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■中部経典 第118経 「出入息念経」 〈 和 訳 〉 1 このように私は聞いた── あるとき、世尊は、サーヴァッティに近い東園のミガーラマーター殿堂において、多くの、それぞれによく知られている長老弟子たち、すなわち、尊者サーリプッタ、尊者マハーモッガラーナ、尊者マハーカッサパ、尊者マハーカッチャヤーナ、尊者マハーコッティカ、尊者マハーカッピナ、尊者マハーチュンダ、尊者アヌルッダ、尊者レーヴァタ、尊者アーナンダ、またその他のそれぞれによく知られている長老弟子たちとともに、住んでおられた。 ちょうどそのころ、長老弟子たちは新参比丘たちに教示し、教誡していた。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。またかれら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。 2 ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩に、すなわち自恣の満ちている満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地に坐っておられた。 ときに世尊は、それぞれの沈黙している比丘僧団を見回され、比丘たちに話しかけられた。 「比丘たちよ、私はこの実践に満ちています。比丘たちよ、私はこの実践に心が満ちています。それゆえ、比丘たちよ、まだ得られていないものを得るために、到達していないものに到達するために、目のあたりに見ていないものを目のあたりに見るために、さらに一層、精進に務めなさい。私はこのサーヴァッティで、第四月のコームディー満月を待つことにします」と。 地方の比丘たちは聞いた。『世尊はそのサーヴァッティで、第四月のコームディー満月を待たれるそうだ』と。かれら地方の比丘たちは、世尊にお目にかかろうと、サーヴァッティでを訪れた。 かれら長老弟子たちは、さらに一層、新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。またかれら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。 3 ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩に、すなわち第四月のコームディー満月の、満ちている満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地に坐っておられた。ときに、世尊は、それぞれの沈黙している比丘僧団を見回され、比丘たちに話しかけられた。 「比丘たちよ、この会衆は饒舌がありません。比丘たちよ、この会衆は饒舌を離れ、純粋であり、真髄のうちに確立されています。 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、供養にふさわしいもの、真先の供養にふさわしいもの、信施にふさわしいもの、合掌にふさわしいもの、世間の無上の福田、そのような会衆です。 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、そこに少し施されたものが多くなり、多く施されたものがより多くなる、そのような会衆です。 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち世界には見ることが難しい、そのような会衆です。 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、数多のヨージャナの距離を、食糧袋を持ってでも会いに行くのにふさわしい、そのような会衆です。 4 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、為すべきことを為し、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って解脱している者たちがいます。 比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちがいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五つの下位の束縛の滅尽によって、化生者となり、そこで完全に滅する者として、その世界から還らない者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、貪・瞋・痴が薄いことにより、一来者となり、ただ一度だけこの世界に戻って来て、苦の終わりを作るはずの者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、預流者となり、破壊しない者、決定者としてすぐれた覚りに趣く者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四念処の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四正勤の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四神足の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五根の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五力の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、七覚支の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、聖なる八支の道の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、慈しみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、憐れみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、喜びの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、平静の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、不浄の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、無常想の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、出入息念の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。 比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、四念処を満たします。四念処は修習され、復習され、七覚支を満たします。七覚支は修習され、復習され、明と解脱を満たします。 5 それでは、比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、どのように大きな果報、どのように大きな功徳があるものになるのか。 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。 また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は楽を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は楽を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心行を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を喜ばせつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を喜ばせつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を定めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を定めつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は心を解脱させつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を解脱させつつ入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は無常を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は無常を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は滅尽を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は滅尽を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は捨離を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は捨離を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。 