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唐書巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣 秦宗権 董昌 黄巣は曹州冤句の人である。代々塩の販売を行ない、資産に富んだ。剣術や馬術・弓術にたくみで、少しは書籍にも通じており、弁も立った。亡命者の面倒を見ることも喜んでやった。 咸通年間(860-874)末年、連年の飢饉で黄河以南の地には盗賊がはびこった。乾符二年(875)、濮州の名の売れた盗賊の王仙芝が長垣で叛乱を起こした。三千人の勢力で曹州・濮州の二州を荒らしまわり、一万の人間を掠め取って、ついに大勢力となった。王仙芝は不とどきにも大将軍と名のり、諸道に檄を飛ばして、官吏の貪欲、賦税の苛重、賞罰の不公平さを指弾した。宰相は恥じて王仙芝の蜂起について報告しなかったので、僖宗は何も知らなかった。王仙芝麾下の命知らずの部将に尚君長・柴存・畢師鐸・曹師雄・柳彦璋・劉漢宏・李重覇ら十余人あり、至る所で掠奪をほしいままにした。そして乱を好む黄巣も、子弟八人とともに仲間を募ると、何千人と集まったので、かくて王仙芝に呼応したのである。黄河以南十五州を転々と荒らしているうちに、とうとう何万という勢力になった。 帝は平盧節度使の宋威とその副使の曹全晸に命じて討伐させた。何度も戦って賊を破った。そこで宋威を諸道行営招討使に任命して護衛兵三千、騎兵五百をつけてやり、河南諸鎮に詔をくだしてすべて宋威の指令を受けさせた。また左散常侍の曾元裕をその副使とした。王仙芝は沂州を攻略しようとしたが、宋威は賊を城下に破った。王仙芝は逃走した。そこで宋威は賊の大頭目は死亡しましたと上奏し、勝手に麾下の兵を放して、青州に帰ってしまった。都では群臣一同参内して祝辞を述べたが、三日ほど経つと、地方の州県から賊が依然健在であることを上奏してきた。その時、軍隊は休息にはいったばかりで、詔をくだしてもう一度将兵を派遣しようとしたが、兵士たちはみな怒って叛乱を起こそうとした。賊はそのすきをうかがって郟城に向かい、十日経たないうちに八つの県を破った。帝は賊が東都(洛陽)に迫って来たのを憂慮し、諸道の兵を督励して食いとめようとした。かくて鳳翔・邠寧・涇原の兵が陝州と潼関を守り、曾元裕が東都を守り、義成と昭義の兵は東都の宮城を守護した。 王仙芝は郟城方面から転じて汝州を攻め、その地の将軍を殺した。刺史は逃走した。東都では大恐慌を来たし、百官は身ひとつで東都から逃げ出すありさまであった。賊は陽武県を破り、鄭州を囲んだが成功せず、鄧州と汝州のあいだを蟻のように群がって攻め立てた。函谷関以東の州県は大ていどこでも賊を畏れて城に立てこもって自衛した。そこでは兵を四方に放って侵略させ、郢州・復州の二州を荒らしまわった。至る所焼きはらい掠奪をつくしたので、住民はあらかたいなくなってしまった。官軍が急追すれば、物資を路にばらまいて逃げた。兵士たちはわれ先きにそれを取ろうとするので、軍は停滞してさきに進まないことが多かった。賊は転戦して申州・光州方面に入った。随州を荒らして刺史とらえ、また安州に本拠を構えて余裕綽々たるものがあった。奇襲部隊をさし向けて舒州を囲み、廬州・寿州・光州などの州を攻撃した。 当時、宋威は老齢でしかも暗愚なため作戦遂行の役に立たなかった。内々で曾元裕と相談した。「昔、龐勛が滅びると、功労のあった康承訓は早速罪を得た。われわれの場合も、たとい成功しても、禍いは免れまい。とすると賊の勢力を温存する方がよい。不幸にして賊が天子になっても、われわれは功臣にはなれるだろう」。そこで賊を追撃するのに一舎(16km)をゆくだけにして、日和見をきめこんで軍隊の自全をはかった。このことを帝も知って、あらためて陳許節度使の崔安潜を行営都統とし、宋威の代わりに前鴻臚卿の李琢を諸道行営招討草賊使に任じ、曾元裕の代りに右威衛大将軍の張自勉を副使に任じた。 賊が蘄州・黄州方面に出没すると、蘄州刺史の裴渥は、賊のために朝廷に官を請求してやり、たがいに休戦を約束した。王仙芝は黄巣らとともに裴渥のもとに出かけて酒を飲んだ。まもなく王仙芝を左神策軍押衙に任命するという詔書が下り、宦官が慰撫のために派遣されると、王仙芝は喜んだが、黄巣は恩賞が自分に及ばないのを恨んでののしった。「君は降伏して自分だけ官を手に入れたが、五千の仲間たちはこれからどうなるのだ。軍に要請して早くここを引き払え」。そういって王仙芝を殴りつけて頭に負傷させた。王仙芝は大衆の怒りをおそれて、任命を受けないまま、蘄州の兵士を連れ去った。裴渥と宦官とは逃げ出した。賊はその勢力を分け、尚君長は陳蔡地方に入り、黄巣は北方の斉魯を荒らした。黄巣の兵力は一万人あり、鄆州に入って天平節度使の薛崇を殺し、進撃して沂州を陥れた。その勢力はついに数万に達し、穎蔡地方を経て査岈山に立てこもった。 この時、柳彦璋の方も江州を取って、刺史の陶祥をとらえた。黄巣は兵をひきいてまた王仙芝と合流し、宋州を囲んだ。たまたま張自勉の援兵が到着して、賊二千人を斬った。王仙芝は囲みを解いて漢水を南に渡り、荊南を攻めた。そこで節度使の楊知温は籠城して守った。賊は火を放って楼門や城壁を焼いたが、楊知温は出て戦おうとしなかった。朝廷は詔をくだして、西川節度使の高駢に荊南節度使を代わらせた。高駢は蜀の兵一万五千をひきい、軍糧を携帯して、三十日以内に到着することを目指してやって来たが、到着したとき城はすでに陥っていた。楊知温は逃走したが、賊も江陵を守り通すことができなかった。この時、左武衛将軍の劉秉仁に詔して江州刺史に任命した。劉秉仁は部隊を配置しておき、一艘の舟に乗って賊の柵に入った。賊は大いに驚き、一同打ち揃って劉秉仁に降った。劉秉仁はついに柳彦璋を斬った。 黄巣は和州を攻めたが、まだ攻略するには至らなかった。王仙芝自身は洪州を囲んでこれを取り、徐唐莒にここを守らせた。進んで朗州・岳州を破り、ついに潭州を包囲したが、湖南観察使の崔瑾が防いでこれを撃退したので、王仙芝は転じて浙西方面に向かい、宣州・潤州を荒らしまわった。しかし要求を実現することができないので、自分自身は江西に留まり、別隊に命じて再び河南に入らせた。 帝は詔して、崔安潜を忠武軍に帰し、再度宋威と曾元裕を起用して招討使の任につかせた。そして楊復光が監軍の任に当たった。楊復光は部下の呉彦宏をやって、勅旨をもって賊を説得させた。王仙芝はそこで蔡温球・楚彦威・尚君長をつかわして降り、朝廷に赴いて裁きを受けたいと申し出た。また宋威に書簡を送って節度使の職を求めた。宋威はそれを引き受けたと見せかけ、朝廷には尚君長と戦ってこれをとりこにしたと報告した。一方、楊復光は賊は降伏してきたのだと言い張るので、朝廷は侍御史と宦官とを早馬で派遣して訊ねさせたが、実状を明らかにすることができず、とうとう尚君長らを狗脊嶺で斬ったのである。王仙芝は怒ってまた洪州を攻め、その外城へ侵入した。宋威はみずから軍をひきいて行ってこれを救い、王仙芝を黄梅で破った。賊の首級を上げること五万、王仙芝をとらえて斬り、その首を京師に送った。 ちょうどこの時、黄巣は亳州を囲んでいたが、まだ下すには至らなかった。尚君長の弟尚譲は王仙芝の残党をひきつれて黄巣に帰し、黄巣を王に推戴した。衝天大将軍と号し、官吏を任命した。そして河南・山南の民十余万を駆り立てて淮南を掠奪し、年号を建てて王覇と定めた。 曾元裕は申州で賊を破り、一万人を殺した。帝は宋威が尚君長を不法に殺し、また賊の討伐に功績を挙げないので、詔して青州に帰らせ、曾元裕を招討使とし、張自勉を副とした。黄巣は考城を破り、濮州を取った。曾元裕は荊襄方面に軍を置いていたが、兵を派遣してこれを阻んだ。朝廷は改めて張自勉を東北面行営招討使に任命し、諸軍を督励して急追させた。黄巣はそのとき裏邑と雍丘を侵略していた。朝廷は滑州節度使の李嶧に詔して原武にとりでを築かせた。黄巣は葉・陽翟を襲い、東都をねらおうとした。たまたま左神武大将軍の劉景仁が兵五千をもって東都の救援にかけつけた。河陽節度使の鄭延休は兵三千をもって、河陰にとりでを築いた。黄巣の軍隊のうち、江西で活動していた部隊は鎮海節度使の高駢に破られ、新鄭・郟・襄城・陽翟を攻撃していた部隊は、崔安潜に追われて敗走し、浙西の部隊は、鎮海節度使の裴璩のため二人の司令官を斬られて、おびただしい死者を出した。黄巣は大いに意気沮喪しておそれ、やむなく天平軍のもとに降伏を申し出た。そこで詔を下して黄巣に右衛将軍を授けたが、黄巣は藩鎮がおたがいにバラバラでこちらを押えこむだけの力はないと見て取り、そのまま叛き去り、方向をかえて浙東に攻め入り、観察使の崔璆をとらえた。そこで浙西節度使の高駢は部将の張潾と梁纘とをやって賊を討たせ、これを破った。賊は軍を撤収して江西に渡り、虔州・吉州・饒州・信州などの州を破った。つづいて山を開いて七百里の道をつけ、一気に建州に進んだ。 はじめ黄巣の軍中では、「儒者に逢いもしものことに傷つけたら、軍はきっと全滅する」という歌 がうたわれた。黄巣は福建地方に入って人民を捕虜にしたが、儒者を詐称する者はすべて釈放された。時に乾符六年三月のことである。近道をして福州を囲むと、観察使の韋岫は戦って敗れ、城を棄てて逃げた。賊は入城し、住居を焼きはらい、まるで草を刈るように人を殺した。しかし崇文館校書郎の黄璞の家を通りすぎる時には、命令を下した。「ここは儒者の家だ。焼かないようにたいまつを消せ」。また処士の周朴をさがし出して言った。「われわれに従ってくれますか」。周朴は答えた。「天子にも仕えなかったおれだ。賊などに従えるか」。黄巣は怒って周朴を斬った。この時、福建地方の諸州は全部賊の手に陥っていた。朝廷は高駢に詔して諸道行営都統に任命して、賊を防がせた。 黄巣は桂管をおとしいれ、進んで広州に攻め入った嶺南東道節度使の李迢に書を送って、上表して天平節度使を申請するよう求めた。また崔璆を脅迫して、朝廷に天平節度使授任のことを上奏させた。宰相の鄭畋はそれを許そうとしたが、盧攜と田令孜が反対した。黄巣はまた安南都護・広州節度使を要求した。その申請書が上聞に達すると、尚書右僕射(宰相)の于琮は「南海の貿易の利は莫大です。賊がこれを得るとますます資力豊かになり、そして国の財政はゆきづまってしまいます」と論じた。そこで黄巣を率府率に任命した。黄巣はその詔を見て大いにののしり、広州を急襲して李迢をとらえた。そして義軍都統と自称し、これから入関することを公開状によって布告した。そこには、宦官が朝権を握って国政をむしばんでいることを非難し、朝臣たちも宦官たちと贈収賄でぐるになり、官吏登用は不公平で才能ある者が選ばれない実状を指弾し、また刺史が財産を殖やすことを禁止し、県令で汚職を犯す者は族誅すると声明していた。