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昭和 1945年の終戦まで [編集] 1881年から1945年頃まで、日本の小学校の女性の生徒は、ある学年になると、和服などの服飾を作るための裁縫を授業で学んだ。この裁縫の教育の目的は、裁縫の専門家を育てるためではなく、また、女性が工場で裁縫の仕事ができるような技術を身に付けるためでもなかった。この裁縫の教育の目的は、女性が家庭で自身や家族の衣服の裁縫ができるように、女性に和裁としての裁縫の基本的な技術を教えることであり、強く奨励された。当時は一般にミシンはなく、手縫いであった。 1935年にアメリカ合衆国のデュポン社が、ナイロンという化学繊維を合成することに成功した。1939年頃からアメリカ合衆国でナイロンが工場で大量生産された。ナイロンは絹の代替品として使われたため、対外的な日本の絹糸・絹製品の輸出は減っていった。 1938年、『婦人公論』の誌上で、非常時女子服のコンテストが行われた。 1939年11月14日から1939年12月10日まで、日本政府は男性用の国民服の様式の案を広く一般から懸賞を付けて募集した。応募された案の審査が行われ、意見交換や様式の変更がなされた後、 1940年7月6日、奢侈品等製造販売制限規則が公布され、同年7月7日に、施行される(通称「七・七禁令」)。絵羽柄のもの、刺繍、金銀糸を使用したもの、紬でも高価なもの等が贅沢品とされ、禁止される。これにより、白い半衿が流行する。 1940年11月2日に日本政府は、国民服令という勅令(法律の一種)を施行した。その国民服令の中で、男性用の正装の衣服として、国民服を定義した。国民服令は、男性用の正装の衣服以外の衣服については全く言及していない。国民服令の内容によると、国民服には「甲号」と「乙号」の2つのタイプがあった。国民服の甲号と乙号のそれぞれについて、「上衣」、「中衣」、「袴」(国民服令でいう袴は、下半身を覆う服の総称)、「帽」(帽子のこと)、「外套」(「がいとう」と読み、オーバーコートのこと)、「手套」(「しゅとう」と読み、手袋のこと)、「靴」の様式が決められた。上衣と中衣はともに上半身を覆う服である。上衣は、中衣を着た後に重ねて着る服である。上衣は開襟であり、中衣は開襟でない服である。全てのタイプの国民服は筒袖であり、ボタンで布を固定させるので、国民服令の国民服は和服ではない。 国民服令では、「礼装」をする場合、つまり儀式などで礼服を着る場合は、国民服の様式が細かく定められた。礼装しない場合は「適宜」とだけ指定される部分が増える。国民服の甲号で礼装する場合、上衣、「袴」(形は洋服のズボン)、帽子、外套の全ての色が「茶褐色」と決められた。礼装しない場合の国民服の甲号では、上衣と「袴」だけが茶褐色であり、他の部分の色は「適宜」とだけ指定された。礼装するときは必ず国民服の上衣を着た。国民服の中衣は肌着・下着ではないので、上衣を脱いだ状態でも外出できた。国民服の甲号の帽子は、礼装する場合は、ひさしが付いた烏帽子型とされ、礼装しない場合は「適宜」とされた。国民服の乙号の帽子は、礼装する場合は、陸軍略帽型でもいいが他の帽子でも構わないとされ、礼装しない場合は「適宜」とされた。国民服令によると、国民服は、正装かつ礼服であり、背広を着るような場面で着る服だと決められた。それ以外のときは、国民服を着る義務はなかった。国民服令により国民服が正装であると決められたので、結婚式で新郎が正装するときや葬式に出席するときは、男性は国民服で礼装した。 国民服令の条文には罰則がなかった。男性が国民服を着用する義務を規定する法律はなかった。男性の普段着に関しては自由だった。民間業者が工場で国民服を大量生産し、国民服配給会社が国民服を大量に配給した。裕福な男性の中には個々の体型に合わせて採寸して国民服が仕立てられたこともあった。国民服の日本国民への普及を目的とする、大日本国民服協会は、『国民服』という定期刊行物を出版、配布した。1945年の終戦までの間、生産される男性用の衣服は国民服ばかりになっていた上、本土決戦の機運が高まり、強制されなくても国民服を着ざるをえない男性が増えていった。 1942年までに日本の当時の厚生省は、当時の女性用の衣服の改善方法を研究する目的で、懇談会・研究会を開いた。それらの会には、服飾を専門とする職業を持つ女性も参加した。1942年に厚生省は、女性用の新しい様式の服を婦人標準服と名付けて発表した。婦人標準服を定めた目的の1つは、材料の布を節約することだった。婦人標準服の着用が法律上の強制力を持つことは一度もなかった。婦人標準服に関して行政上の公的な文書として残ったのは、婦人標準服を定める前に書かれた次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」だけである。次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」は、どのようなデザインの婦人標準服が望ましいのかが書かれている文書であり、具体的な婦人標準服のデザインを決めた文書ではない。 婦人標準服には、洋服の特徴を持つ「甲型」というタイプと、和服の特徴を持つ「乙型」というタイプがあった。婦人標準服の甲型と乙型のそれぞれに、いくつかの様式の服の形が決められた。婦人標準服の甲型と乙型のそれぞれに、「活動衣」と呼ばれた、実用性を最優先させた様式が含まれていた。婦人標準服の甲型では、上半身を覆う服とスカートに分かれている様式と、裾がスカート状のワンピース型があった。乙型の服の1つとして、その頃に典型的だった女性用の和服の様式を、上半身を覆う服と下半身を覆う服に分け、袖丈を短くした和服があった。これは、上下に分かれたツーピース型の和服である。婦人標準服の甲型の活動衣の、下半身を覆う服は、両足を別々に包むスラックスだった。婦人標準服の乙型の活動衣の、下半身を覆う服は、もんぺの形だった。もんぺは、1930年代頃までは、北海道・東北地方で、防寒用、農作業、または普段着として使われた袴だった。袴の一種であるもんぺは和服であるといえる。スラックスともんぺはどちらも、左右の足を別々に包む下半身用の服である。もんぺの腰の部分にゴム紐がないのは戦争のせいでゴムが足りなくなったからだという説があるが、元々もんぺはゴム紐ではなく布の紐で腰を結ぶ服だった。 婦人標準服はほとんど普及せず、婦人標準服を考案した人達の思惑は外れた。次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」の6番目の項目には、婦人標準服の制作が各家庭で行われることを前提にして、婦人標準服のデザインを決めるべきであるという旨が書かれていた。現在、戦争時に女性達が裁縫という労働を無理矢理させられて被害を受けたと主張する者がいるが、第二次世界大戦が始まる前から、家庭の女性が自身と家族の衣服を作ったり裁縫で修復することは日常的に広く行われていた。実際、婦人標準服は、工場で大量生産されることも、大量に配給されることもなかった。婦人標準服の生産は、各家庭の余剰布や古着を原料として、女性らが自家裁縫で婦人標準服に作り替え、自身や家族の服として着るという形だった。婦人標準服の制作が強制されることはなく、婦人標準服の制作は、各家庭の女性の判断に委ねられていた。そのため、女性は婦人標準服を作らなくてもよく、作った場合でも、女性の自由な判断で、婦人標準服とは少し違う個性的なデザインの服を作る人もいた。婦人雑誌などの付録では「有事特別付録」と称して標準服の型紙が付いた号も出版された。女性用のもんぺは伝統的な和服よりも、活動的な動作に向いている。しかし女性のもんぺ姿を美しくないと考え低く評価する男性達もいた。1940年頃から、女性が家の外で作業するときに下半身を覆う服として、もんぺが政府から推奨される機会は、徐々に増えていった。しかしその推奨によってもんぺを着用する女性が増えることはなく、もんぺを着用する女性が増えた原因は空襲だった。防空演習では、女性はもんぺなどの活動的な衣服を着用して防空演習に参加するよう推奨されたため、女性の多くが防空演習に参加するときにもんぺを着用した。米軍が日本本土の上空から、民間人をも攻撃対象にして空襲を行う頻度が多くなり、1945年の終戦前頃は、地域によってはほぼ毎日、空襲による被害を受けるようになっていった。民間人が空襲の被害を受けることが多くなるにつれて、多くの女性がもんぺまたはスラックスを履くようになった。 