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トランプ祭り - ハート 3 3 トランプ祭りへ戻る
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第5話(BS13)「禁じられた唄」( 1 / 2 / 3 / 4 ) 1.1. 消えた少年 SFC、それがこの世界における彼女(下図)の名である。それは彼女の「正式名称」のイニシャルなのだが、その正体を知る者はこの世界にはおそらく誰もいない(そして彼女はそのことを語ろうとはしない)。なぜならば、彼女は本来、この世界の住人ではないからである。 彼女は、ヴェリア界という異世界からこの世界に投影された「投影体(プロジェクション)」である。ヴェリア界とは、様々な世界から「廃棄」された物品が流れ着く場所であり、彼女は「地球」と呼ばれる世界で子供達に遊ばれていた「玩具」の一つであった。技術の発達に伴い、新型の「玩具」が台頭するに伴い、本来の持ち主から捨てられ、ヴェリア界に流れ着いた彼女は、この世界に生み出された混沌の力によって「人間」に似た姿で投影されることになったのである。 この世界において投影体と言えば、人間世界と相容れない理(ことわり)の下で生きる魔物・怪物の代名詞として用いられることが多いが、彼女は人に近い感性を持ち、この世界の人々とも積極的に交わろうとする、いわば「友好的な投影体」である。もっとも、彼女自身がそう考えていても、実際には周囲の者達がそう認識してくれるとは限らない。実際、彼女はこの世界に現れた当初は、その異様な姿から、様々な迫害の対象となっていた(ちなみに、実はその過程で一度、パンドラの闇魔法師クラインに助けられたことがあるのだが、そのことを彼女自身は覚えていない)。 そんな彼女を救ったのは、ブレトランド南部を支配するヴァレフール伯爵領を支える七男爵家の一つ「チェンバレン家」の子息・セシルである(下図)。幼くして母親を失い、塞ぎ込みがちだった彼は、父の治める湖岸都市ケイの領内で偶然見かけたSFCに興味を抱き、彼女の新たな「持ち主」となった。SFCは、日頃は「人間」としての姿を維持しているが、いつでも本来の「玩具」としての姿となることも出来る。彼女はセシルを楽しませる「玩具」として、そして彼の心を癒す「友」として、彼の強い希望でケイの領主の館に転がり込むことになり、やがて正式にセシルの親衛隊長に任じられることになったのである。 ある日、そんな彼女の元に凶報が届いた。彼女の「持ち主」であるセシルが、ケイの中心に位置する領主の館から、突如として姿を消したのである。前日までの彼の様子には特に変わったことも無く、彼が自らの意思で出奔するとは考えにくい。これは、何者かに誘拐されたと考えるのが妥当であろう。彼女を取り巻く親衛隊の者達は、その事実を知った途端、当然のごとく顔面蒼白となる。 「隊長、どうしましょう……」 「こういう時はね、RPGの基本として、まずは情報収集だよ」 「隊長、この旨は、男爵様にお伝えすべきでしょうか?」 「いや、それはいいよ。そうやってサブイベントまで広げると、メインのストーリーが進まなくなっちゃうから」 SFCは、玩具としての自分の中に組み込まれた(正確には、彼女と接続する付属品の中に埋め込まれた)情報に基づいて、そう答える。彼女の「独特の言い回し」の意味は隊員達には伝わりにくかったが、ひとまず彼らも「今はセシルに関する情報を集めることに専念すべき」という意図は理解したようである。 ちなみに「男爵様」とは、セシルの父であり、この湖岸都市ケイの領主であるガスコイン・チェンバレン男爵(下図)のことであるが、現在、彼は公務で隣町に出向いている。もし、セシルが見つからないまま、この事実が明るみになれば、その場合は「管理不行き届き」として、相当に厳しい処罰が彼女達に下されることになるであろう。 こうして、SFC達が全力で街の中をシラミ潰しに調査して回った結果、昨晩から今日の明朝にかけて、ケイから北へと向かう街道を「四人連れの旅人」が北上していくのを見たという目撃証言に辿り着いた。 「バラモスを倒しに行ってしまったのか。今のままではまずい。早くガイアの剣を渡さなければ……」 そう呟くSFCだが、彼女が言っていることを理解出来ている者は誰もいない(ちなみに、実はコートウェルズ島に「バラモス」という名の龍がいたりするのだが、全く関係ない)。そして目撃者曰く、その「四人連れの旅人」とは、「若い男女の魔法師」と「奇妙な風貌の少女」と「フードを被った10歳くらいの少年」であったという(ちなみに、セシルの年齢もちょうど10歳である)。夜だったこともあり、その少年の顔は確認出来なかったが、彼はうつろな瞳を浮かべながら「呼んでるんだ……。僕のことを……。だから、行かなきゃ……。待ってる人がいる……」などと呟きつつ、山岳街道を北へと向かっていったという。 「4人パーティーで魔法使いが2人か、バランスが悪いな。そして『誰かが呼んでいる』……? 一体、何のゲームだろう……? ダメだ、記憶が曖昧で、思い出せない」 彼女はこの世界に来る過程で、記憶の大半を失っている。手元にある幾つかの「金属製の付属品」を身体に差し込むことで、その中に組み込まれた情報を読み取ることは出来るが、それも数が限られている。もっとも、その記憶があったところで、この状況を改善する上では、何の役にも立たないのだが。 現状において、ケイから北へと続く山岳街道の先にあるのは、7年前に混沌災害によって崩壊したマーチ村であり、その周囲には危険な魔境が広がっている。もし、その「10歳くらいの少年」の正体がセシルだった場合、誰が何の目的で彼を連れ出したのかは分からないが、この先の混沌領域の危険性を考えれば、このまま放置して良い筈はない(ちなみに、セシルの亡き母はこのマーチ村の出身なのだが、SFC自身はセシルの母とは面識が無いこともあり、そこまでは聞かされていない)。 彼女は一刻も早く自分の「持ち主」を救出するため、親衛隊の者達を山岳街道の入口付近に待機させた上で、単身、中央山脈の奥地へと足を踏み入れていくことを決意する。この先の魔境を探索する上では、君主でも魔法師でも邪紋使いでも、ましてや投影体でもない一般の兵士達を連れて行っても、足手まといにしかならないと判断したのである(彼女の思考の中では、一人で竜王を倒しに行くロトの勇者の姿が思い描かれていたらしいが、そんなことはどうでもいい)。 投影体である自分を受け入れ、「玩具」としての価値を認めてくれたセシルを失うことは、彼女にとってのこの世界での存在意義を失うに等しい。何があっても彼を連れ戻すという重大な決意を胸に秘め、彼女は暗黒の渦巻く山岳街道を北上するのであった。 1.2. 街道浄化計画 一方、そんな山岳街道の「反対側の終着点」に位置するのは、アントリアの城塞都市クワイエットである。ブレトランドの北中部を支配する覇権国家アントリアの東南部国境の最前線基地であり、この地を守る指揮官ファルコン・トーラス(下図)は、アントリア屈指の猛将として知られていた。 そのファルコンが絶大な信頼を寄せる契約魔法師、それがスュクル・トランスポーターである(下図)。彼の外見は(SFCほどではないが)やや常人とは異なっている。一見すると、長身細身で眼鏡をかけた「普通の魔法師」のように見えるが、その眼鏡がかけられた両耳の先端に、金属のような異物が生まれつき埋め込まれているのである。実は、彼は「ラクシア界」と呼ばれる異界からこの世界に投影された「ルーンフォーク」と呼ばれる異世界人の末裔であり、その耳の異物はその名残であると言われている。もっとも、ラクシア界からの投影体の発見例は少なく、その実態はよく分かっていない。 ただ、その末裔の中には、魔法師の力に目覚める者が多いようで、彼とその妹は共に魔法師としての資質に恵まれ、兄妹揃って魔法師のトランスポーター家の養子になっていた(通常、魔法師としての素養は遺伝しないと言われているので、これは極めて珍しい事例である)。そしてスュクルは、そんな自分のルーツに興味を持ったのか、当初は召喚魔法師としての道を進もうとしていたが、その修練の過程で誤って「呼んではならない者」を学院に招き入れてしまい、その時に妹を失ってしまう。 その失敗を機に、「自分の判断で物事を決定すると、好ましくない結果をもたらす」と悟った彼は、改めて自身の適性の判断を師匠に委ねた結果、時空魔法師へと転身し、そしてファルコンと契約した後は、自身の独断専行を控えて、主君の意思を尊重した上で彼を支えるという「模範的な魔法師」としての道を歩むことになる(実は、それは彼の源流であるルーンフォークの本来の気性でもあるのだが、おそらく彼自身はそこまで自覚してはいない)。 さて、そんな彼とファルコンが治めるクワイエットの街に、アントリアの首都スウォンジフォートから、騎士団長バルバロッサ・ジェミナイの契約魔法師であるフィガロ・トランスポーター(下図)が、査察員として派遣されてきた。スュクルとフィガロは同門の魔法師であり、スュクルは30歳、フィガロは24歳だが、入門も卒業もフィガロの方が早かった上に、契約相手の関係においても、バルバロッサはファルコンの「上司」にあたるため、どちらかと言えばフィガロの方が「兄弟子」的な立場にある。 しかも、現在のアントリアにおいて、フィガロの契約相手であるバルバロッサは、実質的に「騎士団長」以上の地位を確立しつつある。先日、アントリア子爵ダン・ディオードが、コートウェルズの浄化のための長期遠征に出向いてしまい、彼の不在時の名代として指名されたのが、バルバロッサの妹ジャクリーンとダン・ディオードの間に生まれた私生児、マーシャル・ジェミナイだったのである(第4話「帰らざる翼」参照)。マーシャルはこれまで、バルバロッサの養子として育てられていたため、実質的には「騎士団長バルバロッサの息子」が、「アントリア子爵代行」に就任したに等しい。こうなると、今まで以上にアントリア内でバルバロッサの発言力が増すことは、容易に想像出来る。 だが、当然、このような突然の政変に対して、反発を覚える者も多い。だからこそ、フィガロは現在、国内に「よからぬこと」を考える者達がいないかどうかを確かめるための査察に回っているのである。 「現状、マーシャル子爵代行閣下を中心とする新体制への移行過程で、アントリア内部は混乱しつつある。前線に立つ者達は、当面の間、無闇に戦線を広げることは避けるように」 それが、ファルコンとスュクルへの彼の通告である。特にクワイエットの場合、数ヶ月前にこの地に滞在していたハルク・スエード将軍が独断で兵を動かして惨敗を喫した「前科」がある以上(第3話「長城線の三本槍」参照)、特に強く釘を刺しておかなければならない、と考えているようである。 その言い分に対して、ファルコンは露骨に不満そうな表情を浮かべるが、彼よりも先に、スュクルが異論を唱えた。 「むしろこの状態だからこそ、弱体な姿を他国に晒すことは危険ではありませんか?」 現状において、アントリアが混乱していることはヴァレフールにも伝わっているからこそ、逆にここは敵に主導権を握られないよう、こちらから攻勢をかけるべきではないのか、と考えていたファルコンは、自分の考えを代弁してくれた契約魔法師に内心感謝する。だが、フィガロはその意見をあっさりと切り捨てた。 「それはそうかもしれない。だが、指揮系統が混乱した状態で戦をしかけるのは得策ではない」 確かに、それは正論である。現状において、アントリアは国内に旧子爵家を中心とする反乱軍を抱えている上に(第2話「聖女の末裔」参照)、聖印教会と手を組んだ先代トランガーヌ子爵にダーンダルク城を奪還されるなど(「ブレトランド戦記」第8話参照)、内憂外患状態が続いている。その上、子爵不在によって指揮系統を立て直さなければならなくなったこのタイミングで、専守防衛を基礎とするヴァレフールをわざわざこちらから刺激する必要はない、というのが、首都の要人達の間での一般的な考えであった。 だが、戦場の前線に立つ者達の認識は異なる。一通りの通達を終えたフィガロがひとまず首都へと帰還した後、ファルコンはスュクルに対して、思いの丈をぶちまける。 「さっきの話、俺もまったく同感だ。こんな状態だからこそ、ここで攻め手を緩めたら付け込まれる。だからこそ、動きの鈍った中央の連中に代わって、前線の俺達が常に『次の一手』を考えなければならない訳だが、実は昨日、一つ面白い話が手に入った」 そう言って、ファルコンはクワイエットの周辺地図(下図)をスュクルに見せる。クワイエット側から見て南方にヴァレフールによる長城線が存在する一方で、クワイエットから西方へと続く街道は、途中でトーキー、マーチという二つの村を経由して、ヴァレフールの湖岸都市ケイへと繋がっている。つまり、長城線を突破しなくても、この山岳街道経由でヴァレフール領へと攻め込むことは理論上は可能なのだが、問題は、この間にある二つの村のうちの片割れであるマーチ村が、7年前に混沌災害によって崩壊し、その周囲が魔境化しているという点である。 一応、現在でも道そのものは存在しているため、運が良ければ、魔物(投影体)と遭遇せずに回廊を通過することは出来る。また、仮に魔物と遭遇したとしても、腕に覚えのある者であれば、それを自力で撃退することも出来る。これまでの目撃報告を聞く限り、この魔境に出没する魔物自体は、クワイエット軍が全力を挙げて戦えば、倒せない相手ではないらしい。 だが、それ以上に大きな問題は、その魔境の中核に位置するマーチ村における混沌繭(カオスシルク)の存在である。マーチ村の中心には、「巨大な蛾の幼虫」の形をした投影体が作ったと言われている「巨大な繭」が存在しており、しかもその繭を中心として強靭な混沌の力が込められた「生糸」と「小型の繭」が村の近辺一体に張り巡らされているという。つまり、村の近辺領域に入ると、この混沌繭の生糸が通行を妨害している状態で、部隊をまともに展開することが出来るような状態ではないらしい。 この生糸は、君主や魔法師や邪紋使いがその気になれば切断出来ないことはないらしいのだが、この生糸を切ると、その先に繋がっている小型の混沌繭が綻び、その中から様々な投影体が出現し、無差別に周囲の者達に襲い掛かってくるという(そして運が悪いと、彼等が他の混沌繭の生糸を破壊することで、更なる投影体を生み出すこともある)。つまり、この村の近辺を覆う混沌繭こそが、実質的に中央山脈の東部回廊を封鎖している諸悪の根源なのである。 「実は先日、我が領内に忍び込んだパンドラの間者を捕えて尋問した結果、この『混沌繭』を除去出来るかもしれない方法を入手したのだ」 パンドラと言えば、エーラムの魔法師協会と対立している闇魔法師達の秘密結社である。その実態は謎に包まれているが、この世界を混沌で覆い尽くすことが目的とも言われており、混沌を浄化する力を持つ君主や、その君主を支えるエーラムの魔法師とは、基本的に対立している存在である。そんな彼らが「混沌を除去する方法」を知っているというのも妙な話だと思いつつ、スュクルは主君の話に耳を傾ける。 「あの混沌繭の中にいる『巨大蛾の幼虫』は、『混沌の力が込められた唄』の力によって羽化するそうだ。そして、その唄を歌うことが出来る者達が、旅芸人の『ロザン一座』の中にいるらしい」 「ロザン一座」の名前は、スュクルも聞いたことがある。このブレトランドで最も有名な旅芸人集団の一つであり、このクワイエットにも度々訪れている。ただ、仕事熱心な彼は、実際にその演目を見たことは一度も無いのだが。 「そのロザン一座の中の『双子の歌姫』なる者達が歌う唄を聴かせれば、その巨大蛾は羽化し、そしてその双子の命令に従うようになるという。そして、その巨大蛾の力をもってすれば、あの回廊に現れる魔物達を倒すこともたやすいと、そのパンドラの捕虜は言っていた」 主君の話がひと段落したところで、今度はスュクルが口を開く。 「かような者共の言うことを、そのまま信じる訳にもいかないでしょう。まずは調査して情報を収集した上で、その真偽を確かめるべきでは?」 「お前はいつも、私が考えていることを先んじて理解してくれるな。そんなお前だからこそ、私もお前を信用している」 そう言って、ファルコンは再び満足そうな表情を浮かべる。生粋の軍人気質であるファルコンと、どちらかと言えば文官タイプのスュクルは、一見すると水と油の性格だが、不思議とウマが合うようで、作戦会議の場などにおいては、少なくとも基本方針のレベルでは、二人の方針が一致することが多い。 「とりあえず、そのロザン一座はちょうど昨日、このクワイエットを通過して、トーキーの村へと向かったらしい。もし、奴の言っていることが本当なら、そのロザン一座の双子の姉妹の身柄を確保することは、今後の回廊突破の鍵を握ることになるだろう。そして、マーチとわが国の中間に位置するトーキー村の領主との関係も、これから先は重要になる。そこで、まずはお前をトーキーに派遣して、そのロザン一座の双子と、トーキーの領主を、お前の弁舌の力で、こちらの味方になるように引き入れてもらいたい。説得でも、威嚇でも、どちらでもいい。有効だと思う手立てで、なんとか奴らにこの街道の浄化に協力させるのだ」 「承知致しました。では、出立の準備を致します」 そう言って、彼は領主の謁見の間を出て、自身の護衛兵達に動員の令を下す。突然降って湧いたような話に対して、どうにも半信半疑の心境ではあるが、もし、捕虜が言っていることが全て本当なら、一刻も早く行動する必要がある。パンドラがわざわざ街道の「浄化」を率先しておこなうとは考え難い以上、おそらくこの情報には何らかの「裏」がある。それが何なのかは分からないが、少なくともパンドラが何らかの陰謀を企んでいるのであれば、その鍵を握ると思われる双子が混沌繭に近づいている現状を、黙って見過ごす訳にはいかない。 様々な可能性を考慮に入れつつ、愛用の「気付薬代わりのサルミアッキ」を鞄に入れながら、トーキーへの旅支度を進めるスュクルであった。 1.3. 夢に光る聖印 こうして、クワイエットからトーキー村に向けて調査・外交師団が派遣されようとしていたその日の夜、そのトーキーの領主であるエディ・ルマンド(下図)は、領主の館の寝室で、奇妙な夢を見ていた。暗闇の中で、見たことのない聖印が光り、そして彼を呼ぶ謎の声が聞こえてきたのである。 「我が預かりし聖印を受け取れ。バルバリウスの末裔よ」 その声に導かれるように、無意識のまま身体を起こそうとした瞬間、彼は目を覚ました。その声の主が何者なのかは分からないが、一瞬、彼は自分の意思とは無関係に、その声を追ってどこかに向かおうとしていたのである。その理由は分からない。だが、何か得体の知れない大いなる力の存在を感じ取っていた。 彼は、数年前に死んだ父からこの地を譲り受けた、まだ領主としての経験の浅い若い君主である。年齢は21歳だが、見た目はそれ以上に若く見える上に、よく言えば実直な、悪く言えば馬鹿正直な気性ということもあり、領主としてはどこか「頼りなさ」「危うさ」を感じる側面もあるが、この村を襲う混沌の侵食に対しては、常に最前線に立って民を守るために戦っているため、村の人々からの人望は厚い。 ちなみに、彼は父だけでなく母も既に亡くしているが、彼の母はマーチ村の領主の親族であり、前述のセシルの母はその妹、つまりセシルは彼にとっての従弟にあたる。そして、夢の中で告げていたバルバリウスという名は、かつてそのマーチ村を救ったと言われる伝説的な領主の名である。母がその領主の末裔の親族であるならば、確かにエディもその末裔ということになるだろう。だが、その「バルバリウスの末裔」であることが、果たして何を意味するのか、この時点でのエディには、さっぱり分からなかった。 結局、この日の夜は今ひとつ寝付けぬまま、彼は翌朝を迎える。夢の内容が気になるところではあったが、現状でいくら考えても手がかりがない以上、答えが出るとは思えなかったので、彼はいつも通りに身支度を整え、愛馬ロリータの世話をしつつ、今日も領主としての務めをまっとうするため、執務室へと向かう。この日、彼の命運を大きく変える来訪者達が現れることを、この時点での彼はまだ知る由もなかった。 1.4. 山村への招待状 そんなトーキー村が昼下がりの時間帯を迎えた頃、この村に奇妙な風貌の一団が現れた。ブレトランドを拠点として活動する有名な旅芸人「ロザン一座」の面々である。座長のロザン(下図)は、“神笛”の異名を持つほどの縦笛の名手であり、彼の笛の音色に合わせて、一座の者達が剣舞、演劇、曲芸、歌唱などを披露する、多彩なエンターテイナー集団である(ちなみに、現在グリース子爵に仕えているペルセポネやモッチーナもまた、かつてはこの一座の一員だったことで知られている/ブレトランド戦記第7話・第8話参照)。 そして、この一座の中でも特に名の知れた花形スターが、ミレーユ・メランダ(下図左)とアイレナ・メランダ(下図右)という16歳の双子の歌姫である。彼女達の美声によって紡がれた柔らかなハーモニーは、旅先で多くの人々を魅了し、その名声は小大陸中に広まっており、数ヶ月前にマージャで開催された音楽祭(ブレトランド戦記第6話参照)においても、もし彼女達が出演していたら間違いなく優勝候補だったであろうと言われている(この時は、運悪く一座が大陸に巡業に行っていたため、参加出来なかった)。 ちなみに、そんな彼女達は、今は無きマーチ村の出身である。幼い頃から天才的な歌唱力の持ち主として村人達の間で話題となり、その評判を聞いて村を訪れたロザンから、ぜひにと頼まれて、彼の一座に加わることになった。だが、皮肉にもその数ヶ月後にマーチの村は混沌災害で崩壊してしまい、帰る場所を失った彼女達は、その悲しみを振り払うかのように歌の技術を磨き、今の名声を得るに至ったのである。 だが、そんな華やかな一面の裏側で、彼女達はその「歌姫」としてのドレスの下に「ライカンスロープの邪紋」を隠している。マーチ村はもともと(混沌災害が起きる前から)混沌濃度が高い地域で、邪紋使いが発生しやすい土地柄としても有名であり、彼女達もまた子供の頃にその力に覚醒していた。故郷を失った彼女達にとって、ロザン一座の者達こそが実質的な「家族」であり、その家族に危害を及ぼす者が現れた時には、その身を狼の姿に変えて、一座の護衛の者達を率いて戦う。そんな二つの顔を併せ持つ存在だったのである。 さて、そんな彼女達が今回、故郷の隣村であるトーキー村を訪れたのは、座長のロザン宛に、この村の領主エディの契約魔法師であるジャスタカークから、招待状が届いたからである。相次ぐ災害に苦しむ村の人々を勇気付けてほしいという旨が記されたその手紙を読んだロザンは、ぜひともその想いに応えたいと考え、こうして一座を引き連れて村を訪れることになった。 「では、さっそく、我々を招待して下さった契約魔法師のジャスタカーク様と、この地の御領主様に御挨拶せねばな。お前たちも一緒に来るか?」 そう言って、ロザンはミレーユとアイレナに問いかけると、ミレーユは妹の気持ちも代弁する形で問い返す。 「よろしいのですか?」 「あぁ、お前たちは隣村の出身だし、領主とは面識もあるだろうからな。一座を代表して挨拶に行く以上、ウチの花形スターを紹介したい気持ちもある」 実際、彼女達はエディとは面識もある。と言っても、子供の頃にチラッと会った程度なので、その記憶は薄い。ただ、良くも悪くも誠実で馬鹿正直な「あるべき騎士の姿」を志す少年であったと記憶している。そんな彼に対して、少なくとも悪い印象は持っていなかった彼女達は、座長に誘われるまま、領主の館へと向かうことになる。 一方、領主の館にいたエディは、突然の来訪者に驚いていた。ここ最近、混沌災害が多発するようになってからは、定期的に行き来する商人以外の者がこの地を訪れることなど、滅多にない。実質的に、山岳街道が魔境によって封鎖されているため、「通りすがりの旅人」すら殆ど現れないのが現状なのである。そんな彼に謁見を申し出たロザンに対して、エディはやや訝しげな心境ながらも、素直に対談に応じる。 