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アブハジア市場主義国へようこそ!! 革命により、アブハジア帝國へと国名変更しました。 管理人さんはよろしければこのページの削除をお願いします。 目次 アブハジア市場主義国へようこそ!! 革命により、アブハジア帝國へと国名変更しました。目次 設定 国名アブハジア市場主義国 特徴、歴史 政治 外交 経済 代表的な都市シェリピア ウルトラ カズイ 住民 文化 軍事 設定 国旗 国の標語 「自由競争によって「見えざる手」が働き、最大の繁栄がもたらされる」 国歌 制定中 公用語 アブハジア語 国家元首 チャンパ・リ・オール 首都 アニイドル 公式略称 アブハジア国、亜派国 英語国名 abhajior 通貨 シャ Æ 国名 アブハジア市場主義国 非人類であるアブハジア類が生活、統治している国だから。アブハジアは、"鳥類"の意 惑星内でいくつかの国が独立して存在する。体制は様々である。 惑星内の全ての国家がまとまって国際組織を構成している。これは他の惑星に対する外交機関も兼ねており、他惑星から見たアブハジア市場主義国はこれに相当する。 特徴、歴史 (写真)カイバー星系第5惑星ティティア カイバー星系第5惑星ティティアは、カイバー星系の惑星のうち、中心の恒星に5番目に近いものである。放射性元素による隕石の年代測定により、誕生してから約81億年経過していると推定される。ティティアの赤道面は、公転面に対して約18度傾いている。これによって非常に多彩な環境が生み出されている。地球表面の65%が海洋で、陸地は35%を占めている。 我々は翼で空を飛べるため、独特の文化がある。2万年ほど前までは、ティティアには2種の知的生命体が存在した。 知的で貧弱、そして空を飛べるアブハジア類、強靱な肉体とそこそこの知性を持ち、猛毒を分泌するルビジア(ルビジアは、"爬虫類ワニ目"の意)類。 2種族は血で血を洗う戦いを長年繰り広げ、ついにアブハジア類が勝利した。アブハジア類は勝利した後、残ったルビジア類の捕獲に専念した。 この際各地形ごとに自然と狩をするグループ同士の棲み分けが行われ、それぞれが独自の文化を創り、最終的に国家として成立した。 この段階まで1万6000年程度の時間を要したと考えられ、2種族の戦いがいかに長期にわたって続いていたかが伺える。 関連する歴史項目 ルビジア類(予定) 政治 市場主義。自由主義とも言う。市場からの徴税が国家予算のほとんどを占める。 外交 悲惨な災害を持ち込んだ人類に対して、少しの憎しみを感じている。だが、それが外交上に表れることは少ない。 所属組織・締結条約 経済 代表的な都市 シェリピア アブハジア内で最大の国家であるシェリピア国の首都 鳥口 1250万羽 ウルトラ 福都 鳥口 895万羽 カズイ 惑星最大のリゾート地 鳥口 895万羽 住民 文化 軍事 機密事項です。妙な気は起こさないで下さい。
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資本主義の覇者 5青青 クリーチャー・天使・スペルシェイパー 4/8 飛行 4青青・手札を一枚選んで捨てる・T:パーマネントひとつを対象とする。「押収」という名前の、「あなたはエンチャントされているパー マネントをコントロールする」という能力とエンチャント(パーマネント)を持つオーラ・エンチャント・トークンをひとつ、 そのパーマネントにエンチャントされた状態で場に出す。 金はものを言わない。ただ決定する。 36版63 イラストはマニー イラスト `,.(´ `)、´ /i, ミ;ソ;,、 ,ノ;彡 'i、 シ;;`i、 ミ;;´;;`i . /;) ノ `ミ ノ;`ヽ ヽ;イ ノ;;;;;´;;;;;;;~ヽ、 ミミ `i、 イ .,/ 彡 . ノ~;;;;;`;;;ヽ、 ヾ;;) ツ;;;ミミ;;;;;;;;;;;;` \ ゝリ ゙i, ,/;; ヘソ /;;;;;;;;;;;;;;;;;ミ;;ヾ ツ;;;ミリ `k ゝミ; ゙゙';. ミ; ヽ ノ 彡 ,.;'";;;,.,;;;;ミゝ;j ミ;ヾ ヾト ,.シ` ヽ,- 、 ミ;;;;;;円_円_;;;;,ノ、 ,,; ‐''´ヽ.