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瑞州合衆国連邦の歴史 (ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのれきし)では、瑞州合衆国連邦の歴史について述べる。 瑞州の黎明期 丹朝八洲 東西朝時代 東丹朝八洲・西丹朝八洲 五朝夷戎 潘朝八洲 潘朝継承戦争 柴朝八洲 濃尾の乱 南北朝時代 単朝弖南 八重尾朝瑞洲 嶺山の陣 沢谷合戦 封建制 豊川幕府 小井戸朝井 保坂朝井 御宿朝瑞洲 笠置幕府 前史 前期笠置時代 中期笠置時代 後期笠置時代 共和制への移行 東西戦争 開戦 西部戦線 東部戦線 終戦 帝国主義 瑞州内戦 瑞州の黎明期 古くから倭語→日本語を使用してきた。 約1万2千年前の氷河期の終わり頃、瑞州の地には、日本列島から島伝いに太平洋を渡って東進してきた日本人の1グループ( 先瑞洲人 )がいた。彼らは大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象とし生活していた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って彼らもキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた( 狩猟時代 )。しかし紀元前8世紀ごろ、彼らは鉄器の製造を軸として力を蓄え、移住生活でなくても定住で生活が可能な生活にシフトしていった。その中で、血縁関係にある者たちが集まって「村」を作り、やがてはほかの村と争って支配下に加えることが多くなった(鉄器時代)。また、紀元前5世紀から6世紀頃、中国大陸から渡来してきたグループが漢字を伝えたため、土器~鉄器時代の記録を漢文を用いて後世に残している。また、中国大陸や日本列島からやって来る者は多く、漢字や瑞州語(日本語)は中国本土や日本列島と同等の進化を遂げることとなった。これは 渡洋文明 と呼ばれる。 しかし、村が巨大化するにつれて、住人の統率は難しくなっていったようで、ついには同じ村・民族同士でも争ってしまうような時代に突入した(紀元前2世紀頃)。ここで勝利した者を頂点として、その者が指導する「洲(読みはクニ)」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に各地に形成されていった。 1世紀・2世紀前後に各洲が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも、8つの洲で構成される八洲政権が最も有力であり、これが王朝に発展したとする説が有力である。3世紀ごろに、八洲政権の首長(王)は豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。この時期に、瑞州語を操り、瑞州地域の中央辺りに住む 八洲人 としての自覚が次第に芽生えたとされる。 丹朝八洲 丹朝 Tan dynasty 首都 豊都(遠淡海州豊比市)丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 225年 - 261年 黎文斌(開世帝) 298年 - 299年 幽縦帝 建国 225年 別称 丹、大丹、古瑞洲 国姓 黎 丹朝の始まりは黎文斌である。彼は八洲政権を構成していた8つの洲(黎洲、季洲、吽洲、沙洲、潘洲、駿洲、信洲、陸洲)を支配していた豪族全ての血を引く人物であり、豪族たちの合議により八洲政権の首長となった。これより以前は八洲政権は豪族たちの合議により政治が為されていたが、黎春光以後は彼の血筋の者が首長として政治を執り行うようになった。二代目の黎雅嘉は「八洲」の国号、「王」号に代わる「皇帝」号を設定した。これは対外的な権威付けであると考えられる。この後、黎文斌には開世帝の諡号が贈られた。 丹の王朝名は黎文斌の出身地である黎洲丹羽郡にちなむ。これは現在の尾治州扶桑市に相当する。 丹朝は地方豪族と中央の王(黎氏)による緩やかな連合体であったため、支配地域は現在の北西地方や中央地方の一部に限られ、全国的な統一政権とはならなかった。瑞州南東部にはテオティワカン文明やオルメカ文明、マヤ文明の勢力がおり、彼らは弖南(てなん)、織売(おるめ)、合罕(かあん)の王朝を創始して丹朝に対抗した。また瑞州北西部には遊牧民族であるチチメカ族(玄鷲、げんしゅう)がおり、これも丹朝に対抗した。沖思帝の時代には南部の潘洲や沙洲が陥落し弖南の攻勢にさらされたため、豊都から丹城に遷都されている。丹城が選ばれた理由は、かつて黎洲の都であったからである。 八洲政権→丹朝 黎文斌(開世帝、225~261):各州の抗争を鎮圧し、丹朝を打ち立てた建国者である。 黎雅嘉(定道帝、261~284) 沖思帝(284~295) 礼熙帝(295~298):乙卯の乱(295~299)により実弟の幽縦帝に王位を追われてしまう。 幽縦帝(298~299):乙卯の乱(295~299)により実兄から王位を奪うものの、後に礼熙帝に敗北し、地方へ落ち延びる。 東西朝時代 乙卯の乱により皇帝を名乗る者が二人出現し、それぞれが国を東西に二分(東丹朝、西丹朝)したため、東西朝時代と呼ばれる。 東丹朝八洲・西丹朝八洲 東丹朝 Totan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 300年 幽縦帝 建国 299年 別称 東丹、東洲 国姓 黎 西丹朝 Seitan dynasty 首都 丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 321年 礼熙帝 建国 299年 別称 西丹、西洲 国姓 黎 乙卯の乱で敗走した幽縦帝はかつての丹の都である豊都に辿り着き、ここを本拠地として礼熙帝の軍に対抗した。勢力に劣る幽縦帝は圧政を敷き民衆からの反感を買ったが、弖南や織売、合罕の三国に贈り物をするなどの懐柔策を用い、後顧の憂いを断った(蛮丹の盟)。しかしながら305年、その圧政についに民衆の不満が爆発し、豊都の乱で幽縦帝やその長男は殺害され、後継者争いの火種となるのを避けるために幽閉されていた次男が帝位を継いだ。これが文賢帝である。文賢帝やその息子の凱介帝は善政を敷き、国を安定化させた。 一方西丹は、礼熙帝も誠崇帝も最初から善政を敷いていた。しかし霊繆帝は暗愚であり、放蕩生活に溺れた末、341年には玄鷲との戦いに敗れて戦死した。残された哀懐帝はまだ10歳と幼く、東丹の首脳部は西丹に和平交渉を持ちかけるも断られた。翌342年、ついに東丹が西進を開始し、丹城はあっけなく陥落して西丹は滅亡した。この際、礼熙帝統の皇族は皆殺しにされた。 こうして東丹は悲願の両朝統一を成し遂げたが、北西部には未だ玄鷲の勢力が残っており、凱介帝自身も345年に勢力争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、統一期間はたった3年で終わった。 東丹 幽縦帝(299~305):東丹(幽縦帝統)の祖。 文賢帝(305~321) 凱介帝(337~345) 西丹 礼熙帝(299~321):西丹(礼熙帝統)の祖。 誠崇帝(321~337) 霊繆帝(337~341) 哀懐帝(341~342) 五朝夷戎 東丹が勢力争いで凋落すると、各地の有力者たちが活気づいて地方国家が分立した。玄鷲は、東丹の滅亡と時を同じくして西部に勢力を持つ鷲戎(じゅじゅう)、北東部に勢力を持つの玄夷(げんい)の二つに分裂し、またそれぞれが次第に八洲人と同化していった。南では特に力を持った五朝が分立し、北では鷲戎と玄夷が勢力を持っていた時代を、東西朝時代の中でも特に 五朝夷戎時代 と呼ぶ。なお、弖南や織売、合罕の南東部三国は南蛮と呼ばれ、東五朝の内に入らない。 東五朝、およびその従属国家 国名 姓氏 領地 備考 先衛(せんえい) 白姓衛氏 静駿州の一部、重賀州の一部、紀山州の一部 後の「衛」と区別するため先を付けて呼ばれる。 白姜(はくきょう) 姜氏 先衛に従属 鄭(てい) 鄭氏 先衛に従属 朱参(しゅさん) 朱姓洪氏 遠淡海州南部、近海州の大半 蔡栄(さいえい) 隗姓蔡氏 朱参に従属 南宮(なんきゅう) 南宮姓 朱参に従属 朱単(しゅぜん) 朱姓 朱参に従属 梁崗(りょうこう) 梁姓馮氏 梁丹(りょうたん) 黎姓 遠淡海州豊比市一帯 梁崗の保護下 大武(たいぶ) 武氏 尾治州大武市一帯 梁崗に従属 林紫(りんし) 万俟姓公氏 西鄭(せいてい) 蒲姓鄭氏 林紫に従属 季潘(きばん) 季姓潘氏 林紫に従属 暁北(ぎょうほく) 許姓江氏 曾師(ぞうし) 戎姓師氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 龍浦(りゅうほ) 戎姓龍氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 玄石(げんごく) 玄姓石氏 暁北に従属。元は玄夷族貴族 鍾諏(しょうしゅ) 鍾氏 暁北に従属 西朝 国名 氏族 領地 備考 木曾(きそ) 鷲戎族 中濃州木曾市一帯 東朝文化に迎合した鷲戎系貴族が八洲人化して建てた国家。 鳴波(めいば) 玄夷族 波島州一帯 東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化して建てた国家。 潘朝八洲 潘朝 Pan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 408年 - 413年 潘国亮(雍宣帝) 471年 - 499年 孝哲帝 建国 406年 別称 潘、大潘、古瑞洲 国姓 潘 潘氏のルーツは玄夷族の地方貴族にまで遡るとされ、明確に記録上に現れるのは五代目とされる潘雲紀からである。鳴波国において、潘雲紀は軍の武将としての扱いを受けていたが、同時に野心高い人物でもあったようで、巧みな謀略を駆使してついには鳴波皇族の外戚にまで上り詰めた。その後彼は敵対勢力の放った刺客に暗殺されるも、その息子である潘国亮もやはり野心高く、鳴波に反旗を翻して独立。400年に潘の建国を宣言し、その二年後には鳴波を滅ぼした。 この新興勢力に対し五朝や木曾は警戒の色を強め、藍帆などによる連衡策(五朝および木曾を横に束ね、北の脅威である潘に対抗する)などが提唱された。一時は対潘大同盟が結成される事態となり潘は窮地に陥るも、潘国亮は宰相・胡又儒が提唱した合従策(潘と五朝・木曾で個別に同盟を結び、縦に連結する)を取り入れ、ピンチを乗り切った。その後潘国亮は国家を挙げて南下を開始し、五朝の一つである梁崗の保護下にあった丹朝の末裔国家・梁丹国および豊都を支配下に置くと、丹朝皇族家の末代である黎宜雅から禅譲を受けて雍宣帝として即位した。これを以って 潘朝八洲 が成立したと見なされるが、かつての丹朝の支配領域を再統一するまではこの後も数年掛かっている。 成立当時の八洲政権や丹朝、そして潘朝の支配地域は、現代瑞州の全域に及ぶものでなく、北西や南東などはまだ領域外だった。しかし南東の弖南や織売に対しては、紀元5世紀頃に潘朝による征服がなされ、支配下となった。特に5世紀前半は、北米・南米遠征も計画され、実際に侵攻が行われる(北狄・南蛮征伐)など帝国としての対外志向が強まった時期だが、5世紀中盤に入り、こうした動きも沈静化した。 八洲は5世紀前半から中華の法体系・社会制度を急速に摂取し、古代の中央集権国家としての完成を見た。 一方で、八洲は潘朝の統治下で安定したかのように思われたが、第三代皇帝である孝哲帝が後継者を決めないまま厠で急死したために、各地の領主たちが自らに都合の良い皇族を担ぎ上げて皇帝に推挙するお家騒動が勃発。やがては武力抗争にまで発展し、 潘朝継承戦争 が始まる。 潘朝継承戦争 後継者として有力と見られていたのは孝哲帝の弟である潘博然であり、博然のもとには豪氏や郭氏といった氏族が集まっていた。しかし豪氏と並ぶ有力氏族である秦氏は孝哲帝の外戚である黄鵬を推薦し、意見を異とした両勢力は武力に訴えた。 当初こそ潘博然の側が優勢であったが、450年に彼が急死(急性アルコール中毒と言われる)すると、その勢いは衰えた。翌年に黄鵬は即位を宣言したが、国号を「黄」に変え、継承戦争に功績のあった諸侯に封土を与えた上で、丹朝のような合議体による理想政治を目指したため、中央集権を理想とする秦氏の造反を招いた。このため、黄鵬は潘朝の皇帝と見做されていない。 一方で、孝哲帝の第二皇子である潘江春は、鎮北将軍として八洲北部防衛の任に当たっており、懐柔のために鷲戎族の貴族の娘と結婚し、姓を柴に変えていた。