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親鸞
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しんらん 自作 「浄土宗」の開祖は法然ですが、悪人正機説を唱えた「浄土真宗」の開祖は誰でしょう? (2011年4月16日 漢字二文字クイズ ) タグ:社会 Quizwiki 索引 さ~と 法然 浄土真宗
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた (1986年8月6日の霊示) 1.なぜ「悪人正機(あくにんしょうき)」を信じたか 親鸞 親鸞でございます。 ―― 過般はおでましを願って、いろいろとお話をうけたまわったのでございますが、あれからもう四、五年にもなりましょうか。その当時は、私どもの「正法」伝道に対する心がまえと申しましょうか、取り組み方において、いまだ定かなものを持ちねし、大変失礼をいたしました。 さて、すでにご承知かともぞんじますが、この霊天上界よりの霊言集も何巻もの発行をみるに至りました。そういうわけで、諸聖賢よりの神理のお言葉を聴こうとする読者の数が日本国中に大きく拡がりまして、この際、親鸞聖人のお教えをぜひうけたまわりたいという声が多々でてまいりました。 そこで今回は、私どもといたしましても、親鸞様から、人の生きるべき道について、とりわけ、親鸞様の時代から七百年たった現代における今日的凡愚(ぼんぐ)への救いについて、さらには、その悟りの境地について、往時のお考えをも交えてお教え願えれば幸いとぞんじております。この辺を、お願いできましょうか。 親鸞 親鸞は、一向に進歩はしておりません。親鸞は親鸞、あなた方が思っているように、著しい進歩をしている人間ではありません。七百年前も親鸞は親鸞、その前も、その後も、親鸞は親鸞でござる。わが心性は変わっておりません。 したがって、世の人びとが、親鸞らしき言葉をほしがるというのももっともであります。私は、進歩がない人間です。私は私として、ただ一筋に、自分の念(おも)いのままに、想(おも)うがままの道を生きるまででござる。親鸞はあくまでも親鸞、にわかに、親鸞以上の親鸞にはなりません。親鸞はあくまでも愚禿(ぐとく)親鸞でござる。賢くなってもおりません。悟ってもおりません。 このような親鸞の考えでよいのであるならば、いくらでもご披露(ひろう)いたしましょう。ただ、それがあなた方の満足のいくものかどうか、地上の世の人びとの満足のいくものであるかどうかは、私にはわかりかねます。しかし、世の人びとが、今、親鸞を懐(おも)う気持ちがあるならば、親鸞の思想どこにありやと思う気持ちがあるならば、それに応えることを惜しむような私ではござらぬ。 私は生きていたうちにも、それほど熱心に布教したわけではござらんし、それほど弟子の養成をしたわけでもござらぬ。親鸞は親鸞としての信念のうちにただ生きたのみ。それを他の人びとが、世の人びとが如何に見たかは、彼らの側の問題でござる。ただ、その親鸞のものの考え方が、現代のあなた方から見て不可解であるならば、私は私のわかる範囲で語りつくそうと思います。すべてを語ろうと思います。 ―― 私自身も、親鸞聖人様の真宗のご教義そのものの真髄というものは、いまだ把握いたしかねているものであります。まったく不勉強の至りと申さねばなりません。しかるにもかかわりませず、世の人びとが、私どもを介して、親鸞聖人様が本当の教えをお説きくださることを直(じか)にお聴かせ願いたいとの声が強くありますために、不肖にもかかわりませず、現代の世に道を探(たず)ねて生きる方たちになり代わりましてあえてお尋ね申し上げたいとぞんずる次第です。 そこで、これからお話中、このことについて、すなわち、この問題についてどのようにお考えでしょうかということをお尋ね申し上げることがあるかとも思いますが、これはご法についての私個人の質問ではありませず、ご法論をうけたまわり、その理を解しようとする人びとのお願いであるということをご賢察(けんさつ)賜わりたいのです。お訓(おし)えのほど、よろしくお願い申し上げます。 親鸞 わかり申した。まず、何からお話しいたしましょうか。 ―― 親鸞様のご書には、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」などがございますが、なかでも多くの人びとに読み親しまれている、お弟子様の唯円上人が書かれている、「歎異抄(たんにしょう)」のなかから、いささかおうかがいいたしたいとぞんじます。 親鸞 けっこうでござる。 ―― あの「歎異抄」のなかにはいろいろ書かれております。聖人様ご他界後において、同信の方がたにおいても、聖人様のご意思に離れた信心を称(とな)えるものがでたとのことで、これが歎かわしく、唯円上人が直々に、聖人様とのお物語りなどのなかから、信心の本当の姿を説きあかしたものでございますね。 この「歎異抄」は、七百年の歳月を経ました今日におきましても、高校、大学生を始めとする多くの人びとに愛読されております。これが人生の教えとして受けとめられる以前に、ともすれば教養の書、知識の書として受け入れられているということもまた、事実であります。 すなわち、今日におきましては、人の生き態(ざま)の導きの書とはなりかねているように思いますので、この際、今一度、「人の生き態とは何たるか」を聖人様のお言葉を通してお示し願えればありかたいとぞんじますので、よろしくお願いいたします。 親鸞 まず話の糸口としては……。 ―― こと、それとその教えのもととなるものは、いわゆる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」でございます。『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』の一節でありますが、キリスト教にもこれに似たイエス様のお教えがあります。『富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔(あな)を通るかた、かえって易し』と。これらのお教えには、相通じるものがありましょうか。 親鸞 ある意味においては、同じくするものであります。とかく仏法を求めている人というのは、偉くなりたい、悟りたいと希(ねが)うものであります。そして、仏の教えを理解すればするだけ、自らが偉くなったがごとく、宗教天狗となっていくのです。 そこで、私は警告を発したのです。鎌倉時代においては、もはや仏教は形骸化(けいがいか)し、当初の釈迦の教えは、末法の世となり、正しく伝わってはおらず、諸宗派相競って釈迦の何経が正しいとか、こういうことばかりをやっておったのです。この教えこそ真の教え、こちらは違うと、こうしたことばかりをやって、学者が議論をしておったのです。 しかし、考えてもみなさい。仏の教えというものは、いわば総合的な人間学でござる。すべての学びの本でござる。今の世でいうならば、学問にもいろいろござろう。英語であるとか、国語であるとか、社会であるとか、理科であるとか、さまざまな学問がある。そのうちの英語だけをすれば、人間は完成しますか。数学だけを学べば、人間はそれでいいのですか。国語だけをやっておれば、世の中のことがわかりますか。理科の実験だけをやっていて、世界の仕組みがわかりますか。そうしたものではないはずです。人間が学ぶべきこととは、学びの根本の精神を酌(く)みとって、さまざまな角度から考えていくことです。 ところが、当時の教学は、仏説の真理を判断し、これこそは真説、経文のこの意味はこういうこと、こうしたことが悟りであるかのごとく誤解されていたのであります。しかし、今から二千五百有余年前に、釈尊(しゃくそん)が説いた教えは、そのような学者相手に説いたのではござらぬ。 釈尊の時代は、インドもまた、戦乱の世でありました。戦乱の世であったからこそ、人びとは真なるものを求め、本当の「ブッダ」(悟れる者)の教えを求めておったのであります。そうした世が乱れ、仏法が衰えた、本当の神理、神の教えが衰えたときであったのです。したがってまた、釈尊の時代も当時としてみれば、末法の世であったわけです。末法の世だからこそ、末法の世を建て直すがために、釈尊がでられ、人びとを導かれたのではないでしょうか。 また、われらが時代、鎌倉時代においても、仏の教えの真髄は失われ、世は戦乱の時代となり、人びとは慟哭(どうこく)し、動乱の時代であったのでありますが、そうしたときに、かつての仏教が、かつての仏典が、釈尊の時代のバラモンの教典のようには知識化し、学問の対象となっていなかったのです。 ですから、あなた方から見れば、私がやったことは、あまりにも簡単すぎる。どんな人間でも救われる、弥陀の本願を信じて疑うなというような教えは、現代のあなた方から見れば、ずいぶん幼稚な理論だと思えるでありましょう。しかしこれは、一つの悟りに至るための精神棒であったということであります。 はたして、釈尊は二千五百有余年前にインドの衆生(しゅじょう)に対し、そんなむずかしいことを説かれましたか。そんなむずかしい、専門的なことを説かれたでしょうか。鎌倉時代には、もはや仏教は、専門の学問と堕(だ)しておりました。むずかしい漢文を読めなければ、人びとは救われないのですか。釈尊の時代には、そんなむずかしい古語を読めたような人を相手に教えておりましたか。 釈尊が教えていた相手は、当時のインドの民衆でありました。そうした方がた、戦乱のなかで救いを求めていた方がたでありました。そうした方がたに説いた教えであるならば、なぜそんなむずかしいことがありましょうか。釈尊は、そんな知識を得なければ、救われないというようなことを言ったのでしょうか。 当時のバラモン階級、貴族階級は、余裕があったために、さまざまの学問を学び、古(いにしえ)の教えに接したでありましょう。しかし、下層階級の人たちはどうですか。奴隷階級の人たちはどうですか。商工人たちはどうですか。彼らには、古のむずかしい教典を学ぶような、そういう余裕がありましたか。そういう時間がありましたか。そういう機会がありましたか。ありはしないです。 ですから、釈尊は、そういうバラモンの僧を相手に法を説いたのではありません。釈尊が説いたのは、一般民衆に対してであります。であるならば、釈尊の本意はどこにあったか。貧しい人びと、迷える一般の大衆たちをも救えるような教えにあったはずです。ところが、それが漢訳され、中国に伝わり、またその漢籍(かんせき)が、日本に伝わるにあたって、そのようなむずかしいものとなり、何経が正しいとか、そのようなことを言っておったのであります。 日蓮聖人から見れば、念仏で救われるなどということは、堕地獄(だじごく)の業(わざ)かもしれない。教学をやった人間から見れば、確かにそうであろう。釈迦の本説を読みもしないで、なぜ救われるかと、そう思う人もいるであろう。しかしそれは、当時のインドでいえば、バラモンの悟りなのです。仏説を知力で学んで、そして悟るというのは、バラモン階級、貴族階級の悟りなのであります。しかし、釈迦の本意はそこにはなく、釈迦にとっては、庶民を悟らしめることが、本当の気持ちであった。真のお気持ちであられたはずです。 では、釈尊は如何にして、人びとを導かれたのであろうか。釈尊は、おおいなる慈悲を説かれた方であります。慈悲とは何でありましょうか。慈悲というのは、父母が幼児(おさなご)を見守るような眼で人びとを見る、それが慈悲ではないのですか。幼い者を護(まも)る、幼い者を愛する。幼いものを導くということが慈悲ではないのですか。 釈尊の教えは、百万言費(ついや)そうとしてもわかりません。その仏門にはさまざまな道があります。何百何千の入口があります。それを究(きわ)めつくすことはできません。ただしかし、釈尊の教えを一言で言い切るとするならば、「慈悲」であります。つまり、釈尊は、慈悲を説かれたのであります。慈悲は、何人(なんぴと)に向けられたのですか。迷える衆生であります。迷える人びとであります。悟ろうとしても悟れない、そういう人びとに対して慈悲が向けられたのではないですか。釈尊は、その慈悲を説いたのではないですか。 では、鎌倉時代に、慈悲を説いた方がおりますか。日蓮聖人は慈悲を説きましたか。日蓮は、知力による悟り、その悟りにもとづいた生き方、これを主張しました。道元禅師は、どうですか。道元は、坐禅を説きました。そして、むずかしい哲学を説きました。その道で満足できる方もいらしたでありましょう。しかし、それは慈悲ではないはずです。 他の方がたはどうですか。天台の教学をやった方がたはどうですか。彼らは、本当に慈悲を知っていましたか。天台智覬(てんだいちぎ)は偉い方でありましたでしょう。しかし、天台智覬のいうむずかしい学問的仏教を、一般の人たちは理解できたでしょうか。そうしたものを学んだ比叡山の延暦寺ですね、彼らの教えをどうして民衆がわかりましょうか。釈尊はただ"慈悲"を説かれたのです。しかし、だれもその慈悲を説こうとはしないのです。私は、これは一つの問題点であろうと思いました。 慈悲さえ説けば、釈尊の本意は伝わるのであります。そうであるならば、私はその慈悲を説こうと考えた。では、鎌倉時代において、慈悲とは一体何でありましょうか。世は乱れ戦乱であります。宗教は末法であります。人びとは、何がどうなっているのかわかりません。人びとはいつも、死後の恐怖に戦(おのの)いていたのであります。当時は、今の人たちよりは、死後の存在というものを信じておったのです。 今の世の人びとは、死後の世界はないのだ、魂の世界はないのだ、と。とくに知識人といわれる人は、そんな愚かなことを、したり顔をして言っておるのです。しかし、当時の民衆は、死後の世界を信じておりました。現在のように唯物的なものの見方をする人などおりませんでした。みんな、死後を知っておりました。そして、死後の世界には、天国と地獄があるということも知っておりました。これは、当時の民間信仰においては、常識であったのです。 2.弥陀(みだ)の誓願(せいがん)の意味 親鸞 天台の教学を学ばなければ天国へ行けないのであるならば、下層の庶民は、地獄へ堕ちることはもう決まっているはずです。彼らはそれで、戦々競々(せんせんきょうきょう)とした毎日を送っておったのです。善行をすれば救われるといっても、このように世が乱れた時代に、如何ほどの善行ができましょうや。善行をするどころか、悪行を犯そうと思わずしても、犯してしまうような世であったのであります。罪を犯そうと思わなくとも、犯すような世であったのです。 では、そうしたときに、庶民大衆を救う教えとは何でしょうか。何百万もの人が、それを聴いてわかるようなやさしい教えでなければいけないのです。今のように、学問が進み、大学をでている人が多い世の中ではないのです。学問などないのです。読み書きができれば、よいほうであります。大部分の人たちは、つまり、人口の七割、八割の人は、読み書きすらできなかったのです。自分の名前さえ書けない人も多かったのです。 こういう人びとを導くには、ただ一転語をもって、その人を悟らしめる以外にはないではないですか。そうでしょう。釈尊が慈悲を説かれたのであるならば、鎌倉の時代に慈悲を説けばどうなのか。私は日夜学びました。釈尊が鎌倉の時代にでておられて、この衆生の迷いを見たら、一体何を説かれるだろうか。釈尊は、仏の救いということをやはりお教えになるに違いない。あなた方はみんな救われるとお教えになるに違いない、と。なぜならば、慈悲とは、父や母が幼児(おさなご)を見るようなやさしい眼で見守ることをいうからです。あなた方は、自分の子供が、たとえば二つ三つの幼児が、悪いことをしたからといって、それを罰しようと思いますか。幼児は、まだ善悪がわからない。ものごとの判断がわからないのです。言葉を発することも困難なのです。ただひとこと、乳がほしいとか、ご飯がほしいとか、喉(のど)が乾いたとか、そうしたことを言えるだけの幼児であります。そのような幼児に、これを学ばなければお前は一人前ではないと、あなた方は鞭(むち)打てますか。父母の心をもってすれば、鞭打てないはずであります。これが神仏のお心であります。 私の時代には阿弥陀信仰というものがありました。すなわち、「阿弥陀経(あみだきょう)」というものがあって、阿弥陀仏が人びとを救うために、四十八の"発願(ほつがん)"をされたのであります。阿弥陀仏は、人びとを、衆生(しゅじょう)を救うために、修行に修行を重ねて、「この四十八願がかなわないならば、わが命を奪い給え」と、そこまで覚悟されて修行に打ち込まれた。それだけの願いがありました。そのなかにおいて、阿弥陀如来は「衆生を救う」ということをはっきりと言っておられます。「どんな人であろうとも救う」と言っておられる。あなた方人間であるならば、よい人を救い、よくない人を救わないのは簡単です。しかし、神仏のおおいなる眼から見たら、人間は平等であります。神仏というものは、ある意味では、泳ぎの達人であります。 もしあなたが泳ぎの達人だとして、川で人が溺(おぼ)れているときに、あなたはその人が善人だから、悪人だからといって、救うか救わないかを決めますか。あなたは泳ぎの達人なのです。あなたは、よいですか、日本一の泳ぎの達人であります。日本一の泳ぎの達人がいて、そこに子供が溺れておるのです、川に。 川に流れはあるでしょう。普通の人であるならば、自分が溺れることもありましょう。しかし、あなたは日本を代表するような泳ぎの達人であります。そして、その眼の前で、子供が溺れておるのです。助けられないわけはないではありませんか。 あなたは、その子が品行方正な子供か、それともおいたをしている子供かによって、救うか、救わないかを決めますか。決めないはずです。その子の通信簿を見て、オール「5」だから救うのですか、オール「1」だから救わないのですか。そうではないはずです。 神と人間とは、それだけの差があるのです。神が、私たち人間のような差別知でもってものごとを見ているならば、神は好き嫌いでもって人間を救う、救わないを決められるでしょう。しかし、そうではないのです。泳ぎの達人で、神仏が現われるならば、必ず救ってくださるはずです。 親鸞は川のなかにあって、溺れる者たちのなかにあって、私もまた、川に流されていた一人の人間でありました。私は川のなかで流されておりました。自らを救うこともできずに、流れておった人間であります。そのとき、同じく浮きつ沈みつ流れていた多くの人びとがおったのです。しかし、親鸞には救うことはできません。 けれども、よいですか、「神は、神仏は、阿弥陀如来は、必ずあなた方を救ってくださるよ」と、親鸞は、泳ぎつつ人びとを励ましたのです。この教えに、何の誤りがありましょう。必ず救ってくださるはずです。人びとよ、その教えを信じなさい。私は、こう説いたのです。 私もまた、むずかしい教学を学びました。むずかしいことを言って、それで人びとが救われるものであるならば、私はそれも言いましょう。しかし、慈悲はそうではないのです。