、, ;シ シ ´``ー;;-;;;、,,\ ・∀・ \_,,;;-;;ー''´ ` ヾ ... 彡 ノ ノ;;;;;;;;_;;リ;;. ; ;;;;;;と v つ;;;;;; ; .;;ル;;_;;;;;;;;ヾ;;;ヾ ミ . 彡 ;;;リソ´ ´`''ー''"´ .| |、__)`''ー''"´` `ルミ ミ . ッ;;ソ;;;ハシ" シ /..(__/ ミ;;;;;;ヾ、 ゙゙シ ソ ヽ ノ;;) ヽ;;ミ" シ ミ 彡 i、 ゞソシ ノ' i ミ 彡 'i ,ノ ゙l; ミ 彡 ソ (;ツ λ ヽ;;ミ リ;;;ソ (;ノ ヾ` ノリ
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管理主義学者独裁体制は、1622年にケルスト・ユガウトラ・ウュス主席が実施した管理主義研究者執政法案を1694年にシューデン・ケーリフ・リウォーネンヒェン主席が強化し、国政を完全に研究者の手で掌握しようとする政策である。学者統治体系、学会制管理主義とも呼ばれる。 目次 管理主義学者独裁体制研究者独裁の機運 「国民選挙」の廃止 学会と省庁の分裂 関連項目 * 管理主義学者独裁体制 研究者独裁の機運 1622年にケルスト・ユガウトラ主席が管理主義研究者執政法案を実施してから、ジエールでは研究者が国政を掌握するべきであるとする思想が圧倒的な支持を受けていた。 1740年代、管理主義経済の安定化から、国内の研究者が大量に増え、シンテーア帝国では博士号取得率が66%となった。 それからより良い政治を行うには、考察に考察を重ねた研究者が意見を出し合うべきだという風潮が高まり、学会の地位が次第に高まった。 「国民選挙」の廃止 1680年代ともなると、シンテーア国民のほぼ100%が何らかの学会に属していた。 その後1694年、新主席シューデン・ケーリフは完全なる学者独裁をマニュフェストとし、改革を進めた。シューデンは選挙を学会での論文審査に移行させるべく政治工作を行い、学会の区分を改革した。科学的有用性、影響力から学会を公認学会と非公認学会に分け、公認学会に国政論文審査会を設置した。この改革により国民選挙廃止と、学会制統治の機運が高まり、ケルストの研究者執政法案から叫ばれていた大規模な憲法改正が実現した。これにより「国民選挙」が廃止され、「学会」が事実上の選挙となったのである。 国政論文審査会期間には候補者が政治状況と自身の研究、もしくは政治思想を組み合わせた論文を発表し、学会の中で党派を無視した公平公正な論文審査が行われる。議員は中立機関による検証を経て、議会に進出される。また自身の研究没頭する研究者は代理が議会に送ることが許可された。 一方で、ヴェルゼンなどの労働者地区では情報封鎖も相まって、労働者階級と学者階級の分断化が進み、これは1780年代あたりから深刻な状態になる。また、これが原因でジエール内戦が勃発することになる。 学会と省庁の分裂 代表者を選別する機関ともなった学会であるが、行政機関としての省庁として機能できなくなったた。そのため、自由な思想を用いて研究討論を進める学会と、政府からの指示を受けて政策を実行する省庁に分裂した。 関連項目 ジエールの政治 ジエール帝国連邦
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531 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 11 58 05 ID ??? 529 たまにマイやセレーネが活躍しだすパート20から過去ログ見直してたんだが アルはお姉さん系だけでなく ミネバやマリーメイアやプル姉妹やらメイ・カーウィンやら 同級生の敵系の女の子たちとも非常に仲がいい 間違いなくアムロ兄さんの弟です本当にありがと(ry 532 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 12 29 39 ID ??? 531 外見的にもアムロに一番似てないか? 最大の違いは ザ ク って事だが 533 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 01 40 ID ??? 