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まだ完結してません。 ガイドとは銘打ったものの、所詮は心がけの羅列、糞の役にも立たんッ! そんな訳で、キャラ作成指南。少しでも役に立てば幸いです。 理屈で考えるな───感じろ あと、読み難いのは仕様です、気が向けば改善するかもしれません。 『作り方』 キャラ完成に至るまでの簡単な流れ、つまり目次。 何も無い所からキャラを生み出すものなので、参考に成りにくい部分もあるかと。 1『行動指針とアライメント』 2『枝分かれと“治水”』 3『過去と設定による統合』 4『好き嫌いと、信念』 その1『行動指針とアライメント』 個人的に、一番重要だと思うのが行動指針です。 つまり、マクロな視点でキャラに何をさせるか。 ツンデレやDQN等、本当に何でも良いので何かを決めましょう。 ここでは自分のキャラメイクの例を取って『ウザキャラ』とします。 アライメントというのはTRPG等の用語になるのですが、 善悪中立といった、キャラクターの性格や思考の根幹を成す設定です。 某悪魔ゲーの、カオスとかロウのようなものですね。 悪人にするか、善人にするか、どっち付かずか……これも重要な部分です。 ここではry『善』とします。これはいつ決めても良いです。 その2『枝分かれと“治水”』 次は、最初に決めた『ウザキャラ』を“枝分かれ”させます。 正直、序盤は別にすっ飛ばしてOKです、1から作る場合なので。 『ウザキャラ』の時点では善し悪しも無い、本当にただの、キャラの方向性。 同じ悪人でも『通り魔』『魔王』『狂人』等々、様々なタイプが居ますよね? 行動指針とは源流 源流を枝分かれさせ、それを何度も繰り返す事で、 連想ゲームのように多種多様なキャラを生み出す事が出来ます。 決めた属性から思い浮かべられる更に小さなカテゴリの属性。 それを思い浮かべて、繰り返して。 思い浮かばない?ならもう一つ“源流”を作り出しましょう。 この場合、最初の源流に似合いそうな源流を選ぶのが無難です。 例の場合、『ウザキャラ』だけで既に完結している感がありますね。 これをもう一つ作り上げた源流と繋げる事で、無理矢理枝分かれさせます。 例えば『ロリ』、『ロリ』で『ウザい』キャラクター、 『ロリ』単体、『ウザキャラ』単体よりは細かくなりましたよね? やりたいもので構いません。 本能の赴くままに作った方が、間違いなく面白いキャラが出来上がります。 『ツンデレ』と『お姫様』・『正義』と『警察』・『クール』と『ロボ』 こういった親和性の高い属性同士を源流とし、繋ぎ合せる。 そこから『ドS』・『熱血刑事』・『感情希薄』と派生させる。 これを納得行くまで枝分かれさせれば、属性と方向性については決まったようなものです。 実際は能力の授与も加わるので、枝分かれの幅は更に広がるでしょう。 ここでは例として『ウザい』『ロリ』から『ブリッ娘』 能力から派生した『土方』、としておきます。 その3『過去と設定による統合』 これで、キャラクターの大まかな性格付けは決まりました。 次は、自然な形にこれらの枝分かれさせた属性とアライメントを纏めましょう。 これは、所謂“いつどこゲーム”に近い感覚で纏められます。 いつ、どこで、誰が~というアレですね。 例えば。 『ロリ』が『ウザい』。何故?───『ブリッ娘』だから。 三つはアッサリと纏まりました。しかし、そこに『土方』の入る余地が、 更には『ブリッ娘』でかつ『善人』である理由がありません。 ここで、キャラクターの過去や設定の出番です。 『ブリッ娘』。何故?───『天然だから、そう見える』 『天然でウザいブリッry』が『土方』。何故?───『家が建設会社』 なんとも安直、しかしこれで納得できる理由になりました。 『天然ry土方ry』が『善人』。何故?───『ヒーロー願望がある』 『天然ryヒーローry』。何故?───『子供の頃から特撮大好き』 こうして質問を繰り返す事で、ゲーム感覚で設定を掘り下げられます。 これもまた源流からの枝分かれ、転じて言えばその2でも応用可能です。 こうする事で、自然とキャラクターの過去や設定がそう成るに至った理由を兼ねるようになります。 ここまで纏めたキャラクターを文章にすると。 『建設会社の家に生まれ、土方作業をこよなく愛するロリ。天然で純粋だが、空回りしてウザい。特撮が好きで、ヒーロー願望を持つ善人』 となります。少しはキャラクターっぽくなりました。 とりあえずここまで、続きはそのうち。
