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登録日:2020/01/20 Mon 00 03 10 更新日:2024/04/30 Tue 22 23 03NEW! 所要時間:約 ? 分で読めます ▽タグ一覧 さっきまで男のシンボルだったものが宮殿中に転がる 世界帝国の終わり 中国史 乱世 五代十国時代 北部:大乱の時代 南部:貿易の時代 宦官2万人(成人男性の10%) 産みの苦しみ 群雄割拠 軍閥 五代十国時代の政情は一口に言えば――漢末の動乱と五胡十六国時代の混乱を足して、二で割ったような状況を呈していた。 安能務「中華帝国志」中巻 五代十国時代とは、古代中華帝国最大版図を築き世界帝国を実現した唐が、 一世紀近く身をよじってもんどり打った挙げ句、バラバラに引き裂かれた後に起こった大動乱の時代である。 ちなみに五代は「中原を支配した五つの王朝」で十国は「中原は支配できなかった地方で興った王朝」を指す。 感覚的にはあの五胡十六国時代に似ている。 前史としての盛唐~黄巣の乱ダイジェスト 五代十国群雄紹介五代唐(~907年) 後梁(907年~923年) 後唐(923年~936年) 後晋(936年~946年) 後漢(947年~950年) 後周(951年~960年) 五代の果て 十国①呉(902年~937年)、②南唐/江南(937年~975年) ③前蜀(903年~925年)、④後蜀(934年~965年) ⑤荊南(907年~963年) ⑥呉越(907年~978年) ⑦閩(909年~945年) ⑧楚(907年~951年、956年~963年) ⑨南漢(909年~971年) ⑩北漢(951年~979年) 後世への影響 この時代をもとにした創作 <追記> この時代の有名な人間 前史としての盛唐~黄巣の乱ダイジェスト 大乱の振り出しは唐の滅亡から200年弱前の時代からジワッと始まっているので、おさらいしておかねばならない。 唐の第9代皇帝にして、武則天(*1)の暗躍から始まった宗室の乱れ(*2)を収束させた玄宗。 武則天が築いた内政の礎をもとに開元の治と呼ばれる善政で国力を大いに高め、周辺国に威光を示す大国としての唐を作り上げた名君である。(*3) その玄宗の改革は軍事にも及んでいた。 元々遊牧民を想定していたものの、定着農耕民が多い中華全体の義務にしたため、歪が大きくなってしまっていた府兵制を改革。 安定統治・精強な兵による異民族の圧迫のため節度使制度を導入。 これは辺境の領土の徴兵権や徴税権の一部を任せて運用させる事により、士気の高い精強な軍勢(*4)を長く維持し異民族を圧倒するという手法である。 早い話がちょっとした地方分権政策である。兵農分離政策でもある。 これが奏功して軍が強化され、一時は西域に従属国や領土を増やし、中央アジアはトランスオクシアナ、タラス河畔(*5)でイスラム帝国と激突するまでに勢威を伸ばすことに成功した。 …が、その玄宗自身が晩年に節度使に任じ、藩鎮(*6)を任せた蕃将(*7)安禄山を偏愛しすぎ、三箇所兼任させるなどの特権を与えすぎてものの見事に軍閥化させてしまうという大きなミスを犯す。 玄宗とその寵妃・楊貴妃の大きな寵愛を受け増長した安禄山は案の定政治の主導権を巡り楊貴妃の一族である楊国忠と対立。 政治的に楊国忠に敗北すると藩鎮の軍勢を率いて反乱を起こすに至る(安史の乱)。 大乱の最中、長安から落ち延びる途中で兵や玄宗側近から「諸悪の根源」と楊国忠・楊貴妃は殺され、玄宗自身もまた息子の粛宗が即位を宣言したことで引退を強いられる。 だが粛宗は反乱鎮圧のために諸将らを節度使に任命し利益を与えるということを乱発した。 反乱に参加した部将も、投降した場合節度使に任命し藩鎮を与えるという切り崩し工作を行ってもいた。 結果的に安禄山軍の内訌もあってなんとか反乱を鎮火の方向に持っていけたものの、中央政府である唐の統治力がガタ落ちするという事態を引き起こしてしまった。 さらに粛宗即位の際に、いままで鮮卑系貴族に権力で劣っていた宦官(*8)が積極的に擁立に協力した功で出世。その結果権力を増し本格的に暗躍するようになった。 中国史あるあるではある。 かくして統治力は全盛期より落ちていき、税収入も節度使がその地方地方で軍を養うために一定程度引き抜くため中央政府は徐々にやせ衰えていく。 結果的に中央アジアどころか西域も維持することができなくなり、国境はどんどん縮小していった。 そうなると藩鎮側もさらに増長し、中央政府に送るものを減らす。 そのため、安禄山の反乱以降は藩鎮の力を削るのが中央政府側の大きなテーマとなった。 安史の乱鎮圧に回鶻(ウイグル)に頼ってしまったので高額の歳幣(*9)を贈り続けていたし、 チベット方面からもチクチク殴られ始める。宦官も朝廷内で権力を伸ばすなど唐の国勢は悪化していった。 とはいえ、淮南など唐を通して経済の中心となった江南地域はまだ温和で言うことも聞くことが多かったようだ。 まあ当然聞かん坊もいるし場合によっては反逆もする愉快な連中である。 一方安史の乱の降将らが治める北の僻地はだいたい言うことを聞かず、税収入も中央に上納する分すら懐に入れて私兵の運営に使っていた。 特に悪名高いのが河朔三鎮と呼ばれる北方の三藩鎮であった。 ただ、確かに安史の乱を経てそれ以前と同じような「完璧な支配」はできなくなったが、 乱以後も節度使体制を通じて「それなりの支配」はできた。状況に対応した新体制へのシフトができたといえる。 以後は、中央政府と各藩鎮が妥協と交渉を繰り広げる「唐朝後期(*10)」に入り、政争は激しくなったものの、それなりに安定する。 そもそも「安史の乱」から「唐朝滅亡」までは150年もの歳月があり、しかも安史の乱では玄宗ら首脳は脱出成功、楊氏を粛清する余裕も、粛宗が即位する余力もあり、反乱自体も数年で鎮圧できた。 確かに「安史の乱」は唐朝のシステムを大きく変える一大転機とはなったが、それを以って「唐朝滅亡の原因」とするのは正しくない。 後述されるとおり、藩鎮勢力は唐朝より先に寿命を迎える。唐滅亡のきっかけとなるのは「牛李の党争」と「塩の密売」である。 さて、節度使体制を再構築した粛宗・代宗が没したあとは、第12代の徳宗が即位。 彼は藩鎮勢力を消耗させようと考え、兵力削減や世襲による継承の禁止など強硬策を取った。 しかしあまりに急激に進めようとしたため各藩鎮の態度が硬化、反乱を起こされて長安を追われるという大失態を犯してしまう。 結局『罪己詔』を発して藩鎮不介入を約束するなどして全面降伏。 一方藩鎮側も反乱を起こした藩鎮同士で争ったり、待遇問題などで兵士が蜂起して上司を殺害するレベルの内訌を起こすなどグチャグチャになる。 なおかつ反発はしているが基本的には「唐から節度使に任じられて藩鎮を治める」ことで自身が上に立つ正当性を担保しているという、 「学校バックレたり家出したりするけど高校の学費やスマホ代は親に払ってもらってる子供」といった風情の存在であり、 唐に寄生しないと生きていけないためなんとかこのときは一命をとりとめた。 唐帝国の権威をこれ以上損ねるわけにはいかないからな…というのは皮肉な話ではあるが藩鎮側も一緒だったのであった。 回鶻「そんなものとっくにありませぇえええええん!!」 徳宗「なんだとぉ・・・(弱気)」 さて徳宗の次の順宗は即位後ほどなく病に倒れたため、順宗の息子の憲宗が14代皇帝に急遽即位する。 その憲宗は宿願である藩鎮制御のための大改革に着手。 祖父徳宗時代の失敗を踏まえた上で新たに軍政を統括する枢密院を創設し、腹心とも言える宦官をその長に据えて軍の統制を図り、逆らう藩鎮は叩き潰すなどして追い詰めていった。 その結果、配下の兵が待遇問題などの些細なことでも反乱しててんやわんやになりやすいということも手伝い、藩鎮の側から自ら領土や地位を返上する者が続出。 上述の河朔三鎮すら一つが取り潰しを食らうと他ニつがついに唐に恭順する意向を示し、唐帝国は蘇った。 …んだったら良かったのだが、藩鎮の鎮圧が成功したのもつかの間、太子が夭折した憲宗は気が狂ってしまい 仏舎利を祀れば国家安泰!という邪教めいた言い伝えを信じて仏教を奉じてド派手な儀式を執り行ったり、 不死の丹薬(*11)をがぶ飲みして精神をおかしくして宦官虐待に走った挙げ句、その宦官に暗殺されてしまった。 ともあれ、藩鎮は一時期より抑え込めたのだが…今度は科挙や武則天の抜擢などでのし上がってきた家格の低い下層貴族出の政治集団と、 これまで官位の最上級クラスに位置していた家格が非常に高い高級貴族層が複雑に絡み合い主導権を奪い合う時代が到来。 片方が勝てばもう片方の政治を全否定して巻き戻し、逆が勝てばまた全否定して…というのが繰り返されてしまう。 これを牛李の党争といい、ガンであった藩鎮を鎮圧しカンフル剤を打てばもう一回盛り返せたかもしれない唐にとって死に至る毒となった。 この「牛李の党争」と、続く塩の密売のほうが唐朝の致命傷となる。 ちなみに党争中は宦官を頼みにする官僚は多く、宦官はモリモリ力をつけていった。 皇帝側も 角力観戦やポロに明け暮れ、角力力士が宦官に暴虐を振るったため寝所で暗殺された敬宗 臣下と結託し宦官排除を試みたが、一人が欲張って計画失敗して幽閉死。宦官の勢威を高めた文宗 不死の丹薬がぶ飲みで寿命を縮めた穆宗と武宗と宣宗 という感じで、宦官のコントロール下に置かれた人物も多く、丹薬がぶ飲みで体調を崩して早死した例もままあって大した成果も上げられなかった。 とりあえず、上記の内最後に即位した宣宗は丹薬飲んだのが致命的失策ではあったが、牛李の党争を終わらせることにだけは成功した。 一方、民はといえば政策が右往左往して疲弊しきっていた。当たり前である。 そして藩鎮も最盛期より縮小し官僚貴族も疲弊したところで、権力が肥大化しきった宦官が操り人形にするための暗愚凡愚を二代続けて即位させる。 即ち懿宗と僖宗である。政治的には無力で、そもそも執政を宦官に丸投げした(せざるを得なかった)この二人の時代に民の情勢は多発する災害もあり加速度的に悪化。 藩鎮では兵が相変わらず待遇問題などで暴れ、農民も行政に対する不満から流賊となり反乱を起こすなど治安は悪化の一途をたどる。 そしてこのころ「塩」の問題が起きる。 塩は生活必需品だが、中国では基本的に東の海が一大産地であるため、そこから広い内陸部へ至る流通ルートを支配すれば必ず儲かる。(*12) これは前漢の頃から議論が行われており、中華王朝にとってはバランスの取り方が問題であった。Wikipediaに「中国塩政史」なんてページがあるくらいである。 唐以前は主に製塩業者に課税するのが普通であったが、唐後期には塩の専売制を始めるようになった。しかし財政難になると猛烈に値上げするという阿漕な手に出る。 上記の通り塩は高額であっても使わないという選択肢が存在せず、富裕層も貧困層も必要性には差が無いため、課税の逆進性が大きい。専売塩の値段釣り上げは庶民を非常に苦しめることとなった。 そうなると当然「塩の密売商」が出てきて、安く売るのは理の当然であった。当然庶民は密売の塩を買い、闇社会にカネが流れ込む。 政府は塩の密売に厳罰を課したが、取り締まりの強化のためには予算が必要であり、その予算をひねり出すためにさらに専売塩を値上げする。 そうすると更に密売人が儲かり、専売塩は買わないため財政は好転しない…という悪循環に陥った。 しかも今回は、そうした密売人が金のみならず人心まで得た。彼ら塩商人は自分たちを慕う農民を率いて「塩賊」と化し各地で蜂起した。 そして黄巣という、過去に科挙に何度も失敗した挙げ句に塩の密売人になった人物がそれらをまとめていった。 後の世に黄巣の乱と呼ばれる大乱、そして唐の終わりの始まりであった。 官軍は皇帝直隷の禁軍は弱体化していた上、藩鎮を弱めたこともあり初動での対処に失敗。次々と拠点が陥落してしまい反乱軍は勢いづいていく。 民は事あるごとに塩の値段を上げる政府より、安く塩を売ってくれる塩の密売人を信頼しており次々反乱に加担し大軍となっていく。 そうこうしている内に大陸全土に火種はばらまかれ、これまで鎮圧出来た反乱とは比べ物にならない規模になってしまったのだ。 そうなればどうなるか? 次々節度使に任命して藩鎮を増やすとか、反乱軍に官位を与えに行って切り崩すとかそういう泥縄をやっていくわけである。 そうこうしている内に、反乱軍主力となった黄巣の軍勢が長安や洛陽といった唐の心臓部である首都及び副都を陥落させるという致命的な事態に陥ってしまう。 