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ははとはいせつぶつとかねこみすず【登録タグ は ヒッキーP 初音ミク 曲】 作詞:ヒッキーP 作曲:ヒッキーP 編曲:ヒッキーP 唄:初音ミク 曲紹介 ヒッキーPのミク曲。 プーチンPから「良い曲すぎる」と企画曲としてボツになったのでうpしたらしい。 歌詞 人にはみんな良いトコがある お前の長所は思いやりだ、と 言われた直後に怒鳴られる お前はもっと思いやりを持てと Mother, 僕の魅力って Mother, 思いやりなんですか Mother, それともそれは貴方の願望で 僕の良さはどこにあるの? ねえ、ねえ、 「みんな違ってみんな良い」 それ、どれだけ責任を負って言ったん? ねえ、金子さん、僕を、 僕を教えてよ コメント 名前 コメント
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生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。 事件の概要 thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原衛門督の一行より一日早く、8月21日に江戸を出発したが、率いた軍勢は400人あまりであったと『薩藩海軍史』は記している。400人とはいうものの、これは正規の藩士の数であり、荷物を運ぶなど下働きの人数は別で、しかも武器弾薬を多量に携えての大規模な行列だった。 行列が生麦村に差し掛かった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で、香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいた。 生麦村住人の届け出書『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。と神奈川奉行所の役人の覚書神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』よりをつきあわせてみると、ほぼ以下のようなこととなる。 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」といわれただけだと思いこんだ。「わき」といったところで、行列はほぼ道幅いっぱいにひろがっているので、結局4人は、どんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊もつっきり、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがに、どうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、今度は「引き返せ」といわれたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。そのとき、数人の藩士が抜刀し、斬りかかった。4人は驚いて逃げようとしたが、すでに遅かった。リチャードソンは、肩から腹へ斬りさげられ、臓腑が出るほどの重傷で、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを刺された。 マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に、「あなたを助けることができないから、ただ馬をとばして逃げなさい」と叫んだ。夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部がとばされただけで、無傷だった。マーシャルとクラークは、血を流しながらも馬をとばし、神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。無傷のボロデール夫人が、まっさきに横浜の居留地へ駆け戻り、救援を訴えた。 『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であったという。主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようだ。 なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱したという。つまり、いつでも自ら刀が抜けるよう準備をしたのである。 生麦事件は、東禅寺事件など、それまでに起こった攘夷殺傷事件とはちがって個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が、無礼を咎めて一斉に抜刀したものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解のもとに行われていたことは歴然としている。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題があがっていて『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。 ボロデール夫人の要請に応えて、最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリス(William Willis (physician))である。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがて、イギリスの神奈川領事・ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』 実のところ、イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して、騎馬護衛隊の出動を禁じていた。それを無視して、ヴァイス領事が出動したことで、二人の間には確執が生じる。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持して、武器をとっての報復を叫んでいた。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールが、それを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静で、現実的な戦力不足と、全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 一方、島津久光は、その夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士二人が探索に出ている。 天領である生麦村の村役人は直ちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した神奈川奉行は久光一行に対し使者を派遣し事件の報告を求めたが、久光一行は翌日付けで「浪人3、4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という人をくったような届け出書を出し、神奈川奉行が引き止めるのを無視してそのまま急いで京へ向かった。当時、薩摩藩が幕府を軽視していたことが伺え、すでにこのとき「イギリスが文句があるのならば直接相手をする」という意志を固めていたという見方もある。神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は薩摩藩江戸留守居役に対し事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索につとめているが依然行方不明である」という、これまたでたらめな届け出を提出した『薩藩海軍史』。神奈川奉行からの詳細な報告を受け事件の概要を把握していた幕府ではこのデタラメな届け出に憤り、薩摩藩江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はシラを切り通した。 薩摩のこの態度には、理由がないわけではない。