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鈴木商店(すずきしょうてん)は、戦前の日本の財閥。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。第一次世界大戦の戦争成金の代表格。 歴史 創業期 1874年、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。 1886年、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが金子直吉と柳田富士松の両番頭に委任し事業を継続する。その直後、金子は樟脳の取引で損失を出す。しかし、鈴木よねはそのままの体制で経営を続ける。 1899年、鈴木商店は、台湾樟脳油の販売権を獲得。 1902年、出資金50万円を以て合名会社鈴木商店へ組織変更(これまで個人商店だった)。 1905年、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収する。 以降、大正時代には、下記の会社を次々と買収。 1915年 播磨造船所、日本金属工業、南洋製糖他 1916年 帝国染料、日本セルロイド他 1917年 大田川水電、浪華倉庫、南朝鮮鉄道、信越電力他 1918年 日本冶金工業、旭石油、東洋マッチ、帝国樟脳他 1919年 帝国炭素、国際汽船他 1920年 帝人、新日本火災保険他 絶頂期 1914年、第一次世界大戦が始まる。当時、戦争はすぐに終結し戦争被害による影響で物価が下がるというのが大方の見方であった。鈴木商店は海外電報を駆使して戦況を集め物価は高騰するとよみ、世界中で投機的な買い付けを行う。 鉄、小麦、船などについて日本を介さない三国間貿易を始めるなど(ちなみにこの三国間貿易を手がけたのが、当時ロンドン支店勤務だった高畑誠一である)、独創的な手法で売り上げが急拡大する。1919年~1920年の全盛時代、鈴木商店の売上げは、16億円(当時の新入社員の初任給が70円、また当時の日本のGNPの約一割)に達した。この額は三井物産や三菱商事を遥かに上回っていた。また、当時のスエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有といわれた。また第一次世界大戦での塹壕の土嚢には鈴木商店のロゴ(菱形にSUZUKIの略記「SZK」)の入った小麦袋が大量に使われたという。この資金を提供していたのは台湾銀行であった。 1918年7月23日から始まった米騒動は、米を買い占めているというデマが原因で鈴木商店の焼き討ちに発展する。この時、金子直吉の首に10万円の賞金が掛けられたといわれている。 転換期 第一次世界大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃がのきなみ下落。株式を上場せずに銀行からの借り入れのみで運転資金をまかなっていた鈴木商店は大きな打撃を受ける。鈴木商店の資本金1億3000万円に対し借入金が10億円を超えていた。 1923年3月14日、持株会社制へ移行するため商号を合名会社鈴木商店から鈴木合名会社へ改め財閥本社とし、新たに株式会社鈴木商店を設立して全事業を分社化した。これはそもそも台湾銀行側が金子を鈴木合名会社の子会社となる商社部門(株式会社鈴木商店)に閉じこめ、その後目の届かないところで親会社(鈴木合名会社)傘下の不採算会社を整理しようと企んで提案したことであったが、金子が株式会社鈴木商店の専務取締役になると同時に鈴木合名会社の無限責任社員にもなってしまったため結局その企みは頓挫した。 1923年9月1日関東大震災が発生すると、政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には金子から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。1926年末の震災手形の合計2億680万円のうち台湾銀行は1億4万円で48%を占め、その台湾銀行の手形のうち7割が鈴木商店のものであった。鈴木商店の震災手形の総額は現代の物価に換算すると438億3752万8千円という巨額であった。 終焉期 1927年3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生する。そんな中で同年3月27日、台湾銀行は鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。