こうして、「謁見の間」と呼ぶにはやや簡素な応接室に案内されたロザンは、エディに対して深々と挨拶する。一応、ロザンも過去にこの村で公演をおこなったことはあるが、当時はまだ「先代」の時代であり、エディもロザンも、互いのことはあまりよく覚えていない。 「当一座の座長のロザンと申します。この度は、ジャスタカーク様にお招き頂き、ありがとうございます。さっそく、ご挨拶させて頂きたいのですが、今は何処に?」 ロザンがそう言うと、エディはやや怪訝そうな顔をしつつ、申し訳なさそうな声色で答える。 「申し訳ございません。その者は、先日、混沌との戦いで、命を……」 そう、父の代からこの村の領主に支えてきた魔法師のジャスタカークは数日前、この地を襲った投影体との激戦において、村人を守るためにその身を挺して戦った結果、非業の死を遂げていたのである。まだその死はエーラムに届け出たばかりで、代わりの魔法師も派遣されていない状態であった。 「なんと……、それはおいたわしいことです。しかし、この手紙を受け取ったのは、比較的最近のことだったのですが……」 ロザンはそう言いながら、ジャスタカークから受け取った手紙を広げる。この時、エディがそこに記されていたサインを凝視していれば、この後の彼等の命運は若干異なっていたかもしれない。だが、この時点でエディは、特にその手紙に違和感を感じることはなかった。おそらく、生前のジャスタカークが、自分を驚かせようと思って密かに用意した余興だったのではないか、とでも考えていたのであろう。 「とはいえ、そのような状態なのであればなおさら、ジャスタカーク様の最後の御意思を叶えるためにも、我々にこの地で芸を披露する許可を頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」 「それは全く構いません。よろしくお願いします」 こうして、ひとまずのお墨付きを得たロザン一座の人々は、さっそくテントを張り、舞台を設営して、公演の準備を始める。その準備の様子を見て、村人達が集まり始めたところで、ミレーユとアイレナが、挨拶代わりに揃って歌を披露し始める。それは、一座に入ってから習った、大陸伝来の民族音楽であった。 「おぉ、なんと美しい……」 「あの娘達って、たしか、隣村にいた娘よね?」 「こんな綺麗な歌声を聴かせてくれるようになるなんて」 次々と村人達が彼女達の周囲に集まり、魔物の襲撃に怯えていたその表情が、次々と笑顔に変わっていく。久しぶりに訪れたこの中央山脈に響き渡る彼女達の音色は、どうやら一瞬にして村人たちの心を掴んでしまったようである。 2.1. 西からの刺客 一方、ケイからマーチ村へと向かっていたSFCは、混沌繭の生糸が張り巡らされた「魔境の中心領域」へと足を踏み入れつつあった。様々な方向から行く手を阻む生糸を器用に乗り越えながら進む彼女の瞳には、その道の所々に、生糸が丸く集積することで作られたいくつかの「投影体が内部で眠っていると思しき繭」が映る。それらにも触れぬよう気を配りつつ、彼女は着実に一歩一歩進んで行く。 「アクションゲームは得意だからね。カービィとか色々やってるし」 そんな独り言を呟きながら、かつてマーチ村があったと思しき廃墟の領域へと足を踏み入れようとした瞬間、ふと背後に、何者かの気配を感じる。しかし、その気配の主が誰なのかを確認する前に、彼女の首筋に、背後から短剣が突き付けられた。突然の出来事に動揺する彼女に対して、その短剣の主は少年のような声で、こう問いかける。 「お前は、幻想詩(ファンタジア)か? それとも大工房(ファクトリー)か?」 幻想詩連合(ファンタジア・ユニオン)と大工房同盟(ファクトリー・アライアンス)。それは、この世界を二分する国家連合である。ブレトランドにおいては、ヴァレフールは前者、アントリアは後者に属しており、ケイの武官であるSFCは、客観的に見れば前者に属する立場なのだが、それに対する彼女の答えは、彼にとっては少々想定外の内容であった。 「幻想詩も大工房もどうでもいい。私にとって大切なのはセシル様だけだ。邪魔をするな!」 「セシル……? お主は、チェンバレン家のセシル殿の部下か?」 セシルという名自体は、それほど珍しくはない。だが、ケイとマーチを結ぶこの街道でその名を挙げたことから、この「短剣の主」の中では、それが何者なのか類推できたようである。そして、ヴァレフールのチェンバレン家ゆかりの者であるということが分かった時点で、彼はその刃を収める。 「私はグリースのコーネリアス。この地で不穏な動きを見せる者達がいるという噂を聞き、調査のために訪れた次第だ」 そう言って、その短剣の主はSFCの前にその姿を現す。体格的にはセシルよりも小柄で、どう見てもただの子供にしか見えないが、実はこの少年は、先代トランガーヌ騎士団長の息子にして、現在はグリース子爵領における最凶の暗殺者(シャドウ)として名高いアトロポス駐在武官コーネリアス・バラッド(下図)である。彼は、自分の父を殺したアントリアのダン・ディオードと、彼を支援する白狼騎士団を初めとする大工房同盟の者達に対して、強い敵愾心を抱いている(詳細は ブレトランド戦記 参照)。もしSFCが大工房同盟側の人間であれば、迷わずこの場で斬り捨てていたであろう。 現在、彼が所属しているグリース子爵領とは、数ヶ月前に中央山脈の西側に出現した新興国家である。その首都ラキシスは、かつてはマーチ村と街道で繋がっていたのだが、7年前にマーチの混沌災害に先んじて発生した火山の噴火を起因とする地殻変動により、今ではその街道は完全に崩壊し、断片的な獣道程度の痕跡しか残っていない。故に、普通の人間であれば、グリース方面から山脈東南部の街道まで足を運ぶことなど、ほぼ不可能なのであるが、このブレトランドでも有数の実力を誇るシャドウの邪紋使いである彼にとっては、その気になれば「道なき道」を乗り越えて進むことなど、それほど難しい話ではない。 「お主が幻想詩の者であれば、ここで争う必要はない。お主はここへ何しに来た?」 「だから、セシル様を探しに来たのだ」 「何!? セシル殿がこの奥にいるのか? それは、何者かに連れ去られたということか?」 この瞬間、コーネリアスの脳裏には、数ヶ月前に中央山脈の反対側で起きたトランガーヌ子爵家のジュリアンの誘拐事件が思い起こされていた(「ブレトランド戦記」第7話参照)。だが、そんなことをSFCは知る筈もなく、彼女は自分の中に埋め込まれた情報に基づいて独り言を呟き始める。 「セシル様がこの奥にいるということは、これは闇堕ちしたセシル様と戦うフラグ……。このままではまずい。装備を整えないと」 「なんと、セシル殿は、もう既に自我を失った状態ということか?」 「え? そうなの?」 基本的に、SFCの周囲の者達は、彼女の意味不明な発言はスルーする慣習が身についてしまっているため、このようにまっとうなリアクションで返されることに、どうやら彼女は慣れていないらしい。故に、どうにも会話が噛み合わない二人ではあったが、とりあえず、コーネリアスにとっての「友好国」であるヴァレフールの要人の息子が危険な状態にあると聞いた以上、彼としてはこのまま黙って見過ごす訳にはいかなくなった。 「ここから先は、我が国の領域でも、ヴァレフールの領域でもない。故に、足を踏み入れることに関しては、どちらかに優先権がある訳でもなかろう。とりあえず、何かよからぬ陰謀が展開されているのなら、私も同行させてもらおうか?」 コーネリアスがそう言うと、SFCは無言で頷く。そして彼女の視界の下の方では「コーネリアスが仲間に加わった」という文字が(彼女にしか見えない形で)表示されていたのであった。 2.2. 異界の聖堂 こうして、奇妙な形で同行することになった二人は、やがてマーチ村の廃墟の領域へと足を踏み入れる。既に陽は落ち、月光だけを頼りに進む中、その月光に照らされた純白の生糸が、放置された家屋の跡地を結ぶように張り巡らされ、その途中で幾つもの繭を形成しているのが目に入る。繭の大きさはまばらだが、その大半は、人間サイズの生き物を収納する程度であり、ここに来るまでの間にいくつか目にした繭に比べると、やや小型に見える(それでも、本来の蚕などの繭とは比べものにならないほどの大きさなのだが)。 そんな中、その村の一角に、奇妙な建築物が立っているのが目に入る。その規模は、SFCの住むケイの領主の館よりも遥かに巨大で、八角形の屋根の上に、黄金の玉葱のような形の装飾物が光っている。それは、このブレトランドの伝統的な建築様式とは明らかに異質の構造であり、混沌に侵食されて何年も放置されたままの荒廃した村の内部の廃屋とは異なり、あまり傷ついた様子もないため、村が崩壊した後に建てられたとしか思えないが、その規模から察するに、一朝一夕で建てられるような代物ではない。既に人が住んでいない筈のこの地で、いつの間にこのような建物が築かれたのか、SFCもコーネリアスも、皆目見当がつかなかった。 だが、SFCは、この建物に見覚えがあった。この特徴的な構造は、かつて彼女が作られた世界に存在していた、有名な建築物そのものだったのである。それは、彼女を生み出した島国において、当初は武道の振興のために作られ、後にコンサートやじゃんけん大会の会場としても用いられることになった伝説の聖堂「日本武道館」である(ちなみに「全日本プロレス2 3・4武道館」というソフトは実在するが、彼女がそれを使ったことがあるかどうかは不明)。 なぜ、この建物がこんな山奥の廃村に存在するのか、この時点での彼女には全く理解できなかったが、そんな彼女達の前に、一人の魔法師風の男が姿を現す(下図)。 「おや、これはまた珍しい。こんな夜更けに客人とはな」 長い黒髪を夜風になびかせた、左右異なる色の瞳のその男は、そう呟きながらゆっくりと二人に近づき、そしてSFCの装束を確認すると、再び口を開く。 「その装束……、そういえば昔、クライン殿から聞いたことがある。異界の『ゲーム機』なるものの擬人化体をこのブレトランドで見た、と言っていたな」 SFCは、かつてパンドラの大物であるクラインに助けられたことがあるのだが、そのことは彼女の記憶にはないし、その名に聞き覚えはない。だが、コーネリアスの方は、パンドラの要人としてのクラインのことは噂程度には知っているようで、その名を聞くと同時に身構える。数ヶ月前のジュリアン誘拐事件の時にもパンドラが関わっていたことは、彼の中では記憶に新しい。 「それで、この地に何用かな?」 「ローラ姫を探しに来たら、こんな所にまで来てしまいました」 どうやら、SFCの言語中枢には「ローラ姫」という言葉は、「助けなければならない大切な存在」の代名詞としてインプットされているらしい。常人であれば、そんなことが理解出来る筈もないが、この「パンドラの魔法師と思しき男」は、異界からの投影体の取り扱いに慣れているのか、彼女の言いたいことが概ね理解出来たようである。 「ほう、なるほど。つまり、貴殿にとっては、姫のような存在ということか」 「ペットと飼い主のような関係です。あ、ちなみに、私がペットです」 そんなやりとりを目の当たりにしつつ、この女に任せていては話が進まないと思ったコーネリアスが、二人の会話に割って入る。 「この奥に、ケイの領主の御子息であるセシル殿がいるのではないのか?」 そう問われた魔法師風の男は、鋭い眼光をコーネリアスに向けながら答える。 「確かに、セシル殿は今、この建物の中にいる。しかし今、セシル殿は誰にも合わせる訳にはいかない。セシル殿はここで、この地を浄化する力を得るための『訓練』の最中だ」 「訓練とは、どういうことだ? そもそも、お前は幻想詩なのか? 大工房なのか?」 「私は、どちらでもないよ。ただ、今回に関して言えば、どちらかと言えばアントリア寄りの立場、ということになるのかな」 「アントリア」と聞いて、コーネリアスが黙っていられる筈がない。彼は瞬時にその魔法師に向かって斬りかかろうとするが、彼の刃が魔法師に届くよりも早く、その魔法師の手から放たれた衝撃波によって、コーネリアスは遥か遠方にまで吹き飛ばされてしまった。暗闇の中、その飛ばされた先に何があるのかは分からないが、山道の下の方まで転げ落ちていく音が聞こえる。 「スターウォーズだ!」 そんな意味不明な驚嘆の声を上げつつ、SFCはこの魔法師の実力に脅威を感じる。前述の通り、コーネリアスはこのブレトランドでも指折りの実力を持つシャドウの邪紋使いであり、そのことは、他者の戦闘力をパラメーター化して認識することに長けている彼女には十分理解出来ていた。その彼を、たった一撃の衝撃波で視界の奥にまで吹き飛ばしてしまったこの魔法師が、もはや彼女のスカウター能力では計れないレベルの存在であることもまた、彼女は直感的に理解していたようである。 「すまないが、もうしばらく待ってもらえないかな。我々の手で、彼は立派な君主に育ててみせる」 魔法師の男はSFCに向かってそう言うが、さすがにこんな胡散臭い人物の言うことを、そのまま信じる気にはなれない。彼女はこのようなシチュエーションにおいて用いるべき最短の言葉で答える。 「いいえ」 「納得できない、ということか?」 「はい」 コマンド選択の要領でそう答える彼女に対して、魔法師は力付くで排除することも出来たが、それは彼の本意ではなかった。コーネリアスのように、問答無用で襲いかかってくる相手に対しては、強引に対処せざるを得ないが、生かしておくことで有効活用出来る可能性がある相手に対しては、無闇に力で解決しようとはしない。それが彼のポリシーであった。 「まぁ、セシル殿を我々に預けるのが不服というのであれば、代わりになる人材を連れて来てくれれば、それでもいい」 そう言って、彼は東の方面に目を向けながら、SFCに対してこう提案する。 「トーキー村の領主、エディ・ルマンド。彼でもセシル殿の代わりは成り立つ。むしろ彼の方が、即戦力としては役に立ちそうだ」 「なら、最初から、そっちをさらってきなよ」 「さらったとは、人聞きが悪いな。セシル殿は、この村の混沌繭の中で眠る『四百年前の英雄』の声を聞いて、それに呼応しただけだ。エディ殿にもその声は聞こえていたと思うのだが、残念ながら、応えてはくれなかった」 この魔法師が言っていることが今ひとつ理解出来ないSFCであったが、とりあえず、気になる点について確認してみようとする。 「あなたが直接頼みに行く訳にはいかなかったの?」 「今現在、我々は既にセシル殿の訓練を始めてしまっている。私はこうして外の見張りをしなければならないからな。人手が足りないのだよ」 「じゃあ、もう一つ質問。これは、メインイベントなの? サブイベントなの? それによって、どこまで全力を尽くすべきかは変わってくるんだけど」 「私にとっては、分岐イベントの一つだ。君にとってセシル殿を連れ帰ることが、メインイベントなのか、サブイベントなのかは分からない」 SFCの独特の言葉遣いに対して、なぜかこの魔法師は妙に理解力があるようで、(噛み合っているかどうかは微妙だが)かろうじて会話は成り立っているようである。もしかしたら、彼自身、既にどこかで他のタイプの「ゲーム機の擬人化体」と出会ったことがあるのかもしれない。 「じゃあ、セシル様が本当に無事なのか、その『修行』の様子を見せて」 「……まぁ、いいだろう。では、この『窓』を開こうか」 彼はそう言うと、SFCの目の前に、巨大な「画面」が広がる。武道館の内部に設置された映像記憶装置の内容を、この魔法師が作り出した即席の「壁」に映し出したのである。通常の人間であれば驚愕する技術であるが、映像技術の申し子であるSFCにとっては、さほど珍しい光景ではない。 そして、そこに写っていたのは、女魔法師らしき人物(下図)と、そしてセシルの姿である。前者の周囲に、いくつかの小さな混沌核が現れては、それをセシルが自らの聖印の力で浄化・吸収する、という行為が繰り返されていた。 セシルの聖印は、父であるガスコインから「後継者の証」というシンボル的な意味で受け取った従属聖印であり、その規模は従騎士クラスにも満たない程度だった筈なのだが、この作業を通じて、少しずつ彼の聖印は成長しているように見える。そしてセシルの表情は、何かに操られている様子でも、脅されている様子でもない。むしろ、日頃の「玩具状態のSFC」で遊んでいる時のような、生き生きとした様子に見える。 「なるほど、レベルアップのための狩場での経験値稼ぎか」 そう考えると、彼女の中で、特に反対する理由もない。セシルが生き生きと今の状況を楽しんでいるようなら、彼女としてはむしろ、彼をこのままサポートしてやりたい気持ちもある。 「じゃあ、私はこの地でセシル様のお世話をさせてもらいます」 そう言って、武道館の中に入って行こうとすると、魔法師が止める。 「悪いが、そういう訳にはいかない。今は修行に専念してもらいたいのでな」 「なぜですか!? 私にはセシル様が必要なんです。セシル様がいなくなったら、誰が私をプレイするんですか? セシル様ほど、私を深くやりこんで、裏技やバグまで発見してくれる人は、他にいません!」 どうやら、セシルと彼女は、かなり強固な共依存関係にあるらしい。そして、そのことを悟った魔法師は、なおさら彼女を会わせる訳にはいかないと判断したようである。せっかく、訓練に精を出してくれているのに、今ここで別の娯楽を与えてしまっては、彼の集中力が鈍ることになりかねない。 「セシル殿の訓練には、まだもうしばらく時間がかかる。身体そのものが未成熟な分、聖印の力だけでも鍛えておかなければ、混沌を吸収する際に耐えられなくなりそうだからな。それまで待てないというのなら、代わりにトーキーの領主を連れてくることだ」 「……分かりました。シナリオ上、それしか道はないということですね」 そう言って、SFCは一刻も早くセシルに自分で遊んでもらいたいという願いから、ひとまずトーキーの村へと向かうことを決意する。エディはセシルの従兄であり、SFCも彼とは面識がある。その際に、彼もまた「玩具」としての自分の価値に一定の理解を示してくれていたので、きっと彼であれば、セシルを解放するために協力してくれるであろう。彼女はそう信じて、暗い闇夜の中、月光に照らされながら、山岳街道を東へと向かうことになったのであった。 2.3. 外交官と小領主 そして翌朝、そんな彼女よりも一足先に、反対方向からトーキー村に、スュクル率いるアントリアの軍勢が到着した。少数とはいえ、隣国の軍勢が村を訪れたことに対して、村人達の間では静かな動揺が走る。覇権国家として知られるアントリアだが、旧トランガーヌ子爵領崩壊後のトーキーに対しては、良くも悪くも「不干渉」の姿勢を続けていた。その気になればいつでも制圧できる状態ではあったが、対ヴァレフール戦に全力を注がなければならない状態において、混沌災害に見舞われているトーキーをその領国に加えることは、アントリアにとってプラスよりもマイナスの方が大きい、というのが、中央の官僚達と現場の軍人達の共通見解だったのである。 それ故に、村人達の間では、主家であるトランガーヌ子爵の聖印を奪った上に、苦境にいる自分達を放置しているアントリアに対して憎悪の感情を抱く者も多く、領主であるエディ自身も、クワイエットの領主ファルコンに対しては内心では敵愾心を抱いていたが、現実問題としてクワイエットを封鎖されるとトーキーは完全に「陸の孤島」と化してしまうため、少なくとも表面上は、アントリア(クワイエット)に対しても友好的な態度で付き合わなければならない、そんな関係であった。 「領主のエディ殿にお目通りを願いたい」 スュクルは村の入口で衛兵に対してそう告げると、その旨はすぐにエディに告げられる。突然の隣国(強国)からの訪問者に対して、エディは内心で不安に思いながらも、ひとまず会って話を聞いてみようと考え、スュクルを領主の館まで連れてくるように伝える。 思いの外あっさりと会談を許可を得たスュクルは護衛の兵達と共に、村人を刺激しないように注意しながら領主の館へと向かうが、その途上、ロザン一座の者達が公演の準備をしている様子が視界に入り、その中に「双子らしき女性」がいることも確認する。どうやら、パンドラの捕虜が言っていたことは、少なくとも全くの荒唐無稽な話という訳ではないらしい。館の前に着くと、スュクルは兵達を外に残したまま、単身で応接室へと向かい、そして領主と対面する。 「ご無沙汰しております、クワイエットのスュクルです」 「お久しぶりです。トーキーの領主、エディ・ルマンドです。今日は、どのようなご用件で?」 「今後の我が街との関係のあり方と、マーチ村を覆う混沌を浄化する方法について、少々お伺いしたいことがございまして」 「マーチ村の混沌を浄化? それは一体……?」 「それは国家の機密に関わることですので、我々にご協力頂けるという約束を頂けるなら、お話したいと思います」 スュクルとしては、この情報を伝えることで、逆にトーキーがヴァレフールにその情報を流す可能性もある以上、そう易々と話す訳にもいかない。一方、エディにとってもマーチ近辺の魔境の浄化は悲願であり、そのための協力者は喉から手が出るほど欲しいというのが本音であるが、そのためにアントリアと手を組むことに対してはやや抵抗がある。これまで国策的な理由で放置され続けていたこの地に対して、あえて今頃になって手を差し伸べてきたということは、その裏に何らかの思惑があると考えるのが自然である。 とはいえ、先日の戦いで契約魔法師であった忠臣ジャスタカークを失ってしまったエディとしては、もし次に本格的な投影体による襲撃があった時に、今の村の戦力だけで村を守りきれる自信はない。ならば、むしろ毒を以って毒を制す覚悟で、アントリア軍を利用することも視野に入れるべきなのではないか、という気持ちもある。 「御配慮頂き、ありがとうございます。そういうことであれば、まずはマーチ村の実態調査のために、我が村も協力しましょう。その後のアントリアとの協力体制については、その実態が明らかになった後に改めて、ということで構いませんか?」 「そうですね。では、その作戦を実行するため、これからクワイエットに増援部隊の派遣を要請し、トーキーに駐留させることの許可を頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」 現実問題として、もし本格的な混沌災害や巨大な投影体の出現といった事態に遭遇した場合、現状のトーキーの戦力だけでは太刀打ち出来ない。その意味で、この提案は至極まっとうな申し出のようにも見えるが、それを口実にトーキーを長期的に軍事占領される可能性もある。エディの中では、主家であるトランガーヌ子爵家が混乱状態にある今(「ブレトランド戦記」参照)、中立の独立勢力であることにそれほど強いこだわりがある訳ではないが、覇権国家アントリアの支配下に置かれることに対して、領主としては警戒心を捨てることは出来ない。 だが、仮にこれを断った場合、逆にアントリアが強硬手段に出る可能性もある。そうなった場合、トーキーにはそれに抗うだけの武力はない。ならば、どちらにしてもアントリアとは「良き隣人」の関係であり続ける以外の選択肢が現状で存在しない以上、ここはひとまず、アントリアが(少なくとも表面上は)友好的な態度を見せている今の段階で、彼等の戦力を利用する方向で妥協した方が得策かもしれない。 「分かりました。では、この問題が解決するまで、アントリア軍の駐留は認めましょう。私も一緒に調査に行くのであれば、その間に村を魔物から守る戦力は必要ですし」 こうして、アントリア(クワイエット)とトーキーのそれぞれの思惑が交差する中、着々と両陣営の協力体制に向けての下準備が進められていった。外交官として難題に取り組むことになったスュクルとしては、ひとまず、トーキーの領主が「話が分かる人物」であることに安堵しつつ、彼の出方を見ながら、ここから先の計画に向けての思案を巡らせていく。だが、そんな中、彼等にとって想定外の事態が、このトーキーで発生することになる。 2.4. 