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国名 震旦 英語国名 Kingdom of Goto in China 正式国名 震旦を統治する五島国王政府 国旗 1225959739.png 国の標語 融和による創造 国歌 国王賛歌 公用語 五島漢語(公用語)北京語,広東語,アラビア語,ペルシャ語 国家元首 浦 盛栄 首都 竜宮 最大都市 竜宮 面積 1112万7500平方km 総人口 1,336,317,000人 政治体制 君主制 公式略称 震 通貨 金(キン) 主産業 金融・工業・林業・商業 地理【編集中】地方行政区分 主要都市 歴史【編集中】変遷 漢武以前 漢武 国王政府 政治【編集中】国家元首 首相 国王政府官僚 中央政府 議会 外交【編集中】 経済【編集中】資源総資産額 軍事【編集中】 文化【編集中】教育 国民【編集中】居住民族 地理【編集中】 ユーラシア大陸の東部,太平洋の西海岸に位置し,国土は11,127,500km²でアルティスに次いで世界第2の大きさである。領土は北モンゴル高原から,南は南沙諸島南端の曾母暗砂まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から,西はパミール高原まで広がっている。東は日本,北はアルティス,南はインドシナ・インドと接している。中国大陸の東部は渤海,黄海,東シナ海に,南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。中国最南端は南海諸島と呼ばれる島嶼群である。この南海諸島では島嶼,礁(サンゴ礁),灘(砂浜)が散在しており,これを一括して南海諸島と言う。主要河川として黄河や長江があり,それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。 地方行政区分 1226120278.png 【上図:震旦行政区分色分図】 ①東北管区 現在,日本軍の統治下にある。主要民族は満族。 ②蒙古管区 アルティスと国境線を形成する軍事上の要所。主要民族は蒙古族。 ③新領開発区 アラビア・欧州方面への通り道。シルクロード鉄道の建設計画がある。主要民族はウイグル族。 ④西蔵管区 山岳地帯であり,緯度のわりには超低気温である。主要民族は西蔵族。 ⑤竜宮特別市 国王政府の首都である。市域が突出して広大である。主要民族は五島人。 ⑥華北地方 大都市は長江より南側に多く,蘇港・臨安・金陵を擁する。北部の山東半島には漢武時代から五島支配下にある青島が在る。 ⑦華中地方 ⑧華南地方 ⑨華東地方 主要都市 1 竜宮 31,440,000 2 天港 30,960,000 3 奉天 28,250,000 4 大都 24,430,000 5 上海 18,580,000 6 深圳 12,000,000 7 広州 10,050,000 8 東莞 10,010,000 9 武漢 4,890,000 10 哈尔滨 4,754,753 11 成都 3,750,000 12 新界 3,730,000 13 九龍 3,387,665 14 青島 3,200,000 15 南京 3,110,000 16 淄博 2,900,000 17 福州 2,600,000 18 長沙 2,520,000 19 南昌 2,440,000 歴史【編集中】 変遷 長江文明 黄河文明 紀元前2070-紀元前1600 夏 紀元前1600-紀元前1150 殷 紀元前1150-紀元前256 周 紀元前770-紀元前403 春秋時代 紀元前403-紀元前221 戦国時代 紀元前221-紀元前207 秦 紀元前206-220 漢 前漢-新-後漢 220-280 三国時代 265-420 晋 西晋-東晋 304-439 五胡十六国時代 439-589 南北朝時代 581-618 隋 618-907 唐 五代十国時代 960-1279 宋 北宋-南宋 1271-1368 元 1368-1644 明 1616-1912 清 漢武 五島 漢武以前 3000年以上に亘り,幾つもの王朝の興亡を経てきた。漢族の王朝・明が滅亡し,満州人の清朝が中原王朝の座を掌握した。だが,日清戦争で日本に敗れたことにより植民地化が進行する。これを契機に,「滅満興漢」をスローガンとした,満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり,その結果,大漢武帝国が成立(直後に清朝は消滅)した。 漢武 国王政府 政治【編集中】 国家元首 世襲制であり,五島民族を統治する王としては現在15代目に当たる。(震旦を統治する王としては1代目。) 五島国王は本来日系であったが,配偶者は現地有力者であったため,現在では日本人の血は薄くなっている。 国王は各行政の長の席を兼任することにより,大きな権力を握っている。 首相 国王に選出・任命権がある。 現在は国王が兼任している。 本来はすべての行政大司を代表する長。 国王政府官僚 役職 氏名 出身身分 元首 浦 盛栄 王族 首相 浦 盛栄 王族 農務大司 金 陽 漢民族 兵務大司 浦 盛栄 王族 外務大司 浦 盛栄 王族 貿易大司 浦 盛栄 王族 民族大司 崎山 三郎 印度支那移民 建設大司 劉 董 漢民族 法務大司 浦 盛栄 王族 人事大司 浦 盛栄 王族 諸務院代表 浦 真知 王族 金融院代表 浦 大尊 王族 学務院代表 神之浦 真亜 護賢会 中央政府 名称 最高位 職務内容 所在地 農務省 農務大司 農務行政 竜宮 王国平和維持軍 兵務大司 防衛 竜宮 外務省 外務大司 外交 竜宮 貿易省 貿易大司 貿易監督 蘇港 民族省 民族大司 民族統制 竜宮 建設省 建設大司 建設行政 竜宮 法務省 法務大司 法務行政 竜宮 人事省 人事大司 官職人事 竜宮 諸務院 諸務院代表 諸行政 竜宮 金融院 金融院代表 金融行政 蘇港 学務院 学務院代表 教育行政・学問研究 漢陽 【上表:震旦行政省庁図】 議会 現在,議会は開設されていない。 しかし,一院制(総議席1200)の開設が予定されている。 外交【編集中】 経済【編集中】 五島人には経済学に長けた者が多く,資源総資産額という指標を発表している。 資源総資産額 資源総資産額の改良版。 旧式では,五島統一王国内でのレートを参考にしていたが,最新版では外部資料を参考。 調査対象品目から面積が除外され,銀・酒・砲弾・弾薬が追加された。 5080ターン,再び変換率を変更。 鉄鋼,砲弾,弾薬がより重視され,石油の価値が大幅に下げられた。 5280ターン,さらに変換率を変更。 食料が今までより重視され,木材,鉄鋼,燃料の価値が見直された。 主要国国別資源総資産額 国名 調査ターン 資源総資産額(億金相当) 一人当たり(金相当) その他 震旦 5615 122317 53274 アメリカ合衆国 5574 92317 47734 神聖アルティス帝国 5574 56587 22243 大日本帝國 5574 47736 21522 インド共和国 5574 21999 12701 王立研究所から後進国指定を受けている ウェスペルタティア王国 5574 17187 8594 王立研究所から後進国指定を受けている オスマン帝国 5574 1718 950 王立研究所から最貧国指定を受けている ノルド王国 5574 905 15608 変換率()内は以前の比率 物資名 変換率 資金 100 食料 0.03(0.01) 商品 50 銀 150 酒 100 木材 80(100) 石材 50 鉄鋼 200(300←100) 建材 100 石油 30(200) 燃料 25(50) 砲弾 600(400) 弾薬 400(200) 軍事【編集中】 文化【編集中】 教育 王立貴族学習院 国民【編集中】 居住民族 震旦には全部で20もの民族が居住している。(極少数のものは数に含めていない。) 人口 系統 主な居住地 主な姓 五島人 7億2000万 五島 全土 浦 漢族 1億8000万 漢 全土 張,王,李,劉,陳,楊,黄,趙,呉,周,徐,孫,馬,朱,胡,郭,何,高,林,羅 壮族 7200万 五島・泰 華中・華南・西蔵 黄,陸,莫,僮 満州族 5400万 ツングース 華北・東北・蒙古 金,趙,王,富,傅,付,李,何,賀,顧,関 回族 5200万 アラブ・ペルシア 全土 馬,張,王,李,劉,陳 苗族 4800万 苗 華中・華南・西蔵 維吾爾 4400万 テュルク 新領 土家族 4200万 西蔵 華中・西蔵 夷族 4000万 五島・ミャンマー 西蔵 蒙古族 3800万 蒙古 華北・華中・東北・蒙古・新領 西蔵 3200万 西蔵 新領・西蔵 布依族 1800万 西蔵 西蔵 侗族 1600万 五島・泰 華中・華南・西蔵 瑶族 1500万 西蔵 華中・華南・西蔵 朝鮮族 1150万 朝鮮 東北 李 白族 1100万 西蔵 西蔵 哈尼族 1000万 西蔵 西蔵 カザフ族 780万 テュルク 新領 黎族 720万 五島・海南 華南 泰族 660万 五島・泰 西蔵
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登録日:2009/06/27(土) 21 17 35 更新日:2023/05/29 Mon 20 40 23NEW! 所要時間:約 1 分で読めます ▽タグ一覧 一覧項目 兄貴 属性 己ではなく目の前の誰かのために 憧れ 漢 漢の中の漢 燃え 燃え系 硬派 称号 血と汗と涙 魂 漢(おとこ)とは、男性的な美徳を高レベルで備えた人への尊称。 初出の候補は複数あり特定は困難だが、北斗の拳が有力とされている。 己を顧みずに誰かを助けようとする気高さ、己の信念を貫き通す強さ、どんな状況でも動じないタフさ、多くを語らず、背中で語る寡黙さなどが、漢の特徴である。 なお正確な発音は「をとこ」。 以下一例 漢が多く登場する作品から挙げる。 (魁!!男塾) 江田島平八 剣桃太郎 富樫源次 大豪院邪鬼 など (北斗の拳) ケンシロウ ラオウ シュウ など その他 ワムウ(ジョジョの奇妙な冒険) 悲鳴嶼行冥(鬼滅の刃) カミナ(天元突破グレンラガン) その他 「漢」でタグ検索 2.リスク/デメリットを無視したプレイのこと、主にコンピュータゲームで使われる用語。 接頭語として「漢~」という形で使用される。 主な使い方はこんな感じ。 漢プレイ 非常にハイリスクなプレイを指す。言わゆる「魅せプレイ」であり、その中でも特に漢らしいものがこう呼ばれる。 狙ってもできないものが殆どだが、成功すれば漏れなく「漢」の称号が得られる。 漢起爆 モンスターハンターシリーズにおいて、タル爆弾をキックや近接攻撃で爆発させること。 当然爆発は自分にもダメージがあるため、普通は石ころのような投擲物、遠距離武器などで行われるが、 そのような手段がない場合において使用されることが多い。 なお、タル爆ダイブや、火事場力スキル発動のための自爆行為には使用されない。 漢識別 不思議のダンジョンシリーズで効果が分からない道具を実際に使うことで識別すること。 ツボならとりあえず何か突っ込む、武器や腕輪なら装備する、巻物なら読む、など。 貴重な巻物が無駄になったり、毒草を飲んだり、装備品が呪われていたりする場合も多く好まれる手ではない。 主に余裕のある時、絶体絶命でどうにもならない時に使用される。 3.読み かん 中国の王朝のこと。 一度簒奪されて復活したため、最初に劉邦が建国したのを「前漢」劉秀が復活させたのを「後漢」と呼び分ける。 後漢が三国志で滅んだ後、前漢より漢宗室との間に姻戚関係があるために劉姓を持っている匈奴の劉淵も同名の王朝を五胡十六国時代に建国したが、のちに趙と改称する。 追記・編集はお前にまかせたぞ △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 回避を捨て、その場で膝を着きどっしりと構えることで命中精度を上げる“漢撃ち”も -- 名無しさん (2013-09-12 15 22 31) のび太って卑劣な屑ってイメージ強すぎるからどこが漢なのかって… -- 名無しさん (2013-12-09 17 19 59) ↑映画見ろよ -- 名無しさん (2013-12-09 17 29 29) ギラーミンとの決闘を見て来い。 -- 名無しさん (2013-12-27 14 20 30) ウルトラマンネクサスの孤門一輝もヘタレから漢に成長していった。 -- 名無しさん (2013-12-27 14 23 48) ・・・・すごい漢だ。 -- 名無しさん (2013-12-27 14 29 45) のび太は性根が腐ってるから… -- 名無しさん (2014-03-11 17 39 50) ジョジョのエルメェスは? -- 名無しさん (2014-03-11 17 53 10) ↑2姐さん!そうエルメェスは姐さんなんだよ!!(震え声) -- 名無しさん (2014-09-29 21 07 35) 『28週後…』のドイルはダメですか? -- 名無しさん (2014-11-22 21 42 45) “兄貴”や“○○さん”と近い用法 -- 名無しさん (2014-12-28 23 30 05) のび太は映画や特定の話じゃ間違いなく良い奴なんだけど普段の言動とか性格が悪いせいでプラマイゼロ。 -- 名無しさん (2015-01-29 09 13 56) ↑こち亀の両津も似たようなもんだな -- 名無しさん (2015-01-29 10 06 19) のび太って確か、「6月は祝日が無いからダルい」的な発言してんだよな。倦怠感つよ過ぎだろ^_^ -- 名無しさん (2015-03-30 21 23 47) この項目に書かれてる音也もかなりの迷惑男でもある(代金を自分の演奏で踏み倒したり、ツケまくったり) -- 名無しさん (2015-04-17 11 28 43) グレンラガンのT版でいえば主力メンバーの散った方々は漢っていえるんだよなあ 特に双子と侍 -- 名無しさん (2015-04-17 12 30 02) アンギラスがおってなぜ俺はいないのだ -- ゴロザウルス (2015-06-10 19 29 45) のび太をアンチして誰が得するのか、ガキ向け漫画だぞ -- 名無しさん (2015-11-18 13 33 18) 真・恋姫無双で「魏」「呉」「蜀」編クリア後に「漢」の文字が出てどんな話かと思ってプレイすれば、本当に「漢」の話だったな。 -- 名無しさん (2015-11-18 14 10 42) おいおい、代表格に江田島平八がいないとかお話にならんぜ -- 名無しさん (2016-06-29 12 42 22) 上条さん!!! -- 名無しさん (2016-06-29 18 48 28) HIPHOPグループ「MSC」のリーダー? -- 名無しさん (2016-06-30 00 36 17) コナン(新一)と平次も当てはまっていいと思うんだが。 -- 名無しさん (2017-05-20 06 44 23) てっきり三国志の前の王朝の事だと思ってたよ。 -- 名無しさん (2017-05-20 07 03 07) 男女は性別、漢は生き様。某MADの※とかでたまに出てくるんだけどこれって最初に言ったの誰だろう? -- 名無しさん (2017-07-01 22 45 15) 銀さん(特定条件のみ)で草生えたwせやな -- 名無しさん (2017-07-02 23 19 30) 緒方恵美が真っ先に思い浮かんだ自分w -- 名無しさん (2017-07-02 23 21 05) 鋼の錬金術師のキャラだと、エドよりもホーエンハイムを個人的には推したい。 -- 名無しさん (2018-01-13 20 55 47) 普段とのギャップが大きいキャラクターほど漢を感じる気がする。両津とか銀さんとかのび太とか -- 名無しさん (2020-01-24 22 12 39) 一昔前はアニメとか特撮の男性キャラを「ヘタレ」か「漢」かの2択で評価してた、というか「ヘタレ」も「漢」も妙な意味の広がりを持ってた気がする -- 名無しさん (2023-02-04 01 47 06) 名前 コメント
