約 1,312 件
https://w.atwiki.jp/minnasaba/pages/1127.html
【元ネタ】史実 【CLASS】アサシン 【マスター】 【真名】望月千代女 【性別】女性 【身長・体重】128cm・22kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷A+ 魔力A 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 気配遮断:B サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。 自らが攻撃態勢に移ると気配遮断のランクは大きく落ちる。 【固有スキル】 指南の心得:B 数百人の孤児や捨て子をくノ一を育て上げた教導手腕。 対象の才能を見極めたうえで隠れたスキルを対象に習得させる。 ランクBなら自らの持つ技能であればそのままの習熟度で習得させる事も可能。 望月千代女は忍術、巫術に精通しており、草莽に解け込む広範な知識を有している。 諜報:A このスキルは気配を遮断するのではなく、気配そのものを敵対者だと感じさせない。 七変化や五車の術などの忍法と、天性の人的魅力を利用した潜入能力。 正体を見破らない限り、敵対していることに気付くのは不可能である。 房中術:A 性交渉を基点とした、仙術に属する魔術体系の一種。 望月流は歩き巫女の護身術として、異性の気を奪い無力化する技術を授けている。 極めれば内気功を律し年齢操作も可能となる。 【宝具】 『軍荼利尼咒法(クンダリニー・ヨーガ)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:2人 房中術の真髄。衾を共にして相手を識る和合の極地。 双修派内丹術を用いて一方的に気を奪い取る玉女採戦の応用である。 体交法ならば、体を重ねた際に相手の記憶や技能を吸収し 神交法ならば、離れた相手と精神を重ね合わせ、情報の受け渡しを行える。 性感を昂ぶらせながら精を漏らさず、自身の気を増幅させる還精補脳の秘術が 根幹にあるため、ドレインを回避するには並外れた耐久の高さが必要となる。 【Weapon】 『歩き巫女』 諜報活動の基盤となる草(下忍)を各地に配置している。 それぞれが歩き巫女として巫術や忍術の手解きを受けており、 Bランクの房中術スキルを有するが、軍団ほどの戦力は持っていない。 自動的に情報を集め、専用の符号で伝達を行う。 【解説】 甲賀五十三家の筆頭、甲賀望月氏の姫君。 武家望月氏を始祖とする近江国の地侍で、甲賀上忍の家柄。 武田信玄の甥で望月城城主・望月盛時に嫁入りした。 永禄四年、川中島の戦いで夫が討死し、若くして未亡人となった後、 武田信玄にくノ一としての腕を買われ甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任じられる。 戦乱の世で、孤児や捨て子となった少女達数百人を集め 信濃小県郡祢津村古御館に開いた「甲斐信濃巫女道」と称した修練道場で、くノ一の養成を行った。 忍術や護身術の他、色香で男を惑わし情報収集する方法などを教え、 巫女として諸国を往来できるよう呪術や祈祷、調伏、口寄せの修業も積ませた。 隠れ蓑の術など現代に知られる忍術の一部は、この際に広まったものとされる。 一人前となった巫女達は全国各地に送りこまれ、 彼女達から知り得た情報を集め武田信玄に伝えたと言われており、武田家の情報収集に大きな役割を果した。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/764.html
thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]] 天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは謚号。 古代から世襲により受け継がれた日本の君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。 「天皇」の由来 「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。 古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」から採ったという説。 唐の高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。 はじめて採用されたのは推古朝という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。 称号の変遷 国内での天皇の称号の変遷について説明する。 古代 天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。「てんのう」の読みは「てんおう」の連声による明治期の変化。 中世 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。自称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武から持統天皇までの41代、及び元明・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。 平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると法皇とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。 明治以降 大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。 現在 なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「お上」「聖上」などの婉曲表現で呼ぶことはまれである。 一部の出版物及び印刷物において、敬称を用いない三人称に「○○(元号)天皇」(例:「平成天皇」)という称号が用いられる事も多い。これは、戦後、存命中の昭和天皇を「今上天皇」と表現せず「昭和天皇」と表記した事が始まりとされる。本来ならこれは諡号になるが、存命中に使用しても間違いとはされていない。 海外での呼称 英語における呼称 英語における天皇を意味する言葉は、原則として大文字の E を用いたEmperor である。定冠詞(the)を付ける場合もあるが、その場合でも大文字の E という原則は崩れない(固有名詞扱いであるため)。天皇を言及する際に用いられる尊称は His Majesty であるが、His Imperial Majesty と記すこともあり、また略してH.M. と記す場合もある。天皇は男性であるため、Her Majesty は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M. である。「~天皇陛下」という場合、正式には His [Imperial] Majesty (the) Emperor の後に名前を記す。天皇皇后両陛下という場合は、Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress となる。天皇に対する呼びかけは一般的に Your [Imperial] Majesty で、「皇帝としての威厳」に対して呼びかけるという形式になる。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、His/Her Imperial Highness であるが、この場合はImperial は省略できない。 歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。 朝鮮半島と天皇の呼称 Template see also? 朝鮮半島は長く中国歴代王朝の属国として存在しており、朝鮮半島が属していた中原王朝では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため朝鮮ではこのように天皇家の皇や帝を称することを認めず「倭王」「日本国王」等の称号を用いたりした。近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、新たに大日本帝国の従属下に入った事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。朝鮮半島独立後は徹底した反日教育により、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。 朝鮮半島においては、戦後から一貫して教育現場、マスコミにおいて、日本を華夷秩序に基づいた蔑称で「倭」で呼ぶのが一般的であり、天皇の呼称も例外ではない。現在世界において、一国の元首を侮蔑した表記で記述、報道しているのは朝鮮半島の国家のみである。 この原因として韓国の「小中華主義」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。 天皇の配偶者の称号 明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。 明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。 明治維新以前 皇后 中宮 女御 更衣 夫人※上記の名称が出来る前の配偶者の名称 大正天皇以降 皇后 天皇家の姓氏 天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号とされており、苗字には当たらない。。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。 しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前進)は、姓を有していたとされている。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店 岩波新書 、1997、ISBN 4004305101。吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店 角川選書 、2005、ISBN 4047033731。など。また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする考えもあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする見解が支持されている吉田前掲。。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説が有力となっている吉村前掲。。 吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている吉田前掲。。 天皇の皇位継承 Template main? 明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照 皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承、あるいは帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(日本国憲法第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。()」とある。 憲法の規定 日本国憲法と大日本帝国憲法での天皇の規定について説明する。 日本国憲法における天皇 現在において天皇は、日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法においては、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられ、憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。 