約 1,312 件
https://w.atwiki.jp/hakoniwa-sea/pages/100.html
ゲルファント大公国軍は、ゲルファント大公国諸島の軍隊である。 T.9800現在、軍事規模は国家別において世界最大となっており、 ペリリュー王国島とともに双務的軍事同盟であるコロール条約機構の構成国となっている。 機構 [#xb0886a7] 三軍・二兵科 [#tdc31c62] ゲルファント大公国軍は、国防海軍、国防陸軍、国防空軍の3つの軍種及び、戦略海軍、戦略宇宙軍の2つの独立兵科から成る。 いずれも国防省管轄下に属しており、最高司令官であるゲルファント大公が統帥する。 そして文民である国防卿が大公の補佐として国防省を統括し、具体的な軍事行動の統率は軍人最高位である統合軍参謀長官が担う。 国防海軍 国防陸軍 国防空軍 戦略海軍 戦略宇宙軍 国防海軍 [#qa9a3a83] 現在のゲルファント大公国軍の中核を担っており、兵装・人員ともに最大規模となっている。 10以上の艦隊、100隻を超える艦艇を運用し、ゲルファント大公国諸島の領海及び周辺海域の防衛を主任務とする。 また海外での治安維持活動を担う国防海軍海兵隊が内部に編成されており、複数の揚陸艦を運用し、海外展開を行う。現在は信号島に駐留軍が置かれている。 国防陸軍 [#pe5c5b43] ゲルファント本島における防衛を専門に担う部隊。 歩兵及び戦車部隊が組織され、首都や政府施設を中心に国防活動を行う。 国防空軍 [#wf338d33] かつて弾道ミサイル技術が国防の中心であった頃は、ゲルファント大公国軍の中核を担っており、また同軍において最大規模の軍種であり、世界においても最大数の弾道ミサイルを運用していた。 弾道ミサイル技術が過去のものとなったことにより、弾道ミサイルの技術開発は戦略宇宙軍へと分離され、国防空軍は規模を大幅に縮小された。 現在は政府要人等の輸送を担う特別輸送隊のほか機動航空隊、無人戦闘機技術などの開発、化学レーザー技術(戦略宇宙軍と連携)などの継続開発など限定的な規模となっている。 戦略海軍 [#wfe8c114] 戦略海軍は国防海軍と連携して展開する一方で、国防海軍が本島水際での国防を中心とするのに対し、戦略海軍は周辺海域における包括的な戦略行動を主任務とする組織である。 現在の戦略海軍はアンドレイ・コルモゴロフ級航空母艦を始め、7隻の軍艦と数機の航空機を運用しており、世界最大の軍事予算規模を誇っている。 その他、チェルニー洋に存在するゲルファント大公国諸島領メトロプレックス島及び、 エコーズ海のグレンランディア島に基地が置かれ、維持されている。 保有する全兵装はGLFの頁に記載 戦略宇宙軍 [#i2671657] 弾道ミサイル時代の終焉に伴い、国防空軍から分離され新設された組織である。 国防空軍が行なっていた弾道ミサイル技術の継続研究開発と化学レーザー技術による弾道ミサイル防衛、軍用・民用の人工衛星の開発、展開、維持及び統制を任務とする。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/500.html
愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり愛国社再興会議を開催した。翌明治12年(1879年)11月に開催された第3回大会では、国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定し、こうして愛国社は全国的な国会開設運動の中心となっていった。 こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身の県会議員を指導者が指導する形に転換していった。これに伴い愛国社についても、立志社中心の運営に対する批判が高まり、ついには、明治13年(1880年)3月第4回大会において、愛国社とは別個に国会期成同盟の大会が開会される事態に陥った。この後、愛国社は、旧立志社系統の人々によって継続するが、明治13年11月26日、東京において解散が論議された記録を最後に歴史の舞台から退場した。 2. 愛国社 (1928年-) 昭和3年(1928年)岩田愛之助により創設される。機関紙は「愛国新聞」。中国及び満州に関する問題に積極的関与、各大学で反共産主義右翼学生の組織化を企図した。田中義一内閣打倒や農村での青年に対する実践教育などを行っていたが、一躍、愛国社の名を広めたのは、昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題で、愛国社社員の佐郷屋留雄が東京駅において浜口雄幸首相を狙撃し重傷を負わせた(このときの傷がもとで、浜口は死去)ことによる。後に大日本生産党に参加した。 青年組織として愛国社青年連盟(俗に「愛連」とも「浅草愛連」とも呼んだ)があり戦前はファッショの片棒を担ぎ、戦後も斯界の大物である大沢武三郎団長が反共暴力団として名前を売った。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年9月9日 (火) 04 17。
https://w.atwiki.jp/arucana_clarice/pages/54.html
火のアルカナ ランゴン 属性効果 操火将 E or 2E 最大溜め 最大溜めでガードクラッシュ効果→ガード不能技になる。 必殺技 火仙弋(地/空) 236+E 地上版は斜め上、空中版は斜め下に向けて炎の弾を飛ばす。 牽制としての使い勝手が良く、特に空中版は連続技に組み込む事も出来る。 火攻焔(地/空) 63214+E(押しっぱなし) 前方向に炎を放出する。 Eを押しっぱなしにすることで3段階まで溜める事ができる。 1・2段階目はガードされても有利で、ヒット時は追撃可能。 超必殺技 轟天焦(地/空) 236236+E 自分の周囲を爆発させる技。 アルカナ必殺技では数少ない無敵技であり、相殺も発生しない。 割り込み・リバサ等、守りの面で使える。 火孔覇(地/空) 632146+E すっごい火攻焔。 ダメージも高くヒット数も多いので、連続技でお世話になる。 アルカナブラスト 操火統帥(地/-) CE 各種ステップ・各種ジャンプ・空中ダッシュ(前後)の軌道上に炎を発生させる。 炎には攻撃判定があり、バックダッシュ連発で守りの保険になったりする。 アルカナフォース 跳澗閻羅(地/空) ABC ホーミング時に攻撃判定のある炎を纏う。 この炎は5D等の空中判定になるものにしか発生しない。 アルカナブレイズ 插翅大聖(地/-) 236+ABC 自分の背中側の画面端からランゴンが現れ、逆側の端まで突進する。 多段ヒットで削り大きくダメージも高い。 ・・・が発生が遅いので、ジャンプで簡単に避けられてしまうのが現実。 火コンボ ~2C>火攻焔(溜め無し)>ステップ5A or B爪NHC~ ホーミングゲージを使用しないで浮かし>空中コンボに移行出来るのが強み。 AF対策としても、爪で浮かす時よりは安全になる。 距離が離れるとステ5Aが届かないので、5Cよりも少し前進する2Cを推奨。 ステ5Aがどうしても届かない時はB爪で拾う事も。 一部キャラのしゃがみ喰らいには火攻焔がスカるので注意。 ~C攻撃>火孔覇>(NHC>JB~ or 6HC>5A~) C攻撃が3ヒットなのでヒット確認が簡単、ダメージも高い。 また相手の立ち・しゃがみ喰らい共に繋がる。 4C>火孔覇にすれば割り込み始動コンボにもなる。 火孔覇の後は無理に長いコンボにしなくても十分なダメージが見込める。 ~JB or JC>ブレッザ>火孔覇>NHC~ 空中コンボで使用する時のパーツ。 最初のジャンプで使うか、2段Jを使い切って締めに使うかは好みに応じて。 ブレッザ>轟天焦>2HC>B爪>NHC~ 崩し・奇襲のブレッザがめくりヒットしても、轟天焦なら連続ヒットする。 轟天焦で横に吹っ飛ぶ相手を2HCで着地→B爪で拾っていつものコンボへ。
