約 38,332 件
https://w.atwiki.jp/moonchild/pages/4.html
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/7362.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 「一時停止しろ。」 「一時停止!アイ・サー!」 甲板に出たウェールズの命令を挙帆手が復唱し、マリー・ガラント号がアルビオン大陸の丁度『真下』で動きを止めた。 この美しいアルビオン王国の皇太子の傍にいたルイズは頭上にある大きな穴を見て目を丸くした。 以前姉たちと旅行でこの大陸へ赴いたことはあるがこんな穴は観光名所のカタログには載っていなかった。 隣で唖然としているルイズを見て、ウェールズがさりげなく説明を入れた。 「驚いたかい?今頭上にある穴は自然に出来た物なんだ。恐らくこの大陸が浮遊したときからあったに違いない。 僕たち王軍はこれを秘密の出入り口として用いている。中はもの凄く暗いが…なに、我々には造作もないことさ。」 「こんな大きな穴が自然に出来たなんて…とても信じられません。」 ウェールズの説明を聞き、信じられないという顔になったルイズを見て更にウェールズは説明する。 「更にもしもの際の避難用として大陸のあちこちに井戸に偽装した抜け穴を―――おっと説明はここまでだ。」 得意げに話していたウェールズがふと口を閉ざし、後ろからやってきたワルド子爵の方へ顔を向けた。 「部屋の中で休んでいたら窓の外が暗くなったものだから…成る程、こんな場所があったとは。」 ワルドは感心した風に呟くと暗闇の中でテキパキと帆をたたんでいる空賊――もといアルビオン軍の水兵達を見つめ目ながら言った。 「秘密の出入り口を使って城に戻るとは…まさに空賊そのものですなですな。殿下?」 ウェールズがその言葉に少し顔を顰めたのに気が付いたルイズは少し焦ったが、すぐに元の表情に戻るとワルドにこう言った。 「あぁ、何せ貴族派の連中は僕達用の手形を作ってくれなくてね。仕方なくこんな所を使ってるんだ――仮装パーティをしながらね?」 その言葉にワルドはキョトンとした顔になり、しばらくして彼の口から小さな笑い声が聞こえてきた。 ついでウェールズも笑顔になると、マリー・ガラント号がどんどんと穴の入り口に向かって上昇していく。 「さてと、立ち話もなんだから一等客室でも借りてお茶でも飲みながら話そうじゃないか。」 爽やかな笑顔でそう言われると二人はなんだか首を横に振ることが出来なかった。 川の流れに乗るようにルイズ達は頷くと、ウェールズの後を追った。 イーグル号を先頭に二席の大型船が穴の中に入り、どんどんと上を目指して上昇していく。 船の甲板に立っている水兵達は松明や杖の先に明かりを灯し、見張りをしている。 ごつごつとした外壁に紛れ人が入れそうな横穴がポツポツとある。 船はどんどんと上昇していく時、既に通り過ぎた場所から人影が飛んできた。 死角の所為で船から見えなかったその人影は船の後に付いていくように上を目指して飛び始めた。 ◆ 天蓋付きではないがそれなりの装飾が施されたベッドに大きなクローゼット。 部屋の中央に配置されているテーブルの上には篭に入った色とりどりの果物達。 少し小さめのシャンデリアは眩しいくらいに輝いており、一等客室を照らしていた。 そしてテーブルを囲むように置かれているソファーに腰掛けているウェールズが向かい合って座っている二人に話しかけた。 「さてと、何か聞きたいことがあったらプライベートな事を除いて、質問してくれよ。」 ウェールズの言葉にルイズがゆっくりと口を開いた。 「あ、あの…こんな事を聞くのは何ですけど、本当にウェールズ皇子なのですか?」 ルイズの質問にウェールズは少しだけキョトンとするとクスクスと笑った。 「フフフ…まぁ無理もないかな?何せ最初に顔を合わせたのは仮装パーティー真っ最中の時だったからね。」 冗談っぽくそう言うとウェールズは立ち上がり、ポケットの中に入っていた指輪をスッと薬指に嵌めた。 「どうだい?これは代々アルビオン王国の家宝の代表として君臨している『風のルビー』さ。」 ウェールズの言葉を聞き、ルイズは急いで頭を下げた。 「失礼を致しました。何分私は疑り深い性格なもので…」 「なに、気にすることではないさ。人間には様々な性格の持ち主がいるからな。」 ウェールズは笑顔でそう言うと指輪を外し、再びポケットの中に入れた。 それからしばらくして、マリー・ガラント号と黒塗りの船『イーグル号』が穴に入ってから既に数分が経過していた。 ワルド子爵はマリー・ガラント号の船長と話す事があると言って部屋を出て行った。 窓の外から見える苔が生えた岩肌を背にルイズはウェールズにアンリエッタからの任務の事について説明をしていた。 アンリエッタが以前彼に送った手紙を返して欲しいと言われたウェールズは少しだけ目を丸くしていた。 「そうか、あのアンリエッタもとうとうそんな年になったのか。」 嬉しそうに――だけど若干哀しさを含んだ口調でそう呟き、ウェールズはルイズの方へ向き直った。 その時ルイズは見た、ウェールズの皇子の顔には言いようのない哀しさが滲んでいた。 しかしその哀しさはすぐに顔から消え失せ、先程のような眩しい笑顔に戻っていた。 「貴君らの任務についてはわかったよ。しかし、アンリエッタから貰った手紙はこの船には――――――っ!?」 ルイズの方に向かって喋っていたウェールズは突然目を見開くと杖を取り出した。 一方のルイズは血相を変えて杖を取り出した皇子に驚き、思わず窓の傍から離れた。 そしてそれを見計らってウェールズが瞬時に詠唱したエア・ハンマーが窓を叩き破る。 耳に残る嫌な音と共にガラスが外に飛び散り、冷たくも何処かジメジメとした風が部屋に入ってきた。 立ち上がったルイズはオロオロとしながらもウェールズに話しかけた。 「ど、どうしたんですか!?」 彼女の言葉にウェールズは杖を下げると口を開いた。 「今窓の外に人影が――」 「ちょっとちょっと、何もいきなり攻撃するのはないんじゃないかしら?」 ふと窓の外から聞こえてきた少女の声に、二人は驚愕した。 ウェールズは急いで杖を構え直しルイズを連れていつでも部屋から出れるようドアの方へと下がる。 一方のルイズはと言うと、生まれてこのかた感じたことのない程の驚愕を今まさに感じていた。 それは謎の声に対する恐怖ではない、むしろその声は彼女にとって聞き慣れたものである。二年生になってから。 では一体何なんだというと、それは「どうしてここにいるんだ?」という感じの驚愕であった。 「誰だ!素直に出てくるのなら攻撃はしない!」 ウェールズは声だけの相手に勇気を振る舞ってそう叫んだ。 その言葉を聞いて、声の主である少女はスッと窓の外から部屋の中へ飛んで入ってきた。 ルイズは相手の姿を見て限界点まで両目を見開き、心臓が喉の方までせり上がりそうになった。 紅白の特徴的な服を着た黒髪の少女の方も赤みがかかった黒い瞳でルイズの姿を捉え、キョトンとした顔になった。 「……なんか知らないけど、これもサモンなんとかの影響かしらね。全くどうなってるのよ?」 霊夢がうんざりしたかのように呟いた言葉に、ルイズは思いっきり叫んだ。 「それはこっちの台詞よ!」 何でこんなところにいるのかが一番の疑問であったが、その時ルイズが一番気にしていたのはそれではなかった。 (とりあえずは皇太子様にこいつがどれほど無礼な奴なのか先に言っておかないと。下手したら打ち首だわ!) 自分が召喚したこの少女がどんな相手に対しても頭を下げないという事を知っているルイズは後ろにいる皇太子にすかさず説明を入れた。 「…この少女と君は知り合いなのかい?」 「うぇ…ウェールズ皇太子!この者はですね…えっと、その、なんて言ったらいいか…そう、ちょっとしたワケありで一緒にいるんです!」 急いで喋ったせいか彼女自身何を言ったのか把握していなかったが、ウェールズはそれである程度理解したようだ。 とりあえず大丈夫だと確認したウェールズはホットしたかのように一息ついて杖を下ろした後、霊夢の方へ顔を向ける。 少し黄色が入っているがほぼ純白に近い肌、艶やかに光っている長い黒髪、少々赤みがかかっている黒い瞳。 そしてなによりも彼の目に入ったのはあまりにも特徴的な霊夢の服装と手に持っていた杖であった。 頭につけた赤いリボン、服とは別になっている袖。そして見たことのない装飾を施されている杖を手に持っている。 貴族かと思ったがマントを着けていないようだ。 一通り彼女に嫌な感じを持たされる前にウェールズはそこまで確認すると霊夢に先程の攻撃に対する謝罪の言葉を掛けた。 「先程の無礼は許して欲しい。何分戦時下のため、下手に緊張していt――」 「別に謝らなくてもいいわよ。どうせ当たらなかったんだから。」 「ちょっとアンタ!相手を見なさいよ相手を!?」 ウェールズの謝罪の言葉を遮り言い放った霊夢の何気ない一言にルイズは怒鳴った。 一国の皇太子直々の謝罪を遮って喋るなどルイズにとってあってはならない事である。 「うっさいわね、というよりなんでアンタがここにいるのよ。」 霊夢が鬱陶しそうに言い返すと、途端にルイズも大きな声で言い返した。 「それはこっちが聞きたいわ、大体どうやったらこんな所にたどり着くのよ!」 「森の中を飛び回って枯れた井戸の底にあった穴に入れば誰でもたどり着けるわ。」 「い、井戸?というより良く入れたわね、アンタの他に誰が好きこのんで井戸の中にはいるのよ。」 「う~ん…井戸神様かしらね。」 「なによそのイドガミさまってのは?どうせ架空の存在でしょう。」 「嘘だと思うのなら井戸の上に戸板をのせて歩いたらどうかしら?本当にいるってその身で実感できるわよ。」 霊夢がそう言った直後、ふと窓の外から眩しいくらいの明かりが入ってきた。 光に気づいたウェールズはポケットに入れていた懐中時計を取り出し、時刻を確認した後、呟いた。 「おや、ようやく港に着いたようだね。」 何だと思い二人が窓の外を除いてみると、マリー・ガラント号は何処か広い空間に出てきていた。 そこは巨大な港であった、大きな詰め所があり奥の出入り口から多数の水兵達が出てくる。 ルイズはその港を見て息を呑み、霊夢の方もジーッと港を見つめている。 そんな二人を見てか、ウェールズは得意げそうに口を開いた。 「どうだい?ニューカッスル城が誇る、地下の巨大港は。」 ◆ 冥界 白玉楼―――――― 生きとし生けるものは必ず何かを食べなければ行けない。 それが神から与えられた使命なのか、それとも生物として本能なのかは誰も知らない。 ただ、食べるという行動自体は別に生きてはいないモノ達でも行うことがある。 例えば、今テーブルの上に置かれている大福餅を食べている西行寺幽々子などがその一例である。 「はむっ♪」 幽々子は満足そうな表情で大福餅にかぶりついていた。 既に死んでいる存在の彼女がこうして何かを食べているのを見れば、別に亡霊が何かを食べていても不思議ではない。 最も、幽々子は冥界に存在する幽霊、亡霊、生霊、悪霊達よりも更に格上の存在ではあるが『霊』という種のグループに入っているのは間違いない。 そして早くも一個目を平らげた幽々子は二個目へと手を伸ばそうとしたとき、ふと後ろから声を掛けられた。 「幽々子様、そろそろ夕飯も近いですしそこまでにしておいては…。」 まるで鍛え抜かれた刀のように鋭く、しかし何処か子供っぽさが残っている声の持ち主は幽々子の従者兼庭師の魂魄妖夢であった。 小柄な体ではあるが接近戦においては随一であり、楼観剣と白楼剣という二本の刀を所持している。 妖夢の傍には他の幽霊と比べればあまりにも大きすぎる幽霊が漂っており、彼女が普通の人間ではないということを示している。 「大丈夫よ妖夢、2個だけならあと六分目くらいお腹にはいるから。」 妖夢の言葉に幽々子はからかうようにそう言うと二個目の大福をすぐに口の中に入れた。 モグモグと口を動かし幸せそうに食べている主の顔を見ていると妖夢も次第に怒る気がなくなり、ため息だけをついた。 そろそろ夕食の仕上げに掛かろうと思い台所の方へ足を進めつつ妖夢は口を開く。 「もう、まぁほどほどにしておいてくださいね。」 「は~い♪」 「本当、あなたってのんびりとしてるわねぇ。むぐむぐ…」 「ふぅ…ん?」 主の返事を聞き、妖夢は一人頷くと台所の方へ行こうとしたが、咄嗟に後ろを振り向いた。 そして幽々子の隣に座って大福を頂いている八雲紫がいつの間にかいたのである。 いつの間にかちゃっかり座っているスキマ妖怪を見て、思わず妖夢は驚いてしまった。 「あっ!紫様ではござりませんか、一体いつの間に?」 「本当だわ、気づいたら人の大福に手を出してる妖怪がいるわね。」 「まぁいいじゃないの、それより今晩は二人とも。今宵は良い月だわね。」 紫はすぐに大福を食べ終わると、あらためて幽々子に挨拶をした。 「こちらこそ今晩は、こんなにも良い月だから夕食前に大福を二個も食べちゃったわ。」 幽々子の方はまんざらでもないという顔になっており、妖夢の方は紫に頭を下げ、挨拶をした。 紫はそれを見て妖夢に微笑むと幽々子に話しかけた。 「ふふっ、貴方の庭師さんは顔を合わせる度に良い子になっていくじゃない。」 「でしょ?私が手塩にかけて色々と教えてるんだから。」 幽々子がそう言ったとき、妖夢が少し慌てたように幽々子にこう言った。 「あのー…幽々子様が塩を握ったら成仏してしまうのでは?」 妖夢の言葉に二人は黙ってしまったが、すぐにクスクスと笑い始めた。 それにつられて妖夢も笑いそうになるがふと思い出したかのように紫に話しかけた。 「そろそろ夕飯の時間ですが…紫様、もし良ければ今晩はここで食べていきますか?」 「えぇ、もともとそのつもりだったから頂くわ。…あぁ後話しておきたいことも一つあるわ。」 「?…話したい事って何かしら。」 幽々子にそう問われ、紫は一息つくと口を開いた。 「実は少しだけ頼み事があるのよ。」 ◆ マリー・ガラント号とイーグル号が無事港に停泊した後、 ルイズ、ワルド、そして霊夢の三人はとりあえずウェールズに連れられて城の中へと入った。 ニューカッスル城には大勢の貴族やその妻子達が住んでいた。 常に敵軍とその旗艦『レキシントン号』の砲火に脅かされているにもかかわらず、何処か明るい雰囲気があった。 普通なら隣り合わせの死に怯えているはずだというのにそんな感じは微塵もない。 ルイズがそんな風に思いつつ、一同はウェールズの居室へとたどり着いた。 しかし、天守の一角にあるその部屋はとても粗末なモノであった。 木製のベッドにイスとテーブルがセットで一組、壁には戦の模様を描いたタペストリーが飾られている。 一国の皇太子がここで寝ているとはとても思えないような部屋を見てルイズは目を丸くした。 「随分と粗末ですまない、何分売りに出せるモノは全て売ってしまったのでね。」 イスに座ったウェールズはそう言うと机の引き出しを開けた。 そこにあったのは、綺麗な装飾が施されている小箱が入っており、それを手に取りテーブルの上に置く。 次に首からネックレスを外す。その先には小さな鍵が開いていた。 その鍵を小箱の鍵穴に差し込み、鍵を開けて蓋を開ける。 蓋の内側に小さなアンリエッタの肖像が描かれていた。 それに気づいたルイズがその箱を覗こうとしたことに気が付いたウェールズははにかんでこう言った。 「宝箱でね、この箱の中身は多分僕の生涯の中でも最高の財宝さ。」 ウェールズは中に入っていた一通の手紙を取り出し、色褪せた封筒を開いてゆっくりと読み始めた。 何度も読まれボロボロ一歩手前のソレは何処か哀しさを漂わせていた。 やがて手紙を読み終えたウェールズは手紙を丁寧にたたみ封筒に戻すとルイズに手渡した。 「では、アンリエッタ姫殿下からの手紙、確かに返却したぞ。」 「ありがとうございます。これで祖国の危機も去る事でしょう。」 ルイズは深々と頭を下げ、その手紙を受け取った。 受け取った手紙をちゃんと懐にしまったのを確認すると、ウェールズは再度口を開いた。 「明日の朝に非戦闘員を乗せたイーグル号とマリーガラント号がここを出発する。それに乗って帰りなさい。」 その言葉を聞いたワルドはコクリと頷いたが、ルイズだけは歯痒そうにこう言った。 「あの、殿下…殿下は明日の朝にはレコン・キスタと戦うのでしょうか?」 「その通りだ。私は先陣に立って真っ先に死ぬつもりでいる。」 ウェールズの言葉にルイズは少し驚いたが、他の二人はそれ程驚きもしなかった。 ワルドは軍人であるため皇太子の言葉にはある程度同感はしているが、霊夢の場合は単純に興味が無いだけである。 その後ルイズはアンリエッタから預かっていた手紙をウェールズに渡した。 手紙を受け取ったウェールズはゆっくりと読み、懐にそっとしまった。 それを見計らってルイズがおそるおそるウェールズ皇太子に話しかけた。 「殿下…私は使者である故その手紙を見ることは適いませんが、なんと書かれていましたか?」 ルイズの言葉にウェールズは微笑むとからかうようにこう言った。 「そんな事では使者は勤まらないがまぁ特別に教えよう、…ただ手紙を返して欲しい事と武運をお祈りします。とだけ書かれていたよ。」 ウェールズの言葉にルイズは有り得ないと言いたげな顔になった。 「そんな…、私は幼少期にあなた様と姫殿下がどれ程仲が良かったのかハッキリと覚えています。だから…」 「そこまでにしよう。私は王族だ、王族が嘘をつくときは世界の終わりが来た時だけだ。」 ルイズの言葉を途中で遮ったウェールズは一息つくとイスに座り直し、ため息をついた。 気まずい空気が流れそうになったとき、ウェールズはルイズにこう言った。 「ミス・ヴァリエール、君は本当に正直で真っ直ぐな子だ。ここにいる誰よりもね…。」 ◆ 場所は変わって、白玉楼――― そこの主である西行寺幽々子は八雲紫と共に夕食をとっていた。 「成る程…あの紅魔館のお嬢さまがねぇ~…はむっ。」 幽々子はのんびりとそうに呟き、カマボコを口の中に入れる。 「そうよ、どうやらかなり殺る気まんまんらしいわ。」 「まぁ霊夢がいなくなって聞いてからあの吸血鬼、かなりピリピリしてたからねぇ~。」 ゆっくりと口の中のカマボコを咀嚼している幽々子を相手に紫はどんどんと話していく。 どうやら夕食だというのに何やら話し合いをしているようだ。一体その話し合いとは何なのか? 夕食の前に、紫は幽々子に頼み事があると言った。 それは先程彼女が言っていたレミリア・スカーレットへの警戒である。 「私は霊夢がいる異世界へ乗り込んだら、すぐに霊夢を連れて帰るって計画だったけど…あの吸血鬼は余計な事を考えてるのよ。」 まだ夕食に手を付けていない紫は苦虫を踏んでしまったような顔でそう言い、話し始めた。 何でも式の報告によると最近紅魔館内部の図書館で司書している小悪魔とメイド長の十六夜咲夜が何やら目立った動きをしているという。 咲夜は紅魔館にいる妖精メイド達を何十匹か集め、誰が一番強いのか弾幕ごっこを行わせている。 小悪魔の方は魔法の森や妖怪の山の近くにある樹海へと足を伸ばし、何かを集めているというのだ。 それが気になった紫の式である藍は小悪魔の後を追おうとしたが、何故だか小悪魔の身体にもの凄い『厄』がまとわりついていて、近づくのは無理であった。 最も、小悪魔自身も紅魔館にたどり着いた時には厄に耐えきれなくなり中庭に墜落したのだが。当然誰も知らない。 「もしも異変も何もなかったらただの児戯だろうと思って無視するけど、今の状況を考えるに放っておけないのよ。」 紫の言葉に、幽々子はまるで珍しい物を見るかのような目つきで紫の顔を見ていた。 「貴方、何処か頭でも打ったの?幻想郷を常に愛している貴方なら喜び勇んでその世界を焦土に変えそうだけど…。」 幽々子の言葉に妖夢はハッとした顔になり幽々子の方へ顔を向けた。 紫はしばらく無言で幽々子の顔をジッと見つめていたが、ふと口を開いた。 「幻想郷を愛しているからこそ過激な干渉はせず、なるべく穏便に済ませたいの。」 彼女はそれを皮切りに、幽々子とその隣にいる妖夢にある話を始めた。 「今回霊夢が飛ばされた世界は、幻想郷の次に私たちが住むのに適した場所なの。 機械や科学などといったモノが殆ど進化しておらず、魔法が高度に発達した夢のようなところ。 霊夢を喚んだ少女の記憶を辿ってそれを知った私はまさかと思ったわよ。 だからこそ大規模な破壊や大虐殺といった干渉は避け、霊夢を連れ戻した後にその行く末を観察したいの。 もしかしたら幻想郷に住む妖怪達の生活基準を向上できるかも知れないのよ。」 滅多に見れない八雲紫の熱弁に、幽々子は思わず面食らってしまったが無理もない。 幻想郷の要である博麗の巫女を何も言わずに攫った挙げ句に結界に細工をするようなのを相手にそんな事を言うとは思ってもいなかった。 まぁ多分それを言う理由は彼女の言う「外の世界」のような場所ではないからだろう。要は興味深いからその世界を壊したくないという事だ。 もしも紫の興味が沸いてこなければ、霊夢を攫った仕返しにと目を瞑るような酷い事をしていたに違いない。 幽々子は一息置いてから、返答を出した。 「わかったわ。貴方がそこまで言うのなら協力してあげる。」 「…ありがとう幽々子♪貴方のおかげ頭の中に残る悩みの種がなくなったわ。」 幽々子の答えを聞き満足そうに紫はそう言うと、手元に置かれた箸に手を伸ばした。 既に夕食を食べていた幽々子はそんな友を見て可愛いと思った。 幻想郷の創造主であり大妖怪として怖れられている紫は他の者達が思っている性格はしていない。 胡散臭いがその分長く生きている者特有の嫌みはなく、割と多くの者を引き寄せる。 だが、紫とは旧知の仲である幽々子は冥界に住む者である。 今更言うのも何ではあるが本来は顕界やそこで起こる事情は無闇に首を突っ込んではならない。 幽々子自身、幻想郷で何かあった場合妖夢や代理の幽霊達に任せており、彼女自身が幻想郷へ行くことは滅多にない。 しかし――冥界でもまた今現在幻想郷で継続している異変とほぼ同等の異変が起きていた。 一度は何が起こったのかもわからず大混乱を起こしたほどであった。 それが収まった後に幻想郷の結界が変異し始めたのを以前の会合で知った幽々子のもとに閻魔の使いがやってきた。 その内容はこうであった…。 「もし八雲紫が協力の申し出をしてくるのならばそれを受け入れなさい。今回の異変は幻想郷の異変と関連しています。」 霊夢が失踪した後に起こった冥界での異変、恐らく紫も知っていたうえでこの協力を申し込んできたのだろうか。 多分、というより確実にそうであろう。妖怪も人間も年を取れば自然と耳に色々な事が入ってくる。 今、冥界にも幻想郷にも、未曾有かつ大規模な異変が起こっているのである。 ◆ 一方、こちらはニューカッスル城のホール。 今やここは王族派貴族達のパーティー会場と化していた。 辺りは楽しそうな声と華やかな演奏によって彩られ、この世に二つとない盛大な宴である。 ウェールズに手紙を渡した後、ルイズ達三人はパーティーにゲスト出演することとなった。 しかし、明日には外で陣取っている敵に殺される者達が楽しそうに振る舞っているのを見て、ルイズは途方もない悲しみを覚えた。 死を前に楽しく振る舞う者達は、勇ましいというより何処か悲しいというのだろうか…遂にルイズはそれに耐えきれずすぐに会場を出て行った。 霊夢はそんなルイズを見てまぁ無理もないかと思った。最も、一体何に耐えきれなくて出て行ったのかわからないが。 最も、ルイズがもし今の霊夢が見ているモノと同じモノを見ていたらパニックに陥っていただろう。 (全員が喜び勇んで死ぬ気だから、ついでに連れて行こうっていう奴等がうようよいるわね…。) 決して常人には見えないタチの悪い亡霊の類やらが大量にホールを漂っている事に気が付いているのは霊夢だけであった。 大方、ここで起こっている戦かなにかで死んだ者達のなれの果てであろうが、霊夢にとってはあまりいいものではない。 一方のワルドは何やらウェールズと話し合いをしていたようだ。 「では皇太子殿、明日の朝に式を頼みます…。」 「あぁ、私も朝早くに起きて準備をしておこう。それよりもまずはこのパーティを楽しみたまえ!」 ウェールズは最後にそう言うと後ろにいた貴婦人達の方へと戻っていった。 話を終えたワルドは後ろを振り向くといつの間にかルイズがいなくなっている事に気が付いた。 どこに行ったのかと辺りを見回しているとふと前から声が聞こえてきた。 「あの子なら耐えきれなくなって出て行ったわよ。」 そちらの方へ顔を向けると扉の傍にある椅子に座ってサンドイッチを食べている霊夢がいた。 一体何処からサンドイッチを持ってきたのかわからないがワルドはすぐに霊夢の傍へよると話しかける。 「やぁ使いm――失礼、えっと名前はハクレイレイム…とか言ったね。すまない、ルイズは一体何処に…?」 「たぶんウェールズから借りた部屋じゃない?」 霊夢はワルドの顔を若干嫌悪感を混ぜたような表情で見つめ、言った。 「そうか、感謝する。」 ワルドは礼を言うとすぐに大きなドアを開けてパーティー会場を出て行った。 それからしばらくした後、霊夢もティファニアから貰ったサンドイッチ(昼に食べるつもりだったもの)を食べ終え食後のお茶を飲んでいた。 すると、パーティーとアルコールの摂取で多少ハイテンションになりつつも人々の間からウェールズ皇太子が霊夢のもとへやってきた。 先程ウェールズの部屋で話が終わった後、霊夢だけ話があると言って残ったのだ。 その後、霊夢は何故アルビオンへ来たのかをウェールズに話したのである。 アンリエッタというお姫様から聞いたというその話に、ウェールズはあっさりと霊夢を信用してしまった。 しかしもうすぐパーティーが始まるのでその後でも、と言われ霊夢は一人待っていたのだ。 「いやぁーすまない、家臣達がもっと酒を飲めと言うモノだからついつい遅れてしまって。」 「別に良いわよ、どうせ急ぎの用でもないしね。」 霊夢はそう言うと腰を上げ、ウェールズと共に騒々しいパーティーホールから出た。 ◆ 霊夢を部屋に入れ、ドアを閉めたウェールズはすぐに壁に飾られたタペストリーを勢いよく捲った。 捲った先には壁に取り付けられた小さなドアがあり、それを開いて中にある数十冊の本を一気に取り出した。 「この数々の本は、アルビオン王国が出来た頃には既に存在していた物さ。 発見された当時は多くの学者達が競って解読したらしい。だけど結局誰にも解読できなかった。 僕が生まれた時には誰も興味を示さなくなっていた。だから僕がこっそり盗んでやったのさ。」 ウェールズはそう言いながら一冊を手に持ちパラパラとページを捲った。 霊夢も興味本位に覗いてみたところ、どうやら妖精について調べた書物のようだ。 書いた本人の趣味だろうか、背中に生えてる羽の事まで丁寧に書かれている。 覗かれている事に気が付いたウェールズは霊夢の方へ顔を向け話し掛けた。 「どうだい、中々可愛い妖精の絵だろ?僕はこれが一番気に入ってるんだ。」 ウェールズはそう言うととある妖精の絵を指さした。 (多分というより絶対これはチルノね。絵の中でも自信満々な顔だわ…) そんな事を考えている霊夢をわきに、ウェールズは楽しそうにページを捲っていく、文字は読めないが妖精の絵を見ているのだろう。 しかし実際には妖精は確かに可愛いが残虐な心を持っているため、霊夢にとっては害虫以上の存在であった。 空を飛んでいるときには集団で寄ってきて下手な弾幕を放ってくるので鬱陶しいことこの上ない。 妖精の実態を知っている者なら霊夢と同じイメージを持つが、どうやらウェールズは違うようだ。まぁ教えなくてもいいだろう。 霊夢はため息をつくとテーブルに置かれた本の一冊一冊を調べていく。 大抵は山草や魚の専門書や最近幻想郷でも見るようになった「雑誌」という本ばかりであった。 しかし霊夢の気をそれほど引くものはなく、いよいよ最後に残った一冊を手に取った。 それは本というよりまるで日記のような感じで、表紙に書かれている日本語のタイトルを見て、霊夢は怪訝な顔になった。 「……ハルケギニアについて?」 ポツリと呟き、ページを捲ると一ページ目にはこの世界、つまり『ハルケギニア大陸』の全体図が載っていた。 本の内容は、この大陸に住む人間の格差社会や幻獣、亜人。魔法と先住魔法について詳しく書かれている。 といっても辞典のような感じではなく、これには気をつけろとか…どう対抗したらいいか、というような事が書かれていた。 一体誰が書いたのかは分からないが、少なくとも霊夢と同じ世界から来た者が書いたのには違いない。 霊夢は一通りページを捲り、まぁ何かの役に立つだろうと思いその本を懐にしまうとウェールズに話し掛けた。 「わざわざ出してくれて有り難う。手がかりになりそうな物も見つかったし。」 その言葉を聞いてウェールズは振り向き、霊夢の懐に一冊入っているのに気が付いてニヤニヤとした。 「おやおや?どうやらお気に入りの一冊を手に入れたようだね?」 霊夢はその笑顔を見て、必要もない新聞を玄関に置いていく鴉天狗を思い出した。 ◆ 本を懐にしまいウェールズの部屋を出た霊夢は貸し与えてくれた部屋へ行こうとした。 霊夢自身何か手がかりになる物を見つけたらすぐ出て行くつもりだったがどうせなら泊まっていけとウェールズは言ったのだ。 最初はどうしようかと思ったが、すぐに身体が重いことに気が付いた霊夢は部屋を借りることになった。 (まぁいっか、明日は飛んで帰らずにすむし。) ここに来て最初、ルイズ達とウェールズの部屋に来たとき明日の朝早くに船が出ると言っていた。 勿論霊夢はそれに乗るつもりである、わざわざ数時間もかかる飛行はしたくない。 ただでさえ飛んだり戦ったりしたのだから今の霊夢はかなりの疲労を体内に蓄積していた。 部屋へと向かう途中、ふと月明かりが彼女の身体を照らした。 今霊夢が居る場所は丁度中央部分が中庭となっており、そこから夜風も吹いてくる。 「…折角だから夜風に当たっていこうかしら。」 その風があまりも冷たくて気持ちよかったのか、霊夢は誘われるように中庭へと出た。 芝生特有の柔らかい感覚が靴を通して足に伝わり、それがまた心地よかった。 空を見上げると無数に輝く星と双つの月が煌々と輝いており、暗い夜空を色鮮やかにしている。 すぐに近くには水路もあり、水の流れる音もまた耳を癒してくれる役割を果たしていた。 そんな風にして霊夢が心を落ち着かせていると、ふと後ろから足音が聞こえてきた。 誰かと思い後ろを振り返ると、そこには羽帽子を被ったワルドが立っていた。 霊夢はワルドの姿を見て、誰かと思ったが帽子の下にあったその顔を見てすぐに思い出した。 「アンタ、そう言えば…以前街で出会ったワドルって名前の男だったかしら。」 名前を呆気なく間違われ、ワルドは少しだけガッカリした表情になった。 「ワドルじゃなくてワルドなのだが…まぁ一回だけしか顔を合わせてないから無理もない。」 