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争覇戦で強くなるために必要は事は基本的に4つ 1武官2文官3兵士装備4名将装備 以下順を追って説明します。 1.武官 武官のLV上げで一番簡単なのはひたすら官渡の戦いに行くことです。 なんで赤壁じゃなくて官渡かというと、赤壁は途中から痛すぎてやってられなくなるからですw 官渡に100回200回通い詰めればLV220~240くらいにはすぐになるでしょう。 そうすればちょこっと再振り(強力再振りでもいいけど)すると、 力量&統率が700くらいの武官が完成します。(指数16以上の場合) 指数16以上なんて手に入らねえよ、っていう人は盟主に言えば高級蛮族武将がもらえるかもしれません。 ただ貰うだけ貰っといて次回の争覇までに全くLVを上げない、全くやる気がないというのは不可です。 争覇戦の報酬でもらえる高級蛮族武将は、出場した人の「多大な犠牲」によって得たものであり、 それを貰うからには此処に書かれていることをしっかりとやって、争覇で同盟に貢献できるようにしてください。 ※獲得経験値50パーセントアップ使用時 2.文官 文官のLV上げは武官より簡単です。 太守に任命した上で官庁や技術庁を作って壊す。ただひたすらこれをやることです。 毎日クリック2回でLVがどんどん上がります。250なんてすぐです。 250になったら指数16以上の場合は転生してもいいかもしれません。 1部隊出場の場合、武官は一人でいいですが、文官は従軍と城でそれぞれ一人ずつ、 合計二人必要ですので注意してください。(魅力が高いほうが城策士だからね!) 3.兵士装備 上に書いた武官文官のLV上げと比べて圧倒的に大変なのは兵士装備を集めることです。 なぜなら武官と文官をいくら強くしても30鎧では狙われてあっという間にやられてしまいます。 是が非でも欲しい蔓鎧をくれる南蛮を食うには、最低でも6万4部隊は必要でしょう。 したがって1と2で書いた武官、文官以外にも名将が必要になってきます。 激戦区にいる人は、近隣の比較的蛮族が多いマップに補給用の城を1個建て、 軍営をそこまで移動させて蛮族を食べましょう。 そこまでやらないとなかなか蔓鎧(や赤弓)はたまりません。 兵士装備に関しては地道な努力をするしかないのです。 ここで歩騎と歩弓について少し考察しておきます。 名前 攻撃 歩防 騎防 弓防 敏捷 30鎧 0 209 179 239 -8 35鎧 0 251 215 287 -8 蔓鎧 0 270 255 310 -9 戦鎧 0 256 301 398 -11 30馬 30 36 24 12 18 35馬 36 43 29 14 18 匈奴馬 45 40 35 22 22 驊騮馬 48 29 21 13 28 30弓 59 15 27 18 -5 35弓 71 18 32 21 -5 鳥弓 77 23 35 33 -6 赤弓 80 60 64 66 -6 秋弓 95 31 93 62 -8 上の表をよーくみると、気づくことがあります。 鎧と弓に関しては(実は刀に関しても)群城装備が圧倒的に蛮族装備より強いですが、 馬に関してはどっちも同程度です。つまり匈奴騎馬はそれだけ強い設定になっているのです。 これを考えると群城を取って秋弓を生産できるようにならない限り、 歩騎>歩弓だと考えていいと思います。今回の争覇でも歩騎が強いことが実証されています。 ただし歩騎(匈奴騎馬)は攻撃力が高く、しかも歩弓(赤弓)と比べると防御力が低いので、当然真っ先に狙われますw なので歩騎を使うからには壁になる覚悟をしておかなければなりません。 なんかごちゃごちゃ書いてあるけど、結局どっちにすればいいんだ?という方。 匈奴を連続して安定的に食えるなら匈奴騎馬は勝手にたまっていくので歩騎がオススメ、 南蛮(南蛮が食えるなら南越も食える)までしか食えないなら歩弓(赤弓or鳥弓)をオススメします。 蛮族狩りについては機会があれば別に書きます。 次回の争覇は(群城が実装されていれば)、群城を取って戦鎧を生産できる同盟が勝つんじゃないでしょうかね。 4.名将装備 名将装備とは神武宝鼎から出る装備のことです。(一部は匈奴装備でも代用できるが。) 武官なら力量・統率が上がるもの、文官なら魅力が上がるものをつけましょう。 具体的には統率+34の兜、力量+34の武器、統率+22の鎧、力量+22の乗り物 文官は魅力+36の武器、魅力+22の乗り物、が現状一番の装備です。 神武をくれるのは南蛮・南越・匈奴・赤壁だけです。 したがって3の兵士装備と同様に高級蛮族を地道に狩る必要があります。 それと、県城で装備の強化ができます。上記の装備を入手したら是非強化しましょう。 1回につき宝石で10万、精錬で10万と合計20万の同盟貢献値が必要です。貢献値20万とはすなわち虎符200個です。 虎符を入手するには蛮族をひたすら狩るしかありません。200個を溜めるのは結構大変です。 (おそらく群城装備の生産も貢献値=虎符が必要でしょう。) 結局このゲームは蛮族を狩らないと強くなれません。シムシティじゃないから当然ですねw なお装備の強化は必ずLV33の県城で行ってください。解呪令を使うのは2回目以降でいいと思います。 5.陣形(おまけ) 1~4までのことを普段からコツコツやるのが基本ですが、同盟間の実力が互角な場合は 戦闘中での立ち回りで勝負が決まります。その時に陣形変更は大事なのでおまけとして書きます。 (それ以前に、指揮官の指示に従うなどは当然行ってください。) 「名将情報画面→部隊装備→陣形を選択→保存」が一連の流れですが、 保存を押した段階でサーバーに情報が送られ、陣形変更が確定します。 なので予め陣形を選んでおき(名将情報画面は出したままにして)、 次の会合まで残り3秒とかになったら決定ボタンを押せばいいのです。 なお相手の陣形を見るには戦闘画面左下の決定ボタンを押すと更新されるので、これを連打します。 攻撃したい相手が5秒前に陣形を変えてきたら、それに合わせてこちらの陣形を選び 1秒前に決定ボタンを押せば有利な陣形で攻撃できます。(相手が3秒前に陣形変えてきたら対応不能w) PCが遅くてそんなん無理、という方はすくなくとも狙われたときに被害が大きくならないよう、 3秒前にこちらの陣形を変えて相手から狙いにくくしましょう。 まとめ 争覇で活躍するためには(同盟に貢献するためには)日頃から地道に蛮族を狩らないといけません。 上記の1と2はクリックして放置でいいですが、3と4はかなり大変です。 普段は活動しないで争覇だけ出て大活躍、なんてことはありえないのでコツコツやっていきましょう。 以下広告
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資治通鑑巻第二十七 漢紀十九 中宗孝宣皇帝下 神爵四年(癸亥、前五八) 1春,二月,以鳳皇、甘露降集京師,赦天下。 1. 春、二月、京師で甘露が降り、鳳凰が集まったとして天下に大赦を下した。 2穎川太守黄霸在郡前後八年,政事愈治;是時鳳皇、神爵數集郡國,穎川尤多。夏,四月,詔曰:「穎川太守霸,宣布詔令,百姓郷化,孝子、弟弟、貞婦、順孫日以衆多,田者讓畔,道不拾遺,養視鰥寡,贍助貧窮,獄或八年亡重罪囚,其賜爵關内侯、黄金百斤、秩中二千石。」而穎川孝、弟、有行義民、三老、力田皆以差賜爵及帛。後數月,征霸爲太子太傅。 2. 潁川太守黄霸が郡にあること前後八年、政事は優れていた。この時、鳳凰、神雀が郡国で確認されたが、潁川が最も多かった。夏、四月、宣帝は詔を出して褒めて言った。「潁川太守霸は、わが詔令を宣布して民を治め、百姓は教化され、孝行な子弟や貞婦、老人を敬う孫ばかりで土地の争論もなく、道には他人の遺失物を拾う者なく、孤者、寡婦、寡夫を養い、貧窮の者を救い援け、獄中には八年連続して冤罪の囚人がいない。よって、関内侯の爵と黄金百斤を賜い、秩禄中二千石にする。」また宣帝は潁川郡中の孝行な子や友愛なる兄弟および行いに仁義ある民、三老や農事に励む者に、爵を賜い、帛を賜った。その数ヵ月後、宣帝は黄霸を太子太傅とした。 3五月,匈奴單于遣弟呼留若王勝之來朝。 3. 五月、匈奴の単于が弟の呼留若王勝之を遣って朝廷に参朝した。 4冬,十月,鳳皇十一集杜陵。 4. 冬、十月、十一羽の鳳凰が杜陵に集まったとした。 5河南太守東海嚴延年爲治陰鷙酷烈,衆人所謂當死者一朝出之,所謂當生者詭殺之,吏民莫能測其意深淺,戰慄不敢犯禁。冬月,傳屬縣囚會論府上,流血數里,河南號曰「屠伯」。延年素輕黄霸爲人,及比郡爲守,褒賞反在己前,心内不服。河南界中又有蝗蟲,府丞義出行蝗,還,見延年。延年曰:「此蝗豈鳳皇食邪?」義年老,頗悖,素畏延年,恐見中傷。延年本嘗與義倶爲丞相史,實親厚之,饋遺之甚厚。義愈益恐,自筮,得死卦,忽忽不樂,取告至長安,上書言延年罪名十事;已拜奏,因飲藥自殺,以明不欺。事下御史丞按驗,得其語言怨望、誹謗政治數事。十一月,延年坐不道,棄市。 初,延年母從東海來,欲從延年臘。到洛陽,適見報囚,母大驚,便止都亭,不肯入府。延年出至都亭謁母,母閉閣不見。延年免冠頓首閣下,良久,母乃見之,因數責延年:「幸得備郡守,專治千里,不聞仁愛教化,有以全安愚民。顧乘刑罰,多刑殺人,欲以立威,豈爲民父母意哉!」延年服罪,重頓首謝,因自爲母御歸府捨。母畢正臘,謂延年曰:「天道神明,人不可獨殺。我不意當老見壯子被刑戮也!行矣,支汝東歸,掃除墓地耳!」遂去,歸郡,見昆弟、宗人,復爲言之。後歳餘,果敗,東海莫不賢智其母。 5. 6匈奴握衍朐鞮單于暴虐,好殺伐,國中不附。及太子、左賢王數讒左地貴人,左地貴人皆怨。會烏桓撃匈奴東邊姑夕王,頗得人民,單于怒。姑夕王恐,即與烏禪幕及左地貴人共立稽侯犬冊爲呼韓邪單于,發左地兵四五萬人,西撃握衍朐鞮單于,至姑且水北。未戰,握衍朐鞮單于兵敗走,使人報其弟右賢王曰:「匈奴共攻我,若肯發兵助我乎?」右賢王曰:『若不愛人,殺昆弟、諸貴人。各自死若處,無來汚我!」握衍朐鞮單于恚,自殺。左大且渠都隆奇亡之右賢王所,其民衆盡降呼韓邪單于。呼韓邪單于歸庭;數月,罷兵,使各歸故地,乃收其兄呼屠吾斯在民間者,立爲左谷蠡王,使人告右賢貴人,欲令殺右賢王,其冬,都隆奇與右賢王共立日逐王薄胥堂爲屠耆單于,發兵數萬人東襲呼韓邪單于,呼韓邪單于兵敗走。屠耆單于還,以其長子都塗吾西爲左谷蠡王,少子姑瞀樓頭爲右谷蠡王,留居單于庭。 6. 五鳳元年(甲子、前五七) 1春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 1. 2皇太子冠。 2. 3秋,七月,匈奴屠耆單于使先賢撣兄右奧鞬王,與烏藉都尉各二萬騎屯東方,以備呼韓邪單于。是時西方呼掲王來與唯犁當戸謀,共讒右賢王。言欲自立爲單于。屠耆單于殺右賢王父子,後知其冤,復殺唯犁當戸。於是呼掲王恐,遂畔去,自立爲呼掲單于。右奧鞬王聞之,即自立爲車犁單于。烏藉都尉亦自立爲烏藉單于。凡五單于。屠耆單于自將兵東撃車犁單于,使都隆奇撃烏藉。烏藉、車犁皆敗,西北走,與呼掲單于兵合爲四萬人。烏藉、呼掲皆去單于號,共並力尊輔車犁單于。屠耆單于聞之,使左大將、都尉將四萬騎分屯東方,以備呼韓邪單于,自將四萬騎西撃車犁單于。車犁單于敗,西北走。屠耆單于即引兵西南留闟敦地。 漢議者多曰:「匈奴爲害日久,可因其壞亂,舉兵滅之。」詔問御史大夫蕭望之,對曰:「春秋,晉士踰帥師侵齊,聞齊侯卒,引師而還,君子大其不伐喪,以爲恩足以服孝子,誼足以動諸侯。前單于慕化郷善,稱弟,遣使請求和親,海内欣然,夷狄莫不聞。未終奉約,不幸爲賊臣所殺;今而伐之,是乘亂而幸災也,彼必奔走遠遁。不以義動兵,恐勞而無功。宜遣使者弔問,輔其微弱,救其災患。四夷聞之,咸貴中國之仁義。如遂蒙恩得復其位,必稱臣服從,此德之盛之。」上從其議。 3. 4冬,十有二月,乙酉朔,日有食之。 4. 5韓延壽代蕭望之爲左馮翊。望之聞延壽在東郡時放散官錢千餘萬,使御史案之。延壽聞知,即部吏案校望之在馮翊時廩犧官錢放散百餘萬。望之自奏:「職在總領天下,聞事不敢不問,而爲延壽所拘持。」上由是不直延壽,各令窮竟所考。望之卒無事實。而望之遣御史案東郡者,得其試騎士日車服侍衞奢僭踰制;又取官銅物,候月食鑄刀,效尚方事;及取官錢帛私假徭使吏;及治飾車甲三百萬以上。延壽竟坐狡猾不道,棄市。吏民數千人送到渭城,老小扶持車轂,爭奏酒炙。延壽不忍距逆,人人爲飲,計飲酒石餘。使掾、史分謝送者:「遠苦吏民,延壽死無所恨!」百姓莫不流涕。 5. 二年(乙丑、前五六) 1春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 1. 2車騎將軍韓增薨。五月,將軍許延壽爲大司馬、車騎大將軍。 2. 3丞相丙吉年老,上重之。蕭望之意常輕吉,上由是不悅。丞相司直奏望之遇丞相禮節倨慢,又使吏買賣,私所附益凡十萬三千,請逮捕繋治。秋,八月,壬午,詔左遷望之爲太子太傅;以太子太傅黄霸爲御史大夫。 3. 4匈奴呼韓邪單于遣其弟右谷蠡王等西襲屠耆單于屯兵,殺略萬餘人。屠耆單于聞之,即自將六萬騎撃呼韓邪單于。屠耆單于兵敗,自殺。都隆奇乃與屠耆少子右谷蠡王姑瞀樓頭亡歸漢。車犁單于東降呼韓邪單于。冬,十一月,呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼□累烏厲温敦皆見匈奴亂,率其衆數萬人降漢;封烏厲屈爲新城侯,烏厲温敦爲義陽侯。是時李陵子復立烏藉都尉爲單于,呼韓邪單于捕斬之;遂復都單于庭,然衆裁數萬人。