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【登録タグ 2010年 箱庭統治連合 過去の同盟】 ∽箱庭統治連合(はこにわとうちれんごう)とは、かつて存在した同盟。略してHRU、箱統連とも呼ばれる。 概要 歴史 盟約 盟員 関連項目 概要 中道同盟だった模様。 歴史 時期 出来事 備考 2010年頃? 結成。 2010年1月頃 トライフォース 対 箱庭統治連合戦争で敗北。 2010年2月頃 トライフォース 対 3同盟戦争で勝利。 2010年頃? 解散。 盟約 Hakoniwa.Rule.Union 規約 箱庭統治連合規約。 加盟の際、以下の事項を必ず読むこと。 又、たまに変わる可能性あり 【1】 戦争行為はOKとする。 戦争の際は基本的に一対一とする。 但し、特例として 1 相手から宣戦布告された場合 2 相手との戦力差が大きいと判断できる場合 以上の条件に当てはまる時は同盟員に援護を求めることができる。援護を要請された島は可能な限り援護を回すこと。 《注意》通常の戦闘では相手島を潰すようなことは止めて下さい。 但し、特例として相手島を潰すまで続ける特別戦闘の場合もあります。 【4】参照 【2】 他同盟などから侵攻があった際、全島で協力し、防衛する。 【3】 裏切りがあった場合、全島で報復攻撃を行う。 裏切りに該当する行為 1 他同盟へ重要機密事項の裏流し 2 同盟員への嫌がらせの記帳。 3 同盟員への攻撃。 これらに該当する行為を行った場合、正当な理由があった場合を除き、全島で報復攻撃を行い、排除する。 【4】特別戦闘 他の島から誹謗中傷の記帳があり、 1 それが特にひどいものであると判断された場合。 2 記帳が幾度となく繰り返される場合。 以上のどちらかに当てはまる場合、同盟員全島で、相手島を消滅させる事とする。 【5】 戦争後の復興、災害後の復興等、多大な資金が必要である島がある場合、同盟員は可能な限り援助する。 又、食料危機を迎えている島がある場合も、可能な限り食料を援助する事とする。 【6】 同盟員同士は可能な限り友好国設定をする。 資金の収入が追い付かない場合、資金を貯めたい場合などはしなくてもよい。 【7】同盟員は可能な限り同盟掲示板を頻繁に閲覧する事。 以上のことを踏まえ、了承するのであれば、加盟を許可する。 盟員 島名 名前 加盟 脱退 備考 Invelt Folx - - 盟主 連合艦隊 東郷 ? - ラグオル オルガ・フロウ ? - 英雄帝国 ひであき ? - 関連項目 コメント 名前 コメント
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第2章:補佐(全権補佐) 「補佐(muwinn)」とは、カリフがその職務を担い職責を果たす上でカリフと共にあって彼を助けるために、カリフが任命した「大臣(wuzar)」のことである。カリフの職務は多大で、特にカリフ国家が拡大するに連れてカリフが一人でそれを担うことは難しくなり、それを担い職責を果たすために、カリフを助ける者を必要とするようになった。 これらの補佐を限定なしに「大臣(wuzar)」と呼ぶことは正しくない。それはイスラームにおける「大臣」の意味内容と、民主主義・資本主義・世俗主義(ulmn)の原理に立脚する現行の人定法の政治体制や、現在我々が目のあたりにしているその他の政治体制における「大臣」の意味内容とを混同してはならないからである。 「全権委任(tafw)大臣(wazr)」、あるいは「全権補佐」とは、カリフが彼と共に統治と権力の職責を担うために任命する大臣であり、カリフは彼に自分の考えで諸事を処理し、聖法の諸規則に則り自己の独自裁量(イジュティハード)でそれを裁定するように委任する。カリフは彼に包括的な判断と代行を任せる。アッラーの使徒は「私の天の2人のwazrはジブリール(ガブリエル)とミーカーイール(ミカエル)であり、地上の2人のwazrはアブー・バクルとウマルである」(アブー・サイード・アル=フドリーが伝えるハディース) と言われた。 このハディースにおける「大臣(wazr)」の語は「助手」、「援助者」を意味しているが、それがその語源的意味なのである。聖クルアーンも「大臣」の語をこの語源的意味で使用している。至高なるアッラーは言われる。「私の家族の中から私のwazrを立てて下さい」(20章29節)つまり、「助手」、「援助者」の意味である。ハディースのwazrの語は無限定で、あらゆる問題におけるあらゆる形の「助け」、「援助」をも含みうる。その中にはカリフの職責や仕事においてカリフを助けることも含まれる。上記のアブー・サイード・アル=フドリーのハディースも統治における援助に限定されない。なぜならジブリールとミーカーイールは点におけるアッラー使徒のwazrだと言われているが、彼ら両名は彼の職責や仕事における援助とは全く無縁だからである。それゆえハディースの(wazr)語は、「私の2人の助手」という、一般的意味のみを示しているのである。そしてまたこのハディースからは補佐が複数存在することをも許している。 アブー・バクルとウマルの2人は、使徒が両者を補佐に任じたこと以外に、具体的に使徒と共に統治の職務を担ったという記録はない。使徒は特に権限の範囲を指定せずに万事において彼を補佐する権限を両者に与えていたのであり、その中に統治の諸事とその様々な仕事も含まれていたのである。アブー・バクルはカリフに就任してからウマル・ブン・アル=ハッターブを彼の補佐に指名したが、ウマルによるアブー・バクルの補佐は良く知られている。ウマルがカリフになると、ウスマーンとアリーがその補佐であった。しかし2人のうちのどちらが統治においてウマルの補佐の仕事をしたのかは明らかではない。彼ら2人の地位は使徒の許でのアブー・バクルとウマルの立場に似ていた。ウスマーンの治世にはアリーとマルワーン・ブン・アル=ハカムが彼の補佐だった。アリーはウスマーンの補佐の仕事に不満であったため、距離をおいていたが、マルワーン・ブン・アル=ハカムによるウスマーンの統治の仕事の補佐ははっきりしていた。 裁量委任の大臣が、カリフに良いことはすべて助言し、それについて彼を助ける誠実な大臣であるなら、彼はカリフにとって大いに役立つ。 「アッラーが指導者(amr)に善をなそうと御望みなら彼に誠実な補佐を授ける。彼はカリフが忘れたことは思い出させ、思い出せば、その実行を助ける。アッラーが彼にそれ以外のことを御望みになれば、彼に悪の補佐を授ける。彼はカリフが忘れても思い出させず、たとえ思い出してもそれの実現を助けようとしないしない。」(ハディース) アッラーの使徒の時代と正統カリフの時代の補佐の研究によって、補佐には、特定の任務に対してその包括的な処理を委ねることも、全ての問題について包括的な処理を任せることも可能であることが分かった。また同様にある地域に包括的な処理権限を有する補佐を任命することも出来れば、複数の地域に跨る管轄で包括的な処理権限を有する補佐を任命することも可能である。 「アッラーの使徒はウマルを浄財の徴収に派遣された」(ハディース) 「アッラーの使徒はアル=ジウラーナの小巡礼から戻られた後で、アブー・バクルを巡礼の指揮に派遣された」(ハディース) つまりアブー・バクルとウマルはアッラーの使徒の2人の補佐であったが、2人とも裁量委任の大臣職が要請するように包括的処理権限と代行権を序よされていた補佐(大臣)であったにもかかわらず、アッラーの使徒の治世においては全ての任務ではなく特定の任務においてのみ包括的処理を任されていたのである。ウマルの治世のアリーとウスマーンも同様であった。アブー・バクルの治世においては、ウマルによるアブー・バクルの包括的処理と代行の補佐はあまりにも目立ったので、預言者の直弟子のある者が「カリフはあなたなのかウマルなのか私たちには分からない」と言うほどであった。しかしアル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー、ハディース学者、1449年没)が信憑性が高いとみなしている伝承経路でアル=バイハキー(ハディース学者、1066年没)が伝えているように、アブー・バクルはある時期にはウマルに裁判(のような特定の職務)を任せたこともあったのである。 それゆえ使徒と彼の後の正統カリフたちの伝記から分かることとして、預言者がアブー・バクルとウマルに、またアブー・バクルがウマルに対してしたように、補佐は包括的処理権を代行権を授与されるが、地域であれ職務であれ特定して補佐を任ずることも許されるのである。例えば補佐の一人を北部管轄、他方を南部管轄とすることもでき、前者を後者の役割を交代させることもできるし、カリフの補佐職の要請する形で一方にある任務、他方に別の任務を移植することもでき、特に改めて新しく任命する必要はなく。一つの任務から別の任務に移動させるだけで良い。なぜなら補佐は本来、包括的処理権と代行権を有するので、こうした職務は補佐への任命に含意されているからである。この点において補佐は総督とは異なる。総督はある地方における包括的処理権を授与されているだけなので、別の地方に移動させられることはない。それには改めて新しく任命される必要がある。なぜなら新任地(任務)は先の職務委任には含まれて居なかったからである。一方、補佐は包括的処理権と代行権を与えられているので、本来的にあらゆる職務について包括的処理と代行を任せられている以上、どの地域からどの地域に移動させられようとも、改めて任命しなおす必要はないのである。 以上から、カリフにはその代官に全ての職務における包括的処理を任せると共に、国家の全ての地方における彼の代行を委ねることができることが分かった。但しカリフには、例えばある補佐を東部諸地域、別の補佐を西部諸地域管轄とするといったように、補佐に特別な任務を課すこともできる。大臣の数が多くなった場合には管轄が重複衝突しないためにこうするのはやむをえないのである。 特に国家が拡大した場合には、カリフの必要から大臣は複数になるが、国家の全ての地域でこれらの大臣が皆、それぞれが包括的処理を行えば、彼ら全員が包括的処理と代行を委ねられている限り、任務の重複と衝突がおき、大臣たちがそれぞれの任務を行うのに支障をきたすことになる。 それゆえ我々は以下のように定めよう。 任命に関しては、補佐は国家の全ての地域において、包括的処理と代行を委嘱される。 職務に関しては、補佐は、国家の一部において、一つの任務を任される。つまり、国家は補佐毎に地域に分けられ、例えば某はカリフの東部地域の補佐、某は西部地域の補佐、某は北部地域の補佐、といった形である。 移動に関しては、補佐が、ある地域から別の地域に、ある職務から別の職組むに移動する場合、改めて新任される必要はなく、最初の任命だけで足りる。なぜなら補佐に任命した時点で本来的に、全ての職務が含意されているからである。 全権補佐の資格条件 全権補佐にはカリフの資格条件が条件として課される。つまり、男性、自由人、ムスリム、成人、理性人、義人、そして代理として任された職務の適任者で有能であることである。これらの資格条件の典拠はカリフの場合の典拠と同じである。なぜならば補佐の職務は統治行為であり、「女性に自分たちの政治を任せる民は栄えることはない」とのハディース により男性でなくてはならず、奴隷は自分自身の法律行為を行う行為能力も有さないので、他人の行為を処理する行為能力は尚更有さないので、自由人でなくてはならず、「3種の者からは筆が上げられる。すなわち、子供は成人するまで、眠っている者は目覚めるまで、痴呆の者は癒えるまで。」とのハディース により、成人でなくてはならず、同じハディースの「痴呆の者は癒えるまで」と別のヴァージョンの文言「理性を失った狂人は正気に返るまで」により、正気でなくてはならず、アッラーは「汝らの中の2人の義人を証人に立てよ」(65章2節)と言われ、証人に義人であることを条件として課されているが、カリフの補佐には尚更条件として課されるので、義人でなくてはならず、またカリフを補佐し、カリフの職務を担い、統治と権力の職責を果たすことができるために、そして統治行為の適任者であることが条件となるのである。 全権補佐の職務 全権補佐の任務は、カリフに自分が行うと決めた政務について報告することである。その後、自分の権限において行動しカリフと肩を並べないように、カリフに自分の解決案、地域や職務の決定状況について上申し判断を仰ぐ。彼の任務はカリフに判断を仰ぎ、カリフがその執行停止を命じない限り、上申したことを執行することである。 その根拠は、補佐とはカリフが委任した事項における彼の代行者である、という事実でもある。代行者はその職務をただ自分に代行を委任した者に代わって行うだけである。それ故、補佐はカリフから独立することは出来ず、ウマルがアブー・バクルの補佐だった時に彼に対して行ったように、あらゆる行為をカリフに全て上申して判断を仰ぐのである。ウマルはアブー・バクルの判断を仰ぎ、彼の考えを執行した。とは言え、カリフに上申し判断を仰ぐことは、あらゆる瑣事にわたってカリフの許可を求めることを意味しない。それは補佐の実態と異なるのである。上申し判断を仰ぐとは、例えばある地方には有能な総督を派遣する必要があるとか、ある地方では人々が訴えている市場の食糧不足を解消する必要がある、といった全ての国政問題をカリフにブリーフィングすることなのである。あるいはカリフが把握し何が問題かを知るためにこうした事柄をただ報告するだけであり、それについて全ての詳細について記されていることを行うには、その執行許可を得る必要はなく、こうした報告だけで十分なのである。但し、この報告を施行しないとの命令が下された場合に限って、その執行は非合法となる。上申は、単なる状況報告であり、その実行の許可ではない。補佐には、カリフが執行停止を命じない限り、それを執行する権限があるのである。 カリフは全権補佐の諸行為、諸事の処理を評定し、正しい行いは承認し、過ちは正さなくてはならない。なぜなら「イマームは牧者であり、その民草に責任がある」との臣民への責任を述べた預言者のハディースにより、ウンマ(ムスリム共同体)の諸事の処理はカリフ自身に託され、彼の裁量(イジュティハード)に委ねられているからである。カリフこそが諸事の処理を委任されており、彼が臣民に対して責任があるのであり、全権補佐は臣民に対して責任はない。補佐はただ自分が任された職務の遂行にのみ責任を負うのである。臣民に対する責任はただカリフにのみある。それゆえカリフは自分自身の義務を果たすために、補佐の仕事、政務の処理の評定の義務を負うのである。また全権補佐は時に誤りを犯すこともあるため、カリフは補佐の犯した過ちを正すためにその行為の全てを評定する必要があるのである。臣民に対する責任を果たし、全権補佐の過ちを正すというこの二つの理由から、カリフには補佐の全ての行為を評定する義務があるのである。 全権補佐が何かを処理しカリフがそれを承認すれば、補佐はそれを加減せずカリフが承認した通りに忠実に執行しなければならない。もしカリフが翻意し、補佐が決めたことを差し戻すことで彼に反対した場合は、考慮される。もし補佐が適切に執行した決定であるか、補佐がその使途に支出した予算であれば、全権補佐の判断が実行される。なぜならそれ(カリフの補佐の決定は)は本来カリフの考えとみなされるべきものであり、カリフは既に執行した法規定、支出した予算を訂正することはできないからである。一方、総督の任命や軍の武装などそれ以外のことで補佐が決めたことは、カリフは全権補佐への反対が許され、カリフの見解が執行され、補佐の行為は取り消される。なぜならそれらの事項に関してはカリフが自分自身の行為を訂正する権利があるので、自分の補佐の行為も訂正する権利があるのである。 以上が全権補佐の職務遂行とカリフによる補佐の職務の評定の方法の説明であるが、これは撤回が許されるカリフの職務と撤回が許されないカリフの職務に対応している。なぜなら全権補佐の行為はカリフの行為とみなされるからである。その理由は、全権補佐は自分が代行を委ねられたことに関しては、カリフと同様に、自ら取り仕切ることも、執政官を任命することも許されている。なぜなら彼には執政官の資格条件を備えているからである。また行政不正裁判を自ら行うことも、代行を任ずることも許される。行政不正裁判の資格条件も満たしているからである。また戦争の資格条件も有するので、ジハードを自ら陣頭指揮することも、指揮官を任命することも許される。また補佐は自ら企画立案した案件を自ら処理することも代行者を任じて執行させることも許される。なぜなら企画立案の資格条件があるからである。 但し、だからと言って、カリフが上申を受けていた限り、補佐が行ったことをカリフが取り消すことが決して出来ないというわけではない。