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ひとりごと ふと、思い出した。 今は東京に転勤だけど、当初は出張扱いでレオパレスでした。 会社がいくつか候補をあげてくれて、その中から住む部屋を決める。 土地勘がまったく無かった俺は、何故か川越のレオパレスを選択。 選択理由は・・・。 {駅から徒歩2分♪ }; 池袋までの電車の乗車時間を Yahoo で調べる。 確か、30分〜40分くらいだったかな? でもね。これ、急行の電車に乗った場合。 通勤時間帯に急行は走っていません。。。 で、通勤時間帯は各駅停車の電車で池袋まで1時間くらい。 そのとき、作業場所は田町。 {毎日、片道1時間40分の通勤。。。 }; 辛かった。。。 ただ、川越では駐車場の月極料金が安かった♪ で、車を持ってきていました。 ある日曜日の夜に、ふとドライブに行きたくなり出発したのですが、とんでもないハプニングが。。。
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信越本線~上越線~高崎線~東北貨物線~山手貨物線 配9772レ 運転日 編成 時刻 備考 2010/02/01(月) EF64 1031+E231系東京車B27編成(サハE231-651・サハE231-4651・サハE231-652・サハE231-4652組込み) 新津1052→東三条1113→長岡1130→南長岡1131→越後川口1148→小出1155→五日町1204→六日町1210→石打1219→越後湯沢1226→越後中里1232→土合1249→水上1300-09→沼田1325→渋川1343→新前橋1354→高崎1402-08→熊谷1444→大宮(7)1522-38→大宮操(上2)1542-1605→赤羽1619→池袋1628→新宿1633→大崎1644 2010/07/06(月) EF64 1032+E231系×10(E231-4600+E231-600組込み) 新津1052→東三条1113→長岡1130→南長岡1131→越後川口1148→小出1155→五日町1204→六日町1210→石打1219→越後湯沢1226→越後中里1232→土合1249→水上1300-09→沼田1325→渋川1343→新前橋1354→高崎1403-27→熊谷1504→大宮(7)1540-1602→大宮操(上2)1608-1621→赤羽1635→池袋1645-47→新宿1653→大崎1704 2011/06/28(火) EF64 1031+E231系×10(E231-4600+E231-600組込み,トウ505・506編成用) 2011/07/16(土) EF64 1031+E231系×10(E231-4600+E231-600組込み,トウ503・504編成用) 2011/08/16(火) EF81 141+E231系×10(E231-4600+E231-600組込み,トウ501・502編成用) 2011/09/04(日) EF81 134+E233系田町車NT51編成+E233系田町車NT1編成 新津(6)1052→品川 上越線大雨のため大幅遅延 2011/09/11(日) EF64 1031+E233系田町車NT52編成+E233系田町車NT2編成 新津(6)1052→羽生田1104→東三条1114→長岡1133→南長岡1135→越後川口1152→小出1200→五日町1210→六日町1215→石打1225→越後湯沢1232→越後中里1239→土合1257→水上1308-24→沼田1340→新前橋1410→高崎1418-22→高崎操1426→本庄1441→籠原1455-56→熊谷1503→鴻巣1520→宮原1537-37→大宮1604-06→大宮操1611-21→赤羽1636→池袋1649→新宿(1)1654→大崎1705-09→品川1716 2011/09/29(木) EF64 1031+E233系田町車NT53編成+E233系田町車NT3編成 2011/10/19(水) EF64 1031+E233系田町車NT54編成+E233系田町車NT4編成 2011/11/07(月) EF64 1031+E233系田町車NT55編成+E233系田町車NT5編成 新津(6)1052→東三条1114→長岡1133→南長岡1135→越後川口1152→小出1200→五日町1210→六日町1215→石打1225→越後湯沢1232→越後中里1239→土合1257→水上1308-16→沼田1332→渋川1350→高崎1410-22→高崎操1426→本庄1441→熊谷1503→吹上1512→宮原1537→57→大宮1604-06→大宮操1611-21→赤羽1636→池袋1647→新宿1653→品川1717 2011/11/28(月) EF64 1030+E233系田町車NT56編成+E233系田町車NT6編成 2011/12/13(火) EF64 1031+E233系田町車NT57編成+E233系田町車NT7編成 2011/12/19(月) EF81 134+E233系田町車NT58編成 2012/01/05(木) EF64 1031+E233系田町車NT8編成 2012/01/12(木) EF81 134+E233系田町車NT59編成 2012/01/24(火) EF64 1032+E233系田町車NT9編成 2012/01/30(月) EF81 134+E233系田町車NT60編成 2012/02/15(水) EF64 1030+E233系田町車NT10編成 2012/02/24(金) EF81 134+E233系田町車NT61編成 2012/02/29(水) EF64 1032+E233系田町車NT11編成 2012/03/06(火) EF64 1032+E233系田町車NT62編成 2012/03/21(水) EF64 1030+E233系田町車NT12編成 新津1052→東三条1113→長岡1131→南長岡1133→越後川口1150→小出1157→五日町1207→六日町1212→石打1222→越後湯沢1230-41→越後中里1249→土合1307→水上1318-28→沼田1343→渋川1400→新前橋1411→高崎1418-22→高崎操1426→神保原1437-56→熊谷1518→吹上1526→宮原1551-59→大宮1604-06→大宮操1611-21→赤羽1636→池袋1647→新宿1653→品川1713 2012/04/03(火) EF64 1032+E233系田町車NT63編成+E233系田町車NT13編成 新津1052→東三条1113→長岡1131→南長岡1133→越後川口1150→小出1157→五日町1207→六日町1212→石打1222→越後湯沢1230-41→越後中里1249→土合1307→水上1318-26→沼田1341→渋川1400→新前橋1411→高崎1418-33→高崎操1436→神保原1449→熊谷1517→吹上1524→宮原1551-57→大宮1604-06→大宮操1611-21→赤羽1636→池袋1647→新宿1653→品川1713 2012/04/25(水) EF64 1030+E233系田町車NT64編成+E233系田町車NT14編成 信越本線~上越線~高崎線~東北貨物線~武蔵野線~中央本線 配9772レ 運転日 編成 時刻 2009/03/19(水) EF64 1031+E233系豊田車青661編成(事故車復旧扱い) 新津1052→豊田1619 信越本線~上越線~高崎線~東北貨物線 配9772レ 運転日 編成 時刻 新津1052→高崎1402-08→熊谷1444→大宮1522-37→大宮操1542-51→赤羽1604→田端操1613~配9773レ 2009/09/03(木) EF64 1030+E233系ウラ167編成 新津1052→高崎1402-08→熊谷1444→大宮(7)1522-38→大宮操(上2)1542-1605→川口1615→赤羽1619→田端操(2)1627~配9773レ 信越本線~上越線~高崎線~東北貨物線~武蔵野線~京葉線 配9772レ 運転日 編成 時刻 2010/03/10(水) EF81 134+E233系京葉車501編成 新津1052→東三条1113→長岡1130→南長岡1131→越後川口1148→小出1155→五日町1204→六日町1210→石打1219→越後湯沢1226→越後中里1232→土合1249→水上1300-08→沼田1324→渋川1342→新前橋1353→高崎1402-08→高崎操1412→本庄1426→熊谷1444→鴻巣1500→宮原1516→大宮1522-38→大宮操1543→東浦和1601→南流山1623→西船橋1643-46→新習志野1653 