約 28,528 件
https://w.atwiki.jp/kisha-club/pages/19.html
Q1.我々記者クラブ加盟メディアは国民の知る権利を代表している!(キリッ 国民の知る権利は国民一人一人が持つものです。勝手に「代表」しないで下さい。私企業に過ぎない大手新聞社やテレビが勝手に人の権利を代行して良い理由はありません。 Q2.記者会見の主催者は記者クラブなんだからその意に沿わないフリーの記者は排除されて当然だ!(キリッ 二重の勘違いがあります。会見の主催者が記者クラブでなければならない理由はありません。また会見場の管理権は建物管理者にあるんだから、主催者が誰であろうと建物管理者が認めなければ特定の取材者の排除は正当化されません。 Q3.フリーの記者も加盟社の推薦があれば記者クラブに加盟できるから、非加盟者を会見から排除することには一定の合理性があるっ!(キリッ どうみても俺ルールの拡張です。本当にありがとうございます。具体的な「推薦」条件も全く公開されないきんもーっ☆な私企業団体の俺ルールには申し訳ありませんが従いません。 Q4.ボクたち大手新聞社の記者は秀逸な記事を書いている。フリーのバカ記者とは違うんだよぉ〜! あなた方の記事がどれ程「秀逸」かは知りませんが、人をバカにする前にこのような記事(コメ参照)を書くのを止めたらどうなんですか? Q5.記者クラブの運営のために日常的な事務作業がある。非常勤のフリーの記者はいい加減だから任せられない。 記者クラブに入れろなどと言った覚えはありません。記者会見へ同席させろ&記者室を利用させろ、と言っています。他人の主張を歪曲するのは止めて下さい。クラブの運営は加盟社で勝手にやれば良いのでは? Q6.恒常的に続けてこそ当局の権力監視の意味があるから記者クラブは必要だ。目立つ時だけ騒ぐフリー記者とは役割が違うっ!(キリッ 権力を監視するのは一般国民の役割です。メディアの役割はその国民に情報を提供することです。また、恒常的に当局にはりついていれば良質な(or意味のある)情報が提供できるわけではありません。 Q7.取材の窓口は自分達で勝ち取るものだ。記者クラブも長い歴史の中でその取材権を勝ち取ってきた。それに入れないフリー記者は自己責任なので排除されて当然だ!(キリッ 戦前の大本営発表を知らないとしか思えませんねw 記者室不正占有、独占的記者会見、「懇親」と称した当局との癒着—ずっと権力の庇護の下にあったくせによく「勝ち取った」などと言えますね。
https://w.atwiki.jp/toho_yandere/pages/1016.html
〇〇「ねぇ、こぁ。悪魔ってホントに『銀』を嫌うの?」 小悪魔「『百聞は一見に如かず』ですよ〇〇さん?ちょうど此処に【ペアの】銀の指輪があるので私の左の薬指に嵌めてみて下さい。(さぁ、〇〇さん。悪魔と【愛の】誓いを!!)」 〇〇「お地蔵様は閻魔様のもう一つの姿で常日頃から、人の世を見ているって小さい時に祖母から聞きました。映姫様もお地蔵様から転身したと聞きましたけど、やはり今でも人の世を見ているんですか?」 映姫「ええ、見ていますよ。ところで〇〇?貴方は最近、素行が乱れていますよ?あんなに愛想をよくしているつもりみたいですが、あれは色情を振り撒いています。それはいけません。少し話がありますから今から私の部屋へ来て下さい。」 〇〇「向こう【外界】では九尾の妖狐は天竺や唐の権力者を誘惑して国を傾けるほどの美貌を持っているって聞いていましたけど、確かに藍さんほどの綺麗な方なら権力者が骨抜きになりますね。」 藍「ふふ、そんな記憶は無いが嬉しいことを言ってくれるな〇〇。それじゃあ試してみるか?」
https://w.atwiki.jp/gachmuch/pages/657.html
ヨー 見てないでお前も参加したらどうだ 一人のリリシストが 仕組みを変えようとしてるんだぜ 俺は自分のカテゴリーは自分で決める 会場に入ったら 俺の役目は ごちそうを用意することだ メニューに何があるかよく見な ボンヤリしてるうちに マイクは俺の手の中でオンになってる 俺を黙殺しようとする奴らは多い 俺が手強すぎるからな 題材はいくらでも思いつく 俺の想像力は 驚異的 見くびるんじゃねえ 俺と契約する権力を握ったろくでなしども 見せつけてやる 望み通りにはならねえ 言いたいことを言わせてもらうぜ だから てめえらに用はないんだよ これをやれ あれをやれだのって俺に命令しやがる 売るためには こういうやり方を覚えなきゃならないらしい 俺はご主人様のマスコットにはならない 何年か前の奴隷主義じゃねえんだ Oはてめえらの権力争いには付き合わない 公園で鳩にパン屑ばらまくみたいに 俺を餌付けする気か だったら言わしてもらうぜ クリエイティブ・コントロールを聴く覚悟をしときな 誰も俺に魂の売り方を指図させねえ クリエイティブ・コントロールを聴く覚悟をしときな 誰も俺に魂の売り方を指図することはできねえんだ
https://w.atwiki.jp/gendercontroversy/pages/12.html
概要 弱者男性・女性論とは一般に「弱者」と呼ばれる属性を持つ男女に関する論である。 「弱者」の適用しうる定義の広大さのためにその定義を巡った論争が多く発生している。 弱者男性とは 弱者男性(じゃくしゃだんせい)とは、独身・貧困・障害など弱者になる要素を備えた男性の蔑称である。 2015年頃の日本で、未婚で恋人もいない非正規の貧困中年男性の意味でキモくて金のないおっさん(KKO)と自称する男性たちがいたが、この言葉そのものが差別的な用語だとして、同じような意味で代わりに「弱者男性」という用語が使われるようになった。 オンラインの議論では、そもそもフェミニズムの文献や論文で使用される「男性」が権力者の意であり、権力者ではない男性のことを「弱者男性」と呼ぶ人々が出てきたことに端を発する。 弱者女性とは 何を持って「弱者」とするか? 性的資本弱者論 社会的資本弱者論 弱者男性から発展した論争 あてがえ論 参考資料 「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か? 「弱者男性」がクローズアップされるその本質的な理由とは何か 日本の被差別階級「弱者男性」の知られざる衝撃実態…男同士でケアすればいいのか 随時更新
https://w.atwiki.jp/vorusi/pages/136.html
ゼノビア戦記異聞録 タルタロス暗殺指令の下ったゼノビア聖騎士団が ローディス教国に潜入するが、世界を揺るがす陰謀に巻き込まれていく…。 という話。 暗殺指令の下ったゼノビア聖騎士団は、ハイム戦役(TO)後の、教皇亡き後のローディスの神都ガリウスに潜入する。ローディスはその頃、教皇の後釜を狙って『教皇派』と『元老院派』の権力争いが繰り広げられていた。 教皇派は暗黒騎士団団長ランスロット・タルタロス。 元老院派は議長ゴーモウル。 争いは表面化こそしてはいないものの、火種は確実に育ちつつあった。 そして長引く権力抗争の元、ローディスは確実に疲弊していくのである…。 ギアス計画 ある頃から、ローディスはカオスゲートの研究を秘密裏に進めていた。 ヴァレリア島侵攻に見られるようにローディスはカオスゲートの力を解明し、出来るなら国益のために利用しようと画策していたと思われる。 ゼノビア戦記異聞録では、それがある程度具体的な計画として元老院によって進められている…というスチュエーションになっている。 元老院の進めるギアス計画とは、カオスゲートの力を用い、人間にオウガの 力を乗り移らせ無敵の兵士を造り上げようとする計画。 計画の遂行にはカオスゲートの制御ができるブリュンヒルドが必要。 元老院(とその一派)はこの計画が完成次第、これを利用してゼノビアに攻め込む積もりだった。 タルタロス暗殺指令 ゼノビアで発案された、ローディスの実質トップの暗殺計画。 しかし、それはゼノビアの元老院内通者によって仕組まれたワナだった。 結果、暗殺計画は決行中に阻止され、ゼノビア聖騎士団は元老院に捕らえられてしまう。 同時に現場にいたランスロット・タルタロスもゼノビア聖騎士団と一緒に 居た事により国家反逆罪の汚名を着せられ、元老院に捕らえられてしまう。 元老院はランスロット・タルタロスを追い落とし、同時にゼノビア聖騎士団 を人質としてゼノビア帝国に対しカオスゲートを開く鍵であるブリュンヒルドを要求するのが目的だった。 元老院によるゼノビア聖騎士団とブリュンヒルド交換要求はゼノビア国内の元老院派内通者の後押しもあり、反対意見も多かったが可決されてしまう。 タルタロスを権力の座からひきずり降ろし、ブリュンヒルドを入手した元老院は対ゼノビア戦の準備を着々と進めていくのであった…。 ブリュンヒルド 元ネタはオーディンの娘『ブリュンヒルデ』。 TOの世界ではカオスゲートを開く鍵(剣)。 ゼノビアに伝わる、天界と下界を結ぶアイテム。 ゼノビア戦記の世界では、カオスゲートを制御する道具として使われる。 策略により元老院の元へ。 ローディス国政会議 ローディスの神都ガリウスにある議事堂で毎年開催される、これからの政策を話し合う 会議。各地の有力者、および一般市民を招いて行われる。 権力を握った元老院及びバールゼフォンは、ここでゼノビアの脅威を煽り、 ローディスの世論を対ゼノビア戦争に持っていく積もりだった。 開戦決議が可決されようとしたその時。 間一髪、牢獄を脱走したゼノビア聖騎士団とタルタロスが議事堂に姿を現す。 彼らは元老院の陰謀を暴きたて、議事堂は彼らのために騒然となる。 陰謀を暴き立てられた元老院とバールゼフォンは一行に戦闘を仕掛けるが、 一行はこれを撃退。しかし、事件の首謀者であるバールゼフォンと元老院議長ゴーモウルは奪ったブリュンヒルドと共に転移石を使いどこかに姿をくらましてしまう…。 ネクロポリス ローディス北部にある遺跡。 中央に巨大な神殿があり、地下深くにカオスゲートが存在。 国民を欺く事に失敗した元老院とバールゼフォンはここに立てこもり、 急ピッチでギアス計画を完成させようと実験を急いでいた。 実験が完成した暁にはオウガの力を乗り移らせた兵士を用い、ローディス 国内の反抗勢力を一掃する積もりでいたが…。 本来なら国内の覇権を握った後で、資金と時間をかけじっくり 進めるはずだった計画を急に完成させるのは難しく、実験は失敗続きであった。