久光が江戸に到着して間もない6月23日、薩摩藩は幕府に、訴え書き『薩藩海軍史』収録を提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は、騎馬の外国人に遭遇していた。狭い東海道で、日本人の通行にはかまわず、横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というのである。続けて、「久光も少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合は、そのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法はつつしむように達して欲しい」と、訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣もちがうことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というその場しのぎのもので、実のところ幕府は、「大名行列への不作法をつつしんでもらいたい」などという達しは出していなかった。 久木村治休は後年の回顧録に「私ども薩藩の若侍は夷人となると切ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けて来た時は「御馳走が来たな」と思った」と書いている、というような話もあるasahi.com (11)久木村治休・池田哲之さん -マイタウン鹿児島。薩摩から出て、初めて傍若無人に行動する多数の外国人を見て、攘夷気分を昂ぶらせていた藩士も多かったわけで、しかも当時、攘夷殺傷は一般に英雄行為として称えられていた。事件は起こるべくして起こったともいえるのである。 事件発生の背景 当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、アメリカの友人への手紙にこう記している。 「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」 『古き日本の暼見』より ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は、島津久光の通行より一日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行は、イギリス領事館からの正式な告知は、受けていなかったものと思われる。しかし、林董の回顧録に、リチャードソンたちは、「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる。 事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さない様に道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、礼を失すればどういう事になるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている。『後は昔の記ー林董回顧録』 ヴァン・リードが現実にこのとき東海道にいた傍証としては、アメリカ公使ロバート・ブリュインの本国への報告書をあげることができる。「午後八時ごろ、わたしはこの惨劇のしらせを江戸でうけとった。それはアメリカ人ユージン・ヴァン・リードからの数行の走り書きの手紙によってであった。かれはこの日東海道に出ており、事件の現場からすこしはなれたところにいた。幸いかれは日本語ができたし、日本人のあいだでよくしられていたので、数人の日本人から警告をうけ、そのおかげで無事ボートで横浜にたどりつくことができた」 また、同じく報告書の中で、ブリュインは、以下のように指摘している。「高位の人物が部下をしたがえて通過するとき、他の人々は馬からおり、敬意を表するのがこの国の慣例であることを考えると、リチャードソンがこの日本の慣例にしたがわなかったことは、薩摩の家老によって侮辱とうけとられたかもしれないし、いっそうありうることは、日本の法律で認められている残虐行為を正当化する理由として、そのことが利用されたことである」『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より アーネスト・サトウは、後年、イギリス人の知人への書簡にこう書いている。 「……あなたの東方問題に関する長文のお手紙は大変私には興味がありましたが、それについて詳細に申し上げ、またリチャードスン事件についての情報を差し上げる時間はありません。あの当時の日記に私は註釈をつけて置きましたが、それらは舞台裏にいなかった十九歳の少年のものであります。私の記憶に最もなまなましく残っている事実は、他の人々全員に先んじてウィリスが単独で東海道を馬に乗って、負傷者が横たわっている米国領事館まで行き、そのうちの何人かが、おそらく襲撃に加わった、薩摩藩のサムライたちのなかを切り抜けたことです。彼が危害を加えられなかったという事実は、その場に現れたかも知れないすべての外国人たちを殺傷することが、島津三郎の家来たちの心中にはなかったこと、そしてリチャードスン殺害は双方の不幸な大失策であったということです。当時私が耳にしたのは、彼が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。しかし、これが実際に起こったとか、そして一行をサムライたちの怒りに曝したなどと私は主張する気はありません」『アーネスト・サトウの生涯 ーその日記と手紙よりー』より この手紙を書いたとき、アーネスト・サトウはまだ現役のイギリス外交官(モロッコ駐在特命全権公使)であり、リチャードソンへの非難を明言することはひかえたものと受け取れるが、事件当時の日記にも、リチャードソンに対して、同情的な言及はない。これは、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン卿の弟)が、リチャードソンに対して、冷ややかな見解をもっていたことにも関係していると思われる。 ブルース公使は、本国の外務大臣ジョン・ラッセル卿への半公信(半ば公の通信)の中で、こう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を 表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」板野正高著『駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン』(学士会報1974年 第723号)『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より孫引き 以上に見るように、生麦事件は、リチャードソン一行の現地蔑視からくる礼儀を欠いた行動によって発生したものであり、上海におけるリチャードソンのふるまいにも粗暴なものがあって事件を引き起こしていることから、イギリス外務省も、内々には非を認めていたものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは横浜の居留民社会を「ヨーロッパの人間の屑」と表現していた。、上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようだ。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を、無視することはできなかった。 事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘原文が「決闘」ではなく「血闘」になっている。に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。このような態度の大部分はすべての外国人に共通したものなのですが、とりわけ現地の人々のあいだに非友好的な嫌悪の種をまいたのはわれわれ英国人です。