系列化していた鳥取発祥の第六十五銀行に鈴木商店を支える体力はなく資金調達が不能となり、4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれた。 その前日の4月4日に鈴木商店との絶縁を宣言した第六十五銀行であったが、鈴木商店倒産のあおりを受け4月8日から1か月あまりにわたり営業休止に追い込まれた。営業休止は台湾銀行の台湾以外の店舗にも波及した(詳細は昭和金融恐慌も参照のこと)。第六十五銀行は翌年1928年10月に神戸銀行(現在の三井住友銀行)の源流となる神戸岡崎銀行に営業譲渡のうえ清算された。 商社部門は1928年、金子の部下だった高畑誠一を中心に鈴木商店の子会社だった日本商業会社を日商と改め再出発を図る。また金子は、同じく鈴木商店の子会社だった太陽曹達を太陽産業(昭和24年解散。現在の太陽鉱工の前身)と改め持株会社とし、同社の相談役として鈴木家の再興を図った。一時は神戸製鋼所を系列に持つなどした。なお、この他の鈴木商店の関連会社の殆どは当時鈴木商店を目の敵にしていた三井財閥の系列に統合されていった。 鈴木商店の流れを汲む会社 ( )内は旧社名 神戸製鋼所 神鋼商事 神鋼環境ソリューション(神鋼パンテツク) 神鋼電機(帝国汽船鳥羽造船所→神戸製鋼所造船部電機製作所→播磨造船所を分離→神戸製鋼所鳥羽工場) 帝人(帝国人造絹糸) ナブテスコ(帝人製機と神戸製鋼所系列のナブコが統合、合併) ただし、ナブコも、日本エヤーブレーキとして設立された際の源流は、鈴木商店系列の「大日本エヤプレ戸キ」である。 帝三製薬(第三製薬) サッポロビール(帝国麦酒) J-オイルミルズ(豊年製油→ホーネンコーポレーション) 太平洋セメント(日本セメント) IHI(帝国汽船播磨造船所→神戸製鋼所造船部→播磨造船所→石川島重工業と合併→石川島播磨重工業) いすゞ自動車(石川島重工業自動車部門より発足) 太陽鉱工(太陽産業) 東邦金属 日本精化 昭和産業 昭和シェル石油(旭石油) 三井化学(現在三井系)(クロード式窒素工業→東洋高圧→三井東圧化学) 日本油脂(合同油脂グリセリン→日産化学工業と合併後分社) ダイセル化学工業(大日本セルロイド) 富士フイルムホールディングス(現在三井系)(富士写真フイルム) 富士フイルム 日本化薬(日本火薬製造) 双日(日本商業→日商→日商岩井→ニチメンと合併 正確には系列ではなく後身) 日商液化ガス 日本精鉱 ニチリン 日本製粉(現在三井系) 三井製糖(現在三井系)(台湾製糖) 日本海運(日通系列、旧帝国汽船が旧石原産業系列の海運会社と合併。戦後、日通の子会社へ) 三井住友海上火災保険(新日本火災保険)を三井系の大正海上火災保険(現三井住友海上火災保険)が合併 大和生命保険(大正生命保険→旧あざみ生命保険に吸収合併) サンデン交通(山陽電気軌道) 参考文献 『総合商社の源流 鈴木商店』(桂芳男・日経新書) 『鼠 鈴木商店焼き打ち事件』(城山三郎・文春文庫) 『行け! まっしぐらじゃ』(辻本嘉明・郁朋社) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月17日 (金) 21 04。
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《片翼の邪天使セフィロス》 効果モンスター 星9/光属性/天使族/攻2600/守2000 このカードがフィールド上に表側表示で存在する限り、 このカードのコントローラーのドローフェイズはスキップされる。 自分のスタンバイフェイズ毎に、このカードに メテオカウンターを1つ置く。 このカードにメテオカウンターが3つ乗った時、 このカードのコントローラーはデュエルに勝利する。 Part14-23 強すぎると思う。 -- 名無しさん (2007-06-11 23 40 27) ドローはスキップされるし効果耐性も無いからバランス取れてると思うんだけど と作者が言ってみる -- 名無しさん (2008-02-26 17 09 35) 光の護封剣やらなんやらでガチガチに固めたら鬼 3ターン以内に除去系のカード来ないとどうしようもないし -- 名無しさん (2008-02-26 18 55 02) 除去カードなんてホイホイ来るだろ ドロースキップはマジで痛い -- 名無しさん (2008-04-10 14 40 07) 「我が身を盾に」、「神の宣告」などなど、防御カード多すぎだから強すぎだと思うよ。 攻撃力も高いし。 -- 名無しさん (2008-07-20 17 47 48) 片翼の邪天使タシロスなら(ry -- 名無しさん (2008-08-26 22 47 00) a -- yu (2009-10-23 10 07 03) ほんとうに作りたいです。 -- yu (2009-10-23 10 07 34) ヴァルハラで出せるし強いと思う -- 名無しさん (2009-10-25 20 20 19) いやまず攻撃力0にしたりしないときついですよ それか何かコストを作るか、ドロースキップ以外に -- 名無しさん (2009-11-06 20 12 01) 適とうなデッキでもつよいし。 たとえば、がちがちのロックデッキにいれて、 ターン稼ぎするだけ、というコンボを使ったデッキが 出来そう。 -- 名無しさん (2009-12-01 21 24 36) 5つにしたほうがいいと思う 終焉ですら20なのだから -- 名無しさん (2010-04-06 01 01 35) 名前 コメント
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ガンダム回避 がんだもー 片翼の鷹 怪盗lopard 顔文字 顔文字にひっとことGEAM 片翼チャット |ω・` ) がめる 期待 今日の一言 今日の一言意味違う 希望の閲覧 偶像 クイズ 口より決闘 ★ 月刊「片翼の鷹」 GEAM 携帯 警部 けもじ 紅白戦番外 小規模トーナメント 黒剣 駒 こっとわざGEAM こんばちは
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大正十五年度解放運動大観 山崎今朝彌 私の発見によれば本年は去年の続きである、否数年来の連続である、其中から本年の社会運動に就て今私の記憶に残る特異のものを摘記すると、 (一)労資共孰れも攻勢的、組織的、反動的であつた。 (二)同一陣容内で分裂抗争が盛んに行はれたるに不拘現実主義総連合単一政党のお題目は皆一致して居た。 (三)左翼の積極的奮闘は特に目覚しかつた。 (四)運動が闘争的、大衆的、階級的となり、思想団体、水平社、青年同盟等が衰微し、婦人運動、学生運動等が下火になつた。 (五)分合論争の結果、個人、団体、雑誌に至るまで左派右派中派の色彩分野が判然として来た。 こと等である。そして来年に持越す興味ある問題は。 (一)労農党は『大衆』派の意見が勝つて、左翼の遠慮隠忍、支部承認の厳選大会延期等で解散を免れ、中堅派が復帰するに至るかどうか。 (二)中堅連盟と統一同盟と何れが早く労農総連合を完成し得る可能性を持つに至るか。 (三)一年間の運動を特色付ける密告内通撹乱乱闘に於て、手と足の潤沢豊富なる左翼が勝つか、最後の逃場を持つ右翼が遂に勝つか、或は又大衆の支持を得るに便宜なる正義の看板を掲げる中間派にしてやらるるか。 (四)如何なる戦術で如何なる程度に総同盟が農民組合を、評議会が総同盟を切崩し得るか。 (五)左翼の猪突で右翼が敗退、反動的に官資と協力し、『左翼派の大馘首大検挙』が現出せざるか。 (六)中堅派の労農党復帰、新政党加入、新党樹立と自由連合派及右翼並に左翼との関係はどうなるか。 (七)支那式戦争の現状に於て、芝浦の紛糾を好機に、『評議会有志』の名を以て、積極的に評議会切崩しに着手する最先者は黒色青年連盟であるか総同盟であるか又は芝浦労働組合であるか等である。 資本の組織的攻勢は昔からであるが殊に本年の反動的なる制度創設、立法制定、団体製造、言論圧迫、積極的なる訴訟、解雇等は官資協同の総動員の観があつた。従つて其対立関係にある労働階級に於ても反動的に益々抗争力戦するか、又は反動的に愈々ヒラリと転身右へ附け入るかとなつた。又争議の深刻化は其参加人員継続日数検挙総計等に於て屢々レコードを破つた。訴訟に於ては多く原告側たりし労働階級が却て被告側に立ち、民事々件は転じて刑事々件となつた。賃金増加、小作料減額、法廷戦術、不納同盟遂に効目なく、農民より労働者へ、関西より関東へ、地方より東京へ、部分的経済闘争より全部的政治闘争へと、運動が当然の予定へ反動して来た。 大震の余震に比すれば総同盟の分裂には余震がなかつた。併し同じ火山脈中にあつた農民組合自治会等には分裂があり、其他の組合にも微震は常に絶へなかつた。其絶へざる分裂統合の間にあつても左右中の三帯は相変らず厳存して根気よく悪罵し合つた。にも拘はらず本年社会運動のお題目たりし労農組合の総連合、単一階級的無産政党及び現実主義には何人も反対がない耳ならず進んで本家争をして居り乍らサテ愈々一つも纏らなかつた奇現象を呈した。