約 524 件
https://w.atwiki.jp/wiki11_library/pages/475.html
書籍ライブラリ 仏教 梅原猛 説得力のある文章。歴史研究、民俗誌、作家、哲学者。 梅原猛─日本もご覧下さい。 edit 愛蔵版大特集 日本の仏像誕生! 芸術新潮 2006年 11月号 2007.1 keyword 梅原猛,円空 目次 木彫仏1000年 日本の仏像ことはじめ 日本の仏像はなぜ木なのか? 鉈彫への旅 歩いた・彫った・笑った円空と木喰 小特集 ダリ-終の棲家のラビリンスへ インタビュー 最後の江戸木挽・林以一-「意外とみんな木のことを知らない」 DATA 雑誌A4 新潮社; 月刊版 (2006/10/25) 名前 コメント edit 円空を旅する 冨野 治彦 2007.1 出版社/著者からの内容紹介 ●足跡を追う 生涯12万体の仏像を刻む大悲願をかかげ、造仏行脚を続けた江戸時代の僧・円空に惹かれた筆者が、その足跡を追って北海道の洞窟から東北、関東、岐阜、愛知県内などの寺院や神社、奈良・大峯山中などを尋ね、円空の実相に迫る。筆者は産経新聞大阪本社文化部の記者。任地でナマの円空仏に接し、円空仏のとりこになり、産経新聞大阪夕刊で33回にわたり「円空を旅する」を連載。本書はこれに加筆した。さらに円空の研究を進めている哲学者・梅原猛氏の「円空と私」、円空学会の長谷川公茂理事長の「円空歌集からみた円空の思想と信仰」を掲載。 ●異相の仏たち ノミ跡も荒々しい円空仏は、岐阜、愛知を中心に北海道から東北、関東など現在、5200体以上が発見されている。大木から仏像を刻んだときに出た木屑、木っ端をも刻んだ円空。阿弥陀如来、薬師如来、十二神将、不動明王、護法神像などいずれも荒削りなのに繊細、ぶっきらぼうなのに神経が行き届いている仏たち。「どこかやさしさが漂い、見ているだけで心がいやされていくような気がした」(筆者あとがきから)ように、その滋味あふれるほほ笑みに癒され、惹きつけられるファンは多い。本書はカラー口絵をはじめ、魅力ある円空仏の写真を多数掲載している。 内容(「MARC」データベースより) 円空が生きたのは江戸時代前期。安定期に向かいつつも、まだ波乱含みの時代だった。当時未開の北海道、東北を歩き、関東一円に滞在し、奈良の大峯山で厳冬の窟籠りまでした円空の足跡をたどる。『産経新聞』連載をまとめる。 かも。 2006.4.13 これから読みます。 文章の切れ味がよく、円空の足跡をていねいにたどっている。キメこまかく取材していると思う。もっと円空のことが知りたくなった。 -- バサラ男 (2007-12-04 15 06 43) 名前 コメント 最澄と空海―日本人の心のふるさと 梅原猛 空海を知るには最澄を知るべし 2006.9 空海は、同時代の先輩格であり、エリートであった最澄との対比で見ることで、輪郭がより際立ってくる。二人は偶然にも同じ遣唐使団で唐に渡っている。最澄は国費で、空海は自費。まずは本書でこの辺の事実関係を押さえた上で、HNK取材班の「「空海の風景」を旅する」を読むのがオススメです。 この著者の文章は、他の著作もそうなのですが、何とも心が和みます。瀬戸内寂照さんが、「小説を書いたら私くらいにはなれる」と言ったとか何とかいう話もなるほどと思います。 なお、最澄の偉業を知りたい方は、本書の後に「三人の祖師―最澄・空海・親鸞」を読まれる事をお勧めします。 それぞれの彫りは浅いですが、まとめ或いは入門としては好いと思ひます。 出版:小学館文庫 (2005/05) 梅原猛の『歎異抄』入門 梅原猛 内容(「BOOK」データベースより) 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。強烈なパラドックスを含むこの成句で有名な『歎異抄』。その一言一句から発せられる「毒」と「薬」は、時代や階層をを超え、人々の魂を揺り動かしてきた。親鸞の純粋なる信仰を、直弟子唯円が大胆率直に記述した『歎異抄』の魅力はと何か。わが国で最も優れた宗教書であると絶賛する著者が、その真髄をあまさず語る。法然と親鸞、親鸞と唯円という師弟関係を通して浮かび上がる独自の世界。道徳の延長ではない宗教の本質を抉る。原文と現代語訳、年表付きの決定版。 親鸞。狂気故に閑寂の中に身を置いた思想。 2006.4.13 歎異抄の入門書はあまた出ていますが、梅原氏は説教臭くは語らないし、学問一点張りでもなく、つまりご自分が生きる糧としても読まれている。その点で梅原氏は信用して良いのではないかと思ひます。 edit 歓喜する円空 梅原猛 内容(「MARC」データベースより) 12万体に及ぶ異形の神仏像を彫った仏師・円空。謎多き生涯や、創造への歓喜あふれる芸術性、深く篤い宗教思想を読み解きながら、円空を日本文化史上の重要人物として大胆に位置づける。『芸術新潮』掲載に加筆して単行本化。 2007.1 えーっと、買ったような気がするんですが、かも。 参考リンク 円空学会の本(bk1)円空連合 名前 コメント edit 空海 河出書房新社(編) 空海入門はこれがベスト。 2006.12.19 内容(「MARC」データベースより) 中沢新一へのインタヴュー「最後の空海、未来の空海」や前田英樹へのインタヴュー「潜在性のマテリアリスト」、司馬遼太郎と福永光司との対談、空海に関する論考などを収録。世界的な思想家として空海をとらえなおす。 私の知る限り唯一最良の「入門」書。ただし中沢新一はさすがにちょっとアレです。 「入門書」には2種類ある 「入門」書と云ふのは多くの場合「概説」或ひは「要点解説」と混同されてゐて、前者、即ち入門書はこれから何かを学ぼう・考えよう・行動しようとする際の出発点で在るべきなのに対し、後者はそれ一冊で取り敢えず事足りるとするものですから目指す方向は全く逆です。 「知らない事が分かる」本 本書は確実に前者の「入門」書。これ一冊ではどうにも収まらない広がりが察せられる様に出来てゐる。次への手掛りも幾つかは示されてゐる。執筆陣自身が未だ研究途上で在ると云ふスタンスで書ひてゐる。其うして空海に尽いて益々興味が持てると云ふ寸法。空海に付ひての「?」を自分なりに発見出来ます。 執筆は中村元ほか(中沢新一氏が冒頭に入つてゐるのには参る)。司馬遼太郎氏が対談で入っているのに対し、梅原猛氏が入っていないのが面白い。 河出書房新社(2006/1/21) 名前 コメント edit 梅原猛著作集 三人の祖師―最澄・空海・親鸞 古代アジアに現れた比叡山というユニバーシティ 2006.7.22 出版社/著者からの内容紹介 三人の開祖たちの根本思想の最新研究成果 最澄、空海、親鸞、三人の開祖たちの実践、哲学・思想、人間像を深く掘り下げた梅原仏教研究の最新の成果を収載。親鸞の門弟であり、『歎異抄』の著者である唯円の出自と学識にも迫る。『歎異抄』の現代語訳も掲載。 あふれる情熱と豊かな想像力で真理を探究し、人間とは何か、日本とは何かを深く思索つづけてきた梅原猛。哲学、歴史、文学、宗教、芸術など既存の枠組を越える壮大でユニークな作品群は「梅原日本学」とも称され、多くの読者を獲得してきました。本著作集では、主要著作に、新たに書き下ろし作品「法然の哀しみ」を加え、「教育問題」「地球環境問題」「長江文明論」など、著者が全力で取り組んでいる最新のテーマ作品も網羅。 歎異抄、唯円から見た親鸞 この本の中で親鸞は、弟子が書いた「歎異抄」を通じて描かれています。しかしこの親鸞の紹介はどうにも煮え切らない。梅原氏の仕事としては珍しく詰めが感じられない。 下で紹介している「『歎異抄』入門」も著者は同じですから、詳しくはそちらでということになります。 仏教思想を完結し体現してみせた空海 一方、最澄が如何に日本仏教の発展に貢献したかということが緻密に立証されていきます。同時代の空海が孤高の光の世界に荘厳せられた生き神であったのに対して、やや年長で幼少時代から日本の将来を肩に背負っていたエリート親鸞は、完成された教義ではなく、仏の教えが将来に渡って刷新されて行くシステムを作ったと云うのが著者の評価です。 期待を背負い礎となった最澄 当時の日本ではあらゆる学問は僧が受け持っていた事を考えると、比叡山は一種のユニバーシティであったと云うのは著者の慧眼であると思ひます。最澄にそのつもりが有ったのか無かったのかに関わらず、その後の比叡山が、時代を画する名僧を次々と輩出することになったのは事実であります。 梅原氏に依る歎異抄全文現代語訳なども追録 単行本 三人の祖師―最澄・空海・親鸞 (仏教文化選書) もありますが、全集の方が出版が後で、幾分かの追録があるようです。ソフトカバーの携帯性を採るか、全集の保存性の良さ(ものによっては字組や装丁などの仕事の細かさ)を採るかは悩むところです。 詳細 箱入りハードカバー710ページ 小学館 (2002/05) 名前 コメント ご感想などお寄せ下さい。 お名前 コメント 芸術新潮 日本の仏像誕生 円空を旅する 最澄と空海 梅原猛歎異抄入門 歓喜する円空 河出書房空海 三人の祖師
https://w.atwiki.jp/wiki12_nya/
