約 5,619 件
https://w.atwiki.jp/go-syuin/pages/40.html
知多郡南知多町 神社:1社拝受済 神社名称 印刷 鎮座地 拝受日 備考 羽豆神社 ○ 師崎鳥東58-3 平成28年8月22日 *無人。初穂料は賽銭箱の中へ。 豊橋市 神社:4社拝受済 神社名称 直書 鎮座地 拝受日 備考 羽田八幡宮 ○ 花田町斎藤54 平成30年9月16日 白山比咩神社 ○ 広小路3-82 平成30年9月16日 吉田天満宮 ○ 広小路3-82 平成30年9月16日 *白山比咩神社の境内社。白山比咩神社で拝受可。 牟呂八幡宮 ○ 牟呂町郷社1 平成30年9月16日 刈谷市 神社:2社拝受済 神社名称 直書 鎮座地 拝受日 備考 野田八幡宮 ○ 野田町東屋敷62 平成30年4月29日 毎日午前中のみの対応。 市原稲荷神社 ○ 司町8-52 平成30年4月29日 本刈谷神社 天王町4-9 未拝受 *毎月第1・第3土曜日の午前7時半~9時半と祭事開催日のみ対応とのこと。 知多郡美浜町 曹洞宗寺院:1寺拝受済 寺院名称 直書 霊場 所在地 拝受日 備考 良参寺 ○ ○ 小野浦清水18 平成30年8月6日
https://w.atwiki.jp/wiki3_shino/pages/82.html
#blognavi 昨日で4年間バイトした先が解散に近い形となり、5月から親会社へと移ることになった。 所詮はバイトだからいつでも他へ移れるが、そこは人との繋がりで仕事を得たきたのだから、自分勝手には行かない。信義にもとることはしてはならないのだ。 だが、親会社での仕事はどうにも窮屈だし、組織が大きいだけにどこは冷淡なところがあって明るく元気に仕事をしたい私としては不満がある。 ひとりひとりと話すと全く問題無いのに、それが仕事となると融通が利かないというのか、何事もマニュアル通りにしか事を運べないというのか、歯がゆいことが多い。 アヤの物語りは進んでいない。 アヤはあれ以来行方不明となっている。神社の石畳の境内を抜けて行ったきり現れない。砂丘の上に建つその神社から海は近い。松林の中を降りて行けば砂浜の向こうに島影を横たえた海が広がる。 アヤはこの海峡を渡ったのだったか… カテゴリ [日記] - trackback() - 2007年04月28日 10 00 48 #blognavi
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/56.html
権現塚塁(ごんげんづかるい) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)広野字権現塚 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状八葉寺、墓地、山林 概要 権現塚塁は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。 歴史 築城年代、築城者、館主とも一切不明。 現状・感想 「まほろん」文化財データベースの記載を見て訪問しましたが、この周辺で文化財と言えば冬木沢八葉寺で決まりです。その八葉寺東側の丘陵、現在墓地に転用されている付近が塁跡の様です。しかし八葉寺境内には当然八葉寺に関する案内がほとんど、磐梯、猪苗代付近から移された中世の碑などはありますが、この権現塚塁に関するものは一切ありません。また『日本城郭大系』『福島県の中世城館跡』はもちろん、地元史談会発行の会誌にすら記載が無く、残念ながら詳細は不明です。 まあ単純に、八葉寺阿弥陀堂を見るだけでも訪問の価値はあるかと思いますけどね(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/30.html
陸奥国 会津郡 楢原組 桑取火(くわとうひ)村 大日本地誌大系第31巻 98コマ目 府城の南に当り行程8里。 家数12軒、東西1町・南北30間。 山中に住し東は桑取火川に傍(そ)ふ。 東10町計安張村の山界に至る。その村まで7町。 西18町磯上村の山に界ふ。 南12町磯上村の界に至る。その村まで16町。 北18町計桜山・中倉両村の山に界ふ。 山川 立岩山(たていはやま) 村西2町計にあり。 西は磯山村に連なる。 雑樹多し。 戸石川 村南12町にあり。 磯上村の境内より来り、東に流るること4町安張村の界に入る。 桑取火川 村東にあり。 源は村北の山中より出て、南に流るること1里12町安張村の界に入る。 神社 乙女神社 祭神 不明 創設 不明 村西30間にあり。 祭神及び鎮座の年月詳ならず。 鳥居あり。水抜村星河内これを司る。 Google Map八乙女神社 かたくりの里 桑取火 乙女神社(会津キリシタン研究所) 桑取火のカタクリ(下郷町)