之れは確かに私の注目に価した。左翼は「右翼が時機尚早を唱へ協同戦線を拒み四団体を排斥し脱退を声明するは分裂を期するもので、分裂は官資の望む処好む処で、右翼幹部が之れを知り乍ら又は知り得べき地位にあり乍ら敢て之れを行ふは、即ち作為若しくは不作為に官資と意識的の協力を為すものである」と論難するに対し、右翼は同じく「悪法なるも国法に背く第三インタの指導精神を有つ左翼幹部の参加介入は当然其団体を解散消滅に導く事極めて明白なるに、之れを知り又は知り得べくして尚之れを敢行するは、真正の目的を心裡に留保して共同戦線を表面上の目的とする左翼幹部が官資と意識的に協力して作為又は不作為に団体の解散潰滅を企図するものである」と応酬し、所謂正義派たる中堅派は退いて組合主義又は自由連合の旧陣を守るべきか、右に赴くべきか左を支持すべきか、或は独自の本道を開拓して前進を継続すべきかの十字街上に暫く佇立して傍観するを余儀なくされた。 本来左翼派奮闘の目覚しさは特筆大書すべきものであつた。農民組合は初め誰しも総同盟右翼の指導に陥るものと思つて居たが今は殆んど完全に左翼が闘取し最早中間組合とは云へなくなつた。労農党も先づ地方無産団体協議会又は労働党支部より初めて全く獲得し、芝浦労働組合さへ其一部を強襲して了つた。水平運動学生運動は昔の事で、政治研究会は今年になつて其残滓迄を占領し、『大衆』の左右中間派の結成運動は完全に撲殺し新に全国労農組合統一運動同盟なる単一左翼の結成運動を起した。原因が結果するのか結果が原因するのか、兎に角左翼の運動は圧迫が多いに不拘積極的であつた。闘争的理論的であつた。今日は敵だと宣言する者に明日は協同戦線を申込む、グラ幹を攻撃するが決して右翼大衆が悪いとは云はぬ。働きかけて失敗すれば又新に働きかける。下より下よりと云ふ口の下から決して上からを忘れぬ。大衆を大衆をと云つて決して個人運動戸別訪問を怠らぬ。テーゼ、スローガン指令訓令声明宣伝応接に遑なく、誓願歎願大会総会何でも御座れ。前進退却協議協調決して機会を失はない。特に基本営評議会にあつては、統制訓練行届いたもので進退行動一糸乱れず凡ての運動に於て未だ曽つて評議会有志なるものの存在を見た事がない。一人説を吐けば萬誌之れを伝へ、闘志忽ち起つて手足四方に飛び、天下乃騒然たり。併し数に於ては評議会は着々と減少し総同盟は黙々と増大して居ると云ふ事だが、真実だらうと思へる。 思想団体、全国水平社等の衰微一時流行の青年運動、婦人運動、学生運動、教育運動等の下火も本年の特徴ではなからうか。闘争の深刻化運動の階級化大衆化は部分的の青年運動、水平運動、婦人運動、小供運動、教育運動、思想運動、文学運動、音楽運動などとゼイタクの事を云つてるヒマを与へぬのではなからうか。 思想団体の中今尚存在理由のあるものは独立労働協会のみであらう、尤も新政党成立迄の生命だ。労農党の成立した以上政治研究会は仮令大衆教育同盟となつても存在の理由がなくなつたことはアノ多士才々たる会がアノ多士才々たる各種合同青年団体と同様取立てて云ふ程の仕事を為なかつた事で明かである。各組合の青年部、教育部でさへ人のない為めでなく闘争の忙しかつたために其の活動は少かつた。水平社は大会の決定に威力と重味と厳粛さとがなくなり、全国水平社を冠した青年連盟、支持連盟、中堅連盟、解放連盟等全く別物の団体が続出し、新聞雑誌に全国水平社其物の如く宣伝される事実が既に其未来を約束して居る。婦人運動としては評議会大会と無産者新聞の討論問題になつただけ、だから仮令かの京都事件がなくとも本年の学生運動は下火になつて居たに相違ない。 総同盟分裂以来の連続的左右両翼の理論的、悪罵的、実力的の闘争は本年に至つて遂に思想界組合 間、個人、雑誌無産政党等を完全に左翼右翼中堅の三派に分裂統一した。左に評議会無産者新聞を中心に労農党、農民組合、俸給生活者、九州連合等の統一運動同盟あれば、右に総同盟民衆新聞を本営に、農民党民衆党、農民同盟官業海員組合党の連合軍(海連海員協会党は此の右翼をも敬遠するであらう)がある、中央には総連合自治会司厨製陶の全国労働組合政治部連絡委員会を中心に日本労働新聞を機関銃とする全国労働階級中堅連盟が新に陣地を堅める。誠に一代の偉観で三派にあらずんば人に非ずの慨がある。此三派は以前にも増して敵の潰滅を図るに手段を択ばす官資の連合軍は烏合の衆として目も呉れず、悪戦苦闘を続けるであらう。而して勝つべきものが遂に勝つ前に敗く可からざるものが共に敗けるような事はなからうか。 終りに極左派たる自由連合派に尤も執着を持ち注意を払ふ私も、左右を説き運動を論ずる時には遂に之れを閑却し僅かに中間派の一楔子と思考するに過ぎざる矛盾を見るは何故であらうか。(十一月十四日) <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『解放』(解放社)第5巻16号46頁(大正15年(1926年)12月1日発行)>