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763. ひゅうが 2011/11/30(水) 00 16 33 ※ 寒冷化の話が出たので、ちょっと一本。支援SSにしようとしたなりそこないですが(汗) 支援SSもどき――「寒さ」 ――西暦2XXX年某日 月面 糸川・フォンブラウン市 かぐや姫大学 「はい。では講義をはじめます。 欠席者は?・・・あああの二人だけだね。まったく青春するのもいいが・・・え?火星の樽志須(タルシス)垂水神社に参拝?観光スポット? まぁあそこは神道の太陽系伝播を考える上でも重要な場所だからいいんだが。 ごほん! 本講義は、前にも言ったように地球物理学と歴史学の相関関係について解説するものだ。 ナポレオンのロシア遠征しかり、天明の大飢饉による田沼重商主義政策の破綻しかり。 とかく惑星上において核エネルギーのコントロールに成功するまでの人類の歴史はこういった天変地異――気候や噴火、地震、そして津波に左右されてきた。 前回の講義の内容は覚えているね? そう。 20世紀半ば近くに起こった天変地異「大西洋大津波」だ。 前回は津波被害に限って講義したが、今回はいよいよ津波の原因となったカナリア諸島研ブレビエバ火山の大噴火によってもたらされた災害について総合的に解説しよう。 前回は諸君らは講義が津波による都市破壊や人体の損壊にのみ集中したのを不思議に思ったと思う。 もちろん、津波で流された建造物やもろもろの物体にもみくちゃにされた人体がどうなるのか。 竜巻のそれよりはるかにおぞましい結果は、恐るべきものだ。 だが、諸君がセットで考えがちな大西洋大津波とアメリカ風邪――溶血性レトロウィルス・A1型変異型肺ペスト菌複合感染症は実際はまったく別個の理由でその被害が拡大したことをまずは頭に入れておいてほしい。 あの日本列島でさえ津波警報のネットワークがまだ完成していない時代だ。広大で地方自治性に「富みすぎていた」当時のアメリカ合衆国が対処に失敗したのは当然だと前回は言ったね? むしろ、大西洋大津波の被害に震え上がった当時の日本政府上層部が戦時下にもかかわらず軍事費の一部を割いて太平洋岸に地震・津波警戒ネットワークを張り巡らせて東南海・南海地震後の退避に成功したことが異常なのだとも。 さて。今回はケンブレビエバ火山の噴火がその主題だ。 西暦1942年8月15日正午過ぎに発生した噴火は、そのエネルギーから考えてカテゴリー6。火山爆発指数6といわれるくらいの大噴火であったことが判明している。 1秒間に標準的な核融合兵器を10発ずつ爆発させているような噴火エネルギーだが、人類にとっては幸いなことに、この噴火エネルギーは数百立方キロメートルの山体を吹き飛ばすという破滅的な結果にはならなかった。 第4回の講義でも述べたように、インドネシアのトバ火山の大噴火によって人類の総人口がわずか200名あまりまで減少したような巨大な気候的影響は発生しなかったのだ。 あの大噴火では2500立方キロほどの火山灰が大気圏内に吹き飛ばされ、氷河期を誘発して欧州を200メートルあまりの氷河で覆ったが、今回のケンブレビエバ火山はそんな怪物じゃなかった。 764. ひゅうが 2011/11/30(水) 00 17 28 アフリカプレートとユーラシアプレートのせめぎあいの中で大洋底からわき上がってきたマグマは、ハワイや九州島のように活発ではなかった。 しかし、ここで重要なのは、性質が南九州のそれと似ていたことだ。 海水を含んだマグマはその粘性を著しく増すということ、覚えているかな? そう。 だからこそケンブレビエバ火山は巨大な噴火を起こすだけのエネルギーをため込んだのだよ。 しかし、その大半は山体崩壊と津波に費やされた。 でなければ、津波本体の奥行きが200キロを軽く超えることなどないよ。 海底調査でウラニウムをはじめとする放射性元素が見つかったことを考えれば、南アフリカのキンバーライト鉱山のように地球の「核」の塊が剥がれて一気に駆け上がってきたという説も頷ける。1秒間に200メートルを吹き上げるキンバーライト式の恐ろしく激しい噴火なら、弱い玄武岩地質であった火山本体を海底にたたき落とすのに十分だろう。 おっと。話がそれたね。ケンブレビエバ火山の噴火でまき散らされた火山灰の量は、およそ20立方キロほど。 意外に少ないんだ。それでも、火山灰は風に乗って北極周辺に到達した。 結果として、北米大陸のロッキー山脈からウラル山脈、アラル海近くまでの一帯には8月末から翌年11月まで火山灰が顕著な影響を与えたんだ。 最大で日照量は通常の85から82パーセントまで低下。生育のまっさかりだった作物は十分な日照を得られない上に平均気温が0.7度あまり低下したための冷害で記録的な凶作を生み出した。 ジャガイモがあった北ドイツ平原やフランスはまだしも、穀倉地帯だったポーランド平原から西ウクライナの黒土地帯では戦時下ということも手伝って麦の収穫は例年の3割ほど。 しかも9月末には積雪を記録するなどの顕著な影響で、寒さに慣れていない南ウクライナの人々が凍死するなどの被害を受けた。 北米大陸は言わずもがな。津波被害でメキシコ湾岸からの燃料供給を絶たれた大平原地帯の農業は、流通の混乱と東海岸からの「涙の旅路」によって荒らされ、軒並み耕作放棄地と化した。 それに加えて冷害と寒冷化によって収穫は例年の2割以下に落ち込んだとも推定されている。この結果、食糧難がミシシッピ河以東を襲ったんだ。 覚えているかな?後漢末期から三国時代にかけての中原を襲った死のスパイラルを。 食糧難から孤立し、野盗化した人々がさらに流通を混乱させ、難民化を促進。さらにそれが疫病の流行を生み、適切な医療活動を妨害――結果中原の人口は1世紀の間に10分の1以下へと激減したわけだが・・・これが北米東部から中部で再現されたんだ。 同様の事態は、独ソ戦の前線だった中部ウクライナからウラル山脈までの各地で発生したが、決定的な違いは強力な中央政府と曲がりなりにも強力な軍隊が存在したか否かだろうね。 合衆国はそれが存在しなかったうえに政府機能を失った場所が大半であったから、恐怖による統制を失ったんだ。 現代社会の相互補完作用を失った社会がどうなるか――北米の惨禍はその証明のようなものだね。 三国時代の終焉から五胡十六国時代を経て中原の民族自体が北方騎馬民族系へと変質したように、北米大陸の住人もこの惨禍の結果として変質を余儀なくされるわけだが―― ある意味で、同様な寒冷化に見舞われた欧州が生き延びることができたのは、強権的なドイツ第3帝国という強力な中央政府と国家総力戦のために高度に組織された近代的な国家組織があったからといってもいいだろうね。 遅れて寒冷化の影響が出始めていたチャイナ中原の西部で何が起こったかを考えれば・・・おっと、今日はここまでか。 次回は、20世紀の気候変動が第2次世界大戦に与えた諸影響についてだ。 今回はマクロレベルの被害だが、次回からは男の子の大好きな作戦レベルに移るぞ。」 〜おしまい?〜
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登録日:2021/03/10 Wed 23 00 00 更新日:2024/06/17 Mon 23 36 33NEW! 所要時間:約 40 分で読めます ▽タグ一覧 ことわざ大量発生 キングダム 三晋 中国 中国史 史記 呉 周 始皇帝 封建制 故事成語が産まれる時代 斉 春秋 春秋戦国時代 晋 東周 楚 燕 秦 諸子百家 越 趙 郡県制 韓 韓非子 魏 春秋戦国時代とは、中国史の一区分。 西周王朝が崩壊して東周に遷都した時期から、始皇帝による統一時期までを指す。 ヨーロッパ史における古典ギリシャ時代に比肩するほど、数多くの思想家が輩出したことでも知られる。中国文化が現在のように固まる、基礎を築いた時代でもあった。 【時間区分】 【地理区分】 【前史】 【斉国】 【燕国】 【晋国】◇韓国 ◇魏国 ◇趙国 【楚国】 【秦国】 【その他の諸国】◇魯国 ◇宋国 ◇鄭国 【諸子百家】 【その他の要素】◇封建制から郡県制へ ◇統一の気配はいつ生まれた? 【創作界隈】 【時間区分】 始まりが西周王朝の崩壊と、終わりが始皇帝の統一ということでは定説が一致している。 しかし一口にそういってもBC.770からBC.221に及ぶ、前後550年もの時代なので、簡単にこういう時代だったとまとめることはできない。 ただし「春秋戦国時代」を「春秋時代」と「戦国時代」に分けることにも、あまり意味はない。前後で世界的な変化はあまりないからだ。 とくに「春秋時代」の終わりとは、「孔子が麒麟の死体を見つけて世に絶望して歴史書の記述をやめた年」となっているが、これを歴史の変わり目とするのは無理だろう。実際、春秋と戦国の境目は学者によってまったく一定していない。 晋国の分裂を境目とする学説も多いが、晋国分裂以前と以後で情勢が劇的に変わったわけでもない。 「周王への権威がまだいくらかでも残っていたのが春秋時代、欠片も残らなくなったのが戦国時代」という区分もないではないが、その明確な区分はつけられないし、ついでに春秋時代の「周王の権威」も、せいぜい「敬意を表する」ぐらいなもので、実際に諸国の情勢を左右するほどではなかった(*1)。 そういうわけで本項目では、ざっくばらんに【前期】【中期】【後期】で分ける。 【前期】とは、いわゆる「春秋の覇者」が中原の諸侯国をリードした時代である。具体的には、斉の桓公から晋の文公までの時代。 【中期】とは、文公が死亡してから秦に商鞅が現れる前の時代まで。この時代は、中原をリードする覇者も秦国もいない時期である。 【後期】とは、秦国で商鞅が法治主義改革を行なって以降の、秦一強の時代。この時代はなにを置いても秦が時代の中核となる。 そして【黎明期】として周の東遷から斉の桓公が登場する前まで、【末期】として始皇帝の統一時期までとすれば、大体の流れは掴める。 【地理区分】 春秋戦国時代は、すべてを数えればたくさんの国があって、多くの地域で同時多発的に事件や改革が起きている。 それらを年代順に読むと、東西南北中央で視点が飛び飛びになってしまい、間違いなく混乱する。 そこで本項目では、年代順ではなく、大国を中心として記述をしたい。 具体的には、東方の斉国、東北の燕国、中部の晋国、南部の楚国、西部の秦国である。 ほかにも国はあるではないか、という意見はもっともだが、この五大国は、春秋戦国時代の最初から最後まで、滅亡することなく、常に重要要素として歴史の中心にあり続けたため、これらを中心に置くと話が分かりやすいのだ。 確かに、斉国は途中で公室(君主の血統)が乗っ取られ、晋国は韓・魏・趙の三国に分裂した。 しかし、斉国は公室交代前後でまったく存在感が変わっておらず、晋国は三国分裂後もしばしば「三晋」とひとまとめにされており、実質は「晋国内部の権力闘争」が「三晋内部の権力闘争」に変わっただけといえるほどで、その地理的要因や外交圏における要素は、さほど変わりがない。 なにより、そうしたほうが「春秋戦国時代の流れ」を掴む、初期の理解には好都合なのだ。より詳しく理解したい場合は個別に調べ て、個別項目を立て るのがよいだろう。 それと、春秋戦国時代は、その名前が予想させるような「国家の存亡を掛けた熾烈な弱肉強食の時代」ではなかったことも、留意したい。 確かに小国はよく併合されたが、始皇帝の時代まで斉・燕・晋(三晋)・楚の大国が残っていたように、実は大国は末期まで「存亡の危機」に瀕していなかった。 そんなわけで、春秋戦国時代を斉・燕・晋・楚・秦の五大国を中心に見ることは、視点を定めて腰を落ちつけられることに、意味があると考えられる。 【前史】 春秋戦国時代に入る前に、まず理解しておくべきは、この時代が「周代の緒を引いていること」である。 つまり、始皇帝以後の中華帝国は「中国を単一の政府で統一して運営すること」が当たり前となっているが、周代から春秋戦国時代には、そうした発想はなかった。 諸侯国の関係は、周代までの封建制の要素を色濃く残している、ということだ。 リンク先も参照してほしいが、封建制とは簡潔に言うと「各国が盟約を結び、その盟主が諸国のリーダーとなるシステム」である。 周王とはまさにその「盟主」にほかならず、周朝/周国と傘下の諸侯国は極論すれば、内政不干渉を前提とする同盟国の関係にあった。 周国が全中国を直接支配していた、わけではないのだ。諸侯国はそれぞれの土地を管理・運営し、周朝には同盟関係だけを組んでいたにすぎず、領国内部の統治権は諸侯が握っていた。 その周朝が崩壊したことで、春秋戦国時代に移ったわけだが、かつて夏王朝や殷王朝が崩壊したときとは異なり、周王朝にすぐに代われる支配者がいなかった。 それでこの時代が五百年以上続くわけだが、言わば春秋戦国時代は、「盟主のいない封建時代」ともいえる。 【斉国】 東部の大国。主に山東半島を領域とした。 国祖は太公望で、最初から東部における代表者としての地位を与えられていたため、西周時代初期から開拓や富国強兵を行ない続け、春秋戦国時代の黎明期から、すでに押しも押されもせぬ大国となっていた。 【前期】には斉の桓公、いやそれ以上に大軍師の管仲が登場し、春秋五覇の典型・代表となる。 管仲は桓公から「仲父」と呼ばれて絶対的な信任を与えられ、国内の制度体制を改革。 経済体制を改革して国家と領民を富ませて、国家に従う余力を付けさせるとともに、法令(法律と執行命令)を厳正的確にして賞罰(褒賞と刑罰)を公正明確にすることで、領民をして国家の指示に従うようにさせる。 言わば「倉廩を満たして礼節を知らしめ、衣食を足らして栄辱を知らしめる」ことで、「兵を政に寄せる」つまり領民(領民は兵士となる)と国家を一致させる。 特に「倉廩」、つまり穀物を納める倉を、その領地の区分に応じて立てさせ、収穫期には必ず満たすことで、穀物の値上げを図り、生産者である農民を富裕にするとともに、貴族層の消費を切り詰めさせて物価を下げることにも成功する。 他方で、民衆のあいだにも改革のメスを入れる。 「五戸を最小単位の『軌』、十軌を『里』、四里を『連』、十連を『郷』」と定め、それぞれに長官(軌には軌長、郷には郷長)を置いて、民衆の統治システムを明確にした上で徴兵や納税にも基準を設け、かつ軌や郷内部で監視や連帯責任を追わせることで、犯罪を未然に予防し、高度な規律を民衆にもたらせた。 それらによって管仲は、斉国内部の行政システム・軍事システムを効率化し、五年にして富国強兵と規律確立を達成し、ついに斉桓公五年(BC.681)、北杏の地で近隣諸国を呼び集めて「会盟」を挙行し、諸国との盟約を結んで、桓公がその盟主、すなわち「覇者」となった。 その「北杏の会盟」を初めとして、桓公は総計九回の会盟を挙行し、ことごとくで盟主となった。そして中原諸侯国が内紛や無道な侵略を起こせば、盟下の諸侯国を率いて鎮圧し、あるいは侵入した夷狄を撃退して、現代的にいえば集団安全保障のリーダーとなって、春秋戦国時代前期の立て役者となる。 しかし管仲が没すると桓公はたちまち破滅して無惨な末路を迎え、その過程で斉国も混迷を極めた。 それでも基礎的な国力は依然として大きく、内紛が落ち着けば再び中原の大国として返り咲くが、以後は覇者となることはなかった。 さて、この「諸侯国の盟主となって国際的な問題にあたるリーダー」とは、本来は周王の為すべきことであり、王が王たるゆえんのはずだった。 そして桓公は王ではなく侯爵で、諸侯が周王に代わって王者として振舞うのは本来なら謀反と呼ばれるべきである。 だが、現実には桓公が盟主となることに反論はほとんどなく、当の周朝も、さすがに王本人は臨席しなかったが、特使を送って桓公の会盟に「諸侯として」参加していた。 もはや桓公は実質の王者、諸侯同盟の盟主となったわけで、これは同時に周朝がもはや王として機能していないことを示していた。 他方で、桓公も明確な王者とはならず、ついに暫定的な盟主、一代限りの盟主となるにとどまった。 王者そのものでありながらも王者の形式がなく、新しい王朝を築くほどではなかった桓公は、いつしか「覇者」と呼ばれるに至る。 