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※下記は全て、ブリタニカ百科事典(日本版)より引用(ただし※注はこちらで追記) 政治思想ないしイデオロギー 説明 関連ページ 保守主義、及び、保守主義の内実を成す概念 保守主義(conservatism) 既存の価値・制度・信条を根本的に覆そうとする理論体系が現れたときにこれに対する対抗イデオロギーとして形成される。「保守主義の宣言」とも言われる『フランス革命に関する省察』を著わしたE.バークは、人間のあらゆる制度の基礎は歴史であり、具体的な文脈のなかで長い時間をかけて培われてきたものだけが永続性を持つため、抽象的な哲学原理に基づく革命は座絶を運命づけられているとしている。バークは決して変化を拒絶しないが、それは既存のものの漸進的改良として果たされねばならないと考える。歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴であるが、これは現代のF.ハイエクやM.オークショットにもみられる考え方である。 保守主義とは何か 新保守主義(neo-conservatism) 1960年代後半以降、アメリカでリベラリズムや対抗文化の行き過ぎを批判しつつ登場してきた思想。I.クリストル、D.ベル、S.ハンティントンなどが代表的である。アメリカでは、ベトナム戦争の経験に伴う文化的混乱から若者を中心として性の自由や家族の解体といった急進的な主張がなされたが、反面、こうした潮流に強い危機意識をいだき、西欧的価値を擁護しながらアメリカの文化的同一性を再定義しようという試みも生まれた。これらは資本主義と自由の結びつきを強調し、共産主義に対する批判を共有するもので、現実の政策的提言においても連邦政府が過剰な役割を果たすことには懐疑的で、私的集団の活動の場を拡大する「小さな政府」への方向性を示唆している。このような主張を経済論として展開しているのが、新自由主義である。 自由主義(liberalism) 個人の諸自由を尊重し、封建的共同体の束縛から解放しようとした思想や運動をいう。本格的に開始されたのはルネサンスと宗教改革によって幕をあけた近代生産社会においてであり、宗教改革にみられるように、個人の内面的自由(信教の自由、良心の自由、思想の自由)を、国家・政府・カトリック・共同体などの自己以外の外在的権威の束縛・圧迫・強制などの侵害から守ろうとしたことから起こった。この内面的諸自由は、必然的に外面的自由、すなわち市民的自由として総称される参政権に象徴される政治的自由や、ギルド的諸特権や独占に反対し通商自由の拡大を求め、財産や資本の所有や運用を自由になしうる経済的自由への要求へと広がっていった。これらの諸自由の実現を求め苦闘した集団や階級が新興ブルジョアジーであったため、自由主義はしばしばそのイデオロギーであるとみられた。しかし各個人の諸自由を中核とした社会構造は、その国家形態からみれば、いわゆる消極国家・中性国家・夜警国家などに表象されるように、自由放任を生み、当然弱肉強食の現象を現出させることになり、社会的経済的に実質的な平等を求める広義の社会主義に挑戦されることになった。しかし、20世紀に出現した左右の独裁政治の実態は、自由主義が至上の価値としてきた内面的自由・政治的社会的諸自由などが、政治体制のいかんに関わらず、普遍的価値があることを容認せしめ、近代西欧社会に主として育まれてきた自由主義は再評価されている。 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 新自由主義(neo-liberalism) (1) 1870,80年代から勃興したイギリスの理想主義運動、なかんずくT.H.グリーンが主唱した社会思想。グリーンは、道徳哲学としてはJ.ロック、J.ベンサムなどの功利主義的自由主義ではなく、カントやヘーゲルの影響を受けた観念論的・理想主義的自由主義を、社会哲学としては、自由放任主義(経済的自由主義)ではなく国家による保護干渉主義(社会政策)を主唱した。しかし決して国家専制主義や全体主義に陥らず、個人の自我の実現、個人の道徳的生活の可能な諸条件の整備に国家機能が存在するとして、自由主義の中心である個人主義を継受した。この思想はイギリス自由党の労働立法・社会政策に思想的根拠を与えた。⇒※注:こちらは正確には new liberalismであり、訳すと文字通り「新自由主義」だが、現在はこちらの意味では使用されなくなったので注意が必要。 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 (2) 1930年代以降の全体主義国家の台頭や第二次世界大戦中から戦後にかけてのケインズ政策に反発して、再び個人の自由の尊厳を説き、政府の恣意的政策の採用を排し、法の下での自由を強調する思想。このような思想をもつW.オイケン、W.リプケ、L.ミーゼス、G.ハーバラー、F.ハイエク、L.C.ロビンズ、M.フリードマンらの多彩な人材を擁して、47年にモンペルラン・ソサエティーを結成している。恣意的・強権的権力の行使に反対する点ではかっての自由放任的自由主義と共通する面をもつため、その単なる復活と誤解されがちであるが、普遍的な法の強力な支配の必要を説き、法秩序の下での自由を強調する点で、かっての自由放任とは異なる。経済政策面でのその端的な表れは、ドイツに代表される社会的市場政策とシカゴ学派に代表される新貨幣数量説である。⇒※注:こちらが、neo-liberalism(正確に訳すと「再興自由主義」)すなわち現在使用されている意味での「新自由主義」である。 保守主義に隣接・類似するために混同されやすいが、別概念として区別すべきもの 自由至上主義(libertarianism)※注:項目なしのため、リバタリアン(libertarian)の項目で代用 福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する自由論者。古典的自由主義と同様、リバタリアンも自由市場経済を支持するが、その論拠は自由市場が資源配分の効率性に関して卓越しているということだけではない。より重要なのは集産主義的介入(⇒コレクティビズム)が、自明の権利である個人の自然権や人権を侵害するという点である。リバタリアンの出発点は社会の理解に関する徹底的な個人主義的アプローチである。社会とは何らかの実体ではなく、自律性を権利として保障された諸個人が互いの価値の実現を目指して交流を持つ場である。経験的な意味で国家や政府による合理的計画よりも自律的な個人の活動のほうが社会的利益を最大化するというだけでなく、道徳的な意味でも個人の自律性を国家や政府の干渉によって強制的に縮小しようとするあらゆる試みは、個人の独自性を破壊し社会の目的のための手段といて扱うことになる。個人の価値の追求にはルールによる制約が課せられるべきであるが、それは各人の平等な権利を保障するというに限定されねばならない。国家や政府の役割はそこにあるのである。⇒※補注参照 中間派に何を含めるか 共同体主義(communitarianism)※注:項目なしのため、コミュニタリアン(communitarian)の項目で代用 人間存在の基盤としての「共同体」の復権を唱える一群の政治哲学者たちの総称。J.ロールズの『正義論』(1971)が政治哲学の復権に大きな影響を与え、当初その指導的立場にあったのが、ロールズに代表される福祉国家的な自由主義を主張するリベラリストと、ノージックに代表される個人の自由に対する制限を最小化しようとするリバタリアンであった。一見したところ対立するこの両陣営は「個人」の多元的対立から社会構成の原理を導出しようとする基本的枠組みでは一致している。この個人主義的な人間像・社会像に対して根本的な次元から論争に参加してきたのがコミュニタリアンである。A.マッキンタイア、M.サンデル、M.ウォルツァーらを代表とし、その主張は必ずしも一様でないが、人間的主体性を抽象的なアトム的存在の自律性としてではなく、共同体のもつ歴史・社会的なコンテクストに根付いた具体的存在として捉えようとする点では共通している。コミュニタリアンの登場の背景にはアメリカ社会が極端な個人主義の結果、公共心を衰退させ、そのことが様々な社会問題を引き起こしているという洞察がある。 中間派に何を含めるか ナショナリズム(nationalism) 民族、国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通、民族主義と訳されるが、国民主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。ナショナリズムの概念が多義的であるのは、ネーション(民族、国民)が歴史上きわめて多様な形態をたどって生成・発展してきたことに起因している。歴史的な重要概念となったのは18世紀末以後のことである。アメリカの独立とフランス革命がその端緒となったとされ、南アメリカに浸透し、19世紀にはヨーロッパ全体に広まり、ナショナリズム時代をつくりだし、20世紀に入って、アジア・アフリカで多くのナショナリズム運動が展開された。ナショナリズムはこうした諸国の独立をもたらす解放的イデオロギーではあるが、民族紛争と戦争の拡大をもたらす危険も大きい。 ナショナリズムとは何か右派・右翼とは何か ※補注:このように古典的自由主義およびその再興であるハイエクに代表される新自由主義(neo-liberalism)と、リバタリアニズム(自由至上主義)は厳密には別概念であるが、特にアメリカではliberalismが「マイルドな社会主義」を意味する言葉に変形してしまったために、ハイエク的な自由主義をも「リバタリアニズム」と呼ぶ場合がむしろ多くなっており、後述の中岡望 著『アメリカ保守革命』でも、正確には新自由主義(neo-liberalism)と呼ぶべきものをリバタリアニズムと呼称しているので注意が必要。(この場合は「リバタリアニズム」=新自由主義=経済保守 となる)
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朋黨論 原文 臣聞:朋黨之説、自古有之。惟幸人君辨其君子小人而已。大凡君子與君子以同道為朋、小人與小人以同利為朋。此自然之理也。(一無此六字)然臣謂小人無朋、惟君子則有之。其故何哉。小人所好者、禄利也。所貪者、財貨也。當其同利之時、暫相黨引以為朋者僞也。及其見利而爭先、或利盡而交踈、則反相賊害、雖其兄弟(一作弟兄)親戚、不能相保。故臣謂小人無朋、其暫為朋者僞也。君子則不然。所守者道義、所行者忠信、所惜者名節。以之修身、則同道而相益。以之事國、則同心而共濟。終始如一。此君子之朋也。故為人君者、但當退小人之僞朋、用君子之眞朋、則天下治矣。堯之時、小人共工讙兠等四人為一朋、君子八元八凱十六人為一朋。舜佐堯、退四凶小人之朋、而進元凱君子之朋、堯之天下大治。及舜自為天子、而皐夔稷契等二十二人並列于朝、更相稱美、更相推讓。凡二十二人為一朋、而舜皆用之、天下亦大治。書曰:「紂有臣億萬、惟億萬心。周有臣三千、惟一心。」紂之時、億萬人各異心、可謂不為朋矣。然紂以亡國。周武王之臣、三千人為一大朋、而周用以興。後漢獻帝時、盡取天下名士、囚禁之、目為黨人。及黄巾賊起、漢室大亂、後方悔悟、盡解黨人而釋之、然巳無救矣。唐之晩年、漸起朋黨之論、及昭宗時、盡殺朝之名士、或(一作咸)投之黄河曰「此輩清流可投濁流」、而唐遂亡矣。夫前世之主、能使人人異心不為朋莫如紂、能禁絶善人為朋莫如漢獻帝、能誅戮淸流之朋莫如唐昭宗之世。然皆(一有以字)亂亡其國。更相稱美推讓而不自疑、莫如舜之二十二臣、舜亦不疑而皆用之。然而後世不誚舜為二十二人朋黨所欺、而稱舜為聰明之聖者、以辨君子與小人也。周武之世、舉其國之臣三千人、共為一朋、自古為朋之多且大、莫如周。然周用此以興者、善人雖多而不厭也。夫興亡治亂之迹、為人君者可以鑒矣。(一有作朋黨議四字) 『欧陽文忠公文集』巻十七 注 論題:「在諫院進。一本以論為議。」
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《マルガリッタ斎藤/Margaritta saitou》 アイコン ゲスト 種族 人間 年齢 22 性別 女 好き 酒 年下 同人誌 嫌い 禁酒 人物 自称お姉様系女子大生 マルガリッタ斎藤は本名を簡略化したものらしいが真相はぶっちゃけどうでもいい 身分は大学生なのだが、基本大学には通わず図書館へ通う。このことから本の虫に類されるがあまり読書はしない 腰まで伸びた黒の長髪に憂いを帯びた紫の瞳が特徴 常に口元に手を押し当てており何かと咳き込んでいる。目元は黒ずんでいることから病弱であると推測される 服装は常にドレッシーな物を好む傾向がある。夏場においても肌が露出しない服装を選ぶ 物腰柔らか。眠たげな目で笑い華麗に奇行をやってのける大学の異端児 最も同窓生の記憶に根深く残ったのは教授のカツラをアフロにすげ替えると言うものだったとか 趣味は同人あさりの子供好き 『美しい』ものを幅広く好む。それは造形であっても心であっても道義 逆に酷悪なものには嫌悪感をむき出しにする。これに限っては造形ではなく”魂”を指す 斎藤 跋 『裏の顔』にして『仮面の下』。本人はこれを己の顔と定義する 能力名『獣道』を操るスタンド使い。『哲学の道』と名乗るマフィアお抱えの殺し屋にしてその筆頭 自らを『癒しき犬』と称し、一人称を『我輩』へ変え、文学的な言葉遊びを始めるようになる 獣道 『黒色』を媒介に発動するスタンド 自らが発生させる『黒色』の物体、現象などに触れる悉くを『抉る』空間転移型スタンド この黒は一度彼女に接触したものである必要があり、例えば斎藤が手に触れた黒の色画用紙や墨汁、 ひいては彼女自身の影などがこの能力の有効範囲に該当する 普段は万年筆を持ち歩き、これを杖のようにふるって飛散したインクで敵の頚動脈を切断するのを殺しの常套手段としている 関連ページ ゴルゴンゾーラ笹目 ビシソワーズ浅野 エクソシスト田中 ジャクリーヌ尾崎 関連画像 わんぶれらさんに感謝 CM3D2 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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【検索用 ふらちにゃ 登録タグ VOCALOID v flower あじみ このほし ふ 曲 曲は】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:あじみ 作曲:あじみ 編曲:あじみ イラスト:このほし(Twitter) 唄:flower 曲紹介 曲名:『ふらちにゃ』 あじみ氏のVOCALOID曲1.5作目。 歌詞 (PIAPROより転載・編集) 不埒(ふらち)なお金で飯を食う 味など無い 分からない 十六時 お仕事もオシオキも同じように 君へ送る気持ちのひとつです 撓(たわ)んだ肢体に伸し掛り 何度も貫く 白い肌 俯(うつむ)いた顔で無関心を 粧(よそお)ってるつもりです 痛みに慣れたらにゃんにゃんにゃん 乾いた浮世でにゃんにゃんにゃん 愛想しか売るものがない僕は 今日も猫みたいに鳴く 独りに嘔吐(えず)いてはにゃんにゃんにゃん 二人に疼(うず)いてはにゃんにゃんにゃん 悲しみしか食べられない口で 今日も馬鹿みたいに泣く 不埒な思いで君を睨(にら)む 孕(はら)んだ期待 あ、抱きたい 組みしだきたい 手出したら最後と思うのは 僕の浅いところが痛むから 昂った死体を引き摺(ず)って 感動を貫く 強引に 俯いて黙っても反響し 悦(よろこ)びは漏れていく 夜明けが来るまでにゃんにゃんにゃん 延長五十分にゃんにゃんにゃん 大好きごっこに売った幸せを 今日もそこら中に撒(ま)く 一人で善がってもにゃんにゃんにゃん 三人四人でもにゃんにゃんにゃん 麻痺(まひ)してく道義とか倫理とか 正直もうどうでもいい... 君と触(振)れ合(遭)ってもにゃんにゃんにゃん 一人でシてんだよにゃんにゃんにゃん 遅すぎる君のその態度にさ やっと馬鹿みたいに泣く 貴方が嫌いでもにゃんにゃんにゃーん 自分が嫌いでもにゃんにゃんにゃーん 愛想しか売るものが無い僕は 今日も猫みたいに鳴く 愛想しか売れないと思う僕は 今日も猫みたいに鳴く コメント あじみさんの歌ほんとすき……めっちゃハマっている。。。 -- 名無しさん (2020-02-29 17 50 24) Flower+プラチナ+ねこ=不埒にゃ。タイトルが秀逸 -- 名無しさん (2021-04-22 01 27 44) かわいいいいいいいいいいい -- 名無しさん (2023-04-30 23 59 55) 名前 コメント
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併し、コントの実証主義、コント的プロレタリア科学は、 実は、ブルジョアがプロレタリアに教える処の「プロレタリア科学」である。 実証主義的社会学はかくて、ブルジョア即ちプロレタリアという不思議な「階級性」を担っている。川崎 人 妻 デリ ヘル 之は云うまでもなく全く不合理でなければならないだろう (尤もかかる不合理の成立はコントの時代の政治的条件によって 合理的に説明されるのではあるが)。
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この観念主義的なる歴史観が、哲学――思想・観念――を歴史の 政治的変革の原理と考えるのは当然である――前を見よ (この哲人政治的思想がやがて人道教の提唱となったということに何の不思議もない)。新宿 ガールズバー 従って彼のイデオロギー論は決して歴史哲学(社会学)の一部分であるのではなく、 正にそれの基礎をなす処のものでなければならない。 彼の知識社会学はこのような種類の一種のイデオロギー論であった。
