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軍閥「張作霖」の兵力や装備は如何程の物だったのでしょうか 中国兵は、戦争前半はモーゼル銃,戦争後半はM1を使ってたって感じですかね? なんで日本の同盟国のドイツの銃を中国人が使ってるんすか? 日中戦争時の中国兵って弱いイメージがあるけれど、実際どうなんですか? 蒋介石は北支での停戦が成った後も、第二次上海事変を仕掛けて挑発し、ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど、何故こんな行動に出たの? 国民党軍は各国から援助を受けてたと聞きましたが、日本軍の装備の方が質,量ともに優れていたということなんでしょうか? 数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け、日本軍が一方的に攻め込めた理由は? 日中戦争の初期、中国軍機が台湾の日本軍基地を空襲したと聞いたことがあるが、詳しいこと分かりませんか? 中国軍が日本本土を空襲したって本当ですか? 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか? 日華事変時の、特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか? 中国戦線で、共産党軍兵士が日本兵あるいは国民党軍兵士の人肉を嗜好品として食べたという逸話は事実ですか? 国民党軍の装備について教えて。 中国って日本との戦争中に独自の兵器を生産していたのですか? 中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?日本の爆撃機が来ると警報してたんですか? 国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか? 第1次世界大戦後の戦間期の頃、ドイツと国民党の間には深い繋がりがありますが 大戦中の中国側の兵器供給元は何所なのでしょうか? 蒋介石は重慶を落とされたら、次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか? 軍閥「張作霖」の兵力や装備は如何程の物だったのでしょうか 海軍は河用砲艦くらいはあったかもしれませんが、英語の中国地名がよく判らんので割愛。 陸軍の戦車はルノーFTが1927年に配備されています。 他の装備は日本のモノを中心に雑多なものだったんじゃないか、と。 日本軍の輸出兵器スレにあったような気もしますが…。 航空兵力としては、これもフランス中心で、ポテ25A2"保貞"が少なくとも15機、 ドボアチーヌD.27C1戦闘機が数機、ユンカースK-53偵察機、K-43爆撃機が数機あったようです。 (34 眠い人 ◆ikaJHtf2) 中国兵は、戦争前半はモーゼル銃,戦争後半はM1を使ってたって感じですかね? モーゼル銃は日中戦争~太平洋戦争を通じて使われています。 米軍装備は供給されはしていますが、歴戦の師団は前線に出されることが 多く、それらはフォン=ゼークト将軍らの軍事顧問団によって育成されたため に、ドイツ式の武器体系から米軍式の武器体系に切り替えることが遅れました。 これら精鋭師団に関しては、戦争末期から戦後に掛けて改変が行われましたが、 米軍式装備への習熟度が足りず、為に国共内戦に戦力たり得ず、国民党軍が敗北した原因の一つとなっています。 米軍式装備を配備した師団は後方の師団でそれも精鋭ではありません。 (40 眠い人 ◆ikaJHtf2) なんで日本の同盟国のドイツの銃を中国人が使ってるんすか? 支那事変時にはまだ独は同盟国ぢゃないよ。 当時の国民党軍には独から軍事顧問が派遣されて居り、 独軍事顧問は独商社HAPROと癒着していたので、 HAPROは各種独製兵器を輸出して中国兵器市場に大きなシェアを誇っていた。 (40 402) 日中戦争時の中国兵って弱いイメージがあるけれど、実際どうなんですか? 士官学校が出来たてな上に、軍閥の跳梁跋扈や日本の侵略により、指揮官を急造せざるを得なかった。 その為、指揮官の能力の低さや損害からの回復能力に問題があったのが原因。 緒戦で一枚看板の精鋭部隊が壊滅した為、戦況が劣勢に陥っている間は、 訓練未了の弱兵、民兵を前線に出さざるを得なかった初期の状況が弱いイメージに繋がっているのだろう。 アメリカの支援の下、ちゃんと訓練をした米式軍隊は北部ビルマや末期の反攻に大いに活躍してる。 (350 658) 蒋介石は北支での停戦が成った後も、第二次上海事変を仕掛けて挑発し、ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど、何故こんな行動に出たの? 大軍を動員して補給出来て、日本軍を釣り出せるから。 当時の国民政府は軍閥の連合政権なので、どこでも戦えるわけじゃありません。 補給も御粗末なもので、南京以外では日本軍に立ち向かうための、戦力の集中が不可能。 日本人居留民という人質も選定理由になったでしょう。 (339 73) 何故蒋介石はこの時期を選び、そして何を勝利条件としたのでしょうか? 37年頃と言うと、日独防共協定が結ばれ日本も満州の騒動がタンクー停戦協定で停戦され一息ついたところですよね。 中国国民党も西安事件で統一戦線が築かれたとは言え、共産党の脅威も軍閥の不穏な動きもありました。 また目標ですが、日本軍と対峙するのは必然と長江下流域か北支か満州になるのでこの地域から日本軍を追い出すのは無謀に思います。 蒋介石は最大のライバルだった張作霖がいなくなったおかげで棚ぼた的に 中華民国のトップになったが、内部を完全に統率できていたわけでもなければ 支配する実力もなく、カリスマとしての魅力にも欠けていた(というか、彼には カリスマの要素がほとんどない)。 その為常に張作霖の息子の張学良に粛清されて蹴落とされる恐怖に怯えていた。 西安事件に乗じて(というか利用して)張学良を逆に粛清し蹴落としたのはいいが、 やはり張学良とその一派に常に逆転される可能性があった。 そんな状況なので、何としても自分が主導した軍事攻勢で大勝利を挙げ、 「さすが蒋介石だ明日の指導者はこの人で決まりだな」 と思わせる必要があったわけ。 (339 184) 国民党軍は各国から援助を受けてたと聞きましたが、日本軍の装備の方が質,量ともに優れていたということなんでしょうか? 国府軍は開戦初頭の上海決戦で精鋭部隊と教導部隊が壊滅してしまいました。 この手の損害は後から大きく響くのが通例で事実、そこから戦力を回復するのに時間が掛かってしまったからです。 援助も越南ルートが潰され、開戦と共にビルマルートも潰された為、援助経路は効率、量共に 最悪の空路のヒマラヤルートのみになってしまいました。 反攻が可能になったのはインパール作戦の勝利で米式陸軍が支那戦線で使用可能になったのと、 日本軍の弱体化、そして援助のビルマルートが回復したからです。 (333 515) 数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け、日本軍が一方的に攻め込めた理由は? 当時の中国は国民党と共産党で内戦中の上に、国民党は軍閥ごとに分かれて 全く統一勢力としての団結性がなかったので、「数の優位」がそもそも ほとんど成立してない。 更に兵隊はごく一部の部隊を除けばその辺から適当に集めたレベルの 烏合の衆だし、これで勝てなきゃウソだろう。 加えて、兵隊が烏合の衆なのに加えて下士官や将校も一部の人を除けば ちゃんとした軍人としての教育を受けてない素人ばっか。 外国人の軍事顧問がいないと最低限度の指揮統制も出来ないような軍閥の部隊も いたので正規軍である日本軍が勝てない理由はない。 マトモな部隊もいたけどね。 中華民国には士官学校があり、ちゃんと士官の養成は行なわれていた。 しかし Chiang Kai-shek s decision to pit all of his crack divisions to fight in Shanghai caused his elite units to suffer some sixty percent casualties in the three-month bloodbath. In one single blow, Chiang also lost some 10,000 of the 25,000 junior officers trained by the elite Central Military Academy between 1929 and 1937, in addition to some tens of thousands of potential military officers. Chiang Kai-shek s Central Army was never to recover from these devastating losses. 「国民党軍が失って苦しんだものは精鋭部隊の60%だけではなく ただ一度の戦闘により、 国民党軍がエリート養成のために、士官学校設立以来(1929~)教育してきた 25,000人の士官の内、実に約10,000人が失われることになり 蒋介石軍中核は、これら破滅的損害からけして立ち直ることはできなかった。」 ということなんだとか。 全軍の若手エリートの半数近い喪失なんて、ソ連の軍部粛清にも比肩する凄まじさ。 日本軍でいえば昭和20年8月15日に至るまで、ここまでの損害を受けた時期はないな。 第二次上海事変に全てをかけて、軍の中核戦力を悉く投じたのがあだになり たった一戦で蒋介石が建設してきた軍が実質的にほぼ壊滅したというのに均しかった。 (593 263-272) 日中戦争で日本と戦っていたのは主に蒋介石の率いる「中華民国」軍。 でも「中華民国」はほとんど近代国家としての体を為しておらず、実態は 「武装マフィアの集団」の寄り合い所帯だった(軍閥、というやつね)。 なので誰も蒋介石の元に団結して日本と戦いたいなんて思っておらず、 そんな軍閥を権謀術数で強制的に駆り集めてきて戦わせてたので、マトモな 軍事行動が不可能だった。 更に、蒋介石は実は張作霖(関東軍が暗殺した人ね)に比べて全然人望が無く、 中華民国の支配者という地位だって本来みんなが「正しい後継者」と思ってた 張作霖の息子を陰謀で蹴落として成り上がったにすぎない。 だから軍閥の支配者はみんな利権でなんとなく蒋介石を支持してただけで、 誰も真面目に戦いなどしなかった。 実際蒋介石は自分が立案した日本への「反攻作戦」を強引に通したのに実際の 攻勢主力に自分の軍を出し惜しみして他閥に押し付け、不利になったらさっさと 逃げたりしてる。 そんな為体なので日本への統合された徹底抗戦など望み様も無かった。 (321 574) 支那事変が始まる前、蒋介石はドイツの支援を受けて 多数のドイツ式装備を備えた師団や機械化部隊を含む直系軍を作り上げました。 さらに新しい軍隊建設の準備として教導総隊なる部隊も設立しました。 これは蒋介石の肝入りで、数千人すべてが新式のドイツ装備を与えられた、国府軍の最精鋭でした。 蒋介石はこの部隊を教導部隊とし、将来の下士官候補として各軍の標準化の基礎とするつもりでした。 ところが、この直系軍と教導総隊が上海から南京までの撤退、攻防戦でほぼ壊滅してしまいました。 日本軍も相応の打撃を受けているので、これらの部隊は実力は確かなものだったと思います。 この戦いで下士官や将校の人的資源が一気に消耗してしまいました。 更には日本がドイツと接近した為にドイツからの支援も途絶え、危機的状況になってしまいました。 その為、国府軍は米国の支援を受けるまで戦力を回復させる事が出来ず、ずるずると内陸に 撤退を繰り返す羽目になってしまいました。 そして日米戦が始まって米国の支援が本格化しましたが、 米軍にとっての支那戦線は日本軍を引き付けておけばそれでOKだったので援助の優先度は低くいものでした。 細々とした支援で戦線を維持するのがやっとで、日本軍が終盤に弱体化した頃にやっと攻勢が掛けられる様になるも、時既に遅しでした。 (321 599) 日中戦争の初期、中国軍機が台湾の日本軍基地を空襲したと聞いたことがあるが、詳しいこと分かりませんか? 中国軍所有のB-26爆撃機が、台北を爆撃しています。 (362 166) 中国的天空 という本に出ている可能性がある。 初期には上海事変などで、日本側が渡洋爆撃をしていたが、これに対して中国側は 迎撃を繰り返している。戦線が進むにつれて爆撃機、戦闘機ともに上海の飛行場などへ 進出していくのだけど。 (362 169) 昭和13年2月23日、台北近郊の松山・新竹の両飛行場に、1~2機の中国軍機による爆撃。 飛行場そのものには被害はなく、飛行場近郊の民家に数名の死傷者が出た。 中国軍の損害は無し。 (362 178) 中国軍が日本本土を空襲したって本当ですか? 昭和13年5月20日、中国空軍のマーチン139WC爆撃機(B-10の輸出型)が、熊本と宮崎一帯に大量の宣伝ビラをばらまいた。 5月30日にも熊本、宮崎、福岡上空に中国空軍機が侵入したらしいが、中国側には該当する記録が無く、日本側の誤認らしい。 (362 184) 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか? 日華事変の中国海空軍はしっかり存在します。 