比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。 6 比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、四念処を満たすのか。 比丘たちよ、比丘は、 ── 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、〈 私は全身を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの身におけるある一つの身、すなわち出入息である、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 1 ) 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は楽を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は楽を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心行を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は心行を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの受におけるある一つの受、すなわちもろもろの出入息についてよく思惟することである、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 2 ) 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は心を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は心を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を喜ばせつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を喜ばせつつ入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を定めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を定めつつ入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を解脱させつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を解脱させつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘は心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私は失念の者、不正知の者に出入息念を説くことはありません。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 3 ) 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は無常を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は無常を観つづけて入息しよう 〉と学びます。〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉と学び、〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉と学びます。〈 私は滅尽を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は滅尽を観つづけて入息しよう 〉と学びます。〈 私は捨離を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は捨離を観つづけて入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。かれは、その貪欲と憂いの捨断を慧によって観て、よく観察する者になります。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 4 ) 比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、四念処を満たします。 7 比丘たちよ、四念処は、どのように修習され、どのように復習され、七覚支を満たすのか。 比丘たちよ、比丘が身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 ) かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 ) かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 ) 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 ) 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 ) 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 ) かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 ) 8 比丘たちよ、比丘がもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 ) かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 ) かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 ) 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 ) 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 ) 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 ) かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 ) 9 比丘たちよ、比丘が心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 ) かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 ) かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 ) 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 ) 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 ) 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 ) かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 ) 10 比丘たちよ、比丘がもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 ) かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 ) かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 ) 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 ) 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 ) 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 ) かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 ) 比丘たちよ、四念処は、このように修習され、このように復習され、七覚支を満たします。 11 比丘たちよ、七覚支は、どのように修習され、どのように復習され、明と解脱を満たすのか。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく念というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく法の吟味というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく精進というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく喜びというすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく軽快というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく禅定というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく平静というすぐれた覚りの部分を修習します。 比丘たちよ、七覚支は、このように修習され、このように復習され、明と解脱を満たします」と。 このように世尊は言われた。 かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。 〈 和 訳・おわり 〉