親鸞会スレッドwiki 親鸞会スレッド暫定まとめページ 現行スレッド このWikiの使い方に関する暫定案 1つの議論、話題に関して1ページとする 何スレ目のどのあたりに出てくる議論かを明記する(ループしている場合は、その中のいくつか) その他のルールは、適宜スレで話し合う 編集権は、「管理者のみ」「ユーザーのみ」「誰でも」 @Wikiの一般的な使い方について @wikiの詳しい使い方 @Wikiたすけあい掲示板
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/4739.html
じょうどしんしゅう 自作 阿弥陀仏の他力本願を信じることによって成仏することを宗旨とする、親鸞が開祖した仏教の一派は何? (2016年8月28日 #短文 ≪習作≫① ) タグ:宗教 社会 雑学・その他 Quizwiki 索引 さ~と お東騒動 悪人正機説 法然 耕三寺 肉食妻帯 親鸞
https://w.atwiki.jp/presidentbook/pages/23.html
下屋俊裕(しもや としひろ) 市進ホールディングス 代表取締役社長 朝日新聞「リーダーたちの本棚」Vol.44掲載 1952年鹿児島県生まれ。77年順天堂大学大学院修了。同年市川進学教室(現・市進ホールディングス)入社。97年教育本部長。01年取締役。08年常務。10年副社長・市進ウイングネット社長。11年5月から現職。同年江戸カルチャーセンター社長。 偉人たちの生き方に魅了され ときを忘れて読みふける 「白昼の死角」 高木 彬光 小説、ミステリー・サスペンス・ハードボイルド 東大生による闇金融が手形詐欺を働いた「光クラブ事件」を題材とする本書は、冒頭から犯人が正体を明かす斬新な展開や、戦後日本の混沌とした社会情勢を背景に、法の死角をついて次々と企業人を陥れていくだましの手口の巧妙さに驚かされました。無敗の犯罪歴を重ねた主人公をはじめ、彼を愛した女性や、だまされる側の人々の心理描写は見事で、自己顕示欲、ずるさ、弱さ、人間のいろんなさがを浮き彫りにしていきます。奇想天外な詐欺の多くは実際にあった事件だそうで、著者が当事者に直接取材し、法知識を深めているからこそ生々しく感じられました。 「徳川家康」 山岡 荘八 歴史小説 戦国物で感銘を受けた作品です。家康は、身内の命を犠牲にする冷酷さを持ち、敵に情をかける懐の深さを持ちます。長い人質生活や幾多の戦いを通じて身につけたその処世術こそが、徳川繁栄の源だったのだと思います。豊臣家を残そうとしていた解釈も新鮮でした。全26巻をじっくり読み直すことも、やってみたいですね。 「親鸞」 五木 寛之 歴史小説、直木賞作家 五木さんの作品は、「さらばモスクワ愚連隊」「青年は荒野をめざす」などの印象が強かったのですが、何十年かぶりに本書が目に留まり、読んでみたら大変面白かった。親鸞が幼かった頃から物語が始まり、乞坊主や遊び女など社会の底辺にいる人々との心の交流や、比叡山で「仏とは何か」を自問する日々、運命の女性との出会い、浄土宗の師である法然との問答などがいきいきとつづられます。法然が親鸞に伝えた「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、いわゆる「悪人正機説」や、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土に行けるという浄土宗、のちの浄土真宗の教えの本質に近づく手がかりがちりばめられている気がします。親鸞の地方修行時代を描いた「親鸞 激動編」も読みごたえがあり、老年時代の親鸞を描く続編が待たれます。 「蒼穹の昴」 歴史小説、直木賞作家 浅田 次郎 中国通の親しい方に勧められて読んでとりこになった作品です。欧米列強にむしばまれていく清国の情勢とからめながら、李鴻章、袁世凱、康有為、孫文、伊藤博文など実在の人物の個性も鮮やかに描かれます。この本をきっかけに中国の歴史に興味を持ち、北京に赴いた際にゆかりの地を訪ねたりもしました。続編の「中原の虹」では、「爆殺事件」でしか知らなかった張作霖の人間的魅力に引き付けられました。「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」「中原の虹」「マンチュリアン・リポート」と、シリーズで読むことをお勧めします。 「経営はロマンだ!私の履歴書」 小倉 昌男 ビジネス・経済、自伝・伝記 業種によって成功要因は違うと思っていましが、宅配ビジネスの生みの親である小倉昌男さんの本書を読むと、「顧客第一主義」「現場主義」など、学習塾経営に共通することがたくさんありました。また、著者の小倉さんは、第一線を退いたのち、身銭を切って障碍者支援の福祉事業に打ち込まれました。これは「利益を出す仕組みを作り、低賃金で雇用されていた人たちに、より良い報酬を還元する」という小倉さんの思想です。本書を読み終わってみると、マーカーの印やふせんがたくさんついた一冊となっていました。
https://w.atwiki.jp/get5out/pages/244.html
浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学3号 問8 問 二種深信を教行信証の御文で示しなさい。 答 ○ 悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定 聚之数に入ることを喜ばず、真証之証に近くことを快まず。恥ずべ し、傷むべし。(機の深信) ○ 慶ばしき哉や、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難く して今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。 (法の深信) 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学3号 問9へ [get5out考察] get5out用画像フォーム 現在、paintプラグインはご利用いただけません。 【比較資料】 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 真宗学二号 問37 問 親鸞聖人の悲痛な懺悔のお言葉を二つ記せ。 答 ・無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す、愛憎違順することは高峯丈山 にことならず。(正像末和讃) ・悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して定聚の 数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥ずべし、傷む べし。(教行信証信巻) 解説 ・しげく――はげしく。 ・遍満――すきまなく満ちている。 ・愛憎違順――自分に順う者は愛し、順わないものを憎む。 ・定聚の数――正定聚不退転(現益) ・真証の証――弥陀同体覚り(当益) 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(29) 問 親鸞聖人の悲痛な懺悔のお言葉を『教行信証信巻 』と『正像末和讃』で一つずつあげよ。 答 ○悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利 の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、 真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし。 (教行信証信巻) ○無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず (正像末和讃) 解説 ・現等二益。 ・塵数――ちり。 ・遍満す――満ちあふれている。 ・愛憎違順する――自分をしたう人→かわいい。 自分に反抗する人→憎たらしい。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(3) 問(11) 問 親鸞聖人が『教行信証』を書かずにおれなかった慶びを述べ られているお言葉と、その根拠を示せ。 答 ○ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の 師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。 真宗の教・行・証を敬信して、特[こと]に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここを 以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(教行信証総序) 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問13 問 煩悩にまみれた自己に泣いておられる親鸞聖人の信後の御言葉を書き その出典も示しなさい。 答 「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、 定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥づべし 傷むべし」(教行信証信巻) ツリー型コメントフォーム 名前 現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学3号 問9へ このページのトップへ サイト内を and or タグで and or 2021-12-07 02 28 02 (Tue) 合計: - 本日: - 昨日: - #blogsearch link_pdfプラグインはご利用いただけなくなりました。
