約 1,795,639 件
https://w.atwiki.jp/doc_exam2007/
今日の来訪者 - 2007年5月作成のサイトなので、各所にリンクエラーがあります。 ビルマ従軍慰安婦に関する米軍尋問調書 目次 ビルマ従軍慰安婦に関する米軍尋問調書Documents ごあいさつ 報 5/27 リンク 「慰安所はどこにあったか」(図をクリックすると拡大) 「慰安所はどこにあったか(ビルマ)」(図をクリックすると拡大) ミートキーナ=ミッチナ 当時の朝鮮内報道の一例(図をクリックすると拡大) Documents ATIS調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー(内容)ビルマ・ミッチナ軍慰安所楼主などの尋問報告 心理作戦班捕虜尋問報告49号(内容)ビルマ・ミッチナ朝鮮人慰安婦などの尋問報告 日本軍従軍慰安婦に関する最近の研究成果 JWRC, 17 April, 2007(予定) (試訳)ワシントンポスト2007年7月18日「日本政府、第二次大戦時の性奴隷に関する決議案に反対して、米国下院に通牒を発す」 (試訳)ロイター2007年7月18日「合衆国議員は日本性奴隷に関する7月30日の表決に注目している」 ごあいさつ さいきん、英文歴史史料の取り扱いが怪しくなっています。いちどWEB上で怪しげな翻訳が出回ってしまうと、それを訂正するのは容易なことではありません。そこで私たちは英文史料の翻訳・紹介は英語に堪能な専門家についつい任せてしまいたくなります。 しかしそこにもまた落し穴があります。専門家と称する人が勝手なトリミング、付け加え、ズラシなどを行うと、それがそのまま真実として固定されてしまいます。 ある新聞社が外国通信社の英文記事を紹介するにあたって、そこにない文言を書き加えて、ワシントン発「新事実」として日本に送ってきたことは、記憶に新しいことです。幸い元の英文記事をWEB上に見つけた人がいまして、捏造はすぐに指摘されました。 そんな状況がありますので、英文史料の要約などがセンセーショナルに発表されたら、老若男女、英語が得意であるか得意でないかになどにとらわれず、誰もが自分で吟味しなくてはならない、今日このごろです。 そんなわけで、みんなが知恵を持ち寄って、英文史料を正しく読む試みをしようということになりました。(2007/5/24,ni0615) と思ったのは間違いではないのですが、同じようなことを考えていろいろと研究発表をしている先人たちがWEBにはいっぱいいることに気づいて、じつはてんてこ舞でサイトの更新が進みません。(2007/5/29,ni0615) 追記2014.9.22 古森さん「歴史ロンダリング」(その1) 古森さん「歴史ロンダリング」(その2) 古森さん「歴史ロンダリング」(その3) 報 5/27 産経新聞古森義久記者が、ブログのコメント欄で、5月6日付け記事に続いて5月12日付けの記事について、事実上のウソを認めました。『米軍資料』は新発見でもなんでもなく、吉見義明『従軍慰安婦資料集』(大月書店1992/11/27 isbn 4272520253)に収録されていたもの(下記)そのものでした。別バージョンですらありません。http //komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/171421/ 東南アジア翻訳尋問センター 心理戦 尋問報告 第二号 South-East Asia Translation and Interrogation Center,Psychol ogical Warfare Interrogation Bulletin,No.2(11/30/1944) リンク 従軍慰安婦問題を論じる 掲示板 資料・リンクなど http //ianhu.g.hatena.ne.jp/ .
