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筑波山神社 鎮座地 茨城県つくば市筑波1番地 御祭神 筑波男大神 伊弉諾尊 男体山871mに祀る 筑波女大神 伊弉冊尊 女体山877mに祀る 境内地 筑波山南面を主に海抜270mの線以上370町歩(ha) 祭 日 4月1日 春季御座替祭 11月1日 秋季御座替祭 2月10、11日 年越祭 摂 社 稲村神社(天照大御神) 安座常神社(素盞鳴尊) 小原木神社(月読尊) 渡神社(蛭子命) 境内社 春日神社、日枝神社、朝日稲荷神社、厳島神社 愛宕神社など多数 御神徳 ご祭神の二神は日本人の祖神(おやがみ)として『古事記、日本書紀』にそのご神徳が 書かれています。二神が結婚して神々を産み国産みをされたことにより、縁結び、 夫婦和合、家内安全、子授け、子育て等のご神徳と、国土経営をなされたことにより、 開拓、国家運営、社運隆昌、職場安全、工事安全、交通安全等のご神徳。また、豊作や 大漁などの産業面、そして厄除、方位除、心願、安産、進学等の合格祈願などに 祖神達の強いご神徳を戴くことができます。 由緒 筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として 仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに 神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、 自然に男女二柱の祖神が祀られました。 その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、 筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。 第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、 筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の 一族筑波命が筑波国造に命じられ、 以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。 第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が 東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳 の名が残ります。 奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として 親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社 に列しました。 中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が 国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の 鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の 兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、 明治6年に県社となりました。 沿革 筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の 言い継ぎ」 と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社である。西峯男体山頂(871m) の磐座に 筑波男大神(伊弉諾尊)を、東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊弉冊尊)を祀る。 山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代の形が 維持されている。筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、古来春秋両季に行われる御座替祭に供 へまつる神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体となす。筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く 神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、 天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。 即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座 を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、 素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は 日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。 