日清戦争でやられても、辛亥革命で国が引っ繰り返っても海軍の再建は途上ですが、 行われており、旧式ですが巡洋艦も装備していました。 但し、武漢の戦闘までに主力艦艇が失われ、以後は河用砲艦だけの存在になってしまっ ています。 空軍は宋美齢を司令官として当初はドイツ、次いで米国、更にソ連の機材を使って整備 されていました。 上海、南京や重慶で日本の陸海軍爆撃機隊が中国空軍に迎撃されて苦戦していますし、 日本海軍の旗艦出雲に爆撃を掛けたり、あまつさえ、本土爆撃までされています。 (316 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日華事変時の、特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください あと、ドイツは参謀を派遣したりしてますが武器の供与などあったのでしょうか? 戦闘機は米国製Curtiss Hawkシリーズ(後のP-36ではなく、複葉戦闘機)が主力です。 爆撃機は、Curtiss A-12、Chance Vought O2U/V-92C。 戦車は、Vickers6t戦車Mk.EとCarden Loidでしょうが、イタリアのC.V.33も装備しています。 ドイツの関与ですが、清朝時代から関係は深く、小銃や拳銃はMoselが主力ですし、高射砲は 後に日本軍がコピーした88mm高射砲、航空機ではHe-111A爆撃機、Hs-123襲撃機、Fw-44 練習機が売却され、戦車は1号戦車、装甲車としてSdKfz.221を購入しています。 (309 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか? 強かった。インパール作戦において北部ビルマで日本軍を壊滅に追い込んでいます。 装備は米軍のものだし、訓練は行き届いていて、武器弾薬は豊富だし、 衛生管理、兵站がしっかしている。そして何より給料がしっかり出るで(w ※通常の国府軍の場合は指揮官が給料をピンハネするので、雀の涙の給料でやる気無しだったそうです。 もっとも、最初のうちは蒋介石に自由な指揮権がない上に、 在中米軍司令官のスティルウェルと彼の仲が超絶に悪かったので、 1944年(昭和19年)10月にウェデマイヤーが後任にやって来るまで、 支那大陸では活躍させてもらえませんでした。 支那では自分の指揮下にない軍隊は敵とほぼ同意義なので。 (305 823) 中国戦線で、共産党軍兵士が日本兵あるいは国民党軍兵士の人肉を嗜好品として食べたという逸話は事実ですか? 中国のような東アジアの文化圏においては、仇の肉を食べることで 復讐の意思あるいは自己の野蛮さや強さを示す風習が伝統的にあります。 手近なところでは講談社発行 ユン・チアンの「ワイルド・スワン」において 国共内戦時に復讐のため敵の心臓を食べた兵士について短い記載はありますが これはあくまでも個人の復讐の意思としか解釈できません。 (296 202) 国民党軍の装備について教えて。 私が知ってる中にはドイツのKar98kやモーゼルC96、ZB26軽機関銃や青龍刀があるのですがこれ以外にもあったのでしょうか? 陸戦兵器なら、光人社から「もう一つの陸軍兵器史」と言う本が出ていますので、そちらに結構な著述があります。 絶版ですが、全体的にはデルタ出版の「中国大陸の機械化戦争と兵器」 航空機ならこれも絶版ですが、産経の「中国的天空」とか、民國の出版物で、「中国軍用飛机」シリーズとかを御覧 頂ければ宜しいか、と。 (296 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国って日本との戦争中に独自の兵器を生産していたのですか? 中国で建造された軍艦は存在します。寧海級軽巡洋艦の二番艦「平海」がそれです。 寧海級は中華民国海軍の艦艇として日本で設計が行われ、一番艦「寧海」は 播磨造船所で建造されましたが、「平海」は播磨造船所から派遣された行員の指導のもとに 江南(上海)造船廠で1931年7月起工され、32年9月に進水しました。 その後播磨造船所に回航され、儀装された後に36年6月竣工しています。 この後37年に揚子江沿岸で日本海軍航空隊機の爆撃を受けて浸水擱座しますが、 翌年日本軍が接収して浮揚し佐世保に回航し、しばらく放置された後に 43年末、呉工廠で海防艦への改造工事に着手して、44年11月に二等巡洋艦「八十島」として 再就役します。 その直後フィリピン方面に出動し、11月25日 ルソン島西岸にて米軍機の爆撃を受け沈没しました。 (101 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 自国の陸軍で使用するモーゼル小銃など小火器は国産化していました。 また、150mmの中迫撃砲、240mmの重迫撃砲も確認されています。 陸軍では上海工部局で1915年には急造ながら装甲車の製作を行なっています。 なお、ヴィッカース6t戦車が「国産戦車」として内外に喧伝されたこともありますが、 こちらは国産ではありません。 また、艦船でも小艦艇なら、上海の造船所で建造しています。 船体だけなら、軽巡洋艦(寧海)も建造しています。 航空機も海軍航空廠が上海にあり、1918年以来数種類の水上偵察機を製造 しています。 軽巡洋艦搭載用の偵察機は国産機です。 空軍では広東省に飛行機工場があり、AP-1と言う軽爆撃機を製造しています。 第2次世界大戦中は、Curtiss Hawk75(P-36の輸出簡易型)の製造を企画したほか、 Curtiss WrightのCW-21戦闘機の製造を行なおうとしていました。 (101 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?日本の爆撃機が来ると警報してたんですか? 初期の漢口、周家口、上海では結構不意打ちを食ったようですが、空襲警報網は 重慶遷都後に初歩的なものが作られていました。 物資の集積状況、基地の整備状況もこういった便衣隊の活動で、一目瞭然であり、 次の空襲時期はいつか、目標はどこかが予め推測可能でした。 後は、その目標近くに迎撃隊を進出させ、早朝から夜間にかけて、数機の哨戒飛行 を行うだけです。 また、日本軍の出撃についても、漢口、運城の基地を日本機が離陸するやいなや、 昼間ならばその機数を電信で重慶に報知され、途中の山々の頂には見張り員がおり、 日本機を認めると、烽火を上げます。 そのリレーで、日本機の来る方角を知らせるわけです。 ちなみに、電信と烽火併用でも、中攻、重爆の巡航速度では十分に迎撃基地に通報が 間に合いました。 こうして、少なくとも空襲の40分から1時間前には爆撃機による空襲警報が発令されます。 防空壕も当然ありますが、重慶爆撃の初期には完成していません。 ただ、重慶だけでなく、広東などにも大規模防空施設がありました。 それも、蛸壺方式のような日本に見られた簡易なものではなく、コンクリートで、 入り口に頑丈な鉄の扉を持つ本格的なものです。 重慶のは、1938年から工事が開始され、こうした大規模防空壕(公共用大隧道)を 始め、会社・個人でも防空壕を整備し、1940年には公私あわせて1,865カ所、収容 人員44万余のものになっていました。 但し、初期の頃は当時の人々は都市空襲というものに慣れていないので、避難も せず、中国空軍の迎撃戦闘を見物しようと、街路、岸辺、丘の上などに出て、空を 見上げていました。 これによる死者が結構あったようです。 後に、重慶爆撃が本格化し、外交使節のいる周辺以外に全ての爆弾が降るようになって からは、市民も防空壕に避難することが多かったのですが、1941年6月5日の空襲では、 3万人の市民が避難した大防空壕が酸欠状態となり、ほぼ全員が死亡しました(実際の 死者は992人とも言われる)。 ついでに、蛇足ながら、重慶爆撃の回数は1938年12月から1941年9月まで、 まず、12月22日に陸軍が22機で爆撃をしたのを皮切りに、1月7日、10日、15日と 四回に渡って約30機ずつ、ここまで陸軍が担当しましたが、被害は、1月15日に 死者119名、負傷116名を出しただけに終わります。 次いで海軍に担当が変わり、第二連合航空隊の中攻45機が、1939年5月3日に市街 東部と東南部、4日に27機が北部を爆撃し、3日に死者673名、負傷1,023名、4日は 死者1,973名、負傷3,318名で、これはゲルニカ爆撃を上回るものです。 その後、5月、6月に各2回、7月4回、8月6回、9月4回の出撃を行い、1940年5月から 陸海軍共同で、百一号作戦という重慶爆撃作戦を展開します。 陸軍は山西省運城から重爆54機、海軍は漢口から中攻122機を出撃して9月まで 断続的に空襲を行います。 この空襲では、海軍が延出撃日数32日、陸軍が9日、延攻撃機数は海軍が2,128機、 陸軍が322機、投下爆弾数は海軍が14,228発、1,558t、陸軍は1,344発、142tであり、 これにより、死者4,232名、負傷者5,411名、損壊家屋6,955棟の被害を出しました。 更に41年夏季にも空爆が繰り返され(前述の防空壕での死亡はこの時期のもの)、 死者は前年の6割程度になっています(但し、3万人死亡説が正しければ、この数は もっと増える)。 最後は、1943年8月で、陸軍が行っていますが、これは在華米軍の補強により効果無く 終わっています。 最終的に、被害は、中国側資料でも死者11,800人、家屋損壊17,600棟となっています。 (138 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか? 国民党軍は、一号戦車(ドイツ)以外にも仏・伊・英から機甲車両を購入しています。 もっとも初期に購入したのは仏製ルノーFT軽戦車でした。その他の車両は以下の通り。 ルノーNC軽戦車(仏) ルノー1931年式軽戦車(仏) ヴィッカース12トン戦車(英) ヴィッカース6トン軽戦車(英) ヴィッカース水陸両用戦車(英) カーデンロイド豆戦車(英) フィアット アンサルド軽戦車(伊) また、ソ連より供与されたT-26軽戦車も若干保有していました。 大戦後半になると、米軍から供与されたM3/M5軽戦車やM4中戦車なども保有しています。 (146 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 第1次世界大戦後の戦間期の頃、ドイツと国民党の間には深い繋がりがありますが 武器の販売、ライセンス生産、軍事顧問団の派遣etc…これはどういった経緯で出来上がったのでしょうか 第1次世界大戦前から清国とドイツ帝国との関係は非常に良好でした。 海軍の鎮遠とか…。 陸軍も精鋭軍の装備にはドイツの装備を導入していました(モーゼル小銃なんかもライセンス生産してたり)。 英国、フランス、ロシア、日本は領土的野心を剥き出しにしたのに対して、ドイツは比較的そう言った点では マシでしたし、ドイツは清国と同じく皇帝を頭に戴く帝政でしたので、関係をすんなり築き易かったところも ありました。 清帝国が倒れてからは、中華民国となった訳ですが、その軍は従来の軍閥を吸収した格好になっていました ので、ドイツとの繋がりが切れた訳ではありません。 また、第1次世界大戦後のドイツは市場を欲していました。 オスマントルコが倒れた後、一番市場的に進出しやすいのは中国ですし、Versailles体制の監視の目も届きに くいことから、中国との関係が強化されていった訳です。 (172 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ハプロ条約 http //ww1.m78.com/topix-2/hapro%20treaty.html (172 12) 大戦中の中国側の兵器供給元は何所なのでしょうか? 中国軍の装備は種々雑多で、国民党軍にしても、米国一辺倒ではなく、ソ連、ドイツ、日本の兵器も 満遍なく使用しています。 そもそも、中国軍の軍閥同士の戦いでは、戦闘前に互いの装備を一覧表にして交換し、それを見て その傘下に入るか、戦うかを決めるものですし…。 それから、清の時代から主力の小銃はドイツのKar-98bと同等の国産品、機関銃はチェコのZB26国産品、手榴弾も ドイツ型です。 南京に装備されていた高射砲は、ドイツ製のクルップ88mm、スウェーデン製75mmボフォース、英国製76mmヴィッ カースが用いられています。 迫撃砲は、ラインメタル製の81mm迫撃砲を主軸に、150mm、240mmの国産品が確認されています。 第2次世界大戦末期で、蒋介石直属軍の装備にやっと米軍装備が行き渡り、M1ガーランド小銃、M2重機関銃、バズー カ砲などが配備されています。 共産党については、ソ連製も多かったですし、日本からの鹵獲品、蒋介石軍から供給されていたものなど も使用しています。 (178 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 蒋介石は重慶を落とされたら、次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか? 蒋介石は雲南の昆明辺りまで退いて抗戦を続けるつもりだったらしい。 ただ雲南省政府主席の竜雲はどちらかと言うと和平派であり、汪兆銘のハノイ脱出を手助けしたりしている。 長期にわたって独立を維持してきた勢力なので、すんなりと蒋介石に協力するかは未知数。 1942年夏頃から重慶・成都を攻略する『五号作戦』が計画・準備されており、 南方での戦況の悪化がなければ、蒋介石の命運も危うかっただろう。 (229 294)