https://w.atwiki.jp/garupan/pages/265.html
大洗女子学園Aチーム秋山優花里 西住みほ 武部沙織 五十鈴華 冷泉麻子 Bチーム(バレー部チーム) Cチーム(歴女チーム)エルヴィン Dチーム(1年生チーム)大野あや Eチーム(生徒会チーム)角谷杏 Fチーム 他校の選手聖グロリアーナ女学院ダージリン アンツィオ高校アンチョビ カルパッチョ その他陸上自衛隊蝶野亜美 西住家菊代 大洗女子学園 アニメ版とは違い、チーム名に動物の名前を冠していない。 Aチーム 使用機体Ⅳ号戦車D型 秋山優花里 装填手(当初は砲手) フラッパー版の主人公。戦車を前にすると興奮で我を忘れてしまう、大の戦車好き。そのためにずっと友達ができず1人ぼっちだったが、戦車道の授業でみほに誘われAチームに仲間入りした。 全国大会2回戦では急造のFチームで戦車長兼47ミリ砲砲手を務める。 西住みほ 戦車長(当初は装填手) 全国大会では大洗女子の隊長も兼任 優花里の憧れの存在。西住流戦車道の家元であり、黒森峰女学園に在籍していた昨年度の全国大会では決勝戦を戦った。 武部沙織 通信手(当初は戦車長) いつも明るい恋多き乙女。 五十鈴華 砲手(当初は操縦手) 実家は華道の家元で、物腰が柔らかい。 冷泉麻子 操縦手(当初は通信手) 沈着冷静で成績優秀だが、朝に弱く遅刻の常習犯。 アニメ版とは異なり、初授業の前にAチームに既に仲間入りしている。 Bチーム(バレー部チーム) 使用機体八九式中戦車甲型 Cチーム(歴女チーム) 使用機体Ⅲ号突撃砲E型アニメ版と違い長砲身のF型ではない エルヴィン 全国大会2回戦では急造のFチームで装填手兼通信手を務める。 優花里とはミリネタ話で馬が合う。 Dチーム(1年生チーム) 使用機体M3中戦車リー 大野あや 全国大会2回戦では急造のFチームで操縦手兼75ミリ砲砲手を務める。 ミリネタは詳しくないため、優花里&エルヴィンの会話からよく取り残される。 Eチーム(生徒会チーム) 使用機体38(t)戦車B/C型 角谷杏 生徒会長 Fチーム 使用機体ルノーB1Bis 他校の選手 聖グロリアーナ女学院 全国大会で準優勝した事もある強豪校。 使用機体チャーチル歩兵戦車Mk.Ⅶ マチルダⅡ歩兵戦車Mk.Ⅲ/Ⅳ ダージリン 聖グロリアーナ女学院隊長 アッサム・オレンジペコと共に「ノーブルシスターズ」と呼ばれ、自校はおろか他校生徒からの人気も高い。 アンツィオ高校 使用機体P40 セモベンテM40 L3軽戦車 M13/40カルロ・アルマート アンチョビ アンツィオ高校隊長 黒森峰女学園が戦った昨年度の試合を見ており、みほに敵対心を燃やす。 カルパッチョ アンツィオ高校副隊長 アンチョビの事を「統帥(ドゥーチェ)」と呼ぶ。 その他 陸上自衛隊 蝶野亜美 戦車教導隊所属。一尉。戦車道の初授業で特別講師を務めた。 西住家 菊代 西住家の使用人。みほが大洗に転向した後もみほの事を気にかけている。
https://w.atwiki.jp/6war/pages/330.html
基本情報 名前 ゲイル・アレイア 生没 ラドリザン (1207~1315) 出身 ガルデス共和国 種族 人間 性別 男 略歴 ガルデス共和国司令官兼参謀官として精鋭部隊を任され各地の戦いで活躍、同時に数多くの優秀な人材を副官につけて幅広い人脈をつくるなど、人事にも貢献した。 1253年3周期14日目、ラグライナ帝国とガルデス共和国の間で起きたモンレッドの戦いに総指揮官として参戦、戦いにこそ敗れるが、大きな損害を出さずに撤退する。 1255年フェルグリアの戦い、翌年の第3次モンレッドの戦いにも参戦し、ラグライナ帝国軍本陣まであと一歩にまで迫りながらも僅かに及ばなかった。 その後の戦局は、圧倒的国力差によって徐々に苦しくなり、クァル・アヴェリの戦いにおいて防衛の指揮をとるが、帝国軍に押し切られて拠点を失い首都に帰還。 進軍を続ける帝国軍に対して、ノスティーライナの戦いで強襲を仕掛ける賭けにでて、ラヴェリアと共に奇襲を仕掛けるが、これも僅かに届かず撤退する。 だが、帰国した彼を待っていたのは、ラヴェリア事件によって議長ラヴェリアが落命したという知らせであった。 その後、ゴゥドが台頭を始めたことにより、ラヴェリア派閥だったゲイルは完全に中央からはずされ、レッド・ゲアルの戦いにおいては、船を製作するための輸送部隊として第二陣になる。 この戦いでガルデス共和国軍は敗北、ゲイルは撤退する味方をよく守り、コーデルスで密かに建築中だった砦がこのままでは奪取されると判断、砦を燃やして本国に帰国した。 1258年、ガイ・アヴェリの戦いにも参戦する一方で、ゴゥドが政敵となったレディスを失脚させ拉致した際、行方不明になったレディスを密かに探し出して救出した。 ゴゥドが急死した際は、レディスと共に報復による暗殺の主犯として疑われたが、あえて弁明せず、堂々とそれまで通りの仕事を行うことで、徐々に噂は風化していった。 その後も各地で指揮官としても外交官としても活躍し、戦乱の時代を生き残る。 兵権は娘のリナが継ぎ、自らは「統帥治論」を執筆、本の完成の五年後にリナに看取られて静かに息を引き取った。 人物 経歴は敗戦の連続であったが、そのほとんどが最初から勝ち目のない圧倒的国力差を惜敗にもっていったとして、後世だけではなく当時に置いても名将として知られていた。 レディス失脚後、地位を餌にゴゥドから自派閥への参加を促された際、「私を権力で動かせれると思うな、私は民衆のために動くのだ」と一喝し、提案を一蹴したといわれている。 娘リナへの溺愛ぶりと過保護の様子は、共和国内で知らない者はいないほどだったが、1256年に家督を譲ったころから顕著になる。アレシア連邦参加の頃にリナが結婚、家を出る際に、家族の目を盗み壺に隠れてついていこうとしたが発覚、娘から一喝されそれ以降親子の力関係が完全に入れ替わったという。ただし、泣き崩れる父親を不憫に思ったリナは、月に一回手紙や名産品などを送り続け、ゲイルの引退後は屋敷に引き取り一緒に暮らしたという。 関連項目 The End of ELEGY
https://w.atwiki.jp/jyukain/pages/32.html