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ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 3-01 日本の敗戦後その従軍慰安婦たちはみな帰国できたのか… 3-01 日本の敗戦後その従軍慰安婦たちはみな帰国できたのか…コメント欄 若干事例をのぞきほぼ全員が現地に棄てられた。もっとも悲惨だったのはビルマ戦線だったとされている。ビルマの北端から中国領雲南省まで侵出させられた歩兵第百四十八連隊の玉砕とともに玉砕していった従軍慰安婦のことは話したが、それにつづくインパールの敗戦、さらに大敗走となっていった段階ではこれも触れたことだが足手まといになると防空壕に入れ手榴弾(てりゅうだん)で殺害した話も伝わっている。敗戦となったときには南部ビルマに体ひとつで逃げてきた従軍慰安婦が群がつていた。軍がこれを「以後勝手にしろ」という形で棄てているなどその代表的事例だ。数は数百人だったというが正確な記録はここでもない。 若干の事例とは、このとき幾人かの召集軍医35)が「いくらなんでもこれはひどい」と彼女らを篤志(とくし)看護婦、つまり自ら志願し戦傷病兵の看護にきた女性とし従軍看護婦のグループに入れ復員船にのせ日本に連れて帰っていることだ。数はせいぜい数十人だ。福岡県久留米市で内科小児科医院を戦後ひらかれていた小林元軍医少尉はその代表だが、三十八人を広島県呉市まで連れて帰ったと語っておられた。広島に戦後すぐできた朝鮮人連盟の人たちへ呉港で引き渡したとも語っていた。 35) 召集軍医(しょうしゅうぐんい) 大学病院、一般病院に勤務中もしくは開業医として一般国民の医療に従事しているところで召集され、戦場に赴かされた医者のこと。 ボルネオ島にあった海軍の根拠地隊で司令をつとめていた辻橋文吉海軍大佐は一九四五年(S20)一月に敗戦を予測し、最後の病院船に頼みこみ可能なかぎりの従軍慰安婦をのせ日本内地へ送り返したが、敗戦時それでも六十人の朝鮮人従軍慰安婦と十人の日本人従軍慰安婦がいた。そこで「この女性は女子軍属である」と運合軍をいつわり全員すべて復員船にのせ帰国させている。 そのとき「こんなになって恥ずかしくてもうくにには帰れない」という朝鮮人従軍慰安婦に「祖国は新しい国の誕生に一人でも同胞を待ちこがれているはずだ」といい軍に代わって詫(わ)びをいったというが、こうした事例はきわめて少数だ。 くりかえすが大半は現地に置き去りという形で棄ててきた。 マニラ市には一九四四年(S19)十月一日現在で朝鮮人従軍慰安婦三百数十人、フィリピン人従軍慰安婦四百数人、日本人従軍慰安婦六十数名がいたが、米軍のルソン島上陸を前にフィリピン人従軍慰安婦は全員を「以後勝手にせよ」と慰労金もあたえず放遂、朝鮮人日本人従軍慰安婦は食糧品や軍需物資と交換で南方第十二陸軍病院に篤志看護婦名儀でおしつけていた。その南方第十二陸軍病院もルソン島北部の山獄地帯でこの従軍慰安婦たちを見棄てていったという。人肉事件までおこった山獄地帯である。 同じフィリピンのルソン島南部にいた第八十一旅団では三十数人の朝鮮人従軍慰安婦と数名の日本人従軍慰安婦へ「部隊はこれから命によりマニラ東部山獄地帯へ移動する。お前たちは後から部隊を追及せよ」といいすて全員を駐屯地に残したまま米軍上陸を前に逃げていっている。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
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多くの研究者がその存在を訴えるも、未だ発見されていない未知の生物。 ネッシーやビッグフットのようなUMAの一種であると思われる。 光太郎はじめ、多くの左翼団体構成員の脳内設定では、第二次世界大戦中に、日帝によって強制連行されて性奴隷にされた女性のこと。
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朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題について一 調査期間 二 調査を行った省庁と調査方法 三 調査結果(1)各省庁から発見された資料の件数(※) (2)今回の調査で発見された資料を整理すると次のとおり。 (3)今回発見された資料の主な記述を上記分野に従って整理すると次の通り。 (4)以上のように、いわゆる従軍慰安婦問題に政府の関与があったことが認められた。 朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題について 平成四年七月六日 内閣官房内閣外政審議室 政府としては、一二月より朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題に政府が関与していたかどうかについて、関係資料が保管されている可能性のある省庁において関連資料の詞査を行っていたところであるが、現在までの調査結果を下記の通りとりまとめたので発表する。なお、政府としては、今後とも新たな資料が発見された場合には、これを公表してまいリたい。 記 一 調査期間 平成三年一二月~平成四年六月 二 調査を行った省庁と調査方法 警察庁 警察庁所管資料を調査。 各都道府県の本部長に対して調査を依頼。 防衡庁 防衛研究所を始め、陸上、海上及ぴ航空の各自衛隊、防衛大学校等の防衛庁関係の各概関において戦史資料を中心に調査。 外務省 外交史料館等において、外交資料を中心に調査。 文部省 各国公私立大学附属図書館に対し調査を依頼。 各都道府県教育委員会(公立図書館関係)及ぴ私立図書館に対し調査を依頼。 厚生省 復員関係資料及び軍人・軍属名簿を中心に調査。 労働省 本省関係部局及び関係機関並ぴに地方職業安定機関において調査。 三 調査結果 (1)各省庁から発見された資料の件数(※) 警察庁……○件 防衛庁……七〇件 外務省……五二件 文部省……一件 厚生省……四件 労働省……○件 ※これは調査開始8ヵ月後の中間集計。本《資料集成》では、警察庁資料も10項目 12点あり、他も数は増えている (2)今回の調査で発見された資料を整理すると次のとおり。 (詳細は別紙のとおり。括弧内の件数は重複しているものもある。) 慰安所の設置に関するもの(四件) 慰安婦の募集に当たる者の取締りに関するもの(四件) 慰安施設の築造・増強に関するもの(九件) 慰安所の経営・監督に関するもの(三五件) 慰安所・慰安婦の衛生管理に関するもの(二四件) 慰安所関係者への身分証明書等の発給に関するもの(二八件) その他(慰安所、慰安婦に関する記述一般等)(三四件) (3)今回発見された資料の主な記述を上記分野に従って整理すると次の通り。 慰安所の設置については、当時の前線における軍占領地域内の日本軍人による住民に対する強姦等の不法な行為により反日感情が醸成され、治安回復が進まないため、軍人個人の行為を厳重に取り締まるとともに、速やかに慰安設備を整える必要があるとの趣旨の通牒の発出があったこと、また、慰安施設は士気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に対する影響が大きいため、慰安の諸施設に留意する必要があるとの趣旨の教育指導参考資料の送付が軍内部であったこと。 慰安婦の募集に当たる者の取締りについては、軍の威信を保持し、社会問題を惹起させないために、慰安婦の募集に当たる者の人選を適切に行うようにとの趣旨の通牒の発出が軍内部であったこと。 慰安施設の築造・増強については、慰安施設の築造、増強のために兵員を差し出すぺしとの趣旨の命令の発出があつたこと。 慰安所の経営・監督については、部隊毎の慰安所利用日時の指定、慰安所利用料金、慰安所利用にあたっての注意事項等を規定した「慰安所規定」が作成されていたこと。 慰安所・慰安婦の衛生管理については、「慰安所規定」に慰安所利用の際は避妊具を使用することを規定したり、慰安所で働く従業婦の性病検査を軍医等が定期的に行い、不健康な従業婦においては就業させることを禁じる等の捲置があったこと。 慰安所関係者への身分証明等の発給については、慰安所開設のため渡航する者に対しては軍の証明書により渡航させる必要があるとする文書の発出があったこと。 その他、業者が内地で準傭した女子が船舶で輸送される予定であることを通知する電報の発出があったこと。 (4)以上のように、いわゆる従軍慰安婦問題に政府の関与があったことが認められた。 政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(1)
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政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(4) 第4巻:http //www.awf.or.jp/pdf/0051_4.pdf 目次(第四巻) 政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(4)一、国立公文書館・大英帝国戦争博物館 所蔵資料【内閣・内務省関係】4項目4点 【軍関係】10項目16点 二、厚生省関係公表資料 5項目5点 一、国立公文書館・大英帝国戦争博物館 所蔵資料 【内閣・内務省関係】4項目4点 一 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)(未作成) … 