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真っ白な部屋の中にいた 何もない部屋には、俺だけがいた。 壁はあるが、天井はなく、見上げたら空があった その空に昇っていく男女の姿があった。 男の方がこっちを振り返る 「お前が跡継ぎか。少し驚くかもしれないが、悪いもんじゃないぜ。ま、後はよろしくな」 そう言い残すとふたたび空へ向き直し、見えなくなるまで昇って行った。 何の跡継ぎだ?ここで何を継ぐんだ? そして… 目を覚ます 不思議な夢だった。 見回すといつも通りの俺の部屋だった。 昨夜の騒乱の後を残す放り出されたクッションや飲みかけのグラスが目に留まる ああ、そうだ。昨日は… 「あたしのこと、本当に好きなの?」 恵美にそう言われて、俺は驚いた。 たしかに最近仕事が忙しくてあまり構ってやれていない。 しかし、そういうことを言ってるわけではないようだ 昨日はいつもより妙に積極的だった恵美は初めて俺の部屋へあがりこんだ。 そして、グラスを傾けた後、ふと目にとまった時計を見て 「終電、大丈夫か?送ってやろうか?」 それから一転、真っ赤になった恵美は取りつく島もないほどに怒り、あの一言を残して帰ってしまった。 何に怒っているのか? これから彼女に何か言うべきなのか? 謝るべきなのか?だとしたら何に? 起き抜けの頭が昨日の騒乱の収拾に動き出した頃、頭の中で、不思議な声が聞こえた 「何をしている。早くあそこへ行くんだ。時間はないぞ」 どこかで聞いたような声とともに、激しい頭痛が響く。 なぜか、それを皮切りに俺の意識に叫びかけるものがいた ココハオレノイルベキバショジャナイ そこからは、急だった。 何かにせかされるように俺は身一つで部屋を出て、駅へ向かった そこから向かったのは、行ったこともない町 そこで降りた俺は、フラフラと港へでて、船に乗った 船の行き先を見ることもなく。 船は島へつき、そのまま俺は山へ歩いて行った 途中、買ってあったドリンクを飲む 部屋を出てからずっと、妙にのどが渇くのだ そして、腹が減って仕方なかった 店の人が驚くほど買った弁当や菓子類が気が付いたらほとんどなくなっていた そして、焦点の定まらない目でたどりついたのは山頂の大きな建物 そこに入ると、誰もが俺を見咎めることなく建物へ招き入れた 嫌に丁寧に。 いや、崇めるような目線で。 俺は、招かれるまま部屋へ引き入れられた。 疲れた… 豪華な飾り付けがされた広い部屋に俺は倒れこんだ。 服はいつの間にか脱いでいたようだが、いつ服を脱いだかすら記憶になかった 俺の意識はそのまま眠りの海へ沈んでいった。 また、あの部屋にいた 俺はただ一人だった ここで、何をするのか? 腹が減っていた。 無性に腹が減って仕方なかった。 目が覚めた まず覚えたのが体の違和感だった。 手足の感覚がない 腹ばいをしている感覚 起き上がろうとしても起きられない 体をよじるようにして動いてみる ドシン! 大きな音が響く まるで重量物を壁にたたき付けたような そして、体の一部に衝撃が伝わる 俺の体が出した音なのか? わからないことだらけな中で、視界に入ったのは変な服を着た男だった 「お待ちしておりました。崇神様」 なんだ?崇神様って? 何かを尋ねようと口を動かすが、声にならない 「こちらへお越しになってから3日間お眠りになっておりました。 その間に先代様にも劣らぬ見事な崇神様になられたようでお喜び申し上げます。 さ、どうぞ。神々しいお姿をご確認ください」 差し出された鏡に映った姿を見た俺は気を失い、その場に倒れた。 そこに映っていたのは金色に輝く巨大な蛇そのものだった。 再び意識を取り戻す。 あの男はもういない。 俺は崇神様と称する巨大な蛇になってしまった。 この姿では外に出ることはできない。 出てしまっても人間扱いされるはずがない。 どうすればいいのだ? 混乱する俺の意識を支配するもう一つの感情 腹が減った 体が変化したせいか、それともこの体がもともと燃費が悪いせいなのかとにかく腹が減って仕方なかった しかし、頭に浮かぶのは今まで俺が食べてきたいろんな食べ物ではなかった その代わりに、もやもやした不思議な想念が浮かんでいた。 しかし、その想念を俺ののこっていた人間の理性が必死に阻んでいた 不思議な想念が浮かんでは消え、浮かんでは消える どれくらいそれを繰り返したろうか… あの男がやってきた 「これより、崇神様お就きの儀式がございます。申し訳ありませんがご足労願います」 そういってドアを開けて俺を導く。 特に何をするでもないし、何をすべきかすらわからない俺は、慣れない蛇の体を引きずりながら部屋を出た 長い廊下を通って、ドアの向こうには 大きな祭壇があった そして、眼下には多くの人の姿 彼らは不思議な祈りを俺に捧げている なんとなく、俺の位置が分かった 彼らの信仰する宗教の崇めるご神体というのが崇神様、つまり俺だということだ。 なぜ俺がそんなものになったのかはわからない。 もちろん、この後俺が何をするのかも ただ、ひたすら腹が減っていた。 わけのわからない儀式が俺を無視して祭壇の前で行われている。 儀式が進むたびに群集の興奮も上がっているようだ そして… 「これより崇神様に初めての生贄を召し上がっていただきます」 生贄? そういわれて、祭壇に運ばれたのは全裸の娘だった 娘は祭壇に乗せられる。 その姿を見た俺の意識に、あの想念が浮かんだ 「ウマソウ…食ベタイ」 娘を目にしてから、その想念は防ぎようもなく拡大していた その想念の拡大に混乱している俺の目の前で、さらに信じられない景色が進行していた 娘を数人の信者の男が輪姦していったのだ 恐怖に怯えつつも、娘は動くことも逃げることもなく男たちに犯されるままになっていた。 娘の股間から破瓜のそれと思しき出血が見える 娘は少しずつ恐怖の中に女性の快感を擦り込まれていく そして、全員に犯された後、残ったのは放心状態で股間から精液を垂れ流し、全身精液まみれにされた無残な姿だった。 信者たちは娘を祭壇から俺の目の前に移す 娘は、弱弱しい視線を俺に向ける ナントウマソウナ ムスメダ そう思った一瞬後のことだった 俺の口の中から大きな舌が伸び、娘を口の中へ飲み込んだ そして、娘の体は抵抗なく喉を通っていく。 俺は、あの娘を飲み込んだ? のど越しに、娘の弾力のある肉感、すべすべの肌の感覚、 そして、たれ流れた愛液からにじみ出る女性の臭い あの娘のすべてがのど越しに感じられた 小さな顔と頭はするすると喉を通っていき、その下にある二つの膨らみがのどを刺激する その刺激はいったん腹のくびれで弱まって、腰の尻の肉や太腿で再び強くなる 肉質の良い尻や太腿を俺の喉は感じていた 娘の体は、腹の中で留まった。 娘はもぞもぞと俺の腹の中で動く 動くたびに娘の柔らない体を感じていた。 その娘の動きが突然急なものになった。 それとともに、腹の奥に今まで味わったことのない味が広がった 濃縮した女性の味とでもいうような甘美な味だった そして、腹の中の娘の感触が、舌の上で溶ける砂糖菓子のように崩れていった 俺の腹の中で消化されている そう感じたころには、娘は動きを止めていた。 溶けていく娘の体が奥へ奥へと流し込まれる 俺の感覚は、それが顔の肉なのか太腿の肉なのか膣のなれの果てなのかがはっきりと識別していた あの娘を俺は食べてしまった。
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「 我々を歴史から引き離す理由を捜し索めんが為めのみに歴史を学ぶ 」 ~ ブルュンティエール(仏批評家 1899年講演 「仏蘭西精神の敵」) <目次> ■1.はじめに ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界<参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図◆1.歴史認識:見取り図 ◆2.用語解説◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観)参考1:神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠(讖緯説・辛酉革命説) 参考2:欠史八代の実在性(稲荷山古墳鉄剣銘文) ◇(2)皇国美化史観参考1:用語解説 ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観)<1>唯物史観とは:概説 <2>日本資本主義論争「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) ◇(4)自由主義史観 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力(参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) ◆3.日教組の洗脳教育 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.はじめに 近現代史は政治そのものであり、古代史ですら現代政治を抜きにして語れない。現在、主流を占める歴史認識(あるいは現在の歴史教科書の記述)が正しくて、今後もその認識がそのまま続くとは誰も保証できないことは、戦前~戦後の日本の歴史教育の変転をみても、近隣諸国の歴史教育の有様を見ても明らかである。 これを踏まえて、近代以降の日本における歴史認識問題の基本構図をここで一旦まとめておく。 なお、南京虐殺問題や慰安婦問題、満州事変・支那事変や大東亜戦争の性格といった個別の論点は、各々の専用ページを参照されたい。 ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)2/3◇『論語』子路第十三の十八葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之を證す。孔子曰わく、吾が黨の直(なお)き者は是に異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り。 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)3/3 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界 大東亜戦争敗戦後に、後述の羽仁五郎(マルクス主義歴史学者・初代日教組代表・革新系参議院議員)を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきた歴史学研究会(マルクス主義史観の歴史学者の学術団体)が、ソ連崩壊後の1993年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの発言をここで一度しっかり確認しておこう。 <参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- はじめに -批判的史学をめざして-1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。・・・歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。1993年3月 委員長 西川 正雄 ※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 ※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。こんなトンデモ団体が未だに跋扈しているのが日本の史学界の現状である。 <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- あとがき(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 ※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図 満州事変・支那事変や大東亜戦争といった日本の戦争は侵略戦争だったのか否か、いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦は事実だったのか否かetc.といった個々の歴史問題の背景に、より大きな構図として、戦前から続く歴史学者間の歴史認識(史観)の対立、より具体的にいうと、 ① 日本の歩みを常に肯定的に捉える正統史観(後述のように戦後は左翼からのレッテルとして“皇国史観”と蔑称された史観) と、 ② 日本の歩みを常に否定的に捉えるマルクス主義史観(戦後は“東京裁判史観”とも呼ばれ、また近年は特に批判者から“自虐史観”と蔑称されている史観) の対立がある。 ◆1.歴史認識:見取り図 戦前~戦中 (『國史』教科書時代) 敗戦 戦後 (『日本史』教科書時代) 保守 皇国史観(皇国護持史観)・那珂通世(神武天皇即位紀元に関する讖緯説(辛酉革命説)を提唱)・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講)・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビュー第二回【天皇と憲法】の中で博士を理不尽なまでに激しく糾弾した。⇒NHKの正体・上級編参照)・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、津田氏本人は「唯物史観などは学問じゃありません」と猛反発し否定、逆に皇室擁護の論陣を張っている) ⇒ 保守 正統史観(正統史学)・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた)・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献)・大原康夫・高森明勅 右翼 皇国美化史観・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ)・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者)・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者) 消滅 自由主義 自由主義史観・藤岡信勝・西尾幹二 ‡唯物史観への対抗イデオロギーとして出現 ‡過度の自虐史観への反動として出現 左翼 唯物史観(マルクス主義史観)・羽仁五郎(講座派)・井上清(講座派、のち共産党員)・土屋喬雄(労農派) ⇒ 左翼 東京裁判史観(自虐史観)・羽仁五郎(日教組代表、参院議員)・井上光貞・家永三郎・色川大吉・直木孝次郎・丸山眞男(政治学者、隠れマルクス主義者) ◆2.用語解説 (1)皇国史観(皇国護持史観・正統史観) (2)皇国美化史観 (3)マルクス主義史観(唯物史観・東京裁判史観・自虐史観) (4)自由主義史観 について順に解説する。 ◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観) ※皇国史観(正統史観)とは何か 古事記/日本書紀以来の日本の正統な歴史伝承・歴史事実に基づく史観。(ページ下に参考図書あり) 当然ながら記紀を日本民族の大切な伝承として扱い、これを否定しない。 神武天皇即位紀元が過大に引き伸ばされている件については、讖緯説(辛酉革命説)に基づく年代設定と解釈している。(那珂通世の説)(参考1)。 初代神武天皇から第十代崇神天皇までの間の所謂「欠史八代」については、戦後発見された稲荷山古墳鉄剣銘文に第八代孝元天皇の皇子大彦命と解釈できる人物が見えることから、唯物史観派のいうように頭から欠史八代の実在を否定するのは不当と主張している。(参考2) 記紀成立後、六国史編纂を経て、神皇正統紀、大日本史さらに江戸時代後期の国学の成果を踏まえて、明治以降の国史学に至る。 なお、平成12年の森首相(当時)の「神の国」発言(日本は天皇を中心とした神の国である、とする発言)は、この伝統的な日本人の国家観・歴史観の素朴な表現と思われる。 参考1:神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠(讖緯説・辛酉革命説) 干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。 参考2:欠史八代の実在性(稲荷山古墳鉄剣銘文) 稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1)稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比魁(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比魁(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比魁(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比魁(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする ◇(2)皇国美化史観 明治末以降に、皇国史観(正統史観)に加上する形で民間に発生。 提唱者は意外にも仏教系が多く(田中智学は日蓮宗系、加藤玄智は浄土真宗系)、明治維新により疎外感を抱いた一部仏教界の過剰な擦り寄りとも解釈できる。 1930年前後の経済恐慌期に、①アジア主義・②国家社会主義と結びつき、マルクス主義の対抗イデオロギーとして急速に流布(この時期の代表的イデオローグは大川周明)。 また、田中智学の造語「八紘一宇」は、大東亜戦争のスローガンとなった。 大東亜戦争の敗戦により史観としての存立基盤は消滅したが、戦後も無自覚のうちにこのイデオロギーに影響された言説を唱える者は多い。 5.15事件など青年将校の暴発を引き起こす思想的背景をなし、また天皇機関説事件/津田左右吉博士筆禍事件などの過激行為の源として批判されるべきは、この(マルクス主義とはコインの裏表の関係の)皇国美化史観の方であるが、戦後、左翼側は是と本来の皇国史観(皇国護持史観・正統史観)をワザと混同し、皇室否定論・日本悪玉論に強引に結び付ける執拗なネガティブ・キャンペーンを繰り返している。 ⇒ 政治の基礎知識 右翼・左翼の歴史 NHKの正体・上級編 参照 参考1:用語解説 「皇国史観」(赤旗より引用)という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『近代日本の国体論』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。そして、その内容としては、①国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、②アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ(昆野氏論文)の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした①、と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した②、をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。これに関して平泉澄博士の門下生の田中卓博士は、「一概に皇国史観といってもそれは、・・・①平泉史学による「皇国護持史観」と、②戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある」と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ「正統史観」であると述べている。なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、 1 彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた①平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、 2 国家改造とアジア解放を唱えた②は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。(そうする勇気など、とてもないだろうが) ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観) ※唯物史観(マルクス主義史観)とは何か <1>唯物史観とは:概説 カール・マルクスが、普遍的な歴史発展法則として提唱したもので、下部構造(経済関係)が上部構造(歴史の展開)を規定すると見る歴史観である。 人類の歴史の発展段階として、①原始共産制社会→②古代奴隷制社会→③中世封建制社会(農奴(コロヌス)が生産に従事)→④近世重商主義社会(絶対王制)→⑤近代資本主義社会(ブルジョワ革命により絶対王制を打破=第一革命)→⑥プロレタリア革命(=第二革命)による社会主義社会の到来→⑦共産主義社会への移行、を想定した。 最終的に、プロレタリア(労働者階級)がブルジョワ(資本家階級)を打倒する、という意味で「階級闘争史観」ともいう。 明治維新以降の日本資本主義の性格規定と、日本に来るべき革命の形態(第一革命か第二革命か)を巡って、以下の論争が行われた。 <2>日本資本主義論争 「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 講座派とは、1925-35年頃、マルクス主義経済学者・史学者を二分した日本資本主義論争において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に日教組代表・参議院議員となり国会図書館法前文を起草)、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 ※このようにマルクス主義者が二派に別れて論争した事が、戦後に日本共産党・日本社会党(左派)の二つの階級政党が並立して社会主義(共産主義)革命を目指す原因となった。 ◇(4)自由主義史観 後述 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行 ◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力 日本の「民主化」を旗印に掲げるGHQは、羽仁五郎など戦前からのマルクス主義者を利用し、日本の歴史教育の「改革」を強引に推し進めていった。 戦前は小学生にも必修であった「国史」を廃止し、社会科の一分野として「歴史」(中学校)「日本史」(高校)を設定。新制中学の教科として新たに「公民」教育を導入し、「歴史」より優先的に教育することとした。 日本国憲法/教育基本法の理念を日本人学童/学生に押し付ける組織として教員組合の結成を指令した(のちの日教組) 国会図書館法を制定しGHQ焚書を実行。連合国にとって都合の悪い書籍を隠蔽・抹殺したと思われる。 (参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) マルクス主義史観最大のイデオローグで、昭和20年3月に北京で逮捕され東京で収監されていたが、GHQにより釈放(出獄)された。その直後から猛烈な皇室否定・廃止論を発表。更にGHQの後ろ盾で日教組代表となり、その組織票で参議院議員に当選。GHQの指令を受けて国立国会図書館の設立に関与し連合国にとって不都合な図書の隠滅(GHQ焚書)に協力したとされる。現在の国立国会図書館法の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」は羽仁五郎の起草である。 (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) 歴史教科書から古代の皇室の記述を大幅に削除し、皇室の起源を応神天皇(のち崇神天皇)など出来る限り遅い時代に設定する学説を打ち立てたが、最晩年には自説に無理があることを認めたといわれる。