国家体制:議会民主制 現首長:第43代大統領ジョージアス・B・ジョンソン 首都:ノースオドネイル大陸『ブラックタム』 民族構成:ヒューマン・ノエルが多い、エルフやビースチャンも存在しない訳ではないが、非常に数が少ない。なお、エールを動力源とするアンドロイト…エルロイドは現在この国でのみ製造されている。 生活様式:近代欧米風。所属する地域は国ではなく“州”と言う区分で呼ばれる。魔鉱石に頼った工業技術の発達により主な都市ではかなり裕福な生活を送っている。但しスラムや地方はその限りではない。 主な移動手段は火属性のエールにより可動する水力複合機関……所謂蒸気機関を搭載した車や鉄道。飛行船なども存在するが、機関のサイズの都合で物資・人員運搬など用途は非常に限られている。 軍事的特色:主にエール・ガンを装備した銃歩兵やゴブリンタイプ等の機兵による制圧戦が得意。地上戦では圧倒的な破壊力を誇るが、空中からの攻撃に対しての攻撃は武器の命中精度の都合で非常に不利。大量破壊兵器『アルス・ノーヴァ』を導入してからは敵軍を土地ごと壊滅させ、残党を歩兵部隊が制圧する戦術が取られていた。 組織としては「提督」と呼ばれる軍の高級官僚が4つの方面軍をそれぞれ統括し、軍自体の統帥権は議会が持つ。 通貨:ドゥール(1ドゥール=10エウロ、10オウカ) 国家体制 ・汎オドネイル議会議員兼軍需産業理事会理事:マリー・グルヴェイグ ・オドネイル軍 ・陸軍 統合作戦本部総長:スカーレオン・ハイガン元帥 プレアディス西部方面進行師団司令:ギャロンズ・ヘイトマン大佐 ・海軍 東方派遣艦隊司令フォン・ロウリィ(龐楼里)中将 同艦隊参謀兼分艦隊司令:ジェローム・マクガバン少将 ギリー・アルタイル 設定 数百年前にプレアディスから新大陸を求めて出発したヒューマン・ノエル等の船団が建国した民主主義を掲げる国家連合体。魔鉱石を動力源として様々な工業製品を開発し、経済や産業を発達させている。その軍事的な成果として魔鉱石から得た魔力によって光線や弾丸を放つ『エール・ガン』や、魔鉱石と蒸気機関の複合機関によって起動する大型の可動兵器『機兵』があげられる。 工業化が特に顕著な連合体であり、その中でも近年ヴァルハイト王権が成立した事により軍需産業が大きく力をつけ始めている。その軍需産業全般を統括する組織として『軍需産業理事会』という組織があり、連合体に強大な影響力を持ち続けている。 政治形態としては市民によって選出された各国の首長が、さらに連合選挙を経て連合大統領となる民主制が取られている。軍隊の形態としては「提督」と呼ばれる軍の高級官僚がそれぞれの軍を率いて、それらが組織を形成している。 MEMO 元々陸軍と海軍にそれぞれ元帥がいてプレアディスとの開戦に積極的な陸軍とエリュシオン前皇帝の和平路線に賛同していた海軍で分かれていたのですが、ヴァルハイトによる簒奪に呼応するかのように海軍元帥が謎の死を遂げ、議会と結託した陸軍がブイブイ言わしている……みたいな感じで考えていますw
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/153.html
Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。また、現トルコ共和国は自らをアジアではなくヨーロッパに属する国家として規定しており、前身であるオスマン帝国も同様に見なすとやはりアジア発の近代憲法典である。憲法発布の勅語に「不磨ノ大典」とあったためか、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。 沿革 明治維新による国制の変化 日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。 慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は、天皇の官制大権を前提として、近代的な官僚制の構築を目指した。これにより日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は、官制大権が天皇に属すると規定している。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には、廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。 版籍奉還により、各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。 新政府は、版籍奉還の後、公卿・諸侯を華族、武士を士族、足軽などを卒族、その他の人民を平民に改組した。明治4年(1871年)には、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民も均しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止した。大日本帝国憲法第19条は、人民の均しい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。なお、帝国議会開設に先立ち、1884年(明治17年)に華族令を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は、華族の貴族院列席特権を規定した。 明治の変革 王政復古によって設置された三職(総裁、議定、参与)のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正、福岡孝悌、木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5ヶ条にまとめた。明治元年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったものが、五箇条の御誓文である。 一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ 政府は、五箇条の御誓文に示された諸原則を実施するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して、統治機構を改めた。政体書は、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官として、公議輿論の中心となる立法議事機関である議政官議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定・参与を構成員とし、下局は各藩の代表者(1人から3人)である貢士を構成員とした。を設けることなどを定めた。しかし、戊辰戦争終結の見通しがつくとともに、政府は公議輿論の尊重に対して消極的となり、同年9月(同年10月)には議政官は廃止された。 明治2年3月(1869年4月)、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。これは、各藩1人の代表者により構成される立法議事機関である。広議所は、同年9月(同年10月)には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施され、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。 1874年(明治7年)、前年のいわゆる明治六年の政変(征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが、国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。また、この頃には、各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。 1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が出された。 朕、…ここに元老院を設け、もって立法の源を広め、大審院を置き、もって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し、もって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。