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星期兄弟事件: 从位于26号道路的星期兄弟家中的笔记本上可以了解到一家子会于每天出现在不同地点赠送道具,具体如下: 星期天 37号道路 磁铁 星期一 40号道路 锐利的鸟喙 星期二 29号道路 粉红缎带 星期三 愤怒湖 黑带 星期四 36号道路 坚硬岩石 星期五 32号道路 毒针 星期六 烟墨市 诅咒护符 当从七人手中获得所有道具后,再和他们对话,排头精灵即可获得对应星期的缎带,每日只能回去一次 高速船事件: アサギシティ浅葱市出航:星期二,星期五 クチバシティ枯叶市出航:星期天,星期三 乘龙事件: 乘龙会在星期五于つながりのどうくつ山洞通路的三层出现 捕虫大会事件: 捕虫大会于每周的二四六的白天在捕虫公园举行 黄金市地下商店街: 黄金市著名的地下商店街,每天会有不同的店面营业,具体如下 星期天:中药店开放,不过吃苦药会下降PM的亲密度 星期天:美容店开放(弟) 星期一:便宜商店开放,可以买到便宜版本的9800道具 星期二:美容店开放(兄) 星期三:美容店开放(弟) 星期四:美容店开放(兄) 星期五:美容店开放(弟) 星期六:美容店开放(兄) 月亮山的皮皮: 星期一晚上(8点到12点)于月亮山顶会出现的皮皮跳舞事件,结束后可以在中间石头上得到月亮石 另:星期一的凌晨也能触发 夙敌的再战: 星期一星期三挑战四天王时会出现与玩家对战(龙穴和渡与伊吹组队战结束后触发)
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相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁固処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。 1892年、相馬誠胤が病死。錦織はこれを毒殺によるものとし、1893年、再び相馬家の関係者を告訴、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が毒殺とは判定できなかった。 1895年、錦織が相馬家側より誣告罪で訴えられ、後に有罪が確定。事件は収まりを見せた。 法制度への影響 相馬事件がきっかけとなり、精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて問題意識が高まり、1900年に精神病者監護法が制定された。これは精神病者の人権保護や治療を目的とするものではなく、精神病院(精神病室)および私宅(神社仏閣における参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」のカテゴリーに含まれる場合もあった)における監置を法によって規定するといった隔離を主眼にするものであった。 関連項目 座敷牢 萬朝報(相馬事件を大きく取り上げた新聞) エルヴィン・フォン・ベルツ(相馬誠胤を精神病患者として診断した医師の一人) 後藤新平(錦織剛清の支援者の一人。この事件に関係して一時逮捕される) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 13 29。
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泉氏事件 2008/06/22 泉氏事件勃発 DF掲示板の常連『ファイア』さんの知り合いの『泉こなた』さんがDF掲示板にきた。 はじめは短文レスなどで注意をくらいまくり、 泉氏はDFを去った。 そしてその後『ルーツ』という名前ではじめましてを装って戻ってきた。 そのことで他の利用者に注意の連発をくらい、その後DF掲示板を荒らした。 ここまでならただの荒らし事件だが、 この集団注意に腹を立たせ『ファイア』さんがDF掲示板を去った。 さらにそのことに嫌気をさし常連『優衣』さんまでもがDF掲示板を去った。 結局数日後去った二人は復帰した。
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30年以上前、姫代学園初等部で起きた事件 つぶらとメアリの最初の確執を生んだ。 メアリが転校生召喚を行い、学園の乗っ取りを図った。 同級生のつぶらが仲間と協力し、転校生を殺害、メアリの計画を阻止した事件。 この事件の後遺症で、つぶらは白髪となる。
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登録日:2016/12/20 (火) 18 35 00 更新日:2024/07/02 Tue 17 16 12NEW! 所要時間:約 20 分で読めます ▽タグ一覧 SPECIUM;BOYS UFO オカルト トラウマ ハイ・ストレンジネス事例 事件 奇跡体験!アンビリバボー 山梨県 恐怖体験 未知との遭遇? 未確認飛行物体 未解決事件 検索してはいけない 検索してはいけない言葉 甲府事件 甲府市 異星人 第三種接近遭遇 都市伝説 甲府事件とは、1975年2月23日に山梨県甲府市で発生した未確認飛行物体及び異星人の目撃事件である。 日本における、いわゆる「第三種接近遭遇」(*1)事例の代表例で、それだけでなく目撃者がかなり多いこと、物的証拠と見られるものも複数確認されていることなどから、研究者の間でも信憑性はある程度高いとされ、世界的にも著名な異星人目撃事件でもある。 概要 同じ1970年代に発生した介良事件・仁頃事件と共に「日本三大UFO事件」とも呼ばれていた。 このうち甲府事件と「72年に高知県高知市の介良地区で小型UFOを捕獲した」という介良事件は現在でもかなりメジャーな事件。 だが、仁頃事件は「UFOに乗せられて木星まで行ってそこの岩石を採取してきた(※木星に岩石は無い)」という荒唐無稽なもので、さらに証言者が後に「サモンコール宇宙連合のスポークスマン」と称し、「自分はUFOを三台持っていて更にテレポート能力で他の星に6分で行ける」などと言いだした(じゃあUFOいらないじゃん)ため、現在ではほとんど言及されない。 現在では甲府事件と介良事件に、農林水産省の調査船(当時)開洋丸が1984年12月18日と1986年12月21日にそれぞれ「フォークランド諸島沖で飛行する光る物体」「北緯26度の日付変更線付近で肉眼視できないレーダーの影」と遭遇した「開洋丸事件」で日本三大事件とするのが妥当だろうか。 事件の発生 この事件は上述のように目撃者が多いが、中核的な証言をしているのは当時小学校二年生のK君とY君の2人である。 (異星人らしき者を見たと言う証言をしているのはこの2人と、後述する女性の3人だけである) 同じ小学校に通い、親戚同士でもあった彼らはその日午後6時半頃まで一緒に集合住宅の敷地内で、ローラースケートで遊んでいた。 この日の甲府市での日没時間は午後5時5分で、すでにかなり暗くなっていた筈である。 その時、東のほうにある達沢山上空に光り輝く2つの物体を目撃(*2)。 1つは北のほうに遠ざかっていったが、もう1つは2人のほうに接近してきた。 それは2人の頭上で静止し、さらに底部から黒い筒のような物体を出した。 この時、「カチリ、カチリ」というカメラのシャッター音のような音が聞こえたという。 当然ながら2人は恐怖を感じ、K君の家に逃げようとしたが、UFOが頭上をついてきたため隣にある福王寺の墓地に逃げて身を隠した。 しばらくするとUFOはもう一体と同じく北に去っていった。 