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木のぼりの名人と定評のあった男が人の指図をして高い木にのぼらせて、梢を切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりる時、軒端ぐらいの高さになってから「怪我をするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が怖ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。鞠《まり》もむつかしいところを蹴ってしまって後、容易だと思うときっとし損じると申すことである。
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山寺に引き籠っていて仏に仕えているのこそ、退屈もせず、心の濁りも洗い清められる気のするものである。
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応長の頃、伊勢の国から女が鬼になったのを引き連れて都へ来たということがあって、当時二十日ばかりというものは毎日、京白川辺の人が、鬼見物だというのであちらこちらとあてもなく出歩いていた。昨日は西園寺に参ったそうであるし今日は院の御門へ参るであろう。今しがたはどこそこにいたなどと話し合っていた。確実に見たという人もいなかったが、根も葉もない嘘だという人もない。貴賤みな鬼のことばかり噂して暮した。その時分、自分が東山から安居院《あぐいん》のほうへ行ったところ、四条から上のほうの入はみな北をさして走って行く。一条室町に鬼がいると騒ぎ立てていた。今出川附近から見渡すと、院のおん棧敷の附近はとうてい通れそうもない群集であった。まったく根拠のないことでも無いようだと思って、人を見させにやったが、誰も逢って来たという者もない様子であった。夜になるまで、こんなふうに騒ぎ、果ては喧嘩がおっぱじまって、怪我人などいやなことが起ったものであった。その頃一帯に、二三日ずつ人の病気することがあったのを、鬼の取沙汰はこの疫病の流行の前兆であったのだという人もあった。
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大納言法印の石使っていた乙鶴丸《おとつるまる》という童がやすら殿という者と知り合いになって常によく訪ねていたが、ある時やすら殿の家から乙鶴丸が出て帰るところを法印が見つけて「どこへ行って来たか」とたずねると「やすら殿のところへ行っていました」という。法印に「そのやすら殿というは、男か法師か」と重ねて問われて、乙鶴丸は袖かき合せて、てれながら「さあ法師ですか知ら、頭は見ませんでした」と返事をした。どうして頭だけ見えなかったものやら。
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双六《すごろく》の上手と言われた人に.その方法を訪うたことがあったが、「勝とうとおもってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手を避けて、一目だけでも遅く負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を安泰ならしめる道とてもまたこの通りである。
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荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間を憚る節《ふし》があって、退屈そうに引き籠っている頃、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬が大げさに吠えついたので、下女が出て、どちら様からと聞いたのに案内をさせておはいりなされた。心ぼそげな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う入があったので、明け立ても窮屈に不財由な戸を明けておはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくも燈は遠くうすぐらいほどではあるが物の色合などもよく見え、にわか仕込みでないにおいが大へんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、御車は門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫に落ちついて寝られるでしょう」と内所で小声に囁き合っているのも手狭な家だからかすかに聞かれる。 さて一別以来のことなどをこまごまと話して聞かせるうちに一番鶏が鳴いた。過《こ》し方行く末のことなどをしんみりと話し合っていると今度は鶏も元気な声で鳴き立てるから、もう夜が明けたのだろうかと思ったが、夜明け前から帰らなければならない場所がらでもないからすこしぐずぐずしているうちに戸の隙間が白くなって来て夜が明け放れたから、この夜の忘れがたいことなどを言い後朝《きぬぎぬ》を惜しんで出て来た。梢も庭もものめずらしく青く見渡される四月(初夏)のころの曙がはなやかに情趣があったのをよく思い出すので、そのあたりを通るごとに今も桂の木の大きなのが隠れるまであとをふりかえって見送られるということである。
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尹大納言光忠入道が憂の上卿(幹事に相当)をつとめられたので、洞院右大臣殿に式の次第を教えて下さいと申し入れたところ、「あの又五郎という者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の衛士《えじ》でよく朝廷の儀式に馴れた者であった。近衛殿が着席せられた時|膝着《ひざつき》(敷物)を忘れて外記(太政官記録係)を召されたのを、火を焚いていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声で呟いていたのはまことに面白かった。
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因幡《いなば》の国に何の入道《にゆうどう》とかいう者の娘が美貌だというので、多くの人が結婚を申しこんだが、この娘はただ栗ばかり食べて、米の類はいっこう食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないといって、親が許可しなかった。
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寸陰を惜しむ人は無い。これは悟り切っての上でのことか。馬鹿で気がつかないのであろうか。馬鹿で懈怠《けたい》の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それ故金を志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから命を終る時期が迅速に来る。それ故道を志す道人は漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一誰かが来て我らの命が明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などの止むを得ないことのために多くの時間を消失している。その余の時間とては、いくらもないのに、無益なことを為し、無益なことを言い.無益なことを考えて、時を推移せしめるばかりでなく、一日を消費し、一月にわたり、ついに一生を送る。しごく愚なことである。 謝霊運は法華経の訳者ではあったけれども、心は日常、自然の吟咏に没頭していたから、恵遠《えおん》の浄業修行の仲間・入りは許可しなかった。心に光陰を惜しんで修行する念がなかったならば、その人は死人にひとしい。光陰を惜しむのはなんのためかというに、自分の内心に無益の思慮をなくし、.その身がつまらぬ世上の俗事に関与せぬようにし、それで満足する人は満足するのがいいし、修業をしようとする人はますます労力して修業せよというのである。
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同じ心を持った人としんみり話をして、おもしろいことや、世のなかの無常なことなどを隔てなく語り慰め合ってこそうれしいわけであるが同じ心の人などがあるはずもないから、すこしも意見の相違がないように対話をしていたならば、ひとりでいるような退屈な心持があるであろう。無いから、すこしも相手と違わないようにと対座しているとしたら、ひとりぽっちでいるような退屈な気持がするであろう。 双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ甲斐もあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対をしたり、こういうわけだからこうだなどと述べ合ったりしたなら、退屈も紛《まぎ》れそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とはつまらぬ雑談でもしているあいだはともかく、本気に心の友としてみると大へん考え方がくいちがっているところが出て来るのは、なさけないことである。