「…で、何の用?疲れてるから他人とはもう話し合いはしたくないんだけど。」 霊夢にそう言われ、ワルドはその場でこう言った。 「何、君には永遠の眠りをあげようと思ってね。」 その言葉が聞いた瞬間、霊夢は咄嗟に結界を自身の周りに張った。 しかし、簡単な結界であった為かワルドの魔法を防ぐ事は出来なかった。 バ チ ン ! ! 何かが弾けるような音が辺りに響き、ワルドの体から無数の稲妻が現れ霊夢に襲いかかった。 その場しのぎの結界では稲妻を完全に防ぐことは出来ず、残りの稲妻は服の中にある結界符が防いでくれた。 しかし、この世界に来てから取り替えていなかったボロボロの結界符では稲妻の威力をほぼ微力にすることしかできない。 微力といっても、その稲妻は疲れ切っていた霊夢を吹き飛ばすほどの威力を残していたのだが。 「――――――――ッ!!?」 吹き飛ばされた霊夢は悲鳴を上げる暇もなく、空中で体勢を戻せずそのまま芝生に叩きつけられた。 先程の稲妻を放ったワルドは予想よりも相手に攻撃が通じなかったことに驚いていた。 霊夢の体からは少し薄い煙が上がっているがただそれだけで、特に目立った外傷が無いのである。 あの稲妻―――ライトニング・クラウド――はほぼ一撃必殺の呪文なのである。致命傷でなければおかしいのだ。 そんな風に唖然としていたワルドを尻目に、霊夢はなんとか立ち上がろうと動いていた。 しかし体内に軽い電気が走ったことにより全身が震えており、生まれたての子鹿のようにうまく立つことが出来ないでいた。 唖然としていたワルドはその様子を見てハッとした顔になると素早く呪文を唱え、杖を震動させる。『エア・ニードル』だ。 「何故僕の『ライトニング・クラウド』を喰らってそれだけですむのか知らないが、とりあえずは死んで貰おう。」 見下した風にそう言い放つワルドを尻目に、震えながらも霊夢はなんとか立ち上がった。 呼吸は荒く、軽く小突けば倒れてしまうような状態だったがそれでも彼女は口を開いた。 「どうしてこう…この世界で出会う男は…私の背中を…狙うのかしら…ねぇ。」 霊夢の罵言にワルドは少し見下した風に応えた。 「好きに言えよ。どっちにしろ僕は君を殺し、ルイズを利用してレコン・キスタの一員として世界を手に入れるんだ。 ルイズと形だけの愛を結び、あの娘の体内に秘めた力を使いレコン・キスタは世界をその手中に収めるのさ!!」 ワルドは自信満々にそう叫ぶと懐から真っ白な仮面を取り出して顔に付けた。 先日ラ・ロシェールの町で霊夢を不意打ちしたあの仮面の男こそ、ワルド子爵であった。 ―――そう、ワルド子爵は王宮に不満を持つ貴族達の集まりである『レコン・キスタ』の一員だったのだ。 詳しい経緯は知らないが、一員となった後に彼はトリステインでの工作活動をしていた。 賄賂や脅迫によるレコン・キスタへの勧誘。アンリエッタに対しての媚売り。その他様々―― 今回のルイズとの同行も、アンリエッタのお気に入りになったからこその結果である。 言いたいことを言えて満足したワルドはそのまま震動する杖を霊夢の胸に突き刺―― ド ゴ ォ ォ ン ! ! ――そうとしたが、突如右の地面がもの凄い爆発音と共に吹き飛び咄嗟にワルドは後ろへ下がった。 まさかこいつが!と思った瞬間、霊夢は瞬時に懐から出したお札をワルドに投げつけた。 一直線に飛んでくるお札をワルドは地面に伏せる事でよけ、素早く辺りを見回し――とんでもないモノを見つけてしまった。 本来ならそこに居るはずのない青年と少女が二人、こちらを信じられないというよな目つきで見ていた。 風のメイジならばすぐにその気配に気づけていた。無論ワルドはそれなりの風の使い手である。 しかし、霊夢を仕留めようとしたり、自信満々に説明していた所為で気づかなかったのだ。 少女の隣でワルドを睨み付けていた青年――ウェールズは恐る恐る口を開いた。 「わ…ワルド子爵、まさか貴殿が敵だったとは…!」 そして次に、ウェールズの隣にいたルイズは杖をワルドに向けながらも涙目になって叫んだ。 「子爵様の…子爵様の…子爵様の ウ ソ ツ キ ィ ! 」 純粋な乙女心を真っ向からへし折られたルイズの叫びは… 哀しくも未だにホールで飲んだくれている王族派達の耳には届きはしなかった。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8285.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 「貴方、霊夢を召喚するまではあまり他人と一緒にいたことが無かったでしょう?」 「――――――………え?」 予想もしていなかった紫の言葉に、ルイズは唖然とした表情を浮かべてしまう。 夜中に叩き起こされ、話があるからと言われていきなりそんな事を聞かれるのだから無理もない。 一方の紫は、そんなルイズとは対照的に落ち着いた表情で返事を待っていた。 そんな紫に気づいてか、とりあえずは何か言わなくてはとルイズは口を開く。 「な…なんでそんな事を聞くのよ?」 「別に?ただ貴方の顔を見てたらなんとなくそんな質問が頭をよぎっただけですわ」 ルイズの質問に紫はなんてこともないと言いたげな感じで返し、何故か意味もなくウインクをする。 一体どんな理由なのよ…とルイズは心の中で突っ込みつつ、頭の中でそうかもしれないと感じていた。 ―――貴方、霊夢を召喚するまではあまり他人と一緒にいたことが無かったでしょう? (仲は悪いけど構ってくれるヤツはいるし優しい家族もいるけど…本当はずっと孤独だったのかも…) ★ ――魔法という魔法を一切使えない名家の末女が、名門中の名門であるトリステイン魔法学院にいる。 入学してしばらくした後その話が広まり、いつの間にか私は同級生達から虐められるようになった。 男子女子分け隔て無く、様々な理由を使って私を精神的に追いつめようとしてきた。 バケツの水を頭から被ったり髪を引っ張られたり、というのはまだ良かったがブラウスやマントに落書きされるのは辛いモノだ。 何せ洗濯を担当している給士達がそれを見つけると、汚れたブラウスやマントを着こなす私の姿を思い浮かべて含み笑いをするからである。 その瞬間を偶然目撃してしまった私は怒るよりも先に、これからの学院生活はどうなってしまうのかと思わず泣きそうになった。 上級生達も名家の末女であるが魔法の使えない私に興味が無いのか、声を掛けて来る者は少なかった。 声を掛けてきた者も、自然と私の傍から離れていった。 教師も遠くで見ているだけで、助けようともしなかった。 その所為か同級生達から受けるいじめも段々エスカレートしていき、遂にはあの二つ名を貰う羽目になった。 『ゼロ』 そう、ゼロである。何も持っていない、才能無き者を意味するその二つ名。 今まで何もしてこなかった上級生達はそれにウケたのか、以後私は「ゼロのルイズ」と呼ばれるようになった。 同級生達からそう呼ばれるのはまだ構わない。少なくともこちらの文句を遠慮無くぶつけることが出来る。 しかし顔も知らぬ先輩にそう呼ばれるのはかなり精神的に応えるモノがあった。 こちらを見下す高圧的な目線と、自分を見てほくそ笑んでいるかのような薄い笑顔。 流石の私も精神的に参ってしまい、一時期は酷い憔悴状態に陥っていたのを今でも酷く覚えている。 唯一の救いといえば、今まで何もしていなかった教師達の一部がそんな私を助けようとしてくれた事だ。 彼らの良心が無ければ、今頃自分はこの学院から自主的に出て行ったであろう。 思えば物心ついたときから、自分の傍にいつもいてくれる味方などいなかった。 魔法が使えないという事を知った私の両親は、その代わりにと様々な事を私に教えた。 一般知識や様々な魔法のこと、テーブルマナーから歩き方についてまで。 物心ついたばかりの私には厳しすぎてついてゆけず、厳しい母親に毎日のように叱られていた。 父親の方は私に優しかったが、その逆をゆく母親にいつも縮こまっていて私を助けてはくれなかった。 更に追い打ちを掛けるかのように、一番上の姉がいつもおちょくってきた。 屋敷に仕える給士たちも陰で私の事を言い合って笑い、私はそれからいつも逃げていた。 たった一人の、本当の味方とも言える二人目の姉はとても優しく、私の理想の人物であった。 しかし彼女はヴァリエール領の実家ではなくではなくその近くにあるフォンティーヌ領の屋敷に住んでいる所為か、滅多に会うことはなかった。 私がまだこの世に生を受ける前から、彼女はとても重い奇病を患っていた。 その為、魔法学院やお嫁にも行けず泣く泣く両親は療養も兼ねたフォンティーヌの屋敷に住まわせた。 私が生まれてからも何人もの医者が彼女を診たそうだが結局全てが無駄に終わり、その事でいつも私の両親は頭を抱えていた。 更にそんな事をしている内に姉の病気は酷くなり、一時は本当に死ぬかも知れないと主治医に言われたこともあった。 それでも姉はなんとか元気になり、今では主治医に死ぬかも知れないと言われるような事はなくなった。 だからといって病気が直ったというワケではないが、少なくとも屋敷の廊下や中庭を平気で歩けるようにはなった。 良く実家にも帰って来てくれたし、その時には私の話を聞いてくれたり同じベッドで寝てくれるのだ。 両親や厳しい方の姉も彼女の事を気遣っていたし、現に両親は私が十六になっても未だ彼女の病気をなんとかしようと頑張っている。 しかしある時、不幸にも私はこんな陰口を聞いてしまった。 「ルイズお嬢様は難儀だねぇ」 「あぁまったくだよ。上のお二人があんなに出来るというのに…」 「しかもそのお二人の内、次女様の方は重い奇病を患っているし」 「もしもルイズお嬢様がその病気を患っていたら、今頃どうなっていたのか…」 「おいお前、それは流石に不謹慎過ぎるぞ…?」 そんな話を聞く度に、私は自分の存在がどれ程のモノなのか悩んでいた。 もしかしたら、自分なんてこの家にいて欲しくない存在なのだろうか? だとしたら、母親のスパルタ教育にも納得できた。 当時は、親の七光りであろうとも厳しい教育を受けていれば何処かの貴族と結婚することが出来る。 名家であろうとも、魔法があまりにも下手な貴族の子供達はみなそうしていた。 事実その頃のルイズも親同士が決めたのだが、大分年齢の離れた婚約者がいたのである(今はもういないが)。 (でも、魔法が全く使えない私が結婚なんて…出来るのだろうか?) そんな事を思いながらも、物心ついたばかりの私はいつこの家を追い出されるのだろうかと内心ヒヤヒヤしていた。 だけど結局誰にも追い出されることなく、私は無事魔法学院へと入学することになった。 それが、さらなる苦しみになるとも知らずに。 ★ 「あらあら、そんなに苦しそうな顔して。…どうやら図星のようねぇ?」 楽しそうな紫の声にルイズはハッとした表情になり、勢いよく頭を横に振った。 どうやらあまり気持ちの良くない回想に浸っていたようで、顔も自然と強ばっていたようだ。 そんな自分を見て楽しそうな表情を浮かべる紫を見て、もしかして遊ばれているのではないか?とルイズは疑問に思った。 話があるとか借り物を返しに来たとかいうのはタダの建前で、本当は自分をおちょくりに来ただけなのかと。 (もし、それが本当だとするならば…) そう、思った途端。 体の中に溜まっていたストレスや怒りがこみ上げて来るのを、ルイズはすぐさま感じ取った。 学院に入ってからはこの様な怒りをぶつける相手はある程度決まっていた。 自分をからかってくる生徒達やあの忌々しいツェルプストーに、使い魔として召喚してしまった霊夢と新しく居候となった魔理沙だけだ。 いつもならばすぐにこの怒りを解放し、それを言葉や体の動きに替えて目の前の相手に発散していただろう。 しかしルイズは、今目の前にいる妖怪相手に自らの怒りをさらけ出すことは良くないと感じていた。 それは直感や勘ではない――本能レベルでそう思ったのである。 ――自分の感情をそのまま彼女にぶつけてしまうのは。何か良くないような気がする 自然と頭の中に浮かんできたその結論に、ルイズは恐怖した。 ルイズの中にある人間としての本能が、今目の前にいる妖怪に対して大きな恐れを抱いているのである。 彼女はすぐさま、この怒りの感情をどうにかしようとしたがそれを考える暇すら無い。 自然と母親譲りの鋭い目が細くなり、その瞳は僅かばかりの怒りを孕んでいる。 正に怒りという感情そのものが、人に乗り移ったかのようだ。 普通の人間ならばこれからすぐに起きるであろう事態に自分の運の無さを実感するであろう。 しかし不幸な事に、今目の前にいるのは人間ではない。 人間よりも大分厄介で、何を考えているのか全くわからない人の姿をした人外である。 「怖い目つきねぇ。そんなに怒りっぽいと折角の可愛い顔が台無しになりますわよ」 ルイズの顔を見ていた紫は、鬼の首を取ったかのような嬉しそうな顔でそう言った。 以前何処かで聞いたかのような紫の言葉にルイズは再度頭をブンブンと振ると、勢いよく席を立った。 人を小馬鹿にするかのような紫の物言い対してルイズは、本能よりも自分の感情を優先させることにしたのである。 「いい加減にしなさいよ!人をこんな夜中に起こして何をしたいのよ!?」 「別に何もしないわ。ただちょっと貴方と話し合いをして、今後のことを決めるだけよ?」 並みの人間なら怯んでしまうほどの雰囲気を放つルイズを前にして、紫は涼しい顔で返事をする。 そんな彼女にルイズは怒りのボルテージを益々上げる羽目になり、思わずテーブルを勢いよく叩いてしまう。 「今後の事って何よ!大体アンタは…」 「あなた、゛単純明快で神の如き゛力が欲しいんでしょう?」 テーブルから身を乗り出しつつ怒鳴り散らしていたルイズの罵声を、紫の言葉が遮った。 そのたった一言が怒り心頭であったルイズの頭の中に響き渡り、ピタリと体の動きを止めてしまう。 紫はルイズ体が止まったのを確認した紫はゆっくりとした動作で席を立ち、喋り始めた。 「霊夢や私のように、持っている者だけにしか使い方がわからない能力に憧れているのよね、貴方は? まぁあの娘が自分の能力の全てを把握しているとは思えないけど…持って生まれた才能のお陰で割とうまく使いこなしてるわ。 貴方もそうよね?他者が崇拝と畏怖の念を持ち、仕組みは簡素でありつつ自分だけにしか扱えない…といった程度の力が欲しいのでしょう?」 喋りながらも紫はゆっくりと歩き出し、喋り終わる頃には丁度ルイズの背後に立っていた。 一方のルイズはというとテーブルから身を乗り出した形で硬直はしていたが、その顔にはもう怒気は宿ってはいない。 ただその代わり今の彼女の顔にはまるで暗い夜道で化けものと出くわしたかのような表情が浮かび始めている。 そんなルイズの事を知って知らずか紫は尚も喋ることをやめず、忙しく口を動かして言葉を出してゆく。 「まぁ何も持たず、誰からも蔑まれて生きてきた貴方と同じ年頃の子なら誰でもそういうのは考えるモノね。 私は貴方よりも酷い教育環境にいる人間達を暇つぶしで五万と見てきたから貴方なんてずっとマシな方よ? でもそんな連中ほど力を持てば大抵は破滅するような人格破綻者ばかり…それを言えば貴方もそういう輩と同類かもね。プライドの有無関係なく」 段々とその言葉に棘が混ざりチクチクとゆっくり、しかし鋭い痛みを伴ってルイズの心に突き刺さる。 それでもルイズは背後に佇む一種の恐怖に負け、動くことは出来なかった。 「でも…ここの学院では貴方は結構な人格者だと私は思ってるわ。 勤勉で規律を守り、尚かつ断固たる意思を持つ貴方は意外にも私も惹かれたのよ。 まぁ魔法が使えなくとも、貴方は素晴らしい力を持ってるじゃない。そう…―――――」 そこまで言った時、ふと紫は喋るのを唐突にやめてしまった。 一体どうしたのかしら?と疑問に思う前にルイズの視界がグルリと回った。 そして突然の事に驚く暇もなく、背後にいた紫と目が合ってしまう。 彼女はまるで造り物と思えてしまうほどの均整のとれた顔に笑顔を浮かべていた。 何時か見た時とはどこかが違う、人を得体の知れない不安という名の海へと突き落とすほどの笑顔を… 「使いこなせればこの私を殺せる力を――貴方は持ってるのよ?」 ◆ 「……あぅっ」 ふと自分の口から出たよくわからない言葉に、ルイズは瞼をゆっくりと開ける。 鳶色の瞳が自分の横で寝ている魔理沙を捉え、ルイズは自分のベッドで横になっているのだと気づいた。 ルイズは口をポカンとあけたままむっくりと上半身だけを起こし、テーブルの置いてある方へと視線を向ける。 さっきまで椅子に腰掛けて紫の話しを聞いていたというのに、そのような痕跡は何処にもない。 というよりも、最初から自分の夢だったとしか思えないほど誰かが使ったような痕跡は残っていなかった。 「夢…だったのかしら。なんだか記憶も曖昧だし…」 ルイズはまるでそう思いこもうとするかのように呟いた。 彼女の頭の中には確かに「紫に起こされて返す物と話があると言われた」ところの記憶はあったが、そこから先の記憶は全くなかった。 まるで数百ページもある分厚い小説の一ページだけを抜き取ったかのように、あまりにも不自然な空白となっている。 以前にも何処かでこんな体験をしたような。ルイズがそう不思議がっていた時…。 「よぉ。なんだか見ねぇ内に見慣れねぇのがいるじゃねぇか?」 「うひゃぁっ!?」 ふと自分の足下から聞こえてきた声に、ルイズは驚きのあまり飛び上がりそうになるのを堪えた。 そのかわり、結構な大声が口から出てしまったのだがそれで魔理沙が起きることはなかった。 ルイズは突然聞こえてきた声に動揺しつつも、慌てて自分の下半身を覆っているシーツをどけた。 シーツの下にあったのは、自分の足下に添えるように置かれた鞘に入れられた一振りの太刀であった。 何故か鞘から少し刀身を覗かせている状態であり、人が人ならちゃんと入れたくてうずうずしてしまうだろう。 その太刀を見てルイズは、この太刀とは以前何処かで合った覚えがあると気づき、その名前を口にした。 「デルフ…デルフリンガー…だっけ?」 「なんでハッキリ言わねぇんだよ。あぁそうだよ、インテリジェンスソードのデルフリンガー様だよ」 いかにもうろ覚えですといいたげなルイズの言い方に、太刀―――デルフリンガーは鎬の部分をカチカチ鳴らしながらやけくそ気味に言った。 普通の人間ならば剣が喋ったと言うだけで卒倒してしまうだろうがルイズは特に驚きもしない。 何故ならハルケギニアにはデルフのような意思を持つ剣―インテリジェンスソードが存在するからだ。 それにルイズ自身、デルフとは二回ほど出会っているため尚更であった。 最初の時はフーケの起こした事件で学院長室へと呼ばれた時。 二回目はコルベールの所へ赴いていた霊夢が持って帰ってきたとき…。 そこまで思い出してルイズは気が付いた。 「そういえばアンタ、今まで何処にいたのよ?今までずっと忘れてたわ」 「娘っ子。お前さん可愛い癖にひっでぇ事いうんだな」 ルイズの口から出た言葉に、デルフは素直な感想を述べた。 ◆ ◆ ◆ ルイズはベッドでグッスリと眠っている魔理沙の横に座り、デルフからこれまでの話を聞いていた。 話を聞く限り、ルイズが霊夢と一緒に幻想郷へと言った直後、デルフも紫の手で幻想郷に持ち出されたらしいのだ。 まぁインテリジェンスソードの存在を知らないのなら、興味津々になるのも無理はないであろう。 それで霊夢達の知らないところで色々な事をされたらしい。 デルフ曰く「来る日も来る日もあちこち調べられたり質問攻めにあったりして大変だった」という。 あの隙間妖怪は質問癖でもあるのだろうか?ルイズはそんな疑問を頭の中で思い浮かべたが、すぐに消した。 そして今日、何故かは知らないがルイズに用事あるついでにこの世界へ戻ってきたそうだ。 「というワケで…俺は色々と調べ回されちまったんだよ」 「へぇ…じゃあユカリが言っていた借り物ってアンタのことだったのね」 彼女自身今まで何処に行っていたのか気にもしなかったが、紫が言っていた事の意味がわかり満足していた。 「自分に返ってくる物」に対して心当たりが全く無かったルイズは僅かばかりの不安を覚えていたのである。 「やれやれ…オレっちは長いこと生きてきたがあんな体験は初めてだったぜ、全く」 霊夢が持って帰ってきたこのインテリジェンスソード、元いた世界に戻れて良かったのか少しばかり機嫌が良さそうだ。 インテリジェンスソードの持つ意思は、本当に人間と思ってしまうほど精巧に作られている。 まぁ私も初めてだったけどね。とルイズは言おうとしたが、その前にある事に気が付いた。 今自分とデルフ、それに魔理沙が寝ているベッドから少し離れた所に来客用のソファーが置かれている。 普段はしまっているそのソファーで寝ている筈の霊夢が、今はいなかった。 もしかしたら一人で真夜中の散歩かしら?一瞬だけ思ったが、その考えをすぐに否定した。 霊夢がこの場に居ないと気づいた直後、ルイズの体を今まで感じたことのない緊張感が包んでいるのだ。 終わるまでは決して途切れることのない、窒息してしまうかのような。 (なんか良くわからないけど…嫌な予感がするわ。何だろうこの感じ…) ルイズはその感じに不安を覚え、無意識のうちにベッドのシーツをギュッと握りしめた。 一方、霊夢がそこで寝ている事を全く知らないデルフは暢気そうな感じでルイズに尋ねる。 「どうした娘っ子?あの大きなソファに幽霊でも座ってんのか?」 「何言ってんのよアンタは?あのソファで寝てる筈のレイムがいないのよ。………ってアンタは知らないか」 「何だって?」 デルフの冗談めいた言葉に突っ込みつつ、ルイズは真剣な表情そう応えた。 それを聞いたデルフは驚いたのか、鎬の部分をチャカチャカと激しく鳴らした。 「娘っ子、お前さんがあまりにも怒りやすいから愛想尽かされたんじゃ…イテ!」 「そんなワケないじゃないの?むしろ愛想尽かしたいのはコッチの方よ」 言い終える前に、ルイズは鞘越しにデルフの刀身を思いっきり叩いた。 ◆ 魔法学院の塔には、全て屋上が作られている。 ただ屋上といっても実際は階下に通じる階段へと続く穴がある以外、何もない。 あるのはそれほど高くない石塀が、屋上の円周をグルリと囲んでいるだけである。 そんな場所にたった一人、眼鏡を掛けたタバサがヒョッコリと穴から顔を出した。 最初に右手で持っていた杖を先に穴から出し、次に自身が穴から素早い身のこなしでもって出た。 容赦ない疾風が彼女の体を撫で、力を抜けばそれこそ紙のように飛んでいってしまうであろう。 しかし゛風゛系統の使い手であるタバサにとってこれぐらいの風など大したことなど無い。 その気になればこの風よりも更に強く、鋭い殺人的な突風を巻き起こすことも出来る。 だが今のタバサにとってはこの疾風よりも、眼下に広がる学院を見下ろすことが最優先事項であった。 やがて彼女の視線が学院の警備をする衛士の宿舎へと向いたとき、その動きがピタリと止んだ。 そこに何か違和感を感じたのであろうか、タバサは゛遠見゛の呪文を唱えた。 この呪文は゛風゛系統の魔法であり、その名の通り遠くの様子を見ることの出来る便利な魔法である。 正に鷹の目とも言える魔法を使い、タバサは宿舎の裏側部分へと視線を向ける。 彼女の目に広がっているのは、夜の闇よりも更に暗い粘ついたような闇であった。 まるで紙のこぼしたインクのようにジワジワと空気に溶け込み、広がってゆく。 そしてその近くに、タバサの探していた少女の姿もあった。 「みつけた」 タバサはそれだけ呟くと懐を漁り、そこから小さなモノクルを取り出した。 一見すれば新品同然とも思えるほど、綺麗にされている。 タバサは掛けていた眼鏡を外すとそのモノクルを掛けた。 後はジッと…何もせず、このモノクルを通して行われるであろう戦いを見通すだけ。 今の彼女のするべきことは、ただそれだけである。 ◆ トリステイン魔法学院 衛士隊宿舎 裏庭 闇だけが支配するその場で、霊夢は自然の摂理から大きく外れた怪物と対峙していた。 人の体を基本として様々な昆虫の体の一部をつなぎ合わせたかのような姿をもつソイツは、体中の間接から黒い霧のようなものを出している。 それは段々と怪物の体を包みつつも、ゆっくりと周囲の空気混ざってその範囲を広げていく。 何が起こるのかはまだわからないものの、霊夢はそれが単なる目つぶし攻撃だと理解した。 (とりあえずはあの老人よりも、コイツをなんとかした方が良さそうね…) 先程まで仮面を付けた老貴族の゛幻影゛が佇んでいた場所を睨みつつ、霊夢は思った。 恐らく今朝方の事もあのナメクジの化けものや今目の前にいる虫の化け物も、あの老貴族がけしかけたに違いない。 ただ今は何処にいるかもわからない黒幕よりも、今は目の前にいるキメラを倒すことにした霊夢はすぐさま行動に移った。 霊夢は先程回収した数枚あるお札の内一枚を手に持つと軽く霊力を送り込み、勢いよく霧の中に向かって投げつける。 するとさっきはただ直進するだけであったお札が、まるで意志を持ったかのように軽いカーブを描いて霧の中へと入っていった。 彼女の十八番でもある追尾性能を持つお札は、霧の中にいるであろう目標に向かっていく。 (もしそこから出ないというなら、こっちから出してやるわ…) お札が中に入ってから行き次ぐ暇もなく、あのキメラが奇声を上げつつ霊夢の方へと飛びかかってきた。 「ギィイィ!」 黒板を引っ掻いたような金切り声を上げ、キメラは左手の甲から生えている二本の爪を振り回した。 クワガタムシのアゴと酷似しているそれを、霊夢は素早く後ろに下がる事で回避する。 自分の攻撃を避けられ、キメラは目の前の相手に接近しようとするがそれよりもまず優先すべき驚異の方へ意識が向き、後ろを振り向く。 そう、霊夢の投げたお札がそれなりの速度で今まさにキメラの体に貼り付こうとしていた。 目の前の驚異に対して、先程の様に跳躍して避けるのには手遅れだとイナゴの頭で考えたのか、カパッとアゴが開いた。 開いた先にある口の奥から勢いよく緑色の液体が噴き出し、それはギリギリの距離にまで迫ってきたお札に付着した。 謎の液体がかかった瞬間音を立ててお札が溶け、跡形もなく消滅してしまう。 優先すべき驚異を排除した瞬間、背後から倒すべき目標が再度攻撃を仕掛けてきた。 「フッ…!」 投げたお札を溶かしたキメラの背後から、霊夢は退魔針を数本指の間に挟む。 自分に背中を見せているキメラの、霧を吹き出していた間接へと狙いを定めると勢いよく投げた。 先程のお札とは圧倒的に速度が違う数本の退魔針はストッ、と小さな音を立ててキメラの間接部に深く刺さった。 甲殻で覆われた他の部分とは違って内側の部分がむき出しになっている間接を攻撃され、キメラは悲鳴を上げる。 ついで勢いよく黒い霧を吹き出そうとするのだが、先程とは違い霧の出が悪くなってしまった。 恐らく霊夢の投げた針が、偶然にも霧の出る器官を塞いでしまったのであろう。 「まぁ、臭い物には蓋をしろってヤツよ。栓じゃなくて針だけど」 懐からお札を一枚取り出しつつ、霊夢は気怠そうな顔でそう言った。 霊夢の動きを見て攻撃してくると察知したのか、キメラは叫び声を上げると再び左手の爪を振り回して襲いかかってくる。 その動きは先程襲いかかってきた時とは比べようもなく素早く、回避しなければ致命傷は間違いないであろう。 「最初は手強いかと思ったけど、そうでもなかったわね」 霊夢はそんな相手に対しそれだけ言うと勢いよく地面を蹴り、襲いかかってくるキメラの方へと突っ込んで行った。 ◆ 「 ギ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ! ! 」 自分の方へと突っ込んでくる霊夢に対しキメラは叫び声を上げつつ足を止め、爪を振り上げた。 対して霊夢は目を細めると、目にもとまらぬ速さでキメラの懐へと潜り込んだ。 次の瞬間、キメラは振り上げていた左手の爪を自分の懐にいる霊夢の背中目がけて、振り下ろした。 だがそれよりも速く、霊夢の体が霧に包まれたかのように消失し、爪は空しく空気を切るだけに終わってしまう。 いきなり消えた相手にキメラは咄嗟に周囲を見回し、ふと自分の左腕に何かが貼り付いているのに気が付いた。 それは一枚の白い縦細長の紙であり、良くわからない記号や文字が書かれている。 最もキメラにはその意味などわかりはしないであろうが、本能的にそれが危険な物だと察知は出来た。 この紙を剥がそう―― 本能がそう告げた瞬間、紙が発光しキメラの複眼を通した視界を焼き尽くした。 その光はやがて痛みを伴う爆発へと進化し、キメラの体を蝕んでゆく。 左腕、左足、そして体の左半分を凶暴な光が飲み込み…そして。 魔法学院の一角で、小さな光が灯った。 触れたモノがモノならば一瞬で蒸発されてしまう、霊力で出来た光が。 ◆ 「…ふぅ」 お札の爆発に巻き込まれたキメラを少し離れた所から見ていた霊夢は安堵の溜め息をつく。 正直、彼女自身も割と危険な行為をしたもんだと改めて感じていた。 あの時ギリギリまで近づいてキメラの左腕にお札を貼った後、攻撃される前に瞬間移動で距離を取っていたのである。 一歩間違えればあのキメラの攻撃をモロに喰らっていただろうし、それで何が起こるか全くわからない。 そんな危険な事をしなくても、離れた所から弾幕を放てば倒せるという事も当然霊夢は考えていた。 しかしそれをすると低脳の化け物相手にお札を無駄にしてしまうし、何より面倒くさかったのである。 「こんな事になるなら、スペルカードはいらなかったわね」 霊夢はひとり呟きながらも、爆発の範囲が思ったよりも小さかった事に気が付いた。 しかし威力は大したものであり残ったのは右腕部分と頭部、それに良くわからない肉片だけであった。 特に頭部と右腕部分はピクピクと痙攣しており、それを見て霊夢は舌打ちした。 「全く、今日は散々ね。良くわからないヤツからこんな化け物をけしかけられるわこんな気持ちの悪いモノ見せられるわで…」 霊夢は愚痴を呟きつつ、ふと空を見上げた。 未だに双つの月は黒い雲によってかなり遮られており、月明かりは地上にまで入ってこない。 それでも陽が落ちたばかりの時よりかは大分マシになっており、うっすらとではあるが雲の合間から月がチラチラと見て取れる。 霊夢は雲の隙間から月を見ながら、今日起こった出来事を思い返していた。 (何でアイツはこんな奴等を私にけしかけてきたのかしら。 大して強くもないし…。どうせ襲うのなら正々堂々やってきなさ…―――――…ん?) そんな時、霊夢はある事に気が付いた。 最初は単なる気のせいかと思ったものの、自分の周りが段々と暗くなっていくのに気が付いたのだ。 今夜は月明かりが無いという事もあって相当暗いが、それでも霊夢の目は誤魔化せなかった。 とりあえず目を擦ってみるが、それでも視界は一向に良くならない。 一体どうしたのかと霊夢が疑問に思った瞬間、ある事を思い出した。 「まさかあの化け物が出してた霧かしら…こんなに広がるなんて」 そんな時、追い打ちを掛けるかのように霊夢の体に更なる異変が襲ってくる。 