796 名無し大佐 sage New! 09/06/28(日) 12 52 01 ID ??? 規制食らってるorzので、どなたか本スレへ代理投下をお願いします。 532 いや、外見面で一番長兄に似てるのはジュドーだろ。 天然パーマっぽい髪質とか眉毛とか顔の輪郭とか。 実際にも、カミーユとは逆でアムロのイメージを引き継いでデザインされてるし。 ぶっちゃけるとジュドーをデザインした人はその後すぐにCCAアムロをデザイン…。 性格は似てないところが多いが、年上の女性に構ってもらえるところは長兄似だ。 ジュドー「いや、ハマーン先生とかルーの構い方は、ハモンさんとかミライさんのアムロ兄さんへの構い方とはなんか全然違うから!」 アルは、見かけは長兄とはあまり似てないが、長兄が青い巨星のラルや元祖ザク格闘のドアンと親しいように、 サイクロプス隊とかガトーとかのジオンのおっさん連中にも可愛がられている。 なんという遺伝の濃さ、間違いなくアムロ兄さんの(ry 534 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 23 11 ID ??? マイ「逆に一途組の系譜が我が家にはあるのも、面白いところですね。 シロー兄さんを筆頭に、ドモン・シーブック・ヒイロ・ガロードと中々の面々です。 結構他の女性にも好意を向けられたりしているので、決してモテないわけではありませんが。」 コウ「ぼ、僕はどっちに入るんですか?」 マイ「あなたは特殊カテゴリです。交友関係がさほど広くないのに、アムロ兄さん並の女難を被っているのは、そうはいませんから。」 コウ「そんなオンリーワンは嬉しくないですよ(;つД`)」 アムロ「さらっと人をトラブルメーカーみたいに言うな」 535 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 33 41 ID ??? そういやスレ初期のガロードは結構今とも本編とも違う感じというかキャラが固まってない感じだったが 今思うと声優繋がりで最近連載再開した某GTOが混ざっていたのかもしれないと思った 536 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 35 55 ID ??? G ガロードは T とっても O 奥手 の略ですねわかります 537 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 53 51 ID ??? アーティストつながりで言ったら、L Arc~en~Cielにお世話なってる人多くね?GTOと種運命と 538 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 13 59 19 ID ??? アーティストといえば、ヒイロが出てるGLAYの歌があったよな 539 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/06/28(日) 14 07 30 ID ??? 535 初期はカオスだったな。ガロードだけじゃなく、他の兄弟も。 とは言っても、part1~part6まではほぼ一ヶ月で埋まっていたみたいだし、 キャラと言うか、ネタが固定していないから仕方なくね? part7位からは今みたいな純情少年がメインになっていたような気がする。
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アル「アムロ兄さん~ちょっと相談があるんだけど」 アムロ「む?なんだい、言ってごらん」 アル「最近メイちゃんとドロシーが喧嘩してるんだ」 アムロ「ふむ、何が原因なんだい?」 アル「よくわからないけど僕と遊ぶ資格って言ってたよ」 アムロ「………(アル…お前も俺の兄弟なんだな)」 アル「とにかく何とか解決したいんだ」 アムロ「わかった、俺が少し助言してこよう」 アル「アムロ兄さんありがとう」 ドロシー「アルの事をよく知らないあなたには無理よ!」 メイ「でもあなたよりもアル君の好きなことには詳しいわよ!」 アムロ「ちょっといいかな?」 2人「あ、アル(君)のお兄さん。こんにちは」 アムロ「君たち、アルが好きな女の子ってどんなタイプだかわかるかい?」 