その意味はただ、補佐はカリフが彼に託した任務に関してはカリフと同じ権限を有するということである。但しそれは、あくまでもカリフの代行者としてであって、カリフから独立にではないのである。それゆえカリフには補佐が承認したことを差し戻して補佐に反対することも、補佐が執行した行為を取り消すことも出来る。但し補佐の行為を取り消せるのは、カリフが自ら行ったとした場合に自分で取り消すことが許される行為に限られるのである。もし補佐が適切に決定を執行したか、予算をその使途に応じて支出したのであれば、補佐が執行した後にカリフが彼に異を唱えても、そのカリフの反対に意味はなく、補佐の行為の執行が追認され、カリフの意見、異議は却下される。なぜならば、そもそも補佐の判断は本来(補佐に職務の代行を委任した責任者である)カリフの判断とみなされるのであり、そうした状況では、カリフは自分の判断を撤回したり、既に執行した行為を取り消すことはできないからである。 他方、補佐による総督、官吏、軍司令官の任命のような人事や、経済計画、軍事作戦、工業振興策などの政策立案のようなものについては、カリフにはその取り消しが許される。なぜなら、そうしたことも、(補佐の任命責任者である)カリフの考えとみなされるのであるが、それはカリフが自分で行ったとしたなら、後でそれを撤回することが許される事項なので、それにおける自分の代行者の行為であっても取り消すことが許されるのであり、こうした場合にはカリフには補佐の行為の取り消しが許される。この問題に関しては、カリフは自分の行為であれば訂正が許される全ての事項において、補佐の行為を訂正することが許されるが、自分の行為であっても訂正が許されない全ての事項においては、補佐の行為の訂正も許されない、というのが原則である。 全権補佐には、例えば情報省のような特定の行政官庁に配属されることはない。なぜなら行政実務を行うのは被雇用者(ujar)であり、執政官(ukkm)ではなく、全権補佐は執政官であって被雇用者ではなく、その職務は臣民の世話であり、被雇用者がそれをするために雇われた仕事をこなすことではないからである。 全権補佐が行政実務に直接手を下さない、と言っても、彼にはどんな行政実務も禁じられているという意味ではない。その意味は、行政補佐は行政実務を分担するのではなく、その総括が仕事だということである。 補佐の任命と罷免 補佐はカリフの命令により、任命、罷免される。カリフの死亡に際して、補佐の任期は終了し、カリフ臨時代行の執政中を除き、その職務を継続しない。もし継続するなら、新カリフから改めて新任される必要があり、特に罷免を必要としない。なぜなら彼らの職は、彼らを補佐に任命したカリフの死によって、完了消滅しているからである。 第3章:執行大臣 執行大臣とは、カリフが自分と国家機構、臣民、外国との仲介として、執行、実務、履行を自分の代わりに、あるいは自分に対して行うための自分の補佐として任命した大臣である。それは諸事の執行の補佐であり、その総督(wl)でもなければ、実務者(mataqallid)でもない。その職務は行政の仕事であり、統治ではない。彼の職域はカリフの発した命令を執行する内務、外務の国家機構であり、またこれらの機関から奏上されたものをカリフに伝えもする。それはカリフからの命令をカリフに代わって執行させ、カリフへの奏上を処理する、カリフと他者との仲介なのである。 この執行の補佐はアッラーの使徒と正統カリフの治世には「書記」と呼ばれていた。その後、書簡記録管理者(ib dwn rasil)、あるいは文書記録管理者(ib dwn maktabt)と呼ばれるようになり、その後、公文書書記(ktib insh)、尚書礼(ib dwn insh)などの呼び名が定着し、その後、法学者の間では、「執行大臣(wazr tanfdh)」と呼ばれるようになったのである。 カリフは統治と執行、人々の諸事の世話を行う為政者である。そして統治、執行、世話は行政事務を必要とする。そしてそれはカリフの側にあってカリフの職責を果たすために必要とされる行政庶務を分担する特別な機関の創設を必要とし、それは統治の職務ではなく、この行政庶務を行うためにカリフが任命するところの執行の補佐を置くことを必要とするのである。それゆえその仕事は統治ではなく、行政におけるカリフの補佐であり、彼には全権補佐とは違い、統治の職務は一切行う権限を持たず、総督や管理を任命することはなく、人々の諸事の世話をすることもない。彼の仕事はただ、統治の職務か、カリフか全権補佐が発令した行政の職務の執行のための行政実務に過ぎないのである。それゆえこの役職には「執行補佐」の名が冠せられたのであり、「大臣(wazr)」の語は語源的には「補佐(mun)」を意味するので、法学者は「執行大臣(wazr tanfdh)」、つまり「執行補佐(mun tanfdh)」と呼び習わしているのである。法学者たちは、「この大臣は、カリフと、臣民と総督との間の仲介役であり、カリフに代わってカリフの命じたことを実行し、発令したことを執行し、決定したことを処理し、総督への委嘱を報告し、軍と防衛隊を装備し、カリフに臣民と官吏からの奏上事項、また先の命令が正しく実行されるために新しく生じた事態について報告する」と述べている。この職は、あくまでも諸事の執行の補佐であり、その上に立つ総督でも、その処理を命じられた実務者でもない。この執行補佐職は現在の国家元首たちの官房長官にほぼ相当するのである。 執行補佐は全権補佐と同様にカリフの側近であり、カリフの腹心(bina)であり、彼の仕事は統治者(カリフ)に密着している。その仕事はカリフに上申し判断を仰ぎ、昼夜を問わずカリフと密談、会合することを要する。そしてそれは聖法に則るなら、女性の職環境には馴染まない。それゆえ執行補佐は男性でなければならない。また執行補佐はカリフの腹心であるため、「信仰する者たちよ、おまえたち(ムスリム)以外に腹心をもってはならない。彼らはおまえたちの破滅になにも厭わず、おまえたちが苦しむことを望む。憎悪は彼らの口からすでに顕わになっている。だが、彼らの胸が隠すものはさらに大きい。・・・」(3章118節)との至高者の御言葉により、執行補佐は不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならない。カリフが非ムスリムを自分の腹心とすることが禁じられていることは、この聖句に明らかである。それゆえ全権補佐の場合と同じく、執行補佐もカリフから離れない側近なので不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならないのである。 また必要に応じ、そして執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるような任務に応じて、執行補佐の数が複数となることは許される。 執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるのは、以下の4事項である。 1. 外交。カリフが直接管掌するかそれを管掌する外務省を設立。 2. 軍隊、あるいは兵団 3. 軍を除く国家機構 4. 人民との関係 これが執行補佐の行う任務の実態である。執行補佐はカリフと他の者の仲介、つまりカリフからの連絡機関、カリフへの連絡機関なのである。ただし連絡機関であるとはいえ、国家機関の職務の遂行が必要である限りにおいて、そうした職務も行うのである。 カリフは実際の統治者であり、カリフこそが自ら統治、執行、人々の諸事の世話を管掌する。それゆえカリフは常に統治機構、外交筋、人民(ウンマ)と接触していなくてはならず、法規定を定め、決定を下さし、人々の世話をし、統治機関の運営、その抱える問題、必要とすることを調べなければならず、またカリフの許には人民(ウンマ)から陳情、苦情、問題が寄せられる。またカリフは外交にも目配りが必要である。それゆえこうした職務の実際は、執行補佐が仲介し、カリフに代わってそれを執行し、またそれをカリフの許に上げるのである。カリフから統治機関に下される指令や、統治機関からカリフに提出される奏上は、その執行のためのフォローアップが必要であり、執行補佐は執行が完了するまでそのフォローアップを任とするのである。執行補佐は、カリフをフォローアップし、統治機構をフォローアップする。執行補佐は、カリフが停止を求めない限り、フォローアップを止めないが、カリフの命令には従い、フォローアップを中止しなくてはならない。なぜならカリフが統治者なのであり、彼の命令が行われなくてはならないからである。 また軍事と外交は概ね機密に属し、カリフの専権事項である。それゆえ執行補佐は軍事・外交には手を染めず、その執行のフォローアップもしない。特にカリフからその一部の分担を求められた場合は別であるが、その場合でもカリフから求められたことだけを分担し、それ以外には手を出さない。 人民の世話、陳情の処理、不正の除去などの人民との関係は、カリフとその代行の仕事であり、執行補佐の任ではない。それゆえ執行補佐は、特にカリフから関与の求めがあった場合を除き、手を出さない。その場合に執行補佐が実際にしたことはカリフの命令の履行であって、分担ではないのである。これらは全てカリフが行うべき職務の内容の一部であり、それゆえ執行補佐が行うべきことでもあるのである。 以下は、使徒と正統カリフの治世の執行補佐(当時は書記と呼ばれていた)の仕事の例である。 1. 外交 アル=フダイビーヤの和約(この和約のテキスト自体は周知であるので省略する)に関して 「預言者は書記を呼ばれた」 (「書記」の語は見られないが、「筆記せよ」との預言者の言葉が記録されている伝承の例) 「(預言者は)『筆記せよ』と言われた」 「アッラーの使徒はアリー・ブン・アビー・ターリブを呼び、『筆記せよ』と言われた」 「(預言者は)アリーに『アリーよ、筆記せよ』と言われた」 「(預言者は)『アリーよ、筆記せよ』と言われた」 預言者からローマ帝国ヘラクレイオス帝への手紙 「慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において。アッラーの僕、アッラーの使徒ムハンマドから、ローマ皇帝ヘラクレイオスへ。私はあなたにイスラームの宣教を呼びかける。イスラームに帰依しなさい。そうすれば安寧を得よう。イスラームに帰依しなさい。そうすればアッラーはあなたに二重の報償を授け給おう。しかしあなたが背くなら、あなたは臣民の罪をも負おう。『啓典の民よ、我々とあなた方の間で共通の言葉、「我々はアッラー以外を崇めず、彼に何ものの並べず、アッラーを差し置いて我々の仲間のうちの者を主としない。」の許に来たれ。もし彼らが背くなら、我々がムスリムであることを証言せよ、と言いなさい。』(3章64節)」 ヘラクレイオス帝からのアッラーの使徒の書簡への返書。 「アッラーの使徒にヘラクレイオスはムスリムであり使徒にディーナール金貨を送ったと書き送った。アッラーの使徒はその手紙を読んで『アッラーの敵が嘘をついている。彼はムスリムではなくキリスト教徒のままだ』と言われた。」 マンビジュの住民からのウマルへの手紙と彼の返信。 「マンビジュの住民(シリアのチグリス河畔の敵性異教徒)がウマル・ブン・アル=ハッターブに『私たちが貿易商としてあなたの土地に入るのを許し、十分の一税を徴収してください』との手紙を遣した。そこでウマルはアッラーの使徒の直弟子たちとそれについて協議し、彼らはウマルにそれを勧めた。こうしてマンビジュの民は敵性異教徒で最初に十分の一税を納めて貿易を許された者となった。」 2. 軍隊、あるいは兵団 文書から アブー・バクルからハーリドへのシリアへの進軍を命じた手紙 「ハーリドはヒーラに居を定めたいと望んでいた。しかし彼の許にアブー・バクルから、アブー・ウバイダとムスリム軍の援軍として、彼にシリア進軍を命じる手紙が届いた。」 シリアの軍からウマルへの援軍要請とウマルから彼らへの返書。 「我々はアブー・ウバイダ・ブン・アル=ジャッラーフ、ヤズィード・ブン・アビー・スフヤーン、イブン・ハサナ、ハーリド・ブン・アル=ワリード、イヤーズ(サッマークにハディースを語ったイヤーズとは別人)の5人の指揮官と共にヤルムークの戦いに臨んだ。ウマルは、もし戦闘になればお前たちはアブー・ウバイダに従え、と命じていた。私たちが、私たちは死地にあります、とウマルに手紙を書き、彼に援軍を求めた。するとウマルは、『私の手許に援軍を求めるお前たちの手紙が届いた。私はお前たちに誰が最も偉大な援助者、最大の援軍の送り手であるかを教えよう。畏くも尊きアッラーである。それゆえアッラーに助けを求めよ。ムハンマドはバドルの戦いでお前たちより少ない軍勢で勝利を収められたのである。お前たちに私のこの手紙が届いたなら、彼らと戦い、私に相談してくるな。』との返書を私たちに送ってきた。そこで私たちは彼らと戦い勝利し4ファルサフにわたって彼らを殺した。」 シリアの軍団がウマル・ブン・アル=ハッターブに「私たちは敵と遭遇したが、彼らは武器を絹布で飾っていて、それが私たちの心に恐怖を引き起こしました」との手紙を書き送った。するとウマルは「彼らが武器を絹で飾っているようにお前たちも武器を絹で飾りなさい」と返事を送った。 軍隊以外の国家機関 その範疇の書簡と文書 十分の一税について預言者がムアーズに送った手紙。 「アッラーの使徒はイエメンのムアーズに『天水か、川の水での耕作地には十分の一税、潅漑耕作地には二十分の一税』と書き送った」(ヤフヤー・ブン・アーダムが『地租の書』の中でアル=ハカムから伝えており、アル=シャアビーからも同様なハディースを伝えている。) 人頭税に関する預言者からアル=ムンズィル・ブン・サーウィーへの手紙。 アブー・ユースフは『地租の書』の中でアブー・ウバイダから以下のように伝えている。「預言者はアル=ムンズィル・ブン・サーウィーに、我々の礼拝を祈り、我々のキブラ(礼拝の方角)を向いて礼拝し、我々の屠殺肉を食する者はムスリムであり、その者にはアッラーの庇護とその使徒の庇護がある。マギ教徒でそれを欲する者は信仰を得た。それを拒む者には人頭税が課される。」アブー・バクルがアナスをバハレーンに遣わした時にアナスに送った浄財の義務についての手紙。「アブー・バクルはアナスにアッラーとその使徒が命じられた浄財について書き送った」(アル=ブハーリーがアナスから伝えている) 飢饉の年のウマルからアムル・ブン・アル=アースへの手紙 「飢饉でアラブの地が旱魃に見舞われた時、ウマルはアムル・ブン=アースに以下の手紙を送った。『アッラーの僕にして信徒の長であるウマルからアムル・ブン=アースへ。我が命にかけて、お前は自分が肥え太っているのに、私が痩せ細っていても気にかけない。神佑あれ。』アムルは返書した。『あなたに平安あれ。さて、あなたの許に参上しました。あなたの許に参上しました。キャラバンの積荷の最初のものはあなたの許に届き、私の許には最後に届きます。私は海路でも運ぶ方策を見つけたいと思っています。』」 ムハンマド・ブン・アビー・バクルからアリーへの背教者についての手紙 アリーの返書 アリーはムハンマド・ブン・アビー・バクルをエジプトに総督として派遣した。 ムハンマド・ブン・アビー・バクルがアリーに異端(zandiqah)について尋ね、彼らの中には太陽と月を拝む者がおり、またその他のものを拝む者もおり、またイスラームの信仰を自称する者もいる、と書き送った。そこでアリーは彼に返書を書き、異端についてはイスラームの信仰を自称する者は処刑し、その他の者は好きなものを拝むままに放置しておけ」と命じた。(イブン・アビー・シャイバがカーブース・ブン・マハーリクがその父から聞いた話として伝えている) 『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』⑤
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真 森ガイ統治社
