暑さで頭がボケているのかちょっと視界が回る。 冬だっていうのに、ネコの国は暖かい。 しかも人の出入りが激しいので、ぶつからないようにするのが精一杯な私を見かねてか、ウシジマさんが腕を回してきてくれた。 「ちょっと、夜風に当たった方がいいかにゃ」 覗きこまれた口からは尖った歯と、少し柑橘の匂いと…… ……うん? 「もしや、カルアミルクってお酒れすか」 「ニャ」 ……うん。まぁ、私の勘違いですしね。 仕方ないか。そうか、酔って歩くとこうなるのか。うんわかった。 確かにこんなんじゃ御主人様がお酒禁止といいたくなるのもわかるもんです。 ……でもフツーいきなりお酒はないんじゃないかなぁ……。 覚束ない足取りで戻ると、ジャックさんが半眼でこちらを見つめてきたので素直に謝り屋台で購入したソフトドリンクを差し出しました。 私のほうは紫色のソーダ。 毒々しいですが、味はファンタです。 コートを脱いで、服の襟を確認し、手を消毒。 そろそろまた再開されるらしく観客席のほうにもぞろぞろと人が戻りつつあります。 「ルフイアさんは?」 「取材だってさ」 ここにも残業さんがひとり。 一人だったジャックさんはヒマだったのか耳が引っ繰り返り、内側のほんのりピンクがおもてになっています。 何やってたんだろう。 そうか、血行がいいとちょっと温かいんだ。 ごしごししただけあって中はつやつや、毛艶も格段によくなってるし。 「ところでキヨちゃん」 「はい?」 すべすべさらさらふわふわ。 ととろもどきとは違った柔らかさです。 さらさらふわふわです。 もふもふです。 ぺったんぺたんと動く耳が面白いです。 「酔ってる?」 「はい、ちょっと飲んじゃいましたけど歩かなきゃ大丈夫ですよ!あ、でも手元狂ったら危ないから手当ての方お願いしますね」 うん。 意識ははっきりしてるから、大丈夫。 ジャックさんは口髭を上下させて、どこか遠くを見るような目になってます。 現実逃避でしょうか。 「うん。頑張ります」 いいこいいこするついでに、前からやってみたかった耳の根元の柔らかい所も撫でてみました。 ジャックさんの耳の根元の毛って凄いふわふわで、頬触りが良過ぎです。 御主人様とチェルにも是非教えなきゃ。 モフモフ、気持ちいいなぁ……。 *** 華やかな店内の片隅に、一箇所だけ妙に殺伐とした雰囲気が漂うテーブル。 彼女は迷わずそこへ向かうと、営業スマイルを浮かべたスタッフに会員証を差し出す。 「リーィアェパパロトル」 「はい、では――ハイ確かに。夜光蝶リーィエさん、赤組四番です。そろそろ下級が終了しますので準備をお願いします」 初参加者は全員下級での参加になっており、飛び入り参加者も同じ扱いだ。 平たく言えば、素人同士の素手での喧嘩を見せるだけなのだが、プロよろしく二つ名を付けて呼んでいるので、物珍しさから一回参加してみようという者は案外多い。 二つ名は、開催者側が名づけており、――被らないように苦慮しているらしく新しい参加者ほど、仰々しい事になっているのだが。 20勝以上すれば中級にランクインできる。 そして、……三月に一度の大会に参加できる。 その大会で上位に食い込めば、二つ名を自分で付け直すことが出来るし、賞金も大幅にアップする。 素人の公開喧嘩とはいえ、順当に勝ち残っていった参加者がプロに転向することも珍しくない為、関係者や格闘技ファンも多く集うこのイベントはそれなりに人気があるし一般認知度も高い。 ――けして、恥じるような事ではない。 彼女は改めて自分に言い聞かせ、型通りの誓約書にサインをしそれと引き換えにゼッケンを受け取った。 幾度も繰り返した手順を踏み、開催側から貸し出しされているぴっちりとしたユニフォームを頭から被る。 衣服に関しては規定がなく、ビキニであろうと鎧だろうと問題はないのだが、私服を汚す必要は無いと思うのは極少数だ。 待合には見知った顔がいくつかあったが、互いに目を逸らす。 空いたベンチに腰掛け装飾品を外す。 指輪は凶器になるし、ピアスで耳を裂くのもつまらないからだ。 「ヘンリー聞いてくれよ!あの娘が居たんだよ!信じらんないよ!笑顔で手当てしてくれたんだぜ!?あの笑顔の為なら死ねる!」 「ハイハイ」 「ハイハイじゃねーよ!また来て下さいねって言ってくれたんだぜ!?」 あまりの喧しさに思わず目をやると、若いネコがにゃあにゃあと芝居がかった動きをしていた。 片方はゼッケンをつけ、もう片方は耳に絆創膏を貼り付けている。 「ナースとしてその言葉間違ってるだろ……」 ぐったりとゼッケンをつけた方が耳を伏せ嫌そうな顔に笑いそうになったのを堪え、指にテーピングを巻きつけていると自分の番になった。 要は、勝てばいい。 それだけを心に刻み、リングに立つ。 「赤コーナァー 夜光蝶リーイエ!」 丸天井に音声が反響し奇妙な木霊となって跳ね返る。 魔素を溜まりにくくし、魔法が使われた際の威力を軽減する為の措置だ。 「青コーナァッ 紅の衝撃!レディーシアドット!」 対戦者は、赤い皮のビキニに背中まである赤毛を靡かせた化粧の濃いネコ。 赤いロングブーツに肘まである手袋をしているので、寒いのか暑いのかはっきりすればいいのにと僅かに思う。 屈強そのモノといった肉体に、きつそうにストライプのシャツを着た黒トラの審判は不機嫌そうに彼女を見やり、何か言いたげだったが何も言わずに襟を正した。 細身か巨体かの二分割のネコの中では一際目立つ、逞しい四肢に精悍な横顔に女スタッフ――と男の目線が集まる。 鐘が鳴る。 始まると同時に、溜めた息を吐きながら後ろへ跳ぶ。 予想よりも――速い。 水色のマットにはくっきりとした拳の跡がついている事に一瞬戦慄を覚え、重ねて迫る爪から身を避ける。 「前はよくもやってくれたね。今日こそぐちゃぐちゃにしてやる」 「……誰」 赤毛が吠えた。 背中に当たるロープ。 左から大きく振りかぶる爪先は紫。 身を屈め、突き倒す。 即座に足を跳ね上げ振り落とされそうになったので頭突きした。 相手は 一瞬耐えようとしたがそのままマットに沈む。 鼻血で顔半分が赤く染まり始めていたので、審判に合図し立ち上がる。 審判は、対戦者の様子を伺い担架を呼び寄せた。 リングから降りると喧騒に囲まれ、スタッフから続行するかどうか問われる。 頷き控え室に戻り、呼ばれるのを待つ。 参加者とはいえ、同時に客でもあるので店内に居ても構わないのだが、彼女はその気がなかったのでそのままベンチに座り瞼を閉じた。 遠くに響く雷鳴のような子守唄 「―リェ さん 」 彼女が瞼を開くとスタッフがこちらを見ていた。 出番だ。 当初から立ちっぱなしのはずの審判は、うだるような熱気の中を涼しい顔をしてリングに立っていた。 このトラが魔法を使っている所を見たことはないが、実はこっそり使っているのではないかと彼女は内心思っている。 次の相手は黄毛のネコだった。 以前対戦した相手だったらしく、先程と同じような事を言われ彼女は瞬きする。 彼女にとっては何気ない行動だったが、相手にとっては十分な理由だった。 瞳孔が細くなり、背筋の毛が逆立ち尻尾が膨らむ。 彼女がネコだったら、こうまで激昂しなかっただろう。 似通っているが故に、余計油を注いでいる事を彼女は自覚していなかった。 鐘が鳴り、相手が後ろへ跳ねたので攻めた時もわからなかった。 突き出した拳が目を擦りかけたので慌てて体を崩すす。 彼女にとっては当然の行為だったが、ネコはそれを自分への侮りだと感じた。 怒りが沸点を越え、目の前が白くなる。 右手で印を切る。 「《火》」 いくら魔素を溜め込まない構造になっているとはいえ、ここはネコの国。 魔素は、自然界に満ち――同時に人体にも宿っている。 つまり―――人が集まれば、魔素も集まるのだ。 ましてや、戦意と熱気がコレだけ増えれば―― 「《花》」 大気に満ちる魔素が振動し、ビリビリと肌を震わし、周囲に満ちる魔素を取り込み一層輝きを増す。 マットを転がり、即座に飛び起きた彼女を審判がリングから放り出した。 「《咲―――》」 ネコが次に見たのは、迫り来る巨大な拳。 元々は、殺傷能力の低い痴漢撃退用の魔法に過ぎないものだったが、一度生じれば魔素を拡散する石材と混ざり合う様々な要素が空間で衝突し、微細な揺れを起こす。 本来、建築材には向かない材質を使っているため、些細な事で揺らぎが生じるのがこの建物の欠陥である。 後年、この事を聞いたヒトは「この中で魔法を使うって言うのは、静電気防止スプレー使いながらマッチ擦るようなもん」と解説したとか、しないとか。 「青 反則負け」 審判が低い声でそう言い渡し、だらりとした腕を掴んでそのままリングの外へ投げ飛ばした。 不発で終わった火炎がリングを焦がし、ブスブス不満げな音を立てて青煙を立てて消える。 スタッフが応急処置用の補修液をリングに塗り、穴を塞ぎ、その上から布地を貼り付けると、痕跡はほぼ見えなくなった。 ナレーターは慣れた様子で試合無効と、一ヶ月間の出場停止処分を放送する。 彼女はリングの下の台から降りると、不満げに審判をみやるが、黒虎は振り返ることなくスタッフと話し始めた。 唇を噛み締め、背を向ける。 無効試合では、賞金の支払いはない。 中級では賞金の額などたかが知れていたが……。 「リーィエ」 俯きかけた彼女が振り返ると、黒トラはおもむろに控えの一角を指す。 「ちゃんと医者に見てもらうんだぞ」 睨みつけると、厳つい顔を更に歪ませ牙を見せる。 「ただでさえ、反感を買い易いのに無茶をするんじゃない」 「関係ない」 同じように牙を剥いて言い返すと、トラは鼻を鳴らし背中を叩いた。 「今日はいつものヤツじゃないから、ちゃんと医務にいけ」 言い返す前に審判は拘束された対戦相手に怒声を浴びせ始める。 こうなれば、こちらの話など聞いてはくれないだろうと彼女は察し、頬を掻いた。 鈍感男め。 試合を見ていた客が声を掛けてくるのを無視し、彼女は消毒液の匂いを辿った。 医者は開催者側が用意しているので、質はともかく費用を心配しなくて済むのがありがたい。 そもそも先週の怪我が治りきっていないだけで、別に急ぐ必要は無いのだが……掛かり付けが休みだったのでちゃんと治りきらなかったのがバレていたのか。 鈍感なくせに、こういうところばかり気にしてと、腹立ちを感じる。 人込みを抜けると、白いテントに黒字で「美人の怪我人はこちら!」と書かれた札…美人の の所には後から大きく×がつけられている。 けされているなら問題ないだろうと、設えられたテントの先で、更に不可解なものを見た。 睨み合う端正な顔立ちの小柄なイヌと目付きの悪い長身のネコ。 狭いのでその真ん中を突っ切った先に白衣を着た黒ウサギと……その頭に顎を載せ首に手を回している…… 「キヨカ?」 垂れた耳を握り締めて頬に擦りつけている異種族の友人の姿に戸惑い言葉を失う。 「りっちゃんいらっしゃーい」 「……リーィエさん。こんばんわ。どうなさいましたか?」 立ち上がった瞬間、ぐらりとよろめきおっとっとー、と小さく呟いてからこちらを向いて微笑む。 