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陸奥国 会津郡 南青木組 御山(おやま)村 大日本地誌大系第31巻 76コマ目 この村旧小山に作り後に尾山に改む。寛文中(1661年~1673年)今の文字とす。 府城の南に当り行程1里3町余。 家数85軒、東西4町・南北8町。 東は山に連なり、三方田圃(たんぼ)なり。 東1里55間河渓村の山界に至る。その村まで1里。 西7町17間井出村の界に至る。その村まで7町40間。 南49間堤沢村の界に至る。その村まで8町50間余。 北5町41間南青木村の界に至る。その村まで6町50間余。 宇都宮街道にて村中に一里塚あり。 山川 御山 村より辰巳(南東)の方10町計にあり。 石峯(いしふう)・羽黒(はくろ)・樹山(たてやま)の3名あり。昔は石峯特に高く中に岩窟あり。その側にも穴ありてこの岩窟に通せしという。 昔、蝦夷強大にて官軍度々利なかりければ、夷賊(いぞく)勝に乗てここに至り、石峯山に穴を掘り四面に大石を畳み累ねその中に楯篭りて官軍を拒きしに、地中より猛火もえ出てこの山俄(にわか)に崩れ残らず焼死せりという。今なお山中より欠け損したる銕器・土器を得ることありとぞ(蝦夷塚の条下を併見るべし)。因て石峯は小山となりし故(ゆえ)小山とも名く。焼崩れし石なりとて山下5町計の間巨石縦横に散在せり(この石、色赤く苔むして奇石多し。俗に御山石と唱え採て庭上の玩とし或は橋石とす)。 石峯の南を羽黒といい、その南を樹山という。義家朝臣館築かれし所なり(古蹟の条下に出す)因て御館山とも唱ふ。 里民昔より斧斤を入れざる習わしなり。 干鱈兀山(ひたらはけやま) 村東30町計にあり。 高50丈余。 南は堤沢村の山に続き北は南青木村の山に連なる。 子持石(こもちいし) 村より丑寅(北東)の方9町山の半腹にある大岩なり。 中より小石を生ず故(ゆえ)に名く。 乾飯沢(ほしいひさわ) 村南にあり僅(わず)かの渓流なり。 村東の山中より出て、西に流るること1里門田堰に注ぐ。 義家朝臣乾飯をここに洗う故(ゆえ)に名くという。 誓願清水(せいくわんしみず) 村北6町にあり。 周8間。 義家朝臣弰(はず)を以て石を穿たれしかば涌出しという。 沼2 共に村東25町干鱈兀山の麓にあり。 一を雄といい、一を雌という。 雄は周120間余、雌は周230間。 相伝て、この沼に主あり。葦毛の馬なりという。 水利 堤2 一は村東5町にあり。周90間、沼田堤(ぬまたつつみ)という。 一はその奥25町計にあり。田代堤(たしろつつみ)といい、周180間。 神社 八幡宮 祭神 八幡宮? 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方1町余にあり。 義家朝臣東征の勝利ありければ、報賽の為に当社を勧請せられしという。 後数百年を経て社頭荒廃せしを、寛文12年(1672年)肥後守正之再興し神事を行い流鏑馬等の式を執行せり。この時郭内諏訪神社神職諏訪近江方就という者をして永く当社の祭祀を司らしむ。相続いて今の神職諏訪近江に至る。 祭禮6月15日。府下より事を行う。 鳥居 両柱の間6尺 本社 3尺5寸に3尺、南向き。 幣殿 1間四面 拝殿 3間に2間。 若宮八幡宮 祭神 若宮八幡宮? 相殿 伊勢宮 6坐 稲荷神 4座 山神 4座 権現 4座 幸神 2座 伊豆神 三島神 宗像神 白山神 箱根神 羽黒神 麓山神 感應神 石神 別符神 箸王子神 五郎神 若宮八幡 上保有禮有神 下保有禮有神 八幡宮 天神 蛇神 八幡宮の境内にて西に並ぶ。 相殿48座あり。 山王神社 祭神 山王神? 鎮座 不明 村中にあり。 明光寺の縁起に、徳一が草創にて、葦名氏の時社領5斛を寄付す。蒲生氏の時失うという。 神像21軀あり。各長8寸古物なり。 鳥居幣殿拝殿あり。明光寺これを司る。 末社 稲荷神社 破壊して造営いまだならず。 天子神社 境内にあり 諏訪神社 祭神 諏訪神? 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方5町、御館山の麓にあり。 この邊松樹多し。俗に諏訪原という。 鳥居あり。安養寺これを司る。 宗像神社 祭神 宗像神? 鎮座 不明 村より辰(東南東)の方8町山間にあり。 鳥居あり。 照谷寺これを司る。 寺院 照谷寺 村より辰(東南東)の方7町余山間にあり。 天台宗神護山と號す。 湯本村東光寺の門徒なり。 縁起に、天平神護年中(765年~767年)の草創という。 里民の説に、この地にもと七不思議ということあり。雀巣を架せず蛭人血を吸わすという。その余は知る者なし。 もと傳教作の薬師及び十二神将を安ず。災いに罹て只十二神将8軀を存す。各長1尺1寸。 三尊の弥陀を本尊とし客殿に安ず。 また鐘を懸く。径2尺、元禄5年(1692年)府下大和町寺田治兵衛という者の寄進なり。銘あれども煩わしければ略す。 明光寺 村中にあり。 天台宗日吉山と號す。郭内延壽寺の門徒なり。 徳一が開基といい伝う。 画像の不動を客殿に安じ本尊とす。 安養寺 村より未申(南西)の方にあり。 不退山と號す。湯本村東光寺の門徒、天台宗なり。 開基を詳にせず。 客殿に弥陀を安じ本尊とす。 徳一作という。 阿弥陀堂 境内にあり 大林寺 村中にあり。 曹洞宗羽黒山と號す。 天寧寺村天寧寺の末山なり。 慶長6年(1601年)天寧寺14世怒山が草創なりという。 本尊釈迦客殿に安ず。 観音堂 村より丑寅(北東)の方山上にあり。 路の左右に松樹森列し清風断ることなくこの堂まで8町余あり。高敞にして平地の村里を一矚し尤も勝境なり。 3間四面西向。 正観音を安ず。長1尺3寸。 昔岩窟の中に安置す故(ゆえ)に今に至るまで岩窟観音と称す。 会津三十三所順禮の一なり。 堂の戌亥(北西)の方に大岩相並び自然に洞をなす。俗に胎内潜(たいないくぐり)という。 照谷寺これを司る。 観音堂 村東1町にあり。 縁起に、徳一この寺にて観音の立像を彫刻し、この堂を建てんが為に良材を択び山中に積置きしに、何者にか一夜の間に木材を運送し3間四面の堂を造作せしという。 明光寺司なり。 古蹟 御館山塁跡(おたてやまのるいあと) 村より辰巳(南東)の方5町余にあり。 登ること6町計、頂上に30間四方計の平地あり。 昔義家朝臣東征の時館をここに築かれしとて今に御館と称す。 また村の中にも館跡あり。 東西1町・南北40間。 舊事雑考に允殿館(府下南町成願寺の側にあり)より尾山館を攻むる者ありし由(よし)を載せ、館主は多多良伊賀なるべしとあり。 蝦夷塚 村南にあり。 高2尺余・周3間計の塚なり。 蝦夷人石峯にて官軍を拒きし時猛火のために焼死せしを埋めし所なりという(御山の条下を併せ見るべし)。俗に義家朝臣蝦夷を伐たれし時の事をいい伝えれども、この朝臣蝦夷と戦いしはいまだ聞かざる所なり。さらば 崇神天皇の朝(臣?)大毗古命は高志国より、その子建沼川別命は東方より共に来り蝦夷を治められし時(提要を併せ見るべし)京観(けいかん)(*1)の類に築かれしも知るべからず。この邊に義家朝臣の旧跡多く残れる故(ゆえ)里民誤り伝えしにや。 大旱の時ここを掘れば雨古という。 経塚 村北3町にあり。 高4尺・周6間。 提要(総論)(国立国会図書館) Google Map御山地区 御山郷社八幡神社 山王神社? 諏訪神社? 宗像神社? 照谷寺 明光寺 安養寺 大林寺 御山(岩屋)観音堂 観音堂(村東)? 御館山塁跡? 蝦夷塚? 経塚? 諏訪ノ原 余談。 八幡神社前にある由緒書きに相殿神の記載があります。 箱根、羽黒、羽山、白山、天神、山神、宗像、伊豆、三島、若宮八幡、感応、石神、権現、伊勢、稲荷。 摂社・若宮八幡宮は相殿に、この地区にあった諏訪神社・宗像神社も相殿神として奉られたのではないかと思われます。由緒書きにない山王神社(≒日吉神社)は…どこでしょう?
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【作品名】ドラゴンボール 【ジャンル】漫画 【共通設定】https //w.atwiki.jp/saikyousyujinnkou3/pages/4259.html 【名前】フリーザ最終形態 【属性】宇宙人 【大きさ】人間大 【攻撃力】 50%の力で地球の8倍でかい惑星を真っ二つに割れる攻撃より強い攻撃の20倍の打撃が出せる界王拳20倍悟空と同等。 殴り蹴りと同じくらいの威力のビームを撃てる。射程は数十㎞、数百㎞はあろうかと思われる爆発を起こせる。 気円斬もどき:自分の肉体を切り裂ける威力の円盤状の気弾二つを軌道を変えつつ同時に操る。射程は数㎞。 デスボール:指先から光の玉を放ち落とす。50%未満の力のエネルギー弾で惑星を消滅させた。 上空数百m位置で使用、自分と互角の相手が止める間もなくすぐに地上に着弾した。 【防御力】地球の8倍でかい惑星を真っ二つに割れる攻撃より強い攻撃の20倍の威力の打撃や光波熱線がほとんど効いていない。 地球の8倍デカい惑星を真っ二つに割れる攻撃より強い攻撃の2倍以上の威力の攻撃にほぼ無傷で耐える奴を跡形も無く 消し去る攻撃よりも強く、惑星(ナメック星)ごとフリーザを消し飛ばすつもりで放たれたベジータの光波熱線を 易々蹴り返す。 【素早さ】光速の6京4800兆倍の戦闘・反応速度。 移動速度は地平線の端から端まで数秒で飛行可能な程度。 【特殊能力】宇宙空間で生存可能地球の100倍の重力の環境で行動可能。 【長所】宇宙空間で生存可能なので最強スレでおなじみの「キサマは助かっても地球はコナゴナだー!!!」戦法が使える。 【短所】気を感じて敵の位置を探ることはできない。 【戦法】通常攻撃が効きそうにないと判断したら逃走しつつデスボールで惑星破壊に巻き込む。 【備考】ナメック星編における敵で主人公である悟空と戦闘した 後にメカフリーザとなり地球にやってきた事もあったがテンプレはナメック星にいた際の状態で参戦 old 【DB世界の共通設定・世界観】 参照:ttp //www26.atwiki.jp/mediatorweb/pages/43.html DBキャラの反応、戦闘速度計算。 レーザーを10mの距離から回避する少年悟空(光速の1/10の反応と戦闘速度) これと互角の天津飯と格闘戦が可能な亀仙人=光速の1/10の反応と戦闘速度 光速の1/10の亀仙人に見切れない速度を 見切るヤムチャが一瞬と感じる間に1000m移動する悟空=光速の100倍の戦闘速度 マジュニアは消えたように移動する悟空に1m程度の距離でエルボー入れてるから 悟空とマジュニアは反応も1mからの光速の100倍反応相当 ラディッツは5mの距離から悟空マジュニアが反応できない速度で背後を取る=光速の500倍の戦闘速度 悟空とマジュニアの2人がかりを格闘で互角以上に捌く=光速の100倍以上の反応 作中に戦闘力が上がったということはスピードも上がったということだというベジータの説明があることから ラディッツ=1500 ナッパ=4000 これらからラディッツの反応と速度をナッパに適用できる 突っ込んできたナッパの攻撃を回避し続け、 20m上空のナッパが反応できない速度で回り込む悟空(光速の500倍以上の反応と2000倍以上の戦闘速度) お互い動き回りながら初期ベジータは悟空を格闘で圧倒し、 10mの距離から反応させずに攻撃を仕掛ける(2000倍以上の反応と5000倍の戦闘速度) ナメック星ベジータは初期ベジータと同等だった キュイに追いつき瞬殺する=光速の2000倍以上の反応と5000倍以上の戦闘速度 変身ザーボンは10mの距離からベジータを鷲掴みにして圧倒する=光速の2万倍の戦闘速度 復活ベジータは飛び掛ってきた変身ザーボンの攻撃を避けて 互角以上の格闘戦で倒す=光速の2万倍以上の反応と戦闘速度 リクームは50mの距離からベジータを反応させずに膝蹴りを見舞う=光速の100万倍以上の戦闘速度 リクームの突進が1m程度にまで迫ってから100m離れたジース達のいる丘まで移動して、 リクームと同等の戦闘力のジース・バータの2人がかりの攻撃を避け続ける悟空=100万倍以上の反応と戦闘速度 第一形態フリーザの戦闘力は53万、よって悟空(戦闘力9万)の反応と戦闘速度を適用する ベジータは突っ込んできたフリーザの腕を掴む=100万倍以上の反応 ネイルと同化したピッコロはこれより速くなった第二形態フリーザと互角に格闘=100万倍以上の反応と戦闘速度 最終形態フリーザは100m以上の距離からピッコロが見えない速度で目前に移動する=1億倍以上の戦闘速度 復活悟空は最終フリーザと互角に格闘可能=1億倍以上の反応と戦闘速度 50%フリーザは5mの距離から悟空を反応させずに攻撃する=1億倍以上の反応と5億倍の戦闘速度 20倍界王拳を使った悟空は50%フリーザと互角=1億倍以上の反応と5億倍の戦闘速度 超サイヤ人悟空は10mの距離から50%フリーザが反応できない速度で動く=10億倍以上の戦闘速度 100%フリーザは目前まで迫った超サイヤ人悟空の飛び蹴りを避けて互角に格闘する=10億倍以上の反応と戦闘速度 リクーム戦の悟空の移動距離はいつ到達したのか不明瞭なので考慮外 仮に含めれば1000億倍の反応と戦闘速度 また、復活悟空の20界王拳使用時をステータス倍増設定に置き換えると20億倍の戦闘速度、 これと互角の50%フリーザも同様となり、最終時点では200億倍になる 【作品名】ドラゴンボール 【ジャンル】漫画 【名前】フリーザ 【属性】宇宙人 【大きさ】人並み 【攻撃力】50%未満の力のエネルギー弾で惑星を消滅させた。 上空数百m位置で使用、自分と互角の相手が止める間もなくすぐに地上に着弾した。 50%未満の力で惑星破壊級の十数~数百倍を上回る攻撃をただの足蹴りで蹴り返すことができる。 50%の力で20倍界王拳悟空と互角の力である マックスパワーは惑星破壊の40倍~664倍 数mほどの至近距離にいる人間大の敵をエネルギー弾で覆って 金縛り状態にしてその気になれば惑星ごと消し去る爆発に巻き込める。 指先からエネルギーの刃を飛ばすと地平の果てまで続く地割れができる。 自分の肉体を切り裂ける威力の円盤状の気弾二つをを軌道を変えつつ同時に操る。 【防御力】50%未満の力で惑星破壊級の何十何百倍の攻撃を蹴り返してダメージを受けない。 防御力は惑星破壊の40~664倍 【素早さ】光速の10億倍(秒速317.1光年)以上の反応と戦闘速度。 100万kmの長距離飛行速度はマッハ34000以上。 【特殊能力】宇宙空間で生存可能。地球の100倍の重力の環境で行動可能。 【長所】宇宙空間で生存可能。 【短所】気を感じて敵の位置を探ることはできない。 修正vol.96 vol.114 0832格無しさん垢版 2024/04/18(木) 23 30 43.37ID nriWCgJl フリーザ再考察 旧位置周辺を見る 8倍サイズ惑星破壊可能で速いが射程が余り無いのが欠点か ○烏丸ちとせ 重力耐性有るし、デスボール勝ち ○仮面の男 雲なら熱は効くか勝ち ○ゴーデス デスボールで後かなくもなく消さって勝ち ○道を開く者”アラバル デスボール勝ち ○ユティ・ラー デスボール勝ち ×ティア=マトゥ ビーム負け ○ブラックホール デスボール勝ち ×皇帝ピエーロ バッドエナジー砲負け ×ナイトファイター ・スターブレーカー・ビーム 負け ×クッパ 炎に巻き込まれて負け ○バックコスモス・サミット16世 デスボール勝ち ×アレックス 物理無効「/kill @e」負け ×エタルガー エタルダミー負け ○ルキフェルス with 巨大戦艦ノア デスボール勝ち ×宇宙悪魔大王 尻尾負け ×移動速度的に炎変換ビーム負け ×キュウベェ 意識体になって寿命負け 皇帝ピエーロ>ブラックホール=ティア・マトゥ=フリーザ>ユティ・ラー 327 名前:格無しさん[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 00 34 18.72 ID HKoUsdgB フリーザ再考察 8倍サイズ惑星破壊可能で速い が射程が余り無いのが欠点か 巨大惑星の壁から ○ハティ デスボール勝ち ○ギャラクタス デスボール勝ち ○人工惑星ネメシス 近づいてきたところをデスボール連発勝ち ○崇神魔縁 デスボールで惑星ごと破壊して勝ち ○コーウェン&スティンガー 近づいて本体にデスボール勝ち ○白色彗星 近づいてきたところをデスボール勝ち ○サイバーデスドラゴン デスボール勝ち △大魔女グランディーヌ 物理無効分け ○神 デスボール勝ち ○カオスロイドS デスボール連発勝ち ×ナイト 物理無効からの全能負け ○仮面の男 雲なら熱は効くか勝ち ○ゴーデス デスボールで後かなくもなく消さって勝ち ×異形クリーチャー 触手負け ○道を開く者”アラバル デスボール勝ち ×ティア=マトゥ ビーム負け ○ウルトラ戦士 デスボール勝ち △クッパ 当たらない倒せない ○フリーザ(激神) 攻防は負けてるが速度で勝っているので惑星破壊勝ち ○ブラックホール デスボール勝ち ×皇帝ピエーロ バッドエナジー砲負け ×ナイトファイター ・スターブレーカー・ビーム 負け ○バックコスモス・サミット16世 デスボール勝ち ○ルキフェルス with 巨大戦艦ノア 寿命勝ち ×宇宙悪魔大王 尻尾負け ×キュウベェ 意識体になって寿命負け ○暗黒宇宙大皇帝エンペラ星人 デスボール勝ち ×天魔大帝 大きさ負け ×陽獣 バンデラス エネルギー吸収負け この上はサイズ的に無理 皇帝ピエーロ>フリーザ>ブラックホール 41スレ目 74 :格無しさん:2008/12/29(月) 01 58 26 フリーザ 考察 ○ ヴァルキュア>ゴッド エネルギー弾勝ち × アストラナガン インフィニティシリンダー負け ○ ジャグヘッド>ロザリンド エネルギー弾勝ち ○ 虚空牙>モノケロス エネルギー弾勝ち ○ ゼゴウ 惑星破壊勝ち △ 怒鬼 防御高すぎて無理 ○ 自由なる風の人 惑星破壊勝ち ○ ストーカー 惑星破壊勝ち × 魔人ブウ 普通に無理 × ラング PECキャノン負け × フォッグ・ドラス 分子破壊負け >魔人ブウ>フリーザ>ストーカー
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石塚龍麿は『仮字遣奥山路』に於て、上代の文献でエキケコソトヌヒヘミメヨロの仮名が各二類に使い分けられている事実を述べたのであるが、彼はまた『古事記』に限りチ及びモの仮名も亦各二類に使い分けられていることを説いている。この中チの仮名が二類に使い分けられているということは甚だ疑わしい。チの第一類は知であり、第二類は智であるが、『古事記』中、知の用例が百十余個もあるのに対し、智の用例は僅か十三個に過ぎない。即ち、 スヒチニ神(神名) クヒザモチ神(神名、三ケ所) ククノチ神(神名) ヲロチ(大蛇、二ケ所) 赤カガチ(赤酸漿) ミチ(海驢) ホムチワケ御子(人名) タニハヒコタタスミチノウシ王(人名) 八尋白チ鳥(八尋白鵆) チヌ王(人名) 以上はすべて古訓本に拠ったのであるが、この中ミチのチは真福寺本では知になっている。然るにこれらの語彙の中で、 赤カガチ(赤酸漿)ミチノウシ王(人名)チドリ(鵆)の三つについては、また知を用いて書いた場所もあるのである。これは古訓本ばかりでなく、真福寺本や寛永本や延佳本でも同じことである(但し知が和と誤写されている場合は若干ある)。僅か十三個の用例の中で、既に三つも混用の例があるとすれば、知と智が使い分けられているという説は、果して成立し得るものであろうか。その上智の字は歌の中にあらわれた例が一つも無い。それ故、智は本来は訶(カ)などと同様に、本文専用の仮名であったとも考えられるのである。本文の中で万葉仮名書きの部分といえば、固有名詞か又は滅多に用いられない古語が多い。それ故、知が普通一般の語に用いられるのに対し、智が特殊の限られた語にのみ用いられるようになるのは自然のことである。又キヒミについては、四段活用の動詞の連用形の語尾にはその甲類(橋本先生の御命名による)を用い、上二段活用の動詞の未然形及び連用形の語尾にはその乙類を用いるというきまりがあるのであるが、チの場合には、ウチ(打)タチ(立)モチ(持)のチにも、オチ(落)のチにも、共に知が用いられている。それ故、知と智とは外見上多少は使い分けられる傾向があっても、やはり同一類の仮名と見る方が穏かであろう。 之に反して『古事記』でモの仮名に二類の使い分けがあるということ、即ち毛と母との使い分けられているという事実は、極めて確実である。『古事記』中、毛の用例は四十八個、母の用例は百五十余個に及んでいるが、両者は截然と使い分けられて一つの例外も無い。即ち、毛の用例は、 モユ(燃) マモル(守) ウモリ王(〓鵜守王) モコ(許処?如?) モモシキノ(百磯城之) モモダル(百足) モモチダル(百千足) モモヅタフ(百伝) モモナガ(股長) イモ(妹) ワギモ(吾妹) カモドク(鴨着) キモ(肝)クモ(雲) クモバナル(雲離) クモヰ(雲居) ヤクモタツ(弥雲立) シモツセ(下瀬) シモツエ(下枝) ホッモリ(紅顔を形容する擬態語?) イヅモ(国名) イヅモタケル(出雲梟師、人名) カモ大御神(神名) タヂマモリ(人名) 土グモ(種族名) モズ(地名) 山代之ククマモリヒメ (人名) 母の用例は、 モ(助詞) トモ、ドモ(雖、助詞) モユラ(真揺) モツ(持) モノ(物) モト(本) モトへ(本方) カキモト(垣下) ヒトモト (一本) ヒトモトスゲ(一本菅) ヒトモトススキ(一本薄) ミモロ(神社、又地名) オモフ(思) オモヒヅマ(思妻) カリコモノ(刈菰之) タタミコモ(畳薦) タツゴモ(立薦) コモル(籠) コモリクノ(隠国之) コモリヅノ(隠水之?) アヲカキヤマゴモル(青垣山籠) トモ(伴、共) コドモ (子等) ヲトメドモ(少女等) カルヲトメドモ(軽少女等) ヨモツシコメ(泉津醜女) モトホス(廻) モトホル(廻) トモシ(羨) シメコロモ (染衣) 天之クヒザモチ神、国之クヒザモチ神(神名) オモダル神(神名) コロモ之別(姓) タヂマモロスク(人名) フハノモヂクヌスヌ神(神名) ヤマトトモモソビメ命(人名) 但し開化天皇の条に「母泥能阿治佐波毘売」とある人名の最初の二字は誤で、真福寺本に「丹波能…」とあるのが多分原形であろうから、これは母の用例の中に加えなかった。 さてオ列の仮名の中で甲乙両類に使い分けられているものは、コソトヨロの五種であるが、橋本先生がかつてお話しになった所によると、いわゆるヌの仮名に二類の使い分けがある中で、怒努の類(後世のノに対応するもの)は実はノの甲類と見做さるべきもの、普通にノの仮名と称せられている能乃の類はその乙類と見做さるべきものであろうということである。オ列の仮名に於ける両類の区別を、『韻鏡』に照して考えると次のようになる。 (甲類)第二転一四等 第十二転一三等 第二十五転一等 第二十六転四等 第三十七転一等 (乙類) 第八転三四等 第十一転二三四等 第十三転一等 第四十二転一三等 現代支那諸方言について考えると、甲類の仮名に用いられた漢字の音は主として後舌母音を含み、乙類の仮名に用いられた漢字の音は主として中舌的又は前舌的(殊に前舌円唇的)の母音を含んでいる。 甲類のオ列音と乙類のオ列音とは、同一語根(動詞は語幹)内に共存することが決して無い。唯一つの例外は、『古事記』上巻に「宇士多加礼斗呂呂岐弖」とあるその斗呂呂岐且(斗は甲類のト、呂は乙類のロ)であるが、ここは真福寺本・伊勢本、寛永本皆「許呂呂岐弖」となっている。延佳本には斗々呂岐弖とあり、古訓本は一本に拠って斗呂呂岐弖としている。斗と許とはその草体に於て互に似て来るけれど、斗が許と見誤られる機会よりは、寧ろ許のひどく崩れた形が斗と見誤られる機会の方が多くはなかろうか。その上、真福寺本、伊勢本、寛永本のような古い本には皆許となっているのであるから、解釈上からいえば斗呂呂岐弖の方がよく分るには違いないけれど、なお許呂呂岐弖(許は乙類のコ)が原形であるという可能性もかなり大きいわけである。 次に乙類のオ列音は、ウ列音やア列音と同一語根(動詞は語幹)内に共存することが少い。『古事記』についていうとウ列音と乙類のオ列音とが同一語根内に共存する例は、ただウシロ(後)クシロ(釧)の二つだけで、その他のスソ(裾)フト(太)ツド(ツドフ、集)ツノ(タクヅノ、栲綱)クロ(黒)ムロ (室)コムラ(腓)は皆甲類のオ列音を含んでいる。 