屠耆單于從弟休旬王自立爲閏振單于,在西邊;呼韓邪單于兄左賢王呼屠吾斯亦自立爲郅支骨都侯單于,在東邊。 4. 5光祿勳平通侯楊惲,廉潔無私;然伐其行能,又性刻害,好發人陰伏,由是多怨於朝廷。與太僕戴長樂相失。人有上書告長樂罪,長樂疑惲教人告之,亦上書告惲罪曰:「惲上書訟韓延壽,郎中丘常謂惲曰:『聞君侯訟韓馮翊,當得活乎?』惲曰:『事何容易,脛脛者未必全也!我不能自保,眞人所謂「鼠不容穴,銜窶數」者也。』又語長樂曰:『正月以來,天陰不雨,此春秋所記,夏侯君所言。』」事下廷尉。廷尉定國奏惲怨望,爲訞惡言,大逆不道。上不忍加誅,有詔皆免惲、長樂爲庶人。 5. 三年(丙寅、前五五) 1春,正月,癸卯,博陽定侯丙吉薨。 班固贊曰:古之制名,必由象類,遠取諸物,近取諸身。故經謂君爲元首,臣爲股肱,明其一體相待而成也。是故君臣相配,古今常道,自然之勢也。近觀漢相,高祖開基,蕭、曹爲冠;孝宣中興,丙、魏有聲。是時黜陟有序,衆職修理,公卿多稱其位,海内興於禮讓。覽其行事,豈虚虖哉! 1. 2二月,壬辰,黄霸爲丞相。霸材長於治民,及爲丞相,功名損於治郡。時京兆尹張敞捨鶡雀飛集丞相府,霸以爲神雀,議欲以聞。敞奏霸曰:「竊見丞相請與中二千石、博士雜問郡、國上計長史、守丞爲民興利除害,成大化,條其對。有耕者讓畔,男女異路,道不拾遺。及舉孝子、貞婦者爲一輩,先上殿;舉而不知其人數者,次之;不爲條教者在後。叩頭謝丞相,雖口不言,而心欲其爲之也。長史、守丞對時,臣敞捨有鶡雀飛止丞相府屋上,丞相以下見者數百人。邊吏多知鶡雀者,問之,皆陽不知。丞相圖議上奏曰:『臣問上計長史、守丞以興化條,皇天報下神爵。』後知從臣敞捨來,乃止。郡國吏竊笑丞相仁厚有知略,微信奇怪也。臣敞非敢毀丞相也,誠恐羣臣莫白,而長史、守丞畏丞相指,歸捨法令,各爲私教,務相增加,澆淳散樸,並行偽貌,有名亡實,傾搖解怠,甚者爲妖。假令京師先行讓畔、異路、道不拾遺,其實亡益廉貪、貞淫之行,而以偽先天下,固未可知也。即諸侯先行之,偽聲軼於京師,非細事也。漢家承敝通變,造起律令,所以勸善禁姦,條貫詳備,不可復加。宜令貴臣明飭長史、守丞,歸告二千石,舉三老、孝弟、力田、孝廉、廉吏,務得其人,郡皆以法令檢式,毋得擅爲條教;敢挾詐偽以姦名譽者,必先受戮,以正明好惡。」天子嘉納敞言,召上計吏,使侍中臨飭,如敞指意。霸甚慚。 又,樂陵侯史高以外屬民侍中,貴重,霸薦高可太尉。天子使尚書召問霸:「太尉官罷久矣。夫宣明教化,通達幽隱,使獄無冤刑,邑無盜賊,君之職也。將相之官,朕之任焉。侍中、樂陵侯高,帷幄近臣,朕之所自親,君何越職而舉之?」尚書令受丞相對,霸免冠謝罪,數日,乃決。自是後不敢復有所請。然自漢興,言治民吏,以霸爲首。 2. 3三月,上幸河東,祠后土。減天下口錢;赦殊死以下。 3. 4六月,辛酉,以西河太守杜延年爲御史大夫。 4. 5置西河、北地屬國以處匈奴降者。 5. 6廣陵厲王胥使巫李女須祝詛上,求爲天子。事覺,藥殺巫及宮人二十餘人以絶口。公卿請誅胥。 6. 四年(丁卯、前五四) 1春,胥自殺。 1. 2匈奴單于稱臣,遣弟右谷蠡王入侍。以邊塞亡寇,減戍卒什二。 2. 3大司農中丞耿壽昌奏言:「歳數豐穰,谷賤,農人少利。故事:歳漕關東谷四百萬斛以給京師,用卒六萬人。宜糴三輔、弘農、河東、上黨、太原郡谷,足供京師,可以省關東漕卒過半。」上從其計。壽昌又白:「令邊郡皆築倉,以谷賤增其賈而糴,以利農,谷貴時減賈而糶,名曰常平倉。」民便之。上乃下詔賜壽昌爵關内侯。 3. 4夏,四月,辛丑朔,日有食之。 4. 5楊惲既失爵位,家居治産業,以財自娯。其友人安定太守西河孫會宗與惲書,諫戒之,爲言「大臣廢退,當闔門惶懼,爲可憐之意;不當治産業,通賓客,有稱譽。」惲,宰相子,有材能,少顯朝廷,一朝以晻昧語言見廢,内懷不服,報會宗書曰:「竊自思念,過已大矣,行已虧矣,常爲農夫以沒世矣,是故身率妻子,戮力耕桑,不意當復用此爲譏議也!夫人情所不能止者,聖人弗禁,故君、父至尊、親,送其終也,有時而既。臣之得罪,已三年矣,田家作苦,歳時伏臘,烹羊,炰羔,鬥酒自勞,酒後耳熱,仰天拊缶呼烏烏,其詩曰:『田彼南山,蕪穢不治;種一頃豆,落而爲萁。人生行樂耳,須富貴何時?』誠淫荒無度,不知其不可也。」又惲兄子安平侯譚謂惲曰:「侯罪薄,又有功,且復用!」惲曰:「有功何益!縣官不足爲盡力。」譚曰:「縣官實然。蓋司隸、韓馮翊皆盡力吏也,倶坐事誅。」會有日食之變,騶馬猥佐成上書告「惲驕奢,不悔過。日食之咎,此人所致。」章下廷尉,按驗,得所予會宗書,帝見而惡之。廷尉當惲大逆無道,要斬;妻子徙酒泉郡;譚坐免爲庶人,諸在位與惲厚善者,未央衞尉韋玄成及孫會宗等,皆免官。 臣光曰:以孝宣之明,魏相、丙吉爲丞相,於定國爲廷尉,而趙、蓋、韓、楊之死皆不厭衆心,惜哉,其爲善政之累大矣!周官司寇之法,有議賢、議能。若廣漢、延壽之治民,可不謂能乎!寬饒、惲之剛直,可不謂賢乎!然則雖有死罪,猶將宥之,況罪不足以死乎!揚子以韓馮翊之愬蕭爲臣之自失。夫所以使延壽犯上者,望之激之也。上不之察,而延壽獨蒙其辜,不亦甚哉! 5. 6匈奴閏振單于率其衆東撃郅支單于。郅支與戰,殺之,並其兵;遂進攻呼韓邪。呼韓邪兵敗走,郅支都單于庭。 6. 甘露元年(戊辰、前五三) 1春,正月,行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2楊惲之誅也,公卿奏京兆尹張敞,惲之黨友,不宜處位。上惜敞材,獨寢其奏,不下。敞使掾絮舜有所案驗,舜私歸其家曰:「五日京兆耳,安能復案事!」敞聞舜語,即部吏收舜繋獄,晝夜驗治,竟致其死事。舜當出死,敞使主簿持教告舜曰:「五日京兆竟何如?冬月已盡,延命乎?」乃棄舜市。會立春,行冤獄使者出,舜家載屍並編敞教,自言使者。使者奏敞賊殺不辜。上欲令敞得自便,即先下敞前坐楊惲奏,免爲庶人。敞詣闕上印綬,便從闕下亡命。數月,京師吏民解馳,枹鼓數起,而翼州部中有大賊,天子思敞功效,使使者即家在所召敞。敞身被重劾,及使者至,妻子家室皆泣,惶懼,而敞獨笑曰:「吾身亡命爲民,郡吏當就捕。今使者來,此天子欲用我也。」裝隨使者,詣在公車上書曰:「臣前幸得備位列卿,待罪京兆,坐殺掾絮舜。舜本臣敞素所厚吏,數蒙恩貸。以臣有章劾當免,受記考事,便歸臥家,謂臣五日京兆。背恩忘義,傷薄欲化。臣竊以舜無状,枉法以誅之。臣敞賊殺無辜,鞠獄故不直,雖伏明法,死無所恨!」天子引見敞,拜爲冀州刺史。敞到部,盜賊屏跡。 2. 3皇太子柔仁好儒,見上所用多文法吏,以刑繩下,嘗侍燕從容言:「陛下持刑太深,宜用儒生。」帝作色曰:「漢家自有制度,本以霸王道雜之。奈何純任德教,用周政乎!且俗儒不達時宜,好是古非今,使人眩於名實,不知所守,何足委任!」乃歎曰:「亂我家者,太子也!」 臣光曰:王霸無異道。昔三代之隆,禮樂、征伐自天子出,則謂之王。天子微弱不能治諸侯,諸侯有能率其與國同討不庭以尊王室者,則謂之霸。其所以行之也,皆本仁祖義,任賢使能,賞善罰惡,禁暴誅亂。顧名位有尊卑,德澤有深淺,功業有鉅細,政令有廣狹耳,非若白黑、甘苦之相反也。漢之所以不能復三代之治者,由人主之不爲,非先王之道不可復行於後世也。夫儒有君子,有小人。彼俗儒者,誠不足與爲治也,獨不可求眞儒而用之乎?稷、契、皋陶、伯益、伊尹、周公、孔子,皆大儒也,使漢得而用之,功烈豈若是而止邪!孝宣謂太子懦而不立,闇於治體,必亂我家,則可矣;乃曰王道不可行,儒者不可用,豈不過甚矣哉!殆非所以訓示子孫,垂法將來者也。 3. 4淮陽憲王好法律,聰達有材;王母張婕妤尤幸。上由是疏太子而愛淮陽憲王,數嗟歎憲王曰:「眞我子也!」常有意欲立憲王,然用太子起於微細,上少依倚許氏,及即位而許後以殺死,故弗忍也。久之,上拜韋玄成爲淮陽中尉,以玄成嘗讓爵于兄,欲以感諭憲王。由是太子遂安。 4. 5匈奴呼韓邪單于之敗也,左伊秩訾王爲呼韓邪計,勸令稱臣入朝事漢,從漢求助,如此,匈奴乃定。呼韓邪問諸大臣,皆曰:「不可。匈奴之俗,本上氣力而下服役,以馬上戰鬥爲國,故有威名於百蠻。戰死,壯士所有也。今兄弟爭國,不在兄則在弟,雖死猶有威名,子孫常長諸國。漢雖強,猶不能兼併匈奴。奈何亂先古之制,臣事於漢,卑辱先單于,爲諸國所笑!雖如是而安,何以復長百蠻!」左伊秩訾曰:「不然,強弱有時。今漢方盛,烏孫城郭諸國皆爲臣妾。自且鞮侯單于以來,匈奴日削,不能取復,雖屈強於此,未嘗一日安也。今事漢則安存,不事則危亡,計何以過此!」諸大人相難久之,呼韓邪從其計,引衆南近塞,遣子右賢王銖婁渠堂入侍。郅支單于亦遣子右大將駒於利受入侍。 5. 6二月,丁巳,樂成敬侯許延壽薨。 6. 7夏,四月,黄龍見新豐。 7. 8丙申,太上皇廟火;甲辰,孝文廟火;上素服五日。 8. 9烏孫狂王復尚楚主解憂,生一男鴟靡,不與主和,又暴惡失衆。漢使衞司馬魏和意、副侯任昌至烏孫。公主言:「狂王爲烏孫所患苦,易誅也。」遂謀置酒,使士拔劍撃之。劍旁下,狂王傷,上馬馳去。其子細沈瘦會兵圍和意、昌及公主於赤谷城。數月,都護鄭吉發諸國兵救之,乃解去。漢遣中郎將張遵持醫藥治狂王,賜金帛。因收和意、昌繋瑣,從尉犁檻車至長安,斬之。 初,肥王翁歸靡胡婦子烏就屠,狂王傷時,驚,與諸翎侯倶去,居北山中,揚言母家匈奴兵來,故衆歸之。後遂襲殺狂王,自立爲昆彌。是歳,漢遣破羌將軍辛武賢將兵萬五千人至敦煌,通渠積穀,欲以討之。 初,楚主侍者馮嫽,能史書,習事,嘗持漢節爲公主使,城郭諸國敬信之,號曰馮夫人,爲烏孫右大將妻。右大將與烏就屠相愛,都護鄭吉使馮夫人説烏就屠,以漢兵方出,必見滅,不如降。烏就屠恐,曰:「願得小號以自處!」帝征馮夫人,自問状。遣謁者竺次、期門甘延壽爲副,送馮夫人。馮夫人錦車持節,詔烏就屠詣長羅侯赤谷城,立元貴靡爲大昆彌,烏就屠爲小昆彌,皆賜印綬。破羌將軍不出塞,還。後烏就屠不盡歸諸翎侯民衆,漢復遣長羅侯將三校屯赤谷,因爲分別其人民地界,大昆彌戸六萬餘,小昆彌戸四萬餘。然衆心皆附小昆彌。 9. 二年(己巳、前五二) 1春,正月,立皇子囂爲定陶王。 1. 2詔赦天下,減民算三十。 2. 3珠崖郡反。夏,四月,遣護軍都尉張祿將兵撃之。 3. 4杜延年以老病免。五月,己丑,廷尉於定國爲御史大夫。 4. 5秋,七月,立皇子宇爲東平王。 5. 6冬,十二月,上行幸萯陽宮、屬玉觀。 6. 7是歳,營平壯武侯趙充國薨。先是,充國以老乞骸骨,賜安車、駟馬、黄金,罷就第。朝廷毎有四夷大議,常與參兵謀、問籌策焉。 7. 8匈奴呼韓邪單于款五原塞,原奉國珍,朝三年正月。詔有司議其儀。丞相、御史曰:「聖王之制,先京師而後諸夏,先諸夏而後夷狄。匈奴單于朝賀,其禮儀宜如諸侯王,位次在下。」太子太傅蕭望之以爲:「單于非正朔所加,故稱敵國,宜待以不臣之禮,位在諸侯王上。外夷稽首稱籓,中國讓而不臣,此則羈縻之誼,謙亨之福也。書曰:『戎狄荒服,』言其來服荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏,闕於朝享,不爲畔臣,萬世之長策也。」天子采之,下詔曰:「匈奴單于稱北潘,朝正朔。朕之不德,不能弘覆。其以客禮待之,令單于位在諸侯王上,贊謁稱臣而不名。」 荀悅論曰:春秋之義,王者無外,欲一於天下也。戎狄道理遼遠,人跡介絶,故正朔不及,禮教不加,非尊之也,其勢然也。詩云:「自彼氐、羌,莫敢不來王。」故要、荒之君必奉王貢。若不供職,則有辭讓號令加焉,非敵國之謂也。望之欲待以不臣之禮,加之王公之上,僭度失序,以亂天常,非禮也!若以權時之宜,則異論矣。 8. 9詔遣車騎都尉韓昌迎單于,發所過七郡二千騎爲陳道上。 9. 三年(庚午、前五一) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2匈奴呼韓邪單于來朝,贊謁稱籓臣而不名。賜以冠帶、衣裳,黄金璽、盭綬,玉具劍、佩刀,弓一張,矢四發,棨戟十,安車一乘,鞍勒一具,馬十五匹,黄金二十斤,錢二十萬,衣被七十七襲,錦繡、綺縠、雜帛八千匹,絮六千斤。禮畢,使使者道單于先行宿長平。上自甘泉宿池陽宮。上登長平阪,詔單于毋謁,其左右當戸羣臣皆得列觀,及諸蠻夷君長、王、侯數萬,咸迎於渭橋下,夾道陳。上登渭橋,咸稱萬歳。單于就邸長安。置酒建章宮,饗賜單于,觀以珍寶。二月,遣單于歸國。單于自請「願留居幕南光祿塞下;有急,保漢受降城。」漢遣長樂衞尉、高昌侯董忠、車騎都尉韓昌將騎萬六千,又發邊郡士馬以千數,送單于出朔方雞鹿塞。詔忠等留衞單于,助誅不服,又轉邊穀米糒,前後三萬四千斛,給贍其食。先是,自烏孫以西至安息諸國近匈奴者,皆畏匈奴而輕漢,及呼韓邪單于朝漢後,咸尊漢矣。 上以戎狄賓服,思股肱之美,乃圖畫其人於麒麟閣,法其容貌,署其官爵、姓名。唯霍光不名,曰「大司馬、大將軍、博陸候,姓霍氏」。其次張安世、韓增、趙充國、魏相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武。凡十一人,皆有功德,知名當世,是以表而揚之,明著中興輔佐,列於方叔、召虎、仲山甫焉。 2. 3鳳皇集新蔡。 3. 4三月,己巳、建成安侯黄霸薨。五月,甲午,於定國爲丞相,封西平侯。太僕沛郡陳萬年爲御史大夫。 4. 5詔諸儒講五經同異,蕭望之等平奏其議,上帝稱制臨決焉。乃立梁丘易、大、小夏侯尚書、穀梁春秋博士。 5. 6烏孫大昆彌元貴靡及鴟靡皆病死。公主上書言:「年老土思,願得歸骸骨,葬漢地!」天子閔而迎之。冬,至京師,待之一如公主之制。後二歳卒。 元貴靡子星靡代爲大昆彌,弱。馮夫人上書:「願使烏孫,鎭撫星靡。」漢遣之。都護韓宣奏烏孫大吏大祿、大監皆可賜以金印紫綬,以尊輔大昆彌。漢許之。其後段會宗爲都護,乃招還亡叛,安定之。星靡死,子雌栗靡代立。 6. 