https://w.atwiki.jp/get5out/pages/739.html
浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問17 問 真実の自己を告白された親鸞聖人の悲痛な御言葉とその出典を書きな さい。 答 ○悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎の如くなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」 (悲歎述懐和讃) ○小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ 如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」 (悲歎述懐和讃) ○無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎異順することは 高峯岳山にことならず (正像末和讃) 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問18へ 平成16年6月6日(日) 教学講義 講師:中根繁会長 「小慈小悲もなき身」とは、小慈悲の欠けらもない我が身ということ。 「有情利益はおもうまじ」とは、人を助けようとは思わないということ。 このお言葉は、よほど真剣に人助けをしなければ親鸞聖人の真意が分から ない。 本当に心の底から人を助けようという心はないのだから、人を助けようと は思わないというお言葉だが、ここには [get5out考察] get5out用画像フォーム 現在、paintプラグインはご利用いただけません。 【比較資料】 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 真宗学二号 問(37) 問 親鸞聖人の悲痛な懺悔のお言葉を二つ記せ。 答 ・無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す、愛憎違順することは高峯丈山 にことならず。(正像末和讃) ・悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して定聚の 数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥ずべし、傷むべ し。(教行信証信巻) 解説 ・しげく――はげしく。 ・遍満――すきまなく満ちている。 ・愛憎違順――自分に順う者は愛し、順わないものを憎む。 ・定聚の数――正定聚不退転(現益) ・真証の証――弥陀同体覚り(当益) 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(26) 問 「死ぬまで悪の止まない親鸞だ」と悲歎なされた 聖人の『ご和讃』と、その根拠を示せ。 答 ○悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる (悲歎述懐和讃) 解説 ・悪性さらにやめがたし――居眠り。 ・こころは蛇蝎のごとくなり――見るとぞっとする。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(29) 問 親鸞聖人の悲痛な懺悔のお言葉を『教行信証信巻』 と『正像末和讃』で一つずつあげよ。 答 ○悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利 の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、 真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし。 (教行信証信巻) ○無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず (正像末和讃) 解説 ・現等二益。 ・塵数――ちり。 ・遍満す――満ちあふれている。 ・愛憎違順する――自分をしたう人→かわいい。 自分に反抗する人→憎たらしい。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(3) 問(17) 問 「無慈悲な我々でも人々を救う活動のできるのは 阿弥陀如来のお力である」と教えられた『ご和讃』 一首と、その根拠を書け。 答 ○小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ 如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき (悲歎述懐和讃) ツリー型コメントフォーム 名前 現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問18へ このページのトップへ サイト内を and or タグで and or 2021-12-07 02 26 55 (Tue) 合計: - 本日: - 昨日: - #blogsearch link_pdfプラグインはご利用いただけなくなりました。
https://w.atwiki.jp/get5out/pages/730.html
浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問8 問 善知識を謗ることはもちろん、おろそかに思っただけでも法謗の大罪 を犯すことになると教えられた親鸞聖人の御言葉とその出典を書きなさ い。 答 「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。」 (末灯鈔) 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問9へ 平成16年4月24日(土) 教学講義 講師:中根繁会長 この御文の「師」とは、善知識のこと。 つまり、善知識を疎かに思ったり、善知識を謗る者を法謗罪を造っている 者ということ。 法謗罪の重さは、親を千人や1万人殺すことよりも重い罪。 真宗学3号の問い9にあるように、法謗罪は何よりも重い罪である。それ は、仏教だけが全人類を助けるたった一本の道である。その仏教を非難し たり、疎かにすることは全人類が助かる立った一本の道をたたき壊すこと になる。それは、全人類を地獄に堕とす行ないに等しい。これは何者にも 変えられない大罪である。 信心決定するまでは、法謗罪よりも親を殺した罪の方が重いと思ってい る。信前は、どうしても法謗罪の重さが分からない。 ところが、信心決定すると阿弥陀仏の本願に背き続けて来た事の大罪を思 い知らされる。罪を罪とも知らずに大変な罪を造り続けて来たという自己 の姿を自覚する。 しかし、信心決定した後も、逆謗の屍は変らないので法謗罪は造ってしま う。 善知識も、お釈迦様や親鸞聖人や蓮如上人に対して、何でこんな事をされ たんだろうか…?と疑問に思うことがある。自分には分からないが、何か 深い御心があっての事だろうと確信しているが、でも何でかな…?と思っ て考えてしまう。 この心の相を分析すれば、親鸞聖人の上に立って分別していると言える。 本当は蟻が象を見るようなもので、蟻には象の世界は分からないのに「分 かる」と思っているようなもの。親鸞聖人の深意は、自分では分からない のに「分かる」と思っているから、親鸞聖人の御心を量ろうとする。 これこそが、疎かに思っている相である。 信前であろうが、信後であろうが、本質的には法謗罪をやめることはでき ない。 これを逆謗の屍と言う。 「屍」というのは、死んだ心ということ。 この死んだ心は、信心決定した後も、生き返る事はない。死んだままで変 らない。 具体的には、法謗罪を造る事は大変な罪だという事が本当に分かったら、 法謗罪を造るのをやめるはず。ところが、煩悩があるが故に、信後も法謗 罪を造ってしまう。 故に、親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰しゃる。 つまり、信心決定しても絶対に助からない自己に変わりはない。地獄一 定。 信後は、たとえ法謗罪を造ってしまったとしても、その罪が障りとなって 地獄に堕ちる事はない。 逆謗の屍をも必ず救うという阿弥陀仏の本願の御力によって、必ず極楽に 生まれられる。 機相から言えば、死ぬまで助からない。地獄しか行き場がない。地獄行き の心が極楽往きの心に生まれ変わって助かるのではない。地獄往きのまま で、その地獄往きの者を救うのが阿弥陀仏の本願。 よって、信後は絶対助からないまんまで、絶対助かるという自覚がたつ。 ある時、蓮如上人が、ご説法の最中に聴衆に向って「この中で絶対に助か らない者が居る。」と仰った。すると、聴衆の中で一人だけが、サッと手 を挙げた。すると、蓮如上人は、今度は「この中で絶対に助かる者が居 る」と仰った。すると、またさっきの手を挙げた者だけが、サッと手を挙 げた。この人だけが本当に助かった人である。 信心決定すると、絶対に助からない自覚と、絶対に助かるという自覚の両 立がおこる。 これを機法二種一具の深信と言う。 この矛盾した心境は、信後の立場からすれば何も矛盾していない。 信後の側から信前の善悪、軽重、遅速、大小などに囚われている姿を見る と、真実が分からず逆立ちしているように見える。本当は、善悪、大小な どというものはない。全ては矛盾の統一物なのである。 だから、絶対助からないのも、絶対助かるのも真実である。 これを譬えれば、地獄一定の機を10トンの大きな石とすると、その石は 水に入れれば沈んでしまう性質は変わらない。その石を水に浮かべるに は、10トンの石を乗せる事ができる船に乗せればよい。この船に乗れ ば、石は石のままで水に浮くことができる。ここで言う「船」とは、阿弥 陀仏の本願のことを譬えている。 阿弥陀仏の本願は、地獄一定の者を極楽一定に助ける力を持っている。 その本願力に救われた時に「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひと えに私一人が為なりけり」という思いになる。 しかし、自分の機相は「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一 定すみかぞかし」という思いしかない。 この矛盾した気持ちが一つになっているので、「一具」と言う。 仏教は不二の法門である。「不二」というのは、二つとも無いということ ではなく、2つでないということ。全ての対立する概念は、実は対立する ものではなくて、一つのものだということである。 禅宗などは、この不二の世界を座禅によって知ろうとする。 浄土真宗は、聴聞によって知る方法をとる。 禅宗では、絶対に助からないので、禅宗をやっていても分からない。 本当に救われるのは、浄土真宗の聴聞のみである。 聴聞は、この不二の世界を知ろうとする為にするとも言える。 不二のことを、「不一不異」とも言う。「不一」とは、一つではないとい うこと。「不異」とは、異ならずということ。つまり、二つの別々のもの ではないということ。 紙の裏表の関係や、明かりを闇の関係は、不一不異である。静と動の関係 も同じである。 独楽(こま)は、高速で回転しているほど一点に止まっている。 人間は、分別智でしか理解できない。しかし、信心決定の世界は無分別の 分別の世界。 分別を超えた真実の世界が、無分別の世界。分別しようとするのが自力。 デカルトの「我れ思う故に我れあり」の「我れ」は自力。 仏教は、その「我れ」をも否定した境地。 仏教は究極の否定の教え。自力が廃るとは、全てが否定された究極の状 態。 この境地に到るのは、聴聞によってのみである。 [get5out考察] get5out用画像フォーム 現在、paintプラグインはご利用いただけません。 【比較資料】 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 仏教学一号 問(17) 問 善知識をおろそかに思うことが法謗罪になると仰有った親鸞聖人の お言葉と根拠を聖教で示せ。 答 善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。(末灯鈔) 解説 ・善知識――信心決定の体験と深い教学を身につけられた方。 ・謗法――法謗罪 ・おろか――おろそか 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(1) 問(35) 問 善知識をおろそかに思うことが謗法罪になる、と仰有った親鸞聖人の お言葉と根拠を示せ。 答 ○善知識をおろかに思い師をそしる者をば謗法の者と申すなり。(末灯鈔) 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 仏教学3号 問7 問 善知識をそしることはもちろんおろそかに思っただけでも法謗の大 罪を犯すことになると教えられた親鸞聖人の御言葉と出典を 示しなさい。 答 「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。」 (末灯鈔) 真流一の会 上級教学テキスト 真流学4号 問6 問 善知識を謗ることはもちろん、おろそかに思っただけでも法謗の大罪を犯す ことになると教えられた流祖の御言葉とその出典を書きなさい。 答 ○善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。 (末灯鈔) 『信声新聞 第67号 平成7年11月25日発行 (2面) 生死の一大事(十五) 五逆罪と法謗罪 会 長 中 根 繁 ・・・親鸞 聖人は末灯鈔に、「善知識をお ろかに思ひ、師をそしる者をば、 謗法の者と申すなり」と教えられ た。あからさまに仏法や善知識 (仏教の正しい指導者)を誹る人 だけではなく、善知識をおろそか にする人も法謗の者であると仰しゃ るのである。 ・・・ ツリー型コメントフォーム 名前 現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問9へ このページのトップへ サイト内を and or タグで and or 2021-12-07 03 45 33 (Tue) 合計: - 本日: - 昨日: - #blogsearch link_pdfプラグインはご利用いただけなくなりました。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/417.html
目次 1.蓮如上人の「親鸞観」について 2.現代の葬式僧侶は 詐欺罪 を犯している 3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の 正心法語 の諭し 4. 性 の倫理をどう考えるべきか 5.「招婿婚」の一夫多婦でも地獄に堕ちなかった 6.許される男女の交際は、お互いの人格向上が基準 7.現代の 性 の乱れは、生活難という社会的制約が元凶 8. 性 の善悪を問う前に社会制度の政治改革が必要 9.簡素ななかの 美 価値基準の転換こそ唱道すべきである 10.なぜラブホテルを林立させ、ボケが流行るのか、経済政策の貧困を正せ 11.宗教的理想、幸福の自己実現の方法とは 12.昔の「他力信仰」に代わる現代の「光明思想」 13.潜在意識(守護、指導霊)への肯定観念植えつけで「自己実現」する 14.昔の阿弥陀様、今は潜在意識 15.長寿、大成功者は、偉大な力への全託者 16.この世での「超能力」だけを説くのは眉唾ものである 17.高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない 18.因果はくらますことができない 19.「即身成仏」などはあり得ない 20.親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ 21. 墓相 を唱える者への警告 22.大安、仏滅、友引は何ら関係なし 23.占星術、姓名判断では人は縛れない 24.御祓で悪霊は払えない 25.滝行、千日回峯行は、皮膚と体を丈夫にするだけ 26.夫婦の正しい心の結び方について 27.「経済理念」のあるべき方向について (1986年8月7日の霊示) 1.蓮如上人の「親鸞観」について 蓮如 蓮如です。 ―― 初めてお招きいたしましたが……。 蓮如 いや、私のほうでは、もういつ呼ばれるかと、ここ数ヵ月、首のまわりを洗って待っておりました。 ―― これはどうも……。 蓮如 あなた方も親鸞様のご本をだすということで、不肖蓮如もどうやら呼ばれるそうだということで、居眠りから醒(さ)めて、頭を洗って、顔を洗って、首のまわりをよくこすって、今、でてきたところであります。 ―― それはそれは、まことにありがたいことでございます。実は、ただ今お話にございましたように、今回私どもが行なっておりますのは、各時代における東西の聖賢方のご意見を今世におきましてあきらかにし、そして人びとの救いの手立てとしようということでございます。 