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概説 人格の同一性問題との関連 意識の時間的統一の問題 概説 人間には五感がある。しかし同時に複数の感覚があった場合、それらは独立して存在しているのでなく統一された意識の内部にある。たとえば繁華街を歩いていると様々なものが見え、同時に様々な音が聞こえ、同時に様々な匂いがある。それらの感覚は統一的な意識の内部にあり、意識は全一的なものとして存在している。これが意識の統一性である。 ジョン・サールは次のように論じている。 いま私は、指先の感覚や首まわりのシャツの圧迫感、落葉の風景だけを経験しているわけではない。これらすべてを単一の統合された意識野の一部として経験している。病理的なところのない通常の意識は、統合された構造とともにある。カントはこの意識野の統合を「統覚の超越論的統一」と呼び、そこから多くのことを引き出した。そして彼は正しかった。これから見ていくように、それは非常に重要なことだからである。 私はかつて、質的であること、主観性、統合性という三つの特徴は、意識の個別の性質として説明できると考えていた。しかしいまやそう考えるのはまちがいであるよう思える。この三つはいずれも同一の意識の諸側面なのだ。意識はまさにその本性からして質的であり、主観的、統合的である。(ジョン・サール『MiND 心の哲学』pp.181-2) このサールの洞察は正鵠を得たものだと思える。意識とは一つのものとして統一され、それこそが「私」であると考えてよいだろう。そして、その「私」が人格の同一性問題における主体となるはずである。 人格の同一性問題との関連 デレク・パーフィットは論文「divided minds and the nature of persons」で、人格の同一性問題にかんして単一理論(Ego Theory)を強く否定している。単一理論は通時的に人格の数的同一性を成立させる単一の実体(デカルト的なエゴ)を想定する。この理論によれば未来の或る人物は「私」であるか「私」でないかのいずれかだということになる。これを全か無(all or nothing)の要件と呼ぶ。これは素朴心理学的な理論である。 単一理論と反対の立場が複合理論(Bundle Theory)である。これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解できると考えた。パーフィットはヒュームの考えを継承しているのである。彼らによれば「私」とは「国家」のようなものであり、エゴという単一の実体ではなく複数の意識要素の集合だということになるので、全か無の要件は否定される。 意識の統一性の観点からすると、パーフィットとヒュームの理論は誤謬であると思える。個別の感覚は単に束のように集まっているだけでなく、サールが言うように一つの意識内にあり、私秘性を持ち、一つの主観的なものとして存在しているからだ。 ただし複合理論でも意識の統一性が説明できないわけでもない。意識はその内部に多様な感覚を含む場合があるが、パーフィットは「多様な感覚を意識する」という一つのものがあれば意識の統一性は説明できると考えている。たとえば鐘が三回鳴った場合、個別の鐘の音は異なる感覚だが、「鐘が三回鳴った」という一つの記憶があれば、その一つの記憶こそが人が感じている意識の統一性の実態だということである(Reasons and Persons, pp.250-1)。 しかしその「多様な感覚を意識する」というもの、あるいは「一つの記憶」が、まさに人格の数的同一性を問われる対象となる「私」であると考えることができ、全か無の要件が成立するので、パーフィットの説明には不足があるように思える。 意識の時間的統一の問題 意識の統一性の観点からすると単一理論は妥当だと思える。ただしこの場合の単一のものは必ずしもデカルト的なエゴである必要はなく、全か無の要件を成立させる単一の意識であれば十分である。すると、そこから意識というものは単に同時的な感覚が統一されたものではなく、時間的に乖離した感覚も統一されたものであると考えたくなる。仮に時間的な統一性がないとすると、「私」は意識内容(クオリア)が少しでも変化したら消滅してしまうからだ。 ところが時間的に乖離した感覚の統合には、大きな困難が伴うことになる。時間とは意識を「断絶」するものであるからだ。 意識には持続感がある。ベルクソンはメロディーを例に挙げ意識の持続的性質を論じている。確かにメロディーの個別の音がそれぞれ独立した感覚ならば、人はそれぞれの音が繊細に融合した(たとえばショパンのエチュード 10-3のような)メロディーを感じることはできないはずであり、持続が意識の本質的性格であるとみなしたベルクソンは正しいように思える。そして意識の統一性とは同時的な感覚の統一だけでなく時間的に離れた感覚の統一のことでもあり、人が感じる持続感とは単一意識の持続に由来すると思いたくなる。 しかし時間変化とは意識を断絶するものであることは事実である。たとえば私が交差点で「青→黄→赤」という信号変化を観察した場合、赤になった時点で青は完全に消えている。