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前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事山内豊範・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年東郷平八郎に会い、勉強するように励ました『西南記伝』引東郷平八郎実話。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった『西南記伝』(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。 太政大臣(三条実美) 右大臣兼外務卿(岩倉具視) 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信) 大蔵卿(大久保利通) 文部卿(大木喬任) 兵部大輔(山縣有朋) 大蔵大輔(井上馨) 文部大輔(江藤新平) 工部大輔(後藤象二郎) 司法大輔(佐々木高行) 宮内大輔(万里小路博房) 外務大輔(寺島宗則) この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 留守政府 明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。 なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。 府県の統廃合(3府72県) 陸軍省・海軍省の設置 学制の制定 国立銀行条例公布 太陽暦の採用 徴兵令の布告 キリスト教禁制の高札の撤廃 地租改正条例の布告 明治六年政変 対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し(鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻)、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した国立公文書館、文献参照。 明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。 議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。西郷派遣については、16日に三条の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。 以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈・大木らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。 翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。 このとき、西郷の推挙で兵部大輔大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」「前原一誠年譜」という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。 下野 - 西南戦争 私学校 下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。 西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった(この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい)。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた(『大山県令と私学校』。この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある)。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。 明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、県令大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月、明治9年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。 西南戦争前夜 明治9年3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。 などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。 一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。 大警視川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。 などの処置をした。 これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた『薩南血涙史』。また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 挙兵 Template see also? 明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った。 left|thumb|300px|[[ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれたその姿写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。(1877年)]] 2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟小兵衞が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると(8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載)、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した(野村の口供書は『薩南血涙史』に掲載)。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。 募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった(のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた)。翌14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである。『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』)で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。 熊本の戦い 2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した。 これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田・別府(五箇小隊)は木留に、桐野(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。 3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蜷踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。 薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。 宮崎の戦い 人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、掘与八郎が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。 31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した(『大西郷突囲戦史』)。その間の12日、参軍山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする)。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。 城山決戦 9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。 9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び介錯した。享年51(満49歳没)。 西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた(折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている)。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。 午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令岩村通俊が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総指揮を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった。 死後 追贈 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。 墓所と祭祀 墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。 思想 影響を与えた人々と思想 島津斉彬 西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。 しかし、この世界観・史観には、後の石原莞爾の大東亜共栄圏論ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。これは西郷の思想が儒学を一方の柱にしていたことと無縁ではないだろう。 勝海舟 福沢諭吉 坂本龍馬 龍馬の西郷評「西郷という男はどれだけ大きいかわからぬ。釣鐘の様な奴で、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。こちら次第に応ずる。得たいの知れない大人物さ」。 藤田東湖 「先生と話していると清水を浴びたような心に少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった。」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。 橋本左内 朱子学 朱熹『近思録』 西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。 特に大義名分論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。 これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。 佐藤一斎『言志四録』(言志録) 西郷が手写した「言志録」が残っており『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』山田済斎編、岩波書店〈岩波文庫〉、1939年、ISBN 4-00-331011-X / 〈ワイド版岩波文庫〉、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X に収録された「手抄言志録」を参照。、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。 陽明学 西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。 春日潜庵 西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。 川口雪篷 沖永良部島に遠島されたときに西郷と知遇を得た書家であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者大塩平八郎の書『洗心洞剳記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。 自身の思想 敬天愛人 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」『南洲翁遺訓』より。近代デジタルライブラリー所蔵の『言志録講話』に収録された「西郷南洲翁遺訓」を参照。 家族・親族 系譜 隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。 藤原鎌足─不比等─房前─(11代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後熊本菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛宜慶─覚左衛門─吉左衛門─竜右衛門隆充─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎 家族 西郷には三度の結婚経験がある。 1度目は嘉永5年(1852年)28歳のとき両親にすすめられて伊集院兼寛の姉すが(須賀)と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなど隆盛は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。 2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7年(1860年)1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちは庶子として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。 3度目の妻は慶応元年(1865年)岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は武豊・武幸四郎の曾祖父の兄弟である園田実徳の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。系図で見る近現代 第37回。 持病 肥満 高島鞆之助の言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相だろう。 鹿児島は養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。 治療方法は2種用いられていた。一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。 フィラリア 西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。 西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である『西南役側面史』。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている『ハエ・蚊とその駆除』。 後半は西郷隆盛-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11 18。
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トップページ>韓国>韓国史学報 『韓国史学報』20、2005.7 論壇 金昌賢「高麗西京の書院と仏教信仰」 朴宰佑「高麗君主の国際的位相」 全暎俊「高麗後期共役僧と寺院の造営組織」 潘允洪「朝鮮後期備辺司の国外情報把握様相」 李煜「17-18世紀犯越事件を通じて見た咸鏡道住民の経済生活」 이상식「朝鮮粛宗代君師父一体論の展開と王権強化」 金武勇「解放後社会主義勢力の経済体制構想:平等主義と発展主義の間で」 特集:民世思想の新しい理解 김인식「8・15解放後右翼系列の「重慶臨時政府推戴論」」 윤대식「安在鴻の新民族主義論に内在した政治的義務観」 이진한「民世安在鴻の朝鮮史研究と新民族主義論」 『韓国史学報』19、2005.3 論壇 朴龍雲「高麗時期の幞頭と幞頭店」 이정철「大同米・布の構成:『湖西大同節目』『全南道大同事目』を中心に」 김기승「茶山丁若鏞の富国強兵国家改革思想:『経世類表』を中心に」 金容達「日帝下洪城地域の社会運動」 문영주「1920-1930年代都市金融組合組合員構成の民族的・階層的性格」 林鍾明「麗水順天事件の再現と空間」 車美姫「7次教育課程中学校国史教育の内容構成」 特集:辺方空間の中でも暮らしと歴史 朴京哲「高句麗辺方の拡大と構造的重層性」 최덕규「ロシアの東アジア政策と露領地域韓人(1891-1910)」 尹輝鐸「侵略と抵抗の間で:日・中葛藤の隙間に挟まった在満朝鮮人」 나정원「民族談論と脱民族談論の変層法」 김경현「ブリテン(Britain)におけるローマ化(Romanization):ローマ都市(Roman Town)の期限と建設を中心に」 김성한「均田制の実施を通じて見た唐の吐魯番支配」 史料紹介 金義煥、李根浩「李煒の生涯と『卑牧齋日記』の史料的価値」 『韓国史学報』18、2004.11 論壇 金日宇「高麗時代耽羅住民の居住地域と海上活動」 김도연「元干渉期貨幣流通と宝鈔」 梁正錫「松広寺王命文書を通じて見た高麗公式令制詔規式」 이상의「日帝下朝鮮人「中堅労務者」と労働規律」 裵城浚「「京城」地域植民地工業の形成」 李剛秀「親日派清算・反民族特委と白凡」 장세윤「解放直後北韓学界の民族解放運動史認識と編纂:朝鮮歴史編纂委員会刊行『朝鮮民族解放闘争史』の検討」 特集:韓国政治制度の変化相 琴京淑「高句麗前期中央政治構造再論」 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Baoquan)「壬辰倭乱時明派兵の実相についての一考:その動機と時期を中心に」 金允嬉「日本の金本位制実施(1897年)とソウル貨幣市場の変動」 鄭勝振「湖南定期市の長期動態:霊光郡を中心に」 이임하「韓国戦争と女性労働の拡大」 特集:日帝末期(1937-1945年)朝鮮総督府の支配政策と韓国社会の変化 김민철「戦時体制下(1937-1945)植民地行政機構の変化」 庵逧由香「総動員体制下朝鮮人労働力「強制動員」政策の展開」 이송순「戦時期朝鮮の地主権弱化と地主経済の実態」 문영주「1938-45年「国民貯蓄造成運動」の展開と金融組合預金の性格」 書評 오종록「朴元熇『明初朝鮮関係史研究』一潮閣、2002年」 『韓国史学報』13、2002.9 論壇 韓明基「17・8世紀韓中関係と仁祖反正:朝鮮後期の「仁祖反正弁誣」問題」 朴性淳「李恒老心主理説形成の学説的背景」 洪俊和「大韓帝国期借款交渉失敗の原因分析:韓美借款交渉を中心に」 特集Ⅰ:高麗時代の諸問題 김보광「高麗前期内侍の構成と役割」 윤성재「高麗光宗の政治基盤」 金蘭玉「高麗後期烽卒の身分」 金昌賢「高麗時代開京羅城門の編制」 特集Ⅱ:朝鮮後期軍事体制の運用と変化 宋亮燮「17世紀江華島防御体制の確立と鎮撫営の創設」 권내현「17世紀前半対清緊張の高調と平安道の防備」 李哲成「17世紀平安道「江辺七邑」の防御体制」 盧永九「18世紀騎兵強化と地方武士層の動向」 손병규「18世紀地方の私奴軍役把握と運営:『慶尚道丹城県戸籍大帳』の記載状況」 資料紹介 朴珠「朝鮮中期丹城地域の孝子烈女:『丹城誌』を中心に」 資料研究 『三国遺事』点校(2) 書評 박경철「戦争・政治・国家そして歴史:金瑛河『韓國古代社會의 軍事와 政治』高麗大学校民族文化研究院、2002年」 『韓国史学報』12、2002.3 論壇 崔鍾澤「夢村土城内高句麗遺跡再考」 朴賛興「高句麗の段歩制」 金甲童「後百済の滅亡と甄萱」 裵亢燮「1893年東学教徒と大院君の挙兵企図」 宋圭振「日帝下植民地資本主義と朝鮮貿易:植民地的米穀貿易構造の展開過程を中心に」 김명구「1920年代ブルジョア民族運動左派系列の民族運動論:安在鴻を中心に」 김정「解放後安在鴻の新民主主義論と共産主義批判」 特集:韓国史における国家権力構造の変化 金瑛河「三国時代の王と権力構造」 李炯佑「高麗末新進士類の政治的役割:朝鮮建国勢力の政治・社会的基盤再検討の一環として」 具仙姫「開港期官制改革を通じて見た権力構造の変化」 研究動向 김춘선「鴨緑・豆満江国境問題に関する韓・中両国の研究動向」 資料研究 『三国遺事』点校(1) 『韓国史学報』11、2001.9 최근식「9世紀「新羅船」とその構造」 琴京淑「高句麗領域としての北漢江流域:靺鞨問題と関連して」 윤재운「渤海の王権と対日貿易」 이숙경「朝鮮初期賜牌田の拡大と田制の変化」 潘允洪「備辺司の羅禅征伐籌画について:孝宗寧古塔坡平節目を中心に」 宋亮燮「18世紀屯田の守令収取制拡散とその性格」 방병선「18世紀朝・清官窯の運営体制と製作技術」 特集:韓国近現代政治勢力の協力と対立 전명혁「1920年代コミンテルンの民族統一戦線とソウル派社会主義グループ」 김정인「1920年代中後半天道教勢力の民族統一戦線運動」 金武勇「解放後朝鮮共産党の統一戦線と左右合作運動」 金光雲「解放前後北韓における統一戦線」 李信澈「1948年南北協商勅語統一運動勢力と金九の路線変化に関する研究」 資料紹介 김건태「新発掘資料を通じて見た恵岡の田税制度認識」 『韓国史学報』10、2001.3 論壇 김도연「高麗時代銀貨流通に関する一研究」 김일환「朝鮮初期監鍊官制下の軍器製造研究」 이기순「朝鮮後期高霊申氏の婚姻・出産と寿命:奉礼公・北伯公・高川君派の場合」 정순옥「19世紀末駅の構成と行政機能:『慶尚道幽谷駅関連古文書』を中心に」 白東鉉「露・日戦争前後「民族」用語の登場と民族意識:『皇城新聞』と『大韓毎日申報』を中心に」 宋圭振「中・日戦争時期朝鮮貿易協会の朝鮮貿易に対する認識とその実相」 이송순「日帝下戦時体制期(1937-1945年)雑穀増産及び流通統制政策」 特集:正統と異端 이정주「朝鮮建国をめぐる正統と異端の激突:高麗恭譲王3年斥仏論争参加者分析」 정호훈「朝鮮後期「異端」論争とその政治思想的意味:17世紀尹鑴の経書解釈と宋時烈の批判」 趙成山「17世紀後半趙聖期の学問傾向と経世論」 書評 金龍善「朴龍雲『高麗時代尚書省研究』景仁文化社、2000年」 許興植「朴賛洙『高麗時代教育制度史研究』景仁文化社、2001年」 沈勝求「金友哲『朝鮮後期地方軍制史』景仁文化社、2000年:束伍軍を通じて見た朝鮮後期地方軍制史の照明」 宋讃燮「文勇植『朝鮮後期 賑政과 還穀運営』景仁文化社、2000年:新しい視角と「相対的理解の間」 裵亢燮「崔炳鉉『開化期의 軍事政策研究』景仁文化社、2000年:開化期軍事政策についての最初の本格的な研究著書」 許東賢「盧栄澤『韓末 国民国家建設運動과 国民教育』신서원、2000年:国民教育の不在から見つけた国民国家樹立失敗原因についての一解釈」 『韓国史学報』9、2000.9 論壇 梁正錫「新黄龍寺・北魏永寧寺と日本大官大寺:5-7世紀東アジア都城制と関連して」 김건태「17-18世紀田畓所有規模の零細化と両班層の対応」 박한용「安在鴻の民族主義論:近代を超えた近代?」 