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チョウキュウ 列伝 呉の重臣・張昭の末子。張承の弟。 【演義】 孫権が呉の初代皇帝に即位した時、皇太子・孫登の補佐役となる。 【正史】 諸葛恪、顧譚、陳表と共に孫登の学友となり、孫登に「漢書」を講義した。兄の張承は別の侯に封じられていたため、張昭の死後、その爵位を受け継いだ。孫登が若死にすると、中央に戻って侍中、揚武将軍に昇進。しかし、孫和と孫覇の後継者争いに巻き込まれ、孫覇一味が流した悪評により交州への移住を命じられる。その後、対立していた孫弘の謀略により自害を命じられた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 53 27 74 77 73 304 80 154 順位 449 537 149 132 163 286 511 469 偏差値 48.0 38.6 57.4 59.3 57.1 52.5 42.7 46.3 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C B C B B 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 20 39 19 43 21 42 22 37 22 36 22 40 順位 541 465 542 466 524 424 541 465 525 395 517 396 偏差値 38.8 45.9 38.7 46.0 39.6 48.2 39.0 45.8 39.6 48.9 40.1 49.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 120 青徐 任意 州統一 重視 3/5 1/5 2/3 204 222 244(41歳) 自然死 冷静 冷静 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 張休 親愛 顧譚、諸葛恪、孫登、陳表 顧譚、諸葛恪、孫登、陳表 嫌悪 なし なし 血縁 世代 ● 1 張昭 2 張承 張休 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 下邳 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 下邳 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 下邳 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 呉 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 4歳 未登場 呉 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 8歳 未登場 建業 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 22歳 一般 柴桑 孫権 100 武庫令 8500 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 未発見 下邳 - - - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 呉 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 0歳 未登場 呉 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 14歳 未登場 建業 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 下邳 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 下邳 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 柴桑 - - - 0 - - 兄貴と違って単独では戦闘面にあまり期待はできない 築城あたりを付けて副将役にするとそれなりに輝く -- (名無しさん) 2012-05-28 15 46 31 正史を読んだ感じ、どちらかというと武官よりな人なんだけどなあ -- (名無し) 2013-03-16 20 19 03 潘濬なんかもそうだけど、軍事で功績を挙げてるのに、なぜか統率が低い呉将って多いよねコーエー -- (名無しさん) 2014-10-20 20 12 09 二宮の変の被害者のひとり。なのに何で自然死? -- (名無しさん) 2016-09-09 11 26 11 名前 コメント すべてのコメントを見る
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このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは信長の野望・太閤立志伝の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 戦国時代(日本) - Wikipedia :史実についての参考リンク 【非公式】霧雨の野望wiki 登場武将紹介 :霧雨の野望についての参考リンク 武将別解説 - 戦国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiでの戦国武将解説 『戦国時代の人物の一覧』 :ニコニコ大百科での戦国人物項目一覧 武将別伝(戦国) ア行 アア2 イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ワ行 史実姫 九鬼嘉隆(くき よしたか) 九戸政実(くのへ まさざね) 神代勝利(くましろ かつとし) 隈部親永(くまべ ちかなが) 黒岩種直(くろいわ たねなお) 黒田長政(くろだ ながまさ) 黒田職隆(くろだ もとたか) 黒田孝高/官兵衛/如水(くろだ よしたか/かんべえ/じょすい) コメント欄 九鬼嘉隆 (くき よしたか) [部分編集] (1542~1600)志摩国の生まれ。滝川一益を通じて信長に仕えたとされる。木津川口で大敗したことで鉄甲船を建造、毛利水軍に逆襲を果たす。大名にまで上り詰め、「海賊大名」の異名を取った。 文化とは無縁そうな顔グラを当てられることも有るが、茶道などにも造詣が深かったらしい。 革新 統率 78 武勇 74 知略 55 政治 44 義理 65 鉄砲B,兵器A,水軍S もこけね海賊記 【太閤5】 +主要人物。 主要人物。所属していた熊野水軍壊滅後、藤原妹紅が食事を取っていた飯屋に逃げ込む。 その後、彼女と行動を共にすることになる。 上へ 九戸政実 (くのへ まさざね) [部分編集] (1536~1591)南部氏の有力な一族。猛将として知られた。南部本家の後継者をめぐり南部信直と対立して叛乱を起こすが、これが奥州仕置への反抗として秀吉による征討を受けた(九戸政実の乱)。圧倒的実力を持つ秀吉にたった一人で喧嘩を売った男。 お家騒動を起こしたイメージからか、不義理。 革新 統率 72 武勇 78 知略 42 政治 36 義理 5 騎馬A 梟雄の野望 【革新PK】 +遊佐家(プレイヤー勢力)初期家臣。 遊佐家(プレイヤー勢力)初期家臣。低義理が見込まれて梟雄陣営に加わった。しかし、真っ黒動画にしてはいささか愚直すぎたようである。 戦国時代が舞台の小説・漫画紹介 +ゲスト。その6で登場。 ゲスト。その6で登場。秀吉に喧嘩を売った男を描いた熱い作品を紹介。 教授の野望 +南部家→蠣崎家 人材難ときいてあっさりやってきた。しかし、彼の活躍は義理5とは思えない。と言うより、全く引き抜かれない。 でも、自分の名前が他人に知られていることを知ると有頂天になるなど、小物的側面もある。 夢は「何時か日本中に自らの名を轟かせてやる事」。一応、奥州に轟いてはいる。関東ではどうなる? そして攻城戦などに大活躍。いろんなところで大活躍。 関連動画―――― 【HR】九戸の乱~天を衝く~ +歴史動画祭・彼を主役に扱った小説の動画化。 歴史動画祭、history-reproductionで彼を主役に扱った小説を動画化したもの。 上へ 神代勝利 (くましろ かつとし) [部分編集] (1511~1564)肥前三瀬城主。龍造寺隆信の好敵手のひとりで、たびたび争った。ある人物から「龍になった夢」を買ったという「夢買い」の逸話で知られる。 革新 統率 77 武勇 70 知略 78 政治 50 義理 71 足軽B,弓B,計略B,築城B 毛利家の野望 【革新PK】 +毛利家(プレイヤー勢力)途中参加。 毛利家(プレイヤー勢力)途中参加。 名前のおかげで、龍造寺隆信・隈部親永とともに「クマー三人衆」に入れられてしまった。 上へ 隈部親永 (くまべ ちかなが) [部分編集] (?~1588)菊池家の重臣。肥後の国人。赤星氏から隈府城を奪って城主となり、島津氏相手に一年間の篭城戦を戦い抜くなど精強で知られた。秀吉の九州平定後、国主となった佐々成政が太閤検地を強行すると反抗し、叛乱は肥後一国に波及した(肥後国人一揆)。叛乱の鎮圧には四国・九州の諸大名が動員され、親永は降伏後自害に追い込まれた。 二階堂盛義と共に「信長の野望」における顔芸武将の双璧を担っており、「烈風伝」から「蒼天録」までの間、その独特の表情を表した顔グラのインパクトで広く(?)名が知られるようになった(しかし、「天下創世」以降は普通の顔グラになった様子)。 革新 統率 40 武勇 31 知略 61 政治 41 義理 23 ニコニコ大百科: 『隈部親永』 暗愚Rhapsody 【三國志11】 +一条軍(プレイヤー勢力)家臣。 一条軍(プレイヤー勢力)家臣。 自称「肥後最強国人」。もとの世界に帰るため、一条兼定に協力。 二階堂・糞芸爪覧とは(顔芸つながりから)義兄弟の関係である。なお、コメントより、顔芸と通常とで頭髪が変化する指摘を受けたため、CMよりアデランス付きの顔グラに修正された。 統率 37 武力 55 知力 35 政治 27 魅力 76 米道/騎兵A 上へ 黒岩種直 (くろいわ たねなお) [部分編集] (?~1582)父の黒岩越前守は土佐安芸家の忠臣として知られる。種直は安芸家滅亡後長宗我部の家臣となり、中富川の合戦で戦死した。 革新 統率 40 武勇 42 知略 46 政治 44 義理 56 ニコニコ大百科: 『黒岩種直』 S4上級全なし河野家 【革新PK】 +河野家(プレイヤー勢力)家臣。※紙芝居なし 河野家(プレイヤー勢力)家臣。貿易大臣。 南蛮協定に決まって起用されるようになり、「オランダ語に定評のある黒岩」などと呼ばれた。 上へ 黒田長政 (くろだ ながまさ) [部分編集] (1568~1623)如水孝高の嫡男。父に従い転戦し、九州攻め・朝鮮出兵に従軍。関ヶ原の合戦時には事前の寝返り工作などの功績が認められ、福岡藩52万石を与えられる。知勇に優れていたが、それに輪をかけて偉大な父と比較されたり、後藤又兵衛・母里太兵衛ら個性的すぎる家来のために割を食うことも多い。 幼少時代に父が荒木村重に捕縛された際に戻ってこれなかった為、寝返ったと勘違いした信長に処刑されかけた事があるが竹中半兵衛の機転によって命が救われたエピソードがある。 革新 統率 78 武勇 74 知略 82 政治 86 義理 44 足軽B,鉄砲B,計略B,兵器A,水軍B,築城B,内政B 関連動画―――― 【替え歌】ワールドイズマインver.黒田長政 :替え歌MAD 上へ 黒田職隆 (くろだ もとたか) [部分編集] (1522~1585)西播磨に勢力を築いた小寺政職の重臣。娘をその婚礼当日に殺されるなど、弱体化した守護赤松氏のもと中小勢力がひしめき合った播磨にあって波瀾に満ちた生涯を送った。信長が播磨に勢力を伸ばすとこれに従う。 ゲーム的には「黒田官兵衛の父」という説明で片付けられてしまうのだが、そのためか(後々に元服する息子目当てに)よく登用される。とは言え本人の知力と政治もなかなか高いので、何かと重宝する武将である。 革新 統率 50 武勇 43 知略 71 政治 76 義理 45 内政B ニコニコ大百科: 『黒田職隆』 上へ 黒田孝高/官兵衛/如水 (くろだ よしたか/かんべえ/じょすい) [部分編集] (1546~1604)播磨小寺家臣・黒田職隆の子。福岡藩の祖。秀吉の「両兵衛」の一人として知られる。 関ヶ原の合戦の波瀾に乗じて独立しようとしていたという説や、息子・長政が関ヶ原で戦功をあげて家康に握手され褒められたと聞いた際に「もう片方の手は何をやっていた?」という意味深な発言など、野心的なエピソードに事欠かない人物である。 秀吉も内心恐れた謀将ということで野心家というイメージを持たれることがあるが、主を裏切ったことは無い。 2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公として取り上げられている。 革新 統率 91 武勇 60 知略 99 政治 91 義理 35 足軽A,鉄砲B,計略S,兵器S,築城B,内政A,火牛計 ニコニコ大百科: 『黒田官兵衛』 東風谷の野望 【革新無印】 +序盤から参戦、山名家家臣、一軍 本能寺との決戦の最中に元服し、獅子奮迅の働きで本能寺の軍勢を追い返したが、その部分はキングクリムゾンされた。 ちなみにその際にあたえられた褒美は東方キャラルーミアの保護者となること。 この ロ リ コ ン め ! 弾正の野望 【革新PK】 +松永家(プレイヤー勢力)に途中加入。 松永家(プレイヤー勢力)に中途加入。 初登場は拾参章(sm3057108)。その才を得るためには合戦を仕掛けるに足る人材。松永家の高知謀メンバーオールスター(通称「黒の武士団」「黒い五連星」)で「元服即引き抜き」を決行した。世にいう「真っ黒全顧の礼」である。 戦国時代が舞台の小説・漫画紹介 ゲスト。その7で登場。飄々とした青年時代を描いた鉄板作品と、 天下を狙って果たせなかった失意の官兵衛を描いた作品を紹介。 無理ゲー「九州席巻」のクリアを目指す( リスト ) 【革新PK】 +無理ゲーと評判の「九州席巻」に挑む。 無理ゲーと評判の「九州席巻」に挑む。 だから無理だって。 豊臣家の盛衰 【革新PK】 +豊臣家(プレイヤー勢力)に参戦。完膚無きまでのキャラブレイク。通称「てんてー」 元黒田家隠居。豊臣家(というより加藤清正)の誇る参謀で、同時にこの動画で最も自重しない人物。 当初は、利に聡い冷徹な雰囲気を醸し出していたが。豊臣家九州方に降った直後、自分を 「てんてー」と自称した あたりから壊れ始め。メタ発言の連発、変な誇大妄想を繰り返し、事あるごとに頬を染めたり、ツンデレ化したりとそのキャラブレイクぶりを数え出したらキリがない。 現在、久武親直、本多正信と「黒トリオ」を結成し、自重のなさに拍車がかかっている。いいぞ、もっとやれ!!。 逆襲の黒田如水 【革新PK】 主人公 上へ コメント欄 名前 コメント