2010/03/24(水) EF64 1032+E233系京葉車502編成 2010/04/07(水) EF64 1032+E233系京葉車503編成 2010/04/27(火) EF64 1032+E233系京葉車504編成 2010/05/25(火) EF81 140+E233系京葉車505編成 2010/06/04(金) EF64 1032+E233系京葉車506編成 2010/07/09(金) EF81 140+E233系京葉車507編成 2010/08/17(火) EF64 1030+E233系京葉車508編成 2010/08/31(火) EF64 1030+E233系京葉車509編成 2010/09/22(水) EF81 134+E233系京葉車510編成 2010/10/19(火) EF64 1032+E233系京葉車511編成 2010/11/25(木) EF64 1030+E233系京葉車512編成 2010/12/14(火) EF64 1031+E233系京葉車F51編成+E233系京葉車551編成 新津1052→東三条1114→長岡1133-37→南長岡1139→越後川口1156→小出1203→五日町1212→六日町1218→石打1227→越後湯沢1234→越後中里1240→土合1257→水上1307-09→沼田1324→渋川1341→新前橋1352→高崎1400-11→高崎操1415→本庄1427→熊谷1444→桶川1507→宮原1516→大宮1522-38→大宮操1543→東浦和1601→南流山1623→市川大野(中)1636-45→西船橋1654-58→新習志野1707 2011/01/12(水) EF64 1032+E233系京葉車513編成 2011/02/08(火) EF81 134+E233系京葉車F52編成+E233系京葉車552編成 2011/02/24(木) EF64 1032+E233系京葉車514編成 2011/03/10(木) EF81 134+E233系京葉車515編成 2011/03/29(火) EF81 140+E233系京葉車516編成 2011/04/11(月) EF64 1030+E233系京葉車517編成 2011/05/10(火) EF81 140+E233系京葉車F53編成+E233系京葉車553編成 2011/05/26(木) EF64 1032+E233系京葉車518編成 2011/06/21(火) EF64 1030+E233系京葉車F54編成+554編成 2011/07/04(月) EF64 1032+E233系京葉車519編成 2011/07/19(火) EF81 134+E233系京葉車520編成 信越本線~上越線~高崎線~東北本線 配9772レ 運転日 編成 時刻 2010/06/28(月) EF64 1031+E531系勝田車K467編成 新津1052→尾久1545 信越本線~上越線 配9772レ 運転日 編成 時刻 備考 2012/05/07(月) EF64 1032+E233系高崎車D01編成 新津1052→東三条1113→長岡1131→南長岡1133→越後川口1150→小出1157→五日町1207→六日町1213→石打1222→越後湯沢1230-42→越後中里1249→土合1307→水上1318-26→沼田1341→渋川1400→新前橋1411 2012/05/17(木) EF64 1031+E233系高崎車L01編成 2012/05/23(水) EF64 1030+E233系高崎車D02編成 2012/06/04(月) EF64 1031+E233系高崎車L02編成 2012/06/11(月) EF64 1031+E233系高崎車D03編成 2012/06/21(木) EF64 1031+E233系高崎車L03編成 2012/06/27(火) EF64 1031+E233系高崎車D04編成 2012/07/10(火) EF64 1032+E233系高崎車L04編成 2012/07/17(火) EF64 1030+E233系高崎車D05編成 2012/07/31(火) EF81 140+E233系高崎車L05編成 2012/08/07(火) EF64 1031+E233系高崎車D06編成 2012/08/21(火) EF64 1030+E233系高崎車L06編成 2012/08/28(火) EF81 134+E233系高崎車D07編成 2012/09/10(月) EF64 1031+E233系高崎車L07編成 2012/09/18(火) EF64 1030+E233系高崎車D08編成 2012/09/26(水) EF64 1031+E233系高崎車L08編成 2012/10/02(火) EF64 1032+E233系高崎車D09編成 2012/10/16(火) EF64 1030+E233系高崎車L09編成 2012/10/23(火) EF64 1030+E233系高崎車D10編成 2012/11/05(月) EF64 1030+E233系高崎車L10編成 2012/11/12(月) EF64 1030+E233系高崎車D11編成 2012/11/22(木) EF64 1031+E233系高崎車L11編成 2012/11/28(水) EF81 134+E233系高崎車D12編成 2012/12/10(月) EF64 1030+E233系高崎車L12編成 2012/12/17(月) EF64 1030+E233系高崎車D13編成 2012/12/27(木) EF64 1030+E233系高崎車L13編成 2013/01/08(火) EF64 1030+E233系高崎車D14編成 2013/01/21(月) EF64 1030+E233系高崎車L14編成 2013/01/28(月) EF64 1032+E233系高崎車D15編成 2013/02/12(火) EF64 1031+E233系高崎車L15編成 2013/02/28(木) EF64 1031+E233系高崎車L16編成 2013/03/06(水) EF81 140+E233系高崎車D16編成 2013/03/12(火) EF64 1032+E233系高崎車L17編成 信越本線~上越線~高崎線~東北貨物線 配9772レ 運転日 編成 時刻 備考 2013/04/09(火) EF64 1031+E233系川越車101編成 新津1052→東三条1113→長岡(中)1131→越後川口1150→六日町1213→越後湯沢1230-32→土合1257→水上1308-18→沼田1333→渋川1351→高崎1409-10→本庄1426→熊谷1441→北本1501→大宮1519-21→大宮操1524-24→田端操1545~配9759レ 2013/04/16(火) EF64 1030+E233系川越車102編成 2013/04/23(火) EF64 1031+E233系川越車103編成 2013/05/09(木) EF64 1031+E233系川越車104編成 2013/05/20(月) EF64 1031+E233系川越車105編成 2013/06/03(月) EF64 1030+E233系川越車106編成 2013/06/13(木) EF64 1031+E233系川越車107編成 2013/07/02(火) EF64 1030+E233系川越車108編成 2013/07/10(水) EF64 1030+E233系川越車109編成 2013/07/25(木) EF64 1031+E233系川越車110編成 2013/08/08(木) EF81 140+E233系川越車111編成 2013/08/27(火) EF81 134+E233系川越車112編成 2013/09/09(月) EF64 1032+E233系川越車113編成 2013/09/25(水) EF64 1032+E233系川越車114編成
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一人称・不特定二人称 一人称 二人称 勇平 俺 お前 佳奈多 私 あなた 佐々美 わたくし あなた 令 私 貴女貴方 咲子 私 あんた 由香里 わたし キミ 葉留佳 私 キミあんた 呼称表 呼ばれる側 勇平 佳奈多 佐々美 令 咲子 由香里 葉留佳 呼ぶ側 勇平 - ニッキ佳奈多 サッサ レイレイ サキサキ ゆかりん ハルカはるちん 佳奈多 勇平簓 - 笹瀬川さん 川越さん 渡辺さん 中村さん 葉留佳 佐々美 簓さん 二木さん - 令川越さん 咲子渡辺さん 由香里中村さん 三枝さん 令 簓先輩 二木寮長二木先輩 佐々美様笹瀬川先輩 - 咲子 由香里 三枝先輩 咲子 ゆっぺーセンパイ 二木寮長二木先輩 佐々美様笹瀬川先輩 れーちゃん - ゆかりん はるちんセンパイ 由香里 簓さん 寮長さん二木さん 佐々美様笹瀬川さん れいちゃん さきちゃん - 三枝さん 葉留佳 勇平くん 佳奈多 さっちゃん れいちゃん さきちゃん ゆかりちゃん -