継承戦争勃発直後は北走した木曾国の残党(北曾)と戦っており、候補として名前を挙げられることはあっても、とても後継者争いに口を出せる状況ではなかった。459年に彼が戦死した後も嫡子の柴子良が引き続き任務に当たっていたが、467年に玄夷を鎮圧すると、黄鵬や秦氏に反発する豪氏や郭氏から皇帝候補として担ぎ出され、継承戦争に参戦した。 潘朝八洲 潘国亮(雍宣帝、408~413):東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化した氏族の出身とされる。 粛武帝(413~437):南方や北方の異民族を攻め滅ぼしたり屈服させる。 孝哲帝(437~445):後継者を決めないまま急死した。 柴朝八洲 柴朝 Sai dynasty 首都 中城(常陸中州荊城市) 公用語 古瑞州語 皇帝 471年 - 480年 柴子良(明寧帝) 608年 - 610年 孝哲帝 建国 551年 別称 柴、大柴、古瑞洲 国姓 柴 継承戦争を終結させた柴子良は、潘朝が首都としていた豊都に入京すると、471年に即位した。 これまでの王朝である黎や潘は中華に大きく影響を受けた統治システムや社会文化であったのが、柴の翼公帝が即位した頃から次第に中華文化との剥離が著しいものとなり、人名なども瑞州独自のものとなっていった。 濃尾の乱 六代目皇帝・干虚帝は非常に愚鈍で好色な皇帝であったと伝えられる。国中の美女を集めては王宮で侍らせており、臣下に讒言する者があれば自ら手討ちにするか、そうでなければ無実の罪を着せて処刑するなど、恐怖政治を敷いた。一方で対外戦争に関しては「天賦の才」を発揮したとされ、潘朝継承戦争にどさくさに紛れて八洲支配下から独立していた弖南や織売に侵攻、これを支配領域に取り戻した。戦後の論功行賞により封土を加増された地方豪族も多くいたため、臣下の間では不満こそ溜まっていったが、それが大爆発を起こすような事態にはならなかった。 しかし、干虚帝が崩御し次男の元章帝が即位すると事態は一変した。元章帝の異母兄で長男の柴道成は、父の干虚帝に讒言したことと、母の身分が低いことで皇位継承順では下位に位置していたが、長幼の序を理屈として自身が皇帝になるべきと主張。それに賛同する名門の衛氏(尾治)や真浦氏(信濃)などを中心とする諸侯と共に蜂起し、609年2月に 濃尾の乱 が勃発した。 また、元章帝は父親の政治を反省し、荒廃した国内を立て直すために中央集権化を推し進めようとしていたのだが、その中に「諸侯の封土削減・皇帝直轄領の増加」という政策が含まれていたため、諸侯たちが反発したのも乱の原因であった。これらの政策は一般庶民たちからは支持を得たものの、諸侯たちにとっては不愉快なものであったのだ。 609年12月7日、柴軍は道成軍を急襲し、総大将の道成を殺害する(飯田の戦い)。しかし諸侯たちは新たに、衛氏の当主である衛士門を総大将とし、再び柴軍に挑んだ。戦上手として知られた衛士門の指揮に、柴軍は敗北を重ね、610年10月24日には鹿児島の戦いで柴軍が殲滅され、元章帝は戦死。残された皇族たちも捕縛・処刑され、ここに柴朝は滅亡した。 仲朝八洲 柴子良(明寧帝、471~480) 翼公帝(480~497) 和厚帝(497~508) 礼理帝(508~539) 安高帝(539~572) 干虚帝(572~577):悪政により求心力を失う。 元章帝(577~610):治世の末期に濃尾の乱が発生、衛氏・真浦氏連合軍に敗北し、殺害される。ここに柴朝は滅亡する。 南北朝時代 柴朝が滅亡した後、濃尾の乱で連合を組んだ衛士門・真浦秀志は反目し合い、それぞれが独自に王家の創立を宣言する。611年、衛氏と真浦氏の対立は武力衝突に発展し、庄内川の戦いで真浦軍が衛軍を撃破、衛氏は本拠地であった尾治を失い、南方に逃れることとなる。これを以て真浦氏の建てた北朝(津朝とも)と、衛氏の建てた南朝(衛朝とも)が並立する南北朝時代の始まりであるとする説が一般的である。 真浦氏・衛氏による南北朝並立の時代は30年足らずで終了した。後衛は本拠地や従属していた異民族の領域を失っても、他の氏族と結んだ婚姻関係を軸に良好な統治を行ったのに対し、津の統治は上手く行くことがなく、二代目の皇帝・真浦俊直の死後にさらに十三国に分離した。 南北朝時代 国名 姓氏 領地 備考 後衛 (こうえい) 白姓衛氏 瑞州南部 前の「衛」と区別するため後を付けて呼ばれる。南朝衛とも。 津 (しん) 海姓真浦氏 瑞州北部 海津、大津とも呼ばれる。 八代 (やつしろ) 南宮姓全氏 梨甲州 北朝十三国の一つ。 武江 (ぶこう) 隗姓播野氏 那橡州、埼武江州、神相州 北朝十三国の一つ。 周芳 (しゅうほう) 周姓齋氏 山防州 北朝十三国の一つ。「すわ」とも。 羽州 (うしゅう) 秋姓 秋羽州 北朝十三国の一つ。 楠成 (なんじょう) 成姓鄭氏 濃波州、林播州 北朝十三国の一つ。 常陸(ひたち) 成姓鄭氏 常陸中州、能石州、嶺狭州 通常北朝十三国とは数えられない。のちに鄭橘、嶺に分裂する。 鄭橘 (ていきつ) 成姓鄭氏 常陸中州 北朝十三国の一つ。 嶺 (れい) 干氏 能石州、嶺狭州、波島州 北朝十三国の一つ。 対島 (つしま) 朱姓 岩陸州 北朝十三国の一つ。 武遠 (ぶえん) 武姓杜氏 中濃州、濃前州 北朝十三国の一つ。 高 (こう) 高姓 三勢州、嶋海州 北朝十三国の一つ。 板 (ばん) 板姓城氏 重賀州 北朝十三国の一つ。 淡海 (あわうみ) 冷姓木菱氏 尾治州、遠淡海州、近海州 北朝十三国の一つ。 紀州 (きしゅう) 井姓 紀山州、静駿州 北朝十三国の一つ。 単朝弖南 単朝 Zen dynasty 首都 岡山(吉備作州岡山市) 公用語 弖南語上代瑞州語 皇帝 610年 - 654年 単富賢(忠壮帝) 737年 - 740年 慎舒帝 建国 551年 別称 単、弖南 国姓 単 柴は対外戦争で領土を拡大し、南蛮と呼ばれていた異民族である弖南や織売を従属させ、各地域に督部を置いて彼らを支配していた。しかし濃尾の乱の混乱で、支配地域に置かれていた督部の権力も次第に減衰していた。609年末、備州の弖南族・羅國辰が蜂起し、備州督部を攻め滅ぼすと、弖南国家の再建を宣言した。しかし羅國辰は未だ若く、後継ぎもないままに、翌年正月の酒の席で急死する(死因は急性アルコール中毒とみられる)。困り切った弖南の各族長たちは、羅國辰の従兄であり、勇将の誉れ高かった単富賢を擁立し、皇帝に即位させた。これを以って 単朝 が始まったとみられる。 富賢は国力を温存するために、向かってくる敵には対処するものの、南北朝の争乱で混乱していた八洲への介入は避けていた。また同盟や契約を駆使し、北朝十三国のどれかに力を貸すなどの方針を以って力を伸ばし、次代の誠崇帝の時代、670年代前半には織売や合罕も糾合して一大勢力となっていた。社会基盤も整い、期は熟したと判断した三代目の彭強帝は八洲への侵攻を開始。721年までには南北朝全ての領域が単朝の支配下に入り、八洲は初めて異民族により統一された。 しかしながら八洲人の反抗も根強く、単朝の支配も安定しなかった。729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は武勇で知られ単に忠誠を誓っていた八重尾伸隆を鎮圧に派遣した。一旦は反乱の鎮圧に成功するものの、732年に今度は伸隆が反乱を起こし(単勢戦争)、有効な対処策も見つからないままに単の支配領域はみるみる削り取られ、740年に首都の岡山が陥落。幼少の慎舒帝は行方不明となり、ここに単は滅亡した。 八重尾朝瑞洲 八重尾朝 Yaeo dynasty 首都 鈴鹿(三勢州鈴鹿市) 公用語 瑞州語 皇帝 740年 - 749年 八重尾伸隆 813年 - 839年 八重尾忠隆 建国 740年 別称 瑞洲 国姓 八重尾 北朝十三国の一つ・高の重臣で、数多くの周辺諸国との戦争で武勇を轟かせていた八重尾伸隆は、主君である高一輝の愚鈍を理由に飯高崩れを引き起こす(724年)。一輝は就寝中に襲撃、暗殺された。大河内氏は一輝に嫡子がいなかったため廃絶となり、また裏工作により高の家臣たちの支持も集めた伸隆は高の実権を握った。伸隆は総合的に判断した結果、急速に力を伸ばしてきた単へ歯向かうことは得策ではないと判断し、単へ帰順した。その結果、仁容帝にその武勇の才を見込まれ、伸隆は単の重臣として召し抱えられた。 729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は伸隆を鎮圧に派遣した。許軍や趙軍に対する二方面作戦を強いられ苦戦するものの、伸隆は一旦は反乱の鎮圧に成功する。しかし単の支配能力の低下や腐敗を見て取った伸隆は、今度は自分が単に反旗を翻した(単勢戦争)。八重尾叛逆の報に、仁容帝は驚きのあまり吐血、失神し、そのまま崩御した。次代の逸淵帝は、戦上手で知られる伸隆に対し有効策を取ることができず、瞬く間に支配地域を失っていった。本人も737年に崩御、後を幼子の慎舒帝が継いだものの、単重臣たちにそれを守り立てて単の支配を復活させる力はもう残っていなかった。 740年に単の首都である岡山を攻め落とした伸隆は、皇帝の座に就き(八重尾戴冠)、国号を改称して 八重尾朝瑞洲 帝国を新しく開いた。首都は鈴鹿(三勢州)。「瑞」、つまり天が善政に感じてくだす、めでたいしるしへの期待と、「洲」、多くの「洲(クニ)」が連帯して開かれた王朝であることを示すためにこの国号を設定したと考えられる。またこの頃になると「諡号」の伝統が消失し、皇帝名は「本人の名+帝」で表記されるようになっていった。この時読み方としては、名の部分が全て音読みで読むことが非常に多い(例:八重尾伸隆(やえおのぶたか)→伸隆帝(しんりゅうてい))。 即位後、伸隆帝は次なる標的を、許趙の乱や単勢戦争のどさくさに乗じて独立した小国家群を標的を定めたものの、八重尾朝の勢いを既に知っていた数か国はすぐに降伏した。伸隆帝は戦場での苛烈さや野心の高さ、計算高さとは対照的に、配下に対しては慈悲深い人物でもあり、投降した君主家である城氏と木菱氏らを家臣団に加え入れている。降伏したいずれの主君筋も伸隆帝は厚遇したことから、家臣団の結束力はより強いものとなった。そしてこれは八重尾朝の政権運営の原動力となった他、八重尾朝の重臣格の家は貴族となり、現在でも存続しているような名家となった。しかしながら、降伏を拒んだ国に対しては、伸隆帝は徹底的な制圧戦を展開した。 747年に鄭橘、武遠を滅ぼした伸隆帝は、高くそびえたつ山々に囲まれうかつに手出しのできない後嶺と、未だ統一のされていない北半島地域を天秤にかけ、748年に半島征伐を決意。総動員した船上戦力と、半島の付け根にある梨甲地域を支配する八代を攻め落としてからなだれ込む地上戦力の二軍を分けた伸隆帝は勝利を確信していた。しかし、菊多沖海戦の勝利の報に喜んだのもつかの間、自らも山々に囲まれて飛び出てくることはないだろうと踏んでいた後嶺が侵攻を開始し、波島地方を占拠したという急報が届いた。波島は首都の鈴鹿の目と鼻の先であり、しばし逡巡した伸隆帝は、船上戦力を引き戻して嶺へ急行させるも、749年に後嶺軍と向かい合った御嶽山の陣中にて、風邪をこじらせて没してしまう。遺言通りに帝位と家督を相続した嫡子の芳隆帝は対嶺戦の続行を指示しつつ、八代方面軍の指揮官の真方頼実に和睦を指示。ひとまず北半島への戦役は中止され、帝国は後嶺との戦争に全力を投入することとなる。 嶺山の陣 750年、帝国軍上層部( 幕府 と称される)は集結しつつある全軍を三手に分け、山防方面から嶺狭を攻撃する嶺狭方面軍、常陸中や濃前方面から能石を攻撃する能石方面軍、重賀や三勢方面から波島を攻撃する波島方面軍が編制された。それぞれの方面軍大将には鎮北将軍、鎮西将軍、鎮東将軍の位が与えられ、右藤吉胤・藪上邦茂・衛昌晃の三人が将軍職を拝命した。また、内政統治に忙しい皇帝に代わり、継続して集中的に全軍を指揮できる階位として 征夷大将軍 の位が新設され、大鳥井重輝が大将軍位に就いた。征夷大将軍は幕府のトップであり、軍政・軍略面に関して非常に大きな権限を有していた。 同年十二月、にらみ合いを破り、帝国軍が嶺の勢力範囲に進出するも、後嶺軍は地の利を最大に活かしてこれらを撃退。何度目かの侵攻失敗に際し、一度鈴鹿に帰っていた芳隆から(激励のつもりで)視察を行うという報告を受けた重輝は、皇帝の到着までになんとかして後嶺を攻め滅ぼさないといけないと焦り始め、ついには自身が陣頭指揮を執ると宣言。機動力を重視し、重装備で移動速度の遅い近衛兵の護衛を付けずに出撃するも、後嶺軍伏兵の挟撃に遭い討ち死にを遂げる。