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/6080.html
502: 635 :2020/02/21(金) 07 28 38 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 大体フロム脳とカワミン脳とコーエー脳のせい 銀河連合日本×神崎島 ネタ 民俗学者が見た神崎島―民俗学者のメモ― 神崎八幡浅間神社 天の比叡山、常世の富士の異名持つ天叡山を御神体としその山麓及び山頂に鎮座する神社。 神崎島における富士信仰の中心であり神崎島の開祖豊鍬入姫命を島へと流した此花咲耶姫命を祭神として祀っている。 神社の成立は古く祖豊鍬入姫命が獣から身を守る為に咲耶姫命を祀った小さな社を立て、その前で火鑽した忌火で周囲を照らすことで難を逃れたという神話がありこれが浅間八幡神社の始まりとされている。 それに因み島では浅間八幡神社の忌火は特に神聖な火とされ様々な神事に使用され、一説にはこの忌火には夜海濡れを退けるとの言い伝えも存在する。 なお祖豊鍬入姫命が火鑽をした場、最初の火の炉は長年の祭祀により周囲は大量の灰で覆われ、祭祀以外での立ち入りが制限されている。 宮司は代々神崎島の有力な氏族である浅間氏の当主が務めている。 浅間八幡神社では神聖な火である此花咲耶姫命の忌火を守ることが特に 大事な仕事とされ代々浅間氏の女性が専属の巫女として火防女の名で呼ばれている。 神社の縁起によれば浅間氏は豊鍬入姫命の兄弟、別の巖長姫の血筋を祖に持つとされている。 その血筋もまた此花咲耶姫命により島へと流され豊鍬入姫命と出会い社を守ることになったそうだ。 またその血筋故に提督を輩出する神崎氏とも関連が深く嫁入り、婿入りが良く行われている。 浅間氏は桓武平氏の多い島内でも珍しい清和源氏の流れを組む氏族でもあり浅間八幡の名にもその影響が見て取れる。 縁起によれば清和源氏の血の祖、それはかつて伊豆大島へと流された鎮西八郎為朝、源為朝である。 為朝の血が浅間氏に入った経緯であるが縁起よれば、為朝が単身琉球から伊豆大島へと渡る途中に時化で流され島へと漂着した。 そして浅間社に保護されその後、浅間氏の女性と結ばれたそうである。 その後色々あって為朝は島を去ることとなり、伊豆大島へと渡り生涯を終えている。 源為朝といえば一矢で鎧を着た人間二人を射抜いた、一矢で船を沈めたなど弓の腕前が有名であるが浅間氏にもその血が流れていることを示す様に 今代の火防女も弓の名手であり艦艇に使用されている鋼鉄を射抜く程の大弓を扱うとの話もある程である。 また古くからの有力氏族である浅間氏は神崎島の産業にも深く関わっており特に神崎島の通信関連事業ではトップシェアを誇る。 503: 635 :2020/02/21(金) 07 29 36 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 洩岩神社 茂那須市の北、洩岩高地の一部を神域とする諏訪系民間信仰の流れをくむ神社。 異界への境が多い神崎島ではその境を守護する塞の神、道祖神への信仰が盛んであり神崎島でのそれらへの信仰を取りまとめている神社でもある。 代々宮司を務める洩岩氏の系譜故諏訪系に属しているが主祭神は建御名方神ではなく夜海門大神(黄泉戸大神)を祀るという極めて特異な存在だ。 そして諏訪大社に伝わる大祝の伝承の影響か神社の神職は全てかつての大戦時に洋の東西を問わず神の内にこの世を去った童子、童女ばかりである。 実際に宮司を務める洩岩氏の現当主も実際の年齢は不明であるが金髪の幼い童女の姿をしている。 諏訪洩岩神社は高地麓の洩岩神社、高地頂上に存在する山頂湖湖岸の洩岩奥社、そして神域各地に存在する境内社から構成される。 高地麓の神域には多くの巨木を有する広大な針葉樹の原生林が広がる。 この針葉樹林帯は神崎島でも特に時間変動が激しい地帯で時間単位で景色が変わり、妖精が作り上げた神社へ続く参道以外を通ることは自殺行為である。 それ故にこの森は帰不の森(かえらずのもり)と呼ばれている。 境内社の一つ人形(ひとがた)神社において筆者の曾祖母の姉、曾祖伯母が巫女を務めている。 この人形神社は洩岩高地中腹と山頂にそれぞれ社を構え境内にはたくさんの人形に溢れている。 曾祖伯母の話では亡くなった子供や水子、現世より島に流れ着いた子供の遺体の供養のために建立されたという話であり、 その言葉通りか付近には水難事故で亡くなった子供の霊とも言われる深海棲艦であるくちくいきゅうが大量に生息している。 