黒いワンピース…ではなくナース服に白磁の肌、肩より少し長いくらいの漆黒の髪。 痩せ過ぎで骨ばっているし、美人とは多分言われないだろうが……。 笑うと超カワイイ。 一瞬、鼻血が出るんじゃないかと思い鼻を擦るが幸いその兆候は見られず。 なんでもしてあげたくなるような、とてつもなく感じのいい笑顔に先程まで睨みあっていたイヌとネコが小さく呻いてから、だらしなく相互を崩す。 一撃である。 その足元で、短いスカートの中を覗こうと慌てて地に伏せる変態ウサギ。 無言で床に落ちている耳を踏みつけると邪魔な胴体がのたうった。 「キヨカ、何故ここにいる?」 「耳がー!みみがぁぁぁーあっやだこの位置いいがナイスアングルッ!!りっちゃん黒レース!レーッグベッ がっ 」 嵌りきらない部品を無理やり押し込むように、踵を使って深めの角度で連打する。 「出張です」 何とか聞き取れたものの、呂律が回らないのか言葉が怪しい。 くすくす笑いながら体をふらつかせ、ご機嫌らしいので頭を撫でると、更に嬉しそうに笑う。 腕を回して抱きしめると、更に笑う。 「聞いて下さい!ジャックさんの頭と耳の毛はふわふわなんです!」 拳を握っての力説に、思わず足が止まる。 イヌとネコは同時に口を開こうとして、お互いを睨み合う。 地べたに這いつくばったウサギのどんよりとした眼が幾度か瞬きし、すくりと立ち上がった。 「聞いてよりっちゃん!勤務中に酔っ払ったんだよ。ナースなのにっ信じらんないよね!オシオキが必要だよね!無論エロい意味で」 「ちょっと待って下さいッ別にわざとサボろうとしたんじゃなくて、このヤクザが無理やり呑ませたのが原因ですよ!あと僕もここらへん理容師に褒められる位キューティクルが!」 「誰がヤクザニャッ大体、お前は一体ニャニ様のつもりニャ!毛玉夥多は黙ってすっこむニャ!」 白衣の黒ウサギに掴みかかる背広姿に白に茶色い耳をした小柄なイヌに柄の悪いシャツを着た白地に黒ブチネコ。 ニャーニャーワンワンと、ウルサイので少し下がるとネコ達が興味津々の様子でテントの中を覗き込んでいるのに気がついた。 更に下がる。 三人は気がつかずに、毛玉の取り方とスカート丈の相関性について言い争う…というか、もう掴みかかっている。 何が彼らをそこまで駆り立てるのか、よくわからないながら更に後退する。 転がる三匹、更に覗き込む野次ネコ。 なんだか面白そうだから、という理由で間に飛び込む暇ネコ達。 一層の混乱。 誰かの手元からか放たれる光球、激突する体、ひしゃげる支柱、崩れ落ちるテント、驚愕と、悲鳴と、更なる混乱。 しばらく放って置こうと結論を出し、人気のない方へ黒ナースを引っ張る。 確かに酔っているらしく、微妙に焦点の合っていない瞳。 ぐらぐらとしている体を引き寄せ、頭を撫でる。 「試合、みた?」 「見ました!リーィエさん強いです!」 嬉しくなって体に腕を回してぐるぐると回す。 見つめる瞳はとても明るい色をしている。 まるで、世界に2人だけのような感覚に胸を高ぶらせ、一層指先に力を込める。 ――叶うなら、ずっと、このまま―― 「キヨちゃん三半規管弱いよねー」 額におおきなコブをつくったジャックが彼女に濡れタオルを掛けた。 彼女は回し過ぎて酔って気持ち悪くなって胃の中身をトイレで根こそぎ流してきたので、顔色が悪い。 正直、反省している。 あの野次ネコ達もさっさと退散し、後に残っているのは酔っ払いぐらいなものだ。 こういうのを見ると、広いというのも考えものだと思う。 あれだけ騒いだのなら、店から追い出されてもいいようなものだが、生憎店も客もリングに釘付けだった。 なにせ上級の試合は、プロにも劣らない。 アマチュアな分、チケットは安くすむし、選手との距離も近いので観客は多い。 時間も無制限になり、魔法の使用以外ならば滅多に反則扱いにならないのだから当然だろう。 今も網のように広がった茶髪の大柄な女が小柄な赤毛からの跳び蹴りをやすやすと避け、逆に足を掴んで振り回すと天井が振動するほどの歓声が上がった。 肩をつつかれる。 ジャックが何か言いたげな表情をしているのを無視し、試合に眼を戻す。 赤毛がロープで茶毛の体当たりを宙返りでかわし、肩を足で蹴り背後へ降り立った。 足が下がり、身が低くなる。 ばねのようにしなやかな体に力が溜まる。 「あのー」 うっとおしいので片手で叩き落とし、ついでにそのまま拳を突き上げる。 ぷぎゅっと妙な声を上げて、一足早くノックダウンする黒ウサギ。 床に落ちる瞬間、赤毛の拳が茶毛の振り返りざまのみぞおちに収まった。 割れるような歓声。 自分も思わず立ち上がり、近くの人間と喜びを分かち合おうとすると黒いモノで視界を塞がれ、とっさに除けようとする。 べちゃりと落ちる濡れタオル。 キヨカの手を握ったままだった。 骨の目立つ、細い指先に無意識のうちに食い込ませた爪が食い込み 「ごめん」 慌てて爪を戻し、垂れた血を指で拭う。 「大丈夫です」 いつものように気持ちが優しくなるような、柔らかい笑みに何故か背中がぞっとした。 「やっと、頭がぐるぐるしたの治りました」 指先を咥えながら救急箱の中から慣れた様子で絆創膏を取り出し貼り付け、顔を戻す。 「やっぱりお酒はよくありませんね」 ひしゃげたテントを復旧しながら言い争うイヌとネコを眺める項が細い。 「そーだよー減給だよ減給」 「クビじゃないんですか」 淡々と返す彼女に大袈裟にのけぞり、しばらく腕を組んでからウサギがにやりと笑う。 「膝に乗ってお兄ちゃん大好きって言ってくれたら、減給もナシかも」 「オニイチャンダイスキー」 短いスカートの下から覗く白い太腿を黒い毛に覆われた指先がいやらしく這いまわ……おもわず拳で強打する。 「キヨカ、もうやめた方が良い」 「でも、ここクビになると困るんです。他のアルバイト禁止なので」 「えーなんでさぁー」 強打したはずの手を細い体に巻きつけ、背中の頬を摺り寄せ下品な笑いを上げるウサギ。 イライラしながら、彼女に当たらないように叩くも、余り効果がない。 「……何かあったら困るからじゃないですか……金銭的な意味で」 表情は変らず、なのに口調は暗い。 「誰が?」 「……大家さん……というか……」 彼女の事情は複雑怪奇なので、余り追求しない事にしているのだが、彼女は灰眼を宙に彷徨わせたまま動かない。 言葉を捜して色味の薄い唇が開かれたまま動かず、背後でウサギがせっせと顔を擦りつけても無反応のまま固まっている。 目の前で手を振っても反応しない。 頬をプニプニして、胸を触ろうとする痴漢ウサギを反対側から引き剥がして締め落とすと、ようやく彼女はがくりと項垂れ俯いた。 「キヨカ?」 ネコ科ではない丸い瞳を見るたびに、なんだかいつも発見している気がする。 侮らず、真剣に賞賛してくれて、なんだかいつも一生懸命で、 寂しそうで。 「リーィエさんも怪我してるんですよね。テント治ったらすぐやりますから!ねっオニーチャン」 いきなり向きを換え、仰向けのままのウサギを近くに転がっていた金棒でつつくキヨカ。 素手では触りたくないらしいく、しばらくつついたものの反応がないので手を離し、彼女はこちらに向き直った。 「そーいえばリーィエさんは、もしかしてあの審判のトラさんとお知り合いですか?」 「全然縁もゆかりもないあんな鈍感な上鳥肉は骨が刺さるから嫌だとか抜かすアホの事など全く持って無関係」 突然の質問に琥珀色の瞳は針のように尖りぎらぎらと輝き、短い尻尾は忙しなく上下する。 野生の力強さとしなやかさを兼ね備えた凛とした肉体を包む冬用にしては寒々しい、年頃らしい華やかな服装をじっくり見つめてくるキヨカ。 「……そうですか?あのトラさん凄く強いし、かなりカッコイイ気がするんですが」 黒衣のナースが妖しげに微笑むのを見た瞬間、ありえないとは思いつつも兎耳のナースに押し倒される黒虎の姿が眼に浮かび全身がむず痒さを覚え誰彼構わず喧嘩を売りたくなる。 堪え、深呼吸し平常心を引っ張り、大人の余裕を持って微笑もうとしたが黒衣から覗く酷く色っぽい白い肌に落ち着きが三千光年の彼方に吹き飛ぶ。 「ないないない!勘違い!」 フルフルと首を振って断言して、尻を触ろうと背後に回った黒ウサギに飛び蹴りする。 普段よりも手加減できなかったのは、ただの偶然に過ぎない。 *** 朝帰りで眠い頭をなんとか働かして、朝御飯の準備。 幸い、今日は休日なので慌てて仕度する必要もないので助かります。 フライパンの上でベーコンと卵がいい匂いをさせているのを横目に欠伸をかみ殺してお皿の準備。 一方、御主人様はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいます。 なんだか既視感をおぼえました。 ……なんだっけ……? 「焦げてるぞ」 御主人様の声に我に返り、慌てて火を止めなんとかセーフ。 結局ほとんど寝ていないので、頭がぼんやりして仕方ありません……。 ぼんやりと付け合せの野菜炒めを食べながら、カレーに入れるのは普通の物だけで大丈夫なのか考えていると食べ終わった御主人様が尻尾を絡ませてきました。 何か言いたげです。 そういえば、なんだか顔艶がよろしいです。 ここしばらく無気力を絵に描いたような状態だったのに、今日は妙に生き生きとしています。良い事です。 「お元気そうですね」 「ああ」 御主人様、超ご機嫌です。 不気味です。 つやつやでキラキラです。 まるでエステに行ったばかりのようです。 つまり、一皮剥け……あ。 「もしかして……脱皮しましたか?」 頷く御主人様に納得し、最後の一口を片付ける。 「休みに合わそうと思ってな」 自分の意思で、ずらせられるって、凄いと思うんですけど。 チェルは今日は寝坊なんだろうか。 珍しい事もあるもんだと思いながら、空いたお皿を流しに運ぼうとした手をぎゅっと握られ、思わずのけぞる私に御主人様が更に寄ってきました。 顔が近いです。気のせいか、眼が輝いていませんか? 「なぁ」 御主人様の囁きに頭が真っ白になります。 困ります困りました御主人様は―――何億回でも言いますが美形なのです。見るだけで心臓は痛くなるし、喉は乾くし大変なのに! こんなに近寄られたら困るじゃありませんか! 何を言うべきか言葉を探していると、小さく戸を押す音が聞こえペタペタと裸足で床を歩く音が近づきました。 予想通り、小さな女の子がヌイグルミを抱えてこちらを見上げています。 「がっくん、ナニしてんの?」 「……握手」 手を離して無言で戻る御主人様。 心なしか、後姿が煤けて見えるのは、気のせいでしょうか。 「キヨカ、今日お休みだからずーっといっしょにいられるね!」 当然のように御主人様の膝…もとい尻尾の上を占領して卵焼きを頬張りながらチェルが言うと、御主人様が「ずーっと…だと?」と、絶望したように呟くのが聞こえました。 一体、ナニが気に喰わないのか……謎です。
