約 41,297 件
https://w.atwiki.jp/mtgflavortext/pages/1900.html
それは何千年も前に大地に芽吹いた。そして、戦いの呼び声に目を覚ましたのだ。 t has germinated in the earth for thousands of years. Finally it wakes to the battle s call. 第8版 【M TG Wiki】 名前
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/13.html
■中部経典 第19経 「二種考経」 〈 和 訳 〉 ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。 「比丘たちよ」 「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。 「比丘たちよ、私は正しい覚りを得る以前の、ただの菩薩であった時、このように考えた。 〈私は、それぞれを二種に分けて、その考えの中に住しでみよう(観察して時を過ごそう)〉と。 〈 未編集部分 〉 比丘たちよ、その私は、欲の考えになるもの、怒りの考えになるもの、害意の考えになるもの、これを一の部分にしました。 また、欲の無い考えになるもの、怒りの無い考えになるもの、害意の無い考えになるもの、これを第二の部分にしました。 比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に欲の考えが起こりました。 その私はこのように知りました。 【私にこの欲の考えが起こっている。それは自らを害するためになり、他を害するためになり、両者を害するためにもなる。 慧を滅し、悩害に与し、慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と。 比丘たちよ、【自らを害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。 また、比丘たちよ、【他を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。 また、比丘たちよ、【両者を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。 また、比丘たちよ、【慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と熟慮しているうちに、それが私から消てしまいました。 比丘たちよ、その私は、つぎつぎ起こる欲の考えを断ち切り、取り除き、それを終息させたのです。 ※同じようにして、怒りの考えや害意の考えを終息させていく。そして… 比丘たちよ、比丘がそれぞれについて多く細大漏らさず考え続けるならば、そのとおりに意向は生じます。 比丘たちよ、もし比丘が、欲の考えを多く細大漏らさず考え続け、欲の無い考えを捨て、欲の考えを多く作るならば、 かれのその心は欲の考えに傾きます。 比丘たちよ、もし比丘が、怒りの考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は怒りの考えに傾きます。 比丘たちよ、もし比丘が、害意の考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は害意の考えに傾きます。 たとえば、比丘たちよ、雨季の最終月の、秋の農繁期に、牛飼いが牛たちを守ろうとする場合、 かれがそれらの牛をあちこちから鞭で打ったり、逆に打ったり、抑えたり、止めたりするようなものです。 それはなぜか。比丘たちよ、かの牛飼いは、そのために殺されたり、縛られたり、没収されたり、 罵られたりする憂き目を見るからです。 比丘たちよ、ちょうどそのように、私はもろもろの不善法の危難・劣悪・汚れの状態を、 もろもろの善法の、欲の無いことの功徳・浄化の側面を見ました。 比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に、欲の無い考えが起こりました。 ※引用は、もう少し続くのだが、 この後「無尋無伺定」の説明も登場し、 これらの瞑想法が、四禅定の「前行」であることが分かるのだ。 比丘たちよ、この私はこのように知りました。 【私にこの欲の無い考えが起こっている。 それは自らを害するものにならず、他を害するものにもならず、両者を害するものにもならない。 慧を増大させ、悩害に与せず、涅槃のためになるものである。 たとえ一夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。 たとえ一昼でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。 たとえ一昼夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。】 ※ここまでが、「思考」を中心とした瞑想法の説明なのだ。 このような瞑想法は、釈尊独自のもので他に類を見ることがない。 そして、次からが「無尋無伺定」の説明なのだ。 【しかし、私があまりに長く細大漏らさず考え続けるならば、身体は疲れてしまうであろう。 身体が疲れたなら、心は乱れるであろう。 心が乱れたなら、心は定から遠ざかるであろう】と。 比丘たちよ、そこで私は内にのみ心を置き、静め、統一し、定めました。 それはなぜか。私の心が乱れないように、ということからです。 ※【心が乱れたら、心は定から遠ざかる】という説明から、 これまでの説明が、瞑想法に関するものであったことが、明らかになる。 そして、思考(考え)に集中する「有尋有伺定」を続け過ぎると、心が乱れて疲れてくるので、 その時に、心を静めて休息するための「無尋無伺定」を説いているのだ。 ※ちなみに、「有尋有伺定」には二つのタイプがある。 一つは「思考」に集中し、確定させるもの、もう一つは「想念」を育成し、確定させるものなのだ。 そして、育成し確定した想念を「念を前面に現前させる」ときに、そのトリガーとなる「無尋有伺定」を修するのだ。 釈尊は、これらの瞑想法(有尋有伺定と無尋有伺定)を、合わせて「観・ヴィパッサナー」と呼んだのだ。 「無尋無伺定」を「止・シャマタ」と呼ぶが、これも二つのタイプがある。 一つは、心を静めて休めるためのもの。 「五蓋」の一つ「掉挙(心の浮つき)」を滅する方法として「止」が説かれている。 もう一つは、無色界定へと至る、ヨーガ的な瞑想法。 (世間で実践されている瞑想の、ほとんどがこれに当たる)。 〈 編集中 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/33.html
■中部経典 第152経 「感官修習経」 〈 和 訳 〉 1 このように私は聞いた── あるとき、世尊は、ガジャンガラーに近いスヴェール林に住んでおられた。 ときに、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンは、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊と喜びの挨拶を交わし、喜ばしい印象に残る話をとり交わしたあと、一方に坐った。一方に坐ったパーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンに、世尊はこのように言われた。 「ウッタラよ、パーラーシヴィヤ・バラモンは弟子たちに感官の修習を説いていますか」と。 「ゴータマ尊よ、ここに、『眼によって色を見ない。耳によって声を聞かない』と、このように、ゴータマ尊よ、パーラーシヴィヤ・バラモンは弟子たちに感官の修習を説いております」 「ウッタラよ、そうであるとして、パーラーシヴィヤ・バラモンの言葉に従うならば、眼の見えない者が感官の修習者になります。耳の聞こえない者が感官の修習者になります。なぜならば、ウッタラよ、眼の見えない者は目によって色を見ることがなく、耳の聞こえない者は耳によって声を聞くことがないからです」と。 このように言われると、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンは沈黙し、赤面し、肩を落とし、顔を下げ、消沈し、答える術もなく坐っているだけであった。 そこで世尊は、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンが沈黙し、赤面し、肩を落とし、顔を下げ、消沈し、答える術もなくなっているのを知られ、尊者アーナンダに話しかけられた。 「アーナンダよ、パーラーシヴィヤ・バラモンは確かにある方法をもって弟子たちに感官の修習を説いています。しかし、アーナンダよ、〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 とはおよそ異なっています」と。 「世尊よ、まさにその時です。善逝よ、まさにその時です。世尊は 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 をお説きくださいますように。世尊からお聞きし、比丘どもは憶持するでありましょう」 「それでは、アーナンダよ、聞いて、よく考えなさい。話しましょう」 「かしこまりました、尊師よ」と、尊者アーナンダは世尊に答えた。 世尊はつぎのように言われた。 