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呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。禁中の御溝《みかわ》のそばに植えられているのが河竹で、仁寿殿《じじゆうでん》のほうへ近くお植えになったのが呉竹である。
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ひとり燈下に書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのがこの上もない楽しいことではある。書ならば文選《もんぜん》などの心に訴えるところの多い巻々、白氏文集、老子の言説、荘子の南|華《か》真経だとか、わが国の学者たちの著書も、古い時代のものには心にふれることどもが多い。
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どこにもせよ、しばらく旅行に出るということは目の覚めるような心持のするものである。その地方をあちらこちらと見物してまわり、田舎臭いところ、山里などは、はなはだ珍らしいことが多い。都の留守宅へ伝手《つて》を求めて手紙を送るにしても、あれとこれとをいいついでを心がけておけなどと言ってやるのも楽しい。こんな場合などにあって何かとよく気のつくものである。手廻りの晶なども良い品は一そう良く感ぜられ、働きのある人物はふだんよりは一そう引き立って見える。寺や社などに知らぬ顔をしてお籠《こも》りをしているなどもおもしろいものである。
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真乗院に盛親《じようしん》僧都という尊貴な智者があった。里芋というものが好物でたくさん食べた。談義の席上でも大きな鉢へ高く盛り上げたのを膝もとへ置いて食べながら書物を講義した。病気になると一週聞も二週間も養生だとひき籠っていて、思う存分に、上等の里芋を特別にたくさん食べて何病でも癒してしまった。人に食べさせることは無い、ただ自分ひとりだけが食べたものである。非常に貧乏していたのに、師匠が死ぬ時に、銭を二百貫と僧房一棟とをこの僧都に譲った。僧都はこの坊を百貫に売り払って、合計三万|疋《びき》の銭を里芋の代と定めて京都の人に預けておいて、銭十貫ずつをとりよせて里芋を存分に食べていたものだから、べつの用途にあてるまでもなく、その銭はつかい果してしまった。三百貫の銭を貧乏な身分で手に入れながら、こんなふうに銭を処置したのは、まことにめずらしい道心の人であると人が評していた。 この僧都がある法師を見て「しろうるり」という名をつけた。「しろうるりとは何か」と人が問うたところが、そんなものは吾輩も知らない。もしあったら、「あの坊主の顔見たいなものでしょうよ」と言った。 この僧都は容貌が立派、力強く、大食で、筆蹟も学力も弁論も人にすぐれて一宗の権威であったから寺中でも尊重されていたが、世俗を軽視した男で万事わがまま勝手で大ていのことは人に見習うということもしなかった。出張して御馳走になる時などもみなの前へお膳の並びそろうのも待たずに、自分の前におかれるとすぐにひとりで食べてしまって帰りたくなるとひとり突っ立って出て行ってしまう。昼食も夕飯も人並みに定めて食べることはしないで、自分の食べたい時に、夜中でも暁方でも食べ、眠むければ昼間でも部屋へ駆け込んで籠り、どんな大事があっても人の言葉を受けつけない。目が醒めるとなると幾晩も寝につかないで、心を澄ませて興に乗じて歩くなど、世間並みをはずれた状態であったが、人にも嫌われないで、何をしても人人が大目に見ていた。これは徳が最高の境地へ達していたためでもあったか知ら。
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何某とやらいった世捨人がこの世の足手まといも持たない自分にとっては、ただ空の見納めがこころ残りであると言ったのは、なるほどそう感じられたであろう。
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神楽《かぐら》というものは活気もあり、趣味の多いものである。 一般の音楽では、笛、ひちりきが好い。常に聞きたいと思うものは琵琶と和琴《わごん》とである。
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ある人が大臣任命式の内弁(式場内準備委員ともいうべき役柄)を勤められたが、内記(詔勅宣命類の起草官)の持っていた辞令を持たずに、式場に入ってしまった。この上なしの失態であるが出直して持って来るというわけにも行かぬ。当惑し切っていると、持っていた六位内記中原康綱が衣かつぎの女官と相談をしてこっそりと内弁に渡させた実に立派な仕打ちであった。