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■中部経典 第3経 「法相続経」 〈 和 訳 〉 ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。 「比丘たちよ」 「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。 「比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐み〈思いやり〉の思いがある。 比丘たちよ、貴方たちが私の法の相続者とならずに、財の相続者となるならば、 貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。 〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。 私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。 〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。 しかし比丘たちよ、貴方たちが私の財の相続者とならずに、法の相続者となるならば、 貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。 〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。 私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。 〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。 それ故ここに、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐みの思いがある。 余分の捨てられるべき托鉢食 ここに、比丘たちよ、〈例えば〉私が食事をし、 充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しているとする。 しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食があり、 そこへ飢え、衰弱した二人の比丘がやって来たとしよう。 私は彼らに、こう言う。 『比丘たちよ、私は食事をし、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食している。 しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、望むのであれば、食べなさい。 もし、貴方たちが食べないのであれば、 私は今から青草の無いところに捨てるか、生き物のいない水に沈めよう。』と。 そこで、一人の比丘はこのように思ったとする。 〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。 しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、私たちが食べないのであれば、 今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。 しかし、世尊によって、 『比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。』と、こう言われているのだ。 しかも、この托鉢食は財の一つである。 私はこの托鉢食を食べず、この飢えと衰弱のまま、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。 そこで彼は、托鉢食を食べず、その飢えと衰弱のまま、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 また、連れの比丘は、このように思ったとする。 〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。 しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。 もし、私たちが食べないのであれば、 今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。 私はこの托鉢食を食べ、この飢えと衰弱を除き、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。 そこで彼は、その托鉢食を食べ、飢えと衰弱を除き、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 比丘たちよ、その比丘が、たとえその托鉢食を食べて、飢えと衰弱を除き、 そのようにして一昼夜を過ごしたとしても、 かの先の〈最初に説明した〉比丘こそが、私のより尊敬すべき、より称賛すべき者なのだ。 それは何故か? 比丘たちよ、それが彼の比丘にとって、 長く、少欲に、知足に、削減に、養い易さに、精進努力に資することになるからである。 それ故、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。 財の相続者になってはいけない。 私は、貴方たちに対し、 〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉 ── という憐みの思いがある。 世尊はこのように言われました。 善逝〈ぜんせい〉はこのように言われて、座より立たれ、精舎に入って行かれました。 サーリプッタの説法 そこで、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去られてから間もなく、比丘たちに告げて言いました。 「友、比丘たちよ」と。 「友よ」と、 彼ら比丘たちは答えました。 サーリプッタは、こう言いました。 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけでもって、遠離 を学ばない ということになるのであろうか? また、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけでもって、遠離 を学ぶということになるのであろうか?」と。 「友よ、私たちが遠くからでもやって来るのは、 サーリプッタ尊者のもとで、この言葉の意味を知るためです。 どうか、サーリプッタ尊者こそ、この言葉の意味を明らかにしてください。 サーリプッタ尊者からお聞きし、比丘たちは学びます。」 「それでは友らよ、聞いて、よく考えなさい。話しましょう。」 「分かりました、友よ。」 と、彼ら比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。 遠離 を学ばない弟子たちの場合 尊者サーリプッタは、次のように言いました。 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、 いったいどれだけをもって、遠離 を学ばないということになるのであろうか? 友らよ、この〈仏教の〉教えにおいて、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、 遠離 を学ばない、 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない、 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している、ということがある。 友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは非難されなければならない。 実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。 〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは非難されなければならない。 実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。 友よ、これだけをもって、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ばないということになるのだ。 遠離 を学ぶ弟子たちの場合 次にまた友らよ、どれだけをもって、 遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶということになるのであろうか? 友らよ、ここに、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶ、 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる、 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄し、遠離を先としている、ということがある。 友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。 