赤と青には完全な断絶があるので、その断絶によって意識の時間的統一性は成立しないと考えられる。赤になった時点で青が完全に消えているということは、赤と青が同一の存在者であることはできないということである。 意識の時間的統一の問題=人格の同一性問題において、単一理論と複合理論を図にすれば以下のようになる。 上図の単一理論の方では意識が持続的なものとして繋がり、時間を通じて数的に同一であることを表している。逆に複合理論の方ではヒュームやパーフィットが考えた通り、異なるクオリアは別の存在者だとして表している。 なお「変化」と書いている部分は、実際にクオリアが変化しているということではなく、「変化を感じている」というクオリアがあることを表している。たとえば「痛みが消えた」という変化の感覚があることと、実際に痛みが消えることは全く別のことである。前者の事実から後者が事実だと推論することは動的宇宙論という一種の形而上学になる。 人は自分の意識を持続的なものとして感じているので、一見単一理論の方が正しいように思える。しかし単一理論の図でも、赤の時点になれば青は完全に存在していないので、青と赤の間には断絶があることになる。断絶があるならば意識は時間を通じて単一であると考えることはできない。青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということである。 もちろんパーフィットが否定した単一の実体であるデカルト的エゴを認めるならば、それは身体からも精神からも離存するものなので、意識の断続にかかわりなく持続していると想定することはできる。 しかし時間の形而上学で静的宇宙論が妥当だとすると、各時点のエゴは永久的に、かつ対等に存在していることになるので、やはり青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということになる。 現在の物理学では宇宙を三次元の空間に時間を加えた四次元として扱っている。四次元時空は相対論を記述するための道具としかみなさない学者もいるが、四次元時空こそが実体であるみなす学者もいる。前者の世界観は変化の実在を肯定するので動的宇宙論と呼ばれ、後者の世界観は変化の実在を否定するので静的宇宙論と呼ばれる。静的宇宙論が実体とみなす四次元時空はブロック宇宙とも呼ばれる。時間は空間と融合して空間が消えないように時間も消えず、宇宙はコンクリートブロックのような塊として永久的に存在するとみなしているのである。 時間の形而上学と人格の同一性問題の組み合わせには以下の四つが考えられる。 ①: 動的宇宙論+単一理論 ②: 動的宇宙論+複合理論 ③: 静的宇宙論+単一理論 ④: 静的宇宙論+複合理論 ここでは時間の形而上学について詳述しないが、①を前提するならデカルトが信じた通り身体からも精神からも離存するエゴの存在によって、全人生を通じて同一の「私」が持続していると素朴心理学的に考えればよいことになる(「私」の死後にもそのエゴは存在するかという問題であるが、ここでは論じない) 人格の同一性が厄介な問題となるのは、②、③、④の三つのケースである。以降ではその三つのケースを前提に人格の同一性を論じることにする。 私は自らの意識を持続的なものとして感じているので、交差点で青を見る私が、次に黄や赤を見る私と数的同一性がない、つまり別人であるというのは信じ難いことである。 ここで「青が黄になり黄が赤になる」というものが単一のクオリアなのだと考える方法があるだろう。それならば静的宇宙論を前提にしても時間を通じた意識の数的同一性を説明できるように思える。だがよく考えるとこの考えにも欠点がある。赤の時点になればやはり青は完全に存在していないので、赤と青の間に断絶を認めるしかない。赤と青は単一のクオリアとして存在することはできないのだ。 ベルクソンの持続の哲学においては、現前する意識には過去の意識が浸透しているので完全な断絶はないと考えることもできる。これは魅力的な哲学であるが、過去の意識が現在に浸透するということを人は具体的にイメージすることはできない。潜在意識や無意識というものを想定することはできるが、それらによって上図で明らかにされた青と赤との断絶を回避できるだろうか? この断絶はあまりにも明白なので難しいように思える。ベルクソンの持続の哲学は未完成である。 複合理論では図解したように、青や、青が黄になるという変化の感覚や、赤をそれぞれ独立したクオリアとして考える。この考えでは「今この私」が仮に青のクオリアだとするならば、その他のクオリアは「他人」になる。これは反直観的な結論であるが、反直観的であることは不可能であることにはならない。私が感じている意識の持続感というのも特定の時点にある一つの独立したクオリアだと説明できるだろう。したがって複合理論は可能な理論であり、意識の時間的統一の問題において致命的な欠点がないのである。 要するに意識の統一性問題において、単一理論VS複合理論という枠組みで考えるなば、意識は確かに同時的感覚を統一しており単一理論が正しいように思えるのだが、意識は時間的に離れた感覚を統一できないので、時間的統一性の問題では複合理論が正しいように思えるのだ。