「う…ケホ、ケホ…この臭い…何処かで嗅いだことのあるような…」 突如漂い始めた悪臭に霊夢は鼻を押さえながら、すぐ近くで転がっている肉片へと目をやる。 その先には霊夢の予想通り、キメラ゛だった゛肉片が音を立てて溶け始めている瞬間であった。 肉が焼けるような音と共に肉片から白い泡が出て、ゆっくりと全体を包み込んでゆく。 それに伴い悪臭も段々と酷くなり、流石の霊夢も思わず吐きそうになってしまう。 「うぐ…どうしてこういう連中って死んでも人に迷惑を掛けるのかしら…」 胃液がこみ上げるのをなんとか抑えつつ、もう少し離れようとキメラに背を向けて歩き出した。 どうせあんな状態になれば最後には溶けて無くなってしまうというのはわかっていた。 この視界を遮る黒い霧も不快な悪臭も、朝の風と共に空の向こうへと消えていってくれるだろうし。 何より、あんな肉片になってしまえば何も出来ないだろう。と霊夢はそう結論づけてキメラの死体に何の警戒もしなかった。 しかし、それが甘かった。 霊夢が背を向けた瞬間、ゆっくりと溶けてゆくキメラの頭にある複眼が赤く光った。 死体が発する光とはとても思えぬ程強く、絶好のチャンスと言わんばかりに輝いている。 キメラの死体に起きた異変に霊夢は気づかず、ルイズの部屋に戻ろうとしていた。 まさしく奇襲をするには絶好の機会であり、それを知ってかキメラの複眼がピカピカと点滅し始める。 最初の点滅こそは五秒ほどの間隔をあけていたが、段々とその間隔は早くなっていく。 しだいに点滅が激しくなってくると、痙攣しなくなっていた右腕部分が再び痙攣し始めたのだ。 その内サソリの尻尾と同じ形をした右腕はズリズリと地面を這う音をたてながら、動き始めた。 一見すれば蛇にも見えてしまう右腕の進む先にいるのは、倒した゛はず゛の相手に背を向けて歩いている霊夢。 地面を這う音は肉片の溶ける音にかき消され、霊夢の耳には全くと言っていいほど入ってこない。 最初こそは1メイルほどの距離が空いていたのだが、それがドンドン縮まっていく。 50サント、42サント、34サント、20サント…それでも霊夢は気づきもしない。 当の本人は「あ~、疲れたわねホント…」とか呟きながら左手に持っていた御幣を背中に差していた。 今彼女の周囲にはキメラが放出した黒い霧が漂っており、後方よりも前方の方に意識を向けているのである。 ――それ、仕留めるのなら今がチャンスだ! まるでそう言っているかのように、複眼がある程度のテンポをとって点滅する。 霊夢にすり寄ってくる右腕はそれに応えるかのように、サソリの尻尾で言う先端部分から鋭い針が出てきた。 針の先からは紫色の液体が流れ、誰の目から見てもそれが毒だとすぐにわかるだろう。 霊夢は未だ、後ろから忍び寄ってくる死にかけの暗殺者に気づいてはいない。 そして霊夢との距離があと15サントという所で残った力を全て使い果たして飛び跳ねようとした。瞬間――― 「よっと」 死に体になろうとも尚迫り来る相手に振り返ろうともせず、 空になったジュースの瓶をそのまま後ろに投げ捨てるかのような動作で霊夢はお札を二枚、放った。 1枚目はすぐ傍にまで近づいていた右腕。そして二枚目は複眼を点滅させている頭部へと飛んでいき、そして…。 「その気味の悪い殺気ぐらいは、隠せるようにしときなさい」 まるで頭の悪い生徒を受け持つ教師のような感じで霊夢がそう呟き――― 二度目の小さな発光が、宿舎の一部を照らした。 ――――― - - - - . . . . 終わった、戦いは終わった。 先程まで屋上にいたタバサは屋上へと通じる階段の出入り口で立ち止まると、モノクルを外した。 今この手の上にあるモノクルは全てを見つめていた。紅白の少女とあのキメラの戦いを。 後はこのモノクルを明日の朝やってくるであろう゛鳩゛に渡せば、今回の゛任務゛は終わるのだ。 タバサはモノクルを懐に入れて愛用している自分の眼鏡を掛けると、歩き出した。 もうすることは終わったのであるし、何より肌寒いこんなところに長居する理由もない。 明日も早いが、何よりこの前購入した本を読まなければいけないのだから。 そんな事を考えているタバサの足取りは軽くはなく、かといって重くもなかった。 ◆ その部屋の中は、様々なマジックアイテムや美術品で溢れかえっていた。 まるで倉庫を思わせるかのような乱雑とした部屋の真ん中で、一人の老貴族が椅子に腰掛けている。 髪は銀色に光り、鼻の下には小さく刈り込まれたひげがあった。 整ってはいるのだが、あまり覇気を感じさせない顔立ちであった。 それがかえってこの老人の印象を薄い物にしていた。 そんな老貴族の目の前には、台座の上に置かれた大きな水晶玉があった。 この水晶玉もまた部屋の中にある数多くあるマジックアイテムの内の一つだ。 水晶玉の直ぐ傍には小指サイズの空き瓶があり、底には中に入っていたであろう赤い液体がほんの少しだけ残っている。 このマジックアイテムは選んだ相手の体液か血液を用いて、その相手の視界に写るものをみる為に使われる。 といってもまだ未完成であり、尚も研究が続けられている代物ではあるものだ。 そんな代物をこの老貴族が持っているということは、彼がそれなりの地位を持っている事を証明している。 「ふぅむ…やはり我々の敵という判断をした方が良いかのぅ?」 まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような部屋の中に、しわがれた老人の声が響いた。 口の中でもごもごと、言いにくそうに呟くその表情は何処か苦々しいものとなっている。 その理由は、ついさっきまでこの水晶玉に写っていた視界の主と、一人の少女の戦いを見たからである。 視界の主であったキメラを売っていた連中は、対メイジ戦を想定して造られたキメラだと言っていた。 その言葉は確かで人目の付かぬ山中で会おうとした内通者とスパイを数人、街中では夜中のホテルに忍び込んで内通者を一人始末している。 全ては祖国トリステインと、アルビオンのスパイとそれに媚びる国内の内通者達を滅ぼすためだ。 彼らを滅ぼさなければ、アルビオンと戦うどころか、自分たちが崇拝する王家が消滅してしまうのだ。 (麗しき姫殿下が立派になられるまで…我々が闇の中から手助けしなければいけないというのに…) それをあの少女が…。老人は親の仇敵を見るかのような眼差しで少女の姿を思い出していた。 まるでおとぎ話の中から出てきたかのように可憐な姿にはふさわしくない強さを、あの少女は持っていた。 寄生型を2匹、更に対メイジ用のキメラを2体を、何の労力も使わずに倒したあの未知の力はなんだというのか。 最初の一体は学院の傍で取引しようとした内通者を跡形も残さず始末し、スパイを消そうとしたところであの少女に邪魔され、倒された。 この事を知った老貴族は自分の゛仲間達゛を呼びつけ、この少女(最初はただ゛赤い服を着た人間と呼んでいた)は何者なのかと短い時間で議論したが結果は「アルビオンの放った刺客」というものであった。 最初も老貴族はその結論に疑問を感じたものの、自分たちの仕事を邪魔したのは事実であり大きな声を上げて否定することは無かった。 そして今夜中にでも、残った一体を用いておびき出し、ある程度の怪我を負わせてからお前は何者なのかと聞き出そうとしたのであるが。 結果、老貴族とその゛仲間たち゛の描いたスケジュールは、本筋を離れて大きく脱線してしまう形となった。 だが先程まで少女の戦いを見ていた老貴族の頭にはある疑問が浮かんでいた。 「あれは先住…いや、まさかあれが【虚無】というものなのか…」 追尾機能や当たれば即爆発するあの謎の紙や、キメラの体が吹き飛ぶ直前に姿がかき消えたこと。 今まで長いこと生きてきたが、あのような正体不明の力は見たことが無かった。 最初はエルフや一部の亜人達が使う先住魔法かと思ったが、伝説にある失われた系統ではないかと老貴族は思った。 老人の考えは惜しくも外れてはいるのだが、ただ一つわかったことがある。 (あの少女は良くわからない力を用いて、ガリアから購入したキメラを倒したということじゃ…) 幸い人に寄生するタイプの、ナメクジを素体とした気色の悪いキメラはまだ何匹かこちらの手元にある。 あれは人間に寄生してそのまま意思を乗っ取ってしまうモノであるが、それだけでは内通者とスパイを狩ることは出来ない。 今日一日で失ってしまったあの2匹がいてこそ、ここまで出来たのである。 しかしそれを失ってしまった今は、昨日までのような暗殺は出来ない。 (幸い財産には余分があるし…またガリアの方へ赴いて買いに行く必要があるのぅ) 「やれやれ…これでしばらくは阿呆共に好き放題やらせてしまうのかのぅ…?」 老貴族は心底疲れたかのような表情を浮かべつつ、その背中を椅子の柔らかいクッションへと沈み込ませる。 王宮のお墨付きがあるトリスタニアのブランド会社が作ったこの椅子は見た目よりも座り心地が遥かに良いのだ。 もう大抵の人ならベッドに潜っている時間であり、本当ならこの老貴族もベッドでゆっくりと休みたかった。 しかしこの老貴族には寝る前にまだまだしなければならないことがある。 それは、今後自分と゛仲間達゛のするスパイと内通者狩りに関することであった。 今回学院の方で起こした騒動は今のところ昨日起きたホテルの事件で浮き足立っている宮廷の連中に届きはしない。 仮に届いたとしても行動には移さないであろうし、移すならばある程度落ち着いた時だろう。 あのキメラは死ぬと証拠は残さないような死に方をするし、時間が経てば自分の゛仲間゛を通して有耶無耶にする事が出来る。 だからといって人間を使うという結論は無謀であるし、王宮の方でも内通者やスパイに対して何らかの対策は練るだろう。 キメラを再度購入するにしても今すぐ゛売り手゛に会えるわけでもなく、ある程度の時間が必要だ。 (とりあえず、今後しばらくは内通者側の元締めを地道に探すということにしておくか…) そこまで考えると老貴族は手元に置いてあった羽ペンを手に取ろうとした。その時… 老貴族の前方にあるドアからノックする音が二回、規則正しいリズムと共に聞こえてきた。 「ゴンドランド卿。今日提出された研究報告及びレポートの方、お持ち致しました」 ドアの向こうから聞こえてくる声を耳に入れ、ゴンドランド卿と呼ばれた老貴族は溜め息をついた。 (やれやれ…日付が変わる前にベッドへ潜れる日が戻ってくるのは…何時なんじゃろうか?) 心の中でそう呟き、机の右上端にはめ込まれた純銀製のネームプレートを、皺だらけの指で軽くなぞった。 そのプレートには自分の名前が刻まれており、その右上にはこのような言葉が刻まれている。 ――トリステイン王国魔法研究所『アカデミー』 評議会会長兼最高責任者――― この老貴族こそが、トリステインの知を司るゴンドランド卿であり… 同時に、この国の現状に嘆く同志である古参貴族達を率いて闇の中で動き出した゛灰色卿゛であった。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8773.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん ゛始まり゛には必然的に゛終わり゛がある。 それは世の理であり、容易に変えることはできない。 トリステイン魔法学院の生徒たちにとって楽しい休日である虚無の曜日は、ゆっくりと沈んでいく夕日とともに終わりを告げる。 朝方と昼はあんなに暑かったのだが、日が落ちていくにつれて段々と気温が下がり今では誰もが肌寒いと感じていた。 学院から離れた首都へ遊びに行っていた生徒たちも、この時間帯になるとバラバラではあるが校門をくぐってみずからの学び舎へと戻ってくる。 大抵の生徒は学院のレンタルか自費で購入した馬に乗って帰ってくるが、空を飛べる大型の幻獣を使い魔にしている者たちはその背に乗って戻ってきた。 あと一時間もすれば夕食の時間であり、それまで自室に帰って休む生徒もいれば広場に設置されたベンチに腰かけて友人たちと談笑をしている生徒たちもいた。 談笑する生徒のほとんどは男子であり、話の内容も年頃の少年にふさわしい自慢話の類が多かった。 ある者は街で傭兵に喧嘩を売られたが難なく返り討ちにしてやったという話や、名のある貴族の娘と話をしたという…嘘8割の談笑会をしている。 日が落ちればトリスタニアの繁華街が賑やかになっていくが、それは学院も同じであった。 人が集まるということは即ち、賑やかになるという事と同義でもある。 そんな賑やかな地上の様子を、霊夢はルイズの部屋から見下ろしていた。 いや、正確には項垂れた彼女の視線の先に偶然、広場で騒ぐ生徒たちがいた…と言った方が正しいのだろうか。 全開にした窓から両腕と頭を上半身ごと乗り出している彼女の顔は、まさに「ぐったりしている」という言葉が似合うほど辛そうな表情を浮かべていた。 顔色も若干青く、開きっぱなしの口からはう~う~と苦しそうなうめき声が漏れている。 この姿だけを見れば彼女がとある異世界の中核であり、異変解決と妖怪退治を得意とした博麗の巫女だと誰が信じようか。 それは霊夢自身も把握しており、今いる場所が幻想郷ではないことに安堵していた。 でなければ今頃…風のうわさで聞きつけた射命丸か紫辺りがニヤニヤと、一見暖かそうで実はそうでない笑みを浮かべて彼女を見下ろしていたに違いない。 「ホント…あの味には驚かされたわ」 「あぁ、あんなの初めて飲んだぜ…ていうかアレは飲み物なのか?」 ぐったりとした霊夢に続いて、同じような気分でベッドに横たわっている魔理沙もつぶやく。 その時、羽ペンを右手に持ったルイズが鳶色の瞳をキッと細めて二人のほうへ顔を向けた。 「ま…知らなかったのなら仕方ないけど、いくらなんでもコレを普通のお茶として淹れて飲んだのには驚いたわよ」 呆れたと言いたげにルイズは首を横に振ってため息をつくと、テーブルの上に置かれた小さな土瓶へと視線を移す。 その中には茶葉が入っている。そう…魔理沙だけではなくあの霊夢さえ苦しめた茶葉が。 「ホントビックリしたわ。なんせ街から帰ってきたら、アンタたちが部屋の中で倒れてたんだから」 そう言ってルイズはあの時の事を思い出した。 ☆ タバサが霊夢達に瓶を渡して部屋を出て行ってから一時間ほどした後、ルイズは学院に戻ってきた。 ちょっとした用事と買い物で部屋を霊夢に任せていた彼女は「ただいま」と言ってドアを開けた直後、それを目にしたのである。 部屋に漂うミントのそれと似たような鼻を突くツンとした臭いに、二人仲良くテーブルに突っ伏してうめき声をあげている霊夢と魔理沙の姿…そして。 『オォ帰ってきたか娘っ子!見てみろよコレ?ひでぇもんだろ!?ヒャッハハハハ!』 何故かバカみたいに笑っているデルフが、彼女の部屋の空気を異様なものに変えていた。 最初は何があったのかわからず困惑していたが、事の全てを見届けていたデルフのおかげで事情を把握することはできた。 そして全てを知った後、なんてものを渡してくれたのだとタバサを恨みつつ味覚以外が無事な霊夢達に後片付けをさせた。 ちなみに、緑の液体が入っていたティーポットは泣く泣く捨てることとなった。 霊夢達の飲んでいたあの液体がなんなのかわかった以上、捨てるということはとても懸命な判断だとルイズは思うことにした。 ★ 「噂では聞いてたけど…ハシバミ草のお茶が本当にあったなんてね…」 回想を終えたルイズは羽ペンをテーブルに置くと、土瓶を手に取ってそう言った。 この土瓶に入っている茶葉の原料は「ハシバミ草」というハーブの一種だ。 ほぼハルケギニアの全域で自生しており、地方の料理ではメインディッシュの添え野菜やサラダにしたものを前菜で出すことがある。 鎮静作用があり、細かくすりおろしてスープに入れたり煎じたものを飲めば風邪薬の代わりにもなるらしい。 その一方で独特の苦みもあり、自生してる場所によってはその苦味が味覚と臭覚を麻痺させる神経毒になることもあるのだという。 その為か、ここハルケギニアにおいては野生のハシバミ草は危険な代物というイメージが若干纏わりついている。 しかし何故かこれを愛食する者たちがいて、タバサもその一人であるという事はルイズを含め学院にいる多くの人間が知っていた。 「良薬口に苦し」という言葉があるが、「ハシバミ草」は正にその言葉を体現したかのような存在だ。 そして今、ルイズが手にしている土瓶の中に入っているのはそのハシバミ草を蒸し、乾燥させて作った茶葉である。 最も、それを普通のお茶のようにして飲めば濃縮された強烈な苦味が口内を蹂躙し、今の霊夢や魔理沙と同じように一時的な味覚障害に陥ってしまう。 「あのチビメガネ…次あったらどうしてくれようかしら」 「何物騒な事言ってるのよ。…やり方は間違ってたけど体には良いらしいわよコレ」 赤みがかった黒い目を鋭くしてチビメガネ=タバサに怒りを覚えている霊夢を宥めつつ、ルイズははしばみ茶の説明を始めた。 「これはね、瓶の中から一つまみ分だけをお茶が入ったポットの中に入れるのよ」 そうしたらはしばみ草の苦味が丁度いいくらいに効いて気分が和らぐらしいわ…とルイズは説明するのだが、二人は半ばそれを聞き流している。 今の霊夢達にとって、午前中から口内に居座るジワジワとくる苦味をどうすればいいのか頭を悩ましていた。 この苦味のせいで昼食の時には食欲が湧かず、紅茶や緑茶も口に入れればあの強烈な苦味に変わってしまう。 夕方になってからはだいぶマシになったが、それを見計らったかのように飢餓感が現在進行中で襲ってきている。 今の二人は、正に空腹状態の虎と言っても良いほど腹を空かしていた。 「夕食まであと一時間…ふぅ、長いわね」 「あぁ、全くだぜぇ…」 グゥグゥと腹を鳴らしながらボーっと窓の外から夕日を眺める異界の住人達を見て、ルイズは顔をしかめた。 理由はふたつ。二人が自分の話を聞いていないという事と、お腹のほうからだらしない音が出ているという事。 森の中でキメラと遭遇して以来ある程度のことは許容できるようになったが、それでもこういう細かな事は中々許せなかった。 「もう、人の前でお腹を鳴らすなんて…私以外の誰かに聞かれたらどうするのよ」 ルイズが二人に聞こえない程度の声量で呟くと、背後に置いてあるデルフが話しかけてきた。 『問題ねぇだろ。腹の音なんて腹が減りゃあ誰でも出るんだしよ』 「そういう問題じゃないのよ。…っていうか腹の減る心配が無いアンタが言っても説得力無いんだけど?」 デルフ突っ込みを入れるとルイズは再び頭をテーブルの方へ向けて作業を再開した。 羽ペンを再び手に持つと、テーブルの上に置かれた古びた本へとそのペン先を向ける。 開かれたページには何も記されておらず、色褪せた白紙をどうだと言わんばかりに見せつけている。 ルイズはその白紙を凝視して文章をイメージしているのか、ゆっくりと羽ペンの先端を上下左右に動かした。 しかしいい文章が思いつかないのか、クルリとペン先を回してから本の横に置き、腕を組んで目をつぶる。 脳内で考えているのだろうか、時折ウーウーと唸るような声が聞こえてくる。 その様子を後ろから見つめていたデルフは気になったのか、遠慮なくルイズに質問してみることにした。 『そういやぁさっきから気になってたんだけどよ…その本は何なんだ?全部のページが白紙の様なその気がするんだけどよ』 突然の質問にルイズの体がビクッと震えたものの、すぐに頭だけを後ろに向けて素っ気なく答える。 「アンタみたいなのは知らないと思うけど…これは始祖の祈祷書っていう王家に古くから伝わるとても大事な本なのよ」 その言葉をはじまりにして、彼女はこの本が手元にある経緯をデルフに話し始めた。 それはかつて、ルイズが霊夢と魔理沙を連れて王宮へ参内した時の話である。 ◆ 「ご多忙の中、わざわざ来てくれてありがとうルイズ・フランソワーズ、それにハクレイレイム」 白い純白のドレスに身を包んだ若き王女アンリエッタ・ド・トリステインは訪れた客人に感謝の意を述べた。 幼馴染であり、敬愛の対象であるアンリエッタにそのような言葉を言われ、ルイズはついつい緊張してしまう。 「いえ、姫殿下の命令とあらばこのヴァリエール。何処へでも馳せ参じます」 ルイズの言葉を聞いたアンリエッタは少しだけ表情を曇らせると彼女の傍へと近づき、その右手を手に取った。 日々手入れを欠かさない美しく繊細で白い指に自分の手を触られたルイズは、ギョッと目を丸くする。 「ルイズ。ここは私の寝室なのよ?マザリーニもいないしお付きの侍女もいない。子供のころのように、私に接して頂戴」 そう言ってアンリエッタはルイズに自身の笑顔――どこか懐かしい雰囲気が漂う笑みを見せた。 きっと思い出しているのだろう。身分も家柄も関係なく、毎日が楽しかった子供の頃の思い出を。 永遠に続くように見えて、余りにも短く儚すぎる時代の一ページを… 「姫さま…」 ルイズはそう呟き、その顔に浮かべた暖かい微笑みをアンリエッタへ見せた。 気づけば、生まれついての宿命から唯一逃げることのできた幼女時代へと戻ったかのように…二人は微笑んでいた。 「さすが、お姫さまというだけあって中々良いヤツじゃないか?」 「そうかしらねぇ?」 一方、そんな二人の外にいた霊夢と魔理沙はアンリエッタについて色々と話していた。 これで会うのが三度目となった霊夢は、アンリエッタに対して「王家らしくない王家の人間」という評価を下していた。 この国の頂点に君臨している人間らしいのだがどうも雰囲気的にはそんな風には見えず、かといって普通の少女にも見えない。 まるで高原に咲く一輪の白百合のように気高く綺麗なその容姿は、名家の貴族令嬢…というレベルでは例えられない高貴さがある。 しかし先程も述べた通り、王族であるにも関わらず千万の民と文武百官を束ねられるような威厳がちっとも感じられないのだ。 (きっと国の事とかもそこらへんに詳しい大臣たちがうまくやってくれてるんでしょうね) 霊夢はアンリエッタと今のトリステインのことなど全く知らなかったが、見事にその言葉は的中していた。 それが答えだと誰かが彼女に教えたら、頭を抱えつつ驚いていたに違いない。 (まぁでも、あの年頃で下手に威厳張ってたら馬鹿みたいに見えるしね) 手を取り合って二人仲良く笑いあうルイズとアンリエッタの姿を見て、心の中で呟いた。 きっとは二人はわずかな時間を使って思い出しているのだろう、純粋なる幼少期の頃を…。 その後、ルイズはアンリエッタに魔理沙の事を紹介した。 彼女と霊夢がハルケギニアとは違う幻想郷という異世界から来た事と、この話を他人に漏らさないで欲しい事もしっかりと告げた。 以前アルビオンへ赴いた際に、霊夢がこの世界には無い文字で書かれた本を読んだ所を学院長たちと一緒に見ていた所為か、彼女は幼馴染の話をすんなりと信じてしまった。 まさかこんなにも簡単に信じてくれるとは思わなかったルイズは何故信じてくれるのかとアンリエッタに思わず聞いてみると、彼女はこう答えてくれた。 「以前の本の事もありますけど、何より貴女達からは私の周りにいる人々とは全く違う雰囲気を感じますから」 その言葉に、ルイズは思わず同意してしまった。 一方、姫殿下の言葉に魔理沙はキョトンとしつつも笑みを浮かべたのだが、対照的に霊夢は胡散臭いものを見るような表情をアンリエッタに見せた。 アンリエッタは霊夢の表情を見ても不満気に顔を曇らせることなく、改めて魔理沙に挨拶をした。 「遠い所から遥々このトリステイン王国へようこそ。ささやかではありますが、歓迎いたしますわ」 アンリエッタがそう言って右手で魔理沙の左手をつかみ、握手をした。 「霧雨魔理沙、普通の魔法使いだぜ。今後ともよろしくな、お姫様!」 「え?…キャッ!」 王女からの挨拶に魔理沙は勢いよく返事をすると、握手をしている左手をブンブンと軽く振った。 本人は軽いスキンシップのつもりであったが、突然のことにアンリエッタは小さな悲鳴を上げてしまう。 無論そんな無礼を見逃すルイズではなく、すぐさま魔理沙に掴みかかった。 「こら!何してんのよアンタは!?」 「えっ、ちょ…おいおい、そんなに怒る事じゃないだろ?」 「あ…二人ともよしてください!私は大丈夫ですから」 鬼のような表情を浮かべて魔理沙に掴みかかるルイズ、突然の事に慌てる魔理沙。 そしてそれを止めようとするアンリエッタを含む三人の様子を外野から眺めつつ、霊夢は一人ため息をついた。 ※ そんなやりとりの後、アンリエッタは侍女に紅茶と茶菓子などを用意させ、ルイズと話し合いを始めることとなった。 お茶が出ると聞いた霊夢は「まぁお茶が出るなら」と言ってとりあえずはルイズと一緒にいることにした。 魔理沙はというと「どんな話を聞けるのか少し興味がある」という理由で部屋に残っている。 色々と嫌な予想をしていたルイズは安堵しつつ、先程侍女が淹れてくれた紅茶をゆっくりと飲んでいく。 流石に王族の飲むお茶というものか、カップやポットはともかくとして使っている茶葉は高級品である。 霊夢と魔理沙のカップにも侍女が紅茶を淹れたが、アンリエッタは自分の手で紅茶を淹れていた。 「最近自分の手で淹れるのが楽しみになってきたのよ。好きな量を自分で調節できるしね」 (ポットの中に入った紅茶をカップに入れるだけじゃない…) 嬉しそうに喋りながらポットの中に入っている紅茶をカップに注ぐアンリエッタを見て、霊夢は心の中でそんな事を思った。 全員のカップに紅茶が淹れられ、アンリエッタは侍女を退室させると一呼吸置いて喋り始めた。 「ルイズ…戦火渦巻くアルビオンへと赴き、手紙を持って帰ってきた事は、改めて礼を言いますわ。 貴女の活躍のお陰でゲルマニアとの同盟も無事締結される事でしょう」 「そのお言葉、この私めには恐縮過ぎるものですわ」 アンリエッタの口から出た感謝の言葉に、ルイズは席を立つと膝をつき、深々と礼をした。 トリステイン王国の貴族達にとって、王女直々に感謝されるということはこの上ない名誉なのである。 しかしそんなルイズを見てアンリエッタは何故か悲しそうな表情になり、首を横に振った。 「頭を上げて頂戴ルイズ・フランソワーズ?貴女と私の仲は単なる主君と従者じゃないのよ」 アンリエッタの言葉にルイズは顔を上げると彼女もまた悲しそうな表情をその顔に浮かべる。 「………わかりました。姫さま」 素直に聞き入れたルイズがスクッと立ち上がり再び席についたのを見て、アンリエッタの顔に笑みが浮かぶ。 ただその笑顔には陰がさしており、見るものを悲しくさせる笑顔であった。 「貴女は…後数ヶ月もすればこの国を離れることになる私にとって無二の友人なのよ」 もの悲しそうに言うアンリエッタを見て、もうすぐ彼女がゲルマニアへ嫁ぐ事になるのをルイズは思い出した。 ゲルマニアへ行ってしまえばこの先数年、下手すれば数十年間は会えなくなってしまう。 「…ゲルマニア皇帝との御婚約の決定、おめでとうございます」 それを想像したルイズもまた悲しい笑みを浮かべつつ、アンリエッタに祝いの言葉を述べた。 幼馴染みの彼女は、政治の道具として好きでもない皇帝と結婚するのだ。 同盟のためには仕方がないとはいえ。彼女の悲しそうな顔を見るのは耐えられなかった。 一方、黙々と紅茶と茶菓子を堪能していた魔理沙はルイズの口から出た゛結婚゛という言葉を耳にして目を丸くした。 魔理沙にとって゛結婚゛というのは、愛する大人の男女が挙げる儀式だと大人たちから教えられていたのだから。 そして二人の話からして゛結婚゛するであろうアンリエッタは、魔理沙の目から見ても成人には見えなかった。 「結婚て…あの年でか?」 嘘だろ?と言いたげな表情を浮かべつつ魔理沙は隣にいる霊夢に聞いてみた。 霊夢は肩をすくめつつも興味が無いという感じでその質問に答える。 「そうなんじゃないかしら?まぁ色々理由でもあるんでしょう…っと――――ムグムグ…」 そこまで言うと皿に並べられた小さめのチョコチップクッキーを一つ手に取り、口の中に放り込んだ。 チョコチップの程よい甘さとバターの風味が口の中に広がり、このクッキーを作ったパティシエの腕の良さを教えてくれる。 ある程度咀嚼した後飲み込み、紅茶を一口飲んだ後霊夢はポツリと感想を述べた。 「クッキーと紅茶も良いけど、やっぱり私は煎餅とお茶の方が良いわ」 「わざわざ食べといてそんな事を言うか…」 「食べれるものを出されて食べなかったら勿体ないじゃないの」 さてそんな二人のやりとりを余所に、アンリエッタとルイズもまた話し合っていた。 「今日のトリステインがあるのも、今や貴女のおかげ… だからこそルイズ…貴女には私の人生の門出を、特別な席で見ていて欲しいのよ」 アンリエッタは寂しそうに言いながら手元にあった鈴を手に取って軽く振った。 透き通った綺麗な音色が広大な寝室の中に響き渡り、その音は部屋の外にも広がっていった。 鈴を鳴らして数十秒後、一人の侍女が古めかしい本を携えて部屋に入ってきた。 侍女は持っていた本をアンリエッタの手元に置くと一礼し、退室した。 一体何の本かと視線を向けた魔理沙はそれを見て、薄い苦笑いを顔に浮かべた。 「なんというか…随分と酷い所に保管されてたっぽいな」 蒐集家である魔理沙がそう言うのも仕方ない程、その本は酷く汚れていた。 古びた革の装丁がなされた表紙はボロボロで、触っただけでも破れてしまいそうである。 色褪せた羊皮紙のページも色褪せて茶色くくすんでおり、かなり酷い状態であった。 どんな方法で保管をしたらこんなにボロボロになってしまうのか。それがこの本を見て魔理沙がまず最初に思ったことだ。 少なくとも紅魔館の図書館に置いてあるかなり古い年代の本でも、これ程酷くはないはずだ。 一方のルイズもまた侍女が持ってきた本へと視線を移して、目を丸くしてしまう。 「い、一体何なんですかこの本は…見た感じ大分ボロボロなのですが」 信愛する姫殿下の手元に置かれたソレを指さしつつ、ルイズは恐る恐る聞いてみた。 アンリエッタは全然大丈夫といわんばかりにその本を手に取りつつも、口を開く。 「これはトリステイン王家に代々伝わる゛始祖の祈祷書゛というものです」 その言葉を聞き、ルイズと魔理沙は同時にキョトンとした表情を浮かべた。 「これが、かの有名な王家の秘宝…」 「祈祷書…というより魔道書の類だな。この形だと」 二人がそれぞれ別の事を言い、それを耳に入れながらもアンリエッタは話を続けていく。 「実は王室の伝統で、王族の結婚式の際には貴族より選ばれし巫女を用意するのです。 そして選ばれた巫女は、この『始祖の祈祷書』を手に詔を詠みあげる習わしがあります」 アンリエッタの説明に、ルイズは「は、はぁ」と気のない返事をする。 それを知っている程宮中の作法に詳しくない彼女にとっては、聞くことすべてが初耳であった。 魔理沙は若干興味があるのか興味津々と言わんばかりの表情を浮かべており、霊夢は紅茶を啜っている。 アンリエッタは手に持っていた祈祷書をテーブルに置いて一息つくと、ルイズに向けてこう言った。 