人びとは、何百万、何千万という人びとは、川のなかを、浮きつ沈みつして流れておったのです。今にも溺れかからんとして、息も絶えだえに、流れておったのです。そこで、親鸞は声をだし、「皆様、私はお助けはできませんが、きっと神、神仏は、阿弥陀如来は、皆様をお助けくださると思います。なぜなら、阿弥陀如来は、泳ぎの達人でいらっしゃるからです。ですから、そのお力も並はずれたものであります。きっと救ってくださるに違いありません」と説いたのです。 現に、阿弥陀如来は、人びとをお救いになられるからです。これが釈迦の慈悲でなくて、何でありましょう。もし釈迦が鎌倉の時代に生まれたならば、きっと私と同じ教えを説かれたでありましょう。浮きつ沈みつしている子供に、「お前が善人なら救ってやろう」と釈迦が言われたでしょうか。お前の通信簿がオール「5」であったら、救ってやろうと言ったでしょうか。日頃の学びにおいて、オール「5」を目指しなさい、品行方正な子供になりなさい、と教えるのは簡単です。それは、そのとおりです。学校でも、そう教えます。しかし、事態を見極めなさい。激流のなかで浮きつ沈みつしているときに、そんな道徳論を言っておれますか。まず、救うことです。それが先決です。 3.イエス様の救いの喩(たと)え話 親鸞 イエス様の教えにも、同じようなものがあります。これから話すのは、イエス様の教えのなかの喩(たと)え話です。 ある愚かな人が、道に倒れておりました。そこに、ある人が通りかかって、その者に語りかけました。そうするとその者は、「私は脇腹に傷があって、血がでています。歩けません」と、そう言いました。すると、そのある人は、「ああ、私の手には負えないな。そのうち向こうから医者がくるだろうから、その医者が救ってくれるであろう」と、見て見ぬふりをして、先へ行きました。 そこへまた、次の人が来ました。愚か者は、まだ血を流して苦しんでいます。次の人は、病んでいる者から、「助けてください」と言われたのですが、「いや、君は病院へ行けば治るよ」と言って、そのまま通り過ぎてしまいました。 三番目の人が来ました。三番目の人も、その病んでいる人を見ました。この人は、宗教家でありました。その人は尋ねました。 「あなたは、怪我をしているのですか」 「しています。血が流れています」 「あなたは、何教を勉強されていますか」 「私は異教徒です」 「あなたは、キリスト教に改宗しなければ教われません。まず教会に行って、キリスト教徒になりなさい。そうしたらお助けいたしましょう」 その宗教家は、そう言って、通り過ぎて行きました。異教徒は救ってはいけないと思っていたからです。そこに、たとえばイエス様が通りかかったとしましょう。イエス様はどうされるでありましょう。イエス様は、まず何も言わないで、すぐに傷の手当をされるはずです。その病の人を救おうとして、その病の者を担いで、次の宿まで、宿場まで運んで行かれるはずです。 そのような重病人に対しては、まず何を言うではなくて、命を救うことが先決なのです。血を流して苦しんでいる人に対しては、まずその傷の血を止めることが大事なのであります。そうではなくて、その人を救う専門家がいるだろうとか、あるいは、その人の教えが、考えが間違っているとか、そんなことを言ってはいけないのです。それは神の御意(みこころ)ではないのです。 よいですか、私の今の喩(たと)え話を、これはキリスト教で言われている喩え話でありますが、よく覚えてほしいのです。 4.釈尊(しゃくそん)の「毒矢の喩え」の教え 親鸞 鎌倉時代において、何教でなければ救われないと言っている人は、お前はクリスチャンでなければ、教会に登録しなければ救ってあげられないと言っている宗教家と同じなのです。そのようになってはいけません。どのようなものであっても、救われねばいけません。それが神の御意です。神様がでられたら、必ずお救いになります。その人の品行方正、そんなことは何も言いません。きっとそのはずです。 釈尊にもまた、同じ考えがあります。釈尊には、「毒矢の喩(たと)え」という教えがあります。 ある理論好きの人がおりました。その人が、釈迦に、問いかけました。「ここに毒矢に射たれた人がいる。そして、毒がまわって死にそうです。このとき、あなたはどうされますか」と。そこで、釈迦は、「まず、命をとり止めることが先決である」とそういうことを言いました。ところが、その理論家は、嘲笑(あざわら)って、こう言ったのです。 「あなたは間違っている。まず、その矢がどこから飛んできたのか、そして、何の毒が塗ってあるかがわからなければ治療はできないではありませんか。ですから、どこから飛んできて、何の毒が塗ってあるかを知ることが先決で、それからでなければ、救うことはできないはずです」 釈尊は、そのときに、言葉に窮したかのように黙しておられた。黙っておられたとのことです。 しかし、釈尊の真意は、そんなところにあったのではないのです。まず、生命をとり止めねばいけない。矢がどこから飛んできたか、毒が何であるか、そんなことはあとのことだ。まず、傷口をふさいで、包帯をして、命をとり止めることが大事だ。釈尊はそういうことを言ったのです。 これから、あなた方に対しても、いろいろな人がいろいろのことを言うでしょう。この矢の喩えのごとく、あなた方に「悟りとは何か」と言って、あなた方が高邁(こうまい)な理論で答えないのを嘲笑(あざわら)う人がいるでしょう。あるいは、あなた方が親鸞の説教を説いているならば、「浄土真宗のこういう本を読んでいるか」「こういう教義の本質を理解しているのか」と、こういうことを言う人がいるでしょう。 「親鸞は慈悲こそすべてだと言っています」と、あなた方が答えます。すると、理論家は嘲笑うでしょう。この彼は、仏教大学で、"浄土真宗"を専攻している人なのです。 「そんなものではない。親鸞の教えとは、そんなもんじゃない。親鸞は、こんなことを言っている。あんなことを言っている。歎異抄で唯円が書いているが、ここは親鸞の考えを理解していない」 このようなことを、彼は、ああでもない、こうでもないと言うでしょう。ただ、よいですか、本当は、人が救われればそれでよいのです。学問的に、その理論の正否ではないのです。毒矢のごとく、まず、毒矢に当たっている人を救わなければならないのです。その人が何の階層に属しているか、矢がどこから飛んできたか、どんな毒か、こんなことは、関係ないのです。 釈尊は、当時において、ある人から、「悟りとは何か」、あるいは、「宇宙とは何か」というような質問をされたことがあります。しかし、釈尊は、答えなかった。そこで、それを、後世の人たちは、釈尊は宇宙は何かがわからなかった、悟りとは何かが一言で言えなかった。だから、まだまだ勉強が未熟だったのだと、評したりしました。 しかし、それは、違っているのです。毒矢です。まず、命をとり止める必要があったのです。私たちの時代においても、毒矢に当たって苦しんでいる人がいっぱいいたのです。ところが、そのときに、矢がどこから飛んできたかがわからなければ人は救えないとか、毒の種類がわからなければ救えないとか言っている人がいっぱいいました。他の宗教家たちです。 矢がどこから飛んできたかがわからなければ救えないとは、どういうことか。これは、ある人が悩んでいても、その原因がどこにあるのかわからなければ、その人は救えない。あるいは、毒の種類がわからなければ救えない。まず、それを知ってから手当をしたらいいだろう、とこういうことを言っているのと同じです。矢が当たって、血が流れているなら、まず、止血(しけつ)をしなければいけない。血を止めるのです。腕に矢が当たったなら、矢が当たった腕の心臓に近いところの上を縛りあげて、止血し、そして、矢を抜かなければなりません。それが第一であります。 親鸞が教えとは、かくのごときものです。私は、矢がどこから飛んできたかは知りません。敵の矢か、味方の矢かどうかもぞんじません。その毒が何の毒か、ハブの毒か、あるいは、他の鉛の毒か、私は、そのようなことは知りません。ただ、矢に当たった人がそこにいるのであるならば、一秒でも早く止血し、手当をせねばならぬ。ただそれだけです。 親鸞が教え、親鸞が弥陀の本願、念仏と申したのも、ただ、矢が当たったら、まず応急処置をしなさいということです。その教えは、すべてではありません。まず応急処置をして、命をくい止める。それが先決です。そして、そのあとにおいて、さまざまな研究をすればよろしいでしょう。毒の性質を研究すればよいでしょう。そうした人もいるでしょう。それはそれでよろしい。 ですから、私が今から数百年前に説いた教えというのは、人びとに本当の信仰とは何かということを教えることでした。阿弥陀如来という神仏の偉大なる化身がおられて、日夜あなた方を救うために努力しておられるのですよ、と。そういうことを私は言いたかったのです。そのことを知りなさい。そのことを悟りなさい。それだけであなた方は、一命をとり止めることができるのです。 これは専門的な治療ではないかもしれません。しかし、あなた方は毒矢に当たって苦しんでいるのですから、まず命、これを救わねばなりません。それは、仏のおおいなる慈悲を知ることです。あなた方にとっても、そうです。現代人にとって、悩みの種はつきません。しかも、自分だけで解決しようとして、迷路に入っていってしまうのです。 5.自力論者は泳ぎの達人 親鸞 なぜあなた方は、この世界が、神仏のつくられた世界だということを理解しようとしないのですか。この三次元、すなわち、現象世界だけがすべての世界ではないのです。神仏はあなた方のすべてをしっかりと見ておられる。そうであるならば、なぜ彼らにおまかせしようとしないのですか。なぜ人間心で、いろいろとああでもない、こうでもないと出口を求めて狼狽(ろうばい)するのですか。なぜ神仏のご慈悲というものにおまかせしないのですか。 もちろん、自力で救われる人はおります。しかし、自力で救われるということは、もう信仰は必要ないのです。自力信仰であるならば、これは自分を信じるということであり、自己確信と同しであります。どんな難局があっても、自分で切り拓いていける人であるならば、そういう人はよろしい。そういう人は泳ぎの達人です。 泳ぎの達人は、いくら水泳の名選手が岸辺にいたとしても、その人に救われようとはしません。彼は自分で泳いで岸に上がって来れるのです。そうではありませんか。水泳の選手が、水泳の選手を助けはしないのです。泳げない人だからこそ助ける必要があるのです。自力論者は、すなわち、優れた人びとにとっては、まさにそのとおりでありましょう。優れた人びとは、神仏が手を下すまでもなく、自らを救っていくのです。そうした方がいることを親鸞は知っております。 彼らが自分自身で救えるならば、弥陀は力を発揮する必要はありません。自分自身のなかなる仏性を信じて、立ち直っていける方は、強い方であります。そうした方は、自分で救っていきなさい。弥陀もそれを喜ばれるでありましょう。けれども、自らが溺れている人には、それは無理であります。 あなたは、水を飲んで流されている子供に、自力で自らを救いなさいと言えますか。自力で泳いで岸まで来いと言えますか。それは一見正論であります。しかし、自力で岸まで泳げる人であるならば、助けなどいりません。そうでないからこそ、助けが必要なのです。 私が救おうと思った人びととは、庶民の方がた、迷える人びとです。迷える人びとだからこそ、救いの手を差しのべる必要があるのです。だからこそ神仏のお心を教える必要があったのです。神仏は溺れている子供に、沈めとは言っていないのです。助けようと思っておられるのです。ただ、間にあわなくて、助けられないままに沈んでしまう方もいます。 けれども、そのお心を疑ってはいけない。神仏は溺れているあなた方を救おうとしておられた。そのことだけは忘れてはいけない。順番に溺れる者を拾っていかれる間に、沈んでしまう人もいます。すなわち、これが地獄に堕ちる人です。だから、とりあえず地獄に堕ちた人もいます。弥陀のお力が及ばなかったとはいいかねますが、地獄に堕ちる人もいるでしょう。 しかし、そうした人たちを、必ず救ってくださるのです。水に沈んだ子を神仏は助け起こして、岸辺まで拾い上げて、水を吐かせ、人工呼吸をしてでも救おうとされるのです。沈む前に救いたいのはやまやまです。しかし、沈む前に救えないこともあります。そのようなときには、沈んで、顔が土色になっている子供であっても、神仏というものは、水を吐かせ、人工呼吸をし、心臓のマッサージをして、お救いになろうとしておられるのです。 このおおいなる慈悲に気がつきなさいと、私は、これを教えたのです。私は、この教えに間違いはないと思います。自力の人は自分で救っていきなさい。それはそれでけっこうです。 私たちのような煩悩多き迷える衆生(しゅじょう)は、水を飲みながら泳いでいる衆生は、それで救えないからこそ、神仏にすがっておるのです。ですからあなたも、あなたの足にまとわりついてくる幼児を足蹴にはできないはずです。親もまた、同じです。 私が衆生に教えたのは、神仏は父であり、母であるということです。ですから、その足に縋(すが)りつきなさい。ひとえに縋りつきなさい。そう訓(おし)えたのです。あなたは、あなたの可愛い子が足に縋りついたとして、それを蹴飛ばせますか。両手で抱き起こすでしょう。人間は、神仏がつくられた子供なのです。神仏の分けみ魂(たま)なのです。なぜそのようにつれなく突き放しましょうや。 その子のお行儀がいいから、その子の這(は)い方がいいから、その顔つきがいいから、抱き上げる。あるいは、その子の顔つきが悪ければ、蹴飛ばす。そのようなことを神仏がなされるはずがありません。平等の"愛"というものを信ずること、これが信仰の根本なのです。 これを邪説という人もおりましょう。それならば邪説といっていただいてけっこうです。その方は、信仰の何たるかを知らない人であります。また、神の御意(みこころ)を知らない方です。その御意がどれだけ大きいか。それは、大人と子供以上の差があるのです。この世界をおつくりになり、この世界に生きとし生けるものをすべて送り込んだ方なのです。そのような偉大な方であるならば、助けを求めれば救ってくださるのは当然であります。それを単純だと言い、それを仏説を知らないというのならば、それでもけっこうです。 しかし、それを知らないで、知識をいくら学んでも意味がありません。信仰とは、弱き者を救うことです。強き人は、自ら救っていきなさい。自ら自分を救っていける人は、自らが教祖のような人です。自分教で自分を救えるのですから、そういう人は、自分を救っていきなさい。それでけっこうです。私の教えに何か疑問があれば、質問を続けてください。
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた 15.仏法者の肉食妻帯(にくじきさいたい)是非論について ―― 非常に深遠なるお教えを、現代の世相、世情にまで敷衍(ふえん)してお説きいただきまして、ありがとうございました。現代の信仰者、あるいは、宗教者としても、また、真宗の僧侶学者の方たちであっても、今日の親鸞聖人がこのような人間の「善悪」論にもとづく信仰の真髄をお説きくださるとは、おそらく夢にも思っていなかったことだろうと思います。大いなる啓発であったとぞんじます。 ほかにおたずねしたいことも一、二ございます。これは、今では法の根幹に触れる問題ではありませんが……、当時においては、僧侶の肉食妻帯(にくじきさいたい)ということは、異形(いぎょう)なことであっただろうと思われますが、聖人様以来、真宗はもとより、他宗の憎まで、この"肉食妻帯"を否定はしなくなり、現今にいたっております。しかし、この肉食妻帯を「是」となさった当時の聖人様のお心のうちは、如何なるものがあったのでしょうか。その辺のご事情について、おうかがいいたします。 親鸞 この「肉食妻帯」に関しては、さまざまな議論がありました。こちらの世界、あの世においてもまた、議論が多かったのであります。 私もこちらに還って来てから、さまざまな宗教家たちから、ずいぶんとつめよられました。「親鸞よ、お前がために日本の仏法は滅びた」と。私は、ずいぶんたくさんの方から、このように言われました。私の時代以降、人間はほしいままにしても、仏のみうちに仕えることができるのだという、そういう考えを持つ人が、宗派を越えて増えてきました。肉食妻帯しているのは、決して真宗だけではございません。親鸞以降、他の宗派の方がたも、そうなったのです。そういうことにおいて、他宗を興した方がたからは、私は、ずいぶん批判を受けました。「お前の教えを信ずる者だけが肉食妻帯するのは、けっこうである。けれども、われらが教えを信ずる者までが、お前の真似をし、肉食妻帯をしておるではないか。そのおかげで、われらの教えが、だんだんと衰えてきたではないか」と。こうしたことを、私はずいぶんこちらで言われました。確かに、当たっていることもたくさんございますでしょう。 親鸞は、自らが重病人であり、重罪人でありましたから、自らがどうすれば救われるのかを、一生懸命考えており、また自らの罪のなかを生きておりました。世においては、要するに私は失敗者であったわけです。大失敗者であった。ですから、私は大失敗者の道を説いたのであります。大失敗者においても、逆転をする道、逆境を跳ね返す道があるということを説いたのが、私の教えでありました。それを間違えて、世に成功すべき人たちが失敗者の真似をし始めたら、これは世の中、困ってしまいます。こういうことを、ずいぶん言われました。 私は失敗者です。私は成功者だとは思っていません。失敗者である私が、神仏に近づく道を説いたのです。それを、成功しようとしている人が間違えてしまっているわけです。私は肉食をしました。妻帯をしました。ですから、私は人一倍罪深い人間だと思って、神仏への、「阿弥陀」への信仰をいっそう深めたのであります。これは、私にとって、一つの契機でありました。 しかし、単に肉食をし、妻帯をしただけで終わっていたならば、私はどっちへ行っているかわかりません。私はそれを契機として、神仏の信仰を深めたのです。世の中に、現われたさまざまなこと、さまざまな現象、さまざまな事件があります。ただ、それをどう咀嚼(そしゃく)し、どう自分の血肉にして、よき方向へ伸ばしていくかであります。修行者が単に肉欲に耽(ふけ)り、食道楽に耽っていくだけであれば、これらのものが行くのは地獄そのものであります。 親鸞は、堕落せよと言っているのではないのです。たとえ堕落した自分であっても、神仏を信じて立ち直りなさいと教えているのです。堕落せよとは言っていません。堕落を奨(すす)めているのではありません。そういう方がたは、自ら救いにくい急流に身を投じて、「では、救ってみろ」と言っている人と同じであります。これは何かと言うと、結局は、神仏を試しているのと同じです。悪魔の声と同じです。 悪魔がイエス・キリストの前に現われて、「汝、もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」「汝もし神の子であるならば、聖書にあるように、この丘の頂より飛び下りるとも死すことあるまじき」――このようなことを、悪魔はイエスに囁(ささや)きました。