即ち人格の同一性問題においては、現在の「私」から時間的に離れたクオリアは「他人」だと考えるのが妥当に思えるのである。 人は僅か1秒の間にも青→黄→赤という色の変化を認識することができるだろう。異なるクオリアは異なる存在者だとすると「今この私」は僅か1秒未満の存在だということになる。 私はそのような理論がどうしても信じ難い。 人の意識が脳の活動と相関していることは明らかである。その人の意識をripples of light in brain(脳内の光の波紋)と表現した人がいる。これは神経細胞の連続的・協働的な発火活動を上手くたとえたものだが、波紋とは空間的広がりを持つだけでなく時間的広がりを持つということが重要だ。人間の意識とは四次元時空に広がる複雑な光の波紋なのである。ところが波紋とは時間的に持続する滑らかな広がりなのに、複合理論によれば人の意識は僅か1秒弱で完全な断絶が生じることになる。ここに不整合があるように思える。 ただ個別のクオリアたちには数的同一性がなく全て異なる存在者だとし、それらクオリアが持続的な脳の活動と相関して断続(コンマ数秒間隔)的に存在すると考えることに厳密な不整合があるか否かは難しい問題である。これは心脳問題の難しさそのものでもあるからだ。おそらく二元論の立場ならば不整合はないだろう。 少なくとも脳内の光の波紋は純粋に持続的なものなのに、それと相関しているクオリアたちは完全に断絶してると言うならば、二つの事柄には認識上の大きなギャップがあると言うことができる。 そのギャップは以下のような図で表現できる。 脳波(あるいは神経細胞の複雑な光の波紋)は滑らかに持続し、人が感じる意識の持続感と一致している。しかし複合理論が正しければ脳の活動と相関する意識には瞬間ごとの完全な断絶がる。仮に青が「今この私」なら別の時点に存在する黄や赤には青の要素が全くないので「他人」である。脳の持続的な活動と意識の瞬間ごとの断絶に不自然なギャップがあるのは明らかだと思える。 先に論じたように静的宇宙論+単一理論には問題がある。しかし複合理論にも問題があるのだ。確かに複合理論は論理的にも形而上学的にも物理学的にも可能であり、それらの観点からは問題がない。しかしあまりに反直観すぎて信じられないので、問題がないということが問題なのだ。 あるいはどちらの理論も間違っているのかもしれない。しかし単一理論でも複合理論でもない別の理論があり得るのだろうか? 意識の時間的統一性問題の図を見直してみよう。意識の滑らかな持続を表している単一理論の図は直観的に正しいように思われるが、実際の意識経験は図のようにはなっていない。図では過去と現在の経験を一挙に表しているが、人はあくまで現在しか経験できない。図は過去の経験を想起によって再構成し、現在経験に加えたものだ。 人の意識の正体は図のようになっていないのかもしれない。 ベルクソンが観たように意識と時間は不可分である。しかし時間の正体はわからない。私は図で意識を空間的に描いたが、静的宇宙論が妥当なら実体的な四次元時空は空間的なものではない。 人は空間と時間が融合した四次元のブロック宇宙というものをイメージすることはできないのだ。人が認識できるのは空間的な三次元の対象と、それが変化することによって認識できる時間だけである。空間と時間が融合した永久的なブロック宇宙とは人の認識の枠組を超えた存在であり、イメージ不可能である。カントが言う通り人の認識はアプリオリな形式によって制限されている。その形式は「超越論的」なものである。ブロック宇宙とは「超越的」なものかも知れないということである。 ここで重要なのは、人の意識もまたブロック宇宙に含まれていることである。時空の正体がわからないならば意識の正体もわからない。人は自分の意識の正体をイメージすることも語ることもできないということになる。 だが「意識の正体がわからない」という言葉の意味がわからない人は多いだろう。一般に人は自分の意識ほど確実に理解できるものはないと信じているからだ。 経験主義という哲学は自分が経験できないものの確実性を否定する方法である。一見合理的なこの方法が、やがて原理的に経験不可能な物質的実在を否定する観念論へと到達したのは必然的だった。しかし経験主義者たちが見落としたのは「経験」そのものの確実性だった。 人は物事を合理的に考えて判断するが、感覚は判断とともに現れてしまうので、感覚による判断は合理的判断ではない。痛みは「痛い」という判断そのものなのであり、人は感覚それ自体を合理的思考で分析することができない。感覚は合理性の外部にある。カントも感覚の形式を抽出するに留まった。 静的宇宙論が正しければ意識そのものも合理性の外部にあるということになる。 私には、「今この私」を僅か1秒未満の存在だとみなす複合理論が信じ難い。しかし単一理論は不可能に思える。この解決不可能に思えるジレンマは、意識の正体を理解していないことに由来するのかもしれない。人間知性が到達し得ない時空の正体にこそ意識の真理はあり、その真理のみがジレンマを解決できるのかもしれない。 参考文献 ジョン・サール 著 山本貴光・吉川浩満 訳(2006)『MiND 心の哲学』朝日出版社 Derek Parfit(1986), Reasons and Persons , OXFORD UNIVERSITY PRESS Derek Parfit(1987), divided minds and the nature of persons