そこで、いろんな方がたのおでましを願ってお教えをうかがっておるわけですが、今回、親鸞様を始めとする真宗関係の聖賢方のお訓えがうけたまわれないということは、まことに残念だという読者の強い要望がございました。ですから、ここに皆様方のお教訓をうけたまわって、現代、及び未来の人びとの生きる上での光とも、指針ともさせていただきたいと思いますので、上人様にもよろしくお願いいたしたいとぞんじます。 蓮如 わかりました。まず最初に、それでは、私の「親鸞観」ということから始めたいと思います。ごぞんじのように、親鸞様は、私より二百数十年前に活躍された方であります。ですから、私は、直接の面識はなかったのです。私は真宗の中興の祖ということで、世に言われていますが、私がなぜ親鸞様を信じて、この信仰に入ったのか。こういうことから、お話していくのが、最初はわかりやすいかと思います。 親鸞様という方は、非常に誤解された方であります。当時、鎌倉時代においても、いわゆる専門家たち、仏教界のなかにおいても、親鸞の思想を本当に理解した人は数少なかったのです。しかも、親鸞を偉い先生として崇め祭っていた人でさえ、親鸞の真意は理解し得ていなかったと、私は思うのです。そこで、なぜ親鸞様が誤解をされたか。私は、このことについて徹底的に考えてみました。 私が生まれた家というのは、お寺ですから、それも親鸞様の教えを継いでいるお寺ですから、もちろん最初からそういうきっかけはあったわけであります。しかし、親鸞様の思想、なぜそれが誤解されたのか。私はこの疑問を徹底的に追究してみました。彼のどこがそのような誤解を生んだのか。世の人びとの誤解を生んだのか。結局のところ、親鸞の教えは、向上の教えではなくて、堕落の教えであると、世の専門家たちは思ったということですね。 宗教家というものは、人間をよい方向へ導いていくのが仕事であります。向上させるのが仕事であります。にもかかわらず、親鸞は、悪人を肯定し、悪人こそ救われるべきだ、と言いました。 ま、これで一般庶民は非常に喜んだわけでありますが、専門家たちは、それでは、おまんまの食い上げです。悪人で救われて、修行しなくて救われるなら、お寺関係はすべて商売が上がったりです。それでは困るのです。しっかり勉強していただいて、尊い教えを聴いて初めて、極楽浄土へ行けるというのが本当のあるべき相(すがた)であると、まあ、僧侶たちは考えたわけです。そして、そのために、自分たちの修行があったのです。まあ、こう考えたわけです。 親鸞様という人は、もちろん無知な人ではありません。彼は、比叡山、叡山において、二十数年間勉強に打ち込み、大変な秀才と言われて将来を嘱望された方です。しかし、その方が、なぜ山を下りたかです。なぜ山を下りたか。その当時、やはり彼は周囲の人たちを見ていたんです。いくら教学をやっても悟っている人はいない、と。自らの栄達を思う心、あるいは自らの知識を鼻にかける心、こうした心を持っている人は数多いのだけれども、本当に大衆とともに、神仏の教えに帰依して、彼らを救っていこうとしている人が、叡山にはいなかったということです。 今の世界で言うならば、いい学校をでて、立身出世をする人は数多かったのだけれども、いい学校をでて、一般庶民のためにつくしたいと思っている人は数少ない。それと同じです。そこで、親鸞は、栄達の道を断って、自ら悩みのなかにわが身を投じたのです。彼は、考えに考えたはずです。 秀才の彼のことですから、さまざまな教典を読んで、その内容を読破したことでありましょう。内容を吸収したことでありましょう。しかし、彼は、そのような勉強のなかにおいて救いがあるわけではないと考えた。やはり宗教というものは、できるだけ多くの人を救うのがその任務ではないのか、と。そこで、彼は野に下ったわけです。 叡山で出世をするというのは、官僚になって立身出世をするのと同じなんで、官僚になって、大蔵次官だとか、そういうものになるのとか、あるいは、政治家で頂点を登りつめたり、あるいはまた、学者で頂点を登りつめるのと同じ道なんです。しかし、そうした道を捨てて、彼は野に下りました。まあ、学問でいうなら、在野の学者ですね。野に下って、庶民とともに考え、彼らとともに苦しもうと、そう思ったということです。 そして彼は、従来の"戒律"、この戒律というものに対する疑問を深くいだきました。戒律を守らなければ人間が悟れないものであるならば、ではなぜ神仏は、人間にこれだけの煩悩を与えたのだろう、と。人間に煩悩があるということが悪であるならば、生まれてくること自体が悪なのではないか。人間には食欲があります。これが悪だというならば、――人間に食欲がないわけはありません――これが悪だというなら、生まれてくることが間違いだったのではありませんか。 人間にはまた、異性への欲、情欲、あるいは性欲といってもいい、こういう欲があります。宗教家たちはみな、これを悪と言っています。しかし、それは本当の善悪の悪でしょうか。宗教家たちは、すべて悪と決めつけていました。異性への思いというのは間違いである。悪である、と。それは、たまたま「釈尊」が出家をして悟ったということに由来しているのでありますが、本当にそうでしょうか。 では、なぜ神仏は男と女とをつくられたのですか。男が女を思う、女が男を思うことが悪であるならば、男女をつくったこと自体が間違いなのではないでしょうか。男として、あるいは、女として生まれてきたこと自体が間違いではないでしょうか。もし、それが間違いであるならば、男だけを、女だけを、あるいは、男でも、女でもない人間をつくればよかったはずです。 神仏は、その気になったなら、人間を雌雄両方の性格をかね備えた動物としてつくることもできたはずです。男性であり、かつ卵でも産んでですよ、子供をつくれるようにしておけば、それなら、それでいいではないですか。しかし、それにもかかわらず、男女をつくり、しかも、男女の葛藤をつくって悩ませて、地獄に堕とすような神仏とは何だろうか。というところですね。やはり、こうした疑問は追究しなければならないのです。 宗教家たちは、もう最初からですね、前提として当然のことながら、肉食すること、食欲のあるのを悪いこととし、男女の欲は悪いことと決めつけています。そして、自分だけが模範生徒になればいいんだ、と。模範生徒ではない人たちは地獄へ行くと言っているわけですね。しかし、人間には、そもそも生まれついた本性がある。その本性を否定すれば本当によくなるのでしょうかね。そうだとすれば、本性そのものが悪いのではないでしょうか。それならば、人間というような、人間として生まれる、その生まれるということ自体において、そのなかに悪を内包する存在だということになります。 たとえどんな聖人だって、食欲のない人はおりません。あるいは、性欲のない人はいないはずです。あるいはまた、睡眠欲というものがあります。この三つの欲望ですね、すなわち、食・性・眠、この三つの欲望というのは断ちがたいものです。これを断って、そして悟れるのでしょうか。私は、これは違うのではないかと思ったわけです。 そして、親鸞様もまた、その疑問を徹底的に追究した方です。一般の庶民たちは、魚も、もちろん食べていました。では、彼らは魚を食べているから、それだけで、すでに救われないことになるのでしょうか。叡山の僧侶たちは、魚を食べていない。豆腐を食べたり、野菜を食べたりしている。だからこそ、悟り、教われるのだ、と。しかし、肉食をしている人びとは、もうそれだけで"救い"ということから捨て去られているのでしょうか。隔絶されているのでしょうか。 こうしたことを徹底的に考えた人はいないのです。ただ昔から、伝統的にそうなっているから、それを守ったというだけにすぎません。よくわからないけれども、祖師の教えを守って真似をすれば間違いがないんだ、と。そういうことでやっていたわけであって、その疑問追究はやっていないわけです。 また、高野山に因(ちな)んだ話がありましたね。苅萱道心(かるかやどうしん)が、父である自分を訪ねて来たわが子石童丸に、"女人禁制"とされていた高野山には登れず、麓に残っていた妻に対して、「父はすでに没したと言え」と偽って子を帰したため、待っていた妻は深雪のなかに死したという苅萱親子の悲劇物語です。まあ、これは、当時においては、女人を修行の妨げとみなしていたことによるのでありましょうが、これが本当の宗教家の姿でしょうか。この見方によると、女はもう悪だと、迷わすものだという考えでしかすぎません。 逆に考えるならば、宗教とは、男だけのものですか。悟りとは、男だけのものですか。人類の半分は女性ではないですか。女性を悪と決めつけるような宗教が、本当に神仏の御意(みこころ)を反映しているのでしょうか。釈尊が言ったことは、女性にして悟ることはむずかしいと言ったのであって、女性が悪だと言ったのではないのです。 なぜ女性が悟るのがむずかしいか。つまり、女性は、俗世に煩わされることが多いからです。それにまた、女性というものに生まれついたことによって、さまざまな人間関係に縛られるからです。子供を産む、子供を育てなければいけない。母親としての役割があります。また、妻としての役割があります。また、嫁としての役割があります。