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川島口駅 (かわじまぐちえき・Kawajima-guchi Station)は、埼玉県比企郡川島町大字新堀30番地にある、ちばドリームエクスプレス(cdx)の駅である。 駅番号は埼央線が SO06 、本庄吉川線が HY06 。当駅は本庄吉川線の起点である。 目次を表示 基本データ 駅構造主な設備 トイレ バリアフリー設備 のりば 駅周辺 駅名について 歴史 隣の駅 基本データ 所在地 埼玉県比企郡川島町大字新堀 駅構造 高架駅 ホーム 2面3線 開業年月日 1932年6月25日 乗り入れ路線 2路線 所属路線 埼央線 駅番号 SO06 キロ程 8.2 km (川越起点) ◀ SO05 北川越(3.2 km) - (1.9 km)三保谷宿 SO07 ► 所属路線 本庄吉川線 駅番号 HY06 キロ程 0.0 km (川島口起点) ◀-(-.- km) - (2.2 km)川島町 HY07 ► 備考 業務委託駅ゆめチケット 無自動改札 有 駅構造 島式ホーム2面3線の高架駅。2番のりばと3番のりばは同じ線路を使用。 埼央線が本庄吉川線を挟み込む様な配線となっており、当駅の南方(川越・新本庄方面)で両者が別れる構造となっている。本庄吉川線は当駅の北方(新古河方面)で埼央線に合流するが、2020年現在は旅客営業でこの渡り線を利用することは無い。 業務委託駅でかつてはゆめチケットが設置されていたが、2017年3月31日をもって営業を終了した。なお、自動券売機にて定期券や自由席特急券が購入可能。 主な設備 YuMeCa対応自動改札機・タッチパネル式自動券売機・のりこし精算機を備える。 YuMeCaチャージ端末は設置されていないが、自動券売機にてチャージ可能。 cdxグループのコンビニエンスストア「ゆめマート」が改札外にある。 トイレ バリアフリー対応の水洗式トイレが改札内に設置されている。 バリアフリー設備 エレベータが設置されている。 のりば 1 SO 埼央線 北本・騎西町・加須・新古河方面 2・3 HY 本庄吉川線 川島町・新大里・熊谷・新本庄方面 SO 埼央線 (一部列車) 4 SO 埼央線 川越方面 埼央線の一部列車は2・3番のりばを使用。 駅周辺 当駅は県道12号線の表交差点付近に位置する。 ローソン 川島吉原店 山田うどん 川島店 さなぶり(うどん店) 埼玉漁港海鮮食堂 そうま水産 うめざわ商店(衣料品・クリーニング店) 大東ハウス 埼玉営業所 SOPRA GINZA 川島インター店 石田医院 あの鍼灸接骨院 吉原集会所 新保集会所 駅名について 当駅の所在地は埼玉県比企郡川島町であり、「かわ じま まち」と読む。川島村は1954年11月に複数の村が合併して出来た村で、当駅は翌月の12月に表新堀駅から現在の駅名に改称した。しかし、その時の読みは「かわ しま ぐち」であったが、今となっては理由がわからない。 駅名の読み方を変える運動は地元で断続的に行われ続けていたが、2020年にようやく実現した。 歴史 1932年06月25日 – 北関東鉄道川島口線(現:cdx埼央線)の表(おもて)新堀(にいぼり)駅として開業。 1937年06月25日 – 荒川線(現:cdx本庄吉川線)開業に伴い、ホーム増設。 1954年11月03日 – 所在地の新堀村が合併により、川島村(かわ じま むら)となる。 1954年12月01日 – 川島口 (かわ しま ぐち)駅に改称。 1972年11月03日 – 所在地が町制施行により、川島町となる。 1976年10月1日 – 駅高架化。現在の配線となる。 2009年03月14日 – cdxに転換。 2017年04月01日 – 業務委託駅化。ゆめチケット営業終了。 2020年03月14日 – 駅名の読みを「かわ しま ぐち」から「かわ じま ぐち」に改称。(隣の川島町駅も同様) 隣の駅 SO埼央線 快速 北川越駅(SO05) - 川島口駅 (SO06) - 北本駅(SO12) 普通 北川越駅(SO05) - 川島口駅 (SO06) - 三保谷宿駅(SO07) HY本庄吉川線 快速・普通 川島口駅 (HY06) - 川島町駅(HY07) SO 埼央線 Saiō Line 川越 - 連雀町 - 札の辻 - 神明宮元町 - 北川越 - (本庄吉川線方面 ) 川島口 - 三保谷宿 - 石戸宿 - 諏訪神社 - 上日出谷 - 北本南口 - 北本 - 武蔵小松 - 深井 - 笠原 - 上種足 - 騎西町 - 西ノ谷 - 日出安 - 加須南口 - 加須 - 不動岡 - 下三俣 - 大利根町 - 新古河 ( 古河線方面) HY·HK 本庄吉川線 Honjō Yoshikawa Line (埼央線方面 ) 川島口 - 川島町 - 上八ツ林 - 下小見野 - 武蔵大串 - 吉見町 - 北吉見 - 山ノ下 - 武蔵玉作 - 大里町 - 新大里 - 吉岡 - 江南樋春 - 江南三本 - 本田 - 永田 - 上永田 - 櫛引 - 岡部本郷 - 美里町 - 東児玉 - 小茂田 - 本庄早稲田 - 南本庄 - 新本庄(熊谷支線) 新大里 - 手島 - 元荒川 - 熊谷 最終更新:2020-09-07 北関東鉄道事業部 埼央線 埼玉県 川島町 本庄吉川線 比企郡 駅 駅一覧か
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番号 ★ 名前 番号 ★ 名前 番号 ★ 名前 番号 ★ 名前 2566 3 カルロス・ロサ(S4) 2567 2 渡辺 正人(S4) 2568 2 川越 英隆(S4) 2569 2 的場 直樹(S4) 2570 2 吉見 祐治(S4) 2571 2 早坂 圭介(S4) 2572 2 田中 雅彦(S4) 2573 2 根元 俊一(S4) 2574 2 山本 一徳(S4) 2575 2 中郷 大樹(S4) 2576 2 角中 勝也(S4) 2577 1 薮田 安彦(S4) 2578 1 今江 敏晃(S4) 2579 1 渡辺 俊介(S4) 2580 1 伊志嶺 翔大(S4) 2581 1 福浦 和也(S4) 2582 1 内 竜也(S4) 2583 1 カルロス・ロサ(S4) 2584 1 渡辺 正人(S4) 2585 1 川越 英隆(S4)
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〒350-0269 埼玉県坂戸市にっさい花みず木4-16 ★電話番号:049-289-5341 ☆営業時間:10 00~21 00 (日曜 9 00~21 00) ★最寄駅:東武東上線 北坂戸駅 ☆行き方:西口よりバス使用。 ロータリー交番横・川越観光自動車「ニューシティーにっさい入口」行き乗車。 「堀込」下車。 目の前に店舗有り。 ※乗車時間10~15分程度 -北坂戸駅川越観光バス時刻表- <ニューシティーにっさい入口行き> *平日* 7時台 07 15 25 38 49 59 8時台 13 23 35 47 9時台 03 16 32 10時台 01 14 38 50 59 *土日祝* 7時台 00 15 35 50 8時台 07 22 36 53 9時台 05 25 53 10時台 22 52 ※料金/200円 Upd2010/12/25(土)
