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嫌な事件だったね・・・ 肛門事件とは、2010年4月に起こった事件である。 内容は、エール・カドラ氏がチャットで様々なバリエーションの屁をこいたため(実際は無論誤解釈)、七色の肛門を持つ男とされ、彼の生放送が肛門になってしまったというものである。 これがその時のコメントログである 彼が放った異色的な効果音を屁だと誤認してしまった影馬氏は、 「俺が全ての元凶です、本当にすいませんでしたwwwwwwwww」 と深く謝罪している。
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犬伏景子が悟であるのなら、 阿波墨市立病院無差別殺傷事件も、 悟がやったということになります。 何故彼がそんなことをしたのか。 それは、殺傷事件が起きなかった場合どうなるのか。 を考えることで見えてくる。 09.infinity loop の考察で言ったこととほぼ同じです。 殺傷事件が起きなければ、 犬伏景子という人物は存在しなくなり、 黄泉木夫妻が潤一を失うこともない。 SPHIAに悟、カーリー、犬伏がいることもなく、 その彼らに会いに行こうとしていた、 こころ、黄泉木、黛、ゆにが、 飛行機に乗ることも、事故にあって遭難することもなくなる。 ゲーム中にあった陰惨な事件はなくなり、皆が幸せになるようにも思えます。 が、それでは困る人間が一人だけいるのです。 犬伏の中の悟(以後は『犬伏悟』と表記)です。 「全ては誤解だったのだ」 そう、全ては悟の誤解。 ですが、その誤解が『奇跡』を生んでしまっている。 誤解の果てのオレ悟の死が 『沙也香を救う唯一の人格の誕生』 という奇跡を生んでしまっているのです。 殺傷事件がなくなってしまうと、その奇跡を生む流れも消えてしまう。 そのことに気づいた犬伏悟には、重い、あまりにも重い選択が強いられる。 『妹を見捨てるか、12人を殺すか』 という選択・・。 ・・そして、彼は、選んだ。 12人の命を犠牲にしてでも歴史をなぞることを選んだ。 あの事件は多重人格殺人鬼による無差別殺傷事件ではなく、 妹を救いたい一心の人間が起こした『計画殺人』であり『模倣殺人』だったのです。 その犬伏悟の生き様は、山小屋のゆにと全く同じです。 ゆにが必死で歴史をなぞろうとしたように、 犬伏悟もそれ以上の思いで歴史をなぞろうとしていた。 だから、エピローグのゆにとオレ悟のやり取りが、 そのまま犬伏悟にも当てはまってしまう。 ゆに「ぼくはね? ただ過去を変えたくなかっただけなんだ」 ゆに「過去っていうか、未来っていうか……」 ゆに「とにかく、2011年に朱倉岳で起きた出来事を、その通りに繰り返したかっただけなんだよ」 悟「つまり、歴史を変えたくなかった、と……?」 ゆに「うん」 ゆに「そのために、今日まで頑張ってきたんだ」 ゆに「ただそれだけのために、ぼくはこの1年間を費やしてきた」 ゆに「時空間転移のことを勉強したり、いろんな準備をしたりして……」 ゆに「今日この日が訪れることを、ぼくは待ってたんだよ」 ゆに「この瞬間を……ひたすら……待ち続けてきた……」 ゆに「ぼくらがかけた衛星電話はね? 偶然――繋がっただけだったんだ」 ゆに「わかる? 偶然って意味……」 ゆに「偶然起きた現象っていうのはさ、そっくりそのまま歴史を繰り返してやらなければ絶対に再現し得ないものなんだよね」 悟「それで避難小屋の歴史を守ろうとしたわけか……」 悟「偶然を再現するために……」 山小屋のゆににとっての衛星電話の偶然の通話は、 犬伏悟にとってオレ悟の死。 ゆにが遺体のすり替えをするために、偶然の奇跡を掴もうと歴史をなぞったように、 犬伏悟は、人格のすり替えをするために、奇跡を掴もうと歴史をなぞったのです。 そのために他の者をいくら犠牲にしてもかまわない覚悟で・・。 だから彼は多重人格を偽ったのです。 歴史をなぞるために、俺とオレを誤解させるために、妹を救うために。 妹を殺し 榎本を殺し オレ悟を殺し 罪のない12人までをも殺した。 真理の世界で繰り返される『死』の全ては悟の仕業だったのです。 ・・私がこの真実に気づいたとき、生まれた感情は達成感ではなく疑問でした。 「え?じゃあ歴史をなぞる元になった“オリジナル”の事件が起きた理由は?」 という疑問で頭がいっぱいになってしまったのです。 長年病院事件の謎が解けなかった私には、 歴史をなぞったという理由だけでは納得できなかったのです。 ではオリジナルの事件は?と考えて、出た結論は・・ 「わからない」でした。 拍子抜けしたと思いますが、ちゃんと説明させて下さい。 その説明をわかりやすくするために、沙也香を例にします。 沙也香の死は、転移装置によって起きたもの。 だが、沙也香を殺す凶器は、沙也香が死なないと生まれない。 転移装置がないと沙也香を殺せないのに、 沙也香が死なないと転移装置が生まれない。 一見、卵が先か鶏が先かわからないようなパラドクスになっています。 