2人「えっ…わからないです」 アムロ「それはね…相手のことを傷つけない女の子だよ」 2人「あっ!!」 アムロ「まあ、僕もそんな女性が好きなんだ」 ドロシー「…ごめんね」 メイ「こっちこそ…ごめんなさい」 アムロ「じゃあ僕は帰るよ」 2人「あっ…ありがとうございました」 後日 アル「最近2人が仲がよくなったんだ」 アムロ「そうかい、よかったな」 オマケ編にいけるか? 463 名前:通常の名無しさんの3倍投稿日:2008/07/10(木) 07 52 56 ID ??? アムロ兄さんに名誉挽回させようと思って… 344のオマケ編 アル「アムロ兄さん~女の子と遊ぶコツって何かな?」 アムロ「やっぱり自分から引っ張っていくことだ」 アル「そうなの?」 アムロ「いざという時は自分が守らないといけないんだよ」 アル「うん、わかったよ」 アムロ「ふむ…どうやら順調に進んでるな」 ロラン「不安だからってストーカー紛いなことは止めましょうよ」 アムロ「む…いかん!不良に絡まれてる!」 不良「おいガキ!ぶつかっといて謝らないとはいい度胸だ!」 ドロシー「ご、ごめんなさい」 不良「えぇっ!!聞こえないな!」 不良はドロシーの手を掴んだ! ドロシー「きゃ!!は、離してよぉ!」 アムロ「いかん!助けに…アル!?」 アル「…ど、ドロシーを離せぇ!!」 突撃するアル…不良は不意をつかれて倒れる… アル「さぁ、逃げよう」 不良「まて!このが…誰だおまえはぁ!どけ!」 アムロ「俺かい?通りすがりの正義の味方だよ」 ロラン「小学生相手にキレるなんて!」 不良「ひっ、ひぃぃぃ!!」 アル「大丈夫?ケガはない?」 ドロシー「あ、ありがとう。ケガはないわよ」 アル「なら大丈夫だね」 終わり
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「動くんじゃねぇ――!! 俺の間合いだ! チラッとでもスタンドを出して見やがれ、 その瞬間、問答無用でドタマをブチ抜くぜ!!」 と叫んでから思ったが、突然の遭遇とは言え、銃を向けて焦りまくりの三下台詞。 ハッキリ言って『格好悪い』ぜ。このホル・ホースにはもっとクールな態度が似合うって 言うのによ。 教会の出来事の後、なぜか俺はホテルの一室にいた。色々と考えるには絶好の場所かも 知れないが室内は真っ暗。窓から見える景色も同様だ。日本は停電が少ない国って聞いて いたが実際は大した事ねぇな。たぶん荒木とかいうヤツが電気を止めたんだろうが。 幸いポケットに入っていたライターで視界を確保したが、地図を広げるのも難儀な状態だ。 だから俺はさっさと部屋の外に出たって訳よ。外からライターの明かりを見つけられても いけねぇし、室内で襲われたら逃げ場がねぇからな。ちゃんと『警戒』はしてたんだぜ。 だが本当にドアを出た途端に狙撃銃を持ったオッサンに出くわすとは思わず、我ながら 『格好悪い台詞』を吐いちまった。チクショー、十数秒で良いから時間を巻き戻して クールにやり直してぇ。 目の前(5m程だが)にいるのは身なりの整った男だ。狙撃銃の銃口を向けてやがる。 咄嗟に銃を構えたって事は戦闘型のスタンドじゃないかもしねぇ。油断は出来ないが。 その向こうに半開きのドアが見えた。どうやら隣の部屋から出てきたらしい。オイオイ、 まさか各部屋に割り振ったんじゃねぇだろうな。旅行ツアーじゃねぇんだぞ。 「だからと言って君も無差別殺人などする気はないのだろう? 私も突然の事とは言え 君に銃口を向けてしまった。非礼を許して欲しい」 「勝手に決め付けて謝ってんじゃねぇ――!」 男は俺の三下台詞に対してスタンドを出すどころか、軽く会釈した上に銃口を下げや がった。争う意思がない事を示したつもりだろうがトンだ甘ちゃん野郎だ。それとも 実力に裏付けされた自信なのか。経験から言えば後者だ。不安がある奴ほど騒ぎ立てる ってもんよ。……ああ、不安だよ。悪かったな。 「ゲームに乗るという事は、自分以外の全員を敵にするという事だ。相手を殺せる優位な 状態でも警告したのは『相手次第では協力できる』と思っているからではないのかね?」 落ち着いた口ぶりで正論を吐きやがる。確かに俺は撃たなかった。もしコイツじゃなく DIOや条太郎だったら正面からじゃ勝負にならねぇからだ。