https://w.atwiki.jp/masurai/pages/67.html
出典 パーソナル百科事典『マスペディア(Masupedia)』 グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書 (501) posted with amazlet at 08.05.03 佐々木 俊尚 文藝春秋 売り上げランキング 7968 おすすめ度の平均 わずか2年前の書籍であるが、随分古く感じる ネタとしては少し古いけど… googleという灯台がwebの海で光を照らす 確かにグーグルのことを中心に書いていたが 既存システムの凄まじい破壊と再構築 Amazon.co.jp で詳細を見る メモ・考えたことなど Googleがいかに既存市場に変革をもたらしてきたかを事例とともに列挙 ビジネスモデルとしての広告にページの多くを割いている キーワード・キーフレーズ Googleニュース:人々のニュースを読むスタイルに変革をもたらした。同じ事柄に対する複数の視点を横断的に確認できる。多様な価値観を知ることは情報リテラシーの観点からも画期的 トラストサーチ:記事の内容の充実度や、その記事を提供しているマスコミがどの程度の陣容で取材しているかなどを元に数値化。各国に特許申請 グーグルベース:個人向け広告ビジネス(ベータからあまり進展がない) ナビゲーションとしてのサーチエンジン アテンションエコノミーの本格化(⇒えじけんさんの記事) 過去の記憶と記憶が結びつき、思いもよらなかった『気付き』が起きる 新しい監視社会像(監視社会の三つのモデル)ビッグブラザー::国家権力による中央集権的監視。国民の一挙手一投足が、ビッグブラザーと呼ばれる神のような存在に監視され、そこから逃げることはできない。ソ連や東欧の社会主義と重ねあわされて悪夢の未来として考えられた パノプティコン::一望監視施設とも訳され、イギリス功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した刑務所施設名が語源。中央に監視塔、その周りをぐるりと天井をガラス張りにした囚人棟があり、監視塔からは全てが見渡せ、囚人からも常に監視塔が見えている。いつ見られているかは分からず、結果的に「常に監視されている」と永続的な自覚を生み出す。権力への自発的服従に人を導く。 アセンブラージュ::国家による監視とマーケティング的監視が結びつき、監視がネットワーク化。監視されていることさえ気付かない。⇒Googleのデータベース管理はこれを可能とする コメント 名前 コメント 目次 第1章 世界を震撼させた「破壊戦略」 第2章 小さな駐車場の「サーチエコノミー」 第3章 一本の針を探す「キーワード広告」 第4章 メッキ工場が見つけた「ロングテール」 第5章 最大の価値基準となる「アテンション」 第6章 ネット社会に出現した「巨大な権力」
https://w.atwiki.jp/gendaiinogakuenmono/pages/21.html
名前 玉響 ミツハ(たまゆら みつは) 性別 ♀ 年齢 十七歳 所属 レガリア高等学院二年生 ランキング第四十五位 レガリア高等学院生徒会"FIDES"会長 容姿 艶やかなプラチナブロンドのミドルヘアに、翡翠色の眼を持つ少女。 身長は150cm台前半と小柄であり、実年齢よりも幼く見られやすい。普段はレガリアの制服に身を纏うが、微妙に丈が合わず服に着られ気味。 油断すると暗くてじめっとした気質が溢れてくるが、普段は隠してるだけでこれが本質である。また、笑顔があんまり上手くない。 異能 《万象の元核(ビギニング・セル)》 掌に収まるサイズの、宙に浮かぶ漆黒の八面体。 それがこの異能の本体であり、同時にその力の全てである。 この物質は異能力者の思念を反映して、様々な形態へと変容を遂げる。 形状、質量、性質、その他凡ゆる情報を瞬時に作り替え、異能力者が望んだものを創り出す。 理論上、創り出せないものはない────が、複雑な構造や稀有な特性など、創り出そうとする対象の情報密度が増すほどに、その構成難易度も跳ね上がる。 故に現時点における高度な創造は、異能力者の強い願望や欲望、或いは深層心理などを反映する形でのみ実行可能。 その中で彼女が戦闘時に最も頼るであろう創造の形は────『戦うの嫌だからなるべく遠くからなるべく一撃で』という極めて切実な願望を形としたもの。 大経口、大威力、超射程を誇る────所謂、電磁砲であった。無論、非殺傷モードに変更もできる。 尚、それだけかと思いきや普通にそれ以外の創造物もガンガン使う。 咄嗟の対応力と拡張性。それこそがこの異能の真骨頂である。 概要 玉響ミツハは幼少期より、何かと損をする性格であった。 学級委員、掃除当番、先生の手伝い────誰もが嫌がる役職はいつだって、盥回しの末に自分の元へやってくる。 そして卑屈な性格と弱腰な態度をしているから、何時だって苦笑いを浮かべるだけで決してNOとは言えない。 とはいえ不満はあった。 何なら小心者で自尊心も低い癖して、その内面は人一倍の自己顕示欲と権力欲に塗れていた。 そして異能の覚醒と共に転機が訪れる。学園都市への編入、選んだのは実力こそが唯一絶対の正義であるレガリア高等学院。 これまでとは違う人生を歩む筈だった。実際、奮戦の末に学内ランキング二桁台に上り詰めるまで、その学生生活は順風満帆だったと言えるだろう。 そしてとある先輩に「君すごく有望だね!ちょっと生徒会長やってみない?」と煽てられて、調子に乗って安請け合いしてしまい。 ────それが特大の貧乏くじであることを知ったのは、レガリア高等学院生徒会"FIDES"会長の座を手にした後の話だった。 願った権力を手にしたものの、蓋を開けてみると待ち受けていたのは、生徒達の問題行動に振り回される、頭痛と過労と胃薬と隣り合わせの毎日。 彼女自身もランキングでは上積みの部類とは言え、最高位のランカー相手には決して敵わない程度という、まさにFIDESの立ち位置を体現したかの如き絶妙が、微妙な立場に拍車をかける。 けれども今更逃げ出せる筈もなく、ひいひい言いながら涙目で生徒会の職務を執行する日々を過ごしている────とはいえ。 なんだかんだ言いながらも、生徒会長としての責務は見事に果たしており、そして内容がどうであれ権力を手にしたこと自体はやっぱり嬉しい。 結局のところ、天職であったらしい。 権力パワーによって昔より図太くなっている。あと調子に乗りやすい。
https://w.atwiki.jp/nihonjindakedo/pages/23.html