殊にウコ(愚)クソ(糞)クロ(黒)スソ(裾)ツト(苞)ツト(ツトム、勤)ツド(ツドフ、集)ツノ(綱)フト(太)ムロ(室)ムロ(榁)のような、ウ列音とオ列音とから成る二音節語根に於ては、オ列音が二類に分れている行ならば必ず甲類のものがあらわれるということは、記紀万葉時代の言語に於て極めて著しい事実である。 又『古事記』に於てア列音と乙類のオ列音とが同一語根内に共存する例は、コヤ(コヤル、臥)ソバ(〓木爪〓)トガ(答)アソ(親称)マロ(自称)ヨラシ(宜)の六つであるが、その中アソは普通にはアセオミ(吾兄臣)の約と見られて居り、又マロは真実の意のマに助辞のロがついたものであるとする説がある。之に対して、ア列音と甲類のオ列音とが同一語根内に共存する例は、ソナ(ソナフ、具)ソラ(空)アソ(アソブ、遊)サト(里)ハト(鳩)マト(マトフ、惑)カド(門)カヨ(カヨフ、通)マヨ(眉)コナミ(前妻)コムラ(腓)タノシ(楽)カシコ(畏)アラソ(アラソフ、争)イサヨ(イサヨフ、猶予)タダヨ(タダヨフ、漂)の十六に及んでいる。 以上三つの音節結合の法則(法則は少し大袈裟かも知れない、寧ろ傾向という程度のものである)即ち 1、甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一語根内に共存することが決して無い。 2、乙類のオ列音はウ列音と同一語根内に共存することが少い。 3、乙類のオ列音はア列音と同一語根内に共存することが少い。 は、『古事記』以外の文献についても同様に行われていることが看取される。試みに『仮字遣奥山路』の古呉許碁蘇曽斗度登杼怒用余漏呂諸部に対し、俗(ゾの甲類)叙(ゾの乙類)能(ノの乙類)の三部を記紀万葉の用例から補い、これらの諸部にあらわれた語根について同様の調ベを行えば次の通りになる。但し、東歌防人歌にしか用例の無いもの天平宝字三年及びそれ以前の資料に用例の無いものは之を除き、又固有名詞は一見して語原の明かなものの外すべて除外した凸、 まず第一則については、前記の斗呂呂岐弖の外、一つも例外が無い。第二則について、ウ列音が甲類のオ列音と共存する例はウコ(愚)ウゴ(ウゴク、動?) クソ(糞)クロ(黒)スソ(裾)ツト(芭)ツト(ツトム、勤)ツド(ツドフ、集) ヅノ(綱)ブト(太)ムロ(室)ムロ(榁)コムラ(腓)フクロ(袋)の十四種に及んでいるが、ウ列音が乙類のオ列音と 共存する例は、ウシロ(後)クシロ(釧)ムシロ(莚)トブサ(樹末?)オヨヅレ(妖言)ホトトギス(時鳥)の六種に過ぎない。 次に第三則について、ア列音が甲類のオ列音と共存する例は、ソナ(ソナフ、具)ソバ(ソバフ、戯)ソマ(杣)ソラ(空)トガ(栂)アソ(アソブ、遊)カソ(幽)カゾ(カゾフ、数)カヨ(カヨフ、通)カド(門)カド(角)サト(里)サド(サドフ、惑?)タド(タドル、辿)ナゴ (和)ナソ(ナソフ、准)ナヨ(柔軟)ハト(鳩)ハロ(遙)マト(マトフ、惑)マヨ(眉)マヨ(マヨフ、乱)コナミ(前妻)コムラ(腓)アソソ(灰)アロジ(主)タノシ(楽)ヒロカ (タヒロカス、飄掌)アラソ(アラソフ争)イサヨ(イサヨフ、猶予)カガヨ(カガヨフ、弦)カシコ(畏)タケソ(偶然)タダヨ(タダヨフ、漂)ハハソ (柞)の三十五種であるが、ア列音が乙類のオ列音と共存する例は、コヤ(コヤル、臥)ソバ(孤稜)トガ(各)トマ (トマル、留)ヨサ(瓠)アソ(親称) カソ(父)タノ(頼)マロ(丸)マロ(自称)トブサ(樹末?)アドモ(アドモフ、率)オコナ(オコナフ、行)ヲロガ(ヲロガム、拝)イヤチコ(灼然)の十五種に過ぎない(語を分析するに当つては、なるべく大切り主義を採つた。従って以上のいわゆる語根の中には、なお一層細かく分析し得るものもあるかも知れない)。 この外 場所をあらわす代名詞の中で、ココ(此は乙類のコ)ソコ(其は乙類のソ)にはコ(乙類)がついているのに、イヅクにはクがつしている(イヅコは、ココやソコからの類推によつて平安初期に出来た形である)。これは上に述ベた第二則と関係があることであろう。又同系同義の格助詞ナ、ノの中で、ノは極めて自由に用いられるけれどもナの用法は限られている 即ちタナ(手之)マナ(眼之)マナ(真之)ミナ(水之)ハヤスヒナ(速吸之)ウナ(海之)ヌナ (項之)ヌナ(淳之)のように、ア列音、甲類のイ列音及びウ列音で終る語には着き得るけれど、乙類のオ列音で終る語についた例は古つも無い。これは多分上に述ベた第三則と関係のあることであろう。なお、助動詞ス、フ、ユの直前に立つ動詞の活用語尾の形としては、ア列音が優勢にはなっているものの、かつてはこの場合にも亦音節結合の法則が関係していたと思われる形跡が(殊にフの場合に)鮮かに見られる。 なおタコムラ(タクブラ、手腓)マソミ(マスミ、真澄)トガ(ツガ、栂)ワカノケフタマタ(ワカヌケフタマタ、人名)アヨヒ(アユヒ、脚結)ハロハロ (ハルケシ、遙)のように、ウ列音と通うオ列音は、甲乙両類の使い分けのある行ならば通常甲類のものである。以上述べたようないろいろな事実を綜合して考えると、甲類のオ列音が明瞭な後舌母音を含む音節であったのに対し、乙類のオ列音が稍中舌的の母音を含む音節であったことは、想像するに難くない。 以上音節結合の法則に関する説明は、ただ研究の結論を略述したに過ぎない。詳細は稿を新にして近日発表する積りである。 さて音節結合の法則の上で、問題の毛と母とがどういう位置を占めているかというと、まずカモ(鴨)クモ(雲)モコ(許処?如?)ホツモリ(紅顔を形容する擬態語?)のようにモがア列音ウ列音又は甲類のオ列音と結合した例は皆毛の用例の中にあり、モモ(百)モモ(股)のモはいずれも二つ共毛であらわされている。之に対して、モト(本)モノ(物)モロ(神杜)コモ(菰、薦)コモ(コモル、籠)トモ(伴)ヨモ(黄泉)モトホ(モトホス、モトホル、廻)トモシ (羨)コ戸 モ(衣)のように、モが乙類のオ列音と結合した例は皆母の用例の中にある。これを以て見れば、『古事記』のモの仮名の中、毛は甲類に、母は乙類に相当するものであること明かである。なお格助詞のナは、乙類のオ列音で終る語に着く例の無いこと前述の通りであるが、ナがオ列音で終る語に着いた唯一の例は、神武紀に見える毛毛那比苔(百之人)で ある。而して『日本書紀』ではモの仮名に二類の使い分けは無いのであるが、『古事記』によればモモ(百)のモは本来二つとも甲類のものであった。即ちこの一例も亦音節結合の法則第三則に叶っているわけである。 但し字音の方から見る時は、毛(第二十五転一等)が甲類の仮名として用いられることに問題は無いが、母は第三十七転一等(甲類相当)に属しているので、何故この字が乙類の仮名として用いられ得るかが問題となる。然るに周代の分韻状態に於て、第三十七転に属する若干の文字(母又友右有尤牛富など)が、同転の大多数の文字とその類を異にし、第八転及び第十三転一等に属する多数の文字、その他若干の文字と共に一類を成すものであることは、殆ど定説になっている。而して第八転(己其期碁已里止など)及び第十三転一等(豪苔耐乃廼など)に属する文字がオ列の仮名として用いられる場合には、仮名に甲乙両類の使い分けのある行では、必ず乙類に属するものである。それ故、母が乙類の仮名として用いられているのも(必ずしも周代の音とはきめられないが)、恐らくはこの種の古韻に拠ったためであろうと思われる。『上宮聖徳法王帝説』に於けるモの仮名の唯二つの用例なるモ(助詞)とモノ(物)には、いずれも母の字が用いてある。『続日本紀』のいわゆる第一詔から第五詔(神亀元年)までに見えるモの仮名の用例三十一の中、モ(助詞)二十二、ナモ(助詞)九、ことごとく母の字であらわされている。これらはいずれも、『古事記』に於ける仮名の用法と矛盾しない。 『釈日本紀』に引かれた上宮記の逸文の中に見える母々恩己麻和加中比売は、『古事記』に百師木伊呂辨亦名弟日売真若比売とある人名に相当する。そこで大矢博士は、上宮記の母々恩己を母々思己の誤とし、『古事記』の百師木と同じ語と見て居られる。もしそうとすれば、モ又百)は『古事記』では常に毛毛と書かれている語であるから、毛と母とは既に推古天皇時代から混用されていたことになる。併しこの説には少し疑わしい点がある。即ち、己は同時代の遺文では、この人名及び他に所見の無い伊波己里和気(上宮記)という人名のほか、『仮名源流考』に引かれた十余個所ことごとくコ(乙類)の仮名として用いられて居り、奈良時代に入っても、顕宗紀に唯一個所「於己陀智」(起立)という例のある外、すべてコの仮名としてのみ用いられている。キは漢音系統の音と思われるが、奈良時代以降ならば兎も角も、推古天皇時代の仮名にこの種の音が用いられることは、あまり早過ぎはしまいか。 併しながら、『古事記』と同じ時代に於て、すべての人が毛と母とを書き分け、発音し分けていたとは思われない。『常陸風土記』や『播磨風土記』に『古事記』と合わない用例の存することは特殊の方言をあらわすものであるからともいわれようけれど、記よりも僅か八年後に出来た『日本書紀』では、両者が完全に混用されている。又『万葉集』に引かれた柿本朝臣人麻呂歌集の歌は、文字の用法に著しい特徴のある点で真淵以来の学者の注意を惹いているものであるが、同歌集の歌にも助詞のモを毛と書いたり、地名のミモロ(記に美母呂)を三毛侶と書いたりするような、記と合わない例がある。もっともこれだけならば、『万葉集』に引かれる際多少の変形を蒙った結果とも見られないことはないが、助(ノり)詞カモ、ガモ(記ではいずれにも母を用いる)に鴨(記には加毛とある)を充てるが如きは、人麻呂歌集の歌に極めて普遍的にあらわれる用字法であって、必ず原形に於てもそうであったろうと思われるのである。 『古事記』とほぼ同時代の多くの書物に於て、毛と母とがかように混用されているとすれば、たとい『古事記』で両者が使い分けられていても、それは恐らく音韻上の区別をあらわすものではあるまいという疑も起ろう。併しこの使い分けが音節結合の法則にぴったり合っているという事実から見れば、毛と母との間にはどうしてもコソトノヨロに於ける両類の区別と同様な音韻上の区別があったものと見るより外はないのである。然らば、一歩を譲って両者の間に音韻上の区別を認めるとしても、同時代の書物に於て既に多くの混用の例が存する以上は、『古事記』撰録の時代に於ける発音をそのままあらわしているものとは思われない。もし音韻上の区別とすれば、それは『古事記』の基礎になったいわゆる先代旧辞の書かれた時代の音韻状態をあらわすもので、『古事記』はただもとの文字をそのまま踏襲しただけではないか、と疑う人があるかも知れない。併し『古事記』の基礎になった先代旧辞といえば、どうしても壬申の乱以前のものでなければならず、壬申の乱といえば聖徳太子の嘉後五十一年、記の撰録当時を去ること四十年の昔に当る。それ程古い時代に書かれたものとしては『古事記』の仮名字体は全体として余りに奈良時代的である。その上その序文に「然上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、.事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即辞理巨見、以注明、意況易解更非注。亦於姓日下謂玖沙詞、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」と見える趣から考えると、『古事記』に於ける文字の用法は、無論大体はその当時の習慣に従うたことではあろうが、細かい点に至っては、安万侶自身が独特の方針を以て自由に選択したものと考えられる。それ故、仮名の字体や用法について多少は旧辞の影響を受けた点はあるかも知れないが、もしも安万侶自身が毛と母とを音韻上区別していなかったならば、たとい旧辞に毛と母とが使い分けられていたとしても、それを見てその使い分けられなければならなかった理由を理解することは出来ないわけであり、従って彼自身が自由に仮名を用いて古語や古歌を写すに当り、二百有余の用例の中で一つや二つ混用の例を作らない筈は無い。結局、どう考えて見ても、『古事記』に於ける毛と母との使い分けは、安万侶自身の言語に存した音韻上の区別に基くものであったと考えるより外は無いのである。安万侶は記の撰進後十一年にして残したが、その享年は明かでない。併し特に命ぜられて『古事記』の撰録に当る位の人ならば、その学識に於て一代に聞えていたことは勿論であるが、又当時既に相当の年輩の人であったことも想像するに難くない。音韻状態の変化しつつある過渡期に於て、既に一般の人々には忘れられてしまった音韻上の古い区別がただ少数の高齢者にのみ記憶されていることは有り得べきことである。 なお、『万葉集』巻五では、別に毛と母とが使い分けられているというわけではないけれど、『古事記』で毛を用いた場合には多く毛を用い、『古事記』で母を用いた場合には多く母を用いる傾向が相当に著しい。 (一) 記で毛を用いた場合(合計 毛一四 母二) モユ(燃) 母一 モモ(百) 毛六(毛毛と書いた所三個所) イモ(妹) 毛四 母一 クモ(雲) 毛四 (二)記で母を用いた場合(合計 毛一三 母一〇四 その他) モ(助詞) 母六八(六七乃至七〇) 毛八(又は七) 聞二 勿二 茂一 [イ舞]一 忘一 (裳一) トモ(雖) 母五 毛二 勿二 ドモ(雖)母五毛一 モツ(持) 物一 オモフ(思) 母一四 毛一 忘一 トモ(共)母一 ドモ(等) 母三 トモシ(羨) 母一 モト(本) 母一 毛一 モノ(物) 母六 物三 勿一 但し巻末に「右一首作者未詳。但以裁歌之体似於山上之操、載此次焉。」(一首とはあるものの、この註の直前にある短歌一首だけを指すものとは思われない。長歌一首及び短歌二首の全体にかかる註と考えるより外は無い)として附載されている恋男子名古日歌三首は、仮名の字体に於て巻中の他の部分殊に憶良の歌とは大いに異なっている。それ故、歌は或は憶良のものかも知れないが、文字は憶良の書いたままではあるまじく、その書き下された年代も明かでない故、右の表の中では勘定に入れなかった。この表は流布本によって計算した結果であるが、文字の種類及び数は本によって多少違っている。括弧の中に記したものは即ちそれである。かように『万葉集』巻五のモの仮名の用法に記と一致する場合の多いわけは、同巻が『万葉集』中で比較的古い部分であるためばかりでなく、殊に巻中の主要な作者(旅人.憶良等)がいずれも当時七十代又は六十代の高齢者であるため、古い習慣が文字の用法上に多く保存されたものと見ることが出来る。もっとも毛と母の用法上、記と一致しない例は、この両人の歌の中にも少数ながら存するのであって、彼等が果して毛と母とを実際音韻上区別していたかどうかは疑わしい。併し「法王帝説」や初期の宣命や『万葉集』巻五に於て、モの仮名の用法上『古事記』と相通ずる点の存するという事実は、かつてモの仮名が世間一般に両類に使い分けられていた時代の存在することを暗示するもののように思われる。 念のため、『古事記』にあらわれるモの仮名の用例を全部挙げておく。 一、毛 1、燃ゆ 毛由流(景行、履中) 2、守る 伊由岐麻毛良比(神武) 宇毛理王(敏達) 3、もこ(宣長は許処の義とし、守部は如の義とす) 和賀毛古遍許牟(応神) 4、百 毛毛志紀能(雄略) 毛毛陀流(雄略) 毛毛知陀流(応神) 毛毛豆多布(応神、顕宗) 5、股 毛毛那賀爾(神代) 毛毛那賀邇(神代) 6、妹 伊毛(神代ニツ、応神、仁徳、允恭二ツ)和藝毛(仁徳) 7、鴨 加毛度久斯麻(神代) 8、肝 岐毛牟加布(仁徳) 9、雲 久毛(神武ニツ) 土雲【訓雲云具毛】八十建(神武) 玖毛婆那礼(仁徳) 久毛韋(景行) 夜久毛多都(神代) 10、下 斯毛都勢(允恭) 斯毛都延(雄略) 11、ほつもり(紅顔を形容する擬態語か) 本都毛理(応神) 12、国名 伊豆毛(神代) 伊豆毛多祁流(景行) 13、地名 迦毛大御神(神代) 14、人名 多遅摩毛理(垂仁ニツ) 多遅麻毛理(垂仁、応神) 15、種族名 土雲【訓雲云具毛】八十建(重出、神武) 16、地名 毛受之耳原(仁徳) 毛受(履中)毛受野(反正) 17、人名 山代之玖玖麻毛理比売(景行) 二、母 1、も(助詞) 母(神代十七、神武ニツ、景行二ツ、仲哀二ツ、応神八ツ・仁徳十一,履中・允恭八ツ・雄略十八、顕宗四ツ) とも(雖、助詞) 登母(神代、神武、仁徳三ツ、允恭) ども(雖、助詞) 杼母(応神) 2、も(接頭辞) 母由良邇(神代) 母由良爾(神代ニツ) 3、持つ 母多勢良米(神代) 母知(神武二ッ、仁徳二ツ、雄略) 岐許志母知袁勢(応神) 母多受(仁徳) 母知て(履中) 4、物 母能(仁徳、履中、雄略ニツ) 5、本 母登(神武、応神、雄略三ツ) 母登幣(応神) 加岐母登(神武) 比登母登(神武) 比登母登須宜(仁徳ニツ) 比登母登須須岐(神代) 6、神杜(又は地名)美母呂(仁徳、雄略ニッ) 7、思ふ 意母閇杼(景行) 意母布(応神) 許許呂波母閇杼(応神ニツ)淤母比伝(応神四ツ) 阿比淤母波受阿良牟(仁徳) 阿賀母布伊毛(允恭) 阿賀母布都麻(允恭) 淤母比豆麻(允恭、雄略) 意母比豆麻(允恭) 8、菰、薦 加理許母能(允恭) 多多美許母(景行、雄略) 多都碁母(履中) 9、籠る 刺許母理坐也(神代) 許母理久能(允恭ニツ) 許母理豆能(仁徳) 阿袁加岐夜麻碁母礼流(景行) 10、伴、共 等母邇(仁徳) 登母(神武) 古杼母(応神) 袁登売杼母(神武) 加流袁登売杼母(允恭) 11、黄泉 豫母都志許売(神代) 12、廻す 本岐母登本斯(仲哀) 斯麻理母登本斯(清寧) 廻る 波比母登富呂布(神武、景行) 伊波比母登富理(神武) 13、羨し 登母志岐呂加母(雄略) 14、衣 斯米許呂母(神代) 15、神名 天之久比奢母智神(神代) 国之久比奢母智神(神代ニツ) 16、神名 淤母陀琉神(神代) 17、地名 許呂母之別(垂仁) 18、人名 多遅摩母呂須玖(応神) 19、神名 布波能母遅久奴須奴神(神代) 20、人名 夜麻登登母母曽毘売命(孝霊) 三、その他 以上のほか、 風木津別之忍男神【】(神代) 文漏邪夜能(仁徳) の木・文の如きも或はモの仮名であるかも知れないが、確実でないから除いておく。なお、 母泥能阿治佐波毘売(開化) の母泥は恐らく誤で、真福寺本に丹波とあるのが原形であろう。 最後に固有名詞のモを含む部分を、訓読すべき漢字によってあらわした例は次の通りである。これらの中には漢字本来の意味に用いられていると認められるものもあり、又借字と考えられるものもあるが、どちらか区別のつき難いものも甚だ多い。 1、豊雲野神(トヨクモノノカミ(神代) 2、黄泉国、黄泉戸喫、黄泉神、黄泉軍、黄泉比良坂(三ツ)黄泉津大神((以上皆神代) 3、思金神(神代七ツ) 4、出雲(神代八ツ、垂仁四ツ、景行) 出雲建(景行五ツ) 出雲郎女(継体) 5、御諸山(神代、崇神) 6、喪山(神代) 7、大伴(神代、神武、景行)大伴王(欽明) 8、佐比持神(神代) 9、贅持之子(ニヘモツノコ(神武) 10、土雲 (神武) 訓雲云具毛 11、宇陀水取(神武) 12、物部 (モノノベ)(神武清寧継体) 13、大物主神(オホモノヌシノカミ)(神武)大物主大神(ォホモノヌシノォネガラミミ)(崇神ニツ) 14、大倭日子銀友命(ナデテヤマトヒコスキトモノミコト)(安寧ニツ、蟄徳) 15、大吉備諸進命(ナホキどノモパスデ こノニラコト)(孝安) 16、三野国之本巣国造(開化) 17、道守臣(ラナモリノォミ)(開化) 18、鴨君(カモノキミ)(崇神) 19、三川之衣君(垂仁) 20、守君(景行) 21、御銀友耳建日子(景行) 22、大靹和気命(ナでホトモワレノノミコト)(仲哀ニツ) 23、大山守命(オホヤマモリノミコト)(応神七ツ) 24、山守部(ヤマモリベ)(応神) 25、酢鹿之諸男(スカノモロヲ)(応神) 26、百師木伊呂辮(モモシキイロベ)(応神) 27、川内恵賀之裳伏岡(カフチノヱガノモフシノヲカ)(応神) 28、日向之諸縣君牛諸(ヒムカノムラガタノキミウシモロ)(仁徳) 29、坂本臣(サカモトノォミ)(安康) 30、橘本之若子王(クチバナモトノワクゴノミコ)(欽明) 31、岡本宮(ヲカモトノミャ)(敏達) 以上の訓は大体宣長の説に拠ったのであるが、この場合はそれで大過は無さそうに思われる。 日向国之諸縣君(応神) 日向之諸縣君(仁徳) の諸縣については、『古事記伝』に、「諸縣君(ムラガタノ)は、和名抄に、日向(ノ)国諸縣(ノ)郡牟良加多(ムラガタ)とある是なり(何れの古書にも、みな諸縣と書たるを思へば、本は毛呂賀多(モロガタ)なりけむを、牟良(ムラ)とはやや後に訛れるも知(リ)がたけれど、姑(ク)和名抄に依て訓(メ)り云々)」と言っている。 さて、雲(クモ).守(モル)・鴨(カモ)・百のモは字音仮名では常に毛の字であらわされている故、以上の中1 4 10 17 18 20 23 24 26に含まれたモは甲類のものであり 黄泉(ヨモツ).思(オモフ)。伴(トモ)(友(トモ)).持(モツ).物(モノ).本(モト).衣(コロモ)のモは字音仮名では常に母の字であらわされている故、 2 3 7 8 9 12 13 14 16 19 21 29 30 31に含まれたモは乙類のものである。又地名のミモロは字訓を借りては御諸、字音を借りては美母呂という形であらわされている故、諸(モロ)のモは乙類のものであり、従って15 25 28に含まれたモも乙類のものと考えられる。併し喪(モ).水(モヒ).靹(トモ).裳(モ)については、字音仮名書きの例その他モの所属を決定するに足る証拠が見当らないため、6 11 22 27に含まれたモは甲類のものか乙類のものか不明である。 以上のうち 国名のイヅモは出雲の字を借りてあらわされて居り、大和の地名カモは鴨の字を借りてあらわされている故 これらのモは雲(クモ).鴨(カモ)のモと同じく甲類のものと思われるのであるが、字音仮名でもやはり伊豆毛・迦毛と書かれて居り まさしく甲類の仮名を用いてあるのである。 固有名詞以外の語に含まれたモの音を、漢字の訓を借りてあらわした例としては、 八十友緒(ヤソトモノヲ)(八十部長允恭) 位なものであるが、友と部とは本来同じ言葉であろうから・発音も多分同じことであったろうと思われる。 前稿に述べた音節結合の法則は、之を簡明にまとめていいあらわせば次の通りである。 第一則、甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一語根(動詞は語幹)内に共存することが無い。 第二則、乙類のオ列音はウ列音と同一語根(動詞は語幹)内に共存することが少い。 第三則、乙類のオ列音はア列音と同一語根(動詞は語幹)内に共存することが少い。 この中確実に言い得ることは、 1、甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一語根(動詞は語幹)内に共存することが無い。 2、ウ列音とオ列音とから成る二音節語根に於て、そのオ列音は乙類のものではあり得ない。 という二つの事実であり、その他は寧ろ傾向という程度のものである。 『国語と国文学』第九巻第一一号(昭和七年) http //www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/05.pdf