天皇の地位 天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、これは主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。 天皇が日本国憲法の下における「元首」であるのか否かについては議論があるが、日本国憲法に元首について何ら記載がないこともあり、元首という用語の定義如何で元首であるかどうかの結論が異なるとされることが多い。 天皇は、諸外国からは元首としての扱いを受けている。オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているので、日本国内で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。 天皇の国事行為 天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為のみを行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下のとおり。 国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。 内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。 憲法改正、法律、政令及び条約の公布。 国会の召集。 衆議院の解散。 国会議員の総選挙の施行の公示。 国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。 外国への全権委任状、大使、公使の信任状の認証。 大赦、特赦、滅刑、刑の執行の免除及び復権の認証。 栄典の授与。 批准書、外交文書の認証。 外国の大使、公使の接受。 儀式を行うこと。 これらの天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う。(輔弼と同義) 大日本帝国憲法における天皇 Template main? 大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。 法文を素直に解釈すると大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。 天皇の地位 大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。 天皇の大権 大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。 天皇は国の元首にして統治権を総攬する。 天皇は陸海軍を統帥する。 天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う。 国務大臣は天皇を輔弼する。 司法権は天皇の名に於いて法律により裁判所が行う。 衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。この構造が昭和に入ってから軍部に大きく利用されることとなり、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。 神道と天皇 天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は「国家神道」、「国体」を参照。また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっていたが、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめ、仏教とは疎遠となった。 これ以後の内容は天皇-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 12 01。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/108.html
大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871年に、薩摩・長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の「御親兵」である(正式に陸軍省が発足するのは1872年2月の兵部省改組による)。この兵力を背景にして廃藩置県を断行した。御親兵はその後「近衛」と改称された。その時点では士族が将兵の中心であったが、陸軍としては徴兵制による軍備を目標としていた。 この創成期の帝国陸軍建軍では大村益次郎が兵部省兵部大輔として主に兵制の基礎を構築し、士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を目指した。不幸にして大村が暗殺されると、その後を山県有朋が承継して1874年1月に徴兵令を発布し同年4月に東京鎮台に初の徴兵による兵卒が入営した。 しかし、近衛は徴兵制を武士を冒涜するものと不満を募らせ、征韓論による西郷隆盛の下野を機に将校兵卒が大量に辞職した。当初は専ら国内の治安維持、叛乱勢力の鎮圧(佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争ほか)などを担った。当初、兵部省は1871年(明治4年)に東京・大阪の2個鎮台を置き、遅れて鎮西鎮台、東北鎮台を設置した。 陸軍省と改まった2年後の1873年(明治6年)には全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置き、反乱士族の鎮圧などに当った。1888年(明治21年)に6個鎮台はそのまま師団に改変されて第1ないし第6師団が置かれ、近衛は近衛師団となり禁闕守護を任務とすることとなった。 外征の開始 1874年(明治7年)の台湾出兵以降、徐々に外征軍としての性格を色濃くするようになり、1888年(明治21年)には、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団制への改組を行った。 1894年(明治27年)の日清戦争開戦時には、常設師団は7個であったが、戦争後の1898年(明治31年)に常設師団6個師団(第7ないし第12師団)が増設された。日露戦争では全ての師団が戦地に派遣されたため、内地に残留する師団がなくなってしまった。そこで、日露戦争中の明治38年4月に4個師団(第13師団ほか)が新編された。国運を賭して行われた日露戦争の奉天会戦における勝利を記念して陸軍記念日が制定された。 日韓併合後は、旧大韓帝国軍人を朝鮮軍人として編入した。また、日韓併合後は朝鮮半島防衛のため2個師団を交代で朝鮮半島に派遣していたが、辛亥革命後の中華民国の混乱から警備強化の必要性が高まり上原勇作陸相は2個師団の増設を西園寺公望首相に求め、その混乱から西園寺内閣は結果的に倒れることとなる。その後、陸軍省の要求が通り、1915年(大正4年)に朝鮮半島に衛戍する2個師団(南部に第19・北部に第20師団)が編成されることに決まった。 軍縮期 その後、世界的な軍縮の流れに従って山梨半造陸相及び宇垣一成陸相の下で3次にわたる軍縮(山梨軍縮及び宇垣軍縮)が行われて、4個師団(第13師団・第15師団・第17師団・第18師団)が廃止され、平時兵力の3分の1が削減された。 宇垣軍縮では、同時に陸軍の近代化を目指しており航空兵科が新設されるなどしたほか、平時定員を減らしつつ有事における動員兵員数を確保するため、学校教練制度を創設して中学校等以上の学校に陸軍現役将校を配属することとした。 昭和期 昭和期には統帥権の独立を掲げ、政府の統制を逸脱して独断専行の行動が顕著になる。また二・二六事件以降の「軍部大臣現役武官制」を盾に倒閣を繰り返すなど政局混乱の原因をつくり、日中戦争から太平洋戦争に至る無謀な戦争へと突き進んだとの批判を受けることが多い。ソ連を仮想敵国としてとらえて作戦計画を立案し、しばしば海軍と衝突した。満州事変、盧溝橋事件を経て中国大陸へ大量に派兵した。 日中戦争の長期化・戦線の拡大に伴い師団の増設が相次ぎ、1937年(昭和12年)からは留守師団を元に百番台の特設師団が設けられるなどした(第101師団など)。また、1940年(昭和15年)8月から8個常設師団が満州帝国に永久駐屯することとなった。さらに、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には本土決戦に備えて大量に急造の師団が増設された。規模が拡大したため、軍の上に方面軍や総軍が設けられるに至った。 陸軍の解体 太平洋戦争では歩兵部隊を主力に、戦車部隊や航空隊を南方に派遣したが、多くを失った。ポツダム宣言受諾後、戦闘行動を停止した各地の陸軍部隊は、それぞれその地区を管轄する連合国軍に降伏し、その管理下で復員業務に従事することとなった。 そして、陸軍省も第一復員省、復員庁に改組され、その後陸海軍の残務処理は厚生省、後に厚生労働省が担当することとなった。なお、陸軍病院については、軍医とともに国立病院(現・国立病院機構)へと移管され、国営医療機関として現在まで続いている。 海軍は、掃海業務を担当する航路啓開隊として一部が存続されたのに対して、陸軍は徹底的な解体が行われ、近衛師団も復員後に禁衛府皇宮衛士総隊として存続が図られるが、すぐに解体されてしまった。 陸上自衛隊との関係 帝国陸軍解体後に創設された警察予備隊の警察官には公職追放を受けた正規将校を除く、旧陸軍出身者も採用されたため、陸上自衛隊には、旧陸軍の習慣・伝統も一定度継受されている面はある(陸上自衛隊制式行進曲である陸軍分列行進曲(抜刀隊)や、愛馬進軍歌や空の神兵といった当時の軍歌軍楽等)。 しかし、創設時の風潮であった陸軍悪玉論や陸軍の復古を懸念したアメリカ軍側の圧力もあり、公式には伝統の継承を断絶している。陸上自衛隊は、アメリカ陸軍の影響が強く、姿勢を正す際の手の握り等、旧陸軍と異なる服務、礼式を採用している。 ちなみに海上警備隊(後の警備隊、海上自衛隊)では、操艦に熟練が必要だったことから、海軍出身者を大量に採用した。 軍閥・軍国主義思想 1878年(明治11年)8月に、精鋭である筈の近衛砲兵が反乱を起こすという竹橋事件が起こり、政府に衝撃を与えた。また、自由民権運動の影響を陸軍が受けることを防ぐために、軍人勅諭が出された。ここでは「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」の徳目を掲げると共に、その中で政治不干渉を求めていた。 しかしながら、陸軍軍人の中核を占める陸軍士官は、陸軍省職員として官僚機構の側面も有しており、古くは薩摩藩・長州藩等出身の将校らとその他の藩又は幕府出身の将校らとの対立があったとされる。また、陸軍士官学校・陸軍大学校という近代的士官教育制度確立後は、兵科間であるとか、陸軍大学校を経たエリートたる中央幕僚(陸軍大学校卒業徽章が天保通宝に似ていることから天保銭組と俗称された)と隊付将校(無天組)との間であるとか、派閥間の思想又は人事上の対立(皇道派・統制派の対立)など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。 また、関東軍など、外地に所在する現地部隊が、中央の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。そのため、「スマートネイビー」を標榜とする海軍とは、偏った陸軍悪玉海軍善玉論等に影響され対照的にイメージされやすく、日本陸軍に対する悪い印象は一般的である。また、映画などでも陸軍将校の横暴が描かれることが多い。 最後の陸軍大臣下村定大将は敗戦後の第89回帝国議会において、斎藤隆夫代議士からの質問に対して、日本陸軍を代表して問題点を総括している(昭和20年11月28日)。「軍国主義の発生に付きましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考へ方を過つたこと、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かつたこと、是が根本であると信じます、……或る者は軍の力を背景とし、域る者は勢ひに乗じまして、所謂独善的な横暴な処置を執つた者があると信じます、殊に許すべからざることは、軍の不当なる政治干与であります(拍手)……私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じて此の点に付き全国民諸君に衷心から御詫びを申上げます……此の陸軍の過去に於ける罪悪の為に、只今斎藤君の御質問にもありましたやうに、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、殊に幾多戦歿の英霊に対して深き御同情を賜はらんことを、此の際切に御願ひ致します(拍手)」(「……」は省略部分) これが、陸軍解体直前の陸軍大臣による総括であった。