イエスはこのときに言いました。「汝の主なる神を試すなかれと、また聖書には書いてある」とイエスはそう答えたはずです。 同じであります。悪人だからといって悪を犯す人、堕落しても救われる道があるからといって、自ら堕落の道を選ぶ人、こうした人びとは、「石をパンに変えよ」と言った悪魔と同じであります。また、「神を試すなかれ」という訓(おし)えも忘れてはなりません。 ですから、今、宗教家のなかで堕落している者がいたならば、親鸞が教えを間違って理解して、堕落の奨めのように思っているかどうかを反省していただきたい。堕落、すなわち成仏と、私は言っているのではないのです。それはまた、神仏を試しているということになってしまいます。そのような騙(だま)しにのってはいけない。神仏は石をパンに変える力を持っているか――持っております。それだけの力は持っております。ならば、神仏はすべての石をパンにするか――これはしません。神仏は、必要のないことはしないからです。また、人間心で試してはいけないのです。それもまた、"バベルの塔"であります。神を侵さんとする考えであります。 一般的なことを申しましょう。肉食を断てば、地獄に堕ちるわけではありません。妻帯をしたとて、地獄に堕ちるわけではありません。それは確かなことです。ただ、欲をどうとらえるかということです。釈迦の時代にも、肉食はなるべく避けました。また、妻帯が、やはり妨げになるということは、釈迦も知っておりました。しかし、釈迦がやったことをそのまま真似てはいけないのです。そこには、やむを得ずしたことと、好んでしたこととの違いがあるのです。 釈尊たちが肉食をしなかった理由は、肉食をしていると煩悩(ぼんのう)がつのるからであります。肉食をすると、煩悩の働きが強くなる。しかし、なるべくこれを遠避けて、菜食にしたならば、体の活動がそう活発にならずに、瞑想に適した生活が送れる。このような一つの知恵として、肉食を断ったのです。ですから、肉食をすれば地獄に堕ちるとか、肉食をすれば悟れないとかいうことではないのです。それは一つの方法論であったわけです。肉食をしても、悟れる人はいくらでもいるのです。肉食をしても、けっこうです。それだけ厳しい修行をすればよろしいのです。 また、妻帯にしても同じです。夫婦相和して、信仰心があって、同じ神の道を求めるならば、妻帯することはいっそう信仰を強めることになります。今の世の中を見ていても、夫婦ともに同じ信仰を持って道に励んでいる人たちは、私たちの眼から見ていても、これは微笑(ほほえ)ましいものです。夫婦相和して神社で掌を合わしている姿、夫婦相和して一つの宗教を信じて一緒に努力している姿、夫婦相和して土曜日、日曜日にさまざまな人を導いている姿。こういう姿を見ていると、私たちは、非常に微笑ましく思います。雄の鳩と、雌の鳩が一緒に空を翔んだほうが美しく見えます。神様、仏様というのは、決してそういうことを否定はしていないのです。 ただ、これは一般的な手段であり、警告でもあったのです。肉を食べると煩悩がつのるので、なるべく避けたほうがいい、避けたほうがよいであろうということなのです。あるいは、妻を持つとなかなか修行がしにくいから、なるべく持たないほうがいいだろうということです。修行のなかには、"瞑想"があります。あるいは一人だけで、"坐禅"に耽ることもありましょう。神と対話するということは、やはり一人になるという必要があります。ところが、家庭を持つと、どうしても世俗のなかに紛れるという機会がある。しかも、理解のない人を妻とすると、それはまた、その道の非常な妨げとなります。しかし、理解をする人が妻であるならば、それはけっこうです。 妻帯のもう一つの問題点は、経済的な問題であります。男はいつの時代でも、やはり経済的な柱になるように期待をされております。そのときに、経済的な柱になる人が、神仏の道に走ると、神仏の道にはなかなか金銭的余裕というものがありませんから、その部分がむずかしくなる。結局、家庭不和になり、両方ともがどっちつかずになることが多いということもあるからです。 神仏の道を求めても、金銭的、経済的に苦労されない方は、恵まれた方でありますが、実際上は、むずかしい。このように、一般的に理解のない人が多く、理解のない妻が多いであろうということです。あるいは、夫がそれに走ると経済生活がうまくいかないであろうということです。こうぃうことを考えて、まあ、妻帯をしないほうが悟りはしやすいし、修行はしやすい。自由に働ける、と。こういうことがあったわけです。ただこれも、協力をしあっていけば、さらに素晴らしいものができることは当然です。肉食と同様です。 逆に、今の時代に菜食ばかりしていたら、全国各地を、巡錫(じゅんしゃく)して廻るのはむずかしいぐらいです。エネルギーがいるのです。豆腐と胡麻の油ばっかりを食べていたのでは、人間は活力がでてきません。それはあくまでも現象なのですから、それにとらわれてはいけないのです。そのほうが、ときには、悟りやすかったということにすぎません。現実にも、僧侶で悪妻を貰って、堕落した人はいます。あるいは、食べたいものをいっぱい食べて、全然努力をしない人もいます。 けれどもね、そういうことは、別に仏教の世界でなくても、仏の世界でなくても、普通のところにもあるはずです。普通の事務所でも、事業家でも、他の道を行く人でもそうです。結婚したために苦しいというのはね、音楽家だってそうです。音楽家とか画家とか、こういう道を求めている人たちは、結婚することによって、さまざまな問題がでてきます。しかし、それは何でも同じです。学問をする人もそうです。学者でもそうですね。独身時代には、貧乏であっても、本だけ買っていればよかった。ところが、結婚したばっかりに、さまざまな費用がいるようになって、そのため、本が十分に買えなくなる。だから、独身でいたほうがいい、と。こう考える学者もいます。まあ、そうしたものです。 ただ、これは、あまり一般的なことではありません。ですから、現代の人びとに言うならば、まあ、こういう時代ですから、結婚したほうがいいと私は思います。しかし、そうしなくてもいける方であるならば、神仏の道一筋でいったほうがいい。とはいえ、現実には誘惑も多い。実際、男と女が三十にも四十にもなって、いつまでも独身でいれば、誘惑も多いし、逆に、それが堕落の契機になるでしょう。また、世間のいろんな声が聞こえてきて、修行の妨げになることもあるでしょう。ですから、好ましい方法は、同じ道を求める者同士が結婚して、一緒に生活するということです。 そのためには、あなた方がしっかり努力することが大切です。「信仰を持つということは、普通の人間がすることなんですよ」「まっとうな人間が神や仏を信じていいのですよ」――ということを、あなた方がしっかり言うべきなのです。神仏の道を信ずるのは特殊な人間ばかりのような印象を与えているから、苦しいのです。これは普通の人、だれでもあたりまえのことなのです。そういうことを、あなた方が、しっかりと説いていただきたい。そうすれば、同じ道に入っていく人びとが多くなるでしょう。こういう宗教というものを、神や仏のことを悟るのが常識だとするような、そうぃう世の中を、頑張って早くつくってあげてください。馬鹿な科学主義ばかりが蔓延(まんえん)して、人びとを狂わしておるのです。そのような狂った人が多いから、本当の道を行く人が、間違った方向へ行ってしまうのです。 16.「他力本願(たりきほんがん)」の本当の意味 ―― 現代でも、「真宗」の方たちは、親鸞聖人のお教えの根幹にあるものは、"他力本願"の教えであるとしております。この"他力本願"ということについては、如何でしょうか。私は、この他力とは、自力に対する相対的な認識であるのか、それとも、この「他力」とは、自力、他力を超えた根源なるものの「絶対力」に帰依(きえ)するということを「本願」とみたてまつることが本来ではなかろうかと思うのでありますが……。 親鸞 これはね、時代によるものです。たとえば、私たちの鎌倉時代には、この世的には、あなた方が、今計画しているような「仏国土」をつくれるような状態ではなかった。ですから、この世に生きている人びとにあの世があるのだということをまず悟らして、そのことを悟った上で生きていく心がまえを説いたのです。この世に仏国土をつくるのはもうむずかしい、そういう末法の時代だった。したがって、せめてあの世で成仏してもらえるようにと、その心がまえを説いたわけです。 そこで、この世的なことを否定して、あの世的なものへと、他力へとなったわけです。ところが、現代のような時代では、あなた方の使命は、この地上に仏国土をつくることです。そうであるならば、この世を一途に否定して、あの世のことばかり言っているだけではいけません。この世も、あの世も、両方ともによくなっていかなければならないのです。ですから、この世をよくしていくためには、もちろん、各人の努力もいるでありましょう。 ―― つまり、時代背景、環境というものを考えなければいけないということですね。 親鸞 他力といっても、自力を排斥するものではありません。さきほども、私は言ったはずです。自ら泳いで岸まで渡っていける人は、それはそれで素晴らしい方です。それを批判するつもりはございません。自ら泳いでいける人と、救ってもらう人とがいて、みな岸辺に上がってくることができるのです。 岸辺に上がる、すなわち救われるとは、昔においては、あの世に成仏するということでした。浄土に入るということであったのですが、今の時代では、この世もまた、よくしていくという時代であるということです。 ―― 川の深みの急流へ、だれでもかれでもが入っても、"弥陀(みだ)"が救ってくださるのだから大丈夫だというふうに他力の教えを誤解してはならないというお諭(さと)しであったと思います。 また、これは、"神"を試そうとすることになるのと同じだと、イエス様のお訓(おし)えを通してお説きになられました。このように、ただ単に言葉だけにとらわれてはならないのだということでございましたね。 親鸞 そうです。キリスト教でたとえれば、アーメンと言えば救われるというわけではありません。ただ、アーメンのなかには、深いものがあるということです。神に帰依(きえ)するという深い気持ちがあります。他力なしの宗教はないのです。 すなわち、宗教とは、結局、死後の世界のことを教える学問だからです。死後のことを言わない宗教がありますか。死後のことを言わないのだったら、それは宗教ではないはずです。 それは、宗教ではなくて、そういう"道学"ですね、道学になってしまいます。 "処生訓"です。私たちが言っているのは、処生訓ではないのです。「宗教」でないものとの違いは、あの世の話があるか、ないかです。 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた ―― いろいろのお教えをありがとうございました。これは、親鸞聖人のお教えの本義を、現代人が現代的に解釈できる貴重なお説であったと、このように思います。 現代において、浄土真宗の方がた、あるいはまた、親鸞聖人をお慕いしている方がたが、親鸞聖人の"真宗"の教えというものを本当に理解できるということをわからせていただいたということは、おそらく今回のご霊訓をもって最初となったであろうとぞんじます。 親鸞 ですから、私は、現代の人に『南無阿弥陀仏』を唱えなさいとは言いません。ただ神仏の大いなる慈悲、力というものを忘れるなということです。科学万能に陥ってはいけない。神仏の力、大いなる慈悲というものを忘れてはいけないよ。それほど自分を過信してはいけないよ、と。私は、そう言いたいのです。 親鸞より前に、過去世において、私は、イエスの弟子のパウロとして生まれたことがございます。そのときにも、私はそれを説きました。「人びとよ、増長慢(ぞうちょうまん)になるな。自分の力でこの世的なことをやっていけると思うな。神の力は偉大なものなのだ。もっと信仰しなさい」と。 私は、いつの時代に生まれても、信仰の大切さ、信じるということの大切さを教えているのです。信じるということなくしては、あの世のことはわからないのです。私は、「阿弥陀如来」がだれであるとか、そうしたことを言うつもりはありません。ただ、神仏はあり、神仏の側近き高級霊はあるのだということ、これを信じなさいと言いたいのです。 科学的に解明できるまでは、信じないとかいうのは、間違っています。これは証明できることではないのです。学問ではないのです。あの世のことは、手に取るようにはわかりません。だからこそ、信じること、信仰ということが大事なのです。私たちが言っていることを、どうか信じていただきたい。 パウロとして生まれたときに、私は、「贖罪説(しょくざいせつ)」を言いました。すなわち、イエスの死によって人びとの罪は贖(あがなわ)れたのだと、そう言いました。しかし、これも、私の「悪人正機説」と同じように、のちの世にいろいろと誤解をされておるようです。私がパウロとして生まれていたときに言った贖罪説もやはり同じです。つまり、イエスという偉大な方がでて、神の力というものをお示しになったのである。こういうお示しになったということを、信じることによって、人間は救われていくんだ。信仰が大事です、と。結局、親鸞は、同じことを言っておるわけです。 私の言ったのは、要するに釈尊の慈悲の意味を、また、当時の鎌倉的なるものを、現代的に説明したということなのです。今の時代でいうならばどうなるか。それを、あなた方は、今、担(にな)っているのです。 あなた方は、釈尊が説いた慈悲を、今説くとするならば、あの世の世界の神秘、その仕組みがあるために、この世がこのようになっているのだということを、しっかりと人びとに説く必要がありましょう。 ―― 本日は長時間にわたり、ご高説を賜り、ありがとうございました。――合掌
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた 6.罪と罰について ―― 当時の社会情勢は、察するに余りあるものであったと思います。したがいまして、今、お話いただきましたような、真の悟りには達しないというようなことをお説きになられた方たちもおられましたでしょう。 確かに、現在の時代から考えましても、聖道門(しょうどうもん)をくぐられた方たちは、それだけの教義を理解するだけの知力があり、また、その知力、学問を身につけるだけの家柄でもあり、さらには、財力にも恵まれた商人、あるいは、武士階級、貴族など、いわゆる上流社会の方たちであったと思います。 しかし、当時のあの世で、さきほど聖人様もおっしゃいましたように、社会の大半の人は、文盲の農奴のような貧民であって、にべもなしに飢え、ゆえもなく殺されていきました。この多くの無力な人びとが、どうしてあの高度な学問、聖道門の教学を理解し得たでしょうか。そして、それを自己の悟りとし、成仏できたであろうか。と考えるときに、親鸞聖人様のあの『南無阿弥陀仏』の念仏唱名によって救われるというお教えに、庶民はおそらく随喜(ずいき)の涙を流して死んでいったであろうと思うのです。 翻(ひるがえ)りまして、現世にこれを考えますと、まあ社会情勢もいろいろ変わってはおりますけれども、ここで一つ考えられることがあります。つまり、現在のいろんな社会悪のなかで、自らの意思に反し、その社会悪に染まらざるを得なくなって染まってしまう。極度な悪となっては、人殺しまでもしてしまわなければならないような苦境に堕ちて、ついには、罪を犯してしまう。したがいまして、こういう人は、司直の裁きに遇(あ)って、現在、牢獄に繋(つな)がれているのであります。こういう人のなかには、やがて死刑の宣告が下される人もおるでしょう。 しかし、救いというものについては、現在、仏教の僧侶、あるいは、キリスト教の牧師が受け持っている教誨師(きょうかいし)という方がおりますが、こういう方たちが、死刑の刑期を前にした人たちのために、神仏の助け、救いというものを説いておられるようでございます。 それによって、その死刑囚の人が、活然と悟りを拓いて、今までの自分の犯した罪に対する懺悔(ざんげ)と、これから先の救いというものを神仏の慈悲にすがり、あるいは、天国浄土への往生を信じ、しかるのち、従容(しょうよう)として絞首台へ登っていくことができたというような、いろいろな事例を聴いております。そこに、魂の救い、神仏のおおいなる慈悲というものを感じるわけでございます。こういう人たちにあっては、もはやこの世の法、つまり、法律的にはどうにも救いようのないものでありますけれども、それでも仏の救いの掌(て)というものが残されているということをありがたいと思うのであります。 とはいえ、これは臨終にあたっての、この時点での、この人たちへの救いの掌であろうと思います。ただ思われることは、この事態に至るまでに、つまり、日常においてこれまでに至る間の、いろんな悩み苦しみというものに対する訓え、救いというものはないものかということであります。 これが言うなれば、宗教者の課題であろうと思うのですが、この人間生活の複雑化した現代社会においては、親鸞様がご存世になられたときはまた違う、いわゆるいろんな現代病というのがここにあるわけですが、どのようにお考えでございましょうか。聖人様は現代の衆生の悩みに対する救いというものは、当時のお教えによることがもっとも適切なお教えだとお思いになりましょうか。 親鸞 まず、言っておかなければいけないことがあります。それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、わからないということなのです。もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。これは、神仏のみが知っておられることなのです。 ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。 あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。 しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、すでに罰せられているのです。その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。 その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。これは悪を重ねているようなものであります。すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。生きている人間としては、仏性(ぶっしょう)の最悪のところまできているのです。仏性が最悪のところまできているのです。仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。 殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。