中山千代が、『日本婦人洋装史』で次のように書いている。「筆者の戦時生活体験にも、婦人標準服は甲型も乙型も着用しなかった。周囲の女性たちも同様であって、標準服両方の着用は、ほとんど行なわれていない。政府の意図した婦人標準服による日本精神の具現は、成功しなかった。しかし、空襲が始まると、すべての女性はズボンまたはモンペを着用した。これらは婦人標準服の『活動衣』に指定されていたが、婦人標準服として着用されたのではなかった。決戦服と呼ばれたように、絶体絶命的に着用しなければならない服装であった。」 1943年6月4日に、戦時衣生活簡素化実施要綱が日本の政府で閣議決定された。戦時衣生活簡素化実施要綱の目的は、日本の国民の衣服を簡素化することと、繊維製品の使用の無駄を省き節約することだった。戦時衣生活簡素化実施要綱そのものは、法的な強制力がない努力義務のガイドラインのようなものであるが、後に戦時衣生活簡素化実施要綱を推進するための法律が制定される。戦時衣生活簡素化実施要綱では、男性用の衣服を新しく制作するときは、色は自由とし、形は、国民服の乙号のタイプか、これに似たものに限定することとした。男性の小学生以外の学生・生徒の制服を新しく制作するときは、国民服の乙号を作ることとした。男性の小学生の制服は規制しないこととした。専門学校以上の女性の学生・生徒の制服を、なるべく婦人標準服に変えてもらうよう働きかけることとした。華美を追求しないものの、女性の美しさを失わない婦人標準服が、大人の女性達の間で普及するように、政府が努力することとした。 戦時衣生活簡素化実施要綱は、既に所有している服を着ることを禁止せず、女性達にもんぺの着用を強制するとも、衣料切符の献納を推奨するとも書かれてはいない。同要綱には、女性が既に持っている服のうち婦人標準服でない服を婦人標準服に作り替えなさいという文言も書かれていない。戦争が長引くにつれ、衣料切符で新品の衣類を入手することは、極めて困難になっていった。 大日本婦人会が定めた「婦人の戦時衣生活実践要綱」は、新調見合せ・婦人標準服着用・衣料切符の節約などの内容が盛り込まれたものだった。 1943年6月16日に日本の政府は、1940年11月2日の国民服令を緩和する国民服制式特例という勅令を施行した。20世紀に日本の中央の政府(地方を除く)が国民服の様式を規定した法律は、国民服令と国民服制式特例だけであり、他にはない。国民服制式特例の第1条により、礼装しない場合の国民服の上衣の色の指定はなくなり、礼装する場合の国民服の上衣と外套の色は、茶褐色、黒色、濃紺色、または白色のいずれかでよいとされた。ただし、上衣と外套の白色を選べるのは暑い地方や暑い夏の時期に限られた。国民服制式特例により国民服令の甲号と乙号が1つに統合されたという説があるが、国民服制式特例にそのようなことは書かれていない。 昭和 1945年の終戦後 [編集] 和服を着た児童。1960年代の石巻にて。地方では普通に見られた光景である。 第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性達は、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。終戦直後にはもんぺを着る女性も多くいたが、貧しさと戦争を思い出させるもんぺはすぐに廃れていった。 しかし、和服が高価であり着付けが煩わしいことなどが原因となってか、安価で実用的な洋服の流行には敵わず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界(呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと)は不振に追い込まれた。呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。このため、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。 1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。 1960年代の欧米の文化人やミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。 平成 [編集] リサイクル着物チェーン店の例 日常的に和服を着る女性を見かける機会は少なくなったが、冠婚葬祭(七五三・成人式・卒業式・結婚式といったイベント)においては、着用が一般的になっている。 また、浴衣については、花火大会・夏祭りといった夏のイベントの衣装として浸透しており、柄・素材とも多彩になっている。平成の浴衣は、かつての湯上がり着の延長だった時代とは見違えるほど鮮やかでファッション性も高く、「ギャル浴衣」なども登場している。デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。 ファッションとしての浴衣は男性にもある程度着られているが、女性ほど一般的ではない。また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、作務衣・甚平が宗教関係者・職人など少数の男性に好んで着られているほかは、ほとんど見かけなくなっている。一方で、男性の和服着用を推進する運動も、インターネットなどを中心に一部で起こっている。 1990年代後期からアンティーク着物(昭和初期以前のもの)やリサイクル着物(昭和中期以降)の店が激増し、雑誌を火付け役として女性の間で徐々に着物ブームが起こっている。これまでと異なるのは、従来の約束事にこだわらず洋服感覚で着る人が増えたことである。洋服地で着物や帯を作ったり、洋服と重ね着したり、足下にパンプスやブーツを履いたり、帯揚げにレースを使うなど新鮮な着こなしが楽しまれている。 和服の特徴 [編集] 和服は、腰の位置で帯(おび)を結ぶことによって長着(ながぎ)を体に固定させる。腕の太さよりもずっと広い袖(そで)を持つ。長着や羽織では、袖のうち一部を縫ってあり、これにより袖口は袖丈よりも短くなり、袖に袋状の袂(たもと)ができる。洋服の袖の特徴は、腕を細く包み、袖の中の空間的余裕が和服よりも少ないことである。洋服ではボタンや締め金を使って服の一部を固定するが、和服では帯や紐などで結ぶことによって固定する。和服に洋服のような開襟はない。和服の布地は、あまり伸び縮みしない。帯の材質は布である。帯に皮革が使われることはない。和服を反物から制作する作業において、反物を切る線のほとんどが直線であり、布の端と平行か直角に切られる。一方洋服を作るために布を切るときは、曲線をたくさん使い、和服よりも複雑な形状な布の部品を作る。和服と洋服では、服を作るために布を裁断した後に発生する、使わずに余った布の量と形に、違いが現れる。和服を作るために布を切った後、使わない布として余るのは、反物の端の長方形の部分を除けばごくわずかである。また、残った反物の端は長方形なので、別の目的に利用しやすい。洋服を作るために布を切った後に余る不要な布は、長方形でない布が多く、別の目的に利用しにくい。和服が伝統的な裁縫の方法により作られた場合は、縫いつけた糸を和服から後で取り除いて分解することを前提にして和服が作られる。切れやすい糸を使って和服を縫うことにより、縫った糸が布を引っ張って布を損傷する危険を減らす。切れやすい糸を使うことにより、和服を構成する各部の布を長持ちさせることができるが、衣服が身体を保護する力が低くなる欠点がある。 体型を隠す和服 [編集] 男性用・女性用とも、洋服を着たときは体の輪郭線に沿うように服が立体的に体を覆うが、和服を着た場合は、体の輪郭線は肩と腰だけに現れ、他の部分の体の輪郭線は和服によってほぼ平面的に覆い隠される。女性用の洋服では、体の凹凸と輪郭線を立体的に強調するようなデザインや作りになっているものが少なくないが、一方で、女性用の和服では、体の凹凸が隠され、筒状の外形になるような作りになっている。女性用の洋服では、胸元を服で覆わない作りになっている場合があるが、女性用の和服では、胸元は必ず覆われている。 女性が和服を着るときに用いられる和装ブラジャーは、胸のふくらみを抑えて、平らに近づける働きがある。また、和服を着るときに、体のへこんでいる部分にタオルなどの布を当てることがある。和装ブラジャーと、体のへこんでいる部分にタオルなどの布をあてるのは、着用した和服が着崩れないようにするためである。