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「なんだコレは」 紙で作った飾りで彩られ、風に煽られパタパタサカカサと音を立てるソレに警戒の眼差しを向ける御主人様。 近づこうともせず、尻尾の先をパタパタさせ厳戒態勢です。 そして眉間に皺を寄せ、拳でこめかみをぐりぐりと抉っています…私の。 「七夕ですー…ご存知ありませんか?」 御主人様が近いです。 しかもこめかみが痛いです。 「こういう行事は、子供に積極的に体験させるべきだと思いましたので、独断で購入しました…もしかして笹アレルギーですか?」 ぐりぐりが停止しました。 速攻逃走しようとしたら今度はヘッドロックです。 重いです絞めすぎです。 顔が近過ぎます。 「あっちの行事か?」 あっちとはいうまでもなく日本の事です。 「普通に花屋さんで七夕用として売っていましたが…」 正直、コレは笹や竹とも何か違うように見えますが… なんか…変な笹というか…でも七夕用だし…。 でもなんというか…やけに葉が大きいというか緑緑というか…おどろおどろしい雰囲気を醸し出しているというか…いや、七夕用って書いてあったからきっとこれは笹です。 あえていうならアマゾン産笹のはとこの子供の友達ぐらいの近さの。 御主人様が物凄く不審そうな表情のままガン見しています。 御主人様はヘビですので恐らく砂漠出身です。 砂漠に笹があるとも思えませんので、知らなくても仕方ないかもしれません。 御主人様は考え込んでいる様子でしたので、こっそりと腕から首を抜こうとしたら更に強力に絞められ動けません。 髪留め取るのはやめて欲しいです……。 「タナバタってなんだ」 顔近いです御主人様。 「えーっと、七夕というのはですね……」 私はなんとなく人差し指を立て、おぼろげな記憶を叩き起こしました。 「そもそも織姫と牽牛という男女が居たのですが、結婚したらバカップルになって働かなくなったので……」 そういえば、学校で七夕祭りとかしたなぁ…友達と一緒にセール行ったり途中で先輩見つけて追いかけたり……楽しかったなぁ。 「で、御両親が怒って二人は引き離さ ぁっ…ん……っ … 」 いつもの事ながら、御主人様は唐突過ぎると思います。 説明聞きましょうよ。 「お前が何を考えてるのか、さっぱりわからん」 そういいつつ、指に噛みついてくる御主人様。何故か不満そうです。 私にも御主人様が何を考えているのかサッパリです。 ぺったりと床に座り込んでいる私と、それに巻きついている御主人様って、どっちの方がサッパリなのか私には推し量りかねます。 唇を噛むのが最近のブームなんでしょうか。感触が残って困ります。 「で、話を戻しますと、その天の川を渡るのが七夕の日なんです。 幸せ一杯の二人を祝いつつ、ついでに願いを叶えて貰えるかもしれないステキデーですね」 やけに力の篭った御主人様の腕を意図的に無視し、目を閉じて風に吹かれる七夕飾りの音に耳をすませているとひどく懐かしい気分になります。 眼を開ければ台無しですけど。 ヨーロッパっぽい煉瓦造り建物に笹の葉サラサラは違和感バリバリです。 やったの私ですけど。 折り紙まで用意しまして…ええ、短冊も用意しました。 チェルとサフが結構喜んでくれたので私としても大満足…。 花屋さん曰く、巨大な木に短冊をつける地方もあるとか…クリスマスと混ざったんでしょうか…? 他にもしていそうな所は…似合いそうなのはー…予想では狐の国とか、猪の国とかでしょうか。和風らしいし。 中華という意味では獅子の国もするのかな?どうだろう。 少なくともイヌはしてなかったなぁー…私が知らないだけかな。 その確立は凄く高そう。 でもあそこ寒いしなぁー…笹って寒くても生えるのかな…。 …ていうか、御主人様…なんというか……腕掴まなくても逃げないのに、念押しのように上乗られると重いです。 顔が近いです。 飽きたらしく指は開放されましたが、ヒトなのにヘビらしくもある整った顔が何を考えているのかサッパリ判りません。 「短冊、用意してありますので、良かったら試してみてはいかがでしょう?」 願いが叶った覚えが無いのは伏せておきます。 私の言葉に御主人様はしばらく沈黙した後、 「矛盾するからやめておく」 あー…? 「宗教的にアウトでしたか」 御主人様無言です。 なんでしょうか、なんか怒られるような事、言ったのかな。 えーと確か、ヘビはなんか戒律がめんどくさそうなの…って世界の種族辞典とやらに書いてあったような。 御主人様はそれらしい事は普段言いませんが…。 「お前は何を願ったんだ」 頭に顎載せるのやめてもらえないかなぁ…。 なにやら背中にも腕を回され、まるで抱き締められているような雰囲気です。絞め、じゃないというのが重要です。 …役得だと思っておこう。 でも足触るのやめましょう。スカートの中はグロ指定ですよ。 「世界平和、で」 サフは『背が高くなりますように』でチェルは『空が飛べるようになりますように』でした。 かわいい。 そして御主人様は、力を込めてきました。密着しています酸欠です。 「普通、元の世界に帰れますようにだろうが!」 怒られてます。 無茶苦茶です。腕キツイ尻尾きつい、尻尾重い、尻尾冷たい。 傍から見たら絞め殺す寸前ですよたぶん。 「いえ、ソレよりは世界平和かなぁ、と」 一人だけ戻れても後味悪いし…。 きっとこれからもヒトは落ちてくるのに。 「ヘビの国の内戦とかカモシカの国の内紛だとか、色々あるじゃないですか、イヌなんか特に…御飯マズいしじめっぽいし御飯マズイし臭いし性格悪いし御飯マズいし…」 自重。 もしかしたらヒト用のエサっていうのだけクソマズイだけかもしれないし…。 「とりあえず世界平和願えばみんなハッピーな感じで間違いないかなーと」 そうすれば、弱くて魔力も常識も知識も無い役立たずでも、もうちょっとマシな扱いしてもらえるんじゃないかな、と。ズルイ考えです。 確かに不法侵入だから仕方ない気もしますが、不可抗力なわけなんだし…せめて子供ぐらいは、なんとかしてあげたい。 けど、現状ではこちらの人間ですら結構悲惨だったりするし…。 せめてヒト同士で何とかしあえれば………。 あー…でも御主人様的には、私が帰れた方が色々と面倒事が無くなって、良かったかな? なら失敗したかなー…。 色々考えつつ肝心の御主人様を見上げれば、御主人様もこちらを見下ろしていました。 作り物のように整った表情の中で眼だけ動きます。 ぱっと見はヒトなんだけどなぁ…温度低いし、舌の形とか……。 … …・・・ …… 御主人様が無毒になりますように、に変更しとこうかな…。 そしたら……いや、どうでもいいか、今更…… 古代帝国語?とかいうなんかミミズがのた…模様のような印象的な字で何枚も短冊を書きそれを笹に縛り付け、非常に満足げな御主人様。 折り紙を手に取り、妙に感心したような声を漏らしたりしています。 お風呂から出たサフやチェルの話を聞きながらうんうんと頷く様子は本気でお父さんです。 「今日は、ジャックは来ないんだよな?」 「はい、今日は来ません。リーィエさんの試合を見に行くそうなので」 お洒落な格好をしてプレゼントも用意していましたが…どうなる事か。 「で、コレは全部朝捨てるんだな」 「え?」 「なんで?」 「ジャックはまだしてないよ?」 御主人様の言葉に思わず問い返す二人と…私。 コレ、意外と高かったんですよね…。 「捨てるんだよな?」 どうも挙動不審です。 氷のような無表情の中に焦りのようなモノが見受けられます。 お子様二人にも若干呆れたような眼で見られていますが。 「正確に言うと七夕はまだ先です。売ってたのでフライングで購入しましたが」 御主人様が無言で短冊を毟りはじめました。 突然の凶行に私はなすすべも無く、私達はただ見守る事しかできません。 そしてさっさとその場を去る御主人様。 「何、アレ」 あっけにとられたままのサフ。口が半開きです。 「恥ずかしい事でも書いたんですかね…」 「はずかしい事したの?」 きょとんとした表情のチェル。かわいい。 私もこれぐらいの時は、大人になれば失敗しなくなるとか思ったりしてたっけなぁ…。 「宝くじが当たりますように、とか書いたとか」 「それはジャックが見たら笑うね」 私の勝手な推測に頷くサフ。 「それ、はずかしいの?」 「がっくん普段カッコつけだから」 御主人様はそういうのを鼻で笑うタイプですから、あながちありえないとも言い切れません。 「あとはなんだろ」 「あとは…あ、が… どうかなさいましたか?」 無表情のまま短冊を押し付けられました。おまけに頬を引っ張られました。 サフが右手で私が左手でです。サフがひゃんひゃん言っていますよ。 …チェル、コレ遊んでるんじゃなくて怒られてるんだけど…。 いや、ズルイじゃなくて…。 一人だけ引っ張られてないのはイヤ?えー… あぁっ幼女のほっぺたありえないほど柔らかいです!餅です餅が居ます!! あとで確認すると短冊には、御主人様らしいキッチリした書体で「家内安全」と書いてありました。 まぁ、…自由ですけどね。 P・S ジャックさん 七夕にカップルの破滅願うのはどうかと思います……。
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「なんだコレは」 紙で作った飾りで彩られ、風に煽られパタパタサカカサと音を立てるソレに警戒の眼差しを向ける御主人様。 近づこうともせず、尻尾の先をパタパタさせ厳戒態勢です。 そして眉間に皺を寄せ、拳でこめかみをぐりぐりと抉っています…私の。 「七夕ですー…ご存知ありませんか?」 御主人様が近いです。 しかもこめかみが痛いです。 「こういう行事は、子供に積極的に体験させるべきだと思いましたので、独断で購入しました…もしかして笹アレルギーですか?」 ぐりぐりが停止しました。 速攻逃走しようとしたら今度はヘッドロックです。 重いです絞めすぎです。 顔が近過ぎます。 「あっちの行事か?」 あっちとはいうまでもなく日本の事です。 「普通に花屋さんで七夕用として売っていましたが…」 正直、コレは笹や竹とも何か違うように見えますが… なんか…変な笹というか…でも七夕用だし…。 でもなんというか…やけに葉が大きいというか緑緑というか…おどろおどろしい雰囲気を醸し出しているというか…いや、七夕用って書いてあったからきっとこれは笹です。 あえていうならアマゾン産笹のはとこの子供の友達ぐらいの近さの。 御主人様が物凄く不審そうな表情のままガン見しています。 御主人様はヘビですので恐らく砂漠出身です。 砂漠に笹があるとも思えませんので、知らなくても仕方ないかもしれません。 御主人様は考え込んでいる様子でしたので、こっそりと腕から首を抜こうとしたら更に強力に絞められ動けません。 髪留め取るのはやめて欲しいです……。 「タナバタってなんだ」 顔近いです御主人様。 「えーっと、七夕というのはですね……」 私はなんとなく人差し指を立て、おぼろげな記憶を叩き起こしました。 「そもそも織姫と牽牛という男女が居たのですが、結婚したらバカップルになって働かなくなったので……」 そういえば、学校で七夕祭りとかしたなぁ…友達と一緒にセール行ったり途中で先輩見つけて追いかけたり……楽しかったなぁ。 