実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。 実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。 すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉 というこの第一の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉 というこの第二の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉 というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。 実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。 友らよ、その場合、貪りは悪しきものであり、また怒りは悪しきものである。 貪りを捨てるために、また怒りを捨てるために、中道がある。 それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。 しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か? これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。 友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。 友らよ、その場合、 忿怒は悪しきものであり、また恨みは悪しきものである。 忿怒を捨てるために、また恨みを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 被覆は悪しきものであり、また悩害は悪しきものである。 被覆を捨てるために、また悩害を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 嫉妬は悪しきものであり、また吝嗇は悪しきものである。 嫉妬を捨てるために、また吝嗇を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 諂いは悪しきものであり、また誑かしは悪しきものである。 諂いを捨てるために、また誑かしを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 強情は悪しきものであり、また傲慢は悪しきものである。 強情を捨てるために、また傲慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 慢心は悪しきものであり、また過慢は悪しきものである。 慢心を捨てるために、また過慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。 陶酔は悪しきものであり、また放逸は悪しきものである。 陶酔を捨てるために、また放逸を捨てるために、中道がある。 それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。 しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か? これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。 友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。」と。 尊者サーリプッタはこのように言いました。 かれら比丘たちは喜び、尊者サーリプッタが説かれたことに歓喜したのでした。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 〈 編集中 〉
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相応部経典 因縁篇 12.02 分別 〈 和 訳 〉 ある時、世尊は、サーヴァッティに住んでおられました。 その時、世尊は、比丘たちに次のように話しかけられました。 「比丘たちよ、私は汝らに縁起を分別して説こう。 汝らはそれを聞いて、よく思念(考察)しなさい。私は説くことにしよう」と。 「尊師よ、かしこまりました」と、比丘たちは世尊に答えました。 世尊は次のように説きました。 「比丘たちよ、縁起とは何であろうか? 比丘たちよ、無明に縁りて行があり、行に縁りて識があり、識に縁りて名色があり、名色に縁りて六処があり、六処に縁りて触があり、触に縁りて受があり、受に縁りて渇愛があり、渇愛に縁りて取著があり、取著に縁りて有があり、有に縁りて生があり、生に縁りて老死・愁・悲・苦・憂・悩がある。是の如きが、全苦蘊の集起なのである。 比丘たちよ、老死とは何であろうか? それぞれの衆生の部類における、それぞれの衆生の老い・老衰・老い耄(ぼ)れること・歯の欠落・白髪・皺(しわ)のよった皮膚・寿命の減退・諸根(感覚器官)の衰弱、これを老と言う。それぞれの衆生の部類における、それぞれの衆生の死滅・死没・破壊・破滅・消滅・死亡・死・死ぬこと・諸蘊の破壊・遺骸の放棄・命根の破滅、これを死と言う。是の如き老と死を、比丘たちよ、老死と言うのである。 比丘たちよ、生とは何であろうか? それぞれの衆生の部類における、それぞれの衆生の出生・出産・誕生・発生・降生・諸蘊の出現・諸処の獲得、比丘たちよ、これを生と言うのである。 比丘たちよ、有とは何であろうか? 比丘たちよ、これら三つの有がある。欲有(五妙欲に囚われた生存)と色有(色想・有対想に囚われた生存)と無色有(無色想に囚われた生存)とである。比丘たちよ、これを有と言うのである。 比丘たちよ、取著とは何であろうか? 比丘たちよ、これら四つの取著がある。欲取(五妙欲への固執)・見取(見解への固執)・戒禁取(間違った戒律や禁忌への固執)・我語取(自身への固執)、である。比丘たちよ、これを取著と言うのである。 比丘たちよ、渇愛とは何であろうか? 比丘たちよ、これら六つの渇愛の集まり(六愛身)がある。色への渇愛、声への渇愛、香への渇愛、味への渇愛、触感への渇愛、法(思考・意 の対象となるもの)への渇愛、である。比丘たちよ、これを渇愛と言うのである。 比丘たちよ、受とは何であろうか? 比丘たちよ、これら六つの受の集まり(六受身)がある。眼の接触により生じる受、耳の接触により生じる受、鼻の接触により生じる受、舌の接触により生じる受、身の接触により生じる受、意の接触により生じる受、である。比丘たちよ、これを受と言うのである。 比丘たちよ、触とは何であろうか? 比丘たちよ、これら六つの触の集まり(六触身)がある。眼の接触、耳の接触、鼻の接触、舌の接触、身の接触、意の接触、である。比丘たちよ、これを触と言うのである。 比丘たちよ、六処とは何であろうか? 眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処、である。比丘たちよ、これを六処と言うのである。 比丘たちよ、名色とは何であろうか? 受・想・思・触・作意、これを名と言う。四大種(地・水・火・風)および四大種によって造られた色(物質的存在)、これを色と言う。是の如き名と色を、比丘たちよ、名色と言うのである。 比丘たちよ、識とは何であろうか? 比丘たちよ、これら六つの識の集まり(六識身)がある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、である。比丘たちよ、これを識と言うのである。 比丘たちよ、行とは何であろうか? 比丘たちよ、これら三つの行(行為)がある。身行・語行・意行、である。比丘たちよ、これらを行と言うのである。 比丘たちよ、無明とは何であろうか? 比丘たちよ、苦についての無智、苦の集起についての無智、苦の滅尽についての無智、苦の滅尽に趣く道についての無智である。比丘たちよ、これを無明と言うのである。 比丘たちよ、このように無明に縁りて行があり、行にに縁りて識があり、識に縁りて名色があり、名色に縁りて六処があり、六処に縁りて触があり、触に縁りて受があり、受に縁りて渇愛があり、渇愛に縁りて取著があり、取著に縁りて有があり、有に縁りて生があり、生に縁りて老死・愁・悲・苦・憂・悩がある。是の如きが、全苦蘊の集起なのである。 無明の無餘(むよ・残余無く消滅すること)・離貪・滅に縁りて行の滅があり、行の滅に縁りて識の滅があり、識の滅に縁りて名色の滅があり、名色の滅に縁りて六処の滅があり、六処の滅に縁りて触の滅があり、触の滅に縁りて受の滅があり、受の滅に縁りて渇愛の滅があり、渇愛の滅に縁りて取著の滅があり、取著の滅に縁りて有の滅があり、有の滅に縁りて生の滅があり、生の滅に縁りて老死・愁・悲・苦・憂・悩の滅がある。是の如きが、全苦蘊の滅尽なのである」。 〈 和 訳・おわり 〉