211 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 19 43 51.33 ID ??? 信長、秀吉、家康の誰が好き? みたいな質問が多いように、日本人は権力者が大好き 大塩平八郎や天草四郎みたいに正義を主張して戦ったタイプは全く人気がない 212 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 19 47 44.96 ID ??? 弱者を守ろう、救おうとした人物は嫌われるね。 歴史上の人物にしてもドラマや小説の人物も、 目的のために泣く泣く(腹の中では大笑い)弱者を切り捨てる人物が好まれる。 239 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 21 19 15.46 ID ??? 日本人が抱くイメージ 信長=偉大な権力者様。冷酷なところが素敵。 秀吉=偉大な権力者様。立身出世の理想像。 家康=偉大な権力者様。忍耐力を見習うべき。 大塩平八郎=反逆者のクズ。キチガイ暴徒。氏ね。 天草四郎=反逆者のクズ。キチガイ狂信者。氏ね。 683 名無しさんの主張 2012/01/29(日) 07 43 55.40 ID ??? 大塩平八郎は融通が効かず協調性に欠ける上に勘違いしてヒーロー気取りする嫌な奴 豊臣秀吉は上司への忠誠を忘れない誠実な人柄な上に下品な芸もできて親しみが持てるいい奴 601 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 08 04 22.16 ID ??? 大塩平八郎は本当に人気が無いよね 教科書でも5行くらいの説明ではい終わりだから 大塩の魅力や功績が全然教えられてないっていうのは大きいね (これは日本の歴史教育全般に言える問題) 大塩は奉行所の与力っていう役職だったんだけど 今でいうなら警察署長の役職 つまり警察署長(与力)が政府(幕府)や大企業(豪商)の酷さに気付いて 反乱を起こしたって話だったんだよね マジで格好良過ぎだよね しかもただ武力で反乱起こしただけじゃなくて、 その為に自分の莫大な財産を投げ打ってるからね 「奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、 仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、 得た資金を持って救済に当たっていた。 しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。」 「利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、 武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。 一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、 豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、 金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。」 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1 大塩は陽明学を信奉してたんだけど、みんな陽明学って知ってる? 698 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 16 59 16.67 ID BicgNnyn [1/1回発言] だね それだけ所蔵してるだけでもすごいけど それらを読んでたんだろうから物凄い 「大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。 教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、 与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、 朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。 奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、 1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して 初めて生きるとする「知行合一」を説いた『洗心洞剳記(さつき)』を刊行する。 大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、 門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。」 あの人の人生を知ろう ~ 大塩平八郎 http //kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html 今の日本に一番必要な学問は陽明学だよ 733 + 1:名無しさんの主張[sage] 2012/05/04(金) 07 29 50.03 ID ??(1) 大塩平八郎や吉田松陰、西郷隆盛、高杉晋作の存在は教えるけど、 彼らのバックボーンとなった精神である陽明学を教科書に載せないのは恣意的だと思うね 現代でさえ陽明学を知られたら困る東朝鮮 知行合一とは、陽明学という中国の儒学者・王陽明(1472-1528)が起こした儒学の主要命題である。 意味を簡潔に言うと、「思ったら、行動する。」という、実践主義の思想である。 その為、日本にも数多くの信奉者がいるのが陽明学である。 世界でも稀に見る革命であった明治維新を成し遂げた志士の精神的指導者達に、 陽明学に造詣が深い人が多いのがその実践主義を裏付けている証拠だろう。 有名どころでは、中江藤樹、熊沢蕃山、佐久間象山、川井継之助、吉田松陰、高杉晋作、大塩平八郎、西郷隆盛等など。 徳川幕府が、推奨していた朱子学は、権力側に都合の良い儒学であった。 「上が上でも、下は文句を言わず付き従わなくてはいけない」 という上下の秩序を重んじる思想が、朱子学であった。しかし、陽明学は、 「上が上なら、下も下になるのはしょうがない。組織やグループの命運は上が握っている」 という、反体制的な思考を基礎とする儒学であった。 自ずと、体制側には都合が悪い。 長い戦国時代が終わり、江戸幕府を開いた徳川家康は、思想統制に苦心していた。 戦争のない社会を作る。 つまり、徳川の社会を未来永劫続けたい。 しかしいまだ、上下の秩序を問題とせず下克上の気風が色濃く残っていた、江戸開府当時。 それを、都合良く抑えるのには、武士に武芸への傾倒を捨てさせ、武芸学問奨励へと向かわせるのが良いと考えた。 その都合の良い学問が、朱子学であった。 上下の名分を重んじる上下関係を根本にする朱子学は、思想言論統制にピッタリであった。 家康の相談役であった朱子学の大家・林羅山が、幕府公認の正学として朱子学奨励の任が与えられた。 それと共に、他の学問が迫害された。 特に、「上下関係よりも、正しさが重要視される」 上には都合の悪い陽明学は危険視され、後に風紀を乱すものとして禁止される事になる。 新与太随筆 http //ameblo.jp/takayukimie9141974171981/entry-10049967393.html 888 名無しさんの主張 2012/02/05(日) 21 45 32.84 ID 6VjqnIMd [3/3回発言] 「主に日本は江戸時代で既に社会規範に上位する原理ってものが認知されてない 昔から何も考えず上に従え」という意見に、そうではないと反論したわけだよね? だから江戸時代の封建制の話ををしたのだよ。 欧米の封建制のように契約書を作り、そこにサインし、契約を守り通すこと、 道徳的義務を果たすことを権力者が神に誓ったかというと、全くそんなことはないだろう。 江戸時代における「社会規範に上位する原理」とは具体的に何なのかを聞いても、 当時の人間で答えられる者はほとんど誰もいないと思う。 「社会規範に上位する原理」が発展して庶民が徳川幕府の正当性を疑わないよう、 幕府は徹底的にキリスト教を弾圧し、外来思想を排除し、仏教は僧侶を公務員にして 支配することで骨抜きにし、儒教は権力者の道徳について問う本質的部分を削り、 徳川体制に従うことがいかに正しい生き方かという主張を昌平坂学問所で競わせた。 今で言うところの御用学者として儒学者は使われていた。 「社会規範に上位する原理」は厳禁で、体制を疑った人は「お縄」になった。 一握りの陽明学者だけが「社会規範に上位する原理」を考え、大塩平八郎のような 特異な人物も生まれたわけだが、例外中の例外だし、もちろん潰された。 ちなみに、江戸時代以前だって「社会規範に上位する原理」は存在しなかった。 「双務的契約」というのも、江戸時代のような終身雇用身分保障がなかったので、 当然、すぐもらえる見返りが欲しいという要求を臣下が行っただけの話で、 古今東西、傭兵や盗賊団が行なってきたような約束と同じ話。 守るべき原理が存在しなかったからこそ、契約もいい加減で、そこに道徳的意味もなく、 宣誓もしないし、だからこそ「裏切り」が日常茶飯事だった。 ドナルド・キーンによれば、江戸時代までの日本の戦や乱を調べてみると、 裏切りが非常に多く、裏切りによって勝敗の流れが決まることが大半なので衝撃的だそうだ。 577 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 03 37 48.67 ID ??? なぜその三人なのかわからないが、 織田信長は暴力で権力闘争に勝っただけの権力者だし、 本居宣長は中国叩きして日本の伝統をひたすら賛美する国学者だし、 山本七平は少しは言論でメスを入れたかもしれないが、評論家だし高く評価されてもいない。 