「で、御両親が怒って二人は引き離さ ぁっ…ん……っ … 」 いつもの事ながら、御主人様は唐突過ぎると思います。 説明聞きましょうよ。 「お前が何を考えてるのか、さっぱりわからん」 そういいつつ、指に噛みついてくる御主人様。何故か不満そうです。 私にも御主人様が何を考えているのかサッパリです。 ぺったりと床に座り込んでいる私と、それに巻きついている御主人様って、どっちの方がサッパリなのか私には推し量りかねます。 唇を噛むのが最近のブームなんでしょうか。感触が残って困ります。 「で、話を戻しますと、その天の川を渡るのが七夕の日なんです。 幸せ一杯の二人を祝いつつ、ついでに願いを叶えて貰えるかもしれないステキデーですね」 やけに力の篭った御主人様の腕を意図的に無視し、目を閉じて風に吹かれる七夕飾りの音に耳をすませているとひどく懐かしい気分になります。 眼を開ければ台無しですけど。 ヨーロッパっぽい煉瓦造り建物に笹の葉サラサラは違和感バリバリです。 やったの私ですけど。 折り紙まで用意しまして…ええ、短冊も用意しました。 チェルとサフが結構喜んでくれたので私としても大満足…。 花屋さん曰く、巨大な木に短冊をつける地方もあるとか…クリスマスと混ざったんでしょうか…? 他にもしていそうな所は…似合いそうなのはー…予想では狐の国とか、猪の国とかでしょうか。和風らしいし。 中華という意味では獅子の国もするのかな?どうだろう。 少なくともイヌはしてなかったなぁー…私が知らないだけかな。 その確立は凄く高そう。 でもあそこ寒いしなぁー…笹って寒くても生えるのかな…。 …ていうか、御主人様…なんというか……腕掴まなくても逃げないのに、念押しのように上乗られると重いです。 顔が近いです。 飽きたらしく指は開放されましたが、ヒトなのにヘビらしくもある整った顔が何を考えているのかサッパリ判りません。 「短冊、用意してありますので、良かったら試してみてはいかがでしょう?」 願いが叶った覚えが無いのは伏せておきます。 私の言葉に御主人様はしばらく沈黙した後、 「矛盾するからやめておく」 あー…? 「宗教的にアウトでしたか」 御主人様無言です。 なんでしょうか、なんか怒られるような事、言ったのかな。 えーと確か、ヘビはなんか戒律がめんどくさそうなの…って世界の種族辞典とやらに書いてあったような。 御主人様はそれらしい事は普段言いませんが…。 「お前は何を願ったんだ」 頭に顎載せるのやめてもらえないかなぁ…。 なにやら背中にも腕を回され、まるで抱き締められているような雰囲気です。絞め、じゃないというのが重要です。 …役得だと思っておこう。 でも足触るのやめましょう。スカートの中はグロ指定ですよ。 「世界平和、で」 サフは『背が高くなりますように』でチェルは『空が飛べるようになりますように』でした。 かわいい。 そして御主人様は、力を込めてきました。密着しています酸欠です。 「普通、元の世界に帰れますようにだろうが!」 怒られてます。 無茶苦茶です。腕キツイ尻尾きつい、尻尾重い、尻尾冷たい。 傍から見たら絞め殺す寸前ですよたぶん。 「いえ、ソレよりは世界平和かなぁ、と」 一人だけ戻れても後味悪いし…。 きっとこれからもヒトは落ちてくるのに。 「ヘビの国の内戦とかカモシカの国の内紛だとか、色々あるじゃないですか、イヌなんか特に…御飯マズいしじめっぽいし御飯マズイし臭いし性格悪いし御飯マズいし…」 自重。 もしかしたらヒト用のエサっていうのだけクソマズイだけかもしれないし…。 「とりあえず世界平和願えばみんなハッピーな感じで間違いないかなーと」 そうすれば、弱くて魔力も常識も知識も無い役立たずでも、もうちょっとマシな扱いしてもらえるんじゃないかな、と。ズルイ考えです。 確かに不法侵入だから仕方ない気もしますが、不可抗力なわけなんだし…せめて子供ぐらいは、なんとかしてあげたい。 けど、現状ではこちらの人間ですら結構悲惨だったりするし…。 せめてヒト同士で何とかしあえれば………。 あー…でも御主人様的には、私が帰れた方が色々と面倒事が無くなって、良かったかな? なら失敗したかなー…。 色々考えつつ肝心の御主人様を見上げれば、御主人様もこちらを見下ろしていました。 作り物のように整った表情の中で眼だけ動きます。 ぱっと見はヒトなんだけどなぁ…温度低いし、舌の形とか……。 … …・・・ …… 御主人様が無毒になりますように、に変更しとこうかな…。 そしたら……いや、どうでもいいか、今更…… 古代帝国語?とかいうなんかミミズがのた…模様のような印象的な字で何枚も短冊を書きそれを笹に縛り付け、非常に満足げな御主人様。 折り紙を手に取り、妙に感心したような声を漏らしたりしています。 お風呂から出たサフやチェルの話を聞きながらうんうんと頷く様子は本気でお父さんです。 「今日は、ジャックは来ないんだよな?」 「はい、今日は来ません。リーィエさんの試合を見に行くそうなので」 お洒落な格好をしてプレゼントも用意していましたが…どうなる事か。 「で、コレは全部朝捨てるんだな」 「え?」 「なんで?」 「ジャックはまだしてないよ?」 御主人様の言葉に思わず問い返す二人と…私。 コレ、意外と高かったんですよね…。 「捨てるんだよな?」 どうも挙動不審です。 氷のような無表情の中に焦りのようなモノが見受けられます。 お子様二人にも若干呆れたような眼で見られていますが。 「正確に言うと七夕はまだ先です。売ってたのでフライングで購入しましたが」 御主人様が無言で短冊を毟りはじめました。 突然の凶行に私はなすすべも無く、私達はただ見守る事しかできません。 そしてさっさとその場を去る御主人様。 「何、アレ」 あっけにとられたままのサフ。口が半開きです。 「恥ずかしい事でも書いたんですかね…」 「はずかしい事したの?」 きょとんとした表情のチェル。かわいい。 私もこれぐらいの時は、大人になれば失敗しなくなるとか思ったりしてたっけなぁ…。 「宝くじが当たりますように、とか書いたとか」 「それはジャックが見たら笑うね」 私の勝手な推測に頷くサフ。 「それ、はずかしいの?」 「がっくん普段カッコつけだから」 御主人様はそういうのを鼻で笑うタイプですから、あながちありえないとも言い切れません。 「あとはなんだろ」 「あとは…あ、が… どうかなさいましたか?」 無表情のまま短冊を押し付けられました。おまけに頬を引っ張られました。 サフが右手で私が左手でです。サフがひゃんひゃん言っていますよ。 …チェル、コレ遊んでるんじゃなくて怒られてるんだけど…。 いや、ズルイじゃなくて…。 一人だけ引っ張られてないのはイヤ?えー… あぁっ幼女のほっぺたありえないほど柔らかいです!餅です餅が居ます!! あとで確認すると短冊には、御主人様らしいキッチリした書体で「家内安全」と書いてありました。 まぁ、…自由ですけどね。 P・S ジャックさん 七夕にカップルの破滅願うのはどうかと思います……。
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「おい、はろーうぃん とは何だ?」 キツネの雑貨屋さんの奥さんでタヌキの花矢さんから教わったカボチャの煮つけを食べていると、例の如く訊かれた。 いつものように整った顔に疑問と、少しの不安を浮かべている。 口の中のホクホクを飲み込んでしばらく考えた。 これ、すごく美味しくできたと思うんだけど、どうかな? 花矢さんはノリで駆け落ちした面白い人で、最近は色々料理を教えてもらっている。 「……子供が仮装してご近所でお菓子をせびる行事?」 何故か微妙な表情を浮かべてます。 とりあえず、カボチャの煮つけを食べさせると大人しく咀嚼し、ちょっと驚いたように眼を見開いた。 あ、この表情も素敵。 「美味いじゃないか」 ……。 明日の晩御飯は、鳥の香草焼きにしよう。この前喜んでたから。 強い視線を感じて目を上げと、サフが複雑そうな表情でこちらを見ていた。 口の回りが黄色くなっている所を見ると、ちゃんとカボチャを食べてくれたらしい。 和食苦手なのに。 でもカボチャ、ほとんど蒸かしただけだから厳密には和食じゃないのだろうか? 「そういえば、ジャックさん昨日も今日も晩御飯要らないだなんてどうしたんでしょうね」 空いた席がなんとなく寂しい。 「明日も要らないって言ってたよ。僕も明日は出かけるけどさ」 「え!」 サフの大好きな肉大盛りにしようと思ってたのに、結構ショック。 「あ、ちーもおとまりだよ。ハロウィンパーティーだから」 からのどんぶりを差し出しながらあっけらかんというチェルに思わず驚愕する。 「は、ハロウィンてそういう事するの?」 「お前の国の行事だろうが」 テーブルの下でこつんと尻尾が足に当たる。 そういえば、前はスリッパでツッコミされたりチョップされたりしてたけど、最近は概ねコレくらいの威力のことが増えたなー。 前訊いてみたら、それが礼儀だと聞いたとかわけのわからないことを言ってたし。 どこの国の礼儀だろうか。 まぁ・・・いいけど。 「ハロウィンは日本じゃなくてアメリカですよ。外国です。一応隣ですけど、海越えるから遠いですよ」 眉間に皺が寄り、ちょっと困ったような表情。 ……すてき。 「食べるのに違うだと?」 「どういう認識ですかそれは」 ……今度、花矢さんに納豆の作り方教えてもらおう。 毎日出してやるんだから。 翌日。 「ねぇねぇヘンじゃない?」 オバケの衣装・・・白いシーツに目の部分に穴を開けたものを被ったり引っ込めたりしながら尋ねるチェルは凄くかわいい。 「気になるなら後ろにリボンとかつける?」 リボンと裁縫道具を取り出したところで、呼び鈴が鳴った。 あいにく、耳を付けていないからすぐには出られない。 「僕がでわっワンっ」 ミイラ男をやろうとしていたサフが包帯を踏んで転がり、事態が悪化する。 「ごめんチェルお願い」 「はーいっ」 サフの足に巻きついてしまった包帯を解いていると、元気よく応対している声が聞こえた。 チェル立派になったなぁ……。 うっかり浸りそうになり、慌てて我に返る。 宅急便らしいので慌てて耳を付けて玄関に出れば、チェルが包みを持ったまま月を見上げていた。 尖った月が、暗闇に輝いている。 「あ…あれ?え、宅急便は?」 「すごいんだよー!バサバサバサーって!あ、サンタさん!」 なんかよく分からない。 首を傾げ道路の方を見下ろすと、オレンジの覆面が通りを全力疾走していた。 残念ながら、宅急便の人ではない。 仮装の一種だろう。多分。 なんだかよく見覚えのある黒くて長い耳が覆面からはみ出し、風に靡いてるのはきっと気のせいに違いない。 気のせいだ。きっと。 似た格好で通りを爆走している人たちの手に棒やら斧が見えるのも、多分気のせいだ。 「さ、早く準備しなきゃみんな迎えに来ちゃう」 「そうだ!オバケオバケ!」 ……うちの子、ホントかわいい。 ほのぼのと後姿を眺めていると、やけに聞き覚えのある声と鈍い音が複数聞え、振り返る。 「チックショー!毎日毎日新婚見せつけやがってぇぇえ!みんなー頑張れ!頑張れ!」 なんだかすごく馴染んだゴジラが覆面軍団を千切っては投げしているのを見ないことにして、家に戻る。 今日もこの街は、平和だ。