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平成20年10月13日① 水沢公園 「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」を購入し、2回分は使い道が決まっているものの、あと1回分をどのように有効に使うべきか迷っていました。 「青春18きっぷ」と同様、鈍行にしか乗れないので、少し遠出をしようとすれば移動だけでかなりの時間を費やしてしまいます。 どこへ行こうか悩んだ末、新一之宮がある岩手県奥州市の水沢に決めたのが、前日の10月12日。 他に観光できる場所がないか、あわてて調べてみると、なんと当初の予定では回りきれないほど、見学できる場所が多いことが分かりました。 帰りの電車を一本遅らせると、なんとか急ぎ足で全て回れそう。 帰ってすぐ仕事場へ向かうことになりますが、せっかくの機会だし、帰りの電車で昼寝もできると思い、決断しました。 8:01仙台発、9:43一ノ関着。 ここで乗り換えに約1時間。 ただ待つのもつまらないと思い、散歩して見つけたのが八幡神社です。 10:25一ノ関発、10:49水沢着。 まずは水沢公園へ。 三偉人のひとり、後藤新平の銅像が迎えてくれました。 明治44年に建てられた銅像は先の大戦で供出されましたが、その台座に昭和46年、ボーイスカウト初代総長の姿として今の銅像が甦りました。 水沢三偉人とは、吉小路という水沢の一画で生まれた高野長英・斎藤實・後藤新平の3人を意味します。 水沢公園内に高野長英記念館はあります。 高野長英は文化元年に留守家臣の家に生まれました。 文政3年、17歳で江戸に出て蘭医学を学び始め、更に長崎でシーボルトの鳴滝塾に学びます。 文政11年、シーボルトが帰国の際に、国外への持ち出しを禁じられている日本地図を所持していたことが見つかり、シーボルトには国外退去の上再渡航禁止の処分が下され、地図を贈った関係者は処断されましたが、長英はこれを巧みに逃れました。 天保8年、幕府がモリソン号に砲撃を加えたことについて批判し、10年の蛮社の獄で永牢の判決が下され、伝馬町に投獄されてしまいます。 しかし弘元元年に起きた牢屋敷の火災に乗じて脱獄し、薬品で顔を焼いて人相を変えて医学や兵学の発展に努めながら、町医者として庶民のための医療を続けました。 嘉永3年、青山百人町に潜伏しているところをついに幕府に察知され、捕方20名との乱闘の末、喉を突いて自刃しました。 まさに“偉人”と呼ぶに相応しい、すさまじい生涯です。 公園内を少し歩くと、駒形神社の鳥居が見えて来ました。 駒形神社は陸中国一之宮(新一之宮)に数えられます。 七五三の季節のため、子供づれの参拝客の姿が目立っていました。 御祭神の駒形大神は、宇賀御魂大神や毛野氏の祖神などの説がありますが、現在は天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の六柱を駒形大神の総称としています。 崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する毛野氏は、現在の栃木県と群馬県を支配していた豪族で、一族の上毛野胆沢公が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂に駒形大神を勧請したのが雄略天皇の御代のことです。 蝦夷を平定した坂上田村麻呂や、源頼義・義家父子、更に奥州藤原氏4代の崇敬も篤いものでした。 境内には安倍貞任を征伐した源頼義・義家父子が勧請した塩竈神社の他、山神社と水沢招魂社が鎮座しています。 平成20年10月13日② 日高小路 そろそろ空腹感を覚えて来たところで、道の駅のような施設を発見。 みずさわ観光物産センターZプラザアテルイという長い名前の施設。 こちらのレストランで蕎麦を食べました。 次に向かったのは高野長英旧宅です。 案内板によれば、ここは長英の母美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮したところということ。 明治9年に改築されましたが、西側の表庭に面した8畳と6畳の2部屋が長英の居室として保存されているそうです。 内部は非公開ということなので、今も親族の方が住んでおられるのでしょう。 隣には高野整形外科が建っているので、もしかすると医療の志は子孫の方に受け継がれているのかも知れません。 たえねばやはては石をもうがつらん かよわき露の力なれども 高野長英旧宅からまっすぐ西へ延びる小道があり、日高神社参道と書かれた看板が立てられています。 次の目的地である日高神社まで、そこを通って行くことにしました。 この小路には、毎年正月の宴会などに召し出される資格のある家臣や小姓など、家格の高い人たちの屋敷が軒を連ねていたそうです。 武家屋敷の一部は今も残されています。 参道の先にようやく鳥居が見えて来ました。 日高神社は弘仁元年、52代嵯峨天皇の勅命によって御創建されました。 征夷大将軍源頼義・義家父子が戦勝祈願に訪れたことも伝えられています。 主祭神は火を掌る火産霊神に、大年三神、源頼義公、義家公、水波乃売神、大国主神、倉稲魂神たちを合祀しています。 主祭神が火の神ということもあり、毎年4月29日に行われる日高火防祭が有名です。 水沢三偉人もそれぞれ参拝に訪れたそうです。 境内には、水沢伊達家の祖であり留守氏の初代水沢城主である留守宗利公の像が建てられています。 家臣に慕われた殿様であったらしく、その死に殉じた家臣ら8名。 境内の八士の墓に眠っています。 日高火防祭は、宗利公の孫である3代目城主宗景公が伊達公の名代として江戸にいた時、10万人以上が焼け死んだ明暦3年の「振袖火事」の惨劇を目の当たりにしたことで、防火の対策を打ち出したことが始まりです。 実務面では民間消防隊を組織し、精神面では日高(火)と瑞山(水)へ火防祈願を始めました。 その瑞山神社は留守家代々の祖霊社で、日高神社の境内に鎮座しています。 留守氏は藤原兼家の子孫で、源頼朝公による奥州平定の後に陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景公を祖とします。 南北朝時代以降に衰退し、太閤秀吉に領地を召し上げられ、伊達家の家臣となってしまうあたりが我が宗家の陸奥石川氏と似ていることに、近親感を覚えます。 平成20年10月13日③ 吉小路 日高神社から斎藤實記念館を目指して歩いていると、吹奏楽の楽器の音がにぎやかに聞こえて来ます。 近くの中学校で部活の練習でもしているのでしょうか。 近づけば近づくほど、その音色は大きくなって行くようです。 それもそのはず、中学生(?)の吹奏楽団は記念館の敷地で練習していたのでした。 この日はちょうど三偉人の顕彰イベントが催される日であったらしく、地域の方もたくさん集まっておりました。 斎藤實は第30代総理大臣の他、海軍大臣・外務大臣・文部大臣・朝鮮総督、そして内大臣を勤めた政治家です。 県庁の給仕になった年、庁舎の火事にいち早く駆けつけ、機敏な行動が称賛されて知事から表彰されました。 海軍兵学校に入学し、アメリカ留学と西洋視察を経て、41歳で海軍次官、49歳で海軍大臣に就任しました。 朝鮮総督としては、力による支配から文治政策へ方針を転換し、民政の安定に努めました。 五・一五事件の後、75歳で総理大臣に就任、昭和天皇の御信任も篤く、78歳で内大臣に就任しました。 しかし、軍部の擡頭を抑えようとしたことしたことを批判され、二・二六事件で凶弾に倒れます。 記念館には旧宅の他に書庫もあり、「内外の事情が全て分かるように」と収集されたおよそ3万8000冊の書籍が収められています。 記念館の1階は主に各大臣として活躍した時の写真や軍服・勲章などの服飾品が展示を行い、2階は凶行によって命を失った時の遺品などが展示されています。 額を撃ち抜かれた時の枕や布団、銃弾によって割れた愛用の鏡、そして主人を庇って撃たれた春子夫人の着物などを見ると、惨劇の様子が目に浮かぶようです。 春子夫人は、公人の妻としての自覚を強く持っていた方で、撃たれた主人の盾となって自らも銃撃を受け、事件後は主人の血や吐瀉物の付着した遺品を、全て大切に保管しました。 記念館の庭には、斎藤夫妻の銅像が建てられています。 最後に後藤新平記念館に向かいました。 記念館は、後藤伯記念公民館に隣接して建っています。 読売新聞社の創設者である正力松太郎が経営に乗り出した際、後藤新平が自らの別荘を担保にして資金を用意し、正力に貸しました。 後藤の死後、自らが出資の依頼に後藤を訪ねた別荘が担保になっていたことを知った正力は、感謝の意をこめて後藤の故郷である水沢市に日本で最初の公民館を立てる資金を寄贈しました。 公民館は現在も地域の人たちに大切に使われています。 敷地には、後藤・正力の銅像や顕彰碑が建っています。 後藤新平は須賀川医学校で医学を学び、支援者の安場が愛知県令になったことをきっかけに愛知医学校で医師となり、やがて24歳の若さで学校長兼病院長になります。 岐阜で遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を診察した際には「政治家として本望でしょう」と言ったというエピソードが残されています。 本心は医師よりも政治家になりたかった後藤は、内務省衛生局に入り、ドイツ留学などを経て、台湾総督府民政長官となります。 台湾の近代化に多大な貢献をしたことから、今でも台湾では英雄の扱いを受けており、李登輝元総統も昨年の来日の際に、記念館に立ち寄りました。 台湾の街並みを整備した経験は、関東大震災によって壊滅した東京を復興させる時に生かされることになりました。 その後、南満州鉄道総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣・東京市長などを歴任、またボーイスカウトを設立しました。 三偉人の中で非業の死をとげなかった後藤新平ですが、その生涯はすべて公のために尽くされました。 他の二偉人も、もし志半ばで倒れることがなければ、日本のために更に偉大な仕事をしてくれたのではないかと惜しまれます。 14:19水沢発、14:42一ノ関着。 14:53一ノ関発、16:35仙台着。
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名称 石上神宮(いそのかみじんぐう) ≪古 称≫「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」「石上社」「布留(ふる)社」など 所在 〒632-0014 奈良県天理市布留町384 交通 電 車:JR・近鉄天理駅より徒歩30分、タクシーにて5分 バ ス:JR・近鉄天理駅より奈良交通バス20、24、28番で乗車し「石神神宮前」下車すぐ(所要時間8分) 自動車:西名阪自動車道、天理東インターを下り南へ1km(駐車場とトイレ有り) 奉仕者 石上神宮は物部氏に所縁がある社で、その管理も物部連が勤めた。 当神社の御祭神の内、市川臣は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後裔で、当社社家の祖。 また当社には出雲国造と同じく世襲の忌火職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として代々森家が務めた。現在の宮司も森家出身。 忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽(ひきり)によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。 酒殿社(*1)に臨時の清浄殿が設けられ、神主はそこに籠もり、忌火が鑽り出され、その火によって神聖な食事をし、現人神となった神主は比礼を肩に掛け、布留山の榊・梅の楚(すわえ:若枝のこと)を持って行進し、忌火になったことを示した。 社格 別表神社 ≪旧社格≫式内社(名神大)、二十二社、官幣大社(明治4年) 御祭神 御祭神 ・布 都 御 魂 大 神(ふつのみたまのおおかみ) +詳 細 当神宮の主祭神で、国土平定に偉功を立てられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る霊威を称えて布都御魂大神とする。 韴霊は神代の昔、天孫降臨に際して経津主神・武甕雷神が出雲国稲佐浜に天降って大国主命に国譲りを命じた折に、武甕雷神が佩いていた剣。 その後、神武天皇が東征の途上、熊野にて土地神の毒気によって遭難した折、天照大御神の詔によって再び天降り、これを平定した。 神武天皇は即位の後その功績を称え、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じて宮中に奉斎させた。 第10代祟神天皇の7年至って、勅命により物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭(現在地)に遷して奉祀した。 ・布 都 御 魂 大 神(ふるのみたまのおおかみ) +詳 細 リスト1 リスト2 リスト3 ・布 都 斯 御 魂 大 神(ふつしみたまのおおかみ) +詳 細 リスト1 リスト2 リスト3 配 祀 ・五十瓊敷命(いにしきのみこと) ・宇摩志麻治命(うましまじのみこと) ・白河天皇(しらかわてんのう) ・市川臣命 (いちかわのおみのみこと) 祭神の布都御魂大神は甕布都神(みかふつのかみ)、佐士布都神(さじふつのかみ)ともいい、平国之剣(くにむけのつるぎ)と称せられ、その霊威を以て神と祀る。記紀によれば天孫降臨に際して、経津主(ふつぬし)・武甕槌(たけみかずち)の両神とともに国土を鎮定し、神武天皇の東征においては熊野の地に天降って賊徒を平らげ、建国の基礎を固めた神。 布都斯御魂神は饒速日尊が天降る際に天津御祖によって授けられた、天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)の霊威を神として祀られた。 摂末社 摂社としては出雲建雄神社、鎮魂八神を祀る天神社と七座社がある。 出雲建雄神社は延喜式内社で天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣)の霊威を出雲建雄神と称え祀っている。 同社拝殿(*2)は内山永久寺(廃寺)の鎮守社拝殿であったが、大正3年当地に移築された。保延3年(1137年)の建立と云われ、中央に一間の通路がある割拝殿形式で国宝に指定されている。 摂 社 ・出雲建雄神社(式内社):出雲建雄神(いずもたけるおのかみ) ・天 神 社(てんじんじゃ):高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむしびのかみ) ・七 座 社(ななざしゃ):生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、御膳都神(みけつかみ)、辞代主神(ことしろぬしのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ) 上記3社と猿田彦神社は拝殿よりも南、石段を上がった高い位置に有り、拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。地理的制約からこの構造となったというのが通説だが、重要な神とされており何か意味があるのかも知れない。 尚、斎宮が居た場所は、上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。 末 社 ・猿田彦神社 ・神田神社 ・祓戸神社 ・恵比須神社(境外) 祭事 ・鎮魂祭について 歳 旦 祭 (1月1日) 元 始 祭 (1月3日) 古神符焼納祭 (1月15日) 玉 の 緒 祭 (節分前夜) 節 分 祭 (節分当日) 祈 年 祭 (2月19日) 献燈講講社大祭 (4月第1日曜) 春 季 大 祭 (4月15日) 長寿講社春季大祭 (5月3日) 神剣渡御祭(でんでん祭)(6月30日) 大 祓 式 (6月30日) 崇敬会大祭 (9月第1日曜) 榜示浚神事 (10月1日) 例 祭(ふるまつり) (10月15日) 長寿講社秋季大祭 (11月3日) 鎮 魂 祭 (11月22日) 新 嘗 祭 (11月23日) お 火 焚 祭 (12月8日) 天 長 祭 (12月23日) 神 庫 祭 (12月31日) 大 祓 式 (12月31日) 除 夜 祭 (12月31日) 月 次 祭 (毎月1日・15日) 由緒と歴史 石上神宮は大和盆地の中央東寄り、龍王山(標高585.7m)の西の麓、古代の山辺郡石上郷に属する布留山(標高266m)の北西麓の高台に鎮座する。境内は鬱蒼とした常緑樹に囲まれ、境内の池には天然記念物の馬魚が生息するなど大変自然豊かな地。北方には龍王山よい発した布留川が流れ、周辺には奈良県下有数の古墳密集地帯として知られている。また境内脇には奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る東海自然道の一端「山の辺の道」が通っており、古代における交通の要所としても機能していた。 非常に歴史の古い神社で、『古事記』には「石上神宮」と、『日本書紀』にも「石上振神宮」との記述がある。『延喜式』には「石上坐布都御魂神社」たり、武器武具のもつ霊威を中心とした信仰が永く続き、それにより多くの武器武具が奉納された。また饒速日尊が天降ったときに天津御祖神より授かり、地上に伝えた十種神宝と鎮魂の業がある。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。 社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下命(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ与えた)を通して天皇の元に渡った。その後神武天皇の勅命により物部氏の祖宇摩志麻治命により、父である饒速日尊より継承された天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)とともに宮中で祀った。その後、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄(いかしこお)命が韴霊・十種瑞宝を石上布留高庭現在地に遷し、「石上大神」と称え祀ったのが当社の創建である。 ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。天武天皇3年(674年)には天武天皇が御子の忍壁皇子(おさかべのみこ)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ約15万7千人を要したとある。移動後、倉がひとりでに倒れた。次に兵庫寮に納めたが、この後に桓武天皇が病気になり、さらに怪異が次々と起こりった。これを恐れた朝廷は使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。 神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(867年)に正一位に叙せられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。 中世以降は布留郷の鎮守となったが、当時勢力を拡大していた興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、それによって衰微した。さらに戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。この時、十種神宝も持ち去られたという。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許され、社領も復興された。 この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。明治7年(1874年)の発掘を期に、出土した素鐶頭太刀(そかんとうのたち)(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれている。 創建の由緒から武門の棟梁たる(*3)物部氏の総氏神として、また鎮魂の業が伝わることから健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の御神徳在りとして信仰されている。 文化財 その他
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「 我々を歴史から引き離す理由を捜し索めんが為めのみに歴史を学ぶ 」 ~ ブルュンティエール(仏批評家 1899年講演 「仏蘭西精神の敵」) <目次> ■1.はじめに ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界<参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図◆1.歴史認識:見取り図 ◆2.用語解説◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観)参考1:神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠(讖緯説・辛酉革命説) 参考2:欠史八代の実在性(稲荷山古墳鉄剣銘文) ◇(2)皇国美化史観参考1:用語解説 ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観)<1>唯物史観とは:概説 <2>日本資本主義論争「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) ◇(4)自由主義史観 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力(参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) ◆3.日教組の洗脳教育 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.はじめに 近現代史は政治そのものであり、古代史ですら現代政治を抜きにして語れない。現在、主流を占める歴史認識(あるいは現在の歴史教科書の記述)が正しくて、今後もその認識がそのまま続くとは誰も保証できないことは、戦前~戦後の日本の歴史教育の変転をみても、近隣諸国の歴史教育の有様を見ても明らかである。 これを踏まえて、近代以降の日本における歴史認識問題の基本構図をここで一旦まとめておく。 なお、南京虐殺問題や慰安婦問題、満州事変・支那事変や大東亜戦争の性格といった個別の論点は、各々の専用ページを参照されたい。 ■2.日本人が持つべき国家観・歴史観 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)2/3◇『論語』子路第十三の十八葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之を證す。孔子曰わく、吾が黨の直(なお)き者は是に異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り。 【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)3/3 ■3.劣化著しい戦後の歴史学界 大東亜戦争敗戦後に、後述の羽仁五郎(マルクス主義歴史学者・初代日教組代表・革新系参議院議員)を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきた歴史学研究会(マルクス主義史観の歴史学者の学術団体)が、ソ連崩壊後の1993年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの発言をここで一度しっかり確認しておこう。 <参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- はじめに -批判的史学をめざして-1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。・・・歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。1993年3月 委員長 西川 正雄 ※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 ※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。こんなトンデモ団体が未だに跋扈しているのが日本の史学界の現状である。 <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- あとがき(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 ※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 ■4.歴史認識(歴史観)の対立構図 満州事変・支那事変や大東亜戦争といった日本の戦争は侵略戦争だったのか否か、いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦は事実だったのか否かetc.