特集:韓国史の理想国家論とその実在 강은경「高麗後期辛旽の政治改革と理想国家」 都賢喆「鄭道伝の政治体制構想と宰相政治論」 김선경「磻渓柳馨遠の理想国家企画論」 조철행「1920年代前半期国外社会主義勢力の民族統一戦線論」 최규진「植民地時代朝鮮社会主義者のソビエト論」 이호룡「解放前後韓国アナーキストの国家観」 金武勇「解放後朝鮮共産党の路線と朝鮮人民共和国(1945.8-1945.12)」 『韓国史学報』8、2000.3 論壇 Vladimir Tikhonov「統一新羅の国家思想としての金石資料:文武王陵石碑の碑文を材料にして」(英) 金盛祐「壬辰倭乱時期常人層の動向と氏族層の対応」 朴性淳「崔漢綺の対西洋認識」 李明花「島山安昌浩の理想村運動に関する研究」 許殷「第一共和国時期対日米穀輸出の歴史的背景と性格」 정대성「第二共和国政府・国会の日本観と対日論調:韓日関係、韓日通商、韓日会談、「在日僑胞」をめぐる談論」 特集:伝統韓国の農業生産力と租税 李正浩「高麗前期水田と旱田地目の差異と生産力」 姜制勲「踏験損実法の施行と田品制の変化」 이정철「18世紀朝鮮の小貧農層と田植え」 『韓国史学報』7、1999.9 論壇 朴大在「『三国史記』初期記事に見える新羅と百済の戦争」 朴龍雲「高麗時代の政堂文学についての検討」 呉恒寧「朝鮮初期文翰官署の整備と史官制度」 宋亮燮「壬辰倭乱期国家の屯田設置と経営」 崔完基「朝鮮後期楼院店の経済的立地」 孫科志「日帝下上海韓人社会の組織体とその構成」 김기승「民主党政権の経済政策と張勉」 特集:20世紀韓・日間の相互認識 류시현「1910-20年代日本留学出身知識人の国際情勢及び日本認識」 太田修「韓日会談に関与した韓国官僚の日本認識」 高崎宗司「日本政界の第二共和国観」 『韓国史学報』6、1999.7 論壇 윤세영「新羅火葬王考」 朴賛興「新羅禄邑の受取について」 車美姫「朝鮮後期文科及第者の分館」 宋圭振「1920-1931年朝鮮総督府の関税政策と朝鮮貿易構造の性格」 鄭泰憲「米軍政初期各金融機関の不渡債権と預・貸推移」 特集:朝鮮太宗・世宗代の社会相と国家政策 한형주「朝鮮太宗・世宗代社稷祭の理解と運営」 이정주「朝鮮太宗・世宗代の抑仏政策と寺院建立」 姜制勲「朝鮮太宗・世宗代田税の負課と受取」 韓嬉淑「朝鮮太宗・世宗代白丁の生活相と盗賊活動」 『韓国史学報』5、1998.9 論壇 이홍종「『三国史記』「靺鞨」記事の考古学的接近」 정운용「金石文に見える高句麗の年号」 姜制勲「朝鮮初期国庫穀の還上運用」 金允嬉「開港期財政運営の変化と外画の役割」 곽건홍「戦時体制期(1937-1945)日帝の労働移動制限政策」 特集:高麗時代地方史研究 金甲童「高麗時代の戸長」 李貞信「高麗時代紙の生産実態と紙所」 金日宇「高麗時代耽羅の地方編制時期とその単位の形態」 金昌賢「高麗の耽羅に対する政策と耽羅の動向」 書評 朴性淳「韓国近代史に対する偏見:原田環『朝鮮の開国と近代化』渓水社、1997年」 『韓国史学報』3・4、1998.3 장지훈「新羅中古期の護国仏教」 李貞信「高麗時代の漁業実態と漁梁所」 朴胤珍「高麗時代開京一帯寺院の軍事的・政治的性格」 宋洙煥「朝鮮前期の司饔院」 김기승「趙素昻の思想的変遷過程:青年期修学過程を中心に」 高珽休「3・1運動と天童教団の臨時政府樹立構想」 신용옥「国防費分析から見た代充資金及びアメリカ対韓援助の性格(1954-1960)」 特集:朝鮮後期社会構造の変動 金盛祐「壬辰倭乱以後戦後復旧事業の展開と兩班層の動向」 金友哲「朝鮮後期束伍役の徭役化過程:束伍軍操錬制度の変化と関連して」 권내현「朝鮮後期邑治とその居住民構成に関する一考察」 변주승「朝鮮後期遺棄児・行乞児対策とその効果:給糧策を中心に」 김용민「19世紀面の運営層強化と面任の役割」 書評 趙仁成「『三国史記』の史料的性格についての総合的な検討:鄭求福、申東河 他『三國史記의 原典 檢討』韓国精神文化研究院、1995年」 金泰植「『三国史記』原典資料の性格:李康来『三國史記 典據論』民族社、1996年」 李康来「『三国史記』原典論のために:高寬敏『三国史記の原典研究』雄山閣、1996年」 『韓国史学報』2、1997.3 朴大在「辰韓諸国の規模と政治発展段階」 최근영「「中原塔坪里七層石塔」建立背景についての推論」 李鎮漢「高麗時代初仕外官職の運営と禄俸」 金蘭玉「高麗時代良人・賤人の用例と良賤制」 이정주「思想家としての鄭道伝の新しい姿:仏教界交流と「心問天答」の中の反巧利思想」 김경란「18-19世紀書院の良丁募入形態変化と政府の対策」 朴銀淑「開港期(1876-1894)軍事政策変動と下級軍人の存在様態」 姜萬吉「侵略戦争期日本に強制動員された朝鮮労働者の抵抗」 特集:米軍政の社会・経済政策と大衆運動 林鍾明「朝鮮国軍準備隊と建軍運動(1945.9-1946.1)」 안태정「朝鮮労働組合全国協議会結成(1945.11.5-6)研究」 許殷「米軍政の食糧増産政策と農村統制:肥料受給問題を中心に」 송병권「米軍政期の世界改編と大衆課税」 『韓国史学報』1、1996.9 論壇 金貞培「「原三国時代」用語の問題点」 한규철「渤海国の住民構成」 朴龍雲「高麗時代開京の部坊里制」 金澈雄「雪谷鄭誧の生涯と道教観」 오종록「朝鮮初期正兵の軍役:15世紀後半を中心に」 李煜「18世紀末米廛構造と米穀流通」 권혁태「日帝下朝鮮の農村織物業の展開と特質」 이주철「北韓土地改革の推進主体:ソ連主導説に対する批判」 特集:韓国古代の地方統治 梁正錫「新羅麻立干期王権強化過程と地方政策」 琴京淑「4・5世紀高句麗の地方統治に関する試論的考察」 朴賢淑「百済泗沘時代の地方統治制研究」 金東宇「渤海の地方統治体制と首領」 書評 白東鉉「義血闘争から民族統一戦線運動へ:廉仁鎬『김원봉연구』창작과 비평사、1993年」 卞恩真「植民地民族解放運動と社会主義者としてのある「典型」:김경일『이재유연구』창작과 비평사、1993年」 유시현「民族協同戦線と中道派政治路線実現のための知的努力:김기승『韓国近現代社会思想史研究』신서원、1994年」 1-20 21-40 41-60
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登録日:2009/09/17 Thu 12 39 25 更新日:2024/05/11 Sat 16 32 01NEW! 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 67年トリオ チート親子 優しい人 六文銭 判官贔屓 十文字槍 名将 大坂牢人五人衆 大河ドラマ主人公項目 我侭 戦国武将 日本一の兵 時代の徒花 智将 東のチート一族 武将項目 真田 真田丸 真田信繁 真田幸村 能ある鷹は爪を隠す 苦労知らずのお坊ちゃん 豊臣秀吉 赤 長野県 注意 この項目では戦国武将について記載されています。 漫画、小説、ゲーム等での真田幸村についてはそちらに該当する項目を読むようにして下さい。 真田幸村-さなだ ゆきむら(本名…真田信繁-さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。(1567-1615) 永禄10年とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。 本名の信繁(のぶしげ)は、武田信玄の弟・武田信繁の名を是非にと父・真田昌幸が信繁の息子に言って使わせて貰った名であるため改名はしていない。 ●「真田幸村」の由来 講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、 信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。 架空の名前だがかっこいい名前のためか幸村のままになっている。 例えるなら三国志の張益徳(張飛)が張翼徳とされているような感じである。 幸村という名前の初出は1672年の軍記物語「難波戦記」と言われる。 江戸初期、真田家は徳川家を苦しめた記録を残すことを遠慮しており、 当時、「昌幸の次男」の名前は記録に残っておらず、 真田家の通字「幸」と姉「村松殿」の「村」を組み合わせて創作されたと言われている。 真田家の公式記録が編纂されたのは「幸村」の名前が広まった後の江戸中期以降。 1633年の『慶元記 大阪夏冬両陣始末』も現存する版では「幸村」 1695年の『滋野通記』に信幸の言葉として「高野山蟄居ノ折カラニ幸村ト改シト物語有リ」と書かれる 幸村直系の仙台真田家伝来の系譜『滋野姓海野氏真田氏略系』にまでも「幸村」と記載 等々、信繁ではなく幸村という名前が色々な公式記録に採用されるという事態が起きた。 ●六文銭 旗印である六文銭(ろくもんせん)は、冥銭を表しているといわれている。 冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のこと。 これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。 真田家の家紋は正しくは六連銭(りくれんせん)であるが、幸村の名前と同じく誤って流布している。 なお、大坂の陣での戦闘シーンで六文銭の旗を掲げて家康本陣に突撃するシーンが定番だが、史実では真田家に憚って六文銭の旗は使わなかったこととされている。 ●活躍 真田幸村(さなだ ゆきむら)と言う名称は、江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。 義の志と共に戦場を駆け抜ける熱血漢で、日本征服を目論む悪逆非道の権力者である徳川家康に生涯に渡って立ち向かった正義の武将である。 幼少期より人質として預けられる日々を送っていたが、上杉家の人質となっていた時期に真田家が徳川家康の侵略を受けている事実を聞いた幸村は、 義の志を持つ直江兼続の粋な計らいによって上田城への帰還を許され、彼の友情に応えるべく幸村は馬に跨って上田城を目指す。 徳川軍の待ち伏せも物ともせず、休む間も無く上田城へと辿り着いた幸村は、「第一次上田合戦」に参戦。 圧倒的な数を誇る徳川の軍勢を相手に大・奮・戦し、真田軍の勝利へと導いた。 真田家が豊臣家の臣下となってからは、馬廻りの一人に抜擢され、そこで豊臣家随一の忠臣である石田三成と出会う。 性格は対照的ながらも、互いの心の中に眠る正義の魂で通じ合った結果、上杉家での人質時代に友情を育んでいた直江兼続も交えて義の同盟を結ぶ。 そして、小田原征伐における北条家との戦いでは、三成の指揮する忍城の攻略戦に参加。 父・昌幸、兄・信之の二人と共に、北条家を見事に打ち破り、指揮官であり、友である三成を感涙させた。 その後、最大の怨敵である家康が、三河から関東へと移封された事もあって、天下統一された日本の未来は明るいかと思われた…。 しかし、太閤秀吉が亡くなったのを機に、それまで関東で大人しくしていた家康が一気に野望を剥き出しにし、暴虐の限りを尽くす事になり、 盟友である三成は、家康によってけしかけられた福島正則や加藤清正といった武将達に襲撃された挙句、蟄居へと追い込まれてしまい、 正義の炎を燃え上がらせた幸村は、すぐにでも家康を討ち取ろうと、鎧を着て出陣しようとしていたが、 「今はその時ではない」と昌幸や兼続に諫められた幸村は、大阪城を去っていく三成を涙ながら見送るしかなかった。 しかし、家康によって起こされた会津征伐で上杉家が滅びの危機を迎えようとしていた事で、遂に幸村の怒りは爆発。 同じく佐和山城で蟄居の身となっていた三成が、正義の志と共に挙兵を決意したのを知った幸村は、父・昌幸と共に迷わず三成の率いる西軍へと突く道を選ぶが、 兄・信之は時世は「徳川の方に向いている」という理由から、「義」よりも「利」を取る道を選び、兄の裏切りに戸惑いながらも、幸村は「関ヶ原の戦い」へ参戦。 前哨戦である「第二次上田合戦」では、真田家に仕える忍者軍団を使い大・活・躍し、徳川秀忠率いる軍を撃退する事に成功する。 だが、関ヶ原の戦いの本戦では、家康の卑劣な策略によって西軍の小早川秀秋が裏切った結果、西軍の敗退と言う形で戦いは終わってしまい、 三成は斬首刑に処せられる形で死亡。自らも昌幸と共に高野山への蟄居へと追いやられる事になってしまった。 そして、屈辱の日々に耐える中、昌幸は無念の言葉と共にこの世を去る事になり、父の死に号泣した幸村は、父の遺志を継いでいつの日か必ず家康を断罪する事を誓う。 父の死から数年後、豊臣の危機を聞かされた幸村は、息子・大助やいずれ家康を自らの手で討つ為に結成していた「真田十勇士」を引き連れて高野山を脱出。 無事に大阪城へと入城した幸村は、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登の4人と共に「大坂牢人五人衆」を結成。その筆頭として家康を迎え撃つべく、 大阪城の中でも防御ので薄い南側の防衛を目的とした巨大な出城「真田丸」を考案し、それを建造する。 そして、大阪冬の陣が開戦してからは、真田丸にて歴戦の猛者に相応しい名指揮を発揮する事になり、豊臣軍の大・勝・利へと見事に導いた。 しかし、真田丸の脅威を目の当たりにした家康の策略によって、大阪城の堀全体が埋め尽くされた上に真田丸も取り壊されてしまう事になり、 更には追い打ちを掛けられる形で大坂夏の陣が勃発する事になるが、それでも諦めなかった幸村は、自ら前線に出陣して、家康の首を討ち取る事を決意。 真田十勇士と共に家康の本陣に向かって突撃を敢行、あと一歩のところまで肉薄し家康を恐怖のどん底におとしめるも、遂に討ち取るまでは叶わず、大・激・戦の末に壮絶な討死を遂げた。 一説には秀頼を擁して大坂を脱出し、薩摩へ落ち延びたとも東北へ逃げたとも言われる。 ゲーム等での活躍 現在までシリーズとなっている作品のみ記述する。 いずれにしても赤い甲冑を着た熱血漢の若いイケメンとして描かれておりどちらの作品でもまるで主役のような扱いである。 ●戦国無双シリーズ 真田幸村(戦国無双) CV:草尾毅 戦国無双シリーズを通しての主人公的存在であり、戦国無双4では兄・信之もPC参戦。 同じ無双シリーズである三国無双の趙雲とは、共にジャケットを飾る事が多い事からか無双OROCHIのOPで共闘している。 ほぼ全ての作品通して真面目で礼儀正しいながらも熱血漢という性格は共通しているが、 2の時はいきなり「義…ではないでしょうか」と話しかけて直後(何を言っているのだ私は)と一人ツッコミする天然なところも。 ●戦国BASARAシリーズ CV:保志総一朗 「ゥヲォヤカタサムァァァァッ!!」で有名な人。やたら熱血&愛すべきバカ。アニメでは本格的に人間を辞めてきている。最近は影が薄めで窓際に近づいている。 保志氏迫真の演技も光る。 戦国大戦にてコラボ参戦し、高コストだがクセのない使いやすい槍兵として一時期環境を支配した数年後 LoV3ともコラボして、こちらも中コストの使いやすいアタッカーとして大暴れした。 ●仮面ライダー電王-俺、誕生!- 陣内智則が演じる。 神の路線を使い、戦国時代にタイムスリップしてきた牙王と半ば強制的に手を組まされた。 ここでは前述の様にイケメンではない。 アメトーーク!では「怪人クソ大根」呼ばわりされた。 ●パチンコ-花の慶次- 「一本気大将!真田幸村!」 といえば打てば誰でも見れるリーチ。 「人間には、触れちゃならねぇ"痛み"ってもんがあるんだ…」 「そこに触れたらあとはもう命のやり取りしか残っちゃいねーんだ!」 「冗談じゃねぇぞ!コノヤロォォオオー!!」 全く期待出来ないが、幸村リーチで2R当たりだった場合は確変確定。 原作では慶次の馬、松風をくれとせがんだが一蹴される。 あまりにしつこいので慶次は似たような馬をあげた。 喜んでた 沙霧編での茶会は涙なくしては語れない、ストーリーリーチにしてほしいくらいである。 ●信長の野望シリーズ 大体真紅の赤備にイケメンと通例だが、リアル路線なゲームゆえに若干渋い強面になる。 最近の作品では常時騎馬適性Sに加え、統率と武勇、そして知略がトップクラス で、戦闘用の数値を一人で満たす野戦上手。 けど政治は弱い。 ●真田魂 作者は重野なおき 髪の色は母親譲りのやんちゃな人物。 文武に優れ標高120mの崖を難なくクライミングするなどリアルチートそのもの。 ただ、あまりに何でもすぐにこなしてしまう天才ぶりを父からは危惧されている。 ●殿といっしょ 作者は大羽快 立ちまわりは概ね史実通りだが、父昌幸と並んでとにかくフリーダム。 九度山に流されていたはずの時期に、堂々と兄信之の家、更には変装して江戸城へと侵入し家康、秀忠、お江をいじり倒す。 連載順では後から登場になった祖父幸隆はそっくり(*1)で孫同様フリーダム、 信玄と勘助を介して初めて出会った際に、信玄が色々不味いと慌て、それに対し孫にそっくりなのは当然とか、メタ発言をかましまくっている(*2)。 10巻の表紙でコミックスを宣伝する際には帯にて「来年のドラマで主役!!!真田幸村関連本 いかがっすか――!!!」 ダメな方の真田家なら任せてください!!! と暴れまくった。 彼を取扱った作品 司馬遼太郎『軍師二人』(後藤基次とのダブル主役) 池波正太郎『真田太平記』(1985年NHKドラマ化、主演:草刈正雄) 東映映画『真田幸村の謀略』(1979年公開、主演:松方弘樹) テレビ東京 12時間超ワイドドラマ『家康が最も恐れた男 真田幸村』(1998年放送、主演:松方弘樹) NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年放送・脚本三谷幸喜、主演:堺雅人) 追記・編集はいつ討ちとられても良いように銭六文を用意してからお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この人の父親についての記事もぜひ。あと黙れ小童!の人のも是非ww -- 名無しさん (2016-03-25 20 31 31) 戦国武将の中でもトップクラスに長生きな兄上のことも忘れないでください。 -- 名無しさん (2016-05-11 16 53 17) 真田丸だとだいぶ前倒しして馬廻衆になってるけど、実際はあの頃はもうちょい下っ端だったっぽいね。 -- 名無しさん (2016-05-24 11 42 50) 幸村の呼び方が広まったのは「武田を最後に裏切った男」小山田信茂(のぶしげ)が長年にわたって蛇蝎のごとく嫌われてたってのもあると思う。