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月と星と柊と 忘却世界・ラグシア城跡百階ダンジョン最下層の封印の間は今、床一面に描かれた魔法陣と壁の魔術文字が放つ浄化の光によって隅々 までもが照らし出され。 アンゼロットは首に刃を突きつけられたままの体勢を意に介した風も見せず、清らかなる天界の光に刺し貫かれて痛む右目――冥界 の魔力を導く金色の邪眼――をきつく閉ざしつつも、冥界との繋がりを阻まれて床に膝を付き、荒い息をつく黒翼の戦姫を“してやっ たり”と言わんばかりの表情で見下ろしていた。 「これは・・・・・・そうか・・・・・・エルンシャが・・・・・・」 「ええ、そのとおりですわ。此処は元々、冥界最強の魔王エンディヴィエの一部を封じていた場所。わたくしを封じるつもりで連れ込 んでおいて、欲を出して自分まで脚を運んだのは致命的な誤りでしたわね」 「ぐ・・・・・・・・・身体に・・・・・・・・・力が・・・・・・・入らん・・・・・・・・」 “このあたしを・・・・・・・・なめんじゃ・・ないわよ!” 「がっ、はっっ! ごほぉっ・・・・・・げふっ・・・・・・!」 突如、もう一柱の古代神の思念が響くや、急激な脱力感に苦しむ戦姫の脇腹を内側から突き破り、か細く白い右腕が現れて。 黒髪の戦姫は激しく噎せ返り、大量の蝿の死骸を吐いた。 「ぐぉ・・・が・・・ごほぉっ・・・・・・何故、邪魔をする、蝿? もう少しで、もう少しでアンゼロットが手に入るというのに・・・・・・」 “あたしは裏界第二位の実力を持つ魔王! あたしの獲物は誰にも渡さない!” 「裏界に封じられた事自体が無能の証だと言うのに、其処で二番だと言うのが自慢になるか。何処まで頭が悪いのだ、貴様はッ!」 戦姫が一喝するや鎌鼬が渦巻き、切断された魔王の腕が床に触れるや蝿の死骸と成り果て、崩れ散る。 「うふふっ。その寄り代の支配率、随分と下ったようですわね」 「この・・・・・・・・」 勝ち誇る月女王と、悔しげに歯噛みする古女王。形勢は、完全に逆転していた。 無論、この老獪な古代神が、この展開を全く念頭に置いていなかった筈はない。だが、何処かに油断があったのだろう。 本来、封印の魔法陣を起動するには数十人の術者が必要だ。完全体の世界の守護者であれば単独でも起動出来るだろうが、砕けた守 護者の欠片と、その手の術式に関しては門外漢のウィザード二人だけでは超高位の魔王を封じられる程に強力な魔法陣を起動は無理だ と判断しても不思議ではない。 「恐らくエルンシャ様は、柊さんとコイズミの脳を外付けメモリ代わりにして砕けた身体を補ったのでしょう」 「莫迦な・・・・・・たった二人の人間の脳に、此れだけ大規模で複雑な術式を押し込んだだと? 脳髄が焼き切れて廃人になるぞ・・・・・・」 「貴女が驚くのも無理はありませんね。普通はそうなるでしょう。実際、二人とも鼻血と血涙流してますし」 アンゼロットがチラと視線を動かせば、男達は今にも倒れそうな苦しげな表情で脳を蝕む激痛に耐え、それぞれの得物を杖代わりに 辛うじて倒れるのを堪えていた。勝利を確信した銀髪の少女の視線を追い、そちらを見遣った戦姫の目が大きく見開かれ、その喉から 驚愕の呻きが漏れた。 「信じられん・・・・・・エル=ネイシアの・・・敬虔なる下僕達ならばいざ知らず・・・・・・裏界の間抜けどもと生温い馴れ合いを続けて来たフ ァー・ジ・アースの腑抜けどもに、此れ程の気力があるなどとは・・・・・・」 「良く知りもしない者を甘く見るからです。あの二人は、わたくしがこの手で直々に鍛え上げたのですよ。この程度の苦痛、ものとも しませんわ」 「こ・・古精霊!」 アンゼロットの駄目押しの言葉を聞き流し、戦姫は声を振り絞って突然の事態の変化に動揺する下僕達へと呼びかけた。 「魔法陣を砕―」 「せっかよ!」 己が下僕へと指示を下さんとする古代神の叫びを征し、封印の間に、神殺しの魔剣使いの咆哮が轟いた。 脳が灼ける。頭が割れそうな激痛が走る。眼球の毛細血管が破裂し、視界が深紅に染まる。教科書を数ページ読んだだけで頭痛がす る柊の脳を、超高位・超高密度の魔術情報が駆け抜ける。脳の一部が損傷し、苦労して憶えた数々の魔法の記憶が失われていく。エン チャントフレイム。エアブレード。エアダンス。ストームラン。過去の激戦を支えてきた知識の数々が消えていく。魔剣との繋がりに 異常が生じる。 「グッ・・・・・・グぉ・・・・・・が・・・・・・ッ・・・・・・」 「こいつぁ・・・・・・・・・覚悟しちゃ・・・いたけどよ・・・・・・20年近く生きてきて、こんなに頭使ったのは初めてだぜ・・・・・・」 『二人とも、もう少し、もう少しだけ堪えてくれ。あと少しで魔法陣が安定するのだ』 「俺らのこたぁ気にすんじゃねぇ! さっさと済ませやがれ!」 気遣う慈父神を怒鳴りつけた柊が、隣で苦しむコイズミの様子を覗おうとした矢先。確かに掴んだ筈の勝利を?ぎ取られ、突然に窮 地に落とされた戦姫の叫びが、耳朶を打った。 「こ・・古精霊! 魔法陣を砕―」 「せっかよ!」 魔剣を、天井に向けて突き上げる。心に、魔剣の像を描く。魂を、世界に開放する。 世界と世界を遮る帳が、下がる。 帳が下がって下がって下がって。 下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって。 下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって。 下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって。 下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって下がって。 三千世界の隅々から、己が魔剣の平行存在を掻き集める。 なんの変哲もない、ただのバスタードソードの魔剣 超巨大武器の魔剣 ヒルコと融合した魔剣 神の血で汚れた魔剣 神の手で折られた魔剣 七つの宝玉を刃とした魔剣 ウィッチブレードの魔剣 超長大武器の魔剣 遺産兵器の魔剣 錬金兵装の魔剣 神姫武装の魔剣 天使武器の魔剣 人化した魔剣 精霊船の魔剣 下僕の大群の魔剣 一つの世界を埋め尽くす、無限とも思える数の、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣、魔剣。 「降り注げ! 三千世界の剣!」 柊が魔剣を振り下ろす。集められた無窮の魔剣が、豪雨のように降り注ぎ。 「ワイドカバー!」 古精霊の一体が空間を捻じ曲げ、総ての刃を自らの小さな身体に集めんとした。 「んだとっ?!」 「させませんわ! 陰の気!」 切り札を封殺され、動揺する柊の前で、アンゼロットの大いなる者としての力が空間の歪みを相殺するも。 別の古精霊が同じ事をして瞬く間に針鼠の様な姿となり、最後にAK用らしき刃渡り3mの巨大な魔剣に串刺しにされ消滅した。 柊蓮司渾身の一撃を持ってして尚、敵の被害は唯一体。 「我が下僕の忠節、軽く見るでないわッ!」 「甘く見てんのはおめーの方だぜ、エルヴィデンス! コイツで決めてやる!」 我に返った柊は勝ち誇る古女王へと叫び返すと、振り下ろした魔剣を素早く引き戻し、両目を閉じて意識を研ぎ澄ます。 サトリ、発動。封印開放。生命の刃・最大出力・・・・・・プラーナ、全開。この一撃に、注げる限りの力を込めて。 薙ぎ払う。 「でぇぇぇやぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッ!!」 繰り出された斬撃は金色に輝くプラーナを纏いて宙を引き裂き。 また別の古精霊が空間を捻じ曲げ、主と仲間を庇い、斬撃波の総てをその身一つで受け止めた。 「またかよっ!」 「甘ったれめ! この程度、基本だろうが!」 「ここまでが露払いですわ!」 月女王が咆哮とともに右手を天へと突き上げ。 「下僕達! わたくしにプラーナを集めなさい!」 ウラーッッッッッッ!!!!!! 雄叫びと共に、闇の精霊達が一斉に、彼らの女王にプラーナを捧ぐ。 「聖天驚撃(セント★エクスクラメーション)!!!」 目を眩ませる閃光が広間を隅々まで照らし出し、古精霊達は悲鳴を上げる事すら許されぬまま、眩い月光の中に融けてゆき― 光が消えた時。黒髪の戦姫はピタリと閉じた黒翼を盾として、己が身を守りきっていた。 強烈な打撃を受けた翼は弾け跳び大きく削れていたが、戦姫が翼を広げるや、その身には傷一つありはしなかった。 「クックック、その程度―」 『もう一撃だ!』 「!!!」 エルンシャの叱咤に応え、アンゼロットが左手を振るう。ガラ空きになった戦姫の胸元に銀色の光弾が炸裂し、破砕された胸当ての破 片が飛び散って――黒髪の戦姫は、声も無く両膝で床を打った。 「やった・・・のか?!」 「油断するな、コイズミ! もう一度止めを―」 気を抜いたコイズミを諫めた柊が走り出そうとした、その時。 「デスゲイル!!」 旋風が、地下空間に吹き荒れた。 ← Prev Next →
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月と星と柊と “僕は正々堂々と世界の危機に向き合います。誰かを犠牲にして楽をしたいとは思いません” 眼鏡をかけた、小柄な、大人しそうな少年が。 その瞳に決意を漲らせ、誓いを込めて宣言する。 「・・・・・・・・よ・せ・・・・・・・やめ・・ろ・・・・・・・・おめーが・・・・・・・全部・背負うこたぁ・・・・・ねぇ・・・・・・・・・・・」 小柄な少年は全身から蒼い輝きを放ち、身の丈ほどもあるウィッチブレードを振りかぶり。 その前に立つ、赤い輝きに包まれた小柄な少女が、両手を広げて進み出た。 柊蓮司は知っている。これから何が起きるのか。 「やめ・・・ろ・・・・・・・・やめ・・・る・・ん・だ・・・・」 打ち倒され、地面に這い蹲ったまま呻く柊の目の前で。 少年は剣を振り下ろし。 少女を。 切り伏せた。 「―――――――――――――――――――――――ッッ!!!」 声にならない悲嘆の叫びをあげる柊に。 少年が、振り返る。 優しい笑みを、浮かべていた。 総てを受け入れた、ひどく透明な、儚い笑みを。 その身体が、より強い蒼い輝きに包まれて。 少しづつ、少しづつ薄れていき・・・・・・ 消えた。 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォッォォォォォォォォオォォォオォォォォォォォォォォオォォォォォォォ! 魂の奥底から込み上げてきた慟哭を喉から解き放った、その時。 一陣の風が吹き抜けて。 カコンッと。 柊は自分の胸の中で、歯車の外れる音を聞いたような、気がした。 