ほっとしてK君の家に帰宅しようとした2人だったが、途中でブドウ畑の中に発光体を目撃する。 火事だと思った2人が駆け寄ってみたところ、それは先ほどのUFOだった。 それは畑の中を横滑りするように移動していたという。 今度は恐怖よりも好奇心が勝った2人は、接近して2手に分かれて観察してみた。 証言によると直径5メートル(資料によっては2.5メートル)、高さ2メートル(資料によっては1.5メートル)程の円盤(*3)で(事件後に書かれた図では完全にアダムスキー型UFOそのものである)、 半透明の窓がいくつもあり、底部には着陸ギアらしきものが3個あり、銀色の機体には謎の文字が書かれていた。 これだけでも特異な体験談としか言いようがないが、この事件の白眉はこの後である。 K君の観察していた側で突然UFOの搭乗口らしきところが開き、中の様子と搭乗員(異星人?)の姿が露になったのである。 それは身長130センチほどで、深い皺の刻まれた茶色い顔をしており、3本の牙とウサギのような耳があった。 さらに銀色の服を着ていて、腰にはレーザー銃のようなものを付けていた。 K君によると機体の中にいたのは2人であり、そのうちの1人が少年たちのほうに向かって歩いてきた。 そして、その時である。 K君とは反対側で観察をしていたY君が、突然何者かに肩を2度叩かれた。 振り向いてみると―――そう、K君が目撃したのと同じ恐ろしい姿の搭乗員だったのである。 その搭乗員はテープレコーダーを早送りした時のようなキュルキュルという音を出していたという(*4)。 Y君は当然ながら腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。 死んだふりをしながら薄目を開けて観察を続けたところ(この少年たち、年の割には肝が据わっているように思われる)、 その搭乗員は周囲を観察しながら何かを計測している様子だったという。 やがてK君が走ってきて、歩けないY君を背負って一目散に逃げだした。 さて、ここまでであれば、正直言って子供の与太話だと笑い飛ばしてしまう人が大半だろう。 今時銀色のスーツとレーザー銃を持った異星人などB級SFぐらいにしか出てこないし、友人を背負った小学生をあっさり捕り逃がす異星人などお笑い草である。 だが、この事件が真に奇妙な展開を迎えるのは実はこの後なのだ。 2人はK君の家に駆けこみ、たった今目撃したものをK君の家族に話した。 この時、家にはY君の両親と兄(当時小学三年生)も来ていたという(なおここからの話は、資料によって細部が微妙に異なる)。 最初は相手にしなかった家族で会ったが、あまりに2人の話し方が真に迫っていたためか、 2人の母親(兄も一緒だったという資料もある)は半信半疑ながらも2人と一緒に現場に向かった。 そこで、今度はブドウ畑のUFOを4人(もしくは5人)が同時に目撃したのである。 それはオレンジ色に光る光球のように見えたという。 驚いた母親が、家にいる父親たちを呼びに行った。 父親たちは棒を持って(どうする気だったんだ父ちゃん……)現場に急行したが、その時には光は消えかかっていた。 そしてUFOは最後に強烈な光を発して、そのまま消滅したという。 なお、K君はこの体験によるショックのせいか、その晩はひどい夜泣きをしたという。 またY君もこれ以降夜出歩けなくなったという。 事件後の騒動 翌日、2人が学校で昨日の出来事を話すと当然大騒ぎとなる。 担任の教師が昼休みに2人と一緒に現場に行ってみると、畑の中央部に着陸跡のようなものがあったという(*5)。 やがて通報を受けた山梨日々新聞の記者まで駆けつけ、詳しい調査が開始された。 この時点で、畑にあったコンクリート製の柱が折れていること、金網が曲がっていることなどが確認された。 翌日にはこの事件の記事が山梨日々新聞に掲載された。 この記事を見て興味を持った県立機山工高電気科の教諭が、数日後に現場を訪れて放射線を測定した。 その結果、微量の放射線が確認された。 放射線は自然界からも検出されるが、さらに1か月にわたって継続調査をしたところ、 自然界では考えにくい急激な減退(つまり半減期がやけに短い)が見られたという。 その2週間程後にオカルト誌『UFOと宇宙人』の記者が2人を取材する。 そして3月下旬には、現在も活躍しているオカルトライター、南山宏氏(『SFマガジン』の2代目編集長としても知られる)も取材に訪れ、いよいよ大騒動となった。 他の目撃者 この事件が特異的なのは、家族以外にも2人と直接かかわりの無い複数の人物が、UFOや搭乗員らしきものを見たと証言している点だ。 以下は目撃した人物及びその内容である。 現場の東にある甲府市環境センター管理人のA氏:2人がUFOを目撃したのとほぼ同時刻に、2つの発光する飛行物体 2人の同級生のM君とその母親:同じく同時刻、現場の北にある道路を車で走行中に、南側の空に行ったり来たりする飛行物体 当時親の転勤で甲府市に住んでいた作家の景山民夫氏:やはり飛行物体 現場の南にある常光寺の住職:それから少し経過した午後7時頃、寺の南の空に発光物体が現れ、ジグザグ飛行をした後急降下する様子 そして最重要証言とも言えるのが保険外交員の女性Sさんの証言である。彼女は現場付近を走行中、道の真ん中に立ちふさがる背の低い2人組と遭遇。徐行してすれ違おうとしたところ、そのうちの一人がフロントガラスに手を付けて顔を寄せてきた。あまりに醜悪な姿だったために非常な恐怖を感じ、「仮装行列か何かだったのではないか」とも思ったという。その後、大騒ぎしている家族連れと遭遇し、「UFOを見なかったか」と尋ねられたという。あまりに恐ろしく異常な体験だったため誰にも話さなかったが、7年後にマスコミに証言した。 疑問点・検証 多数の目撃者、着陸痕や放射線などの物証と、この手のネタにしては異例なほど肯定的な材料が揃っており、信憑性が高いとされているのも頷ける事件である。 しかし、詳細に見ていくと疑問点もないではない。少なくとも、手放しで「UFOが実在する証拠だ!!」と言い切るのは疑問が残るのも事実である。 まず、この事件を考察する際に考慮しなければならない点が2つある。 ◆時代背景 事件が発生した70年代は、日本は空前のオカルトブームだった。 現在では甲府事件と介良事件くらいしか語り継がれていないが、当時のオカルト雑誌などには、UFOや異星人との遭遇事例はゴロゴロ載っていたのである。 2人の少年たちも当然この時代の空気に影響されていただろう。 特にK君は、担任教師によれば、なかなかのUFOマニアで、かつ想像力が豊かな子だったという。 ◆最初の取材者の問題 もう一点、この事件の証言内容に疑問を抱かせる要因になるのは、この事件を全国区にした最初の媒体が『UFOと宇宙人』誌であったことである。 タイトルからしていかにもオカルト系な雑誌という感じだが、実はこの雑誌、ただのオカルト雑誌ではない。 実は初代編集長は日本GAPの創設者なのである。 日本GAPというのは、当時にして一般人はもとより、UFO研究者らからすらも「信憑性は極めて低い」とされていたジョージ・アダムスキー(*6)を絶対視していた団体である。 アニヲタ的には、『さよなら絶望先生』のアニメ版のオープニング『林檎もぎれビーム!』の元ネタである「リンゴ送れ、C」事件を起こした団体と言えば通りがいいだろうか(*7)。 そんな人が編集長なので、『UFOと宇宙人』誌はあの『ムー』すらも裸足で逃げ出すトンデモ雑誌として現在まで語り継がれている。 UFOに乗せてもらって他の星を見てきたとか、異星人の頭を挿げ替えた(?)