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幸村の父と兄は勝手に死亡設定です。他にも捏造いろいろ。 天井裏から、主にだけ通じる合図をそっと送ると、数瞬の間を置いて「参れ」と低い声が響いた。 そんじゃ遠慮なくと羽目板を外し、音を殺して部屋の中に降り立つ。 夕餉もとうに終わったこの時刻、月のない外はすっかり濃い闇に包まれていた。戸もふすまも締め切った 主の部屋は、小さな明かりが片隅に灯るばかりで、外とそう変わらないほど薄暗い。 その薄闇に潜みながら、俺は上座で脇息に肘をつく主に向かい、そっと頭を下げた。 「猿飛佐助、参上しました」 「まあ、そう堅苦しくするな」 思いがけず呑気な声に、半分ほっと、半分拍子抜けして主を見返す。薄明かりの中で、厳つい髭面が 穏やかに笑った。 年を経ても健康的な顔の肌と、僧形の頭に僅かな光が反射して、ピカピカと光っている。 やあ、ちょっと明るいかも。 「ゆるりとせい。大した話ではない」 脇息に寄りかかったくつろいだ態度も、こちらに向けられた笑みも、演技ではないようだ。 姿勢は崩さないまま、張り詰めていた気持ちだけ僅かに緩める。 なんだ、こんな夜更けに呼び出すから、どんな面倒くさいこと頼まれるのかと思ったよ。 甲斐の虎はお年のわりに壮健頑健な働き者で、自分が働くのと同じくらい忍者使いも荒い。 夜中にいきなり呼び出され、ちょっと四国まで行ってきて、なんて頼まれるのもしょっちゅうだったりする。 今日はどうやら、そういう無理を申しつけられるわけじゃないようだ。 「はあどうも。えーと、それじゃご用件は?」 「うむ。それだがな」 ごそごそと懐中を探り出したお館様をなんとなく見ているうちに、ふと、その傍らの卓が目に入った。 正確にはその上。朱塗りの器に盛られた、目の前の人の頭と同じくらいぴかぴか光ってる大きな木の実が。 ほんの数刻前。庭先で夕日に染まっていた柿の木と、その実よりずっと小ぶりだった白い膨らみが蘇る。 今度はこみ上げる前に押しつぶして、胸の奥にしまいこんだ。 視線を移したのは一瞬だったけど、気づかれたらしい。懐から一本の巻紙を取り出しながら、お館様が 小さく眉をひそめた。そ知らぬ振りして瞬きを返す。 「なんじゃ?」 「はい?」 「……柿か?おお、食うか?先ほど幸村が差し入れてくれたものじゃが」 まるで幼子でも相手するように笑って、そら、と丸のままの柿が差し出された。 どこかで見たようなそのしぐさに、ふと思い当たってよくよく見れば、卓の上には柿の種とへたが数個分、 行儀悪く散らかっていた。 どう見ても丸かじりのあとだ。しかもこれって皮ごと食べてるよね。 確認した瞬間、どっと疲れがでた。思わずため息まで出ちゃう。 「む、どうした佐助?」 「お館様……旦那に、柿は丸ごとかじれとか教えたのお館様でしょ。やめてください。あの人なんでも お館様の真似するんだから」 「そんなことは教えとらん」 嘘だあ。 疑いの視線を向けると、きょとんとした顔が返ってきた。だまされないぞと思いながら、ともかくこれ以上 行儀悪くさせないでくださいよ、と念を押す。 あれでも一応、嫁入り前の姫様なんだから。本当にお嫁の貰い手なくなっちゃうよ。 わしは知らんというのに、と首をかしげながらなおも差し出された柿は、改めて丁重に辞退する。お館様も それ以上は何も言わず、つやつやの実は器の中に戻された。 今は命を受ける寸前。忍びは任務中にはものを食べないもんだからね。 それに俺、柔らかい柿は嫌いだし。 佐助×幸村(♀)8
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ご命令だから従う。命ぜられたとおりに成し遂げる。これまで与えられた数多の任務と同じ、 これだってそれだけのことだ。 俺は忍びで、ただの道具。だからこれだって、ただの任務だ。 この一月でそう自分に叩き込んだんだから、訳わかんないこと言ってかき回さないでよ。 これでいい?ともう一度肩をすくめると、小さく眉を寄せて、旦那もまたうつむいた。 袖から覗いた指先で、うじうじと床板の年輪をなぞりだす。なんだ、らしくないことしてるな。 自分の腕のように槍を操るとは思えない、細い指をぼんやり見つめていると、やがて かすれた声が、佐助は、と呟いた。 「嫌なのかと思っておった」 「はい?」 「ご命令が嫌だから、逃げ回っているのかと思った」 「ちょ、みくびらないでよ。俺様仕事はまじめにやるほうよ?」 やだな、逃げるわけないでしょう。 与えられた仕事はいつでも、どんなことでも完璧に成し遂げる。お館様の信任厚い一流の忍び。 それが俺の、ほとんど唯一の矜持なんだから。 「俺はいいんだよ。ていうか旦那はどうなの?嫌じゃないの?」 