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帝國と内戦と 845 名前 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日 :2008/11/07(金) 23 31 02 神 ID ??? 816 わいるどうぃりぃさん いえ、皇太子殿下は、尼さんなのです。だから内戦終結後、教皇になれたわけで。 つまり、内戦で故郷を追われたり焼かれたりした平民をひたすら救援する活動に従事していたんですね。 まさしくマザーテレサとか、そういうレベルで。そういう背景があるから、後に教皇になるとき大衆が宗派を 超えて支持したわけです。 ▼ 847 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 31 52 ID ??? 845 内戦は、いつごろからいつごろまで行われたものなのでしょう? ▼ 897 名前: 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 41 40 神 ID ??? 847 ケイレイたん 副帝陛下が30歳の時から約17年間ですねい。ちなみに、内戦終結時で、皇太子殿下が25歳、シル子と塩沢兄が24歳、 辻谷次兄が22歳、カヲル君が18歳、というところです。冬間姉が副帝陛下より2歳年上ですねい。皇帝陛下の歳は不明です。 とりあえず、副帝陛下が20歳の時に皇帝が崩御し、皇帝の弟が一度即位したのですが、すぐ暗殺され、次の皇帝位を 巡って暗闘が続き、結果として内戦に至りました。 ▼ 907 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 44 07 ID ??? 897 なるほど。それで副帝の掌握する勢力が他をあっとうし、 かつ支持も受けて、帝国は安定、再建期に入った、と。 そのあとで「ちぇいす!」のような諸外国との関係を調整することになるわけですね。 ▼ 958 名前: 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 57 09 神 ID ??? 907 ケイレイたん です。基本的に副帝は、領土の拡大欲はないんですが、内戦中に散々ちょっかいを出してきた東方南部諸国の 連中を許していないんですね。で、「げっと!」の南方戦役につながり、帝国にとって将来の禍根を断つ、と。 けれども、そういう意味で変なちょっかいを出してはこなかった西方には、軍は向けず、外交的に関係の修復に 向かった、と。 とにかく旧来の大土地所有の大貴族の力をいかに削ぐか、それが副帝陛下にとっての内戦の理由でもありましたんで。 だから、教会から教会領を全て取り上げたんですね。とにかく大土地所有者を減らせるだけ減らして、自作農を増やし、 中流階級層の基盤を作るのが、目標なわけでした。 とにかく、大貴族と農奴、という農村の状況の打破が必要、と。 ▼ 973 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/11/08(土) 00 01 30 ID ??? 958 良いことを伺いました。 〆んとこで「じゃああの戦闘は何だったんだ」というのを良い感じに楽しく処理できそうで。 劇中世界の将来に、「ちぇいす!」のような大きな戦争が起きるような時系列、 内戦後、「ちぇいす!」以前に位置づけて、 帝国はそろそろアップに入りました。 だから小競り合いはあるしみたいなところにいたつもりなのです。 世界が深いと、ウリには処理しきれなくなりノで、動脈瘤のように膨らんだ半パラレル世界で一つ>< ▼ 916 名前:わいるどうぃりぃ ◆oMAb82rwS6 [sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 47 15 ID ??? 897 時代設定的に「とある少女」シリーズは内戦終了後ですので、オフ子は内戦勃発と同時か少し遅れて生まれていますね しかし7~8歳年上の甥っ子姪っ子というのもシュールなw カヲル君はほぼ同年代ですが ▼ 968 名前: 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日:2008/11/08(土) 00 00 36 神 ID ??? 916 わいるどうぃりぃさん いや、それがオフ子のねじれの原因のひとつでしょうから(笑 自分より年下の甥や姪が、戦場で武勲を あげているのに、自分は書生として何もできない、という無力感が、彼女をゆがませているわけでしょうし。 実際、オフ子を副帝陛下が構わなかったのも、構っている暇がマジで無かった、というのはあると思いますよ? なにしろ内戦の真っ只中で、政治と軍事で忙しいことこの上なかったでしょうし。 そら、実戦で活躍して、後事を託せる子供らの方が可愛いのは当たり前でしょうし(w ▼ 975 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/11/08(土) 00 02 14 ID ??? 968 むしろ皇太子殿下とともに内政に出れば…とは何度も言われてますか>オフ子 ▼ 871 名前:わいるどうぃりぃ ◆oMAb82rwS6 [sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 37 44 ID ??? 845 と、ちょっと間違っておりました つまり腐敗していた教会勢力が副帝に焼き尽くされた時、新たな旗印として彼女は最高の人材だったんですね。 なんというか、苦労しそうだないろいろと。後の世に彼女をモチーフとした石像やら宗教画とかいっぱい描かれそうだw ▼ 915 名前: 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23 46 49 神 ID ??? 871 わいるどうぃりぃさん そういう事です。極論言うならば、銀髪不老ロリ(略)皇帝陛下が皇帝位にいられるのも、皇太子殿下が教皇位にいて、 将来は皇帝位につくから、というので民衆も貴族も納得しているからなんですね。帝国内では、マジで聖女扱いで、 しかも副帝が政治の実権を皇帝から取り上げる方向に改革を進めていますから、それだけに宗教的権威が強化されて 宗教上の紛争もなくなるだろう、と、皆期待しているわけで。もう宗教戦争はこりごり、というのが、世論でもありますから。 まあ、今の赤十字や救世軍なんか目じゃない活動を内戦期間中、ずっとやってきた人ですから。下手するとカリスマ だけならば、副帝に匹敵するかもしれません。 ▼ 864 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/11/16(日) 02 12 28 ID ??? 853 そんな中で、キリスト教批判演説みたいなこともできる、貴族や、元老院が存続するように、 中田帝も静かに心を配ったんだろうなあ、とかもう ええ、一生付いて行きますw 858 インドシナが、インドと中国との緩衝地帯になっていたらしい、というのを思い出しましてですね なんと言うか、魔族と人間との緩衝地帯で起きた悲喜劇とか。 ところで、 帝国―東方諸国―魔族 という感じでしょうか地理的に。 ▼ 892 名前: 【army 610】 名無しロサ・カニーナ ◆HiIyB3Xw.2 [ sage] 投稿日:2008/11/16(日) 02 23 40 神 ID ??? 864 ケイレイたん 地理的には、帝国の南が、東方南部諸国、帝国の東が魔族領です。 東方南部諸国は、東のほうでちょこっと魔族領と接触しているくらいですねい。 で、今で言う聖書学にあたる、教典学が起こるのが、新教徒が発生してからで、それが研究の自由を 獲得するのが、副帝による「信教の自由令」からなんですね。で、それを皇太子が後押しして、隆盛する、と。 そこらへんの継承は、副帝と皇太子の間では、非常にスムーズに行われております。
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ナニコレ 伝統文化である地図を使って国際情勢を妄想する企画その2 あの更新がたいへん過ぎて捨てた地図記事のテンプレを再利用してるのでお得! 地図 1935年ゾ #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 国 国力 ←弱 強→ 最貧 零細 小国 中堅 新興 大国 超大国 中央同盟 第一次世界大戦では戦勝し、世界の覇権を握った…とされる国。 事実かつての連合国はバラバラとなり、世界各地で内戦が行われる大惨事となっている。 ただしオーストリア=ハンガリー二重帝国は解体され主に3つの国になり、 またフランスではドイツが優位性を保つことができず内戦状態になるなど、世界の覇権を握ったとは一概にはいえない。 国名 主義(派閥) 思想 色 国力 主な領土 ドイツ国 立憲君主制 中央同盟盟主 薄緑 超大国 ドイツ・シンガポール・シリアなど フィンランド王国 立憲君主制 中央同盟 ドイツと同君連合 青 小国 フィンランド ルクセンブルク公爵領 立憲君主制 中央同盟 ドイツの傀儡国 青 零細 ルクセンブルク オーストリア第一共和政 貴族共和制 中央同盟 茶色 小国 オーストリア ハンガリー王国 絶対君主制 中央同盟 緑 中堅 ハンガリー・サウジアラビア南西部 ボスニア公爵領 絶対君主制 中央同盟 ハンガリーの傀儡国 緑 小国 ボスニア ウクライナ 共和制 中央同盟 薄茶 中堅 ウクライナ西部 ブルガリア王国 絶対君主制 中央同盟 緑 中堅 ブルガリア・サウジアラビア北東部 両シチリア王国 立憲君主制 中央同盟 緑 小国 南イタリア チュニジア 共和制 中央同盟 シチリアの傀儡国 青紫 零細 チュニジア コミンテルン ロシア内戦が真っ盛りの1919年にグルジアで結成され、以降次第に役割が世界の共産国家の同盟に近くなった国際組織。 かつての連合国の混乱によって共産勢力は増え、加盟国は年々増加している。 ソビエトロシアの政府首班トロツキーとグルジアの政府首班ベリヤとの会談の結果、現在では世界革命を目指す強硬路線を歩んでいる。 一部ではその強硬路線に対する反対もあるが、その拡大の経緯や周囲で抱える外交問題により協調路線は不可能とされ、目立つほどの反対はない。 国名 主義(派閥) 思想 色 国力 主な領土 グルジア民主共和国 社会主義共和制 コミンテルン議長 紫 零細 グルジア ソビエトロシア 社会主義共和制 コミンテルン 赤 中堅 ロシア クルディスタン社会主義共和国 社会主義共和制 コミンテルン 赤 中堅 クルディスタン ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国 社会主義共和制 コミンテルン 赤茶 中堅 ウクライナ東部 タンヌ・トゥヴァ 社会主義共和制 コミンテルン 赤 最貧国 タンヌ・トゥヴァ ルーマニア社会主義共和国 社会主義共和制 コミンテルン 赤紫 中堅 ルーマニア 白ロシア・ソビエト社会主義共和国 社会主義共和制 コミンテルン 赤茶 小国 ベラルーシ イタリア社会主義連邦 社会主義連邦共和制 コミンテルン 赤茶 中堅 北イタリア フランス・コミューン 社会主義共和制 コミンテルン 赤紫 新興 フランス北部 ベンガル社会主義共和国 社会主義共和制 コミンテルン 赤 小国 ベンガル ビルマ国 社会主義共和制 コミンテルン 赤紫 零細 ビルマ スンダ社会主義国 社会主義共和制 コミンテルン 赤紫 零細 インドネシア西部 連合国 第一次世界大戦で敗戦し、多額な賠償金や戦争の疲労などから多くが原型がないほどにボロボロになってしまった国の残骸。 日本などの例を除き、亡命国家と化している例も多い。 連合国の盟主は1921年の英国分離宣言まではイギリスだったが、その後盟主が滅亡してしまったためフランス第三共和政へ移り、その後1923年にフランス内戦が勃発しアフリカに亡命した以降も盟主となっている。 すでにボロボロになっている国の寄せ集めや、ひどい時にはそれらの植民地の寄せ集めだということから、実質的にまともに戦えるのは日本しか残っていない。 国名 主義(派閥) 思想 色 国力 主な領土 フランス第三共和政 臨時軍国制 連合国盟主 青 小国 西アフリカ オランダ王国 立憲君主制 連合国 青 小国 オランダ イングランド王国 立憲君主制 連合国 茶色 新興 イングランド 南アフリカ共和国 共和制 連合国 肌色 小国 南アフリカ ペルシア 絶対君主制 連合国 肌色 零細 イラン カリブ連邦 連邦共和制 連合国 青紫 最貧国 カリブ海諸国 カナダ 立憲君主制 連合国 茶 中堅 カナダ 中央アフリカ連邦 共和制 連合国 青 零細 中央アフリカ 大日本帝国 立憲君主制 連合国 黄色 大国 日本・朝鮮半島・南沙諸島など 満州国 立憲君主制 連合国 日本の傀儡国 茶色 中堅 満州 ファシスト連盟 1931年にイタリア社会主義連邦でムッソリーニにより設立された組織。 ファシストや国家社会主義などの国際協力を目的としている。 