とかいった、信憑性も確認できない荒唐無稽な記事ばかりが載っていたのである。 となると、この雑誌の記者が2人に取材をした時に何らかの「入れ知恵」のようなことをしたことは十分考えられるし、同誌に掲載された記事の内容も全面的に信頼できるかどうか疑問に思える。 当時の日本にブルーブックやNICAPのようなしっかりしたUFO調査組織があり、客観的かつ迅速・詳細な調査をしていれば……と悔やまれるばかりである。 以上の2点を踏まえた上で、もう一度事件の詳細を考察してみよう。 ◆2人が目撃した異星人とUFO 上述したように、複数の牙・長い耳・銀のスーツ・レーザー銃といった2人が見た異星人のデザインは、今から見ると随分レトロなものである。 いかにも当時の特撮やSF番組に出てきそうなデザインで、そこから何からの影響を受けている可能性は無視できない。 そして実際、2人が書いたイラストは『帰ってきたウルトラマン』の最終回に登場したバット星人、またはウルトラセブンに登場したフック星人に酷似しているという指摘がある。 この2話はいずれも事件前に放送されている。 新しいほうの『帰ってきたウルトラマン』でも本放送当時は2人の少年は5歳であり、 見て記憶に残っていたかは微妙であるものの、再放送もされていた上に書籍やソフビ人形など、目に触れる機会はいくらでもあっただろう。 UFOについて言えば、至近距離で観察したという2人の証言およびイラストがどう見てもアダムスキー型円盤にしか見えない点が重大な問題である。 アダムスキー型円盤はジョージ・アダムスキーの証言及び写真・動画によって世に知られるようになったUFOだが、上述のようにアダムスキーの信憑性はUFO研究者の間ですら極めて低いとされている。 写真や動画も全てトリックが暴かれており、さらには元ネタとなったであろう他人の論文まで特定されている。 このため、UFO研究者の間ですら、UFOはいたとしても、アダムスキー型円盤なるものが実在するのかどうかは極めて怪しいとされているのである。 おまけに少年たちの証言によると、UFOの内部にはスクリーンのようなものと、それを操作する機械などがあったという。 ……随分とレトロなUFOに乗ってきたものだ。 2人以外に異星人を見たという女性が書いたイラストは、2人の証言とは似ても似つかないし、家族が目撃したものは「光球」であって円盤ではない。 こうして見ると、少なくとも2人の細部についての証言は、本などで得た知識を無意識のうちに引っ張り出したものであるという可能性が捨てきれない。 ◆他の目撃証言 Aさんの証言に出てくる2つの飛行物体のうち、最初に見たという物体については「流星のようだった」と証言しており、 同じものを見たと思われる別の証言者ははっきり「流星でしょう」と述べている。 Aさんの目撃した2つ目の物体、およびM君母子や影山民夫氏が見た物体については、方角と飛行経路、 そして目撃された時刻が当時甲府市上空を飛行していた旅客機YS-11とピッタリ一致する。 M君親子は物体が「行ったり来たり」したと証言しているが、この証言は事件直後には無く、一か月以上経過した後で聞きだされたものである。 大騒ぎになった事件と言うこともあり、一か月の間に記憶が変容した可能性は高いと言わざるを得ない。 更に言えば、M君が目撃者2人と同級生であったことも不安材料である。 なお、「旅客機は数千メートルの高度を高速で飛行するから、証言のように地上から長時間観察できる筈がない」という反論もあるが、YS-11は高度は三千メートル程度で、速度も旅客機としては低速であるため、十分見ることができたとされる。 常光寺の住職の証言には、さらに根本的な問題がある。 正体が何かとか言う前に、現場から南にある寺から見て「南」の方角に降りたという物体が、この事件と直接関係ある筈がない。(正体は不明) そもそもUFOの目撃例は毎日のように発生しており、その9割以上は何かの誤認であることがわかっている。 異星人目撃事件が起きた現場の近くでUFOが目撃されたからといって、すぐに結びつけるのは早計である。 一方、異星人らしき者を見たというSさんの証言は最重要であると言える。 同一個体と思われる異星人を、別々の場所で直接関係ない人物が別々に目撃したという例は、世界的にもかなり少ない。 だが、問題はこの証言が公になったのが事件発生から7年も経過した後ということである。 やはりこの証言にも、当然時間経過による記憶の変質の影響があることが予想される。 実際、Sさんの証言ではこの直後にK君・Y君の一家と遭遇したことになっているが、この件はK君・Y君側からは一切触れられていない。 この点からも、何らかの思い違いをしている可能性は拭えない。 もっと大きな問題は、Sさんが目撃した異星人が、上述のように2人の少年が証言したものとほとんど似ていないという点である。 土気色で皺の刻まれた顔、という点は確かに一致していなくもないが、 その前に牙や耳、銀のスーツといったわかりやすい特徴を見落とすとは考えにくい(*8)。 Sさんは「最初は中学生が土人の仮装でもしているのかと思った」と述べているが、上記のような連中を「土人の仮装」などと思うものだろうか。 付け加えれば、このSさんの証言する異星人は、上記の少年らによる目撃報告よりも、Sさんが告白する直前の時期に公開された映画『E.T』に出てくる異星人にそっくりである。 この点については、エイリアン・クラフト説を全面的に肯定している矢追純一氏からも疑義が出されているほどである。 さらに言えば、時間経過を考えると、この遭遇があったのは、K君・Y君やその家族がUFOを消え去るのを見た直前あたりであることだ。 そんなタイミングで、のこのこ徒歩でUFOから離れた場所を歩いていた異星人……集合時間に遅刻して置いて行かれたのではないか、と心配になってくる。 現在と違って街頭もあまりない道での短時間での目撃であり、何かの見間違いではなかったかとの疑問も拭えない。 なお「この時期は真冬で、夜に外を歩いている子供なんかいる筈がないから見間違えようがない」という意見もあるが、 そもそもK君とY君が直前まで外で遊んでいる。 以上のように、第三者による目撃報告は、 いずれも「見間違いと決めつけて捨てるには惜しいが、全面的に信頼するのも難しい」といったところである。 ◆物的証拠 ブドウ畑にあったという着陸痕や、柱や金網の破損などは、本当にUFOの出現によって生じたものなのかどうか確認が取れない。 そもそもコンクリの柱が折れたり曲がったりしてるのに、ブドウの木に全く被害が無いのも妙な話である。 また「ブドウ畑にUFOが着陸した」という点に関しては、この事件を最も詳細に検証した南山宏氏が疑問を呈している。 というのも、UFOの大きさが少年たちの証言通りだったとしたら、柱や金網に囲まれた畑に着陸することは物理的に不可能だからだ。 南山氏は基本的にはオカルト肯定派(ただし明白な虚偽や捏造を行う人物は批判している)であり、この甲府事件も大筋では信憑性が高いとしている。 そんな人物の目から見ても、上記の矛盾点は見過ごせなかったということである。 しかし一方、放射線の測定結果については、未だに疑問の余地のない解釈はできていないようである。 放射線自体は自然界にもあるので測定されること自体はそこまでおかしくないが、短期間で大幅に減退するという、自然界ではあまり見られない特徴を示したからである。 だが、近年超常現象研究者の加門正一氏が追跡調査を行ったところ、この放射線に関するデータは必ずしも信頼できるものではないことが明らかになった。 