「某がなんだ?」 「某はやめなさいっての」 きょとんと上げられた顔にとりあえず小言を言って、ちょっとだけ身を乗り出す。 つられて顔を近づける旦那に、だから婿取りだよ、と、ずっと変だと思ってたことを こっちもズバッと切り出してみた。 「家を継ぐためだからって、いきなり婿取りしろとか言われてさあ。しかも相手が、 養子先はともかくこんな下郎でしょ。旦那は本当にこれでいいの?」 あの時は話がよくわかってなかったんだとしても、さすがに一月たってるし、この頭の弱い お子様もちょっとは考えただろう。考えたと思う。思いたい。 この人の、真意を聞きたい。 もし旦那がいやだといったら。嫌ならいやでいい。一生一度のことなんだから無理するこたない。 そうしたって現実に被害をこうむる人間はいないんだし。 旦那がどうしても嫌だといえば、娘に甘いお館様のことだ、きっと命令を撤回するだろう。 武田家中はいい人多いし、次の婿候補は、俺よりはましな人間になるはずだ。 そのほうが旦那にとっても、結局は幸せなんじゃないだろうか。 任務を思い切ろうとした一月の間、俺は同時にそんなことも考えていた。 「どなの?嫌っつっても怒ったりしないから、正直にいってみな。俺は旦那にはねー、まともな 女の幸福も味わって欲しいっていうか」 「別にどうでもよい」 佐助×幸村(♀)16
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もう一度問いかけようとした瞬間、忍びとして鍛えられた俺の鼓膜に、微かな音が触れた。 覚えのありすぎるその響きに、はっとして耳だけそちらへそばだてる。 同じものに気づいたんだろう。一呼吸遅れてお館様が視線を上げ、俺の背後の閉じた戸を 見やった。 きおったな、と小さな呟きとともに、実に楽しそうな笑みがその顔に浮かんだ。 はじめは聞こえるか聞こえないかほどだったその音は、あっという間に耳を劈くばかりに 膨れ上がった。館の門を抜け、戸を押し開け、廊下を駆け抜け角を曲がる。あちこちで 侍女のものらしい悲鳴が上がった。 館全体が揺れるほどの、雷鳴みたいなその響きに、時々、壁か柱にぶつかっているらしい ドスン、ごん、と重い音が混じる。 お館様が脇息から身を起こし、片膝を立てた。ものすごい速さで、館の最奥にあるこの部屋に 近づいてくるその足音を聞きながら、俺もお館様に一礼して入り口へと向き直った。 ほとんど同時に、外れる勢いで引き戸が開け放たれた。 「お館様!真田幸村、お召しにより参上いたしましたああ!」 「旦那!廊下は走らない!」 「よくぞ参った幸村!待ちかねたぞ!」 「おお!申し訳ございませぬお館様ァ!」 「なんの幸村ァ!」 「おやかたさまァあ!」 「ゆきむらあァああ!」 ここで止めてはいけません。へたに横槍入れると、ますます興奮して長くなります。 長年の経験から、じっと我慢の子を決め込む俺をはさんで、熱血師弟の応酬はそれから 十回ばかり続いた。 ようやく満足したらしく、妙にすっきりした顔で旦那が振り返った。俺を見て、いたのか佐助、と 驚いたように目を見開くところを、黙ったまま場所を譲って下座に引く。 ついでに一回、小言代わりに背中をつねっておく。 あーあ、足の裏真っ黒。また草履も履かずに走ってきたんだろう。あとで部下に 廊下掃除させなきゃ。 こちらもすがすがしい顔で、また脇息に寄りかかったお館様を旦那が見上げる。 薄暗い明かりの中で、その顔はいつも以上に輝き、そのくせ奇妙に引きつって見えた。 なんかえらく興奮してるなあ。まあ、お館様の前に出るときはいつでも興奮気味だけど。 しかしこんな時間だってのに眠くないのかね。ほんと、元気な人だ。 参ったなあ。 今はあんたの顔、見たくなかったよ。 ぎらぎら目を輝かせ、はっしと床に手を付いた旦那を、ゆったりと構えたお館様が見下ろす。 「さて、このような時間に呼び立てたは他でもない。幸村よ。この信玄、お前に一つ 命を下す」 「はっ!何なりとお申し付けくだされ!この幸村、お館様の御命とあらば、いかなることでも 粉骨砕身尽くす覚悟!」 「よくぞ申した幸村!」 「お館様ァ!」 「幸村ァ!」 もういいっての。 顔にだけ、いつもどおりの呆れ笑いを浮かべたまま、そっと陰に潜んで頭を垂れる。 部屋を出たりはしませんよ。自分の指令がまだだもん。これでも真田の忍び頭、仕事には まじめに取り組むほうなんです。 もやつく思いも黒いものも、胸の底にしまってただ、陰に潜む。 陰こそが俺そのものだ。 「しかし、ことは真田家の存続にもかかわる。そのあたり、よく心得て返答せい」 「わかり申した!」 「覚悟はよいな!」 「なんなりと!」 崩していた膝をまた立て、お館様が身を乗り出した。床に拳をついたまま、旦那もぎらぎら 燃える目でお館様を見返す。二人そろうと、なんだかさっき以上に部屋が明るい。 旦那を見つめ、それから何故か一瞬俺を見て、虎の目がくわっと見開かれた。 佐助×幸村(♀)11