女性はこうしたものに縛られるがために、解脱(げだつ)することがなかなかむずかしい。釈尊はその本質を喝破(かっぱ)されたのであります。ですから、女性を悪と見たのではないのです。悟りにおいて障害が多いと言ったのであります。 それをどう誤解したのか、女性そのものが悪であるかのように、悪魔の手先であるかのように、誤解している人が多かったのです。こうした根本的な問題を、徹底的に疑問追究しなければ、一般の庶民は救われません。ほとんどの人は、男女があいともに暮らして、子供をつくって育てているのです。これが悪でしょうか。もし男女が結婚して子供をつくることが悪であるならば、人類はとっくの昔に、滅(ほろ)びています。善人を目差している人ばかりならば、とっくの昔に亡(ほろ)びています。 それにもかかわらず、連綿(れんめん)と人類は生き続けています。それは人類は悪だからでしょうか。そうではないはずです。神仏の御意は、人類をずっと永代、末代まで生き伸びさせて、そして、魂修行の場を設けようとしておられるはずなのです。であるならば、悪であるはずはないではないですか。 やはり、この辺を考えないといけない。立脚点を、エリートに置いてはいけないということです。親鸞様という方は、その点を徹底的に追究されたのです。ですから、私が見て、親鸞様の立派だと思うところは、今まで既成概念だと思われていたことを徹底的に追究した。自ら勇気をもって、身をもって示したということですね。 私は、近年、"牛痘"というのですか、"種痘"ですか、種痘ということをした医師の話を聞いたことがあります。牛痘、つまり、"天然痘"ですか、それを治すために、そのワクチンを、自分の子供の腕に植えつけたという人がいたはずです。私はそういう話を聞いたことがあります。これもまた、同じような勇気ですね。一歩間違えば死んでしまう。一番大事なものを失ってしまう。しかし、それをあえてやる。真理のために、あえてやる。同じであります。宗教家というのは、みんな、悟りたいと思っている。悟って、天国のいいところに行きたい、と。みんな、そう思っております。浄土のいいところに行きたいと、だれもがそう思っているのです。 にもかかわらず、その一番大切なものを、あえて危険に晒(さら)してでも、やはり真理のために実行せねばならない。そういうことがあったと思うのです。ですから私は、そういう迷いのなかで、大迷(たいめい)のなかで、大悟(たいご)された親鸞様、そういう大きな勇気をもって行動された親鸞様という方に、大変心魅かれたわけです。 とくに、私たちの世もまた、戦乱の時代でありました。このような時代において、一般の人びとが、聖人君子になることはほぼ不可能であります。ですから、如何にして彼らを教導していくか。これを考えない宗教家は、真の宗教家ではありません。叡山に行ったら救われるというならば、一般の人はすでに救われないことになっているのです。むしろ時代が要請したことは、在家の宗教であります。在家にあって、如何に救われるかということです。 これと正面から取り組まないで、山に篭(こも)ってお経ばかりあげたり、教学ばかり勉強しているようでは、どうして一般の人は救われますか。自分だけが救われようとしている気持ちは、すでにエゴイストではないですか。自己中心主義者ではないですか。こういうことがあったのです。 今の方がたから見てもね、親鸞様の考え方には、よく分からないことが多いと思います。なぜ悪人が救われるのか、と。まあ、一つのね、異説、変わった説だととられるぐらいがおちです。その本当の真意を汲み取ることは、むずかしいです。ただ、親鸞の考えというのは、まあ一つのアンチテーゼであります。従来のね、固定概念がある。釈尊の死後、すでに二千数百年経っています。そして二千年も同じ考えが連綿と続いて、まったく紋切り型で、形だけを真似ている。同じかどうかは分からない。宗教家というと、もうお線香をたいてやっている。線香などはね、日本では必要ないのです。インドの地で線香をたいたのは、かの地では蚊とか虫が多かったからです。修行に差障(さいさわ)るからそういう香薬とか没薬(とうやく)を用いて修行していたのです。ですから、お綿香をたくことが目的ではなかったのです。ところが、そういう形ばかりを真似ている。 私たちは、もう形を捨てた。真理というものは、自由自在なものであり、時代に応じて変幻自在に現われてくるものだと、こういう柔軟な思考をですね、したわけです。私が蓮如としてでたときも、もちろん親鸞様のあとを継いで、この真宗をおおいに広めるという目的を承知の上で、この地上に生まれてきています。まあ、その目的は一応達したというわけであります。しかし、その真宗の教えが、今の時代に伝わって、"浄土真宗"はずいぶん人口が多いようですが、そのなかにあってまだ、形にとらわれている人たちが多いのも事実であります。 他力信仰というと、何かもう題目を唱えているような、すなわち南無阿弥陀仏と唱えていたら救われていたように思われるけれども、当時においては、これはもう画期的な教えであったのです。まあ、当時の新興宗教なわけです。非常に画期的な教え、斬新な考えだったわけですが、今においては、そうではありません。ですから、むしろ今の時代に私たちがでて来たならば、今の浄土真宗を攻撃するかもしれません。そんな考えにいつまでも執われるなというかもしれません。まあ、そういうことが私の「親鸞観」でありますが、このことについて、何かご質問があれば、お聞きください。 2.現代の葬式僧侶は"詐欺(さぎ)罪"を犯している ―― 親鸞聖人には、昨日その辺のところのお話をいろいろくわしくお聴かせいただき、大いに教えられるところがございまして、感謝いたしております。蓮如様につきましては、そのご宗旨の本義ということもさることながら、やはり上人様には、当時、ご活躍されたその縁(よすが)というか、ご様子というか、その行動力の活力となったものを、実はお聴かせ願いたいと思っております。そして、私どもが、今日新たな教えを広めようとするにあたっての責重な指針とさせていただけるなら、非常にありがたいと思うのでありますが、お願いできましょうか。 蓮如 わかりました。それでは、他の方がたがおそらくは話をしないであろうと思うようなことについて、私はあえて話をいたしましょう。 鎌倉、あるいは室町の時代においては、要するに、僧侶は独身か、妻帯かという選択を迫られました。そして、一般の人は妻帯をしているということで救われないのかどうか、妻帯したままであっても、他力信仰によって救われるのかどうか。こういうことが、いわゆる争点であり、焦点であったわけです。 しかし現代、私たちの眼で現代を見た場合、何が問題か。現代では、僧侶もすべて妻帯しています。結婚していない人というのは、非常に珍しい。ところが、家庭生活を営んでいる僧侶のなかに、また高僧が少ないことも確かであります。ですから、親鸞様同様、私も、その後の仏教を堕落せしめたとずいぶん批判が多かったことも確かです。つまり、僧侶というのは、「真理」を求める者であるにもかかわらず、それが生活になってしまっていたということです。仏教者がね、そういうお勤(つとめ)をするべきであるのに、生活になっている。勤行(ごんぎょう)し、まあ写経をしたり、それを声にだして詠んだり、あるいは、お葬式にでて行ったり、そういうことが、要するに職業になっています。 ですから、現代において、たとえば私たちがでたとするならば、何をどう改正するか、改革していくか。こういうところが一つの視点だと思うのです。またこれが、あなた方が知りたいところだと思います。 あなた方がやっているような、こういう"霊界通信"ですか、これは、近年イギリスなどを中心にして興ったような、スピリチュアリズムというのですか、まあ、そういうもののように考えられております。一つの新しい、まあ、精神科学ですね。こうとられていますが、いわゆる宗教家のなかでもプロといわれる人びと、あるいは、神社、仏閣で、神主だの僧侶などをやっている人によっては、また遠い話でピンとこないのです。そういうことは、興味としてあったり、ほんの知識として読んだり、教養として読むことはあっても、自分自身にとってはピンとこないのです。つまり、そうしたことは別世界の話だと思っている人が多いのです。 ですから、宗教の大学をでて、宗教大学の学長などをやっている人であるにもかかわらず、いいですか、本心において魂などを信じていない人がいっぱいいるのです。形だけでね、学問だと思っているのです。だから、何とか経にはこう書いてあるとかね、そんなことばっかりやっている。釈尊が思想家だと思っているのです。救うということを忘れている。これについては、たとえば、一般の人びとの信仰に対しても同じことが言えます。「うちのお爺ちゃんが死にましたから、偉い先生、どうか一つお念仏をあげてください」と言われても、せせら笑っている。そんなことね、念仏をあげたところで成仏するわけじゃないが……と腹のなかで思いながらやっているんですね。形だけのことを。 あるいは、偉い学長さんの話でね、最近、私はこんなことを聞きました。まあ、真宗系ですけれども、その信者がね、言ったんです。