これは、大久保利通、伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允、板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。また、地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。 自由民権運動 1874年(明治7年)からの自由民権運動において、様々な憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は、国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律、新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例など、様々な法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。 私擬憲法の内容については、様々な研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことは、おおむね共通する。天皇の地位に関しては、言われるほど差がある物ではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎ見ていた。」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝国憲法と同様である。 制定への動き 1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は、「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は、皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法(1850年)の影響を強く受けていたため、岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見ともども、採択されるに至らなかった。 岩倉具視を中心とする勢力は、明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。 この勅諭では、第一に1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第二にその組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三にこれ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。 制定までの経緯 1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として参議・伊藤博文らは、政府の命を受けてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、苟も一国の憲法を制定しようというからには、まずその国の歴史を勉強せよ」というアドバイスを受けた。その結果、ドイツの憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はドイツの方式を過度に評価する井上毅を嗜めるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど、憲法制定と議会開設の準備を進めた。 1885年(明治18年)には、太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やモッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は、天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となって、この憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は、1889年(明治22年)1月に結了した。 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が公布され、国民に公表された。この憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアではじめて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は、第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。 国民は、憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も、同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにも関わらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時東京大学医学部で教鞭を執っていたベルツが記している(「ベルツの日記」)。。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、福澤諭吉は主宰する「時事新報」の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に、不安を抱いている。中江兆民もまた「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。 国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。 制定後の出来事 1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、被告人に対する死刑を求め司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、被告人を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。 1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党と海軍軍令部、右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣・濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。 1935年(昭和10年)、貴族院議員で陸軍中将の菊池武夫が、当時通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説を、国体に反するものと非難。主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は、反論の演説をするも攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、また美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。