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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】薛仁貴 【性別】男性 【身長・体重】183cm・79kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運C 宝具C 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 単独行動:B マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクBならば、マスターを失っても二日間現界可能。 【固有スキル】 千里眼:A 視力の良さ。遠方の標的の捕捉、動体視力の向上。 透視、未来視さえも可能とする。 無窮の武練:A ひとつの時代で無双を誇るまでに到達した武芸の手練。 心技体の完全に近い合一により、いかなる地形・戦術状況下にあっても十全の戦闘能力を発揮できる。 心眼(真):A 修行・鍛錬によって培った洞察力。 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”。 逆転の可能性がゼロではないなら、その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。 【宝具】 『三箭天射(さんせんてんしゃ)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:10~60 最大捕捉:3人 突厥の軍十余万の中から三本の矢で三人の敵将を射殺した、 神懸り的な射撃術の具現であり、技量のみによって宝具に昇華した対人魔弾と呼べる宝具。 レンジ内に存在するものを三つまで選んで標的とすることで、 その標的と薛仁貴とを「矢の軌道」で以て結びつけ、確実に矢を命中させる。 事実上回避は不可能だが、因果律の干渉には及ばないため「絶対不可能」ではない。 【Weapon】 『無銘・戟』 高句麗遠征などで使用した武器。 律儀に弓矢だけでやってくる唐・太宗の武将ではない。 【解説】 唐の太宗に仕えた軍人。本名は薛礼で仁貴は字。 生まれは貧農であったが戦場では目立つ白衣を纏って高句麗遠征で武功を挙げ、李世民の信任を得て出世。 李世民死後、息子の李冶が皇帝となってからも重用され、突厥、遼東、契丹、吐蕃など様々な戦場を渡り歩く。 晩年は吐蕃との戦線での敗戦の責を問われ庶民に落とされるが、のちに許され名誉回復。 七十歳で死去する一年前まで戦場で武功を上げ続けた生粋の武人であった。
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名稱:皇太極 伺服器及顏色:1、7服紫類型:武 性別:男 生命值:3718(3802) 武力:72 智力:68(65) 防禦:42(41) 敏捷:65(63) 運勢:75(72) 敘述:皇太極生於明萬曆二十年(1592)。他是清太祖努爾哈赤第八子,從小就受到努爾哈赤的喜愛,皇太極的生母葉赫納喇氏。清朝的建立者,史稱清太宗,傑出的政治家、軍事家、戰略家、統帥。
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名稱:李績 伺服器及顏色:5服紫 類型:武 性別:男 生命值:3753 武力:71 智力:60 防禦:39 敏捷:59 運勢:64 描述:唐代政治家、軍事家,曹州離狐人。後被封為英國公,是凌煙閣二十四功臣之一。是一位極富有傳奇色彩的人物。他出將入相,位列?公,極盡人間榮華。歷事唐高祖、唐太宗、唐高宗(李治)?朝,深得朝廷信任和重任,被朝廷倚之為長城。
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名稱:康惠淑妃 伺服器及顏色:5服綠類型:文 性別:女 生命值:420 武力:32 智力:21 防禦:12 敏捷:36 運勢:85 敘述:博爾濟吉特氏。清太宗愛新覺羅皇太極之妃,阿霸垓塔布囊博第塞楚祜爾女。崇德元年,冊封為衍慶宮淑妃。撫養一蒙古女,皇太極命睿親王多爾袞娶之。順治九年,加其封號,死於懿靖大貴妃之前。
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李続(宗室) ?-? 初唐の宗室。紀王李慎の子。東平郡王。王元感門下。和州刺史となり、来俊臣の上言を根拠なしとして却下した。後に罪とされて誅殺された。子に徐国公李行淹がいる。 表・列伝 『新唐書』巻七十下 表第十下 宗室世系下 太宗 紀王房 『新唐書』巻一百九十九 列伝第一百二十四 儒学中 王元感 『新唐書』巻二百九 列伝第一百三十四 酷吏 来俊臣
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名稱:義凈 伺服器及顏色:6服綠 類型:文 性別:男 生命值:465 武力:31 智力:21 防禦:12 敏捷:41 運勢:87 敘述:俗姓張,字文明,唐齊州人,生於唐太宗貞觀八年。幼年出家,十五歲即萌西遊之誌,慕法顯、玄奘等而生西遊天竺之誌。三十五歲方始成行。尤精於佛律,並蓄習攝論宗、唯識宗、俱舍各派,皆為大乘佛義。為了求經宏法和瞻禮佛跡,取道南海赴天竺。
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喬師望 ?-? 初唐の武将。同州馮翊の人。高祖の皇女の廬陵公主を娶って駙馬都尉となる。貞観二十年(646)夏州都督となり薛延陀と戦って破った。官は同州刺史に到った。喬知之の父。 本紀・列伝・史料 『新唐書』巻二 本紀第二 太宗 貞観二十年正月辛未条 『新唐書』巻二百一十七下 列伝第一百四十二下 回鶻下 薛延陀 『旧唐書』巻一百九十中 列伝第一百四十中 文苑中 喬知之
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五代の馮道 馮道は中国の五代十国時代に五代王朝の後唐・後晋・後漢・後周と、契丹王朝の遼、五朝八姓十一の天子に宰相として仕え、乱世にあって民のために戦争を極力回避した人である。 唐末 875年~ 唐は875年、黄巣の乱で長安を陥落させ、皇帝・僖宗は蜀へ逃亡した。 ここで活躍した節度使勢力李克用と朱全忠が中央を争っていた。この他に河北を支配した劉仁恭がいる。 後梁 朱全忠 907年~ 軍閥の割拠する状態の中で最も力を持ったのがべん開封に拠を置いた朱全忠だった。 朱全忠は907年に唐朝廷を掌握し禅譲を受けて皇帝に即位した。後梁を建国して都を開封に定め、唐は滅びるに至った。 朱全忠が皇帝となると、これを良しとしない各地の勢力は自ら皇帝を名乗った。 遼、北の五代、南の十国という五代十国時代招くのである。 燕 劉仁恭 911年~ 馮道が初めて仕えたのは幽州節度使であった劉守光の部下としてであった。 当時の盧龍において、李克用の推挙により節度使となった劉仁恭の息子が劉守光である。 劉守光は劉仁恭を捕えて幽閉し、911年8月、劉守光は幽州で皇帝を称え国号を大燕と定めるに至る。 そして太原の李存勗の使者が皇帝に対する礼を取らなかったとして戦をしようとするが、これに反対したのが、馮道だった。しかし意見は容れられず幽閉されてしまう。 しかし913年11月に李存勖によって幽州は陥落、劉守光は捕らえられ、桀燕は滅亡した。 後唐 李存勗 923年~ 李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は913年、燕を滅ぼして併合。 後梁と晋王李存勗が大決戦を行った。晋軍の勝利に終ったが晋軍の書記官であった王緘の戦死により、その後任に任命されたのが馮道であった。 李存勗は923年に自ら唐の後継者と称し、唐皇帝荘宗に即位する。後唐を建て後梁を攻め滅ぼした。 馮道は宰相と枢密使に次ぐ文官の重職である翰林学士に名を連ねることになる。 荘宗は即位の半年後に宿敵であった後梁を滅ぼして都を洛陽に移した。 荘宗は岐王の李茂貞や四川の前蜀を滅ぼした。 馮道はそれに伴って中書舎人を兼ねるようになるが、その直後に父が亡くなったため官を辞して喪に服した。 この頃、都で起った反乱鎮圧に向かった勇将、李嗣源は反乱軍の一部に銀槍軍がいたことから逆にあらぬ疑いをかけられる。 女婿である石敬塘の助言に従って荘宗に軍を向け、荘宗は926年、李嗣源の軍が洛陽に迫ると荘宗は近衛兵たちにより殺された。李嗣源は皇帝明宗に即位した。 こうして馮道は明宗の元でそのまま仕えることになる。 当時、政治面で強い発言力を持っていたのは枢密使の安重誨と孔循で、彼らが宰相を補うために推挙した中のひとりが馮道だった。馮道は明宗が亡くなるまで宰相の地位にあった。 明宗は自身の後ろ盾であった銀槍軍が後顧の憂いになると見るや全滅させてしまう辺り非凡なものがあり、 馮道は安重誨が失脚すると宰相としてこれを補佐した。 しかし明宗は933年、病死する。 李従厚が後を継ぐが、養子の李従珂によって簒奪され、李従珂は石敬瑭を排除しようとする。 明宗の死後、政治の実権を得たのは枢密使の朱弘昭と馮贇だった。 彼らは石敬塘や李従珂を妬みその藩鎮を移そうとしたが失敗し、李従珂が末帝として即位した。 末帝は馮道を匡国軍節度使として事実上左遷させる。実質的には閑職だった。 