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313 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 51 17 ID Ng41C3Ud 12/24 駅前広場 PM6:48 はあ、とお腹の底から息を吐く。 白くなった息が目の前にもわっと湧いて、ゆっくりと消えていく。 今日は一日快晴だった。昼間はとにかく、日が暮れると一気に寒くなる。手袋とジャンパーで防寒はしているけど、ちくちくと冷気が肌を刺す。 既に指先の感覚はなくなっていて、こんなことならホッカイロでも持ってくればよかったと後悔した。いや、一時間前から待っている俺もバカだけど。 暇つぶしにもう一度周囲を見回す。駅前にある広場で俺は、噴水の淵に一人座っていた。待ち合わせによく使われている場所で、俺の他にも人待ちの男女は大勢いる。 なんといっても今日はクリスマスイブだ。 月もよく見えるから残念ながらホワイトクリスマスはなさそうだけど、それでも一年に一度の大切な日には違いない。 時計をもう一度確認する。PM6:49。さっきよりは一分進んだ。待ち合わせは七時。 俺の待っている人は 片羽先輩だ。 片羽先輩のことを好きだと自覚してから半年が経っている。 まだ告白はしていない。 待ち合わせの時間五分前に、バス乗り場の方から歩いてくる片羽先輩を発見した。 冬に入ってからわかったことだけど、片羽先輩は寒さに弱い。コタツをこよなく愛している。まあ、普段からして体温の低い人だから当たり前か。 今日もベージュのコートはセーターで着膨れしている。他にもマフラー、毛糸の帽子、ミトン型の手袋と完全武装だ。履いているものもスカートじゃなく、暖かそうな綿のズボン。パンツが毛糸でも驚かない。 露出しているのは目の周りぐらいで、それでも寒いのか先輩は肘を抱えるようにして歩いてくる。俺は急いで立ち上がり、先輩の元に駆け寄った。 「こんばんは、先輩っ」 「こ、こ、こ、こ、こんばんは、榊君。さ、寒いねえ。バスの中は暖房が利いてたんだけど、一気に落差が来たよ」 「うわあ、大丈夫ですか先輩っ! と、とりあえずどこかに入りましょうよ」 「いやいや、僕が寒さに弱いだけだから気にしないでくれ」 飄々と答えながら、プルプルと小さく震える先輩。うわあ、不謹慎だけど可愛いなあ。抱き締めてあげたい。 と、と。妄想に浸ってる場合じゃなかった。とにかく今は、先輩を早く暖かい場所に入れないと。 今日は、俺が先輩をエスコートすると決めたんだ。 「それじゃ、先輩。立ち話もなんだし、行きましょうか」 「ああそうだね。今日はよろしく頼むよ、榊君」 今日こそ告白する。 今日こそ告白するんだ。 314 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 52 55 ID Ng41C3Ud 俺はまだ、片羽先輩に告白していない。 もう十二月なのになんでだよ、といわれるかもしれない。自分でもそう思うし、実際もう言われた。 なにしろ先輩は三年生で、あと三カ月もしたら卒業してしまうのだから。 けど、言い訳も聞いてほしい。なんというか、毎日が忙しくて、ついずるずると現状維持を望んでしまい、こんな時期まで来てしまったというか。 夏休みに入ったころは、先輩への思いが溢れて空回りして仕方なかったけど、今はだいぶ落ち着いている。消えたわけじゃない、俺は間違いなく片羽先輩のことが好きだ。 あの夏から四か月。あの頃からいくつか変わったことがある。 一つは、空手部に入ったこと。 夏祭りの時に先輩からアドバイスを受けて、翌日入部届けを空手部の部室に持っていった(夏休みだけど練習はしていたから即入部)。 もちろん、空手なんてやったことはない。喧嘩だって小学校の時に取っ組み合いをしたぐらいだ。誰かを殴りたいなんて願望もない。 ならどうして空手かといえば、まあ妹が柔道だから、程度の理由でしかない。 ともあれその日から、俺は空手部として練習を開始した。最初は慣れないことばかりで辛かった(痛かった)けど、もともと体を動かすのは好きだから、毎日練習するのはすぐに慣れた。 全く新しく始めたことが数ヶ月でどれだけ身につくのかといえば、せいぜい構えができてきたぐらいだ。拳を出すともうへろへろってなる。全然まだまだで。 それは中学の時のように倒れるまで打ち込んでいないせいかもしれない。加えて、他にやることがある。 一つは当たり前だけど、成績が落ちないように毎日勉強を続けること。それからもう一つ、始めたことがある。 それは、優香の受験勉強に付き合うこと。 妹は中学三年生、受験を控えた年頃だ。受験生として一年先輩でもある俺は、勉強のやり方とか、苦手な分野とかを見ていたりする。 もちろん優香は優等生だ。間違いなく俺よりも頭はいい。教えることなんてほとんどない。 ただそれでも、受験勉強に対しては榊家の長男として一日の長があるし、優香だって完璧人間じゃないんだから毎日単調な勉強は苦痛だろう。 椅子を並べてあーだこーだと雑談混じりに勉強するのだって、立派なガス抜きになるはずだ。 そのおかげなのか、最近妹とは以前より打ち解けられたような気がする。 細かな気遣いをされたり、それにお礼をしたらそのまま受け入れられたり。不意に「兄さんは頑張ってますね」と褒められたり、部活の朝練に出る時間を合わせたり(妹はもう部活を引退したけど、毎朝自主的にランニングを行っている)。 優香は俺のことを嫌っているかと思ったけれど、そんなことはなくて、もしかしたらお互いに壁を張っていただけなのかもしれない。 俺にとって、妹とは放っておいても大丈夫な強い存在だったけど。優香もまた、守るべき存在なのかもしれないと、なんとなく思うようになった。 朝は部活の朝練に行き、授業をきっちり受けて、放課後も部活で適度に体を動かし、家に帰ってから予習復習をして、優香の受験勉強に付き合う。思えばかなり忙しい。 けれど何故だか、一時期……片羽先輩と会った頃のように辛いという感じはあまりしない。充実している。毎日が充実している感じだ。 もちろん、先輩と会える時間は減っている。放課後が丸々潰れたんだから当たり前だ。 だけど逆にその分、合間を見つけて先輩に時間を見つけて能動的に会いに行くようになった。休みの日に遊んだり、天気のいい日はよく昼食も一緒にした。 先輩が病院にいない日は、寝る前にメールのやりとりをして、一日の出来事を報告するのも日課になった。 一時の燃えるような衝動はなくなったけど、片羽先輩のことは異性として、普通に好きだ。 朝起きて、顔を洗って、朝食を取って、歯を磨いて。身に染みついた動作と同じように、当たり前の好意に変化してきている。 顎を引いて、胸を張って、小さな体で堂々と立っている、そんな先輩を、俺は守りたいし好きだと思う。 思えば夏の自分は、やることがないという焦燥を先輩への感情にすり替えていただけなんだろう。 だから自分を鍛えているという実感がある限り、その欲求は満たされていた。 部活と勉強に打ち込んで、先輩と話をする。そんな日々に満足していて、そんな毎日がずっと続けばいいと思って、だからこそ……もう一歩が踏み出せなかったんだ。 柳沢からそんなところを注意されたのは、今から二週間前のことだ。 315 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 53 30 ID Ng41C3Ud 「あーあ、クリスマス一緒に過ごして熱い夜にしてくれる女の子はいねーかなあ。一日でいいからさ」 「教室で堂々となに言ってんだよ柳沢。みんな慣れてるけど、そういうとこが駄目なんじゃないのか?」 「はー。優香ちゃんがOKしてくれればなあー。なあ榊、もう一回口利いてくれねえか?」 「もう断られただろ。それに、優香は受験生なんだから駄目だって」 「ちくしょう、お前はいいよなー、彼女いるしな。くそう、カップルなんて呪われろ!」 「え、いや、俺は別に彼女いないぞ」 「は? お前、あの先輩と付き合ってんだろ? よく一緒に飯食ってるし」 「ベ、別に付き合ってるわけじゃないよ。そりゃ、俺はごにょごにょ……だけど」 「……マジ?」 「マジだけど」 「おい榊。お前、どうすんだよ、これから」 「え、どうって?」 「バッカお前、もう十二月だってのに何やってたんだよ。しかもあの先輩、三年生じゃねえか。あと数ヶ月で卒業だろ」 「え……あ、そうだけど……」 「つーかお前は半年以上も何やってたんだ? 毎日一緒に飯食うだけで満足してたのか?」 「あ、ああ。まあ、うん……いてっ!」 「お前なあ、んなこと言ってて三月になったらどーすんだ? 土壇場で告ったって、何もできねーじゃんか」 「何もってなんだよ! ていうか、ほら。卒業しても縁が切れるわけじゃないし……」 「それマジで言ってんじゃないよな? ロクに会えもしなくなるだろ」 「う、そりゃ、そうかもしれないけど……」 「ほれ、悪いこと言わないからさっさと当たって砕けろって。もうすぐクリスマスだしよ」 「ん……わかった! じゃあ俺、クリスマスに告白する!」 「おー、頑張れよ。そしてフラれちまえ!」 「うおいっ!」 そんなわけで。柳沢から冗談混じりの叱咤激励を受けて、俺はクリスマスイブに先輩を誘ったのだった。 柄にもなく、勝率を考える。普段はそんなもの気にしないのに、どうしても考えてしまう。 片羽先輩は、俺のことをどう思っているんだろう。 嫌われてはいないと思う。それは、四月から先輩と話して来た俺の実感だ。 何気ない会話の中で、他愛ないじゃれあいの中で、さりげない助言の中で、先輩の好意を俺は受けてきたと思う。 けど、その好意が一体どういう種類のものなのか、それが大問題だ。ただの後輩と思われていたらどうしよう。 例えば(彼女は彼氏持ちだけど)俺が晶ちゃんから告白されたら「えっ!?」という感じになるだろう。そして困ってしまう。 ああ、今日俺が告白したとして、先輩が困った顔をしたらどうしよう。想像だけでのたうち回りたくなる。 前も思ったことだけど、俺と先輩の関係は、俺が頼って先輩が気遣うという構図にある。この半年努力してきたけど、構図は結局変わっていない。 俺も少しは強くなって、先輩との距離は縮まったと思うけど、まだまだ力関係が逆転するほどじゃない。 理想を言うなら、先輩に頼られるぐらい強くなってから告白したいところだけど、そんな暇はない。 まあ幸いというか、クリスマスイブに誘いを受けてくれたんだから、脈はあるんだと思いたい。 というか、そんな日に誘った時点で、先輩に気があるんだと大声で叫んだようなものかもしれない。 けど、それでも来てくれたということは、勝算があると考えていいんだろうか。 柄にもなく、勝算を考えてしまう。考えても仕方ないのに、考えてしまう。 失敗したくないから。 片羽先輩にいいところを見せたいから。 ――――未来も、この人と歩いていきたいと想うから。 316 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 54 39 ID Ng41C3Ud 12/23 市立病院個室 PM4:20 「こんにちは、片羽さん」 「やあ、いらっしゃい優香君。君が一人で来るなんて珍しいね。最近受験勉強を頑張っていると、榊君から聞いてたよ」 「それなりには。兄さんが手伝ってくれますから」 「いや、榊君が誰かに勉強を教える段階になるとは感慨深いものだよ。それも優香君が教え子とは、やればできる子だったんだね」 「自分が育てた的な物言いはやめてください。自助努力の賜物ですし、それを言うなら私の方が兄さんの学力には貢献しているはずです」 「底上げしたのは君のスパルタだしね。にしても実際のところ、榊君の指導って優香君にとって意味あるのかい?」 「内容的にはほぼ無意味ですが、気力的にはオールオーケイです」 「ああ、やっぱり。そういえばお茶も出さないで済まないね。今入れるよ」 「いえ、自分で入れますからどうかお構いなく」 「ありがとう。それで今日はなんの用だい?」 「釘を刺しに来ました」 こぽこぽこぽ。 「一応確認するけど、それにハンマーとネイルは関係ないよね?」 「ええ、まあ、おそらく」 「そこは断言して欲しかったよ。おっと、お茶ありがとう」 「礼をしつつ一口も飲まないのは混入物を警戒しているからですか」 「単なる猫舌だから気にしないでくれ。で、釘刺しってなんだい?」 「兄さんからクリスマスのデートに誘われたらしいですね」 「うん、まあね」 ………………………… 「ふむ、少し意外だったかな。それこそ釘とハンマーで襲いかかって来るかと思ったのに、殺気一つ漏らさないなんて」 「両指の第一関節から順に釘を打って欲しいならそうしますが、まずは握りしめたナースコールを降ろしたらどうですか」 「まあ僕もまだ命が惜しいからねえ。それにしても優香君、前々から思っていたけど、少し雰囲気が変わったかな」 「成長期ですから。それで、明日は?」 「野暮なことを聞かないでくれ。榊君は大切な後輩だし、断る理由なんてありはしないさ。寒そうだけど行くよ、勿論」 「片羽さんは兄さんと交際、及び性交するつもりはないと明言してましたね」 「……ん、ああ、まあね」 「何故口籠もるのですか」 「いやあ、ちょっとした乙女の恥じらいだよ。気にしないでくれ」 「私は兄さんが幸福なら、兄さんが女性と交際するのもやぶさかではありませんが……」 「ぶっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ優香君。今なんて言った?」 「兄さんが幸せであるなら、女性と交際するのもやぶさかではないと」 「え、ええーと。でも君はなんというか、榊君に対してアレなんだろ? しかも相当なレベルで」 「自分のことよりその人の幸せを思いやるのが、愛しているということではないのですか?」 「ま、まあそうかもしれないけれど、ちょっとその手の話に遠い人生だったんでね。にしても、何か悪いものでも食べたのかい?」 「どういう意味ですか。私が私利私欲で兄さんを不幸にして、何ら省みない人間とでも思っていたのですか」 「いやあ、そのなんというかねえ。腰を折って悪かったね、話を続けてくれ」 「しかしそれは、兄さんが幸福ならば、という条件が前提です。片羽さん、貴女がその条件を満たすとは思えない」 「…………。なるほど、そう繋げるわけかい?」 「別に結論ありきで喋っているわけではないので、そのような言い方は心外です」 「けど、それなら榊君を幸福にできる相手というのは、どういう基準で選ぶんだい? そこに君の私情が絡まないと言えるのかな」 「少なくとも、貴女自身は兄さんを不幸にすると思ったから、交際しないのでしょう?」 「……ん、そうなんだけど」 「片羽さん、先ほどからどうも一部分で歯切れが悪いんですが」 「いやいや、わかってるよ。僕は何時死ぬかもわからないし、女としての役割も果たせない。そんなものに榊君を付き合わせるわけにはいかない、以前に言った通りだよ」 「貴女が賢明で助かります。兄さんを思いやるという点では私達は同士なのですから、明日もきっぱり兄さんを振ってくださいね」 ………… 317 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 55 54 ID Ng41C3Ud 「お茶、美味しいね」 「ありがとうございます」 「……」 「片羽さん、たとえば」 「うん?」 「誰かと出会って、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?」 「絵に描いたような平凡だね。望みたいのは山々だけど、僕は以前話した通り恋愛は無理だからね」 「仮に、貴女の病が治癒したとしても?」 「言ったはずだよ、難病だと。それとも優香君は僕に合う心臓のあてでもあるのかい?」 「いえ、まさか。ですが、そういう問題ですか?」 「……どういう意味だい?」 「気にしないでください、ただの言葉遊びです」 12/24 ファミリーレストラン PM7:34 太い釘を刺されたような気分だった。 「先輩? どうしたんですか?」 「ん、ああ、なんでもない。ちょっとうとうとしてたよ。調子に乗って食べ過ぎたかな」 「大丈夫ですか? 今日はもう帰ります?」 「大丈夫。外に出れば目も覚めると思うよ、そろそろ行こうか」 「はいっ。ここ、俺が奢りますね」 「おっと。それこそ大丈夫かい、榊君? 自分で払うつもりだったから、結構高めのものを頼んでしまったよ」 「あはは、平気ですよファミレスですし。それにいつもお世話になっているんですから、こういう日ぐらい俺に奢らせてくださいよ」 「そうか。では甘えさせてもらおうかな。ありがとう、榊君」 榊君に会計を任せ、一足先にファミレスを出る。暖房の効いた店内から外に出るのは、冷水に入るような思い切りが必要だった。息を吸うと刺すような冷気が体の隅々まで行き渡り、思わずぶるりと身震いした。 歩道では数日前から飾り付けられた街路樹のイルミネーションが、きらきらと夜闇を照らしている。カップルらしき男女が店内に入るのを、入り口からどいて道を譲る。流石に今日はと言うべきか、店内の席はいっぱいだった。 駅前で合流した僕たちは、暖を取るのも兼ねて近くのファミレスで食事をした。今日の予定は榊君に一任していたから、あらかじめ店は決めていたんだろう。まあ榊君のことだし、この後の予定も大体想像は付く。 道行く時も食事中も他愛ない話を続けてはいたけれど、榊君は少し緊張しているようだった。僕にはよくわからないが、それは好意から来る緊張なのだろう。頬を僅かに紅潮させて幾度もつっかえるのは、まあ正直可愛かった。 もちろん人の好意はありがたくはあるけれど、種類によっては困ったことになる。そしてこんな日に女性を誘うこと自体が、好意の種類をはっきりと示している。そうでなくても仕草、言質、行動、その他。榊君はとても隠し事ができるタイプじゃない。 榊君が会計をすませてくるまでの僅かな間、入り口脇の暗がりに立って、夜空を見上げながら物思いにふける。 318 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 56 57 ID Ng41C3Ud さて困った。 優香君に恨まれる、ことじゃない。確かに彼女の行動力は物理的な脅威ではあるけれど、ひとまず僕は安全牌として見逃されている。これ以上の進展さえなければ、優香君の堪忍袋が切れるまでは大丈夫だろう。 深夜に押さえ込まれた日、彼女に白状した事情は概ね事実だ。重度の心臓病であること、治る見込みはほぼないこと、両親は既に死んでいること、性交と興奮は死に繋がること、遺書代わりに絵を描いていること、命はまだ惜しいこと…… 話さなかったのは二つ。両親の素性と、予想される余命だ。 両親の素性は……まあ、わかるだろう? 姉弟でもそういう関係が『あり』なんだと、優香君に吹き込むことは後輩の人生に多大な影響を与えかねない。いくらなんでも目覚めが悪すぎる。 予想される余命のことを優香君に話さなかったのは、自身の保身のためだ。僕は最大限命は惜しむつもりだが、優香君の思考パターンはいまいち掴み切れていない。『あと数年で死ぬなら何をするかわからない』と思われて念のために殺されるなんてことは避けたかったわけだ。 両親のことはさておき、余命のことを話さなかったのは詐欺に近い。ただし僕の行動パターンを分析すれば想像できる事実だし、優香君も薄々気付いている節もある。確信した彼女が逆上するかどうかはガクブルだ。 ただまあ前述した通り、それはそこまでせっぱ詰まったことじゃない。