過激な思想や過激な行動が問題視される国や地域が集まり、また世界各地の極右運動の根本とも言われるために世界の多くの国が取り締まりを強化している。 創立された国のイタリア社会主義連邦では特に厳しく規制されており、現在現地の極右活動家達の多くは周辺国に亡命している。 現在の議長国はリトアニア。本部はイタリアにあるとされるが、現在は規制されているため臨時としてリトアニアに本部がある。 国名 主義(派閥) 思想 色 国力 主な領土 リトアニア 国家社会主義 ファシスト連盟議長 黒 小国 リトアニア スコットランド 国家社会主義 ファシスト連盟 紺色 中堅 スコットランド ネパール 国家社会主義 ファシスト連盟 黒緑 最貧国 ネパール 中立国 国名 主義(派閥) 思想 色 国力 主な領土 タマジグ 共和制 親中央同盟 茶色 零細 アルジェリア北部 エジプト 絶対君主制 中立 茶色 小国 北アフリカ東部 エチオピア帝国 絶対君主制 中立 橙 最貧国 エチオピア ソマリア 絶対君主制 中立 水色 最貧国 ソマリア南部 西アフリカ連邦 連邦共和制 親連合国 紫 零細 西アフリカ マダガスカル 共和制 中立 青 最貧国 マダガスカル イエメン 共和制 中立 紫 最貧国 イエメン オマーン 絶対君主制 中立 紫 最貧国 オマーン バルチスタン 共和制 中立 緑 零細 バルチスタン アフガニスタン 絶対君主制 中立 夏虫色 最貧国 アフガニスタン トルキスタン 絶対君主制 中立 青 小国 ウイグル・カザフスタン東部など カザフスタン 絶対君主制 中立 桃色 零細 カザフスタン西部 パキスタン 共和制 中立 黒橡 零細 パキスタン ヒンドゥスタン連邦 連邦共和制 中立 肌色 小国 インド タイ王国 絶対君主制 中立 青 小国 タイ・ラオスなど ベトナム民主共和国 共和制 中立 桃色 零細 北ベトナム チベット王国 絶対君主制 中立 水色 零細 チベット 内蒙古民主国 共和制 中立 親連合国 黄緑 小国 内モンゴル モンゴル 絶対君主制 中立 緑 小国 モンゴル 中華民国 共和制 中立 柳茶色 中堅 中国 中国共産党 社会主義共和制 中立 親コミンテルン 橙 中堅 中国 雲南派 共和制 中立 松葉色 小国 中国西部 ブルネイ王国 絶対王政 中立 親中央同盟 山吹茶 零細 ボルネオ島南部 ニューギニア王国 立憲君主制 中立 親連合国 黄蘗色 零細 ニューギニア島など オーストラリア 立憲君主制 中立 水色 小国 オーストラリア 星のニュージー 立憲君主制 中立 薄紫 小国 ニュージーランド スペイン共和国 立憲君主制 中立 黄色 小国 スペイン スペイン国粋派 共和制 中立 親ファシスト連盟 橙 小国 スペイン 復古ブルボン朝 立憲君主制 中立 親中央同盟 黄色 中堅 フランス南西部 フランス第四共和政 共和制 中立 親連合国 水色 中堅 フランス南東部 スイス 共和制 中立 孤立主義 肌色 小国 スイス アルバニア王国 絶対王政 中立 孤立主義 茶色 零細 アルバニア ギリシャ 共和制 中立 水色 小国 ギリシャ トルコ共和国 共和制 中立 緑 小国 トルコ アルメニア 社会主義共和制 中立 親コミンテルン 橙 零細 アルメニア フランドル社会主義共和国 社会主義共和制 中立 親コミンテルン 橙 小国 ベルギー アイルランド自由国 共和制 中立 緑 小国 アイルランド ノルウェー 共和制 中立 紫 小国 ノルウェー スウェーデン王国 立憲君主制 中立 緑 小国 スウェーデン ポーランド王国 立憲君主制 中立 桃色 小国 ポーランド デンマーク王国 立憲君主制 中立 茶色 小国 デンマーク・グリーンランド・アイスランド セルビア王国 立憲君主制 中立 青 小国 セルビア 教皇領 選挙君主制 中立 白 中堅 ローマ周辺 ロシア帝国 封建制 中立 白 中堅 ロシア アルテノルト諸国連邦 自由経営主義 中立 青 大国 アメリカ・アルゼンチン・チリなど メキシコ帝国 立憲君主制 中立 親中央同盟 青丹色 大国 メキシコ コロンビア共和国 共和制 中立 胡桃染 中堅 コロンビア・エクアドル・パナマなど ブラジル社会主義連邦 社会主義連邦共和制 中立 茶色 中堅 ブラジル ベネズエラ 共和制 中立 緑 小国 ベネズエラ ペルー 共和制 中立 青紫 小国 ペルー 歴史 ドイツ 1919年に第一次世界大戦に勝利し、結果世界の覇権を握る国になった…はずの国。 実際周囲が内戦ばかりで分裂する中、ドイツだけはその巨大な領土を維持しており、ヨーロッパの覇権は間違いなくこの国の手の中にある。 しかし一方で世界規模で見ると中東こそ大きく分割されているが、アフリカや極東などでは未だに連合国が覇権を持ち、更に新大陸では中央同盟の陰すらないとドイツの威厳はヨーロッパのみにとどまっている。 またヨーロッパでもフランスやイタリア、ルーマニアでアカが蔓延るなどその威厳は揺らぎ始めている。 現時点では単独でドイツに立ち向かえる勢力は存在しないが、いずれ内戦が終わり統一された反独国家が誕生した場合、再び世界規模の戦争が起こるのではないかというのがもっぱらの見解だ。 オーストリア・ハンガリー・ボスニア・セルビア かつてはオーストリア=ハンガリー帝国としてドイツと共に戦い、そしてドイツと共に勝った1つの国だったが、現在では本当に戦勝したのか疑わしいレベルの小さな国々に分かれてしまっている。 ではかつての帝国はどうしてしまったのかというと、英国の分裂宣言があった1921年にひっそりと解体されてしまったのだ。 この時の帝国は戦争の疲労から立ち直っておらず、またオーストリアの数々の失策から国内の不況も増々増すばかりだった。 また第一次世界大戦の遠因にもなった民族の不満を解消するための改革も一切進まず、民族の不満は日々溜まっていくばかりだった。 そんな中当時の皇帝はなんとドイツ人優遇政策を実施。これにハンガリー王国はこれまでの不満を爆発させ、クロアチアを味方につけてオーストリアと「戦争」。 そしてこれにハンガリーが勝利し、オーストリアとの同君連合が解消。これによって帝国は解体され、それぞれの国や地域が独立、もしくは既存の国に合流することとなった。 ドイツはこれらの一連の出来事を「内戦」として見ており、ハンガリー・オーストリアどちらもドイツとの同盟関係の維持に強い関心を持っていたことから、特に介入といったことはせず静観を貫いた。 しかし帝国の解消時にハンガリーからボヘミアを献上されており、この一連の出来事によって領域が拡大している。またハンガリーの勝利後もオーストリアが特に同盟から脱退しなかったためそれぞれの国との同盟関係は維持されている。 オーストリア かつての帝国の支配層のうち1つであり、栄光の帝国を長きに渡り指導していた国。 現在ではかつての面影は少しもなく、マジャール人にさえ国力で下回る辺鄙の国になってしまった。 栄光の皇帝がマジャール人の皇帝と成なってしまい、「オーストリア」としての民族アイデンティティを見失いつつある。 国内政治も一応民主主義ではあるが選挙権の幅が圧倒的に狭い旧世代的な政治体制や、「ドイツと合流しろ」や「帝国の復活を!」といった極右勢力の台頭、さらに混乱に乗じた極左勢力の扇動など大混乱に陥っている。 経済も悪政が祟り2つの戦争の疲労が残り続けており、インフレが進み機能停止に近い状態になっている。 改革も遅々として進まず、経済も政治も立ちゆかない中、オーストリアがどのような道を辿るのか注視されている。 ハンガリー 「内戦」とも「戦争」とも言われるオーストリア-ハンガリー戦争で勝利した国。 この勝利によって一部のオーストリア=ハンガリー領植民地やボスニアの管理権を引き継いでいる。 オーストリアが悪政や改革の失敗に苦しむ一方、こちらは断固とした改革や善政でそれら戦争の疲労や経済的混乱を解消し、国内の疲労を一掃。 さらに改革によって政治的混乱も解消しつつあり、現在では国内にこれ以上の火種は起こる見込みはない。 ボスニア=ヘルツェゴヴィナ かつてはオーストリア、ハンガリーの共同管理区域だったが、現在ではハンガリーの単独管理区域となっている。 この地点はオーストリア-ハンガリー戦争によってゲリラ的に戦闘が行われた地域であり、その影響から回復するこ とがひとまずの目標となっている。 この地域の国民は主にオーストリア派やハンガリー派、独立派に割れており、現在でも主義主張のすれ違いから暴力沙汰が起こるなど混沌とした雰囲気が流れている。 ブルガリア王国 第一次世界大戦で戦勝し、「大ブルガリア」を超えた領域すら統治する国。 その後のオスマン帝国の滅亡に際してはオスマン帝国の同意を得てイスタンブールに進駐しており、さらに領土が拡大した。 国内でもかねてからの善政が幸いし好景気が続くなど幸運続きの中堅国となっている。 トルコ・シリア・パレスチナ・レバノン・エジプト・サウジアラビア・ペルシア 「瀕死の病人」とさえ揶揄されたオスマン帝国は戦勝国とはなったが、その後改革に失敗し続けた結果革命や独立が勃発。 それらによって主にアルメニア、クルディスタン、エジプトといった国家が独立した他、中央同盟各国が平和維持を目的に進駐し分割している。 またその直後残ったオスマン帝国領土で革命が起きトルコ共和国が成立。オスマン帝国は滅亡した。 トルコ 数々の国が独立した挙句、列強に分割すらされた帝国に失望した人々が政府を転覆させ成立した国家。 オスマン帝国での混乱を未だに引きずり続けており、安定した治世を行うことができていない。 選挙においても極右極左勢力が伸びてくるなど国内は危険な状況になっている。 クルディスタン 当初はクルド人が国家を作ろうとしただけの運動だったが、これにコミンテルンが介入した結果社会主義国家を打ち立てる運動へと切り替わりできた国家。 本来ではクルド人居住地域でない地域を巻き込んで巨大な領土を統治し、中東における共産主義の第一人者となっている。 アルメニア こちらもアルメニア人が国家を作ろうとした運動だったが、コミンテルンが介入した結果グダグダになり現在でも政治的混乱が続いている。 ここに社会主義国家として成立させた場合、ソビエトロシアからクルディスタンへの陸路が繋がることになるためコミンテルンの介入が終わる見込みはなく、これ以降も混乱を引きずり続けると見られる。 エジプト 旧連合国の植民地を巻き込み独立したアフリカ一の面積を誇る国家。 ドイツの圧力によって紅海沿岸やスエズ運河の権益を渡した他、首都カイロも共同管理区域にされるなどすさまじい状況となっている。 これをドイツによるエジプトの植民地化だと見る向きもあるが、現在のところドイツがエジプトへこれ以上手を出す見込みはない。 ペルシア ペルシアはオスマン帝国に統治されているわけでもなく、戦争に参加したわけでもないのだが、何故かその影響を非常に強く受け打撃を受けた不運な国。 クルディスタンの独立の際に西部を大きく削られ、アフガニスタンの介入やバルチスタンの独立により東部を大きく削られた結果、現在では狭い地域を統治する縦長の国家になってしまった。 国内でもこれに対する混乱が発生。一時はクーデター未遂が起こるなどペルシアは衰退の一途をたどっている。 ロシア・ウクライナ・バルト三国・ベラルーシ・カフカース地方・中央アジア 1919年に勃発したロシア革命が20周年になろうとする今もうだうだと続いている一帯の地域。 国内の疲労は既に限界を超えており、国民の2割は既に戦死もしくは亡命しているなどというすさまじい状況になっている。 中にはこの革命によって独立した社会主義国家も存在するが、これらの殆どが赤軍が独自に現地の民族主義者たちに割って入り成立させた国である。 そのためロシアはこの国を認めず、現在でも自国の領土として主張し続け革命と戦っている。 こんな中にあってもロシア帝国はいまだに滅びずにいる。 ロシア 赤軍と白軍による終わりの見えない泥沼の争いが続き、モスクワですらこれまでに5回の死闘が繰り広げられほとんど焦土と化し、国民生活は非常に困窮し、物資が全くなく市場は機能停止し、闇市が蔓延し国民生活はさらに苦しくなるなど目も当てられない状況である。 かつての栄光の帝国の面影はどこにもなく、そこにはどうしようもない焦土と化した寒冷地が広がるのみだ。 この内戦によりロシアは工業化に遅れており、技術の面でも異常な遅れを取っている。 また政治の面でも未だに封建的な制度を引きずり続けており、改革の試みも遅々として進んでいない。 ウクライナ 1925年まではここでも赤軍と白軍の死闘が繰り広げられたが、現在では双方が現地に緩衝国家を建国することで休戦に近い状況になっている地域。 現在でも小規模な銃撃戦が行われることがあるが、双方の緩衝国家がこれ以上の大規模戦闘に消極的となっていることもあり小康状態を保っている。 内戦からロシアよりも速く抜けだしたこともあり旧ロシア帝国領の中では比較的安定した地域である。 現在では双方ともにロシアへ物資や食料を提供する役割を担っている。 ベラルーシ 1932年頃に赤軍が建国した実質的な緩衝国家。 ロシアよりは物資や食料が足りているが、かといって国内が混乱していないわけではない中途半端な地域だ。 立地上も北部における白軍の猛攻から内戦の最前線になってしまい、これよりさらに混乱が激化するのではないかと懸念されている。 カザフスタン ここでも赤軍と白軍の死闘が繰り広げられると予想されていたが、実際にはどちらの勢力も早々に現地の独立運動家が挙兵した兵らに排除され、結果旧ロシア帝国領だが赤軍と白軍どちらの勢力圏でもない不思議な地域となった。 ただしその後トルキスタン統一思想を掲げるトルキスタンに大きく攻められ、この地域は混乱の最中にある。 