この桓公モデルの「覇者」が、春秋戦国時代前期の象徴といえる。 斉桓公・晋文公といった「中原の覇者」が世を去ったあとの【中期】には、斉国の情勢は貴族的な門閥に握られ、君主の影は薄くなる。 どころか、荘公が臣下の妻と密通したため、激怒したその臣下に殺される、という冴えない事件も引き起こした。 しかし、こんどはその強力になった門閥貴族の配下から有能な人士が台頭して、斉国は再び繁栄を迎える。 荘公に次ぐ景公の時代には、名臣晏嬰を中心として、名将田穣苴(司馬穣苴)、重臣田乞といった面々が現れ、斉国の安定に寄与する。 しかしこの頃、陳からの亡命貴族である田氏の勢力が急激に力を増しており、この田氏の当主が田乞、同じくその傍系であったのが田穣苴であった(なお「司馬」というのは役職の名前である)。 これに対し旧来の門閥貴族たちは当然嫉妬と警戒を強め、名将であった田穣苴は他の貴族の国氏・高氏らからの讒言により解任され、景公が没するとその年若い息子の姜荼を擁立して実権を握る。しかしこれに反発した田乞は、クーデターを起こして国氏・高氏を滅ぼし、後ろ盾を亡くした姜荼を暗殺して弟の悼公を擁立。 さらにその次代・田恒も悼公の息子の簡公をと二代続けて君主を弑殺して挿げ替えという恐怖政治を敷き、同時に他の門閥貴族も粛清。簡公の弟の平公を都合の良い傀儡として擁立し、外交や賞罰などの国の全権を掌握して国の半分以上を自らの領地とし、田氏による斉国簒奪を既成事実化した。 ただ、巧みにも姜氏を完全には滅亡させず、名目だけにしろ残している。田成が簡公を殺して実権を握ったのがBC.481で、田氏が名実ともに君主となるのはBC.386のことである。百年のあいだに「田氏こそが斉の公室」という認識を社会に広めてから、名号を奪ったわけだ。 こうして「田斉」が完成するBC.386から約三十年後には、遠く秦国で商鞅が出現して大改革を行ない、秦一強の時代が訪れる。 これを【後期】とすれば、田斉の時代はまさしく春秋戦国時代後期と重なる。 ところで田氏に乗っ取られたとは言え、斉国の混乱はほとんどなく、国力も依然として富強なままだった。君主と貴族は大勢が削減されたが、この権力の空白を田氏ががっちり握ったため、むしろ巧みに継承させたのだ。 そのおかげもあって、秦一強の時代でも斉国は依然として東方の超大国として影響力を発揮する。 その首都・臨淄には「稷下の学士」と総称される大勢の学者――いわゆる「諸子百家」――が集結し、文学サロンのような盛況を見せた。 そのなかから台頭する人物も現われ、名将として大活躍した孫臏、外交使節として活躍する淳于髠といった英雄も現れる。田氏からも孟嘗君が生まれて活躍した。 そして宣王の代には東北部の大国・燕を一時は併合し、その次の湣王の代には宋をも滅亡させて秦と並ぶ二大巨頭となり、秦を西帝・斉を東帝と称するほどとなる。 だが、この燕の併合の後に、斉への服属を条件として即位を許された燕の昭王は斉を深く恨んでおり、斉の勢力拡張に危機感を感じた諸国との連合軍を結成、これを戦国時代を代表する名将・楽毅に命じて率いさせ、ついに首都の臨淄が陥落、湣王も連合軍の将軍に殺害されてしまう。そしてほぼ全土が燕軍の勢力下に併合され、数年前とは真逆で今度は斉が滅亡寸前という状況に。 しかしこの直後に燕の昭王は没し、後を継いだ燕の恵王は側近の讒言を信じて楽毅を解任。そして斉は王族の傍流の人物であった名将・田単の活躍により、奇跡の逆転劇を演じて燕軍の撃退に成功、再び復興を果たす。 とはいえここまで展開を見ても分かるように、斉の国の朝廷にも天下を統一して云々、と言うような革新的な方針が採用されることはなかった。 同時期の、後期の秦国を代表する名将白起もそうだが、いまだ封建制の名残りと言うべき「諸国による同盟」を常識とした斉国は、言わば戦国七雄による現状維持以外の考えはなかったわけだ。 そんな状況を、韓非子と始皇帝が覆す。春秋戦国時代【末期】の訪れである。 秦国は七雄を次々併合しては完全なる行政区画として組み込み、単一行政システムによる中国全土の管理を開始した。 そして斉の最後の王・田建は、他の五国への支援を行うという事もなく、秦がこれらの国々を併合するのをただただ傍観していた。斉国が滅ぶのは、戦国七雄でも最後となるが、これは単に秦国から最も遠かったという理由だけで、斉国が強い抵抗を見せたから、というわけではない。 斉国はBC.221にあっけなく滅び、天下は秦国に統一される。 【燕国】 当時の大国では東北の端にあった国。国祖は召公奭(しょうこうせき)。 中原の東北端にあるということは、北方騎馬民族の侵入に晒されるということで、その国力もほとんど常に北方に向けられ、南方=中原に関与する余力がなかった。 東南に隣接する斉国・西南に接する晋国も、燕国を攻撃すればそのぶん騎馬民族に有利、むしろ燕国を騎馬民族の防壁として利用したほうが便利ということで、珍しく中原の闘争からは一歩引いた立場にあった。 とくに春秋戦国時代【前期】【中期】には、これと言って活躍がない。 せいぜい、異民族の一派・山戎の撃退のために、桓公・管仲コンビの斉国に応援を求めた件ぐらいである。 この時、斉国が中原の覇者であったというのもあるが、斉国は快く燕国に援軍を送っており、「燕国は北方の防壁」という意識があったことがわかる。 しかし中原に関わらないあいだ、ずっと北方開発を続けていたようで、【後期】に入るころには黄河の北辺を南端として、遼東半島全域や朝鮮北部にまで勢力を広げており、いつしか大国となっていた。 BC.323には王号も用いている。 ただ、政治体制はだいぶいい加減だったようで、王号を名乗る以前の国政改革などの逸話はほぼない。 それどころか、王号を用いた二代目の姫噲(き かい)がとんでもない愚君で、尭舜の禅譲伝説にかぶれて宰相の子之に全権を譲り渡すという暴挙に出た(*2)あげく、大混乱と内紛を招いて、自分は殺害され、さらにこの隙をついた斉国に攻め込まれて、一時は完全に滅亡した。 ただ、二年後には斉国は燕国を復興させている。この時、趙国と斉国に擁立されて王となったのが昭王である。 昭王は、擁立の恩はあるが、それ以上に燕国を滅ぼし、かつ昭王擁立によって燕国を属国としようとする斉国をなんとしても打破せねばならないと覚悟しており、必死の思いで富国強兵に邁進。 名将楽毅を一本釣りできたことも僥倖となって、二十年間以上の歳月の果てに、国力と軍事力を大幅に増強。 折しも斉国内部で孟嘗君が排斥されたのに乗じて、燕国は斉国に進撃し、斉軍を徹底的に打ち破り、七十二の城のうち七十を制圧して、斉国を滅亡寸前に追い込んだ(*3)。 しかし燕国も、斉国を完全に滅ぼして天下統一、という意志はなかった。 それどころか、斉国の首都で天下一の大都市・臨淄を落としたにもかかわらず、残るたった二城を落とすのにやたら時間をかけるうちに、昭王が没してしまい、内紛が起きて楽毅は燕国から亡命、その隙に乗じて斉国も復興する。 【末期】に入り、始皇帝が天下統一に動き出す時期には、燕国は始皇帝暗殺のため刺客を送ったことでよく知られる。 しかしこれ以外にはなんらかの対策はなく、そもそも国力差が懸絶していたため、やがて秦国によりあっけなく滅ぼされた。 全体として燕国の活動は、地理的な要因もあってほとんど斉国との関係のみに終始している。 【晋国】 中国の中・北部にあった国。中原と呼ばれることもあった。 もとは翼城に首都があったが、領内の曲沃城のほうが繁栄し、かつそこに晋公室の分家が分封されていたため、いつしか分家のほうが本家よりも強力になっていた。 そして春秋戦国時代も【黎明期】を過ぎて【前期】に入ると、ついに曲沃の分家が翼の本家を滅ぼして、取って代わる。 この時、斉国では桓公の八年、まさに桓公の覇権の全盛期である。 このように晋国は、春秋戦国時代の黎明期から内紛を繰り返しており、とくに公室での殺し合いがかなり激しいものであった。 旧本家を根絶やしにした武公以後も内紛は止まず、有名な美女驪姫の暗躍によって、武公を祖とする新本家もほとんどが内紛で殺し尽くされた。 そうした内紛から亡命した公子・重耳が、晋の文公である。 彼は十九年も亡命生活を続けており、そのあいだに廻った斉国・楚国・秦国と言ったほかの大国に顔が広く、かつ有能な側近団も抱えていたため、秦国の後援で帰国・即位すると瞬く間に台頭し、斉桓公亡きあとリーダー不在だった中原の、新たなる覇者として会盟を挙行した。 ここに、桓公モデルの中原の指導者となる覇者が現れたわけだが、しかし文公は長い亡命生活で寿命を使い切っており、帰国した時点で六十二歳だった。 そのため文公は在位九年で没し、晋国の覇権もわずか九年で跡絶える。そして以後、中原では「諸国を盟約で主導する覇者」は二度と登場しなくなる。 晋国内部でも内紛が再発し、晋国の公室はますます殺されていった。 そういうわけで、覇者の時代が去ってからの【中期】には、晋国公室はすっかり影が薄くなってしまう。 その権力の空白を穴埋めして台頭したのが、晋国内部で分封された、分家領主たちである。 中期には早くも六家系、すなわち「范」「中行」「知」「韓」「魏」「趙」のいわゆる「六卿」が、晋国の国政を掌握していた。 彼らは言わば「晋国内部の封建領主」で、晋国の臣下でもあるが自領内では君主である。その晋国の君主がいなくなれば、彼らが自立するのは自明でさえある。 そして彼ら六卿もまた、六卿同士で殺し合いと併合を行ない、最終的に「韓」「魏」「趙」の三勢力が残留。 彼らはそこで殺し合いをやめ、それぞれの領地を「国家」として再編・巨大化し、国力を増強していった。 そしてこれら六卿の相克と発展について、晋公室・君主はまったく関与していない。むしろ、残った三卿に晋公のほうから「入朝」するほどだった。 【中期】の晋国情勢は、言わば晋国が韓魏趙の三国に分裂する過程であったといえる。 同時期の斉国でも、田氏による簒奪が起きていた。 しかし「韓魏趙の三国が生まれた」と言っても、要はもともと一つの国だった晋国を三分割しただけで、どこかの国が攻め滅ぼしたとかそういうわけではない。 そしてその三国がしばしばまとめて「三晋」と呼ばれたように、韓魏趙の三国を「一つの国」と見て、三国の争いを「三晋の内紛」と見ることも可能だった。 実際、「呉子」なんかは韓魏趙の三国を「三晋」とひとまとめにして、区別なく分析している。 春秋戦国時代【後期】は、三晋それぞれの時代である。 しかし細かく見ればいくらでも差異を見出せるが、全体としては、三晋がそろって秦国に対処するしかなかったという点で、大差はない。 ◇韓国 三晋では南の国。中国全体ではまさに中心地点となった。 北に魏国、西に秦国、南に楚国に挟まれ、領地がもっとも小さく、その上魏に包囲されるような位置にあって、三晋でも戦国七雄でも最弱と言われた。 それでも、申不害が宰相となっていた時期には、例外的に国内がよく治まり、また他国からの侵略・干渉も防ぎ切れたという。 申不害の詳しい事跡は伝わらないが、韓非子は彼の資料を入手して徹底検証したようで、韓非子の説く法治システムの三本柱「法」「術」「勢」のうち、「術」すなわち実際の法律の運用は、申不害の流儀を研究したものとしている。 申不害亡きあとはすぐ元に戻り、韓非子が若かりしころにはすでに秦国の属国となっている(韓非子いわく「もう秦国の郡県(直轄領)と変わるところがない」)。 それでも、始皇帝登場までは戦国七雄として確かに存続していたが、韓非子から「天下統一」を教えられた始皇帝によって真っ先に併合されて「潁川郡」となった。 ちなみに、この国の「韓」とは韓原(現在の陝西省・渭南市の韓城市)という土地に由来し、当然のことながら朝鮮半島南部の「韓」とは無関係。直線距離でも数千キロ離れてるし。 ◇魏国 三晋では中部の国。 韓国を包み込むように広がっており、おかげで西に晋・北に趙・東に斉燕・南に韓楚と接していた。 三晋のなかではもっとも早く発展した国で、実質自立して間もない文侯の代に、賢人を数多く迎え入れてその国力を一気に強大化させた。 その賢者というのが、呉子を筆頭として西門豹・李克・楽羊(楽毅の先祖)と言った面々で、彼らの統治手腕と軍事能力で、魏国は最初に全盛期を迎える。 しかし文侯死後に即位した武侯は、呉子と対立して彼を追い出してしまう。 それでも武公もなかなかの君主だったので、しばらく魏国も勢力を残していたが、【後期】を代表する商鞅の改革を経た秦国にはまるで叶わず、防戦一手となる。 「戦国四君」の一角・信陵君も魏国の公子であり、彼の外交政策で一時期は盛り返すが、信陵君が失脚する(*4)ともとの木阿弥となる。 その後、始皇帝が統一を視野に外政を始めると、韓・趙・燕の後に滅ぼされた。 燕国が先なのは例の暗殺事件によって順番が変わったからであり、始皇帝も最初は三晋を先に滅ぼすつもりだったと見られる。 ただし、一時的にとは言え秦に勝利した信陵君に対して劉邦が敬意を抱いていたことから、魏の王女の娘(薄姫)を側室にしている。 薄姫は大人しい性格であり「そこそこの財産を貰って息子と楽しく暮らせればいい」と言う態度を一貫していたため、劉邦の正妻の呂后にも敵視されず、結果として彼女の一人息子が漢の皇帝(文帝)に即位。 光武帝や劉備も文帝の末裔なので、女系とは言え魏の王族の血は五胡十六国時代前まで生き延びている。 ◇趙国 三晋でも最北部の国で、燕国にも近い。 公室/王室の趙家は、晋国内部でもとくに早くから勢力を確立した名門で、春秋戦国時代の【前期】には覇者文公の参謀趙衰を、【中期】には重臣趙盾を排出している。 趙盾没後に一度滅ぼされたが、韓氏の支援を得て復興し、ついに独立に至る。 趙の名君と言えば武霊王で、魏の文侯より150年ほどのちの人物となる。 彼は騎馬民族のすぐれた馬術・騎射術に感銘を受け、彼らの騎馬隊を趙国でも取り入れるべく「胡服騎射」の改革を行なった。 胡服つまり騎馬民族の服装は、もちろん馬術に向くよう最適化されている。逆に漢族の伝統衣服は、あらゆる意味で馬術に向かない。 しかし、かつて機動戦の主力だった戦車(戦闘用の馬車)が廃れたいま、そして秦国が商鞅の改革によってとてつもなく強大化したいま、騎馬隊を創設することは急務だった。 よって武霊王は、反対派を論破しつつ胡服を取り入れて強力な騎馬隊を創設。同時に、漢族の文化が絶対至上ではないと表明することにもなった。 また、騎馬民族を祖とする国家・中山国を併合して、その戦力も併合。 同時に、旧中山国を経由して、北方から斉国や秦国に攻め込む態勢も見せる。 しかしまぎれもない名君だった武霊王も、中途半端な禅譲によって後継争いを引き起こしてしまい、殺害される。 それでも武霊王の改革によって趙国は強大化しており、さらに陸続として現れた廉頗・趙奢・藺相如・平原君といった名将・名臣の活躍もあって、秦国に対抗しうる国家として斉国とともに知られるようになる。 「机上の空論」の語源となった趙括の大敗もあったが、秦国に統一プランがなかったこともあって、依然として強い影響力を持ち続けた。 韓非子も「趙国は合従の盟主となって秦を狙っている」と、強敵と指摘している。 この韓非子の予想があたったか、始皇帝が統一に乗り出した【末期】には、趙国に名将李牧が出現し、一時的に秦軍を撃退している。 しかし「天下統一」という戦略プランを確立した始皇帝と、そうした戦略のない李牧の差は大きく、政略によって李牧は消され、ついに趙国は秦国に滅ぼされる。 【楚国】 南方に位置した大国。淮南から長江流域に掛けて勢力を誇った。 長江文化圏を母体に、黄河文化圏の勢力も取り入れたと見られ、独特な文化があった。 正確な年代は不明だが、西周時代から王号を称したとされ、かなり早いうちから独自の王権/封建制による支配力を誇示していた模様。 周の四代王・昭王が楚国に攻め込んだ際に「行方不明」となっており、これもおそらく返り討ちにしたとみられる。 春秋戦国時代に入ると、初っぱなから国力を振るって、南方の小国を併合あるいは傘下に加えて、勢力を確立。 さらには中原まで視野に入れて活動を開始した。 【前期】に斉の桓公が覇権を確立したのも、躍進著しい楚国に対抗しうる、強力なリーダーが中原諸侯に求められたからでもある。 実際に管仲は楚国討伐を行なっている。