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飛騨 武将 4名 越後 武将 22名 越中 武将 6名 能登 武将 7名 加賀 武将 12名 越前 武将 17名 若狭 武将 5名 域計 73名 累計 306名 武将 兵種 国 能力値 スキル 列伝 Lv 1 2 3 4 0234 江馬 時盛 騎 飛騨 統智政 322 433 544 655 (1509-1573)飛騨の豪族。諏訪城主。三木家と争う。武田家と友好を結ぼうとするが、上杉家との関係構築を主張する嫡男・輝盛と対立し、輝盛の刺客によって殺された。 0235 高山 外記 槍 飛騨 統智政 223 334 445 556 0236 三木 直頼 騎 飛騨 統智政 332 443 554 665 (1497-1554)飛騨の豪族。桜洞城を築いて居城とし、版図を拡大する。飛騨国司・姉小路家や美濃の土岐家、本願寺などと友好関係を結び、飛騨国内に一大勢力を築いた。 0237 三木 嗣頼 弓 飛騨 統智政 233 344 455 566 (1516-1572)飛騨の豪族。直頼の子。飛騨国司・姉小路家の名跡を継ぎ、姉小路姓を名乗る。上杉謙信に通じ、武田信玄と結んだ江馬家との間で軍事・外交戦を繰り広げた。 0238 色部 勝長 槍 越後 統智政 643 754 865 976 (1493-1568)上杉家臣。平林城主。上条定憲の乱の際は一時上条方に属す。川中島合戦で活躍し、感状を授かった。謀叛を起こした本庄繁長の居城・村上城を攻囲中に病死。 0239 色部 顕長 騎 越後 統智政 321 432 543 654 (1549-1587)上杉家臣。平林城主。勝長の子。主君・謙信から名を授かった。父の死後、家督を継ぐ。本庄繁長の謀叛鎮圧で活躍し、以降、繁長より上位の席を与えられた。 0240 本庄 房長 槍 越後 統智政 531 642 753 864 (1494-1544)越後の豪族。揚北衆。時長の子。大和守と称す。上条定憲の乱の際は長尾為景に属した。のちに弟・小川長資や鮎川盛長に攻められて居城を追われ、死去した。 0241 中条 藤資 弓 越後 統智政 654 765 876 987 (1480-1574)上杉家臣。主君・為景が関東管領・上杉顕定と戦った際は、為景に従い各地で活躍した。一時背くが、間もなく帰参。のち川中島合戦に従軍し、感状を受けた。 0242 本庄 実乃 騎 越後 統智政 255 366 477 588 (1511-1580)上杉家臣。栃尾城主。主君・景虎の栃尾城入城以来、側近となる。景虎の初陣の際は補佐役として活躍した。のち景虎が当主になると、政権の中枢に参画した。 0243 本庄 秀綱 弓 越後 統智政 422 533 644 755 0244 北条 高広 弓 越後 統智政 964 1075 1186 1297 (1517-1587)上杉家臣。厩橋城主を務め、関東経略を担当するなど活躍した。武田信玄や北条氏康らの誘いに乗り、たびたび謀叛を起こすが、そのたびに許されて帰参した。 0245 柿崎 景家 弓 越後 統智政 1171 1281 1392 14103 (1513-1575)上杉家臣。主君・謙信に「越後七郡で彼にかなう者はなし」と評された家中随一の猛将。上杉軍の主力として活躍したが織田信長への内通疑惑により殺された。 0246 新発田 綱貞 騎 越後 統智政 742 853 964 1075 (1512-1561)上杉家臣。新発田・五十公野城主。伯耆守と称した。上条定憲が長尾為景と戦った乱の際は、はじめ長尾方に属したが、のちに上条方に転じて長尾軍と戦った。 0247 新発田 長敦 弓 越後 統智政 532 643 754 865 (1538-1580)上杉家臣。新発田・五十公野城主。綱貞の子。上条定憲の乱が終息したあと、上条方国人の長尾家への帰参を斡旋した。御館の乱の際には上杉景勝に属した。 0248 吉江 宗信 騎 越後 統智政 422 533 644 755 0249 吉江 景資 弓 越後 統智政 632 743 854 965 (1527~1582)上杉家臣。謙信の旗本として、関東や越中を転戦。謙信の死後は景勝に属し、越中魚津城在番を務める。柴田勝家の越中平定軍と戦い、善戦するも敗死した。 0250 直江 兼続 騎 越後 統智政 6612 7713 8814 9915 (91)包囲上手(86)大規模陽動(16)直江の仁義 (1560-1619)上杉家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の評価は高く、陪臣ながら出羽米沢30万石を領した。関ヶ原合戦の際は西軍に属し、徳川家康に「直江状」を送った。 0251 長尾 景虎 騎 越後 統智政 1181 1292 13103 14114 (76)騎兵突撃(98)士気回復(15)軍神光臨 (1530-1578)越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。 上杉 謙信 統智政 1494 15105 16116 16127 (76)騎兵突撃(89)カリスマ(15)軍神光臨 0252 安田 景元 弓 越後 統智政 231 342 453 564 (1514-1563)上杉家臣。安田城主。上条定憲の乱の際は長尾為景に従い活躍した。北条高広が主家に背いた際は、これを直江景綱に報じ、主君・謙信に従って高広と戦った。 0253 宇佐美 定満 槍 越後 統智政 1143 1254 1365 1476 (88)魅力(93)完全包囲(17)ウサ耳援護 (1489-1564)上杉家臣。越後流軍学の祖という。上条定憲の乱の際は上条方に属すが、定憲の死後、帰参。国政に参画するなど活躍したが、長尾政景と舟遊び中に溺死した。 0254 斎藤 朝信 騎 越後 統智政 643 754 865 976 (1527-1591)上杉家臣。川中島合戦や唐沢山城攻めなどで活躍し「越後の鐘馗」の異名をとった。御館の乱では上杉景勝に属す。私欲なく、行政にも優れた手腕を発揮した。 0255 大熊 朝秀 弓 越後 統智政 216 327 438 549 (1517-1582)長尾家臣。箕冠城主。主君・景虎の側近として政務に参画した。景虎の出家騒動に乗じて謀叛を起こすが敗れる。以後は武田家に仕え、甲斐天目山で戦死した。 0256 山本寺 為常 槍 越後 統智政 542 653 764 875 0257 山本寺 定長 騎 越後 統智政 532 643 754 865 0258 長尾 房長 槍 越後 統智政 232 343 454 565 (1488-1552)長尾家臣。魚沼郡上田荘を領した。上条定憲の乱に呼応し主家に敵対する。しかし定憲の戦死、越後守護・上杉定実の死去により劣勢となり、主家と和睦した。 0259 長尾 政景 騎 越後 統智政 422 533 644 755 (1526-1564)上杉家臣。房長の子。父とともに主家に敵対するが和睦し、主君・景虎の姉を娶った。その後は景虎を補佐して活躍するが、宇佐美定満と舟遊び中に溺死した。 0260 神保 長職 弓 越中 統智政 232 343 454 565 (1505-1572)越中の豪族。富山城主。神保家を越中最大の勢力に築き上げるが、上杉謙信に敗れ、降伏した。のちに意見の対立により家中が分裂し、再び神保家は衰退した。 0261 水越 勝重 弓 越中 統智政 125 236 347 458 (1513-1577)神保家臣。富山城や滝山城の築城に携わった。主家衰退後は一向一揆とともに上杉謙信と戦うが敗れ、一揆勢の首謀者を捕らえて上杉軍に降伏し、助命された。 0262 神保 職広 騎 越中 統智政 111 211 321 432 0263 椎名 康胤 弓 越中 統智政 321 432 543 654 (1499-1576)越中の豪族。松倉城主。上杉謙信の従兄弟・長尾景直を養子とし、謙信と結ぶ。しかし、のちに武田家と結んだため、謙信に攻められて敗れ、戦死したという。 0264 天平寺僧兵衆 槍 越中 統智政 111 211 321 432 0265 斎藤 利基 騎 越中 統智政 122 233 344 455 0266 畠山 義遠 弓 能登 統智政 111 222 333 444 0267 長 続連 弓 能登 統智政 532 643 754 865 (????~1577)畠山家臣。義続以降の4代に仕える。畠山七人衆の1人として政務を遂行。上杉謙信が能登に攻めてきたとき、遊佐氏が謙信に内通したため、殺害された。 0268 遊佐 続光 弓 能登 統智政 223 334 445 556 (1527-1581)畠山家臣。温井家との政争に敗れて出奔するが、和睦して帰参する。のちに上杉家に通じて能登を治めるが、織田家の台頭により逐電し、捕縛され斬首された。 0269 温井 総貞 槍 能登 統智政 147 258 369 4710 (1491-1555)畠山家臣。和歌に造詣深く、主君・義総の寵愛を得る。遊佐家を倒して主家の実権を握り、領内の動揺を招く。のちに権力奪回を目指す主君・義綱に殺された。 0270 温井 続宗 騎 能登 統智政 123 234 345 456 (1511-1560)畠山家臣。総貞の子。父を軍事面で補佐し、温井家を家中最大の勢力に発展させた。父が主君・義綱に殺されたあと、一族とともに謀叛を起こすが、敗死した。 0271 畠山 義続 弓 能登 統智政 112 213 324 435 (1518-1590)能登守護。義総の嫡男。相次ぐ内乱で権力を失い、重臣の台頭を許す。子・義綱と協力して実権を回復するが、のちに重臣たちに反発され、能登を追放された。 0272 畠山 義綱 槍 能登 統智政 313 424 535 646 (1536-1593)能登守護。義続の嫡男。父とともに実権の回復に尽力するが、重臣らに追放されて失敗に終わる。その後、何度も能登入国を試みるが、すべて失敗に終わった。 0273 津幡 門徒宗 騎 加賀 統智政 211 311 411 522 0274 広瀬 貞清 弓 加賀 統智政 111 211 322 433 0275 金沢 坪坂衆 槍 加賀 統智政 421 532 643 754 0276 赤野井 慶信 騎 加賀 統智政 211 321 432 543 0277 下間 頼照 弓 加賀 統智政 127 238 349 4510 (1526-1575)本願寺の坊官。法主・顕如の命で越前の一向宗門徒を指導し、織田信長を苦しめた。のちに信長が比叡山や長島と同じ焦土化作戦をとったため敗北、殺された。 0278 七里 頼周 槍 加賀 統智政 644 755 866 977 (1517-1581)加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。 0279 若林 長門守 騎 加賀 統智政 422 533 644 755 0280 松任 門徒衆 弓 加賀 統智政 411 511 611 722 0281 舟岡 山内衆 騎 加賀 統智政 211 311 411 522 0282 鈴木 重泰 弓 加賀 統智政 622 733 844 955 (1541-1580)紀伊雑賀の鈴木家の一族という。本願寺から加賀に派遣され、鳥越城を築いて加賀の一向宗門徒を指導した。のちに柴田勝家に討たれ、首級は安土に送られた。 0283 富樫 晴貞 槍 加賀 統智政 111 222 333 444 (1516-1570)野々市城主。稙泰の子。父が享徳の錯乱により能登に逃れたあと、家督を継ぐ。織田信長の越前侵攻軍に通じたため、一揆勢に居城を攻撃され敗北、自害した。 0284 大聖寺門徒宗 槍 加賀 統智政 211 311 411 522 0285 堀江 景忠 弓 越前 統智政 433 544 655 766 (1527-1576)朝倉家臣。各地で功を立てるが、謀叛疑惑により能登に退去させられる。織田家に通じて本領を回復するが、一向一揆討伐の恩賞に不満を表したため殺された。 0286 堀江 景逸 騎 越前 統智政 322 433 544 655 0287 堀江 景利 弓 越前 統智政 322 433 544 655 0288 豊原 僧兵衆 騎 越前 統智政 211 311 411 522 0289 鳥居 景近 槍 越前 統智政 674 785 896 9107 (68)突撃(72)一番槍(70)統率号令 (????~1573)朝倉家臣。織田信長の越前侵攻で、景鏡が信長と通じて裏切り、賢松寺を攻めると、景近は景鏡の軍勢と戦った後、寺に戻り義景の介錯を務めた後に自害した。 0290 朝倉 義景 弓 越前 統智政 212 323 434 545 (94)無気力(87)虚報(95)愚将号令 (1533-1573)朝倉家5代当主。孝景の嫡男。将軍・足利義昭と結び織田信長包囲網の一角を担うが、次第に勢威を失う。刀禰坂合戦で敗北を喫し、一族に背かれて自害した。 0291 朝倉 景健 弓 越前 統智政 433 544 655 766 (1536-1575)朝倉家臣。景隆の子。姉川合戦では朝倉軍の総大将として奮戦。主家滅亡後は織田信長に属すが、一向一揆に降伏したため、信長の怒りを買い自害させられた。 0292 朝倉 景連 槍 越前 統智政 444 555 666 777 0293 山崎 吉家 弓 越前 統智政 621 732 843 954 (????~1573)朝倉家の臣。朝倉宗滴に従って一向一揆を鎮圧した。織田家と戦い、織田信治、森可成を討ち取った。朝倉義景の殿軍を務め、退却中戦死した。 0294 真柄 直隆 騎 越前 統智政 851 961 1071 1182 (1536-1570)朝倉家臣。弟・直澄とともに家中随一の剛勇の士として名を馳せる。姉川合戦で味方兵が敗走する中、徳川軍を相手に奮戦するが、子・隆基とともに戦死した。 0295 青木 景康 槍 越前 統智政 256 367 478 589 0296 印牧 美満 騎 越前 統智政 323 434 545 656 0297 前波 景定 槍 越前 統智政 322 433 544 655 0298 河合 吉統 槍 越前 統智政 422 533 644 755 (1521-1573)朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参画したほか、浅井家救援のために近江に出陣するなど活躍した。刀禰坂合戦において、織田軍に討たれたという。 0299 朝倉 景鏡 弓 越前 統智政 11110 21211 31312 41413 (97)愚かな蔑み(96)愚かな妬み(95)愚将号令 (????~1574)朝倉家滅亡時に、従兄弟である主君・義景を裏切って自害に追い込んだ。その功によって本領を安堵されるが、一向衆に攻められて敗死した。 0300 朝倉 宗滴 槍 越前 統智政 12119 131210 141311 151412 (91)包囲上手(70)統率号令(36)冷静な鎮圧 (1477-1555)朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめた。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。 0301 朝倉 景紀 騎 越前 統智政 322 433 544 655 (1503-1572)朝倉家臣。朝倉家3代当主・貞景の子。朝倉宗滴の養子となる。敦賀城主を務め養父とともに加賀や若狭、近畿などを転戦し活躍した。のち敦賀郡司となった。 0302 粟屋 勝久 騎 若狭 統智政 323 434 545 656 (1523-1585)若狭武田家臣。国吉城主。のち織田信長に属して各地を転戦する。旧主・元明が蟄居させられた際は、赦免を信長に嘆願した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。 0303 武田 元光 弓 若狭 統智政 111 222 333 444 (1494-1551)若狭守護。後瀬山城を築き居城とする。管領・細川高国の要請により上洛するが三好・柳本軍に敗れ、将軍・足利義晴を奉じて近江に逃れた。和歌に優れた。 0304 武田 信豊 槍 若狭 統智政 122 233 344 455 (1514-1566)若狭守護。元光の子。細川晴元に協力して三好長慶と戦うが、家臣・粟屋右京亮を失う。のちに子・義統と不和になり近江に逃れるが、和議成立後に帰国した。 0305 武田 義統 騎 若狭 統智政 211 322 433 544 (1526-1580)若狭守護。信豊の子。父と和睦したあとに家督を継ぐ。のち義弟・足利義昭が頼ってくるが、内紛が相次いでいたため、義昭を奉じての上洛は果たせなかった。 0306 逸見 民部 槍 若狭 統智政 111 221 332 443 (1532-1581)若狭武田家臣。高浜城主。逸見家は若狭武田家の庶流。織田信長の若狭侵攻軍に降り、各地を転戦した。その功により、旧領を安堵され、3千石を加増された。