日本では社会の腐敗にメスを入れる正義感の強い人物は潰されるし評価されないし人気もない。 大塩平八郎もそうだが、江藤新平も人気なくて可哀想だね。 英米流の三権分立・法の支配・民主主義・行政訴訟(←どれも日本では未だに機能していない)を、 明治最初期の時点でセットで日本に導入しようとしたり、奴隷(芸者)解放令を出したりして、 アブラハム・リンカーンの日本人版のような政治家だったのに、 人気ゼロだし、そもそも何をした人物なのかも知られていない。 むしろ彼を狡猾な罠にはめて殺した卑怯な大久保利通の方がはるかに人気があるという始末。 日本人は正義感の強い人を見ると生理的嫌悪感を覚える。逆に、 「なんだかんだ言って世の中は力が全て。それが真実。認めないのは平和ボケした偽善者だ!!」 というタイプの人物には心の底から憧れたり親近感を覚えたりする。 580 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 03 57 48.52 ID ??? 日本の一般人にそこまで求めるなよw 頭の悪さは一流だぞw 大塩、江藤は知名度がないし、 大久保が評価されるのは後釜に伊藤博文という初代がいるしな 日本人は善悪の概念がなく勝者につくだけ 133 名無しさんの主張 2012/02/26(日) 17 55 30.67 ID ??? 竜馬が人気なのは剣術の達人のサムライと、海賊という、 子供が喜びそうな武勇イメージが重なっているからであって キング牧師が尊敬されているのとは全く質が異なる。 単に強くて天真爛漫でカッコイイから人気というだけ。 弱者や国民の権利を守るため、権力の腐敗を暴くために生真面目に 活動して潰された大塩平八郎や江藤新平は全く話題にもならない。 238 名無しさんの主張 2011/12/05(月) 10 43 42.23 ID ??? 大塩平八郎なんかは幕府の腐敗を嘆き、弱者を救おうと強者に挑んだが、 そういう例は確かに少ないな 694 名無しさんの主張 2012/01/29(日) 09 28 30.58 ID ??? まとめてみた。 日本人は自分と他人の優劣をすぐに比較する。 本当の善人を見ると醜い自分にコンプレックスを感じ、叩き潰したり、自分と同じくらい低俗なところまで引き摺り下ろす。 偽善者や悪人を見ると「親近感」を感じて喜ぶ。日本人はそういう民族。 だから高潔な人物が日本ではなかなか生まれないし、生まれたとしても大塩平八郎のように 人気は皆無で時代劇にも映画にもドラマにもならずスルーされる。 679 + 1:名無しさんの主張[sage] 2012/02/09(木) 22 43 48.58 ID ??(1) どこまで低俗で下劣な人間なのかを競い合っているのが日本人なんじゃない? 大塩平八郎タイプの高潔な人間は嫌われるし、 豊臣秀吉のように下品で好色なところをアピールした方が人気者になれる 395 標準日本人 ◆lEN.d.nqvE 2012/03/23(金) 22 16 15.09 ID ??? 行動派の人が良い方向に行けば大塩平八郎や田中正造のように、悪い方向に行けば辻政信や牟田口廉也のような人間になるんだと思う 行動派の悪い人たちをどうやって良い方向に向いてもらうか どうやって大多数を占める非行動派に行動を起こしてもらうか この2点が鍵になりそうな気がする 172 名無しさんの主張 2012/03/26(月) 22 04 33.43 ID ??? 大塩が人気ないのは不良臭、ヤンキー臭、芸人臭がしないからだと思う 標準的日本人が好む人間像と正反対 180 名無しさんの主張 2012/03/26(月) 22 11 55.67 ID ??? 後半三人は結果敗者となった大塩と違い、まあ名誉・権力もあったしな やみくもに真似して従うためのご主人を嗅ぎ分ける能力があるのかね 741 名無しさんの主張 2012/04/05(木) 01 51 53.46 ID ??? 「探さなくてもいくらでもある」のが欧米 「探してもいくらもない」のが日本 ちなみに、聖徳太子の話は、天皇の権威を正当化するために日本書紀で創り上げられた「でっちあげ」。 「厩で処女の母親から生まれた厩戸皇子」とか、その設定からして、中国の景教を経由した キリスト教福音書の猿真似だけど日本人は恥ずかしくないのかね? 十七条の憲法の第三条に書かれているように、聖徳太子の説く心は、天皇は天(神)なんだから 絶対服従しろという論理で、西洋社会が産み出した個人主義、「人間は人間に絶対服従する必要はない」と対照的。 自分たちの権威権力を正当化するための神話や憲法(?)に善意や良心なんてあるわけがないw 悪意の結晶だよw 石田心学はよく知らないが、Wikipediaによれば、 倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、 寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。 ということらしいから、欧米企業のような寄付や援助をしないことの正当化、カネ儲けの独善的美化にしかならないのだろうねw 大塩平八郎は立派だけど潰されたし、その弱者救済や反権力腐敗の思想は明治維新には受け継がれていない。 自由民権運動も立派だけど、Wikipediaに書かれているように、 大日本帝国憲法をもってしても自由民権運動の真意がかなえられる事は無く、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」 と定めた1947年の日本国憲法施行によってでしか自由民権運動の真の成功は達成し得なかったのである。 というわけで、アメリカに占領されるまで、恐怖と暴力によるキチガイ体制で一億総玉砕がどうのこうのと日本は大暴走していたからなw 33 名無しさんの主張 2012/04/06(金) 23 03 19.07 ID ??? 真面目というより「良心のある人間」を目の敵にして叩き潰すのが日本流。 昔からずっとそうだよ。 江戸時代にしたって大塩平八郎みたいな人は主張も無視され相手にされず潰されたし、 戦前戦中も良心のある人は特高警察にみんな潰され、 善人の遺伝子が排除され、邪悪な遺伝子だけが濃縮されてきた。
https://w.atwiki.jp/trivia-mike/pages/749.html
ちよさっけーしーぐむ(は、どーでもいい♪) ケンリシャと呼ばれる忌まわしき強欲な組織が自分達が保有しているモノを似てるものがあると不当に相手をどん底に突き落とす忌まわしき魔法の言葉だ、こりゃ国家権力を使いて相手を不当に失墜させる禁魔術である。 概要 例えばキミの作品が第三者によって転載されたとき、勝手に転載された逆恨みで警察に被害届を出すだけで第三者を逮捕できると言うカナリ強権的な権利だ。 簡単に言うと、個人でも国家権力を行使できる権利である。 詳しいことは該当項目を参考してね。すぐでいいよ! 考察 侵害と言うことは、侵食して害損害を与えると言うことだが、実態は、自分の気分を損ねると言うショーもない理由である。しかも上記通り、権利者(自称)のヤッカミとか逆恨みでしかないため、本来であればスルーすべきことである。 しかし、日本人は基本的にバカなので例に言う著作権原理主義者がハコビることとなるため、国家権力でさえバカなので結局、、、、、権利者(笑)のジェノサイドの餌食になるしかないこととなる。 GFDLやフェアユースという便利なものがあるが、日本ではどうも例の原理主義者というキチガイ染みたヤローが認めようとしないので実現性は40%程度だ。 どっちかというと1つしかないものを奪うのは窃盗であるが、1つしかないものを2つ以上に増やして1つ持っていくのは私は問題ないと思う。 もし、コピーされて文句があるやつは「1つのものが3つに見える」ではなく、「2つ以上のものが1つに見える」という情報処理する程度の能なので、きっと頭がパッパラパーなのでしょう。 しかしながら、著作権崇拝者が多い現代では、権利を保有しないとされる輩が作家でもないのに「独断で侵害だのなんだの」とギャーギャー騒ぐため著作権が神格化されていることが分かるだろう?。 貧乏人がせっせと生活してる一方で、彼らは利権の後ろ盾で大変ゆっくりしている。 しかも彼らは頭がお詳しいので著作権という単語を発してギャーギャー猿みたいにホザくので笑える。 だいたい、何が侵害なの?著作権ってなんなの?人生の特急券を手に入れたと思ってんの?バカなの?死ぬの? 結論 著作権は一部の汚れた人間がぬるま湯に漬かる程度の手段に過ぎない。 最後に 著作権なんて忌まわしきもの作ったやつはどんな心境なんだろうね。作ってたものが被っただけなのに、ただでさえ迷惑なのに。 関連 著作権原理主義 著作権至上主義 ゾウリムシ 精神障害者
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/28.html