このように、陸軍指導者が軍人としての正しい振舞い方を誤り、また軍人勅諭でも禁止されていた政治関与を行ったことを、国民に対して明確に謝罪するとともに、全ての軍人が誤ったわけではなく、純忠なる軍人もいたことを否定しないように請願して演説を終えた。 制度 階級(昭和19年-廃止時) 陸軍軍人の階級(昭和19年8月10日-廃止) 階級 兵科 各部 技術部 経理部 衛生部 獣医部 軍楽部 法務部 憲兵 主計建技 軍医薬剤歯科医衛生 獣医獣医務 法務法事務 大将 陸軍大将 中将 陸軍中将陸軍技術中将陸軍主計中将陸軍建技中将陸軍軍医中将陸軍薬剤中将陸軍歯科医中将 陸軍獣医中将 陸軍法務中将 少将 陸軍少将陸軍技術少将陸軍主計少将陸軍建技少将陸軍軍医少将陸軍薬剤少将陸軍歯科医少将 陸軍獣医少将 陸軍法務少将 大佐 陸軍大佐陸軍憲兵大佐陸軍技術大佐陸軍主計大佐陸軍建技大佐陸軍軍医大佐陸軍薬剤大佐陸軍歯科医大佐 陸軍獣医大佐 陸軍法務大佐 中佐 陸軍中佐陸軍憲兵中佐陸軍技術中佐陸軍主計中佐陸軍建技中佐陸軍軍医中佐陸軍薬剤中佐陸軍歯科医中佐 陸軍獣医中佐 陸軍法務中佐 少佐 陸軍少佐陸軍憲兵少佐陸軍技術少佐陸軍主計少佐陸軍建技少佐陸軍軍医少佐陸軍薬剤少佐陸軍歯科医少佐陸軍衛生少佐陸軍獣医少佐陸軍獣医務少佐陸軍軍楽少佐陸軍法務少佐陸軍法事務少佐 大尉 陸軍大尉陸軍憲兵大尉陸軍技術大尉陸軍主計大尉陸軍建技大尉陸軍軍医大尉陸軍薬剤大尉陸軍歯科医大尉陸軍衛生大尉陸軍獣医大尉陸軍獣医務大尉陸軍軍楽大尉陸軍法務大尉陸軍法事務大尉 中尉 陸軍中尉陸軍憲兵中尉陸軍技術中尉陸軍主計中尉陸軍建技中尉陸軍軍医中尉陸軍薬剤中尉陸軍歯科医中尉陸軍衛生中尉陸軍獣医中尉陸軍獣医務中尉陸軍軍楽中尉陸軍法務中尉陸軍法事務中尉 少尉 陸軍少尉陸軍憲兵少尉陸軍技術少尉陸軍主計少尉陸軍建技少尉陸軍軍医少尉陸軍薬剤少尉陸軍歯科医少尉陸軍衛生少尉陸軍獣医少尉陸軍獣医務少尉陸軍軍楽少尉陸軍法務少尉陸軍法事務少尉 准尉 陸軍准尉陸軍憲兵准尉陸軍技術准尉陸軍主計准尉陸軍建技准尉 陸軍衛生准尉 陸軍獣医務准尉陸軍軍楽准尉 陸軍法事務准尉 曹長 陸軍曹長陸軍憲兵曹長陸軍技術曹長陸軍主計曹長陸軍建技曹長 陸軍衛生曹長 陸軍獣医務曹長陸軍軍楽曹長 陸軍法事務曹長 軍曹 陸軍軍曹陸軍憲兵軍曹陸軍技術軍曹陸軍主計軍曹陸軍建技軍曹 陸軍衛生軍曹 陸軍獣医務軍曹陸軍軍楽軍曹 陸軍法事務軍曹 伍長 陸軍伍長陸軍憲兵伍長陸軍技術伍長陸軍主計伍長陸軍建技伍長 陸軍衛生伍長 陸軍獣医務伍長陸軍軍楽伍長 陸軍法事務伍長 兵長 陸軍兵長陸軍憲兵兵長陸軍技術兵長 陸軍衛生兵長 陸軍軍楽兵長 陸軍法事務兵長 上等兵 陸軍上等兵陸軍憲兵上等兵陸軍技術上等兵 陸軍衛生上等兵 陸軍軍楽上等兵 陸軍法事務上等兵 1等兵 陸軍1等兵 陸軍技術1等兵 陸軍衛生1等兵 2等兵 陸軍2等兵 陸軍技術2等兵 陸軍衛生2等兵 大将が方面軍司令官、中将が軍司令官・師団長、少将が旅団長、中将・少将が各種学校長、大佐が歩兵連隊長、中佐が騎兵・戦車連隊長、少佐が大隊長、中佐・少佐が飛行戦隊長、大尉・古参中尉が中隊長、中尉・少尉が小隊長・連隊旗手、軍曹・伍長が分隊長を担当。 准尉は特務曹長を改名したものであリ、厳密に言えば将校と下士官の間の階級である為、必ずしも将校・尉官には該当しない(准士官参照)。 組織 天皇 部隊 部隊は総軍、方面軍、軍、師団及びそれを構成する歩兵旅団、歩兵連隊並びに砲兵部隊、騎兵部隊、工兵部隊等の特科部隊からなる。通常は衛戍地にあって警備等を担当している。 参謀本部 陸軍大学校 陸地測量部 陸軍省 教育総監部 陸軍士官学校 航空総監部 特務機関 在外公館附武官(駐在武官) 元帥府 軍事参議院 侍従武官府 皇族付武官 将校生徒試験委員 なお、陸軍の首脳3名たる陸軍大臣、参謀総長及び教育総監を総称して陸軍三長官ともいう。 徴募・生活 兵卒は、徴兵令、後には兵役法に基づき、徴兵制度により充足された。兵卒の徴兵制度については日本軍の兵や帝国陸軍身体検査規則参照。また、兵卒や営内居住の下級下士は内務班に属した。大部分の歩兵にとって、基本的な部隊は中隊となる。 将校は、建軍期には明治維新を推進した藩出身の士族が中心となっていたが、藩閥による恣意的な登用を避け、近代的な陸軍将校養成制度を確立するために陸軍士官学校が設立されて以降は、基本的には士官学校出身者を以て基本的に将校を補充していた。なお、初期には陸軍教導団を経て下士に任官した後に陸軍士官学校へ入学する途もあり、武藤信義元帥など教導団出身の将星も輩出された。 英国海軍の影響で貴族趣味と評された海軍と異なり、皇族を除けば、学歴差別などの特別待遇はほとんど存在しなかった。そのその顕著な例が徳川慶喜の孫である徳川慶光公爵である。彼は二等兵として二度招集されたが、特別待遇はなく、一兵卒として中国を転戦した。幹部教育においても海軍兵学校生徒が最初から上級下士官待遇を与えられて、下士官・兵とは断絶した教育を受けたのに対し、陸軍士官学校生徒は兵卒としての階級からのスタートであり、卒業して見習士官で部隊に配属されてようやく曹長、その後ようやく少尉任官ということになった。 このような環境であったたので、徴兵によって召集された者でも、低学歴者が実力で下士官に昇進する一方、大学出が二等兵としてこき使われるということが日常茶飯事であり、戦後になって前者が陸軍生活に郷愁を感じる反面、後者が徴兵体験を屈辱と感じて体験記等を世に出し、世間の反陸軍イメージの形成に一役買う一員となった。 参考文献 森松俊夫『図解陸軍史』(建帛社・1991年9月) ISBN 4767985080 『日本陸軍指揮官総覧』(新人物往来社・1995年1月) ISBN 4404022549 太平洋戦争研究会『図説日本陸軍』(翔泳社・1995年7月) ISBN 4881352636 米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社・1998年4月) ISBN 476980833X 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』(芙蓉書房出版・2001年2月) ISBN 4829502738 太平洋戦争研究会『日本陸軍がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 4569577644 黒野耐 『帝国陸軍の“改革と抵抗” 』(講談社 2006年9)ISBN 4061498592 関連項目 日本軍 大日本帝国海軍 大日本帝国陸軍師団一覧 大日本帝国陸軍連隊一覧 大日本帝国陸軍飛行戦隊一覧 大日本帝国陸軍兵器一覧 大日本帝国陸軍の軍の一覧 軍隊における階級呼称一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月30日 (金) 22 53。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/4366.html
222: yukikaze :2017/02/11(土) 00 45 35 日清戦争史 第二幕の修正が完了しましたので投下しますね。 日清戦争史 第二章 戦争計画 驚くべきことではあるが、日清戦争が勃発した時、日清両国においては軍事戦略は固まってはいなかった。 と・・・言っても、その内実はだいぶ異なる。 まず清国側であるが、皇帝とその取り巻き達は、清国軍の精強さに幻想を抱いていたせいか、日本は無条件で自分達の条件を受け入れると、半ば本気で考えていた。 そうであるが故に、日本が戦端を開くというのは予想の範囲外であったし、仮に戦端を開いたとしても「鎧袖一触だろう」という根拠のない楽観論しか口からは出なかった。 その為、彼らからまともな戦略が出ることは戦争中一度もなかった。 彼らが口に出すのは「蛮夷の国を早く征伐しろ」の一点だけだった。 無知であるが故に彼らは好戦的であり、そしてその根拠のない自信が叩き潰されたことで極めて見苦しい態度を後に示すのであるが、少なくともこの時の彼らには、そういった未来は考慮の外であった。 勿論、皇帝やその取り巻きとは違い、李鴻章は現実的であった。 彼は、皇帝たちが安易に開戦を選んだことに内心罵倒をしていたが、彼がそう思うのも無理はなかった。 皇帝たちは日本を簡単に占領できると考えていたのだが、その兵士たちを運ぶ輸送船が絶対的に足りず、また遠征軍の重要な補給地である朝鮮半島は、李王朝の統治能力の低さから、大軍が駐屯するだけの余力などどこにもない事が、袁世凱の報告で明らかになると、ますます皇帝たちの楽観論に嫌気を覚えることになる。 正直、李としては、こんなバカな戦争に関わることなど願い下げであったのだが、既に皇帝が高らかに宣戦を布告した以上はどうしようもなく、嫌々ながら関わることになる。 さて・・・李の考えた戦略だが、残念ながら彼に与えられた選択肢は非常に少なかった。 彼としては、日本側が朝鮮半島から北上しても、あるいは黄海から一気に渤海を突っ切り直隷決戦を行うにしても対応できるように、錦州府付近に主力軍を駐屯させ、朝鮮半島から北上した場合は、焦土戦術で日本軍を疲弊させつつ、主力軍で迎撃。 直隷決戦の場合でも、持久戦を取りつつ、日本の海上兵站線を痛撃して、彼らの疲弊を待つという戦略を取りたかった。 彼の力の源泉が、彼の子飼いである北洋軍閥であることを考えるならば、わざわざこんな戦で疲弊して馬鹿を見るよりは、とにかく相手を疲弊させて楽に勝った方が遥かに得なのである。 もっとも、政治的状況が、彼にそのような手段を取ることを許さなかった。 皇帝とその取り巻きが望んでいるのは、速やかなる日本占領(且つ北洋軍閥の消耗)であり李の戦略は「退嬰的」として一蹴されるのがオチであったし、また上記戦略を採用した場合、国土が戦場になる可能性が強く、国土が悲惨な目に合うこと確定の朝鮮側も飲める話ではなかった。 事実、朝鮮側は「偉大なる清国皇帝陛下が有する世界最強の艦隊が出撃すれば、倭奴の泥船は波を受けるだけで溶けて崩れ、倭奴の首魁の住むあばら家を火の海にするでしょう」と、徹底的に北洋水師を持ち上げることによって、清側が日本大陸に侵攻することを煽りに煽っていた。 彼らにとっては、農民や浮民が何人死のうが知った事ではないが、自分達が不利益になることだけは敏感だったのだ。 223: yukikaze :2017/02/11(土) 00 46 23 こうした現状に、李はますますやる気を失っていくのだが、皇帝の指示通りに半島に大軍を集結させた場合、こちらの方が兵站の貧弱さで困窮する可能性が高いことから、次善の策として北洋水師を積極的に動かすことによって、日本近辺の制海権を奪取しようと考えたのである。 李の所にもたらされた情報でも、日本海軍の保有する艦船は、巡洋艦が大小合わせて20隻近く保有されていたが、そのどれもが15センチ程度の主砲であり、最新鋭且つ最大の巡洋艦でもある富士型巡洋艦ですら20センチ程度であった。 李にしてみれば「日本は何で15センチ砲を大量に積んだ船なんか作るんだ? 商船には有効かも知れんが軍艦には通用せんだろ」と、心底理解できない気分であったとされるが、これは李が海軍に疎いのではなく、リッサ沖海戦の戦訓等を見れば、むしろ常識的な判断ではあった。 この時代において艦艇の主兵装と言えば、衝角か、命中率は悪いが当たれば強力な少数の大口径砲であり、そのどちらも有さない日本の艦艇はあまりにも異端すぎた。 そしてそうであるが故に、李は当時の常識から判断して「日本海軍の戦闘能力は低い」と判断しまともにぶつかればこちらが優位であると判断していた。(逆に李が恐れていたのは、日本が数の差を活かして、自国の沿岸で海賊行為をする事であった。軍船には通用しなくても、商船相手には15センチ程度の砲でも十分であるし、更に衝角も必要ないからだ。