妖魔の襲撃 領主の館でエディとスュクルの間での外交交渉が展開されている頃、ロザン一座の舞台の袖で出番を待っていたミレーユとアイレナは、村の西方から、何か異様な者が近付いてくる気配を察知する。二人は互いに目を合わせ、同じものを感じていることを確認すると、ロザンにその旨を報告する。 「座長、この村に、混沌の気配が近付いてきています」 「何だと!? それはまずいな。ミレーユ、お前はすぐに領主様にそのことをお伝えしろ。アイレナは、他の者達と一緒に、村を守る準備を」 「分かりました!」 二人は同時に答えると、ミレーユは舞台用のドレスを着込んだまま、全力で領主の館へと駆け抜ける。狼のライカンスロープである彼女の足は、通常の人間よりも遥かに速い。瞬く間に館にたどり着いた彼女は、入口の衛兵に事情を説明すると、すぐに応接室へと向かった。 「大変です、領主様。村の西方から、魔物の気配が!」 突然現れた舞台衣装のミレーユに驚くエディとスュクルであったが、そう聞かされた以上、すぐに現地に向かうしかない。エディは側近の騎馬兵達を、スュクルはクワイエットから連れてきた護衛の盾兵達を引き連れて、ミレーユと共に西方に向かうと、そこには確かに、ティル・ナ・ノーグ界からの投影体であるゴブリン達の集団が、村に向かって押し寄せようとしている姿があった。 既にロザン一座の護衛兵達を率いて臨戦態勢を整えていたアイレナと合流したミレーユは、即座にアイレナと共に、ドレスの下に隠した邪紋の力を発動させる。すると、彼女たちの手足が獣のような姿に変わり、手の先に鋭い爪が伸びていく。 (あの姉妹、邪紋使いだったのか!) スュクルはその様子に驚きながらも、彼女達が飛び込むよりも前に、まずは目の前で展開していた中央のゴブリンの一団に対して、ライトニングボルトを打ち込む(この魔法は術者本人から一直線上に放たれるため、射線上に味方がいる状態では放てない)。この先制の一撃で、ゴブリン達の隊列が乱れると、それに続けて、愛馬ロリータに乗ったエディ率いる騎馬兵達が左側の部隊に対して、ミレーユとアイレナに率いられた一座の護衛兵達が右側の部隊に対して、それぞれ特攻を掛ける。投影体の中でも下級の存在と言われるゴブリン達は、彼等の猛攻の前に、次々と崩れ落ちていく。 だが、そんなゴブリン集団の背後で、密かに呪術を放とうとしているゴブリンがいた。ゴブリンの中でも特別に高い知性を持つ、ゴブリンシャーマンと呼ばれる個体である。しかし、彼が後方から何かを放とうとしたその瞬間、更にその後方から、彼に向かって襲いかかる者が現れた。 SFCである。夜通しで街道を東進していた彼女が、ようやく念願のトーキーの村にたどり着こうしたまさにその瞬間、村がゴブリン達に襲われている場面に出くわしたのである。同じ投影体といえども、人間に対して敵対する性分のゴブリンは、彼女にとっては迷うことなく討伐すべき「敵」である。本来は画面上の存在を動かすために作られた玩具としての棒状の武器を振り上げて、彼女はゴブリンシャーマンに襲いかかる。突然の奇襲を受けたゴブリンシャーマンは混乱したまま撤退しようとするが、そこにスュクルから追い討ちのエネルギーボルトを放たれて、その場に倒れこんで絶命する。 こうして、どうにか無事にゴブリンの集団を撃退したエディ達であったが、スュクルの目には、まだもう一体、警戒すべき存在の姿が映っていた。 「そこの奇怪な姿をした貴様、何者だ!?」 そう言いながら、SFCに対して魔法を打ち込む構えを見せるスュクルに対して、彼女は素直に答える。 「私はケイの領主の御子息であるセシル様に仕える者です。天空の勇者であるエディ殿にお願いしたいことがあり、この地に参りました」 「ケイ」と聞いた瞬間、スュクルの警戒心が更に強まる。宿敵ヴァレフールの者がこの地に現れたとなると、事態はかなり厄介である。出来ればすぐにでも排除したいところだが、その動きをエディが制した。 「あの者は、私の縁者であるセシルの側近です。ご安心下さい」 エディとセシルは従兄弟ということもあり、過去に何度も会ったことがある。エディとSFCが会ったことは過去に一度しかないが、それでも、ここまで特異な風貌の人物であれば、忘れる筈もない。そして、そんな彼女がわざわざ危険な中央街道を突破してまでこの地を訪れたということは、何か緊急事態が起きているということは、エディにも容易に想像出来た。 (少々、厄介な事態になりそうだな) スュクルは、ヴァレフールからの介入者に対して内心そう思いつつ、この時点で騒ぎを起こすわけにもいかない以上、ここは素直に彼女を受け入れた上で、話を聞くことにしたのであった。 2.5. 深まる謎 「まずは、これをご覧下さい」 そう言って、SFCは自らの体を「玩具」状態に変え、その一部である「画面表示装置」のところに、彼女がマーチ村で遭遇した魔法師との一部始終を音声付きで再現する。その謎の異界の技術に対して、その場にいた者達は驚きの表情を浮かべるが、そんな中、既に彼女のその姿を見たことがあるエディは、その映像の中に「見知った人物」がいることに気付く。 「これは……、シアン殿?」 エディの記憶が正しければ、SFCの前に現れた魔法師の名は、シアン・ウーレン。パンドラの闇魔法師である。以前、エディがトーキー近辺に現れた魔物を倒すために討伐隊を率いて出陣した時に、山中に突然現れたシアンが、一瞬にして強大な魔物達を撃滅する場面に出くわしたことがあり、その時以来、エディは彼のことをライバル視すると同時に、この地の魔物を倒す彼のことは(その正体がパンドラの闇魔法師であることを知った上で)同志とみなすようになっていた。 一方、スュクルとミレーユは、映像の冒頭で、そのシアンに向かって切りかかっていった「小柄な黒装束の少年」の声に聞き覚えがあったが、SFC視点からだったこともあり、その顔がはっきりとは映っていなかったため、それが誰かまではこの時点では特定出来なかった。だが、いずれにしてもスュクルの中では、「ヴァレフールの領主の息子が、この地を浄化するための力を得るために、パンドラと思しき魔法師達の訓練を受けている」という状態は、極めて危険な事態に思えた。シアン自身は映像の中で「どちらかと言えばアントリアの味方」と言っていたが、今の時点でその発言が真実と思える要素は何一つ見つからない。 「エディ殿、お願いします。セシル様をお救いするために、一緒に来て下さい」 そう懇願するSFCに対して、エディは二つ返事で答える。 「セシルは私にとって家族も同然。まだ幼い彼に、そのような重責を担わせる訳にはいかない」 この時点で、エディの中では既にある程度の予想がついていた。二日前に彼の夢の中で聞こえてきた声が、おそらくシアンが言うところの「四百年前の英雄の声」であり、おそらくは(自分と同じ「バルバリウスの末裔」である)セシルもまたその声を聞いた上で、マーチへと向かったのであろう。なぜ、それをシアンが手助けしているのかは分からなかったが、いずれにしても、自分の代わりに幼いセシルが危険な行為に手を出そうとしている現状に対して、黙っている訳にはいかなかった。 一方、この事態に対して困惑していたのはスュクルである。ファルコンが入手した情報によれば、この街道の魔境を除去するための「巨大蛾の羽化」のために必要なのは「ロザン一座の双子」の筈なのだが、この投影体の少女の映した映像を見る限り、「この地を浄化する力」を持つのは、「ケイの領主の息子」か「トーキーの領主」であるという。この映像に映っている魔法師の言っていることと、巨大蛾の羽化の計画が連動しているのかどうかも分からないが、ここまでの情報を整理する限り、最悪の場合、ヴァレフールとパンドラが手を結んで巨大な陰謀を企んでいる可能性もある。 こうなると、パンドラの陰謀を利用して山岳街道の通行権を確保するどころか、逆にヴァレフール側が巨大な混沌の力を用いて逆にこの山岳街道を制してしまうかもしれない。しかも、このエディの反応を見る限り、状況によっては、その企てにトーキーまでもが加わる可能性もありうる。アントリアとしては、何としてもそれは食い止めなければならないが、今、この地に連れて来ている軍勢は彼の護衛の盾兵のみであり、力付くでエディを止められる状態ではない。そして、エディはすぐにでもマーチに向かってしまいそうな状態である以上、クワイエットからの援軍を待つ余裕も無さそうである。 この状況においてスュクルが出来ることは、彼らに協力する体裁を取りつつ、エディがパンドラやヴァレフールに手を貸すような事態を避けるように誘導していくことしかない。その状況を踏まえた上で、彼にはまず、確認すべきことがあった。それは、今のこの戦いで彼等と共にゴブリンを撃退した「双子の姉妹」の正体である。現状、目の前でマーチ村の混沌の浄化に関する話が交わされているにもかかわらず、この双子は、その内容に興味を示しながらも、積極的に会話に入って来ようとはしていない。この様子を見る限り、彼女達には「マーチの混沌を除去する上での鍵となる人物」としての自覚が無いか、仮に何かを知っているとしても、それを表に出せない状態のようである。 そうなると、まずは彼女たちの「保護者」に確認してみるのが得策であろう。そう考えた彼は、ひとまずエディに一通りの事情を伝えた上で、ミレーユとアイレナを通じて、ロザンとの会話の機会を設けてもらうことにした。ミレーユとアイレナは、その意図がよく分からないまま、素直に自分達の「保護者」にその旨を伝えるのであった。 2.6. 村の守護神 こうして、ロザンは領主の館に再び出頭し、応接室に案内された。状況を整理するために、マーチの現状を目撃しているSFCには同席させたが、スュクルの要望により、ミレーユとアイレナはこの場には呼ばなかった。もし仮に、彼女達に「巨大蛾を羽化し、操る能力」があることを座長が知っていて、彼女達自身が知らないのだとしたら、それは何らかの「聞かせたくない理由」が座長の中にある、ということになる。だとすれば、ここで彼女達を同席させる訳にはいかない。 とりあえず、スュクルが、あの双子に魔境を浄化する力があるのではないか、という仮説をロザンに話すと、彼は重々しく口を開いた。 「マーチ村の人々は『あの二人の歌声には、この村の守護神を蘇らせる力がある』と言っていました」 その「守護神」なるものが何者なのかは聞かされていないらしいが、村から二人を連れて行く時点で「もし今後、村に危機が訪れた時には、その二人を連れ戻すように」と頼まれていたらしい。だが、実際には、彼女達が村を去った数ヶ月後に、突然の混沌災害によって、彼女達を村に返す間も無く、村は壊滅してしまった。このことは、ロザンの中でもかなり重い過去のようで、その表情は暗い。そして、当の二人は自分達にそのような力があるという事実を聞かされておらず、彼女達の両親からも「二人にはそのことは伝えないように」と頼まれていたらしい。 この時点でスュクルが入手している情報が全て正しいと仮定するならば、村人達が言っていた「村の守護神」とは、巨大蛾である可能性が高い。だが、その復活(羽化?)のための具体的な方法を知る者は、もはや誰も生き残ってはいないようである。もし、パンドラだけがその情報を入手していた場合、現状ではパンドラを出し抜く形での巨大蛾の羽化を実現することは難しい。 こうなると、スュクルとしては、あの双子をマーチに連れて行くことは危険であるように思えた。仮に、双子を説得して、アントリアに有利になるような形で巨大蛾を利用するように促すことが出来たとしても、当の彼女達がその方法を知らないのであれば、パンドラの言いなりにならざるを得ない可能性が高い。 「座長殿、我々はこれから、マーチ村に調査に行きます。あの二人は村には近付けないようにお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」 スュクルにそう言われると、ロザンも素直に同意する。彼としても、あの双子を危険な目に遭わせるのは本意ではない。とりあえず、今日の時点で既に陽は落ちかかっているので、明日の朝になったら、エディ、スュクル、SFCの三人がマーチ村に行くのと同時に、彼等一座は村を去り、クワイエット方面に移動する、ということで、彼等の方針は一致した。 それにしても不可解なのは、なぜマーチ村の人々は、そのような「村の守護神」を復活させる力を持つ彼女達を、あっさりとロザンに預けたのか、という点である。この謎を解く手がかりを持つ人物は、実は既にこの村の中にいたのであるが、この秘密会議に参加した者達は、誰もその事実を知らなかった。 2.7. 夢に響く唄 その日の夜、ミレーユは夢を見ていた。夢の中で、彼女の耳には、不思議な唄が聞こえてきた。聞き覚えがあるような、初めて聞くような、懐かしいような、新鮮なような、なんとも形容し難い旋律と、古代の言葉か、あるいは異世界の言語のような、奇妙な響きの歌詞。その唄は、夢の中で彼女がどこに行っても彼女の耳から離れず、彼女の魂の奥底に入り込んできた。誰が歌っているのか、何のために聞かされているのかも分からない。そんな不可思議な状況に不気味さを感じつつ、最後までその正体が分からないまま、彼女は寝覚めの悪い朝を迎えた。 ふと横を見ると、隣で寝ていたアイレナも、同じような寝覚めの悪い表情を浮かべている。ただ、ミレーユとは異なり、アイレナの表情は、どこか「何かを悟っている様子」のようにも見えた。 「ミレーユ、あなたも『唄』の夢を見たの?」 「うん、あなたも?」 アイレナは静かに頷きつつ、真剣な表情で、ミレーユに語りかける。 「私、あの唄のこと知ってるの。昔、お父さんとお母さんが話していたわ。あの唄を、私達に歌わせてはいけない、って」 そう言って、アイレナは子供の頃に偶然聞いてしまった「村人達と両親の会話」について話し始める。それは、ミレーユにとっては全く初耳の話であった。 * 彼女達の故郷であるマーチ村には、巨大な「蛾」の姿をした守護神がいるらしい。その守護神は、日頃は「幼虫」の形状で領主の館に眠っているが、この村が危機に陥った時には、「成虫」としての「巨大蛾」の姿となり、この村を全ての混沌から守ってくれるという。 ただ、その巨大蛾自身も混沌によって作られた「投影体」であり、幼虫から成虫への「羽化」のためには、混沌の力を高める必要がある。そのためには、巨大蛾に自らの心を同調させた上で、その力を増大させるための「唄」が必要らしいのだが、過去にそれを試みた歌い手達は、いずれも歌い終わる前に混沌の力に飲まれてしまい、暴走状態となって、人としての心も身体も失ってしまったという。 それ故に、その「羽化のための唄」を歌うことは、長らく禁じられてきた。ところが、そんな村にミレーユとアイレナという「美しい歌声の双子」が生まれたことで、村人達の一部に、ある「仮説」を唱える者達が現れた。 「双子で同調して歌えば、身体に流れ込んでくる混沌の力がそれぞれに半減され、暴走状態となることなく羽化を達成出来るのではないか?」 当時の領主の契約魔法師はこの仮説に対して、それが実現出来る可能性はあるものの、確実と言える根拠はない、という見解を示していた。それ故に、彼女達の両親は、娘達にその「禁じられた唄」を歌わせてみようとする村人達の提案を頑として断った。たとえそれが村を守るために必要なことであっても、自分の娘達を危険な「賭け」に晒すことは避けたいと考えていたのである。 * そして、アイレナがこの話を聞いた数ヶ月後、ロザンがこの村を訪れ、そして二人を一座に加えたいと言い出した時、村の者達が反対する中、両親はあっさりとその提案を受け入れた。今にして思えば、おそらくそれは、このまま村に自分の娘達を残しておけば、その危険な「唄」を歌うことを強要されるかもしれない、という危惧だったのだろう。それよりは、村を離れて自由に生きてほしいと、彼女達の両親は願っていたようである。 「この村の領主様達は、これからマーチ村に調査に行くと言ってたわ。もしかしたら、私達の唄の力があれば、私達の故郷を取り戻せるかもしれない。失敗する危険もあるかもしれないけど……、どうする?」 そう問いかけるアイレナであったが、ミレーユの中では、既に心は決まっていた。 「行きましょう。私達の力でどうにか出来る可能性があるなら、迷う必要はないわ」 ミレーユの最も嫌うこと、それは優柔不断な態度である。自分達を気遣ってくれた両親には悪いが、その自分達の両親を奪った混沌を浄化出来る可能性があるなら、それに賭けてみたい。そう思った彼女の中では、既に迷いはなかった。アイレナも強い決意の瞳で、それに同意する。 ただ、実はミレーユには「優柔不断な態度」と同じくらい、嫌い(より正確に言えば、苦手)なものがあった。それは「虫」である。それ故に、「巨大蛾」を復活させると聞いて、彼女の中では密かに並々ならぬ恐怖心が生まれていたのだが、それでもこの時点では、今は自分達に出来る務めを果たしたい、という思いの方が強かったのである。 こうして二人は、早朝からクワイエット方面に向けての移動を始めようとしていたロザン一座を抜け出し、一足先に出発していたエディ達の後をつけて、故郷であるマーチ村へと足を踏み出したのであった。 2.8. 黒い魔犬 そんな彼女達の思惑など露知らず、エディ、スュクル、SFCの三人は、この日の朝、マーチ村に向けて足を踏み出していた。マーチ村の近辺は、大規模な兵を展開しようとしても、途中で混沌繭の生糸に道を阻まれてまともに機能しないことは分かっていたので、あえて兵達は連れて行かずに、スュクルの連れてきた盾兵達もトーキー村に待機させていた。 その上で、スュクルはクワイエットに伝令兵を送り、更なる援軍を要請する。間に合うかどうかは分からないが、最悪、大規模な混沌災害が起きたり、ヴァレフール軍が進駐してきた場合に備えて、打てる手は打っておく必要がある。もっとも、あまりにクワイエットの兵を動員しすぎると、逆にその隙をついてオディール方面から攻撃される可能性もあるので、派遣出来る兵の数には限界があるのだが。 そして、彼等三人が、本格的に「魔境」と呼ばれる領域に差し掛かった時、後方から何者かの気配を感じる。ミレーユとアイレナである。気付かれないように密かについてきた二人であったが、時空魔法師であるスュクルの目をごまかすことは出来なかった。 「あなた達、どうしてここにいるんです?」 すぐに追い返そうと思った彼であったが、それよりも先に、今度は前方から、今度は明確に敵意を持った気配を感じる。そこに現れたのは、昨日戦ったゴブリンよりも(個体としては)遥かに強力な投影体、ブラックドッグである。現状、彼の目に映るのは三体。その鋭い牙は、スュクル程度の身体であれば一撃で引き裂けるほどの威力である。 少なくとも、今は口論している場合ではないということを瞬時に悟ったスュクルは、まず、その中の一体に対してライトニングボルトを放とうとするが、焦ったせいか、その発動に失敗してしまう。それに続けて、今度はエディが単身特攻して別の一体に切り掛かり、その一撃はブラックドッグの身体を確かに捉えたものの葬るには至らず、返す刀でブラックドッグに強烈な反撃を受けて、逆にエディが重症を負ってしまう。 一方、スュクルが雷撃を食らわせようとした一体は、そのスュクルに向かって突進しようとするが、そこのSFCが割って入り、なんとか食い止める。奇妙な構造の鎧を着込んだSFCの身体は、ブラックドッグの強靭な牙に食いつかれても、そう簡単には崩れない。 そして、残った一体に対して、今度はミレーユとアイレナが襲いかかる、その身を獣に変え、鋭い狼の牙で姿に変えた彼女達の連続攻撃に、一瞬怯んだかに見えたブラックドッグであったが、すぐに体勢を立て直してアイレナの柔肌にその牙を突き立てた結果、アイレナはその場に倒れ込んでしまう。 「アイレナ!」 瀕死の状態で倒れ込む妹に向かって叫んだミレーユに対して、ブラックドッグは立て続けに襲いかかり、今度はミレーユも重症を負う。だが、それと同時に、彼女の中での「獣」の本性が暴走し始め、その爪が更に鋭く研ぎすまされる。そう、これこそが、ミレーユの中に秘められた彼女の真の戦闘形態なのである。 「落ち着いて、まずは一匹ずつ倒していこう!」 そう叫ぶエディの声に従い、彼等はまず、アイレナを倒したブラックドッグに攻撃を集中させた結果、ようやく一体がその場に倒れ込む。すると、残りの二体のうち、SFCと対峙していた一体が突然後方に視線を向け、エディ達とは反対方向に向かって走り始めていく。 「仲間を呼びに行く気かもしれない。なんとか食い止めてくれ!」 スュクルはそう指摘し、それに呼応したミレーユが追撃を加えようとするも、一歩及ばずそのまま暗闇の中へと走り去っていく。やむなく彼等は、残った一体を取り囲み、最後はSFCの会心の一撃でどうにか倒すことに成功するが、それとほぼ同時に、走り去っていった一体が、その暗闇の先で断末魔の悲鳴を上げる声が聞こえてきた。 何が起きたのか理解出来ない彼等に対して、同じ方向から何かが近付いてくる物音が聞こえる。だが、その足音から察するに、それはブラックドッグではなく、二足歩行型の何者かであることは分かった。身構える彼等に対して、その暗闇から現れたのは、漆黒の装束に身をまとった、小柄な少年の姿でった。 2.9. 束の間の再開 「お主は、あの時の!?」 黒装束の少年は、SFCを見てそう叫ぶ。月光に照らされて姿を現したその表情は、二日前にSFCの目の前で、「謎の魔法師」の放った衝撃波によって弾き飛ばされ、行方不明となっていたコーネリアスであった。見たところ、その装束はかなりボロボロで、身体にも傷跡が見えたので、相当な重症を負いながらも、九死に一生を得ていたようである。そして彼は、そのSFCの傍らにいる少女が視界に入ると、再び口を開いた。 「ミレーユ殿? それに。アイレナ殿も! どうしてこのような所に!?」 実は、彼の実家のある街には、ロザン一座は頻繁に公演のために訪れており、それ故に、自分と歳が近い(2歳年上の)ミレーユ達とは顔馴染みで、何度も一緒に遊んだことのある仲なのである。そんなアイレナが、息も絶え絶えの状態で倒れているのを見て、彼は即座に駆け込んで、手元からエーラム製のポーションを取り出し、彼女に与える。このポーションは、いざという時のために主君ゲオルグから与えられていたものだが、自分のことを弟のように可愛がってくれた彼女達のために用いることに対して、彼の中では躊躇は無かった。 一方、実は彼女達だけではなく、もう一人、コーネリアスのことを知っている人物がいた。 (この少年、確かあの時の……) スュクルである。以前、彼がアントリアの要人をクワイエットに案内しようとした時、黒装束の小柄な少年に襲撃されたことがあった。それが、グリースに士官する以前の、たった一人でアントリア相手に細々と抵抗を続けていたコーネリアスだったのである。その時は、からくもその要人の命は守ったものの、「激しい憎悪」と「強すぎる信念」に満ちたその少年の瞳が、スュクルにはあまりにも印象的だった。もしかしたらそれは、主君であるファルコンのためならば自らの命を投げ出すことも厭わない覚悟の自分と、どこか鏡合わせの存在のように思えたのかもしれない。 だが、どうやらコーネリアスの方は、スュクルのことは覚えていないようである。彼はアイレナの傷が癒えるのを確認すると、SFCの方を向いてこう問いかけた。 「お主がいるということは、この方々もヴァレフールの人々か?」 方角的に考えれば、今、彼等がいるのはマーチとトーキーの中間地点であり、ヴァレフール軍の者がこの場所いるとは考えにくいのだが、どうやらコーネリアスは、あの衝撃波で吹き飛ばされた時以来、この魔境の中を彷徨い歩いた結果、現在位置がよく分からない状態になっているらしい。 「私はグリースのコーネリアス。この地で起きた異変を調査するために派遣された。皆様がヴァレフールの方々なら、あの『アントリアに手を貸しているという魔法師』を倒すために、協力させてもらいたい」 更に厄介な状態になったことを悟ったスュクルではあったが、先ほどの状況から察するに、走り去ったブラックドッグに止めを刺したのは、おそらくこの少年である。