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2011年4月放送開始のアニメ[ C ]THE MONEY OF SOUL AND POSSIBILITY CONTROLのまとめwikiです。 STORY 『C』――それは未来を燃やす言葉。 西暦20XX年、日本――。 巨額の財政赤字を抱え、末期的な危機が叫ばれていた日本経済であったが、政府系金融機関ソブリン・ウエルス・ファンドの登場により、奇蹟とも言える財政再建を実現させていた。 時の総理大臣は、日本の財政健全化と経済の復活を宣言、名宰相として世界中の注目を一身に浴びていた。 舞台は東京都国分寺市。 或る日、平成経済大学・経済学部に通う大学生・余賀公麿の前に、怪しい男が現れる。 「貴方の未来の可能性を担保に、お金をお貸しします。そのお金を、貴方の才覚で運用してみませんか?」 その日から、主人公・公麿の運命は大きく変わってゆく…。 ――変わりゆく、世界。 買い戻せ、未来。 2ch現行スレッド 【ノイタミナ】 C 資産33億円 【CONTROL】http //yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/anime2/1313591065 関連サイト 公式サイト mixiコミュ(各キャラコミュリンク有) バンク・オブ・ミダス 資産運用の手引き(バトルのルール) 金融街で稼ぐ方法 基本編(バトルのルール) 椋鳥ギルド会員規約 放送情報 平成23年(2011年)4月14日(木)よりフジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送開始。 地域 放送局 日時 開始日 備考 関東広域圏 CX (フジテレビ ) 毎週木曜日 24時45分~ 4月14日~ 関西広域圏 KTV (関西テレビ) 毎週火曜日 25時58分~ 4月19日~ 中京広域圏 THK(東海テレビ) 毎週木曜日 26時05分~ 4月21日~ 山形県 SAY(さくらんぼテレビ) 毎週土曜日 25時05分~ 4月30日~ 日本全域 On Demand 毎週金曜日更新 4月15日~ 日本全域 BS-CX (BSフジ) 毎週土曜日 25時30分~ 5月21日~ 制作陣 監督 中村健治 シリーズ構成 高木登 副監督 松尾慎 キャラクターデザイン mebae 演出協力 地岡公俊 総作画監督 橋本敬史、高田晃 美術監督 西俊樹 コンセプチャルデザイン さとうけいいち 美術設計 谷内優穂 CGディレクター サトウユーゾー 色彩設定 永井留美子 音楽 岩崎琢 撮影監督 高橋賢司 音響監督 長崎行男 編集 西山茂 音響制作 マイルストーン音楽出版 制作 「C」製作委員会 アニメーション制作 タツノコプロ キャスト 余賀公磨 内山昂輝 真朱 戸松遥 三國壮一郎 細見大輔 Q(キュー) 後藤沙緒里 真坂木 櫻井孝宏 生田羽奈日 牧野由依 ジェニファー・サトウ 浅野まゆみ 井種田 三ツ矢雄二 宣野座功 柿原徹也 竹田崎重臣 菊池正美 主題歌 オープニングテーマ「マトリョーシカ」 作詞 - 光村龍哉 / 作曲 - 坂倉心悟 / 編曲・歌 - NICO Touches the Walls エンディングテーマ「RPG」 作曲 - 内村友美・江口亮 / 作詞 - school food punishment・江口亮 / 編曲 - 江口亮 歌 - school food punishment 各話リスト 話数 サブタイトル 脚本 絵コンテ 演出 作画監督 第1話 complication(複雑) 高木登 中村健治地岡公俊 柳屋圭宏 武藤和浩 第2話 coincidence(暗合) 松尾慎 土屋康郎 羽野広範、斉藤和也伊藤真奈美 第3話 conspiracy(陰謀) 地岡公俊松尾慎 政木伸一 菱沼祐樹 第4話 conversion(転換) 寺東克己 大野和寿 渡辺奈月中谷友紀子 第5話 cultivation(修練) 杉原研二 仁賈緑朗 柳瀬雄之 Kim,yong-sikLee,min-bae 第6話 conflict(葛藤) 大西信介 小林寛 工原しげき、中野りょうこ伊藤良太 第7話 composition(組成) 高木登 数井浩子 土屋康郎 江古田とまり、都竹隆治田中直樹、安藤義信城前龍治 第8話 confidence(信用) 杉原研二 木村延景、鈴木清祟羽多野浩平 木村延景 菱沼祐樹武藤和浩 第9話 collapse(破綻) 大西信介 大塚雅彦 鈴木清崇 中谷友紀子、田中直樹渡辺奈月 第10話 collision(衝突) 杉原研二石川学 仁賈緑朗 政木伸一、末田宣史松尾慎 Kim,yong-sik 第11話 control(未来) 高木登 地岡公俊、松尾慎波多野浩平、柳屋圭宏中村健治 柳屋圭宏、大野和寿中村健治 橋本敬史、石原恵治渡辺奈月 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 無料で会員登録できるSNS内の@wiki助け合いコミュニティ @wiki更新情報 @wikiへのお問合せフォーム 等をご活用ください
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リュナン・ヴァルス連合がグラナダで篭城する前、ロファールが率いるウエルト王国を中心とした西部諸侯連合軍は大陸で一、二を争うほどの要害・バルト要塞へ向けて進軍していた。その中には後にリュナン、セネト、ホームズと並んで英雄と称されたマールの獅子王子リチャードの姿があった。しかしマール軍のほとんどは父の遺臣ばかりで構成されていてマール軍の指揮官であり自己主張の強いリチャードと配下の武将との衝突は絶えなかった。彼らがリチャードと共にしているのはその戦の上手さによるところが大きい。つまりリチャードにとって一度の戦敗が全てを失うことになるのかもしれないのだ。そしてリチャードにとってこの戦いは彼の人生で最大の試練とも言えよう。そしてリチャードはこの試練に敢然と立ち向かったのである。しかし重臣達は彼のそんな決意を知る由もなく、ただ出世のために総司令官ロファールに何とか気に入られようとしているのだった。これが後に人間不信の性格、よく言えば、慎重な性格を植え付けることとなるのは言うまでもない。 しかし時はそんな決意をしたリチャードに天運を呼び込むことはなかった。イストリアの内応を知り、迅速にバルト要塞を落とした連合軍であるが、総司令官ロファールの読みが最悪の方へと転がってしまい、エルンスト率いる帝国軍とギュネス・ロナルド親子の率いるイストリア軍に挟撃されてしまう。そして真っ先にこの挟撃を受けたのがマール軍だった。結束は皆無とさえ言われた当時のマール軍は予想以上の善戦をする。合戦になるとやはり血が騒ぐのか、マール軍の将はリチャードの采配に従って、彼の手足のごとく動き出したのだ。それでもやはりロファールのご機嫌取りに行っている者もいて、戦える兵は従来の半分でしかなかった。マール軍はまず陣容をよく知っているイストリア軍への攻撃を始めた。もちろんその際、帝国軍の攻撃を背後から受けるが、背に腹は変えられずにいた。マール軍の戦上手はリーベリアでも有名なのか、4倍のイストリア軍と同等の戦いをしていた。これでもし先ほどロファールのご機嫌取りに行っていた将の部隊が戻っていれば、イストリア軍を破っていて窮地を脱していたかもしれない。しかし西部諸侯連合の盟友であり、マール軍の側面を守らせていたノール軍が壊滅して、勢いに乗るイストリア別働隊に横腹を貫かれ、これでマール軍は大混乱に陥った。さすがのリチャードも負けを感じたのか、周囲にいる兵をまとめてイストリア軍に突撃した。もちろんこれを切り開いて血路を開くためである。リチャードの周りにいた兵は彼のために命を賭して主君のために戦い、ついに血みどろのバルト要塞からの脱出に成功する。しかしすでにリチャードの周りには彼の唯一の理解者であるロレンス将軍と5人の供しかいなかった。そしてこれがリチャードにとって全てを失った瞬間でもあった。彼の所領だったマールはバルト戦役に勝ったイストリア軍によって制圧されたが、落城までにリチャードがマール王城に現れることはなかったという。 マール落城から数日、西部諸侯連合は少ない兵で、マールを吸収したイストリア軍と決死の攻防を繰り返していた。有力な指導者がいない西部諸侯連合からすれば侵攻を許していないと言うことは奇跡的である。そしてこのとき、誰もがマール王国の存在を実感したのである。今までは言うまでもなく、西部諸侯連合の玄関的役割を果たしていたマールは交通、戦略上のどちらにおいても重要な位置であった。そこを治めるマール王国は幾度もイストリアと和戦を繰り返していたが、戦時下には西部諸侯連合のほとんどは見知らぬふりをしていて、援軍を送ろうとはしなかったのである。それはマールの豊かさをねたんでの行為であった。しかし歴代のマール王はそれをとがめようとはせずにあたかも当然のように幾度もイストリアから西部諸侯連合を守っていた。それはリチャードにも受け継がれていたが、さすがに帝国とイストリアでは今までの慣習では辛かった。それから西部諸侯連合はマールが滅亡して、ようやくその存在の意味の大きさを知るのだった。西部諸侯連合は今、英雄を求めていた。しかしマールの獅子王子リチャードは相も変わらず行方をくらませている。そしてこのリチャードが運命の出会いを果たすのはもう少し後のことである。
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瑞州合衆国連邦の歴史 (ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのれきし)では、瑞州合衆国連邦の歴史について述べる。 瑞州の黎明期 丹朝八洲 東西朝時代 東丹朝八洲・西丹朝八洲 五朝夷戎 潘朝八洲 潘朝継承戦争 柴朝八洲 濃尾の乱 南北朝時代 単朝弖南 八重尾朝瑞洲 嶺山の陣 沢谷合戦 封建制 豊川幕府 小井戸朝井 保坂朝井 御宿朝瑞洲 笠置幕府 前史 前期笠置時代 中期笠置時代 後期笠置時代 共和制への移行 東西戦争 開戦 西部戦線 東部戦線 終戦 帝国主義 瑞州内戦 瑞州の黎明期 古くから倭語→日本語を使用してきた。 約1万2千年前の氷河期の終わり頃、瑞州の地には、日本列島から島伝いに太平洋を渡って東進してきた日本人の1グループ( 先瑞洲人 )がいた。彼らは大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象とし生活していた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って彼らもキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた( 狩猟時代 )。しかし紀元前8世紀ごろ、彼らは鉄器の製造を軸として力を蓄え、移住生活でなくても定住で生活が可能な生活にシフトしていった。その中で、血縁関係にある者たちが集まって「村」を作り、やがてはほかの村と争って支配下に加えることが多くなった(鉄器時代)。また、紀元前5世紀から6世紀頃、中国大陸から渡来してきたグループが漢字を伝えたため、土器~鉄器時代の記録を漢文を用いて後世に残している。また、中国大陸や日本列島からやって来る者は多く、漢字や瑞州語(日本語)は中国本土や日本列島と同等の進化を遂げることとなった。これは 渡洋文明 と呼ばれる。 しかし、村が巨大化するにつれて、住人の統率は難しくなっていったようで、ついには同じ村・民族同士でも争ってしまうような時代に突入した(紀元前2世紀頃)。ここで勝利した者を頂点として、その者が指導する「洲(読みはクニ)」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に各地に形成されていった。 1世紀・2世紀前後に各洲が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも、8つの洲で構成される八洲政権が最も有力であり、これが王朝に発展したとする説が有力である。3世紀ごろに、八洲政権の首長(王)は豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。この時期に、瑞州語を操り、瑞州地域の中央辺りに住む 八洲人 としての自覚が次第に芽生えたとされる。 丹朝八洲 丹朝 Tan dynasty 首都 豊都(遠淡海州豊比市)丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 225年 - 261年 黎文斌(開世帝) 298年 - 299年 幽縦帝 建国 225年 別称 丹、大丹、古瑞洲 国姓 黎 丹朝の始まりは黎文斌である。彼は八洲政権を構成していた8つの洲(黎洲、季洲、吽洲、沙洲、潘洲、駿洲、信洲、陸洲)を支配していた豪族全ての血を引く人物であり、豪族たちの合議により八洲政権の首長となった。これより以前は八洲政権は豪族たちの合議により政治が為されていたが、黎春光以後は彼の血筋の者が首長として政治を執り行うようになった。二代目の黎雅嘉は「八洲」の国号、「王」号に代わる「皇帝」号を設定した。これは対外的な権威付けであると考えられる。この後、黎文斌には開世帝の諡号が贈られた。 丹の王朝名は黎文斌の出身地である黎洲丹羽郡にちなむ。これは現在の尾治州扶桑市に相当する。 丹朝は地方豪族と中央の王(黎氏)による緩やかな連合体であったため、支配地域は現在の北西地方や中央地方の一部に限られ、全国的な統一政権とはならなかった。瑞州南東部にはテオティワカン文明やオルメカ文明、マヤ文明の勢力がおり、彼らは弖南(てなん)、織売(おるめ)、合罕(かあん)の王朝を創始して丹朝に対抗した。また瑞州北西部には遊牧民族であるチチメカ族(玄鷲、げんしゅう)がおり、これも丹朝に対抗した。沖思帝の時代には南部の潘洲や沙洲が陥落し弖南の攻勢にさらされたため、豊都から丹城に遷都されている。丹城が選ばれた理由は、かつて黎洲の都であったからである。 八洲政権→丹朝 黎文斌(開世帝、225~261):各州の抗争を鎮圧し、丹朝を打ち立てた建国者である。 黎雅嘉(定道帝、261~284) 沖思帝(284~295) 礼熙帝(295~298):乙卯の乱(295~299)により実弟の幽縦帝に王位を追われてしまう。 幽縦帝(298~299):乙卯の乱(295~299)により実兄から王位を奪うものの、後に礼熙帝に敗北し、地方へ落ち延びる。 東西朝時代 乙卯の乱により皇帝を名乗る者が二人出現し、それぞれが国を東西に二分(東丹朝、西丹朝)したため、東西朝時代と呼ばれる。 