これは李だけでなく北洋水師に雇われていた独英等の海軍軍人も同一意見であった) ここにおいて、李の戦略は、北洋水師による艦隊決戦を第一義とし、艦隊決戦勝利後、制海権を奪取したことでの、通商破壊作戦及び日本本土上陸作戦を上奏することになる。 皇帝自身は、なおも早期の日本本土進攻に拘ってはいたものの、彼自慢の艦隊が大活躍することへの誘惑と、李が報告した朝鮮側の準備が何もできていないことを知って、かなり恩ぎせがましく李の戦略を許可している。 勿論、彼は、李に対して重ねて早期の日本本土進攻を命じると共に、征東行省を設立。 先に日本に全権使節として派遣し、日本からおちょくられて帰国した男を「功によって恥をすすげ」と、ソウルに派遣し、征東行省長官に指名。彼を通じ、李氏朝鮮に対し、日本侵攻の為の軍需物資や兵を集めるように厳命を下している。 件の男も、恥をかかせた日本への恨みを晴らすことに異存はなく、朝鮮国王以下に対して、極めて高圧的に命令を下し、同時に、日本の新聞雑誌におちょくられた朝鮮側の使節全員を捕えると問答無用で首をはね「我が大清の威信を汚した者の末路はこのようになる」と宣言。 こうなると、朝鮮上層部も、己の命の惜しさと、目の前の実質的な半島の王への媚から、情け容赦のない収奪を行い、ただでさえ疲弊している朝鮮は、文字通りの飢餓地獄へと変貌していた。 無論、各地で反乱が勃発することになるのだが、件の男は「大清に逆らう逆徒」として、蜂起した面々を徹底的に武力で鎮圧してのけ、ますます恐怖政治を推進することになる。 なお、状況を聞いた李は「あの愚か者が・・・」と、天を仰いだとされるが、李にした所で、ある程度の物資を確保した以上は、半島に対する役割は、もはや北進するであろう日本軍の足を引っ張るだけのものでしかなく、この事実上の焦土作戦を黙認することになる。 翻って日本側はどうであったか。 彼らは清国との戦争については、清国側と違い、常日頃から真面目に考察をしていたのだが、その戦略で対立が生じていた。 224: yukikaze :2017/02/11(土) 00 46 55 まず第1案としては、史実と同様、朝鮮半島に攻め込み、同地を制圧した後、遼東半島に上陸した別働隊と合流し、最終的には直隷決戦により清国を屈服させるというものであった。 敵の策源地である朝鮮半島を制圧することで、本土防衛を確かなものにした上で直隷決戦の根拠地として旅順を占領し、第1軍と第2軍を併せて、決戦を行うという戦略は、堅実な詰将棋というものであり、軍の大多数が賛意を示していた。 一方、もう1案は極めて野心的なものであった。 同案では朝鮮半島の貧弱なインフラや軍備の劣悪さから、同方面の戦力は、案山子以上の何物でもなく、清側の渡海戦力も考えるならば、無視しても構わないと割り切る一方で、旅順及び清国海軍根拠地である威海衛を占領することで、渤海の制海権を完全に掌握し併せて、主力部隊を天津に上陸させて、北京を一気に制圧するというものであった。 一気に敵首都を制圧するというこのプランは、成功すれば戦争を短期で終結させ且つ被害も僅少になるというメリットはあるものの、失敗すれば、主戦力を北京近郊で消耗させるだけでなく、がら空きになった本土を敵の戦力に蹂躙されかねない危険性を有していたのだが、同問題をややこしくしていたのが、このプランを推進していたのが日本で唯一の元帥であった西郷隆盛であったという事であった。 戊辰戦争で、江戸や奥州、北海道を無血開城させた立役者であり、その縁から旧幕府関係者との関係も深く、実直且つ真っ直ぐな性根から、明治天皇から絶大な信頼を得ているこの男は、明治天皇から特に請われて現役復帰し(それ以前は皇太子御養育掛兼枢密院顧問官兼学習院院長。皇太子の養育係については、明治天皇が特にそれを望み、西郷も「臣下にとってこれほどの栄誉なし」と、全力を尽くしている。老齢で人物もかなり丸くなったせいか、礼儀や人倫の道には厳しかったものの、それ以外では鷹揚だった西郷の教育は、大正天皇にもあっていたようで、大正天皇からも「先生」と呼ばれていた。)侍従武官長として、天皇の軍事上の相談役になっていたのだが、この事実に、兵部省大臣である大山巌、統帥本部長山田顕義は、心底慌てて、西郷の元に駆け込むことになる。 2人にしてみれば心血注ぎ込んで作り上げた戦略をひっくり返されかねないことに、慌てるなという方が無理な話ではあるが、同時に大山にとっては西郷は従兄弟であり、山田も西郷が目をかけ「あいは戦上手やっで、おいに免じて、陸軍におさせっくいやい」と、山田と仲が良くなかった山縣に対して深々と頭を下げ、西郷のお蔭で首がつながっていた山縣も、「西郷閣下が言われるならば」と、山田を主に軍の法務関係につけさせて昇進させていたので、これまた西郷の行動を言下に撥ね付けられるなど、とてもではないが不可能であった。 さて、血相を変えた2人を出迎えた西郷は、2人が来るのを予想していたのか、いつもの紋付袴ではなく陸軍元帥服で出迎えたのだが、彼ら2人の意見を云々と頷きながら聞くと、徐にこう答えた。 「おまんさあらの戦略は分かりもした。ところで、この戦はどいくらいで終りもすか」 その言葉に、2人は「まあ長くても1年は見ております」と、答えたのだが、西郷から帰ってきたのは失望の溜息であった。 「おまんさあらは、そげんなあまか見積もりで戦をかんがえちょっとな」 並みの人間が言えば反発を覚えるであろうが、目の前の人間は、戊辰の役を完勝に導いた立役者でありまず間違いなくこの国でも有数の戦略家でもあるのだ。 自分達に見えない何かが見えているのかもしれないのだ。 「おまんさあらの戦略でも確かに勝てるじゃろ。清国兵でも骨があっとは北洋軍だけじゃっでな。 そやつらをうったおせば、後は有象無象じゃ」 そう言って西郷は、2人の戦略が間違っていないことは認めてはいた。 だが、そこから後はある意味辛辣であった。 225: yukikaze :2017/02/11(土) 00 47 27 曰く、朝鮮半島から進撃するとあるが、重装備の我らが、道路の貧弱な半島を縦断するのにどれだけ時間がかかるか。 曰く、清朝に忠誠を誓う朝鮮は、我らの兵がいるときは大人しいが、いなくなるとすぐに騒ぐ。 曰く、我らが清軍を追っている間に、兵站線を朝鮮に脅かされる可能性大。重装備且つ大軍の我らにとって兵站線を断たれるのは死活問題。 曰く、それらを抑えるには、それなりの兵力をはりつけざるをえず、決戦兵力が目減りする。 曰く、そうなると朝鮮国境沿いで膠着状態か、首尾よく決戦して勝っても、どこまで完勝できるか不明。 曰く、更に言えば皇帝が、北京から脱出して中国の奥地で抗戦を叫んだ時はどうするのか。 曰く、ここまで来ると完全に列強が介入する。特にロシア。 この西郷の質問に、2人はぐうの音も出なかった。 無論、彼らは兵站を軽視している訳ではなく、朝鮮王室を実質的に抑えることによって、彼らの反抗の芽を断とうと計画していたのだが、西郷は「そもそもそれが甘すぎる」と、見なしたのである。 そして西郷の戦略は、大量の輸送船が必要になるとはいえ、北洋水師さえ撃滅すれば、少なくとも天津までは海上輸送によって賄われ、朝鮮半島からの兵站ルートよりも、天津からの方が、格段に北京に近く、兵站面での距離の問題は、まだマシになるという事。 更に言えば、天津からの強襲で混乱している敵首都を陥落させ、皇帝を城下の盟に引きずり出せば、短期間で終わることで、列強の介入も恐れることはないという点が、彼らの戦略の問題点を十分にリカバリーしているのである。 当初、何とかして西郷に自説をひっこめさせようと考えていた2人は、気付いたら「元帥閣下の案を持ち帰り現計画との問題点の解消に役立てます」と、引き下がる有様であった。 勿論、現計画を進めていた兵部省や統帥本部の担当者は、両名の行動に激怒することになるのだが、西郷の理路整然とした意見を目にした瞬間、彼らもまた自身のプライドを粉々にされるだけであった。 (なお一部の人間は、西郷の行動を止めてもらおうと、首相であり西郷の親友である大久保利通の元に駆け込んだが、「おまんさあらも軍人なら、吉之助さあの軍略の問題点を挙げ、その改善点を数字で示してから、吉之助さあに言わんか。吉之助さあは筋を通しているのに、おまんさあらはないをしよっか」と、一喝を食らい、這う這うの体で逃げることになる。) 結果的に、兵部省及び統帥本部は、現行案の修正をせざるを得なくなる訳だが、西郷の推すプランをそのまま採用するには、修正の度合いがあまりにも大きすぎた。 明治維新以降、鉄道路だけでなく、海運においても積極的に従来の帆船から、蒸気機関を備えた輸送船の代替を進めていたのだが、西郷が望むような大軍の兵站を賄うためだけの規模の商船部隊は、流石にこの時期の日本には存在しなかった。(総ざらいすればできなくもないが、確実に日本経済にダメージが来る) 西郷自身は「船がなければ雇えばよかわいよ」と、海外の商船に対して、時期を区切っての傭船契約をすることで、問題の解決策を提示してはいたものの、海外の商船会社は二の足を踏むか、法外な費用を求めるかの二択であり、簡単にできるものではなかった。 その為、日本側は、まずは黄海の制海権を確保する必要があるとして、連合艦隊を出撃させ、北洋水師を撃滅することで、日本有利を世界に向けてアピールすると共に、上陸する地の選択肢を増やそうと考えたのである。 かくして艦隊決戦の舞台は整った。決戦場は黄海。 228: yukikaze :2017/02/11(土) 01 03 07 これにて投下終了。 何このgdgdとみられるかもしれませんが、ここら辺は「急速に進んでいる大陸日本のインフラをベースにしがちな現役の面々」に対して「インフラがあまり進んでいない時代を理解しているが故に、その危険性を指摘した老将」 という立ち位置の違いですね。 ぶっちゃけ、ここら辺の一件は、次の日露戦争の為の教訓として繋げていきたい側面がありましたので、敢えて指摘させてもいます。 何気に「兵部省」「統帥本部」としていますが、ここら辺は、日露前にいた夢幻会の一員が山縣なんかに「合理的に軍備を整えるのならば、今は陸海軍の行政対立なんかするよりも、一つの組織で対応した方が遥かにマシ」と吹き込んだことや、大久保に対しては「軍令と軍政が並立した場合、仮に軍令と軍政が対立した時には、どうにもならなくなる」と、国家運営の観点から、史実のような状況を防いだりしています。 ただまあ、夢幻会の介入がなければ、史実みたいな形になっていたでしょうねえ・・・ しかも国力がある分「陸海の対立? 国力でカバーできるじゃん」と、致命的な問題点が改善されないまま何とか乗り越えてしまって、失敗した時のダメージがとんでもないレベルになるおまけつきで。
https://w.atwiki.jp/yaruoaeiou/pages/29.html
1914年 冬 までで未施行の政策候補 福祉(支持率関連) 運転免許取得補助金:6pt 効果:支持率が上昇、財政支出が上昇(微) 障碍者自立支援政策:6pt 効果:支持率が上昇(小)、財政支出が増加(小) 労働法の見直し:8pt 効果:支持率が上昇(中)、財政支出が増加(小) 公営映画会社設立:16pt 効果:支持率(大)、財政収入(小)、財政支出(小)戦時に、効果が一段階上昇 産業(GNP関連) 衛生概念普及:8pt 効果:GNPが上昇(微々) 石油業界の育成:8pt 効果:GNPが上昇(少) 大型空港建設:16pt 効果:GNPが増加(小~中) 政府支出増加(小) 電化 発電所の増設II:8pt 効果:電化率が上昇(大) 政治(イベント変化関連、支持率も) 女性参政権:8pt 効果:支持率が上昇(中)、とあるイベントが変化 文民統制に対する軍部との妥協点交渉:8pt 効果:新たな政策が追加 危機管理体制の構築(法制含):8pt 効果:統帥権移行の第一歩 種子島ロケット試験場設立:24pt 効果:新たな政策・研究が開放 税制改革:24pt 効果:予算の増加 外交 政府開発援助態勢の構築:16pt 効果:財政支出が増加(中)、保護国等への支援のオート化(特殊ケースのみ外交選択) 戦術・装備 戦術研究:市街戦:12pt 効果:新たな政策が追加 戦術研究:空挺戦:12pt 効果:新たな政策が追加 装備:市街戦装備:12pt 効果:新たな政策が追加 装備:空挺装備:12pt 効果:新たな政策が追加 戦術研究:編隊空戦:12pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 戦術研究:編隊爆撃:12pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 戦術研究:レーダー照準射撃:12pt 効果:新たな研究を追加 (戦時に効果を発揮) 戦術研究:空地連携戦闘:18pt 効果:空軍と陸軍が同時に参加した場合、戦力が増加 軍制 曲技飛行隊設立:8pt 効果 支持率上昇(微)、航空部隊の能力上昇(微) 占領地慰撫の研究:12pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 飛行教導群設立:12pt 効果 航空部隊の能力上昇 資源備蓄設備強化:12pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 定期的な大規模陸海空総合演習の実施:16pt 効果:財政支出が増加(大)、軍隊の戦力が自然増化する(戦時にも効果を発揮) 防空網整備:16pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 防空壕(対NBC)整備:16pt 効果:ただちに影響はない(戦時に効果を発揮) 軍備(師団や艦隊が増えたり、戦力が増加したりします) 新規師団の設立IV:6pt 効果:第二十四師団~第二十八師団が設立(戦力:330)、財政支出が上昇(小) 新規機械化師団の設立II:12pt 効果:第二十九師団~第三十師団が設立(戦力:660)、財政支出が上昇(小) 正規空母の建造:18pt 効果:第一艦隊の戦力が上昇(+110)