このことは体の輪郭線を隠す結果になる。 なお、体型を隠すように直線的に和服を着るべしとされたのは昭和30年代後半に入ってからのことである。和装ブラジャー、タオル等による補正もその頃に生まれた風習である。ちなみに、昭和30年代前半は、洋服の下着を身に付け、あえて体の線を強調して曲線的に着るのが良しとされ(例えば昭和32年の『主婦の友』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。)、それ以前は、それぞれの体形なりに着付けるのが良しとされていた。 参照:ウィキペディア「和服」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%9C%8D 次回、「和服の構造」より 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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国民新聞 1934.2.19(昭和9) 【記事内容】 ゼネバに会する十二ヶ国代表 風雲渦巻く、俎上の婦人売買問題 四月十日から一週間ゼネバで開催される十二箇国参加の国際会議には婦人児童売買問題が広く論議されることになっている、今や世界文化の中枢をなす参加国になおこうした議題を論ずる必要があるということは人道的立場からそれ自体の重大性を思わなければならない 我が政府代表として派遣される拓務大臣官房文書課長棟居俊一氏 に其辺の消息をきく 主な議題 (日本政府代表棟居俊一氏談) 三つの焦点 猟奇的婦人売買撤廃に向って世界の黎明は近づく 婦人売買問題を国内的に扱うとすれば日本では公婦制度、芸妓制度などが挙げられるわけでまた各国としても我が国のこの二つの制度には特別の興味を持っている次第だが 国際的な売買問題としては、殆どその事実を認められないから、従って論ずる必要もないとおもう 石炭の下積となって密航したとか、船底に潜伏したとか相手が婦人だけに頗る多彩な探偵趣味好みの話も時折は、伝えられないでもなく、したがってそうした可能性は考えられるが、今日のように出国入国両方面に官憲の取締りが厳重では、組織立った第三者の介在する売買は行われないわけである それ故今回俎上にのぼるは、まずいつぞや我が国にも視察に来朝した米国のジョンソンの尨大な報告書の審議検討であろう 元来この問題に対しては、すでに一九〇四年の十二ヶ国条約、一九一〇年の十三ヶ国条約があり、以上二つは主として欧米であったが、更にその適用を全世界に及ぼし一層内容を完備したものに一九二一年三十四ヶ国条約がある、今回も大体次の三項目が論議の主要点となることと思う (一)取締る当局者の協力の緊密完全、つまり入国出国両方面の連絡、国内に於ては中央官憲と地方官憲の連絡 殊に婦人の監督官をおくことの必要 (二)各国の公娼制度の廃止 (三)政府当局と民間団体の協力 以上で 実際問題としては支那民族が中心となることであろう 日本としては朝鮮人が北支那及び印度に多少醜業婦として出稼いでいるし、台湾人が廈門に出かけている事実がある 要するにそれらに対しては各国とも異議なく婦人売買撤廃の機運を醸成すべく努力することは勿論である
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【閨秀】(ケイシュウ) 学芸にすぐれた婦人。 「閨」は婦人の部屋。そこから転じて上品な婦人の意を持つ。 秀(ひい)でた閨。 備考H23年度第2回漢検1級(四)語選択 書き取りにて出題 関連リンク:閨
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交流用コメント記入板です。 同期会の開催告知など、ご自由にご利用ください。 今度、同期会開催します。 - 44期岩本 2009-03-11 20 25 25 上記、テスト表示です。 - 44期岩本 2009-03-11 20 43 07 東北地方太平洋地震被災者について - 29期 菅井 2011-03-13 23 15 42 東北地方太平洋地震被災者については、以下のOB会員4名の無事を確認しました。30期伊藤(仙台郊外) 無事。ただし電気は復旧せず。31期遠藤(水戸) 無事。32期佐久間(福島)無事。37期上総 無事。 - 29期 菅井 2011-03-13 23 20 05 先般白門だよりにてお願いしましたOB会費の振込先に誤りがございました。 - 財務部 菅井 2013-09-02 00 15 18 誤)みずほ銀行本店→正)みずほ銀行東京営業部となります。大変お手数でございますが、読み替えの上お振込いただきたくお願い申し上げます。その他の項目および郵便振替については相違ございません。三崎先生記念碑のご寄付ともどもお振込お待ちしております。何卒よろしくお願い申し上げます。 - 財務部 菅井 2013-09-02 00 18 05 友人を助けて!!!!! 新日本婦人の会(新婦人)の認可取り消し請求についてどのように行えばよいかお伺いいたします。 方々質問が全て消されてたり勝手に解決済みにされているため改めて、質問します。 まだまだ友人は療養中で全く未解決な問題です。 私の友人が5年ぐらい前に転居と同時に、友人の東洋大学時代国文科の同級生であり工藤静香の幼稚園の同級生である新婦人の八王子支部の現在は事務局長石澤(旧姓助川)智恵子に誘われ、中学高校と不当な暴力(登校拒否の子をかばったことが原因だそうです)のいじめに遭い身体に障害を負っている友人は、新婦人はいじめる人がいないからおいでと八王子の事務局長石澤に誘われ入会したそうです。 がんばり屋の友人は東京の北多摩のある市の支部で一生懸命平和部として頑張り、その友人の頑張りに目をつけた生命保険会社に勤める八王子支部の林と言う会員が友人を林の勤務する生命保険会社(朝日生命八王子営業所)の研修だけ受けてみないかと言葉巧みに誘い、会員の頼みだからと素直な友人は研修を受け、当時友人は親御さんが体調をくずしており正社員になれば親御さんも安心すると林の甘い言葉に騙され、その生命保険会社の正社員として入社したそうです。 友人が生命保険会社に入社後、林が友人の直属の上司となり、林は友人にパワーハラスメントを働き始めいきなり友人の手荷物のバッグを取り上げて勝手に漁り財布の中をチェックしたり生理用品の入ったポーチまで調べつくし休日でも友人の行動を逐一ラインや電話等でチェックし、恐ろしいまでのパワーハラスメントを林は働きました。 友人はちょうどその頃親御さんの手術があったりもして大変だったため生命保険会社を退職しました。 退職したとたん、友人のFacebookのタイムラインに林による嘘八百の友人を誹謗中傷する書き込みがされ、友人は大事な友人や大事な知り合いからかなり切られてしまい、林の嘘八百の書き込みで五年近く経つ現在も体調を崩しています。 友人は、自分の住む市の新婦人の支部の役員や大学の同級生である八王子の事務局長石澤(旧姓助川)智恵子や東京都本部にも相談しましたが 「一会員のしたことに新婦人は責任持てない」 の一点張りで何も対処はしていません。 一会員のしたこと・・・ですむなら、もし友人が一会員を殺しても会として責任はないのでしょうか? 何事にも一生懸命な友人は普段はかなり無理して平静を装ってますが、大事な人から縁を切られてその人との連絡手段もなくなってしまったショックで、私と電話したり会っているときにいきなり突然泣き出して叫んだりかなり感情のコントロールができなくなってきてます。 また、友人のすんでいる場所とはかなり遠く離れた場所で夜中さまよっていたり、警察にも何度か保護されているようです。 友人は今までの友人ではなくなってきてしまってます。 新婦人は日本と世界の平和を掲げる国連認証のNGO(東京都本部のホームページにて公言してます)だそうですが、一会員の平和な生活も守れないで平和を叫ぶ資格なんか全く全くありません! あと、完全に頭おかしいのが、友人を新婦人に誘った八王子支部の事務局長石澤(旧姓助川)とパワハラ女林のいる八王子支部のブログのタイトル。 『ひとりぼっちをなくそう』新婦人八王子のブログの~次世代のさくらんぼたち 新婦人に関するあちこちのホームページ見ましたが 「仲間増やし」 という言葉を多用しているくせにあなたたちの仲間が友人のFacebookのタイムラインに嘘八百並べ立て友人の大切な人との関係裂きかなり友人の知り合い関係壊しまくり友人を孤独に追い込み、それで 『ひとりぼっちをなくそう』 なんて完全に矛盾していて頭おかしいこと言ってませんか? 方々質問しておりますが、これは林個人と会社の責任と役に立たない新婦人関係者と思われる本当に全く役に立たない回答ばかりで困ってます。 新婦人の 「仲間増やし」 ということに利用された友人の為にも是非ともお役に立つ回答を所望します。 この新日本婦人の会という 「仲間増やし」 とやらで、罪も全くない人間を不幸に追い込んでる、頭のおかしい嘘っぱち団体の認証取り消しの請求はどこにいけばできるのですか? このままでは友人があまりに惨めでかわいそうです! 追記 この質問があちこちで転載されてるのを確認しました。 転載、シェア、大歓迎ですので是非とも、お役に立つご回答お待ちしてます。 追記その2 やっと友人と連絡とれましたが友人は新婦人の母体の日本共産党と繋がってる北朝鮮の工作員に命を狙われ生死の境をさまよい病院を入退院繰り返し大変です! 是非とも皆様の力でこのインチキ団体を壊滅しましょう! - 被害者を救う会 (2020-02-23 06 23 16) 名前 ここを編集