「家の者が死にましたので、ちょっと来てください。真宗系統では、死んだときに念仏を唱えないと、お棺のなかになかなかうまく納まらないと言われています。そこで、先生、この死者をもうそろそろお棺に入れますから、お念仏を唱えてください。そしたら、死者も安らかになって、体も、手足の骨も柔かくなり、お棺のなかに収まりますので、先生、どうかお念仏を唱えてください」と。すると偉い大学の学長さんで、真宗を専攻しておられるその方は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、形だけね、そう言われたら、気安めだから拝んであげましょうと、お念仏を唱えるわけですね。 こういうことをして、得意気になっている人がいるんです。お坊さんに何か拝んでもらわないと体が柔らかにならないと思っているとはと、馬鹿にしているわけです。しかし、本当の魂の真実においてはどうかというと、その民度の低い人びとのほうがむしろ正しいのです。 実際に、死ぬときに、硬直する人がいるんです。死ぬときに体が碓かに硬直する。なぜ硬直しているのか。要するに、魂が肉体からだされるのが恐いのです。ここ以外には住家がないと思っているんですね。だから、お棺に入って焼かれるのがいやなのです。このように、迷っている魂がいるんですよ。焼かれては困る、と。お棺に入れられて、火葬場へ行ったら焼かれてしまう。知っているんですよ、彼らも。だから、何とかね、焼かれるもんかと、肉体を守らねばならんと、硬直するんです。体がね、抵抗しているのです、霊が。 こういう人に対しては、教えてあげなくてはならない。あなたは死んだのですよ。死んであの世へ行くんですよ。肉体は仮の姿ですよ、と。これは本当の姿ではありません。あなたは魂として、あの世へ行って、あの世で修行させられるのですよと、本当はこういうことを懇々(こんこん)と諭(さと)さねばいけないんです。 そういう死者に対しては、肉体に執着をもっている死者に対しては、それを諭さねばいかんのです。それにもかかわらず、それすら知らない僧侶がおるということです。偉い人でね、そんなことすら知らない。そんなのは気安めだと思っている。馬鹿馬鹿しい、そんなのは民間信仰だ、と。体が折れるだとか、折れないとか、お棺にうまく入るだとか、入らないだとか、こんなことあるもんかと思っている。そういう人がおるんです。しかし、こんな人は職を辞しなさい、と私は言いたいのです。こういう人は、いくら知識だけを詰め込んでも、何も解っていないのです。本当の魂のことが、わかっていない。 ですから、あなた方はね、現代にでているわけですが、私たちも現代にでたら、まずこの僧侶たちに対して、本当の正しいものを教えなければいけない。どうも葬式仏教に堕してしまっている。だから、まずは、葬式仏教の改革が一つ必要です。僧侶たちが死後の世界、魂の世界を知らないのにもかかわらずそういった職業につくというのは、これは詐欺(さぎ)です。"詐欺罪"です。はっきり言ってね。 信じていないのに、自分が死後の世界を信じていないのに、それを職業とするのは、詐欺ではありませんか。あの世は「ない」と思っているのに、袈裟法衣(けさごろも)を着て、お経をあげて、なぜ、お礼を貰うのですか。帽子を被ってバイクに乗って来て、最近では自家用車で乗りつけて来てですね、そして一時間、二時間、お経をあげる。本人は意味も何もわかっていないのにお経をあげる。周囲の人びとは、退屈で、退屈でしょうがない。とくに夏の暑いときなどは、大汗流して、足にしびれが切れて立てない、と。そして、やっと終わってくれてありがたい、と。ありがたいというのは、終わってくれてありがたいということですよ。それで、掌を合わせている。こんなことばかりしているのです。こんなのは、心が入っておりません。 現代の僧侶は、そういうお経をあげるのではなくて、むしろ法話をせねばならんのです。死者というのは、実は、肉体が死んでからも、まだ二日、三日は体から離れていません。さきほどのように、肉体に執着している霊もあります。ですから、そういうお棺を置いておいて、その場で、家族の人、親戚の人を集めて、本当の死というものは何かということについて、僧侶はお話ししなければいけないのです。もちろん、現代語で、わかるようにね。「皆さん、この家の何某という方が亡くなりました。亡くなりはしましたけれども、どうかご安心ください。肉体が、すべてではありません。人間には、死後の世界というのが待っているのです。そして、その後の修行があります。まあ、この方が生きているときにどういうふうに生きられたかわかりません。ただ、ご立派な人生であったと私は聞いておりますので、きっとそのみ魂は天国へ昇られるでしょう。しかし、天国へ昇られたとしても、そこも修行の場ですから、しっかりとね、いろんな方の守護指導を受けて勉強しなければならないようになっているのです。 あるいは、運悪く地獄で苦しまれることがあるかもしれません。もし暗い世界へ行かれることがあったら、それは地獄でございます。もし地獄に堕ちたならば、自分が地獄にいるということを自覚されて、生きていたときに、生前、何が間違っていたのかをしっかりと反省してください。その反省が終わらないと、地獄からでて来ることはできません。生きていたときに、人の悪口を言わなかったかどうか。人を責めなかったかどうか。自己本位のままに生きたかどうか。要するに、人を愛したり、生かしたりしたかどうか。こうしたことを徹底的に反省しなければいけないのです」 このように、お坊さんは、その霊が地獄へ行く可能性があるからこそ、反省という方法を教えてあげねばいかんのです。何も知らないでね、死ねばすべては終わりだと思っていた人は、死んで終わりでなかった場合、どうしたらよいかわかりません。そういうことは、学校で教わっていませんし、あの世で教えてくれる人もおりません。だから、地獄の深いところへ行って、孤独なのです。ただ一人暗いところへ行って、迷っておるのです。どうしていいかわからないのです。 3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の諭(さと)し 蓮如 してみれば、頼るのはこの世の人です。とはいえ、この世の人に頼っても、この世の人も何も悟っていません。お坊さんのところへ行っても、お経をあげるだけです。といって、お経をあげられても、全然成仏できないんです。だから、家族のところへ行きます。しかし、彼らにも、どうしてよいかわかりません。自分は地獄に行っているのだけれども、どうしたら救われるのか、と。たとえば夢枕に立ったとしましょう。しかし、家族たちは、何も言うことができません。何とかさんがね、どうも迷っているようだとは思うかもしれない。迷っていると思ったら、どうするか。お線香を立てて、ろうそくを立てて、チーンと鳴らしてね、掌を合わせて、それで終わり。あるいは、お墓参りをする。お墓へ行って、花を立てて、水をやる。これで、終わってしまいます。 しかし、これでは救われないのです。これでは、救われるわけはない。本当は、諭(さと)してあげなければいけないのです。なぜ地獄へ堕ちたのかを。地獄に落ちた人は、やっぱり生きていたときに、人のためにはつくさなかったのです。自己本位のままに生きていたのです。人間というのは、神の法則のもとに生きているのです。ですから、その法則に外れると、やはりそのぶんだけ、軌道修正をしなければいけなくなるのです。地獄に行っているような人は、生きていたときに、死ねばすべては終わりなんだと思っていた人がほとんどです。そのため、生きているときに、やりたい放題をやってきたはずなんです。そういった人たちには、やはり反省ということが大事です。反省をしなければいけないのです。 ですから、お坊さんはね、法話の話ですが、葬式のときには、そういうありがたい「神理」の話を、遺された家族の人たちにしなければいけないのです。死者は、まだ狼狽(ろうばい)していてわからないかもしれない。しかし、家族の方がたには、こういうことなんですよと、神理を教えてあげる。そして、あなた方がお墓へ行くなり、仏壇に掌を合わすときには、それを口で言って、死者に聴かせてあげなさい、と。「お爺ちやん、あなたは死んだけれども、死んで肉体はなくなったけれども、魂というのはあるのですよ。あなたが、もし自分が生きていると思ったとしても、それは肉体ではなくて、霊体として生きているんですよ。霊体として生きていくために、あの世というのがあるのですよ。この地上は、もう、あなたたちが住むところではありません。お爺ちやんは、天国か、地獄か、どちらかへ行かれるんです。そこで、いずれにしてもね、修行されるのですよ。だから、そちらの人の偉い方の話をよく聴いて反省して、修行してください」 こういうことを真に、心のなかから言ってやる必要があります。そうすれば、死者は成仏するはずです。 死者の霊というのは、通常、頼るところがないから、生きている人のところへでてくるのです。憑依(ひょうい)霊とかよく言いますね。憑依とかよく言います。憑依とか、こんなことあるんでしょうかとよく言います。あるんです。現にあります。