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/4606.html
333: yukikaze :2017/06/17(土) 01 52 21 日露戦争史第六章が出来上がりましたので投下します。 日露戦争史 第六章 旅順要塞 旅順。 それはロシア人が、極東制圧の為の橋頭保として新たに獲得した不凍港である。 ロシアにおいて最精鋭と言える艦隊を配備したこの軍港は、同時に、大量のコンクリート製陣地と大口径砲の数々、そして無数の機関銃で武装された、極東最大最強の大要塞でもあった。 海上から接近すれば黄金山砲台と老弧山砲台という二つの砲台から放たれる大小無数の沿岸砲が待ち構え、陸上においても、203高地や大狐山を含む充分に広い防御線に、大小数百門に近い火砲が備えられるという鉄壁振りであった。 これだけでも『難攻不落』といってよい威容を誇っていたのだが、ロシア旅順総督として任命されたスミルノフ中将は『これではまだ不足』であるとして、老左山から双台溝を結ぶラインを外周防御陣地として構築することによって、要塞の防御力をさらに高めようとしていた。 この試みは、極東総督府でも是とされてはいたものの、それにかかる費用が莫大なものであったことから、それよりもコストがかからず、しかも範囲が狭いことから守りやすいとして、南山陣地の強化を優先するように命じている。 ロシア側の油断と見なされることになるこの決定ではあるが、当時のコスト等を考えれば極東総督府の判断は常識的なものであり、スミルノフ中将も、不平を言わずに従っていることを考えても、妥当な決定であったと言える。 日露戦争開戦時、ロシアの旅順方面部隊は、フォーク少将率いる1個師団が、南山陣地において外周防衛ラインを形作ると共に、旅順要塞には、海軍将兵や軍属を除いても、総兵力5万名近い軍勢が、この大要塞を守護していたのであった。 『旅順の要塞を落とすなど神の御業を以てしても不可能である』 旅順要塞の守備兵が豪語するのを裏付けるように、多くの軍事評論家たちは、旅順要塞の鉄壁振りを評価し『この要塞を攻略するためにはどれだけの兵員の犠牲を必要とするか見当もつかない。セヴァストポリ要塞戦より悲惨なことになるのは間違いない』と、結論付けており、グリッペンベルグ総司令官も『海城と旅順の要塞線によって、マカーキどもはその汚らしい死体を積み上げることになるだろう』と、嘯く状況であった。 さてこの大要塞に対し、日本側は、当初は『包囲による遊兵化』で済ませる計画であった。 満州総軍総参謀長である児玉源太郎の言葉を借りれば『満州平野での決戦に兵が一人でも欲しいのに、なんでこんなところで消耗戦をしないといけないのだ』という認識であり、南山の陣地を落として、そこに2個師団程で蓋をして以降は、旅順の部隊は黙殺するのが共通認識となっていた。 だが、この計画は2つの要因で齟齬を来すことになる。 1つは、太平洋艦隊司令部が消滅したことにより、新司令長官となったスタルク大将が、日本側の特殊潜航艇の活躍に過敏に反応し、特殊潜航艇が侵入できないように水雷網等で防備を固めた結果、逆に、艦隊の行動に支障をきたす羽目になったのである。 伝え聞いたアレクセーエフは『いつから太平洋艦隊は臆病者の巣窟になったか』と、激怒したのだが、スタルクにしてみれば『貴重な戦艦を無防備にすることで沈める馬鹿がどこにいる』と、アレクセーエフの認識こそ現実を無視していると考えており、新たに任命された太平洋艦隊のスタッフも、スタルクと同じ考えでまとまっていた。 『特殊潜航艇による戦艦の撃沈』という事実は、日本側の想定以上に、太平洋艦隊の将兵に深刻なまでのトラウマを植え付けていたのであった。 334: yukikaze :2017/06/17(土) 01 52 56 もっとも、日本側がこのロシア海軍の心境変化に気付くのは、かなりの時間がかかることになる。 日本側は、ロシアの行動を『特殊潜航艇対策』とまでは正確に理解していたものの(水雷網に機雷をくくりつけて、特殊潜航艇の侵攻を困難にさせるさまを見れば、誰もが理解した)、彼らが旅順港に引きこもるとまでは想像ができなかったのだ。 一部には『ロスケはやる気をなくしたのでは』と、推測する者もいたが、万が一、包囲網を緩めた間に、ロシア艦隊の一部が強行突破して、ウラジオ辺りに逃げ出したら、目も当てられず、更にロシア本国で、バルチック艦隊から増援が派兵されるという情報が真実味を帯びたことから、旅順要塞攻略による、太平洋艦隊撃滅を求める声が高まることになる。 これだけならば、陸軍が積極的に動いたかは定かではない。 だが、もう一つの理由は、陸軍も動かざるを得ないものであった。 それは何か? 簡単に言ってしまえば、陸軍に『武勲』がないことであった。 海軍は、何だかんだ言っても、太平洋艦隊司令長官ごと戦艦1隻を沈め、ウラジオ艦隊も壊滅させるなど、国民や世界に向けてのアピールに成功していた。 反面、陸軍は、難民爆弾への対処など『高潔なサムライ』というイメージを世界に向けて発信し、ある程度は受け入れられたものの、『武勲』という点では、何のアピールもなかった。 当初の予定では、朝鮮半島を北上する第一方面軍が、平壌か鴨緑江辺りで、ロシア陸軍を華々しく打ち破って『日本陸軍侮りがたし』という印象を与える筈だったのが、現在の状況では『非道だがロシア陸軍は世界でも有数の強さを誇り、日本陸軍では対抗できない』という固定観念を払拭することはできていなかった。 故に、ロシアが散々宣伝し、世界の軍事評論家たちも高く評価した旅順要塞を攻略することによって日本陸軍の武威を見せ、遼陽での決戦に弾みをつけるべしと言う意見が、陸軍内部から出るのは当然であったし、外債の公募に弾みをつけたい大蔵省や、講和時の交渉においてカードにしたい外務省側の要望等も強まることになった。 山縣や種田にしても、ややもすれば『政治が作戦を捻じ曲げる』行為に顔をしかめたものの、政治戦略はもとより、軍事戦略上も一理あることから、統帥本部に戦略の変更を打診。 沼間統帥本部長も『まあ戦術的理由で戦略を捻じ曲げるよりはマシか』と、今回の変更の理由があくまで戦略上の理由であるという事実と、難民爆弾対策で混乱が生じていた兵站が漸く安定したこと、そしていい加減、第一方面軍の将兵を遊兵化する理由がないことから、満州総軍の大山元帥と相談の上、第一方面軍第二軍に属する第三軍団に各種増援部隊をつけて、旅順攻略戦を行うことを正式に決定。併せて、5月から続々と揚陸を開始していた第二方面軍、第三軍に対しては南山陣地を速やかに落とすように指示していた。 沼間も大山も、第二方面軍は、あくまで遼東半島から満州へ進撃する部隊であり、主力部隊が遼東半島に集結した以上、兵力不足の為に放置せざるを得なかった南山の部隊を、これ以上野放しにする必要もなかったのである。 彼らがこの一件をどれだけ重視していたかと言う点については、突貫工事で修復が終わった、第三艦隊の『生駒』『浅間』を中心とした艦隊に、南山陣地への艦砲射撃を行うように命じ、第三軍直轄の重砲兵旅団だけでなく、第一方面軍に属する重砲兵旅団2つもこの戦闘に投入し可能な限りの重火力をぶつけることによって、早期に南山を陥落させようとしたのである。 『可及的速やかに南山を落とし、北上すべし』 という、満州総軍の命令に、第三軍司令官であり、旧幕府軍屈指の智将と謳われた山川浩大将は、『日清の時と同様、奥州の武威見せよ』と、旗下全軍を叱咤。 諜報によって、未だ工事未了である陣地に対して、火力を一点集中させると同時に、そのあまりに苛烈な砲火に、指揮官のフォーク少将が堪らず一時撤退を命じるのに乗じて、総攻めを敢行する。 これにより、ロシア軍は、南山にいた主力部隊は、2,000の損害を受けて、旅順に撤退。 金州城に籠っていたロシア軍も、圧倒的な兵力差に抗戦は不可能と判断し、降伏をすることになる。 もっとも、兵力差は6倍以上あり、且つ重砲兵旅団3個を動員し、しかも指揮官は日本軍でも名将と言っていい山川浩が直率して尚、死傷者数が3,000近いという事実に、統帥本部や満州総軍では『南山でこれなら旅順ではどうなるのだ』と、誰もが顔を青ざめることになる。 机上では分かっていたものの、永久保塁と機関銃及び鉄条網の組み合わせがいかに凶悪かを改めて理解させられる事実であったのだが、不幸にも、この戦訓をまともに読み取ることができたのが日本陸軍と観戦武官の一部(その一人にマッカーサーがいた)しかいなかったところに、第一次大戦の悲劇のフラグがたっていたのであった。 335: yukikaze :2017/06/17(土) 01 53 48 さて、多少の損害と引き換えに、南山を落とした第三軍は、ロシア軍の南下を防ぐべく、得利寺付近で防衛ラインを構築していた第四軍(指揮官:大島義昌大将)に合流し、ロシア軍と睨み合うことになるのだが、それと入れ替わるように、第一方面軍第二軍(司令官:川村景明大将)に属していた第三軍団は、第一方面軍及び第三方面軍から要塞攻略の為の支援部隊の増援を受けて、7月初旬、遂に旅順要塞の外縁部を視界に入れることになる。 基幹となる部隊は、第三軍団の3個歩兵師団及び、第一方面軍第一軍団から引き抜かれた1個歩兵師団の4個師団。これに、第一方面軍第一軍及び第二軍それに第三方面軍の第五軍及び第六軍の重砲兵旅団の4個重砲兵旅団(及び第三方面軍所属の砲兵師団2個も急遽増援)、変わった所では、各軍管区に直属し、災害時において国土交通省と緊密に連携を取る工兵司令部も、この地に降り立っていた。 総兵力8万に近い大軍。 そして現時点においては、日本でも最大級の重火力を持つこの部隊は、戦の結果いかんにおいては、戦争遂行に多大な困難を及ぼしかねない存在(何しろ日本の軍司令部直轄の重火力部隊の少なくない数が第三軍団に与えられたのである。特に第三方面軍は、軍直轄の砲兵部隊全てを召し上げられている)にもなっていた。並みの指揮官ならば、この戦力を与えられたことに、舞い上がるどころか、ストレスを覚えるのが普通であったろう。 もっとも、第三軍団を率いる男にとっては、『ストレス』だの『逡巡』だのという言葉なんぞ、犬にでも食わせておけと、鼻で笑い飛ばしていたであろうし、沼間や大山も「あの御人だったら、馬鹿な使い方は絶対にしない」と、心配するそぶりを見せようともしなかった。 当然であろう。第三軍団司令官は、あの事件がなければ、方面軍司令官の座にいても全くおかしくない程の軍才を持っていることは、陸軍の誰もが知っていたのだ。 野津道貫中将。 日露戦争において、日本陸軍で最も活躍したこの名将は、かつての汚名を返上すべく、猛る心を抑えながら、己が攻略すべき要塞をじっと見つめていた。 「あの要塞は、馬鹿正直に攻めたら何十年かかっても、何百万人繰り出しても落ちないでしょう」 布陣して三日後、幕僚たちを引き連れて、詳細に要塞外周を偵察した、第三軍団参謀長上原勇作少将から出たセリフは、作戦会議に参加しているすべての将官が感じ取っていたことでもあった。 「流石ロシアは大国よ。大陸の小田原城じゃ。