聖者の律における無上の感官の修習 2 「それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 になるのか。 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、眼をそなえている人は、眼を開けたり眼を閉じたり、眼を開けたり閉じたりすることができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが眼によって識られるもろもろの色に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 3 つぎにまた、アーナンダよ、耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、容易に弾指することができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが耳によって識られるもろもろの声に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 4 つぎにまた、アーナンダよ、鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、轅(ながえ)のように傾斜している蓮葉に落ちた水滴は動き、止まりません。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが鼻によって識られるもろもろの香に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 5 つぎにまた、アーナンダよ、舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、舌先に唾団を集め、容易に吐き出すことができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが舌によって識られるもろもろの味に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 6 つぎにまた、アーナンダよ、身よって触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げたりすることができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが身によって識られるもろもろの触れられるものに対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 7 つぎにまた、アーナンダよ、意よって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人が、一日中、熱された鉄盤に水を二、三滴、落とします。アーナンダよ、水滴の落下は遅いものですが、たちまち尽きて、消え失せます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。 アーナンダよ、これが意によって識られるもろもろの法に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。 アーナンダよ、このようにして 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 になります。 有学の実践者 8 それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 有学の実践者 〉 になるのか。 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 身によって触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 意によって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。 アーナンダよ、このようにして 〈 有学の実践者 〉 になります。 聖なる感官修習者 9 それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 聖なる感官修習者 〉 になるのか。 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 つぎにまた、アーナンダよ、耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 つぎにまた、アーナンダよ、鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 つぎにまた、アーナンダよ、舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 つぎにまた、アーナンダよ、身によってもろもろの触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 つぎにまた、アーナンダよ、意によって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。 アーナンダよ、このようにして 〈 聖なる感官修習者 〉 になります。 10 アーナンダよ、以上のように、私によって、 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 が説かれ、 〈 有学の実践者 〉 が説かれ、 〈 聖なる感官修習者 〉 が説かれています。 アーナンダよ、師が弟子たちのために利益を願い、憐れみによって、憐れみの心をもってすべきことを、私はそなたたちのためにしています。 アーナンダよ、これらの樹下があります。これらの空屋があります。 アーナンダよ、瞑想しなさい。怠ってはなりません。後悔があってはなりません。これがそなたたちに対するわれわれの教誡です」と。 このように世尊は言われた。 尊者アーナンダは喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。 〈 和 訳・おわり 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/12.html
■中部経典第 6 経 「希望経」 〈 和 訳 〉 ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。 「比丘たちよ」 「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。 「比丘たちよ、戒を備え、学処〈戒律〉の集成〈パーティモッカ〉を備えて住しなさい。 〈学処の集成・パーティモッカ〉の防護に守られ、正しい行動と行動の領域を備えて住しなさい。 僅かな罪に対しても恐れを見て、諸々の学ぶべき戒条をよく受持して、学びなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈修行仲間(同梵行者)たちに愛され、好まれ、尊ばれて、見習われる者になりたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎〈おろそ〉かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈修行仲間(同梵行者)たちに愛され、好まれ、尊ばれて、見習われる者になりたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎〈おろそ〉かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋〈森や樹下などの瞑想に適した臥坐所〉にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈衣・托鉢食・臥坐所・医薬品を得る者になりたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈人々から、衣・托鉢食・臥坐所・医薬品を私が受用する時、人々の行為に大果報・大功徳がありますように〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈親族や血縁者、餓鬼、死者たちの心が浄まり私を念ずる時、彼らの行為に大果報・大功徳がありますように〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈不快と快を征服したい。不快が私を征服しないように、生起する不快に打ち勝って、住したい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈恐怖を征服したい。恐怖が私を征服しないように、生起する恐怖に打ち勝って、住したい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈現世の楽住であり、清浄な心である四禅定を、望んで得る者、難なく得る者、容易に得る者でありたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈諸々の色(有対想)を超え、無色界の、寂静なる、諸々の解脱に、名身によって触れ、住したい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈三つの結縛を滅ぼして預流者となり、破滅しない者、決定者、正覚に赴く者でありたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈三つの結縛を滅ぼし、貪・瞋・痴の薄らいだ一来者となり、一度だけこの世に戻って苦を終わらせたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈五下分結を滅ぼして化生者となり、そこで般涅槃し、その世界から戻ることのない者(不還者)になりたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈種々様々な神通を経験したい。