もともと工業高校の先生が、「生徒たちの現地実習のテーマにちょうどいいかも」というノリで行った調査で、調査者が必ずしも実地検査に精通していなかったというオチである。 より詳細な原因の特定には当時の測定方法を検証し、土壌の正確な採取場所を特定して分析する必要があるだろう。 ◆光球の正体 さて、実際のところこの事件の最大の謎は、上記の放射線と、少年たちの家族が目撃した光球である。 目撃者の数も多く、少年たちの一見荒唐無稽な異星人遭遇譚がここまで広まったのは、この一件が原因であると言っていいだろう。 とはいえ、家族が光球を目撃したのは「畑から50~100メートルほどの距離から」とのことで、 何らかの見間違いである可能性は完全には排除できないかもしれない(過去の事例では、複数の人物が、星などのありふれたものをUFOだと誤認していた事例もある)。 プラズマ現象の一種である「球電」がその正体ではないかという説もある。 この説では「カチリ、カチリ」「キュルキュル」といった音も説明できるとされており、 強い電磁波は幻覚を誘発するという説もあるなど、わりと事件と合致する点は多い。 ただし、球電は通常大雨の時に落雷に伴って現れるとされており、超高温の状態であるため金属を蒸発させることもあるとされる。 事件当時は快晴で、現場周辺に高温の痕跡が無かったことを考えると、この説にも疑問は残る。 結局、最初に少年たちの前に現れた発光体と、家族が目撃した発光体の正体は現時点では不明という他ない。 まとめ ここまで見てきたように、本事件は極めて特異な事件であり、多くの人の興味を惹きつけている。 細かく見ていくと疑問点も数多く浮上してくるものの、それでも解けない謎が残るのも確かである。 おそらく、少年たちが何らかの異常な体験をしたことはまず間違いないだろう。 だが、それが異星人やエイリアン・クラフトの存在を示す証拠になりうるかというと、疑問が残るというのが実際のところである。 今後も本件については、多くの考察や説が出されることだろう。 いつか真相が判明することを期待したい。 ……それにしても、少年たちの証言する異星人とUFOのチープさ、そして特撮・オカルトブームという時代背景から考えても、 「特撮マニアかUFOマニアがコスプレして遊んでいた」説も十分ありうる気がするのだが。(それでも、解けない謎はあるし、そうなると光球の正体は完全に不明となるが) 追記・修正は異星人に肩を叩かれてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] メイツ星人かな? -- 名無しさん (2016-12-20 18 56 33) そう言えば、ウルトラマンサーガに登場したバット星人(CV.東国原元知事)が各地の宇宙に侵入したり滅ぼしたりしてるんだよな…まさか… -- 名無しさん (2016-12-20 19 27 19) 正味なところ、知的生命体がいるであろうことが明白な地球にわざわざ降りてきてる連中がいちいち目撃者を処理してたらキリがないと思うのだがいかがか。侵略目的でも星間航行が出来てる時点で科学力の差は歴然なわけだし -- 名無しさん (2016-12-20 19 40 30) 子供向け学習マンガで読んだ気がするな、同じ話かな? -- 名無しさん (2016-12-20 19 42 31) ああ、SPECIUM;BOYSが本気でゲーム化しないかなぁ… -- 名無しさん (2016-12-20 22 42 17) 森林浴に来た人間がその森に住む生き物殺すこたぁないしね -- 名無しさん (2016-12-21 00 03 25) 何が怖いって少年たちより女性が見たっていう不審者だわ 宇宙人より怖い何かなんじゃないの? -- 名無しさん (2016-12-21 18 21 52) 確か「いつもUFOの事を考えていた」という書籍でも本件が語られてたのと、仮に事実ならこの宇宙人、肩を叩いて近づくなんて見かけによらず意外と謙虚な宇宙人だな(海外ならグレイタイプの宇宙人が問答無用で誘拐すると思う) -- 名無しさん (2016-12-21 18 56 20) 最後の説に笑ったがこれが事実なら一番丸く収まる気がした -- 名無しさん (2016-12-21 19 44 39) ↑ 和式全身鎧が届いて浮かれて着込み、夜の散歩に出掛けた結果「落武者伝説」を呼び起こしてしまったねらーを思い出した -- 名無しさん (2016-12-22 15 37 32) やっぱり皆フック星人に見えるよね、あれwww -- 名無しさん (2016-12-22 19 15 21) ※尚、畑の陰には宇宙人をぶちこrゲフンゲフン子供達を守るため、宇宙人をぶち殺sゲフフーンゲフフーン子供達を守るために某赤い通り魔が潜んでいた模様(大嘘) -- 名無しさん (2017-01-03 23 34 45) Sさんの奴らは常光寺南までお散歩して別のUFOに乗って帰ったんじゃない? -- 名無しさん (2017-01-05 15 06 03) 今日のなんだこれミステリーでこれ取り上げるみたいだね -- 名無しさん (2017-02-22 17 36 19) コスプレ説面白すぎだろ -- 名無しさん (2017-06-20 12 44 34) ↑10 一応まあ、その生き物が「こいつら、進入禁止の自然保護区でキャンプしてました」と証言する能力もってるんだったら殺すかも、くらいには…… -- 名無しさん (2023-03-02 12 36 31) 面白おかしい創作で人を楽しませようとしたら思ったより大事になったパターンというのもありそうだが… -- 名無しさん (2023-03-02 14 00 30) 何故か介良事件の方を思い浮かべて開いてしまったからあれ?てなった -- 名無しさん (2023-05-06 21 06 22) コスプレ説は、死んだふりした子どもたち無視して遊び続けてるのがちょっと苦しいかな(マジレス) -- 名無しさん (2023-11-10 07 35 01) ↑3 人死も出てネタで済まされなくなったパターンがセーラム魔女裁判事件だな -- 名無しさん (2024-04-20 07 41 11) 名前 コメント
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トップページ>日本史> 57:金印「こんな金印いらへんわ」 57:「こうぶって(光武帝)金印コナゴナ(57)コ゛ッカーン!(後漢書) 」 239:魏に使いを送り「親魏倭王」とされる「不細工な卑弥呼が派遣」 391:倭国と高句麗の戦い「貢ぐ(391)?い(1)やだ!!」 239:「兄さん食う卑弥呼」 527:磐井の乱「碁に七敗 磐井の乱」 527:「ごっついな磐井さん」 538:仏教公伝(戊午説)「ゴミは捨てよう仏教公伝(上宮聖徳法王帝説)」 552:仏教公伝(壬申説)「午後に人身事故で仏教公伝(日本書紀)」 538/552:「ご参拝は午後に」 562:加羅滅亡「コロニー伽羅滅亡」 562:「ゴムに弾かれ伽羅滅亡」 587:物部守屋死亡「ごっつやな殴り合い」 587:「ごはんがなくて物部氏滅亡」 592:崇峻天皇暗殺「ゴックに乗って天皇暗殺」 593:聖徳太子摂政「コックサンの聖徳太子が摂政になる」 593:「国民の人気を集めて摂政に」 596:飛鳥寺建立「建立ご苦労さん」 607:法隆寺建立/最初の遣隋使(小野妹子)派遣「無礼な法隆寺建立/遣隋使派遣」 630:第一回遣唐使「ロミオも行きます第一回遣唐使」 645:大化の改新「む(6)し(4)ご(5)ろし」 663:白村江の戦い「室井さん!