5 二 行政事務ノ整理簡捷化及中央官庁ノ権限ノ地方委譲等ニ関スル件[閣議決定](昭18・12・14)(未作成) … 27 三 第二次許可認可等行政事務簡捷化ニ関スル件[閣議決定](昭19・1・6)(未作成) … 33 四 朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件[閣議決定](昭19・7・12)(未作成) … 43 【軍関係】10項目16点 一 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)(未作成) … 133 二-(1) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・3・21~31)(未作成) … 159 二-(2) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)(未作成) … 167 二-(3) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)(未作成) … 173 二-(4) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)(未作成) … 183 二-(5) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・7・1~10)(未作成) … 197 二-(6) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・7・11~20)(未作成) … 203 二-(7) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・8・11~20)(未作成) … 211 三 満州事変陸軍衛生史第四巻[陸軍省](昭10・8・1)(未作成) … 217 四 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)(未作成) … 233 五 飛行第一二連隊長ニ与フル注意事項[関東軍司令部](昭10・7・17)(未作成) … 241 六 陸軍軍事讐察月報[北支那派遺軍憲兵隊司令部](昭20・8・4)(未作成) … 247 七 駐屯地慰安所規定[「マンダレー」駐屯地司令部](昭18・5・26)(未作成) … 281 八 第五野戦輸送司令部駐屯地業務規定[第5野戦輸送司令部](昭18・10・3)(未作成) … 295 九 「マンダレー」駐屯地業務規定[第5野戦輸送司令部〕(昭18・10・20)(未作成) … 305 一〇 「マンダレー」駐屯地動務規定[第5野戦輸送司令部](昭20・1・2)(未作成) … 321 二、厚生省関係公表資料 5項目5点 一 日本派遺南方軍最高司令官宛聯合国指令書第一号[仏領印度支那聯合国軍司令官】(昭20・9・7)(未作成) … 339 二 沖縄本島ノ状況[歩兵第22連隊附軍医大尉](昭21・1・9)(未作成) … 341 三 南部セレペス賣淫施設(慰安所)調書〔セレペス民政部第2復員班長](昭21・6・20)(未作成) … 343 四 法務部(GHQ)少佐からの記録要求の件[終戦運絡事務局連絡官](昭22・1・9)(未作成) … 361 五 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)(未作成) … 363 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』へ
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橋下徹大阪市長の慰安婦妄言 時事通信「橋下氏の発言要旨=従軍慰安婦問題」 http //www.jiji.com/jc/c?g=pol_30 k=2013051300931 日本維新の会の橋下徹共同代表が13日に行った従軍慰安婦問題に関する発言の要旨は次の通り。 ▽13日午前(大阪市役所で記者団に) 敗戦の結果として、侵略だということはしっかりと受け止めなければいけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない。 慰安婦制度というのは世界各国の軍は持っていた。なぜ日本の従軍慰安婦制度だけが世界的に取り上げられるかと言うと、日本は軍を使って国家としてレイプをやっていたという、ものすごい批判を受けている。その点については、違うところは違うと言っていかなければいけない。 あれだけ銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる。 