多少傷を負っていたとはいえ、一人であっさりと強力な魔物を倒す力を持つ彼を相手に、この場で喧嘩を売る訳にもいかない。これから先、更に強力な魔物が出現する可能性もある以上、ここは彼に話を合わせて、ひとまずその力を利用した方が得策である。 「分かりました。では協力しましょう。おそらくあの魔法師はパンドラの者です。奴等にこの地を好きにさせる訳にはいきません」 スュクルがそう言うと、他の者達も彼の立場を理解したのか、彼がアントリアの一員であることは伏せたまま、コーネリアスに事態の概要を伝える。 「なるほど。セシル殿はあの奇怪な建物の中におられるのか。ならば、皆さんがあの魔法師の気を引きつけている間に、私が反対側から建物の中に忍び込んで、セシル殿を救出する、という作戦でどうだろう?」 実際のところ、それで上手くいく保証はないが、現状ではそれが一番妥当な作戦のように思えた。敵の最終目的が分からない以上、どちらにしてもまずは会話を通じてその真意を聞き出す必要はあったので、その過程でコーネリアスがセシルを救い出してくれるのなら、それが一番確実である。そして、この小大陸でも指折りのシャドウの実力者である彼以上に、この任務に適任な者はこの場にはいなかった。 その上で、もう一つの問題はミレーユとアイレナである。彼女達もまた自分の知る限りの情報を皆に伝えた上で、そのまま同行して村を浄化したいという決意を伝える。当初は彼女達を遠ざけようと考えていたスュクルではあったが、この魔境の中で彼女達を追い返した場合、逆にパンドラに捕縛される可能性がある以上、かえってその方がリスクが高い。むしろ、戦力としての彼女達が有用であることは先刻の戦いからも明らかであったため、この状況下において、彼女達を連れていくことに反対出来る状態ではなかった。 「ただ、パンドラと交渉する際に、あなた方の存在を知られたくないので、少し離れた場所からついて来て下さい」 彼女達の存在は重要かつ危険な「交渉カード」であり、最初からこちら側の手札を全て見せる必要はない。相手の出方は分からないが、コーネリアスを吹き飛ばしたその実力から察するに、彼女達を力づくで捕縛しようとした場合、それに抗う術は見つからない以上、なるべく彼女達の存在を明るみにしたくないと考えるのは当然の判断である。 こうして、それぞれの思惑を胸に秘めた六人は、謎の魔法師とセシル、そして巨大蛾の待つマーチ村へと更に歩みを進めていくことになったのであった。 3.1. 魔境の奥地 ブラックドッグとの戦いの傷を癒した6人が、マーチ村を中心とした魔境の奥地へと足を踏み入れていく頃には、既に陽は陰り、夕刻に差し掛かろうとしていた。そんな中、スュクルは、周囲の空間に異変を感じる。周囲の混沌が、混沌核への収束という形ではなく、空間全体に変異律が発生しているような、そんな感覚を覚えたのである。 そして、同じことに気付いた者がいた。混沌の申し子、SFCである。 「これは、マリオワールドの世界?」 彼女がそう呟いた瞬間、その場にいた者達は、自分達のいる空間に「歪み」が発生したのを実感する。正確に言えば、それが「歪み」だと理解出来たのは時空魔法師のスュクルだけで、他の者達にとっては、一瞬、「よく分からない違和感」が発生した、という程度の感覚でしかない。 そして、その一瞬の「異変」の次の瞬間、その場に残っている者達は気付いた。 「あれ? コーネリアスは?」 そう、コーネリアスの姿が消えていたのである。何が起きたのかも分からないまま、つい先刻、合流したばかりの彼が、一瞬にして姿を消してしまったことに、彼等は驚きと動揺を隠せない。 「もしかしたら、私達よりも先に、例の建物の裏手に回るために、先に行ったのでは?」 アイレナはそう解釈するが、スュクルには分かっていた。これは、一部の魔境において稀に発生する「空間歪曲」という怪異現象であることを。この変異律が発生してしまった場合、それに巻き込まれた者は、一瞬にして「別の空間」に移転してしまう。それがどこなのかは分からない。一般的には、それほど遠くまで飛ばされることはないのだが、飛ばされた方角が分からないため、探しようがない。アントリアを敵視している彼の離脱は、スュクルにとっては助かる側面もあるが、セシル奪還の切り札となりうる人物を失ってしまったことは、大きな損失でもあった。 「とにかく今は進みましょう。早くセシル様をお救いしなければ!」 SFCがそう言うと、他の者達もそれに同意する。コーネリアスがどこに消えたのかは分からないが、アイレナの言うように、彼ならば自力で救出作戦を決行してくれる可能性もある。今の時点ではその可能性に賭けつつ、まずはマーチ村へと向かうしかない。 だが、そんな彼等に次の関門が立ちはだかる。混沌繭の生糸である。身体能力に優れたSFCにとっては、容易に潜り抜けることが出来るレベルの障害でしかなかったが、他の者達にとっては、身体を捻りつつ、糸に絡みとられないように進むことは、決して簡単ではない。それでもなんとか、スュクル、ミレーユ、アイレナは無事に突破していく。だが、馬を連れたエディが、どうしてもその生糸網を突破出来そうにない。 最悪の場合、生糸を何本か断ち切って道を作ることも出来るが、その場合、その生糸によって作られた繭の中から投影体が出現する可能性がある。先程のブラックドッグのような存在が次々と現れたら、今度は命があるか分からない。だが、彼を連れて行かなければ、ヴァレフール側の領主の息子に強大な力を与えてしまうことになりかねない。そう考えたスュクルは、時空魔法のプレディクトヴィジョンを用いて、彼に「生糸を突破するために必要な動き」を伝える。 「エディ殿、右です。右側に体勢を傾けつつ、左足を上げて、その生糸の先に下ろして……」 そのサポートのおかげで、どうにかエディも生糸網を突破する。だが、こうして魔境の奥地へと近付いていく過程で、彼等は自分達が「何者か」に監視されているような感覚を覚えていた。 (これは……、この魔境の主か? それとも、誰かに付けられているのか……?) 誰もその答えは分からないまま、当初の予定通り、エディ、スュクル、SFCの三人が先行し、ミレーユとアイレナがやや遅れて彼等の後を密かに追う形で進んでいくと、やがて彼等はマーチ村の跡地にたどり着く。その頃には既に陽は落ち、廃屋となった家々とその周囲に点在する小型の混沌繭を月光が照らす中、巨大な「武道館」と、その前に佇む一人の魔法師の姿が彼等の目に入るのであった。 3.2. 巨大蛾の正体 目の間に現れた魔法師が、自分の知っている(以前、この地で出会った)シアン・ウーレンであることを確認したエディは、まずは自分から名乗り出る。 「私がトーキー村のエディです。あなたが私を呼んだのですか、シアン・ウーレン殿?」 SFCに会った時には名乗っていなかったにもかかわらず、いきなり名前を呼ばれたシアンは、「はて、前にどこかで会ったことがあったかな?」と思いながら小首を傾げる。どうやら、彼の中では「数年前にマーチ村の近くで遭遇した少年」のことは記憶に無かったらしい(あるいは、その時のエディと、成長した今のエディの姿が、結びつかなかったのかもしれない)。とはいえ、SFCが自分の言った通りに「トーキー村の領主」を連れてきたことに、彼は満足気な表情を浮かべた。 「その通り。ここに来て頂いたということは、あなたがセシル殿に代わって、巨大蛾の復活に協力して頂けるということでよろしいか、領主殿?」 そう言われたエディが答える前に、スュクルが口を挟む。 「あなたはパンドラの一員だそうですが、なぜパンドラの者が、この地の混沌を浄化しようとするのですか?」 「そうだな。それについては、語り始めると長くなるのだが……」 彼はそう前置きした上で、まず、現状を理解してもらうために、ブレトランドの「昔話」から語り始める。シアン曰く、この村の跡地に存在する混沌繭の奥で眠っている巨大蛾の正体は、四百年前にブレトランドの混沌を収めた英雄王エルムンドの部下の七人の騎士の一人、バス・クレフであるという。エルムンドの部下の七人の騎士達は、いずれも強大な聖印の持ち主であったが、混沌との戦いの過程で、巨大すぎる混沌核に触れてしまった時に、その混沌核を浄化しきれず、逆に自分達の聖印が混沌核に変換され、その身を「異界の巨大な怪物」の姿に変えられてしまったらしい。ある者は空を飛ぶ巨大亀に、ある者は巨大な鎧武者に、ある者は三つ首の黄金龍に、ある者は紅蓮の飛龍に、そしてこのバス・クレフは、エステル・シャッツ界と呼ばれる世界に存在すると言われる巨大な「蛾」の姿になってしまったのである(ちなみに、実はこの巨大蛾が登場するSFC用のソフトも存在するのだが、残念ながら彼女はそのソフトを持っていなかった)。 だが、身体は投影体となってしまったものの、その心はあくまで「人間」のままであった。それは、英雄王エルムンドとの(騎士時代の従属関係を引き継いだ)強い絆があったからこそである。しかし、エルムンドが大毒龍ヴァレフスとの戦いで受けた傷が原因で自身の死期を悟った時、七人の騎士達は、自らを封印する道を選んだ。彼がいない状態では、自分達の「人間としての自我」を維持出来ないと考えたらしい。 「バス・クレフ殿は、自らの姿を『卵』の形に変え、この村の奥地に眠ることになった。だが、今から約150年前、その封印を解く者が現れたのだ」 そこまでシアンが説明したところで、シアンとスュクル、そして離れた場所から隠れて様子を伺っていたミレーユとアイレナの耳に、どこからともなく声が聞こえてきた。 「そこから先は、私に説明させてくれ」 だが、その声はエディとSFCには届いていない。感応能力の高い者にしか聞き取れない形で発せられた、特殊な手段に基づくメッセージのようである。二人の様子から、彼等には声が届いていないことを確認したシアンは、ひとまず話を打ち切って、村の中心部の方を向きながら「何者か」に向かって語りかける。 「バス・クレフ殿、残念だが、その声が届いていない者もいるようなので、あなたの言葉を私が代弁させて頂くが、よろしいか?」 どうやら、この声の主は、巨大繭の中で眠っている「巨大蛾」ことバス・クレフ本人らしい。突然、訳の分からないことを言い出したシアンに対して呆気にとられるエディとSFCに対して、その「声」が聞こえているスュクルが状況を説明する。少なくとも、スュクル自身には声が聞こえている以上、シアンがこの「謎の声の主」の発言を改竄出来ないことは理解出来た。 「仕方ないか、私には電波受信機能がないからな」 SFCがそう呟く一方で、隠れていたにもかかわらずその声が聞こえてしまった双子は、顔を見合わせる。 (もしかして、私達の存在、バレてる?) (やっぱり、さっき感じたあの視線って……) そんな不安に駆られる彼女達のことなど気にせず、シアン達に向かって巨大蛾は語り続け、そしてその言葉をシアンがエディとSFCに伝える。 「かつてエルムンド様が封印した大毒龍ヴァレフスの『断片』が、150年前にこの地で甦ろうとしていた。その時、当時この地の領主であったバルバリウス殿が、私の封印を解いた。彼は高潔な人物だった。私は彼のため、彼が愛するこの村を守るため、この力を使おうと決意した」 その「声の主」曰く、彼の身体は三段階に変化するらしい。すなわち、全ての力を封印した状態である「卵」、部分的に力を解放した状態としての「幼虫(芋虫)」、そして全ての力を出し尽くすことが可能となる「成虫(蛾)」である。 そして、150年前の混沌災害からこの地を守るためには、幼虫の状態で十分だった。復活しつつあった巨大な混沌核を、幼虫状態で吐く生糸で絡み取ることで、投影体として収束することなく封印することが出来たのである。そしてその後も、彼はバルバリウスの子孫達(歴代のマーチ村の領主)をパートナーとし、「幼虫」の姿のまま、彼等の用いる「小さき友の印」の力によって掌サイズに小型化された状態で、密かに領主と共にこの地を守り続けていたらしい(そして、その存在は村の外には決して漏らすことはなかった)。 ただ、もし何らかの形で「より巨大な混沌核」が出現した場合、幼虫状態では太刀打ち出来なくなる可能性もある。その際には成虫へと「羽化」する必要があるのだが、そのためには、彼の中の混沌核の力を強めるための「唄」が必要らしい。その「唄」とは、彼の「本体」が存在するエステルシャッツ界に伝わる民謡のような唄で、投影体としての彼の脳内に埋め込まれており、その歌を(現在、スュクル達に対しておこなっているような形で)歌い手の脳波に送り込むことで、村人達に伝えることが出来る。だが、実際にその唄の力で彼を羽化させようと試みた者達は皆、途中で「混沌の力」に飲み込まれ、やがて暴走する「魔物」へと変貌してしまったという。 「そして7年前、遂に大規模な混沌災害が起こってしまった。当時の領主は村を守るために必死で戦おうとしたが、突然の魔物の大群を前に不覚を取り、命を落としてしまった。私は彼の聖印が消えてしまう前に繭によって包み込んだ上で、残された村人達を救うため、幼虫状態から出せる全ての力を振り絞って、この地に存在する全ての投影体を絡め取ろうとしたが、主を失ったことで自我を制御しきれなくなっていた私には、もはや『人間』と『投影体』を正確に区別することも出来ず、ひたすらに『動いている者』を繭状態にしていくことしか出来なかった。そして、このまま力を使い続ければ、私自身の心が完全に混沌に飲まれてしまうと察した私は、自分自身も繭の中に閉じ込めて、休眠状態に入った。いつか誰かが、私の新たな主となってくれることを願いながら」 この話が本当であれば、この近辺に存在する小型の混沌繭は、「7年前の混沌災害によって発生した投影体」と「当時の村の住人」を巨大蛾が絡め取った代物だった、ということになる。おそらくは、村の中にいる「より小型な混沌繭」が「村の住人」なのだろう。そして、繭状態にある者達の身体は、腐敗も劣化もせずに「そのまま」の状態で保存されるらしい。つまり、「人間が眠っていると思しき大きさの繭」の近辺の生糸を切れば、その中の住人は「7年前の姿」のまま蘇ることになるが、それに連動して、周囲の混沌繭から魔物が出現する可能性もある。 「だが、私が羽化して本来の力を発揮出来るようになれば、現在、混沌繭によって絡み取られている全ての者達を解放した上で、その解放された魔物達を一掃することも出来る。おそらくな」 つまり、誰かがこの巨大蛾の「主」となった上で、巨大蛾を羽化させることが出来れば、眠っているこの村の人々を救った上で、全ての魔物を除去することも出来る、ということである。そのためには、バルバリウスの血を引く騎士であるセシルかエディがその「主」となり、ミレーユとアイレナが「羽化の唄の詠唱」に成功した上で、成虫となった後の巨大蛾が自我を制御する必要がある。全てが上手くいく保証はないが、これが実現すれば、廃村だったマーチ村を復興することも可能となるだろう。 そして、そんな巨大蛾の願いを叶えようとしたのが、今、エディ達の目の前にいる闇魔法師のシアン・ウーレンである。この村を訪れた際に混沌繭の奥にいる巨大蛾が発する「心の声」を聞いた彼は、その声が村の外にまでは届かないということを知り、自身の生み出した独自の魔法を用いて、巨大蛾に代わってその声をセシルとエディの夢の中へと送り込み、そしてトーキー村を訪れたミレーユとアイレナには、巨大蛾の心の中に響いていた「唄」を伝えたのである(ちなみに、ロザンに送られたジャスタカーク名義の手紙は、実は彼女達をこの地に近付けるためにシアンが偽造した代物だったのだが、結局、この事実は誰にも告げられないまま、闇に葬られることになる)。 3.3. 混沌に生きる者達 ここまでの話を聞く限り、エディも、ミレーユも、アイレナも、巨大蛾の復活および羽化に協力することに反対する理由は思いつかない。だが、それに手を貸しているのがパンドラというのが、どうしても彼等の中では引っかかる。そもそも、シアンはまだ先刻のスュクルの質問に答えていない。 「パンドラがこの地を浄化する目的は、何なのですか?」 改めてそう問い直すエディに対して、シアンは淡々と答える。 「正確に言えば、パンドラの目的ではなく、私個人の目的だな。パンドラの中にも色々な考えの者達がいる。このブレトランド支部においても、四つの系譜が存在していて……」 そう言って彼は、聞かれていもいないパンドラの内部事情について語り始める。その情報が必要かどうかはエディ達には分からなかったが、コーネリアスが建物の背後に回っている可能性に賭けるためには、ここで話を長引かせておくのは悪くない、という判断から、あえて「興味深そうな顔とリアクション」に心がけながら、彼の話に耳を傾けた。 シアン曰く、ブレトランド・パンドラとは、実質的には四つの集団の連合体であり、彼らの中で共通しているのは「全ての混沌を消し去る皇帝聖印(グランクレスト)」の出現を防ぐという一点のみで、実質的にはそれぞれが全く異なる目的の下に行動しているらしい。 第一の系譜は、「均衡派」と呼ばれる人々。彼らは、皇帝聖印に至る可能性のある君主が現れた時に、反対勢力に協力してその勢力拡大を防ぐことを主目的とする(実はその指導者は、グリース子爵ゲオルグの側近であるマーシー・リンフィールドなのであるが、さすがにそこまではシアンも話さない)。 第二の系譜は、「革命派」と呼ばれる人々。彼等はエーラムの打倒を主目的とする者達であり、実質的にエーラムによって築き上げられた現在の「君主」と「契約魔法師」が特権階級として君臨する世界秩序を壊し、エーラムによる「独善的な支配体制」を終わらせることを目指している。 第三の系譜は、「楽園派」と呼ばれる人々。彼等は基本的に「この世界に出現させられてしまった投影体」によって構成されており、理不尽に迫害され続けるこの世界において、自分達の居場所となる国(楽園)を作るために結集された集団である。 そして第四の、「最も純粋な意味でのパンドラ」と呼ばれる系譜は、「新世界派」と呼ばれる人々。彼等は、この世界を混沌で覆い尽くして、その混沌に適応する能力を持つ者達と、その混沌の中から生まれる新たな生命体による新世界を築き上げることを最終目的としている。 このように、同じ「ブレトランド・パンドラ」を名乗る者達の中でも、それぞれの思惑は全く異なっており、派閥間で意見や利害が衝突することも多々ある。しかも、実際にはこれらの派閥に収まりきらずに、完全に個人単位の目的で行動する者達もいる。その代表例が、他ならぬシアン・ウーレンなのである。 「私は彼等のように、この世界全体のことを考えた上での『崇高な理念』など持ち合わせてはいない。私の目的は、自分の知的好奇心を満たすこと。私は見てみたいのだよ。四百年前の英雄達の今の姿を」 つまり、彼にとっては、この地の混沌がどうなろうが、誰がマーチ村や山岳街道を支配しようが、どうでもいい。ただ、「成虫となった巨大蛾の姿をみてみたい」という、ただそれだけの一心で、この巨大蛾の羽化に協力しようとしている、ということである。 ただ、彼は国家同士の勢力争いに対して、無頓着ではあるが、無知という訳ではない。この村を覆う混沌が消えれば、軍事力で優位に立つアントリアが長城線を迂回してヴァレフールに攻め込む機会を得ることが出来ることは理解しているからこそ、彼は一昨日の夜の時点でコーネリアスの問いに対して「どちらかと言えばアントリア側の立場」と答えたのである(もっとも、このままセシルが巨大蛾を完全に自由に操れる状態になれば、逆にヴァレフールを利することにもなりうるのだが)。 とはいえ、彼が言っていることが真実かどうかも分からないし、いずれにしても危険な行為であることは間違いない以上、SFCとしては、やはりセシルをこの場から救い出したい。その上で、現状ではコーネリアスが建物の背後に回っている可能性に賭けている彼女は、ここで更にシアンの注意を引き付けて時間を稼ぐための妙案を思いついた。 「シアンさん、異界のゲームに興味はありませんか?」 「ほう?」 知的好奇心だけで巨大な怪物を蘇らせようとするような人物が、この話に食いつかない筈がない。さっそく彼女は自身の身体を「玩具」状態に変え、画面を起動させ、シアンの目の前に「画面上の物体を動かすための器具」を差し出す。見知らぬ異界の文明を目の前にしたシアンは、さっそく彼女の器具を手にして、左右の異なる色の瞳を輝かせながら、喰い入るようにその画面を凝視する。 「なるほど、これが『マリオカート』というものか」 そう言いながら、彼は両手の指(主に親指)を用いて、「異界のゲーム」に没頭する。こうして、廃墟となったマーチ村の片隅で、奇妙な光景が繰り広げられたまま、少しずつ夜は更けていくのであった。 3.4. それぞれの決意 それからしばらく、シアンは「異界のゲーム」に興じていたが、彼の背後にある巨大な建物からは、特に変わった様子も見られない。もしかしたら、この間にコーネリアスが誰にも気付かれずにセシルを奪還しているかもしれない、という僅かな希望を抱きつつ、これ以上時間稼ぎをしても進展は見られないと考えたエディは、意を決して口を開く。 「とりあえず、あなた方と敵対する理由がないことは分かりました。ただ、幼い子供を親の許可もなく連れ出して、危険なことに協力させるのは好ましくないかと」 「まぁ、普通の人間であればそう言うだろうな。だが、実際に『貸してくれ』と言われた親が、素直に貸すと思うか?」 「異界のゲーム」を続けながらシアンがそう答えると、「ゲーム機」状態のSFCが、付属品の音声発生装置から話に割って入る。 「あのクソみたいなオヤジが、貸すわけないですよ」 SFCはセシルには絶対の忠誠を誓っているが、その父親であるガスコインからは疎んじられているため、彼女も彼のことを内心では快く思っていないらしい。もっとも、自分の跡取り息子が「ゲーム機」にばかり夢中になってしまっている状態において、親が彼女のことを疎んじるのは当然の判断なのだが。 「別に、こっちは借りパクする気もないし、レベルアップしたら返してやるつもりなのだが、おそらく、そう言っても聞いてはもらえないだろうよ」 器用に両手の親指と人差し指を動かしながら、シアンはボヤくようにそう語る。いつの間にやら彼自身も、SFCに興じているうちに、なぜか彼女の言語に毒されてきているらしい。 「領主の息子が突然いなくなって、どれだけの人が悲しんだと思っているんだ!」 ここまで穏便に話を進めようとしていたエディが声を荒げると、シアンはひとまず「異界のゲーム」を中断し、彼に向き合ってこう告げる。 「だが、あの子は言っていたぞ。あの街にいても、自分は誰からも必要とされない。だから、自分がいなくことなっても問題ない、とな」 「そういう子供を正しい方向に導いてやるのが大人の役目だろ!」 「だから、皆に必要とされるような『力』を与えてやろうと言っているのだ」 微妙に話の論点がズレているのを自覚しつつ、シアンは今度は玩具状態のSFCに対して語りかける。 「お前に対しても、あの子はこう言っていた。『僕はSFCを必要としているけど、SFCは僕のことを必要とはしていない』と」 そう言われたSFCは、思わず人間状態に戻って、紅潮した顔で熱弁を始める。 「プレイヤーを必要としないゲームなんて、ある訳ないじゃないか! それに大抵の人は私のことを『よく分からない物』として迫害してきた。そんな私をプレイしてくれるセシル様が、私にとってどれだけ大切な存在かを分かってくれていないとは! これは、徹夜のゲーム大会を開いて、分かってもらうしかないですね」 そうやって一人でよく分からない決意に燃えている彼女の傍らで、今まで黙っていたスュクルが、シアンに問いかける。 「巨大蛾が羽化したら、その瞬間に全ての繭が解放されるのですか?」 「中央から少しずつ順に開いていくことになるな」 「ただ、その過程で、村人と魔物が同時に解放されていくことになる訳ですよね」 つまり、仮に巨大蛾が羽化したとしても、巨大蛾が魔物を倒す際に、復活した村人達も巻き添えを食らってしまうのではないか、というのが彼の危惧である。 「その点については、心配ない。村人達を匿う手段はある。