7皇太子所幸司馬良娣病,且死,謂太子曰:「妾死非天命,乃諸娣妾、良人更祝詛殺我。」太子以爲然。及死,太子悲恚發病,忽忽不樂。帝乃令皇后擇後宮家人子可以娯侍太子者,得元城王政君,送太子宮。政君,故繡衣御史賀之孫女也,見於丙殿。壹幸,有身。是歳,生成帝於甲館畫堂,爲世縕皇孫。帝愛之,自名曰驁,字大孫,常置左右。 7. 四年(辛未、前五〇) 1夏,廣川王海陽坐禽獸行、賊殺不辜,廢,徙房陵。 1. 2冬,十月,丁卯,未央宮宣室閣火。 2. 3是歳,徙定陶王囂爲楚王。 3. 4匈奴呼韓邪、郅支兩單于倶遣使朝獻,漢待呼韓邪使有加焉。 4. 黄龍元年(壬申、前四九) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2匈奴呼韓邪單于來朝;二月,歸國。始,郅支單于以爲呼韓邪兵弱,降漢,不能復自還,即引其衆西,欲攻定右地。又屠耆單于小弟本侍呼韓邪,亦亡之右地,收兩兄餘兵,得數千人,自立爲伊利目單于;道逢郅支,合戰,郅支殺之,並其兵五萬餘人。郅支聞漢出兵谷助呼韓邪,即遂留居右地;自度力不能定匈奴,乃益西,近烏孫,欲與並力,遣使見小昆彌烏就屠。烏就屠殺其使,發八千騎迎郅支。郅支覺其謀,勒兵逢撃烏孫,破之;因北撃烏掲、堅昆、丁令、並三國。數遣兵撃烏孫,常勝之。堅昆東去單于庭七千里,南去車師五千里,郅支留都之。 2. 3三月,有星孛于王良、閣道,入紫微宮。 3. 4帝寢疾,選大臣可屬者,引外屬侍中樂陵侯史高、太子太傅蕭望之、少傅周堪至禁中,拜高爲大司馬、車騎將軍,望之爲前將軍、光祿勳,堪爲光祿大夫,皆受遺詔輔政,領尚書事。冬,十二月,甲戌,帝崩于未央宮。 班固贊曰:孝宣之治,信賞必罰,綜核名實。政事、文學、法理之士,咸精其能。至於技巧、工匠、器械,自元、成間鮮能及之。亦足以知吏稱其職,民安其業也。遭値匈奴乖亂,推亡固存,信威北夷,單于慕義,稽首稱籓。功光祖宗,業垂後嗣,可謂中興,侔德殷宗、周宣矣! 4. 5癸巳,太子即皇帝位,謁高廟,尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。 5.
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神槍兵 精鋭長槍兵の昇進型。攻撃力は高いが、防御力が低い。 体力 攻撃 防衛 武力 知力 反応 体格 要統率 2585 118 174 84 80 84 82 25 +810 +33 +47 +25 +25 +25 +25 +5 攻撃属性:刺傷60% 防御耐性:斬防50%砕防60%水防50%妖防40% 注1:実際は、兵のレベルアップ時の能力値ボーナスが付くので、これよりも大きい値になる 注2:下の差分は、精鋭長槍兵からみた基礎能力値の上昇数値 必殺技:爆撃槍(単体攻撃 威力200%) ◆必殺攻撃の際、眩暈効果が付く場合がある。 お手軽に四次兵令が入手できる可能性が高い兵科。 何故なら、65レベル前後からドロップする相手を狩ることが出来るからである。 そのお手軽さも相まって愛用者はかなり多い。 背の丈以上の槍を掲げて走る様は、さながら『レレレのおじさん』。 分からない人は検索してみよう。 全身重鎧で固めた姿は、もう一流の兵士の姿である。 上昇ボーナスは、ごく平均的。 故に癖が無く、戦場を選ばない。 唯一の欠点は、火防がないくらいか。 炎龍や炎岩などの火炎系攻撃術には要注意。 国戦や戦役では、相手の刺防の%が低いことが多い。 それを狙って、小隊内をすべて神槍兵にするプレーヤーも案外多い。 火力も平均以上あるので、場合によっては斬・砕・射の属性よりも有効打になることもある。 安定した火力を望むなら、神槍兵がいいだろう。 転職令ゲットするならこいつを倒せ! 涼州長槍兵、冀州長槍兵、匈奴長槍兵、涼州長槍兵隊長、冀州長槍兵隊長、匈奴長槍兵隊長、涼州精鋭槍兵、冀州精鋭槍兵、匈奴精鋭長槍兵 少々修正させていただきました。 -- 名無しさん (2009-11-08 14 42 42) 名前 コメント
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資治通鑑巻第十八 漢紀十 世宗孝武皇帝上之下 元光二年(戊申、前一三三) 1冬,十月,上行幸雍,祠五畤。 1. 2李少君以祠灶卻老方見上,上尊之。少君者,故深澤侯舍人,匿其年及其生長,其游以方遍諸侯,無妻子。人聞其能使物及不死,更饋遺之,常餘金錢、衣食。人皆以爲不治生業而饒給,又不知其何所人,愈信,爭事之。少君善爲巧發奇中。嘗從武安侯飲,坐中有九十餘老人,少君乃言與其大父游射處;老人爲兒時從其大父,識其處,一坐盡驚。少君言上曰:「祠灶則致物,致物而丹沙可化爲黄金,壽可益,蓬萊仙者可見;見之,以封禪則不死,黄帝是也。臣嘗游海上,見安期生,食臣棗,大如瓜。安期生仙者,通蓬萊中,合則見人,不合則隱。」於是天子始親祠灶,遣方士入海求蓬萊安期生之屬,而事化丹沙諸藥齊爲黄金矣。居久之,李少君病死,天子以爲化去,不死;而海上燕、齊怪迂之方士多更來言神事矣。 2. 3亳人謬忌奏祠太一。方曰:「天神貴者太一,太一佐曰五帝。」於是天子立其祠長安東南郊。 3. 4鴈門馬邑豪聶壹,因大行王恢言:「匈奴初和親,親信邊,可誘以利致之,伏兵襲撃,必破之道也。」上召問公卿。王恢曰:「臣聞全代之時,北有強胡之敵,内連中國之兵,然尚得養老、長幼,種樹以時,倉廩常實,匈奴不輕侵也。今以陛下之威,海内爲一,然匈奴侵盜不已者,無他,以不恐之故耳。臣竊以爲撃之便。」韓安國曰:「臣聞高皇帝嘗圍於平城,七日不食;及解圍反位,而無忿怒之心。夫聖人以天下爲度者也,不以己私怒傷天下之功,故遣劉敬結和親,至今爲五世利。臣竊以爲勿撃便。」恢曰:「不然。高帝身被堅執鋭,行幾十年,所以不報平城之怨者,非力不能,所以休天下之心也。今邊境數驚,士卒傷死,中國槥車相望,此仁人之所隱也。故曰撃之便。」安國曰:「不然。臣聞用兵者以飽待饑,正治以待其亂,定捨以待其勞;故接兵覆衆,伐國墮城,常坐而役敵國,此聖人之兵也。今將卷甲輕舉,深入長驅,難以爲功;從行則迫脅,衡行則中絶,疾則糧乏,徐則後利,不至千里,人馬乏食。兵法曰:『遺人,獲也』,臣故曰勿撃便。」恢曰:「不然。臣今言撃之者,固非發而深入也。將順因單于之欲,誘而致之邊,吾選梟騎、壯士陰伏而處以爲之備,審遮險阻以爲其戒。吾勢已定,或營其左,或營其右,或當其前,或絶其後,單于可禽,百全必取。」上從恢議。 夏,六月,以御史大夫韓安國爲護軍將軍,衞尉李廣爲驍騎將軍,太僕公孫賀爲輕車將軍,大行王恢爲將屯將軍,太中大夫李息爲材官將軍,將車騎、材官三十餘萬匿馬邑旁谷中,約單于入馬邑縱兵。陰使聶壹爲間,亡入匈奴,謂單于曰:「吾能斬馬邑令、丞,以城降,財物可盡得。」單于愛信,以爲然而許之。聶壹乃詐斬死罪囚,縣其頭馬邑城下,示單于使者爲信,曰:「馬邑長吏已死,可急來!」於是單于穿塞,將十萬騎入武州塞。未至馬邑百餘里,見畜布野而無人牧者,怪之。乃攻亭,得鴈門尉史,欲殺之,尉史乃告單于漢兵所居。單于大驚曰:「吾固疑之。」乃引兵還,出曰:「吾得尉史,天也!」以尉史爲天王。塞下傳言單于已去,漢兵追至塞,度弗及,乃皆罷兵。王恢主別從代出撃胡輜重,聞單于還,兵多,亦不敢出。 上怒恢。恢曰:「始,約爲入馬邑城,兵與單于接,而臣撃其輜重,可得利。今單于不至而還,臣以三萬人衆不敵,只取辱。固知還而斬,然完陛下士三萬人。」於是下恢廷尉。廷尉當「恢逗橈,當斬。」恢行千金丞相蚡,蚡不敢言上,而言於太后曰:「王恢首爲馬邑事,今不成而誅恢,是爲匈奴報仇也。」上朝太后,太后以蚡言告上。上曰:「首爲馬邑事者恢,故發天下兵數十萬,從其言爲此。且縱單于不可得,恢所部撃其輜重,猶頗可得以慰士大夫心。今不誅恢,無以謝天下。」於是恢聞,乃自殺。自是之後,匈奴絶和親,攻當路塞,往往入盜於漢邊,不可勝數;然尚貪樂關市,嗜漢財物;漢亦關市不絶,以中其意。 4. 三年(己酉、前一三二) 1春,河水徙,從頓丘東南流。夏,五月,丙子,復決濮陽瓠子,注巨野,通淮、泗,泛郡十六。天子使汲黯、鄭當時發卒十萬塞之,輒復壞。是時,田蚡奉邑食鄃,鄃居河北,河決而南,則鄃無水災,邑收多。蚡言於上曰:「江、河之決皆天事,未易以人力強塞,塞之未必應天。」而望氣用數者亦以爲然。於是天子久之不復事塞也。 1. 2初,孝景時,魏其侯竇嬰爲大將軍,武安侯田蚡乃爲諸郎,侍酒跪起如子侄。已而蚡日益貴幸,爲丞相。魏其失勢,賓客益衰,獨故燕相穎陰灌夫不去。嬰乃厚遇夫,相爲引重,其游如父子然。夫爲人剛直,使酒,諸有勢在己之右者必陵之;數因酒忤丞相。丞相乃奏案:「灌夫家屬橫穎川,民苦之。」收繋夫及支屬,皆得棄市罪。魏其上書論救灌夫,上令與武安東朝廷辨之。魏其、武安因互相詆訐。上問朝臣:「兩人孰是?」唯汲黯是魏其,韓安國兩以爲是;鄭當時是魏其,後不敢堅。上怒當時曰:「吾並斬若屬矣。」即罷。起,入。上食太后,太后怒不食,曰:「今我在也,而人皆藉吾弟;令我百歳後,皆魚肉之乎!」上不得已,遂族灌夫;使有司案治魏其,得棄市罪。 2. 四年(庚戌、前一三一) 1冬,十二月晦,論殺魏其於渭城。春,三月,乙卯,武安侯蚡亦薨。及淮南王安敗,上聞蚡受安金,有不順語,曰:「使武安侯在者,族矣!」 1. 2夏,四月,隕霜殺草。 2. 3御史大夫安國行丞相事,引,墮車,蹇。五月,丁巳,以平棘侯薛澤爲丞相,安國病免。 3. 4地震。赦天下。 4. 5九月,以中尉張歐爲御史大夫。韓安國疾愈,復爲中尉。 5. 6河間王德,修學好古,實事求是,以金帛招求四方善書,得書,多與漢朝等。是時,淮南王安亦好書,所招致率多浮辯。獻王所得書,皆古文先秦舊書,采禮樂古事,稍稍增輯至五百餘篇,被服、造次必於儒者,山東諸儒多從之遊。 6. 五年(辛亥、前一三〇) 1冬,十月,河間王來朝,獻雅樂,對三雍宮及詔策所問三十餘事。其對,推道術而言,得事之中,文約指明。天子下太樂官常存肄河間王所獻雅聲,歳時以備數,然不常御也。春,正月,河間王薨,中尉常麗以聞,曰:「王身端行治,温仁恭儉,篤敬愛下,明知深察,惠於鰥寡。」大行令奏:「謚法:『聰明睿知曰獻,』謚曰獻王。」 班固贊曰:昔魯哀公有言:「寡人生於深宮之中,長於婦人之手,未嘗知憂,未嘗知懼。」信哉斯言也,雖欲不危亡,不可得已!是故古人以宴安爲鴆毒,無德而富貴謂之不幸。漢興,至於孝平,諸侯王以百數,率多驕淫失道。何則?沈溺放恣之中,居勢使然也。自凡人猶繫於習俗,而況哀公之倫乎!「夫唯大雅,卓爾不羣」,河間獻王近之矣。 1. 2初,王恢之討東越也,使番陽令唐蒙風曉南越。南越食蒙以蜀枸醬,蒙問所從來。曰:「道西北牂柯江。牂柯江廣數里,出番禺城下。」蒙歸至長安,問蜀賈人。賈人曰:「獨蜀出枸醬,多持竊出市夜郎。夜郎者,臨牂柯江,江廣百餘歩,足以行船。南越以財物役屬夜郎,西至桐師,然亦不能臣使也。」蒙乃上書説上曰:「南越王黄屋左纛,地東西萬餘里,名爲外臣,實一州主也。今以長沙、豫章往,水道多絶,難行。竊聞夜郎所有精兵可得十餘萬,浮船牂柯江,出其不意,此制越一奇也。誠以漢之強,巴、蜀之饒,通夜郎道爲置吏,甚易。」上許之。 乃拜蒙爲中郎將,將千人,食重萬餘人,從巴、蜀筰關入,遂見夜郎侯多同。蒙厚賜,喩以威德,約爲置吏,使其子爲令。夜郎旁小邑皆貪漢繒帛,以爲漢道險,終不能有也,乃且聽蒙約。還報,上以爲犍爲郡,發巴、蜀卒治道,自僰道指牂柯江,作者數萬人,士卒多物故,有逃亡者。用軍興法誅其渠率,巴、蜀民大驚恐。上聞之,使司馬相如責唐蒙等,因諭告巴、蜀民以非上意;相如還報。 是時,邛、筰之君長。聞南夷與漢通,得賞賜多,多欲願爲内臣妾,請吏比南夷。天子問相如,相如曰:「邛、筰、冉駹者近蜀,道亦易通。秦時嘗通,爲郡縣,至漢興而罷。今誠復通,爲置郡縣,愈於南夷。」天子以爲然,乃拜相如爲中郎將,建節往使,及副使王然於等乘傳,因巴、蜀吏幣物以賂西夷。邛、筰、冉駹、斯楡之君。皆請爲内臣。除邊關;關益斥,西至沬、若水,南至牂柯爲徼,通零關道,橋孫水以通邛都,爲置一都尉、十餘縣,屬蜀。天子大説。 2. 3詔發卒萬人治鴈門阻險。 3. 4秋,七月,大風拔木。 4. 5女巫楚服等教陳皇后祠祭厭勝,挾婦人媚道;事覺,上使御史張湯窮治之。湯深竟黨與,相連及誅者三百餘人,楚服梟首於市。乙巳,賜皇后冊,收其璽綬,罷退,居長門宮。竇太主慚懼,稽顙謝上。上曰:「皇后所爲不軌於大義,不得不廢。主當信道以自慰,勿受妄言以生嫌懼。後雖廢,供奉如法,長門無異上宮也。」 5. 6初,上嘗置酒竇太主家,主見所幸賣珠兒董偃,上賜之衣冠,尊而不名,稱爲「主人翁」,使之侍飲;由是董君貴寵,天下莫不聞。常從遊戲北宮,馳逐平樂觀雞、鞠之會,角狗、馬之足,上大歡樂之。上爲竇太主置酒宣室,使謁者引内董君。是時,中郎東方朔陛戟殿下,辟戟而前曰:「董偃有斬罪三,安得入乎!」上曰:「何謂也?」朔曰:「偃以人臣私侍公主,其罪一也。敗男女之化,而亂婚姻之禮,傷王制,其罪二也。陛下富於春秋,方積思於六經,偃不遵經勸學,反以靡麗爲右,奢侈爲務,盡狗馬之樂,極耳目之欲,是乃國家之大賊,人主之大蜮,其罪三也。」上默然不應,良久曰:「吾業已設飲,後而自改。」朔曰:「不可。夫宣室者,先帝之正處也,非法度之政不得入焉。故淫亂之漸,其變爲簒。是以豎貂爲淫而易牙作患,慶父死而魯國全。」上曰:「善!」有詔止,更置酒北宮,引董君從東司馬門入;賜朔黄金三十斤。董君之寵由是日衰。是後,公主、貴人多踰禮制矣。 6. 7上以張湯爲太中大夫,與趙禹共定諸律令,務在深文。拘守職之吏,作見知法,吏傳相監司。用法益刻自此始。 7. 8八月,螟。 8. 9是歳,征吏民有明當世之務、習先聖之術者,縣次續食,令與計諧。 