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しゅうごうてきむいしき 公式 全ての生命の精神が繋がっている場所。心の海。 ニュクスの封印されていた場所。 そもそもは心理学用語で、スイスの精神科医にして心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学における中心的概念(独語「Kollektives Unbewusstes」。"集合的無意識"と"普遍的無意識"は、ともにこの語の日本語訳として一般的に使用される語)。 ジークムント・フロイトの精神分析の理論では説明のつかなかった深層心理の力動を説明する為、ユングは人間の無意識層の領域に個人の経験を越えた、集団・民族・人類の心に普遍的に存在する「元型」があると考え、その先天的無意識層を「集合的無意識」と命名した。 考察 「ペルソナ2」において頻繁に登場する語「普遍的無意識」と同義のもの。 同じく「ペルソナ2」において登場するフィレモン、及び這い寄る混沌ニャルラトホテプの拠所でもある。「ペルソナ2~罰」においては終盤、珠間瑠市は普遍的無意識の世界に引きずり込まれる事となる。 また、「ペルソナ3」の後日談(注 P3P公式ファンブックにおいてPTSはパラレルワールドと名言されたことを追記しておく)とされる「trinity soul」においても重要な概念である。
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意識革命を一言で表すなら「対話」という理念 その理念を持って 国民議会 意見交換会(討論会) LOKI.TV の三つを主軸に活動しています。 現在は 政治に限らず社会の、この国が忘れていた「考える」・「対話の輪」を広げる。 左右や様々な理念をお持ちの方や、様々な団体の方をお迎えして、タブーの無い議論を行い、上記の対話の輪を増やそうとしています。 最後に、「意識革命」への反対意見を含む、いかなる主義主張も問いません。 そして気持ちの大小、具体的なことを問わず この国は何かが変わるべきだ。 そう思われる方と共に、集まり、対話し、さらに行動をできる環境を共につくります。
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登録日:2011/02/02 Wed 06 37 53 更新日:2024/04/30 Tue 12 25 04NEW! 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 Fate lain わかりやすい具体例 アラヤ サーヴァント ペルソナシリーズ 女子小学生 ←中学生も 心理学 抑止力 相州戦神館學園 集合的無意識 海上に露出した氷山のような有意識。 海中に沈んでいる氷塊のような無意識。 そしてそれらを底から支える、大いなる海のような集合的無意識。 目次 そもそも無意識とは 集合的無意識 集合的無意識の例死への恐怖 幼児への愛情 類似する神話 そもそも無意識とは 読んで字の如く、「意識」が「無」の状態である。 例えば、真夏の日差しに当てられた時、暑いと思うだろう。これは、 肌が気温を感じた。 その気温は人間が過ごしやすい気温と比べると高い温度だ。 つまり、暑い。 というプロセスによって導き出されるものだが、大抵の人間であればわざわざこんなまだるっこしいことを頭で考えずとも、暑いという考えが自然と浮かぶだろう。 例えば、靴を履く時。人によって右足から履くか左足から履くか、或いはどちらでもいいけれど靴が近い方から、といった風に履く順番は異なるだろうけれど、わざわざどちらから履こうなどと考えずに履くだろう。 こういったように、意識せずに感じる気持ちや行う行動、そういったものが無意識である。 集合的無意識 では、集合的無意識とは何か。 これは心理学で有名なユングが唱えた概念の事。 かい摘まんで表現するのは難しいけどあえて要約すると 『人類や民族が先天的に持っている、共通の無意識やイメージ』 となる。 ただの無意識とどう異なるのかというと、それが集団に共通のものが見られるという点である。 上記した例の場合、靴を履く方は人によって行う行動は違うため集合的無意識には当てはまらないが、暑いと感じる方は脳機能に異常が無い限り万人が等しく暑いと感じるため、集合的無意識となる。 集合的無意識の例 死への恐怖 脳機能に異常が無い限り、人は死というものに対して恐れを感じるようにできている。 高所に立てば足がすくむし、痛みを感じれば反射的にその部位を引っ込めてしまう。 