東丹朝八洲・西丹朝八洲 東丹朝 Totan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 300年 幽縦帝 建国 299年 別称 東丹、東洲 国姓 黎 西丹朝 Seitan dynasty 首都 丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 321年 礼熙帝 建国 299年 別称 西丹、西洲 国姓 黎 乙卯の乱で敗走した幽縦帝はかつての丹の都である豊都に辿り着き、ここを本拠地として礼熙帝の軍に対抗した。勢力に劣る幽縦帝は圧政を敷き民衆からの反感を買ったが、弖南や織売、合罕の三国に贈り物をするなどの懐柔策を用い、後顧の憂いを断った(蛮丹の盟)。しかしながら305年、その圧政についに民衆の不満が爆発し、豊都の乱で幽縦帝やその長男は殺害され、後継者争いの火種となるのを避けるために幽閉されていた次男が帝位を継いだ。これが文賢帝である。文賢帝やその息子の凱介帝は善政を敷き、国を安定化させた。 一方西丹は、礼熙帝も誠崇帝も最初から善政を敷いていた。しかし霊繆帝は暗愚であり、放蕩生活に溺れた末、341年には玄鷲との戦いに敗れて戦死した。残された哀懐帝はまだ10歳と幼く、東丹の首脳部は西丹に和平交渉を持ちかけるも断られた。翌342年、ついに東丹が西進を開始し、丹城はあっけなく陥落して西丹は滅亡した。この際、礼熙帝統の皇族は皆殺しにされた。 こうして東丹は悲願の両朝統一を成し遂げたが、北西部には未だ玄鷲の勢力が残っており、凱介帝自身も345年に勢力争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、統一期間はたった3年で終わった。 東丹 幽縦帝(299~305):東丹(幽縦帝統)の祖。 文賢帝(305~321) 凱介帝(337~345) 西丹 礼熙帝(299~321):西丹(礼熙帝統)の祖。 誠崇帝(321~337) 霊繆帝(337~341) 哀懐帝(341~342) 五朝夷戎 東丹が勢力争いで凋落すると、各地の有力者たちが活気づいて地方国家が分立した。玄鷲は、東丹の滅亡と時を同じくして西部に勢力を持つ鷲戎(じゅじゅう)、北東部に勢力を持つの玄夷(げんい)の二つに分裂し、またそれぞれが次第に八洲人と同化していった。南では特に力を持った五朝が分立し、北では鷲戎と玄夷が勢力を持っていた時代を、東西朝時代の中でも特に 五朝夷戎時代 と呼ぶ。なお、弖南や織売、合罕の南東部三国は南蛮と呼ばれ、東五朝の内に入らない。 東五朝、およびその従属国家 国名 姓氏 領地 備考 先衛(せんえい) 白姓衛氏 静駿州の一部、重賀州の一部、紀山州の一部 後の「衛」と区別するため先を付けて呼ばれる。 白姜(はくきょう) 姜氏 先衛に従属 鄭(てい) 鄭氏 先衛に従属 朱参(しゅさん) 朱姓洪氏 遠淡海州南部、近海州の大半 蔡栄(さいえい) 隗姓蔡氏 朱参に従属 南宮(なんきゅう) 南宮姓 朱参に従属 朱単(しゅぜん) 朱姓 朱参に従属 梁崗(りょうこう) 梁姓馮氏 梁丹(りょうたん) 黎姓 遠淡海州豊比市一帯 梁崗の保護下 大武(たいぶ) 武氏 尾治州大武市一帯 梁崗に従属 林紫(りんし) 万俟姓公氏 西鄭(せいてい) 蒲姓鄭氏 林紫に従属 季潘(きばん) 季姓潘氏 林紫に従属 暁北(ぎょうほく) 許姓江氏 曾師(ぞうし) 戎姓師氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 龍浦(りゅうほ) 戎姓龍氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 玄石(げんごく) 玄姓石氏 暁北に従属。元は玄夷族貴族 鍾諏(しょうしゅ) 鍾氏 暁北に従属 西朝 国名 氏族 領地 備考 木曾(きそ) 鷲戎族 中濃州木曾市一帯 東朝文化に迎合した鷲戎系貴族が八洲人化して建てた国家。 鳴波(めいば) 玄夷族 波島州一帯 東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化して建てた国家。 潘朝八洲 潘朝 Pan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 408年 - 413年 潘国亮(雍宣帝) 471年 - 499年 孝哲帝 建国 406年 別称 潘、大潘、古瑞洲 国姓 潘 潘氏のルーツは玄夷族の地方貴族にまで遡るとされ、明確に記録上に現れるのは五代目とされる潘雲紀からである。鳴波国において、潘雲紀は軍の武将としての扱いを受けていたが、同時に野心高い人物でもあったようで、巧みな謀略を駆使してついには鳴波皇族の外戚にまで上り詰めた。その後彼は敵対勢力の放った刺客に暗殺されるも、その息子である潘国亮もやはり野心高く、鳴波に反旗を翻して独立。400年に潘の建国を宣言し、その二年後には鳴波を滅ぼした。 この新興勢力に対し五朝や木曾は警戒の色を強め、藍帆などによる連衡策(五朝および木曾を横に束ね、北の脅威である潘に対抗する)などが提唱された。一時は対潘大同盟が結成される事態となり潘は窮地に陥るも、潘国亮は宰相・胡又儒が提唱した合従策(潘と五朝・木曾で個別に同盟を結び、縦に連結する)を取り入れ、ピンチを乗り切った。その後潘国亮は国家を挙げて南下を開始し、五朝の一つである梁崗の保護下にあった丹朝の末裔国家・梁丹国および豊都を支配下に置くと、丹朝皇族家の末代である黎宜雅から禅譲を受けて雍宣帝として即位した。これを以って 潘朝八洲 が成立したと見なされるが、かつての丹朝の支配領域を再統一するまではこの後も数年掛かっている。 成立当時の八洲政権や丹朝、そして潘朝の支配地域は、現代瑞州の全域に及ぶものでなく、北西や南東などはまだ領域外だった。しかし南東の弖南や織売に対しては、紀元5世紀頃に潘朝による征服がなされ、支配下となった。特に5世紀前半は、北米・南米遠征も計画され、実際に侵攻が行われる(北狄・南蛮征伐)など帝国としての対外志向が強まった時期だが、5世紀中盤に入り、こうした動きも沈静化した。 八洲は5世紀前半から中華の法体系・社会制度を急速に摂取し、古代の中央集権国家としての完成を見た。 一方で、八洲は潘朝の統治下で安定したかのように思われたが、第三代皇帝である孝哲帝が後継者を決めないまま厠で急死したために、各地の領主たちが自らに都合の良い皇族を担ぎ上げて皇帝に推挙するお家騒動が勃発。やがては武力抗争にまで発展し、 潘朝継承戦争 が始まる。 潘朝継承戦争 後継者として有力と見られていたのは孝哲帝の弟である潘博然であり、博然のもとには豪氏や郭氏といった氏族が集まっていた。しかし豪氏と並ぶ有力氏族である秦氏は孝哲帝の外戚である黄鵬を推薦し、意見を異とした両勢力は武力に訴えた。 当初こそ潘博然の側が優勢であったが、450年に彼が急死(急性アルコール中毒と言われる)すると、その勢いは衰えた。翌年に黄鵬は即位を宣言したが、国号を「黄」に変え、継承戦争に功績のあった諸侯に封土を与えた上で、丹朝のような合議体による理想政治を目指したため、中央集権を理想とする秦氏の造反を招いた。このため、黄鵬は潘朝の皇帝と見做されていない。 一方で、孝哲帝の第二皇子である潘江春は、鎮北将軍として八洲北部防衛の任に当たっており、懐柔のために鷲戎族の貴族の娘と結婚し、姓を柴に変えていた。継承戦争勃発直後は北走した木曾国の残党(北曾)と戦っており、候補として名前を挙げられることはあっても、とても後継者争いに口を出せる状況ではなかった。459年に彼が戦死した後も嫡子の柴子良が引き続き任務に当たっていたが、467年に玄夷を鎮圧すると、黄鵬や秦氏に反発する豪氏や郭氏から皇帝候補として担ぎ出され、継承戦争に参戦した。 潘朝八洲 潘国亮(雍宣帝、408~413):東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化した氏族の出身とされる。 粛武帝(413~437):南方や北方の異民族を攻め滅ぼしたり屈服させる。 孝哲帝(437~445):後継者を決めないまま急死した。 柴朝八洲 柴朝 Sai dynasty 首都 中城(常陸中州荊城市) 公用語 古瑞州語 皇帝 471年 - 480年 柴子良(明寧帝) 608年 - 610年 孝哲帝 建国 551年 別称 柴、大柴、古瑞洲 国姓 柴 継承戦争を終結させた柴子良は、潘朝が首都としていた豊都に入京すると、471年に即位した。 これまでの王朝である黎や潘は中華に大きく影響を受けた統治システムや社会文化であったのが、柴の翼公帝が即位した頃から次第に中華文化との剥離が著しいものとなり、人名なども瑞州独自のものとなっていった。 濃尾の乱 六代目皇帝・干虚帝は非常に愚鈍で好色な皇帝であったと伝えられる。国中の美女を集めては王宮で侍らせており、臣下に讒言する者があれば自ら手討ちにするか、そうでなければ無実の罪を着せて処刑するなど、恐怖政治を敷いた。一方で対外戦争に関しては「天賦の才」を発揮したとされ、潘朝継承戦争にどさくさに紛れて八洲支配下から独立していた弖南や織売に侵攻、これを支配領域に取り戻した。戦後の論功行賞により封土を加増された地方豪族も多くいたため、臣下の間では不満こそ溜まっていったが、それが大爆発を起こすような事態にはならなかった。 しかし、干虚帝が崩御し次男の元章帝が即位すると事態は一変した。元章帝の異母兄で長男の柴道成は、父の干虚帝に讒言したことと、母の身分が低いことで皇位継承順では下位に位置していたが、長幼の序を理屈として自身が皇帝になるべきと主張。それに賛同する名門の衛氏(尾治)や真浦氏(信濃)などを中心とする諸侯と共に蜂起し、609年2月に 濃尾の乱 が勃発した。 また、元章帝は父親の政治を反省し、荒廃した国内を立て直すために中央集権化を推し進めようとしていたのだが、その中に「諸侯の封土削減・皇帝直轄領の増加」という政策が含まれていたため、諸侯たちが反発したのも乱の原因であった。これらの政策は一般庶民たちからは支持を得たものの、諸侯たちにとっては不愉快なものであったのだ。 609年12月7日、柴軍は道成軍を急襲し、総大将の道成を殺害する(飯田の戦い)。しかし諸侯たちは新たに、衛氏の当主である衛士門を総大将とし、再び柴軍に挑んだ。戦上手として知られた衛士門の指揮に、柴軍は敗北を重ね、610年10月24日には鹿児島の戦いで柴軍が殲滅され、元章帝は戦死。残された皇族たちも捕縛・処刑され、ここに柴朝は滅亡した。 仲朝八洲 柴子良(明寧帝、471~480) 翼公帝(480~497) 和厚帝(497~508) 礼理帝(508~539) 安高帝(539~572) 干虚帝(572~577):悪政により求心力を失う。 元章帝(577~610):治世の末期に濃尾の乱が発生、衛氏・真浦氏連合軍に敗北し、殺害される。ここに柴朝は滅亡する。 南北朝時代 柴朝が滅亡した後、濃尾の乱で連合を組んだ衛士門・真浦秀志は反目し合い、それぞれが独自に王家の創立を宣言する。611年、衛氏と真浦氏の対立は武力衝突に発展し、庄内川の戦いで真浦軍が衛軍を撃破、衛氏は本拠地であった尾治を失い、南方に逃れることとなる。これを以て真浦氏の建てた北朝(津朝とも)と、衛氏の建てた南朝(衛朝とも)が並立する南北朝時代の始まりであるとする説が一般的である。 真浦氏・衛氏による南北朝並立の時代は30年足らずで終了した。後衛は本拠地や従属していた異民族の領域を失っても、他の氏族と結んだ婚姻関係を軸に良好な統治を行ったのに対し、津の統治は上手く行くことがなく、二代目の皇帝・真浦俊直の死後にさらに十三国に分離した。 南北朝時代 国名 姓氏 領地 備考 後衛 (こうえい) 白姓衛氏 瑞州南部 前の「衛」と区別するため後を付けて呼ばれる。南朝衛とも。 津 (しん) 海姓真浦氏 瑞州北部 海津、大津とも呼ばれる。 八代 (やつしろ) 南宮姓全氏 梨甲州 北朝十三国の一つ。 武江 (ぶこう) 隗姓播野氏 那橡州、埼武江州、神相州 北朝十三国の一つ。 周芳 (しゅうほう) 周姓齋氏 山防州 北朝十三国の一つ。「すわ」とも。 羽州 (うしゅう) 秋姓 秋羽州 北朝十三国の一つ。 楠成 (なんじょう) 成姓鄭氏 濃波州、林播州 北朝十三国の一つ。 常陸(ひたち) 成姓鄭氏 常陸中州、能石州、嶺狭州 通常北朝十三国とは数えられない。のちに鄭橘、嶺に分裂する。 鄭橘 (ていきつ) 成姓鄭氏 常陸中州 北朝十三国の一つ。 嶺 (れい) 干氏 能石州、嶺狭州、波島州 北朝十三国の一つ。 対島 (つしま) 朱姓 岩陸州 北朝十三国の一つ。 武遠 (ぶえん) 武姓杜氏 中濃州、濃前州 北朝十三国の一つ。 高 (こう) 高姓 三勢州、嶋海州 北朝十三国の一つ。 板 (ばん) 板姓城氏 重賀州 北朝十三国の一つ。 淡海 (あわうみ) 冷姓木菱氏 尾治州、遠淡海州、近海州 北朝十三国の一つ。 紀州 (きしゅう) 井姓 紀山州、静駿州 北朝十三国の一つ。 単朝弖南 単朝 Zen dynasty 首都 岡山(吉備作州岡山市) 公用語 弖南語上代瑞州語 皇帝 610年 - 654年 単富賢(忠壮帝) 737年 - 740年 慎舒帝 建国 551年 別称 単、弖南 国姓 単 柴は対外戦争で領土を拡大し、南蛮と呼ばれていた異民族である弖南や織売を従属させ、各地域に督部を置いて彼らを支配していた。しかし濃尾の乱の混乱で、支配地域に置かれていた督部の権力も次第に減衰していた。609年末、備州の弖南族・羅國辰が蜂起し、備州督部を攻め滅ぼすと、弖南国家の再建を宣言した。しかし羅國辰は未だ若く、後継ぎもないままに、翌年正月の酒の席で急死する(死因は急性アルコール中毒とみられる)。困り切った弖南の各族長たちは、羅國辰の従兄であり、勇将の誉れ高かった単富賢を擁立し、皇帝に即位させた。これを以って 単朝 が始まったとみられる。 富賢は国力を温存するために、向かってくる敵には対処するものの、南北朝の争乱で混乱していた八洲への介入は避けていた。また同盟や契約を駆使し、北朝十三国のどれかに力を貸すなどの方針を以って力を伸ばし、次代の誠崇帝の時代、670年代前半には織売や合罕も糾合して一大勢力となっていた。社会基盤も整い、期は熟したと判断した三代目の彭強帝は八洲への侵攻を開始。721年までには南北朝全ての領域が単朝の支配下に入り、八洲は初めて異民族により統一された。 しかしながら八洲人の反抗も根強く、単朝の支配も安定しなかった。729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は武勇で知られ単に忠誠を誓っていた八重尾伸隆を鎮圧に派遣した。一旦は反乱の鎮圧に成功するものの、732年に今度は伸隆が反乱を起こし(単勢戦争)、有効な対処策も見つからないままに単の支配領域はみるみる削り取られ、740年に首都の岡山が陥落。幼少の慎舒帝は行方不明となり、ここに単は滅亡した。 八重尾朝瑞洲 八重尾朝 Yaeo dynasty 首都 鈴鹿(三勢州鈴鹿市) 公用語 瑞州語 皇帝 740年 - 749年 八重尾伸隆 813年 - 839年 八重尾忠隆 建国 740年 別称 瑞洲 国姓 八重尾 北朝十三国の一つ・高の重臣で、数多くの周辺諸国との戦争で武勇を轟かせていた八重尾伸隆は、主君である高一輝の愚鈍を理由に飯高崩れを引き起こす(724年)。一輝は就寝中に襲撃、暗殺された。大河内氏は一輝に嫡子がいなかったため廃絶となり、また裏工作により高の家臣たちの支持も集めた伸隆は高の実権を握った。伸隆は総合的に判断した結果、急速に力を伸ばしてきた単へ歯向かうことは得策ではないと判断し、単へ帰順した。その結果、仁容帝にその武勇の才を見込まれ、伸隆は単の重臣として召し抱えられた。 729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は伸隆を鎮圧に派遣した。許軍や趙軍に対する二方面作戦を強いられ苦戦するものの、伸隆は一旦は反乱の鎮圧に成功する。