これらはいずれも当時最大の悪弊であった事柄である。 天子はさきに宋威の失策を処分してこれを罷免したが、宰相の王鐸がみずから前線指揮に行きたいと願い出たので、それではと、王鐸を荊南節度使・南面行営招討都統に任命し、諸道の兵を率いて討伐させた。王鐸は江陵に駐屯したが、上表して泰寧節度使の李係を招討副使・湖南観察使に任じ、先鋒として潭州に駐屯させた。そして二つの駐屯地の間にはのろしと駅伝を列置した。たまたま賊中に病気がはびこり、十人中四人までが死んだので、ついに北方帰還にふみ切った。巨大ないかだを組み桂州から湘水(湘江)に沿って衡州、永州に下り、潭州を破った。李係は朗州にのがれ、十余万の兵は殲滅された。その腐った肉を河に投げこむと、河一杯になった。賊は進んで江陵に迫り、兵力五十万と呼号した。王鐸は兵が少ない ので、すぐ城中に立てこもった。これよりさき、劉漢宏が現地を占領して民家を焼きはらったので、人びとはみな山谷に逃げかくれた。引きつづいて李係が敗北し、その知らせがとどいたので、王鐸は城を棄てて襄陽に逃げた。官軍は混乱に乗じて掠奪をほしいままに した。 おりしも降雪があり、人びとは大方路傍で死んだ。 その十月、黄巣は荊南に拠り、李迢を脅迫して天子に答える上表文を起草させた。 李迢は「腕を切られても上表文は作れない」といったので、黄巣は怒って李迢を殺した。そして王鐸を追撃しようとしたが、たまたま江西招討使の曹全晸と山南東道節度使の劉巨容とが荊門にとりでを築いた。 そして沙陀族に命じて馬五百頭にきらびやかに飾った馬具をつけさせ、賊の陣営が見えるところまでくると、馬を放って逃げ帰らせた。賊は臆病だと思いこみ、翌日賊の諸将はそれらに乗って戦ったが、馬は沙陀族の言葉を知っているので沙陀族の言葉で呼ぶとすぐ駆けてゆき、賊の方はこれを引き留めることができない。官兵が林にひそんでいて、賊が闘って逃げる官軍を急追すると、伏兵が起こって大いに破り、賊の首領十二人をとらえた。黄巣はおそれて揚子江を渡って東方へにげたが、官軍がこれを追跡して、十人中八人を捕虜にした。王鐸は劉漢宏を招いて帰順させた。ある人が劉巨容に賊を追いつめるよう勧めると、劉巨容は答えた。「国家は往々にして人を裏切る。一大事のときは賞をおしまないが、事態が落着くと罪を受ける。賊を生かしておいた方が今後得策だ」と。そして軍を停止して追撃しなかった。そこで黄巣は再び態勢を整えることができ、鄂州を攻めて入城した。曹全晸が長江を渡ろうとすると、ちょうどその時、詔が下り、段彦謩に江西招討使を交代するよう命じたので、曹全晸は渡河を中止した。 黄巣は官軍の襲撃を畏れて、転じて江西を侵し、再び饒州・ 信州・杭州の諸州に入り、勢力も二十万に達した。臨安を攻めると、守将の董昌は無勢なので出戦をさけ、数十騎を叢の中に伏せておき、賊がやってくると、弓を仕かけて賊将を射殺させた。部下はみな敗走した。董昌は進軍して八百里という所に駐屯し、宿舎の老婆をつかまえ ていった。「後からやってくる者があれば、臨安の兵は八百里に屯しているといってくれ」。はたして 賊があとからやってきたが、その言葉を聞いた賊は、「この間はわずか数でこちらをさんざんなや ましたのに、八百里にわたって陣を張っているのか」と言っておどろき、やむなく、引き返して宣州・歙州など十五州を荒らしまわった。 広明元年(880)、淮南節度使の高駢が部将の張潾をつかわして揚子江を渡らせた。張潾は賊の隊長の王重覇を打ち破って降伏させた。黄巣はしばしば退却してようやく饒州に拠ったが、軍中に病人が多数出た。また別働隊の常宏は数万の勢力をひきいて降伏したが、あちこちで処刑されて殺された。諸軍はしばしば賊を破ったという虚偽の上奏を行なったが、朝廷はそれを信じて、いくらか安堵していた。黄巣は策略を設けて張潾を敗死させ、睦州・婺州の二州をおとしいれ、また宣州を取った。そして劉漢宏の残党も再び勢いを得て、宋州を攻め、申州・光州を侵略し、黄巣の方へやって来てこれと合流した。かれらは采石を渡って北岸の揚州を侵したが、高駢は軍を擁したまま打って出ようとはしなかった。朝廷は兗海泰寧軍節度使の斉克譲に詔して汝州に駐屯させ、曹全晸を天平節度使兼東面副都統に任命した。賊はその時、滁州と和州を守っていた。曹全晸は天平軍をひきいて戦ったが、淮河のほとりで敗北した。宰相の豆盧瑑は、援兵がまだ到着しないのを考慮して、黄巣に一時天平節度使を与えてその西進を阻み、精鋭部隊で宣武を守り、汝鄭への路を塞ぐならば、賊の首を取ることができましょうと要請した。盧攜はこの意見に頑強に反対し、諸道の兵を召して泗水の流域に布陣し、宣武節度使に総指揮をとらせていただきたい、そしたら黄巣はまたまた東南方面を侵し、浙江の山の中をうろついて生きのびるだけでしょうと申し立てた。詔して盧攜の策に従った。これよりさき、天下の兵に詔して水に集結して、賊の北進を阻止させた。それでちょうど徐州の軍隊がその途中許州を通過していたのであるが、忠武軍節度使の薛能が徐州軍を城中に泊めたので、許州の人びとは驚き、襲われるのではないかと考えた。忠武軍の部将の周岌は溵水から帰ってきて薛能を殺し、みずから留後を名のった。徐州軍はこの兵変を聞いて、その列将の時溥も兵をひきいて帰り、徐州節度使の支詳をとらえた。兗海節度使の斉克譲も部下の背反をおそれ、軍を引きつれて兗州に帰ったので、溵水に集結した軍隊はみな解散してしまった。 黄巣はこれを聞いて全軍挙げて淮河を渡り、不とどきにも率土大将軍と名のった。そして軍隊の秩序をととのえてこれまでのように掠奪を行なわず、行くさきざきで壮丁を用して兵力を増すだけであった。李罕之は申州・光州・穎州・宋州・兗州などの州を侵したが役人たちはみな逃げてしまった。黄巣はみずから部隊をひきいて汝州を攻めた。東都に迫ろうというのである。この事態に際して、天子は幼弱で、怖がって泣いてばかりいた。宰相たちはこもごも神策軍と関内各節度使の兵、合計十五万をすべて動員して潼関を守るべきだと建言した。田令孜はみずから部隊をひきいて東征したいと願い出たが、しかし内心はすっかり動転していて、あらかじめ蜀へ行幸することを帝に説いていた。帝はみずから神策軍に出かけ、左軍馬将軍の張承範を先鋒とし、右軍歩兵軍将の王師会に兵站線を司らせ、飛竜使の楊復恭を田令孜の副とした。こうして京師で兵士の募集を行なって数千人を確保した。 この時、黄巣はすでに東都を陥れ、留守の劉允章が百官を率いて賊を迎えた。黄巣は入城して市民をねぎらうだけだったので、町の人心は落着いていた。帝は田令孜を章信門に見送り、手あつい贈物を与えた。しかしながら近衛兵たちはみな長安の金持ちで、代々左右神策両軍に軍籍があって天子から賜与を受け、華美な服装で威勢よく馬を走らせては羽振りのよさをひけらかしていたが、もともと戦の仕方など知らず、選にあたったと聞いてみな家で泣き出す始末であった。こっそり金を出し、商業地区や病坊から人をやって出征兵の員数をみたしたが、かれらは武器をもつこともできない始末で、この有様を見る者はこれでどうなることかと肌の寒くなる思いをしたのであった。張承範は強弩兵三千を引きつれて潼関防衛に出かけたが、出発に臨んで言った。「安禄山は兵五万を率いて東都を陥れました。いま賊の兵力は六十万、安禄山の場合をはるかに越えております。この三千の兵だけではとても守ることはむずかしゅうございます」。帝は兵力増加を許さなかった。賊は進撃して陝州・虢州の二州を取り、潼関の守備隊に向かって檄を送った。「われわれは淮南を通るとき、あの高駢を穴の中に逃げこむ鼠のように追い払ったのだ。お前たちはわれわれに抵抗することはないぞ」。神策軍の兵士たちは華州を通過したが、三日間の食糧を携帯するだけで空腹を充たすことができず、戦意を失っていた。 十二月、黄巣は潼関を攻撃した。斉克譲はその部隊を率いて関の外で戦った。賊は少しばかり退却したが、突然、黄巣がやって来た。軍勢は大きなときの声を挙げ、そのひびきが川や谷を震わせた。その時官軍の兵士たちはひどい空腹状態にあり、こっそり斉克譲の軍営を焼き払った。斉克譲は逃走し関内に入った。張承範は金を出して軍中を説得して言った。「諸君、報国につとめよ。救援も今に来る」。兵士たちは感泣して防戦したが、賊は後続部隊が来ないと見てとって、一気に潼関を攻めた。官軍は矢が尽き、石を飛ばして敵を射た。黄巣は民衆を使って塹壕の中から関所の建物に火をつけ、すっかり焼き払った。関所の左手に大きな谷があり、かねて通行禁止にしてあったので禁谷とよばれていた。賊がやって来て、田令孜は関所に軍を集結させたが、谷から入ることができるのを忘れていた。尚譲が部隊をひきいて谷の方にやって来ると、張承範はあわてて王師会に弩隊八百をもってこれを待ち受けさせた。王師会らが到着する頃には、賊はもう侵入していて、翌日、関をはさみ討ちにして攻めた。官軍は潰滅した。王師会は自殺しようとしたが、張承範は、「われわれ二人が死んでしまえば、事情を述べる者はだれもいなくなる。それより天子に見えて実状を申し上げよう。死ぬのはそれからでもおそくはない」といって、変装して逃げた。これより先、博野と鳳翔の部隊が渭橋を通過するとき、募軍の衣服が美しく温かなのを見て「こいつらはどんな手柄を立ててもうこんな良い服装をしているのだ」と怒ったが、戦況がこうなって、こんどは賊の道案内をつとめ、賊より一足先きに長安に帰って西市を焼き払った。帝は郊外で類祭を行なって祈祷した。ちょうどそのとき張承範が到着して防ぎ切れなかった模様をつぶさに述べた。帝は宰相の盧攜を左遷した。まさに朝議を行おうとするとき、賊がやって来たという知らせが伝わってきて、百官は逃げてしまった。田令孜は神策兵五百をひきい、帝を奉じて咸陽に走った。わずかに福王・穆王・潭王・寿王(後の昭宗)の四王と一、二の妃嬪だけが随行し、宦官の西門匡範が右神策軍を統率して殿(しんがり)をつとめた。 黄巣は尚譲を平唐大将軍とし、蓋洪と費伝古をその副将とした。賊の兵士たちはみなザンバラ髪に錦の服を着ていた。大量に輜重を輸送したが、それは東都から京師まで一千里の道をとめどもなく続いた。金吾大将軍の張直方は群臣とともに賊を灞水のほとりに出迎えた。黄巣は黄金作りの輿に乗り、護衛兵はすべてを刺繍した袍と美しい幘(頭巾)をつけていた。黄巣の一味は銅製の輿に乗ってこれに従行した。およそ何十万という騎兵がその前後を行進した。京師を陥れて春明門より入城し、太極殿に升ると、数千の宮女が迎えて拝礼し、「黄王さま」とよんだ。黄巣は「ほとんど天の思召しのようだ」と喜んだ。黄巣は田令の邸宅に居を定めた。賊は貧民を見ると、銭や絹のきれを投げ与えた。