そう思うということだけでも、もう罰せられています。その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖(あがな)われているのです。それだけ苦しんだ魂です。よくぞそこまで、苦しんだ。それを赦(ゆる)さないで、責め続けるのは間違っています。魂が苦しんでいるのです。 あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。 また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。私は、職業が悪いとは言いません。ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らのなかに、悪はないのでしょうか。彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。しかし、情心(なさけごころ)をもって接したでありましょうか。 人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。人間、人を裁くことはできないのです。すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。 外見を善人ぶることは、だれでもできます。いや、だれでもではないでしょう。しかし、できる人もいます。外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。 「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」とキリスト、イエス・キリストは言いました。キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、裁ける人は一人でもおりますか。あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 親鸞 私の悪人正概説は、一見奇異に聞こえるでしょう。悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。 それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、すでにもう罰せられているのです。すでに魂は苦しんでいるのです。あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。 ところが、世の善人たちはどうでしょうか。自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とかさまざまなものを知って、こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。 それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、反省していただきたい。悪は、きっとあるはずです。心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。わからないからこそ、責めるのです、人を。 よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえている人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」と言えるはずです。そのときに、裁きができるでしょうか。善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。しかし、出世をしていく途次(とじ)において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。本人も偉い人だと思っています。 しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷(させん)してきたことでしょうか。平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。金銭的にも不自由かもしれません。しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切ったり、人を左遷したりしたことはないはずです。つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。ところが、社長と仰(あお)がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由(わけ) 親鸞 親鸞が善人、悪人は、今の世で言えば、成功者と、そうでない者であります。こう言えば、あなた方にもわかるでありましょう。 神は失敗した人と成功した人とでは、どちらを救ってくださるでしょうか。自分の人生は失敗をしたと思っている人、一生平社員で終わった人、会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらもその芽を伸ばせずして苦しんでいる人、あるいは、能力を持ちながらも家庭環境、病、事故など、さまざまな問題が起きて、その才能を発揮できなかった人。あるいはまた、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、才能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、プロの選手として活躍する機会を失う。こうしたこともあるのです。 神は一体どちらをいとおしいと思われるでしょうか。仏はどちらを救いたいと思われるでしょうか。答えはわかっています。すなわち、世の失敗者こそ、神仏が、両手にとって抱きしめたいと思っている人びとなのです。 悪人もまた、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。成功した人ではありません。成功した人びとは、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。「俺はこうして社長になった」と。しかし、社長になったときに、どれだけの悪を含んでいるかです。その人は、それをおそらく生涯反省することはないでありましょう。そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は何とつまらない人生であったことかと思う。一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思ってその人生を閉じるのです。 しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。イエスが言ったとおりです。すなわち、イエスは、「己れを低くするものは、高くされ、己れを高くするものは、低くされる――」と言いました。そのとおりなのです。自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、本当に神の愛を受けるにたる人間になるのです。自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を秀れた人、立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、この世を去ったときに、反省すべきことが多いはずです。 失敗者は、この世において、すでに反省をしておるのです。この世において、なぜ自分は失敗をしたのかということを、日夜考えているのです。しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。そして、あの世に還って初めて、反省を始めるのです。 世に総理大臣とかいわれる人びとも、そうです。歴代の総理大臣のなかには、今、地獄で呻吟(しんぎん)している者もおります。しかし、彼らには、その理由がわかりません。俺は、世のなかで登りつめた人間だ。日本で一番偉かった、一番の成功者だ。その俺が、なぜ地獄にいるのかと考える。すなわち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知ることが少なかったからです。しかし、この世で自らの失敗を見つめた人は、あの世で自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で自らの失敗を、心の世界における失敗を知る必要があるのです。それがわかるまでは、反省を続けねばならんのです。 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 親鸞 ですから、善人悪人とは、現代でいえば、成功者と失敗者です。私がもし、現代に生まれたら言うでしょう。失敗した方がたよ、人生に失敗した方がたよ、あなた方のために、神仏の慈悲はあるのです、と。成功した方がたよ、驕(おご)るなかれ、あなた方は、本当の成功者かどうかはいまだわかりませぬぞ。あの世に還ってみないとわかりませぬぞ。あなた方の成功のかげに、一体どれだけの悪があったか、一体どれだけの人が涙を流したか。それを知っていますか。私は、そう言いたいのです。 人間心で、どう生きることが神の御意(みこころ)に適(かな)うかをわかる人は立派です。その方は神の心に適った生き方をしてください。ただ、この世の人間には、何か神の意に適ったかはわからないのです。わからないのであるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。自らを成功者とするのではなくて、神仏の前に、謙虚な自分であろうではありませんか。 人を裁くような人間にならないようにしようではありませんか。人を裁くような人間とは、何でしょうか、それは、善人です。善人が、人を裁くのです。悪人は、人を裁けません。裁かれる立場です。善人が、人を裁きます。 言葉を換えましょう。成功者が失敗者を裁くのです。人生の成功者が、人生の敗残者を裁くのです。登りつめた人が、落零(おちこぼ)れた人を裁くのです。合格した人が、不合格の人を裁くのです。そうではありませんか。 しかし、私たちは、裁くような人間にはなりたくないものです。裁きには驕(おご)りがあります。神仏の心を分からない人間であるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。失敗者であってもよいではありませんか。成功者であることを祈るよりも、願うよりも、失敗者として自らの罪、自らの失敗、自らの弱さを徹底的にみつめて、どうしようもない自分であるならば、「神仏」のおおいなる慈悲に、任そうではありませんか。お願いしようではありませんか。 生きているうちに、このことに気がついた人は、死んでから気づく人よりも、私は素晴らしいと思います。その意味においては、"悪人"こそ救われるのです。善人ではなくて、"失敗者"こそ救われるのです。よいですか、成功者ではなくて、失敗者こそ救われるのです。イエスが、「金持ちが、金持ちの天国に入るは、駱駝(らくだ)が針の孔(あな)を通るよりもむずかしい」と言ったのは、このことです。そして、私が言った。「善人が救われるよりも、悪人のほうが救われる」とは、イエスが言ったことを別の言葉で表したものです。 成功者が救われるのは、駱駝が針の孔を通るよりもむずかしいのです。成功者であって、しかも、その成功が神の御意(みこころ)にあった成功であるならば、それは素晴らしいものです。神仏の意を体現して、この世に地上天国をつくって、そして、成功された方は、素晴らしいです。おそらくは、悪人たちよりも素晴らしい方でしょう。ですから、あの世へ行っても、偉くなられるでしょう。 しかし、神仏の御意に適った成功が少ないのであるならば、失敗者であることを恥じないで、堂々と胸を張りましょう。そして、そのぶんだけ、神仏をより多く信じましょう。神と人間では、比較にならないのです。相撲(すもう)する相手ではないのです。神は、人間よりも、はるかに偉大なる力を持っておられるのです。そのおおいなる力の前に謙虚に平伏(ひれふ)すことです。これが大事なことです。私の話で、わからないところがあれば、ご質問ください。 ―― 今まで聖人様が諄々(じゅんじゅん)とお説きくださったことは、あなた様のご法のなかで根幹となるもの、すなわち、「悪人正機説」についてであったと思います。しかも、"悪人"とは何か、また、"善人"とは何かということについて、往時の社会においての理解の仕方、あるいは、釈迦、イエス様の説かれた喩えなども加えての本義をしてくださいました。さらに、現代社会における認識、理解の仕方については、"失敗者"と"成功者"、"弱者"と"強者"の立場、"理"についてお諭(さと)しくださり、ありがとうございました。 "悪人"、今日的な悪人である"弱者"には、救いはないのかといえば、実は、反省という言葉のなかに、弱者にこそ神仏の救い、慈悲があるのだというお教えでございまして、私自身も、常に迷いと、悩みを持つ弱者の一人でもありますもので、わが身にもあてはめて、身につまされる思いでございました。そこで、私が、今一つ考えますのは、昔の衆生、今の大衆庶民が、この世の生を終えるまで、"悪人"、つまり、"弱者"であっていいものか、人間は常に"弱者"で"罪人"であるという意識を持ち続ける、これが、「神仏」の御本意にかなったものなのかということです。また、さきほどの例にもでました死刑囚が、死期が近づくにつれて教誨師(きょうかいし)より神仏の救いの、慈悲の話を聴いて悟り、死んで行くという場合に、この罪人は、はたして地獄に堕ちるのか、極楽浄土に迎えられるのか。これらのことが、まださだかにわかりかねていますが、これは如何なるものでしょうか。 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 親鸞 わかりました。お話ししましょう。私は最初に、「毒矢の喩え」をお話ししました。親鸞が教えは、毒矢に当たったら、まず、命をとりとめるために応急処置をしなさい、と。それからあとのむずかしいことは、専門家がおるでしょう。こういうことを、私は申し上げました。私の教えは、まさに応急処置であります。 私は善人や悪人ということを言いました。悪人は自ら悪人であるということを知っているからこそ、神仏に近い距離にあるのです。おわかりになりますか。生きているときに、自らの悪を見つめて、反省する機会があるからこそ、神仏に近いところにいるのです。善人は、自らの善に驕(おご)って、神仏を考えないからこそ、神仏から遠いところにあるのです。成功者というものは、ある意味では、唯物的なのです。"自力"というのはね、素晴らしいのですが、自力は、ある意味においては、神仏を否定することになっているのです。 しかし、神仏のお力によって自らが成功したと言っている経営者は、立派な方です。松下幸之助氏のように、「私が成功したのは、九〇パーセントまでが運でありました」と言っている方は、本当のことを知っている方です。自分自身の力で成功したのではない。神仏や、高級霊たちの力によって、今日の彼の成功はあった。それを彼は知っていて、自らの成功は、九〇パーセントが運であったと言っております。彼こそは、名経営者です。こういう人は、地獄へ行くわけはありません。 ところが、たいていの成功者は、そうは思わないのです。自らが成功したのは、自分が努力をしたからだ。言葉を換えて言うならば、自分が秀れていたから、成功したのだ。世の他の人びとが成功しなかったのは、要するに、努力がたりなかったか、秀れていなかったからだ。人間として劣っていたからなのだ。こう思うのであります。しかし、こういう人たちは、「天国」には遠いのであります。天国の心から遠いのです。自らを高しとするもの、自らをしてこの三次元において巨人だと思っている人は、あの世では一番小さな人となるのです。 11.マイナスの人間は零(ぜろ)になっただけで幸せだ 親鸞 ところが、世の失敗者たちは、自らの失敗というものをしっかりと考え、受け止めています。弱さを知っています。自分の弱さを、無力さを知っています。この点において、反省、要するに反省への"契機"があるということです。また、神仏を知る契機があるということです。この契機があるということにおいて、神仏に近いところにいるのです。世の失敗者たち、世に失敗を続ける人であるからこそ、神仏への道というのがあるのではないですか。 病気というものを、たとえば"悪"としましょう。そして、いつも健康でいる人を"善"としましょうか。健康でいる人は、自分が生かされているということがなかなかわからないのです。体が強いだけでね、体が強いということで、感謝を忘れています。当然だと思っています。体が健康なのは、当然だと思うからこそ、感謝の気持ちがありません。ご両親のおかげ、あるいは、あの世の人たちのおかげで健康なのです。それを忘れています。 ところが、病人というものは、そうではありません。病人というのは、健康の大切さというのをよく知っています。健康がどれだけありがたいか、それが幸せの基礎であるかということを知っています。それだけ、こういう人たちは魂の修行をしているのです。感謝をするチャンスがあるのです。ですから、健康になっただけで、こういう人たちは幸せなのです。いわば、マイナスからの出発です。 世にプラスの人間とマイナスの人間がいるかもしれません。プラスの人間は、自分を驕(おご)っているでしょう。けれども、マイナスの人間は思うでしょう。零になっただけで、幸せなんですよ、と。実際、マイナスの人間は、零になっただけでも幸せなのです。そして、そう感じている。 そこで、これで幸せを感じる人と、プラスをいくらかでも積まないと幸せを感じない人と、どちらが本当に幸せに近いかです。ですから、私が「毒矢の喩え」で言ったように、まず、命をとり止めることです。つまり、そういう止血(しけつ)という行為、これは一つの手当の最初であり、きっかけとなるからです。 12.悪人が救われな理由(わけ) 親鸞 あなたは、「悪人が本当に成仏しているか」とおっしゃいました。成仏している場合も、していない場合もあります。それは当然です。ただ悪人であるということにおいて、神仏の心を知る契機を持っています。そのきっかけを持っています。きっかけを持つとは、すなわち、神仏に近いということです。自分を驕(おご)っている善人よりは、そのきっかけがあるだけ、神仏に近い。 病気の人よりも、神仏を知る近道があるのです。だれもが、病気をして、神や仏のことを考えるのではありません。健康で、何もかもうまくいっているときには、何も考えないはずです。ところが、病を得て初めて、宗教というものを知ることができるのではないですか。医者に見放されて初めて、宗教というものを勉強し始めるのではないですか。 