武田信繁も特に地元では武田典厩呼びの方が多いくらいだし -- 名無しさん (2016-10-02 08 01 58) 所詮戦術家であり、父ほどの戦略眼は持たなかったとも -- 名無しさん (2016-10-02 09 14 16) 九度山で子供作った云々だけど、九度山では親父と一緒に宴会やりまくって兄貴に迷惑かけまくってたともいう。 -- 名無しさん (2016-10-02 09 20 49) 兄貴曰く、優しくて我慢強くて、怒るような事なんかまずない。小さな集落単位から国を守ろうと考えるあいつこそ本当の武士であって、必死に見栄張っている俺らの方が惨めだ -- (2016-11-10 21 54 09) この人のことあんまり詳しくないから教えて欲しいんだけど、十文字槍ホントに使ってたの? -- 名無しさん (2016-11-10 21 59 42) 戦国無双1のトゥルーエンドが大阪の陣死亡エンドなのは当時びっくりした、メイン主人公なのに死ぬのかよと。 -- 名無しさん (2016-11-10 23 31 31) 史実をモデルにしている以上、トゥルーエンドは史実通りだろうよ... -- 名無しさん (2016-11-11 15 28 09) 色々調べてみると親父と兄貴の方が数倍凄い人達なんだよなぁ。戦闘力に特化し過ぎたというかなんというか。 -- 名無しさん (2016-11-11 15 59 56) 「日本一の一発屋」だからなある意味。凄い事は全くしてないし、結局負けてるのに、何故か超有名と言う -- 名無しさん (2016-11-11 17 54 42) すごいことしてるだろ、十分 -- 名無しさん (2016-12-22 11 25 50) この人といい、親父殿といい、信玄公といい、武田家は家康の天敵だらけだな。 -- 名無しさん (2016-12-22 11 56 44) ↑5 無双1はトゥルーエンドがIFなキャラが多い、武田が天下取るとか、蘭丸が本能寺で死なずに敵討ちするとか -- 名無しさん (2016-12-22 12 45 29) ↑8 十文字槍は戦国武将では結構使われてるから使ってたと思う。 あのみんな大好き「」 -- 名無しさん (2016-12-22 12 57 53) ↑3 その中で家康本人と戦ったの信玄だけやで -- 名無しさん (2016-12-22 12 59 51) ↑2ミス あの、みんな大好き「お寧々様///」で有名な加藤清正も無双じゃ大鎌だが実際は十文字槍の片方の刃が折れたのを使ってたし。 -- 名無しさん (2016-12-22 13 02 09) なんだかんだで毛利勝永の手柄も一緒くたにされてる -- 名無しさん (2016-12-22 13 49 27) 戦国の世の終わりの終わりで新時代に立ち向かって砕け散ったって所にロマンがあるんだろうな。プラス判官贔屓。新撰組とか源義経みたいな -- 名無しさん (2017-01-17 22 22 44) そう言えば新撰組も時代の変わり目に旧い側に付いて散っていったな。みんなそういうの好きなんだな。 -- 名無しさん (2017-09-11 18 21 05) こいつのせいで兄貴は寿命半分くらい減った。 -- 名無しさん (2018-10-03 10 27 15) あれで半分なのか…あなおそろしや -- 名無しさん (2018-10-03 10 53 53) 才能はあったのだが、父親の方が名が売れててこの人の評判は目立たなかったとのこと。だから本人のせいではないんだが信頼が薄かったんですな。 -- 名無しさん (2020-01-27 21 56 30) 長女が敵陣に保護を求めに行って受け入れられており、一族の助命に一役買っているあのあたりのエピソードは大河ではやらなかったのが残念。 -- 名無しさん (2020-02-02 10 45 58) 息子は仙台藩士らしいね (片倉守信) -- 名無しさん (2020-10-06 15 34 19) 真田丸でも理詰めなせいで最終的に失敗する顛末はしっかり描かれてたな。 -- 名無しさん (2021-03-21 17 11 44) 仙台藩士を経て直系が今でも残ってる。昌幸の残ってる肖像画に末裔の方はなんとなく顔が似てる。 -- 名無しさん (2021-09-06 17 46 28) 父兄弟と三人合わせて「真田幸村」だと思う -- 名無しさん (2022-05-11 10 01 19) 信之が「(幸村は)国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とまで言ってるのは伝説による補正除いても(それに値するだけの)凄い男だったのは間違いなかったと思う -- 名無しさん (2022-07-24 00 08 14) そもそも大坂の陣当時の史料で関係者が口を揃えて真田は凄いと言っているのだからそれが全てであり「過大評価だ」「勝永(正しくは吉政)の方が凄い」などというのはただの個人の感想。一部のネット民が信繁叩きに勝永利用するのは歴史学に対する真摯さの欠片も無いわ -- 名無しさん (2022-11-13 19 03 28) 『落穂集』の成立時期は大坂の陣から100年後ぐらいだから扱いには慎重を要する史料なのにそういう事にも一切配慮が無いのもどうなんですかね。仮に落穂集の記述が100%正しいとしても「結果的にただでさえまとまりの悪い状況を悪化させてしまっている」ってそんなことは落穂集にも書かれていないしこの記事あまりにも主観が過ぎる -- 名無しさん (2022-11-13 19 58 03) pixiv大百科といいアニヲタwikiといい、真田信繁を明らかに貶めて毛利勝永(吉政)を持ち上げる流れはどうにかなりませんかね… -- 名無しさん (2022-11-20 00 55 02) 実際の真田信繁(幸村)以降は、正直誹謗中傷とはいかなくとも不当な記述とは思うので、全部削除したいと思うのですが -- 名無しさん (2023-07-08 21 33 04) ↑賛成も反対もしない。アニオタwikiは本家wikipediaとは違う。面白ければそれで良い。嘘を誤解させるような筋の悪い記述でなければ正直なんでも良い。 -- 名無しさん (2023-07-08 21 42 44) 名前 コメント
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*秋月種実 秋月種実(1548~1596) 秋月文種の五男。父が大友家によって滅ぼされた時に、弟たちと共に高僧に伴われて城を脱出、以後毛利家に匿われる。 その後毛利氏と秋月領を死守していた深江美濃守の援護を得て大友家の手から旧領を回復し、以降父の仇である大友家との戦に明け暮れた。 休松の戦いで立花道雪の軍勢を破る等、武勇に秀でる面もあったが、その反面教養豊かな文化人でもあり、キリスト教の布教を許すなど、南蛮文化にも寛容であった。 また、今に伝わる重要無形文化財、大蔵谷獅子舞は種実が稲爪神社に寄進したものである。 耳川の戦いで大友家が敗れた後は竜造寺氏、島津氏と結び、更に領土の拡大を図る。 最終的には筑前、豊前、筑後に36万石に及ぶ広大な領土を築き上げ、秋月氏は最盛期を迎えた。 しかし、ここに来て大友氏は豊臣秀吉に援軍を乞い、九州征伐を引き起こす。 島津に付くか、豊臣に従うか――秋月氏は秀吉が目前に迫ろうとしていた時すらも家中がまとまらずにいた。 段々と抗戦に意見が傾いてゆく中、一人それに異を唱えるものが居た。秀吉と会談を行ってきた恵利暢堯である。 種実は恵利の説く豊臣と九州勢との物量の差を受け入れ、主戦派を強引に押し切り、松浦氏を通じて降伏、所領を安堵された。 この時、種実は日本三大肩衝の一つである「楢柴」を用いて秀吉を茶でもてなし、大層感心されたという。 その後は内政に努め、秋月36万石の基礎を築く。1590年に家督を嫡子の種長に譲って隠居し、48歳で病死した。 *明智光秀 明智光秀(1528―1600) 明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子 明智氏は代々土岐氏に仕える城主。 その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に 止むを得ず、信長を討つ。 その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り 近江坂本に幕府を開く。 明智光秀(1528―1582) 智勇兼ね備えた武将。織田信長に使えてもその才気はますます輝きが増し、信長四天王と評されるまでになる。 本能寺にて休息中の信長に対して謀反を起こすが、天魔信長が天に向かって打ち放った矢が光秀の頭部に突き刺さり死亡。 主君を失った明智軍は潰走し散り散りとなる。明智秀満ら謀反に加わった光秀重臣たちは捕らえれて斬首となっている。 大日坊咲庵(1528~82) 連歌師。美濃の人。俗姓は明智、字は十兵衛。 若年の頃は山崎宗鑑に師事して、その後は全国各地を巡って してさまざまな公家や連歌師と交流をもち、元亀年間に近江 坂本に庵を結んだ。 しかし、近江の領主・織田信長の招きには応ぜず、連歌仲間 の丹後の細川藤孝のもとに身をよせた。一説には、故郷美濃 の侵略者である信長を嫌悪していたという。 天正10年に土岐旧臣安藤守就が謀反する直前に愛宕山百韻に 招かれ、土岐旧臣である安藤の決起をうながす、 「ときは今 雨が下なる 五月かな」 との発句を詠んだのは有名である。 しかし、安藤の謀反は未遂に終わり、咲庵は信長から謀反の 共謀をした者(同時の記録には「今度謀反随一」とある)と して磔刑に処せられた。 彼と公家との交流は深く「晴豊記」・「兼見記」などに残さ れた彼の連歌は、現在の俳句研究家の貴重な資料となっている。 *明智光慶 明智光慶(1569-1669) 明智光秀の嫡子。父光秀が羽柴秀吉に敗れ戦死後、江戸川小五郎左衛門天海と改名する。 父の仇を討ち冤罪を晴らすために、徳川家康に接近し、その卓越した推理力で 見事に信長を殺害した真犯人が秀吉であることを証明することに成功した。 その推理力は後世においても高く評価され「明智小五郎」「名探偵テンカイ」など 人気作品のモチーフとして愛されている。 *浅井長政 浅井長政(1545-1586) 近江国小谷城主浅井久政の子 1560年、長政は15歳の若さで軍を率い、 六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露して 重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。 尾張から美濃を手に入れ、上洛せんとする織田信長の妹、市姫と婚姻し織田と同盟する。 信長の上洛に全面的に協力し、実質一門として信長の絶対的な信頼を得る。 信長と越前の朝倉義景の戦争の際には、朝倉家との同盟を捨て、あくまで織田家に付いていくことに決心。 朝倉滅亡後、畿内の統一に大きく功をたて、山城・大和・摂津・河内・和泉の五カ国を任せられ、江北から移る。 信長の統一事業に対し巨大遊撃軍団として東へ西へ縦横無尽に大活躍。 しかし、1582年 家臣の蒲生・長谷川・堀・稲葉・武藤らの共謀により信長が暗殺された。 四国統一の仕事をしていた長政は僅かな手勢を率い、船で馬で、驚異的な速さで京へ引き返した。 神風が吹いていたと伝わる。長政、八千の兵で二万の反乱軍を撃破、見事仇討ちを果たした。 鎮圧後、清洲で開かれた相続の会議で、長政の活躍を聞いた一門らに、信長・信忠死後の家督を打診される。 長政は快く承諾し、早急に家中を纏め、信長の志を継ぐことを決意した。 しかし以前から対立していた羽柴秀吉が長政に背き、山崎の地でにらみ合いとなった。 羽柴秀吉は黒田孝高に奇襲をさせるが失敗、まともに撤退できずに壊滅する。 主力の崩壊により、羽柴軍全体の士気が下がり、多くの兵が逃走、これを長政が見逃すわけはなかった。 結果、野戦達者の長政が勝利を得、家中を完全に纏め、 1585年、日本を統一信長の残した仕事を終わらせる。長政この時四十。 本拠を武蔵国に移し、さいたま幕府を開く。 がしかし、元の襲来により、日本軍敗北。 台風で帰っちゃったけど、日本はまた戦国突入! 1600年徳川家康が統一し、また平和がおとずれましたとさ、 めでたし。 浅井長政 【1545~1583】 統率 90 武勇 93 智謀 32 政治 87 魅力 93 浅井忠政 【1563~1635】 統率 81 武勇 75 智謀 84 政治 93 魅力 72 彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。 六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。 嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。 同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。 その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。 この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。 1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、 さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。 翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。 同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。 その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。 やがて嫡男万福丸が元服。信長の嫡男、信忠から一文字賜り、忠政と名乗った。 1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。忠政も見事な初陣を飾る。 その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。 終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。 戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。 家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。 その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。 越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。 清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。 やがて信長の後継者としての地位を巡り秀吉と対立。柴田勝家などの有力な織田家遺臣を味方て対抗する。 ところが、彼が旧来の織田家臣団ではなく、また自身が謀略戦や根回しなどに不得手であったことが禍する。 有力な味方である、柴田勝家の病死を切欠として次第に織田家での求心力を失い離反者が続出。孤立してしまう。 兵力差10倍以上の圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。 先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄まで追い詰められて自害した。 秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、 自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。 残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。 この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。 嫡男忠政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。 食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。 小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。 北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。 恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。 江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。 長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。 そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。 夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。 やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。 その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。 【浅井長政】 浅井家大名。拡大著しい織田信長と同盟、信長の天下武布事業に大きく貢献した。 信長による天下平定後、織田政権で重要な地位を得たまま病死。 その後何百年も浅井家は安泰となり、戦国屈指の賢人と称される。 *朝倉景鏡 朝倉景鏡(1525-1584) 通称は孫八郎。式部大輔。朝倉一門筆頭として各地を転戦。 織田家の侵攻の際、土橋城に籠城し奮戦。しかし、義景の自刃を聞き開城降伏。 その潔さと能力を認めた信長に朝倉家の存続を条件として仕官。 翌年の越前一向一揆の際は信長が景鏡の救援を優先したため生き残る。 その後、かねてよりの約束通り家名の再興と越前半国を賜る。 さらに加賀・能登の平定を成し遂げ、そのまま統治することを許される。 本能寺の変の後、明智光秀を羽柴秀吉と挟撃しこれを討ち取る。 だが、その後織田家の処遇について秀吉と対立。 山陰攻めの大将であった柴田勝家と結び賤ヶ岳にて対峙する。 景鏡は事実上の総大将であったが、自ら手勢を率いて羽柴軍を奇襲。 乱戦の中、自身は討死するが、事前に指揮権を委嘱されていた柴田勝家が その混乱を突き、羽柴勢は壊滅。羽柴秀吉は長浜にて自害する。 文字通り命を賭して織田家に義を尽した景鏡を人々は称賛したという。 *朝倉義景 朝倉義景 (1533-1595) 越前国の戦国大名。朝倉孝景の嫡男(養子説もあり) 越前国の大名、朝倉孝景の子として生まれた義景は当初、政や軍事にまったく関心を示さずに遊興にふける日々を送っていた。 しかし足利将軍家の義秋(義昭)の自国への亡命 さらに加賀の一向一揆の度重なる自国の侵入により、徐々にその才能を開花させる。 義昭の上洛要請に義景は 今の朝倉家にそんな力はないと判断、しかし義昭を丁重にもてなした。 また加賀の一向一揆との戦いにおいて家中随一の猛将であった朝倉宗滴の死後は自ら軍を指揮し、 幾度となく10万以上の一向衆を打ち破っている。 やがて義昭が頼った尾張の織田信長が台頭してくると、義景は信長から臣従を求められた。 義景はこれまでの信長の数々の悪逆非道な行為、そして越前の国主としてのプライドがこれを許さず戦うことを決意した。 これを口実に信長は即座に越前に軍を進めるも、浅井長政の裏切りにあい朽木元綱を頼って京へと引き返した。 浅井の裏切りに激怒した信長は小谷攻めを決意、徳川家康と共に出陣した。 これに対して義景は自ら1万の軍を率いて出陣し浅井軍と合流、両者は姉川にて対陣した。 浅井軍は織田軍の陣を次々と突破し本陣近くにまで肉迫、 朝倉軍も先峰、朝倉景健の活躍で徳川軍の陣を次々と打ち破った。 これにより織田、徳川軍は引き返すもたびたび両者は近江国で激突した。 度重なる戦でも決着はつかず、双方決定的な打撃を与えるには至らなかった。 しかし義景が一向衆との戦の為加賀に出陣中、信長は不意をついて小谷城を攻め、亮政、長政親子は越前に亡命した。 これにより勢いに乗った織田軍は朝倉方の城を次々と攻略し、朝倉方は数々の武将が討ち死に、窮地に立たされたのである。 義景は一向衆と和睦、急遽彼らと連合軍を組みなんとか織田軍を追い返した。 だが朝倉家の受けた被害も大きく、義景は一族の景鏡の居城である大野へと移り徹底抗戦の構えを示した。 その後織田軍は再度越前に進撃、対する義景は3000の兵で大野城に立てこもった。 やがて城を囲まれるが、加賀の一向衆が織田軍の背後に陣取ると これを見た義景は城から出撃、一向衆と共に織田軍を挟撃し見事織田軍を敗退させたのである。 その後信長が本能寺で横死するまで織田軍を撃退し続けるも、本能寺の変後は柴田勝家に降下する。 これは度重なる戦による国力の低下を恐れての事であった。 賤ヶ岳合戦時は秀吉有利を見抜き、秀吉勝利に大きく貢献した。 