ですが、これはちゃんと順番があったのだと思います。 まず最初に沙也香のオリジナルの死があって、 それから悟が転移装置を完成させ、転移装置による死に置き換わった。 これが正しい順番のはずです。 仮に、沙也香のオリジナルの死が、 DIDの暴走によって両親を殺してしまった沙也香が 兄の悟をも殺してしまうかもしれないと思いつめ、 その果てに心が衰弱死してしまった。 ということにして下さい。 その死によって悟の転移装置開発が始まった。 それは容易なものではなく、2012年になっても完成していなかったと推測できます。 年表に『テラバイトディスクの情報を元に時空間転移装置を仕上げた』とあるからです。 おそらくテラバイトディスクが生まれた要因の一つは、 転移装置の完成を早めるため、 沙也香の救出に間に合わせるためだったのでしょう。 (他にも登場人物の説得や情報提供の為などが考えられます) そうして、テラバイトディスクが何周もする内に情報が蓄積され、 少しずつinfinity loopの輪の形が出来上がり、 いつかは沙也香を救う人格が誕生し、転移装置による救いによって、 真理の世界が完成したのだと思われます。 では、その真理の世界に沙也香のオリジナルの死はあるでしょうか? ない。 転移装置がオリジナルの死を上書きしてしまうから。 一度真理の世界が完成してしまえば、 その死はそれ以降ずっと転移装置によるものとなり、 オリジナルの死は真理の世界から消えてなくなる。 沙也香の死もオレ悟の死も病院事件も、 オリジナルたる『最初の事件』は、 全て転移装置によって上書きされてしまい 真理の世界にいる限り、その最初の事件の原因は『わからない』のです。 このことを指しているであろう中澤氏のコメントがPSP版特典にありました。 テラバイトディスクの起点など謎が残りますが、 それは考えることに意味がないんです。 宇宙の始まりがよくわからないのと同じ。 ゲーム中の真理の世界の中からは、起点はわからないよ。ということなのでしょう。 すっきりしない結論になってしまいましたが、 本当のところ何が言いたいのかというと、謝罪です。 情けないことに、ここまで考えてやっと自身の考察の間違いに気づきました。 09.infinity loopで、バッドエンドになれば沙也香が助かるという 考察をしましたが、これが2つ目の間違い。 バッドエンドで歴史が変わってしまっても、沙也香は死ぬ。 infinity loopが止まり、転移装置による死がリセットされても、 オリジナルの死が最初にあるからです。 その考えに基づいて出来た3者の因果、これが3つ目の間違いです。 ・沙也香が殺されないと転移装置が生まれない。 ・ゆにが転移装置を利用してこころ達を救いださないと、 オレ悟がエピローグに到達できない。 ・オレ悟がエピローグで死なないと、俺悟は沙也香を救わ(殺さ)ない。 本当の3者の因果はこうだと思います。 ・犬伏悟が歴史をなぞらないと誤解が起こらない。 ・誤解に気づかない俺悟とゆにがこころ達を救い出さないと、 オレ悟がエピローグに到達できない。 ・誤解に気づいたオレ悟がエピローグで死なないと、沙也香を救う人格が誕生しない。 いずれを欠いても成り立たない3つの輪は、3者の因果は、 犬伏悟と、俺悟と、オレ悟 3人の悟と誤解によって成り立っていたのです。
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鮫島事件 / 牛の首 - Samejima-Jiken / Ushinokubi 【クラス】アルターエゴ 【真名】鮫島事件(牛の首) 【容姿】顔がはっきりとしない“何か” 【その他】混沌・中庸 無性別 地属性 人類特攻非対象 【英雄点】30点(ステ10点・スキル20点):令呪消費なし 【HP】5 / 5 【筋力】E:1 【耐久】E:1 【敏捷】D:2 【魔力】E:1 【幸運】-:5 【スキル1】気配遮断:E 10点:先手判定時、補正値5を得る。 交戦フェイズ中に相手前衛に対し、奇襲攻撃を行える。 【スキル2】情報抹消:EX 5点:先手判定と奇襲攻撃時、ダイスの面数を1増やす。 【スキル3】悪魔の証明:B 5点:セッション中に1回まで、HPが0になった時、HP1で耐える。 【宝具】『恐怖伝播・無貌形怪談』(げにおそろしきかいだんばなし) 1/1 【ランク・種別】E・対人宝具 【効果】令呪を1つ消費して発動する。 相手の前衛全てに奇襲攻撃を行い、補正値10を得る。 対象が自身の真名を看破していない場合追加で補正値3を得る。 +2019/01/01版 +20の質問 質問1 真名と現界年齢と性別を教えてください 「」 質問2 身長と体重を教えてください 「」 質問3 出身地を教えてください 「」 質問4 好きな色、自分を象徴するような色はありますか 「」 質問5 特技はなんですか 「」 質問6 好きなものはなんですか 「」 質問7 嫌いなものはなんですか 「」 質問8 天敵とかいますか 「」 質問9 属性について教えてください 「」 質問10 現代での生活について自由に話してください 「」 質問11 貴方の宝具、乗騎、戦術について自由に話してください 「」 質問12 貴方の外見について自由に話してください 「」 質問13 ざっくりとあなたの性格を教えてください 「」 質問14 自分の日本での知名度をどう思いますか 「」 質問15 貴方の適合クラスを教えてください 「」 質問16 聖杯にかける望み、あるいは聖杯戦争参加の経緯を教えてください 「」 質問17 親しい人間について自由に話してください、空欄でも構いません 「」 質問18 自分のマスターをどう思いますか、空欄でも構いません 「」 質問19 理想のマスター像を教えてください。それに対して今のマスターは何点ですか 「」 質問20 なにかこちらに質問はありますか 「」 今回はありがとうございました。あなたの望みが叶うことを願います +セリフ集 ●サーヴァント名 一人称: 二人称: マスター: キーワード : : 召喚 「」 レベルアップ 「」 霊基再臨 「」 「」 「」 「」 戦闘セリフ 戦闘開始 「」 「」 スキル 「」 「」 カード 「」 「」 「」 宝具カード 「」 アタック 「」 「」 「」 EXアタック 「」 宝具 「」 ダメージ 「」 「」 戦闘不能 「」 「」 勝利 「」 「」 マイルーム会話 「」 「」 「」 「」 好きなこと 「」 嫌いなこと 「」 聖杯について 「」 絆Lv.1 「」 Lv.2 「」 Lv.3 「」 Lv.4 「」 Lv.5 「」 イベント 「」 誕生日 「」 サーヴァント・マトリクス 【クラス】アルターエゴ 【真名】鮫島事件/牛の首 / Samejima/Ushinokubi 【異名】幻の都市伝説 【性別】無性別 【身長・体重】可変・可変 【出典】都市伝説・インターネット 【地域】日本 【属性】混沌・中庸 【隠し属性】地属性 【イメージカラー】褐色(#4D4C61) 【一人称】- 【二人称】- 【三人称】- 【ステータス】 筋力E 耐久E 敏捷D 魔力E 幸運- 宝具E 【クラススキル】 気配遮断:E 自身の気配を消すスキル。隠密行動に適している。完全に気配を断てばほぼ発見は不可能となるが、攻撃態勢に移るとランクが大きく下がる。アルターエゴの存在に気づく事は容易いが、本質の気配/存在への感知を遮断する。 【固有スキル】 情報抹消:EX 対戦が終了した瞬間に目撃者と対戦相手の記憶から、能力、真名、外見特徴などの情報が消失する。そもそも中身の存在しない怪談・都市伝説の手合いだが、"鮫島事件/牛の首という恐ろしい怪談があるがその内容を知ったものは消される/死ぬ"という伝播よりくる逆説的な情報抹消。そもアルターエゴのあり方からして存在自体が観測不能に近い。 悪魔の証明:B 在るものを在る、と証明するのは容易いが、無いものを無い、と証明するのはひどく難しい。本来実在すらあやふやである故に此処に立つモノ。彼という存在(事件/怪談)を口先のみで否定する事は出来るだろう。ありえない、というのも容易い、されど。――本当に彼の不在を示す術が、何処に在るというのだろう。 風聞伝播:D 人々の口やネットワークを通じて存在は広まり、されど存在は曖昧になっていく。彼が存在できる理由であり、曖昧な理由。ふわふわと漂い、浮かび――其の脳裏に“好奇心”と言う名の記憶を残していくモノ。真名が広まるほどに中身が曖昧になっていく不可思議な存在。 無意識共有:D “都市伝説”という人々をの言動、或いは意識を介し存在する概念。誰が言い出したのかなんか知らない、わからない。されど、否、其れ故に“其の怪談/事件”は架空領域に存在し得る。或いは“現実に実在する可能性”を手にしている。 【宝具】 『恐怖伝播・無貌形怪談(げにおそろしきかいだんばなし)』 ランク:E 種別:対人宝具 レンジ:0~2 最大捕捉:? "鮫島事件は触れるべからず/牛の首という怪談を知ったものは恐ろしすぎて死んでしまう”ならば――“この話を知った人間”は抹消されるべきである。単純明快、在る種の運命の捻じ曲げ。“鮫島事件”であり“牛の首”でもあるアルターエゴの本質、彼自身のあり方。不可避の恐怖を脳裏に叩き込み、その精神を瓦解させる。ただし、アルターエゴ自身の霊核は限りなく格が低い事もあり精神障壁等で抵抗は可能。 【Weapon】 『武器名』 武器説明 【解説】 “牛の首”という怪談がある。其れはとても、とても恐ろしく聞いたものは震えが止まらず3日と経たず死んでしまうのだという。 其れ故に、此の怪談の内容を知っているものは全て死に絶え、誰も居ない。 他方、“鮫島事件”という事件があったらしい。其れに触れる事はタブーとされ、尋ね様とも誰も其の真実を教えてくれはしない。 其れ故に、そのあり方は曖昧であり誰一人として真実を知るものは居ない。 存在そのものがひどく曖昧であり、吹けば飛ぶ様な非常に“弱い”存在。 ただし、其れを逆手に取り“曖昧故に不明瞭”であり“外郭は知られているが中身は誰もわからない”と言うブラックボックスと化している。 