このあと長安がどうなったかと言えばまあ地獄である。百官諸大夫・長安市民の内、逃げ遅れたものは略奪陵辱皆殺し。 僖宗はなんとか蜀に逃げおおせたものの、黄巣は国号を斉とし皇帝に即位する。 が、所詮科挙落ちのちょっと目端の利くくらいの男でしかない黄巣と無学の農民の群れに執政可能な人材がいるはずもない。 さらに百官諸大夫から恭順する者を選ぶでもなく鏖殺してしまったため輔弼するものもいない。 とどめに仲間割れから主な将の一人であった朱温が唐の説得と官位につられて投降。討伐軍に鞍替えされてしまう。 こうなってしまうと略奪陵辱祭りを開催しすぎて、反乱に参加していない民も大いに被害を受けてドン引きしていた斉の支持は急落。 唐が片っ端から節度使に任命した中から突厥出身の"独眼龍"李克用(*13)が出現。 彼率いる黒ずくめの精鋭・鴉軍の野獣の如き猛攻と、黄巣軍をよく知る朱温の的確な攻撃に斉はあっけなく崩壊。 黄巣軍は李克用の鴉軍に山東半島まで追い詰められたのち殲滅され、黄巣は自害して果てた。 僖宗は宮殿も街も焼き尽くされた跡となってはいたがなんとか長安に帰還。 しかし、朱温改め朱全忠(*14)や李克用こそ形の上で唐を担いだものの、 各地の節度使は唐朝廷の主導権を握るべく朱全忠や李克用らと全面戦争に突入する者、そもそも唐に従う理由はもう何もなしと地方で独立し王国を築く者など様々に分かれた。 黄巣の乱終結は中央政府としての唐の終焉であった。長安付近の僅かな土地にしか支配権を及ぼせず、独立した軍閥同様、あるいはそれ以下の小勢力に実質格下げとなった。春秋戦国時代の周王朝並の存在感である。 しかし中華皇帝としての権威や正当性は未だ保持している。朱全忠が担ぎ、李克用がなんとか主導権を奪おうとするのはそれが理由の全てであった。 五代十国群雄紹介 ここからが本題。五代十国時代に君臨したりしなかったりした群雄の紹介を国ごとにしていく。 五代 前述の通り、「中原を支配した」王朝五つと、黄巣の乱後の唐の動向を記す。なお唐滅亡後の時代区分のため、唐は五代に含まない。 唐の首都・副都であった長安・洛陽が荒廃していたこともあり、後唐以外は全て開封を首都とした。 開封には隋の煬帝によって運河が通っており、大きく発展していた。この時代以降も主要都市となる。 唐(~907年) 長々と書き連ねたとおり、長安付近のほんの少しを保持する程度に落ちぶれてしまったが、権威だけは持っていたため生き残った宦官・朱全忠・李克用・他の節度使らで主導権を巡り暗闘が繰り広げられた。 僖宗は黄巣の乱鎮圧後程なく崩御し、昭宗が即位。昭宗は神策軍(*15)を強化することでなんとか権力を取り戻そうとするも、 神策軍の一兵卒から成り上がった長安の西側を支配する隴西郡王の李茂貞が反乱。 昭宗は討伐軍を興そうとするが、他の軍閥は下手に協力して明日は我が身になったら嫌だとばかりに協力を拒否。 神策軍は再建途上で当然勢力的に弱く、圧倒されて関中を支配されてしまった。 更に悪いことにこの混乱の最中に宦官により昭宗は廃位され皇太子が即位するが、別グループの宦官がカウンタークーデターの形で皇太子を廃位して昭宗を再度即位させるなど混迷は深まっていく。 李茂貞は昭宗を自分の本拠である鳳翔(*16)に拉致。岐王に封ぜられ禅譲を迫れるところにまで近づいた。 しかし蜀・漢中を支配する王建(*17)、朱全忠、李克用ら有力者が揃って李茂貞を攻撃。 李茂貞の勢力は一気に弱体化、没収された領土は朱全忠と王建が分け合った。 そしてこの後、朱全忠は李茂貞討伐で得た領土を含めて群雄中屈指の存在となり、さらに巧みな政界遊泳で唐の主導権を握っていく。 最大の敵である李克用の横槍も自らの領土拡張で阻止。軍略は最強だが政治的には全くの素人で弱小、配下に謀臣もいなかった李克用は北方の本拠地太原(*18)に封じ込められてしまう。 こうなると朱全忠を止めるものはなく、宦官を完全抹殺されるなど影響力を落とし続けた昭宗は朱全忠の脅しに屈して洛陽に遷都。 さらに配下二人に命じ刺客を送らせ昭宗を弑逆。なおその二人は免責は当然されず、捕らえられ処刑された。汚いなさすが返り忠きたない。 その中には朱全忠の仮子(*19)朱友恭もいた。実質他人の仮子とはいえ汚れ仕事に使うあたりひどい話である。 そして禅譲をさせるためだけの存在として幼帝・哀帝を擁立する。唐が完全に滅ぶカウントダウンはついに開始された。 長兄に「元は反乱軍のお前ごときが恩を忘れて三百年の社稷を奪うのか!馬鹿めが!」と罵倒されたり、優秀な長男朱友裕が急逝するなど徳が足りないと天が囁くかのごとく不幸もあった。 しかし哀帝即位の翌年には、まずは哀帝の兄弟10人を洛陽苑内の九曲池に集め宴会を催した上で途中で配下を乱入させ全員を絞殺、遺体を九曲池に投げ込む(九曲池の変)。 その4ヶ月後には、高官を地方送りにする名目で降格させ、任地に向かう途中の駅でまとまったところで一気に殺害し黄河に沈めた(白馬の禍)。これによって九品官人法から始まる中国の貴族制は完全に崩壊した。 こうして禅譲の邪魔になる皇族と貴族層も殲滅され、朝廷内で朱全忠に逆らえるものは消滅。哀帝は政治的に手足を断たれたといっていい。さらに唐復興の神輿になりうる人物も抹殺した。 こうして準備を周到に整え、朱全忠は哀帝から禅譲を受けて梁を建て(*20)、さらに諱を唐から受けた全忠から晃へと変更した。 ここに唐は完全に滅んだのであった。907年のことである。 旧皇族は上記の通り抹殺済み。禅譲翌年には哀帝も殺害されて唐は綺麗サッパリなくなった。 後梁(907年~923年) 皇帝となった朱晃(太祖)は手始めに、病に倒れそのまま亡くなった最大の敵である晋王・李克用の領土を狙い侵攻軍を発するものの、 後を継いだ李克用の長男、李存勗の前に大敗。その後は後梁は晋軍の前に押されっぱなしとなる。 太祖は節度なしの好色家で子の妻にも手を出すなど、今で言えばセックス依存症的な面があったが、 年を取り体力もないのに関係を持つのをやめなかったためか病気がちとなりあっという間に耄碌。後梁の政治も乱れた。 一番お気に入りの王氏を妻にもつ仮子、朱友文を後継者に立てようとするも、素行が悪く疎まれて左遷されていた実子の次男朱友珪と、暴虐に耐えかねていた近衛軍により太祖は殺され、朱友珪が皇帝となる。 しかし悲しいかな、朱友珪には人の上に立つ才能が全くなく、その上殺戮だけは大好きというしょーもない人物であったため太祖の仮子朱友謙が李存勗に帰順する(*21)など混迷は加速。 最終的には異母弟の朱友貞の巧みな煽動に乗せられた近衛軍の謀反により即位から一年持たずに殺害され、朱友貞が皇帝として立つ。 しかし配下の天雄軍節度使が亡くなったのに乗じて天雄軍を分割しようと試みて失敗。 天雄軍は晋に投降してしまい軍事的に弱体化。晋王・李存勗の父以上の軍略に対抗する力を失い、更に弟や従兄が反乱を起こし、猜疑心に囚われて異母弟らを殺戮し始めるなど最早国の形を保つことも困難な情勢になった。 これを見た晋王・李存勗は唐の後継者を名乗り皇帝として即位。後梁を滅ぼすべく総攻撃を仕掛けた。 朱友貞は配下に介錯を頼み自害。後梁は三代十六年という短命に終わった。 後唐(923年~936年) 時はややさかのぼり、908年に"独眼龍"李克用の長男として晋王の座を引き継いだ李存勗は、 父の遺言に従い遼東で独立した燕王・劉仁恭、契丹の耶律阿保機(*22)、そして後梁の朱晃を滅ぼすべく活動を開始。 とりあえず対後梁に集中すべく耶律阿保機とは和議を結ぶなど修好の姿勢を取り、913年に劉守光(*23)を倒し燕を滅ぼすと後梁に猛攻を仕掛ける。 向こうの自滅もあって勝ち戦となり923年には唐の後継者を自称し皇帝に即位。後唐の成立である。 その後に後梁を滅ぼし父の宿願を成就させた。 即位後は陝西地方に小国「岐」として独立していた過去の人・李茂貞を降伏させ、後梁には出した臣従の使者を出さなかった前蜀を滅ぼし漢中や四川も獲得。 唐の後継者と自称した通り、大帝国の復興を成し遂げていく…かに思われたが、李存勗(荘宗)は父親以上のとも言われる軍才はあったものの、父親以上に政治音痴で統治が出来ないタイプという致命的弱点があった。 唐に憧れるあまりに官制をただ真似てしまい宦官を重用。さらに軍の監察にも宦官を起用し、配下に不満を溜めさせてしまう。 そんな中反乱が発生。討伐軍を任せた父の仮子・李嗣源にも背かれ、洛陽で禁軍に殺害された。 皇太子・李継岌の軍勢をも破った李嗣源は軍に推戴され正式に皇帝に即位した。 李嗣源(明宗)は政治音痴だった荘宗や義父李克用とは違い統治能力が高く、荘宗の宦官重用を正し、税制の整備を行い、財政を司る役職を取りまとめた三司を創設し財政の安定を図るなど、 内政において目覚ましい成果を挙げ、自身は倹約して慎ましく暮らすなど名君の誉れ高い存在となった。 しかし即位7年で急死、李従厚が後を継ぐがとんでもなく暗愚だったので配下の軍人の専横を許し、それを見た明宗の養子・李従珂に反逆されて帝位を追われ殺害される。 しかし李従珂も外戚の重臣石敬瑭と対立。その石敬瑭はよりにもよって契丹と手を組むことを決断。 母に疎まれて皇太子の座を追われて亡命していた兄・耶律突欲の要請もあり、契丹の大英雄・耶律阿保機の後継者二代皇帝太宗が大軍勢を率いて石敬瑭支援のため南下。 後唐軍は敗北し首都洛陽を包囲され、李従珂は焼身自殺し後唐は滅んだ。 ちなみにではあるが、後唐から先の王朝はすべて突厥沙陀族系の王朝になる。 郭威から先はやや微妙(*24)なところだが、どちらにしろ突厥人だらけの首脳部で実力を認められた存在には変わりないので突厥の影響は非常に強い。 そもそも漢人云々にこだわったところで唐も鮮卑系漢人とか漢化した鮮卑が建てた王朝といわれるので何を今更感はあるが 唐太宗・李世民に打ち破られ支配下に置かれた東突厥の末裔が中原を席巻し統一王朝に繋いだと思うとなかなか皮肉が効いているかもしれない。 後晋(936年~946年) 契丹の支援を受けて即位した石敬瑭(高祖)であったが、その軍事力をほぼ契丹に頼ったため、大変な代償を支払うことになった。 特に後世に燕雲十六州と呼ばれる領土の割譲は後に続いた中華帝国に深刻な損害を与えた。 その割譲した土地の中に、大同や北平(現在の北京)といった万里の長城内側に当たる土地があったため、北方からの侵攻を食い止めることが至難となってしまった。 しかも鉄や石炭といった戦略資源の産地も存在していたので、これの奪還が課題となり続けることになった。 後述する五代の王朝や宋は奪還を果たせず、統一王朝の支配下に入ったのは元の時代、中華帝国が奪還したのは明の時代、400年弱後になる。 なお後晋は高祖在位中は契丹の衛星国家として毎年絹を三十万疋送るなど忠実にポチを演じるものの、高祖が契丹から問責を受け続けてストレスから病に倒れ憤死。甥の石重貴が即位すると側近は契丹からの独立を画策。 しかし軍事力の差がどうしようもなく、中原に野望を見せた遼太宗が大軍を率いて再び中原に親征。 二度は防いだが三度目に大敗し、一気に首都開封を落とされて降伏し滅亡した。 後漢(947年~950年) 光武帝のやつとなんかややこしいが、慣例上はこう呼ばれている。なお「こうかん」と呼むことで一応の区別はされる。光武帝の方は「ごかん」。 契丹太宗が補給の問題や周囲の説得に失敗し、中原支配を諦め開封から撤退すると、石敬瑭の側近格だった劉知遠が自身の本拠太原から軍を発して南進し開封を占領するとそこで皇帝に即位。 劉姓であることから国号を漢とした。が、翌年には寿命が尽きて崩御。 二代目には次男の劉承祐を立てたが、側近は年若い彼を使って自らの邪魔となる有力軍人を家族もろとも次々粛清にかかった。 そのうちの一人であった郭威は出征中に家族を皆殺しにされてしまい、粛清を回避できないと悟ると兵を挙げ首都開封を落とし実権を掌握。 当初は劉知遠の甥劉贇を皇帝に立てる予定であったが、急に気が変わったとばかりに殺して郭威自らが即位。後周を建てたため後漢はわずか3年足らずで滅亡となった。 後周(951年~960年) 簒奪が如く帝位を奪った郭威(太祖)であったが、内政に力を尽くし国力を養うことに専念。 荒れ果てた中原を建て直しにかかったが、残念ながら寿命が足りず即位3年で崩御する。 後を継いだのは皇后の兄の子であり、郭威に養育された柴栄(世宗)であった。 世宗も大変に優秀な人物で、義父の立て直し路線を受け継いで国力を養うことに邁進。 藩鎮・節度使の弱体化及び皇帝直率の禁軍の強化など唐からの懸案解決の他様々な施策を実行すると、その蓄積を持って統一事業に打って出る。 