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登録日:2022/11/03 Thu 12 07 28 更新日:2024/03/18 Mon 17 03 41NEW! 所要時間:約 26 分で読めます ▽タグ一覧 一揆 事件 天保の改革 天保義民事件 山形県 庄内 徳川家慶 徳川家斉 政治運動 日本史 時代劇 歴史 水野忠邦 江戸時代 直訴 矢部定謙 社会運動 義民 荘内 酒田 鶴岡 雖レ為二百姓一 不レ仕二二君一(ひゃくしょうといえどもにくんにつかえず) 天保(てんぽう)義民(ぎみん)事件とは、江戸時代の天保年間に、出羽国庄内藩の転封に反対して行われた民間の政治運動である。 ●目次 概要 関係者庄内藩 川越藩 長岡藩 幕閣 事件の推移川越藩松平家の窮乏と策謀 三方国替えの命下る 嘆願の広がり 大御所の死 町奉行の報告 幕命覆る その後庄内藩 川越藩 長岡藩 幕閣 天保義民事件を題材にした作品 余談 概要 天保11(1840)年11月、江戸幕府は出羽国庄内藩、武蔵国川越藩、越後国長岡藩を治める各大名家に転封を言い渡した。 すなわち、 庄内藩の酒井家を長岡藩に移封 川越藩の松平家を庄内藩に移封 長岡藩の牧野家を川越藩に移封 することにより三家の領地を交換する「三方国替え」である。 しかしながらこれは、財政逼迫していた川越藩松平家による、経済的に豊かな庄内藩への入部(*1)を狙って企図されたものであるという裏事情があった。 このため、庄内藩では転封に対する領民の反対運動が巻き起こった。 詳細はこれより述べるが、この反対運動は結実し幕府が転封を撤回するという前代未聞の結末を迎えることとなった。 関係者 庄内藩 酒井忠器(ただかた) 天保11年の三方国替え時点での庄内藩の藩主。 この頃は国元の鶴ヶ岡城(現:山形県鶴岡市)におり、嫡男の忠発(ただあき)が神田の江戸藩邸にいた。 徳川四天王である酒井忠次を先祖に持ち、庄内藩成立から数えると8代目の藩主である。 大山庄太夫 三方国替え時点での庄内藩の江戸留守居役だった藩士。 江戸における藩の国替え反対工作を主導していた。 本間(ほんま)光暉(こうき) 庄内酒田の豪商である本間家の5代目の当主。 三方国替えに際しては、主に資金面で反対運動を支援していたというのが定説。 本間辰之助 庄内藩領内の農村の指導者層に属していた人物。 農民による嘆願運動を主導していた。 文隣 庄内藩領内の玉龍寺(現:山形県飽海郡遊佐町(あくみぐんゆざまち))の僧侶。 農民による嘆願運動を主導していた。 佐藤藤佐(とうすけ) 庄内出身で江戸在住の公事師(*2)。 江戸で三方国替えへの反対運動に関わっていた。 川越藩 松平斉典(なりつね) 川越藩4代藩主(*3)。 結城秀康の五男である松平直基(なおもと)の子孫。 松平斉省(なりさだ) 徳川家斉の二十五男。 文政8(1825)年に松平斉典の養子となり、川越藩松平家の跡継ぎに定められる。 天保12(1841)年5月に世を去った。 長岡藩 牧野忠雅(ただまさ) 越後長岡藩10代藩主。 三方国替えの当事者のひとりだが、イニシアチブを発揮して賛同もしくは反対していたとは見なされていない。 幕閣 徳川家斉 江戸幕府の第11代将軍。 家慶に将軍職を譲った後も、大御所として政治の実権を握り続けていた。 天保12年閏1月に世を去った。 お以登の方 徳川家斉の側室のひとりであり、松平斉省の生母。 徳川家慶 江戸幕府の第12代将軍。 天保8(1837)年に父、家斉から家督を譲られる。 水野忠邦 いわゆる「天保の改革」で知られる人物。 天保10(1839)年に老中首座となり、三方国替えも彼が中心となって行われた。 矢部定謙(さだのり) 堺奉行、大坂西町奉行、勘定奉行などを歴任した旗本。 天保12年4月には江戸南町奉行に就任する。 ちなみに、彼と同時期の北町奉行が『遠山の金さん』や『江戸を斬る』などの時代劇作品で知られる遠山景元である。 事件の推移 川越藩松平家の窮乏と策謀 天保11年の三方国替えの前に、背景事情として川越藩松平家(詳細は後述するが直基系越前松平家とも)が転封を画策するに至った経緯について説明しておきたい。 松平斉典は川越藩の藩主なのだが、もとは結城秀康の五男である松平直基から始まる家系で、当初は越前国勝山藩に領地があった。 ところがこの松平家ではやたらと転封が多く、越前勝山藩から武蔵川越藩に落ち着くまでに5代で11回もお引っ越しをしているのである。 お引っ越しと言っても、統治者として格式やら何やらに縛られ家臣団を抱える大名家の領地の移動はたいへん費用がかかり、松平家では莫大な債務を負うことに相成った。 同家には約24万両の借金が積み上がっており、その返済や利息に充てるために毎年4万両もの新規借入が必要だったという。 かくして家督と同時に負債も相続した斉典は領内の殖産興業や農村復興政策に取り組むことになるのだが、それとは別により豊かな領地への転封も狙っていた。 はじめは播磨国姫路藩への転封を願って幕閣への工作を行っていたが、主立った対象である老中の水野忠成(ただあきら)が天保5(1834)年に急逝したことで頓挫する。 すると今度は養子の斉省の関係者に狙いを絞り、将軍家斉の側近や、斉省の母であるお以登の方の筋から大奥にも接待 進物攻勢(まあようするに賄賂ですね)をかけ、工作を継続したのである。 なお、徳川家斉には少なくとも53人の子があり、養子縁組や縁談を経て各大名家に送り込まれていた。 そして、幕府は家斉の子を迎え入れた大名家には官位や加増などの面で特別に便宜を図っていた。 これゆえに、松平斉典が斉省を養子に取り、実子を廃嫡までして世継ぎに据えたのも好適地への転封を実現するための計画のうちであると考えられている。 三方国替えの命下る かくして松平斉典は幕閣工作に励み、ついに天保11年11月、庄内藩酒井家、川越藩松平家、長岡藩牧野家にそれぞれ転封が言い渡される。 当時の庄内藩は川越藩松平家が目をつけるだけあって、経済的には豊かな土地であった。 米どころの庄内平野と地域有数の貿易港である酒田を有する恵まれた立地に加え、代々の酒井家藩主、特に先代の酒井忠徳が10万両とも20万両とも言われた藩の借金返済(*4)を目指した藩政改革の一貫として、本間家など民間資金をも活用して産業を育成していた。 このため、酒井忠器の頃には表高14万石に対し、実高は20万石とも言われるほどになっていたのだ。 「表高」および「実高」について簡単に解説(折り畳み) 表高は「各藩の格付けに使われる額面上の収穫高」であり、実高は「実際の収穫高(もうちょっと言うと、各藩の実際の徴税の基準となる収穫高)」を指す。 江戸幕府の治世も時代が下ってくると各地で農地開発や産業の振興が進み、表高よりも実高が上回る藩が出てくるようになる。 幕府が各藩に課す普請(土木建築)や軍役の役務の規模は表高によって決まるため、表高に比べて実高がより大きいほうが裕福になりやすい。 もしかしたら、「でも表高と実高が乖離してるってことは大名家が幕府にナイショで隠し財産作ってるようなもんじゃないの?」とお思いの方もいるかもしれない。 しれないが、表高を柔軟に更新できない事情はあった。 表高は大名家の家格に直結しており、頻繁に更新して所属するランク帯や他家との上下関係が変わってしまうといろいろと手間がかかるわ揉め事の種になるわでよろしくないのである。 中には見栄を張って表高を過大申告し、領内に実情と見合わない重い負担を強いた挙句に騒動を招いて改易されたヤツまでいる。 また実高も門外不出の機密という訳でもなく幕府の求めに応じて申告したりと、ある程度は公然の数字であった。 そういうわけで、表高は幕藩体制を通じてあまり変動してこなかったのだ。 天保4(1833)年に始まるいわゆる「天保の大飢饉」にあたっては、こうした農業生産力の向上に加えて酒井家が備蓄食糧を放出するなどして救荒に努めたため、庄内藩では被害は比較的軽微にとどまっていた。 さらに言うと、譜代の庄内藩は蝦夷や東北の外様諸藩に対する「北の抑え」という位置付けで、初代藩主である酒井忠勝の入部より一度も転封による藩主家の出入りがなかった。 その環境下で酒井家による経済振興や災害対応がなされてきたため、領民と藩主および家臣の間には強い連帯の意識があった。 ゆえに、国替えの話が降って出ると領内は上から下まで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 とくに、農民たちの間では、以下のような不安が頭をもたげ始める。 「転封には莫大な費用がかかるから、出ていく酒井の殿様にも入ってくる松平の殿様にも年貢をきびしく取り立てられるんじゃないか?」 「川越の松平の殿様は台所が火の車って話だから、殿様が変わったらずーっと年貢をきびしく取り立てられるんじゃないか?」 「年貢の他にも、貸付の返済をきびしく取り立てられるんじゃないか?」(*5) ……現金といえば現金なものだが、農民たちにとっては切実な問題である。 それに、数年前の飢饉の影響だって(余所に比べればマシだったとはいえ)まだ癒えきってはいないのだ。 ここに国替えの混乱と負担まで加われば、潰れて死ぬ百姓が大勢出ることは目に見えている。 かくして、庄内藩の農民たちは領地を出ていこうとする殿様を慰留するという、未だかつてなかった運動に身を投じることになる。 嘆願の広がり 庄内藩の農民たちは本間辰之助や文隣といった指導者のもと、「百姓と雖(いえど)も二君に仕えず」のスローガンを定めて転封の差し止めを実現すべく行動し始める。 彼らのとった手段は、基本的には幕政に影響力がある幕閣の要人などに直訴を行い、藩主酒井家を庄内に留め置くよう嘆願するというものである。 だがしかし、農民たちのこの行動は、藩主酒井家との間に奇妙な対立構造を生み出すことになった。 そもそも実際のところ、酒井家だって馴染んだ領地を離れ、多額の費用を負担してまで表高7万4千石の越後長岡藩に移りたいわけではない。 