そちらが協力してくれるなら、その点も含めて、こちらの手の内を全て明かしても構わないが、いかがですかな、領主殿?」 「……分かった。セシルに代わって、私がこの地の浄化に協力する」 エディとしても、マーチ村の復興に反対する理由は何も無いし、自分がセシルに代わってその巨大蛾のパートナーという「危険な任務」を担えるなら、それが最も望ましい選択肢である。 一方で、スュクルもまた、このまま「ヴァレフール側の領主の息子」に強大な力を与えるよりは、自分達に友好的な姿勢を示しているエディにその力を与えた方が遥かにマシだと考えていた。問題は、「強大な力」を手に入れた彼が、ファルコンが計画しているアントリア軍の中央山脈突破作戦に素直に協力するかどうかだが、マーチ村の領主の一族であることが「巨大蛾のパートナー」の条件であり、自分一人でこの計画を力付くで止めることが不可能な以上、今のところはそれが最善の策である。 「では、その言葉を信じよう。武道館、もういいぞ!」 シアンが、彼の背後にそびえ立つ建物に向かってそう叫ぶと、その建物は瞬く間に一人の「奇妙な装束の少女」(下図)へとその姿を変える。 そう、「彼女」はSFCと同じ「ヴェリア界からの投影体」だったのである。通常、投影体としてヴェリア界からこの世界に現れるのは、「武具」や「乗り物」、あるいはSFCのような「器具」の擬人化体が多いのだが、この『武道館』のように「建物」が出現する事例も稀に存在する。彼女自身がどの系譜(派閥)の一員なのかは分からないが、どうやら彼女もパンドラの構成員のようである。 「村人達を解放し、彼等をすぐに一箇所に誘導した上で、彼女が先程までの『建物』の状態に戻れば、同時に復活した魔物達から身を守ることは出来る。この武道館は、屈強な武道家達が束になってかかっても壊れない強度だからな」 そんなシアンの説明を聞く傍らで、エディ達がその「擬人化体少女」の奥に目を向けると、そこにはセシルと、そしてセシルに稽古をつけていた「女魔法師らしき人物」が立っていた。どうやらセシルは、武道館の内部での修行の最中に、突然その「建物としての武道館」が(「人間体」となったことで)消滅したことに驚いている様子である。だが、その直後に彼の目の前に「自分の最愛の玩具」がいることに気付き、満面の笑みを浮かべる。 「SFC! 手伝いに来てくれたの!?」 そう言って、セシルはSFCに向かって駆け寄っていく。SFCも安堵の表情を浮かべながら、どこから話せば良いか困惑する 「いや、その、お手伝いするつもりだったんですけど、よく分からない方向に話が進んでしまって……、とりあえず、皆さんで一緒にマリカーしましょうよ、マリカー」 そう言って再び玩具状態に戻ろうとするSFCを遮るように、エディが割って入る。 「セシル、勝手に知らない人とこんな所に来てはいけないよ」 「エ、エディお兄ちゃん!? い、いや、その、気付いたら、ここにいて、僕の力が必要だって言うから……、困ってる人がいたら助けるのが、君主の仕事でしょ?」 その心意気自体は正しいが、さすがにまだ10歳で、父親から欠片程度の聖印を分け与えてもらっているだけの彼にそのような責務があるとは誰も思っていないし、どう考えてもこれは子供が背負うべき宿業ではない。そんなエディ達の気持ちを察してか、ここでその傍にいた女魔法師風の人物が割って入った。 「いや、でも、この子、筋はいいわよ。実際、私も最初は小さい子相手に投影体を呼び出すのは気が引けてたんだけど、少しずつ浄化の方法を覚えて、どんどん吸収していったわ。今はもう、そこの領主様と同じくらいの聖印になってるんじゃないかしら」 どうやら、この女魔法師風の人物は、パンドラの召喚魔法師のようである。どういう意図でシアンに協力しているのかは分からなかったが、少なくとも、この魔法師が呼び出した「微弱な投影体」との戦いを通じて、セシルの聖印が急成長していることはエディにも実感出来る。 だが、そのことを理解した上で、それでもエディとしては、このままセシルに危険な行為を任せる気にはなれなかった。 「セシルは今、自分が何のために修行しているのか、分かっているかい?」 「僕が力を手に入れて、この巨大繭を羽化させれば、その周りの小さな繭の中で眠っているこの村の人々が助かる、って言われた」 「そう、私か君のどちらかが、羽化させた後の巨大蛾を制御する必要がある。その役目を、私がやっても構わないか? ケイの領主の息子である君がこの地の領主になるのは、情勢的にあまりよくないのだよ」 「エディお兄ちゃんなら、いいの?」 「この地はもともとトランガーヌ子爵領だからね。ヴァレフールが支配するよりは、同じトランガーヌ子爵家に仕えていた私の方がまだいいんじゃないかな。少なくとも、私がこの地を治めた方が、アントリアとヴァレフールの衝突を防ぐことが出来る」 エディはそう言ってセシルを説得しようとするが、まだ10歳な上に、ここ最近はゲーム漬けの日々を送って、あまり周辺諸国の情勢をよく理解していないセシルには、今一つ彼の言っていることが理解出来ない様子である。 「そう言われても……、やっぱり、僕がこの地を救いたい。今までの、誰からも必要とされていない僕じゃイヤなんだ。せっかくここで修行して、皆から必要とされるような力を手に入れられそうになったんだから、僕がこのまま最後までやりたい」 強い決意を持ってそう語るセシルにそう言われると、エディも今一つ強気で押し切れない。実際、「力を得たい」「皆に必要とされる存在になりたい」という彼の気持ちは、同じ「領主の息子」として生まれたエディにも理解出来る。判断に迷った彼は、ひとまず、これまでセシルを鍛えたと思しき女魔法師風の人物に問いかける。 「実際、セシルに任せて大丈夫なのか?」 「そうねぇ。さっきも言ったけど、聖印の規模自体はあなたと大差ないと思うわ。ただ、基礎体力がある分、あなたの方が危険性は少ないと思う。正直、私としては、自分の弟子に頑張ってほしいという気持ちがある反面、失敗した時に心が痛まないという意味では、あなたにやってほしい気もするのよね」 なんとも微妙な返答だが、この言い方から察するに、巨大蛾の制御に失敗すると、君主自身にも身の危険が発生するようである。最悪の場合、400年間にバス・クレフが巨大蛾になってしまった時のように、君主の聖印が混沌核に変わってしまうかもしれない、という仮説も成り立つ。 「……羽化した後の制御というのは、難しいものなのか?」 更に問いかけるエディに対して、今度は巨大蛾が再び(実際にはシアンによる代弁という形で)語りかける。巨大蛾曰く、これまでの彼の「主」だった村の歴代の君主達と比べて考えれば、現在のセシルやエディの聖印でも十分らしい。ただし、それは彼が「幼虫」状態の時の話なので、全ての力を解放した「成虫」状態になった時にどうなるかは分からないらしい。 皆が判断に困る中、真っ先に意思表示したのはSFCであった。 「私はセシル様がやりたいとお考えなら、その意思を尊重したいと思います」 実際のところ、彼女は最初から「セシルが力を持つこと」に対して反対する気はなく、むしろ積極的に協力するつもりだった。このまま彼がその役目を続けるのであれば、彼女が「代役としてのエディ」を連れてきたことは「無駄足」だったことになってしまうが、結果的にそれでセシル自身の意思が確認することが出来たので、彼女としてはそれで満足なのである。 そして、セシルに任せても良いものか迷い続けているエディと、このままセシルが巨大蛾を手にいれることはなんとか避けたいと考えているスュクルを横目に、シアンがエディ達の「後方」に目を向けながら、微妙に張り上げた声で語りかける。 「ところで、もう一人、いや、もう二人の『主役』の意見も、そろそろ聞きたいんだが」 この瞬間、自分達の存在が既に察知されていることを理解したミレーユとアイレナは、素直に姿を現す。それを確認した上で、シアンは話を続けた。 「どちらにしても、この件はこの二人の協力がなければ成り立たない。村人を解放する方法として、一つ一つの生糸を切って解放するという手段もない訳ではないが、その度に出現する投影体と戦うよりも、巨大蛾を羽化させてまとめて排除した方が、効率がいい。昔馴染みの村人達を救うために、協力してもらえるかな?」 「……ここまで来て、何もせずに帰ったら、何のために来たのか分からないでしょ」 ミレーユはあっさりとそう答え、アイレナも同意する。実際、まだこの魔法師にどこか「胡散臭さ」は感じるが、少なくともアイレナが子供の頃に聞いた話とも一致する以上、信憑性は決して低くはない。その上で、村人達を救える可能性が少しでもあるのならば(その中に自分達の両親も混ざっている可能性もある以上)、たとえ自分達の身が危険に晒されることになったとしても、彼女達には断る理由はない。 こうして、「羽化」のための準備は整った。残す問題は「それを制御する人物」の側である。セシルとエディ、どちらがその重責を担うのか。成功すれば、強大な投影体を従える力と、この村の支配権が手に入る。だが、失敗すれば自分という存在そのものを失う可能性もある。セシルを心配する心と、セシルの意思を尊重したい心の間で悩みながら、エディが再び口を開いた。 「セシル、君がやろうとしていることは、とても危険なことかもしれない。それでもやるのかい?」 「危険なことというなら、エディお兄ちゃんがやっても危険なことなんでしょ?」 「まぁ、それはそうなんだが……、君にはもっと未来があるだろう? 君は将来、父親の後を継ぐんじゃないのか?」 無論、端から見れば、エディにも十分過ぎる程に未来がある。童顔で小柄のため、実年齢以上に若く見られることが多いエディだが、実年齢にしてもまだ21歳であり、領主としては誰がどう見ても「若造」の部類である。だが、そんな彼の口からこんな言葉が出てくるほどに、セシルはあまりにも幼すぎた。 「そうかもしれない。でも、あの街の人達は、僕に対しては冷たい。だって、あの人達は、僕の大切な友達のSFCのことを『この世にあってはならない存在』だと言ってたんだよ。人を見た目で判断するようなあの街の人達のことを、僕はどうしても好きにはなれない」 実際のところ、それが投影体に対する一般的な反応である。人間社会に溶け込める投影体であれば受け入れられることもあるが、SFCの場合、本人は溶け込もうとしていても、その思考回路が特殊すぎて、彼女の発言を理解出来ない者達が多く、「人間とは意思疎通出来ない怪物」と同じ扱いにされることも多い。それ故に、そんな「怪物」を庇い、従えるセシルに対しても、冷ややかな視線を送る者は少なくなかった。 「だから君は、新しくマーチ村の領主になるつもりなのかい?」 「解放したマーチ村の人達が、僕を領主として受け入れてくれるなら……」 どうやらセシルも、ただ単に勢いに流されて了解しただけではないらしい。おそらく彼は、「皆に必要としてもらえる力」と同時に、「皆に必要としてもらえる居場所」が欲しいのであろう。今のケイの街の中で閉塞感を感じている彼が、マーチに来て自立して「自分の居場所」を作ろうと考えているのであれば、むしろそれを応援してやりたい気持ちがエディの中にも芽生えてきた。実際、巨大蛾という「投影体」を領主が従える習慣を100年以上も続けてきたマーチ村の人々であれば、「得体の知れない投影隊」を重用するセシルの価値観も理解出来るであろう。 「じゃあ、君がマーチ村の領主になった後も、お兄ちゃんと仲良くしてくれるかな?」 「それはもちろん!」 「そうか……。じゃあ、君に任せる。ただし、君が制御するのが無理そうなら、私が代わる。それでいいか?」 「分かった。ありがとう、僕、頑張るよ」 こうして、エディとセシルの間での合意が成立した。こうなると、なんとかセシルによる巨大蛾の継承を止めようと考えていたスュクルとしても、この流れを覆せる手段が見つからない。故に、ひとまずこの状況を黙認した上で、あとは状況を見て臨機応変に対応策を考える。今の彼に出来ることはそれしか無かった。 (だが、このままではクワイエットが危ない。いざとなったら、この身を捨ててでも、巨大蛾の羽化は止めなければ……。どんな手段を使ってでも……) そんなスュクルの悲壮な決意など他の者達は知らないまま、既に深夜に差し掛かろうとしていたこともあり、ひとまず彼等は、再び「建物」状態となった武道館の中で、休眠を取るのであった。 3.5. 一触即発 翌朝、エディ達4人とパンドラの3人は、セシルを伴って、村の一角に鎮座する混沌繭の前に立つ。それは建物状態の時の武道館ほどではないにせよ、その中に幾つもの家屋を収納出来そうな規模であり、この奥に眠る「幼虫」がいかに巨大な存在なのかも容易に想像出来た。そして「虫嫌い」のミレーユにとっては、それは想像するだけでもおぞましい存在であることは言うまでもない。 それぞれの思惑を抱える七人を背後に、セシルは一歩踏み出し、そして繭の中で眠る巨大蛾に向かって、こう語りかけた。 「英雄王エルムンドの忠実なる騎士バス・クレフよ、マーチ村を長きに渡って守り続けた守護神よ、我を新たな主と認め、共にこの地の混沌を祓おうぞ!」 幼い声ながらも堂々とした口調で彼がそう言うと、今度はこの場にいた8人全員に、巨大蛾の心の声が響き渡る。どうやら、至近距離まで近付いたことで、昨晩は聞き取れなかったエディやSFCの脳にも伝わるようになったらしい。 「良かろう、バルバリウスの末裔よ。受け取るがいい。バルバリウスから代々この村の領主に継承され続けた、我が主の証たる聖印を」 その声と同時に、巨大繭の傍に作られていた「掌サイズの混沌繭」が開き、その中から一つの聖印が現れると、セシルはその聖印を受け取り、自らの聖印と融合させる。この時点で、セシルの身体に何か異変が生じた様子はない。だが、セシル自身は、自分の魂が混沌繭の奥にいる巨大蛾と「繋がった」ような感覚を覚えていた。こうして、巨大蛾とセシルは、特異な形での従属関係が結ばれることになったのである。 こうなると、次はミレーユとアイレナの番である。ここに来る直前に、武道館のステージで一度リハーサルをおこなっていた彼女達が、巨大蛾を羽化させるための「唄」を歌うために、呼吸を整えようとする。 しかし、その瞬間、村の南方から、大勢の人々が近付いてくる足音が聞こえてきた。 「あれは……、ケイの軍隊?」 真っ先に気付いたのは、ケイの武官であるSFCである。その陣容は混成部隊のようだが、その中には確かに彼女の部下(セシルの親衛隊)の者達もいた。どうやら彼等は、隊長のSFCが戻ってこないことに危機感を感じ、やむなくケイの他の部隊に援軍を要請し、セシル救出のための大規模な捜索隊を結成して、ここまで乗り込んできたようである。 そして、そんな彼等の先頭に立って先導しているのは、昨日の魔境の空間歪曲で行方不明となっていたコーネリアスであった。彼は、あの変異律によって魔境の反対側に飛ばされてしまい、再び方向感覚を失ったまま歩み続けた末に、山岳街道の南側に辿り着いた結果、彼等と遭遇することになったのである。 「そこのアントリアに与する者共、セシル殿を返してもらおうか!」 そう叫ぶコーネリアスであったが、彼の目の前では「どちらかと言えばアントリアの味方」と自称していた魔法師と、SFC達と、そしてセシルが、特に対立している様子もなく、自然と並び立っている。しかも、その中には一人、彼にとって見覚えのある人物が混ざっていた。 (あれは、エスメラルダ先生……、ではないな。ということは「奴」か!) 「女魔法師風の人物」を見た瞬間、内心でそう叫んだコーネリアスであったが、「奴」がここにいるという事実が、余計に彼の思考を混乱させた。 「SFC殿、今はどういう状態なんだ!?」 コーネリアスにそう問われたSFCが、それを説明するためにどんな映像を見せようかと迷っている間に、後方からヴァレフール(ケイ)軍の指揮官らしき男が叫んだ。 「まず聞きたい。お前達はこの地の混沌を祓おうとしているのか?」 これに対して、反射的にスュクルが、誰も予想していなかった回答を返す。 「祓うつもりはありません。ここにいるのは、パンドラの人間です」 この瞬間、この場にいる誰もが耳を疑った。エーラムの魔法学院の制服を着た魔法師が、パンドラと協力しているかのような口ぶりでそう告げたのである。ヴァレフール軍は混乱し、エディ達も「何を言い出すんだ?」という顔で彼を見つめる。確かにパンドラの者達はこの場にいるが、混沌を除去しようとしているのは事実なのに、なぜそれをあえて否定するのか。 これは、スュクルの咄嗟の奇策であった。ヴァレフール軍が事態を正しく理解しないまま、こちらを敵視して襲いかかってくれれば、その混乱のドサクサに紛れて、巨大蛾の復活を止められるかもしれない、と考えたのである。だが、さすがにこれに対しては、エディとミレーユが即座に否定する。 「祓うつもりかと言われれば、間違ってはいない」 「えぇ。私達は、そのためにここに来ました」 二人がそう告げると、ヴァレフール軍は全く想定外の返答を返す。 「それは困る。ヴァレフールの安全のために、この地の魔境は今、解放される訳にはいかないのだ」 そう、実はヴァレフール側は、国防のための戦略上、この地の混沌の除去を望んではいない。その意味では、結果的に彼等の発言は、スュクルの奇策以上に、ヴァレフール側の敵意を自分達に向けることになってしまったのである。だが、それに対してエディも真っ向から言い返す。 「それは困る。今のままでは、私の村の混沌災害が収まらない」 そう言った上で、彼はセシルが今、この村の守護神である巨大蛾と契約して、この地の領主となろうとしているという旨を伝えるが、ヴァレフールの者達は、唐突に告げられた突拍子の無さすぎる話を信用しそうにない。この点では、最初に「パンドラ」の名を出したスュクルの奇策が功を奏している(それに加えて、コーネリアスが「この計画の黒幕はアントリア」という誤認識を彼等に伝えていたことも影響していた)。おそらく、彼等の目には、「パンドラの者達がセシルを騙して危険な行為に巻き込もうとしている」という状態に見えたのであろう。 「セシル、どうする?」 困った表情でエディは従弟に向かって問いかける。エディとしては、セシルをヴァレフールに返した上で、自分がその代役になるなら、それでもいい。だが、セシルはそれでは納得出来ないようだ。 「やっぱり、僕じゃダメなのか。僕は誰の役にも立てないのか……」 暗い表情を浮かべながらそう呟くセシルを目の当たりにして、今度はSFCがケイの者達を説得しようとする。 「あなた達にとって一番大切なものは何? セシル様の成長でしょ? どうしてそれを邪魔するの?」 ここに来ているケイの軍人達のうち、親衛隊の者達は、SFCが「セシルに対しては誰よりも誠実」であることは知っている。だからこそ、彼女の発言にそれなりの説得力を感じていたが、他の者達から見れば、やはり彼女は「得体の知れない投影体」であり、その発言に耳を傾けようとはしない。やむなく、再びエディが彼等を説得しようと口を開く。 「セシルがこの地の領主になるのを認めないというなら、代わりに私がこの地の領主となるが、それがどのような結果をもたらすか、お分かりか?」 実際、この状況を正しく把握している者から見れば、セシルが「巨大な投影体の力」と「村の支配権」を掌握することは、ケイ(ヴァレフール)にとって決して悪い話ではない。確かに「魔境という形での緩衝地帯」は消滅するが、この地の混沌を単体で除去できるほどの巨大な投影体の力があれば、アントリアとしても容易に攻め込むことは出来ないだろう。むしろ、逆にアントリアの拠点であるクワイエットに対して圧力をかけることも出来る。中立勢力とはいえ、実質的にアントリア寄りの立場を余儀なくされてきたエディにこの地を支配されるよりは、遥かにそちらの方が得策な筈である。 だが、あまりにも不確定な要素が多すぎるこの状況で、彼等はエディ達の発言を信じることが出来ない。それ故に、彼等の返答は至極単純明快な内容であった。 「我々が貴様達を排除すれば良いだけの話だろう」 疑わしきは殺す、これが、最も確実にリスクを排除する方法である。領主の跡取り息子を「誘拐」された上に、街の安全を脅かすような「魔境の排除」を決行されようとしつつある今の状況において、一刻も早くこの事態を解決しなければならないという焦燥感が、このような短絡的な結論を導き出したとも言える。 「こちらにはセシルがいるのですよ。セシルの意思を踏みにじってまで、我々に刃を向けるおつもりか?」 エディがそう言うと、その言い回しがまるで、セシルを人質にとっているかのように聞こえたこともあり、かえってケイの兵達の印象は悪くなっていく。まさに「一触即発」の状態に陥っていた。 3.6. もう一人の「玩具」 そんな中、スュクルはこのまま彼等が羽化の儀式を妨害してくれるのを祈りながら、密かにプレコグニションの魔法を用いて、「ヴァレフール軍の動きを決断するための要素」が何かを調べる。すると、彼の脳裏に伝わってきたのは「セシルの言葉」「巨大蛾」「共闘」という三つの言葉であった。 (共闘、か……。これは「巨大蛾を復活させるための共闘」なのか、それとも「巨大蛾を止めるための共闘」なのか、これだけでは、何を意味しているのか特定は出来んな) スュクルがそう考えつつ、次の一手を思案していた時、突如、ヴァレフール軍の後方の部隊から、叫び声が聞こえてきた。何事かと思って振り返ったヴァレフール軍の目の間に現れたのは、彼等を上回る数の投影体である。実は、彼らはここに来るまでの間に、混沌繭の生糸によって何度も道を阻まれ、一刻も早く到達するために、それらを強引に切断して強行軍でこの地に辿り着いていたのである。その反動として、小型の混沌繭の中で閉じ込められていた投影体が、次々と出現して、無差別に襲い掛かってきたようである。 シアン達にしてみれば、彼等が自滅している間に羽化の儀式を進めたいところだったが、自分の親衛隊の者達が襲われている状態を、セシルとしては黙って見ている訳にもいかない。 「みんな、協力して、一緒に戦ってよ!」 セシルにそう請われたら、SFCもエディも、当然、迷うことなくヴァレフール軍に加勢する。本来はヴァレフールの宿敵であるスュクルにしても、今このままヴァレフール軍が壊滅されると、羽化の儀式を止める者がいなくなる以上、助けざるを得ない。そうなると、ミレーユとアイレナとしても、まずは目の前の敵を排除してから、と考えるのは自然な流れである。 こうして、彼等が、セシルを守るような陣形で戦闘態勢に入ると、襲い来る投影体の中から、ひときわ強力な混沌の力を漂わせた者が、ヴァレフールの軍勢を払い除けながら、彼等の前に現れた。 「おや? こんなところに、旧世代の遺産が残っているとはな」 そう言って現れたのは、どこかSFCと似た風貌の投影体である。しかし、その瞳は憎悪に満ちており、目の前に現れる者達を次々と無差別になぎ倒していく。その姿はさながら、飢えた野生の猛獣のようにも見えた。そして、その胸の部分には「64」という数字が刻まれており、その数字を確認した瞬間、SFCはその投影体の正体を見抜いた。 「誰かと思えば、スマブラしか無かったような奴が何を今更。あなた、日本での売り上げ、私の何分の一だと思ってるの?」 「き、貴様! ただ我々の生産が遅れたために延命されただけの分際で!」 「一番売れてたマリカーだって、元祖は私達ですよ。つまり、あなた方は私達の遺産を食い潰していただけのゴミにすぎない!」 「お前達だって、先代の遺産で生き伸びていただけの存在だろうが!」 どうやらこの投影体(以下、便宜上「64」と表記)は、SFCと同じヴェリア界出身の、しかもSFCの後継機とも言うべき玩具の擬人化体らしい。だが、元となった「本体」は同系統の機種であるにもかかわらず、その雰囲気はSFCとは大きく異なる。いずれも、「廃棄物」としてヴェリア界に出現した擬人化体だが、本来の持ち主に「もっと自分で遊んで欲しかった」という切望の気持ちを強く投影する形で現出したSFCとは対照的に、この64の場合はそもそも買い手がつかないまま廃棄されてしまった個体だったため、「自分を選ばなかった人間」に対する激しい憎悪を強く投影する形で生み出されてしまったようである。 