十国の内、戦乱を避け四川の豊富な資源等で安定した力を持った後蜀、経済力を持って十国最強と言われた南唐を撃破。 吸収するには至らなかったが、南唐は経済の中心であった塩の産地を奪取され弱体化、後蜀も天水など北部の領土を奪われてしまった。 これで更に基盤を強化した上で北の契丹及びその衛星国家として存在した北漢と全面戦争に突入。 燕雲十六州の内、南部二州を奪い返すなど目覚ましい成果を挙げるも世宗はこの遠征の最中に病死。 後を継いだのは7才の皇太子、柴宗訓であった… 五代の果て 後周は名君が二代続き、もう少しで中華を再統一出来るところまで来たのだが、上述の通り二代目の世宗が燕雲十六州奪還戦の最中に病に倒れそのまま崩御。 皇太子は7才の柴宗訓であり、そのまま帝位を継ぐが年若い皇帝ということで群臣は不安を持ち、世宗の信任が厚く人格者でもあった趙匡胤を皇帝に担ぎ上げるクーデターが実行される(陳橋の変)。 これが後の統一王朝・宋の興りである。なお手際が良すぎるので趙匡胤の自作自演的な面があるともいわれる。 ただ、彼が人格者であるというのは概ねどの歴史家も認めるところであり、 例を挙げると、五胡十六国時代以降であればまず間違いなくあの世行きであった柴宗訓を手厚く保護。 皇帝に準ずる扱いをして臣下に「やりすぎでは?」と訝しまれるほど厚遇し、夭折した際は皇帝の形式で葬儀を営んだ程であった。 柴家はその後も宋が崖山の戦いで南海の果てに消えるまで勅令により保護された。 さて趙匡胤(太祖)は統一事業に邁進し、呉越と北漢を残すのみとなったが急死(*25)。 弟の趙匡義(太宗)が後を継ぎ、呉越に領土を献上させ、契丹の援軍を得た北漢の最後の抵抗を跳ね除けて滅ぼし、統一事業を完遂した。 しかし燕雲十六州奪還戦は契丹軍に敗れて果たすことは出来なかった。 乱世が残した宿題である燕雲十六州問題を早期に解決出来なかったことは国防の面で宋のアキレス腱となり続け、終いには首都南遷に繋がるのだがまあそれは別の話である。 十国 ここで十国の紹介。 黄河・長江流域以外にも国家ができているが、これは中国各地が発展してきたということである。 ①呉(902年~937年)、②南唐/江南(937年~975年) 群盗上がりの無頼の徒であった楊行密が、黄巣の乱に乗じて長江流域を切り取り、淮南節度使となったところを振り出しとする。 長江流域の経済力と自慢の精兵集団「黒雲都」の実力を持って淮河を渡ろうとした朱全忠の勢力を押し留めるなど勢威を誇り、唐から902年に呉王に任じられ実質独立を果たす。 楊行密自身は唐の臣下であるという意識があったのか唐の年号を死ぬまで使い続けた。妙なところで律儀。 しかし楊行密の死後は黒雲都の実力者であった徐温と張顥が年若く無力な後継者を立てて裏で実権を握る体制に移行。 まもなく張顥は排除されて徐温の独裁体制となり、禅譲を待つだけとなったのだが、最終的には徐温は禅譲を受ける前に死去。養子であった徐知誥の代で禅譲を受け斉を建国、後に名乗りを李昪に改めて南唐と改称。 十国中最強国家として立つ事となった。 李昪(烈祖)は内政能力が高く、南唐は北方の乱れをよそに経済力をバックに平和と文化を謳歌する国となる。 二代目の元宗は周辺に侵攻し最大版図を達成するなどしたものの後周の世宗に前述の通りの大敗を喫し臣従を余儀なくされ、 三代目の時代には国号を江南に変えるなどして必死に生き残りを図ったが、もはや十国最強国家の面影はなく宋に敗れ滅亡した。 ③前蜀(903年~925年)、④後蜀(934年~965年) 唐の四川方面節度使である永平節度使がベース。 王建が李茂貞の反乱鎮圧に貢献したことから唐の昭宗が蜀王の地位を与えた後独立。 蜀は資源豊富で天嶮が城壁となる堅固な土地などの理由から天府と呼ばれ、動乱から逃げてきた文化人、僧らでごった返していた。 蜀漢でもそうだったが、航空機のない時代なので天険はそのまま要害となる。玄宗も逃げてきたことがあった。 王建は経済力をバックに彼らを手厚く保護し、戦乱の北方からは信じ難いほど平和な国を作り上げた。 が、その一方で外に向かなくてもいい軍事力は王建体制維持に全力を注いでおり秘密警察めいた組織を編成し反乱分子を徹底弾圧していたという。楽園の闇な… しかし前述の通り後唐の荘宗の天嶮を越える猛攻で外に対する強さがなかった前蜀軍は大敗し滅び去ってしまう。 二代目がアホで国力が弱まっていた上に民心が離反していたのも原因である。 その後は後唐の領土となっていたが、本国の大混乱に乗じて占領を任された部将孟知祥が独立を図り、934年には後唐が蜀を管理不能となるのを見るや支配を振り切って完全に独立。 こうして再び四川に独立国が興る。後蜀である。 前蜀同様に天嶮を活かし内政に注力し文化を謳歌したものの、孟知祥を継いだ二代目は奢侈にふけって朝政は乱れ、後周他周辺国に領土を蚕食された後、宋により滅ぼされた。 ⑤荊南(907年~963年) 後梁が興った後、荊州方面の節度使に任じられた高季興が、朱全忠死後の混乱のさなかに独立した国である。 しかし国というには小さすぎ、臣下の礼を取りあくまで大国の節度使的に振る舞う。内政面でも独立国家としては貧弱な体制だったため、 「こんなんただの節度使やん…国ちゃうで…」という説もある。 というか宋代の歴史家でこの時代の史書をまとめた欧陽脩が無理くり十国扱いしただけという話らしい。まあキリはいいよね… 荊州は三国志でも要地だったがこの時代でも健在で「私どもは緩衝地帯ですぞ~」とばかりに高季興の巧みな外交交渉で立場を確保し、中継貿易で莫大な富を得て長きに渡り独立を保った。 が、弱小国の悲しみか宋が「楚を攻めるから道を貸せ」と迫った際に道を貸したのが運の尽き。 領内に入った途端降伏勧告が出され、屈さざるを得ず降伏しあっという間に滅んだ。 弱小国かつ交通の要衝ってならそりゃ真っ先に攻め取るよね… 交通の要衝を抑えられたため後蜀など十国が連衡して宋に立ち向かうという手段が取れなくなった部分はあるので、荊南の降伏は重要性が高かったと言える。 ⑥呉越(907年~978年) 長江河口付近、春秋戦国時代の越があった辺り。今でいうと浙江省付近を中心に割拠した国。 塩の密売人上がりの銭鏐が黄巣の乱に乗じて巧みに立ち回り、主君の軍団「杭州八都」を奪い取り浙江地方を支配、朱全忠に臣従し王に任じられたのが始まりである。 南の福建省付近に割拠した閩、長江流域最強国家の呉/南唐と抗争を繰り広げた。 5代に渡り海上貿易で栄え(*26)、閩が早々に脱落し南唐の攻撃を受けたものの耐え抜いたが、中華統一に驀進する宋と国境を接したところでギブアップし、自ら国を献じて退場した。 王家であった銭一族は宋の皇族や外戚などと婚姻することで後世にも繁栄したという。 ⑦閩(909年~945年) 福建省付近に割拠した国。ビンと読む。 北方から兄と転戦してきた王審知がこの地を占拠し、唐に節度使として認められたのが始まり。 初代王審知は当時後進地だった福建を大きく発展させた偉大な男であり、今でも福州市にある「閩王徳政碑」には訪問者が絶えないという聖王かくあるべしといった存在だが、 後継者がひたすら内乱の種をバラまいては分裂、道教キチガイになって巫女の言うまま一族を虐殺するなどろくでなししかおらず、初代の貯金を使い込んでいった果てに南唐に滅ぼされて潰えた。 ⑧楚(907年~951年、956年~963年) 黄巣の乱の最中、木工職人から身を起こした馬殷がトントン拍子に出世。 最終的には指導者の地位を受け継ぎ、長沙を中心に打ち立てた国。 当時需要の高かった茶の栽培などで経済力を高め、五代王朝に入貢することで存立を保った。 呉越とか閩と同じ手法である。 馬殷自身は木工職人だったとは思えない指導力を発揮し、殖産興業を実行するなど有能であったのだが、20人以上いた息子どもがボンクラ揃い。 次男・四男・三十五男(!?)・三十男らが国をぐちゃぐちゃにした挙げ句南唐に滅ぼされて果てた。 その後、武将であった周行逢が湖南を制圧し再興させるが、長くは持たず荊南ごと踏み潰された。 ⑨南漢(909年~971年) 現在の広東省付近に割拠した国。嶺南(*27)方面の節度使の配下であった劉知謙の子である劉隠(*28)が父の勢力を受け継ぎ巧みに支配を広げ、後梁に朝貢し南海王に任じられたのが興りである。 海のシルクロードの中国側の出入り口にあたる地域を支配したため、貿易で経済力を高める手法を取って国力を増強している。 中央で権力争いに敗れた官僚の左遷先でもあったためか、この時代にしては珍しく文官が武官を圧倒している珍しい国であった。 最南端ということもあり、東南アジア側から北方の契丹ほど激しい侵攻もなかったことから大変平和であったことも、武官の立つ瀬のなさにつながったのかもしれない。 …が、宗室内で凄惨な殺し合いが発生するなど三代目あたりから陰り始め、最後に即位した五代目の後主劉鋹は猜疑心の塊になっており、 「キンタマついとる奴は何をさせてもダメ!ガキに財産残そうと必死になって国を、ワシを貶めて殺すんや!やっぱり宦官がナンバーワン!」というおかしな考えに取り憑かれて文官を虐殺。代わりをすべて宦官で賄った。 ちなみにではあるが、宦官が養子を取って後に財産を繋いだ例はたくさんある。曹操の義理の祖父曹騰もそうだし、玄宗の腹心高力士は先輩宦官の養子となったため高姓を名乗るようになっている。 その後は科挙で進士に至った若人もまず去勢、宮廷に学者を入れるにも去勢…とタマを切りまくり、 最終的には約2万人の宦官で宮廷は埋め尽くされた。総人口の2%、成人男性の10%にあたるほどだったという。 そんな状態じゃ民心が離反するのは必定であり、宋に滅ぼされた。 ⑩北漢(951年~979年) 郭威の簒奪により国を奪われた後漢皇族の劉崇が北方の太原を中心に後漢の復興を掲げて打ち立てた亡命政権的性格の国。 後漢の主力軍・領土の殆どは当然のごとく後周が保有しており、じゃあどうするかと言われたらそりゃ太原の北にいる契丹に媚びを売るしかねぇわけで。 ということで衛星国家として中原を狙う契丹の手足になって戦うことになった。 劉崇は郭威に殺害された劉贇の父だったこともあったか、後周の代替わりを狙って苛烈な攻撃を仕掛け、一時は有利に進めたものの 後周世宗が自ら矢弾を恐れず前線に出て奮戦。それに呼応した趙匡胤ら将軍の反撃を喰らい敗退。 劉崇は失意の中死亡。その後も契丹の支援のもと粘るが979年についに滅亡した。 後世への影響 兎にも角にも趙匡胤という、あまりにまともな人格の人間を中華統一に向かう天子に押し上げたのが一番だろう。 朱全忠みたいな畜生や李克用のような武辺一辺倒の脳筋、十国の後半によくいたボンクラーズが後周から禅譲を受けていたら、中華の形は大きく変わっていたであろう。 弟もちょっとした梟雄要素を発揮して兄をコロコロしたという疑惑はあるが、兄の政策を受け継いで科挙を軸にした官僚制度・文治主義を完成させ、節度使のような軍閥を排除することに成功している。 詳しくは宋の話になるので省くが、少なくとも盛唐の終わりから続いた軍閥政治を終わらせたのは特筆に値する。 しかし燕雲十六州割譲により万里の長城を契丹にノーリスクで越えられて中華側に拠点を作られており、国防の面で大きな負債を抱えさせられてしまうことになった。 軍閥を忌避するという政策も時代が下ると、軍事自体に力を入れる事すら忌避するほどになってしまい、弱兵だらけとなって強盛な契丹に対抗手段がなく宋にとっては結構な致命傷にもなった。 趙匡胤の平和的な性格・政策により、文治主義が強かったのも原因ではあるが。 燕雲十六州が手元にあれば当時は城攻めを苦手としていた(*29)遊牧民に万里の長城を利用した持久戦、 李牧の時代からずっと使われる有効な戦術をお見舞いできたのだが…乱世の時期に燕雲十六州を売り渡したのはつくづく痛恨であったと言える。 貴族消滅後の新たな世の中に変わっていく過渡期でもあった。 五代十国時代には軍閥の元、統治の実務に当たった大地主らは宋代になると子や血族を猛勉強させて科挙を通過させ官僚にし、その子らが退官後地元に帰り、教育し新たな官僚を育成するというサイクルを作り出す。 それにより形成された新たなる階級「士大夫」が出現することになる。 この士大夫層は国を背負うエリートとしての自負が非常に強く、以前の官僚よりも国への忠誠心が強い者が多くなったという。 汚職はする奴は多数存在したものの、契丹に勝ち目がなく歳幣を払って見逃してもらってるだけというのもあり、ナショナリズムは以前より高まっていった。 