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緋色の打ち掛けは体に巻きつけたままだったけれど、ふと気づけばいつの間にか、目の前の人の体からは震えが消えていた。 青かった顔にうっすら朱がさして、瞳にももう、怯えの色はない。 俺のほうといえば、未だに情けなくがたがた震えているってのに。 茶色の目がまた、ぱちくりと瞬く。 妙にじっくりと俺を見つめ、それから旦那は少しだけ、首をかしげた。 「忍びは、何かを大事にすることができないものなのか?」 「……お聞きの通りね」 「さようか」 ポツリと呟いて、何かを考え込むようにうつむく。茶色の髪で顔が隠れた。 そのつむじを眺めているうちに、だんだん嫌な予感がしてきた。 この人がもの考えると、大概変な方向に話が進むんだ。 こんな時さえ昔からの習慣で、いろんな小言が頭の中で渦巻きだす。 ばさりと髪が揺れた。また上がった顔が、今度は探るように俺を見つめてくる。 「もう一度問う。佐助は、某の婿になるのが嫌ではないのだな?」 「……旦那。人の話、聞いてた?」 「しっかり聞いて熟考しておる」 さよですか。 また考え込むようにうつむき、うんうんと何度か首を振って、やがて旦那はゆっくりと顔を上げた。 まだ少し引きつる口元に、刷いたような笑みが浮かぶ。 「あいわかった。では、それでよい」 びょうびょうと風が鳴く。 月が昇ったのか、闇に沈んでいた障子の面が、ふいに明るくなった。 「……先日、佐助がおらぬうちに、前田のご夫妻がいらしてな。そのときお聞きしたのだが、夫婦には夫婦道というものがあるそうだ」 唐突に始まった話に、挟みかけた疑問は、外の光を弾いて輝きだした緋色の打ち掛けの 美しさにかき消された。 暗闇に慣れた目には、鈍い金糸の模様さえひどく眩しい。 俺がそれに目を奪われている間に、旦那はやっぱり薄く笑みを浮かべたまま、ポツリポツリと話し出した。 それは一人ではなく、二人で行く道。 一人で抱えきれないものができても、二人なら背負っていける。 一人が疲れて動けなくなっても、二人なら支えあって行くことができる。 そうして二人で長い道を、どこまでも、どこまでも共に歩いていく。 それが夫婦道というものなのだと。 「聞いたときは、よくわからなかったが。改めて考えてみれば、夫婦とは便利なものなのだな。某、少々誤解しておったかもしれぬ」 うつむいてふと笑い、顔を上げる。 そうして旦那はまた俺を見つめ、ひどく静かな声で囁いた。 「佐助が一流の忍びであること、某も、お館様もよく知っておる。佐助以上の忍びなど この日の本にはおらぬだろう。お前がそれを誇りに思っていることも、わかっているつもりだ」 言い返す言葉も浮かばず、ただぼんやり見返す俺の前で、僅かな光に照らされて、緋色の打ち掛けがそれを纏った人ごと、鈍く輝く。 「だから佐助はそのままでよい。生涯かけて一流の忍びの気概と矜持、見事貫き通すがよい。某のことなら気にせんでもよい。己が身、己が家、守れぬほどこの幸村、弱くはない。そしてお前の言うように、忍びゆえにお前がまた、何かを捨てねばならぬときがきたとしても」 薄い月明かりの中、一点の曇りもない笑顔が浮かんだ。 「そのときは某が、佐助の大事なものを守ってやるゆえに」 某と佐助は夫婦になるのだから、夫婦道ができるのだぞ、と何故だかひどく楽しそうな声に、がくがくと体から力が抜けた。 ちょっと待って。あんた、なにいってんの? 力と同時に、いたたまれなさもイラつきも、頭ん中一杯の小言も、腹ん中一杯に満ちていた恐怖まで、抜け落ちていく。 目の前が真っ白で、この俺が、ものを考えることもできない。茫然自失ってのは、 きっとこういう状態を言うんだろう。 俺の頭ん中より白い、淡い光の中で、茶色い頭がそっと下がる。 「だから、某のそばにいてくれ」 佐助×幸村(♀)23