現在では神崎島を訪れる子供を失った自衛隊や政府関係者などが供養の為に度々人形を納めている。 変わった所では神崎島に滞在する米軍人などが水子供養に訪れ、その後洩岩神社の崇敬会や氏子会に入るなど姿が見受けられる。 神社の御神体は洩岩高地そのものであり、高地が夜海門大神だという伝承が存在する。 その下には夜海ノ海に存在するものより巨大な夜海への門、大夜海門が存在するという。 それ故、山頂には草木が生えず、山頂の湖の一部には夜海が湧き出す箇所があるのだとか。 しかしながらこの大夜海門に関する伝承は驚く程少ない、恐らくは門そのものが忌むべき存在とされ伝承することも禁忌とされてきたのだろう。 なお洩岩神社では最近洩岩氏現当主が呻き声を上げる姿を描いた絵馬が大量に奉納され問題視されている。 504: 635スマホ :2020/02/21(金) 07 39 10 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 以上になります。 転載はご自由にどうぞ。 神崎富士には山麓に他に天台宗の寺とかあります。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/795.html
陸奥国 大沼郡 野沢組 利田(かかた)村 大日本地誌大系第33巻 170コマ目 もと加賀田に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改む。 府城の西北に当り行程6里24町。 家数9軒、東西1町14間・南北50間。 北は揚川に近く三方は山廻れり。 東6町11間漆窪村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り11町40間余。 西1町48間尾登村の山界に至る。その村は申(西南西)に当り17町40間。 南8町漆窪村の山に界ふ。 北5町耶麻郡大谷組利田村に界ひ揚川を限りとす。 端村 合瀬(あはせ) 本村より寅(東北東)の方3町20間余にあり。 家数10軒、東西1町3間・南北48間。 北は揚川に臨み三方は田圃(たんぼ)なり。 山川 尾登峠(おのぼりとうげ) 村より未(南南西)の方8町にあり。 登ること3町尾登村と峯を界ふ。 揚川 端村合瀬の北20間にあり。 漆窪村の境内より来り、申(西南西)の方に流るること28町余尾登村の界に入る。 慶長16年(1611年)8月21日地大いに震い、大黒岩(大谷組利田村の境内にあり)崩れて川を塞ぎ1丈余の瀑布となり(或いは慶長の地震に岩割れて元和6年(1620年)7月の霖雨(りんう)に水漲り件の岩頽(くず)れこの瀑布となりしという)魚升ることを得ず。鱒鮭の類滝下に集れるを土人さて網をもてこれを捕る。この村にては川岸より縄を下てこれに係り、大谷組利田村にては北岸の岩にそふて漁せしという。今は滝の形なくただ急湍(きゅうたん)なり(利田村の条下を併せ見るべし)。 またこの川の岸に奇岩あり。水面より高こと数尺。中に3間計の坎(あな)ありて水湛ふ。この水炎旱にも涸れることなし。土人釜脇(かまのわき)と称し旱歳には雨を祈る所とす。 清水 村中にあり。 周4間、産清水(うふしみず)という。女子の初て生るる時にこの水をそそげば後に難産なしという。 水利 堤 村南7町にあり。 周1町、とうきん林(*1)堤という。 延享2年(1745年)に築く。 神社 大澤神社 祭神 不明 相殿 山神 勧請 不明 村北4町にあり。 祭神及び勸請の初詳ならず。 鳥居あり。野沢本町伊藤対馬が司なり。 墳墓 塚 村西1町20間にあり。 五輪、高3尺余。 この村の者京夫にさされて上京し小町がもとに渡夫を勤め3年にして帰郷しぬ。 後星霜を経て1老女来り宿を假んといい、これを見れば小町が老衰せしなり。驚いて家に請し互いに昔の物語をして袖をしぼりぬ。かくて数日滞留しけるに小町病に染て身まかりしが、その骸を葬りし所なりそて里人小町塚と称すれどもかかる上古のものとは見えず。 このほとりより文字ある石を得ることありといえば1石1字の供養塚なるも知るえからず。 Google Map利田地区 小野小町塚 小野小町塚について小野小町塚(喜多方市) 尾登峠 利田村から尾登村へはいくつかルートがあるようですが、峠というからには山越ありきということで下記の道を想定してみました。すでに鉄道が整備されたあとなので当時の道とは違うと思いますが。 ※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/166.html