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9月25日 エフェリア渓谷戦い お財布の中身も潤ってきた我々鶴翼の師団は、久しぶりの日曜拠点戦へ向かうことに。 お空を飛んでる魚にも出会えたし、今日はいいことあるかもw 本日の結果はいかに。 今回の施設配置はー・・・うん、撮り忘れた・・・今回ほぼSS撮り忘れた。ごめんね・・・。 簡単に言うと、前回某ギルドさんがやっていたのを真似て、火箭を離したところに置き、 弾が砦周辺に落下するよう配置してみました。(施設は砦から少し離し、砦をエサに火箭で刈り取るように設置)。 開始時刻を迎え、砦に向かうも既に砦に敵影あり。 みんなが来るまで生き残るぞ、と。 砦の防衛を始める鶴翼のメンバー・・・その時、大きな影が視界に入る。 ”ぱおーんw” あっと言う間にバリケードを踏み潰し、砦へ迫る象。 ”どーすんのコレw割とマジでw” 状態の鶴翼のメンバー とりあえず必死に張り付き。象を撃退するも、既に丸裸にされた鶴翼の砦・・・ せめて・・・せめて21時までは戦いに参加していたい・・・。 そう思い、全員で砦を守るも@8分足らず、20時52分砦は土に還りました(´・ω・`)。 これでも開始15分でやられてた昔に比べれば、大きな進歩です。 レベル上げの効果が出たのかなw (参考)ナーガPT出発前の一枚 来週もガンバローっと。 (色葉)
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天皇と東大 大日本帝国の生と死 アマゾン(上) アマゾン(下) 目次 上巻 第一章 東大は勝海舟が作った 第二章 明治四年、東大医学部は学生の八割を退学させた 第三章 初代学長・加藤弘之の変節 第四章 『国体新論』と「天皇機関説」 第五章 慶応は東大より偉かった 第六章 早大の自立精神、東大の点数主義 第七章 元落第生・北里柴三郎博士の抵抗 第八章 「不敬事件」内村鑑三を脅した一高生 第九章 東大国史科の「児島高徳抹殺諭」 第十章 天皇「神格化」への道 第十一章 日露開戦を煽った七博士 第十二章 戸水寛人教授の「日露戦争継続論」 第十三章 戸水事件と美濃部達吉 第十四章 元白虎隊総長・山川健次郎の奔走 第十五章 山川健次邸と超能カ者・千里眼事件 第十六章 沢柳・京大総長の七教授クビ切り事件 第十七章 東大経済は一橋にかなわない 第十八章 大逆事件と森戸辰男 第十九章 大正デモクラシーの旗手・吉野作造 第二十章 "右翼イデオローグ”上杉慎吉教授と大物元老 第二十一章 元老・山県有朋の学者亡国論 第二十二章 血盟団事件に参加した帝大生 第二十三章 東大新右翼のホープ・岸信介 第二十四章 新人会きっての武闘派・田中清玄 第二十五章 三・一五共産党大検挙の波紋 第二十六章 河上肇はなぜ京大を去ったか 第二十七章 河上肇とスパイM 第二十八章 血盟団と安岡正篤 第二十九章 昭和維新の最先端にいた帝大生・四元義隆 第三十章 国家改造運動のカリスマ・井上日召 第三十一章 血盟団事件 幻の"紀元節テロ計画” 第三十二章 共産党「赤化運動」激化と「一人一殺」 第三十三章 血盟団を匿った二人の大物思想家 第三十四章 権藤成卿と血盟団グループの壊減 第三十五章 日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件 下巻 第三十六章 滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉 箆三十七章 京大・滝川幸辰教授はなぜ狙われたか 第三十八章 狂信右翼・蓑田胸喜と滝川事件 第三十九章 寛克彦と「神ながらの道」 第四十章 美濃部達吉、統帥権干犯問題を撃つ 第四十一章 美濃部達吉の大反論「一身上の弁明」 第四十二章 ゾルゲ・昭和天皇・平沼騏一郎 第四十三章 天皇機関説論争が招いた二・二六事件 第四十四章 昭和天皇と満州事変 第四十五章 東条が心酔した平泉澄の皇国史観 第四十六章 神官・平泉澄と人間魚雷「回天」 第四十七章 二・二六事件 秩父宮と平泉澄の密談 第四十八章 公爵近衛文麿と平泉澄 第四十九章 終戦阻止クーデタ計面と平泉門下生 