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台湾の日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。 なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。 沿革 Template 台湾の歴史? 統治初期の政策 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場した戴国煇 『台湾総体相』 1989年。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当した。 1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、中央政界で活躍していた後藤新平を民政長官に任命し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなった林衡道 『台湾史』1989年。 日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から植民地の同化は困難であり、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。後藤は台湾の社会風俗などに調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するよいう統治方針であった。 これに対し原敬などは『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であるとし、台湾を内地の一部とし、内地法を適用させるというものであった。 1898年から1906年にかけて民政長官を務めた後藤新平は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この期間内、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与している。 また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制ににして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した。そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価すること植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため工業発展に遅れたと主張する意見、日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されている。 内地延長主義時期(1915年-1937年) 日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の蘆溝橋事件であり、国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期である。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、1918年1月にアメリカ合衆国大統領ウィルソンが提唱する民族自決の原則と、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになった。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化していく。 1910年代、日本の国内政治で新しい潮流が誕生した。それは藩閥政治に反対し政党政治を実現しようという大正デモクラシーであった。その政治環境の中、1919年に台湾総督に就任した田健治郎は初めての文官総統であり、また田は赴任する前に当時首相であった原敬と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表された。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、皇室に忠誠な国民とするための教化と国家国民としての観念を涵養するものと述べている。 その後20年にわたり台湾総督は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少されるための政策を実現した。また後藤新平の消極的な政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い呉三連 『台湾民族運動史』1971年、同化政策は具体的に推進されていった。 この時期に勃興した台湾の社会史としては1914年、台中霧峰の著名な土着地主資産家である林献堂は来台した板垣退助と協力し在台日本人と同等の権利を求める台湾同化会を設立する。しかし、板垣が台湾を離れるとまもなく台湾総督府により解散させられた。 その後、台湾総督府の中央集権的な特権を認めた六三法の撤廃を求めて啓発会が結成され、その解散後は新民会が結成される。しかし知識人階級から六三法撤廃は台湾の特殊性の否定であるとの批判が出ると、台湾に議会設置を求める台湾議会設置請願運動が開始される。1921年、第一回台湾議会設置請願書を大日本帝国議会に提出すると、以降13年15回にわたって継続的に行なわれた。 1921年には台湾文化の涵養を目的として、林献堂を総理とした台湾文化協会が設立される。台湾文化協会は各地で講演会や映画上映などを行い大衆啓蒙運動を展開した。しかし1927年、左派が協会の主導権を握ると右派の離脱を惹起し、台湾における社会運動は分裂することになる。台湾文化協会は事実上台湾共産党の支配下に入り、台湾共産党が一斉検挙されると同時に台湾文化協会も崩壊した。 離脱した右派は、その後台湾民衆党を結成。しかし、台湾民衆党も蒋渭水により左傾化すると右派は台湾の地方自治実現を単一目標に挙げる地方自治連盟を結成した。1937年、日本統治期最後の政治団体である地方自治連盟が解散に追い込まれ、「台湾人」による政治運動は終わりを告げた。 皇民化運動(1937年-1945年) Template main? 1937年に盧溝橋事件が発生すると日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることなった。台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになる。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情があった。 国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励された。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもあった。その過程で台湾語・客家語・原住民語の使用は抑圧・禁止された。 改姓名は強制されなかったが、日本式姓名を持つことは社会的上昇に有利なこともあり、多くの台湾人が改姓名を行った。 日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、そして1945年からは徴兵制が施行された。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡した。 また台湾の宗教や風俗は日本風なものに「改良」された。寺廟は取り壊されたり、神社に改築された(寺廟整理)。中華風の結婚や葬式は日本風な神前結婚や寺葬に改められた。 1937年の10月1日には台北時間・西部標準時(グリニッジ標準時+8)が廃止され、東京時間・中央標準時(グリニッジ標準時+9)に統一された。(1945年9月元に復帰) これらの運動は短期的であったこともあり、台湾社会に根付くことはなかったが、台湾が香港やシンガポールなど、他の華人社会に比べて日本的であるという理由の一つの説明にはなるだろう。 敗戦と中華民国の接収 1945年8月15日、日本は終戦の詔書を発表し太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国による接収が行われることとなった。同年8月29日、国民政府主席の蒋介石は陳儀を台湾省行政長官に任命、,9月1日には重慶にて台湾行政長官公署及び台湾警備総部が設置され、陳儀は台湾警備司令を兼任することとなった。そして10月5日、台湾省行政長官公署前進指揮所が台北に設置されると、接收要員は10月5日から10月24日にかけて上海、重慶から台湾に移動した。 1945年10月25日、中国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手した。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎えた。 行政機構 台湾総督府 Template main? 台湾総督府は日本統治時代の最高統治機関であり、その長官が台湾総督である。総督の組織は中央集権式に特徴があり、台湾総督により行政、立法、司法、軍事が総覧され専制的な統治権が施行されていた。 沿革 台湾総督府の設立当初は民政、陸軍、海軍の3局が設置されていた。民政局には内務、殖産、財務、学務の4部が設置されたほか、台湾民主国の活動が行われた期間に高島鞆之助が副総督として任命されたケースもある。1896年、陸海軍両局が統合され軍務局され、また民政局より総務、法務、通信の各局が分離し7局体制が確立した。その後1898年、1901年、1919年の3回にわたる総督府官制変更の際にも組織形態は維持されていった。 総督 Template main? 1896年に施行された六三法及び1906年に公布された#明治39年法律第31号(三一法)|三一法或いは1921年法三号により台湾に委任立法制度が施行され、総督府はその中央機関と位置づけられた。一般の政策決定は総督府内部の官僚により法律が策定された後、台湾総督府による総督府令の形式により発行した。また専売制などの導入など一部の内容は日本政府との事前協議及び国会の承認を必要とした内容もある。 1895年から1945年の期間中、日本は19代の台湾総統を任命している。その出身より前期武官総督期、文官総督期、後期武官総督期に分類することができ、各総督の平均在任期間は2年半である。 前期武官総督期の総督は樺山資紀、桂太郎、乃木希典、兒玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎である。この中で安東貞美と明石元二郎は台湾人の権益を保護する政策を実施し、明石はその死後台湾に墓地が建立されている。 文官総督時代は大正デモクラシーの時期とほぼ一致し、日本の政党の推薦を受け赴任された。1919年から1937年までに田健治郎、内田嘉吉、伊沢多喜男、上山満之進、川村竹治、石塚英藏、太田政弘、南弘、中川健蔵が就任している。また台湾の統治方式を抗日運動の鎮圧から経済建設による社会安定に転換した時期である。 1937年に日華事変が勃発し台湾の軍事的な価値が戦略価値が高まると、再び武官が台湾総統に任命されるようになった。この時期の総統は小林躋造、長谷川清、安藤利吉であり、戦争遂行のための軍事需要への対応と軍事基地化がその政策の中心であった。また最後の総統である安藤は、戦後戦犯とみなされ拘束され、1946年に上海において自殺している。 総務長官 台湾総督府初期は民政長官と称され、1918年8月20日に総務長官と改称された。総務長官は台湾総督の姿勢を輔弼すると共に、台湾総督府の各政策の実務を担当した。 台湾総務部長は、前身である民政部長を含め水野遵、曽根静夫、後藤新平、祝辰巳、大島久満次、宮尾舜治、内田嘉吉、下村宏、賀来佐賀太郎、後藤文夫、河原田稼吉、人見次郎、高橋守雄、木下信、平塚広義、森岡二郎、斎藤樹、成田一郎が就任している。その中で顕著な活動をした人物に後藤新平があげられ、日本統治時代の台湾経済の基礎を築いた人物である。 その他官庁 総督及び総務長官以外に総督官房、警務局、農務局、財務局、文教局、鉱工局、外事部、法務部などが設置され、これら行政機関以外に法院、刑務支所、少年教護院、警察官訓練所、交通局、港務局、専売局、台北帝国大学、各直属学校、農林業試験所などの司法、教育関係の部署を擁していた。 地方行政区域 中央行政機構以外に、内政統治を行うための行政区域が設置され、日本統治の50年間に10回もの改変が行われている。1895年、台湾統治に着手した日本は台北、台湾、台南の3県と澎湖庁を設置した。その後組織可変が頻繁に行われ、1920年に実施した台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁および澎湖庁(1926年高雄州より離脱)の b 5州3庁 /b 設置と、その下に置かれた市・街・庄(高砂族の集落には社が置かれた)の地方行政区域で最終的な地方行政区域が確定することとなた。この時の行政区域はその後の国民政府による台湾行政区域決定にも影響を与えている。なお、5州3庁は内地の都道府県に、市・街・庄および社は内地の市町村にそれぞれ相当する。また1920年の行政区域設定の際には地名改称が、打狗を高雄)、錫口を松山、枋橋を板橋)、阿公店を岡山、媽宮を馬公のように行われ、その際に改称された地名は現在でも数多く使用されている。 日本統治時代の行政区域 面積(平方メートル) 現在の行政区域 備考 台北州 4,528.7台北市、台北県、宜蘭県、基隆市 新竹州 4,570.0桃園県、新竹県、新竹市、苗栗県 台中州 7,382.9台中県、台中市、彰化県、南投県 台南州 4,292.4台南市、台南県、雲林県、嘉義市、嘉義県 高雄州 5,421.5高雄市、高雄県、屏東県 台東州 5,721.9台東県 花蓮港庁 3,515.3花蓮県 澎湖庁 4,628.6澎湖県1926年に高雄州より分割 台北市 126.8台北市台北州に帰属していた 抗日運動 台湾民主国 Template main? 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力・武器の差の前に敗退した。10月下旬に劉永福が大陸に逃亡、日本軍が台南を占領したことで台湾民主国は崩壊した。台湾軍民で戦死又は殺害された者は14,000人『台湾史小事典』)に及んだ。 抗日運動 台湾民主国の崩壊後、台湾総督樺山資紀は1895年11月8日に東京の大本営に対し台湾全島の鎮圧を報告、日本による台湾統治が開始された。しかし12月には台湾北部で清朝の郷勇が台湾民主国の延長としての抗日運動を開始した。1902年になると漢人による抗日運動は制圧され、民間が所有する武器は没収された。これらの抗日運動で戦死又は逮捕殺害された者は1万人余り(図解台湾史)との説もある。 この時期の総統である児玉源太郎は鎮圧を前面に出した高圧的な統治と、民生政策を充実させる硬軟折衷を政策を実施し、一般民衆は抗日活動を傍観するに留まった王育徳 『苦悶的歴史』 1979年。日本統治前期の抗日活動は台湾を制圧し清朝への帰属を目指すものであり、台湾人としての民族自覚より清朝との関係の中で発生した武装闘争であると言える。 right|thumb|250px|西来庵事件で[[台南刑務所より法院に押送される逮捕者]] 一旦は平定された抗日武装運動であるが、1907年に北埔事件が発生すると1915年の西来庵事件までの間に13件の抗日武装運動が発生した。規模としては最後の西来庵事件以外は小規模、または蜂起以前に逮捕されている。そのうち11件は1911年の辛亥革命の後に発生し、そのうち辛亥革命の影響を強く受けた抗日運動もあり、4件の事件では中国に帰属すると宣言している。また自ら皇帝を称するなど台湾王朝の建国を目指したものが6件あった。 霧社事件 Template main? 後期の抗日運動の中で大規模なものとして霧社事件がある。これは1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投件仁愛郷)でサイディック族の大頭目莫那魯道が6部落の300余人の族人を率いた反日武装事件であり、小学校で開催されていた運動会会場に乱入し日本人約140人を殺害した。事件発生後総督府は原住民への討伐を決定、軍隊出動による討伐作戦を2ヶ月にわたって展開し、対立部族の協力も得た鎮圧作戦の結果700人ほどの抗日サイディック族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。その後生き残った約300人は川中島に移され、霧社タイヤル族は消滅した。 経済 日本統治時代の台湾は植民地型経済構造であり、総論的には台湾の資源と労働力を日本内地の発展のために利用していたと言える。この経済構造は児玉源太郎総督の時代に基礎が築かれ、太平洋戦争により最盛期を迎えた。この台湾経済をその内容により分類するとすれば、1920年までの糖業を主軸とする期間、1920年から1930年代にかけての蓬莱米の生産を主軸とする期間、そして1930年代以降にそれまでの工業を内地、農業を台湾としていた分業論を新ため、軍需に対応すべく台湾の工業化が展開された3時期に区分することができる涂照彦 『日本帝国主義下的台湾』。 