しかし単の支配能力の低下や腐敗を見て取った伸隆は、今度は自分が単に反旗を翻した(単勢戦争)。八重尾叛逆の報に、仁容帝は驚きのあまり吐血、失神し、そのまま崩御した。次代の逸淵帝は、戦上手で知られる伸隆に対し有効策を取ることができず、瞬く間に支配地域を失っていった。本人も737年に崩御、後を幼子の慎舒帝が継いだものの、単重臣たちにそれを守り立てて単の支配を復活させる力はもう残っていなかった。 740年に単の首都である岡山を攻め落とした伸隆は、皇帝の座に就き(八重尾戴冠)、国号を改称して 八重尾朝瑞洲 帝国を新しく開いた。首都は鈴鹿(三勢州)。「瑞」、つまり天が善政に感じてくだす、めでたいしるしへの期待と、「洲」、多くの「洲(クニ)」が連帯して開かれた王朝であることを示すためにこの国号を設定したと考えられる。またこの頃になると「諡号」の伝統が消失し、皇帝名は「本人の名+帝」で表記されるようになっていった。この時読み方としては、名の部分が全て音読みで読むことが非常に多い(例:八重尾伸隆(やえおのぶたか)→伸隆帝(しんりゅうてい))。 即位後、伸隆帝は次なる標的を、許趙の乱や単勢戦争のどさくさに乗じて独立した小国家群を標的を定めたものの、八重尾朝の勢いを既に知っていた数か国はすぐに降伏した。伸隆帝は戦場での苛烈さや野心の高さ、計算高さとは対照的に、配下に対しては慈悲深い人物でもあり、投降した君主家である城氏と木菱氏らを家臣団に加え入れている。降伏したいずれの主君筋も伸隆帝は厚遇したことから、家臣団の結束力はより強いものとなった。そしてこれは八重尾朝の政権運営の原動力となった他、八重尾朝の重臣格の家は貴族となり、現在でも存続しているような名家となった。しかしながら、降伏を拒んだ国に対しては、伸隆帝は徹底的な制圧戦を展開した。 747年に鄭橘、武遠を滅ぼした伸隆帝は、高くそびえたつ山々に囲まれうかつに手出しのできない後嶺と、未だ統一のされていない北半島地域を天秤にかけ、748年に半島征伐を決意。総動員した船上戦力と、半島の付け根にある梨甲地域を支配する八代を攻め落としてからなだれ込む地上戦力の二軍を分けた伸隆帝は勝利を確信していた。しかし、菊多沖海戦の勝利の報に喜んだのもつかの間、自らも山々に囲まれて飛び出てくることはないだろうと踏んでいた後嶺が侵攻を開始し、波島地方を占拠したという急報が届いた。波島は首都の鈴鹿の目と鼻の先であり、しばし逡巡した伸隆帝は、船上戦力を引き戻して嶺へ急行させるも、749年に後嶺軍と向かい合った御嶽山の陣中にて、風邪をこじらせて没してしまう。遺言通りに帝位と家督を相続した嫡子の芳隆帝は対嶺戦の続行を指示しつつ、八代方面軍の指揮官の真方頼実に和睦を指示。ひとまず北半島への戦役は中止され、帝国は後嶺との戦争に全力を投入することとなる。 嶺山の陣 750年、帝国軍上層部( 幕府 と称される)は集結しつつある全軍を三手に分け、山防方面から嶺狭を攻撃する嶺狭方面軍、常陸中や濃前方面から能石を攻撃する能石方面軍、重賀や三勢方面から波島を攻撃する波島方面軍が編制された。それぞれの方面軍大将には鎮北将軍、鎮西将軍、鎮東将軍の位が与えられ、右藤吉胤・藪上邦茂・衛昌晃の三人が将軍職を拝命した。また、内政統治に忙しい皇帝に代わり、継続して集中的に全軍を指揮できる階位として 征夷大将軍 の位が新設され、大鳥井重輝が大将軍位に就いた。征夷大将軍は幕府のトップであり、軍政・軍略面に関して非常に大きな権限を有していた。 同年十二月、にらみ合いを破り、帝国軍が嶺の勢力範囲に進出するも、後嶺軍は地の利を最大に活かしてこれらを撃退。何度目かの侵攻失敗に際し、一度鈴鹿に帰っていた芳隆から(激励のつもりで)視察を行うという報告を受けた重輝は、皇帝の到着までになんとかして後嶺を攻め滅ぼさないといけないと焦り始め、ついには自身が陣頭指揮を執ると宣言。機動力を重視し、重装備で移動速度の遅い近衛兵の護衛を付けずに出撃するも、後嶺軍伏兵の挟撃に遭い討ち死にを遂げる。後任には木菱宜之が着任した。 木菱はこの時数え年で76歳という高齢であったが、十三国時代を淡海の王として生き抜いてきたその老練的な手腕は衰えを知らず、的確に軍を動かすことで後嶺軍を徐々に後退させた。752年4月、能石を制圧したことで嶺狭・波島で後嶺が分断されてしまい、「帝国内での自治を認めてくれないなら戦うまで」という消極的主戦論を唱える嶺狭の後嶺( 西嶺 )と「帝国の首都・鈴鹿のある三勢まであと少し、攻め込めば勝てる」という積極的主戦論を唱える波島の嶺( 東嶺 )の二つに分かれた。東嶺がこのような主張をしたのは、東嶺の成り立ちとして、もともとは開戦時に嶺本土から出撃して波島を占拠した遠征軍が主体となって統治する軍事国家であったからで、冷静な判断を下せず血の気が盛んだったことによる。東嶺はもとより、瑞洲の中央政権による統一を目指す芳隆としては西嶺の主張も受け入れるわけにはいかず、結局は二つを相手にし戦うこととなってしまった。翌年、三勢から出撃した皇帝近衛軍と鎮東将軍の軍勢の挟撃にあい東嶺は滅亡。残る西嶺もよく抵抗したものの、760年までには降伏した。 8世紀から9世紀にかけて、戦乱に巻き込まれた地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の貴族(公家と呼ばれる)を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く平沢氏と熊谷氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長した。また、武士団の成長に伴い、本来は戦時にのみ設置される最高司令部である幕府が常設となり、そして軍事だけではなく政治にも干渉するようになる。 八重尾朝瑞洲 八重尾伸隆(740~749) 八重尾芳隆(750~758) 八重尾正隆(759~774) 八重尾憲隆(775~812) 八重尾忠隆(813~839) 八重尾朝の幕府 征夷大将軍を最高指揮官とする、帝国軍の最高司令部。748年、八重尾伸隆による第一次北半島戦役の直前の軍制改革によって制度化された。外征時に設置される外征型幕府と、文官(公家)からの出向者が構成人員の多数を占め、平常時の軍政・軍略を司る近衛型幕府の二つに類別される。当初は外征型幕府が非常時に設置されていたが、次第に外征型幕府は常設組織となり、そして近衛型幕府へとシフトしていった。 大鳥居幕府(748~750、外征型):半島征伐のために開かれた司令部で、当初の最高指揮官は鎮西将軍であった。嶺山の陣での制度の変更により、最高指揮官は征夷大将軍となった。 大鳥井重輝(748~750) 木菱幕府(751~762、外征型):大鳥居重輝の討死後、大鳥居家には征夷大将軍になれる人材がいなかったため、後任として着任した木菱宜之によって開かれた。 木菱宜之(751~753) 木菱克之(754~762):西大嶺の降伏後、戦後処理および東大嶺残党の討伐も担当。 木菱頼之(763~774):主君の死に伴って殉死。 木菱輝之(775~780) 第一次奥谷幕府(781~790、近衛型) 奥谷義光(781~785) 奥谷英光(786~790) 神戸幕府(791~793、近衛型):793年、久間田の変によってクーデター計画が発覚。幕府構成人員全員が厳罰を受ける。 神戸克利(791~793):クーデター計画発覚後、八重尾憲隆によって謀殺される。また、神戸氏は族滅となった。 第二次奥谷幕府(794~810、近衛型) 奥谷忠光(794~802) 奥谷儀光(803~810) 平沢幕府(811~825、近衛型):平沢氏は元をたどれば名門・城氏の分家である。 平沢清彦(811~816) 平沢裕彦(817~822) 平沢重彦(823~825) 熊谷幕府(826~839、近衛型→外征型):熊谷氏も元をたどれば名門・衛氏の分家であり、また皇帝家である八重尾氏の血も入っていた。 熊谷博秋(826~829) 熊谷頼秋(830~839) 沢谷合戦 沢谷合戦期(たくこくがっせんき)とは、武家の二強として成長した平沢氏と熊谷氏による対立、戦乱の時代である。八重尾朝の皇帝・忠隆帝が後継者決めに腐心している最中に亡くなってしまったため、忠隆帝の弟である清隆を推す平沢氏( 能石平沢家 )と、忠隆帝の側室が産んだ年少の遺児、徳千代を推す熊谷氏( 参河熊谷家 )で対立が勃発した。その対立は次第に軍事的な衝突となっていき、統一国家・八重尾朝は瓦解してしまった。 戦乱は150年以上にも及び、当然の帰結として後継者たちもみんな死んでしまって、沢谷合戦は後継者決めの戦争から平沢氏・熊谷氏の権力闘争という構図に変化してしまっていた。1001年、鉢伏山の戦いで平沢氏が滅ぶと、名実ともに熊谷氏が瑞洲のトップの座に就いたが、当主である辰秋は旧皇帝家に遠慮したのか、自ら新たな王朝を開くようなことはせず、あくまで幕府(征夷大将軍)による支配体制を確立しようとした。それに不満を持った筆頭家臣・小井戸正嗣は、賛同する者を集め熊谷家を脱け出し、自領である北半島を拠点に僭称小井戸幕府を開き、ついで 井 (しょう)の建国を宣言する。 封建制 10世紀から12世紀にかけて、旧来の皇帝を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、武士の熊谷氏や小井戸氏が実権を掌握する武家政権が保守的貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した。この体制はしばらく続いた( 東西朝時代 )。 豊川幕府 豊川幕府 Toyokawa Shogunate 首都 豊川(参河州豊川市) 公用語 瑞州語 将軍 1001年 - 1015年 熊谷辰秋 1138年 - 1153年 熊谷利秋 成立 1001年 別称 熊谷幕府 東の政権・豊川幕府は、参河国・豊川を首都とし、封建制を採用した。幕府と名乗ってはいるが、国内の一部や海外の研究者たちからは王朝国家と同一視されている。 豊川幕府 熊谷辰秋(1001~1015) 熊谷光秋(1016~1036) 熊谷康秋(1037~1059) 熊谷邦秋(1060~1103) 熊谷昌秋(1104~1137) 熊谷利秋(1138~1153) 小井戸朝井 小井戸朝 Oido dynasty 首都 上越(越野州上越市) 公用語 瑞州語 皇帝 1003年 - 1018年 小井戸正嗣 1172年 - 1175年 小井戸信寛 建国 1003年 別称 井、瑞洲 国姓 小井戸 北半島を拠点とした西の王朝・井は、首都を越野国・上越と定め、郡県制を採用した。 小井戸朝井 小井戸正嗣(1003~1018) 小井戸正公(1019~1031) 小井戸正信(1032~1057) 小井戸俊康(1058~1078) 小井戸宗俊(1079~1085) 小井戸武嗣(1086~1121) 小井戸正洋(1122~1144) 小井戸崇洋(1145~1162) 小井戸崇宗(1162~1171) 小井戸信寛(1172~1175) 1153年に熊谷幕府を滅亡させた崇洋帝は、自身が保守的貴族勢力と結託し、古代の皇帝政に回帰する改革を行った。ここに統一国家・ 小井戸朝井 (小井戸朝瑞洲)の統治が完成したものの、小井戸朝の力は崇洋帝以降だんだんと衰えていき、ついには 柿崎川の変 で信寛帝が重臣の外所貴彰に暗殺され、外戚の保坂康義に乗っ取られる事態となった。 保坂朝井 保坂朝 Hosaka dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1175年 - 1189年 保坂康義 1385年 - 1389年 保坂康正 建国 1175年 別称 井、瑞洲 国姓 保坂 柿崎川の変後、保坂康義が外所貴彰を 鳥屋野潟の戦い で討ち取り、実権を掌握。自らが帝位に就いた。 保坂朝井 である。康義帝は首都を自らの直轄地であった近海州の一部地域におき、その地域を「京」と改称した。現在の瑞京である。また、小井戸朝とは異なり、封建制を採用した。 保坂朝井 保坂康義(1175~1189) 保坂康武(1190~1211) 保坂秀亘(1212~1254) 保坂泰盛(1255~1274) 保坂康清(1275~1309) 保坂俊高(1310~1317) 保坂政義(1318~1344) 保坂重義(1345~1367) 保坂和良(1368~1377):最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 を引き起こす。 保坂正二郎(1378~1379):和良の遺児であるが、二条の乱に敗れて戦死。 (空白期間) 保坂康正(1385~1389):一良の弟。二条の乱には勝利するも、 稲沢の変 で重臣に謀殺される。 保坂朝は9代目・和良が最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 が勃発する。和良の遺児である正二郎はまだ3歳であったため、和良の弟である康正を推す重臣・相野田重浩と、正二郎を推す屋宜正芳の間で意見が割れたためである。二条の乱は当初屋宜軍が優勢であり、正二郎は一度は正式に帝位に就くが、戦局はだんだんと悪化し、1379年、陣中にいたところをスパイ(間者)によって暗殺される。流石に非道な戦い方であると、勝ったはずの康正・相野田軍の元から離反者が続発し、京を守る屋宜軍を攻め落とし帝位に就くまでに結局5年弱掛かってしまった。ともあれ康正は念願の帝位に就いたわけであるが、4年後には重臣の裏切りに遭い謀殺されてしまう( 稲沢の変 )。 皇帝の不在では国内がまとまらないと考えた保坂朝家臣団は、臣籍降下し御宿氏を開いていた和良の五男・直隆を保坂家に呼び戻し皇帝に就かせようと画策するものの、直隆はその意に従うと見せかけ、帝位に就いた途端側近を御宿家家臣で固めてしまう。ここに保坂朝の遺臣は、国内に混乱をもたらしたとして全員が追放または処刑された(御宿の変)。直隆は井の国号を廃止し、かつての瑞洲国号を復活させた。 御宿朝瑞洲 の建国である。 御宿朝瑞洲 御宿朝 Mishuku dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1391年 - 1399年 御宿直隆 1449年 - 1453年 御宿尚徳 建国 1391年 別称 瑞洲 国姓 御宿 御宿直隆(1391~1399) 御宿仁隆(1400~1414) 御宿正隆(1415~1427) 御宿有隆(1428~1432) 御宿知徳(1433~1440) 御宿克徳(1441~1448) 御宿尚徳(1449~1453) 14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、政争による皇帝政権の衰退を決定機として15世紀後半頃から僭称大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ( 僭称戦国時代 )。この僭称戦国大名たちは、もともとは封建制によって各地を領有した武家であり、その武力を背景に、自国こそが正統な統一国家であることを主張した。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がった。この激動の中で皇帝家である御宿家は、僭称大名である下坂直孝によって1453年に滅亡した(下坂大逆事件)。当時の皇帝であった尚徳帝はまだ7歳であり、補佐すべきである公家たちは誰が実権を握るか抗争しており、腐敗していた皇帝政権に見切りをつけた下坂によって周りの公家ともども皇帝は打ち倒されてしまったのである。尚徳帝は自害に追い込まれた。最終盤では権力はほぼ無きに等しい状態であったものの、皇帝家というストッパーを失った瑞洲国内ではますます戦乱が拡大し、16世紀末に古海武利によって瑞洲の統一政権( 笠置幕府もしくは古海幕府 )が樹立されるに至り、近世へと移行した。 