ちなみに、昭和天皇はこの時、「機関説で良いではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押しつぶされたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治は、その実質を失ったことを示す。 日本国憲法への移行 1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。同宣言には「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」等と定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は、内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は、松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、様々な憲法改正案が発表された。 政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付毎日新聞が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部は、その記事に示された「松本委員会試案」は受け入れ難いと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。 2月13日、総司令部は松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたものの容れられず、あらためて「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は、総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として、国民に公表した。 この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は、新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案は、再び枢密院に諮られ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法の改正は日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 憲法改正有限界説との矛盾 Template Main? 前述するとおり、憲法の改正は大日本帝国憲法第73条の規定によって行われた。この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可する事になっており、実際、憲法改正の上諭文には「朕は…憲法の改正を裁可し…」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は…この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされた。 憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は、法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は、「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは、法的に許されないとする。 このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。したがって、明治憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は、改正ではなく「新たに制定」、両者の間の法的連続性は「実質的には無し」という解釈が取られている。 ちなみに、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定に則り改正された以上憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。 なお、各国の憲法の中には、「憲法改正の限界」を憲法に明記していているものも存在する。 概要 この憲法は、立憲主義の要素と国体の要素を併せ持つ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。憲法改正後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。 立憲主義の要素 立憲主義の要素としては、次の諸点がある。 言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が、法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。 これらの権利は、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」とされた。日本国憲法では、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と構成する。また、権利制限の根拠は「法律ニ定メタル場合」「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。但し、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在教育の現場で解説されるように「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(但し、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。 帝国議会を開設し、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。 帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また帝国議会は法案提出権や予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。また、上奏権や建議権が限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。 天皇の行政大権の行使に国務大臣の輔弼を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。 内閣や内閣総理大臣に関する規定は、憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は、国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。 司法権の独立を確立したこと。 司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は、司法裁判所にはなく、行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については、伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。 