後任には木菱宜之が着任した。 木菱はこの時数え年で76歳という高齢であったが、十三国時代を淡海の王として生き抜いてきたその老練的な手腕は衰えを知らず、的確に軍を動かすことで後嶺軍を徐々に後退させた。752年4月、能石を制圧したことで嶺狭・波島で後嶺が分断されてしまい、「帝国内での自治を認めてくれないなら戦うまで」という消極的主戦論を唱える嶺狭の後嶺( 西嶺 )と「帝国の首都・鈴鹿のある三勢まであと少し、攻め込めば勝てる」という積極的主戦論を唱える波島の嶺( 東嶺 )の二つに分かれた。東嶺がこのような主張をしたのは、東嶺の成り立ちとして、もともとは開戦時に嶺本土から出撃して波島を占拠した遠征軍が主体となって統治する軍事国家であったからで、冷静な判断を下せず血の気が盛んだったことによる。東嶺はもとより、瑞洲の中央政権による統一を目指す芳隆としては西嶺の主張も受け入れるわけにはいかず、結局は二つを相手にし戦うこととなってしまった。翌年、三勢から出撃した皇帝近衛軍と鎮東将軍の軍勢の挟撃にあい東嶺は滅亡。残る西嶺もよく抵抗したものの、760年までには降伏した。 8世紀から9世紀にかけて、戦乱に巻き込まれた地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の貴族(公家と呼ばれる)を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く平沢氏と熊谷氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長した。また、武士団の成長に伴い、本来は戦時にのみ設置される最高司令部である幕府が常設となり、そして軍事だけではなく政治にも干渉するようになる。 八重尾朝瑞洲 八重尾伸隆(740~749) 八重尾芳隆(750~758) 八重尾正隆(759~774) 八重尾憲隆(775~812) 八重尾忠隆(813~839) 八重尾朝の幕府 征夷大将軍を最高指揮官とする、帝国軍の最高司令部。748年、八重尾伸隆による第一次北半島戦役の直前の軍制改革によって制度化された。外征時に設置される外征型幕府と、文官(公家)からの出向者が構成人員の多数を占め、平常時の軍政・軍略を司る近衛型幕府の二つに類別される。当初は外征型幕府が非常時に設置されていたが、次第に外征型幕府は常設組織となり、そして近衛型幕府へとシフトしていった。 大鳥居幕府(748~750、外征型):半島征伐のために開かれた司令部で、当初の最高指揮官は鎮西将軍であった。嶺山の陣での制度の変更により、最高指揮官は征夷大将軍となった。 大鳥井重輝(748~750) 木菱幕府(751~762、外征型):大鳥居重輝の討死後、大鳥居家には征夷大将軍になれる人材がいなかったため、後任として着任した木菱宜之によって開かれた。 木菱宜之(751~753) 木菱克之(754~762):西大嶺の降伏後、戦後処理および東大嶺残党の討伐も担当。 木菱頼之(763~774):主君の死に伴って殉死。 木菱輝之(775~780) 第一次奥谷幕府(781~790、近衛型) 奥谷義光(781~785) 奥谷英光(786~790) 神戸幕府(791~793、近衛型):793年、久間田の変によってクーデター計画が発覚。幕府構成人員全員が厳罰を受ける。 神戸克利(791~793):クーデター計画発覚後、八重尾憲隆によって謀殺される。また、神戸氏は族滅となった。 第二次奥谷幕府(794~810、近衛型) 奥谷忠光(794~802) 奥谷儀光(803~810) 平沢幕府(811~825、近衛型):平沢氏は元をたどれば名門・城氏の分家である。 平沢清彦(811~816) 平沢裕彦(817~822) 平沢重彦(823~825) 熊谷幕府(826~839、近衛型→外征型):熊谷氏も元をたどれば名門・衛氏の分家であり、また皇帝家である八重尾氏の血も入っていた。 熊谷博秋(826~829) 熊谷頼秋(830~839) 沢谷合戦 沢谷合戦期(たくこくがっせんき)とは、武家の二強として成長した平沢氏と熊谷氏による対立、戦乱の時代である。八重尾朝の皇帝・忠隆帝が後継者決めに腐心している最中に亡くなってしまったため、忠隆帝の弟である清隆を推す平沢氏( 能石平沢家 )と、忠隆帝の側室が産んだ年少の遺児、徳千代を推す熊谷氏( 参河熊谷家 )で対立が勃発した。その対立は次第に軍事的な衝突となっていき、統一国家・八重尾朝は瓦解してしまった。 戦乱は150年以上にも及び、当然の帰結として後継者たちもみんな死んでしまって、沢谷合戦は後継者決めの戦争から平沢氏・熊谷氏の権力闘争という構図に変化してしまっていた。1001年、鉢伏山の戦いで平沢氏が滅ぶと、名実ともに熊谷氏が瑞洲のトップの座に就いたが、当主である辰秋は旧皇帝家に遠慮したのか、自ら新たな王朝を開くようなことはせず、あくまで幕府(征夷大将軍)による支配体制を確立しようとした。それに不満を持った筆頭家臣・小井戸正嗣は、賛同する者を集め熊谷家を脱け出し、自領である北半島を拠点に僭称小井戸幕府を開き、ついで 井 (しょう)の建国を宣言する。 封建制 10世紀から12世紀にかけて、旧来の皇帝を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、武士の熊谷氏や小井戸氏が実権を掌握する武家政権が保守的貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した。この体制はしばらく続いた( 東西朝時代 )。 豊川幕府 豊川幕府 Toyokawa Shogunate 首都 豊川(参河州豊川市) 公用語 瑞州語 将軍 1001年 - 1015年 熊谷辰秋 1138年 - 1153年 熊谷利秋 成立 1001年 別称 熊谷幕府 東の政権・豊川幕府は、参河国・豊川を首都とし、封建制を採用した。幕府と名乗ってはいるが、国内の一部や海外の研究者たちからは王朝国家と同一視されている。 豊川幕府 熊谷辰秋(1001~1015) 熊谷光秋(1016~1036) 熊谷康秋(1037~1059) 熊谷邦秋(1060~1103) 熊谷昌秋(1104~1137) 熊谷利秋(1138~1153) 小井戸朝井 小井戸朝 Oido dynasty 首都 上越(越野州上越市) 公用語 瑞州語 皇帝 1003年 - 1018年 小井戸正嗣 1172年 - 1175年 小井戸信寛 建国 1003年 別称 井、瑞洲 国姓 小井戸 北半島を拠点とした西の王朝・井は、首都を越野国・上越と定め、郡県制を採用した。 小井戸朝井 小井戸正嗣(1003~1018) 小井戸正公(1019~1031) 小井戸正信(1032~1057) 小井戸俊康(1058~1078) 小井戸宗俊(1079~1085) 小井戸武嗣(1086~1121) 小井戸正洋(1122~1144) 小井戸崇洋(1145~1162) 小井戸崇宗(1162~1171) 小井戸信寛(1172~1175) 1153年に熊谷幕府を滅亡させた崇洋帝は、自身が保守的貴族勢力と結託し、古代の皇帝政に回帰する改革を行った。ここに統一国家・ 小井戸朝井 (小井戸朝瑞洲)の統治が完成したものの、小井戸朝の力は崇洋帝以降だんだんと衰えていき、ついには 柿崎川の変 で信寛帝が重臣の外所貴彰に暗殺され、外戚の保坂康義に乗っ取られる事態となった。 保坂朝井 保坂朝 Hosaka dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1175年 - 1189年 保坂康義 1385年 - 1389年 保坂康正 建国 1175年 別称 井、瑞洲 国姓 保坂 柿崎川の変後、保坂康義が外所貴彰を 鳥屋野潟の戦い で討ち取り、実権を掌握。自らが帝位に就いた。 保坂朝井 である。康義帝は首都を自らの直轄地であった近海州の一部地域におき、その地域を「京」と改称した。現在の瑞京である。また、小井戸朝とは異なり、封建制を採用した。 保坂朝井 保坂康義(1175~1189) 保坂康武(1190~1211) 保坂秀亘(1212~1254) 保坂泰盛(1255~1274) 保坂康清(1275~1309) 保坂俊高(1310~1317) 保坂政義(1318~1344) 保坂重義(1345~1367) 保坂和良(1368~1377):最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 を引き起こす。 保坂正二郎(1378~1379):和良の遺児であるが、二条の乱に敗れて戦死。 (空白期間) 保坂康正(1385~1389):一良の弟。二条の乱には勝利するも、 稲沢の変 で重臣に謀殺される。 保坂朝は9代目・和良が最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 が勃発する。和良の遺児である正二郎はまだ3歳であったため、和良の弟である康正を推す重臣・相野田重浩と、正二郎を推す屋宜正芳の間で意見が割れたためである。二条の乱は当初屋宜軍が優勢であり、正二郎は一度は正式に帝位に就くが、戦局はだんだんと悪化し、1379年、陣中にいたところをスパイ(間者)によって暗殺される。流石に非道な戦い方であると、勝ったはずの康正・相野田軍の元から離反者が続発し、京を守る屋宜軍を攻め落とし帝位に就くまでに結局5年弱掛かってしまった。ともあれ康正は念願の帝位に就いたわけであるが、4年後には重臣の裏切りに遭い謀殺されてしまう( 稲沢の変 )。 皇帝の不在では国内がまとまらないと考えた保坂朝家臣団は、臣籍降下し御宿氏を開いていた和良の五男・直隆を保坂家に呼び戻し皇帝に就かせようと画策するものの、直隆はその意に従うと見せかけ、帝位に就いた途端側近を御宿家家臣で固めてしまう。ここに保坂朝の遺臣は、国内に混乱をもたらしたとして全員が追放または処刑された(御宿の変)。直隆は井の国号を廃止し、かつての瑞洲国号を復活させた。 御宿朝瑞洲 の建国である。 御宿朝瑞洲 御宿朝 Mishuku dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1391年 - 1399年 御宿直隆 1449年 - 1453年 御宿尚徳 建国 1391年 別称 瑞洲 国姓 御宿 御宿直隆(1391~1399) 御宿仁隆(1400~1414) 御宿正隆(1415~1427) 御宿有隆(1428~1432) 御宿知徳(1433~1440) 御宿克徳(1441~1448) 御宿尚徳(1449~1453) 14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、政争による皇帝政権の衰退を決定機として15世紀後半頃から僭称大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ( 僭称戦国時代 )。この僭称戦国大名たちは、もともとは封建制によって各地を領有した武家であり、その武力を背景に、自国こそが正統な統一国家であることを主張した。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がった。この激動の中で皇帝家である御宿家は、僭称大名である下坂直孝によって1453年に滅亡した(下坂大逆事件)。当時の皇帝であった尚徳帝はまだ7歳であり、補佐すべきである公家たちは誰が実権を握るか抗争しており、腐敗していた皇帝政権に見切りをつけた下坂によって周りの公家ともども皇帝は打ち倒されてしまったのである。尚徳帝は自害に追い込まれた。最終盤では権力はほぼ無きに等しい状態であったものの、皇帝家というストッパーを失った瑞洲国内ではますます戦乱が拡大し、16世紀末に古海武利によって瑞洲の統一政権( 笠置幕府もしくは古海幕府 )が樹立されるに至り、近世へと移行した。 僭称大名家・僭称王家 なお、地域名はあくまでおおよその目安である。 + ... 西海地方 黒河朝 西宮朝 藤朝 仲朝 河邊朝 野木朝 大野木朝 渉朝 北橘 北西地方 常盤幕府 蝦名朝 茨城朝 小谷朝 中屋敷氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 西海枝朝 秦野幕府 鳴神朝 東海地方 間崎朝後嶺 後八重尾朝 三勢氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。自領は本家である古海氏の飛び地領であると認識していたようで、本家筋に配慮していたと思われる。後に古海幕府の支配中枢へと組み入れられる。 