現在でもトルキスタンとカザフスタン間の戦争は継続しており、どちらが勝利するか注目されている。 カフカース地方 赤軍が優勢であり、現在でも白軍が大規模包囲されている。 南部においては混乱に乗じた国家が3つ建国されている。 バルト三国 バルト三国もやはり赤軍と白軍の戦闘が激しく、白軍によって社会主義と勘違いされたエストニア人集落が複数破壊されるなど混乱も著しい地域である。 混乱に乗じ1921年に早々にファシズム革命・独立を果たしたリトアニア以外は飢餓も著しく、戦闘が起こらなかった地域でも死者が日々出続けている。 リトアニア 上述の通り1921年に混乱に乗じて早々に独立を果たした国。 なおこの際ドイツがメメールに進駐し海岸線を失っている。 主にイタリアのムッソリーニに感銘を受けた若者たちが主導し政治しており、現在ではムッソリーニ直々の指導の元国力増強を図っている。 ラトビア、エストニア 内戦以来1年も赤軍と白軍の双方による分割状態が解消されたことがなく、独立をしようとしても必ずどちらからか妨害を受け失敗するという哀れな国。 白軍はこの地域を「重要な地域」と位置づけ独立を認める姿勢はなく、この地域をロシアの直轄領とすることを決定している。 一方で赤軍はこの地域との独立運動家と結びつき「バルト連合」を建国する構想を練っているが、白軍の勢力を排除することができず難航している。 グレートブリテン島、アイルランド かつての第一次世界大戦によって数々の作戦失敗を行った結果、国民生活がほぼ崩壊。 これに耐え切れなくなった国民の怒りが爆発、各地でアナーキストやファシスト、民族主義者が蜂起し、1921年にはとうとう英国分離宣言が出され数々の国が分立する地域に成ってしまった。 イングランド王国 かつての英国王室を元首に掲げ、政治や外交の面でもかつての英国を色濃く受け継ぐ国。 それもそのはず、この地域は各地で蜂起する反乱軍から王党派が唯一守りぬいた地域なのだ。 名前からはわかりにくい点ではあるが、ちゃっかりウェールズも守り抜いてる。 現在では特に英国の復活などは掲げていないが、かつての英国領で蔓延るファシストなどに対しては懸念の意を表している。 スコットランド 同じグレートブリテン島ではあるがこちらは逆に王党派が駆逐され、アナーキストやファシストなどが優勢だった地域である。 現在では「腐敗した政権を讃え帝国主義を復活せんとするイングランドに対抗する」と称し国力の増強を図っている。 アイルランド自由国 第一次世界大戦中は自治が凍結されていたが、英国の大混乱に乗じて蜂起。その後王党派を国内から駆逐しアイルランド島を統一した国家となった。 現在でも英国の影響を排除しようとする動きが活発である。 中国 一時は中華民国が各軍閥を潰し中国を統一しかけていたが、その後の失策により日本に各主要都市が分捕られ、満州国が建国され、雲南派軍閥が独立し、共産党が国を翻弄するなど再び混乱に陥ってしまった。 国内情勢もロシアほどではないが困窮しており、国民は中華民国からは「共産主義への対抗費用」として、共産党からは「革命費用」と称し異常な重税を課されているため生活が異常に苦しく、各地では餓死者が続出している。 国民党 1920年ごろからその強硬路線によって勢力を拡大し、一時は中国を統一する直前まで行っていたが、当時日本の保護下に入ろうとしていた満州に宣戦布告したことによって日中戦争を発生させ敗北。 その後自壊していき現在では共産党に国内を翻弄されるほどの状況になっている。 あまりの拡大っぷりから主要国から警戒されていたため支援の見込みも無い。 中国共産党 1921年ごろから中国共産党は国民との国共合作を模索していたが、当時の国民党はすべての中国を統治しようとする強硬路線に走っており、すべての試みは失敗に終わっていた。 さらに1923年には共産党の指導者毛沢東が国民党の支持者に襲撃される事件が発生。幸いにも毛沢東はほとんど無傷であったが、これ以上の国民党との交渉は無意味だと悟った共産党は国民党との戦争を決意。国共内戦が始まった。 この内戦は全体的に国民党の圧倒的有利だったが、共産党はあちこちに共産主義を広めると同時にゲリラ戦を行いつつあちらこちらへと逃避行。1930年には延安へ到着した。 この頃には既に最初12万人いた兵士も1万人程度になり、資金も全面的にコミンテルンからの援助に頼る事態になっていたが、日中戦争が開始されたために国民党の勢力が急激に収縮。 各地で共産主義の支持者と化した農民が蜂起したこともあり急激にその勢力を拡大し現在に至っている。 雲南派 日中戦争まっただ中の1931年に蜂起した雲南省を中心とする地域を統治する南方軍閥。 1911年に挙兵し1922年に国民党に押しつぶされた軍閥とは人物こそ引き継ぐ部分があるものの別物であるため「新雲南派」と呼ばれることがある。 「雲南モンロー主義」を掲げ、外交的に共産党とも国民党とも異なる路線を歩んでいる。 中国の諸国の中では比較的穏健的であることから、「中国最後の良心」と揶揄されることがある。 内モンゴル 1931年にひっそりと蜂起し、モンゴルとの統合を希望するも拒否されそのままひっそりと生き残っている国。 外交的にほとんど見向きもされず、内政に力を入れていることから中国の諸国の中では最も安定した勢力と言われている。 満州国 現在では日本の傀儡国だが、その政治や領土は北洋軍閥だった奉天派を元とする。 1920年から急激に拡大を続ける国民党に奉天派は脅威を感じ、かねてから支援関係だった日本に急接近。 外交を重ね日本の保護や確実な支援を取り付けることに成功した。 これにより奉天派はさらに発展していったが、一方で国民党にとってこれは面白い事態ではなく、奉天派に侵攻。日本がこれに呼応したことにより日中戦争が勃発した。 結果これは日本の大勝となったが、一方で安全保障の問題を通関した奉天派は日本の傀儡国となることを決意。 この際「清朝復活」で釣った清朝最後の皇帝溥儀を元首に招き国内の政治も細かいところを再編し、満州国として正式に建国された。 日本 第一次世界大戦は連合国側で参戦し、本来であれば敗戦国であるはずが、ドイツに南沙諸島を割譲させるなど逆に勢力を拡大したとても幸運な国。 終戦後も日中戦争で大勝し沿岸の都市を割譲させたり、満州国を傀儡国としたりなど勢力を拡大しつづけている。 外交でも連合国唯一の大国、極東の大国として存在感の強い国となっている。 一方で国内政治は若干の変化が生じている。 経済は日中戦争の需要などにより順調な発展を遂げているが、社会保障などはほとんど整備されていない。 これに不満を持った国民の支持が集まり、社会大衆党など無産政党の勢力が増加し、これまでの政局が変わりつつある。 またさらなる軍拡を求める軍部の声も日々大きくなっており、その声に影響を受けた議員らにより「国民同盟」という政党も結党され、議会ではこれら2つの政党による議論が日々続いている。 さらに外交の面でも「連合国を見限るべきだ」といった声も大きく、様々な道が考えられることからこの問題も日々激しく議論されている。 イタリア 第一次世界大戦では「未回収のイタリア」を回収することを目的に連合国側で参戦し、自らの経済を犠牲にしながら奮闘するも、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍に本土に攻め入られ敗北。 この敗戦によりあちこちで反政府運動が巻き起こり、1920年にはイタリア王国が崩壊。イタリア統一国家は消滅してしまった。 現在では主に3つの国に分かれている。 イタリア社会主義連邦 ミラノを中心とした社会主義の地方都市の連邦。 北イタリアにおいて蜂起した様々な社会主義の地方都市を結集させるための国家として生まれた。 その経緯から国内ではトロツキストからレーニン主義者、さらにはスターリン主義者、果てはアナーキズムまで様々な細かい派閥が存在する。 ファシズムの誕生地でもあるが、現在厳しく規制されておりほとんど地元に根ざしていない。 教皇領 ローマを中心とした教皇による直轄地。 この地域においては教皇による直轄政治を望む声が多かったことからこうなった。 しかし近代化が進み北部に社会主義の脅威も存在する中時代錯誤なこの体制に疑問の声も湧いており、市民の興奮が冷めてきた今この体制が終了するのではないかとも言われる。 両シチリア王国 ナポリを中心とした南イタリアの王国。 分裂していた諸派を自らの指揮によって統一した名将軍が権威の元に自らの王位継承を宣言し、1921年に成立した。 統一にあたりドイツの支援を受けた経緯から中央同盟に加盟している。 政体は立憲君主制だが、やや君主の権限が強いドイツ式の政治となっている。 フランス 第一次世界大戦に敗北したフランス第三共和政はドイツ側がドイツ人の王族を王位に据える傀儡国「フランス王国」を建国したことにより崩壊し、アフリカに亡命した。 しかしその成立の経緯や元首がドイツ人であることからこの王国に対するフランス人の不満が爆発、1932年に革命が起きたことによりこの王国も崩壊し国内には主に3つの勢力が戦闘を繰り広げる内戦状態へと突入した。 フランス・コミューン パリ・コミューンの流れを引き継ぐ組織によって結成された国家。 フランス王国打倒に大きく貢献した勢力でもあり、国内での権威は大きい。 外交ではコミンテルンにおける「経済」の役割を担っており、自らも内戦中であるにも関わらずソビエトロシアを支援するなどやや重要な位置を占めている。 現在のコミンテルンの方針である世界革命に全面的に賛同している。 復古ブルボン朝 ドイツ人の王族を王位に据える偽のフランス王国を打倒し、ブルボン朝の王族を王位に据える真のフランス王国を建てることを目指す勢力。 ドイツが認めるのであれば中央同盟に加盟することも辞さないとしているが、ドイツからも国民からもガン無視されている。 フランス第四共和政 健全で民主的なフランスの建国を目指す勢力。 やや無難な選択肢として見られているが、外交的にはフランス第三共和政と対立し連合国に加盟できないなど多難を抱えている。 政治でも選挙で社会民主主義者や社会主義が伸びてくるなど難しい局面である。 スペイン い つ も の
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旧日本軍の戦艦・空母・巡洋艦の話題は、各種戦艦・大和型・日本の空母・重巡・軽巡をご覧下さい。 震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが 戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? 内火艇の火はどういう意味ですか? 大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? 標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? 日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 「艦」と「艇」はどう違うのですか? 日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? 震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 海の上には波があり、シークラッターという複雑なエコーが常に流動しています。 これは潜水艦のシュノーケルや水上艦のステルス化が一定以上進まない原因なのですが、 逆に補足する側にとっても障害になります。 つまり、ある程度波のある海上に浮かんでいるだけで、隠れ蓑をまとっているのと 同じ効果があるのです。 そのため、対水上レーダによる小型木造船の遠距離補足には現代でもある程度の 限界があります。 マラッカ海峡付近の海賊はこの原理を利用し、パンチュンという小型高速の 動力付き木造船を駆使して気付かれる前に大型タンカー等の死角に入り込もうと する手口を使っています。 ただし、いってしまえばそれまでの事で、人員の少ない民間船ならともかく 警戒要因の多い警備や軍用艦船にとっては、闇夜に紛れて油断の合間を縫う 程度の効果しかなく、戦時下で警戒を厳にしていると厳しいものがあるでしょう。 なにせ、旧軍は夜間の対魚雷警戒すら目視で航跡を発見する方法で対処しています。 (657 378) 戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? 「焼玉エンジン」は、ピストンで圧縮されたガスを、バーナーで熱した鋳物の球に接触して爆発させる機関で、通常は重油を燃料とする。 戦時中、特に、終戦間近には、石油不足で、魚油などが使 われた。 浦安市郷土博物館に実演展示されています (5 834) かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 彼女の投稿によると祖父は設計の重要な立場に居たらしく家には資料があるとか。 そして彼女は祖父のことを誇りに思い、特殊潜航艇の他にも「水陸両用魚雷」なる物も開発していたと証言。 ソースは示せず、恐縮ですが、はたしてそんな兵器は存在するのでしょうか? 確証はありませんが、特4式内火艇のことではないでしょうか? 設計が呉工廠造船調査部で 製造が三菱重工、さらに改修が呉工廠で行われています。 