また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に 至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名に よって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭 る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く行われてたことを示している。春秋二季 の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神とが筑波山 に密接して語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給 うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信 ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類な き神秘に富んだものを伝えている。 常陸風土記は、新嘗の夜に祖神尊が筑波神を訪ね給うた時、筑波神の真心こめた歓待に感激されて、 「愛乎我胤(はしきかもわかみこ)巍哉神宮(たかきかもかむみや)天地並斉(あめつちのむた)日月共同 (ひつきのむた) 人民集賀(ひとくさつどひことほぎ)飲食富豊(おしものゆたかに)代々無絶(よよたゆることな く)日日弥栄(ひにけにいやさかえ)千秋万歳(ちよろづよに)遊楽不窮(たぬしみきはまらじ)」と歓びの御歌を筑 波山に斎いこめられたことを伝え、この懐しく優しい筑波神の御許に足柄坂(あしがらのさか)よりの東の老若男 女が騎歩登臨して喜び集い「筑波嶺のかがひ」を催して万葉集や古今和歌集に数々の名歌を残した本縁を説い ている。更に「筑波岳に黒雲かかり衣袖清国(ころもでひたちのくに)」といふ国俗諺(くにぶりのことわざ)を書き 留め万世に伝うべき神授の詞集として、常陸国の国号が、実に筑波山に発していることを教えている。 その後人皇の御代に入って、神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世 早くも筑波国が建置されて采女臣(うねめのおみ)(物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命され た。成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至るまで、子孫相承けて祭政一致の制に基き 世々筑波国造が当神社に奉仕していたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んだ。 景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、 帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、連歌の濫觴 (らんしょう)をなし給うた。神道歌道もと一つにて、連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句 を生んでいる。 次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り 給い、御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納め給うた。これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび) 宮創祀の由緒で、神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、鎌倉・徳川の世 もまた旧慣により免ざられた。 降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えた。即ち嵯峨天皇の弘仁14 年正月21日(823)従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し(日本後紀巻三)また文徳天皇の嘉祥3年 9月26日(850)伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。以来漸 次昇叙して清和天皇の貞観13年2月(871)男神を従三位、同16年11月女神を正四位下に叙せられた(三代実 録)。更に寛平5年12月(893)両神共に一階を進められ、延喜の制に男神は名神大社に女神は小社に列せられ た。 醍醐天皇の延喜5年4月(905)、紀貫之は古今和歌集二十巻を撰上したが、その序に、天皇の御世の長久を 「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、その御聖徳を「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおは りまして、よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇され ていたことを偲ばせている。 武門の時代、建久二年(1191)源頼朝は安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将 を伴って当神社に参詣、神領を寄進す。