なお井上光貞の全集第11巻「私と古代史学」(岩波書店)にアメリカ人学者から「日本の史学者はマルクス主義史観一辺倒・結論先にありきに陥っている」と批判されたことを告白するエッセーが載っている。また山川出版の「高校日本史」教科書(1951年の初版)や中公文庫の「日本の歴史」の古代史は井上が根本部分を執筆している。 (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) 東大国史学科で平泉澄博士の最後の教え子の一人だったが、終戦後にあっさり転向して当時公職追放の身となっていた恩師を「狂信的な皇国史観の指導者」として猛烈に批判した(公正な学問的批判ではなく平泉博士への卑劣な人格攻撃だったとされる)。小田実(ベトナム反戦運動で活躍したが、近年KGBのエージェントだった事が判明)と共に日市連(昭和天皇の闘病中に「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」と書かれた横断幕を掲げて都心でデモを行ったサヨク市民団体)の共同代表を務めた。現在でも毎日新聞に自虐的な歴史観を披露した記事がよく掲載される。中公文庫「日本の歴史」の近代史の執筆者の一人。WIKIPEDIA ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) 日本の歴史を肯定的に捉えようとする学術研究者・教育者は、GHQによって容赦なく公職追放・教職追放され、東大を始めとする有名大学の史学部や学術書籍の出版社(岩波書店・中央公論社など)はマルクス主義者(唯物史観派)が制圧した。 彼らは、反対派との正々堂々の議論は徹底的に回避し、マスコミの支援で一般国民に一方的に自らの史観を刷り込む活動に専念した。 唯物史観派は、「実証主義」の名目で、古事記/日本書紀の上古の伝承を完全に否定し教科書への記載も廃止した(井上光貞の説明参照)。 その結果、日本の歴史教科書の記述は古代の農村遺跡などの記述や、中国の史書からの引用で始まる諸外国と較べて特異な形態となった。 また皇室の起源としては、応神天皇を最古の実在した天皇とする説、崇神天皇を最古の実在した天皇とする説、騎馬民族到来説、朝鮮王族侵入説など様々な新説が提唱された。 明治維新以降の記述については、征韓論から以降、一貫して侵略史観に染まった内容となった。 ◆3.日教組の洗脳教育 1945年12月の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。 日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。ここでもマルクス主義史学者の羽仁五郎が代表に就任。 ⇒ 参考 GHQの占領政策と影響 日教組の正体 「階級闘争」「抵抗教育」「革命運動」を実践し、日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動を行う。 学童/学生に「平和教育」を施し、自虐史観を刷り込む。 「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」(1947年、日教組結成大会での宣言) 「一人々々の組合員が自らのプチブル的傾向を脱皮し教育界に温存されている封建的残滓を打破して階級的立場を明確にし、分会、地区、府県、地域、中央へと日常闘争を進めることによって初めて日教組の組織は強化されるのである」(1949年、日教組第五回定期大会の運動方針) 「日本教職員組合の運動方針には『教育労働者として階級的立場を明らかにして闘う』と書いてありますが、われわれはそのように、日本の貧しい人々、つまり、労働者の側に立って、日本の横暴な資産階級のわがままと闘うのであります」(1953年、日教組のパンフレット『新しく教師となった人々に』) 日教組が発足する前年の1946年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされる。 自社55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いている。 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 鈴木善幸首相/宮沢喜一官房長官の在任中の1980年に歴史教科書問題が発生。教科書検定基準に「近隣諸国条項」が追加された。 出鱈目な史観を学生に押し付け続けたツケとして、史学部進学者/新進歴史学者の劣化が進行 近年において、注目すべき歴史論・国家論を著した人物に歴史学者は皆無であり、こうした異常な歴史認識に囚われていない英文学者・数学者・経済学者などから返って有力な歴史論・国家論が発表されている。 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動 上記のような圧倒的な唯物史観派(自虐史観派)の優勢に対抗して、トップの動画にあるような日本の伝統的な歴史観・国家観を守ろうとする活動も存在した。 ◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 津田左右吉氏は、邪馬台国北九州説を主張した東洋史学者の白鳥庫吉氏の高弟で、白鳥を介して那珂通世氏の孫弟子にあたる。 戦前に古事記/日本書紀の文献批判を通じて神武東征に疑問を表明する等、記紀の神話部分は後世の潤色が強いとする説(津田学説)を表明したことから、右翼急進派から皇室冒涜として攻撃を受け、1940(昭和15)年に著書4冊が発禁処分、津田氏は早大教授を辞職し、著書出版元の岩波茂雄と共に出版法違反で起訴されるに至った(津田左右吉博士筆禍事件。1942(昭和17)年一審で禁錮3ヶ月/執行猶予2年の有罪判決、但し1944(昭和19)年控訴審で免訴)。 終戦後、GHQの解放指令により出獄した羽仁五郎氏らマルクス主義史学者は、歴史学研究会(歴研)の再建(実際には唯物史観派による乗っ取り)にあたって、当時岩手県に疎開していた史学者として信用の高い津田博士を会長に担ぎ上げようとした。 ところが津田博士は、GHQ進駐直後に始まった羽仁五郎氏らの岩波書店・毎日新聞を通じた反天皇キャンペーンに吃驚し、むしろ危惧を深めており、羽仁氏から派遣された井上清氏(羽仁の弟子で歴史学者・共産党員)の会長就任の懇願を即座に拒否したばかりか、岩波書店の雑誌『世界』1946(昭和21)年4月号に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表して、極めて情熱的な皇室擁護論を展開し、マルクス主義史観(唯物史観)に傾く史学界に痛烈な打撃を与えた。 唯物史観派は、現在でも自分たちの皇室否定論・記紀否定論の起源を戦前の津田学説に置く姿勢を見せる(wikipediaにもそのように記述されている)が、実際には津田博士の学説は、神武東征などの記紀の伝承に疑問を表明しているものの、初代天皇としての神武天皇以下の初期の天皇の実在性自体を否定する説ではなく(津田博士自身が繰り返し、そう明言している)、戦後に流布した羽仁五郎氏や家永三郎氏・井上光貞氏らの記紀否定論は、津田学説を換骨奪胎したエセ学説といえる。 津田学説を踏み台として、戦後に皇室の起源を極力後代に置き、古事記/日本書紀の記述(特に初期の天皇の実在性)を否定する学説を提唱した井上光貞氏は、晩年の津田氏について「博士は既に老齢に入っておられ、あまりにも急激に変転しつつある時代とともに進む柔軟性を失っていられた」と評したが、井上光貞氏自身が、その最晩年に、自分の学説は(余りにも唯物史観の演繹的手法に囚われて、最新の考古学的成果や文献考証に照らして)無理がある、と認めている。 しかし井上光貞氏の学説を更に踏み台として、様々な皇室否定論・唯物史観に基づく学説を発表していた戦後史学界の主流は、津田氏の皇室擁護・唯物史観批判ばかりか、この井上光貞氏の自説撤回をも無視したまま現在に至っている。 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 1951(昭和26)年、吉田茂首相が「講和後、紀元節を復活したい」と表明。GHQによって廃止された紀元節の復活(神武天皇即位の日と伝承のある2月11日の祝日化)運動が始まる。 唯物史観派は、8月革命説を信奉し、戦後日本は戦前とは別の国家だとして、紀元節を祝日として復活することに総力で反対した。 ※日本社会党(もとの労農派)は、日本国憲法施行日(5月3日、現在の憲法記念日)を「新日本建国の日」として、これで十分と主張。 ※日本共産党(もとの講座派)は、現在の日本はまだ天皇制と米帝が支配しており、真の建国は人民が将来革命によって勝ち取る、として「建国記念日」の制定自体に反対。 正統史観派および一般国民・政府は、戦前の紀元節を建国記念日として祝日に復活させることを要望していた(根底に、戦前~戦後を通じて国体は護持されたとの認識があった)。 長期の紛糾の末、1966(昭和41)年6月に、「建国記念日」を「建国記念の日」と名称変更して与野党で祝日復活することをようやく決議。 しかし井上光貞氏を始めとする唯物史観派は「非科学的な“建国の日”に反対する」と、わざと文言を摩り替えて反対を続けた。(「建国記念の日」は、日本の建国を記念する日であり、必ずしも歴史的事実としての建国日ではないことに注意。) ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として 村山富市社会党首相による村山談話が出された翌年の1996年、自虐史観の行き過ぎに対する反動から藤岡信勝氏の提唱で「新しい教科書をつくる会」が結成され、西尾幹二氏らが参加。 「自虐史観にも大東亜戦争肯定史観にも囚われない新しい教科書を作る」との方針の下、中学の歴史分野と公民分野の教科書を作成し、2001年4月と2005年4月の文部科学省の検定にも合格したが、左翼団体の激しい教科書採択反対運動がおこり、実際にこの教科書を採用する学校は非常に少なかった。 しかし一般図書として販売された教科書と同一内容の本が売れ、その内容のまともさと共に、これに反対する左翼団体の異様さが広く一般国民に知られるようになり、他の一般に採用されている教科書の内容の一部正常化に繋がった(「従軍慰安婦」や「南京大虐殺30万人」の記述の取り止めなど)。 藤岡信勝氏など代表的メンバーは実は左派からの転向者が多く、高森明勅氏が理事に名を連ねるなど人材の交流はあるものの正統史観(正統史学)派とは区別する必要がある。(「つくる会」は一般には保守系団体と見做される場合が多いが、当サイトでは敢えて「リベラル(自由主義)」と分類している。) 左派からの転向者が多い(代表の藤岡氏自身が元共産党員)ことが一つの原因となって、「つくる会」内部で教科書の執筆方針を巡って残念ながら、度々内紛が発生している。 屋山太郎氏ら親米保守(親英米派)のメンバーが2007年に「つくる会」から脱退し「教科書改善の会」を結成。従来「つくる会」の教科書を出版してきた扶桑社と産経新聞がこれを支援している。 一方、「つくる会」は、出版社を扶桑社から自由社に変更して2009年4月検定合格の最も新しい教科書を発行。横浜市の18地区中8地区での採択が決定した。 「つくる会」の新しい教科書の動画紹介と他社の歴史・公民教科書の問題点指摘 ⇒ 偏向教科書の正体 へ ■7.参考図書 自虐史観もうやめたい!―反日的日本人への告発状 谷沢永一 (著) 2005/06 内容もう中国・韓国に謝るな! いかにも禍々しい日本罪悪論をはじめて言い出した発頭人は誰なのか。日本の世論をミスリードしてきた「進歩的文化人」、日本罪悪論の火元12人を徹底批判。 <目次> こんな国家に誰がした ― 今も続く、スターリンの呪縛 「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家 ― 戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の煽動者 ― 日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 国民を冷酷に二分する差別意識の権化 ― 戦後民主主義の理論的指導者・丸山眞男への告発状 栄達のため、法の精神を蹂躙した男 ― 反日的日本人の第一号・横田喜三郎への告発状 金日成に無条件降伏の似非出版人 ― 進歩的文化人の差配人・安江良介への告発状 恫喝が得意な権力意識の化身 ― 「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収への告発状 祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯” ― 進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人 ― 日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 最も無責任な左翼・教条主義者 ― マスコミを左傾化させた放言家・向坂逸郎への告発状 日本を経済的侵略国家と断定する詭弁家 ― 現代の魔女狩り裁判人・坂本義和への告発状 国家間の原理を弁えない謝罪補償論者 ― ユスリ、タカリの共犯者・大江健三郎への告発状 近代日本を全否定した国賊 ― 進歩的文化人の原型・大塚久雄への告発状 ★評価書誌学者 故・谷沢永一氏による好著。青年時代に一時共産党員だった経歴を持つ著者だけに12人の国賊文化人たちへの批判が実に的確。目次だけでも読む価値あり。 物語日本史(上) (中) (下) 平泉澄(著) 講談社学術文庫『物語日本史』の序文(抜粋)(全文は「人権擁護法案マガジン・ブログ版」物語日本史(平泉澄)を読む 第1回、第2回、第3回)(略)昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二、三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。成和中学の感動の忘れがたさに、それより十数年後の昭和四十五年、時事通信社より一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純真なる少年に呼び掛ける形を取りました。当時すでに七十六歳の私は、余命計り知るべからず、これを児孫への最後の贈り物、つまり遺書として書こうとし、したがって学者らしく事実を羅列して博学を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粋を抜いて、誠実に父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠実に語ろうとして筆を執ったのでありました。(中略)願わくはこの小さき贈り物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして波静かなれ。昭和五十三年十二月十日朝 白山寒林の中にて 平泉 澄 丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 植村 和秀 (著) 柏書房 (2004/10)単行本丸山眞男といえば、進学校の学生が全共闘世代の教師に「夏休み(冬休み)の課題に『日本の思想』(岩波新書)の中の一章を読んで感想を書け」と言われて、面白くも無いヘンテコで拗けた文書を読まされて難儀するのがオチの“戦後日本を代表する政治思想家”なのだが、そうした丸山の思想に半ば洗脳されていた著者(京産大法学部教授、ドイツ政治思想史専攻)が、京都の古本屋でたまたま、丸山眞男と思想的に対極にある平泉澄の戦前の著作を手に取り、その流麗な文体・精緻な論理構成に打たれて、可能な限りの事実検証・文献検証を重ねて両者の思想的対立の根源に迫った好著。「筆者には丸山眞男も平泉澄も、その支持者の多くのように、無条件に支持することはできない。丸山には心情的には共感できるが、しかし論理的には納得できない。平泉に論理的には共感できるが、しかし心情的には納得できない。それにもかかわらず、丸山と平泉の思想史的な意義の重さと、人間的な偉大さとは、素直に承認したい。」(著者:植村氏)・・・丸山眞男的あるいは進歩派文化人的な「戦後民主主義」思想にドップリ漬かった人への解毒剤としてお勧め。また昭和初年~昭和40年頃までの日本の思想状況の本当の所を知りたい人にもお勧めしたい。「生きて皇室を守るべし。雑草を食っても生きよ」終戦前後の混乱期における平泉同学の知られざる奮起、まさに大日本帝国の殿(しんがり)としての貢献、阿南惟幾・下村定の陸軍最後の二人の陸相と平泉博士とのエピソードも興味深い。 昭和の思想 植村 和秀 (著) 講談社選書メチエ(2010/11)単行本上記『丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義』が内容的にハイレベルすぎて、初心者のみならず中級者でさえ中々に読みこなせないという難点に答えるかのように2010年秋に出版された簡潔な昭和期政治思想の概略本。内容(「BOOK」データベースより)「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。<目次>第1章 日本思想は二つ以上ある第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派第6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史 【関連】 自虐史観の正体 政治の基礎知識 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える ■8.ご意見、情報提供 ページ内容向上のためのご意見・情報提供を歓迎します。 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 元ページ 歴史問題の基礎知識 唯物的史観と唯心的史観について、大変分かりやすいサイト紹介 http //ameblo.jp/kyow2525s/entry-10968348077.html -- 名無しさん (2011-08-18 05 27 29) 佐藤卓巳による丸山・平泉体験http //www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-26.html -- 名無しさん (2011-09-27 17 38 40) 重要な関連ページ 国体とは何か② ~ その他の論点 -- ページ作成者 (2012-04-22 02 13 36) 日本資本主義論争が自虐的であるか否かについては諸説あると思うが、日本資本主義論争が隆盛を迎えた時期は、日本が世界恐慌で苦しんでいた時期と符合している。そのような苦しい時期に、その原因を探ろうとした学問的成果までもを否定する姿勢には賛同しかねる。 -- な (2012-04-23 12 45 50) CGSのじっくり学ぼう!日本近現代史、というシリーズで、ペリーに脅されて開国したわけじゃない。日本だってすごいんだ!ってことがわかりました。講師の倉山満先生は学会を滅亡させる気構えのようです。しょっちゅう、学会、教授批判が出てきますhttp //www.youtube.com/user/ChGrandStrategy -- 名無しさん (2013-06-29 18 00 06) 日韓は、世界平和のためにも、済州島4.3事件の真実を明らかにすべきだ。済州島での少女狩りが、慰安婦問題の原点だが、実際に済州島で少女狩りを実行したのは、4.3事件時の韓国兵。たくさん日本に密入国し、共産主義者として日本で暗躍した。それが、日本で、エセ平和主義運動となり、教員組合の活動となった。韓国人は、今のままでは、一生、捏造史しか知らないことに。 -- 隠蔽史が隣国には多すぎる (2013-10-27 17 07 43) 小さな事件かと思っていたが、中国の十大排華事件にはいっていた。中国人は忘れていない。韓国人は歴史って何かわかっていない。 -- 朝鮮排華 (2013-12-16 14 17 48) 倉山満no -- 名無しさん (2014-02-16 20 58 28) 倉山満の歴史講義を見よう -- 名無しさん (2014-02-16 20 59 09) CGS 倉山満 日本近現代史 で検索 -- 名無しさん (2014-04-23 21 43 12) 津田左右吉と、平泉澄を同じ分類にするのは無理があると思う。津田は、欠史八代どころか、欠史十三代とまで言っている。神功皇后の征服事業も否定しているし、それが理由で弾圧された。津田は、確かに反マルクス主義者ではあったけど、皇国史観の持ち主かと言われるとそうではない。 -- 名無しさん (2014-12-16 13 42 11) 自分に都合の悪いような記述はアレルギー起こして火病。このサイト制作者みたいな低能に保守は名乗ってほしくないですねぇ。歴史は内にも外にも批判的に見ましょうね。 -- 名無しさん (2015-12-04 18 23 40) 以下は最新コメント表示 元ページ 歴史問題の基礎知識 唯物的史観と唯心的史観について、大変分かりやすいサイト紹介 http //ameblo.jp/kyow2525s/entry-10968348077.html -- 名無しさん (2011-08-18 05 27 29) 佐藤卓巳による丸山・平泉体験http //www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-26.html -- 名無しさん (2011-09-27 17 38 40) 重要な関連ページ 国体とは何か② ~ その他の論点 -- ページ作成者 (2012-04-22 02 13 36) 日本資本主義論争が自虐的であるか否かについては諸説あると思うが、日本資本主義論争が隆盛を迎えた時期は、日本が世界恐慌で苦しんでいた時期と符合している。そのような苦しい時期に、その原因を探ろうとした学問的成果までもを否定する姿勢には賛同しかねる。 -- な (2012-04-23 12 45 50) CGSのじっくり学ぼう!日本近現代史、というシリーズで、ペリーに脅されて開国したわけじゃない。日本だってすごいんだ!ってことがわかりました。講師の倉山満先生は学会を滅亡させる気構えのようです。しょっちゅう、学会、教授批判が出てきますhttp //www.youtube.com/user/ChGrandStrategy -- 名無しさん (2013-06-29 18 00 06) 日韓は、世界平和のためにも、済州島4.3事件の真実を明らかにすべきだ。済州島での少女狩りが、慰安婦問題の原点だが、実際に済州島で少女狩りを実行したのは、4.3事件時の韓国兵。たくさん日本に密入国し、共産主義者として日本で暗躍した。それが、日本で、エセ平和主義運動となり、教員組合の活動となった。韓国人は、今のままでは、一生、捏造史しか知らないことに。 -- 隠蔽史が隣国には多すぎる (2013-10-27 17 07 43) 小さな事件かと思っていたが、中国の十大排華事件にはいっていた。中国人は忘れていない。韓国人は歴史って何かわかっていない。 -- 朝鮮排華 (2013-12-16 14 17 48) 倉山満no -- 名無しさん (2014-02-16 20 58 28) 倉山満の歴史講義を見よう -- 名無しさん (2014-02-16 20 59 09) CGS 倉山満 日本近現代史 で検索 -- 名無しさん (2014-04-23 21 43 12) 津田左右吉と、平泉澄を同じ分類にするのは無理があると思う。津田は、欠史八代どころか、欠史十三代とまで言っている。神功皇后の征服事業も否定しているし、それが理由で弾圧された。津田は、確かに反マルクス主義者ではあったけど、皇国史観の持ち主かと言われるとそうではない。 -- 名無しさん (2014-12-16 13 42 11) 自分に都合の悪いような記述はアレルギー起こして火病。このサイト制作者みたいな低能に保守は名乗ってほしくないですねぇ。歴史は内にも外にも批判的に見ましょうね。 -- 名無しさん (2015-12-04 18 23 40) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています!