無論、彼等は量産型の玩具である以上、同じ型の本体をベースとした別の擬人化体がこの世界のどこかに他にも存在している可能性はあるし、それらはまた彼等とは異なる感情をもってこの世界に出現しているのかもしれない。だが、そんな事情は(SFCも含めた)この場にいる者は誰も分からない。一つだけはっきりしていることは、「今、彼らの目の間にいる64」は、明確に「人間に害を与えること自体を目的とする投影体」であり、分かり合うことの出来ない敵、という悲しき現実であった。 3.7. 魔法師の「賭け」 こうして、SFC以外の者達は、目の前に現れた「64」が何者かも分からない状態ではあったが、明確に敵意を持って自分達に対して向かってくる以上、全力で迎え撃つしかなかった。 まず最初の一撃を放ったのは、スュクルである。彼の放ったライトニングボルトは的確に相手を直撃したが、それでも64は全く怯む様子はない。間髪入れずにエディが馬上から剣を掲げて突撃をかけるが、あっさりとかわされてしまう。どうやら、ゴブリンやブラックドッグとは明らかに格の違う相手らしい。 それに続けて、今度はミレーユとアイレナが身体を半獣化した状態で襲いかかろうとするが、彼女達の爪牙が届くよりも一瞬早く、64が彼女達とエディに対して、全方位攻撃を仕掛ける。それはさながら、暴走状態の魔神の如き圧倒的な破壊力であった。三人とも、その一撃で瀕死状態にまで追い込まれ、その場に倒れ込みそうになる。 だが、その次の瞬間、彼等の後方から放たれた何かが、彼等三人の体を包み込んだ。混沌繭である。後方から彼等を支援しようとしたセシルの願いに呼応する形で、巨大蛾の幼虫が生糸を飛ばし、即席で彼等を包み込む繭を作り上げたのである。更にそこに、セシルが治癒の印の力を用いて、三人を瀕死状態から回復させる。本来、通常の治癒の印では瀕死状態にある者の傷を癒すことは出来ない筈だが、どうやらこの巨大蛾によって作られた混沌繭の中では、それも可能となるらしい。 「お兄ちゃん達、そのままでいて。まだ、傷は治りきってないから、今出ると危険だよ」 セシルは三人に対してそう告げるが、このまま彼等が混沌繭の中で休んでいた場合、セシルを守れる者はSFCとスュクルしかいなくなる。先ほどの圧倒的な破壊力を見る限り、あの二人だけで防ぎきれるとは思えなかった。巨大蛾が混沌繭の力で64を封じ込めることが出来れば良いのだが(実際、このタイミングで現れたということは、過去に一度封印されていた筈なのだが)、現時点でそれが出来ていない状況から察するに、どうやらセシルはまだこの力を使いこなせていないようである。 この状況を踏まえた上で、エディ達三人は、自身の身体がギリギリ動ける状態にまで回復していることを確認しつつ、自ら混沌繭を破って外に出て、再び64に襲いかかる。今度は三人の攻撃が直撃するが、それでも64の動きは止まらない。すると、宿敵・SFCに襲いかかろうとしていた64の視線は再び彼等に向かい、咄嗟にエディに対して全力で反撃した結果、エディは再び瀕死状態に陥り、その場に倒れ込んでしまう。 一方、その間にスュクルはSFCの力で精神力を回復させてもらった上で、彼女の武器にライトニングチャージをかける。この結果、彼女の武器に炎が宿り、彼女はその力をもって64へと斬りかかろうとする。だが、彼女の刃が64に届くよりも先に、予想外の一撃が後方から飛んできた。 スュクルによって64に向けて放たれた、二撃目のライトニングボルトである。その勢いは一撃目よりも更に強く、そして今、この瞬間、彼と64との間には、エディ、ミレーユ、アイレナ、SFCの4人が、まさにその雷撃の通り道となる直線上に並んでいたのである。 (巨大蛾の羽化を止めるタイミングは、今しかない!) そう、アントリア軍人の契約魔法師として、ヴァレフール側に巨大蛾を渡さないようにするための最も確実な方法は、ミレーユとアイレナのどちらか(あるいは両方)を消すことである。更に言えば、ヴァレフールの武官であるSFCも、巨大蛾の主となる資質を持つエディも、彼にとっては「出来れば倒しておきたい存在」である。故に彼にとってベストの選択肢は、この瞬間に64と共に全ての者達を消し去ることだった。その千載一遇の機会が、偶然にもこの瞬間に巡ってきたのである。 無論、これは非常に危険な賭けである。彼はこの一撃に残っていた全ての力を込めていたため、もし仮に、この一撃で4人を葬ったとしても、肝心の64を倒しきれなければ、次の瞬間に自分が64に嬲り殺しにされる。だが、重傷を負っているエディや双子はともかく、まだ無傷のSFCならば、仮に直撃してもまだ64と戦える体力は残っているだろうし、彼女の身体能力ならば避けることも可能だろう。そして、基本的にセシルのことしか頭にない彼女にしてみれば、この攻撃でエディや双子が殺されても、それほど精神的に動揺するとは考え難い。一瞬にしてそこまで計算した上での、現在の軍略的苦境を覆すための起死回生の一手であった。 この突然の雷撃に対して、SFCは咄嗟の前転回避でかわすことに成功し、ミレーユもまたギリギリのタイミングで避けることが出来たものの、アイレナと64はかわしきれず、そして既に倒れて動けない状態にあったエディには避けられる筈もない。この瞬間、スュクルは「賭け」に勝ったことを確信した。ミレーユには避けられたものの、アイレナだけでも倒すことが出来れば、当面は巨大蛾が羽化する危険性は消える。 だが、そこで思わぬ横槍が入った。セシルである。混沌繭を飛ばそうとしても間に合わないことを瞬時で悟った彼が、自ら身を呈してエディとアイレナを庇ったのである。距離的に考えても、本来の彼の運動能力で間に合う筈がないし、そもそも二人の仲間を同時に庇うなど、常人には出来る筈がない。しかし、確かに彼は瞬時に二人の前に現れ、二人分の雷撃を全身で受け止めたのである。 誰もがこの状況を理解できない中、やや離れた場所で他の投影体と戦いながらセシルに目を配っていたシアンだけには、その時に瞬時に起きた「奇跡」の正体が見えていた。 (今、バス・クレフ殿とセシル殿が融合した……?) そう、400年前の英霊であるバス・クレフの魂の一部がセシルに乗り移る形で、一時的にセシルにバス・クレフの力が宿り、その力をもって、超人的な動きで二人を庇ったのである。実際、彼には見えていた。超人的な速度で動くセシルが、「先刻まで巨大蛾の繭から発せられていたオーラ」をまとっていることを。既に「人」としての姿を失い、投影体となってしまった筈のバス・クレフに、このような離れ業が可能であるとは、事前に様々な調査を済ませていたシアンにとっても、全くもって想定外であった。 (面白い……。やはり、この英霊達は、私が人生を賭けて研究するに価する存在だ!) シアンが内心でそう確信して悦に入っている一方で、二人分の雷撃を肩代わりしたセシルは、その場に倒れる。もし、この時点でセシルが絶命していたら、彼の身体からは聖印が浮き出てくる筈であるが、その様子は見られない。本来の彼の体力であれば間違いなく即死の筈だが、どうやらこれも、バス・クレフの力で命が保たれている状態のようである。だが、そうして彼に力を注いだ反動か、徐々に彼等の背後に鎮座していた混沌繭の中の巨大蛾の力が弱まっていくのを、その場にいる者達は感じていた。 一方、二度目のライトニングボルトが直撃した64もまた、相当な損傷を受けてはいたが、それでもまだ機能停止には至らなかった。そして、現状において最も危険な存在はこの雷撃を放った魔法師であることを察した64は、自分の周囲を取り囲む双子の妨害を振り切り、スュクルに向かって突進する。この時点で、スュクルには既に次の魔法を放つ力は残っていない。このままであれば、間違いなくスュクルは瞬殺されるであろう。 だが、この時点で64以上にスュクルに対して強い殺意を抱いていた者がいた。SFCである。最愛のセシルが、スュクルの雷撃によって倒れたのを目の当たりにした彼女が、冷静でいられる筈もない。 「貴様、よくもセシル様を!」 スュクルにしてみれば、あの一撃でセシルを殺すつもりはなかったが、ヴァレフールの強大化を防がなければならない彼にとって最も排除すべき存在は、実はセシルである。そして、上述の状況から、セシルがまだ死んではいないことは確認していたが、その一方で、彼等の背後にいた巨大蛾の幼虫の力が失われていくのを実感したことで、彼は満足気な表情を浮かべていた。当初の予定とは異なるが、結果的にこれで巨大蛾の復活を止められるなら、彼としてはそれで本望だったのである。 そして、SFCには、そんな彼の表情から、彼が意図的にセシルを殺そうとしていたと判断したようである。これは誤解と言えば誤解なのだが、スュクルとしては弁明する気もなかった。仮に弁明しても、彼女は聞き入れてはくれないだろうと覚悟を決めていたのである。 烈火の如き怒りの形相を浮かべつつ、SFCはスュクルのいる方向へ向かって、そのスュクルによって強化された炎の武器を掲げて襲いかかる。だが、SFCとスュクルの間には64がいた。 「あくまでも立ちはだかるか、この旧式が!」 自分のことを襲いに来たと勘違いした64はそう言って武器を構えようとするが、SFCは無言で全力の一撃を64に叩き込む。彼女にとっては、もはや64など、どうでもいい。ただ、彼女がスュルクに殴りかかるためには、64の存在が(物理的な意味で)邪魔だった。そして、怒りで我を忘れた彼女は、その一撃に持てる力の全てを叩き込んだのである。ここまで4人の攻撃を受け続けて既にボロボロの状態だった64に、その渾身の一撃に耐え切れるほどの力が残されている筈もなかった。 「お、おのれ貴様、次に、次の世界で会った時は、この恨み、かなら……」 最後まで言い切ることも出来ないまま、64はその機能を停止する。先達であるSFCを遥かに上回る性能を持ちながらも、その性能を発揮しきれないまま、本人にしてみれば理不尽な形で、この世界からも消え去ることになってしまったのである。 3.8. 混沌繭の消滅 こうして、ひとまず目の前の「強大な投影体」は排除した。邪魔者がいなくなったことで、SFCはそのままスュクルに殴りかかろうとしたが、次の瞬間、彼女の後方から、セシルの声が聞こえる。 「ふ、二人とも、大丈…………夫……?」 エディもアイレナも、そしてミレーユも「心配されるべきは君の方だろう」と思いながら、セシルが無事だったことに安堵する。そしてSFCもすぐに彼の元へと駆け寄り、得意の医療技術で彼の傷を癒す。 だが、まだ危機的状況は終わっていなかった。というよりも、状況はより悪化していた。セシルを助けるために、巨大蛾はその力を使い切ってしまったようで、セシルが意識を取り戻すと同時に、彼の姿は「幼虫」から「卵」へと戻っていく。そして、その結果として村の近辺における混沌繭が、次々と消えていったのである。その中から現れたのは、ミレーユとアイレナにとっては馴染み深い村人達と、そして彼等を襲おうとしていた魔物達である。 「な、何が起きた?」 「今、守護神様の生糸が私に……?」 数年ぶりに目覚めた村人達が混乱していると、シアンはすぐに武道館に合図を送り、彼女は「建物」フォームへと変形する。それと同時に、彼女はこの時点で村の中に存在していた全ての人間(とSFC)と、「卵」となったバス・クレフを、自身の中に「招待」という特殊能力で瞬時に収納したのである。彼女は、彼女自身が望んだ者だけを収容し、望まない者を館内から排除する能力を持つ。何十年にも渡って、様々なイベントを滞りなく運営し続けてきた建物だけが持つ、鉄壁のセキュリティである。 そして、困惑する村人達の生き残りに対して、アイレナが事情を説明する。と言っても、彼女自身も今の状況がよく分かっている訳ではないし、「あなた方は数年間眠り続けていました」「その間にトランガーヌ子爵領は崩壊しました」「守護神様はケイの領主の御子息を新たな領主として認めました」などと立て続けに説明しても、すぐに理解出来る筈もない。ただ、それでも村人達は、彼女とミレーユが(彼等の視点から見れば、数ヶ月前に一座に引き取られた彼女達が、いきなり急成長して現れたことになるのだが)「本物」だということだけは、どうにか信じることが出来たようである。 そしてその間にミレーユは、シアンからより詳しい「今の状況」を確認していた。 「おそらく、セシル殿が使い慣れていない巨大蛾の力を強引に使おうとした結果、巨大蛾はエネルギーを使い果たして、休眠状態となっている。その結果、村人達と共に、7年前の混沌災害で出現した投影体達も全て蘇ってしまったようだな……。申し訳ないが、私の力をもってしても、それら全てを倒すことは出来ない。巨大蛾の羽化に成功すれば雑作もなく倒せると本人(バス・クレフ)は言っていたが、この状態では羽化以前の問題として、まず幼虫体の状態まで戻るのに、数日はかかりそうだ。それまでは、この中で待つしかない。今外に出ても、あの数の魔物達から逃れるのは不可能だろう」 つまり、「卵」が幼虫体となるまでの数日間、再び武道館の外で魔物達が暴れ回るのを無視しながら、ただひたすらここで「籠城」して待つしかない、ということである。セシルの暴走が無ければ、こんな事態にはならなかったのだが、彼があの場で「暴走」してくれなかったら、エディとアイレナは死んでいた(そしてアイレナがいなければ、おそらく羽化させることは出来ない)。あの混戦の最中でスュクルの放ったライトニングボルトが、状況を一変させたのである。 そのスュクルは、セシルが回復したことを確認したSFCから、激しい殺意の視線を向けられていた。 「セシル様、こやつはセシル様を殺そうとしたのです。今すぐ処刑しましょう!」 彼女がそう叫ぶと、その状況をよく見ていなかったヴァレフールの兵士達もまた、一斉にスュクルに向かって激しい視線を向ける。だが、スュクルとしては言い訳する気はなかった。セシルを殺しかけたのは想定外だが、仮にセシルが最初からその場にいたとしても、彼は同じことをしていたであろう。そして、ここまでやりきった以上、もう彼としては、この場で処刑されても後悔はなかった。既に力を使い果たしていた彼としては、ヴァレフール軍だらけのこの状況で抵抗することも不可能である。 「ちょっと待ってよ。この人は敵を倒すために仕方なく魔法を使ったんだよね? そもそも僕を狙ってた訳じゃないし、僕が勝手に、お兄ちゃん達を庇おうとして割り込んだから」 「そんなことは関係ありません。どんな経緯であれ、セシル様に傷をつけた時点で、有罪です。ギルティーです。殺させてください!」 「いや、でも、僕が倒れたのだって、僕が弱かったからで、僕がもっと強ければ、もっとちゃんと戦えたんだし……」 このセシルの過剰なまでの自責発言に対しては、彼を追い込んだ張本人のスュクルですらも、さすがに「それは違う」と言ってやりたい気持ちになったが、彼が何か言おうとする前に、SFCが声を荒げて反論する。 「そんなことはありません! セシル様は、やれることは十分にやってます! 130%以上働いてるんですよ! それをコイツが! 後ろから味方ごと撃つなんて真似を! いや、コイツにとっては、味方ですら無かったんでしょうけど!」 「まぁ、私は職務上、やるべきことをやっただけですから。処刑するというのであれば、どうぞご自由に」 淡々とそう語るスュクルに対して、SFCは更に怒りの感情を爆発させる。そんな彼女をセシルがなんとか宥めようとしていたところで、エディが割って入る。彼は、身を挺して庇ってくれたセシルに礼を言った上で、SFCやヴァレフール軍の者達に向かって、こう告げる。 「彼にどういう意図があろうと、実質的に彼の魔法の標的となっていたのは私であって、セシルではない。だから、彼の身柄は私に引き取らせて頂いた上で、どう処分するかは私に決めさせて頂きたい」 状況的に、既にあの場に倒れていたエディが魔法による攻撃を避けられる筈がないことは、誰の目にも明らかであったし、どうしてもあの場でライトニングボルトを放たねばならないと言える状態でもなかった。故に、エディの場合は(狙われた訳でもないのに自ら身を挺して庇いに行ったセシルとは異なり)明確に「スュクルの攻撃の被害者」と言える立場である。とはいえ、エディの中では、彼だけを責める気にもなれなかった。現実問題としてスュクルがいなければあの投影体は倒せなかったし、それ以前にも何度も彼には助けられている。そしてセシル同様、エディもまた、戦いの途中で倒れたのは、弱かった自分が悪いという気持ちもある。 それに加えてもう一つ、彼としてはスュクルを殺せない理由があった。それは今現在、トーキー村にはアントリアの兵達が駐留しているということである。ここで彼を「領主殺害未遂」の罪で処刑した場合、間違いなくアントリアとの関係は悪化する。そして、実質的にトーキー村を軍事占領しているアントリア軍を自力で排除することは現状では不可能である以上、「交渉カード」としての彼を安易に殺す訳にはいかないのである。 セシルはこのエディの申し出を受け入れ、SFCも、非常に不服そうな、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながらも、しぶしぶながらに同意する。 「分かりました。今回だけは、今っ回だけは、見逃してやります!」 そんな彼女の敵意を冷ややかに受け止めつつ、スュクルはエディの手によっておとなしく捕縛されながら、SFCに向けて淡々と呟くように語る。 「もし私が無事にクワイエットに戻ることが出来たら、次に会う時は戦場になるでしょうね」 「その時は殺す! 絶対に殺す!」 こうして、ひとまず先刻の戦いの事後処理については(一応の)合意を得た上で、彼等は改めてシアン、ミレーユ、アイレナを加えて話し合った結果、ひとまずバス・クレフが「幼虫」としての力を取り戻すまで数日待った上で、そこから双子の「唄」の力で彼を羽化させてこの周囲の魔物達を一掃する、という基本方針で一致する。というよりも、実質的にはそれしか選択肢が無かった。 幸いにして、この武道館の内部には「喫茶店」という名の飲食スペースがある。そして、SFCが「電源」が無いこの世界でも自己発電機能によって機動出来るのと同様に、この武道館内の喫茶店もまた、食材を自力で生み出すことが出来るため、籠城状態となっても食糧難に陥る心配は無い。 そして、ひとまず皆を代表してセシルが(シアン達の正体については曖昧にごまかした上で)村人達とヴァレフール(ケイ)軍の人々に対して改めて「今の状況」を説明する。村人達の中には、もともと「守護神」の存在を知っている者も少なからず存在していたこともあり(先刻のアイレナによる説明もあって)、なんとか理解してくれた。先刻は激しく反発したヴァレフールの者達も、セシル自身の口で説明されたことでどうにか納得し、これから数日間、奇妙な形での「籠城生活」が展開されることになった。見知らぬ異世界の建物に困惑しながらも、生き延びるために、なんとかこの場を耐え凌ぐという方向で、皆が合意に至ったのである。 そんな中、シアンと「女魔法師風の人物」は、「卵」となったバス・クレフに混沌の力を注ぎ込むことで、少しでも早く力を取り戻させようと試みていたが、そんな彼等を後方から密かに監視する人物がいた。コーネリアスである。彼はこの武道館に収容されて以来、密かに隠密状態となり、ずっと彼等二人を見張っていた。コーネリアスはこの「女魔法師風の人物」とは因縁があり、出来ることなら隙を見てその命を絶とうとも企んでいたが、長年のシャドウしての経験から、今の状況ではおそらくそれが不可能であることを薄々察した彼は、せめて少しでも彼等の情報を集めておこうと考えていたのである。 彼の視線と思惑に、この二人が気付いていたのかどうかは分からない。ただ、そんな静かな緊張感を漂わせながらも、これから先の数日間は、特に大きな事件も無く、彼等は粛々と(それぞれの想いを胸に抱きながら)静かな籠城生活を続けていったのであった。 3.9. 羽化の唄 こうして彼等が武道館の中で籠城していた間も、その外側で投影体達は暴れ続けていた。投影体の中には、稀に64のように高度な知性を持つ者もいるが、この場には出現した全ての投影体を統率出来るような者は存在しなかったようで、投影体同士で衝突することも多々あった。そして、勝った投影体は倒した投影体の混沌核を吸収して更に強大化していく。どれだけ彼等の間で殺しあっても、誰か君主が彼等の混沌核を浄化・吸収しない限り、投影体の脅威は減らない(むしろ強まる)のである。 そんな中、この地に足を踏み入れる者達もいた。ケイの軍隊である。息子が行方不明のまま、調査に行った者達も帰ってこないということもあり、隣町から帰還したガスコインは街の主力部隊を討伐隊として派遣したのだが、そのあまりの数の投影体の前に、あっさりと壊滅してしまう。一方で、トーキーに駐留していたクワイエットの部隊は「トーキーに待機しろ」という命令を受けていたため、自らマーチに近寄ろうとはしなかった。こうして、結果的に言えばスュクルの無謀な奇策は、ヴァレフールの戦力を削ぐことに繋がったのである。 一方、武道館の内部においては、ミレーユとアイレナは、村人達から質問攻めに合っていた。自分達が眠っていた7年の間に彼女達がどんな人生を送っていたのか、ロザン一座での生活はどうだったのか、彼氏は出来たのか、などなど、村人達にしてみれば、彼女達に聞きたいことは山のようにある。一方、彼女達は村人達の中に自分達の両親の姿がないかを確認したが、残念ながら見つからなかった。7年前の時点で投影体に殺された可能性が高そうだが、実際に両親が殺された場面を見たという証言も無いため、もしかしたら、どこか別の村に逃れたのかもしれない。今は、そのわずかな可能性を信じたいと願う彼女達であった。 そして、その籠城生活の五日目、遂に「卵」から「芋虫」が生まれた。ようやく、この村の「守護神」が本来の姿に戻ったのである。その姿に恐怖を覚えるミレーユであったが、ここまで来たら、もうやるしかない。意を決してアイレナと共に、バス・クレフと意識を同調させながら、「エステルシャッツ界に伝わる唄」を歌い始める。 すると、バス・クレフは瞬時に口から糸を吐き出して繭を作り、その中で「羽化」の準備を始める。これまで、幾多の歌い手達が挑戦しては失敗し、混沌に飲まれて暴走状態に陥り、やむなく村人達の手で葬られてきた。もう、そんな悲劇は繰り返したくない。バス・クレフ自身もそう強く願いながら、双子と共に精神を集中させていく。 周囲の者達が固唾を飲んで見守る中、やがてその「唄」はクライマックスを迎える。村人達曰く、これまでこの唄を歌った者達は皆、最後まで歌い切る前に混沌の力に飲み込まれてしまった。しかし、この二人にはまだその兆候は見られない。最高潮に盛り上がるパートにさしかかっても、まだ彼女達の身体からは、暴走の兆候は見られなかったのである。 行ける、このまま歌いきれば、羽化は実現する、そう皆が確信しながらその歌に聞き入っていた。そして遂に、二人は最後まで歌いきった。そして次の瞬間、繭が割れ、そこから巨大な「蛾」の姿をした投影体が出現する…………筈であった。 「……何も起きない?」 「どうした? 歌いきったんじゃないのか?」 村人達が首を傾げながら状況を見守るが、繭に変化は見られない。すると、目の前にいる村人達の心の中に、バス・クレフの声が響き渡る。 「すまない。無理だったようだ。この二人の唄ならば、私も本来の姿を取り戻せると思ったのだが、私の身体は、あと一歩のところで、それに応じてはくれなかった」 その言葉が届いた瞬間、双子は膝をついてその場に倒れる。なぜ失敗したのかは分からない。64との戦いで生死の境を彷徨った時の精神的な後遺症がまだ彼女達の中で残っていたからなのか、ミレーユの中の「虫への恐怖心」が彼女の声に微妙な揺らぎを生み出してしまったのか、単純に彼女達の「歌姫としての実力」が足りなかったのか、それとも、復活したばかりのバス・クレフに「羽化するために必要な力」が足りなかったのか。