すなわち、庄内藩酒井家と領民たちは利害が一致しており、勝ち取りたい目的も同一のものである。 そして、今回の国替えには、実入りのよい土地を求めた川越藩松平家が幕閣に賄賂をばらまいてねじ込んだ裏事情があることも察しがついている。 つまり幕命とはいえもともとの発端が無理筋ということであり、酒井家では酒井家でそこを衝いて転封の撤回、あるいは善後策として移封先での加増を実現すべく工作を行っていた。 当時、藩主の酒井忠器は参勤交代の都合で国元にいたため、江戸では嫡男の忠発や留守居役の大山庄太夫らが抗命の中心となった。 そこまでだけを見れば「庄内藩は身分の上下を問わず転封差し止めのために戦った」とまとめてしまえそうなのだが、藩の上層部は領民が野放図に行動することを危険視していた。 なぜならば、農民たちの行動がエスカレートして大規模な騒動ということにもなれば、それは領主の領民に対する監督不行き届きと見なされ、処罰に足る理由になってしまうためである。 このあたりは改易の項目に詳しいのだが、統治下の領民に一揆を起こされた大名にはお家取り潰しや大名本人の切腹といった重い仕置きが下されることもままあった。 それゆえ、庄内藩の武士たちにとっては、領民が問題行動を起こせば本来は難癖に近かった転封を正当化させてしまうことになるため、彼らには出過ぎたことをしてほしくなかったのだ。 (なお三方国替えの当事者である長岡藩牧野家は新潟港における密貿易の取り締まりに不手際があり、庄内藩の民の行動が領内監督不行き届きと認定されていれば両藩主家が懲罰転封となって川越藩松平家の一人勝ち、という結果にもなりえた。) 直訴のために庄内を発った農民たちの最初の一団は、江戸市中で藩の取り締まりに遭い目的を果たすことができなかった(*6)。 だが次に江戸に入った農民たちは、天保12年1月に、幕府の大老や老中への駕籠訴(*7)に成功する。 古来より民草の嘆願といえば「うちの殿様はおらたちを苦しめてるからどうか改めさせてくだせえ!」というのが相場であるが、庄内農民の訴状は「うちの殿様はおらたちに善くしてくれるからどうか余所に行かせないでくだせえ!」という真反対の内容であった。 これが江都に知れ渡ると、江戸っ子たちや武士の中にも農民たちの行動に感心する者たちが現れ、庄内藩に同情または贔屓する空気ができていった。 一方、酒井家中は領民の直訴はまだ続くと判断し、江戸市中ならびに庄内から他領につながる主要な街道の警備を強化する。 それでも農民たちは、藩の監視をすり抜けて江戸や近隣の他の藩に嘆願を敢行した。 結果、 庄内藩と国境を接する仙台藩や会津藩が幕府に国替えを批判する書状を提出する(*8) 水戸藩では「国替えが強行されれば庄内藩の領民が何をしでかすかわからない」という意見が藩主に進言される 複数家の外様大名が「川越藩だけ領地の希望を優遇するのはいかがなものか」といった内容で幕府に批判的な書状を提出する 等々、他の大名家までもが国替えに否定的な意見を表明するまでになったのである。 大御所の死 話は多少前後するが、庄内の農民がはじめての直訴を成功させたのと同じころ、天保12年の閏1月に徳川家斉はこの世を去った。 大御所なき後に幕政の実権を握ったのは筆頭老中の水野忠邦であり、彼により家斉の側近は罷免もしくは左遷され中央から追いやられた。 政権の中枢で甘い汁を吸っていた連中がいなくなったのはよいとして、今度は諸大名家の不満が表面化してきた。 これまで幕府は将軍家斉の子女を引き取った家をいろいろ優遇してきたのが、その最高権力者がいなくなったことで縁故政治の埒外にいた家の不満が噴出したというかたちである。 川越藩松平家は家斉の二十五男を養子に取りそのコネで庄内への転封を計らっていたので、もろにこのパターンである。 いくつもの大名家が三方国替えに批判的な書状を出したことは、庄内領民の働きかけの他にも、幕閣におけるパワーバランスの変化が背景にあった。 さらに天保12年5月、家斉の二十五男、川越藩松平家の養子であり跡継ぎであった松平斉省が家督を継承することなく夭逝する(*9)。 賄賂政治&縁故政治を否定する流れの中でも、斉省が存命であれば大御所の遺志を推して国替えを押し通すことができたかもしれないが、とにもかくにもそうはならなかった。 かくして三方国替えは推進者の多くが死ぬか政権を追われ、一方で傍観的立場だった大名家が反対色を明らかにするという展開を迎える。 ことの可否は、いちど下った幕命を翻すことが沽券に関わるという、幕府の権威の問題へと変質していった。 町奉行の報告 徳川家斉の乱脈政治の一環として持ち上がった三方国替えは、大御所なき今や強行しても得るものはないかのように思われた。 だが時の老中首座であり、国替えの決定にも関わっていた水野忠邦は、幕府の権威を堅持するために国替えを断行すべきだと考えていたようである。 教科書的な事績から推し量る水野忠邦の志向性(折り畳み) 水野忠邦といえば「天保の改革」で有名であるが、彼がこれに着手する時点で幕府は内外に下記のような問題を抱えていた。 大御所時代の放漫財政、および贈収賄や閨閥人事の横行 天保の大飢饉による農業生産への打撃や、これに起因する大塩平八郎の乱、生田万の乱などの騒動 アヘン戦争やモリソン号事件といった、幕藩体制を揺るがしかねない外国のできごと これに対して水野忠邦が打ち出した政策は、 倹約令、風俗の取り締まりなど奢侈の制限 都市に流入していた地方の農民を帰村させ農業に従事させる(人返し令) 物価高騰を防ぐために商人の組合を解消する(株仲間解散令) 江戸や大坂周辺にある大名や旗本の領地を召し上げて幕府直轄地とする(上知(あげち)令) といったものであった(ただし上知令は大名や旗本のみならず、将軍にも反対されて実現しなかった)。 これらの政策からは、幕府が強力なリーダーシップをとって綱紀の引き締めや経済の統制を行い、行政を統括していこうとする志向がうかがえる。 また、忠邦は幕閣での出世の道筋をつけるために、もともとの領地である肥前国唐津藩から遠江国浜松藩への転封を実現している。 唐津藩主は長崎港の警護の役目のために老中に就任できないしきたりがあり、幕閣の要職者を多数輩出して「出世城」の異名をとる浜松藩に唐津から異動することはたしかに昇進の手段としては有効であった。 だが浜松藩は唐津藩に実高で大きく劣っているため家中では反対意見が強く、転封を思いとどまらせようとして自ら命を絶った家臣までいた。 実際には忠邦は反対を押し切って浜松藩に転封し老中の地位まで上りつめており、終始一貫して信ずるもののためには周囲の反発は気にしない性格だったようだ。 そうは言っても、将軍家の意向による後押しは大きく後退し、反対派の突き上げが続く中でことを進めるにはまた別の大義名分が必要になる。 たとえば前述したような、庄内農民の大規模な行動を庄内藩酒井家の領内監督不行き届きとして懲罰の口実にできないか、といったぐあいである。 そういった算段があってのことであるかは定かではないが、公事師の佐藤藤佐が国替え反対に庄内領民を焚きつけた疑いで町奉行の取り調べを受けることになった。 これを担当したのは南町奉行の矢部定謙である(*10)。 実際のところ、町奉行の調べによって庄内藩酒井家の不手際を認定できれば三方国替えの紛糾にひと息に決着をつけることもできたのであろうが、事態は思いもよらぬ方向に進展した。 矢部奉行が佐藤藤佐を召喚して知っていることを喋らせたところ、藤佐は国替えの発端のそもそもの裏事情からぶちまけた。 すなわち、川越藩松平家が窮乏して庄内への転封を望み、大御所家斉の周辺に大枚の音物(いんもつ)(*11)を費やして実現にこぎ着けたというところから、である。 そして矢部定謙はそれを余すところなく調書にまとめ、老中が集まる会議で述べ立てたのである。 はたして水野老中の胸中はいかばかりであったろうか。 閣老会議に上がってきた調べは三方国替えの正当性を真っ向から完全否定する内容であり、これまでに大御所家斉の周囲が関与してきた醜聞が幕閣の最高機関で暴かれたのだ。 そして、国替えの決定において中心的な立場にあり、裏の事情を知りながら推進してきたのは他ならぬ水野忠邦その人なのである。 幕命覆る 矢部定謙の報告を老中たちは重く受け止め、水野忠邦のいない場でふたたび国替えの是非を会議にかけた。 老中の顔ぶれについて(折り畳み) 当時の江戸城本丸には、水野忠邦のほかに3人の老中がいた。 うち真田幸貫(ゆきつら)(*12)(信濃国松代藩)と堀田正睦(まさよし)(下総国佐倉藩(*13))は、天保12年になってから、つまり大御所家斉とその側近による政治体制を刷新するに際して老中に就任している。 よって、このふたりは三方国替えの裏事情に詳しくない可能性がある。 