弘安太田文に伝う、筑波社五十六町六十歩と。また頼朝の異母弟、 八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当 大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。天正18年8月(1590)、徳川家康は江戸城 に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、慶長5年9月(1600)関ヶ原の合戦に大勝の 後、山司筑波八郎以来の社家筑波氏を悉く追没して家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊 を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護 の神事と定めた。然して慶長7年11月25日(1602)、筑波山神領五百石(大字筑波)を寄進した。 宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長15年(1610)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、 慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、大願成就の後元和2年10月(1616)二代将軍秀忠 は当山の社堂伽藍を普請、更に寛永9年(1632)春三代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の 社堂伽藍を悉く造営寄進し、同10年11月(1633)工成り輪奐の美を尽くした。次いで五代将軍綱吉は知足院 十一世隆光を重用し、貞享元年(1684)護摩堂を湯島に移し、更に元禄元年(1688)神田橋外に地境を倍加して 宏荘な護摩堂を建立した。次いで元禄8年9月(1695)筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、元禄3年2月に 続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の二村)を加増したので、筑波山神領は千五百石を算へる に至った。江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となし専ら 当神社の奉務の任に当らせた。 宝暦9年(1759)、筑波町南表六丁目入口の石鳥居の再建が成り、同11年正月(1761)「天地開闢筑波神社」 の勅願を掲げることを幕府に奏請したが、後桜町天皇御幼少のため代わって嵯峨宮の御染筆があり、同13年 11月(1763)この筑波山の由緒を語る神領を掲揚した。降って元治元年3月(1864)に水戸浪士藤田小四郎、 田丸稲之右エ門等が筑波山に集結し、護持院本坊に本陣を置いて筑波義挙の兵を挙げ尊王攘夷を天下に呼 号して維新回天の魁となったのも故なしとしない。 明治元年10月(1868)神仏混淆禁止の太政官布達があって、筑波山では護持院を廃して旧に復し、明治2年9 月(1869)神祗大副伯の実弟白川資義が筑波山神社の祭主に任じられた。 明治4年11月17日(1871)、明治 天皇が大嘗祭を東京で行はせられた時、筑波山の日蔭蔓(ひかげのかづら)が御用命になった。これは実に古 今和歌集以来の歴史の幸せであった。明治6年10月4日(1873)県社に列し、同8年(1875)中禅寺本堂跡地に 現拝殿を造営して現在の規模を整えたのである。 筑波山の生い立ちとその姿 筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に班れい岩、花崗岩のマグマがあいついで貫入し、 その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となってから風雨による侵食や風化によって堆積物が削りとられ たものです。従って硬い班れい岩を頂上部に、花崗岩を基部にした現在の形となりましたが、それでもまだ微妙 な変化を続けています。 この山を覆う数多い植物は、寒冷期に北から下がってきた冷温帯の植物であるブナ林 を山頂部に冠のように残し、山麓部分には暖温帯の常緑広葉樹林が広がるという、きわめて多彩な姿となって います。しかし、地球の温暖化が進めばブナ林が生存できなくなるかも知れません。筑波山は北は足尾、加波 の山波に、東と南は筑波連峰の起伏につながり、西は肥沃な平野が広がります。この西麓も古代には豊の海と いう古霞ヶ浦に続く入海があって縄文海進とされ、その名残りを貝塚や地名に見ることができます。
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路線間で重複している区間は、原則としてどちらか一方の路線に書いてください。 補足事項はエリア情報/中部へ。 駅名 エリア 名古屋 名古屋駅 | 中川区 金山 大須/上前津/金山 鶴舞 鶴舞 | 新栄 千種 千種/今池 大曽根 東区 | 北区 新守山 守山区 勝川 瀬戸/春日井/小牧/犬山 春日井 神領 高蔵寺 定光寺 古虎渓 東濃 多治見 土岐市 瑞浪 釜戸 武並 恵那 美乃坂本 中津川 落合川 坂下 田立 木曽 南木曽 十二兼 野尻 大桑 須原 倉本 上松 木曽福島 原野 宮ノ越 薮原 奈良井 木曽平沢 贄川 日出塩 松本 洗馬 塩尻