「そして此度の婚約の儀で…ルイズ・フランソワーズ、あなたを巫女として指名いたします」 「――――――――え?」 アンリエッタの口から出たその言葉を聞いて、ルイズは目を丸くしてしまった。 まるで勝率ゼロの賭けに大勝してしまった時のように、信じられないと言いたげな雰囲気が伺える。 そしてルイズの傍にいる霊夢と魔理沙も、少し驚いた様な表情を浮かべた顔を、ルイズの方へと向けた。 「え…あの?私がですか…?」 「何かそうみたいね。あんまり話は聞いてなかったけど」 目を丸くしたルイズの言葉に、興味なさげな霊夢がさりげなく相槌をうった。 そしてアンリエッタもそれに続いて軽くうなずくと、テーブルの上で緊張して硬くなったルイズの右手を優しく掴んだ。 「先程も言ったように、あなたには私の門出を特別なところで見ていて欲しいのよ…ルイズ」 ルイズに向けてそんな言葉を告げた彼女の瞳には、幼馴染への期待と渇望の色が滲み出ている。 それは、友のいる故郷を離れる彼女の切実な願いなのだろう。 ルイズにとってその願いは叶えさせたいものであるが、自分では無理なのではと半ば諦めていた。 そう、詠みあげる詔を考える前から半ば諦めていた。 「わかりました…では、謹んで拝命いたします!」 しかし悲しきかな、ルイズはあまりにも実直すぎた。 幼馴染であり敬愛する姫殿下の瞳を見て断り切れず、結局は請け負ってしまった。 眩しすぎるほど目を輝かせ、自信に満ちあふれた表情を浮かべて… ◆ 「…で、近々行われるアンリエッタ姫殿下とゲルマニア皇帝の婚姻の儀で私が読み上げる事になってる詔を考えてるんだけどね…」 表情を曇らせて話し終えたルイズに、デルフは『へぇ~、こりゃまたタイヘンなことで…』と返して言葉を続ける。 『でも結婚式の詔だろ?そんなもん精々お二人の結婚おめでとうございます。末永くお幸せに…みたいなこと書いとけば良いんじゃねぇの?』 適当すぎるデルフのアドバイスに「バカ、そういうカンタンなモノなら苦労しないわよ」と言って説明を始めた。 「良い?畏れ多くも先王の子でありうら若きトリステイン王国の王女である姫様の一生一度の晴れ舞台なのよ。 それはほかの結婚式よりも神聖でなくてはいけないの…普遍的な詔ではその式を盛り上げる事なんてできないじゃない! だからこそ…誰も書いたことのないような素晴らしく、姫様の門出を盛大に祝える詔を考える必要があるの!わかる!?」 最後辺りで熱が入ったルイズの説明に、デルフは何も言わずプルプルと刀身を震わせた。 おそらく笑っているのだろうが、それは嘲笑ではなくきっと感心して思わず笑ってしまったのだろうと、ルイズは思うことにした。 『まぁそれ程熱が入るんならすぐに書けるだろ。一応カタチだけの応援はしておくぜ』 「えぇ見てなさい、今に素晴らしい文章を書いて見せるわ」 笑い声の混じったデルフの言葉にルイズは元気を取り戻したのか、勢いよく羽ペンを手に取った。 ルイズは知らないだろう。詔を考えているのが彼女だけではないことに。 今頃宮中で、多くの文官たちが結婚式で読みあげる詔の草案を考えているだろう。 彼女はただ、用意された詔を一字一句正確に詠みあげる巫女としてアンリエッタ直々に指名されただけである。 それを言い忘れたアンリエッタに原因があるかもしれないが、言っていたとしてもルイズは詔を考えていただろう。 「さぁ書いてみせるわ!姫様の結婚を祝う最高の詔を!」 ヴァリエール家の末女は気合を入れた。 家族に、敬愛する王女に…そして、部屋にいる一本と本物の巫女と普通の魔法使いに気づかれることなく、ただ一人。 「何一人で叫んでるのか知らないけど、腹が減りすぎて言葉を掛けるのもめんどうだわ…」 「今日はちゃんとした味のする食べ物を口に入れるまで…なにもやる気がおこらないぜ…」 『青春ムード全開のピンク少女とブルーな異世界少女たち…ハッハッハッ!見てるだけでおもしれぇなコリャ!!』 窓を通して外へと散らばる三人と一本の声は、闇夜が広がっていく空へ向けて羽ばたいていった。 ※ 一方、場所は変わって首都トリスタニアのブルドンネ街。 昼はとても賑やかであったここも、夜になれば殆どの店が閉まり活気が無くなっていく。 貴族用のホテルなど一部の公共施設はまだ開いてはいるがこの前起こった殺人事件の所為か営業している所は少ない。 それとは逆に、繁華街のあるチクトンネ街の安い宿の方が活気づいていた。 ここでは夜間営業の酒場や定食屋が仕事帰りの客たちを迎えようと、開店を知らせる看板を店の前にこれでもかと出し始める。 一日の労働を終えた人々はそんな店を求めて繁華街へとなだれ込み、ますます賑やかさを増してゆく。 日が沈み、再び上る時間までこの賑やかな雰囲気は続くのである。 そんな街の雰囲気と空気を、とある食堂に設けられた屋上席から見下ろす一人の少年がいた。 眼下の灯りで輝く金髪にすらりと伸びた体を一目見ただけでは、男か女かわからない。 細長く色気を含んだ唇。睫毛は長く、ピンとたって瞼に影を落としている。 そして何より特徴的なのは、彼の両目の色であった。 右眼の色は透き通るような碧眼なのだが、左眼の色は鳶色。つまり、左右の眼の色が違うのだ。 虹彩の異常。他人に尋ねられた時、少年はそんな風に答えている。 「ふぅん、偶の旅行ってのはやっぱり体に良いものだね」 自分以外誰もいない屋上席でひとり透き通るような声で呟き、テーブルに置かれた飲み物の入ったグラスをに手を伸ばす。 小鹿の革の白い手袋に包まれた細い指でそれを手に取ると、ゆっくりと飲み始める。 ヒンヤリとしたグラスの中に入ったアップルサワーのすっきりした甘さと酸味を口内と舌で堪能し、一口分ほど飲んだところでそっとテーブルに置いた。 「……うん、やっぱりお酒は故郷のモノに限るね。どうも味がしつこい気がする」 少年はわずかな笑みを顔に浮かべて、胃の中に入ったアップルサワーの感想を誰に言うとでもなく述べた。 そんな時、「ここにいましたか」という声が耳に入り、少年はそちらの方へ顔を向ける。 振り向いた先にいたのは、屋上席の出入り口からこちらへ歩いてくる金髪の女性であった。 立派な麦のように光り輝く金髪をポニーテールにしており、歩くたびにシャランシャランと左右に軽く揺れる。 若草色のブラウスに薄黄色のロングスカートといったいかにも平民の女性…というよりも少女らしい服装で、足には立派な革靴を履いていた。 トリステイン魔法学院で働く給士たちに支給されるこの靴は大事にされているのか、近くから見ても傷ひとつついていない。 そして首にはネックレスのようにぶら下げた聖具が、街の灯りを浴びてキラキラと光り輝いていた。 少年は微笑みを浮かべ、こちらへ近づいてくる女性に声をかけた。 彼にとって彼女と出会うのは久しぶりで、彼女にとっても彼と出会うのは久々である。 「久しぶりだね。君と以前会ったのはシェル……シェ…何て名前だったけ?」 以前顔を合わせた町の名前を言おうとして言葉が詰まってしまった少年を見て、女性はクスリと笑って「シュルピスですよ」と優しく呟いた。 彼女の言葉で思い出しのか、少年はうれしそうな表情を浮かべた。 「そうそうそれだ!この国へ来てからもう二ヶ月近くたつけど、地名が中々難しくて苦労するんだよね」 「まぁ、良くそれで゛お仕事゛ができますわね。わたし驚きました」 自分より一つか二つ年上の人にそんな言葉を投げかけられ、少年は面目ないと言わんばかりに頭を掻いた。 笑いあう少年と少女にも見える女性。場所が場所なら青春の一ページとして心の中のアルバムに納まっていただろう。 ひとしきり笑いあった後、気を取り直すかのように女性が口を開く。 「相変わらず自分のペースを崩さないのですね。ジュリオ様は」 「いかなる時にも自分のペースを乱さなければ、どんな事も冷静に対処できるんだよ」 ジュリオ――女性にそう呼ばれた少年はそんな事を言いながら「さ、立ち話も何だし君も座ったらどうだい?」と女性に着席を促す。 彼の指差した先はテーブルの向かい側に置かれた椅子ではなく、自身が座っている椅子の方であった。 「え?…あ、あなたの隣…ですか?」 それを予想していなかったのか、ジュリオの言葉に目を丸くしてしまう。 「そうだよ。こういう時こそただのデートっていう感じにしないと後で怪しまれるだろう」 「は、はぁ…では、お言葉に甘えて」 ジュリオの言葉に彼女は困惑しつつも、彼の隣に腰を下ろした。 その瞬間、二人が座っている椅子から「ギシギシ…ギシギシ」という軋む音が聞こえてくる。 安い木材で作られたであろう長方形の長椅子が、未成年二人分の体重を受け止めて悲鳴を上げているのであろう。 その音を聞いた二人は顔を見合わせ、微妙な沈黙に耐え切れなかったジュリオが笑顔を浮かべて喋った。 「ははは!ヤバいよこの椅子。話しの途中で壊れたら良いムードが台無しになっちゃうな」 「そ、そうですね…」 相変わらずテンションの高いジュリオにどう接したら良いかわからず、彼女は無難な返事をする。 ジュリオはイマイチな女性の反応を見て笑うのをやめると一息ついた後、再度口を開いた。 「はは、じゃあ椅子が壊れる前に…゛質問゛に入るとするかな?」 「…!は、はい!」 人気のない屋上席に漂っていた女性とジュリオの間にある空気は、一瞬にして変わった。 ジュリオは笑顔を浮かべているままだが、女性の顔はキッと緊張感のあるものになる。 まるで裁判台に立たされ判決を言い渡されようとしている被告人のごとく、その表情は引き締まっていく。 「じゃあ最初の質問。゛トリステインの担い手゛と゛盾゛が消えた後に…何か変化は?」 「黒いトンガリ帽子を被った黒白服の金髪の少女とインテリジェンスソードが一本゛担い手゛の部屋に居つきました」 「トンガリ帽子の少女…?」 「はい、一見メイジのようにも見えますが杖は所持しておらず、自らを「普通の魔法使い」と自称しています」 「魔法使い…メイジじゃなくて…?あ、名前は…」 そんなことを聞かれた彼女は一呼吸おいて、質問の答えを告げた。 「マリサ。キリサメマリサです」 「キリサメ、マリサ…変わった名前だな」 ジュリオはひとり呟くと「ふふふ」と笑ってその顔に薄い笑みを浮かべた。 「もしかすると…彼女も゛盾゛と同じ場所から来たのかもね」 「常日頃゛盾゛と良く絡んでいたりするのでその可能性は高いと思われます」 「良し、゛トンガリ帽子゛という名前で彼女も調べてくれ。くれぐれも気取られないように」 「わかりました、ジュリオ様」 自分が信頼されているという思いを感じつつ、女性は頷いた。 「それと話は変わるが…ここ最近のトリステインはどうなっているんだい?」 今度は謎の会話から一転し、この国の方へと話が移った。 「ブルドンネ街ホテルでレコン・キスタの内通者が変死。事件の詳細を揉み消す動きがあったので恐らく国内の有力者が下手人でしょう。 まだ有力な情報は掴めていませんが、水面下でガリアとトリステインの一部の貴族の間で何かしらの取引があったようです」 彼女の゛報告゛を聞き、ジュリオはやれやれと言いたげに肩をすくめた。 「何処の国も同じだねぇ、年寄り連中が若い連中の足を引っ張るってことは」 年寄りにはうんざりだよ。と最後に呟き何を思ったのか、ふと空を見上げた。 すでに日が沈んでから一時間、見上げた先は深い深い闇を映す夜空が世界を覆っていた。 街の灯りに多少埋もれてはいるが、夜空に浮かぶ無数の星たちが光り輝いている。 一生懸命に自分たちを主張する自然の光は、人口の光が支配する街の中で暮らす人々の目には映らない。 「年寄りたちは上空の光を…未来へと続く道を歩こうとせずかつての栄光にしがみつく―」 先程とは違い真剣な表情を浮かべたジュリオはそんな事を呟き、言葉を続けていく。 「過去の栄光は所詮過去に過ぎないというのにそれすら理解できず、逆に未来へと歩もうとする若者たちを道連れにする。 どんなにすがったって意味がないと言えば、老いと死の恐怖に耐え切れず余計過去にすがる。 僕たちは、それを突き飛ばしてでも歩まなくてはいけない―未来へ…無限の可能性と進化、そしてそこからくる未知の恐怖が待っている未来へと」 ジュリオは座っていた席から立ち上がると、ピッ!と左手の人差指で夜空を指差した。 手袋に包まれた指の先には、一際強く輝く星が浮かんでいる。 まるで希望を胸に生きる若者たちを象徴するかのごとく、それは激しくも神々しく輝いている。 「僕たちのような若い世代の人間は、手を取り合って未来を切り開かなくてはいけない。 その為には四つの゛虚無゛の力と…誰にも縛られることのない゛博麗の巫女゛が必要なんだ」 ―――そう、人々がまた…゛旅立つ゛為にも その言葉を最後に、ジュリオは口を閉じた。 瞬間―――キラリ!と輝く流れ星が夜空を切って飛んで行く。 まるで、未来へ向かって一直線に飛んでいく隼のように、その流れ星はすぐに見えなくなった。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/9038.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 彼女は失ってしまった。心から良かったと叫べるほどの゛幸福゛を。 あの狭い箱庭のような世界で限られた自由しか与えられず、常に血の匂いを漂わせていた彼女が唯一欲していたもの。 それと触れ合う時だけ心の底から自由だと思い、血生臭い自分を一時の間だけ忘れさせてくれるような、そんな存在を求めていた。 しかしそれは、彼女に戦う事を強いらせた者からなし崩し的に手渡された、胡散臭い゛幸福゛であった。 一度はそれに抵抗を示してしまい距離を取ろうとしたが、結局のところ彼女自身がそれを快く受け入れてしまう。 何故なら、憎い相手から受け取った゛幸福゛は戦う事しかできなかった彼女にとって、唯一の生きがいとなっていたのだから。 常に自分の傍に居続け、喜怒哀楽を共にしてくれる゛幸福゛に、彼女は生き続けていて良かったとその時思った。 日頃から無口であり、時に戦うことあれば生まれた時から持つ力で、獲物を食い散らす獣と化していた彼女。 そのような者が人らしい幸せを享受できるほどに、その゛幸福゛には大きな力があったのである。 しかし、その時の彼女には知る由も無かった。 彼女に戦いを強いらせ゛幸福゛を授けた者が、二人を「教師」と「生徒」という関係で見ていた事。 時が来れば彼女と共に笑う゛幸福゛を、第二の゛彼女゛へと仕立て上げる残酷な事実すらも知らずに、 彼女は゛幸福゛をゆっくりと育て上げていった。すべてを知るその時まで。 そして、全てが手遅れとなってしまった時に真実を知った彼女は、その世界から消え去った。 最初からその世界に存在せず、傍にいた゛幸福゛すら幼少時の幻覚だったのだと思ってしまうほどに… 腰まで伸びた黒髪を持つ女が、川辺に佇んでいる。 身じろぎ一つすることなくまるで時が止まったかのように、その場で静止していた。 川のせせらぎと夜空を隠す木々の葉が擦れる音が、水で濡れた耳に入ってくる。 自然が奏でる癒しの音を聞きながらも紅白の巫女服を身に纏う彼女は、ふと辺りを見回す。 赤と青の月が照らす川岸には、今この場ではあまりにも不気味としか言いようがない光景が広がっていた。 葉と葉が擦れる音を奏でる樹木には赤い血しぶきがこびりつき、艶めかしく赤色に輝いている。 水の精霊が奏でるハープの音色を思わせる綺麗な川のせせらぎを聞く岸辺には、子供ほどの大きさしかない人影が横たわっている。 しかし月明かりに照らされる頭は人のそれではなく、動物や人を群れで襲い食い殺してしまう山犬と酷似していた。 体も良く見れば茶色の体毛に覆われ、犬のそれと同じような尻尾も生えている。 握力を失った手にはそれぞれ剣や槍に斧といった獲物が握られ、少なくともある程度の知能があったのだとわかる。 人々は奴らのような犬頭の亜人を、コボルドという名前で呼んでいた。 本来なら旅人を襲って殺しては身ぐるみとその肉を剥ぎ、時に誘拐すら行う彼らは川岸で事切れている。 その頭に相応しい犬歯が覗いている口からは血を流しているが、不思議な事に目立った外傷は見られない。 目を見開き、驚愕に満ち溢れた顔で死んでいる様は、まるで唐突な発作で死んだかのようだ 一匹だけではなく、何匹も同じ死にざまを見つめる女の眼差しは、氷の様に冷たい雰囲気を放っている。 まるで亜人を単なる畜生としか見てないかのように、彼女はコボルドの死体を見つめていた。 静寂さと自然の音が見事に調和した空間に、不釣り合いな肉片と返り血でもって台無しにした者は誰なのか? この場にいる女はそれを知っていた。知っていたからこそ、その場を動こうとはしなかい。 何故ならば、この殺戮から逃れたコボルドがたった一匹、彼女の目の前にいたのだから。 先程まで生きていた仲間たちと共に女を襲い、そしてボロ雑巾も同然となった犬頭の亜人が。 そのコボルドは、目の前の人間に向かって地を這っていた。 右の手足を失った亜人の這いずる姿は、まるで死に瀕した芋虫のようである。 爆発で吹き飛んだかのような傷口からは今も血が流れ、水を吸って元気に育つ川辺の草を真っ赤に染めていく。 人間ならば出血多量で死んでもおかしくはないが、コボルドの様な亜人たちに人の常識は通用しない。 彼らは時として人を武器や牙で殺すことは勿論、一部の者たちはこの地に眠る精霊の力を借りる事もできる。 最も彼の様な普通のコボルドとその仲間゛だった゛者たちは腕っぷしと人より少し上程度の体力があるだけで、トロル鬼やオーク鬼の様な怪力は持っていない。 頭も翼竜人や吸血鬼の様に賢いとは言えず、ましてやエルフの持つ崇高さすらなかった。 それでも彼らは、コボルドとしての生を誇りに思って生き続け、今日まで戦ってきたのである。 しかしその誇りを抱いたまま、今まで屠ってきた人間の一人に倒されるという覚悟まで背負ってはいなかった。 「…聞きたいことがあるの。言葉が通じるかどうか知らないけど」 戦う意思を失うことなく自分の方へ這ってくるコボルドへ向けて、女は喋った。 二十代後半を思わせる低音と高音が程よく混じった声に、亜人はその場で這いずるのを止める。 少なくとも人語が分かるのかしら?彼女は疑問に思いつつ、今聞きたいことをその場で勝手に喋り出す。 「どうして、私に襲い掛かってきたのかしら?アンタたちの事はおろか、自分が誰なのかすら知らないというのに」 疲労の色が少しだけ見える表情を浮かべた女の言葉には。この場で起きた惨劇の犯人が誰なのかを物語っている。 そう…この綺麗な場所を血に飢えた亜人たちの屍で汚したのは、彼女自身であった。 ◆ 今から数分程前に目を覚ました彼女は何もせずに水辺で佇んでいた所を、コボルド達に襲われたのだ。 死にかけているリーダー格を含めて五体、皆が皆それなりの経験と場数を踏んだ戦士たちであった。 だが…その戦士たちが彼女と戦った結果は、綺麗な水場を自らの血肉で染め上げてしまうだけに終わった。 これまでどおり人間を八つ裂きにしようとした亜人達も、まさかこうなるとは思っていなかっただろう。 何せ一目見ただけでも、この地方では珍しい身なりをした長い黒髪が特徴の人間の女だ。しかも杖の様なものは持っていない。 相手がメイジで無ければ恐れるに足らずという意思でもって、彼女に襲い掛かったのである。それが間違いだとも知らずに。 その後の数分間で、犬頭の亜人たちは一匹、また一匹とただの肉塊へと変えられた。彼女が唯一持っていた゛武器゛によって。 それは剣や鎚も槍でも無く、弓矢やここ最近見るようになった゛銃゛ではなく、ましてやあの魔法を打ち出す゛杖゛でもない。 自分たちが見つけた獲物の武器は、その体から出るとは思えぬ強力な力を宿した゛拳と脚゛だったのだ。 青い光を纏い、目にも止まらぬ速さで繰り出される拳は跳びかかった同胞の胸を貫いた。 同じように発光する足には丈夫なブーツを履いており、それで蹴飛ばされた同胞は気づく間もなく一瞬で事切れる。 突撃した同胞が一気に二体もやられた事に狼狽えた一体が、近づいてきた彼女のチョップで脳天を打たれて死んだ。 四体目はすぐさま自分たちが押されているという事に気づいたが、その直後に頭を横から蹴られ、周囲に脳漿を飛ばす。 そして最後に残ったリーダー格があまりの展開に驚愕しつつも、無意識に手に持った斧を前へと突き出した。 せめて次の攻撃を防いでカウンターを繰り出そうとした彼の考えに対し、目の前にいた女が地面を蹴って距離を詰めてきた。 来るなら来い!覚悟を決めたリーダー格のコボルドであったが、突如として右の手足から激痛を感じると共に、その体が後ろへと吹き飛んでいく。 一体何が…そう思うのも仕方ないとしか言いようがないだろう。 何せ黒髪の女は彼に接近した直後、青く光る左手のチョップでもって亜人の右手足を粉砕したのだから。 まるで林檎を素手で砕いたかの様にコボルドの手足゛だったもの゛が空中へ四散し、塵芥と化して周囲に散らばっていく。 そして自分がどうしようも無い状況に立たされたという事をコボルドが自覚した時、戦いは終わっていた。 否、それを第三者が何も知らずに見ればこんな事を言うだろう―――ちがう、あれは単なる゛虐殺゛だったと。 ◆ 戦いが終わってから、彼女はこんな疑問を抱いていた。 何故自分が襲われたのか、そもそもこの犬頭の怪物たちは何なんのだという事。 そもそも自分は誰なのか、どうしてこんな人気のない所にいたのかという謎を抱えて、コボルド達と戦っていたのである。 もしかすれば、あの犬頭達は何かを知っているのかもしれない…。 そんな考えでもって、致命傷を負い一匹だけ生き残ったコボルドに話しかけたのである。 しかし…少し小突けば死ぬような体で受け答えできるのか、そもそも人間の言葉を解するかどうかも良くわからない。 仮に意思疎通ができたとしても、自分の事を知っているのかもしれないという可能性は、もはや゛賭け゛以外の何物でもない。 それでもやってみなければ分からないという意思での問いかけは、亜人の口を動かさせる事に成功した。 「ウグ…ル…ルル…――――知ラ、ナイ…俺タチモオ前ノ事、全ク知ラナイ…」 片言ながらも喋る事ができたコボルドを女以外の人間が見ていれば、さぞ驚いていただろう。 コボルドは基本人の言葉は分かるが喋る事ができず、意思の疎通がほぼ不可能と言われてきたからだ。 もしもこのコボルドを人目の付かない場所に隔離し、亜人の研究家に見せてやれば泣いて喜ぶに違いない。 だが黒髪の女にとって゛人語を喋れるコボルド゛ということ自体にさして関心はなかった。 大事なのはただ一つ、それは目の前の亜人が゛こちらの質問に答えてくれる゛という事だけである。 そして、先程コボルドが返した言葉で確信し、得ることができた。 この怪物と意思疎通が可能なのだという事と、賭けに失敗したという落胆せざるを得ない事実を。 「あっ、そう…アンタが私の事を知らない、というのならそれはそれで良いわ」 あまり期待はしていなかったし。少し残念そうな声でそう返すと、露出させた両肩を竦めて見せる。 服と別離した白い袖はよく目にする人間の服とは印象が違い、コボルドの目が自然とそちらへ動く。 それを気にもしない女は初夏の風は少し肌寒いと思っていた時、亜人が再びその口を開けた。 「デモ…俺タチガオ前ヲ襲ッタ事…何モオカシイコトジャナイ」 コボルドの口から出たその言葉に、女の目が鋭い光を見せた。 黒みがかった赤色の瞳でもって、瀕死の亜人をそのまま殺さんとばかりに睨みつけている。 しかし体はボロボロでも亜人としてのプライドを残しているコボルドは、それに怖気づくことなく喋り続ける。 「オ前タチ人間、イツモ…平気デ生キ物殺ス…食ベル為ニ…毛皮ヤ角ヲ取ルタメニ…」 ソシテ、単ナル娯楽ノ為ニ――――最後にそう付け加えてから、亜人は一度深呼吸をした。 口を開けて息を吸い、吐き出すたびにヒュウゥ…ヒュウゥ…という背筋を震わせてしまうような不快な音が周囲に響き渡る。 息苦しい事がすぐに分かる呼吸の様子を見つめながら、黒髪の女は喋り出す。 「それと私を襲った事に、何の関係があるっていうのよ?」 「ゥウ…――人間ハイツモ、一方的ニ殺シテイク…俺、ソレガ許セナイ…」 「…だから、人間である私を襲ったって事よね?森を荒らす様な連中の仲間は、死んで当然だという一方的な考えで」 ため息を混ぜてそんな言葉をくれてやった彼女であるが、不思議な事にコボルドは返事をよこさない。 今まで地面を見ていた顔を彼女の方へ向けて、闇夜の中で茶色に光る両目で見つめている。 一体どうしたのかと思った時だ。地面に這いつくばる亜人が一言だけ、こんな事を呟いた。 「ニンゲン…?オマエヤッパリ…ニンゲン…ナノカ?」 質問するかのような言い方に、流石の彼女も目を丸くした。 まるで単なる銅像が「俺は人間だ」と叫んだ瞬間を目撃したかのような、信じられないという思いに満ちた様な言い方。 人間である筈の彼女はそんな風に言われて驚いたのだが、そこから落ち着く暇もなくコボルドは言葉を続けていく。 「最初ニオマエ見ツケタ時…俺タチオマエガ人間ナノカ不思議ニ思ッタ…」 「不思議に…それってどういう意味よ」 目を丸くしたまま動揺を隠せぬ巫女の追及に、コボルドは怪我を忘れたように喋り始める。 「俺タチノ様ナ種族ハ…マズニオイト気配デ…相手ガ何、ナノカ…ワカル。人間ナラ…スグニワカル。 ケド…オ前ノ体カラ滲ム、匂イト気配ハ…トテモ人間トハ思エナカッタ……」 もう残された時間が僅かなのか、喋る合間の呼吸の回数が増えていく。 だけど亜人は喋り続ける。まるで自分を見下ろす女に何かを伝えようとしているかのように。 女は女で微動だにする事無くただ目を丸くして、自分が人間なのか疑問を覚えた奴の話を黙って聞いていた。 そして…その命も風前の灯火同然となったコボルドは、本当に言いたかったことをようやっと口に出し始める。 「アレ、最初…ニ感ジ、タ時…俺、身震イ、シタ…。デモソ、ノ姿見タ時、スゴク…驚イタ。 オマエ、人…間ナノニ何デ体ノ中ニ血生臭イ溜マッテル?何デ自分デ…気ヅカナイ? 良ク、イル…人間、ハソンナ…匂イ出サ、ナイ………オシ、エロ…オマエ――――――ニンゲ…ンジャ」 ――――――――ニンゲンジャ、ナインダロ? それを最期の一言にしたかったコボルドはしかし、その言葉を口に出せなかった。 いや、正確にいえばそれを発言する前に止められた…と言えば正しいのだろうか? 体力はあとほんの少し残っていただろうし、喋ろうと思えば簡単に喋れた筈だ。 けどそれでも言う事が出来なかったのかと言えば、たしかにそれを言う事はできなかったであろう。 何故なら最期の一言を口から出す前に、コボルドの頭は踏み潰されたのだから。 赤い目を真ん丸と見開き、その顔に動揺を隠し切れぬ巫女のブーツによって… 街の靴屋でもそうそうお目に掛かれない様な実用性に優れる黒いソレの下には、見るも怖ろしい肉片が散乱していた。 紅い肉片がこびりついた茶色の毛と辺りに散らばった汚れた犬歯に…川の方へと転がっていてく一個の眼球。 まるで持ち主の魂が宿ったかのような黄色の球体はそのまま川へと入り、流れに乗って何処へと流れていく。 もう片方の眼球は、頭を踏み抜いた女の足元でその動きを止めた。まるで持ち主を殺した相手を睨みつけるように。 先程まで生きていた命を自らの手で紡いだ黒髪の巫女は横殴りに吹く夜風に当たりながらも、ゆっくりと思い出していた。 それは急所を潰されて息絶えた亜人の口から放たれた、自分に関する言葉の数々である。 「人間…だったのか?…体の中から…血生臭い匂い…」 まるで録音したテープを巻き戻し、再生するかのように生前のコボルドが口にした言葉を喋りなおす。 相手の頭を踏み潰した足を動かせぬまま、彼女は一人呟きながら左手で自分の胸に触れた。 白いサラシと黒のアンダーウェア、そして赤い上着越しに感じられるのは控えめに見えて少し大きな感触と僅かな温もりだけ。 そこから上下左右に動かし力を入れようとも、亜人の言ったような゛血生臭い゛匂いなど漂ってこない。 「まぁ当たり前なんだろうけど…さぁ――――ん?アレ…っえっ?」 我ながら阿呆な事をしていたと軽く恥じつつ手を下ろした時、彼女はある事に気が付いた。 最初はその゛気づいたこと゛にキョトンとした表情を浮かべたが、次第にその顔色が悪くなっていく。 先程と同じように目が見開いていき、胸に当てていた左手で口元を隠した彼女の額からは、ゆっくりと冷や汗が出てくる。 取り返しのつかない事をしたのに後々気づいた人間が浮かべる様な表情を見せる女は、自分が何をしたのか今になって気が付いた。 どうして、死ぬ寸前のヤツをわざわざ念入りに殺したの? しかしその事を問いただす言葉は、彼女自信の口ではなく―――彼女の頭上から聞こえてきた。 少なくとも彼女の少ない記憶には覚えのない、低く太い女の声が、血肉に塗れた川辺に響き渡る。 「はっ――――…なっ…!?」 突然の事に多少驚いた彼女はその場で振り向いて顔を上げ、そして驚愕した。 こちらを見下ろす低い声の正体を見れば、きっと誰もが彼女と同じ反応を見せたであろう。 彼女から一メイルほど離れた場所に、黒い服を纏った見知らぬ長身の女が佇んでいたのだ。 いつの間にかいた相手に驚きを隠せなかった彼女であったが、それと同時に相手が゛長身゛という単語では表現できぬほど大きい事に気づく。 幾ら世界広しと言えども、八尺もの背丈を持つ人間などいる筈もないのだから。 八尺の女はその体に相応しい位に伸ばした黒髪の所為で、どんな顔をしているのかまでは分からない。 だけどそれを見上げる彼女はあの低い声の主がコイツなのだと知っていた為、少なくとも美人ではないだろうと予想していた。 「何よ、コイツ…一体いつの間に」 突如現れた八尺の女に狼狽える事を隠せぬ彼女は、問いかけるような独り言を口から漏らす。 無理も無い。何せ自分よりも数倍ほどの身長を持つ人間を前にしているのだから。 周囲が暗い事もあって全体像が不鮮明すぎる八尺の女は、何も言わずに佇んでいるというのもより一層不気味さを増している。 理由もわからずにして起こった異常事態にどう対処すればいいのかと女が考えようとした時、再びあの低い声が聞こえてきた。 「――――の巫女だから?使命だから?鬱陶しいから?……それとも―――――」 「それとも…」という所でふと喋るのをやめた相手の言葉の一つに、彼女はキョトンとした表情を浮かべる。 巫女って言葉は…何かしら?他とは違い、明らかに何かの意味がありそうな単語に、彼女は疑問を感じた。 「――――…っ!」 その『何か』が気になって質問しようとした直前、八尺の女が唐突な動きを見せた。 文字通り八尺もの長さがある体の丁度真ん中部分が、音を立てずに折れ曲がったのである。 まるで細い切り枝を片手で折った時のように、アッサリと行われた行為に驚かぬ人はいないであろう。 その内の一人である彼女もまた例外でないようで、口を小さく開けて放心寸前にまで驚かされた。 ましてや、折れ曲がった八尺の女の顔が丁度彼女のすぐ上にまで近づいてきたのだから余計に驚いたであろう。 