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随筆 我らの勝利の大道 002 「今日も元気で」 母ありて 婦人部ありて 広布かな 2010年──我らの 「創立80周年」の元朝は、神々しき天空の劇とともに明けた。 快晴に恵まれた東京の「日の出」は午前6時50分であった。「月の入り」は午前7時3分である。 東天に、初日の出の黄金の光が走った時、西の空には、白銀の満月が笑顔を浮かべていた。 すでに、元日の新年勤行会の尊き役員のメンバーが行動を開始してくれている時間だ。北日本や日本海側などでは大雪に見舞われており、私と妻は、絶対の無事故を懸命に祈らずにはいられなかった。 信濃町の学会本部にも、創立80周年を祝賀して、多くの方々がお越しくださった。皆様の真心に感謝は尽きない。 有名な「十字御書」には、深き信心で正月を祝う女性の功徳について、仰せである。 「月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり」(御書1491㌻) 全世界の創価の母たちが、元初の旭日が昇りゆく勢いで、「健康前進」の一年であっていただきたい。 そして、満月の光が充ちあふれてゆくような「幸福勝利」の一年であれ! ■美しき蘭のしおり 今日もまた 今日もまたと 歴史かな 創価家族の先頭に立って、わが婦人部大会(グループ総会)が、地域の友人の方々もお招きして、にぎやかに、意気高らかに行われている。 グループ総会といえば、25年前(昭和60年)の1月、妻が東京・新宿区内で行われていた総会に出席させていただいたことがあった。 当時、全国で開催された総会では、「蘭」の写真を印刷した記念のしおりが、参加者に配られた。 妻は挨拶の中で、しおりの写真を話題にした。 蘭は絶壁の高所など極限の地にも咲く。その生命の美に迫り、対話し、命懸けの思いで撮影してきた写真家の努力があるからこそ、皆が感動するのですね、と語っていったのである。 「私たちの活動も同じです。一人の人を思って、足しげく通う。その真心は絶対に通じます。だから、自分自身の生命が、この蘭の花のようにみずみずしく輝くんですね。一緒に頑張りましょう」 「蘭」といえば、かつて妻と立ち寄った夜店で、何株か「折鶴蘭」を買ったことがある。 50年ほど前で、確か180円だったと記憶するが、当時、住んでいた大田区小林町の自宅の小さな庭に植えてみると、増えること増えること──。 そこで、この折鶴蘭を株分けして、地域の同志や友人にお配りしたのである。 折鶴蘭が各家庭に根を張る様子を思い浮かべつつ、「そのご家庭に幸福が根づくように」との願いを託した。そして、実際、あの家にも、この家にも、大福運が広がっていくことが、私たち夫婦の何よりの喜びであった。 時移り、今回の婦人部大会では、私と妻の名前がつけられた「ダイサク・イケダ・カトレア」と“香峯子蘭”の写真が印刷されたしおりが配られている。 御書にも「蘭室の友」(同31㌻等)と記されているように、蘭は最も高貴な友情の花である。 刷り上がったばかりのしおりを手にした私は、妻と共に早速、御宝前にお供えして、題目を唱えた。 このしおりを受け取られた方々が、一人ももれなく、大功徳の花を爛漫と咲かせゆかれるように、真剣に御祈念したのである。 ◇ 世界中 この歌 歌いて 広布あり 皆様方を 仏天 護らむ 「創価の母」たちには、いかなる嵐も困難も朗らかに乗り越えてきた、力強い歌がある。 婦人部の愛唱歌「今日も元気で」である。 私の妻と姉妹の如く歩んできた多田時子さんが、全国の婦人部長の時に生まれた歌だ。 それは、昭和43年の8月、東京・両国の旧・日大講堂で行われた婦人部幹部会の席上であった。披露してくれた創価の妙音菩薩たる「白ゆり合唱団」の澄んだ歌声は、今なお私の胸に響いている。 誕生から40年以上の歳月を経ても、この歌の弾けるような生命力は、まったく変わらない。 偉大なる庶民の母、平和の母たちは、この歌とともに、崇高なる広宣流布の大道を歩んできた。そして、世界第一の「女性の平和スクラム」と光る婦人部を築き上げてくれたのである。 歌声に国境はない。今や広布の母たちが歌い続けた「今日も元気で」のメロディーは、海を越えて、アメリカ、ブラジル、パナマ、韓国など、世界中に広がっている。 ◇ 満足の 今日も明日(あす)もと 師弟不二 邪悪な法盗人(ほうぬすびと)の“衣の権力”の暴風が吹き荒れた昭和54年、嫉妬に狂った宗門は、師弟の絆に狙いを付け、私と同志の間を引き裂こうとした。 自由に会合に参加できない私に代わって、可能な限り、妻にはさまざまな集いに出席してもらった。5月27日、横浜市神奈川区で行われた大ブロック(地区)の婦人部総会も、その一つであった。 その会場でも、「今日も元気で」を、皆が意気軒昂に歌っておられたと妻から聞いた。 参加者の中には、父親が脳梗塞で倒れ、医師から死の宣告を受けたばかりのご婦人もおられたようだ。 妻は、「負けないで頑張ってくださいね」と、お見舞いに袱紗を託した。その話を伺い、私も妻と一緒に題目を送り、何があっても創価学会から離れなければ必ず幸せになれる、と激励させていただいた。 嬉しいことに、このお父さんは、2年後に職場復帰を果たされ、17年余、「更賜寿命」の実証を美事に示されたとお聞きしている。創価とともに、健気な父娘は常楽我浄の勝利の劇を飾られたのだ。 ともあれ、「常勝関西」をはじめ、全国のあの地でもこの地でも、尊き仏である婦人部の皆様方は、誰が何を言おうが、この歌を声高らかに歌いながら前進してくれた。 私の姿が見えようが見えまいが、歌を通して、いつも不二の心で戦い続けてくれたのだ。 暗雲を払いゆく学会の反転攻勢の戦いも、「創価の母」たちの大合唱とともに始まったのである。 無冠の母の歌声は、なんと強く、なんと正しく、なんと朗らかなことか! この民衆の希望と正義の音律を一段と晴れがましく轟かせていくところに、広宣流布の実像もあるのだ。 ■闘う我らの心意気 ♪あかるい朝の 陽をあびて 今日も元気に スクラムくんで 闘うわれらの 心意気…… 歌詞の1番には「闘うわれら」とある。「私」一人でなく「われら」である。 そこには「同志と共に」「師と共に」という心意気が脈打っている。 それは、共々に、人類を幸福と平和へ導く、広宣流布の大願に生き抜くことである。 その具体的な実践とは、目の前の「一人」を励ますことだ。誠実に、「一対一」の対話と友情を広げることだ。 「広宣流布は婦人の手で」──これが、恩師・戸田城聖先生の心であったし、私の願いである。 この師弟の一念に呼応し、婦人部は勇気凛々と、立ち上がった。そして、広宣流布の花のヒロインとして、妙法を全世界へ弘めてくださった。 この方々こそ、真の生命の貴婦人であられる。私は若き日に、万感を込めて記した。 「庶民の中に生き、数多くの折伏をしぬいている婦人の方が、幾百倍も偉きことよ」 水の如き信心で、こうと腹を決めたら一歩も退かない。これが「信心第一」のわが婦人部の強さだ。 勇気ある女性の声こそが、地域も社会も、変革していくのだ。 それは、未来永劫に変わらないと確信している。 ■幸せ求める幾山河 ♪真昼の太陽 身に受けて 汗にまみれて ペダルもかるく 幸せ求める 幾山河…… 歌詞の2番には、「幸せ求める幾山河」とある。 