本当に困っているのは兄の方だ。 その、なんだ。あれだよ……有り体に言って、落ちそうだ。 このところ、榊君の好意がまんざらでもなくなってきた。それが現時点での最大の問題だ。 でも言い訳させてくれ。憎からず思う相手に、八ヶ月も一緒にいて好き好きビームを照射されたら、誰だって心が動くに決まっているじゃないか。いや、一般論をよくは知らないんだけどね。 それに僕は恋愛に関しては(優香君や榊君のように)『この人がいい』と常に求め続けてきたわけじゃない。恋愛対象を選ぶとしても『この人でいい』という消極的な選択になる。ある意味無防備だったんだよ。 とはいえ、僕にとって恋愛が天敵という認識と事実は消えたわけじゃない。今は二つの気持ちが拮抗している。 一つは以前の通り、榊君の好意に甘えることはできないという気持ちだ。彼のためを思えばそれが当たり前だし、今まで通りアプローチをかわし続けて卒業まで漕ぎ着ければよい。 更に目指すなら、それまでに榊君が好きになれる別の人を探してあげるか、あるいは優香君の牙を何とか抜いてしまえば上々か。正直、そのあたりは榊君が自力でどうにかしろと言いたくもあるけれど。 そしてもう一つ、拮抗してるのは……そこまで言うなら、いっそ道連れにしてやろうかという濁った気持ちだ。 この僕に訪れる死をその能天気な精神に焼き付けてやろうか、なに遠慮することはない、本人がそれを望んでいるんだ、と。 気持ちが拮抗するに至ったのは、ことさら特別なことがあったわけじゃない。全ては他愛ない日々の積み重ねだ。例えるなら日焼けのようなもので、僕は強い日差しにも弱い。 純粋な好意で(まあ榊君の場合は年相応に不純もある)話しかけられ、じゃれ合い、からかって、褒めてけなして、共に過ごすのは楽しかった。一人ではけして得られない、人生に対する張り合いというものを僕は知った。 こんなに長く、誰か一人と楽しく過ごしたのは初めてだったんだ。ああ、楽しかったさ。 母は父のみを愛していた。父は僕も愛してくれたけど、僕は生まれ持った病によって捻れていた。 目が覚めた時、側には誰もいなかった。余命は決まっていて、入退院と留年を重ねることで親しい友人を作ることもできなかった。 僕は教室の隅で、景色の影で、人目に触れない場所で一人、絵を描いていた。 後悔しているわけじゃない、後悔しているような余命はない。 僕は死と隣り合わせになることで、死を乗り越えた。生まれ持った蝋燭が、他人よりも短いものだったという、ただそれだけだと受け入れた。その蝋燭で何をするかは、完全に僕の自由だと。 そう……死は乗り越えたと思っていたのに。 319 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 57 29 ID Ng41C3Ud 「先輩、寒くないですか?」 「ん、慣れてきたし大丈夫だよ。ところで何処に向かっているんだい?」 「はい。せっかく飾り付けられてるんだし、アーケードでも一緒に回ろうかと思って」 「なるほど、ウインドウショッピングか。それにしても、絵に描いたようにクリスマスイブのデートだね」 「そ、そうですか? その、つまらなかったらごめんなさい」 「いや、別に責めてるわけじゃない、むしろ逆だよ。こういう経験はなかなかないからね」 「ありがとうございます。ふう、よかった」 「それにしても手慣れてるよね。榊君はこういう経験豊富なのかな」 「えええ、いえいえいえ。そんなことないですよ。クリスマスにデートなんて、先輩が初めてです」 「ふふん、そうか。まあ初めて同士よろしく頼むよ」 可哀相に、優香君。なんだかんだと毎年のように共に聖夜を祝ったであろう彼女に同情する。 まあ、榊君が気付かないのは鈍感と言うよりも思いつきもしないんだろう。妹と二人でクリスマスを過ごしても、家族仲としか感じないに決まってるし、それが正しい。 けれど優香君の行動原理も、今一わからないことがある。なりふり構わないのなら、一服盛って強姦に至っても不思議じゃない。 何しろ元々からして不義の恋だ。今更不義を重ねたところでなんだというんだろう。チャンスはいくらでもあったはずだ。それこそ、僕の母のように。 勿論、そんなことをしている気配はない。榊君の能天気は、そんな関係の元で維持できるものじゃない。 もしかしたら優香君は、榊君のそんな純粋にこそ惚れたんだろうか。だとしたらあまりに難儀すぎる。素直に想いを発露することこそが、相手の魅力を破壊するなんて。 まあ……それでも相手を気遣っているだけ、僕よりはマシかな。 「流石に少し寒くなってきたね。そろそろどこかに入ろうか?」 「あ、そうだ先輩。せっかくクリスマスなんだし、何かプレゼントしますから、そのお店で」 「ほほう。それじゃあ宝石店にでも入ろうかな」 「ひい! 調子に乗ってごめんなさい!」 「ふふ、冗談さ。そうだな、こんな時まで画材というのも難だし、服でも見ようか」 「はいっ」 それからしばらく、衣料品店でやいのやいのと着せ替えを楽しむ。結局、榊君はセーターとマフラーを、僕はジーンズとベルトをお互いにプレゼントした。 榊君の好意を受け入れる気持ちが強くなってきたと言っても、それは優香君のような激しい感情ではなく、ぬるま湯に浸かるような穏やかな感覚だった。 春眠暁を覚えず。心地よい空間から寒い外へ、出たくないとむずがる子供のような我が侭だ。 そう。予想の外であることに、それは僕の天敵である興奮を伴うものではなかった。この僕のひ弱な心臓にも受け入れられる感情だった。 果たしてこの気持ちは、愛や恋と呼ぶべきものなのだろうか。少なくとも、僕の知る限りではそうではない。 もちろん、受け入れ可能といってもそんな真似をすれば、榊君の人生を少なからず奪い取ることになる。死という絶望に付き合わせ、子供もできず、残るのは骨壺だけだ。性交すら不可能なのは、取引としてあまりに不公平だろう。詐欺とも言う。 道義的に許されないのはわかっている。けれどその倫理と拮抗するほどに、まどろみに心惹かれる自分もいる。 言い換えるなら 榊君を思いやるか、自分の都合を押しつけるか。僕が今陥ってるのはそんな葛藤だ。 まどろみの中で死ねたならどんなに楽だろう。看取る相手がいてくれたらどんなに楽だろう。無理をして胸を張らなくて良いのなら、どんなに楽だろう。 320 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00 59 20 ID Ng41C3Ud 「少し、座ろうか」 「あ、はい。でもここじゃ寒くないですか?」 「なあに、さっきコンビニでカイロを補充したから大丈夫さ。むしろ熱いぐらいだよ、ちち」 「あはは。それじゃ先輩、ここどうぞ」 榊君の払ってくれたベンチに座る。冷え切った木材が布地越しでお尻に当たってひんやりと冷たい。隣に座った榊君との距離は微妙な感覚だ。 目の前には針金と電線と光電で構成された人造のクリスマスツリー。アーケードの広場には、僕たちの他にもカップルが大勢いた。都合良くベンチが空いていたのは非常に運が良いのかもしれない。 マスクを外し、息を吐くと、白く染まる。 「綺麗ですね」 「ありがとう、僕は確かに美人だけどね、ふふん」 「ツリーのことですから。いや、先輩もその、ごにょごにょ……」 「確かに見事なものだね。スケッチブックを持ってこなかったこと、少し後悔したよ。瞼に焼き付けておこう」 「先輩は本当に絵が好きなんですね」 「ライフワークを好きと言うべきかどうか、少々疑問だね。あれは暇つぶしの手段として選択しなければいけなかった結果だし」 それに僕がこの世界に残す遺言も兼ねている。 「そんなことないですよ。俺は、先輩は絵が好きなんだと思いますよ」 「ほほう、なんでだい」 「だって先輩、絵を描いてる時、すごく楽しそうだから」 「……なるほど。それは気付かなかったな」 それこそ、無邪気な夢を見た子供のように、とても楽しそうに笑う榊君。 そのシンプルな情動の美しさに、僕も釣られて微笑んだ。本当に、スケッチブックを持ってくれば良かったな こんな榊君の純粋さも、想いを受け入れれば破壊することになる。死という絶望で穢すことになる。 優香君ならばここで踏みとどまるのだろう。彼女は彼の、こんなところに惚れたのだろうから。 けれど僕はきっと踏みとどまらない。僕は榊君に惚れたのではなく、ただ死への道連れが欲しいだけだから。 言ってしまえば、誰でも良かった。僕の都合で利用しようというだけなんだ。 愛とは何だろう。 僕の母は二親等を異性として求め、添い遂げ、最後は無理心中した。他一切に価値を求めず認めず、その生き方ははっきりと毒だった。 僕の父は自分の姉兼妻に、自らの人生も命も奪われた。そこには選択肢などなかったはずなのに、父は母を恨まなかったし、その毒を受け入れていた。 死んでしまった両親の、血を継いでいることをはっきりと感じる。 受け入れるだけの人生と、触れるものを破滅させる毒としての生き方。 父よ、母よ、どうして僕を産んだのですか。 アーケードの広場で、針金作りのイルミネーションツリーに照らされながら、その向こう、星の見えない空を見上げる。 息も白くなるような寒さの中、隣には温もりが一つ。 失いたくはなかった。両親が死んで以来、自らの運命を悟って以来、ずっと感じていた孤独に戻りたくなかった。 「あ、あの……先輩っ! 俺っ」 「うん」 「俺……先輩のこと、好きです。付き合ってください!」 「……ありがとう、嬉しいよ」 死は乗り越えたと思っていた。けれど今更になって膝が震える。それは冬の寒さからくるものではない。 まどろみの中で死ねたらどれだけ楽だろう。今更抱いたその欲求が、死への恐怖をぶり返していた。 希望があるからこそ人は恐れる。絶望を受け入れてしまえば自由が手に入る。人とは難儀なものだ。 僕は…… 僕は自由などいらなかった。本当に欲しいのは希望だった。けれどそんなものはどこにもなくて、だから恐怖を克服するために死を受け入れた。でなければ生きていられなかった。 愛や恋など、僕は知らない。ただ一人は嫌だった。一人で恐怖に震えながら死にたくはなかった。 『誰かと出会って、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?』 『仮に貴女の病が治癒したとしても?』 だから、僕は 「すまない、榊君。僕は君とは付き合えない」 321 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01 00 36 ID Ng41C3Ud そうして、終わった。 僕の人生に於ける、きっと最後の、転機と言えるものは無為に終わった。 あと数年、僕は一人で生きて、そして死ぬ。 死ぬ時は一人だ。きっと怖いだろう。けれどわかってさえれば、希望さえなければ、耐えられる。 後悔はするだろう。あのとき、どうして彼を受け入れなかったのか。後悔し続けるに違いない。 だけど……それでも…… 12/24 アーケード広場 PM9:02 片羽桜子が、一人広場に残ってからしばらく経った。 幾度か彼が送ると誘ったけれど、片羽桜子は頑として断った。一人で帰る彼は、泣いていたのかしれない。いや、多分泣いていただろう。 ベンチに座った片羽桜子が、夜空を見上げるようにして投げやりに声をあげた。 「……あーあ、なんでだろうね」 「何故ですか」 呼びかけられ、答えて、ついでに立ちあがる。 私が潜んでいたのはベンチの後ろにある植え込みの陰、跳躍すれば届く程度の距離だ。万が一の時に阻止行動が可能な間合いだが、気付かれる可能性も比例して高い。 「気付いていたのですか?」 「いいや、さっぱり。大したスキルだ。声をかけたのは純粋な推測だよ、君がいないとおかしいからね」 「なるほど」 ベンチの前までぐるりと回り、服の汚れを払って彼女の隣に座る。私の服装は作業着にも似た上着とズボン、髪は帽子の中にまとめてマスクで口元を覆っている。 あまりにもあまりな格好だが、日付が日付だ。万が一にも尾行中にナンパ目的で声など掛けられたくはなかった。 マスクと帽子を外す、息が白い。彼女の隣に座る。 「それで、何故ですか」 「何がだい?」 「何故、兄を」 「おいおい、榊君を振ってくれと言ったのは君じゃないか。僕たちは目的が一致しているんじゃなかったのかい」 「そうです。ですが片羽さん。貴女は、兄のことを憎からず思っていたでしょう。異性として」 片羽桜子が目を丸くして、隣の私をまじまじと見た。オーバーアクションは抜きにしても、よほど意外だったらしい。 「根拠は?」 「論理的帰結です。それに、兄ですから」 「僕が言うのも難だけど、彼は魅力で見るならば、典型的な良い人で終わる人種だと思うんだが」 「でしょうね」 兄のことを思う。確かに兄は、世間一般に見て魅力に溢れた人間ではない。人より多少純粋で、人より多少情が深いだけだ。 それならどうして私は兄を選んだのだろう。そこには様々な要素があるように思えたけど、わざわざ言葉にしたくはなかった。 「けれど兄個人に対して思うところがなければ、そんなにも迷いはしないでしょう。感情を読んだわけではなく、ただの論理的帰結です」 「それはこじつけな逆説だよ。僕は別に、榊君個人に対して恋愛感情を抱いていたわけじゃない。身勝手な事情さ」 「なんですか」 「今更だよ。今更、一人で死ぬのが怖くなったんだ」 ミトン形の手袋で頬を支えながら、何故か恥ずかしそうに片羽桜子が呟く。 彼女は以前、自分は死を恐れないと言っていた。不治の病で余命は数年、けれどその絶望を受け入れたからこそ、命は惜しくても死は恐れない、と。 ならばその恥ずかしさとはつまり。 「格好悪いですね」 「ああ、格好悪いね。これでも一応、若いなりに悟りの一つも開いたつもりだったけど、なかなか上手くはいかないものだよ」 一度決めたことを、淡々と死ぬ間際まで貫くことができたのならば楽なのだろう。 けれど実際のところ、人間はそんなに都合良くはできていない。それを貫くには歯を食いしばって迷いと戦い続けなければならない。 それは私がこの上なく実感していることだし、だからこそ尊いものだとされるのだろう。 けれど今回、彼女が転んだ理由は何となく見当が付いている。以前マウントを取っておきなが圧倒された件の意趣返しを、今ここでしても良い。 322 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01 02 03 ID Ng41C3Ud 「片羽さん、貴女は」 「うん?」 「確かに、死という絶望は克服していたと思います。それについては驚嘆しました。しかし絶望とはそれだけではありません。世の中には、生きることに対する絶望もあるんです」 「……ああ、なるほどね」 生きている限り、何とかなると人は言う。 けれど……けれど、なんともならない希望を鼻先にぶら下げられて、走り続けなければいけないのなら、それもまた絶望ではないだろうか。 諦めればいいのかもしれない。けれど諦めたとしても後悔は続く、生きている限り後悔は続く。 ならば忘れればいいのかもしれない。けれど忘れられるくらいなら、そもそも希望になりはしない。 愛した人が兄だった。 その絶望こそ、私が慣れ親しみ、そして乗り越えてきたものだった。 「はは、そうか……僕は、生きたかったのか。誰かと一緒に、生きたかったのか」 「そうです」 「なるほど、なるほどね。僕は死に向かうことに関してはベテランだ。けれど生きること関して素人同然。手近にいた榊君を、見苦しく道連れにしようとしたいと思ったのも……生きたかったからか」 「生きるというのは、人を求めるということ。私にはそちらの境地はよくわかりませんが」 「ああ、死ぬ時は一人だ。死ぬというのは一人になることだよ」 片方は笑いをこらえながら、片方はくすりとも笑わず、女二人がベンチに並んで聖夜の星空を見上げる。加えて話題が生死だなんて色気のない話だ。 …… 今まで私の越えてきた、多くの絶望。兄妹は結婚できないと知った時、それでも兄を嫌いになれなかった時、兄が藍園晶を好きなのだと勘違いした時、片羽桜子が現れた時、兄の思慕を知った時。 たくさんの絶望を味わって、それでも乗り越えてこれたのは。この人と一緒に生きたいという、ただそれだけの理由だった。 人は一人では生きていけない。ならば私はこの人がいい。 それだけだし、それが私の自由だ。 そのことを再度自覚できただけでも……片羽桜子との邂逅は、私にとって有意義なものだったのだろう。 そして 「どうして僕は榊君を振ったんだろう」 「自明でしょう」 生きることが人を求めることであり、死ぬことが一人でいることならば。 「ああ、そうか、そうだね。僕は死ぬことを選んだんだ。今まで通り、死ぬために生きることを選んだんだ。 もしも僕が榊君を受け入れたなら、それは二人で生きていくということだ。けれど僕は怖かった、恐ろしくてたまらなかった。 かつて両親がそうだったように、この手に得たものが失われることが、信じたものに裏切られることが。 何より僕は榊君を信じられそうになかった。だって僕は僕の事情を何一つとして話していない、隠してきたんだ。 寿命のこと、病のこと、恋愛感情がないこと。どれか一つでも知られれば愛想を尽かされるんじゃないかと、どうしても思ってしまったんだ。 榊君の中の僕は張りぼてだ、実際の姿とはほど遠い。打ち明ける勇気がなかったから、僕は榊君を騙してここまで来た。そのツケがとうとう襲ってきた。 僕はこの人生で、生きるために生きることを諦めたんだ。つい、先刻、ここで」 くくく、ははは、とついに腹を抱えて片羽桜子は笑い出した。少し長くなりそうだったので、広場の隅にある自販機まで歩いていってホットのコーヒー(微糖)を購入する。 缶の熱さで指を暖めながら戻ると、彼女は片腹を押さえながら息を整えているところだった。笑いすぎてお腹が痛いらしい。 既に九時を大分回っている、あたりに人気はないため注視されることもなかった。コーヒーを一口、啜る。 「ふー、はー……優香君はこうなることを予測してたのかい? どうも動きが鈍いとは思っていたんだけど」 「まさか、そんな予測が立てられるほど万能ではありません。そもそも私が尾けてきたのは、キスでもしそうなら物理的に割り込むためです。見抜いていたならそんな保険ははいらないでしょう」 誘導があるとしたらその前日、病室でほのめかした方がまだ影響があるはずだ。 『誰かと出会い、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?』 『仮に貴女の病が治癒したとしても?』 けどそれより、彼女は元々一人でいるべき人間だった。生まれついた環境と体質により確固とした自我になったのかもしれない。榊優香がこういう生物であるように、片羽桜子はああいう生物なのだろう。 蔑視するでも誇張するでもなく、あの女は死に一人向かう人間だった。 それだけだ。 