約 5,619 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/835.html
{{記事名の制約|明治神Template lang?}} {{神社| 名称=明治神宮| 画像= 内拝殿| 所在地=東京都渋谷区代々木神園町1番1号| 位置=Template ウィキ座標2段度分秒?| 祭神=明治天皇昭憲皇太后| 社格=官幣大社| 創建=大正9年(1920年)| 例祭=11月3日(明治天皇御誕生日)}} thumb|[[鳥居|大鳥居]] 明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神Template lang?』明治神宮サイト Q A。 由緒 Template 和暦?に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、なんらかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館など様々な案があった)古川隆久『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(中公新書、1998年) ISBN 4-12-101406-5 第二章 幻に終わった明治の大博覧会計画 p21~p59 を参照。、続いてTemplate 和暦?に皇后であった昭憲皇太后が亡くなると、明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を偲ぶ国民からふたりを祀る神社を求める機運が高まった。 これを受けて政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けてTemplate 和暦?5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。 明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。Template 和暦?11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみにこの御料地は、かつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。 面積約70万平方メートルの境内は、そのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する宝物殿、御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する至誠館などがある。 明治神宮外苑は、明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝える為、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって造営された。聖徳記念絵画館を中心に明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・神宮水泳場などがある。 Template 和暦?10月21日に明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が開催され、雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。 Template 和暦?の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、Template 和暦?10月31日に再建された。 第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、Template 和暦?に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。 Template 和暦?現在の初詣では、大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。 Template 和暦?10月31日-11月1日:明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ『アカリウム』奉納行事開催 REF 明治神宮御社殿復興50年記念「アカリウム」明治神宮HP /REF 。 