-中略-誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩が、すでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に、正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても、幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として十里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任を、イギリス側は強硬に追求することができたのである。 事件後の状況と余波 事件から二日後の8月23日、ニール代理公使は、横浜において、外国奉行津田近江守と会談した。この会談で、ニールは、「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追求した。これに対して奉行は、「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答えて、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話だろう」と、ニールにつっこまれている。『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」 すでに、幕府の統制が及ばないことがはっきりしている薩摩藩を、「大名は幕府の下にあるのであり、さらに島津久光は元藩主でさえない」という幕藩体制の形式的な身分論でのみとらえて、その幕府の本音を外交上の重要な場面で持ち出すというのは、幕府側に政権当事者としての現実認識が欠けている、といわれても仕方がない。これでは最初から、「大名など身分が低く尊重する必要はないので、無礼をはたらいてもかまわない」と認めてかかっているに等しい。ニールは、本国の外務大臣への報告書に、勅使通行の知らせは受けたが久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 当然のことながら幕府は、軍勢を率い、勅使をともなって、幕政に口を出しに来た島津久光に対して、敵意をもっていた。そのため、生麦事件の知らせに、「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出たのだ」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎み、イギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったくたてることができないでいたという。『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩の記録『再夢記事』(中根雪江著) 一方、攘夷を歓迎していた東海道筋の庶民は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。 京都の朝廷もまた、久光を称えた。このとき山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になってからも愛唱されることとなる。『薩藩海軍史』 しかし、生麦事件をきっかけとして、朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩が幕府に対して抱いていた不満は、むしろ、幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーが、ヴァイス領事に出していた報告書には、「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいるのに、幕府に不当に妨害されている。外国船を購入するだけでも、幕府の役人に邪魔をされる状態だ。先日船を買いに来た強大な大名の代理人は、幕府に介入されることなく取り引きができるよう、イギリスは自分の藩と通商条約を結ばないだろうか、といっていた」というように記されていた。萩原延壽氏は、『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』で、このガウアーの報告書を紹介し、同時に「強大な大名の代理人」とは、薩摩藩の小松帯刀ではないかと推測している。この報告書に近い時期(8月5日)に、小松帯刀は実際にジャーディン・マセソン商会に出向いて汽船を購入しているのである。『薩藩海軍史』 文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル卿の指示が、ニール代理公使のもとへ届いた。幕府に対しては「公式の謝罪と罰金10万ポンド(40万ドル)」、そして薩摩藩には幕府の統制がおよんでいないらしいとの見極めから、薩摩藩に対して「犯人の処刑と賠償金2万5千ポンド(10万ドル)」を求めるもので、話し合いでそれを拒んだ場合は、船舶の捕獲や海上封鎖、薩摩に対しては状況によっては砲撃も考えて対処するように、というものだった。「船舶の捕獲や海上封鎖」というのは、戦闘状態のとば口であり、こういった海上兵力による脅しを、自国居留民の安全をはかりながら実行しろ、というのである。その苛酷な内容は、ニール代理公使をたじろがせるものだったが、本国の命令には逆らえない。なんとか実行すべく、イギリス極東艦隊に要請して、可能なかぎりの数の軍艦を横浜に集めた。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 当時イギリス外務省にいて、後に日本へ外交官として赴任することになるA.B.ミットフォード(Algernon Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale)は、「ラッセル卿は外務大臣として外交センスに欠けていた。強気に出るべきところで出ず、不必要なところで強気の言動を見せすぎて摩擦を引き起こしたりした」というようなことを述べている。『The House Of Mitford』 実際、生麦事件に関しても、薩摩に対する対処として「砲撃」に関する指示があいまいであったことから、薩英戦争の後に、「城下町砲撃は過剰攻撃だった」とイギリス議会で問題になった。 海軍力を背景としたニール代理公使のねばり強い交渉の結果、幕府は要求に応じたが、薩摩との交渉は決裂し、薩英戦争にいたることとなった。しかし、ニール代理公使が7隻のイギリス軍艦を引き連れて薩摩に出向く以前に、すでにガウアーは、「薩摩は幕府を介して事件を解決することをいやがっているだけで、独立を確保するために、イギリスと友好条約を結びたがっている」という情報を公使館にもたらし、幕府の中でも事情通の若年寄・酒井飛騨守は、薩摩とイギリスの接近を怖れて、薩摩行きを取りやめるよう、直接ニールに訴えている。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 薩英戦争後の薩摩とイギリス公使館の急接近は、すでにそれ以前から用意されていたもので、戦闘の勃発も、結局それを妨げることなく、むしろ促進することになった、ともいえるだろう。結果論ではあるが、生麦の惨劇は、幕藩体制の矛楯を、諸外国に向けて露呈させるきっかけとなった。 脚注 Template reflist? 参考文献 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史 中』(明治百年史叢書 原書房)昭和43年7月15日発行 萩原延壽著 『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち』(朝日新聞社)1998年10月20日発行第1刷 ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(中央公論社)昭和60年4月20日発行初版 マーガレット・バラ著 川久保とくお訳『古き日本の暼見 Glimpeses of Old Japan 1861〜1866』(有隣新書 有隣堂)平成4年9月18日発行初版第1刷 林董著 由井正臣校注『後は昔の記ー林董回顧録』(東洋文庫173 平凡社)1990年9月25日初版第7刷 イアン・C・ラクストン著 長岡祥三、関口英男訳『アーネスト・サトウの生涯 ーその日記と手紙よりー』(東西交流叢書10 雄松堂出版)2003年8月8日初版発行 徳富蘇峰著 平泉澄校訂『近世日本国民史 文久大勢一変 中編 維新への胎動(中)生麦事件』(講談社学術文庫1119 講談社)1994年3月10日発行第1刷 石井光太郎 東海林静男編『横浜どんたく 上巻』(有隣堂)昭和48年10月30日発行 横田達雄編『青山文庫所蔵資料集1 那須信吾書簡(一)』(青山文庫後援会)昭和52年12月 Copyright・Jonathan Guinness with Catherine Guinness,1984『The House Of Mitford』(Orion Books New Ed版 ) 生麦事件を題材とした作品 吉村昭『生麦事件』上、下(新潮文庫、2002年) 上 ISBN 4-10-111742-X、下 ISBN 4-10-111743-8 関連項目 井土ヶ谷事件 薩英戦争 堺事件土佐藩士とフランス海軍水兵との間で発生した殺傷事件。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月23日 (金) 07 28。