323 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01 03 51 ID Ng41C3Ud 「夢を見ていた気がするんだ。暖かい布団の中で微睡むように」 「幸せでしたか?」 「僕にはそういうのはわからない。でも、良い夢だった」 道が別れる。 「それでは」 「ああ」 「さようなら、片羽さん。頑張って死んでください」 「さよなら、優香君。頑張って生きてくれ」 3/1 公立高校校門 PM12:10 早咲きの桜がちらほらと芽吹いて通学路が色付いている。 その花と同じ名前を持つ人が、校門の前で黒い筒を『どうだ』と掲げて微笑んだ。 ・ ・ ・ 片羽先輩に振られてから二ヶ月と少し経つ。 アレから俺は泣いた。しばらく、家にこもってずっと泣いていた。一応空手部の練習には出てたけど、ほとんど屍のような状態だったと思う。何度も休んだ。 片羽先輩に会って、八か月。積もりに積もった想いが、水になってそのまま溢れ出たみたいだった。 あるいは……単に、先輩と歩いて行きたいと思った未来が閉ざされて、悲しかったのかもしれない。 いいや、今も。 俺は……まだ割り切れていない、割り切れるわけがない。 涙が枯れた後、胸の中に固いしこりが残ったようだった。 冬休みが明けて学校に通い始めて、片羽先輩は何事もなかったように接してくれてるけど、俺は先輩の笑顔を見る度に胸のしこりを意識する。 うまく笑えない。もう二ヶ月も経つのにあの日からずっと、俺はうまく笑えないでいる。 ……けど、今日は笑わないと。笑わないといけない。 今日は卒業式で、別れの日なのだから。 暖かい春の陽気が訪れようとしていた。空は青く日は穏やかで、文句の付けようのない門出の日。 校門から出ればすぐにバス停がある。普段はそこでお別れだけど、今日は先輩の家まで送ることになっていた。 それでも距離は近い、ほんの百mほどだ。先輩は近くにあるからこの高校を選んだと言っていたけど、それだけで合格できるんだから本当は頭がいいんだと思う。 僅かな距離で、最後に何を話すべきか、迷いに迷う。今日が最後、今日が最後だ。 「もう、荷物は纏めたんですか?」 「ああ、朝方業者がきていたからね。もう家には何も残ってない。一度家には寄るけれど、このまま向かう予定だよ」 片羽先輩が卒業と同時に引っ越すと知ったのは年が明けてからだった。 ここよりずっと田舎のもっと空気の綺麗な場所に引っ越すらしい。写真を見せてもらったけど、緑が豊富で民家が点在しているようなところだった。 もちろん、毎日のように会えることはなくなる。いや、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。 先輩自身からも、引っ越し先は凄い田舎だから来なくてもいいと言われているし、俺もまたそこまでするような熱意を(少なくとも今は)失ってしまっていた。 もしかしたら……先輩は、このことがあるから、俺を振ったのかもしれない。そう思いたい自分がいる。 「向こうに着いたら手紙を出すよ。いや、それより景色を描いて送った方が僕らしいかな」 「いいですね、それ。楽しみにしてます。それなら俺も何か送らないと」 「ふふん、期待してるよ」 道の脇に植えられた桜の下を、先輩と二人並んで歩く。これが最後だ、何か言わないと、何を言おう。 俺が先輩に伝えたいこと。 『俺……先輩のこと、好きです。付き合ってください!』 それはもう、あの日に終わってしまっている。そのことを思うと、胸がひどく痛い。 胸のしこりはひどく硬く、それが溶けるにはどれだけの時間が掛かるのか想像も付かない。けれどそれを待っている余裕はない。 それでも言うべきことが見つからなくて、あるいは言うべきことを言えなくて 324 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01 04 25 ID Ng41C3Ud 「……」 「……あ」 無言で歩くうち、迷っているうちに、とうとう時間が切れた。 何度か来たことのある先輩の家。小振りな一戸建てだけど、住んでいるのは先輩だけだ。招待されたこともあって、やけにがらんとした内装だったことを覚えている。 今は門の横に引っ越し会社のトラックが止まっている。家の中には何もないはずだ。ここでもう、俺は最後の挨拶をして、さよならしないといけない。 先輩が俺に向き直る。ふわりと、綺麗な髪が風を含んで広がり、収まった。 「ここまでありがとう、榊君」 「……先輩」 不意に、走馬燈のように今までの思い出が溢れかえった。旧校舎の脇で出会ったこと、桜の公園に案内してくれたこと、雨の中で絵を描くのを手伝った、みんなで一緒に出かけたこと、病院にお見舞いに行ったこと、初めて好きだと自覚したこと。 恋は破れたけれど、最初の気持ちを思い出す。 細い体で、胸を張って、空元気だけを頼りに、なんでもないことのように笑うこの人を、俺は。 ああ、思えば俺は自分の気持ちを押しつけようとするだけだった。一緒に生きていくことは無理だったけど、この人を支えたいという気持ちには変わりないと、今わかった。 遅すぎたけど、伝えよう。 「片羽先輩。なにか辛いことがあったら、俺でよければ相談してくださいね」 「ん……立派になったね、榊君」 先輩が僅かに目を丸くして、それからかすかに口の端をつり上げた。成長した弟を見るように、あるいは自分を笑い飛ばすように。 「大丈夫。僕は一人でも大丈夫だし、そういう生き方を選んだんだ。後悔を残さないように生きてるさ。けど」 腰に手を当てて、僅かに顎を上げて、俺の目をまっすぐ見つめる。 「前にも言ったけど、君に会えて良かったよ、榊君」 そうして、ふふん、と。胸を張って、先輩は笑った。 それは空元気だけを頼りに世界に対してまっすぐに立つ、あの笑い方だった。 そして、俺は 「はい。俺も、先輩に会えて良かったです」 今日、初めて。年が明けてから、初めて。先輩に振られてから、初めて。 笑うことができた。 そうして、俺の初恋は終わった。 高校にもなって初恋なんて、ずいぶん遅かったと思う。けれど決して恥じるような恋じゃなかったと、胸を張って言える。 残念ながら恋破れたけれど、この人には幸せになって欲しいと、今も変わらず願っている。 「さよなら、榊君」 「はい。先輩も、元気で」
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更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、桜咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出て、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。・・・求むれば即ち之を得、捨つれば即ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない。 平泉澄(文学博士)『國史学の骨髄』(1927年(昭和2年)8月) 戦前「護憲」の降魔剣 ~ 「日本主義」 <目次> ■1.初めに ■2.日本主義とは何か◆1.辞書による説明1:「日本主義」 ◆2.辞書による説明2:「明治期の日本主義」 ◆3.辞書による説明3:「昭和期の日本主義」 ◆4.「昭和期の日本主義」参考図書 ◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) ◆6.辞書による説明4:「超国家主義」 ◆7.辞書による説明5:「アジア主義」 ◆8.まとめ ◆9.辞書による説明6:「京都学派」と「近代の超克」 ■3.近代日本の思想状況◆1.右翼・左翼学生運動関連年表(日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜より引用) ◆2.近代日本の思想状況(まとめ) ■4.戦前日本の思想を考える様々な参考図書 ■5.ご意見、情報提供 ■1.初めに 明治以降~戦前の日本は「天皇制ファシズム」と呼ばれる異常な専制国家であり、特に戦前は暗黒の軍部独裁国家だったとする自虐史観は、GHQの占領期に実施されたW.G.I.P.(War Guilt Information Program,戦争贖罪洗脳計画)によって日本人に刷り込まれたものであると多くのサイトが指摘しています。 実際にW.G.I.P.という名称のプログラムが存在したか否かは別として、公職追放やGHQ焚書を通して米国の都合による一方的な情報工作が行われたことは事実でしょう。 しかし、GHQの占領期間終了から現在に至るまで、ジャーナリズム・思想・史学・法学を初めとする各分野でかくも強く自虐的論説が大勢を占め続けているという状況から、 ① 自虐的論説が蔓延している原因を、単にGHQの占領政策にだけ求めるのではなく、 ② 戦前期日本の思想状況の中にそれを受け入れる要因が内在していたのではないか、 と一度考えてみる必要があります。 このページでは「日本主義」という隠蔽されてきたキーワードを中心に戦前期日本の思想状況を概括し、 (1) GHQの占領政策・洗脳工作に呼応して戦後長く日本の言論界・思想界を汚染し続けているものの正体へと更に一歩深く迫ると共に (2) 日本型保守主義とナショナリズムの関係について考察します。 ■2.日本主義とは何か ◆1.辞書による説明1:「日本主義」 現時点で、wikipedia・広辞苑・デジタル大辞泉では「日本主義」の定義は以下の通り。 wikipedia 日本主義(にほんしゅぎ) 1.日本独自の伝統、文化、精神を基礎として国家の繁栄を目指すという主義。明治時代以降に急激に押し寄せてきた西洋化に対抗する事を目的として高山樗牛や井上哲次郎らによって主張された。2.白陽社から出版されている雑誌。 広辞苑(岩波書店) にほんしゅぎ【日本主義】 国粋主義思想の流れの一。日清戦争後、高山樗牛や井上哲次郎らが提唱。高山が個人主義に転じて以降、衰退。 デジタル大辞泉(小学館) 日本主義【ニホンシュギ】 明治中期、政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義思想。高山樗牛(たかやまちょぎゅう)・井上哲次郎らが雑誌「日本主義」を刊行、日本古来の伝統的精神を重視しようとしたもの。 ブリタニカ国際百科事典(ブリタニカ・ジャパン社)には、もう少しまともな説明があります。 ブリタニカ国際百科事典 にほんしゅぎ【日本主義】 明治から第二次世界大戦敗戦までにおける欧化主義・民主主義・社会主義などに反対し、日本古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想や運動をいう。一定の思想体系をなしていたとはいえず、論者により内容が相違する。明治の支配層が推し進めた欧化主義への反発として三宅雪嶺や高山樗牛らによって唱えられ、政治的には欧米協調主義への反対、国権や対外的強硬策の強調となって現れた。大正や昭和になって日本の資本主義の高度化が階級対立を激化させ、社会主義やマルクス主義が流入すると、これら諸思想の対抗イデオロギーとして機能し、天皇を中心とする皇道や国体思想を強調した。(cf.神国思想) つまり日本主義には歴史的に見て以下の二段階があるが、広辞苑などメジャーな辞書は①だけを記述している(意図的に②を隠蔽している)。 ① 明治期の日本主義 政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム) 他国の侵略から自国・自民族を守る(解放的ナショナリズム)⇒即ち「右翼」思想 ② 昭和期の日本主義 皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動 全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る(日本型保守主義)⇒即ち「保守」思想 ※「保守」と「右翼」の違いは ナショナリズムとは何か 参照 ◆2.辞書による説明2:「明治期の日本主義」 以下ブリタニカ国際百科事典より「明治期の日本主義」に関連する人名等の説明を引用します。 【高山樗牛】 たかやま・ちょぎゅう(1871-1902) 明治の評論家,思想家。本名は林次郎…(中略)…日清戦争後、井上哲次郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。1902年文学博士となり晩年は日蓮に傾倒。…(以下省略) 【井上哲次郎】 いのうえ・てつじろう(1855-1944) 哲学者。号は巽軒(そんけん)。東京大学教授。ドイツ観念論の移入に努めるとともに現象即実在論を説き、東西思想を包括する体系の樹立に努力。『勅語衍義』『教育と宗教の衝突』を発表。国民道徳を唱導しキリスト教を国体に反するものとして攻撃するなど国家主義を鼓吹した。多年、哲学界の大御所として君臨した。…(以下省略) 【三宅雪嶺】 みやけ・せつれい(1860-1945) ジャーナリスト。哲学者。本名雄二郎。1883年東京大学哲学科卒業。1888年井上円了・杉浦重剛・志賀重昂らの支持を得て政教社を組織し、雑誌『日本人』を発行。徳富蘇峰らの欧化主義に反対して日本主義を提唱した。1889年陸羯南が創刊した新聞『日本』にも主筆格で参加して国粋主義の立場から反政府的な評論活動を展開。1906年『日本』を退社し『日本人』を『日本及日本人』に改題。1923年その他の編集者と対立して同誌を去り、個人雑誌『我観』を創刊。1943年文化勲章受章。…(以下省略) 【陸羯南】 くが・かつなん(1857-1907) ジャーナリスト。本名は実。東奥義塾、司法省法学校を経て太政官の官吏となったが、伊藤博文らの皮相的な欧化主義に反対して辞任。1888年から『東京電報』(それまでの『東京商業電報』を改題した新聞)を主宰した。翌1889年2月11日帝国憲法発布の日に政論新聞『日本』を創刊。激しい弾圧を受けながらも日本主義と称した近代的ナショナリズムを勇敢に主張し続けた。★注釈:後述のように陸羯南は丸山眞男が自己の思想的源流の一人として高評価した人物のため、ブリタニカ百科事典でも異例に好意的な説明になっていると思われる。 【日本】にっぽん(1889創刊-1914廃刊) 陸羯南が1889年2月11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。谷干城・三浦悟桜らが資金的に援助し、記者には福本日南・三宅雪嶺・古島一雄・池辺三山・長谷川如是閑・ 丸山幹治 ・正岡子規らを集め、近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策を厳しく批判。創刊後の8年間に30回も発行停止処分を受けた。日清戦争後は次第に経営困難となり、羯南も病に倒れ、1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し、政友会系の平凡な新聞に転落。14年末社屋の火災もあって廃刊。 【日本及日本人】にっぽんおよびにほんじん(1907改題-1923休刊) 1907年1月『日本人』を改題して発行された政教社の総合雑誌。陸羯南時代の『日本』新聞で活躍していた三宅雪嶺ら政教社の有力メンバーは伊藤欽亮に譲渡されたあとの『日本』の編集方針に不満で、こぞって退社し、1888年の創刊以来、機関誌的役割を持っていた『日本人』に『日本』の伝統を担わせるという意味で『日本及日本人』と改題した。1923年の関東大震災で政教社が焼失したことなどから休刊。 【池辺三山】 いけべ・さんざん(1864-1912) ジャーナリスト。本名吉太郎。陸羯南の『日本』を経て、1896年『大阪朝日新聞』に入社。主筆となり、すぐ転じて『東京朝日新聞』の主筆。彼に私淑していた鳥居素川が『大阪朝日新聞』の主筆を務めており、相呼応して『朝日新聞』の声価を高めた。 【長谷川如是閑】 はせがわ・にょぜかん(1875-1969) ジャーナリスト。文学者。思想家。幼名は万次郎。1898年東京法学院(中央大学の前身)を卒業し、1902年日本新聞社に入社。06年社長の陸羯南が隠退し、新社長が三宅雪嶺と古島一雄の退社を命じたので、如是閑ら十数人も抗議して退社。07年雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加。08年鳥居素川のすすめで大阪朝日新聞社に入社。やがて小説や紀行文も発表しはじめた。14年社会部長になったが、18年の白虹事件で鳥居ら盟友とともに退社。19年大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊した(軍国主義の波が強まった1930年に『批判』と改題し、34年廃刊)。第二次世界大戦中は沈黙がちであったが、戦後の46年貴族院議員、47年日本芸術院会員となり、48年文化勲章を受けた。『長谷川如是閑選集』(全7巻,69-70)に代表著作が収められている。 【大山郁夫】 おおやま・いくお(1880-1955) 社会運動家。早稲田大学卒業後、シカゴ大学に留学。早大教授。『朝日新聞』論説委員、労働農民党および労農党委員長を歴任。1932年より47年までアメリカに政治亡命。47年凱旋将軍のような歓迎を受けて帰国。50年参議院議員に当選。51年スターリン平和賞を受けた。主著『政治の社会的基礎』『現代日本の政治過程』。 【白虹事件】 はっこうじけん(1918年) 1918年『大阪朝日新聞』が政府権力と対立して存亡の危機に追い込まれた日本の新聞史上最大の筆禍事件。当時『大阪朝日』はシベリア出兵、米騒動などに関連して寺内内閣を弾劾する言論の一大拠点であった。8月26日付け夕刊の記事に兵乱の前兆をいう「白虹日を貫けり」の一句があったことが、新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)に違反するとして『大阪朝日』は告訴され、村山竜平社長は退陣、次いで鳥居素川、長谷川如是閑をはじめ大山郁夫、 丸山幹治 、花田大五郎らも社を去った。同紙がこの事件で「不偏不党公平穏健」に反する傾向があったと自己批判したことは、その後の日本の新聞のあり方に象徴的な影を落としている。 【丸山眞男】 まるやま・まさお(1914-1996) 政治学者。日本思想史家。東京大学法学部卒業後、同大助教授を経て1950年教授に就任し、71年退官。46年発表の「超国家主義の論理と心理」で、軍国主義日本の指導者の没主体性を鋭く指摘し、天皇制国家の無責任構造を批判する新視点を提起して論壇に一大衝撃を与えた。『日本政治思想史研究』(52)では、江戸期にさかのぼって日本の政治思想を検証し、政治思想史研究の方法論を確立した。