「如何なされたのですか、柊様!」 突如、大声を上げ、力なく両膝で床を打った柊の肩を掴み、ロンギヌス・コイズミは自らの崇拝する英雄を叱咤した。乱暴に肩を揺 すり、顔を覗き込む。彼のこんな姿など見たくはない。彼は常に勇敢で物怖じせず、決して折れず曲がらず挫けない、最強無敵の存在 の筈だった。そうであって欲しい、相手だったのに。 それなのに。 果たして、神殺しの魔剣使いの顔には覇気の欠片もなく、その瞳は何も映してはいなかった。 「邪神の呪詛如きに負ける貴方ではないでしょう! 貴方は何時だって堂々としていて、世界全部を相手にしてでも御自分の信念を貫 いてきたではありませんか!」 「そんな目で・・・・・・・俺を見んなよ・・・・・・・・」 襟首を掴んで揺さぶるコイズミから顔を背け、彼の英雄は力無く呟いた。 「みんな・・・・俺を・・・・誤解してる。俺の事を、馬鹿だの、お人好しだの、英雄だの、聖人だの・・・・俺は・・・・仲間を、犠牲に・・・したん だ・・・・・・・・・何度、世界を救ったって・・・・何度、くれはの同類を助けたって・・・・アイツは、帰ってこねぇんだ・・・・・・・・ 毎日学校に行ったって・・・・アイツは、其処にいねぇんだ・・・・・・」 「何を言っているのですか、柊様!」 「よしなさい、コイズミ!」 「ですが!」 『コイズミ君。柊君は不意打ちでエルヴィデンスに心の傷を抉られ、精神に致命的なダメージを受けている。励ましは逆効果だ』 「ではどうしろというのですか!」 見かねたアンゼロットがコイズミを引き剥がし、エルンシャが穏やかに声をかけるも、取り乱したロンギヌスは――普段の彼からは 到底考えられない事に――語気荒く守護者達に食って掛かった。 『神の力による直接の影響は、私が相殺できる。だが、再発した心的外傷は―』 「そんな・・・」 柊の手にした晶の魔剣に宿った、異世界の守護者が言いよどみ、コイズミは呆然と自分の英雄に、幾度となく世界を救ってきた神殺 しの魔剣使いに、邪神に心を砕かれた生身の人間に目を向けた。 「柊様・・・」 コイズミの口から呆然とした声が漏れ、彼の中でもまた、何かが、崩れ始めた。まるで空が落ちてくるような、立っている地面が揺 らぐような、今まで信じてきた、心の支えがポッキリと折れてしまいそうな感覚に襲われて、ロンギヌスは頭を打たれたかのように身 を傾がせた。 ―――クックック。まったく、手間をかけさせてくれるわ――― 突如割って入った、声。 「ッッ!」 鈴を転がすかのように可憐な、それでいて邪に満ちた、声。 思わず息を飲み、天井に開いた大穴を振り仰いだアンゼロットとコイズミの前に、黒髪の戦姫が、黒翼を広げて舞い降りて。 その姿から発せられる膨大な神気に、アンゼロットの額に汗が浮き、コイズミは床に片膝をついた。 「クッ・・・・・なんという・・・・・神々しさ・・だ・・・・・・・この神気・・・・・・・・・先程よりも・・・・・・・・・・・・・」 「この身を包む瘴気を払ったが故に、遮るものの無くなった我が神気が其の威を強めているのだ。如何に守護者の加護があろうと、卑 小なる人の子がそう長く耐えられるものではないぞ」 「ですが、手負いの身でわたくしに挑もうとは、随分と侮られたものですわね」 表情を強張らせつつも、アンゼロットが細く美しい指先で戦姫の脇腹を指し示した。柊に刺されエルンシャに浄化の力を注がれた傷 は塞がる事なく周辺の肉が蝿の死骸へと変わり、ポロポロと崩れだしている。戦姫の瘴気は身体の周辺を覆うだけではなく、肉体を構 成するプラーナと入り混じり内側から身体を補強していたが、それが失われた今、大幅に強度の下がった寄り代が古代神の力に耐え切 れずに崩壊を始めているのだ。 しかし、それを見抜かれて尚、戦姫は余裕の表情を保ったまま片手で傷口を撫で、うっすらと笑みを浮かべて見せた。 「この傷か? ああ、別に大した事ではないな。お前を倒し、我が本体を開放するまで持てば充分だ。 それよりも。 お前のペットはもう立てんぞ、アンゼロット。其奴の最も辛い記憶を掘り返してやったからな。前回、その痛みに耐えさせた其奴の 伴侶は此処にはおらん。お前の声では其奴の心に届くまい。其奴はもう、戦えぬ」 「エルヴィデンス! 人の心を弄ぶなど、神であろうと許されるものではありませんわ!」 「神に刃を向けたのだ。魂を砕かれようが、生きたまま冥界に突き落とされようが覚悟の上であるべきだろう? それにしても、人の仔一匹の心を砕くに此れ程の手間を掛けねばならぬとは我ながら情けない話よ。それもこれも、地神めに力の大 半を封じられた所為だが・・・・・・この苦しみも、間もなく終る」 麗しき少女の姿をとった太古の邪神は世界の守護者の抗議を軽くいなして愚かな神殺しへと目を遣ると、唇の端を吊り上げ自嘲気味 に呟いて。 それきり柊から興味を無くしたエルヴィデンスはアンゼロットへと視線を戻し、数万年の時を経て溜め込んだ憎悪と屈辱と妄執と渇 望を込め、その貌を冥い喜びで満たして告げた。 「さぁ、踊ろうか、アンゼロット。お前の父に敗れてより幾星霜、この日が来るのをどれほど夢に見た事か」 「・・・・・・・・・いいでしょう。月女王アンゼロットの戦いぶり、とくとその目に焼き付けなさい!」 「アンゼロット様?!」 アンゼロットは大声で宣言し、戸惑うコイズミを残して一人、戦場へと歩み出た。 「コイズミ。柊さんと一緒に下がっていなさい。エルンシャ様、二人を頼みます」 『分かった。任せてくれ、アンゼロット』 「アンゼロット様・・・・・・」 深遠なる迷宮の最下層。 広大な広間の中央にて対峙した二柱の女神。 二人の女王。 戦女神・月女王アンゼロットと。 古代神・古女王エルヴィデンス。 月衣を使い、今までの戦いで襤褸切れと成り果てたドレスを真紅のロンギヌス制服へと取替え、銀髪を風になびかせたアンゼロットの姿は威厳に満ち。 豊満な体躯を闇色の鎧で包み込み、漆黒の翼を広げ、瘴気を孕んだ狂風を纏う黒髪の戦姫の美貌は見る者に畏怖の念を覚えさせる。 それは正に、一幅の宗教画そのものの光景だった。 「アンゼロット様・・・・・・御武運を・・・・・・」 ともすれば気を失いかねない程の膨大な神気に耐えながら、柊を引きずって戦場を離れるコイズミの前で、女神達は自身の周囲に無 数の魔法陣を展開し― 「「下僕召喚! 超女王様伝説!!」」 月と古の女王は、己の眷属を、闇と古の精霊の大群を呼び出した。 子猫ほどの大きさの、極端に頭の大きな姿。大きな、だがどこか意地悪そうな吊目。背中には小さな羽根。尖った爪や尻尾と、何と なく偽物や悪役めいた雰囲気。両女王の守護聖獣はよく似ていたが、古精霊の方には角があり、全体的に、より一層邪悪そうに見えた。 月と古の女王は、その美しい手を伸ばし、近くに来た精霊の頭を撫で、その首を掴み― 古女王が、古精霊を投げつけた。 投げ飛ばされた古精霊は注ぎ込まれた古代神の力によって大幅にその攻撃力を高め、音速を超えて敵の女王へと迫り。 闇の精霊を盾にして、アンゼロットがそれを防ぐ。月女王の力を注がれ、防御力を高めた闇の精霊は、古精霊の突撃をその身でしかと受け止める。 二人の女王は手近な下僕を盾にしながら互いに向けて精霊達を投げつけあい、魔力を込めた月光と瘴気を孕んだ闇風を飛ばしあう。 「はっはっはっはっはっ !愉しい、愉しいぞ、アンゼロット! この日が来るのを何度夢に見た事か! お前の父に封印され、お前とイクスが争う様を眺めるだけを楽しみにして過ごした数千年! お前達の間に割って入り、共に遊べたならばと、どれ程強く望んだ事か!」 「ええ! たっぷりと遊んで差し上げますとも! だから、満足して眠りなさい!」 胸の奥から湧き上がる歓喜に身を任せ、古女王が哄笑を放ち。 憎悪を込めて、月女王が三日月形の魔力の刃を投げつける。 古代神は下僕に指示を出し、守護者の攻撃魔法に大量の魔力弾を打ち込ませて相殺し、鎌鼬を生み出し投げ返し、慌てて回避した怨 敵の娘に愉悦を示す。 「あっはっはっはっはっ! 思い出す! 思い出すぞ! 封印される前の事を! お前の父に封じられた記憶が蘇るわ!」 「お父様は、わざわざ記憶まで封じてはいませんわ! 思い出せない事があるのなら、単にボケただけでしょう!」 「ああ! そうかもしれんな! では、もう少し私のリハビリに付き合って貰おうか!」 「そんな?! あの挑発が通じない!? ベルなら一発でブチキレるところでしょうに!」 『エルヴィデンスは怒りを蓄える事が出来るのだよ。そして、怒らせた相手がその事を忘れた頃に報復するのだ』 「なんと陰険な!」 為す術も無く見守り続けるコイズミの前で闇と古の精霊が入り乱れ、銀光と旋風が交差した。 アンゼロットが右手に黒き刃を生み出し。 戦姫もまた、柊から奪った神殺しの魔剣を振るう。 並みのウィザードの動体視力を遥かに超えた速度で鋭く踏み込み、激しく切り結ぶ。 横から見ていてさえも、コイズミの目は両女王の動きを捉えられはしなかった。 「どうだ、アンゼロット! 久しぶりに自ら刃を振るった気分は! 無力な下僕を死地に送るより余程愉しかろう!」 「ぅ、くぅッ!」 魔剣が、銀髪の少女の肩へと鋭く突き込まれる。 月女王は黒刃で其れを捌き、黒翼の戦姫が体勢を崩し。 好機と見たアンゼロットが一撃打ち込もうとして― 微かな、ほんの微かな気配の揺らぎを知覚した。 (―あれは、誘い?) 月女王の踏み込みが止まる。戦姫が体勢を整える。 「かかったか。大分、勘が鈍っているようだな!」 「くっ!」 アンゼロットは呻きながらも刺突を避け、左手にも刃を生み出し突き返し、捌かれる。 身を沈めた戦姫が下から肩を打ち上げ、アンゼロットの胸を突き上げて。 溜まらず、仰向けに倒れた銀髪の少女へと戦姫がウィッチブレードを振り下ろし、カバーリングに入った闇の精霊を一刀のもとに切 り捨てる。 アンゼロットは戦姫の次の一撃を転がって交わしつつ黒刃を振り、光翼を広げて空中に避け。 直後、突風が吹き、床に叩きつけられ斬りつけられ。 邪神の手に握られた神殺しの魔剣を再び床を転がって避け、素早く起き上がり、物も言わずに再び激しく刃を交わす。 「エルンシャ様! アンゼロット様が不利です! 何とか、柊様を立ち直らせられないでしょうか?!」 『古代神による直接の影響は取り除けるが、一旦開いた心の傷まで神の力でどうにかしてしまうのは洗脳になってしまうな・・・・・・ 会ったばかりの私の言葉がどの程度届くのか、心許ないが出来る限りの事はしてみよう』 二人の女王の激戦から柊へと目を移したコイズミに異世界の守護者は暫し躊躇いを見せたが、すぐに、穏やかに柊へと語りかけた。 静かに、優しく。迷子に、話しかけるように。 『聞いてくれ、柊君。アンゼロットは至高神様が私を引き裂いて聖姫達に造り変えた件を気にしているようだが、私は彼女に笑顔でいて欲しい。苦しんで欲しくはないのだ。 本当は、どんな過去があったのかも知らない部外者の私が、こんな事を言うべきではないのだろう。だが、それでも言わせてくれ。 