尚譲はさっそく人民に向かって出たらめな告諭を行なった。「黄王はお前たちをあわれまなかった唐朝とはちがうのだ。おのおの何も恐がらず、安心しておるがよい」。しかしわずか数日にしてやはりひどい掠奪をやり出し、住民を縛ったり鞭打ったりして財貨をさがし求め、それを「淘物」といった。金持ちはみなはだしのままで追い出された。賊の首領たちは立派な邸宅を選んで住み、争って人の妻や娘を奪っては乱暴をはたらいた。官吏を捕えるとすべて斬り捨てた。家屋に放火する例は数え切れないほどで、帝室の一族や王侯は余す所なく殺した。 黄巣は太清宮で身を清め、日を占って含元殿において不とどきにも即位式を挙げ、国号を大斉と号した。衮冕を求めたが手に入らず、弋綈(厚いつむぎ)に模様を画いてその代わりとし、金石の楽器がないので、数百の太鼓を打ち、長剣大刀を列ねて儀衛とした。大赦令を発布し、元号を建てて金統とした。唐朝の官吏は三品以上の者は停任し、四品以下元通りとした。かくて自分で符命を述べたが、それは唐の年号の広明という文字からつぎのような文句を判したものであった。「廣の字は唐より丑と口を去って黄を著く。ゆえに黄が唐に取って代わるべきこと明らかなる証拠なり」。またいうには、「黄は土で、金の生みの親である。これはきっと天のみちびきにちがいない」と。その一味は黄巣に承天広運啓聖睿文宣武皇帝という尊号を上った。黄巣は妻の曹氏を皇后とし、尚譲・趙璋・崔璆・楊希古を宰相とした。鄭漢璋を御史中丞に、李儔・黄諤・尚儒を尚書に、方特を議大夫に、皮日休・沈雲翔・裴渥を翰林学士に、孟楷・蓋洪を尚書左右僕射兼軍容使に、費伝古を枢密使に、張直方を検校左僕射に、馬祥を右散騎常侍に、王璠を京兆尹に、許建・米実・劉瑭・朱温・張全・彭攢・李逵らを諸将軍・遊奕使にした。その他の者も順序にしたがって官爵を授けた。剽悍雄偉な者五百人をえらんで功臣と名づけ、林言をその使(責任者)とし、控鶴府になぞらえた。軍中に命令をくだして、むやみに人を殺すことを禁じ、武器をすべて官に差し出させた。しかしその部下はもともと盗賊なので、みな一向に服従しなかった。唐朝の官吏を召集したがやって来る者がないので、街中を大がかりに捜索した。豆盧瑑・崔沆らは永寧里の張直方の家に匿れていた。張直方という人物はもともと豪傑であったから、士人たちが多数かれに頼っていたのである。かれが亡命者をかくまっていることを賊に告げる者があり、黄巣はこれを襲ってその家を全滅させた。豆盧瑑・崔沆から高官の劉鄴・裴諗・趙濛・李溥・李湯に至るまで百人あまりの死者を出した。将作監の鄭綦、郎官の鄭係は一族を挙げて絞殺された。 この時、天子の乗輿は興元府に駐っていたが、詔を下して諸道の軍隊に京師の回復を早めるよう命じた。そして天子はとうとう成都に到着した。黄巣は朱温をやって鄧州を攻めさせ、これを陥れて荊襄方面を荒らした。また林言と尚譲に鳳翔に攻め入らせたが、鄭畋の部将の宋文通に破られ、前進できなくなった。そこで鄭を発して天下の兵を召集した。かくて詔を下して、涇原節度使の程宗楚を諸軍行営副都統とし、前朔方節度使の唐弘夫を行営司馬とした。かれらはしばしば賊を攻めて一万人もの首を斬った。邠寧の将の朱玫はいつわって賊将王玫のために兵を集めていたが、たちまち王玫を殺し、部隊をひきいて官軍に合流した。唐弘夫は進軍して渭水の北岸に駐屯し、河中の王重栄は沙苑に陣をかまえ、易定の王処存は渭橋に駐屯し、鄜延の李孝昌と夏州の拓跋思恭は武功を守った。唐弘夫は咸陽を抜き、渭水に筏を浮べて尚譲の軍を破り、勝に乗じて京師に入った。黄巣はひそかに脱出して石井まで行った。程宗楚は延秋門から入った。唐弘夫は城壁にとりついて駐屯した。都民はみんなで騒ぎ立てた。「官軍がやって来たぞ」。王処存は精兵五千をつかわし、白布で髪を束ねてお互いの目じるしとし、夜、入城して賊を殺した。都民が黄巣がすでに逃走したことを知らせたので、邠寧・涇原軍は争って首都に入ったが、諸軍は武装を解いて休息すると、これまたわれ先きに財貨・子女を掠奪した。市の無頼の少年たちもさかんに𩫹を作って、思いのままに盗みを働いた。 黄巣は郊外にひそんで城中を偵察させていたが、備えが弛むと見るや早速、孟楷に賊兵数百を率いて邠寧・涇原軍を襲わせた。都民はこれもやはり官軍だと思って歓呼して迎えた。その時官軍の兵士たちは珍しい財宝を運び切れないほど手に入れていたが、賊がやって来たと聞いて、しこたま背負いこんだので走ることができず、それでさんざん負けてしまったのであった。賊は唐弘夫をとらえて殺した。王処存は軍営に逃げこんだ。始め王璠は奉天を破り、兵数千を率いて唐弘夫に接敵し、諸将が敗れたときには一軍だけで戦い、大いに力戦したのであった。黄巣が再び京師に入ると、民衆が官軍を迎え入れたのを怒り、めちゃめちゃに斬って八万人を殺した。路の上を血が川のように流れ、「洗城」といわれた。諸軍は退却して武功を守った。このとき中和二年(882)二月であった。 その五月、昭義軍の高潯が華州を攻め、王重栄がこれに協力してここを攻略した。朱玫は涇原、岐(鳳翔)、鄜坊、夏綏銀の諸節度使の兵八万をひきいて興平に陣営をかまえた。黄巣もまた王璠をつかわして黒水に陣営をかまえた。朱玫は戦ったが勝つには至らなかった。鄭畋の部将の竇玫は夜、兵をひきいて都城の門を焼きはらい、巡邏兵を殺した。賊はおそれ慄いた。その時、畿内の民衆は山の中に柵をめぐらして自衛をはかったので耕作ができず、一斗(6L)の米が三十千銭(三十緡)にはね上った。樹皮をこまかく砕いて食ったり、柵の中の民をとらえて賊に売りつけ、賊はそれを食糧とすることさえあった。人ひとりで数十万銭になった。士人のなかには餅売りとなる者もあったが、こぞって河中に亡命した。李孝昌と拓跋思恭は移動して東渭橋に陣をかまえ、渭水北岸の塁を占領した。 数ヵ月して賊の首領の朱温と尚譲が渭水を渡って李孝昌らの軍を破った。高潯は賊の李詳を攻撃したが勝てず、賊は再び華州を取った。黄巣は即座に李詳に華州刺史を授け、朱温を同州刺史とした。賊はまた李孝昌を襲撃したので、李孝昌と拓跋思恭の両軍は撤退した。賊は陳敬瑄の兵を破り、終南山に逃走させた。斉克倹は興平に軍営をおき、賊に囲まれた。賊は河の堤防を切って水攻めにしたが、陥しいれることはできなかった。尚書省の入口に、賊は今にも亡びるだろうという誹謗の言葉を書きつけた者があり、尚譲は怒って官吏を殺し、すぐ目をくり抜いてさらしものにした。郎官や門の衛卒およそ数千人が誅された。百官は逃げ出して誰もいなくなった。 天子はあらためて王鐸を諸道行営都統とし、崔安潜を副都統、周岌・王重栄を都統左右司馬、諸葛爽・康実を左右先鋒、平師儒を後軍とした。時溥を督漕賦、王処存・李孝昌・拓跋思恭を京畿都統とし、王処存は左翼に当たり、李孝昌は北部に任じ、拓跋思恭は右翼に当たった。西門思恭は王鐸の都監となり、楊復光は行営を監し、中書舎人の盧胤征を克復制置副使とした。ここにおいて王鐸は山南・剣南の軍をひきいて霊感祠に陣取り、朱玫は岐(鳳翔)、夏綏銀の軍をひきいて興平に陣取り、王重栄と王処存は渭水の北に陣取り、楊復光は寿滄荊南の軍をひきい、周岌と合流して武功に陣取り、李孝昌は拓跋思恭と合流して渭橋に陣取り、程宗楚は京師の西方に陣取った。 朱温は兵三千をひきい、丹州・延州の南辺を荒らしまわって同州に攻めこんだ。刺史の米逢は出奔し、朱温は州を占拠してここを守った。六月、尚譲は河中に攻め入り、朱温に四関を攻めさせた。諸葛爽を打ち負かし、王重栄の数千騎を黄河のほとりで破った。諸葛爽は関所を閉じて、出戦しようとしなかった。尚譲はついに郃陽を抜き宜君塁を攻めた。一尺を越える大雪で兵士の三割が死んだ。七月、賊は鳳翔を攻め、節度使の李昌言を澇水で破った。また精鋭をつかわして武功・槐里を攻めた。涇原・邠寧の兵は退却したが、鳳翔の兵だけは堅固に守った。拓跋思恭は精兵一万八千をひきいて難に赴いたが、ぐずぐずとして進まなかった。河中の食糧を積んだ舟が三十艘、夏陽を通過しているとき、朱温が兵をやって舟を奪わせた。王重栄は兵士三万をひきいてこれを救った。朱温はおそれてその舟に穴を空けて沈めてしまった。王重栄の兵はついに朱温を包囲し、朱温は幾度となく追いつめられた。また黄巣の勢力が縮小して今にも敗北しようとするありさまであり、そのうえ孟楷が目下国政を専断していて、朱温が援兵を乞うても孟楷はそれを押えて返答しない状況を考え、朱温は突如として賊の大将の馬恭を斬って王重栄にくだった。帝は拓跋思恭の任務を進めて、京四面都統とし、朱玫に勅を下して馬嵬に駐軍させた。朱温が降ると、王重栄はかれを手厚く待遇した。そこで賊将の李詳もよしみを通じて来たが、賊はこのことを覚って李詳を赤水で斬り、その代わりに、黄巣の弟の黄思鄴を華州刺史とした。 十月、王鐸は興平の西から馬嵬に至るまで濠をさらえ、部将の薛韜にそれを管理させた。馬嵬・武功から斜谷に入って盩厔に通じる間には十四の駐屯部隊を列置し、部将の梁璩にこれを統べさせた。また沮水・七盤・三渓・木皮嶺に関所を置いて、秦隴方面との間を遮断した。左行営都統の東方逵が賊の猛将の李公迪を捕虜にし、三十のとりでを打ち破った。華州の兵士が黄思鄴を追放した。黄巣は王遇を刺史としたが、王遇は河中に降った。 明年正月、王鐸は雁門節度使の李克用をつかわして賊を渭水の南に破った。承制によって李克用を東北行営都統に任命した。たまたま王鐸と崔安潜はどちらも免官となったので、李克用だけが部隊を率いて嵐州・石州から夏陽に出て沙苑に駐屯し、黄揆の軍を破ってついに乾阬に陣を置いた。二月、河中・易定・忠武などの軍と合流して黄巣を攻撃した。黄巣は王璠・林言の軍に命じて左翼を守らせ、趙璋・尚譲の軍に右翼を守らせた。兵力およそ十万、官軍と梁田陂ではげしく戦ったが、賊は敗れ、数万人が捕虜となった。死屍が三十里にわたって横たわり、官軍はそれを収用して京観を作った。王璠と黄揆は華州を襲ってここを占拠した。王遇は逃走した。李克用は州城のまわりに濠を掘り、騎兵を割いて渭水の北岸に駐屯させ、薛志勤と康君立に命じて京師を夜襲させた。薛志勤らは倉庫に火をつけ、賊を捕虜にして帰ってきた。 黄巣は戦ってしばしば利あらず、兵糧もつきた。部下は命令に従わず、ひそかに逃亡の計画を抱いた。そこで黄巣は兵三万を発して藍田方面のルートを押え、尚譲に華州を応援させた。李克用は王重栄を率いて零口に迎え討ち、とうとう華州の州城を陥れた。黄揆は部下を率いて城を脱走した。涇原節度使の張鈞は吐谷渾を説得して、協力して賊を討つことを誓いあった。この時、諸鎮の兵が四方からやって来た。四月、李克用は部将の楊守宗をつかわし、河中の将の白志遷、忠武の将の龐従らを率いて、一番先頭に立って進み、賊を渭橋で攻撃させた。