第二次世界大戦直後の代表的論文をまとめた『増補版・現代政治の思想と行動』(64)は、「丸山政治学」のバイブルと呼ばれ、英訳されて海外でも評価を得ている。また、60年安保闘争(cf.安保改定問題)などを通じ、戦後民主主義運動の精神的支柱となったが、後年は日本思想の研究に専念した。日本思想の根本的な構造を明らかにした『日本の思想』(57)は思想界に大きな影響を与えた。そのほか『丸山眞男座談』9巻(96)がある。 ※要約すると「明治期の日本主義」には更に次の二系列があり、両者は余り関係がないと思われる。 (1) 高山樗牛・井上哲次郎らの刊行した文芸雑誌『日本主義』(1897年創刊) 広辞苑・大辞泉・wikipediaは、こちらの「日本主義」のみ記載している。 (2) 陸羯南が創刊し、三宅雪嶺・池辺三山・長谷川如是閑・丸山幹治らが執筆した政論新聞『日本』(1889-1906)→三宅が創刊した『日本人』を改題し、池辺・長谷川・丸山などが執筆した総合雑誌『日本及日本人』(1907-23)→更に、池辺・長谷川・丸山は白虹事件で退社するまで『大阪朝日新聞』に政論を執筆(1908-18) 近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策を厳しく批判 ※戦後民主主義の代表的論者・丸山眞男は丸山幹治の二男であり、長谷川如是閑を叔父同様に慕い、また戦後に陸羯南について次のような評価を書いていることに注目。 羯南の日本主義は上述のように、ナショナリズムとデモクラシーの総合を意図した。それがいかに不徹底なものであったとはいえ、これは日本の近代化の方向に対する本質的に正しい見通しである。国際的な立遅れのために植民地ないし半植民地化の危機に曝されている民族の活路はいつもこの方向以外にない。不幸にして日本は過去においてその総合に失敗した。福沢諭吉から陸羯南へと連なる国民主義の最初からにひ弱い動向は、やがて国家主義の強力な支配の裡に吸いこまれていった。そのために下からの運動はむしろ国際主義いな世界市民的色彩をすら帯びざるをえなかった。長きにわたるウルトラ・ナショナリズムの支配を脱した現在こそ、正しい意味でのナショナリズム、正しい国民主義運動が民主主義革命と結合しなければならない。それは羯南の課題を継承しつつ、その中道にして止まった不徹底を排除することにほかならぬ。新聞『日本』は明治憲法発布の日に誕生した。…日本国民は羯南の警告にもかかわらず明治憲法に与えられた程度の貧弱な自由すら現実にまもり抜くことができなかった。改正憲法の公布にあたり、われわれは、国民に与えられた諸権利を現実に働くものたらしめ、進んでヨリ高度の自由を獲得するために、よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する険峻をのりこえて進まなければならぬであろう。まさしく憲法祭に酔っているときではないのである。 丸山眞男「陸羯南-人と思想」(1947年) ⇒つまり戦後左翼の代表的思想家丸山眞男は、実は政府の欧化主義に抗して近代ナショナリズムを唱えた「明治期の日本主義」の直系の継承者である。 その丸山が、戦後に「ウルトラ・ナショナリズム(超国家主義…後述の「革新右翼」)」と勝手に同一視して糾弾したのが下記の「昭和の日本主義」であり、そのために広辞苑・大辞泉・wikipediaなどでは無視されたままになっていると考えられる。 ◆3.辞書による説明3:「昭和期の日本主義」 ブリタニカ国際百科事典より関連する項目の説明を引用します。 【安岡正篤】 やすおか・まさひろ(1898-1983) 陽明学者。思想家。幼少から漢籍に親しむ。東京大学法学部在学中に大正デモクラシーに抗して日本主義を唱え、早くから政・官・軍関係者にその名を知られる。1927年私塾・金鶏学院を設立して東洋思想の普及に努め、31年財界首脳をスポンサーに日本農士学校を設立する。第二次世界大戦中は小磯内閣の大東亜省顧問を務めたが終戦の詔勅の起草者の一人でもあった。49年全国師友協会を設立。指導者の教化に力を注ぐ。多くの政・財界人、文化人が師と仰ぎ、安岡の訓話を受けることが指導者の条件とまでいわれた。吉田茂・佐藤栄作・池田隼人ら官僚出身の歴代首相の求めに応じて指南役として助言したが、自らは生涯政治の表舞台に立つことはなかった。陽明学、東洋思想、人生論に関する多数の著書がある。 【紀平正美】 きひら・ただよし(1874-1947) 哲学者。帝国大学文化大学卒業。国学院大学・東洋大学講師を経て、1919年学習院大学教授。37年精神文化研究所の設立とともに所員となったが、研究所が43年教学錬成所に併合されたのちまもなく退職した。哲学思想としては、初めドイツ観念論を中心とした西欧哲学、特にヘーゲルの影響が強かったが、のち仏教思想を入れ、国民精神文化研究所時代は国家主義思想に傾斜していった。主著『行の哲学』(1931)、『知と行』(38)、『なるほどの哲学』(41)、『なるほどの論理学』(42)。 【国民精神文化研究所】 こくみんせいしんぶんか・けんきゅうじょ(1932年設置-1943年改組) 1932年「国民精神文化ニ関スル研究、指導及普及ヲ掌ル」(同官制1条)目的のもとに設置された文部大臣の直轄機関。前年に設けられた学生思想問題調査会の「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする有力な研究機関」設置を求める答申を受けて設けられた。研究部、事業部、編集部、調査部、庶務部から成り、33年品川区上大崎に庁舎を新築した。『国民精神文化』(隔月刊)『国民精神文化研究』(半年刊)『国民精神文化月報』などの刊行、各種講習会・講演会などの開催を通じて国民思想政策の推進に寄与した。43年国民錬成所(1942設置)と統合して教学錬成所に改組された。 【国体の本義】 こくたいのほんぎ(1937年刊) 文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。 ※広辞苑・大辞泉などよりマシとはいえ、ブリタニカ百科事典でも「昭和期の日本主義」に関しては未だに肝心なこと(例として 原理日本社 、 蓑田胸喜 、 平泉澄 など)が記載されていません。 ※なお東欧民主化・ソ連邦解体(冷戦終結)後、既に20年が経過した現在では、戦後に左翼言論人によって激しく糾弾され、もしくは無視された蓑田胸喜など原理日本社同人や平泉澄など「昭和期の日本主義者」のマルクス主義批判・左翼容共思想批判は、論理的には、実に的を射た批判であったことが判明しています。 ◆4.「昭和期の日本主義」参考図書 ※西暦2000年代に入って漸く、戦後長く無視されてきた「昭和期の日本主義」に関する実証的な研究が本格化しました。 日本主義的教養の時代―大学批判の古層 竹内 洋 (編集), 佐藤 卓己 (編集) 2006.2刊内容(「BOOK」データベースより)戦前「護憲」の降魔剣“日本主義”を解明。「右翼」「反動」のレッテル貼りで忌避されてきた一九三〇年代“日本主義”の大学批判。マルクス主義的教養の機能的代替となった日本主義的教養の担い手たち。来るべき時代を読み解く画期的論集。目次第1章 帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌第2章 天皇機関説批判の「論理」―「官僚」批判者蓑田胸喜第3章 写生・随順・拝誦―三井甲之の思想圏第4章 英語学の日本主義―松田福松の戦前と戦後第5章 戦時期の右翼学生運動―東大小田村事件と日本学生協会第6章 日本主義的社会学の提唱―赤神良譲の学術論第7章 日本主義ジャーナリズムの曳光弾―『新聞と社会』の軌跡★未だに自虐史観どっぷりの東大・岩波系とは距離を置く京大系の学者達による昭和10年代日本の思想状況の共同研究プロジェクト全体のガイドライン的な位置づけの本。 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜 井上 義和 (著) 2008.6刊内容(「BOOK」データベースより)国家的危機の時代における大学の使命とは何か。欧化一辺倒の東京帝国大学に学風改革を迫り、高度国防国家を標傍する政府とも命がけの思想戦を繰り広げた東大生たち。戦時体制下で宿命的に挫折した“日本主義的教養”の逆説を読み解き、日本型保守主義の可能性を探る。目次第1章 「右翼」は頭が悪かったのか―文部省データの統計的分析第2章 政治学講義と国体論の出会い―『矢部貞治日記』を中心に第3章 学風改革か自治破壊か―東大小田村事件の衝撃第4章 若き日本主義者たちの登場―一高昭信会の系譜第5章 学生思想運動の全国展開―日本学生協会の設立第6章 逆風下の思想戦―精神科学研究所の設立第7章 「観念右翼」の逆説―戦時体制下の護憲運動第8章 昭和十六年の短期戦論―違勅論と軍政批判第9章 「観念右翼」は狂信的だったのか―日本型保守主義の可能性★現代の日本会議に繋がる国民文化研究会の母体となった昭和10年代の右翼学生運動の系譜を追い、左翼が壊滅した後、国家改造を進める革新右翼(国家社会主義者・アジア主義者)と激しく対立した観念右翼(伝統保守・日本主義者)の論理と実情を具体的に論証する好著 丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 植村 和秀 (著) 2004.10刊内容(「MARC」データベースより)理性の民主派=丸山と、東大国史の歴史神学者=平泉。ともにマイネッケに感銘を受け、危機の時代に対峙した両者の思惟様式に論理的な共通性を見出し、戦前・戦後を貫通する日本ナショナリズムを再定位する。目次第1章 政論記者丸山眞男第2章 歴史神学者平泉澄第3章 正統の争い―平泉澄と丸山眞男第4章 平泉澄における忠誠と反逆第5章 丸山眞男にとっての忠誠と反逆第6章 昭和期日本の政治主義★昭和期日本主義を代表する歴史神学者・平泉澄と戦後民主主義の旗手・丸山眞男、昭和史を貫く両者の思想対立を鋭く分析した名著。 「日本」への問いをめぐる闘争―京都学派と原理日本社 植村 和秀 (著) 2007.12刊内容(「BOOK」データベースより)日本の危機を超克するための哲学は可能か。新世界秩序の創造を目指す、西田幾多郎ら京都学派。それを執拗に否定する、蓑田胸喜ら原理日本社。激しい思想戦から描き出す、斬新な近代日本思想史。目次第1章 西田幾多郎の哲学的挑戦―自己からの創造(西田幾多郎の「論理」、国家理由の問題―マイネッケへの苛立ち ほか)第2章 京都学派の世界史的挑戦―近代の超克(ヨーロッパ中心主義からの跳躍―鈴木成高、近代国家との訣別―西谷啓治 ほか)第3章 蓑田胸喜の西田幾多郎批判―禁忌としての日本(蓑田胸喜の執念、偶像を刻んではならない―カントとマルクスの「共通宿命」 ほか)第4章 蓑田胸喜の天皇機関説批判―原理日本社の公論(自我意識の極大化と絶対への欲求、「コトノハノミチ」という論理 ほか)第5章 京都学派対原理日本社―日本をめぐる闘争(絶対的なるものへの欲求、自己の責務 ほか)★東西文明の総合(止揚)としての「近代の超克」を説く西田幾多郎ら京都学派と、それを押しとどめ、あくまで日本の独自性に拘る蓑田胸喜ら原理日本社を対比して戦前・戦中期日本のもう一つの思想的可能性を描く。上3冊を読んだあとの+αとして。 ◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) 上記の 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜 によれば、左翼が一掃された昭和10年代の日本には、①革新右翼と②観念右翼の二大勢力があり、国内・国外の政策を巡って激しく対立したとされます。 ※ブリタニカ国際百科事典には「観念右翼」のみ項目があり、その中に「(国家社会主義者(組織右翼)」の説明があります(革新右翼を組織右翼とも呼んだ)。 【観念右翼】かんねん・うよく 特定の右翼党派ではなく、純粋な日本精神主義を思想や行動の原理とする諸団体。上杉慎吉をその源流とする。第二次世界大戦前の右翼運動を思想形態から分類すると、国家社会主義派(組織右翼)と日本精神主義派(観念右翼)に大別される。上杉の組織した桐花学園(1913創立)、蓑田胸喜、天野辰夫、菊池利房による興国同志会(19)、平沼騏一郎の国本社、興国同志会の流れをくむ七生社(25)などが観念右翼としてあげられる。 ※革新右翼と観念右翼の理念型( 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜 より引用) ①革新右翼 ②観念右翼 国家改造 国体明徴 高度国防国家 国民精神総動員 解釈改憲 護憲(不磨の大典) 指導者原理 臣道実践 統制経済 資本制擁護 親ソ・親独 反共・反独裁 世界史的な使命 日本史的な道統 陸軍統制派 陸軍皇道派 革新官僚 財界 無産政党 既成政党(現状維持派) 国家社会主義者 自由主義者 結論から言うと、この①革新右翼(国家社会主義+アジア主義)が日本を支那事変~大東亜戦争へと誘い込んだのであり、②観念右翼(伝統保守=昭和期の日本主義者)はそれに激しく抵抗したのだが、丸山眞男を始めとする所謂「戦後民主主義者(戦後市民派)」は、①・②を故意に同一視して「超国家主義者」「右翼」として貶め続けてきた(さらに言えば、橘孝三郎の一族の立花隆に典型的に見られるように①革新右翼が敗戦後たちまち「戦後市民派」に転向して②観念右翼を糾弾する側に回っている例が多々ある)。 ※以上の経緯は 右翼・左翼の歴史 を参照。 ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者の項目をブリタニカ百科事典より引用します。 ◆6.辞書による説明4:「超国家主義」 【北一輝】 きた・いっき(1893-1937) 国家社会主義運動の理論的指導者。本名輝次郎。1919年に執筆した『日本改造法案大綱』は陸軍青年将校の革命のバイブルとされた。1937年刑死。その他の著作『支那革命外史』(1915) 【大川周明】 おおかわ・しゅうめい(1886-1957) 日本国家主義運動の指導者。東京大学卒業後、満鉄入社。のち軍中央部と手を握り1931年の陸軍部内の一部青年将校が計画した三月事件、同年6月の満州事変を推進した。32年の五・一五事件に連座。第二次世界大戦後、極東国際裁判で連合軍によってA級戦犯として起訴されたが精神錯乱のため釈放された。 【橘孝三郎】 たちばな・こうさぶろう(1893-1974) 農本主義的国家主義者。第一高等学校を中退。郷里に帰って農耕のかたわら思索の生活を続け、大地主義、兄弟主義、勤労主義を三位一体とする農本主義精神に到達した。また長兄、次兄をはじめ一家一族のほとんどがともに同じ農場で働くことになり、兄弟村農場として世間の注目を集めた。1929年愛郷会を創設、31年には私塾愛郷塾を開いて農本主義的な運動を進め、血盟団の井上日召らと関係を結んで極右的・暴力的傾向を強めた。32年の五・一五事件では、愛郷塾生の多数が農民決死隊として参加、橘もこれに連座して無期懲役に処せられた。40年に出獄後、第二次世界大戦の敗戦を経て愛郷塾は「報本農場」として復活し、橘は再び農場経営を営むかたわら農民運動に関係した。 【井上日召】 いのうえ・にっしょう(1886-1967) 国家主義者。本名昭。血盟団を組織。一人一殺のテロを指導。血盟団事件により、1934年無期懲役確定。1940年恩赦で出獄。 ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者と親和的な「アジア主義」の関連項目をブリタニカ百科事典より引用します。 ◆7.辞書による説明5:「アジア主義」 【大アジア主義】 だい・アジア・しゅぎPan-Asianism 欧米列強のアジア侵略に抵抗するため、アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来、種々の視角から展開された。植木枝盛は自由平等の原理に基づきアジア諸民族が全く平等な立場で連帯すべきことを説き、樽井藤吉や大井健太郎は、アジア諸国が欧米列強に対抗するために連合する必要があり、日本はアジア諸国の民主化を援助すべき使命があると説いた。明治20年代になると、大アジア主義は明治政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになった。1901年に設立された黒龍会の綱領にもみられるように、その後の大アジア主義は天皇主義とともに、多くの右翼団体の主要なスローガンとされ、これに基づいて満蒙獲得を企図する政府・軍部の政策が推進された。日本人の大アジア主義的発想は、第二次世界大戦前・戦中の「大東亜共栄圏」構想を支えた。 【大東亜共栄圏】 第二次世界大戦を背景に1940年第二次近衛内閣以降45年敗戦まで唱えられた日本の対アジア政策構想。その建設は「大東亜戦争」の目的とされた。東条英機の表現によれば、大東亜共栄圏建設の根本方針は、「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」しようとすることにあった。しかし実際は、東アジアにおける日本の軍事的・政治的・経済的支配の正当化を試みたものに他ならなかったといえる。第一次近衛内閣当時の「東亜新秩序」は日本・満州・中国を含むものに過ぎなかったが、南進論が強まるにつれて、インド・オセアニアにいたる大東亜共栄圏構想に拡大された。大東亜省の設置と大東亜会議の開催は、このような方針の具体化に他ならない。 ◆8.まとめ 運動の性格 ① 明治期の日本主義 政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム) 他国の侵略から自国・自民族を守る(解放的ナショナリズム) 右翼思想 当初は国粋主義的だった在野言論人の活動は、明治末・大正期に日本が大国化したのちも反骨精神は全く変わらず、今度は次第に左翼思想に理解を示す者が出てきた(左右等価気分説(※1))。更に彼らは、戦後は進歩派・市民派左翼文化人として活発に活動した(長谷川如是閑・丸山眞男etc.)。 ② 昭和期の日本主義 皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動 全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る(日本型保守主義) 保守思想 日本精神主義派(観念右翼)。