歴代宮司 一条実輝:Template 和暦?10月8日 一戸兵衛:Template 和暦?8月19日(在職中死去) 有馬良橘:Template 和暦?9月14日 藤田尚徳:Template 和暦?8月27日 鷹司信輔:Template 和暦?8月29日 甘露寺受長:Template 和暦?5月21日 伊達巽:Template 和暦?3月31日 高沢信一郎:Template 和暦?4月1日 福島信義:Template 和暦?4月1日 境内 thumb|[[手水舎]] 内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。Template 和暦?の調査時には247種17万本となっていて、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が自然化したものとしても注目されている。設計には林学の本多静六、本郷高徳、上原敬二、川瀬善太郎、高橋卯三郎、農学/造園の原熈、大屋霊城、狩野力、太田謙吉、森一雄、水谷駿一、田阪美徳、また奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。 こうして、明治神宮造営局の技師らは大正10年に明治神宮境内林苑計画を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわばこれが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって日本における近代造園学の創始とされている。 神宮御苑 明治神宮御苑(通称、神宮御苑)は江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われ、明治時代に宮内省の所轄となり、代々木御苑と呼ばれて、明治天皇、昭憲皇太后が行かれたゆかりの深い名苑である。苑内には隔雲亭、お釣台、あずまや、菖蒲田、清正井などがある。菖蒲田のハナショウブ(花菖蒲)は、明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたと言われ、6月が最盛期である。 神宮外苑 明治神宮外苑(通称、神宮外苑)はTemplate 和暦?に近衛師団、第一師団に所属する部隊の教練場として作られた、青山練兵場の跡地に明治天皇崩御の後に造営されたもの。東京都新宿区、港区にわたり、国民の献金によって絵画館・憲法記念館(戦後は明治記念館)・陸上競技場・野球場などを備えた公園施設として整備された。 祭事 大相撲横綱推挙式(横綱昇進時) 大相撲横綱土俵入り(1月5~7日頃) 建立資金 神社を奉祀するとはいっても、現実にその領地確保や建立には幾ばくかの資金が必要である。幾つかの候補から領地は建設予定だった東京公園(予定)の敷地が定められた。当初の理念において内苑は国が、外苑は国民が造るもととされ、資金を賄うに国による税金と国民による寄附金となった。 その総額は国税の納付額などで明治神宮奉賛会によっておおよそ標準額として予め計算されたものがあり、東京では200万円、東京以外の内地では250万円、外地(当時は領土であった樺太・台湾・朝鮮・関東州)からは20万円、また帝国国内だけではなく国外からは25万円とされた。内地においてはその目標額が公平な負担となるよう各都府県に割り当てられた。各市町村群へは各都府県が割り当てられた額面を調整し、その寄附金を募った千葉県ではキッコーマンからの1万円の寄附金をうけ、市町村群への割当を1万円差っ引いて寄附金を集めた。。基本的には寄附であるので個人の自由であるが、官吏などはそうではなかったところもある(地位により額面が決められていたが、一部を除いては自らに割当られた額面の寄附は望んでのことであった。総理大臣は100円とされた)。 標準額総額は495万円であったが、結果的には想定を大きく上回る約676万円となった。必要とされた額は670万円とされていたので、目標額は達成できたことになる。 交通 最寄駅 南参道 JR 原宿駅 東京メトロ千代田線 明治神宮前駅 北参道 東京メトロ副都心線 北参道駅 JR 代々木駅 都営地下鉄大江戸線 代々木駅 西参道 小田急電鉄小田原線 参宮橋駅 脚注 Template 脚注ヘルプ? 参考文献 山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4-642-05585-1 明治神宮社務所 編『「明治神宮の森」の秘密』(小学館文庫、1999年) ISBN 4-09-411251-0 内山正雄、蓑茂寿太郎『代々木の森』(郷学舎、1981年) 関連項目 神宮 明治神宮外苑 初詣!