国体の要素 国体の要素としては、次の諸点が挙げられる。 「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この、天皇が日本を統治する体制を国体という。 天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは後に高山樗牛、井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上毅らの国体論は古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して高山らの国体論は、当時広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上毅らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。 参照 - 「皇室典範に関する有識者会議」第7回の鈴木正幸・神戸大学副学長による説明 天皇が、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。 特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使する事はなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。 天皇が唯一の立法機関とされ、帝国議会が立法機関ではなく、天皇の立法協賛機関とされたこと。 議会は立法協賛組織であり、法律制定には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であった。同時代の君主国憲法の多くが、立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であると言える。ただし実務上は帝国議会が可決した法律案に天皇、行政部が拒否権を行使したことは一度もなく基本的には帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし例外として天皇には、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。また、帝国議会に憲法改正の発案権がなかった。 帝国議会の一院に、公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせたこと。 枢密院など、内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。 このほか、元老、重臣会議、御前会議など、法令に規定されない機関が多数置かれた。 統帥権を独立させ、陸海軍は議会や政府に対し一切責任を負わない。 統帥権は、慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアンコントロールの概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに、軍部の政治力の源泉となった。後に昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。 皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。 宮中(皇室、宮内省、内大臣府)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。 構成 大日本帝国憲法は、7章76条からなる。構成は以下の通り。なお既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースを参照のこと。 第1章 天皇 第1条 天皇主権 第2条 皇位継承 第4条 統治大権 第10条 官制大権及び任官大権 第11条 統帥大権 第12条 編成大権 第13条 外交大権 第14条 戒厳大権 第2章 臣民権利義務 第19条 公務への志願の自由 第20条 兵役の義務 第22条 居住・移転の自由 第29条 言論・出版・集会・結社の自由 第31条 非常大権 第3章 帝国議会 第34条 貴族院 第4章 国務大臣及枢密顧問 第5章 司法 第6章 会計 第7章 補則 第73条 憲法改正 起草前後の政情 thumb|250px|『憲法草創之處』碑([[神奈川県横浜市金沢区)]] 明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていた。しかし、当時欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文に言わせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」だった。伊藤の懸念には根拠がなかったわけではなく、1876年にオスマン帝国(トルコ)がオスマン帝国憲法を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。また日本国内でも一部の保守派に絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は日本の現状に適合した憲法を目指した。それまで日本は幕藩体制の中でバラバラの状況であり、一つの国家と国民という結びつきが出来ていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。 憲法の起草は、夏島(現在の神奈川県横須賀市夏島町)の伊藤博文別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日頃から行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の神奈川県横浜市金沢区)を当初は用いていた。しかし8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難に遭ったことから、その後は伊藤別荘で作業は進められた。鞄は後に近くの畑で見つかり、草案は無事だったという。 東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後東屋は廃業し、一時的に野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。 なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に小田原に移築され、関東大震災で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には、明治憲法起草地記念碑が建てられてる。また、のちに伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。 現行法制度との関係 大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により「その条規に反する」ものについて、同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令は内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 参考文献 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』国家学会、1889年(岩波文庫版『憲法義解』ISBN 9784003311110 ) 稲田正次『明治憲法成立史』上・下、有斐閣 1960-1962年(OD版 ISBN 9784641903258 ISBN 9784641903265 ) 瀧井一博『文明史のなかの明治憲法 この国のかたちと西洋体験』講談社選書メチエ286、講談社、2003年 ISBN 9784062582865 八木公生『天皇と日本の近代(上) 憲法と現人神』講談社現代新書1534、2001年 ISBN 9784061495340 八木秀次著『明治憲法の思想 日本の国柄とは何か』PHP新書201、PHP研究所、2002年 ISBN 9784569621456 関連項目 太政官 内閣 (日本) 外部リンク Template Wikisource? 伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 05 21。