日本主義的教養を武器に学生・知識人の左傾化を防止し日本精神に目覚めさせると共に、革新右翼の狙う国家改造・解釈改憲・国家経済の社会主義化、更には戦争の長期化を「護憲」の立場から制止・抑制するために奔走。いざ戦争が激化すると国防のために生死を厭わず護国のために尽くした者が多い。 ③ アジア主義 アジア諸民族を白人支配から解放するという大義を掲げ、実際にも明治期の孫文を初めインドのB.ボース、フィリピンのアギナルドらの独立運動と連動しつつ遂行された日本の勢力拡張運動。 アジア諸民族の独立を支援する(排白人主義)(拡張的ナショナリズム) 極右思想 国家社会主義派(組織右翼=革新右翼)と重なる。代表的イデオローグとして5.15事件に関与した大川周明、2.26事件に連座した北一輝。革新右翼は2.26事件暴発後に勢力を急拡大し三木清など転向左翼の多数が近衛内閣のブレーン集団を形成して国策を左右した。※詳しくは 右翼・左翼の歴史 参照 ※「保守」「右翼」「極右」の違いは ナショナリズムとは何か 参照 ※1:左右等価気分説…右傾化も左傾化も既成勢力に対する反抗という意味で基本的に同じ心情に基づくものであり、状況が変化すれば左・右転換は容易とする説。 ◆9.辞書による説明6:「京都学派」と「近代の超克」 ※この他に、④として大東亜戦争開始後に「近代の超克」を唱えた西田幾多郎門下の「京都学派」があるのでブリタニカ百科事典から簡単に引用する。 【京都学派】きょうと・がくは 西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し、「固体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが、その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自の学風が形成され三木清・戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。三木・戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派から離れるが、次いで高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らのグループが現れ、第二次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂・西谷・高山・鈴木らのグループを指して狭義の京都学派と呼ぶことが多い。 【近代の超克】きんだいの・ちょうこく 太平洋戦争勃発直後の1942年、雑誌『中央公論』および『文学界』において論じられたテーマ。川上徹太郎、亀井勝一郎、小林秀雄、林房雄、吉満義彦らの文芸評論家が欧米文化の克服を論じたものである。西欧近代からのアジアの解放を標榜した大東亜戦争を肯定的に受け止めようとする知識人がそこに根拠を求めようとした。思想的には深められないまま終わったが、第二次世界大戦後竹内好がその意義をあらためて主張した。またソ連を頂点とした共産圏崩壊後、新しい国際関係が模索されるなかで、再びその意味を問う声もある。 ※以上で、「日本主義」および関連する「アジア主義」「近代の超克」など諸用語の辞書的な説明を終わります。 ※以下より、戦前日本の思想状況、特に左翼・右翼の両翼の思想運動についてまとめます。 ■3.近代日本の思想状況 ◆1.右翼・左翼学生運動関連年表( 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜 より引用) 和暦 西暦 出来事 藤島利郎による区分 丸山眞男による区分 右翼学生運動 左翼学生運動 日本ファシズム運動 明治元~ 1868~ 明治維新 第1期:萌芽期 大正7 1918~ 第一次世界大戦終結 第2期:台頭期(後半) 台頭期(前半)~全盛期(後半) 第1期:準備期 昭和5 1930 ロンドン海軍軍縮条約 第3期(第1小期):勃興期 潜行期 (民間における右翼運動の時代) 昭和6 1931 満州事変 第3期(第2小期):興隆期 凋落期 第2期:成熟期 昭和7 1932 五・一五事件 ↓ ↓ (急進ファシズムの全盛時代) 昭和8 1933 京大滝川事件 ↓ ↓ ↓ 昭和9 1934 ↓ ↓ ↓ 昭和10 1935 天皇機関説事件 ↓ ↓ ↓ 昭和11 1936 ニ・ニ六事件 ↓ ↓ 第3期:完成期 昭和12 1937 支那事変 第3期(第3小期):全盛期 準壊滅期 (日本ファシズムの完成時代) 昭和13 1938 ↓ ↓ ↓ 昭和14 1939 ↓ ↓ ↓ ¦ ↓ ↓ ↓ 昭和20 1945 第二次世界大戦終結 右翼学生団体創立ブーム 左翼学生運動台頭~全盛期 ※つまり戦前期の実証的な学生思想運動の研究によれば、大正期から昭和初期にかけて(1910年代の終わりから1920年代)の日本の大学は非常に自由な知的環境にあり、上の図の赤塗部分の通り左翼学生運動が隆盛していた(ロシア革命の影響→後期は経済恐慌の影響)。それが当局により問題視され弾圧を受け始めるのは1928年の三・一五事件以降である。 ※満州事変が勃発する1930年代になると今度は、右翼学生運動が盛んになり、天皇機関説事件からニ・ニ六事件の頃に、一時的に下火になるものの支那事変勃発でブームが再開した(その後、第二次近衛内閣の新体制運動による統制の強化により、学生右翼運動も下火になる)。 嘗て左翼学生運動の華やかなりし時代或人は謂った。学生には四種ある、①最も頭脳明晰な学生は社会科学を研究して結局左翼運動に奔り、②次に位する者は専心に学校の過程を勉強し、③次に位する者は映画演劇麻雀撞球等の享楽に奔り、④最も下級に在る者のみが右翼運動に参加するに至ると、然し是は今日の右翼運動に関する限りは当を得て居ない。 藤嶋利郎(司法官僚)『最近に於ける右翼学生運動について』(1940年(昭和15年)司法省刑事局刊) ※上は、大正期に大学時代を過ごした元左翼学生の司法官僚の昭和15年の回想である。これはまるで最近の団塊世代の言いそうな感想であり、戦前の日本が思想的に暗黒時代だった、という戦後左翼の刷り込みは全く根拠がないことが、これだけでも分かると思う。 ◆2.近代日本の思想状況(まとめ) 区分 時期 内容 (1) 復古主義v.s.文明開化の時代 明治維新~西南戦争終結(1867-1877) 復古主義的文教政策を推進する勢力(主に公家・薩摩閥)と開明政策を推進する勢力(主に長州閥)が拮抗したが、西南戦争の結果、開明派が勝利した。 (2) 欧化主義v.s.政論的ジャーナリズムの時代 鹿鳴館時代~日露戦争開始(1878-1904) 「殖産興業」「富国強兵」「和魂洋才」等をスローガンに政府による強力な欧化政策が遂行された。その一方で在野の不平士族などを中心に「有司専制」に反対する政論的ジャーナリズムが登場。自由民権運動として知られる初期の立憲デモクラシー要求や、欧化主義に反対する「(明治期の)日本主義」と呼ばれる国粋主義運動も勃興し一定の影響を及ぼした。明治憲法制定(1889)・帝国議会開設(1890)などはそれらのせめぎ合いの成果である。 (3) 大正教養主義の時代 ポーツマス条約締結~第一次大戦による好景気(1905-1917) 明治期の悲願であったロシアの脅威の排除と不平等条約改正という大目標を達成したこの時期の日本では、政治よりも(西欧産の)哲学・文学など文化的教養に重きをおく風潮が顕著になり(大正教養主義)、それが政治面にも作用して議会制デモクラシーの確立を目指す動きが強まった(大正デモクラシー)。第一次大戦によって日本の富強化は一段と進展した。 (4) マルクス主義的教養の時代 ロシア革命~4.16事件(共産党員の大量検挙)(1918-1930) 1917年10月にロシアで共産主義革命が起こり、また第一次大戦の敗戦の結果ドイツ・オーストリア・トルコなどの帝国が倒れて共和国化した影響で、「歴史の必然的な発展法則」を説くマルクス主義思想が折柄の大正期の自由な知的環境の中で急速に知識人・学生層に影響力を拡大した(1918年東大新人会発足・・・当初は吉野作造の民本思想などの研究が中心だったが急速にマルクス主義思想に傾斜。1928年解散)。「革命の輸出(世界革命)」を目論むロシア共産党は1919年コミンテルン(国際共産党組織)を作り、その下部組織として日本共産党が結党され27年テーゼ(綱領)では公然と「天皇制打倒」を掲げるに至ったため、3.15事件(1928年)・4.16事件(1929年)で治安維持法に基づく共産党員の一斉検挙が実施された。このとき将来の国家を担うべき東大京大を初めとする全国32大学148名の現役学生が検挙された事実は政府当局を震撼させ「思想国難」と認識されるようになった。この共産党員の一斉検挙後も東大・京大など有力大学にマルクス主義に染まった多数の教授が大正期以来の「学問の自由」「大学の自治」を盾に居座り続け、それが排除されるのはコム・アカデミー事件(1936年)・人民戦線事件(1938-39年)に至ってからであった。 (5) 日本主義的教養の時代 満州事変勃発~ポツダム宣言受諾(1931-1945) マルクス主義への対抗イデオロギーとしての役割が、日本主義(日本の歴史・伝統に則った精神的姿勢の追求)に担わされた。その一方で、実際の国策指導・戦争指導は、特に近衛文麿内閣の成立後は、日本主義を奉じる観念右翼(伝統保守)ではなく革新右翼(国家社会主義者・アジア主義者)によって実施される場合が多く、観念保守はその動きに「護憲」の立場から歯止めをかけるのに精一杯だった。 (6) 戦後民主主義(教養主義の没落)期 GHQの占領~冷戦終結(1945-1990) (4)マルクス主義的教養の時代に思想形成し、それゆえに(5)日本主義的教養の時代には思想弾圧を受けたと感じているアカデミズムやジャーナリズムの人士が、GHQの占領政策に乗じて、そうした恨みを存分に晴らす機会を得て跳梁跋扈し、その影響が現在も続いている。 (7) ポスト冷戦期 ソ連邦崩壊~現在まで(1991-) 上記の通り、西暦2000年代に入ってようやく戦前の政治思想の状況を実証的に見直す動きが顕在化してきた。 ■4.戦前日本の思想を考える様々な参考図書 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) 歴史学 (ヒューマニティーズ) 佐藤 卓己 (著) 2009.5刊内容(「BOOK」データベースより)情報化、グローバル化が加速するメディア社会。公議輿論の足場として、歴史的教養の重要性はますます高まっている。しかし、こうした現実の課題に対して、「大きな物語」が失われたあと、これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか。公共性の歴史学という視点から、理性的な討議を可能にする枠組みとして二一世紀歴史学を展望する。★評価著者は 日本主義的教養の時代―大学批判の古層 の中心的編集者で良くも悪くも現在の歴史学の水準を体現している人物。ヒューマニティ・シリーズの一冊として、敢えて従来の「(ゴリゴリの)自虐史観」からは距離を置くこのような著者の本が、あの(戦後一貫して自虐史観で真っ黒だった)岩波書店から出版されたこと(出版せざるを得なくなったこと?)は非常に意義深いことである。但し現在の歴史学の限界をも露呈する一冊とも読める。果たして次の世代は、この限界をどれだけ乗り越えられるのかに注目したい。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) 日本の思想 丸山眞男 (著) 1961.11刊内容(「BOOK」データベースより)現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。★評価その思想の偏り、事実関係の歪曲・捏造ぶりが散々に指摘される丸山眞男の代表的著作。よく読むと丸山と同時代人である蓑田胸喜や平泉博士や京都学派の高山岩男といった今では世間一般では忘れられた思想家、さらには「日本主義」「近代の超克」からエドマンド・バークやカール・ポパーにまで言及している箇所があり、そうした意味でも興味深い。 現代政治の思想と行動 増補版 丸山眞男 (著) 1964刊 1974増補出版社 / 著者からの内容紹介戦後日本を代表する政治学者・丸山眞男の『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)にならぶ主著。「戦後日本社会科学の精神的起点の一つ」(道場親信)と評され、「丸山学派」とよばれる多くの学者に影響を与えた。三部に分けられ20本の論文が収録されている。各論文は、講演調、書簡体、対話体と、ヴァラエティにとんだ歯切れのよい文体でつづられており大変読みやすく、また著者自身による詳細な「追記および補註」も読者の理解を助けてくれる。第一部には「日本ファシズム」をめぐる論考がおさめられている。特に「超国家主義の論理と心理」の与えたインパクトは大きく、その後の天皇制分析の出発点となった。「軍国支配者の精神形態」では「無責任の体系」というキーワードで日本の支配機構を分析、戦争責任問題の分析への道をひらいた。第二部にはファシズムと同時に共産主義の問題も論じている。第三部では政治学の基本的な概念を整理した文章がならんでおり、著者自身の時代状況への対応も見ることができる。「現代における人間と政治」では、『独裁者』などチャップリンの映画からときおこし、知識人の役割についての考察を深めている。半世紀たった今も、全く色あせるどころかますます輝きをます政治学的考察の宝庫。★評価中共と毛沢東を激賞しスターリンの「功績」をも懸命に擁護して、日本とアメリカの「ファシズム化」に警鐘を鳴らし続けて「本物の知識人」たちを“啓蒙”した丸山眞男の主要論文集。怪番組NHK JAPANデビュー第二回:天皇と憲法の思想的な源流もここにある! 丸山眞男の時代 竹内 好 (著) 2005.11刊内容(「BOOK」データベースより)戦後の市民による政治参加に圧倒的な支配力を及ぼした丸山眞男。そのカリスマ的な存在感の背景には、意外なことに、戦前、東大法学部の助手時代に体験した、右翼によるヒステリックな恫喝というトラウマがあった。本書は、六〇年安保を思想的に指導したものの、六〇年代後半には学生から一斉に背を向けられる栄光と挫折の遍歴をたどり、丸山がその後のアカデミズムとジャーナリズムに与えた影響を検証する。★評価『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』のもう一人の中心的編集者。1942年生まれの著者はまさしく学生時代に丸山眞男の強い影響を受けた世代だが、それだけに鋭く丸山氏の矛盾点・問題点を突いている。戦前から続く丸山と蓑田胸喜の浅からぬ因縁、戦後の学生運動への共産党の干渉、1960年の安保闘争、その後の全共闘など「丸山眞男の時代」を簡潔に描き出しており、読み易い。 自虐史観もうやめたい!―反日的日本人への告発状 谷沢永一 (著) 2005/06 内容もう中国・韓国に謝るな! いかにも禍々しい日本罪悪論をはじめて言い出した発頭人は誰なのか。日本の世論をミスリードしてきた「進歩的文化人」、日本罪悪論の火元12人を徹底批判。 <目次> こんな国家に誰がした ― 今も続く、スターリンの呪縛 「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家 ― 戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の煽動者 ― 日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 国民を冷酷に二分する差別意識の権化 ― 戦後民主主義の理論的指導者・丸山眞男への告発状 栄達のため、法の精神を蹂躙した男 ― 反日的日本人の第一号・横田喜三郎への告発状 金日成に無条件降伏の似非出版人 ― 進歩的文化人の差配人・安江良介への告発状 恫喝が得意な権力意識の化身 ― 「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収への告発状 祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯” ― 進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人 ― 日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 最も無責任な左翼・教条主義者 ― マスコミを左傾化させた放言家・向坂逸郎への告発状 日本を経済的侵略国家と断定する詭弁家 ― 現代の魔女狩り裁判人・坂本義和への告発状 国家間の原理を弁えない謝罪補償論者 ― ユスリ、タカリの共犯者・大江健三郎への告発状 近代日本を全否定した国賊 ― 進歩的文化人の原型・大塚久雄への告発状 ★評価書誌学者 故・谷沢永一氏による好著。青年時代に一時共産党員だった経歴を持つ著者だけに12人の国賊文化人たちへの批判が実に的確。目次だけでも読む価値あり。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) 日本とドイツ 二つの全体主義 「戦前思想」を書く 仲正 昌樹 (著) 2006.7刊出版社/著者からの内容紹介「戦後思想」があるとすれば、「戦前思想」もあっておかしくないような気がするが、あまり聞かない。しかし「日本とドイツ」に限って言えば、一八七〇年前後から、第二次大戦が本格化する一九四〇年前後までの約七十年間を取ると、結構、意味のある比較をすることができる。何故かというと、両国とも一八七〇年頃に、西欧的な意味での近代国家を形成し、(英国やフランスに比べて)遅ればせながら、[国民国家としての統合→帝国主義的拡張]のプロジェクトに乗り出し、最終的に「(西欧)近代の超克」を目指して全体主義体制を構築し、戦争へと突入していったからである。(「プロローグ」より) ★評価戦前日本の思想状況について通史的な図書が他に見当たらないため内容にはかなり問題があるもののこの本を薦めざるを得ない。著者は元統一教会信者であり、皇室に対する本質的敬意に欠け、かつ安倍元首相に対する敵意を剥き出しにする人物だが、これが現在の思想界の水準(および限界)と考えてよいと思う。次の世代がこれをどれだけ乗り越えられるか。 『昭和の思想』 植村和秀(著) 2011.11刊・内容説明昭和の思想を総体的に俯瞰する画期的論考。思想弾圧と戦争の暗さ。世界に挑戦する日本という明るさ。奇妙な時代=戦前昭和期を中心に、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・簑田胸喜の思想から時代の本質を剔る・内容(「BOOK」データベースより)「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。・目次第1章 日本思想は二つ以上ある第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史★評価2010年11月に出版された好著。戦前から戦後及ぶ昭和期日本の思想状況が、要点を絞って明瞭かつ簡潔にまとめられている。非常にお勧め。 ■5.ご意見、情報提供 日本主義・・・?なんか反欧米的な臭いがしますが。反欧米・アジア主義なんか掲げていると特亜と同類になるぞ。アジアの中でも西欧的で合理的な日本は愛するべきだが、アジア主義(そもそもアジアというものは地理的概念以上の意味などないのだが)に染まった日本などたまらんな。 -- 名無しさん (2011-06-27 03 59 33) ↑◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) の図表を見てください。昭和期の日本主義者はアジア主義や国家社会主義と対立的です。 -- 名無しさん (2011-06-28 21 48 21) 一時期、反抗期と記載するのを禁止された事がありましたが、誰が禁止したのでしょうか。 -- 定塚甫 (2011-10-23 01 48 32) 昭和期の日本主義の思想に英米保守主義を混ぜて大成したらすごい物ができる気がします -- 名無しさん (2012-03-03 00 33 39) 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 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吾々は彼がマルクス主義的イデオロギー論を、如何に人々に近づけ、 そして又如何に之を永久に人々の手からもぎ取って了うかを、見よう。 マンハイムによれば、知識社会学は思惟の社会学、又は認識社会学であるべきである。新宿 ガールズバー 思惟は必ず例えば感情・意志・直覚・神秘的恍惚・ 又は実践などにまで、みずからを超越しないではいられない。 思惟はこのようにして「自己を相対化す」性質を有っている。