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「 我々を歴史から引き離す理由を捜し索めんが為めのみに歴史を学ぶ 」 ~ ブルュンティエール(仏批評家 1899年講演 「仏蘭西精神の敵」) <目次> ■1.はじめに ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界<参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図◆1.歴史認識:見取り図 ◆2.用語解説◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観)参考1:神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠(讖緯説・辛酉革命説) 参考2:欠史八代の実在性(稲荷山古墳鉄剣銘文) ◇(2)皇国美化史観参考1:用語解説 ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観)<1>唯物史観とは:概説 <2>日本資本主義論争「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) ◇(4)自由主義史観 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力(参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) ◆3.日教組の洗脳教育 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.はじめに 近現代史は政治そのものであり、古代史ですら現代政治を抜きにして語れない。現在、主流を占める歴史認識(あるいは現在の歴史教科書の記述)が正しくて、今後もその認識がそのまま続くとは誰も保証できないことは、戦前~戦後の日本の歴史教育の変転をみても、近隣諸国の歴史教育の有様を見ても明らかである。 これを踏まえて、近代以降の日本における歴史認識問題の基本構図をここで一旦まとめておく。 なお、南京虐殺問題や慰安婦問題、満州事変・支那事変や大東亜戦争の性格といった個別の論点は、各々の専用ページを参照されたい。 ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)2/3 ◇『論語』子路第十三の十八葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之を證す。孔子曰わく、吾が黨の直(なお)き者は是に異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り。 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)3/3 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界 大東亜戦争敗戦後に、後述の羽仁五郎(マルクス主義歴史学者・初代日教組代表・革新系参議院議員)を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきた歴史学研究会(マルクス主義史観の歴史学者の学術団体)が、ソ連崩壊後の1993年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの発言をここで一度しっかり確認しておこう。 <参考1> 歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念 -1993年5月刊行- はじめに -批判的史学をめざして-1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。・・・歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。1993年3月 委員長 西川 正雄 ※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 ※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。こんなトンデモ団体が未だに跋扈しているのが日本の史学界の現状である。 <参考2> 歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念 -2002年12月刊行- あとがき(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 ※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図 満州事変・支那事変や大東亜戦争といった日本の戦争は侵略戦争だったのか否か、いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦は事実だったのか否かetc.といった個々の歴史問題の背景に、より大きな構図として、戦前から続く歴史学者間の歴史認識(史観)の対立、より具体的にいうと、 ① 日本の歩みを常に肯定的に捉える正統史観(後述のように戦後は左翼からのレッテルとして“皇国史観”と蔑称された史観) と、 ② 日本の歩みを常に否定的に捉えるマルクス主義史観(戦後は“東京裁判史観”とも呼ばれ、また近年は特に批判者から“自虐史観”と蔑称されている史観) の対立がある。 ◆1.歴史認識:見取り図 戦前~戦中 (『國史』教科書時代) 敗戦 戦後 (『日本史』教科書時代) 保守 皇国史観(皇国護持史観)・那珂通世(神武天皇即位紀元に関する讖緯説(辛酉革命説)を提唱)・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講)・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビュー第二回【天皇と憲法】の中で博士を理不尽なまでに激しく糾弾した。⇒NHKの正体・上級編参照)・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、津田氏本人は「唯物史観などは学問じゃありません」と猛反発し否定、逆に皇室擁護の論陣を張っている) ⇒ 保守 正統史観(正統史学)・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた)・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献)・大原康夫・高森明勅 右翼 皇国美化史観・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ)・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者)・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者) 消滅 自由主義 自由主義史観・藤岡信勝・西尾幹二 ‡唯物史観への対抗イデオロギーとして出現 ‡過度の自虐史観への反動として出現 左翼 唯物史観(マルクス主義史観)・羽仁五郎(講座派)・井上清(講座派、のち共産党員)・土屋喬雄(労農派) ⇒ 左翼 東京裁判史観(自虐史観)・羽仁五郎(日教組代表、参院議員)・井上光貞・家永三郎・色川大吉・直木孝次郎・ 丸山眞男 (政治学者、隠れマルクス主義者) ◆2.用語解説 (1)皇国史観(皇国護持史観・正統史観) (2)皇国美化史観 (3)マルクス主義史観(唯物史観・東京裁判史観・自虐史観) (4)自由主義史観 について順に解説する。 ◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観) ※皇国史観(正統史観)とは何か 古事記/日本書紀以来の日本の正統な歴史伝承・歴史事実に基づく史観。(ページ下に参考図書あり) 当然ながら記紀を日本民族の大切な伝承として扱い、これを否定しない。 神武天皇即位紀元が過大に引き伸ばされている件については、讖緯説(辛酉革命説)に基づく年代設定と解釈している。(那珂通世の説)(参考1)。 初代神武天皇から第十代崇神天皇までの間の所謂「欠史八代」については、戦後発見された稲荷山古墳鉄剣銘文に第八代孝元天皇の皇子大彦命と解釈できる人物が見えることから、唯物史観派のいうように頭から欠史八代の実在を否定するのは不当と主張している。(参考2) 記紀成立後、六国史編纂を経て、神皇正統紀、大日本史さらに江戸時代後期の国学の成果を踏まえて、明治以降の国史学に至る。 なお、平成12年の森首相(当時)の「神の国」発言(日本は天皇を中心とした神の国である、とする発言)は、この伝統的な日本人の国家観・歴史観の素朴な表現と思われる。 参考1: 神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠 (讖緯説・辛酉革命説) 干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。 参考2: 欠史八代の実在性 (稲荷山古墳鉄剣銘文) 稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1)稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比魁(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比魁(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比魁(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比魁(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする ◇(2)皇国美化史観 明治末以降に、皇国史観(正統史観)に加上する形で民間に発生。 提唱者は意外にも仏教系が多く(田中智学は日蓮宗系、加藤玄智は浄土真宗系)、明治維新により疎外感を抱いた一部仏教界の過剰な擦り寄りとも解釈できる。 1930年前後の経済恐慌期に、①アジア主義・②国家社会主義と結びつき、マルクス主義の対抗イデオロギーとして急速に流布(この時期の代表的イデオローグは大川周明)。 また、田中智学の造語「八紘一宇」は、大東亜戦争のスローガンとなった。 大東亜戦争の敗戦により史観としての存立基盤は消滅したが、戦後も無自覚のうちにこのイデオロギーに影響された言説を唱える者は多い。 5.15事件など青年将校の暴発を引き起こす思想的背景をなし、また天皇機関説事件/津田左右吉博士筆禍事件などの過激行為の源として批判されるべきは、この(マルクス主義とはコインの裏表の関係の)皇国美化史観の方であるが、戦後、左翼側は是と本来の皇国史観(皇国護持史観・正統史観)をワザと混同し、皇室否定論・日本悪玉論に強引に結び付ける執拗なネガティブ・キャンペーンを繰り返している。 ⇒ 政治の基礎知識 右翼・左翼の歴史 NHKの正体・上級編 参照 参考1:用語解説 「皇国史観」 (赤旗より引用)という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『 近代日本の国体論 』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。そして、その内容としては、 ①国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、②アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ (昆野氏論文)の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした①、と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した②、をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。これに関して平泉澄博士の門下生の田中卓博士は、 「一概に皇国史観といってもそれは、・・・①平泉史学による「皇国護持史観」と、②戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある」 と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ 「正統史観」 であると述べている。なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、 1 彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた①平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、 2 国家改造とアジア解放を唱えた②は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。(そうする勇気など、とてもないだろうが) ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観) ※唯物史観(マルクス主義史観)とは何か <1>唯物史観とは:概説 カール・マルクスが、普遍的な歴史発展法則として提唱したもので、下部構造(経済関係)が上部構造(歴史の展開)を規定すると見る歴史観である。 人類の歴史の発展段階として、①原始共産制社会→②古代奴隷制社会→③中世封建制社会(農奴(コロヌス)が生産に従事)→④近世重商主義社会(絶対王制)→⑤近代資本主義社会(ブルジョワ革命により絶対王制を打破=第一革命)→⑥プロレタリア革命(=第二革命)による社会主義社会の到来→⑦共産主義社会への移行、を想定した。 最終的に、プロレタリア(労働者階級)がブルジョワ(資本家階級)を打倒する、という意味で「階級闘争史観」ともいう。 明治維新以降の日本資本主義の性格規定と、日本に来るべき革命の形態(第一革命か第二革命か)を巡って、以下の論争が行われた。 <2>日本資本主義論争 「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 講座派とは、1925-35年頃、マルクス主義経済学者・史学者を二分した日本資本主義論争において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に日教組代表・参議院議員となり国会図書館法前文を起草)、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 ※このようにマルクス主義者が二派に別れて論争した事が、戦後に日本共産党・日本社会党(左派)の二つの階級政党が並立して社会主義(共産主義)革命を目指す原因となった。 ◇(4)自由主義史観 後述 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行 ◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力 日本の「民主化」を旗印に掲げるGHQは、羽仁五郎など戦前からのマルクス主義者を利用し、日本の歴史教育の「改革」を強引に推し進めていった。 戦前は小学生にも必修であった「国史」を廃止し、社会科の一分野として「歴史」(中学校)「日本史」(高校)を設定。新制中学の教科として新たに「公民」教育を導入し、「歴史」より優先的に教育することとした。 日本国憲法/教育基本法の理念を日本人学童/学生に押し付ける組織として教員組合の結成を指令した(のちの日教組) 国会図書館法を制定しGHQ焚書を実行。連合国にとって都合の悪い書籍を隠蔽・抹殺したと思われる。 (参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) マルクス主義史観最大のイデオローグで、昭和20年3月に北京で逮捕され東京で収監されていたが、GHQにより釈放(出獄)された。その直後から猛烈な皇室否定・廃止論を発表。更にGHQの後ろ盾で日教組代表となり、その組織票で参議院議員に当選。GHQの指令を受けて国立国会図書館の設立に関与し連合国にとって不都合な図書の隠滅(GHQ焚書)に協力したとされる。現在の 国立国会図書館法 の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」は羽仁五郎の起草である。 (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) 歴史教科書から古代の皇室の記述を大幅に削除し、皇室の起源を応神天皇(のち崇神天皇)など出来る限り遅い時代に設定する学説を打ち立てたが、最晩年には自説に無理があることを認めたといわれる。なお井上光貞の全集第11巻「私と古代史学」(岩波書店)にアメリカ人学者から「日本の史学者はマルクス主義史観一辺倒・結論先にありきに陥っている」と批判されたことを告白するエッセーが載っている。また山川出版の「高校日本史」教科書(1951年の初版)や中公文庫の「日本の歴史」の古代史は井上が根本部分を執筆している。 (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) 東大国史学科で平泉澄博士の最後の教え子の一人だったが、終戦後にあっさり転向して当時公職追放の身となっていた恩師を「狂信的な皇国史観の指導者」として猛烈に批判した(公正な学問的批判ではなく平泉博士への卑劣な人格攻撃だったとされる)。小田実(ベトナム反戦運動で活躍したが、近年KGBのエージェントだった事が判明)と共に日市連(昭和天皇の闘病中に「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」と書かれた横断幕を掲げて都心でデモを行ったサヨク市民団体)の共同代表を務めた。現在でも毎日新聞に自虐的な歴史観を披露した記事がよく掲載される。中公文庫「日本の歴史」の近代史の執筆者の一人。 WIKIPEDIA ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) 日本の歴史を肯定的に捉えようとする学術研究者・教育者は、GHQによって容赦なく公職追放・教職追放され、東大を始めとする有名大学の史学部や学術書籍の出版社(岩波書店・中央公論社など)はマルクス主義者(唯物史観派)が制圧した。 彼らは、反対派との正々堂々の議論は徹底的に回避し、マスコミの支援で一般国民に一方的に自らの史観を刷り込む活動に専念した。 唯物史観派は、「実証主義」の名目で、古事記/日本書紀の上古の伝承を完全に否定し教科書への記載も廃止した(井上光貞の説明参照)。 その結果、日本の歴史教科書の記述は古代の農村遺跡などの記述や、中国の史書からの引用で始まる諸外国と較べて特異な形態となった。 また皇室の起源としては、応神天皇を最古の実在した天皇とする説、崇神天皇を最古の実在した天皇とする説、騎馬民族到来説、朝鮮王族侵入説など様々な新説が提唱された。 明治維新以降の記述については、征韓論から以降、一貫して侵略史観に染まった内容となった。 ◆3.日教組の洗脳教育 1945年12月の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。 日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。ここでもマルクス主義史学者の羽仁五郎が代表に就任。 ⇒ 参考 GHQの占領政策と影響 日教組の正体 「階級闘争」「抵抗教育」「革命運動」を実践し、日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動を行う。 学童/学生に「平和教育」を施し、自虐史観を刷り込む。 「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」(1947年、日教組結成大会での宣言) 「一人々々の組合員が自らのプチブル的傾向を脱皮し教育界に温存されている封建的残滓を打破して階級的立場を明確にし、分会、地区、府県、地域、中央へと日常闘争を進めることによって初めて日教組の組織は強化されるのである」(1949年、日教組第五回定期大会の運動方針) 「日本教職員組合の運動方針には『教育労働者として階級的立場を明らかにして闘う』と書いてありますが、われわれはそのように、日本の貧しい人々、つまり、労働者の側に立って、日本の横暴な資産階級のわがままと闘うのであります」(1953年、日教組のパンフレット『新しく教師となった人々に』) 日教組が発足する前年の1946年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされる。 自社55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いている。 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 鈴木善幸首相/宮沢喜一官房長官の在任中の1980年に歴史教科書問題が発生。教科書検定基準に「近隣諸国条項」が追加された。 出鱈目な史観を学生に押し付け続けたツケとして、史学部進学者/新進歴史学者の劣化が進行 近年において、注目すべき歴史論・国家論を著した人物に歴史学者は皆無であり、こうした異常な歴史認識に囚われていない英文学者・数学者・経済学者などから返って有力な歴史論・国家論が発表されている。 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動 上記のような圧倒的な唯物史観派(自虐史観派)の優勢に対抗して、トップの動画にあるような日本の伝統的な歴史観・国家観を守ろうとする活動も存在した。 ◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 津田左右吉氏は、邪馬台国北九州説を主張した東洋史学者の白鳥庫吉氏の高弟で、白鳥を介して那珂通世氏の孫弟子にあたる。 戦前に古事記/日本書紀の文献批判を通じて神武東征に疑問を表明する等、記紀の神話部分は後世の潤色が強いとする説(津田学説)を表明したことから、右翼急進派から皇室冒涜として攻撃を受け、1940(昭和15)年に著書4冊が発禁処分、津田氏は早大教授を辞職し、著書出版元の岩波茂雄と共に出版法違反で起訴されるに至った(津田左右吉博士筆禍事件。1942(昭和17)年一審で禁錮3ヶ月/執行猶予2年の有罪判決、但し1944(昭和19)年控訴審で免訴)。 終戦後、GHQの解放指令により出獄した羽仁五郎氏らマルクス主義史学者は、歴史学研究会(歴研)の再建(実際には唯物史観派による乗っ取り)にあたって、当時岩手県に疎開していた史学者として信用の高い津田博士を会長に担ぎ上げようとした。 ところが津田博士は、GHQ進駐直後に始まった羽仁五郎氏らの岩波書店・毎日新聞を通じた反天皇キャンペーンに吃驚し、むしろ危惧を深めており、羽仁氏から派遣された井上清氏(羽仁の弟子で歴史学者・共産党員)の会長就任の懇願を即座に拒否したばかりか、岩波書店の雑誌『世界』1946(昭和21)年4月号に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表して、極めて情熱的な皇室擁護論を展開し、マルクス主義史観(唯物史観)に傾く史学界に痛烈な打撃を与えた。 唯物史観派は、現在でも自分たちの皇室否定論・記紀否定論の起源を戦前の津田学説に置く姿勢を見せる(wikipediaにもそのように記述されている)が、実際には津田博士の学説は、神武東征などの記紀の伝承に疑問を表明しているものの、初代天皇としての神武天皇以下の初期の天皇の実在性自体を否定する説ではなく(津田博士自身が繰り返し、そう明言している)、戦後に流布した羽仁五郎氏や家永三郎氏・井上光貞氏らの記紀否定論は、津田学説を換骨奪胎したエセ学説といえる。 津田学説を踏み台として、戦後に皇室の起源を極力後代に置き、古事記/日本書紀の記述(特に初期の天皇の実在性)を否定する学説を提唱した井上光貞氏は、晩年の津田氏について「博士は既に老齢に入っておられ、あまりにも急激に変転しつつある時代とともに進む柔軟性を失っていられた」と評したが、井上光貞氏自身が、その最晩年に、自分の学説は(余りにも唯物史観の演繹的手法に囚われて、最新の考古学的成果や文献考証に照らして)無理がある、と認めている。 しかし井上光貞氏の学説を更に踏み台として、様々な皇室否定論・唯物史観に基づく学説を発表していた戦後史学界の主流は、津田氏の皇室擁護・唯物史観批判ばかりか、この井上光貞氏の自説撤回をも無視したまま現在に至っている。 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 1951(昭和26)年、吉田茂首相が「講和後、紀元節を復活したい」と表明。GHQによって廃止された紀元節の復活(神武天皇即位の日と伝承のある2月11日の祝日化)運動が始まる。 唯物史観派は、8月革命説を信奉し、戦後日本は戦前とは別の国家だとして、紀元節を祝日として復活することに総力で反対した。 ※日本社会党(もとの労農派)は、日本国憲法施行日(5月3日、現在の憲法記念日)を「新日本建国の日」として、これで十分と主張。 ※日本共産党(もとの講座派)は、現在の日本はまだ天皇制と米帝が支配しており、真の建国は人民が将来革命によって勝ち取る、として「建国記念日」の制定自体に反対。 正統史観派および一般国民・政府は、戦前の紀元節を建国記念日として祝日に復活させることを要望していた(根底に、戦前~戦後を通じて国体は護持されたとの認識があった)。 長期の紛糾の末、1966(昭和41)年6月に、「建国記念日」を「建国記念の日」と名称変更して与野党で祝日復活することをようやく決議。 しかし井上光貞氏を始めとする唯物史観派は「非科学的な“建国の日”に反対する」と、わざと文言を摩り替えて反対を続けた。(「建国記念の日」は、日本の建国を記念する日であり、必ずしも歴史的事実としての建国日ではないことに注意。) ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として 村山富市社会党首相による村山談話が出された翌年の1996年、自虐史観の行き過ぎに対する反動から藤岡信勝氏の提唱で「新しい教科書をつくる会」が結成され、西尾幹二氏らが参加。 「自虐史観にも大東亜戦争肯定史観にも囚われない新しい教科書を作る」との方針の下、中学の歴史分野と公民分野の教科書を作成し、2001年4月と2005年4月の文部科学省の検定にも合格したが、左翼団体の激しい教科書採択反対運動がおこり、実際にこの教科書を採用する学校は非常に少なかった。 しかし一般図書として販売された教科書と同一内容の本が売れ、その内容のまともさと共に、これに反対する左翼団体の異様さが広く一般国民に知られるようになり、他の一般に採用されている教科書の内容の一部正常化に繋がった(「従軍慰安婦」や「南京大虐殺30万人」の記述の取り止めなど)。 藤岡信勝氏など代表的メンバーは実は左派からの転向者が多く、高森明勅氏が理事に名を連ねるなど人材の交流はあるものの正統史観(正統史学)派とは区別する必要がある。(「つくる会」は一般には保守系団体と見做される場合が多いが、当サイトでは敢えて「リベラル(自由主義)」と分類している。) 左派からの転向者が多い(代表の藤岡氏自身が元共産党員)ことが一つの原因となって、「つくる会」内部で教科書の執筆方針を巡って残念ながら、度々内紛が発生している。 屋山太郎氏ら親米保守(親英米派)のメンバーが2007年に「つくる会」から脱退し「教科書改善の会」を結成。従来「つくる会」の教科書を出版してきた扶桑社と産経新聞がこれを支援している。 一方、「つくる会」は、出版社を扶桑社から自由社に変更して2009年4月検定合格の最も新しい教科書を発行。横浜市の18地区中8地区での採択が決定した。 「つくる会」の新しい教科書の動画紹介と他社の歴史・公民教科書の問題点指摘 ⇒ 偏向教科書の正体 へ ■7.参考図書 自虐史観もうやめたい!―反日的日本人への告発状 谷沢永一 (著) 2005/06 内容もう中国・韓国に謝るな! いかにも禍々しい日本罪悪論をはじめて言い出した発頭人は誰なのか。日本の世論をミスリードしてきた「進歩的文化人」、日本罪悪論の火元12人を徹底批判。 <目次> こんな国家に誰がした ― 今も続く、スターリンの呪縛 「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家 ― 戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の煽動者 ― 日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 国民を冷酷に二分する差別意識の権化 ― 戦後民主主義の理論的指導者・丸山眞男への告発状 栄達のため、法の精神を蹂躙した男 ― 反日的日本人の第一号・横田喜三郎への告発状 金日成に無条件降伏の似非出版人 ― 進歩的文化人の差配人・安江良介への告発状 恫喝が得意な権力意識の化身 ― 「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収への告発状 祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯” ― 進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人 ― 日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 最も無責任な左翼・教条主義者 ― マスコミを左傾化させた放言家・向坂逸郎への告発状 日本を経済的侵略国家と断定する詭弁家 ― 現代の魔女狩り裁判人・坂本義和への告発状 国家間の原理を弁えない謝罪補償論者 ― ユスリ、タカリの共犯者・大江健三郎への告発状 近代日本を全否定した国賊 ― 進歩的文化人の原型・大塚久雄への告発状 ★評価書誌学者 故・谷沢永一氏による好著。青年時代に一時共産党員だった経歴を持つ著者だけに12人の国賊文化人たちへの批判が実に的確。目次だけでも読む価値あり。 物語日本史(上) (中) (下) 平泉澄(著) 講談社学術文庫『物語日本史』の序文(抜粋)(全文は「人権擁護法案マガジン・ブログ版」物語日本史(平泉澄)を読む 第1回 、 第2回 、 第3回 )(略)昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二、三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。成和中学の感動の忘れがたさに、それより十数年後の昭和四十五年、時事通信社より一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純真なる少年に呼び掛ける形を取りました。当時すでに七十六歳の私は、余命計り知るべからず、これを児孫への最後の贈り物、つまり遺書として書こうとし、したがって学者らしく事実を羅列して博学を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粋を抜いて、誠実に父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠実に語ろうとして筆を執ったのでありました。(中略)願わくはこの小さき贈り物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして波静かなれ。昭和五十三年十二月十日朝 白山寒林の中にて 平泉 澄 丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 植村 和秀 (著) 柏書房 (2004/10)単行本丸山眞男といえば、進学校の学生が全共闘世代の教師に「夏休み(冬休み)の課題に 『日本の思想』(岩波新書) の中の一章を読んで感想を書け」と言われて、面白くも無いヘンテコで拗けた文書を読まされて難儀するのがオチの“戦後日本を代表する政治思想家”なのだが、そうした丸山の思想に半ば洗脳されていた著者(京産大法学部教授、ドイツ政治思想史専攻)が、京都の古本屋でたまたま、丸山眞男と思想的に対極にある平泉澄の戦前の著作を手に取り、その流麗な文体・精緻な論理構成に打たれて、可能な限りの事実検証・文献検証を重ねて両者の思想的対立の根源に迫った好著。「筆者には丸山眞男も平泉澄も、その支持者の多くのように、無条件に支持することはできない。丸山には心情的には共感できるが、しかし論理的には納得できない。平泉に論理的には共感できるが、しかし心情的には納得できない。それにもかかわらず、丸山と平泉の思想史的な意義の重さと、人間的な偉大さとは、素直に承認したい。」(著者:植村氏)・・・丸山眞男的あるいは進歩派文化人的な「戦後民主主義」思想にドップリ漬かった人への解毒剤としてお勧め。また昭和初年~昭和40年頃までの日本の思想状況の本当の所を知りたい人にもお勧めしたい。「生きて皇室を守るべし。雑草を食っても生きよ」終戦前後の混乱期における平泉同学の知られざる奮起、まさに大日本帝国の殿(しんがり)としての貢献、阿南惟幾・下村定の陸軍最後の二人の陸相と平泉博士とのエピソードも興味深い。 昭和の思想 植村 和秀 (著) 講談社選書メチエ(2010/11)単行本上記『 丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 』が内容的にハイレベルすぎて、初心者のみならず中級者でさえ中々に読みこなせないという難点に答えるかのように2010年秋に出版された簡潔な昭和期政治思想の概略本。内容(「BOOK」データベースより)「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。<目次>第1章 日本思想は二つ以上ある第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派第6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史 【関連】 自虐史観の正体 政治の基礎知識 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える ■8.ご意見、情報提供 ページ内容向上のためのご意見・情報提供を歓迎します。 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 元ページ 歴史問題の基礎知識 唯物的史観と唯心的史観について、大変分かりやすいサイト紹介 http //ameblo.jp/kyow2525s/entry-10968348077.html -- 名無しさん (2011-08-18 05 27 29) 佐藤卓巳による丸山・平泉体験http //www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-26.html -- 名無しさん (2011-09-27 17 38 40) 重要な関連ページ 国体とは何か② ~ その他の論点 -- ページ作成者 (2012-04-22 02 13 36) 日本資本主義論争が自虐的であるか否かについては諸説あると思うが、日本資本主義論争が隆盛を迎えた時期は、日本が世界恐慌で苦しんでいた時期と符合している。そのような苦しい時期に、その原因を探ろうとした学問的成果までもを否定する姿勢には賛同しかねる。 -- な (2012-04-23 12 45 50) CGSのじっくり学ぼう!日本近現代史、というシリーズで、ペリーに脅されて開国したわけじゃない。日本だってすごいんだ!ってことがわかりました。講師の倉山満先生は学会を滅亡させる気構えのようです。しょっちゅう、学会、教授批判が出てきますhttp //www.youtube.com/user/ChGrandStrategy -- 名無しさん (2013-06-29 18 00 06) 日韓は、世界平和のためにも、済州島4.3事件の真実を明らかにすべきだ。済州島での少女狩りが、慰安婦問題の原点だが、実際に済州島で少女狩りを実行したのは、4.3事件時の韓国兵。たくさん日本に密入国し、共産主義者として日本で暗躍した。それが、日本で、エセ平和主義運動となり、教員組合の活動となった。韓国人は、今のままでは、一生、捏造史しか知らないことに。 -- 隠蔽史が隣国には多すぎる (2013-10-27 17 07 43) 小さな事件かと思っていたが、中国の十大排華事件にはいっていた。中国人は忘れていない。韓国人は歴史って何かわかっていない。 -- 朝鮮排華 (2013-12-16 14 17 48) 倉山満no -- 名無しさん (2014-02-16 20 58 28) 倉山満の歴史講義を見よう -- 名無しさん (2014-02-16 20 59 09) CGS 倉山満 日本近現代史 で検索 -- 名無しさん (2014-04-23 21 43 12) 津田左右吉と、平泉澄を同じ分類にするのは無理があると思う。津田は、欠史八代どころか、欠史十三代とまで言っている。神功皇后の征服事業も否定しているし、それが理由で弾圧された。津田は、確かに反マルクス主義者ではあったけど、皇国史観の持ち主かと言われるとそうではない。 -- 名無しさん (2014-12-16 13 42 11) 自分に都合の悪いような記述はアレルギー起こして火病。このサイト制作者みたいな低能に保守は名乗ってほしくないですねぇ。歴史は内にも外にも批判的に見ましょうね。 -- 名無しさん (2015-12-04 18 23 40) 以下は最新コメント表示 元ページ 歴史問題の基礎知識 唯物的史観と唯心的史観について、大変分かりやすいサイト紹介 http //ameblo.jp/kyow2525s/entry-10968348077.html -- 名無しさん (2011-08-18 05 27 29) 佐藤卓巳による丸山・平泉体験http //www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-26.html -- 名無しさん (2011-09-27 17 38 40) 重要な関連ページ 国体とは何か② ~ その他の論点 -- ページ作成者 (2012-04-22 02 13 36) 日本資本主義論争が自虐的であるか否かについては諸説あると思うが、日本資本主義論争が隆盛を迎えた時期は、日本が世界恐慌で苦しんでいた時期と符合している。そのような苦しい時期に、その原因を探ろうとした学問的成果までもを否定する姿勢には賛同しかねる。 -- な (2012-04-23 12 45 50) CGSのじっくり学ぼう!日本近現代史、というシリーズで、ペリーに脅されて開国したわけじゃない。日本だってすごいんだ!ってことがわかりました。講師の倉山満先生は学会を滅亡させる気構えのようです。しょっちゅう、学会、教授批判が出てきますhttp //www.youtube.com/user/ChGrandStrategy -- 名無しさん (2013-06-29 18 00 06) 日韓は、世界平和のためにも、済州島4.3事件の真実を明らかにすべきだ。済州島での少女狩りが、慰安婦問題の原点だが、実際に済州島で少女狩りを実行したのは、4.3事件時の韓国兵。たくさん日本に密入国し、共産主義者として日本で暗躍した。それが、日本で、エセ平和主義運動となり、教員組合の活動となった。韓国人は、今のままでは、一生、捏造史しか知らないことに。 -- 隠蔽史が隣国には多すぎる (2013-10-27 17 07 43) 小さな事件かと思っていたが、中国の十大排華事件にはいっていた。中国人は忘れていない。韓国人は歴史って何かわかっていない。 -- 朝鮮排華 (2013-12-16 14 17 48) 倉山満no -- 名無しさん (2014-02-16 20 58 28) 倉山満の歴史講義を見よう -- 名無しさん (2014-02-16 20 59 09) CGS 倉山満 日本近現代史 で検索 -- 名無しさん (2014-04-23 21 43 12) 津田左右吉と、平泉澄を同じ分類にするのは無理があると思う。津田は、欠史八代どころか、欠史十三代とまで言っている。神功皇后の征服事業も否定しているし、それが理由で弾圧された。津田は、確かに反マルクス主義者ではあったけど、皇国史観の持ち主かと言われるとそうではない。 -- 名無しさん (2014-12-16 13 42 11) 自分に都合の悪いような記述はアレルギー起こして火病。このサイト制作者みたいな低能に保守は名乗ってほしくないですねぇ。歴史は内にも外にも批判的に見ましょうね。 -- 名無しさん (2015-12-04 18 23 40) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています!