教会に集まったスタンド使い 全員を一人で倒すなんざ不可能。半分が同士討ちをするとしてもジョースター達のように 徒党を組まなけりゃ対処すらできない。最終的に一人勝ちを狙うか荒木のスタンドから 逃げ出すかはともかく、生き残るには信頼できる仲間……利用できる仲間が必要だ。 俺は元々個人ではなくコンビを組んで真価を発揮するタイプだしな。 「だからってテメーと協力するかは別問題だと思わねぇか?!」 「ではどうする? 出会う者全てに引き金を引くというのならば、私は君を止めねば ならない。なぜなら私には守るべき息子達がいる。そして荒木という者の非道も見過ごす わけにはいかない。力の差があろうと無かろうと『そんな事』は問題ではないのだ。 大切なのは強い意思、己の正義に対する『誇り』。君は如何なる『誇り』を持ってその 引き金を引くのかね?」 説教臭い演説を聞いて俺が理解したのは、こいつが『化石みたいに古臭い正義感』の 持ち主だって事だ。『正直者は馬鹿を見る』って言葉を知らない人種はどこにでもいる。 こういうヤツは少なくとも『背中から撃つ』人種じゃない。『背中から撃たれる』人種だ。 俺は『皇帝』をクルクルと指で回して華麗にホルスターへ収めた。普通に消しても良いが、 格好良いって事は大事な事なんだ。 「分かったよ。勝算も無いのに孤軍奮闘するほど馬鹿じゃねぇ。手を組もうじゃねぇか。 俺の名はホル・ホース。俺の経験上、アンタは信用できそうなタイプだ」 利用し易そうなタイプとも言うがね。わざわざ目の前に敵を作る必要はない。さっさと 話をまとめて場所を変えたいって事もある。ウダウダしてたら別のドアから次のヤツが 出てくるかも知れねぇし、次も話の通じるとは限らねぇ。避けられるリスクは避けておく のがクールな大人ってヤツだ。こいつのスタンドは不明だが狙撃銃とのコンビだけでも 『皇帝』の戦闘力は跳ね上がるってもんよ。 「君の聡明な判断と『誇り』に感謝する。遅くなったが私はジョージ・ジョースターと いう者だ」 今、なんつった? 俺の聞き間違いか? 「ジョ、ジョースターだとぉ―――――!!!」 「そんなに驚かれるほど有名な家名ではないはずだがね」 ジョージ・ジョースターなんて初耳だが、外見からすれば3、40才。ジョセフの息子 あたりが相場か。よく見れば顔つきも似ていやがる。間違いない。もしかしたら条太郎の 親父の可能性すらある。もし戦っていたら俺は殺されていたかも知れねぇ。危なかったぜ。 そしてジョースターの関係者なら(たぶん)さっきの言葉に偽りは無いだろう。 それにDIOに差し出せばゴマもすれるし、条太郎達に遭遇したときでも交渉の道具になる。 上手く運べば奴らも味方に着けられる知れねぇ。ヘヘ、初っ端から運が向いてきたぜ。 日頃の行いが違うってヤツだな。 「どうかしたのかね? 驚いたり、笑ったり……」 「何でもねぇよ旦那。とりあえず立ち話もなんだから場所を変えようや」 「旦那……?」 【杜王グランドホテル(10階)・一日目 深夜】 【零代目ジョジョ(?)チーム】 【ジョージ・ジョースター1世】 [スタンド] なし [時間軸] ジョナサン少年編終了時 [状態]:健康 [装備]:狙撃銃 [道具]:支給品一式(狙撃銃の予備弾) [思考]:1)出来る限り争いを阻止する 2)危険人物相手には実力行使もやむ得ない 3)荒木の打倒 4)ジョナサンとディオの保護 【ホル・ホース】 [スタンド] 『皇帝』 [時間軸] エジプトでDIOに報告した後 [状態]:健康 [装備]:なし [道具]:支給品一式(ライター) [思考]:1)出来るだけ戦わずにやり過ごしたい 2)利用できる味方を増やしたい 3)とにかく生き残りたい 投下順で読む 前へ 戻る 次へ 時系列順で読む 前へ 戻る 次へ キャラを追って読む ジョージ・ジョースター1世 24 賢者の真実、愚者の嘘 ホル・ホース 24 賢者の真実、愚者の嘘
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前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。