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頭の中に夕焼け色した、変な風景が流れた。 「は、い?」 つながらない二つの記憶のしっぽをたぐりつつ、今言われた言葉を必死で反芻していると、面倒くさいに呆れたを重ねた顔で、お館様がもう一度、柿を放り投げた。 「なんじゃ忘れておったか。ほれ、屋敷にきたばかりのころよ。お前ときたら童のくせに、いつも案山子みたいな顔をして、空っぽの目で暗がりに控えておったろう」 え、嘘。なにそれ。全然覚えてないんですけど。 ぽかんと見守る俺の前で、お館様はどこか懐かしそうに、しみじみと首を振った。 「童のくせに、いや童だからか、息の抜き方も知らず、いつも張り詰めてがんじがらめ。そのくせ中身は空っぽときた。忍びの技は大したものじゃが、なんと不器用そうなやつじゃと思うてな。気になっておった」 「不器用!?」 とんでもなく耳慣れない言葉に、思わず叫ぶ。 不器用?ガキのころから里で指折りの忍者と呼ばれ、あらゆる忍びの極意と、ついでに 家事、育児を体得し、今じゃ真田のおかんのみならず、武田一、いや日本一の忍びとも名高いこの佐助様が、不器用! でかい声を出すな、と顔をしかめるてかてか頭に、控えるのも忘れてにじり寄る。 「……俺、不器用なんていわれたの、生まれて初めてです」 「なにをいうか。お前に比べれば、幸村のほうがまだ器用だわい」 えっ、なにそのすごい侮辱。 あの人、柿の皮剥いてると、実がなくなっちゃうような人なんですよ? 「ちょ、それはないでしょお館様」 「なんの、不器用も不器用。己の腹の内すらろくにつかめぬ不器用者よ」 高々と笑い声を上げ、目を細める。 鋭かったその顔が、ふいに柔和になった。 「ようやく、多少はましになったようじゃがな」 灯の中でちりちりと、油のこげる音がする。 じん、と鈍い音を立てて、炎が揺れた。 「童には童、不器用者には不器用者がよかろうと、会わせてみたのはさて、正解であったようじゃ。まあ、こうなるとまでは思っていなかったが」 この信玄、骨を折った甲斐があったというものよ。 のほほんと独り言のように呟き、また柿を宙に飛ばす。 「だがのう佐助。わしはお前のその、不器用なところもよいと思うておる」 くるくると回りながらその手の中に落ちてくる、小さな木の実。 「佐助よ。わしや幸村が武門であることをやめられぬように、お前も忍びでしかいられぬ、不器用な男であろう。だが、お前はもう空っぽの童ではないし、不器用ながら己の腹につまったものも、見えるようになった」 ぽとりと落ちた小さな実は、厳つい手の中で潰れもせず、灯の僅かな光に鮮やかに輝いて見えた。 「貫くものを得たのなら、どれほど不器用なやり方でもそれを貫き通せばよい。外れることができぬ道でも、そうすることでおのずと見えてくるものもあろう」 まるで夕暮れ空のような薄暗い光の中、厳しくも穏やかな笑顔が、静かに俺を見つめる。 「それも、一つの生き方であろうよ」 食うか、と差し出されたのは、俺の嫌いな柔らかな、崩れそうに熟した実。 おそらくあの人が、今年最後とこの人のために落としてきた。 薄暗い明かりの中、てかてか光る頭と、同じくらい光る柿を見比べる。 「……頂戴します」 苦笑して手を出せば、破顔一笑。 薄暗い部屋に、高々と明るい笑い声が響き渡った。 もう寝てるだろうなと思いながら覗きに行くと、果たして冷えきった部屋の中、中央に敷かれた布団の上に、影が一つ座り込んでいた。 寝巻きを纏った、女にしては長身の姿が、外からの月明かりにぼんやり浮き上がって見える。 「旦那。そんな格好で夜更かしすると風邪引くよ」 天井裏からそっと声をかけると、はっとしたように顔が上がった。 眠そうにしょぼしょぼした目が、きょろきょろと俺の居る辺りをさまよう。 「佐助か?参れ」 「いいの?大丈夫?」 「案ずるな。……もう殴らぬと言っただろう」 なんだかしゅんとした声に、ほんとー?と意地悪く言いながら、俺はとりあえず部屋に 降り立った。 布団から、わざと数歩離れた場所で控える。 俺の口元をおずおずと見て、茶色い眉が 困ったように寄った。 「腫れたな」 「明日の朝ごはん、痛くて食べらんないかもね」 目を見開き、ますます落ち込んだようにうつむいた顔に、冗談だよと笑ってもう一歩近づく。 上目遣いに見上げてくるところを、顔を寄せて下から掬い上げるように口付けた。 佐助×幸村(♀)27
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絞り出すような声にも眉一つ動かさず、用意していた返事を返す。 「お館様から聞いてない?敵情視察だよ。行き先はナイショだけどねー。一月くらい、 今までだってあったでしょ?まあ、今回は全然連絡入れられなかったけど」 へらりと笑って見せたが、目の光はますます鋭くなっただけだった。 うーん、子供のころはちょっと笑えば、簡単にだまされてくれたのになあ。 なんだかんだで旦那も大人になったもんだよ。 「や、ちょっと予定よりかかったけどね。ついでにあちこちの動きも探ってきたから。 ほら、俺様働き者でしょー?ああ大丈夫、お土産は買ってきたよ、旦那の好きな店の団子……」 「違う、そうではない」 頑是無い子供のように、ぶんぶんと首が振られた。せっかく整ってた髪がぼさぼさになる。 「旦那?」 「そうではない」 むずがるように繰り返して、顔を上げる。