といった個々の歴史問題の背景に、より大きな構図として、戦前から続く歴史学者間の歴史認識(史観)の対立、より具体的にいうと、 ① 日本の歩みを常に肯定的に捉える正統史観(後述のように戦後は左翼からのレッテルとして“皇国史観”と蔑称された史観) と、 ② 日本の歩みを常に否定的に捉えるマルクス主義史観(戦後は“東京裁判史観”とも呼ばれ、また近年は特に批判者から“自虐史観”と蔑称されている史観) の対立がある。 ◆1.歴史認識:見取り図 戦前~戦中 (『國史』教科書時代) 敗戦 戦後 (『日本史』教科書時代) 保守 皇国史観(皇国護持史観)・那珂通世(神武天皇即位紀元に関する讖緯説(辛酉革命説)を提唱)・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講)・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビュー第二回【天皇と憲法】の中で博士を理不尽なまでに激しく糾弾した。⇒NHKの正体・上級編参照)・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、津田氏本人は「唯物史観などは学問じゃありません」と猛反発し否定、逆に皇室擁護の論陣を張っている) ⇒ 保守 正統史観(正統史学)・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた)・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献)・大原康夫・高森明勅 右翼 皇国美化史観・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ)・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者)・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者) 消滅 自由主義 自由主義史観・藤岡信勝・西尾幹二 ‡唯物史観への対抗イデオロギーとして出現 ‡過度の自虐史観への反動として出現 左翼 唯物史観(マルクス主義史観)・羽仁五郎(講座派)・井上清(講座派、のち共産党員)・土屋喬雄(労農派) ⇒ 左翼 東京裁判史観(自虐史観)・羽仁五郎(日教組代表、参院議員)・井上光貞・家永三郎・色川大吉・直木孝次郎・丸山眞男(政治学者、隠れマルクス主義者) ◆2.用語解説 (1)皇国史観(皇国護持史観・正統史観) (2)皇国美化史観 (3)マルクス主義史観(唯物史観・東京裁判史観・自虐史観) (4)自由主義史観 について順に解説する。 ◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観) ※皇国史観(正統史観)とは何か 古事記/日本書紀以来の日本の正統な歴史伝承・歴史事実に基づく史観。(ページ下に参考図書あり) 当然ながら記紀を日本民族の大切な伝承として扱い、これを否定しない。 神武天皇即位紀元が過大に引き伸ばされている件については、讖緯説(辛酉革命説)に基づく年代設定と解釈している。(那珂通世の説)(参考1)。 初代神武天皇から第十代崇神天皇までの間の所謂「欠史八代」については、戦後発見された稲荷山古墳鉄剣銘文に第八代孝元天皇の皇子大彦命と解釈できる人物が見えることから、唯物史観派のいうように頭から欠史八代の実在を否定するのは不当と主張している。(参考2) 記紀成立後、六国史編纂を経て、神皇正統紀、大日本史さらに江戸時代後期の国学の成果を踏まえて、明治以降の国史学に至る。 なお、平成12年の森首相(当時)の「神の国」発言(日本は天皇を中心とした神の国である、とする発言)は、この伝統的な日本人の国家観・歴史観の素朴な表現と思われる。 参考1:神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠(讖緯説・辛酉革命説) 干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。 参考2:欠史八代の実在性(稲荷山古墳鉄剣銘文) 稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1)稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比魁(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比魁(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比魁(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比魁(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする ◇(2)皇国美化史観 明治末以降に、皇国史観(正統史観)に加上する形で民間に発生。 提唱者は意外にも仏教系が多く(田中智学は日蓮宗系、加藤玄智は浄土真宗系)、明治維新により疎外感を抱いた一部仏教界の過剰な擦り寄りとも解釈できる。 1930年前後の経済恐慌期に、①アジア主義・②国家社会主義と結びつき、マルクス主義の対抗イデオロギーとして急速に流布(この時期の代表的イデオローグは大川周明)。 また、田中智学の造語「八紘一宇」は、大東亜戦争のスローガンとなった。 大東亜戦争の敗戦により史観としての存立基盤は消滅したが、戦後も無自覚のうちにこのイデオロギーに影響された言説を唱える者は多い。 5.15事件など青年将校の暴発を引き起こす思想的背景をなし、また天皇機関説事件/津田左右吉博士筆禍事件などの過激行為の源として批判されるべきは、この(マルクス主義とはコインの裏表の関係の)皇国美化史観の方であるが、戦後、左翼側は是と本来の皇国史観(皇国護持史観・正統史観)をワザと混同し、皇室否定論・日本悪玉論に強引に結び付ける執拗なネガティブ・キャンペーンを繰り返している。 ⇒ 政治の基礎知識 右翼・左翼の歴史 NHKの正体・上級編 参照 参考1:用語解説 「皇国史観」(赤旗より引用)という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『近代日本の国体論』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。そして、その内容としては、①国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、②アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ(昆野氏論文)の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした①、と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した②、をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。これに関して平泉澄博士の門下生の田中卓博士は、「一概に皇国史観といってもそれは、・・・①平泉史学による「皇国護持史観」と、②戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある」と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ「正統史観」であると述べている。なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、 1 彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた①平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、 2 国家改造とアジア解放を唱えた②は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。(そうする勇気など、とてもないだろうが) ◇(3)唯物史観(マルクス主義史観) ※唯物史観(マルクス主義史観)とは何か <1>唯物史観とは:概説 カール・マルクスが、普遍的な歴史発展法則として提唱したもので、下部構造(経済関係)が上部構造(歴史の展開)を規定すると見る歴史観である。 人類の歴史の発展段階として、①原始共産制社会→②古代奴隷制社会→③中世封建制社会(農奴(コロヌス)が生産に従事)→④近世重商主義社会(絶対王制)→⑤近代資本主義社会(ブルジョワ革命により絶対王制を打破=第一革命)→⑥プロレタリア革命(=第二革命)による社会主義社会の到来→⑦共産主義社会への移行、を想定した。 最終的に、プロレタリア(労働者階級)がブルジョワ(資本家階級)を打倒する、という意味で「階級闘争史観」ともいう。 明治維新以降の日本資本主義の性格規定と、日本に来るべき革命の形態(第一革命か第二革命か)を巡って、以下の論争が行われた。 <2>日本資本主義論争 「1」講座派(日本共産党の思想的基盤) 講座派とは、1925-35年頃、マルクス主義経済学者・史学者を二分した日本資本主義論争において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に日教組代表・参議院議員となり国会図書館法前文を起草)、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 ※このようにマルクス主義者が二派に別れて論争した事が、戦後に日本共産党・日本社会党(左派)の二つの階級政党が並立して社会主義(共産主義)革命を目指す原因となった。 ◇(4)自由主義史観 後述 ■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行 ◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力 日本の「民主化」を旗印に掲げるGHQは、羽仁五郎など戦前からのマルクス主義者を利用し、日本の歴史教育の「改革」を強引に推し進めていった。 戦前は小学生にも必修であった「国史」を廃止し、社会科の一分野として「歴史」(中学校)「日本史」(高校)を設定。新制中学の教科として新たに「公民」教育を導入し、「歴史」より優先的に教育することとした。 日本国憲法/教育基本法の理念を日本人学童/学生に押し付ける組織として教員組合の結成を指令した(のちの日教組) 国会図書館法を制定しGHQ焚書を実行。連合国にとって都合の悪い書籍を隠蔽・抹殺したと思われる。 (参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表) マルクス主義史観最大のイデオローグで、昭和20年3月に北京で逮捕され東京で収監されていたが、GHQにより釈放(出獄)された。その直後から猛烈な皇室否定・廃止論を発表。更にGHQの後ろ盾で日教組代表となり、その組織票で参議院議員に当選。GHQの指令を受けて国立国会図書館の設立に関与し連合国にとって不都合な図書の隠滅(GHQ焚書)に協力したとされる。現在の国立国会図書館法の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」は羽仁五郎の起草である。 (参考2):井上光貞(代表的な古代史家) 歴史教科書から古代の皇室の記述を大幅に削除し、皇室の起源を応神天皇(のち崇神天皇)など出来る限り遅い時代に設定する学説を打ち立てたが、最晩年には自説に無理があることを認めたといわれる。なお井上光貞の全集第11巻「私と古代史学」(岩波書店)にアメリカ人学者から「日本の史学者はマルクス主義史観一辺倒・結論先にありきに陥っている」と批判されたことを告白するエッセーが載っている。また山川出版の「高校日本史」教科書(1951年の初版)や中公文庫の「日本の歴史」の古代史は井上が根本部分を執筆している。 (参考3):色川大吉(代表的な近代史家) 東大国史学科で平泉澄博士の最後の教え子の一人だったが、終戦後にあっさり転向して当時公職追放の身となっていた恩師を「狂信的な皇国史観の指導者」として猛烈に批判した(公正な学問的批判ではなく平泉博士への卑劣な人格攻撃だったとされる)。小田実(ベトナム反戦運動で活躍したが、近年KGBのエージェントだった事が判明)と共に日市連(昭和天皇の闘病中に「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」と書かれた横断幕を掲げて都心でデモを行ったサヨク市民団体)の共同代表を務めた。現在でも毎日新聞に自虐的な歴史観を披露した記事がよく掲載される。中公文庫「日本の歴史」の近代史の執筆者の一人。WIKIPEDIA ◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化) 日本の歴史を肯定的に捉えようとする学術研究者・教育者は、GHQによって容赦なく公職追放・教職追放され、東大を始めとする有名大学の史学部や学術書籍の出版社(岩波書店・中央公論社など)はマルクス主義者(唯物史観派)が制圧した。 彼らは、反対派との正々堂々の議論は徹底的に回避し、マスコミの支援で一般国民に一方的に自らの史観を刷り込む活動に専念した。 唯物史観派は、「実証主義」の名目で、古事記/日本書紀の上古の伝承を完全に否定し教科書への記載も廃止した(井上光貞の説明参照)。 その結果、日本の歴史教科書の記述は古代の農村遺跡などの記述や、中国の史書からの引用で始まる諸外国と較べて特異な形態となった。 また皇室の起源としては、応神天皇を最古の実在した天皇とする説、崇神天皇を最古の実在した天皇とする説、騎馬民族到来説、朝鮮王族侵入説など様々な新説が提唱された。 明治維新以降の記述については、征韓論から以降、一貫して侵略史観に染まった内容となった。 ◆3.日教組の洗脳教育 1945年12月の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。 日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。ここでもマルクス主義史学者の羽仁五郎が代表に就任。 ⇒ 参考 GHQの占領政策と影響 日教組の正体 「階級闘争」「抵抗教育」「革命運動」を実践し、日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動を行う。 学童/学生に「平和教育」を施し、自虐史観を刷り込む。 「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」(1947年、日教組結成大会での宣言) 「一人々々の組合員が自らのプチブル的傾向を脱皮し教育界に温存されている封建的残滓を打破して階級的立場を明確にし、分会、地区、府県、地域、中央へと日常闘争を進めることによって初めて日教組の組織は強化されるのである」(1949年、日教組第五回定期大会の運動方針) 「日本教職員組合の運動方針には『教育労働者として階級的立場を明らかにして闘う』と書いてありますが、われわれはそのように、日本の貧しい人々、つまり、労働者の側に立って、日本の横暴な資産階級のわがままと闘うのであります」(1953年、日教組のパンフレット『新しく教師となった人々に』) 日教組が発足する前年の1946年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされる。 自社55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いている。 ◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項 鈴木善幸首相/宮沢喜一官房長官の在任中の1980年に歴史教科書問題が発生。教科書検定基準に「近隣諸国条項」が追加された。 出鱈目な史観を学生に押し付け続けたツケとして、史学部進学者/新進歴史学者の劣化が進行 近年において、注目すべき歴史論・国家論を著した人物に歴史学者は皆無であり、こうした異常な歴史認識に囚われていない英文学者・数学者・経済学者などから返って有力な歴史論・国家論が発表されている。 ■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動 上記のような圧倒的な唯物史観派(自虐史観派)の優勢に対抗して、トップの動画にあるような日本の伝統的な歴史観・国家観を守ろうとする活動も存在した。 ◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判 津田左右吉氏は、邪馬台国北九州説を主張した東洋史学者の白鳥庫吉氏の高弟で、白鳥を介して那珂通世氏の孫弟子にあたる。 戦前に古事記/日本書紀の文献批判を通じて神武東征に疑問を表明する等、記紀の神話部分は後世の潤色が強いとする説(津田学説)を表明したことから、右翼急進派から皇室冒涜として攻撃を受け、1940(昭和15)年に著書4冊が発禁処分、津田氏は早大教授を辞職し、著書出版元の岩波茂雄と共に出版法違反で起訴されるに至った(津田左右吉博士筆禍事件。1942(昭和17)年一審で禁錮3ヶ月/執行猶予2年の有罪判決、但し1944(昭和19)年控訴審で免訴)。 終戦後、GHQの解放指令により出獄した羽仁五郎氏らマルクス主義史学者は、歴史学研究会(歴研)の再建(実際には唯物史観派による乗っ取り)にあたって、当時岩手県に疎開していた史学者として信用の高い津田博士を会長に担ぎ上げようとした。 ところが津田博士は、GHQ進駐直後に始まった羽仁五郎氏らの岩波書店・毎日新聞を通じた反天皇キャンペーンに吃驚し、むしろ危惧を深めており、羽仁氏から派遣された井上清氏(羽仁の弟子で歴史学者・共産党員)の会長就任の懇願を即座に拒否したばかりか、岩波書店の雑誌『世界』1946(昭和21)年4月号に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表して、極めて情熱的な皇室擁護論を展開し、マルクス主義史観(唯物史観)に傾く史学界に痛烈な打撃を与えた。 唯物史観派は、現在でも自分たちの皇室否定論・記紀否定論の起源を戦前の津田学説に置く姿勢を見せる(wikipediaにもそのように記述されている)が、実際には津田博士の学説は、神武東征などの記紀の伝承に疑問を表明しているものの、初代天皇としての神武天皇以下の初期の天皇の実在性自体を否定する説ではなく(津田博士自身が繰り返し、そう明言している)、戦後に流布した羽仁五郎氏や家永三郎氏・井上光貞氏らの記紀否定論は、津田学説を換骨奪胎したエセ学説といえる。 津田学説を踏み台として、戦後に皇室の起源を極力後代に置き、古事記/日本書紀の記述(特に初期の天皇の実在性)を否定する学説を提唱した井上光貞氏は、晩年の津田氏について「博士は既に老齢に入っておられ、あまりにも急激に変転しつつある時代とともに進む柔軟性を失っていられた」と評したが、井上光貞氏自身が、その最晩年に、自分の学説は(余りにも唯物史観の演繹的手法に囚われて、最新の考古学的成果や文献考証に照らして)無理がある、と認めている。 しかし井上光貞氏の学説を更に踏み台として、様々な皇室否定論・唯物史観に基づく学説を発表していた戦後史学界の主流は、津田氏の皇室擁護・唯物史観批判ばかりか、この井上光貞氏の自説撤回をも無視したまま現在に至っている。 ◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立 1951(昭和26)年、吉田茂首相が「講和後、紀元節を復活したい」と表明。GHQによって廃止された紀元節の復活(神武天皇即位の日と伝承のある2月11日の祝日化)運動が始まる。 唯物史観派は、8月革命説を信奉し、戦後日本は戦前とは別の国家だとして、紀元節を祝日として復活することに総力で反対した。 ※日本社会党(もとの労農派)は、日本国憲法施行日(5月3日、現在の憲法記念日)を「新日本建国の日」として、これで十分と主張。 ※日本共産党(もとの講座派)は、現在の日本はまだ天皇制と米帝が支配しており、真の建国は人民が将来革命によって勝ち取る、として「建国記念日」の制定自体に反対。 正統史観派および一般国民・政府は、戦前の紀元節を建国記念日として祝日に復活させることを要望していた(根底に、戦前~戦後を通じて国体は護持されたとの認識があった)。 長期の紛糾の末、1966(昭和41)年6月に、「建国記念日」を「建国記念の日」と名称変更して与野党で祝日復活することをようやく決議。 しかし井上光貞氏を始めとする唯物史観派は「非科学的な“建国の日”に反対する」と、わざと文言を摩り替えて反対を続けた。(「建国記念の日」は、日本の建国を記念する日であり、必ずしも歴史的事実としての建国日ではないことに注意。) ◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として 村山富市社会党首相による村山談話が出された翌年の1996年、自虐史観の行き過ぎに対する反動から藤岡信勝氏の提唱で「新しい教科書をつくる会」が結成され、西尾幹二氏らが参加。 「自虐史観にも大東亜戦争肯定史観にも囚われない新しい教科書を作る」との方針の下、中学の歴史分野と公民分野の教科書を作成し、2001年4月と2005年4月の文部科学省の検定にも合格したが、左翼団体の激しい教科書採択反対運動がおこり、実際にこの教科書を採用する学校は非常に少なかった。 しかし一般図書として販売された教科書と同一内容の本が売れ、その内容のまともさと共に、これに反対する左翼団体の異様さが広く一般国民に知られるようになり、他の一般に採用されている教科書の内容の一部正常化に繋がった(「従軍慰安婦」や「南京大虐殺30万人」の記述の取り止めなど)。 藤岡信勝氏など代表的メンバーは実は左派からの転向者が多く、高森明勅氏が理事に名を連ねるなど人材の交流はあるものの正統史観(正統史学)派とは区別する必要がある。(「つくる会」は一般には保守系団体と見做される場合が多いが、当サイトでは敢えて「リベラル(自由主義)」と分類している。) 左派からの転向者が多い(代表の藤岡氏自身が元共産党員)ことが一つの原因となって、「つくる会」内部で教科書の執筆方針を巡って残念ながら、度々内紛が発生している。 屋山太郎氏ら親米保守(親英米派)のメンバーが2007年に「つくる会」から脱退し「教科書改善の会」を結成。従来「つくる会」の教科書を出版してきた扶桑社と産経新聞がこれを支援している。 一方、「つくる会」は、出版社を扶桑社から自由社に変更して2009年4月検定合格の最も新しい教科書を発行。横浜市の18地区中8地区での採択が決定した。 「つくる会」の新しい教科書の動画紹介と他社の歴史・公民教科書の問題点指摘 ⇒ 偏向教科書の正体 へ ■7.参考図書 【関連】 自虐史観の正体 政治の基礎知識 日本主義とは何か ■8.ご意見、情報提供 唯物的史観と唯心的史観について、大変分かりやすいサイト紹介 http //ameblo.jp/kyow2525s/entry-10968348077.html -- 名無しさん (2011-08-18 05 27 29) 佐藤卓巳による丸山・平泉体験http //www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-26.html -- 名無しさん (2011-09-27 17 38 40) 重要な関連ページ 国体とは何か② ~ その他の論点 -- ページ作成者 (2012-04-22 02 13 36) 日本資本主義論争が自虐的であるか否かについては諸説あると思うが、日本資本主義論争が隆盛を迎えた時期は、日本が世界恐慌で苦しんでいた時期と符合している。そのような苦しい時期に、その原因を探ろうとした学問的成果までもを否定する姿勢には賛同しかねる。 -- な (2012-04-23 12 45 50) 名前 コメント 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています!