つまり、悪のなかに、神仏への近道、契機があるということです。ただ、この契機、きっかけを生かし得る人と、そうでない人がいるでしょう。ですから、結局、その後の人生、あるいは死後の人生は、そのきっかけを十分に生かし得たかどうかです。それによって、変わってきます。 "毒矢"が当たっても、止血することはできます。ただし、止血のままで放っておいたのではよくありません。手当が必要です。看護が大事です。あとのことが大事なのです。ですから、腕を縛っておくだけではいけないのです。さらに先のことが大事なのです。 すなわち、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」とは、正しく救われるきっかけであるということです。きっかけだということ、すなわち、きっかけを授(さずか)っているだけ悪人は、天国に近いのだということです。死後、あの世できっかけが与えられるよりも、生きているこの世において、きっかけが与えられている。この世に失敗することにおいて、初めて、神仏を知るチャンスがある。これは、"失敗礼讃"ではありません。"病気礼讃"ではありません。そういうことと間違っていただいては困ります。 ただ、矢敗者のなかには、神仏に目覚めるチャンスがあるということです。一部の優れた人たちを、私は否定はしません。神仏の御意(みこころ)に適(かな)って成功している人、自力で成功を収める人、そういう人たちもいることを、私は知っております。しかし、そういう方は、そういう方です。 泳ぎの達人は、救う必要がありません。私が言っているのは、溺れそうな人です。泳ぎの達人に、私は説いているのではないのです。ですから、現代の方がたに言うなら、失敗しているから救われるわけではありません、と。失敗しているから、救われる契機がそれだけ多く与えられているのです。病気をしているから、それだけ本当の心の世界で救われるチャンスが与えられているのです。つまり、健康な人以上に、それを忘れるなということです。むしろ、あなた方は、恵まれた方なのです。神仏の慈悲を受けるきっかけを持っている。ない人よりも、自分の力だけで、健康保険だけで生きている人よりは、神の保険にかかっている人のほうが素晴らしい。そういうことです。 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ ―― そこのところが、とかく現代人の間違いやすいところだと思います。この「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」については……。 親鸞 悪を犯せば救われるというわけではありません。 ―― それをですね、"罪人礼讃""受難礼讃"というふうに解釈し、そのように誤解されると、これは大変な間違いになるということですね。 親鸞 そうです。止血の方法を知っているからといって、毒矢をいくらでも受けていいわけではありません。そうでしょう。毒を消す薬があるからといって、毒薬をいくらでも飲む人は馬鹿です。そうではありませんか。よく効く注射があるからといって、病に自ら罹(かか)る人がいますか。よく効く風邪薬があるからといって、裸でですよ、酷寒の川のなかで坐っている人は馬鹿です。そうではありませんか。風邪薬があるから、風邪をひいても癒(なお)せる。よく効く薬があるから、裸で水のなかに入っても平気だ。こういう人は馬鹿です。風邪をひかないように注意をするのが当然です。 同じように、悪人でも救われるからといって、悪を犯そうという人は馬鹿であります。もっと悪を犯せば犯すほど、きっかけがあるのではないかと、それで悪を犯すような人は、これは間違っています。それは、たとえ溺れかけていても救ってくれるからといって、わざわざ溺れる危険性のある急流のなかに身を投げ込む人と同じです。どうせ救ってくださるのだから、死にそうなら死にそうなほど、一番に救ってくださるなら、一番救いにくそうなところで溺れてみよう、と。こんなことをする人は馬鹿です。そうではありませんか。そこを間違ってはいけないのです。そこを間違う者は愚かです。知恵がたりないのです。 ―― 親鸞様がおっしゃることが、よくわかりました。 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 親鸞 ですから、あなた方の時代において、他力信仰ということをどうとらえるかは、むずかしいです。現代では、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』を称(とな)えて救われるとは、だれも思わないでしょう。「阿弥陀仏」という方がどういう人かわからないでありましょう。しかしね、私は思うのです。今のあなた方は、昔にくらべて進歩をしているように思っているかもしれません。けれども、鎌倉の時代には、少なくとも、『南無阿弥陀仏』と称えられたらという素朴な宗教心を持った人びとがいたということです。 今の世の中で、神仏の力、神仏の加護(かご)というものを信じている人はどれだけいますか。世はもっと哀れな状態になっているのです。こうしたときに、本当の意味での神仏の加護を、神仏の力というものを知るきっかけとは何でしょう。 あなたは、すでに想像が働いてきたはずです。災害が起こり、天変地異が起こり、人知を越えた異常が起きたときになって初めて、人間は、「これは私たちの努力では、私たちの知識では、私たちの力では、どうにも救われない」と思い始めます。しかし、成功繁栄をしているときには、そうは考えないのです。 これからそういう時代がきます。今後十年、二十年のうちに、世界的な大混乱が起きてきます。さまざまな不幸や、災害が起きるでありましょう。不幸や災害は、それ自体としては、悪いことであります。ただそのなかで、人びとは神仏の力というものを信じることを始めるでありましょう。 現代の人びとは、ある意味において、「バベルの塔」を築こうとしているのです。人間が、自らの力を過信して、神に近づくとどうなるか。神が雲の上にいたとしたら、バベルの塔を築いて、もう神様と対等になった、と。「よし、神様と対等に話をしよう」と思っていると、一夜にして、雷が落ちて、バベルの塔は崩れていったのです。そして、人びとはお互いに異なった言葉を話し始めて、お互いの意志疎通(いしそつう)ができなくなっていったのです。これがバベルの塔の話であります。 これは旧約聖書にある話ですが、同じであります。現代においてもまた、人びとはバベルの塔を築こうとしています。現代のバベルの塔とは何か。すなわち、この世の中に不思議など何もないのだ、すべて科学で解明できるのだという思い、これが現代のバベルの塔なのです。 たとえば、子供というのは簡単だ、と。精子と卵子を試験管のなかで交配すれば子供ができるのだ。神秘でも何でもない。生まれてくる前に、男女の区別はすでにつく。産みわけもできる。神様を信じる時代ではなくなった。神様、男の子をください、女の子をくださいと祈る時代ではない。遺伝子の組替えでいろんな生物ができるようになったのだ、と。一方では、心霊現象などまったく否定して、そんなものはない、科学の領野の外にあるものは何もないのだと言う人もいるでしょう。四次元以上の世界といっても、そんなものはわからない。それは物理学だけが解明できるのだ。そう思っている人もいるでしょう。 こういう人びとは、日々にバベルの塔を築いているのです。魂の本質を知らず、霊を知らず、あの世のことも知らないで、自分らこそを最高だと思っておるのです。原始人たちは、素朴なシャーマニズムを信じる。だから、霊魂信仰があったと、これを嘲笑っておるのです。しかし、現代人たちは、ある意味において、南方未開の住民にも劣るのです。 これもまた、善人と悪人で話ができます。すなわち、現代人、文明人は善人、南方住民は悪人だ、と。そうとらえることもできるでしょう。南方住民たちは救われないと思っているのかもしれません。しかし、物質文明に恵まれている人だけが、救われるのでしょうか。幸せなのでしょうか。素朴なアフリカの原住民もおります。彼らは信仰を持っています。死後の世界があることを知っています。はっきりと知っているのです。つまり、現代のバベルの塔を築いている人は、それにも劣るのです。大学で五年、十年と学問をやって、教授とかいうものをやっている人が、霊魂も知らないのです。「あの世などあるはずがない」と言っている。インテリと称する人たちは、素朴な原住民にも敵(かな)わないような、そういうみじめな精神生活をしておるのです。 これもまた、親鸞が、"善人""悪人"であります。自らを善人だと思っている、あるいは、自らを知識人だと思っている人が、自分たちより無知だと見下し、同じ人間だと思えない、彼らが類人猿に近いと思っているような人よりも、真実は劣っているのです。素朴な彼らが天国へ行って、"大知識"だと自らを思っているような人が、地獄で苦しんでいるのです。 私は、日本を代表するような学者が、数多く地獄にいるのを知っています。彼らは、唯物思想に染まって、生きているときには、「霊なんてないのだ。神仏などあり得ない。科学が万能だ。技術こそが万能だ。すべては、人間の脳味噌で考えるのだ。脳細胞が考えるのだ」と、そんなことを信じていた。そして、そうしたことを、多くの人に教えてきました。科学者で唯物思想を一生懸命に学生に教え込んでいる人たち、こういう人たちは、ある意味において、かつての宗教家が邪宗を説いたのと同じなのです。すなわち、間違った説教において、人びとの魂を腐らしているのです。そういう意味において、間違った宗教家が地獄に堕ちているのと、間違った唯物思想を持って人びとを教導(きょうどう)している人たちが地獄に行くのとは、同じであります。行く先は同じく、無間(むけん)地獄であります。 霊的なものを知らない、神仏を知らないのは最大の罪なのだということがわかっていない。神仏を知らない人が、人を裁いている。最大の悪人が、ちっちゃな悪人を裁いているのです。「悪人正機説」は、ここにもまた、あるのです。未開だと思う人のほうが救われて、文明人だと思う人が救われていないのです。その素朴さを嘲笑う人たちこそが悟りに一番遠く、神仏に一番遠いのです。やがて、現代人がつくった"バベルの塔"は滅びていくでありましょう。現代文明の粋(すい)を集めたものが、崩壊していくでありましょう。 本書の読者の皆さんは、親鸞が今だに日本の仏教の枠のなかにあると思いきや。私は、現代のことを知っているのです。過日は、ソ連で、原子力発電所が事故を起こしました。これを偶然だと思っているのでしょうか。これもまた、"バベルの塔"が滅びていく前兆なのです。現代の科学の粋を集めている原子力発電の威信、これが一挙に崩れていきました。あるいは、アメリカで打ち上げた宇宙船が、一瞬ののちに、バラバラとなって天空で飛散してしまいました。これとて、前兆なのです。これから起きる大きな事件の前兆なのです。 人びとは、まずそれに気づかなくてはいけません。そうした大きな不幸が起きる前に、過去においても、さまざまな前兆があったのです。現代人たちは、その警鐘に気がつかねばなりません。自らが過信しているものが、どれだけ脆弱(ぜいじゃく)な基盤に立っておるのかということを知らねばならないときがきているのです。 かつて、バベルの塔のときに、異端の信仰がありました。これは唯物的な神でありました。このときの神は、"バールの神"という名の神でありました。邪神であります。このバールの神を人びとは信じました。バールの神を拝めば、何でもかんでも手に入る、と。こういう信仰が、昔、あったのです。唯物信仰です。形を換えた唯物信仰が、バールなのです。バールの神であったわけです。真実の神は、バールの神を雷でもって、退治をされました。現代もまた、バールの神がでているのです。唯物主義という、科学万能という名のバールの神です。 これが一つの信仰であることを、これが異端の信仰であることを、人びとは気がついていないのです。教科書に唯物論を採って、進化論を採って、霊魂などは、昔の人の笑い話だと書いておるような人は、やがて自分がどのような運命を辿(たど)るかということを、気づかねばならないと思います。現代でも、自分が優れた善人だと思っている人こそ、神に遠いということを忘れてはなりません。まだ何か質問があったら、続けてください。
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 001号~015号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 4面 第001号 S37/06/15 (1962) 親鸞会と会員の聖使命 親鸞さまの心にかえり 邪教を撲滅しよう 社説 祈とう師の荒療治 邪教と祈とうの惨劇 いたいけな幼児を殺す 母の救い うれしや老母は 極難信をとびこえて あら往き易のお淨土や あら聞き易の安心や 創価学会と対決記録(一) 破邪の慈剣は死線も超える 破邪 勇猛心 苦しみ惱みの根切りために 随想 唯一絶対の宗教 淨土真宗 会舘法座だより (今月の言葉) 大喝 解説 真宗に通用しない 五重の相対とは 法友通信 (東京都N) 会長著書だより 予告 編集雑記 (KF) 第002号 S37/07/15 (1962) 淨土眞宗(二) 唯一絶対宇宙最高の宗敎 社説 科学でもまちがいなし 宇宙最高の阿弥陀仏を信ずれば この世の利益きわもなし 親鸞会同志に告ぐ =真宗信徒悲泣せよ= 獅子身中の虫 創価学会と対決記録(二) いくじなしの自称代表 早くも馬脚露呈 解説 顕正のこころ 法友通信 東京都 K 砺波市 M 仏に近い 子供の目 御知らせ ○バツチ仕上り 大喝 ○信仰相談 今月の金言 メモ 平等と差別 聖人の心にかえり 親鸞会機構大革新 聖使命全うに拍車 ○会舘法座日程 破邪 ○会長著書 こんなことがききたい 編集雑記 (KF) 第003号 S37/08/15 (1962) 一言説法 社説 仏智うたがう罪ふかし 三才の子どもにも分かる あなたの不幸はどこから来るか わけがある 親鸞会に課せられた聖使命 浄土真宗の改革と統一 創価学会との対決記録(三) あわれ邪教の正態暴露 しどろもどろで返事もならず 淨土眞宗(三) 唯一絶対宇宙最高の宗敎 聖使命貫徹にわき上る 親 鸞 会 続々新入会員殺到 解説 助かった心(真仮癈立) 法友通信 (大阪 H) (高岡 T) 今月の金言 こんなことがききたい 降ってよし、晴れてよし (滋賀県O) ○会館法座日程 破邪 一大事 (2コマ漫画) 兎・馬・象 ○会長著書 今すぐできる 宿善と報謝 大喝 養老院の恋 明らかな 御法に生きる 編集雑記 (K・F) 第004号 S37/09/15 (1962) 一言説法 社説 亡国戦後版をおそれる 邪教の政界進出は何を意味するか 一億総白痴化へ盲進 内外廢立(一) 神と仏と混同するな 創価学会との対決記録(四) 正法はずれの 珍問奇答の続出 親鸞会団結の第一歩 支部長会議開催 大発展の企画樹立・体験談に落涙またしばし 絶景の有磯海に臨み 破邪の誓いはかたし 信仰体験 私の求道(上) 久遠の親を求め善知識を求めて 滋賀県 O こんなことがききたい 法友通信 (福島県 O) (福井 T) 解説 見 眞 大喝 創価学会の狂信者 伊勢神宮攝社に放火 お知らせ 一、会館法座日程 今月の金言 不幸な人 猫に小判・人に御名号 (1コマ漫画) 二、会長著書 破邪 高森先生の偉業を讃えて 福井 M 会員信条 編集雜記 (K・F) 第005号 S37/10/15 (1962) 一言説法 社説 タメ糞は救われざる人か 物を言え物を言え 物を言わぬ者は恐ろしい 信仰体験 私の求道(下) 久遠の親を求め善知識を求めて 滋賀県 O 創価学会との対決記録(五) またもとび出す馬鹿の一つ覚え ―白法隠沒の巻― 内外廢立(二) 神の正体は何か 滋賀支部一同 初秋の五色園を行く 会長先生とともに 私 made in+3コマ漫画 法友通信 (石川県 T) 露の干ぬ間に お知らせ 一、会館法座日程 今月の金言 こんなことがききたい 二、振替口座加入 (滋賀 A) 解説 開発の旅路 社告 三、会長先生著書 聴聞一つに限る 病身故になおきかねばなりません 編集雑記 (K・F) 破邪 大喝 第006号 S37/11/15 (1962) 一言説法 社説 尊いかな 狂った世法の 打破をなされた聖人様 佛法と世法 こんなことがききたい 幽霊は実在する 科学と矛盾はしない 創価学会との対決記録(六) 俄かづくりの念仏不幸論から 暴力的言葉まで 内外廢立(三) 天照大神の正体 会員の熱望火の如くアットいう間に 親鸞会館増築なる 大広間旧館の三倍 「みな人の心の底の奥の院 探してみれば本尊は鬼」 (1コマ漫画) 邪教創価学会の悪夢にさめて 真実仏の教に生きる 福 井 O 生 叫べども (O女) 今月の金言 大喝 信迷を破る 大量殺生の報か 破邪 お知らせ 一、会館法座日程 駿馬・並馬・駑馬 法友通信 (香川県本願寺布教師Ⅰ) 解説 顕正とは 二、振替口座加入 信心不信心 (滋賀高校生 Y) 三、会長先生著書 人生さだめなし 編集後記 (KF) 第007号 S37/12/15 (1962) 一言説法 社説 本当の幸福は何処にあるか 人生の目的 こんなことがききたい 創価学会との対決記録(七) ”頭が七ツに割れるぞ”の おどし文句も通用しない (KF記) 内外廢立(四) 迷信打破には死刑もおそれ給わぬ 親鸞聖人さま 私の信仰体験 こんな世界があつたとは (高岡 Y) 私はなぜ専任講師になるのか 十才で父を亡くし 自殺の淵から救われた私 富山青年部 Y 法友通信 (石川 M) 新しい御堂に満ち溢れ 増築完成 遷仏 記念報恩講開催 青年部誕生のきざし 大喝 (長浜市 N) お知らせ (お願い) ◇会費納入御願い 会員の皆様へ 今月の金言 ◇昭和三十八年の親鸞会御法座日程 これは誰の 姿だろう 編集雜記 (KF) 破邪 第008号 S38/01/15 (1963) 一言説法 内外廢立(五) 会長 高森顕徹 罰を与えるキリスト教の神 社説 親鸞会青年部の使命 創価学会との対決記録(八) 邪教の十八番 ”四十余年未顕真実”をたたく 新春を迎えて 会 長 高 森 顕 徹 今月の金言 信仰告白 早く自己に目醒めよ (高岡 Y) こんなことがききたい 一向専念無量寿仏とは 破邪 (KF) 青年に伝える私と仏教 滋賀支部青年部 T 各地で暴力と邪教性を 暴露する創価学会 法友通信 邪教撃退の巻 (東京都 N) 年頭の決意 滋賀支部長 B 大喝 無信仰の証拠だ お知らせ (お願い) ◇会費納入御願い 学無しのよろこび 岐阜県 O 女 良寛和尚の辞世を思う 岐阜支部長 F 狂鬼の無常 ◇昭和三十八年の親鸞会御法座日程 編集後記 (K・F) 第009号 S38/02/15 (1963) 一言説法 社説 親鸞会青年部の誕生を祝す こんなことがききたい 日蓮宗とは この目で見た 邪教の正態 N 相対的幸福と 絶対的幸福(一) 会長 高森顕徹 人生究極の目的 真実絶対の幸福を求める 大飛躍の年を語る 第三回支部長会議 失意の人よ==御法に生きよ (岐阜 一女) 親鸞会 文化クラブ 益々荒れ狂う 創価学会の暴力と邪教性 お知らせ 毎月の親鸞会御法座 親鸞会文化クラブ 信条 今月の金言 支部だより (福井支部 N) 法友通信 (滋賀 Y) 破邪 (KF) 大喝 謝った常識 企業広告 林商店 編集雑記 (KF) キクチ 第010号 S38/03/15 (1963) 一言説法 社説 飛んで火に入る夏の虫 おろかな 自殺する人 青年部だより 親鸞会青年部滋賀支部の 結成発表式を祝して 親鸞ものがたり いたじき山の夜 =念仏者・稲田の親鸞= (O) 絶対的幸福と 相対的幸福(二) 会長 高森顕徹 金とものと完備したスエーデン それでも自殺者が最高のわけは この目で見た 邪教の正態(二) 親鸞会新人紹介 会舘法座日程 こんなことがききたい 豪雪スナップ 自業自得 =はいたツバが己にかかる= 法友通信 (滋賀県T) 今月の金言 大喝 (彦根支部 N) 信条 仏教的慈悲 ――己を愛するもの 他を害する勿れ―― 三長者 会長高森先生著書 企業広告 キクチ 破邪 真剣な同業を泣かせる ―世渡る僧― 親鸞会 青年部クラブ募集 編集雑記 (KF) 第011号 S38/04/15 (1963) 一言説法 社説 阿弥陀仏や地獄は 実在するのか こんなことがききたい 創価学会との対決記録(地方版) =滋賀支部の巻= ふりかゝる火の粉は払わにゃならぬ なぜ親鸞聖人は 仏教以外の全宗教を 邪教だといわれたのか 会長 高森顕徹 ”学問ある文盲の徒”に申す こうのとりと私 (滋賀県 A) 私の信仰体験 (高岡、Y) 大喝 寒林に骸を打つ 今月の金言 阿弥陀院長さま 会館法座日程 富山 親鸞会青年部 発 表 会 (S) 無 常 =我れ世に生きて まことなし= 企業広告 キクチ 法友通信 (長浜市 M) 親鸞会 青年部クラブ募集 会長 高森先生著書 破邪 喜 び (M女) 編集雜記 (KF) 第012号 S38/05/15 (1963) 一言説法 のこされた疑問 群盲象をなでる 創価学会との対決記録(地方版) =滋賀支部の巻=(二) 方便法身とは なぜ親鸞聖人は 仏敎だけが眞実の宗敎だ と言われたのか 会長 高森顕徹 猫 の 死 非業悶絶はたしてだれの姿か (T) こんなことがききたい この信心ひとりこっそり 喜べばよいのではないか 破邪 法友通信 (滋賀 H) 畳一枚下地獄 (2コマ漫画) …社告… 降誕会開催案内 (長浜市 N) 今月の金言 大喝 企業広告 会館法座日程 親鸞会滋賀青年部 会長先生と共に叡山参拝 親鸞会北陸各支部合同親睦旅行記 (F) 親鸞会 青年部クラブ募集 会長 高森先生著書 編集雑記 (KF) 第013号 S38/06/15 (1963) 一言説法 社説 先づ実行 邪悪を見て見ぬふりするな 信の勝利者になる為に こんなことがききたい 富山 青年部座談会記録 これだー 現代青年の望むものは 魂をゆり動かす法論の花 なぜキリスト敎の敎祖は 臨終に醜惡な叫びをあげたのか 会長 高森顕徹 (独り居の喜び) =君は間違つている= 現代の青年はなぜ仏教を離れた 会舘法座日程 (会館の未信の友に) ヤミヲヤブル君 (2コマ漫画) 法友通信 (滋賀 K) 今月の金言 大喝 筋違い 企業広告 キクチ (石川 K) 富山 青年部二上に清遊 親睦旅行記 (I) …社告… 降誕会開催案内 会長 高森先生著書 破邪 ○アキレルもの五題 編集雑記 (KF) 第014号 S38/07/15 (1963) 一言説法 社説 それが第三の文明か まことの文明は われらの手で こんなことがききたい 富山 青年部座談会記録(2) 見つけたり 青年の生きる道 こんなことがあるから 邪教を撲滅せねばならぬのだ 見よ だまされて 殺されてゆく人々 会長 高森顕徹 邪教撃破で人命を救う……聖使命 コラム 忙がしい 幸福製造機 無責任な奴 =何で死にたくないのか?= 無安心 ナヤミアキコチャン(M作) (3コマ漫画) 道具ちがい 大喝 地獄は何処にある 地獄行きの心とは どんな心か?= 法友通信 (滋賀 D) 今月の金言 =愚!!= 現世利益 会館法話日程 自分を知れ 堕ちない地獄 企業広告 編集雑記 (KF) 破邪 のびるもの五題 親鸞会 青年部クラブ募集 会長 高森先生著書 第015号 S38/08/15 (1963) 一言説法 社説 =懐疑する現代の若き思惟(せいねん)= 仏 教 の 危 機 のこされた疑問 よせかけ、よせかけ……邪教撲滅せよ 悲惨な邪教から目覚めた 青年学徒の生々しい手記 敢然と邪教をはなれて 福井市 N あらゆる仏は なぜ阿弥陀仏を礼拝するのか 会長 高森顕徹 こんなことがききたい 見よ!! 邪教に肉体も折伏 された人妻の末路 密室で自動車の排気ガスで毒殺 前代未聞の方法と残虐ぶりに関係者も驚く 信者でなけりや判らんとうそぶく犯人、 創価学会の班長 今月の金言 宮殿開闢大法会┐ 宗祖降誕会 ┴大会 今ぞ花開く金剛の信 堂に溢れる弥陀の信徒 コラム 君の鼻がイカレテル 法友通信 (高岡支部 Y) こりたらまくな (富山青年部 Y) 知らなんだ (M作) (3コマ漫画) 食わず嫌い 会長 高森先生著書 会舘法座日程 破邪 大喝 地獄は満員の筈だ 当り前えじや 編集後記 (KF) 号 数 1面 2面 3面 4面 001号~015号 016号~030号へすすむ
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霊場会 霊場会の名称 不詳 霊場会サイト 事務局所在地 事務局TEL そ の 他 気になること スペック 開 創 不詳 専用納経帳 不詳 納 経 料 不詳 対応時間 不詳 注意事項 札所一覧 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 第13番 獅子三山専勝寺 徳島県板野郡板野町古城字城の内16 第14番 廣普山専光寺 徳島県板野郡板野町大寺字岡の前144 第15番 大雲山光善寺 徳島県板野郡藍住町東中富字東傍示69 第17番 一乗山徳善寺 徳島県板野郡藍住町奥野字猪熊73 第18番 法照山東光寺 徳島県鳴門市大麻町川崎346 第19番 江上山福泉寺 徳島県鳴門市大麻町市場字大西30 第20番 願行寺 徳島県鳴門市大麻町大西25 浄土真宗 第21番 寂静山圓勝寺 徳島県鳴門市大麻町姫田字里118 第22番 照嶋山法泉寺 徳島県鳴門市撫養町斎田字大池57 第23番 恵日山西福寺 徳島県鳴門市撫養町斎田字浜端西83 ※平成24年10月現在の木の村・コレクションさんのサイトの情報を基としています。 名前 コメント
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 121号~135号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 第121号 S47/06/20 (1972) 一言説法 論説 釈尊と聖徳太子の金言を混同 親鸞会が破邪する”邪”とは、何か 徒らに法謗の大罪を造るな こんなことがききたい 雑行 雑修とは何か 第121号 S47/06/20 (1972) 信仰体験 逆境がよんだ真実との出合い あゝ恩師 高森・F先生 邪教の淵より離別 K たび重なる悲運 不満ながらも邪教へ 仏道一直線 F先生との出合い 終生の恩師、高森先生 大悲の願船にうかばされて 白衣の天使にあこがれて 私こそ病人であった 富山県 A (19) 私の人生を大転換させた出来ごと 仏教は倫理道徳を越えていた 聴聞を重ねて知らされたこと 誰が何を言おうが 石にかじりついてもやりぬく決意 東西南北 白熱の三日間 会長先生 今度は京都で 大獅子吼さる 京都会館 会長先生講演要旨 草原に爆笑の渦 滋賀青年部 春の珍ゲーム運動会 親鸞会の結婚式 青年部講師による司婚 T.F (1コマ漫画) 今月の金言 滋賀降誕会案内 随行録 A 法友通信 京都市 K 谷口春子書翰集 絶対の幸福(上) O 福岡県 A 天にとどろく魂の叫び 会長先生 再び四国へ 教学試験成績 京都市 T 蓮如上人 御文章 導師合格 大喝 次期随行者に TさんとIさん 編集雑記 第122号 S47/07/20 (1972) 一言説法 論説 自己にも 他人にも 厳しくあれ こんなことがききたい 雑行、雑修とは何か(2) 第122号 S47/07/20 (1972) 『破邪顕正』と『信教の自由』 東西南北 五濁の時機に光あり 万人をゆるがす大行事 本部会館 感激の内に終る 憲法が保障する”信教の自由”と 法律的立場からみた”破邪顕正” 特別寄稿 東京青年部 Y 法的外観の必要性 憲法二〇条―問題の所在 「信教の自由」の重要性 「信教の自由」とは 「政教分離」の確立 信教の自由を煎じつめれば=破邪顕正 「武力解決」から「理性淘」汰へ 偉大な人類の師、「聖人」に続け! われらの集い 演劇クラブ発足 滋賀青年部 仏法豆辞典 七婦人 次期随行者 Y(24才) 人事移動 今月の金言 法友通信 石川県 A コラム PCB汚染 随行録 O よこがお 生真面目な熱血漢 大野市 K君 (20才) 滋賀県 A 親鸞会第二十七回弁論大会成績 冥士で「情ない」 A 岐阜県 T 親鸞会本部 降誕会に遇うて 香川県 G お坊さんの春闘 T.F (2コマ漫画) 私の一言 反省 豊橋 I 住所変更の知らせ 大喝 ヘンシン 教学試験成績 「絶対の幸福」の発刊を喜ぶ 高山 H 谷口春子書翰集 絶対の幸福(上) 響流 導師 顕正マンガ 作・藤田敏子 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 号 数 7面 8面 第123号 S47/08/20 (1972) 一言説法 論説 建設への心 こんなことがききたい なぜ親殺しより法ぼう罪が重いのか 第123号 S47/08/20 (1972) 降誕会特集 青年部演劇 あゝわが祖師親鸞聖人 第一編 お目当て,親鸞聖人の獲信!! 本部会館 我こそ邪教列島を真宗 弁論大会 第27回 第123号 S47/08/20 (1972) 列島に改造する闘士なり 滋賀会館 第28回 降誕会 東西南北 ここに波うつ 聖人のみ心 親鸞会降誕会 有縁の人を求めて 汗にまみれて ビラ配り 石川青年部 今月の金言 優勝 特別攻撃隊 岐阜県 T 天にこだます真実の叫び 親鸞会第二十八回弁論大会成績 親鸞会 本部会館建立に際して (高松市) M 随行録 A 優勝者のよこがお 真実に弓ひく 東西本願寺 T 縁の下の力もち 目覚ましい婦人部の活躍 優勝 決断 高岡市 高森光晴 訂正 T.F (2コマ漫画) 法友通信 氷見市 M 浄土真宗親鸞会本部 建設反対趣意書 コラム お知らせ 大導師試験合格者 演劇求道サークル”白道会”発足 劇名場面より 第三幕 謎の女 京都市 K 会長先生東京法座案内 教学試験成績 弁論大会の引立て役 司会者の苦悩 中根 繁 堂々完成!! 作・藤田敏子 響流 大喝 導師合格者 手記 弁論大会 (高森光晴) 編集雑記 第124号 S47/09/20 (1972) 一言説法 論説 人生の分岐点 こんなことがききたい 「働く」とはどういうことか 第124号 S47/09/20 (1972) かがみ 仏法は日常生活から 満足のゆく女の一生とは 迷いの根本を知らされて 福井県 T (22) 東西南北 長者窮子の譬喩 やるせない阿弥陀仏の御念力 一念で知る弥陀の慈悲 夏の思い出 海に遊ぶ 富山青年部 仏法豆辞典 知識とは やぶへび T.F (3コマ漫画) コラム 感謝状 よこがお 仏法が主の福井の強信 A (69) A (55) 夫婦 財政困難のお寺さんへ 教学試験成績 法友通信 奈良県 U 全親鸞会員へお願い 導師合格者 大野市 Y 今月の金言 何のために 大導師試験合格者 私の一言 覚悟も新たに 岐阜 H 谷口春子書翰 第二集 絶対の幸福(下) 虚空 (M子) 響流 大喝 随行録 Y 不思議なお方 滋賀 Y 編集雑記 第125号 S47/10/20 (1972) 一言説法 論説 ハエと人間 こんなことがききたい なぜ親鸞会は本願寺を攻撃するのか 第125号 S47/10/20 (1972) かがみ 親の恩に報いるには 悔いなき人生を求めて 岐阜市青年部 Y (24) 淋しさ あせりの 原因は「死」だった 無気力な生活よ さようなら この先生についてゆこう 東西南北 現在を凝視せよ 仏教のみが説く 三世因果 友よ来れ 着実に歩む 合同会合 富山青年部 仏法豆辞典 殺生 今月の金言 よこがお 一枚の案内書で真実を知った J (25) 大喝 火の如き執念を持て なさそうであるは苦 T.F (2コマ漫画) 青年部長の獅子吼 第二回東京御法座 法友通信 小矢部市 Y 富山県 N コラム 参加するに意義あり 随行録 Y 勇気ある聖人 31才で御結婚 あゝわが祖師親鸞聖人 ”恍惚の人”対策 T 報恩講案内 響流 半可通 教学試験成績 名古屋会長先生御法座案内 編集雑記 第126号 S47/11/20 (1972) 一言説法 論説 法論と法難と こんなことがききたい なぜ親鸞会は本願寺を攻撃するのか 第126号 S47/11/20 (1972) 土地買収 幾多の妨害のり越えて 我が生涯の分水嶺 アナウンサー試験か親鸞会法座か 愛知青年部 I (23) 決定的瞬間にノドが故障 一転”後生の一大事”にめざめる 東西南北 浄土真宗親鸞会本部会館建立の 聖地ここに定まる 如来聖人御加護のもと 面積八七四〇坪 用地の買収終る 走って 飛んで うけて バレーボール大会 滋賀青年部 仏法豆辞典 往生とは よこがお 仏法聞いてもらうまで 断食を敢行した 滋賀 Kさん(21) 富山、石川青年部は ソフトボール大会 コラム 求道ボケ 阿呆と無宿善 T.F (2コマ漫画) 私の一言 明日、つまずくのは誰か 富山県 O (22) 法友通信 岐阜 A 創価学会で内部告発 随行録 Y 御文章とならぶ最も身近かな仏法指南書 蓮如聖人 御一代記聞書 百ケ条 近日発刊!! 滋賀県 M 今月の金言 大喝 現実主義者 I 懈怠な心に鞭打って 滋賀県 A (34) 事務所電話設置のお知らせ 響流 教学試験成績 編集雑記 第127号 S47/12/20 (1972) 一言説法 論説 なぜ破邪顕正に徹し切らないのか こんなことがききたい なぜ親鸞会は本願寺を攻撃するのか 第127号 S47/12/20 (1972) 肉食妻帯編 あゝわが祖師親鸞聖人 第二編 出演 滋賀青年部 第二十九回 優勝 弁論大会 決意 滋賀県 T (14) 真実列車 親鸞会第三十回弁論大会 優勝 富山県 O (28) 聖人の洪恩をしのぶ 本部 滋賀 報恩講 聖人の孤独な戦いは 何のためであったか 会長先生講演要旨 よこがお ユーモアたっぷり独特の話術で聴衆を魅了 第29回弁論大会を沸き立たせた K 君 (21) 会員の皆様へ 仏法豆辞典 平生業成 同じ虎でも・・・ T.F (2コマ漫画) ”信火”大都市に燃える 名古屋で初の御法座 随行録 Y コラム 共同声明 I 弁士を囲んで 親鸞会第二十九回弁論大会成績 親鸞会第三十回弁論大会成績 今月の金言 大喝 聴聞の心がけ 教学試験成績 (10/12~11/13) よろこび 不与取庵 法友通信 春日井市 K 響流 大導師合格 金沢市 N 第128号 S48/01/20 (1973) 一言説法 論説 一年は一生の縮図 こんなことがききたい なぜ親鸞会は本願寺を攻撃するのか 教化より墓造りに狂奔 東本願寺――東山浄苑 西本願寺――大谷本廟 第128号 S48/01/20 (1973) 親鸞聖人御生誕 800年 祝賀大会を成功させよう! 新講師六名誕生 第八回講師試験 東西南北 わが祖師親鸞聖人御生誕 八百年の新春を迎えて 会長 高森顕徹 歌う 取る”モウ”若さが一杯だよ ’72.12.17 顕正大会 滋賀青年部 ’73.1.3 かるた大会 富山・石川青年部 親鸞聖人御生誕800年 祝賀大会実施要綱 法友通信 滋賀県 F 仏法豆辞典 アキラメルとは 年頭に憶う 青年部長 F 東京都 Y 子供にも仏縁を 稚児行列の参加要領 富山県 N 昭和48年度会長先生御法話日程 おそかったではおそい!! T.F (4コマ漫画) 私の一言 素晴らしい出会いに 京都市 K (31) 名古屋御法座のその後 新しい法の友を迎えて 名古屋市 I 長浜市 M 今月の金言 コラム 続ふりがな辞典 小矢部市 T 脚下照顧 本部長 F 訂正 随行録 K 高松市 M (21) 高岡市 H 大喝 おめでたい話 教学試験成績 (11/22~12/10) 新潟県 S (24) 蓮如聖人 御一代記聞書 百ケ条 親鸞会編 七尾市 Y 響流 導師合格者 滋賀県 O (59) 岐阜支部報恩講 滋賀県 Y 第129号 S48/02/20 (1973) 一言説法 論説 世間の非難に 怖れて真実の仏法が 説けるものか こんなことがききたい 「仕事を止めて仏法を聞け」とは何ごとか 第129号 S48/02/20 (1973) 生活の中に生きる仏法 私はかく喜ぶ 人生の荒波をのりきる 原動力として 滋賀県 坂田郡 T (24才) 親鸞会非難文書出回る 犯人は本願寺か 東西南北 暮しと仏法 あなたはやっていますか いつ宿善を求める積り なまけ心を悪人正機にすりかえるな 後生の一大事も判らぬ三国一の同行 高岡市伏木 勝興寺御満座 落胆の大衆 青年部の 破邪顕正に共鳴”大かっ采” 親鸞聖人御生誕八百年 祝賀大会 見逃すな百年に一度の大勝縁 読み破ろう!!親鸞会発行の図書 蓮如上人 御一代記聞書 百ケ条 御文章 顕正 本当の親鸞聖人の教 こんなことが知りたい① 谷口春子書翰集 絶対の幸福(上)(下) かくて私は 人生の目的を知った 顕正マンガ 枕経 一休和尚 T.F (4コマ漫画) お知らせ 仏法豆辞典 仏とは 弥陀の御加護で大事故が小事故に 福井県 武生市 M (41) 小松市”聞いたこともない話” 驚嘆の声 ハッキリ判った”後生の一大事” 今月の金言 随行録 K まかぬタネは生えぬ コラム ○のびるもの 教学試験成績 (12/21~1/16) 因果の道理でヘンシーン 心の通いあった嫁・姑 石川県 津幡町 一主婦 (25) 法友通信 京都市 G 必ず実行しよう 朝夕の勤行 法主殿 導師合格者 富山市 O 響流 次期随行者 S (23才) 悲しきしらべ 滋賀県 I 第130号 S48/03/20 (1973) 一言説法 論説 福祉へのあしもと こんなことがききたい 本願寺と手を結べない理由! 第130号 S48/03/20 (1973) かく顕正せり 富山県 O (20) 親鸞会非難文書を破る(1) 本願寺は淨土真宗ではない?! 祖師に背き、木像を本尊 東西南北 おおーい 友よ! 登ろうじゃないか 五月三日 富山県 小杉町 本部会館 建立聖地で 全会員の集い 着々進む大会への道 稚児衣装作成に張り切る 婦人部 女子青年部 二人三脚の足どりも軽く 金沢市 N 私の一言 仏縁を願う 福井青年部 I (24) 仏法豆辞典 経典とは あってもなくても苦 T.F (2コマ漫画) 親鸞聖人御誕生800年 祝賀大会 真の道 こゝに叫ぼう 高らかに 会長先生 京都法座案内 コラム 西陸橋にて T 今月のハイライト 聴聞号グループ現わる 走る凶器も使いよう 福井青年部 受験地獄万才! 