菑川人公孫弘對策曰:「臣聞上古堯、舜之時,不貴爵賞而民勸善,不重刑罰而民不犯,躬率以正則遇民信也;末世貴爵厚賞而民不勸,深刑重罰而姦不止,其上不正,遇民不信也。夫厚賞重刑,未足以勸善而禁非,必信而已矣。是故因能任官,則分職治;去無用之言,則事情得;不作無用之器,則賦斂省;不奪民時,不妨民力,則百姓富;有德者進,無德者退,則朝廷尊;有功者上,無功者下,則羣臣逡;罰當罪,則姦邪止;賞當賢,則臣下勸。凡此八者,治之本也。故民者,業之則不爭,理得則不怨,有禮則不暴,愛之則親上,此有天下之急者也。禮義者,民之所服也;而賞罰順之,則民不犯禁矣。 臣聞之:氣同則從,聲比則應。今人主和德於上,百姓和合於下,故心和則氣和,和則形和,形和則聲和,聲和則天地之和應矣。故陰陽和,風雨時,甘露降,五穀登,六畜蕃,嘉禾興,硃草生,山不童,澤不涸,此和之至也。」 時對者百餘人,太常奏弘第居下。策奏,天子擢弘對爲第一,拜爲博士,待詔金馬門。 齊人轅固,年九十餘,亦以賢良征。公孫弘仄目而事固,固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世。」諸儒多疾毀固者,固遂以老罷歸。 是時,巴、蜀四郡鑿山通西南夷道,千餘里戍轉相餉。數歳,道不通,士罷餓、離暑濕死者甚衆;西南夷又數反,發兵興撃,費以巨萬計而無功。上患之,詔使公孫弘視焉。還奏事,盛毀西南夷無所用,上不聽。弘毎朝會議,開陳其端,使人主自擇,不肯面折廷爭。於是上察其行愼厚,辯論有餘,習文法吏事,縁飾以儒術,大説之,一歳中遷至左内史。 弘奏事,有不可,不廷辨。常與汲黯請間,黯先發之,弘推其後,天子常説,所言皆聽,以此日益親貴。弘嘗與公卿約議,至上前,皆倍其約以順上旨。汲黯廷詰弘曰:「齊人多詐而無情實。始與臣等建此議,今皆倍之,不忠!」上問弘。弘謝曰:「夫知臣者,以臣爲忠;不知臣者,以臣爲不忠。」上然弘言。左右幸臣毎毀弘,上益厚遇之。 9. 六年(壬子、前一二九) 1冬,初算商車。 1. 2大司農鄭當時言:「穿渭爲渠,下至河,漕關東粟徑易,又可以漑渠下民田萬餘頃。」春,詔發卒數萬人穿渠,如當時策;三歳而通,人以爲便。 2. 3匈奴入上谷,殺略吏民。遣車騎將軍衞靑出上谷,騎將軍公孫敖出代,輕車將軍公孫賀出雲中,驍騎將軍李廣出鴈門,各萬騎,撃胡關市下。衞靑至龍城,得胡首虜七百人;公孫賀無所得;公孫敖爲胡所敗,亡七千騎;李廣亦爲胡所敗。胡生得廣,置兩馬間,絡而盛臥,行十餘里;廣佯死,暫騰而上胡兒馬上,奪其弓,鞭馬南馳,遂得脱歸。漢下敖、廣吏,當斬,贖爲庶人;唯靑賜爵關内侯。靑雖出於奴虜,然善騎射,材力絶人;遇士大夫以禮,與士卒有恩,衆樂爲用,有將帥材,故毎出輒有功。天下由此服上之知人。 3. 4夏,大旱,蝗。 4. 5六月,上行幸雍。 5. 6秋,匈奴數盜邊,漁陽尤甚。以衞尉韓安國爲材官將軍,屯漁陽。 6. 元朔元年(癸丑、前一二八) 1冬,十一月,詔曰:「朕深詔執事,興廉舉孝,庶幾成風,紹休聖緒。夫十室之邑,必有忠信;三人並行,厥有我師。今或至闔郡而不薦一人,是化不下究,而積行之君子壅於上聞也。且進賢受上賞,蔽賢蒙顯戮,古之道也。其議二千石不舉者罪。」有司奏:「不舉孝,不奉詔,當以不敬論;不察廉,不勝任也,當免。」奏可。 1. 2十二月,江都易王非薨。 2. 3皇子據生,衞夫人之子也。三月,甲子,立衞夫人爲皇后,赦天下。 3. 4秋,匈奴二萬騎入漢,殺遼西太守,略二千餘人,圍韓安國壁;又入漁陽、鴈門,各殺略千餘人。安國益東徙,屯北平;數月,病死。天子乃復召李廣,拜爲右北平太守。匈奴號曰「漢之飛將軍」,避之,數歳不敢入右北平。 4. 5車騎將軍衞靑將三萬騎出鴈門,將軍李息出代;靑斬首虜數千人。 5. 6東夷薉君南閭等共二十八萬人降,爲蒼海郡;人徒之費,擬於南夷,燕、齊之間,靡然騷動。 6. 7是歳,魯共王餘、長沙定王發皆薨。 7. 8臨菑人主父偃、嚴安,無終人徐樂,皆上書言事。 始,偃游齊、燕、趙,皆莫能厚遇,諸生相與排擯不容;家貧,假貸無所得,乃西入關上書闕下,朝奏,暮召入。所言九事,其八事爲律令;一事諫伐匈奴,其辭曰:「司馬法曰:『國雖大,好戰必亡;天下雖平,忘戰必危。』夫怒者逆德也,兵者凶器也,爭者末節也。夫務戰勝,窮武事者,未有不悔者也。 昔秦皇帝併呑戰國,務勝不休,欲攻匈奴。李斯諫曰:『不可。夫匈奴,無城郭之居,委積之守,遷徙鳥舉,難得而制也。輕兵深入,糧食必絶;踵糧以行,重不及事。得其地,不足以爲利也;得其民,不可調而守也;勝必殺之,非民父母也;靡敝中國,快心匈奴,非長策也。』秦皇帝不聽,遂使蒙恬將兵攻胡,闢地千里,以河爲境。地固沮澤、咸鹵,不生五穀。然後發天下丁男以守北河,暴兵露師十有餘年,死者不可勝數,終不能踰河而北,是豈人衆不足,兵革不備哉?其勢不可也。又使天下蜚芻、嚙輓粟,起於東陲、琅邪負海之郡,轉輸北河,率三十鐘而致一石。男子疾耕,不足於糧餉,女子紡績,不足於帷幕,百姓靡敝,孤寡老弱不能相養,道路死者相望,蓋天下始畔秦也。 及至高皇帝,定天下,略地於邊,聞匈奴聚於代谷之外而欲撃之。御史成進諫曰:『不可。夫匈奴之性,獸聚而鳥散,從之如搏影。今以陛下盛德攻匈奴,臣竊危之。』高帝不聽,遂北至於代谷,果有平城之圍。高皇帝蓋悔之甚,乃使劉敬往結和親之約,然後天下忘干戈之事。 夫匈奴難得而制,非一世也;行盜侵驅,所以爲業也,天性固然。上及虞、夏、殷、周,固弗程督,禽獸畜之,不屬爲人。夫上不觀虞、夏、殷、周之流,而下循近世之失,此臣之所大憂,百姓之所疾苦也。」 嚴安上書曰:「今天下人民,用財侈靡,車馬、衣裘、宮室,皆競修飾,調五聲使有節族,雜五色使有文章,重五味方丈於前,以觀欲天下。彼民之情,見美則願之,是教民以侈也;侈而無節,則不可贍,民離本而徼末矣。末不可徒得,故縉紳者不憚爲詐,帶劍者誇殺人以矯奪,而世不知愧,是以犯法者衆。臣願爲民制度以防其淫,使貧富不相燿以和其心;心志定,則盜賊消,刑罰少,陰陽和,萬物蕃也。昔秦王意廣心逸,欲威海外,使蒙恬將兵以北攻胡,又使尉屠睢將樓船之士以攻越。當是時,秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵於無用之地,進而不得退。行十餘年,丁男被甲,丁女轉輸,苦不聊生;自經於道樹,死者相望。及秦皇帝崩,天下大畔,滅世絶祀,窮兵之禍也。故周失之弱,秦失之強,不變之患也。今徇西夷,朝夜郎,降羌、僰,略薉州,建城邑,深入匈奴,燔其龍城,議者美之。此人臣之利,非天下之長策也。」 徐樂上書曰:「臣聞天下之患,在於土崩,不在瓦解,古今一也。 何謂土崩?秦之末世是也。陳渉無千乘之尊、疆土之地,身非王公、大人、名族之後,郷曲之譽,非有孔、曾、墨子之賢,陶硃、猗頓之富也;然起窮巷,奮棘矜,偏袒大呼,天下從風。此其故何也?由民困而主不恤,下怨而上不知,俗已亂而政不修。此三者,陳渉之所以爲資也,此之謂土崩。故曰天下之患在乎土崩。 何謂瓦解?呉、楚、齊、趙之兵是也。七國謀爲大逆,號皆稱萬乘之君,帶甲數十萬,威足以嚴其境内,財足以勸其士民;然不能西攘尺寸之地,而身爲禽於中原者,此其故何也?非權輕於匹夫而兵弱於陳渉也。當是之時,先帝之德未衰而安土樂俗之民衆,故諸侯無竟外之助,此之謂瓦解。故曰天下之患不在瓦解。 此二體者,安危之明要,賢主之一留意而深察也。 間者,關東五穀數不登,年歳未復,民多窮困,重之以邊境之事,推數循理而觀之,民宜有不安其處者矣。不安,故易動;易動者,土崩之勢也。故賢主獨觀萬化之原,明於安危之機,修之廟堂之上而銷未形之患也,其要期使天下無土崩之勢而已矣。」 書奏,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在,何相見之晩也!」皆拜爲郎中。主父偃尤親幸,一歳中凡四遷,爲中大夫。大臣畏其口,賂遺累千金。或謂偃曰:「太橫矣!」偃曰:「吾生不五鼎食,死即五鼎烹耳!」 8. 二年(甲寅、前一二七) 1冬,賜淮南王几杖,毋朝。 1. 2主父偃説上曰:「古者諸侯不過百里,強弱之形易制。今諸侯或連城數十,地方千里,緩則驕奢,易爲淫亂,急則阻其強而合從以逆京師。以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十數,而適嗣代立,餘雖骨肉,無尺地之封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之,彼人人喜得所願。上以德施,實分其國,不削而稍弱矣。」上從之。春,正月,詔曰:「諸侯王或欲推私恩分子弟邑者,令各條上,朕且臨定其號名。」於是籓國始分,而子畢侯矣。 2. 3匈奴入上谷、漁陽,殺略吏民千餘人。遣衞靑、李息出雲中以西至隴西,撃胡之樓煩、白羊王於河南,得胡首虜數千,牛羊百餘萬,走白羊、樓煩王,遂取河南地。詔封靑爲長平侯,靑校尉蘇建、張次公皆有功,封建爲平陵侯,次公爲岸頭侯。 主父偃言:「河南地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,内省轉輸戍漕,廣中國,滅胡之本也。」上下公卿議,皆言不便。上竟用偃計,立朔方郡,使蘇建興十餘萬人築朔方城,復繕故秦時蒙恬所爲塞,因河爲固。轉漕甚遠,自山東咸被其勞,費數十百巨萬,府庫並虚;漢亦棄上谷之鬥辟縣造陽地以予胡。 3. 4三月,乙亥晦,日有食之。 4. 5夏,募民徙朔方十萬口。 5. 6主父偃説上曰:「茂陵初立,天下豪桀,並兼之家,亂衆之民,皆可徙茂陵;内實京師,外銷姦猾,此所謂不誅而害除。」上從之,徙郡國豪傑及訾三百萬以上於茂陵。 軹人郭解,關東大俠也,亦在徙中。衞將軍爲言:「郭解家貧,不中徙。」上曰:「解,布衣,權至使將軍爲言,此其家不貧。」卒徙解家。解平生睚眥殺人甚衆,上聞之,下吏捕治解,所殺皆在赦前。軹有儒生侍使者坐,客譽郭解,生曰:「解專以姦犯公法,何謂賢!」解客聞,殺此生,斷其舌。吏以此責解,解實不知殺者,殺者亦竟絶,莫知爲誰。吏奏解無罪,公孫弘議曰:「解,布衣,爲任俠行權,以睚眥殺人。解雖弗知,此罪甚於解殺之。當大逆無道。」遂族郭解。 班固曰:古者天子建國,諸侯立家,自卿大夫以至於庶人,各有等差,是以民服事其上而下無覬覦。周室既微,禮樂、征伐自諸侯出。桓、文之後,大夫世權,陪臣執命。陵夷至於戰國,合從連衡,繇是列國公子,魏人信陵,趙有平原,齊有孟嘗,楚有春申,皆藉王公之勢,競爲遊俠,雞鳴狗盜,無不賓禮。而趙相虞卿,棄國捐君,以周窮交魏齊之厄;信陵無忌,竊符矯命,戮將專師,以赴平原之急;皆以取重諸侯,顯名天下,扼腕而游談者,以四豪爲稱首。於是背公死黨之議成,守職奉上之義廢矣。及至漢興,禁網疏闊,未知匡改也。是故代相陳豨從車千乘,而呉濞、淮南皆招客以千數。外戚大臣魏其、武安之屬競逐於京師,布衣遊俠劇孟、郭解之徒馳騖於閻閭、權行州域。力折公侯,衆庶榮其名跡,覬而慕之。雖其陷於刑辟,自與殺身成名,若季路、仇牧,死而不悔。故曾子曰:「上失其道,民散久矣。」非明王在上,示之以好惡,齊之以禮法,民曷由知禁而反正乎!古之正法:五伯,三王之罪人也;而六國,五伯之罪人也。夫四豪者,又六國之罪人也。況於郭解之倫,以匹夫之細,竊殺生之權,其罪已不容於誅矣。觀其温良泛愛,振窮周急,謙退不伐,亦皆有絶異之姿。惜乎,不入於道德,苟放縱於末流,殺身亡宗,非不幸也。 荀悅論曰:世有三游,德之賊也:一曰遊俠,二曰遊説,三曰遊行。立氣勢,作威福,結私交以立強於世者,謂之遊俠;飾辯辭,設詐謀,馳逐於天下以要時勢者,謂之遊説;色取仁以合時好,連黨類,立虚譽以爲權利者,謂之遊行。此三者,亂之所由生也;傷道害德,敗法惑世,先王之所愼也。國有四民,各修其業。不由四民之業者,謂之姦民。姦民不生,王道乃成。 凡此三游之作,生於季世,周、秦之末尤甚焉。上不明,下不正,制度不立,綱紀馳廢;以毀譽爲榮辱,不核其眞;以愛憎爲利害,不論其實;以喜怒爲賞罰,不察其理。上下相冒,萬事乖錯,是以言論者計薄厚而吐辭,選舉者度親疏而舉筆,善惡謬於衆聲,功罪亂於王法。然則利不可以義求,害不可以道避也。是以君子犯禮,小人犯法,奔走馳騁,越職僭度,飾華廢實,競趣時利。簡父兄之尊而崇賓客之禮,薄骨肉之恩而篤朋友之愛,忘修身之道而求衆人之譽,割衣食之業以供饗宴之好,苞苴盈於門庭,聘問交於道路,書記繁於公文,私務衆於官事,於是流俗成而正道壞矣。 是以聖王在上,經國序民,正其制度;善惡要於功罪而不淫於毀譽,聽其言而責其事,舉其名而指其實。故實不應其聲者謂之虚,情不覆其貌者謂之僞,毀譽失其眞者謂之誣,言事失其類者謂之罔。虚僞之行不得設,誣罔之辭不得行,有罪惡者無僥倖,無罪過者不憂懼,請謁無所行,貨賂無所用,息華文,去浮辭,禁僞辯,絶淫智,放百家之紛亂,壹聖人之至道,養之以仁惠,文之以禮樂,則風俗定而大化成矣。 6. 7燕王定國與父康王姫姦,奪弟妻爲姫,殺肥如令郢人。郢人兄弟上書告之,主父偃從中發其事。公卿請誅定國,上許之。定國自殺,國除。 齊厲王次昌亦與其姊紀翁主通。主父偃欲納其女於齊王,齊紀太后不許。偃因言於上曰:「齊臨菑十萬戸,市租千金,人衆殷富,巨於長安,非天子親弟、愛子,不得王此。今齊王於親屬益疏,又聞其姊亂,請治之!」於是帝拜偃爲齊相,且正其事。偃至齊,急治王后宮宦者,辭及王;王懼,飲藥自殺。偃少時游齊及燕、趙,及貴,連敗燕、齊。趙王彭祖懼,上書告主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及齊王自殺,上聞,大怒,以爲偃劫其王令自殺,乃征下吏治。偃服受諸侯金,實不劫王令自殺。上欲勿誅,公孫弘曰:「齊王自殺,無後,國除爲郡入漢,主父偃本首惡。陛下不誅偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。 