あれは」 戦国の世において、難攻不落の名前をほしいままにし、遂に力攻めでは落ちなかった城の名を出す第八師団長の小川中将に対し、幕僚たちは、ある者は無言で要塞の図面を見、ある者は目を閉じて腕組みをしている。 困難であることは理解していたが、聞くのと見るのとではやはり違いがある。 どれだけの損害を受けてなお、要塞外周すら抜けない可能性すらある。 「南山の時のように火力による集中突破ではいけませんか?」 「それだけじゃ不足だ。まだ未完成な南山ですら、あれだけの兵力差と火力があっても、3,000近い兵が死傷している。旅順は南山の時とは比較にならん」 臨時的に各重砲兵旅団等を攻城砲兵集団として統括することになった、大迫尚道少将に対し、上原は、軽く頭を振って答える。 確かに重火力によって敵陣を根こそぎ吹き飛ばしてのける方が、肉弾で突撃するよりもはるかに損害を逓減することは可能であるが、防御陣地と言うのは、とにかくしぶといのである。 そして1丁でも機関銃が残っていた場合、突撃した兵がどうなるかは、南山で嫌と言うほど理解していた。 336: yukikaze :2017/06/17(土) 01 54 37 「頼みの伊地知砲も射程がなあ・・・」 重砲兵旅団長の嘆きに、何人かの砲兵部隊の人間は溜息を吐いていた。 砲兵総監となっている伊地知幸介中将が設計し、日清戦争での大威力から『伊地知砲』『国崩し』とまで言われていた23式臼砲(史実九八式臼砲。ただし威力は史実よりも劣る)は、威力直径が200m近く、この時代では大威力と言ってよいのだが、射程が1km程度しかなく、火砲はおろか、機関銃の射程範囲内という悪夢であった。 まだ連隊砲として配備された二十二年式速射砲(史実有坂砲)か、伊地知が『23式臼砲より簡便に扱える』として開発させた32式歩兵砲(史実四式二十糎噴進砲:ただし盛大に噴煙が上がるため、現場からは威力はともかくとしても、えらく嫌われた)を利用した方がマシと言うのが現場の意見であり、伊地知砲が利用できるのは防衛戦ならともかく、攻勢では困難と見なされていた。 (実際には、その火力と隠匿性と機動性の高さから、何だかんだで第二次大戦まで現役であった) 「ないも悩むことはなか。昔のように城攻めをすればよかことじゃ」 全員が悩む中、野津は『何をそんなことで悩んでおるのか』と言わんばかりの声を出す。 「いや・・・閣下」 軍団長はついにボケたか? 南山の被害を理解できていないのか? 統帥本部の連中が『被害は僅少に』と言ったのを忘れたのか? ありとあらゆる感情を浮かびながら反論しようとする面々であったが、野津はそれこそ呆れたような声をだして答える。 「大坂城の戦を忘れたのか。あの時、権現は大筒や火中車を使って、豊臣軍の動きを止めつつ仕寄り道を複数作って、城へと迫っていったではないか。真田丸の活躍ばかりに目を向けていたのか」 「あ・・・・・・」 野津の指摘に、全員がバツの悪い顔を浮かべていた。 成程。『旅順要塞』という難攻不落の存在に気を取られてばかりいたが、『城攻め』と考えれば重火力と防衛力に優れた城を落とす例はいくらでもあるのだ。 「参謀長。おはん、坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を工兵総監時代にしちょったどが。ないを出し惜しみすっとか」 「申し訳ありません」 野津の叱責に、上原は恐懼して答える。 上原自身、出し惜しみするつもりはなく、まずは全軍に要塞戦闘の難しさを共通認識させたうえで坑道掘削作戦を受け入れてもらおうと考えていたのだが、義父にとっては「遅い」という気分であったのだろう。 いや・・・むしろ「危機感が足りない」と思われたのか。 「まあよか。そいより決めんといかんとは、どっちを主攻とするかじゃ」 その言葉に、誰もが先程以上に悩ましい表情を浮かべていた。 旅順の攻め口は大きく分けて2つあった。 1つ目は、大狐山から東鶏冠山堡塁を抜いて、ロシア軍支援砲撃の要であり、旅順港及び市街地も全てを見渡せる望台までを占領すること。 2つ目は、西方から203高地を落として、旅順港を観測できる箇所を保持。以降は砲撃を主体として、旅順艦隊を殲滅しつつ、203高地を奪回しようとする敵軍に対して消耗戦術を行うことである。 337: yukikaze :2017/06/17(土) 01 55 10 仮に旅順要塞攻略軍が、1個軍あれば、誰も迷わずに第一案を採用していたであろう。 東鶏冠山堡塁から望台までの地域は、旅順要塞にとっては大手門から二の丸を制圧されたものであり、事実上、要塞の陥落と同異義語でもあった。 実際、要塞を確実に陥落させるには、望台まで落とさないと、ロシア側の継戦意志は折れないという声が陸軍内部でも強く、要塞攻略作戦の立案でも、同案が主流となっていた。 だが、第三軍団の兵力と、南山での被害が、第一案を躊躇させることになった。 南山で圧倒的なまでの兵力差と砲兵戦力を以てしてなお、死傷者数が3,000人近いという事実は、陸軍中央の顔色を青ざめさせるのに十分であったのだが、旅順は南山よりも防御は固く、守備する兵員も多いのである。 ある程度の兵力差は大火力で補えると判断していた陸軍中央も、近代要塞の防御力の硬さの事実に『大火力があっても、正面を攻めれば、第三軍の方が一方的に消耗するのでは』という懸念が日増しに強まっていったのであった。 普通ならば『では増援を』と、言いたい所ではあったが、陸軍にとって旅順はあくまで『第二戦線』でしかない。そんな戦線に、軍勢を集中させるのは本末転倒と言ってよかった。 そうした中、注目を浴びたのが第二案であった。 統帥本部の一部が立案したこの案は、防備が固められているとはいえ、東鶏冠山堡塁よりはまだ防備が弱い(東鶏冠山堡塁は、他の保塁との相互防御態勢が緊密化されているのに対し、203高地に関しては、あくまで前進陣地という側面が強く、また地形上の問題で、203高地、老虎溝山、化頭溝山に造られた保塁は、他の保塁からの援護射撃は受けられるが、相互の側防射ができず、斜面が急であるため、射線に死角が生じていた。)ことから、万難を排して203高地とその周辺を落とすことにより観測所を設置。 これにより重砲部隊の砲撃で、湾内の旅順艦隊を殲滅すると共に、堪らず奪回に赴いたロシア陸軍要塞守備兵部隊を、こちらの防御陣に引きずり込んで火力で押しつぶすという案は、上手くはまれば被害をそれなりに抑えて、要塞を開城できる可能性はあった。 もっとも・・・上原達は、第二案には懐疑的であった。 確かに上手くいけば、比較的早期に旅順艦隊を消滅させ、相手側を損耗させることができるであろう。 何しろ、こちらの持っている砲火力は、南山に籠っていたロシア軍を軽く超えている。 ロシア側が馬鹿正直に殴り掛かってきた瞬間、南山の何倍もの地獄を現出させることも可能である。 だが・・・問題は、ロシア側にとって、203高地などはあくまで大狐山や水師営保塁と同様、あくまで要塞の外壁陣地であり、仮にそこが落とされても、要塞の中枢は無傷だということである。 ロシア側がこちらの思惑に乗らず、要塞で持久戦に出た場合、日本側は4個師団及び有力な砲兵部隊を、旅順に拘束されたままと言う状況に陥るのである。 兵力を遊ばせておく気など更々ない上原達にとっては、203高地方面への攻勢は『時間の無駄』としか見えなかったのだ。 (西方主攻を行うには展開までに敵前の開けた平地を長駆移動せねばならず危険という問題もあった。) 「やはり・・・大狐山方面からでしょうな」 「被害はでますが、要塞を落とすのであれば」 「兵の被害については、坑道戦術と砲撃である程度は抑えられましょうし」 「それしかないですな」 沈思黙考の後、上原の言葉を皮切りに、将官達は口々に、第一案を採用するべきであるという意見を出す。 彼らの役割は『旅順要塞を落とす』ことであり、それを果たす最短経路は、大狐山方面からの攻勢に他ならなかったからだ。 犠牲が多く出るのは間違いないだろうが、それはもう覚悟の上であった。 「わかった。軍団長として命令を下す」 ひとしきり意見が出そろった後、野津は静かに決定を下すことになる。 「第三軍団は203高地を主攻とする。これは軍団長命令である。直ちに準備に取り掛かれ」 338: yukikaze :2017/06/17(土) 02 01 56 これにて投下終了。次回はいよいよ旅順要塞の戦闘へと移ります。 野津中将の判断は吉と出るのか凶と出るのか。 野津がなぜあのような判断をしたのかを、次回では描く予定です。 旅順要塞ですが、史実と比べても要塞の規模が拡大しており、且つ東シベリア第四及び第七師団だけでなくシベリア第九師団も最初から配備されるなど、兵力も上がってきています。(まあ南山で第十八師団は半壊していますが) なお第四師団の半壊も、色々と旅順攻略戦に影響を及ぼすことに。 しかしつくづく思ったのが、兵力もっとあれば、ひゅうが氏レベルの派手な 戦いできただろうなあと。 620: yukikaze :2017/11/04(土) 21 21 56 なお、第六章の訂正として、南山攻略で半壊したのは第四師団ではなく第十八師団に変更をお願いします。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/8363.html
726:ホワイトベアー:2022/12/30(金) 20 01 08 HOST om126133217223.21.openmobile.ne.jp 日米枢軸ネタ 設定 欧州連合(European Union) フィンランドやドウナ連邦、オスマン帝国などの日米の同盟国やハワイ条約機構加盟国、旧イギリス植民地(現イギリス連邦加盟国および加盟自治体)を除いた欧州諸国を加盟国としている国際組織。 ヨーロッパに本土を有する18の主権国家をその加盟国としており、加盟国の管理下にある海外領土や自治領、保護国、植民地等も含めるとヨーロッパとアフリカの大半をその勢力圏としいている。 世界でも有数の規模を誇るヨーロッパの工業力とアフリカ及びシベリアの莫大な資源、そして10億近い人口を抱えていることから潜在的な国力は日米すら超えるほど高く、 欧州連合を連邦国家と見た場合は単独で日米同盟に匹敵、あるいは凌駕する超大国となりうるだけのポテンシャルを誇っている。 もともと欧州連合は日米同盟という強大なシーパワー連合に対抗することを目的に西欧戦争で勝利したことで欧州の主導権を握ったドイツ帝国とその事実上の同盟国であったソビエト社会主義共和国連邦が主導して1940年に締結されたベルリン条約にて誕生した政治統合体で、 その政策は基本的に安全保障に関連する事項の統合に重きをおく一方、その他の政策や権限に関する統合は良く言えば加盟国の主権を尊重した非常に緩やかなものであった。 しかし、1960年代に入ると欧州連合という体制を維持するために独ソが影で日向で積極的に行っていたプロパガンダと冷戦の激化にともなう日米の核戦力や戦略兵器に対する危機感の増大やインドシナ戦争およびインドネシア戦争での敗戦、 日本の文化的侵略への恐怖心などが化学反応を起こしたことで欧州の統合を求める声が急速に高まっていき、欧州連合により強力な権限を付与することを目的として1967年にベルリン条約に変わる欧州連合条約が締結されたことで現在の欧州連合が誕生した。 日米英といった列強は公的には欧州連合を超国家主義的国際組織と定義しているが、全ての加盟国は欧州連合条約及び欧州連合憲章によって外交権や統帥権、 貨幣発行権を初めとした自国の有する主権の大部分を欧州連合中央機関(連合行政総局、連合議会、連合裁判所)に譲渡していることや、 欧州連合中央機関が欧州連合加盟国の自然人や法人に対して直接的効果を発する法令を交付する権限や租税の賦課・徴収に関する権限等を有していることから欧州連合を連邦国家と見なしている国家や組織も少なくない。 (余談であるが、ここで言う超国家主義とは国際政治法や政治学にてスープラナショナリズムと呼ばれているものであり、国粋主義や急進的国家主義などのようなウルトラナショナリズムとはまた別のものである。) 欧州連合はその強大な国力と経済力から国際的にも非常に大きな影響力を有しており、日本とアメリカを中心とした共同防衛機構であるハワイ条約機構、 イギリスとかつてのイギリスの植民地からなるイギリス連邦とともに世界三大勢力の一角を担っている。 727:ホワイトベアー:2022/12/30(金) 20 01 42 HOST om126133217223.21.openmobile.ne.jp 以上になります。wikiへの転載はOKです。