ある意味で魔術の本質的なものに近しいのかも知れない。 ネットミーム的側面もあるせいなのか意外と愉快。 +絆レベル 【キャラクター詳細】 キャラせつめい 【パラメーター】 筋力 ■■■■■:A 耐久 ■■■■■:A 敏捷 ■■■■■:A 魔力 ■■■■■:A 幸運 ■■■■■:A 宝具 ■■■■■:EX 【絆Lv1】 身長/体重:cm・kg 出典: 地域: 属性: 性別: 一言説明 【絆Lv2】 来歴せつめい 【絆Lv3】 サーヴァントのスタンスせつめい 【絆Lv4】 ○スキル名:ランク スキルせつめい 【絆Lv5】 「宝具名」 ランク: 種別: レンジ: 最大補足: ほうぐるび ほうぐせつめい 【「クエスト名」をクリアすると開放】 こまかいせつめい 関連人物 生前 死後
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辰丸事件(たつまる じけん)は、中国における排日運動の嚆矢となった有名な事件。1908年(明治41年)2月5日に、澳門沖に起きた日本船第二辰丸の拿捕事件である。 経緯 澳門のポルトガル人銃砲商が発注した銃器94函、弾薬40函及び石炭等を積載して神戸を出た汽船第二辰丸は、澳門前面の水域において清国拱北関の巡視船四隻に武器密輸の嫌疑で拿捕され 、日章旗を撤去 、広東に廻航された。日本側は密輸行為を無視し、領海問題、日章旗問題を口実に中国と強硬な交渉を行い、謝罪と10万円の損害賠償を要求した。しかし、清国政府は革命党の問題に悩まされている最中であり、容易に日本の条件を受け入れなかった。一方、日本では、第1次西園寺内閣が様々な国内事情を抱え、帝国議会、軍部、財界の圧力にさらされており、この局面を挽回しようと南清艦隊を動かして清国政府を威嚇した。結果、清国政府は3月15日、辰丸釈放、損害賠償、謝罪礼砲、兵器買収など五ヶ条の要求を入れることとなる。ところが事件発生地である広東の紳民はこれに憤激し、辰丸が釈放される19日に国恥記念大会を結集し、日貨排斥を決議したのである。この運動は広東省内にはもちろん、華南、南洋まで及び、不況下の日本への打撃は深刻であった。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 16 17。
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二零事件 分類:出来事 時代:J厨連時代末 概要 12月20日に起きたJ厨連滅亡のきっかけとなった事件 関連項目
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thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像 br / [[岐阜公園にて(岐阜市)]] 岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 事件前の状況 1881年(明治14年)10月18日、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日PM1 00、岐阜の中教院(現在の岐阜公園にあった建物)にて、板垣退助、内藤魯一らが演説を行い、PM6 00頃演説を終える。 板垣退助遭難 1882年(明治15年)4月6日PM6 30頃、板垣退助は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣退助に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流小具足術の柔術を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。 その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っていた。 夜になり、東京の自由党本部に板垣遭難の連絡が入る。この時点では板垣が殺されたという連絡であり、大石正巳は、後藤象二郎、谷重喜にその事を伝える。怒った後藤象二郎は直ちに岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせを受けた大阪の中島信行、高知の片岡健吉、植木枝盛も岐阜に向かい、立憲改進党の大隈重信も使いを岐阜へ向かわせる。 4月7日、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。山縣有朋は明治天皇に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長後藤新平が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け、正午過ぎに治療を終える。 正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。 