後晋 石敬瑭 936年~ 石敬瑭は独力では対抗し得ないと北の契丹に対して援助を求めた。 遼は当時の東アジアにおいては最大の強国といってよく、当時は太宗耶律徳光の時代で国力も盛んだった。 石敬塘は後唐を倒したら雁門関以北の諸州を割き、属国の礼を取るといって後晋の高祖になる。 契丹の太宗・耶律徳光は大軍を南下させて後唐を攻め滅亡させた。 石敬瑭は936年、皇帝高祖に即位して後晋を建て開封に遷都し、契丹に臣従した。 馮道は末帝に遠ざけられていたことが逆に石敬塘にとっては好材料となリ、宰相の筆頭になる。 その上で彼は遼への使者という重職を無事にこなして帰国する。これによって帰朝後、高祖の信任は特に篤くなり、確たる政治的権力を得る。 その高祖は942年に病死する。 高祖亡き後は、高祖の遺命に逆らい斉王を少帝として即位させた。 この頃、契丹が攻勢を取ると、国内では主戦論と和平論が激しく議論された。 馮道は軍事には一切の口を挟まずにいたが、左遷させられる。 甥の石重貴が後を継いだが、強硬外交で契丹の怒りを買う。 遼 耶律徳光 946年~ 契丹遼の太宗耶律徳光は946年、大軍を南下させ、後晋の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。 結局、馮道が都にいない間に、契丹によって後晋は滅ぼされてしまう。 馮道はかつて遼を訪れた際の耶律徳光と再会し、この異民族政権の元でもまた宰相となるのである。 遼は中国を支配しようとしたが、蛮族とに支配されることを嫌った住民は抵抗し、 各地で略奪が行われるようになると、引き上げざるを得なくなる。 そして馮道も北行に同行するが、困難を悟った遼の太宗は北へ引き返す途上で病死した。 後漢 劉知遠 947年~ それを傍観していた晋陽節度使だった劉知遠は947年に、皇帝に即位し高祖となった。 後漢を建て、軍を南下させ開封開封へ入城した。 それを機に馮道はクーデターが成功したことにより開封へ戻った。 しかし劉知遠は翌年に死去、次男の劉承祐が後を継ぐ。 側近たちは有力者の排除を図り、次々と軍人たちを殺していった。 隠帝が自らの権力を回復すべく郭威らを殺そうとするが失敗する。 後周 郭威 951年~ 粛清をを逃れた郭威は兵を挙げ、逆に郭威が開封を攻め落とし入城する。 誅殺を企んだ側近たちを殺していった。 その後、劉承祐のいとこ劉贇を殺し、郭威は951年に自ら皇帝太祖に即位。後周を建てた。 そして、かくして後周の太祖が生まれ、馮道はまたも宰相に返り咲くのであった。 郭威は中風で亡くなり、次いで即位したのが養子の柴栄だった。 世宗柴栄は954年に即位した。その将軍だったのが後に宋の太祖となる趙匡胤である。 世宗は馮道の反対を押し切って南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土を奪い取った。 また廃仏運動を行い、仏像を鋳潰して周元通宝という銅銭を鋳造した。 馮道は954年、病に冒されて72歳で息を引き取った。 その後、世宗は959年に統一への遠征から帰る途上、胸の病で倒れ病死した。 柴宗訓が後を継いだ。 宋 趙匡胤 960年~ 軍人たちが翌960年に趙匡胤を擁立した。柴宗訓の禅譲を受け皇帝太祖に即位し宋を建てた。 太祖は963年に湖北の荊南を併合した。965年に四川の後蜀を併合し、971年には南漢を滅ぼした。 そして975年、南唐を滅ぼす。太祖は唐突に病死した。 後を継いだ太宗は、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に天下を統一果たした。 こうして五代十国時代は幕を下ろしたのだった。
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崔銑 ?-? 初唐の官人、駙馬都尉。唐代に「七姓十家」と称され、唐初に編纂された『氏族志』では唐室李氏を抑えて一等とされて太宗の怒りを買った名門中の名門である博陵崔氏の本家たる大房の出身。崔晃の子、崔行功の孫。太僕卿。定安公主を娶り、公主が卒すると合葬された。『新唐書』に列伝がある。 列伝 『新唐書』巻二百一 列伝第一百二十六 文芸上 崔行功 孫銑
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韋叔諧 ?-? 唐代の官僚。瓚の子。韋玄の父、韋湊の祖父にあたる。貞観年間(627-649)に庫部郎中となり、員外散騎常侍として、太宗の命によって李公淹とともに南越州の反乱を説諭して降伏させた。 表・列伝 『新唐書』巻七十四上 表第十四上 宰相世系四上 韋氏 南皮公房 『新唐書』巻一百一十八 列伝第四十三 韋湊 『新唐書』巻二百二十二下 列伝第一百四十七下 南蛮下