のち秀吉から大野、勝山10万石を賜ると家督を嫡子愛王丸に譲り隠居、数年後大野にて病死した。 なお朝倉家はのちの関ケ原合戦時には東軍につき、越前にて20万石を賜り幕末までその命脈を保っている。 朝倉義景(1456~1789) 越前・大野にて朝倉幕府を開いた 朝倉義景 朝倉孝景の息子。 家督相続後から一向一揆との戦いに忙殺される。 京を追われた足利義昭を庇護した後は、その家臣明智光秀の勧めもあって一揆と和睦する。 義昭を擁立した義景は上洛の軍を起こし、三好一族を京から追放して幕府再興を果たす。 管領職に任じられた義景は近畿一円を席巻する勢いを見せ、1572年には三好義継を河内で討つ。 その後一族・景鏡の謀反や再び敵対した本願寺対策などに苦慮しながらも室町幕府のために尽くす。 1585年、東を任せていた盟友浅井長政の三河攻めの援軍として向かう途上、近江で客死。 朝倉義景 足利義昭を奉じて上洛。 三好長慶・松永久秀を追い払い、義昭を15代将軍の座につける。 しかし、反撃してきた三好三人衆に敗れ、京を追われる。 *足利茶々丸 足利茶々丸 (?-1582) 堀越公方足利政知の子。 血みどろの家督継承騒動から出発し、今川家の介入を排除。 謀略を駆使して小田原を奪って拠点とし、両上杉氏・古河公方との激闘の末かれらを倒した。 武田・今川・長尾(上杉)氏と時に結び、時に争いながら関東平野を切り従え、 長寿を保って乱世を睥睨した一代の覇王である。 その破天荒な人生は、 90歳近くで没するまで「茶々丸」という名で通したことからもうかがえる。 *足利義昭 足利義昭 足利幕府15代将軍 兄で13代将軍の義輝が殺された後、 信長の尽力により入京して将軍に就任。 信長に対し「御父方」と呼んで報いるも決別。 諸国の大名に対して信長討伐を呼びかける書状を送り 「手紙公方」とあだ名される。 1573年織田・徳川を滅ぼして入京を果たした 武田勝頼の故父信玄を「御父方」と呼んで報いる。 が、程なく決別し浅井・朝倉に書状を送り、 少人数で東国に戻る勝頼を背後から襲わせて討ち取る。 その功に対して朝倉義景を「御父方」と呼んで報いる。 その後、御父方と呼ばれた者 上杉・宇喜多・毛利・北条・大友・島津・・・。 いずれも義昭の謀略で消されている。 足利義昭 室町幕府第十五代将軍。 兄義輝の死後、諸国を流転し、濃尾を平定した織田信長の協力をとりつけ、上洛、将軍職に就く。 その後織田信長と対立するにいたり、各地の大名と共に信長追討を企てるも しかし諸侯の足並みが揃わず、頼みの武田軍も信玄の死亡により帰国。浅井・朝倉は滅亡。 その事を知らない義昭は僅かな兵と共に勝龍寺城で挙兵してしまう。 圧倒的な織田軍に囲まれ、猛攻を受けるがそれを尽く退け戦線は膠着、長期戦の様相を呈す。 翌年、一向宗が各地で決起、勝竜寺城の囲みは解かれ、帰京を果たす。 六角の残党、丹波・摂津の諸豪族を従え、近江に乱入、一進一退の攻防を繰り広げる。 その間にも得意の謀略で伊賀・伊勢の諸豪族を自陣営に引き込み、朝倉旧臣をもって越前を乱し 遠江を平らげた武田勝頼の西上と歩調を合わせ、織田陣営を圧迫。 関ヶ原で両軍が対陣、その間に武田軍が徳川軍を降伏させると、信長に城下の盟を強いた。 足利幕府の威光は高まったが、直轄地の少なさから諸豪族の統括に苦心。 織田への仕置きに不満を持つ武田、台頭した一向宗、毛利一族の圧迫などへの対応にも苦慮し、 1582年、死去。心労がたたった為、と言われる。 彼の死後、足利幕府は崩壊する。 覚慶(1537~1597) 室町末期~安土桃山時代の法相宗の僧。興福寺別当。大僧正。一乗院。 父は室町幕府第十二代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘。兄に第十三代将軍である足利義輝がいる。 1565年の永禄の変で、将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺され、弟で鹿苑院院主であった周嵩も誘殺される。 自身も久秀の手によって奈良に幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出する。 細川藤孝・和田惟政らに還俗して将軍家再興する事を促されるが、拒否し僧籍のまま近江、若狭、越前など各地を転々とする。 上洛の動きを見せた織田信長の援助を得て、再び一乗院に戻る。 14代将軍足利義栄が没し、15代将軍職に足利義助が就くが織田信長により放逐される。 足利将軍家が滅亡していく様を見て世の中の無常を悟り修行に専念する。 織田信長が比叡山焼き討ちに対して意見する書状を出した事により放逐され再び各地を流転するが、 本能寺の変で織田信長が死した後、豊臣秀吉の援助を得て再び一乗院に戻り、余生を過ごした。 *足利義輝 足利義輝(1536-1588) 室町幕府第十三代将軍。十二代将軍・義晴の子。 これまで争っていた三好長慶と和睦して京へ復帰するが、1564年、 その配下である松永久秀と三好三人衆に二条御所を襲撃される。 命からがら脱出して逃れた義輝は当初、六角義治を頼る予定であったが、 観音寺騒動を起こして忠臣を誅殺するなど義治の器量に不安を覚え、 成長著しい江北の新興勢力・浅井長政に白羽の矢を立てる。 長政はその要請を快諾。三年後に義輝は長政の助けで京への復帰を果たす。 再び権力の座に就いた義輝は各地の大名に檄文を発し、 長政の他に朝倉、赤松、一色などと連携して三好一族の討伐に乗り出す。 1568年には長慶の遺子・三好義興と三人衆を河内に討ち取り、 松永久秀を信貴山城に討ち取って三好一族の一掃に成功する。 やがて美濃を統一した尾張の織田信長が、義輝に排除された六角、 三河の徳川家康などと連携して不穏な動きを見せると、 今度は甲斐の武田信玄とこれを挟撃し、墨俣の合戦で滅亡へと導く。 この戦いは浅井軍が主力であったが、義輝直臣の明智光秀が 鉄砲攻撃で総大将・織田信長の首を取り、戦を勝利に導いている。 その後も卓越した宮廷外交を軸に幕府権力を保った義輝は、 体調を崩したのがきっかけで1587年に嫡男・義長に将軍職を譲って隠居。 管領に任じていた浅井長政にその後見を託し、翌年死去する。 なお義輝は剣聖・塚原卜伝に免許皆伝を受けるほどの剣の腕を持っていたが、 政務のほとんどを畳の上で執り行ったためその腕を振るうことはなく、 「宝の持ち腐れ」と同義語の「将軍様の鞘刀」という諺の元となった。 足利義輝(1536-1638) 室町幕府第13代将軍(位1546-1550)。わずか11歳で将軍職に 就任させられるが、権謀術数の政治の世界に倦み、 15歳で自ら将軍職をなげうって廻国の旅に出た。 各地の料理人について修行してその技を吸収・改良し、 全国に伝達した功績は大きく、「日本料理の父」とも言われる。 体質を改善し病気を予防する、今日で言う健康食を発展させ、 北条幻庵・天海僧正・真田信之らの食生活をアドバイスした。 自らも103歳の長命を保ち死去。 作家の宮本昌孝は小説「健康将軍義輝」を書いている。 足利義輝 足利幕府中興の祖。 1546年。わずか10歳で父義晴に将軍職を譲られ13代将軍に就任する。 この頃将軍家は三好長慶により京を追われ衰退していた。 1552年、いったんは和解し京に戻るも再び決裂。またも京を追われる。 一度は勢力を盛り返すも再び劣勢に立たされる。 しかし長慶に幕府を滅ぼすまでの意思はなく1558年再び和解が成立し義輝は入京。 その後義輝は各地の大名間の争いに積極的に介入。上京した長尾輝虎や織田信長と誼を結び徐々に名声を高める。 更に1564年幕府を牛耳っていた三次長慶が死亡。その兄弟、嫡男も既に死亡しており好機と見た義輝は一気に勢力の巻き返しを計る。 だがその動きを危惧した三好三人衆と松永久秀らは御所を襲撃。 この最大の危機に義輝は、上泉信綱・塚原朴伝に習った剣術の腕前を遺憾無く発揮する。 押し寄せる敵兵の中を側近達と共に決死の突入。三好三人衆・松永秀久を討ち取り危機を脱したのである。 危機を脱した義輝は、この事態を逆に利用。 将軍殺害を企てた三好家の討伐令を、一色・波多野・六角などに発令。 この討伐令の効果は大きく、十分な兵力を揃えた義輝は三好家に決戦を挑む。 家中の中心人物を立て続けに失った三好家は討伐軍に抗せず本拠地讃岐まで勢力を後退させる事となった。 これにより、足利家は畿内の大和・摂津・和泉に基盤を獲得。 これを日本再統一の足がかりとしていくのである。 足利義輝 第十三代足利将軍。 三好三人衆と松永久秀らによって襲撃されるが、 ばったばったと三好勢を斬り倒し、その勢いで三好家を刀一本で滅ぼす。 織田信長が台頭してくると、これも斬り滅ぼし、武田・上杉・毛利等有力諸大名を次々と滅ぼし、 足利幕府の全盛期を築いた。 なお、近年光栄から発売された歴史アクションゲームゲーム「戦国○双」は もちろん足利義輝の大活劇をモデルにしている。 *蘆名盛隆 蘆名盛隆(1561-1584) もとは二階堂氏の二階堂盛義の子で、蘆名家の人質であったが、 1575年、蘆名盛興が夭逝したために蘆名盛氏の養子に入り盛氏の死後、家督を継承する。 盛隆自身は武将としての能力に優れていたが、もとは二階堂氏だったために家臣団が盛隆に対して反発するようになる。 1584年、家臣であった多田野八九左衛門に黒川城内で暗殺された。 多田野八九左衛門が襲った理由には諸説があるが、盛隆の籠に多田野八九左衛門の籠が追突し、臣従を余儀なくされる。 盛隆は過度に男色を好む人物で、それ以降、八九左衛門が相手を務めたという。 その恨みから八九左衛門に暗殺された説が有力である。 その後、奥州全体を巻き込む内乱へとハッテンし、蘆名家の勢力は衰え、伊達家に臣従することとなる。 *阿蘇惟光 阿蘇惟光(1582-1654) 阿蘇大宮司。三歳で家督相続後、秀吉に投降。のち佐々成政、加藤清正に預けられる。 肥後国人一揆の際、清正の謀略で一揆煽動の罪に問われそうになるが、 幼いながらもその才器を惜しんだ隣国の小西行長の嘆願により命を救われ、 その身は行長に預けられる。 雌伏の時を経て元服した惟光はその恩に報いるべく行長のために尽くす。 関ヶ原で肥後の留守を守った惟光は、侵入してきた加藤清正軍を撃退するなど戦功を上げ、 西軍敗北後は柳河の立花宗茂と連携して鍋島直茂を討ち、武名を世に轟かす。 戦後、行長が斬首されて主家を失った惟光は流浪の身となる。 全国津々浦々を行脚した惟光はやがて本多正信に見い出され、その推挙で家康直属の旗本として登用される。 大坂の陣に参陣した惟光は家康の本陣に迫り来る真田幸村を命懸けで返り討ちにし、家康から絶賛される。 その後、旧領阿蘇などに領地を与えられて大名に復帰した惟光は、 泰平の世になったのを見届けながら73年の生涯を全うした。 恩人である行長との別れ、浪人時代のエピソード、真田幸村との一騎打ち、そして御家再興と、 彼の波乱万丈な人生は色々と脚色されながらも後世の人々に愛され、 今でも「宮無し宮司」の愛称で時代劇や小説などに姿を変えて人々の心に生き続けている。 ちなみに、大川興業のお笑い芸人・阿蘇山大噴火さんは惟光から数えて十七代目の子孫である。 *安宅冬康 安宅冬康 1528年~1600年 三好元長の三男。大納言。幼少の折に水軍安宅家に養子に出される。 長じては兄の畿内制覇を助ける。兄弟や甥が謀殺される中、一人 奸臣松永久秀の謀略を見破り、独断で誅殺する。これにより長慶は 助かるかと思われたが、既に長期に渡って毒に蝕まれた体は助からず、 1564年に波乱の一生を終える。 この後、長慶の養子であり、末弟十河一存の実子の三好義継を三好三人衆と 共に後見する。そんな中1568年、将軍足利義輝が突如近江坂本で挙兵。六角や畠山、 波多野、赤松が呼応して攻め寄せるとこれを各個撃破して、六角義賢と畠山 高政は敗死。赤松義祐と波多野秀治は逐電し、足利義輝は出家した。 これにより、阿波公方足利義栄が14代将軍に就任。三好家は危機を逆手に取り、 勢力を拡大し、畿内に新秩序を施行した。応仁の乱以来160年ぶりに畿内に平和が 戻り、京や堺の市民達は口を揃えて安宅冬康の徳を称えた。 その後、時の正親町天皇から諸国平定の勅命を受け、美濃の織田氏、丹波の一色氏、 土佐の長宗我部氏、安芸の毛利氏等を次々に降し、天下は確実に三好家の手に 握られていった。このように早い進軍を可能にしたのは、水軍を活用したのと、 方面軍団制度を導入したことが大きい。三好家の直轄軍を中央軍とし、 荒木村重の中国方面軍、三好長治の四国方面軍、篠原長房の北陸方面軍、 細川藤考の東海方面軍がある。また、後期には松永久道の関東方面軍、 十河存保の九州方面軍が設置された。 1590年には東北以外の全てが三好家に征服・恭順した。 しかし、伊達政宗は三好家に従わず、東北・蝦夷地を征服し 頑強に抵抗を続けていた。流石の三好もこれには手を焼いた。 一番損害を出したのが三好長逸が黒川城を十万の大軍で 包囲した時である。伊達政宗は降伏すると見せかけ、城を 明け渡して、三好勢が受け取りの為に城に入ると、周辺に 伏せていた五千の兵が城内に乱入し、中に入った八万人が 戦死あるいは捕虜にされた。殿軍を務めた岩成友道は戦死。 三好政康も深手を負い、長逸もあわやという場面が何度もあったが、 松永久道が父親譲りの智謀を発揮し、難を逃れ、後詰の北条軍と 合流することができた。後の世に「黒川崩れ」と呼ばれる撤退である。 しかし、最早伊達軍も戦力は乏しく、3年後に首を差し出すこととなる。 こうして、1593年に全国を統一した三好家は朝廷に賞賛され、一族が 高官に昇った。三好義継は征夷大将軍に任命された。つまり、足利家 に代わり幕府を開くことを許されたのである(これより足利家は公家とされた)。 また、安宅冬康は副将軍となり、位階も正三位大納言に進み、天下の政治を 執った。安宅冬康はこの時期に大阪幕府の基礎を築き、三好三百年の太平の世 を現出させたのである。そして、自分の仕事は終わったとばかりに1600年に 72歳の天寿を全うした。また、文化人としても名が高く、千利休や狩野永徳 等の文化人が葬儀に参列した。 *荒木村重 荒木村重(1535-1599) 大納言。元は池田勝正の家臣だったが、これを見限って織田信長に降伏。のち摂津一国を与えられる。 武将としての才覚もありながら茶の湯にも通じていた村重は信長に重用され、 家中では羽柴秀吉、明智光秀に次ぐ出世を果たし、別所氏攻略などに戦功を挙げた。 1582年、本能寺の変が有岡城にいた彼の運命を大きく変える。 親交のあった光秀から事前に計画への荷担を持ちかけられていた村重はそれに通じて 四国攻めのため堺に滞在していた信長の三男・信孝と丹羽長秀を討ち、ちょうど逗留していた徳川家康一行も討つ。 村重は変を聞いて急行してきた秀吉軍を摂津で迎え撃ち、光秀と共にこれを撃退する。 秀吉は敗走途中、村重の配下・池田知正に捕まり、京で磔刑に処せられた。 この勝利で日和見をしていた筒井、細川もようやく腰を上げて光秀陣営に参じる。 安土城に籠城していた蒲生賢秀・氏郷親子も間もなく降伏し、光秀は越前を除く畿内の制圧にほぼ成功した。 光秀は信長の遺児・信雄、滝川一益の降伏を待ってから改めて方面軍を形成。 中国路には細川親子と筒井順慶、北条が侵食した木曽路には明智秀満、東海道には斎藤利三、四国には津田信澄らを派遣。 北ノ庄城に柴田勝家を滅ぼした村重はそのまま北陸方面軍を任される。 先の秀吉、勝家との戦いで降伏した黒田官兵衛、前田利家、佐々成政らを配した村重軍は破竹の勢いで北陸を席巻。 1585年、遂に上杉景勝を降伏させる。その頃には光秀の覇権は揺るぎのないものとなり、 それから5年後の1590年、伊達政宗の自害をもって全国統一を成し遂げた。 その後、毛利に寄食していた足利義昭を呼び戻して幕府を再興した光秀は管領に任じられ、 越前守護に任じられた村重もまた、第二期足利幕府の重鎮として越前・加賀など百三十万石を領し、 村重は細川藤孝、亡き筒井順慶の嗣子・定次、義昭を庇護していた毛利輝元と共に「今四職」と称された。 しかし、光秀の力に信長の影を見た義昭の行動は次第に常軌を逸し始め、 1596年、筒井定次を謀叛の疑いありとして切腹させたのを始め、同じ理由で忠臣だった細川父子を領地召し上げの上蟄居させたり、 果ては「織田の汚れた血を引く者め」と、年賀の挨拶に訪れた津田信澄を斬殺してしまう。 村重にも謀叛の疑いがかけられそうになるが、間もなく義昭は急死してしまい難を逃れる。 その死因は狂死とも毒殺ともいわれるが定かではない。 義昭死後、実子がいなかったことと、人心が離れていたこともあって天下の情勢はにわかに騒がしくなる。 後継者が決まらないうちに光秀が死去するとその混乱は決定的なものとなり、将軍の座が空位という異常な状態が生まれた。 光秀の実子は早世しており、その対立軸は残る「今四職」で、養子・義忠(細川忠興の次男)を擁する村重と、 同じく養子・義真(今川氏真の次男)を擁する毛利輝元だった。義忠には村重の他、宇喜多秀家、島津義弘、上杉景勝などが付き、 対して義真にはその実父・氏真の姻戚である北条氏直、佐竹義重、大友義統などの有力大名が付いて全国をほぼ二分する形となった。 当初、実父が謀叛の疑いで失脚している義忠よりも義真のほうが優位に見えたが、細川一族を庇護していた村重が 「幽斎どのは十四代・義晴様のご落胤であり、その孫にあたる義忠様は同じ一族でも義真様よりも正当なお血筋に近い。 尚且つ義忠様の母は管領様(光秀)のご息女であり、次代の武家の棟梁としてこれに優るものはなし」と発言。 これによって光秀の直臣・「四奉行」(明智秀満、斎藤利三、溝尾茂朝、妻木広忠)も村重を支持し、 次いで村重の朝廷工作で義忠が右大臣の位を受領したこともあり、村重派(東軍)と輝元派(西軍)の対決は避けられなくなった。 1597年夏、会津で東軍の蒲生氏郷が西軍の最上義光と戦闘状態になったのを皮切りに、 九州では島津義弘と大友義統、関東では上杉景勝と北条氏直が小競り合いを開始して合戦の火蓋が切られる。 村重は上杉軍を援護すべく、備前の宇喜多秀家と但馬の宮部継潤に毛利を任せて東海道から東進を開始しようとする。 東海道にはかつて村重が討った徳川家康の遺児・秀康など、徳川ゆかりの大名家が点在しており一応は中立を宣言していたが、 「道中、彼らは結託して村重を討ち果たすらしい」という噂が流れており、家臣も経路の変更を勧めるほど事態は緊迫していた。 しかし、村重はあえて進軍した上でそれら諸将を自陣に招いて茶会を催し、点てた茶と脇差を同時に差し出して、 「ここでわしを討つも、茶を嗜むも貴殿たち次第」と言い放ち、三河の諸将を仰天させる。 結果、感じ入った榊原康政を皮切りに全員が脇差に手をかけることなく茶を飲み干し、村重の軍勢に加わることを誓う。 この裏には、家康の遺児を養子にして厚遇することなどを条件にした、康政への調略が事前にあったと言われているが、 とにかく東海道の大名たちを味方につけた村重は北条氏直を上杉と挟撃。寝返った佐竹義重と共にその動きを封じる。 北条の牽制を明智秀満に任せた村重は西へと転じ、苦戦していた宇喜多、宮部軍の救援に駆けつける。 備前笠岡で対峙した両軍はやがて激突。最初こそ数量に勝る毛利軍が押していたが、 井伊直政などの三河衆、筒井の旧臣・島左近などの活躍で両川不在の毛利軍を撃破。副将・穂井田元清を討ち取った。 これが大きなきっかけとなって戦は終息。その後、各地からも続々と東軍の大名の勝利が伝えられた。 毛利輝元、吉川広家は四条河原で首を刎ねられて毛利家は滅亡、最上、北条などといった西軍大名も改易され、 義真は氏真と共に隠岐へと流されることになる。 義忠を第十六代将軍に据えた村重は、旧態のシステムを刷新した上で自らを副将軍と名乗り、新たな幕政を取り仕切った。 二年後、村重は病を得て死去。元から茶人として名高い村重であったが、最晩年に「自分は道端の糞である。 誰にも知られぬまま消えるもよし、畑の肥になるもよし」という理由で剃髪し、「道薫」と号するなど、 三河衆を説得した茶会にも見られた変人ぶりは文化人としての深みを大いに評価された。 葬儀には二十万人が参列し、堺や京では町衆が自発的に一週間の喪に服したという。 新足利幕府はその十五年後、十七代・義秀の時に再び断絶して、隠岐に配流されていた義真が不穏な動きを見せる。 これを収めたのが、村重の養子となって荒木家を継いでいた徳川家康の三男・秀忠とあの時の三河衆であり、 出雲で旗上げした義真とそれを擁立した最上義光親子らを討つ。 なお、この戦いでは義真側に加わった旧羽柴家臣の福島正則、加藤清正などの猛者が秀忠軍を大いに苦しめた。 武運つたなく玉砕したが彼らはのち、その戦いぶりが賞賛され、 後世、主君に忠義を尽くす「隠岐七本槍」として歌舞伎、講談などで民衆に大きな支持を得た。 ちなみにそれらを討った信州の真田信之・信繁兄弟は戦後、 密かに義真を支援していたかどで改易された佐竹氏の常陸五十四万石に加増、転封されたが、 話の中では悪役として書かれることも多く民衆からの人気は芳しくなかった。 秀忠は二年後、朝廷から新たに創設した幕府の初代将軍に任じられ、その後二百五十年続く太平の世を築くことになる。 その後、秀忠は姓を徳川に戻したが、村重は神君として家中で祀られ続け、天下取りを皮肉った狂歌では、 「織田がつき、明智が奪いし天下餅。こねて仕上げし道端の糞」 と歌われている。 *有馬豊氏 有馬豊氏(1569-1642) 有馬則頼の次男。渡瀬繁詮の家老を務めた。 ..