まあ実力の伴わないナショナリズムはろくなことにならない傾向にあるし、実際にならなかったのだが。 この時代をもとにした創作 有名所がほっとんどない。 水滸伝が一番時代的に近いが、北宋末期~南宋初期なので100年以上後である。 中国史の中でも屈指のマイナー時代の上、名君がバタバタ早死するわ、名君の後継者がアンポンタン揃いだったりで創作意欲があまり湧かないのかもしれない。 誰か知ってたら追記してください。 <追記> 五代十国時代の後唐を舞台とした映画「王妃の紋章」が2006年に監督チャン・イーモウ(張芸謀)によって製作されている。 原作は劇作家ツァオ・ユー(曹禺)の代表作「雷雨」。 第79回アカデミー賞衣装デザイン賞にノミネートされた。 また古典としては楊家将演義が有名か もとは北漢に仕えた名将の楊業、またの名を楊無敵を主役にした平話であり、極めて高い忠義を持ち、対異民族で活躍しながらも味方の不義理で失意の内に死ぬ悲劇の名将というどっかで見たような内容で知られる。 日本ではややマイナーだが北方謙三の「楊家将」などが題材として取り扱っており、興味があれば読んでみるのもいいだろう。 完全に余談だが、水滸伝の楊志は楊業の末裔という設定だったりする。 楊家がそれだけ武門の名門だった証左であろう。 この時代の有名な人間 正直王とか帝とかはアレな人が多く、趙匡胤が珍しい超まともな人間って程度である。 まあ面白い人間がいれば上記の創作にされるわけで。それがほとんど無いということはまあそういうことである。 一方で大臣クラスには馮道という歴史に残る人間がいた。 この人、最初は燕の劉守光に仕えていたが、諫言したら幽閉されたり、救出されたり、左遷されたり、復職したりと波乱万丈な人生を送る。 結果「五朝(*30)八姓(*31)十一君(*32)に仕える」という前代未聞な事となった。 直後の宋の時代には「忠臣は二君に仕えず」といった朱子学的な考えが主流となったので、「変節漢」と批判されることが多い。 しかし当時の人々には大いに尊敬されていた。彼のおかげで命を救われた民衆は数多く、後世の歴史家にも彼を弁護する人間はいる。 五代十国という乱世の時代であり、民衆に対する哀れみの心が少なくすぐに虐殺・略奪を行いそうになる皇帝たちに対して諫言をしたりヨイショしたりして民衆・農民を守り続けたのは評価されるべき点だろう。 追記修正は中華を統一してからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 五胡十六国時代とならんで生まれたくない時代だな..てかこんだけぽんぽん頭が挿げ変わったんじゃ民は右往左往どころじゃなかったろうな... -- 名無しさん (2020-01-20 01 00 08) 英雄が現れないのは民にとっても不幸だ -- 名無しさん (2020-01-20 01 32 01) この世の終わりみたいな倫理観というべき中華の暗黒時代と言えるだろう -- 名無しさん (2020-01-20 03 37 26) 『楊家将演義』くらいしかないですな。現代小説なら仁木英之さんの『朱温』とか小前亮さんの『宋の太祖 趙匡胤』とかあるけど、まあマイナーですわな。面白かったけど。 -- 名無しさん (2020-01-20 10 04 04) なんか、中華の民が国家や法治というものに不信感持ってるのがわかるような気がする -- 名無しさん (2020-01-20 10 15 21) 遣唐使以降日本が中国に使者を送るのをやめた理由がわかるよね。確かに唐以降の中国からはもう良くも悪くも制度が完成してて、新たに学ぶことはなくなってる -- 名無しさん (2020-01-20 10 19 57) 乙。第二の五胡十六国よね。 -- 名無しさん (2020-01-20 10 41 39) ちょっと編集します -- 名無しさん (2020-01-20 11 19 49) とりあえず途中まで完了 -- 名無しさん (2020-01-20 12 03 47) 編集終わりました -- 名無しさん (2020-01-20 14 03 22) ↑5 もちろん唐が潰えたのも理由なんだけど、一番デカいのは日本の造船技術が頭打ちになってしまったことだよ。中国への使節の再派遣は何度も検討されたけど、コストと成功率に釣り合いがとれないとして結局大規模な再開は無かった -- 名無しさん (2020-01-20 14 41 59) 乙です。非常に面白い記事でした。五代十国の人物というと確かに馮道が筆頭で李嗣源、柴栄、趙兄弟、趙普、楊業あたりしかいないですよね。似たような五胡十六国と比べても人材が地味ですね。 -- 名無しさん (2020-01-20 16 11 34) 人物名がバタバタ出てきて、バタバタ退場するから頭がこんがらがる。漫画とかにしてくれぇー -- 名無しさん (2020-01-20 17 18 05) いつもながらアニヲタWiki中国史シリーズはお腹いっぱいに面白い -- 名無しさん (2020-01-20 19 04 24) ↑2 超マイナー時代+有名人物もいない+遣唐使みたいなのが無いせいで日本と関連付けするのもほぼ無理で日本で商業的に出すのは無理だろうな。物好きが個人で出すか中国で学習マンガ的なものが出てそれを自力で翻訳するとかならワンチャンあるかな? -- 名無しさん (2020-01-20 19 24 21) ボンクラな2代目が多すぎて建国者達が可哀想に感じるレベル -- 名無しさん (2020-01-21 00 26 33) ここや、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの歴史を読むと、人類の歴史に絶望したくなるわ('A`) -- 名無しさん (2020-01-21 09 09 51) 五胡十六国とか五代十国とかの項目はあるくせに、漢とか唐とか宋とか元とか明とか清の項目はないアニオタウィキ。乱世を好むということかw -- 名無しさん (2020-01-21 09 39 47) でも次の王朝の宋も二つに分かれちゃうし、その次は元でモンゴル民族。その元も短命王朝。秦、漢、隋、唐ってすごかったんやなって。でもそれも滅びて・・・ショギョムッジョ。日本史と照らし合わせると面白いよね。この辺りから元寇を除いて日本史の中で中国の存在が小さくなる。次に大きくなったのは日清戦争で敵対だもんね -- 名無しさん (2020-01-21 09 51 26) 元は国家成立から完全な滅亡までは400年ほどあるぞ。まあ明の成立で北走するまでだと100年ほどだから統一王朝として見るならそこまで長くはないが、それなら秦や隋のほうがもっと短い。あと日中関係ってこの間も日宋貿易・日明貿易とかで十分色々やってると思うぞ -- 名無しさん (2020-01-21 11 42 02) ↑元ってやっぱ国土広すぎたのがあかんかったのかな?最盛期って実質フビライハンまでだよね? -- 名無しさん (2020-01-21 12 02 58) 王朝が犬や猫みたいな寿命やなホント -- 名無しさん (2020-01-21 15 02 55) 馮唐の本以外ほとんど書物を知らないな… -- 名無しさん (2020-01-21 15 26 15) 冒頭文からして地獄で草 -- 名無しさん (2020-01-21 21 24 37) ↑というか、建国者自体アレな国の方が多ry…アバーッ!? -- 名無しさん (2020-01-22 00 16 09) 既存の貴族が死滅したとは言うものの、それが新興地主に置き換わっただけと言えなくもないな…。この地主層は20世紀にならないと解体されないほどにまで、長く権力と結び付くわけだが。 -- 名無しさん (2020-01-22 00 33 26) ↑そりゃまあ利権と結びつく人間なんかいつの時代でもいるわけで。直後の宋ですら新法旧法の争いが起こってる ↑2基本的にアレな人じゃないと王朝作れない時代なので -- 名無しさん (2020-01-22 09 40 19) この調子で、春秋戦国時代の項目も作ってほしいなぁ。後それと、これ以降、『●●時代』を称されるほど大きな戦乱の時代はないんだよね。国共内戦は別として。 -- 名無しさん (2020-01-23 16 00 20) 春秋戦国はめっちゃ長くなるから春秋/戦国で分けた上で軽くまとめた春秋戦国作ったほうがいいかもね。この後は北方異民族にまとめて吸収されるか、漢民族がひっくり返すかの違いだから割と早く終わる。群雄割拠できるほどの隙がない -- 名無しさん (2020-01-23 16 05 40) 科学技術とかはなかなか変わらないけど、法治国家の完成度は春秋戦国時代から一気に変わった気がする -- 名無しさん (2020-01-23 16 20 07) 完成度っていうか、法治国家って概念が戦国時代の秦で生まれたようなもんだしね -- 名無しさん (2020-01-24 09 39 16) 南北朝が欲しいな -- 名無しさん (2020-01-24 09 49 17) まぁ、今の中国は、超強力な中央集権っぽいから、よほどのことがない限り、群雄割拠ってことにはならないだろうなぁ。むしろ政権内で群雄割拠? -- 名無しさん (2020-01-24 10 06 23) こんな時代に生まれたら命がいくつあっても足りない -- 名無しさん (2020-01-24 12 18 56) ↑2残念ながら、群雄割拠だよ。というか我々日本人は現在の中国国土をあの地図の形でしか見ないから、あれを「中国」っていう一つの国家と思ってる。実際は「中華人民共和国」「満州」「チベット」「ウイグル」「南蒙古」で分割されてる。時の政権が一つの中国とやたらアピールする理由がわかるよ -- 名無しさん (2020-01-24 13 34 17) ↑地方派閥や軍閥もあるぞ!内戦になったらいつでも四分五裂可能だぜ! -- 名無しさん (2020-01-24 14 36 48) そもそも四分五裂だから内戦が起こる定期。それはともかく中央が大幅に弱体化すれば地方派閥が独立しかねないのはあるかもね -- 名無しさん (2020-01-24 14 43 04) ↑2ごめん台湾抜けてた。まぁあれはある程度独立国として認められてるところあるけど。陸続きじゃないしね。↑中央の統制が乱れると地方派閥が軍閥化して独立するのはよくあるって薩摩が言ってた('Д') -- 名無しさん (2020-01-24 15 29 40) ↑4 でも、中国本体(コメで言う『中華人民共和国』の部分)としては、ガッチリと中央集権になってるんじゃないかい? まぁ、周辺のチベットやウイグルとかはねぇ……。でも、まだ中国に軍閥があったとは知らなかったな。 -- 名無しさん (2020-01-24 16 56 34) 今の中共をそのまま王朝に例えるのはなかなか不適当な面はある(毛家による統治じゃないとか)が、国を動かす論理や思想はあまり変わってないんだよな、国共内戦は遊牧民の代わりに欧州列強や日本が介入した内乱と見ることもできるしw 監視カメラや顔認証は現代の酷吏とも言えなくはないだろうし んまあ江戸300年の前例や維新期の根性社会が生きてる日本は何も言えんが -- 名無しさん (2020-01-24 18 05 12) もしかしたら、今回のコロナ肺炎、対処しくじれば、そこから一気に中国の中央集権が崩壊する事態になるんじゃないか……? そうなったら地方軍閥の手に核が落ちたりしてやばいかもしれんが。 -- 名無しさん (2020-01-31 17 11 50) というか中国の歴史を見るに今の状況がむしろ平常とすら思える。変わったのは世界の意識のほう -- 名無しさん (2020-02-04 17 47 46) 中国の皇帝って精神に異常を来す人が結構いるな。いや、世界中どこもか? -- 名無しさん (2020-02-27 04 35 09) 1国統治するだけでも大変なのに、複数の場所や民族統治するなんて命がすり減る -- 名無しさん (2020-06-02 16 00 47) 解池をめぐって戦争になるわけだよ -- 名無しさん (2020-06-02 18 47 03) 王妃の紋章という映画がこの時代を舞台にしている -- 名無しさん (2021-01-24 10 56 38) 趙匡胤のように英雄の器を持っている人物はいたが早死にしたり後継者があんぽんたんだったりと気の毒すぎる。 -- 名無しさん (2021-04-10 21 23 37) もしかして、今の中国がウイグルやチベットに色々やっているのは、この時代に、ウイグルにお金をむしり取られていたり、チベットからちくちく殴られたりしたことへの時を超えた報復……なわけはないか。いや、あの中国ならありうるか? -- 名無しさん (2021-05-05 13 28 26) 五胡十六国の時も羌族あたりがイキり散らしてたししゃーない -- 名無しさん (2021-05-06 01 48 50) というか中華の歴史は、周辺蛮族の侵攻支配とその撃退(アヘン戦争前後あたりからの西洋含む)だからな -- 名無しさん (2021-12-30 09 25 27) 個人的はじまりである三国志ですら、何十年たしなんでも知らないことだらけ。春秋戦国時代もいまだにごっちゃになる。水滸伝に寄り道しつつ五胡十六国は最近ようやく調べ始めたところ。となると五代十国時代なんてもうね…… -- 名無しさん (2023-07-15 12 17 12) 名前 コメント