陸奥国 会津郡 熨斗戸組 八総(やそう)村 大日本地誌大系第31巻 114コマ目 府城の西南に当り行程17里5町。 家数18軒、東西1町40間・南北30間。 山間に住し南は立下川に臨む。 東1里17町本郡河島組滝原村に界ひ中山峠を限りとす。その村まで3里。 西4町30間森戸村の界に至る。その村まで8町。 南4間井桁村に界ひ岩下川を限りとす。その村まで2町。 北18町森戸村の山に界ふ。 山川 中山峠(なかやまとうげ) 村東により登ること1里17町にして頂に至る。 古木陰森(いんしん)として幽邃(ゆうすい)なり。 ここを越て河島組の諸村に往く。 本郡河島組滝原村と峯を界ふ。 岩下川(いはしたかわ) 村南にあり。 井桁村の境内より来り、西に流るること4町余、森戸村の界に入り立岩川となる。 広10間。 関梁 前橋(まへのはし) 村南岩下川に架す。 長10間。 隣村の通路、丸木橋なり。 神社 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 勧請 不明 村東4町計にあり。 鳥居あり。井桁村阿久津和泉が司なり。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 鎮座 不明 伊勢宮と同じ処に祠る。 村民の持なり。 三島神社 祭神 三島神? 勧請 不明 村北1町にあり。 鳥居あり。阿久津和泉が司なり。 日光神社 祭神 二荒山の神 同下 鎮座 不明 三島神社の東30間にあり。 鳥居あり。阿久津和泉が司なり。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 稲荷神 境内にあり。 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 村東1町余にあり。 鳥居あり。村民の持なり 山神社 祭神 山神? 草創 不明 村東1里5町山中にあり。 村民の持なり。 古蹟 竹杖原(たけつえはら) 村東10町余、中山峠に登る道にあり。 東西20町余・南北9町余。 昔、高倉宮ここを過ぎ路次の梗渋(こうじゅう)(*1)に苦しみ疲れたまひしかば、村翁あはれみまゐらせて道の傍なる小柴栗とて枝間に実をはさめる樹をきり竹杖に代てすすめしが、宮怪(あやし)みてその名を尋(たずね)給うに小柴栗と云いより答えれば、『陸奥の 南の山の小柴栗 大宮入は 知らで過ぎゆく』と詠したまひしとぞ。夫(それ)より中山峠を越え石に踞(かが)みして憩ひたまひしとて土人腰掛石と称せしが、ここを詳にせずという。今里俗の小柴栗と称するもの往々この邊の山中にあり。子細に榛(はしばみ)実に似て小刺あり。尋常の「しばぐり」とは別種なり。姑(しばら)く土人の伝えるままに記す。 Google Map八総地区 中山峠 大皇神社 鳥居 高杖原 Goo地図二荒山神社(日光神社) 会津高原たかつえが創造しい。(舘岩村要覧) 会津高原 たかつえの遊び方(PDF)(前沢曲家集落 周辺の情報) 補足:日光二荒山神社について(Wikipediaより) 日光三山を神体山として祀る神社。 祭神 男体山(二荒山) 大己貴命(おおなむちのみこと) 女峯山 田心姫命(たごりひめのみこと) 太郎山 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 山を神として祀る場合は、三山がセットになる事が多いです(出羽三山等)。 また会津郡弥五島組白岩村の日光神社の祭神に大己貴命との記載もあり、会津風土記の日光神は大己貴命の事を指しているものと思われます。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/307.html
陸奥国 会津郡 高久組 幕内(まくのうち)村 大日本地誌大系第31巻 30コマ目 昔三浦義連この地に下向のとき油幕(ゆばく)(*1)を打て居りし処故(ゆえ)村名とせしという。 旧は西の方10町計にあり。天文中(1532年~1555年)の洪水に居を移せしがその後も数度の水災ありしかば、寛永10年(1633年)再び今の地に移しき。 府城の西に当り行程27町余。 家数56軒、東西1町23間・南北1町37間。 四方田圃(たんぼ)にて西は鶴沼川に近し。 東32間・南2町47間・北は村際にて、共に西柳原村に界ふ。その村は丑(北北東)に当り5町余。 西9町42間本郡橋爪組下米塚村の界に至る。その村まで15町。 また戌(西北西)の方8町42間本郡中荒井組二日町村の界に至る。その村まで14町40間余。 亥(北北西)の方7町5間鍛治屋敷村の界に至る。その村まで8町50間余。 