https://w.atwiki.jp/watermarsproject/pages/25.html
ここには旭日科学技術皇国で制定された憲法(別名 新聖憲法)の全文を公開する。 第零章 前文 [#t7407491] 帝及び偉大なる臣民、これらすべては旭日の民として誇りと尊厳をもち、過去に招いてしまった分断の惨禍を大きく反省しなければならない。旭日の民は旭日の民であることを自覚したうえで国政を行い、過去の伝統、文化を重んじてより良き未来を構築しなければならない。旭日の民は帝を代表として臣民は平等であり、いかなる隷属、差別、侮辱を受けてはならず、こちらからは決して行ってはならない。決して外交を軽視してはならず、旭日の民は平和かつ平等な国際関係に尽くさねばならない。また帝はこの国の神話からの万世一系の主権者であり象徴でもあるがゆえに、国民の声を聴き国政をとり行う義務があり、これに尽くさねばならない。旭日の民は科学技術を最大限に活用し、世界の永久な平和、そして自国の発展に尽くし、これまで理想とされてきた真の平和に挑みこれに励まなければならず、努力と探究心を絶やしてはならない。 第一章 国家 [#kf0dc221] 第一条 我が国の正式な国号は「旭日技術皇国」とする。 第二条 我が国の国旗及び国章については、これに関する別の法を用意する。 第三条 我が国の国土は旭日列島とその周辺島嶼に限る。 第四条 我が国の首都は皇京都とする。 ただし帝宮の場所が変わる場合はこの限りでない。 第五条 国家元首は帝とし、これは第二章で詳細を示す。 第二章 帝 [#fd64fcee] 第六条 帝は万世一系の国家元首として恒久にあり、これを侵してはならない。 前項の例外として、国民の総意に基づいた帝の立場の削除及び、帝自身の位の削除は認められる。 第七条 帝は国政に関与することは認める。 ただし国政の長に関しては帝のみがこれを支配することを禁ずる。 第八条 帝の以下の行為は義務である。神祇・祝祭 世界規模の国際行事への参加 国務総合大臣の任命 博議院及び臣議院の議長の任命 最高法院長の任命 また帝の品位が落ちない限り、宮務省が了承すれば帝はいかなる行為を妨げられない。 第九条 帝は国家が危機に面した場合、軍隊の最高統帥権を単独で確保できる。 第三章 国民 [#xb5e23d5] 第四章 立法権 [#v8316c9c] 第五章 行政権 [#x550dda8] 第六章 司法権 [#m49b6011] 第七章 軍事 [#m897e750] 第八章 財政 [#e60e0f0c] 第九章 地方自治 [#ze130e31] 第十章 改正及最高法規 [#af774530] 過去に行われた改正 [#s0ac9dc6]
https://w.atwiki.jp/arcana_heart3lm/pages/75.html
アルカナ選択愛 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化 雷 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・切り返し強化 時 オススメ度:★★ 切り返し強化 樹 オススメ度:★★★★ 牽制強化・起き攻め強化 土 火 オススメ度:★★★ 牽制強化・火力強化 風 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・切り返し強化 闇 オススメ度:★ 起き攻め強化 魔 水 オススメ度:★★★ 防御強化 鋼 聖 氷 光 オススメ度:★★★ 牽制強化・立ち回り強化 罰 罪 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・起き攻め強化 磁 オススメ度:★ 起き攻め強化 鏡 オススメ度:★★★★ 防御強化・起き攻め強化 音 花 オススメ度:★★★★ 防御強化 顎獣 オススメ度:★★★★ 牽制強化・火力強化 運 剱神 オススメ度:★★★★ 立ち回り強化 血 アルカナ選択 愛 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化 えこに限らずこのゲームを始める人にオススメのアルカナ。 各種飛び道具が強く、ホーミングやアルカナ技に癖が少ない。 おうじさまーの〆にトリス スフェラを使うことで、空中の〆からも起き攻めに移行できる。 地上基礎コンにエルピス トクソ(イクリプス)を組み込むことで火力も上がる。 地上での反射判定技がおえかきするのしかないえこにとって、ロズ キクロスも強みとなる。 雷 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・切り返し強化 ステップや溜め5E・2Eに相殺判定が付与するため、切り返しがとても強くなる。 地上通常技の発生が遅く、体が大きめのえこには切り返しの選択肢が増え楽になる。 画面端ではおうじさまーの〆にフェアルグロルグを使うことで、空中の〆からも起き攻めに移行できる。 時 オススメ度:★★ 切り返し強化 塵染の意(バックステップ)の性能の変化により、防御面での切り返しが増える。 コンボの〆に無量光の意を使用することにより起き攻めに行ける展開が増える。 しかし無量光の意に1ゲージ、その後いっぱいかくの!など使用するとアルカナゲージが枯渇しやすいことに注意。 6Dの性能も変化するため癖の強いアルカナである。 樹 オススメ度:★★★★ 牽制強化・起き攻め強化 蔦はそこそこリーチが長く、相殺不可のため牽制や固めとして優秀。 空中でおうじさまー〆後に花満開を設置することで強力な起き攻めに移行できる。 JEが多段のため、花満開と併せてほぼガード不能の起き攻めが可能。 被ダメージ時のゲージ増加量が非常に低いため、アルカナゲージの管理が重要になる。 土 火 オススメ度:★★★ 牽制強化・火力強化 空中攻撃(主にJE)のひっかけから火仙弋につなぎ、加速ホーミングJEでつなげることで空中攻撃からの火力が増す。 また操火統帥(EF発動中の効果)と多段技の相性が良く、EF中の空中コンボの火力が増す。 2Bに火孔覇を仕込むことで、先端hitや空中hitの際に安定して火力が取れ、ガード時でも削りダメージがとれる。 しかし、操火統帥により地上での基礎コンができなくなってしまう。 