7. 8張歐免,上欲以蓼侯孔臧爲御史大夫。臧辭曰:「臣世以經學爲業,乞爲太常,典臣家業,與從弟侍中安國綱紀古訓,使永垂來嗣。」上乃以臧爲太常,其禮賜如三公。 8. 三年(乙卯、前一二六) 1冬,匈奴軍臣單于死,其弟左谷蠡王伊稚斜自立爲單于,攻破軍臣單于太子於單,於單亡降漢。 1. 2以公孫弘爲御史大夫。是時,方通西南夷,東置蒼海,北築朔方之郡。公孫弘數諫,以爲罷敝中國以奉無用之地,願罷之。天子使硃買臣等難以置朔方之便;發十策,弘不得一。弘乃謝曰:「山東鄙人,不知其便若是,願罷西南夷、蒼海而專奉朔方。」上乃許之,春,罷蒼海郡。 弘爲布被,食不重肉。汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多;然爲布被,此詐也。」上問弘,弘謝曰:「有之。夫九卿臣善者無過黯,然今日廷詰弘,誠中弘之病。夫以三公爲布被,與小吏無差,誠飾詐,欲以釣名,如汲黯言。且無汲黯忠,陛下安得聞此言!」天子以爲謙讓,愈益厚之。 2. 3三月,赦天下。 3. 4夏,四月,丙子,封匈奴太子於單爲渉安侯,數月而卒。 4. 5初,匈奴降者言:「月氏故居敦煌、祁連間,爲強國,匈奴冒頓攻破之。老上單于殺月氏王,以其頭爲飲器。餘衆遁逃遠去,怨匈奴,無與共撃之。」上募能通使月氏者,漢中張騫以郎應募,出隴西,逕匈奴中;單于得之,留騫十餘歳。騫得間亡,郷月氏西走,數十日,至大宛。大宛聞漢之饒財,欲通不得,見騫,喜,爲發導譯抵康居,傳致大月氏。大月氏太子爲王,既撃大夏,分其地而居之,地肥饒,少寇,殊無報胡之心。騫留歳餘,竟不能得月氏要領,乃還;並南山,欲從羌中歸,復爲匈奴所得,留歳餘。會伊稚斜逐於單,匈奴國内亂,騫乃與堂邑氏奴甘父逃歸。上拜騫爲太中大夫,甘父爲奉使君。騫初行時百餘人,去十三歳,唯二人得還。 5. 6匈奴數萬騎入塞,殺代郡太守恭,及略千餘人。 6. 7六月,庚午,皇太后崩。 7. 8秋,罷西夷,獨置南夷、夜郎兩縣、一都尉,稍令犍爲自葆就,專力城朔方。 8. 9匈奴又入鴈門,殺略千餘人。 9. 10是歳,中大夫張湯爲廷尉。湯爲人多詐,舞智以御人。時上方郷文學,湯陽浮慕,事董仲舒、公孫弘等。以千乘兒寬爲奏讞掾,以古法義決疑獄。所治,即上意所欲罪,與監、史深禍者;即上意所欲釋,與監、史輕平者;上由是悅之。湯於故人子弟調護之尤厚;其造請諸公,不避寒暑。是以湯雖文深、意忌、不專平,然得此聲譽。汲黯數質責湯於上前曰:「公爲正卿,上不能褒先帝之功業,下不能抑天下之邪心,安國富民,使囹圄空虚,何空取高皇帝約束紛更之爲!而公以此無種矣。」黯時與湯論議,湯辯常在文深小苛;黯伉厲守高,不能屈,忿發,罵曰:「天下謂刀筆吏不可以爲公卿,果然!必湯也,令天下重足而立,側目而視矣!」 10. 四年(丙辰、前一二五) 1冬,上行幸甘泉。 1. 2夏,匈奴入代郡、定襄、上郡,各三萬騎,殺略數千人。 2.
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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】冒頓単于 【性別】男性 【身長・体重】177cm・84kg 【属性】混沌・善 【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷C 魔力E 幸運D 宝具D 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 単独行動:A マスター不在でも行動できる。 ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合は、 マスターのバックアップが必要。 【固有スキル】 連携攻撃:B 複数人による攻撃に長けていることを示す能力。 他の人物と同時に行う攻撃判定に有利な修正を得る。 仕切り直し:C 戦闘から離脱する能力。 また、不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。 軍略:D 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。 自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。 【宝具】 『我従うは慈悲なき鏑矢(パクス・モンゴリア)』 ランク:D 種別:対軍宝具 レンジ:5~50 最大捕捉:100人 冒頓単于に従う私兵団の矢による一斉同時攻撃。 愛馬、愛妻、そして親族や父を殺すことをも躊躇わず攻撃することを命じ、それに従った信頼できる兵による追加攻撃は、 冒頓単于が矢を放った際、背後の空間から無数の矢となって降り注がれる。 ただの矢の一発が対軍規模となって敵に襲いかかるその攻撃は、その規模に対してあくまでも冒頓単于自身は 対人レベルの通常攻撃に集約されるため、非常に魔力消費の効率がよい。 【Weapon】 『無銘・弓矢』 【解説】 匈奴の王。 冒頓は匈奴の太子として生を受けた。 しかし、父王の頭曼は再婚し新たな子供ができると、冒頓を疎み、西方へ人質として送り、 さらにその西方へ戦争を仕掛ける。 敵国の人質となり殺されかけた冒頓だったが、危機を逃れ、祖国へと帰った。 その機知と武勇を賞讃した頭曼は冒頓を一万騎の将軍に任命したが、冒頓は父への憎しみを忘れなかった。 冒頓は部下に、「自分が射たものに対し、躊躇うことなく矢を射る」ことを命じた。 冒頓は愛馬を射た。矢を射ることを躊躇した部下は処刑した。 冒頓は愛妻を射た。矢を射ることを躊躇した部下は処刑した。 最期に冒頓は、ともに狩猟にでかけた父に矢を射た。躊躇する部下は、もういなかった。 その後、冒頓は義母や異母弟たち、自分に逆らう重臣のことごとくを殺害して王位につき、 十年足らずで匈奴を前漢と並ぶ大帝国にした。 前漢の高祖、即ち劉邦と干戈を交えたとき、勝利したのは匈奴であったという。 【特記事項】 逸話がハッキリしていたので作りやすかった。世界史でも習うのに意外と僕鯖では初?だった
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編集 張奐は、後漢後期の人物。使匈奴中郎将や度遼将軍などとして、匈奴・鮮卑・烏桓らの乱を治め、大いに威令があった。 西方の出身であったが、功績によって弘農郡への移籍を求め、認められた。 歐陽尚書に精通した学者でもあり、党錮に反対する上疏をしたが受け入れられなかった。 情報 張奐 姓氏 張 名 奐 字 然明 本貫地 敦煌郡淵泉県後に弘農郡華陰県 家柄 淵泉張氏後に華陰張氏 父 張惇 母 誕生 幼年評 起家 官歴 終官 爵位 評 死去 享年 追贈 諡号 廟号 号,渾名 死後評 子 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 弘農郡 出身 敦煌郡 出身 淵泉県 出身 華陰県 学歴 歐陽尚書 師事 朱寵 淵泉張氏 華陰張氏 関連項目・人物 「張奐」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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レベル別敵リスト 赤字は好戦地域です。PKにご注意ください。 また、修練可能Lvは(最低Lv-3)~です。修練費用はこちらの強さにより変わりますのでご注意下さい。 Lv 地域 場所 名前 9-10 ■済南郡 稷下 血獅 ■江陵郡 巨陽 剣歯虎 ■漁陽郡 興隆 野牛 11-12 ■済南郡 高宛 剣歯虎 ■江陵郡 安陵 野牛 ■漁陽郡 密雲 血獅 11-13 ■済南郡 稷下 稷下宮 血獅 ■江陵郡 巨陽 落鳳坡 剣歯虎 ■漁陽郡 興隆 粘土路 野牛 12-14 ■済南郡 稷下 稷下宮 暗殺槍客 邪剣士 万剣居 狂天獅 ■江陵郡 巨陽 落鳳坡 独行剣客 盗賊 独木道 咆哮剣虎 ■漁陽郡 興隆 粘土路 爆裂剣首 黒風槍客 赤風山 妖牛 13-15 ■済南郡 稷下 万剣居 爆裂剣首 高宛 緑林道 剣歯虎 重槍客 ■江陵郡 巨陽 独木道 重槍客 安陵 屈原故居 野牛 爆裂剣首 ■漁陽郡 興隆 赤風山 流寇 密雲 松林道 血獅 狂野槍客 14-16 ■済南郡 稷下 万剣居 黒風槍客 高宛 緑林道 重剣客 伏牛山 絶地猛虎 ■江陵郡 巨陽 独木道 重剣客 安陵 屈原故居 黒風槍客 ■漁陽郡 興隆 赤風山 旋月槍客 密雲 松林道 盗掘団 15-16 ■済南郡 于陵 野牛 ■江陵郡 夷陵 血獅 ■漁陽郡 武陽 剣歯虎 15-17 ■済南郡 于陵 楓林居 野牛 ■江陵郡 夷陵 刺木林 血獅 ■漁陽郡 武陽 筑楽台 剣歯虎 16-17 ■済南郡 岱山 野牛 16-18 ■済南郡 于陵 楓林居 狂野槍客 岱山 太子府 暴狼 ■江陵郡 安陵 太室山 妖牛 夷陵 刺木林 狂野槍客 ■漁陽郡 密雲 水雲庫 浴血の龍獅 武陽 筑楽台 暗殺槍客 17-19 ■済南郡 高宛 伏牛山 独行剣客 于陵 楓林居 盗掘団 岱山 太子府 夜襲賊 蔵剣客 ■江陵郡 安陵 太室山 流寇 夷陵 刺木林 盗掘団 ■漁陽郡 密雲 水雲庫 重槍客 武陽 筑楽台 邪剣士 18-19 ■■斉楚官道 碧野溪灘 妖牛 趙燕官道 青石路 狂暴野猪 18-20 済南郡 高宛 伏牛山 盗賊 ■江陵郡 安陵 太室山 旋月槍客 ■漁陽郡 密雲 水雲庫 重剣客 斉楚官道 碧野溪灘 碧野龍門 妖牛 19-20 斉楚官道 斉国兵舎 屯兵 20-22 斉楚官道 碧野溪灘 碧野龍門 旋月槍客 趙燕官道 青石路 左将軍府 狂暴野猪 20-23 済南郡 于陵 奇魁室 流寇 ■江陵郡 夷陵 絆天石 暗殺槍客 漁陽郡 武陽 灌木林 独行剣客 22-24 斉楚官道 碧野溪灘 碧野龍門 蔵剣客 斉楚官道 斉国兵舎 議事庁 屯兵 趙燕官道 青石路 左将軍府 黒風槍客 右将軍府 盗掘団 22-25 済南郡 于陵 奇魁室 妖牛 岱山 紫竹軒 月夜暴狼 江陵郡 夷陵 絆天石 雲呑獣 漁陽郡 武陽 灌木林 絶地猛虎 24-26 斉楚官道 斉国兵舎 議事庁 銅甲兵 趙燕官道 青石路 左将軍府 爆裂剣首 24-27 済南郡 于陵 奇魁室 旋月槍客 岱山 紫竹軒 巨歯野猪 江陵郡 夷陵 絆天石 邪剣士 漁陽郡 武陽 灌木林 盗賊 25-27 趙燕官道 青石路 右将軍府 巨歯野猪 26-28 斉楚官道 斉国兵舎 議事庁 武衛士 26-28 斉楚官道 青石路 右将軍府 月夜暴狼 26-29 済南郡 岱山 紫竹軒 魅影賊婦 28-30 斉楚官道 青石路 右将軍府 暗殺槍客 30-31 屯留 古戦場 匈奴囚徒 屯留軍営 野人戦士 槍の墓場 狂野槍客 滄源遺跡 狩猟屠夫 蛮荒地帯 蛮荒統領 祭拜の門 巫蛮使者 剣塚 独行剣客 匕峭 盗賊 30-32 斉楚官道 青石路 右将軍府 邪剣士 31-33 屯留 古戦場 寂静原野 匈奴囚徒 32-34 趙燕官道 青石路 右将軍府 狂野槍客 屯留 古戦場 寂静原野 野猪 驚恐之地 野人戦士 滄源遺跡 滄源正殿 狩猟屠夫 33-35 屯留 古戦場 寂静原野 狩猟屠夫 驚恐之地 暴狼 万丈天溝 野人戦士 滄源遺跡 滄源正殿 巨歯野猪 古巫源地 古巫祭壇 野人戦士 34-36 屯留 古戦場 驚恐之地 巫蛮使者 万丈天溝 野牛 滄源遺跡 滄源正殿 野人戦士 古巫源地 古巫祭壇 狂暴野猪 蛮荒地帯 荒野失地 蛮荒統領 剣塚 試剣石 独行剣客 匕峭 試匕石 盗賊 35-37 屯留 古戦場 万丈天溝 蛮荒統領 屯留軍営 軍営禁地 狩猟屠夫 槍の墓場 試槍石 暗殺槍客 古巫源地 古巫祭壇 巫蛮使者 蛮荒地帯 荒野失地 野人戦士 祭拜の門 焚火道 巫蛮使者 剣塚 試剣石 重剣客 匕峭 試匕石 流寇 36-38 屯留 槍の墓場 試槍石 旋月槍客 蛮荒地帯 荒野失地 匈奴囚徒 祭拜の門 焚火道 蛮荒統領 剣塚 試剣石 蔵剣客 匕峭 試匕石 盗掘団 37-39 屯留 祭拜の門 焚火道 野人戦士 38-40 鬼谷 鉄鎖 万年峭壁 狩猟屠夫 浮台 臨空浮像 盗掘団 中牟 大伾山 一線険地 銅甲兵 五岩山 日月坪 折冲将士 39-41 屯留 滄源遺跡 聚龍盤石 巫蛮使者 40-41 中牟 大伾山 銅甲兵 40-42 屯留 屯留軍営 軍営禁地 野人戦士 滄源遺跡 聚龍盤石 牙銀狼 41-43 屯留 屯留軍営 軍営禁地 匈奴囚徒 滄源遺跡 聚龍盤石 蛮荒統領 42-44 屯留 屯留軍営 軍営大寨 狩猟屠夫 滄源遺跡 滄源密道 匈奴囚徒 42-45 中牟 孤山道 黄沙嶺 黒風槍客 古の校場 藍竹軒 咆哮剣虎 43-45 屯留 屯留軍営 軍営大寨 巫蛮使者 演武場 巫蛮使者 滄源遺跡 滄源密道 妖牛 43-46 鬼谷 血池 血根道 浴血の龍獅 錐溶洞 錐溶陣 魅影賊婦 中牟 古の校場 藍竹軒 巨歯野猪 44-46 屯留 屯留軍営 軍営大寨 蛮荒統領 演武場 蛮荒統領 滄源遺跡 滄源密道 巫蛮使者 44-47 中牟 孤山道 黄沙嶺 雲呑獣 古の校場 中庭 牙銀狼 45-46 鬼谷 鉄鎖 狩猟屠夫 浮台 盗掘団 懸棺 巫蛮使者 血池 月夜暴狼 天剎洞 野人戦士 九宮閣 銅甲兵 地底牢獄 蛮荒統領 錐溶洞 匈奴囚徒 木人陣 野人戦士 45-47 屯留 屯留軍営 演武場 野人戦士 古巫源地 野人戦士 45-48 屯留 蛮荒地帯 蛮彜部族 巫蛮使者 中牟 孤山道 黄沙嶺 重槍客 鳳凰巣 狂天獅 古の校場 中庭 絶地猛虎 46-49 鬼谷 錐溶洞 寒冰室 