これらは重点産業こそ異なれ、経済発展の目標は農産物或いは工業製品の生産工場に拠り日本国内の需要を満たすことにあったが、日本からの大量資本投下は台湾経済の発展と社会インフラ整備を支援し、戦後の台湾経済にも大きな影響を与えている。 糖業 台湾の糖業は日本資本の大規模資本投下によりそれまでの零細な生産体制から工場による大量生産へと転換した。台湾総督府も糖業の発展のために高い含糖量の蔗種導入を図るとともに、製糖方法の改善を推奨するなどの政策を推進した。また製糖業者保護のために「原料採集区域制度」を導入、甘蔗農家は付近の製糖工場への作物納入が義務付けられ、またその価格は工場側が決定するというものであった。 このような保護政策の下、日本の財閥も台湾糖業への投資を行い製糖が次々に設立され、台湾の伝統的な糖業は大きな打撃を受け、また甘蔗農家の収入が抑圧される事態が続いた。 金融 1895年5月、日本軍が台湾に進駐すると、9月には大阪中立銀行が基隆に「大阪中立銀行基隆出張所」を設立した。1896年6月、台湾総督樺山資紀は大阪中立銀行在台分行の設立を認可し、台湾における最初の銀行の設立となった。 1897年3月、帝国議会で台湾銀行法が通過、11月に台湾銀行創立委員会が組織され台湾銀行の開設準備が着手された。1899年3月、台湾銀行法がが改正され、日本政府は100万元を限度額に台湾銀行株式の取得を認可した。同年6月に「株式会社台湾銀行」が設立され。9月26日より営業開始となった。日本統治期間中、台湾銀行は台湾総督府の委託を受け台湾地区での貨幣台湾銀行券の発行を行っていた。台湾銀行の本部は台北に置かれたが、頭取は東京に駐在し、株式総会も東京で開催されていた。この台湾銀行を通して日本資本が大量に台湾に投下され、台湾の資本主義が発達したと共に、更に台湾より中国や東南アジアへの資金が投資されていった。 台湾銀行以外に、台湾総督府は台湾金融の安定化を図るために彰化銀行、嘉義銀行、台湾商工銀行、新高銀行、華南銀行、勧業銀行などを設立し、また特別法を制定し、信用組合、無尽、金融講、信託会社なども設立され台湾経済の発展に寄与させていた。 専売制度 日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていた。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図った。1904年に日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られた。 具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片、タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳、アルコール、塩及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現した。 教育 Template seealso? 台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施した。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとした。初等教育機関は当初はその言語能力の違いより台湾人を対象とした公学校と、日本人を対象とした小学校に分けられ、試験制度でも日本人が有利な制度であったが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していった。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えている。 初等中等教育 1895年7月14日、台湾総督府は初代学務部長に伊沢修二を任命し台湾における教育政策を担当させた。伊沢は日本内地でも実現していなかった義務教育の採用を上申し、総督府もその提言を受け入れて同年、台北市芝山岩に最初の近代教育を行う小学校(現在の台北市士林国小)を設置、義務教育の実験校とした。その後六氏先生事件なども発生したが、総督府は教育政策を推進し、翌年台湾全域に国語伝習所を設置するなどの義務教育施設の充実に努めた。1898年、国語伝習所は公学校に昇格している。 250px|left|thumb|[[台北市政府旧庁舎|建成小学校跡]] 当初、総督府の初等中等教育制度は台湾人と日本人を対象とするものが別々に存在していた。 しかし1929年になると台湾教育令を改正し、中等教育については台湾人だけを教育していた高等普通学校が廃止、中学校に一本化され、台湾人と日本人の共学生が採用されると同時に「内地人」、「本島人」という本籍に基づく区分も廃止された。 1941年3月、台湾教育令は再度改正が行われ、小學校、蕃人公学校と公学校を統合し国民学校(一部は蕃童教育所として統一された。これにより台湾の教育制度は完全に統一され、特殊な原住民を対象とする教育以外、中央或いは地方財政で学校が運営され8歳以上14歳未満の学童に対し6年制の義務教育が行われるようになった。 台湾人の就学率は当初緩慢な増加であったが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就業児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現した。 日本統治時代の就学率一覧 (『台湾省51年来統計提要』1,241ページ) 年代 1904年 1909年 1914年 1920年 1925年 1930年 1935年 1940年 1944年 台湾人学童 3.8% 5.5% 9.1% 25.1% 27.2% 33.1% 41.5% 57.6% 71.3% 日本人学童 67.7% 90.9% 94.1% 98.0% 98.3% 98.8% 99.3% 99.6% 99.6% 高等教育 170px|right|thumb|[[台北帝国大学(現在の台湾大学)校門]] 日本統治期間中、台湾における高等教育は当初は日本人を対象とし、台湾人が高等教育を受ける機会は限定されたものであった。 Template 節stub? 職業教育 職業教育では総督府は当初農試験講習生制度を設立し台湾の産業発展に寄与する人材育成に着手した。その後糖業講習所た学務部付属工業講習所など就学期間を半年から2年とする教育機関を設立した。その後台湾各地に中学校が設立されるようになると、総督府は技術人材の育成を目的とした職業教育の充実を目標とし、1922年の『台湾教育令]]改正の差異に、職業学校として農業、工業、商業学校を定めた。これらの実業学校は当初2年制であったが、太平洋戦争勃発後は4年に修業期限が延長され、台湾における技術人員の育成が行われた。 交通 総督府は台湾の近代化のために都市整備と交通改善を実施している。その中で鉄道建設が最重要政策とさ、また一定規模を有する道路建設も重要項目として整備された。交通の改善により台湾の人口は1895年の260万人から1945年の650万人に増加し、台湾の南北を連絡する交通網は台湾社会の大動脈として現在も利用されている。 鉄道 1899年11月8日、台湾の鉄道を管轄した鉄道部が総督府内に設立された。成立後総督府は台湾での鉄道建設を積極的に推進し、1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となった。 鉄道部はその後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収した。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていた。 このほか総督府は北廻線、南廻線、中央山脈横断線などの調査も行ったが、これらの新規路線は太平洋戦争の激化により計画にとどまっている。また民間企業による鉄道建設も進み、糖業鉄道、塩業鉄道、鉱業鉄道などが軽便鉄道として台湾全域を網羅し台湾における交通の要となっていた。 国民政府により台湾の資源を収奪した植民地時代として否定的な評価が行われるが、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となっている。現在台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下したが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されている。 道路 鉄道の整備に比べ、日本統治時代の道路建設は積極的なものでなかった。濁水渓や下淡水渓(現・高屏渓)など比較的川幅の広い河川への橋脚整備が未整備であった。しかし日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替された。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていた。 また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていた。 港湾 台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として総督府は基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用が可能な近代的港湾施設が整備された。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されている。 水利事業 日本統治時代、台湾の主要産業は農業であり、水利施設の拡充は台湾経済発展に重要な地位を占めていた。もう業方面では地籍登録事業により台湾の耕地面積を確定させた後、水利事業の整備を推進した。 1901年、総督府は『台湾公共Template lang?規則』を公布、以前からの水利施設を回収すると共に、新たに近代的な水利施設を建設することをその方針とした。これら水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現している。 嘉南大圳 Template main? 台湾南部に広がる嘉南平原は大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、秋から冬にかけては荒涼とした荒野になっていた。総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大となる烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出した。 発電事業 台湾での工業化を推進するために整備が進められた台湾での本格的な発電事業は、1903年2月12日に土倉龍次郎により台北電気株式会社の設立に始まる。深坑を流れる淡水河の支流である南勢溪を利用した水力発電所を建設し、台北市への電力供給を開始した。その後台湾の近代化を推進する総督府は官営の発電所として台北電気作業所及び亀山水力発電所を1905年には台北に、翌年には基隆への電力供給を開始している。その後1909年に新店渓の溪發電的小粗坑発電所、高雄の竹子門発電所、1911年には台湾中部の后里発電所などが次々と建設された。 1919年、台湾総督明石元二郎は各公営・民営発電所による台湾電力株式会社を設立、より大規模な水力発電所の計画を立案し、当時アジア最大の発電所建設のための調査が着手された。その結果日月潭が建設予定地に選定され、日月潭と門牌潭に落差320mの水力発電所建設が着工された。この建設のために縦貫線二八水駅(現・二水駅)より工事作業地区までの鉄道を敷設し物資の輸送を行った。これが現在の集集線の前身である。工事は第1次世界大戦後の恐慌の影響を受けるなどあったが、1934年に日月潭第一発電所が完成、台湾の工業化の基礎となる電力供給が実現した。その後増加する電力需要に対応するため、1935年に日月潭第二発電所、1941年には万大発電所の建設が開始されたが、太平洋戦争中のアメリカ軍の空襲にで被害を受け工事が中断した。 社会改善事業 阿片対策 1895年に日本による台湾統治が開始されると当初阿片吸引は禁止された。しかし阿片吸引人口が多く、急進的な禁止政策は社会不安を招くとし、即時禁止政策を漸禁政策へと転換させた。1897年1月21日、総督府により『台湾阿片令』が公布されると、総督府は阿片を専売対象品目とし民間の販売を禁止し、また吸引者には免許を発行し、新規免許の発行を行わないことで時間をかけた阿片撲滅を図った。1900年の調査では阿片吸引者は169,064名(総人口の6.3%)であったものが、1921年には45,832人(1.3%)とその政策の効果が現れている。また財政的にも阿片専売による多額の歳入があり、台湾経済の自立にも寄与する政策であった。 公共衛生 日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけた。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用した。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていた。 設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用された。 また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていた。 歴史的評価 日本統治の功罪 鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増大した。戦争になると台湾の豊富な食料物資が内地への供給に貢献したほか、高雄には飛行基地が建設され、徴兵制が敷かれるなど、日本人と同様に台湾人も兵士や労働力として活躍した。1945年には選挙法が改正され、台湾から国会議員が選出される道も開かれたが、敗戦により実現はされなかった。また満州国の経営や中国との折衝で台湾人が登用されるケースも多かった。 しかし台湾人の登用はあくまで日本人の補助としての存在であり、多くの有形・無形の差別があった。例えば初等教育においては日本人の通う小学校と、現地人の公学校は明確に区別された。そして高等教育機関進学や官吏登用では制度的に差別された上、日本人の間には台湾人に対する差別意識も存在しており、それを解消すべく戦時中には皇民化政策により日本人との同化が義務化されるなどの政策が行われた。 更に植民地人の間でも差別は行われ、古代、天皇家と姻戚関係があったことなどから朝鮮人は二等国民とされ、台湾人はその下の三等国民とされた。 また、当時理蕃政策と称された台湾原住民に対する統治政策では、原住民の教育水準に一定程度の向上を見ることができ、法的には日本人や中国語系住民とほぼ同等の権利の保障が認められるようになった。しかし現実には社会的な差別は根強く残存していた。 更にこうした差別や、経済的・政治的格差に対する反発から、植民地統治に反抗する武力蜂起も数多く起こった。こうした武力蜂起は日本警察や軍隊により悉く鎮圧され蜂起に参加した者の多くは逮捕、もしくは殺害された。特に、日本統治時代最大規模の武力蜂起である霧社事件の際は、鎮圧への毒ガス使用が検討された。また、蜂起した原住民部族に対する出草(首狩り、理蕃政策の一環として法律で規制されていた風習)が、鎮圧に協力した部族に許可された。このため、事件前に1400人だった霧社地区の人口は、事件後300人にまで減少し、消滅した。 1942年には台湾で陸軍特別志願兵制度が始まり、1944年には徴兵制も実施され、それに伴い、台湾からも衆議院議員を選出できるようになった。約20万人余りの台湾人日本兵(軍属を含む)が日本軍で服務し、約3.3万人が戦死または行方不明となった。先住民族からなる高砂義勇隊は南方戦線で大きな活躍を見せた。しかし日本は国交が無いことなどを理由に補償を拒み、戦後40年以上経った1987年に、漸く一律200万円の弔慰金が支払われた。しかし毎月30万円の遺族年金が支払われている日本人兵士に対し、日本国籍を離脱した台湾人兵士にはそれ以上の支払いはなく、批判する声もある(高金素梅など)。 また日本ではインフラ確立など、植民地統治のプラス面が評価されがちだが、それに対し結局は台湾人でなく日本人の利益を第一義に考えての投資、優遇された日本人商人による搾取、日本の食糧庫・南進基地に位置づけられ、工業化が遅れたなどの批判もある。 戦後の評価 台湾では戦後、国共内戦に破れ遷台した中国国民党が、それまで台湾に住む本省人を弾圧(白色テロ)し、1947年に発生した二・二八事件はその最大規模のものである。大陸反攻を国是とし軍事を優先とした政策を実施したため、台湾のインフラ整備は後回しにされた。このため一部の本省人は「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と大陸からやってきた人間を揶揄し、日本の統治時代を部分的・相対的に肯定された。 前総統の李登輝は国民党の独裁体制を廃し台湾内での民主化を導いた。李登輝の時代に監修された台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」では、従来地方史として軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じた。ここでは日本の統治時代を「苛烈な」時代であったが、現代の台湾の基礎は日本の統治時代に整備されたと総括している。 総統引退後の李登輝は台湾の中華民国(中国)からの独立を訴えた。その中で国民党批判と共に日本の統治政策を再評価を訴えている。 一方で国民党や親民党は李登輝の日本評価を売国的であると批判し、日本統治時代についても日本による搾取に過ぎなかったと位置付けた。また民主進歩党では日本統治に対して同情的ではあるが、植民地主義は現代において認められないとの立場を表明しており、日本統治を評価しつつも、その根底に存在した植民地主義を批判する立場を取っている。 日本統治時代の台湾での評価は朝鮮に比べて肯定的であり、その影響もあり日本人は台湾には好意的である。 脚注 Template 脚注ヘルプ? 参考文献 遠流台湾館 『台湾史小事典』(遠流出版公司 2000年)台湾の国民中学での副読本。 廖宜方著・陳国棟監修 『図解台湾史』(易博士文化 2004年) 周婉窈 『台湾歴史図説』(聯経出版公司 2002年) 関連項目 Template Commonscat? 台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律 台湾総督府 日本統治時代の台湾行政区分 台湾総督府警察 台湾銀行 台湾協会学校 台湾放送協会 台湾の神社 台北市民歌 茶工券 日本統治時代 日本統治時代の朝鮮 親日 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月17日 (日) 12 01。