風 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・切り返し強化 3段ジャンプ、空中2Dによる高速落下、6GCのアドバンシングガード(相手を押し返す)が非常に優秀。 JCとヴェルテクスをつなげることで高火力コンボも狙える。 地上EFコンの〆や空中EF中のおうじさまーの〆にトルレンス(イクリプス)を使うことで強力な起き攻めに移行できる。 6GCがとても使いやすいため、風を使い始めると他のアルカナが使いにくくなる事が多い。 闇 オススメ度:★ 起き攻め強化 アルカナ技が設置技になっている。えこの場合はいっぱいかくの!などの起き攻めに使える技が固有技としてあるため、あまり選ぶ必要性は無いと思われる。 空中のコンボをおうじさまー〆後マルテルン設置から起き攻めに行くことが可能。 魔 水 オススメ度:★★★ 防御強化 プルヴィア、プレプルヴィウムといった水玉の設置により防御面が強化される。 またコマンド投げであるニトルムが使えるようになるため、崩しの手段も増える。 スティリアにより水玉を纏いつつ攻めに移行できるが、えこは体が大きいために水玉に当たらずに攻撃を受けやすいので注意。 鋼 聖 氷 光 オススメ度:★★★ 牽制強化・立ち回り強化 アルカナの属性効果としてライトヴェロシティ(ハイジャンプの高度上昇)があり、相手の上をとりやすい。 しかしハイジャンプ移行速度が若干遅くなるため一長一短。 また5C(2)>hjc>~のコンボが難しくなる。 ノーブルフォトンやインペリアルディビジョンなどといった強力な牽制技があり、攻めに移行しやすい。 罰 罪 オススメ度:★★★★★ 立ち回り強化・起き攻め強化 ボーリやスリオーズを出すことにより画面制圧力が上がる。 おうじさまーの〆にスリオーズイを使うことで、空中の〆からも起き攻めに移行できる。 溜め5Eの性能が変わるため、画面端でのいっぱいかくの!からの起き攻め時に崩しの選択肢が増える。 ザサーダの設置により防御面での強化もできる。 磁 オススメ度:★ 起き攻め強化 アルカナ技は起き攻めや牽制に使える飛び道具が多い。 しかし、属性効果のピュラクス(4Dの性能変化)を使いこなすのが非常に難しく、利点というよりは欠点として見られる場合が多い。 そのため、始めるにあたってはなかなかオススメできるアルカナではないかと思われる。 鏡 オススメ度:★★★★ 防御強化・起き攻め強化 スペクルムが強く起き攻めにも防御にも使える。ヒットストップが長いため追撃も簡単にできる。 地上コンボの〆にいっぱいかくの!の代わりにスペクルムを使うことで、ゲージを節約しつつ強力な起き攻めに移行できる。 EF発動中は自キャラが半透明になり見えにくくなるため、単純に崩しが強くなる。 ミステリア(イクリプス)も発生が速く相手をサーチするため、遠距離で飛び道具を多用してくる相手にも攻撃することができる。 しかし硬直が長いため近距離でガードされた際などは反撃が確定してしまうので注意。 音 花 オススメ度:★★★★ 防御強化 一重咲きや八重紅彼岸といった発生はそこまで速くないが、画面制圧力が強いアルカナ技がある。 属性効果である護りの花弁(被カウンターの削除)も非常に優秀で、えこの場合は攻めの起点がJEの場合が多いため攻めに行く際のリスクをかなり少なくできる。 またバーストの回復速度も全アルカナ中最速なため、防御面に特化したアルカナである。 顎獣 オススメ度:★★★★ 牽制強化・火力強化 速炮ベルガーにより地上で待ちながら戦う相手に牽制がしやすい。 罪玉や鏡、雷の溜めEなどに非常に有効。hit時は空中にいる際は加速ホーミングJEで追撃が可能。 JB>JCからやちょーまわるの!最終段からの巨炮ディングフェルダーで火力も上がる。 ちょーまわるの!最終段からは神炮ヴァインガルトナー(ブレイズ)もつながる。 運 剱神 オススメ度:★★★★ 立ち回り強化 剱強フェーダー(EF発動中の効果)により、火力やゲージ回収においての恩恵が大きい。 とにかく自分から生EFなどを使って立ち回ることがメインになるので、他のアルカナとは少し使い方が異なるかも。 EFをどんどん使用できるなら、2試合目中には3ゲージ溜めることも比較的簡単なのでじぇんとるめん!!も狙いやすい。 剱刺ザロモンも固めとして強い。2Bに対してGCしてきた相手を剱刺ザロモンで対処することもできる。 しかし、バースト後のフォースゲージの回復速度がかなり遅いためバーストのタイミングが非常に重要となる。 血 .
https://w.atwiki.jp/sotto_project/pages/100.html
目次 野口省己『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』(光人社NF文庫)目次 関連記事 野口省己『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』(光人社NF文庫) 野口省己『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』(光人社NF文庫)、1999年 野口 省己 著 目次 第一章 雲南へ一 戦死覚悟の出征 二 征旅途上にて 三 夢の国の秘境──雲南 第二章 師団参謀として一 精強師団の来歴と陣容 二 潜入英印軍との戦い 三 ビルマ方面軍の創設 四 陣地強化につとめよ 五 騰北掃討戦の挿話 第三章 情報活動の日々一 芒市機関と諜報戦 二 至誠天に通ず 三 戦場はあたかも演習場の如く 四 敵の反攻は四月中旬 第四章 インパール作戦一 独走する牟田口司令官 二 ラングーン兵棋演習 三 公務出張の一月半 四 怒江大峡谷の朝霧 五 執念結実 六 明と暗 第五章 戦力増強一 第二十八軍創設さる 二 北ビルマ防衛は第三十三軍 三 モール陣地攻撃 第六章 ミートキーナの危機一 飛行場奪取される 二 独断か専恣か 三 二兎を追う 第七章 死の谷フーコン一 悪疫瘴癘の地で 二 参謀長の独善 第八章 万骨枯る一 軍命令拒否 二 師団長罷免 三 遅きに失した決断 第九章 断作戦発令さる一 飛電一閃 二 辻大佐の人となり 三 印支ルートを遮断せよ 四 鋭鋒の片鱗 五 作戦計画のあらまし 六 後方準備 第十章 水上少将は死守すべし一 型破りの命令 二 めざましき勇戦敢闘 三 ミートキーナの失陥 四 丸山部隊脱出の真相 五 身を殺して仁を為す 第十一章 雲南戦線の危急一 松山師団長の苦衷 二 第二師団の追及 三 第十八師団の転進 第十二章 龍陵会戦一 作戦準備進む 二 軍司令官先頭の統帥 三 強い信頼のきずな 四 松井連隊長の涙 第十三章 拉孟守備隊の玉砕一 援蒋ルートを扼す要衝 二 山上の文化村 三 金光部隊長に続け 四 孤立無援の死闘 五 凄惨なる白兵戦 六 刀折れ矢つきて 第十四章 騰越落城一 防御困難の重要拠点 二 守備隊の兵力と配備 三 武人の鑑 四 誓って死守す 五 将兵克く奮戦せり 六 終生の十字架 第十五章 攻勢から持久へ一 兵とは辛きもの 二 拉孟からの使者 三 娘子軍 四 蒋総統からの逆感状 五 水際だった鮮やかさ 六 龍陵、芒市、遮放の戦闘 七 敵はバーモかモンミットか 八 まさに断腸の思い 第十六章 最後の死闘一 風前のともしび 二 実情無視の決戦案 三 感状と感情 四 イラワジ戦線崩壊 五 メイクテーラ会戦 六 両雄の対決 七 ビルマ国防軍の背反 八 ピンマナ危うし 九 理性と感情の激論 十 シッタン占領 十一 忍びよる敗戦の影 十一 地獄からの生還 あとがき 読書/特集/戦争を読む/情報戦を読む 関連記事