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■増支部経典 8集 第7 地震品 63 略説 〈 和 訳 〉 ある時、一人の比丘 が 世尊 の 許へ 訪れ、礼拝して、一方 の 側 に 座りました。 座ってから、彼 は 世尊 に 言いました。 「 世尊よ、願わくば 私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 世尊から 法 を 聴いたならば、私は 独りで離れて静居をして、 不放逸で、熱心に、專精にして住したいと思います」 「 しかし、一類の愚人たち は、そのようにして 私に 教えを 請うのだが、 法を 説かれると、── 私に 追随しよう と 思惟する のだよ」 「 世尊よ、どうか私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 私は、世尊の所説 の 義 を 悟り、そして、世尊の所説 を、私は 相続 したい と 思います」 「 ── 比丘よ、然らば 汝は、このように学びなさい。 比丘よ、汝、内側に 心を向けて 住し、妙住 せしめて、 すでに生じた 悪不善法が、心を 捉えて 住するようなことが 無いように したならば、 比丘よ、次に 汝は、このように 学びなさい ── 1.慈心解脱 私は、慈心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 2.悲心解脱 私は、悲心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 3.喜心解脱 私は、喜心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 4.捨心解脱 私は、捨心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 5.身念処 私は、身において 身を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 6.受念処 私は、受において 受を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 7.心念処 私は、心において 心を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── 8.法念処 私は、法において 法を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、汝は、行くにも 安穏に 行き、住まう にも 安穏に 住まい、 坐す にも 安穏に 坐し、身を臥す にも 安穏に 臥す であろう。 」 すると その比丘は、世尊から この教えを 聴いて 席を立ち、 世尊に 礼拝し、周りを回って、世尊を 右にみて その場を 離れました。 そして その比丘は、独り 世間を 離れて 住し、不放逸、熱心、專精にして住し、 久しからずして、善男子が正しく家を出て、出家をすることで得られる最高の境地に達しました。 そして自ら証知し、現証し、具足して住し、我が生はすでに尽き、梵行すでに立ち、 所作はすでに弁(わきま)えて、さらにまた有を受けず証知し、その比丘は、阿羅漢の一人となったのです。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 ののの 〈 編集中 〉
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中部経典 第148経 「六六法経」 〈 和 訳 〉 1 このように私は聞いた── あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。 「比丘たちよ」と。 「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。 世尊はこのように言われた。 「比丘たちよ、そなたたちに、初めもよく、中間もよく、終わりもよい、内容もよく、形式もよい法を説きます。完全無欠で清浄な梵行を明らかにします。すなわち、六の六法です。それを聞き、よく考えなさい。話しましょう」と。 「かしこまりました、尊師よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。 世尊はつぎのように言われた。 「六内処が知られるべきです。 六外処が知られるべきです。 六識身が知られるべきです。 六触身が知られるべきです。 六受身が知られるべきです。 六愛身が知られるべきです。 2 では、『六内処が知られるべきです』とこのように言われましたが、これは何によって言われているのか。眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処です。『六内処が知られるべきです』とこのように言われましたが、これはそのことによって言われています。これが第一の六法です。 では、『六外処が知られるべきです』とこのように言われましたが、これは何によって言われているのか。色処・声処・香処・味処・触処・法処です。『六外処が知られるべきです』とこのように言われましたが、これはそのことによって言われています。これが第二の六法です。
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■ 増支部経典 7集 第5 大供犠品46 〈 和 訳 〉 比丘たちよ、これらの 七想 は 修習せられ、 しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露に 浴し、甘露に 究境す、 ── 何をか 七 となす。 不浄想 ・ 死想 ・ 食不浄想 ・ 一切世間不可楽想 ・ 無常想 ・ 無常苦想 ・ 苦無我想 なり。 比丘たちよ、これらの 七想 は 修習せられ、 しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、── と、 このように 言われる のは、これは何を 基 にして 言われるのであろうか? 1.不浄想 比丘たちよ、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 淫欲 を 行なうことに著せず、それを 厭 ( いと ) い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発が持績 するのである。 比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、 あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) しである。 比丘たちよ、是の如く、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 淫欲 を 行なうこと に 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、もし、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 淫欲 を 行なうこと において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 不浄想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 淫欲 を 行なうこと において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 不浄想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、不浄想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 2.死想 それでは比丘たちよ、死想が修習せられ、しばしば行われて大果あり、大称賛あり、甘露に浴し、甘露に究境す、 ── と、このように 言われる のは、これは何を 基 にして 言われるのであろうか? 比丘たちよ、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、 あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。 比丘たちよ、是の如く、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、もし、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 活命の希望 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 死想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 死想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、死想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 3.食不浄想 比丘たちよ、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、 あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。 比丘たちよ、是の如く、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、もし、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 味への渇愛 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 食不浄想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 食不浄想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、食不浄想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 4.