母のたわごと よこがお 飛ぶ鳥落とす 破邪の闘士 福井青年部 I (25) 生首の説法(1) 作・K 関係各位へ 大導師試験合格者 大喝 同じ石で二度 つまづく者は馬鹿者だ 教学試験成績 (1/20~2/20) 日々、秒にむち打って 滋賀 I (33) 法友通信 長浜市 N 響流 導師 小松市 Y 第131号 S48/04/20 (1973) 一言説法 こんなことがききたい 親鸞聖人の御教と念仏 第131号 S48/04/20 (1973) 私の一言 大衆の目を見開かせよう 富山県専任講師 M 親鸞会非難文書を破る(2) 仏法者にあるまじきザン言 言うに事欠き 卑劣極まる中傷 東西南北 聞法の姿勢 仏法は後生の一大事に始まる もっと念仏を勧めて下さい 真宗の法流 確認して貰わねばならないこと 祖師、蓮師に問おう 本部会館建設用地 威勢よく下刈り 会員の集いに備える よこがお 有限実行の闘将 岐阜県 Kさん 親鸞聖人御生誕八百年 祝賀大会プログラム あゝ御生誕八百年 金沢市 N 仏の教えなかりせば 岐阜県 F ――御生誕八百年祝賀大会演劇―― 愈々”本格練習”に入る あゝわが祖師親鸞聖人 滋賀青年部 論説 親鸞聖人御誕生八百年 祝賀大会を間近かに控えて 悲しきかな 親鸞聖人を売物にひと儲け T.K (1コマ漫画) 会長先生 四国御法座 見逃すな百年に一度の大勝縁 生首の説法(2) 作・K 今月の金言 教学試験成績 (2/20~3/14) 寒風ついて街頭布教 富山青年部 響流 人事移動 法友通信 京都 M 第132号 S48/05/20 (1973) 一言説法 論説 科学もお手上げ 迷信、邪教化社会 こんなことがききたい 死後は本当にあるのか 第132号 S48/05/20 (1973) 会長先生 再び京都へ 京都会館 初参詣者を囲んで 親鸞会非難文書を破る(3) ハッキリしない信心があるのか 自らの無安心を白日に晒す 東西南北 親鸞聖人 御生誕八〇〇年 祝賀大会 万全を期し 準備着々進行中 会員の集い 聖地登山 老いも若きも スクラム組んで 仏法豆辞典 三宝とは 親鸞聖人 御生誕八〇〇年 祝賀大会 真の道ここに叫ぼう高らかに 焦燥 コラム ◎何しに行くのか? 私の一言 あゝ聴聞、聴聞 滋賀県 H 今月の金言 ◎ピカソの絵とかけて何と解く 祝賀大会プログラム 16日 17日 ◎春闘 死んだらお助け? T・K (2コマ漫画) 死んで無間地獄 こいつゎたまらん 富山県 Y 生首の説法(3) 作・K ◎買い占め 随行録 D 法友通信 東京都 Y 大喝 信用は無形の財産なり 教学試験成績 (3/24~4/6) 次期随行者 高森光晴 (19) H (21) 親鸞聖人 御生誕八百年記念出版 法戦 響流 導師合格者 第133号 S48/06/20 (1973) 一言説法 仏法豆辞典 「ジゴク」について こんなことがききたい 『信心』とは何か 第133号 S48/06/20 (1973) 私の一言 大松下にして血の小便 苦労を厭うな 富山 N ようやくにして 父の本意を知った私 富山県 高森光晴 (20) 真実の船 親鸞会丸の旗手めざす 東西南北 今こそ親鸞聖人の 御心に飛びこもう 善鸞義別から みた聖人の真意 素晴しい結実 第三回 四国法座 強信者あらわる 論説 親鸞会は独りゆく よこがお 悪条件を見事克服 たゆまぬ努力で大導師合格 Kさん(22才) うそだと思えば きいてみな 本部会館にて 初の結婚式 Kさん Tさん コラム ◎通告 夫唱婦随? 婦唱夫随!! 福井 H 親鸞聖人の御一生 ◎わが求道の遍歴 親鸞聖人御生誕八百年記念謹製 親鸞聖人御影 法戦 ◎建て前と本音 教学試験成績 (4/20~5/4) 法友通信 奈良県 G 今月の金言 大喝 そんなに急いでどこへ行く 大導師試験合格者 高岡市 K 響流 正見 T.K (2コマ漫画) 随行録 D 編集雑記 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 号 数 7面 8面 第134号 S48/07/20 (1973) 一言説法 表白文 聖人様の御生誕なかりせば 聖人の御心痛を思う時 念仏者は無碍の一道なり 愚童釈顕徹 祝賀大会プロフィール 第134号 S48/07/20 (1973) 論説 永遠の光か水泡か 会長先生の講演 信なければ尊さも判らず 盲人の憶測 我らの使命 弁論大会 優勝 四面楚歌の声すれど 秋田県 N 体験発表 金、恋・・・・道草の末、真実に目覚める ―― 福井市 S ―― 聞いた仏法が悩みのタネ!? 第134号 S48/07/20 (1973) こんなことがききたい 真宗で位牌を使わない理由 祝賀大会に参詣して 母と子の最も充実した日 福井県 K 真宗の夜明を告げた劇的二日間 親鸞聖人御生誕八百年祝賀大会 大成功!! 真実の前に興奮と驚嘆のうず 高岡市民会館 見逃せぬ青年部の活躍 まあ可愛いい! 街中の話題をさらった 稚児行列 祝賀大会を御縁に 一層の奮起を決意 大野市 Y 一向専念無量寿仏 T.K (2コマ漫画) 弁論大会成績 仏教セミナー 私の一言 阿弥陀仏の警告を受け 豊橋市 A この先生あればこそ 富山県 M 不思議 散歩がとりもつ緑=二題 貯金通帳との同棲生活 法友通信 京都 T 随行録 高森光晴 身をもって知らされた無常 石川県 H 米原 N 今月の金言 専任講師人事異動 編集雑記 (S・N) 第135号 S48/08/20 (1973) 一言説法 論説 誰の為に破邪顕正するのか こんなことがききたい 過去世や未来世は 本当にあるのか 第135号 S48/08/20 (1973) 第一回仏教セミナー 7.28・29・30 滋賀会館 深遠な仏敎哲理を わがものに!! 三十名の大学生が熱心に討論 随行文 所詮ピアニストはこの世限り 死の解決の鍵を求めて 富山青年部 H (21) 本当の自己を知るために 捜した鍵は親鸞会に 東西南北 ――お盆に学ぶこと―― 倒懸 静かに我身の相を かえりみよう 餓鬼 有財餓鬼・無財餓鬼 ==満たされぬ業相== はちきれる若さ ドライブで親睦はかる ―岐阜青年部― 仏法豆辞典 方便 婦人十ケ条 ハテ?墓参りの本当の意義は T.K (2コマ漫画) 富山青年部は 柴垣で海水浴 コラム 本山支持理由 お知らせ 全国の皆さんへ 教学試験成績 (5/10~6/25) 生首の説法(4) 作・K 法友通信 石川県 A 自画像 導師合格者 福井県 M 今月の金言 大喝 無条件降伏 随行文 H 私の一言 旅で得たこと 岐阜市 T 高岡市 T 響流 高森光晴 グラフ800年 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 106号~120号へもどる 121号~135号 136号~150号へすすむ
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 151号~165号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 第151号 S49/12/20 (1974) 一言説法 論説 正味ばかりの仏法 こんなことがききたい 日蓮が非難される理由 第151号 S49/12/20 (1974) グラフで追う 遷仏会 親鸞聖人報恩講 親鸞会第35回弁論大会 優勝 十五才の怒り 滋賀県 M 悔いなき道 優勝 親鸞会第36回弁論大会 滋賀県 F 本部会館移転祝賀 報恩講・遷仏会を盛大に挙行 あっぱれ、福井少年部 小遣い銭を、新本部へ財施 もの知り大学 人事異動 親鸞会第三十六回弁論大会成績 会員の皆さまへ 3人の盲(めくら) T・K (1コマ漫画) 大導師合格者 親鸞会第三十五回弁論大会成績 岐阜支部報恩講 今月の金言 大喝 寒林に屍を打つ 教学試験成績 (49.10.21~49.11.20) もの知り大学 解答 法友通信 福井市 S 響流 導師合格者 滋賀県 Y 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 7面 8面 第152号 S50/01/20 (1975) 一言説法 論説 親鸞会の背骨 昭和50年 謹賀新年 元旦 第152号 S50/01/20 (1975) 日本全国に 真実のウネリを!! 青年部長 F こんなことがききたい 南都の奏状文とは ある求道者の体験 私は地獄を見た!! 滋賀県長浜市 M (50) 第152号 S50/01/20 (1975) 第十回講師試験 教学熱高まる 九名の新講師誕生 東西南北 年頭所感 一里塚に立って 憶うこと 会長 高森顕徹 なんとも愉快な忘年会 青年部 年末を遊ぶ 富山県 石川県 五支部対抗のカルタ大会 南砺支部が圧勝 富山県 小矢部に若手副支部長 K・Kの両氏 法友通信 名古屋市 Y 高森会長先生 本部会館法話日程 福井市 S 今月の金言 もの知り大学 竜樹菩薩伝(1) 作・A 富山県 O 人類の危機と宗教 本部長 F 富山教化支部長に Y講師を任命 もの知り大学 解答 ”年の始め”迷信の被害 続出!! T.K (1コマ漫画) 大野市 Y 迎春 高岡市 T 大喝 自力金剛のサザエ 教学試験成績 (49.11.21~49.12.20) 福井市 T 響流 導師合格者 高岡市 Y 第153号 S50/02/20 (1975) 一言説法 論説 大いに儲けて きれいに使おう こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 第153号 S50/02/20 (1975) 本願寺僧侶、実態を暴露!! 東西南北 本願寺はなぜ? 東西に分裂したのか 文書法論 後生の一大事も分からず 断見外道と化す N講師より D住職へ 深まる仏縁 七尾進出・親睦・報恩講 もの知り大学 D住職より N講師へ 法友通信 金沢市 N 大導師 導師 試験 日程決まる もの知り大学 解答 歎異鈔研究会の合宿の案内 滋賀県 Y 大喝 次はお前の番だ 導師合格者 龍樹菩薩伝 (2) 作・A 画・O 卑怯なり、本願寺 会合開いてデマ宣伝 福井県 一女子青年部 投書 企業広告 谷本建設 今月の金言 教学試験成績 (49.12.21~50. 1.20) つかもと呉服店 響流 肉体の病気 心の病気 T.K (1コマ漫画) 訂正 本当の親鸞聖人の教 こんなことが知りたい② 第154号 S50/03/20 (1975) 一言説法 論説 全人類の 苦悩のもとは何か こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (2) 第154号 S50/03/20 (1975) 聴聞のための健康法……その1 栄養満点の玄米を食べよう 玄米こそ最良の主食 白米は米の粕 公害にも強い! おまけに経済的 ”われら親鸞会会員は 玄米をもってその主食とすべし ” 随行文 今度の親不孝 決して無駄にはすまいぞ!! 刻一刻に迫る後生 死の前に何が残る!! 福井県 Y (28) 東西南北 定例支部長会議開かる 顕正目標は七百名 『こんなことが知りたい』―(2) 支部対抗で頒布 今年度方針 法座日程を検討 支部・青年部の会合 =富山= 第四次白道顕正戦 二月より始まる 阿弥陀仏に初まいり 小矢部支部のKさん =富山= D住職、返答なし 顕正戦の出陣を祝う 繊協ビルで青年部大会 =福井= 次期随行者 Hさん 人事異動 もの知り大学 本部に新事務員 Kさん 企業広告 渡辺仏壇店 僧侶の”金脈” 三千円から五千万円まで 西本願寺 よほど地獄好きなやつらだ T.K (1コマ漫画) 法友通信 石川県 A 大導師合格者 龍樹菩薩伝 (3) 作・A 画・O 豊橋市 T 今月の金言 大喝 仕事をやめて聞け!! 教学試験成績 (50. 1.21~50. 2.20) もの知り大学 解答 企業広告 紺インテリア 響流 導師合格者 編集雑記 第155号 S50/04/20 (1975) 一言説法 論説 封建制度の残骸 檀家制度にメスを こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (3) 第155号 S50/04/20 (1975) 春の合宿で仏教哲学を研鑽 青年部合宿 全国から集う真実のエリートたち 大学生中心に五日間の講義 本当の仏教を門徒の人たちへ 随行文 福井県 H (20) 御仏飯で育った私の義務 東西南北 万人は平等なり 仏教は差別なき社会をめざす 第一期顕正戦(四月~六月) 富山 決起集会開かれる 住職と門徒を導く三十部 滋賀 顕正新聞を配布するMさん 夫婦となって真実を求める その① M君とO講師 その② F君とHさん 仏教を確信した合宿 島根県 J(19) 顕正戦始まる 第一期は四月から六月まで 法友通信 滋賀県 M 真実の友と知りあえて 埼玉県 S(19) 高岡市 A もの知り大学 随行禄 Y 企業広告 紺インテリア 「親鸞は弟子一人も持たず」 大喝 人目にふれぬ善を積め もの知り大学 解答 龍樹菩薩伝 (4) 作・A 画・O インテリア北川 導師合格者 真宗を再びおこそう現代に 第一期顕正戦 訂正 響流 (2コマ漫画) 教学試験成績 (50. 2.21~50. 3.20) 企業広告 渡辺仏壇店 編集雑記 第156号 S50/05/20 (1975) 一言説法 論説 創価学会を撲滅しよう まっかなニセモノ 大石寺の板本尊 こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (4) 第156号 S50/05/20 (1975) 現代によみがえった親鸞聖人のみ教え……………世界最高の深遠な仏教哲学 その一言が私の人生を変えた!! 東西南北 ついに放たれた真実の巨弾 親鸞会と本願寺の相違点八項目のパンフレット 全国の真宗門徒に配布 名づけて”S号作戦” 大成功!!金沢観光会館での御法座 六百名を越える参詣者 バス八十余台への宣伝効果バツグン 自分と家族とどちらを助けるか? 罪悪観を聞かされた私 富山県 F ”ニセモノの幸福ではダメだ” 愛知県 一青年部 新たに三副支部長任命 京都支部にT氏、K氏 新本部会館初の仏前結婚 F青年部長と市原講師 岐阜支部にE氏 第一期顕正戦経過報告 四月末で百四名 もの知り大学 東条英機の話に大感激 滋賀県 U 友人の熱意に負けて・・・ 福井県 H 大喝 あなたは家族を捨てても 仏法を求める気があるか 6.9 6.20は全国統一顕正デー 第一期顕正戦 今月の金言 随行禄 (1) Y 次期随行者 Kさん(22) 京都支部が発足 支部長はD彦根支部長が兼任 (2) H 本部会館降誕会案内 法友通信 金沢市 T 地獄行きと極楽行きのちがい T.K (2コマ漫画) 導師合格者 もの知り大学 解答 お知らせ 響流 教学試験成績 (50. 3.21~50. 4.20) 編集雑記 第157号 S50/06/20 (1975) 一言説法 論説 親鸞聖人が好んで使われた『海』を考える こんなことがききたい 御伝鈔 平太郎の熊野参詣の真相 第157号 S50/06/20 (1975) 白熱する第一期顕正戦 五月末で三百四十余名 5.16統一顕正デーで四十八名の成果 松虫鈴虫と住蓮安楽の 鹿が谷の大事件とは 東西南北 親子二代の悲願 岐阜にも親鸞会館を! I氏、用地300坪を提供 ”白道”島根・広島に燃ゆ ”A号作戦”四講師を派遣 大成功を収めた島根 よこがお 破邪顕正に大活躍 彦根支部の”スイ星” S氏(70) 第1回 幹部研修会 富山 もの知り大学 解答 親鸞聖人降誕会(滋賀) 大喝 顕正一口メモ 忌わしきもの 東京 M 法友通信 京都府 T 岐阜市郊外 交通至便の建設用地 大導師合格者 学生部夏の合宿の案内 大阪府 S もの知り大学 教学試験成績 (50. 4.21~50. 5.20) 私の一言 新入社員と私 埼玉県 一青年部 次期随行者 K君(23) 響流 念仏はみな同じか? T・K (2コマ漫画) 導師合格者 企業宣伝 渡辺仏壇店 編集雑記 第158号 S50/07/20 (1975) 一言説法 全会員に告ぐ!(論説にかえて) 破邪顕正に怒濤の進撃を 会長 高森顕徹 こんなことがききたい 疑い はどのように晴れるのか 第158号 S50/07/20 (1975) 本部教学講師試験 二十四名中十一名が合格 第三十七回 弁論大会 優勝 無知 京都府 Y (23) 東西南北 世界の光 親鸞聖人 この世で救われる浄土真宗 「死なねば助からぬ」は間違い ”顕正大行進”快調にスタート 第一期顕正戦 六百名の仏縁あつき新会員 深松本部長を招いて 南砺支部会合開かる よこがお 一般部の初講師合格 岐阜支部の E氏 (60) 武生支部が発足 新支部長にM氏 顕正一口メモ 幹部研修会 各県で開催 降誕会・劇 承元の法難 富山青年部 顔・顔・顔…………… 鈴なりの「信の座敷」 降誕会分科会 親鸞聖人降誕会 盛大に挙行 本部会館 新副支部長に N氏 彦根 企業広告 渡辺仏壇店 法友通信 金沢市 N 大喝 人間のすがた 第三十七回弁論大会成績 岐阜県 Y 響流 命のかけどころ T・K (2コマ漫画) 教学試験成績 (50. 5.21~50. 6.20) 顕正一口メモ 編集雑記 (S・N) 第159号 S50/08/20 (1975) 一言説法 論説 読経とごちそうだけでは無意味 正しい法事を実践しよう こんなことがききたい 親鸞聖人も神を拝まれたのか 第159号 S50/08/20 (1975) B号作戦 山陽道を駆ける 「白道燃ゆ」片手に六千里 3班6講師―法座150回、本1,500冊 山口 広島 兵庫 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 死の解決 一つをするために 京都青年部 K (23) 優勝 第38回弁論大会 外道はどこに 福井県 H 釈尊の教えられた 親の大恩十種とは (上) 第四次白道顕正戦・第一期顕正戦 表彰式行われる 岐阜会館建設 実行委員会を結成 大喝 ハエと人間 企業広告 渡辺仏壇店 顕正一口メモ 石川、岐阜、富山県 幹部研修会 随行録 K 天親菩薩伝 (1) 作・A 画・A 第38回弁論大会 滋賀会館降誕会 満員の盛況 和訳浄土三部協発行のお知らせ 香川県高松市 M K 8.1~10.31 顕正大行進の主役たれ 第二期顕正戦 法友通信 富山県 T 教学試験成績 (50. 6.21-50. 