今のところは、軍自体が、日本政府自体が暴行、脅迫をして女性を拉致したという事実は証拠に裏付けられていない。そこはしっかり言っていかなければいけない。ただ、意に反して慰安婦になった方に対しては、配慮はしなければいけない。 ▽13日夕(同所で記者団に) 慰安婦制度は必要だった。軍の規律を維持するためには、当時は必要だった。 歴史をひも解いたら、いろいろな戦争で、勝った側が負けた側の方をレイプするという事実は山ほどある。そういうのを抑えていくためには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったということも厳然たる事実だと思う。 (沖縄県宜野湾市の)米軍普天間飛行場に行った時、司令官にもっと風俗業を活用してほしいと言った。司令官は凍り付いたように苦笑いになってしまって。性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にはあるわけだから。 (2013/05/13-23 46) 橋下徹大阪市長の慰安婦妄言
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従軍慰安婦の正体へ戻る 執筆中
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「正論」一月号より 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。 ◆漢口の「慰安所」を見学 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。 難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。 ◆どこにもいなかった「性的奴隷」 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。 「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。 ◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い 次に、軍関与の暴論について証言する。 私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。 「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。 「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。 「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性(さが)が存在するからだ。 「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。 http //www.youtube.com/watch?v=dnJEBlCS1NQ 小野田寛郎さん職業慰安婦を語る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/532.html
「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態── インドネシアにおける慰安婦調査報告Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態──1 慰安婦募集の過程 2 軍管理慰安所の状況 3 私設慰安所の場合 4 終戦後 さて、以上がインドネシアにおいて従軍慰安婦問題がどのような経緯で社会問題となり、また犠牲者の女性たちとそれを支援する民間団体が、現在どのような形で補償問題と取り組んでいるかについての経緯である。 次に、現実に元従軍慰安婦の女性たちが日本時代に被った体験について述べたい。インドネシアにおける軍慰安所、あるいは従軍慰安婦に関する戦争当時の文書は、筆者の知るかぎり同国内にはまったく残っていないため、その事実を把握する作業は極めて困難である。そもそもインドネシアにおける日本軍ならびに軍政当局の資料は、終戦時に多くが日本軍の手によって焼却されたといわれている。焼却を免れた一部の資料は、まもなく終戦処理のために上陸してきた連合軍によって接収され、その内容に応じて一部はイギリスに、また多くのものは旧宗主国のオランダへ送られた。従って、従軍慰安婦に関する記録が残っているとすれば、それはむしろイギリスないしオランダの文書館にである。 インドネシア各地の俘虜収容所からオランダ人女性が連れだされて慰安婦にされた事実は、終戦直後に連合軍により戦争犯罪として問題にされ、それに関与した日本軍関係者がバタヴィアのBC級戦犯裁判で裁かれた。