一切世間不可楽想 比丘たちよ、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、 あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。 比丘たちよ、是の如く、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、もし、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 世間心 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 一切世間不可楽想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 一切世間不可楽想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、一切世間不可楽想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 5.無常想 比丘たちよ、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、 あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。 比丘たちよ、是の如く、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。 比丘たちよ、もし、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 利養・尊敬・名声 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 無常想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 無常想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、無常想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 6.無常苦想 比丘たちよ、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、 怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、 ── 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、 激しい 畏怖想 が 現前する。 比丘たちよ、もし、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、 怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、 激しい 畏怖想 が 現前 しなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 無常苦想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、 怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、 激しい 畏怖想 が 現前 するならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 無常苦想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、無常苦想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 7.苦無我想 比丘たちよ、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、 この 有識の身 において、および一切相において、 我我所慢 を 離れ、偏見 を 超越し、寂静 にして 妙解脱 している。 比丘たちよ、もし、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 この 有識の身 において、および一切相において、 我我所慢 を 離れず、偏見 を 超越せず、寂静 ならず、妙解脱 していなければ、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 苦無我想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、もし、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、 この 有識の身 において、および一切相において、 我我所慢 を 離れ、偏見 を 超越し、寂静 にして 妙解脱 しているならば、 比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。 私には 苦無我想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、 ── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。 比丘たちよ、苦無我想 が 修習せられ、しばしば行われて大果あり、大称賛 あり、甘露 に浴し、甘露に究境す、 ── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。 比丘たちよ、これらの 七想 が 修習せられ、 しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露に 浴し、甘露に 究境するのである、 と。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 この「七想」の中で、私が、注目をしたポイントは、〈 6.無常苦想 〉です。 〈 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対しているかのような、 激しい畏怖想が現前する 〉 ── これを実際に「体験」すると、時代劇などで剣豪が、相手の「殺気を感じる」ということの意味が解ります。 その瞬間、周囲の温度が一瞬で冷え込み、シン、と静まり返るのです。 そして、私の場合は、私を狙う誰かが、今まさに凶器を手にして部屋の中へ侵入して来る… というビジョンが、はっきりと脳裏に浮かびました。 それが、あまりにも明瞭なビションだったために、しばらく落ち着かず、何度も外を確認〈点検〉したことを覚えています。 ── このような「体験」をその人が実際にしていないと、経典が示している「意味」を、掴むことが出来ないのです。 〈 編集中 〉
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■中部経典 第 13 経 「大苦蘊経」 〈 和 訳 〉 ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、多くの比丘たちは、早朝に着衣して、鉢と衣を携えて、サーヴァッティに托鉢に入りました。 その時、彼ら比丘たちは、このように思ったのです。 〈 サーヴァッティで、托鉢して歩くには、まだ早すぎる。 そうだ、私たちは異教の遊行者たちの園林へ行ってみてはどうであろうか 〉 と。 そこで彼ら比丘たちは、異教の遊行者たちの園林に近づいて行きました。 異教の遊行者たちの疑問 近づいて行って、異教の遊行者たちと慶びの挨拶の言葉を交わし、喜ばしい話を交わした後で、一方に座りました。 すると、一方に座った彼ら比丘たちに、異教の遊行者たちはこのように言いました。 「 友よ、沙門ゴータマは諸々の欲の知悉〈全てを知ること〉を主張していますが、 我々もまた諸々の欲の知悉を主張しています。 友よ、沙門ゴータマは諸々の色の知悉を主張していますが、 我々もまた諸々の色の知悉を主張しています。 友よ、沙門ゴータマは諸々の感受の知悉を主張していますが、 我々もまた諸々の感受の知悉を主張しています。 ここで、友よ、沙門ゴータマと我々の、つまり我々の説法との、あるいは教誡との差異とは何でしょうか? 意味するところとは何でしょうか?その相違は何処にあるのでしょうか?」と。 すると、かれら比丘たちは、異教の遊行者たちが語ったことに歓喜もせず、非難もしませんでした。 歓喜も非難もしないで、座から立ち上がり、去って行きました。 〈 世尊のもとで、この言われたことの意味をよく知ることにしよう 〉 と。 さて、彼ら比丘たちは、サーヴァッティで托鉢して歩き、托鉢から戻り食事を終えた後、世尊のもとを訪れました。 訪れて、世尊を拝礼し、一方に座りました。一方に座った彼ら比丘たちは、世尊にこう申し上げたのです。 「 尊師よ、私たちは早朝に着衣して、鉢と衣を携えて、サーヴァッティに托鉢に入りました。 その時、私たちは、このように思ったのです。 〈 サーヴァッティで、托鉢して歩くには、まだ早すぎる。 そうだ、私たちは異教の遊行者たちの園林へ行ってみてはどうであろうか 〉 と。 そこで、尊師よ、私たちは、異教の遊行者たちの園林に近づいて行きました。 近づいて行って、異教の遊行者たちと慶びの挨拶の言葉を交わし、喜ばしい話を交わした後で、一方に座りました。 すると、尊師よ、一方に座った私たちに、異教の遊行者たちはこのように言いました。 『 友よ、沙門ゴータマは諸々の欲の知悉〈全てを知ること〉を主張していますが、 我々もまた諸々の欲の知悉を主張しています。 