白村江封鎖できません!!」 663:「む…無惨(663) 」 670:庚午年籍「胸(元)オッパイ交互に見る。」 672:壬申の乱「ロナウド兄さんが壬申の乱」 689:飛鳥浄御令施行「六泊してから飛鳥浄御令施行」 690:庚寅年籍「無垢女好印象!」 694:藤原京遷都「剥くよチン皮藤原京」 702:大宝律令施行「スケベな(7)お兄さん(02)文武天皇の大宝律令施行」 708:和同開珎「ナオヤ君と和同開珎が作られる」 710:平城京遷都「NATO[ナトー]も攻撃平城京 」 710:「納豆食うよ平常心で」 711:蓄銭叙位令「セブン♪イレブン♪蓄銭叙位令♪」 712:古事記・出羽国「ナイフで切り張り古事記編纂、ついでに脅して出羽国設置」 712:古事記「無いに(712)等しい古事記」 718:養老律令作成「内野は不比等で養老(よろ)しいですか?? 」 718:「なかなか施行されないや養老律令」 720:日本書紀「何を練る練る日本書紀」 720:「何を書こうか日本書紀」 722:百万町歩の開墾計画「何肉食べたい?百万円で」 723:三世一身の法「何見てんのよ!?ルパン三世」 723:「三代だけなんてもーなにさ三世一身法」 724:多賀城「何ようぐいす多賀城」 729:長屋王の変「何食って死んだ?長屋王」 740:藤原広嗣の乱「梨を食った広嗣、太宰府で大暴れ」 741:国分寺建立の詔「名が良いね、国分寺」 743:墾田永年私財法「お馴染みの墾田永年私財法」 743:「名無しさんは、こんでえぇねん私財の法」 743:「馴染みの墾田永年私財法」 743:大仏造立の詔「名無しさんの大仏造立」 752:大仏開眼供養「名残に大仏開眼供養」 753:鑑真来日「なごみの鑑真来日」 757:橘奈良麻呂の変/藤原仲麻呂の養老律令の施行 「なぁこんなんだっけ?橘奈良麻呂の変/藤原仲麻呂の養老律令の施行」 758:淳仁天皇即位「なごやかムードで淳仁即位」 764:恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱「泣き虫押勝」 769:宇佐八幡宮信託事件「なろうとくわだて宇佐八幡宮託宣事件」 782:勘解由使「なぁハニーと勘解由使を置く」 784:長岡京遷都「な(7)にや(8)らし(4)らんが長岡京遷都」 792:健児の制「泣くに泣けない健児の制」 794:平安京遷都「鳴くよウグイス平安京」 797:坂上田村麻呂「泣くな!蝦夷で頑張れ田村麻呂」 810:蔵人所創設「やっと冬(冬嗣)だなクラウド(蔵人頭)!!ホッケー(北家)しようぜ!!」 810:薬子の変「やっとセッ薬子の変」 810:「はっと驚く薬子の変」 810:「ハートいっぱい薬子の変」 816:検非違使の設置「検非違使ちゃんと一緒に風呂に入ろう(816)」 842:承和の変「覇者に良房 承和の変」 842:「端に追い込む承和の変」 842:藤原以外ははしにおこう(842)承和の変 842:もうヤダ死にたい承和の変 866:応天門の変「野郎ムカつく応天門」 866:応天門の変「放火は無論、伴善男」 888:阿衡の紛議「基経紛議だパッパッパ」 894:遣唐使停止「白紙に戻そう遣唐使」 894:「遣唐使爆死」 901:昌泰の変「クレイジー道真は招待しません」 901:「クレイジー時平大暴れ」 901:「合格くれい!菅原道真」 902:最終班田「暮れに行う最終班田」 907:唐滅亡「紅の豚が唐を滅ぼす」 914︰意見封事十二箇条 「悔いしか残らん政治です」 935:新羅滅亡「腐ったご飯で新羅滅亡」 935:平将門の乱「草ごと食べる平将門」 935:「久美子、まさか(将門)の乱」 936:高麗 「くさ朗が立てたよ、高麗です」 939:藤原純友の乱「藤原純友臭くて吐くよ」 969:安和の変「安和のまんこを黒く実頼」 969:「アンナちゃんのまんこクロク無い?」 969:「梅宮アンナは黒乳首 」 988:藤原元命「クッハ゜(ハ゜)のような藤原元命」 1107 「良い女だな」「よし(義)てよチカ(親)ン」 1019:刀伊の入寇「TOEIC受ける女真族」 1019:「遠い国から 刀伊来襲」 1028:平忠常の乱「天にニヤニヤ平忠常」 1051:前九年の役「安倍さんは十五位!前九年の役」 1051:ひとをこいする(1051)前九年合戦 1052:末法の世 「闘魂に末法」 1069:延久の荘園整理令「御参上(後三条)、記録所に登録(1069)永久(延久)に。」 1072:延久の宣旨升「オナニー宣旨升しよう」 1083:後三年の役「入れ歯さん後三年合戦」 1086:院政開始「入れてやろうか院政の仲間に」 1108 ︰源義親の乱 「良い親だったな義親パパ」 1184:源義仲死亡「いい椰子義仲死亡」 1156/1159:保元の乱・平治の乱「いいコロッケをつくるいいコックさんは保元平治くん」 1156:「そろそろ良い頃保元の乱」 1159:「人々ご苦労平治の乱」 1167:平清盛が太政大臣「平清盛いい胸毛、太政大臣いい胸毛」 1177︰鹿ヶ谷の陰謀 「いいな、なんでも話せる鹿ヶ谷」 1180︰南都焼き討ち 「いい晴れの日には焼きたくなる」 1185:壇ノ浦の戦い「いい箱 ブタ箱平氏滅亡」 1189:源頼朝による奥州藤原氏と源義経の滅亡「い(1)い(1)からは(8)やく(9)奥州をぶっ潰せ」 1191:政所設置「良い杭突こう、マン所」 1192:鎌倉幕府「いい国作ろう鎌倉幕府」 1192:「良いクンニ心がける鎌倉幕府」 1203:比企能員の乱「人に丸見え比企能員の乱」 1212:方丈記「いちに、いちに方丈記 1213:和田合戦「僕の兄さん和田アキ子」 1221:承久の乱「イチモツついばむ承久の乱」 1232:御成敗式目「胃にミニ御成敗式目」 1247:宝治合戦「否認支那人宝治合戦」 1273︰三別抄の乱「いちにっ七味を3回少々」 1274:文永の役「避妊無しよと文永の役」 1281:弘安の役「イブの夜景と弘安の役」 1281 「こう?」「あーん、いつバイ(1281)ブ入れたの?」 1285:霜月騒動「人には誤解 下ネタ騒動」 1297:永仁の徳政令「皮肉な結果、永仁の徳政令」 1324:正中の変「胃酸が強い焼酎の変」 1324:「いざ!西から正中の変」 1325:建長寺船派遣「三時(32)に強盗(5)建長寺船で 1327:ベルサイユ条約 「いーさ!ニーナさん!(1327)ベルサイユ条約 」 1331:元弘の乱「いぇっさっさーい!元弘の乱」 1331:「いざ西国から 元弘の変」 1333:鎌倉滅亡「遺産散々鎌倉滅亡」 1338:室町幕府成立「いざ(13)さわやか(38)な室町幕府へ」 1342:天竜寺船派遣「いらっしゃ~い、桂三枝に(342)頼んで天竜寺船派遣」 1350:観応の擾乱「砂金0点 観応の擾乱」 1352:観応の半済令「いさ子に宛てた観応の半済令」 1352:「官能的な鎖骨は犯罪」 1390:土岐氏の乱「意味くれ意味ない土岐氏の乱」 1391:明徳の乱「いざ食いに山へ。明徳の乱」 1392:南北朝合一「いざ国をまとめよう南北朝合一」 1392:「意味(13)なくくっつく(92)南北朝統一」 1392:李成桂が朝鮮建国「 倭寇からイザ、クニを守るため急げ(イソンゲ=李成桂)!」 1399:応永の乱「いざ救急車に乗る大内応永の乱」 1404:勘合貿易「投資をしないで勘合貿易」 1416︰上杉禅秀の乱 「朱色の気持ちウジウジ」 1419:応永の外交「いーよ、行くよ対馬に。