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俺の屍を越えてゆけ 1-287・289~293、13-50~54・514・516・535 287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 26 ID DEVpC9sb 鬱スレより転載、俺の屍を越えていけ 166 :名無しさん@お腹いっぱい。(sage) :03/11/1407 35ID lfrpDWUh 京都に朱点童子(便宜上、以降、鬼朱点と呼びます)と言う鬼がいて京都で暴れまくっていました。 当然、帝も放っておく訳も無く、何人もの武士が鬼朱点のすむ大江山に派遣されましたが 人間が勝てるはずも無く、ことごとく返り打ちにあってしまいました。 そんな中、子供が産んだばかりの夫婦、源太とお輪がついに鬼朱点の寝床にまで辿り着く事ができました。 ところが鬼朱点の卑怯な罠で源太はあっさり死亡。 京都においてきたはずの子供を人質に取られ、お輪もなすがままにどこかに連れ去られてしまいます。 そこで鬼朱点はお輪との約束通り、その子供を殺さず、見のがしてくれます。 (ただし、復讐を恐れて人と交わって子孫が残せない呪いと 長くても2年しか生きられない呪いをかけられてしまいます。) それを哀れに思った天界の最高権力者、大照天昼子が その子供に力を貸し、神様と交わり子孫を残せるようにしてくれます。 この子供が主人公です。寿命がすぐ来て呆気なく死にますが。 そして神様と交わり、子孫がいつか仇の朱天童子を討つ、というのがOPです。289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 28 ID DEVpC9sb 287 167 :名無しさん@お腹いっぱい。(sage) :03/11/1408 17ID lfrpDWUh ここまでは上にも書いてある通り、単純な勧善懲悪物です。ただ、鬼朱点を倒す事で状況が一変します。 また、このゲームには数多くのダンジョンが存在し、そこにいるボスにまで深い意味があります。 とりあえず鬼朱点を倒すまでの状況は以下。 主人公の回りの人 お輪…主人公の母親。行方不明。 黄川人…ダンジョンに入るごとに現れる案内役の少年。そのダンジョンの由来について説明してくれる。 鬼朱天に呪いをかけられたらしく、この世に実体が無い。 大照天昼子…一番偉い神様。善意で主人公を助けてくれた。 実はつい最近、大照天夕子の力添えで天界のトップになった。 ダンジョンの由来とボス 相翼院…心無い人間に子供を奪われた天女が化けて出る場所。 ボス…片羽のお業。子供を奪われ、見せ物小屋を引きずり回された天女が鬼になったもの。 鳥居千万宮…子供のできない女がお百度参りの末、子供を拾った。 その後、次々幸運が訪れたが旦那に捨てられ、その鳥居で首を吊った。 ボス…九尾吊りお紺。首を吊った女が鬼になったもの。 九重楼…天界に無断で人に風と火の使い方を教えた神様が幽閉されている塔。 ボス…雷電五郎、太刀風五郎。 人が風と火で戦争をしている事を憂い、今では人と関わるのを嫌っている。 白骨城…大江山で朱点童子に殺され、成仏できない霊がさまよっている。 ボス…大江ノ捨丸。自分達は見殺しにされたのに 何故か神様に救われた主人公一族を逆恨みしている。 大江山…朱点童子の住処。 ボス…鬼朱点。主人公一族の仇。 290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:03/11/1917 30ID DEVpC9sb 289 170 :165(sage) :03/11/14 10 38 ID rVMdv8of そしてようやく鬼朱点を倒すと幾人かの神様が何故か解放され、 同時に中から本物の朱点童子(黄川人)が出てきます。 大まかな事の真相を言うと、昔、片羽ノお業が地上で人間との間に2人、子供を産みました。 (神と人間の間に生まれた子供は何故か神をも超える素質を備えており、 神と人の子を天界では「朱点童子」と呼ぶようになりました。) この事は天界でも問題になり、この子供二人をどうするかが協議され、 天界の意見はまっぷたつに割れました。 朱点童子は危険なので抹殺しようと言う保守派。 逆に朱点童子を人間達の王にしようという革新派。 長い議論の末、時の権力者の大照天夕子が革新派だった事で 一応、天界としては、この二人の子供を人間達の新しい王様にする事に決まりました。 そして色んな人間にこの二人の朱点童子を王として祭り上げるよう神託を与えました。 神託を信じた人間はすぐさま朱点童子達の暮らす大江山へと集まり、 一つの村を形成しはじめました。(大江山に行くと朽ちた家などそのなごりが多数あります) しかし、それを快く思わない保守派の神様は、当時、人間達の王だった 時の帝に朱点童子達が幼いうちに討て、と神託を与えました。 そして神託を信じた時の帝は大江山に向け挙兵。大江山にすむ信者ともども 片羽のお業は捕まり、そして朱点童子のうちの一人である女の子も殺されてしまいます。 もうひとりの朱点童子(黄川人)は信者達の手により逃げのび、 鳥居千万宮に放置された所を九尾吊りお紺に保護されます。291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 32 ID DEVpC9sb 290 172 :165(sage) :03/11/14 11 03 ID rVMdv8of そしてこの事態に大照天夕子は一つの決断をくだします。 強力な力を持つ、死んでしまった黄川人の姉の朱点童子を神として天界に上げ、 「大照天昼子」と名付け、自らを後見人に天界のトップに置きました。 そして大照天昼子は自らを快く思わない保守派の神様を 天界から追放し、そのほとんどが鬼へと身を落としました。 (書き忘れましたが色んなダンジョンには鬼になってしまった神がいますが このほとんどが保守派の神様であると予測されます) そしてその頃、九尾吊りお紺に保護された黄川人は恩返しのつもりか お紺に富くじの当たり券など多くの幸運を授けますが、そのせいで旦那が他所に女を作り、 金を全て持ち逃げしてしまい、悲観したお紺は鳥居で首を吊り死んでしまいます。 途方にくれさまよう黄川人は天界を追放された最強の男神、氷の皇子に出会い、保護されます。 しかし、乳を与えようにも男神である氷の皇子から乳が出るはずも無く やむなく氷の皇子は自分の血を与えてしまいます。 そして氷の皇子の血で成長した黄川人は膨大な力を元に時の帝に復讐を始めます。292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 34 ID DEVpC9sb 291 173 :165(sage) :03/11/14 11 28 ID rVMdv8of 黄川人は大江山を根城に本格的に京都を焼き払いました。 天界としても人間達に復讐を始めた黄川人を放置しておく訳にもいかず 黄川人を抹殺すべく、総掛かりで黄川人に挑み、 なんとか黄川人を手下の鬼の中に封じ込める事が出来ましたが、 同時に幾人かの強力な神様も道連れにされ、黄川人と一緒に封印されてしまいました。 (鬼朱点を倒した時に解放された神様がそうです。) それでも黄川人は幽体として世間に干渉する力を残しており、 封印されてしまった神様ともどもこのままでは良くないと思った大照天昼子は一つの計画を立ち上げます。 「計画的に朱点童子を作り、そいつらに黄川人を殺させる」 そして白刃の矢が立ったのは片羽のお業の姉妹、「お輪」。 お輪は地上に降り、源太という人間との間に子を作り、鬼朱点に挑みます。 源太とお輪にとって鬼朱点にやられる事は計画的であったかどうかは定かではありませんが 天界にとっては計画どおりだったようです。 そして二人の子供(主人公)は計画通りに大照天昼子に助けられ、 計画通り、親の仇として、鬼朱点を倒す事を目指します。 この事は封印を解くチャンスなので黄川人にとっても都合が良く、 主人公を見のがし、主人公一族の道先案内人をかって出たと言う訳です。 (ただし主人公達があまり強くならないように短命の呪いをつけて)293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 36 ID DEVpC9sb 292 174 :165(sage) :03/11/14 11 47 ID rVMdv8of 軽くまとめると、 主人公一族…黄川人を殺すために作られた朱点童子。 源太…ただの強い人間。 お輪…神の一人。片羽ノお業の為に計画に賛同。 ちなみにラストダンジョンの最深部に行くと、 今まで倒してきた雑魚敵が全て黄川人がお輪に産ませた怪物である事が判明する。 つまり今まで倒してきた雑魚敵は全部、異父兄弟。 黄川人…最強の朱点童子。片羽ノお業の息子で大照天昼子の弟。 大照天昼子…片羽ノお業の娘で黄川人の姉。朱点童子で天界最高権力者。 片羽ノお業…大照天昼子、黄川人の母親。 九尾吊りお紺…黄川人の育ての親。自害。 雷電五郎、太刀風五郎…大照天昼子に天界復帰を条件に主人公達を鍛えていた。 大江ノ捨丸…大照天昼子に主人公一族を全滅させれば神にしてやる、と言われ、 最後に結局自分が主人公一族を鍛えるために利用されていたと悟る。 小説版では片羽ノお業を捕まえ、大照天昼子を殺害した張本人。 氷の皇子…黄川人の育ての親。力を黄川人に奪われた。 50名無しさん@お腹いっぱい。sage05/03/04 11 21 36ID jummykdW 俺の屍を越えてゆけのまとめサイトの補足(続き)を書こうと思ってたら、ttp //www.linda3.co.jp/ ここのコラムに会話が載ってるので詳しく知りたい人はあっちを参照してください 一応、まとめサイトの続きを簡単に投下します。 51俺の屍を越えてゆけ(続き)sage05/03/04 11 34 23ID jummykdW 本物の朱点童子である黄川人を解放してしまった一族は黄川人やダンジョンのボスから 事件の真相を聞きながら黄川人が居る地獄への鍵を手に入れ、地獄で黄川人を打ち倒す。 その時、一緒にお輪も殺してしまうが、お輪は神の姿に戻り、 赤ん坊姿になった黄川人とともに天界に帰っていた。 一族の遺影がテーマソングとともに流れてエンディング 一族の呪いが解けたことを示す描写はないが、次回作の構想を読むと呪いは解けたらしい 52俺の屍を越えてゆけ(続き)sage05/03/04 12 14 24ID jummykdW さらに補足、黄川人から 「僕を殺す役目を果たしたら、神以上の力を手に入れた一族は神々にとって邪魔者になる」 というようなことを言われるが、もし、黄川人を倒しても呪いが解けなかった場合、 神々が一族と交わるのを止めれば、一族は呪いで勝手に滅んでしまうので、神側としては好都合。 この事実や事件の真相を知って、神々に不信感を持っても、一族としては神々の助けを借りるしかなく、 黄川人を倒すしかない。 さらに、お手伝いさんとして一族を励まし続けてきたイツ花こそが計画の首謀者・昼子だと分かり、さらに鬱 53名無しさん@お腹いっぱい。05/03/04 14 20 16 ID B9z72A4k 50 むー、どこに会話があるのか探せなかった ヒントキボン 54名無しさん@お腹いっぱい。sage05/03/04 14 47 58ID jummykdW 53 サイトの一番下辺りにある「COMPANY」の3つ目の桝田省治コラムにある。 桝田省治コラムの中程にある俺の屍を越えてゆけコーナーの「俺屍、台詞集」がそれ。 順番はストーリー上とは違うんで気をつけて読んで下さい 514漏屍sage2005/03/21(月) 05 07 45ID pA4fYKKB 俺屍まとめ(公式指南書より抜粋) ■神様 →魔法or技術で不老不死になった何千~万年前の人間。 副作用の為か、子孫を残す事が出来なくなる。 ■人間 →不老不死にならなかった昔の人。 今の人類の祖先。 ■はじまり(1) →時は流れて天女がある人間を好きになり結果、天女は女子(イツ花)と男子(黄川人)の二人の子供を身籠る事となる。 ここで神と人が交わると神の血(力)を引いた子供が産まれる事が証明される。 ■はじまり(2) この子供を巡り、天界は2つに割れる。 革新派:子供達を自分の代理として人間を支配させよう。 保守派:人間に関わるのは止めよう。 まだ自分達の知識を伝える段階ではない。 ■はじまり(3) 革新派の神様が人間界に 【お前達の新しい指導者だ】 っておふれを出す。 で、それを信じた者達が子供達の為に大江山に都を造る。 しかし、時の帝がこれを阻止。 結局、天女と旦那、イツ花はその場で殺される。 唯一、黄川人は信者の手により逃げ落ちる。 516漏屍sage2005/03/21(月) 05 34 24ID pA4fYKKB ■イツ花 →大江山で殺されたイツ花の魂は天界に行き昼子になり、肉体は転生しイツ花になる(非公式?) ■黄川人 →生き残った黄川人は世の中を怨みながら成長。途中、氷ノ皇子などから力の使い方を学ぶ。 が、危機を感じた天界の神々により黄川人の部下の鬼(鬼朱点)の体に封印される。 ■朱点童子 →神様と人間の間に産まれた子供達の暗称。 イツ花、黄川人、主人公一族の事を指す。 ■主人公一族 「朱点童子を殺す為だけに生まれたもうひとりの朱点童子、それが君達の始祖サ!!」 (地獄での黄川人との会話) 535名無しさん@お腹いっぱい。sage2005/03/21(月) 14 18 56ID InhhrMoC 514 帝の軍勢に保守派の神が武器とか術を貸し与えていたことも。 肉体がイツ花になる所は小説で描かれてるから、公式としてもいいんじゃなかろうかね。 補足として小説の話:大江山で死んだイツ花の魂は神となり、魂寄せお蛍に導かれ天界へ上り、 肉体は神となった魂の神気を浴びて新たな魂が宿り、爺さんと婆さんに拾われて育つ。 小学生ぐらいの年齢で相場屋に奉公に行く事になり、奉公先の主人に眼鏡を貰う。 天界ではイツ花の魂は他の神から「放(ひ)られた子」ということで「放る子(ヒルコ)」と呼ばれ、 一部の神(革新派)から忌み嫌われていた。 その後、放る子は昇天の儀式で神としての自分の名前の希望を問われ「昼子」と答え、 更に天界一の実力者である大照天夕子から苗字を賜り 「大照天昼子」(苗字は反対にすると天照大となり、アマテラスを表す)と名乗ることになる。 人間のイツ花は天界での一部始終を夢として見ており、そこでの昼子はいつも泣いている。 一方、黄川人を連れて逃げた信者は神社の鳥居で力尽き、黄川人は 人間だったころの九尾吊りお紺に拾われる。ダメな亭主のおかげで人生を苦にしたお紺は 神社の鳥居で黄川人を絞め殺し、自らも首を吊って死ぬ。しかし黄川人は死んでおらず、 氷ノ皇子のもとに辿り着く皇子は赤子だった黄川人に母乳の代わりとして自らの血を与える。 神界でも最上位の皇子の血を吸って黄川人は力をつけ、皇子から術を習う。 黄川人は冷たい流水道の底にあって、唯一赤い存在という事で「朱点」と名付けられる。 ある時、人間に酷い目に遭わされ下水道に捨てられ死に掛けの敦賀ノ真名姫(人魚)を 見つけた皇子は経を唱え昇天させようとする。しかし、真名姫を助けようと考えた黄川人は 皇子から習った術で反発し、皇子を倒して何処かへ消える。 黄川人は人間への復讐を誓い、大江山を襲った山賊の捨丸を彼に怨みを持つ怨霊を使役して殺す。 京の都は妖気に包まれ、天界では滝が燃え上がり、大地が崩れるなどの災害が起こっていた。 災いの原因が昼子の弟である黄川人である事を突き止めた神々は、その原因を作った革新派の 神々に黄川人の始末を命じる。結果的に、昼子を含む二十柱の神々が朱点討伐に赴く事になった。 地上では、景気付けにと相場屋の主人が部下を率いて大文字の送り火をするが、 突如現れた少年(黄川人)に襲われ、送り火は紫色に激しく燃え上がり「大・江・山」と形を変える。 その直後から都の周辺には妖怪が跋扈するようになる。人々は絶望したが、天界の夢を見るイツ花は 諦めていなかった。ある朝、人々が空を見上げると天界から無数の神々とその眷属が大江山に 列をなして向かっていく。人々は神々の戦闘を進む見慣れない女神(昼子)について噂した。 朱点の配下の妖怪や怨霊達と神々の激闘の末、傷ついた神々は昼子の合図と共に 光となって朱点に捨て身で向かい動きを止める。が、同時に封印を施す筈だった昼子は動かない。 裏切ったかと思われた昼子だが、朱点を確実に封じる為に敵を油断させていたのだ。 朱点は力が強いだけの馬鹿な鬼に封じられ昼子は一人、天界へ帰る。 相変わらず妖気は消え去らないが、それでも活気を取り戻した人々はあの新しい女神を奉る神社を、都の焼け跡の一角に建てる。 騒動で主人を失ったイツ花はそこで昼子神の巫女となり、ゲームでは主人公の家に仕えることになる。
https://w.atwiki.jp/ssfate/pages/1368.html
No.4067 商鞅 前のサーヴァント:寺生まれのTさん 次のサーヴァント:范蠡(TS) データ 関連項目 登場歴 データ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:キャスター ┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┓ 【真名】:商鞅 【属性】:秩序/混沌・悪 ┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 【筋力】:E 【耐久】:E 【敏捷】:B 【魔力】:B 【幸運】:E 【宝具】:C ┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ -‐━━‐- / \ / / \ 、 / / .| ` / / | i l jI斗| ┼‐- | l | ´ .从 i ∧ 从 | l | | 厶ニミ∨\从| 厶ニミ Y l | | ハ/ J⌒i J⌒i ㌧ | | .从 乂.ツ 乂.ツ ノ| | | | | ' | | | | ハ | | | i 込 マ ¨フ 仏| .| | i | ゝ イ | | i ∨ > < リ 八 , ∨ 〕 - 〔 厶人 / \{\ \ 〕 〔 \ / \___/\ /∨}/)___/ /`''┐ / .)冖K \ _,. ┐ /゙Y | i | | ̄ ̄ ̄\___/ ̄ ̄ ̄| / | /Y j ∨ .| レ ┐ __/l 冂 |`ー―- | | | / .j〉 . 八 i . ┴┷━ ┴i / /∨ /⌒ヘ、 / \ ┌ y′| | / ∥ 冫´ | /ア゚ |___/ / ∨\__| ハ__ r┴┴ ―┴= 《 . 〈 ∨{ |/ / | | \ y / }_Ⅵ 〉 . } |_八 . , ゙ く | | 冫 `、 /ニニl { . | / ̄ ̄ ゙̄Yニ∧ У ⌒\__.リ 八___/⌒ `、 /ニニニ| | r┴==彡ニニ/ ̄ ̄|ニニニ∨ | | 〈ニニニ./ ̄ ̄\___止 |__/ ̄ |ニニニ/ ⌒'〕 | ∨/l ̄ ̄\ニニニニニニ二| |__/ ̄ニニニニニ.|\_ψ | i⌒ /〔二| ̄\  ̄ ̄ ̄| 代理AA:新条アカネ(SSSS.GRIDMAN) ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【クラススキル】 ◆陣地作成:B 法家・呪術師としての工房作成能力と、将軍としての戦陣作成能力を兼ねる。 ◆道具作成:A 魔力を帯びた器具を作成できる。 第一宝具の発動を補助する呪法端末“三丈樹根(さんじょうじゅこん)”を作成可能。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【保有スキル】 ◆大良造の指揮:B 軍師系サーヴァントに与えられるスキル「軍師の指揮」が変化したもの。 商鞅は宰相であると同時に、秦軍の最高司令官を務めた軍事的才能を持ち、 明確な証拠こそない(ネームバリューを利用した名義の拝借説が濃厚)ものの、兵法書の著者であるともされている。 将としての商鞅の戦い方は、意外かもしれないがオーソドックスな戦法に終始する。 ただしそこには、死にゆく兵士へは何の感慨も抱かない、冷徹な指揮があるのみ。 ◆商君の友誼:A+ 軍師系サーヴァントに与えられるスキル「軍師の忠言」に、「友誼の証明」が組み合わさったもの。 敵であれ味方であれ、軍師として、そして友として親身になって接することで、 どのような無謀な法策にも主君を乗せられ、またどのような罠にも相手を誘いだせる、局所的な暗示・洗脳に近い技能。 その特性上、効かない者には徹底的に効かず、逆に殺意にさえ昇華するほどの悪心証を与える。 ◆万欺の人格(秩序):A 本来は混沌属性の持ち主ながら、自分自身の心さえ偽って秩序属性を“完璧に”演じることができる。 自身の絶頂と熱意を注ぐ対象の絶頂、これが合致する限りは秩序の人として振る舞えるが、 その均衡が一度でも崩れれば、手前勝手な本来の性質が顕われ出る。 ◆疑の何たるかを識る人:A 周囲の人物が少しでも抱いた逡巡の感情を、商鞅は絶対に見逃さない。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ \ \ \ ヽ / \ \ \/ / } ___ \ \ / . / \ \ \ / __ -=ニ>`` \ \ . ′ ′ / \ \ _/ 。s≦>``__ ./( \ \/ / / ′ | . , ', \  ̄ // ̄ // /{// s。._ \ / / . │ | | .∧ ∨ ヽ //== // / / < ≧s∥ . | │ | | . ∧ ∨ | .// // | { /( `''<∥ l | 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┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】 ◆『変法二陣(ろんぱにじん)』 ランク:C 種別:対衆宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 商鞅の変法に関する逸話などを複合状態で象徴する第一宝具。 周囲に守るべき法を制定し、特定の心理状態に陥った者の心に、判定なし且つ確定で“三丈樹根”を植え付ける。 特定の心理状態とは、“商鞅と対談し、論破される”、“商鞅の法を賞賛し、阿諛追従を行う”の二つである。 また、その対象が三丈樹根によって心身に負うダメージは通常よりも多い数値となる。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》| | 八 〕ト _ ィ〔 | 八 |《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《| 》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》)》》)人ノイ》》/ { } ∨イ《《〉 ノ《《《《《《《{《《《《《{《《《《《(《《《《(《《《| 》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》}》》》》》》》/ \__,/ ∨《《《《《《《《《《《《《《《《《《(《《《《《(《《《《《《《(| 》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》㌍ミ》》>'  ̄\_,△△,_/ ̄"'<《《《(《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《{《《| 》》》》》》》》》》》》》》》》》,れ㌻`,.