残る土井利位(としつら)(*14)(下総国古河藩)は天保10年くらいから老中を勤めていたので事情は知っていたと思われるが、本件の最終決定に関しては水野に同調しなかったようだ。 結果論ではあるが、この国替えに関しては水野老中が腹を割って(割腹じゃないよ)当時の事情を打ち明けるか、大御所政治の腐敗にけじめをつけるみたいな名目で沙汰止みにしておけばまだダメージが少なかったんじゃないかという気がする。 幕閣も一枚岩というわけではなく(堀田、土井は程度の差はあれ天保の改革の政策に批判的な面があった)、忠邦の信条としてもそうすることはできかねたということなのだろうか。 そして、将軍徳川家慶の決裁により、庄内藩酒井家、川越藩松平家、長岡藩牧野家の領地はそれぞれ据え置き、つまり三方国替えは撤回とすることが最終的な結論となったのだ。 ときに天保12年7月のことである。 江戸城で国替え撤回を申し渡された大名が下城し、江戸屋敷から発った急使によって庄内藩の国元にもこの知らせがもたらされた。 知らせが広がると、庄内藩領内は上を下への大騒ぎ──もちろん天保11年の11月とは異なる、勝利と安堵の喜びによるものである──になった。 町や村では酒や餅や赤飯が振る舞われ、武士も領民も盛大に殿様の居座りを祝ったという。 お祭り騒ぎの町角には、ござを抱えて「接待、接待」と呼び歩く女まで現れたらしい。 その後 主な関係者のうち、事件終結後にも特筆すべき事績がある人物について述べる。 庄内藩 酒井忠器 天保13(1842)年に嫡男の忠発に家督を譲り、嘉永7(1854)年に世を去った。 隠居した後も藩政に影響力を保持していたようである。 大山庄太夫 事件後も引き続き藩政に参与するが、数年もすると新藩主となった酒井忠発の廃立の企てに加担するようになる。 これは忠器と忠発との間に政治的な主張の違いがあり(*15)、忠器に近い派閥が巻き返しを画策し庄太夫もこれに乗った、ということであるらしい。 だがこの計画は成就せず、酒井家中の前藩主派はまとめて監禁もしくは謹慎の処分を受けることになり、庄太夫も慶応2(1866)年に自宅での監禁下にて自刃し生涯を閉じた。 死後も自刃した遺体を改めて処刑しろくすっぽ墓も作られないというかたちで徹底的に否定され、再評価がなされるまでには長い時間がかかった。 佐藤藤佐 藤佐は事件後も江戸に住んでいたようだが、蘭方医をしていた息子の佐藤泰然(たいぜん)は天保14(1843)年に佐倉藩に招聘される。 彼が開設した医院は、のちの順天堂大学のもとになった(東京都中央区の薬研堀不動院には、泰然を順天堂大学の始祖とする記念碑がある)。 領民たち 庄内の領民で、国替えの反対運動に参加したことにより重い罪に問われた人物は知られていない。 もしかしたら幕閣には庄内領民への処罰が必要だと考えていた者がいたかもしれないが、幕藩体制は封建制なので直接の統治権を持つ庄内藩酒井家が動かなければ庄内の民を罰することはできないのである。 庄内藩はその後も明治維新まで国替えが起こらず、酒井家が藩主としてずっと治めていた。 そのため領民と藩主、藩士との団結も維持され、戊辰戦争にあたっては庄内領民から多数の志願兵が出るなど際立って連帯的な行動があったことが知られている。 川越藩 松平斉典 三方国替えが沙汰止みになった後、川越藩松平家は2万石の加増を受けた。 早逝していた世子の斉省の後には斉典の四男である典則(つねのり)が据えられ、嘉永3(1850)年の父の死に伴って家督を継承した。 長岡藩 牧野忠雅 天保14年に老中となるも、前後して新潟港を幕府に召し上げられてしまい、一応代わりの土地は貰えたとは言え貿易に関連する収入を失ったことで藩財政は大打撃を受けた。 これは直接的には天保年間に同港であった抜荷(密貿易)の摘発に不手際があったことによるもの(*16)だが、「天保の改革の一環として、海防強化のために主要な港湾を幕府直轄とする構想があった」「寛政年間に牧野家が水野忠邦と対立していたことに対する報復」という説もある。 ちなみに新潟港での密貿易の主犯は薩摩藩だったのだが、将軍徳川家斉の正室が薩摩藩出身だったので取り締まりや事後対応がやりにくかったらしい。 このあたりのできごとについて詳しく知りたい方は「唐物抜荷事件」で調べていただきたい。 そして安政4年(1857年)に老中を辞し翌年他界。三河西尾藩松平家からの養子牧野忠恭が跡を継ぐことになる。 幕閣 水野忠邦 いちど正式に出された国替えが撤回されるという異例の事態となったが、忠邦は老中の地位を保った。 天保の改革の政策実行に着手することになるが、同時に三方国替えの関係者への報復とみられる行動にも取りかかった。 具体的には、庄内藩に対して多額の費用がかかる印旛沼開発(*17)(*18)の手伝普請、および酒井家が江戸城中で使用する詰所の格下げの措置をとった。 さらに町奉行の矢部定謙に対しては天保12年12月に奉行職を解任し、幕政から追い落とすと同時に彼の死の原因を作った。 結局のところ印旛沼開発は失敗裏に終わり(*19)、天保の改革の諸政策はかえって社会を混乱させたとされ、幕府の統率による経済や行政の立て直しは達成できなかった。 忠邦はその強硬路線ゆえに、矢部定謙の他にも部下や同僚とたびたび衝突し、離反されたり報復したりを繰り返しつつ失意のうちに幕閣を去った。 弘化2(1845)年には、諸々の責任を問われるかたちで大名家の当主の座からも引き下ろされることになった(家督は長男の忠精(ただきよ)が継承することを許された)。 さらに同年には出羽国山形藩に転封を命じられ、領地が庄内藩のご近所になってしまった。 山形藩は幕閣でやらかした大名家が左遷されてくる土地でもあったのでそれだけでは何とも言えないのだが、幕末になると奥羽越列藩同盟に組み込まれて庄内藩とともに新政府軍と戦うというもっと皮肉な運命が待っていた。 矢部定謙 奉行職の解任は名目上は過去の不正によって、であったが、実際は水野忠邦と対立したことによる策略であるとみられる。 その後無実を訴えたことでさらに心証が悪くなり、最終的には謹慎中の天保13年7月に世を去った。 抗議のため自ら食を絶ったことによるといわれている。 庄内藩にとって矢部は三方国替えでの居座りに決定的な貢献をした恩人であったため、遺族を支援したり領内に彼を祀った神社を建立したりしたという。 天保義民事件を題材にした作品 夢の浮橋 三方国替えが撤回で終結した後、庄内藩領内で記録のために作られたとされる絵巻物。 致道博物館(山形県鶴岡市)に所蔵されているほか、文化庁の文化遺産オンラインでも閲覧することができる。 義民が駆ける 藤沢周平による歴史小説。 事件について幕閣や荘内藩(*20)の指導者層のほか、国替え反対運動に参加した農民たちの目線と訛りで描写されている。 「これでは百姓は旗ささね(立ち行かない)ぞ」「黙って見でいれば飯(まま)喰(か)えねぐなるさげのう」「俺は越訴さ、加(か)担(だ)る」 北風の軍師たち 中村彰彦による歴史小説。 事件について幕閣や庄内藩の指導者層のほか、国替えを推進する川越藩士たちの目線で描写されている。 隠密の任務を帯びて庄内に潜入した彼らは、領民を煽動する「天狗」と対決することになるが……? 余談 引っ越しゼロ大名 庄内藩では初代藩主の入部から明治維新に至るまでいちども転封による大名家の出入りがない。 江戸幕府の長い統治の間にたいていの大名は転封を経験しているので、これは実はレアケースである。 酒井家を庄内に封じたのは酒田港を守り周辺の外様大名に対抗するという名目があったようなので、これが江戸時代の終焉まで守り抜かれたということになるだろうか。 もしかしたら、川越藩松平家が庄内への転封を望んだときも、「こっちは何度も何度も移転させられてるのにアイツは……!」みたいな感じで庄内藩酒井家に思うところがあったのかもしれない。 語り継がれる記憶 庄内地方ではこの三方国替え反対運動について長く語り継がれてきたが、(社会情勢の要請もあってか?)大正年代にもなるとコテコテの美談になっていったらしい(*21)。 もうひとつの天保義民 「天保義民」という言葉が使われる別のできごとに、天保13年10月に起こった近江天保一揆がある。 これは近江国で年貢の負担増に反対して農民が大規模に蜂起したもので、幕府側の対応も苛烈であり多くの死者を出した。 一連の一揆で犠牲になった者たちのことを近江天保義民、もしくは天保義民と称している。 追記・修正は、おらが殿様の引っ越しを阻止してからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 川越藩は引っ越し大名の藩 なんだよな -- 名無しさん (2022-11-03 15 29 23) 幕命でしかも御一門が絡む問題なのに撤回させるって凄いな。