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陸奥国 会津郡 滝沢組 滝沢(たきさは)村 大日本地誌大系第31巻 12コマ目 村東の山中に白糸滝とて佳景(かけい)の瀑布あり。この村その下流にある故(ゆえ)滝沢村という。 旧3町計西にあり。文禄4年(1595年)今の地に移せしという。 府城の東北に当り行程26町余。 家数57軒、東西4町2間・南北1町27間。 白川街道を夾み南北両頬に住す。 東は山に倚り西は牛墓村にて続て1村の如く。 南北は田圃(たんぼ)なり。 村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。 東13町54間金堀村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り17町50間余。 南4町30間本郡南青木組慶山村の界に至る。その村まで9町10間余。 北11町12間長原新田村の界に至る。その村まで17町30間。 また 戌(西北西)の方9町10間藤原村の界に至る。その村まで11町10間。 村中に1里塚あり。 端村 中島(なかしま) 本村の北3町40間余にあり。 家数4軒、東西25間・南北25間。 4方田圃(たんぼ)なり 北滝沢(きたたきさは) 中島の北1町にあり。 家数26軒、東西1町59間・南北1町34間。 4方田圃(たんぼ)にて、東西北は山に近し 小名 大杉新田(おほすぎしんでん) 北滝沢より辰(東南東)の方1里余、山奥にあり。 家数4軒、東西40間・南北40間、高山の中腹にあり。 昔この地にに大なる杉樹あり。因ってこの称ありとぞ。 金堀小屋 石盛(いしがもり) 本村より丑寅(北東)の方28町山中にあり。 家居1軒渓流に傍で住す。 慶長8年(1603年)この地の山より金を採初め、年を累(かさ)ねて繁昌(はんじょう)し、諸国より人多く集まり小数1700軒に至れり。その後盛衰あれども寛文の頃(1661年~1673年)までは猶(なお)56軒男女200余人集まれりとぞ。 山川 飯盛山(いひもりやま) 村より辰巳の方にあり。 頂まで3町50間、松樹雑木茂れり。 西の麓に宗像の神社あり(宗像神社の条下に詳なり) 法眼山(ほうげんやま) 村より辰巳(南東)の方14町30間にあり。 頂まで20町余。 南は原組赤井村の山に連なる。 葦名盛隆の頃(1580年~1584年頃か?)糟尾宗頥という医師あり。先祖は野州の産にして松浦氏なしりが、糟尾村を領せるより糟尾を氏とせしとぞ。宗頥盛隆のために織田信長の方に使せしに旨に称て法眼に任ぜらる。仍(よっ)て盛隆もその労を賞しこの山を与へき。故にこの名あり。 松樹多し。 高山(たかやま)(大杉山) 村より辰巳(南東)の方1里にあり。 頂まで29町計。 東は赤井村の山に続く。 松樹雑木多し。 境内にこの山に並べる高山なし、因って名くという。 また、大杉山ともいう。 大塚山(おほつかやま) 端村北滝沢の西1町40間余にあり。 高48間、周10町。 離れ山にて田圃(たんぼ)の中にあり。 いつの頃にか大塚某(なにがし)という者住せる故名けりという。また、葦名の頃石塚某という者も住せしとぞ。 北の腰に馬場・的場等の字(あざ)残れり。また、昔南の中腹に蝦夷穴(えぞあな)とて9尺4方計の洞1つ、小き洞5つありしに漸々に崩れて貞享の頃(1684年~1688年)まで尚1つありしとぞ。今はそれも崩れて只跡のみあり。 一箕山(いつきやま) 村より戌亥(北西)の方6町30間田圃(たんぼ)の中にあり。 高10間、周6町50間。 頂に八幡宮の社あり(八幡宮の条下と照見るべし)。 小山(こやま) 北滝沢より寅(東北東)の方2町にあり。 頂まで20間計。 西南の方限界広く土地草木美なる故、肥後守正之この地を択で士民の葬地とす。 元禄中(1688年~1704年)肥後守正容、中峯に標石を建つ。高6尺に1尺3寸四面。 銘あり。その分如左 自是南至畠境貳十一間自是北至畠境貳十貳間自是東至瀧澤山境百七間自是西至小敷澤路百貳十五間 右小山葬地界限寛文四年甲辰九月晦日 先君中将源公始教士民禁火化仍所置之者也元禄四年辛未六月廿八日表之 ※原文も参照のこと 石盛山(いしがもりやま) 金堀小屋石盛の西にあり。 高13丈、周3町余。 巨石を積み累ぬるが如く形状螺髻に似たりとて螺髻山(かさつふりやま)ともいう(かさつふりは蝸牛の方言なり)。 西南の隅より小径をつたえて頂に至の外に攀?るべき路なし。 4面に対し並べる諸山は皆山勢(さんせい)陵夷(りょうい)にて松樹叢莽(そうもう)なれども、この山のみ巉巌(ざんがん)孤立して大樹なく草木稀に巌間(いわま)にあり。 近隣に並びなき奇観(きかん)なり。 麓はこれより北を経(へ)西に廻って数町の間は大抵平地の如くにて、漸々(ぜんぜん)に西へ卑し。南は山の尾引いて1町計隔り並べる山に続く。北は渓水の清流に臨み風景麗秀(れいしゅう)の勝境(しょうきょう)なり。 昔は夥(おびただ)(し)く良金を産し麓の渓流にも砂金ありしとぞ。因って200年来抗を穿ちし処峯(みね)房の如し。この山多く好金を出せしは蒲生秀行の時慶長8年(1603年)より8ヶ年を経て蒲生忠郷の時同15年(1610年)まで。貢(こう)ずる処288萬両に及ぶ。されども水ありて穿つに便り悪かりしを、松澤傅兵衛という者水を抜き坑を穿つ。金また多く出て同16年(1611年)より元和6年(1620年)まで10ヶ年の間72萬500両を出せり。前に通ずれば360萬500両。これ蒲生氏2代の内に得たる処の総額なり。加藤氏に及で前後の貢ずる処640萬8030両に至る。寛永20年(1643年)に肥後守正之封に就てより万治元年(1658年)まで16ヶ年の間に1萬6438両2分、吹金38貫481文目を貢ず。寛文4年(1664年)江戸より道喜という者来り、再び坑を穿ち同10年(1670年)まで7ヶ年の間に1萬4000両を貢ぜりという。 滝沢坂(たきさはさか) 村端より丑寅(東北)の方に登る白川街道なり。 麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。 金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)(加藤嘉明、冬坂と改む)を踰(こ)えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め闢(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)(*1)深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。仍(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。 この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。里人この山より秣(まぐさ)をとる。 石 村北畠中にあり。土人名佛(ほとけ)と称ふれども佛像にもあらず。 高4尺計の野面石なり。瘧(おこり)を憂るものこれに祈れば験ありとて昔より崇敬す。 滝沢川(たきさはかわ) 源を赤井村の山中高清水(たかしみづ)という処に発し、山間を戌亥(北西)の方に流れ、諸渓を受け白糸滝に注ぎ、飯盛山の麓に至り、屈曲して北に流れ、村中を過ぎ、戌亥(北西)流る。 この村の境内を系経ること凡2里10町余、藤村村の界に入る。 広4間余。 雁打沢(がんうちさわ) 村より寅(東北東)の方31町にあり。 鴻雁(こうがん)昿平(こうへい)の里地より猪苗代湖に浴するに多くこの沢を過ぐ。 昔は風烈き日竹竿にて雁を打落し獲しという。 天正18年(1590年)豊臣家当国に下向の時、これを見んとて馬上10騎計にてこの村の畷道(なわてみち)(*2)を通り稲刈る農夫を傍近く召し、この所に案内せしめられしとぞ。 今は小綱を投じて鳧(かも)を取る。 白糸滝(しらいとがたき) 村東9町20間山中にあり。 高8丈余。 急流崖上より遥かに断岸に灑(そそ)(ぎ)て白糸を垂るが如し。故に名とせり。頗(すこぶ)る佳景(かけい)なり。 また、この奥10町計を隔て二滝(にのたき)三滝(さんのたき)とて2あり。 共に高3丈計。 土産 金 石盛山に産す。良金なり。出ること稀なり。 無名異同所に産す。 石膏 同所に産す。効能唐物に均し。 松蕈(まつたけ) 山中所々に産す。美味なり。 雚菌 同上 関梁 大橋(おほはし) 村中にあり。 長4間余・幅2間、勾欄あり。 滝沢川に架す。 水利 戸口堰(とのくちせき) 河沼郡代田組八田野村の方より来り金堀村・下居合村・長原新田村の境内を過ぎ、またこの村の境内に入り田地に灌ぎ牛墓村の方に注ぐ。 堤 端村・北滝沢の北3町50間にあり。 東西42間・南北34間。甗澤堤(こしきさはつつみ)という。 郷原村の田地に灌ぐ。 寛永6年(1629年)築く。 神社 八幡宮 村より戌(西北西)の方6町にあり。 →八幡宮(滝沢村) 宗像神社 村より辰巳(南東)の方飯盛山の西の麓にあり。 →宗像神社(滝沢村) 三島神社 祭神 大山祇命 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方2町50間にあり。 伝え言う。何の頃にか比丘尼2人金像の神體(しんたい)3軀を屓来り、里人に告て曰く「これ三島明神の尊像なり。よく正法を資護持し国家を鎮撫し給う神霊なり」とて、衆人を勧て社をこの地の山頂に剏建し神像を安ず。この時よりこの山を堂柵(どうがさく)と称せり。比丘尼は落城の後行く所を知らず。 後に石部某という者深く尊崇せり。されども山高く路嶮く参詣の便り悪しとて社を麓に移せりと。 承應中(1652年~1655年)に至ては社頭の廃壊極り只礎のみ残りしを里民再興せり。 別当 常楽院 本山派の修験なり。 明和4年(1767年)弁掌という者当社の別当となる。厳重祐堅が父なり。 寶物 笈 1荷。 弁慶が物なりという。 高2尺8寸。幅下にて2尺2寸、上にて1尺9寸5分。深1尺3寸。 前面は黒漆の堅地塗にて菱と草木をひら彫にし花は朱漆をもて彩る。心は魚子流金にて花と葉に銅の鑣を打て模様をうつす。極めて古雅なり。その図左に載す(※略)。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 相殿 諏訪神 山神 4座 稲荷神 3座 伊勢宮 2座 天子神 若宮八幡 三宮 御嶽神 地神 権現 鎮座 不明 端村・北滝沢にあり。鳥居拝殿あり。 郭内諏訪神社神職佐久上総が司なり。 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 伊勢宮 2座 稲荷神 4座 月崇神 明神 権現 蛇神 2座 鎮座 不明 北滝沢の西2町50間、大塚山の頂にあり。 鳥居あり。郭内諏訪神社神職諏訪近江司なり。 寺院 妙国寺 村より戌(西北西)の方3町40間にあり。 山號を寶光山と称す。享保中(1716年~1736年)今の山號に改む。法華宗府下滝沢町妙法寺の末寺なり。 この地は妙法寺の開山日什が墓所なり。明徳3年(1392年)日什寂せし時、父母の遺跡なるによりここに葬り、弟子日仁この寺を草創して住し朝夕香花を供せしという。 日什塔 五輪なり。『日什大聖人明徳三壬申年二月二十八日』と彫付あり。 前に慶長中(1596年~1615年)建てる所の堂あり。即日什荼毘所の迹なりという。 棟札あり。左に載す(※略)。 成就院 村中にあり。 揚柳山と號す。 府下鳥居町亀福院の末寺真言宗なり。 旧村北にありしを慶長の始め(1596年~)見宥という僧住せし時この地に移せり。 本尊地蔵を客殿に安ず。 古跡 館跡2 一は村北3町20間にあり。葦名の頃石部治部大輔某という者住せりという(年代詳ならず)。 一は端村・北滝沢の村中にあり。東西30間・南北29間。葦名の頃、堂家某という者住めりという(年代詳ならず)。今は百姓家となり。土居の形存ぜり。 石部桜(いしべさくら) 館跡の北10間計、菜圃(さいほ)の中にあり。 石部治部大輔が庭中の桜樹故(ゆえ)この名残れりという。 樹根の周り3丈6尺。数株となりて四面に螺れり。高もまた3丈6尺枝葉の庇う処20間計。 寛文の風土記に枝葉扶疎(ふそ)四に敷くこと数歩と称すれば、その古木なることしるべし。今なお枝茂り花艶ばしく香風数十畝に満てり。春月には賞花の人多し。誠に500年外の物にして佳観(かかん)比なし。ここに至るもの懐古の情おこり、今詠鮮なからず。また謾(みだ)りに人の攀折せんことを厭て柵を繞(めぐ)らし禁止の札を側にたてり。 船石(ふないし) 滝沢坂の上、街道の西側にあり。 縦横丈余の巨石にて貌(かたち)船に似たり。府下鳥居町に鎮座ある伊舎須弥明神乗給ひし船の化する所なりといい伝う。 産清水(うぶしみず) 村より戌(西北西)の方6町余、畠中にあり。 周1間計、日什誕生の日この水を汲て洗沐す。因て名くという(日什が条下に詳なり) 壇 村より丑寅(北東)の方4町、菜圃(さいほ)の中にあり。 9つ並べり。共に高5尺・周3間計。九壇という。由来詳ならず。 釈門 日什 二位僧都と称す。 この村の住石塚某という者の子なり。 父母嗣子無ことを憂い八幡宮に祈誓して懐胎す。母産子の安穏を祈らんとて正和3年(1314年)4月28日に八幡宮に参詣せしに、社前にてその兒を産めり。その時清水忽(たちま)ち湧出てしかば、その水を汲で兒を洗ひしという。 その兒幼年にて父母に後れ7歳の時より出塵の志あり。後に薙髪して僧となり玄妙と称し、比叡山に登り天台の扇を究め兼て諸宗に通ず。満山の僧侶器重せざる者なし。 その後故郷に返し羽黒山東光寺に住し講筵を開く。遠方より来り学ぶ者常に500人に余れり。 68歳の時始て日蓮が開目抄如説修行抄を熟読し、法華に帰依し宗旨を易え名を日什と改めき。且日蓮が法末祖師の本意を失わんことを憂て、上京して勅許を得、別に一派を立て洛陽妙満寺・遠州玄妙寺・本郡妙法寺を開基し弟子日仁・日義・日妙に付属す。 明徳3年(1392年)2月28日妙法寺にて寂す。歳79歳。今の妙国寺の塔その墓所なり。 日什が弟子専ら弘通を務む。因て信仰する者多く、武・総2州の間に700箇寺を建立すという。 日什置文を3弟子(日仁・日義・日妙)に付す。名で三紙一通という。その文如左(※略) 八幡宮(滝沢村) 宗像神社(滝沢村) 滝沢峠 Google Map飯盛山 堂ヶ作山 滝沢不動滝(白糸の滝) 戸ノ口堰洞穴 三島神社 諏訪神社 熊野神社 日蓮宗滝沢妙國寺 石部桜(石部邸跡) 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢 福島県会津若松市中島町 福島県会津若松市北滝沢 福島県会津若松市一箕町大字八幡石ケ森 福島県会津若松市一箕町大字金堀雁取沢(雁打沢?) 日什(wikipedia)
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登録日:2016/01/24 Sun 11 54 17 更新日:2022/03/09 Wed 18 11 26NEW! 所要時間:約 11 分で読めます ▽タグ一覧 アニヲタ神様シリーズ 八百万の神 古事記 国津神 大和朝廷 天の神 天孫 天津神 天皇 天神 日本書紀 日本神話 神 神話 ◇天津神◇ 「天津神(あまつかみ)」は日本神話に登場してくる神々。 天孫系、或いは大和系と呼ばれる記紀神話にて王朝支配と天皇家の支配の正統性を示す為の系譜に組み込まれたカミの事をこう呼ぶ。 地祇(国津神)に対応した天神(てんじん)と云う呼び方もあるが、天神“様”=菅原道真=大宰府天満宮とは別である。(*1) 【系譜】 記紀神話に語られる宇宙開闢と共に出現した造化三神から始まる系譜を纏めて「天津神」と呼ぶが、国生みを行った伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神以前の神々に関しては別天津神、神代七世とする分け方もある事から、本項目では伊邪那岐・伊邪那美より続く子(特に高天原に属する神)を「天津神」と呼ぶ分類法に倣い記事を作成していきたい。 前述の様に記紀神話に於ける天皇家の支配の正統性を示すべく創作、或いは系譜に取り込まれた神々の事であり、特に皇祖神・天照大御神から天孫・天津日高日高番能邇邇芸命を経て、初代・神武天皇に至る系譜が記紀神話の中心にして柱となる。 記紀神話に併せて創作されたカミも多く、これらは王朝支配の広がりと共に各地の社で上書きされていった面もあるとか。 【代表的な神々】 記紀神話に登場してくる代表的な神々を中心に列挙する。 ■=男神 □=女神 ※は記紀神話には登場しないが高名な神。 【国生み神話】 ■蛭子神(ヒルコ) 伊邪那岐・伊邪那美の夫婦が国生みの後にオノコロ島に降りて最初に生み出した神。 骨が無く足が立たなかった為に葦船に乗せて流された不具の子。 後に海より来るマレビト(稀人)、客人神(まろうどがみ)信仰と結びつき恵比寿(えびす)となった。 ■大綿津見神(オオワダツミ) 海神。 ■志那都比古神(シナドヒコ) 風神。 ■大山津見神(オオヤマツミ) 山神。 ■久久能智神(ククノチ) 木神。 □草野姫(カヤノヒメ) 草神。 ■速秋津日子神(ハヤアキツヒコ) □速秋津日売神(ハヤアキツヒメ) 水戸(河)の夫婦神。 ※【祓戸四柱】 □瀬織津姫(セオリツヒメ) 川瀬の女神。 罪、穢れを海に流す。(*2) □速開津姫(ハヤアキツ) 水戸の女神。 罪、穢れを呑み込む。 ■気吹戸主神(イブキトヌシ) 海原の風の神。 罪、穢れを根の国に押し流す。 □速佐須良姫神(ハヤサスラヒメ) 根の国の風の女神。 魂を浄化させる。 根の国の王としてのスサノオ、或いはその娘の須勢理毘売(すせりびめ)と同一視される。 ※祓戸四柱の神々には異説あり。 悪神とも解釈される八十禍津日神・大禍津日神・神直毘神・大直毘神の名が上げられる事もあるが、上記の「延喜式」の神々と同体ともされる。 また、単に死をタブー視しているだけで現代の“悪”とは合致しないとも考えられる。 ■火之加具土神(ヒノカグツチ) 伊邪那岐・伊邪那美が神生みの最後に生み出した火の神。(*3) 生まれ落ちる時に母の陰部を焼き死に至らしめた事から、自らも父に首を切り落とされて殺されたとされる。 飛び散った血や遺体からも様々な神が生じているが最後に穀物の神が生まれている事から、火による破壊と再生の寓意であると考えられている。(*4) ■金山毘古神(カナヤマビコ) □金山毘売神(カナヤマビメ) 鉱山の夫婦神。 ■波邇夜須毘古神(ハニヤスビコ) □波邇夜須毘売神(ハニヤスビメ) 土の夫婦神。 ■建御雷之男神(タケミカヅチ) 高天原が国譲りの決着の為に派遣した軍神。 火之加具土神の血液から生まれた神としては最も有名である。 名前から雷神と思われてる事が多いが、どちらかと云えば剣神としての属性の方が強く、刀剣の神として知られる経津主神(フツヌシ)と同体とする説もある。 鹿島神宮の祭神でもあり、同所の要石とも関連付けられ、地震を起こす大ナマズを鎮める神との信仰も生まれた。 ■闇淤加美神(クラオカミノカミ) □闇御津羽神(クラミツハノカミ) 谷間の水の神。 □弥津波売神(ミツハノメ) 農耕の水神。 □豊宇気毘売神(トヨウケビメ) 「古事記」では伊邪那美が陰部を焼かれた際に苦しみながら出した尿(ゆまり)より生じた和久産巣日神の子供。 食物の女神。 天照大御神を内宮に祀る伊勢神宮外宮の女神であり、天照の食事を司るとされる。 一方、中世の伊勢神道では他宗教の神秘思想の影響からか天之御中主神、国常立神と云う記紀神話の根源神と同体とされ、内宮の天照と対となる月天・水徳の神であると主張された。 【伊邪那岐の禊】 ■八十禍津日神(ヤソマガツ) ■大禍津日神(オオマガツ) 黄泉の穢れの神。 ■神直毘神(カミナオビ) ■大直毘神(オオナオビ) 穢れを祓う神。 □伊豆能女(イズノメ) ■底津綿津見神(ソコツワタツミ) ■中津綿津見神(ナカツワタツミ) ■上津綿津見神(ウワツワタツミ) 海の深さの神。 【住吉大神】 ■底筒之男命(ソコツツノオノミコト) ■中筒之男命(ナカツツノオノミコト) ■上筒之男命(ウワツツノオノミコト) 海流の神。 航海の神として信仰を集めた。 【三貴子】 伊邪那岐が黄泉国より帰った後に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊を行い、最後に顔を洗った時に生まれた最も貴い三柱の神。 生まれた時より世界を支配する権利を約束されている。 □天照大御神(アマテラス) 左目を洗った時に生じた日神。 高天原の支配者にして、皇祖神たる比売神。 日本のカミの中でも最も神格が高い。 古代宗教に根付いていた各地の太陽信仰が日神を祀る巫女の姿を借りて集約していった姿。 この他、神功皇后や持統天皇らの姿が寓意化されていった面もあると考えられている。 ■月読命(ツクヨミ) 右目を洗った時に生じた月神。 夜食国の支配者。 太陽の陰となる満月の神であり農耕の神。 ■須佐之男命(スサノオ) 鼻を洗った時に生じた荒ぶる神。 海原を治めよと命じられるが受け入れず、高天原を荒らした後に追放。 地上に降りて八岐大蛇を退治する英雄となった後に、根の国(冥界)の支配者となった。 国津神の祖ともされる。 【宗像三女神】 □多紀理毘売命(タキリビメ) □市寸島比売命(イチキシマヒメ) □多岐都比売命(タキツヒメ) 須佐之男神が天照と行った神生みで誕生した海上交通の女神。 【高天原】 □天宇受売命(アメノウズメ) 天照の岩戸隠れの際に踊りを見せた女神。 巫女の神懸かりの姿から生まれた女神であり、遡って託宣を成す巫女(猿女氏)や芸能の祖とされている。 天孫降臨にも付き従い、国津神の猿田比古神(太陽神)と交渉。 その妻となったとされている。(*5) ■天手力男神(タヂカラオ) 岩戸隠れの際に神々の饗宴の余りの騒がしさに顔を覗かせた天照を外に引き出した神。 名前からも剛力の神としての信仰を集める。 タヂカラオは天照が二度と隠れないように岩戸を地上に投げ落としたとされ、その場所が戸隠山(長野県)だと云う。 ■思金神(オモイカネ) 岩戸隠れの際に隠れた天照を引きずり出す算段を考えた高御産巣日神の御子(息子)。 ここから知恵を司る神、学問の神として信仰されている。 ■天児屋命(アメノコヤネ) 岩戸隠れの際に神々の依頼を受けて祝詞を奉上した神。 後に藤原氏を生んだ中臣氏の祖であり、中臣氏は伊勢神宮の祭司を司っていた。 ■布刀玉命(フトタマ) 岩戸隠れの際に神々の依頼を受けて榊に玉・鏡・幣を付けて御幣として奉じた神。 忌部氏の祖として伝えられ、天児屋命と共に八咫鏡を差し出し天照の姿を映したとされる。 ■経津主神(フツヌシ) 「古事記」には名前が見えないが「日本書紀」に登場する剣神。 「フツ」とは剣を振る音を顕すとされる。 武甕槌(タケミカヅチ)と共に国の平定を成し遂げた。 「古事記」ではタケミカヅチが神武天皇に布都御霊(フツノミタマ)なる剣を授けたとされている事からも、両者は同じ神であると考えられている。 ※これら、岩戸隠れの際に重要な働きをした神々は後に天孫降臨にも付き従ったとされる。 古代王朝の有力な氏族の祖とされるのも意図的な組み合わせなのだろう。 【天孫系】 ■正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(オシホミミ) スサノオが天照の勾玉を噛み砕き吹き出した際に誕生した天照の長男。 