君の友人は、君がこのように苦しむ事を望んではいないだろう、と』 「俺は・・・・・・・アイツに、取り返しのつかねぇ真似をしたんだ・・・・・・・何をどうしたって、許されはしねぇ・・・・・」 『私が赦す。神たる私が、人の子たる君に赦しを与える・・・・と言っても、神の権威を認めない君には何の意味もない、か』 「そんなのは・・・・逃げだ。カミサマに全部任せて、何もなかったフリをするなんて・・・・・・・・できねぇよ・・・・・・・・・」 「今はそんな事を言っている場合ではありません! このままでは、アンゼロット様が!」 コイズミに耳元で怒鳴られ、柊はノロノロと顔を上げて二人の女王の戦いを視界に入れた。 「はっはぁ! 動きが鈍いぞ、アンゼロット! ネトゲばかりしていないで、もう少し身体を動かしたらどうだ? 少しは腹も引っ込むだろう!」 「なっ!」 激昂したアンゼロットの動きが乱れ、その隙をついた戦姫の刃が頬の産毛を剃り上げる。 「こぉんのぉ!」 屈辱のあまり叫び声を上げた銀髪の少女の振るった刃は易々と捌かれ、カウンターで突き込まれた切っ先を転びそうになりながら辛 うじて受け流す。 『エルヴィデンスめ・・・・アンゼロットの動きや性格を完全に見切っているようだな』 「当然だ! 此奴とイクスがお前を巡って争っている間、もしも私が参戦できたとしたならば、ああもしよう、こうもしようと、其れ ばかり考えて居たのだからな! 其れだけが、其れだけが私の慰みだったのだ!」 思わず洩らしたエルンシャの呟きが届いたらしく、古ぶるしき邪神は歓喜に満ちた表情で言葉を放ち、より速く、より激しく、より 狂おしく、怨敵の娘との剣舞を演じてみせた。 「ああ・・・やっべえなぁ。アンゼロットの奴、完全に掌の上だ」 「くっ! 何か、何か打つ手は・・・・」 目の前ではアンゼロットが苦戦し、横ではコイズミが自らの無力さに歯噛みしている。 だが、何故だろう? 何もする気が起きてこない。胸の中で、外れた歯車が空回りする。目の前の現実が、ひどく遠いものに感じる。 (俺は、アイツを犠牲にしたんだ・・・) 頭では分かっている。今は、過ぎた事を悔やんでいる場合ではないのだと。 それでも。 (俺は、アイツを犠牲にしたんだ・・・) それだけが、意識の大半を占めていた。 右手の魔剣から、慈愛の念に満ちたプラーナが腕を這い登ってくるのを感じるも、胸中を吹き荒ぶ冷たい風が、その温もりが心に届くのを妨げて。 柊の胸の中の歯車は、虚しく空回りし続けた。 (これが・・・・・・精神を破壊されるって事なんかなぁ?) ぼんやりと見つめる柊の前で、二人の女王の激戦は続く。 「ロスト・ノア!」 古女王が叫び、その手を魔剣に沈み込ませ、もう一振りの剣を引き抜いた。 「―! ヒルコをッ、分離したのですか!?」 『ロスト・ノアだと? それは闇皇姫の技だろう!』 「闇姫の力の半分は、この私に由来する。私が使えて何かおかしいか?」 対象の魂を抜き取り、吸収する闇皇姫の技で魔剣との融合を解除した魔王の剣を一振りし、バランスを確かめる。放たれた斬撃が空 間を越え、アンゼロットの背後に控える闇の精霊の一体の首がコロリと落ちた。 「斬れ味は申し分ないな」 「嘘、でしょう・・・・?」 度重なる在り得ない事象にアンゼロットの動きが止まり、喉から驚愕の呻きが漏れた。 「魔剣に、遺産・・・。どちらも、本来の持ち主にしか使えない筈・・・」 「私が使っているのではないさ。我が神威に打たれた此奴等が、私に“仕えて”いるのだよ」 「言葉遊びをッ!」 「それよりも、だ」 アンゼロットの台詞を意に介した風もなく、邪神は実に愉しげに頬を歪めて見せた。 「この剣はあらゆる結界を切り裂くらしいではないか。此れで、お前の防御魔法は無効化出来るな」 「避ければ済むだけの話ですわッッ!!」 「では、そうするがいい。出来るなら、な!」 魔剣と妖剣が舞い踊り、アンゼロットの防御を突き崩す。神殺しの魔剣が闇の刃を跳ね飛ばし、ヒルコが防御結界を切り裂いて、守 護者の肌に紅い線を引く。 「アスモデートめ。使い手としては落第だが、創り手としては及第点をやっても良いな。此れを量産出来るなら、だが」 妖剣の切れ味に満足した古女王は勢いに乗ってアンゼロットを攻め立て、防戦一方に追い込まれた銀髪の少女の美貌が瞬く間に焦り の色に染め上がる。 「我が本体の開封には魂だけあれば事足りる。其の貧相な肉体を切り刻み、自由への扉を開く鍵を抉り出させて貰おうか」 「貧相! ちょっと大艦巨砲だからってイイ気になって・・・・・・たかが結界を切り裂く程度の能力、対抗手段は幾らでもありますわ!」 「確かに対処法は複数存在するが、さて、お前は其れに気付けるのかな?」 余裕尺尺で振り下ろされた妖剣を、アンゼロットは敢えて肩に受け。 「光剣!」 アンゼロットの神気がヒルコに絡みつき、斬撃の威力を魔力に変換し。 「白天使の鎧(クライアム)!」 守護天使の加護が、剣の魔力を吸収し、癒しの力に組み替える。 「よくぞ気付いた、アンゼロット! そう、それで良い、それで良いぞ!」 「なんですかっ! 娘が初めて自転車に乗ったのを見た母親みたいな顔をして!」 「ああ、確かにそんな気分だな。百を超える魔法の中から即座に最適なものを選び、組み合わせて行使する。大したものだぞ、我が怨 敵の愛娘よ」 「わたくしを子供扱いするんじゃありません!」 対策を取られて悔しがるどころか、目を細めて褒め称える“父の”宿敵に激昂し、乱暴に斬りつけ、捌かれ、体勢を崩され、前につ んのめったところで顔面に豊かな双丘を覆う胸甲をぶち当てられ。 「うぷっ!」 打たれた鼻を押さえ、間合いを外して敵を睨むアンゼロットに。 戦姫は込み上げる愉悦を隠す事なく満面に浮かべ、再度妖剣を振り上げた。 「アンゼロット。道具の有益性はな、使い手に依るのだ。成る程、この剣はお前の身体を斬れんだろう・・・・・・が、心ならば斬れるぞ」 「?! させませんッ!」 戦姫の視線がアンゼロットの背後――両女王の剣戟を見守る男達――に向いたのに気付き、少女は慌てて猛攻を加えた。 ヒルコの力ならば、この距離でも柊達を切り裂ける。エルンシャの加護があれば命だけは助かるだろうが、為すすべも無く致命傷を 与えられ続ける肉体的精神的苦痛を受けては、人間の脆い心など容易く砕けてしまうだろう。 例えエルヴィデンスを倒せたとして。生ける屍となった柊とコイズミを連れ帰って、どんな顔でくれはやエリスに会えると言うのか。 「もう二度とっ! わたくしの前でっ! わたくしの身内に手出しはさせませんわ!」 「哂わせる。お前は一度たりとて家族を守れた事などないではないか。七人の姉妹達も、娘同然の聖姫達も、大恩あるゲイザーも、大 事な下僕のロンギヌス達も」 「だからこそ!」 両手に生み出した闇の刃で、嘲笑を浮かべる邪神に左右同時に切りかかる。右の剣は袈裟切りに振り下ろし、左の剣は逆袈裟に斬り 上げる。 同時、戦姫の両の黒翼が翻り。 アンゼロットの両肘の内側に潜り込み両腕を打ち払い、無防備となった首筋にⅩの字に組んだ魔剣と妖剣が押し当てられ。動きを止 めた主を気遣い、周囲で攻防を繰り返していた闇の精霊達も間合いを外して不安げに経過を見守った。 「チェックメイト。ちと、物足りんなぁ、アンゼロット。もう一戦交えるか?」 「・・・・・・余裕ですわね、エルヴィデンス。なんて詰めの甘い事」 「何、予めお前のプライドを砕いておけば、後でお前の精神を支配し易くなるのでな」 余裕綽々で剣を引くエルヴィデンスをアンゼロットは悔しげに見つめて数歩後退し・・・・・・前触れもなく飛び掛り、剣舞を再開させた。 「はぁっはっはっ! 愉しい! 愉しいぞ、アンゼロット! 漸く、漸く、長年の夢が一つ適ったわ!」 2mはあろうかという巨剣を二刀、軽々と振るい続けつつ、戦姫は歓喜の哄笑を挙げた。 「ああ、そうだ、アンゼロット。お前は知っているか? お前の父が私に何をしたのか」 「知りませんわ!」 アンゼロットの刃を易々と捌きながら、エルヴィデンスがからかいの言葉をかける。 「お前の父は私を打ち倒し―」 「聞きたくありませんわ!」 口上を遮るべく放たれた強引な一撃は掠りもせず、回避と同時に足を引っ掛けられ、顔から床に倒れこむ。 「痛ぅ・・・」 「これで2本目。もう少し遊ぼうか、アンゼロット」 床に伏せたアンゼロットの首筋に神殺しの剣を押し当て、勝利を宣言したエルヴィデンスが再び刃を引くや、アンゼロットは屈辱に 顔を朱に染めて跳ね起き、無言で猛攻を加えたが、最早、その動きは隙だらけだった。 「ダメだな。アンゼロットは、勝てねぇ」 感情の麻痺した頭の片隅で、冷静に戦局を分析する。二人の剣技と身体能力には、実は、さして大きな差がある訳ではない。 だが、精神状態が違いすぎる。予備知識の差も大きい。アンゼロットの動きの癖や心理的弱点を完全に把握して的確に狙ってくる戦 姫と、総てが初見のアンゼロットには致命的なハンデがあった。 その差は精霊達への指揮にも響いているらしく、闇の精霊達もまた、古精霊達に押されていた。 「勝てない、どころではありませんよ、柊様」 他人事に様に呟いた柊の口調が気に障ったのか、コイズミは語気荒く柊に訴えた。 「肉体へのダメージはクライアムで防げますが、精神攻撃は自前の意志力で耐えるしかありません。あれはもう、戦闘ではありません よ。調教です。あの邪神はアンゼロット様の頸を刎ねる為ではなく、心をへし折る為に剣を振るっているのです。徹底的に無力感を味 あわせ、絶望させてから黒の魂で傀儡にするつもりなのでしょう」 「ああ・・・だろうな」 頭では分かっている。今、何もしなければ、大変な事になるのだと。 それでも。 それでも、何もする気が起きてこない。 意志が。理性が。感情が。義務感が。精神の働きが麻痺して、虚しい風の吹き抜ける胸の中で外れた歯車が空回りを続けていた。 『柊君。アンゼロットがエルヴィデンスの軍門に下り、古代神達の封印を解いて回り始めたら、いや、一つでも解いてしまったなら。 天界と冥界の戦力バランスは大きく崩れ、主八界は総て冥界に飲まれてしまうだろう。そうさせない為には、今、最善を尽くさなけ ればならないのだ』 「そう・・・なんだろうな、きっと。でもダメなんだ。やる気が・・・起きやしねぇ」 「ならば仕方ありませんな」 コイズミは覚悟を決めた顔で立ち上がり、一人戦場へと踏み出した。 「アンゼロット様! 助太刀いたします!」 『待ちたまえ、コイズミ君!』 「?! 下がりなさい、コイズミ! 貴方に何かが出来る相手ではありませんわ!」 守護者達の制止も聞かず、コイズミは攻守入り乱れて争う精霊達の隙間を強引に突っ切り、アンゼロットとエルヴィデンスの戦場へ と割って入った。驚いた古精霊達の攻撃が集中するも一切構わず、己が主と刃を交える戦姫へと、全身全霊を込め、ロンギヌス・グレ イブを突き込んだ。 「覚悟!」 「邪魔立てするでないわ、下僕め」 戦姫はロンギヌスの槍を容易く捌くや、コイズミの胸に神殺しの刃を突き立て一振りし、仮面の男の身体を跳ね飛ばした。 