もっとも、さしもの管仲も楚国との本格的な遠征は考えていなかったようで、楚国の使者屈完の交渉に応じて、外交的決着を済ませている(*5)。 以後はおおむね、南方での覇権を固める一方、中原にちょくちょく干渉する、というスタンスで推移する。 楚国と中原のあいだにある鄭国が、今日は楚国の側につき、明日は中原の側につく、という二股外交を展開したため、逆に楚国と中原の緩衝地帯になったからでもあった。 宋の襄公を撃破したり、晋の文公に撃退されたりといった事件も起きている。 【中期】には、名君荘王によって全盛期を迎え、中原の大国・晋を破って文公以来の覇権を崩壊させる。荘王はこれによって「春秋五覇」の一人と呼ばれた。 しかし、荘王を含めた楚国が中原諸侯の盟主となった様子はなく、あくまで「南方の覇者」にとどまる。 さて【中期】と言えば中原の覇者がいなくなって、斉国は田斉に・晋国は三晋に変遷していくが、南方でも権力の変遷が起きる。 呉国と越国が台頭して、楚国が覇権を失うのだ。 呉国は少し前に、楚国から亡命した屈巫・屈庸という親子から、戦車・用兵の方法を学んで軍事力を大きく飛躍させていた。 そしてその数十年後に、やはり楚国に家族を殺された伍子胥が亡命する。家族の復讐に燃える伍子胥の熱意に導かれ、かつ名将孫武、すなわち「孫子」の指揮も加わって、物の見事に楚の大軍を打ち破り、首都を陥落させる。楚王・昭王は亡命に成功した。 だがその呉国の背後から、これまた新興の越国が、国力と軍事力を急成長させていた。 呉と越はすぐに戦争状態に入り、「臥薪嘗胆」の由来となる克己と鍛練の果てに、越国が呉国を滅ぼして、南方の主導権を握った。 しかし、呉国は滅んだが楚国は生きていた。首都を落とされながらも脱出していた楚の昭王が、秦国の支援を得て再起動していたのだ。 その楚国が、越国の覇権確立から百数十年後、越国を滅ぼして南方の覇者に舞い戻る。 この、楚国復活が果たされたのはBC.334あたりで、まさに秦国では商鞅の改革が行なわれて、天下が秦一強の時代となっていた【後期】にあたる。 楚国は返り咲きはしたものの、政治システムは旧来のものを引き摺っており、王族・貴族は数が増えすぎて人材登用が彼らで埋まり、地位と俸禄はあるのに職務のない「冗官」も多いなど、他の国々ではすでに行なわれていた改革すべき旧弊が、そのまま残っていた。 越国を滅ぼす以前に、魏国から亡命してきた呉起が令尹(宰相)に抜擢されて、これら旧弊をいっせいに打破する改革を施行したが、呉起を支えてくれた悼王が、呉起抜擢からわずか七年で逝去。 その葬儀の日に、呉起の改革で既得権を奪われていた楚国の門閥貴族がクーデターを起こし、持ち出した弓矢で呉起を殺害、彼の改革も破棄されてしまった。 呉起の死は商鞅の登場よりも半世紀ほど先立つが、商鞅を殺しても商鞅の法は引き継いだ秦国が強大化したのに対し、呉子を殺して呉子の法も破棄した楚国は、大国ではあっても統制の取れない弱い国として、秦国に圧倒される。 始皇帝が統一に乗り出す【末期】には、名将項燕が現れて一度は秦軍を押し返すが、相手の始皇帝は「天下統一」という戦略プランを堅持しており、老将王翦の再抜擢と、彼の要求をすべて呑んでの総力戦に挑んだ始皇帝によって、項燕は破れて楚国は滅んだ。 数十年後、項燕の息子の項梁と孫の項羽が台頭。 秦を滅ぼし、中華を支配するが、短期間で滅んだ。 【秦国】 西の大国。関中盆地を中心に発展した。 西周時代から勢力を広げていたが、周朝から諸侯と任命されたのは春秋戦国時代に入った直後のことで、周が異民族に攻められて東遷した際に、王室復興に尽くしたために伯爵位を与えられた。 中原で斉の桓公や晋の文公が覇権を握っていた【前期】には、西方の経営と開発に力を注いでおり、中原に対してはあまり目立った行動はとっていない。 【前期】の君主としては穆公が第一に挙げられる。 穆公は百里奚や由余を筆頭として、国内外から広く賢者を登用し、かつ彼らに役割を持たせてよく駆使したため、秦国は強大化して、一気に西域の覇者に躍り出た。 また穆公は、亡命時代の晋文公を匿い、最終的に即位させた張本人でもある。 そうした事情もあって穆公は「春秋五覇」の一人に数えられる。もっとも穆公は、楚国の荘王と同じく、中原の諸侯に対して「覇者」として振舞った形跡はない。 ただ、穆公はあまりにも名君でありすぎた。 穆公が没したとき、彼の人徳を慕う大勢の人士が殉死したのだが、その全員が有能かつ忠誠心にあふれた面々だった。 そんな彼らが一斉殉死したため、一時秦国は大混乱に陥るが、幸いにもその頃には秦国に対抗するような大国は西方におらず、秦国は安定する。 【中期】の秦国は、斉国が田氏に、晋国が六卿に乗っ取られ、楚国が呉越に破れるのを後目に、そこそこ安定して存続した。 しかし中原諸国が諸子百家を抜擢して新規人材を駆使したこと、特に魏国で呉起を筆頭としてすさまじい躍進を遂げたことが、魏国に隣接する秦国にも「賢者招集」「体制改革」を意識させることになる。 そして秦国が釣り上げたのが、春秋戦国時代の情勢を一変させる超大物、商鞅だった。 商鞅の改革は、なにを置いても「農民の重視」を第一とする。農民は有事には徴兵されて兵士にもなるから、農民の重視とは「農業と軍事の重視」のことだ。 一人前の人間として扱われたければ、農事と軍事にて功績を挙げるほかはない、ということを徹底し、弁舌や無用な学問・よけいな技芸では昇進どころか食べることもできないほどの厳しい価値観を広める。 しかもこれは農民だけに与えられるものではなく、貴族や役人にまで徹底された。名門の子弟であろうと、与えられたノルマを果たせなければ地位を落とされる。 そのうえで、褒賞と刑罰を厳格かつ明確にする。 挙げた業績に対して、褒賞が確実にもたらされるから、ひとびとはなんとしても手柄を立てようとする。犯した悪事に対して、刑罰が確実にもたらされるから、ひとびとは最初から悪事を避けるようになる。 その法律・刑罰・褒賞の厳格さたるや、王太子やその補佐役の諸公子、つまり直系王族にまで及んだ。大臣や官吏が驚いたのはいうまでもない。 さらに国内の行政システムにしても、効率化やスピード向上を徹底する。これは業務処理の改善のみならず、役人が汚職・賄賂を行なう余地を無くすものである。 連座の法も用いられ、民衆は同胞に対しても「犯罪行為をやめろ!」と厳しく説くようになった。 実は、これら商鞅の改革は、先行する管仲たちの改革と似ているところが多い。 こうした改革によって秦国の人たちは、農地に行けば力を尽くして開墾し、戦場に出れば血眼になって敵に襲いかかった。 さらに第二次改革で、大家族を分家させて辺境に移し、開墾できる・するしかない状況に追い込み、土地の開発と戸数の増加を同時に図らせた。 また行政区核を「県」を中核として再編し、また農地の再測量も並行して、国内の行政システムを一新・効率化させた。 同時に国内の度量衡も統一して、国内での情報疎通を簡素にした。 農地が開墾されて生産力が増大し、民衆に規律が生まれて兵が強くなり、行政システムが効率化されて汚職が減れば、国力が増して当たり前だ。 かくして秦国は超大国となる。しかも、同じく「戦国の七雄」と言われた斉燕韓魏趙楚の六カ国とは、桁外れの国力を備えた「一強」の存在となった。 秦を除く「七雄」を「六国」というのも、「秦は他の六国とは別格」というニュアンスが強い。 以後、秦国は六国に兵を出し、そのたびに勝つ。ちなみに秦国では商鞅の改革により「敵兵の首を挙げること」が昇進にかかっていたため、この時期からの秦国の記録には「斬首七千」などの記録が明確になった。もっとも、兵たちが水増しした数値であることは間違いない。 商鞅は、彼を支えてくれた孝公がわずか四十五歳で急逝したことから失脚し、惨殺される。 しかし秦国は、商鞅は殺しても商鞅の改革は引き継いだため、その国力は時間を追うごとにますます強大化した。 以後は「強大な秦国に、六国がどう対処するか」という【後期】に変わる。秦国は常に情勢の中心にあったのであり、その意味で商鞅の改革は、春秋戦国時代の大きな節目となった。 六国サイドでも改めて富国強兵と改革が行なわれたが、秦の商鞅のそれほど徹底はしておらず、また「六国が一致団結して同盟を結んで秦と対処する」という「合従連衡」も、六国同士にこれまでの怨恨や利害闘争があったために「一致団結」することができず、秦の強勢を覆すには至らなかった。 秦の昭襄王は在位年数が55年に及ぶ長命な君主で、【後期】を代表する人物だが、国内では権力闘争こそあれども国力そのものは安定して強く、国外では名将白起と商鞅以来精強なままの軍隊によって、向かうところ敵なしだった。 ただ、これほど強く、かつ六国を圧倒していたにもかかわらず、六国を明確に滅ぼしたことはない。 壊滅状態に追い込んでも、しばらくすれば撤兵して復興させる、と言うふうで、むしろ「隣国は隣国に治めさせるのがよい」「亡国を復興させるのがあるべき姿」と思っていた節が強い。 この時代までには、秦国にも「中華文化圏を単一の行政システムのもと統一する」という発想がなかったのだろう。 その情勢が、韓非子と始皇帝によって変わる。【末期】の訪れである。 始皇帝、統一までは秦王政だが、彼は韓非子の教えを受けて「天下は統一すべきであること」「国力・戦力では秦国はとっくに可能で、あと必要なのは君主の気力のみ」と教えられて、いよいよ天下統一を視野に入れて行動を開始。 それなりに苦戦はしたが、短期間で六国を併合し、BC.221年に天下を統一。 西周~春秋戦国時代までの封建制ベースの諸国併存体制から、「単一の行政システムによって中国文化圏を管理・運営する」、世にいう郡県制を前提とした秦朝の時代――秦代――が幕を開ける。 【その他の諸国】 以上の斉・燕・三晋(韓・魏・趙)・楚・秦の大国が春秋戦国時代の顔だが、この五大国/七大国のほかにも印象深い国は多い。 ◇魯国 周公旦の長男を国祖とし、斉国の西南に隣接した。 小国というには大きいが大国というほどでもなく、特に軍事力は弱くて、一時期を除けばほぼ斉国の衛星というか、属国に等しい(*6)。 さらに、【中期】からは三つの有力貴族「三桓」が実権を握り、しかも彼らは晋国の六卿と違って、国力増強よりも三桓同士の内紛に励んだため、魯国はますます衰亡した。 孔子はこの魯国の出身で、周公旦を始祖とする周の礼制を学んだと見られ、彼の研究した「儒学」が、中国人伝統の先祖供養と融合して「儒教」へと発展する。 とは言え、孔子が魯国に仕えていた時期は実は短く、ほとんどは弟子たちと各国を放浪していたので、「魯国が儒教に影響を与えた」というわけではなかったりする。 本人もあまり就職先として魅力的ではなかったようで、斉国に仕官運動を挑んだりしていた。 ◇宋国 斉国や魯国のさらに東南にあり、西の晋国・南の楚国との中間に位置する。 殷王朝の王族微子啓を祖とする国で、殷王朝の祭司を継ぐというちょっと独特な国(*7)。ほとんどの国が侯爵か伯爵である中、旧王家の末裔ということで最高位の公爵位が与えられていた。 爵位は高いが国力はさほどではなく、魯国よりちょっとマシというていど。 春秋戦国時代は全期間を通じて弱い国だったが、斉の桓公の没後に、時の君主襄公が「覇者」になろうと画策したことがある。 しかし襄公は「宋襄の仁」を発揮して無様に大敗し、襄公本人もその戦いでの負傷から回復できず二年後に死亡。覇者の名誉は夢と消えた。 それ以後はあまり振るわなかったが、生前の襄公が斉の桓公とも晋の文公(亡命時代)とも親しくしていたため、かつ地理的に楚国に対する最前線でもあったために、斉と晋の両国と良好な関係を結んだ。 ◇鄭国 中国のほぼ中央、中原に限定すれば南にあった国。つまり、西は秦国・北は晋国・東は宋国(延いては斉国)・南は楚国に接していた。 とくに、中原の大国・晋と南方の大国・楚のあいだに立地するというのは、のちのち重要な要素となる。 鄭国は、実は春秋五覇の筆頭・斉の桓公以前に、覇権を握ったともいえる国だった。 鄭国自体は西周末期に最後の王・幽王の父の代に弟を分封した国であり、犬戎系の勢力だった秦と共に春秋初期には新興国だったが、立地の良さと王の近親と言う事から卿士筆頭(後世で言う摂政や首相)を務めていた。 西周崩壊時にも唯一幽王の元に来援したのが鄭国初代君主で幽王の叔父桓公だった(とは言え、摂政として甥の暗愚を諫められなかった責任を取る形であり、「若い者を巻き添えに出来ない」と僅かな老兵を伴っての自殺目的の出撃だったが)。 桓公以前を【黎明期】とすれば、その中心にいたのが鄭の荘公で、封建制における王として、諸侯の盟主としての権威を誇示しようとする周王朝に対して、正面からノーを突きつけた。 これは言葉や比喩や脅しではなく、現に諸侯連合軍を率いて鄭国討伐に乗り出した周王を、鄭軍を率いて打ち破ったばかりか、王本人に矢を命中させている。 「諸侯の盟主となって、秩序を乱す敵を打ち負かす」のが封建制の王であれば、その姿は完全に否定されてしまったわけだ。 この荘公の時代は鄭国の全盛期で、斉国も娘を娶らせようとしていたほど。 しかし荘公没後は統制が取れなくなり、かつ近隣の斉国や晋国が強大化するにつれ、国力が衰える。 しかし南方の楚国と北方の晋国が覇権を競うにつれ、その中間点に位置する鄭国は別の活路を見いだした。 つまり「今日は晋国の盟約に従い、明日は楚国の覇権を受け入れ、楚国がとがめれば謝罪し、晋国がとがめれば詫びて、柔軟に生き残る」という面従腹背というか、二股膏薬的な外交政策をとった。 おかげで一種の「緩衝地帯」となって、意外と程よく生き残ることができた。 もっとも、両大国の意向ですぐ方針が変わるために、国内の政治や制度は乱れきり規範は無きが如しとなり、国内は混迷を極めていた。 この状況を憂えたのが賢人子産で、法律の公開を筆頭とした数々の改革によって鄭国は一時的に規律を築き上げるが、子産が没すると彼の改革はまたも消滅してしまった。 その後は韓国に滅ぼされるが、今度は韓国が地理的用件から窮乏し、秦国の属国同然となってしまう。 【諸子百家】 大国の存在が春秋戦国時代を彩る主役なのは間違いないが、同時に春秋戦国時代を彩るのが諸子百家とも総称される、数多くの人士であることも間違いない。 時代にもよるが、彼ら英雄豪傑たちの特徴は、諸国を渡り歩くため特定国家への帰属意識が薄いことにある。 つまり、登用されて自分の意見が採用されるならどの国にも行くし落ち着くが、その国が自分の意見を採用しないと言うなら故郷であってもあっさり離れる、ということだ。 君主の側も、賢者と見ればどんな身分のものであっても抜擢して国政を授ける、という行動をよく見せた。 もっとも、抜擢してもまた反論があれば取り止める、ということも多かったため、また目新しい意見にすぐ流されるなどの定見の無さも加わって、不遇に終わったり翻弄された人物も多い。代表的なのが呉起だろう。 なお「諸子百家」といまでは当たり前のようにいうが、この用語は後漢時代に作られたもので、春秋戦国時代の実態はあまり反映していない。 とくに「百家」つまり学閥や学問の系譜というものを意識したのは、春秋戦国時代では儒家と墨家のみだった。 そのため、儒家と墨家のメンバーを除けば、「○○家」というものの区別はあまり意味が無かったりする。 ちなみに、「諸国を股に掛けて自分の理論を主張する遊説の人士」のモデルを作ったのは、孔子である。 孔子以前の、例えば管仲は、君主に一気に抜擢された点で諸子の典型っぽいが、「諸国を股に掛ける」というほどの行動力は見せていない。 まあ孔子本人は「なぜ我が意見が受け入れられないのだ」と嘆いていた節もあって、「諸子百家の先駆けですね」と言われても嬉しくはないだろうが……。 ただ、彼ら諸子の幅広い活躍と研究、そしてそれらを奨励した君主たちの応援によって、後世「百家」「百家争鳴」と言われるような無数の学問・研究・哲学が花開いたのは間違いない。 春秋戦国時代に由来することわざが数多くあるのも偶然ではなく、この時代が中国思想史の黄金時代であったからなのだ。 また国際情勢が五大国(七大国)で何となく安定し、それでいて戦乱=思想実践の場が絶えなかったこともあって、単なる「思想が発展した」だけではなく「実践方法も発展した」春秋戦国時代は、国家レベルでも個人レベルでもとても楽しい時代となった。 