7.20) 富山県 M 響流 T・K (1コマ漫画) 導師合格 顕正一口メモ 京都市 U 第160号 S50/09/20 (1975) 一言説法 論説 真宗十派の統一は可能か こんなことがききたい 感謝の心でなら神社参拝はよいのか 第160号 S50/09/20 (1975) 8月3日 どこで・なにが 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 肌で感じた仏法の重大さ 暗い心の解決を求めて 富山青年部 K(22) 東西南北 釈尊の教えられた 親の大恩十種とは (下) 意気さかん、高岡南支部 御法座の大宣伝敢行 支部長会議 開かれる 本部長補佐 支部育成委員 A、D両講師を任命 青年部育成にとり組む滋賀県 学習会行われる 三千枚のビラで本願寺が親鸞会に対決 東京御法座 第二期顕正戦 八月で二百六名 次期随行者 K君(25),T君(27) 特別顕正隊 青年部幹部を育成 法友通信 北海道 A 顕正一口メモ 教学試験成績 (50. 7.21-50. 8.20) 天親菩薩伝 (2) 作・A 画・A 企業広告 ステンレス加工 S 大喝 ほら貝の教訓 随行録 K 企業広告 渡辺仏壇店 京都 K 響流 T・K (2コマ漫画) K 顕正一口メモ 編集雑記 第161号 S50/10/20 (1975) 一言説法 論説 ひん死の仏教を よみがえらせるもの こんなことがききたい 誰でもできる無財の七施 第161号 S50/10/20 (1975) 親鸞会は好戦的だから 嫌いだという人に 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 「弥陀の本願まことであった」 助けるぞ、の一声に救われた私 富山青年部 T (27) 東西南北 仏法の原点 生と死 会長 高森顕徹 初回で六百名を結集 鯖江市農協会館の御法座 =福井= 破邪顕正こそ本会の使命 第二期顕正戦を果敢の展開 特別顕正部隊 第一期生八名を選抜 よこがお 律儀な外見、内に秘めた情熱 石川支部 Kさん(43) 名古屋御法座 大喝 死神の来訪 随行録 K 法友通信 広島県 K 99匹の片目猿、1匹の両目の猿を笑う T.K (1コマ漫画) K 天親菩薩伝 (3) 作・A 画・A 親鸞聖人 報恩講 顕正ひと口メモ 教学試験成績 (50. 8.21-50. 9.20) 一人が一人を育成しよう 響流 顕正ひと口メモ 導師合格者 企業広告 渡辺仏壇店 第162号 S50/11/20 (1975) 一言説法 論説 「仏教は死んだか」 こんなことがききたい 二心でも助かるのか 第162号 S50/11/20 (1975) 門徒の教化を忘れ 納骨堂でかせいだ金を 親子で奪い合い 東本願寺 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 釈迦の一代教に従い 一向専念無量寿仏を 福井県青年部 K (25) 東西南北 芥川龍之介と仏教 北海道・九州をまたにかけ 大活躍の白道顕正戦 実感!! 僧侶の堕落は全国的 第二期顕正戦 千余の仏縁 12月1日~15日までに 会費前期分納めて下さい 第五回 大講師試験 九名の大講師誕生 岐阜事務所 住所変更 東京御法座 将来は二回やりたい、と会長先生 大喝 宝の埋まっている土俵 法友通信 新湊市 K 顕正ひと口メモ 随行録 K 天親菩薩伝 (4) 作・A 画・A 福井市 S 真実を体得する者、強し T.K (1コマ漫画) T 訂正 響流 教学試験成績 (50. 9.21-50.10.20) 顕正ひと口メモ 次期随行者 K(26) , J(22) 第163号 S50/12/20 (1975) 一言説法 論説 総括一九七五年 こんなことがききたい 歎異鈔 「ただ念仏して」の真意 第163号 S50/12/20 (1975) 報恩講劇 滋賀青年部 生首の説法 蓮如上人とお初の物語 第39回弁論大会優勝 真実の教えを求めて 島根県邑智郡 T (58) このままで 信心決定できるのか 優勝 第四十回弁論大会 富山県 T (27) 毎日新聞も注目する親鸞会 その報恩講に真宗の明日を見た 若者が実践の主力 人事異動 大喝 まず妻子を勧化せよ 訂正 年賀状の廃止について 企業広告 渡辺仏壇店 よこがお 門徒の教化を忘れた東本願寺 納骨堂でかせいだ金を親子で奪い合い 作・K (1コマ漫画) 教学試験成績 (50.10.21-50.11.20) 天親菩薩伝 (5) 作・A 画・A よこがお 会員の皆様へ 大導師合格者 第三十九回弁論大会成績 第四十回弁論大会成績 響流 導師合格者 随行録 T 法友通信 広島市 T 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 号 数 7面 8面 第164号 S51/01/20 (1976) 一言説法 論説 知識に信順せよ こんなことがききたい 日蓮のたわごと 第164号 S51/01/20 (1976) 昭和51年 謹 賀 新 年 元旦 年頭所感 変成男子の願心(年頭に思う) 本部長 F 第164号 S51/01/20 (1976) 総勢 140余名――親鸞会の中核を結集 幹部整列式行われる 東西南北 仏法興隆の地、吉崎で合宿 仏法年末年始はない 気を吐く親鸞会青年部 同志の皆さん、立つ秋が来た 真宗の危機は 人類の危機だ 会長 高森顕徹 岐阜支部報恩講 顕正大会行われる 富山 法友通信 高岡市 O 教学テキストの改訂について 滋賀県 F 五十年度顕正戦 個人別成果の表彰 高岡市 Y 過去の徒労の挽回を 青年部長 F 島根県 K 顕正ひと口メモ もの知り大学 第3期顕正戦 2月~5月 破邪顕正の精鋭たれ 和歌山県 S 支部長会議開かれる 今年度千五百年名顕正を決議 大喝 人間、一皮むくならば・・・ もの知り大学 解答 第十二回講師試験 九名の新講師誕生! 岐阜市 K 教学試験成績 (50.11.21-50.12.20) 随行録 T 長浜市 N 仏眼 顕正ひと口メモ 導師合格者 いけないずくし K 訂正 第165号 S51/02/20 (1976) 一言説法 論説 一億七千万人が祈る本尊 こんなことがききたい 『邪見、驕慢』とは何か 第165号 S51/02/20 (1976) 蓮如上人御一代記聞書に学ぶ その籠を水につけよ 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 邪教を語った口で真実の仏教を! 私はキリスト教にだまされていた 福井県青年部 U (22) 東西南北 滋賀会館火災・二階全滅 焼け跡を放置して真実の説法 学生部発足 盛大に決起大会を挙行 全国の学生部員を結集 宣誓 正法宣布に死力を尽くす 岐阜 第三期顕正戦出陣式 谷本ビルで開催 滋賀会館復興委員会を設置 各地からよせられる復興資金 燃えよ!第三期顕正戦 法友通信 名古屋市 K 大喝 大宇宙は有限か、無限か 富山県 T 今月の金言 宗教多しといえども 正しい宗教は唯一ッ (1コマ漫画) 随行録 U もの知り大学 解答 編集局のメンバー 顕正ひと口メモ 導師合格者 浄土真宗親鸞会 図書案内 各県の支局長 仏眼 もの知り大学 教学試験成績 (50.11.21-50.12.20) 顕正ひと口メモ 編集雑記 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 136号~150号へもどる 151号~165号 166号~180号へすすむ
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 031号~045号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 4面 第031号 S39/12/15 (1964) 一言説法 社説 0点か100点か無間地獄か彌陀の浄土か こんなことがききたい 今ぞ聞く釈尊の御説法 「韋提希よ堕ちて行け」 ―劇「王舎城の悲劇」―から 火宅無常の世界 そらごとたわごと まことあることなし 知るとのみ思いながらになによりも 知られぬものは己なりけり (1コマ漫画) 鵜の一生と人間 (N) 会員の皆様へ (39.11.23)親鸞会青年部劇より (写真1枚) 社告 第二回 かるた大会要項 コラム 「幸福の迷信」 法友通信 岐阜 K 今月の金言 大喝 まだ判らんのか 昭和四十年度 親鸞会法話会日程 (本部会館) 富山 K おのおの十余ケ国の境をこえて 歎異鈔の大講演御講話に 世紀の大報恩講開催 ―親鸞会七周年記念― 随行録 A 大阪 U 破邪 O 編集雑記 (KF) 第032号 S40/01/15 (1965) 一言説法 こんなことがききたい こんなことがききたい 私はなぜ専任講師になるのか 如来の善巧方便にあった私 魂の自由人を求めて 富山青年部 N 謹賀新年 新年に憶う 教学試験成績発表 ◇第二回検定試験 昭和四十年度 親鸞会法話会日程 (本部会館) ◇第三回検定試験 親鸞会親睦旅行 今月の金言 ◇第四回教学検定試験 コラム =播いた因は 刈らねばならない= 年頭にあたりて その気になれぬこの身が嬉しい 大喝 蛇年に思え =老少不定= 上、滋賀における法話 下、岐阜幹部 (写真2枚) 随行録 A 破邪 (1コマ漫画) O 編集雑記 (KF) 第033号 S40/02/15 (1965) 一言説法 社説 親鸞会会員に告ぐ この末法に立て! こんなことがききたい 因果応報 =播いた種は刈ねばならない= =過去の因を見よ= 至徳具足の大利益を獲得せよ 信を頂けば、この世も、未来も 最高の長者になれるのだ コラム ―自業自得― 大喝 すぐに忘れる奴 ―深追は身の破滅― 法友通信 滋賀 Y 心 配 岐阜 T 破邪 優勝の一瞬 随行録 K 福井 A子 会長 高森先生著書 第二回親鸞会かるた大会 ―堂々福井支部団体優勝なる― ―個人優勝は高岡支部― 第二回親鸞会かるた大会 ―堂々福井支部団体優勝なる― ―個人優勝は高岡支部― 社告 親鸞会親睦旅行 今月の金言 一大事 (2コマ漫画) 編集後記 (KF) 第034号 S40/03/15 (1965) 一言説法 社説 もつと我我は 教学の重要性を認識しよう こんなことがききたい =獲信の記録!!= 座談会日記(一) 記―提婆 われわれの実相を凝視しよう 女の業界 コラム ―火の車― (5コマ漫画) 今月の金言 ―問題が解るまで がんばります― 随行録 二月十日岐阜にて 新設支部案内 大野支部(福井県)誕生 新支部長に U氏 チクリ真実 塩倉町のある御宅にて ◇第四回検定試験◇ (昭和40年2月14日本部にて) 法友通信 高岡 N 大喝 光明の天地 石川 N 破邪 聴聞と実行に生命をかけよう 聴聞と実行に生命をかけよう 編集後記 (KY) 第035号 S40/04/15 (1965) 一言説法 社説 ウォスホート二号 打上げに思う こんなことがききたい 親の責任―子供へ真の遺産を 座談会日記(二) 記――提婆 仏教と道徳を混同するな 道徳は時と処によつて変るものだが 仏教は変ることがない 一盲衆盲を引く T (2コマ漫画) コラム ―愚 母― 随行録 O 法友通信 岐阜 O 破邪 ―賢 母― 富山 K 今月の金言 大喝 一番の幸せ ◎第五回教学検定試験成績◎ (昭和40年3月14日本部にて) 編集後記 (KF) 因果の道理 (高岡 H生) 真実の炎へとびこもう (K) 第036号 S40/05/15 (1965) 一言説法 社説 信心と念仏について 親睦旅行記 (一)(岐阜 K) 地獄を見せ! 座談会日記(三) 提婆 わかっちゃおれど やめらんれぬ 人間永遠の苦悩の根源は こゝにある (二)富山青年部 HY生 コラム =お前の心に聞け!= 親睦旅行に 楽しい歌を =仏法一筋= =法の花= 今月の金言 =あんたは どうなんか?= (無常小唄) N 親鸞会の伝道車 「顕正号」誕生 「顕正号」の歌 (2コマ漫画) 親鸞会法座日程 破邪 第六回教学検定試験成績 (滋賀にて) 編集雑記 (KF) 第037号 S40/06/15 (1965) 一言説法 社説 先づ朝夕の 勤行を励行しよう こんなことがききたい 妙好人語録(一) =市太郎念仏= 真宗の人々の とんでもない 大きな聞きあやまり 大喝 あきれた私 第七回教学検定試験成績 (5月2日本部にて) 法友通信 彦根 T 滋賀 O 破邪 コラム =仲の良い嫁姑= 車好き (5コマ漫画) 滋賀 Y 今月の金言 =仲の悪い嫁と姑= 会長 高森先生著書 親鸞会最初の導師誕生する (上記写真五名) 讃岐に庄松同行の墓を訪う (F) 社告 降誕会開催 編集雑記 (KF) 第038号 S40/07/15 (1965) 一言説法 社説 その角が とれると思うとるか こんなことがききたい 座談会日記(四) =頭の上らぬヤツ= 記――提婆 ほどこしの心 善因は善果を生み 悪因は悪果を生む 因果の道理は宇宙の真理 外見は 両手合せど この解決急ぐべし (1コマ漫画) コラム 冷たい女房 第八回教学検定試験 (6月13日本部にて) 新「導師」二名誕生 邪教創価学会に狂つた夫婦 精神薄弱の女性に売春を強要 いいなあ、法の友、真実の友 滋賀青年部 Y 法友通信 滋賀 M 今月の金言 高山 K 金沢の横山さんへ 大喝 人間に帰れ 親鸞会法話日程 編集雑記 (KF) 破邪 第039号 S40/08/15 (1965) 一言説法 社説 後生の一大事 こんなことがききたい 弁論大会を顧みて (福井青年部 N) 第二回親鸞会弁論大会(七月十二日) 第1位 入賞者の弁論(富山支部) K 題「炎のように」 コラム =他人の知らんこと= 弁論大会第二位 友 の 死 (O) 降誕会に参加して (滋賀県 N記) =一念が通れば= 法友通信 富山 S 今月の金言 言論大会に出て 大野支部 S 岐阜 O 破邪 永遠に満されない業相 T.F (1コマ漫画) 大喝 逆境は赤信号なり 滋賀 K 親鸞会法話日程 編集雑記 (KF) 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 号 数 7面 8面 第040号 S40/09/15 (1965) 一言説法 40号記念特集 (狂つた常識を破邪する) 石は浮き草は沈む末法濁世 大方の坊主も同行もこれが判らぬ―自力の妄執 極刑・流刑もおそれず「諸神・諸仏を拝むな」となぜ聖人は仰言ったか。 第040号 S40/09/15 (1965) ③ふみにじられた 釈尊菩薩の御心 ⑤死刑といわれても、義別しても 「一向専念無量寿仏」と叫ぶのが 無宗教か=横山氏は何宗か、外道か …真の諸仏とニセの諸仏を区別せよ… ⑦逃げても逃さぬお慈悲 第040号 S40/09/15 (1965) 社説 真実の仏教を宣揚して 迷信と邪教の粉砕に立ち上ろう ⑩正しい「現世利益」と 誤解されている現世利益 独生独死 一つも相添こと あるからず 今月の金言 非難の投書 ②仏願の生起本末―聞 第九回 教学検定試験成績 (7月27日本部にて) 親鸞会法話日程 〔序文〕 法友通信 富山 K 破邪 真実に命をかける 青年よ来れ 〔破邪の文〕 ①釈迦の金言 「一向専念、無量寿仏」 ⑥消えた火の判らぬ 亡者横山さん ⑧奈良の大仏は真の仏ではない 自力救済のためだ ⑨悪は断て邪は截れ 偽造紙幣は捨てよ 岐阜 K ④死刑をもおそれなかった 聖人御一代のご苦労とは何か 大阪 M 横山氏の投書全文 編集雑記 (KF) 第041号 S40/10/15 (1965) 一言説法 社説 百鬼昼行の宗教界 ―真実へのいと口を見つけよ― こんなことがききたい 座談会日記(六) =機を責める?= ――記―提婆― 行方不明になる私 (1コマ漫画) 滋賀支部会館完成近し ―落成法会 明年二月二十五日、六日― コラム =ワシは 何処から来た?= 大導師合格者 (9月15日本部にて) 法友通信 (城端 一凡婦より) =ワシは 何処へ行く?= 親鸞会法話日程 社告 大法恩講 今月の金言 随行録 第十回教学検定試験成績(8月29日本部にて) 破邪 大喝 お前の考えは逆だ、反対だ 第十一回教学検定試験成績 (9月12日本部にて) 編集雑記 (KF) 第042号 S40/11/15 (1965) 一言説法 みそとくそを混同するな 「破邪顕正」と「そしること」を区別せよ ⑦あなうれし浮世にかゝる雲もなし =信 仰 体 験= 続”破邪顕正”号 再び横山氏の「邪」を正す (親鸞会青年部 S) ③全く読まれていない 九月号の顕正新聞 ⑤教そのものとねじ曲げられた教 と混同してはならぬ ⑧語らねばおれないまことの信心 ④生命をかけてなさった親鸞聖人や蓮如上 人の「外学外道の破邪」はそしることか (1コマ漫画) ①論難の手紙来舘 質問状 ②横山氏の手紙原文 ⑤教そのものとねじ曲げられた教 と混同してはならぬ ⑥あやういかな土蔵秘事 浄土真宗親鸞会 滋賀会館着々竣工 一女性氏の手紙原文 編集雑記 (KF) 第043号 S40/12/15 (1965) 一言説法 社説にかえて 一人々々のしのぎ こんなことがききたい 恒例大法恩講開催 ひたすら道を聞き開きまことのみ胸いたゞかん 歎異鈔講演愈々真髄に入る 会員の皆様へ 淨土真宗親鸞会 滋賀会館建設進む コラム =死なぬ赤ん坊= 雑毒の善 (2コマ漫画) 御仏の前で固く結ばれる 第十二回教学検定試験成績 (10月19日本部にて) 四十一年度本部会館法話日程 法友通信 (大阪 H) 今月の金言 大喝 金はガメツク儲けてきれいに使え 第二回大導師試験合格者 (10月27日本部にて) (富山 S) (岐阜 N) 第三回 かるた大会要項 体験発表 (Y) 編集後記 (N・S) 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 第044号 S41/01/15 (1966) 一言説法 社説 真宗の正しい御本尊はどれか 昭和41年 謹賀新年 元旦 第044号 S41/01/15 (1966) 年頭所感 五十一段高跳の年としよう こんなことがききたい 人面獣心の霊長類 己を知る者は人生の勝利者 今年も頑張ろう 青年部は顕正戦の 先陣に立って その大出血はオレの手で 止めて見せるぞ 苦界より楽界へは一足跳び (1コマ漫画) 今月の金言 コラム 縁なき衆生 午年に憶う 普通教学検定試験成績 (第十三、四、五回分) 難関突破 親鸞会始めての講師誕生 獲信こそが私の道 おじいちやんありがとう N 40.11.13 報恩講劇の一コマ (写真1枚) 法友通信 小矢部市 Y 新年の決意 導師合格者 豊田市 K 会館法話日程 大喝 無責任極まる新聞記者にもの申す お知らせ 一般会費改訂について 随行録 H生 編集後記 (N、S) 第045号 S41/02/15 (1966) 一言説法 会長先生十年来の大獅子吼 伏木勝興寺御満座 こんなことがききたい 御文章の味わい方(一) H 三人の妻 どの妻を 最も愛するか 41.1.3 カルタ大会少年部 (写真1枚) 第四回 親鸞会親睦旅行 今月の金言 普通教学検定試験成績 (第十六回) 法友通信 東京 K 大喝 「一文不知を手柄にしている奴」 社説 逆悪の機 二つの手錠 導師合格者 滋賀 I 大野支部輝かしい二連勝 第三回カルタ大会 コラム 「ヒマ」 滋賀 S 編集後記 (N・S) 号 数 1面 2面 3面 4面 016号~030号へもどる 031号~045号 046号~060号へすすむ