このページはhttp //asp.atomicweb.co.jp/id/kusamura/bbs/からの引用です 叢__農薬 叢を刈り込むため――農薬収集 1704 今日:2 昨日:1 ロロ・メイ[わが内なる暴力] ロロ・メイ著作集3 . 2009年08月11日(火) 17 17 No.00001 引用 ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)訳 小野泰博 誠信書房 (発行 昭和55年) 借り先 公立図書館 *=引用者による補、それ以外の()部分はオリジナル 第一部第一章 狂気と無力感 ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 17 19 No.00002 『権力』というコトバは、ラテン語のPosse つまり「〜ができる」という意味に由来する。 赤ん坊がこの世に生まれるや否や、母乳を求めて泣き、 かつ腕を振り回すなどのさまざまな形で、 そのパワーを出現させるのを見ることができる― ―人間存在における他者への働きかけ としての 協力的・愛情的な側面は、 対抗(coping)と権力の側面と手をとりあってゆく。 およそ生の満足のあるところ、そのいずれをも無視できない。 大地への感謝や、仲間の支持が得られるのは、 われわれが権力(*パワー)を放棄することによってではなく、 そうした権力(*パワー)を、協力的に利用することによって得られる。  ̄ ̄ ̄ 抗しがたい必然性に対抗できる幼児の能力は、 成長するにつれて自尊心(self-esteem)保持のための戦いと、 人間としての存在意味を求める戦いになってゆく。 認めてもらいたいという叫びは、 基本となる心理学的な叫びになってゆく。 すなわち、私は、自己主張できることによって、そこに意味をもたせ 意味を「創造」するこの世の中で 「われここにあり」という自己主張ができなければならない。 しかも私は、 この戦いにたいする自然の側のとほうもない無関心に直面して これを行動に移さねばならない。 第一章 狂気と無力感 (*無力感) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 21 54 No.00003 私は、権力というものを、われわれの敵に適用さるべきものといった 誤った表現としてのみ扱う立場を離れ(即ち、敵は権力に駆られているが、 当方は慈悲と理性と道徳によって動かされている、といった言い方)、 それ(*権力)を 生命課程の基本的側面を述べたもの としてとりあげる。 人間生活の大部分は、 一方では権力 (即ち、他者に影響を与え、重要な対人関係の場で自我感を確立してゆく効果的な方法)、 他方では、無力性との間の葛藤として見られ得る。 この感情(無力感*)をシュレジンガーは 『絶えず他者に取り囲まれ、つきまとわれ、追跡されている気持ち』 と書いている。 またモーゲンソーは、政治的なコメントを与えている。 『何世紀にもわたって、 それを得るために人間の戦ってきた多数決のルール(majority rule)は、 つぎのような状態を生み出してしまった。 つまり、150年前に較べて人間はいよいよ無能化し、 自分たちの政府に影響を与えがたい状況になってきている』 以下われわれ個々人の身に覚えのある無力感をとりあげてみよう ―われわれは多くの人に影響を与えることもできない、 ―もはや自分は物の数ではないどうでもよい存在だ、 ―自分たちの親がその生涯をかけてきた価値は われわれにとっては実体のないものであり無価値なものである、 ―自分自身他の人々に対し意味のない『顔のない他者』であると感じとっている、―― 自らが自分自身にとっても無意味なものに感じられるということ、 実際これらのことは認めたくないことである。 第一章 狂気と無力感 (*暴力の基盤) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 22 05 No.00004 (アメリカで*)捨て去られつつある価値を二つあげると、 自己-確信(self-affirmation)と 自己-主張(self-assertion)である。 われわれは、自分の無力感をおおいに増大させ、 暴力噴出の場を設定しつつあるのである。 暴力の育つ基盤はほかでもない 無気力(impotencet)とアパティ(apathy=感情的鈍磨、無関心)である。 人々を無力化することは、 暴力をコントロールするよりも むしろ、それを増進させる。 現代社会における暴力行為は、主として 自分たちの自尊心を確立し、自我のイメージ(self-image)を防衛し、 自分たちもまた意味のある存在であるということを 他に示そうとする人たちによって遂行されるのである。 それらはなお、 積極的な人間関係をとり結びたいという欲求のあらわれたものである。 暴力は、力の過剰から生まれてくるのではなく、 無力性のゆえに生まれてくるのである。 狂気と無力感 (*具体例―ハナ・グリーン) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 22 39 No.00006 「ハナ・グリーンが自分の分裂病体験をもとにした『デボラの世界』を見ると (16歳の*)彼女は素直で、おだやかさそのものであって、全然怒りを示すようなことはなかった。 彼女は、その必要があるときにはいつでも、 私的な霊界の神話へ引き上げてゆき、 神話的人物と話をしていた。 彼女を治療していた精神科医フロム=ライヒマン博士は、 この神話を尊敬の念をもって扱っており、 ハナに対し、少女にとってそれが必要なかぎり、 とり去ってはならないということを断言している。 (*ところが、博士の夏休み中、彼女を担当した)若い医師は、快活で勇気のある人であったが、 神話的世界を破壊しようとしたのである。 その結果は悲惨なものであった。 暴力の爆発によって、患者は自分自身とロッジ(治療所*)にある自分の所有物に点火し、 生涯にわたる傷跡をのこしてしまった。 若い医師の誤りは、 その神話がハナの存在に意味を与えているものである ということが解せなかったということである。 ―――――――――――――――――――――――――― 問題はその(*ハナの)神話が正しいか間違いかではなく、 彼女にとってその神話が果たしている機能のことである。 どんな攻撃的な行動も不可能に見えたこのおだやかな患者は、 素直な状態から、全くの暴力に揺れ動いたのである。 これは病院の付添人にとっては、 暴力のように見えかつそのように感じられるかもしれない。 しかしそれは疑似暴力(pseudo power)つまり、 無能力が別の形で表現されたものである。 この患者は今日では『狂気』の沙汰のように扱われるかもしれない。 そのことは 彼女が現代社会で受け入れられている基準に合わない、 ということを意味するのである。 つまり、 現代社会はすべての社会と同様、 素直で、おだやかな『顔』を好んでいるのである。 理解しておく必要のあることは 暴力は、 抑圧された怒りや激怒の最終結果 であって、 患者の無力感にもとづく、永続的な恐怖 とむすびついていることである。 この狂気という疑似暴力の背後には、応々にして、 何らかの生きる意味、 つまり、 他人と違う自分を認め、なんらかの自尊心を確立する方法を見つけようと 格闘している人物 がいるのである。 狂気と無力感 (*具体例―プリシラ 1) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 22 57 No.00007 「若い音楽家プリシラ―彼女のロールシャッハテストを行った者によると 彼女は『片足を分裂病にかけ、片足をバナナの皮の上に置いていた』 彼女は決して腹を立てることができなかった。 彼女の自尊心は弱々しく、漠としてほとんどなきに等しいものであった。 しばしば経験したことであるが、 性的にも金銭的にも自分が喰いものにされるようなとき、 彼女は防ぎようもなく、それ以上のことについてはだめ、 という線を引くすべを知らなかった。 また自分を支える怒りを全然もたなかった。 (このような人間は、他人の喰いものになりやすい ―少なくとも、そうすることによって、 なんとか他人との人間関係や存在意味を保っているものと思われる) 腹を立てることができないことと並んで、 それに伴う必然的な結果として、深い無力感、それに、 人間関係において他人に影響を与えるなり、働きかける能力を ほとんど完全なまでに欠いていたのである。 しかし、多くのボーダーライン患者を治療してきてそう思うようになったが、 このような人物は全く別のもうひとつの面をそなえている。 プリシラの見た夢 ―切り裂いてカバンに入れられた身体の夢、血と闘争の夢― は、彼女の意識面の生活が従順であるだけに、夢のほうは暴力的なものになっていた。 われわれは、精神病患者には共通の特徴があり、 その人達の無力感、 それと平行するものが慢性的不安であり、 これが無能力感(impotence)を生む原因であり結果であることを知っている。 ------------------------------------------------------------------- ある思春期の少女は、 昼の日中にたが入りのペチコートを着けたイブニングドレスを着て私に診てもらいに来た。 彼女にしてみれば、 どれほど自分が私の注意や関心を必要としているかを示すジェスチャーとして、 おそらく彼女の持っているもっとも美しいものの一つを身につけて来たのであり、 それは場所柄を心得ぬものであるとみなされそうだということなど、 とんと気づいていないのである。 プリシラのような人物は、こうした生き方をもはや支持できなくなるとき、 彼女の中で何ものかが音をたてて崩れていき、 狂気以外の何ものでもない状態に移ってしまうのである。 その時の人格は、いままでの彼女とはまったく正反対のものになったように見える。 プリシラの見た夢のように、夢のなかの暴力が覚めた生活の内容となる。 その人格は全く狂気のように見える。 彼女自身を含めて、 狂気が日常化してくると、人はおびえるなり自殺を企て、 手首を切り、血を病院のドアになすりつけるが、 これは付添人やインターンを、自分がどれほど必要としているかを 劇的に示すためである。 彼女は、自分自身をはじめ、 自分の投影のきく範囲内のものに対し、 はっきりとした暴力を示す。 狂気と無力感 (*具体例―プリシラ 2) ロロ・メイ著 2009年08月12日(水) 00 36 No.00026 「彼女(プリシラ)は、人間が生きてゆく上にきわめて重要な何かを語っていた。 つまり人間は 『自分の言うことを聞き、認め、知ってくれるだれかを必要としている』 ということである。 これによって、人は、 自分は大事なのだ、 自分は人類のひとりとして存在しているのだ、という自信を与えられるのである。 プリシラが私に向かって腹を立てることができた日というのは、 記念すべき日であった。 そのとき彼女は、 広い世間のなかでの他人との接触場面で、自分を防衛でき始めたこと、を 私は承知したからである。 彼女は、 人を愛しうるとともに、 独自性を持った他人からも愛される人間としての自分の能力を 進んで発揮できるようになった、ということである。 第一章 (2) 狂気と社会 (ある怒り体験 ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 23 03 No.00008 引用 プリシラの中に見受けられた 受動性/狂気といったパターン この暴力のことが現代の男女にとって重大な問題になってきている 分析とか精神病とかとは関係のない私の友人のひとりが 妻とけんかの末、いかに激怒状態にあるかを私に話してくれた。 『この激怒は一時的な精神病とどのくらい近似していることか! 街路上はるかに遠くにあるように見える歩道の上を歩いていたとき、 私は、考えることができずぼう然とした。しかし、 外界の認識はぼやけて霧のかかったような状態であるのに、 内側は過敏で生気にあふれ、考えや感情が過度に認識されるのであった。 唯一の悔みは、この内的な照明が、外の世界と なんらの結びつきも持っていないということである。 街の通りが空々しい。道にはいつもの通り人の往来があるのに、空虚に見える。 (何千回も見てきたのに)私にはこの街路のことがよくわからない。 私はあたかも酔っぱらいのように歩いており、 足を引っ張りあげ、さらに自分で意識しながら足をおろすのである。 私は、喰べること、あるいは味についてはたいして興味を覚えない。 私には、いろんな感情がただ漠然と私の前を通り過ぎてゆくように感ぜられる。 私は、いさかいのことをこと細かに思い出そうとするのであるが、どうもうまくゆかない。 二、三のことは、たいへん鮮明に浮かび上がってくる。 だが残りのことはごちゃまぜの状態である。 (いつものレストランで*)給仕人がやってきた。 中年の中国人である。 彼は自分の額をさした。 「あなたは問題をかかえてらっしゃる」私はほほえみ、うなづく。 彼はさらに続ける。 「今日この頃では、だれもが何か問題を抱えている」 彼のコトバは不思議と私の心をなごませた。 そして彼は頭をふりながら遠ざかっていった。 これは外界へ心が通った最初である。 それによって、私の心はほころび、 他人が想像する以上に私の助けになった。 この状態がかなり長く続くとき、人がどうして自分を傷つけ、 ときに自動車の前にとびこむ気持になるのが理解できた。 彼らは、たいていの場合、 自分のまわりの現実世界についての認識を欠いているために、 こういうことをやってしまうのである。 彼らは、またそれを復讐心(revenge)からもやる。 そうでなければ、鉄砲を手に、他人を射殺してしまう。』 こうした激しい怒りの状態にとらわれているという体験は、 “気が狂っている”という歴史的な体験に非常に近い。 第一章 狂気と社会 ((権力的暴力の心理-白人警官と黒人 ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 23 32 No.00010 「(*狂気と権力―暴力) 激しい怒りの状態にとらわれているという体験は、 “気が狂っている”という歴史的な体験に非常に近い。 ハーレムにいる若い黒人のコトバ 『白人の巡査(cop)という奴は、ひどくサディズム的なヤロウだ。ハーレムにそんな奴いらねえ。 他の誰よりも、あいつらの方が暴力をふるうじゃねえか。 奴はだれかれかまわず追いかけたがる。その時、奴はもう気が狂ってしまう。 奴が気狂いになるって言ってんだよ』 この黒人の言い分はこうだ。 ...警官は暴力的反動を刺激することによって、自分自身の怒りを、 当人が法と秩序だと思っているものを保存するための 刺激として使用しているのではないか。 いわば警官というのは、文化的に受け入れられた精神病を利用してそれを現実の状況場面に自分を結びつけるために使っているのではないか。 (犯罪学教授トッホによるレポート『暴力人間』より) 『黒人の子供と白人の巡査は、多くの点で不思議と似ている。つまり そのプライド、その恐怖感、孤独、自己を顕示したい欲求、とりわけ、他人から尊敬されたいという願望には共通なものが見られる。 両者とも、自らが作ったのでもなく、また自分ではコントロールできない、しかも エスカレートするばかりの葛藤の犠牲であるとともに、それにとらわれている』 警察官自身の報告からもわかるように、 彼らは自らを“法と秩序”の擁護者であると自認している。そして このことを個々人の自尊心と男性らしさでもって証拠だてようとしている。 十二分にわかっていることだが、警官というものは “法と秩序”という概念をもとに自己を拡大し、 投影してつくった自我像のなかで、ほんとに自分はそれだけの能力があるのか という内的な戦いを続けているのである。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― 彼ら(白人警察官*)は自分たちに向けられた侮辱は、 とりもなおさず、国法に対する侮辱である。と解釈するのである。 つぎに彼らはこう言い張らなくてはならない。 “犯罪容疑者(suspects)”は、自分たち警官の権威と力のほどを尊敬している。 彼らは、自分たちの堂々とした男らしさは挑戦を受けており、 自分たちの自尊心のよりどころである“世間からの評価”は危機に瀕していると。 ――典型的な一例―― 家庭内いざこざのため呼び出された警官がかけつけてみると 当の黒人自動車の中に腰かけたままである。しかも 車のなかのその黒人は、この格好のままで、警官に何か訴えうると考えている。 『警官は、黒人に車から出るように求める。黒人は「あんたにそんなことを言えた義理はない。私は自分の所有物である、自分の車に乗っているのだから」。黒人はいかにも不快そうな様子だ。 彼の「態度は私を悩ませた」、と警官は報告している。 黒人は、最終的には車から出たが、トレンチコートのポケットに手を入れたままだった。 これがまた警官の気に障った。警官は手を出すように要求する。拒み続けるので、もうひとりの警官を呼び、ふたりがかりで黒人の手をポケットから出させる。 この警官は、この行為を自分の権威に対する許し難い反抗(defiance)であると解している。 彼としては、どうあっても警官の権威を主張しなければならなかった。(「私は、その男の手をポケットから出させることが至上命令のように思えた。…われわれが彼を捕らえたとき、彼は口汚く罵った。…彼はパトカーの後部座席でも、シートの上に小便をかけるぞと脅し、窓ガラスを蹴ったり、叩いたりした」) このケース両者とも“暴力的人間(violent men)”である。 いずれもが、自らの抱いている自我像(self-image)と “一個の人間”としての体面を守ることに懸命だったのである。 しかし警官のほうは、法の強制力とガンとバッジとの同一化によって、 とりわけ有利な地位にあった。 “容疑者”というものはたいてい、 カードは自分に不利な形で積み重ねられていると思っている。 