一にして多になり、多にして一になり、現われ、消え失せ、 あたかも空中を行くように、障害なく、壁を越え、垣を越え、山を越えて行きたい。 大地においても、あたかも水中におけるように出没し、水上でも地上を行くように沈むことなく行きたい。 空中でも足を組んで、翼のある鳥のように進みたい。このように大神力があり大威力がある月や太陽にも、 手で触れたり撫でたりして、梵天界までも身をもって自在力を行使したい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈清浄にして超人的な天耳通によって、神々と人間の両方の声を、遠くであれ、近くであれ、共に聞きたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈他の有情たち、他の人々の心を、心によって捉えて知りたい。すなわち、 貪りのある心を貪りのある心である、と知りたい。 貪りを離れた心を貪りを離れた心である、と知りたい。 怒りのある心を怒りのある心である、と知りたい。 怒りを離れた心を怒りを離れた心である、と知りたい。 愚痴のある心を愚痴のある心である、と知りたい。 愚痴を離れた心を愚痴を離れた心である、と知りたい。 集中した心を集中した心である、と知りたい。 散乱した心を散乱した心である、と知りたい。 広大な心を広大な心である、と知りたい。 広大ならざる心を広大ならざる心である、と知りたい。 有上の〈より上のある・劣った〉心を有上の心である、と知りたい。 無上の〈勝れた〉心を無上の心である、と知りたい。 統一された〈安定した〉心を統一された心である、と知りたい。 統一されていない心を統一されていない心である、と知りたい。 解脱した心を解脱した心である、と知りたい。 解脱していない心を解脱していない心である、と知りたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈種々の過去における生存を、たとえば、一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、 十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、 また数多〈あまた〉の破壊の劫でも、数多の創造の劫でも、数多の破壊と創造の劫でも、思い出したい。 『そこで私は、このような名前で、種姓で、階級で、このような色と食べ物を受用し、苦と楽を受け、 このように寿命を終えて、そこから死没し、ここに生まれ変わっている』と、 このように具体的に、明瞭に、種々の過去における生存を、思い出したい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈清浄にして超人的な天眼耳通によって、有情たちが、劣ったもの・優れたものとして、 美しいもの・醜いものとして、幸福なもの・不幸なものとして、死に変わり生まれ変わるのを見たい。 すなわち、『友らよ、実にこれらの有情たちは、身による悪行があり、語による悪行があり、 意による善行があって、聖者を誹謗せず、正見を持ち、正見解による行為(業)を持ち続けている。 彼らは、身体が滅ぶと、死後、苦処・悪趣(悪道)・堕処である地獄に生まれ変わった。 しかしまた、友らよ、彼ら有情たちは、身による善行があり、語による善行があり、 意による悪行があって、聖者を誹謗し、邪見を抱き、邪見解による行為(業)を持ち続けている。 彼らは、身体が滅ぶと、死後、善趣(善道)である天界に生まれ変わった』と。 このように、清浄にして超人的な天眼耳通によって、有情たちが、劣ったもの・優れたものとして、 美しいもの・醜いものとして、幸福なもの・不幸なものとして、死に変わり生まれ変わるのを見たい。 その行為に応じて(業に従って)行くのを知りたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、もし比丘が、 〈諸々の煩悩の滅尽により、無漏の、心解脱と慧解脱とを、 まさに現世において、自ら証知し(よく知り)、証明し(目の当たりに見て)、成就して住みたい〉 と願うならば、 ひたすら諸々の戒を完成させ、自己の心の寂止に努め、禅定を疎かにせず、 観法を備えて、諸々の空屋にて修練を積む者でありなさい。 比丘たちよ、戒を備え、学処〈戒律〉の集成〈パーティモッカ〉を備えて住しなさい。 〈学処の集成・パーティモッカ〉の防護に守られ、正しい行動と行動の領域を備えて住しなさい。 僅かな罪に対しても恐れを見て、諸々の学ぶべき戒条をよく受持して、学びなさい。 ── と、最初に私が言ったのは、すなわち、このような大果報・大功徳をもたらすという、 このことに関して説かれているからなのである」と。 このように、世尊は言われました。 彼ら比丘は喜び、世尊が説かれたことに大歓喜したのでした。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 ののの 〈 編集中 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/25.html
■中部経典 第62経 「大ラーフラ経誡経」 〈 和 訳 〉 1. このように私は聞いた ── あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。 さて、世尊は、午前時に着衣され、鉢衣を保ち、サーヴァッティへ托鉢に入られた。尊者ラーフラもまた、午前時に着衣し、鉢衣を保ち、世尊の後に従って行った。 ときに、世尊は顧みられ、尊者ラーフラに話しかけられた。 「ラーフラよ、過去・未来・現在のいかなる色も、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、あるいは遠くのものも近くのものも、すべて色は、〈 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない 〉 と、このように如実に、正しく、慧によって見られるべきです」 と。 「世尊よ、色のみでありましょうか。善逝よ、色のみでありましょうか」 「ラーフラよ、色もです。ラーフラよ、受もです。ラーフラよ、想もです。ラーフラよ、もろもろの行もです。ラーフラよ、識もです」 と。 さて、尊者ラーフラは 〈 世尊から面前で教誡を受けて、誰が今や村へ托鉢に入るであろうか 〉 と、そこから引き返した。そして、ある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐った。尊者サーリプッタは、尊者ラーフラがある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐っているのを見た。見て、尊者ラーフラに告げて言った。 「ラーフラよ、入出息の念を修習しなさい。」 2. さて、尊者ラーフラは夕方、独坐から立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者ラーフラは、世尊にこう申しあげた。 「尊師よ、入出息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのでしょうか」 「ラーフラよ、およそ内の、各自にある、堅い、粗い、執取されたものがあります。たとえば、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自の、堅い、粗い、執取されたものです。ラーラよ、これが、内の地界と言われます。 そしてまた、内の地界であるもの、および外の地界であるもの、これがすなわち地界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、地界について厭い、地界について心を遠ざけます。 3. つぎに、ラーフラよ、水界とは何か。内の水界と外の水界ということになります。 それでは、ラーフラよ、何が内の水界であるのか。内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。たとえば胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、脂肪油、唾、鼻液、関節液、小便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の水界と言われます。 そしてまた、内の水界であるもの、および外の水界であるもの、これがすなわち水界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、水界について厭い、水界について心を遠ざけます。 4. つぎに、ラーフラよ、火界とは何か。内の火界と外の火界ということになります。 それでは、ラーフラよ、何が内の火界であるのか。