後鳳:嶋海国答志郡付近にあった、土着の武士層による一揆によって成立した国。今でいう選挙王政を採用。 波島朝 名張幕府 関崎朝 都甲朝 中央地方 後涼 鷲巣朝後衛 垣谷朝 吹上朝 大芝朝 古海幕府 射鷲朝 愛知氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 笠置幕府 前史 古海氏 設楽古海家:主流で、設楽家とも称される。自分たちでもその名乗りを使っていたようであり、古海武清が「設楽武清」と記名した書状が現在でも残っている。 八名古海家:八名家とも称される。 額田古海家:額田家とも称される。 渥美古海家:渥美家とも称される。 碧海古海家:碧海家とも称される。 三勢古海家:本司名氏から改名した頃に分家し、三勢国に土着し三勢氏・三勢家を名乗った。 大名家の中でも、御宿家や保坂家、小井戸家の生き残りを王に戴いて、大名自体は幕府を開き実権を握るという場合や、先祖に将軍家があると主張し、将軍家の復活を期して幕府を再興させる場合があった。後者の最もたる例は古海氏である。古海家の系図を辿ると、11世紀から12世紀の東西朝時代に幕府を開き、瑞洲東部を支配した熊谷氏にまで遡ることができる。また、井王朝に滅ぼされた熊谷利秋以降、征夷大将軍の位は誰にも与えられていないことから、戦国大名となった古海氏は後裔である自らも征夷大将軍の官位を引き継ぐことが可能と主張し、1510年頃から時の当主によって征夷大将軍を自称するようになる。誤解されがちであるが、この頃には既に「官位を授与する目上の存在」は国内に消失しており、古海氏や他の氏族が将軍家と名乗っても(王家の自称と同様)それは自称に過ぎず、意味を為さないものであった。しかしながら古海氏が勢力を伸ばすと、その実力を背景とした「自称」は外部からきちんと認められるものになり、また古海氏に官位の認定権が生じることとなった。こうして、後の幕府を支えていくこととなる、将軍家をトップとした官位体制が確立した。 古海氏は、元は熊谷氏の傍流であり、熊谷幕府時代には本司名氏(もとしなし)を名乗る幕臣の立場にあった。熊谷氏の本拠地であった参河国内に領地を有していたものの、国境の設楽郡などを有するにとどまり、あまり表舞台には立たない一族であった。しかし、その後の小井戸朝や保坂朝時代を巧みに生き抜き、15世紀まで家名を存続させていた。1512年、若くして設楽古海家の当主となった古海武清は、先祖が将軍家であり、後任者がいなくなったが故に、自らも将軍となる権利があるとして征夷大将軍を自称。その天才的な内政手腕と軍事能力を以て他国を次々と屈服させ、参河・紀山・嶋海を制した。武清は親戚一同をまとめ上げる能力にも秀でていたようであり、効果的に軍を動かし戦国の覇者となるために、それまで直接指揮を行っていた古海軍を方面ごとに分け、方面軍司令官には八名・額田・渥美・碧海の各家の当主(幼少の場合は代理)を据えた。しかし1534年、参河国豊邦において、些細な出来事で恨みを持った家臣・新岡信久に暗殺されてしまった( 豊邦の変 )。新岡は逃亡したものの、父親暗殺の報を受けた武清の嫡男・正武が参河国内に非常線を張り、あえなく捕縛、処刑された。 古海氏当主の座は正武が継ぎ、父親の方針を引き継いで対外領土拡大政策を採った。正武は非常に開明的な思想を持っていたようで、嶋海国の港が支配下にあるのをいいことに、重臣・浦谷重成を正使として欧州へ使節を送り、膨大な知識を入手した( 浦谷遣欧使節団 )。この使節団には欧州の見分や知識の入手以外にも外交交渉の使命があったようだが、不発に終わったようである。正武は静駿・筑紫・薩摩を平定している最中にも欧州の研究を行っており、家臣団ともども欧州の優れた軍略に驚き、自国に適合するように取り入れることを計画。この軍制・戦略改革は成功し、古海軍は瑞洲や欧州のいずれの戦略にも似ることのない、独自の軍制度を確立。精強無比の強さを誇る最強の軍へと変貌した。よく訓練され、優れた指揮官に率いられた古海軍は連戦に連勝を重ね、1587年に正武が病没する頃には尾治以南の南瑞洲や三勢国を支配下においていた。 前期笠置時代 笠置幕府 Kasagi Shogunate 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 将軍 1599年 - 1617年 古海武利 成立 1599年 別称 古海幕府 正武の病没後、家督は嫡男の次男・英武が継いだ。英武も父と同じく領土拡大政策を採り、間崎朝後嶺や後八重尾朝、鳴神朝と言った名門大名家を撃破し、1597年には北海半島以外のほぼ全土を掌握していた。しかし戦ばかりに明け暮れ、正室さえ取らなかった英武には当然として嫡子が無く、1598年に英武が膵臓癌(と思われる症状)で没すると後継者問題が急浮上する。 後継者問題で倒れた王朝はこれまでにも数多くあったため、重臣団は平和裏に後継者を確定することを誓った。会議の結果、碧海家に養子として出されていた英武の異母弟・碧海武利を設楽家に呼び戻すことで一致。武利はこれを快諾し、1599年に征夷大将軍への就任の儀を執り行い、政庁を京の笠置町に置いた。これを以って笠置幕府が正式に成立したと見做される。 中期笠置時代 後期笠置時代 19世紀中ごろに入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「瑞洲」・「瑞洲人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「瑞州」・「瑞州人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として革命戦争以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。また、この時期から瑞洲の「洲」の文字が、書き換え字である「州」に変わっていった。以前より「瑞州」表記は散発的に確認されていたが、時代の流れとして「瑞州」表記に置き換わっていったのはこの時代が初めてである。 共和制への移行 古海幕府は20代・275年もの治世を保っていたが、欧米列強からの文化流入や機械技術の伝授に加え、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えが輸入されると、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じたのか、20代将軍・古海武広は「共和制瑞州」の構想を諸邦の首長たちに伝え、共和制瑞州の発展を願いながら、1775年に幕府の幕を自ら下し(市民政治還元)、臨時連邦政府が形作られ、共和制瑞州が本格的に始動するための準備を始めた。しかし共和制瑞州構想で触れられた、共和制のトップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、参河・岡豆以東9州が 南瑞州共和連合 として蜂起した(1776蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主を話し合いで決めるものの、決まった後は政治のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。その為、瑞州全土から希望者を募って大統領決めを行うまでは合議制として、南瑞州共和連合は明確なリーダーを定めなかった。一方、北西地域の首長たちは共和制・大統領制を正しく理解したのに加え、瑞州の風土では連邦制の導入が相応しいとし、諸邦を「州(シュウ)」として再編。また、1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)を行い、思想面での建国の父と呼べる古海武広を大統領に据えた。古海は諸州規約を制定し、国号を「 瑞州合衆国連邦 」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織。自分を総司令官、部下の武官を各方面軍司令官のポストに据え、南瑞州共和連合との全面対決に進んでいった。 東西戦争 開戦 十数年に渡る緊張関係の末、1791年に 東西戦争 (革命戦争、Zuish Civil War)が開戦。この戦争では瑞州史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。4月12日に東軍(共和連合軍)が西軍(合衆国軍)の前線基地(紀山-参河州境)である孝子峠の要塞を砲撃して戦端が開かれた(孝子峠要塞の戦い)。古海は合衆国に残ったすべての州に孝子峠要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。 4月19日には古海が東部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸から太平洋岸までにわたり、東部経済を締め付けていった。この海上封鎖を解かんと、共和連合海軍による散発的な攻撃や砲撃が合衆国海軍に向け行われたが、いずれにおいても封鎖を解くことはできなかった。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 孝子峠要塞の戦い 4月12日 紀山州 東軍 洞海湾砲戦 4月19日 筑紫州 西軍 葦毛湿原の戦い 4月19日-21日 参河州 西軍 西部戦線 東西戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては西海岸の西部戦線と、中央山脈以西の東部戦線とに大別することができる。そして、東西戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは西部戦線の方だった。これは、首都である瑞京が存在する西海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、西部の中心都市の磐田市・東部の中心都市の御陵下市のどちらもが西海岸側に位置していたためである。さらに、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。また、共和連合と合衆国連邦どちらも瑞京を首都として定義し、自然と両軍ともに相手の中心都市や瑞京をめざし進撃することが多かった。こうして、西部戦線(特に瑞京付近)で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。 孝子峠要塞の戦い以後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。古海大統領は反乱軍を抑えるために7万を超えるの志願兵の召集を命令した。発足したばかりの陸軍には、十分な戦力といえるのは16000名の兵士程度しかいなかったのだ。陸軍は旧幕府軍からの古参兵である年長の玉田克己中将に指揮されていた。共和連合の方は、一握りの旧幕府軍士官と兵士、そしてかつての民兵団の一部が東軍に加わった。東軍の体系は各州によって整えられた。しかし、強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の東軍の弱みの一つであった。 東部戦線 西部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争後半では西部との連携が重要な課題となった。 西部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、東部戦線よりかなり多くの注目を集めていた。これはその対立する両軍の主要都市が近く西部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、西部で名声を博した人物がいたからでもある。このために西軍が東部で東軍を叩き、東部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 孝子峠要塞の戦い後、紀山州から出撃した梶原和弘少将率いる西軍(紀山軍)は紀山と参河の州境である孝子峠要塞の奪還、及び弓張山地の突破を目指しており、第一次参河方面打通作戦を発動するに至った。すでに弓張山地の葦毛湿原を占領していた紀山州軍は、勢いそのままに孝子峠要塞の周辺にあり、東軍(参河軍)の兵站ルートの経由地点であった竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞に攻め寄せ、これを陥落させた。 竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞で撃破され、後退する東軍を押しとどめたのは米川啓之将軍率いる援軍であった。米川は旧幕府軍の陸軍歩兵奉行(少将クラス)であり、作戦指揮に精通していた。撤退してきた東軍と援軍とを合わせ、指揮系統がボロボロになっていた参河軍を再編し、的場峠に築かれた防衛ラインを用いて的確な防衛線を行った(的場の戦い)。西軍はこの堅固な防衛ラインを突破できず攻めあぐね、かといって引くわけにもいかず、自軍も防衛ラインを構築し相手の攻撃に備えた。的場の戦いにおいて、結局両軍は散発的な戦闘を五か月も繰り返したが、どちらも防衛ラインを突破するわけでもなく、結果として梶原が他地域の援軍に紀山軍を回すために撤退し、引き分けに終わっている。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 第一次参河打通作戦 竜ヶ岩洞砦の戦い 4月25日-26日 参河州 西軍 第一次石巻山要塞の戦い 4月31日-5月2日 参河州 西軍 的場の戦い 5月15日-10月14日 参河州 引き分け 第二次石巻山要塞の戦い 6月24日-25日 参河州 西軍 防衛ラインの隙をついて東軍が石巻山の奪還に乗り出し、奇襲攻撃を行ったが、西軍が防衛に成功。 終戦 1795年に東西戦争は合衆国の勝利で終結し、静駿講和条約が結ばれ、共和連合は解体された。しかし、南瑞州共和連合が、不勉強の勘違いによって蜂起した国家であったことから「南瑞州人は無知、無学」という偏見が生まれ、南東地域に対する地域差別はその後も続くことになる。 1797年12月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1799年6月4日に発効され、同年に「やることは全て終えた」と古海は6選もした(というよりあまりにも古海が人気であり、市民が大統領選をボイコットした)大統領職を辞すが、結局は第8回大統領選(ボイコットにより第2回~第7回は『失われた選挙戦』となった)でまた担がれ、78歳の高齢で大統領に当選した。これより高齢の大統領はこの後には生まれていない。 瑞州は、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代のの共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。 帝国主義 先述した通り、大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ち、政権の交代にも(曲がりなりにも)成功したことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識、そして愛国心のさらなる醸成をもたらした。 瑞州内戦
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戦国史二章・第三話「本能寺の変」 戦国史二章・第三話「本能寺の変」あらすじ 戦況(解説者 森蘭丸) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス あらすじ 手取川にて上杉に大敗した信長だったが、 謙信病没の後、態勢を整え、 再びその勢いを取り戻した。 北陸に柴田勝家や前田利家、 近畿に明智光秀、中国に羽柴秀吉、などと 重臣を各地に派遣、天下布武を推し進める。 自身も天目山に武田勝頼を滅ぼし、 信長の勢いの前に、 天下統一は時間の問題であった。 その途、 毛利と戦う秀吉から援軍要請を受けた信長は 先発の援軍として光秀に出陣を指示。 自らも後発の援兵を率いるべく、 居城・安土城を発ち、京・本能寺に移る。 その時が、近づいていた。 戦況(解説者 森蘭丸) 光秀様ご謀反! 本能寺は囲まれています! 蘭が火を放ち、時間を稼ぎます。 信長様、その間にお逃げください! 信長様はここより、西へ抜け、 本堂裏門にいる斎藤利三と四王天政孝を倒し 先へ抜けてください。 そして、御牧兼顕を討ち、 表門広場へと向かってください。 時間がありません。なにとぞお急ぎを! 光秀様は…本気です。 信長様、どうぞご武運を! 勝敗条件 勝利条件 織田信長の表門広場への到達↓明智光秀の撃破 敗北条件 織田信長の敗走 武将データ 織田軍 備考 明智軍 獲得 備考 織田信長 総大将撃破効果No.2発動で効果あり 明智光秀 なし 総大将 濃姫 敗走時に討死一定距離に近づくと自動的に敗走 長宗我部元親 装備品 撃破効果No.3発動で効果ありミッションNo.5の撃破対象 森蘭丸 明智秀満 巻物 ミッションNo.4の撃破対象 織田信忠 斎藤利三 装備品 撃破効果No.1発動で効果ありミッションNo.2の撃破対象 織田信雄 明智茂朝 装備品 村井貞勝 安田国継 素材 ミッションNo.4の撃破対象 毛利良勝 明智光忠 素材 福富秀勝 四王天政孝 装備品 撃破効果No.1の撃破対象 菅屋長頼 谷忠澄 装備品 賀藤辰 福留儀重 巻物 撃破効果No.4の撃破対象 矢代勝介 桑名吉成 巻物 新武将 プレイヤー 妻木広忠 素材 津田信春 素材 撃破効果No.2の撃破対象 御牧兼顕 素材 ミッションNo.3の撃破対象 イベント ステージ開始直後に明智軍全軍が進軍開始。森蘭丸が本堂に火を放つ。直後、ミッションNo.1発生。 西のお堂に侵入すると伏兵の隠密頭出現、中央の庭園に侵入すると伏兵の鉄砲兵長出現。 基本的にはいずれか一方が出現する。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 織田信長を表門広場まで護衛せよ! 達成後、明智軍兵士が多数出現勝利条件変更表門広場東門と表門広場北門が開門 No.2 1分以内に斎藤利三を撃破せよ! 達成後、第五のお堂南門が開門 No.3 御牧兼顕を撃破せよ! 達成後、表門広場西門が開門 No.4 安田国継と明智秀満の合流を阻止せよ! 終了後、第一のお堂西門が開門西のお堂侵入後、明智軍の隠密頭が多数出現西門通過後、明智軍の鉄砲兵長が多数出現合流阻止に失敗すると双方の伏兵が出現する No.5 長宗我部元親を撃破せよ! 発生時、第三のお堂南門が開門達成後、第三のお堂がすべて開門 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 騎乗状態で四王天政孝を撃破 斎藤利三の防御力が一定時間低下 No.2 織田軍の詰所の数が10以上の状態で津田信春を撃破 織田信長の体力が回復 No.3 コンボ数が200以上で詰所頭を撃破 長宗我部元親の攻撃力が一定時間低下 No.4 開始から8分以内に福留儀重を撃破 武器を獲得 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 大盛御飯 黒漆太刀 当世具足 戦草鞋 霊鏡 荒御魂 参 団子 戦草鞋 戦草鞋 荒御魂 秘伝之書 金印 攻略アドバイス 制限時間は15分。しかも火災により体力が徐々に減少していく。(境内以外では減少しない) いかにスピーディかつ確実に、 ミッション・撃破効果を達成できるかが鍵となっている。 ミッションNo.1達成が遅れると、 撃破効果No.4はおろかシナリオクリアすら難しくなるので、 道中の敵は確実に倒しておくようにしよう。 なお、忍者武将なら忍びの道を通り、 ミッションNo.1達成前に撃破効果No.4をこなせる。 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 長篠の戦い 手取川の戦い 本能寺の変 山崎の戦い 賤ヶ岳の戦い
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立花宗茂の章・第三話「大津城の戦い」 立花宗茂の章・第三話「大津城の戦い」あらすじ 戦況(解説者 島津義弘) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 あらすじ 宗茂らの活躍で秀吉は北条を下し、 天下統一を成し遂げた。 だが、秀吉は病没し、 世は再び乱れ始めた。 新しき世を築こうとする徳川家康と 秀吉の世を守ろうとする 石田三成が対立。 ついに日本を二分した戦いとなった。 来たる決戦に備えて、 敵の戦意を挫くべく 三成の軍師・島左近は、 大津城攻めを提案する。 攻撃軍には、 立花宗茂、島津義弘たち 西国の猛将が選ばれた。 戦況(解説者 島津義弘) 我らが西軍の総大将・毛利輝元指揮の下、 これより、東軍の将・京極高次が守る 大津城を攻略する。 わしが中央砦を抑える。 坊ちゃんは、付近の敵部隊を殲滅してくれ。 中央砦を突破したら、次は大津城だ。 大津城南門には、徳川の重臣・榊原康政と 本多正信が待ち構えておるぞ。 物見によると、あの東国無双の本多忠勝が 敵援軍として近づいてきておるらしい。 楽しくなってきたな、坊ちゃん。 勝敗条件 勝利条件 本多忠勝の撃破 敗北条件 毛利輝元の敗走 武将データ 西軍 備考 東軍 獲得 備考 毛利輝元 総大将 京極高次 装備品 ミッションNo.5開始時進軍開始 島津義弘 赤尾伊豆守 巻物 撃破効果No.3の撃破対象 立花宗茂 プレイヤー 安養寺氏種 素材 撃破効果No.4の撃破対象 島左近 京極高知 素材 小早川秀包 黒田伊豫 素材 撃破効果No.1の撃破対象 毛利元康 撃破効果No.4発動で出現 山田大炊 巻物 筑紫広門 井伊直政 素材 本多正信 装備品 撃破効果No.1発動で効果ありミッションNo.2の撃破対象 榊原康政 素材 雑賀孫市 装備品 ミッションNo.3達成後出現ミッションNo.4の撃破対象 鉄砲兵長×3 なし 守備頭 なし ミッションNo.3達成後出現撃破時、大津城南門が開門 本多忠勝 なし 総大将ミッションNo.4達成後出現 黒田官兵衛 装備品 ミッションNo.4達成後出現ミッションNo.5の撃破対象 栗山利安 素材 ミッションNo.4達成後出現 母里太兵衛 素材 浅野幸長 巻物 大野治長 素材 金森長近 素材 筒井定次 素材 松平忠明 素材 伊達政宗 装備品 ミッションNo.5終了後出現 イベント シナリオ開始直後、ムービー「約束」が流れる。 残り武将3名の時点で、本多忠勝が進軍開始。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 中央砦制圧のため、4分以内に200人撃破せよ! No.2 大津城南門を突破するため、榊原康政と本多正信を撃破せよ! 達成後、大津城南門が開門 No.3 大津城二階へ侵入せよ! 達成後、大津城南門が閉門城内に伏兵の雑賀衆が出現 No.4 大津城から脱出するため、雑賀孫市と鉄砲兵長をすべて撃破せよ! 達成後、東軍の増援部隊が出現大津城がすべて開門 No.5 黒田官兵衛が西軍本陣に到達する前に、黒田官兵衛を撃破せよ! 発生時、島左近が黒田官兵衛へ進軍開始島津義弘が本多忠勝へ進軍開始終了後、伊達政宗が出現し、西軍本陣へ進軍開始 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 開始から3分以内に黒田伊豫を撃破 榊原康政と本多正信の体力が低下 No.2 コンボ数が200以上で詰所頭を撃破 石高を獲得 No.3 体力最大の状態で赤尾伊豆守を撃破 武器を獲得 No.4 開始から5分以内に安養寺氏種を撃破 西軍本陣防衛のため、毛利元康と筑紫広門が中央詰所付近に出現 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 団子 団子 大盛御飯 当世具足 秘伝之書 蛭巻小太刀 参 戦草鞋 霊鏡 秘伝之書 幻朧時計 兵糧丸 変化宝珠 攻略アドバイス ミッションNo.1~3の時点で、大津城外部の武将を出来れば全滅させておきたい。 大津城外に脱出後は、東門から黒田官兵衛を追撃するといいだろう。 ☆猛将伝&Zの変更点 ☆第2レア武器獲得ステージ。→第2レア武器獲得のポイントを見る 無双演武一覧 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 九州征伐 小田原討伐 大津城の戦い 関ヶ原の戦い 三方ヶ原決戦