どの可能性もあり得るが、どの可能性も明確に一つに特定出来る要素はない。 「ど、どうするんだ?」 「俺達、一生この建物の外には出られないのか?」 村人達が動揺する中、バス・クレフは自ら繭を破り、再び「巨大芋虫」としての姿を現す。 「大丈夫だ。主が健在の今の状態なら、幼虫の形態でも、奴らを完全に倒すことは出来なくても、封じることは出来る。今の唄の力で、羽化にまでは至らなかったものの、既に私の力は幼虫体としては最高の段階まで高まっているからな。それに、7年前の時は不意を取ってしまったが、今回は私が戦っている間に我が主を守る戦力も整っている」 バス・クレフは、シアン、エディ、SFC、といった面々に目を向けると、シアンは武道館に対して、その身体を人間体に戻すように促す。その瞬間、彼等を覆っていた「建物としての武道館」は消滅するが、それと同時に、芋虫状態のバス・クレフは口から次々と糸を吐き、武道館の周囲にいた投影体達を次々と絡みとっていく。その勢いは止まらず、村の外に出現している者達も、次々と眉の中に封じ込めていった。 「……この力、先代様の時よりも、先々代様の時よりも強まっているのでは?」 村の長老らしき人物が、その巨大芋虫の動きを見ながらそう呟く。おそらく、それは双子の唄の力が強化されたことが原因なのだろうが、それに加えてセシルとの相性が(歴代君主よりも)合っているのかもしれない。いずれにせよ、瞬く間に村の周囲に存在していた投影体達は、全て大小様々な大きさの混沌繭によって封じ込められたのである。その間、投影体達はセシルにもバス・クレフにも、全く近付く暇は無かった。 「これでもう大丈夫だ。次にまた新たな混沌が現れても、私と新たな主が、この地を守る。ただ、捕縛した投影体達を全て完全に浄化することは、今の主にはまだ難しいとは思うが……」 強大な混沌核の浄化には、一定の規模の聖印が必要である。今回の場合、彼等が籠城している間に投影体達の間で殺し合いが発生し、結果としてより強大な混沌核を持つ投影体も生まれてしまっていた。 「大丈夫だよ、バス・クレフ。これから僕が少しずつ君主として強くなって、いつか全部浄化してみせるから」 そう言うと、彼は「小さき友の印」を用いて、「巨大な芋虫」の状態の彼を「通常の芋虫」より少し大きい程度のサイズにまで小型化し、自らの掌の上に載せる。 「よろしくね、バス・クレフ♪」 そして、この様子を見ていた村人達が、次々とセシルに向かって敬礼する。 「セシル・チェンバレン様。どうかこれから、この村の領主として、我々をお守り下さい!」 「私達も、誠心誠意、領主様を支える所存です。よろしくお願いします!」 こうして、セシルはわずか10歳にして、マーチ村の新領主に迎え入れられた。ヴァレフールからの兵達も、拍手でそんな彼を讃える。無論、その中でもひときわ激しく喜んでいたのがSFCであることは言うまでもない。 一方、そんな彼等を横目に見ながら、シアン・ウーレンとその二人の仲間は、複雑な表情を浮かべながらその様子を見ていた。 「残念な結果に終わってしまいましたね、シアン殿」 女魔法師風の人物にそう言われたシアンは、苦笑いを浮かべながら答える。 「まぁ、仕方ない。とりあえず、眠っていた英霊を呼び起こすことは出来たのだ。あとは、次の歌姫が現れることに期待しよう。それが何年後か、何十年後かは分からんがな」 そう言いながらも、その声と表情からは、あまり悔しさは感じられない。どうやら、彼の知的好奇心を満たすという目的においては、今回の一件はそれなりに「実りの多い成果」と考えているようである。 「ところで、アンドロメダ、お前に対して妙に激しい敵意を向けていたあのシャドウの少年、知り合いだったのか?」 そう問われた女魔法師風の人物は、不敵な笑みを浮かべながら答える。 「ちょっと前に、色々あったんですよ。私は革命派の人間ですが、あの時は色々と事情があって、均衡派の人々に協力してまして。詳しい事情を話すとマーシー殿に怒られそうなので、言えませんが」 ブレトランド・パンドラの四派閥は、それぞれに最終目的も異なる以上、その情報すらも共有していないことが多い。あくまでも「皇帝聖印の出現の防止」という共通目的のための「対等な同盟勢力」同士の関係にすぎないのである。 「まぁ、お前の能力は特殊だからな。色々なところで重宝されるのは分かる。私も、今回の件で革命派と楽園派の人々には、大きな借りが出来てしまった訳だが」 そう言いながら彼は、「女魔法師風の人物」と「武道館」に目を向ける。 「気にしなくていいですよ。シアンさんの技術がなければ、ウチの邪紋兵団は成り立ちませんからね。持ちつ持たれつということで」 「私は、久しぶりに『祖国の歌』が聴けた。それだけでも、満足」 二人がそう答えると、シアンは静かに頷き、そして二人と共にこの村を去って行く。 (さて、そろそろ北の姉妹も、決心がついた頃かな) (そうえいばあのボウヤ、いつの間にかいなくなってたわね) (次は、炎のファイターが聞きたい) そんな想いをそれぞれに抱えながら、それぞれの次の目的地へと向かう三人であった。 4.1. 交渉と介入 こうして、新領主セシルが誕生したことで、新生マーチ村は実質的にヴァレフールに併合された。相変わらず混沌繭と生糸が村の各地に点在する「住みにくい村」ながらも、蘇った村人達は、少しずつ復興に向けて準備を進めていく。SFCはそのままセシルを支えるためにマーチに残り、ミレーユとアイレナはロザン一座へと戻る。そして問題は、エディとスュクルである。 現状では、トーキーにはまだアントリアの軍隊が駐留している。マーチ近辺の混沌が多少なりとも除去されたことで、その周囲の地域も魔境状態ではなくなったが、それでもまだ、トーキー近辺も含めてこの地域の混沌濃度が高い。故に、これから先のトーキーの安全を重視するなら、アントリアの協力があった方が望ましいが、エディとしてはアントリアの傘下に加わりたくはない。ヴァレフール側のセシルがマーチの領主に就任した今、彼と敵対する立場となるアントリアに取り込まれることは避けたいのである。 そこで、彼はひとまず、クワイエットの領主ファルコンに対して書状を送る。彼の契約魔法師であるスュクルを「領主殺害未遂」の罪で拘束しているという旨を伝えた上で、相手の出方を見ることにしたのである。スュクルとしては、任務に失敗した自分など切り捨ててくれればいいと考えていたようだが、ファルコンからの返答は、少々意外な内容だった。 まず、ファルコンはスュクルの行為に関しては素直に謝罪した上で、その身柄の返還を要求する。その上で、トーキーに駐留している部隊については、引き続き現地の治安維持のために必要ということであればそのまま残してもいいし、不要ということであれば撤退させても良い。ただし、前者の場合はアントリアに聖印を捧げる(アントリアの国家元首代行であるマーシャルの従属騎士となる)ことを、その条件として提示してきたのである。彼等としては、ヴァレフールにマーチを制圧されたことで、いつトーキーもヴァレフールの手に落ちるか分からない状態となった以上、混沌災害との戦いに力を割かざるを得なくなることを覚悟した上で、一刻も早くトーキーをその勢力下に組み入れるべきという判断に至ったようである。 これに対してエディは、ファルコンにとってスュクルが「切り捨てられない存在」であると察したこともあってか、強気の返信を返す。エディは書簡を通じて、あくまでもアントリアに聖印を捧げるつもりはなく、ヴァレフールにも組しない「中立勢力」としての道を貫くと主張した上で、スュクルの返還の条件として、トーキー近辺の混沌浄化のために駐留軍に協力させることを要求したのである。これは「トーキーにとって、かなり都合の良い条件」であり、アントリアが素直に受け入れるとは考えにくかったが、エディとしては、スュクルの身柄が自分の手元にある以上、彼等も安易に交渉を打ち切って強硬手段に出ることはないだろう、と判断したようである。 こうして、両者の意見が衝突しつつ、しかしアントリア側も今のところ強硬手段には出る気配はないという微妙な均衡関係において、両者の調停を申し出る者が現れた。山岳街道の西側に出現した新興国家、グリースである。 マーチの戦いの後、グリースに帰国したコーネリアスは、事の次第を主君であるグリース子爵ゲオルグに伝えると、ゲオルグは仲介使節として、(コーネリアスを案内役とした上で)契約魔法師のヒュース・メレテス(下図)をトーキーへと派遣したのである。彼は子爵の代理として、以下のような仲介案を両陣営に対して提示した。 「現状、アントリアにとって『トーキー村がヴァレフールの傘下に入ること』が脅威であるならば、第三国である我々グリースが、アントリアの代わりにトーキー村を暫定統治下に置いて管理する、というのはいかがでしょう?」 つまり、(マーチを挟んで飛び地的な位置付けになるが)この地をひとまずグリース領とすることで、ヴァレフール軍によるこの地への介入を防ぐ、という提案である。 確かに、それならばトーキーを完全中立(孤立)状態のまま放置するよりは、結果的にヴァレフールの介入を防ぎやすい立場となるし、アントリアとしても余計な兵力をトーキーに裂かずに済む。現状、ヴァレフールとグリースは比較的友好関係にあると言われてはいるが、現在交渉役として派遣されているヒュースは、アントリアの次席魔法師クリスティーナの義弟であり(この点が、今回の交渉役としてヒュースが選ばれた理由の一つでもある)、現状ではアントリアに対しても、少なくとも表面上は敵対的な姿勢は取っていない。従って、この中間地点をグリースが支配することになれば、結果的に両者の間の新たな「緩衝地帯」として機能することになるだろう。 本来ならば、軍事的に優勢なアントリアとしては、このような緩衝地帯はむしろ邪魔だと考えていただろうが、マーチを支配することになったヴァレフール側の新領主であるセシルが「得体の知れない強力な投影体」を傘下に加えたことで軍略的な立場は逆転し、今はむしろ、アントリアの方が「ヴァレフールからの山岳街道経由の奇襲攻撃」を防がなければならない状態になっている(もっとも、ケイのヴァレフール軍も今回の戦いで相当な痛手を被っているので、当分はその心配も無さそうではあるが)。今のこの状況であれば、確かに、グリースの介入はアントリア側にとっても悪くない展開である。 その上で、ヒュースはエディに対して、トーキー近辺の混沌の浄化に対しては、アントリアによる駐留軍に代わってグリースが全面的に協力し、そのための人員や物資は、グリースの首都であるラキシスとマーチの間に存在していた旧街道を再建した上で、マーチ経由でラキシスから派遣する、という案を提示する。エディとセシルの関係を考えれば、マーチの領主であるセシルがこれに反対するとも考え難いため、エディとしてはすぐにでもこの案に乗りたいところであったが、ここでヒュースが一つ、「見返り」としての条件を提示する。 「コーネリアスがこの地で出会ったという、パンドラの『女性の姿をした魔法師』の捕縛に協力してもらいたいのです。出来る限りその者の情報を集めた上で、もしこの地にその者が現れたら、すぐさま捕獲、それが無理なら、尾行してその本拠地を突き止めてほしい。それが条件です」 正直、エディとしては、その『女性の姿をした魔法師』に対しては、(結果的にセシルを立派な君主に鍛えたという意味では)これと言って恨みも敵愾心もないのだが、パンドラの一員であるという時点で、危険な存在であるということは理解しているため、ここは素直に同意する。もっとも、彼の目の前に本人が現れたところで、そう易々と捕縛すも尾行も出来ないとは思うが。 ちなみに、ヒュース曰く、その魔法師の名は「アンドロメダ」。現在、グリースに仕えている植物学者エスメラルダの、双子の「弟」である(詳細は「ブレトランド戦記」第7話参照)。 4.2. 外交官と将軍 こうして、アントリア・トーキー・グリースの三勢力の合意の下で、トーキーに駐留していたアントリア軍は撤退し、スュクルも解放されたことで、彼等と共にクワイエットへと帰還した。 「今回の作戦の失敗は、私の不肖の致す限りです。どうぞ、ご自由にご処断下さいませ」 主君であるファルコンと再会したスュクルは、開口一番に淡々とそう告げる。山岳街道と巨大蛾をアントリアの支配下に置く筈が、逆にどちらもヴァレフールに奪われてしまったこの現状に対して、スュクルとしては何ら言い訳出来る心境ではなかった。 「いや、今回は俺の見通しが甘かったことが原因だ。トーキーの領主を殺そうとしたのも、お前としては良かれと思ってやったことだろうしな」 ファルコンはそう言って、スュクルのことを全面的に擁護する。実際、客観的に見ても、中途半端な情報に基づいてスュクルと僅かな護衛兵のみで派遣したのは、明らかにファルコンの判断ミスである。いっそ、迅速に大軍を動かしてトーキーを占領し、双子を強引に手中に収めていれば、パンドラに対してもヴァレフールに対しても、もっと幅広い選択肢が可能だったであろう(とはいえ、あの状況ではそこまで決断出来るだけの情報が無かったことも事実であるが)。 そして、結果的に言えばスュクルがいたことで、ケイのヴァレフール軍は大打撃を被ることになった。更に言えば(これはあくまでも仮説レベルの話だが)、彼のあの「裏切りの一手」が無ければ、もしかしたら混沌蛾の羽化は成功し、より強大な力をヴァレフール側が手にしていたかもしれない。あの状況下において、スュクルはアントリアの臣として、選ぶべき最良手を選んだというのが、ファルコンの評価である。 「それに、グリースという第三国が介入することになったのも、これはこれで悪くはない。あのゲオルグという男は、何を考えているか分からないが、だからこそ、今後の情勢次第ではヴァレフールとグリースの間で戦端が開かれる可能性もあるしな。しばらくは、奴の出方を見ることにしよう」 その上で、最大の問題は巨大蛾であるが、これについては現状、次の「歌姫」が現れないように気を配るしかない。スュクルとしては、それらしき人物が現れ次第、すみやかにその者を手中に収めておく必要があるだろう。これから先は、そのための情報収集もスュクルの重要な任務の一つとなる。 今回の「失敗」を糧に、次こそは主君の役に立てるよう、粉骨砕身の努力を惜しまぬことを誓いつつ、明日からは、自分の不在時にたまっている諸々の雑務をこなすため、まずは静かに自室で休息を取るスュクルであった。 4.3. 姉妹と座長 一方、そんなクワイエットの城下町にて、ミレーユとアイレナはロザン一座と再合流していた。座長達に黙って勝手に魔境へと向かった二人は、深々と頭を下げてロザンに謝罪する。厳しく叱責されることを覚悟していた二人であったが、意外にもロザンの口調は穏やかであった。 「まぁ、仕方がない。お前達も、故郷を目の前にして、自分達が何とかしたかったのは分かる。だが、結局、その巨大蛾の幼虫は、お前達の歌には反応しなかったのだろう?」 「えぇ……」 「それは、なぜだと思う?」 実際のところ、それは二人にも分からない。前述の通り、様々な可能性が考えられるが、そのどれも決め手に欠ける。それ故に、二人共どう答えれば良いのか分からない。困った表情を浮かべる二人を前にして、ロザンはため息をつきながら再び口を開く。 「それが分からないのであれば、これからどうすれば良いかも分からんな。ただ、一つ気になることがある。今まで、その唄を通じて巨大蛾の羽化を試みた者達は皆、歌い切る前に混沌に取り込まれて暴走してしまったのだろう? しかし、お前達は混沌に取り込まれないまま、最後まで歌い切ることが出来た。ということは……、もしかしたら巨大蛾は、途中から、お前達の歌に同調するのを拒否したのではないか?」 「拒否?」 「そう、あくまでも俺の勝手な推論だが、巨大蛾はその羽化の途中の段階で、このまま続ければお前達の身体が混沌に取り込まれてしまうと考えて、途中からはお前達と心を同調させることを自ら放棄していたのではないか、と考えることも出来るだろう」 ロザンは君主でも魔法師でも邪紋使いでも投影体でもない。純粋なただの一般人である。混沌や投影体に関する学問をどこかで学んだ訳でもない。だが、このブレトランドだけでなく、世界各地を旅して回り、様々な人々と触れ合ってきた彼は、世界中の神話・伝承にも通じている。それらの情報に基づいた上での完全な「何の根拠もない妄想」であると断った上で、彼は自身の仮説を提示した。 「もしかしたら、巨大蛾は、お前達を殺したくなかったのかもしれない。お前達の中に眠る可能性を本能的に察知して、今ここで無理をさせるよりも、もう少しお前達が力をつけた上で再度自分の羽化に挑戦してほしい、と考えていたのかもしれん」 だが、実際には巨大蛾ことバス・クレフは彼女達に何も言っていないし、そもそもなぜ失敗したのかについても、彼自身が分かっていなかった様子である。ただ、団長の言う通り、自分達が命を落とさずに済んだのは巨大蛾のおかげかもしれないし、そうでなくても、結果的に歌い終わった後も生き残っているというだけでも、過去の挑戦者達よりも一歩進んだ到達点に達していると解釈することも出来る(実際、幼虫体としては最高の段階まで成長したと、バス・クレフ自身が言っていた)。そして、生きているからこそ、歌の実力を磨いた上でもう一度再挑戦することも、確かに可能である。 「だから、もし次に、お前達の中で『今度こそ羽化出来る』という自信がついた時は、俺達がお前達をマーチに連れていく。どうせ、放っておいても勝手に行くだろう? それくらいなら、それまでの道中、俺達がお前達を守る」 「ありがとうございます。その時は、よろしくお願いします」 ミレーヌがそう言うと、二人は改めて深々と頭を下げる。実際のところ、現状ではそこまで巨大蛾を羽化させる必要に迫られている訳ではない。ただ、今後、更に強力な投影体や混沌災害が発生した時には、その力が必要となることもあるかもしれない。 その時に、彼女達に再挑戦する機会が訪れるのかどうかは分からない。だが、いずれにせよ、今の彼女達がやるべきことは、歌い続けることだけである。今回の件で迷惑をかけた分、今まで以上に一座のために歌い続けよう、とミレーユが決意を固める一方で、アイレナは、姉の「虫嫌い」を克服させるにはどうしたら良いか、ということを密かに考え始めていたのであった。 4.4. 玩具と持ち主 そんな彼女達の故郷であるマーチ村では、7年ぶりに蘇った村人達の手で、着々と復興作業が進みつつあった。村の各地に生糸が張り巡らされ、混沌繭が存在するという、なんとも奇怪な村ではあったが、逆にその生糸の存在を前提とした上での街造りをすればいい、という逆転の発想で、新しい村の家並みを設計していったのである。無論、10歳のセシルにそこまでの計画が立てられる筈もなく、実質的には先代領主の側近だった人々が中心となって、積極的に彼を補佐しつつ、新体制を築き上げていった。 ちなみに、このような形で息子が想定外の早さで自立していくことに対して、父であるケイの領主ガスコインは困惑していたが、ひとまず現状においては、ケイの建築技師や土木工事職人を派遣することで、それを積極的に支援する、という方針を選んだ。出来ることならば、巨大蛾という危険な存在を、まだ幼い息子に預けておきたくはなかったのだが、現実問題としてマーチの領主の血を引いている者はヴァレフールにはセシルしかいない。仮にガスコインがセシルの従属聖印を取り上げたとしても、巨大蛾はガスコインのことを新たな主人とは認めず、かえって暴走状態に陥る危険性もある、というのが、ガスコインの契約魔法師の判断であったため、今のところは息子にそのまま委ねるしか無かったのである。 こうして、周囲の人々のサポートによって、どうにか領主としての責務をこなしていた彼であったが、村をまとめる者として、どのような方向性を示せば良いのか分からないという、新たな悩みも抱えていた。 「セシル様、そんな時はコレです」 そう言ってSFCは「シムシティ」を取り出す。もっとも、異界における街造りを題材としたこのソフトが、この世界の村造りを考える上で、どこまで参考になるかは分からないが。 「これを通じてシミュレーションして、擬似経験を積んでから、実際の村造りに挑戦していきましょう。そのためにも、これから先も、私で遊んで下さい」 「うん、そうだね。ところでSFC、一つ聞きたいんだけど、今の僕は、誰かの役に立ってるかな?」 「それはもう、誰が見ても役に立ってます。私の誇り高いマスターです」 「じゃあ、もう一つ。SFCは、僕のことを必要としてくれてる?」 「もちろんです! というか、ここまで私で遊んでくれる人は、あなたが初めてです! これから先も、一生ついていきます!」 こうして、弱冠10歳の新領主セシルは、部下にして親友であるSFCと共に、新たな一歩を踏み出していく。これから先、いずれは契約魔法師を迎えることになるだろうし、他にも多くの家臣をその傘下に加えていくことになるだろう。しかし、彼女以上に自分のことを想ってくれる存在は、これから先も現れることはないだろう、と彼は確信していた。玩具とその持ち主という、なんとも奇妙なこの二人の関係は、これから先もまだまだ続いていくことになるのである。 4.5. 領主と魔法師 そして、ひとまずグリースの傘下に入ることを決意したエディは、定期的にラキシスから派遣されてくるヒュースとの間に、強固な信頼関係を築きつつあった。マーチでの戦いにおいて、仲間であった筈のスュクルに背中から撃たれたことで、当初は魔法師に対して警戒心を強めつつあった彼も、根が真面目で裏表のない性格のヒュースのことは、素直に信用することが出来ていたようである。 「ところで、エディ殿、あなたには今、契約魔法師がいないようですが、もしよろしければ、私が学院時代の後輩を、誰か紹介しましょうか?」 ヒュースはそう提案する。彼は名門メレテス家の出身であり、その後輩(義弟・義妹)ということであれば、優秀な人材の宝庫である。 「ヒュース殿の紹介ということであれば、ぜひともお願いしたいです」 「ちなみに、どういった人材をお望みですか?」 エーラムの魔法師の中にも、様々な系統の者達がいる。スュクルのような時空魔法師もいれば、ヒュースのような召喚魔法師もいる。あるいは、性格や人間性という点も、領主との相性を考える上では重要だろう。 「そうですね……、特にこれといって希望はないのですが……、まともな友好関係を築ける人がいいです」 やはり今回の一件を通じて、スュクルのようなタイプの魔法師に対しては苦手意識を持ってしまったようである。その辺りの詳しい事情を知らないヒュースであったが、ひとまずエディと仲良くやっていけそうな人物を、彼の記憶の中からリストアップし始める。無論、彼が斡旋したところで、実際に赴任してくれるためには、魔法師本人の同意も必要なのであるが。 そして、そんなやりとりを交わしつつ、領主の館に帰ったエディには、セシルからの手紙が届いていた。さっそく開いてみると、そこに書かれていたのは、マーチの彼の邸宅での「三國志の対戦プレイ」への招待状である。それがどんなゲームなのかはよく分からなかったが、ひとまず彼は「領主としての勉強も一緒にしような」と但し書きを加えた上で、その誘いに応じる旨を手紙で伝える。これから先も、従兄弟として、領主の先輩として、セシルを支えていかなければならない、と改めて決意するエディであった。 ちなみに、これから数ヶ月後、このエディとセシルの元に、それぞれ新たな契約魔法師が派遣されることになる。それがどんな魔法師達なのか、そしてその二人を招いた両村の合同親睦会でどんなゲームが遊ばれることになるのか、そのことを知る者は、この時点ではまだ誰もいなかった。 【ブレトランドの英霊】第6話(BS14)「炎のさだめ」 グランクレスト@Y武