内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。たとえばそれによって熱せられ、またそれによって老化され、またそれによって焼かれ、またそれによって食べられるもの・飲まれるもの・噛まれるもの・味わわれるものが正しく消化するもの、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の火界と言われます。 そしてまた、内の火界であるもの、および外の火界であるもの、これがすなわち火界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、火界について厭い、火界について心を遠ざけます。 5. つぎに、ラーフラよ、風界とは何か。内の風界と外の風界ということになります。 それでは、ラーフラよ、何が内の風界であるのか。内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。たとえば、上向きの風、下向きの風、腹の外の風、腹のうちの風、四肢に従う風、出息、入息など、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の風界と言われます。 そしてまた、内の風界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち風界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、風界について厭い、風界について心を遠ざけます。 6. つぎに、ラーフラよ、空界とは何か。内の空界と外の空界ということになります。 それでは、ラーフラよ、何が内の空界であるのか。内の、各自にある、空、空と化すもの、執取されたものです。たとえば、耳孔、鼻孔、口腔、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものを飲み込む、また、そこに食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものがとどまる、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものが下部に出る、あるいはまた、他のどのようなものであれ、内の、各自にある、空、空と化すもの、虚空、虚空と化すもの、血肉によって触れられないもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の空界と言われます。 そしてまた、内の空界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち空界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、空界について厭い、空界について心を遠ざけます。 7. ラーフラよ、地のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、地に清浄なものを投棄しても、不浄なものを投棄しても、糞そのものを投棄しても、尿そのものを投棄しても、唾そのものを投棄しても、膿そのものを投棄しても、血そのものを投棄しても、地はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも地のように修習しなさい。地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。 ラーフラよ、水のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、水において清浄なものを洗っても、不浄なものを洗っても、糞そのものを洗っても、尿そのものを洗っても、唾そのものを洗っても、膿そのものを洗っても、血そのものを洗っても、水はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも水のように修習しなさい。水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。 ラーフラよ、火のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、火は清浄なものを焼いても、不浄なものを焼いても、糞そのものを焼いても、尿そのものを焼いても、唾そのものを焼いても、膿そのものを焼いても、血そのものを焼いても、火はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも火のように修習しなさい。火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。 ラーフラよ、風のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、風が清浄なものに吹きつけても、不浄なもの吹きつけても、糞そのものに吹きつけても、尿そのものに吹きつけても、唾そのものに吹きつけても、膿そのものに吹きつけても、血そのものに吹きつけても、風はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも風のように修習しなさい。風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。 ラーフラよ、空のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、空はどこにも定着することがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも空のように修習しなさい。空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。 8. ラーフラよ、慈しみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、慈しみを修習するそなたには、怒りというものが捨てられるであろうからです。 ラーフラよ、憐れみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、憐れみを修習するそなたには、害心というものが捨てられるであろうからです。 ラーフラよ、喜びを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、喜びを修習するそなたには、不快というものが捨てられるであろうからです。 ラーフラよ、平静を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、平静を修習するそなたには、対立というものが捨てられるであろうからです。 ラーフラよ、不浄を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、不浄を修習するそなたには、貪りというものが捨てられるであろうからです。 ラーフラよ、無常想を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、無常想を修習するそなたには、我の慢というものが捨てられるであろうからです。 9. ラーフラよ、出入息の念を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、出入息の念を修習し、復習するならば、そなたに大きな果報があり、大きな功徳があるからです。 では、ラーフラよ、出入息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのか。ラーフラよ、ここに比丘たちは、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、跏趺を組み、身を真っ直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は楽を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は楽を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心行を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を満たしつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を満たしつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を統一しつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を統一しつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を解放させつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を解放させつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は無常を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は無常を随観して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は寂滅を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は寂滅を随観して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は破棄を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は破棄を随観して入息しよう 〉 と学びます。 ラーフラよ、出入息の念をこのように修習し、このように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があります。 ラーフラよ、出入息の念がこのように修習され、このように復習される場合、それらの最後の出息も確かに知られるとおりに消滅します。知られないままにではありません」 と。 このように世尊は言われた。 尊者ラーフラは喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。 〈 和 訳・おわり 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/29.html
