約 1,661 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/55.html
鎮魂の句碑 (笹下) 昭和も太平洋戦争直後のお話です。 笹下町の日下小学校前の道から大岡川の方へ下って行くと、古い曲田橋へ出ます。むかしを偲びながらこの橋を渡って行くと、成就院のお寺の山門が見えてきます。 むかし、間宮氏が築いたといわれる笹下陣屋の門を移したものと言われています。 この寺の名は「梅花山成就坊」(後に成就院)といいますが、梅の花と境内の美しさから、今まで呼ばれていた「曲田山」を「梅花山」と名を改めたということです。 この山門のすぐ脇に、この地域の方々の悲しくも美しいいわれのある句碑が建っています。 激しく戦われた戦争に、笹下の若者たちも戦場へ駆り出され、何人かの戦死者を出しました。 この地域の人たちは、勇敢に戦い、若い命を散らしたこの霊を慰め、永遠に戦争をなくし、平和を守ることを誓い、碑を建てました。 その気持ちが、この碑の形や碑文の表現ににじみ出ているのです。 戦後の当時は、進駐軍の占領下にあったため、日清、日露戦争や満洲事変後に各所に建てられたような忠魂碑を、自由に建てることができなかったのです。人々は知恵をしぼり、俳句の形で、戦死者の鎮魂の碑を建てることにしました。 そこで、横浜で有名な俳人大野林火に碑文をお願いしました。すると、意味深いこの碑文の句が詠まれ、送られてきました。 地域の人たちはこの立派な俳句によって、この気持ちを永遠に残すことにしたのです。 句碑は次のような句文です。 林 火 猛り鵙 松籟にいま 鎮まりぬ 秋が訪れ、鵙が大きな松の木の枝で、キキキッ、と甲高い声を張り上げて鳴いている。 秋風が松の枝をゆらし、音を奏でて吹き抜けて行く、鵙の高鳴きが静まった。 若き御霊よこの故郷の地に安らかに眠れ! 平和よ、永えに! 実はこんな深い意味を持つ句碑だったのですね。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/223.html
日野小学校古写真 昭和40年頃の撮影です。 鎌倉街道の日野小学校入口付近より清水橋方向を望んだ写真です。 左手が春日神社の森です。 未だ、横浜・横須賀(高速)道路が出来ていません。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/61.html
馬を洗った尼将軍 (上永谷) むかし、江戸時代の終りのころのお話です。 ある日、突然、浦賀沖に、アメリカの軍艦がやってきました。 日本人が、よその国へ行ったり、外国人が来たりしてはいけなかった時代でした。 港から離れていた村人たちは、のんびりと畑仕事をしていました。 子どもたちも、よく親の手伝いをしていましたが、暇をみつけては、野山をかけまわりうさぎを追いかけたり、木の上に登ったり、次から次へと遊びを考えだしては、仕事の合間に遊んでいました。 きょうも、小高い山の木のてっぺんに登って、はるか遠くをながめていた子どもたちが、竹づつをのぞくと、真黒い、みたこともない船が、丸い輪の中に現れたのでした。 びっくりした子どもたちは、それぞれ、すっとんで家に帰りましたが、家には誰もいません。じいちゃん、ばあちゃん、親たちまでが、庄屋の家の庭先に集まつて、ワイワイガヤガヤさわいでいたのです。 浦賀では、一日中半鐘が鳴っているとか、真黒い大きな船が煙りをはいては、ボー、ボーと大きな音をだしているというのです。 目をつりあげ、口をぎゅつと結んだ武士が、馬にむちをあてては、西へ東へ、血そうを変えながら走らせているとか、街道沿いの人たちは、家の中にかくれて、息をつめてなりゆきを見守っているとか、杉田村へ野菜を売りにいってきたじいさんが、まるで見てきたかのように、まくしたてていました。 金沢の小柴沖まで、黒船が入ってきていると聞くと、戦になるかも知れないと、おびえながらも、黒船を一目見ようと村人たちは、すっかり、お祭り気分になってしまいました。 「さあさあ、仕事さ、かたづけて、見にいくぞ!お前たちも、早よう、手伝えよー」 上大岡の真光寺の高台が、見晴らしも良く絶好の見物場所になったのでした。 一人、二人、また一人と、うわさをききつけた近隣の村人たちで、あれよ、あれよという間に、人だかりができました。 そのうち、おだんごや、お茶を売る者までが現れて、いっそうにぎやかになりました。黒船がいた八日間、この高台は、黒船見物の人々でにぎわったそうです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/67.html
ヌエが運んだ青木神社 (大久保) 上大岡、グリーン通り商店街の、裏手を流れる大岡川に、青木橋が架かっています。橋のたもとに建つ青木神社は、ヌエの宮とも、盗っ人の宮とも呼ばれる、不思議な神社です。 昔、青木神社は、いまの場所からもう少し川上の、西側の岸に建っていました。ある年のこと、大雨が降りました。降り続いた雨は、土砂くずれを起こし家も畑も押し流しました。 やっと雨がやんで、村人たちがほっとした時、今まであった神社が、跡かたもなくなっていました。驚いた村人が、あたりを探したところ、少し川下の東側の岸に、そっくりそのまま、神社が移動しているのを見つけました。 人びとは、びっくり仰天しました。自分たちの鎮守様が、隣の村に行っては大変です。皆で相談して、もとの場所戻すことこしました。 何日もかけて、ようやく戻ったお宮様をみて、人びとは大変喜びました。ところが、次の日、村人は息も止まるほどに驚きました。ようやく戻ったお宮が、また無くなってしまったのです。 村人たちが、大さわぎして神社を探しあてた所は、なんと大雨で流された東側の岸の、あの場所でした。不思議なこともあるものだと、人びとは首をひねるばかりでした。 また何日もかけて、神社はもとの場所に戻りました。