独行剣客 47-49 鬼谷 鉄鎖 万年峭壁 狂野槍客 浮台 臨空浮像 暗殺槍客 錐溶洞 鐘乳刺 匈奴囚徒 48-50 鬼谷 鉄鎖 万年峭壁 邪剣士 浮台 臨空浮像 流寇 懸棺 鉄屍棺 巫蛮使者 血池 積血庫 月夜暴狼 錐溶洞 鐘乳刺 爆裂剣首 木人陣 鎖甲木室 野人戦士 49-51 屯留 槍の墓場 試槍石 狂野槍客 古巫源地 招神旗陣 蛮荒統領 蛮荒地帯 蛮彜部族 匈奴囚徒 鬼谷 鉄鎖 古の鉄松 暗殺槍客 天剎洞 地刹洞 野人戦士 錐溶洞 鐘乳刺 血獅 木人陣 鎖甲木室 暗殺槍客 49-52 鬼谷 懸棺 鉄屍棺 屯兵 50-52 屯留 古巫源地 招神旗陣 月夜暴狼 蛮荒地帯 蛮彜部族 狩猟屠夫 鬼谷 鉄鎖 古の鉄松 蔵剣客 九宮閣 驚景閣 銅甲兵 木人陣 鎖甲木室 爆裂剣首 51-53 屯留 古巫源地 招神旗陣 匈奴囚徒 鬼谷 血池 積血庫 絶地猛虎 天剎洞 地刹洞 狂野槍客 九宮閣 驚景閣 武衛士 52-54 屯留 古巫源地 生魂洞 狩猟屠夫 蛮荒地帯 蛮荒悪洞 狩猟屠夫 鬼谷 鉄鎖 断玄洞 旋月槍客 懸棺 鉄屍棺 黒風槍客 九宮閣 驚景閣 剣歯虎 地底牢獄 牢獄闘場 屯兵 53-55 屯留 古巫源地 生魂洞 雲呑獣 蛮荒地帯 蛮荒悪洞 巫蛮使者 鬼谷 鉄鎖 断玄洞 爆裂剣首 地底牢獄 牢獄闘場 銅甲兵 中牟 雲夢山 孫膑洞 蔵剣客 54-56 屯留 古巫源地 生魂洞 蛮荒統領 蛮荒地帯 蛮荒悪洞 蛮荒統領 鬼谷 鉄鎖 断玄洞 盗掘団 天剎洞 地刹洞 巨歯野猪 地底牢獄 牢獄闘場 蛮荒統領 55-57 鬼谷 鉄鎖 古の鉄松 蔵剣客 血池 積血庫 邪剣士 57-59 鬼谷 錐溶洞 寒冰室 重剣客 58-60 屯留 剣塚 万剣峰 重剣客 匕峭 匕影碑 流寇 鬼谷 錐溶洞 錐溶陣 夜襲賊 59-61 屯留 祭拜の門 祭魂木 野人戦士 鬼谷 錐溶洞 寒冰室 浴血の龍獅 60-62 屯留 祭拜の門 祭魂木 匈奴囚徒 剣塚 万剣峰 蔵剣客 匕峭 匕影碑 盗掘団 鬼谷 錐溶洞 錐溶陣 狂天獅 61-63 屯留 祭拜の門 祭魂木 狩猟屠夫 62-63 中牟 大伾山 一線険地 野人戦士 玄天石塔 狂野槍客 62-64 屯留 祭拜の門 深羅禁室 匈奴囚徒 剣塚 万剣峰 邪剣士 匕峭 匕影碑 夜襲賊 鬼谷 木人陣 重甲木室 黒風槍客 63-64 中牟 大伾山 一線険地 盗賊 玄天石塔 暗殺槍客 白龍瀑布 邪剣士 63-65 屯留 祭拜の門 深羅禁室 狩猟屠夫 鬼谷 木人陣 重甲木室 夜襲賊 金甲木室 重槍客 64-65 中牟 大伾山 玄天石塔 旋月槍客 白龍瀑布 蔵剣客 64-66 屯留 祭拜の門 深羅禁室 巫蛮使者 剣塚 剣魂秘室 蔵剣客 匕峭 匕影碑 盗掘団 鬼谷 木人陣 重甲木室 重剣客 金甲木室 邪剣士 65-66 中牟 大伾山 白龍瀑布 爆裂剣首 五岩山 折冲将士 雲夢山 巫蛮使者 孤山道 武衛士 古の校場 死せる鉄将 断天坡 盗掘団 淇園 巫蛮使者 衛国城壁 巫蛮使者 舍身崖 巫蛮使者 65-67 鬼谷 木人陣 金甲木室 邪剣士 66-67 中牟 孤山道 山賊の巣窟 武衛士 66-68 屯留 剣塚 剣魂秘室 邪剣士 匕峭 匕影碑 夜襲賊 67-68 中牟 五岩山 日月坪 狩猟屠夫 孤山道 山賊の巣窟 匈奴囚徒 67-69 鬼谷 血池 化血石 妖牛 68-69 中牟 五岩山 日月坪 盗掘団 孤山道 山賊の巣窟 流寇 古の校場 機関陣 死せる鉄将 68-70 屯留 剣塚 剣魂秘室 爆裂剣首 匕峭 匕影碑 魅影賊婦 鬼谷 血池 化血石 雲呑獣 血根道 血獅 69-70 中牟 孤山道 鳳凰巣 重剣客 古の校場 機関陣 巫蛮使者 断天坡 太乙池 盗掘団 69-71 鬼谷 懸棺 銅屍棺 狩猟屠夫 血池 化血石 爆裂剣首 70-71 中牟 雲夢山 孫膑洞 巫蛮使者 孤山道 鳳凰巣 独行剣客 古の校場 機関陣 夜襲賊 断天坡 太乙池 蛮荒統領 70-72 鬼谷 懸棺 銅屍棺 銅甲兵 血池 血根道 夜襲賊 71-72 中牟 雲夢山 孫膑洞 邪剣士 淇園 荊棘林 巫蛮使者 断天坡 太乙池 蛮荒統領 71-73 鬼谷 懸棺 銅屍棺 爆裂剣首 72-73 中牟 五岩山 四象迷陣 暗殺槍客 淇園 荊棘林 盗賊 72-74 鬼谷 懸棺 懸棺通路 匈奴囚徒 天剎洞 人刹洞 盗賊 73-74 中牟 五岩山 四象迷陣 匈奴囚徒 逍遥洞 黒風槍客 淇園 荊棘林 流寇 73-75 鬼谷 懸棺 懸棺通路 武衛士 天剎洞 人刹洞 牙銀狼 天剎洞 万劫碑 重剣客 74-75 中牟 五岩山 四象迷陣 蔵剣客 逍遥洞 狩猟屠夫 衛国城壁 同福窯 巫蛮使者 74-76 鬼谷 懸棺 懸棺通路 魅影賊婦 天剎洞 人刹洞 武衛士 天剎洞 万劫碑 咆哮剣虎 75-76 中牟 五岩山 逍遥洞 重剣客 衛国城壁 同福窯 狂野槍客 75-77 鬼谷 天剎洞 万劫碑 武衛士 76-77 中牟 衛国城壁 同福窯 暗殺槍客 77-78 中牟 舍身崖 摘心台 巫蛮使者 77-79 鬼谷 九宮閣 傷休閣 屯兵 78-79 中牟 舍身崖 摘心台 屯兵 78-80 鬼谷 九宮閣 傷休閣 折冲将士 生死閣 死せる鉄将 79-80 中牟 古の校場 藍竹軒 盗賊 舍身崖 摘心台 銅甲兵 79-81 鬼谷 九宮閣 傷休閣 咆哮剣虎 生死閣 屯兵 80-81 中牟 古の校場 中庭 流寇 80-82 鬼谷 九宮閣 生死閣 絶地猛虎 82-83 中牟 断天坡 黎火洞 盗賊 82-84 鬼谷 地底牢獄 鬼谷故居 銅甲兵 83-84 中牟 断天坡 黎火洞 妖牛 太極図陣 盗賊 83-85 鬼谷 地底牢獄 鬼谷故居 武衛士 玄鉄牢籠 武衛士 84-85 中牟 断天坡 黎火洞 浴血の龍獅 太極図陣 雲呑獣 84-86 鬼谷 地底牢獄 鬼谷故居 死せる鉄将 玄鉄牢籠 折冲将士 85-86 中牟 断天坡 太極図陣 狂天獅 85-87 鬼谷 地底牢獄 玄鉄牢籠 死せる鉄将 87-88 中牟 雲夢山 毛遂洞 蔵剣客 88-89 中牟 雲夢山 毛遂洞 爆裂剣首 水簾洞 爆裂剣首 89-90 中牟 雲夢山 毛遂洞 重剣客 水簾洞 重剣客 90-91 中牟 雲夢山 水簾洞 独行剣客 92-93 中牟 淇園 鶏冠山 流寇 93-94 中牟 淇園 鶏冠山 盗掘団 淇水関 盗掘団 94-95 中牟 淇園 鶏冠山 夜襲賊 淇水関 夜襲賊 95-96 中牟 淇園 淇水関 魅影賊婦 97-98 中牟 衛国城壁 衛国密室 狂野槍客 98-99 中牟 衛国城壁 衛国密室 暗殺槍客 皇龍碑 旋月槍客 99-100 中牟 衛国城壁 衛国密室 旋月槍客 皇龍碑 黒風槍客 100-101 中牟 衛国城壁 皇龍碑 重槍客 102-103 中牟 舍身崖 紂王墓 銅甲兵 103-104 中牟 舍身崖 紂王墓 武衛士 封神台 武衛士 104-105 中牟 舍身崖 紂王墓 折冲将士 105-106 中牟 舍身崖 封神台 折冲将士 死せる鉄将
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後漢時代の西域を舞台としたシナリオ。 あらすじ 新末漢初の混乱は、 莎車王・賢に西域制覇の夢を見せるに十分であった。 しかしながら、暴虐な統治を伴う賢の征服行は、 北匈奴と手を組んだ亀茲の反撃と、 休莫覇に率いられた于田の叛乱によって報いられる。 またゼン善、車師などの大国は、北匈奴の支援を受けて、 領域国家への道を歩みだそうとしていた。 一方、新末の混乱を脱した中華は、 後漢の緩やかな統治の下、徐々に体制を整え、 再び西域に勢力を及ぼす機を窺っていた……。 (OPより引用) 入手先 戦国史旧作シナリオ復興委員会 備考 シナリオ名: 後漢書西域伝シナリオ 作者: 479 現バージョン: 1.01 最終更新: 2012年8月1日更新 動作環境: SE◎ FE○ 旧× 規模: 西域 開始年月: 70年4月 勢力数: 21 城数: 27 将軍数: 67 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
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平定任務の一覧です^^ 任務名 任務目標 任務奨金 備考 木材 鉄鋼 石材 食糧 名声 銅銭 その他 倭国の乱 忍者服10個倭寇トーテム10個 日本刀:3000←貯金みたいなものです。沢山ためて売り払うための武器名声:3000 1部隊約900~1300が3~5部隊。兵器LV15以上で3000人以上の兵力があれば、何とか戦える。何進・・・初めての倭国^^15弓20鎧20馬の歩兵単5000→楽勝w 鮮卑の乱 端牛の角 10個鮮卑トーテム 10個 牛角弓:5000←これも貯金^^名声:5000 鮮卑は1部隊約2000が6~10部隊。兵器、技術レベルにもよるがLv20兵器で揃えると兵力10000あれば楽勝。鮮卑攻撃は名声30000程度までは名声1000はもらえる。何進・・・初めての鮮卑^^20馬20鎧20馬の騎兵単10000→楽勝w 烏桓の乱 珍獣の皮:10個烏桓トーテム:10個 投影弓 8000←初期の争覇戦の主力武器です。名声がもらえなくなっても討伐するようにしましょう~名声 8000 1部隊約3000が7~10部隊。兵器、技術レベルにもよるがLv20兵器で揃えると兵力20000あればいける。名声150000程度で名声はもらえなくなる。。何進・・・初めての烏桓^^15弓15弓20馬の弓兵13000+20鎧20鎧20馬の歩兵13000 山越の乱 白虎の皮10個山越トーテム10個 獅子槍:15000←争覇戦の隠し武器として有効です。とっておこうねwただし・・・重要性は低いけど・・・名声:15000 5000~6000程度の部隊が10~14部隊で構成されている40000程の部隊が必要(推奨は50000程)。複数部隊か、1部隊で行くかは個人の判断だと思われる。何進・・・初めての山越^^15弓15弓20馬の弓兵19500+20鎧20鎧20馬の歩兵19500→4000の被害で勝利。 羌氐の乱 戦闘槍 10個羌氐トーテム 10個 屠馬戈:30000←量が多いので武器不足のときに重宝します。名声:30000 11-14部隊 兵9500-13200LV25装備で兵数100000程必要。被害はおおよそで10000前後。羌氐攻撃は名声15万程度までは名声23000はもらえる。名声25万保有で約8000程の獲得。名声30万程度で獲得名声は打ち止め。。。何進・・・初めての羌氐^^15弓15弓15弓の弓兵19000+20鎧20鎧20鎧の歩兵38000→被害4000強で勝利・・・特記 城策士魅力700、智謀700の反撃入力なのでご注意をw 南蛮の乱 戦闘像 10個南蛮トーテム 10個 蔓鎧:50000←争覇戦で強力な武装ですが入手は困難><名声:50000 兵力20万あればいける。名声値35万までは、1万は名声を得られる。名声値37万程度で獲得名声は打ち止め。 匈奴の乱 匈奴馬 10個匈奴トーテム 10個 匈奴騎馬:90000←何進一番のお気に入りw早く欲しい・・・ 名声:90000 兵力40万あればいける。(ただし、蛮族武将が入っている場合この限りではないb)名声値44.5万で獲得名声は打ち止め。 護国功臣1 蛮族の印章20個勤王の詔2個 名声:10000 勤王の詔は歴史任務の報酬 護国功臣2 蛮族の印章20個獅子の印章10個功績牌1個 名声:40000 功績牌は歴史任務の報酬 護国功臣3 獅子の印章10個狼の印章10個武将令1個 名声:90000 武将令は歴史任務の報酬 南越部隊 南蛮と同等の強さを持っています。