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平和主義国のラジオ局。ラジオ新都のラジオ部門が分割されて設立した。 種類 株式会社 市場情報 非上場 本社所在地 〒000-0001 新都府中央区大町5丁目1-8 首都センタービルディング30階 業種 不動産業 事業内容 不動産事業・テーマパーク事業 代表者 秋田 暢彦 資本金 1億円 売上高 従業員数 199人(連結) 主要株主 社員 100%
https://w.atwiki.jp/zenmaitako/pages/346.html
《ブロンズ・ドラゴンの血統》[ドラゴンの末裔]Bronze Dragon Lineage 君は祖先のブロンズ・ドラゴンの血を呼び起こし、秘術のエネルギーを利用して敵を追い払うことができる。 前提条件: 《ドラゴンの末裔:ブロンズ》、ソーサラー3レベル。 利益: 1即行アクションとして、君は秘術呪文スロット1つを消費して、近くにいる敵を君から遠ざけることができる。君から30フィート以内にいるそれぞれの敵は、最低でも君から5フィート(1マス)は離れるように移動することで次のターンを開始しなければならない。その敵が、移動を開始したマス目から君より遠ざかる方向に移動する限り、移動の方向は問題とならない。その敵が5フィート・ステップとして移動を行ったのでない限り、この移動が機会攻撃を誘発することは通常通りである。意志セーヴ(難易度10+呪文スロットのレベル+君の【魅力】修正値)に成功すればこの効果を無効化できる。これは[精神作用]の心術(強制)効果である。 ドラゴンの末裔特技 ドラゴンの末裔特技は、ソーサラーにドラゴンの祖先の血脈に由来する能力を与えるための選択肢として、『秘術大全』で紹介されたものである。この本ではドラゴンの末裔特技の幅を拡張し、またドラゴンの血筋を引く他のキャラクターにもいくつかのドラゴンの末裔特技の前提条件を満たすことができるようにするものである(そうした特技すべてについて、彼らが最初に《ドラゴンタッチト》の特技を修得することで条件を満たすことができる)。 ドラゴンの末裔特技は、クリーチャーを根本的に異なる存在に変えるものではないが、彼らにある種の能力を与えたり、潜在能力を開花させたりすることができる。原点となるドラゴンの末裔特技、《ドラゴンの末裔》は、『Races of the Dragon』において若干の変更が加えられたが、その変更版をここに再録している。 出典: 『Dragon Magic』p.16 関連項目 特技
https://w.atwiki.jp/wiki11_library/pages/328.html
書籍ライブラリ 経済・自由・平等 マクロ経済 《│新ケインズ主義の時代│》 新ケインズ主義の時代 ―国際経済システムの再構築 Robert Kuttner(ロバート・カトナー) 佐和 隆光 , 菊谷 達弥 (翻訳) 内容(「MARC」データベースより) 冷戦終結によって、覇権国の重荷から解放されたアメリカは、自由放任主義を捨てるべきだ。アメリカ経済の立て直しと世界経済の活性化を同時に達成する方策を提言する。 2007.11 引用の引用。序文よりジョン・メイナード・ケインズ『自由放任主義の終焉』,1926意識的な私的利益の追求が常に公益の枠の中でなされるということが、経済学の原理から導かれるというのは誤りである。・・・現代の大きな経済的害悪の多くは、経済リスク、不確実性、無知からもたらされたものである。境遇や能力に恵まれた特定の個人が、不確実性や無知に乗ずることができるからであり、また同じ理由で、巨大企業がしばしば運を支配して、富の不平等をもたらすからである。こういった要素はまた、失業の原因となり、まっとうな企業の期待を打ち砕き、生産の効率性を損なう。だがこれに対する治癒薬は、個人の活動の埒外にある。病状を悪化させることが個人の利益となることさえあるからだ。 序論 生産の海外移転は市場の論理が働いた結果であり、たとえそれが世界市場の見えざる手ではなく、他国の産業政策によって導かれたものであるにせよ、・・・ 詳細 単行本 462ページ 出版社 日経 (1993/09) ISBN-10 453214230X ISBN-13 978-4532142308 発売日: 1993/09 amazonリンク 新ケインズ主義の時代―国際経済システムの再構築 ご感想などお寄せ下さい。 お名前 コメント