それだけ幕府の力が弱まっているということなんだろうけど面白いね -- 名無しさん (2022-11-03 16 33 45) 川越藩の松平斉典も中々の傑物。今回の件は仕掛人側だから悪人に見えるけど、そもそもこの人の一族自体が幕府に振り回されっぱなしの被害者側としても見れる。その中で具体的な解決策を出してほぼ実現までこぎ着けてるのは並大抵ではない -- 名無しさん (2022-11-03 17 08 25) 水野忠邦は老中としてこれに限らずなにやっても根回し不足 調査不足で抵抗にあって失敗してるのに、「俺(幕府)はエライのに……」みたいなやり方で一貫してて全然学習しないのがすごい。頭天竜人すぎる。 -- 名無しさん (2022-11-03 17 20 33) 庄内藩の初代藩主は悪政で改易寸前だったのによくここまで評価を持ち直したもんだ -- 名無しさん (2022-11-03 17 34 20) 前代未聞っていうけど福島家と津軽家の領地交換も撤回されてなかったっけ。まあこれとは状況がまったく違うけど。 -- 名無しさん (2022-11-03 20 45 00) 面白かった。幕藩政治がただ単純な幕府一強の体制ではないことが良く分かるなあ。 -- 名無しさん (2022-11-03 21 22 21) 矢部定謙って人相当ロックだなぁ -- 名無しさん (2022-11-04 12 06 59) それはそれとして伊達家は伊達家である。なぜ煽る -- 名無しさん (2022-11-05 08 20 03) ↑300人の農民が越境して直訴した(庄内藩の監視ガバガバじゃねえか)からまあ煽りたくもなる -- 名無しさん (2022-11-05 18 43 05) 逆に農民が一揆で殿様を追い出した宝暦義民(郡上一揆)の記事も関連に欲しくなるな。こっちも裏事情面白いし(神社を巡るトラブル経由で朝廷に質問状が行ったから幕府が焦らされたとか) -- 名無しさん (2022-11-06 00 27 41) ござを抱えて「接待、接待」ってどういうこと?そういうこと? -- 名無しさん (2023-02-04 14 45 24) これ、経緯を見ると「幕府のメンツじゃなく忠邦自身のメンツが潰れるのが悔しかっただけだろ」って風にしか見えないのがなあ、水野忠邦は自信満々な割にはイチイチ小物臭いから好きになれんわ -- 名無しさん (2024-02-08 07 58 03) 大江戸半沢直樹だな -- 名無しさん (2024-02-19 17 52 47)
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WEEKLY MAINICHI 1/22/2011 関連ページ WEEKLY MAINICHI 1/22/2011 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事184 http //toki.2ch.net/test/read.cgi/ms/1292044150/513 2ページ 毎日.jp カラー 3ページ 白水英語研究会 4ページ IBCパブリッシング株式会社 下3分の1カラー 6ページ (株)エスプリライン 全面白黒PR 11ページ ランゲッジヴィレッジ 下3分の1 12ページ トークライン 6分の1 IBCパブリッシング株式会社 東京都新宿区中里町29番3号 菱秀神楽坂ビル9F http //www.ibcpub.co.jp/ 株式会社エスプリライン 埼玉県川越市脇田本町16-23 川越駅前ビル http //www.espritline.jp/ トークライン サン・ブライトインターナショナル株式会社内 東京都文京区小石川2-1-2 第11山京ビル8F サン・ブライト インターナショナル(株)内 トークライン http //www.talkline.co.jp/ 関連ページ 2011年1月- 6月 毎日新聞に広告を出していた企業
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塩田鉄道関東本線(かんとうほんせん)は、東京都大田区の羽田空港駅から、埼玉県北足立郡伊奈町の伊奈中央駅までを結ぶ塩田鉄道の路線である。 路線データ 運行形態広域輸送基本的な運行形態 ラッシュ時のみの運行形態 土・休日のみの運行形態 方向別運用案内関東本線~本線水海道・銚子方面 関東本線~本線青梅・甲府方面 東埼線方面 小山線方面 関東本線~本線~東北線方面 地域輸送 乗り入れ列車 使用車両現在使用されている車両 歴史 駅一覧・接続路線 路線データ 営業区間 羽田空港駅~伊奈中央駅 駅数 28駅 複々線区間 東京~伊奈中央間 複線区間 上記以外全線 電化区間 直流1500V 運転指令所 関東地方総合指令室 閉塞方式 ATC方式 保安装置 D-ATC 最高速度 130Km 最高速度 160Km(上野~伊奈中央間) ラインカラー アクアブルー■ 運行形態 運行列車は普通・快速・通勤快速・特別快速・俊快速・特急の6つである。 広域輸送 ほぼすべての列車が全線または、東京~伊奈中央間を運転しており、ほぼすべての列車が他路線に乗り入れする。 近距離用の列車で車内清掃が行われる場合は時々であり、最短で3分ほどで折り返してゆく。 グリーン車付きの長距離運用向け編成は始発駅にて基本的に10分前後で折り返してゆく。車内清掃も行われるが、折返し時間が短い場合、グリーン車以外の清掃を省略する事や、 終着駅の二駅ほど前から車内清掃員が乗車し、あらかじめ空席を清掃することもある。 また、終着駅到着後から始発駅出発まで時間が空く場合(3,40分以上)、大抵の場合は八潮操車場まで回送され、整備後に再び始発駅まで回送される。 2018年3月17日より、東京〜本線水海道以遠と、東北線系統の一部列車が川口より武総本線経由へと変更となる。そのため、関東本線経由の列車は水海道・小山始発などが中心となる。 基本的な運行形態 羽田空港・品川・東京・首都急市ヶ尾・新百合ヶ丘・首都急小金井~久喜・古河・水海道・小山・川越・青梅・越谷・柏間の各駅停車 羽田空港・品川・東京・東鎌倉・二俣川・首都急市ヶ尾・新百合ヶ丘・首都急小金井~古河・水海道・土浦・友部・小山・宇都宮・川越・青梅・柏・千葉ニュータウン中央・成田・成田空港・龍角寺間の快速 東京・三浦市役所・三崎口・葉山町・逗子・東鎌倉~水海道・土浦・銚子・水戸・日立・ときわ新町・高萩・いわき・郡山・小山・宇都宮・大月・甲府・成田・成田空港間の特別快速 東京・三浦市役所・葉山町~銚子・水戸・那須岳・いわき・仙台・古川・秋保温泉・甲府間の俊快速 ラッシュ時のみの運行形態 羽田空港・東京~大宮・つくば・土浦・友部・北浦・銚子・千葉ニュータウン中央・龍角寺・西守谷・結城八千代間の各駅停車 羽田空港・東京~古河・川越・成田空港・龍角寺間の通勤快速 土・休日のみの運行形態 東京~銚子・大洗・柿岡・大月・成田空港・土浦(成田経由)間の各駅停車 東京~銚子・日立・いわき・柿岡・土浦(成田経由)・大月・甲府間の快速 東京~福島・会津若松・新富士間の特別快速 方向別運用案内 関東本線にはターミナル駅が多く、多方面へ列車が発着するため、ここでは主な運用を方向別に紹介する。なお、東京・品川・羽田空港始発を中心に紹介する。 関東本線~本線水海道・銚子方面 関東本線のメイン運用の一つである。 伊奈中央より本線に乗り入れ、古河・水海道方面へと向かう列車で、各駅停車・快速(全区間快速と古河まで快速の二種類)・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は水海道本所車と古河・川越派出車による運用で、派出車による運用は直流区間のみであるため、最長で古河までとなる。そのため、古河行きまたは久喜行きの運用に充当される。 本所車による運用では土浦行きが最も多く、次いで水海道行き、つくば行きが多い。早朝には、羽田空港発銚子行きの長距離列車も存在する。 快速列車は全区間快速と、古河まで快速による二種類が存在する。土浦行きが中心で、水海道行き、友部行きと続く。快速列車は、上野・川口・浦和・大宮で俊快速・通勤快速の、田端新町、吉野ヶ丘で俊快速・通勤快速・特別快速の通過待ちが行われる場合がある。 また、古河まで快速の運用の場合は、ほとんどの運用で古河以遠で通過待ちまたは待避が行われる。 特別快速の運用は、後述する東北線直通運用も含め土浦以遠からの運用が多く、本線のみの運用では土浦・銚子発着が特に多い。 ただ、夕方以降は北浦以遠は東北線方面への直通のみとなるため、水海道経由の銚子行きは東京14 31分発が最終である。(銚子発水海道経由東京行きの最終は銚子18 47発) また、午前を中心に首都急線直通の特快の運用がある。