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又の名を「裸リボン」。商会員『スーラ』が自分の体にリボンを巻いて「め、召し上がれ!」をした事件。 事件の再現イメージ imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (いもむし事件.jpg) (以下、自主規制のため記事削除) 目次へ戻る
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フリーメイソン ■ イタリアを震撼させた「フリーメイソン」スキャンダル 「憎しみの連鎖(2011.2\4.26)」より 今はわかりませんが、テレ東で「都市伝説」をやっていましたね。その中では「フリーメイソン」が登場しました。そしてそのような話は「単なる都市伝説」として話のネタになるのが落ちです。しかし、それを機会に調べた人もいたでしょう。中には驚愕すべき事件をキャッチした人もいるのではないでしょうか?・・・・・・「P2事件」。今回はこの「P2事件」について述べていきたいと思います。 .
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ユグドラル暦6年、8/18深夜から早朝?にかけて何者かによって自称捜査本部のメンバーと悪魔国メンバーが流刑されるという事件が起こる。目的は不明(一部では、上位プレイヤー排除による逆恨みとの話も) 流刑対象になったメンバーは以下の通り 自称捜査本部からは、nao、久慈川りせ、変態仮面、逝っくん!!、ジェント 悪魔国からは、闇、にゃあ、レン、なふ、okako 事件はその後荒らしたと思われる人物を流刑し、妖精メイド、犬走椛によって復旧作業が行われ、ジェントを除く全てのプレイヤーを復旧させ終結を迎えた。なお、ジェントはこの一件で新たにアカウントを作り直しプレイしている。 ところが、この1件が後の犬鯖史上最悪となるokako事件の序章にすぎなかった。 この事件がもたらした被害は相当なものとなり、数々のプレイヤーが被害者となった。そのような中で隠れた被害者として、悪魔国側で唯一の生き残り、そしてその後の戦争で敗者に追い込まれてしまった魂魄妖夢の存在を私たちは忘れてはならない。
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事件の経過 一応ストーリー調のものも作ったw a 江崎グリコ社長誘拐事件~セコムしてたのに 1984年(昭和59年) 3月18日 「金はいらん、勝久はおるか?」 「女中は今おるのか?」 「隣の鍵を出せ」 午後9時過ぎ 兵庫県西宮市二見町にある江崎グリコ社長・江崎勝久氏(当時42歳)の自宅敷地内にある母親宅に男 2人が侵入。3人は、1人で住んでいた母親(当時70歳)を赤いガムテープで目と口をふさぎ、頭に布をかぶせて相鍵を奪った。9時36分、2階東端の寝室でテレビを見ていた夫人(当時35歳)と長女 (当時7歳)も襲っていた。長女が悲鳴をあげると、男は「M子ちゃん(=長女)、シッ静かに」と言い、2人を粘着テープで後ろ手に縛って化粧台の奥のトイレに閉じ込めた。夫人は自力でテープをほどき、2階の電話線は切られていたので1階食堂の電話から通報した。 ↓ 午後9時38分 この時社長は自宅2階の浴室で長男(当時11歳)、二女(当時4歳)と入浴中だった。そこに白い毛糸の目出し帽の2人の男が侵入。2人は、江崎社長を拳銃と空気銃のようなもので「静かにしろ」と脅し、全裸のまま拉致、家の前にある犯人達の赤色の乗用車に押し込んた。運転席には第3の男がおり、3人は江崎社長に毛布をかけて車を急発進させた。社長宅にはセコムの防犯装置が導入されていたが、防犯装置の無い母親宅から合鍵で侵入したので、社長誘拐時には発動していたものの、警備員到着まで間に合わなかったという。 ↓ 午後11時30分 江崎邸に記者100人以上終結、捜査員に「警察説明しろ!」という状態だった。 ↓ 3月19日 午前1時15分、社長宅から30km離れた藤江弘毅・江崎グリコ取締役宅に「高槻市真上北自治会の釜風呂温泉の看板の前に電話ボックスがある。その中を見ろ」と男の声で電話があった。大阪府警機動捜査隊員がその電話ボックスを見に行くと茶色の封筒があり、中には「人質はあづかった 現金10億円 と 金塊100kg を よおい しろ」との脅迫状があった。捜査官も「10億&100kなんて運べないし、すぐ用意できない→ジョークやろ」と思ったが、すぐにグリコは10億円&金塊(時価3億)を用意したという(このため、c 寝屋川アベック襲撃事件 以降真札輸送がデフォルトに)。 午後6時23分、犯人から「茨木(実は高槻市)のレストラン『寿』で連絡を待て」という内容であったが、指定されたレストランに現れなかった。社長の安全のため報道協定を結んだが、既に第一報の誘拐自体は報じられていた。 ↓ 3月20日頃 江崎社長は車で連れ去られると頭から袋をかぶせられた。途中、高速道路の料金所で「700円です」という女性の声を聞いた。その後、茨木市宮島の安威川左岸の水防倉庫に到着し、そこに監禁された。社長が犯行の理由を問うと、犯人は「金や」と答えた。この水防倉庫には水害に備えて土嚢や縄などが積まれていたが、周囲に人家はなく、一般市民ばかりか鍵を持っている分室長すら一度も入ったことがない。事件当日夜(10時頃)にこの小屋に連れこまれた。犯人は終始社長を「勝久」と呼び捨てにし、「M子ちゃんは今、わしの知り合いの女の子供たちと人形遊びをしている」と伝えた。食事についてはパン、ビスケット、缶ジュースが与えられた。倉庫の扉は1階東側と2階の北側(2ヶ所)にあった。東側は南京錠でロックしていた。 犯人達は社長に「藤江のアホ 金子のドアホ」を朗読させて録音したあと、手錠をはずし後ろ手で両手両足を縛り、猿ぐつわをはめさせて「逃げたら殺す」と言いつつ、15時間以上姿を消した。その間社長は手のロープを自分で解いてから必死に壁をたたいたり押していたりしたら、ナットが緩み、扉だとわかり、後はナットを手で回してはずしたために脱出できたという。 ↓ 3月21日 午後2時15分すぎ、大阪府摂津市新在家の国鉄大阪貨物ターミナル駅構内の線路内で、薬物中毒者のごとくにふらついて歩く江崎社長が保線員に保護された。大正時代の黒いオーバー、濡れたズボン、右手首から荷作りり用ロープを垂らし、右頬には傷があり、裸足だった。警察に保護された社長は「見つかったら長女が殺される!」と自宅の夫人に電話で尋ねたが、実は長女は誘拐されてなかった。報道協定もここで解除となる。 府警の事情聴取に対して江崎社長は饒舌だった。ところがここで大久保武夫・グリコ会長が駆けつけてきて、「5分間だけ社長としゃべらせてくれ」と言って20分も中断。この後態度が豹変したのか、社長は何も語らなくなったために、「社長返還のために会長と犯人グループで密約を交わしたのでは?」という疑惑が生じてしまう。 b グリコ脅迫事件~犯人は「かい人21面相」 事件はこれで終わったかに見えたが、ここからが本当の始まりだった。 4月2日 江崎社長宅に6000万円を要求する脅迫状&塩酸入り目薬容器&社長の監禁時のテープが届く。