そのため、管仲や楽毅を代表とする人物たちのエピソードはどれをとっても悲喜交々、おもしろいものばかりである。 かくのごとく、春秋戦国時代が政治面のみならず思想面・文化面においても、極めて重要な時代であったのだ。 【その他の要素】 ◇封建制から郡県制へ 春秋戦国時代を「周代から秦代の過渡期」と見た場合、最大の特徴は「郡県制・官僚システムの普及」だろう。 詳しくは封建制も参照してほしいが、周代までは封建領主に中国各地を統治させるという地方行政システムで、これは春秋戦国時代でも引き続き使われている。 また、周王は諸侯に領土を与えて封建するが、封土を与えられた諸侯も、自分の領内に封建領主を作り、領主に封土を統治させていた。 (典型的なのは、晋国内部で封土を持ち、最終的に自立した、韓・魏・趙の面々だろう。彼らは晋公室ありし時から晋の国内領主だったのだ) 秦代はこれがほぼ完全に廃止され(名誉職としては多少残る)、地方行政システムは世襲ではない官僚を派遣して統治させる「郡県制」に切り替わる。 この郡県制だが、これは何も韓非子と始皇帝の独創ではなく、春秋戦国時代の中期から後期にかけて広まっていた。 主に晋(三晋)や秦で広まり、呉子も楚国で実施しようとした。 ただ、これら郡県制はあくまで「各国内にあった封建領主を解体して、国王直属の郡県制にする」というもので、天下全体の封建制を解体するようなものではない。 また、始皇帝以前の各国の郡県制は徹底されたものではなく、封建制との併用だった。 典型的なのが秦の昭襄王の叔父、魏冄(ぎ ぜん)である。 彼は昭襄王の母の弟で、宰相として辣腕を振るったのだが、彼は秦国から離れた「陶」という場所に封土を持っており、秦軍を動かして敵を破っては、占領地を自分の封土に加えていた。 つまり魏冄は、秦国内部の封建領主として、強い力を持っていたわけだ。 しかも魏冄や昭襄王の時代の秦国は商鞅の改革から百年近く経過しており、郡県制の理解や研究がかなり進んでいたにもかかわらず、である。 そういうわけで、確かに春秋戦国時代を通じて郡県制が広まったのは事実ながら、完全に切り替わる趨勢だったわけではないということだ。 ◇統一の気配はいつ生まれた? 年代記を見ると、周の統一的権力が崩れて、代わって秦が統一したかに見える。 しかし、周代から春秋戦国の全期間において、各大国は他の大国を、いくら攻めても完全に滅ぼしはせず、復興させるのが常だった。これは封建制の常識が存在していたからだろう。 大国を滅ぼして郡や県に再編して、以後は官僚支配に切り替える、というのは、実は始皇帝だけがやったことであり、これに関しては前例がない。 そのため、もしも始皇帝が歴史に現れて天下を統一することがなければ、 中国史は七大国が共存しあうまま、何千年も現状維持が続き、現在のヨーロッパのように複数の国が併存し続けたのでないか、という論もある。 現に韓非子は「すでに秦国は国力・軍事力ともに天下統一が可能なはずで、しかもこれまでの幾度かの大勝利の勢いを駆れば、天下統一など昭襄王の代でできたはずだ。しかし秦国は君主も群臣も、毎度毎度滅ぼせる隣国を滅ぼさず、撤収しては復興させることを繰り返した。結果、天下統一の機会を逸すること四度に及ぶ」と語っている。 確かに秦国が当時圧倒的に強かったのは疑いなく、事実始皇帝が最初に韓国を滅ぼしてから最後に斉国を滅ぼすまでは、たった11年のことだった。 しかし「単一行政組織による全世界の統一」という、それまでは誰も考えていなかったまったく新しい事業を、敢然と行ったのは、やはり始皇帝自身に類稀なる気力があったからだろう。 もしも彼が統一までの過程で死亡していれば、「中国」は現在あるものとは大きく変わったかもしれない。 ただ、始皇帝が中国全土を統一できたのは、それ以前から「中国は一つの世界」という認識が土台にあったからでもある。 いわゆる「中国文化圏」は、春秋戦国時代に「戦国七雄」と言われた領域、「諸子百家」が自由に闊歩した領域と、基本が一致する(*8)。 特に、言語で言えば各国(五大国圏)で文字の表記や発音や細かい文法が異なるにもかかわらず、つまり「国境と言語」で見れば確実に「外国」だったにもかかわらず、 当時の中国には「天下諸国は一つの世界だ」という認識が広がっていた。それは、諸子百家の面々が、中原から秦や楚まで、国境も言語も無視するかのように移動していたことからも明らかだ。 これは、あたかもヨーロッパにはイギリス・フランス・ドイツ・スペイン・イタリアなど多数の国があり、それぞれ言語も異なりながらも、 「キリスト教」「ラテン系言語」を核として(時には、言語は「ギリシャ語系」ながらも「キリスト教」を共有する、ロシアなど東欧を含めて)、 「ヨーロッパは一つの世界」という認識が存在することと類似する。現にその枠組みに沿うかのように、中世では十字軍が組織され、現代ではEUが組織された。 そして始皇帝は、中国は統一したが、その先の異文化圏まで統一しようとしなかった。具体的には、長城で「国境線」を引いた北の匈奴などである(*9)。 始皇帝が歴史に産まれなければ中国は今の姿とは大きく変わったかもしれない。しかし始皇帝の統一事業が無から生まれたわけでもない。 始皇帝の統一事業はあらゆる意味で、春秋戦国時代の総決算であった。 【創作界隈】 司馬遷の『史記』が春秋戦国時代を重点的に描いていたことと、この史記が日本では『新釈漢文大系』にて全巻翻訳されていることもあって、『三国志』に次いで身近な中国史の題材となっている。 なので、それなりの作品が作られている……のだが、三国志関連の作品に比べると、どうにも絶対数が少ない印象を受ける。 小説界隈では、まずは宮城谷昌光がスタンダードとされる。 ただ、キャラクターの個人列伝に近く、全体を俯瞰する要素は薄い。また登場人物の前半生は重点的に描くが、後半生はあっさりダイジェスト化してしまうこともちょくちょく(例えば『管仲』は桓公に仕えるところまででほとんどが終わり、執政となってからは早送り)。 安能務師は『春秋戦国志』で、前後550年の春秋戦国時代を上・中・下の3巻でまとめている。 本作では主に法治思想の発展に着目している。 漫画作品では『キングダム』が有名。これは始皇帝の統一戦争をモデルとしている。 そのほか孫臏を主役とした『ビン~孫子異伝~』、蒼天航路で有名な王欣太の『達人伝〜9万里を風に乗り〜』など、やはり三国志ほどではないが、春秋戦国時代の作品はある。 追記・修正は春夏秋冬を問わずいつでもどうぞ。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 次は韓非子の予定です。今回は諸事情あって推敲不足となった気がします。長いし。どうか随時修正をお願いします。 -- 作成者 (2021-03-10 23 06 05) ついに来たかって感じだ。創作が難しいのは時代が長い割に史料が少ないからだろうなあ -- 名無しさん (2021-03-10 23 57 44) これはもしや科挙の人かな・・・?いいぞもっとやってくださいお願いします -- 名無しさん (2021-03-11 10 34 13) ↑2 来ましたね。とっても嬉しい。できれば、春秋戦国も、コーエーのSLGになってほしいけど、何百年も続いていたから、やはりシナリオ作りが難しいのかなぁ(´・ω・`) -- 名無しさん (2021-03-11 10 44 04) 建て主アピールをやめろ -- 名無しさん (2021-03-11 11 36 18) 春秋戦国時代ってあまりにも長すぎるからなあなあにしてたけど、こういう時代だったのか。それに宮城谷昌光氏の小説「晏子」の時代がどの辺なのかもようやく理解できた。建て主ありがとう。 -- 名無しさん (2021-03-11 13 15 58) 春秋とはこの年代が書かれた歴史書、戦国とはこの時代の歴史などが書かれた戦国策から、春秋戦国時代と名付けられた。 -- 名無しさん (2021-03-11 14 17 06) ↑3ただ修正をお願いしただけで「建て主アピールをやめろ」とかアホか。だったら初めから見るんじゃねえ -- 名無しさん (2021-03-11 15 53 55) ↑追記、俺は建て主じゃないがお前みたいな荒らしがいるからいつまで経っても記事が立たないんだろうが -- 名無しさん (2021-03-11 15 55 53) 科挙の項といい、学者さんの暇つぶしかな...感謝 -- 名無しさん (2021-03-11 17 03 46) 隣国を攻めるけど滅ぼさないって独特な価値観してるなあ。一種の経済活動みたいな感覚なんだろうか。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 14 27) ↑現代でもアメリカが敵国を攻めるけど政権を滅ぼした後は復興させてるし、そこまで異様な事ではないのかも。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 31 15) あの、科挙を作られたのはウチじゃないです。あんな凄いのは無理。曹操や張飛や劉封を立項した人じゃないかな…… -- 作成者 (2021-03-11 17 36 43) 始皇帝達がやったことを今の時代で言うと、世界征服を真面目に目指して戦争するような感じかな。現代でも「世界征服してやるぞ!」なんて真剣な顔で言い出したら周囲から正気を疑われるだろうし、無理に決まってると笑われるだろうから、それをやってのけた始皇帝がいかに突出した人だったかがよくわかる。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 52 37) 管仲は軍師ではなく宰相に近いが、管仲より位が上な大臣が二人いる (高氏、国氏と言われている) 。そのため宰相とも言えず一大臣に過ぎない。 -- 名無しさん (2021-03-11 18 01 41) 燕はあと数年昭王が生きていたら斉全土を征服できたであろうに。その次の恵王が台無しにした・・・ -- 名無しさん (2021-03-11 18 12 19) 趙は長平の戦いで趙括が大ポカやらすまでは、独力で秦に対抗できた唯一の国。韓・魏・楚は白起に叩かれ、斉は燕の侵攻からの立て直し真っ最中で外征の余裕なし、燕は内紛のごたごた・・・ -- 名無しさん (2021-03-11 18 21 00) ↑7 知らず知らずのうちに「周の内紛」というような認識をしてるんじゃないか?直接支配が面倒だったってのもあるだろうけど -- 名無しさん (2021-03-11 19 54 34) 鄭問の東周英雄伝でこの時代に興味を持った人も少なくないと思う -- 名無しさん (2021-03-12 00 42 09) 秋春戦国に比べて楚漢戦争が短すぎる 百分の一ってマジかよ -- 名無しさん (2021-03-12 01 00 37) 秦の統一から始皇帝の死まで僅か10年、滅亡まではそこから5年。人々の恨みを忘れさせ亡国の諸侯の力を奪うにはあまりにも短すぎて全部一気に噴出したんだろうな -- 名無しさん (2021-03-12 01 44 53) やっぱり創作小説の第一人者は宮城谷氏なんだな -- 名無しさん (2021-03-12 03 39 10) 宮城谷氏はまさに春秋戦国史作家(not中国史作家)だな。三国志物とか楚漢物もだしちゃいるが -- 名無しさん (2021-03-12 07 44 35) ↑13 滅ぼした後が面倒だからな。常に内紛を警戒して駐留軍は置かんといけないし、政治形態を民に浸透させその上で信用を得るのも手間。時代は違うが欧州の大航海時代のプランテーションも無限に金と手間が掛かる事でリスクリターンが合わずにやめてったしな。 -- 名無しさん (2021-03-12 08 21 04) 春秋戦国時代って色々複雑すぎるのかネットでもほとんど教えてくれる場所を見ないので項目が立って嬉しい -- 名無しさん (2021-03-12 20 10 07) ↑2 それこそ10年やそこらじゃ終わらんことだからな・・・始皇帝ですら失敗したことをそれよりも寿命(任期)の短い現代の民主主義国家にできるわけがない -- 名無しさん (2021-03-12 20 20 50) これだけこの時代が長かったことを見ると秦を滅ぼした項羽がまた各国バラバラの封建制に戻ろうとしちゃったのも無理ない気がしてくる -- 名無しさん (2021-03-12 21 21 31) 劉邦も半分封建で半分郡国制度だしな -- 名無しさん (2021-03-12 21 44 06) 恩賞は手早く分けないといけないからな -- 名無しさん (2021-03-12 23 25 28) ↑4 待てよ、そしたら、もしかしたら北朝鮮だったらできるんじゃないか!? あちらは独裁だから、寿命なんてあってないようなものだし。え、アメリカがいるから無理? -- 名無しさん (2021-03-14 11 55 28) ↑それらは経済力が低くて無限にかかる金と手間を捻出できないんだよ。この時代のように切り分けられたまま維持しようという地球を、独裁と経済の両立で統一し得る国家は遥か昔にそんな時代を制し統一した経験を持つ国しか残っていないかもしれんなあ -- 名無しさん (2021-03-14 13 27 11) 第二次世界大戦直後のアメリカならあるいは世界を統一できたかも。残念ながらタイミングを逃したな -- 名無しさん (2021-03-15 01 19 45) 統一の機会はあったとしても時代的には大航海時代が最後くらいだろうなぁ。世界の認識が広がるほど意識の統一は難易度が跳ね上がるし。まぁ欧州圏内が仲悪かったからそんな機運すら生まれんかったが -- 名無しさん (2021-03-15 13 28 27) 本家Wiki読んだら田単ってぽっと出のチート野郎って感じだったけど、この記事の田氏の所業知ったら、その血族で滅亡寸前まで生き延びてたらそりゃ只者じゃないわ -- 名無しさん (2021-03-17 14 55 59) 「個別に調べ"て、個別項目を立て"るのが」 無茶いうな、中国史の鬼が並び立つこのアニヲタWikiで斉・韓・魏・趙の項目なんか恐れ多くて立てられんw -- 名無しさん (2023-06-19 19 41 59) 三国志を比べて作品が少ないのは単純に長過ぎるってのもあるかもな。三国時代は黄巾の乱から晋の統一までと長めに取っても100年前後で終わるけど春秋戦国時代は550年だから単純計算で5倍かかる -- 名無しさん (2024-01-10 05 36 56) 名前 コメント
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1180年当時の東アジアを舞台にしたシナリオ。 あらすじ 六波羅入道、病に臥す。 平家の専横を憎む者たちの蠢動が始まった。 (OPより) 入手先 戦国史旧作シナリオ復興委員会 備考 シナリオ名: 南宋十六国 1180年 作者: コルテス 現バージョン: - 最終更新: - 動作環境: SE◎ FE○ 旧× 規模: 東アジア 開始年月: 1180年9月 大名家数: 49 城数: 499 武将数: 408 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