だがしかし、自分の体が折れた八尺の女はさも平気そうな様子で彼女のすぐ頭上で口を開き…囁いた。 「私たちを殺すのが―――とっても、楽しいから?」 その言葉が聞こえた瞬間、彼女は見た。醜く傷ついた女の顔を。 まるで金槌を何度も叩きつけられたかのように腫れあがって紫色の腫物となり、顔を大きく見せている。 口の端から流れ落ちる一筋の血はどす黒く、体液ではなく瘴気を吸収した毒の水にも見えた。 目を背けたくなるモノという言葉は、きっとこういうモノを目にしたときに使えばいいのだろうか? そんなどうでもいいことを考えている彼女の事など見ず知らず、醜悪な面を向ける女が口を開く。 まるで決壊した水門から土砂交じりの水があふれ出すようにして、黒に近い血がこぼれてくる。 「私だッて生きてテいタい――デもおマえは殺しタ」 そんな事を言ってきた時、彼女はある事に気が付く。 口から大量の血を吐き出しながら喋る女の眼窩には、本来あるはずの目玉が無かったのである。 ぽっかりと空いた二つの暗く小さな穴は不気味であり、まるで亡者を引きずり込む地獄へ直結しているかのようだ。 取れた眼球はどこへ行ったのかという疑問など湧いてこず、彼女は何も言えずに八尺の女の前にいる。 ただただ息を呑み赤い目を見開くその顔には戦慄に満ちた表情が浮かび、これからどうなるのかという不安を抱いていた。 「オまエはもう引キカエせナい。ズっとずットオまエは誰カを傷つケなガラ生きテいク」 潰れた蛙の様な声で喋る度に痣だらけの顔が溶けていく中で、八尺の女は窪みしかない眼窩で目の前の相手を睨み続ける。 コボルドと対面していたときの態度は何処へやら。今の彼女はまるで壁の隅で縮こまる軍用犬であった。 彼女は恐かった。目の前にいる得体の知れない女が、自分が忘れてしまった事を知っているようで。 同時にそれを口にし続けられ、自分が忘れていた事を思い出してしまう事の方が、何よりも怖かった。 知ってしまえば、何をしてしまうのかわからない。きっと良くない事が起こる気がする。 そうなる確証は無い。しかし本能が訴えているのだ。聞き続けるな、何としてもヤツの口を黙らせろ、…と。 「ソうシておマえハ血ノ道ヲ作リ続け、怨嗟ト憎悪に満チた私タちがそノ道を通っテいク…おマエを、ずっト呪イ続けルたメに」 酷く崩れていく八尺の女を前に、首を横に振りながら彼女は後ろへ後退り始める。 その顔を見れば逃げようとしているかのように見えるだろうが、実際はそうでない。 だらんと下げていた左手の拳にゆっくりと力を込めて、攻撃に移ろうとしているのであった。 後ろへ下がるのは距離を取るためであり、彼女自信ここから逃げようという気など微塵も無かった。 コボルド達を倒したという事もある。顔を狙えば一発で黙らせることができる。 そんな自身を抱きながら、彼女は心の中で拒絶の意思を述べる。自らが忘れてしまった゛何か゛へ… もう聞きたくないし、知りたくも無くなった…だから、私の目の前から消えてくれ―――― そんな事を心の中で思い立ながらも、彼女は思う。 先程まで知りたかった事実をアッサリと拒否する事は、いささか可笑しいものがある。 それでも彼女は拳を振り上げた。嫌な事全てから目を背けるようにして、青く光る゛キョウキ゛で殴り掛かろとした。 「貴女は昔からその調子ね。口下手だからすぐに拳が出る。それが貴女の良くない癖よ?」 その瞬間であった。自分の真後ろから、何処かで聞いたことのある別の女の声が聞こえてきたのは。 硝子で作られたベルが奏でる音の様に透き通った声色に、彼女はある種の゛懐かしさ゛というものを感じてしまう。 目の前いるおぞましい相手をすぐ殺そうとしたのにも関わらず、振り上げた拳が頭上でピタリと止まる。 そして、拳を包む青い光が消えたと同時に彼女はソレを下ろしてから、後ろを振り向く。 「けれど貴女はハクレイの巫女。時にはその力でもって、聞き分けのない連中を捻るのも仕事なの」 そこにいたのは…白い導師服を身に纏う、微笑を浮かべる金髪の女性だ。 腰まで伸ばした髪に青い前掛け、そして夜中だというのに差している導師服とお似合いの真っ白な日傘。 まるで絵画の中からと飛び出してきたかのような絶世の美女が、いつの間にか後ろに立っていた。 振り返った彼女がその姿を目にして驚き、同時にどこか゛懐かしいモノ゛を感じ取った瞬間、目の前を暗闇が包んでいくのに気が付く。 あぁ―――意識が落ちているのか。 それに気が付いた瞬間、彼女は深い眠りについた。 晴れた日の夜風は、どの季節でも体に良いものだ。ピンクのブロンドを持つ彼女はそんな事を思う。 ちょっとした事故で馬車が止まった時はどうしようかと思ったが、思わぬ幸に巡り会えたのは奇跡と言って良い。 もう半年したら少しだけ切ってみようかと考えている髪を撫でていると何を思ったのか、窓からひょっこりと顔を出してみる。 馬車に取り付けられたカンテラの下で見る林道は何処となく不気味であるが、怖いとは思わない。 彼女自身気の抜けた性格の持ち主という事もあるのだが、何よりも傍に数人の従者たちがいるのも理由としては大きい。 遠出の護衛としてついてきた彼らは、王宮勤務の魔法衛士たちとよく似た姿をしている。 その姿に負けぬくらいに凛々しく忠誠心溢れた彼らは、彼女の乗る馬車の周りに集まっていた。 理由は一つ。それは道の真ん中で立ち往生している馬車を、なんとか動かそうとしている最中であった。 今から数分前に、とある場所を目指していた彼女の乗った馬車が、突如大きな揺れと共に止まったのである。 何事かと思い車輪を調べてみたところ、どうやら林道の真ん中にできた窪みに右後ろの車輪が嵌ってしまったらしい。 馬車を動かしているのは人型のゴーレムだという事もあって、護衛達が窪みから車輪を出す事となった。 「良し、私の合図で二人が車輪を浮かして…私と残りの三人で馬車を前に押す。分かったか?」 護衛部隊のリーダーである太い眉が目立つメイジがそう言うと、他の五人のメイジは無言で頷く。 主人であるピンクブロンドの女性を守るために訓練を積んだ彼らは、王宮の魔法衛士隊と戦っても引けを取りはしないだろう。 引き締まった表情と、不用意に近づいてきた相手を斬り殺さんばかりの緊張感を体から出している彼らには、それ程の自負があった。 そんな時、窓から顔を出して様子を見ていたピンクブロンドの女性がその顔に微笑みを浮かべて言った。 「ごめんなさいね。本当なら私たちが馬車から降りた方がもっと軽くなるのに…」 敬愛する主からそんな言葉を頂いた六人の内、太眉の隊長が慌てた感じですぐに返事をする。 まるで神話に出てくる女神が浮かべるような優しげな笑みを見れば、誰もが口を開いてしまうだろう。 「えッ…!あっ、いえ、そんな、私は貴女様からのお気遣いだけで充分であります故!」 「そう?でも無理はしないでくださいね。貴方達の歳なら人生これからっていう時期なんだし」 隊長格のお礼を聞いて女性はそう答えたが、その言葉には何か違和感の様なものがある。 外見は隊長格やほかの護衛達よりも年若いだろうに、まるで自らの死期を悟った老人だ。 「それじゃあ、申し訳ないけどお願いね」 彼女はそれだけ言うと頭を引っ込め、座り心地の良い馬車のシートに腰を下ろす。 それを見て向かい側にいた眼鏡を掛けた侍女が、申し訳なさそうに口を開いて言う。 「主様…言いにくいのですが、あのような弱気の言葉を吐かれては、また体調が悪くなってしまいますよ?」 主治医殿もそう言っていたではありませんか。最後にそう付け加えて、侍女は主と慕う女性に苦言を告げる。 人付き合いが好きなピンクブロンドの主はその言葉に軽く微笑みと共に、言い返してきた。 「ふふふ…心配ご無用、私はそう簡単に死にはしないわ。逆にこういう事は軽いジョークで言うのが良いのよ」 主治医殿がそう言っていたわ。先程侍女が口に出した事を真似た様な言葉を付け加え、主はカラカラと笑う。 その雰囲気と元気に笑う姿と表情だけを見れば、彼女を知らぬ人間は思いもしないであろう。 絵画の中から出てきた女神のような美貌の持ち主が、複雑な重病を患っていると… それから数分も経たぬうちに、馬車は再び走れるようになっていた。 主と侍女の乗る御車台を引っ張る馬たちを離してから御車台そのものを魔法を浮かせる。 後は窪みから離れた場所で下ろし、再び馬たちを御車台を引かせる…という作業は、思いのほか短い時間で済んだのだ。 「良し、これでもう大丈夫だな」 窪みに嵌っていた車輪に異常が無い事を確認した隊長格は、覇気のある声で一人呟く。 他の護衛達は後ろに待機させている馬に跨っており、窪み自体も土を被せて塞いである。 自分たちだけではなく、後からここを通る人たちの事も考えての事であった。 窪みがあった場所は何回か踏んで安全を確認した後、隊長格は手に持った地図を見る。 場所のカンテラを頼りにこの土地の事を調べた後、彼は馬車の中にいる主へと声を掛けた。 「カトレア様。この先を行けば宿のある村に着くそうです。今夜はもう遅い故、そこで一旦足を止めましょう」 狼の遠吠えが何処からか響く森の中、カトレアと呼ばれたピンクブロンドの主はゆっくりと頷く。 地図を見れば自分が行きたい場所とはまだまだ離れている。しかし、それもまた長旅の醍醐味と言えよう。 「どんな事でも一歩…また一歩と、ゆっくり楽しみながら進む事が肝心なんだと…私は思うのよ」 例え目的地が遠くともね。そんな一言を呟き、カトレアは微笑んだ。 深夜の闇には、不気味な何かを感じてしまう。 そんな事を最初に思ったのが五つの頃で、今からもう七十年近く経っても変わらない。 気を抜けば窓越しにみる森の中から何か現れるのではないかという妄想を、抱き続けている。 たかが妄想と若者や町から来る人々は言うかもしれないが、それを妄想と言い切る証明は無い。 どんなに否定しようとも、世界は不思議に満ちているのだ。それが目に見えぬものだとしても。 「いや、目に見えるモノの方がいいのかも知れん。不可視のモノに怯え続けるよりかは…」 老人は胸中で見らしていた言葉を呟いてから、コップの底に残っていた水を勢いよく飲み干す。 木々に囲まれた家の中から見る森というのは木季節に関わらず不気味なもので、常に嫌な妄想を抱かせてくれる。 ここから少し離れた所には他の人たちも住んでいて賑やかなのだが、今更あの土地に新居は作れはしないだろう。 最も、ずっと昔の先祖から引き継いできたこの土地を手放す事など、彼はこれっぽっちも考えてはいない。 不気味ではあるがそれなりに住みやすい場所だし、何より静かな土地だというのも気に入っている理由だ。 「こんな場所、俺が死んだあとは若い連中が入ってくるんだろうなぁ…」 老人が孤独死した、魔の土地として…ため息交じりに呟き、テーブルにコップを置いてカンテラの灯りを消した。 今年で七十五、六という年齢に入った彼は、とても老いた者とは思えぬ体躯の持ち主であった。 無論、若かりし頃と比べれば大分劣ったと彼自身も自覚するが、山で仕事をするには十分の体力は残っている。 街で見かけるような同年代の老人たちと比べれば驚くことに、彼の体は四十代後半くらいの若さと力を保っていた。 それだけあれば木を伐採するための斧や鉈を片手で持てるし、丸太を背負って家と山を一日に何回も往復できる。 文明圏で暮らす人々が想像するよりも、山というのは過酷な場所だ。 老人の体が年齢不相応な力を保持し続けているのは努力ではなく、ここで生きていく為の証明であった。 家の灯りを消し、何回も補強したドアの鍵が閉まってるかどうか確認してから、彼は寝室へと足を運ぶ。 何回も踏み続けた廊下の床が軋む音を上げ、暗闇に包まれた家の中に外の不気味さを持ち込んでくる。 台所とリビング、そして玄関があるリビングから入れるこの廊下はそれ程長くは無く、三十秒もあれば奥にある裏口へとたどり着ける。 その間にあるのは彼の寝室と、ワケあって掃除したばかりの物置部屋へと続くドアがあるだけ。 本当なら寝室に入ってベッドに潜り込みたいところだが、その前にある物置部屋に行く必要があった。 別にその部屋に寝室のかぎが置いてあるワケではない。ただ、つい最近ここに回い込んできた゛少女゛の様子を見る為である。 「ん……明りが?」 廊下を歩き始めて十秒もしない内に、彼は物置部屋へと続くドアの下から小さな光が漏れている事に気づく。 ぼんやりとドアの下を照らすそれを見てしまえば安堵感よりも、更なる不安を感じてしまうだろう。 少しだけ臆病な老人がその明りに気が付き、一瞬だけ足を止めてしまったのもそれが原因だ。 しかし、彼は小さなため息をつくと再び足を動かし、ついでそのまま物置部屋のドアをゆっくりと開けた。 その先には、古びたソファに腰かけて窓の外を見やる幼い少女がいた。 「ニナ…まだ起きてたのか?」 寝てなきゃ駄目だろう。叱るとは言えぬ声色で呼びかけると、ニナと呼ばれた少女が老人の方へと顔を向ける。 あどけなさが色濃く残るぬいぐるみの様に愛らしい顔に、キョトンとした表情が浮かぶ。 ベッド代わりのソファに膝を乗せて夜空を見上げる体は年相応でまだまだ人として未発達だ。 世の中にはそういうのを好む男性が数多く存在するが、幸いな事だが老人にそのような嗜好は無い。 それよりも今の彼が気にしている事は、まだここに住み始めてから間もないこの子が未だ起きている事だった。 「子供はもうとっくの前に寝てないと体があんまり育たたんぞ、知らんかったのか?」 今みたいに夜更かししてたら、全然大きななれんぞ。一人呟きながらも老人はソファの下にあるカンテラの灯りを消した。 文明の光は呆気なく消えたが、それを待っていたかのようにニナと呼ばれた少女が言った。 「さっきね、二ナの事を窓から迎えに来てくれる黒い人の夢を見たの。不思議でしょう?」 アタシ、何も覚えてないのにね。楽しそうに喋る彼女の頭を、老人はそうかそうかと返しながら撫でる。 この世界には不思議な事などいくらでもあるが、それと同じか…あるいはそれ以上に色々な事柄で満ちている。 幸せな事、優しい事、美しい事、悲しい事、血生臭い事、怖い事、忘れてしまいたい事、そして―――――残酷な事。 七十年も生きてきた老人は思いつく限りの事柄を経験してきたし、どんな人間でもいずれは体験せねばならない事だと思っている。 しかし始祖ブリミルよ、これは残酷ではないだろうか?こんな小さな子に、親も帰る場所も忘れさせるなんていう…残酷な事は。 村の医者に記憶喪失だと告げられた少女の頭を撫でながら、彼は心の中で毒づいた。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/9015.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 例えばの話だが、ある所に命を懸けた戦いをしている戦士がいるとしよう。 限られた武器と足手纏いとも言える者たちが周りにいる中、戦士の相手は凶悪な怪物。 明確な殺意をもって戦士の命を仕留めようとする、無慈悲な殺人マシーンだ。 戦士は足手纏いな者たちを守りつつ怪物を倒すことになるが、それはとても大変な事である。 戦う必要のない者たちは自分たちも戦える豪語しつつ、各々が勝手に行動しようとするからだ。 そうすれば戦士はいつものペースで動くことができないが、一方の怪物は戦いを有利に進めることができる。 例え向こうが多人数であっても、足並みを揃える事が出来なけれ文字通り単なる烏合の衆と化す。 結果向かってくる奴だけを順々に片付ければ良いし、運が良ければ思い通りの戦いができない戦士をも殺せる。 しかし、足手まといな者たちが一致団結して戦う事が出来るとすれば話は変わる。 訓練された軍隊のように足並み揃えて一斉に襲ってくると、さしもの怪物も対処しづらくなるのだ。 更にその隙を縫って戦士が強力な一撃仕掛けてくるとなれば、もはや勝ち目などない。 一見すれば怪物側が有利な戦いは、実際のところたった一つの駆け引きで勝敗が左右する大接戦。 相手の腹を探りつつどう動くべきかと考えあぐねるその時間は、当人たちにとっては命を懸けた大博打である。 しかしそれを空の上から眺めてみれば、とても面白いゲームだとも思えるだろう。 そう、自分たちが傷つくことのない場所から見れば、命を懸けた勝負すら単なるゲームになる。 「ふーん―――何だか見ないうちに、随分とややこしい事になってるじゃないか」 旧市街地に並ぶ廃屋の屋上に佇む金髪の青年が、やけに楽しそうな調子で一人呟く。 左右別々の色を持つ眼には、この廃墟群の出入り口で大騒ぎを繰り広げ始めた五人の少女達が映っている。 彼が今いる位置ではやや遠すぎるかもしれないが、そんな事を気にもせず彼女たちの姿を見つめていた。 旧市街地の入り口から少し進んだ先で、まるで決闘の場で対峙するかのように向かい合っている紅白の少女が二人。 青年から見て旧市街地側に佇む紅白の少女の傍に、腰を抜かしているピンクブロンドが目立つ少女。 そして少し離れた場所には、まるで野次馬の様に三人の様子を眺めている黒白の少女と燃えるような赤い髪の少女がいた。 日も暮れ始めて来た為か肌の色までは良くわからなかったが、青年にとってそれは些細な事に過ぎない。 今の彼にとって最も重要なのは、『三人』の姿が見れた事だけであった。 五人いる内の中ですぐに安否が確認できるのは二人。黒白の金髪少女とピンクブロンドの少女だけ。 三人目となる紅白の少女は二人いるせいで、どちらを見ればいいのか未だにわからない。 「一体どういう経緯で二人になったのかは知らないけど困るよなぁ~、あんな事勝手にされちゃあ…」 僕の目が回っちゃうじゃないか、最後にそう付け加えた彼は軽く口笛を吹く。 まるで観戦中の決闘に予期せぬ乱入者が現れた時の様に、興醒めするどころか楽しんでいるようだ。 それは正に、安全かつ他人同士の殺し合いをしっかりと見届けられる場所で歓声を上げる観客そのものである。 「しっかし何でだろうな…一人しかいない筈の彼女に二人目がいるだなんて」 落下防止にと付けられた鉄柵の上に両肘をつけた青年は、またもや呟く。 彼以外にその疑問を聞く者はいないし、当然返事が来ることも無い。 生まれた時代が違えば、目の色だけで見世物小屋にいたかもしれない青年にとって、単なる独り言であった。 そう…単なる独り言だったのだ。 「私も良くは知らないが、アレに関してはお前たちの方は心当たりがあるんじゃないか?」 気づかぬうちに、自分の後ろにいた゛者゛の言葉を聞くまでは。 「――は?」 突然背後から耳に入ってきた声に、青年はその目を見開かせてしまう。 しかし驚きはしたものの、数時間前に似たような事を経験をした彼は声が誰のものなのかを分析しようとする。 良く透き通るうえに大人びた女性の声は、想像の範囲だがきっと二十代後半なのだろう。 あるいはマジックアイテムが魔法で細工しているかもしれないが、実際のところは良くわからない。 それよりも今の青年が気になる所はたった一つだけ。それは、どうやって自分の背後に近づいたのかという事だ。 青年が経験した「数時間前に似たような事」というのは、正にそれであった。 ◆ 時間をさかのぼり今日のお昼頃であったか。 彼はちょっとした用事でブルドンネ街で買い物を楽しんでいた三人の少女を、旧市街地の教会から観察していた。 その三人こそ、今の彼が屋上から眺めている「ピンクブロンドの貴族少女」と「黒白の金髪少女」。そして何故か二人いる「紅白の黒髪少女」である。 望遠鏡を使ってわざわざ遠くから見ていた青年の姿は、他人から見れば通報されても仕方がないであろう。 そのリスクを避ける為に人気のない旧市街地から覗いていたのだが、そこで変な事が起こった。 何と誰もいなかった筈だというのに、突如自分の後ろから女の声が聞こえてきたのである。 その後は色々とありその場は置き土産を置いて後にしたが、青年は観察事態を諦めてはいなかった。 そもそも彼が三人を覗いてた理由である「ちょっとした用事」というのは、彼にとって「仕事の内の一つ」なのだ。 だからその場を去った後は、三人の動きをしっかりと見張れる所に移動していたのである。 そして三人が導かれるようにブルドンネ街からチクトンネ街へ行くところはバッチリと見ていた。 不幸か否かチクトンネ街へ行った際に一時的に見失ってしまったが、数分前にこうして再開すことができた。 偶然にも自分が昼頃にいた旧市街地へ舞い戻る事になったのは、一種の皮肉と言えるかもしれない。 ◆ そうこうして、良からぬ展開に巻き込まれた三人の様子を観察していて、今に至る。 (一瞬聞き間違いかと思ったが…どうやら僕の予想は正しかったようだ) 彼は先程聞こえたものと、昼に聞いた声がそれぞれ別々のモノであると既に理解していた。 今聞こえた声からは、昼頃に聞いたものとは違う゛凛々しさ゛を感じていた。 昼の声は「貴婦人さ」というものが漂っていたが、今の声にはそれとは逆の…俗にいう「働く女性」というイメージがぴったりと合う。 しっかりとした性格の持ち主で、上司に対しちゃんとした敬意を払うキャリアウーマンだ。 自分とは正反対だな。月目の青年は一人そう思いながら、ゆっくりと後ろを振り返る。 彼は予想していた。振り返った先には誰もいないし、それが当然なのだと。 ただ見えるのは、落ちていく夕日と共に影に蝕まれる寂れた床だけなのだと。 昼頃の体験もそうであったし、それと似通った部分が多い今の事も同じような結末を辿るのだと、勝手に決めつけていた。 しかし、現実というのは時に奇妙で刺激的な事を不特定多数の人間に体感させる。 一人から数十人、下手すれば数百から千単位に万単位、もっともっと大きければ国家単位の人口が奇妙な体験をするのだ。 今回、現実という日常的な神様は月目の青年に奇妙な「存在」を目にする機会を与えてくれた。 そう…国を傾けかねない美貌と、この世界に不釣り合いな衣服を纏う「存在」と、彼は出会ったのである。 「君が口にしたややこしいという言葉は…残念だが私たち側も吐露したいんだがね」 距離にして四メイル程離れた所に、明らかに場違いな金髪の美女が、腰を手を当ててそう呟いた。 明らかにハルケギニア大陸の文明から作りえない青と白を基調にした衣装を身に纏った体は、まだ二十代前半といったところか。 これまで生きてきた中で数々の女性と付き合ってきた彼が直感的に思いつつも、次いでその視線を美女の衣装に注いでいく。 一目見ただけでもハルケギニアの民族衣装とも異なるが、蛮族領域に住む亜人たちや砂漠に住まうエルフたちの衣装とも印象が違う。 どちらかと言えば東方の地から時折流れてくる衣服のカタログで、似たようなものを見たことがあったと彼は思い出す。 白い服の上に着ている青い前掛けには、大した意味が無さそうに見えてその実難解そうな記号が踊っている。 もしかするとあれが東方の地で用いられる言葉なのかもしれないが、今の青年にはそれよりも気がかりな事が二つほど合った。 「――――コイツは驚いたね。さっきまで誰もいなかった場所に、僕好みの美人さんが立っているとは」 見開いていた月目をスッと細めた彼は、両腕をすっと横に伸ばし冗談めいた言葉を放つ。 大げさすぎるその動作を見た異国情緒漂う女性もまた目を細め、その口から小さな吐息を漏らす。 反応だけ見ても呆れているのかこちらの動きを読んでいるのか、それすらハッキリとしない。 こういう相手は綺麗でも付き合うのはちょっと遠慮したいな。彼がそう思おうとした直前、女性の口が開いた。 「良く言うよ…君は知っているんだろう?―――私がそこら辺にいる゛ニンゲン゛とは違うって事を」 「……?それは一体―――――!」 夕闇の中、金色の瞳を光らせた彼女がそう言ったのに対し、ジュリオは怪訝な表情を浮かべようとする。 だがその瞬間。目の前の女性を中心に、この場所ではやや不釣り合いと思える程度の匂いが突如漂い始めた。 その匂いはこの建物を降りて適当な路地裏を歩けば出会いそうな連中が放っているモノと似通っている所がある。 青年は仕事上そういう連中と接する機会が多いため、唐突に自分の鼻を刺激した匂いの正体を断定できる自信もあった。 群れを成して路地裏に屯し、時として真夜中の街へ繰り出し生ごみを漁る大都市の掃除屋。 おおよそ武器を持たなければ人間でも太刀打ちできない゛奴ら゛と似たような匂いを放つ金髪の女。 それが意味するものはたった一つ――――――文字通りの意味で、女は人間ではないという事だ。 「もしかして君、常に体を清潔にしないタイプの人かい?」 匂いの根源と、その理由を何となく把握できた青年は、ふと冗談を放つ。 プロポーズどころかデートのお誘いですらない言葉に不快なものを感じたか、目を瞑った女はこう返す。 「生憎ですが私は主人と違い、そういうお話にはあまりお付き合いできませんよ?」 「そいつは残念だ。――――…おっと、ここまで話し合ったんだから名前ぐらい教えておこうか」 女性の辛辣な返事に青年も素っ気ない言葉で対応したかと思えば、笑顔を崩さぬまま唐突な名乗りを上げた。 「僕はジュリオ…ジュリオ・チェザーレ。気軽に呼んでくれてもいいし様づけしたっていいよ?」 青年、ジュリオの名前を知った女性は呆れた風なため息をつきつつ、その口を開ける。 「―――――八雲藍だ。別にどんな風に呼んでくれたって構いはしない」 憂鬱気味な吐息を漏らした口から出た言葉は、今の彼女を作り上げた主からの贈り物。 遠い昔の時代に、東の大陸で跳梁跋扈した妖獣の一族である彼女の今が、八雲藍という存在であった。 ★ 「おぉ…。さっきとは打って変わって、奴さん積極的じゃないか」 明らかに先程とは動きの違う偽レイムの後姿を眺めつつ、魔理沙が気楽そうに言った。 先程までこちらに背を向けている相手に殺されかけたというのに、その言葉から緊張感というものを殆ど感じられない。 流石に物凄い勢いでナイフを放り投げ、口論を続けていた霊夢とルイズに急接近した時は軽く驚いたが、今はその顔にうっすらと笑みを浮かべている。 箒を右手に持ち、キュルケの隣に佇むその姿はすぐに戦えるという気配が全く見えない。 自分に危害が及ぶ事が無いと分かっているのか、それとも知り合いである巫女が勝つことを予想しているのだろう。 とにもかくにも、この場には不釣り合いと言えるくらいに、魔理沙は霊夢達の動きを傍観していた。 「さて、この似た者同士の勝負。どちらが最後まで立ってられるかな」 「三人して同じ部屋で暮らしているというのに、観客様の気分で見ているのね貴女は…」 すっかり回復し、楽しげな言葉を放つ魔理沙とは対照的に、その隣にいるキュルケは安堵することができなかった。 下手すれば死んでいたかもしれない黒白がどんな態度を見せようとも、彼女とって今の状況は゛非日常的な危機゛であることに変わりはない。 急な動きを見せた偽レイムの傍には抜かした腰に力を入れて立とうとするルイズがおり、そんな二人から少し離れた所に本物の霊夢がいる。 もし立ち上がったルイズが下手に動こうとすれば、突然殴り掛かってくるような相手に何をそれるのかわからない。 その事をキュルケ自身が察する前に霊夢も気づいているのだろうか、ナイフを片手に身構えた状態からその場を一歩も動いていない。 一方の偽レイムも先程まで霊夢達がいた場所から動いてはいないものの、いつでも仕掛けられるよう腰を低くしている。 正に先に動いたら負けという状況の中にいる三人を不安そうな目で見つめているのが、今のキュルケであった。 (本当に参ったわね…いつもとは全く違う刺激があるのは良い事だけど…あぁでもこういうのは良くないわ) 少しだけ似合っていない魔理沙の微笑を横目でチラチラ見つめつつ、手に持った杖をゆっくりと頭上に掲げていく。 それと同時に多くの男を虜にする艶やかな声でもって素早くかつ正確に、呪文の詠唱を始める。 別にあの三人の戦いの輪に巻き込まれたいという、自殺願望に近い何かを胸中に抱いているワケでは無い。 ただキュルケ本人としてはどうしてこんな事になっているのか知りたいし、その目的を達成するためにはルイズの存在が必要だ。 恐らく、自分が巻き込まれたであろう刺激に満ちた今の事態の発端を詳しく話せるのは彼女しかいないであろう。 なら彼女の使い魔と居候となっている黒白でもいいかもしれないが、部外者である自分に話してくれる可能性はかなり低い。 そこでワザと彼女らが直面している事態に首を突っ込み、彼女らと同じ場所に立つ。そんな計画がキュルケの脳内で出来上がっていた。 故に彼女は決断していた。この刺激的な一日の最後を飾るであろう魔法を、偽レイムにお見舞いしてやろうと。 幼少の頃に覚えたスペルの発言は数秒で済み、短くとも今この場で最適と思える魔法の発動が準備できた時、魔理沙が声を上げた。 「あ、お前も混じるのか。何だか随分と賑やかになってきたじゃないか」 まるでこれから起ころうとしている事を知っているのか、彼女の顔にはその場にそぐわない喜色が浮かんでいる。 実際、この世界へ来て数週間ほどしか立ってない魔理沙にとってキュルケの魔法を見るのはこれが初めてなのだ。 しかしそんな彼女にとうとう嫌気がさしたのか、嬉しそうな黒白に向けてゲルマニアの留学生魔理沙の方へ顔を向け、目を細めて言う。 「本当に呆れるわね貴女。…こんな状況でそんな表情と態度を出せるのは一種の才能なの?」 「私から見れば、これから死出の行軍に出ようとしているようなアンタの顔が、ちょっと見てられないぜ」 遠まわしに空気を読めという解釈にも取れるキュルケの言葉を聞いても、魔理沙の態度は変わりはしない。 それどころか、緊張しすぎている彼女を笑わせようと灰色の冗談を飛ばしてくる始末であった。 もはや怒るどころか呆れるしかないキュルケは、ため息つく気にもなれず相手を見下すかのような表情を浮かべる。 「そう…じゃあそこでずっと見ていなさいよ?何が起こっても私は助けないけどね」 私にとって貴女は、まだ得体の知れない相手なんだから。最後にそう付け加え、キュルケは偽レイムの方へ顔を向ける。 「生憎だがアレは不意打ちだったんだぜ。それにお前が手を出すと霊夢が嫌がるかもよ?」 まぁそれはそれで見ものだけどね。魔理沙もまたそんな言葉を付け加え、キュルケに助言を送る。 しかし魔法使いからの言葉を聞き流したキュルケは、今か今かと攻撃のタイミングを伺っている時であった。 日常からやや抜けた刺激を活性化させる為に、常人では考えもしない異世界の事件に首を突っ込もうとしている。 その結果に何が待ち受けているのかは知らないが、キュルケ自身は後悔しない筈だろう。 後戻りができそうにない、非日常的な刺激こそ……彼女が求めてやまぬ心身の特効薬なのだから。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8972.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 少し離れた所から人々の喧騒が聞こえてくる、旧市街地へと続く入り口周辺。 