「自分は高い所が平気だ」という人も多いだろうが、そういった認識は、手摺や窓ガラス等のおかげで自分は安全であるという認識を後天的に得たからである。 幼児への愛情 生物は基本的に同族の遺伝子を後世まで残すために活動している。 そのため、その象徴である赤ちゃんに対しては何も無いフラットな状態だと愛しく感じるようにできている。 こちらも上と同様に、自分は赤ん坊が苦手だという人も多いだろうが、それは泣き声の煩さや対応の面倒さ、親を取られる危機感といったストレスが、先天的に抱いている愛情を上回った結果である。 また、それに付随して、幼児と似通った特徴を持つものに対しても好感を持つようにできている。 例として、非言語的なコミュニケーションが主となり肉体も小さい愛玩動物や、頭部の大きさに対して顔のパーツが占める比率の大きいデフォルメキャラクター等が挙げられる。 類似する神話 日本神話に、イザナギという神がいる。 彼のエピソードをざっくりと説明すると、 死んだ妻を取り戻すために死後の世界に向かい、 一時は彼女と再会することができたものの、 現世に戻るまで振り返ってはいけないという言いつけを破った結果 妻は完全に還らぬ者となってしまった というものである。 ギリシア神話に、オルフェウスという人物がいる。 彼のエピソードをざっくりと説明すると、 死んだ妻を取り戻すために死後の世界に向かい、 一時は彼女と再会することができたものの、 現世に戻るまで振り返ってはいけないという言いつけを破った結果 妻は完全に還らぬ者となってしまった というものである。 ……おや? このように、全く違う土地の神話に、極めて似通ったエピソードが存在することがある。 他にもエジプトと日本、どちらも川の向こうは死者の国というふうに死後の世界観が似通っている。 また、大気津比売神(オオゲツヒメノカミ)や保食神(うけもちのかみ)の様な食物の誕生に関する神話も世界中にみられ、インドネシア神話の女神の名をとって「ハイヌウェレ神話」と総称されている。 こうした神話・逸話は、偶然似てしまったというにはあまりにも類似点が多い。かと言って、どちらかがもう片方に伝来した結果そうなったというのも、当時の人間の活動範囲を考えると無理がある。 では何故こんなにも似ているのか。それは集合的無意識が理由である(とされている)。 死者は蘇ることは無いという理解、 愛する人を取り戻したいという気持ち、 約束を破れば報いが来るという認識、 安堵と心配で振り返ってしまうという反射等、 各々が集合的無意識によって生み出される要素が絡まり合った結果、人間はこういったエピソードを考え出すようにできている、という考えだ。 追記・修正は無意識下でお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 依頼により、コメント欄をリセット致しました。無い画像リンクもコメント化しましたが、必要であれば編集し直して下さい。 -- 名無しさん (2016-12-28 10 45 51) コメント欄よりもリセットすべきものがあるだろう。例えばこのページの本文とか -- 名無しさん (2017-01-17 03 32 15) イザナギとオルフェウスあたりまではいいとしても、その後のおっぱいのくだりは正直どうなんだ?アニヲタ的にはそれこそペルソナシリーズのとか話の方がいいんでない? -- 名無しさん (2017-01-17 22 25 03) このページまだ書き直されてなかったのか -- 名無しさん (2017-01-18 10 36 59) はっ!もしや、アトラススタッフが、キタローの初期ペルソナにオルフェウスを、そして番長の初期ペルソナにイザナギを設定したのも、もしかしたら集合的無意識の仕業!?Σ -- 名無しさん (2017-01-18 10 41 52) トリニティソウル -- 名無しさん (2017-02-22 11 47 21) 集合的無意識が出てくる創作作品を追記するのもいいんじゃないかな? ペルソナとかギアスとか。 -- 名無しさん (2018-06-19 07 37 40) 空の境界で言ってた阿頼耶識とか あと戦真館の舞台もある意味ではこれだよね -- 名無しさん (2020-03-01 21 17 46) 集合的無意識って灰かぶりとか3匹の子豚とか、国を超えて似たような童話があるとかいうアレだっけ。それは違うやつだっけ -- 名無しさん (2020-10-18 02 24 59) ゼノサーガでも作品世界の -- 名無しさん (2021-01-06 02 26 20) 途中送信失礼。根幹設定として使われてたな -- 名無しさん (2021-01-06 02 27 03) それを考えると、その集合無意識にギアスをかけられるルルーシュは本当にすごいな -- 名無しさん (2021-01-06 14 16 06) 集合無意識の世界に入り込んで巨悪と戦い、人々の心を動かした2以降のペルソナもすごいよ -- 名無しさん (2021-01-06 18 07 41) ↑確かにそうだなぁ……。 -- 名無しさん (2021-01-06 18 10 17) ちなみに初代ペルソナにも集合無意識は出てくる。