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住所 三重県伊勢市宇治浦田2−1−10 JR東海「伊勢市駅」、近鉄「宇治山田駅」、近鉄「五十鈴」のいずれかより徒歩20分程度 関係あるとみられるもの 射命丸文(東方花映塚、東方風神録ほか) 姫海棠はたて(ダブルスポイラーほか) 稗田阿求(東方求聞史紀ほか) 猿田彦神社 ※猿田彦神社社殿。絶賛造営中(平成29年まで)。 三重県伊勢市内にある神社。伊勢神宮内宮とかなりのご近所さんである。主祭神に猿田彦(さるたひこ)及びその子孫の大田命(おおたのみこと)を祀り、道案内のご利益と方違え(かたたがえ)のご利益があるとされる。わかりやすく言い換えると「迷わず目的地にたどり着くことができる程度のご利益」と「不吉な方角を教えてくれる程度のご利益」である。一見するとささやかで、GPS通信の発達した今日では「地味じゃね?カーナビや携帯電話があればいらなくね?」と思われても仕方がなさそうなご利益ではあるが、そんなことは神様サイドも百も承知。そこで現代の猿田彦は、「道案内=みちびき」の語感から着想を得たと思われる「みちひらき」という超強力な新商品ご利益の開発に成功し、時代の波に乗っている。「みちひらき」とはつまり「前途を明るくする程度のご利益」であり、就職・結婚・転職・企業・下剋上など、今まさに岐路に立って人生を切り開こうとする人々に、明るい未来をもたらしてくれるというチートご利益である。また、「方違えのご利益」も開運風水と柔和して、マイホーム建築やアパート選び、お部屋の模様替え等々を幸多きものとしてくれるご利益だと読み替えられているようである。お伊勢参りのついでにお参りできる(逆も然り)といった好条件もあいまって、今まさにパワースポッター達の熱い注目を浴びている神社であると言える。近いからって、内宮参りのために猿田彦神社の駐車場を利用するのはやめようね(ダ●ョウ倶楽部風の前振りではない。本当にやめましょう)。 ※神社正面を左に出て横断歩道をわたれば、おかげ横丁はもうすぐそこ。 「猿田彦神社」の名を持つ神社が全国にわりと沢山存在する中で、この記事で紹介する伊勢の猿田彦神社(以後「伊勢猿田彦神社」という。)は、全ての猿田彦神社の本社だと考えられている。また、「猿田彦神社」以外にも「佐田神社」、「千勝神社」、「白髭神社」、「白髪神社」などの名前を持つ神社が猿田彦を祀っており、伊勢猿田彦神社はそれらも含めた「猿田彦信仰の総本社」だとも考えられている。しかし猿田彦信仰の総本社の座については、三重県鈴鹿市の山中にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)も名乗りを挙げており、どちらが真の総本社にあたるかは、人によって、何に重きを置くのかによっても見解が異なる。伊勢猿田彦神社の宮司を務める宇治土公(うじとこ)氏と椿大神社の宮司である山本(やまもと)氏は、ともに猿田彦の子孫を自称しているという。 伊勢猿田彦神社の創建伝説は、神話の時代にまでさかのぼる。全ての猿田彦神社で主祭神として祀られる猿田彦は、もともと伊勢を流れる五十鈴川(いすずがわ)の川上に本拠地を持つ土着神であり、記紀神話における天孫降臨の際には「天の八衢(あまのやちまた)」に姿を現して天孫(ニニギ)を地上へと導いた神である。天孫降臨の後は故郷の伊勢へと戻ったが、ある時阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていたところ、事故で溺れて亡くなったとされる。先述のとおり、伊勢猿田彦神社の宮司を務める宇治土公氏は代々この猿田彦を「祖神」として祀り、一族を猿田彦の子孫であると考えていた。一族の歴史が猿田彦にまでさかのぼるのだから、伊勢猿田彦神社の起源もまた猿田彦本人にまでさかのぼる、というわけである。もっとも、現在の伊勢猿田彦神社社殿が建てられたのは確実に明治以降の話であり、公の神社としての歴史としてはかなり「新しい」と言わざるを得ない。というのも、江戸期以前においては伊勢猿田彦神社の存在する敷地は宇治土公氏の私邸であり、つまりは宇治土公一族がプライベートに猿田彦を祀っていたに過ぎなかった。じゃあ江戸期以前の宇治土公氏は何をしていたの?というと、実は職業として代々伊勢神宮の神官を世襲する家だった。それが明治4年(西暦1871年)に太政官布告が発令されたことで、神職の世襲制度自体が無くなり、子々孫々まで伊勢神宮で神官を務められる保証がなくなった。そこで新たに祖神である猿田彦や大田命を立てて、邸内の猿田彦神社を公(おおやけ)のものとした、というのが一様の経緯ではある。 ところで、猿田彦と並んで神格化されている大田命は、猿田彦の子孫(宇治土公氏の祖先)とされる神である。天孫降臨の主人公「ニニギ」の曾孫(ひまご)に初代天皇の神武天皇がおわし、そこからさらに時代を下って第10代目崇神天皇のころ、後に第11代天皇となる垂仁天皇の娘に倭姫命(やまとひめ)という非常にアクティブな皇女(こうじょ)がいた。倭姫命(やまとひめ)は、天照大神(アマテラス)を祀る神宮を建てるための土地を探して畿内・東海地方を旅しており、最後に立ち寄った伊勢の地で大田命から導きを受け、土地を献上された。だから伊勢に神宮(伊勢神宮)が誕生し、だから猿田彦神社と伊勢神宮内宮がご近所さんなのである。第11代天皇の垂仁天皇、倭姫はともに実在性に疑義が差し挟まれているものの、こうした"神話"が形成された背景に「伊勢の豪族から土地の寄進をうけ、伊勢神宮を創建することができた」ことがあるのは、よほど穿った見方をしない限り事実と推定される。宇治土公氏が伊勢神宮に神官として携わっていたこともそれを裏付けているだろう。だとすれば、大田命はかつて実在した人物(あるいは血族集団)が神格化したものである可能性も高い。むしろ大田命が伊勢神宮の創建をみちびき、貢献したことが評価されて、後年記紀神話が形成される中で(大田命の祖神である)猿田彦が「天孫降臨の立役者」として大抜擢された可能性すら説として挙げられている。すなわち、今日猿田彦が「みちびきの神」として名声を高めているのは、大田命の働きあってのものということになる。一種の歴史加上である。 ※ここ 東方projectにおいては、『東方風神録』stage4ボスとして登場する射命丸文が、岐符「天の八衢」、岐符「サルタクロス」、塞符「天孫降臨」など、猿田彦及び天孫降臨に関連する名前のスペルカードを多用する。さらには『東方緋想天』でも突風「猿田彦の先導」、竜巻「天孫降臨の道しるべ」等が登場する。射命丸文は今さら言うまでもなく妖怪であり、烏天狗(からすてんぐ)であるが、これでもかというほどに猿田彦関連のスペルカードを好む。その理由は、古来猿田彦と天狗とが結び付けられ信仰の対象となってきたことへの矜持が大いにあるのだろうと推測される。なぜ猿田彦と天狗が同一視されるようになったのか、という民俗学的課題については、目下「天狗の里」として売り出し中の静岡県春野町あたりの記事に仔細を譲るとしても、天狗の射命丸文自身は、自身が神と同一視されることに悪い気分はしていないのだろう。だから猿田彦を信仰すればあややも喜ぶよきっと。 佐瑠女(さるめ)神社 ※佐瑠女神社社殿。ファンシーでかわいらしい。 伊勢猿田彦神社の境内において、伊勢猿田彦神社社殿のはす向かいに建つ神社。西暦2000年代後半、佐瑠女例大祭時に非常に出来の優れた萌えポスターを頒布していたことで、一部の偏った知識を持った人々の間ではちょっと有名な神社でもある。今もやってるんだろうか。神話「岩戸隠れ(岩屋隠れ)」等に登場する女神、アメノウズメ(『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命)を祀る。 神話「岩戸隠れ」は、高天原で乱暴狼藉を働いた素戔嗚尊(スサノオ)に対し遺憾の極みを表明するため、天照大神(アマテラス)が天の岩戸(あめのいわと)へ立てこもってしまう事件である。太陽神であるアマテラスがストライキに入ったことで地上に朝が来なくなり、困った神々は相談してアマテラスを引きずり出す算段をめぐらせる。そこでまず、八意思兼(ヤゴコロオモイカネ。えーりん)が常世からお取り寄せした鶏=常夜の長鳴鳥(とこよのながなきどり)にいななかせ、神々に歓喜の声を挙げさせるなど、「朝最高や!アマテラスなんかいらんかったんや!」的な雰囲気を醸し出した。岩戸に立てこもったせいで外の様子が分からないアマテラスは「マジで?自分がいなくても朝ってくるの?」と興味をもった。アマテラスが食いついたのを察知したところで満を持してアメノウズメが舞台に立ち、上も下も丸出しで踊るというR18指定待ったなし(古事記)の歓喜の舞を踊った。それを見た神々は大爆笑した。「なんぞこれ」と不思議に思ったアマテラスは、ちょっとだけ岩戸を開けてチラ見しようとした。そこで、待ち構えていたアメノタヂカラオ(『古事記』では天手力男神、『日本書紀』では天手力雄神)がアマテラスの手をつかんでひきずり出した。こうして世界に光が戻り、闇に乗じてイキっていた邪神・妖怪のたぐいもなりをひそめることになった。あとスサノオは謝罪と賠償を要求され、爪をはがされ髭を切られて追放された。 神話「岩戸隠れ」ではアマテラスの悋気を鎮めるという非常においしい役回りに、ここぞとばかりに古代豪族の祖神らが参与しているが、大方は場を盛り上げた程度のモブである。真に活躍したと言えるのはアメノウズメ、あとえーりんとアメノタヂカラオくらいだろう。こうして「一芸で世界を救った」アメノウズメは、いつしか芸事の守り神と見なされるようになり、「音楽・講談・演劇・漫才その他諸々の芸事が上達する程度のご利益」がある神さまとして広く信奉を集めるようになった。仏教で言う所の弁天様に近い。 またその後、アメノウズメは神話「天孫降臨」にも登場し、持ち前のメンタルの強さをいかんなく発揮する。ニニギの使者として猿田彦の前に立ち、上は丸出し下はへそまで見せるという謎スタイルで威圧しつつ、猿田彦と交渉し、猿田彦が天孫らの味方であることを明らかにする(日本書紀)。なぜそうも脱ぎたがるのか。このエピソードから、アメノウズメは「えーりんとか名だたる神がいる中で使者に抜擢され、アマツカミ(天孫一派)とクニツカミ(猿田彦)の仲を取りもったすごい神さまだ。」と崇められ、芸事の上達に加え「縁を結ぶ程度のご利益」があるとも信じられるようになった。神の声を聞き届けたというので、巫女の元祖だという説も唱えられている(と言っても、巫女の元祖候補者はやたら沢山いる)。アメノウズメの仲介でニニギの味方となった猿田彦は献身的な働きを見せ、ニニギを大いに満足させる。そこでニニギは、アメノウズメに猿田彦の名を負うよう命ずる。これは猿田彦に仕える巫女になるよう命じたとか神妻になるよう命じたとかいう意味で解釈されることもある。そのため、猿田彦とアメノウズメを一緒に祀るスタイルの神社は非常にポピュラーになっている。 東方projectにおいては、猿女君(さるめのきみ)の一族の末裔である稗田阿求が登場する。猿女君の一族はアメノウズメの子孫であると『日本書紀』にも書いてある。よってアメノウズメは稗田阿求の遠い遠いご先祖様ということになる。神話の世界で文字通り裸一貫、体を張って神々を魅了するアメノウズメと、超人的な記憶力で現世でも地獄でも文人、文官としての才をいかんなく発揮する阿求では活躍のフィールドがずいぶんと異なっているようにも見えるが、アメノウズメの血をひくであろう稗田阿求さんの今後の成長にも期待したいところである(ゲス顔)。 ※アメノウズメ(想像図。伊勢市「二見興玉神社」横の天岩戸前)。そのバストは実際豊満であった。
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遊戯王/認定オリカ ストラクチャーデッキ第1弾-投稿カード 2009-10-09 【リンク】 認定オリカ SDトップ http //www5f.biglobe.ne.jp/~hnwpkids/project/orica/index.html 認定オリカ ストラクチャーデッキ企画室 - アンケート掲示板 - 遊戯王デュエリストレベル認定 http //bbsa.yugioh-nintei.com/view.cgi?no=6487 【投稿カード一覧 投稿カード数:54枚】 《モンスター(32)》 通常(0)/効果(32)/ レベル:★1(2)/★2(1)/★3(3)/★4(15)/★5(3)/★6(4)/★7(1)/★8(3) 属性:地(5)/水(5)/炎(3)/風(8)/光(9)/闇(2) 種族:魔法使い(4)/天使(4)/悪魔(1)/戦士(3)/獣戦士(1)/獣(5)/鳥獣(3)/昆虫(3)/植物(5)/水(2)/サイキック(1) 《魔法(11)》通常(4)/永続(4)/速攻(3) 《罠(11)》 通常(4)/永続(6)/カウンター(1) アタッカー投稿者:フォース 《禁忌の探求者(フォビドゥン・ハンター)》 投稿者:くえす 《エンシェント・オーガ》 投稿者:出血湖 《働か猿》 投稿者:クロウ(PC) 《潔癖狼》 投稿者:LOW 《命喰らいの魔虎》 投稿者:黒竜 《注射鳥》 投稿者:逆流 《注射蜂》 投稿者:D地球は苦 《グロテスク・グロリオーサ》 投稿者:エル 《ハーブ・ウェストウィンド》 投稿者:ルイズ 《崇神-ケイト》 下級モンスター投稿者:くえす 《生と死の祈祷師》 投稿者:エル 《ハーブ・コンデンサー》 投稿者:LOW 《天の女屍喰らい》 投稿者:フォース 《天降の神使》 投稿者:ルイズ 《永夜の歌姫》 投稿者:雨宮驟雨策 《炎のストッパー》 投稿者:クロウ(PC) 《微風の騎士》 投稿者:黒竜 《スキルスティーラー》 投稿者:出血湖 《愛煙蚊(スモーキー・モスキート)》 投稿者:D地球は苦 《ヘル・キペルス》 投稿者:逆流 《ヒーラー・ブラッド》 上級モンスター投稿者:クロウ(PC) 《純白の祓魔師》 投稿者:逆流 《カザヨミ》 投稿者:黒竜 《ヒーリングマスター カリス》 投稿者:雨宮驟雨策 《正義の代行者 ウラヌス》 投稿者:D地球は苦 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このカードはこのカードのコントローラーが合計で1000ライフポイント以上回復したターンのみ、攻撃宣言をする事ができる。 このカードのコントローラーが1度の効果で2000ライフポイント以上回復したターン、このカードは一度のバトルフェイズ中に2回攻撃する事ができる。 投稿者:クロウ(PC) 《潔癖狼》 【地属性・獣族/効果】 ★★★★ ATK/2400 DEF/1500 このカードは、自分のライフポイントが8000ポイントを下回っている場合、破壊される。 また、このカードが相手モンスターを戦闘によって破壊し墓地に送った場合、そのモンスターの攻撃力分だけ自分のライフポイントを回復する事ができる。 この効果を使用した場合、次の自分のターンのエンドフェイズまで、このカードは攻撃宣言する事ができない。 投稿者:LOW 《命喰らいの魔虎》 【光属性・獣族/効果】 ★★★★ ATK/2600 DEF/0 このカードの攻撃宣言時、手札から「ライフポイントを回復する効果」を持つカードを1枚捨てなければ、自分はこのカードの攻撃力分のダメージを受ける。 このカードが戦闘でモンスターを破壊した時、そのモンスターの攻撃力の半分の数値のライフポイントを回復する。 投稿者:黒竜 《注射鳥》 【風属性・鳥獣族/効果】 ★★★★ ATK/1500 DEF/1000 このカードの攻撃力は自分の墓地に存在する「ライフポイントを回復する効果」を持つカード1枚につき100ポイントアップする。 投稿者:逆流 《注射蜂》 【風属性・昆虫族/効果】 ★★★★ ATK/1700 DEF/1000 自分のターンに1度、自分の手札のライフポイントを回復する効果をもつカードを任意の枚数、相手に見せる事ができる。 このカードは見せた手札の枚数に応じて以下の効果を得る。 ●1枚以上:このカードの攻撃力はエンドフェイズ時まで見せた手札の枚数×200ポイントアップする。 ●2枚以上:このカードが相手プレイヤーに戦闘ダメージを与えた場合、その数値分だけ自分のライフポイントを回復する。 ●3枚以上:このカードが守備表示モンスターを攻撃した時、その守備力を攻撃力が超えていれば、その数値だけ相手に戦闘ダメージを与える。 投稿者:D地球は苦 《グロテスク・グロリオーサ》 【炎属性・植物族/効果】 ★★★ ATK/1500 DEF/1000 1000ライフポイントを払って発動する。 次の相手のエンドフェイズ時まで、このカードの攻撃力は500ポイントアップする。 この効果は1ターンに2度まで使用できる。 自分のライフポイントが相手のライフポイントを超えている場合、この効果を発動するために払うライフポイントが必要なくなる。 投稿者:エル 《ハーブ・ウェストウィンド》 【風属性・植物族/効果】 ★★★★ ATK/1800 DEF/1600 自分のライフポイントが2000ポイント以上回復した時、自分の墓地に存在するこのカードを自分フィールド上に特殊召喚する事ができる。 この方法でこのカードの特殊召喚に成功した場合、このカードの元々の攻撃力・守備力はそれぞれ2500・2100となり、このカードが戦闘によって破壊した効果モンスターの効果は無効化される。 投稿者:ルイズ 《崇神-ケイト》 【水属性・水族/効果】 ★★★★ ATK/2200 DEF/1700 自分のターンにこのカードのコントローラーのライフが回復しなかった場合、そのターンのエンドフェイズ時に、このモンスターは破壊される。 下級モンスター 投稿者:くえす 《生と死の祈祷師》 【光属性・魔法使い族/効果】 ★ ATK/200 DEF/300 リバース:次の効果から1つを選んで発動する。 ● 自分のデッキから「自分のライフポイントを回復する」効果を含む魔法・罠カード1枚を手札に加える。 ● 自分のデッキから、発動時にライフポイントを回復する魔法・罠カード1枚を手札に加える。 ● 自分の墓地から「自分のライフポイントを払う」効果を含む魔法・罠カード1枚を手札に加える。 投稿者:エル 《ハーブ・コンデンサー》 【風属性・天使族/効果】 ★★★★ ATK/1200 DEF/1500 自分のライフポイントが回復した時、手札のこのカードを自分フィールド上に守備表示で特殊召喚する事ができる。 この方法でこのカードの特殊召喚に成功した時、この時回復したライフポイントの数値以下の攻撃力のモンスター1体を自分のデッキから特殊召喚する。 投稿者:LOW 《天の女屍喰らい》 【光属性・天使族/効果】 ★ ATK/0 DEF/0 自分のライフポイントが回復したターン、自分フィールド上に存在するこのカードをデッキに戻してシャッフルし、デッキからカードを1枚ドローする事ができる。 このカードは自分が戦闘ダメージを受けたターンのエンドフェイズに手札から特殊召喚できる。 自分のエンドフェイズ時、墓地にこのカードが存在し、このターン自分はライフポイントを回復しており、自分の手札が0枚の時、このカードを手札に加える。 投稿者:フォース 《天降の神使》 【光属性・天使族/効果】 ★★★★ ATK/1400 DEF/1500 自分フィールド上のレベル5以上のモンスターが破壊された時、このカードを手札から特殊召喚する事ができる。 このカードが直接攻撃によって相手プレイヤーに戦闘ダメージを与えた場合、その数値だけ自分のライフポイントが回復する。 自分のライフポイントが相手より上回っている場合、このカードは戦闘では破壊されない。 