夕日より緋色の内掛けより鮮やかな瞳が、射抜くように 俺を見た。 「佐助、何故、返答もせぬまま姿を消した」 なにを言ってるんだろう、この人は。 怒りで燃えているような、そのくせ今にも泣きだしそうな顔が、不器用にまっすぐ見つめてくる。 ひどく冷たい夕暮れの風が、打掛の裾を巻き上げる。華やかなはずの小袖の色や模様が、 何故かひどく無機質に見えた。 障子を透かして、落ちる寸前の夕日の光が部屋一杯に差し込んでいる。 外にも廊下にも、天井裏にも飛び込める位置で腰を下ろした俺の前に、緋色の裾をゆったり広げて 旦那が座った。さすがに胡坐じゃなくて正座だ。ちょっとほっとする。 もっとも茶色の目は相変わらず、見返すのもためらうような厳しさで俺を睨んでいるけど。 館の奥からは、大勢の立ち居振る舞いの気配が伝わってくる。 この時刻、下働きのものはみんな、厨で夕餉の支度におおわらわだ。旦那は普段から あまり自分の部屋に侍女を入れないし、障子も戸もきっちり閉め切っているから、 今なら俺がこうして姿を現していても、誰かに見られる気遣いはないだろう。 寒いから中に入ろうか、と促して、部屋に戻ったのはついさっきだ。やっぱり寒かったのか、 旦那も大人しくついてきた。 我が道行きまくりのようにみえて、実は旦那は意外と人の意見をよく受け入れるほうだ。 特にお館様と俺の言うことは、めったに逆らわないし疑わない。 お館様が体を鍛えよといえば、一日中でも庭を走っていたし、俺が庭の池の底には竜が住んでると ほらを吹いたら、信じて潜って溺れかけたりもした。 こんなに頭の弱い子に、果たして武将なんか務まるのかと、一時は本気で心配したもんだけど。 本音の底を見抜く力はちゃんと備わってるみたいだ。ちょっと安心したよ。 さあて、どうあしらったもんかね。 「暗くなってきたね。明かりつけようか?」 「あとでよい。先に問いに答えよ」 ぴしゃりと跳ね返されて、怖いなあと呟きながら顔を見返す。半分影になった顔の中から、 ぎらぎら輝く目がこちらを見つめていた。 一歩も引かない構えの旦那に、困り顔の笑顔を作って返すと、初めて視線が揺らいだ。 微かにうつむき、心なしかしゅんとして板の目に目線を移す。 たたみかけるなら今だろう。どうせこのぐずりやで不器用な姫様は、世話役が連絡もいれず、 一月も姿を消したことに、子供っぽく腹を立ててるだけなんだから。 「旦那ごめんねー。俺が悪かったって。今度からはちゃんと鴉で連絡するからさあ。 機嫌直してよ。ほら、お館様の命っていつもいきなりだから俺も……」 「問いに答えておらぬ」 顎を引いたまま、上目遣いに睨み上げてくる目を、ちょっとだけ辟易して俺も見返した。 本当に頑固なんだからもう。 わざとらしくため息ついて肩をすくめる。 「……問いってなに?さっきの?返答しないって何のことよ?」 「だから……山県某に成りすませとの、お館様の御命の事だ!」 ああもう、ズバッといってくれんなあ。 湧き上がってきたイライラを、抑え込んで押しつぶす。旦那相手にいちいちいらいらしてたら、 胃袋がいくつあっても保ちゃあしない。 日はほとんど沈みかけ、いつの間にか部屋はすっかり薄暗くなっていた。忍びの俺には旦那の顔も よく見えるけど、あっちにはもう、俺がどんな表情してるかわからないだろう。 「あのねー、返答も何もね、お館様のご命令に、俺が否やを唱える資格なんてないんだよ。 旦那だって知ってるでしょ?俺はお館様の忍びなんだから。なんでそんなこと聞くの」 佐助×幸村(♀)15
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「幸村の婿についていろいろ模索したが、どうもこれといった相手が見つからん。 あまり身分が低くてもいかんし、幸村が戦に出るのを厭うようでも困る。わしの息子とも 考えたが、あいにく手ごろなのは全員妻帯済みじゃ」 そこそこ身分があり、婿入りできる身の上で、今後のことを考えれば武田家中の人脈とも つながれて、なおかつ実家をかさにきて真田家を振り回すようなこともない人物。 「そこで考えた。いないなら作ってしまえばよいのだ!」 「ご慧眼にござりまする!」 もう一回、さっきより強く背中をつねって旦那を悶絶させてから、俺は、それでなんで 俺なんですか、と問いかけた。 俺様忍者ですよ?立派な血筋も身分もありませんよ?下郎中の下郎ですよ? 身分どころか、姿も名も意思すらなく、必要とされない。 陰に潜んで影に生きる。俺はそういうものだ。 探る視線に、笑う目が真っ向から飛び込んできた。 「なんの、家中に詳しく武田にも真田にも忠心厚く、なにより幸村がこと、誰よりよく 知っておる。血筋や身分などよりも、大事なのはそのことよ。 走る勢いは猪ばりの虎の若子の、その勢いを殺さず御せる者など、この信玄、お前の他には 一人も知らぬわ!」 