4月12日、明治天皇の勅使が到着。御手元金を下賜する。 4月15日、傷が癒えた板垣は、岐阜から大阪へと出発する。 「板垣死すとも自由は死せず」の真相 「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣退助が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。しかし、本当にそう叫んだかは不明である。文章として登場したのは、4月11日の大阪朝日新聞の、板垣退助は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。 後の報知新聞の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。 他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという。 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より) 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(政府密偵の上申書より) 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキトゾ」(岐阜警察署警部長の上申書より) 襲撃犯 相原尚褧(あいはらなおぶみ) 板垣退助を襲撃した犯人、相原尚褧は小学校教員であり、東京日日新聞の保守主義に傾倒していた。その為自由党を敵視しており、板垣の東海道遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。1882年(明治15年)4月5日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、板垣と面会し殺害を試みたが、面会を断られる。そして翌日、犯行におよぶ。 事件後、6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。 相原は北海道の殖民事業に携わる為北海道へ向かうが、その向かう船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも言われている。一説には相原の背後にいた板垣襲撃を計画した者に殺害されたともいうが、真相は不明である。 その他 板垣退助が襲撃時に着用していたシャツと、凶器の短刀は現存する。シャツは個人蔵で公開されていないが、短刀は高知市立自由民権記念館に保管されている。 現在 1917年(大正6年)、板垣遭難の地である中教院の跡地付近である岐阜県岐阜市の岐阜公園(金華山の麓)に、銅像が建てられた。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月1日 (木) 21 37。
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王将事件とは生放送主のちゃん○わがコミュ限の放送で王将の研修動画を流し1週間のBANをくらった事件である。 王将事件を風化させてはならない! 2013年12月19日早朝、京都市山科区の王将本社前で、王将フードサービス社長の大東隆行が、自身で運転していた自動車付近で倒れているところを通報されて病院に搬送されたが、死亡が確認された。犯行に使われたのは小型の25口径の自動式拳銃であり、至近距離から撃たれたと考えられている。 現在もまだ逮捕されていない。とある生主が犯人ではないかと噂されている。 リンク 王将研修動画
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森戸事件(もりとじけん)は、大正9年(1920年)に起きた経済学者・森戸辰男の筆禍事件。 東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。 なお岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件をきっかけに興国同志会と決別している。岸はマルクス的社会主義にある種の共感を持っていたともいわれている。 参考文献 「私の履歴書 文化人20 森戸辰男」 日本経済新聞社、1984年。 原彬久 『岸信介』 岩波書店、1995年。 塩田潮 『岸信介』 講談社、1996年。 渡辺銕蔵 『激動の日本』 自由アジア社、1968年。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 04 05。