最初に地上を平定する様に命じられるも「いたく騒ぎてありなり」と語って引き返し、タケミカヅチにより平定された後に再び降るように命じられるも、息子のニニギに任を譲り高天原から離れようとはしなかった。 7世紀末に早逝により皇位に付けなかった持統天皇の息子の草壁皇子の寓意なのでは?とも見られている。 ■天之菩比神(アメノホヒ) オシホミミの弟で、オシホミミが引き返した後に地上に降りるも、大国主神に懐柔されてしまったとされる。 ……が、「出雲国造神賀詞」では立派に出雲の統治に成功したとされている事から、元々は出雲の有力な神であったと考えられている。 ■天若日子(ワカヒコ) アメノホヒに次いで地上に降りた神。 矢張り大国主神に懐柔され、娘の下照比売(したでるひめ)を娶った。 次に遣わされたキジの鳴女をも射殺した事で高天原の怒りを買い、タカヒムスビから返し矢を受けて殺害された。 しかし、後に平安時代の「うつほ物語」に於いて天稚彦(あめのわかひこ)として「天の川」の物語と結びつき、日本版彦星となった。 ■天火明命(ホアカリ) オシホミミの長男で、ニニギノミコトを降らせるのがいいと進言したとされる。 尾張氏の祖神。 天照の名を持つ太陽神だったとも言われる。 ■天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギノミコト) 平定された地上に天照より三種の神器(八尺瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣)を下賜されて地上に降臨した天孫。 このとき「鏡は私(天照大御神)の御霊と思い祀るように」と詔を受けた事が伊勢神宮の起源であると語られている。 国土の象徴でもある山野の神・大山津見神より二人の娘を娶るように勧められるが、面食いであったので醜女の姉の石長比売(イワナガヒメ)は返し、美人の妹の木花佐久夜毘売(コノハナサクヤ)とのみ契りを交わした。 ……が、姉妹はその名の様に片や磐石の長命を司り、片や花の様に消えるのを繰り返す繁栄を司っていた為に、地上での栄華は約束されたが、神々は地上では短命となってしまった。 ※天孫系の神々に共通しているのが「日」と「穂」の名と信仰である。 【子孫神】 ■火遠理命(ホオリ) 昔話でも有名な山幸彦の呼び名で知られるニニギの三男。 日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)の名でも記される。 兄の海幸彦との諍いから海神・綿津見神の下へ向かい、娘の豊玉毘売を娶った。 その後、綿津見神より渡された潮盈珠(しおみつだま)と潮乾珠(しおひるだま)を用いて海幸彦を苦しめ屈伏させた。 ■火照命(ホデリ) ニニギの長男で海幸彦の呼び名で知られる。 弟の山幸彦と道具を交換した際に大事な釣り針を無くされ腹を立て、決して詫びを受け入れようとはしなかった。 しかし、山幸彦が綿津見神の助力を得たことで懲らしめられ、弟に仕える事を約束した。 これは九州南部の地方氏族である隼人の朝廷への屈伏を「兄弟葛藤譚」の神話を通して寓意化されたと考えられており、海幸彦が山幸彦に溺れさせられた際の姿を起源とするとされる「隼人舞」が服従の証として演じさせられた。 ■神武天皇 ホオリの孫で、幼名は若御毛沼命。 本名は神倭伊波礼毘古命(イワレビコ)。 紆余曲折(神武東征)を経て大和王朝の最初の支配者となったとされる。 建国記念日(2/11)=始まりは旧暦の元日は、この御方が帝位に就いた日に由来する。 ■崇神天皇 第十代天皇。 神武と共に「ハツクニシラススメラミコト」の別名がある。 □神功皇后 ■応神天皇 第十五代天皇とその母。 新羅攻略を行った。 大陸からの侵略に対する信仰がある。(*6) 渡来神・八幡神とも結びつき信仰が広がった。 ※これら“神”の字を持つ天皇は伝説的な側面を強調された半神的英雄である。 ■日本武尊(ヤマトタケル) 第十二代景行天皇の第三皇子。 須佐之男神と並ぶ日本神話の英雄。 悲劇的英雄として知られる。 【余談】 天津神、特に国生み神話に登場する神には国津神との境が無いカミも多いが、そもそもが現在の日本の神々は統一王朝となった大和朝廷と神道により統合、体系化された形なので仕方がない部分である。 とは云え、それらの現代でも名前を語られる神々に古代の喪われたカミの名や信仰が息づいている事もまた確かであり、古代史研究の要点の一つとなっている。 追記修正はお伊勢参りしてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 天津飯? -- 名無しさん (2016-01-24 12 30 32) 天津飯に空目 -- 名無しさん (2016-01-24 12 32 07) 建乙。勉強になる -- 名無しさん (2016-01-24 15 04 30) 国譲りといい結構DQN集団な印象 -- 名無しさん (2016-01-24 15 21 41) 侵略者の別称 -- (2016-01-24 17 54 05) 蛭子からだけで57柱(天皇抜いても52柱)・・・・・・。さすが八百万の神の住まう国の神話と言うか -- 名無しさん (2016-01-24 19 48 56) これに限らず基本高天原住まいの神様は無性生殖で増えてる -- 名無しさん (2016-01-24 20 23 52) ×3基本神話は勝者が残すもんだからなぁ、侵略者ガーって被害者気取りで言うのは引くわ、天津神にも様々な神がいる中、そんな一纏めにして欲しくないし -- 名無しさん (2016-01-24 23 19 41) アニオタwikiにしてはおふざけ要素なくて真面目すぎない?ここまでまともだとWikipedia先生で十分な気が -- 名無しさん (2016-01-24 23 54 11) 人物の人柄を何かの作品のキャラで例えるとか -- 名無しさん (2016-01-25 10 53 41) メガテンやってたから一発で読めたわ~ -- 名無しさん (2016-01-25 15 30 32) ↑3こういう項目もあってもいーじゃん -- 名無しさん (2016-01-25 15 50 42) タグの侵略者ってどうかと思う。被害妄想強すぎて引く -- 名無しさん (2017-03-10 11 12 44) 国津神と天津神の抗争は実質戦国時代のそれと同じだしな。複数の勢力を併合して覇権争いに勝ったのを侵略者呼ばわりしてたら江戸幕府や名のある武家なんか軒並み侵略者になってしまう -- 名無しさん (2017-03-10 12 08 58) そもそも大国主の国づくりに天津神が深く関わってる(大国主の蘇生、共同作業者であるスクナビコナは天津神系)し、アマテラスが隠れた時に葦原中国も暗くなって荒れ果てたのを見ると、最初っから地方都市みたいなもんでは -- 名無しさん (2017-03-10 12 52 46) YHVH -- 名無しさん (2017-11-30 00 34 50) 武御雷と経津主神でも倒せなかった天津甕星を倒した建葉槌命もまた詳細不明な神様なんだよね。織物の神で天津神だっていうのはわかってるけど -- 名無しさん (2017-11-30 00 54 15) マガツヒノカミ(漢字変換できなかった…)達は悪神というより、穢れを司る神なんだよね。信仰すると厄から守ってくれるみたいな。あと別の人によると悪に対する義憤を司る神ともされてるいい神達。個人的に好きな神達。(長文失礼) -- 名無しさん (2019-06-06 13 26 51) ↑日本のカミってのは司ってるものに関わらずヒトに障らない様にするために奉ってるのが基本。 -- 名無しさん (2019-06-06 13 55 23) カムヤライド(ルパパトとかリュウソウジャーの怪人デザインやってた人の漫画)に出てくる敵キャラの元ネタ。あっちは神様じゃなくて宇宙人っぽいけど。 -- 名無しさん (2020-05-23 14 46 59) 名前 コメント
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【クラス】セイバー 【真名】水天皇大神 /蛭子命 【出展】十二世紀・日本 平家物語、愚管抄等 / 日本記紀神話 【性別】女 【属性】中立・善 【パラメーター】 筋力D(C) 耐久A(C) 敏捷D(C) 魔力A 幸運D 宝具EX ※カッコ内はスキル・異形の呪発動前パラメーター 【クラススキル】 対魔力:B 魔術詠唱が三節以下のものを無効化する。大魔術・儀礼呪法などを以ってしても、傷つけるのは難しい。 共に沈んだ天叢雲剣の逸話から、龍王の娘であるとして、Aランク相当の高い対魔力能を誇っていたが、神呪に抗えなかった蛭子命と同一化されたことにより、Bランクまで低下している。 騎乗:A+ 乗り物を乗りこなす能力。「乗り物」という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。A+は竜種を除く、あらゆる獣や乗り物を乗りこなすことが出来る。 セイバーは年若での即位、度重なる戦乱のため、馬術を修めることができずにおり未所持のスキルであった。しかし、死後同一化された蛭子命により高ランクで取得した。 神そのものであり、また神が乗る船である、鳥之石楠船神を稚児の身でありながら乗りこなした蛭子命は高ランクの騎乗スキルを持つ。 【保有スキル】 神性:A+ その体に神霊適性を持つかどうか、神性属性があるかないかの判定。天孫の直系であり、厳島神社の祭神・宗像三女神の化生としての面も持つため、高クラスで保持している。 更にセイバーはその死後、水神・子供の守護神として神の一柱に祀り上げられた。その一面と生前の逸話が合致し、蛭子命と同一化。 国産みである諾冉二尊(だくさつにそん)の子、セイバーの皇祖神である天照大神の兄姉との複合は最高クラスでの神性を齎す。 異形の呪:C 不完全性を持って産まれ出たものの運命。筋力、俊敏と言った自身の肉体に関わるパラメーターをランクダウンさせ、自身の耐久力に補正をかける。 蛭子命の抗うことができない呪い。自分に向けた攻撃力ダウンの呪術と防御力アップの変化の複合パッシブスキルであり、現界と同時に発動する。 神霊の記憶から、普段は人の形を保っているが、このスキルによってある程度の形態変化が可能。特に手足の欠損に関しては即座に発現するが、一度崩した身体を元に戻すには全身で三時間、四肢で三〇分ほどかかるうえ、変化した先は液状になる。 液状の肉体は物理的ダメージをカットするが、熱量変化、魔術攻撃には通常通りのダメージ判定がある。なお、液状化した肉体を戻すにはそれなりの魔力を消費する。 魔力放出(水):A 武器・自身の肉体に魔力を帯びさせ、瞬間的に放出する事によって能力を向上させるスキル。 攻撃時のブースト、または防御、噴出しての高速移動等、用途は幅広い。 放出される水はセイバーの魔力から精製されるものだが、周囲にある程度の水量があるならば、それ自体に魔力を編み込むことで魔力の消費を抑えることができる。 流転の支配者:C+++ 時、言葉、知識、音楽。およそ流れるもの全てを操る神の権能。 宗像三女神の化生・安徳帝が死後、水天皇大神として神の一柱へ祀り上げられた際に得たスキル。 本来はAランクであり、こと水の操作に絶大な力を発揮するが、サーヴァント召喚にあたって大幅にランクダウンしている。 このランクでは、時流の操作や生命という概念への干渉など、大規模な操作は不可能であり、せいぜい人波に呑まれることなく歩き回ったり、通常のそれとは比較にならない早さでの情報の伝播が可能な程度である。 しかし、水や風の操作に於いては高い補正を受けることができる。 無辜の怪物(龍):E- 死の間際の行為や、その結果のために生まれたイメージにより、過去や在り方をねじ曲げられたモノの名。 八岐大蛇、龍王の娘と、龍・蛇の化生としての属性、または女帝としてのイメージを持つ。 本来であれば高ランクのスキルだが今回の召喚が神の側面の強いものであること、また同一化した蛭子命とスキル・異形の呪によってランクが下がっている。 そのため、自身が女性であること以外に変化は無いが、恩恵も無い。この装備(スキル)は外せない。 【宝具】 『形代の剣(つむをかれ/くさをなげ/くもをかけよ/かたしろとなせ)』 ランク:A+ 種別 対人宝具~対軍宝具 レンジ 1~200 最大補足 500人 崇神天皇の代、天之御影命の子孫によって造られた草薙剣の形代/レプリカ。 形代のため草薙剣そのものではないが、本物に等しい神威に満ちている。 真名を開放するごとに形状と性質を変容させる。真名開放に制限はなく、変容には"形代の剣"を通す必要がない。 "都牟刈大刀" (つむがりのたち) 「つむをかれ」 紡錘状の両刃剣で鳥の羽のように左右非対称に反り返っている。 その昔、八岐大蛇を屠った素盞嗚命が尾を切り落とさんとしたときに発見した業物。それは伊弉諾命から齎された神剣、天十握剣の刃を毀れさせたほど。 そのため非常に高い耐久性を持ち、その刃が毀れることはない。また、神霊の中でも荒魂に属する神々(悪神・邪神・荒神)に対して強い特攻を持つ。 "草薙剣" 「くさをなげ」 蛇のように曲がりくねった剣身を持つ、蛇行剣。SNにおいての剣身の伸びたルールブレイカーのような形。 記紀神話中、火攻めにあった倭健命はこの神剣をもって周囲の草を刈り掃い、これに迎え火を点けて難を逃れたという。 その逸話から、四面楚歌の状況、複数人との戦闘に対し効果を発揮する。 一人に与えた斬撃を、周囲五〇メートルに存在する"セイバーが敵と認識した"相手に対して、同様に与えることが出来る。しかし、セイバーが姿や気配を知覚、認識できない場合はこの限りではない。 また、倭健命の手から離れ、神剣手ずから草を刈ってみせたという伝説から、ある程度の自立性があり、自動的な防御、手中を離れての打ち合い、飛行が可能。 セイバーの知覚外まで離れた場合には、剣は消滅しセイバーの手中に戻る。後述の第二宝具発動に不可欠。なお、本来付くはずの植物への特攻はマスターの意向を汲んで外している。 "天叢雲剣" 「くもをかけよ」 鍛造された鋼製の直剣。 生前の八岐大蛇の上空には、常に厚い雲がかかっていたという逸話から、使用者の上空に常に乱層雲を作り出す。これは天候・環境に左右されず、真名を開放した時点で自動的に発動し、セイバーが建物内、地下にいる場合でも、その上空に雲を造り出す。 乱層雲はいわゆる雨雲であり、小さな水の粒が集まって構築されている。セイバーはこの雲に微量の魔力による「きっかけ」を与えることにより降水雲とすることが可能。 単に天気を悪くするだけの剣であるが、水神であるセイバーはスキル・魔力放出(水)の「水源」として使うことができる。 "形代の剣" 「かたしろとなせ」 通常時の状態。両刃の簡素な鉄剣で柄は黒い。 天皇の護身用装備で、装備者に対する神性特攻を半減させる。また、受容の剣であり、この形態が最も魔力や神威を乗せる用途に適している。 『坂上宝剣 (そはさんみょうとともにあり)』 ランク:A 種別 対人宝具 レンジ 1~500 最大補足 4人 毘沙門の化身と謳われた征夷大将軍・坂上田村麻呂の愛刀、ソハヤの剣。 蝦夷の蕨手刀に対抗するために作らせた、両切刃造りで先のわずかに内反りになった二尺五寸あまりの細身直剣。重ねの厚い剛刀であり、セイバーは両手持ちでないと扱えない。 "形代の剣"並に魔力の乗りが良く、ひとたび剣を投げ放てば相手と勝手に打ち合うという、"草薙剣"に似た形質を持つ。投げ放たれている最中は、田村の武技の力が剣に宿っており、セイバーが魔力放出を以ってして斬るよりも、より正確な太刀筋を見せる。 なお、田村は生前ソハヤを鳥や火焔に変化させられたと言うが、セイバーはできない。 真名開放には条件があり、第一宝具を"草薙剣"として開放していること・それが空中で自立している時のみ可能である。 条件を満たすと、同じく大蛇の尾から見出された草薙剣が、鈴鹿御前の三明の剣が一、顕明連に見立てられ、それに引き寄せられる形で大通連・小通連が顕現する。 通力自在の大通連・小通連、仏力に満ちた顕明連、田村の武技帯びるソハヤが対象を追尾し、相手を四つに切り裂く。 ソハヤ・顕明連(草薙剣)以外はセイバーは制御できず、立烏帽子の剣筋そのままに自動で斬撃を繰り出す。どの斬撃も、かつて大江山の酒天童子に並び称された鬼神・大嶽丸を斬り払った退魔の力が働き、絶大な魔種/鬼種特攻が付与される。 『水を持て、湿潤にして力強き者よ(ハラフワティー・アルドウィー・スーラー)』 ランク:EX 種別 結界宝具 レンジ:0~20+α 最大補足:- 宗像三女神の一柱・市寸島比売命は弁財天(サラスヴァティー/アナーヒター)と同一視され、水や川を司る神として崇められた。その力の一端を再現する宝具。水が留まっている場、もしくは流れている場(水路・河川・湖沼)でのみ宝具展開が可能。 水面及び、水辺・岸辺から二〇メートルほどを川の守護者アナーヒターの庇護に置き、そのもとを"清浄"にする。展開者及び、マスターの毒、病、またはそれに類する状態異常ステータスを快復し、対象サーヴァントのステータスをワンランク上昇させる。 また、結界内はBランク相当の陣地作成スキルで構築された魔術工房として扱われ、龍脈を結界内へ分水させることで魔力回復を早めることができる。展開には多大な魔力を消費し、マスターへの負担が大きいために一日一度が限度。 なお、結界内は水辺までは一般人が立ち入ることが可能だが、人避けの流れと水面に立ちこめる濃霧によって認識はできない。しかし、マスター及びサーヴァントに対する隠匿効果は皆無のため、丸見えである。 【weapon】 形代の剣(片手剣) 坂上宝剣(両手剣) 【人物背景】 第八一代天皇・安徳天皇。源平の確執深まる治承二年に産まれ、その生涯を戦乱の中に見るひと。 外祖父である平清盛の祈祷により宗像三女神の化生として生を受ける。生後間もなく儲君し、数え三歳には践祚するも、時の太政大臣・清盛によって高倉院政という建前のもと傀儡として即位。 即位後三年の後、源義仲の入京によってやむなく都を捨て、九州を転々とする。相次ぐ源平両軍の激突の中でも、屋島合戦での敗北が契機となり、天皇と平氏一門は海上へ逃亡。 しかし、壇ノ浦で捕捉され平氏軍は決定的な敗北を喫し、一門は滅亡。平氏方総大将・平宗盛に連れられていた安徳天皇も祖母・二位尼に抱えられ入水し、水底の都に散る。 この際に共に沈んだ三種の神器のうち、神剣のみが見つからなかったことから、安徳天皇はかつて神剣を素盞嗚命に奪われた八岐大蛇の化生である、龍王の娘であり龍宮へ神剣を持ち帰ったなどと、数々の伝説が語られることになった。 死後はその夭逝を慰めるべく、久留米水天宮、赤間神宮などで水神・子供の守護神である水天皇大神として祀られる。その際に境遇の似通った蛭子命/恵比寿と習合した。 二柱は意気投合し、お互いを埋め合わせるかのようにその神威を高めていった。此度の聖杯戦争では彼/彼女と共にひとつのサーヴァントとして召喚されている。 心優しき少女であり、また信心深い。皇祖神や仏を敬い、天命にひしと寄り添う。良く言えば受容の心を持った度量の大きい人物だが、悪く言えば状況や人に流されやすく、自分を確立できない人物である。 崩御された歳が歳であるので無理はないのだが、神の一柱として民草に祀られている以上、これで良いものかと悩んでいるようだ。 現在は神格のより高い蛭子命が精神的支柱となっているので、普段よりしゃんと立つことができている。 自身がサラスヴァティーやアナーヒターであったことはうっすらとだが覚えているようで、その記憶がスキルや宝具を形成しているが、力の制約はかなり受けている。 某騎士王ではないが、今回の召喚の際に直感的にとても嫌な気配・予感を感じ取ったようでいつもより神威が少々陰っている。そのため主人格を蛭子命の側面に譲っており、彼女はその内から状況を俯瞰している。 なお、身体は不定形でなくしっかり人型にしてほしいと蛭子命にお願いしており、蛭子命はそれに従い自身を形成している。 一人称は"わたし" 蛭子命のことはヒルコさんと呼ぶ。マスターのことマスター/輪くんと呼ぶ。 安徳天皇/水天皇大神のクラス適正としては、セイバー・バーサーカー・アヴェンジャーが挙げられる。 通常なら応じたとしても安徳天皇として召喚されるのだが、今回は神霊・水天皇大神として召喚されている。更に習合相手の蛭子命の側面も色濃く反映されており、此度の聖杯戦争の異常性を物語る。 蛭子命。伊弉諾命、伊弉冉命が国産みの際に産んだ原初の子。不具の子であったとされ、三年をかけても立つことができなかったので、二柱により鳥之石楠船神に乗せられて、オノゴロ島から流されてしまった。 蛭子命はヒルコと読むが、ここから「日る子」であり、貴い「日の御子」である故に流されたとする伝説もある。実際、子作りの際に伊弉冉命から声を掛けてしまうことさえ無ければ、天照大神に匹敵する神格を得ることができたという。 貴種流離譚に従えば、英雄=蛭子命は流された先で養われ、何れは諾冉二尊へ復讐することとなるだろう。しかし、蛭子命は流された先で勇魚として幸運を齎し、神威を発揮するのみであり、やがては福の神に結び付けられたほど。 当人もこれは与えられた運命であり、何よりこの醜き身体こそ父母との繋がりであるのだと受け入れている。そのためにアヴェンジャー適正は破棄している。 性格は穏やかであり、感情を烈しく表すことは無い。むしろ乏しいほう。マスターの命令には素直に従うが、蛭子命や水天皇大神から見て間違っていることであれば、諭し説得を試みることもある。 座や聖杯からの情報は確かに受け取っているのだが、その出力がやや斜め上方向にされることがある。セイバーが身につけている宇宙服もその一つであり、これは仮に自分や言仁(水天皇大神)が同じ死に目に遭おうとも、二度と死ぬことのないように、と心を込めて魔力で編んだものである。この通り、心優しき神なのである。 水天皇大神のことは言仁(ことひと)と諱で呼び、マスターのことは輪/マスターと呼ぶ。 クラス適性はランサー・ライダー・バーサーカー・アヴェンジャー(破棄)が挙げられる。 何かに怯える水天皇大神であるが、それでもひとつ大きな事を成したいと思っている節があり、そのために聖杯戦争への勝利を目指している。また、子供の守護神であるのだからマスターは命に代えても護るという心持ち。蛭子命もそれは同じ。 【特徴】 二振りの剣を帯剣した、小さな宇宙服に身を包む六~七歳ほどの子供。ヘッドグラスは暗く、外部から表情は窺えない。首部は元来のものより柔軟で頭部を動かして周囲を見渡すことが可能。その中には角髪を結った儚げな少女の顔がある。 宇宙服は魔力で編んであり、鎧としての役割も持つ。背部のバックパック状部分や足から、スキル・魔力放出(水)・流転の支配者を利用した水流を噴出しての高速移動を好む。やめてください……アイア○ンマン…… 普段は白い五分袖のワンピースを着用。悪目立ちが過ぎると輪に言われて、他の格好を求められ、束帯、水干と姿を変えた結果、呆れた輪に売店のファッション雑誌を買ってもらい、それを参考にしている。 【聖杯にかける願い】 今は、マスターを勝利させ早く元の世界に帰してやりたい。また、できれば水天皇大神が気にかけている坂上宝剣を田村大明神に返還してやりたい。