第五十章 特攻と玉砕 平泉澄の戦争責任 第五十一章 東大法学部のタブーと恥 第五十二章 矢内原忠雄 キリスト者としての反体制 第五十三章 「太った豚」による矢内原忠雄追放劇 第五十四章 経済学部教授を獄中に葬ったスパイH 第五十五章 経済学部三国志、宿命の権カ闘争 第五十六章 河合派の崩壊と戦時経済研究会 第五十七章 「大逆」と攻撃された津田左右吉の受難 第五十八章 軍艦総長・平賀譲の経済学部大粛正 第五十九章 戦時経済の寵児・土方成美 絶頂からの転落 第六十章 粛学の立役者、田中耕太邸の四面楚歌 第六十一章 難局の経済学部長 舞出長五郎の小心姑息 第六十二章 「無罪、さもなくば重罰を」河合栄治郎の深謀 第六十三章 反ファッショ人民戦線と河合栄治郎 第六十四章 平賀東大 戦争体制下の大繁栄 第六十五章 南原繁総長と昭和天皇退位論 第六十六章 天皇に達した東大七教授の終戦工作 補遺 東京帝国大学が敗れた日 別冊「東京帝大が敗れた日」東大生が体験した「8月15日」 参考文献一覧 【資料】NHK JAPANデビュー第2回『天皇と憲法』をめぐって
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三月事件(さんがつじけん)とは、1931年(昭和6年)3月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。 計画 1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。 計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、陸軍を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の3月17日に撤回された。 この計画は決して綿密とはいえないものであった。1万人の大衆動員計画は実現性を欠いたものであり、また橋本、大川らの証言によると、計画の最終段階に至って宇垣がクーデターに反対(非合法的手段によらずに首相に就任する見通しが立ったためとの説がある)、小磯や徳川も計画を中止するよう動いたという。宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。 その後 本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者に対して何らの処分も行わず、緘口令を布いて事件を隠匿した。 なお、宇垣は事件後陸相を辞して、朝鮮総督に就任。1937年には組閣の大命を受けるに至るが、本事件や「宇垣軍縮」が災いし、軍部大臣現役武官制を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねるが、ついに首相の椅子に座ることはなかった。 この事件は、十月事件や士官学校事件、二・二六事件など、のちに頻発する軍部によるクーデター計画の嚆矢であると共に、政界上層部や右翼、国家社会主義者をも巻き込んだ大規模な策謀であった。 参考文献 堀真清編 『宇垣一成とその時代 大正・昭和前期の軍部・政党・官僚』 新評論、1999年。ISBN 4-7948-0435-0。 堀真清「三月事件」p55 - p122 小林道彦「三月事件再考」『日本歴史』2007年10月号 No.713、吉川弘文館。ISSN 0386-9164。p1 - p19 関連項目 桜会 十月事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 09 45。
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社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう) 1932年結成の日本の無産政党。本項目で解説。 1950年結成の沖縄県の革新系地域政党。⇒沖縄社会大衆党を参照。 1960年結成の韓国の革新政党。⇒社会大衆党 (韓国)を参照。 社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう)は、昭和時代戦前期の日本に存在した無産政党。結党は1932年。略称は社大党。 戦前の無産政党は長く離合集散を繰り返していたが、1931年7月に労働者農民党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成された。