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女の話しかけた言葉にすぐさまいい工合な返事というものは滅多にないものである。というので亀山院のおん時に、洒落な女房どもが若い男が来るたびに、「ほととぎすをお聞きなされましたか」と問い試してみたところ、某の大納言とかは「わたくし風情《ふぜい》は聞くこともかないません」と返事をされた。堀川内大臣は「岩倉(額)で聞いたことがあるようです」と言われたのを、「これは無難である。わたくし風情はと来ては困ったものだ」などと批評していた。いったい、男というものは、女に笑われないように育て上げるべきものであるということである。「浄土院前関白殿は御幼少から安喜院様がよくお教えなされたのでお言葉づかいなどもいい」とある人が申された。山階《やましなの》左大臣殿は「下賤な女に見られても大変に羞《はずか》しくて気がおける」とおっしゃった。女のない世界であったら衣紋《えもん》も冠も、どうなっていようが引きつくろう人も多分あるまい。このように男に気兼ねをさせる女というものが、どれほどえらいものかと思うと、女の根性はみな曲っていて、自我が強く、貪慾がひどく、物の道理は知らず、迷信におちいりやすく、浮気っぼく、おしゃべりもお得意だのに、なんでもないことを問えば答えない。注意深いのかと思っていると問わず語りには外聞の悪いことまでしゃべり出す。上べを上手につくろって人を欺くことは男の智恵にも勝っていると思うと、あさはかで後になって尻尾の出ることに気がつかない。不正直で愚劣なのが女である。そんなものの気に入ってよく思われるのはいやな話であろう。 それ故、なんだって女などに気兼ねするものか。もし賢女があったとすれば、人情に疎い、没趣味なものであろう。ただ、男が自分の迷いに仕えそれに身をまかせている時だけは、女はやさしいものとも、おもしろいものとも感じるわけのものなのである。
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和歌となると一だんと興味の深いものである、下賎な樵夫《きこり》の仕事も、歌に詠《よ》んでみると趣味があるし、恐ろしい猪なども、臥猪《ふすい》の床などと言うと優美に感じられる。近ごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に魅惑を感じさせるのはない。貫之《つらゆき》が「糸による物ならなくに」と詠んだ歌は、古今集の中でも歌屑だとか言い伝えられているが、現代の人によめる作風とは思えない。その時の歌には風情《ふぜい》も旬法もこんな種類のものが多い。この歌にかぎって、こう貶《おと》しめられているのも合点がゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峯にさびしき」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほど幾分雑なところがあるかも知れない。けれどもこの歌だって合評の時にはよろしいという評決があって、後で後鳥羽院からもわざわざ感心したとの仰せがあったと家長の日記に書いてある。 歌の道だけは昔と変ってはいないなどというが、果たしてどうか。今も歌によみ合っている同じ詞《ことば》なり、名勝地でも、古人のよんだのは全然同じものではない。わかりやすく、すらすらと、姿も上品で、実感も多い。梁塵秘抄《りようじんひしよう》の謡《うた》い物の歌詞は、また格別に実感に富んでいるように思う。むかしの人は、出まかせのような言葉のはしまでもどうしてこうも、みな立派に聞えるものであろうか。 (一) 糸によるものならなくに別れ路は心細くも思ほゆるかな。 (二) 前述の上の糸によるものならなくにを源氏物語には「ものとは無しに」と変えて引用していることを指す。 (三) 冬の来て山もあらはに木の葉ふり残る松さへ峯にさびしき。
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元応(後醍醐天皇御即位の時)の清暑堂の御遊に、名器の玄上《げんじよう》が失われていた時分、菊亭右大臣が牧馬《ぼくば》を弾じたが、座についてまず柱《じゆう》を触ってみると、一つ落ちた。けれども大臣は懐中に続飯《そくい》を持って来ていたのでつけたから、神饌の来る頃にはよく乾いて、なんの不都合もなしによく弾くことができた。 どういう訳であったか、見物人のなかの衣被《ぎぬかつぎ》の者が近づいてその柱をもぎ放して、もとのように見せかけておいてあったのだという。