西宮市熊野町の喫茶店『マミー』で日曜日(8日)の午後7時に連絡を待て。現金受け渡し場所はあらためて指示する。要求に応じなければコンチングマシン(カカオとミルクを混ぜる装置)を爆破する」との内容だった。当日、喫茶店「マミー」には防弾チョッキを着用した捜査員が張りんだが犯人は現れなかった。この日、初めて報道機関(大阪の毎日・サンケイ)と兵庫県警甲子園署に「けいさつの あ ほども え」という挑戦状が届いた。 この後も10日にグリコ本社敷地内の建物・グリコ栄養食品の放火や脅迫電話、16日には脅迫状と「えんさん きけん」なる塩酸入りポリ容器が発見された。4月12日警察庁はこの一連の事件を 「広域重要114号事件」に指定。4月23日、大阪の毎日、サンケイの新聞社に脅迫状が届く。犯人は初めて「かい人21面相」と名乗った。4月24日犯人からレストラン「ダンヒル」、名神高速SA、国鉄高槻駅前電話ボックスと指示を与えられたが、犯人は出現しなかった。(この時の電話の女性の声は10月11日にで公開) ↓ 5月10日 報道機関(毎日・サンケイ・読売・朝日)に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」「グリコを たべて はか場え いこう」なる挑戦状が届く。この前にグリコ本社には、グリコ製品に青酸を混入するという脅迫状が届いたため、大手スーパーはグリコ製品の撤去を始め、グリコは減産となる。その頃犯人は、取引先の長岡香料へ脅迫して、「3億だせ」と裏取引を応じさせていたが、途中で警察がそれに気づいて社長を説得し、6月2日の裏取引を聞き出した。 C 寝屋川・アベック襲撃事件~犯人が現金を取りに来た① 6月2日 5月31日に届いたグリコへの裏取引の指示は「6月2日午後8時から8時半の間に、摂津市内のレストラン・大同門の駐車場に、3億円を積んだ白色のカローラを置け」だった。捜査本部はあらかじめ途中でエンストを起こすように細工したカローラに3億円を積み、午後7時57分、焼肉レストラン「大同門」駐車場に到着。周辺には約30人の捜査員が張りこんでいた。 午後8時45分頃、駐車場に不審な男が現れそのままカローラに乗りこんだが、予定通りエンストを起こしたので警察によって取り押さえられた。「現行犯逮捕や!」などと思ったのもつかの間、男は暴行された様子で「グリコ?そんなの知らん」と言った。 この男は商事会社に勤める男性(当時22歳)で、同僚の恋人女性(当時18歳)と「大同門」から約3km離れた淀川堤防に停めたトヨタ・チェイサーの中でいちゃついていたら、怪しい男に銃身らしきものを突きつけられた。男性は元自衛官だったので抵抗しようしたが一撃で仕留められてしまい、女性は人質になった。犯人のうち1人は別の車に女性を連れ去り、残る2人がチェイサーに乗って男性に指示し、「『大同門』でカローラをここ(=襲撃された堤防道路)まで持って来い。そうしたら女は返してやる」と降ろされた。つまり犯人から現金受け渡し役に仕立てられたのだ。 男性は指示された堤防道路へ向かうが、同行した大阪府警捜査一課特殊犯捜査員が手間取ったために時間に遅れた。そのためか、犯人は現れなかった。結局、女性は犯人から「京阪電鉄守口市駅で落ち合え」と言われて、運賃2000円を渡されて光善寺駅で降ろされた。このとき犯人と乗っていた車はタクシーの払い下げ車両であると判明。チェイサーは襲撃現場から500m先の神社の参道で発見。 ↓ 6月24日 突如新聞に「ともこちゃん、ありがとう。グリコは頑張ります」なる子供の手紙の広告が出現した。その2日後、犯人は「グリコ ゆるしたる」と休戦宣言をした。これを受けて江崎グリコは生産の全面再開&販売再開を決定。この流れは「裏取引じゃねぇ?」と疑われたが、グリコは否定している。 d 丸大脅迫事件~犯人が現金を取りに来た② 6月22日 高槻市緑町の丸大食品に「グリコと同じ目にあいたくなかった ら、5千万円用意しろ。警察には届けるな」という脅迫状が届く。この裏取引に応じる合図として、「26日付の毎日新聞朝刊と、27日付サンケイ新聞朝刊にパート従業員募集の広告を掲載しろ」、「28日夜、高槻市日吉台5番町の太田常務宅に現金を用意して待て」と指示した。丸大食品は犯人の指示通り、新聞広告を出す。 ↓ 6月28日 丸大食品は裏取引に応じ、午後8時、太田常務宅に犯人から「高槻の西武デパートの三井銀行南 市バスおりばの観光案内板の裏」を現金受け取 り場所に指定する電話があった。女性による録音テープだった。社員を装った特殊捜査員が案内板の裏を調べると、「国鉄高槻駅に入れ 8:19か8:35の 京都行き各停に乗れ 後ろから2列目の○印の場所へ座れ バッグ出せるように進行方向に向かって左側の窓を開けて線路を見とれ 白い旗が見えたらバッグを 外にほれ」と指示書&切符と座席図があった。8:35の車両に乗ったものの、ここで特殊捜査員は指定された車両に乗らず、先頭車両で腰を下ろして社内の様子を観察してみた。すると彼らの様子を絶えず気にしていた、極めて不審な男を目撃していた。捜査員は降雨と日没のため白い旗を確認できなかったという。 京都駅到着後、運び役の捜査員は乗り換えして高槻駅で下車するのだが、そこに不審な男も同乗し、運び役が降りるのを見届けていた。 この男は、その後京都で下車した。それを尾行するも見失ってしまう。この不審な男がキツネ目の男である。当初この事件はマスコミも知らなかったので11月になって報じられた。 e 森永脅迫事件~青酸入り菓子が店頭に 9月12日 大阪市北区西天満の森永製菓関西販売本部に「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」と青酸入りの菓子が同封されている脅迫状が届く。「現金の受け渡しは18日、守口市のレストラン『USA』で待て」とあった。同社・松崎昭雄社長は、役員との協議で1億円準備を決める。脅迫状にはグリコが犯人グループに6億円を支払ったと書かれていた。 ↓ 9月18日 午後8時半頃、森永脅迫事件で犯人から関西支社に連絡。電話は子どもの声を録音したもので、5回繰り返した。「レストランから、1号線を、南へ、 1500m行ったところにある。守口市民会館の、前の。京阪本通2丁目の、陸橋の、階段の下の、空き缶の中」捜査員が指定された陸橋の空き缶(森永乳業製品)を調べると、「京阪守口市駅の東口へ行け」というメモが入っていた。その後、守口市内の衣装箱の中に現金を入れるも犯人は姿を現さず。当初は便乗犯と見られていたが、犯人側は「自分達である」と主張した。当初、森永脅迫は知られていなかったが、「森永が変だ」と感じた毎日新聞がスクーフ°した。 ↓ 10月7日 この日からから13日にかけて、兵庫、大阪、京都、愛知のスーパーなどで「どくいり きけん たべたら しぬで」と書かれた青酸が入った森永製菓の菓子13個が発見される。10月8日犯人は報道機関に「とくべつに あじ つけたった」と犯行を報告&毒入り菓子をプレゼントし、その上「無警告で毒菓子30個店頭に置く」と脅している。 前回同様各店舗は森永製品を撤去するわけだが、阪急百貨店社長など27社宛てに森永製品撤去を求める警告状を送りつけている。これは京都・百万遍のコピーセンターでコピーしたものと判明(犯人も教えてくれたが)。そんな中、西友は前回グリコの製品を撤去しなかったために「青酸ソーダ入りの菓子50個の内半分をおいたる」と名指しで脅迫され、さらに10月16日には西友系スーパー2店に脅迫状&青酸入り菓子が同封されていたので撤去せざるを得なくなった。 ↓ 10月11日 この時点で、捜査本部は4月24日の脅迫電話で流れた女の声の録音テープと9月18日の脅迫電話で流れていた子供の声の録音テープ(と「USA」)を 公開。10月15日には、7日に毒物を混入しようとしたと思われる、いわゆるビデオの男の映像を公開する。 f ハウス食品脅迫事件~犯人丸大の時のキツネ目のあの男が現金を取りに来た③ 11月7日 ハウス食品工業総務部長宅に現金1億円を要求する脅迫状が届き、裏取引に応じようとする。「14日、京都市伏見区ファミリーレストラン『さと伏見店』で連絡を待て」を指示してきた。鈴木邦芳・大阪府警刑事部長は報道協定を報道機関各社に要請し、マスコミは2回目の報道協定を締結する。 ↓ 11月14日 大阪府警357人が現場を仕切り、京都府警126人、兵庫県警157人ら総勢924人を投入する布陣であった。警察庁からは「必ず一網打尽にしろ」ということだった。午後6時過ぎ、ハウスは犯人の指示通り現金1億円を積んだが、乗りこんだのは社員ではなく警官2名、白いワゴン車だった。東大阪市の本社を出発した車は近畿自動車道に入り、名神高速道路へ向かう。 午後6時53分 車は京都市伏見区のファミリーレストラン「さと」の北 300m地点で待機。犯人指定の午後7時20分に同店駐車場に入った。 ↓ 午後8時20分 店内で社員に扮した捜査員が犯人の指示を待っていたところ、ハウスの総務部長宅に「京都へ向かって、1号機を、2キロ、バス停城南宮の、ベンチの、腰掛けの裏」と4回繰り返す電話があった。これは公衆電話(静岡・御殿場以東、広島益田以西)からの電話で、子どもの声の録音テープである。午後8時38分、指定された城南宮バス停には「京都南インターから名神高速に入り、大津サービスエリアに向かえ」というメモを発見。 ↓ 午後8時59分 名神・大津サービスエリアの張り紙発見。この駐車場には、サングラスと帽子の出で立ちで現金運搬車を注視する不審者が、捜査員に気づいて逃げ去って姿を消していた。特殊犯捜査員は捜査本部に「職務質問をしたい」と訴えたが、一網打尽の方針のために許可されなかったため刑事達はそのまま撤収した。なんとこの不審者は丸大事件の時にっ目撃されたキツネ目の男であり、今回目撃した刑事の中には丸大事件の時も目撃したシチュー好きの刑事もいた。 ↓ 午後9時23分 滋賀県草津市の名神・草津パーキングエリアで張り紙発見。「そのまま名古屋方面に走ること、左側の棚に白い布を見たら止まって、布の中の空き缶に入れた手紙の指示に従え」。現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津PAから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された、空き缶がなかった上に犯人らしい男も姿を見せず、捜査は打ち切りになった。 ↓ 午後9時18分 人気のない滋賀県栗東町川辺の県道川辺-御園線に白いライトバンが停まっているのを、通りかかった滋賀県警のパトカーが発見した。中には野球帽をかぶった無精ひげの40歳ぐらいの男がいた。ライトバンは京都府長岡京城の里の協和電設からの盗難車だった。県警の所轄署の外勤課員は114号事件など無関係に職務質問をしようとすると、ライトバンは急発進した。パトカーは激しいカーチェイスで捕獲に失敗し見失った。この日の布陣から外れていた滋賀県警は、本部から肝心な部分が伝わっていなかったために、うかつに近づいて犯人に逃げられてしまった。なお、この件で取り逃がしてしまった外勤の刑事は責任をとってのちに辞職してしまう。 ↓ 午後9時25分 乗り捨てられたライトバンを発見。車内には警察無線滋賀一系にあわせた改造無線機があった。これは極秘中の極秘で、ライトバン発見現場は近畿管区警察局内で唯一無線が通じない地域だった。盲点だった滋賀県警との連携ミス+犯人取り逃しばかりか、警察のやり取りが筒抜けだったのだ。その後9時50分、草津市西草津1丁目の路上を自転車で走る男、午後10時過ぎに草津川堤防を自転車で走る男も取り逃がす。それぞれのウンコ野郎な運転手は「ホクロの男」「メガネの男」と呼ばれる。 犯人にとってよっぽど痛快だったのか、兵庫県警・吉野穀本部長宅、大阪府警・四万修本部長宅に挑戦状を出して痛烈に皮肉っている。そして12月7日森永製菓は6月24日のグリコの広告と同じような「たくさんの励ましをありがとう」なるおぞましい広告を出すが、実はこれは犯人に指示されたものだった。 ↓ 12月11日に県警は三人の証言を基に作成した例の不審車両の運転手の似顔絵を公開した。 g 不二家脅迫事件~何を企てていたのか? 12月7日 不二家田尻敬司労務部長宅に「現金1億円の要求+12月23日に大阪梅田の阪神百貨店屋上から2000万ばら撒き、翌年の1月5日に東京池袋のビルから2千万円を撒け」という脅迫状+テープと青酸ソーダが届く。12月10日に報道協定解除。不二家は裏取引に応じる意向だった。が捜査本部に相談して不二家は指示された池袋のビル屋上からの現金ばらまきは行なわなかった。これが報道されたのは翌年の1月11日であった。その前日にはあまりに有名なキツネ目の男の似顔絵を公開。 ↓ 1985年(昭和60年) 2月6日 またまた江崎社長宛てに脅迫状。2月12日、東京、愛知で「どくいり きけん」と書かれた、本当に青酸の入った菓子が相次いで発見される。置かれていたのは東京・中央区の明治製菓本社向かいにある天ぷら屋前、神田駅のトイレと駅周辺の寿司屋の店先、名古屋氏千種区の名古屋集中局管内のポストなど、東京8ヶ所9個、名古屋4ヶ所4個。 ↓ 2月27日 茨木市の派出所に「森永ゆるしたろ」という内容の休戦宣言が届く。 h 駿河屋脅迫事件~そして犯行終結 3月6日 今度は和歌山県の老舗和菓子会社駿河屋に5000 万円を要求する脅迫状が届く。3月8日、駿河屋に「けいさつの あほが うるそおて かなわん 8日 とりひき するの しばらく えんきや」となぜか延期を通告。その後、犯人側から駿河屋に対する連絡はなかった。不二家以降、犯人グループの活動は段々だんだん尻つぼみになり、4月に入ってからは沈黙している。しかし、前年11月14日の失態が響いたのか、8月7日滋賀県警本部長・山本昌二氏が辞任直後に公舎の庭で焼身自殺をする。 ↓ 8月12日 報道機関に最後の挑戦状「くいもんの かいしゃ いびるの もお やめや(中略)たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに」という犯行終結宣言だった。この日ハウスの浦上郁夫社長は、前社長の墓前に一連の事件の終結を報告しようとJAL123号便に搭乗していた。 この後犯人は誰も捕まらず、94年から00年までに全て時効になった。
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星期兄弟事件: 从位于26号道路的星期兄弟家中的笔记本上可以了解到一家子会于每天出现在不同地点赠送道具,具体如下: 星期天 37号道路 磁铁 星期一 40号道路 锐利的鸟喙 星期二 29号道路 粉红缎带 星期三 愤怒湖 黑带 星期四 36号道路 坚硬岩石 星期五 32号道路 毒针 星期六 烟墨市 诅咒护符 当从七人手中获得所有道具后,再和他们对话,排头精灵即可获得对应星期的缎带,每日只能回去一次 高速船事件: アサギシティ浅葱市出航:星期二,星期五 クチバシティ枯叶市出航:星期天,星期三 乘龙事件: 乘龙会在星期五于つながりのどうくつ山洞通路的三层出现 捕虫大会事件: 捕虫大会于每周的二四六的白天在捕虫公园举行 黄金市地下商店街: 黄金市著名的地下商店街,每天会有不同的店面营业,具体如下 星期天:中药店开放,不过吃苦药会下降PM的亲密度 星期天:美容店开放(弟) 星期一:便宜商店开放,可以买到便宜版本的9800道具 星期二:美容店开放(兄) 星期三:美容店开放(弟) 星期四:美容店开放(兄) 星期五:美容店开放(弟) 星期六:美容店开放(兄) 月亮山的皮皮: 星期一晚上(8点到12点)于月亮山顶会出现的皮皮跳舞事件,结束后可以在中间石头上得到月亮石 另:星期一的凌晨也能触发 夙敌的再战: 星期一星期三挑战四天王时会出现与玩家对战(龙穴和渡与伊吹组队战结束后触发)
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有限会社メディアマトリックス
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30年以上前、姫代学園初等部で起きた事件 つぶらとメアリの最初の確執を生んだ。 メアリが転校生召喚を行い、学園の乗っ取りを図った。 同級生のつぶらが仲間と協力し、転校生を殺害、メアリの計画を阻止した事件。 この事件の後遺症で、つぶらは白髪となる。