従ってその裁判関係の記録がオランダに残っている。ところがインドネシア人慰安婦のことは、バタヴィア軍事法廷ではまったく問題にされることはなく、不問にふせられていたため、文書になっているものは少ない。 このように公文書が皆無に近いため、以下の記述は、関係者からの証言という形に頼らざるを得なかった。実は筆者が1980年から81年にかけて、ジャワの農村で日本軍政期の歴史に関する聞き取り調査を実施した時にも、元慰安婦たちに会って話を聞きたいと思い探したのであるが、その段階では本人も周囲の者も口が固く、1人も見つけることはできなかった。しかし、補償問題とのからみで多くの人が名乗り出ているいま、面接調査はかなりたやすくなった。 とはいえ、彼女たちの多くは、これまでにもすでに多くの日本人の訪問を受け、そのたびに今度こそは補償が、と期待したがいつも裏切られてきたという現実があるため、かなり懐疑的になっている。しかも「すでに○○さんに話したのになぜ同じ日本人に対して何度も同じことをしゃべらなくてはならないのか」と不思議がる。日本人の考え方も一様ではなく、さまざまな組織や個人がそれぞれ異なる立場や思惑で調査しているという事情は理解しかねるようであった。そこで調査する側の意図をかなり詳細に尋ね、よほど納得がいかないと面会してくれない。補償問題に関する将来の良い展開を期待して喜んで証言してくれるという時期は去ったように思われる。 そのような中から法律援護協会ジョクジャカルタ支部を通じて15名、兵補協会を通じて25名、計40名の元従軍慰安婦と称する女性(ただしうち4名は家族が代理に証言)と、慰安所を直接見聞した証人3名の証言を得ることができた。その内容に加えて、関係者がかつて新聞・雑誌・テレビ等を通じて語ったこと、彼らが手記にまとめたもの、これまでに日本人ならびにインドネシア人研究者や支援団体のメンバーが面接調査をした記録などを参考にし、判明したいくつかの点を以下にまとめたい。 1 慰安婦募集の過程 インドネシアにおいても、当初従軍慰安婦は、もともと売春を生業としていた女性たちを中心に募集された。しかしそれでは十分賄うことができず、やがて一般の女性から募集された。人種的な近似性のゆえに、バンカ島のマルガレタ(ホ・スイ・リウ)さんのような中国系の女性が好まれたようであるが、絶対数が少ないので、圧倒的多数はプリブミの女性であった。ジョクジャカルタのマルディエムさんのように一部の慰安婦は都市部から選ばれたが、多くは村落社会から募集された。 Ⅰでも述べたように、名乗り出ている女性たちの中には、日本人将校の現地妻だった者、強姦された者なども数多く含まれている。そこで面接に際しては、本来の意味の慰安婦、すなわち軍が管理する慰安所に一定期間置かれて、繰り返し性的な相手をさせられた者、という範疇にあてはまる女性だけを選別してもらうよう頼んだ。しかし、にもかかわらず、われわれの予想に反して、40名の中にはさまざまなタイプの女性が混ざっていた。中でも多いのは、どの部隊の者も利用できる公的な慰安所ではなく、特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ(正式には慰安所という用語は使用していないが)で働かされた者である。多くの場合それは、軍の兵舎の建物や、軍が運営している特定の工場の内部などに女性を多数住まわせ、将兵が必要に応じて「活用」するという形であった。なぜか、西ジャワ地区での調査対象となった女性の中にこのタイプが多かった。 当人たちはもちろんのこと、兵補協会や法律援護協会の関係者たちも、その種の私設慰安所と、軍管理の慰安所とは性格が異なるということに納得がいかないようであった。ここではとりあえず便宜上、前者を「準慰安婦」、後者を「慰安婦」というふうに区別し、そのおのおのについて叙述するが、他の個人的強姦や現地妻のケースについては特に触れない。 慰安婦の場合、多くが居住地の区長や隣組の組長を通じて募集が行われたようである。「学校へ行かないか」とか「いい仕事があるが応募しないか」という形で誘いを受けたと述べている。単なる誘いであった場合もあれば、ノーといえないような強い雰囲気だったこともある。労務者の徴用も同じであるが、徴用令が施行されていた朝鮮や台湾とは違って、占領地では形式上は自由応募ということになっていた。とはいえそれでは、現実にはなかなか人数が集まらないので、村長や区長にノルマが課されるということが多かった。当時の権力関係からして、住民は村の役人や長老にはとても逆らえない状況であったため、そうなるとほぼ強制に近いこともなされたのではないかと思われる。 