https://w.atwiki.jp/nomore-mns/pages/31.html
サンプロで岡田が細田にボコボコにされたやつ http //www.youtube.com/watch?v=UtDuAQW88JM feature=related http //www.youtube.com/watch?v=9RpWRIOFb5o feature=related -- (てすと) 2009-07-28 22 59 35 野村證券分析 GDP押し上げ効果はわずか0.1% 民主党政策 http //s03.megalodon.jp/2009-0728-2333-51/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/economy/finance/280974/ -- (名無しさん) 2009-07-28 23 35 35 <松本・JR東海社長>民主マニフェストの高速無料化を批判 http //s03.megalodon.jp/2009-0729-1548-41/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090729-00000009-maiall-bus_all -- (名無しさん) 2009-07-29 15 49 16 2009/07/27 鳩山代表、政権交代選挙にのぞむ2009民主党マニフェストを発表 http //s02.megalodon.jp/2009-0729-1833-58/www.dpj.or.jp/news/?num=16673 国・地方協議、公約に追加=「27日発表分は正式ではない」-民主代表 http //www.jiji.com/jc/c?g=pol_30 k=2009072900687 鳩山氏は「この間(27日)出したのは政権政策集で、正式なマニフェストは公示日からしか配れない」と 述べ、追加は可能と強調した。 -- (名無しさん) 2009-07-29 19 59 54 鳩山由紀夫って、世襲じゃないと言ってるけど 落選した前職の自民党議員の地盤を後継者氏名を受けて譲ってもらい 結局、調べたら、高橋是清の孫の道議会議員の地盤でもあった。 ちなみに、高橋家と鳩山家は親戚関係にあるらしい。 なんか、すごいわね、ここまで厚顔だと -- (1 ◆285u55jNfw) 2009-08-04 06 31 31 436 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 02 08 22 集会に参加した従兄からの情報 彼の周辺10名ぐらいの参加者が旗を見て、「ホント、やりよった」と、 檀上を指しながら大はしゃぎ、爆笑してたと。 その時従兄は何のことか、わからなかったとも言っていたが。 初から日の丸を侮辱するつもりで切り刻んでやると 計画的に作ったんだね。 気味悪いわ。民主党。 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250530168/ 162 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 12 40 45 ID viS8Ji000 民主の鹿児島支部の知り合いから聞いた話。 もともと支部にはきちんとした支部の旗は存在していた。 ただ、日教組の党員関係者がこういうの出そうよと提案。 一応支部長である議員にも話通す、面白いやってやれ。 と、いう感じで党ぐるみで行われていた。鳩山党首がこのこと知らないはずもなく、当然上にも報告が行っていた。 -- (1) 2009-08-18 14 22 27 アゴラ 鳩山由紀夫氏の奇妙な「友愛」 - 池田信夫 http //s02.megalodon.jp/2009-0830-1728-20/agora-web.jp/archives/731173.html -- (wiki ◆3cEGPE9SFk) 2009-08-30 17 32 04 事業仕分けに対し、一言申し上げたい。 -- (飯島 雅晴) 2010-04-12 22 04 45 事業仕分け人に一言申しあげます。 国際協力機構の仕分けを昨年見ていましたが、彼らの仕事は開発途上国での 命の危険と向かい合っての仕事が多いのを理解していない。 外務省職員と違い、ただの団体職員ではないことを分かってない。 また、海外出張で12時間以上搭乗し仕事を終え、帰国した翌日に出勤すると ゆう勤務でエコノミーで搭乗しろとは過酷過ぎはしませんか。 先ずは、国会議員が海外出張する時はファーストクラスは使わない等、仕分 人が自ら襟を正すべきと思います。 -- (飯島 雅晴) 2010-04-12 22 33 47 ・今普天間問題で県外移設に対して、日本全国に空港が有りますが、 赤字空港が多い事から、赤字空港を共有活用する事で、国からの支援も有り また山間部の空港を検討しては、どうでしょうか、 各県に相談をし決め、移設後問題が無いように県民に説明して支持を得られる 様にしてください、 ・子供手当ては、廃止 理由は日本は裕福すぎる、苦しい生活でも子供は 育つ、そんな甘い国にしたいのか・・・ 国民の為にもっと他に実施 する事が、有るだろう、たとえば、老夫婦の介護を重点に置き、国が 経営する施設建てる。一般の施設は、月100,000円以上掛かります。 閉鎖の学校を活用し早く実施してください、 最後に鳩ではだめ鷹にになれ、自分で決めたこと変更するな、弱い -- (山辺 正吾) 2010-04-23 05 35 50 野田財務大臣の、「A級戦犯は戦争犯罪人ではない。」には、驚きました。昭和の妖怪と言われ東条内閣で大臣を務め、東条内閣を総辞職に 追い込んだ岸かと思いました。岸は、戦後公職追放され、東西冷戦下で日本が共産化するのを恐れたGHQが公職追放を解除し政界に復帰しました。 そして、日米安保改定を強行し、責任をとり総辞職しました。民主党は、自民党と違い、平和主義者であり、清新なイメージを持っていたのですが、野田発言には ただ、呆然自失です。開いた口が塞がりません。 戦争責任を、一億層懺悔で誤魔化したのは間違いだったのです。我々日本人の手で戦犯を裁くべきだったのです。 明治憲法を、忠実に読むと、戦争を始めるのも止めるのも最後は、天皇の裁可が必要だったこと、つまり、天皇の個人的意見は別として(天皇個人は平和主義者だと思います)法的には 天皇の戦争責任が裁かれなかったのが、今日に至るまで戦争責任を有耶無耶にし、 野田発言が出てくるのです。また、「天皇は、陸海軍を統帥す」と言う恐ろしい条文があります。明治憲法下では、軍隊の最高司令官は天皇であり、首相と雖も、軍隊の指揮や運用は出来なかったのです。それが、軍部が独走し、近衛首相が「不拡大」と言っても統帥権は、天皇にあるので軍隊の暴走を追認するしかなかったのです。 自民党が言うのなら、まだ判るのですが民主党の野田さんが言うとは。 話は、変りますが、震災と円高で倒産が増え、失業者が溢れています。自殺者は、年間4万人に達し、大学を出ても就職出来ない、所謂、昭和恐慌の状態を呈しています。 それなのに、野田大臣は円高阻止の為の有効な措置をとろうとせず、市場に舐められ益々円高が進んでいます。代表選云々より、自殺者を救うのが大切な筈ですが、人間の命を何と考えているのでしょう。 私は、汚職にまみれ癒着で身動きできない自民党では、国民の為の政治は出来ない、自民党は賞味期限が過ぎたと思って民主党に期待しました。 しかし、最近の体たらくを見ていると、もう一度市民の生命と財産を守るという原点に回帰しないと、 国民の期待が大きかっただけに、失望も大きく、此の侭の視界不良の錐揉み状態が続けば、10年は政権復帰は無理だろうと思っています。 兎も角、人命を救うため、例えば80円は死守すると、宣言し、円売り介入を徹底することだと思います。 政府が、本気で80円を死守する態度を取れば、投資家も諦めるでしょう。 ここは、投資家に政府の真剣度を見させることこそ唯一の円高阻止の方法だと思います。 野田さんよ、立ち上がって下さい。日本と、日本人を愛するなら・・・ -- (太田 誠一) 2011-08-23 21 36 52
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/390.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論 第2章 現行憲法制定の法理 本文 p.115以下 <目次> ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質[76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 [76続き] (2) 明治憲法の特質 [77] (3) 明治憲法の病理 ■2.明治憲法から新憲法へ[77] (1) 全面改正までの経緯 [78] (2) 「改正」論争 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質 [76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 明治維新は、復古の名のもとで国民国家を樹立した(「維新」は、グローバル・スタンダードでいえば、市民革命または王政復古のいずれかである。明治維新は市民革命ではない、と私はみている。我が国の維新期の指導者たちが「国民国家」を市民革命によらずして樹立したことこそ、まさに、革命だった)。 国民国家の樹立は、それまでの藩体制(日本版等族国家)を否定し中央政府を作り上げることから始まった(そのための施策としては、廃藩置県が最重要だった。これによって初めて、国民国家の基礎である租税徴収体制を全国一律に張り巡らせることが可能となったのだ)。 議会の開設を約束した明治政府の課題は、何よりも国制(憲法)を整備することにあった。 先進国における憲法事情調査のために、伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。 伊藤等は、主としてプロイセン、オーストリアにおいて、憲法を制定することの意義についてL. シュタインやグナイスト等から修得して帰国した。 憲法制定の狙いは、復古の体制を堅固とすることにあり、そのために、まず、貴族院への布石として華族令が(明治17年)、内閣への布石として内閣官制が制定された(明治22年)。 憲法典の起草に着手されたのは明治19年になってからだった。 [76続き] (2) 明治憲法の特質 憲法典を起草するにあたっては、プロイセンの範に倣って、 (ア) 欽定憲法とすること、 (イ) 漸進的性格とすること、 (ウ) 議会の権限を希釈すること、 (エ) 天皇の地位を不可侵とすること、 等が前提とされていた。 が、プロイセン憲法とは別の特異さも準備された。 明治維新が復古の形式をとった関係上、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という)は、「国体」を宣言することを目的とした。 「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。 そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた(平易にいえば、「先祖代々と天皇の子孫に伝えられた統治の手本を受け継ぎ、これによる」こと)。 続いて、発布勅語に、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めた。 神権主義的天皇制の採用である。 また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)との定めは、天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意していた。 これらは後知恵からいえば、西洋の王権神授説を遥かに超えた、自らを神としようとする選択を近代憲法の中で敢えて謳う無謀な国制だった。 しかしながら、当時の指導者の立場に立ったとき、それは国民国家を人為的に樹立するためには止むを得ざる選択だったように思われる。 とはいえ、その神秘的色合いが、皇室による無数の神道儀式、教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等々、憲法周辺のプラクティスの中で次第に増幅されてしまった。 