「溺れる者は藁(わら)にも縋(すが)る」とはよく言われることです。あなた方もそうでしょう。自分が死んでしまえば終わりだと思っていて、死んではっと気がつくと、まだ生きている。生きているはずなのに、自分は真っ暗な底にいる。これは大変ですね。何とか助けてほしい。助けてほしい、助けてほしいと言っていると、どこか遠くでどこか見たような人影が見えてくる。 これが家族ですね、遺された家族。そこで、「あっ、いた。助かった」とね。だから、助けてもらおうと、子孫のところへでて来て、腰にしがみつく。腰痛が起きます。助けてくれえーと足にしがみつきます。リューマチになります。助けてくれえーと頭にしがみつきます。これで、ノイローゼになっていきます。こういうふうにして、体の調子が悪くなって、子孫に不幸が起きていきます。こういうことがあるのです。彼らは、ただわかっていないのです。別に悪を働いているわけではありません。ただ遺された子孫の方がたに、いろいろ問題が起きてきたら、病気がでたり、事故が起きたり、家族の家庭争議が起きたりしたときには、もう一度皆さん集って、よく考えてみてください。何か問題があるのではないかと、死んだ人も迷っているのではないかと、あるいは、生きている人も、心に何か誤りがあるのではないか、と。こうしたことを反省していただきたいのです。 やはり生きている人が「神理」を悟って、明るく正しく生きていくことが、最高の教えなのです。これが最高の供養になるのです。死んだ人は、まず家族の人のところへ来ます。家族たちが神理に則った生き方をしているかどうか、これを見るんです。それで教わっていくんですね。だから、あなた方がみんな、死後の世界をよく知って、その知識を知って、そして悟っていくことですね。そうすれば、ご先祖も必ず悟ることができるはずです。 私は、あなた方の商売の援助をするつもりではありませんが、できるだけ多くの日本人、あるいは、世界の人びとの一人でも多くが、この「霊言集」を読んで、死後の世界があることを、そして、こういう世界になって、こういう法則があるんだということを、しっかりと知ってほしいと思います。まず、知識が前提です。知っていないと悟れません。知っていて、次の段階として、これを行動に移すということです。これが大事です。 まあ、少し長くなりましたが、とくに、お坊さん方ですね、僧侶たちはこれを知って、要するに生きている人に説かなければ、これはもう職業的に詐欺罪です。こういう方は、あの世に還ったら、絶対反省させられること間違いありません。わけのわからないお経だけをあげておったのでは、ダメなのです。死後の世界について、本当に探究心を起こしなさい。大学で学問的に教わって、単位を貰えばいいというだけではないのです。これをね、個人としても、教養としてしっかり身につける。単にお経をあげるだけではないのです。 もちろん、お経をあげてもいいけれども、それが終わったら、皆さんにわかりやすい説法をしなさい。これが一番大事です。これも宗教改革の一歩です。葬式仏教で終わったのではいけないのです。死後の世界について、説明してあげなさい。そうあってこそ、本当の専門家でしょう。それができないのであれば、もう僧侶はやめたほうがよろしい。これが宗教改革の一歩だろうと思います。
https://w.atwiki.jp/undercurrent/pages/218.html
【心霊スポット】 東京都港区山元町にある善福寺の境内には、麻布七不思議のひとつと言われる逆さ銀杏がある。 由来は今から700年以上前のこと。ひとりの雲水が同寺を訪れ、突然門前で説法を始めた。 住職がこれに抗議したが雲水は応じない。 そこで住職は雲水に問答を仕掛けたが、弁舌巧みな雲水に言い負かされてしまった。 この雲水こそ親鸞上人で、住職に浄土真宗への改宗を諭す。住職がこれに応ずると喜んだ親鸞上人はうっかり杖を地面にたてたままいずこへと去っていったという。 この杖はやがて根を張り枝を生やし大きな銀杏の木となった。 たまたまその杖が地面に逆さまに立ててあったので逆さ銀杏になったと伝えられている。
https://w.atwiki.jp/ygo000/pages/54.html
効果モンスター 星4/地属性/魔法使い族/攻1800/守 100 このカードが相手によってフィールド上から墓地へ送られた時、 相手の墓地に存在するモンスター1体を選択してゲームから除外する。 4スレ目 315 名無しプレイヤー@手札いっぱい。 2011/07/09(土) 23 37 07.93 ID FMvlN6AD0 このカードのモデルとなったのは このカードはSTARSTRIKE BLASTのスーパーレアである。 この弾のスーパーレアでは「フォーミュラ・シンクロン」が大変人気であり、多くのデュエリストから求められ、高額で取引されている。 他方、このカードは「ハズレ」「クズ」扱いされ、価値や印象も散々である。 そんなこのカードであるが、決してただ馬鹿にされて終わるようなものではない。 このカードのモデルとなったのは、「親鸞(しんらん)」という人物である。 親鸞は、鎌倉時代に活動していた僧で、仏教の宗旨の「浄土真宗」の開祖として知られる。 この浄土真宗は「一向宗」とも呼ばれ、戦国時代には一向一揆や本願寺といった勢力を形成し、戦国大名たちを脅かした。 「イラストアド」があるとして高く評価されるカードがあるが、このカードにもこのような「歴史アド」がある。 それが全く考慮される事がなく、現在のような評価に甘んじているのは非常に嘆かわしい事である。 温故知新、古きを訪ねて新しきを知る、という言葉が示すように、親鸞や浄土真宗について知ることでこのカードの活用法や力も見えてくる。 一向一揆を結成した信徒たちは、一向宗の信仰の元で結びつき、その力を発揮していた。 このカードも、同様に、この結びつきを示すようなカード名の「団結の力」「一族の結束」といったカードを一緒にデッキに入れておけば、大きな力を発揮する。 どちらの場合も攻撃力800ポイントアップが見込め、その時の攻撃力値は2600。その辺の上級モンスターなら楽に殴り倒すことが出来る。 団結の力の場合は、他のモンスターがいるとさらなる攻撃力アップが見込める。最大攻撃力は、実に5800にまで達する。 どちらも場に残り続けるカードであるので、守り続ける事ができればずっと強大な力をキープし続けることが可能である。 ところで、上記のように、浄土真宗が社会や権力者に大きな影響を与えたのは、親鸞の存命中よりもむしろ、その死後役200年後となる戦国時代である。 その事から、このカードが墓地へ送られた時に発動する効果がいかに強大なものであるかを窺い知る事ができる。 親鸞の起こした浄土真宗が、彼の死後社会に大きな影響を与えたのと同様に、 この効果はこのカードの墓地へ送られた後(=死後)、デュエルに大きな影響を与えるのである。 墓地のモンスターの除外は、除外された直後は大して効果が無いように思えても、後々、まさにデュエルの流れを左右するくらい大きく効いてくるのである。 一向一揆の当時の社会への影響について知れば、このカードの強大さも見えてくるだろう。 しかも発動条件は、「相手によってフィールド上から墓地へ送られた時」と非常に緩く、効果による破壊だけでなく戦闘破壊、単に「墓地へ送る」効果にまで対応している。 戦国時代の権力者が一向一揆に手を出しづらかったように、相手もこのカードに手を出しづらくなる事だろう。 あとは、折角除外したカードを相手に戻されたりしないように、再利用を防ぐことに心血を注げば、勝利により近づく事だろう。 以上のように、このカードの秘められた大きな力は、歴史が証明してくれているのである。 高額カードを当てし決闘者、なほもて決闘に勝利する、いはんや低額カードを当てし決闘者をや。 4スレ目 315 名無しプレイヤー@手札いっぱい。 2011/07/09(土) 23 37 07.93 ID FMvlN6AD0 イラストアドテンポアド精神アド人生アド歴史アド ←New!! 破戒僧海賊団の一員である 彼の攻撃力1800という数字は自身が所属する海賊団の船長にて最悪の世代最強且つ(中略)未来の海賊王であらせられるウルージさんの懸賞金額1億800万ベリーが由来である それ以外のステータスはおまけである このカードは決闘者次元のウルジストを増やしつつ、ひとつなぎの大秘宝ワンピースを探すために破壊神の海(オベリスクブルー)へ解き放たれたのだ ではそもそもウルージさんとは何者なのか説明しなくてはならないがここで語ることあえて止そう 諸君らが自らの手でウルージさんについて知ろうとすることが重要である ウルージさんは来るもの拒まず(海賊だから)去るもの追わずなのだ(カイドウ自殺時の台詞から) 君がウルージストとなったとき、このカードは役割を果たしたと言えるのだ! 13スレ目 142 :名も無き決闘者@無断転載禁止 (スッップ Sdef-fZ22):2016/12/06(火) 17 27 45.82 ID 5g5atv2Cd これは膝をついてやり過ごすしかないな 好き勝手言いなさる Tag:ワンピース 名前アド 教育アド 歴史アド