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登録日:2017/11/13 (月) 00 05 00 更新日:2024/02/24 Sat 10 03 17NEW! 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 02年春アニメ アニメ ガンガン ボーイミーツガール 地下世界 完結 日本刀 月刊少年ガンガン 有楽彰展 東京アンダーグラウンド 漫画 神OP 能力 東京アンダーグラウンドとは、ガンガンで連載されていた漫画である。 【概要】 かつて有楽彰展がガンガンで連載していた漫画。連載期間は1998年~2005年。 ボーイミーツガールを中心としたストーリー、魅力的なキャラクターたち、「火」「水」などのシンプルに属性分けされた能力を用いたバトルといった少年漫画の王道的な作品。 作者自ら認める構成力不足や安定しない絵柄と遅筆に加え、エニックスお家騒動に巻き込まれるなど様々な問題を抱えていたが、スパイラル~推理の絆~などと並ぶ当時のガンガンの人気作の一つだった。 中断を何度か挟んだものの、エニックスお家騒動を受けてもそのままガンガンに残って(+移籍させられず)描き切った数少ない人気作。ちなみにガンガンに残ったのは苦渋の決断だったとのこと。 余談だが移った作家達も別に悪いわけではなく、当時の一部編集者(?)が雑誌カラーを強引に変えようとした煽りを騒動当時のエニックス人気作家のほぼ全員が受けたという流れである。 コミックスは本誌では間に合わなかった作画や一部表現などの修正が多く加えられており、カバー裏には4コマが掲載されている。 2002年にはアニメ化もされた。 【あらすじ】 ケンカ無敗の実力を持つ少年、浅葱留美奈は高校入学を機会に喧嘩から足を洗って「可愛い女の子とのバラ色の学園生活」を過ごすことを夢見ていたが入学早々に高校の番長とケンカになってしまい、夢はもろくも崩れ去ってしまう。 そんな彼の元に地下世界から逃げてきたという不思議な能力を持つ2人の少女ルリとチェルシーが現れ、ルリに一目ぼれした留美奈は2人をかくまうことにする。 やがて地下からの追手が現れ、彼らと戦おうとした留美奈は手も足も出ず殺害されてしまうが、ルリの持つ反魂の力によって蘇生を果たすと同時に風を操る能力を手にし追手を撃退。 だがやがてルリは地下世界の№2白龍と地下の強力な戦士テイルの手によって地下に連れ戻されてしまうことになる。 彼女を取り戻すべく留美奈はチェルシー、そして留美奈の幼馴染の銀之助と共に東京の地下に存在する地下世界に足を踏み入れることになる。 【用語解説】 ○地下世界 東京の地下に存在する広大な世界。 かつて“反魂の能力”という生命を操る能力を持った少女・サラサの研究を行っていた研究機関“箱庭”が置かれていたが 研究の集大成である“龍”が暴走し、サラサがその暴走を抑えるために犠牲になったことや研究者達の逃亡によって地下での研究は終焉を迎えた。 現在は地下に置き去りにされた被験者たちの手によって独自の社会が形成されている。 龍が暴走した跡地は“地下大空洞”と呼ばれ、地下でありながら広大な密林におおわれている。 ○能力/能力者 地下世界の一部の人間が持つ特殊な力。 “反魂の能力”という生命を操る能力を持った少女・サラサの研究の過程で生み出された存在。 火や水、雷といったものから酸や煙など様々な能力が存在する。これらの能力は巫女の能力が不完全に分け与えられたものであるらしい。 ○半獣人 人間に動物の遺伝子を組み込みその特性を付与した者たち。能力者並みの戦闘力を持つ。 しかし獣の遺伝子を組み込んだ影響か、気性が荒いためスラムに追放されている。 また副作用によって時折発作が起き、寿命も普通の人間より短いという欠点が存在した(現在は適切な治療法が確立されている)。 ○公司(カンパニー) 地下世界を管理する一大組織。龍の暴走後、混迷を極めた地下世界を平定した英雄“華秦”とその仲間たちが中心になって築いた。 箱庭の研究者たちが残した施設を本拠地とし、地下世界の電力などのインフラ管理や技術開発、治安維持など地下世界にとって様々な恩恵をもたらしている。 反面“能力者狩り”という名の人狩り・虐殺など表には出せない所業も行っており、さらには地上への復讐を理由にかつて地下を恐怖に陥れた龍の復活を目論むなどの組織の内外でカンパニーの動向に不信感を抱く者もいる。 + ネタバレ 実際には地上への復讐というのは建前であり、地下に必要な資源などと引き換えに龍を復活させデータを回収させるという密約を地上側とかわしている。 ○師兵/陰兵 公司の戦闘員。 師兵は能力者と半獣人で構成されており、治安維持部隊を率いる役職。A~Cにランク分けされており、A級師兵は最高幹部に次ぐ権限と待遇が与えられている。 反面C級師兵は限定的な権限しか与えられておらず、それがコンプレックスとなっている者もいる。 師兵の統括は同じくA級師兵である赤が勤めている模様。 陰兵は通常の戦闘員であり、おそらく非能力者で構成されている。特徴的な仮面とゴキブリ呼ばわりされる黒いボディースーツを身にまとい、カギ爪を武器として用いる。 ルミナたちからは雑魚扱いされるが、曲がりなりにもプロの兵士であるためスラムに侵攻した際はスラム側の軍を圧倒した。 ○スラム いくつかの層に分かれた地下世界の最下層に位置する区画。 上層へのアクセスは基本的に一部の人間のみが知るルートでしか行えないため、公司に反逆した者たちの流刑地としても利用されている。その性質上、治安はあまり良くない。 ○龍の民 地下大空洞に隠れ住む者たち。封印された龍が目覚めることが無いよう見張っている。 能力者ではないが、凶悪な生物が生息している地下大空洞で生き抜いているのに加え、能力を吸収する禁龍鉱を装備しているため並の能力者では及びもつかない戦闘力を持つ。 ○ローレックファンクラブ(RFC) チェルシー・ローレックのファンクラブ。 シャルマ・ルフィス、エミリア・ルナリーフ、ジルハーツ・ミセットらが所属している。 ローレックの公司離反後も活動費が公司の予算に計上されており、最新の設備を使いこんでいる描写がカバー裏4コマで確認されている。 【登場人物】 ○浅葱留美奈 CV:関智一 今作の主人公。地下から逃げ出し、実家の庭に迷い込んできたルリとローレックを保護したことがキッカケで地下世界と関わりを持つようになる。 祖父仕込みの古武術(剣術)と、ルリの反魂の力によって与えられた風の能力を駆使して公司の刺客達と戦いを繰り広げていく。 ○ルリ・サラサ CV:寺田はるひ(現:七緒はるひ) 今作のヒロイン。もしくは貞子。 華泰の姉にして最初の反魂の能力の持ち主であるサラサと酷似した外見をしており、華泰からは姉と重ねて溺愛されている。 サラサと同じく生命を操る反魂の能力の持ち主であり、公司からは「生命の巫女」として象徴扱いされている。 + ネタバレ 実は龍を再起動させるために地上で作りだされたサラサのクローン。 ○チェルシー・ローレック CV:茂呂田かおる 今作のヒロイン。もしくはもう1人の主人公。 地下でも希少な重力の能力者であり、それを活かした格闘戦を得意とする。 ルリの護衛役を務めており、元々人形のようだった彼女の現在の人格形成に大きく関わっている。 実は公司の初期メンバーの1人であり、護衛役になる前はシャルマを鍛えるなどしていた模様。 ○五十鈴銀之助 CV:保志総一朗 ルミナの幼馴染の少年。 科学オタク気質で、当初は気弱な性格で戦闘力も皆無だったが次第に成長していく。 普段はぐるぐる眼鏡をかけているが、その下の素顔は美形。かなり昔から眼鏡をかけていたため、ルミナですら眼鏡を外した彼を銀之助と認識できなかった。 自身は能力を使えないが、能力をこめた弾丸を放つ練氣銃を武器として戦う。 ○シエル・メサイア CV:大谷育江 電撃を操る少女。 幼いながらも強力な能力の持ち主だが、制御に難があり普段は能力を制御する為のリボンを身につけている。 当初は公司の刺客として登場したが後に地下に連れ戻されたルリの護衛となり、彼女が公司の計画の犠牲になると知ると公司を離反する。 ○エミリア・ルナリーフ CV:高野直子 公司の衛兵で、ローレックファンクラブ会員。 地下世界を愛しているが同時に地上への強い憧憬を抱えており、記憶の中の地上の景色を地下で蘇らせたいと願っている。 ギャグ描写ではあるが、ルミナをぶっ飛ばす鉄拳の持ち主でもある。 ○ジルハーツ・ミセット CV:川澄綾子 公司の衛兵で、ローレックファンクラブ会員。エミリアの先輩。 レズの領域に足をつっこむレベルでローレックのことを敬愛している。意外なことに(?)会員№は3。 当初は公司の黒い噂をレジスタンスのデマと思っていたが、それが真実であると知ってショックを受ける。 小柄な体格だが、実はけっこう強い。 ○シャルマ・ルフィス CV:野田順子 氷を操る公司のB級師兵でローレックファンクラブ会員。実は会員№1。色黒・ツインロール・関西弁と属性多め。 ローレックが護衛役になる以前にコンビを組んでおり、師弟のような間柄でもあった様子。 かつて自分を育てた人物で、公司の裏切り者として粛清された「ねーやん」とローレックを重ねており ねーやんと同じく裏切り者となった彼女を自分の手で始末せんと敵対していた。 ローレックに敗れた後、彼女らに巻きこまれてスラムに転落し、成り行きで以降は味方になる。 ○翠 CV:櫻井孝宏 レジスタンスとして公司と戦う男性。 練氣銃の開発者であり、銀之助からは「翠先生」と慕われている。 かつてスラムに落とされていた時期があり、地下闘技場を征した天才格闘家として知られている。 能力者ではないが、練氣銃や各種発明品と明晰な頭脳でA級師兵とも渡り合う実力者。 ただ練氣銃などに頼っているためか現在では格闘の腕は衰えている様子。 ○04(レイヨン) CV:飯塚雅弓 半獣人の少女。 スラムに落ちてきたルミナ達と出会い、彼らの実力を見込んで地下闘技場のチームメンバーに勧誘する。 半獣人の副作用に苦しんでおり、それを治すことを目的としている。 ○高麗(コウリン) CV:木村亜希子 A級師兵になることを夢見る10歳の少年。磁力の能力を持ち、ヨーヨーを武器にして戦う。 白龍の指示でルミナ達と戦った後、巻き添えをくらってスラムに落とされる。 その後スラムで04と出会い、いつしか彼女のことを大切に思うようになる。 ○羅(ロウ) CV:宗矢樹頼 公司のC級師兵。物語の舞台が地下に移ってから初めて戦った師兵。 高麗の兄だが実力は弟に劣る。弟と同じく磁力を操り、ネジを武器に使う。 エラそうな性格をしているが、師兵の中でも最もランクの低いC級師兵であることにコンプレックスを抱いている。 ○テイル・アシュフォード CV:笹島かほる ルリを地下世界に連れ戻すべく白龍と共に地上を訪れた公司のA級師兵。 水の能力者であり、能力のコントロールならば右に出る者はいないと自負している。 地上でルミナと交戦した際に手傷を負わされたことで彼をライバル視するようになる。 地下でのルミナとの再戦後、公司を離脱する。 ○赤 CV:三木眞一郎 公司のA級師兵であり、全師兵の頂点に立つ男。強力な炎の使い手である。 公司の創立メンバーの1人であり、変わり果ててしまった華泰には内心思うところがある。 ルミナと戦った最初の公司からの刺客であり、無能力だった当時のルミナを瞬殺するも、ルリによって蘇生されたルミナの風の能力を目の当たりにしたことで撤退する。 このことがキッカケでルミナにはどこか期待を寄せるようになる。 ○白龍 CV:寺杣昌紀(現:てらそままさき) 公司№2。水の能力者であり、通常の能力者では考えられない力の持ち主。 生命の巫女関係の責任者であり、龍の復活に対して意欲を燃やしている。 一方で地下の統治に対しては関心を示さず、上司であるはずの華秦を含め地下の全てを己の目的のために利用しようとしている。 + ネタバレ その正体は龍の暴走の際に地上へ引き上げた箱庭の研究者の1人。龍のデータを得るためにルリと共に地上から派遣された。 地上で続けられた研究で生み出された第三世代能力者であり、他の能力者達を上回る能力を持つのはそのため。 最終決戦では龍の内部でのローレックとの激闘の末に彼女へ致命傷を与え、ルリに反魂の能力を使わせることで龍を復活させることに成功したが 直後に瀕死のローレックが最後の力を振り絞った重力の能力で潰されてしまい死亡した。 ○華秦 CV:森久保祥太郎 公司の№1。サラサの弟であり、龍の暴走によって混迷を極めた地下世界を平定した英雄。 かつては仲間達と共に地下のために尽くしていたが、亡き姉に酷似したルリと出会うと彼女を溺愛する一方で地下の統治に関心を示さなくなってしまった。 + ネタバレ サラサの弟ゆえに、サラサが大元である“能力”では彼を傷つけることができない上に自身も“全てのモノを斬り裂く”という能力と卓越した剣術を持つ為に攻防共にまぎれもなく地下最強の力を持つ。 ただしあくまで傷つかないだけで強風や大量の水で動きを止めることはできる模様。 その真の目的は、龍の中に眠る姉の精神をクローンであるルリの肉体に宿らせることで蘇らせること。 龍の中から呼びかける姉の声を聴いたことに加え、クローンであるルリが手元にやってきたことで姉を取り戻したいという思いが暴走して本編の行動に至った。 だが地下に理想郷を築き上げようという理想も、信じてくれた仲間も全て捨ててまで対面したサラサの精神が望んでいたのは「せめて弟である華秦に自分を殺してほしかった」というあまりにも残酷なものだった・・・ ○崇神 CV:牛山茂 公司の№3。地下の統治に関心を示さない上2人に代わって地下と公司の全てを背負う苦労人。 普段は事務仕事に追われているが、その屈強な体格に違わぬ実力者であり、白龍のこともいざとなれば自分が抑えれば済むことと考えている。 + ネタバレ その能力はローレックと同じ重力。少なくとも数メートルの範囲に強力な重力を展開することができ、その強大な能力で公司に突入したルミナたちを一蹴してのけた。 あまりにも強力な能力に加えて対抗できそうなローレックも白龍と戦っていたためか、最終決戦ではまさかの不参戦という形で出番終了。 戦後は華秦に代わる公司の№1を決める選挙を行うも、出馬した候補者たちがどれもこれもアレだったのでどうしたものかと再び頭を悩ませることになるのだった 追記修正は可愛い女の子とのバラ色の学園生活を送ってからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 奇を衒わないどこかで見たような要素を詰め合わせた「普通」の作品だけど、しっかりしてればそれで十分面白くできるって作品だったなあ -- 名無しさん (2017-11-13 01 26 39) 懐かしい。OPとEDは今も大好きだ。有楽先生、今は何していらっしゃるのか……。 -- 名無しさん (2017-11-13 02 23 41) 途中までは凄い面白かったのにいきなり作画がブレだして話がぶっ飛んだ思い出。何があったんだ? -- 名無しさん (2017-11-13 02 39 39) 最初はアナログで書いてたのを途中でデジタルに変えたんだよ。9巻(だったか?)はその過渡期で、作画が安定してない -- 名無しさん (2017-11-13 09 37 24) 闘えないヒロインは空気となる典型。なお自覚はあった模様 -- 名無しさん (2017-11-13 11 49 03) 屈強な体格にそぐわぬ実力者ってどういう意味? -- 名無しさん (2017-11-13 13 35 17) ↑多分違わぬの間違いだろ。 白龍の体内の水まで操るのはチートだろと思った。…よく考えたら自分の血液循環操ってドーピングとか出来そう。ギア2みたいな。 -- 名無しさん (2017-11-14 02 22 48) ラストまでにかなり展開や連載がもどかしいことになっていたがその分すばらしい内容だったと思う。 -- 名無しさん (2017-11-14 10 09 07) ↑&↑2修正しといたよ。 -- 名無しさん (2017-11-15 00 05 29)。 声優を追加しました。 -- 名無しさん (2020-10-01 22 36 57) 名前 コメント
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古事記 +... 原文 現代語訳 備考 故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言「甚麗神來。」 スサノヲノミコトの御所に到着し、迎えに出てきたスセリヒメに会い、互いに一目惚れしました。スセリヒメは父君に「大変立派な神様がおいでになりました。」と申されました。 爾其大神出見而、告「此者、謂之葦原色許男。」卽喚入而、令寢其蛇室。 スサノヲノミコトは「この者はオオクニヌシノカミだ。」と言い、招き入れて蛇のいる部屋に寝させることにしました。 葦原色許男(アシハラノシコオ)=大国主神(オオクニヌシノカミ)以下同。 於是其妻須勢理毘賣命、以蛇比禮二字以音授其夫云「其蛇將咋、以此比禮三擧打撥。」 そこでスセリヒメノミコトが蛇の領巾を渡しながら「蛇が襲ってきたら、この領巾を三度振って打ち払いなさい。」と言いました。 故、如教者、蛇自靜、故平寢出之。 教えられた通りにすると蛇が静かになったので、ぐっすりと寝ることができました。 亦來日夜者、入吳公與蜂室、且授吳公蜂之比禮、教如先、故平出之。 次の夜は百足と蜂の部屋でしたが、また百足と蜂の領巾をもらい、ぐっすりと寝ることができました。 亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢、故入其野時、卽以火廻燒其野、 次の日は、オオクニヌシノカミに大野原の中に射った鏑矢を捕ってくるように命じ、野原に入った時に火をつけて焼き囲みました。 根堅州国にも昼夜の概念、野の存在があるので、地底国ではない? 於是不知所出之間、鼠來云「內者富良富良此四字以音、外者須夫須夫此四字以音」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。 脱出できずに困っていると、鼠が出てきて「内はほらほら、外はすぶすぶ。」と言うので、鎮火するまで鼠の巣穴に隠れていました。 爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。 そこで鼠が鏑矢を咥えて来ました。ただし、矢羽根は鼠の子どもが齧ってしまっていました。 於是、其妻須世理毘賣者、持喪具而哭來、其父大神者、思已死訖、出立其野。 スセリヒメは泣きながら葬式の道具を持って、スサノヲノミコトも死んだと思いながら野に来てみると、オオクニヌシノカミは無事でした。 爾持其矢以奉之時、率入家而、喚入八田間大室而、令取其頭之虱、故爾見其頭者、吳公多在。 そこで家に連れ帰り、大広間に呼び入れて、頭の虱を取らせましたが、頭を見ると百足がいっぱいいます。 於是其妻、取牟久木實與赤土、授其夫、故咋破其木實、含赤土唾出者、其大神、以爲咋破吳公唾出而、於心思愛而寢。 スセリヒメに渡された椋の木の実を齧り、赤土を口に含んで吐き出すと、スサノヲノミコトは百足をかみ殺していると思い、感心しながら寝てしまいました。 爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、 そこでスサノヲノミコトの髮を大広間の屋根に結びつけ、大きな岩で大広間の戸口を塞ぎました。 負其妻須世理毘賣、卽取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。 スセリヒメを背負い、宝物の大刀や弓矢、また美しい琴を持って逃げようとした時に、その琴が樹に触れて音を立てました。 故、其所寢大神、聞驚而、引仆其室、然解結椽髮之間、遠逃。 音に驚いたスサノヲノミコトが起き上がったため、大広間は崩落しました。屋根に結んだ髮を解く間に、二人は遠くまで逃げました。 故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰 黄泉比良坂まで追いかけたところで、遠くに見えるオオクニヌシノカミに 「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」 「持ち出した大刀や弓矢で、兄弟神を坂の上へと河の瀬へと追い払い、オオクニヌシノカミとしてスセリヒメを正妻とし、ウカの山の山本の、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に届くほどの棟木を上げて住めよ、こ奴め。」と呼びかけられました。 三屋神社 スサノヲノミコト隠棲の地。 日御碕神社 故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。 そこでその大刀・弓を使って、兄弟神を坂の上に追い伏せ、河の瀬に追い払った後、国を作り始めました。 故、其八上比賣者、如先期、美刀阿多波志都。此七字以音。故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺挾木俣而返、 かのヤガミヒメとは約束通りに結婚しました。そのヤガミヒメは子供を連れて来ましたが、正妻のスセリヒメを恐れ、子供を木の俣に挟んで帰ってしまいました。 故名其子云木俣神、亦名謂御井神也。 ですからその子の名をキノマタノカミと申します。またの名はミイノカミとも申します。 御井神社 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、 このオオクニヌシノカミが、越の国のヌナカハヒメと結婚するため、ヌナカハヒメの家に行ってお詠みになりました歌は、 奴奈川神社 八千矛神(ヤチホコノカミ)=大国主神(オオクニヌシノカミ)以下同。 夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠阿理登伎許志弖 佐用婆比爾 阿理多多斯 用婆比邇 阿理加用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能 加多理其登母 許遠婆 八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠遠し 高志の国に賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も いまだ解かずて 襲をも いまだ解かねば 嬢子の 寝すや板戸を 押そぶらひ我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に ぬえは鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛くも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 天馳使 事の語言も 是をば 爾其沼河比賣、未開戸、自內歌曰、 そこで、そのヌナカハヒメが、戸を開けずに家の内から詠んだ歌は、 夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆 八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ今こそは 我鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も 是をば 阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆 青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝は寝さむを あやにな恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば 故、其夜者、不合而、明日夜、爲御合也。 