友よ、沙門ゴータマは諸々の色の知悉を主張していますが、 我々もまた諸々の色の知悉を主張しています。 友よ、沙門ゴータマは諸々の感受の知悉を主張していますが、 我々もまた諸々の感受の知悉を主張しています。 ここで、友よ、沙門ゴータマと我々の、つまり我々の説法との、あるいは教誡との差異とは何でしょうか? 意味するところとは何でしょうか?その相違は何処にあるのでしょうか?』 と。 そこで、尊師よ、私たちは、異教の遊行者たちが語ったことに歓喜もせず、非難もしませんでした。 歓喜も非難もしないで、座から立ち上がり、去って来たのです。 〈 世尊のもとで、この言われたことの意味をよく知ることにしよう 〉 と。 釈尊の応答 ── 知悉〈全てを知ること〉とは何を意味するのか 「 比丘たちよ、そのように語る異教の遊行者たちには、このような言葉を返すべきである。 『 しかし、友よ、いったい、諸々の欲の楽味〈楽しみ・味わい〉とは何か? 危難〈苦しみや患い〉とは何か?出離〈それらからの解放〉とは何か? 諸々の色の楽味とは何か?危難とは何か?出離とは何か? 諸々の感受の楽味とは何か?危難とは何か?出離とは何か?』 と。 そして、このように問われて、比丘たちよ、 異教の遊行者たちは答えることが出来ず、それ以上に一層困惑してしまうであろう。 それは何故か? 比丘たちよ、それらが、彼らの想定外〈理解を超える領域〉にあるからなのた。 比丘たちよ、如来から、あるいは如来の声聞弟子から、あるいはまたそこから聞いて理解した人以外には、 これらの質問に答えて心を喜ばせてくれる者を、私は、神々を含む、魔を含む、梵天を含む世界において、 沙門・バラモンを含む、天〈神々〉と人を含む者たちにおいて見ることが無い 」 諸々の欲の楽味 「 比丘たちよ、諸々の欲の楽味とは何か? 比丘たちよ、次のような五種の欲妙による束縛がある。 五つとは何か? 眼によって識知される、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲望を伴い、魅力的な諸々の色がある。 耳によって識知される、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲望を伴い、魅力的な諸々の声がある。 鼻によって識知される、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲望を伴い、魅力的な諸々の香がある。 舌によって識知される、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲望を伴い、魅力的な諸々の味がある。 身によって識知される、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲望を伴い、魅力的な諸々の触がある。 比丘たちよ、これら五種の欲妙によって生じる快楽や心の喜びが、諸々の欲の楽味なのだ。 諸々の欲の危難 では、比丘たちよ、諸々の欲の危難とは何か? 〈 編集中 〉
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■相応部経典 受相応 36.6 箭 〈 和 訳 〉 比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、 苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。 けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。 すなわち、身における受と、心における受とである。 比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって人を射て、 さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。 比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。 それと同じように、比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、 苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。 けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。 すなわち、身における受と、心における受とである。 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。 苦なる受に対して瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉える。 また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。 何故であろうか? 比丘たちよ、愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、 苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないからなのだ。 そして、欲楽を、喜び願い求めると、眠れる欲貪の随眠が彼を捉える。 彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、 あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。 それらを よく知っていない ことから、苦でもなく楽でもない受を感ずると、 眠れる無智の随眠が彼を捉えることとなる。 つまり彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛(けいばく)させられ、 もし苦受を感ずれば、それに繋縛させられ、 またもし非苦非楽なる受を感ずれば、それに繋縛させられる。 比丘たちよ、このような愚かな凡夫は、 〈 生により、死により、憂いにより、悲しみにより、 苦しみにより、嘆きにより、絶望によりて繋縛させられている。 つまりそれらは、苦によって繋縛させられている 〉 と私は言う。 しかるに、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、 苦なる受に触れられてもと、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。 けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。 すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。 比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって射られたが、 第二の箭は受けなかったようなものである。 比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。 それと同じように、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、 苦なる受に触れられてもと、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。 けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。 すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。 だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。 苦なる受に触れられても瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉えない。 また、彼は、苦なる受に触れられても欲楽を求めない。 何故であろうか? 比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子は、欲楽以外に、苦なる受から逃れる方途を知っているからなのだ。 そして、欲楽を願わないから、眠れる欲貪の随眠が彼を捉えないのである。 また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、 あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、よくよく知っている。 それらのことを よく知っている から、苦でもなく楽でもない受を感ずることから、 眠れる無智の随眠が彼を捉えるようなことはない。 つまり彼は、もし楽受を感しても、それに繋縛(けいばく)されることなく、 もし苦受を感じても、それに繋縛されることなく、またもし非苦非楽なる受を感じても、 それに繋縛されることなくしてそれを感ずるのである。 比丘たちよ、このような私の教えを聞いた聖なる弟子は、 〈 生によっても、死によっても、憂いによっても、悲しみによっても、苦しみによっても、 嘆きによっても、また絶望によっても繋縛されないのである。 つまりそれらは、苦によって繋縛されない 〉 と私は言う。 比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子と、まだ私の教えを聞かない凡夫とは、 これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。 〈 和 訳・おわり 〉 ● 解 説 この経典は、 〈 編集中 〉