応永の外交」 1419:日朝貿易中止「石井君(1419)日朝貿易をSTOP!!」 1428:正長の土一揆「世に初めて起きた正長の土一揆」 1429︰ 播磨の土一揆 「ハリネズミはジューシー肉」 1429:琉球王国成立「屍肉(しにく)を食らう琉球王国」 1429:「一緒に来るかい?琉球に」 1429:「良いよ作るよ琉球王国」 1432:日明国交回復「意志密通で日明回復」 1438:永享の乱「伊代のサンバの影響で持氏悩殺 永享の乱」 1440:結城合戦「いーよ、ヨレヨレ結城合戦」 1441:嘉吉の乱「いーよ、良い良い嘉吉の乱」 1454:享徳の乱「石をゴシゴシ享徳の乱」 1457:シャコマインの乱「いーよ来なくて、コシャマインの乱交パーティー」 1467:応仁の乱「人世むなしい応仁の乱」 1485:山城の国一揆「一生箱入り山城しんご」 1485:「石運んで山城の国一揆」 1488:加賀の一向一揆「加賀まりこは意地っ張りババァ」 1489:銀閣寺「一つようやく銀閣寺建てる」 1510:三浦の乱「苺父さん、倭館で散歩」 1510:「イーコトないよ三浦の乱」 1510 「増えない散歩以後(15)とまる(10)」ふ→富山浦 え→塩浦 ない→乃而浦 1523:寧波の乱「苺兄さん、忍法失敗」 1523:「いちご兄さん、インポ(寧波)の乱」 1536:天文法華の乱「イコサ!ムッツリ!天門法家の乱交パーティ!せっくすせっくす」 1536:「純子さんローソクつかうの!?剃毛(天文)OK(法華)の乱交パーティー」 1536:「人ごみむさ苦しい天文法華の乱」 1543:鉄砲伝来「銃ご予算で作ります」 1549:キリスト教伝来「以後よく広まるキリスト教」 1551:日明国交「以後強引に終わる日明国交」 1560:桶狭間の戦い「以後、群れ騒ぐ桶狭間」 1570:姉川の戦い・石山戦争「いーこになーれ。姉川の戦い、石山戦争。」 1570:姉、川の水を飲んでO-157 1571:延暦寺焼き討ち「以後無い比叡山焼き討ち」 1573:足利義昭追放(室町幕府滅亡)「以後並みの人足利義昭」 1573:「最後情けない室町幕府滅亡」 1575:長篠合戦「人粉々だよ鉄砲で。長篠合戦(vs勝頼)」 1580:石山本願寺屈服「石山本願寺屈服」 1582:本能寺の変「信長さん、苺パンツ履いて死ぬ」 1582:「いちごパンツ」 1582:少年使節のローマ派遣 「十五夜に少年使節が船出する 」 1587:バテレン追放令「以後はなしよとバテレン追放」 1588:刀狩令「以後パッパと回収 刀狩」 1588:「じゅうごパイパイ刀狩」 1592:文禄の役「異国に行きます文禄の役」 1592:「一国に(1592)とどまらず朝鮮攻める」 1597:慶長の役「異国なんか嫌い慶長の役」 1590:小田原攻め「せんごくをとういつ(1590)小田原攻め」 1592/1597:「イチゴの靴で苦難の出兵文禄慶長」 1603:江戸幕府成立「人、群れ(160)満ちる(3)江戸幕府」 1604:糸割符制度「ひろまるよ糸割符制度」 1609:島津氏琉球征服「島津氏琉球征服」 1609:己酉条約「ヒーロー(Mr.)オクレ己酉条約」 1609:慶長条約(己酉条約)「イチローの奥さん慶長条約」 1612:直轄地に禁教令「直轄禁教令」 1612:「イチローいつ仏教になったんだと禁教令」 1615:武家諸法度「大名に異論以後なし武家諸法度」 1624:スペイン船の来航禁止「ロクに仕事しないスペイン船の来航禁止」 1629:紫衣事件「色が憎いよ紫衣事件」 1633:奉書船以外の海外渡航禁止「一路さんざん奉書船のみ」 1635:日本人の海外渡航禁止「ヒロミ郷でも渡航は禁止」 1635:参勤交代「参勤交代でヒロミゴー!!と行く」 1635:「披露見事な参勤交代」 1637:島原の乱「ヒーロー皆で島原の乱」 1639:ポルトガル船来航禁止「色々ThankYouポルトガル」 1641:オランダ商館を出島へ「色良いオランダ 出島へ引越し」 1643:田畑永代売買禁令「色男ヨン様田畑売るな」 1649:慶安の御触書「一郎シクシク慶安の御触書」 1649:「色よく染まる慶安の御触書」 1651:由井正雪の乱「色恋散ります由井正雪の乱(慶安の変)」 1673︰分地制限令 「イチローは七三分けでもダメですよ」 1684:宣明暦→貞享暦「忌む香具師の渋川春海」 1687︰生類憐みの令「拾ったハナちゃん保護しよう」 1688:「1688:シナ人は唐人屋敷に居ろババァ(1688)」 1688:名誉革命「広場は(1688)無血、名誉革命」 1716:享保の改革「居ない息子が享保の改革」 1742:公事方御定書「伊那市に提出 公事方御定書」 1758:竹内式部・宝暦事件「ほれ来(宝暦)た イナゴは竹の中」 1772:田沼政治「菜々に賄賂を田沼政治」 1774:解体新書「池沼名無しの解体新書」 1783:浅間山噴火「稲葉さん!浅間山噴火しました!」「てんめぇー!(天明)」 1787:寛政の改革「稲葉な寛政の改革」 1789:フランス革命「いーな、薬(89)をやってフランス革命」 1792:ラックスマン来航「いきなり急にラクスマン」 1792:「いーな国を出られてラクスマン」 1792:「いーなその靴ラクスマン」 1804:レザノフ来航「いや惜しかったレザノフさん」 1806:文化の撫恤令「晴れて無駄な血は流しませんよ撫恤令」 1808:フェートン号事件「ハンパない勢いのフェートン号」 1811:ゴローウニン事件「いやぁいいおじさんだ、ゴローウニン」 1825:異国船打払令「いや、血で濁らせ打払令」 1828:シーボルト国外追放「イッパツやらせろシーボルト」 1837:大塩平八郎の乱「いやーん皆殺し大塩平八郎」 1837:大塩の乱・生田万の乱・モリソン号事件「いやみな年号おおい!モリソン」 1839:蛮社の獄「嫌味苦しい蛮社の獄」 1840:アヘン戦争「いやよおじさんアヘンはやめて」 1840:「人はよれよれのアヘン戦争」 1841:天保の改革「意気は良いけど天保の改革」 1841:「卑しい水野忠邦のちんぽう(天保)」 1842:天保の薪水給与令「やっぱ死にたくないから天保の薪水給与令」 1844:秩父事件「林でもんだあの子の乳」 1846:ビッドル来航「いやぁ、よろしくビッドルさん」 1846:「嫌よ(184)、向(6)こう行ってビッドル!」 1851:太平天国の乱「いっぱい語彙ある洪秀全」 1853:ペリー来航「嫌だ、ゴミペリー来るな」 1853:「ペリー来迎は イヤでゴザンス 」 1854:日米和親条約「胃はゴジラですから和親条約」 1856:下田に着任したハリスがアロー号事件で通商を迫る 「いやぁゴムが、あろうことか張りすぎてしもうた」 1856:「ゴム(56)製の船 アロー号」 1858:日米修好通商条約「冷やご飯食え修好通商条約」 1859:安政の大獄「癒す極楽へ安政の大獄」 1859:開港「いやぁゴックン某液かなわんよ」 ("かなわんよ"→神奈川・長崎・箱館・横浜) 1860:桜田門外の変「いや、武藤(1860)さんの桜だもん」 1860:五品江戸廻送令「嫌だ蒸れ蒸れ江戸廻送令」 1862:坂下門外の変「野郎に復讐坂下門外の変」 1862:寺田屋事件「寺田君(のオムツ)はむーにー(862)まん」 1862:生麦事件「生ムニ(62)生米生卵」 1864:禁門の変「キンモー☆無視(64)する、禁門の変」 1866:改税約書「いや室井さんと相談します改税約書」 1867:大政奉還 「いやむなしいな大政奉還」 1869:版籍奉還「いやろくでなし版籍奉還」 1871:廃藩置県/岩倉使節団「いやでもないね廃藩置県/岩倉使節団」 1871:「藩とはいわない(1871)県という」 1871:「何もいわない(1871)岩倉使節団」 1872:田畑永代売買の解禁「いや、なにぃっ!