「まさにご慧眼にござりまするお館様ァ!」 あんたまた人の話、聞いてないでしょ。 叱る気力もなくなって、がっくり片手を付く。俺の頭上で、背中をさすりながらはしゃぐ旦那に 一撃を落としたお館様が、それでは佐助、命を下す!と重々しく叫んだ。 「そのほう、これより山県家が養子山県某になりすまし、真田家の婿となれい!これは山県も 承知のことじゃ!以後は陰日向に幸村を支え、真田家、ひいては武田家の発展に尽力せい!」 「お館様!この幸村も家督を継げば、武田家がためなおいっそう働けましょうぞ!」 「よくぞ申した幸村!それでこそ真田の総領よ!」 「もったいのうございますお館様ァ!」 「幸村ぁ!」 「お館様ァ!」 「ちょっと、ちょっと待ってください!待ってって!」 拳を振り上げぎらぎらと瞳を輝かせ、夜中だろうとかまわず叫びあう師弟の間に思わず割り込む。 いや、邪魔しちゃいけないのはわかってるけど仕方ない。 だって変でしょ。いくらなんでも変だって。お館様も変だけど、特に旦那が変だ。あんた自分の 一生のことだってのに、そんな楽しそうに叫んでる場合じゃないでしょう。 今、俺とあんたがなにをしろって言われたのか、この人ちゃんと聞いてたんだろうか。 まさか本当は、全然判ってないとか言わないだろうな。 俺が割り込もうとお構いなしに、暑苦しい応酬を繰り返す二人から半歩下がり、だから俺の話も 聞いてくださいよ!と叫ぶ。 「だからねえ!ちょっと!これマジなんですか?ドッキリじゃないの!?」 ほとんど悲鳴の俺の声に、正面で叫びあっていた二人が同時に振り返った。 旦那の眉間に皺が寄る。お館様の眉がくわっと釣りあがった。 「佐助!独霧とはいかなる技だ!?」 「みくびるな!わしはいつでも本気じゃあ!」 だめだこの人たち。 力尽きて数歩下がると、壁板に背が付いた。寄りかかったまま顔を上げれば、薄明かりの中 飽きもせず、叫びあう師弟の姿が見えた。 天井や壁にゆらゆらと、蠢く二人の影を見るともなしに追う。 吹き込んだ風に、灯りの火が膨れ上がって揺れた。 じりじりと影が蠢く。壁に、天井に、床に、胸の奥に。 あのどうしようもない居たたまれなさがまた、這い上がってくる。苦しいような、痛いような。 怖いような。 訓練で得たはずの技も役に立たない。押しつぶすこともできず、それは胸に広がっていく。 この場から逃げ出したい思いだけは何とか押し殺し、俺はただそれをぼんやりと見つめ続けた。 佐助×幸村(♀)13
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「……と、いうわけで、織田も豊臣も今のところは大人しいもんです。あと特別なことって言えば、毛利と長曾我部の縁組くらいで」 当主同士の婚姻だから、西の結びつきは強くなるでしょうけど、と肩をすくめると、そうじゃなと呟いて、お館様も小さく肩をゆすった。 夜半も過ぎたこの時刻、夕暮れ外を吹き荒れていた風もすっかりやみ、辺りは耳が痛いほどの 静寂に包まれていた。時折、隙間風に灯の火が、じりじりと低い音を立てるくらいだ。 武田屋敷の最奥にあるお館様の部屋は、相変わらず戸も障子も閉め切られていた。 部屋の隅には明かりが灯されているけれど、小さすぎて、余計闇が濃く見える。 ただ、上座でてかてか輝く僧形の頭だけは、いつもどおり明るい。 「とはいえ、あそこは両家とも中央の覇権には興味がないようじゃしな。九州の押さえにでもなればむしろ願ったりじゃ」 薄く笑う顔に、こっちも、ですねえと笑ってうなずく。 「ま、結論としては、日本全国おおむね平和でしたってことで」 以上、佐助の敵情ご報告でした、と頭を下げる。 ご苦労であったとうなずいて脇息に寄りかかると、お館様は手元の器に手を伸ばした。 朱塗りの器の中には、熟れきった柿の実が二つ、三つ。暗い明かりに、つやつやした表面を光らせている。 もうこんな季節だし、今年は多分これが最後だろう。 「呼び出しが遅れてすまなんだな。うっかりこんな時刻になってしまったわい」 「上杉の御使者が来てたんでしょ?大した報告じゃないし、忍びにお気使いなんか無用ですよ」 へらりと笑えば、ふむと鼻を鳴らして鋭い視線が俺を眺めた。 「まあ、平和で何よりじゃが。そこそこ苦労もあったようだな」 「はい?」 「それよ。佐助が手傷を負うとは珍しい」 青くなっておるぞと口元を指差され、あ、これですかと押さえた瞬間、びりりと鈍い痛みが走った。 さっき確認したときは唇が切れて、顎に痣くらいだったけど、やっぱ腫れてきたらしい。 なんか口が開きにくいと思ったんだよねえ。 「いやー、不覚を取りまして」 もう一回へらりと笑った俺の顔を、鋭い視線が妙にじっくりと眺める。 