閉館時間を過ぎた劇場のように静かで陽の当たらぬ場所で、ルイズと魔理沙は行方不明になっていた゛レイム゛と再会していた。 だが、1時間ぶりにその姿を間近で見たルイズは、彼女の身体に何か異変が起こったのだとすぐに察知する。 姿形こそ彼女らが見知っている゛レイム゛そのままの姿であるが、不思議な事に彼女の両目は不気味に光り輝いていた。 それに気づいたルイズは目を丸くし、再会できたのにも関わらず一向にその足を動かせなくなってしまう。 お化け屋敷の飾りでつけるようなカンテラみたいにおぼろげで、血の如き赤色の光。 今いる場所が暗ければ、間違いなくその身を震わせていただろうと思えるくらいに、゛レイム゛の目は不気味だった。 目の光に気づく前は名前を呼ぶ為に二回ほど口を開いたが、気づいた今ではそれをする事すらできない。 今の彼女にどう接すればいいのか分からないルイズが狼狽え始めた時、魔理沙がその口を開いた。 「おいおい霊夢、お前その目はどうしたんだよ。何か良くないモノでも食ったのか?」 そんな事を言ってカラカラと笑いながらも、彼女はいつもの調子でこちらへと近づいていく。 魔理沙の言葉にハッとしたルイズは咄嗟に後ろへと下がったことで、゛レイム゛との距離を取った。 何故かは知らないが、そうしなければいけないと無意識に頭が動いたのだ。 それを不思議に思う間もなく後ろへ下がった彼女と交代するように、今度は魔理沙が近づいていく。 ルイズよりも付き合いが深い彼女が歩いてくるのにも関わらず、゛レイム゛は何も言わない。 首が回らなくなった人形の様に、ジッと此方の方へ顔を向けたまま動きもしない。 ドアの上に尻餅をついた姿勢の彼女は、ただ魔理沙を見つめていた。 「どうしたのよあの子…っていうか、なんで目が光ってるのかしら?」 それなりの距離へ下がった時、ふと自分の横から聞き慣れた声が聞こえてくるのにルイズは気が付く。 自分と魔理沙の後ろをついてきて、先程追い払ったばかり彼女の声が聞こえる事に驚き、急いで視線を動かす。 案の定自分の横にいたのは、赤い髪と豊満の女神と思える程富んだ肉体を持ったキュルケであった。 いつものように澄ました笑顔の彼女は、赤い髪を左手の指で弄りながらも自分に気づいたルイズを見下ろしている。 抗えぬ身長の差と笑顔で見下ろされる事に歯がゆい屈辱を感じたルイズの口は、咄嗟に動いてしまう。 「キュルケ…アンタ、もうどっかに行ったんじゃないの?」 「お生憎様、私はあの紅白ちゃんみたいに便利な瞬間移動は体得していませんのよ」 嫌悪感を隠さぬルイズの言葉を冷やかに返しつつも、キュルケは゛レイム゛がいる方へと視線を向ける。 彼女の目が自分以外の人物に向けられた事に対し、ルイズもそちらへ目を動かす。 先程ルイズ達がいた場所から五メイル先にある建物から出てきた゛レイム゛は、微動だにしていない。 一緒に吹き飛んだ大きなドアの上に腰を下ろしたまま、じっとこちらの方へと顔を向けている。 特に怪我をしているとは思えないし、彼女への方へと寄って行く魔理沙も変な反応を見せてはいなかった。 ただ変わっている事は一つだけ。赤みがかった彼女の黒い瞳が、赤く光り輝いているということだ。 「レイム…一体、何が起こったていうの?」 キュルケと肩を並べたルイズは一人、何も言わない゛レイム゛へ向けて呟く。 もしも目の前にいる彼女がいつもの゛レイム゛であったならば、今頃軽く説教しつつ頭でも叩いていただろう。 自分や魔理沙に何の報告も無しに姿を消して心配させるとは何事か、と。 しかし今目の前にいる゛レイム゛の姿には、何か不気味なモノが見え隠れしている気がした。 あの目だけではなく、無表情の顔や身体から発せられる雰囲気までもいつもの彼女とは違っている。 いつもの゛レイム゛ならば、目の前の自分たちへ向けて何かしら一言放ってもおかしくない。 例えば『何でいるのよ?』とか『あら、呼びもしないのに来てくれたのね』など、少なくともこの場の空気を読めないような言葉は吐いてたはずだ。 実際にそうするかはわからないが召喚してからの二ヶ月間、彼女と共に過ごしたルイズはそう思っていた。 無論今の様にシカトと思えるような態度は見せるかもしれないが、それでも可笑しいのである。 まるで人形の様に一言も発さず、無表情でこちらを見つめているだけなどいつもの彼女ではない。 「やっぱり…何かあったんだ…」 只ならぬ゛レイム゛の様子にまたも呟いたルイズを見ながら、キュルケはその顔に薄い笑みを浮かべる。 彼女は確信していた。自分の鼻に狂いは無く、知らない゛何か゛が現在進行中で起こっているのだと。 最初こそルイズたちの言葉を聞いて何もないかと思っていたが、この状況を見ればあれが単なる誤魔化しだったのだとわかる。 何が原因で事が始まり今に至るかはさておき、今のキュルケは正に好奇心の塊と言ってもいいであろう。 ((あの黒白が現れる前から色々とおかしいとは思ってたけど…こりゃどうにも面白そうじゃないの?) 喜びを何とか隠そうとするキュルケを尻目に、゛レイム゛へと近づいた魔理沙は彼女に話しかけていた。 「どうした霊夢ー?まさか、この期に及んで無視…ってことは無いよな」 一メイルあるがないかの距離で喋る彼女は、いつもと比べ静かすぎる知り合いを前に頭を抱えそうになる。 いつもならば嫌味の一つでもぼやいてくるとは思っていたが、中々口を開こうとしない。 そりゃ何かしら冷たい所はあれど、こうまで話しかけて話しかけてくる相手を無視した事はなかった。 怪我一つしていないし、どこからどう見ても博麗の巫女である゛レイム゛そのものだ。 じゃあ一体何で口を開こうとせず、不気味に光る目でこちらを見つめてくるのかと言えば、それもわからない。 さすがの魔理沙も、今の゛レイム゛にはお手上げと言いたいところであった。 (やっぱり変なモノでも口に入れたのか?目が光る毒キノコとか聞いたことも無いが…) 仕方なく゛レイム゛の赤色に光る目と自分の目を合わせつつ、どうしようかと迷っていた時だった。 「………………ム」 ふと゛レイム゛の口が微かに動き、何かを呟いたのである。 蚊の羽音と同じ程度の声で何を言っているのか分からなかったが、喋ったことに違いは無い。 「ん?何だ、言いたいことでもあるのか?」 一体何を喋っているのか気になった魔理沙は耳を傾け、その言葉を聞き取ろうとした。 髪を掻き分けながら右の耳を゛レイム゛の顔へと近づけた彼女は、スッと目を瞑る。 その直後、見計らっていたかのように二度目の言葉が聞こえてきた。 「…………レイム」 ゛レイム゛が呟いていた言葉。それは彼女自身の名前であった。 一度目はうまくいかなかったが、二度目に耳を傾けたおかげでうまく聞き取ることができた。 しかし、魔理沙にとってそれは、今の状況を好転させるどころか更なる疑問を抱くことになってしまう。 (コイツ…なんで目を光らせながら自分の名前なんかをボソボソ呟いているんだ?) 聞いてしまったことで謎は深まっていく今の状況に、さすがの魔理沙も笑えなくなっていく。 近づけていた耳を離した彼女は怪訝な表情を浮かべながら、自分を見つめる゛レイム゛に話しかけた。 「本当にどうしたんだお前は?自分の名前なんか呟いて楽しいのか…?」 飲み過ぎた友人に話しかけるような魔理沙の声は、後ろにいたルイズたちの耳にも入ってくる。 「自分の名前…?アイツ、何言ってるのかしら」 一体何が起こっているのかはよくわからないが、少なくとも良い事ではないようだ。 おかしくなってしまった゛レイム゛に四苦八苦する魔理沙を見ればすぐにわかる。これは本当にまずい。 森の中で怪物に襲われた時よりも不明瞭すぎる彼女の異常に、ルイズは一つの決断を下す。 (一度安全なところまでアイツを連れていくか、運んだ方がいいわね) 未だに目が光り続ける彼女は不気味だが、このまま放置しておくわけにもいかない。 ここから一生動かない…という事はなさそうだが、後一時間半もすれば日が沈んで夜になるだろう。 今の季節なら日が沈んだばかりの頃はまだ明るいものの、夜になればここの治安は悪くなる。 特にこんな廃墟群なら、浮浪者や犯罪者などの「社会不適合者」が潜んでいてもおかしくはない。 つまり、こんなところで動かない彼女と一緒にいるだけでもマリサや自分の身が危ないのだ。 隣にいるキュルケの安全を敢えて考慮しない事にしたルイズは、次にどう動こうか悩みはじめる。 (とりあえず…どうやって霊夢を動かそうかしら) 既にここから逃げる算段を付けている彼女は、ふと゛レイム゛の方へ視線を移す。 こちらが言ってすぐに立って歩いてくれれば問題は無いが、最悪それすらしない可能性の方が高いかもしれない。 そうなれば、誰かが彼女を担いで移動するしかないのだがそれをするのは魔理沙の役目だ。 自分は彼女の箒を持てば良い。そこまで思いついた彼女であったが、厄介なイレギュラーが一人いる。 (ここまで見られたら…絶対ついてくるわよねコイツ) 魔理沙たちの動きを見つめているキュルケを一瞥したルイズは、心中で毒づく。 遥々ゲルマニアからやってきた留学生の彼女は、不幸な事に変わった事が大好きだ。 変な噂があればそれを徹底的に調べるのだ。骨の髄までしゃぶりつくす…という言葉が似合うほどに。 サスペンス系の劇ならば間違いなく頭脳明晰な探偵役か、事件の真相を知りすぎて殺される被害者の役をやらされるに違いない。 そんな彼女が、今の自分たちを見て先程みたいに手を振って立ち去るだろうか?答えは否だ。 気になるモノは徹底的に調べつくす彼女の事だ。あと一歩で真実を知れるならば、地の果てまで追いかけてくるだろう。 そしてそれを知り次第、機会があれば色んな所で話しそうなのがキュルケという少女―――ルイズはそう思っていた。 あぁ、どうして今日という日はこんなにも面倒くさくなったのだろうか? 頭を抱えたい気持ちになったルイズの脳内に、ふと冗談めいた提案が浮かび上がる。 (……いっそのこと、ここでご先祖様の仇をとってもいいかな?) ヴァリエール家を繁栄、維持してきた先祖たちの中には無念にも当時のツェルプストー家の者たちにやられた者が多い。 ある時は戦場で首を取られたり、またある時は想い人を寝取られたり奪われたりと…色々「やられて」きた。 ならば今ここで、油断しきっている彼女を色んな意味で゛黙らせた゛方がヴァリエール家の将来が良くなるのではないか? そんな事を考えていた彼女の邪な気配に気づいたのだろうか。 今まで魔理沙たちを見ていたキュルケはハッとした表情を浮かべ、ふとルイズの方へ視線を向けた。 彼女が目にしたのは、どす黒い何かを考えているルイズの姿であった。 まるで今から殺人事件を起こそうかという様子に、さすがのキュルケも目を丸くしてしまう。 一体、自分が見ぬ間に何を企んでいたのだろうか?そんな疑問を感じてしまった彼女は、試しに話しかける事にした。 「…何やら顔が恐いですわよ、ヴァリエール」 「いっ……!?」 言った本人としては単なる忠告のつもりであったが、それでもルイズは驚いたらしい。 自分以上に目を丸くした彼女を見たキュルケは肩を竦め、先祖からのライバルに話し続ける。 「何を考えていたかは知らないけど。そんな顔してたら、まともなお婿さんが来ませんわよ」 「なっ…!あ、アンタ何言ってるのよこんな時に!」 突拍子もなくそんな事を言われ、ルイズは顔を赤くしつつ怒鳴った。 だが獅子の咆哮とも例えられる彼女の叫びに怯むことなく、キュルケはニマニマと笑う。 場の空気を読めぬキュルケの笑みを見たルイズが、更に怒鳴ろうと深呼吸しようとした―――その時であった。 「うっ…ぁっ…!」 突如、魔理沙のいる方から苦しげな呻き声が聞こえてきたのである。 首を絞められて息ができず、それでも本能に従って何とか呼吸をしようとする者の小さな悲鳴。 そして、青春を謳歌している自分たちと同じ年代の子が出すとは思えぬ断末魔。 人の生死にかかわる声を聞いたキュルケはハッとした表情を浮かべ、魔理沙たちがいる方へ顔を動かした。 深呼吸していたルイズも咄嗟に同じ方向へ顔を向け、何があったのかを確かめる。 直後、二人の脳内にたった一つだけ、小さな疑問が浮かび上がる。 『どうして、こうなっている』―――――『何が、起こったのだ』――――――と。 それ程までに二人が見た光景はあまりにも不可解であり、まことに信じ難いものだったのだ。 唐突な呻き声を耳にし、振り向いた二人が目にしたもの。それは… 「あっ…!あぁあ………」 いつの間にか立ち上がっていた゛レイム゛に、首を締めつけられる魔理沙の姿であった。 手にしていた箒を足元に落としていた彼女は、空いた両手で゛レイム゛の右腕を掴んでいる。 再会した時から無表情な巫女は、何と右手の力だけでもって魔法使いの首を絞めていた。 首を絞められている方ももこんな事になるとは思いもしなかったのか、その顔が驚愕に染まりきっている。 「…ぐっ…あっがっ…」 言葉にならぬ声をかろうじて口から出しつつ、力の入らぬ左手で゛レイム゛の右腕を必死に叩く。 それでも゛レイム゛は、右手の力を緩める事は無く、それどころか益々力を入れて締め付ける。 せめてもの抵抗が更なる苦痛をもたらし、とうとう声すら上げられなくなってしまう。 「――……っっ!?……!!」 締め付けが強くなった事で魔理沙はその目を見開き、自然と顔が上を向く。 身体が酸素を取り入れられず意識が遠のいていくたびに、目の端から涙が零れ落ちていく。 もはや体に力も入らず、緩やかだが苦しい「死」が、彼女の体を包み込もうとしている。 それでも゛レイム゛は、酷いくらいに無表情であった。 まるで目の前にいる知り合いが、ただの人形として見えているかのように。 そんな光景を前にしていたからこそ、ルイズとキュルケの二人は動けずにいた。 ルイズはただただ鳶色の瞳を丸くさせ、怖い者知らずであるキュルケの体は無意識に後退っている。 恐怖していたのだ。学院でもそれなりに仲の良かった二人の内一人の、思いもよらぬ凶行に。 同じ席で二人食事を取り、暇さえあればお喋りもしていたルイズの使い魔である自称巫女と自称魔法使いの少女たち。 その二人を知っている者ならば、目の前で繰り広げられる絞殺を見て驚かない者はいないであろう。 「ねぇ…あれってさぁ…ケンカ…じゃないわよね?」 「っ!そ、そんなワケないじゃないの!?」 体も心も引き始めたキュルケがそう呟いた直後、目を見開いたままのルイズが叫んだ。 その叫びが功を成したか、驚きのあまり硬直していたルイズの体に自由が戻ってくる。 緊張という名の拘束具に縛られていた小さな筋肉が開放されるのを直に感じつつ、彼女は腰に差した杖を手に取った。 幼少の頃、ブルドンネ街で母と一緒に購入したそれは貴族の証であり、自分に勇気を与えてくれる小さな誇り。 手に馴染んだそれを指揮棒の様に軽く振った後、その足に力を入れて゛レイム゛たちの方へ走り出した。 「ちょっ…ルイズッ!」 いきなり走り出した同級生を制止しようとしたキュルケであったが、時すでに遅し。 褐色の手で掴もうとした黒いマントが風に揺らす今のルイズは、弓から放たれた一本の矢だ。 罅だらけの地面を一級品のローファーで蹴りつけながらも、彼女は口を動かし呪文の詠唱を始めている。 杖を持つ右手に力を入れて手放さぬよう用心しつつ、五メイルという距離の先にいる゛レイム゛へとその先端を向ける。 風を切る音と共に杖を上げた今の彼女は正に、自身が思い描く貴族らしい貴族だ。 おとぎ話に出てくる公爵や伯爵の様に、いかなる困難にも決して背を向けず勇猛果敢に立ち向かう魔法の戦士。 現実では怯える事しかできなかった過去の彼女が夢見る、いつか自分もこうなりたいという願望。 そして、異世界の問題に改めて身を投じる事を決意した彼女の―――今のルイズの姿であった。 キュルケの制止を振り切ったルイズは呪文を詠唱しつつ、知り合いの首を絞める゛レイム゛を睨みつける。 あと少しで天国への階段を上ってしまうであろう魔理沙を助ける為には、゛レイム゛に自分の魔法を放つしかあるまい。 まだ色々と借りがある゛レイム゛を攻撃することに躊躇いはある。けれど、そんな彼女に殺されかけている魔理沙を見殺す事もできない。 魔理沙にもまた大きな借りがあるのだ。それを返さぬまま見殺しにしてしまえば、自分は一生分の後悔を背負う事になる。 故にルイズは、今の自分が何をするべきなのかを決めていた。 常軌を逸した゛レイム゛が魔理沙を絞め殺す前に、何としてでも自分が止める事。 それが今の彼女が自らに課した、この状況で最善だと思える行動であった。 (何でこうなったのかは知らない。けど、何もしなきゃマリサが…!) 口に出さずともその表情でもって必死だという事を示すルイズは、二人まであと二メイルという所で足を止めた。 トリステイン魔法学院に在学する生徒のみが履けるローファーの底が地面をこすり、彼女の体をその場に押しとどめる。 少量の砂埃を足元にまき散らしもそれに構わず、呪文の詠唱を終えたルイズは右手に持った杖を振り上げ、唱える。 「レビテレーション!」 彼女が唱えた魔法は、本来人や物体を浮かす初歩中の初歩であり、攻撃用の魔法ではない。 それで゛レイム゛だけを浮かせても今の彼女なら動揺しそうにもないし、逆に縛り首の要領で魔理沙を殺しかねないのだ。 無論そのスペルを詠唱していたルイズ自身も理解しており、何も無意識に唱えていたワケでは無い。 彼女が魔法を唱えた直後、苦しむ魔理沙を見つめていた゛レイム゛の顔が、ルイズの方へと向く。 未だに赤く光り続ける瞳でもって睨みつけようとした時、その足元から一筋の閃光が迸る。 直射日光を思わせる程の眩しい光を直視した゛レイム゛が思わずその目を瞑ろうとした瞬間、光が爆発へと変化した。 チクトンネ街で八雲紫に放ったものとは段違いに低いそれは、爆竹十本程度の威力しかない。 ゛レイム゛の足を吹き飛ばす事は無かったが、突然の閃光から爆発というアクシデントに怯まざるを得なかった。 そしてルイズとしては、その゛レイム゛が僅かながらに隙を見せてくれたことに多少なりとも感謝していた。 何せ彼女が足元を一瞥してくれただけで、自分が一気に近づけるのだから。 「レイム!!」 目の前で殺人を犯そうとする巫女の名を叫ぶよりも前に、ルイズは走り出していた。 まるで興奮した闘牛の如く一直線に、自分の部屋に住みついた少女たちの方へ突撃する。 その足でもって地面を蹴飛ばして近づいてくるルイズに゛レイム゛は気がつくも、既に手遅れであった。 回避しようにも魔理沙の首を掴んでいるためにできず、目の前には物凄い勢いで掴みかかろうとするルイズの姿。 再会してから全く動く事が無かった彼女の目は見開かれ、無表情を保っていた顔に驚愕の色が入り込む。 一体、いつの間に―――― ゛レイム゛がそう思った瞬間。両腕を横に広げたルイズが、彼女の腰を力強く抱きしめた。 まるでお祭りで手に入れた巨大な熊のぬいぐるみに抱き着くかのように、彼女は遠慮も無く゛レイム゛に抱き着いたのだ。 それだけならまだ良かったかも知れないが、ルイズの攻撃はまだまだ終わりを見せていない。 勢いよく゛レイム゛に抱き着いたルイズはそのまま足を止めることなく、何と自らの両足を地面から離す。 まるでその場で跳び上がるかのように左足の靴先で地面を蹴り、ほんの数サント程宙に浮く。゛レイム゛を抱きしめたままの状態で。 その結果、ルイズは自らの全体重を゛レイム゛の方へ寄らせる事に成功した。 「なっ…!」 これには流石の゛レイム゛も動揺せずにはいられず、その体から一時的に力が抜けてしまう。 無意識のうちに両足が下手に動いてもつれ、ルイズの体重により身体が後ろへと傾き、不用意に手の力が緩む。 そして右手の力も抜けたおかげか、首を絞められていた魔理沙の体は死の束縛から解放される事となった。 呼吸を止められ、あと少しであの世へ入りかけたであろう黒白の魔法使いの体が、どうと地面に倒れる。 それと同時にルイズと゛レイム゛の体が勢いよく地面に倒れこみ、辺り一帯に砂塵をまき散らした。 「ルイズ…!………アンタ、無茶すぎるわよ」 ライバルの取った無茶な行動に対して毒づきつつ、キュルケは゛レイム゛の手から解放された魔理沙の姿を目に入れる。 自由を取り戻した彼女は早速口を大きく開けて、物凄い勢いでもって深呼吸をし始めている。 「―――――はぁ、はぁ、はぁ……うぇっ…ウグ…ゲホッ!!」 何回か咳き込みつつも、旧市街地の空気を取り込もうとする魔理沙は、間違いなく生きていた。 目の端に涙を溜め、落ちた衝撃で被っていた帽子が頭から取れても、彼女はただ咳き込んでいる。 だが五分もすれば先程会話した時の様に、飄々とした彼女の姿を見れるであろう。 逆にあの時、ルイズが突撃していなければ、その会話が最初で最後となっていたかもしれない。 そう考えると多少無茶だと思っていたルイズの行動も、今となっては多少の賛成くらいできる。 (あまり良い印象は持ってないけど…初めて会話した人が目の前で死ぬなんて見たくもないわ) まだまだ聞きたい事もあるし。付け加えるように心中で呟いた直後、、ルイズの怒鳴り声が聞こえてきた。 「どういう事なのよレイム!?」 地面に倒れた゛レイム゛の上に跨ったルイズは、杖を突きつけ問い詰める。 ピンクのブロンドを揺らし、怒りに震える表情でもって怒る彼女ではあったが、その手は震えていた。 まるで麻痺毒の植物を食べた時のように小刻みに震えており、それに合わせて杖も揺れている。 ルイズは恐れていた。豹変した゛レイム゛に襲われる可能性と、不本意だが恩人である彼女に杖を向けているこの状況に。 本当なら、こんな事にならなかった筈だ。 いつもの彼女ならば、面倒くさがりつつもある程度の事は教えてくれただろう。 なのに今の状況はどうだろうか?ワケもわからずに恐ろしい事をしでかし、自分が手荒なマネをしてまで止めに入る。 本当なら一回ぐらい言葉で止めるべきだったと思うが、その時のルイズにはそこまで冷静に思考はできなかった。 あの時の彼女はキュルケと一緒に、魔理沙の命をその手に掛けようとする゛レイム゛の目を見ていた。 虚ろに光り輝く赤い瞳からは、何の感情も窺えない。 自分の手で死んでゆく知り合いの顔を見ても、そこから喜怒哀楽の感情は見えなかったのである。 まるでゴミ捨て場で拾った古い人形を乱暴に弄る子供の様に、ただただ無意識に締め付けていた。 その目に、ルイズは恐怖した。あれは自分たちが良く知るいつもの゛レイム゛ではない。 このまま彼女を放置すれば、何の遠慮も無く魔理沙を殺すだろうと。 ―――――――ねぇ…あれってさぁ…ケンカ…じゃないわよね? ――――ーっ!そ、そんなワケないじゃないの!? だからこそ、キュルケの叫び対しルイズはそう返し、動いたのである。 今の彼女は言葉ではなく、その体でもって止めるべきだと。 「何でマリサの首なんか締めて…本当にどうしちゃったのよ?」 怒りの表情を保ったままのルイズは何も喋らぬ゛レイム゛に震える杖を突き付けながら、ただ語り掛ける。 魔理沙の死を何とか食い止め、人殺しの罪を背負いかけた彼女を押し倒したルイズは知りたかった。 どうしてああいう事をしたのか、自分たちの前から姿を消した間に何があったのかを。 一方で、色んな方向に動く杖の先を仰向けの態勢で見つめている゛レイム゛は、これといった動揺を見せていない。 鈍く光る赤い目でもって何も言わず、眼前に突きつけられた棒状をただジッと見つめている。 ゛レイム゛の顔に浮かぶ表情は魔理沙の首を絞めていた時と同じく無色であり、何を考えているのかもわからないのだ。 「何でもいいから、一言くらい喋ってみな……あっ」 そう言って空いた左手で彼女の袖を掴もうとした瞬間、ルイズは気づく。 手の甲を見せるようにして地面に置かれた゛レイム゛の左手。 本来ならそこにある、ルイズとの契約で刻まれたガンダールヴのルーン。 だが、今ルイズが目にしているその手には、ガンダールヴどころか何も刻まれてはいなかった。 土と煙で汚れてはいるが、黄色みがかった白い手には傷一つついていない。 まるで最初からそうだったかのように、゛レイム゛の左手はあまりにも綺麗過ぎた。 ルーンが無い事に今更気づいたルイズはその目を見開き、驚く。 ついさっきまで付いていたばかりか、魔理沙と自分の目の前で光る所をみせてくれた使い魔の証。 古今東西、主人や使い魔以外が死ぬこと意外にルーンが消えるという話など聞いたことも無い。 それなのに、自分の下にいる゛レイム゛のルーンは、嘘みたいに消えてしまっている。 ルイズは悟った。もうワケがわからない、これは自分の予想範囲を超えた事態になってしまったのだと。 「一体…何が…どうなってるのよ?」 今日何度目になるかも知れないその言葉を、口から漏らした瞬間であった。 「ちょっと、アンタ達。そんなところで何してんの?」 呆然せざるを得ないルイズの頭上から懐かしいとさえ思えてしまう、゛彼女゛の声が聞こえてきたのは。 その声を聞いた直後、その顔にハッとした表情を浮かばせたルイズは、その顔を上げる。 未だに咳き込む魔理沙の方へ近づこうとしたキュルケもそちらの方へ視線を向け、気づく。 ここから二メイル先にある元洋裁店の青い屋根の上に、一人の゛少女゛が佇んでいた。 建物自体は一階建てなので屋根も低く、夕日に照らされたその姿をハッキリと見ることができる。 紅い服に別離した白い袖、赤いリボンをはためかせたその姿をしている者は―――二人が知る限りたった一人だけだ。 「レイム…アンタもレイムなの…!?」 最初に゛少女゛を見つけたルイズは口を大きく開け、その名を叫ぶ。 春の訪れとともに出会い、自分を未知の世界へと招き入れた彼女の名を。 「一々大声で怒鳴らなくっても…ちゃんと聞こえてるわよ」 ルイズの呼びかけに対し゛少女゛―――…否、もうひとりの゛レイム゛は左手を上げ、気だるげに言葉を返した。 そして、何気なく上げたであろうその手の甲に刻まれたルーンを見て、ルイズは一つの確信を抱く。 もしこの場で二人の゛レイム゛の内、どちらが本物の゛霊夢゛かと問われれば…まちがいなくルーンのついた方を選ぶ―――と。 使い魔のルーンはそう簡単に消えるモノではないし、何より光っているところを魔理沙と一緒に見たのだ。 何がどうなっているのか何もわからないままだが、少なくとも状況が変化していくのは分かった。 (もしも私の知識が正しいのならば…ルーンのついてる方が本物のレイム…って事で良いわよね?) そんな事を思っていたルイズはしかし、ふとこんな疑問を抱く。 ―――――ルーンのついている方が本物だとするのならば、今自分の下にいるのは誰だろうか? 「―アァッ!」 脳内に浮かび上がった謎の答えを探ろと顔を下げたルイズは、突如何者かに首を絞められた。 一体何が起こったのか。急いでその目を動かしたところで、彼女は油断していたと後悔する。 襲い掛かってきた者の正体。それはルイズに飛び掛かられ、地面に倒れていた筈の゛レイム゛であった。 ルイズの首に手を掛けた時に腰を上げた巫女は、赤く光るその目で睨みつけながら、ルーンの付いていない左手で彼女の首を力強く絞めていく。 既にルイズの足は地面から離れ、まるで乗り捨てられたブランコの様に揺れ動いている。 「かは……っ!あぁっ!」 本物と同じ体格とは思えた力で息を止められたルイズはその目を見開き、体は無意識にビクンと跳ね上がる。 魔理沙もこんな風に絞められていたのだろうか。そんな疑問が脳裏をよぎる間にも、どんどん締め付けが強くなっていく。 「ルイズッ!」 本物の霊夢の登場に驚いていたキュルケがそれに気づき、腰に差した杖を手に持つ。 あのまま放っておけば、先程同じことをされていた魔理沙よりもっとヒドイ事をされるのは間違いない。 先祖代々からのライバルであり多少煩いところはあったが、それでも目の前で死なれては目覚めが悪くなってしまう。 それに、いつもの生活では味わえないような体験をしているのだ。どっちにしろ逃げるという選択肢は今のキュルケに無かった。 (何か色々と分からない事が多すぎるけど、アイツが死んだら真相は闇の中…ってところかしら?) 言い訳の様な苦言を心の中で発しつつも、彼女は杖の先端を゛レイム゛の方へ向け、詠唱を開始する。 一方、屋根の上から見下ろしていた霊夢もこれはヤバいと悟ったのか、すぐさま動き出した。 別にルイズの事が心配だとか一応は主人だから助けようという事を、彼女は考えていない。 ただ、今も幻想郷で起こっている異変を解決するにあたり一応の協力関係にあるだけのこと。 故に彼女はルイズを主人としてみる事は無く、ノコノコとついてきた魔理沙と同じように接していた。 それでも、異変のキッカケとなった召喚の儀式で出会ってからは、色々と世話になったのは事実である。 現に今日は服も買ってもらったのだ。そこまでしてくれた人間を、みすみす殺させる理由などない。 「そいつを殺されたら、色々と不味いのよねっ…と!」 霊夢は軽い感じでそう呟き、青い屋根の上からヒョイっと勢いよく飛び降りた。 一階建てなので高さもそれほどでもなく、難なく着地し終えた彼女はルーンが刻まれた左手を懐へ伸ばす。 しかしその直前、使い魔の証であるソレを目にして何か思いついたのか、ハッとした表情を浮かべて周囲を見回す。 彼女の周りにはルイズ達や、先程゛レイム゛が飛び出してきた雑貨屋などを含む幾つかの廃屋しかない。 それでも霊夢は辺りを見回し、今自分が゛思いついた事゛を実行できる゛物゛がないか探している。 「参ったわね…ちょっと試したい事があるのに限っていつもこんなんだから―――――…あ」 軽く愚痴をこぼしながら足元を見つめていた時、ふと近くにある廃屋の入り口の方へと目が向いた。 そこは先程、彼女の偽物が扉と一緒に出てきた元雑貨店であり、霊夢の目から見ても相当荒れているとわかる。 その出入り口の近くには、霊夢が両手で抱えられる大きさの箱が放置されている。 恐らく中に置かれていたであろうソレは半壊しており、中に入っていたフォークやスプーン等の食器が周囲に散乱していた。 長い事放置されていた食器は大半が錆びており、無事なモノでも迂闊に触りたくない雰囲気を漂わしている。 しかし彼女が目を向けた物は、人の手に触られる事無く朽ちた食器たちの中でも一際目立つ存在であった。 (まぁ、どうかは知らないけど…あれなら一応は使えるわよね?) 自身の左手の甲に刻まれたルーンを再度一瞥した彼女は、心の中で質問に近い言葉を浮かべる。 この廃墟で偽者と再会して以降光り続けるソレは、ある程度弱々しくなったものの未だにその輝きを失っていない。 そして今も尚、彼女の耳には聞こえていた。誰のモノかも知れない謎の声が―――― ――――武器を取れ、ヤツを倒せ (まぁ不本意と言えば不本意だけど…状況が状況だし、モノは試しということでやってみようかしら?) 鬱陶しいルーンの光と謎の声へ向けて嫌味に近い感じの言葉を送り、彼女は決意する。 それは自分にしか聞こえない迷惑すぎる声に従う事であり、何処か腹立たしい気持ちを覚えてしまう。 しかし今の様にルイズが殺されそうになっている状況で、声に従わないという事など彼女は考えてもいない。 