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川俣事件は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件と呼ばれた。明治期の大規模な集会・言論弾圧事件として有名。 農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。 概要 第1回~第3回押出し 足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、1896年10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。 農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、1897年3月2日、第1回の請願が行われた。当時、このような活動には名前がなく、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持参して徒歩で数日がかりで東京に向かった。当時、鉄道はあったが、鉱毒被害地から東京までの運賃が、鉱毒で貧困化していた農民らにとっては非常に高かったため、徒歩という方法がとられた。第1回押出しは、榎本武揚農商務大臣との面会に成功し、榎本はこの直後、現地視察を行った。 しかし、榎本の視察があまりにおざなりだと感じた農民らは、同1897年3月24日再度押出しを行った。(実際には、榎本は鉱毒被災地の惨状に大変に驚き、第1次鉱毒調査委員会の設置を即決したことが分かっている)規模は7000人と伝えられる。途中の川俣にあった浮き船橋が、警察によって外されており、怒った農民らは対岸まで泳いで渡って船をつないだ。(単に農民らの到着が遅かったため、という説もある。当時は夜更けには浮き船橋は通常、外されていた)しかし、途中の岩槻町で、警察に芳林寺に押し込められた上に説諭され、惣代75名を除いて帰郷。惣代らも、結局3名が農商務省にたどりついただけで、大臣には面会できずに帰った。 鉱毒調査委員会が銅山に設置を命じた鉱毒沈殿池が決壊し、再び鉱毒が下流に流れて被害を及ぼしたことが主要な原因となり、第3回の押出しが、1898年9月26日に行われた。約10000人が、同様に雲龍寺を起点に東京に向かった。東京府南足立郡渕江村(現東京都足立区)の保木間氷川神社まで、約2500名がたどりついた。ここで、憲兵隊や警察による説得を受けた。このとき、鉱毒事務所でも重要な役割を担っていた田中正造も説得に当たった。当時、田中は与党議員だったため、自身が農商務大臣に直接かけあえばなんとかなると考えていたとされる。農民らは田中の説得に応じ、惣代50名を残し帰郷した。惣代らは、田中の口利きで当時の大石正巳農商務大臣との面会には成功したが、直後に政権は崩壊。田中も野党議員となり、この面会は実を結ばなかった。 第4回押出し(川俣事件) 川俣事件の事実に関しては、後の裁判での証言などがまったくかみ合わない。警官と農民の証言がかみ合わないのは当然だが、農民同士の証言も全くかみあっていないため、事実関係の詳細は不明である。裁判も、起訴無効という形で決着したため、事実関係については決着がついていない。多くの研究者は、農民の証言がより正確だと考えているが、それでも説明のつかない部分が多い。 1900年2月、農民らはひそかに会合を開き、次回の押出しの段取りを決めた。前回説得する側に回った田中も、今度は説得することはなく、押出し決行日に合わせて国会で質問することにした。警察に知られるのを防ぐため、決行日は極秘とされ、準備する物だけが農民から農民に口伝で伝えられた。しかし実際は、集会などに警察が探りをいれており、決行日以外の詳細は警察側も知っていた。 2月12日午後11時ごろ、雲龍寺の鐘が途切れることなく連続して打ち鳴らされた。これを合図に、周辺町村の寺も鐘を連続して打ち始めた。その音を聞いて、さらに遠方の寺も鐘を打ち始めた。この合図は、20里(約80キロメートル)は伝わったという。警官に制止された寺もあったが、隣村の別の寺が鐘を打ち続けるため、制止は無駄であった。この合図の仕方は第3回押出しとほぼ同じである。 2月13日午前1時、700から800人の農民が雲龍寺に集結していた。警官は解散を命じたが、農民らは応じなかった。農民らによれば、土足で本堂に上がりこむなど、警官側が乱暴をはたらいたとしている。 同日、朝から、雲龍寺に農民が集結した。その数は不明であるが、鉱毒事務所の発表では1万2000。しかし、このときの人数は警察発表の2500人のほうがより確かだと考える研究者は多い。9時に一行は雲龍寺そばにあった渡良瀬川を渡り、館林町に向かった。群馬県警察部は約50名で監視していたが、一行はこれを突破した。 直後、渡良瀬川右岸の農民らと合流。前述の1万2000という数は、途中で合流した農民を含む数と考える研究者もいる。 館林町入口には10名ほどの警官がいたが一行はこれを突破。途中、11時ごろに館林警察署前で数名が拘引されそうになり、負傷者が出た。警察側は、農民のうち1名が馬で警察署に乗り入れたのが原因としているが、当人は馬ごと拘引されそうになったと証言している。いずれにしても、ここでどのようなやりとりがあったのか詳細は不明である。