設計は堀元美少佐一人で行われたそうなので(また堀氏は潜航艇建造には不参加) この改修の際に関わられたの工廠関係者の方ではないかと (10 名無し厨尉) 単に第二次大戦前までの「海防艦」というのは、単に旧式、二線級となった 軍艦の総称で、海防戦艦的な用途に使われたというのは些か穿ちすぎの ような気がします。 単に「予備艦」という艦種であれば、そこに配属される将兵の士気にも関わ りますし、国民の視線も冷ややかでしょう。 多少なりとも、軍艦っぽいネーミングにしてイメージ向上を行ったのが真相 ではないでしょうか。 (10 名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2) 旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 旧海軍で軍艦は以下のものだけです。(太平洋戦争末期) 戦艦 航空母艦 1等巡洋艦 2等巡洋艦 水上機母艦 潜水母艦 敷設艦 練習戦艦 練習巡洋艦 というわけなので日本海軍の中では給油艦である知床型は軍艦ではないです。 (18 バッチ3) 「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 昭和20年屋代島沖で沈められました。 大蔵省が業者に売却して、昭和29年に引き上げられ、スクラップとして払い下げましたが、状態が良かったために、 その業者が防衛庁に売り込みを図り、紆余曲折の末、護衛艦となったものですね。 「梨」→「わかば」は、沈没していたために、多分船体内部の洗浄、機関修理は実施したでしょうが、 機関を撤去してまでするのであれば、貧乏所帯の海自は買わなかったでしょう。 あとは、武装を米式の対潜護衛艦並みに、更に電測兵装を追加しているだけのようです。 他にも枚挙に暇がありませんが、比較的有名なのが真珠湾で沈んだ戦艦の再生、 ツーロン港で自沈した駆逐艦の再生というのがあります。 (24 眠い人 ◆ikaJHtf2) 丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが 丹陽は具体的に何年ごろから何年ごろまで、中華民国の旗艦だったのでしょうか? 丹陽について細かい話をこちらを見てください。 nttp //homepage1.nifty.com/HARPOON/UMAX15.html なお、文中に出てくるグリーヴス級駆逐艦とは DD421ベンソンとDD427ヒラリーPジョーンズで、54年に中華民国に引渡されております。 その他リヴァモア級駆逐艦2隻(DD431プランケット/DD456ロッドマン)も 59年と54年に引き渡されています。 (33 名無し軍曹) 戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 運輸省管轄で、石炭輸送を行っていたそうです。 (11 名無し厨尉) 正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 昭和9年度の軍縮条約下に於ける第二次補充計画によって建造が計画され、 1937年に佐世保工廠で起工、1939.7.31に竣工しています。 この艦は当時最新鋭だった、米海軍の工作艦メデューサ級をタイプシップとして 建造されており、艦内には日本でも最新鋭のドイツ、米国製の精密加工機械を装備していました。 1942年の改○5計画によって三菱横浜にて同型2隻を建造する計画でしたが、 資源不足、戦局の推移によって実現しませんでした。 実現したら、「三原」「桃取」になっていたようです。 太平洋戦争勃発時はフィリピン攻略部隊に属し、以後はトラック島に在泊し、 その陸上工作部と共同で損傷艦の修理に活躍しました。 1944.2.17~18に掛けての米軍のトラック空襲で大破し、3.30にパラオで空襲を受けて沈没しました。 排水量9000t、全長158.5×全幅20.5×喫水6.25m、機関タービン10,000shp、速力19.2kt、 武装として12.7cm連装高角砲2門を艦の前後に装備し、艦内に工作機械114台を設置、 工員433名が17の工場に分かれて、勤務していました。 (47 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 詳細な資料が手元にないのですが、バルバスバウを装備しているのは大和型戦艦と翔鶴型空母 くらいです。 あとの艦はたいていスプーンバウかクリッパーバウのはず。 ソナーにしても装備している艦はそんなに多くなく、海防艦などがハルソナーを装備していて バウソナーは装備していません。 バウソナーを装備しだしたのは戦後の艦です。 それに、大和型戦艦のバルバスバウって今の商船みたいに大きくないです。 (51 名無し軍曹) 大和の艦首には水中聴音器が装備されてます。 (51 437) 日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 国際無線符合 現在のフネにもあるよ。 (53 8) 防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? そんな事実はありません。 (60 742) 電波探信儀はレーダーです。コンピュータとは呼ばないほうがよいでしょう。 1.戦艦にも電探は積まれていました。 2.陸軍では電波警戒機という名でレーダーを使用していました。 (60 745) えー秋月級に限らず、高射砲を装備している艦にはだいたい「高射装置」という 対空射撃用の照準装置が付いていました。これは機械式計算機を組み込んだもので (これについては高射装置以外の管制装置も同じですが)、様々な情報を入力すると 射撃諸元を示すようになっていました。 なお、このような射撃装置は海軍の一部の防空陣地にも設置されていたといいます。 陸軍については私の手元に資料がないもので・・・。 上のレスにもありますが機械式計算機ですのでコンピュータとは言い難いですね。 また、最近の調査で秋月級の初期の艦も装置自体は1基しか積んでいなかった という説がでてきたようです。 (60 747) 普通の高射砲部隊には射撃指揮コンピュータ等配備されていたのでしょうか? 佐貫マタオ氏の書いた本にドイツの高射砲部隊には単純なアナログコンピュータと いうべきものが装備されていたとか書いていたような気がします。 (60 748) 内火艇の火はどういう意味ですか? 大辞林第二版より [内火艇]ないかてい 内燃機関で走る小艇。 (61 822) 大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? 蒸気機関って石炭と水で動くはずなんで、石炭は日本で取れるんで問題ないんじゃないですか? それは石炭燃焼缶の場合だろ。海軍のフネは重油燃焼缶だったので、大規模な改造が必要。 石炭を動力源にするか、重油を動力源にするかで、同じ蒸気タービンと言えど、出力や特性が全然違ってくる。 フェラーリ持ってきて、アルコールでも動くんじゃね?って言うのと一緒。 石油は液体なのでポンプで圧力を掛ければボイラー内に入っていくが、石炭は固体なので人が投げ込まねばならない。 また、石油はバーナーを奥まで伸ばせるのでボイラーの厚みを大きく出来るが、石炭だと人の投げ込める距離以上は 無意味なので厚く出来ない。 その分大型化できず数を揃えなければならなくなる。 このため石油が世界中の港の多くて入手できるようになると石炭専焼ボイラーや混焼ボイラーは廃れ、重油専焼ボイラーが主流となる。 また、日本国内で取れる石炭はあまり質が良くない。 蒸気機関だって、確かに燃料は選ばないがそれは構造が単純だから、釜に入れればとりあえず燃えるだけであって 蒸気を発生させるのに必要な燃料を投入しなければ、燃費の問題で逆に非効率になったり、出力不足で動きません なんてことも普通だ。 極端な話、石炭の代わりに木炭とか紙とかで蒸気機関動力船を動かせなんて、どれだけ燃料積むんだよってことになるし (507 290-315) 標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 海軍の技術研究本部電気部が昭和三年に開発しました。 システムは速力管制装置と針路管制装置を組み合わせた物です。 動力の電動機と電池を使用して無線操縦をします。 但し、ボイラーの自動噴燃装置はドイツのアスカニア社が開発した物を輸入して機関の遠隔管制に使用しました。 参照図書はなんと! 歴史群像2001年12月号のp12です。 我ながら歴群を見直しましたね。 追記、 システムの予算化は昭和9年に認められました。 摂津の標的艦としての完成は昭和12年です。 操作関係に関してはWikiの標的艦摂津に記載されています。 (601 不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk) 旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 当時の日本の軍艦はより良好な凌波性や高い速力を追求しまくっていたので、より自然なライン を追求した当然の結果と思われる。艦首/艦尾形状、舵など、あらゆる部分について、熱心な トライ&エラーが繰り返されていた。 ところが戦時になり、テクがどうこう言う前に「数」が足りなくなったので、「松」型駆逐艦に至って ようやく簡素化されナックルになった。性能低下が心配されたが、予想に反して大したデメリット は出なかったという。それまでが"凝りすぎ"だったというわけ。 (299 105) 日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 二次大戦の輸送船は枢軸・連合とも一般商船を徴用したものがほとんどで、専用の輸送艦は開戦後に建造されている。 連合軍側最大の輸送船は豪華客船として有名なクイーン・メリーで8万1237総トン。 日本で最大は日本水産の捕鯨母船第3図南丸が1万9206総トンで、タンカーとして使った。 タンカー以外の特設運送艦では、日本郵船の浅間丸型1万6947総トンが最大かな。 まあ単純に排水量で言うと、戦艦や正規空母でさえ輸送任務についてるけど。 日本ではそもそも1万総トン超える商船自体数える程しかないし、新田丸型とか氷川丸型とかほとんどが豪華客船だな。 (俺初質スレ431 689) 帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 http //www.warbirds.jp/ansq/21/B2001408.html 以上から見て、明治大正期には「うちびてい」と言っていたものが、昭和に入って遅くとも昭和10年までには「ないかてい」と呼称が変更されたものと考えます。 (684 370) 第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 日本海軍の戦術では、夜襲に於て探照灯を使用した射撃と言うのがデフォでした。 従って、夜襲を行う場合は、探照灯を結構使用しています…としか回答出来ないなぁ。 但し、連合国の電探精度が上がると逆に目標にされて悲惨な目に遭うわけですが。 (286 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 残念ながら、陸戦兵器の整備に手一杯で、(中国共産党の場合は)次いで空軍の整備、 水上兵力は後回しとなり、結局使用されていません。 尤も、利用する場所がありませんし。 (278 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大発(大発動艇)は陸軍運輸部が開発した戦車・重量兵器用陸用舟艇です。 大正13年の訓令事項により 武装兵約60名を搭載しえること 馬匹・野砲・軍需品を搭載しえること 重量六トンを限度とすること などを条件として開発されました。、 大正14年に試作型であるA型(LB-A)が完成し、さらに改良型として船首の一部を 歩板にしたB型・船底肋骨を2本にしたC型・大型化して戦車の揚陸を可能としたD型が 製造されました。 D型は全長14.88メートル、自重9.5トンで八九式中戦車が搭載可能でした。 さらに戦車の重量増に対応して97式中戦車(13.5トン)搭載可能な15トン型特大発動艇 「〇セ(丸の中にセ)-LB」や26トン戦車搭載可能な30トン型大発動艇を 超大発動艇(S-N-LB)として試作しています。これは大型発動艇とも呼ばれました。 この他にも木製大発動艇・折畳式大発動艇などが開発されました。 また、兵員揚陸用として小発動艇が存在し、A~C型が製造されました。これは C型で自重3.5トン、武装兵20名または物資3トンが搭載可能でした。 (124 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 コンクリートで軍艦(砲雷撃艦は無理でしょうが、空母・護衛艦など)を作るのは無理でしょうか? コンクリ船建造時の担当官の考え方としては、 (1) 本格的な量産は考えない。コンクリ船は鋼船の補助的な存在程度のものであって、これにより 幾分の補いは付くが、これだけに頼る訳にはいかない。 (2) 鋼材の供給力が十分に成った時には廃止されるべきものであって、戦時中と雖も、便法とされる べきものである。 と言うものであり、期待はしていません。 逆に、 (1) 船価は、鋼船の二倍になるので、特別の措置を必要とする。 (2) 建造地には、冬期でもコンクリート工事施工可能な温暖な地を必要とすること。 (3) 線材として、甲造船の際に余る鋼材を充てることになっていたが、甲造船そのものが少なくなったので、 線材が利用出来なくなったこと。 (4) コンクリートも良質のものが必要であること。 (5) 鋼材の使用量は確かに少なくなるが、逆に型枠に使用する木材の使用量が二倍以上必要となること。 と言うデメリットが発生しており、また、普通のコンクリートでは、耐水性の問題で、没水部を薄板鋼板で覆っています。 耐水性コンクリートとして硫酸銅セメントを用いることが考えられ、小型船が進水間際まで行きました。 このほか、マグネシヤセメント船も研究されましたが、これとて、 (1) 一隻当り所要資材のうち鋼材の使用量は余り減らないし、木材も従来の木造船の半分を消費する。 (2) マグネシヤの原料は朝鮮あるいは関東州であり、内地にはない。 (3) 構造から鑑みても、木造船に比べて工数と建造機関が掛かりすぎる。 と言う理由で、研究はされたものの、実用は見送られています。 (128 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? 日本の正規捕獲網艇は燕と鴎の2隻なので、2艘曳きトローリングと同じ要領と思っていましたが 特設捕獲網艇の場合、特設駆潜艇2隻と特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊を編制すると最近知りました。 1隻でどうやって曳くのでしょうか? 一四式一型あるいは二型が用いられています。 これは、長さ100m、幅35mの鋼索製の網で、五枚を一組とし、網の上方には浮子を、 下方には海底に達する索を取付け、重錘を以て海上に沈着させるものです。 特設捕獲網艇は、最大500~1000総トンの貨客船、客船、貨物船で、改造要領は、 船尾楼甲板上に鉄骨木製の捕獲網敷設台を設けます。 これは、大きく外舷から張り出した矩形平面のもので、両側には網を掛ける柵が 立っています。 後部船倉を網庫として、捕獲網は網庫内に四組搭載し、二組を敷設台上に組立て てから敷設します。 敷設台後方には網用錨ダビッドがあり、網は台の後端から滑り落ちる仕掛けです。 要は曳航するのではなく、落っことして、置いておく様な感じでしょうか。 (143 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 やはり改Eの大量産と言う方針は誤りだったのでしょうか? 1941年秋の状況で無限と言うほどの船腹量が必要になってきますが、 D型以上の建造は施設的にも材料的にも行き詰まってきたことで、その 改善が見込めず、全くの応急用としてのE型船量産という着眼点はそれ なりに良かった訳でして。 その特徴として、 (1)小型であるため建造技術が簡単で必ずしも専門家、熟練工を多数必要としない、 (2)建造施設を簡易、かつ、急速に設備しうる。 (3)量産思想に依って、工作し得る程度の大きさである (4)主要材料である厚板は、造船材を作成していない中小製鉄所の設備、技術でも量産可能。 と、誠に以て、良いことずくめで、特に軍備と競合しないので、海軍としては魅力的に写ったのだと 思いますが、量産したは良いものの…。 (1)冬季北方、日本海での使用は困難(航行できないと言うが、こんな所を走らせるために作ったんじゃない、 と設計者は切って捨てていますが。) (2)低速である(軽荷状態で強風を船首方向から受けると操舵、保針に困難が生じる、というのは認めましょう。) (3)居住性不良(思想と観点の問題と、設計者は切って捨てていますが) (4)工事粗漏(造船所の責任と、設計者は切って捨てていますが) (5)機関故障(焼玉機関は焼玉としては出力過大だけど、これは油と発動機工場の質低下に帰する、と設計者は切って捨てていますが) (6)焼玉揚貨機の不調(工作不良と運航者の問題と、設計者は切って捨てていますが) と例によって、基礎技術の伴わない状況が出てきています。 また、船型の改善が難しく、播磨造船所では、貨物船を油槽船に切り替えるために、月間10隻の竣工予定が、7隻に落ち込んだりして います。 (143 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 樅級は1943年頃から3番砲を撤去して代償に対空火器と電探を装備。 神風級は1943~44年に掛けて4番12cm砲を撤去してその跡と艦橋前部に25mm連装機銃2基づつを装備。 若竹級も12cm砲を2基降ろして対空機銃を増備。 睦月級は12cm砲1~2門を降ろして対空機銃を増備。 吹雪級は1943年後期頃から12.7cm3番砲塔を降ろして25mm三連装機銃2基と換装し、艦橋前面に25mm連装 機銃1基と2,3番魚雷発射管中間に25mm三連装機銃2基を追加。 初春級は1944年に入って、単装砲塔を撤去し、25mm三連装機銃1基と換装。 白露級も初春級と同様。 朝潮級は1944年頃に12.7cm2番砲塔を撤去して吹雪級と同様の改装を実施。 夕雲級は1944年以降に12.7cm2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃2基と換装。 但し、最後期に建造されたものは、砲塔撤去が無かったです。 ついでに、千鳥級は後部主砲を撤去し、25mm連装機銃2基、単装4基を増強、 鴻級も同様ですが、25mm単装機銃の門数が5基になっています。 (155 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 飛行艇は搭載できません。 大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈。 空運乙は、若干機(2~3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか、主翼、胴体を分解して船倉内に10機が搭載 出来るようになっています。 また、前後部の船倉、甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン、爆弾、魚雷の格納所であり、前部は人員と各種 雑物件の収容所となっていました。 りおん丸の場合は、前部中甲板区画は航空隊兵員、飛行場設営隊員など500名分の居住区画、船橋楼内の上甲板区画 が船固有の兵員室、船尾楼は准士官以上の居住区で、40名収容。 貨物倉内の一部には機械工場、木工工場、鍛冶、熔接工場が設置され、石炭庫と真水タンクを増設しています。 なお、名古屋丸は潜水母艦からの改造であり、船倉内に解体機を搭載しませんでした。 (156 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 駆逐艦と言うより、当初は巡洋艦を志向しています。 英国の旧式軽巡洋艦改造の防空巡洋艦を手本に、旧式化した天龍型とか5500t型軽巡洋艦の主砲を 高角砲に換装し、高射装置を完備、雷装を全廃して直衛艦とするのが一番最初。 ところが、これは予算が可成り掛かる上に、防空性能不十分、しかも、旧式と言えど、未だ十分に水雷 戦隊旗艦として役に立つこともあり、又、これらは艦隊決戦に際し、重雷装艦とすることが考えられまし たので、防空巡洋艦構想は後に多摩が改造されただけでした。 で、その替わりに新型の防空巡洋艦を設計します。 これは大淀型とほぼ同じ9000tで、10cm高角砲の連装砲塔を12基搭載、高射装置は4基搭載という立派 なものでしたが、これは威力十分な替わりに船価が高く、実現の見込み無く、一艦で対応する巡洋艦よりも、 数隻で対応する駆逐艦の大型化という方向に進んでいきます。 当初は、駆逐艦ではなく、直衛艦という種別でこの艦は呼ばれました。 これで設計されたのが、W-115計画案で、原案は魚雷発射管無し、第二案で、魚雷発射管1基を搭載し、 第三案はそれが二基に増えました。 結局第三案は過大に過ぎ、第二案を元に計画が進められています。 なお、○5計画では、島風型のボイラーと主機を採用し、速力を33ktsから37ktsに向上、基準排水量を300t 増して3000tとし、魚雷発射管には新設計の6連装を1基搭載し、機器配置は缶-機-缶-機の交互配置を 日本の駆逐艦では初めて採用する予定でした。 (238 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 「特設」と言うのは、民間の船を徴用して、海軍の籍に入れたものです。 特設工作艦(工作船でなく)なら、民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え、 損傷応急修理を目的とし、工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければ ならず、しかも、この艦を失えば、味方の修理能力が落ちることから、敵からも執拗に ねらわれたため、損耗の最も多い艦種です。 その施設は、例えば、上甲板に作業場、飛行機工場、電気・航海・光学・無線工場を 持ち、第二甲板には各科倉庫、機械工場、工具室、魚雷工場、木工場を、船艙内に新設 した甲板には索具および塗具倉庫、救難要具および鋼材などの材料庫、造兵・造機材料庫、 補機室、鍛冶工場、溶接工場、造船・造兵材料庫、そして、船艙には弾薬庫、救難関係倉庫、 糧食庫、修理材料庫、鍛冶工場、鋳物工場を備えています。 専門の工作艦には、明石、そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが、1941年の松栄丸を 皮切りに、山彦丸、八海丸、山霜丸、白沙、そして、2TM改造の慶昭丸が改造されています。 これら特設艦は全部撃沈されています。 (162 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 1935年に神州丸が播磨造船で建造されました。 これは極秘に建造されたもので龍城とかMT船という名称で呼ばれました。 船内に上陸用舟艇を20隻収容し、上陸地に近づくと、船尾のドアを開けて、後部に舟艇を出すLSD的用法を 想定していたほか、九一式戦闘機と九七式軽爆撃機を20機装備し、カタパルトで発進させ、上空援護に当たる 様になっていました(これは実際には遣われていませんが)。 日中戦争では、杭州湾上陸戦などで用いられました。 太平洋戦争では、ジャワ上陸作戦に投入されましたが、味方巡洋艦の魚雷が命中して撃沈、後引き揚げられて、 再使用され、1945年1月にフィリピンで撃沈されています。 この同型船として、民間船として陸軍が資金を出す形で、建造されたのが、あきつ丸、にぎつ丸、熊野丸、ときつ丸 の4隻です。 但し、ときつ丸は建造中止になりました。 あきつ丸、にぎつ丸は、日本海運の客船として建造され、途中で、上甲板上面全部に飛行甲板を取付け、空母兼 上陸用舟艇母艦となりました。 これらは主に、対潜用空母として、三式連絡機、カ号観測機を搭載することになっており、空母的な外観が 色濃くなっています(1944年には更に飛行甲板を延長する予定でした)。 あきつ丸は1944年11月15日に撃沈、にぎつ丸は1944年1月12日に撃沈されています。 熊野丸は川崎汽船の持ち船として建造されましたが、こちらも、船橋構造物は撤去した空母的外観になって います。 但し、完成が1945年3月になったので、使用されず、敗戦後、引揚げ船となって、1947~51年まで、川崎汽船 の貨物船として使用されました。 航空機設備を持たないものとしては、同じく民間船として陸軍が資金を出す形で、摩耶山丸、吉備津丸、玉津丸、 高津丸、日向丸、摂津丸の6隻です。 これらは、後部に上陸用舟艇20~25隻程度を搭載しています。 摩耶山丸、玉津丸はいずれも、三井造船で建造され、前者は三井商船、後者は大阪商船で使用予定でした。 しかし、1942~44年に完成と同時に陸軍に引き渡され、前者は1944年11月17日に撃沈、後者も1944年8月19日に撃沈 されました。 高津丸は浦賀船渠で建造され、1944年完成、こちらは山下汽船の持ち船でした。 1944年11月のオルモック湾上陸を果たしましたが、二度目の上陸戦で撃沈。 吉備津丸、日向丸、摂津丸は日立因島で建造された戦時標準船1Aの改造で、吉備津丸は1943 年完成、1945年8月7日に触雷沈没、日向丸は1945年完成で、3月30日に触雷沈没、摂津丸は 1945年完成で、実戦に参加せずに終わりました。 戦後、摂津丸は引き揚げ業務に従事後、日本水産に引き渡されて捕鯨船団の冷凍船となりまし たが、南氷洋で事故によって沈んでいます。 なお、ときつ丸は、1944年10月に進水しましたが、1945年3月に工事中止、戦後に工事再開し、 1946年3月2日に日本海運の商船として引き渡されました。 戦争中に建造されたのは何隻でしょう? 21隻が「太平洋戦争中に」建造されました。 22号については、1945年4月25日に呉工廠で進水しましたが、6月23日に90%完成状態で、 工事中止となっています。 なので、太平洋戦争中には21隻竣工。 しかし、22号は戦後工事を再開し、完成させていますので、輸送艦1号型としては、22隻建造 されています。 蛇足ですが、残りの23~46号は1945年3月に全部キャンセルされ、解体、鋼材は他に転用され ました。 (219 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 一応、秋月を想定しているとして…。 