「一家和楽」といっても、実際は、山あり谷ありの「幾山河」である。 あの池上兄弟は、悪坊主にたぶらかされた父親から勘当などの迫害を受けた。 その兄弟の夫人たちに、日蓮大聖人は、いざという時こそ、勇気を奮い起こして、「末代悪世の女人の成仏の手本」(御書1088㌻)を示しなさいと、大激励なされている。 夫や同居家族が信心反対で、苦労されている方もいらっしゃるだろう。 「父だけは、まだ信心が出来ないのです……」 ある時、思い詰めたように一人の婦人が言われた。 私は即座に答えた。 「いいよ、いいんだよ。 慈悲だよ。それはお父さんの慈悲だ。あなたを慈悲深い人にするためにね」 身近な人ほど、信頼を勝ち得るまでに長い時間を要する場合がある。しかし、信心に反対だからと、喧嘩したり、対立したりする必要はまったくない。 灯台は、たとえ一本でも、無数の船を安全な航路に導くではないか。 勇気ある信心に立ち上がった人が一人いれば、家族も眷属も、必ず前進勝利の生命の軌道へ、リードしていくことができるのだ。 この人だけは、どうせ信心しないだろうなどと、決めつけてもならない。 相手ではない。自分である。親子として、夫婦として、自らが思いやりの深い、信頼される存在となることだ。 人は人間の関わりのなかで成長する。それは、家族であっても変わらない。人との関わりが、生命錬磨の修行だからである。 人生に平坦な道のりなどない。しかし苦しんだ分だけ、自分が幸せになれ、人を幸せにできるのが、仏法である。 家族の理解を深めるため、どれだけの母たちが悩み、必死の努力を重ねておられるか。私の心から離れることはない。このいじらしき母たちが胸を張って誇れる創価の城を、私は築き上げてきた。 ■あすへの希望広げ ♪きらめく星を あおぎみて 心に誓う 世紀のいくさ あすへの希望を かぎりなく…… もう一点、強調したいのは「後継の育成」という観点である。「あすへの希望」を広げゆくなかに、未来を担う後継者の育成が含まれてくるからだ。 そこでカギとなるのが、各家庭における「信心の継承」である。その意味で、一家の太陽である婦人部の皆様が、どれほど重要か。 昭和38年の2月、私は「婦人部に与う」と題して綴った。 「広布達成まで、陰の婦人の不退転の信心が、夫を、子らを支えていく、盤石なる信心であっていただきたい」 母は一家の船長であり、操縦士である。 婦人が勇敢にして聡明な信心を貫けば、家庭は必ず変わる。家庭が変われば、近隣が変わり、地域が変わる。社会が変わり、ひいては人類も必ず変わっていく──これが「人間革命」の方程式である。 一人暮らしの婦人部の方も、子どもや夫がいない婦人部の方々もおられる。しかし、皆が「広布の母」であり、「人類の太陽」なのである。 このたび、少年少女部を壮年部、婦人部の皆様方に担当していただくことになった。なかんずく、婦人部の皆様方は、家庭そして地域の“信心の母”として、後継の育成をくれぐれも宜しくお願いします。 ◇ 昇りゆく 朝日の幸を 身に受けて 君よ舞いゆけ 劇の如くに 本年、結成30年を迎える女性平和委員会の代表から、先日、アメリカの人権の母エレノア・ルーズベルトのサインが記された貴重な本『生きる姿勢について』をいただいた。 その本に、素晴らしい言葉があった。 「もっともありそうもない状況のもとでも、人にやる気さえあれば、自分を作り変えることも、自分の世界を作り変えることも、できる」 「生命の尊厳」「平和の文化」を育む女性の役割が、いかに大きいか。 一人の女性の前進は、新たな歴史を開く力である。 ましてや、私利私欲を求める自己中心主義が世界に蔓延する時代である。そのなかで堂々と、他者に尽くしゆく人生を歩む、わが婦人部の皆様の存在が、どれほど世界の尊貴な希望と輝きわたっていることか。 地域部や団地部、農漁村部や離島部でも、婦人部の皆様の健闘が光っている。 東京の荒川文化会館の地元でも、「地域友好の模範を」との私の期待に応えて、皆が生き生きと貢献を重ねてこられた。 鼓笛隊出身の婦人リーダーの方は、町会の役員をはじめ、地元の青少年対策地区委員会、更生保護女性会の理事、保護司など、7つの役職を担い立って、元気いっぱいの笑顔で、地域を駆け回っておられる。 この創価の賢者たちの合言葉は、「わが地域を大切に! わが地域の友を大事に! 仲良くすれば仏縁は広がる」である。 ◇ 以前、フィリピンの名門キャピトル大学の創立者であられる、偉大な母ラウレアナ・ロサレスさんが語ってくださった。 「創価の女性が人類の女性の半分を占めれば、世界は平和になるでしょう」 わが創価の婦人部が毅然として健在である限り、21世紀の未来は盤石なのである。 ■“最後まで徹して” 創価女子短期大学には、大科学者マリー・キュリーの像が、向学の乙女たちを見守っている。 このキュリー家の人びとに深い影響を受けた一人が、日本女性初の物理学者として知られる湯浅年子さんである。 湯浅さんが生まれたのは100年ほど前の明治42年(1902年)。 まだ、男性が女性を従属させているような時代において、「勇気」をもって勉学の道を切り開いた。そして「自分自身のためでなく、科学の進歩のために」と「希望」を掲げ、生涯を研究に捧げたのである。 その彼女の座右の銘は、「最後まで徹底的に」──という「執念」であった。 勝敗を決するのは、最後の最後の仕上げまで戦い抜く、勝利への一念である。 毎朝、太陽とともに、「今日」の一日は始まる。 創価の創立80周年は、尊き「太陽の母たち」と一緒に、一日一日を断固と勝ち開いていくのだ。 大切な大切な母よ、今日も朗らかに! 宝の中の宝の創価の婦人部よ、今日も元気で! 地道なる 労苦の日々も 妙法に 生きゆく貴女(あなた)の 功徳は無量と (2010.01.09 聖教新聞) ■随筆 我らの勝利の大道に戻る ■2010年01月に戻る
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【女大学・14】 身の飾りも、衣装の染め色模様なども、目立たぬようにしなければならぬ。 身と衣服が汚れていなくて清潔なのはよい。清きを尽くしすぎて、人の目に立つほどになるのは悪い。ただ自分の身に応じたものを身に着けるべきだ。【女大学評論・14】 身のかざりも衣服の染色、模様なども目立たないようにして、ただわが身の丈に合ったものを身に着けよという。質素を主として家の経済状況に従うようにとの意味であろう。 私も同意することだけれども、衣服は婦人にとっては非常に大切なものであるから、ただ一概に質素であれとのみ命令するのはどうかと思う。 男子は婦人の心をわかっていないし、若き婦人が何を悦ぶのか老人の目ではわからないものだ。だから、だいたいの趣意を質素と定めるのはよいとしても、実際の染色や模様などに関しては本人の意にまかせるのがよいであろう。 田舎の婦人などが衣服に金を費やしながら、その染色や模様の取り合わせる知識がなく、金額に見合わないとして都会の人に笑われることが多い。 このような染色や模様は美術上の意匠によるものであるから、万事質素であれという教えは教えとして、その質素の中にも婦人としての装いの工夫には貧富にかかわらず美術上の心得が大切であると、私は一言つけ加えたいのである。
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イエスの顕現について最も初めに触れられているのはパウロ書簡のコリントの信徒への手紙一である。ケファとはシモン・ペトロのことである。また、ここで言及されている「聖書」とは旧約聖書のことであり、福音書はまだ存在していない。(Ⅰコリント15 3-8) 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 マルコ福音書では、婦人たちが墓にたどり着く前に、墓の前の大きな石がすでに転がされており、墓の中に入ってみると白い衣を着た若者がいたことになっている。また、婦人たちは震え上がっている。(マルコ16 1-8) 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(終) しかしマタイ福音書では、マグダラのマリアらが墓にたどり着いたときに地震が起こり、主の天使が墓の前の大きな石を転がしたことになっている。震えあがったのは番兵たちであり、婦人たちは恐れながらも喜んでいる。また、イエスが婦人たちの前に顕在している。