投稿者:ルイズ 《永夜の歌姫》 【闇属性・悪魔族/効果】 ★★★★ ATK/1400 DEF/1700 自分のライフが500ポイント以上回復した時、相手フィールド上に表側表示で存在するモンスター1体の表示形式を変更する事ができる。 投稿者:雨宮驟雨策 《炎のストッパー》 【炎属性・戦士族/効果】 ★★★ ATK/1400 DEF/400 このカードがフィールド上に表側表示で存在する時、相手モンスターの攻撃宣言時に600ライフポイントを払って発動する事ができる。 そのモンスターの攻撃を無効にする。 投稿者:クロウ(PC) 《微風の騎士》 【風属性・戦士族/効果】 ★★★★ ATK/1400 DEF/1000 このカードの召喚・特殊召喚に成功した時、デッキから「自分のライフポイントを回復する」効果を持つカードを1枚選択してデッキの一番上に置く。 投稿者:黒竜 《スキルスティーラー》 【地属性・昆虫族/効果】 ★★★★ ATK/1700 DEF/1300 フィールド上に存在する相手モンスターの効果が発動した時、600ライフポイントを払いその発動を無効にして破壊する。 この効果は1ターンに1度だけ発動する。 投稿者:出血湖 《愛煙蚊(スモーキー・モスキート)》 【炎属性・昆虫族/効果】 ★★★★ ATK/1850 DEF/900 このカードが表側攻撃表示の時、ダメージ計算時のみ、このカードの攻撃力を100の倍数でダウンさせる事ができる。 このカードが相手プレイヤーに戦闘ダメージを与えた時、この効果でダウンした数値分のライフポイントを回復する。 投稿者:D地球は苦 《ヘル・キペルス》 【水属性・植物族/効果】 ★★★ ATK/1500 DEF/1000 ライフポイントが回復する度に、このカードの攻撃力は200ポイントアップする。 1000ライフポイントを払って発動する。 このターンのエンドフェイズ時に自分は1000ライフポイント回復する事ができる。 この効果は1ターンに2度まで使用できる。 投稿者:逆流 《ヒーラー・ブラッド》 【水属性・水族/効果】 ★★ ATK/0 DEF/1000 リバース:以下の効果から1つを選択して発動する。 ●自分は1000ライフポイント回復する。 ●1000ライフポイントを払い、墓地に存在するライフポイントを回復する効果をもつモンスター1体を手札に戻す。 ●墓地に存在するライフポイントを回復する効果をもつカード1枚をデッキに戻す。 ●ゲームから除外されているライフポイントを回復する効果をもつカードを2枚まで墓地に送る。 上級モンスター 投稿者:クロウ(PC) 《純白の祓魔師》 【光属性・魔法使い族/効果】 ★★★★★ ATK/1800 DEF/1500 このカードはリリースなしで召喚する事ができる。 この方法で召喚されたこのカードは、自分のライフポイントが回復しなかった自分のターンのエンドフェイズに手札に戻る。 また、「自分のライフポイントを回復する」効果を持つカードが相手のコントロールするカードの効果を受ける場合、その効果を無効にして破壊する事ができる。 投稿者:逆流 《カザヨミ》 【風属性・魔法使い族/効果】 ★★★★★★ ATK/1800 DEF/2100 1ターンに1度、手札を1枚デッキの一番下に戻して発動する事ができる。 自分のデッキからカードを1枚ドローし、それがライフポイントを回復する効果を持つカードだった場合、手札に加え、それ以外はデッキの一番下に戻す。 このカードの効果でドローしたカードがレベル4以下のモンスターカードだった場合はそのモンスターを特殊召喚する事ができる。 1ターンに1度、手札の「ライフポイントを回復する」効果をもつカード1枚を墓地に送る事でこのカードの戦闘による破壊を無効にする。 投稿者:黒竜 《ヒーリングマスター カリス》 【風属性・魔法使い族/効果】 ★★★★★★★★ ATK/2800 DEF/2300 自分の墓地に存在する「ライフポイントを回復する効果」を持つモンスター・魔法・罠を1枚ずつゲームから除外する事で、 手札からこのカードを特殊召喚する。 この方法でこのカードの特殊召喚に成功した時、自分は2000ライフポイント回復する。 自分のライフポイントが回復したターンに1度だけ、自分のデッキからカードを2枚ドローする事ができる。 このカードが相手のカードの効果によってフィールド上で破壊された時、自分のライフポイントの半分と同じ数値だけ自分のライフポイントを回復する事ができる。 投稿者:雨宮驟雨策 《正義の代行者 ウラヌス》 【光属性・天使族/効果】 ★★★★★★ ATK/? DEF/? このカードを特殊召喚する場合、自分のライフポイントが回復した時のみ、手札から特殊召喚する事ができる。 自分のライフポイントが回復する度に、このカードにサーガカウンターを1つ乗せる。 このカードの攻撃力・守備力は、このカードに乗っているサーガカウンター1つにつき1000ポイントアップする。 投稿者:D地球は苦 《ペルセウス・ホース》 【地属性・獣族/効果】 ★★★★★ ATK/2100 DEF/1600 「ライフポイントを回復する効果」を持つカードが自分の墓地に3枚以上存在する場合、このカードは手札から特殊召喚する事ができる。 このカードが守備表示モンスターを攻撃した時、その守備力を攻撃力が超えていれば、その数値だけ相手ライフに戦闘ダメージを与える。 投稿者:ルイズ 《フェアリー・ハウンド》 【闇属性・獣族/効果】 ★★★★★ ATK/2000 DEF/1300 このターン自分のライフが回復していた場合、このモンスターはリリースなしで召喚する事ができる。 自分のターンのエンドフェイズ時、フィールド上のカード1枚につき200ライフポイントを回復する。 投稿者:出血湖 《三羽人鳥(スリーピングー)》 【水属性・鳥獣族/効果】 ★★★★★★ ATK/2700 DEF/900 このカードは攻撃した場合、バトルフェイズ終了時に守備表示になり、次の自分のターンのエンドフェイズ時まで表示形式を変更する事ができない。 自分スタンバイフェイズにこのカードが表側守備表示で自分フィールド上に存在する時、自分は1000ライフポイント回復する。 このカードが戦闘で破壊された時、700ライフポイントを払う事でその破壊を無効化する。 投稿者:くえす 《エンシェント・ホーリー・フェニックス》 【光属性・鳥獣族/効果】 ★★★★★★★★ ATK/2500 DEF/2100 自分のライフポイントが回復する度、次のこのカードの戦闘のダメージ計算終了時まで、このカードの攻撃力はその数値だけアップする。 自分のライフポイントが9000ポイント以上ある時、自分フィールド上のカード1枚を対象とする魔法・罠カードの効果を無効にする事ができる。 このカードが墓地に存在する限り、自分のライフポイントが1000ポイント以上回復した時、このカードを手札に戻す事ができる。 2000ポイント以上回復した時、このカードを特殊召喚する事ができる。 投稿者:エル 《レイジュ・ゴッド》 【風属性・植物族/効果】 ★★★★★★★ ATK/2200 DEF/2700 自分のライフポイントが7000以上の場合、このカードは1体のリリースでアドバンス召喚する事ができる。 自分のライフポイントが9000以上の場合、このカードはリリースなしで召喚する事ができる。 このカードは召喚・反転召喚・特殊召喚が成功した場合守備表示にする事ができる。 1ターンに1度、自分の墓地に存在するカード1枚をゲームから除外する事で、自分は1000ライフポイントを回復する。 このカードがフィールド上に表側表示で存在する限り、自分のライフポイントが回復する度に、自分のデッキからカードを1枚ドローする。 この効果は1ターンに2度までしか発動しない。 投稿者:LOW 《幸福の大樹 ユグラドシル》 【光属性・植物族/効果】(特殊召喚モンスター) ★★★★★★★★ ATK/0 DEF/3000 このカードは通常召喚できない。 自分のライフポイントが3000ポイント以上回復したターン、手札からこのカードを特殊召喚する事ができる。 このカードは1ターンに1度、カードの効果によっては破壊されない。 このカードの守備力を3000ポイント下げて発動する。 自分はライフポイントが1000ポイント回復し、このカード以外の全ての自分フィールド上のモンスターの攻撃力は、ターン終了時まで自分のライフポイントと同じ数値となる。 このカードの守備力が0になった時、このカードはゲームから除外される。 投稿者:フォース 《思念核(スピリッツ・コア)》 【水属性・サイキック族/効果】 ★★★★★★ ATK/0 DEF/2800 このカードが自分フィールド上に表側表示で存在する限り、お互いにモンスターを召喚する場合、そのモンスターの攻撃力分のライフポイントを払わなければならない。 また、自分フィールド上のモンスターの効果によって自分のライフポイントが回復する場合、その数値は倍になる。 魔法 投稿者:エル 《命の潮流》 【永続魔法】 モンスターが破壊される度に自分は破壊されたモンスターのレベルの合計×200ライフポイント回復する。 お互いのターンのエンドフェイズ毎に自分は300ライフポイント回復する。 投稿者:くえす 《エンシェント・キャッスル》 【永続魔法】 自分のライフポイントを回復する時、その効果で回復する数値は500ポイントアップする。 自分のライフポイントが回復する度、このカードにエンシェントカウンターを1つ置く。 エンシェントカウンターが乗ったこのカードを墓地に送る事で、自分の手札からエンシェントカウンターの数以下のレベルを持つモンスター1体を特殊召喚する。 投稿者:フォース 《シモッチの正薬効》 【永続魔法】 自分のライフポイントが回復する度に、自分は500ライフポイント回復し、自分フィールド上のモンスターの攻撃力はエンドフェイズまで300ポイントアップする。 「シモッチの正薬効」の効果では、このカードの効果は適用されない。 投稿者:黒竜 《ライフ・ストリーム》 【永続魔法】 1ターンに1度だけ自分のライフポイントが回復した時に、このカードにライフカウンターを1つ置く。 このカードに乗っているライフカウンター1つにつき、自分フィールド上のモンスターの攻撃力と守備力は400ポイントアップする。 前の自分ターンに自分のライフポイントが回復していない場合、相手ターン開始時にこのカードに乗っているライフカウンターは全て取り除かれる。 投稿者:D地球は苦 《非情私欲(クルーエル・グリード)》 【速攻魔法】 自分の手札を全て捨て、捨てたカード1枚につき、自分は1000ライフポイント回復する。 この効果によって自分のライフポイントが相手のライフポイントを超えた場合、デッキからカードを2枚ドローする。 投稿者:LOW 《豊饒》 【速攻魔法】 自分のデッキから「ライフポイントを回復する効果」を持つカード1枚を墓地に送る。 投稿者:雨宮驟雨策 《リリーの処方箋》 【速攻魔法】 自分フィールド上に存在するモンスター1体を選択し、2000ライフポイントを払い発動する。 このターン中に選択したモンスターが戦闘を行う場合、そのダメージ計算時のみそのモンスターの攻撃力は3000ポイントアップする。 投稿者:逆流 《キュアー・コンパート》 【通常魔法】 1000ライフポイントを払い、自分フィールド上のモンスター1体をデッキに戻して発動する。 デッキに戻したモンスターのレベル以下のデッキから「ライフポイントを回復する効果」を持つモンスター1体をデッキから特殊召喚する。 投稿者:クロウ(PC) 《精霊の憑依》 【通常魔法】 自分は1000ライフポイント回復する。 このカードの発動に成功した場合、そのターンのエンドフェイズまで以下の効果は全て無効になる。 ●墓地に存在するこのカードをゲームから除外する事で自分は500ライフポイントを回復する。 ●墓地に存在するこのカードをゲームから除外する事でデッキから「精霊の憑依」を1枚選択して手札に加える。 この効果によって手札に加えたカードはこのターンのエンドフェイズまで発動する事はできない。 投稿者:出血湖 《ひとにぎりの薬草》 【通常魔法】 ライフを100ポイント回復する。 発動に成功したこのカードは相手ターンのエンドフェイズに持ち主の手札に戻る。 投稿者:ルイズ 《舞い降りた霜》 【通常魔法】 自分の墓地のモンスターを任意の枚数ゲームから除外して発動する。 自分は発動時にゲームから除外したモンスタ-のレベルの合計×200ライフポイント回復する。 罠 投稿者:エル 《アストラルバンク》 【永続罠】 1ターンに1度、自分のライフポイントを1000回復する事ができる。 この効果によって自分のライフポイントが回復する度に、このカードにペイカウンターを1つ置く。 このカードが破壊され墓地へ送られた時、このカードに乗っていたペイカウンター1つにつき、自分は1000ライフポイントを失う。 投稿者:D地球は苦 《命知らずな爆弾処理》 【永続罠】 800ライフポイントを払う。 相手の罠カードの発動を無効にし破壊する。 投稿者:出血湖 《鬼去らずの仇討地蔵》 【永続罠】 自分フィールド上のモンスターが戦闘、モンスター効果で破壊された時、500ライフポイントを払う事で相手フィールド上のモンスター1体を破壊する事ができる。 投稿者:雨宮驟雨策 《赤十字の旗印》 【永続罠】 このカードが自分フィールド上に表側表示で存在する限り、「ライフポイントを回復する効果」を含むカードの発動と効果は無効にならない。 投稿者:逆流 《ソウル・ブラスター》 【永続罠】 手札のライフポイントを回復する効果を持つカードを1枚捨てて発動する。 自分が2000ポイント以上のライフポイントを回復する度に,フィールド上のカードを1枚破壊する。 投稿者:ルイズ 《幻の鬼ヶ島》 【永続罠】 このカードがフィールド上に表側表示で存在する限り、お互いのライフポイントの差の数値よりも攻 撃力が低い相手フィールド上のモンスターは攻撃宣言をする事ができない。 投稿者:くえす 《生命の輝き》 【カウンター罠】 「自分のライフポイントを回復する」効果が発動された場合のみ発動する事ができる。 その効果によって回復する数値を2倍にし、自分のデッキからカードを1枚ドローする。 投稿者:クロウ(PC) 《閻魔への賄賂》 【通常罠】 自分フィールド上に存在するモンスターが墓地に送られた時、500ライフポイントを払って発動する事ができる。 そのモンスターを自分フィールド上に特殊召喚する。 投稿者:フォース 《セイクリッドアロー》 【通常罠】 自分のライフポイントが1000ポイント以上回復した時発動する事ができる。 相手フィールド上のカード1枚をゲームから除外する。 投稿者:LOW 《豊饒の大地》 【通常罠】 自分の墓地から、「豊饒」と、ライフを回復する効果を含む効果を持つカード1枚をデッキに戻して発動する。 自分フィールド上のモンスター1体の攻撃力は、ターン終了時まで自分のライフポイントの半分の数値分アップする。 投稿者:黒竜 《豊穣の誘惑》 【通常罠】 自分のライフポイントが回復したターンのみ発動する事ができる。 このカードを発動する以前に回復した数値の合計値以下の攻撃力を持つモンスター1体を墓地から特殊召喚する。 『遊戯王』へ
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那珂通世遺書 第二章 暦法ノ始マリ 古へ文字モ無ク暦モ無カリシ時代ニハ、年月日ト云ヘル事モ、唯大ラカナル定マリノミナリケンコトハ、本居氏ノ真暦考ニ詳カニ辨ゼラレタル如クニテ、年ノ始モ、季《トキ》ノ始モ、キハヤカニ某日《ソノヒ》ヨリトハアラズ、月次《ツキナミ》モ日次モナク、又四季ノ運リニハツカデ、天ナル月ノ盈虧ニヨレル月ハアレドモ、月々ノ名モナク、何レノ月ヲ始メ終リト云フ次第モナク、年ノ來經《キへ》トハ別事《コトゴト》ナルヲ一ツニ合ス業《ワサ》ナドモナクテ、唯天地ノアルガマヽニテゾアリケル。 應神天皇ノ時、百濟國ヨリ阿直岐王仁等ノ儒士來朝シ、皇太子莵道稚郎子ノコノ二人ヲ師トシテ、典籍ヲ習ヒ給ヒシコトアリ。是レヨリ文學漸ク興リテ、履中紀ニハ、「四年秋八月、始之於諸國置國史、記言事、達四方志」トアレドモ、暦ノ事ハ未ダ見エズ、欽明紀十四年ニ至リテ、「六月遣内臣使於百濟云々、別勅醫博士易博士暦博士等、宜依|番《ツガヒ》上下、令上件色人正當相代、年月宜付還使相代、又卜書暦本種々藥物可上送」トアリテ、同十五年ニ、暦博士固徳王保孫ト云へル人來朝シタルコト見ユ。コレ皇國ニ暦法ノ傳ハリシ始メナリ。其ノ後推古天皇十年ニ及ビテ、紀ニ「冬十月、百濟僧観勤來之、仍貢暦本及天文地理書並遁甲方術之書也、選書生三四人以俾學習於觀勤矣、|陽胡史祖玉陳《ヤコノフビトノオヤゴクチン》、習暦法、大友村主高聰、學天文遁甲、山背臣日並立、學方術、皆學以成業」ト見エ、カクテ同十二年ヨリ、其ノ暦ヲ用ヒ給ヒ、始メテ天下ニ頒チ行ハセ給ヒシナリ、其ハ政事要略ニ儒傳ヲ引キテ、「以小治田朝十二月歳次甲子正月戊戌朔、始用暦日」ト云ヒ、伊呂波字類抄ニ引キ載セタル本朝事始ニモ、シカ云ヘリ。紀ニハ、是日ニ「始賜冠位於諸臣、各有差」トノミアリテ、始用暦日ノ事見エズ。カヽル重事ヲ何故ニ記シ洩サレタルト云フニ、紀ハ人皇ノ始メヨリ日次干支マデモ委シク記シテ、古クヨリ暦日ヲ用ヒラレタル様ニ作リ爲シタレバ、此ノ朝ニ至テ、始メテ用フトハ云ヒ難クテ、殊サラニ略カレタルナラン。 サレバ皇國ニテ、暦法ヲ習ヒ知リテ、暦本ヲ作レルハ、推古ノ朝ニ始マリタレドモ、コレヨリ以前ニテモ、百濟ヨリ奉レル暦本ヲ其ノ儘ニ用ヒ給へル事ハ有リシナルべシ。又百沸朝貢以來ハ、支那三韓ノ士人帰化セン者、甚ダ多ク、概皆文書ヲ知リ、履仲朝ノ史官モ、此等ノ人ヲ用ヒ給ヒシナルベケレパ、當時ノ事跡モ、唯口々ニ相傳フルノミナラデ、諸ノ史氏ノ記録ニ入リタル者モアルベシ。但當時ノ記録ハ、年ヲ紀スルニ、天皇即位ノ年數ヲ用フルコトナク、唯歳ノ干支ノミヲ用ヒタルガ故ニ、某干支年ハ某天皇ノ若干年ニ當レルカハ、容易ニ知リ難キ者モ有リケラシ。 カクテ記紀撰修ノ時ニ當リ、修史ノ材料トナルベキ者ハ、口誦ノ傳説卜諸種ノ記録トニシテ、記ハ、專ラ傳説ニ依リタレバ、歳時月日ヲ擧ゲタル所、甚少ク、叙事モ亦簡略ナリ。紀ハ、傳説ト記録トヲ併セ探リテ、纂修セラレタレバ、叙事詳密ニシテ、記ノ稍詳ナル所、即顯宗天皇以前ノミヲ比較シテモ、既ニ四五倍ニ上レリ。然ルニ此ノ書ハ支那ノ正史實録ノ體ニ倣ハシタレパ、事ヲ叙スルニ、年月ヲ掲ゲザルヲ得ズ。引用セル記録中ニ年月ノアリシ所ハ、其儘用ヒテ、唯干支紀年ヲ歎字紀年ニ改メタルノミナレドモ、上代ニ遡ルニ従ヒ、年月ノ知レザル所、益多カルベケレバ、此等ハ、皆撰者ノ意ヲ以テ、年月ヲ造リ成シテ、史體ヲ裝飾セリト見ユ。 古代ノ干支紀年ノ事ニ付テハ、舊修史局ノ詳細ナル考證アリ。今文學博士星野恒氏ガ嘗テ摘録セル者ヲ左ニ引用ス。 「古昔年疑ナキ以前、年月ニ係ケテ事ヲ記スルニ、世人ハ、某宮馭宇天息若干年ト書キシト思フナレド、左ニアラズ。皆干支ヲ以テ年ヲ紀セシナリ。今其ノ證ヲ擧ゲンニ先ヅ金石器物ノ銘文ニハ、法隆寺ナル藥師佛造像記ノ「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」ハ用明天皇元年ヲ云ヒ、銅像釋迦後光銘ノ「甲寅歳三月二十六日」ハ、推古天皇二年ヲ云ヒ、觀世音菩薩造像記ノ「歳次丙寅正月生十八日」ハ、同天皇十四年ヲ云ヒ、繡帳銘ノ「歳在辛巳十二月二十一日癸酉日入」ハ、同天皇二十九年ヲ云ヒ、立像釋迦如來後背銘ノ「戊子年十二月二十五日」ハ、同天皇三十六年ヲ云ヒ、好古小録ニ載スル船氏墓誌ノ「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」ハ、舒明天皇十三年ヲ云へル等ナリ。又典籍ニ記シタルハ、古事記ノ崇神天皇ヨリ推古天皇マデノ崩年、上宮聖徳法王帝説ノ欽明天皇ヨリ孝徳天皇マデノ記事、皆干支ヲ以テ年ニ係ケタリ、大化建元以後ニ至リテモ、年號ナキ時ノ記事ハ、皆干支ヲ以テ年ヲ紀セリ。