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登録日:2020/03/09 Mon 02 13 45 更新日:2023/07/17 Mon 01 55 29NEW! 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 ちんこ ちんちん 下ネタ 世界史 中国 中国史 南北朝時代 国家 煬帝 王朝 陳 南朝陳は、五胡十六国時代の後の南北朝時代に陳霸先(はせん)が南朝梁の皇帝から禅譲を受けて立てられた国で、南北朝時代で最後に滅んだ国である。 陳霸先は後漢時代の陳寔(しょく)の子孫と言われ、九品官人法を制定した魏の風紀委員こと陳羣(ぐん)の従兄弟の子孫に当たる。 中国史では珍しいことに皇帝の姓と国名が同じで、陳氏の陳国、陳陳となる(*1)。皇帝は陳皇帝で、自ら名乗る時は朕は陳皇帝となるのである(*1)。 つまりチンチンで、チンコである。 チンチンで、チンコである。 この項目では、そんなチンチンの歴史を振り返っていく。 目次 チンチンができるまで チンチンの歴代チンコとその衰亡一本目 二本目 三本目 四本目 五本目 チンチンの最期 チンチンがチンチンになって終わった後 チンチンができるまで 前後を解説していくと、南北朝時代は長らく五胡十六国時代を制した北朝北魏と、三国時代の覇者である晋が逃げ延びた成れの果て南朝東晋で成り立っていた。 しかしそうして立った東晋は皇帝の権力か自意識が弱くいつだって混乱の連続、100年ほど頑張ったがついに簒奪され宋に、更に斉→梁と移り変わった。 一方で鮮卑によって立った北魏は、国境に匈奴や鮮卑といった異民族の名族を特別待遇で移住させて防衛させていた。 これらは鎮と呼ばれたのだが、過ぎたる権力は当然危険視され削ぎ落される。 鎮は順次廃止され待遇は悪くなっていき、最後に残った六鎮は遂には漢族に搾取される立場となったため、不満を爆発させ大規模な反乱を起こした。 これは鎮圧されたが、その一方で北魏側に転身した鎮出身の軍人たちの権力が強くなる。 中でも東の鎮出身である高歓と、西の鎮出身である宇文泰(*2)は特に権力が強く、やがて反目し合い別の皇帝を立てた。 こうして北魏は東魏と西魏に分裂、三国志の様相となった。北はもうチンチン対決ですね 臣下によって東西に分かたれた国家には皇帝の権力が残っておらず、後に彼らの子や孫によって簒奪され、東は北斉、西は北周となる。 この項目内においては突如として国の名前が置き換わったりするが、それはこうした背景があるからだというのは覚えておいてもらいたい。 さて南朝梁は初代皇帝で、簒奪の際に死者を皇帝一人しか出さなかったという皇帝大菩薩こと武帝・蕭衍が久々に長期政権を築いていたのだが、その弊害が顕著に出てきていた。 政治経済が混乱し、極端に文官を優遇していたため軍事力も脆弱。分裂の隙を突いて東魏を攻めたもののボロ負けして新たな対外政策を打たなくてはならなくなった。 そんな折に宇宙★大将軍を名乗った侯景の叛乱が起き、 梁は突如事実上の滅亡を迎える。 ▷ 宇宙★大将軍こと侯景の乱とは 宇宙★大将軍は、宇宙の大将軍である。 冗談ではなく、本当に『宇宙大将軍』という肩書きを自称していたのである。 そして彼は、中国南北朝時代において 梁に亡命してきた東魏の謀反人侯景である。 梁と東魏で同盟を結ばれそうになって立場が危うくなり、反乱を起こして首都建康(*3)を攻め立てたのだ。それは、政治への不満もあって誰にも止められないほど膨れ上がった。 略奪しながら侵攻し、毒攻めし、水攻めし、一年以上の月日をかけた包囲で人口数十万のうち数千しか生存者が残っていなかった建康はようやく陥落。 侯景は、成り上がり者のボンクラ朱异を抜擢したせいで国政を混乱させるポンコツと化したジジイの皇帝大菩薩・蕭衍を餓死させ、傀儡を立てて皇族も虐殺する。 そうして権威を高めるために宇宙★大将軍を名乗ってからの禅譲(*4)による漢の建国。多大な犠牲を出しておきながら皇帝を僭称した侯景への不満が高まったことによる敗戦に次ぐ敗戦。そして子供を全て処分して(*5)船で再び逃げ出した侯景はその途上で殺害されたのだ! 相国・漢王・都督六合諸軍事 宇宙★大将軍 完 宇宙★大将軍を終わらせるため、建康から西にある江陵(*6)で立ち上がった者たちがいた。皇族蕭繹(えき)とその臣、陳霸先と王僧弁である。 宇宙★大将軍がアホだったこともあって番組は打ち切り、蕭繹は皇帝に即位し梁は復活した。しかし蕭繹は死都と化し首都機能が死んでいる建康には入らず江陵に留まり続けた。 ここでイニシアチブを取りたかった蕭詧(さつ)ら一部の皇族と対立が起き、彼らは皇帝を僭称した。 討伐には成功したもののその過程で西魏に協力を仰ぎ、蜀を渡してしまう致命的ミスを犯す。 まがりなりにも三国の領土だけは拮抗していたのだが、これによって趨勢は完全に決まってしまった。この時に歴史が動いたと言える。 これを取り返すため蕭繹は西魏に返して欲しいと呼びかけつつ北斉に西魏を攻撃するよう働きかけた。 こんなことをされて西魏は黙っていない、軍を起こして蕭繹のいる江陵を攻めた。江陵の立地は西魏にあまりにも近すぎたため、たやすく陥落し蕭繹は書庫に火を放ち焼け死んだ。我々現代人にとっては最悪な話である。 西魏はかつて蕭繹に討伐され逃げてきた蕭詧を梁の後継として擁立し、一方で残された陳霸先や王僧弁らは建康で蕭方智を立てた。 こうして蜀と江陵が奪われ、梁自体もまた西魏の衛星国が生まれて分裂したのである。 この苦境の中、王僧弁はまず江陵を取り返すことを考え、そのためには北斉と協力するしかないという結論を出した。 だが北斉は足元を見て非常に厳しい条件を付けてきた。 蕭繹の従兄弟である蕭淵明を送還するから皇帝にしろと言うのだ。息がかかった人物を皇帝につけるということは、即ち臣従するということに等しかった。 受け容れ難い提案であるが、王僧弁はそれでもまず分裂した梁を一つに戻すことを選んだ。 淮南(*7)の領地を要求し蕭方智を蕭淵明の後継者にするという条件を付け加え、なんとか交渉をまとめようとしたのである。 しかし陳霸先は納得いかず、ブチキレた。 すぐさま兵を起こして王僧弁と北斉から送還されてきた蕭淵明をぶっ殺し、交渉を台無しにした。ここまではわからんでもない。 更に自分が蕭方智から禅譲を受けて皇帝となったのである。これはわからない。もう滅茶苦茶だよ…(*8) 蕭衍が王珍国ら名将と共に建てた梁の正統王朝は、蕭衍の生前から続く混迷の中その死から僅か10年足らずで終わりを告げ、望まぬ形で梁は一つになったのである。(*9) こうしてチンチンができて、陳霸先はチンコとなったのである。 チンチンの歴代チンコとその衰亡 チンチンは三国志で言うと呉の辺りの領地を持っていたが、全体的に荒廃し首都建康はチンチンにされており、風雲急のクーデターで国内も分裂し権力も不安定だった。 北周は蜀~西涼、北斉は華北を抱えて両方とも軍事政権だったのに対しこれだったため、三国では最も弱かった。 系図 陳寔┳陳紀━陳羣━陳泰━(以下略) ┗陳諶━陳忠━(中略)━陳文賛┳陳霸先 ┗陳道譚┳陳蒨(せん)━陳伯宗 ┗陳頊━陳叔宝━陳深 一本目 陳霸先はまず陳政権の安定、すなわちチンポジ直しに乗り出した。 その中で王僧弁の残党や、陳を認めず南梁として復活させようとした蕭荘らと戦うが、半ばで世を去った。死後武帝の号を諡された。 息子はいたようだが江陵と一緒に持っていかれてしまったため国内におらず、しかも帰国の際に死んで全滅したため兄の子が継ぐこととなる。船が沈んだって、謀殺じゃ… 二本目 陳霸先の兄陳道譚の息子陳蒨(せん)はバイだった。側近の男も抱いた。子供もいるんでホモじゃないです。 固く結ばれた絆を武器に残党や南梁を倒し、北周と和平を結びようやくチンポジを安定させた。 続いて戦乱で荒れたチンチンの国土を直すデリケアに乗り出したのだが、在位6年で崩御してしまう。文帝が諡された。 安定こそしたものの対外政策として三国で最も強い勢力と和平を結ぶというのは間違いなく悪手であり、この先の運命も決定づけてしまったと言っていい。 三本目 陳蒨の息子陳伯宗は幼く、陳蒨の兄弟である叔父の陳頊ことチンコが後継していたが、チンコがチンコを欲しがったためとっとと禅譲させられた。もろちん殺された。廃帝され臨海王が送られた。 だが幼くても妃はいたし子供も作った。チンコはちゃんと精通していたしやることやってたのだ。この二人は殺されておらず、それどころか子は将軍にまで取り立てられ、チンチンがなくなっても生き残っている。宦官じゃないよ。 四本目 チンコになったチンコは簒奪しただけのことはあり内でも外でも頑張りを見せ、北斉から淮南を責め取った。 だがここで大きな時勢の変化が起きる。遂に北斉が滅んだのだ。チンチン対決終了のおしらせ チンチンは北斉の領土を吸収してより強大になった北周の責めを一手に受ける羽目になり、すぐに淮南は奪われてしまった。 絶望的な情勢の中、チンコはついに病に倒れ死去する。宣帝が諡された。 五本目 チンコの息子陳叔宝は、チンコになる時に弟にチンコを奪われそうになった。 周りに助けられなんとかチンコになったものの、頭の中までチンコになってしまった。 チンコになったチンコはもう毎日後宮でチンコチンコ。金がなくなったら軍人から金を奪い軍人の嫁にもチンコした。チンチンの防御力はチンコによってチンチンにされていった。 元から弱い軍がチンチンにされてどうもないわけがなく、チンチンはこの代で終わりを迎えることになる。 チンチンの最期 この頃、三国志で言う晋のようにチンチンを囲むような領土を持った北周は、蜀滅亡後の勝ち確状態で魏からの禅譲で晋が立ったようにこちらも楊堅への禅譲がなされ隋となっていた。もう地勢的にも年代的にも、南北朝は終わりなのである。 その広大な領土で呉の領土を責めるといったらその手段は一つ。三国志の最後の戦いのような、北方から攻める部隊と蜀から船で下ってくる部隊に分けて行われる大規模な多方面作戦である。 これに先立ち隋は収穫期が南北で違うことを利用し、収穫期に攻め込んで作物をチンチンにする剃毛を何度となく行った。 チンチンの力は更に削ぎ落とされていった。インポテンツが進行していったのである。 そしてトドメを刺すために長江の上流にある蜀で大量の船の建造が始まる。 下流にあるチンチンの下には大量の木屑が流れてきた。 だがチンコは何もしなかった。毎日チンコのチンコで忙しくしていたのである。 そうして遂に隋軍が攻めてきたが、もうどうしようもない。チンコは現実逃避して毎日チンコしていた。 将軍たちはチンコが何の命令も出さず毎日チンコしてるせいで何もできなかったが、ある日突然チンコが出て来て命令した。 「隋のやつらが首都周辺の領土を好き勝手に奪ってる、お前ら高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦うんだ」 こんな手遅れで柔軟もクソもねえよ とにもかくにも出撃してよくなったのだが、兵力の多いチンチンの最前立線は何もできないまま潰されたので戦力は大して残っていなかった。ブレーキ…壊れたァ… そんな中で出撃した将は当然撃破され、投降した兵は寛大に扱われた。そうなればチンチンの兵士たちも将もみな萎びて、隋軍へと投降していった。 最早どうしようもない、チンチンの最期の時が来たのである。 ことここに至ってチンコが臣下らに「俺だけ悪いんちゃうねん、お前らも悪いねん」と当たってきた。なんやこいつ… さていよいよ首都建康の中に隋軍がやってきた。 するとチンコはある臣に「皇帝でありながら逃げ回るなど惨めなことです。皇帝らしく正装して玉座で堂々と隋軍を出迎えてください」と言われた。 降伏にも滅亡にも、やはりそれなりの作法というものがある。だが「嫌や、そんな危ないの絶対嫌や!」と年末年始にビンタされる噺家のようなゴネっぷりを見せてチンコは逃げ出した。 …このしばらく後、隋軍により井戸の中で二人の寵姫とともに怯えて震えているチンコが発見された。 一方息子の陳皇太子すなわちチンコ太子の陳深は、「お仕事ご苦労。でもまだ終わってないんだろう、頑張れよ」と堂々とした態度を見せていた。 チンコ太子はちゃんとしていた。だが何もかも手遅れであった。 こうしてひと悶着ありつつもチンコが捕らえられ、僅か32年でチンチンは終わった。 呉の時から文化を築き上げてきた首都建康も破壊の限りを尽くされてしまった。 こうしてチンコは陳皇帝から陳後主やっぱりチンコとなり、隋文帝・楊堅により監視されながらの生活を送ることになった。 チンチンがチンチンになって終わった後 国が滅び気に入っていた寵姫も殺されたり楊堅に奪われたりしてさぞ萎えているかと思ったが、それでもチンコはチンコだった。毎日変わらずチンコであった。 中華統一を成し遂げた楊堅だが、彼もまたこの時代の傑物らしく北周の簒奪者である。簒奪者には人間不信がつきものだ。北斉も北周も皇帝と皇族は皆殺しにされた。 これは決して珍しいことではない、この五胡十六国から南北朝時代にかけてはこうするのが常識だった。 だが楊堅は、意外な一言を放った。 「あいつ…殺す必要全くねえな…」 チンコの一族は命脈を保った、チンコに正直に生きたが故に生きることを許されたのだ。チンコ太子のようにちゃんとしたチンコではこうはいかなかったろう。 亡国の皇帝を生かすのは、国民や外部勢力に「俺は慈悲深いんだ、だから従え」と知らしめるメリットもある。 それでも殺すのは自分で反乱を起こしたり反乱に担ぎ上げられるリスクがあるからだが、そんなリスクがないことが一目瞭然のような奴なら生かしておいた方がいい(*10)というわけである。 チンコはチンコの穴兄弟になった楊堅と共に行楽に行ったり、何かに怯えることもなく毎日チンコしながら平和に生涯を過ごし、やがて死去した。 楊堅の息子楊広は、チンコに「煬(*11)」の諡を与えた。最期のチンコは煬帝となったのである。 だが、チンコが現代で煬帝と呼ばれることはない。何故なら… 楊広が、煬帝となったからだ。 追記・修正でチンチンにしてください △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] これはひどい(誉め言葉) -- 名無しさん (2020-03-09 03 52 59) 健康は建康じゃないの? -- 名無しさん (2020-03-09 03 57 44) 直しておきました -- 名無しさん (2020-03-09 05 33 21) チンポジとデリケアで死んだ -- 名無しさん (2020-03-09 09 47 52) この項目書いた奴はシャブでもやってんのか -- 名無しさん (2020-03-09 10 42 56) ↑シャブってよりかは小学校低~中学年的な頭の悪さ(褒め言葉)を感じる -- 名無しさん (2020-03-09 12 39 38) ↑執筆者はもしかしたら、とても歴史に詳しい(エロ)小学生では?(誉め言葉 -- 名無しさん (2020-03-09 13 02 50) ↑歴オタ小学生がスペダンまで網羅してたら逆にビックリだよ -- 名無しさん (2020-03-09 14 25 06) ひどいw(ひどいw) -- 名無しさん (2020-03-09 18 49 09) 皇帝の一人称も朕(チン)だよな -- 名無しさん (2020-03-09 20 16 24) ウンウンうなりながら何削ろう、これ要らないかなって悩んでるところにこんな記事見せられたら…さっさと書き上げなきゃダメでしょって感じになってくるな…w -- 名無しさん (2020-03-09 20 23 12) ↑ウンウンな酷い項目を作るってことか? -- 名無しさん (2020-03-10 02 42 44) ちんこちんちん連呼したいがために項目作った予感 -- 名無しさん (2020-03-10 15 14 18) ↑ただそのために、自分の歴史知識と文章力をフル活用してこの項目を作ったとすれば、大した男だ! -- 名無しさん (2020-03-10 15 35 49) 本で数えるな本でw -- 名無しさん (2020-03-10 15 59 32) ↑3それ以外に何があるというのか。いや、それで十分ではないのか -- 名無しさん (2020-03-10 16 26 13) ↑その通りだ -- 名無しさん (2020-03-10 16 39 40) ↑ミス汗 その通りだ! きっとこの作成者は、学校では男子に大人気なのに違いない。女子からはエロ男児と嫌われてるかもしれんが -- 名無しさん (2020-03-10 16 41 11) 陳の後主(ちんのこうしゅ)の『玉樹後庭花』には触れられてないのか… -- 名無しさん (2020-03-11 08 22 17) もうちょっと歴代皇帝の色分けをはっきりしてほしい,正直色の差が小さくて読みにくい -- 名無しさん (2020-03-14 10 41 16) 姓と血縁の関係をしっかり表したかったんであえて同系統で分けたんですが駄目ですかね -- 名無しさん (2020-03-15 00 35 32) これだからアニヲタWiki中国史シリーズ好きよw -- 名無しさん (2020-03-15 02 55 47) ↑2 色を変えないなら系図があるといいか。