(マタイ28 1-10) さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 ルカ福音書では、マルコ福音書と同じく、婦人たちが墓にたどり着く前に、墓の前の大きな石がすでに転がされていたと書かれているが、、墓の中に入ってみると輝く衣を着た者が二人いたことになっている。そして婦人たちには恐れる感情はない。また、婦人たちが使徒たちに話した後に、墓の中には亜麻布しかなかったことをペトロが確認している。(ルカ24 1-12) そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。 婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。 ヨハネ福音書では、始めに墓の前に行ったのはマグダラのマリアだけであり、墓から石が取りのけてあるのを確認してすぐに弟子のところに報告している。そのあとペトロは「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とともに墓へ走り、墓の中には亜麻布しかなかったことを確認している。その後、墓の前で独りで泣いていたマグダラのマリアのところへ二人の天使が現れ、その後イエスが顕現し、マグダラのマリアはそれから後に弟子たちにこのことを改めて報告している。(ヨハネ20 1-18) 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 なお、マルコ福音書には、ルカ福音書やヨハネ福音書と並行する内容が書かれているが、後世の加筆と考えられている。(マルコ16 9-11) 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。〕
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【女大学・8】 嫉妬の心は、ゆめゆめ起こすべきでない。男が淫乱ならば、いさめるべきだ。怒り恨んではならない。 妬みが甚だしければ、その気色言葉も恐ろしくすさまじくなって、かえって夫に疎まれ見限られるものである。 もし夫に不義、過ちがあれば、自分の顔色を和らげて、声を柔らかにして諫めるべきだ。 諫めを聞かずに怒るならば、まずしばらくやめて後に、夫の心が和らいでいるときに、また、諫めるべきだ。決して気色を荒くし、声を荒らげて夫に逆らい背くことがないように。【女大学評論・8】 この章はもっぱら嫉妬心をいましめるとの趣意であるから、私はまずその「嫉妬」なる文字の定義を明らかにしようと思う。 おおよそ、他人のすることで自分の利害には関係のないことを羨み、恨み憎らしく思い、甚だしいことには根もないことに腹を立てて他人の不幸を祈り他人を害しようとすること、これを「嫉妬」という。 例えば「隣の家は非常に繁昌していて財産も豊かであるのに、自分の家は貧乏の上に不幸せばかりが続いている。羨ましいことだ、憎らしいことだ。隣の翁が何々の方角に土蔵を建てて鬼瓦を上げるのは我が家を睨み倒そうとしているという意味だ。彼の土蔵が火事で焼けたら面白いだろう。いや、人の見ていない間に火をつけてくれよう。」などと世にもあらぬことを思って一人煩悶するようなことは嫉妬の最たるものであって、ゆめゆめ発してはいけないことである。 私もそのような嫉妬心については堅くいましめたいと思うのだが、本文でいう嫉妬の心云々とは果たしてこの種の嫉妬といえるであろうか。よく吟味したほうがよいと思うのである。 書中では、男が淫乱ならば慎むべきだとある。 なぜかというと、夫の淫乱不品行は実証が明白であり、このことは果たして妻である者の身に関係のないことであろうか。隣の富豪の翁が財産を蓄え土蔵を建築したなどの類に比較すべきものであろうか。隣の家の貧富は我が家の利害に関係ないといっても、夫の淫乱不品行は直接に妻の権利を害するものであるから、もとより同日の論ではない。 そもそも一夫一婦が家にいての偕老同穴は結婚の契約であり、その夫婦の一方が契約を無視してあえて淫乱不品行をほしいままにし、他の一方を疎外するようなことはつまりこれを虐待しこれを侮辱することで、破約加害の大なるものである。 だから被害者である婦人が正々堂々の議論を以ってその罪を責めるのは、契約の権利を守る方法である。べつに嫉妬の痴情に駆られた結果ではない。 但しこういったことを議論するのに声色をやわらかくするのは上流社会に生きる人間の態度としてふさわしいから、自然にそうするのがよいだろう。私もそういった野蛮、粗暴なことを好まないし、女性として当然の態度であろう。 しかし、実際に不品行があればその罪は少しも許してはならない。少しも容赦してはならない。そのために男子が怒ることがあるのも恐れず、こころを金石のようにして争うことは婦人の本分であろう。 女大学の作者はこういう正論をさして嫉妬というのか。私はこれを婦人の正当防衛と認め、その気力の確かなことを勧告する者である。 女大学の作者は前節婦人七去の条に、淫乱ならば去ると記し、婦人が不品行を犯した場合は罪に放たれると宣告しているが、今ここではうって変わり、男子が同様の罪を犯したときには婦人はこれを怒りもせず恨みもせず、気色言葉を柔らかにして、却ってその犯罪者に見限られないように注意せよと言う。 これは大変不公平なことで、ただ驚くばかりである。 つまり女大学の作者は婚姻契約の重さを知らない。また婦人の権利も知らない。あたかも婦人を男子の手中の物として、要はただ服従の一事であるとしている。その服従の極み、男子の淫乱獣行をも軽々と見過ごせと言う。 もし婦人の権利を主張しようとしたら、たちまち「嫉妬」の二文字を持ち出してこれを威嚇し制止しようとしている。 これをたとえるなら、青天白日、人に物を盗まれて証拠が充分にあるのに、盗賊を捕まえて問い詰めようとすればすぐに「貪欲」の二文字を持ち出し、貪欲の心はゆめゆめ発してはならぬ、物を盗む人がいたならば言葉をやわらかにしてこれをやめさせるべし、怒ったり恨んだりしてはならない、なおその盗人が物を返さず怒ることがあればしばらく中止してまた後にしろ、と教えるようなものである。婦人の権利を無視してその人をばかにするのも甚だしいといえるだろう。 あるいは婦人がみだりに男子の挙動を疑い、根もないことに立腹して平地に波を起こすような軽率もあるだろう、これが所謂嫉妬心である。 しかし、今の男子社会の有様は手間隙かけて疑いを探るには及ばない。公然の秘密というよりもむしろ公然の公として醜態をあらわにしている者が多いのだ。 家に遺産がある者、また運がよく新たに家を成した者、政府の官僚、会社の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食すでに足りてそれ以上に何の望みがるかと尋ねれば取り急ぎはつまり性欲をほしいままにすることが一番であるという。 その方法には陰あり、陽あり、幽微あり、顕明ありだが、所謂浮気者は人目も憚らず遊郭に狂い芸者に戯れ、醜態百出人面獣行をさらし、憚ることを知らないで平気である者がいるのだ。 それ以上に醜行が念入りで陰気になると、召使または側室などと称して自分の家の中に妾を囲って厚かましくも妻と雑居させるか、または別宅を設けてこれを養い一夫数妾にして得々と自慢している者がいる。 まさしく五母鶏、二母豚を実際に行っているもので、これを評して獣行というより他に穏当の語はないであろう。 鶏と豚はまさに鳥獣であるため、五母二母どれが妻でどれが妾であるかその区別もなく、またその間に嫉妬心も見えず権利論も起こらないようだけれども、万物の霊である人間はそうではない。 人倫の大本として夫婦婚姻を契約したその婦人が、配偶者の狂乱破約を見たら不平ではないと思うほうがおかしい。 その不平の意をあきらかにして破約者の非を改めようとするのは婦人の権利である。みだりに嫉妬なる文字を濫用してたくみにこれを説き、またしても婦人の嫉妬など唱えて以って世間を騙そうとしても、人生の権利は到底無視できないのである。 このように、男尊女卑の習慣は久しいもので、その習慣はずっと人の性をなしており、今日の婦人たちの中にはややもすれば自らその権利を忘れて自ら屈辱に甘んじ、自ら屈辱を忍んでついには自ら苦しんでいる者が多い。ただ憐れむべきものである。 その理由は何か。幼少のときから家庭の教訓にて教えられ、また世間一般の習慣に圧制されて次第に萎縮し、男子の不品行をとがめるのは嫉妬である、嫉妬は婦人の慎むべき悪徳である、これを口に発して顔色に表すのも恥辱であると信じて、かえって他の狂乱を許して次第に増長させてしまうことになるからだ。 