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】由余 【性別】男性 【身長・体重】195cm・87kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力C 耐久E 敏捷B 魔力D 幸運E 宝具E+ 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 早駆けの乗法:E 騎馬民族に伝わる特殊な乗馬技術だが、戎に帰化した中原人なのでランクは低い。 騎乗物の敏捷性を向上させる。 話術:C 言論にて人を動かせる才。 国政から詐略・口論まで幅広く有利な補正が与えられる。 さらに君主への諫言にも長ける。 【宝具】 『戎徳多く、中原は法で雁字搦める(ロン・チェンチー)』 ランク:E+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~20 最大捕捉:50人 中原の政を皮肉った由余の在り方の具現。 政治の中に根付く法や礼を否定するこの宝具は常時発動し、 相手が保有する「法」に由来する逸話や宝具を持つ英雄のパラメーターをダウンさせる。 【Weapon】 『無銘・馬』 戎が遊牧していた馬のうちの一頭。 数多い戎の国の中で、由余が住んでいた国がどこかまでは分からないが、 その中には匈奴の前身とされている葷粥や、五胡十六国時代に中原に完全に帰化する氐、 そして周王朝を一度滅ぼした犬戎などの国がある。 【解説】 戎諸国の一つから穆公によって秦に引き抜かれ宰相になった人物。 祖先は晋人であり、戎人でありながら中原語も一部話すことが出来た。 仕える王のもと秦に視察に行き、穆公との会談で中原の政治についての腐敗を痛烈に皮肉った。 穆公は由余の賢明さに心を惹かれ、「聖人」とまで評した。 穆公は内史廖に相談し、美女姦計を用いて戎の政治を腐敗させて秦に引き抜いた。 賓客の礼をもって秦に待遇された由余のもとで、秦国はますます強壮となり、 穆公は西戎の覇者とまで評されるようになった。
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331: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 29 32 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 大陸日本におけるコーカソイド系民族について (中編) 3 漢時代の匈奴 匈奴は紀元前4世紀~5世紀にモンゴル高原からユーラシア中央部にかけて活動していた遊牧民族である。 たびたび中華への侵入、攻撃を繰り返し漢の武帝による攻撃や様々な要因で大打撃を受けつつも北魏の時代まで存続し、やがてこれまでの異民族同様多くが中華の民へ同化され埋もれていった。 世界史の教科書などでも取り上げられるこの民族であるが、言語系統や民族系統などは現在に至るも決定的な説は出ておらず不明なままである。 一般的には、当時東胡と呼ばれていた後のモンゴル系、テュルク系のモンゴロイド、またはそれら様々な語族や部族が混在した勢力だったのではないかとされる。 しかし、実は匈奴はコーカソイド系、或いは様々な部族や民族が入り混じっているがコーカソイド系が主体ではなかったのかという説がある。 発掘された石像や毛織物の容貌が明らかに白色人種の風貌であることや、後漢時代に分裂したうちの片方である北匈奴が滅亡して中華圏から姿を消した後、康居(現カザフスタン)へと逃れ北部に居住し悦般となったことが北斉の『魏書』や唐の『北史』などに記されており、それが後にアフガニスタン北東部へと南下してエフタルとなりインドやペルシャから「白いフン」、中華からは「白匈奴」と呼ばれていたためだ。 少なくとも、史実においても匈奴には多数のコーカソイド系民族が含まれていたことは間違いないだろう。 しかしこの世界ではスキタイ人の大移動により活発となった草原の道を通り多くの金髪因子がやって来たため、匈奴は殆どが北方系コーカソイドの集団であった。 匈奴は戦国時代から趙・燕・斉・魏・韓などと共に秦への攻撃を行ったが、これらの五ヶ国は滅ぼされ趙・燕・斉の3ヶ国に住んでいた北方系コーカソイド民族達400万人以上が日本大陸西部へと逃れていった。 匈奴も軍勢を撃破され、内蒙古のオルドス地方を占領されると同時に長城も築かれるなど始皇帝の存命中は劣勢の状態が続いていた。 しかし始皇帝の死後、冒頓単于が即位すると再び勢力を拡大し、東の東胡を滅ぼした後に西の大月氏を敗走させ南の楼煩を併合。 そして楚漢戦争中の中華へと侵攻し、瞬く間に巨大な大帝国を築き上げた。 漢の初代皇帝劉邦も匈奴に大敗を喫し、毎年貢物を送る弱腰外交を取らざるを得なくなる。 だが漢で武帝が即位するとそれまでの弱腰外交から一転して攻勢に転じ、衛青や霍去病といった優れた将に恵まれた漢軍によって匈奴は打ち破られ、内蒙古の地まで奪わてしまい、漢から人質を要求されるなど完全に力関係が逆転してしまう。 その後も傘下諸部族や匈奴寄りの周辺諸国の離反、内紛による東西分裂など苦しい時代が続いたが、その後何とか国土を統一させしばしの間漢と匈奴は平和な時代を過ごすことができた。 そして漢の一時滅亡や新の建国、そして滅亡と後漢の成立といった中華地域の混乱が訪れると再び勢力を盛り返し、辺境地域を散々に荒らし回った。 しかし後漢建国から暫く経った46年、匈奴国内で異常なまでの日照りや蝗害に見舞われ前代未聞の大飢饉が発生した。 これにより、史実匈奴では国民の3分の2が餓死したと言われるほどの大打撃を受けたと言われている。 匈奴の人口は140万人~200万人ほどであったとされており、事実だとすれば90万人~130万人が死亡したことになる。 当然の如く匈奴は大幅に弱体化することとなった。 332: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 31 36 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp しかし大陸世界においては史実と少し異なる展開を見せる。 日本東部に住んでいるスキタイ系の民族と匈奴は同じ北方系コーカソイド集団であり、かつて日本へ移り住んだ集団が通っていた経路を通じ活発ではないものの最低限の交流は維持されていた。 そして大飢饉により本来死すべきであった匈奴の民たちは、餓死するくらいならばと日本への移動を開始する。 本国での飢餓や日本への移動の最中に10万人あまりが死亡したものの、実に120万人もの人々が間宮海峡を渡り樺太、北海道、東日本へと移民した。 秦の統一による西日本へのコーカソイド移民には及ばないものの、空前の規模の民族大移動が再び行われたことになる。 当地にいたスキタイ人たちは、同じ系統の民族であったことや広大という言葉すら不足するほど土地が有り余っていたなどの要因から彼らを同朋として迎え入れ、自らの勢力へと組み込んでいった。 匈奴の君主であった単于蒲奴も、領域内の民の移動を黙認していた。 というより、重荷になるとむしろ積極的に口減らしとばかりに送り出してすらいた。 大飢饉から2年後の48年、匈奴は分裂し南匈奴が建国された。 南匈奴は北匈奴を攻撃し、本拠地をも陥落させ北匈奴は更に北方へと後退していった。 その後南匈奴は漢に臣従し、長城の内側に住むことを許されたり大飢饉の際に食料の援助を受けるなど厚遇された。 北匈奴も勢力を盛り返し辺境の地を荒らし回っていたものの、史実では南匈奴が漢に厚遇されていると聞くと年間数千人の投降者が出たとされている。 しかし大陸世界においては、裏切り者の南匈奴や宿敵の漢に降ることをよしとせず、史実の投降者たちは日本大陸へ移動していった。 このため小規模ではあるものの東日本への移民が断続的に到来することとなった。 しかし87年に北匈奴へ東の鮮卑族が侵入し当時の単于が殺害され、更に蝗害による飢饉まで発生し北匈奴は大混乱に見舞われた。 このため北匈奴の民は鮮卑を避けて大きく北を迂回し日本へと逃れる動きを加速させた。 これに乗じて南匈奴と漢は連合軍を結成し、89年に北匈奴への攻撃を開始する。 史実ではこの攻撃に北匈奴は敗北し、20万人もの投降者を出したと言われているがこれらも大陸世界では鮮卑を避ける北方迂回ルートで日本へと逃げ延びていった。 そして91年、遂に北匈奴は漢の攻撃により決定的な打撃を受けた。 北匈奴の単于は日本へと逃げようとしていたが、漢に臣従していた東の鮮卑が今まで領域を北周りに通って日本へ逃げる一般の民は放っておいたものの、今回ばかりは逃がさないと南の漢や南匈奴と包囲網を張っていたため、単于に率いられた北匈奴は西への逃走を開始する。 これにより北匈奴は中華圏から完全に姿を消し、悦般やエフタルとして活動を続け、現代ではパキスタン北部やイラン北部、アフガニスタンの一部などで僅かにその痕跡が見られるのみとなっている。 しかし大陸日本においては数十年に及ぶ移動で実に150万人あまりもの匈奴の民がスキタイ勢力下の東日本へと流入した。 これにより当時100万人ほどであった人口が一気に250万人にまで増加し、数的には西の大和朝廷に劣勢であるものの大幅な国力増進を成し遂げることとなった。 333: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 35 25 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 4 五胡十六国時代 後漢の滅亡後に三国時代の戦乱を終わらせ中華を統一した西晋だが、当初有能であった初代皇帝の司馬炎は統一しただけで満足してしまい、急速に政治への興味を失うと同時に女遊びに耽るなど統一までの頃の姿が嘘のように堕落していき、国家基盤の整備を怠った。 その子司馬衷も暗愚であり、皇后である賈南風はそれを利用し国政を自分たちの一族が握るため、各地の皇族たちによる八王の乱と呼ばれる内乱を引き起こした。 それと同時に各地の諸侯は傭兵として異民族を国内に引き入れたため、内乱と合わせて西晋は大混乱に見舞われた。 これを期に隋統一までの300年あまりにわたり、中華は再び動乱の時代を迎えた。 この頃中華へと侵入、胎動した異民族は主に匈奴・鮮卑・羯・・羌の5つであり、これらは五胡と呼ばれた。 このうち氐と羌はチベット系の民族であったとされている。 しかし羌に関しては当時印欧語族であったという説が存在したり、羌の構成種族であった小月氏(大月氏と違い中華に留まった者たち)はコーカソイド系だという話が存在する。 だが現在の四川省で羌の子孫と言われる少数民族のチャン族はモンゴロイド系の外見でチベット・ビルマ語派のチャン語を話しており、正確な所は不明である。 匈奴は分裂し漢に臣従することで生き延びていた南匈奴のことであり、この世界においてはコーカソイド系の集団であった。 羯は匈奴や小月氏から派生した集団であるとされており、漢民族からは「白羯」と言われ印欧語族に分類されるコーカソイド系であったと見られている。 鮮卑は後漢までの歴史書ではモンゴル系の集団であったとされているが、西晋時代に流入してきた鮮卑族は「白虜」、要するに肌が白かったと言われており「赤髯碧眼」など明らかにコーカソイド的な容貌をしていたという。 