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ノイマン 講演 「数学者の怠慢あるいは犯罪的な無責任さについて」(仮題) 知的作業の性質について議論することは、どのような分野であろうとむずかしい仕事である。 たとえそれが我々人類共通の知的営為で今もありつづけている数学のような分野であってもである。 どのような知的営為の性質についての議論も、本質的に、その特有の知的営為を実行することに比べてよりむずかしい。 飛行機のメカニズムを理解することは、そして飛行機を浮かせて推進させる力の理論は、単純にそれに乗ることや、そして浮き上がり、運搬されることよりも、あるいは操縦することよりも、むずかしい。 あるひとつのプロセスの理解を獲得するためには、あらかじめそのプロセスを運営することや、使うことに深くなじんでおく必要があり、そうすることによってはじめて直観的かつ経験的なやりかたで、それに一体化することができる。 このために、いかなる分野であったとしても、知的営為の性質について議論することはどのような議論であってもむずかしいのであり、議論のためにはその分野について知りつくし、自由自在に使いこなすだけの熟達が前提として求められるのである。 数学において、この制約はきわめて厳格に適用されなければならず、議論が非数学的な水準で終始しないようにとくに気をつける必要がある。 さもないと、議論は非常にいかがわしい特徴を示すようになる。 つまり、指摘された点がけっしてきちんと言語化されないとか、全体的に議論が表面的で上滑りとなることが避けられなくなる。 これから私がお話ししようとすることのなかにも、それらの欠点は含まれているので、どうかご注意ください。 申し訳ありません。 その点を除けば、これから私がお話し申し上げようとする観点は、おそらく私以外の他の多くの数学者にはすくなくとも全部は共有されていないことです。 したがって、皆さんがお聞きになるのは、ある一人の人間の、必ずしもうまく体系化されているわけではない、感想や解釈ということになります。 そして、私は皆さんに対して、私がお伝えすることがどこまで的を射ているのかということを判断するための材料をお渡しすることはできません。 以上申し上げたようにさまざまな障害があるにはありますが、数学における知的営為の性質についていろいろと考えて、皆さんにお話し申し上げるというのは、じつに興味深く、また難しいけれどもやりがいのある仕事であることを認めなければなりません。 私が仮に間違えることがあったとしても、それがひどい間違え方にならないようひたすら祈っているところです。 数学に関するもっとも重要な特徴的な事実は、私の考えでは、自然科学に対する一風変わった独特の関係性にあります。 いや、もっと一般的に、経験を、純粋な記述以上の次元へと解釈するありとあらゆる科学に対してといってよいでしょう。 多くの人々は、数学者であろうとそうでなかろうと、数学は経験的な科学ではないということに同意するでしょう。 あるいは少なくとも、それが経験科学の手法とは、いくつかの決定的な局面で、異なったやり方で実践されているということには同意するでしょう。 そして、しかしながら、数学の発展は、自然科学の発展と非常に密接にむすびついています。 数学の主要な分野のひとつである幾何学は、実際に自然科学、経験科学として始まりました。 現代数学におけるいくつかの最高のひらめき(最高のひらめきと、私が信じているものということですが)は、明らかに自然科学から生まれています。 数学の手法が、自然科学の「理論的」な部分に行きわたり、それを支配しているのです。 現代の経験科学においては、数学的手法あるいは物理学における疑似数学的手法に到達できるかどうかが、成功するかどうかを決定づける分かれ目になってきました。 実際のところ、自然科学全般において、連続的な疑似形態形成の切れ目のない連鎖が、すべて数学へと向かっていて、それらこそが科学的進歩の理念であると信じられていることが、より一層明らかになってきました。 生物学はますます化学と物理学だらけになりつつあり、化学は実験物理と理論物理になっており、物理学はきわめて数学的形態を示す理論物理学になってきました。 実に独特な両面性が、数学の本質にある。 まずこの両面性を理解してそれを受け入れ、続いて、それと同化し、対象について考える枠組みに取り込まなければならない。 この両面性こそが数学の顔である。 ものごとを単純化したりユニタリアン(キリスト教で三位一体説を否定し、神は唯一であると説く一派)にみると、本質的なものを見落としてしまうことになる。 そこで、私は、ユニタリアンな見方はお示ししないようにする。 私は、私の能力の及ぶかぎりにおいて、多面的な現象として数学を描いてみようと思う。 数学における最良のひらめきのうちのいくつかは、ここで数学というのは我々が想像できる純粋数学の分野でということですが、自然科学で生まれたということは否定することができない。 もっとも記念碑的な事実を2つ挙げることにする。 最初の例は、当然のことながら、幾何学である。 幾何学は古代数学の主要部分であった。 それらの分岐・派生は今日でも現代数学の主要な分野として残っている。 疑いの余地なく、古代のその起源は経験的なものであり、職務規律(discipline, 測量技師の「職務訓練」?)として始まったところは、今日の物理学と違わない。 ほかにもいろいろと証拠はあるが、「ジオ(大地)・メトリ(測定法)」という名前そのものがそのことを示している。 ユークリッドの仮定的な取り扱いは、経験主義からは大きく乖離していることを示すが、それが決定的で最終的で絶対的な分離を生みだしたのだという立場を擁護できるほど、話は単純ではない。 この点において、ユークリッドの公理主義化というものが、現代の絶対的な公理主義の厳格さの要求に適合していない部分があるということは、それほど重要ではない。 より本質的であるのは、まごうかたなく経験主義的である工学や熱力学などの学問も、通常は多かれ少なかれ仮説的な扱いによって提示されているので、何人かの著者の示し方をみると、ユークリッドの手続きと見分けがつかない。 我らの時代の理論物理学の古典であるニュートンの『プリンキピア』は、文章表現においても、いくつかのもっとも重要な部分の本質も、ユークリッドに似ている。 もちろん、これら全ての事例において、仮説的な提示の背後には、仮説を支える物理学的直観と定理を支えている実験的検証がある。 しかしながら、ユークリッドを同じように解釈することも可能であるといえる。 特に、古代においては、幾何学が今日もっている2000年の安定性と権威を獲得する前であった。 権威という点は、現代の理論物理学体系に、明らかに欠けているものである。 さらにいうと、ユークリッド以来、幾何学の非経験化は徐々に進んできたのだが、それは現代においてもちゃんと完成してはいない。 非ユークリッド幾何学の議論が、このことをわかりやすく示している。 それはまた数学的思考の両面性をも示している。 その議論のほとんどは非常に抽象的な次元で行われていたが、それはユークリッドの「第五仮説」は他の仮説の結果であるのかそうでないのかという純粋に論理的な問題を論じていた。 そして、公式な論争は、F. Kleinの純粋に数学的な事例によって解決がついた。 それは、いくつかの基本的概念を正式に再定義すれば、ユークリッド空間の一部が非ユークリッド化されることを示した。 しかしながら、そこには経験的な刺激が最初から最後まであった。 ユークリッドのすべての仮説のなかで、どうして第五仮説だけが問題にされたかの最大の理由は、そこに介在し、そこだけにしか介在しない無限空間の全体という概念の非経験的な性格によることは明らかだ。 数学的・論理的解析にかかわらず、ユークリッドに賛成か反対かの決定は、少なくともひとつの主要感覚器官において、経験的でなければならないという考えが、偉大な数学者であるガウスの心の中にあったことは間違いない。 そして、ボーヤイの後、ロバチェフスキ、リーマン、そしてクラインが、もっと抽象的な、今日我々が本源的矛盾の形式的解消と呼ぶところの経験則、あるいはむしろ物理学が、それにもかかわらず最後にものをいうということを理解した。 一般相対性理論の発見によって、我々の幾何学の関係性についての見方は、まったく新しい枠組み、そして純粋に数学的な力点のはなはだしく新しい分布へと、見直すことを要求した。 ついに、絵の明暗差を仕上げる最終段階に到達したというわけだ。 この最終的な発展も、同じ時代に起きたが、ユークリッドの公理的手法を完全に非経験化し抽象化した、現代の公理論理数学者たちの手で行われた。 そして、これら2つの見るからに対立する態度は、ある個人の数学的な精神の内部において完全に共存可能なのである。 こうして、ヒルベルトは、公理的幾何学と一般相対性理論との両方に重要な貢献を行なった。 第二の例は計算法である。 というよりもむしろ、計算から派生したすべての解析というべきだろう。 計算法は、現代数学が最初に成し遂げたことであるが、その重要性を過大に評価しないわけにはいかない。 計算法ほど明瞭に現代数学の誕生を画定するものはほかにない。 数学的解析のシステムは、計算法の論理的な発展形態であるが、厳格な思考における最大の技術的発展である。 計算法の起源も明らかに経験主義的である。 ケプラーの最初の統合の試みは、「長円測定法(dolichometry)」として形づくられ、樽の測定のように、表面が局面である物体の体積測定法であった。 これは幾何学であるが、ポスト・ユークリッド幾何学であり、その当時は非公理主義的で経験主義的な幾何学だった。 そのことをケプラーはもちろん完全に理解していた。 ニュートンとライプニッツの主たる努力と主な発見は、明らかに物理的起源をもつ。 ニュートンは「流出の(of fluxions)」計算法を生みだしたが、それは本質的には力学のためであった。 実際、計算法と力学というこの二つの学問分野を、彼はほぼ一緒につくりあげたのだった。 計算法の最初の定式化は、数学的な厳格さすらもっていない。 なんと、ニュートン以来の150年間、不正確で、なかば物理的な定式しか存在していなかったのだ。 そして、この期間に、解析学においてもっとも重要な進展のいくつかが、不正確で、数学的に不十分な背景のなかで、生まれている。 この時期の指導的な数学精神のいくつかは、オイラーのようにあきらかに厳格ではない。 しかし、本流においては、ガウスやジャコビがいた。 この発展は、ひどく混乱していて、なおかつ意味が不明瞭であった。 それと経験主義との関係性は、抽象化と厳格性に関する我々の今日の(あるいはユークリッドの)考えに即したものではまったくない。 しかし、数学をこれまでのなかで第一級にした期間の業績から、これを除去しようという数学者が一人もいないのだ。 そして、コーシーによって厳格さの支配が再び確立された後で、リーマンによって疑似物理的な手法へとじつに奇妙な逆戻りをしてしまったのだ。 リーマンの科学的な人格そのものが、数学のもつ2つの性質をみごとに照らし出す。 リーマンとワイエルシュトラスの論争がいい例だ。 だが、この問題の技術的な詳細に深入りするのは、ここではやめておこう。 ワイエルシュトラス以来、解析学は、完全に抽象的で、厳格で、非経験的なものになったようにみえる。 しかし、これとて無条件に真であるというわけではない。 この60年間行われてきた数学と論理学の「基盤」についての論争は、この譜面(score)についてのたくさんの幻想を吹き飛ばした。 こうして第三の例を紹介することになるが、それは診断と関係がある。 この例は、しかしながら、これは数学と自然科学の関係というよりは、数学と哲学や認識論との関係性について取り扱っている。 それはじつに衝撃的なやり方で、「絶対的な」数学的厳格性の概念は、不変ではないということを示しているのだ。 厳格性の概念がさまざまであることが示しているのは、数学的な抽象化ではない別の何かが、数学の構築に作用しているということである。 「基盤」についての議論を分析していて、私自身もまだ確信をもつにはいたっていないのであるが、この外部要因は経験主義的な性質をもつと結論づけられるようなのである。 そのような解釈を支持する事例はきわめて強く、すくなくとも議論のいくつかの局面においては。 だが、私は、それが絶対的にもっともらしいというふうには考えない。 2つのことが、しかしながら、明らかである。 第一に、何か非数学的なものが、なんらかのやり方で経験科学または哲学、あるいはその両方と結びついていて、どうしても入ってくるのだ。 そしてその非経験主義的な性格は、哲学(あるいはより具体的にいうと認識論)は、経験から独立して存在できるということを前提にしないことには、成り立たない。 (そして、この前提は、必要条件でしかなく、それ自体は十分条件ではないのだ。 ) 第二に、数学が経験主義的な起源をもつということは、さきほど示した2つの例(幾何学と計算法)のような事例によっても強く支持されているが、「基盤」についての議論をどのように解釈したとしてもそうなるのである。 数学的な厳格性の概念の変わりやすさの分析を行なうにあたって、私は主な力点を先に言及した「基盤」の議論におきたいと思う。 私は、しかしながら、まずものごとの第二の局面について簡単に考えてみたい。 この局面も私の議論を補強するものであるが、私はそれを二次的であると考える。 なぜならば、それは「基盤」議論の分析ほどには決定的ではないだろうと思うからだ。 私が言おうとしているのは、数学的な「様式」の変化のことである。 数学的な証明がどのように表現されるかの様式が、かなり変動したことはよく知られていることである。 この変動について論じるほうが、変化の傾向について論じるよりも有用である。 なぜならば、現代の著者と18世紀か19世紀のある著者の間にみられる違いのほうが、現代の著者とユークリッドの間の違いよりも大きいからである。 一方で、他の点においては、かなりの一貫性がある。 違いがある部分では、表現の仕方の違いであり、何か新しい考えをもってこないと解消できないというものではない。 しかしながら、多くの事例において、これらの違いは非常に大きいので、こんなにも発散したやり方で「これらの事例を表現した」著者たちは、様式、嗜好性、教育だけの違いとして分離されてよいものだろうか、彼らは数学的厳格性を構成するものは何かということについて、本当に同じ考えを抱いていたのであろうか、と疑いはじめるようになる。 最終的に、もっとも極端な事例においては(たとえば上で触れた18世紀後半の解析作業の多くが該当する)、違いは本質的であり、もしその違いを解消しようとすれば、まったく新しく深淵な理論の助けがなければ不可能であり、その理論を開発するためには100年くらいかかるというものだった。 そのような非厳格的なやり方で仕事をした何人かの数学者たち(あるいは、彼らを批判している彼らの現代版の数学者)は、彼らが厳格性を欠いていることを重々承知している。 もっと客観的にいうならば、数学的な手順がどのようにあるべきかということに関する彼ら自身の願いは、彼ら自身の行動よりも、現代の我々の考えと一致している。 だが、その時代の偉大なる巨匠、たとえばオイラーは、完全なる善意にもとづいて行動しており、彼ら自身の基準に十分に満足していたようである。 しかしながら、この問題については、もうこれ以上立ち入らないことにしたい。 それに代わって、完全に明晰な事例である、「数学の基盤」についての議論に移りたい。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、抽象数学の新しい部門、カントールの集合論が、むずかしい問題に直面した。 それは、ある論法を用いると矛盾に陥るということだった。 そして、これらの論法は、中心的なものではなく、集合論の中でも「便利な」ものでもなく、さらに、ある定式的な基準によってそれらを見分けることがいつでも容易であるにもかかわらず、なぜそれが他の集合論の「成功した」部分よりも、集合論的ではないと判断されるのかの理由が明らかにならなかった。 