つまり“決闘”に際して、自分の相手はバッジとガンの後ろに身をかくし、 そして“容疑者”は、しばしば警官に挑戦して、 警官のバッジをとりはずし、裸の“人間対人間”の戦いにもどそうとするものである、とトッホは書いている。 手をとるとか、身体的接触、その他いろんな「触れ合い」が、とりわけ重要である。 “容疑者”は、自己の肉体の不可侵性(inviolability)を守らなければならないのである。 警官は“その容疑者”の肉体を踏みにじり(violate)、 不必要なまでの手荒さで相手をつき回さねばならず、それは 自分の方の権威にその容疑者をひざまづかせるための手段だと思っている。 このタイプの警官はほとんどつねに、 黒人に対しその身分証明(identification)を求めているということである。 今日、アイデンディディは、きわめて個人的な事柄である。 心理学的にいうと、身分証明を要求するということは、ある人間に 身体的に裸になることを要求するのと同じである。 つまり、すでに劣っていると思い知らされてきた人物に、個人的侮辱をさらに加えることである。 このことが黒人に暴力(outrage)感を呼び起こし、そこで警官は、 相手を単にアイデンティティの証明を越えて暴動のふちにまで状況を追いやることになったのだ、と気づくのである。 こうした暴力行為について注意すべきことは 結果的に刑務所入りをすることになる人が、その行為を通して 自分の自己イメージないし、自分についての評判とか自分の正当性を ひたすら守ろうとしていることである。 ほとんどすべての人が何らかの形で、 自尊心や人間としての自己の存在意味を形成するなり守るために 闘っている、ということである。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 「(*警官と容疑者の)権力闘争は、その立腹は想像上のものであるのに、 白熱してパラノイドの状態にまでなりうる。それは 弱いものいじめ(bullying)あるいはその他の逸脱行為に出る場合もある。 こうした暴力の根拠を理解するためには、こうした行動の背後にある心理ダイナミックスをたずね、 自尊心を確立し、それを擁護しようとする個々人の戦いのなかに その根源をさがしもとめねばならない。 本質的には、このことは積極的な欲求である――また潜在的には、建設的なものである。 「暴力は自尊心の低さおよび自己疑惑の上に育つものであり 暴力は、搾取(exploitation)とその搾取可能性(exploitativeness)の上にはびこる ものである」(トッホ「暴力的人間」) 権勢欲は、自尊心を求める戦いを別のコトバで表現したものであるが、 これは人間だれにも普遍的に持ち合わせているものである。 ニューヨークのアティカ刑務所で起こった反抗での、反抗的入獄者の指導者は こう宣言している。 『自分たちは、もはや統計的な扱いを受けたくないし、 背番号で呼ばれたくない。 …われわれは、人間として扱ってもらいたいのです。 われわれは、人間らしい扱いをしてもらおうと思うだけです…』 前者より年配のもうひとりの入獄者はより現実主義的な見解を述べている。 『もしわれわれが人間らしい生き方ができないなら、 すくなくとも人間らしい死に方をしてみたい。』 歴史の伝えるところだと、彼らのなかの二十八人が、 数日後、騎馬兵が突撃してきて発砲したときに死んでいる。 …そしてこれも歴史の語るところだと、 何人かの受刑者は、自分たち担当の刑務所看守を銃撃から守るために 身を張って身代わりになって死んだものもあったという。 第一章(2) 狂気と無力感(無力感と薬物 ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 23 35 No.00011 「無力感に起因するもうひとつの現象は、 薬物嗜癖(drug addiction)という形であらわれている。 無力感をもっとも強く感じとっているのは、若年層である。 薬物嗜癖がもっともはびこっているのも、同じくこの若者たちである。 若者のこの薬物嗜癖は、なによりも各自が 自らの精神を冒涜している(violate)という意味で、ある種の暴力といえる。 この薬物嗜癖の基本は 「あまりにも弱いこと」と「怒りが阻止されてこと」による。 …ヘロイン吸入は、絶えず弱さを感じなければならぬこの不安(discomfort)を吹きとばしてくれる。 …(若い白人男性の場合*)こうした無力感のもとは、一般に 若者が強い父親との人間的つながりを持っていないということである。 (時にそれは母親との関係に帰せられるが、しばしばというほどではない) 自分が同一視すべき男性像(male figure)を欠くので、 父親が外部から持ち込んでくれると考えられる何らの方向性も構造もなく、 それに従うなり反抗するなりして 自分を方向づけることのできる一組の価値というものも欠いているのである。 黒人のケースではこの強き父親の欠如が認められている。 黒人たち場合、問題は外在化されており、したがって 薬物嗜癖は白人の場合のように、重症な疾患にはならない。(*本が書かれた70年代当時*) 白人の場合の薬物嗜癖は、 自分の父親を圧えつけたいというエディプス的な動機を欠いているようである。… しかし息子は、嗜癖によって父親に復讐することになる。 …この無力感という状況から、治療方法が出てくる …嗜癖者が腹を立てれば立てるほど――このことは、恨みあるいはその他の間接的な形ではなく、直接的なものだが―― それだけいっそう治りやすくなっていく。 …薬から離れるとき 嗜癖者は大いに怒りがちである。 即ち 「彼の社会復帰できるかどうかは、 ひとえにこの怒りのエネルギーによる」。 (フェニックス・ハウス治療センター) 第一章(2)狂気と無力感(存在意味を求める叫び ロロ・メイ著 2009年08月11日(火) 23 39 No.00013 「権力と意味感覚(sense of signisicance)は、絡み合っている。 …権力というものは典型的に外向性のものであるのに対し、 意味というのは瞑想その他の 内向的・主観的方法によってあらわになる(かつ完成される)。 意味というものは、 それによって自我が統一され、 他者との人間関係をより効果的あらしめるのに役立つことからして、 人間にとっては、権力感覚として体験される。 権力というものは、つねに人間関係的なものである。 もしそれが、純粋に個人的なものの場合には精力(strength)と呼ばれる。 サリバンによると、 重要な他人との対人関係の場で影響力を持つという意味での権力感は、 自尊心を維持する上でも、また成熟過程においても重大なものである。 意味感覚が喪失してしまうと、人間はその意味に代わるものを求めて、 注意を別の、しかもしばしば倒錯せる、 あるいは神経症的な権力形態へ向ける。 … 暴力あるいは暴力に近い行為は、 人間に自分も物の数に入れてもらえるという感覚や、 重要なのだとか権力のある人間なのだという感覚を与えることになる。 (その感じが代用品(ersatz)であるかないかは、 その瞬間においては重要なことではない)。 やがて、これはその当人に意味の感覚を与えることになる。 いかなる人間も、 自分は重要なものであるという感覚を持つことなくしては、 そう長くは生きられない。 人間はその意味感覚を得るのに、 路上で出会った人間を偶然射撃するにせよ、 あるいは建設的な仕事にせよ、 それとも反抗あるいは病院での精神的要求にせよ、 もしくはウォルター・ミッティ(*映画『虹を掴む男(1947)』の 主人公―白日夢ばかり見ている)のファンタジーによるにせよ、 人は、 『この私はしかるべきものに数えられている』(I count for something) と感じることができ、 その感じとられた意味を生きぬくことができなければならない。 多くの暴力行為のもとにあるのは、 この意味感覚の欠如と、その意味を求めての戦いである。 狂気と無力感(存在意味を求める叫び 2 暴力は自然か教育か ロロ・メイ著 2009年08月12日(水) 00 00 No.00014 「1968年の政治的暗殺(*ロバート・F・ケネディマーチン・ルーサー・キング牧師)の余波として、 暴力の原因およびその治療に関する一群の意見や研究が出た。 それらは主として 「自然性」(nature)を強調する人たちと 「教育」(nuture)の方を力説する人たちとの間の論争から成り立っていた。 前者(主として、フロイトにさかのぼる)は、 攻撃性というものは本能的なもので、人間が生得的にそなえているものの一部であり、 人間というものは本来的に攻撃的なのである というのが全般的な見解である。 この見方によると、 攻撃性は、人間が背負わねばならぬ十字架であって、 せいぜいわれわれ人間にとって希求できることは、 われわれの心情に備わっているこの悪をコントロールするなり、あるいは 戦争その他、文化的に認められた暴力形態によってこの攻撃性を発散させること位である。 