また南朝時代の宋で編纂された説話集「異苑」において、東晋の二代目皇帝である司馬紹の政敵だった軍人の王敦は、司馬紹のことを「黄頭鮮卑奴(金髪の鮮卑野郎)」と呼んでいたと記されている。 司馬紹の母親であった荀氏は北方の燕(現在の遼寧省付近)に居住していた鮮卑族の出身であったとされており、司馬紹の金髪は母親からの遺伝と見られる。 このように、少なくとも西晋時代以降の鮮卑は北方系コーカソイドの集団であった。 つまるところ五胡と呼ばれた異民族のうち3つがコーカソイド系異民族であったということになる。 八王の乱によって中央が乱れると、各地への威令が届かなくなると同時に不運にも毎年のように飢饉が続き西晋は急速に弱体化していった。 この情勢にまずは中華西方の奥地にいた氐族と羌族が反乱を起こし、氐族の李特が成都を占領した後その息子李雄が皇帝を称し成漢(後蜀)の建国を宣言する。 それに乗じ匈奴の酋長であった劉淵が漢王を名乗り、漢を建国した。 劉淵は聡明であると同時に非常に寛容な英傑であり、漢族や白羯を傘下に加え瞬く間に勢力を拡大。 これら異民族の反乱「永嘉の乱」が五胡十六国時代の本格的な幕開けとなった。 もはや西晋の衰退ぶりは目を覆わんばかりの惨状であり、遂に漢国五代目の劉聡が西晋の首都洛陽を陥落させる。 この際洛陽は焼き払われ皇族・貴族・市民らの多くが殺戮、当時の皇帝であった司馬熾も連行され2年後に毒殺される。 これによって西晋は完全に滅亡し残党も華北から撤退、甥の司馬睿を擁立し江南の地で東晋を建国する。 西晋を滅亡させた劉聡は皇帝に即位し国号を漢から趙(前趙)に改めたが、その子劉曜の時代に白羯出身で奴隷から将軍に成り上がった石勒と対立し反乱を起こされる。 劉曜は投降後の振舞いが原因で暗殺され、その子劉煕も将校や王、公卿もろとも皆殺しの目に遭い、前趙は漢の時代も含めてわずか25年で滅亡し後趙が建国された。 334: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 39 37 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp この頃の華北の地は漢人の多くが駆逐され、完全に異民族の土地になっていた。 特に中部から東部にかけてその地を闊歩しているのは匈奴、白羯、鮮卑といった北方系コーカソイドの集団であった。 当初の後趙は漢民族の知識人などを登用し華北の安定を成し遂げたものの、その後帝室内部での抗争が頻発するようになると 国内は不安定化すると同時に漢民族も冷遇されるようになり、華北の漢民族の不満は年を経るごとに蓄積された。 そんな中第三代皇帝石虎の養孫で石閔と名乗っていた漢民族出身の武将冉閔は傀儡とした皇帝を相次いで擁立するなど権勢を誇っていたがその態度から擁立した相手に排除されそうになると今度は漢民族に呼びかけて反乱を決行する。 首都の鄴で始まったこの反乱により、胡人が老若男女問わず20万人も虐殺されたと言われている。 それだけでなく漢民族でも体格が大きかったり鼻が高い、髭が多いなどの特徴をしたものが胡人とされて多数殺害されるほどの酷さであったという。 冉閔は皇帝に即位して国号を大魏(冉魏)と定め、後趙との戦争を開始。 後趙は鮮卑族の前燕にも援軍を要請し共同で冉魏の討伐を行ったものの撃退され、さらに最後の皇帝石祗が部下に殺害され後趙は滅亡した。 また冉閔は建国にあたって『殺胡令』という「国内外に関わらず武器を持った胡人は殺せ」「胡人を殺害した漢民族は官位を授与、または位を上げる」などといった漢民族による積極的な胡人殺害を推奨する命令を天下に公布し、徹底的な漢民族至上主義の国家建設を推し進めていった。 史実ではこの命令により華北各地で漢民族による胡人に対する凄まじい暴虐の嵐が吹き荒れた。 特に白羯などはその後中華の歴史に殆ど名前が登場しなくなるほどの大打撃を受けた。 またこの混乱で各地で盗賊も跋扈するようになったため、華北は大飢饉に見舞われ人肉を喰らい合うこともあったという。 最終的に数百万人もの胡人が漢民族による虐殺や飢饉などで命を落としたとされ、華北は酷く荒廃した。 だがここでこの時代の日本にいた転生者たちが再び暗躍し、現地のコーカソイド系遊牧民を救うため渤海湾から日本への脱出を決行する。 また鮮卑族の西燕にも協力を要請し、同国の領域であった遼東半島に避難民を移動させそこにも大規模な脱出船団を何度も派遣した。 なお、当時朝鮮半島南端に居住していた戦国時代に中華から逃れてきた趙・燕・斉の遺民たちも自分たちと同じ民を漢民族による蛮行から救うべきだと協力を表明し、こちらも脱出船団を派遣するなど日本の動きを支援した。 現地の胡人たちも、この地から逃れることができるのであればと日本への亡命を選択した。 冉魏は当然の如くそれを防ごうとしたが、国内の混乱や前燕の攻撃によって頓挫。 漢民族の絶え間ない攻撃や盗賊の跋扈、飢饉や疫病の蔓延により膨大な犠牲者を出しつつも150万人以上の胡人が日本へと逃れることに成功する。 冉魏も西燕の攻撃により僅か2年で攻め滅ぼされ、その西燕もチベット系の氐族に建国された前秦に滅ぼさるなど目まぐるしい展開が続いたが前秦による華北統一と漢民族の登用や匈奴、鮮卑の積極的な移住政策により一時的に平穏を取り戻すことができた。 しかし南北統一を強行し東晋へ侵攻するも大敗を喫したことにより、各地の統制が緩み異民族も次々に離反するなど前秦は急速に弱体化した。 その後鮮卑族によって建国された後燕や西燕、攻め込んだ東晋といった国々によってあっけなく滅ぼされ、再び戦乱の世に逆戻りしてしまう。 ここで鮮卑族の一派である拓跋部の中核氏族である拓跋氏に率いられた北魏が台頭。 華北に割拠していた国々を次々に滅ぼして回り、遂に華北を統一して五胡十六国時代を終結させ、中華は南北朝時代へと突入していく。 また統一過程で後燕、西燕、北燕、南燕といった拓跋部とは別の鮮卑族の国家(北燕は鮮卑化した漢人状軍によって建国されたが)も北魏や東晋によって滅ぼされていき、この過程で大量の鮮卑族がかつての後趙滅亡時のように大量に日本へと逃げ延びていった。 五胡十六国時代の終結までに、日本大陸に亡命したコーカソイド系異民族300万人余りに上ると言われている。 その後中華で中心を占めるようになった拓跋部を中心とする鮮卑族は漢化しつつも唐の時代に至るまで支配層として存続したが、やがて匈奴同様に完全に漢民族へと取り込まれてしまい現代ではその痕跡は歴史書以外では一切見られない。 しかし日本へと亡命した鮮卑、白羯、匈奴といった面々は混血しつつも当時の容貌を保ったまま現代へとその血脈を繋げることに成功している。 335: 名無しさん :2018/11/06(火) 21 48 15 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 以上になります。 予定が詰まってしまったことと色々あってプライベートが上手く行かなかったので遅くなってしまいました。 五胡十六国時代に活動していた異民族たちも、史実では同化や民族浄化で消えていきましたが、この世界では 大陸日本に多くの人々が逃れることに成功しています。 ほんと歴史上虐殺や民族浄化は多々見られますけど中国の場合古代からもうスケールというか次元が違うんですよね。 漢民族の方がいくら多数派とは言え数百万人もいた異民族たちが現代では一切その痕跡は表面上見られなくなっているという点も 中華における残虐行為の凄まじさというものを象徴しているのではないでしょうか。 しかし大陸日本と転生者という存在によって、史実の過酷な運命から異民族たちは逃れることができています。 殆ど転生者たちの派手な髪をした美少女たちが欲しいという何とも言えない欲望のせいですが、 まあ異民族たちも安全な場所へ逃れることができるので双方win-winでしょう(笑) 後編では南北朝時代から唐までの時代を書きたいと思います。 344: 名無しさん :2018/11/06(火) 23 22 47 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp 見返してみたら氐という漢字が?として表示されていますね。 ?になっているところはチベット系部族の氐、首都のところは鄴です。 見にくくてすいません。 346: 名無しさん :2018/11/06(火) 23 26 15 HOST FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp あれ、表示されない… 殆ど使われない常用外の漢字なのでちゃんと表示されないんでしょうか。 もしあれだったらwiki掲載してもらった時に何とか直しましょうかね。 あと、wiki掲載もokです
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】祖逖 【性別】男性 【身長・体重】189cm・87kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久D 敏捷C 魔力C 幸運C 宝具A+ 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 勇猛:A 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 嵐の航海者:D+ 船と認識されるものを駆る才能。 集団のリーダーとしての能力も必要となるため、軍略、カリスマの効果も兼ね備えた特殊スキル。 特にカリスマはBランク相当で保有している。 【宝具】 『不退の橈(ブートゥイ・ラオ)』 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:3~20 最大捕捉:10人 何と言うことのない普通の櫂(船のオール)が、祖逖の気概によって宝具にまで昇華された物。 空間にかざすことで波紋を発生させ、怯懦を抱く者に対してダメージを与える。 レンジが広くなればなるほどダメージは減少し、 また勇猛などの対精神スキルを相手が持つ場合はさらに減少する。 『不撓不屈の船団(ブーナオブーチィ・ジャンドゥイ)』 ランク:A+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 長江を二度と渡らぬと誓った義勇団。 船団を構成する総勢2000の兵団は、祖逖の詩に心を打たれた真に忠義を語り得る英雄。 彼らは皆サーヴァントには及ばぬ準英霊であるものの、 祖逖のカリスマに中てられることで、気概で以て彼我の差を埋め得る活躍を見せる。 【解説】 五胡十六国時代初期における、西晋から東晋にかけてに仕えた名将。字は士稚。 若いころは血気盛んな勇者であり、竹馬の友である劉琨とともに奮起し、晋に殉ずる事を心に誓う。 その武威は後趙の石勒さえも心底恐れさせ、祖逖の存命時はご機嫌伺いに徹するほどであった。 そしてそれ以上に有名なのは北伐時に長江を軍を率いて渡った際、 「北方の失地を回復せぬ限り再びこの長江を渡らない」と、オールを水面に叩きつけながら歌った逸話は、 中国に於いては文天祥の正気の歌にも歌われるほど高い知名度を誇る。 晩年にはその功績から征西将軍の任を賜るが、東晋の内乱具合に気を憂い病没。 死後、車騎将軍に追贈され、また東晋の民は祖逖の死を嘆き祠を建てたという。