田畑永代売買の解禁」 1872:徴兵告諭「いやな任(1872)務だ 徴兵告諭」 1867:大政奉還「慶喜は大政奉還いやだろうな」 1867:「一夜ムナしく大政奉還」 1867:王政復古「今ヤろうな王政復古」 1868:明治維新「明治維新」 1869:版籍奉還「いやーシックスナイン版籍奉還」 1870:廃仏毀釈「嫌な音だし廃仏毀釈」 1871:廃藩置県「これからは藩と言わない県という」 1871:「イヤでもナイない廃藩置県」 1871:郵政制度開始「いーやない、郵政民営化」 1871:田畑勝手作りの禁廃止「何作ってもいーやない(1871)。」 1872:鉄道開業「ひ~っ!鼻に鉄道がっ!!」 1872:学制「いや懐かしい学制時代」 1872:「鼻にティッシュのエロ学生」 1872:徴兵制度「嫌な任用 徴兵制度」 1872:富岡製糸場「いやなにおいの富岡精子場」 1873:地租改正「いやな3パーセントの地租改正」 1873:内務省設置「内務省(大久保)」 1874:愛国公党、佐賀の乱、民選議院、敬神党の乱は、いい話。 1874:台湾出兵「岩魚の塩焼き台湾出兵」 1874:「いーわナショナリズム台湾出兵」 1874:「いい話あるんだけど…台湾出兵」 1875:江華島事件「いやな江華島事件」 1875:大阪会議「和んだ大阪会議」 1876:秋月の乱、萩の乱 嫌なムード 1877:西南戦争「バナナ食べるよ西郷どん」 1878:三進法「なんや(78)、三振かよ」 1879:琉球処分「いや~なくなっちゃったよ琉球処分」 1879:ハナクソほじる教育令 1880:集会条例「晴れ(80)たから集会するぞー」 1882:壬午軍乱「母にインクを壬午軍乱」(インク→大院君) 1884:華族令「癒す香具師の家族」 1884:「やっぱし家族だよね。家族令」 1884:甲申事変「パパへ資金を甲申事変」(資金→金玉均) 1885:内閣制度開始「ひややっこの好きな伊藤博文」 1885:大阪事件「嫌(18)!や(8)めて!こ(5)ないで!!大阪事件」 1888:枢密院「いやはや枢密院できちゃった」 1888:市政・町村制「良いパイズリの姿勢」 1889:超然主義演説「超然主義演説(黒田)」 1889:大日本帝国憲法「イヤヤ黒田の大日本帝国憲法」 1890:教育勅語「いやぁクレームの多い教育勅語」 1891:蛮勇演説「白衣に着替えて蛮勇演説」 1894:日清戦争「ひとつ焼くよ日清焼きそば」 1894:「一発急所に日清戦争」 1894:「いやー(18)苦しい(94)」 1897:金本位制「違約金で成した金本位制」 1898:共和演説「尾崎が役場で共和演説(尾崎)」 1899:北海道旧土人保護法「焼く苦しみを北海道旧土人保護法」 1900:義和団事件「レレレ(00)のおじさん義和団事件」 1901:北京議定書「勢いに任せて北京議定書」 1901:社会民主党「一番初め(01)は社会民主党」 1902:日英同盟「日暮れに握手日英同盟」 1904:日露戦争「一つくれよ日露戦争」 1904:「得をしようと日露戦争」 1906:鉄道国有法・満鉄設立「人、クレーム(906)を出す鉄道国有法&満鉄設立」 1908:戊申詔書「逝く親へ送る戊申詔書」 1909:伊藤博文暗殺「伊藤博文 霊柩(09)車」 1910:大逆事件「幾年願う社会主義 花と散るらむ大逆事件」 1910:韓国併合「逝く伊藤韓国併合」 1910:「行くぞ!父ちゃん!!韓国併合」 1911:関税自主権回復「ひどくいい結果の関税回復」 1911:工場法成立「工場法成立」 1911:辛亥革命「いい革命フォー!辛亥革命」 1913:桂内閣弾劾演説「人喰いサンいらっしゃ~いの桂三枝(尾崎)」 1914:第一次世界大戦「一苦一死の第一次大戦」 1914:シーメンス事件「どーでもいーよ(14)シーメンス事件」 1915:東京→猪苗代の送電「一首ゴロゴロ猪苗代」 1915:対華二十一箇条要求「以後21か条遵守で。」 1916:工場法施行「工場法施行」 1917:金輸出禁止「水鶏(くいな)鳴きます禁止の寺内」 1917:石井・ランシング協定「生稲晃子と石井がダンシング」 1917:「得意な石井」 1917:ロシア革命「腹が減ったら人喰いな(1917)」 1918:大学令・シベリア出兵「行くのいやだな大学生がシベリア出兵」 1918:米騒動「食いっぱぐれて(1918)米騒動」 1919:ベルサイユ条約「イクイクベルサイユ条約」 1919:ワイマール憲法「いくいくいっちゃうワイマール」 1919:5・4運動「イクイク、腰運動」 1919:三・一独立運動 「あぁ…ん…イク!イク!」 1920:国際連盟「国の連盟国際連盟」 1920:戦後恐慌「逝く二浪戦後恐慌」 1920:森戸事件「森戸、仁王(20)立ち」 1921:原敬暗殺「急に射(921)殺された原敬」 1921:四ヶ国条約「四ヶ国条約」 1922:九ヶ国条約「国には九ヶ国条約」 1922:ワシントン海軍軍縮条約「ワシントン海軍軍縮条約」 1923 関東大震災「19のにぃさんペッチャンコ」 1923:「いい国探そう関東大震災」 1923:震災恐慌「震災恐慌 山本②」 1925:治安維持法「いく(19)らなんでも不都合(25)な治安維持法」 1925:ラジオ放送開始「ひどく濁った声でラジオ放送」 1927:金融恐慌「金融恐慌 若槻①[片岡直温]」 1928:第一回普選「第一回普選」 1928:パリ不戦条約「国は不戦だパリ不戦条約」 1928:張作霖爆殺事件「ニヤっと笑う張作霖」 1929:ニューヨーク株式大暴落「Nick(29)が悪い、ニューヨーク株式大暴落」 1930:ロンドン海軍軍縮条約「腐れロンドン海軍軍縮条約」 1930:金解禁「腐れキンタマ禁」 1930:昭和恐慌「昭和恐慌で人腐れ」 1931:重要産業統制法「重要産業統制法(浜口)」 1931:満州事変「若槻(内閣)千夏の臭いマン臭事変」 1931:金輸出再禁止「クミが独りで再禁止」 1932:血盟団事件「草津のお湯で一人一殺」 1932:「戦になる血盟団」 1932:五・一五事件「戦に向かおう5.15」 1932:「犬養毅は一休さんに殺された」 1932:満州国建国「ミニ満州国」 1933:塘沽停戦協定「聞く耳持タンクー停戦協定」 1933:国連脱退通告「さっさと消えろ 連盟よ」松岡洋右 1936:二・二六事件「遠く寒空銃声響く二・二六事件」 1936:「寒い2月26日」 1936:粛軍演説「腐った虫ども粛軍演説(斎藤)」 1936:西安事件「戦(いくさ)が無駄だよ西安事件」 1937:盧溝橋事件「チョンと戦(いくさ)な盧溝橋事件」 1937:「一休さんならどう渡る?盧溝橋。」 1937:企画院設置「みんな(37)で企画、企画院」 1937:南京事件「みんな殺される南京事件」 1937:日中戦争「行くぜ皆殺し日中戦争」 1938:国家総動員法「イクサやめよう国家総動員法」 1938:「戦や!国家総動員 」 1939:ノモンハン事件「臭くてたまらんノモンさん」 1940:反軍演説「反軍演説(斎藤)」 1940:北部仏印進駐「逝くよマルマル思いっきり北部仏印」 1941:南部仏印進駐「逝く用意完了南部仏印」 1941:真珠湾攻撃「用意(41)周到真珠湾」 1941:「行くよ一発真珠湾」 1941:太平洋戦争開戦「行くよ一発太平洋戦争」 1942:ミッドウェー海戦「死に(42)物狂いでミッドウェー海戦」 1943:大東亜会議「行くよみんなで大東亜会議」 1945:ポツダム宣言受諾「死後(45)の取り決め ポツダム宣言」 1945:「いくよゴリラの大行進」 1945:「イクッ!