ィ㌻” / ─{__}─ \ `'く《《《《《《《《《《《《《《《《{《《《(《《《《| 》》》》》》》》》》》》》》》》7/ 'ニニつ / | x个x | ゚。 ∨《《《《《《(《《《《《《《《《《《《(《《《| 》》》》》》》》》》》》》》》》'゜ 二ニつ// \/ |i \/ ∨ ∨`'く《《《《《《《《《《《《《《《《《《《| 》》》》》》》》》》》》》》)】 二つ、./ .|___八___| \__ノ |ヘ《《《《《《《《《《《《(《《{《《《| 》》)》)》)》》}》)》》)》)】 ___ノ 冫 | ┌…''"⌒ヤ / |《《《《(《《《(《《《(《《《《《《| 》》)》}》》》》))》》}》》】 {》ハ\ ,′ .|| | |// キ《《《《《《《《《《《《《《{《《《| 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T/ハ _,ゝ//ハ /////、 ,ゝ/`ーァ `ヾ///> ///// _  ̄}// }/// /////イ イ//T ノ///、> ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【Weapon】 ◆『三丈樹根(さんじょうじゅこん)』 サーヴァントとしての商鞅が作成する、木の根型の呪法端末。 相手の精神に根を張って心を侵し、商鞅が定めた法に対する遵守を徹底させ、 定められた法を相手が破れば、その心と肉体を破壊し始める。 精神に深く根を張るほど心理状態にも大きく干渉し、そうなった人物は意識はあるが意志はない、 そのような状況に陥り、商鞅の法を守ることに何の躊躇いも抱かなくなる。 サーヴァントであれば、対魔力などで根の侵食を阻止、また根の侵食速度を遅らせることが可能。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ,,. ≠''゜ ̄ ̄ 7>x。, ,。 '" ° ., ,ィ o k 、 .。 ´ ,λ `、 ,.' i ,/ Y 、 % 。イ i / ヘ, .、 ,,' ,,' ,イ i / x≠ミ jハ_yト . ' ° i y i,イ ゜ "~ ゛、 . u. i ,,' ! 。 〉 j i . ' i f ニニニう j , ゙ i゜ ゙マ ソ i| , ゙ i °  ̄^i i| u i i .! i| i ; | i } i| | i ; | i≧ .。.. ___ィ i| | i ; | i ,ィ ~゜ 1 i| | 。! イ i k / .! i j| i 。 | y リハ .jハ. { / λ ;i ハ i j ,/ ,ィ⌒1/ ヘ {i ∧ ,ィハ リ ゜、 i ,ィ ;i / レj゛  ̄メ′ ̄ヽト。/ j/ j_,メ ゝ、 kヘИハ从,/,ィ ⌒ヽ . . . \ ^ヽ 。゜ `゚ , ゙. . . .` .、 . . メ、 」\ / . . . . ゙メ、__, /`゙マ⌒ヽ) .. '゜ . . . . . . . . . / ; ; ; ; ; ; 1^ヾ ,ィ -‐- . . ... . γ ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;1 ; ; ; ;\ , ゙ .. ` .、 . . . ゞ ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; |ヾh、 ; ; ;.、 ,,' .. .. `、 . .. . ≧s。,.____K ; ;\、_.;〉 /. .. . .. ... -_. . . . } ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;〉. \ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【来歴】 のちに春秋戦国時代を終結させ、史上初の皇帝が治める中原の国家となる秦。 その秦が強国になる前、孝公の時代に仕えた法家、武将であり、法治国家・秦の礎を築いた人物。 生まれは魏の属国 衛の公族系であり、商の地に封ぜられる以前は、公孫鞅(衛鞅)と呼ばれていた。 強国であったころの魏の宰相 公叔痤に食客として仕え、叔痤からの覚えは目出度いものだったが、 魏王からは軽んじられ、出世の目がなく、尚且つ魏王が暗愚であることも見抜いたために魏から出奔、 秦に流れ着いた商鞅は、若き日の孝公と三度にわたって対談し信任を得る。 孝公の信任を得た商鞅は、すぐに孝公自身の逡巡と群臣の猛反対を押し切り、二度にわたる変法を強行。 最初のうち法は非難の的となったものの、十年後には秦人は法に馴染み、国土や兵も強化されていった。 且つて仕えた魏が斉に敗れて凋落の一途をたどることとなると、自身もしばしば将として魏を攻め、 魏公子を捕虜とする大功さえ打ち立てる活躍ぶりを見せた。 だが、孝公在位時代より秦の公子にさえ酷刑を適応させ、多くの者に恨みを買っていたことが仇となり、 孝公薨去後にその子の恵文君 駟(のちの恵文王)が即位すると、彼の後見人であった公族は挙って商鞅を讒し、 恵文君自身にもまた商鞅を恨まれていたために、商鞅は都を脱出するが、自身の定めた法がもとで宿屋に匿ってもらうことができず、 封地である商で挙兵するも討伐軍との戦闘で戦死。 死体は車裂きにされ晒されたが、恵文君は法を改めることはなかった。 【能力】 公叔痤のもとで様々なことを学んだ法家・兵法家にして呪術師。 用兵に関しては小手先の知識に過ぎないため、サーヴァントとしての性能は呪術師としての能力に重きを置いている。 法を対象に適応させる条件は大まかに二つあり、 ・聖杯戦争参加陣営のうち、最低でも三陣営に法制定の事実を認知させる。 ・呪法端末“三丈樹根”が対象に侵食を開始している。 法家としてのプライドがあるのか、法制定の際に「無辜の民を傷つけない」や「無辜の財産を濫りに奪わない」等と言った、 “普通の法”じみた文言をほぼ確実に制定し、犯罪に手を染める者を目の当たりにすれば、 それが聖杯戦争と無関係な無辜の民であっても、根を植え付けて法の虜とすることも厭わない。 なお、「商鞅に〇〇をしてはいけない」などの、制定すれば勝ち確定の法は、 サーヴァントとして現界した時点で制定不可能な制限をかけられている。 論破されないためにはとにかく即答で返すのが正しい。 よく考えずの反射返答であっても、論破されていないと宝具はみなすため有効である。 つまり、賢者よりも愚者の方が商鞅の魔手から逃れられる可能性が高い。 また、このサーヴァントにできるのは「会話を続けさせなければまずい状況と空間」を形成することだけなので、 樹根を植えられ、肉体を突き破られても生きていられるような耐久力の持ち主には当然弱い。 【性格】 史実においては男性として語られるが、その正体は女性で、自身の容貌の美しさを大いに鼻にかける性悪女。 単なる性悪女で済めばよほど可愛いらしいが、史実通りの冷酷非道な人でなしでもある。 民草の苦しみを知ろうとしない政治屋であり、兵卒の苦しみを知ろうとしない大軍師。 自分が嫌われていると自覚しても、それを自発的に直そうとはしないし、何なら「消される前に消す」くらいのイケイケ思想。 彼女がその性格を改善しようとする瞬間があるとすれば、聖人の説得でも現実への直面でもなく、熱意を向ける対象が近くに存在する瞬間である。 生前には、彼女にはそれがあった。それは中原の中央より遠ざけられた野蛮国、秦の“先進国化”であった。 【行動方針】 宝具を十全に運用するには、まず他陣営との会話が必要となるため、表面上の同盟を積極的に結ぶ。 面従腹背の姿勢で、サポートを行いつつ悟られぬようにマスターなどに根を仕込んではその陣営から逃げ、また次の陣営に、そのくり返し。 【聖杯への願い】 自身にとって“唯一にして絶対的な理解者”、渠梁(秦の孝公)よりも自分が先に死ぬように、歴史を改変する。 そして、自身がなぜ秦の法改革にこれほどの情熱を傾けることができたのか、その感情の正体を知りたい。 【TS理由】 魏王がなぜ、あれほどまでに商鞅を軽視していたかというところから逆算してのTS。 商鞅を軽んじた魏王は無能であることが史実において証明されているが、原因はそれだけではない、という妄想。 公叔痤や公子卬の覚えが目出度かったのは、「相手が自分に色欲を抱いていたから」という妄想も自分の中ではある。 【一人称/二人称】 一人称:私 二人称:キミ、〇〇(下の名前呼び捨て) 二人称:丁寧な呼称法(自分を嫌っている、或いは色欲を抱いている相手に対して) 【コンセプト】 FGO的に言えば呪いと呪厄状態をめちゃくちゃな数相手に付与してゆっくりと死ぬのを眺めるタイプのキャスター。 【使用・参考にしたステータスの出所(僕鯖・皆鯖などあれば)】 FGOの始皇帝の宝具のみを参考に。 【推薦したいその他の代理AA】 秋雲(艦隊これくしょん~艦これ~) 月乃瀬=ヴィネット=エイプリル(ガヴリールドロップアウト) 【代理AAを選んだ理由】 「真の理解者を求めた」キャラ。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 関連項目 登場歴 【R-18Gあんこ安価】傭兵たちは聖杯戦争のついでに独裁者を始末するようです【Fate】 1
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┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:青ランサー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:楽進 【レベル】:60 【アライメント】:中立/中庸┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:40 【敏】:50 【魔】:10 【運】:40 【宝】:30┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪】:槍槍槍 【貯蔵魔力】:180/180 【供給不足によるペナルティ】:┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ,.-,‐,、 /_/_/ハ {二-_Zノ- r ~ r - .,_ ゝ'l´l l l l.|l | l|! l .!`i‐、 /! l ! l, ! - '' ` ^ " '' - !,l .l !\ /i l !/` ヽ 、 ,´ヽ! ハ /ハ ! !` , ' ` , | ヽ!/ ! ´i ハ /ハ ヽ{ / ヽ、 / l /!`' 、./ } ノl / ハ ヽミ ' ,_ /`` | _,. -' /` } /l // 「ヽミ 疋Xxz、、、 !l ,.,.xィX气 彡/^i // l ^王 ‐'、´ヒソヽミン il肝ァ'ヒノ´`,‐ 玉^ l ヽ三 ヽ二 ̄ = !lミ  ̄´彡 三 ノ 三l. / ` lミ l三 -一-、// 彡!′ r' lミi、 ヽ/ lミ `┴'⌒!l, '、 _,. ,. ^ _ ^ ., .,_ /ヽ!l` !lヽ,'、. -‐‐‐ -- ‐‐‐- ,.イ !l !l、. \/ 、  ̄ ヽ / !L__ ,.__rニイ ` / `''ー---一ニ´ _,,⊥-'\_,、 ‐ニT ̄L_ヽ ``ー-ニ...____...ニ-‐''´ / / Tニ-,_ \ \ `ー ; -‐''" , ‐'´__,.-┴ーュ,_ `ー、`ー二  ̄ ̄ "´ _, -''"  ̄ __,, -‐┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】 ○対魔力:C (種別:一般 タイミング:常時) 敵陣側の「種別:魔術」のスキルによる「バフ・デバフ」効果を、1つのスキルにつき「±20」分相殺する。 また、「種別:魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大「20%」まで軽減する。 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 ○騎乗:C (種別:一般 タイミング:メインプロセス) 戦闘時、自身が「メイン」又は「サブ」で参戦している場合に発動。 ステータス比較で【敏】が選択された場合、自陣の数値に「+10」する。 騎乗の才能。 大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、野獣ランクの獣は乗りこなせない。 ○勇猛:A+ (種別:一般 タイミング:メインプロセス) 戦闘時、自身が「メイン」又は「サブ」で参戦している場合に発動。 ステータス比較で【筋】【耐】が選択された場合、自陣の数値に「+15」を加える。 同時に、自身はあらゆる精神的干渉の影響を受けない。 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 ○戦闘続行:B (種別:一般 タイミング:クリンナップ 消費魔力:10) 戦闘時、自身が「メイン」又は「サブ」で参戦している場合に発動。 使用パラメーターの確定後、ステータスのランダム選択を振り直すことができる。1戦闘に1回まで使用可能。 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けない限り生き延びる。 ○守要の将:B (種別:一般 タイミング:クリンナップ 消費魔力:30) 戦闘時、自陣側の勝率を「+戦力の劣位数×30」%上昇させる。 また、戦闘敗北時に魔力を「30」消費することで、令呪一画で戦闘から離脱可能。 攻撃にも守備にも長けた将。 強敵との一番槍として攻め、大軍を少数の軍で防ぎ切った。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】 ○誉の先陣こそが我が生涯(ファースト・ブレイク) ランク:C 種別:対軍宝具 タイミング:特殊 消費魔力:特殊 戦闘が起きそうになった際に発動可能である。 効果を発揮した場合、その戦闘に参加することができる。 さらに【筋】【敏】のステータスに、「+消費した魔力」分、数字を上乗せする。 戦で最も先に戦闘に参加し、武勇を立てたランサー。 その逸話を再現し、戦闘が始まると真っ先に飛び込むことができる。 それは未来予測に近く、彼はどこで戦が起きるのかが分かる。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ +ネタバレ解説 【 青槍解説・史実 】 三国志正史において独立した巻がある、史実だと文句なしのガチモンの名将。 小柄ながらとんでもない気迫と胆力を持ち、曹操が参加した戦の殆どに参戦して戦功を重ね続けた。 実は、SOSOが旗揚げした当時から馳せ参じた最古参組だったりする。 いわゆる曹魏の誇る五大将軍の二番手であり、外様筆頭である張遼に対し、于禁と並び譜代筆頭まで上り詰めた。 于禁が晩節を汚したことを考えると、譜代筆頭の将は楽進であると言い切って良いと思われる。 前述通り、「曹操」が対董卓を旗印に挙兵した時に馳せ参じた、古参中の古参。 ただ、小柄だったことから曹操は青槍を武将ではなく「記録係」(文官)として採用していた。 ある時、青槍を故郷へと返して兵を集めさせた所、たちまち1000もの兵を引き連れ帰還したことから 将兵を率いる才覚ありと、曹操は青槍を「武将」へと引き上げたという。 こうした「試し」を曹操が試みたということは、文官時代にも何か光るものを感じていたのかもしれない。 旗揚げ後、青槍はまず曹操軍の先鋒として起用された。 対呂布戦」、「対張超戦」、「対袁術戦」で一番槍の手柄を立てると 「対張繍戦」「対呂布最終決戦」「対黒山賊残党」並びに「対劉備討伐戦」において、武将を討ち取る等の戦功を挙げた 事実上の天下分け目の決戦となった「官渡の戦い」において、楽進は袁紹の陣地を多く焼き払った。 また、袁紹軍の食料備蓄基地であった「烏巣」を巡る急襲戦においては、曹操と共に出陣。 粘り強く良く戦い、一時危機に陥っていた曹操を助け、敵将「淳于瓊」を討ち取る大功を挙げている。 ただ、他の文献によると、淳于瓊はこの時「捕縛された後、処刑された」旨記されていることから 青槍は「淳于瓊」を捕縛して曹操に引き渡したとするのが、有力説。 まぁ、敵の食料貯蔵庫の主将を捕縛したってだけで、大武功であることに変わりはない。(寧ろ捕縛のほうが難しいとすら言える) 官渡の戦い後、先鋒としてだけでなく、別働隊を率いて転戦することが多くなる。 袁紹の遺児「袁譚・袁尚兄弟」との戦い、黄巾賊残党の平定、烏桓討伐、海賊征伐などの武功を重ねる。 唯一、烏桓討伐時に、裏切った「高幹」を征伐する際に苦戦を強いられ、曹操直々のお出ましを願っているが 李典と共に高幹の後背地を突いて、高幹を本拠地に籠もらせた計画の実行力について、曹操直々に激賞されている。 SOSO様の最大のやらかしと一般的に言われる赤壁の戦いにも勿論参加。 疫病の流行と、孫呉の奇襲により敗走する主君を良く助け、「荊州」の中心地「襄陽」に駐屯。 追撃してきた「関羽」と戦い、これを打ち破っている。 これ以降、青槍は「守りの要」として、城を預かるようになり、「荊州南部」の異民族を平定。 襄陽一帯を死守することに成功する。 赤壁の戦いから4年後、またしても荊州に進出してきた関羽を迎撃。 青泥という地で対峙して、睨み合うという軍事的緊張が発生。 青槍は睨みを合いを続けた後、「文聘」と共に関羽を打ち破り、これを敗走させている。 尚この事件は、劉備が「蜀」簒奪のために、一時蜀から離れる言い訳に利用されてる。 その後、曹操の孫権征伐の際、青槍は「軍令違反者を処罰する」権限を与えられる。(色々な意味があるが、他の将軍とは一段格上になったという感じ) 「張遼」、「李典」と共に「合肥」に配置された青槍であったが、実はこの3人、ものすっごく仲が悪かった。( 他にも同様な記載があるので、これは確実 ) 李典が「今は喧嘩してる場合じゃないよね。 わだかまりは置いて協力しよう」と説得したことで一枚岩となり 7000の兵で10万の孫呉の襲撃を完封し、その戦略目標を頓挫させることができた。 合肥の激戦の3年後、青槍は戦場ではなく寝具の上で死んだ。 青槍はその生涯の殆どを戦場で過ごし、最終的に于禁と共に魏の筆頭将軍にまで上り詰めた。 曹魏五大将軍のうち、曹操が在命時、最高の地位に引き上げたのは于禁と青槍だけである。(残り3名は、曹丕によってなされる) 見ての通り、曹操の戦いの大半に従軍し、失敗することがなかった曹魏の誇る名将。 前半は曹魏の切り込み隊長として一番槍を果たしまくり、中盤からは別働隊を率いて決断で間違いを犯さず。 後半は、守将として「赤壁後の荊州」、並びに孫呉の激戦地「合肥」を守り抜くなど、難しい土地をよく治めた。 攻守に一切隙がなく、強いて言うなら曹操や張遼が得意とした騎馬による機動戦の経験がない位。 曹魏の五大将軍第二位に位置づけられているのも、納得の実力といった感じである。 【 青槍解説・三国志演義 】 大体の功績はなかったことにされている上に、弓に秀でた武将として描かれる。 呂布軍と対峙した際、呂布の側近「成廉」を。 袁紹遺児討伐戦では、「郭図」を射殺している。 合肥を巡る孫呉との争いの中、青槍は凌統と一騎討ちを行ない、互角に渡り合うが 甘寧が介入して矢を放ち、これを顔に矢を受け負傷。 仲の悪かった凌統と甘寧の仲を取り持つ犠牲と成る。 その後────出番なし!! ( この時、死んだんですかね…… ) 【 青槍の 1の解釈 】 ・曹魏の誇るオールラウンダー。 生涯を戦地で過ごし、最期は後方で死去した歴戦の将。 ・寡黙に任務をこなし、死地にあっても動ぜずに粘り強く戦い、上官の期待に応える男。 ・戦士としても優秀ではあるが、その本領は兵を率いて戦うことにあると思われる。 ・天下分け目の戦いである「官渡の戦い」において、決定打となったのは敵の食料基地「烏巣」の攻略だった。 曹操は、この大事な戦いに青槍のみを連れていき、死地に殴り込みをかけたということから 青槍に対する信頼度は、当時から絶大なものであったのだろう。 事実、青槍は劣勢をよく持ちこたえて曹操を助け、敵将を捕縛して勝利と天下の帰趨を定めた。 ・李典、並びに張遼との不仲については、度々言及されている。 ・李典は口が達者かつ臨機応変方の将であり、また裕福な家柄の出であったことから その辺りが馬が合わなかったのかもしれない。 ただ、よくコンビを組まされて大きな戦果を挙げていた。 曹操から見て、青槍と李典は組ませることで、互いに力を発揮できると見ていたのかもしれない。 ・張遼との不仲については、張遼が元「呂布」の武将。 つまり外様であることが原因なのではないかと見る。 曹操の旗揚げ時からの叩き上げとなれば、相応に将としてのプライドは高いだろうと見る。 ・ただ、不仲な李典や張遼が同僚でも、きっちり武功を上げていることから、その辺りの我慢強さも有ると見た。 そんな青槍であるが、 1的には正直語る所がない。 1が解釈しなくても、その生涯の戦歴を辿れば、青槍がどんな将軍だったか伝わるだろう。 つまり、質実剛健にして豪胆であり、勝機を見極める嗅覚に優れ、危機にあって引くことのない男。 加えて、叩き上げの将としてのプライドが高いが、弁えるところは弁えて役割に徹せられる武将という所だろう。 まぁ何だ。とりあえず「 蒼天航路 」を読もう。そこに青槍の全てがある。 「合肥の戦い」だけでもいいんだ、読もう。 30巻と31巻に修められてる。 電子図書で一話ずつ読むなら「 その三百四十一 合肥視察 」 から 「 その三百五十三 魏王の座 」 まで。 「曹魏の名将3名」vs「孫呉の猛々しい猛将たち」が正面からガチンコ勝負する傑作だ。 読み手のアドレナリンを大幅に高めてくれる。 1が書いた青槍は蒼天版の劣化版だから、そっちを読んでくれ。 【 青槍・本作における解説 】 青枠であることから分かるように、先輩が作ってくれたサーヴァントであり、 1はデータ制作に関わっていない。 元々、大好きな武将であったことから、データ化をこれまでも何度か試みてきたのだが 宝具の解釈でしっくりいかないことが多く、棚上げしてきたのだった。 しかし本作の青槍は、 1に素晴らしいインスピレーションを齎してくれた。 そこだけお話させていただく。 シンプルで、実に美しいデータである。 素晴らしい点は二点。 まずフレーバー文。 つまり彼は、【 自分の願った通りの方法で戦いを開始できる 】上。 敵対相手が【 いつ仕掛けてくるか予期して対抗できる 】 ということ。 また白剣のように、【 一部であるがステータスおばけになれる 】 こと。 令呪や魔力のバックアップがあれば上限がない為、【 白剣やエールちゃんにすら対抗できる 】のだ。 【 青槍組・本作における解説 】 ベイダーと青槍の相性であるが、寡黙に任務をこなす青槍がベイダーと相性が良すぎた。 青槍とは「打てば響く」男である。 青槍を召喚してから、ベイダーは彼に不満を持ったことは一度もない。 青槍からすると、ベイダーは兵の運用について全権を任す等、 将としてプライドを大いに満たしてくれた為、その忠義は一切揺らがない。 結果、ベイダーが持つ「自鯖との不仲」フラグが完全に消えた。 陣営としての完成度は、この組が随一である。 対処法は、ムーンセルに軍団を持ち込めないことを利用して、ムーンセル内で決着を着けること。 まぁこいつら、短期決戦ならエールとも張り合える最強格だけど、軍隊運用されるよりはマシだからね。 この組の本領は、自前の軍勢を率いられる幕間にこそ発揮されるのです。 で、幕間だと、将軍タイプの青槍がベイダーの鯖になったことで、その驚異力が数倍に跳ね上がる。 その実力は、「 本拠地強襲戦 」でご覧になった通り。 なんでマスターが精鋭兵持ってんだよ。 青槍は【戦の流れを読み、都合がいいタイミングで横殴り&戦の端緒を読むことで奇襲を防げる】ことから、アドバンテージを渡すと、良いようにやられまくります。 また、↑に加えて青槍がステータスおばけになれる為、エールちゃんが白剣の開放を躊躇うレベルで堅牢となります。 彼女が切り札を開放して倒せない相手は、あたらしき神々位なものなんですよ…… 【 ベイダーと青槍がタッグを組み、自身の精鋭部隊を率いている時に限られる 】が 【 反則じみたチート勢力ペンギン帝国に、正面から打撃を与えられる大ボス枠 】へと成り上がった瞬間でした。 ただ、ベイダーの弱点である 【 良識のある人間からは、常時敵対寄りの反応をされる 】 【 問題の解決方法が、力と恐怖の二択しかない 】 は、改善されていません。 話が進むにつれて、巨大化していくペンギン帝国の膨張に対抗しきれなくなっていたのです。 打開を考え、スコールたちが立ち上げた「同盟」を 「 支配しよう 」 として失敗。 ←【 欠点露出 】 この時点で、ベイダーは戦略的に追い詰められていました。 ─────故に、ベイダーはアシュラ軍と手を組み、決戦を挑むしか道は残されていなかったと言えます。 彼らの特性を考えるなら、幕間に戦争を仕掛ける時、一番力を発揮できるのですから。 ・「アシュラ討伐班を砂漠の地に誘い込み、聖杯戦争参加者を分断した所を青槍組が各個撃破する」 ・「戦争前に主催者と掛け合い、参加枠の予約を行うことで、上記脱落者の枠を以って戦力増強 加えて、未知の戦力の増加より、帝国視点からアシュラ側の戦力の全容を見えなくする」 ・「攻略に取り掛かるペンギン帝国を、『シーフ』の暗殺攻撃や塔の仕掛けを持って迎撃して時間稼ぎ」 ・「襲撃に最適なポイントで青槍が宝具を使用して襲撃。 帝国の横っ面を張り飛ばし、兵数をもって分断 青槍組&緑剣組&新鋭二騎の合計4陣営で帝国の主従を食い荒らし、令呪を以って撤退する予定」 だった 実の所、ベイダーに唯一与する緑剣組が生き残るなど 3回戦の決戦からあの流砂の死闘に至るまで、青槍組が理想とする流れのまま動いてました。 【 このままいけば、青葉、緑魔(偽)、黄暗、ラクス、緑騎まで殺せるな 】と計算してたんですけどねー 【 青槍組・本作のまとめ 】 【幕間における大ボス扱い】であり、アシュラ打倒後も暴れて犠牲者を増やす予定でしたが、あっけなく死にました。 だが、読者たちに強烈なインパクトを与えることはできたかな、と。 あと、単純にベイダー&青槍コンビは動かしてて面白かったし、周囲からもいい評価を頂けました。 特に青槍の働きぶりは絶賛されてました。 やったぜ。 じゃ、今日はここまで。