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Pale Eagle (詳細・ネタバレ編) ガルカ、4a(黒髪)、通常配置無し 共和国防会議の議長を務める国政の重臣。 ガルカの民を従えて内乱を起こす噂が起きているが……? 過去世界のバストゥークで起きるクエスト冒頭では、イメージ映像であり、直接登場しない。 過去バストゥーククエストの最初の頃に、露骨な悪役として登場するペイル・イーグル。しかしこれは彼と敵対するWerner軍務大臣らからの情報であり、更に言うとヒューム達の一方的な脚色でもあるといえる。3/11/08 で実際に登場したペイル・イーグルは、それとは全く別の雰囲気を持つ人物だった。 内乱を企てるバストゥークの脅威?(アルタナの神兵) 過去世界で起きる、バストゥークの歴史上の出来事や内情が垣間見える連続クエストで登場するペイル・イーグル。冒険者(プレイヤー)は成り行き上Werner軍務大臣に「裏の取引」の関係者と思われ、いろいろと政府の内情を彼視点で聞かされることになる。 その中で「最大の脅威」のように扱われているのがこのペイル・イーグルである。彼は、Werner大臣と対立する立場にある議長のようだ。なお、実際に二人の関係について詳細を教えてくれるのは仲介人のEngelhartだ。 Engelhart ペイルイーグルはプリーン大統領に重用され、共和国防会議の議長を務める国政の重臣……戦略方針をめぐってベルナー軍務大臣と対立することも、しばしばだ。なにを企んでいるのかわからんが、ペイルイーグル議長の動きには要注意だな。 あくまでWerner大臣ら視点なので、極悪人面で登場している。 Engelhart 実はガルカの民の一部が不穏な動きを……いや、はっきり言おう。内乱を企てているらしいのだ。裏で糸を引いているのは共和国防会議のペイルイーグル議長らしい。……知ってるかもしれんが先の選挙戦で、プリーン大統領は生活向上と教育制度の改革を訴えて当選しただろう。しかし、戦争勃発により公約の実行が遅れ、選挙で大統領を支持したガルカの民の不平が増している。議長は血盟軍侵入の混乱とガルカの民の不満に乗じて政権を転覆しようとしているらしいのだ。議長は軍団長時代、「グロウベルグの荒鷲」と呼ばれた猛将。議長を支持する将兵が内乱に加われば、共和国の崩壊は避けられない……!……だが、幸いベルナー軍務大臣が、議長に先んじて着々と手を打っておられる。そう、今回のお前の仕事は内乱を未然に防ぐため、とある情報の裏づけをとることだ。議長は、ガルカの民の長老ウェライとその同居人グンパに接触しているらしい。 重要なポストを担う者同士、情報交換も実際必要なものである。 このWereiとGumbahの身元を確認してほしいとの依頼があり、冒険者は彼らがよく訪れるグロウベルグへ調査に赴き、それが原因で二人は大量の武器を所持していた事が判明し、一時身柄を拘束されることになる。 そしてこれらの武器は、使い物にならない程古びた武器防具であった事が判明する。実はグロウベルグに隠されていたこれらの品々は、ガルカ族の遺産であり、アルテパからアンティカの脅威を逃れてバストゥークへと逃げた際に使われたものだったのだ。それぞれが遺品だったり思い出の品であったり、ガルカたちにとっては掛け替えの無い歴史の一部だった。使用不可能の武器では謀反も不可能ということで、二人は無実となり、釈放される。 しかしその調査中にWerner大臣は密室の中で暗殺された。それが密室であったこと、現場の状況があまりに不自然だったことでミスリル銃士隊がその解明に乗り出した。そして、真っ先に疑われる立場にあるのは、元々対立が多かったこのペイル・イーグル議長である。 明かされた対立の理由、そして…… Werner大臣殺人事件の一環で、冒険者とミスリル銃士隊は彼が生前「秘密裏に密通していた可能性がある」傭兵集団を追った。冒険者に依頼して入手したはずのシフートが、彼の部屋に無かったのだ。このシフートとは本来アンティカとの意思疎通の為に必要な道具、そもそもなぜWerner大臣がこれを欲しがっていたのか、そこから手掛かりを探していく寸法だった。 その結果、傭兵集団の関係者と思われるErnestineと、捕虜として捕らえられていたアンティカをエルディーム古墳で見つける事になった。ErnestineはWerner大臣の計画の一部を、冒険者と駆けつけたZeidとVolkerに明かした。そして彼の計画はペイル・イーグル、そしてPrien大統領にまで反対されていたものであり、つまりこれは大臣が独自に推し進めていたのだった。 大工房に戻り、Klara隊長に報告した二人。冒険者を外へと案内する際に出会ったのがペイル・イーグルとPrien大統領だった。古墳で聞いた一連をその場で聞こうとするVolkerにペイル・イーグルは驚きを隠せなかった。 Volker :大統領!……実はその件に関連して伺いたいことがございます。アンティカの兵士のことで…… Pale Eagle :……!大統領、ここは私が……。 ペイル・イーグルの表情を敏感に見抜いたZeidは、人ばらいの必要性を問う。政府の者じゃない冒険者が聞くには国家機密に触れると思ったものと推測される。 毅然とした態度で答える大統領。 Prien その必要はない。隠し立てするようなことは何もないぞ。 こうして、ペイル・イーグル議長と大統領、ミスリル銃士隊、そして冒険者は会議室に戻り、事の詳細をPrien大統領自らの言葉で聞く事になる。それは、バストゥークの港がサハギンにより急襲された直後にWerner軍務大臣が二人に持ちかけた案が発端だった。 士気は常に高く、圧倒的な兵数を誇り、死をも恐れない、獣人としても特殊な存在であるアンティカ。Werner軍務大臣は、これを利用しようと言い出したのだ。おそらくは彼らとのコミュニケーション手段となる「シフート」を使いアンティカを操り、人形のように扱って戦場へ投入するつもりのようだ。 画期的な計画ではあるが、それには問題点が多すぎた。 Pale Eagle ダメだ。あなたも知っているはずだ。ガルカの民の多くがアンティカに故郷を追われ、生命を落としたことを……。 Prien あなたの言うその技術を持ってすれば、実現不可能な話ではないのかもしれん。工房長の協力を得られれば、なおのことだ。しかし、仮にアンティカを自在に操ることができたとしても、何かの拍子に彼らを制御できなくなってしまったらどうするのだ? あなたの計画は、危険すぎる。 そう、その計画が成功する確率は100%ではないのだ。万が一失敗した時、敵を自軍に招き入れるも同然であり、その人数が多いほど被害も大きい。更にガルカ達にとってアンティカとは忌むべき存在だった。使用するだけで反感どころか暴動が起きてもおかしくないものである。それを押し切ってまで進めるにはリスクの高すぎる計画だった。二人とも、切り込み方は違うが言っている事は至極まともと思える。 それでも食い下がるWerner軍務大臣。 Werner軍務大臣はこれまでの敗戦をまくし立てるように述べた。グロウベルグ会戦での、第四共和軍団の壊滅。第三共和軍団の戦艦の軍港の再建もままならなかった。 Werner 大統領は、このまま手をこまねいているおつもりですか! Prien 軍務大臣。あなたの主張にも理がある。だが、考えてもみてほしい。仮にそんな計画の存在が明らかになれば、わが国の国力を担うガルカの民の……アンティカに故郷を追われた民の反発を抑えきれると思うのか? Werner 率直に申し上げます。この期に及んでガルカの民の顔色を伺うのですか?大統領。 Pale Eagle 軍務大臣! Werner 敵をただ恐れてばかりでは、戦局の打開は成りませんぞ。 こっちが、おそらくWerner軍務大臣の本音である。 この発言の「敵」とは一体何をさすのか。ともあれ、二人はこの案を却下し、事実上政府内では終わった話のはずだった。しかし、今回の一連で彼がその後も独断で計画を進めていたことが判ったのだ。新たな事実に、沈黙する一同。この一連は、ペイル・イーグルの真面目な姿勢、そしてPrien大統領と何かしら強い絆がある事を印象付けた。 しかしそこで事態は急転してしまう。Hrichter Karstが、その日発足したWerner軍務大臣の殺人事件に関する調査委員会によりペイル・イーグルが召集を要請されている報せを持ってきたのだ。 ちなみに、これが後の「プレジデント」である。 かつて冒険者が知らずにWerner軍務大臣からの仕事を請けていた頃に、見知らぬガルカに渡された手紙。「この件から手を引け」と書かれたその文筆が保安庁によりペイル・イーグルのものと一致したのだという。そしてその関与の確認をする為に実はミスリル銃士隊のNicolausも彼の秘書のもとを訪れていた。しかし、その身柄はすでに第二共和軍団の憲兵隊が拘束していた。まだ捜査中の情報であるのにやけに手際が早すぎると疑問を抱く一同。実はその調査委員会はWerner軍務大臣の支持者が多数いるのだ。いろいろ影に思惑があるのでは、と思わざるを得ない状況に納得いくものはその場には居なかった。しかし身の潔白を証明するためにもペイル・イーグルはHrichter Karstと同行し召集に応じると発言した。 Pale Eagle :大統領、ご心配はいりません。私は大丈夫です。 見守るPrien大統領にそう告げて、ペイル・イーグルは部屋を出て行った。 ペイル・イーグルの本名とは ペイル・イーグルが出て行くのをじっと見つめるPrien大統領はさりげなく重大な事をつぶやいている。 なお、実際の発音はグィルであり、現在は修正されているとの報告をウェブ拍手で頂いた。上の画像は実際のログからであり、ゲーム内での誤植であるのでこのまま残す。 おそらくガルカの本名と思われるこの「Gwill」。それをあえて使うヒュームは、基本的にそのガルカに対しての敬意を込める場合が多い気がする。そもそも、この時代でヒュームのつけた名前を普段使っているガルカの本名を知っているというのは、大統領と言えど、多くは無いのではないだろうか。少なくともこの場面を見ると、Prienとペイル・イーグルの間には只ならぬ絆を感じずにはいられない。 そして、この「Gwill」という名前がついているガルカ、実は現代にもいる。ここでそれを明言するのには、今後の予想がある程度固まってしまう気もするし、まだそれには危険な段階だと思うので、興味がある人はこちらを参照していただきたい。
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ロール・プレイング その3から オヤジ じいさん、天下の往来で、幾何学の証明なんてするな。流行ったら、どうする気だ? 古代アテネを襲った、プラトンの幾何学公害を知らねえのか? 暇にあかして自由民がこぞって砂浜に出かけて図形を描きまくったから、アテネ市街じゃ砂ぼこりで目を開けたれなかったんだぞ。 老人 言ってる事の半分は分からぬが、これを証明だと一見して見抜きおった。どこから来た? オヤジ ぶっちゃけ、こことは別の世界からだ。 老人 なるほど。 オヤジ いや、そこはつっこめ。話が続かん。 老人 ご客人、茶などどうかね? いろいろ話をしたいが、老人の相手は嫌かね? オヤジ 好きか嫌かでいえば、嫌だ。だが、今は選択肢を選んでる場合じゃなさそうだな。 老人 急いでいるのかの? オヤジ おれが、じゃなく、世界がな。 老人 さて、息災にみえるがの。 オヤジ おれには、あんたがそう思っているようには見えん。何者だ? 老人 さあ。この世界の外に思いを馳せる者、とでもしておこうか。 オヤジ そっちにゃ用がない。この世界については知らないのか? 老人 さて、どう答えればいいのか? オヤジ おれ達は、この世界で何をすればいいか、そいつを教えろ。 老人 そういう問いには一生をかけて答えるもんじゃ。 オヤジ ああ、そっちの問いには、おれたちの世界で体を張って答えてやる。だが、まずはこの世界だ。何が起こってる? 何故、俺達を呼んだ? 老人 わしには誰かをどうにかする力なぞない。あったにしても願い下げじゃ。 オヤジ 観想者って訳か。やれやれ、じいさん、昼間に人間を探すランプは持ってないのか? 老人 確かに東と西が騒がしいようじゃがの。東の塔の巫女が、何年ぶりかの宣託したそうじゃ。それで王は、西の谷の巫女に使いを出した。 オヤジ めんどくせえな。 老人 東の巫女が告げぬことには、西の巫女は何も答えんのだから仕方がない。 オヤジ どういうチェック&バランスだ? どうせ、ご神託は「世界の危機」だろ? だってのに悠長な事だ。 老人 ひとりで駆けても、周りの者がついて来れぬ。 オヤジ ふん、なるほどな。王様も重臣や民草を説得するには時間がかかるってか。 老人 それに準備もな。 オヤジ もう一度、聞くぞ。俺達に何をさせたい? 老人 まだ、わからん。買いかぶるな。人よりいくらか知れることがあるとはいえ、わしもこの世界に属する者に過ぎん。 オヤジ あんたはどこまで知っていて、どう考えてるのか、聞いてるんだ。 