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如月一徹(きさらぎ いってつ) 結城麻里(ゆうき まり) 一色星治(いっしき せいじ) 高橋佳恵(たかはし よしえ) 浜田浩一郎(はまだ こういちろう) 田所学(たどころ まなぶ) 樽海剛(たるうみ つよし) 如月一徹(きさらぎ いってつ) 蘭王博物館事務長にして、左近の小学生時代の先生。 小学校校長を退職し、子供の頃からの夢を叶えるべく博物館で働き出したという経歴を持つ。 互いに数少ない古株職員である浜田と共に10年もの間働いている。 人形遣いという家柄故に理解者が出来ず苦悩していた左近を励まし、その道を進む事を後押ししており、彼にとってかけがえのない恩師。 「博物館を文化事業として深い理解と愛情を以て運営する」という前館長の経営方針に共感しており、それとは真逆の方針を進める結城や一色とは事ある毎に対立していた。 それ故、普段は温厚な老人だが、博物館を守るためならば、嫌味をぶつけてくる一色と堂々と張り合う強かさも持ち合わせている。 WOWOWのHPによると年齢は60歳。 ネタバレ 落ちているゴミを目にするとそれを拾う習慣がある。 自分を偽れない正直な性格。そのため、自身が不利になるにもかかわらず一色のアリバイを証言している。 マスコミ受けする企画ばかりを立てる結城への反発から、第三者を装ってエジプト展の中止を求める脅迫状を送付したが、それがかえって自身に疑いを掛ける要素になってしまう。 アニメでは数週間後も職員として働いており、脅迫状の件については保釈された可能性が高い。最終話では左近の襲名公演を見に来ている。 結城麻里(ゆうき まり) 蘭王博物館の館長。29歳。美大を優秀な成績で卒業後、ボストンの博物館で修業を積んで帰国、(原作では父の死後)蘭王博物館の館長に就任する。 かなりやり手の才女で、次々と企画を立案しては、歴史がありながらも地味な博物館を派手に盛りたてており、マスコミからも注目を浴びていた。 その一方で、強引なところがあり、館長就任後は在職職員を辞めさせては自分の気に入ったスタッフ(一色星治と高橋佳恵など)を編入させたり、購入資金のために古美術を売り払ったりしていたため、古参の関係者からは相当な反感を買われていたようだ。 ネタバレ エジプト政府によるファラオの剣の返還要求を蹴ったとされているが、実際に購入したのは一色である。 ファラオの剣が偽物だった事を見抜き、一色にミスを指摘するが、逆上した彼により殺害。博物館の展覧会初日、刺殺体で発見される。 一色星治(いっしき せいじ) 蘭王博物館副館長。元はボストンで働いていた時の結城の上司だったが、彼女の引き抜きにより副館長に就任した。 冷徹かつ皮肉屋な性格で、どこか嫌味がかった言動が特徴。 結城同様、如月とは確執が生じており、何かと嫌味な言葉を投げかけたりと対立している。 WOWOWのHPによると年齢は34歳。 ネタバレ この事件の真犯人。規則により如月が自分に電話してくる事を利用し、更には彼を容疑者にする事に成功する。そして自ら罪を被せた如月に自身のアリバイを証明させる事により、余裕の態度を見せる。しかし、左近が真相に近づいている事も危険視しており、原作では彼を殺しようと企てた事も(これは結局失敗に終わる)。アリバイを崩された結果、自暴自棄寸前まで追い詰められ、高橋に助けを求めるも拒絶され逆上、彼女に襲い掛かるが如月に投げ飛ばされてしまう。 アニメでは、アリバイトリックに気づいた高橋を殺害。真相解明後は左近を人質に逃走を図るも、隙を着いてやはり如月に投げ飛ばされる。犯行動機は、自身が購入した財宝が偽物だと結城に指摘され、自分のミスを笑われた事によるという些細なものだった。 自分の間違いを認めようとしないタイプ。スフィンクスの伝承はギリシャではないかと左近に指摘された際にもあくまで「言い間違い」だとしており、この性格が事件が起こるきっかけを作ってしまったと言える。 館長秘書の高橋佳恵とは交際関係にある。ちなみに以前は結城と交際していたらしい。 アニメでは毎朝自宅アパートにてクラシック音楽を聴く習慣がある。 原作では、常にエリート校を首席で卒業し、留学先のアメリカでもトップを勝ち取ったという、まさにエリートを突き進む男だった(如月談) アニメでは、自分を一途に想っていた高橋をも手にかけ、それを悔みながら一生を過ごさねばならないという、ある意味救われない末路が暗示されている。 高橋佳恵(たかはし よしえ) 結城麻里の秘書を務める女性。一色と同様に、彼女も結城の引き抜きで蘭王博物館に配置された。 原作では決して良い性格とは言い難い女性だったが、アニメではおっちょこちょいな性格が加えられ、おっとりした優しい女性として描かれている。WOWOWのHPによると年齢は27歳。 アニメでは勤務時はコンタクトレンズを着用、それ以外の時は眼鏡で過ごしているという設定が追加。博物館付近のアパートで一人暮らしをしている。本人曰く、他人の顔色を伺ってばかりだったらしく、左近のように自分の好きな道を進む事に対しては憧れを感じている。 ネタバレ 一色星治とは交際関係にあるが、アニメと原作では彼に対する心情が異なっている。原作では「付き合ってみてとても恐ろしく冷たい人だと判った」と評しており、終盤にて追い詰められて彼女にすがりついてきた一星を拒絶している。一方、アニメでは、一途なまでに一星を想い慕っており、半同棲関係にまで至っている。一色のアリバイトリックに気づいても彼の無罪を信じるなど、健気に尽くしていたが、証拠隠滅のため不幸にも殺害されてしまう。如月逮捕前夜に左近と彼女が遭ったシーンに、事件解決の布石が張り巡らされている。 浜田浩一郎(はまだ こういちろう) 蘭王博物館事務員で、如月同様、前館長時代からいる古株職員。 如月とは異なり、波風を立てたがらない性格らしく、結城の方針にも賛同とは言わないものの従っている模様。 ネタバレ そのためか、何かと館長との衝突が絶えなかった如月が犯人ではないかと疑っている節があり、原作では、アニメに比べ如月への不信感が強く、彼の机の抽斗から脅迫状に使われたとされる切り抜きを発見している。 リストラを仄めかされていたという噂がある(本人は否定) アニメでは妻子がいる。 田所学(たどころ まなぶ) 蘭王博物館の警備主任。アニメオリジナルの登場人物。WOWOWのHPによると年齢は41歳。 結城が一般展示品を強引に売り払おうとした際の事故で右足を負傷しており、現在も松葉杖が手放せない状態。 尚、その後雇用の保証と同時に賠償金(額は本人曰く「それなりに」)も支払われている。 樽海剛(たるうみ つよし) 警視庁捜査一課の刑事。アニメオリジナルの登場人物。WOWOWのHPによると年齢は38歳。 薫子の部下にあたるが、年下の女の上司を持つ事にあまり好感を抱いていない節があり、薫子とのコンビは今一つ噛み合わないでいる。 いつもガムを噛んでいる事が多い。 ネタバレ 以降も『奥飛騨幽霊奇譚』『恋花時雨崎乱舞』に登場。薫子とは多少は打ち解けていると思われる。
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概要 この項では、ハボボニア島嶼連合の島々に存在する魔術の他国との違いや、特徴的な面を紹介する。 島ごとに多少差があるので、詳細はそれぞれのページで。 他国と比べて ハボボニアの魔術は、他国と違い長らく閉鎖的な空間であったため、民俗習慣の中で培われたものが多く、 だからこそ新たな発見が埋まってもいるし、後進的に見えることもある。 その展開方法は、魔術というより呪術と表現した方が的確で、全ての処理をマナを用いて行うのではなく、複数の物質を介しながら展開される、原始的な方法である。この"原始的"を極めているところがハボボニアの魔術体系の特筆すべき点であり、いまだ解明されていない部分が多い理由でもある。 ただし、ハボボニアの魔術は、近代的な兵器を代替できるような強力なものではなく、むしろ使用者たちは副次的なものとして使用している場合が多い。 生物に対する観念 ハボボニアの人々は、マナと魂(存在は立証されていないが)を類似したものとして考え、魔術にも生物の死体を使用することが多い。また、モーニングスター上に存在するマナは祖霊たちの霊気であり、魔術は彼らの力を"借りて"発生させているとしており、意識こそが最も魔術的なもので、意識を通じて世界の秘密にも繋がることができると語り継がれている。 意識についての秘密は誰もまだ何も知らず、それは私たちの認識できる中で最も神秘的で、世界の主要な構成要素の一つです。マナは意識から生まれ、マナもいずれ、また現世に戻るために意識となります。 ——ハボボニアの大魔導師 マラパ・ラ・ケセウ タトゥー文化 マルル族は、南下を始めた頃から、体に貝殻から作り出した染料を独自の方法で加工し、それを使用して体に模様を描く文化がある。原理は判明していないが、彼らのタトゥーは常に微量のマナを消費しながら魔術効果を生み出す。 また、研究により、タトゥーの模様はマルル族に伝わる神話の一場面が描かれているものだと判明しており、加護のような現象が発生していることは間違いない。 "領域" ハボボニアの魔術は、学術的な面ではとても興味深いものだが、技術的な面ではさほど特筆すべき文化ではないとされてきたが、近年、彼らが領域と呼ばれる独自の魔術空間の形成を可能とする未知の形態の魔術を使用することが明らかになってきた。領域についてはまだなにもわかっていないが、ハボボニアの魔術師たちが使用する領域の中では、マナ以外の何か別のエネルギーが湧き出ている。彼らは領域の中に入ることで魔術をより強固なものにし、空間の改変をより容易なものとする。国内各地の有名な大学が協力して研究を行っており、政府もこの研究にかなりの予算を投資している。