https://w.atwiki.jp/thedeepchorokh/pages/12.html
1919年 1月 11日、イギリスのモニカ・ヴァイスヴィント将軍が徴税官ススム・ヒノモトをバトゥミの知事に任命。 12日、イギリス軍からツムギ・シライシ・ナンヤイネにナンヤイネの統治権が移譲。 2月 グルジア民主共和国で議会選挙が行われ、定員130人の内―メンシェヴィキが109人当選し、メンシェヴィキ政権が成立した。(史実通り) 赤軍が白軍の重要地域であるドン軍管州を占領。 3月 ナンヤイネと白軍間でアカリ・ススム協定(バトゥミ協定)が締結。 ドン管区で赤軍に対しヴョーシェンスカヤの蜂起が発生。 アナトリア半島黒海沿岸部の数都市がフランスにより占領。 オスマン帝国南東部がイギリスにより占領。 カルス共和国がグルジアに侵攻しグルジア軍に撃退される。 4月 白軍がウクライナ東部を占領。 イズミルがギリシャにより占領。 カルス共和国がナンヤイネに侵攻しグルジア軍に撃退される。カルス共和国滅亡。 新貨幣ヤイネ発行。 ナンヤイネ・メンシェヴィキ第1回党大会開催。 5月 19日、トルコ革命勃発。 白軍によりクルスクが陥落。 赤軍によりベルミが陥落。 ナンヤイネで農地改革が発令。 カルス共和国分割を巡りカルス会談が開催 6月 ヴォロネジが陥落。多数の赤軍将校が白軍に投降する。 ロシア北西軍フィンランドに退却。 アルメニア第一共和国によりアラス共和国滅亡。(史実) 7月 赤軍によりウファが陥落。 白軍によりオリョール、トゥーラが陥落。白軍がモスクワ目前までに迫る。 アメリカからカフカース調査団が派遣。 ナンヤイネ徴兵令発令。 8月 モスクワ攻防戦開始。 ナンヤイネにガージャール朝から知識人が亡命。 赤軍によりエカテリンブルクが陥落 9月 ネネカ・パシャがアンカラから撤退。 ナンヤイネ・メンシェヴィキの入党審査が厳格化。 フランス大使館がバトゥミに設立。 ガージャール・ナンヤイネ軍事協定締結。 10月 赤軍により臨時全ロシア政府の首都オムスク陥落。 ツムギ親衛隊成立。 アゼルバイジャンがカスピ海艦隊の一部を購入。 ナンヤイネ共和国憲法公布。 アナトリア半島南東部が英軍から仏軍へ移管。 11月 白軍によりモスクワが奪還されロマノフ朝復興宣言がなされる。 ギリシャ国王が一般女性と結婚しローマへ駆け落ちする。 ナンヤイネで初のラジオ放送がなされる。 グルジアでカフカス3カ国間会議開催 12月 フォーク将軍イルクーツクにて処刑。残存兵は少ない犠牲で撤退に成功。 ネネカ派がマラティヤで勝利。アルメニアが戦線に部分動員をかける。 アメリカの石油メジャーがアゼルバイジャンと契約。 バクー-トビリシ-バトゥミ鉄道開通。 ナンヤイネ各地で診療所が再建。 1920年 1月 フランス軍、アナトリア半島南東部から撤退。 ナンヤイネで戴冠式が挙行、王政へと移行する。 2月 オスマン帝国でクルド人の民族自決を認める布告が出される。 ナンヤイネでロシア語使用の拡充がなされる。 3月 シリア国民会議がヒジャーズ王国王族を国王としてフランス委任統治領シリアで独立国家を作り始める。 ナゴルノ・カラバフ紛争が再発しアゼルバイジャンがカラバフの半分を占領する。 ボリシェヴィキがバトゥミで活動を開始する。 4月 ポントス蜂起がトルコ北部沿岸部全体に瞬く間に広まる。 尼港事件をきっかけに日本が東部戦線への出兵を強化する。 5月 アダナが陥落しフランス軍が撤退する。 ガージャール朝のシャーがナンヤイネに訪問する。 ザカスピ暫定政権がほぼ赤軍に攻略される。 6月 ロシア東部軍がカザフ草原へ東進。 グルジアがナンヤイネに対して最後通牒を通告。 7月 ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国が滅亡し赤軍の支援の下で、ブハラ人民ソビエト共和国とホラズム人民ソビエト共和国が成立。 シライシ石油会社設立。 ナンヤイネ王国第1回選挙実施。 8月 フランス、セーヴルにて講和会議が行われる。 イスラーム連盟成立本部はメッカとメディナに置かれる。 10月 グルジア・ナンヤイネ戦争の開戦 女王ツムギのロンドン演説 アイルランド問題についてと引き換えを約束する 11月 バトゥミ陥落。グルジア軍バトゥミに入場 アブハジアのジハード宣言で、大反乱。ロシアとの陸路国境が封鎖される アルメニアがグルジア国境に兵士を集めて牽制 アゼルバイジャンがグルジアに対してジハード宣戦布告。貿易停止、国境兵派遣などを実行し さらに総動員開始 イスラーム連盟会議。ヒジャーズ王国の決議案によりジハード宣言。経済制裁。オスマン帝国はボスポラス海峡の閉鎖を明言 キリュウがアーサー評議員への拷問を指示 オスマン帝国カリフペコリーヌ。イスタンブル~アルトヴィン~ナンヤイネ地域へ4000のカリフ軍と共に移動 女王ツムギ、アイルランドにてアーサー・グリフィス会談。ジョージ5世会談。モニモニ母と会談。リンクと会談。ローマ会談を準備 ナンヤイネ北部沿岸地域の住民反乱。グルジア軍によって鎮圧され虐殺ジェノサイド。死者の一部は凱旋門として飾られる アゼルバイジャンが総動員完了。アゼルバイジャン・グルジア戦争勃発 英愛のローマ会談に女王ツムギ立ち合い 12月 女王の親衛隊、カリフ軍の共同作戦「深きチョロヒ作戦始動」 大勝利でバトゥミ奪還 国防軍の逆襲作戦クーロケダの戦い(冬の眠り作戦)始動。大勝利。グルジア軍の組織的勢力消滅。国防軍と評議員たちもバトゥミ帰還 ナンヤイネが北部沿岸地域を奪還。グルジアに占領された国土の全てを解放する 南ロシア軍がグルジアと断交を宣言。貿易を中止し、ドルジ将軍にカフカース方面軍を任せる。アカリ大佐がカフカース全権大使に任命される グルジアでクーデター。バーン・ラインハルトがキリュウを排除。即時講和・領土保全・経済制裁解除のために政権を率いる アゼルバイジャンがグルジアと停戦。3日後にアルメニア参戦の影響で停戦破棄。再度侵攻開始 アルメニアがグルジアに宣戦布告 国連総会で女王ツムギとユニの演説により、理事会で調査団派遣が決議される(1921年1月以降に出発予定) アルメニアがグルジアのトビリシ南の山岳地帯を奪取し、アルメニア系住民を扇動しつつトビリシに侵攻 1921年 1月 ナンヤイネの臨時評議会でアルメニアとの不可侵条約を更新しないまま、アゼルバイジャン寄りの中立を保つことに トビリシ攻防戦によりアルメニア軍がトビリシ破壊。バーンが自殺し、多数の議員と市民が死亡。グルジア民主共和国滅亡 アルメニア軍によってキリュウ傀儡政権樹立(首都:ヴァジアニ) アルメニアがアハルツィヘ郡の一部を占領。トルコ系など8000人の虐殺。激怒したカリフが軍をアルメニアに向ける アゼルバイジャンが第二次サルティチャラの戦いで、グルジアの残存戦力を殲滅。トビリシまで到達 アルメニア軍とアゼルバイジャン軍による第二次トビリシの戦い。アゼルバイジャン勝利で、トビリシ大破壊が起きる グルジア軍4000とランスロットがナンヤイネに亡命 ナンヤイネがアハルツィヘ西3村(アディゲ、ウデェ、アバストゥマニ)を占領し、ポティ港に進撃。ポティはランスロットの説得で降伏 キリュウが監禁場所から脱出。ヴァジアニ村で蜂起。アゼルバイジャン軍に囚われ、ナンヤイネに護送される グルジア西部でラインハルトの要請でコウメイ政府樹立。ナンヤイネを国家と認め、講和を前提に休戦協定を求める アゼルバイジャンがグルジアのルスタヴィ占領後に、列強の仲介を受け入れてアルメニアと停戦受諾 英愛仲介成立 女王ツムギ、ナンヤイネに帰還。カリフと面談。アルメニアとの戦争を止めるため、ヴァチカンの仲介取り付け 2月 ナンヤイネがグルジア戦争の休戦条約(アルトヴィン協定)成立。ナンヤイネ・グルジア戦争終結 アゼルバイジャン・アルメニア休戦条約(ルスタヴィ協定)成立。英仏羅波による監視成立 カリフ・アルメニア協定成立。これを受けてカリフ軍が進撃を止めて解散。アハルツィヘで教皇とカリフの歴史的会談が行なわれる 3月 アーサーとツムギがユニエイト教会を立ち上げ、正教からカトリックに改宗する オスマン帝国の反乱が完全に終結。ネネカ・パシャが自害する クロンシュタットで水兵たちが反乱とストを開始。フランスが支援する 4月 赤軍がクロンシュタットの反乱が広がるの抑え込む。その際にペトログラードで9万人の市民が犠牲に。水兵たちは島に退却 白軍がノブゴロドを奪取する。赤軍はペトログラードを放棄して東部へ撤退する エンヴェルがネネカ派の残党を率いて亡命希望。ナンヤイネ政府は約束通り残党を受け入れるがエンヴェルは受け入れず。彼は赤軍へ イスタンブル協定が結ばれ、オスマン帝国の領土が更に削られる 対白軍安全保障の一環でアルメニアとの協力を取り付け、アゼルバイジャン・アルメニア・ナンヤイネの小協商が成立 ナンヤイネ―グルジアの講和交渉が決裂する。コウメイ政権が白軍に土下座する方針に ランスロットが亡命将兵らを率いて進撃し、コウメイ政権がクタイシに撤退する 赤軍とカフカースの指導者間で10年間の不可侵協定を締結(SM(ススムミコ)=RS(モロトフスターリン)協定) ウクライナの独立派やクロンシュタットの反乱勢力と協力関係に 5月 ランスロット軍がクタイシを攻略。コウメイ政権が壊滅。ミカ王女が救出され、ナンヤイネに送られる ダーダネルス・ボスポラス海峡が事故の名目で封鎖され、ロシアの海上輸送ルートが途切れる カリフの呼びかけでロシア内のイスラム教徒が動揺する キャルとマクギリスのカフカースの独立をかけた交渉が決裂し、英国が反白軍に動く。セヴァストポリ港が破壊される ロシア帝国とカフカース連合軍が開戦。グルジア軍がオセチアを攻略。アブハジアと山岳共和国が連合軍に降伏 マハチカラ戦線で、アゼルバイジャン軍が北カフカースのドルジ軍に完勝する 6月 タカネ=フョードロヴナ皇太后の仲介で講和会議が開催。ロシア・オスマンおよびカフカース3ヵ国で黒海条約が結ばれる カフカース諸国の独立が認められ、グルジアの占領地の整理や存続が決まる 女王ツムギがナンヤイネ本土に加え、グルジア諸邦(旧ズグディディ、オズルゲティ、セナキ郡)、アハルツィヘ自由都市の統治者となる 赤軍はこの結果に激怒するものの、不可侵協定は軍事的メリットを鑑みて維持する ルドラサウムとキリュウの戦犯裁判が行われ、虐殺の責任で死刑判決が下る。多くのグルジア軍捕虜が重罪となる 7月 国連調査団とカフカス問題を調査。ナンヤイネ内でのグルジアによる虐殺が認定される アーサーがスパイであることを告白。評議会を辞任する。後任にハメドリが推薦したデルウハが就任 アルトヴィン・オルティンスキー郡が住民投票を経てナンヤイネに編入される ナンヤイネ・グルジア戦争(ナンヤイネ独立戦争)の死者23000人を弔う国立墓地が決まり、追悼式が行われる 評議会がアハルツィヘの都市計画「ミル・ミール」を承認する 10月 赤軍の大反攻で白軍が潰走。マクギリス将軍は亡命に追い込まれる イレイナがイルクーツク以東まで撤退し、日本を後ろ盾に緩衝地帯となる国の建国を目指す 12月 ボリシェヴィキ政権の通達により、カフカース諸国は独立こそ維持されるものの半ばソ連の保護国・衛星国と化す 1922年以降 1922~31年 ナンヤイネの黄金期 栄光と矛盾 欲望と格差の拡大 ツムギ女王とマコト王子の結婚。エジプトとは準同盟国に ナンヤイネは急速な経済成長を遂げるが、戦争の爪痕の色濃い北部は人口流出でとり残される 独立派(王党派)と社会主義派が政権を担う。ミコとアリス(初代)が政治の中枢に 1932~39年 アゼルバイジャンの野望 再び始まるカフカースの分断 1929年に始まった世界恐慌の影響がカフカースでも本格化。ナンヤイネの工業生産は最盛期の1/5まで落ちた時期も 新グルジア王国に対して、アゼルバイジャンはクタイシ以東を要求し、アルメニアは治外法権などを要求。アルメニアの要求が通る ナンヤイネは、選挙に圧勝した独立派(王党派)が社会主義派を追い出し、事実上の独裁政権に。チノが議長に就任してチノーアリス体制に 独立派はハンガリーを見習った政治体制の構築を図り、権威体制を確立。日米の政権を見習うなどして、不況から脱出 インドで独立運動。女王ツムギの仲介により5-10年の独立を前提として、イギリス連邦に加盟。イギリスはこの影響で弱体化 1939~45年 第二次カフカース大戦の地獄 ソ連の侵攻 新グルジア王国が周辺国と組んでアゼルバイジャンに宣戦布告。ナンヤイネも出兵し、イスラーム連盟との仲が悪化する。誠とも離婚寸前に 1943年に第二次カフカース大戦終了。アゼルバイジャンが第一次カフカース大戦で得た領土を全て喪失。この戦争で数十万の死者が出る ナンヤイネは協力の見返りでクタイシを割譲 1939年にインドで、大戦参加を拒否する大規模ストライキ。英国が屈服して独立が確定する 独ソ戦で日本は動かず。大戦にあまり関与しないまま極東利権を守って体制を維持する ウラジオストックを首都にした極東ロシア帝国(イレイナが建国に関与。人口1500万人)が、日本を後ろ盾にして極東を支配する ドイツに勝利したソ連がカフカース諸国を保護国化。世界大戦と第二次カフカース大戦で疲弊した欧州やカフカース諸国になす術なし 1945~59年 カフカース分割 クタイシ動乱の悲劇 1945年、ススム副議長が引退。女王から公爵位を贈られる 独立派が単独過半数を獲得。アリス2世が主導権を握り、チノが副議長として評議会入り アリス2世と一部関係者により、対ソのために原爆作成を目指す「テトラグラマトン計画」が極秘に始まる 北部沿岸地域が核開発の実験場に選ばれ、ミコが悲憤慷慨。彼女が共産主義に転向する一因になる 戦後復興と経済は安定するものの、検閲を強めて集会・表現の自由が抑圧される 平等・自由・友愛を求めて、10万人以上が集まるクタイシ動乱が起きる。改革要求が通り、集会の自由や検閲緩和など漸進的な改革が実施される 1947年、ハメドリ評議員が引退 1954年、宰相キャルが死去 1959年、ペコリーヌがカリフを辞任 1960~72年 バトゥミの春と左右テロ 表現の自由の促進により過激な意見の抑圧が緩み、左右の過激派が跋扈する時代に 選挙制度の改革を成し遂げたアサミが、陸軍大将を辞めて評議員となる 独立派が第1回以来勝ち続けた選挙に惨敗。トルコ派に議長を譲りつつ、連立与党を形成。共産主義派が第一党に 民主化の推進や自由と文化は拡大するが、経済は停滞、治安は悪化、軍事力は低下する 1965年、リーボック評議員が引退 1968年、バトゥミの春。