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多治見・中津川・長野方面 昭和39年(1964年)10月改正時 時 分 列車名 行き先 備考 5 20 普通 長野 6 44 普通 瑞浪 7 11 普通 明科 8 10 急行第1しなの 長野 13 普通 塩尻 9 26 普通 中津川 10 15 普通 中津川 11 00 急行赤倉 新潟 08 普通 長野 12 43 普通 塩尻 13 44 普通 松本 14 20 普通 中津川 15 02 普通 瑞浪 40 急行第2しなの 長野 45 普通 多治見 16 02 普通 木曽福島 44 普通 坂下 17 19 普通 多治見 45 普通 木曽福島 18 06 普通 多治見 24 普通 瑞浪 休日は多治見行き 57 普通 中津川 19 20 普通 多治見 20 05 普通 坂下 40 普通 多治見 21 06 普通 中津川 22 17 普通 瑞浪 35 急行あずみ 長野 23 11 準急おんたけ 長野 55 準急きそ 長野 1 10 急行ちくま 長野 昭和53年(1978年)10月改正時 時 分 列車名 行き先 備考 6 03 普通 野尻 26 普通 中津川 7 00 特急しなの1号 長野 05 普通 高蔵寺 平日運転 13 普通 坂下 34 普通 多治見 41 普通 高蔵寺 50 普通 高蔵寺 8 00 特急しなの3号 長野 03 普通 中津川 11 普通 高蔵寺 20 急行つがいけ 南小谷 27 普通 神領 41 普通 土岐市 9 00 特急しなの5号 長野 10 快速 中津川 20 普通 多治見 35 快速木曽路 木曽福島 運転日注意 40 普通 高蔵寺 10 00 特急しなの7号 長野 03 急行赤倉 新潟 10 快速 中津川 25 普通 高蔵寺 40 普通 多治見 11 00 特急しなの9号 長野 10 快速 中津川 25 普通 高蔵寺 水木運休 50 普通 多治見 水木運休 12 10 快速 中津川 15 普通 高蔵寺 40 普通 瑞浪 13 00 特急しなの11号 長野 10 快速 中津川 25 普通 高蔵寺 40 普通 多治見 14 00 特急しなの13号 長野 10 快速 中津川 25 普通 高蔵寺 40 普通 土岐市 15 00 特急しなの15号 長野 10 快速 中津川 25 普通 高蔵寺 45 特急しなの51号 松本 52 普通 中津川 16 12 普通 瑞浪 36 普通 坂下 43 普通 美濃太田 17 00 特急しなの17号 長野 03 普通 高蔵寺 08 普通 瑞浪 15 普通 中津川 23 普通 高蔵寺 34 普通 多治見 平日運転 46 普通 中津川 18 00 普通 多治見 06 普通 多治見 20 急行きそ3号 長野 28 普通 高蔵寺 43 普通 瑞浪 19 07 普通 中津川 35 普通 釜戸 20 02 普通 土岐市 22 普通 中津川 35 普通 美濃太田 55 普通 高蔵寺 21 19 普通 南木曽 32 普通 高蔵寺 平日運転 57 普通 高蔵寺 22 29 普通 中津川 23 03 普通 瑞浪 26 普通 高蔵寺 31 急行つがいけ51号 信濃森上 運転日注意 46 急行きそ5号 長野 55 急行きそ7号 直江津 長野から普通 00 30 急行ちくま1号 長野 運転日注意 01 00 急行ちくま3号 長野 運転日注意、松本で分割 急行くろよん 南小谷 昭和57年(1982年)11月改正時 時 分 列車名 行き先 備考 6 02 普通 中津川 28 普通 南木曽 7 00 特急しなの1号 長野 03 普通 中津川 13 普通 高蔵寺 平日運転 29 普通 瑞浪 38 普通 高蔵寺 45 普通 神領 50 普通 高蔵寺 8 00 特急しなの3号 長野 02 普通 中津川 14 普通 高蔵寺 26 普通 神領 33 普通 多治見 9 00 特急しなの5号 長野 02 急行赤倉 新潟 08 快速 中津川 25 普通 瑞浪 40 普通 高蔵寺 10 00 特急しなの7号 長野 04 快速 中津川 25 普通 多治見 42 普通 高蔵寺 11 00 特急しなの9号 長野 02 普通 中津川 25 普通 多治見 水木運休 12 02 普通 中津川 25 普通 瑞浪 42 普通 高蔵寺 13 00 特急しなの11号 長野 02 快速 中津川 25 普通 多治見 42 普通 高蔵寺 14 00 特急しなの13号 長野 運転日注意 02 快速 中津川 25 普通 瑞浪 42 普通 高蔵寺 15 00 特急しなの15号 長野 02 快速 中津川 25 普通 瑞浪 42 普通 高蔵寺 16 02 普通 中津川 18 普通 高蔵寺 35 普通 坂下 44 普通 美濃太田 17 00 特急しなの17号 長野 09 普通 高蔵寺 平日運転 18 普通 中津川 30 普通 瑞浪 45 普通 多治見 53 普通 高蔵寺 18 02 普通 中津川 15 普通 多治見 23 普通 高蔵寺 36 普通 瑞浪 50 普通 高蔵寺 平日運転 19 00 特急しなの19号 長野 09 普通 中津川 27 普通 土岐市 44 普通 中津川 55 普通 美濃太田 20 22 普通 中津川 42 普通 多治見 21 10 普通 高蔵寺 29 普通 南木曽 57 普通 多治見 22 31 普通 中津川 23 02 普通 瑞浪 26 普通 高蔵寺 45 急行きそ5号 直江津 長野から普通 0 56 急行ちくま1号 長野 運転日注意、松本で分割 急行くろよん 南小谷