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俺の屍を越えていけ 1-287・289~293、13-50~54・514・516・535 287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 26 ID DEVpC9sb 鬱スレより転載、俺の屍を越えていけ 166 :名無しさん@お腹いっぱい。(sage) :03/11/1407 35ID lfrpDWUh 京都に朱点童子(便宜上、以降、鬼朱点と呼びます)と言う鬼がいて京都で暴れまくっていました。 当然、帝も放っておく訳も無く、何人もの武士が鬼朱点のすむ大江山に派遣されましたが人間が勝てるはずも無く、ことごとく返り打ちに遭ってしまいました。 そんな中、子供を産んだばかりの夫婦、源太とお輪がついに鬼朱点の寝床にまで辿り着く事ができました。 ところが鬼朱点の卑怯な罠で源太はあっさり死亡。 京都においてきたはずの子供を人質に取られ、お輪もなすがままにどこかに連れ去られてしまいます。 そこで鬼朱点はお輪との約束通り、その子供を殺さず、見のがしてくれます。 (ただし、復讐を恐れて人と交わって子孫が残せない呪いと長くても2年しか生きられない呪いをかけられてしまいます。) それを哀れに思った天界の最高権力者、大照天昼子がその子供に力を貸し、神様と交わり子孫を残せるようにしてくれます。 この子供が主人公です。寿命がすぐ来て呆気なく死にますが。 そして神様と交わり、子孫がいつか仇の朱天童子を討つ、というのがOPです。 289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 28 ID DEVpC9sb 287 167 :名無しさん@お腹いっぱい。(sage) :03/11/1408 17ID lfrpDWUh ここまでは上にも書いてある通り、単純な勧善懲悪物です。ただ、鬼朱点を倒す事で状況が一変します。 また、このゲームには数多くのダンジョンが存在し、そこにいるボスにまで深い意味があります。 とりあえず鬼朱点を倒すまでの状況は以下。 主人公の回りの人 お輪…主人公の母親。行方不明。 黄川人…ダンジョンに入るごとに現れる案内役の少年。そのダンジョンの由来について説明してくれる。 鬼朱天に呪いをかけられたらしく、この世に実体が無い。 大照天昼子…一番偉い神様。善意で主人公を助けてくれた。 実はつい最近、大照天夕子の力添えで天界のトップになった。 ダンジョンの由来とボス 相翼院…心無い人間に子供を奪われた天女が化けて出る場所。 ボス…片羽のお業。子供を奪われ、見せ物小屋を引きずり回された天女が鬼になったもの。 鳥居千万宮…子供のできない女がお百度参りの末、子供を拾った。 その後、次々幸運が訪れたが旦那に捨てられ、その鳥居で首を吊った。 ボス…九尾吊りお紺。首を吊った女が鬼になったもの。 九重楼…天界に無断で人に風と火の使い方を教えた神様が幽閉されている塔。 ボス…雷電五郎、太刀風五郎。人が風と火で戦争をしている事を憂い、今では人と関わるのを嫌っている。 白骨城…大江山で朱点童子に殺され、成仏できない霊がさまよっている。 ボス…大江ノ捨丸。自分達は見殺しにされたのに何故か神様に救われた主人公一族を逆恨みしている。 大江山…朱点童子の住処。 ボス…鬼朱点。主人公一族の仇。 290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:03/11/1917 30ID DEVpC9sb 289 170 :165(sage) :03/11/14 10 38 ID rVMdv8of そしてようやく鬼朱点を倒すと幾人かの神様が何故か解放され、同時に中から本物の朱点童子(黄川人)が出てきます。 大まかな事の真相を言うと、昔、片羽ノお業が地上で人間との間に2人、子供を産みました。 (神と人間の間に生まれた子供は何故か神をも超える素質を備えており、神と人の子を天界では「朱点童子」と呼ぶようになりました。) この事は天界でも問題になり、この子供2人をどうするかが協議され、天界の意見はまっぷたつに割れました。 朱点童子は危険なので抹殺しようと言う保守派。 逆に朱点童子を人間達の王にしようという革新派。 長い議論の末、時の権力者の大照天夕子が革新派だった事で一応、天界としては、この2人の子供を人間達の新しい王様にする事に決まりました。 そして色んな人間にこの2人の朱点童子を王として祭り上げるよう神託を与えました。 神託を信じた人間はすぐさま朱点童子達の暮らす大江山へと集まり、一つの村を形成しはじめました。(大江山に行くと朽ちた家等そのなごりが多数あります) しかし、それを快く思わない保守派の神様は、当時人間達の王だった時の帝に朱点童子達が幼いうちに討て、と神託を与えました。 そして神託を信じた時の帝は大江山に向け挙兵。大江山にすむ信者ともども片羽のお業は捕まり、そして朱点童子のうちの1人である女の子も殺されてしまいます。 もう1人の朱点童子(黄川人)は信者達の手により逃げのび、鳥居千万宮に放置された所を九尾吊りお紺に保護されます。 291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 32 ID DEVpC9sb 290 172 :165(sage) :03/11/14 11 03 ID rVMdv8of そしてこの事態に大照天夕子は一つの決断をくだします。 強力な力を持つ、死んでしまった黄川人の姉の朱点童子を神として天界に上げ、「大照天昼子」と名付け、自らを後見人に天界のトップに置きました。 そして大照天昼子は自らを快く思わない保守派の神様を天界から追放し、その殆どが鬼へと身を落としました。 (書き忘れましたが色んなダンジョンには鬼になってしまった神がいますがこの殆どが保守派の神様であると予測されます) そしてその頃、九尾吊りお紺に保護された黄川人は恩返しのつもりかお紺に富くじの当たり券など多くの幸運を授けますが、その所為で旦那が他所に女を作り、金を全て持ち逃げしてしまい、悲観したお紺は鳥居で首を吊り死んでしまいます。 途方にくれさまよう黄川人は天界を追放された最強の男神、氷の皇子に出会い、保護されます。 しかし、乳を与えようにも男神である氷の皇子から乳が出るはずも無くやむなく氷の皇子は自分の血を与えてしまいます。 そして氷の皇子の血で成長した黄川人は膨大な力を元に時の帝に復讐を始めます。 292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 34 ID DEVpC9sb 291 173 :165(sage) :03/11/14 11 28 ID rVMdv8of 黄川人は大江山を根城に本格的に京都を焼き払いました。 天界としても人間達に復讐を始めた黄川人を放置しておく訳にもいかず黄川人を抹殺すべく、総掛かりで黄川人に挑み、何とか黄川人を手下の鬼の中に封じ込める事が出来ましたが、同時に幾人かの強力な神様も道連れにされ、黄川人と一緒に封印されてしまいました。 (鬼朱点を倒した時に解放された神様がそうです。) それでも黄川人は幽体として世間に干渉する力を残しており、封印されてしまった神様ともどもこのままでは良くないと思った大照天昼子は一つの計画を立ち上げます。 「計画的に朱点童子を作り、そいつらに黄川人を殺させる」 そして白刃の矢が立ったのは片羽のお業の姉妹、「お輪」。 お輪は地上に降り、源太という人間との間に子を作り、鬼朱点に挑みます。 源太とお輪にとって鬼朱点にやられる事は計画的であったかどうかは定かではありませんが天界にとっては計画通りだったようです。 そして2人の子供(主人公)は計画通りに大照天昼子に助けられ、計画通り親の仇として、鬼朱点を倒す事を目指します。 この事は封印を解くチャンスなので黄川人にとっても都合が良く、主人公を見のがし、主人公一族の道先案内人をかって出たと言う訳です。 (ただし主人公達があまり強くならないように短命の呪いをつけて) 293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:03/11/1917 36 ID DEVpC9sb 292 174 :165(sage) :03/11/14 11 47 ID rVMdv8of 軽くまとめると、 主人公一族…黄川人を殺す為に作られた朱点童子。 源太…ただの強い人間。 お輪…神の一人。片羽ノお業の為に計画に賛同。 因みにラストダンジョンの最深部に行くと、今まで倒してきた雑魚敵が全て黄川人がお輪に産ませた怪物である事が判明する。 つまり今まで倒してきた雑魚敵は全部、異父兄弟。 黄川人…最強の朱点童子。片羽ノお業の息子で大照天昼子の弟。 大照天昼子…片羽ノお業の娘で黄川人の姉。朱点童子で天界最高権力者。 片羽ノお業…大照天昼子、黄川人の母親。 九尾吊りお紺…黄川人の育ての親。自害。 雷電五郎、太刀風五郎…大照天昼子に天界復帰を条件に主人公達を鍛えていた。 大江ノ捨丸…大照天昼子に主人公一族を全滅させれば神にしてやると言われ、最後に結局自分が主人公一族を鍛える為に利用されていたと悟る。 小説版では片羽ノお業を捕まえ、大照天昼子を殺害した張本人。 氷の皇子…黄川人の育ての親。力を黄川人に奪われた。 50名無しさん@お腹いっぱい。sage05/03/04 11 21 36ID jummykdW 俺の屍を越えてゆけのまとめサイトの補足(続き)を書こうと思ってたら、 ttp //www.linda3.co.jp/ ここのコラムに会話が載ってるので詳しく知りたい人はあっちを参照してください 一応、まとめサイトの続きを簡単に投下します。 51俺の屍を越えてゆけ(続き)sage05/03/04 11 34 23ID jummykdW 本物の朱点童子である黄川人を解放してしまった一族は黄川人やダンジョンのボスから事件の真相を聞きながら黄川人が居る地獄への鍵を手に入れ、地獄で黄川人を打ち倒す。 その時、一緒にお輪も殺してしまうが、お輪は神の姿に戻り、赤ん坊姿になった黄川人とともに天界に帰っていた。 一族の遺影がテーマソングとともに流れてエンディング 一族の呪いが解けたことを示す描写はないが、次回作の構想を読むと呪いは解けたらしい 52俺の屍を越えてゆけ(続き)sage05/03/04 12 14 24ID jummykdW さらに補足、黄川人から 「僕を殺す役目を果たしたら、神以上の力を手に入れた一族は神々にとって邪魔者になる」 というようなことを言われるが、もし黄川人を倒しても呪いが解けなかった場合、神々が一族と交わるのを止めれば、一族は呪いで勝手に滅んでしまうので、神側としては好都合。 この事実や事件の真相を知って、神々に不信感を持っても、一族としては神々の助けを借りるしかなく、黄川人を倒すしかない。 さらに、お手伝いさんとして一族を励まし続けてきたイツ花こそが計画の首謀者・昼子だと分かり、さらに鬱 53名無しさん@お腹いっぱい。05/03/04 14 20 16 ID B9z72A4k 50 むー、どこに会話があるのか探せなかった ヒントキボン 54名無しさん@お腹いっぱい。sage05/03/04 14 47 58ID jummykdW 53 サイトの一番下辺りにある「COMPANY」の3つ目の桝田省治コラムにある。 桝田省治コラムの中程にある俺の屍を越えてゆけコーナーの「俺屍、台詞集」がそれ。 順番はストーリー上とは違うんで気をつけて読んで下さい 514漏屍sage2005/03/21(月) 05 07 45ID pA4fYKKB 俺屍まとめ(公式指南書より抜粋) ■神様 →魔法or技術で不老不死になった何千~万年前の人間。 副作用の為か、子孫を残す事が出来なくなる。 ■人間 →不老不死にならなかった昔の人。 今の人類の祖先。 ■はじまり(1) →時は流れて天女がある人間を好きになり結果、天女は女子(イツ花)と男子(黄川人)の2人の子供を身籠る事となる。 ここで神と人が交わると神の血(力)を引いた子供が産まれる事が証明される。 ■はじまり(2) この子供を巡り、天界は2つに割れる。 革新派:子供達を自分の代理として人間を支配させよう。 保守派:人間に関わるのは止めよう。 まだ自分達の知識を伝える段階ではない。 ■はじまり(3) 革新派の神様が人間界に 【お前達の新しい指導者だ】 っておふれを出す。 で、それを信じた者達が子供達の為に大江山に都を造る。 しかし、時の帝がこれを阻止。 結局、天女と旦那、イツ花はその場で殺される。 唯一、黄川人は信者の手により逃げ落ちる。 516漏屍sage2005/03/21(月) 05 34 24ID pA4fYKKB ■イツ花 →大江山で殺されたイツ花の魂は天界に行き昼子になり、肉体は転生しイツ花になる(非公式?) ■黄川人 →生き残った黄川人は世の中を怨みながら成長。途中、氷ノ皇子等から力の使い方を学ぶ。 が、危機を感じた天界の神々により黄川人の部下の鬼(鬼朱点)の体に封印される。 ■朱点童子 →神様と人間の間に産まれた子供達の暗称。 イツ花、黄川人、主人公一族の事を指す。 ■主人公一族 「朱点童子を殺す為だけに生まれたもう1人の朱点童子、それが君達の始祖サ!!」 (地獄での黄川人との会話) 535名無しさん@お腹いっぱい。sage2005/03/21(月) 14 18 56ID InhhrMoC 514 帝の軍勢に保守派の神が武器とか術を貸し与えていたことも。 肉体がイツ花になる所は小説で描かれてるから、公式としてもいいんじゃなかろうかね。 補足として小説の話:大江山で死んだイツ花の魂は神となり、魂寄せお蛍に導かれ天界へ上り、肉体は神となった魂の神気を浴びて新たな魂が宿り、爺さんと婆さんに拾われて育つ。 小学生ぐらいの年齢で相場屋に奉公に行く事になり、奉公先の主人に眼鏡を貰う。 天界ではイツ花の魂は他の神から「放(ひ)られた子」ということで「放る子(ヒルコ)」と呼ばれ、一部の神(革新派)から忌み嫌われていた。 その後、放る子は昇天の儀式で神としての自分の名前の希望を問われ「昼子」と答え、更に天界一の実力者である大照天夕子から苗字を賜り「大照天昼子」(苗字は反対にすると天照大となり、アマテラスを表す)と名乗ることになる。 人間のイツ花は天界での一部始終を夢として見ており、そこでの昼子はいつも泣いている。 一方、黄川人を連れて逃げた信者は神社の鳥居で力尽き、黄川人は人間だった頃の九尾吊りお紺に拾われる。ダメな亭主のおかげで人生を苦にしたお紺は神社の鳥居で黄川人を絞め殺し、自らも首を吊って死ぬ。しかし黄川人は死んでおらず、氷ノ皇子の元に辿り着く皇子は赤子だった黄川人に母乳の代わりとして自らの血を与える。 神界でも最上位の皇子の血を吸って黄川人は力をつけ、皇子から術を習う。 黄川人は冷たい流水道の底にあって、唯一赤い存在という事で「朱点」と名付けられる。 ある時、人間に酷い目に遭わされ下水道に捨てられ死に掛けの敦賀ノ真名姫(人魚)を見つけた皇子は経を唱え昇天させようとする。しかし、真名姫を助けようと考えた黄川人は皇子から習った術で反発し、皇子を倒して何処かへ消える。 黄川人は人間への復讐を誓い、大江山を襲った山賊の捨丸を彼に怨みを持つ怨霊を使役して殺す。 京の都は妖気に包まれ、天界では滝が燃え上がり、大地が崩れる等の災害が起こっていた。 災いの原因が昼子の弟である黄川人である事を突き止めた神々は、その原因を作った革新派の 神々に黄川人の始末を命じる。結果的に、昼子を含む二十柱の神々が朱点討伐に赴く事になった。 地上では、景気付けにと相場屋の主人が部下を率いて大文字の送り火をするが、突如現れた少年(黄川人)に襲われ、送り火は紫色に激しく燃え上がり「大・江・山」と形を変える。 その直後から都の周辺には妖怪が跋扈するようになる。人々は絶望したが、天界の夢を見るイツ花は諦めていなかった。ある朝、人々が空を見上げると天界から無数の神々とその眷属が大江山に列をなして向かっていく。人々は神々の戦闘を進む見慣れない女神(昼子)について噂した。 朱点の配下の妖怪や怨霊達と神々の激闘の末、傷ついた神々は昼子の合図と共に光となって朱点に捨て身で向かい動きを止める。が、同時に封印を施す筈だった昼子は動かない。 裏切ったかと思われた昼子だが、朱点を確実に封じる為に敵を油断させていたのだ。 朱点は力が強いだけの馬鹿な鬼に封じられ昼子は1人、天界へ帰る。 相変わらず妖気は消え去らないが、それでも活気を取り戻した人々はあの新しい女神を奉る神社を、都の焼け跡の一角に建てる。 騒動で主人を失ったイツ花はそこで昼子神の巫女となり、ゲームでは主人公の家に仕えることになる。
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前ページ島根県 一本松城(イッポンマツ-)一本松城概要 一本松城イラスト 三本松城(サンボンマツ-)三本松城概要 三本松城イラスト 津和野城(ツワノ-)概要 イラスト 場所 口コミ ギャラリー コメント 一本松城(イッポンマツ-) 一本松城概要 築城後室町後期までは三本松城または一本松城と呼ばれた 概要は 三本松城 の方を参照 一本松城イラスト ※リニューアルに伴いリストラ 御城プロジェクト(旧) 城姫クエスト 未実装 三本松城(サンボンマツ-) 三本松城概要 1295年、吉見頼行が築城開始。1324年に完成した 戦国時代は大内氏に従っており、陶晴賢に対して挙兵。1554年三本松城の戦いが起きる その後は毛利氏に従った 1600年毛利氏の領地没収に際し共に萩に移住。坂崎直盛が入城 改称時期は不明だが便宜的にここで分ける 主な城主 吉見氏 三本松城イラスト 御城プロジェクト 城姫クエスト 未実装 津和野城(ツワノ-) 別名 石蕗城 概要 津和野城 1600年に坂崎直盛が入城し、大改修を行う 1616年坂崎氏が改易となり、翌年亀井政矩が入城。以後明治維新まで亀井氏の居城となる 1871年、廃藩置県に伴い廃城。民間に払い下げられ解体された 主な城主 坂崎直盛、亀井氏 イラスト 御城プロジェクト 城姫クエスト 城プロの背負ってるもの、及び城姫の羽は鷺舞が由来だろう 場所 口コミ #bf ギャラリー +... 城プロ 名前 城娘 御嬢 半壊 特技 一本松城(旧) 三本松城 三本松城(旧) 津和野城 城姫 名前 城姫 開城 津和野城 津和野城弐式 津和野城参式 グラ違い 本命 温泉 スライドショー « » var ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2 = new Array(); ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2[0] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%2F%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E5%9F%8E&file=q.%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E5%9F%8E_%E9%96%8B%E5%9F%8E.png ; 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ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2[21] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%2F%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E5%9F%8E&file=p.%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E5%9F%8E_%E5%8D%8A%E5%A3%8A.png ; window.onload=function(){ ppvShow_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2(0); }; function ppvShow_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2(n){ if(!ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2[n]){ alert( 画像がありません ); return; } ppv_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2$( ppv_img_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2 ).src=ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2[n]; ppv_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2$( ppv_link_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2 ).href=ppvArray_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2[n]; ppv_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2$( ppv_prev_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2 ).href= javascript ppvShow_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2( +(n-1)+ ) ; ppv_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2$( ppv_next_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2 ).href= javascript ppvShow_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2( +(n+1)+ ) ; } function ppv_0_8919586fc5b489fdabe3f3cfd186c8b2$(){ var elements = new Array(); for (var i = 0; i arguments.length; i++){ var element = arguments[i]; if (typeof element == string ) element = document.getElementById(element); if (arguments.length == 1) return element; elements.push(element); } return elements; } コメント 名前 コメント 城プロ 城姫 日本100名城