ペルソナ自体が心理学用語なだけあり集合無意識も毎回のように登場している。 -- 名無しさん (2021-01-06 18 17 22) 共時性とウーヌス・ムンドゥスの話がないな。偶然の一致に因果を見出す、因果のない類似の裏にあるものとして(仮定的に)おいた概念よな。 -- 名無しさん (2021-02-05 04 47 04) 久々に見たらオナニーみたいな内容が直ってるやんけ! -- 名無しさん (2021-06-09 14 45 59) 音無彩名 -- 名無しさん (2021-06-09 17 09 59) Let's all love lain -- 名無しさん (2023-01-28 18 37 35) 神話を持たないピダハンでも精霊みたいなのはいると信じてるから不思議よな -- 名無しさん (2023-01-30 09 40 37) 違う場所でも同じような神話が生まれるのって思想の収斂進化みたいなもんなんかねぇ -- 名無しさん (2023-06-06 17 02 33) 名前 コメント
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概説 意識の統一性 中心と周辺 組み合わせ問題 きめの問題 解決へのアプローチ 概説 意識の境界問題(英:Boundary Problem of Consciousness)とは、人間の意識が宇宙の構造のあるレベル、つまり「脳」という単位において、統一的に、かつ境界をもって存在しているのはなぜなのかという問題。心の哲学において意識のハードプロブレムと関わる問題のひとつとして議論される。2004年にアメリカの哲学者グレッグ・ローゼンバーグによって提起された。 個人が体験するのはこの世界にある意識体験のごく一部である。例えば隣にいる他人が酷い虫歯の痛みに苦しめられていたとしても、自分がその痛みを感じるということはないし、また地球の裏側で誰かが幸福の絶頂を噛み締めていたとしても、自分がその喜びを感じるということはない。つまり意識体験は境界を持って個別化されている。 意識は「脳」という宇宙全体の階層構造からすると中途半端な位置のレベルに(対応して)起きている。宇宙は素粒子のレベルから、原子、分子、高分子というレベルを経て、細胞、組織、個体、生態系、そして惑星、恒星系、銀河、銀河団、宇宙というレベルまで、様々なレベルで構成される階層性を持っている。その中で人間の意識体験は、個別の人間の脳と神経細胞というレベルで統一され、他のものと境界があるよう思われる。そしてこれより細かいスケールの物理状態が、意識体験に直接関わってこないように見える現象はグレイン問題と呼ばれる。 また個別化された各意識体験の間の「境界(Boundary)」というのは一体どのようにして決められているのか、という問題もある。 意識の統一性 意識の統一性(英:Unity of Consciousness)とは、意識体験がバラバラの部分の集まりとしてではなく、統一されたひとつの全体として体験されること。例えばある画像を見た時、画像は全体的に統合されて体験される。形と独立に色を体験することはできないし、また視野の右半分を左半分と別に独立して経験することも出来ない。こうした意識の不可分性が統一性という言葉で意味されている。 中心と周辺 私たちは注意していないことや、注意の焦点からずれている沢山のことを意識している。椅子に座って本を読んでいるとき、椅子に座っている感触や腹のベルトがちょっと窮屈だというようなことには注意は払われていないものの、それらの感覚は「気づき(アウェアネス)」の状態にある。 たとえば、沢山の人ごみの中で会話している時、私たちは話相手以外にはあまり注意は払わないものだが、もし話し相手の背景からある人が突然自分たちの方向にダッシュしてきたら、すぐ危険を察知するだろう。〈中心 - 周辺〉という問題は〈意識的 - 無意識的〉という問題と区別される必要があるのだ。 組み合わせ問題 意識の境界問題とほぼ同種の問いを、カナダの哲学者ウィリアム・シーガーは1995年に組み合わせ問題として定式化している。シーガーは汎経験説を前提した際のひとつの問題として、宇宙の基本的な構成要素の全てが現象的な特性(原意識)を持つような場合に、そういった原意識からいったいどのようにして、統合された意識が生まれてくるのかという問題を提起した。「きめの問題」も類似の問題である。 きめの問題 きめの問題(英 grain problem)は、脳の物理的状態が非常にきめ細かい構造を持っているのに、なぜ人間の意識体験は統一的であるのか、という問題。意識の均質性(英 Homogeneity of Consciousness)の問題とも言われる。「意識の境界問題」と類似の問題である。 ウィルフリッド・セラーズは1965年、当時大きい影響力を持っていた心脳同一説の中心的なテーゼである「心的状態と脳の物理状態との間の同一性」に対する反論の一環として、この「きめの問題」を提出した。 人間の脳の物理的状態は非常に微細で複雑な構造を持っている。感覚器官が外界の情報を受け取った場合は、脳内で何十億、何百億という数の神経細胞が活動する。