それで、その夜は逢わずに、翌晩に逢われました。 又其神之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲神、和備弖三字以音、自出雲將上坐倭國而、束裝立時、 スセリヒメノミコトは、大変嫉妬深い方だったので、オオクニヌシノカミは心憂く思い、出雲国から大和国に向かう時に、 片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、 片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙に踏み入れて、詠われた歌は、 奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比於岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登許登能 加多理碁登母 許遠婆 ぬばたまの 黒く御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも これは適さず 辺つ波 そに脱き棄て そに鳥の青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山県に 蒔きし あたね舂き 染木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命 群鳥の 我が群れ往なば 泣かじとは 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは汝は言ふとも 山処の 一本薄 項傾し 汝が泣かさまく 朝雨の 霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の 語言も 是をば 爾其后、取大御酒坏、立依指擧而歌曰、 そこでスセリヒメが酒盃を手に立ち添いながら詠われた歌が、 夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世 八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻る 島の埼埼 かき廻る 磯の埼落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し 汝を除て 夫は無し 綾垣の ふはやが下に 苧衾 柔やが下に 栲衾 さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕 そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝をし寝せ 豊御酒奉らせ 如此歌、卽爲宇伎由比四字以音而、宇那賀氣理弖六字以音、至今鎭坐也。此謂之神語也。 そこで盃を取り交わして、手を懸け合あって、今日までも鎮まっておいでになります。これらの歌は神語と申す歌曲です。 スセリヒメが亡くなった地 唐王神社 故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。 このオオクニヌシノカミが宗像の沖津宮のタギリヒメノミコトと結婚して生んだ子は、アヂスキタカヒコネノカミ、次にタカヒメノミコト、またの名はシタテルヒメノミコトであります。このアヂスキタカヒコネノカミは、今はカモノオオミカミと申す神樣であります。 オオクニヌシノミコト ⑥ 大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。 オオクニヌシノカミが、またカムヤタテヒメノミコトと結婚して生んだ子は、コトシロヌシノカミです。 ⑦ 亦娶八嶋牟遲能神自牟下三字以音之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神。訓鳴云那留。 またヤシマムチノカミの娘のトリトリノカミと結婚して生んだ子は、トリナルミノカミです。 ⑧ 此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神田下毘、又自伊下至邇、皆以音生子、國忍富神。 この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニノカミと結婚して生んだ子は、クニオシトミノカミです。 ⑨ 此神、娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名・八河江比賣、生子、速甕之多氣佐波夜遲奴美神。自多下八字以音。 この神がアシナダカノカミ、またの名はヤガハエヒメと結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミノカミです。 ⑩ 此神、娶天之甕主神之女・前玉比賣、生子、甕主日子神。 この神がアメノミカヌシノカミの娘のサキタマヒメと結婚して生んだ子は、ミカヌシヒコノカミです。 ⑪ 此神、娶淤加美神之女・比那良志毘賣此神名以音生子、多比理岐志麻流美神。此神名以音。 この神がオカミノカミの娘のヒナラシヒメと結婚して生んだ子は、タヒリキシマミノカミです。 ⑫ 此神、娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音。 この神がヒヒラギノソノハナマヅミノカミの娘のイクタマサキタマヒメノカミと結婚して生んだ子は、ミロナミノカミです。 ⑬ 此神、娶敷山主神之女・青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。 この神がシキヤマヌシノカミの娘のアヲヌマヌオシヒメと結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミノカミです。 ⑭ 此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。 この神がワカヒルメノカミと結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミノカミです。 ⑮ 此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。 この神がアメノサギリノカミの娘のトホツマチネノカミと結婚して生んだ子は、トホツヤマザキタラシノカミです。 ⑯ 右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。 以上ヤシマジヌミノカミからトホツヤマザキタラシノカミまでを十七代の神と申します。 数が合わない。 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。 そこでオオクニヌシノカミが出雲の御大の御埼においでになった時に、波の上を蔓芋のさやを割って船にし、剥いだ蛾の皮を着物にして寄って来る神様があります。 爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音 その名を聞きましたけれども答えません。またお供の神達も皆知りませんでした。ところがひきがえるが言うには、 「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白 「これはクエビコが知っているはずです。」と申しましたから、そのクエビコを呼んでお尋ねになると、 「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告 「これはカムムスビノカミの御子でスクナビコナノカミです。」と申しました。カムムスビノカミに申し上げたところ、 「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」 「確かに私の子だ。子どもの中でも私の指の間からこぼれて落ちた子どもです。お前はオオクニヌシノカミと兄弟となってこの国を作りなさい。」と仰せられました。 故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。 それでオオクニヌシノカミとスクナビコナは、お二人でこの国を作り堅めたのです。 生石神社 然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。 後に、スクナビコナノカミは、常世国へ行ってしまいました。 故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、 このスクナビコナノカミのことを申し上げたクエビコというのは、今にいう山田の案山子のことです。 此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。 この神は足は歩きませんが、天下のことを何でも知っている神様です。 於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」 そこでオオクニヌシノカミが、「私ひとりではどうやっても国を造れません。誰と一緒に国を造ればよいでしょう。」と嘆きました。 是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」 この時に海上を輝きながらやってきた神様が「私を祀ってくれたなら、国造りを手伝いましょう。そうしないと国造りは難しいでしょう。」と仰せられました。 爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山上神也。 オオクニヌシノカミが「どのようにお祀りしましょうか。」と尋ねると、「私を大和国の東の青々とした山の上に祀りなさい。」と仰せられました。これは御諸の山においでになる神樣です。 大神神社 北国御開拓 高瀬神社 信州御開拓 矢彦神社 オオクニヌシノカミの妻、眞玉著玉之邑日女命 朝山神社 故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、 さて、オホトシノカミが、カムイクスビノカミの娘のイノヒメと結婚して生んだ子は、 大國御魂神、 オホクニミタマノカミ、 ① 次韓神、 次にカラノカミ、 ② 次曾富理神、 次にソホリノカミ、 ③ 次白日神、 次にシラヒノカミ、 ④ 次聖神。五神。 次にヒジリノカミの五神です。 ⑤ 又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、 またカグヨヒメと結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミノカミ、 ⑥ 次御年神。二柱。 次にミトシノカミの二神です。 ⑦ 又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子神、 またアメシルカルミヅヒメと結婚して生んだ子はオキツヒコノカミ、 ⑧❶ 次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、 次にオキツヒメノミコト、またの名はオホヘヒメノカミです。これは皆様の祀っている竈神であります。 ⑨❷ 次大山上咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、 次にオホヤマクヒノカミ、またの名はスヱノオホヌシノカミです。これは近江国の比叡山においでになり、また葛野の松尾においでになる鏑矢をお持ちになっている神様であります。 日吉大社松尾大社⑩❸ 次庭津日神、 次にニハツヒノカミ、 ⑪❹ 次阿須波神此神名以音、 次にアスハノカミ、 ⑫❺ 次波比岐神此神名以音、 次にハヒキノカミ、 ⑬❻ 次香山戸臣神、 次にカグヤマトミノカミ、 ⑭❼ 次羽山戸神、 次にハヤマトノカミ、 ⑮❽ 次庭高津日神、 次にニハノタカツヒノカミ、 ⑯❾ 次大土神、亦名、土之御祖神。九神。 次にオホツチノカミ、またの名はツチノミオヤノカミの九神です。 ⑰❿ 数が合わない。 上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。 以上オホトシノカミの子のオホクニミタマノカミからオホツチノカミまで合わせて十六神です。 数が合わない。 羽山戸神、娶大氣都比賣自氣下四字以音神、生子、 さてハヤマトノカミがオホゲツヒメノカミと結婚して生んだ子は、 若山咋神、 ワカヤマクヒノカミ、 ① 次若年神、 次にワカトシノカミ、 ② 次妹若沙那賣神自沙下三字以音、 次に女神のワカサナメノカミ、 ③ 次彌豆麻岐神自彌下四字音、 次にミヅマキノカミ、 ④ 次夏高津日神、亦名、夏之賣神、 次にナツノタカツヒノカミ、またの名はナツノメノカミ、 ⑤ 次秋毘賣神、 次にアキヒメノカミ、 ⑥ 次久久年神久久二字以音、 次にククトシノカミ、 ⑦ 次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音。 次にククキワカムロツナネノカミです。 ⑧ 上件羽山之子以下、若室葛根以前、幷八神。 以上ハヤマトノカミの子のワカヤマクヒノカミからワカムロツナネノカミまで合わせて八神です。 ゆかりの寺社(御朱印視点) 引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。 【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 富山県 高瀬神社 南砺市高瀬291 大国主命 滋賀県 日吉大社 大津市坂本5-1-1 大山咋神 京都府 松尾大社 京都市西京区嵐山宮町3 大山咋神 鳥取県 唐王神社 西伯郡大山町唐王725 須勢理毘売命 島根県 御井神社 出雲市斐川町直江2518 木俣神 島根県 三屋神社 雲南市三刀屋町給下865 宮居 兵庫県 生石神社 高砂市阿弥陀町生石171 少毘古那 新潟県 奴奈川神社 糸魚川市一の宮1-3-34 奴奈川姫 奈良県 大神神社 桜井市三輪1422 大物主神 島根県 朝山神社 出雲市朝山町1404 眞玉著玉之邑日女命 島根県 八野神社 出雲市矢野町725 八野若日女命 長野県 矢彦神社 上伊那郡辰野町小野3267 大己貴命・事代主神・建御名方神 島根県 日御碕神社 出雲市大社町日御碕455 素盞嗚尊 生石神社 〇生石神社御祭神について〇神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けて出雲国より播磨国に来られた時に、二神が相談し国土を鎮めるに相応しい石造りの宮殿を建てようとしました。一夜のうちに現在の形まで造ったが、工事半ばで阿賀の神(あがのかみ:播磨の土着の神)の反乱が起こり、宮殿造営を止めて現在の神爪地区に多数の神様を集めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができませんでした。しかし二神は、宮殿が未完成でも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明されました。以来この宮殿は石宝殿(いしのほうでん)、鎮の岩室(しずのいわや)と言われるようになりました。生石神社では、大穴牟遅命と少毘古那命の二神を御祭神としています。 生石神社 唐王神社 「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神徳はこの地方に広くゆきわたっております。ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした。最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦となられました。後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なものがあります。この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。 唐王神社 三屋神社 出雲国風土記にも記された古社。出雲大社と同じ神紋を持ち、大国主命がここに宮居を置いたと伝えられる。大神の御門此ゝに在り、故に御門屋と云ふ。(神亀3年三屋と改む)○社号の由来は所造天下大神大穴特命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔りて、此処に宮居を定め国土経営に端緒をお開きになった。○出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記選上当時に置かれた場所は他の一か所もない。神の御門と神戸を社号とした神社が全国に他に一社もないことは特筆に値する。 島根県観光連盟 奴奈川神社 天津神社に向かい左手に位置するのが、奴奈川神社です。かつて奴奈川の郷に君臨した首長、奴奈川姫と「賢し女」「麗し女」といわれた奴奈川姫に求婚にやって来たと言われる大国主の命を祀っています。 糸魚川市観光協会 御井神社 御井神社および、ご祭神である木俣神の記述は、「古事記」に描かれている大国主の神話で確認することができます。その大国主の神話には、「八上姫(やかみひめ)は大国主命のお妃・須世理姫を恐れて、御子を木の俣にかけて因幡へお帰りになった。その御子の名を木俣の神、またの名は御井の神という」という形で紹介されております。 御井神社 大神神社 当社の創祀に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀られることを望んだとあります。また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂として顕現され、三輪山に鎮まられたということです。この様に記紀の神話に創祀の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。そして、ご祭神がお山に鎮まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤く祀られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観元年(859)に最高位の正一位となりました。延喜式の社格は官幣大社で、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。中世には神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社となりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。 大神神社 朝山神社 主祭神眞玉著玉之邑日女命は神魂命の御子にして姿容端正淑徳玉の如し坐し坐せば「大巳貴命」娶り給いて毎朝に通い坐しき故、朝山と云う」と出雲風土記に記さる。当社の創立については、当地方の神楽歌に「ありがたや宇比多伎山の宮造りこれぞ社の初めなるらむ」と歌われる如く、余りにも古く古典に依れば出雲風土記に淺山社、延喜式神名帳に朝山神社と記さる。当社は往古より山美しく水清き宇比多伎山に御鎮座坐し坐し位置を移せしことなく故に中世より宇比多伎大明神とも申し奉る。天武天皇以来皇室を始め毛利氏、松平氏等領主の崇敬厚く古文書に依れば毛利氏出雲国を領せし時の左の棟礼あり 朝山神社御由緒 高瀬神社 御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。 高瀬神社 ※御祭神=大国主命 日吉大社 当社には東西両本宮があり、東本宮の御祭神大山咋神は、古事記神代の巻に「大山咋神亦名山未之大主神此神者生近淡海国之日枝山……」と記されている。日枝山頂から今の地に移し祀られたのは、崇神天皇七年と禰宜口伝抄にある。又西本宮の御祭神大己貴神は「天智天皇七年戊辰三月三日詔鴨賀嶌八世孫宇志麿祭大和国三輪坐大己貴神於比叡山口日大比比叡宮」と禰宜口伝抄にある。元慶四年、西本宮御祭神正一位(三代実録)。寿永二年、東本宮御祭神正一位、二十二社注式。長暦三年、二十二社に加えられ、延喜式内名神大社でもある。明治四年官幣大社列班。昭和三年官幣大社祭神御増座、謂ゆる東西両本宮が官幣大社に列せられたのである。行幸は創祀以来二十数回を数えるが、中でも第五十代桓武天皇が延暦十年四月第二ノ申日より七日間、日吉大社に参籠ましまして行在所を設けられ、勅願に依り大比叡、小比叡の神輿二基の御造進が特記される。神佛習合に関しては、天台宗の守護神として延暦寺と密接な関係を有し、歴史的にも天台教学の上にも現代に至るまで大きな影響を及ぼしている。戦国の武将は並べて崇敬が篤く、中でも秀吉、家康の山王信仰の篤さは日吉三橋(重文)、日吉東照宮(重文)に文化遺産として残されている。元亀の乱により社殿及び神輿は烏有に帰したが、天正十四年から逐次再建された。全国にある三八〇〇余社の分霊社の総本宮である。例祭である山王祭には古式祭がよく継承されていて、四月十二日山頂の牛尾神社、三宮神社より東本宮拝殿に神輿が舁ぎおろされる午の神事、同十三日に斎行される献茶式、未の御供、花渡式、宵宮落等未の神事、十四日神幸祭で神輿が唐崎に湖上渡御し、粟津の御供の神事が斎行される等特に有名である。(県選択)(市指定)。また元旦暁闇に斎行される大戸開神事には京都の片山能太夫による「日吉の翁」が奉舞される。 滋賀県神社庁 松尾大社 当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。 松尾大社 矢彦神社 当神社は、信濃国二之宮であり、上伊那郡五十四か村の総鎮守であります。遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命をしたがえて、この地にお立寄りになったと伝えられております。古くから、皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばありました。欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのいました。そして例祭日を毎年、八朔(旧八月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)といわれました。天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造營し、正遷宮祭と御柱祭とが七年毎の式年祭と定められました。白鳳二年(六七四年)のことであります。安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造營し、以後約七百年にわたって宮材を木曽山林から出材されることになりました。以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(信玄)、勝頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚く、再三社殿を造營されました。とくに、慶安二年(一六四九年)、徳川家光より、神領として、高十石、及び付属山林諸役免除の公文御朱印状を献納されました。明治天皇の御代、明治五年(一八七二年)社格が郷社となり、明治十四年(一八八一年)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜りました。明治二十七年(一八九四年)十月一日明治遥拝殿を創建。明治天皇の生祠明治宮は、わが国でもはじめてのものであります。明治三十三年(一九〇〇年)社格が県社に昇格。御造營材の御下賜は昭和七年(九三二年)まで続き、「天賜材式年造營神社」と称せされるにいたりました。昭和十一年(一九三六年)五月七日、巢山沢御料地を御造営材供給の備林として二十四町歩余の山林御下賜の天恩をうけました。 矢彦神社現地看板 日御碕神社 島根半島の西端に位置する日御碕神社は、『出雲国風土記』に「美佐伎社」と記される歴史ある神社です。神社は下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」と上の宮「神の宮」の上下二社からなり、両本社を総称して「日御碕神社」と呼ばれます。花崗岩の鳥居の奥に朱の楼門が鮮やかに映え、松林を背景に荘厳な雰囲気が漂います。楼門をくぐり、右手の小高いところには「神の宮」があり、こちらには素盞嗚尊(スサノオノミコト)が祀られています。出雲の国造りをしたスサノオが、根の国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったということです。その後スサノオの五世の孫、天葺根命(アメノフキネノミコト)がこの地にスサノオを奉斎したといわれています。 出雲観光協会