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西山事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 西山事件(にしやまじけん)とは沖縄返還協定を巡って、1972年に毎日新聞政治部記者・西山太吉と外務省の女性事務官が逮捕された事件。沖縄密約事件、外務省機密漏洩事件、外務省秘密電文漏洩事件、西山記者事件とも言う。西山記者が女性事務官との不倫関係を利用して外務省の機密情報を入手していた経緯から、被告人側の主張する報道の自由について、いかなる取材方法であっても無制限に認められるかが訴訟上の争点となったが、西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月・執行猶予1年の有罪が確定した。 30年後、米国外交文書の公開で、当時の外務省・大蔵省高官の偽証と、検察官の証拠隠しが明らかになったとして、国家賠償請求訴訟が提起されたが、一審・二審とも民法の除斥期間を適用され、請求は棄却された。(2008年2月20日現在) 事件の経過 1971年5月18日 西山記者が知人の外務省女性事務官を飲食に誘い出した。2人はそれまで特に親しい間柄ではなかったが、この時飲酒の上で半ば強引に肉体関係を結んだ。さらに5月22日にもホテルで情を通じた後、「取材に困っている、助けると思って安川審議官のところに来る書類を見せてくれ。君や外務省には絶対迷惑をかけない。特に沖縄関係の秘密文書を頼む。」と要求する。女性事務官が一応はこれを承諾したのに対し、西山はその後電話で同様の趣旨をさらに念押しした。その後も肉体関係を続けていくうちに「5月28日愛知外務大臣とマイヤー大使とが請求権問題で会談するので、その関係書類を持ち出してもらいたい。」と西山の要求は具体的なものになった。一方、女性事務官は西山との肉体関係により西山の依頼を拒み難い心理状態に陥っており、西山は結局それに乗じて十数回に渡って機密文書を持ち出させることに成功した。しかし、6月17日に沖縄返還協定が成立して問題が収束していくと、西山は女性事務官に対して次第によそよそしい態度を見せるようになり、西山が6月28日に渡米、8月上旬に帰国した後は、女性事務官との関係を完全に絶っている。 1972年3月27日 衆議院予算委員会で社会党の横路孝弘議員・楢崎弥之助議員が外務省極秘電信を暴露した。 暴露されたのは1971年5月28日付で愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。 この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在を露呈させるものだった。 これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府側では「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。 1972年3月30日 外務省の内部調査で、女性事務官は「私は騙された」と泣き崩れ、ホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から文書の出所が判明した。 1972年4月4日 外務省職員に伴われて女性事務官が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕される。逮捕された西山は情報源が女性事務官であることを特に秘匿せず供述している。 1972年4月5日 毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。 1972年4月6日 毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかし、この事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。 1972年4月15日 起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法案の制定を主張した(ただし、2008年現在も成立していない)。 ここに及んで毎日新聞は夕刊紙上で「道義的に遺憾な点があった」とし、病身の夫を持ちながらスキャンダルに巻き込まれた女性事務官にも謝罪したが、人妻との不倫によって情報を入手したことを知りながら「知る権利」を盾に取材の正当性を主張し続けたことが世間の非難を浴び、抗議の電話が殺到。社会的反響の大きさに慌てた毎日新聞は編集局長を解任、西山を休職処分とした。 1974年1月30日 一審判決。事実を認めた女性元事務官には懲役6月執行猶予1年、西山には無罪の判決が下される。検察側は西山について控訴した。 ここまでの過程で、核心の「密約」に関するマスメディアの疑惑追及は完全に失速。草の根的不買運動と石油ショックで経営不振に見舞われた毎日新聞は翌年に会社更生法適用を申請することになる。 1976年7月20日 二審判決。西山に懲役4月執行猶予1年の有罪判決。西山側が上告。 1978年5月30日 最高裁判所が上告棄却。西山の有罪が確定。 最高裁は、密約の内容は「秘密として保護するに値するものと認められる」とした。その上で、報道機関が取材目的で公務員に対し国家機密を聞き出す行為が、正当業務行為と言えるかに付き「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでないことはいうまでもなく、それが真に報道の目的から出たものであり、その手段や方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為というべきであるが、その方法が刑罰法令に触れる行為や、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等、法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合には、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びる。」とし、取材の自由が無制限なものではないことを示した。 西山は一審判決後に毎日新聞を退職し、女性元事務官は失職、さらに離婚にまで追い込まれた。一方で、政府による密約の有無について、判決でも密約そのもの真偽については全く言及されておらず、人々の関心から遠ざかっていった。 事件のその後 2002年、米国公文書館の機密指定解除に伴う公開で日本政府が否定し続ける密約の存在を示す文書が見つかったとし、西山は「違法な起訴で記者人生を閉ざされた」と主張して、2005年4月、政府に対し3300万円の損害賠償と謝罪を求めて提訴した。国側は、密約の存在自体を否定しつつ、たとえ密約が事実であっても、西山の有罪は変わらないと主張した。2007年3月27日、東京地裁(加藤謙一裁判長)は「起訴から20年以上が経過した後の提訴で、原告の損害賠償請求権は消滅している」と、民法の除斥期間を適用し、密約の有無については判断を示さず請求を棄却した。2008年2月20日、東京高裁(大坪丘裁判長)は一審・東京地裁判決を支持し、控訴を棄却した。西山は上告する方針。 2006年2月8日、対米交渉を担当した当時の外務省アメリカ局長吉野文六が、「復元費用400万ドル(当時の換算で約10億円)は、日本が肩代わりしたものだ」と発言したと北海道新聞が報じ、同日の共同通信の取材に対し「返還時に米国に支払った総額3億2000万ドルの中に、原状回復費用400万ドルが含まれていた」と述べ、関係者として初めて密約の存在を認めた。また24日、朝日新聞の取材に対し、当時の河野洋平外相から沖縄密約の存在を否定するよう要請されたと証言。これに対し河野元外相は「記憶にない」とコメントした。 2007年10月6日、密約を裏付ける内容の別の公文書が、米国立公文書から発見された(「72年沖縄返還時、「核密約」示す米公文書を発見」『讀賣新聞』10月7日号)。同新聞によれば、内容は、1969年11月12日、13日付のニクソン大統領へのメモ。表題は「沖縄返還後の米国の核持ち込みと繊維問題に関する秘密交渉」で、「核抜き・本土並み」の沖縄返還を決めた同月19日からの日米首脳会談に先立ち、当時のキッシンジャー大統領補佐官が、首脳会談の進め方を説明する資料としてニクソン大統領に渡したという。