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資治通鑑巻第十五 漢紀七 太宗孝文皇帝下 前十一年(壬申、前一六九) 1冬,十一月,上行幸代。春,正月,自代還。 1. 2夏,六月,梁懷王揖薨,無子。賈誼復上疏曰:「陛下即不定製,如今之勢,不過一傳、再傳,諸侯猶且人恣而不制,豪植而大強,漢法不得行矣。陛下所以爲藩扞及皇太子之所恃者,唯淮陽、代二國耳。代,北邊匈奴,與強敵爲鄰,能自完則足矣;而淮陽之比大諸侯,廑如黑子之著面,適足以餌大國,而不足以有所禁御。方今制在陛下,制國而令子適足以爲餌,豈可謂工哉!臣之愚計,願舉淮南地以益淮陽,而爲梁王立後,割淮陽北邊二、三列城與東郡以益梁。不可者,可徙代王而都睢陽。梁起於新郪而北著之河,淮陽包陳而南揵之江,則大諸侯之有異心者破膽而不敢謀。梁足以扞齊、趙,淮陽足以禁呉、楚,陛下高枕,終無山東之憂矣,此二世之利也。當今恬然,適遇諸侯之皆少;數歳之後,陛下且見之矣。夫秦日夜苦心勞力以除六國之禍;今陛下力制天下,頤指如意,高拱以成六國之禍,難以言智,苟身無事,畜亂,宿祝,孰視而不定;萬年之後,傳之老母、弱子,將使不寧,不可謂仁。」帝於是從誼計,徙淮陽王武爲梁王,北界泰山,西至高陽,得大縣四十餘城。後歳餘,賈誼亦死,死時年三十三矣。 2. 3徙城陽王喜爲淮南王。 3. 4匈奴寇狄道。 時匈奴數爲邊患,太子家令穎川晁錯上言兵事曰:「兵法曰:『有必勝之將,無必勝之民。』由此觀之,安邊境,立功名,在於良將,不可不擇也。 臣又聞,用兵臨戰合刃之急者三:一曰得地形,二曰卒服習,三曰器用利。兵法:歩兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋、劍楯之地,各有所宜;不得其宜者,或十不當一。士不選練,卒不服習,起居不精,動靜不集,趨利弗及,避難不畢,前撃後解,與金鼓之指相失,此不習勒卒之過也,百不當十。兵不完利,與空手同;甲不堅密,與袒裼同;弩不可以及遠,與短兵同;射不能中,與無矢同;中不能入,與無鏃同;此將不省兵之禍也,五不當一。故兵法曰:『器械不利,以其卒予敵也;卒不可用,以其將予敵也;將不知兵,以其主予敵也;君不擇將,以其國予敵也。』四者,兵之至要也。 臣又聞:小大異形,強弱異勢,險易異備。夫卑身以事強,小國之形也;合小以攻大,敵國之形也;以蠻夷攻蠻夷,中國之形也。今匈奴地形、技藝與中國異,上下山阪,出入溪澗,中國之馬弗與也;險道傾仄,且馳且射,中國之騎弗與也;風雨罷勞,飢渇不困,中國之人弗與也;此匈奴之長技也。若夫平原、易地、輕車、突騎,則匈奴之衆易撓亂也;勁弩、長戟、射疏、及遠,則匈奴之弓弗能格也;堅甲、利刃,長短相雜,游弩往來,什伍倶前,則匈奴之兵弗能當也;材官騶發,矢道同的,則匈奴之革笥、木薦弗能支也;下馬地斗,劍戟相接,去就相薄,則匈奴之足弗能給也;此中國之長技也。以此觀之,匈奴之長技三,中國之長技五。陛下又興數十萬之衆以誅數萬之匈奴,衆寡之計,以一撃十之術也。 雖然,兵,兇器;戰,危事也。故以大爲小,以強爲弱,在俛仰之間耳。夫以人之死爭勝,跌而不振,則悔之無及也。帝王之道,出於萬全。今降胡、義渠、蠻夷之屬來歸誼者,其衆數千,飲食、長技與匈奴同。可賜之堅甲、絮衣、勁弓、利矢,益以邊郡之良騎,令明將能知其習俗、和輯其心者,以陛下之明約將之。即有險阻,以此當之;平地通道,則以輕車、材官制之;兩軍相爲表里,各用其長技,衡加之以衆,此萬全之術也。」 帝嘉之,賜錯書,寵答焉。 錯又上言曰:「臣聞秦起兵而攻胡、粤者,非以衞邊地而救民死也,貪戻而欲廣大也,故功未立而天下亂。且夫起兵而不知其勢,戰則爲人禽,屯則卒積死。夫胡、貉之人,其性耐寒;揚、粤之人,其性耐暑。秦之戍卒不耐其水土,戍者死於邊,輸者僨於道。秦民見行,如往棄市,因以謫發之,名曰『謫戍』;先發吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,又後以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左。發之不順,行者憤怨,有萬死之害而亡銖兩之報,死事之後,不得一算之復,天下明知禍烈及己也。陳勝行戍,至於大澤,爲天下先倡,天下從之如流水者,秦以威劫而行之之敝也。 胡人衣食之業,不著於地,其勢易以擾亂邊境,往來轉徙,時至時去。此胡人之生業,而中國之所以離南□也。今胡人數轉牧、行獵於塞下,以候備塞之卒,卒少則入。陛下不救,則邊民絶望而有降敵之心;救之,少發則不足,多發,遠縣才至,則胡又已去。聚而不罷,爲費甚大;罷之,則胡復入。如此連年,則中國貧苦而民不安矣。陛下幸憂邊境,遣將吏發卒以治塞,甚大惠也。然今遠方之卒守塞,一歳而更,不知胡人之能。不如選常居者家室田作,且以備之,以便爲之高城深塹;要害之處,通川之道,調立城邑,毋下千家。先爲室屋,具田器,乃募民,免罪,拜爵,復其家,予冬夏衣、稟食,能自給而止。塞下之民,祿利不厚,不可使久居危難之地。胡人入驅而能止其所驅者,以其半予之,縣官爲贖。其民如是,則邑里相救助,赴胡不避死。非以德上也,欲全親戚而利其財也;此與東方之戍卒不習地勢而心畏胡者功相萬也。以陛下之時,徙民實邊,使遠方無屯戍之事;塞下之民,父子相保,無繋虜之患;利施後世,名稱聖明,其與秦之行怨民,相去遠矣。」 上從其言,募民徙塞下。 錯復言:「陛下幸募民徙以實塞下,使屯戍之事益省,輸將之費益寡,甚大惠也。下吏誠能稱厚惠,奉明法,存恤所徙之老弱,善遇其壯士,和輯其心而勿侵刻,使先至者安樂而不思故郷,則貧民相慕而勸往矣。臣聞古之徙民者,相其陰陽之和,嘗其水泉之味,然後營邑、立城、制里、割宅,先爲築室家,置器物焉。民至有所居,作有所用。此民所以輕去故郷而勸之新邑也。爲置醫、巫以救疾病,以修祭祀,男女有昏,生死相恤,墳墓相從,種樹畜長,室屋完安。此所以使民樂其處而有長居之心也。 臣又聞古之制邊縣以備敵也,使五家爲伍,伍有長;十長一里,里有假士;四里一連,連有假五百;十連一邑,邑有假候。皆擇其邑之賢材有護、習地形、知民心者。居則習民於射法,出則教民於應敵。故卒伍成於内,則軍政定於外。服習以成,勿令遷徙,幼則同游,長則共事。夜戰聲相知,則足以相救;晝戰目相見,則足以相識;歡愛之心,足以相死。如此而勸以厚賞,威以重罰,則前死不還踵矣。所徙之民非壯有材者,但費衣糧,不可用也;雖有材力,不得良吏,猶亡功也。 陛下絶匈奴不與和親,臣竊意其冬來南也;壹大治,則終身創矣。欲立威者,始於折膠;來而不能困,使得氣去,後未易服也。」 錯爲人峭直刻深,以其辯得幸太子,太子家號曰「智囊」。 4. 十二年(癸酉、前一六八) 1冬,十二月,河決酸棗,東潰金堤,東郡大興卒塞之。 1. 2春,三月,除關,無用傳。 2. 3晁錯言於上曰:「聖王在上而民不凍飢者,非能耕而食之,織而衣之也,爲開其資財之道也。故堯有九年之水,湯有七年之旱,而國亡捐瘠者,以畜積多而備先具也。今海内爲一,土地、人民之衆不減湯、禹,加以無天災數年之水旱,而畜積未及者,何也?地有遺利,民有餘力;生谷之土未盡墾,山澤之利未盡出,游食之民未盡歸農也。 夫寒之於衣,不待輕暖;飢之於食,不待甘旨;飢寒至身,不顧廉恥。人情,一日不再食則飢,終歳不製衣則寒。夫腹飢不得食,膚寒不得衣,雖慈母不能保其子,君安能以有其民哉!明主知其然也,故務民於農桑,薄賦斂,廣畜積,以實倉廩,備水旱,故民可得而有也。民者,在上所以牧之;民之趨利,如水走下,四方無擇也。 夫珠、玉、金、銀,飢不可食,寒不可衣;然而衆貴之者,以上用之故也。其爲物輕微易藏,在於把握,可以周海内而無飢寒之患。此令臣輕背其主,而民易去其郷,盜賊有所勸,亡逃者得輕資也。粟、米、布、帛,生於地,長於時,聚於力,非可一日成也;數石之重,中人弗勝,不爲姦邪所利,一日弗得而飢寒至。是故明君貴五穀而賤金玉。 今農夫五口之家,其服役者不下二人,其能耕者不過百畮,百畮之收不過百石。春耕,夏耘,秋獲,冬藏,伐薪樵,治官府,給繇役;春不得避風塵,夏不得避暑熱,秋不得避陰雨,冬不得避寒凍,四時之間亡日休息;又私自送往迎來、吊死問疾、養孤長幼在其中。勤苦如此,尚復被水旱之災,急政暴賦,賦斂不時,朝令而暮改。有者半賈而賣,無者取倍稱之息,於是有賣田宅、鬻妻子以償責者矣。而商賈大者積貯倍息,小者坐列販賣,操其奇贏,日游都市,乘上之急,所賣必倍。故其男不耕耘,女不蠶織,衣必文采,食必粱肉;無農夫之苦,有仟伯之得。因其富厚,交通王侯,力過吏勢,以利相傾;千里游敖,冠蓋相望,乘堅、策肥,履絲、曳縞。此商人所以兼併農人,農人所以流亡者也。方今之務,莫若使民務農而已矣。欲民務農,在於貴粟。貴粟之道,在於使民以粟爲賞罰。今募天下入粟縣官,得以拜爵,得以除罪。如此,富人有爵,農民有錢,粟有所渫。夫能入粟以受爵,皆有餘者也。取於有餘以供上用,則貧民之賦可損,所謂損有餘,補不足,令出而民利者也。今令民有車騎馬一匹者,復卒三人;車騎者,天下武備也,故爲復卒。神農之教曰:『有石城十仞,湯池百歩,帶甲百萬,而無粟,弗能守也。』以是觀之,粟者,王者大用,政之本務。令民入粟受爵至五大夫以上,乃復一人耳,此其與騎馬之功相去遠矣。爵者,上之所擅,出於口而無窮;粟者,民之所種,生於地而不乏。夫得高爵與免罪,人之所甚欲也;使天下人入粟於邊以受爵、免罪,不過三歳,塞下之粟必多矣。」 帝從之,令民入粟邊,拜爵各以多少級數爲差。 錯復奏言:「陛下幸使天下入粟塞下以拜爵,甚大惠也。竊恐塞卒之食不足用,大渫天下粟。邊食足以支五歳,可令入粟郡縣矣;郡縣足支一歳以上,可時赦,勿收農民租。如此,德澤加於萬民,民愈勤農,大富樂矣。」 上復從其言,詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟,歳一不登,民有飢色;是從事焉尚寡而吏未加務。吾詔書數下,歳勸民種樹而功未興,是吏奉吾詔不勤而勸民不明也。且吾農民甚苦而吏莫之省,將何以功焉!其賜農民今年租税之半。」 3. 十三年(甲戌、前一六七) 1春,二月,甲寅,詔日;「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以供祭服;其具禮儀。」 1. 2初,秦時祝官有祕祝,即有災祥,輒移過於下。夏,詔曰:「蓋聞天道,禍自怨起而福繇德興,百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過於下,以彰吾之不德,朕甚弗取。其除之!」 2. 3齊太倉令淳於意有罪,當刑,詔獄逮繋長安。其少女緹縈上書曰:「妾父爲吏,齊中皆稱其廉平;今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道無繇也。妾願沒入爲官婢,以贖父刑罪,使得自新。」 天子憐悲其意,五月,詔曰:「詩曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行爲善而道無繇至,朕甚憐之!夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈爲民父母之意哉!其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不記逃,有年而免。具爲令!」丞相張蒼、御史大夫馮敬奏請定律曰:「諸當髡者爲城旦、舂;當黥者髡鉗爲城旦、舂;當劓者笞三百;當斬左止者笞五百;當斬右止及殺人先自告及吏坐受賕、枉法、守縣官財物而即盜之、已論而復有笞罪皆棄市。罪人獄已決爲城旦、舂者,各有歳數以免。」制曰:「可。」是時,上既躬修玄默,而將相皆舊功臣,少文多質。懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失,化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歳增,戸口浸息。風流篤厚,禁罔疏闊,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風焉。 3. 4六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租税之賦,是爲本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租税。」 4. 十四年(乙亥、前一六六) 1冬,匈奴老上單于十四萬騎入朝那、蕭關,殺北地都尉卬,虜人民畜産甚多;遂至彭陽,使奇兵入燒回中宮,候騎至雍甘泉。帝以中尉周舍、郎中令張武爲將軍,發車千乘、騎卒十萬軍長安旁,以備胡寇;而拜昌侯盧卿爲上郡將軍,甯侯魏□爲北地將軍,隆慮侯周灶爲隴西將軍,屯三郡。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒,自欲征匈奴。羣臣諫,不聽;皇太后固要,上乃止。於是以東陽侯張相如爲大將軍,成侯董赤、内史欒布皆爲將軍,撃匈奴。單于留塞内月餘,乃去。漢逐出塞即還,不能有所殺。 1. 2上輦過郎署,問郎署長馮唐曰:「父家安在?」對曰:「臣大父趙人,父徙代。」上曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數爲我言趙將李齊之賢,戰於巨鹿下。今吾毎飯意未嘗不在巨鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之爲將也。」上搏髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧爲將!吾豈憂匈奴哉!」唐曰:「陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也。」上怒,起,入禁中,良久,召唐,讓曰:「公奈何衆辱我,獨無間處乎!」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」上方以胡寇爲意,乃卒復問唐曰:「公何以知吾不能用廉頗、李牧也?」唐對曰:「臣聞上古王者之遣將也,跪而推轂,曰:『閫以内者,寡人制之;閫以外者,將軍制之。』軍功爵賞皆決於外,歸而奏之,此非虚言也。臣大父言:李牧爲趙將,居邊,軍市之租,皆自用饗士;賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其智能;選車千三百乘,彀騎萬三千,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑強秦,南支韓、魏。當是之時,趙幾霸。其後會趙王遷立,用郭開讒,卒誅李牧,令顏聚代之;是以兵破士北,爲秦所禽滅。今臣竊聞魏尚爲雲中守,其軍市租盡以饗士卒,私養錢五日一椎牛,自饗賓客、軍吏、舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。虜曾一入,尚率車騎撃之,所殺甚衆。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍、伍符!終日力戰,斬首捕虜,上功幕府,一言不相應,文吏以法繩之,其賞不行,而吏奉法必用。臣愚以爲陛下賞太輕,罰太重。且雲中守魏尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。由此言之,陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也!」上説。是日,令唐持節赦魏尚,復以爲雲中守,而拜唐爲車騎都尉。 