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平成20年11月29日① 小浜 冬を迎えようとしている北陸へ行くことにしました。 福井といえば、京から北陸に抜ける交通の要衝で、こまやかな文化が生まれ、歴史上重要な合戦が数多く行われた土地でもあります。 織田信長による朝倉攻め、豊臣秀吉による柴田攻め、古くは新田義貞軍の全滅などです。 今回は特に南北朝時代の新田軍の足跡をたどりたいと思いました。 いつものように伊丹空港まで飛行機に乗り、今回はバスに乗ってJR伊丹駅まで行き、そこから電車に乗りました。 車を貸してくれる友人と篠山口で合流、そこから舞鶴若狭自動車道に乗り、現在の終点になっている小浜西まで行きます。 最初の目的地、若狭彦神社は、車ですぐの所でした。 若狭国一之宮である若狭彦神社は上社と下社に分かれ、最初に参拝した若狭彦神社は上社に当たります。 御祭神の若狭彦神は、彦火火出見尊と考えられています。神武天皇の祖父神に当たり、山幸海幸神話の山幸彦のことです。 天孫瓊瓊杵尊には二人の子がいて、兄の海幸彦は魚を、弟の山幸彦は獣を獲って生活していました。 ある日、山幸彦は海幸彦に道具の交換を提案してそれぞれ漁や狩りをしますが、結局収穫がなく、悪いことに山幸彦は釣り針を失くしてしまいました。 代わりの釣り針を作っても兄は納得せず、海で泣いていると、そこに塩椎神が現れ、山幸彦は海の中にある海神の宮殿へ案内されました。 そこで海神の娘である豊玉姫命と結婚し、海神に地上での出来事を話すと、海神は魚たちの中から赤鯛の喉にそれが引っ掛かっているのを見つけ、鹽盈珠・鹽乾珠とともに山幸彦に与えて地上へ返しました。 釣り針を見つけてもなお弟を許さない兄を、山幸彦は鹽盈珠・鹽乾珠を使って懲らしめ、ついに屈服させました。 そして山幸彦は豊玉姫を地上に招き、二人の間から生まれたのが、鵜草葺不合命です。 境内には、鵜草葺不合命を祀る境内社の若宮神社も鎮座しています。 上社に神主さんは常駐しておらず、御朱印を希望する人は下社へ向かうよう、案内が掲示されていました。そこで下社に向かったのですが、残念ながら留守の様子。 しかし授与所の窓の所に、2時半に帰りますと書かれたメモが置かれていました。 せっかく小浜に来たので、中心部へ行ってみることにしました。 アメリカ大統領選挙で立候補、後に当選した民主党のオバマ氏と同じ名前という縁をもって、オバマ氏を応援する会というものが小浜市に旗揚げされたというニュースを聞いていました。 民主党に政権が移った時、日本がどれだけ苦しんで来たか、その近現代史にはここでは触れません。 土曜日の昼間にもかかわらず、繁華街に活気は見られず、閉じられたシャッターばかりが目立っていました。 小浜市は全国でも一人当たりの寺社数が最も多い自治体なのだそうですが、同じ名前の外国人に藁をも掴む思いにならなければならない現状に同情さえしてしまいます。 戦後日本人が失ってしまった「何か」が最も多い土地だからこそ、こんな状態になってしまったのかも知れません。 ちょうど時間になったので、気を取り直して下社に向かいました。 単独で呼ぶ時は、若狭姫神社と言います。 こちらの御祭神は、山幸彦と結婚した豊玉姫命。若狭姫神と呼ばれています。 先日千葉を旅した時に参拝した玉前神社の御祭神、玉依姫命の姉に当たります。 お産に際し、決して見てはいけないと言われたにもかかわらず、山幸彦は豊玉姫が心配になって覗いてしまいます。 すると、そこにワニザメの姿になってのたうっている妻を見てしまったのです。 海の神の娘は、出産のために本来の姿に戻ってしまったのでしょう。 見られたことを恥じた豊玉姫は、生まれた子を残して、海神の国へと帰ってしまいました。 上社の夫婦杉も立派でしたが、下社の千年杉も見る者を圧倒して来ます。 写真ではその迫力が伝わりにくいですが、ごく普通の大きさの社殿が、下の方に小ぢんまりとして見えています。 神主さん(たぶん宮司さん)が戻っておられたので、御朱印をいただくついでにいろいろとお話をうかがいました。 かつて鯖街道としての賑わいも今はなく、最近は後背地の山から獣が下りて来るそうで、山が荒れているのではないかということです。 オバマ旋風も結構ですが、地域の神や仏をまず第一に敬ってこそ、活性化の第一歩なのではないかと思います。 平成20年11月29日② 敦賀 小浜を出て敦賀に向かいます。途中原発への案内表示が出ていました。 まずは武田耕雲斎等の墓と松原神社へ。 名前から、気比の松原にあるのだと思っていましたが、実際は少し離れたところにありました。 武田耕雲斎は幕末水戸藩の尊王攘夷派、天狗党の首領です。 天狗党は尊王攘夷の魁として筑波山に挙兵しますが、幕府軍に追われることとなり、各地に転戦して京都を目指すも、元治元年に越前新保(現在の敦賀市)で加賀藩に投降しました。 天狗党の者たちは鰊蔵に幽閉され、過酷な環境の中で多数の病死者を出し、加賀藩が幕府に彼らの除名を嘆願したのも聞き入れられず、耕雲斎以下353人がこの地で斬首されました。 刑場だった場所に遺体を埋め、土を盛って墓石を建てたのがこの墓地です。 墓に手を合わせ、松原神社を探そうとすると、墓地からまっすぐ進んだ先に鳥居が見えました。 ここには武田耕雲斎以下411名が祀られており、幽閉された鰊蔵のうち1棟が移築されています。 少しずつ薄暗くなって来ましたが、翌日は雨の予報が出ているため多少無理をして、今回の一番の目的地である金崎宮・金ヶ崎城跡へ。 南北朝時代、一度は九州まで追われた足利軍は勢力を盛り返し、後醍醐天皇の信頼が篤かった楠木正成や名和長年たちを次々に倒します。 勢力を立て直すため、宮方の大将である新田義貞に二方の親王をつけて北陸に遣わせますが、形勢は不利のまま、ここ金ヶ崎城に籠城しました。 金崎宮は建武中興十五社のひとつで、尊良親王と恒良親王をお祀りしています。 秋の葉が鮮やかに色づいていましたが、春は桜の名所でもあるそうです。 隣には摂社絹掛神社。 落城の際に自刃した新田義顕以下321名をお祀りしています。 金ヶ崎城は難攻不落の城と言われ、背後の絶壁からは食料を運ぶこともできるはずでしたが、足利軍は軍船によって海上からの糧道も断ち、籠城兵たちは完全に孤立してしまいました。 海岸にやっとの思いで降りては海藻を集め、草の根を掘り、木の皮を剥ぎ、それらも全て尽きると軍馬の肉まで食し、最後は力尽きんとする兵が、己の肉を食ってもらうことで共に戦いたいと仲間に頼みながら死んでいったそうです。 友人を待たせ、ひとり山城に登り始めました。 しばらく進むと、尊良親王墓所見込地にたどり着きました。 金崎宮の御祭神の一柱である尊良親王は落城に際し、落ち延びることを勧める新田義顕に対し、兵士を見捨てて皇族だけが命ながらえては日本の国柄に背くことになると、真っ先に自害されたそうです。 この理想は後世にも受け継がれ、未曽有の国難となった大東亜戦争においても、多数の皇族が戦死されています。 後で神主さんから聞いた話では、もともとはここ墓所見込地に社殿が建てられたそうです。しかし海から吹きあげる風に社殿の傷みが激しく、また火災によって焼失してしまったため、現在の場所に遷座されたとのことでした。 頂上付近は本丸跡と考えられ、月見御殿と呼ばれています。 ここから敦賀湾が一望することができ、戦国時代には武将たちが月見を楽しんだと言われています。 後醍醐天皇の皇太子でであった恒良親王は、三種の神器を捧持していましたが、落城の際にはからくもこの海から城を抜け出すことに成功します。 しかし足利軍の探索から逃れることはできず、捕らえられて京都の花山院第に幽閉され、先に捕えられていた成良親王とともに毒を盛られて亡くなりました。 本来皇族を守るはずの武士が逆に皇族を殺めるような暗黒の時代が、たしかに日本にはあったのでした。 平成20年11月30日① 氣比神宮 翌日は残念ながら朝から雨が降っていましたが、雪にならないだけよしとします。 まずは敦賀市内で行き残していた氣比神宮に参拝しました。 氣比神宮は越前国一之宮で、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)の他、全7柱の神をお祀りしています。 社殿によると、三韓征伐に先立ち、仲哀天皇の命を受けた神功皇后が玉姫命と武内宿禰をともなって参拝し、その帰順が託宣されたということです。 また、その皇子である応神天皇がもともとイザサワケという名前でしたが、気比大神と名前を交換してホンダワケを名乗り、もともとホンダワケという名前だった気比大神がイザサワケを名乗るようになったとも伝えられています。 このように皇室とのゆかりも深い氣比神宮は、越前国一之宮・北陸道総鎮守として大切にされて来ました。 再び歴史の表舞台に立つことになるのは、南北朝時代のことです。 新田義貞を北陸に向かわせた後醍醐天皇は、氣比神宮にも挙兵を促します。 当時の宮司であった気比氏治が旗揚げに用いた松の木は、境内に今も残されています。 気比一族は金ヶ崎城に新田の軍勢を迎え入れ、共に戦いますが、先に書いたとおり城は落ち、社領は足利幕府によって減ぜられました。 その後、朝倉氏に協力して織田軍と戦って敗れ、社殿は全て灰燼に帰し、祭祀も廃絶してしまいます。 これを再興したのが福井藩祖結城秀康でした。 氣比神宮には元禄2年、松尾芭蕉も訪れています。 旧暦8月14日、出雲屋という宿に泊まった芭蕉は、宿の主人から氣比神宮での月見を勧められます。 翌日は満月。しかし北陸の天気は変わりやすいと教えられ、14日の夜に月見に出かけることにしました。 そこで主人から、かつて道の悪かった参道を埋め立てるために浜から砂を運んだ遊行上人の話を聞かされます。 月清し遊行のもてる砂の上 翌日は、主人が心配したとおり雨が降ったそうです。 境内には摂社・末社がたくさん鎮座していますが、その中で特に珍しいのが角鹿(つぬが)神社です。 御祭神の都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)は、崇神天皇の御代に意富加羅(加耶)から渡来した王子で、氣比神宮の宮司をに任命され、この国の政治を委ねられたそうです。 敦賀の地名はツヌガが由来であるとも言われ、今回は見ることができませんでしたが、敦賀駅前には都怒我阿羅斯等の像が建っています。 駐車場の脇に鳥居を見つけました。案内表示には、古殿池遙拝所と書かれています。 鳥居の先に社殿はなく、「土公」と呼ばれる土を盛った小さな塚があるのですが、これこそ気比大神が天筒山から降臨した場所で、神社創始の聖地であります。 結城秀康によって再興された神社も、先の大戦における空襲によって再び焼け野原になってしまいました。 その再建事業は半世紀にわたり、平成の御代まで続いていました。 境内地の一部が、戦後の都市計画法に基づき学校用地の一部として譲渡されることになりましたが、土公はそのままの形で残されました。 この敬神の精神を、日本人の心の中核として守り続けなければならないと思います。 平成20年11月30日② 福井市 翌朝、雨があがる気配はありませんが、福井市内に向けて出発しました。 最初に訪れたのは、足羽山に鎮座する藤島神社。 建武中興十五社のひとつで、新田義貞公とその一族や家臣を祀っています。 新田氏とその宿敵足利氏とはもともと同じ河内源氏の一族でした。 新田氏は上野国を、足利氏は下野国を治めていましたが、足利氏が鎌倉幕府に厚遇を受けていたのに対し、新田氏はかなり低い地位に甘んじていました。 後醍醐天皇による倒幕の呼びかけに対していち早く応えたのも新田氏で、ついに鎌倉を攻めて幕府を倒します。 しかし新たな武家政権の樹立を目論む足利家が裏切り、劣勢に立つ後醍醐天皇に、京への遷幸と引き換えに義貞公の首を求めます。 やむを得ず後醍醐帝は尊良親王と恒良親王を新田軍につけ、足利への反攻の兵を募るよう北陸に遣わされるのでした。 季節は冬。極寒の行軍によって新田軍の兵士は次々に雪の上に屍を連ねました。 敦賀では気比氏や瓜生氏などが呼びかけに応え、果敢に戦いますが、先に書いたように金ヶ崎城落城の悲劇へとつながります。 嫡男の義顕公を失ったものの、義貞公はここ藤島で平泉寺衆徒を味方につけ、足利軍の斯波高経と戦います。 高経が平泉寺へ藤島荘の寄進を約束すると、衆徒はあっさりと寝返り、義貞公もついに討ち死にするのでした。 討ち死にの場所からは、明暦年間に義貞公の兜が発見され、福井藩主松平光通侯が石碑を建てました。 また明治に入って義貞公を顕彰しようという機運が高まり、藤島神社の御創建が実現するのでした。 武家支配の実利を求めた足利と、一君万民の理想を追った新田。正義は必ずしも勝つとは限りませんが、公正な民の眼によって正しい評価が下ることを物語っています。 更に坂道を登り、小高く盛りあがった丘の下に着きました。 この丘を上ると、継体天皇石像が置かれているはずです。 福井は、数々の武将が散った土地でもありますが、一つの壮大な歴史が始まった土地でもあります。 それは、25代武烈天皇が皇嗣を決めずに崩御したことで、26代の天皇として迎えられた継体天皇が治めていたという意味です。 史書によれば、継体天皇は応神天皇の5世の孫で、男大迹王(おおとのみこ)と呼ばれていました。 沼地同然だった越前国に、九頭竜川・足羽川・日野川をつくり、三国に水門を開いて水を海に流すという治水事業を行った結果、越前平野は非常に豊かになりました。 石像の表情は、どちらかというと柔和なのですが、一度見たら忘れられないような威厳も兼ね備えています。 56歳で天皇に即位した継体天皇は、越前国を離れるにあたって、自らの御生霊を鎮めました。 それが現在の足羽神社で、山を少し下ったところに鎮座しています。 治水事業に当たって安全祈願のために朝廷から勧請した大宮地之霊も祀られています。 戦国の兵乱によって廃れていましたが、柴田勝家や松平家によって復興され、現在に至っています。 一時期「女系天皇」なるものが叫ばれましたが、たとい血筋が遠くても皇統を守らなければならないことを、継体天皇の即位という事実は教えてくれます。 福井には、柴田勝家や松平家、朝倉氏、それに橋本左内などにゆかりの、歴史上かなり重要な史跡がありますが、今回は福井縣護國神社を参拝して、福井散策を終えたいと思います。 不思議なことに、急に雨がやんで太陽が顔を出しました。 福井縣護國神社には、橋本左内をはじめとする明治維新以降の国難における御英霊の他、警察・消防・自衛隊などの殉職者、満洲開拓団の戦災死亡者も祀られています。 巫女さんの親切なご案内により、「秀芳館」という英霊の遺品の展示館を見学させていただきました。 平成20年12月1日 茨木市 今回の旅は、大阪の茨木市で締めくくりたいと思います。 茨木市には繼體天皇陵があり、当初から今回の旅の最後に参拝するつもりでおりました。 宿泊地の十三から阪急線で総持寺駅まで行き、そこからバスと徒歩で30分ほどの所にあります。 バスを降りて歩いていると、石灯籠と「式内社」の案内板が見えたので、寄り道してみました。 住宅地の奥の方に鎮座するのは太田神社。 更に歩くと、ようやく繼體天皇陵に到着です。 大連大伴金村に推戴された男大迹王は、すぐに大和国には入らず、河内国の樟葉宮(くすばのみや)で即位します。 直系の後継者でなかったことが、何らかの混乱を呼んだことは間違いないでしょう。 しかし、応神天皇-若野毛二俣王-意富富等王-乎非王-彦主人王-男大迹王という男系の血統は護持され、皇嗣たちも立派にお育てになりました。 ふと現代のことを思うと、今上陛下の孫の世代は親王がお一方しかおられず、このままでは皇統が断絶するか、よくても綱渡りの状態が続くことは間違いありません。 2000年の歴史を持つ、日本の国民全体の宗家たる皇室が衰退するようでは、日本国全体の活性化も更に先の話でしょう。 旧皇族が一刻も早く皇籍復帰できるよう、またそれが敗戦による諸々の呪縛を解くきっかけになるよう、継体天皇に祈りを捧げたのでした。 現在の繼體天皇陵は、考古学的には別人の墓である可能性が非常に高いそうです。 真の継体天皇の御陵と見られているのは、北西の方角にある今城塚古墳です。 帰りの飛行機の時間までまだ余裕があったので、徒歩で向かいました。 こちらは宮内庁の管理ではないので、かなり荒れています。 どちらが本物かという話には、私はあまり意味がないような気がします。 「そっちは偽物こっちが本物」と声を大にして主張する学者に限って、本物にも偽物にも手を合わせようとはしないものですから。 歴代の皇族方や国民が手を合わせる方に、御霊は宿られるのだと思います。
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇。日本の神話上の初代天皇。日向国(宮崎県)出身。在位は神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)~神武天皇76年3月11日。 天皇が即位した旧暦1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。 生涯 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 皇子の時代 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。 生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 東征の開始 10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。 長髄彦との戦い 戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 八咫烏の道案内 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 怒濤の進撃 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 崩御 神武天皇76年、127歳にして崩御した。 系譜 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売。阿多小椅君の妹) 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。大物主の女) 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造などの祖 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇) 神武天皇の非実在説 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。 日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。 こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている。 即位年月日 神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 紀元前660年とされた経緯 『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 グレゴリオ暦が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。 神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。 なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。 諡号・追号・異名 「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号は次のとおり。 『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。 また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。 一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 皇居・橿原神宮 都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。 『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。 またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵墓・霊廟 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。 しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。 現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 基礎データ 代数 初代 御名 神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 父 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) 母 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 皇居 畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや) 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 在位 崩御 陵 畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)