■長部経典 第21経 「 帝釈天問経 」 ★部分訳 第二章 14 世尊から機会を与えられた神々の主サッカは、世尊につぎのような第一の質問をした。 「わが師よ、天・人・阿修羅・龍・ガンダッパ、あるいはまたその他に種々の身のものたちがおります。かれらはいったいどのような縛りがあって、『怨みがなく、棒がなく、敵がなく、害意がなく、怨みのない者として住みたい』と思いながら、一方では怨みがあり、棒があり、敵があり、害意があり、怨みのある者として住んでいるのでしょうか」と。 このように神々の主サッカは、世尊に質問した。 「神々の主よ、天・人・阿修羅・龍・ガンダッパ、あるいはまたその他に種々の身のものたちがいます。かれらは嫉妬・吝嗇の縛りがあって、『怨みがなく、棒がなく、敵がなく、害意がなく、怨みのない者として住みたい』と思いながら、一方では怨みがあり、棒があり、敵があり、害意があり、怨みのある者として住んでいます」と。 質問された世尊は、このように、神々の主サッカに答えて言われた。 神々の主サッカは心に適い、世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。 「仰しゃるとおりです、世尊よ。仰しゃるとおりです、善逝よ。世尊のご解答をお聞きし、私はこれについてもはや疑いがなく、迷いも消えました」と。 15 このように、神々の主サッカは世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。そしてさらに、世尊に質問した。 「わが師よ、それでは、嫉妬・吝嗇は何を因縁とし、何を生起とし、何を発生とし、何を根源とするのでしょうか。何があれば、嫉妬・吝嗇は生じるのでしょうか。何がなければ、嫉妬・吝嗇は生じないのでしょうか」と。 「神々の主よ、嫉妬・吝嗇は愛憎を因縁とし、愛憎を生起とし、愛憎を発生とし、愛憎を根源とします。愛憎があれば、嫉妬・吝嗇は生じます。愛憎がなければ、嫉妬・吝嗇は生じません」 「わが師よ、それでは、愛憎は何を因縁とし、何を生起とし、何を発生とし、何を根源とするのでしょうか。何があれば、愛憎は生じるのでしょうか。何がなければ、愛憎は生じないのでしょうか」と。 「神々の主よ、愛憎は欲を因縁とし、欲を生起とし、欲を発生とし、欲を根源とします。欲があれば、愛憎は生じます。欲がなければ、愛憎は生じません」 「わが師よ、それでは、欲は何を因縁とし、何を生起とし、何を発生とし、何を根源とするのでしょうか。何があれば、欲は生じるのでしょうか。何がなければ、欲は生じないのでしょうか」と。 「神々の主よ、欲は大まかな考察を因縁とし、大まかな考察を生起とし、大まかな考察を発生とし、大まかな考察を根源とします。大まかな考察があれば、欲は生じます。大まかな考察がなければ、欲は生じません」 「わが師よ、それでは、大まかな考察は何を因縁とし、何を生起とし、何を発生とし、何を根源とするのでしょうか。何があれば、大まかな考察は生じるのでしょうか。何がなければ、大まかな考察は生じないのでしょうか」と。 「神々の主よ、大まかな考察は妄執想の部分を因縁とし、妄執想の部分を生起とし、妄執想の部分を発生とし、妄執想の部分を根源とします。妄執想の部分があれば、大まかな考察は生じます。妄執想の部分がなければ、大まかな考察は生じません」 「わが師よ、それでは、比丘はどのようにして、妄執想の部分の滅尽に到るふさわしい実践をしているのでしょうか」と。 受の業処 16 「神々の主よ、私は喜びを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は憂いを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は平静を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 17 神々の主よ、『私は喜びを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの喜びに従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような喜びであれば、そのような喜びには従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの喜びに従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような喜びであれば、そのような喜びには従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は喜びを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 18 神々の主よ、『私は憂いを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの憂いに従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような憂いであれば、そのような憂いには従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの憂いに従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような憂いであれば、そのような憂いには従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は憂いを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 19 神々の主よ、『私は平静を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの平静に従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような平静であれば、そのような平静には従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの平静に従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような平静であれば、そのような平静には従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は平静を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 20 神々の主よ、このような実践をしている比丘は、妄執想の部分の滅尽に到るふさわしい実践をしていることになります」と。 質問された世尊は、このように、神々の主サッカに答えて言われた。 神々の主サッカは心に適い、世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。 「仰しゃるとおりです、世尊よ。仰しゃるとおりです、善逝よ。世尊のご解答をお聞きし、私はこれについてもはや疑いがなく、迷いも消えました」と。 パーティモッカの防護 21 このように、神々の主サッカは世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。そしてさらに、世尊に質問した。 