シコシコポツダム宣言」 1945:普通選挙「行くよGo!Go!普通選挙」 1947:独占禁止法「意気地なし独禁法」 1947:二・一ゼネスト「行くよな?二・一ゼネスト」 1949:NATO「納豆(NATO)よく(49)かき混ぜて」 1951:サンフランシスコ平和条約&日米安保条約 1953:バカヤロー解散「吉田茂の誤算(53) バカヤロー解散」 1953:奄美大島返還「ゴミだよ奄美大島」 1953:「ゴミの島 奄美大島」 1954:MSA協定「逝く腰ソワソワMSA」 1956:日ソ共同宣言&国際連合加盟 「逝く頃来ました鳩が調印 日ソ共同宣言&国際連合加盟」 1956:「ソ連に行く頃 国連加盟」 1960:所得倍増計画「一苦労10年間の倍増計画」 1961:農業基本法「イラクでロイヤル農基法」 1964:東海道新幹線開通「ひどく蒸してる東海道新幹線」 1965:日韓基本条約「黒子で裏方日韓基本栄作」 1968:小笠原諸島返還「痛くて無駄や小笠原」 1971:ドル・ショック「イクナイ!!ドル・ショック」 1971:沖縄返還協定「逝くな逝きます佐藤の協定」 1972:沖縄祖国復帰「行くな兄さん沖縄帰る」 1972:日中共同声明「逝くか浪速に角栄と周さん」 1972:「遠くで何思う日中国交回復」 1978:日中平和友好条約「逝く那覇福田の友好条約」 1989:消費税導入「イクのはバックで消費税」 1997:アイヌ新法「苦々長かったアイヌ新法」 コメント 下品すぎて吹いたw -- 名無しさん (2010-11-20 12 03 54) イクのはバックで -- 名無しさん (2010-11-23 20 34 08) ブサイクな卑弥呼wwww -- 名無しさん (2010-11-27 16 05 09) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/neigesc/pages/63.html
【こうきょじけん】 2003年前期皇居マラソン時に起こった事件。 及びその様子をまとめたビデオのこと。 詳細はNEIGE HP内の部員専用ページにある皇居事件ビデオを参照。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/643.html
伏石事件(ふせいしじけん)とは、香川県香川郡太田村伏石(現在の高松市伏石町)で、大正12年(1923年)に起きた小作争議である。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。 概要 伏線 伏石での小作争議は、小作農民側が大正11年(1922年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。 差押え・競売と刈り取り・脱穀 翌年、大正12年(1923年・ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続き小作料減額を主張し続けた。再度の小作米減額納入を警戒した地主側は、収穫目前の11月初めに立毛(収穫前の稲)の差押えを裁判所に申し立て、同月下旬にその競売を強行して多くの立毛を落札した。 刈り取りと二毛作の麦の種まきを差し止められた形になった小作農民側が、日農の顧問弁護士に相談したところ「民法上の事務管理として立毛の刈り取り・脱穀をおこなうことは問題なく、落札者がこれらに要した費用を支払うまで留置権に基づきモミを保管することは小作農民側の当然の権利だ」との回答を得た。 これに従って小作農民側は、同月末(資料により11月29日・11月30日等の異同あり)に刈り取りを行うとともに、事務管理としての刈り取りの事実と、刈り取り・脱穀・保管にかかる費用が支払われるまで留置することを地主側に通告した。12月3日に地主側の代表が稲の引き取りに小作農民側の保管場所を訪れたが、小作農民側は支払いを行うまで引渡しはできないこと・脱穀をおこなってモミを保管することを告げ、地主側が引き上げた後に脱穀を開始した(後に小作農民側は、脱穀時には多くの警察官が立ち会っていたが、差し止めなどの指示は受けなかったと主張している)。 窃盗での逮捕と裁判 12月4日以降、小作農民および日農の伏石支部長・香川県連合会長・顧問弁護士ら23名が窃盗および窃盗教唆の容疑で逮捕される。 取調べは苛烈を極め、自白の強要や拷問に近い行為が連日長時間にわたり続けられたとされる。小作農民からも精神に異常をきたすもの、仮釈放後に自殺したものが出ている。 事件の規模の大きさや取調べの方法の悪質さなどから全国的に抗議行動が広まり、抗議の演説を行った弁護士らが各地で拘引されている。 翌年、大正13年(1924年)の7月に高松地裁で公判が開かれ、9月に有罪22名(うち19名に執行猶予)・無罪1名の判決が言い渡された。昭和2年(1927年)に上告が棄却され、刑が確定している。 結末 事件翌年の大正13年(1924年)に調停が成立し、小作料については10パーセントから15パーセント減額されることになった。 結果的に窃盗行為を教唆した首謀者と認定され実刑を受けた顧問弁護士は、昭和3年(1928年)刑務所から出所した直後に、幼い娘と無理心中を図り死亡している。 外部リンク 本項加筆にあたり、以下の太字リンク先を参考にしている。 香川県伏石事件に関する声明書(日本農民組合) 大正13年(1924年)3月時点での日農側の声明書(大阪府立大学人間社会学部図書室資料) 『伏石事件の経緯』 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 00 10。
https://w.atwiki.jp/hiriahai/pages/81.html
王将事件とは生放送主のちゃん○わがコミュ限の放送で王将の研修動画を流し1週間のBANをくらった事件である。 王将事件を風化させてはならない! 2013年12月19日早朝、京都市山科区の王将本社前で、王将フードサービス社長の大東隆行が、自身で運転していた自動車付近で倒れているところを通報されて病院に搬送されたが、死亡が確認された。犯行に使われたのは小型の25口径の自動式拳銃であり、至近距離から撃たれたと考えられている。 現在もまだ逮捕されていない。とある生主が犯人ではないかと噂されている。 リンク 王将研修動画
https://w.atwiki.jp/ijimeohtu/pages/56.html
意見、要望に「寄付」についてのコメントが多数見られましたので、参考ページとして作成させていただきます。 ★寄付について 下記の原告弁護士団以外の支援受付窓口は、被害者と無関係な人物による事件の流れにのっとった詐欺の可能性もありえますので、あくまで自己責任で寄付をお願いいたします。} ★弁護士団解説ホームページ 大津中2いじめ自殺裁判支援 http //www.yoshihara-lo.jp/otsu-ijime/ (旧ホームページ:http //blogs.yahoo.co.jp/saibanshien) ★滋賀弁護士会のホームページに、上記のリンクが貼られています。 http //www.shigaben.or.jp/app/members/view/41998