もと片原町とて寛永13年(1636年)に開きし端村あり。元文2年(1737年)府下西黒川分に属す。 山川 鶴沼川 村西3町にあり。 本郡南青木組飯寺村の境内より来り、北に流るること10町余鍛治屋敷村の界に入る。 応湖川 村の寅(東北東)の方5町計にあり。 小黒川分の界より来り、北に流るること1町計西柳原村の境内に入る。 水利 飯寺堰 飯寺村の方より来り田地に灌ぎ深川村の方に注ぐ。 鍛治屋敷堰 飯寺村の方より来り鍛治屋敷村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 稲荷神 諏訪神 鎮座 建久2年(1191年)~? 村西1町50間余にあり。 縁起に、葦名氏の先祖紀州(*2)牟婁郡より勧請し、尊崇(そんすう)他に異にして社頭も壮大なりしが、天文中(1532年~1555年)洪水のために社屋漂没し今の地に移せり(旧地を詳にせず。蒲生氏その地の木材を伐て府城の守を築けりといい伝う)。 古木繁茂(はんも)して物ふりたり。 鳥居あり。郭内諏訪神社の神職佐久上総が司なり 寺院 真浄寺 村中にあり。 浄土宗本州岩城専称寺の末山なり。 相伝う。義連初め假にこの村に住せしが、後に今の飯寺村の館に移住し家臣仁科太郎光盛という者をしてここに住らしめしが、光盛そのまま私の居にすることを憚(はばか)り、良智という僧をして郭地に一宇を建立せしめ佛恩寺新城寺と號し後に今の字に改めき。 天文中(1532年~1555年)水災に院宇漂亡せしを、慶長中(1596年~1615年)教残という僧中興せり。 その後元和(1615年~1624年)・寛永(1624年~1645年)の際数洪水の難あり、因て今の地に移せり(旧地はここより西3町余にあり)。 本尊弥陀客殿に安ず。立像長2尺6寸、恵心作という。 また地蔵立像1軀あり。長2尺5寸、運慶作という。その像旧はこの村の端村中島という処に安置す。天文中の洪水に村と共に本村の南に移し、中島を改めて上幕内と称し高蔵院という密宗の一寺を創めこの像を安せしが、元和中の洪水に漂亡せり。因て当寺に移せりと縁起に見ゆ。然れども土人端村中島・上幕内等の称あることを伝えず。 Google Map幕内 熊野神社 新城寺 Wikipedia佐原義連(三浦義連)
https://w.atwiki.jp/teamhotdog_nfsw/pages/25.html
編集しちゃっていいよとか言いながら結局自分でやってしまうワタシであった。 ↑超絶助かりまっせ!!w(σ゚∀゚)σイェア(@ぺえすけ)※画像をクリックすると拡大します マミさんおるのは気にしちゃあかん。 痛車掘り♂ 客待ちタクスィ~↑ in ロックポート タクスィ~↑プール in 第二集合地点 客待ちタクスィ~↑ in 路上 いつもの大学 最後はビシっとHOT♂DOG。皆さんお疲れ様でした (・。・)。oO (byあぷりで) ここからは少しだけぺえすけが投稿しておきます(^^ゞ 若干THDじゃない車も居ますが.......^^; 今回用のネタ車である、TENGAで~すww なんでか知らないけど、急にBMWが並びだしたので、流れに乗って並べたり(-_-) 本題の、タクスィ~↑のお披露目ということで、遊園地にて集客中~ 第2集会所として使われているところは、完璧にTHDタクスィ~↑が占拠した! コンサート終了を見計らって、集客をするTHD勢 最後は自由に大学の境内にてドリフトして終わりました\(^o^)/
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/161.html
別府館(べっぷだて) 所在地喜多方市塩川町(旧耶麻郡塩川町)小符根字別府 別称 築城年 築城者佐野氏か 城主変遷佐野氏… 廃城年 現状熊野神社、河川敷 概要 別府館は福島県喜多方市(旧耶麻郡塩川町)に所在した城館跡である。 歴史 築城年代、築城者など不明、「福島県の中世城館跡」に佐野平内左エ門が住す、別府(別符)は荘園関連地名、とのみ記載がある。 現状・感想 神社が館跡みたいだ、じゃあ周囲に遺構が遺ってるかも…?と期待して行ってみたら、宅地と姥堂川堤防に囲まれた一角にポツンと神社が鎮座ましましていました。これってすげぇ土塁だなwと思うくらい近くに堤防が築かれており、すぐ姥堂川が流れています。 境内で枯葉を焼いていたおじさんにお話を伺ったら、やっぱり河川改修前の姥堂川の流路はかなり西側だった様です。昔は土塁なんかが見られたんですか~?なんて訊いてみたりしましたが、特に印象には残っていない様でした。神社自体も河川改修の際にかなり東側に移っているのかも知れません。 関連項目 福島県の城館一覧