ちょっと気になりだしたころ、お館様はようやく目をそらして、大事にせいよ、と呟き、柿の実にかじりついた。 夜目にも赤いかじり口から、とろとろした汁が滴る。熟れて蕩けた柔らかな実。 「……そうじゃ。縁組で思い出したが、幸村の婿取りな。あれを、今年のうちに済まそうと思う」 そろそろ退出しようかな、と天井を眺めた時、ふいにかけられた言葉に、俺は慌てて視線を戻した。 一瞬目を離しただけなのに、柿の実はもう、へたと種だけになってる。うーん、相変わらずの早業だ。 「あ、そうなんですか。それじゃ大忙しですね」 「身内のことじゃし、そう派手にはせぬがな。お前もそのつもりでおれ」 「はいはい、いつでもどうぞ。俺のことはお気使いなく」 日にちが近づいたら、他の任務は入れないでくださいねー、と笑って手を振る。 柿の種を弄んでいたお館様の手の動きが、ぴたりと止まった。 薄暗い明かりを受けて、いやにぎらつく目に、穴が開くほど見つめられる。 逸らすわけにもいかないんで、大人しく受けるけど、お館様は瞬きもしないで俺を凝視したままだ。 あの、なんか尻がむずがゆいんですけど。 「……ほう!」 「はい?」 「ふうむ」 感心したようなうめき声を上げて、乗り出していた体を戻すと、お館様はまた脇息に寄りかかった。 種を放り出し、二つ目の柿を手に取って、今度はそれを手の中で転がしだす。 その間も、目線は俺に合わせたままだ。 「……あのー、なにか?」 「ううむそうか。……ときに佐助、幸村にはもう会うたか?」 「へ?あ、はあ、時間があったんで、ご報告の前にちょっと」 「ほうほう」 またもや感心したようにうなずく頭が、てかてかと眩しい。 なになに、なんなの?てか、すっごい居心地悪いんですけど。 「えーと、お館様?」 「うむ。ところで佐助よ、ここじゃがな」 「は?」 視線をぴたりと据えたまま、また俺の口元を指す手に、つられて切れた唇に手を当てる。 「紅がついておるぞ」 「え?そんなもんつけてなかっ」 言葉と一緒に時間が止まった。 猿飛佐助、一生の不覚。 佐助×幸村(♀)25
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口元に手を当てたまま動けない俺の前で、上座の気配がぶわっと膨れ上がった。 隙間風に煽られて、ゆらゆら揺れる灯の炎が、壁に映る影も揺らす。 つるりと丸いはずのその頭部に、戦装束さながらの角が生えているように見えるのは、俺の気のせいか。 普段なら口先八寸でごまかすところだけど、目の前の気配には、生半可な小細工なんか 通用しそうもない迫力があった。 背中にたらりと汗が流れる。超ヤバイ。人生最大の危機かもしんない。 「ほうほうほう!やはりそうであったか!」 「……おや、お館様、いやあの、これはですね、なんていうかその」 「はっはっは、気にするな。お前たちはいわば、許婚の身であるしな。うむ」 ことさら明るい笑い声が、余計に怖い。 鷹揚にうなずきながら、腰を浮かせてずいと身を乗り出す。 そしてお館様は、まるで獲物を前にした虎のような顔で、笑った。 「で、どこまでやった」 ヤバイ。 ちょっとだけど無理やり指入れちゃいました、とか言ったら、確実にお婿にいけない体にされる。 「えー……えへへー?」 笑ってごまかそうとしたけれど、火に油を注いだだけだった。 笑顔の口元がさらにつりあがる。ああ俺なんか今日、不覚だらけ。 「ふっ。ふっふっふ」 「あ、ははははは」 「わっはっはっはっは!」 「うわははははは!」 「ぐわーっはっはっはあ!」 「いやはははははちょっと口に触っただけです!」 がしっと床に手をつき叫べば、眼前の気配が少しだけ揺らいだ。 よし、だましの技術は、話に真実をちょっと混ぜるのが味噌だ。頑張れ俺様! 「ほんとそれだけです!てか、それも完璧じゃなかったし!」 「……まことか?」 「天地神明に誓いまして!」 平身低頭、ここぞとばかりに言い募り、誠実そのものの顔ではっしと見据える。 まだ疑り深い目をしながら、ようやくお館様は腰を下ろした。 じろじろと俺の顔を眺め回していた視線が、また口元で止まる。 「するともしや、それも幸村か?」 腫れて熱っぽい顎を指され、俺は仕方なく、ええまあ、とうなずいた。 「接吻は、破廉恥らしいです」 「はっはっは、あやつらしいのう!」 まったくですね。 そうかそうかといやに嬉しそうにうなずきながら、お館様は手に持っていた柿にかじりついた。 上機嫌に三口で食べきり、ぽいと器に投げ出されたへたには、柔らかい実がまだ少しだけ、へばりついていた。 ほっとすると同時に、ちょっとだけむかっときた。 普段ならそんなの押しつぶすところだけど、どうせ俺様、今日は不覚だらけだし。 「……お館様ー。何度も言いますけど、そういう行儀の悪い食べ方やめてくださいよー。 