5代30年程の短命王朝なのでそこまで複雑じゃないとは思うが。 -- 名無しさん (2020-03-15 12 10 48) 軽く横書きでつけてみた -- 名無しさん (2020-03-16 00 14 19) 陳伯宗と陳項の色の見わけがつかないのと、チンコ(皇帝の意)とチンコ(陳項)が同じ文章内に出てくる部分が重なっててだいぶ頭がこんがらがる -- 名無しさん (2020-03-16 11 33 04) これで伝わるかな -- 名無しさん (2020-03-16 12 07 31) もしかしてアニオタwiki中国史の中で、国家項目はこれが初か?宋より早かったみたいだぞ -- 名無しさん (2020-03-18 14 58 17) ↑宋なんですか なんつってなガハハ -- 名無しさん (2020-03-18 15 06 07) ぜひ、項目を立てた人に聞いてみたい。君は、『歴オタのエロ小学生』なのかとっ!!w -- 名無しさん (2020-03-18 15 24 21) 小学生かな…… -- 名無しさん (2020-04-10 18 57 15) 宇宙大将軍vs皇帝大菩薩vsダークライ -- 名無しさん (2021-05-08 14 30 06) 徹頭徹尾ふざけまくってるのに歴史の流れはしっかり書かれてるし色分けのお陰で最後まですごく読み易く出来てて草なんだ。面白かったです。 -- 名無しさん (2023-05-23 09 15 05) ネタ記事かと思ったが最後のでゾクッとした。因果応報感あるというか…… -- 名無しさん (2023-06-02 23 02 54) 聖徳太子に手紙でいじられたイメージ、一個人で最も世界制覇に近かった乙さんなんだよな煬帝 -- 名無しさん (2023-06-03 00 46 00) ヒナイチくーーん! -- 名無しさん (2023-06-03 00 48 06) 今まで見た中で一番わかりやすい南北朝時代の終焉だったかもしれない -- 名無しさん (2023-07-17 00 27 50) 徹底してネタに走ってるのはすごいけど、チンチンやらチンコやらが大量に使われすぎてて純粋に読みにくい -- 名無しさん (2023-07-17 00 36 47) 名前 コメント
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登録日:2011/08/21(日) 15 24 43 更新日:2023/11/12 Sun 15 55 33NEW! 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 ことわざ だいたいあってる りん少女 刎頸の友 史記 廉頗 故事成語 藺相如 趙 む~かしむかし、あるところに趙という国がありました。 藺相如「俺は藺相如(りんしょうじょ)。通称上卿。自慢の逸物に、秦王はイチコロさ。はったりかまして、宝玉から国の救済まで、何でもやってみせるぜ」 廉頗「廉頗(れんぱ)。通称名将軍。秦軍相手でも籠城してやる! でも趙括だけは勘弁な!」 趙には藺相如という知に長けた人と、廉頗という武に長けた人がいました。 しかし、廉頗は口先だけで上卿まで上り詰めた藺相如を気に入りませんでした。 廉頗「あ~マジやってらんねぇ。俺が命がけで国を救ってこの役職に付いたってのにさ、藺相如ってやつはさ、口先だけで俺より上の大臣だぜ? やってらんねぇよな。今度あいつと会ったらぜってー恥かかしてやる。」 廉頗は誰彼構わず不満を口にし、藺相如はその噂を聞きつけると、病気と称して外出を止めてしまいました。 それから数日が過ぎました。 家臣「旦那様。外はいい天気ですよ。たまには外に出ませんか?」 藺相如「うっせー! ドアの前にメシ置いたらどっか行けよ!」 家臣「そんなこと言わないで。ほら、桜も綺麗ですよ……」 藺相如「わかったよ! 出りゃいいんだろ、出りゃよ!」 藺相如は家臣の勧めで馬車に乗って散歩に出掛けました。 家臣「旦那様~、前から廉頗様の馬車が」 藺相如「しゃあねぇ~な~、脇道に入れ」 家臣「……えっ?」 藺相如「しっかり聞いとけボケ! 脇道に入って廉頗将軍が通り過ぎるまで待てと言ったんだ。早くしろ!」 藺相如の馬車に廉頗は気づかずに行ってしまいました。 藺相如の馬車はその後にすぐに屋敷に引き返しました。 その夜、家臣たちは一堂に会しました。 家臣「主人があんなことやってみなよ。俺たちゃ恥ずかしいったらありゃしない。あなたのような腰抜けに仕えたくありません。実家に帰らせていただきます」 それを聞いた藺相如は言いました。 藺相如「お前ら本気で俺がビビってると思ってんの?」 家臣「あなたは逃げ回ってるし充分ビビってるように見える」 藺相如「馬鹿共が!よく考えろ!廉頗と秦王どっちが強い?」 家臣「秦王に決まってんだろ!それくらいわかるわ!」 藺相如「俺はその秦王から宝玉を守って戻って来たんだぞ?廉頗なんかにビビる訳ねぇだろ! 趙が秦に攻められないのは俺と廉頗が組めば被害が甚大になるからだ。だが二人の仲が悪いというのがバレてみろ。 秦がたちまち攻めてきて滅ぼされてしまうだろう。俺は自分のプライドより国を優先してんだよ。わかったか!?カス共!」 この話はすぐに宮中に広まりました。 廉頗はそれを聞くと、上半身裸で茨の鞭を持って藺相如の家を訪ねました。 廉頗「俺はあなたがそこまで深い考えだとは思わなかった。俺は自分が恥ずかしい。さぁ…気がすむまでこの鞭で俺を痛めつけてくれ!」 藺相如「えっ……イヤだけど……」 廉頗「そ、そんなこと言わずに……ハァハァ。俺にはこうすることでしかあなたに償えない…ハァハァ。」 藺相如「俺そんな趣味はねぇし、俺と廉頗将軍どちらも趙には必要なんだ」 廉頗は藺相如に心服し、言いました。 廉頗「俺はあなたの為にならたとえ頸(首)を刎ねられても悔いはない!」 藺相如「俺も同じだ!あんたの為になら頸(首)を刎ねられても悔いはない!」 廉頗「だから…や ら な い か 」 藺相如「アッーーー!」 こうして、二人は固い友情で結ばれたのでした。 めでたし、めでたし ※刎頸(ふんけい) 頸(くび)を刎ねられること。 その後、藺相如と廉頗は馬服君・趙奢ら名将名臣と共に中心人物として趙の国防の中枢に居続け、藺相如の死まで趙は秦の猛攻を防ぎ続けた。 しかし、藺相如や趙奢ら中軸を成す人物を次々失うと廉頗一人では少々苦しくなる。 そんな折に秦の白起軍が来襲する。秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は老いたりとはいえどさすが名将、「これは迂闊には戦えない」と即座に判断し、要塞に籠城しよく防戦していた。 しかし、敵軍の計略により長平の守将から外されてしまう。 その後を継いだ、趙奢の息子趙括(頭でっかちの代名詞で、名将と謳われた親父の趙奢にさえ「こいつ口先だけだ、こんなのが将軍になったら趙は滅びる」と言われていたほど)は、白起に「趙軍のほぼ全軍に値する戦力を、ほとんど鏖殺される」というとんでもない敗戦を喫する。 壊滅的敗戦後も、廉頗はハイエナしにやってきた燕軍を軽く殲滅し立て直そうとするが、最終的には王により将軍の座を追われ、憤慨して後継者の軍を撃破。 ついには趙から亡命せざるを得なくなる。それでも一度帰参のチャンスがあったのだが、趙で仲が悪かった家臣に讒言をされ、妨害されてしまう。最後は異国の地で、失意のまま亡くなったという。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この故事にならった二番煎じは疑心暗鬼に陥って裏切る当たりこの二人はすごい(小並感 -- 名無しさん (2014-10-29 00 30 30) ↑実際、この二人ならあの状況なら援軍に来た瞬間に怒りそうだもんな -- 名無しさん (2014-10-29 00 41 36) ヒデエ記事だ。いや確かにwikipediaだかで読んだ時似たようなこと思ったけど! -- 名無しさん (2016-08-22 14 33 34) ひでぇ。ひでぇが大体合ってるのがさらにひでぇw -- 名無しさん (2017-01-26 16 53 32) キングダムの廉頗はかっこ良かったな・・・ここの廉頗は酷いがw -- 名無しさん (2017-01-26 17 19 53) 藺少女が、おっさんを茨の鞭でペシペシする(ハァハァ -- 名無しさん (2017-03-13 10 08 41) 趙ってことは、五胡十六国時代の話かしら?それとも春秋戦国? -- 名無しさん (2017-05-24 10 47 47) ↑ 春秋・戦国だな。あと、そっちの時代だと竹馬の友って言葉があるな。なお、本来はry -- 名無しさん (2017-05-24 14 06 50) ↑なるほど、ありがとうっす。 -- 名無しさん (2017-05-24 14 07 45) ↑6 とりあえず、ハァハァとアーーッ!はいらんw -- 名無しさん (2017-08-16 07 37 11) こいつはひでえ -- 名無しさん (2017-11-09 15 41 20) 趙括は趙奢健在時に実戦経験積ませとけばねえ -- 名無しさん (2020-08-08 22 45 35) ↑ 生きた兵士を任せるとロクなことにならない奴と判断された(実際その通りだった)んだから、戦場には出せないでしょ -- 名無しさん (2020-10-03 17 28 36) 名前 コメント
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婼羌(じゃくきょう) 羌の国。 且末(しょまつ) 精絶(せいぜつ) 戎盧(じゅうろ) 渠勒(きょろく) 皮山(ひざん) 烏秅(うた) 西夜(さいや) 蒲犁(ほり) 依耐(いたい) 無雷(ぶらい) 捐毒(そんどく) 桃槐(とうかい) 休循(きゅうじゅん) 疏勒(しょろく) 尉頭(じょうとう) 烏貪(うどん) 卑陸(ひりく) 渠類谷(きょるいこく) 郁立師(いくりっし) 単桓(たんこう) 蒲類(ほるい) 西且弥(さいしょや) 劫国(ごうこく) 狐胡(ここ) 山国(さんこく) 車師(しゃし) 姑師 杆弥(かんや) 于闐(うてん) 于寘、于窴 難兜(なんとう) 莎車(しゃしゃ) 佉沙 温宿(うんしゅく) 亀茲(きじ) 丘茲、屈茲、屈支 尉犁(じょうり) 危須(きす) 焉耆(えんぎ) 阿耆尼 現在の新疆ウイグル自治区近辺の地域が大体の範囲。 四鎮 亀茲、于闐、疏勒、碎葉 関連鬼事 海外三十六国
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最も面白い戦国時代のゲームは? http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157188911/ (2007/04/30)の集計 13票 不如帰 6票 天下布武 5票 戦国BASARA 太閤立志伝Ⅴ 太閤立志伝シリーズ全般 4票 信長の野望・烈風伝 信長の野望・革新 3票 Shogun Total War 信長の野望・天翔記 天下統一II PLUS 戦国無双 信長の野望・武将風雲録 信長の野望・蒼天録 独眼竜政宗 2票 戦国無双2 信長の野望 覇王伝 斬 いっき 戦国史 戦国大名 天下統一 信長の野望Internet 太閤立志伝 戦国夢幻 戦国ランス 以下1票 決戦 信長の野望・蒼天録PK 携帯版信長の野望 天下人 スーパー伊忍道 関東制圧 太閤立志伝Ⅱ 戦国の一番長い日 鬼武者 1552天下大乱 毛利元就 誓いの三矢 SHOGUN 信長秘録 ~下天の夢~ 信長公記 戦国動乱 激戦国無双 HARAKIRI 関ヶ原 高2→将軍 真田十勇士 忍者くん 婆裟羅 九州三国志 斬Ⅲ(スピリッツ 信長の野望・将星録 銀河戦国群雄伝ライ 信長の野望・将星録 信長の野望 天下創世 GB版信長の野望 武田信玄2 太閤立志伝Ⅲ
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登録日:2015/11/07(土) 19 57 47 更新日:2024/06/13 Thu 13 55 23NEW! 所要時間:約 9 分で読めます ▽タグ一覧 ギャグマンガ日和 タコタコ星人 世界史 中国史 二代目 亡国の皇帝 仏教徒 厩戸皇子 小野妹子 暴君 暴君←とだけでは語れない 最後の皇帝 漢民族? 皇帝 盛大な親不孝 聖徳太子 隋 煬帝(ようだい)とは、魏晋南北朝の分裂をついに統一せしめた隋帝国の二代目皇帝。名を楊広という。 中国史に於いて、紂王などに並ぶ暴君と呼ばれる男である。 生涯 西暦569年、当時北周軍の重鎮となっていた父・楊堅と正室・独孤伽羅の次男として生を受けた。 581年、父が野心をむき出しにし北周から簒奪し隋を建国すると晋王として北方に配置され、南朝最後の王朝である陳征伐の際は総大将として南進。 陳が育んだ綺羅びやかな文物に触れたのは恐らくこの頃であろう。江南を最期の地に選んだくらいなので気に入ったことは間違いない。 仏教に帰依しており、天台智顗から法名「總持」と菩薩戒を授かっている。 隋が統一王朝となり、父楊堅が皇帝(*1)として即位すると、まずは兄の楊勇を皇太子から引き摺り下ろす運動を展開。 楊勇は母の独孤皇后が側室許さんウーマンだったにもかかわらず、彼は山のように側室を囲い奢侈に走り、父と母の不興を買っていた。 そこにつけ込み、母に好かれるような質素倹約・正妻尊重による両親へのアピールと腹心による兄の讒言祭りを実行。 見事に廃嫡に追い込み、皇太子位を手に入れることに成功する。 604年、父が崩御すると皇帝に即位。文帝の死には自身の愛妾を寝取ろうとした楊広を廃嫡しようとしたら逆に暗殺されたとの説もある。 即位後は文帝の遺詔と偽り兄を殺害、反乱を起こした弟も誅殺し政権が安定すると 早速質素倹約生活をかなぐり捨てて奢侈に走ったという。さらに大興城(長安)の整備や南北を貫く大運河の建設を推進。 外交では三度の高句麗遠征の他琉球・西域など多方面に出兵、周辺国に朝貢を受け、日本からも小野妹子が国書を持って向かうなど積極的拡張主義は諸国を震撼せしめた。 それらに掛かる莫大な費用はもちろん国民からむしり取る他なく、民は重税・苦役に苦しんだ。 第二次高句麗遠征中には楊広の即位にあたって大功のあった楊素の息子・楊玄感が反乱を起こし、 それをきっかけに農民反乱が雨後のたけのこのように頻発するなど、10年もしない内に自身の政権基盤どころか隋帝国自体がガタガタになり始めた。 楊玄感の乱後、北方の騎馬民族突厥が南下。親征して迎え撃つが敗れてしまう。 この敗戦により、各地で軍閥が蜂起する事態となる。その中には後の唐高祖・李淵の姿もあった。 当初、楊広は鎮圧に躍起になるもその鎮圧法は叛徒鏖殺一択であり、懐柔や調略を使わないある種幼稚な方策しか取らなかったため、反乱は激化。 ついには大興城から江南に行幸するという形で逃亡。本拠である華北を投げ出したも同然であり、大興城に入った李淵により孫の楊侑が名目上の三代目皇帝として立てられ、楊広は皇帝の座を実質失う。 そして、楊侑(*2)からの禅譲という形で李淵が皇帝に即位し、全盛期には漢以来の世界に冠たる帝国にまで成長する王朝・唐が建国されたのだった… 楊広自身は一応皇帝として江南に従った重臣と隋を存続させよう…とはせず、酒色に溺れて猜疑心にとらわれて重臣を処刑する、など亡国の皇帝がやらかすミスの殆どをやらかしついに重臣にすら背かれ、観念し縊り殺された。50歳の時であった。 死後、唐により「煬帝」の諡号を送られた。煬の字は「天に逆らい、民を虐げる」意味を持ち、最悪の評価を受けた。 陳の最後の皇帝を煬帝と言って貶めて遊んでいた楊広がまさか正式に煬帝扱いされるとは思わなかったであろう。 なお、「わざわざ帝の字を『ダイ』と読ませるのも悪諡の一種である」とする人がいるが、これは誤り。 