「教育」を重んずるもう一方の見解によると、 攻撃というものは文化的現象であって、 マスコミ、欠陥のある教育、とりわけテレビによって引き起こされるものであり、 あるいは少なくともそれらによって増大されるものである。 攻撃性は、われわれの教育方法を変えることで、テレビの番組を統制することで、 抑えることができるなり、それから免れることができるものである。 やっかいなことに、またあまりにもしばしば無視されていることは、 これら両アプローチが、相互に排他的なものではないということである。 攻撃性は、 人間が本来そなえている基本的な装備の一部をなしているものであるが それはまた文化的に形成され、いっそう激化されるものであり、 すくなくとも部分的に、再方向づけのなされるものである。 もっとも重要な問題は自然と教育双方に根をおろし、 両者を結びつけ、攻撃と暴力と密接な関係にある、価値の問題…である。 われわれは、 価値体制が変更されるのを望んだり あるいは庭から雑草をつみとるような形で その他の意識的な手段に訴えて、 価値体制というものを決して変えることはできないのである。 …価値体制を変更するには、いろんな問題にさぐりをいれる必要がある。 暴力とは個々人にとって何なのか。 攻撃や暴力によって、人間はいかなる目的をはたそうとするのか。 人間行動から一切の権力(*パワー)や攻撃性をとり除こうとする ユートピア的なねらいを持つことによって われわれは、自己主張(self assertion)自己確信(self affirmation)をとり除く危険をおかし、 さらに必要な権力(*パワー)まで失うことになる。 もしそんなことが成功するなら、それによって 従順で受動的な去勢された人間(eunuchs)を飼育し、 いままで起こってきたことがまるで取るに足らないものにしてしまうような暴力となって爆発する素地 をつくることになる。 かくて、 問題を過度に単純化してしまうと、 われわれは、一方では攻撃に、 他方では去勢された人間に、といった 両者間の選択に問題をしぼっているようにきこえる。 見損なってきたことは、 攻撃性というものが(積極面から見るときは) もし捨てられるなら われわれから奪われてしまうような生命の持つもろもろの価値維持に 役立っているということである。 狂気と無力感 (権力の5つのレベル ロロ・メイ著 2009年08月12日(水) 00 05 No.00015 権力の5つのレベル(概説*) 攻撃性とか暴力というものを理解するには、問題の基本として 「権力」を見る必要がある あらゆる人間の生涯にわたって見られる 潜在力としてあらわれる権力(*パワー)には 五つのレベルがある、ということを私は主張したい。 (*1)『存在への権力』(power to be) この権力(*パワー)は新生児に見られる。 新生児は、内部の不快のしるしとして、飢えそのほかの要求を満たすため、 泣いたり、激しく腕を動かすことができる。… (*存在への)権力(*パワー)というものは、 この世に生まれたということによって与えられるものではあるが、 文化そのものによってではなく、 その幼児が「生きている」というまさに紛れもない事実によって与えられる。 ルネ・スピッツが、プエルトリコの哀れなみなし児について研究しているが、 この子供達は、看護婦ないしその他母の代理をしてくれる人から なんの注意も払われないでいるケースである。 このように、もし自分の行為が まわりの人たちから反応を得るという経験が否定されるようなら、 幼児は、ベッドの片すみに引きこもり、話さなくなったり、 あるいは別の症状が出てくる。 そして、生理学的にも心理学的にも、文字通りしおれてしまう。 その無能力のゆきつく果ては死である。 (*2)『自己-確認』(self-affirmation) すべての人間は、単に生きたいという欲求だけではなく、 自分自身の存在を確認したいという欲求を持っている。 人間という生物体には、自我意識というものが天賦のものとして与えられるか あるいはそれを持つべく定められている。 自我意識は生まれつきのものではなく、 生後数週間後にはじめて発達するものであって 数年間にわたっては十分に発達せず、生涯にわたって発達し続けるのである。 つぎに「意味」の問題がでてくる。 そして自尊心、ないしそれに代わるものを求めて 長いきわめて重要な探求がはじまり、 もし、それが欠けている場合には悲しみに見舞われる。 人間を考える場合、 単に肉体的な生存はもはや主たる問題ではなくて、 何らかの自尊心を伴う生存こそ意味があるのである。 他人から認めてもらいたいための叫びこそ、 自己―確認(self-affirmation)を求める欲求にとっては、 中心になる叫びである。 家族内で当人の存在の意味や承認が許されるなら その子供は他のことにも注意を向ける(ことができるように*)なる。 (子供だけでなく、親たちももし自己確認というものが阻止されるなら 全生涯にわたって強迫的欲求となる。) 「もしお前がわれわれの言うことを聞くなら、お前を愛してやろう」 というような親のパターンに直面すると、子どもの自己-確認は 困難になるかもしれない。 かくて子どもは、競争という破壊的な側面、自我と世界の売り買い といった状況のなかに追い込まれる。 こうした方法あるいは他の方法によって、子どもの自己-確認はゆがめられるか、 徹底的に阻止されてしまう。 (*3)『自己主張』 自己-確認が抵抗に遭遇するとき、われわれはさらに努力を倍増し、 自分の構えに力みを加え、 自らが何であるか、自らが何を信じているかを明らかにし、 われわれは反論を向こうにまわしてそれを明言する。 これが第3段階の自己主張である。 それはより強力な行動形態であって、 自己-確認よりもはるかに明白な自己主張である。 「ここに私はいます。私は あなたが私に気づいてくださることを求めます」 と叫ぶとき、 他人はわたしたちを見ざるを得なくなる。 アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』における (*アメリカのごく普通の平凡なセールスマン)ウィリー・ローマンの妻のスピーチ 『注目されねばなりません』 『ウィリー・ローマンは決してたくさんの金をこしらえてはいません。 彼の名前は新聞にでたことも全然ありません。...けれども、彼は人間です。 ...だからみんなから注目されねばなりません。』 われわれの中にはだれか他の人のために擁護しているとき、 よりしっかりと自らを擁護できる人がいる。 これは単にもうひとつ別の自己形態であって、それは、 上品さという規範を守るため、あるいは“自己吹聴などしない”ために しばしば必要になるものである。 (*4)『攻撃』 第四の段階は攻撃(aggression)である。自己-主張が阻止されるときに こうしたより強い反動形式が発展しがちである。 ある点で線を引き、「これは私です、これは私のものです」と主張する 自己主張とは対照的に、攻撃性というものは、 権力とか威信のある地位や身分あるいは他人の領域へ移ってゆくものであり、 他人の何がしかを自分のものにしてしまうことである。 強調しておきたいのは、これが各自の中に 潜在力として存在する行動の段階であるということである。 ある期間、個人にとって攻撃的傾向が完全に否定されるとき、 攻撃傾向は、ゾンビのように意識がかき消され他人の意になってしまったり、 神経症や精神病、ないし暴力という形の犠牲を払うことになるのである。 (*5)『暴力』 最終的には、 攻撃へ向けての一切の努力が役に立たないときそこに起こるのは 「暴力」として知られている究極的な爆発である。 暴力は主として身体的なものである。というのは 理由付けあるいは説得を含むことができる他の局面は、事実上阻止されてきた。 黒人...身体的奴隷および後になると 心理的奴隷 におかれたままでは いかに非暴力的であれと言っても困難か、不可能な状況であった。 黒人がまがりなりにも自己-確認を持てる道は、 白人に快い刺激を与えるための歌手や踊り子になって芸人になるか、 それとも、白人の畑を耕作するなり、後になると白人の自動車を組み立てる仕事につくことくらいであった。 こうした事情が黒人をして、その多くを アパティ(apathy=無感動)の人間にしたり、 後年過激な噴出にいたらせる もし、他の方面の行動が阻止されているとすれば、 そのとき、暴力への爆発は、 個人ないし集団が耐え難い緊張から解放され 意味感覚を抱きうる、唯一の方法、かもしれない。 暴力のもとは... 他の一切の反応方法が阻止されていると感じられる状況 に対する反応である。 スレッド順位調節用投稿 N 2009年08月12日(水) 00 34 No.00025 *暴力は 自己の意味を、訴える方法を他に見いだせなくなったときに 爆発する * ページ移動 1 2 3 4 5 6 修正削除 記事No. 編集キー Powered by 無料レンタル掲示板 アトミックASP