この点が現行の憲法と比較されたとき、負の部分として浮かび上がり、「昭和維新」以後、民主主義論者による批判の対象となった。 現行憲法との比較や後知恵の助けなしに明治憲法をみたとき、それは誕生したばかりの国民国家に立憲主義を平和裡に植え付けたのであり、まさに革命的な事柄だった。 このことは、フランス革命やアメリカ革命が流血の惨事を掻い潜った後に立憲主義を誕生させたことと対照すればよく分かるだろう。 「明治憲法が立憲主義を我が国に植え付けた」といっても、それは、立憲君主制を限定的に採用したことを指す。 立憲主義よりも国体を優先させる憲法は西洋の立憲君主制からはズレていた。 明治憲法は、近代立憲主義の核心である法の支配、権力分立、さらには「行政の法律適合性原則」等の理論を、理論どおりには実現しなかった。 そのことを以って後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義を採用したにとどまった、と評価することになる。 明治憲法が立憲君主制的な色合いを持っていることは、 ① 天皇は統治権の総攬者であること(4条)、 ② 天皇は議会の協賛をもって立法権を行使し(5条)、法律の裁可権を有すること(6条)、 ③ 天皇の輔弼機関として大臣が置かれること(55条)、 ④ 憲法典の明文保障する基本権を制約するには「法律の留保(*注1)」原則を満たさねばならないが、それ以外の利益は勅令や命令により得るとされていること、 に典型的に表れている([56]もみよ)。 ところがそれでも、明治憲法における立憲君主制の基調は、憲法発布勅語にみられるように、「此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ」統治することを約する「主権者の自己拘束の理論」にあった。 そればかりか、告文や発布勅語にみられる神権主義は、立憲君主制にも、西洋の王権神授的絶対主義にもみられない要素だった。 (*注1)法律の留保の意義について法律の留保といわれるものにも、ふたつの用法がある。第一は、本文に述べた用法である。第二は、“基本権は法律の範囲内で保障される”という用法である。後者においては、この言葉が基本権規定に使われているとき、“議会は法律によって基本権を制限できる”ことを意味している。 [77] (3) 明治憲法の病理 「此ノ憲法ノ条章」の間隙に現れたのが「統帥権の独立」というマジカル・タームだった。 明治憲法は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と定めていた。 統帥事項は、陸海軍の編成・兵額の決定(12条)とは違って、議会や内閣の関与を許さない事項だ、との解釈が幅を利かせ、ガン細胞のごとく増殖し、日本という国を蝕んでいったのである。 その病巣は、明治憲法の抱えていた神権主義的憲法観が立憲君主制思想に打ち勝つうちに、ますます転移していった。 それが、我が国特有の「国体」護持として、太平洋戦争の敗戦後まで国家の哲学とされてしまった。 ■2.明治憲法から新憲法へ [77] (1) 全面改正までの経緯 アメリカ、イギリス、ソ連、中国が発したポツダム宣言は、「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。 日本政府は、同宣言が「国体」の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受けたまま、昭和20年8月14日、同宣言を受諾した。 この受諾は、決して無条件降伏の承認ではなかった。 にもかかわらず、連合軍による日本の占領が開始された後、無条件降伏であることが前提了解であったかのように、占領政策が進められた。 占領政策の最重要課題が明治憲法の「改正」だった。 連合軍最高司令官D. マッカーサーは、ポツダム宣言にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従」う、民主的な憲法制定を当時の幣原内閣に指示した。 松本蒸治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法の改正作業に入った。 同調査会は、国体に変更を加えない方針だった。 これを知った連合国軍総司令部は、 (ア) 元首たる地位におかれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、 (イ) 国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、 (ウ) 日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、 の三原則を内閣に示した。 「マッカーサー三原則」である。 マッカーサーは総司令部民生局に憲法草案の検討を命じ、9日間で作成された「マッカーサー草案」が昭和21年2月に政府に提示された。 これを拒絶することは許されない雰囲気のなかで、政府はこれを基礎にして憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。 同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が、枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続に従って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。 その際の勅書は、「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」と述べた(頭点は阪本)。 この全面改正案は、衆議院による若干の修正の後可決され、貴族院によっても若干の修正のうえ可決された後、枢密顧問の諮詢さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により、日本国憲法として昭和21年11月3日に公布された(施行は昭和22年5月3日)。 [78] (2) 「改正」論争 このように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に従って、国家における主権(制憲権)の所在を天皇から国民へと転換せしめた。 これは、改正という名のもとでの新憲法の制定であっただけに、“法理上、あり得ない事態ではなかったか?”との疑問が生じてくる。 これが、先に憲法改正の限界を論じた際にふれた、制憲権と改正権との繋がり如何、という論点である(⇒[46])。 今日まで日本国憲法の素性の正当性に疑問を抱く人たちがいるのは、日本国憲法が「明治憲法の改正」として成立したこの事情も絡んでいる。 上のような日本国憲法「制定」の経緯は、通説的な憲法改正限界説に立つとき、一貫性をもって解明することは困難である。通説的な憲法改正限界説は、《改正権は制憲権に変更を加えられない》という前提に出ることは既にふれた(⇒[46])。そうなると、明治憲法の「改正」手続で国家の根本構造を変更することは法理上不能だ、ということになる。しかし、だからといって、“改正権の限界を超えて制定された日本国憲法は無効だ”と結論することは避けたい(無効だ、と主張する少数説もないわけではない)。そう考えた論者は、国家の根本構造が変わったという契機を明治憲法の改正という国内の事情に求めないで、ポツダム宣言の受諾という国際的な事情に求めた。つまり、同宣言の受諾にあたって寄せられた連合国の回答(バーンズ回答)にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ依リ決定セラルヘキモノ」との条件を日本国が受諾した時点で(昭和20年8月11日)、“我が国は国民主権へと主権原理を転換していたのだ”というわけである。この説の提唱者は、これを「8月革命」と名付けた。8月革命説は、数々の弱点を持っていた。たとえば、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書が国内における主権の転換をもたらすことはあり得ないはずだった。が、それでも、改正限界説を前提とする限り、これ以外に説得的な論理がなかったために8月革命説は世に受け入れられていったようだ。 憲法改正無限界説にでる論者であれば、欽定から民定へと制憲権帰属をまったく異にする新たな憲法が「改正」によって誕生すると説くことは、容易なはずだった。実際、ある学者は、“日本国憲法は明治憲法の改正によって成立した欽定憲法だ”と論じてみせた。ところが、学界では、主権在民を謳う新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻にされることはなかった。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第ニ部 第一章 現行憲法制定の法理 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kisekiseries/pages/381.html
領邦軍 領邦軍(りょうほうぐん)は、エレボニア帝国の貴族領邦の軍隊。 概要 エレボニア帝国の各州を統治する大貴族《四大名門》の各家によって組織され、それぞれの州における防衛と治安維持を担う準軍事組織である。領邦軍は各州の州名を冠しており、一例にアルバレア公爵家の統治する帝国東部のクロイツェン州の領邦軍はクロイツェン領邦軍、またはクロイツェン州領邦軍と呼ばれる。 基本的には貴族領邦の各州内における治安維持(他国や自治州では警察、帝国政府の直轄地では憲兵)の役割を担っている一方で、大貴族が有する私設軍(私兵)という一面もあり、装甲車や軍用飛行艇など軍隊に準じた装備を有している。 なお、帝国の国防を担うのは、皇帝が統帥権を持ち、帝国政府に指揮権が委ねられている帝国正規軍である。 帝国における平民の政治勢力《革新派》の台頭以降、革新派の勢力が強い帝国正規軍に対抗する目的で、貴族連合の主導で領邦軍の規模拡大と重武装化が押し進められた。 七耀暦1204年の帝国の内戦《十月戦役》では、帝国西部ラマール州のラマール領邦軍を主力に各州の領邦軍からの戦力が拠出され、貴族連合軍が結成された。 なお、領邦軍全てが貴族連合軍に統合された訳ではなく、内戦期間中も各州の領邦軍は治安維持や貴族連合側の戦力として活動していた。 貴族連合の事実上の敗北にて決着した内戦後も、帝国政府の厳しい制限によって規模を縮小しながらも各州の領邦軍は存続している。 なお、旧貴族連合軍は内戦後に統合地方軍へと再編され、その後、七耀暦1206年の《ヨルムンガンド戦役》直前に反政府軍であるヴァイスラント決起軍となった。(その後、おそらく領邦軍または統合地方軍へと復帰したものと思われる) 帝国政府の直轄地と貴族領邦の区別なく、鉄道沿線の治安維持を担う帝国正規軍の鉄道憲兵隊とは管轄の重複が原因で非常に関係が悪く、現場において度々衝突している。 領邦軍は《四大名門》各家の私設軍であり、帝国の正規軍ではないため、帝国の軍隊として対外的な軍事行動を行う事は本来の任務ではないが、近年では七耀暦1192年の《百日戦役》や七耀暦1205年の《クロスベル戦役》においては領邦軍の部隊も参加している。 また、1205年の《北方戦役》では、帝国政府との取引に応じたオーレリア・ルグィン将軍率いる旧貴族連合軍の主力部隊がノーザンブリア自治州に侵攻した。 なお、歴史上では七耀暦1100年のカルバード民主革命直後に帝国の貴族領邦軍が革命政権時代のカルバードに侵攻している事が語られている。 恐らく民主革命による王政と貴族制の廃止と民主主義に掲げた新国家(カルバード共和国)樹立というカルバードの民主化は、強固な貴族制という身分制度によって成り立つ帝国の体制からは到底容認出来るものではなかったことは想像するに容易く、帝国の貴族勢力が中心となって画策した隣国への干渉戦争であると考えられる。 各州の領邦軍 クロイツェン領邦軍 ラマール領邦軍 ノルティア領邦軍 サザーラント領邦軍 領邦軍に関連する組織 貴族連合軍 統合地方軍 ヴァイスラント決起軍 このページに登録されているタグ エレボニア帝国 勢力 四大名門 用語 組織 貴族派 軍隊