其ノ證ハ、金石文ニハ、好古小録ニ載スル小野ノ毛ノ人ノ朝臣ノ墓誌ノ「飛鳥淨御原宮天下天皇御朝云々歳次丁丑年十二月上旬」ハ、天武天皇六年、上野國山名村碑ノ「辛巳歳集月三日」ハ同天皇十年、博物館ニ藏スル美努岡萬連墓誌ノ「飛鳥淨御原天皇御世甲申年」ハ、同天皇年十三年、又好古小録ニ載スル河内國石河郡形浦山碑ノ「飛鳥淨原大朝庭云々己丑年十二月二十五日」ハ持続天皇三年、又妙心寺鐘銘ノ「戊戌年四月十三日壬寅」ハ文武天皇二年ヲ云ヒ、其ノ書ニ見エタルハ、播磨風土配ノ「浮御原朝庭甲申年七月」ハ、天武天皇十三年ヲ云へル事ナリ。常陸風土記ノ「難波長柄豊前大朝取宇天皇之世己酉年」ハ、孝徳天皇大化五年、「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世契癸丑年」ハ、同天皇白雉四年ヲ云へル類ハ、年號アル時ニモ、猶古來ノマヽニ干支ヲ以テ年ヲ紀セリ。大安寺流記資財帳ニ歴代佛像封戸等ヲ納メラレシ事ヲ記セル内ニ、「前岡本宮御宇天皇以庚子年」ハ、舒明天皇十二年、「袁智天皇坐難波宮而庚戊年」ハ、孝徳天皇白雉元年、「飛鳥淨御原宮御宇天皇歳駅癸酉」ハ天武天皇二年、「飛鳥淨御原宮御宇天皇甲午年」ハ持統天皇八年ヲ云ヘルナド、皆干支ニテ記シ、「平城宮御宇天皇以養老二年歳次壬戌云云」ヨリ以後ハ、始メテ年號某年ヲ以テ記セリ。サテ又異樣ナル年號ニテ記セル者アリ。釋日本紀ニ引キタル伊豫國風土記ニ載スル湯岡碑ノ「法興六年十月歳在丙辰」ハ推古天皇四年、法隆寺ナル金堂釋迦如來造像記ノ「法興元三十一年歳次辛巳十二月」ハ、同天皇二十九年ナリ。此類猶多シ。此等ノ諸證ニ據レバ年號紀年ノ外ハ皆干支ヲ以テ年ヲ記シ、絶エテ某天皇若干年卜稱スル者ナシ。タヾ藥師寺東塔擦銘ニ、「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月」トアルハ【(通世云、庚辰歳ハ、日本紀ニ據レバ、天武天皇九年ナルヲ、此年ノ銘ニ八年ト云ヘルハ、天皇ノ二年癸酉ノ歳ヲ以テ、元年ト立テタルナリ。天武紀ノ元年壬申ノ歳ハ、實ハ弘文天皇ノ御世ナルヲ、後ノ御世ニ至リ、弘文天皇を御代ノ數ヨリ除キテ、其ノ年ヲ天武天皇ノ元年ニ改メタル由ハ伴信友氏ノ長等ノ山風ニ、委しき考證アリ)】前ノ諸證ト異ナレドモ、狩谷棭斎ノ考ニ、コノ擦銘ハ文武天皇ノ時鑄造シタル者ナリトイヘバ、跡ヨリ追書セルモノニテ、前例ノ限ニアラズ。日本書紀ニ引ケル百濟記ニ、「壬午年、新羅不奉貴國」トアルハ、神功皇后攝政六十二年、「蓋鹵王乙卯年冬、狛大單來攻大域」ハ、雄略天皇十九年、百濟新撰ニ「己巳年、蓋鹵王立」トアルハ、允恭天皇十八年力、マタ「辛丑年蓋鹵王遣王弟現支吾君向大倭」ハ雄略天皇五年、百濟本記ニ「大歳辛亥三月、師進至安羅、營乞屯城」トアルハ、繼體天皇二十五年ニシテ、何レモ干支ヲ以テ年ヲ紀シ、某王若干年トイハズ。百濟ハ皇國ニ忠誠ヲ致シ、貢聘相繼ギ文物ヲ傳ヘシコト、舊史ニ歴見スレバ、本邦ノ、干支ヲ以テ年ヲ紀セシハ、或ハ百濟ノ例に依ラレシカ。【以上局説採要】 中根元圭ノ皇和通暦ニ「持統天皇遡至神武天皇、歳月支干、昭然可見、而推諸異邦諸暦、率多牴牾、伏稽崇神天皇時、遠荒不奉正朔遣六師討之、載有明文、則知吾邦神聖開基自有若天授民之教焉、世多憾歴古脊魑湮滅不傳也、今特因史籍支干朔望之所在、推而求之、則其法具存矣、蓋千三百餘年間、三更斗憲、神武天皇東征甲寅以至仁徳天皇十年壬午、凡九百八十九年、一法、今號曰上古暦、同十一年癸未以至皇極天皇元年壬寅、凡三百二十年、一法、今號曰中古暦、同二年癸卯、以至持統天皇五年辛卯、凡四十九年、一法、今號曰晩古暦」卜云ヘリ。此ノ元圭ト云ヘル人ハ、暦道ニ卓レテ精シキ人ト聞ユレバ、日本紀ノ支干朔望、記載ニ三様ノ差アルハ、サル事ナルベケレドモ、此レハタ上古ニ暦法アリシ證トハ爲ラズ。伴信友ノ日本紀年暦考ニモ「いはゆる上古中古晩古の三暦を神聖開基若天授民之教といへるは、そのかみの國史を熟く讀みて、世のさまを稽へわきまへざりつるが故に、暦法の異なるに惑ひ、書紀の崇神天皇の御世に遠荒不奉正朔と記されたる、此紀の例の漢文の潤飾の正朔の語に泥めるにて、かたはらいたき説なリ」ト云ヘリ。 神武天皇以來ノ支干朔望ノ記ハ、推古天皇ノ時始メテ用ヒ給ヘル百濟ノ暦法ニ基キテ、倒ニ推シ上ゲタルニテアルベケレドモ、完全ナル長暦ノ有ラザリシニ由リテ、置閏ノ法ニ小差ヲ生ジテ、仁徳天皇十年前後ニ、支干朔望ノ推算ヲ異ニシタルマデノ事ニシテ、上古暦中古暦ナド云へル言痛キ名稱ヲ附クベキニ非ズ。紀ノ撰者ガ年數ノ繰リ方ニ疎カナリシコトハ、列聖ノ崩年ト立太子ノ所ニ記シタル御年ト多クハ合ザルヲ見テモ知ラルレバ、逆推ノ晦朔ニ違算ヲ生ジタルコトハ、何ゾ怪ムニ足ラン。 皇極天皇二年ヨリ暦法ノ改マリシコトハ、伴信友モ「百濟改暦の法なりしか、又はこなたにて改めさせ給へるか、考ふベき由なし」ト云ヘルガ如ク、紀ニモ明文ナケレバ詳カナラズ。 平田篤胤氏ノ天朝無窮暦ノ説ニ至リテハ、神字日文傳ト同ジク、最モ附會ニシテ、論ズルニ足ラズ。 那珂通世遺書 第三章 辛酉革命ノ事 日本紀ニ記シタル上代ノ年月ハ、後世ノ逆推ニ出デタルコトハ前章ニ述べタルガ如シ。カクテ神武天皇ノ 即位元年ヲ、推古天皇以前一千二百餘年ノ辛西ノ歳ニ置ケルハ、元來事實ニモ言傳へニモ基キタルニ非ズ、 辛酉革命ト云へル魂緯家ノ説ニ據リタル者ナリ。革暦類ニ載セタル、昌泰三年庚申十一月二十一日文章博士 三善宿彌清行ガ預論革命議ニ「臣竊依易説而按之、明年二月、當帝王革命之期、君臣剋賊之運、凡厥四六二六 之數、七元三變之候、推之漢國、則上自黄帝、下至李唐、曾無毫釐之失、考之本朝、則向上始自神武天皇、 向下至于天智天皇、亦無分銖之違、然則明年事變、豈不用意乎云云、變革之際、必用干戈、蕩定之中、非無 誅斬、何者帝王革命、此周易革卦之變也、按革卦、離下兌上也、離爲火、兌爲金、金雖有從革之性、非得火 則不變、故金火合體、上下相害、版蕩之理巳窮、君臣之位初定、國之不祥、無甚於此」トテ、群臣ヲ勅勵シ テ、戒嚴警備セラレン事ヲ願ヒ、又昌泰四年辛酉二月二十二日同人ガ請改元應天道之状ニ「一、今年當大變 革命年事、易緯云、「辛酉爲革命、甲子爲革令」 鄭玄曰、「天道不遠、三五而反、六甲爲一元、四六二六相乗、 七元有三變、三七相乘、廿一元爲一蔀、合千三百廿年」春秋緯云「天道不遠、三五而反」宋均注曰、「三五、 王者改代之際曾也、能於是際、自新如初、則道無窮也」詩緯云、「十周参聚、氣生神明、戊午革運、辛酉革命、 甲子革政」注曰、「天道卅六歳而周也、十周、名曰王命大節、一冬一夏、凡三百六十歳、一畢無有餘節、三推終 則復始、更定綱紀、必有聖人改世統理者、如此十周、名曰大剛、則乃三基金聚、乃生神明、神明乃聖人改世 者也、周文王戊午年、決虞芮訟、辛酉年、青龍銜圖出河、甲子年赤雀銜丹書而至、武王伐紂、戊午日、軍度 孟津、辛酉日、作泰誓、甲子日入商郊」謹按、「易緯以辛酉爲蔀首、詩緯以戊午爲蔀首、今主上以戊午年爲昌 泰元年、其年又有朔旦冬至、故論者、或以爲應以戊午爲受命之年、然而本朝自神武天皇以來、皆以辛酉爲一 蔀大變之首、此事在文書未出之前、天道神事、自然符契、然則難有兩説、猶可依易緯也、又詩緯以十周三百 六十年爲大變、易緯以四六二六爲大變、二説雖異、年數亦同、今依緯説、勘合和漢舊記、神倭磐余彦天皇從 筑紫日向宮、親帥船師東征、誅滅諸賊、初營帝宅於畝火山東南地橿原宮、辛酉年春正月即位、是爲元年、四 年甲子春二月、詔曰諸虜已平、海内無事、可以郊祀、即立霊畤於鳥見山中云云、謹按日本紀、神武天皇、此 本朝人皇之首也、然則此辛酉可爲一蔀革命之首、又本朝立時下詔之初、又在同天皇四年甲子之年、宜爲革命 之證也」ト云ヒテ、和漢ノ史書ニ見エタル辛酉甲子ノ年ノ變事ヲ引キ合セ、推古天皇九年辛酉ニハ「聖徳太 子、初造宮于班鳩村、事無大小、皆決太子、是年有伐新羅救任那之事」ヲ引キ、其十二年甲子ニハ、冠位ヲ 制シ憲法ヲ定メ給ヒシヲ以テ、甲子革令ノ驗トナシ、カクテ神武天皇即位辛酉ノ年ヨリ齊明天皇六年庚申ノ 年マデ千三百廿年ヲ以テ一蔀トシ、同七年辛酉ノ年ヲ第二蔀ノ首トシテ、其ノ年天皇崩ジ給ヒテ、天智天皇位 ニ即キ給ヒ、ソレヨリ三年ヲ經テ、甲子ノ年ニ冠位ヲ換へ、諸ノ氏ノ上ニ兵器ヲ賜ヒ、民部家部ヲ定メ給ヒ、唐ノ使 郭務棕等來朝シタル事ドモヲ引キテ、革命革令ノ徴ナリト論ジ、サテ「謹按、自天智天皇即位辛酉之年、至 于去年庚申、合二百卅年、此所謂四六相乘之數已畢、今年辛酉、當於大變革命之年也云々、清行去年以來、 陳明年當革命之年、至于今年、徴驗已発、初有知天道有信聖運有期而已トテ、改元アランコトヲ奏議シタルコ ト見ユ。カクテ此奏ニ由リテ、ソノ年七月十五日延喜ト改元アリキ。天智天皇ノ即位ハ、天智紀二。「七年 (戊辰年)春正月丙戊朔戊子、皇太子即天皇位」其註ニ「或本云、六年歳次丁卯春三月即位」トアリテ、辛酉 年ヨリハ六七牟ノ後ニアレドモ、實際天下知シメシタルハ、辛酉年ヨリノ事ニシテ、ソノ年ニ白鳳ト改元ア リシコト、水鏡、如是院年代記、海東諸国記等ノ諸書ニ見エタレバ、辛酉ヲ以テコノ天皇ノ即位元年トシタ ル傳ヘモアリシナルベシ。「至于今年、徽驗已發」トハ、ソノ年正月菅原右大臣左遷ノ變アリシヲ謂ヘルナリ。 此ヨリ後辛酉甲子ニ當レル年ニハ、必改元アリ、其ノ度毎ニ、紀傳明經暦算陰陽諸道ノ博士助教ヲシテ、革 命革令ノ當否ヲ勘奏セシメ給フコトヽ爲レリ。 伴信友ノ日本紀年暦考ニ「上古の暦日のおもむきは、眞暦考にいはれたる、まことにさる事なるべきに、 日本紀に記されたるもろこし風《ブリ》の年紀暦日《トシダテヒヨミ》は、いかにして定められけむ」トテ、清行朝臣ノ請改元之状ヲ引 キ、「さるはいと信《ウケ》がたき説ながら、もろこしにて、舊くより然る説をたて丶いひさわげるものありしなり。 今其の論説につきて、さらに按ふるに、神武紀の首章に、東ノ征《コトムケ》として幸《イデ》ませる事を記して、始て年の干支を 擧て、是年也大歳甲寅と記し、これより干支を舉て年紀《トシダテ》を記されたり。さてその甲寅の干支も、もろこしに て、爾雅に十干先甲、十二支先寅曰摂提絡、淮南子に天維建元常以寅始也、三五歴記に歳起摂提、元気肇始、 有神人號天皇といへる趣の説に合《カナ》へるに似たり。又同紀戊午年に、御兄五瀬命軍中に薨給ひ、また饒速日命、 長髄彦を殺して、帰順《マツロ》ひ奉りたる由記されたる事どもは、いはゆる革運ノ年ともいはゞいふべきに似たり。故 つら〳〵考ふるに、そのかみもろこしにて作りたる干支を世に用ひられたることのあるべくもあらず、年次 月次日次の定まりすら、もはら後のごとくにはあらざるべきことわりなるに、件の甲寅戊午辛丙甲子の年に當 りて、御所爲《ミシワザ》の合へるさまにきこゆるは、もろこしの暦法を用ひらるゝ御世となりて、それより上つかたの 事どもは、暦によりたる年月日を當て書記せるものゝ、やうやくにいできたりけむを、はるかに遠き御世の古 伝説は、近くさだかなる御世よりかづ〳〵推のばせて、神武天皇の御上におしおよびては、其かみの御所爲《ミシワザ》の 次第《ツイデ》にあはせて、件の四干支を當て、もろこしの星運の説に合せて、年紀をと丶のへられつるものなるべし。 但しそは日本紀を撰ばるとて、あらたに然ものせられたるにか、 【続紀元正天皇の養老五年、一月の詔に「世諺云、歳在申年、常有事故、此如所言云々」と詔へることみえたり。此前年、日本紀奏龜ありき。そのかみはやくより、歳につけて吉凶などさだむる説のありて、世諺にもいふばかりなりし御世のさま、はたおもひ合すべし。扨かく考出たる事は、清行朝臣の、革命革令の星運の説を主張して、神武天皇の御世の趣に牽き合せられたる説によりて、己は、反りて上古の年紀を定められたりけむ趣を推考へたるなり。】 またはやくより史などの、然年紀を作りて當たる書のありしにてもあるべし。さるはは やく神功皇后の御時より、かづ〳〵漢文字を用ひ給ひ、年次月日などをば、もろこしざまの韓國の正朔を取 用ひ給ひぬるめれば、其定に書記せるものもありけむを、古事記にはその御世のころはさらなり、うけはり てもろこしざまの暦を行はせ給へる推古天皇の御世まで記さしめ給へるに、年紀月日に係てきはやかに記け る事の、ひとつも見えたることなきは、天武天皇の大御慮に、ふかくおもほす趣ありて、みながら年紀月日 をも記させ給はざりつるなるべし。古事記序に「天皇詔之、朕聞、諸家之所賚帝紀及本辭、既違正實、多加虚 僞、當今之時、不改其失、未經幾年、其旨欲滅、斯乃邦家之經緯、王化之鴻基焉」とみえたるは、既に前世の 事を年紀月次などを推量りて定め記せる書のありけるをも、「既違正實、多加虚偽」とのたまへる中のひとつ にて、よろづにおほらかに記させいふべき御心しらひなかりしかばなるべし。されどもろこし書に比べては、 あまりにはかなげにて、あかぬ事におもはるべき世のさまなれば、さらに日本紀を撰ばしめ給ひ、もろこし 書にきそひて、ことさらに年紀月日をも定め當て丶、知らる丶かぎりはくはしく訂して、よろづに委しく記 し給へるものなるべし」卜云ヘリ。誠ニ古史ノ祕密ヲ看破シタル論説ナリ。サレバ清宮秀堅ノ新撰年表ノ題 言ニモ、「或云推古以前ノ紀年ハ、修史ノヲリ逆推シテ定メタルモノナリ。ソレユヱ諡號モ、推古ト稱スト。 此ノ言理アルニ似タレドモ、日本紀ハ、當時史料數種ニヨラレ、千有餘歳用ヒ來レル正史ユヱ、一概抹殺シ ガタシ。故ニ姑ク舊ニヨリ、改メズ」ト云ヒテ、其ノ自註ニ「或書云神武天皇辛酉ノ即位ハ、易緯ニ辛酉革 命甲子革令ト云フ説ニヨラレ、其年ヨリヨキホドニクリサゲシナルベシ。後來辛酉改元甲子改元等モ、コレ ニヨラレシコトヽ見ユ」ト云へル或書ハ、伴氏ノ年暦考ヲ指セルナルベシ。 伴氏ガ爾雅淮南子三五暦紀ヲ引ケルハ、谷川士清ノ書記通證ニ引カレタルヲ又引キタルニテ、十干先甲、 十二支先寅ヲ爾雅ノ文トシタルハ、通證ヲフト讀ミ誤レルナリ、通證ニ云ヘル趣ハ、爾雅ノ釈天ニ十干ヲ記 スルニハ、甲ヲ先トシ、十二支ヲ記スルニハ、寅ヲ先トシテ「太歳在甲曰閼逢、太歳在寅曰攝提格」トアリ ト云ヘルナリ、又「天維建元、當以寅始起」ハ、淮南子天文訓ノ語ニシテ、同篇ニハ「太陰元始、建于甲寅 云々」トモアリ、史記ノ隊暦書、漢書律歴志等ノ説ニ據レバ、天地ノ成立シ終リタル天皇太帝元年ノ歳首ハ、閼 逢攝提格、即甲寅ノ冬十一月甲子ノ日、夜半朔日冬至ニ當リテ、七曜皆會シ、日月如合璧、五星如蓮珠ナリ シヲ、暦家ハ、握先紀ト號シテ、暦元卜立ツル由云ヘリ。三五暦紀ハ呉ノ徐整ノ撰ニシテ、今ハ其ノ書佚シ タレドモ、彼ノ語ハ太平御覧藝文類聚、徐堅ノ初學記等ニ引用セラレタレバ、通證ハソレラノ書ヨリ又引キ タルナラン。神代紀発端ノ一節ハ、全ク潅南子ト三五暦紀トノ語ヲ採リテ、文ヲ成シタルヲ見レバ、太祖ノ 大御業始メ給ヒシ年ヲ、「是年太歳甲寅」ト記サレタルハ伴氏ノ云ヘル如ク、淮南子三五暦紀ナドノ説ヨリ思 ヒ附キ給ヒテノ事ナルベシ。 伴氏ノ論説ニツキテ猶考フルニ、古事記ニ「神倭伊波礼毘古命、與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穂宮而議、云 坐何地平聞看天下之政猶思東行即自日向発幸御筑紫、故到豊國宇沙之時云云、自其處遷移而、於筑紫之岡田 宮一年坐、亦自其國上幸而於阿岐之國之多祈理宮、七年坐、亦從彼國遷上幸而、於吉備之高島宮八年坐、故從 其國上行之時經浪速之渡而泊青雲之白肩津。此時登美能那賀須泥毘古與軍待向以職云云」トアリテ、日向ヲ 出デ給ヒテヨリ、長髄彦ト戦ヒ給フマデ、少クトモ十六七年ハ歴給ヒキ。サレバ記傳【十八ノ十丁裏】ニモ「此記の趣 は、未何國と定賜へることはなくて、唯東ノ方に幸行て、行々美地を求賜ふと聞えたり。邇々藝命の國覓給 ひしと同じさまなるべし。故レ阿岐ノ國にも七年、吉備ノ國にも八年座セり。若シ始メより大倭ノ國と定メて幸行《イデマサ》むに は、半途《ミチノナカラ》にかくまで久しく留りたまふべくもあらずかし」ト云ヘリ。然ルニ日本紀ハ、日向ニテ譲り給ヒシ時ヨ リ、既ニ「東有美地、青山四周云々、余謂彼地當足以恢弘天業、光宅天下云々、何不就而都之乎」トテ、大倭ヘ ト定メテ出立《イヲ》セル趣ニ書キ改メ、サテ筑紫ニ至リマセル翌月、安藝ニ至リ給ヒ、其ノ翌年、吉備ニ徙リ給ヒ、 後三年ニシテ、長髄彦ヲ討チ給ヒシ由記サレタレバ、發駕ノ年ヨリ僅ニ五年ニ過ギズ。サルハ、甲寅戊午ノ 干支ニ合ハセンガ爲ニ、行々美地ヲ求メ給ヒシ途中ノ年數ヲ滅ゼラレタル者ナルベシ。又倭國既ニ平ギタル 上ハ、直ニ天日嗣知ロシメサンコトハ、當然ノ事ナルヲ、其ノ後三年ニ至リテ、『辛酉年春正月庚辰朔、天皇 即帝位於橿原宮、是歳爲天皇元年」ト記サレタルハ、辛酉革命ノ年ヲ元年ト立テラレンガ爲ナリト知ラル。 抑讖緯ノ學ハ、支那ノ古代ヨリ行ハレタル陰陽五行ノ説ニ胚胎シ來リ、前漢ノ末ニ至リ圖繊ノ書トテ、 天文暦數ニ附曾シテ後事ヲ豫言セル者、アマタ世ニ著レタリ、王葬、甚之ヲ尚ビケレバ、時人其ノ意ニ阿リ、 競ヒテ讖文ヲ作リ、符命(上帝ノ示現)ト號シテ之ヲ奉リテ、莽ノ逆ヲ助ケタリ、光武帝モ又其ノ説ニ惑ヒ、 人ヲ用ヒ政ヲ行フニモ、多クハ符命ヲ以テ疑ヲ決シ、遂ニ詔ヲ下シテ、讖書ヲ國内ニ宣布セシカバ、其ノ學 大ニ世ニ行ハレ、馬融鄭玄ナド云ヘル大儒マデモ、皆其ノ説ヲ採リテ諸縦ノ註釈ニ用ヒタリ。其ノ書、主要 ナル者數十部アリ、儒者ノ七經卜經緯ノ用ヲ爲ストテタ、緯書ト號シ、易緯書緯詩緯礼緯樂緯孝經緯春秋緯ノ 七類ニ分ル、其ノ外讖緯ニ属スル雜書、甚多カリキ。 支那ニテ緯書ノ最モ盛ニ行ハレタルハ、東漢ヨリ隋マデノ間ニシテ、晋武帝、秦王符堅、宋孝武帝、梁武 帝ナド、皆圖讖ノ學ヲ禁ジタルコトアレドモ、其ノ令行ハレザリシガ、隋ノ文帝、之ヲ禁ズルコト逾厳シ ク、煬帝ニ至リ、使ヲ發シテ、國内ノ書籍ノ讖緯ト關渉スル者ヲ捜リテ、皆焚カシメタリ。其ノ後唐ノ儒 臣、五經正義ヲ作ルニ及ビテ、頗ル其ノ説ヲ排斥シタリシカバ、其ノ學遂ニ衰へ、今ニ至リテハ、其ノ書皆 散逸シテ、易緯乾鏖度及乾坤鑿度ノ外ハ、一部モ全ク存スル者ナシ。皇朝ニハ、足利氏ノ世ノ頃マデ、緯書 頗ル存シタレドモ、今ハ全ク失セタリ。清行ノ引キタル春秋緯ノ語ハ、保延七年辛酉、右京大夫藤原敦光、 建仁三年癸亥、陰陽博士阿部晴光等ノ勧奏ニ、春秋合誠圖曰ト云ヒ、後漢書郎顕傳ノ章懐太子注ニ合誠圖ノ 此ノ文ヲ引キ、天道ヲ至道ニ作リ、宋均注ノ文ハ、「三三正也、五五行也、三正五行、王者改代之際会也。能 於此際自新如初、則通無窮也」トアリ。詩緯ノ語ハ、嘉吉四年甲子、暦博士貿茂在成、文亀四年甲子、参議 菅原和家等ノ勘奏ニ、詩緯推度災ニ曰クト云ヘリ、推度災ノ遺文ハ、明ノ孫轂ガ古微書及ビ玉凾山房輯佚書ニ數 十條見エタレドモ、清行ノ引キタル語ハ、已ニ佚セリ。易緯ノ語ニツキテハ、元應三年辛酉大外記中原師緒 ノ勘奏ニ「易緯十巻之中無件文、此外有他緯哉否、曾以愚管所不窺見也、粗考典籍、五經暦算引易説、有此 文、同暦紀經歟、此書等、非聖人之著作、尚貽疑殆、出於緯候之説、可謂幽玄之義、我若无本書之所見、以 何説立四六二六之乗數、可及革命當否之沙汰乎、今度宜被決群才、被垂法於將來者歟」卜云ヘリ。暦紀經ト 云へルハ、唐ノ王肇ガ著セル開元暦紀經ト云へル書ニシテ、清行ノ革命ノ議ハ、大抵其書ノ趣旨ニ本ヅキタ ルガ如ク見ユ。 漢學ノ皇國ニ入リタルハ、東晋南朝緯書流行ノ際ニ當リ、之ヲ傳ヘタル百濟人ハ、殊ニ陰陽占卜ノ説ヲ好 メリ。宋書夷蠻傳ニ、文帝嘉元二十七年、百濟王餘毘【三国史記ノ毘有王】ノ「奏求易林占式腰弩」タルコトヲ載セ、通典 邊防東夷ノ處ニ百濟ノ俗ヲ叙シテ、「俗重騎射、兼愛墳史、其秀異者、頗解屬文、又解陰陽五行、用宋元嘉暦、 以建寅月爲歳首、亦解医薬卜筮占相之術」トアリ。欽明天皇、百濟ヨリ医博士易博士暦博士ヲ招キ給ヘル時、 卜書暦本及天文地理書並遞甲方術之書ヲ貢シ、大友ノ村主高聴ハ、天文遁甲ヲ學ビ、山背臣日並立ハ、方術ヲ 學ビ、皆業ヲ成セリ。其ノ後天武天皇ハ、天文遁甲ヲ能シ給ヒ、始メテ占星臺ヲ興シ給ヒ、此ヨリ陰陽道ノ 一科超リテ、國家須要ノ一方術トナリ、遂ニ陰陽寮ナル一局ヲ設ケテ、大學寮ト並立シ、專ラ其ノ道ヲ講ズ ル事ト爲レリ。