三戦して賊は三たび敗北した。そこで各節度使の兵もみな奮い立ち、後れをとる者もなく、光泰門から突入した。李克用は率先して決戦をいどみ、ときの声が天をどよもした。賊は崩れ立った。逃げるのを望春宮まで追い、昇陽殿の門内に入った。黄巣は夜中に遁走したが、兵力はなお十五万あり、徐州に赴くと宣言して、藍田を出て商山に入った。軍需品や珍貨を道に棄てたので、諸軍はわれ先きにとそれを拾い、それ以上追撃することをやめた。そこで賊は部隊を整えて撤退することができたのである。 安禄山が長安を陥れてからも、宮殿は完成された壮大なすがたを保っていた。吐蕃に焼き払われたのは、市街の民家だけであった。朱泚の乱が平定されてから百年余りの間に壮麗に修復されて、開元年間(713-741)同様になった。黄巣が敗退するに及んで、藩鎮の兵が入れかわり立ちかわり入ってきて掠奪を働き、大内に火をつけた。含元殿だけが焼け残った。火の及ばなかったのは、西内・南内および光啓宮だけであった。楊復光は四川の行在に勝利を報告した。帝は陳許・延州・鳳翔・博野の諸軍に詔して東西神策軍二万人を京師に駐屯させ、大明宮留守の王徽に命じて諸門を警護し居民を安定させた。尚書右僕射の裴璩に詔して、宮殿役所を修復し、輦輅(天子の乗輿)・仗衛(儀仗)・旧章(旗じるし)・秘籍を買い求めさせた。黄巣を破るのに預った者は、神策将横衝軍使の楊守亮、躡雲都将の高周彝、忠順都将の胡真、天徳将の顧彦朗ら七十人であった。 黄巣は東方に向かうと、孟楷に蔡州を攻撃させた。節度使の秦宗権はこれを迎え討ったが大敗し、たちまち賊に臣従して連合した。孟楷は陳州を攻撃して敗死した。黄巣はみずから陳州を囲み、鄧州・許州・孟州・洛州の諸州を取り、東進して徐州・兗州など数十州に攻め入った。人民はひどい飢餓に襲われ、城壁や塹壕にもたれたまま死んでいった。賊は人をとらえては食った。それが一日数千人に及び、大きな石礁を百個も並べて、骨や皮を臼で砕き、丸ごとこれをくらった。この時、朱全忠は宣武軍節度使となり、周岌や時溥と部隊をひきいて陳州の趙犫を救援したが、さらに太原の李克用に兵を求めた。黄巣は秦宗権をつかわして許州を攻撃させたが、勝つには至らなかった。そうした時に、食糧は尽き、木の皮、草の根までもみな無くなった。 四年二月、李克用が山西の兵を率いて、陜州より黄河を渡って東に向かった。たまたま関東の諸藩鎮は汝州に陣取っていたが、朱全忠は賊を瓦子堡に攻撃して、一万余の首を斬った。諸軍は太康で尚譲を破り、これも一万の首級を上げ、何万という武器・甲冑・馬・羊を鹵獲した。また西華において黄鄴を破った。黄鄴は夜、遁走した。黄巣は大いに恐れた。三日すると、軍の内部が動揺して、とりでを放棄して逃走した。黄巣は退却して故陽里に軍営を設けた。その五月、大雨が降り雷電がとどろいた。川も谷川も膨張し、賊のとりでは全部崩潰し、軍隊も解体してしまった。黄巣は陣を解いて去った。朱全忠は進軍して尉氏を守り、李克用は黄巣を追撃した。朱全忠は汴州に引き揚げた。 黄巣は尉氏を取り、中牟を攻めた。部隊が河の中ほどまで渡ったとき、李克用がこれを攻撃した。賊は大部分溺死した。黄巣は生き残りの兵をひいて封丘に逃げた。李克用は追撃してこれを破り、再び鄭州に陣をかまえた。黄巣は汴河を渡って北へ退却したが、夜再び大雨となり、賊はうろたえて混乱に陥った。李克用はこれを聞いていきなり黄巣を河のほとりで襲撃した。黄巣は河を渡って汴州を攻めた。朱全忠はこれを防守し、李克用が救援して、賊の暁将の李周・楊景彪らを斬った。黄巣は夜中に胙城に逃げ、冤句に入った。李克用は軍を挙げて追い迫った。賊将の李讜・楊能・霍存・葛従周・張帰霸・張帰厚は朱全忠のもとに赴いて降った。また尚譲は一万人をひきいて時溥に帰順した。黄巣はますます疑い深く怒り易くなり、しばしば主だった部将を殺した。兵をひきいて兗州に逃走したが、李克用は追跡して曹州までやってきた。黄巣兄弟は防戦したが勝てず、兗州と鄆州の境界地方に逃げこんだ。李克用は男女牛馬一万余り、乗物・器物・衣服等を鹵獲し、黄巣の愛子をとりこにした。李克用の部隊は昼夜兼行で急いだが、食糧がつきたので、黄巣をとらえることができず、やむなく引き返した。黄巣はわずか一千人の勢力で太山に逃げこんで立てこもった。 六月、時溥が部将の陳景瑜と尚譲を派遣して追わせ、狼虎谷で戦った。黄巣はもはやどうすることもできなくなって、林言にいった。「わしは国家の奸臣を討って朝廷を洗い清めようとおもったが、一旦成功して退かなかったのが、そもそも間違いであった。お前はわしの首を取って天子に献上せよ。そしたら富貴が得られよう。この機会を他人に取られるのでないぞ」。林言は、黄巣が死に就くために出てくると、どうしても討つに忍びなかった。黄巣はやむなく自分の手で首を刎ねたが、首が胴体からなかなか離れないので、林言が斬った。その他兄の存、弟の黄鄴・黄揆・黄欽・黄秉・黄万通・黄思厚およびその妻子たちもいっしょに殺して、その首をすべて箱に入れ、それをもって時溥のところに行こうとした。しかし太原・博野の軍が林言を殺し、黄巣の首といっしょに時溥に上呈した。時溥はそれを行在に献上し、天子は詔してこれを帝廟に捧げさせた。徐州の下役人の李師悦が黄巣の使ったにせの節と印璽を手に入れて献上し、湖州刺史に任命された。 黄巣の従子の黄浩は、七千の勢力で江湖の間を略奪してまわって、浪蕩軍と自称した。天復年間(901-904)初頭、湖南に拠ろうと考えて瀏陽を陥れた。殺したり掠めたりした人間はおびただしい数に上ったが、湘陰の豪族の鄧進思が壮士をひきいて山中にかくれ、黄浩を撃って殺した。 賛にいわく、広明元年(880)、黄巣が京師をぬすみ取ったとき、黄巣はわれから言い立てたものである。「廣の字は唐から丑と口を取り去って黄を著ける。ゆえに廣明とは黄が唐にとって代わることの明らかな証拠だ」と。ああ、何という世を惑わす言葉であろう。その後黄巣が死ぬと、秦宗権が勢力を拡張し始め、動乱はつぎからつぎへとつらなって天下にひろがり、朱温がとうとう唐朝の神器をぬすんで政権をわがものにしたのであるが、これらは大方みな黄巣の一味である。天がこれらの連中に託して唐朝の滅亡を天下に告知したのであろうか! 秦宗権は、蔡州上蔡の人で、許州の牙将となった。黄巣が淮河をわたると、節度使の薛能は宗権を派遣して兵を淮西で募集したが、許州で軍乱がおき、薛能は殺害された。宗権は外で軍乱を聞いて赴こうとし、そこで刺史を追放して、蔡州を根拠として叛いた。周岌が薛能に代わって節度使を掌握すると、そこで宗権に蔡州を授けて、兵一万人を有させた。そこで将を派遣して諸軍を従わせて黄巣賊を汝州で破った。楊復光はこれを朝廷に報告し、防禦使に抜擢し、その軍を奉国軍とし、本軍節度使とし、検校司空に昇進した。 黄巣が敗走して関中から出ると、宗権は同盟を結び、遂に陳州を包囲して、防壁を立てて互いに望見し、梁・宋の間を騒がせた。黄巣が死ぬと、宗権の勢力は強くなり、亡命者を呼び集め、四海を呑み込んでしまおうという思いがあった。そこで弟の秦宗言を派遣して荊南に侵攻した。秦誥は山南に出て、襄州を攻撃して陥落させ、進撃して東都(洛陽)を占領し、陝州を包囲した。秦彦に淮州・肥州を、秦賢に江南を攻略させ、秦宗衡に岳州・鄂州を蹂躙させた。賊の親玉は剽悍で惨忍な者を率いて、行くところの老人や子供を殺し、家々を焼き、城府は荒野と化した。関中より青州・斉州に迫り、南は荊州・郢州をめぐり、北は衛州・滑州にあって、皆脅えて隠れたから、千里にいたるまで家々から煙がなかった。ただ趙犫が陳州を、朱全忠が汴州を保持して、僅かに自ら全うするだけであった。しかし覇王の計略などなく、ただ戦乱をたのみとしたから、兵は出ても補給がなかったから、村々を指さして、「あそこの人を食って我が軍に食べさせよう」と言っていた。官軍が追跡すると、食用に塩漬けされた死体が入った車数十台を鹵獲した。 僖宗は朱全忠を行営都統に任命して賊を討伐させた。秦賢は宋州および曹州を攻略したから、朱全忠は書を贈って和平を約束した。秦賢は張調を派遣して地を分け、汴河より以南は蔡に帰属させることを提案し、朱全忠は心内では許諾していたが、秦賢が兵を率いて汴河を渡り、ほしいままに放火・略奪を行い、一つとして余すことがなかった。朱全忠は大いに怒り、張調を斬って死体を送り返し、「我が十将を出せば、必ずやこの賊を破るだろう」と進撃して賊と戦い、大勢を殺したり捕虜とした。宗権は許州を猛攻したたため、節度使の鹿晏弘は援軍を朱全忠に要請したが、軍が出発して到着する以前に、すでに鹿晏弘は破られ、鄭州に進攻して奪取した。河橋を攻撃してきたから、遂に河陽を守ることとなり、兵を放って汴州の西部・北部のあたりを侵攻した。 朱全忠は酸棗に立て籠もり、戦ったが勝てなかった。宗権は周囲の村々に駐屯し、秦賢に双丘に駐屯させ、板橋に進攻した。盧瑭は兵を率いて万勝に駐屯し、汴を挟んで城柵とし、橋をつくって軍を渡らせた。朱全忠は奇襲して盧瑭を殺したが、それでも宗権は全軍十五万で三十六の屯営を列べ、汴州に迫った。朱全忠は恐れ、救援を兗鄆(天平軍節度使朱宣)に求め、朱瑾・朱宣は自ら軍を率いて同じく賊を防いだ。五月、朱全忠は城を閉ざして大いに宴会し、鼓の音は郊外まで聞こえたが、声は聞こえなかった。密かに北門を開いて賊の砦を攻撃し、兵士は騒動となり、中営に逃げ、そこを兗鄆の軍は兵を整えて挟撃したから、大いに破った。宗権は怒り、鄭州を通過すると、城郭や家に放火し、民は逃げて淮西に入り、朱全忠は鄭州・許州・河陽・東都(洛陽)をその手に納めた。 ここに諸鎮の兵を合わせて上蔡に会し、五軍に分けてその地に侵入した。宗権は孫儒を召集したが、孫儒は応じなかった。宗権は当初より上蔡を守って防備の要としていたが、朱全忠はその守りを抜いたから、遂に蔡州を包囲し、城に沿って防塁を築き、弱兵で賊を誘い出し、賊は出て戦ったが、朱全忠はことごとく斬った。宗権は退いて中州を守ろうとしたが、中州に到る前に朱全忠は大将の胡元琮に包囲させ、朱全忠自身は汴州に帰還した。宗権は許州が防備されていない隙を伺って、襲撃してその州を奪取して、守将の胡元琮を捕虜とし、兵を引き返して再び許州を恢復した。 宗権が帰還すると、寵将の申叢によって捕らえられて片足を折られた。申叢は指図を待ち、朱全忠は申叢を節度留後としたが、申叢は心の中で後悔し、宗権の一族を皆殺しにした。宗権が汴州に到着すると、朱全忠は礼をもって迎えた。そして、「公は昔、許州を陥落させたとき、もし、よく兵を納めて盟を賜い、力をつくして勤王に励まれたなら、どうして今日のようなことになったでしょうか?」と言うと、宗権は、「英雄は並び立たず、天は僕を滅ぼして公を助けたのです」と奢って言い、恐れは顔色に出なかった。