爆笑ヒットパレード(フジテレビ系で元日生放送されるテレビ演芸番組。第35回まで製作協力) 代々木公園(隣接) 東京ヤクルトスワローズ 伊勢神宮 井上清 佐野利器 伊東忠太 本多静六 上原敬二 王貞治(明治神宮で結婚式を挙げた) 貴乃花光司(明治神宮で結婚式を挙げた) ジーン・ロッデンベリー(同宮で結婚式を挙げた世界的有名人の一人) 外部リンク Template Commonscat? 明治神宮 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 10 22。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/564.html
陸奥国 大沼郡 大谷組 芋小屋(いものこや)村 大日本地誌大系第33巻 61コマ目 府城の西に当り行程7里17町余。 家数11軒、東西33間・南北1町20間。 山間に住す。 東は中川に傍(そ)ひ南北に田圃(たんぼ)あり。 東2町7間大成沢村の山に界ふ。 西8町48間冑中村の山に界ふ。 南3町7間大成沢村の界に至る。その村まで6町10間余。 北8町18間冑中村の界に至る。その村まで20町10間余。 この村の名主市之丞という者、上杉氏・蒲生氏・加藤氏の時の證文38通を蔵む。今その1、2を下に出す(※略) 山川 中川 村東20間にあり。 大成沢村の境内より来り、北に流るること29町冑中村の界に入る。 関梁 橋 村南3町余、中川に架す。 長9間・幅8尺。 隣村の通路なり。 神社 赤城神社 祭神 赤城神? 鎮座 不明 村中にあり。 鳥居拝殿あり。砂子原村三浦大隅これを司る。 寺院 地蔵堂 村中にあり。 創建の年月詳ならず。 村民の持なり。 Goo地図赤城神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/111.html
陸奥国 会津郡 大塩組 寄岩(よりいは)村 大日本地誌大系第31巻 146コマ目 府城の西に当り行程18里20町。 家数17軒、東西1町30間・南北1町30間。 東南は鷲倉山倚り南北は只見川に傍ふ。 東5町十島村の界に至る。その村まで10町。 西2町30間蒲生村に界ひ只見川を限りとす。その村は申(西南西)に当り12まり。 南2里18町計黒谷組小川村の山界に至る。その村まで3里15町。 北21間塩沢村に界ひ只見川を限りとす。その村は子丑(北~北北東の間)に当り15町。 山川 鷲倉山(わしくらやま) 村の東北にあり。 高154丈。 峰の形尖にして蒲生嶽と対し峙(そばだ)つ。 時ありて鷲来り巣ふと云う。 十島村及び大沼郡本組田沢村と峯を界ふ。 只見川 村北20間余にあり。 蒲生村の境内より来り、東北に流るること15町十島村の界に入る。 小舟を以って川向の諸村に通ず。 神社 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 村東1町にあり。 鳥居拝殿あり。村民の持なり。 Google Map鷲が倉山 大山祇神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/861.html
陸奥国 耶麻郡 川西組 廻谷地(めくりやち)村 大日本地誌大系第32巻 19コマ目 府城の東北に当り行程5里6町。 家数13軒、東西53間・南北1町9間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東4町11間入江村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り7町40間余。 西55間下堂観村に界ひ小黒川を限りとす。 南3町1間相名目村の界に至る。その村まで4町40間余。 北4町40間下堂観村の界に至る。その村まで7町50間余。 また 未(南南西)の方村際にて蜂屋布村に界ふ。その村まで4町40間。 山川 小黒川(こくろかわ) 村西50間余にあり。 下堂観村の境内より来り、南に流るること10町30間蜂屋布村の界に入る。 広5間。 神社 天王神社 祭神 天王神? 相殿 稲荷神 幸神 勧請 不明 村北にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。小平潟村佐瀬主殿が司なり。 Google Map廻谷地地区 津島神社 余談。 天王神社・津島神社は、共に牛頭天王と建速須佐之男命を祭る神社です。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/1111.html