僭称大名家・僭称王家 なお、地域名はあくまでおおよその目安である。 + ... 西海地方 黒河朝 西宮朝 藤朝 仲朝 河邊朝 野木朝 大野木朝 渉朝 北橘 北西地方 常盤幕府 蝦名朝 茨城朝 小谷朝 中屋敷氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 西海枝朝 秦野幕府 鳴神朝 東海地方 間崎朝後嶺 後八重尾朝 三勢氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。自領は本家である古海氏の飛び地領であると認識していたようで、本家筋に配慮していたと思われる。後に古海幕府の支配中枢へと組み入れられる。 後鳳:嶋海国答志郡付近にあった、土着の武士層による一揆によって成立した国。今でいう選挙王政を採用。 波島朝 名張幕府 関崎朝 都甲朝 中央地方 後涼 鷲巣朝後衛 垣谷朝 吹上朝 大芝朝 古海幕府 射鷲朝 愛知氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 笠置幕府 前史 古海氏 設楽古海家:主流で、設楽家とも称される。自分たちでもその名乗りを使っていたようであり、古海武清が「設楽武清」と記名した書状が現在でも残っている。 八名古海家:八名家とも称される。 額田古海家:額田家とも称される。 渥美古海家:渥美家とも称される。 碧海古海家:碧海家とも称される。 三勢古海家:本司名氏から改名した頃に分家し、三勢国に土着し三勢氏・三勢家を名乗った。 大名家の中でも、御宿家や保坂家、小井戸家の生き残りを王に戴いて、大名自体は幕府を開き実権を握るという場合や、先祖に将軍家があると主張し、将軍家の復活を期して幕府を再興させる場合があった。後者の最もたる例は古海氏である。古海家の系図を辿ると、11世紀から12世紀の東西朝時代に幕府を開き、瑞洲東部を支配した熊谷氏にまで遡ることができる。また、井王朝に滅ぼされた熊谷利秋以降、征夷大将軍の位は誰にも与えられていないことから、戦国大名となった古海氏は後裔である自らも征夷大将軍の官位を引き継ぐことが可能と主張し、1510年頃から時の当主によって征夷大将軍を自称するようになる。誤解されがちであるが、この頃には既に「官位を授与する目上の存在」は国内に消失しており、古海氏や他の氏族が将軍家と名乗っても(王家の自称と同様)それは自称に過ぎず、意味を為さないものであった。しかしながら古海氏が勢力を伸ばすと、その実力を背景とした「自称」は外部からきちんと認められるものになり、また古海氏に官位の認定権が生じることとなった。こうして、後の幕府を支えていくこととなる、将軍家をトップとした官位体制が確立した。 古海氏は、元は熊谷氏の傍流であり、熊谷幕府時代には本司名氏(もとしなし)を名乗る幕臣の立場にあった。熊谷氏の本拠地であった参河国内に領地を有していたものの、国境の設楽郡などを有するにとどまり、あまり表舞台には立たない一族であった。しかし、その後の小井戸朝や保坂朝時代を巧みに生き抜き、15世紀まで家名を存続させていた。1512年、若くして設楽古海家の当主となった古海武清は、先祖が将軍家であり、後任者がいなくなったが故に、自らも将軍となる権利があるとして征夷大将軍を自称。その天才的な内政手腕と軍事能力を以て他国を次々と屈服させ、参河・紀山・嶋海を制した。武清は親戚一同をまとめ上げる能力にも秀でていたようであり、効果的に軍を動かし戦国の覇者となるために、それまで直接指揮を行っていた古海軍を方面ごとに分け、方面軍司令官には八名・額田・渥美・碧海の各家の当主(幼少の場合は代理)を据えた。しかし1534年、参河国豊邦において、些細な出来事で恨みを持った家臣・新岡信久に暗殺されてしまった( 豊邦の変 )。新岡は逃亡したものの、父親暗殺の報を受けた武清の嫡男・正武が参河国内に非常線を張り、あえなく捕縛、処刑された。 古海氏当主の座は正武が継ぎ、父親の方針を引き継いで対外領土拡大政策を採った。正武は非常に開明的な思想を持っていたようで、嶋海国の港が支配下にあるのをいいことに、重臣・浦谷重成を正使として欧州へ使節を送り、膨大な知識を入手した( 浦谷遣欧使節団 )。この使節団には欧州の見分や知識の入手以外にも外交交渉の使命があったようだが、不発に終わったようである。正武は静駿・筑紫・薩摩を平定している最中にも欧州の研究を行っており、家臣団ともども欧州の優れた軍略に驚き、自国に適合するように取り入れることを計画。この軍制・戦略改革は成功し、古海軍は瑞洲や欧州のいずれの戦略にも似ることのない、独自の軍制度を確立。精強無比の強さを誇る最強の軍へと変貌した。よく訓練され、優れた指揮官に率いられた古海軍は連戦に連勝を重ね、1587年に正武が病没する頃には尾治以南の南瑞洲や三勢国を支配下においていた。 前期笠置時代 笠置幕府 Kasagi Shogunate 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 将軍 1599年 - 1617年 古海武利 成立 1599年 別称 古海幕府 正武の病没後、家督は嫡男の次男・英武が継いだ。英武も父と同じく領土拡大政策を採り、間崎朝後嶺や後八重尾朝、鳴神朝と言った名門大名家を撃破し、1597年には北海半島以外のほぼ全土を掌握していた。しかし戦ばかりに明け暮れ、正室さえ取らなかった英武には当然として嫡子が無く、1598年に英武が膵臓癌(と思われる症状)で没すると後継者問題が急浮上する。 後継者問題で倒れた王朝はこれまでにも数多くあったため、重臣団は平和裏に後継者を確定することを誓った。会議の結果、碧海家に養子として出されていた英武の異母弟・碧海武利を設楽家に呼び戻すことで一致。武利はこれを快諾し、1599年に征夷大将軍への就任の儀を執り行い、政庁を京の笠置町に置いた。これを以って笠置幕府が正式に成立したと見做される。 中期笠置時代 後期笠置時代 19世紀中ごろに入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「瑞洲」・「瑞洲人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「瑞州」・「瑞州人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として革命戦争以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。また、この時期から瑞洲の「洲」の文字が、書き換え字である「州」に変わっていった。以前より「瑞州」表記は散発的に確認されていたが、時代の流れとして「瑞州」表記に置き換わっていったのはこの時代が初めてである。 共和制への移行 古海幕府は20代・275年もの治世を保っていたが、欧米列強からの文化流入や機械技術の伝授に加え、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えが輸入されると、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じたのか、20代将軍・古海武広は「共和制瑞州」の構想を諸邦の首長たちに伝え、共和制瑞州の発展を願いながら、1775年に幕府の幕を自ら下し(市民政治還元)、臨時連邦政府が形作られ、共和制瑞州が本格的に始動するための準備を始めた。しかし共和制瑞州構想で触れられた、共和制のトップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、参河・岡豆以東9州が 南瑞州共和連合 として蜂起した(1776蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主を話し合いで決めるものの、決まった後は政治のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。その為、瑞州全土から希望者を募って大統領決めを行うまでは合議制として、南瑞州共和連合は明確なリーダーを定めなかった。一方、北西地域の首長たちは共和制・大統領制を正しく理解したのに加え、瑞州の風土では連邦制の導入が相応しいとし、諸邦を「州(シュウ)」として再編。また、1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)を行い、思想面での建国の父と呼べる古海武広を大統領に据えた。古海は諸州規約を制定し、国号を「 瑞州合衆国連邦 」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織。自分を総司令官、部下の武官を各方面軍司令官のポストに据え、南瑞州共和連合との全面対決に進んでいった。 東西戦争 開戦 十数年に渡る緊張関係の末、1791年に 東西戦争 (革命戦争、Zuish Civil War)が開戦。この戦争では瑞州史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。4月12日に東軍(共和連合軍)が西軍(合衆国軍)の前線基地(紀山-参河州境)である孝子峠の要塞を砲撃して戦端が開かれた(孝子峠要塞の戦い)。古海は合衆国に残ったすべての州に孝子峠要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。 4月19日には古海が東部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸から太平洋岸までにわたり、東部経済を締め付けていった。この海上封鎖を解かんと、共和連合海軍による散発的な攻撃や砲撃が合衆国海軍に向け行われたが、いずれにおいても封鎖を解くことはできなかった。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 孝子峠要塞の戦い 4月12日 紀山州 東軍 洞海湾砲戦 4月19日 筑紫州 西軍 葦毛湿原の戦い 4月19日-21日 参河州 西軍 西部戦線 東西戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては西海岸の西部戦線と、中央山脈以西の東部戦線とに大別することができる。そして、東西戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは西部戦線の方だった。これは、首都である瑞京が存在する西海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、西部の中心都市の磐田市・東部の中心都市の御陵下市のどちらもが西海岸側に位置していたためである。さらに、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。また、共和連合と合衆国連邦どちらも瑞京を首都として定義し、自然と両軍ともに相手の中心都市や瑞京をめざし進撃することが多かった。こうして、西部戦線(特に瑞京付近)で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。 孝子峠要塞の戦い以後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。古海大統領は反乱軍を抑えるために7万を超えるの志願兵の召集を命令した。発足したばかりの陸軍には、十分な戦力といえるのは16000名の兵士程度しかいなかったのだ。陸軍は旧幕府軍からの古参兵である年長の玉田克己中将に指揮されていた。共和連合の方は、一握りの旧幕府軍士官と兵士、そしてかつての民兵団の一部が東軍に加わった。東軍の体系は各州によって整えられた。しかし、強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の東軍の弱みの一つであった。 東部戦線 西部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争後半では西部との連携が重要な課題となった。 西部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、東部戦線よりかなり多くの注目を集めていた。これはその対立する両軍の主要都市が近く西部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、西部で名声を博した人物がいたからでもある。このために西軍が東部で東軍を叩き、東部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 孝子峠要塞の戦い後、紀山州から出撃した梶原和弘少将率いる西軍(紀山軍)は紀山と参河の州境である孝子峠要塞の奪還、及び弓張山地の突破を目指しており、第一次参河方面打通作戦を発動するに至った。すでに弓張山地の葦毛湿原を占領していた紀山州軍は、勢いそのままに孝子峠要塞の周辺にあり、東軍(参河軍)の兵站ルートの経由地点であった竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞に攻め寄せ、これを陥落させた。 竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞で撃破され、後退する東軍を押しとどめたのは米川啓之将軍率いる援軍であった。米川は旧幕府軍の陸軍歩兵奉行(少将クラス)であり、作戦指揮に精通していた。撤退してきた東軍と援軍とを合わせ、指揮系統がボロボロになっていた参河軍を再編し、的場峠に築かれた防衛ラインを用いて的確な防衛線を行った(的場の戦い)。西軍はこの堅固な防衛ラインを突破できず攻めあぐね、かといって引くわけにもいかず、自軍も防衛ラインを構築し相手の攻撃に備えた。的場の戦いにおいて、結局両軍は散発的な戦闘を五か月も繰り返したが、どちらも防衛ラインを突破するわけでもなく、結果として梶原が他地域の援軍に紀山軍を回すために撤退し、引き分けに終わっている。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 第一次参河打通作戦 竜ヶ岩洞砦の戦い 4月25日-26日 参河州 西軍 第一次石巻山要塞の戦い 4月31日-5月2日 参河州 西軍 的場の戦い 5月15日-10月14日 参河州 引き分け 第二次石巻山要塞の戦い 6月24日-25日 参河州 西軍 防衛ラインの隙をついて東軍が石巻山の奪還に乗り出し、奇襲攻撃を行ったが、西軍が防衛に成功。 終戦 1795年に東西戦争は合衆国の勝利で終結し、静駿講和条約が結ばれ、共和連合は解体された。しかし、南瑞州共和連合が、不勉強の勘違いによって蜂起した国家であったことから「南瑞州人は無知、無学」という偏見が生まれ、南東地域に対する地域差別はその後も続くことになる。 1797年12月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1799年6月4日に発効され、同年に「やることは全て終えた」と古海は6選もした(というよりあまりにも古海が人気であり、市民が大統領選をボイコットした)大統領職を辞すが、結局は第8回大統領選(ボイコットにより第2回~第7回は『失われた選挙戦』となった)でまた担がれ、78歳の高齢で大統領に当選した。これより高齢の大統領はこの後には生まれていない。 瑞州は、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代のの共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。 帝国主義 先述した通り、大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ち、政権の交代にも(曲がりなりにも)成功したことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識、そして愛国心のさらなる醸成をもたらした。 瑞州内戦