朱全忠は檻車を京師に送り、両神策兵が護送した。昭宗は延喜楼に御して捕虜を受け取り、京兆尹は檻車を曳かせるのは甲兵にさせ、両市で晒し者にした。首を延ばして檻車の外を見て、「この宗権をどうして謀叛人というのか!ただ忠義を行ったのに評価されなかっただけだ」と叫んだが、見ていた者は大笑するだけであった。妻の趙氏とともに独柳の下で斬られた。宗権は中和三年(883)に叛いてから、六年で誅殺された。 董昌は、杭州臨安の人である。始め土団軍(民間防衛隊)に籍を置き、軍功によって石鏡鎮の将となった。中和三年(883)、杭州刺史の路審中が任地に赴任してくるのを、昌は兵を率いて防いで入らせず、そこで自ら杭州を司った。鎮海節度使の周宝は制御することができず、そこで上表して刺史とした。昌はすでに劉漢宏を破り、兵力はますます強くなり、義勝軍節度使・検校尚書右僕射に昇進した。僖宗が京師に帰還すると、昌は越の民の裴氏の蔵書を奪って献上し、秘書の亡失を補ったから、兼諸道採訪図籍使を授けられた。 それより以前、統治は清廉かつ公平で、人は非常に安心した。この当時、天下の貢輸は朝廷に入らず、ただ昌だけは他の献納より常に三倍多く、十日に一度献納の派遣をし、五百人を率い、人に一刀を給付したから、後に誅殺すべき時になっても、朝廷はその貢納を頼っていたから、そのため累進して検校太尉・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、爵位は隴西郡王となった。詔書を見終わると、詔書に一字あるごとに一縑の絹を帰還する使節に贈った。しかし性格は心が狭く意にそぐわなくなり、次第に傲慢となり、神の託宣があったと群衆を欺いた。はじめ生祠を建て、香木を刳り貫いて身体とし、内に金玉紈素で内臓をつくり、冕服を着せて座らせ、妻媵氏も別帳に侍り、百人の倡優にその前で演奏させ、部下の兵を列べて門前を守らせた。属州に土馬を造らせて祠下に献じさせ、神饌を列べて祈請し、ある者は土馬が嘶いたり汗をかいたようだと詐称し、皆、褒賞を受けた。昌は自ら、「饗があれば、私は必ず酔うのだ」と言った。蝗が祠の傍らに集まると、人に捕えさせて鏡湖に沈めさせ、「災いとはならなかった」と告げた。客人が、「以前に呉隠之の祠に参詣したら一つの偶像に止められた」と言ったが、昌は聞いて、「私は呉隠之の比ではない!」と怒り、客を祠の前で支解(四股を断つ)にした。 それより以前、塩の専売を止めて人を喜ばせ、衣食が豊かになったが、後にだんだん苛法となり、笞刑は千百回となり、ある者は小さな過失でたちまち一族を殺され、血は刑場に流れ、地はそのために赤くなった。五千あまりの姓が族滅にあたり、昌は、「よく私に孝行すれば、死を免れる」と言ったから、全員が「わかりました」と言った。昌は厚くこれを養い、「感恩都」と称し、その臂に刻んで誓いとし、親族は号泣して別れた。およそ民事の訟えは、獄に下されることはなく、ただ賽子(さいころ)を投げて、勝たなかった者は死んだ。人を用いるのにもまた賽子で勝者を採用した。 昌は隴西郡王に封じられると、舌打ちして、「朝廷は私が担っているが、私が金帛を奉っても贖うことはなく、どうして王号を越えることを惜しんで私に与えないのか?私はまさに自らこれを取るべきだ!」と言い、部下はその暴虐を嫌がったから、そこで帝となることを勧めた。近県は騒がしく叫んで請い、昌は命令して、「時が至れば、我はまさに天に応じて人を従わせるだろう」と言い、その部下の呉繇・秦昌裕・盧勤・朱瓚・董庠・李暢・薛遼と妖人の応智・王温、巫の韓媼は皆賛成した。昌は増援を四県の城に送って自ら防いだ。山陰の老人が偽って、「天子の名を知らんと欲せば、日従って日上れば生ぜん」という謡を献上すると昌は喜び、百匹の縑を賜い、納税を免除した。方士の朱思遠に命じて壇を築いて天を祀らせ、偽って天符が夜に降り、碧色の紙で朱の文で、文意を知ることができないと言った。昌は、「讖に「兎、金牀に上る」とあるが、私は卯に産まれ、来年の干支、二月朔日の翌日は、すべて卯である。私はその時を以てまさに即位しよう」と言い、客人の倪徳儒は、「咸通年間(860-874)の末に、越中の秘記に、「羅(あみ)あって鳥を平らげ、越の禍福を主る」とありました。すると中和年間(881-885)に、鳥が呉・越で発見されました。その鳥は四つ眼の三つ足で、「羅平天冊」と鳴いており、民は祀って難を祓いました。今大王の署名は、文と鳥の類です」と言い、そこで図讖を昌に示すと、昌は大いに喜んだ。 乾寧二年(895)、偽帝の位に即位し、国号を大越羅平とし、天冊と建元し、自らを「聖人」と称し、一方が四寸の銀印を鋳造し、印文は「順天治国之印」とした。また平民が出して奉ってきた銅鉛石印十牀および鳥・獣・亀・蛇を宮廷に陳列し、これを指さして「天瑞」といった。制詔を下す際には、すべて自ら署名した。ある者が帝王は詔に書判しないと言うと、昌は、「親署しなければ、どうして我が天子であることを知るのか?」と言い、そこで南門に榜示して「天冊楼」とした。これより以前、杭州の寝殿で夜中に赤光があり、長さ十丈(3m)あまりであった。虺(まむし)の長さ一尺(30cm)あまりで、金色のものが思道亭で発見された。昌は寝殿を明光殿と名付け、亭を黄龍殿とした。自身を神とし、百官を配置し、軍と官属を監督して皆西北(長安)に向かって慟哭させ、そこで北面して昌を臣とした。ある者は近侍に任命されることを願ったが、昌は、「私は仮にこの位にいるのであって、どうして宮中・朝廷のようにできようか?」と言い、許さなかった。書を属州に下して、「某日を以て仮に即位したが、昌は天子の恩を荷なっており、死んでも敢えて国に背かない」と述べた。 それより以前、官属で昌の命令に従わない者は、節度副使の黄碣・山陰令の張遜で、皆誅殺されて死んだ。鎮海節度使の銭鏐は書簡を送って昌を責めて、「府を開いて節度を領することは、一生富貴をもたらすが、それを守ることができず、城を閉ざして天子になるなど、親族を滅ぼすようなものだ。また何を頼るというのか?願わくば王よ、謀を改められよ」と述べたが、昌は聞かなかった。銭鏐は全兵力三万で攻撃し、城を臨んで再拝して、「大王よ。位は将相におよびながら、臣となっていません。過ちを改めることができれば、説得して諸軍を返しましょう」と述べると昌は恐れ、銭鏐に銭二百万緡を献じて軍をねぎらい、応智・王温・韓媼・呉繇・秦昌裕を捕らえて銭鏐に送還し、そこで罪状の判断を待った。銭鏐はそこで帰還し、朝廷に上表したが、昌は赦すべきではないとされたから、再び討伐となり、城に沿って防塁を築いた。昌はまた朱思遠・王守真・盧勤を捕らえて銭鏐の軍に送って許しを求めた。昭宗は宦官の李重密を派遣して軍を労い、昌の官爵を除き、銭鏐に浙東道招討使を授けた。昌はそこで淮南の楊行密に救援を求め、楊行密は将軍の台濛を派遣して蘇州を包囲させ、安仁義・田頵に杭州を攻撃させて昌を救おうとした。銭鏐の将軍の顧全武等はしばしば昌の軍を破り、昌の将が多く降伏したため、遂に進撃して越州を包囲した。 側近が城外の敵軍が強いと言うと、たちまち斬って晒し者とした。欺いて銭鏐の兵が疲れていると言ったものは皆褒賞を得た。昌は自ら五雲門で閲兵し、金帛を出して銭鏐の軍をたぶらかそうとした。顧全武等はますます発奮し、昌の軍は大いに潰滅し、逃れ帰り、偽帝号を取り去って、「越人が私に勧めたから天子となったが、もとより益なく、今また節度使に戻る」と言った。顧全武は四方より攻撃したが陥落させる前に、台濛が蘇州を奪い、銭鏐は顧全武を召還した。顧全武は、「賊の根本は甌越の地にあります。今一州を失ったからといって賊への攻撃を緩めてはなりません」と言い、攻撃をますます激しくした。城中は戸口ごとに税金を取り、高貴な女性であっても全員、軍の輸送に従事した。昌の従子の董真は兵士の心を掴んだが、昌は讒言を信じて殺してしまったから、軍は始めて命令を聞かなかった。また兵糧が減ったが外軍を労おうとしたから、兵卒はいよいよ怨み、叛いて昌を攻め、昌は子城を保つだけであった。銭鏐の将の駱団が入見して、偽って、「詔を奉って公を迎えて臨安に住まわせます」と言い、昌はこれを信じたが、顧全武は昌を捕らえて送還し、西江で斬り、死体を江に投じ、首は京師に伝え、その一族を皆殺しにした。ここに偽大臣の李邈・蒋瓖ら百人あまりを斬り、昌が生前につくった墓をあばいて放火した。昌が敗れると、なお兵糧は三百万斛が積まれ、金幣はおよそ五百帑あまりあったが、兵は一万人にも及ばなかった。銭鏐は遂に鎮海・鎮東両軍節度使となったという。 賛にいわく、唐が亡んだのは、諸群盗が皆大中年間(846-859)に発生し、太宗の遺徳の余沢は民より去ってまた久しかったからである。賢臣は退けられて死に、愚か者が位にあり、税金や刑罰が重かったから、天下は憂い苦んだ。まさにこの時に、天命はまさに唐から去ろうとし、諸盗が並び出て、五姓(五代)を経て、兵は未だかつて任務から解き放たれることは少なく、宋の時代になってから天下が再び安んじたのである。漢が滅亡するや天下は大乱となり、晋の時代になってからやや安定したのである。晋が滅亡するや天下は大乱となり、唐の時代になって再び安んじたのである。治まっていることが少なく、戦乱が多いのは、古今の趨勢であるが、盛時の有徳の帝王が恐る恐る治世を求めたということは、少しもゆるがせにしてはならないのだ! 前巻 『新唐書』 次巻 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登録日:2011/09/07 Wed 00 52 04 更新日:2024/05/13 Mon 07 58 13NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 インテリ ヤンデレの父 三人の天下人に愛された男 京都府 保身の天才 室町時代 将軍の異母兄弟 戦国チート武将 戦国時代 戦国武将 文化人 文武両道 日本史 東山 武将項目 細川幽斎 芸は身を助ける 細川幽斎/藤孝 1534−1610 戦国・安土桃山時代の武将、文化人。京都の東山に生まれる。 戦国では随一と言える文武両道を極めたヤンデレ忠興の父にして、第79代内閣総理大臣「細川護熙」のビッグパパ(*1)である。 剣術、弓、和歌、茶道、蹴鞠、囲碁、料理、水泳、有職故実を極め、 さらには力持ちでもあり、京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話もある技のデパート。 父親は三淵晴員とされる。一説によると足利12代将軍義晴の落胤、つまり義輝、義昭とは異母兄弟にあたることになる。 