日本軍の占領期には、総動員体制のもと、村落社会に対する介入や干渉が強化され、住民を強力に統制して、特定の目的に向けて動員するためのメカニズムが導入された。本来共同体の代表としての性格の強かった村落の長を、政府の役人のように変え、細やかに中央の命令を実行させていった。また、日本の組織を真似て隣組制度が導入され、これを通じて上意下達や相互監視を徹底させた。米の供出、労務供出などにおいても、目標が達成されなかった場合には最終的には、隣組に連帯責任が課され、組長に大きなプレッシャーがかかる。そのため組長は何とかして命令を遂行しようと努力し、そのしわ寄せが個々の住民にいくのであった。労務者の場合でも、慰安婦の場合でもとりわけ、より貧しい者、より弱い者に対して大きなプレッシャーがかかるのが常であった。 中には、実際娘がどんな仕事をさせられるのか実態をうすうす感じていた親もいたようであるが、日本軍の命令に反抗することの恐ろしさや、食料難、生活苦の中で差し出された前金に心を動かされてしかたなく娘を手放したこともあるといわれる。 「強制」とはいっても、実際日本軍将兵が銃を突きつけてというようなケースは、厳密な意味での従軍慰安婦募集の場合にはむしろ少なく、以上述べたような行政機構や村役場を通じての半強制が行われていたというのが一般的であろう。 それに対して、「準慰安婦」の場合には、日本軍将兵が個人的に女性を「手込めにする」あるいは、上官の個人的な命令を受けて「女狩り」に行く、つまり、実際に軍人が直接手を出して連行したというケースが多かったようである。この場合は、村から町に働きに出ている女性が帰り道を襲われるというようなケース、あるいは、両親が仕事で出掛けていて1人で留守番をしている間にさらわれるというようなケースもみられる。 いずれのタイプの場合も、連れていかれた時の少女たちの年齢は想像以上に低く、14-15歳というケースもかなりある。当初は筆者にも信じがたいことであったが、当時村落社会での結婚年齢はかなり若かったうえ、慰安婦の対象とされたのは「未婚の女性」であったことを考えると、そのような年齢になってしまうものと思われた。他に未亡人も恰好の対象とされた。ただし、「準慰安婦」の場合は、家庭状況を調べたうえでの連行ではないので、場合によっては夫のいる既婚者が連れていかれた場合もあるし、年齢もまちまちである。 輸送状況の困難な時代であったので、もちろんジャワ島内で働かされた者が絶対的に多いが、カリマンタンなど遠くの島へ送られた者もいる。これは、出身地から切り離すことによって、逃亡の機会を防ぐという意味があったのかもしれない。現に、「なぜ逃亡しなかったのか」というような質問に対し、「逃げだしても匿ってくれるところがなかったから」というような回答が多かった。今回の聞き取り対象者の中で、自分が住んでいた島以外へ連れていかれた者は、わずか5名しかいない。 2 軍管理慰安所の状況 慰安所の運営は多くが、日本人軍属や民間人に任されていたようである。元慰安婦の多くは、背後に日本人がいたことを知っており、その日本人の名もおおむね明確に記憶しているが、日常的に直接女性たちを管理したのは、インドネシア人男性であることが多かった。 慰安所は将校用、一般兵士用、民間人用などに分かれていた。同じ市内に幾つかあり、ランクの高い慰安所には日本人女性や朝鮮人・台湾人女性がいたという。実は日本人の慰安婦も多数インドネシアに送られていた。基本的には、本来売春を職業としている者で、希望に基づいて募ったといわれているが、真偽のほどは分からない。彼女たちは終戦間際になると俄か看護婦となって陸軍病院へ移され、現に終戦時には看護婦として連合軍当局に報告された。従って、収容所や引き揚げ者名簿の中では看護婦という扱いになっている。 慰安所は新たに新設された場合もあるが、なかには既存のホテル(ソロのフジ・ホテルなど)や、レストランを改造したもの(スカブミのスハルティンさんの場合など)もあった。いずれも、女性たちは個室を割り当てられ、そこを3交代制で、複数の仲間と共同利用した。 慰安婦たちは当時は地域社会から白い目で見られ、日本軍の「犠牲者」として同情を受けることはほとんどなかった。従って日曜日などに外出許可が出ても、地域の人々との交流はまったくなかった。 兵隊たちは、休暇が出るといっせいに慰安所にかけつけることが多かったので、しばしば団体で列を成してやってきた。そのため、慰安婦たちは、概ね、短時間に多くの客の相手をしなければならないことが多かった。中には一晩に数人から10人くらいを受け入れたと証言している者も多かった。 兵隊たちは、慰安所の入口で「キップ」を買って「有料」で慰安所を利用するわけであり、慰安婦にも、客の数に応じて収入が入ることになっていた。しかし彼女たちの訴えによれば、多くの場合その報酬は未払いになっていたという。ただし、食事、衣装、化粧品などには事欠かなかった。