強い請願を受けて女王ツムギは、ナンヤイネ文化の大事な1要素としてイスラームを積極的に公認。同化的スタァ政策が後退 1972~89年 ソ連のアフガニスタン侵攻 ソ連の揺らぎとナンヤイネのイスラームへの回帰 分極化で連立工作も上手くいかず、国王大権でエルドアンと三代目ヒノモト侯爵が議長に選出される 1975年、30年渡って評議会の副議長を務めたチノが電撃解任される 1976年、外交陳情周りを行っていた女王ミカがオスマン帝国の地震に巻き込まれて死亡 1979年、アリス2世がイランおよびグラマン社から秘密裏に15機のF-14を導入する ソ連がアフガニスタンに侵攻。女王ツムギは30年ぶりにイスラーム連盟会議に出席して演説。カリフはアフガニスタン支援をウンマとして行うと宣言 ナンヤイネ政権もアフガンに義勇兵・秘密の物資支援を行う 1980年、ユニ評議員が引退。数年後に死去する 1985年、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカの開始 1988年、ミコ評議員が死去 ソ連の衰退でナンヤイネの各勢力が動揺。グルジア系の民族意識が強まり、グルジア諸邦の今後の展望(独立か残留かなど)が議論される 女王ツムギの1人息子が死去。ツムギの孫(ペコリーヌの姪が母)が皇太子となる 1989年以降 冷戦の終了 ナンヤイネの新たなる出発 ソ連崩壊で、1つの連邦は12の共和国へと生まれ変わる。東欧、モンゴル、カフカースから駐留軍が去り、諸国が自由を手に入れた ナンヤイネで国民投票。王政の維持とグルジア諸邦の残留が決まる。女王ツムギの退位 国権の最高機関は評議会から王国議会に移り、国王大権も大部分が廃止され、実質的にも立憲君主制に移行 史実 1919年以前 15世紀後半 バトゥミがオスマン帝国に占領される。バトゥミの名称が定着したのもこの時期。 1863年 オスマン帝国がラズィスタン県の中核都市にバトゥミを指定。バトゥミの街が拡張され、領事館などが設置される 1877年 露土戦争開始、バトゥミを巡る争いも発生する。 1878年 ロシア、オスマン帝国間でベルリン条約が締結。バトゥミ、カルス、アルダハン、ドゥバヤジトはロシア帝国のものとなる。 1883年 ドミトリー・メンデレーエフの提案によるバクー-バトゥミ間のパイプラインが完成、以降バトゥミは急速な発展を遂げる。 1901年 バトゥミが社会民主主義運動の中心地となり、スターリンがバトゥミを拠点として活動を開始する。 1902年 1月にロスチャイルド製油所で大規模なストライキが行われた。その後もカフカス地域ではバクーやオデッサでのゼネストのようなストライキが頻繁に発生する 1905年 バトゥミでゼネスト発生。 1912年 武器密輸の監視の為にバトゥミに砲艦が常設される。 1914年 第一次世界大戦が勃発。ロシア帝国が中東戦線に進出。カフカス地方が前線となる。 1917年 2月、ロシア帝国で二月革命が勃発。 3月、カフカス特別委員会(オザコム)が設立。 11月、ロシア帝国で十月革命が勃発。 12月、エルジンジャン休戦によりロシア軍がカフカス地方から撤退。 1918年 1月 2月 3月 ブレスト=リトフスク条約が締結。ロシア帝国がトルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄。 オスマン帝国とロシア帝国とザカフカース委員会(セイム)の間でトレビゾンド平和会議が開始する。ザカフカース委員会はバトゥミ、カルス地域の独立を主張するが却下される。 3日赤軍は、バトゥミ、カルス、アルダハンのイスラム教徒にオスマントルコの支配下での自決権を容認。 30日、ナゴルノ・カラバフを巡り、アルメニア・アゼルバイジャン戦争が開始。 4月 14日、オスマン帝国軍がバトゥミを併合。 22日、ザカフカース民主連邦共和国が成立。 5月 11日、山岳民主共和国がバトゥミでトルコの支援の元、独立宣言。 26日、ザカフカース民主連邦共和国が解体。グルジア民主共和国が独立宣言。 28日アルメニア第一共和国が独立宣言。アゼルバイジャン民主共和国が独立宣言。ポティ条約が締結されドイツとグルジアが結び付きを強める。 6月 4日、バトゥミ条約が締結され、オスマン帝国はグルジア民主共和国に対して、バトゥミ、アルダハン、アカルチケ、アカルカラキの所有権の放棄を強要。バトゥミのオスマン帝国による実質的な統治が開始 7月 8月 9月 10月 30日ムドロス休戦協定が締結され連合国とオスマン帝国の戦争が終結する。 11月 28日、アルメニア・アゼルバイジャン戦争が終結。 12月 7日~18日にかけグルジア・アルメニア戦争が行われるが両者共に目的を達成出来なかった。イギリスの仲裁により終結 1919年 1月21日、イギリスがオスマン帝国から統治を引き継ぎ、ジェームズ・クック・コリス将軍をバトゥミの知事に任命した。そして、ロシアの士官候補生プリリディアン・マスロフが議長を務めるバトゥミ評議会を設立した。 4月、イギリス軍による軍政が開始され知事は評議会を解散する。 1920年 1月、ロンドン会議により協商国からザカフカース諸国に事実上の独立承認が与えられる。 3月、南ロシア軍は敗退を繰り返しこの月までに北カフカ―スより撤退。クリミア半島まで追い詰められる。 4月、アントーン・デニーキンが南ロシア軍総司令を辞任。イギリスへ亡命する。南ロシア軍の指揮権はピョートル・ヴラーンゲリに引き継がれる。 4月、イギリスがバトゥミを自由港とすることを宣言。国際連盟の保護領としてイギリス、フランス、イタリアによる共同統治が行われる事が決定される。 4月27日、北カフカースで南ロシア軍を打ち破った赤軍がアゼルバイジャンへ侵攻開始。翌28日にバクーが占領されアゼルバイジャン民主共和国は滅亡。アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立。 5月7日、モスクワ条約(1920)が締結。白軍勢力のグルジアへの亡命を阻止する事を条件にソビエトがグルジア民主共和国の独立を承認。 7月、イギリスが地域全体をグルジア民主共和国に割譲し撤退する。 9月、ザカフカース地方からイギリス軍の撤退がほぼ完了する。 11月7日~11月17日、赤軍がクリミア半島に対し攻勢作戦を決行。この作戦によりヴラーンゲリは、南ロシア軍残存戦力をクリミア半島より撤退させ黒海沿岸より白軍勢力が駆逐される。 1921年 2月16日~3月17日、赤軍がグルジア民主共和国へ侵攻開始。17日にグルジア・ソビエト社会主義共和国が成立。 2月23日~3月16日、トルコ軍がグルジア民主共和国へ便乗侵攻。アルダハン、アルドヴィンが2月中、バトゥミが3月中に占領される。 3月18日、赤軍に指揮されたグルジア・ソビエト社会主義共和国の軍隊によってバトゥミが再占領される。 10月13日、カルス条約により、トルコ共和国がバトゥミ港を自由に使用する権利とグルジア・ムスリム人に自治権を付与するという条件で赤軍にバトゥミを割譲。バトゥミはアジャリア自治ソビエト社会主義共和国の首都になる。
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祖国の為に 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)米領《べいりょう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|隻《せき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#感嘆符二つ、1-8-75] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]一、混血児ユキヲ[#「一、混血児ユキヲ」は中見出し] 「それじゃあ桜の名所は?」 「吉野」 「鹿《しか》のたくさん放し飼いしてある所は?」 「奈良」 「みんなあたってるわ、ユキヲさん。もういつお国の人に会っても大丈夫よ」 ここは南洋マーシャル群島のはずれ、米領《べいりょう》ミッドウェイ島の西南にある、ウェイク島という大きな島である。マーシャル群島は日本の委任統治だが、それとほとんど接しているこのウェイク島は、ミッドウェイと同じくアメリカ領地で、沿岸風景の美しいのと、パゴラという港に大きな真珠貝の養殖場があるので有名だった。 ユキヲの父はアメリカ人で、真珠会社の潜水夫をしていた。母は日本人で、ユキヲはたった一人の男の子である。父は、ユキヲが生れる前から日本にいたが、ユキヲが三つの年に、このウェイク島へ移住してきたのだ。 「あら、ユキヲさん、ごらいなさいよ、今日は貴方《あなた》のお父様のお舟があんな沖の方にいるわ」 ジュリアがふいに大きな声で叫んだ。 「どら何処《どこ》?」 「岬の無線電信局の下よ、あの赤いヨットの横のところ」 「あ、そうか!」ユキヲはようやくみつけた、父の乗る真珠採集船は、船腹に白線が二本あるので、すぐに外のと区別ができる。その船はいま、水深の一番深い湾口《わんこう》の水路の上にじっと漂っていた。 「おかしいな、あんな処《ところ》に養殖場があるのかしら、いつもはもっと近いところで仕事をしているのに――」ユキヲは首をかしげながら呟《つぶや》く、ジュリアは賢《さか》しげに頷《うなず》いて、 「そうね、でも真珠貝が養殖場から逃げだしたのかもしれないわ」 「そんなのあるかしら」 二人は顔を見合せて笑った。 [#3字下げ]二、永久の仲よし[#「二、永久の仲よし」は中見出し] その夜、夕食のあとで、 「ユキヲ、良いお話があるからおいで」と母親が呼んだ。 「何です、母さん?」 「もう二三日するとね、日本のお国の人たちに会うことができますよ」 「え?」ユキヲは眼を丸くした。 「それじゃ僕らは日本へ行くの?」 「いいえ、日本の第三艦隊の軍艦が三|隻《せき》、このパゴラへ入港するんです」 「日本の軍艦がくるの? やあ素的だなあ、そうすれば水兵さん達上陸するでしょう?」 「ええもちろんですよ」 「しめた、僕港へ行って水兵さんと握手するんだ、そして日本語で(コンニチハゴキゲンヨロシュウ)って挨拶《あいさつ》をしよう、そして水兵さん達を僕のお家《うち》へお招きするんだ」 ユキヲは眼を耀《かがや》かして、 「ねえ母さん、水兵さん達、僕のお家へきてくれるかしら」 「きましょうとも」母親は新聞をおいて、「そうすれば母さんも、たくさんご馳走《ちそう》をしてあげる代りに、日本のお国の話をどっさり聞かせていただきましょう」 そういって、遠く去ってきた故国日本の山河の幻を追うように、うっとり眼を細めて夜の壁をみつめていた。 日本で生れて、三つの年まで、日本で育ったユキヲは、父がアメリカ人であるにもかかわらず、自分は立派な日本人だと信じていた。ウェイクへきてから十年の余もたつけれど、日本の山や森や、港の風俗や神社の有様などは夢のようにユキヲの頭の隅に残っている。らんまんと咲く桜、雪を頂く富士、松島だの、瀬戸内海だの、それから宮城《きゅうじょう》のある東京だの――。 「大きくなったら何になるの」と訊《き》かれるたびに、 「日本へ帰って軍人になる」と大威張で答えるユキヲだった。そしてほんとうにユキヲは、そう信じているのであった。 「ジュリア」 その翌日、学校から帰るとすぐ、ユキヲは隣邸《となり》のジュリアを呼びに行った。ジュリアはユキヲと同じ年のアメリカ少女で、父はパゴラ港の港務長官をしていた。もう頭毛《かみのけ》が半分白くなっている脊《せ》の高い人で、ふだんは厳《きつ》い顔をしているけれど、機嫌の良い時は道化の神みたいに優しい面白い老人だった。 ジュリアはいつもの水色の服を着て元気よくとび出してきた。 「今日は素的な話があるんだ」 「なあに?」二人は昨日の丘へ登って行った。ユキヲは昨夜《ゆうべ》母から聞いた、日本軍艦の入港する話を、わくわくしながら話した。 「じゃあほんとうに水兵さんをお招きするの?」 「するとも、ご馳走をして、それから僕は真先《まっさき》に(君ヶ代)を歌うんだ。きっとみんな起立して僕に合唱するぜ」 「私も招《よ》んで下さる?」 「きてもいいさ、でもジュリアは(君ヶ代)を歌えるかい?」 「あら歌えてよ!」 「じゃあ練習しよう」ユキヲはそういって胸を張った。 二人は歌った、千代に八千代に、さざれ石の……と、幼いアメリカの少女と、混血児ユキヲの合唱は、碧《あお》い碧い南洋の海を越えて、はるか北、日本の国の人達に響けとばかりに飛んで行った。 「ユキヲさん」歌がおわるとジュリアに、丘の草地にすわって悲しそうにユキヲの顔を見ながら、 「貴方《あなた》が大きくなって、日本へ帰って軍人になれば、もう私のことなんかすっかり忘れてしまうでしょうね?」 「忘れるもんか、僕たち誰よりも仲良《なかよし》じゃないか、兄妹《きょうだい》だってこんなに仲良くはないぜ、僕いつまでだって君のこと覚えているよ、ジュリア、ほんとうだ」とユキヲは勢《いきおい》こんでいう。 「僕が軍人になって、大将になっても、ああウェイク島の丘の上に、あのジュリアが悲しそうにしているな、って思い出すよ」 「そうなったら私……」とジュリアは泣きそうな声で、 「私いつまでもユキヲさんの事を思って、いつもこの丘の上へきているわ、そして貴方が日本で大将になっている事を考えて、一人で貴方の帰るのを待っているわ」 「帰るの? ううん、僕もうウェイクへ帰ってきやしないよ、日本の大将になるんだもの、日本で死ぬんだ」 「そう? じゃあ貴方が日本へゆけば、それっきりもう一生|逢《あ》えなくなるのね」 「うん」さすがにユキヲも悲しくなってそっとジュリアの手を握った。 「大丈夫だよジュリア、僕が日本へ行くのはまだまだずっと先のことだもの、それまでは毎日二人は遊べるじゃないか、元気をお出しよ、そして軍艦が入港した時、どうして日本の水兵さんをもてなし[#「もてなし」に傍点]てあげるか、それを二人で考えようよ」 「そうね、それがいいわ」 二人はすぐに元気をとり戻した。 [#3字下げ]三、僕は日本人だ[#「三、僕は日本人だ」は中見出し] 明日の朝、いよいよ日本の軍艦がパゴラへ入港するという前の晩だった。 夕食がすむとすぐ、珈琲《コーヒー》を飲むのもそうそうにして父親は、 「ちょっと出かけてくる」といい残したまま外へ出て行った。この五六日、ほとんど毎夜のように外出して、夜更《よふけ》でなければ帰らぬ父であった。 「明日はいよいよ日本の軍艦がくる、日本の水兵さんと握手ができる」そう思うと父のいない淋《さび》しさも忘れて、ユキヲは自分の寝室へ入って行った。しかし嬉《うれ》しさで眼が冴《さ》えて、なかなか眠れない、時計が九時を打ち、十時を打つのも聞いた。 「ユキヲさん」 窓の硝子《ガラス》をコツコツ叩《たた》きながら、自分を呼ぶ声がするので、顔をあげて見ると、外の闇《やみ》の中からジュリアが覗《のぞ》いている。急いで寝台《ベッド》を跳下《とびお》りて窓をあける、 「ジュリア、どうしたのこんな夜更に?」 「シ、黙って!」ジュリアは慌《あわ》ててユキヲを制した。 「大変な事ができたの、早く私の家へいらっしゃい」 「なにさ、大変なことって」 「早く!」急《せ》きたてる様子があまりに変なので、ユキヲはそのまま窓から外へとび出した。黙ってついてこいという合図なので、ジュリアの後から行くと、邸内の闇を這《は》うように、やがて港務長官デビス氏の室《へや》の外へ出た。 「中をごらんなさい」ジュリアが囁《ささや》くので、伸上《のびあが》って窓から覗くと、デビス氏の外二三人のアメリカ海軍将校にまじって、自分の父がいるのをユキヲは発見した。 「あ、父さんがいる」 「しッ」ジュリアはユキヲの声を抑えて、そっと庭の片隅へ連れて行った。 「ユキヲさん、あの人達が何を相談しているかわかりますか?」 「わからない、わかる筈《はず》がないよ」 「あの人達はね、明日の朝入港してくる、日本の第三艦隊の軍艦を、敷設《ふせつ》水雷で爆沈させようとしているんです」 「え? そ、それは本当かい?」さっと顔色を変えるユキヲに、ジュリアは低い声で話をはじめた。 アメリカ側のスパイは以前から、機会があれば日本の戦艦の二三隻を、過失と見せかけて爆沈してやろうという計画をたてていた。そこへこんど第三艦隊の戦艦|朝富士《あさふじ》が巡洋艦二隻をしたがえて、練習航海の途次ウェイク島へ寄るという報告がきたので、パゴラ湾口に水雷を敷設して、あわよくば三隻とも、木葉微塵《こっぱみじん》にぶっ飛ばそうと企《たくら》んだのである。 「貴方《あなた》の父さまがアメリカ将校の命令で、二三日前から水雷の敷設をしていたんですって。あの人達はそれを今、私の父さまに報告しているところなんです、ユキヲさん!」 「そうか」 ユキヲは唇を噛《か》んだ。 