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【元ネタ】史実 【CLASS】ファナティック 【マスター】 【真名】元宏(北魏・孝文帝) 【性別】男性 【身長・体重】159cm・52kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力D 耐久C 敏捷D 魔力B 幸運E 宝具B 【クラス別スキル】 信仰の加護:A+++ 一つの宗教観に殉じた者のみが持つスキル。 加護とはいうが、最高存在からの恩恵はない。 あるのは信心から生まれる、自己の精神・肉体の絶対性のみである。 ……高すぎるため、是とする文明以外のものは“破壊すべきもの”としか認識しない。 【固有スキル】 カリスマ:C- 支配階級としての威圧を示す“強行な意思”。 中華思想視点での“蛮族”に対してワンランクアップするが、同時に敵対心も強く煽る。 胡漢融合・革新:A 時代の革新者たる英雄に与えられる特殊スキル「革新」。 元宏の場合、更に胡漢融合の文言が追加される。夷狄と漢族の垣根を取り払う変革。 相手の出自が中華思想視点で「蛮族」と認識される場合、 自分に有利な補正が与えられる。逆に中華の英霊などには何の効果もない。 それどころか自身の出自ゆえに自己矛盾が生じ、各種スキル、宝具の効果が落ちる。 【宝具】 『夷狄排他す急進皇帝(げんぎ、かんにかえる)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:500人 孝文帝による強制漢化政策の具現。 レンジ内に存在する、中華思想視点で「蛮族」と認識される 全ての英雄のステータスをランクダウンさせる。 中華思想の排他性から、中華以外の全ての英雄に効果があるが、 遠い国の英雄などにもたらす効果は微々たるもの。 逆に、中華と隣接した「蛮族」ならば、最大で全ステータスを2ランクダウンまで持ち込める。 【解説】 五胡十六国時代末期、北魏の第六代皇帝。 民族は漢族ではなく鮮卑族で、本名である拓跋宏と記す文献も数多い。 わずか五歳にして皇帝として即位し、養母に当たる馮太后による垂簾政治が展開された。 馮太后が死去すると、ショックのあまり財務はおろか食事さえ取れないほど衰弱した。 だが太后の死から四月あまり後、孝文帝は親政を開始し、 南斉侵攻を口実とした洛陽への強制遷都を始め、鮮卑的な文化を徹底的に禁じ、 国姓も拓跋から漢民族的な「元」へと変更した。 孝文帝は三十三歳という若さで夭折したが、 孝文帝の死から二十年ほど後に六鎮の乱なる大反乱がおき、北魏が分裂したことから、 やはり鮮卑人が抱いた強制漢化への不満は、非常に大きかったようだ。
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登録日:2020/03/02 Mon 03 55 08 更新日:2023/09/09 Sat 03 45 53NEW! 所要時間:約 7 分で読めます ▽タグ一覧 おうちんこく おちんこ チン項目 三国志の果て 下ネタ 世界史 中国 中国史 五胡十六国時代 内ゲバの嵐 マンコ・カパック、レイモンド・マンコ、ショーン・オチンコ、金玉… 現代の日本人が発言するとちょっと下ネタ風味になってしまう人名は数あれど、なかなか中国史は結びつかない。 前漢に成り代わろうとした新王朝が二字の名を禁じ、それが二百年経った三国時代にまで文化として残ってしまったからである。 二字名が再び出てくるのは南北朝時代のことである(*1) 中国史にそんな名前があれば絶対に記憶に残るというのに… だがいないわけではなかった。その名は王珍国(おうちんこく)(?~515)である。 王珍国、斉で頭角を現す 王珍国は生年が定かではないが、おそらく五胡十六国時代の末期に、王広之の息子(性的な意味ではない)として生まれた。王珍国生誕である。 王広之は南朝宋の将軍であったが、宋が定番の内ゲバ内乱祭り(*2)で苛まれる中で各地の乱を鎮めていった名将であった。 しかしあっちの項目で紹介されてる通り、宋は王広之が地方で頑張ってる間に中央で蕭道成が順帝から禅譲されて終わりを迎えた。 そして宋の領土はそっくりそのまま、旧皇族は皆殺しにして南朝斉が建ち、王広之は斉に引き続き仕えることとなる。 名将の子が軍人になるのは必然であり、王珍国は斉で次々と任官されキャリアを積んでいく。 その中で飢饉の際に米を配給したり叛乱を鎮めたりと活躍し、高帝・蕭道成の息子である武帝・蕭賾(さく)によって中央に召し出されることとなった。王珍国、才あるところを見せたのだ。 しかし父である王広之が死去したため職を辞している。だが後のことを考えれば結果的にこれはファインプレーだったかもしれない。 蕭賾が死去するといつもの内ゲバ内乱祭りが始まり(*3)、その隙に乗じて北朝魏が攻めてくる。 これを一旦制した明帝・蕭鸞(らん)は腹心である裴叔業(*4)を出撃させ、更に王珍国出して裴叔業を助けさせた。 だが写輪眼を持つとか言われる北魏最強の武将・楊大眼(*5)が大軍を率いて出てくると、裴叔業は兵と共に逃げ出した。 王珍国は焦ることなく殿となって戦うも敵わず大敗してしまい、結局逃げ帰ることとなった。 この時こそ苦杯を呑んだものの、翌年反乱の鎮圧に貢献して出世している。誰もが王珍国って頼もしい将だなと思ったことだろう。 王珍国、斉皇帝を謀殺する さて上述の通り斉でも内ゲバが始まっていた。 初代皇帝蕭道成は「お前ら、同族で殺し合ったりとかするなよ!絶対にするなよ!」と念を押していたがそんなフラグは当然のように回収されてしまった。 蕭賾の孫である蕭昭業が三代目皇帝となったのだが、こいつは表では涙を流しながら、裏では「父親が死んだぜええええええええ!!!イエエエエエエエエエエエイ!!!」と酒宴を開くとんでもないダメな奴であった。 この時蕭鸞は蕭昭業の補佐に付けられている大臣だったのだが、表向きでは諌めるものの、裏ではいいぞどんどんやれと促進する始末。この時から簒奪計画は始まっていた。 蕭昭業は普段で裸族だったり尼さんの服に赤いふんどし着たりもして「あー皇帝マジ楽しいわー」とか言いながら国庫をカラにして遊び惚けた末、政治の実権を握っていた蕭鸞に誅殺されてしまい廃位までされてしまった(*6)。 次の皇帝とされたのはその弟である蕭昭文。もちろん蕭鸞の傀儡である。自分の食事すら決められない、とんでもない権力の無さであった。 「お前の兄が死んだので皇帝になってもらいます」 「えっ?」 「皇帝を私に譲ってもらいます」 「えっ?」 この間三ヶ月。この後一年ほど生かされていたが殺された(*7)。 そして念願の皇帝となった蕭鸞であったが、そもそも蕭道成の養子であり皇族の血さえ流れていなかった。 そんな身分から謀略で無理矢理その座を掴んだ皇帝は、とんでもない猜疑心の塊と化していた。最早何者も信じられなくなっていたので皇族は例によって皆殺し。蕭道成の子孫は絶えた。 部下さえも信じられず、皇族を殺すための毒薬を手ずから調合しながら涙を流すなどかなり情緒不安定だったという。 倹約しつつ部下を抜擢してとやることはやっていたのだが、ツケが回ってきたのか作っていた毒が自分にも回ったのか在位僅か4年で死亡し、後継者には存命の長男を差し置いて次男蕭宝巻を指名し、他の子は皆殺している。 だが病んだ心は、後継者を見る目さえも曇らせていた。 こうして実質ラストエンペラーとなる蕭宝巻が皇帝となった。だが蕭宝巻はとんでもないDQNであった。 まず手始めに蕭鸞に補佐として付けられていた重臣を皆殺し。諫めに来た人間も皆殺し。 街に出ては民の家を壊して住民を馬で踏みつけにし、妊婦だろうと構わず踏んで楽しんだ。ほぼほぼ母子共に助かりませんでした。 大好きな幼馴染・潘玉児に金色の蓮の花の上を歩かせて(*8)ささやかな癒しを得たり、そうして金が無くなれば民や部下を殺して金を奪ってまた楽しんだ。 あーもう好きなことして人生楽しそうですね!!!筆者もやりたいな!!! だがこんなことやってて叛乱が起きないわけがなかった。 内乱自体は蕭道成の親戚の蕭順之の子である蕭懿が鎮圧したが、その蕭懿はその功に並ぶものがいなくなった者の常で、讒言で殺されてしまう。 だが蕭懿の弟たちである蕭衍らが危機感を覚えて蕭宝巻の弟蕭宝融(弱冠13歳)を立てて挙兵し再び内乱発生。 膨れ上がった不満と共に勢力を増し、今まさに斉の首都建康(*9)に迫っていた。 この状況の中で蕭宝巻は「昼寝て夜起きろ!」「なんでこんなことなってんだ!お前ら無能過ぎんだろ死ね!」お前のせいだよなどと訳の分からないことを言いつつ一人の将を呼び出した。 もろちん王珍国だ。苦難であろうと彼ならなんとかしてくれると思ったのである。 だがこんな暴君の下である。王珍国は得るものがないと察している士気の低い軍だったためかあっさり負けてしまう。 しかもその後蕭衍の下に部下を送って内通した、内心そうしたかったのかもしれない。王珍国去りたかったのだ。 そして城内で衛兵たちと皇帝殺害を企て、あっさりと性交成功。首は蝋で固められて蕭衍の元に届けられた。 王珍国らより蕭宝巻の首を受け取った蕭衍は一応帝位に就けた和帝・蕭宝融から禅譲を受け、色んな意味でとんでもなくどうしようもない皇帝四連発してしまった南朝斉は僅か23年で滅び領土はそっくりそのまま新たに南朝梁となったのである(*10)。 蕭宝融「えっ?」 王に封じられた後、まもなく殺されました。いつものやつではあるが旧皇族はギリギリ皆殺しまではされなかった(*11)。蕭衍様の慈悲深さには涙が出らあ。(*12) この後北魏に逃げ延びた蕭宝巻の他の弟によって斉がちょっとだけ復活したりしたけど、王珍国関係なしなんでもういいです。 梁では王珍国ってどうなったのか 蕭衍が皇帝となると、当然功績の大きな王珍国は得るものがあった。将軍位や刺史などが与えられようとしていた。 だが国家のためとはいえ皇帝を害したという引け目があるためかこれを固辞し続けた。王珍国は得ようとしなかったのだ。 蕭衍は「(三国時代の)田疇(*13)のようだ、(彼のような世捨て人と違って)君は国を深く思っているのだから良い身分でいて欲しい」と窘めた、王珍国諭されたのである。そしてようやく将軍位を受け取った。 北魏が度々侵攻してきていたので、蕭衍は対策を王珍国へと聞いてみることにした。 すると「自分は北魏の連中が少ないことには悩むが、多いことには悩んでない(敵が多いほうが嬉しい)」と答えたため、蕭衍は王珍国って勇ましいなと思い北魏軍迎撃の任を与え、見事撤退させた。 そしてそのまま二州もの刺史となり地方へと赴任したが、北魏に降伏した長史を取り逃がしてしまう。王珍国痛い失策である。 相変わらずの謙虚さで功績を挙げられなかったことを理由に自ら解任を求めるが、蕭衍はお前以外に誰ができるんだと言わんばかりに拒否して留任させた。 この後は中央に召還されまた地方に出向、そしてまた中央に召還と忙しなく異動を繰り返し、ついに死去した。王珍国逝去である。 その後 親譲りの名将王珍国、一途に国を想い続けた良き人物であった。だがその子、王僧度についての記述は某ウルトラマンの変身アイテム兼武器みたいな名前をしているということ以外皆無である(*14)。 彼の子はそれほど良い人物ではなかったのかもしれない、真相は歴史の闇の中である。 南朝梁は初代皇帝・蕭衍の長い統治の元で束の間の平和を享受していたが、治世の末期に宇宙大将軍☆侯景が現れ事実上の滅亡にまで追い込まれる。 この時誰もが思ったかもしれない。 王珍国、居てぇ…と。 追記・修正・おちんこください △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ゥアン ヂェンクォ? -- 名無しさん (2020-03-02 07 42 51) 冒頭の下品な名前ってのはさすがにひどいんじゃ…。日本語では〜くらいにしといた方が -- 名無しさん (2020-03-02 09 18 50) 金玉均は朝鮮か… -- 名無しさん (2020-03-02 10 11 56) 冒頭の記述を変更 -- 名無しさん (2020-03-02 10 13 33) 金太の大冒険じゃねえか! -- 名無しさん (2020-03-02 10 14 15) 王僧度と言う子が居たという記述あるそだ -- 名無しさん (2020-03-02 21 29 25) 功績の大きな王珍国・・・ -- 名無しさん (2020-03-02 21 35 21) 宇宙大将軍なんで実在の称号なんだよ…五胡十六国時代いいかげんにしろよ… -- 名無しさん (2020-03-02 23 10 49) ↑宇宙大将軍・都督六合諸軍事(時間と空間を統べる、天地及び四方全ての世界の過去と未来全ての時空の軍事を担当する将軍)だぞ -- 名無しさん (2020-03-03 10 41 14) あ、ごめん。間違えた。相国・漢王・都督六合諸軍事・宇宙大将軍だったわ。あと全ての軍事じゃなくて、全ての軍政だった -- 名無しさん (2020-03-03 10 44 31) ↑4 大きな王珍国は得るぞ -- 名無しさん (2020-03-03 20 28 00) 王珍国、斉で頭角を現す・・・王珍国斉で頭角を現す・・・・・・!おぅちんこクセェで♂頭角♂を現す・・・!! -- 名無しさん (2020-03-03 20 35 12) 「臣常患魏衆少、不苦其多。」(梁書)この一文について「臣」はへりくだった自称で「わたし」と解釈するのが適当かと。その旨内容を修整しました。 -- 名無しさん (2020-06-19 21 19 15) 何か変な文法と思ったら、金太文だったのかよ!お前(記述主)は素晴らしいエロ歴史オタ小中学生だな!(褒め言葉 -- 名無しさん (2020-06-19 21 37 38) もしかしてこの項目立てたの、南朝陳の項目書いた人じゃね? 意味わかって笑ったわw -- 名無しさん (2021-01-18 17 15 43) 名前 コメント