これがきっかけとなり、さらに1932年7月に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された(安部磯雄委員長・麻生久書記長)。 こうして、無産政党の統一が実現した。 しかし、社会大衆党は軍部・新官僚に迎合・接近していく。親軍路線を主導したのは、麻生久を中心とする旧日本労農党系のグループであった。麻生は1934年「戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「広義国防論」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。1937年、社会大衆党は総選挙で37名当選の成果を得たが、同年の日中戦争勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領を制定。その後も軍部との関係を強化し、1940年7月に自発的解散の形をとって消滅、大政翼賛会に合流した。第二次世界大戦後の日本社会党の源流の一つとなり、戦前に社大党選出の代議士であった三輪寿壮・河上丈太郎・西尾末広・浅沼稲次郎が戦後には社会党幹部となるなど、人脈的にも強くつながっている。 なお、2008年現在、沖縄に存在する地域政党・沖縄社会大衆党もしばしば「社大党」と略されるが、本項目の社会大衆党とは全く関係がない。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月8日 (土) 14 10。
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国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は発禁となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。さらに政友会・軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935年8月3日「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(第1次国体明徴声明)。 これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。美濃部も1935年9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。軍部・右翼は国体明徴の徹底を岡田首相に迫り、1935年10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国体明徴声明)。第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。 以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが学術論争といった類のものではなく、政争の道具にされた点である。つまり政友会による岡田内閣倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより明治憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。 国体明徴声明全文 Template quotation? Template quotation? 参考文献 国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス(国立公文書館 公文類聚・第五十九編・昭和十年・第二巻・政綱二・地方自治二(台湾・統計調査)・雑載) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01200686500 国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700 第3185号 10・7・25 国体明徴問題に関する件(海軍省公文備考 昭和10年 P 会議 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034588200 p1~p10 関連項目 天皇機関説 - 天皇機関説事件 美濃部達吉 国体論争 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月17日 (水) 07 29。