「それで分った、この間僕たちが丘の上から見た時、父さんは湾口の一番深いところに船を止めて潜水していたが、それは真珠を採るためではなく、水雷を敷設していたんだ」 「それで、日本の軍艦が触れて沈めば、アメリカ演習用の浮游《ふゆう》水雷に触れたのだ、といってごまかす積《つも》りですって!」 「卑怯《ひきょう》だ!」ユキヲは叫んだ。 「堂々と戦って撃沈するなら知らず、港へ水雷を仕掛けて、ふい討《うち》をするなんて卑怯だ、よし、僕は黙ってはいないぞ」 「どうするの、ユキヲさん」 「止めるんです、そんな卑怯な計画はぶち壊してやるんです、僕は日本人だ!」 「私も連れて行って」ジュリアはユキヲの手を握った。 「私、ユキヲと一緒に何でもするわ、連《つれ》て行《いっ》て頂戴《ちょうだい》」 「よし行こう!」 ユキヲはしっかりジュリアの肩を掴《つか》んだ。 「ジュリアも、僕と一しょに!」 そして二人は走りだした。 [#3字下げ]四、ジュリアさようなら[#「四、ジュリアさようなら」は中見出し] それから二時間後。 ふたりはモーター・ボートに乗ってパゴラ湾口にきていた。この間父の船のいた場所は、無線電信局の位置を基準にしてすぐにわかった。 「たしかにこの辺《へん》よ」 「そうだ」ユキヲはくるり裸になって、水音を立てぬように注意しながら海の中へ沈んで行った。水雷の装置をみつけ出して、機雷索から水雷をはずしてしまうというのだ。 沈んで行ったユキヲは、間もなく浮上《うきあが》ってきた。みつからなかったのだ。少し息をやすめてまたもぐった。こうして、十|度《たび》までやったがみつからぬ、そこで場所を変えた。けれどやっぱり無駄な努力だった。 「もう東が白んで来たわ」 「ああ畜生!」ユキヲの心は焦《あせ》りだした。艦隊入港は午前の五時だ、日出前《ひのでまえ》に発見しなければまに合わない、急げユキヲよ! 三時がすぎ、四時になった。 「もう駄目だ」ユキヲは歯噛みをしながら叫んだ、太陽はすでに水平線を割ろうとしている。尋常の手段では最早《もはや》救うことはできない。 「どうしたらいいか」と呟いた時、ユキヲの頭に大きな計略がひらめいた。 「そうだ、その外にない!」決心したユキヲは、驚き怪しむジュリアには構わず、ボートを進めて岬の岸壁へつけた。 「ユキヲ、どうするの?」 「ジュリア、さよならだ、僕はきっと日本の艦隊を救ってみせるよ、でも、そうすれば君とはこれでもうお別れだ」 「なぜ、それはどういう訳なのユキヲ」 叫ぶジュリアを後に、ひらり岸壁へとび移ったユキヲは、手早く服を着ると、 「さよなら、ジュリア」と一言《いちごん》、大股《おおまた》に岬を登って行った。 ユキヲが行き着いたのは、アメリカ海軍の無電局だ。蒼白《そうはく》な顔に、きっと唇を引結んだユキヲは、無言のまま発信室の方へと踏込《ふみこ》んで行った。 発信室には三名の技師が、暑いのでシャツ一枚になってせっせと働いていた。ユキヲは室内へ入るとすぐ、壁へかけてある技師の上衣《うわぎ》のポケットから拳銃《ピストル》を抜取《ぬきと》って、 「立て!」と叫んだ。不意の声に驚いて振向く三名、ユキヲは拳銃《ピストル》を突きつけながら、 「そこを退《の》いて壁の方へきていろ、後ろ向《むき》になって並べ、動くと撃殺《うちころ》すぞ!」 「な、なんだ貴様は」 「饒舌《しゃべ》るな、立て!」三名が渋々壁へ向いて立つのを見ると、ユキヲは脱兎《だっと》のように発信器にとびついた。卓子《テーブル》の上には幸い万国信号表がおいてある。しめたと頁《ページ》をめくって、一字一字を拾いながら発信器にかかった。ユキヲは少年団員《ボオイスカウト》であったから、無電発信の技術は知っていたのだ。 ・・― ――・ ――・・まず第三艦隊の戦艦『朝富士』を呼止《よびとめ》ようと打ちはじめた刹那《せつな》、壁際《かべぎわ》に立っていた一人が、やッと叫びながら組付《くみつ》いてきた。 「うぬ、邪魔するな」叫んだユキヲ、拳銃《ピストル》を取ってがん! がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75] と三発つづけうちだ。三人がばたばた倒れるのを見向きもせず、必死になって『朝富士』を呼んで「パゴラ湾頭に敷設水雷あり、入港を中止せよ!」という通信を、がんがんと打った。 幸運、ほんとうに幸運である、まさに湾へ向って進行しつつあった日本艦隊は、危《あやう》く航路を変えて、港外へ逆航した。 「入港中止せり、第三艦隊」そういう返信を読みとると共に、ユキヲは思わず席をたって、 「万歳、第三艦隊万歳」 と絶叫した。とたんにぐわん[#「ぐわん」に傍点]と耳をうつ銃声、ユキヲは胸を射抜《いぬ》かれて、よろよろとよろめいた。そして振返ると、そこに父が、拳銃《ピストル》を持って立っているのをみつけた。 「ああ父さん」 「ユキヲ」と父親は悲しげにいった。 「お前を殺すのはアメリカ人としての私《わたし》の義務だ、しかし私《わし》は、お前の親としてはお前を褒めてやるぞ!」 「父さん」 「お前は今こそ日本へ行けるだろう、魂となってなあ」 そういうと共に、父親の手の拳銃《ピストル》は、もう一発ぐわん[#「ぐわん」に傍点]と鳴った。がくり倒れたユキヲは、かすかに顔をあげて、 「母さん、ジュリア、日本万歳!」といったが、そのまま静かに死んで行った。 ウェイク島パゴラ湾をのぞんだ丘の上に、小さな白い石碑があって、美しいアメリカ少女が毎日花をささげにきては、いつまでもそこを動かずに泣いているのを、島の人々はしばしば見たという。これこそ南洋の果《はて》に、日本軍艦の危機を救った混血児ユキヲ少年の墓だったのである。椰子《やし》の葉に風《かぜ》薫《かお》る夕べ、今もジュリアは思出《おもいで》のユキヲの墓に、熱い涙をそそいでいるであろうか。 底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社 2019(平成31)年2月1日発行 底本の親本:「少年少女譚海」 1932(昭和7)年11月号 初出:「少年少女譚海」 1932(昭和7)年11月号 ※表題は底本では、「祖国の為《ため》に」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ
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最終統治計画 アンコモン 光 コスト7 呪文 ■次の相手のターンの終わりまで、マナゾーン以外の全てのカードは光文明になる (F)光文明はネクスト・エイジ、パラレル・ヒーローの持つ技術を利用した、全ての文明よりも優位に立つことに成功した。 作者:紅鬼
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昭和冷戦期② 皇紀2633(昭和48/西暦1973)年 カシミール紛争勃発。印度亜大陸を逃れようとした大量の難民がカシミール地方へ流入。中華人民共和国を実効支配するソ連軍とパキスタンに駐留するグレートブリテン軍が撃退の為共同戦線を構築し、難民に対して発砲する事態が多発。 7月25日 大日本帝國、環境資源省発足。職員の多くは兵部省出身者(兵部省隷下の軍需省。軍需物資である稀少資源管理の専門集団でもあり、長期的な軍事的戦略の観点から見た環境汚染の問題にも詳しい為)が多かった。 9月 大日本帝國、支那大陸からの難民流出に備えた軍備方針として、現在の艦隊規模(戦艦16隻から成る世界最大最強の水上打撃艦隊と、世界最多の大中16隻の航空母艦とそれを護衛する対空・対潜駆逐艦及び潜水艦から成る敵根拠地殴り込み決戦強要を基本戦略としていた)を維持し、これらによって支那大陸沿岸からの難民流出を海空戦力による戦略級通常弾攻撃での即時殲滅体制を基本戦略とする国防大綱を発表。海軍戦略として超大国同士の艦隊決戦に備えた睨み合いよりも、明らかに支那・印度の新型インフルエンザ封じ込め戦略を重視した整備方針へと大きく舵を切った方針転換で、諸外国の度肝を抜く。背景には先の大戦に於いて大量の核兵器実戦使用による放射能汚染が大きく、通常兵器での殲滅能力維持が求められたことと、大陸に深入りする程の投射能力を必要とせず、包囲網の外縁付近を必要な時に必要なだけ攻撃出来る能力を常に有することの方が余程重要だったことが挙げられる。 皇紀2634(昭和49/西暦1974)年 5月 カシミール紛争激化。武装難民百万人余りとの間に戦端が開かれ、死を恐れずに前進する武装難民をソ連軍が砲撃したことを切っ掛けに全面衝突。新型インフルエンザ保菌者である武装難民の流出阻止の為、核攻撃の使用すら視野に入れられる。 5月18日 常設国連軍はカシミール紛争への介入を決定。常設国連軍が独自に開発・保有した核弾頭を、アメリカから提供を受けたB-70型超音速爆撃機で投下。武装難民キャンプを丸ごと焼却し、推定50万人余りの難民が短時間で死亡。カラチに展開した常設国連軍航空団が印度亜大陸西部を空襲。 8月 満洲国、支那大陸との国境線に対し大日本帝國と共同で万里の長城を活かした防壁構築を決定。難民流入阻止の為、万里の長城の向こう側に新たにコンクリート製の壁を構築する構想。 11月 第十雄洋丸事件発生。衝突事故により炎上したタンカー第十雄洋丸は、東京湾外へ曳航後に再び大火災を起こし手がつけられなくなったまま漂流する事態となり、急遽連合帝國軍による海没処分が命令される。 しかし出動した駆逐艦の攻撃では埒が明かなかったため、たまたま太平洋上で実弾を搭載したまま訓練中だった近衛第一艦隊所属(当時)の戦艦「大和」に攻撃命令が下る。「大和」は対艦徹甲弾と対空榴散弾を混載した状態で全砲門一斉射撃を行い、駆逐艦隊が梃子摺っていた第十雄洋丸をたった一撃で命中・大爆発させ見事撃沈する。 この時の砲撃シーンと命中シーンはテレビのニュースでも放映され、日本の海軍力に戦艦が航空主兵の現代に於いてもなお存在し続け、かなりの維持費を要求すること(※空母に比べればかなりマシだが)に肯定的な意見が一般的となる。 12月22日 大日本帝國、羽越道新幹線開通。新潟~青森間。 皇紀2635(昭和50/西暦1975)年 大日本帝國、国家の肥大化に対応し、「皇紀2635年体制」と呼ばれる改革開始。 従来、京都・大阪・東京でしか実施されていなかった『都制』の連合帝國全体への導入が帝國議会で可決。連合帝國の主要都市に対し『○都(○の中にはその都市に最適な語が入る。例:『帝都』『商都』)』が付与される。 また省庁も大改編され、全国規模の行政組織は全て帝國高等行政庁に人員を統合・集中し合理化を図る。各上位省庁は単なる予算要求と、宰相に報告すべき意見と権力が一人の大臣に集中するのを防ぐための窓口にまで縮小される。逆に言えば、連合帝國が普通の政府規模では収まらないほど大き過ぎるほどに発展したということになる。 1月13日 常設国連軍は「航空作戦機要求提案」計画で国際共同開発された制空戦闘機「X-FX1」が完成し、要求仕様を完全に満たしていることから採用を決定したと発表。同機を常設国連軍正式名称「F-1」とし、それまで各国から供与された「お下がり」を運用していた常設国連軍戦闘機部隊を、全て同機に転換するとした。 同機は常設国連軍の要求を満たす為、計画に参加した各国による合弁会社(国連技術廠)に設けられた設計チーム(ドリームチームと呼ばれ、その後社名そのものを本当にL.N.ドリームチームに変更した)が担当し、特許を始めとする各種利権に関しても国連が所有する同社が管理し、資金分担比率に応じた使用料が参加国に支払われる形を採っっており、常設国連軍での採用とほぼ同時に参加国各国でも其々の名称での採用が決まった。ちなみに、同機の主な採用国での主製造者及び採用型番、呼称は次の通りである。 ・大日本帝國 日本ルリックィード FAF-35 局地戦闘機「戦隼」 ・アメリカ合衆国 ジェネラル・ダイナミクス F-16 戦闘機「Fighting Falcon」 ・ワルシャワ条約機構 SAAB SAAB 38 戦闘機 「Falk」 3月10日 大日本帝國、九州新幹線、陸奥道新幹線、開通。それぞれ博多~鹿児島間、東京~青森間。北海道、四国道、山陰道新幹線整備決定。 4月 カシミール紛争、形成されつつあった難民キャンプが崩壊し難民がインド亜大陸側へ戻り沈静化。ソ連とグレートブリテン、難民流入阻止の為の「壁」構築をインドや支那大陸との国境地帯に構築することを決定。鉄条網と地雷原、築堤、掘割及びコンクリート製の壁を場所に応じて使い分ける構造。 9月 アメリカ合衆国、「旧式化」したアイオワ級全て(「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」「イリノイ」「ケンタッキー」)を常設国連軍に売却。自らは2年間隔で交互に新型戦艦または超大型空母を起工し、今後24年間を掛けて6隻ずつ戦艦と空母を建造し、実数に於いて戦艦12隻・空母12隻を維持しながら世代更新を図るものとする計画を発表。 11月11日 オーストラリア、豪州危機勃発。ジョン・カー豪州総督によって予算審議停滞を理由にゴフ・ウィットラム首相が解任されたことを以て、形骸化し慣習的に関与しないものとされてきた総督による首相解任に対し、国内で反発が発生。人種的対立や産業構造の偏在(有色人種の多い西部から北部は一次産業比率が高く、荒野を緑化しながら開拓していたが、二次産業や三次産業は東部に集中し、両者の間にロシア革命以来のロシア系移民や、ドイツ本土を脱出出来たドイツ系の移民が低所得者層として南部から中部に跨って分布していた)に、独立しているにも拘らず本国から派遣された総督によって政治に介入されたことへの不満から、州議会が反政府デモに即発される形で一方的な独立を宣言し州境を封鎖し、国連に提訴した。緑化の進むオーストラリアは人類の食糧庫となりつつあり世界各国の目も集まりつつあったため、オーストラリア政府の要請に基づいた軍事介入を躊躇したグレートブリテン政府が妥協する形で、各々が交渉のテーブルに着く。 皇紀2636(昭和51/西暦1976)年 1月1日 オーストラリア、有色人種が大半を占める西部・中西部・北西部が豪州聯邦、ロシア系やドイツ系が大半を占める南部・中東部が南オーストラリア連邦、東部がオーストラリア王国として3カ国に分離独立し、個々に国連に加盟。尚、豪州危機に際して新嘉坡に戦艦を入港させてみたり南洋に艦隊を増やしてみたりして軍事的圧力を掛けてみた大日本帝國と、オーストラリアの分離独立を避けようとしたオーストラリアとグレートブリテン政府との関係性が冷却化する。 3月8日 満洲国、吉林省に隕石が落下。大日本帝國が自国とその同盟国に提供する大陸間弾道弾の早期警戒網は、大気圏内に突入する隕石を探知したものの、主として地球周回軌道から地上を向いて構築されている早期警戒網では、地球周回軌道の外側から飛来する物体を探知し迎撃するのは困難であることから、迎撃には失敗。人類の手が届く範囲は広いようでいて余りにも狭いことが浮き彫りとなる。 皇紀2637(昭和52/西暦1977)年 3月2日 大日本帝國、台湾新幹線開通。台北~台中~高雄間。湖北新幹線、若狭路新幹線、新幹線整備開始。 9月8日 常設国連軍、前年の満洲国吉林省への隕石落下を受け、弾道ミサイル早期警戒網を発展させた「天体危機管理センター」を立ち上げる。尚、同組織の「天体危機」には弾道ミサイル、隕石落下、宇宙ゴミの衝突が含まれており、これらの探知と迎撃・排除システムの構築運用が主任務とされた。 皇紀2638(昭和53/西暦1978)年 大日本帝國、日本ルリックィード社が旧ロッキード社時代に開発したL-1011型機を改設計したYSL-1011-22を発表。大日本帝國勢力圏の旅客航空会社が挙って採用決定を発表する。 皇紀2639(昭和54/西暦1979)年 大日本帝國、大和級以前の戦艦を全て予備役へ順次移行するものとする艦隊計画を始動。大和級、中型空母、敷香級、大型空母の順に隔年で建造を行い実数を維持するものとする。 フランス、分割占領から10年を経て人口が大幅に低下し反占領運動も下火となり、第二次世界大戦から第三次世界大戦に掛けて行われた人民戦線内閣に拠る凄惨な戦争行為が、機密資料も含めて白日の下に晒されフランスという祖国への幻滅に繋がったこと(圧倒的な軍事力で徹底的に破壊され全く逆らえなかったこともあるが)と、周辺諸国が断固として欧州フランスの再統合を認めない方向で結束していたことから、分割占領統治が今後10年間は続行されることが決まる。 自由フランス人民共和国、旧本国からの公的移民船運行の終了を宣言。最終的に2400万人余りが旧本国から移り住む事に。これら大人口を養うため、自由フランス人民共和国ではサハラ砂漠での緑化計画を推し進める。 皇紀2640(昭和55/西暦1980)年 6月 大日本帝國、60年代に一旦は改正された教育大綱を、60年代以降の簡易化路線の結果総合的な学力の低下が露呈したため、「甘やかすだけが人の為ではない」と旧字体を「教養」に摩り替えるなどの施策で新しきも取り入れつつ旧きを残す方向に転換。