陸奥国 耶麻郡 吉田組 橋立(はしたて)村 大日本地誌大系第32巻 163コマ目 府城の西北に当り行程10里22町。 家数6軒、東西50間・南北1町3間、散居す。 東北は山に連なり西は揚川に近く、南は田圃(たんぼ)なり。 東17町35間大谷組井谷村の山界に至る。その村まで27町50間余。 西2町45間河沼郡野沢組上野尻村に界ひ揚川を限りとす。 南5町28間余大谷組戸中村の界に至る。その村まで20町20間余。 亥(北北西)の方4町30間余柴崎村の界に至る。その村まで5町40間余。 山川 揚川 村西2町40間余にあり。 戸中村の境内より来り、北に流るること10町40間柴崎村の界に入る。 井谷川(いたにかわ) 村より未(南南西)の方5町20間余にあり。 井谷村の境内より来り、山間を西に流るること5町15間計揚川に入る。 原野 ナギノ原 村より寅卯(東北東~東の間)の方3町計にあり。 東西8町・南北8町。 中に少しく田圃あり。 関梁 橋 村より未(南南西)の方6町50間余、戸中村の通路井谷川に架す。 長7間・幅1間半。 水利 堤4 村東10町計、山中にあり。 共に周100間計。 神社 白山神社 祭神 白山神? 相殿 山神 山王神 第六天神 御前神 草創 不明 村南にあり。 鳥居あり。上野尻村平野伊勢が司なり。 Google Map橋立地区 上ノ原(ナギノ原の事か?) 神社?(白山神社か?) 鳥居 - 社の有無を確認できず 余談。 御前神とは何の神様でしょう? ネットで御前神社で調べるといくつか出てきますが、読み方も祭神もバラバラです。 例えば… 青森県八戸の御前(みさき)神社祭神:表筒男命(うわづつおのみこと)・中筒男命(なかづつおのみこと)・底筒男命(そこづつおのみこと)(住吉三神)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后(じんぐうこうごう))・武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと) 山形県北村山郡大石田町の御前(ごぜん)神社祭神:伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ) 群馬県渋川市の御前(ごぜん)神社祭神:木花開耶姫尊(このはさくやひめのみこと) 福井県あわら市の御前(みさき)神社祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)、豊受神(とようけのかみ)、伊弉册尊(いざなみのみこと) 岡山県岡山市の御前(おんさき)神社祭神:五十狹芹彦命(いさせりひこのみこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)?) 由緒書きに、吉備津彦が磯前の3つの小島に住吉三神を、汗入の浜に豊玉彦命(とよたまひこのみこと)・豊玉比売命(とよたまひめmのみこと)を奉ったとの伝承あり。 岡山県高梁市の御前(おんざき)神社祭神:天照大御神(あまてらすおおみのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、応神天皇(八幡神)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、天児屋根神(あめのこやねのかみ) 他にもあるかと思いますが割愛します。 全体的に見ると女神様を奉っている事が多いようです。次に水に関わる神様でしょうか? 会津地方にも沼御前神が奉られている神社があり、女神・水に関わっている事が多いです。御前神とは特定の神様ではなく女神や水に関わる神様全般を示す言葉なのかと思われます。天津神全般を奉る天津神社みたいなものかと。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/669.html
陸奥国 河沼郡 青津組 東青津(ひかしあおつ)村 大日本地誌大系第33巻 109コマ目 昔はただ青津村と称して1村なり。後東西を分けて別村とせり。 府城の西北に当り行程3里18町。 家数78軒、東西2町50間・南北3町18間。 村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。 また巳(南南東)の方1町40間青木村の民居に続き家数2軒、西の方6町西青津村の境内に家居1軒あり。 東15間・北4町、共に青木村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り1町40間。 西5町・南3町40間、共に西青津村の界に至る。その村は未(南南西)に当り3町余。 