「わが師よ、それでは、比丘がどのように実践すれば、パーティモッカの防護による実践をしていることになるのでしょうか」 「神々の主よ、私は身による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は語による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は求めを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、『私は身による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの身による行為に従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような身による行為であれば、そのような身による行為には従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの身による行為に従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような身による行為であれば、そのような身による行為には従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は身による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 神々の主よ、『私は語による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの語による行為に従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような語による行為であれば、そのような語による行為には従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの語による行為に従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような語による行為であれば、そのような語による行為には従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は語による行為を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 神々の主よ、『私は求めを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われました。しかし、これは何によって言われるのでしょうか。 そのうち、〈 私がこの求めに従う場合、もろもろの不善の法は増大し、もろもろの善の法は減退する 〉と知るような求めであれば、そのような求めには従うべきではありません。 そのうち、〈 私がこの求めに従う場合、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大する 〉と知るような求めであれば、そのような求めには従うべきです。 そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。 神々の主よ、『私は求めを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説く』ということか言われましたが、それはこのことによって言われているのです。 神々の主よ、このような実践をしている比丘は、パーティモッカの防護による実践をしていることになります」と。 質問された世尊は、このように、神々の主サッカに答えて言われた。 神々の主サッカは心に適い、世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。 「仰しゃるとおりです、世尊よ。仰しゃるとおりです、善逝よ。世尊のご解答をお聞きし、私はこれについてもはや疑いがなく、迷いも消えました」と。 感官の防護 22 このように、神々の主サッカは世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。そしてさらに、世尊に質問した。 「わが師よ、それでは、比丘がどのように実践すれば、感官の防護による実践をしていることになるのでしょうか」 「神々の主よ、私は眼によって識られる色を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は耳によって識られる声を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は鼻によって識られる香を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は舌によって識られる味を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は身によって識られる触れられるものを二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます。 神々の主よ、また私は意によって識られる法を二種にして、すなわち、従うべきものとしても、従うべきでないものとしても説きます」と。 このように言われたとき、神々の主サッカは世尊につぎのように申し上げた。 「尊師よ、世尊は簡略にお説きくださいましたが、私はその意味を詳細にしてつぎのように理解いたします。 尊師よ、眼によって識られる色に従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような眼によって識られる色には従うべきではありません。 尊師よ、眼によって識られる色に従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような眼によって識られる色には従うべきです。 尊師よ、耳によって識られる声に従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような耳によって識られる声には従うべきではありません。 尊師よ、耳によって識られる声に従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような耳によって識られる声には従うべきです。 尊師よ、鼻によって識られる香に従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような鼻によって識られる香には従うべきではありません。 尊師よ、鼻によって識られる香に従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような鼻によって識られる香には従うべきです。 尊師よ、舌によって識られる味に従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような舌によって識られる味には従うべきではありません。 尊師よ、舌によって識られる味に従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような舌によって識られる味には従うべきです。 尊師よ、身によって識られる触れられるものに従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような身によって触れられるものには従うべきではありません。 尊師よ、身によって識られる触れられるものに従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような身によって識られる触れられるものには従うべきです。 尊師よ、意によって識られる法に従う場合、もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退するならば、そのような意によって識られる法には従うべきではありません。 尊師よ、意によって識られる法に従う場合、もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大するならば、そのような意によって識られる法には従うべきです。 尊師よ、世尊のご解答をお聞きし、世尊が簡略にお説きくださいましたことの意味をこのように詳細に理解いたします私には、これについてもはや疑いがなく、迷いも消えました」と。 23 このように、神々の主サッカは世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。そしてさらに、世尊に質問した。 「わが師よ、沙門・バラモンは誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのでしょうか」 「神々の主よ、沙門・バラモンが誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのではありません」 「わが師よ、それではなぜ、沙門・バラモンは誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえていないのでしょうか」 「神々の主よ、世界は種々の要素のもの、様々な要素のものです。その種々の要素、様々な要素の世界において、もろもろの生けるものは、執着する要素についてのみ、強く、取り、執着して言います。『これのみが真実であり、他は虚妄である』と。 それゆえ、沙門・バラモンが誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのではないのです」 「わが師よ、沙門・バラモンは誰もすべて、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者でしょうか」 「神々の主よ、沙門・バラモンは誰もすべて、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者ではありません」 「わが師よ、それではなぜ、沙門・バラモンは誰もすべて、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者ではないのでしょうか」 「神々の主よ、渇愛の滅尽により解脱している比丘たちこそ、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者です。それゆえ、沙門・バラモンは誰もすべて、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者ではないのです」と。 このように、質問された世尊は、神々の主サッカに答えて言われた。 神々の主サッカは心に適い、世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。 「仰しゃるとおりです、世尊よ。仰しゃるとおりです、善逝よ。世尊のご解答をお聞きし、私はこれについてもはや疑いがなく、迷いも消えました」と。 このように、神々の主サッカは世尊が説かれたことに歓喜し、喜びを示した。そして、世尊につぎのように言った。 「尊師よ、貪愛は病いです。貪愛は矢です。貪愛はこの人をそれぞれの生存の完成から引き抜いてしまいます。それゆえ、この人は上下に達します。 尊師よ、私は、これより外に、他の沙門・バラモンの中で、もろもろの質問の機会を得ることができませんでした。しかし、世尊はそれらについて、私に解答してくださいました。しかもまた、私には長い間、私の疑惑の矢が潜んでおりました。しかしそれも、世尊によって、引き抜かれました」と。 〈 部分訳は、ここまで 〉