この内容は、交渉で佐藤栄作の私的な密使であった若泉敬が1994年に著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)で暴露した内容を裏付けるものだった。ただし、いずれも密約の存在は明記されているが、内容までは記されていない。 この公文書は、2005年に機密指定が解除されていたもので、日本大学法学部の信夫隆司教授が、米国立公文書館から入手した。外務省は、同文書の発見について「文書がどんなものか定かではないのでコメントする立場にない。核の『密約』は存在しない」と従来の主張を繰り返し、高村正彦外相は『毎日新聞』の取材に対し「密約はなかった」と言った。 事件の影響 毎日新聞の取材方法が国民的不信を買い、同社が経営不振に陥るほどの影響が出たため、他社も密約そのものの追及に及び腰になり、密約事件は尻すぼみに終わった。そもそも、密約が存在するのではないかとの疑惑は事件以前から指摘されていたため、世論はそれ程衝撃を受けていなかった。 毎日新聞社の取材方法について、密約問題よりも男女関係のスキャンダルが注目されてしまった。日本政府は米国公文書の米国法に基づく情報公開以後今も密約の存在を認めていない。 西山が情報を入手したことについては擁護、あるいは積極的に評価しても、横路に文書を手渡す段階で、文面から取材源を秘匿する配慮を怠ったこと。さらに、女性事務官が誰であるかを認めてしまったことを批判する者は多い。取材行為で手に入れた情報を新聞紙上ではなく、政争の道具となることを承知の上で横路議員に手渡したことが新聞記者の本業から大きく逸脱していること、さらに結果的に病身の夫を持つ女性事務官との不倫の結果、離婚という事務官の家族という第三者の人生をも狂わせてしまったためである。 このことは、密約の一方の当事者であったアメリカのニクソン大統領が、1972年のウォーターゲート事件で辞職に追い込まれたこと、「ディープ・スロート」と称された取材源について、『ワシントン・ポスト』紙の記者は最後まで明かさなかったことと、いずれも好対照である(2005年になって、当時のFBI副長官だったマーク・フェルトが取材源は自分だと名乗り出た)。フェルトの評価は毀誉相半ばするが、女性元事務官のように、犯罪者として扱われてはいない。 取材で知り得た情報を西山が取材目的外に安易に流出させたために起きた事件であったが、毎日新聞は2007年2月にも、糸川正晃議員に対する取材で同様の事件を起こしている。 事件後30年を経て「米国立公文書館保管文書の秘密指定解除措置」で公開された「ニクソン政権関連公文書」の中から密約の存在を示す文書が見つかった。しかし政府は今も密約の存在を認めていない。 マスメディアが金科玉条の如く唱えてきた報道の自由が、決して無制約なものではないということを自ら明らかにしてしまった。 マスメディアの間にも思惑の違いがあった。事件に及んで報道の自由を主張するよりも、毎日新聞を批判することに多くのメディアは力を入れた。新聞系メディアへの対抗意識もあり、週刊誌、特に『週刊新潮』は川端康成の「美しい日本の私」に掛けて「機密漏洩事件 ―美しい日本の美しくない日本人」と題した記事など、大々的に西山と毎日新聞を批判するキャンペーンを行い、毎日新聞社の内情などが次々に暴露記事にされた。 『週刊新潮』は西山の責任を徹底して追及する反面、密約自体の是非については徹底して争点から避けた。「密かに情を通じたこと」で情報を得たことや、新聞記者が紙上で密約の存在を明らかにせず野党議員に機密文書を渡したことに対する批判があったためである。 事件から経営危機に陥った毎日新聞は、日本共産党と創価学会との「和解」(宮本顕治委員長と池田大作会長の会見)を仲介することを手土産に創価学会機関紙「聖教新聞」の印刷代行を受注して糊口を凌ごうとした。そのためこれ以後、創価学会の影響を強く受けることとなった。 毎日新聞は経営難から1977年に東京放送(TBS)の株式を手放し、TBSは新聞社系の安定株主がいない放送局となってしまった。西山事件はTBSが楽天の買収攻勢を受ける遠因になったとも言える。 総評 密約があったとする立場から見ると、日本政府が密約の存在自体を否定し続ける背景ならびに根拠については全く不明となっている。すなわち、密約を否定する理由についても日本政府は一切明らかにしていないのである。この事をマスメディアから追及された際にも、日本政府及び外務省は「とにかく無いから無いのだ」と同語反復によって否定し、回答拒否を貫いている。識者などを中心として実態を明らかにしようとする努力は続けられているが、根拠となる文書は全て米国側が公開した文書であり、日本政府はこれらの文書は捏造であるとしている。 こうした状況から、敢えてそれ以上の追及を続けるマスメディアも少なくなっている。事件を政治的陰謀に対するマスメディアの敗北と捉えるマスメディア関係者も少なからずいる反面、西山がみずから墓穴を掘った形になったため、それ以上触れたくはないと考える関係者が増えてきているためである。また、『週刊新潮』など、“政府に逆らうべきではない”という逆の「教訓」を与えようとしたマスメディア関係者も数多く存在する。この結果近年では、政府の全面否定に対してのマスメディア側の対応は簡潔な批判にとどまっている。 この事件はマスメディアが唱えてきた報道の自由が、決して無制約なものではないということを自ら明らかにしたばかりか、報道被害に対しての責任追及もまた不可避の存在であることをも明白にした。実際、名誉毀損その他の報道被害に対しての訴訟がこの事件以降相次ぐようになっている。西山事件はマスメディアが政府機関のみならず、一般読者に対しても脇を見せてしまった最悪の事例という側面も持ち合わせているのである。 一方、政府の説明責任については、“虚偽の発言を繰り返しても誰一人責任を問われることは無い”という事実上の免責を許してしまった。また、政府による名誉毀損についても、マスメディアに責任追及をする権限が無い、または極めて及び腰であることが明らかになってしまった。加えて、この事件以降も、2007年に問題となったテロ対策特別措置法に基づく自衛隊の給油問題、2008年4月に明らかになった砂川事件でのアメリカ政府の外交圧力、同年5月に明らかになった、重要な案件を除く在日米軍関係者犯罪の裁判権放棄、6月に確認された、朝鮮有事における在日米軍の軍事行動に関するフリーハンドを容認した藤山・マッカーサー秘密覚書など、日本政府が沈黙または否定している事柄について、米国側の情報公開によって明るみに出た事例は少なからず存在する。 事件を題材とした作品 『密約 外務省機密漏洩事件』澤地久枝/岩波現代文庫(中公文庫版は絶版) 『密約 外務省機密漏洩事件』(上記のテレビドラマ化作品、のちに劇場公開)goo映画より[1] 『運命の人』山崎豊子/文芸春秋 『 運命の人(テレビドラマ) 』 『加治隆介の議 12巻』弘兼憲史/講談社ミスターマガジンKC 『沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟』西山太吉/岩波新書新赤版 関連項目 外務省 - 佐藤栄作 知る権利 - ジャーナリズム - 情報公開 - 報道におけるタブー 日米地位協定 - 非核三原則 - 思いやり予算 外部リンク 西山太吉国賠訴訟 (藤森克美法律事務所) 昭和51(あ)1581 国家公務員法違反被告事件 (最高裁で確定した、西山の有罪判決) ルポ 西山太吉国賠訴訟 (週刊金曜日) 日刊ベリタ: 「沖縄返還密約『吉野文六証言』の衝撃と米軍再編」 (2006年4月1日) 福島みずほ公式ホームページ「参議院予算委員会質問」 「 沖縄返還に関する密約問題について 」(参・予算委員会、2006年3月13日) 北海道新聞:「 1971年 沖縄返還協定 『米との密約あった』 」(2006年2月8日) 衆議院第68国会: 予算委員会議事録第19号 (1972年3月27日) 削除されたWikipediaのページをとりあえずアーカイブしました。 既女版で話題になっているため、検証用にご利用ください。 一度削除になった理由は 過去の版の中に元女性事務官の実名が含まれており、プライバシー問題に対処するためであるが、 問題のある版を削除すると履歴破損が起きるため とのことでした(削除依頼に対する議論より要約)。