老人 わからんと言っておろうが。「俺達」と申したな。老いぼれの世迷い言が聞きたいなら、しばらくその口を閉じておれ。わしに言える事は、この世界はかつての世界とは異なっておるということだけじゃ。だが、巧妙に改変されておる。多くのものは、その違いに気付いてはおらん。当事者を除いては。 オヤジ 当事者? 誰だ? 老人 わしが知るのは、王と東の巫女だけじゃ。だが、大方、西の巫女も違っておろう。二人の巫女は対になる故。 オヤジ 入れ替わりでもしたか? たとえば外から来た者と。 老人 うむ。あるいはそうかもしれん。王にも東の巫女にも、切れ目のない、この世の記憶がある。だが、それに加えて、別の世界の記憶、こちらは切れ切れだが、後からつけ加わったと、わしは考えておる。 オヤジ ああ、それなら話が通る。 老人 何か心当たりがあるのか? オヤジ いいや。だが、外から来てるのが俺達だけじゃないなら、その方がわかりやすい。あとは敵だな。とりあえず王様とやらと会うか。じいさん、口を聞け。 老人 あいにくだが、そうもいかん。これでも世を捨てた身じゃからな。 オヤジ そんなのが天下の往来で、これ見よがしに図形なんか書くな。 老人 あわてるな。こっちへ。 オヤジ なんだってんだ? 老人 少ないが路銀じゃ。ただし偽金じゃが。 オヤジ 金ですらないぞ。なんかの安い合金だろ? 老人 王の顔は圧してないが、王許金貨より流通量は多い。わしら懐疑論者はどの街にもいて、裏の稼業を手広くやっておるのでな。受け取り手があるなら貨幣は人の間を巡って行く。 オヤジ 裏の稼業って?」 老人 暗殺からもぐりの医者、無認可の学校までじゃ。 オヤジ 懐疑論者にしては、世長けてるな。迫害されてるのか? 老人 表向きはの。おまえがいう幾何学とやらを教えることがいかんらしい。 オヤジ じいさん、あんた? 老人 往来で、これ見よがしにああしておれば、外の者かどうか、すぐにわかるじゃろ? やれやれ、今日は牢屋で寝ずにすみそうじゃわい。だが、もっと早くに来ても良くはなかったの? ロール・プレイング その5へ
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【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】劉備 玄徳 【性別】男性 【身長・体重】172.5cm・70kg 【属性】中立・善 【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力C 幸運A+ 宝具A 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法を以ってしても、傷つけることは難しい。 騎乗:A 騎乗の才能。 幻獣・神獣ランクを除く全ての獣、乗り物を自在に操れる。 【固有スキル】 魔力放出:E 武器、ないし自身の肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出する事で能力を向上させるスキル。 高祖劉邦は赤竜の子とされ、その末孫である劉備にもこのスキルを保有するが、 効果は微々たるものでしかない。 カリスマ:B 軍団を指揮する天性の才能。団体戦闘において、自軍の能力を向上させる。 カリスマは稀有な才能で、一国の王としてはBランクで十分だといえる。 戦闘続行:A 戦闘から離脱する能力。 また、敗戦において自軍領地まで生きて辿り着く能力。 仕切りなおし:C 戦闘から離脱する能力。 また、不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。 【宝具】 『禍福逆向く電光の脚(的盧)』 ランク:A 種別:対軍宝具 レンジ2~10: 最大捕捉15人: しもべが乗れば客死し、主が乗れば刑死するという凶馬。 しかし、脚は電光がはじけるように速く、人が追いかけても追い付くことができなかったという。 これ自体が不運を招き寄せる呪詛を纏った魔獣であり、常人が乗ればたちどころに不幸を呼び寄せてしまう が、 劉備はこの不運を逆転させ、逆に幸運を呼び寄せる事が出来る。 騎乗中は幸運の値がワンランク上昇し、さらにST判定の成功率が二倍になる。 真名発動によって電光を纏って10メートル以上を跳躍。魔力による加速、急降下によって敵を粉砕する。 【Weapon】『雌雄一対の剣』 三国志演義にて、劉備が所持するとされる双剣。 漢王室の末裔という出自を証明するものとされるが、史実では特に名のある剣は所持していない。 一つの鞘に二つの剣を納めるという一風変わった武器で、 鞘に納まった状態では一振りの剣にしか見えず、敵を欺く効果も期待できる。 【解説】 俗に蜀漢と称される、三国鼎立の一角を担った国の皇帝。 中山靖王劉勝の末裔。その事は祖父の劉雄、父の劉弘が漢王朝の官吏である事からも確かである。 幼少時は父を失って困窮し、筵売りとして暮らしていた劉備だが、 15歳になると劉備の才能を見抜いた伯父の支援で盧植の私塾で学問を学ぶ事となる。 しかし、劉備はあまり真面目な生徒ではなく、 乗馬や闘犬、音楽を好み、兄事する公孫サンと共に豪侠と好んで交わったという。 結果、劉備の周囲には多くの若者が集まる事となり、諸国を巡っていた豪商から支援される事もあった。 黄巾の乱がはじまると、関羽、張飛などといった面々と義勇軍を結成。 戦果を挙げて官職を得るも、役人と問題を起こし、官を棄てて逃亡する。 以降、各地を転戦しながら流浪した劉備は、紆余曲折の末に劉表の下に身を寄せた。 この頃、出会ったのが伏龍と名高い諸葛亮であり、 彼の天下三分の計によって、劉備は戦略の方針を得たという。 北部の覇権を固めた曹操が南下をはじめると、 劉備は孫権と同盟を結び、赤壁の戦いにて曹操を破る。 この戦勝に勢いを得た劉備は蜀の地を攻め取り、押しも押されぬ大勢力に成長。 漢中の戦いでは仇敵曹操を打ち破り、漢王朝の開祖である劉邦と同じく漢中王を名乗る。 しかし、劉備の全盛期はここまでだった。 孫権に背後を突かれた重臣関羽の敗死と領土の喪失に激怒した劉備は、 大軍を率いて孫権に戦いを挑むも、陸遜の火計によって夷陵に敗れる。 この戦いで家臣や兵力を損耗した劉備は、何とか孫権と同盟を結ぶも、 失意から病を悪化させて死亡した。 敗戦が多かった事から不当な評価を受ける事は多いが、 劉備は三国時代有数の将であり、同時代において方々で高い評価を受けている。 敗れたのは同時代の一流相手であり、その敗北でさえ、陸遜以外を相手取った際は、軍に対する致命傷を避けている。 生還能力という点では超一流の英雄と言えるだろう。
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陸奥国 大沼郡 大塩組 大塩(おほしお)村 大日本地誌大系第33巻 76コマ目 府城の西に当り行程16里。 家数31軒、東西2町30間・南北1町。 北は山に傍(そ)ひ三方田圃(たんぼ)なり。 東1里3町大石組本名村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り1里35町。 西7町30間滝沢村の界に至る。その村まで15町。 南5町横田村に界ひ只見川を限りとす。その村は辰巳(南東)に当り16町。 北は越後国蒲原郡上條組室谷村の山に界ひ界域分明ならず。 小名 原新田(はらしんでん) 本村の西2町にあり。 家数12軒、東西2町・南北30間。 四方田圃にて南は只見川に近し。 田代 本村より丑寅(北東)の方19町にあり。 家数3軒、東西20町・南北1町。 三方は山に傍ひ西は田畝なり。 端村 土倉(つちくら) 本村の東16町30間にあり。 家数8軒、東西1町30間・南北25間。 北は山に倚り南は只見川に近し。 西部(にしぶ) 土倉より寅(東北東)の方20町にあり。 家数15軒、東西2町・南北50間。 北に山を負い南は只見川に傍ふ。 山川 只見川(たたみかわ) 村南7町にあり。 滝沢村の境内より来り、東に流るること1里20町本名村の界に入る。 広50間。 温泉 村より辰巳(南東)の方3町20間にあり。 味鹹し。黴瘡を治す。 関梁 船渡場 村より巳(南南東)の方にて只見川を渡し横田村に通す。 伊北郷より府下に通る道なり。 橋2 一は小名原新田の西5町、滝沢川に架す。 長7間・幅7尺余。伊北郷より府下に通る路なり。 一は端村土倉の村中にあり。 長5間・幅6尺余。田代沢という渓流に架す。 神社 山神社 祭神 山神? 相殿 諏訪神 若宮八幡 山神 鎮座 不明 村の丑(北北東)の方1町にあり。 鳥居拝殿あり。横田村雪澤摂津が司なり。 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 端村土倉の北20間にあり。 鳥居あり。村民の持なり。 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 端村西部の北にあり。 鳥居あり。村民の持なり。 寺院 毘沙門堂 村より辰巳(南東)の方1町にあり。 草創の初詳ならず。 村民の持なり。 古蹟 館跡 村北7町山上にあり。 東西1町12間・南北1町21間。 中山城と唱ふ。 山内氏この地を領せし時、菅家太郎左衛門善高という者城代せしとぞ。 天正18年(1590年)伊達氏横田を攻めし時、山内氏勝が猶子(ゆうし)横田左馬助某という者この城に拠しという。 旧家 太郎左衛門 山内譜代の臣菅家太郎左衛門善高が11代の後なり。 菅家・伊藤・齋藤・目黒は世々山内氏の重臣にて四天と称す。 善高、天正の頃(1573年~1593年)氏勝に仕え越後の押としてこの所に住す。 伊達政宗が将大波玄蕃横田を攻めるに及んで、氏勝布沢に逆寄(さかよせ)し、松坂峠にて敵の伏兵起立し味方散々に敗れし時、善高諸卒を励まし奮戦ひ氏勝死地を出て横田に帰る。 氏勝旧領を失いし後、善高憂憤(ゆうふん)して死せしという。 長右衛門 山内家臣横山帯刀道吉が2男能右衛門道信が8代の孫なり。 道信氏勝が時六十里越・八十里越両口を固めしという。 家に古文書あり。その文如左(※略)。 利左衛門 山内家臣新國右京義方より8代の後なり。 天正18年(1590年)氏勝松坂峠にて伊達方の伏兵に逢い、前後に敵を受け郎等多く打せ危急に逼(せま)りし時、右京後軍にありしが横山帯刀・滝沢河内と共に敵陣をつき氏勝を救い中山城に入りしという。 Google Map大塩地区原新田地区 田代 - 民家らしき建物はありますが… 土倉地区 西部地区 大塩温泉 共同浴場 船渡場跡 - 見当たらず 宇奈多理神社(元は山神社?)境内に樹齢500年を超す大杉があり、いつしか隣接していた祠が木の成長により飲み込まれてしまったとの伝承があるそうです。(参照:大塩の老杉(おおしおのろうさん)) 神社(土倉。山神社?) 神社?(西部。旗竿あり) お堂(毘沙門堂?) 大塩中山城跡 大塩天然炭酸場汲み上げられた炭酸水は一般向けに販売しています:奥会津金山 天然炭酸の水