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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】赫連勃勃 【性別】男性 【身長・体重】216cm・104kg 【属性】混沌・悪 【ステータス】筋力C++ 耐久C 敏捷B 魔力D 幸運D 宝具D+ 【クラス別スキル】 対魔力:E 魔術に対する守り。 無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。 単独行動:A マスター不在でも行動できる。 ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。 【固有スキル】 加虐体質:A 戦闘において、自己の攻撃性にプラス補正がかかるスキル。 これを持つ者は戦闘が長引けば長引くほど加虐性を増し、普段の冷静さを失ってしまう。 攻めれば攻めるほど強くなるが、反面、防御力が低下してしまう。 それだけに、バーサーカー一歩手前の暴走スキルと言える。 皇帝特権:B 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できるだが、 アーチャーの苛烈過ぎる性格ゆえに得られるスキルが若干歪んでいる。 該当するスキルは騎乗、早駆けの乗法、拷問技術、カリスマ(偽)、畏怖、等。 【宝具】 『大夏龍雀・湛盧剣(たいかりゅうじゃく・たんろけん)』 ランク:D+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~30 最大捕捉:444人 春秋時代の呉楚で造られた古の名剣……を目指して造られた数多ある黄金製の贋作剣。 その意匠は、異様なまでにゴチャゴチャしている。 製造者は、勃勃の右腕である臣・叱干阿利。この剣を造るまでに刀工は何人も、彼の手で殺された。 古の名剣“湛盧”とは無論その性質は全く違い、その刀身を形成するのは、総て赫連勃勃らに向けられる民草の怨嗟である。 それだけに、斬られるのはもちろん、触れるだけでもその怨嗟が対象を襲い相手を侵食する。 赫連勃勃は、この宝具の数の多さを利用した投刀戦術を取ることが多い。 ……湛盧には、持ち主となる者が邪な心を持っていた場合は、 自分の意志で、自分を振るうに相応しい者のもとへ飛んでゆくという逸話がある。 この逸話から、贋作とはいえ「飛ばす」用途に向いている剣と言える。 【Weapon】 『無銘・弓矢』 弓矢は、匈奴の用いた騎馬民族の複合弓。 【解説】 五胡十六国時代、胡夏帝国を建国した武列皇帝。赫連勃勃。 南匈奴の去卑の末裔で、鉄弗部の生まれ。 背が高く恰幅も良く、尚且つ顔立ちも整っており、父が死んで間もないころから頭角を現し、 同時にそのころから不仁を極める大姦物であることを、一部の者には気付かれていた。 その性格は冷酷にして残虐非道。覇道も多くの血に塗れており、 常に傍らに武器を携えて気に入らなければ人を殺すという具合であった。 皇帝を称するまで彼に殺された人々は数知れず。 26歳で周辺部族をまとめる大単于に、37歳で皇帝になったものの、その最期もまた呆気なく、 皇帝を称してから僅か7年で崩御。一説には雷に打たれて死んだとも。
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■東アジア王朝史年表(一部クラン名表記) 夏 BC1800 殷 BC1550-1027 ● 周 BC1027-256 西周BC1027-BC771 東周BC771-BC256 ● 春秋時代BC770-BC403 戦国時代 BC403-BC221 燕BC1100-BC222 魯BC1055-BC249 晋BC1100-BC378 姫(キ)氏。 智氏、中行氏、士氏、郤氏、欒氏 韓BC403-BC230 姫姓韓氏。 魏BC403-BC225 魏家。 趙BC403-BC228 趙氏。参考 宋BC1100-BC286 戴氏。 斉BC1046-BC386 呂氏。 田斉BC386-BC221 田氏 鄭BC806-BC375 姫氏。 衛BC1100-BC209 姫氏。 呉(WU) BC585-BC473 姫氏。 楚-BC223 ミャオ族 越BC600-BC334 紹興。百越族。 ● 秦 BC221-BC207 ●漢 BC206- 前漢(西漢)BC206-8 新 8-23 後漢(東漢)25-220 ● 三国時代 220-280 曹魏220-265 呉222-280 孫氏。 蜀221-263 ●<晋>265-420 西晋265-316 司馬氏。 東晋317-420 司馬氏。 ●<五胡十六国時代>304-439 ※五胡=匈奴・鮮卑・羯・氐(テイ)・羌 前涼301-376 漢族 前趙304-329 フン族(匈奴) 成漢 304-347 チベット系テイ族 後趙330-351 フン族(匈奴) 冉閔(ゼンビン)349-352 漢族 前燕337-370 テュルク=ツングース(鮮卑)系 前秦351-394 チベット系テイ族 後燕384-409 テュルク=ツングース(鮮卑)系 後秦384-417 チベット系羌(キョウ)族 西秦385-431 テュルク=ツングース(鮮卑) 北魏386-534 テュルク=ツングース(鮮卑) 後涼389-403 チベット系テイ族 南涼397-414 テュルク=ツングース(鮮卑) 北涼397-439 盧水胡の族長。匈奴、月氏説。 南燕400-410 テュルク=ツングース(鮮卑) 西涼400-421 漢族 夏407-431 フン族(匈奴) 北燕409-436 漢族 ● 南北朝時代439-589 <南朝> 宋420-479 斉479-502 梁502-557 陳557-589 北朝> 北魏386-534 東魏534-550 西魏535-556 北斉550-577 テュルク=ツングース(鮮卑)の高氏 北周556-581 テュルク=ツングース(鮮卑)の宇文氏 ●隋581-619 楊氏(普六茹)は鮮卑系漢人 突厥552-745 テュルク人。阿史那(アシナ)氏。 ●唐618-907 李氏(大野氏)は鮮卑系漢人 吐蕃633-877 トボット。チベット。 渤海698-926 南詔738-937 ●<五代十国時代>884-960 五代 後梁907-923 後唐923-936 後晋936-946 後漢947-950 後周951-960 十国 前蜀907-925 後蜀934-965 呉902-937 南唐937-975 荊南907-963 呉越907-978 閩909-945 楚907-951 南漢909-971 北漢951-979 それ以外 岐901-924 桀燕911-913 契丹(遼)916-1125 キタイ族 大理937-1254 タイのペー族(白族) →後、雲南王国(梁王国)1256-1390 ●宋王朝(北宋・南宋)960-1279 西夏1038-1227 タングート族 金1115-1234 ツングース系女真族 ●元ウルス1271-1368 モンゴル族 ●明1368-1644 朱氏。 グーシ・ハーン王朝1642-1724 オイラート族 ●清1644-1912 ツングース系満州族 ジュンガル国1676-1757 オイラート族 ■参考 二十五史 史記、前漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、周書、隋書、南史、北史、旧唐書、新唐書、旧五代史、新五代史、宋史、遼史、金史、元史、明史、清史稿。
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南北朝 確定者(10名) 劉裕 363年-422年 檀道済 ?-436年 韋叡 陳慶之 484年-539年 拓跋燾(トウ) 408年-452年 明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳で父が崩じて即位。 はじめ宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。 北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。 また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。 劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。 なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。 北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。 東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、五胡十六国時代の終焉させた。 ~3スレ目 208より~ 蘭欽 字は休明。 大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。 同年、魏の太守・ 柴集らの連合軍を破る。 彭城城主・楊目がその子楊孝?を派遣、蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。 ついでに?州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。 楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はたやすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。 桂陽、陽山、始興の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、羅渓で厳容を打ち破った。 ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の侵攻を撃退する。 假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・元子礼を破る。 魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、漢中を平定。改めて持節を授かる。 魏の都督・董紹、張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。 凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。 為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。 散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられる。 ~3スレ目 204より~ 斛律光 525年-572年 高洋 529年-559年 侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。 また西魏と争って江陵を奪った。 北伐して契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退し、その宇文泰に戦闘の才を讃えられる。 また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。 酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で『資治通鑑』には、「高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。 ~3スレ目 262より~ 韋叔裕 高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。 淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。 ~3スレ目 214より~ 段韶 候補者(0名)