約 1,661 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/221.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 日野8丁目の丘の上より(0011より東の方向)を望んだ写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/202.html
上大岡駅前商店街です。 未だ、歩道も完備していません。(ガ-ドレ-ルがあるだけです。) 「上大岡おみやげセンタ-」の入口(人がかがんでいる所)から、上大岡駅へ抜けられました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/125.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 木造校舎の配置が良く判ります。 手前に、プ-ルが出来る前の写真です。 昭和30年頃の撮影です。 0004、00041、の写真をご覧になって、比べて見て下さい。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/60.html
馬を洗った尼将軍 (上永谷) 上永谷と野庭の境のあたりで、「鎌倉下の道」と交差して、ひとつの川が流れています。 上流には滝があって、滝つぼは手頃な洗い場となっていて、旅人たちはここで馬を洗い、身じたくを整えて、鎌倉へ向かったことから、いつしか誰言うとはなく、この川を馬洗川とよぶようになリました。 あるとき、尼将軍北条政子が、源氏の祈願所である弘明寺などに参拝するため、ここを通りかかりました。 すると、そこで二人のりりしい若武者が、馬を洗っていました。 政子は、お供のものに声をかけました。「少しの休息を・・・」 そこにいる若武者たちを見て、亡き息子の頼家や実朝の姿を、重ね合わせに見たからです。 「むごい政治の争いから、あの時、子や孫たちを救う道はなかったものか」 と政子は思い悩んでいました。 政子は二人の若武者に、「気をつけて鎌倉へ参られよ」 と、やさしくことばをかけてそこを立ち去りました。 市女笠を深くかぶり、母親のつらさ、悲しさを、政子はすっぽりそこにおおっていました。 その後も尼将軍は、弘明寺参拝を幾年続けたことでしょう。 頼家、実朝の供養になればと、そのつど土地の人にいろいろな物をほどこしました。 男まさりと言われた尼将軍政子も、「鎌倉下の道」を通るときは、ひとりの母親の姿でしかなかつたのです。 いつしか、土地の人たちは、政子に厚い信頼をよせるようになっていました。 こうして、“馬洗川で馬を洗った”との話が、のちのちまでも伝えられるようになったのです。 橋については、あったのかなかったのか、いまだに“なぞ”です。 今も、馬洗橋の近くでは、北条政子の伝説や「鎌倉下の道」のおもかげが感じられます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/88.html
野庭の「関城」と周辺 (上大岡・野庭) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi/pub/nobanosekishiro.wma) 山をくずして谷を埋め,田畑をつぶして宅地とし,街ができました。上大岡の東一丁目にある高台を大塚山といい,大きな塚があったそうです。 この山は,または,「人見塚」といって,「鎌倉下の道」の餅井板や,上大岡駅前あたりの「かねさわ道」を通る人を見はる場所でもありました。 それに,ここは蒔田城と野庭にあった関城をつなぐ「狼煙台」の役目もしていました。 いまの野庭は,むかしは野場と書かれていました。ひろい草原で馬を飼育するのに適しているし,広大な大地は,鎌倉時代や後北条時代には,馬や武士を鍛練するのにたいへん良かったと思われます。 かつて,鎌倉幕府の侍所の別当である和田義盛は,野庭団地一帯に関城というお城をつくったとされています。 その本丸(お城の中心)は,野庭中央公園の高台付近にあったといわれています。 この関城は,「台地構え」という備えをしていて,迎陽トンネルへの道は,空堀のあとともいわれています。 そして,建保元年(1213)の和田合戦のとき,和田義盛に味方する武士たちが,この城にたてこもりました。 当時六十六歳であった義盛は,その一族と共に,鎌倉で討ち死にしましたが,その後でも関城にこもる人びとは,攻め寄せる北条軍に抵抗し,二十日間も持ちこたえて,壮絶な最期をとげたとの,言い伝えが上野庭にはあります。 その近く,上野庭の浄念寺にある「力石」は,「北条時宗の力石」とよばれています。 バーベルを持ち上げる,重量上げをするように,関城では鎌倉武士が力石をつかって,力だめしをやったのだと思います。 むかし,日野の若者が,この力石を持ち去ったことがありました。これを知った野庭の若者たちは,大さわぎをしで交渉に行き,もとの野庭にもどしたといわれています。 そこで,このような問題が再び起きないように,この「北条時宗の力石」は,浄念寺の境内にがっちりと保存されるようになりました。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/191.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 大正年代の古い校舎の前で撮った写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/226.html
年代 大正14年 皇室へ届ける繭を前にした記念写真です。 当時、上永谷周辺の谷戸には桑畑も多く、農家では養蚕を行っていました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/185.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 昭和4年に2階建て木造校舎(現在の校舎の前)の上棟式の際に撮った写真です。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/145.html
年代 昭和29年 桜岡小学校の2階建て木造校舎の全景写真です。 右下が上大岡駅でしょう、あふれんばかりの生徒がいました。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 43 11) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/9.html
@wikiにはいくつかの便利なプラグインがあります。 アーカイブ コメント ニュース 動画(Youtube) 編集履歴 関連ブログ これ以外のプラグインについては@wikiガイドをご覧ください = http //atwiki.jp/guide/