針も無しお札も無し、頼りになるのは弱いスペルカードだけという今なら、謎の声の方が正しいと理解せざるを得ないのだ。 (使えるモノは思い切って使う。とにかく…これから長い付き合いになりそうだしね) 一度決まれば行動するのは早く、霊夢はスッとその足を動かして走り出す。 雑貨屋に置いてある食器にしては不釣り合いすぎる、鈍く光る身を持つ゛武器たち゛を求めて。 一方、そんな事をしている間にも、息を止められたルイズの心臓は刻一刻とその鼓動を弱くさせていた。 ルーンの付いてない゛レイム゛に殺されようとしている彼女は身じろぎ一つできない。 (息――できな……このままじゃコイツに…) 死ぬのは勿論嫌なのでどうにかしたい所だか、今の彼女に碌な抵抗はできない。 首を絞める゛レイム゛の左腕の力が思った以上に強く、自分の両手で彼女の腕を掴むことだけで精一杯であった。 それ以外にできる事は無く八方塞がりな状況に陥った時、ルイズはその目を動かす。 幸いか否か視界は良好であり、目を光らせながら自身の首を締め付ける゛レイム゛の顔をハッキリと見る事が出来た。 廃屋の中から出てきた彼女はこちらへ顔を向けた時と同じく、無表情を保ち続けている。 ただ変わった事と言えば、その時からずっと輝き続けている赤い目の光が強くなっていることだ。 まるで切創から溢れ出る血の様な色をしたソレは、不気味さを通り越した何かを孕んでいる。 それと目と自分の目を合わせながら死へと近づくルイズは、明確な恐怖を感じてしまう。 (誰…か、助けて…だれでも…イイカラ…) 心の中で彼女がそう願った時、暗くなっていく視界の左端に細長い銀色の光が入り込んできた。 夜空を一瞬で過る流れ星のような速度でもって現れ、゛レイム゛の左手の甲へ吸い込まれるようにして…突き刺さった。 「なっ…―――!?」 直後、突然の事にまたも驚いた゛レイム゛の左手から力が抜け、絞首の魔の手から解放されたルイズが地面へと倒れる。 「…!―――ルイズッ!」 突然の事に軽く驚き詠唱を中断してしまったキュルケが、死から逃れた好敵手の名を叫ぶ。 それに応えてか否か、体の自由を取り戻せたルイズは早速呼吸をしようとして苦しそうに咳き込み始める。 「コホッ、ゲホ……!な――何があったのよ…?」 汚れた地面へとその身を横たえたルイズもキュルケ同様に驚くが、口から出た疑問はすぐに解決した。 鈍い音を立てて彼女の手に甲に刺さった細長い銀色の光。その正体は、一本の古びたナイフだった。 長い間放置されて薄汚れてしまった柄に多少の錆が目立つ刀身は、どう見ても街で売れるような代物ではない。 仮に低価格で売ろうとしても、銀貨一、二枚で売らなければ買い手など見つからないだろう。 それでも武器としてはまだまだ使える方なのか、刺された゛レイム゛は充分に痛がっている。 「くっ…うっ…」 苦痛に耐えるかのようなうめき声を上げながらも、彼女はそれを抜こうと残った右手でナイフの柄を握る。 左手を貫くかのような形で突き刺さるナイフの刃先から少量の血が流れ、滴となって地面に落ちていく。 ポタポタと耳に心地よいリズムに、刀身に絡みつく血が、ルイズの心に不安定な気持ちを植え付ける。 そんな彼女の事などお構いなしにと言いたいのか、゛レイム゛は一呼吸置いてから、勢いよくナイフを引き抜いた。 直後、吐き気を催す音と共にルイズの方に幾つもの血が飛び散り、彼女の顔を遠慮なく汚す。 少し遠くから見ればニキビと勘違いしてしまう液体は、近くに寄れば錆びた鉄と良く似た匂いをイヤと言うほど嗅げるだろう。 そんな液体を顔に浴びたルイズは、最初それが何なのかわからなずキョトンとした表情を浮かべるも、それは一瞬であった。 「あっ……うぐっ…」 自分の顔に何が掛かったのか。それを知った瞬間、喉元から良くないモノが込み上がってきた。 咄嗟に両手で口を押さえ、名家の令嬢にふさわしくないそれを口から出すまいと我慢する。 今まで顔に血を浴びるという経験が無かった故、吐き気を覚えてしまうのは致し方ないだろう。 だからといって、今ここで出してしまうというのは彼女のプライドが許しはしなかった。 この場で吐き気を堪えられないという事は即ち、その程度の事で腰を抜かすのが自分だという事を認めてしまう。 それでは、ここへ来る前に八雲紫の前で誓った自分の決意など、見せかけの言葉にしかならない。 (駄目よルイズ…!まだ戦ってもいないのに弱気になるなんて事…絶対に駄目) 何とかして吐き気を抑え込んだルイズは自らを戒めつつ、ナイフを抜いた゛レイム゛の方へと顔を向ける。 鳶色の瞳が向いた先、そこにいた巫女の目はこちらを見つめてはいなかった。 光り続けるその目を細め、先程自分が出てきた元雑貨屋をキッと睨みつけている。 左手の中心部と甲から血を流しているにも関わらず、その傷を作ったナイフを右手に握り締める姿は正に狂戦士だ。 先程痛がっていた姿が嘘の様に見えてしまい、ルイズは無意識のうちに身震いをしてしまう。 痛みを無視してまで、誰を睨みつけているのか。 吐き気が失せた彼女はそんな事を思いながら振り向き、目を丸くする。 「聞こえなかったかしら、ソイツを殺されると色々不味いって?」 ゛レイム゛が睨み、ルイズがアッと思ったその視線の先にある一軒の廃屋。 先程まで誰もいなかった元雑貨店の出入り口のすぐ傍に、゛レイム゛と対峙している霊夢がいた。 これからどうしようかと考えているのか、面倒くさそうな表情を浮かべる彼女の右手には、二本のナイフが握られている。 本来は果物を切るために使われるであろうそれらは、軽く見ただけでも錆びているのがわかる。 それを目にしたルイズは察した。いつの間にかナイフを手にした霊夢が、自分を助けてくれたのだと。 今もそうだが、面倒だと言いたげな表情を浮かべているにも関わらず、事ある度に色々と助けてくれた。 そうして助けてくれる分、ルイズは彼女へ幾つもの借りを作ってきた。増えすぎたがために、大きくなった借りを。 しかし。ルイズとしてはこれ以上霊夢への借りは極力作りたくないと思っていた。 無論命を助けてくれた借りは返すつもりではあるし、下賤な輩みたいに遠慮も無く踏み倒す気は無い。 彼女は決意したのだ。自分は守られる側ではなく、幻想郷から来た者たちと共に戦う側になると。 未だ正体すらわからぬ黒幕と戦いを交え、霊夢の召喚から今も続く彼女の世界での異変を止める為に。 だからこそわかっていた。今この状況で、自分が何をすべきすという事を。 (そうよ…怯えたら駄目なのよルイズ・フランソワーズ!) 赤い斑点を顔につけたまま自らを鼓舞するルイズが、杖を持つ手に力を入れる。 その姿は正に、世界を混沌に陥れるであろう魔王と対峙する騎士の様であった。 そして、誰の耳にも入らぬ心中の叫びが合図となったのだろうか。 左手を自らの血で染めた゛レイム゛が右手のナイフを構え、目の前にいる霊夢へと跳びかかった。 飛蝗のように地を蹴り上げ、ナイフを振り上げたその手は蟷螂の前脚を彷彿とさせる。 霊夢と似すぎるその顔と、未だ輝き続ける目からは、怒りの感情が沸々と込み上げてきていた。 突然の事にルイズと遠くにいたキュルケが驚く一方で、霊夢は苦虫を踏んだかのような表情を浮かべた。 「三度目の正直ってところかしら?もうちょっと休ませてほしいんだけど…ねぇっ!」 心底嫌そうな感じで喋った彼女は、ルーンが刻まれた左手を突き出して結界を展開する。 そして振り下ろされたナイフと結界が接触した瞬間、本日三度目となる戦いが始まった。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8160.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 夜の闇が段々と深くなってゆくトリステイン魔法学院… その女子寮塔の上階にある部屋の窓から飛んで出てきた霊夢は、塔の出入り口へと降り立った。 持ってきた御幣は紙垂の付いている方を上にして担いでおり、体が動くたびに音を立てて揺れる。 (やっぱりというかなんというか。流石にこうまで暗いと見つけられるモノも見つけられないわね…) 地上へ降り立った霊夢は、外が余りにも暗いという事実に内心溜め息をつく。 既に辺りは闇に包まれており、少し離れたところにある城壁に置かれた燭台から出ている明かりがハッキリと見えている。 しかしそれはここを明るくするには至らず、仕方なく霊夢は自分の両目に神経を集中させて辺りの様子を探り始めた。 いかなる状況でも冷静に判断し、相手の攻撃や弾幕を避ける博麗の巫女にとってこれぐらい朝飯前の事である。 彼女の目はゆっくりと、しかし確実に夜の闇に慣れていく。 やがて数十秒もしないうちに辺りの風景が少しだけハッキリと見えたところで、霊夢は出入り口付近である物を見つけた。 朝と昼、それに夕方には多くの女子生徒達が出入りする女子寮塔の出入り口に、潰れたカンテラが放置されていたのである。 まるでハンマーで叩き付けられたかのようにカンテラ全体がひしゃげており、ガラスも粉々に割れて地面に散乱している。 これが霊夢が思っているほどの存在が起こした仕業でなくとも、確実にただ事でないのは確かだ。 「さてと、こんなことをした犯人は何処にいるのかしらね…」 一人呟くとそのまま足を一歩前に出して塔の出入り口からロビーへと入り、すぐ横にあるドアへと視線を向ける。 幸いドアの真上には壁に取り付けられた燭台があり、ドアとそのドアに取り付けられたプレートには【事務室】という文字が刻まれている。 霊夢にはその文字は当然読めないのではあるが、きっと学院の教師辺りが寝泊まりしているに違いないと直感した。 すぐさま霊夢は、そのドアへ近づこうとしたのだがその前にドアノブが回り、油の切れたような音をたててドアが開いた。 ドアが開いた先に佇んでいたのは…マントを外し、何も入っていない花瓶を右手に持ったミセス・シュヴルーズであった。 シュヴルーズは顔を真っ直ぐ地面を向けており、彼女の真正面にいる霊夢にその表情を見せはしない。 霊夢は一瞬誰かと疑問に思ったが、とりあえずここの教師だろうと判断して声を掛けた。 「ねぇ、アンタ学院の教師でしょう?さっきここからものすごい音が……!?」 言い終わる前に霊夢は、突如顔を上げた教師の゛顔゛を見て不覚にも言葉を失ってしまった。 しかし、今のミセス・シュヴルーズの゛顔゛を見れば誰もが驚愕するに違いないであろう。 いつも生徒達からは「優しいシュヴルーズ先生」と言われ、慕われているミセス・シュヴルーズ。 その彼女のふくよかな顔についている両目に覆い被さるかのように、アイマスクのような得体の知れない物体が貼り付いていた。 例えるならば「色鮮やかなはんぺん」というのがしっくり来るのであろうか。 はんぺん程の大きさもある薄い虹色の物体がミセス・シュヴルーズの目に貼り付いているのだ。 更にその物体はナメクジが地面を這うかのようにゆっくりと動いており、見る者に吐き気を催させる。 霊夢は吐き気とまではいかなかったものの、その場で体を硬直させてしまった。 それを隙ありと見てか、シュヴルーズ『らしきモノ』は右手に持っていた花瓶を振り上げた。 それに気づいた霊夢がしまったと言わんばかりの表情を浮かべた瞬間、無情にも花瓶は霊夢の頭に向けて振り下ろされる。 しかし黙ってやられる霊夢ではなく、持ち前の運動神経で振り下ろされた花瓶を両手で受け止めた。 あと一歩というところで止められたが、シュヴルーズ『らしきモノ』は振り下ろした花瓶をもう一度振り上げる。 霊夢はすかさず、シュヴルーズ『らしきモノ』の右手首を手刀で打った。 無駄のない動きで繰り出された手刀おかげで、シュヴルーズ『らしきモノ』の右手から花瓶を手放す事ができた。 床に落ちた花瓶は陶器が割れるかのような音と無数の破片を床一面にまき散らす。 武器を失ったシュヴルーズ『らしきモノ』は一瞬だけ動きが止めたが、それが命取りとなった。 「ハァッ!」 覇気のある声と共に、霊夢は鋭い回し蹴りをシュヴルーズ『らしきモノ』の顔…否。 正確にはシュヴルーズの『目にはり付いている物体』へお見舞いした。 グチャ!……ベチョン! 鋭い蹴りは見事その物体をシュヴルーズの顔から取り除く事が出来た。 無理矢理はぎ取られた物体は、生理的に嫌な音を立てて今度は地面に貼り付く。 そしてそれから数秒も経たないうちに、はんぺんを彷彿とさせる平べったくて丸い形から素早くその姿を変えていく。 グニョン…グニョン…と嫌な音を立てながら変貌したその姿は、ナメクジそのものである。 しかし、その見た目は見る者が恐怖を覚えるほどグロテスクなものであった。 赤から黒へ、黒から黄色へと…その体色は目まぐるしく変化していく。 ときにははんぺんの時と同じような虹色から数十色もの絵の具をバケツに入れてかき混ぜたような色まで… そんな風に忙しく色を変えながら、ドクンドクンと体を震わせる。 常人ならばまず、その不気味さに全身の毛が逆立つほどであった。 しかし霊夢は、その生物に対し毛が逆立つどころか僅かな怒りを露わにして言った。 「気持ち悪いヤツね…さっさと死んでちょうだい」 すぐさま懐から一枚の小さなお札をとりだし、サイケデリックなナメクジに投げつける。 手を近づけたくない不気味なナメクジの体にそのお札が貼り付いた瞬間、ポッ…とお札に小さな火がついた。 だがそれも一瞬のことで、あっというまにその火は大きくなってナメクジの体を包み込んだ。 その身を炎に包まれたナメクジは体全体を無茶苦茶に振り回しつつ、消滅していった。 僅か数秒の出来事の後に残ったのは、元はお札だった小さな灰の山だけでナメクジがいた痕跡は全くない。 見ていて不愉快になる存在がいなくなったのを確認した霊夢は小さな溜め息をついた。 「ホント…この世界の生き物はよく私に絡んでくるわね。人間も含めて…」 イヤミにも聞こえるかのような事を呟いた後、床に倒れているシュヴルーズへと視線を向けた。 あの変なナメクジに寄生されていた彼女は何事も無かったのかの様に、幸せそうな表情を浮かべて寝ている。 それを見た霊夢は放っておいても大丈夫ね。と心の中で呟いてドアが開いたままの事務室へと入った。 夜の事務室には、生徒が寮塔を抜け出さないように二人の教師が部屋の中にいる。 しかし…今日に限ってその部屋には誰もおらず、代わりに凄惨な光景が広がっていた。 部屋に置いてある二つのベッドの内ひとつは、無惨にも切り裂かれている。 教師達が夜遅くに書類仕事をする為の机は横倒しになっていて、高そうな椅子は徹底的に破壊されていた。 そして綺麗なフローリングの床には、水とも血とも言えない不気味な液体が付着している。 霊夢は部屋の中を見て目を細めた後、一歩ずつ足を進めて部屋の奥へと進んでゆく。 (さっきの悲鳴が聞こえてすぐにここへ来たというのに…よほど気が立っていたのかしら?) 心の中でそんなことを思いつつ、霊夢は前方にある窓の方へと歩み寄っていく。 開きっぱなしの窓はキィキィと音を立てて風に揺られており、恐怖をあおり立てている。 だがありとあらゆる怪異に立ち向かう博麗の巫女には、そんなもの等こけおどしにすらならない。 それでも用心に用心を重ね、深い闇に覆われた外が見える窓の方へとゆっくり近づいていく。 段々と近づくたびに窓を通して入ってくる生ぬるいのか冷たいのかわからない風が、霊夢の顔と黒髪を撫でる。 この部屋全体を包む得体の知れない恐怖よりもその風に鬱陶しさを覚えつつも、霊夢はゆっくりと窓から顔を出して外の様子を探る。 今夜は月が隠れているということもあってか、一メイル先の視界は闇に閉ざされてしまっている。 窓から顔を出して外の様子を確認していた霊夢は一回だけ頷くと、勢いよく開きっぱなしの窓を出口にして外へと飛び出した。 ガサッ…と靴が芝生に触れる音を出して外に出た霊夢は、目を瞑ってこの付近一帯の気配を探り始める。 (思った通りね…今朝の化けものと同じような気配の持ち主がここの何処かにいる…!) 予想していた通りの気配を察知できた霊夢は、次にその気配の持ち主が何処にいるのか探り始める。 それから数十秒後。パッと目を開けると、スッとある方角へと顔を向けた。 顔を向けた先に何があるのかある程度知っていた霊夢は、目を細める。 (場所からして、明らかに誘ってるわね…。かといって放っておけば何をしでかすかわからないわ…) 全く面倒なことになったわね。と呟いた後、霊夢は大きな溜め息をついた。 「結局、何処にいても博麗霊夢のすることは同じってコトなのね…ハァ」 溜め息の後に呟いた皮肉めいた言葉に、霊夢はやれやれと言いたげ表情を浮かべてまたも溜め息をついた。 結局、どんな所にいても自分は人の命を脅かす化けものを退治するしかない宿命にあるのだ。 今更悩んでも仕方ないのだが、こうも頻繁にこういうコトがあると頭を痛ませる要因となってしまう。 しかしこのまま悩んでいても勝てる相手には勝てないと知っている霊夢はすぐにその気持ちを切り替える。 (でもすぐに済ませれば早く寝れるし、さっさと片づけますか…) 頭を軽く振った後、キッと目を細めると背中に担いでいた御幣を左手で勢いよく引き抜いた。 シャラララン、と御幣の先端に付いた薄い銀板で作られた紙垂がハンドベルとよく似た綺麗な音を鳴らす。 黒一色に塗られた御幣の本体は長く、もしもの時には槍のような武器としても役に立ってくれるであろう。 次に右手でお札を何枚か握った霊夢はフワッと体を浮かばせると、そのまま闇の中へと向かって飛んでいった。 飛んでいった先にあるのは、先程顔を向けた方角にある衛士の宿舎であった。 霊夢が暗闇の中へと消えていって一分くらいした後、一人の少女が事務室へと入ってきた。 少女は部屋の凄惨な光景に一瞬足を止めたものの、すぐに何事もなかったかのように歩いて窓の方へと近づく。 先程、霊夢が出入り口として使用した窓から外の様子を覗いた後、ずれていた眼鏡を右の人差し指でクイッと持ち上げた。 「……見失った」 少女――タバサはそれだけ言うと踵をかえし、事務室を後にした。 ◆ 場所は変わって、ルイズの部屋―――― 霊夢とタバサが部屋を出てから僅か数分後… 開きっぱなしの窓から入ってくる冷たい夜風で起きることなく、魔理沙とルイズは熟眠している。 いつもならば朝まで寝ているのだろうが、今夜に限ってそうはいかなかった。 突如、灯りのない暗い部屋の隅からボゥ…と黒い人影が現れたのだ。 そいつは自らが出てきた部屋の隅から音もなくルイズ達の寝ているベッドの傍へと移動する。 起きている者がいれば幽霊が出たと叫ぶであろうが、生憎そんな者はいない。 ベッドの傍へと近づいた人影は自身の懐をゴソゴソと漁り、小さな人形を取りだした。 次いで、手のひらサイズの人形の背中に付いているゼンマイをゆっくりと巻き始める。 キリキリキリ…キリキリキリ…と独特の音が静寂と闇に包まれた部屋の中に木霊する。 やがて十回近く回したところで人影は手を止め、人形をルイズの傍へと置いた。 人影の手から離れた直後、人形はルイズの方へトコトコと歩き始める。 既に深い眠りに落ちているルイズはそれに気づくこともなく、とうとう人形はルイズのすぐ目の前にまで来た。 そこで人形は急に動きを止めると、突然腕を上下に動かしながら人間でいう口の部分からこんな音声を発した。 『つるぺたって言うなぁー…!』 一体何処の誰から取った声かは知らないが、あまりにも悲惨な叫び声である。 そんなある種の女性に対して悲壮感を漂よわせる叫び声が、ルイズの耳に容赦なく入っていく。 「うぅ…ぅ…」 最初の方こそ悪夢にうなされるかのように悶えていたが、段々とその意識は覚醒していく。 何せ自分が今一番気にしている事を耳元で寝ている最中に呟かれているのだ、たまったものじゃない。 そして人形が動き始めてから数十秒が経った頃、遂にルイズは声の主に対して反逆を始めようとしていた… 「うぅ…だれが…だれが…――― 誰 が ツ ル ペ タ よ ぉ ! !」 思いっきり両目を見開いた大声でそう叫ぶと、枕元に置いていた杖を手にとった。 無論杖の先を向ける相手は自分の耳元で自分のコンプレックスの元を呟く相手である。 しかし、その相手があまりにも小さくしかも人間ではなかったということに気づいたのには、数秒ほどの時間を要した。 最初は部屋が暗くて良くわからなかったものの、目が部屋の暗さに慣れるとそれが人形だということに気が付いた。 「なによ…コレ。人形?」 意外な犯人の正体にルイズは何回か瞬きをした後、その人形を手にとってマジマジと見つめた。 その瞬間、ふと目の前でバッと何かが光り輝いてルイズの姿を照らし出す。 突然のことにルイズは呻き声を上げる暇もなく目を瞑ると、何処かで聞いたことのある声が聞こえてきた。 「こんばんはルイズ・フランソワーズ。良い夜をお楽しみかしら」 まるで世界の理を知り尽くした賢者ですら弄んでしまうかのような麗しき美少女の声。 ルイズはすぐにその声の主が誰なのか直感し、目を瞑りながらその名前を呼んだ。 「一体こんな時間に何の用なのよ…ヤクモユカリ!」 まるで彼女がその名を呼ぶのを待っていたかのように、光はフッと消える。 ルイズが恐る恐る目を開けてると案の定、目の前にはドア側の椅子に腰掛けている八雲紫がいた。 彼女は最初に会ったときに来ていた白い導師服ではなく、紫色のドレスを身につけている。 まるで自分のイメージカラーだとでも主張するかのように、そのドレスは彼女にとっても似合っていた。 しかし、寝ている最中に嫌な起こし方をされたルイズはドレスなど眼中になく、この無礼な相手に対してどう落とし前をつけようか考えていた。 「熟眠している貴族を無理矢理起こすなんて、無礼にも程があるわよ…」 「御免あそばせ。でも私たち妖怪にとって、夜というのは人間でいう朝を意味しますのよ?」 起きたばかりのルイズは今の自分に出せる少しだけドスの利いた声でそう言ったが、紫には全く効いていない。 それどころか必死に睨み付けてくるルイズを、まるで可愛い仕草をする子猫を見つめるかのような目で見ていた。 人を夜中に起こしてニヤニヤと笑みを向けてくる紫に、ルイズは前に霊夢が言っていた言葉を思い出した。 ―――コイツ相手にムキになっても意味ないわよ (霊夢の言う通りね…まるで笑顔を浮かべた人形相手に怒鳴ってる感じがするわ…) 「はぁ…で、人を夜中に起こすほどの用事って何なのかしら?」 生きている相手に対してどうかと思う例えを心の中で呟いた後、ルイズは溜め息をつきながら話し掛けた。 どうせなら話し掛ける前に爆発の一つでもお見舞いしてやりたいところだが、結局はしないことにした。 こんな夜中に爆発を起こしたら他の生徒から翌朝嫌な目で見られるし、第一人の皮を被ったこの化けもの相手に正攻法が通じるとは思えない。 つまりルイズは、無意識的に八雲紫という境界の妖怪に対してある種の恐怖心を抱いていたのである。 「…無断で借りていた物を返しに来たのと、ちょっとした話をしにきたわ」 無断で借りていた物ですって?ルイズはその言葉にピクンと体を震わせて反応した。 貴族とかそういう物を抜きにして、人の物を何も言わずに持っていくとは何事だろうか。 いくら人よりも上をいく存在だからといって、少し厚かましいのではないか。 ルイズは心の中でそう思ったが、それを口に出す前に紫が頭を下げた。 「まぁ借り物の件についてはちょっと忙しくて言うのを忘れていたのよ。ごめんなさいね」 「え…?あ、あぁ…まぁ謝る気があるのなら別にいいわよ…」 絶対他人に頭を下げることはしないような相手に頭を下げられて、流石のルイズもあっさりと許してしまう。 まぁ寝起きということもあってか、ルイズもそれ以上追求することはなかった。 「ふわぁ~…で、借りた物って何のよ?それが気になるんだけど」 欠伸をしつつもルイズは、そんなことを紫に聞いてみた。 ルイズの記憶では、自分が記憶している持ち物は大抵この部屋に今も置いている筈だ。 一体いつ紫は勝手に持っていったのであろうか。 そこが気になっていたものの、一方の紫はルイズの質問に対して紫は目を丸くした。 「あらら…その様子だとどうやら忘れちゃってるようね…」 よよよ…と紫は泣き真似をしつつも左手の甲で口元を隠して微笑んだ。 その態度にルイズはムッとしたのだが、またも霊夢の言葉を思い出して怒りを堪える。 「一体何を持っていったのよアンタは…?でも…とりあえずは返してくれるんでしょう」 「えぇ。…でもそれは後でも出来るからまずは話の方を済ませちゃいましょう?」 ルイズの言葉に紫はそう答えた後、パチン!…と指を景気よく鳴らした。その瞬間… 「さぁ、話を始めましょうか」 ベッドの上にいたルイズは一瞬にして―― 「……!?」 ――ベッド側の椅子に座らされていた。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8002.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん ルイズが目を覚ました頃、トリスタニアの各所にある衛士隊の詰め所の内一つでは、 一人の女性隊員が一枚の書類を握りしめてこの詰め所の隊長に詰め寄っていた。 「どうしてそうなったのですか!?」 女性とは思えないほどの力で自分の机を叩いたアニエスの顔には、悔しさが滲み出ていた。 普段の彼女ならば絶対他者に見せはしないその表情に周りにいた隊員達は目を丸くする。 怒りで震えている彼女の手の中には一枚の書類が握りしめられており、指の間からとある一文が垣間見えた。 『遺体、遺留品は一時王宮に保管し、以後許可があるまで事件の捜査をしないよう』 その一文は、彼女をここまで憤慨させるのにもってこいであった。 手紙全体の内容を、簡単に言えば『今後、この事件の捜査をするな』というものであった。 勿論それには、神聖アルビオン共和国との動向が気になる今の時期に騒ぐのは不味い。という理由がある。 しかしそのような返事をよこしてきた王宮に、アニエスは納得がいかなかった。 「ノロノロとした対応しか出来ない連中に横やりを入れられることなど、我慢できません!」 気迫迫る表情で詰め寄ってくるアニエスに、隊長は困った表情で何とか彼女を落ち着かせようとした。 「落ち着けアニエス。気持ちはわかるが王宮からの命令だ。逆らえばクビになってしまうぞ?」 落ち着いた表情の隊長にそう言われても、アニエスは尚も悔しそうな顔をしている。 それは昨日の真夜中にまで時は遡る。 事件のあったホテルでの現場検証は衛士隊の方で済ませ、遺留品と内通者の遺体を詰め所に搬送した後の事であった。 遺体を臨時的に作られた死体置き場へと運び終えて皆が一段落していた時、彼らはやって来た。 「何だ何だ?我々が急いで駆けつけて来たというのに貴様ら平民は仕事をサボって休んでいたのか」 厚かましい言葉と共に詰め所へ入ってきたのは魔法衛士隊の内一つ、ヒポグリフ隊の隊長であった。 本来なら宮廷と王族の警護を司る彼らが来たという事は、恐らく王宮が派遣してきた応援であろう。 (応援にしては遅すぎるうえに何の事前連絡もないとは…) 心の中でアニエスが訝しんでいるのを余所に、衛士隊の隊長はヒポグリフ隊の隊長に敬礼をした。 「わざわざ王宮からのご足労。大変感謝致します!」 並の貴族ならばその動きだけで満足するであろう敬礼に対して、ヒポグリフ隊隊長の返事は余りにも冷たかった。 「フン、本来ならば敬礼ではなく頭を下げるべきだが…まぁ事が事ゆえ、許してやろう」 あからさまな言動に周りにいた衛士隊隊員達は怪訝な表情を浮かべたが、隊長は眉一つ動かなかった。 既にここで働き始めてから数十年年ばかり経つためか、この様な相手とのやり取りなど慣れてしまったのである。 短い話し合いの後、死体置き場の遺体と遺留品は、ヒポグリフ隊の者達によって王宮に運ばれる事となった。 本来ならばアカデミーに運ばれる筈なのだが、ひとまずはここより安全な場所で保管するというとのことらしい。 ヒポグリフ隊とのやり取りを離れたところから聞いていたミシェルは、隣にいたアニエスに怪訝な表情を浮かべて言った。 「下手に動かすより、ここに置いておけばいいんじゃないでしょうか?」 「そういうなミシェル。王宮の連中はああいう面倒事が名誉と金とワインの次に大好きなんだよ」 ミシェルの言葉に対して、アニエスは皮肉という名のスパイスをタップリ込めてそう言った。 その後、王宮から追って連絡があるとだけ言い、ヒポグリフ隊は去っていった。 遺体と遺留品を、何の印も刻まれていない黒塗りの馬車へとつぎ込んで… それから暫くして、今から一時間前―――― 詰め所の入り口でビスケットをほおばっていたアニエスがその連絡を受け取った。 伝書鳩が持ってきたそれは、今の憤慨している彼女を作りだしたのである。 「―――…クソッ、納得いかん」 結局隊長に言いくるめられて退室し、二階の廊下へと出たアニエスの第一声がそれであった。 むしゃくしゃして傍にあったイスを蹴り飛ばすと髪をくしゃくしゃと掻きむしりながら、すぐ傍にあった窓を開けた。 窓から入ってくる肌寒いトリステインの空気が熱くなっていた彼女の心を冷まし、冷静にしてくれる。 外の風に当たってある程度気持ちが落ち着いたのか、ここから見える外の景色は中々良い物だと気が付いた。 太陽がまだほんの少ししか顔を出していない所為か、トリスタニアの町並みはうっすらとしかわからない。 まるで街全体が幻であるかのように、その正体を見せてはくれないのである。 その時、ふとアニエスは思った。 この時間帯のトリスタニアは何処か…別世界に存在しているのでは無いのか、と。 ハルケギニアとは何処か別の世界、…゛異世界゛に移転してるのかもしれないのでは… 「そんなわけないか…ハハっ」 そんな風にして一人笑っている彼女の耳に、可愛いらしい鳴き声が入ってきた。 何処からか聞こえてくる小鳥のさえずりに気が付いたアニエスは、ぽつりと呟く。 「小鳥の囀りと共に…朝が訪れ、人は新しい一日を謳歌する――か」 以前立ち寄った本屋で見つけた小説の一文を、彼女は口にしていた。 小説自体は特に思い入れは無かったが、その一文だけは彼女の頭の中に刻み込まれている。 それが何故なのかは彼女にも判らないし、それを知らない他人はもっと知らない。 ただ、その一文は正に…この街の今の時間帯を示しているのかも知れないと、アニエスは思った。 しかし――そんな彼女の頭の中に記憶という名の映像がノイズ交じりに映し出された。 それは今のアニエスを作りだしたとも言える程、衝撃的な内容であった。 忘れもしない二十年前の記憶を思い出し、アニエスの顔がすぐさま険しくなっていく。 「だが…二十年前のあの日からずっと、私の心の中に朝が来てはいない」 ――そう、死ぬ前にすべきことを全てするまでは…私にとって本当の朝は訪れないのだ その瞳に穏やかとも言える静かな殺気を浮かべながら、アニエスは心の中で呟いた…。 ◆ それから時間が経ち、午前9時45分―――トリステイン魔法学院。 