「コイズミ!」 「コイ・ズ・・ミ・・・?」 アンゼロットの叫びが耳朶を打ち。 血の帯を引いて宙を舞ったコイズミが受身も取らずに床に落ちるのを、ボンヤリとした表情のまま見つめていた柊の中で、何かが、 大きな音を立てた。 「コイズミィィィィ!」 弾かれたように、駆け出す。倒れ伏したロンギヌスに止めを刺すべく群がった一群の古精霊達を魔剣の一振りで薙ぎ払い、仮面の男 を抱き起こす。追い散らされた古精霊は柊達を遠巻きに囲み、一斉に魔力弾を撃ち込んだが、突如、床から生えた石柱が、その悉くを 吸い寄せ吸収し。遅ればせながら闇の精霊達が古精霊達に飛び掛り、再び精霊達の戦舞が始まった。 『シーリングモニュメント。この石碑がある限り、コイズミ君を攻撃魔法の対象には出来ないよ』 「ありがてぇ。おい、コイズミ。生きてるか?!」 「か、仮面がなければ即死でした・・・」 「仮面はカンケーねーだろ? 思いっきし胸刺されてんじゃねーか」 「い、いえ、この仮面は魔道具なので」 いつもの台詞に脱力しつつ、傷の具合を確かめる。刺されたのは右胸だ。常人ならばいざ知らず、ウィザードなら命に別状はないだ ろう。安堵の思いが胸を満たし、もう、胸を吹き抜ける冷たい風は、少しも感じられはしなかった。 「しっかりしろよ、コイズミ。今、ヒーリング・ポーションを―」 「柊様。私などよりも、早くアンゼロット様を。やはり私では何ともならないようです。どうか、お力を貸していただけませんか」 「俺は・・・アイツを、犠牲にしたんだ・・・そればっかし、そればっかし気になって、何もできねぇんだよ・・・」 「らしくもない。いくら邪神の精神攻撃を受けたとて、らしくありませんぞ、柊様。貴方は何時だって、何も悩まずに全力で走り続け てきたではないですか」 「おいおい、お前まで俺のコト、頭わりぃと思ってんのか? 俺だって結構悩んでんだぜ?」 苦笑しつつ、泣き笑いのような表情で、小さく、呟く。 ・・・ありがとよ。生きてて、くれて。 その呟きはあまりにもあまりにも小さくて。 「え? 柊様、今なんと?」 「何でもねぇよ。ほら、ヒーリング・ポーションだ。さっさと飲め」 思わず聞き返したコイズミの口に月衣から取り出したポーションの瓶を押し付け、黙らせた柊の心にエルンシャの思念が響いた。 『柊君。どうしたら、君が自分を赦せるようになるのか、それは私には分からない。だが、君にはまだ救える者がいる。 私もまた、己の愚かさ故に12人の娘の内の5人とイクスを亡くしたが、それを嘆くばかりでは残る7人とイクスの娘とアンゼをも失ってしまうだろう。救えなかった者の事を忘れろとは言わない。これから救える者の事を、忘れないでくれ』 柊の心を、力強く、逞しく、暖かいプラーナが抱き締める。 幼き日に抱き上げられた、父の温もりを思い出させる慈愛の念に満ちたプラーナが。 『落ち着いたかい? 柊君』 「・・・・・・・・・・・ああ。もう大丈夫だ。みっともねぇトコ見せちまったな」 『私ほどではなかったさ。さあ、一緒にアンゼロットを助けよう』 「いや、ちょっと待ってくれ、エルンシャさんよ」 勢い込む異世界の“世界の守護者”を制し、柊は戦場をしかと見据え、傍に横たわるもう一人の戦友に問うた。 「正直に言ってくれ、コイズミ。俺とアンゼロットが二人で掛かれば、アイツを倒せると思うか?」 「無理ですね」 何の感情も交えず、コイズミはただ、事実を告げた。 「柊様達が殺されずにすんでいるのは、向こうに殺す気がなかったからに過ぎません。心を砕いて連れ帰って、向こうでゆっくりと洗 脳するつもりのようですが、戦力差が縮まって余裕がなくなれば、たちまち殺されてしまうでしょう」 「ああ。俺もそう思う」 『なら、どうすればいいんだい、柊君?』 「アンタ、ココがドコだか忘れてねぇか?」 柊の手が、床の魔法陣を撫で回す。 「俺達には勝機が三つある」 「ひとつは、戦場がこの場所だってコトですね」 「おう。んで、もう一つは奴の依り代がベルの写し身だってこった」 『では、後一つは?』 「決まってんだろ」 エルンシャの問いに、柊は不敵な笑みを浮かべて見せた。 「俺とアンタとコイズミと、ついでにアンゼロットが揃ってんだ。勝てねぇ相手なんかいやしねぇ!」 「なかなか愉しめたぞ、アンゼロット。だが、そろそろ幕を引こうか」 「くぅぅぅぅぅぅッッッッ!!!!」 もう何度目になるのか。またしても喉に剣を突き付けられたアンゼロットには、痛快極まりないと言いたげな父の宿敵に返す言葉は なかった。本来ならば八大神と同等以上の力を持つ高位の古代神とはいえ、今はまだ、極めて不完全な状態だ。恐らく、この写し身の 魔力と身体能力は守護天使と同程度でしかないだろう。 それでも。 精神を蝕み冷静な思考を妨げる古代神の呪いが。 純粋な技術として身につけた駆け引きの巧みさが。 アンゼロットの攻撃の悉くを防ぎ、逸らし、かわし。 アンゼロットの防御を突き崩し、下僕達を切り裂いて。 アンゼロットの無力さを突きつけ、屈辱を味あわせ。 ゆっくりと、ゆっくりと。少女の心を、絶望に染めていく。 胸中を、冷たい風が吹き抜けて。 闘志の萎えかけたアンゼロットの視界の端にソレが映り、途端、胸の中の風が止んだ。 「ふふっ。もう、勝ったつもりなのですか、エルヴィデンス?」 「ん?」 アンゼロットは花が綻ぶような笑顔で父の仇敵へと微笑みかけ、晴々とした顔で高らかに勝利を宣言した。 「確かに、わたくしは剣では貴女に勝てませんし、クライアムも無制限に使えるものではありません。それでも。それでも、この闘い はわたくし“たち”の勝ちですわ!」 「おやおや。その自信は何処から湧いてくるのやら」 呆れたように呟いた闇姫が、アンゼロットの両脇に黒翼を押し当て、大量の瘴気を流し込む。途端、少女の喉から苦痛に満ちた呻き 声が漏れ出して、月光を束ねたかのような銀髪が星々の狭間の深遠の如き闇色に染まりゆく。 「うっ・・・っく・・・あ・・・・・・」 「我が闇姫となれ、アンゼロット。そして、共に世界を制するのだ!」 大きく見開かれた右目の邪眼が妖しい光を放ち、なだらかな胸が大きく膨らんで――アンゼロットの唇が、会心の笑みを象った。冥 界の瘴気に侵された者の亀裂めいた邪笑ではない、朗らかな笑みを。 その意味に、エルヴィデンスが気付いた、その時。 足元の魔法陣が。 壁の魔術文字が。 眩い光を解き放ち、大広間を隅々まで照らし出し。 嘗て冥界最強の魔王の欠片を封じていた結界が本来の機能を取り戻し、古代神と冥界の接続を断ち切った。 ← Prev Next →
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小雪のちらつく日、寒さの余りコタツに入ったまま動かなくなっても美形な人を眺めながらミカンを食べていると騒がしい物音と共にジャックさんがやって来ました。 雪で頭が白くなっているのでタオルを渡そうとしたら、耳をプルプルされ水飛沫が飛びました。 不快です。 「教育に悪いのでそういう行為は慎んでください」 「あーうんうん、ごめんごめん」 全然悪く思ってなさそうです。 仕方なく、垂れた耳をタオルで擦ると耳の毛が毛羽立ちました。 ……全部毛羽立てたらどうなるのか興味が有ります。 ゴシゴシしておきます。 「てゆーか、ジャック何しにきたのさ」 サフがコタツから頭だけを出してそう言うと、チェルも真似して同じように頭だけ出しました。 ちなみに2人とも尻尾がはみだしていますが、可愛いので黙っておくことにします。 「実はね!今日凄い事を知ったんだよ!なんでキヨちゃん教えてくれなかったんだいっセップンの日だよ!」 実に晴れやかな顔をする顔傷黒ウサギ28歳。 「セップン?」 興味が湧いたのか、のそのそとコタツから這い出してくるお子様2人。 ……御主人様は、瞼を閉じたまま身動きひとつしません。 「セップンの日は凄いよー!何せセップンだからね!黒くて太くて長いものを××したり、おマメを歳の数だけ××たりするというスペシャルイベントなんだよ!」 「××って何」 サフはモコモコの将来が楽しみなイヌ少年ですが、最近視力が落ちているのか目つきが悪いです。 眼鏡の心配をした方がいいかもしれません。 「それ楽しいの?」 濡れたコートを這い登り、首に手を回し背中に垂れ下がるチェル。 「そりゃー楽しいよ!ね!キヨちゃん!」 「……それ以上曲解したら、ひいらぎで叩きますよ?もしくはいわしの頭でこう……クィっと」 何故かサフの尻尾が内側に丸め込まれました。 「節分とは、無病息災を祈って豆を食べたり恵方巻きを食べる行事です」 「お前のやる行事は食べるばかりだな」 御主人様がぼそりと呟くのは聞こえなかった事にします。 一方、言いだしっぺのジャックさんはプール開き前のプールの水のような濁りきった眼で目の前のどんぶりを見つめています。 緑色なのでピッタリの表現です。 恵方巻きがいいかと思いましたが、お酢苦手みたいなので豆にしたわけですが。 「あの…歳の数だけ徹夜でおマメを食べちゃうぞ☆って……」 「歳の数だけ食べてください。品薄だったので、色々混ざってますけど」 どんぶり山盛りのマメを見て、御主人様は眼を逸らしました。 そら豆そっくりだけど倍以上の大きさのものや、縞模様の豆なんかが混ざってますが、なんら問題ありません。 いや別に投げてもよかったんだけど。 大変関係ないことですが、……御主人様のターバンの下には角があります。 御主人様は別に豆料理が嫌いじゃないのでまったく無関係なんですが! 「女の子がビキニ姿でダーリンって呼んでくれる行事だよね?」 「無関係です」 「今から流行を作ろうよ。春に向けて予約受付中らしいよ?」 何の。 「ねぇがっくんもしたいよね?マメプレイ」 ぽりぽりと豆を食べながら御主人様を見つめると、御主人様も何も言わずに豆を食べ始めました。 中々、結構な勢いで食べています。 一体いくつ食べる気なんでしょうか。 ていうか、御主人様いくつなんだろう……精々、三十四十ぐらいだと思うんですけど……。 「サフわん、マメプレイやりたいよね?」 「ちー食べ過ぎて鼻血出すよ。この前もピーナッツ食べて」 「うるさいバカフサー!」 チューチューワンワンと大変賑やかです。 可愛いなぁ。 「キヨカ」 「なんででしょうか」 なんでしょう。御主人様が真面目な顔です。……美形です。 「ちゃんと間違いなく歳の数食べるんだぞ」 「はぁ」 ……御主人様は、じっと私の顔を睨んだあと、再び豆を食べ始めました。 なんなんでしょうか。 「ねぇキヨちゃん」 「なんですか?」 今度はジャックさんです。 「今夜オレとマメプレッ」 最後まで言う前に、座った眼のサフが落花生(殻つき)をジャックさんに投げつけ始め、それに眼を輝かせたチェルが加わりました。 飛び交う落花生。 こぼれる色とりどりのマメ。 ぶつからない様に身を屈めてマメを食べる私と御主人様。 ふと目が合い、どちらともなく笑いがこみ上げてきました。 とりあえず、今年は鬼の出番はなさそうです。