またそれぞれの神経細胞もまた高度に複雑な内的構造を持ち、更に神経伝達物質、それらを構成する原子も微細で複雑な内的構造を持つ。しかし私たちの意識体験において、こうした複雑な構造が認められることはない。意識は統一されたものとして体験されるのだ。 このことから問題になるのは、「多数」の物理的なものに「唯一」の心的なものが対応しているということであり、意識の成立について堆積のパラドックスが生じるということである。多重実現可能性はそのパラドックスを含意したものである。 解決へのアプローチ 意識の境界問題、およびそれに類した問題に対する解答は、現象的意識・クオリアに対して取る哲学的立場により異なったものとなってくる。 物理主義の立場では、現象的意識とアウェアネスを存在論的に区別しないので、私たちがアクセス可能な情報だけが「意識」と呼ばれているものだと考え、意識の統一性問題は存在しないとされる。 性質二元論または中立一元論と呼ばれるような立場では、現象的意識とアウェアネスを存在論的に区別するので、境界問題に対して物理主義とは異なる説明を与える必要が出てくる。(性質二元論からの解答の候補はwikipediaを参照のこと) 参考文献 ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 筑摩書房 2008年 参考サイト 意識の境界問題 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C きめの問題 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%81%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C
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ときどき鈴木にチャネリングで話しかけてくる宇宙意識。なにかと便利。 「…鈴木よ…鈴木…聞こえますか…この台はあと千円で確変がきますよ…」 「…鈴木…いけません…その女は性病を持ってますよ…」 【温泉で錆ついたロボット】 http //monde21.com/post/365014322
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Q&A Qどんな団体? A議論の活性化を目指しています 「意識革命」は団体ではなく理念です。 あらゆる思想、あらゆる主義を、あらゆる団体を問わない 多くが集まることによって ここを見ればいろんな団体・個人の主義主張がわかる政治の「入口」を作ることです。 Q普段何してるの? A投票率UPのための活動や、マスコミの世論調査は正しいか調査 他には思想や団体の宣伝や協力 個人同士の討論会や団体と団体の討論会等をしています。 詳しくはこちらで Q変わるべきとは思うけど簡単に参加できる? Aぶっちゃけいつもお祭りしてます! 「意識革命」には多くの団体多くの主義主張を持っている方が集まっています。 それに参加して頂いても それを見て何かを感じて戴くだけでも助かります。 Q現在どのくらいの人数が参加してる? A運営メンバーで6名 オブザーバーで4名 その他多数! おかげさまで加盟団体が増えているので詳しい数はわかりませんが 各団体や各協賛・参加者の方々を入れると100人は越しています。 Q参加したいのだけど何したらいいの? Aあなたができること、話したいこと、したいことなどを件名に入れてメール下さい 以下テンプレート 宛先 件名 本文(何をしたいか) loki.re1.11.5@gmail.com あなたの名前 議論に参加したい 上に同じ 上に同じ 質問したいんだけど? 意見交換会に参加して頂く 団体の方なら国民議会に加盟されて参加して頂く こうしたらどうか?こんなのどうか?といったアイデアも募集しています。 Q参加はどこに連絡すれば? Aloki.re1.11.5@gmail.comまで! あなたが参加したと思った時が参加です。 そして「意識革命」を共に作る協力して下さる方は wikiの加盟・協賛団体に記載して頂くか 下記までご連絡下さい。 E-mail loki.re1.11.5@gmail.com Skype skype
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罪の意識 聖華暦832年 10月 ダンゲルマイヤー領バウルスハイム 僕、リコス・ユミアは13歳になった。 あれからもう一年になる。 僕の住む街バウルスハイムは、アルカディア帝国の大貴族であるダンゲルマイヤー侯爵家の領地にある工業都市だ。 この街では『機装兵』、その部品を作る企業が沢山あり、僕の父さんもこの街で機装兵の部品を取り扱う問屋を営んでいる。 『機装兵』は全高8m前後の人型兵器。 アルカディア帝国はもちろん、東方のカーライル王朝・聖王国や南方の自由都市同盟、北方のカナド地方、人の住んでいるところなら、どこにでも有る。 機装兵は魔獣から街を守ったり、隣国との戦争に使われたりする。 