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神山町農村環境改善センター 写真未入手 演奏可能時間 設置期間 2019年6月 - 現在 設置場所 徳島県名西郡神山町神領字中津132、神山町農村環境改善センター内 アクセス JR徳島線 阿波川島駅からタクシー30分。石井駅から徳島バス神山高校前行も利用可(中津下車) 徳島空港から 中村から 松山から 松江から 鳥取から 大阪から 新宮から 徳島から 穴吹から 設置ピアノ グランドピアノ。 設置環境 近隣のまちなかピアノ KOBE SAUNA & SPA: 阿波川島駅から列車で3時間10分(阿波川島→阿波池田→岡山→新神戸→三宮)、三宮駅下車、徒歩4分。 NAVITIME検索結果はこちら 。 その他 関連リンク
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[部分編集] 無双OROCHIエンパイヤーズっぽいの無双DAKKI対ジルオール http //www.nicovideo.jp/watch/sm5680232 使用ゲーム 三国志IX PK シナリオ・担当勢力 英雄集結(一部改変)・妲己軍 シナリオの設定 上級・討死なし 抜擢ON 動画形態 - 登録武将 無双OROCHI ジルオール インフィニット 火魅子伝~恋解~ 神羅万象 無限のフロンティア スパロボOG ソウルキャリバー 封神領域エルツヴァーユ ラングリッサー 他 史実武将の扱い 無双OROCHIに出てくる 有名武将は無双グラに変更 扱いは現在試行錯誤中 投稿時期 2008/12/28~ 投稿者名 mitmit マイリスト マイリスト 関連タグ - 関連サイト - 備考 - 簡単な解説 コメント欄 名前 コメント
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普通 (岐阜方面ー)名古屋ー金山ー鶴舞ー千種ー大曽根ー新守山ー勝川ー春日井ー神領ー高蔵寺ー定光寺ー古虎渓ー多治見ー土岐市ー瑞浪ー釜戸ー武並ー恵那ー美乃坂本ー中津川 快速 名古屋ー金山ー鶴舞ー千種ー大曽根ー勝川ー春日井ー高蔵寺ー多治見(多治見から先は各駅停車) セントラルライナー(2013年3月16日廃止) 名古屋ー金山ー千種ー高蔵寺ー多治見(多治見から先は各駅停車) ホームライナー多治見 セントラルライナーと同じ ホームライナー瑞浪 名古屋ー金山ー千種ー大曽根ー高蔵寺ー多治見ー土岐市ー瑞浪 ホームライナー中津川 名古屋ー金山ー鶴舞ー千種ー大曽根ー多治見ー土岐市ー瑞浪ー恵那ー中津川
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連絡先:Contact Info Email chubu_esd_team@yahoo.co.jp Website https //www.facebook.com/ChubuunivESDecomoneyteam 活動拠点:activity base 中部大学春日井キャンパス 住所: 〒487-8501 愛知県春日井市松本町1200 交通アクセス ●公共交通機関をご利用の場合 JR中央本線「神領(じんりょう)」駅下車(名古屋駅より「普通」で約26分)、北口「中部大学スクールバスのりば」から約7分。 JR中央本線・愛知環状鉄道 「高蔵寺(こうぞうじ)」駅下車(名古屋駅より「快速」で約26分)、 北口8番のりばより名鉄バス「中部大学前」行に乗車(約10分)。 ●お車をご利用の場合 東名高速道路春日井インターチェンジより約5分。
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名環線・城北線の概要 名環線 名環線とは「名古屋環状線」の略で、愛知・多治見・四日市線に続き、JR化後の1989年に開通した路線である。読み方は「めいかんせん」。開業当初の車両は神領電車区の205系5000番台と103系で、103系は当初は多治見線と共用するためにウグイス色だった。なお、名環線の方向幕はカナリア(黄色)となっている。名古屋-金山-愛知長塚間は中央本線、枇杷島-栄生-名古屋間は東海道本線に帰属する通勤別線で、開通当初は愛知線・多治見線と線路を共用していたが現在はこの部分の線路増強工事も終了し完全に運行系統が独立している。このため名環線は昼間時は内回りも外回りも5分間隔での運行なっており、これは名古屋地区において最も頻繁に電車が来る路線となっている。 城北線 この環状線に平行するように走っているのが「城北線」と呼ばれる路線であり、環状線に対する快速電車的な位置付けとなっている。この路線は元来、高蔵寺方面から名古屋市城北地区へのアクセススルー化のために建造された路線であり、この関係で城北線の電車は環状線とは別の運行系統を持つ。運転系統はおもに高蔵寺-小田井-岐阜間。所謂「中距離電車」であるため方向幕は白であるが、「城北線経由」の表示が併記されている。