朝食も終わり、生徒達は自らの使い魔を連れて授業が行われる場所へと足を運んでいる時間である。 猫や犬といった普通の生物、又は幻獣の子供は主である生徒達の後をついていく。 ここだけではなく、ハルケギニアのあちこちにある魔法学校でよく見られる光景の内一つである。 誰もいない女子寮塔にあるルイズの部屋で、掃除をしている一人の少女がいる。 この学院では割と珍しい黒髪に奇抜なデザインの紅白服を着ている霊夢であった。 「ふぅ…とりあえず掃除はこれぐらいで言いわね」 テーブルを拭いた雑巾を水を張ったバケツの中に入れた霊夢は一人呟いた。 そして手元にあったタオルで手を拭くとイスに腰掛けると一息つき、部屋を見回す。 しばらくご無沙汰だった為か、掃除をする前は部屋の隅に埃がうっすらと積もっていたのだ。 まぁアルビオンへ行ったり幻想郷に戻って掃除する暇もなかったので仕方ないが。 そして掃除をしてみれば部屋の中は小綺麗になり、何処かさっぱりとしていた雰囲気も取り戻した。 たった一点を除いて…。 「さてと、あれは本人にやらせた方が良いわね…」 霊夢は怠そうな目でそう言いながら、部屋の一角に放置された本の山へと視線を向けた。 ベッドに寄り添うかのように放置された数十冊の本は全てこの世界の文字ではなく、所謂英字である。 英語だけではなく、霊夢でも読める日本語や難しいヨーロッパ系の文字の本もあった。 実はこの本の山、全て魔理沙が幻想郷から持ってきたものなのだ。 魔理沙か愛読用にと持ってきたもので、きっとアリスやパチュリーから借りてきた本も入っているだろう。 まだ彼女の家と比べればマジではあるが、数十冊の本の山というのは掃除の時には邪魔な存在だ。 少なくとも霊夢はそう思っているし、出来るのであれば窓から全部放り捨てたいという気持ちもあった。 しかし、それを実行する程魔理沙とは犬猿の仲でもないし何より全部捨てるとなると骨が折れる。 どうしようかと思って考えた結果、出された結論は…本人に任せるということに至った。 「しかし、まさかあんな作り話でうまくいくとは思ってなかったわ…」 掃除道具を片づけた霊夢は再びイスに腰掛けると、ふと昨日の事を思い出し始めた。 ☆ 霊夢の言う゛あんな作り話゛とは、昨日の昼食の際に学院長であるオスマンの話であった。 昼食の前に行われた話し合いの最後に、オスマンは魔理沙に対してここに長居できるようなんとかしてみると言っていた。 それが一体何なのか、魔理沙ですらわからぬまま時間が経ち、昼食の時間となった。 そして生徒達がいざ食べ始めんとした時、その前にオスマンの話があった。 「諸君、昼餐の前に少し紹介しておきたい人物がおる」 学院長の口から放たれたその言葉に、食堂の中がざわざわと少しだけやかましくなった。 喧騒に包まれる前にオスマンが声を大きくして「静かに」とだけ言うと、すぐさま誰も騒がなくなってしまう。 オスマンはそれを見て満足そうに頷くと、話を再開する。 「見とる者は昨日から見ておると思うが、この学院に白黒の服を着た金髪の少女がいるのを皆は知ってるかね?」 そう言いながらもあるオスマンはある一点を指さし、多くの生徒達が指さした方へと視線を向ける。 オスマンの指さした場所は食堂の出入り口付近に設けられた休憩場。 つまるところ、今食事を食べている霊夢と魔理沙に多くの視線が注がれる形となった。 「おい霊夢、なんであいつ等はあの爺さんが指さしたぐらいで私たちをジロジロ見るんだ?」 魔理沙は先程淹れてもらった紅茶を飲みつつ、隣にいる紅白巫女にそんな事を聞いてみた。 霊夢はこちらに向けられている視線に動じず、隣にいる白黒魔法使いにこう言った。 「きっと自分で考える力があまり無いんじゃないのかしら」 「お前、時々でも良いから自分の言葉に責任感を持ってみたらどうだ?」 ルイズに聞かれていたら間違いなく部屋から追い出されるであろう言葉を、霊夢は難なく言い放った。 その後、オスマンが魔理沙の名前を紹介した後、こんな事を説明し始めた。 なんとオスマンは、魔理沙がずっと以前にミス・ヴァリエールをとある窮地から救った旅人なのだと紹介した。 それを聞いてルイズは目を見開き、魔理沙は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。 他の生徒や教師達もそれを聞いて驚き、魔理沙に注がれる視線が段々と強くなっていく。 霊夢だけは作り話でくるとは…と内心で呟きつつも、オスマンの話を黙って聞いていた。 そしてつい先日、ルイズは彼女と街で再会を果たし、恩を返したい。…と言ったらしい。 そこで魔理沙は…しばらくこの国に長居したいのだが、不幸にも宿に泊まる程の金が無い。…と言ったらしい。 ルイズはそれを聞き、「じゃあ魔法学院にある私の部屋にご招待致しますわ」と言ったらしい。 「じゃから、これからしばらくはミス・マリサはこの学院に滞在することになる。 末女とはいえ、彼女はヴァリエール家の客人じゃ。決して揉め事など起こさんように。以上」 オスマンの話が終わり、ようやく昼食が始まった。 一足先に食べていた魔理沙は、嬉しそうな表情を浮かべてこんな事を言った。 「嬉しいぜ。この世界だと私が良心的な人物に見えるんだな」 「私はアンタが善人になるこの世界に危機感を持つよ」 そんな魔理沙に対してさりげなく霊夢は言った。 ☆ 昨日の事を思い出し終えた霊夢は腰を上げ、部屋を見回した。 「さてと、これからどうしようかしらね…時間もあるしお茶でも飲もうかしら」 部屋の中にあるポットの方へと目をやり、とりあえずはお茶の準備を始めることにした。 そして茶葉などが入っている棚を開けると、少し大きめの瓶を手に取った。 この前アルビオンに行った際、ルイズを助けたお礼にとやけに良心的なお姫様から貰った茶葉である。 「市内では出回らない物だって聞いたけど、本当なのかしらね…」 まるで自分のことのように自慢していたアンリエッタの顔を思い出し、霊夢は呟く。 先日ルイズや魔理沙と共に街を訪れたときにこれとよく似た形の瓶を見ていた今の霊夢には彼女の言葉が今一度信用できなくなっていた。 幻想郷の人里でもそういう商法があると聞いた事があるが、この世界と比べれば可愛い方であろう。 「幻想郷には縄跳びの在りかを示した地図なんて売ってないしね」 ふとずいぶん前の事を思い出し、苦虫を踏んだかのような表情を浮かべたその瞬間――― ―――ギャァアッ…! 開きっぱなしの窓の外から、小さな悲鳴が聞こえてきたのである。 「?…今の悲鳴は何かしら」 運良くそれを耳にした霊夢は何かと思って窓の方へと近づき、とりあえずは下の様子を窺った。 窓の外から見下ろす広場はいつもと変わらず、むしろ人がいない所為か静かな雰囲気が漂っている。 何処にもおかしなところは見受けられないし、悲鳴の主すら居ない。 貴族や平民に関係なく、常人ならばこの後は首を傾げて窓を閉めてしまうところだったであろう。 しかし、霊夢は感じていた―――初めて味わうタイプの気配を。 (何かしら、凄くイヤな…というよりもえげつないくらいの不快感は?) 今まで嫌な気配を放出する存在と幾多に渡り合ってきた霊夢ですら、それは初めて感じるものであった。 空間に例えるなら、そこはジメジメとしているうえに蒸し暑く、ナメクジやヒルといった軟体生物が活発に動き回っている。 男性でも近づくのを躊躇ってしまうような場所に例えられる程の不快感に対して、霊夢は大きな溜め息をついた。 「はぁ…どうしてこう、これからって時に良く邪魔が入るのかしらね」 ウンザリしたかのように言った後、手に持っていた茶瓶をテーブルに置いた。 そして久方ぶりに持つことになった御幣を左手に持つと、窓から勢いよく外へと飛び出す。 普通ならば重力に従って地面に真っ逆さまの筈だが、霊夢はそれに縛られず大空へと飛び上がった。 ひとまず霊夢は上昇し、学院中を見回せる程の高度に到着すると気配の元を探り始める。 目を鋭く光らせて精神集中し、すぐ真下にある学院から出てくる様々な気配の中から先程の不快感のみを探し出す。 妖怪退治と異変解決の専門家とも言える博麗の巫女にとって、それは呼吸と同じほど簡単なことであった。 「…… あっちの方からだわ」 そしてすぐさま何かを感じ、学院のすぐ外れにある庭園の方へと急行した。 ◆ そこは生徒達の散歩や風景画を描かせるために作られた比較的大きな庭園であった。 庭園の中央には池と噴水が設けられており池には小魚やカエル、サンショウウオといった水生生物が多数生息している。 時々庭の整備士が来るものの、この時間帯には人っ子一人此所を訪れない。 人前には決して出てこない野ウサギやリスたちは庭を駆け回り、噴水の水を飲む。 しかし、今日に限って彼らは姿を現さず、苦しそうな男の喘ぎ声が庭園の中に響いていた。 「はぁっ…!…はぁっ…!」 痩せた体を持つ男は自分の持っている力の全てを使って走っていた。 途中何度か転びそうになりながらも、焦点の合わない目で出入り口を必死に目指している。 しかし、完全に混乱した頭では庭園の中を無茶苦茶に走りまわる事しか出来なくなっていた。 いくら走っても出入り口にたどり着けず、男は噴水の近くでへたれ込むと、なりふり構わず大声を上げた。 「だ…誰か…誰かたすけてくれぇ…!」 張り裂けんばかりの怒声で叫んでも、この時間帯には誰もその叫び声に気づきはしない。 自分の怒声のみが空しく庭園に響くだけだと知った男は、地面を思いっきり叩いた。 そして頭を抱えて嗚咽にも聞こえるような呻き声を上げてブツブツと独り言を呟き始めた。 「畜生…ちくしょう!何なんだよありゃあ…!?あんなのがいるなんて聞いてなかったぞ…?」 男はそんな事を言いながら、自分のすぐ傍で起きた猟奇的なアクシデントを思い出した。 ※ この男はアルビオン大陸からやって来た…所謂旅行者と呼ばれる者だ。 だが旅行者というのは仮初めの姿であり、現アルビオン政府から密命を受けてこの国へやってきたのだ。 その任務は至って単純明快。首都トリスタニアにいる複数の貴族達からある書類を受け取ることである。 最初、男は旅行者らしく軽くトリスタニアの観光をしつつ、書類を回収していこうと計画していた。 しかしつい一昨日にその内の一人が死んだとう事を知り、回収を早めることにした。 そして記念すべき一人目と人のいないこの庭園で出会い、金貨のつまった袋と交換に書類を手早く頂く―――筈であった。 だが、意外と広い庭園の中を彷徨ってようやくそれらしい貴族の男と出会い、いざ書類を受け取ろうとした時… 聞こえてきたのだ。異形の顎から聞こえてくる、虫のような金切り声を… ※ ギ リ ギ リ ギ リ ギ ギ ギ ギ リリ リ…―――― 「―――――…ッ!?」 疲れた表情でその時のことを思い出していた男は、突如耳に入ってきたその音に目を見開いた。 そうだ、これが聞こえてきたのだ…あの恐ろしい虫の姿をした異形の声が。 男はスクッと立ち上がると同時に腰元へと手を伸ばし、杖を手に取ろうとした。 (……!つ、杖を落とした…!?) 腰にさしている筈の杖はそこに無く、男は驚愕のあまり腰の方へと視線を向けてしまう。 「ギリ…ギリギリ…ギギ…!」 その時であった…! 隙が出来るのを待っていたかのように、ソイツは草むらから飛び出してきたのである。 思わず男はそちらの方へ顔を向けてしまい、ソイツの全身を見る羽目になってしまった。 ソイツの姿は正に゛クワガタムシと人間の合成生物(キメラ)゛と言っても過言では無いだろう。 体は人間よりもクワガタに寄りだが、両手両脚は人間のそれとよく似ている。 そして頭はクワガタそのものであり、危なっかしい大きな顎をしきりに動かしている。 だが普通のクワガタと違い、顎の表面から水っぽい灰色の液体が絶えず流れ出ていた。 「ひ…、ヒィィィィィィ!!」 男は化け物の顎と、その顎から滴り落ちる液体を見て、悲鳴を上げた。 あの顎も武器であろうが、液体の方が男に恐怖を与えている。 男は頭の中で、この化け物を倒そうとして返り討ちにあった貴族の姿を思い出した。 (あの液体…あの液体を浴びたらあの貴族のように…) そんな男の心の内を探ったのか否か、クワガタのキメラはクワッ!と顎を開こうとしたその時… 「ハァッ!」 ふと上空から少女の声が聞こえてきたのである。 男が生まれてこの方聞いたことがない程、美しい声であった。 その声が聞こえた後、ヒュッと小さい紙が上空から飛んできてキメラの背中に貼り付いた。 キメラが自分の背中に何かが貼り付いたのに気づいた瞬間、突如背中で小さな爆発が起こった。 「ギッ!?ギギィ…!」 突然の攻撃にキメラは金切り声を上げて、体を激しく震わせた。 その瞬間を見逃さなかった男は、すぐさま踵を返すと全速力で何処へと走り去っていった。 目の前にいて、もうすぐ狩れる筈だった獲物が逃げるのに気づいたキメラはしかし、痛みにもがくことしか出来なかった。 甲虫特有の硬い背中は酷く焼け爛れており、その威力がどれ程のものか物語っている。 「全く、何かいると思ったら…まさかこんな化け物がいたとはね」 痛みに震えるキメラを上空から見下ろしている少女、霊夢は意外といった感じでそう呟いた。 「やっぱり、…こいつからあの気配を感じるわね」 再度確認するかのように呟き、霊夢は目を細めた。 今、彼女はあのキメラから感じているのだ。部屋の中では決して感じることが出来なかったその気配を。 ――――それは、恐ろしい程に無機質的な゛殺気゛ 人を殺すことに対して歓喜や怒り、憎しみ、悲しみ。 それらを一切感じさせない殺気は不気味を通り越し、不快感となって霊夢に伝わっているのだ。 「どっちにしろ倒すけど。なんだか気色悪い奴ねぇ―――…っと!」 霊夢は気味悪そうに呟きつつも、右手に持っているお札をキメラに向かって勢いよく投げつけた。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/8998.html
前ページ次ページルイズと無重力巫女さん 閉じられていた記憶の奥深くから゛何か゛が這い出てこようとしている。 それはまるで、巨大な人食いミミズが獲物を求めて出てくるように、おぞましい゛恐怖゛を伴ってやってくる。 何故こんな時にそんな事が起こるのかは知らないが、予想だにしていなかった事に彼女はその体を止めてしまう。 自分が誰なのか知らない今でさえ大変だというのに、自分の体に起った異変に彼女が最初に感じたものは二つ。 前述した゛恐怖゛と―――――手の届きようがない゛不快感゛であった。 まるで無数のテントウムシが体の中を這い回っているかのような、吐き気を催すむず痒さ。 その虫たちが、何時か自分の体を滅茶苦茶に食いつぶすのではないかという終わりのない恐怖。 脳の奥深くからせり上がってくる゛何か゛に対し、最悪とも言える二重の気持ちを抱いている。 彼女は焦った。此処が戦いの場でないなら受け入れるしかないが、今の状況だと非常に不味い。 ただでさえ自分の身が危ないというのに、一時的に戦えない体になればやられるのは絶対だ。 やめろ、思い出したくない。突然すぎる記憶の氾濫を拒絶するかのように、彼女は赤の混じる黒目を見開く。 戦いの最中である為下手に体勢を崩すどころか、自分の頭を抱える事すらできない。 自分の名前すらも知らないはずなのに、何でこんな事が起こるのか?それが全く分からない。 腰を低くし、風に拭い去られた煙の先にいた霊夢と――その傍にいたルイズという少女を見ただけだというのに… 「なぁおい…あいつ、何かおかしくないか?」 少し離れた所から聞こえる誰かの声が、必要も無いのに耳へ入ってくる。 しかし言葉自体は的中している。今の彼女は確実におかしい―――否、おかしくなり始めていた。 何も知らないはずの自分の記憶という名の海底から、得体の知れぬ゛何か゛が物凄い速度で水面から顔を出そうとしている。 それに対し何の手だても打てず、ナイフを手にしたままその場を動くことすらできない。 歯痒さと不快感だけが頭の中を掻きまわし、彼女に゛何か゛を思い出させようとしている。 もはや体勢を維持することもできず、その場に崩れ落ちてしまうのではないかという不安が脳裏を過った瞬間――― ――…貴女―…過ぎ…――…ハクレイ… 頭の中に、何処かで見知ったであろう女性の声が響き渡った。 所々で途切れているが、初めて耳にする声とは到底思えないと彼女は感じた。 ずっと昔に、ここではない場所で知り合い離れ離れになってしまった親友とも言える存在。 あるいは互いに対立し合い、決着がつかぬまま勝手に行方をくらました好敵手なのか。 二つの内どちらかが正解なのだろうが、今の彼女にとってそれはエキュー銅貨一枚や一円玉よりも価値のない事である。 しかし…謎の声が最後に呟いた単語らしき言葉は何なのだろうかと、小さな疑問を感じた。 ハクレイ…ハクレイ…何故だろう、どこかで聞いたことのある言葉だ。 今まで聞いたことは無かったが決して初耳とは思えぬ単語に対し、彼女は心の中で首を傾げてしまう。 ――――……い…抗…うとも…貴…は…人間。霊…を…る…価…い… そんな事をしている間、またも女の声が聞こえてくる。 劣化したカセットテープに収録されたかのように、何を言っているのかすら分からない。 自分の身に降りかかる異常事態に彼女は冷静になれと自分自身を叱咤する。 何か伝えたいことがあるのだろうが分からなければ意味が無いし、何より声の主は誰なのかも良く知らない。 ひょっとするとこれは単なる幻聴で、自分は疲れているだけなんだ。未だに揉めている霊夢達を見つめながら、彼女は呟く。 一体何が起こっているのか分からないが、今するべき事はとっくの昔に知っている。 それを実行に移す為、グチャグチャに混ざった頭の中を整理するために深呼吸しようとした直前… 「アッ―――――――」 今までその姿を伏せていた恐怖と不快な゛何か゛が、スルリと彼女の中に゛戻ってきた゛のだ。 何時の頃からか脳の奥底に幽閉されていたソレは、自由を取り戻した言わんばかりに彼女の脳内を駆け巡る。 恐らく深呼吸しようとして力を少し抜かしたのが原因だったのだろうか。今となっては知る由も無い。 ただ、今の時点で断定できることはたったの一つ。 彼女は喪失していた自身の゛記憶の一部゛を…恐怖と不快で構成された゛何か゛としか形容できないソレを思い出したのである。 マヌケそうな声を小さく上げた彼女には、蘇った記憶に対抗する術を持っていない。 きっと彼女以外の者たちにも言える事だろうが、一度思い出した記憶は滅多に消える事はない。 そして、ここへ来てから最も嫌悪感を感じたそれ等が力を持ったのか、彼女の瞳に映る光景を塗り替えていく。 丁寧に描いた風景画を塗りつぶすようにして幾筋もの赤い光線が周囲を駆け巡り、古ぼけた旧市街地を染め上げていく。 彼女の目に映るソレはワインのような上品さなど見えず、ただ鉄の様な重々しさが乱暴に混ぜ込まれている。 この赤には情熱や闘志といった前向きな要素は無い。あるのは暴力的で生々しい陰惨な雰囲気だけが入っていた。 病気に苦しむ老人たちの集会場であった廃墟群が、そんな色であっという間に覆い隠されてしまう。 突如目の前の景色が変わってゆく事に対し、彼女は尚も動けずにいた。 いや、動こうとは思っていたが体がいう事を聞かず、あまつさえ先程まで何ともなかった眼球すら微動だにしない。 まるで拷問用の特殊な椅子に座らされたかのように、不可視の何かに体を縛られ見たくも無いモノを見せられている。 (な…何が始まろうとしているの…?) ナイフを手にしながらもそれをただ握りしめる事しかできない彼女は、唯一自由である心の中でそう思う。 そんな事をしている間にも目に映る世界は息つく暇もなく変化していく。 地平線の彼方へと沈もうとした太陽の姿がいつの間にか消えており、空が明かりを失っていた。 太古から夜空の明かりを務めてきた双月は未だその姿を出しておらず、代わりに見えるのはどこまでも広がる黒い闇。 地上の赤と決別するかのようにハッキリとしたその闇からは、ただただ不気味さだけが伝わってくる。 一体どれだけの黒いペンキを垂れ流せば、今の彼女が見ているほどの闇を表現できるのだろうか。 まぁ、深淵のように最果てすら見えぬ闇をペンキなどで再現する事は限りなく不可能であろう。 何故なら、この闇を見ている唯一の存在は目も体も動かぬ彼女だけなのだから。 そして彼女自身誰かに命令されようとも、この光景を再現する気はこれぽっちも無かった。 (一体何が起こっているの…?) 儚い黄昏時から怖ろしい程に単調な赤と黒へと変わりゆく世界の中で、彼女は一人戸惑う。 最も、普通のヒトならとっくの昔に錯乱していてもおかしくはないが。 とにかく今になって遅すぎる戸惑いを抱き始めた彼女には、この事態に対し打てる手など皆無に等しかった。 ―――……聞くけど…どう…して貴……と一緒に普通の……生を……ると…ったのか…ら? そんな彼女に追い討ちを掛けるかの如く、再び頭の中に女性の声が響く。 別にこれといった痛みも感じず、囁きかけるようにして自分に何かを離したがろうとする謎の――――…いや。 (違う…私は知っている、この声の持ち主は゛誰゛なのかを) そんな時であった。石の様に体が固まった彼女がそう思ったのは。 先程頭の中に入り込んだ記憶が何かを思い出させたのか、それとは別の原因があるのかは知らない。 ただ彼女にとって、声の゛主゛が自分にとって軽んじる程度の存在ではないと瞬時に理解していた。 ――――所…詮貴女は…の巫女。…この娘を立派な…に育て上げる事こそ…が今の貴女の… 再び聞こえてくる声は、最初の時と比べある程度聞き取りやすくなっていた。 しかし、ノイズ混じりのソレが鮮明になってゆくにつれて、彼女の脳内で再び゛何か゛が浮かび上がる。 まるで海底を泳いでいた人間が呼吸をする為に水面目指して泳ぐように、それはあまりにも急であった。 ただ、最初に感じた゛何か゛とは違い、それからは恐怖とかそういうモノは感じられない。 むしろその゛何か゛は、今の彼女のとってある種の救いを提供しに来たのである。 ―――――その娘は…逸材だというのに……普通の人と同じ…人生を歩ませ…なんて、宝……持…腐れ…… 赤と黒の世界に佇む彼女は、尚も頭の中で響く声にある感情を見せ始める。 それはおおよそ―――例え声だけだとしても、他人に向ける代物とは思えないどす黒い色をした感情。 ゲルマニアにある工業廃水と同じような色をしたソレを声だけの相手に浮かべる理由を、彼女は持っていた。 そう。最初に自分の頭の中を混乱に陥れようとしたソレとは違う、二度目の゛何か゛が教えてくれたのだ。 ゛全ての原因は、オマエの頭の中に響き渡る声の主にあるのだ―――゛…と。 自分の身に何が起こっているのかという事に関して、彼女が最初から知っている事は何一つ無い。 彼女はただ自身が誰なのかも知らず、自分自身に戸惑いながらここまで生き延びた。 気づけば森の中を何に追われ、小さな少女に介抱されたと思いきや、その子を抱えてまた逃げて… そうこうしている内に人気の多い場所へと足を踏み入れたと彼女は、自分とよく似た姿をした少女と遭遇した。 自分よりも感情的で、猫の様に一度掴めば狂ったように手足を振り回す彼女の名前は――――霊夢。 何故自分が;霊夢の名前を知っていて、瓜二つの姿をしているという事は勿論知らない。 最初に出会った時は明確な怒りをもって霊夢を殺そうとしていたが、今はもうその気にならない たが今になって自分がとんでもない勘違いをしていた事に、彼女は気づいていた。 自分の中に渦巻く怒りが「殺せ」と叫んでいたのは、霊夢の事ではなかったという事に。 名前も知らず、何処で生まれ、今まで何をしてきたのかも知れない彼女はその足を動かす。 先程まで地面と空気に縛られていた足がすんなりと動き、未だ口論を続ける霊夢とルイズへ突撃する。 そのついでに使う必要のないナイフを捨て、空いた右手で拳を作った彼女は、自分が倒すべき゛紫の色の影゛を見据える。 今まで見える事のなかったソレは、記憶の一部を取り戻した事により今ではハッキリと見える。 実体すら定かではないその゛存在゛は寄り添うようにして霊夢に纏わりつき、べったりと寄り添っている。 まるでその体に貼りついて生気を吸い取らんとしているかのように、ゆっくりと蠢いたりもしていた。 不思議とそれを目にすると何故か無性に腹立たしくなり、誰かを殴り倒したくなる程度の怒りも込み上げてくる。 自身の怒りが殺せと連呼していたのは、霊夢の事ではない。 彼女は今にして思い出した――――殺すべきなのは、霊夢の後ろに纏わりつくあの゛影゛だという事に。 さっきまで体に纏わせていた゛曖昧な殺意゛が゛明確な殺意゛に変異し、それを合図に彼女は霊夢に殴り掛かった。 否…正確には彼女―――――偽レイムだけにしか見える事のない゛紫色の影゛へと。 ◆ その攻撃は、場違いな口論をしていた二人にとって不意打ち過ぎた代物であった。 最も、ケンカすることを控えて警戒していれば回避できたという事は、言うまでもないが。 「っ…!?―――――――ワッ…!!」 やや泥沼化の様相を見えさせていたルイズとの会話の最中、偽レイムの方から濃厚な殺気が漂ってきた。 咄嗟にその方へと顔を向けた霊夢は、驚愕しつつも寸での所で相手の攻撃を回避する事ができたのである。 瞬間的に体を際メイル程後ろへずらした直後…相手の右拳が視界の右端から入り、左端へと消えていく。 「ちょっ――キャアッ!」 霊夢の隣にいたルイズは回避こそできなかったものの、偽レイムの攻撃を喰らう事は無かった。 その代わり、突撃してきた偽レイムにひるんでしまったのかその場で盛大な尻餅をついてしまう。 一方の偽レイムはそんなルイズに目もくれず、自分の一撃を回避した霊夢を睨んでいる。 霊夢と同じ赤みがかった黒い瞳は光り続け、それどころか先程と比べその輝きを一層増している。 まるでその目に映る相手が親の仇と言わんばかりに、彼女の両目を光り続けていた。 「人が話し合ってる最中に攻撃なんてね…私はそんな常識知らずじゃないんだけど?」 三メイル程度後ろへ下がった霊夢は、振りかぶった姿勢のままで停止した偽レイムの右手を一瞥する。 殺人的と言える速度を出したその拳に、既に汗で濡れている彼女の背筋に冷たい何かが走る。 それと同時に、偽レイムの体に纏わりついている気配が先程までのモノとは違う事に気づく。 最初に出会った時は、激昂していた霊夢とは違いやけに冷静な怒りに包まれていた彼女の偽者。 ところが、ルイズと口論した後のヤツは冷静さこそ失われてはいないものの、その怒りにハッキリとした゛殺意゛が含まれている。 まるで興奮していた切り裂き魔が、時間経過と共に落ち着きを取り戻し体勢を整えたかのように。 先程までの戦いやルイズに手を出そうとした時とは違い、今度はしっかりと自分の命だけを狙って殴り掛かってきた。 (何よコイツ…本気出すなら最初から出してきなさいっての) 今までとは打って変わって攻撃してくる偽者に毒づきつつ、本物は先程の攻撃を手短に分析する。 突然の奇襲となった相手の拳は結界を纏っていなかったものの、その威力事態は凄まじいのだとわかる。 もしも回避が一秒でも遅れていたら…と事すら考える暇もなく、霊夢はすぐに戦闘態勢を整える。 相手が襲ってきたのなら対応するしかないし、もとよりこの場で退治するつもりであったのだ。 (まぁ…色々とイレギュラーな存在が紛れ込んじゃったけど、今は目の前の敵に集中しないと駄目よね) 気持ちを瞬時に一新させた彼女は左手にもったナイフを握り締め、目の前にいる偽レイムと対峙する。 しかしその直後、襲ってくる直前まで隣にいたルイズか゛今どこにいるのか゛を知り、咄嗟の舌打ちが出てしまう。 (こういう時に限って、あぁいう邪魔なのがいるのはどうしてなのかしら…!) 今日は本当にツイてない。自分の身やその周りで起こる色々な出来事全てが悪い方向へ向いてしまう。 下手に動けばルイズが死ぬかもしれないという状況の中で、霊夢は動き出せずにいた。 一方尻餅をついてその場を動けないルイズは、目の前にいる偽レイムを見上げていた。 鳶色の瞳を見開かせた両の目には確かな恐怖が滲み出ており、僅かだが体も震え始めている。 魔理沙の首を絞め、霊夢が介入しなければ自分を絞殺していた存在がすぐ傍にいるのだ。恐怖しない方がおかしい。 先程までは強気になって魔法を放てたものの、今の状況では呪文を唱えるより相手が自分の頭を殴り飛ばす方が圧倒的に速い。 魔法に詳しい故に長所と短所も知っているルイズだからこそ、その手に持ったままの杖を振り上げる勇気が無かった。 「あ…あ…あぁ…」 ジワジワと心を侵していく緊張と恐怖のあまりに大きな声を出せず、ガラスで黒板を引っ掻いたような掠れ声だけが喉から出る。 本当なら今すぐにでも叫び声を上げて逃げ出したい――そう思いつつも彼女の体は動こうとしない。 彼女にとって突然過ぎた敵の攻撃と、今すぐ殺されるのではないかという恐怖という名の縄に締め付けられている。 しかしそれ以上に、胸中に刻み込まれた一つの言葉が今の彼女をこの場に押し留めていた。 脳内に響くそれを発言した者は、ここへ至る道中にルイズと魔理沙を止めようとした八雲紫である。 ―――――――――もし今後も怯えるだけなら、霊夢の傍につくような事はやめなさいな 相手を諭すように見せかけ、挑発とも言える人外の声は先程までのルイズに投げかけた一種の挑戦状。 霊夢を召喚した結果に起った異変を解決するにあたり、紫は今までの彼女では足手纏いと判断したのだ。 学院から離れた森の中でキメラに襲われた際、ルイズは戦うどころか杖を構えることなく臆している。 偉そうな事を言いつつも、いざとなれば年相応の子供となり、怯える事しかできない彼女の姿は大妖怪の目にはどんな風に見えたのだろう。 ともかくそれを「ドコで」見ていたのかは知らないが、霊夢にも感知できない「ドコか」で見て、その結論に至ったのかもしれない。 その言葉には、幻想郷で起きた異変を解決する為にも、今のところ必要なルイズの身にもしもの事が起きない為に、という配慮も見え隠れしている。 しかしルイズは、自分がこれ以上に霊夢達に守られるという事はなるべく避けたかったかったのである。 キッカケだけとはいえ、霊夢を召喚してしまった自分も原因の一端である事に間違いない異世界の危機。 ハルケギニアより小さいとはいえ、下手すれば返しきれない借りがある彼女達の居場所を奪ってしまうかもしれないのだ。 もはや戦いを傍観する側ではない。あの妖怪の前で宣言したルイズはなんとか勇気を振り絞って立ち上がろうとする。 (私だって…戦えるのよ!私を助けてくれたレイムやマリサみたいに) 紫の声が幻聴となって聞こえるなか、自らの恐怖と戦い始めたルイズは知らない。 時と場合によっては、その勇気が取り返しのつかない危機を生み出す原因なってしまう事を。 そして…戦いの場において恐怖に対し素直になるという選択肢も――――決して悪くないという事も。 前ページ次ページルイズと無重力巫女さん