本場中国では普通に煬帝(Yangdi)とdi読みしているので、これは古来の読み癖が存続した等の日本の特殊事情である。 そもそも帝は音読みだとタイとも読むので、この発音だと侮蔑のニュアンスとする根拠に乏しい。 能力・評価 生涯からわかるように最悪の一語である。詩作には一定の評価があり、文化史には名誉を残している。 日本との関係で言うと、遣隋使小野妹子が持って行った聖徳太子作の国書にブチ切れた話が伝わっているが、アレは「てめぇ蛮族のくせに天子名乗ってんじゃねぇぞ」っていう意味合い。 中国の皇帝にあんな国書送ったら半分はブチ切れたのは必至である。それを使者の前でやるかはともかく。 とにかく良きにつけ悪しきにつけエネルギッシュであるが、それ故か強引なところが多く、我慢が効かず軽薄になりがちなところがあり、それ故に人心が離れていったところはある。 フィクションでの煬帝 タコタコ星人。 日出づる国のアニヲタ、編集を日没する国のWikiに処する。恙無きや。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- …さて、ここまでは史書の記載を元に煬帝を貶める方向性で書いてきたが、実は彼の所業、確かに下手を打っているがここまで言われる程ではない。 まして、父の側室を奪おうとしてバレて予防策で父を殺したとかそういう方向性の逸話を書き足される筋合いもない。 個人の主観になるが、明の万暦帝辺りは怒りすら覚える聳え立つクソであり、明の無残な滅亡を招く原因となったにもかかわらず、 負債を子孫に押し付けて天寿を全うしただけでそれなりの諡号を貰うのは不平等とさえ思う。 というわけで、少しだけ擁護していきたい。 1.大運河建設の是非 当時は重機などはなく、ひたすら人海戦術で大地や山を掘削する他ないなど負荷が大きい事業である。 乱世により人口は減少傾向であったため人手が足らず、女性まで動員しての大工事を強いた上に、煬帝が自ら超豪華な船に乗って運河を渡ることをデモンストレーションとして敢行したため、より怒りを買った面はある。 その上で後述する高句麗遠征を大兵力を持って行ったのは流石に国力の疲弊を考えなさすぎた、これは事実である。 しかし、この大運河建設がなければ唐が世界帝国となることはまず不可能であった。 それほどの物流革命・飛躍的経済発展をもたらした、価値のある事業と言える。 三国時代の呉から五胡十六国・南北朝期に長江流域は華北に対抗するべく大いに開発され、すでに経済規模で乱世と黄河の度重なる大暴れで疲弊しがちな華北を凌ぎ始めていたため、かつての漢王朝期を凌ぐ巨大経済圏を生み出した。これがなければ、中央アジアに飛び出してアッバース朝と殺り合うなんてきっと出来なかった。さらに長らく分断されていた南北を経済・交通面で繋ぐことにより数百年の分裂からの統一を実感させ、思想や民族の南北融和をももたらした。五胡十六国時代は民族の違いで大殺戮が起こることも多々あったが、隋唐期は非常におおらかで、阿倍仲麻呂のような日本人・安禄山のようなソグド人でも高官につけたほどである。唐代に花を咲かせた文化・思想にも影響はあったであろう。 ともかく、あの広大な大陸の潜在能力をフルに活かし統治するにはいずれ誰かがやらねばならぬ事業ではあった。 黄河・長江という二大河川を繋ぎ合せたこの運河(京杭大運河)は、この後生まれた数々の国家を大動脈として支えている。 2014年に世界遺産認定を受けているように、中国史のみならず、人類史に残る一大事業であることは間違いない。 ただ、運河建設自体は父の楊堅の代から行われており、その頃は国力や民力の余裕に応じた範囲で少しずつ進めていた。他の国家事業と同時並行という最悪を通り越した組み合わせになったのは煬帝の意向によるものである。社会的資源の配分こそが最高権力者の役割である事を思えば、その匙加減を誤った点については擁護は差し控える。 2.高句麗遠征について 前述の通り、大陸の大動脈を通した後に数十万の兵を持って何度も遼東方面に出兵するのは無謀であったと言わざるをえない。 しかし、高句麗は父の治世の際に反乱を起こしており、様々な理由があったとはいえ討伐軍は敗退し、煬帝の治世に於いても課題として残ってしまった。 確かに遼東の小国であるが、放置しておけば何をするかわからず、更に英雄・乙支文徳がいるなど危険性は高かった。 さらに高句麗の北には中華の天敵の騎馬民族国家突厥がおり、遼東方面を盤石にすることは安全保障上必要なことであった。 他にも西域方面ではチベット系の連中を討ち、西域への進出・交易路を切り開いたということもあり、蛮族には負けていられなかったという理由はあった。 どっかでは負けてるあんまり強くない奴と侮られたら、別方面でも異民族支配に揺らぎが出るのは自明である。 三回目になるが他の大事業との組み合わせが最悪であり、きちんと順序や国力の回復を待って行えば、名君の大業として輝いたであろう。 後述する唐の成功例のように、遠交近攻策で朝鮮半島の国を味方につけてじわじわ崩すのも一つの手段であっただろう。 叛徒をひたすら皆殺しにする鎮圧法を取った煬帝が蛮族と同盟するとも中々思えない所ではあるが。 それと、任せる将帥はしっかり選びましょう。(*3) ちなみに、唐も高句麗遠征は失敗している。しかも唐の成立に貢献した名将で当時皇帝となっていた李世民自ら親征しての失敗である。 そのため、新羅を取り込んでまず百済を滅ぼし、高句麗の内乱を利して南北からの時間をかけた圧殺に方針を切り替え滅ぼしたのであった。 しかし、朝鮮半島の実効支配権は新羅の必死の反攻からの土下座外交で譲らざるを得なかった。 3.日本への対応 よく聖徳太子の国書にブチ切れた逸話だけが流布されており、器が小さいイメージで言われることがあるが 小野妹子が返書を無くしながらも無事帰国しているように、別に文面が「蛮族の癖に天子名乗るとかコイツクソ傲慢だな…」ってことでプッツンこそしてしまったが、 それに惑わされて日本を敵に回し、日本の友好国である百済をさらに先鋭化させ高句麗の味方に固定化させるようなことはしなかった。 実利を見失わず、使者にはそれなりの対応をした上で返書を渡すなど、日本の面子も潰さぬように最低限の配慮をしているのである。 百済は南朝系の王朝と関係が深かったせいか、北朝系の隋とは仲良くする気配は結局なかったが。 イギリスに三跪九叩頭の礼を強制し、険悪になってアヘン漬けにされた清に比べたら全く悪くない対応である。 4.暴君キャラ付け唐による陰謀説 煬帝は確かに拙い施政で無駄に反感を買ったり、空気がイマイチ読めていないのでは?という面はある。 しかし彼の政策は唐の世界帝国化には不可欠な要素しかなかった。にもかかわらず、唐が編纂した史書では稀代の大暴君として描かれている。 これには、唐の太宗・李世民の所業が影を落としているという説がある。 李世民も、次子であり中華統一に司令官として従事し貢献。統一後兄や弟を殺して皇太子に成り代わる、など行動・事績に共通点が多いので 李世民への擁護として「煬帝が太宗と似たような行動をしてる?違うよ、全然違うよ。」とアピールしたいが故に、父の側室強奪話などが付け加えられ、誇張されたのでは?というものである。 現在の研究では、大小あれど唐による誇張が入った暴君像であるという見解になっている。 …まあ、煬帝は亡国の皇帝なので誰も擁護してくれないし、むしろ重臣たちがどんどん自立したり、見限って逃げたりしているのでひっくり返すのが難しかった面は大きい。 唐を建国した李世民の父・李淵も、元を正せば文帝・楊堅の縁戚(*4)であり同一系統の貴族グループであることも、拍車をかけた一因であろう。 主君への裏切り・弑逆には周到な準備と大義名分が必要なのは世界中どこでも同じである。 5.フィクションでの煬帝 タコタコ星人。 は別としても「隋唐演義」では、この手の作品にしては珍しく好意的に描かれている。 実際に暴君・暗君・政治的無知という描写は多い(例えば父楊堅の愛妾を奪おうとして拒否され、切羽詰まって父を殺すなど)ものの、 後宮に集めた美女たちに対してやたら明るく、そして優しくふるまっており、美女たちも煬帝にこたえ得ようと様々なイベントをこなしていく。 さらに殺される寸前には幾人かが殉死(それも煬帝の代わりに逆党らを罵倒し、切り殺されるものもいた)の道を選ぶなど、 「外庭は治められなかったが、内庭では名君だった」とキャラ付けされている。 さらに、本来はその時に一緒に殺されるはずだった息子、趙王楊杲が脱出に成功し、紆余曲折を経て異民族の王となる、というはるかに救いのある展開となっている。 ついでに言うと、隋唐演義でヒロイン的女性キャラの数が桁外れに多いのは、煬帝の後宮から脱出した美女たちがその後も要所要所で出てくるからである。 つまり現代ラノベもビックリなほど美女たちが出演できたのはある意味彼のおかげともいえるのだ。 (もちろん関係ない女性も多い。つか隋唐は武則天をはじめ、やたら女性が強かった) とまあ一通り擁護してきたものの、エネルギッシュなのはいいがいっぺんに大事業を同時進行でやった挙句、拙い対応で民や重臣の離反を招き その中でやる気を失って機能不全の暴君に成り下がり、隋を滅ぼしたのは紛れも無い事実である。 ただ、悪しざまにだけ言われるほどの無能ではないってことだけ覚えて帰ってください。 これでも五胡十六国時代の暴君たちと比べたら生ぬるいし。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 支那は天命思想の上で歴史を編纂するから前王朝の末代の王を悪しざまに書くのは古今東西よくあることだから煬帝の所業に誇張がある、と見るのは確かに間違いないだろうね。 -- 名無しさん (2015-11-07 20 37 28) 隋や唐が漢民族かどうかがよく言われるけど漢民族でもあり異民族でもあるというのが実際の意識だったんだろうな。 -- 名無しさん (2015-11-07 21 54 46) 少なくとも運河事業のおかげであの氾濫多い大河が少しマシになっただけでも後の皇帝たちの負担が大分軽くなったのは事実だな -- 名無しさん (2015-11-07 22 12 26) 昔は氾濫や日食が起こるのは皇帝の"徳"がない性だって本気で思っている儒者がおおかったしな -- 名無しさん (2015-11-07 22 15 06) 駆け足すぎたり前後の計画性が滅茶苦茶だったりするけど、全部が悪手かって聞かれると返事に困るのが難しい -- 名無しさん (2015-11-08 06 25 15) 無能な働き者だけど着眼点は悪くなかったな -- 名無しさん (2015-11-08 07 28 11) 暴君と名君は紙一重だからな -- 名無しさん (2015-11-08 12 34 36) あんまり関係ないけど、「暴君」って言われる人を悲劇の人物として描く物語とか映画って結構多い気がする -- 名無しさん (2015-11-08 13 57 27) 中小企業のワンマン社長みたいだ。 -- 名無しさん (2015-11-08 15 00 40) 「然り。我らは暴君であるが故に英雄だ」 -- 名無しさん (2015-11-08 16 59 07) もう少し考えて政策をしていればここまで悪く言われることはなかったのだろうかね。 -- 名無しさん (2015-11-08 18 26 07) 皇帝である以上ある程度華やかに振る舞わないと「あの皇帝は貧相な生活しか送ってないぞ。もしかしてこの国やべーんじゃねーの?」と民衆に受け取られかねない。それを防ぐためには噂が決してたたないようにきらびやかにやっていく必要はあったんじゃないかな? 全ての事業や軍事行動にどれだけの負担と、それから得られる利益との計算を正しく行えて運営していければ名君だったのかもね。つまり必要だったのは優秀な文官の存在か -- 名無しさん (2015-11-08 18 56 11) ↑ 確かに世間体はあるけど後半は完全に自暴自棄くさいな、バンバン言ってくれる臣下も自分から殺してるし、、本人の能力の限界だったと取れなくもない -- 名無しさん (2015-11-08 19 49 19) ↑5 暴君だって人間なんだから残虐になるには理由があるってなるとだいたい悲劇に繋がるからねぇ 例えば二宮の変で父を無残に殺された孫皓もそういう観点から見ることができるし -- 名無しさん (2015-11-09 02 49 29) タコタコ星人が二回出る理由は・・・ -- 名無しさん (2016-06-01 18 33 48) 物事は書き手の印象でガラッと変わってしまうからな。本当に中道な人が書いたんじゃなきゃ何かしらの好悪の感情は入ってる -- 名無しさん (2016-10-05 10 37 50) ネロとか綱吉とか則天武后も「実はそんなに悪くなかったってか名君っぽくね?」みたいに言われてるし -- 名無しさん (2018-02-05 09 52 00) 学生時代にギャグマンガ日和を読んだせいで煬帝と聞くと真っ先にタコタコ星人が出るようになってしまった。多感な時期に何てものを見せてくれたんだ、増田こうすけ -- 名無しさん (2018-02-05 10 50 34) 最後にほんのちょっぴりタコタコ星人に成り代わられてた本物が釈放されてただろうがいい加減にしろ・・・影薄いけど。 -- 名無しさん (2018-02-05 11 02 07) つまづいたふりして、塩をかけたい -- 名無しさん (2018-08-01 12 54 00) 頭はいいけどやり方と、それが他者からどう見られるかに考えが及ばない人だったのかな? やってることはまともでも広報に失敗して民から大バッシング、というのは世界史でちょこちょこあるし -- 名無しさん (2018-08-01 13 30 44) 弱点は塩。 -- 名無しさん (2019-08-29 01 37 17) 小野妹子の国書にブチ切れながらも、そのまま妹子を処刑したりしなかった時点で、ただの暴君ではないとは昔から思ってたな -- 名無しさん (2019-08-29 09 19 14) 極端に無念 -- 名無しさん (2019-11-27 16 54 39) 始皇帝も鯖になったし、この人もFGOに出るかな? 反英霊かもしれないけど -- 名無しさん (2020-02-20 21 56 42) ↑志は高いけど、やることやることがみんな下手を打ってしまう、ってキャラになるかも。 -- 名無しさん (2021-01-06 13 04 08) ネロも煬帝も晩年に実際に暗君化したせいで再評価というほど評価を覆せていない。 -- 名無しさん (2021-01-06 13 19 21) ↑×3 サーヴァント化はしないでしょ。始皇帝は人類初の皇帝を名乗った、法家国家を作った、マスなど度量衡を統一したなど、人類史に残る功績を残したが、煬帝は精々大運河建設させたくらいだぞ、功績と呼べそうなもの。敢えて言えばジキルとハイドのようなバーサーカーか? 煬帝よりサーヴァント化しそうな中国人はいくらでもいる -- 名無しさん (2021-01-29 09 21 47) ギャグ日だと読切の曹操も火星人だった -- 名無しさん (2021-01-29 09 47 16) 弱点は塩。 -- 名無しさん (2021-02-10 10 39 25) この手の暴君or暗君扱いされてる史実の人物って「世界の歴史漫画」とかその手の漫画作品の影響もありそう -- 名無しさん (2021-06-22 01 13 56) 功績を評価する向きもあるけど、400年続いたグダグダがようやく収まったと思ったのにまた逆戻りさせかけたとかそりゃ許されませんわ -- 名無しさん (2021-11-14 16 45 08) 大運河の建設はともかく高句麗遠征は隋滅亡の引き金になってるんだから擁護できんでしょうに -- 名無しさん (2022-12-15 01 48 53) でもおかしいよな…中華民族()による世界制覇とか目指してんだから後の皇帝たちから高評価されてもおかしくはないはずだが、何が駄目だったんや -- 名無しさん (2024-06-13 13 55 23) 名前 コメント