ちなみにこの城北線、もともとは先述のとおり高蔵寺方面から名古屋市城北地区を経由して岐阜方面へ向かうバイパス線としての計画であったため、計画自体は環状線よりも先に行なわれていたが、いざ建設工事が始まると「ただ城北線を工事するだけでは住民の理解が得られない」として緩行線の線路の一部を共用して環状運転をはじめたのが名環線だといわれている。このため名環線の愛知長塚-小田井-枇杷島間は正式にはこの線に属することになっている。 名環線・城北線の車両 名環線の開業当初は103系と205系5000番台が入っていた。当初はウグイス色(黄緑6号)の103系も見られたがすぐに「東海色」に塗り替えられている。その後の2007年には愛知線や多治見線・四日市線と同様に313系7000番台・7500番台が投入されている。103系は2007年まで活躍したが、313系に置き換えられ全廃された。所属は開業当初こそ神領車両区(海シン)であったが、多治見線との車両のやりくりが難しいとして小田井駅周辺に新たに名環車両区(海メイ)を設置した。現在、名環線に関しては全編成が313系7000番台での統一が図られており、4+4の8連での運用が基本となっている。 いっぽうの城北線は先述の通り「中距離電車路線」としての性格が強いために、3扉の313系および211系5000番台が使われている。おもに神領区所属車が使われるが、大垣区(海カキ)所属の313系も直通する。 名環線の駅一覧・接続路線 駅名 読み 営業キロ 接続路線 所在地 名古屋 なごや 東海道新幹線・東海道線・愛知線・中央線・多治見線・関西線・四日市線名古屋市営地下鉄・あおなみ線・名鉄名古屋本線(名鉄名古屋駅)・近鉄名古屋線(近鉄名古屋駅) 愛知県名古屋市中村区 平池 ひらいけ 愛知線・多治見線 愛知県名古屋市中川区 尾頭橋 おとうばし 愛知線・多治見線 愛知県名古屋市中川区 金山 かなやま 東海道線・愛知線・中央線・多治見線・名古屋市営地下鉄・名鉄名古屋本線 愛知県名古屋市中区 愛知平和 あいちへいわ 多治見線 愛知県名古屋市中区 鶴舞 つるまい 中央線・多治見線・名古屋市営地下鉄 愛知県名古屋市中区 南千種 みなみちくさ 多治見線 愛知県名古屋市千種区 千種 ちくさ 中央線・多治見線 愛知県名古屋市千種区 北千種 きたちくさ 多治見線 愛知県名古屋市千種区 大曽根 おおぞね 中央線・多治見線・名鉄瀬戸線・名古屋ガイドウェイバス 愛知県名古屋市東区 矢田川 やだがわ 多治見線 愛知県名古屋市東区 新守山 しんもりやま 中央線・多治見線 愛知県名古屋市守山区 愛知長塚 あいちながつか 中央線・多治見線 愛知県春日井市 追進 ついしん 愛知県春日井市 味美 あじよし 城北線 愛知県春日井市 池花 いけはな 愛知県名古屋市北区 比良 ひら 城北線 愛知県名古屋市西区 玉池 たまいけ 愛知県名古屋市西区 小田井 おたい 城北線 愛知県名古屋市西区 見寄町 みよりちょう 愛知県名古屋市西区 尾張星の宮 おわりほしのみや 愛知県清須市 枇杷島 びわじま 東海道線・愛知線 愛知県清須市 栄生 さこう 愛知線・名鉄線 愛知県名古屋市西区 名古屋 なごや 東海道新幹線・東海道線・愛知線・中央線・多治見線・関西線・四日市線名古屋市営地下鉄・あおなみ線・名鉄名古屋本線(名鉄名古屋駅)・近鉄名古屋線(近鉄名古屋駅) 愛知県名古屋市中村区 城北線の駅一覧・接続路線 駅名 読み 営業キロ 接続路線 所在地 勝川 かちがわ 中央線・多治見線 愛知県春日井市 味美 あじよし 名環線 愛知県春日井市 比良 ひら 名環線 愛知県名古屋市西区 小田井 おたい 名環線 愛知県名古屋市西区 東清洲 ひがしきよす 愛知県清須市 清洲 きよす 東海道線・愛知線 愛知県稲沢市
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徳島中央(今井)郵便局 郵便番号:〒771-34・〒771-33(元は徳島中央(神山)郵便局が集配) 集配地域:徳島県名西(みょうざい)郡神山(かみやま)町の旧・名西郡下分上山(しもぶんかみやま)村域、旧・名西郡上分上山(かみぶんかみやま)村域および旧・名西郡神領(じんりょう)村域。 1.jpg (徳島県)今井郵便局局舎 2.jpg (徳島県)今井郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
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1665年(寛文五年)七月に発布された条目。神社条目とも言う。 「一、諸社の禰宜神主等、専ら神祇道を学び、その敬ふ所の神体いよいよこれを存知すべし。 ありきたりの神事祭礼これを勤むべし。。 向後(きょうこう)、怠慢せしむるに於いては、神職を取り放つべき事。 一、社家の位階、前々より伝奏をもって昇進を遂ぐるの輩は、 いよいよその通りたるべき事。 一、無位の社人、白張を着すべし。その外の装束は、吉田の許状をもってこれを着すべき事。 一、神領、一切売買すべからざる事。 附(つけたり)、質物に入るべからざる事。 一、神社小破の時は、それ相応常々修理を加ふべき事。 附、神社懈怠なく、掃除申し付くべき事。」 →第二条は、今まで伝奏によって位階を授与されてきた社家は、 今後も従来通りの昇叙を承認する、の意。 (『日本神道史』岡田壮司) 日本神道史