周辺にいた証人たちの証言によれば、その生活は豊かで華やかでさえあったという。 しかし問題は金銭的、あるいは物質的なことではなく、ほとんど自由を束縛されたうえ、1日に何人もの客を強制的に取らされ、からだが疲弊してしまったことである。多くの女性が健康を害している。ただし性病に対しては、日本側も非常に敏感になっており、必ずコンドームの使用が義務づけられていたうえ、毎週定期的に軍医や衛生兵による検査が行われた。しかしそれ以外の健康管理は十分に行われていなかったようである。しかもコンドームの使用を義務づけていたにもかかわらず、マルディエムさんのように妊娠する者もいた。そのような場合には強制的に堕胎を強いられたが、中絶は罪悪であると教えられてきたイスラム教徒の彼女たちにとって、それは精神的な重圧であった。 3 私設慰安所の場合 それに対して、「準慰安婦」たちが入れられた、軍の兵舎内や工場内の私設慰安所の場合は、いろいろな意味で環境がもっと悪かったようである。「準慰安婦」の場合は、いわば、その部隊の将兵が女性を拉致してきて、そのままうむを言わさず自分たちの欲望の捌け口として使ったわけであるから、これらの女性の存在は軍司令部には秘密であったと思われる。そのため、慰安婦に一般に与えられていたような、健康管理のための措置もなされなかった。すなわち妊娠や性病を防ぐためのコンドームの使用もおそらく義務づけられてはいなかったであろうし、軍医や衛生兵による定期的な健康診断もなく、性病蔓延に対する衛生的な措置はなんらなされていなかった。 また、彼女たちを利用する日本軍将兵は、正式の慰安所の場合のように「キップ」を買ったりはしていない。従って女性たちはもちろん何の報酬も受けていない。それどころか彼女たちのための正式な食料、衣料品の供給さえなかったようである。従って多くが、食事はありあわせで、時には1日1食であった、などと述べている。 「準慰安婦」の場合、多くは遠方へ連れていかれることはなく、居住地の近くで活用されている。たとえ、遠くの部隊へ連れていきたいと考えても、公的な存在でなかったから、その輸送手段も確保することはできなかったのであろう。 4 終戦後 日本軍が降伏した時、慰安婦たちはその場で自然解散という形になった。バリックパパンなど、すでに1945年8月15日以前に、連合軍の攻撃を受けてその地の日本軍が逃走したような地域では、慰安婦たちも命からがら逃走している(ジョクジャカルタ在住のスハルティさんのケース)。出身地の近くで働かされていた女性たちは、理論上、自力で故郷へ戻ることは、物理的には困難なことではなかった。しかし現実には、故郷には恥ずかしくて帰れなかったという者が多かった。現に、家に戻ってきても近所の人々が罵ったり、悪口をいう場合があったという。日本軍の犠牲者としての同情よりも、思いやりのない軽蔑の眼差しを向ける者が多かったのであろう。 カリマンタンなど遠隔地で終戦を迎えた者は、すぐには帰郷できない場合も多かった。マルディエムさんのように、現地で結婚相手を見つけ、ずっと後になってからジャワへ戻る機会を得た者もいる。反対にバンカ島からパレンバンへ連れて行かれたマルガレタさんも、そのまま故郷には帰れず、パレンバンにとどまり、やがてその地で結婚した。 かなり多くの女性がその後過去を隠して結婚しているが、中には健康を害して結婚できず、一生独身で暮らした者もいる。また結婚した女性の中で、子宝に恵まれた者は比較的少なく、慰安婦時代の日常が、いかに彼女たちの健康を蝕んでいたかがよくわかる。 インドネシアにおける慰安婦調査報告index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/486.html
今日の訪問者 - 「慰安婦」問題 調査報告・1999 政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹 (和田論文)はじめに 1.軍慰安所の設置 2.「慰安婦」の募集 3.渡航手続き関係資料が示すもの 4.渡航証明書発給資料の検討 5.居留民職業別人口統計の検討 6.各地の慰安所 7.慰安所の管理規定 8.慰安婦の帰還 註 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソースは 財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金) http //www.awf.or.jp/ 慰安婦問題」調査報告・1999 PDFファイル2 http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p007_031.pdf 『「慰安婦」問題調査報告・1999』