平和の為には無くてはならない、なんて軍人さんや機装兵に関わってる人は言っているけど、人殺しにも使われる武器には違いない。 だから、僕は機装兵があまり好きじゃない。 嫌いでは無い。全部が全部、人殺しに使われている訳ではないから。 軍学校では機装兵の簡易版である従機を操る授業もあるから、嫌いだとか言ってられないのもある。 僕は軍学校中等部に通っている。 ここにはあの時の事ーー僕が人を殺したーーを知っている人はいない。 友達はいる。だけど、必要以上に群れたりしていない。 そのせいか、とっつき難い、近寄り難い、どこか冷めてる、なんて陰口を叩かれる事もある。 何にしても、付き合いが悪いのは事実。 学校の成績は、まぁ自分で言うのもなんだけど、上位の30番内にはいる。 両親には心配を掛けたくないから、勉強は頑張った。 でも勉強が出来て人付き合いが悪いと、自然と人が寄り付かなくなるものらしい。 クラスでは浮いた存在になりつつあった。 それに『魔眼持ち』というのも関係している。 『魔眼病』は病気、感染るかも知れない、という認識は誰しもが持っている。 可能性は極めて低いのだけれど、決して『0』では無い、そう思っている。 だから、みんなも必要以上に僕に接して来たりはしない。 不当な扱いや差別をされないだけマシではあるが、今の僕にはこの状況の方が助かっている。 誰かに胸の内を打ち明ける事が出来れば、それはどんなに救われるだろう。 でもそれは出来ない。出来るはずが無い。 僕が人を殺した事を皆が知ったら、皆は僕の事をあからさまに避けるだろう。 不当な扱いや差別を受けたりするだろう。 自業自得なのだから、僕が受けるのは当然の事だ。 だけど、それは僕の両親にも降り掛かってしまう。 僕の所為で両親が不当な扱いや差別を受ける事には耐えられない。 だから、僕はこの事を胸に仕舞って皆と距離を取っている。 僕は卑怯者だ。 罪を贖う方法を探しているのに、それは嫌だと逃げている。 誰にも迷惑を掛けずに贖罪する方法……そんな都合の良いものなんて無いというのに……。 そんな事をつらつらと考えている自分に、また嫌気がさしてしまう。 「………、……スさん、リコスさん!」 自分の名前が呼ばれているのに今気が付いて、慌てて声の主を見た。 教壇で先生がやや苛立った表情で僕を睨め付けていた。 「リコスさん、先生の授業がつまらないのは判りますが、授業とは関係無い事を思索するのは感心しませんねぇ。」 ネチッとした嫌味な言い方ではあるが、授業中に上の空になっていた自分に非があるのだから、これは仕方がない。 「申し訳ありません、クロビス先生。以後、気を付けます。」 男性にしては細面な先生は小さく頷くと、教科書に目を落として朗読の続きを始めた。 歴史の授業は嫌いだ。 私達『新人類』と邪悪な創造主『旧人類』との種の存続を掛けた戦い、アルカディア帝国の建国と新人類同士の今に至るまでの確執。 歴史はどこまで行っても血に濡れている。 歴史は人殺しの記録、そんな風に思ってしまう。 人殺しは罪で、罪は贖わなければいけない。 歴史上の偉人や英雄と呼ばれる人達は、どのように罪を贖ったのだろう。 一番知りたいのはその方法なのに、授業ではその事をちっとも教えてくれない。 歴史の授業で戦いの記録を見せられる度、いつもその事を考えてしまう。 僕は卑怯者だ。 贖罪の方法を探しているのに、誰も教えてくれないと言い訳にしている。 そんなの自分で見つけるしか無いって、僕自身判っている事なのに……。 こんな事で贖罪なんて出来るのだろうか……。 それとも僕は、早く罪の意識を払拭してしまいたいだけなのだろうか……。 そんな事をつらつらと考えている自分に、また嫌気がさしてしまった。
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※回答者がプレーしているボンバーマンシリーズは、基本的にスマホアプリ「対戦!ボンバーマン」もしくは、Switch/PS4/Steam/XboxONE版「スーパーボンバーマンR」です。 回答日:2018/ 回答者: ①火力把握はできるか? ②プレー時に相手と自分のキャラを見る比重 ③自分と相手の位置関係をどれくらい意識しますか? ④(タイマン)盤面全体を意識するか、それとも画面を分割・区切って見ているか ⑤自分が特殊アイテム不所持の時、受け身になるか、それともあえて攻めるか ⑥一番やりにくい相手のプレースタイルは?(攻め、受け、バランス、チキン) ⑦操作ミスをする際、どんな時にどんな風にやらかすか ⑧自分が意識外(うっかり)になりやすい相手の攻めのパターンは? ⑨相手に合わせてプレースタイルやプレーの内容を変えるか、それとも自分を基本軸に、自分の形での戦い方に最善を求めるか ⑩ここにこうくるからこうすると予測するタイプ、または割り切って相手のプレーに合わせて後手に回るタイプ、その他
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https //ja.wikipedia.org/wiki/無意識の色 https //48pedia.org/無意識の色