更に国鉄の半民営化が決定されるが、有事や災害時には軍などの特別列車が優先されると決められる。 皇紀2641(昭和56/西暦1981)年 大日本帝國、大和級の順次改装を開始。装甲の殆どをより単位重量あたりの強度に優れる複合材に換装し、重心を低くするために主機も大重量のコンクリート隔壁に覆われた原子炉に交換。ターボ・エレクトリック方式を採用し速力は33ノットに向上。副砲やこれまでの改装で対空砲の代わりに搭載されていたミサイルランチャーを一掃し、垂直発射装置(VLS)やOTOメララ社と共同開発した76mmコンパクト砲などに換装。トドメに同時多目標迎撃システム「碧天」を搭載し、単艦としては破格の戦闘力を獲得。 皇紀2642(昭和57/西暦1982)年 4月2日 グレートブリテン領東インド、第一次ベンガル湾紛争勃発。バングラデシュ、東インド藩国、ビルマ国が独立を宣言。インド亜大陸封鎖の為という名目で置かれていた駐留グレートブリテン軍は常設国連軍の肥大化に併せて縮小が続いていた為、諸外国の目もあり軍事介入に動けず。そもそもほぼ現地人で構成されていた駐留グレートブリテン軍は其々の国に帰順を宣言したため、現地で事実上解隊される。 4月4日 グレートブリテン、寝耳に水の独立宣言はインド亜大陸封鎖網を崩壊させる混乱を招く恐れがあるとして、セイロンのグレートブリテン軍を差し向ける警戒体制を取った為、旧グレートブリテン領東インド諸国が国連に提訴。 4月5日 大日本帝國、「友好国の要請」に基づいて呂宋から大日本帝國が艦隊を出動させる。 4月6日 グレートブリテン、大日本帝國の艦隊を警戒して分派した潜水艦がマラッカ海峡で超大型タンカーと衝突。流出したナフサに引火しマラッカ海峡は火の海となり、視界低下と混乱から事実上封鎖される。 4月7日 大日本帝國、艦隊が新嘉坡入り。 旧グレートブリテン領東インド諸国、マラッカ海峡が衝突事故による火災で封鎖されたのは、大日本帝國の早期介入阻止を目論んだグレートブリテンによる陰謀であるとする声明を発表。グレートブリテン軍の潜水艦が危険行動を取ったとされたこともあり、俄に緊張が高まる。 4月9日 グレートブリテン軍の艦隊がベンガル湾東部、ニコバル諸島南方のマラッカ海峡の出口寄りに移動し、海峡を通過しようとするかもしれない大日本帝國の艦隊を事実上封鎖。 4月11日 国連、旧グレートブリテン領東インド諸国は大きな混乱もなく、インド亜大陸封鎖線は変わりなく封鎖状態が保たれていると発表。逆にグレートブリテンによる軍事的威嚇が封鎖線崩壊を誘発しかねないと勧告する。 4月23日 大日本帝國、マラッカ海峡の睨み合いにより海上物流が混乱し続け、経済に悪影響が出始めたことから、グレートブリテン軍のニコバル諸島からの撤退を要求する最後通牒をグレートブリテン政府に対し行い、第四次世界大戦の危機で世界中で緊張が高まる。 4月24日 マラッカ海峡海戦。マラッカ海峡で日本艦隊の海峡突破を警戒していたグレートブリテン軍潜水艦「コンカラー」が接近したため、日本艦隊が威嚇攻撃を実施。後退した「コンカラー」救援の為飛来したグレートブリテン軍機と日本軍機が異常接近から威嚇を行い、実弾射撃を伴った空中戦に発展する。 4月25日 大日本帝國とグレートブリテンは停戦に合意。双方の軍部隊が其々呂宋とセイロンに撤退することで合意が取られ、常設国連軍インド洋艦隊がニコバル諸島とマラッカ海峡に入り停戦監視任務に就く。 4月30日 大日本帝國とグレートブリテンは双方に「不幸な行き違い」があったとして相互に謝罪を交わし、互いの利権・国益の干渉に関して再確認が取られる。「ブリテン病」と言われる不況から脱出しようとしていた矢先、オーストラリアの分離独立や旧グレートブリテン領東インドの独立という形で領土と利権を蚕食されたグレートブリテンに対し、大日本帝國が「各々の勢力圏の再確認」により今後の手出しをしないと約定を交わすことで、「貸し」を作って引かせた状態に。以後両国間の関係は急速に冷え込む。 5月1日 常設国連軍インド洋艦隊がニコバル諸島とマラッカ海峡に展開し、緊張状態の終息を宣言。セイロン島以東呂宋以西のインド洋から東南アジア周辺海域はこれ以降、常設国連軍インド洋艦隊が常駐するようになり、大日本帝國とグレートブリテンの勢力圏が入り乱れる地域で、両軍が直接睨み合う事態に発展しない為の抑止力となる(両者にとっての戦略的要衝でありながら、両者の軍が近寄らない地域となる)。 11月15日 大日本帝國、沿海州新幹線開通。安室~小無双森~巾呂府宿~浦汐寿徳間。 また満洲国に於いて満州新幹線も開通。大連~奉天~新京~哈爾浜~巾呂府宿間。この時点で海拉爾~斉斉哈爾~哈爾浜~浦汐寿徳間(海浦線)の建設も決定する。 12月25日 国連、地球総人口が30億人に再到達したと見られると発表(この統計には支那、印度、パレスチナ、ドイツ等の各汚染隔離地域の推定人口は含まれていない)。第三次世界大戦終戦から20年を経た現在、汚染隔離地域の核攻撃を受けた地域の大半は、人口が回復せずに自然に埋もれるがままにされていることが公表される。またこれら隔離地域を再び可住域とするため、西暦2001年から100年という壮大なスケールで行われる隔離地域回復計画「G2プロジェクト」が提案される。これは「新型インフルエンザの克服」と平行して「隔離地域に種苗を散布し緑化」を行い、「最適と考えられる方法で(現状では無主の地と考えられる)隔離地域を段階的に周辺諸国の統治下へ置き(同化)」ながら最終的な隔離地域の消滅を図るという、大胆ながら変形的植民地化とも言うべき利権争いに発展する危険性をも潜在的に孕んだ提案であり、特に隣接する国境線を持たないアメリカは最もこの隔離地域の取り込みに乗り遅れる可能性が高いことから、物議を醸す。 皇紀2643(昭和58/西暦1983)年 大日本帝國、大阪と神戸からほぼ等距離にある大阪湾の沖合に畿内国際空港(と沖港区)が史上初の浮体構造物(メガフロート)式工法で建設開始。以後の日本の沿岸大都市空港は海上浮体構造物式工法で造られることが決定する。 山陰道新幹線、開通。北大路(京都)~下関間。 皇紀2644(昭和59/西暦1984)年 大日本帝國、北海道新幹線、札幌~小樽~北函館間、札幌~新千歳空港~室蘭~北函館間、札幌~旭川間で開通。 国連、第二次宇宙開発計画始動。赤道直下の世界各地に宇宙開発の足場兼常設国連軍の展開拠点となる国連管理下の宇宙港を築き、一先ず(依然として隔離地域の封鎖という重たい負担が存在することを除けば)安定的な人類社会の次なる進出目標である、広大な宇宙空間利権の機先を制する。 皇紀2645(昭和60/西暦1985)年 大日本帝國、帝國議会が通称「第二次日本改造計画」を可決。日本各地での公共事業への浮体構造物安定供給(と将来の保守管理)のため、半官半民の形で特殊法人浮体構造物供給公社設立。高度経済成長に向かう。 3月 ソ連、改革路線を掲げるゴルバチョフが政府首班に就任する。 6月 大日本帝國、大鳴門橋が開通。 皇紀2646(昭和61/西暦1986)年 国連、第二次宇宙開発計画に於ける宇宙港開設地域として国連委任統治領のカメルーン、東アフリカ、東ティモール、南太平洋(フィジー)と、アメリカ領パナマ(太平洋側)、ブラジル領ギアナの各沖合を選定し、これらの地域に大日本帝國の開発したメガフロート式工法を採用。全世界に対して大日本帝國規格を準国際規格として事実上認めた国連仕様で発注するものとする。 皇紀2647(昭和62/西暦1987)年 大日本帝國、国鉄半民営化。日本国有鉄道(NNR)から全日本旅客鉄道会社(ANR)に。湖北新幹線、若狭路新幹線、四国新幹線開通。それぞれ近江塩津~米原間、豊岡~西舞鶴~敦賀間、高松~松山間。更に樺太道新幹線の整備を決定。間宮海峡トンネル、宗谷海峡トンネルの建設を決定し沿海州新幹線と直通運転を図る。 皇紀2648(昭和63/西暦1988)年 大日本帝國、瀬戸大橋、青函隧道開通(それぞれ電車線は複々線で、さらにそのどちらも東側の2線が新幹線用)。四国道新幹線、岡山まで延伸。 越南帝国、新幹線整備計画策定。 皇紀2649(昭和64/西暦1989)年 昭和天皇崩御。新元号「平成」。
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FrontPage * 目次 目次 設定 国名 国歌 歴史 政治 外交 経済 代表的な都市 住民 文化 軍事 外部リンク 設定 国旗 国の標語 国歌 公用語 人類標準語 国家元首 T.H.リー 首都 カオルーン 最大都市 フリーポートシティ 面積 総人口 公式略称 C.G.A. 英語国名 Nereis Corporate Governance Authority 通貨 クレジット 国名 地球型、あるいは準地球型惑星であるネルヴィル星系の惑星・ネレイスから。 国歌 歴史 ネレイスは人類の母星脱出時に国際機関から移住計画を受注した企業連合体によって発見・開発された惑星である。 関連する歴史項目 政治 ネレイスの各勢力の代表者によって構成される最高評議会を最高機関とし、その首席たる最高評議会議長を元首とする体制を敷く。最高評議会には選挙を経て選出される住民代表も列席するものの、統治機構の実権は企業や官僚が握っている。現最高評議会議長のT.H.リーは財務局長、事務総局長官等を歴任した官僚出身者。 最高評議会の下に行政機構として事務総局(長は長官)があり、長官官房の他に外交を担当する渉外局、軍事を担当する安全保障局、財政を担当する財務局、治安維持を担当する治安警察局、住民情報の管理を担当する公民局、共通法を所管する法務局の6局を内部部局として持つ。統治機構は最低限の行政のみを担い、内政の殆どは惑星開発公社をはじめとする民間企業が担当している。 また、旧国際機関によって設置された監督機構である監察委員会がネレイスの基本法に基づく唯一の公的な司法機関として機能している。 外交 所属組織・締結条約 経済 代表的な都市 カオルーン 首都。最高評議会及び、それに付随する事務総局等の行政機関が存在する。 フリーポートシティ ネレイス地表は公式にはその全てが惑星開発法によって私人による開発が制限されており、ネレイスに存在する都市はフリーポートシティを除いて全てが統治機構の管理下にある計画都市である。フリーポートシティは惑星開発初期の探査・測量エラーによって発生した、惑星開発法の適用を受けない土地(ホン河三角州上)に建設された都市で、低級市民が大量に流入すると共に無秩序な発展を繰り返し惑星の中では最も多くの人口を擁する程になった。フリーポートシティには多くの企業が拠点を置いており、犯罪結社も強大で、統治基盤が盤石とは言えない統治機構にとっては手を出せない地域になっている。 住民 母星から移住してきた人類が殆どを占める。 文化 軍事 軍事組織・準軍事組織としては統治機構直属の安全保障局(宇宙艦隊)と治安警察局(沿岸警備隊)がある。その他、企業が自衛の為と称して設置した私設軍が存在する。 外部リンク
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レラティア統治法 目次 第1章 総則 (第1条) 第2章 領主 (第2条―第9条) 第3章 統治 (第10条―第13条) 第4章 裁判 (第14条―第24条) 第5章 立法 (第25条) 附則 第1章 総則 (目的) 第1条 本法は、レラティア領の領主並びに、レラティア領について規定し、その統治全般を明確化することを目的とする。 第2章 領主 (領主) 第2条 レラティア領は、レラティア領主が統治する。 (領主資格) 第3条 レラティア領主を務める資格は、レラティア家の者のみが有する。 (初代レラティア領主) 第4条 初代レラティア領主は、Penchemiとする。 (レラティア家の不可侵) 第5条 レラティア家は、大神官・ピングリア王よりレラティア領の建領を認められた唯一の正当な血統であり、何人たりともこれを侵してはならない。 (レラティア領主の不可侵) 第6条 レラティア領主は、レラティア領の正当な統治者であり、何人たりともこれを侵してはならない。 (領主の交代) 第7条 現レラティア領主が直接に認め、かつ大神官・ピングリア王がそれを承認した場合に限り、レラティア領主の交代を認める。 (領主交代の承認の代替) 第8条 現レラティア領主が引退、崩壊または失踪したことが、妥当と認めるに相当の手続きでもって認められている場合に限り、相当日に渡って現レラティア領主からの反対のなき事を、第7条における現レラティア領主からの直接承認に代えることを認める。 (承認代替の追認取得に関する努力義務) 第9条 第8条の定めに従い、現レラティア領主からの反対のなき事を直接承認に代えた場合、現レラティア領主は、旧レラティア領主からの正式な直接承認による追認を得ることに努めなければならない。 旧レラティア領主が、直接にこれを非承認と示した際は、旧レラティア領主が速やかに現レラティア領主に復帰する 第3章 統治 (統治) 第10条 レラティア領を管理・運用し、種々の決定権を行使することを、レラティア領の統治と呼ぶ。 レラティア領を統治する権利は、レラティア領主が保有する。 (統治領) 第11条 レラティア領主の統治範囲は、大神官・ピングリア王より建領を認められたレラティア領とする。 レラティア領として定められる領域は、建領時の定めに基づいて、レラティア領域法において定める。 (概念的統治領域) 第12条 以下の領域についても、レラティア領主の統治領域とみなす。 ・Discordにおける、レラティア領において管理するチャンネル ・アボカドロコモコ丼サーバーWikiにおける、レラティア領のページ ただし、本項の内容は、より上位の管理者の存在を拒絶するものではない。 (領主令) 第13条 レラティア領主は、レラティア領法の範囲内でレラティア領主令(以下、領主令)を発することができる。 第4章 裁判 (裁判権) 第14条 レラティア領における争議に対する一次の裁判は、レラティア領立裁判所で行う。 ただし、本条文は、必ずしも建築物としてのレラティア領立裁判所の中で裁判を行うよう定めるものではない。 実際の裁判手続きは、レラティア領主の判断でもって、Discordまたはそれに類するオンライン空間で行うことを原則とする。 (裁判所) 第15条 レラティア領立裁判所裁判長および裁判官の任命または罷免は、これを領主令により行う。 レラティア領立裁判所の裁判所としての指定または解除は、これを領主令により行う。 (事案の送致) 第16条 相当の必要性があるとレラティア領立裁判所裁判長が認める場合は、司法判断を行う機関のうち適当と思しきものに対して、争議内容を送致しうるものとする。 (法令違反に対する措置) 第17条 レラティア領法違反した者、領主令に違反した者、またはその他の問題を起こした者に対しては、以下の措置のうち、単一または複数をとる場合がある。 これらの措置については、レラティア領立裁判所が実施を決定するか、またはレラティア領主が簡易的に決定する。 ・注意 ・警告 ・撤去 ・賠償命令 ・罰則金納付命令 ・領内立入禁止措置 ・その他、レラティア領主が適切と考える措置 (注意) 第18条 注意とは、かかる事象に関する注意を実施する措置である。 (警告) 第19条 警告とは、かかる事象に関する警告を実施する措置である。 (撤去) 第20条 撤去とは、かかる事象に関する物品、施設、MOB等を解体または排除する措置である。 本措置に関して、弁済は原則として行わない。 (賠償命令) 第21条 賠償命令とは、かかる事象に関して相当と思しき賠償額を決定し、その支払いを命ずる措置である。 賠償額、支払い品目(エメラルド等の通貨、現物納付など)、支払い期日、支払い方法等は、原則としてレラティア領立裁判所が、都度決定する。 (罰則金納付命令) 第22条 違反金納付命令とは、かかる事象に対する罰則として、支払いを命ずる措置である。 罰則金額、支払い品目(エメラルド等の通貨、現物納付など)、支払い期日、支払い方法等は、原則としてレラティア領立裁判所が都度決定する。 (領内立入禁止措置) 第23条 領内立入禁止措置とは、かかる事象に対する罰則として、領内の一部または全域への立ち入りを禁止する措置である。 立入禁止の期間は、有期または無期限とし、レラティア領主が都度決定する。 (量刑判断) 第24条 量刑は、かかる事象に関する要件を総合的に勘案して決定する。 第5章 立法 (立法権) 第25条 レラティア領法を制定または改正する権利は、レラティア領主のみが有する。 附則(2024年5月3日 (施行時期) 第1条 この法律は、公布の日から施行する。 2024年 5月 3日 レラティア領法のページに戻る レラティア領のページに戻る