サレバ革命革令等ノ運數ノ説ヲ唱ヘタルモ清行ニ始マレルニ非ズ。養老五年辛酉二月ノ詔ニ、 「世ノ諺云、歳荘申年、常有事故、此如所言、去庚申年、咎微屡見、水旱並襲」卜云ヒ、寶亀十一年庚申正月ノ 詔ニハ「今三元初暦、萬物惟新、宜順陽和播茲凱澤」トテ、大赦ヲ行ヒ、田租ヲ免シ、サテ明年辛酉正月朔、天 應ト改元アリキ。清行ノ時ヨリ稍後ノ事ナガラ、寛仁四年庚申十一月宇佐恒例使ヲ立テサセラレタル宣命ニ ハ、「世諺仁庚申辛酉能歳者、天下不靜登從古傳來礼利」卜云へルヲ見レバ、此等ノ運數ノ説ハ、古クヨリ行ハレ タルコト著シ。 革命ノ期ト云へル事ハ、周易革卦ノ象二「革、水火想息云々、天地革、而時四成、湯武革命、順乎天而應 乎人、革之時大矣哉」、其ノ象ニ「澤中有火、革、君子以治歴明時」ト云ヘルニ本ヅキタル説ニシテ、之ヲ辛酉 ノ歳ニ當ツル理由ハ、寛仁五年辛酉、助教藤原頼隆ノ勘奏ニ、「礼記月令云、其日庚辛、注云、庚之言更也、 辛之言新也、萬物皆新變更也、尚書洪範云、金爲從革、金性能改也、按五行大義、金之正方在酉、含煞氣矣、 故以兌上離下象革卦矣」ト云ヒ、【五行大義ハ、隋ノ蕭吉ガ著セル五行書ナリ。】承暦四年庚申、東宮學士大江匡房ノ勘奏、永保四年、甲 子、參義藤原實政ノ勘奏、何レモ開元暦紀經ナル「辛酉爲金、戊午爲火、火歳革運、金歳革命、尤協革卦之 躰」ノ語ヲ引キテ、五運行ノ理ヲ述べタリ。諸道ノ博士ノ論ズル所皆此ノ如キ附會ノ説ニ過ギザレドモ、當 時ノ人ハ、之ヲ天理ノ當然卜信ジ、善相公江帥ノ如キ名儒モ更ニ之ヲ疑ハザリシナリ。 中原師緒ノ勘奏ノ続キニ緯説不可用事ヲ論ジ、「古文尚書正義云、其緯文鄙近。不出塞人、前賢共疑、有所 不取也、又云、前漢之時、有東莱之張覇、僞爲緯也、毛詩正義云、緯候之説、僞多而實少也、礼記正義云、 伏犧之後、年代参差、所説不一、緯候紛耘相乖背、且復煩而無用也、今就是等之文、按其義、緯候之説、偽 謬而實少、不出於孔子之説、又非於門徒之録、是故疑難之文、竹帛多存之、縦雖本書設文、不足爲證、矧亦 其文不詳、弥招疑殆者歟、凡術數之盛者、聖人之所賤也、吾道、一以貫之、百慮而一致也、猥不據經史之義、 可用識緯之説乎」ト云ヒテ、辛酉改元ノ事ヲ難ジ、北畠准后親房公此ノ時中納言ナリシガ、「凡聖人之治天下、 必自人道始、興衰治乱、在于徳、不在于天、聞于人、不聞于神之故也、面儒家仍述符命之事、不本徳政之道、 豈非刻鵠之者爲鶩哉、後漢書曰、人情忽於見事、貴於異聞、觀聖王之處記述、以仁義正道爲本非有奇怪虚誕 之事、今諸巧慧小材技數之人、増益圖書、矯禰讖記、可不抑遠之哉云々、就之謂之、如清行朝臣密奏者、見 幾而假事、古之王孫満之流歟、非垂將來之法哉トテ、改元スルニ及バザル旨論奏シタレドモ、採用セラレズ、 先例ニ倣ヒテ元享ト改元アリキ。 其ノ後三年、元享四年甲子二月ノ仗議ノ事ニ付、花園院御記ニ「晦日丙戌晴、傳聞今日甲子仗議云々、後 聞今年不當大變之由、多以議奏云々、又改元無沙汰云々、抑變命變運、古來所恐來也、而先度辛酉之時、緯 候非聖人之著作、頗渉于迂誕之由有沙汰、余思緯候之緕聖人所不用也、以術數推天運、不先徳也、而緯候之説、 非徧爲虚説也、仍或用之、但壽夭無貳、修身俟命、是君子之志也、是以不用天運之術數、唯修徳、緯候之書、不 可遑學之故也、然者雖當變革之年、朝議豈可煩乎、詩緯之自新如始無窮云々、是古緯候之説又如此、況他書乎、 用日新之道、不可關變革之運之條、文已分明、延喜元年雖有改元、四年無沙汰、有日新之道之故也、徳若非 日新者、緯候之説、又不可有違歟、唯在徳之有無、更非變之當否者也、時宜之趣、誠有謂歟、後代君子宜據 用、若不量己徳、謬謂不関變革、豈免天運乎、能可有量耳云々」卜記サセ給ヘリ。此ノ時モ、改元ニ及バズ ト一旦ハ定マリシガ、遂ニハ又先例ニ從フコトヽナリテ、ヤガテ正中ト改元アリキ。其ノ後、一條ノ禅閤兼良 公ハ、三革論ヲ著シテ、此等ノ事ヲ論ゼラレシガ、管々シケレバ、コヽニ引カズ。ソレヨリ後ハ永録四年ト 元和七年ト二回ノ辛酉ノ年ノミハ、故アリテ改元ノ沙汰ナカリシガ、其ノ他ハ先帝ノ元治元年甲子マデ、辛 酉甲子ゴトニ必改元アリキ。 昔ノ學者ハ、辛酉革命ノ説ヲ信ジタルコト、右ニ述ベタルガ如クナレバ、年數ノ慥ナラザル神武天皇ノ元 年ヲ後世ヨリ推定センニハ、辛酉ノ年ナラデハ、之二當ツベキ年ナカルベシ。又此ノ紀元ハ、人皇ノ世ノ始 年ニシテ、古今第一ノ大革命ノ年ナレバ、通常ノ辛酉ノ年ニハ置キ難ク、必一蔀ノ首ナル辛酉ノ年ニ置カザ ルベカラズ。清行朝臣ノ説ニテハ、神武天皇元年辛酉ヨリ、齊明天皇六年庚申マデ千三百二十年、此即鄭玄 ノ謂へル一蔀ニシテ、同七年辛酉天皇崩ジ給ヒテ、天智天皇位ヲ嗣ギ給ヘル年ハ、第二蔀ノ首ナリト云ヘリ。 此ノ説ニ就キテ考フレバ、神武紀元ヲ推定シタル人ハ、先ヅ天智天皇ノ初年ヲ第二蔀ノ首ト定メテ、ソレヨ リ、千三百二十年前ニ逆推シタル者ト思ハル。然ルニ此ノ千三百二十年ト云へル數ハ、甚疑ハシキ者ナリ。 鄭玄ハ、明カニ「六甲爲一元、七元有三變、三七相乘、二十一元爲一蔀」ト云ヘリ。即一元ハ、六十年、七元 ハ四百二十年、之ニ三ヲ乘ズレバ、千二百六十年ニシテ、千三百二十年ニ非ズ、千三百二十年ハ二十二元 ニシテ、三七相乘ノ數ニ非ザレバ、此ノ數ハ恐ラクハ千二百六十二年ノ違算ナルベシ。鄭玄ノ説ニ於テ。一 蔀ハ、果シテ二十一元ナラバ、神武紀元ハ天智天皇ノ初年ヨリ推シタルニハ非ズシテ、其ノ六十年前ナル推 古天皇九年辛酉ヨリ二十一元ノ前ニ推シタル者ナラン、推古朝ハ、皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子、大 政ヲ執リ給ヒ、始メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ、憲法ヲ定メ、專ラ作者ノ聖ヲ以テ自ラ任ジ給へル折柄ナレ バ、此朝ノ辛酉ヲ以テ第二蔀ノ首ト定メテ、神武紀元ヲ第一蔀ノ首ニ置カレタルハ、蓋此ノ皇太子ノ御所爲 ナラン。此ノ御世ノ二十八年ニ、皇太子、蘇我ノ馬子、大臣ト共ニ議リテ録シ給へル天皇記及國記臣連伴造 國造百八十部並公民等本記ト云へル史記ノ體裁ハ、極メテ支那ノ本紀世家ナド云ヘル者ニ擬セラレタル べケレバ、神武紀元ノ年ヲ何ノ年ト明記セズバ、體裁|善《ヨ》カラジトテ、緯説ニヨリテ、一蔀二十一元ノ前ノ辛 酉ト定メサセラレシナルべシ。是等ノ書ハ、蘇我氏ノ亂ニ焚ケ失セテ、僅ニ其ノ燼餘ヲ|船史惠尺《フネノフヒトエサカ》ガ疾ク取リテ 中ノ大兄皇子【天智天皇】ニ奉リシ由ナレ共、全本ハ、世ニ傳ハラザリキ。斯テ日本紀撰修ノ時ニ當リ、此ノ紀元ハ太子 撰定ノ舊ニ依リ、其レヨリ九百年許、即神功阜后マデノ事跡ニ闘シテハ、紀ノ撰者ガ、長暦ニ依リテ、其ノ年 月日ヲ作リ給ヒ、又其ノ後三百年間ノ事跡ニテモ、年月ノ知レザル者ハ、撰者ノ填補シ給ヒシ者アルべシ。 青山延于ノ皇朝史略ノ凡例ニ、「是編、推古已前未行暦怯、則概不係年月、從古事記書法、推古十二年、始 行暦法、自是已後、係以年月云」トアリ。是ノ書ハ、大日本史ヲ節略シタル者ナルニ、本書ガ日本紀ノ年月 ヲ用ヒタルニ拘ハラズ、一概ニ省略シタルハ、史家ノ作爲ニ出デシ者ト判定シタルガ故ナリ。 事實ヲ直書スべキ歴史ニ於テ右ノ如キ作爲ノ事アリテハ、縦ヒ正史ニ立テラレタリトモ、世人ノ疑訝ヲ招 クべキガ如ク思ハルレドモ、當時ノ人情ニテハ、サニアラズ。上下擧リテ漢風ヲ喜べル時ナレバ、四史ノ體 裁ノ改良セルハ、最モ世人ノ好尚ニ適シ、又國初ト云ヘバ、世界ノ太始ノ如ク考フルハ、國史ヲ讀ム人ノ通 情ナリシカバ、神代ニ続キタル人皇ノ初世ノ、支那三代ノ末ナル東周ノ世ニ當レルヲ、イカデカ上リ過ギタ リトハ思フべケン。列聖ノ長壽ノ如キハ、神代ニ近キ世ノ當然ノ事トシテ、誰モ怪ム者ハ無カルベシ。カク テ此ノ年紀ハ、一般ニ信用セラレタルナリ。
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三種の神器(さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指し、日本の歴代天皇が継承している三種の宝物である。 概説各神器と伝承 八咫鏡(やたのかがみ) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ) 歴史現存・消失論議 概説 神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。 天皇の即位に際し、この神器の内、鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。 三種の宝物は、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣)のこと。神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われている。 『古事記』では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を授ける。『日本書紀』本文には三種の神宝(神器)を授けた記事が無く、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」と記している。 現在では八咫鏡は伊勢神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居に安置されている。皇居には天叢雲剣の形代があり、八尺瓊勾玉とともに剣璽の間に安置されているとされる。 儒学伝来以後、鏡は知、勾玉は仁、剣は勇というように、三種の神器は三徳を表わすという解釈もある。 今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間で行われた「剣爾等承継の儀」において神器を継承した。 各神器と伝承 記紀の伝承では、三種の神器は天照大神の神代(よりしろ)として天孫降臨の際に天照大神より瓊瓊杵尊に授けられたとされている。 八咫鏡(やたのかがみ) 詳細は八咫鏡も参照。 記紀神話では、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。のち鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。現在は伊勢神宮に奉斎されている。 この鏡が過去に奉斎された場所を元伊勢という。 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 詳細は八尺瓊勾玉も参照。 八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ) 詳細は天叢雲剣も参照。 草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも称される。記紀では神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとし、その時の名前は都牟刈の太刀(偉大な力を持つ太刀)であった。出雲国風土記では、出雲国意宇郡母里郷(現;島根県安来市)にてオロチ退治が行われたともされている。剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡された事になっている。一説には鍛冶の神である天目一箇命(アメノマヒトツメノミコト、「ダイダラボッチ」を参照)が作ったと言われる。 皇居内に天照大神の御神体として八咫鏡とともに祭られていたが、崇神天皇(伝紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり、途中で垂仁天皇(伝紀元前69年-70年)の皇女倭姫命(ヤマトヒメのみこと)に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた(→詳細記事:元伊勢)。その後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう倭建命(ヤマトタケルのみこと)に渡された。この時、倭建命が野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事が草薙剣の名前の由来とされているが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」の説が有力。倭建命が病死したのち熱田神宮に祀られた。 一説には、平氏滅亡に際し海に没したとされていることから、三種の神器の中で唯一現存しない物であるとも言われている。 歴史 天皇の即位儀礼の際に三種の神宝(神器)を奉る儀礼が行われていたのはいつ頃からか。『古事記』には即位に際して神宝(神器)またはそれに類する品の宝剣に関する記事はない。『日本書紀』には以下のように見える。 允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。 清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。 顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。 継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。 宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。 推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。 舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。 つぎは、即位儀礼の時ではないが、関連記事がみえる。 孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。 封建の品を璽・璽符・璽印という漠然とし書き方をしており、鏡と剣との名をあげているのは、継体紀と宣化紀の二つのみである。宝物は元は二つであったのではないかという疑問が出てくる。 690年の持統天皇の即位の際に臣下の忌部氏が剣と鏡の2種を献上している。 『日本書紀』持統天皇四年(690)正月の条に、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とある。 後に中臣氏が3種説を主張して勾玉が加わった。忌部氏(後の斎部氏)は伊勢神宮の祭事を司る人でもあった事と伊勢神宮では天皇の即位に際し須賀利御太刀(すがりのおんたち)と内侍所の御鏡(みかがみ)を献上する事が習わしとなっている事から、この剣は形代であった可能性もある。又、須賀利御太刀と内侍所の御鏡を所持する事は天照大神から認められた正統な天皇を意味する。 尚、以下の説は神器が宮中にあったという説を元にしている。伊勢神宮などでは神器が持ち出されたという記録はない。 1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで平氏と源義経率いる源氏が戦った際に、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。 足利尊氏が後醍醐天皇の建武の新政に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐は、自分が北朝に渡した神器は贋物であり自己の皇位が正統であると主張して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収し、後光厳天皇はじめ北朝の天皇は神器無しで即位している。南朝の北畠親房は「神皇正統記」で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調する、がしかし神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位したという先例があり、三種の神器は即位の絶対条件ではない。 南朝が保有し続けた神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋により南北朝が合一された際に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。 室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、勾玉が後南朝に持ち去られたままになるが、その後1458年(長禄2年)までに奪還されたと伝えられる。 明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる南北朝正閏論と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、南朝が三種の神器を保有していた事を根拠に南朝が正統であると決定する。 現存・消失論議 神器が現存、消失しているか様々な説が飛び交っている。いずれにしろ、三種の神器は、物質というよりも形而上学的なもので、「天皇家が所有しているとされていること」に意味があるともいえる。つまり、「天皇家が三種の神器を所有している」というより、「天皇家が所有しているもの」こそが、三種の神器なのである。 そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の形代(レプリカ)であり、実物については天皇自身でさえ実見を許されていないという。このことからも、実物が現存しているかどうかは確かめようもない。 天叢雲剣のみ入れ替わっているという説。 源平の壇ノ浦の戦いにおいて天叢雲剣は、安徳天皇と一緒に水没したとされ、残りの鏡と勾玉が回収されたところから来ている説。 すべて現存、形代が入れ替わっているという説。 源平の壇ノ浦の戦いにおいて、二位の尼は安徳天皇を抱き、腰に神器の剣を差し、勾玉の箱を奉じて入水したとされるが、この剣は神剣そのものではなく形代であったため、後に改めて形代としての剣を伊勢神宮の神庫から選び出し、それが現在皇居に存在しているとされる。また勾玉は安徳天皇入水の際に箱ごと浮かび上がり、入水を目撃し急ぎ漕ぎ寄せた源氏方によって回収されたとする記録があり、神器の勾玉は古代のものがいまも皇居に現存している。伊勢神宮の神体である八咫鏡は、御桶代と呼ばれる入れ物に入って祀られており、式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれて新しい本殿に移される。従って、八咫鏡は古代より伝わっていると思われる。ただ、宮中賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られているが、これは火災等により焼けた記録がある。現在皇居の賢所には、2個の神体の御桶代があり、ひとつは火災等で焼けたものをそのまま御桶代を新造して安置し続けているとも言われている。 以上より、伊勢神宮の八咫鏡、熱田神宮の天叢雲剣、皇居の八尺瓊勾玉は全て古来のものが現存しており、皇居の賢所神体の鏡と、皇居の神剣(天叢雲剣の形代)が後世に入れ替わっていると考えられる。 天叢雲剣のみ現存という説。 源平の壇ノ浦の戦いにおいて勾玉は、安徳天皇と一緒に水没したとされ、残りの鏡と剣が伊勢神宮と熱田神宮に祀られているが、鏡は式年遷宮と同時に壊され、代替わりを行っているとする説。しかしながら、実際には、式年遷宮の際に、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれて新しい本殿に移される。従って、八咫鏡は古代より伝わっていると思われることから、この説の論拠は不明である。