幼いうちに、父の兄である細川元常の養子となり、数多くある細川家の支流の一つの和泉上守護家の当主となる。 幕臣として室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えたが、1565年にその義輝が幕臣の松永久通(*2)ら三好の一党に暗殺される前代未聞の……いや百二十年かぶりの……事件が発生。 藤孝は三好に軟禁されていた義輝の弟であり、後に第15代将軍足利義昭となる覚慶を救出し、京都を離れて六角義賢や朝倉義景などに将軍擁立を頼んで奔走するも成果を結ばなかった。 しかし、朝倉から織田信長に仕官していた友人である明智光秀の伝手で義昭と信長を引き合わせ、義昭は信長の助けを得て京都に上洛を果たし、将軍の座に就く。 その後、義昭と信長の関係が悪化すると信長に恭順する姿勢を見せて義昭の動向を密かに信長に報せ続け、義昭が追放された後は正式に織田家の家臣となる。 織田家の一員となってからも光秀との友好関係は続き、嫡男の嫁に光秀の娘(後の細川ガラシャ)をもらった他、戦働きでも光秀の与力として活躍していたが、 1582年に光秀が本能寺の変を起こすと、上役であり、親しき友であった彼からの新政権構築への協力を拒否。 剃髪して家督を忠興に譲り(*3)、名を「幽斎玄旨」と号して隠居した。 この事態に慌てた光秀は、天下を細川ファミリーに譲るとまで言って藤孝に留意を迫ったが、藤孝はそれを一蹴。 さらに、同じく明智家と近い関係にあり、自身の娘が嫁いでいた一色氏が光秀に呼応すると、羽柴秀吉の命を受けて細川氏は一色氏を謀殺し、秀吉に恭順の意を示した。 なお、一色氏に嫁いでいた娘は救出されたが、自身の夫や家臣たちを謀殺されたことに恨みを抱き、当時家督を継いでいた兄の忠興の顔に短刀で斬りつけたという。 秀吉の家臣となった幽斎は、島津家の内紛処理やらでちゃっかり秀吉の信頼を掴み、 後に秀吉が天下統一を果たした後も、秀吉側近の文化人の一人として彼に重用されたが、一方で徳川家康とも親交を結んでいた。 そして、秀吉死後の慶長5年(1600年)、以前より親交のあった徳川家康に接近して息子と共に東軍に属し、居城の田辺城に籠城。 その軍は五百足らずで、しかも大半が忠興の弟興元夫人はじめ女子供や昔幽斎の世話になった他家の家臣。 西軍方一万五千の総司令、丹後福知山城主小野木公郷は『かほどの小城3日もあれば』と言ったと伝わる。 しかしいざ戦いとなると、幽斎を歌の師とする藤掛永勝、小出吉政らは空鉄砲しか撃たないなど積極的には戦おうとしなかった他、 そもそも山々を背にした田辺城は東は伊佐津川、 南に沼沢、北に舞鶴湾を有する要害であり、籠城兵の激しい抵抗もあって落城には一ヶ月以上かかった。 さらに幽斎は古今集の正当な解釈、いわゆる『古今伝授』の伝承者(その前は三条西実枝)であったため、 時の帝、後陽成天皇の弟にしてこれまた弟子の一人、八条院宮智仁親王が天皇を動かして幽斎の助命に勅使を出した。 朝廷が一武将の助命に勅使を出すこと自体異例中の異例といえる事態なのだが、 これは『古今伝授』の次の伝承者への引き継ぎが完了していなかったため、「幽斎を死なせれば『古今伝授』が失われる」という恐れが招いたもので、 これ以前に朝廷から開城を勧められた際に幽斎が(策略かどうかはさておき)開城を拒否して討ち死に覚悟であることを告げていたこともあり、 結果的に「朝廷が一武将の助命に勅使を出す」という異例の出来事が起きたのであった。 結局、田辺城籠城戦は五十余日に及びついに幽斎の退去と丹後亀山城に移るという事で決着がついたが、 これによって一万五千の田辺城攻略軍は二日後の関ヶ原の戦いに間に合わず、幽斎は東軍率いる徳川家康に多大な貢献を果たしたのであった。 そして関ヶ原の戦いは東軍たる徳川方の大勝で終わり、細川家は丹後から肥後五十万石の大大名に変貌。 幽斎は京都吉田に居を構えて悠々自適の晩年を送り、1610年に享年77歳でこの世を去った。 彼を取り扱った作品 司馬遼太郎『国盗り物語』(大河ドラマ版:伊吹吾郎) 後半のキーパーソンとして登場。義輝側近時代に主人公の一人明智光秀と知り合い無二の仲となり、その後もう一人の主人公織田信長が義昭を持ち上げたため一気に大名の一角にして光秀の協力者的武将となる。 だが義昭の様子が怪しくなるとしたたかに立ち回り難を逃れ(小説ではこの時「幽斎」の号を思いつく)、「天皇」という伝統を持ち上げてくれた信長へと寝返る。 そして本能寺の変を起こした光秀もその後の対応のまずさから見捨て、「幽斎」となった彼が戦後信長の供養のため連歌の会を開くシーンで本作の幕は下りた。 後書きではさらにその後の関ヶ原時の概略も記されており、「至芸と言っていい生き方の名人」と評されている。 ちなみに作者は執筆時、当時の細川家当主(細川元首相の父親)とも交流している。 重野なおき『信長の忍び』 信長が義昭を奉戴するのに前後して登場した幕臣。かつての同僚松永久秀とは犬猿の仲。 文武両道の万能人であるが、キャラ付けは歌人としての面がクローズアップされており、ことあるごとに一首詠もうとする面倒くさい御仁。 このせいで出陣までに時間がかかったり、普段の話し方までも五七調になってしまっていたり、話が進まず部下たちが苦労したりしているが、名作ができると能力が跳ね上がる。 戦術指揮や武勇を称賛されても顔色一つ変えなかったのに、詠んだ歌を誉められて思わずにやけた一幕も。 前述した細川護熙氏のご先祖様とあって、顔が似せて描かれている。 追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 関ヶ原では家康とは違う意味で三成の天敵だったみたい -- 松永さん (2013-08-10 12 47 12) あのひねくれた伊達政宗が芸事じゃ俺はかなわないって認める位で戦もできる完璧超人だけど息子の情操教育についてだけは大失敗した人 -- 名無しさん (2013-08-10 12 53 10) ↑寧ろ 立派に育って良かっただろ -- パキスタン (2013-09-29 12 18 48) 小野木公郷は二か月後忠興監視の下、自刃しました(奥さんも後追い自殺) -- (2013-10-25 02 29 31) この方を敵にした奴らは ろくな死に方をしないな -- パキスタン (2013-10-29 20 40 51) 子孫がとある選挙出馬したな -- 名無しさん (2014-01-13 19 02 35) 信長の野望系統では優秀だけど好きになれないから息子ともども斬首してる。 -- 名無しさん (2014-01-13 19 09 51) 三好長慶の所作を模範にしたらしいな、幽斎がリスペクトとかどんだけすごかったんだ -- 名無しさん (2014-04-01 05 13 22) 昔あるサイトの管理人のHNがこの人からとったものだった。おかげでこの武将を知ることが出来てよかったわ。 -- 名無しさん (2014-07-11 00 22 35) 『有職故実の細川幽斎』という字面だけ見たら青白い幽霊みたいなまろをイメージしちゃうけど怪力スポーツマンなのねこの人w -- 名無しさん (2016-04-17 11 58 19) 保身の天才だが田辺の城兵や民見る限りめさ人望高い -- 名無しさん (2021-10-25 17 57 46) 「常に勝ち組に着く」という、戦国大名としてはある意味最も正しい生き方をしたお方 -- 名無しさん (2022-05-11 06 03 26) 田辺城はアゾフスターリ製鉄所か -- 名無しさん (2022-05-22 16 35 37) 石田三成が畏れるわけだな…そら身柄確保に大軍出すわ -- 名無しさん (2024-05-13 07 47 10) 名前 コメント
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編集 長水校尉は、前漢武帝期以降に置かれた朝廷の職官。いわゆる武帝八校尉、北軍五校尉の一。 前漢では宣曲観を屯営とする長水胡の騎兵を司った。 後漢に到ると光武帝が再び置き、北軍に組み込まれた。 後漢以降は宮中に宿直する宿衛兵を掌り、外征に出る官ではないが、後漢ではしばしば外戚諸氏の有力者が任官した。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 武帝が置く。 中興してまた置き、胡騎校尉を併せる。 光武帝建武七年、省く。 建武十五年、また置く。 以後、漢魏晋ともに置き続ける。 位 (前漢) 一人、秩二千石。 (後漢) 一人、秩比二千石。 (魏・西晋) 一人。 秩比二千石、四品官か。(宋志より) 職掌 (前漢) 長水宣曲胡騎を掌る。 長水は胡の部落の名。宣曲は、上林苑昆明池の西に所在した宣曲宮の観。 (後漢) 宿衛兵を掌り、烏桓騎を主る。 (魏・西晋) 営兵を領す。 属吏 (後漢) 司馬 一人、秩千石。 胡騎司馬 一人、秩千石。 員吏 百五十七人。 烏桓胡騎 七百三十六人。 領士 千三百六十七人(*1)。 (魏・西晋) 司馬 功曹 主簿 営兵 所属項目(タグ) 二千石 北軍五校尉 宣曲観 宿衛 校尉 武官 武帝八校尉 比二千石 烏桓 職官 胡騎 長水 長水校尉 騎士 関連項目・人物 長水校尉 詳説 長水校尉は宣曲観を屯営とする長水胡の騎兵を率いた将である。 後漢に入ると、率いる騎兵は烏桓騎に移ると共に、宿衛を担って北軍五校尉の一つとなった。 その性質から、宮廷では外戚中の有力者が任じられてその権力維持に寄与し、征伐では上級の将軍らの副将として付き従った。また、その上言が白虎観議の開かれる契機となった樊鯈のように儒士の任官も目立つ。 編集 -