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本多忠勝の章・第二話「伊賀越え」 本多忠勝の章・第二話「伊賀越え」あらすじ 戦況(解説者 服部半蔵) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 あらすじ 家康を 三方ヶ原の窮地から救ったのは、 忠勝の忠烈なる武であった。 その後、上洛を目指していた信玄は病死し、 天下は家康の盟友・織田信長に 大きく傾く。 信長は重臣を各地に派遣。 自らは安土城に鎮座し、 遠征軍を指揮していた。 戦乱が収束しつつあった頃、 信長に招かれ 上方を訪れていた家康の下に、 京の本能寺で 信長が討たれたとの報が届く。 この危機に家康は、 わずかな供とともに伊賀を越え 本国三河に戻ることを決意する。 今や家康の命は 忠勝の双肩にかかっていた。 戦況(解説者 服部半蔵) 光秀の謀反に加担した長宗我部元親が 追っている。 まずは眼前の敵を討ち、進路を開け。 殿は、その後に続かれる。 味方大名の穴山が敵中に孤立している。 余力あらば、これも救援する。 なんとしても殿を脱出地点までお守りする。 勝敗条件 勝利条件 徳川家康の脱出地点への到達 敗北条件 徳川家康の敗走 武将データ 徳川軍 備考 明智軍 獲得 備考 徳川家康 総大将 長宗我部元親 素材 総大将ミッションNo.4の撃破対象 ねね 桑名吉成 巻物 ミッションNo.1の撃破対象 服部半蔵 撃破効果No.1発動後一時撤退ミッションNo.3発生時再出現 谷忠澄 巻物 本多忠勝 プレイヤー 香宗我部親泰 装備品 穴山梅雪 ミッションNo.2の誘導対象合流後はプレイヤーに誘導されるミッション終了後は独自行動ミッションNo.2失敗で討死 高島正重 装備品 撃破効果No.1の撃破対象 石川数正 吉良親実 素材 撃破効果No.2の撃破対象 酒井忠次 久武親直 素材 榊原康政 香川之景 装備品 撃破効果No.4の撃破対象 井伊直政 佐竹親直 素材 撃破効果No.3の撃破対象 服部半蔵(分身)×2 撃破効果No.1発動で出現ミッションNo.3発生時出現ミッションNo.3終了後消滅 吉田政重 素材 茶屋四郎次郎 撃破効果No.2発動で出現 長宗我部信親 装備品 ミッションNo.1の撃破対象 久武親信 素材 香川親和 素材 津野親忠 装備品 福留儀重 巻物 ミッションNo.1達成後出現 風魔小太郎(分身)×3 素材 プレイヤーが東の森に侵入すると出現ミッションNo.3の撃破対象 風魔小太郎 素材 ミッションNo.4達成後出現ミッションNo.5の撃破対象 イベント シナリオ開始直後、ムービー「本能寺の変」が流れる。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 桑名吉成ら敵武将4人を撃破せよ! 達成後、徳川家康が進軍開始 No.2 穴山梅雪と徳川家康を合流させよ! ミッションNo.2 3終了後、南砦南門と中央砦南門が開門失敗で穴山梅雪は討死 No.3 風魔小太郎が徳川家康に接近する前に、風魔小太郎をすべて撃破せよ! 東の森に侵入すると発生撃破効果No.1を発動させると直後に発生撃破効果No.1発動の場合、一時撤退した服部半蔵が二体の分身を伴って再出現終了後、服部半蔵の分身が消滅服部半蔵が徳川家康の護衛を開始 No.4 長宗我部元親を撃破せよ! 発生時、ねねが長宗我部元親へ進軍開始達成後、南砦南門が開門 No.5 風魔小太郎を撃破せよ! 達成後、脱出地点の封鎖が解除 No.6 風魔小太郎をすべて撃破せよ! ミッションNo.3失敗時のみ発生 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 開始から2分以内に高島政重を撃破 風魔小太郎追跡のため、服部半蔵が一時撤退 風魔小太郎の出現時、二体の分身を伴って再出現 No.2 穴山梅雪の敗走前に吉良親実を撃破 穴山梅雪救援のため、茶屋四郎次郎が援軍として出現 工作で、穴山梅雪周辺の敵が撤退 No.3 撃破数300以上で佐竹親直を撃破 素材を獲得 赤小 No.4 徳川軍の詰所の数が4以上の状態で香川之景を撃破 防具を獲得 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 団子 団子 当世具足 戦草鞋 陣太鼓 活水盃 参 団子 黒漆太刀 陣太鼓 活水盃 秘伝之書 変化宝珠 攻略アドバイス ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 三方ヶ原の戦い 伊賀越え 小牧長久手の戦い 上田城の戦い 関ヶ原の戦い
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戦国史二章・第三話「本能寺の変」 戦国史二章・第三話「本能寺の変」あらすじ 戦況(解説者 森蘭丸) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス あらすじ 手取川にて上杉に大敗した信長だったが、 謙信病没の後、態勢を整え、 再びその勢いを取り戻した。 北陸に柴田勝家や前田利家、 近畿に明智光秀、中国に羽柴秀吉、などと 重臣を各地に派遣、天下布武を推し進める。 自身も天目山に武田勝頼を滅ぼし、 信長の勢いの前に、 天下統一は時間の問題であった。 その途、 毛利と戦う秀吉から援軍要請を受けた信長は 先発の援軍として光秀に出陣を指示。 自らも後発の援兵を率いるべく、 居城・安土城を発ち、京・本能寺に移る。 その時が、近づいていた。 戦況(解説者 森蘭丸) 光秀様ご謀反! 本能寺は囲まれています! 蘭が火を放ち、時間を稼ぎます。 信長様、その間にお逃げください! 信長様はここより、西へ抜け、 本堂裏門にいる斎藤利三と四王天政孝を倒し 先へ抜けてください。 そして、御牧兼顕を討ち、 表門広場へと向かってください。 時間がありません。なにとぞお急ぎを! 光秀様は…本気です。 信長様、どうぞご武運を! 勝敗条件 勝利条件 織田信長の表門広場への到達↓明智光秀の撃破 敗北条件 織田信長の敗走 武将データ 織田軍 備考 明智軍 獲得 備考 織田信長 総大将撃破効果No.2発動で効果あり 明智光秀 なし 総大将 濃姫 敗走時に討死一定距離に近づくと自動的に敗走 長宗我部元親 装備品 撃破効果No.3発動で効果ありミッションNo.5の撃破対象 森蘭丸 明智秀満 巻物 ミッションNo.4の撃破対象 織田信忠 斎藤利三 装備品 撃破効果No.1発動で効果ありミッションNo.2の撃破対象 織田信雄 明智茂朝 装備品 村井貞勝 安田国継 素材 ミッションNo.4の撃破対象 毛利良勝 明智光忠 素材 福富秀勝 四王天政孝 装備品 撃破効果No.1の撃破対象 菅屋長頼 谷忠澄 装備品 賀藤辰 福留儀重 巻物 撃破効果No.4の撃破対象 矢代勝介 桑名吉成 巻物 新武将 プレイヤー 妻木広忠 素材 津田信春 素材 撃破効果No.2の撃破対象 御牧兼顕 素材 ミッションNo.3の撃破対象 イベント ステージ開始直後に明智軍全軍が進軍開始。森蘭丸が本堂に火を放つ。直後、ミッションNo.1発生。 西のお堂に侵入すると伏兵の隠密頭出現、中央の庭園に侵入すると伏兵の鉄砲兵長出現。 基本的にはいずれか一方が出現する。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 織田信長を表門広場まで護衛せよ! 達成後、明智軍兵士が多数出現勝利条件変更表門広場東門と表門広場北門が開門 No.2 1分以内に斎藤利三を撃破せよ! 達成後、第五のお堂南門が開門 No.3 御牧兼顕を撃破せよ! 達成後、表門広場西門が開門 No.4 安田国継と明智秀満の合流を阻止せよ! 終了後、第一のお堂西門が開門西のお堂侵入後、明智軍の隠密頭が多数出現西門通過後、明智軍の鉄砲兵長が多数出現合流阻止に失敗すると双方の伏兵が出現する No.5 長宗我部元親を撃破せよ! 発生時、第三のお堂南門が開門達成後、第三のお堂がすべて開門 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 騎乗状態で四王天政孝を撃破 斎藤利三の防御力が一定時間低下 No.2 織田軍の詰所の数が10以上の状態で津田信春を撃破 織田信長の体力が回復 No.3 コンボ数が200以上で詰所頭を撃破 長宗我部元親の攻撃力が一定時間低下 No.4 開始から8分以内に福留儀重を撃破 武器を獲得 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 大盛御飯 黒漆太刀 当世具足 戦草鞋 霊鏡 荒御魂 参 団子 戦草鞋 戦草鞋 荒御魂 秘伝之書 金印 攻略アドバイス 制限時間は15分。しかも火災により体力が徐々に減少していく。(境内以外では減少しない) いかにスピーディかつ確実に、 ミッション・撃破効果を達成できるかが鍵となっている。 ミッションNo.1達成が遅れると、 撃破効果No.4はおろかシナリオクリアすら難しくなるので、 道中の敵は確実に倒しておくようにしよう。 なお、忍者武将なら忍びの道を通り、 ミッションNo.1達成前に撃破効果No.4をこなせる。 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 長篠の戦い 手取川の戦い 本能寺の変 山崎の戦い 賤ヶ岳の戦い
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立花宗茂の章・第三話「大津城の戦い」 立花宗茂の章・第三話「大津城の戦い」あらすじ 戦況(解説者 島津義弘) 勝敗条件 武将データ イベント ミッション 撃破効果 アイテム配置 攻略アドバイス ☆猛将伝&Zの変更点 無双演武一覧 あらすじ 宗茂らの活躍で秀吉は北条を下し、 天下統一を成し遂げた。 だが、秀吉は病没し、 世は再び乱れ始めた。 新しき世を築こうとする徳川家康と 秀吉の世を守ろうとする 石田三成が対立。 ついに日本を二分した戦いとなった。 来たる決戦に備えて、 敵の戦意を挫くべく 三成の軍師・島左近は、 大津城攻めを提案する。 攻撃軍には、 立花宗茂、島津義弘たち 西国の猛将が選ばれた。 戦況(解説者 島津義弘) 我らが西軍の総大将・毛利輝元指揮の下、 これより、東軍の将・京極高次が守る 大津城を攻略する。 わしが中央砦を抑える。 坊ちゃんは、付近の敵部隊を殲滅してくれ。 中央砦を突破したら、次は大津城だ。 大津城南門には、徳川の重臣・榊原康政と 本多正信が待ち構えておるぞ。 物見によると、あの東国無双の本多忠勝が 敵援軍として近づいてきておるらしい。 楽しくなってきたな、坊ちゃん。 勝敗条件 勝利条件 本多忠勝の撃破 敗北条件 毛利輝元の敗走 武将データ 西軍 備考 東軍 獲得 備考 毛利輝元 総大将 京極高次 装備品 ミッションNo.5開始時進軍開始 島津義弘 赤尾伊豆守 巻物 撃破効果No.3の撃破対象 立花宗茂 プレイヤー 安養寺氏種 素材 撃破効果No.4の撃破対象 島左近 京極高知 素材 小早川秀包 黒田伊豫 素材 撃破効果No.1の撃破対象 毛利元康 撃破効果No.4発動で出現 山田大炊 巻物 筑紫広門 井伊直政 素材 本多正信 装備品 撃破効果No.1発動で効果ありミッションNo.2の撃破対象 榊原康政 素材 雑賀孫市 装備品 ミッションNo.3達成後出現ミッションNo.4の撃破対象 鉄砲兵長×3 なし 守備頭 なし ミッションNo.3達成後出現撃破時、大津城南門が開門 本多忠勝 なし 総大将ミッションNo.4達成後出現 黒田官兵衛 装備品 ミッションNo.4達成後出現ミッションNo.5の撃破対象 栗山利安 素材 ミッションNo.4達成後出現 母里太兵衛 素材 浅野幸長 巻物 大野治長 素材 金森長近 素材 筒井定次 素材 松平忠明 素材 伊達政宗 装備品 ミッションNo.5終了後出現 イベント シナリオ開始直後、ムービー「約束」が流れる。 残り武将3名の時点で、本多忠勝が進軍開始。 ミッション 番号 内容 備考 No.1 中央砦制圧のため、4分以内に200人撃破せよ! No.2 大津城南門を突破するため、榊原康政と本多正信を撃破せよ! 達成後、大津城南門が開門 No.3 大津城二階へ侵入せよ! 達成後、大津城南門が閉門城内に伏兵の雑賀衆が出現 No.4 大津城から脱出するため、雑賀孫市と鉄砲兵長をすべて撃破せよ! 達成後、東軍の増援部隊が出現大津城がすべて開門 No.5 黒田官兵衛が西軍本陣に到達する前に、黒田官兵衛を撃破せよ! 発生時、島左近が黒田官兵衛へ進軍開始島津義弘が本多忠勝へ進軍開始終了後、伊達政宗が出現し、西軍本陣へ進軍開始 撃破効果 番号 内容 効果 備考 No.1 開始から3分以内に黒田伊豫を撃破 榊原康政と本多正信の体力が低下 No.2 コンボ数が200以上で詰所頭を撃破 石高を獲得 No.3 体力最大の状態で赤尾伊豆守を撃破 武器を獲得 No.4 開始から5分以内に安養寺氏種を撃破 西軍本陣防衛のため、毛利元康と筑紫広門が中央詰所付近に出現 アイテム配置 携帯道具 壱 団子 団子 団子 大盛御飯 大盛御飯 大盛御飯 弐 団子 団子 大盛御飯 当世具足 秘伝之書 蛭巻小太刀 参 戦草鞋 霊鏡 秘伝之書 幻朧時計 兵糧丸 変化宝珠 攻略アドバイス ミッションNo.1~3の時点で、大津城外部の武将を出来れば全滅させておきたい。 大津城外に脱出後は、東門から黒田官兵衛を追撃するといいだろう。 ☆猛将伝&Zの変更点 ☆第2レア武器獲得ステージ。→第2レア武器獲得のポイントを見る 無双演武一覧 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 九州征伐 小田原討伐 大津城の戦い 関ヶ原の戦い 三方ヶ原決戦