また戌亥(北西)の方20間余に穢多の居所あり。家数2軒。 この村四方田圃(たんぼ)にて西北は川に近し。 慶長16年(1611年)山崎新湖湛て多く田圃を浸せし時、蒲生氏より与えし文書今に肝煎の家に蔵む。その文如左(※略)。 山川 日橋川(につはしかわ)(大川(おほかわ)) 俗に大川という。下同。 村北6町にあり。 青木村の境内より来り、5町50間西に流れ宮川を得て南宇内村の界に入る。 廣50間余。 宮川(みやかわ)(鶴沼川(つるぬまかわ)) 俗に鶴沼川という。下同。 村西30間にあり。 西青津村の界より来り、北に流れまた東に折れ西に転じて日橋川に入る。 境内を経ること凡23町。広10間余。 原野 川原 村より戌亥(北西)の方22町にあり。 東西2町30間・南北20間余。 関梁 橋2 一は村西6町30間にあり。 長24間・幅7尺。 牛沢組塔寺村に往く道なり。大橋という。 一は新橋とて村より戌亥(北西)の方5町40間にあり。 長15間の土橋にて農事の便とす。 共に宮川に架す。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 伊勢宮 3座 稲荷神 2座 御稷神 2座 山神 伊豆神 地神 鎮座 不明 村の戌(西北西)の方大亀甲館の上にあり。 鳥居あり。当寺村兼子大和これを司る。 八幡宮 祭神 八幡宮? 勧請 不明 村西小亀甲館の上にあり。 鳥居あり。兼子大和が司なり。 寺院 浄泉寺 村中にあり。 清光山と號す。開基詳ならず。 旧は浄土の道場にて古より弥陀の像2軀を安じ、その中に『作者佐少辨法眼康暦二庚申年作畢』と記せしものありしという(康暦2年:1380年)。今はなし。その頃の草創にや。文明年中(1469年~1487年)薫山という僧中興してより曹洞宗となる。天正の頃(1573年~1593年)には本村の住人生江主膳が菩提所にて寄付の田地も多かりしとぞ。 会津郡南青木組恵倫寺の末山なり。 三尊弥陀を本尊とし客殿に安ず。 観音堂 大亀甲館の上にあり。 この堂ものとは青木村にありて大同中(806年~810年)の建立なりといい伝う(今も青木村の北2町計に堂淵という田地の字あり)。 慶長16年(1611年)の地震に堂宇頽廃しここに移すという。 会津三十三所順禮の一なり。 浄泉寺司なり。 鐘楼 観音堂の前にあり。 鐘径2尺1寸、『寛延三庚午歳正月別當清光山浄泉寺現住大瑞代願主照譽常光』と彫付けあり(寛延3年:1750年)。銘あれども煩しいければ略す。 古蹟 館跡 村中民居の地なり。 東西28間・南北54間余。 土居堀の形残り、東の方に的場と称する所あり。 天正の頃(1573年~1593年)葦名の臣生江氏の居りし跡なしという。 天正6年(1578年)2月野沢原町の住人大槻太郎左衛門某というもの葦名盛氏に叛し時、生江大膳・金上兵庫・松本左衛門・新国上総等と盛氏に従い柳津口に向い大槻が婿山内右近を打敗れりという事舊事雑考に見え。また天正17年(1589年)6月生江主膳磨上の戦に打負けて、青津に帰り一族郷民を集め己が館に楯籠んとしけるが、もとより分内狭く要害あさまなれば館の南2町計を隔て堀をほり廻し河水をせき入れ、北の方は日橋川の端まで1面に搔楯(かいだて)を搔続けて夥(おびただし)く結構しければ敵軍容易く押寄さりしが、幾程なくて義廣常州に没落し始終怺ふべき様なければ遂に降人に出。その後生江が拵えたる結構を見れば、堀の水は僅に膝を過ず搔楯はただ葦麻からを一重圍たる計なりしと四家合考にあり。 また村の戌(西北西)の方3町計に男壇・女壇とて壇2あり。 男壇は高3尺・周10間、女壇は高2尺・周5間。これを生江壇ともいう。男壇の上に古き石塔1基あれども文字なくその来由をしらず。 亀甲館2 村の戌(西北西)の方にあるを大亀甲館といい、高3丈・周100間。上に観音堂及び稲荷の祠あり。 ここより南40間にあるを小亀甲館といい、甲1丈5尺・周60間。上に八幡宮を勧請す。 何れの時何人の築けることを知らず。地形各亀甲に似たるゆえ名けしとぞ。 林木蕃密にして近代の修築にあらず。 またこの村は川に近き所なれば、村民水災を患てこれを築くともいう。今も洪水あればここに上て災を免る。 旧家 生江勇八郎 この村の肝煎なり。 生江氏の遠孫なりとて世々生江氏の館跡に住し、先祖の武器刀槍の類を持伝うれどもその家系を詳にせず。また古文書2通あり。その文如左(※略)。 Google Map稲荷神社(亀ケ森古墳) 八幡神社(鎮守森古墳) 清光山浄泉禅寺 清光山 浄泉寺(青津観音堂) 蛇足。 会津風土記の時代、亀甲館は昔は誰かが住んでいたと思われていたようですが、実はお墓で、しかも東北地方で2番目の規模の前方後円墳でしたという話。