https://w.atwiki.jp/lostroundcraftworks/pages/45.html
概要 この項では、ハボボニア島嶼連合の島々に存在する魔術の他国との違いや、特徴的な面を紹介する。 島ごとに多少差があるので、詳細はそれぞれのページで。 他国と比べて ハボボニアの魔術は、他国と違い長らく閉鎖的な空間であったため、民俗習慣の中で培われたものが多く、 だからこそ新たな発見が埋まってもいるし、後進的に見えることもある。 その展開方法は、魔術というより呪術と表現した方が的確で、全ての処理をマナを用いて行うのではなく、複数の物質を介しながら展開される、原始的な方法である。この"原始的"を極めているところがハボボニアの魔術体系の特筆すべき点であり、いまだ解明されていない部分が多い理由でもある。 ただし、ハボボニアの魔術は、近代的な兵器を代替できるような強力なものではなく、むしろ使用者たちは副次的なものとして使用している場合が多い。 生物に対する観念 ハボボニアの人々は、マナと魂(存在は立証されていないが)を類似したものとして考え、魔術にも生物の死体を使用することが多い。また、モーニングスター上に存在するマナは祖霊たちの霊気であり、魔術は彼らの力を"借りて"発生させているとしており、意識こそが最も魔術的なもので、意識を通じて世界の秘密にも繋がることができると語り継がれている。 意識についての秘密は誰もまだ何も知らず、それは私たちの認識できる中で最も神秘的で、世界の主要な構成要素の一つです。マナは意識から生まれ、マナもいずれ、また現世に戻るために意識となります。 ——ハボボニアの大魔導師 マラパ・ラ・ケセウ タトゥー文化 マルル族は、南下を始めた頃から、体に貝殻から作り出した染料を独自の方法で加工し、それを使用して体に模様を描く文化がある。原理は判明していないが、彼らのタトゥーは常に微量のマナを消費しながら魔術効果を生み出す。 また、研究により、タトゥーの模様はマルル族に伝わる神話の一場面が描かれているものだと判明しており、加護のような現象が発生していることは間違いない。 "領域" ハボボニアの魔術は、学術的な面ではとても興味深いものだが、技術的な面ではさほど特筆すべき文化ではないとされてきたが、近年、彼らが領域と呼ばれる独自の魔術空間の形成を可能とする未知の形態の魔術を使用することが明らかになってきた。領域についてはまだなにもわかっていないが、ハボボニアの魔術師たちが使用する領域の中では、マナ以外の何か別のエネルギーが湧き出ている。彼らは領域の中に入ることで魔術をより強固なものにし、空間の改変をより容易なものとする。国内各地の有名な大学が協力して研究を行っており、政府もこの研究にかなりの予算を投資している。
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/7.html
■中部経典 第3経 「法相続経」 〈 和 訳 〉 ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。 「比丘たちよ」 「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。 「比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐み〈思いやり〉の思いがある。 比丘たちよ、貴方たちが私の法の相続者とならずに、財の相続者となるならば、 貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。 〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。 私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。 〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。 しかし比丘たちよ、貴方たちが私の財の相続者とならずに、法の相続者となるならば、 貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。 〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。 私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。 〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。 それ故ここに、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐みの思いがある。 余分の捨てられるべき托鉢食 ここに、比丘たちよ、〈例えば〉私が食事をし、 充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しているとする。 しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食があり、 そこへ飢え、衰弱した二人の比丘がやって来たとしよう。 私は彼らに、こう言う。 『比丘たちよ、私は食事をし、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食している。 しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、望むのであれば、食べなさい。 もし、貴方たちが食べないのであれば、 私は今から青草の無いところに捨てるか、生き物のいない水に沈めよう。』と。 そこで、一人の比丘はこのように思ったとする。 〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。 しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、私たちが食べないのであれば、 今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。 しかし、世尊によって、 『比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。』と、こう言われているのだ。 しかも、この托鉢食は財の一つである。 私はこの托鉢食を食べず、この飢えと衰弱のまま、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。 そこで彼は、托鉢食を食べず、その飢えと衰弱のまま、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 また、連れの比丘は、このように思ったとする。 〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。 しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、私たちが食べないのであれば、 今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。 私はこの托鉢食を食べ、この飢えと衰弱を除き、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。 そこで彼は、その托鉢食を食べ、飢えと衰弱を除き、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 比丘たちよ、その比丘が、たとえその托鉢食を食べて、飢えと衰弱を除き、 そのようにして一昼夜を過ごしたとしても、 かの先の〈最初に説明した〉比丘こそが、私のより尊敬すべき、より称賛すべき者なのだ。 それは何故か? 比丘たちよ、それが彼の比丘にとって、 長く、少欲に、知足に、削減に、養い易さに、精進努力に資することになるからである。 それ故、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐みの思いがある。 世尊はこのように言われました。 善逝〈ぜんせい〉はこのように言われて、座より立たれ、精舎に入って行かれました。 サーリプッタの説法 そこで、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去られてから間もなく、比丘たちに告げて言いました。 