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武将 兵種 国 能力値 スキル 列伝 Lv 1 2 3 4 0001 武田 守信 騎 北陸奥 統智政 122 233 344 455 (1524-1568?)南部家臣。政信の次男。兄である大浦為則が堀越城の武田氏を降すと、養子として同氏に入り堀越城主となる。病弱であった兄に代わり執政を見た。 0002 津軽 為信 槍 北陸奥 統智政 884 885 996 1097 (72)一番槍(70)統率号令(23)英傑が如く (1550-1607)弘前藩初代藩主。大浦為則の娘を娶る。主家・南部家から独立し、17年かけて津軽を統一した。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、正式に津軽の領主となった。 0003 森岡 信元 槍 北陸奥 統智政 644 755 866 977 (1556-1606)津軽家臣。主君・為信の創業期を支えた大浦三老の1人。石川高信との戦いに参加して和徳城を攻略、城主となる。のちに為信から叛意を疑われ謀殺された。 0004 八戸 信長 騎 北陸奥 統智政 355 466 577 688 (生没年不詳)八戸根城主。しばしば京都に勤仕し、上洛して将軍及び天皇の御前で横笛を吹いて賞された。九戸信仲に次女が嫁いでいる。 0005 八戸 正栄 弓 北陸奥 統智政 222 333 444 555 (1544-1610)南部家臣。八戸根城主。北信愛とともに主家を支えた重臣。信直が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際には、留守居役を務めている。眼疾で盲目だったという。 0006 南部 信直 騎 北陸奥 統智政 559 6610 7711 8812 (94)無気力(82)陽動作戦(71)士気号令 (1546-1599)南部家26代当主。石川高信の子。晴継(晴政の子)死後の御家騒動に勝ち、家督を継ぐ。九戸政実の乱などに苦しむが豊臣秀吉に接近して領内を統一した。 0007 北 信愛 弓 北陸奥 統智政 668 779 8810 9911 (1523-1613)南部家臣。剣吉城主。晴政死後の御家騒動では信直を支持、信直の筆頭家老として活躍した。合戦に臨む際は、必ず小さな観音像を髻の中に収めていたという。 0008 石川 高信 弓 北陸奥 統智政 652 763 874 985 (1496-1571)南部家臣。南部政康の次男。津軽郡代として甥・晴政を補佐し、南部家の勢力拡大に大きく貢献した。のちに家臣・大浦(津軽)為信の謀叛により、自害した。 0009 石川 政信 槍 北陸奥 統智政 542 653 764 875 (1556-1588)南部家臣。石川高信の子で南部信直の弟。津軽にて大浦為信(後の津軽為信)と争うが、為信の陰謀により毒殺されたと言われている。 0010 斯波 詮高 騎 北陸奥 統智政 222 333 444 555 (1468-1527)奥州斯波家当主。大崎教兼の子という。1495年、志和郡に入り高水寺城を居城とした。次男・詮貞を雫石城、三男・詮義を猪去館に置いて、領内を治めた 0011 九戸 信仲 弓 北陸奥 統智政 311 422 533 644 (1514-1568)南部家臣。信実の長男。九戸城主。右京と称す。九戸家は南部家の庶流で、南部行連(南部家の始祖・光行の六男)を祖とするという。八戸信長の娘を娶った。 0012 九戸 政実 槍 北陸奥 統智政 921 1031 1141 1252 (1536-1591)南部家臣。信仲の子。南部晴政の死後、弟・実親を後継者に推すが敗れ、叛乱を起こす。南部信直の要請で出陣した豊臣軍相手に善戦するが敗れ、斬首された。 0013 九戸 実親 騎 北陸奥 統智政 412 513 624 735 (1542-1591)南部家臣。信仲の子。南部晴政の次女と結婚し、後継者候補となる。主家に反旗を翻した兄・政実とともに九戸城に籠城し、豊臣軍と戦うが敗れ、斬首された。 0014 黒沢 信忠 弓 北陸奥 統智政 231 342 453 564 (1418-1484)葛西家臣。葛西持信の三男、重臣であった黒沢家に跡継ぎの男子が居なかったことから、娘婿となり黒沢家を継いだ。 0015 大崎 義直 槍 中陸奥 統智政 311 421 532 643 (1506-1577)大崎家12代当主。伊達稙宗の援助によって家臣の謀叛を鎮圧するなど、勢力を次第に失う。天文の大乱では伊達晴宗に与力し稙宗に属した大崎義宣と戦った 0016 大崎 義隆 騎 中陸奥 統智政 322 433 544 655 (1548-1603)大崎家13代当主。義直の子。伊達政宗の軍を1度は退けるが、のちにその傘下に入る。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため改易され、上杉景勝に仕えた。 0017 氏家 隆継 弓 中陸奥 統智政 413 524 635 746 0018 氏家 吉継 槍 中陸奥 統智政 311 412 513 624 (1537-1591)大崎家臣。岩出山城主。大崎内乱の際には伊場野惣八郎と結び、反主流派の中心人物として活動した。主家の没落後は伊達政宗に仕えたが、間もなく病没した。 0019 葛西 親信 騎 中陸奥 統智政 212 323 434 545 (1513-1560)葛西家16代当主。晴胤の嫡男。寺池城主。父の死後、葛西家の家督を継ぐ。しかし、病弱のため、さしたる事跡も残せぬまま、治世わずか5年で病没した 0020 葛西 晴信 弓 中陸奥 統智政 615 726 837 948 (1534-1597)葛西家17代当主。晴胤の次男。寺池城主。兄・親信の死後、家督を継ぐ。伊達家と結んで大崎家と戦った。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易された。 0021 留守 顕宗 槍 中陸奥 統智政 321 431 542 653 (1519-1586)留守家17代当主。景宗の嫡男。国分家らと戦いを繰り返した。のちに伊達晴宗の三男・政景を娘婿として隠居。この際嫡男・宗綱は高城家の養子となった 0022 留守 政景 騎 中陸奥 統智政 614 715 826 937 (1549-1607)留守家18代当主。伊達晴宗の三男。留守顕宗の娘を娶り家督を継ぐ。兄・輝宗や甥・政宗に従い、相馬家や最上家などと戦った。のちに伊達姓に復した。 0023 国分 盛氏 弓 中陸奥 統智政 242 353 464 575 (1506-1575)陸奥の豪族。能登守と称した。1189年、源頼朝が陸奥平泉の藤原家を滅ぼした際に、焼け落ちて名前だけが残っていた国分尼寺を、1570年に再建した。 0024 相馬 盛胤 槍 南陸奥 統智政 811 912 1023 1134 (1529-1601)相馬家15代当主。顕胤の嫡男。小高城主。天文の大乱後は伊達家と敵対し、各地で死闘を展開する。一方、近隣の田村清顕とは和睦し、所領の基盤を固めた。 0025 相馬 義胤 騎 南陸奥 統智政 914 1025 1136 1247 (1548-1635)相馬家16代当主。盛胤の嫡男。伊達家と各地で抗争を展開した。関ヶ原合戦で西軍に属していったん改易されるが、伊達政宗の取りなしで本領を安堵された。 0026 岩城 重隆 騎 南陸奥 統智政 112 213 324 435 (1500-1569)陸奥大館城主。伊達家の内紛(天文の大乱)の際は、娘・久保が晴宗の妻であった関係から、晴宗方に属した。佐竹義篤ともたびたび争った。和歌をよくした。 0027 岩城 親隆 弓 南陸奥 統智政 213 324 435 546 (1540-1594)陸奥大館城主。伊達晴宗の長男。岩城重隆の養子となって家督を継ぎ、養父が築いた領国を継承する。しかし、佐竹家の侵攻を受け、従属を余儀なくされた。 0028 伊達 政宗 騎 中陸奥 統智政 1168 1279 13810 14911 (78)火力増強(81)雨天射撃(08)竜眼の睨み (1567-1636)伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。 0029 伊達 政宗 騎 中陸奥 統智政 1168 1279 13810 14911 (78)火力増強(81)雨天射撃(08)竜眼の睨み (1567-1636)伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。 0000 伊達 成実 槍 中陸奥 統智政 1133 1222 1311 1433 (72)一番槍(73)槍兵号令(10)張飛再臨 (1568-1646)伊達家臣。実元の子。「武」の面で主君の政宗を補佐した伊達家中随一の猛将。「英毅大略あり」と評された。晩年には徳川家光に奥州の軍談を語っている。 0030 支倉 常長 弓 中陸奥 統智政 679 7810 7911 81012 (91)包囲上手(90)強襲上手(10)交渉上手 (1571-1622)伊達家臣。主君・政宗の命を受け、宣教師・ルイス=ソテロとともに慶長遣欧使節としてスペインなどを訪問。しかし目的を達成できず、8年後に帰国した。 0031 片倉 景綱 弓 中陸奥 統智政 799 8109 81110 91210 (87)虚報伝達(86)大規模陽動(09)確実な補佐 (1557-1615)伊達家臣。19歳で主君・政宗の傅役となり「智」の面で政宗を補佐した智将。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するよう政宗を説得し、伊達家の存続に貢献した。 0032 亘理 元宗 槍 中陸奥 統智政 334 445 556 667 (1472-1531)陸奥の豪族。亘理家は源頼朝に仕えた千葉常胤の三男・武石胤盛を祖とする。宗元の長男・宗隆には男子がなく、伊達家より養子を迎えて、家督を譲った。 0033 亘理 重宗 騎 中陸奥 統智政 332 443 554 665 0034 中野 宗時 弓 中陸奥 統智政 126 237 348 459 (1503-1575)伊達家臣。天文の大乱では主君・晴宗の参謀を務め、乱の終息後は家中で最大の勢力を誇った。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れて逃亡し、流浪の末、餓死した。 0035 鬼庭 良直 槍 中陸奥 統智政 1234 1235 1346 1346 (68)猪突猛進(92)強襲突撃(100)金色采配 (1513-1585)伊達家臣。稙宗の子・盛重が国分家に入嗣する際、国分家に赴き仕置を行った。のちに評定役となる。人取橋合戦の際に老齢の身ながら殿軍を務め、戦死した。 0036 遠藤 基信 弓 中陸奥 統智政 336 447 558 669 (1532-1585)伊達家臣。中野宗時の失脚後、輝宗の厚い信任を受けて宿老となる。政事を担当し、織田信長などとも書簡をやりとりした。輝宗の死後、その墓前で殉死した。 0037 遠藤 宗信 槍 中陸奥 統智政 425 536 647 758 0038 石川 昭光 騎 中陸奥 統智政 412 523 634 745 0039 白石 宗実 弓 中陸奥 統智政 612 713 824 935 (1553-1599)伊達家臣。輝宗・政宗の2代に仕え、各地の合戦で功を立てる。摺上原合戦では伊達成実とともに伊達軍の主力を形成した。豊臣秀吉の朝鮮派兵にも従軍した。 0040 原田 宗時 槍 中陸奥 統智政 952 1063 1174 1285 (1565-1593)伊達家臣。18歳で兵馬の権を与えられ各地で功を立てた剛勇の士。豊臣秀吉の朝鮮派兵に従軍中、病死した。伊達騒動の主人公・原田甲斐宗輔は孫にあたる。 0041 小山田 頼定 騎 中陸奥 統智政 443 554 665 776 0042 泉田 重光 弓 中陸奥 統智政 352 463 574 685 0043 桑折 宗長 槍 中陸奥 統智政 223 334 445 556 0044 畠山 義国 騎 南陸奥 統智政 313 414 525 636 (1521-1580)二本松畠山家14代当主。新城村尚の子であるが、二本松義氏の早世により、宗家の家督を継いだ。蘆名家と田村家が争った際には、講和の斡旋を行っている。 0045 畠山 義継 弓 南陸奥 統智政 731 841 952 1063 (1552-1585)伊達輝宗・政宗の軍に、二本松の居城を脅かされて、講和を求めた。その講和の席で暗殺を察知、輝宗を人質に脱出を試みるが包囲され、輝宗と刺し違えた。 0046 田村 清顕 槍 南陸奥 統智政 112 213 324 435 (????-1586)田村隆顕の子。蘆名・佐竹らの強豪に囲まれながらも、外交戦略を駆使して様々な苦境を巧みに乗り切った。娘は伊達政宗の正室となった。 0047 田村 宗顕 騎 南陸奥 統智政 212 323 434 545 (1569-1620)陸奥の豪族。友顕の子。伯父・清顕に子がなかったため、伊達政宗の後援で田村家を継いだ。豊臣秀吉の奥州征伐で所領を没収され、その後は伊達家に仕えた。 0048 二階堂 盛義 弓 南陸奥 統智政 154 265 376 487 (1532-1581)二階堂家18代当主。はじめ蘆名盛氏と争うが、子・盛隆を人質に出して降伏。のちに盛隆が蘆名家を継いだため、援助を受けて二階堂家の勢力を回復した 0049 結城 晴綱 槍 南陸奥 統智政 233 233 344 455 0050 結城 義親 騎 南陸奥 統智政 433 433 544 655 0051 猪苗代 盛清 弓 南陸奥 統智政 231 342 453 564 0052 猪苗代 盛国 槍 南陸奥 統智政 421 532 643 754 (1536-1594)蘆名家臣。後妻の讒言により子・盛胤の廃嫡を企むが発覚し、盛胤と争った。のちに主家に背いて伊達家に属し、摺上原合戦では先鋒を務めて蘆名軍と戦った。 0053 蘆名 盛氏 槍 南陸奥 統智政 342 453 564 675 (1521-1580)蘆名家16代当主。蘆名家を伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた蘆名家中興の祖。同盟をうまく利用し、会津一円から北越後に及ぶ所領を獲得した。 0054 蘆名 盛隆 槍 南陸奥 統智政 463 474 584 595 (94)無気力(88)誠心誠意(115)友軍先鋒 (1561-1584)蘆名家18代当主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の未亡人を娶った。上杉・北条家らと結んで佐竹家と争った。寵の衰えを逆恨みした側近に黒川城内で殺された。 0055 松本 舜輔 騎 南陸奥 統智政 312 423 534 645 (????-????)蘆名家臣。岩谷城主・松本宗輔の子。勘解由、図書助と称す。晩年は出家して休意と号した。松本氏は、「蘆名四天の宿老」と呼ばれた重臣の一人。 0056 平田 宗範 弓 南陸奥 統智政 131 241 352 463 0057 富田 滋実 槍 南陸奥 統智政 332 443 554 665 0058 富田 氏実 騎 南陸奥 統智政 242 353 464 575 (1541-1591)蘆名家臣。四天の宿老の1人。主君・盛隆の死後、伊達政宗の弟・小次郎を後継に推すが敗れた。摺上原合戦では留守居を務め、主力の敗北後、伊達家に降る。 0059 佐瀬 貞藝 弓 南陸奥 統智政 212 323 434 545 0060 佐瀬 種常 槍 南陸奥 統智政 421 531 642 753 (1515-1589)蘆名家臣。佐瀬家は、蘆名四天の宿老の一。耶麻郡中田付で六斎市を開いていたが、中田付では不便だとして、小田付村に六斎市を移した。摺上原合戦で戦死。 0061 針生 盛幸 弓 南陸奥 統智政 231 342 453 564 0062 金上 盛備 槍 南陸奥 統智政 115 226 337 448 (1527-1589)蘆名家臣。主君・盛隆の死後、伊達政宗の弟・小次郎を跡継ぎに推す一派を抑え佐竹義重の次男・義広を当主に迎えることに成功した。摺上原合戦で戦死した。 0063 大内 定綱 騎 南陸奥 統智政 513 614 725 836 (1546-1610)陸奥の豪族。塩松城主。伊達政宗が伊達家当主となると、これに帰属するが、間もなく敵対。政宗の攻撃を受けて敗北し以後は伊達家に仕えた。槍術に秀でた。 0064 片平 重綱 弓 南陸奥 統智政 443 554 665 776 0065 平 盛光 槍 南陸奥 統智政 117 128 139 2410 0066 山内 氏勝 騎 南陸奥 統智政 511 611 722 833 0067 長沼 実国 弓 南陸奥 統智政 242 353 464 575 0068 長沼 盛秀 槍 南陸奥 統智政 442 553 664 775 名前 コメント