2. 3春,詔廣增諸祀壇場、珪幣,且曰:「吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不爲百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專饗獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈!」 3. 4是歳,河間文王辟強薨。 4. 5初,丞相張蒼以爲漢得水德,魯人公孫臣以爲漢當土德,其應,黄龍見;蒼以爲非是,罷之。 5. 十五年(丙子、前一六五) 1春,黄龍見成紀。帝召公孫臣,拜爲博士,與諸生申明土德,草改暦、服色事。張蒼由此自絀。 1. 2夏,四月,上始幸雍,郊見五帝,赦天下。 2. 3九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良、能直言極諫者,上親策之。太子家令晁錯對策高第,擢爲中大夫。錯又上言宜削諸侯及法令可更定者書凡三十篇。上雖不盡聽,然奇其材。 3. 4是歳,齊文王則、河間哀王福皆薨,無子,國除。 4. 5趙人新垣平以望氣見上,言長安東北有神氣,成五采,於是作渭陽五帝廟。 5. 十六年(丁丑、前一六四) 1夏,四月,上郊祀上帝於渭陽五帝廟。於是貴新垣平至上大夫,賜累千金;而使博士、諸生刺六經中作王制,謀議巡狩、封禪事。又於長門道北立五帝壇。 1. 2徙淮南王喜復爲城陽王,又分齊爲六國;丙寅,立齊悼惠王子在者六人:楊虚侯將閭爲齊王,安都侯志爲濟北王,武成侯賢爲菑川王,白石侯雄渠爲膠東王,平昌侯卬爲膠西王,扐侯辟光爲濟南王。淮南厲王子在者三人:阜陵安爲淮南王,安陽侯勃爲衡山王,陽周侯賜爲廬江王。 2. 3秋,九月,新垣平使人持玉杯上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已,視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言:「臣侯日再中。」居頃之,日卻,復中。於是始更以十七年爲元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中。今河決,通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎!兆見,不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。 3. 後元年(戊寅、前一六三) 1冬,十月,人有上書告新垣平「所言諧詐也」;下吏治,誅夷平。是後,上亦怠於改正、服、鬼神之事,而渭陽、長門五帝,使祠官領,以時致禮,不往焉。 1. 2春,三月,孝惠皇后張氏薨。 2. 3詔曰:「間者數年不登,又有水旱、疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎:意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或廢,無用之事或多與?何其民食之寡乏也?夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,爲酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者衆與?細大之義,吾未得其中,其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之。有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱!」 3. 二年(己卯、前一六二) 1夏,上行幸雍棫陽宮。 1. 2六月,代孝王參薨。 2. 3匈奴連歳入邊,殺略人民、畜産甚多;雲中、遼東最甚,郡萬餘人。上患之,乃使使遺匈奴書。單于亦使當戸報謝,復與匈奴和親。 3. 4八月,戊戌,丞相張蒼免。帝以皇后弟竇廣國賢,有行,欲相之,曰:「恐天下以吾私廣國,久念不可。」而高帝時大臣,餘見無可者。御史大夫梁國申屠嘉,故以材官蹶張從高帝,封關内侯;庚午,以嘉爲丞相,封故安侯。嘉爲人廉直,門不受私謁。是時,太中大夫鄧通方愛幸,賞賜累巨萬。帝嘗燕飲通家,其寵幸無比。嘉嘗入朝,而通居上旁,有怠慢之禮,嘉奏事畢,因言曰:「陛下幸愛羣臣,則富貴之;至於朝廷之禮,不可以不肅。」上曰:「君勿言,吾私之。」罷朝,坐府中,嘉爲檄召通詣丞相府,不來,且斬通。通恐,入言上;上曰:「汝第往,吾今使人召若。」通詣丞相,免冠、徒跣,頓首謝嘉。嘉坐自如,弗爲禮,責曰:「夫朝廷者,高帝之朝廷也。通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。吏!今行斬之!」通頓首,首盡出血,不解。上度丞相已困通,使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之!」鄧通既至,爲上泣曰:「丞相幾殺臣!」 4. 三年(庚辰、前一六一) 1春,二月,上行幸代。 1. 2是歳,匈奴老上單于死,子軍臣單于立。 2. 四年(辛巳、前一六〇) 1夏,四月,丙寅晦,日有食之。 1. 2五月,赦天下。 2. 3上行幸雍。 3. 五年(壬午、前一五九) 1春,正月,上行幸隴西;三月,行幸雍;秋,七月,行幸代。 1. 六年(癸未、前一五八) 1冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中,所殺略甚衆,烽火通於甘泉、長安。以中大夫令免爲車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意爲將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河内太守周亞夫爲將軍,次細柳;宗正劉禮爲將軍,次霸上,祝茲侯徐厲爲將軍,次棘門;以備胡。上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,鋭兵刃,彀弓弩持滿,天子先驅至,不得入。先驅曰:「天子且至!」軍門都尉曰;「將軍令曰:『軍中聞將軍令,不聞天子之詔!』」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入營勞軍。」亞夫乃傳言「開壁門」。壁門士請車騎曰:「將軍約:軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介冑之士不拜,請以軍禮見。」天子爲動,改容,式車,使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,羣臣皆驚。上曰:「嗟乎,此眞將軍矣!曩者霸上、棘門軍若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯耶!」稱善者久之。月餘,漢後至邊,匈奴亦遠塞,漢兵亦罷。乃拜周亞夫爲中尉。 1. 2夏,四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢;弛山澤,減諸服御,損郎吏員;發倉庾以振民;民得賣爵。 2. 七年(甲申、前一五七) 1夏,六月,已亥,帝崩于未央宮。遺詔曰:「朕聞之:蓋天下萬物之萌生,靡有不死。死者,天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,咸嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無在佐百姓;今崩,又使重服久臨以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絶鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身托於天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方内安寧,靡有兵革。朕既不敏,常畏過行以羞先帝之遺德,惟年之久長,懼於不終。今乃幸以天年得復供養於高廟,其奚哀念之有!其令天下吏民:令到,出臨三日,皆釋服;毋禁取婦、嫁女、祠祀、飲酒、食肉,自當給喪事服臨者,皆無跣;絰帶毋過三寸;毋布車及兵器;毋發民哭臨宮殿中;殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷;非旦夕臨時,禁毋得擅哭臨;已下棺,服大功十五日,小功十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。佈告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,毋有所改。歸夫以下至少使。」乙巳,葬霸陵。 帝即位二十三年,宮室、苑囿、車騎、服御,無所增益;有不便,輒馳以利民。嘗欲作露台,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之産也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台爲!」身衣弋綈;所幸愼夫人,衣不曳地;帷帳無文繡;以示敦樸,爲天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金、銀、銅、錫爲飾,因其山,不起墳。呉王詐病不朝,賜以幾杖。羣臣袁盎等諫説雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜以愧其心;專務以德化民。是以海内安寧,家給人足,後世鮮能及之。 1. 2丁未,太子即皇帝位,尊皇太后薄氏曰太皇太后,皇后曰皇太后。 2. 3九月,有星孛于西方。 3. 4是歳,長沙王呉著薨,無子,國除。 初,高祖賢文王芮,制誥御史:「長沙王忠,其令著令。」至孝惠、高后時,封芮庶子二人爲列侯,傳國數世絶。 4. 孝景皇帝上 元年(乙酉、前一五六) 1冬,十月,丞相嘉等奏:「功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟,宜爲帝者太祖之廟;孝文皇帝廟,宜爲帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟,郡國諸侯宜各爲孝文皇帝立太宗之廟。」制曰:「可。」 1. 2夏,四月,乙卯,赦天下。 2. 3遣御史大夫靑至代下與匈奴和親。 3. 4五月,復收民田半租,三十而税一。 4. 5初,文帝除肉刑,外有輕刑之名,内實殺人;斬右止者又當死;斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。是歳,下詔曰:「加笞、重罪無異;幸而不死,不可爲人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」 5. 6以太中大夫周仁爲郎中令,張歐爲廷尉,楚元王子平陸侯禮爲宗正,中大夫晁錯爲左内史。仁始爲太子舍人,以廉謹得幸。張歐亦事帝於太子宮,雖治刑名家,爲人長者,帝由是重之,用爲九卿。歐爲吏未嘗言按人,專以誠長者處官;官屬以爲長者,亦不敢大欺。 6. 二年(丙戌、前一五五) 1冬,十二月,有星孛于西南。 1. 2令天下男子年二十始傅。 2. 3春,三月,甲寅,立皇子德爲河間王,閼爲臨江王,餘爲淮陽王,非爲汝南王,彭祖爲廣川王,發爲長沙王。 3. 4夏,四月,壬午,太皇太后薄氏崩。 4. 5六月,丞相申屠嘉薨。時内史晁錯數請間言事,輒聽,寵幸傾九卿,法令多所更定。丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯爲内史,東出不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣也。嘉聞錯穿宗廟垣,爲奏,請誅錯。客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸上。至朝,嘉請誅内史錯。上曰:「錯所穿非眞廟垣,乃外□耎垣,故冗官居其中;且又我使爲之,錯無罪。」丞相嘉謝。罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯乃請之,爲錯所賣。」至舍,因歐血而死。錯以此愈貴。 5. 6秋,與匈奴和親。 6. 7八月,丁未,以御史大夫開封侯陶靑爲丞相。丁巳,以内史晁錯爲御史大夫。 7. 8彗星出東北。 8. 9秋,衡山雨雹,大者五寸,深者二尺。 9. 10熒惑逆行守北辰,月出北辰間;歳星逆行天廷中。 10. 11梁孝王以竇太后少子故,有寵,王四十餘城,居天下膏腴地。賞賜不可勝道,府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。築東苑,方三百餘里,廣睢陽城七十里,大治宮室,爲覆道,自宮連屬於平台三十餘里。招延四方豪俊之士,如呉人枚乘、嚴忌,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽,蜀人司馬相如之屬皆從之游。毎入朝,上使使持節以乘輿駟馬迎梁王於關下。既至,寵幸無比,入則侍上同輦,出則同車,射獵上林中。因上疏請留,且半歳。梁侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。 11.