それらは実際に大破局をもたらしたという事後の直観を別にすれば、そもそもの動機に問題があるのか、あるいは状況についての認識の統合法に問題があったのか、どうしてそれだけが他の保護されるべき集合理論から除外されてしまうのかが、明らかにならなかった。 本件の真価(merita ラテン語meritus の主格女性単数形)についてより詳細な調査が行われた。 主に関わったのはラッセルとワイルであり、結論を出したのはブラウワーであったが、集合論だけに限らず、ほとんどの現代数学において、「一般的な有効性」や「存在」という概念の使われ方が、哲学的にみていかがわしいということが示された。 これらの望ましくない特徴から免れる数学システムとして「直観主義」*がブラウワーによって生み出された。 (*訳注:直観主義 intuitionism とは、五官に入ってくる刺激それ自体は正しく、そこに論理の判断基準をおく経験主義的な考え方であると考えられる。 言葉以前の数学を目指しているところは禅に近いともいえるだろうか。 ) このシステムにおいて、集合理論のむずかしさや矛盾は生まれなかった。 しかしながら、現代数学のざっとみて50%の、もっとも主要な部分、それまで問題にされることがなかった部分が、特に解析の分野で、この「追放」によって影響を受けることになった。 つまり、それらは有効性を失うか、あるいは、非常に複雑な従属的考察によって修正を加えられなければならなくなったのだ。 そして、後者の処理を行なうと、通常は目にみえて一般的な有効性と優美な演繹的結論が失われた。 これらの事件の重要性は、もっと深刻に受け止めなければいけない。 20世紀の第三番目の10年期(1920年代)に、2人の数学者が、どちらも第一級であり、数学とは何か、何のためにあるのか、何を扱うのかということを、誰よりも深くかつ完全に知り尽くしている数学者が、証明を正確に行なうための数学的厳格性の概念は、変わらなければならないと提言したのである。 この後に起きた発展も同様に記憶にとどめておくべきことである。 1. きわめて少数の数学者だけが、喜んで、この新しくて過酷な標準を日常的に使用することを受け入れた。 しかし、大多数は、ワイルとブラウワーは明らかに正しいであろうと認めながら、彼ら自身は、自分たちの数学は古くて「安易な」流儀でやるという逸脱を続けた。 おそらく、いつか将来、誰かが、直観主義的な批判に対する答を見つけてくれて、事後的に自分たちの仕事を正当化してくれることを期待していたのかもしれない。 2. ヒルベルトは、以下のようなうまい考えによって、「古典的」(たとえば直観主義以前の)数学を正当化することを考えた。 たとえ直観主義システムにおいても、古典的な数学がどのように作用するのかについて、厳しい基準を与えることはできる。 もちろん、その作用を正当化することはできないが。 もしかすれば、古典的手続きが、直観主義的に表現すると、けっして矛盾や相互対立に陥らないことを示すことができるかもしれない。 それを証明することが非常にむずかしいということは明らかであるが、どのようなやり方をとればよいのかということについては、ある程度の見通しがある。 もしこのやり方がうまくはたらけば、古典的数学を、それに対抗する直観主義システム自体によって、もっとも明瞭に正当化できることになる!。 少なくとも、このように解釈することは、多くの数学者が喜んで受け入れている数学の哲学システムにおいて、合法的なやり方となるであろう。 3. この試みを実行しはじめて10年ほど経過したとき、ゲーデルがもっとも注目に値する結論を導いた。 この結論を、きちんと正確に表現するためには、いくつか条件や警告を示す必要があり、ここでお話しするには技術的になりすぎるのでやめておく。 重要なことの本質は、しかしながら、以下のようなことである。 もし数学のシステムが矛盾を導かないのであるとすれば、この事実をそのシステム内の手続きによって証明することはできない。 ゲーデルの証明は、数学的厳格性のもっとも厳密な基準、直観主義的な基準を満足させた。 これがヒルベルトの計画に及ぼした影響は、なんというか、賛否両論の物議をかもしたのだった。 その理由は、あまりに技術的になるので、ここでは明らかにしない。 私の個人的な意見は、多くの人々に共有されているものだが、ゲーデルはヒルベルトの計画が本質的に不可能であるということを示したということである。 4. ヒルベルトやブラウワーやワイルのやり方によって古典的な数学を正当化しようとする大きな希望がなくなったにもかかわらず、多くの数学者はあいも構わずそのシステムを使い続けることにした。 結局のところ、古典数学は、上品で便利な成果を上げ続けている。 たとえその信頼性を絶対的に確かであると思うことが金輪際できないとしても、それはたとえば電子の存在と同じくらい確かな基盤の上に存在している。 それゆえに、もし誰かが科学を受け入れようと思うのであれば、その人は古典的数学システムも同様に受け入れるかもしれない。 そのような考え方は、直観主義システムのそもそもの提唱者たちのなかですら一部で受け入れられたのであった。 現在でも、「基盤」に関する議論は、もちろん結論をみていない。 しかしながら、ごく少数の数学者を除いて、数学者が古典的システムを放棄する見込みはほとんどない。 この論争に関するいきさつをかなりこまごまと説明したのは、不動の数学的厳格性をあまりに当然だとして受け取ることに対する、それが最良の注意だからである。 これは私の生きている間に起きたことである。 このエピソードの期間に、私自身、いかに恥ずかしいくらい簡単に絶対的な数学的真実というものについての私の考えが変化したかということを知っている。 そしてそれはなんと三回も続けさまに変化したのだ!。 (訳注:ブラウワーたち直観主義の登場、ヒルベルトによる直観主義的な古典主義の証明の試み、ゲーデルによる不完全性定理の証明ということになるのだろう。 ) 以上の3つの事例によって、私の言いたいことの半分を示すことができたと望みます。 つまり、最良の数学的なひらめき(発想)は経験から生まれたということであり、すべての人間の経験から切り離したところに、数学的厳格性という絶対的で不動の概念が存在するとはとうてい考えられないということです。 この点については、かなり俗っぽい言い方をします。 哲学的あるいは認識論的な好みがどのようなものであったとしても、数学者の業界において、数学的厳格性の概念がアプリオリに(無条件に、証明不要の前提として)存在するという考えを支持する人は誰もいません。 しかしながら、私の言いたいことには後半部分があります。 これから第二部に移ろうと思います。 (前半部終了) id ShinRai ShinRai 2012/07/10 13 32 27 Add Star (後半部) どのような数学者であっても、数学は純粋に経験主義的な科学であり、すべての数学的な考えが経験的対象から生まれていると信じることは非常につらいものがあります。 まず第二部の主張について考えてみたいと思います。 現代数学のさまざまな重要な部分で、経験主義的な起源の跡をたどることはできません。 あるいは、仮に跡をたどることができたとしても、あまりにかけ離れているために、あきらかにその対象は経験的な起源から切り離されてしまったために完全に変形して元の姿をとどめていない。 代数の記号化は、家庭内での数学的利用のために生み出されたものであるが、それが強い経験主義的なつながりをもっていると断言してもよいだろう。 しかしながら、現代の「抽象」代数は、ますます経験主義的なつながりが少なくなるほうへと発展していっている。 位相幾何学(topology)についても同じことがいえる。 これらすべての分野で数学者の主観的な成功の基準、彼の努力が報われたかの判断基準は、きわめて自己満足型であるとともに審美的である。 そして、経験主義的なつながりを持たない(ほとんど持たない)。 (これについては後でもっと述べることにする。 ) 集合論においてこのことはさらに明瞭となる。 無限集合の「指数」と「順序づけ」は、有限の数の概念の一般化かもしれないが、それが無限構造になると(とくに指数において)、この世界とほとんど何の関係ももたない。 技術的なことを厭わないなら、たくさんの集合論の事例を挙げることができる。 「選択の公理」、無限の「次数」の「比較可能性」、「連続体の問題」などなど。 同じことは、実関数理論や実点集合理論にもほとんどあてはまる。 2つの奇妙な例が、微分幾何学と群論によってもたらされた。 これらももちろん抽象的で、実用と無縁の学問であり、一貫してこの考え方にもとづいて発展してきた。 一方では10年が経過したときに、もう一方では100年が経過したときに、これらは物理学において非常に有用であることが明らかになった。 にもかかわらず、これらは依然として、今までどおりの、抽象的で実用性のない精神で研究されている。 これらすべての条件の事例ならびにその様々な組合せは、まだまだ紹介できるが、上で最初に述べた点に戻ることにしたい。 つまり、数学は経験的な科学であるのか、ということである。 あるいは、より正確な言葉を用いるならば、数学は実際に経験科学が実践されているのと同じように実践されているかということである。 あるいは、より一般化された表現を用いるならば、数学者とその研究対象との関係はどうあるべきかということになる。 数学者にとって成功の基準は何か、望ましいことの基準は何か。 どのようなものが影響して、どのような考えが、彼に努力を惜しませないで、彼の努力を方向づけるのか。 ここで、数学者の通常の仕事のやり方と自然科学の仕事のやり方がどのように違うのかということについてみておきたい。 これらかたや自然科学者ともう片方の数学者の違いは、それが理論的学問から実験的学問になるにつれて、そして実験的学問から記述的(観察内容の)学問になるにつれて、はっきりと拡大する。 ということであるから、数学とそれにもっとも近いカテゴリーである、理論的学問と比較することにしたい。 なかでも数学ともっとも近いところにいる自然科学を取り上げることにする。 皆さま、どうかあまり厳しい評価はしないでください。 私は数学的な矜持を制御できなくなって、足すわけではありません。 それはすべての理論的科学の中でもっとも高度に発達した、理論物理学です。 数学と理論物理学はかなりのものを共有しています。 前述したように、ユークリッドの幾何学のシステムは、古典的力学の公理的提示のプロトタイプでした。 また、同様の取り扱いが現象学的な熱力学と、電子力学のマックスウェルシステムと特殊相対性理論のある次元を支配している。 さらにいうと、理論物理学が現象を説明せず、単に分類し関係づけるという態度も、今日ほとんどの理論物理学者によって受け入れられている。 これはつまり、そのような理論にとって成功の基準は、単に、それが単純で優雅な分類および関係づけの構想によって、その構想なくしては複雑で非均質であるとみられた非常に多くの現象を説明できるかどうかということと、その構想が生まれたときには考慮されていなかった、あるいは知られてすらいなかった現象を説明できるかどうかにかかっているということである。 (この最後の2つの命題は、もちろん、理論の統一能力や予言力を表しているのであるが。 )さて、ここに示された基準は、あきらかに審美的な性質を非常に多くもっている。 この理由をもってして、これは数学的な成功の基準によく似ている。 それはほとんど全部が審美的である。 ここで今度は、数学を、それにもっとも近いところにある経験科学、私がすでに示したような理論物理学との共通点をたくさんもっている経験科学と比べてみることにする。 しかし、実際の手続き様式の違いは、大きくて、基本的なところにある。 理論物理学の目的は、主として、「外部」から、多くの場合は実験物理学からの必要性によってもたらされる。 それらはほとんどいつもむずかしいことを解決する必要性にもとづいている。 予言し、統一する業績は、通常、後からやってくる。 直喩表現を用いるならば、(予言や統一といった)発展は、なんらかの既存の難題(通常は既存のシステム内部の明確な矛盾)との戦いが先行して、それに追随する形で生まれる。 理論物理学の仕事の一部は、そのような障害を探すことにある。 それは「ブレークスルー(大発見)」の可能性を約束している。 すでにお話ししたように、これらのむずかしさは、通常は実験結果の中にある。 だが、時として、すでに受け入れられている理論そのものの中のさまざまな部分間の矛盾でもある。 それらの事例は、もちろん、たくさんある。 マイケルソンの特殊相対性へとむすびついた実験や、量子力学へとむすびついたある種のイオン化電離ポテンシャルやある種の分光構造の難題は、はじめの事例である。 特殊相対性とニュートン流の重力理論が一般相対性にむすびついたのは、第二の、めずらしい事例である。 いずれにしても、理論物理学において問題は客観的に与えられる。 そして、成功したかどうかの判断基準は、前述したように、主に審美的なものである。 だが、そもそもの「大発見」を超えているとみなす基準は、厳しい客観的事実なのである。 その結果、理論物理学のとりあげる主題は、ほとんどいつも非常に凝縮したテーマである。 ほとんどいつも、すべての理論物理学の努力は、せいぜいひとつかふたつの厳しく限定された領域の内部に凝縮している。 1920年代から1930年代初期の量子理論、および1930年代なかば以降の素粒子論と核構造論がその例である。 このような状況は、数学においては、まったく異なってくる。 数学は、非常にたくさんの分野に分かれていて、それぞれに性質、スタイル、目的、そして影響が異なっている。 理論物理学が非常に凝縮しているのと、まさしく正反対である。 立派な理論物理学者であれば、今日でも、彼の専門分野の半分以上の業務知識を持ち続けているだろう。 現存している数学者の場合は、四分の一ほどの関連知識も持ち合わせていないだろう。 「客観的に」与えられた「重要な」問題が生ずるとしても、数学の下位専門分化が相当に進んでしまった後であるので、にっちもさっちもいかない泥沼にはまってしまって難題になることができない。 しかし、そのような状態になっても、数学者は基本的にその問題と取り組むも自由、放置して何かほかのことに向かうのも自由なのだ。 理論物理学における「重要な」問題は、通常は論争や矛盾になるために、解決せざるを得ないのと対照的である。 数学者は、(訳注 may turnは以下のように解釈できる:数学者は何か難題にぶつかったとしても)転向する多様な分野をもっていて、かなりの自由裁量でそれらを自分の好きなように楽しむことができる。 これが決定的に重要なことなのであるが、数学者が研究分野を選択する基準は、そして成功の基準は、主として審美的なものである。 このように主張すると、反論を生むかもしれないし、また私の主張を「証明する」ことは不可能である。 仮にそれを徹底的に証明しようとするならば、たくさんの個別の技術的事例を分析しなければならない。 それには高度に技術的な議論が必要となるので、今ここでそれを論ずることはできない。 審美的な性質は、私が理論物理学について述べたことよりも顕著であるとだけ言えば十分であろう。 数学的な定理や理論は、一見すると異質なたくさんの特別の事例を、単純で上品なやり方で表現し、分類することだけを求めているのではない。 「審美的な」、構造的な見栄えの中に「優美さ」を期待しているのである。 問題を語ることは簡単である。 その問題をきちんと理解し、解決するためにあらゆる試みを行なうことは、非常にむずかしい。 すると突然、非常に驚くべきひらめきが生まれて(きっかけを手にして)、その試み、あるいはその試みの一部が、簡単なものになる、などなど。 また、もし演繹が長々となって、複雑になると、そこでいくつかの一般原則が関わってくる。 それは、複雑さや回り道を「説明する」ものであり、見たかぎりでは法則性のないものをいくつかの単純な指導的動機づけに還元するものだ。 これらの基準は、あきらかに、創造的な芸術のすべてに共通のものである。 その下層部には、経験主義的で、世俗的なモチーフ(主題)が背後にあって、それらはしばしば背後といっても非常に縁遠いのだが、審美主義的な展開によって覆い隠され、それをたくさんの迷宮のような変化形がおいかけている。 これらすべては、経験科学よりも、純粋で単純な芸術に似ている。 すでにお気づきのように、私は数学と実験科学や記述科学の比較には一切触れていない。 その比較を行なえば、手法の違いや一般的な雰囲気の違いが、もっとはっきりするだろう。 以上は、真実を比較的うまく近似的にまとめていると思う。 あまりに複雑すぎるから、近似的なまとめ以外に表現のしようがない。 その系図は時として長くてはっきりとした姿を現さないが、数学的な発想は、経験から生まれるのだ。 しかし、いったんそれらの発想が認識されると、対象はそれ自体の独自の生命活動を始めるようになり、芸術的造形と同じようなほとんど完全に審美主義的な動機づけにもとづくようになる。 それ以外に動機はなく、ましてや経験主義科学の影響を受けない。 しかしながら、私は、強調しておくべきことがあると思っている。 数学は経験的起源から遠く離れるにつれて、さらにそれが『現実』から生まれる発想に間接的にしか触発されない二世代、三世代後の世代になると、重大な危険にさらされる。 ますます純粋審美主義的になり、ますます純粋に『芸術のための芸術』に陥る。 これとて必ずしも悪いというわけではない。 もし研究分野が、関係性のある研究対象に取り囲まれていて、より近い経験主義的な結びつきをもっていれば。 あるいは、研究の規律が例外的にセンスのよい人間たちの影響下にあるならばよい。 そうでないと、研究分野は、まったく抵抗をしないまま、あまり重要でないバラバラの領域に分裂し、些事と煩雑さの統制を欠いた集積の学問に堕落する危険性がある。 言葉を変えるならば、経験的起源から遠く離れてしまうと、あるいは、『抽象的な』近親交配が長く続くと、数学的分野は堕落する危険性がある。 はじまったときには、様式は通常古典的である。 これがバロック様式(訳注:バロック様式の過剰な装飾)を示すようになったときが、危険信号の点灯である。 バロック様式と非常に高度なバロックへの独特な進化を、順を追って例示することは簡単である。 しかしこれもあまりに技術的になってしまう。 こうなったときの唯一の治療法は、若返りのために再び起源に戻ることだ。 多かれ少なかれ、直接的で経験的な発想を再注入するのだ。 これが学問の新鮮さと活性を保つ必要条件であり、未来においても同じだと私は信じる。