旦那に悪影響なんですってばー」 ことさら嫌味ったらしくねちねちと言うと、薄暗い明かりに光る顔が、実に面倒くさそうにしかめられた。 「お前もしつこいのう。わしは幸村に、柿の食べ方など教えたことはないというに」 「そんな言い訳通用しませんよー。大体ねー、お館様以外に、柿の実丸ごと、剥きもしないで三口で食べる人間なんかいるわけないでしょ。俺様ねえ、そういうお行儀の悪いことは許せないっていうか」 「幸村ではないわい」 面倒くさそうに最後の一つを器から取り上げ、ぽんと宙に放り投げる。 暗い明かりを受けて、薄い皮が鮮やかな輝きを放った。 「わしが柿の実の食い方を教えたのは、お前じゃ」 (おう、そこの童。お前じゃ、こっちにこい。柿を食わんか) (……忍びは、主の前ではものを食べません。お許しを) (仕事中でもあるまいし、かたいことをいうな。そら、一番うまい食い方を教えてやるぞ) (佐助、これ、このままでは食べられぬ。剥いて) (姫様、いいこと教えてあげるよ。柿の実の一番うまい食い方はねー) 佐助×幸村(♀)26
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晩秋の夕暮れ、濃い夕日で赤く染まった館の庭に、響く甲高い泣き声。 空は茜色。地面に積もった枯葉も茜色。柿の木の幹も、その天辺で、降りられないと泣く少女も茜色。 擦り傷だらけの白い顔。緋色の小袖もかぎ裂きだらけ。もつれた髪と、汚れて真っ黒の足袋の足裏。 震えながら俺を見る、涙で濡れた子犬のような茶色の目。 (さすけ、ちちうえはいつむかえにきてくださるのじゃ?) 山奥は冬の訪れが早い。暦の上ではまだ秋だけど、一月ぶりに見る甲斐の国はすっかり冬景色と なっていた。 この武田屋敷の庭も、あれほど見事だった紅葉は一枚残らず落ちきり、冬色した空に木々の黒い影が 浮かぶばかりだ。霜のせいだろう、むき出しの地面はあちこちぬかるんで、荒涼とした風景を ますます寂しく見せていた。 氷のような山おろしは、全身を包む忍装束の中にも入り込み、体を芯から冷え込ませていく。 濁り酒でも引っ掛けたいところだなと思いながら、いつもの屋根の上から暮れていく夕日をぼんやり 眺めていると、館の中から人影が一つ、庭へと出て来るのが見えた。 夕日よりも鮮やかな緋色の打ち掛けの裾が、木枯らしに翻る。身を切る風の冷たさなんて、まるで 感じていないかのように背筋を伸ばし、茶色の髪を揺らしながら、その人影は二、三度辺りを見回すと 俺のいる屋根を振り返った。 姿も気配も消しているはずなのに、茶色の瞳はまっすぐこちらを見つめたままだ。 「……参れ、佐助」 やがて、焦れたように囁かれた促しに、仕方なく立ち上がり、やあ旦那、久しぶり、と なるべく軽く笑いながら片手を上げる。 夕日に照らされ、真っ赤になった顔を奇妙に引きつらせて、旦那はにこりともせず 俺を見返した。 「今日はなんだか珍しい格好してるじゃない?」 そばへ寄るなり何かを言い出しかけた旦那の機先を制して、声をかける。間を外された顔で 俺を見上げ、自分を見下ろして、ああこれか?と旦那は纏った衣装を引っ張った。 いつもとは違い袴はなく、上品な花模様の小袖を重ね、緋色の打ち掛けの裾を長く引いている。 これは確か、旦那の母上の形見の品だ。 ぞんざいにくくっている髪も下ろされて、髪油で整えているらしく、普段に比べれば滑らかだ。 背の高さまではごまかせないけど、不思議なことにそうしていると、ちゃんと女の子に見える。 「旦那が女物着るなんて、何年ぶりかね」 感慨深く眺めていると、袖を引っ張りながら、旦那が困り顔で首をかしげた。 「先ほど鍛錬中に川に落ちてな。他の衣類は今、虫干しと繕いとかで全部持っていかれておるので、 他に着るものがなかった」 「……うんまあ、そんなことじゃないかとは思ったよ」 「動きにくくてかなわぬ」 「そう言わない。しっかし、これじゃ旦那とは呼べないなー。りっぱな姫様だね」 「いつもどおりでよい」 「まあいいじゃない、たまにはさ」 もともと、戦場で姫呼ばわりは危なっかしすぎるということではじめた、便宜上の呼び方だ。 違和感なさ過ぎて癖になっちゃったけど。 「今だけだよ。真田の当主になったら『姫様』とは呼べなくなるんだしさ」 何気なく言ったその言葉に、少し緩んでいた旦那の顔がまた引きつった。 表情の消えた顔の中から、茶色の瞳がひたりと見据えてくる。まっすぐにそらされないその目の光は、 戦場で敵に向けられる輝きにも似ていて、思わず背筋がぞくりとする。 ためらうように何度か息を吸い込み、やがて紅のかけらも乗っていない唇が、意を決したように 開かれた。 「佐助。聞きたいことがある」 「……なに?」 「一月も、どうして姿を消していた」 佐助×幸村(♀)14