「友、比丘たちよ」と。 「友よ」と、 彼ら比丘たちは答えました。 サーリプッタは、こう言いました。 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけでもって、遠離 を学ばない ということになるのであろうか? また、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけでもって、遠離 を学ぶということになるのであろうか?」と。 「友よ、私たちが遠くからでもやって来るのは、 サーリプッタ尊者のもとで、この言葉の意味を知るためです。 どうか、サーリプッタ尊者こそ、この言葉の意味を明らかにしてください。 サーリプッタ尊者からお聞きし、比丘たちは学びます。」 「それでは友らよ、聞いて、よく考えなさい。話しましょう。」 「分かりました、友よ。」 と、彼ら比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。 遠離 を学ばない弟子たちの場合 尊者サーリプッタは、次のように言いました。 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけをもって、遠離 を学ばないということになるのであろうか? 友らよ、この〈仏教の〉教えにおいて、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、 遠離 を学ばない、 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない、 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している、ということがある。 友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは非難されなければならない。 実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは非難されなければならない。 実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友よ、これだけをもって、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ばないということになるのだ。 遠離 を学ぶ弟子たちの場合 次にまた友らよ、どれだけをもって、 遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶということになるのであろうか? 友らよ、ここに、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶ、 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる、 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄し、遠離を先としている、ということがある。 友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、その場合、貪りは悪しきものであり、また怒りは悪しきものである。 貪りを捨てるために、また怒りを捨てるために、中道がある。 それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。 しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か? これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。 友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。 友らよ、その場合、 忿怒は悪しきものであり、また恨みは悪しきものである。 忿怒を捨てるために、また恨みを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 被覆は悪しきものであり、また悩害は悪しきものである。 被覆を捨てるために、また悩害を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 嫉妬は悪しきものであり、また吝嗇は悪しきものである。 嫉妬を捨てるために、また吝嗇を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 諂いは悪しきものであり、また誑かしは悪しきものである。 諂いを捨てるために、また誑かしを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 強情は悪しきものであり、また傲慢は悪しきものである。 強情を捨てるために、また傲慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 慢心は悪しきものであり、また過慢は悪しきものである。 慢心を捨てるために、また過慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 陶酔は悪しきものであり、また放逸は悪しきものである。 陶酔を捨てるために、また放逸を捨てるために、中道がある。 それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。 しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か? これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。 友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。」と。 尊者サーリプッタはこのように言いました。 かれら比丘たちは喜び、尊者サーリプッタが説かれたことに歓喜したのでした。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 〈 編集中 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
■長部経典 第9経 「 ポッタパーダ経 」 部分訳 ポッタパーダよ、ここにおいて、比丘は、自己の想 を有する者となる。 そして彼は、そこからその次へ、その次からさらにその次へと、順々に進み、想の頂点 に触れる。 想の頂点 ( 無所有処 ) に立った彼は、次のように考える。 〈 私には、意思することが善くない。私には、意思しないことが善い。 もし私が、意思し、意思活動をするならば、 私のこれら 諸々の想 [ 〈 想の頂点 〉である 無所有処 の想のこと ] は消滅し、 また別の諸々の粗い想 [ 無所有処 より劣る、識無辺処 などの 諸想 のこと ] が生起するだろう。 私は、決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか 〉 と。 そこで彼は、決して 意思 せず、また 意思活動 をしない。 意思 せず、また 意思活動 をしない彼に、 それら 諸々の想 はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想 も生起することがない。 彼は、滅 に触れる。 このようにして、ポッタパーダよ、順々の正知 による 想滅定 が生起するのである。 ( 長部経典 9経 『 ポッタパーダ経 (心作用の消滅) 』 ) 〈 編集中 〉
https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/21.html
■長部経典 第15経 「 大因縁経 」 ★部分訳 アーナンダよ、七つの識の住処(七識住)があり、また、二つの領域(二処)がある。 七つの識の住処とは何か。 アーナンダよ、さまざまな体を持ち、さまざまな想を持っている生ける者たちがいる。 それは人間、一部の天、一部の悪しき境涯の者たちである。 これが第一の識の住処である。 アーナンダよ、さまざまな体を持ち、同一の想を持っている生ける者たちがいる。 それは、初禅によって生まれた梵身の諸天(大梵天・梵輔天・梵衆天)である。 これが第二の識の住処である。 アーナンダよ、同一の体を持ち、さまざまな想を持っている生ける者たちがいる。 それは光音天(アーバッサラの諸天)である。 これが第三の識の住処である。 アーナンダよ、同一の体を持ち、同一の想を持っている生ける者たちがいる。 それは遍浄天(スバキンハの諸天)である。 これが第四の識の住処である。 アーナンダよ、色の想を完全に超越し、対触の想を消し去り、種々の想を思惟しないことから、 『空間は無限である』という空無辺処に到達した生ける者たちがいる。 これが、第五の識の住処である。 アーナンダよ、空無辺処を完全に超越して、 『意識は無限である』という識無辺処に到達した生ける者たちがいる。 これが、第六の識の住処である。 アーナンダよ、識無辺処を完全に超越して、 『何ものも存在しない』という、無処有処に到達した生ける者たちがいる。 これが、第七の識の住処である。 ( 長部経典 15経 『大因縁経 (生成の由来についての大なる経) 』 ) 二つの領域とは何か。 想の無い生ける者たちの領域、 そして第二に、想があるのでもなく無いのでもない生ける者たちの領域である。 ( 同 上 ) 〈 編集中 〉