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将門が位階・官職に預かった形跡はまったくない。 『将門記』に、「左右ノ大臣・納言・参議・文武百官・六弁八士、皆モテ点定シ、内印・外印、鋳ルベキ寸法、 古文・正字ヲ定メ了ンヌ。タダシ狐疑スラクハ、暦日博士ノミ」とあり、将門の勢力下に朝廷の役職が およそ揃っていたものの、暦博士のみ居なかった、とされている。 これと同様の記述は、『平家物語』巻九「三草勢揃」にもある。 『将門記』の将門新皇即位の記述の中に、八幡大菩薩と共に菅原道真の名前が出てくる。 『尊卑分脈』などを見ると、道真の息子たちの多くが、東国の国司に任命されており、 特に菅原兼茂という人物は、将門が平氏一族や源護と戦っていた頃の常陸介を勤めていたと考えられる。 天慶三年正月十一日、「将門を討伐した者に恩賞を与える」旨の太政官符が発行された。 乱の首魁を討ち取った者には、「朱紫の品」、つまり五位以上の位階と、 税のかからない末代までの田地を与える、という内容で、 事実将門を討ち取った藤原秀郷は、乱から七年後に、「功田を給わるべき事等」を奏上している。 (zsphereコメント:つまり、将門が事実上、日本最初の”賞金首”であった可能性) 将門は、史実として確認出来る限り、「晒し首」にされた一番最初の人物。 そのインパクトから、将門の首に関する後世の伝説が生まれた可能性。 『今昔物語集』に、将門の子孫に関する伝承がいくつか採録されている。 いずれも地蔵菩薩に関連した逸話。 将門の調伏修法を行った天台座主尊意は、都に将門敗死の第一報が届く前日に亡くなっており(『日本紀略』)、 そのため将門を調伏した代わりに落命したという伝承が生まれている。 将門には鉄身伝説もある(体は鉄でできていたが、こめかみだけは弱点だったという伝説)。 参考文献 『平家物語(九)』 吉川弘文館『戦争の日本史4 平将門の乱』 平家物語(九) (講談社学術文庫) 平将門の乱 (戦争の日本史4)
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源休 ?-784 唐の官人。朱泚の宰相。相州臨漳の人。京兆尹源光輿の子。監察御史、殿中侍御史、青苗使判官,虞部員外郎、潭州刺史、客郎中、給事中、御史中丞、左庶子と官職を歴任した。その妻は吏部侍郎王翊の娘であったが、些細な事で離別したため婚家より訴えられ、溱州刺史に左遷され、後に岳州に配流された。建中年間(780-783)初頭、楊炎が宰相となると、京兆尹の厳郢の威名が顕れるようになり、厳郢は王翊の甥婿であったから、源休が妻王氏と離別した時、楊炎は厳郢と仲が悪かったから、源休を流人から京兆少尹に大抜擢し,厳郢の過失を調べさせた。しかし源休と厳郢は仲が良かったから楊炎は怒り、御史中丞を兼任させて、迴紇に使させた。唐は迴紇可汗の叔父を殺してしまっており、源休がその遺体を可汗のもとへ届けたところ、「私がお前を殺すのは、血を以て血を洗うようなもので、ますます汚れがひどくなるだけだ」と言って、源休を殺さずに帰らせた。宰相盧𣏌は源休が復命して昇進の契機となるのを恐れて、太原で光禄卿に任じて、使に関する賞は薄かったから恨みを抱いた。涇原の兵乱が発生し、朱泚が主となると、源休はここに至って帝位につくことを説き、その宰相となった。兵食軍資は源休が管理し、内外の策謀はすべて画策し、朝廷の大臣で逃れた者は誘い出されて辱めを受けるか殺された。また宗室の虐殺も扇動し、諸王子孫が多数殺害された。朱泚が敗走すると従って寧州に逃げたが、朱泚が死ぬとさらに鳳翔に逃げ、そこで部下に殺されて、首は送られて、源休の三子は斬刑に処された。『旧唐書』に伝がある。 列伝 『旧唐書』巻一百二十七 列伝第七十七 源休 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 源休(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%BA%90%E4%BC%91
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東京の下町にある、平凡な交番。その前に、1台のパトカーが停車した。 そこから、一人の中年警官が降りてくる。 パトカーから警官が降りてくるのは、当たり前のことだ。 しかしこの場合は、異様な光景であった。 その警官は顔中に血管を浮かび上がらせ、両手に銃を持っていたのだから。 交番の中にいた警官たちが戸惑いを見せる中、中年警官は銃を乱射しながら叫ぶ。 「両津はどこだ! 両津のバカはどこに行った!」 「聖杯戦争に参加するといって、冬木市に行きました!」 ◇ ◇ ◇ 「うーむ……」 ほぼ同時刻、冬木市内のとある公園。 着慣れた制服の代わりに革ジャンを着込んだその男は、ベンチに腰掛けてなにやら唸っていた。 彼こそが両津勘吉巡査長。「早撃ち両さん」「始末書の両さん」などの異名を持つ、亀有公園前派出所の名物警官である。 「もっと面白おかしいゲームだと思っていたんだが、死人が出るのも珍しくない戦いなのか、聖杯戦争ってやつは……。 これは認識を改めないといかんな」 「まあそう深刻になるなって、マスター」 両津にそう返すのは、先刻彼が召喚したサーヴァントだ。 容貌は逆立った短髪にきりりとした目つき。まるで典型的な少年漫画の主人公のようである。 「要するに全員殺せばいいんだから!」 「馬鹿野郎! できるか、そんなこと! こっちは曲がりなりにも警察官だぞ! 人殺しになるのはごめんだ!」 爽やかな笑顔で言い放つサーヴァントを、両津は青筋を立てて怒鳴りつける。 「サーヴァントを倒すのは、まあよしとしよう。お前らはもともと死人だからな。 だが、マスターを殺すのはなしだ。サーヴァントだけを脱落させることで優勝を狙う」 「つまり、皆殺しだな!」 「何をどう聞いてればそうなる!」 再び怒鳴る両津だったが、サーヴァントの方はまったく堪えた様子がない。 顔に爽やかな笑みを浮かべたままだ。 「まったく、歴史嫌いのわしでも知ってるような大物が来たときにはラッキーだと思ったのに……。 まさかヤマトタケルが、こんないかれたやつだったとは……」 顔を青ざめさせながら、頭を抱える両津。 そう、彼のサーヴァントはヤマトタケル。 日本において抜群の知名度を誇る英霊である。 しかし……。 「まあ、しょうがないっすよ。俺、バーサーカーで狂化スキルついてるし!」 「誇らしげに言うんじゃない!」 そう、バーサーカーで召喚された結果、古の英雄は爽やか殺戮マシーンと化してしまったのであった。 【クラス】バーサーカー 【真名】ヤマトタケル 【出典】「古事記」「日本書紀」 【性別】男 【属性】混沌・狂 【パラメーター】筋力:A 耐久:B 敏捷:C 魔力:C 幸運:D 宝具:A+ 【クラススキル】 狂化:D 理性と引き換えに驚異的な暴力を所持者に宿すスキル。 ヤマトタケルの場合ランクが低いので言葉を話すことは可能だが、まともな会話は成立しない。 【保有スキル】 対英雄:D 英雄を相手にした際、そのパラメータをダウンさせる。 セイヴァー以外のサーヴァントが持つのは非常にまれなスキルだが、 彼の場合は各地の英雄を討伐した逸話が有名であるため取得している。 勇猛:B 威圧、混乱、幻惑といった精神干渉を無効化する。また、格闘ダメージを向上させる。 ただし、バーサーカーとして召喚された場合は、その狂化によって勇猛さの意味を失っている。 【宝具】 『草薙剣』 ランク:A+ 種別:対人宝具 レンジ:1-5 最大捕捉:1人 ヤマトタケルが西国に向かう際、叔母から授かった剣。 スサノオがヤマタノオロチを倒して手に入れた「天の叢雲」と同一のものとされる。 後に「三種の神器」の一つとして祀られる剣であり、宿す神秘は非常に高い。 能力としては持ち主が危機に陥った際、ひとりでに動いて危機を払ってくれることがある。 また草を払って火から逃れたという逸話から、植物属性に特攻を持つ。 【weapon】 『草薙剣』 【人物背景】 行徳天皇の皇子。 まだ朝廷の権力が盤石でなかった時代、父の命により各地で反朝廷勢力を討伐して回った。 「日本最古の英雄」とも言われるが、父の言葉を取り違えて兄を殺してしまったり、各地の英雄を謀略で葬ったりと今の価値観では英雄らしからぬ逸話も多い。 複数の英雄の功績をまとめた架空の人物という説も有力だが、今回召喚されたのは紛れもなく「ヤマトタケル」として生きた青年である。 もっとも、バーサーカーとして召喚された今の彼に生前の面影がどれだけ残っているかは疑問だが。 【サーヴァントとしての願い】 とにかく全員ぶっ殺す! 【マスター】両津勘吉 【出典】こちら葛飾区亀有公園前派出所 【性別】男 【マスターとしての願い】 一生遊んで暮らせるだけの金。 【weapon】 「ニューナンブ」 警察官に支給される拳銃。 むろん非番の時に持ち歩くのは禁止されているが、公私混同の激しい両津はつい持ってきてしまった。 【能力・技能】 「頑強な肉体」 車にはねられてもかすり傷程度で済む。 非常に強力な免疫機能を持つため、病気にも強い。 至近距離で不発弾が爆発するくらいのことがあると、さすがに入院する。 「多彩な技能」 一流の寿司職人であり、射撃の名手であり、ゲームの達人であり……。 身につけた多種多様なスキルは、全て書こうとするとそれだけで本文を超える分量になるので割愛。 「欲望の塊」 欲望に非常に忠実であり、特に金銭欲は尋常でなく強い。 かつて神が欲望を抜き取ったときには、肉体に何も残らなかったほど。 【人物背景】 亀有公園前派出所に勤務する警察官。階級は巡査長。 M字を描く繋がった眉毛がトレードマーク。 短気で怠け者で金に汚いが、人情深い一面もある。 【方針】 聖杯狙い。ただし、マスターは殺さない。
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489: ひゅうが :2018/07/14(土) 01 40 58 即興で考えてみた ――天明3(1783年)、浅間山は静かだった この年、江戸幕府の財政は完全な黒字化を達成 老中首座たる田沼意次の名声はとどまるところを知らず、翌年に発覚した彼の長男の暗殺未遂事件とそれに伴う白河藩主松平定信の重蟄居に象徴されるように、彼は極東の弧状列島において五指の上位に入るほどの権力を確立した。 この時代の自由な風潮の中心であった彼のもとには多くの奇人変人が集まり、口さがない江戸っ子は「今鹿苑院(足利義満)」「江戸太閤」とはやしたてたものだったが、彼の側に控えた御伽衆の異才は本物だった。 とりわけ世界経済史上に特筆されるべきなのが、100年余り前の鬼才萩原重秀の再発見であろう。 「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」というあまりにも有名な言葉に始まる経済理論は、現代でいうところの管理通貨制度とインフレ理論を確立していたのだ。 そしてあまりにも早すぎたこの理論を、金本位制の確立というある程度現実的な方向へと持って行った彼の御伽衆をこそ称賛すべきという声もまた大きい 意次とその息子意知が政権を担った半世紀あまりの時間は、近世的繁栄の只中にあった日本列島をさらに大きく発展させるのに十分だった。 それも、あまりの需要の増大から自ら神君家康公の事績を持ち出して三代家光のいわゆる鎖国令を反故にしようとするほどに。 こうして、1830年、浦賀沖にアメリカの商船モリソン号が来訪したときには、江戸幕府は諸手を挙げて歓迎をするに至る。 