裁判終結後の農民の言及には、農民側が先に警察署敷地に石を投げ込んだというものもある。 小競り合いのあと、正午すぎに農民らは川俣にある浮き船橋に向かった。当時、利根川にはほとんど橋がかかっておらず、川を渡れる場所は実質的に川俣しかなかった。しかし、邑楽用水から利根川までの間には警官隊が5重の防衛ラインを張って待っていたため、農民らは船を運んでいる者たちを先導にして先を進んだ。前々回の反省から、この回の押出しでは、橋が外されたときに備えて農民らはあらかじめ船を用意していた。 警官隊は解散命令を発した直後に農民らに殴りかかり、先導の船を運んでいた農民らを相次いで逮捕、拘束した(農民らの証言による)。ただし、先頭の船を運んでいた被告農民の中には、停止命令は聞こえなかったと裁判で主張した者もいる。農民らは川俣にある真如寺に連行され、ここで手当てを受けた。川俣の農民は大多数が農民に同情的であり、ほかにも手当て、看護をした者は多くいたという。この日逮捕された農民は約50名。警察が首謀者、リーダーと目していた人物らは、14、15日に相次いで逮捕され、逮捕者の数は67名となった。 この時点で農民は総崩れとなり、散り散りになった。ルートは不明だが、東京までたどり着いたものも数十名から数百名はいたとみられるが、その後の請願は行われなかった。 一方、田中正造は事実を知らず、国会で鉱毒問題に関する質問を行っていたが、質問後、事件を知ると、2日後に再度事件について質問を行った。なお、押出し決行日は、田中の国会質問日があえて選ばれたものである。 押出しは、第1回から第6回まで武器を持たず、暴力もふるわない形で行われている。このため、事件となった第4回押出しも、農民側が先に警官に暴力をふるった例はないと考える研究者が多い。 当時現場にいた新聞記者らも、裁判で証人として出廷したが、警官隊がサーベルなどの武器を用いたという証言はない。また、農民が武器を使用したという証言もない。警官側が農民に対し砂を投げた、という証言と、警官と農民の両者が砂を投げた、という証言がある。 起訴 予審取調べは直後から行われ、7月9日、51名を有罪(起訴相当)、16名が不起訴となった。不起訴となった者は釈放された。取り調べで特に拷問や自白の強要が行われたという記録はない。ただし、調書に、検察側の意図的な聞き誤りが多く含まれるという研究もある。 農民5名が「暴動首魁ノ所為」、雲龍寺住職1名が「暴動教唆ノ所為」、農民17名が「扇動の所為」で、それぞれ重罪、残りの28名は軽罪で起訴された。また、一部の農民は、治安警察法でも起訴された。なお、治安警察法は、事件の起きた1900年2月13日にはまだ成立していない。(旧法よりも、新法である治安警察法のほうが最高刑が軽いため、新法での起訴となったという説もある。ただし、罰金は治安警察法のほうが高額になっている) 1審の前橋地裁では、60余名の大弁護団が組織された。この60名は全員が無償で弁護にあたった。ただし、一度も公判に出席しなかった弁護人も10名いる。10月10日に第1回公判が開かれ、12月22日、判決がおりた。2名が治安警察法で有罪(禁固2ヶ月)、官吏抗拒罪で罰金と禁固(4ヶ月~2年)が27名、無罪21名であった。(被告のうち1名は公判途中で死去)兇徒聚集罪は認められなかったが、当時現場にいなかった、首謀者とされる農民らに重い刑を科すという意味では、検察側の主張に沿った判決となった。 この判決に対し、検察側は控訴。被告側も、無罪となった者も含め50名全員が控訴した。裁判に先立ち、収監されていた22名は1901年1月20日すぎに東京に移されたが、3月28日までには全員がいったん釈放された。(のちに再収監された者はいる) 東京控訴院での2審は、9月20日に第1回公判が開かれたが、裁判の場所が東京に移ったことで、事件は東京のマスコミに注目されることとなった。2審で被告側は、判事らを鉱毒被害地に臨検させることに成功。この臨検にはマスコミも同行し、鉱毒被害は東京のマスコミに広く知られるようになった。特に、萬朝報、毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)、読売新聞などは、鉱毒や、田中正造の直訴事件を連日のように伝え、学生らが団体で連日、鉱毒被害地や足尾銅山の見学をするなど、世論は沸騰した。 第5回、第6回押出し 判決は1902年3月15日と決まったが、これに合わせて、2月19日、3月2日に、第5回、第6回の押出しが行われた。第5回押出しは、それまでの雲龍寺ではなく、埼玉県利島村(現北川辺町)の養性寺を起点として行われた。雲龍寺でも農民が1100人程度集結したが、警官の監視が厳しく、実際に東京に向かえたのは養性寺組の700名だけだった。この押出しは、女性が多かったため女押出しとも呼ばれる。女性5名が近衛篤麿貴族院議長との面談に成功した。 第6回押出しも、養性寺を起点として行われ、農民2000名が東京に向かい、うち7名が3月6日に平田東助農商務大臣との面会に成功。