つまり、婦人が婚姻の契約をなおざりにして、自らその権利を棄てて自ら憂鬱の淵に沈み、習慣の苦界に苦しんでいるものといえるだろう。 これはただ自分の不利になるだけではない。男子の醜行から生じる直接間接の影響は、ひいては子孫の不幸を醸し、一家滅亡の禍根にあるのだから、家の主婦として責任ある者は自分のため自分の家のため、あくまでも権利を主張して配偶者の乱暴狼藉を制止しないようなことがあってはならない。私の勧告するところである。 人によってはこういう人がいるかもしれない。以上に論じた内容は、道理には違いないかもしれないが、一方から見たら今日の女権の拡張は社会の秩序を乱すものであるからにわかに賛成することができない、と。 確かにその革命には躊躇する者もあるだろうが、だいたい、今起こっている弊害を矯正するには社会に多少の波乱が起こるのはしかたないであろう。その波乱を懸念するというのなら、黙って弊害の中に甘んじるしかない。 三十年前の王政維新は、徳川幕府の門閥圧制を嫌ってその弊害をあらためようとし、天下に大波乱を起こしたが、その結果、ついにめでたく新日本が誕生したのである。 もし当時、社会の秩序云々に躊躇したならば、我々日本国民は今日なお門閥の下に匍匐(ほふく)することであろう。 だから、今の婦人に、至当である権利を主張させ、以って男女対等の秩序をなすのは、旧幕府の門閥制度を廃止して立憲政体の明治政府を作るのと同じことだ。政治においてこの大事を断行しながら、人事には断行しないというのか。私はその理由を見るに苦しいのである。 ましてや、その人事においては既に法典が発行されていて、男女婚姻などの秩序は親族編にも明文化されている。 これからは女子社会が奮発して勉強して、文明学士の応援を以って正しい道に進むべきなのである。この革命は新発明新工夫ではない。成功の時は正に熟しているのだから。
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エステ2 エステル記 第2章 エステ2 1 これらんことの後、アハシュエロス王の怒りがとけ、王はワシテおよび彼女のしたこと、また彼女に対して 定めたことを思い起した。 エステ2 2 時に王に仕える侍臣たちは言った、”美しい若い処女たちを王のために尋ね求めましょう。 エステ2 3 どうぞ王はこの国の各州において役人を選び、美しい若い処女をことごとく首都スサにある婦人の居室 に集めさせ、婦人をつかさどる王の侍従ヘガイの管理のもとにおいて、化粧のための品々を彼らに与えてくださ い。 エステ2 4 こうして御意にかなうおとめをとって、ワシテの代りに王妃としてください”。王はこの事をよしとし、そのよう に行った。 エステ2 5 さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子 で、ベニヤミンびとであった。 エステ2 6 彼はバビロンの王ネブカデネザルが捕えていったユダの王エコニヤと共に捕えられていた捕虜のひとり で、エルサレムから捕え移された者である。 エステ2 7 彼はそのおじの娘ハダッサすなわちエステルを養い育てた。彼女には父も母もなかったからである。この おとめは美しく、かわいらしかったが、その父母の死後、モルデカイは彼女を引きとって自分の娘としたのである。 エステ2 8 王は命令と詔が伝えられ、多くのおとめが首都スサに集められて、ヘガイの管理のもとにおかれたとき、 エステルもまた王宮に携え行かれ、婦人をつかさどるヘガイの管理のもとにおかれた。 エステ2 9 このおとめはヘガイの心にかなって、そのいつくしみを得た。すなわちヘガイはすみやかに彼女に化粧 の品々および食物の分け前を与え、また宮中から7人のすぐれた侍女を選んで彼女に付き添わせ、彼女とその侍 女たちを婦人の居室のうちの最も良い所に移した。 エステ2 10 エステルは自分の民のことをも、自分の同族のことをも人に知らせなかった。モルデカイがこれを知らす なと彼女に命じたからである。 エステ2 11 モルデカイはエステルの様子および彼女がどうしているかを素人、毎日婦人の居室の庭の前を歩い た。 エステ2 12 おとめたちはおのおの婦人のための規定にしたがって12か月を経て後、順番にアハシュエロス王の所 へ行くのであった。これは彼らの化粧の期間として、没薬の油を用いること6か月、香料および婦人の化粧に使う 品々を用いること6割記が定められていたからである。 エステ2 13 こうしておとめは王の所へ行くのであった。そしておとめが婦人の居室を出て王宮へ行く時には、すべ てその望む物が与えられた。 エステ2 14 そして夕方行って、あくる朝第2の婦人の居室に帰り、そばめたちをつかさどる王の侍従シャシガズの 管理に移された。王がその女を喜び、名ざして召すのでなければ、再び王の所へ行くことはなかった。 エステ2 15 さてモルデカイのおじアビハイルの娘、すなわちモルデカイが引きとって自分の娘としたエステルが王 の所へ行く順番となったが、彼女は婦人をつかさどる王の侍従ヘガイが勧めた物のほか何をも求めなかった。エス テルはすべて彼女を見る物に喜ばれた。 エステ2 16 エステルがアハシュエロス王に召されて王宮へ言ったのは、その治世の第7年の10月、すなわちテベ テの月であった。 エステ2 17 王はすべての婦人にまさってエステルを愛下野で、彼女はすべての処女にまさって王の前に恵みとい つくしみとを得た。王はついに王妃の冠を彼女の頭にいただかせ、ワシテに代って王妃とした。 エステ2 18 そして王は大いなる酒宴を催して、すべての大臣と侍臣をもてなした。エステルの酒宴がこれである。ま た諸州に免税を行い、王の大きな度量にしたがって贈り物を与えた。 エステ2 19 2度目に処女たちが集められたとき、モルデカイは王の門にすわっていた。 エステ2 20 エステルはモルデカイが命じたように、まだ自分の同族のことをも自分の民のことをも人に知らせなかっ た。エステルはモルデカイの言葉に従うこと、彼に養い育てられた時と少しも変らなかった。 エステ2 21 そのころ、モルデカイが王の門にすわっていた時、王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタ ンとテレシのふたりが怒りのあまりアハシュエロス王を殺そうとねらっていたが、 エステ2 22 その事がモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに告げ、エステルはこれをモルデカイの 名をもって王に告げた。 エステ2 23 その事が調べられて、それに相違ないことがあらわれたので、彼らふたりは木にかけられた。この事は 王の前で日誌の書にかきしるされた。
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メディア関係 618 名前:地震雷火事名無し(チベット自治区)[sage] 投稿日:2012/01/22(日) 19 49 53.77 ID z5r6mRuw0 [1/2] 朝日新聞 2012年1月22日 東京朝刊3面 原発国家 女性懐柔策 利点強調 女性取り込め 女性が動くとき、「反」は「汎」になる。米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝した1954年、主婦らがあげた 原水爆反対の声は瞬く間に広汎な支持を得て3千万超の署名を集めた。女性を懐柔するため、原発推進派が 打ち出したのが「家事負担の軽減」だった。 《家庭生活にも夢をはこぶ 原子力の平和利用》 原爆投下から11年後、56年8月6日付読売新聞はこんな見出しの記事を載せた。「(原発で)安い電気がふんだんに使える。 (略)朝目をさますと自動的に朝食の用意ができ上がっていることぐらいはそれこそ朝飯前、 主婦の仕事が軽減される家庭の自動化は、どこまで進むか想像もつかない」 物理学者や小説家も「冷蔵庫や洗濯機がジャンジャン使える」などと発言。推進派だけではない。女性誌研 究家の加納実紀代によると、55年にスイスであった世界母親大会の準備会でキュリー夫人の教え子である 国際民主婦人連盟会長のコットン夫人は熱弁をふるった。「原子力の平和利用を発展させることを全力あげて 支持します。(略)とくに母親の毎日の仕事はとても楽になるはずです」 環境意識に的 沈静化していた日本の反原発運動は、86年のチェルノブイリ原発事故で再び盛り上がる。