https://w.atwiki.jp/shinmegamitensei1/pages/195.html
トップ|基本データ|悪魔データ|ダンジョン|シナリオ 池袋 《IKEBUKURO》 明治36年(1903)、山手線池袋駅が開設されてから駅を中心に急速に人口が増加した街である。背後には広大な武蔵野を控え、川越・寄居方面の東武東上線、練馬・豊島方面の西武池袋線は池袋駅に集中し、関東大震災以後はこれらの沿線の住宅地化が進み、新宿・渋谷と並んで山の手の一大歓楽街として急速に発展した。 しかし199X年の東京大破壊により池袋は壊滅的状況に陥っている。早稲田・学習院・立教といった大学のキャンパスが消し飛んだばかりでなく、護国寺や鬼子母神といった寺院も消滅してしまった。かつて賑わいを見せた街の面影は微塵も残っていない。 ■池袋地下道 池袋・銀座・六本木を結ぶ大地下道。公共交通手段が壊滅状態である東京において、この地下道は大きな役割を持つ。なお、ある条件を満たすと池袋が復興して新たなビルが建つ。詳しい情報は基本データページの『復興アイテムについて』を参照のこと。 ■スガモプリズン サンシャインシティは昭和53年(1978)、東京拘置所跡に池袋副都心最開発事業として建てられた。高さ240メートル、60階のオフィスタワーである。そのサンシャインシティが、長き時を経て再び本来の姿、つまり世界大戦後スガモプリズンと呼ばれた戦犯収容所に戻った。そこはかつて、東条英機らが処刑された処刑場でもある。現在は天魔ヤマによる裁判が毎夜おこなわれているらしい。 ■毘沙門天 東京を守護する四天王のひとり、毘沙門天が封印されている館。位置的には巣鴨のとげぬき地蔵にあたり、六義園の毘沙門天の館とつながっている。この毘沙門天の館を経由することで、上野方面に足を伸ばすことが可能だ。 ■学習院 明治10年(1877)公卿の子弟を教育する学習院が東京に設けられ、公卿のほか華族の子弟も教育した。乃木希典(のぎまれすけ)院長の時代の明治41年、四ツ谷から現在地に移転している。大学院・大学・男子高等科・同中等科・幼稚園をあわせ、皇族も含む学生が学んでいたが、大破壊により現在は廃墟と化してしまった。 ■早稲田大学 明治15年(1882)に大隈重信が自邸の近くに東京専門学校を小野梓・高田早苗の協力で創設した。明治35年早稲田大学と改称、大学都市を形成していたが、現在は水没している。 ■雑司ヶ谷鬼子母神 日蓮宗法明寺の境内のひとつ。鬼子母堂は寛文6年(1666)、広島藩松平藩主夫人の寄進であるという。法明寺は江戸中期から池上の本門寺(大田区)から堀の内の妙法寺(杉並区)という日蓮宗巨刹(きょさつ。大きな寺を指す)の巡拝コースとして賑わっていた。境内のケヤキと銀杏の古木は都の天然記念物だが、ICBMの爆風と大気・土壌汚染により、これらの植物はすべて枯死している。 出現悪魔 LV27 ガイア教徒破戒僧 LV36 妖精ホブゴブリン LV38 魔獣オルトロス LV40 妖精仙狸 LV40 魔獣ラクチャンゴ LV40 ガイア教徒鬼女郎 LV47 地霊ジャイアント LV51 堕天使マルコキアス LV29 悪霊ファントム LV42 凶鳥グルル LV47 妖獣マンティコア LV51 邪龍バジリスク 上へ
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/409.html
陸奥国 会津郡 南青木組 面川沢(おもかはさは)村 大日本地誌大系第31巻 75コマ目 府城の東南に当り行程2里12町。 家数8軒、東西30間・南北20間。 山間に住し、北は渓流に傍(そ)ふ。 東12町余花坂村の山に界ふ。 西1町余面川村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り14町。 南8町上雨屋村の山に界ふ。 北は村際にて面川村に界ひ館沢川を限りとす。 山川 二重平山(にちゆうたひらやま) 村より辰巳(南東)の方にあり。 高30丈余。 南は南原村に界ひ、東は花坂村に属す。 館沢川(たてのさはかわ) 村北にあり。 面川村の境内より来り西に流るること30町計、面川村の界に入り沢川という。 寺院 阿弥陀堂 村中にあり。 草創の年代詳ならず。 村民の持なり。 Google Map二重平 大山祇神社と柴五郎碑 余談。 村東に花坂村の山とありまますが、花坂村はそっちにありません。 方角的には大巣子村ですが距離がかなりあります。 この辺り元々記述に誤りがあるのかもしれません。
https://w.atwiki.jp/haruka17/pages/690.html