https://w.atwiki.jp/paso/pages/105.html
1557年 大航海時代 宣教師らの先導で欧州諸国が次々に襲来し、日本列島を植民地政策の糧としようとしていた...。 日の沈まぬ国イスパニアをはじめ、ポルトガルやイングランド、フランスにオランダ。 北方からはロシアが攻め入り、九州は明や女真族が入り乱れるのであった。 そして世界最強のオスマン帝国もまた日本制圧に向け動き出した...。 【仮想シナリオ】 有力諸外国大名 神聖ローマ:イスパニア、教皇領と同盟 オスマン帝国:フランスと同盟 ロシア::明、満州と同盟 イスパニア:神聖ローマ、ポルトガル、教皇領と同盟 ポルトガル:イスパニア、教皇領と同盟 フランス:オスマン帝国、教皇領、ヴェネチアと同盟 満州:ロシアと同盟 イングランド:教皇領、オランダと同盟 教皇領:神聖ローマ、イスパニア、ポルトガル、ヴェネチア、イングランド、フランスと同盟 明:ロシアと同盟 ヴェネチア:教皇領、フランスと同盟 オランダ:イングランドと同盟 有力国内大名 織田家:斉藤家、徳川家、羽柴家、黒田家、前田家、明智家と同盟 羽柴家:織田家、黒田家、前田家と同盟 黒田家:織田家、羽柴家、前田家と同盟 255 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 02 10 40 ID Ejrrn0VU シナリオをヴァージョンアップさせてきますた。 【大航海時代】V1.1 ttp //nobuyabo.s206.xrea.com/ ノブヤボ専科にうp済 前回UPしましたシナリオ「大航海時代」の拡張版です。 バグ取りだけでなく追加勢力や追加武将など大きな変更点があります。 追加武将分の列伝も無駄についています。 変更点:神聖ローマ帝国と教皇領を追加。 全体的なバランス調整、海外大名の攻撃性UP バグやおかしかった箇所を修正、貿易バランスや民忠上昇を見直し。 武将能力を修正、その他様々な箇所を調整しました。 顔グラは全部自分で作ってきた、加工だけど疲れた。 43 :36:2007/10/05(金) 22 40 18 ID XkF1WO3o 詳細は専科にも書きますが以下のとおり。 【大航海時代】V1.0 宣教師らの先導で欧州諸国が次々に襲来し、日本列島を植民地政策の糧としようとしていた...。 日の沈まぬ国イスパニアをはじめ、ポルトガルやイングランド、フランスにオランダ。 北方からはロシアが攻め入り、九州は明や女真族が入り乱れるのであった。 そして世界最強のオスマン帝国もまた日本制圧に向け動き出した...。 【仮想シナリオ】 ネタと史実が入り混じる、戦国時代の世界大戦INジャパンです。 世界の強国が集い、覇権をかけて争います。 S5が元になっていますが、日本勢も多少の変更をしてあります。 能力値やゲームバランスを全体的に見直して修正しました。 外人武将達は大半が新武将として登録してあり、無駄に列伝が書いてあります。 バグ情報、修正案など歓迎です。 史実系ながらネタ度高くてごめんw ここまでのあらすじ 36 :名無し曰く、:2007/10/05(金) 19 48 55 ID XkF1WO3o シナリオ作ってみたんだが、うp先はノブヤボ専科でいいんかな。 顔グラとかふんだんに追加したんだが、サイズが重いからどうしたものかと。 38 :名無し曰く、:2007/10/05(金) 19 57 10 ID 0Wx9NWRO 36 超期待。シナリオは専科で画像データは別なとこでもいいんじゃね? 40 :36:2007/10/05(金) 21 14 55 ID XkF1WO3o 36だけど、顔グラって変更した部分だけうpで大丈夫かな? 元の武将の顔変えたデータとか他のPCにも反映されてるか不安だ。 Grpの更新部分だけで反映されてるならこれからうpします。 ちなみに圧縮したら9MBで済んだ。 41 :名無し曰く、:2007/10/05(金) 22 35 32 ID cdBU8Feo 40 乙です。楽しみにしてます。 42 :36:2007/10/05(金) 22 37 29 ID XkF1WO3o よし、顔設定ファイルみっけ。 うpしました。 シナリオ+顔グラ ttp //yorozu.selfip.com 8080/archiving/10m/upload.cgi?mode=dl file=43 pass nobu12 43 :36:2007/10/05(金) 22 40 18 ID XkF1WO3o 詳細は専科にも書きますが以下のとおり。 【大航海時代】V1.0 宣教師らの先導で欧州諸国が次々に襲来し、日本列島を植民地政策の糧としようとしていた...。 日の沈まぬ国イスパニアをはじめ、ポルトガルやイングランド、フランスにオランダ。 北方からはロシアが攻め入り、九州は明や女真族が入り乱れるのであった。 そして世界最強のオスマン帝国もまた日本制圧に向け動き出した...。 【仮想シナリオ】 ネタと史実が入り混じる、戦国時代の世界大戦INジャパンです。 世界の強国が集い、覇権をかけて争います。 S5が元になっていますが、日本勢も多少の変更をしてあります。 能力値やゲームバランスを全体的に見直して修正しました。 外人武将達は大半が新武将として登録してあり、無駄に列伝が書いてあります。 バグ情報、修正案など歓迎です。 史実系ながらネタ度高くてごめんw 44 :36:2007/10/05(金) 22 47 47 ID XkF1WO3o 専科にもうpしときますた。 45 :名無し曰く、:2007/10/05(金) 22 57 15 ID SzwbVOJW 43 超乙。 列伝読みたさでDLするぜw 46 :名無し曰く、:2007/10/05(金) 23 25 51 ID rBdPL+eQ 43 やべぇ...作ろうとしてたもの先越されたぜw だがそれでいい。 世界VS日本がたまらない。 日本連合VS世界の超技術とか最高。 47 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 00 35 16 ID P/g1Bdm3 43 ライザの知略1噴いたw 52 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 04 12 47 ID HYZh+1XM 45~47 DLサンクス! シナリオ初投稿なんで色々粗があるかもしれないけど楽しんでくれたら嬉しいです。 他にも作ろうとしてた人がいるとは驚いたw ライザですからww 一部、列伝が書いてないのとかは、私がわからないか肥NPCです。 海外勢力は難易度易しく、日本勢(特に海外勢力に近い大名)はきつめになってます。 武田上杉は史実モードなので逆にファンは使う気になれるかも。 57 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 11 47 16 ID h9BKmEzc 52 説明感謝です。 60 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 12 16 52 ID j14P4dfY 43 諸外国大名の列伝が十勇士のままなのは、こっちで導入ミスってる? 61 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 12 32 42 ID xFrRZKLN 俺も十勇士になってる。 導入手順でミスってそうなのは、Redemeに書いてある。 4.付属のkaoeditpk.n12を C \Documents and Settings\ユーザー名\My Documents\KOEIへ入れる ってところなんだが、これっほんとにKOEIフォルダの直下におけばいいの? こんなところを見てるとは思えないんだが...。 63 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 12 47 46 ID epDSDjZZ 43のEDIT_KAO~はどこに置けばいいのかい? 65 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 14 47 27 ID QHZZjVDh 63 Grpのフォルダじゃないか? もとのヤツはバックアップとっておくことを忘れずに。 66 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 15 20 05 ID XScUVmDk 43 貿易しても親密度が上がらないのは仕様? 海外勢力と同盟組んで南蛮技術教えてもらうってのが可能ならなぁ。 68 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 15 37 36 ID BENJUrLw 43 女真族より、李氏朝鮮でも加えた方が良かったんでない? 武将もある程度揃ってるし。 69 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 15 47 31 ID Pg0r7aIv 68 AOE2の二の舞になることを恐れたんだよ、きっと。 75 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 17 20 34 ID epDSDjZZ 65 アリガトゴザイマス。 76 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 17 30 06 ID BWAMJkfy 42 [DLMode] Not Found 0043.----./src10m/0043._/0043. ファイルが存在しません。 77 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 20 52 22 ID vNK8Z8r9 68 朝鮮が弱いとすごい勢いで荒らされる。 んで強くなるまで荒らされる。 78 :43:2007/10/06(土) 21 04 13 ID HYZh+1XM 風邪引いて寝込んでたらレスがいぱーいだた。 60 大名と満州の列伝は、いじりかたわからなかったのでそのままで仕様です。 61 それは公式顔グラエディタの顔グラ変更配置とかをみてるデータっぽい。 そこを抜いたら顔が元に戻った。 つまり、そこをいれると面倒な事しなくてもうちと同じ配置になるって事かなと。 63 65さんの言うとおりの場所です。 風邪気味だったんで肝心な事が書いてなかったりしたね、申し訳ない。 KOEIの下にある信長12フォルダの下にあるGrpに上書きでおk。 66 仕様です、ただバランス悪そうなら修正する必要があるかも。 少しいじってみます。 68 いや、20日で首都陥落した勢力加えても脅威にならなそうだったから....w 神聖ローマとかを入れるかどうか悩んだけど、海外増やした方がいい? でも最大の敵は顔グラの少なさなんだよね、実はw 史実の絵画使うのも抵抗あったので、無理やり外人探していれるのが一番大変だった。 いい顔あったら増やせますよw 女真はほんと人少ないけど、時々明を喰ったりするあたりが面白い。 もうちょい強くしてみるといいかな。 76 うほ、もう消えたのか...。 どっか安定してるうp先あるかな、どこがオススメかわからないのでいい所あれば教えてください。 そして、自分でやってたら仕官年数1558年とか数名発見したので修正しときます。 プレイ報告ありがとうございます、励みになります! 79 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 21 08 43 ID CzSY2ruI 78 外国人の顔グラ、オンラインゲームのやつを引っ張ってきたら? ファンタジー色が強くなるのが難点だけど。 80 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 22 09 25 ID BWAMJkfy 78 ttp //www.axfc.net/uploader/ 最初混むけど一ヶ月程もつからここがいいんじゃない。 82 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 22 16 25 ID rvmB1Cat 78 ノブヤボ専科さんは? 83 :43:2007/10/06(土) 22 24 01 ID HYZh+1XM 顔グラ再うpしときますた。 ttp //www4.axfc.net/uploader/14/so/Li_35119.zip.html pass nobu12 84 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 22 33 14 ID vsd0TA6n GJ 85 :43:2007/10/06(土) 22 36 00 ID HYZh+1XM 82 専科さんは1MBが限度っぽいのですよね。 80 教えてくれてありがとです、使わせていただきました。 いっそ顔グラ職人さんにリクエストでも出してみたらいいのかなぁ。 オンラインとか漁ってみます。 イスパニア用にコロンブスの顔は心当たりがあるけど、出てくるまで進めるのがめんどくさすぎる。 カタリーナとか大航海2のドット絵で入れたらさすがにまずいよなw 86 :名無し曰く、:2007/10/06(土) 22 47 28 ID BWAMJkfy 85 80MBぐらいだと思ったら8MBとはなんという圧縮率。 8MBならログみたら1年はもつみたいね。 再GJ。 ありがとう。 90 :名無し曰く、:2007/10/07(日) 00 18 54 ID AyX8DGKk 85 女真族(ヌルハチ)の武将は清を建国しただけあって名将揃いだよ。 女真族の勢力を強化・武将を追加するなら↓(項目・この人に注目)を参考にしてみると良いかも 明末清初篇第1部 第2集「ヌルハチ挙兵 -サルフにいたる道-」 ttp //www.biwa.ne.jp/~hss727rs/pf0209.htm 255 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 02 10 40 ID Ejrrn0VU シナリオをヴァージョンアップさせてきますた。 【大航海時代】V1.1 ttp //nobuyabo.s206.xrea.com/ ノブヤボ専科にうp済 前回UPしましたシナリオ「大航海時代」の拡張版です。 バグ取りだけでなく追加勢力や追加武将など大きな変更点があります。 追加武将分の列伝も無駄についています。 変更点:神聖ローマ帝国と教皇領を追加。 全体的なバランス調整、海外大名の攻撃性UP バグやおかしかった箇所を修正、貿易バランスや民忠上昇を見直し。 武将能力を修正、その他様々な箇所を調整しました。 顔グラは全部自分で作ってきた、加工だけど疲れた。 256 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 02 25 41 ID Ejrrn0VU そして顔グラのPass書き忘れたorz Pass:nobu12 です 257 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 02 29 09 ID JNg9o1y9 255 乙~ 誰か戦国自衛隊みたいなのつくってw 俺?挫折したorz 258 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 04 13 49 ID lk+rz9aq 255 更新乙です! 263 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 07 59 15 ID SJTN6P3D 255 日本人が海外勢力にいたりするのは仕様? あと、途中で落ちる...。 268 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 10 30 24 ID Ejrrn0VU 263 落ちるですか...、また調査しないと。 日本人の外国出張は九州大名なら仕様です、キリシタン系の人が裏切ってます。 あと新武将がそこに沸いたかもw 270 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 10 38 51 ID Ejrrn0VU アンカまちがえた。 264だた。 何が原因で落ちてるんだろう...。 274 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 11 51 29 ID 5Qxjnv2O 266 かもしらんねえ ただ入力値がBだったから大名の格付けかな?と思っただけ。 実証組乙っす 275 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 11 59 37 ID JNg9o1y9 274 8だった気がする...。 276 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 12 29 32 ID 5Qxjnv2O 275 うは、恥ずかしい見間違いごめん。 277 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 13 04 13 ID Ejrrn0VU 273 それと、港にいた未発見浮浪者どもをお城に戻したら、10年デモって落ちなかったです。 その辺が原因っぽいね、多分治りました。 というわけでうpしなおしてきます。 ご協力ありがとうございました。 ちなみに10年くらい進めると関東で英仏100年戦争が始まったり、ナポレオン時代のようなフランスvsロシアが始まったり、 明が満州に喰われたり、色々カオスになってましたw 278 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 13 23 18 ID AJ1P2FOS 皆さんGJ! でもいくら作ったり調整しても、パッチ当てるとデフォにもどってしまうんですよね? パッチ当てたら今度は中華が動かないし...でも当てないとバグだらけだし...。 いじりたくてウズウズしてるけど無に帰すのもいやだから、パッチ対応中華を待つしかない根性無しな俺ですorz 279 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 17 20 24 ID UADyG06d 255 いっそ日本の勢力をひとまとめにして、その他を外国勢力とかでも面白そう。 武将足りないなら汎用武将作ったりで埋め合わせしたりとか...。 281 :名無し曰く、:2007/10/13(土) 17 55 14 ID jx8ro4Wh 273 勢力ごとの格付いじると、どう変化するの? 295 :名無し曰く、:2007/10/14(日) 01 00 53 ID QGHNf6l9 279 いっそEU2やチンギスのように世界全体の国を入れてみたくもなるね。 でも顔グラが100枚以上必要だろうからきびしいw 475 :名無し曰く、:2007/10/22(月) 00 04 07 ID VkIcAsvG 大航海時代ちょっとやってみたけど、日本大名って勢力広げられるのか????? あと、李舜臣にワロタ。 478 :名無し曰く、:2007/10/22(月) 01 04 20 ID rYUUCP+D 織田、伊達、島津、斉藤あたりならクリアできる。 他は厳しそう。 485 :名無し曰く、:2007/10/22(月) 02 43 53 ID d6vQtCvE 475 弱小に見えて黒田が結構やりやすかった、斉藤も安全圏だな。 織田、羽柴、毛利あたりが日本勢最強クラスだと思う。近場に手頃なエサがいる勢力だと結構伸ばしていける。 514 :名無し曰く、:2007/10/22(月) 18 48 53 ID cDZRjKQb 大航海やってみた。 俺には大航海を明でやってみても結構難しい...。 序盤は領土広げるために停戦相手飛び越して相手国に殴り込みで兵糧厳しかったし、九州と中国統一する頃には中部に教皇領+1国、関東東北にローマが伸びまくり。 がっちりキリスト教国が3国同盟結んでたんで、俺はおもむろにリセットボタンを押した。 517 :名無し曰く、:2007/10/22(月) 22 26 57 ID d6vQtCvE 514 CPUの明はよく宇喜多に殴りかかって撃退されてるが、そっち方面なら領地繋がってるんじゃない? そういえば何故かWiki有志シナリオに大航海だけ追加されてないな。 520 :名無し曰く、:2007/10/23(火) 01 30 48 ID 1OU6zFqm 517 気づいたら自分で追加汁。 702 :名無し曰く、:2007/10/27(土) 19 39 23 ID GbHnD32i 大航海のシナリオ、ヨーロッパ列強が大名だけになってしまうのはオレだけ? 配下が出てこない。