すでに鎖国は有名無実化していた。 ナポレオン戦争のどさくさに紛れてオランダ本国が消滅したことやオランダ東インド会社が日本列島を植民地扱いしていたことが発覚したことを受け、幕府はすでにロシア極東との間で制限交易を開始していた。 清朝との間に国交はなかったが、1812年の天理教徒の乱(癸酉の変)においては義勇軍扱いで西国諸大名はもとより幕府から浪人が「輸出」されるなど非公式の友好関係は続いていた。 実のところ、日本列島は金本位制の採用という選択を行った上に諸藩と幕府の紙幣発行を許したことから何を売ってでも金を手に入れる必要があったのだった。 この動きに追随したのが、中国大陸をめざす大英帝国であった。 のちの歴史からみれば不幸なはじまりをした清朝との出会いにあって、海禁政策を敷く清朝の裏口が日本列島であったのだ。 結果、たまりかねた幕府がなし崩し的な国交を結ぶまで日本周辺には英国艦が数多く出没。 さらに主権が曖昧であった北琉球こと奄美諸島の周辺を植民地化せんとするような動きをみせた英国に対し、特に経済的に強大化の一途をたどっていた西国諸大名が悲鳴をあげていた。 その英国から独立したアメリカとの友好関係はまことに望むべきことだったのだ。 時のアンドリュー・ジャクソン大統領は何より強烈な反英主義者であり、急きょ編成されたアメリカ東インド艦隊を清でなく日本列島へと向けることでついに公式の国交が結ばれた。 そして時代も日米の接近を後押しする。 1840年、アヘン戦争勃発。 公式には幕府と無関係であるところの「和僑軍」が英国海軍の海上機動に翻弄され続け、天津では海上からアウトレンジ砲撃を受けつつ英国海兵隊の戦列歩兵と戦うという衝撃的な経験をしたのである。 開戦経緯とその結果に、江戸幕府はもとより朝廷も恐怖した。 樺太で散発的な衝突が起きている程度にロシアとは領有権問題が発生しており、アムール川探検隊と日本側の屯田兵が公式の交戦状態に入るなど、関係は一時的な冷却化をしていた。 そんな中であの清朝を下した英国艦隊がやってくるなど冗談ではなかった。 こうして、1842年、オランダ本国に派遣されていた幕府公使から「英国艦隊日本本土へ向け進発(これは誤報で香港駐留艦隊の増派だったのだが)」の急報が飛ぶにおよび、江戸幕府は決断する。 当時日本へと来航していたジェームズ・ビドル代将のアメリカ太平洋艦隊(東インド艦隊から改組)との間に相互安全保障協定を締結。 もはや避けようがなくなった英国との直接交渉時に一定の圧力を期待したこの協定が、紆余曲折を経て日米同盟へと発展することになろうとは、このときの日米いずれもが予想すらしていなかった。 490: ひゅうが :2018/07/14(土) 02 07 41 というわけで、また考えてみました 江戸幕府は、田沼時代が55年体制なみの安定政権と化したおかげで国内経済の拡大期に移行 経済成長に伴って田沼は史実でも考えられていた対露限定開国路線を既成事実化。 三世の春といわれる繁栄を謳歌している清朝と二股をかけることでオランダを牽制。 フランス革命戦争にともない1795年のオランダ本国が占領されたことをもって一気に貿易枠の拡大を実施することに これにより19世紀初頭には日本は正貨たる金を飲みこみそのかわりに銅や硫黄を銀本位制下の清朝に輸出する体制が確立された…というIFです あとは産業革命を起こす直前にまで資本の蓄積が進むのを待つだけだったのですが、ブリテンに目をつけられてしまいました。 幸い、清朝がアヘン戦争でやっぱりやられたことから一時的な小康状態を得ましたが、金に目がくらんで傭兵を送っていた幕府はもとより朝廷も阿鼻叫喚 これによって、とりあえず英国と対立関係にある勢力であり、ロシアのように総督がかわると外交関係が正反対に変わる野盗のような存在でないと認識された米国と目があい―― ちなみにこの後、南北戦争でアメリカが動けなくなったり史実よりハードモードな安政の大地震と浅間山噴火が重なり、英仏が蠢動する模様
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鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、広島幕府の役職上の事を差す。 鎌倉幕府は源家、室町幕府は足利家、江戸幕府は徳川家、広島幕府は梶谷家が務めた。 元々は北海道道民いわゆる先住民族アイヌの人達を朝廷が討伐する為、坂上 田村麻呂が任命された。 鎌倉時代は源 頼朝と源 義経兄弟が鎌倉幕府を起こすも源 義経の方が征夷大将軍より高い官位だった為、元々、短気だった源 頼朝は怒り狂い弟である義経を討った。これも諸説ありで鎌倉幕府を立てる前に義経は討たれたなど色んな説がある。後白河天皇の策謀という説もあったりする、源 頼朝が鎌倉幕府の初代征夷大将軍であるが鎌倉幕府は実質、征夷大将軍よりも下の役職である執権を務めていた政子(頼朝の妻)の弟が実権を握る。 今、週間少年ジャンプでも有名な逃げ上手の若君に登場する室町幕府の時は鎌倉幕府北条 高時に対して現在の関東栃木県足利市に住む足利 高氏が後醍醐天皇から本名の尊をもらって足利 尊氏と名乗った。北条の残存兵が遺児、北条 時行を担ぎ上げて諏訪 頼重や名越 高邦などが足利氏に制圧された前には室町幕府は建てたとされるがこれも諸説ありでこれっといった証拠もあまりない。義政の代で衰退していき、応仁の乱が起きた。織田信長によって滅亡させられたが義昭公は秀吉が関白になるまで将軍の仕事を受け持った。 江戸幕府は徳川家康公が建てた幕府で藩で政治に関して決められた。北条、足利と違い、こちらは盤石性が高い幕府で 関ヶ原の戦い後、家康公は東軍を率いていた。西軍、小早川氏の裏切り、吉川氏の内通。毛利 輝元の大阪城放棄で西軍は解体された。結局、江戸幕府は建てられたものの家康公は早々に将軍職を次男秀忠公に譲っている。しかし家光公は病弱で最初は将軍職を勤めていたが春日局が家康公に直談判。家光公も将軍として武家諸法度を成立させた。 広島幕府は梶谷綱頼公によって建てられた幕府で当時、広島は革命の渦に飲み込まれ、結果的に自衛隊が弱体化し、 広島幕府は建てられた。梶谷綱頼公の場合は征夷大将軍ではなく。アイヌや北海道に制圧する意味が無いので日本大将軍としている。
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後漢の末期。朝廷では外戚が権力を振るい、宦官による政治への干渉が強まる。ちまたでは黄巾の乱が起き、諸侯や山賊もそれに乗じた。漢帝国、存亡のとき。太師、董卓(とうたく)の専横に身の危険を感じた若き皇帝少帝(しょうてい)は、趙雲伝 DVD護国神器の2本の宝剣、倚天(いてん)剣と青こう(せいこう)剣を、趙安(ちょうあん)と李全(りぜん)に託す。2人は剣を持ち故郷の常山郡に向かうが、宝剣を手に入れようとたくらむ董卓が趙安のもとに兵を送り込む。 董卓の専横を憂う王允(おういん)は、養女の貂蝉(ちょうせん)にある計画を持ち掛ける。祭りの喧噪に乗じて密書を受け取ろうとした貂蝉は、それを呂布(りょふ)に見とがめられる。李全を捜す趙子龍(ちょうしりゅう)と柳慎(りゅうしん)は、ミーユエ王朝を照らす月 DVD河原でそれらしき人物を見つけ忍び寄るが、それは男に扮した李飛燕(りひえん)であった。一方、2本の宝剣を探し求める董卓は、子龍たちのいる真定県へ高則(こうそく)を派遣する。 弟子入りを掛け李飛燕の父親・李仁定(りじんてい)との勝負に挑んだ趙子龍は、認められ、武術の指導を受けることに。県令として真定県にやって来た高則のもとに、幽州に送った兵が、董卓に反旗を翻した公孫サン(こうそんさん)を討とうと待ち伏せしたが、応援に現われた劉備(りゅうび)たちの手によって全滅させられたという知らせが届く。趙雲伝 DVD高則は青こう剣を手に入れるため、偽の鉄面侠を用意し、町に騒ぎを引き起こし……。 高則は、県令としてみごとな裁きを披露し民の心をつかんだ。そんな中、県令が鉄面侠と対決したという噂を耳にした虎牙山の山賊、姜峰(きょうほう)が高則のもとを訪れる。ミーユエ王朝を照らす月 DVD山賊を利用しようと考えた高則は、鉄面侠が趙安の息子であるという情報を教える。そんなとき、趙子龍の教え子が鉄の面を持ち出し、山賊に捕まってしまう。そこへ通りかかった夏侯軽衣(かこうけいい)はみごとな武芸で山賊を追い払い子どもを助け……。
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「八半」という織屋の15歳の丁稚と13歳の織子が張り合ったことがきっかけで生まれた伝説にゆかりのあるものは()である。 撞かずの鐘、弁慶石、こぬか薬師、すすき塚 平安中期、三条小鍛冶宗近の日頃信心していた稲荷の狐の化身である童子に助けられて名刀「小狐丸」を打ち上げた。謡曲『小鍛冶』にもなったこと伝説ゆかりの場所が()である。 満足稲荷神社、出世稲荷神社、合槌稲荷神社、御辰稲荷神社 ()の境内にある稲荷社には、千利休の孫宗旦に化けて見事なお点前を見せたり、豆腐屋の破産を救ったりした伝説のある宗旦狐が祀られている。 大徳寺、相国寺、妙心寺、大覚寺 平安初期、「昼は朝廷、夜は閻魔庁」に出仕したという伝説を持つ文人官僚()が、冥土へ行く時に使ったといわれている井戸が六道珍皇寺にある。 清原頼業、安倍晴明、藤原道長、小野篁 『源平盛衰記』には嫉妬の神として、妬ましい男女を呪い殺す女性()の話が記された。のちに彼女を祀った宇治の神社は、縁切りの神として悪縁を切る効験があると伝えられている。 小督局、橋姫、横笛、染殿皇后 延暦寺の法正坊尊意僧正が宮中に向かう途中、鴨川が溢れ出したので、数珠をひと揉みしたところ、水流が分かれて石の上に菅原道真が現れて消えた。僧正が持ち帰り道真の霊を供養したとされるその石は()である。 へそ石、藤戸石、登天石、亀石 源融が造営した邸宅()では、奥州塩竃の風景を遷した庭で塩焼きしたり、風雅に連日宴が開かれていた。しかし、融の死後に幽霊や鬼が出没する「物の怪屋敷」になった様子が『今昔物語』に記されている。 閑院、河原院、宇多院、冷泉院 謡曲『鞍馬天狗』において、牛若丸(遮那王)と大天狗が出会った場所は鞍馬山の()である。 転法輪堂、奥の院、東光坊、僧正ヶ谷 上品蓮台寺の墓地の椋の木の下にある、源頼光を襲った妖怪にゆかりのある史跡は()である。 鵺塚、鉄輪塚、蜘蛛塚、兜塚 京都人の信仰心を表す俗諺で、「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、()様へは月参り」という。 愛宕、稲荷、天神、八幡