どうぞどこにも行きませんように、村を守って下さいと、村人たちはお祈りをしました。 でもどうしたことか、夜が明けると、神社はまた東側のあの場所に移っていました。なんど戻しても、夜が明けると、お宮は川を越えて隣村に行っています。 あんなに大きなお宮を、一晩で動かすのは妖怪の仕業だ、いやヌエの仕業だ、まつ黒な大きな羽でお宮をすっぼり包んで動かしてしまうのだと、村人は恐怖におののきました。 神社の境内には大きな木が枝を広げてお宮の屋根をおおって、昼でもうす暗くいかにも怪鳥のヌエが住んでいそうです。 村人たちが寄りつかなくなった神社には、泥棒が住みついたと噂を呼んだヌエの宮は、なまって、いつのまにか盗っ人の宮と呼ぶ人もでてきました。 なんど戻しても、夜が明けると隣り村に行ってしまうのなら、もう戻すのはよそうと相談して、その後、青木神社は現在の場所に落ち着いたということです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/188.html
1932年(昭和7年)頃 広々とした田圃の向こうに「京急線」の線路が見えます。 最戸の丘より上大岡方面を望んだ写真です。 (小林鉱治:1930年当時の上大岡、和田山から、弘明寺・最戸耕地方面を望む) 画面手前左側より斜め右方向へ向かって真直ぐ、田圃の中の農道に亜炭積み出しのトロッコの線路を見る事が出来ます。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/52.html
でいだらぼっち(野庭) 現在は、団地や家が建ちならび、昔のおもかげはありませんが、天谷大橋のふきんは、四、五十年前までは、田んぼや畑でした。 ふつう田んぼは、川を中心にして、一面に続くのですが、野庭の田んぼは、ところどころに、ポツンポツンとあったので、めずらしい「飛び田」と呼ばれていました。どうして、こんな飛び田ができたのかというと。 むかし、むかし、まだ、でいだらぼっちという人のいたころのこと。 ある時、このでいだらぼっちが野庭へ遊びに来たんだと。 でいだらぼっちは、力持ちの大きな男なんだが、とても気持ちのやさしい男でのー。村の家々をふまないようにと、つま先で立って歩いていたんだと。 馬洗川の近くまで来た時のことだ。川で水を飲んでいた馬が、でいだらぼっちに驚いてとつぜんあばれだしたものだから、静かに静かに歩いていたでいだらぼっちも驚いた。 思わずつま先立ちの指に力がはいって、土の中に指がめり込んだんだと。そのくぼんだ所に、水がたまつてできたのが「飛び田」なんだと。 まだまだ話のつづきがあるんだ。でいだらぼっちに驚いた馬というのは、北条政子という信心深い人が、鎌倉から、弘明寺観音へ、馬に乗っておまいりに通われたそうだが、その時の馬でのー。ちょうど天谷あたりの川原で馬に水を飲ませるために、一休みなさっていたんだと。 この人はエライ人でのー、「尼将軍」と呼ばれた人だけれどね。 でいだらぼっちは驚いて飛び田を作ってしまったけど、たまげた馬は、かわいそうに、川におっこって、ついでに顔を洗ったのでこの川は、「馬洗川」と呼ばれるようになってね、「馬洗橋」の前の山を“糞山”というんだ。 それで、後の人たちが、いつとはなく、田んぼに出て仕事をしながら、こんな唄をうたうようになったんだと。 野庭はよいとこ 雨あがり 美人はいないか ぬき足 さし足 尼さんの馬に追われて でいだらぼっちが “ふん”をした----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/22.html
*上大岡 #list_by_tag(上大岡,10) <タグに 上大岡 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。 ------
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/147.html
年代 昭和26年 上大岡駅の線路を渡る人の写真です。 京浜急行、上大岡駅では、駅舎からホ-ムまで、構内踏切を渡っていました。 何人かはねられました、怖かった -- 井上信夫 (2016-03-15 05 31 31) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/225.html
明治44年の日露戦争勝利を祝う会の写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/274.html
・庚申塔 所在地:野庭町2480番地(三谷町との三叉路) ①庚申信仰は中国の道教思想に由来し、人の身中に「三尸(さんし)」と いう虫がいて、庚申(かのえさる)の夜、天帝にその人の罪過を告げて 寿命を縮めるというので、その夜は仲間と徹夜で健康長寿を祈りま した。 ②江戸時代に庶民の間に普及し、「庚申講」が結成され「庚申塔」が 建てられました。娯楽の少ない当時、庚申講は飲食・リクレーション・ 情報交換の場でもあり、「ハナシ講」とも言われました。 ③正面の本尊は「青面(しょうめん)金剛」で、頭髪は逆立ち、顔は憤怒の表情 で、眼は3つ、手は6本。上手に三叉戟(げき、矛)と法輪、下手に弓矢、 中手に剣と「ショケラ」(半裸女)を持ち、脚で邪鬼を踏み付けています。 ④上部には日月瑞雲があり、足下の左右には2羽の鶏がいます。 下端に刻んである三猿は、三尸の虫がその人の罪過を「見ない/聞か ない/天帝に言わない」ようにとの意味を込めたものでしょう。 所在地:日野清水橋の淨岸寺跡 墨痕鮮やかな文字の庚申塔で、金井村の庚申講が建てたもの。 1基の石塔に23名全員の名前が納まらないので、2基に分けてそれぞ れに12名と11名の名前を刻んで建てた「双子」の庚申塔です。 庚申年の万延元(1860)年造立