朝日新聞の世論 調査(以下・朝日世論)で原発について女性の「反対」が「賛成」を上回ったのは84年。86年には反対48%、 賛成23%と差が開いた。男性は賛成47%、反対33%だった。 「女は暇になっとるわけなんだ」。科技庁原子力局長や原子力委員を務めた島村武久は当時、自らの研究 会で嘆いた。「理論的に話してもわからないし。純情そのもので、『子どもを守ろう』と言うようなことだけですか ら、かえって怖い」 政府は89年度予算で科技庁の広報費を10倍、通産省を5倍の総額30億円に急増させ、「原子力は環境に やさしい」とPRした。電気事業連合会の広報部長は当時、朝日新聞の取材に「地球環境に対する関心の高 まりは格好の材料。原子力は地球を温暖化する二酸化炭素(CO2)を出しませんから」と語っている。 宣伝は次第に浸透し、07年の朝日世論で温暖化対策の柱に原発を据える是非を聞くと、女性の40%が「妥 当」とし、「妥当ではない」(35%)を上回った。 原発推進に理解のある女性も登用した。首相の橋本龍太郎は98年、元キャスターの木元教子を 「女性の視点はやっぱり違う」と口説き、女性初の原子力委員に起用。科技庁長官の谷垣禎一は、「暴れ馬になって」と 激励した。木元はキャスター時代に原発に懐疑的な発言もしていたが、勉強を重ねるうちに「資源のない日本 には自己完結型の原子力エネルギーが必要だと考えが変わった」という。 619 名前:地震雷火事名無し(チベット自治区)[sage] 投稿日:2012/01/22(日) 19 50 43.38 ID z5r6mRuw0 [2/2] 国の総合資源エネルギー調査会の原子力部会委員には作家の神津アンナや元アナウンサーの木場弘子 が名を連ね、中部電力は経済評論家の勝間和代を原発CMに使った。 広く女性を取り込むためにの催しも枚挙にいとまがない。料理教室と原子力の勉強会を兼ねた女子大生対 象の「クックエネの会」。原子力業界で働く女性がCO2削減について答える女性向けのセミナー。有名俳優を 招いてのトークパーティー……。電力会社から業界団体まで主催者は様々だ。 政権交代後の10年には事業仕分けで女性誌の原発広告が俎上にのり、経産省の担当者は「原子力に関 心が低い女性に理解を深めてもらう」と主張した。 何が正しいか 首相官邸、保安院、東京電力……。原発事故をめぐり「表舞台」に登場したのは男性ばかりだった。 「原子力村」は以前から「女性の『正しい理解』が得られているとは言い難い」(日本原子力産業協会)と言ってきた。 女性は非科学的で情緒的―という発想が根底にある。 「何が正しいか」を決めてきた彼らの権威は原発事故で失墜した。 「ただちに影響はありません」という説明はそれこそ非科学的だった。権威が指し示すものに従うことなく、自分自身で原発について考える動きが今、男女問わず広がる。 あなたは、原子力発電を利用することに賛成ですか反対ですか―。(数字は%、11年朝日世論から) 男性 04月 賛成62 反対27 12月 賛成43 反対49 女性 04月 賛成38 反対37 12月 賛成17 反対65 =肩書は当時。敬称略 (高橋純子) ―― 東大話法 規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。 規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。 規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。 規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。 に↑該当するような気もするがw、まあ、これは朝日新聞にしては良い記事。 高橋純子記者は政治部。御用科学部には絶対に書けないだろうな。 644 名前:地震雷火事名無し(京都府)[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11 51 13.47 ID oCqS21by0 [1/2] 618-619 そういう女性懐柔策の一環として、こういうのもあったわけだね。 (姑息にも電事連は元ページ削除してて、Internet Archiveにもキャッシュがなくて本文が読めないのだが。) 婦人公論バックナンバー http //www2.atwiki.jp/pnoko/m/pages/372.html?guid=on 婦人公論 (2011’3) みんなで考えたい、電気の廃棄物問題 |後 編|白河桃子氏 研究現場は、北の大地の地下世界だった (ミラー) 婦人公論 (2011.2) みんなで考えたい、電気の廃棄物問題 |前 編|杤山修氏×白河桃子氏 ”パートナーとの幸せは理解と信頼があってこそ” 婦人公論 (2011.2) 清水圭氏 清水圭さんが見た日本のエネルギーを支える青森県のいま もっと知ろう、考えようエネルギーのリサイクル 婦人公論 (2011.1) 新春特別座談会/茂木健一郎氏×内田麻理香氏×山下宏文氏、司会:三木哲男氏 2011年、いよいよ実践されます!日本の「エネルギー環境教育」 婦人公論 (2010.11) 「カソウケン」研究院・内田麻理香の現場リポート 家庭も、電気も目指すのは”リサイクル名人”です 婦人公論 (2010.6) 岸本葉子氏、滋味豊かな大地・青森で体感 見えないけれどつながっている、私たちの暮らしと放射線 婦人公論 (2010.3) 茂木健一郎氏×山名元氏 特別対談 脳と原子力、じつは切っても切れない関係です 645 名前:地震雷火事名無し(京都府)[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11 52 11.28 ID oCqS21by0 [2/2] ( 644 つづき) 婦人公論 (2010.1) 新春特別座談会/石原良純氏×大宮エリー氏×澤昭裕氏、司会:三木哲男氏 知恵と創造力で変わる、環境とエネルギー 2010年、新しい暮らしの一歩を踏み出す”芽吹きの年”に 婦人公論 (2009.12) 岸本葉子氏×草間朋子氏 特別対談 暮らしに欠かせない「放射線」のこと、知っていますか 婦人公論 (2009.8) 田渕久美子氏×出光一哉氏 特別対談 子や孫の世代へつなぐために ドラマで伝えたい、エネルギーの真実 婦人公論 (2009.6) 辰巳琢郎氏×山名元氏 特別対談 正しい知識と情報を得て 今こそ、エネルギーを考えるとき 婦人公論 (2009.4) 中西哲生氏×大橋弘忠氏 特別対談 日本らしい戦法で挑む エネルギーの安定供給 婦人公論 (2009.3) 米長邦雄氏×田中知氏 特別対談 エネルギーを未来へ繋ぐ、最善の一手 婦人公論 (2008.12) 北野誠氏×山名元氏 特別対談 今こそ、エネルギーを真剣に考えるとき 婦人公論 (2008.10) 河合薫氏×山本章夫氏 特別対談 大切だからこそわかりやすく伝えたい環境とエネルギー 婦人公論 (2008.7) 長嶋一茂氏×山名元氏 特別対談 未来にしっかり伝えたい地球環境とエネルギーのこと 656 返信:地震雷火事名無し(チベット自治区)[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 21 23 25.75 ID doXc8hMR0 [2/4] 642 朝日新聞もまともな記事を載せている場合があることを示したかっただけですけど、 「原子力村による女性調略」とか、「原子力村=メディアによる女性世論工作」として 618-619と 京都府さんの 644-645を載せて頂くのって煩雑ですかね? 項目は メディア関係>女性雑誌 に持ってくるとか。 私は別にどうでもいいんですけど、『婦人公論』の電事連広報も凄いメンツ集めているなと。 清水圭、内田麻理香ちゃん、茂木健一郎、岸本葉子、山名元、石原良純、草間朋子、田渕久美子、辰巳琢郎、 中西哲生、大橋弘忠、米長邦雄、北野誠、長嶋一茂などなど。 東電・電事連のギャラは500万とか言われてますしね。 みうらじゅん「東電の仕事は全部断った」2011.04.23 http //getnews.jp/archives/112735 米長邦雄、御用発言するかと思ってたんだけど、亡くなったなあ。放射線治療拒否して亡くなったという。 あと、復帰した北野誠、毎日発言チェック中だが、原発推進とは流石に言えない模様。寝返ったのか? 彼は市場が盛り上がって株価上昇すればOKなだけだが。