日本の駆逐艦の場合は、対空機関砲としては25mm機関砲しかなく、それも、複葉機全盛の 時代に導入された代物でした。 その上は10cm高角砲であり、中口径の機関砲が無かった(毘式は無いに等しい)ので、 弾幕がどうしても薄くなりがちでした。 対空射撃完成機構については、九四式高射装置であり、これは優秀なものと言えるでしょう。 砲側の高射装置は、当初は複雑な構造の方位板測的装置と射撃盤を装備する予定でしたが、 結果的に簡便な照準器になっていますので、高射装置が破壊された後の戦闘力は落ちます。 末期には、九四式高射装置が供給不足となったので、2基取り付けるべきものを1基にしたりして いますし…。 また、米国に比べると電子機器の性能が少し劣っていたため、夜間の対空戦闘は困難でした。 更に個艦戦闘ではなく、集団的な戦闘となると米側の方が上を行きます。 運用とかについては、米軍の方に一日の長があります。 (201 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 秋月型 12隻 フレッチャー型 175隻 アレン・M・サムナー型 70隻 43年後半辺りの米海軍の場合だと レーダーで捕捉→待機していた戦闘機が向かい迎撃→余ったのを各艦迎撃って流れが出来てる 一方日本海軍でもそういった考えは有ったけど態々数を増やした戦闘機に爆装させて 米艦隊に突入させたりレーダーや航空機の誘導がお粗末だったり (201 738) 秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 秋月型設計時は、まだ本格的な対空戦闘なんて経験してないし。 訓練でさえ駆逐艦が本格的な対空訓練したのは昭和15年以降。 その後機銃は需要ばかり増えるけど、生産供給能力は全く不充分で、昭和19年のマリアナ戦あたりで漸く安定してくる。 軍縮明けで新造艦が増えただけでなく、開戦後は特設艦艇や徴用商船まで武装しなくちゃならん。 供給能力が足りないから、小艦艇は後回しで戦後や空母が優先になる。 (俺初質スレ710 591) 「艦」と「艇」はどう違うのですか? 「艦」と「艇」を分ける明確な基準はありません。 最小の「艦」は佐久間艇長で有名な第6潜水艦。全長22m強・排水量60t弱。 最大の「艇」は元セニャーウィンの見島。全長79m、排水量5000t弱。 日露戦争後に量産した駆逐「艦」を大正末にそのまま掃海「艇」に流用したこともあり、 サイズは基準ではないです。 任務が同じで「艦」と「艇」が対応して違いが見られるのは 駆逐艦と水雷艇(境界は600t) 敷設艦と敷設艇(とはいえ規定なし。最小敷設艦八重山は1100t、最大敷設艇神島は770tで大きく違う) 潜水母艦と潜水艦母艇(これも規定なし。潜水艦母艇の運用は近海に限定された巡洋艦崩れの老朽艦) 大正8年に潜水艇はすべて潜水艦に改称され、潜水艇に留め置かれたものは1隻もなく、 明確な区別があるとはいえません。 砲艦と砲艇、海防艦と海防艇は任務そのものが明確に違うので、同列には扱えません。 戦闘に用いる「艦」と「艇」に明確な区別はないと書きましたが 「特務艦」と「特務艇」は明確に違いがあります。 特務艦は実戦には参加せず、後方支援を行うもので、戦闘時は沈まないよう逃げるか祈るか…。 特務艇は沿岸部や軍港に限定されますが、戦闘となれば射撃に機雷敷設に爆雷投射に突撃していく戦闘用の船です。 「砲艇」は日華事変時には実在しました。 「砲艦」では進入できないクリークや池でパトロールや機銃掃射などを行うもので、 類別表には記載されない「雑役船」扱いです。 「海防艇」は終戦に間に合わなかった幻の類別で 「海防艦」が船団護衛をするのとまったく違い、こちらは回天運搬船でした。 (207 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? ソースが大昔の丸スペ(49号)で申し訳ないが 開戦前から特設駆潜艇は徴用が進められていたが 当初の砲装備は艇首に8cm砲・短8cm砲などで機銃類は装備されていなかった その後特設艇にも対空火力の必要性が言われるようになり 18年以降は7.7mm機銃や13mm機銃を増備するようになった 特設監視艇についてはこの本では分からないが、 その後建造された哨戒特務艇が25mm機銃4挺と爆雷のみ、駆潜特務艇は機銃1挺と爆雷のみであることを考えると 特設監視艇の装備も精々が機銃1挺程度と推察される 余談だがこの丸スペの44P上に第7昭南丸(355総トン)のほぼ真横から見た写真が載っていて キャプションでは「前檣と船檣の間に94式爆雷投射機を装備」と書いてあるが どう見ても大型の迫撃砲があるようにしか見えない 蛇足だが。 大内健二氏の光文社文庫本シリーズを読むと答が書いてあるよ。 戦う日本漁船とか特設艦艇入門とか。 (721 657-659)
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ドイツ内戦(ドイツないせん)は、1918年、当時のエーベルト政権が中央集権体制を支持したことに、南部のカトリック系住民や共産主義者が反発し勃発したドイツの内戦。 ドイツ内戦 時 1918年 - 進行中 場所 ドイツ 結果 失敗国家(進行中) 衝突した勢力 (1918-1919)ヴァイマル共和国 ハノーファー共和国ザクセン共和国 スパルタクス団バイエルン・レーテ共和国 (1919-1921)ヴァイマル共和国 バイエルン王国ヘッセンバーデンヴュルテンベルク ドイツ共産党 (1921-1923)ヴァイマル共和国 ザクセン共和国バイエルン王国ヘッセン南部同盟自由ドイツ ドイツ共産党ナチスデンマークポーランド第二共和国 (1923-1926)自由ドイツ 南部同盟ヴァイマル共和国ナチス ドイツ共産党ポーランド第二共和国 (1926-現在)ドイツ共産党 ナチス デンマークポーランド第二共和国 上三段は、便宜上左から「暫定政府に近い勢力」「地方を支配する勢力」「共産主義勢力・その他」の意。但し、この三派に分かれて争っているという意味ではない。例えばスパルタクス団はバイエルン・レーテ共和国と国境紛争を行っていた。 前史 内戦前夜 ヴィルヘルム2世は独裁体制のもと、ブランデンブルクなどの北部・プロテスタント地域を重視し、バイエルンなどの南部・カトリック地域を軽視した政治運営を行った。 経済的にも、北部と南部の間で所得格差も格段に広がった。 また、第二次世界大戦がドイツの窮乏化を加速させた。終戦後エーベルト政権が発足、エーベルト政権は中央集権体制を継続した。 それに対し南部のカトリック系住民は再独立を求め、共産主義者は共産主義国家の樹立を求めて武装、反政府勢力となった。 戦闘の推移 内戦勃発 1918年から反政府勢力は、諸都市を次々と勢力下に治め、1919年にはヴァイマル共和国の支配域も北部のみとなった。 スパルタクス団は1920年、武装勢力4派とドイツ共産党(KPD)を結成、ヴァイマル共和国もハノーファー共和国を傘下に入れ内戦が激化した。 また、1921年2月にオペルンがポーランド軍の支援を受けた反体制派の自由ドイツの攻勢によって陥落した。 泥沼化 4月には隣国デンマークが停戦協議を持ちかけたが失敗し、南シュレースヴィヒとホルシュタインの奪回を目的として参戦。 また、同時期、バーデンとヴュルテンベルクが南部同盟を結成した。 1921年7月、ザクセン共和国の樹立が宣言される。その頃、内戦の泥沼の中で南部にて大ドイツ主義の「国家社会主義ドイツ労働者党」(以下ナチス)が勢力を急速に伸ばした。 ナチスは治安の悪化した市街地などで、自警団的な役割を果たす集団として国民の支持を拡大、人気と武力を持ってバイエルン南部を制圧した。 ナチスは自主的に学校教育を行うなど、福祉的な一面も持つが、教育は反共産主義を多分に取り入れ、生徒を極右思想に染める事を意図したものであった。 10月にはナチスがミュンヘンを占領、これ以降バイエルン王国は急激に崩壊していった。 自由ドイツの台頭と衰退 1922年1月、自由ドイツはブレスラウを陥落させた。 1922年3月、ナチスがミュンヘンを平定した。同時期に自由ドイツがザクセン共和国を滅ぼし、ドイツ共産党がヘッセンを壊滅させた。 1923年1月、自由ドイツがベルリンを陥落させ、暫定政権を樹立した。しかしヴァイマル共和国は未だ抵抗していた。 1923年2月28日、ハンブルクにてフリードリヒ・エーベルトが亡くなり、ヴァイマル共和国は崩壊し始めた。 1923年5月頃から、自由ドイツは内紛により急激に瓦解、ポーランドは援助先として新たにナチスを選んだ。 1925年6月、南部同盟が消滅。同時期には、デンマークが再び介入した。 共産党政権 1926年3月、ドイツ共産党がベルリンを陥落させ、政権を掌握する。
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第六次中国共産党全国代表大会通過 第一章 総綱 中国共産党は無産階級の政党である。 中国共産党の基本綱領は徹底的に資産階級を覆し、無産階級専政を用いて資産階級専政に取って代わり、社会主義を用いて資本主義に勝利することにある。党の最終目的は、共産主義の実現である。 中国共産党はマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想を以って思想を指導する基礎理論とする。毛沢東思想は資本主義が世界的に崩壊に向かい、社会主義が世界的勝利に向かう時代のマルクスレーニン主義である。党は修正主義に反対し、教条主義に反対する姿勢を堅持する 社会主義社会は一つの相当長い的段階である。この歴史的段階に於いては常に階級、階級の矛盾と階級闘争が存在し、社会主義と資本主義の二本の道路の闘争が存在し、 資本主義復活の危険性も存在し、さらには帝国主義による侵略の威嚇も存在している。これらの矛盾は、無産階級専政下の継続革命理論と実践に頼って解決するほかは無い。 毛沢東同志を領袖とする中国共産党は偉大な、栄光輝く、正確な党であり、全中国人民の領導核心である。 党は弁証唯物主義と歴史唯物的世界観を堅持し、唯心主義と形而上学的世界観に反対する。 全党は永遠に高々と、断固としてマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想の偉大な旗を掲げ、無産階級国際主義と全世界の正統なマルクスレーニン主義政党・団体との団結を堅持し、全世界の無産階級、被圧迫人民、被圧迫民族と共に団結し、反動派を打倒し地球上から人間が人間から搾取する制度を消滅させ、人類全てが解放を得るために共同奮斗する。 共産主義斗争に身を捧げる中国共産党員は決心を下し、犠牲を恐れず、万難を排し、勝利を奪取せよ! 第二章 党員 ※省略 第三章 党組織原則 党の組織原則は民主集中制である。 党の各級領導機関は無産階級革命事業後継者の条件と 老年、中年、青年の三者結合という原則に照らし合わせ、民主協商が選挙を行う。 党内秩序を保つ為に、全党は統一の規律に服従することを必須とする。即ち個人は組織に服従し、少数は多数に服従し、下級は上級に服従し、全党は中央に服従する。 党の最高領導機関は全国代表大会と全国代表大会によって組織される中央委員会である。 国家機関、人民解放軍及び民兵、工会、貧下中農協会、婦女聯合会、 共産主義青年団及び其他革命群衆組織は全て党の一元化領導を受けることを必須とする。 第四章 党中央組織 党の全国代表大会は毎720期に一度挙行されるものとする。但し特殊な状況下の場合は繰り上げ及び延期を可とする。 党中央委員会全体会議は中央政治局、中央政治局党務委員会、中央委員会主席副主席を組織、決定する。 党中央委員会全体会議は中央政治局が招集する。 中央政治局とその常務委員会は中央委員会全体会議閉会機関に於いて、中央委員会の職権を行使する。 主席、副主席と中央政治局常務委員会領導下にあっては精悍な機構の設立が必要であり、 党、政、軍の日常工作を統一処理する。
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まだ内戦を行っていません
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GMU内戦報告書 ガチムチ底上げ計画の一環として内戦を行っています。 目的:内戦でクラン戦と同様の状況を作り出すこと VCもチームごとに分けてクラン戦と全く同じ状況で試合を行います。 チーム振り分けにより対等な戦力、また対強クランと戦うことを想定し戦力差をつけての試合も容易に行えます。 大きなメリットとして試合後に「こういう動きが嫌だった」「この動きは想定外」「もっとこうすればよかったのではないか」といった意見交換が出来ます。 ゲスト戦を行うよりも戦力が均等に近くなりメリットも大きいため、今後10人以上のメンバーがインしてる際は積極的に行っていこうと思います。 (無論、5人チームを二つ作り、双方で別のクランとクラン戦するのもあり) チーム振り分けに関しては毎日同じメンバーとならないよう変更します。 内戦結果 1月15日
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第一回GZ内戦
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12/9内戦 12/16内戦