大臣は第2次鉱毒調査委員会の設置を確約させることに成功した。ただし、第2次鉱毒調査委員会の設置は、既に閣議決定されていて、公布されていないだけであった。委員会は、実際に3月15日に設置された。別の日に内務省に150名がなだれこんだが、内務大臣は面会を拒否した。 2審判決 2審判決は、1名を重禁固15日、2名を罰金とするもので、ほとんど農民側全面勝訴に近いものだった。これに対し、検察側は上告。農民らも、あくまで全員無罪をかちとるために、無罪となった47名を含む全被告が上告した。 大審院では書類のみの審査が行われ、5月11日、大部分の被告を無罪とするのは不当として2審判決を破棄、差し戻しとなった。無罪となった者のうち11名の上告は認められず、この場で無罪が確定した。差し戻し審は仙台控訴院で行われることになった。これを農民らに負担を強いるようしむけたものだと考える研究者もいるが、差し戻し審を前回と別の裁判所で行うのは当時の慣例だったという主張もある。 仙台での判決 11月27日、仙台控訴院での第1回公判が開かれたが、仙台の弁護人が、突然、申立書が検事直筆でないため、控訴は無効と主張した。(当時の刑事訴訟法では、裁判で使われる調書類はすべて直筆の署名がないと無効になった)申立書が無効という事実は東京側弁護団や被告には知らされていなかった。実は、検察側が前橋地方裁判所に提出した最初の起訴状そのものも代筆で、そもそも裁判は最初から無効であった。仙台側弁護士は、初公判の時点でこのことにも気づいていたが、軽罪での時効が迫っていたため、あえて裁判を長引かせ、時効を狙うために1審の起訴状については言及しなかった。しかし、公判後、裁判所が署名を点検してこの事実に気付き、12月25日の第2回公判で、1審の起訴状に担当検事の署名がなく、起訴無効という判決がおりた。 仙台の弁護士が、何故、起訴状の署名が代筆だと気づいたのか、遠く離れた前橋の検察官の直筆署名をどうやって手に入れたのかは不明のままである。一説によれば、当時、東北地方の強姦事件の公判で、被害者の調書に被害者本人の署名がないという理由で無罪になることが立て続けにあり、それ以来、仙台の弁護士は調書の署名を注意してみるようになったともいう。なお、のちに法が改正され、被害者の調書については、直筆署名でなくてもよいことになった。 この時点では川俣事件の時効は完成しておらず、検察側は再び1審から起訴をやり直すこともできたが、行わなかった。再度世論が沸騰するのを防ぐためだと考えられている。ただし、第2回公判直前の12月23日に、複数の被告が再収監されており、これを再起訴の準備と見る研究者もいる。 事件の影響 事件によって有力な活動家が拘束され、また、活動を行うと逮捕されるかもしれないという不安から鉱毒反対運動が下火になったと考える研究者がいる。田中正造も、1901年当時、同様の主張を行った。 これに対し、第5回、第6回押出しが行われており、鉱毒反対運動の弱体化は、事件や裁判とは関係ないと考える研究者もいる。この説をとる研究者の多くは、1903年秋以降、鉱毒被害地が豊作になったことで運動が弱体化したと考えている。 第6回押出しの次の押出しが行われたのは56年後の1958年6月11日のことで、毛里田村農民らが足尾線で足尾町の古河鉱業に押出しを行った。 衆議院議員であり、農民運動の先導者であった田中正造は、1900年2月15日、事件に関する質問演説を行っている途中で、当時所属していた憲政本党を離党した。 その後 事件発生百年後の2000年2月13日、群馬県邑楽郡明和町の事件発生現場に、川俣事件記念碑が建てられた。 文献 『川俣事件』田村紀雄(1973年) ISBN4-7845-1403-1(ISBNは社会評論社版のもの。初版タイトルは『鉱毒 渡良瀬農民の苦闘』) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月8日 (月) 00 14。
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白棺事件 (しろひつぎじけん) [都市伝説の噂] ねえ知ってる?白棺って知ってる? 自信がないとき、怖いとき 何も考えたくないとき、悲しいとき そんなあなたの元にお届け! 白棺に入れば心も頭の中もパーッと真っ白! どんな感情もなくなっちゃう だけど使うときは気をつけて! そこに入ったらもう戻れないんだって いったいどこに戻れないんだろうね [解説] 聖華暦832年にカーライル王朝・聖王国で流行っていた都市伝説。 ある日、負の感情を抱えている人間の元に差出人不明の白い棺が届けられる。 そして届けられた人間は無意識に棺の中に入ってしまう。 すると棺の中に入った人間は忽然と姿を消し、家の前には白い棺だけが残されるという。 今では都市伝説として語られるが、この事件は実在した集団失踪事件であり、魔族による破壊工作である。 聖拝機関によって棺の供給元を殲滅する事には成功したが、この戦いで多くの執行者が犠牲となった。