一部の運用は塩鉄車運用の日と首都急車運用の日がある。最長の運用は銚子方面行きの場合、三浦市役所6 37分発銚子行き(首都急車のみの運用)、逆方向は前の運用の折返しである銚子12 14発三浦市役所行きである。 俊快速は東北線乗り入れを除くと東京または三浦市役所~銚子間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 2018年3月17日より、東京始発の銚子行きを中心とした一部列車は、武総本線を経由する。なお、首都急行線へと直通する運用については、これまで通り関東本線を経由したルートでの運行となっている。 関東本線~本線青梅・甲府方面 関東本線のメイン運用の一つである。 東上尾より短絡線経由で本線に乗り入れ、川越・青梅方面へと向かう列車で、各駅停車・快速(全区間快速と川越まで快速の二種類)・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は基本は古河・川越派出車による運用である。川越・青梅行きの運用が存在する。大半の場合は羽田空港始発である。 快速においても古河・川越派出車による運用が非常に多く、また早朝深夜を除いて全区間快速運用である。羽田空港~青梅間の快速運用は特に多く、おおむね15~30分間隔で、関東本線快速の基本的な運用の一つとなっている。 2012年4月以降に川越まで快速運用が登場したため、川越以遠の始発列車が繰り上げ、最終列車の繰り下げが行われた。 上野23 47発で川越まで快速の列車は最長の大月行きであり、大月駅で夜間滞泊が行われ、翌朝川越から快速となる4 31発羽田空港行き(大月~梅郷間一番列車)となる。この列車がこの方面の快速運用最長の列車である。 特別快速は本所車による運用で、二時間に一本が大月・甲府まで運行されている。甲府発着は午後のみの運用である。 俊快速は東京・成田空港~甲府間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 東埼線方面 木崎より短絡線経由、または大宮で東埼線に乗り入れ、柏・成田方面へと向かう列車で、各駅停車・快速・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は越谷区の運用が多めである。東京方面~越谷・柏・千葉ニュータウン中央・成田・龍角寺行きであり、千葉線に乗り入れるものは成田区による運用もある。 大宮方面からの乗り入れの場合、越谷・柏・柏の葉キャンパス発着がほとんどである。 快速列車は成田区が最も多いが、水海道区による運用も存在する。東京~成田・龍角寺間の運用が基本で、成田空港発着も存在する。東京14 49着の列車は一日一本のみの利根新町発(13 19発)である。 特別快速は成田空港へ向かう列車と、千葉線経由で土浦方面へ向かう列車の二種類が存在。前者は成田・水海道区の運用で、平日ラッシュ時は通勤快速となる列車だが、後者は成田区のみの運用で、平日ラッシュ時も特別快速として運用される。 後者の運用は土浦行きと銚子行きの二種類が存在。この列車は浦和発車前(さらに銚子発列車の場合は土浦発車前まで)「成田経由」と案内される。成田区のみの運用なのも、関東本線・本線区間での誤乗防止のためである。 土浦~東京間の所要時間は本線経由に比べると十分ほど長いが、夕方にも銚子行きが運用されるため利用客は多い。 俊快速は東京・甲府~成田空港間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 小山線方面 古河で小山線に乗り入れ、小山方面へと向かう列車で、各駅停車・快速・特別快速の運用がある。 各駅停車、快速ともに羽田空港~小山間の運用が非常に多く、関東本線の主要な運用の一つである。また、首都急線乗り入れ運用も存在する。 ラッシュ時には小山駅をまたぎ、結城八千代まで向かう運用も存在する。 特別快速はすべてが日光急行線に乗り入れる運用だが、本数はあまり多くない。一部に首都急線乗り入れ運用もあり、実に三社に乗り入れる運用となっている。 関東本線~本線~東北線方面 北浦までは上記の本線運用と同様だが、北浦より東北線に乗り入れ、大洗、日立方面へと向かう列車で、関東本線内の駅を発着する列車に限定すると、特別快速と俊快速による運用がある。 関東本線内を走行する特別快速の運用のメインの系統であり、約一時間に一本存在する。最も多いのはいわき行きで、いわきへ向かう列車が8本、東京へ向かう列車が9本ある。次いで郡山発着が四往復存在する。 朝の東京へ向かう列車、夜のいわき方面へ向かう列車が特に多く、朝に至っては15分間隔で運転される時間帯がある。 走行距離が非常に長く、所要時間が三時間を超える列車も多い。東京8 07発の列車は、東京発着の特快としては最長の福島行きであり、全線走破に4時間42分(東京行きの場合2分長い4時間44分)を要する。 また上記の列車は土・休日には、磐越西線直通会津若松行きを連結するため、土・休日も合わせた列車だとこちらの列車が最長となる。なお会津若松→東京の全線走破に5時間27分を要する。 前述のように走行距離が長いことから、始発や終着の時刻が極端なものが多く、勿来4 02発東京行きを始めとし、郡山4 38発東京行きなどが設定されている。 東京22 02発郡山行きの列車は、非常に遅い時間まで走行する列車であり、いわき到着地点で25 31、終点郡山には26 17に到着する。この列車は、日本一遅い終電でもある。 このような時間まで運行できる要因として挙げられるのは、いわき~郡山間の大部分が大深度トンネルの区間であり、騒音が少ないからと言われている。 なお車両は全てが水海道車による運用である。 俊快速は東京~古川・秋保温泉間で一時間に一本運用されている。早朝深夜はいわき・郡山発着も存在する。なお水海道車と三本木車による運用である。 2018年3月17日より、東北線系統の列車は大多数が武総本線経由へと変更になっている。なお、少数ではあるがこれまで通り関東本線廻りの運用も存在する。 地域輸送 ほとんどが広域輸送のため、地域輸送は東京・品川~羽田空港間などに限定される。 乗り入れ列車 この路線は、他の路線からの乗り入れ列車も多い。 塩田鉄道東埼線 塩田鉄道本線 塩田鉄道武総本線(羽田空港-上野(各駅停車以外)・川口(各駅停車)間) 五川鉄道線 首都急行中武線(大宮-伊奈中央間) 使用車両 現在使用されている車両 670系電車? 672系電車? 703系電車? 713系電車? 721系電車? 731系電車? 733系電車? 737系電車? 739系電車? 741系電車? 743系電車? 747系電車? 751系電車? 755系電車? 757系電車? 767系電車? 769系電車? 771系電車? 773系電車? 775系電車? 781系電車? 1013系電車? 1015系電車? 1017系電車? 1019系電車? 1021系電車? 歴史 1991年3月12日 全線開業。 2010年10月20日 羽田空港国際線ターミナル駅開業。 2018年3月17日 本線茨城方面・東北線へと直通する列車の大多数が武総本線経由へと変更になる。 駅一覧・接続路線 駅名 乗り換え 所在地(県名) 所在地(自治体) 羽田空港駅 京急空港線、東京モノレール 東京都 大田区 羽田空港国際線ターミナル駅 京急空港線、東京モノレール 東京都 大田区 京浜島駅 東京都 大田区 新八潮駅 東京都 品川区 大井競馬場駅 東京モノレール 東京都 品川区 北立会川駅 東京都 品川区 北品川駅 京急線 東京都 品川区 品川駅 新幹線、JR線、京急線、五川鉄道線 東京都 港区 新橋駅 JR線、ゆりかもめ、地下鉄 東京都 港区 東京駅 新幹線、JR線、地下鉄 東京都 千代田区 新日本橋駅 JR線、地下鉄 東京都 中央区 秋葉原駅 JR線、つくばエクスプレス、地下鉄 東京都 千代田区 本御徒町駅 JR線、地下鉄 東京都 台東区 上野駅 新幹線、塩田鉄道武総本線、JR線、地下鉄 東京都 台東区 日暮里駅 JR線、京成線、地下鉄 東京都 荒川区 田端新町駅 塩田鉄道武総本線 東京都 北区 梶原駅 都電荒川線 東京都 北区 足立新田駅 東京都 北区 川口駅 塩田鉄道武総本線、JR線 埼玉県 川口市 青木町駅 埼玉県 川口市 芝川口駅 埼玉県 川口市 南浦和駅 JR線 埼玉県 さいたま市 浦和駅 JR線 埼玉県 さいたま市 木崎駅 埼玉県 さいたま市 大宮駅 新幹線、JR線、東武線、塩田鉄道東埼線、首都急中武線 埼玉県 さいたま市 宮原駅 JR線 埼玉県 さいたま市 吉野ヶ丘駅 埼玉県 さいたま市 東上尾駅 埼玉県 上尾市 伊奈中央駅 ニューシャトル、塩田鉄道本線 埼玉県 伊奈町