R団の部屋 ホウザン寺を焼き討ちにし、任務を終えたはずのバーン♪、ガゼル♪。しかし、立ち去ろうとした途端に謎の声がホウザン寺の境内に響き渡った。 ?????「我が山を荒らす者は誰だ・・・神聖なるホウザン寺に火を放った輩は、誰だ・・・」 プロミネンス「何だ!?」「どこかから声がするぞ!?」 ダイヤモンドダスト「どこから聞こえているんだ!?」「わからない・・・!」 ガゼル♪「バカな・・・この地の神であるトリイマエは既に戦闘不能のはず・・・!」 バーン♪「どこにいやがる、隠れてねぇで出てきやがれ!!!」 ?????「私はどこにも隠れてなどいない・・・」 ガゼル♪「ならばどこにいると言うのだ!?」 ?????「私は貴様らの周りにいる・・・」 バーン♪「周りだと!?」 プロミネンス「どこにいるんだ?」 ダイヤモンドダスト「どこにもいないぞ・・・?」 ガゼル♪「神を倒した我々神滅隊エイリアに恐れをなして姿を現せないか、臆病者め!」 ?????「恐れをなしている・・・?何故貴様らにこの私が恐れをなさねばならぬのだ。私は貴様らの周りにいると言っているであろう・・・」 突如、ホウザン寺の境内にあるあらゆる物が鈍く、そして青く光りだした。 プロミネンス「な、何だ!?」 ダイヤモンドダスト「青く光ってるぞ!?」 バーン♪「一体、何が起きてるっていうんだ!?」 ガゼル♪「私が知るものか・・・!!」 トリイマエ「・・・・この光・・・・ま、まさか・・・・」 あらゆる所に発生した青い光が玉の形となり、ゆっくりと丸い形へと集まっていく。 青い光が完全に丸くなった瞬間、中から1匹のアグノムが姿を現した。 バーン♪「な、何なんだコイツ!?」 ガゼル♪「アグノム・・・?あんな奴ウオッカ♪が送ってきたデータにはいなかったが・・・?」 ?????「・・・・・・・。」 プロミネンス「一体何だというんだ!?」 ダイヤモンドダスト「一体何者・・・?」 バーン♪「お前は誰だ!?」 ?????「貴様らに名乗るまでも無い・・・」 ガゼル♪「名乗るまでも無い・・・か。ならば、倒すのみ!!作戦ザ・カオス続行!!奴を撃滅せよ!!」 プロミネンス「よし来た!!!」 ダイヤモンドダスト「神滅隊エイリアの力を思い知って、泣いて帰れ!!」 バーン♪「エムリットとアグノム、伝説のポケモン2匹を倒して凱旋帰還と行くか!!きっとはるか♪様もお喜びになるぜ!!」 神滅隊エイリアの面々が突如現れた謎のアグノムに一斉に飛び掛っていく。 ?????「私も舐められた物だ・・・。ホウザン寺の鳥居の守護神に過ぎぬトリイマエを倒しただけでいい気になられるとは」 バーン♪「何!?」 ガゼル♪「それはどういう意味だ!?」 ?????「こういう意味だ・・・」 突如、謎のアグノムが目を見開いた。 ?????「吹き飛べ、神に背く愚か者共!!!」 バーン♪「何がした・・・!!?ぐああああああ!!!」 ガゼル♪「な、バカな・・・!!?」 何と、謎のアグノムが目を見開いた途端、神滅隊エイリアの面々が、部隊のリーダーであるバーン♪、ガゼル♪共々吹き飛ばされてしまった。 ?????「このクズどもが!!スケールが違うわ!!」 バーン♪、ガゼル♪はこの時点では知らなかった。このアグノムが、霊峰イコマ山の山神、IKOMA神であることを・・・。 作者は緑神龍ディルガベジーダにひねり潰されました。この後の模様はお姫様抱っこへ、バーン♪とガゼル♪の行方はグラン♪、ついに動く?へ。
https://w.atwiki.jp/gosyutan/pages/168.html
石川県中能登町能登部下の高野山真言宗 鷹王山長楽寺(たかおうざん ちょうらくじ)をお訪ねしました。 北陸三十六不動霊場の第1番札所です。 北陸三十三観音霊場の第21番札所、ならびに能登国三十三観音霊場の第19番札所です。 境内小堂、正法山真福院(しょうほうざん しんぷくいん)の寺号を添えていただきました。金沢三十三観音霊場の番外第1番札所です。真福院は金沢市芳斉2-14-21に位置していましたが2017年4月に親寺長楽寺山内に移転。御本尊観音菩薩は下記の通り火災で失われた長楽寺の代理御本尊として迎えられたとのこと。 2016年2月13日未明、失火により山門を除き本堂と庫裡が全焼したとのこと。御本尊である平安後期作の胎蔵大日如来像、鎌倉時代作の弘法大師坐像など仏像、仏具、仏画計15点からなる町指定文化財「石動山下山資料等一括」も消失。痛ましく悲しく、ご住職ご寺族さま、檀家ご信徒さま、地域の皆様の落胆悲哀いかばかりか察するに余りあり、復興を心より念じております。 所在地:石川県鹿島郡中能登町能登部下106甲