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能力が高いし適性も優秀 おまけに親愛による援護も期待できる優秀な人 ただ後半のシナリオでしか出番が無いのと特技が使えないのが残念 -- (名無しさん) 2010-04-23 23 27 09 こちらが援護する側ならいいが、自分がされる側なら、正直援護は期待しないほうがいい。 親愛武将の中に文官が2人もいるから。 -- (こうそん) 2010-04-24 12 51 28 統率と知力は高いが、武力が低くやや決め手にかける。それでも後半シナリオでは一線級の能力。 兵科は槍よりも、弩を育てていく方が使い勝手が良くなるだろう。戟を上げて盾役にするのもいい。 弩Sになれば乱射+精妙で技巧P稼ぎも出来る様になる。武力と合わせて育てていきたい。 -- (名無しさん) 2010-04-25 10 55 05 鄧艾とともに「忘年の交わり」の由来になった人。 鄧艾・姜維ほどではないがトータルに優れているばかりでなく友人も皆優秀。 英雄集結などのシナリオでも十分使える。 -- (関羽大好き) 2011-01-07 10 27 39 知力が高いので機略や詭計あたりに特技を書き換えるのもいい。 -- (名無しさん) 2011-03-23 19 23 41 忘年の交わりってこいつのほうが年下なのか 逆だと思ってた -- (名無しさん) 2011-07-03 19 20 10 ↑そりゃあ、“超”重臣の子と成り上がり者なんだから、逆はありえんて。 -- (名無しさん) 2011-07-04 22 18 24 舅の文字の意味は現在は妻の父を表しますが正史の三国志が書かれた頃は母親の兄弟・従兄弟を指します。 陳羣の妻は荀彧の娘ですから荀顗は陳泰の母方の叔父です。妻は荀顗の娘というのは誤りです。 -- (某) 2011-09-16 22 08 25 魏軍の名将と言えば簡単に言い表せる とりあえず特技「精妙」を利用し土塁を弩で破壊しまくり とっとと「S」にして支援部隊の道を歩ませよう…技巧後の槍奇襲でも良いが -- (名無しさん) 2012-04-22 02 23 19 賈充を嫌悪してないのが意外 -- (名無しさん) 2013-01-17 06 40 50 能力も適性もとても高水準。水軍以外は何でもできる。 魏後半では押しも押されぬ主力である事は勿論、集結シナリオにあっても一線をはれる。 「精妙」は土塁を使うならばそのままでいいが、それ以外だとやや使いにくいので書き換えるのも手。 知力の高さから「明鏡」などはそれほど必要としないため、「築城」あたりをつけるのがいいだろう。 -- (名無しさん) 2014-03-20 21 39 57 魅力を少し削って、その分を知力と適正に回した強化型曹真。だが一番強化してほしかったところは強化されていない。適正Sが馬から槍に移っているのもイマイチ。 単独出撃できる武力はありがたいが、S7曹丕では武力育成の需要が大きいので、適正と特技が微妙なのもあって武力が微妙なままになりがち。当然槍Sを活かせる特技が回ってくる日はさらに遠い。 「何でも出来るけど何をやってもパンチ力に欠ける」ということになりがちなので、勢力全体を見て育成計画はきちんと考えておこう。 -- (名無しさん) 2015-02-23 01 52 15 父親の名前に恥じぬ能力はさすが。好意関係も嬉しい限り。ただ気になるんだが、司馬師や司馬昭と本当に親愛というか親しかったのかな? 皇帝を殺した時は暗に批判していたし。 -- (名無しさん) 2016-10-18 15 59 52 正史では陳泰は司馬師・司馬昭と親友で、司馬昭には特に信頼されており、司馬懿のクーデターにも協力している。 司馬昭に相談をうけて皇帝を殺した賈充の処刑を進言したが、蜥蜴の尻尾切りで司馬氏政権への批判を躱そうとしたように思える。 ただそこで司馬昭が渋ったので意見対立した。例えば彼の祖父である荀彧も元は曹操と親密だったわけで、仲間うちで意見の相違が起きることは普通にあるだろう。 -- (名無しさん) 2016-10-18 22 18 54 うむ、陳泰自身に司馬氏批判の意図はないと思う ただ皇帝殺害による反司馬氏勢力が出ること、皇帝殺害という武断的処置を やったのが陳泰には「もっと他にいいやり方があっただろう」的な意味で我慢できなかったんだろう -- (名無しさん) 2016-10-20 01 20 49
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ライバート 列伝 基本スペック 基本能力値 考察 列伝 内治8 統率10 外交9 探索9 信仰3 ドゥネ=ケイスの残党を再建したオークの魔導士。 オークとしては類まれなほどの魔力、知性、理性を持ち、オーク達の間にトロールを配置し、トロールを徹底的に士官として教育、彼らの恐怖でオークの脱走を防ぐなど、運営や戦術に関する知識も高い。 元々はドゥネ=ケイスの虜囚(そもそも、ドゥネ=ケイスが捕虜を取ることそのものが稀な事である!!)であった人間の王族により養育されたエリートだとも言われているが真相は闇の中である。 彼はまた、巫女の召喚術を真似、オーブに魔神ライ=ホーを降臨させるなど類まれな天才であることは間違いない。まずはイーズの統一を目指し、王都カハンを再び追われたウィンダリア残党の追撃を指揮下部隊に命ずる。 台詞 雇用時 人間共と共に戦うのならば協力しよう。 退却時 クッ、こんな寄せ集めの兵ではな…… 撃破時 私は、こんなところで死すべき存在ではない! 待機時 +... 下準備は入念に 斥候からの情報はまだか 増援を投入準備 士官は作戦を確認しろ 前進時 +... 進撃 行け、隊を乱すな! 魔神王よ、$我に力を! 互角時 +... 列を乱す者は構わん、食糧にしろッ! 踏み潰せッ! 戦列を維持せよ 石が無いだと! その辺に落ちているのを投げろ! 優勢時 +... 敵を逃がすな! 取り囲め! 殲滅しろ! 禍根を残すな! 略奪に熱をいれすぎるな 適度に痛めつけろ 剥ぎ取り何ぞ終ってからやれ! 劣勢時 +... フン、雑兵共め この一戦で戦争の趨勢は決まらんよ 逃げるな 逃げずに戦え 雑兵どもで戦線を維持しつつ、本隊は後退だ 必殺技 +... 魔神『ライ=ホー』召喚 加減はしない…… ライ=ホーよ、契約を履行せよ…… 基本スペック 性別 不明 肩書き オークの魔導士 種族 オーク クラス オークソーサラー 雇用種族 オーク 雇用クラス オークレギオン オークソーサラー オーク トロール 特殊雇用 なし 初期勢力 S1=ライバート部 S4=ネ=ドゥネ=ケイス 初期階級 S1=マスター S4=重臣 旗揚げ時勢力名 ライバート部 旗揚げ時雇用可兵科 オークソーサラー オーク トロール 初期レベル S1=10 S4=18 保有スキル 魔神『ライ=ホー』召喚 カタパルト建設Ⅱ 初期汎用スキル 暗黒魔法C 精神魔法B火魔法C・水魔法C・風魔法C・地魔法C・天魔法Cから1つ 習得汎用スキル なし 必殺スキル 魔神『ライ=ホー』召喚 カタパルト建設Ⅱ 付与可能スキル なし リーダースキル 技術UP(25%) 素早さUP(15%) 移動力UP(25%) 訓練効果アップ(4) 召喚スキル 魔神『ライ=ホー』召喚 精神魔法A その他・備考欄 「同種族同クラスの雇用は可能(メンバーにはできない)」とあるが、普通にオークソーサラーをメンバーにできる 初期状態ではドゥルグアントが陪臣にいる 基本能力値 HP 4000 MP 300 攻撃 20 防御 40 魔力 60 魔抵抗 40 素早さ 40 技術 50 HP回復 5 MP回復 5 移動 120 移動タイプ 荒地 召喚数 1 召喚レベル 50 exp_mul 126 耐性 斬撃 突撃 打撃 弓矢 火 水 風 地 天 暗黒 精神 解呪 神聖 0 0 0 0 0 -2 0 -2 0 0 0 +5 0 毒 麻痺 幻覚 沈黙 混乱 石化 恐慌 即死 吸血 魔吸 ドレイン +1 0 -2 -2 -2 0 -1 -2 0 -2 -2 考察 全般 ライバート部のマスター。混沌側の主人公ポジション。 全体的にステータスが高く、クラスも強力、魔神も召喚可能と非の打ちどころのない強さ。 更に配下にトロールとオークソーサラーを雇えるため、一部隊で敵主力と十二分に戦える。 一部隊で強化魔法を全て使えるよう雇用時に調節しよう。 MP回復が非常に高いため、因縁のあるダンジョン突破で得られる嘆きの経典は相性抜群。 操作方法 前線に立ってもなかなかやられないのでトロールを率いて前線で魔法を撃てる。 自動操作でも十分に働いてくれる。『ライ=ホー』は盾として優秀。 オススメ陪臣・兵科・指揮官 トロールとオークソーサラーを4対3ぐらいで雇い、強化魔法を全て補えるようにすると一部隊で無双できる。 トロールのユニットが大きすぎるため操作が難しいが強化魔法をしっかりかければよほどのことが無い限り自動でも大丈夫だろう。 敵対時対処法 『ライ=ホー』は大精霊と比べると攻撃性能に劣るため、巫女ほどの脅威は感じない。 ただ巫女と比較すると本人が固い上に前に出てこないため、倒しづらい。 素直に『ライ=ホー』自身となぐり合った方が被害を抑えられるケースも。 コメント欄 名前 コメント
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服部半蔵の章・第四話「小田原討伐」 服部半蔵の章・第四話「小田原討伐」あらすじ 戦況(解説者 徳川家康) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 あらすじ 上田の合戦で、 真田の強さを知った家康は 重臣・本多忠勝の娘・稲姫を 真田信之に嫁がせ、 真田家と縁を結んだ。 その頃、秀吉は九州を制圧。 奥州の伊達家も膝を屈し、 もはや抵抗勢力は 北条家のみとなっていた。 秀吉は持てる兵力を総動員して、 北条の居城・小田原城を包囲する。 そして、 この戦には半蔵を始めとする 東西の忍びが集結していた。 天下統一の 総仕上げとなる戦の中で、 最高峰の忍び同士がぶつかり合う。 戦況(解説者 徳川家康) 秀吉殿が北条を討たば、天下統一がなる。 我ら徳川も、その手助けをするぞ。 だが、小田原城は堅城、なかなか落ちぬ。 半蔵、当初の予定通り、城内に潜入して 守将・北条氏邦を倒し、道を開いてくれ。 また、秀吉殿が失われては泰平はならぬ。 豊臣本陣に迫る敵は、 必ず、討ち果たさねばなるまい。 この一戦で、いよいよ乱世が終わる。 半蔵、頼りにしておるぞ。 勝敗条件 勝利条件 北条氏康の撃破 敗北条件 豊臣秀吉と徳川家康いずれかの敗走 武将データ 豊臣軍 備考 北条軍 獲得 備考 豊臣秀吉 総大将 北条氏康 なし 総大将 ねね 甲斐姫 装備品 ミッションNo.4の撃破対象 加藤清正 撃破効果No.2発動で効果あり 北条氏政 素材 徳川家康 敗北条件撃破効果No.3発動で効果あり 北条氏直 巻物 服部半蔵 プレイヤー 北条氏照 素材 稲姫 北条氏房 素材 真田幸村 北条氏邦 素材 ミッションNo.1の撃破対象 くのいち 北条氏規 巻物 ミッションNo.2の撃破対象 堀秀政 北条氏光 素材 垪和康忠 装備品 撃破効果No.2の撃破対象 伊東政世 素材 壬生義雄 素材 撃破効果No.4の撃破対象 上田憲定 素材 小笠原康広 巻物 千葉直重 素材 成田氏長 素材 山角定勝 装備品 撃破すると南西門が開門 皆川広照 素材 撃破効果No.3の撃破対象 松田憲秀 素材 笠原政堯 装備品 撃破効果No.1の撃破対象 風魔小太郎(分身)×2 装備品/素材 ミッションNo.1達成後出現ミッションNo.3の撃破対象 風魔小太郎 素材 ミッションNo.4発生時に出現 イベント あらすじの後、ムービー「忍び凧」が流れる。 ミッションNo.1~3達成で鷲による小田原城侵入イベント発生。 侵入後、小田原城の各郭が開門。 山角定勝を撃破すると小田原城南西門が開門。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 徳川軍を小田原城内へ進軍させるため、北条氏邦を撃破せよ! 達成後、小田原城東門と小田原城西門が開門風魔小太郎が二人出現各々豊臣秀吉と徳川家康へ進軍開始 No.2 豊臣本陣周囲の敵武将を撃破せよ! 両ミッションは同時に発生発生時、北条氏光と北条氏規が豊臣本陣へ進軍開始両ミッション達成後、鷲による小田原城侵入イベントが発生 No.3 風魔小太郎をすべて撃破せよ! No.4 甲斐姫を撃破せよ! 発生時、風魔小太郎の本体が出現達成後、天守東門と天守南門が開門豊臣軍が総攻撃開始 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 撃破数が200以上で笠原政堯を撃破 三の丸東門が開門 No.2 豊臣軍の武将数が6人以上の状態で垪和康忠を撃破 加藤清正らの進軍速度が一定時間上昇 No.3 コンボ数が200以上で皆川広照を撃破 徳川家康の防御力が一定時間上昇 No.4 開始から10分以内に壬生義雄を撃破 防具を獲得 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 団子 団子 当世具足 当世具足 霊鏡 荒御霊 参 団子 戦草鞋 霊鏡 陣太鼓 蒔絵印籠 蒔絵印籠 攻略アドバイス レア武器獲得ステージ。→レア武器獲得のポイントを見る 撃破効果には直接関係ないためあまり書かれていないのだが、とにかく秀吉が敗走しやすい。 ミッションNo.2では風魔+北条×2の攻撃を1人で受けている。横にいるねねの体力は満タンであることがほとんど。 その後は総大将らしく本陣に残っている…かと思いきや残っているのはねねであり、秀吉は甲斐姫のほうへ進軍していく。迷惑極まりない。 陣太鼓も団子も秀吉のために使うことを考えておいたほうがよい。 また、せっかく出てきてくれた本物の風魔には悪いが、ミッションでも開門条件でもないのでピンチだと思ったら無視を推奨。 ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 伊賀越え 小牧長久手の戦い 上田城の戦い 小田原討伐 大坂の陣