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第6話(BS44)「星々の瞬き」( 1 / 2 / 3 / 4 ) 1.1. 港町の領主 ブレトランドから海を挟んで南東に位置する大陸北岸のヴァンベルグ侯爵領は、ランフォード、アロンヌ、ファーガルド、メディニア、サンドルミアなどと国境を接する大国であり、国主のアントニア・フラメル(下図)は質実剛健で実直な聖印教会の信徒として知られている。 幻想詩連合に所属し、爵位制度には組み込まれているものの、エーラムからの契約魔法師や技術支援を拒絶するほどに聖印教会への忠誠心が高く、国民の大半も彼に倣ってその教義を受け入れている。 そのヴァンベルグの北端に、ハルペルという名の港町がある。百年程前にヴァレフールからの亡命貴族が中心となっておこなわれた干拓事業によって築かれた町であり、国土の大半を内陸が占めるヴァンベルグにとって唯一の海の玄関口であった。町の名はその貴族家の姓に由来しており、現在のこの町の領主はその末裔のアーノルド・ハルペル(下図)が務めている。 ハルペル家は今でもヴァレフールとの繋がりが深く、アーノルドの母親はヴァレフールの古都インタシティの領主の娘で、彼自身も幼少期はその地で育った身である。その後、彼はイスメイアの教皇庁へ留学して君主としての手解きを受けた上で、数年前に父の後を継いでハルペルの領主に就任した。現在32歳。国主譲りの生真面目な気性で、教皇庁時代は過激な混沌滅殺論者だったが、それから様々な経験を経ていくうちに、魔法師や邪紋使いの必要性も感じるようになり、最近では(一部では混沌由来説もある)趣味で珈琲を嗜む程度の柔軟な性格となった。 そんな彼が治めるハルペルの港町において、まもなく「始祖君主(ファーストロード)レオンの聖誕祭」が開催されようとしていた。これは聖印教会が定めた「レオンの誕生日(真偽は不明)」を中心に「前日祭」「当日祭」「後日祭」の三日にわたって開催される聖印教会主催の祭典であり、昔は毎年イスメイアの教皇庁で開催されていたが、十数年前から世界各地の信徒達の手で毎年持ち回りで会場が変わる制度へと移行した。 今年はアントニアの強い意向によりヴァンベルグでの初開催となり、遠方からの来客の人々への利便性を考慮した上で、港町のハルペルが会場に選ばれたのである。ハルペルはアーノルドの堅実な統治が日頃から行き届いていることもあり、交通の要所で人の行き来が多い割に治安は良好で、住民達の信仰心も強いため、開催地としては申し分ない土地であった。 そんな聖誕祭の管理責任者であるアーノルドのところに、先日招待状を送った隣国ランフォードの領主クレア・ウィンスローから返事の手紙が届いた。彼女はランフォード子爵家の正統後継者であり、父の死後にその座を継いだものの、疫病と飢餓に起因する混乱から国内は分裂し、現在の彼女の実質的な支配領域は中南部のミスタリア地方のみとなっている。修道院で育ったこともあり、聖印教会と深い繋がりを持つが、彼女自身はそこまで明確な信仰理念を確立している訳でもなく、彼女の傘下には魔法師も邪紋使いもいる。現在はヴァンベルグからの軍事・経済的支援によってかろうじて勢力維持している状態ではあるが、今のところはまだ幻想詩連合への所属を明言してはいない。 手紙の内容は以下の通りである。 「大変申し訳ございませんが、国内情勢の悪化により、私は今回の式典に出席出来なくなってしまいました。その上で、お伝えしたいことがあります。私の契約魔法師によると、どうやらハルペルに『姿を変えることが出来る邪紋使い』が入り混む未来が見えたそうです。あなたは魔法師に理解がある方だとお伺いしたので、このような形で御連絡させて頂きましたが、魔法師の助言に従うことを快く思わない人も多いでしょうから、このことは公にはせぬまま、領主様の判断で対応策を練って頂けると助かります。もしかしたら、その者は私に化けて潜入を試みるかもしれません。邪紋使い達の中には聖印を模倣出来る者もいるという噂もありますので、くれぐれも御注意下さい」 前述の通り、アーノルドは確かに聖印教会内では穏健派で、クレアのように魔法師や邪紋使いを雇用する方針にも理解があり、(ヴァンベルグの国風上認められないが)本音では彼も雇用したいと思っているほどである。それ故に、彼は魔法や邪紋についての知識もそれなりに持ち合わせているのだが、その彼から見て、この手紙からは二つの違和感が感じられた。 まず、アーノルドが知る限り、魔法師達の中でも未来予知が可能なのは「時空魔法師」と呼ばれる系譜の者達なのだが、以前に聞いた話によれば、クレアの契約魔法師は「生命魔法師」の筈である。そして「姿を変えることが出来る邪紋使い」が存在することはアーノルドも知っているが、彼等の中に「聖印まで模倣出来る者」がいるという話は聞いたことがない。無論、彼が知らないうちにクレアの元に新たな時空魔法師が雇われた可能性もあるし、「聖印を模倣出来る邪紋使い」も絶対にいないと断言出来る根拠はないが、逆に言えば、この手紙が本物であると確信出来る根拠もない。 「とはいえ、仮にこの手紙が偽物だったとしても、この手紙を信じて私が警備を強化したところで、それがハルペルに害を為すことに繋がる訳ではないと思うが、さて、どうしたものか……」 なお、聖誕祭当日は魔法師・邪紋使い・投影体は完全に立ち入り禁止となる習わしなので、どちらにしても邪紋使いを発見すれば即刻逮捕することは可能である。だが、姿を変えられた状態では探すのも困難であり、現状では具体的な対策が思いつかない。 アーノルドが執務室で一人頭を悩ませていると、廊下を走って近付いてくる足音が聞こえてくる。その音から感じ取れるせわしない様子から、アーノルドはそれが誰なのかすぐに察しがついた。 「クレア師匠から手紙が届いたって聞いたんだけど!」 そう叫んで入って来たのは、一月程前からアーノルドが預かっている少年である(下図)。バンダナを巻き、キュロット(半丈のズボン)を履いたその少年の名は、ゴーバン・インサルンド。現ヴァレフール伯ワトホートの弟トイバル(故人)の長男である。彼の母親はヴァレフール騎士団長ケネスの娘シリアであり、彼はつい数ヶ月前まで、ケネス達を中心とするヴァレフールの「反ワトホート派(反体制派)」の旗印だった。まだ11歳だが、亡父から従属聖印として授かった「対混沌戦用に特化された聖印」の持ち主でもある。 「あぁ、これは、同名の別人だ。ゴーバンが知っているクレア殿とは別の方でな」 アーノルドはそう答えた。「ゴーバンが知っているクレア殿」とは、聖印教会所属の流浪の女騎士クレア・シュネージュのことである。数ヶ月前、ゴーバンは彼女に弟子入りして「修行の旅」に出たが、その後、クレアが旅先で出会った人々に請われてコートウェルズの危険地帯へ向かうことになったため、さすがにまだ幼いゴーバンを連れて行くのは危険と判断し、旧知のアーノルドに彼を託したのである。アーノルドは以前、クレアに助けられた恩義があり、また血統的にもヴァレフールと近い立場であるため、適任と思われたのであろう。 なお、アーノルドは現在既に32歳だが、妻子はいない。堅物すぎる性格故に婚期を逃したと言われているが、決して彼も木石ではなく、過去には女性に慕情を抱いたこともある。実は、そんな彼にとっての少年時代の初恋の相手が、ゴーバンの母シリア(歳はアーノルドの一つ上)であったのだが、当然、ゴーバン自身はそのようなことを知る由もないし、クレアもそんな事情を知らないまま彼にゴーバンを託すことになった。 ちなみに、ゴーバンの母方の祖父ケネスは聖印教会を嫌っていることで有名だが、現在のゴーバンは実家とは袂を分かっているようで、むしろ祖父への反発から聖印教会の教義に興味を抱き始めている。もともと正義感溢れる熱血少年で、「対混沌戦特化の聖印」の持ち主である彼は、「混沌からの解放」を第一に掲げる聖印教会の教義とは相性が良いらしい。もっとも、まだその教義の本質を理解しているとは到底言えないような状態なのだが、アーノルドはそんなゴーバンの姿に昔の自分を重ねつつ、彼のことはあくまで「一人の君主」として遇している。 「そうなのか……。なぁ、ところでさ、もうすぐ始祖君主レオンの聖誕祭があるんだろ?」 「あぁ、そうだ」 「それでさ、前から気になってたんだけど、始祖君主レオンと英雄王エルムンドって、どっちが強いんだ?」 これはブレトランド生まれの少年であれば、誰もが一度は考えることである。いつの世も、少年達は「強さ比べ」の話題には目がない。ましてやゴーバンにとっては、英雄王エルムンドは自身の祖先である。興味を抱かない筈がないだろう。 「そうだな……。御二方共、立派な偉業を成した人達だ。そんなことは叶わないだろうが、実際に戦ってみないと分からないだろうな」 「うーん、何か遺品を探して、サーバントとして呼び出して戦わせることが出来れば、早んだけどなぁ」 「遺品?」 「昔、じっちゃ……、あのクソジジイの契約魔法師に聞いたんだよ。異界では、過去の英霊をサーバントとして呼び出して戦わせる文化があるとか何とか」 「文化?」 「まぁ、色々金のかかる文化らしいとも言ってたけどな。それと同じような召喚魔法を、こっちの世界で研究してる連中もいるとかどうとか……」 ゴーバンが話している「文化」がいかなる実態はよく分からないが、ひとまずこれは「釘」を刺しておかねばならない事案だとアーノルドは察した。 「ゴーバン……、お前に聖印教会の教義を強要する訳ではないが、私以外の者にはそういうことは言わない方がいいぞ。この街の中ではな」 「あ、そうか、ここは魔法とか異界の話とかはダメだったんだったな……。でも、なんでなんだ? 魔法とか色々あった方が便利じゃないか?」 聖印教会に興味を抱いているとは言っても、あくまでそれは「悪い混沌を倒す」という一点に関してのみである。なんだかんだで、子供の頃から魔法師や邪紋使いと触れる機会が多かった彼にとっては、それらの存在そのものが悪だと断ずる教義には参道出来ないらしい。そして、アーノルドも本音ではゴーバンの言うことに共感しているのだが、それでもこの国で生きていくための「建前」が必要だということは伝えなければならない。 「あぁ。今の世の中においては、確かにその通りだ。だが、私は魔法や混沌の力は皇帝聖印が実現した時、消えて無くなると考えているからな」 実際のところ、これについては「実例」が過去に存在しない以上、はっきりしたことは言えないのだが、聖印教会としてはそれが一般的な見解である。だからこそ、それに頼り続けることは皇帝聖印への道を閉ざすことになるという懸念があり、あまり望ましく考えられていない。もっとも、この辺りの教義解釈およびそれに基づく方針に関しては教派によりけりであり、人々を守るための魔法や邪紋ならば認めるべきと考える者達も少なくはないのだが、少なくとも「文化」と称して興味本位に死者を蘇らせて戦わせるような魔法師は、聖印教会としては最も忌むべき存在であろう。 「まぁ、まだお前の歳でそういったことを考えるのは面倒臭いと思うかもしれないが、一人前の君主になるためには、魔法や聖印についての考えはしっかり持っておきなさい」 「うーん……」 ゴーバンは、分かったような分からないような顔を浮かべる。 「まぁ、今はそれでいいさ」 見守るような笑顔でアーノルドはそう言いつつ、その視線の先にある壁に掲げられている一対の「籠手(ガントレット)」に視線を向ける。 (そういえば、あの籠手も「名高い英雄の遺品」だと言われていたな……) それはハルペル家に伝わる「伝家の籠手」であり、軽い割に頑丈で使い勝手が良く、アーノルドも戦場に出る時は愛用している。同家がブレトランドの貴族家であった頃からの伝来品だが、その由来は不明である。何か特別な力が込められているという伝承もあるが、今のところそのような力が発動したことはない。もっとも、この籠手が投影装備やオルガノンの類いであるとするならば、聖印教会の一員としてその力を用いる訳にはいかなくなるので、今のアーノルドとしては、ただの「品質の良い籠手」のままであってくれる方が望ましかった。 1.2. 子連れの女騎士 ヴァンベルグは君主の影響力が強い土地ではあるが、それでも君主の目が届かない辺境地域も存在する。同国南部のとある村の一角で、この地の領主が公務で不在の隙に、異界から出現した「猪のような投影体」が畑を荒らす被害が発生していた。そんな中、偶然この村に立ち寄っていた女騎士(下図)が、「光の盾」を翳しながら村人達を守って奮戦している。 「おじいさん、下がっていて下さい!」 彼女はそう叫ぶと、老人に向かって突撃してきた猪の前に立ちはだかり、その盾で猪の突進を止めつつ、そのまま盾の圧力で猪を吹き飛ばす。たった一人で次々と現れる猪達を事も無げに撃退していく彼女の背後では、彼女の娘である一人の幼子が(下図)、小さな聖印を掲げて、(彼女達が到着する前の猪との戦いで)怪我をしていた住民の傷を癒していた。 母親である女騎士の名はウルスラ。29歳。元はブレトランド中部に位置する聖印教会の聖地フォーカスライトの領主(大司教)を務めるグレイ家の長女であった。若い頃は留学先の教皇庁で優秀な成績を治めていたこともあり、父からは大司教位の後継者として期待されていたが、彼女は継承権を弟のロンギヌスに譲り、現在は娘の11歳の娘ラーヤと共に旅をしている。 ラーヤの父親は、ウルスラが家を出た後に旅先で出会って恋に落ちた流浪の君主である。だが、ウルスラがラーヤを身籠っていることに気付いた時、ウルスラは既に彼の元を離れたため、彼はラーヤの存在を知らず、そしてウルスラはラーヤにもそのことを話していない。 なお、ウルスラが愛用している鎧はその「流浪の君主」から譲り受けた代物であるが、それとは別に彼女にはもう一つ、実家から引き継いだ伝家の武具としての「長靴(ブーツ)」を有している。ただし、現在は既にこの長靴は常用していない(使い勝手の良い武具ではあるのだが、彼女が自身の武術を確立させていくにつれて彼女の戦い方には合わなくなった)。いずれ娘の身体がこの長靴に合うほどに成長したら彼女に引き継がせるつもりで、常に背中の鞄の中に忍ばせている。 なお、ウルスラの聖印は人々を守ることに特化された「聖騎士の聖印」であるのに対し、彼女から従属聖印を受け取っている娘のラーヤは「救世主の聖印」と呼ばれる治癒能力に特化された聖印の持ち主である(聖印の性質は血縁関係や親子関係に影響を受けることもあるが、基本的には個人の資質によるものであり、このように全く別種の聖印が形成されるのが一般的である)。ラーヤは身体的には未熟であるが、他人を癒す能力に関しては、既に一人前の騎士(もしくは宣教師)級の実力であった。 そんな二人の活躍もあり、どうにか混沌災害(畑荒し)は無事に解決し、村人達は口々に彼女達に感謝の意を述べる。 「ありがとうございます! 君主様は、この国の方なのですか?」 「いえ、各地を放浪している者です」 「ということは、もしかして、ハルペルでのレオン様の聖誕祭にご参加されるために、この国に来たのですか?」 「あぁ……、そういえば、もうそんな季節ね」 ウルスラがそう呟くと、隣でラーヤが首をかしげる。 「聖誕祭? それはどのようなお祭りなのですか?」 キョトンとした顔でそう問いかけたラーヤに対して、村人達は笑顔で答えた 「世界各地から、聖印教会の信徒の方々が集まり、始祖君主レオン様の御生誕をお祝いする催し物です。多くの人々が集まるため、その機会に各地の物産展や、吟遊詩人や大道芸人の方々による出し物なども催される、世界最大のお祭なのですよ」 その話を聞いて、ラーヤは心なしか目がキラキラしている様子に見える。彼女はあまり「お祭」というものを経験したことがない。これまで各地を旅する過程で様々なそれぞれの土地の文化に触れる機会はあったが、それらが一堂に会すると聞いて、強い興味を惹かれているらしい。そんな娘の様子に気付いた母は、彼女に問いかける。 「今から向かえば、ちょうど聖誕祭が始まる頃には着けるけど、あなたはどうしたい? ラーヤ?」 そう問われたラーヤは、少し迷いつつ、自分の考えをまとめながら答える。 「それだけ多くの人が集まるということは……、もしかしたら、そこに困ってる人もいるかもしれないし、何か揉め事が起こることがあるかもしれないし、私達の力が必要になるかもしれないですよね!」 どうやら彼女は、純粋に「面白そう」という理由だけで参加することに後ろめたさを感じているのか、何か「大義名分」が必要だと考えたらしい。ウルスラとしては、別にそれほど厳しく娘を躾けたつもりもないのだが、聖騎士として各地の人々を助ける日々を送るウルスラの背中を見て育つうちに、やや過剰なまでに禁欲的な性格となってしまったようである(実際のところ、ウルスラ自身はそこまで生真面目でもないのだが)。 「そう。じゃあ、あなたがそう言うのなら、次の目的地はそこにしましょう」 ウルスラは、極力「ラーヤの意志」を尊重する方針で育ててきた。何をするにしても、自分自身で考えた上で、その結果を受け入れて、成長していくことが必要だと考えている。無論、その選択の結果としてラーヤが危機に陥る可能性も十分にあり得るが、自分が彼女の傍にいれば、よほどのことがない限りは彼女を守れるという自信もあった。 「お母様は、そのお祭りに行ったことはあるのですか?」 「あなたが生まれる前は、ね」 彼女が教皇庁に留学していた頃は、毎年教皇庁で開催されていたため、それが日常行事であった。各都市での持ち回り開催になって以降は、別に避けていた訳でもないのだが、彼女の旅先と開催地が合わない年が続いており、一度も行ったことがない。 「そう考えると、随分久しぶりになるわね」 ウルスラはそう呟きつつ、教皇庁時代の聖誕祭の思い出を振り返りつつ、今年の開催地が「ハルペル」ということから、教皇庁時代の一人の友人のことを思い出した。その友人の名は「アーノルド・ハルペル」。彼女より少し年上で、共に君主となるための訓練を受けていた人物であるが、彼女の記憶が正しければ、現在は彼がその地で領主を務めている筈である。 (彼に会うのも久しぶりね) 教皇庁時代の彼は、極めて生真面目な青年だった。あれから年月を経て、今はどんな領主になっているのかは分からない。彼女自身もあの頃に比べて大きく変わった。彼はどう変わっているのだろう。もしかしたら、他にも教皇庁時代の友人が遊びに来ているかもしれない。そう考えると、ウルスラ自身も少し楽しみに思えてきた。 1.3. 教皇庁の異端児 アーノルドやウルスラが青春時代を過ごした「教皇庁」とは、イスメイア中部の小都市マトレに存在する聖印教会の中央機関である。教皇が鎮座する「大聖堂」を中心に、世界各地から集まった優秀な君主達によって構成されている教皇直属組織であり、世界中の聖印教会の信徒達の中から君主志望の若者達を集め、育てるための教育機関としての役割も果たしている。 この地で君主としての修行を積んだ者の中には、アーノルドのように実家に帰って聖印を継ぐ者もいれば、ウルスラのように各地を旅して人々を救う自由騎士や宣教師となる者もいる。一方で、この地に残って教皇直属の君主となった者もいる。イスメイア自体が連合所属の国家であるため、そのような者達の大半は連合諸国出身だが、中には同盟諸国からこの地に留学し、そのまま教皇直属の「神の戦士」となった者もいる。 その数少ない事例の一人に、ヒューゴ・リンドマンという人物がいる(下図)。歳はアーノルドと同じ32歳で、教皇庁に留学した時期もほぼ同期だが、その体格は(決して小柄ではないアーノルドと比べても)頭一つ違うほどの巨漢である。 元来は北の大国ノルドの名門氏族リンドマン家の九人兄弟の次男に生まれた。その恵まれた体躯故に若い頃から武勇に優れ、やや歳の離れた異母兄フレドリクよりも彼のほうが後継者に相応しいと考える者もいたが、彼自身はあくまでもフレドリクの後継を支持していた。だが、その後継者問題を巡る混乱の最中、彼はノルド侯爵家にまつわる「ある秘密」に触れてしまい、口封じのために殺される可能性を危惧した兄の手によって、教皇庁に留学させられることになる(それはおそらく、地理的にも文化的にも最もノルド候の影響力が届きにくい土地だからであろう)。 いかにもノルド然とした威圧的な風貌と、その風貌から予想される通りの粗暴な立ち振る舞いは、南国の貴族文化で育った君主達を中心とする教皇庁においては極めて異質であり、暴君として恐れられることも多いが、決して無法者ではなく、自らが聖印を捧げた教皇への忠誠心は極めて強い。その上で、あくまでも自分の君主道を貫く姿勢は、枢機卿や大司教などの聖印教会の幹部達から高評価を得ている。 そんな彼に教皇からの勅命が降った。大聖堂内の謁見の間に呼びだされたヒューゴの前に現れたのは、教皇からの伝令役を担当する腹心の司祭である。彼は荘厳な装飾の施された「書簡筒」をヒューゴに提示しつつ、その旨を告げる。 「間も無く、ヴァンベルグのハルペルにて本年の聖誕祭が開催される予定だが、知っての通り、現在、教皇猊下は体調が思わしくない。そこで、猊下の代わりにこの書状を現地に届けて、そのお言葉を読み上げるという栄誉を、貴殿に託す」 現在の教皇ハウルは数ヶ月前から病床にあると言われており、表には出てくることは少ない。もっとも、その具体的な病状については明らかにされていないため、一部では死亡説も流れている一方で、実は病気ではなく別の理由で表舞台に出られないのではないか、と勘ぐる者もいる。 だが、ヒューゴにとってはそのような「雑音」はどうでも良かった。彼はその言葉と共に差し出された筒を、むんずと掴み取る。 「我が主からの命とあれば、断る謂れはない。喜んで引き受けよう」 繊細な装飾が施された謁見の間に似合わぬ野太い声が響き渡る。 「貴殿の声であれば、よく響くだろうからな。その意味でも適任だろう。もっとも、今回の開催地は幻想詩連合の土地だ。ノルド出身の貴殿としては、多少居心地は悪いかもしれんが、貴殿はもう既に神に直接使える身。人と人の争いなど、気にする必要はない」 「まぁ、気にするような奴がいたら、黙らせるだけどな」 握りしめた拳を見せつけながら、ヒューゴは笑顔でそう語る。彼は今でも自分の本分は「武人」であると認識しているが、少なくとも彼がこの地に就任して以来、教皇庁に武力で攻め込もうとする勢力は一切存在せず、その力を持て余している。もっとも、それは彼のような実力者達を擁しているからこそ保たれている平和でもあり、彼の存在価値は本人が思っているよりも大きい。 そんな彼が謁見の間から出てくると同時に、一人の少女(下図)が彼の前に現れた。 「ヒューゴ、用事は何だったの?」 彼女の名はロヴィーサ。ヒューゴの兄フレドリクの四女であり、ノルド候エーリクの姪でもある。頭上に乗せた蛙(名前はマヨリカ)を聖印の力で巨大化して乗騎とする特殊能力の持ち主であり、「蛙姫」の異名を持つ。といっても、まだ11歳の子供であり、戦場での武勲などある筈もない。 彼女は「娘達には幅広い教養を身につけさせたい」という母クリスティーナ(海洋王エーリクの姉)の方針により、イスメイアの教皇庁に留学させられており、叔父のヒューゴが教育係を務めている(彼女の両親にしてみれば、ヒューゴ達が「ノルドからの留学生」としての前例を作っていたからこその留学だったとも言える)。 だが、ロヴィーサは、11歳にして自身の聖印の力で特殊な乗騎を作り出すほどの才覚の持ち主であるものの(なお、同様の能力は彼女の三人の姉達と母親にも共通しており、そこには遺伝的な要因もあるのかもしれない)、勉学は苦手で、いつも司祭達の講義を抜け出して、自身の好奇心の赴くままに各地で遊びまわっている。そして、武勇一辺倒のヒューゴにまともな「教育係」が務まる筈もなく、むしろ明朗快活に飛び回る彼女のことを好意的に見守っていた。 「あぁ、ちょっとこれからヴァンベルグ……、だったかな? そんなような国の、ハルペルという町まで行ってくる」 「ハルペルって、どんなとこ?」 「港町、らしい。まぁ、ノルドの港に比べたら、大したことはないだろうがな。とりあえず、お前はエリンと一緒にゆっくり留守番してろ」 エリンとはヒューゴの3歳下の妹であり、彼女もまた個人的な事情でこの地に留学することになった身である。ヒューゴとは正反対の、落ち着いた雰囲気の理知的な女性であり、子供好きな性格でもあるため、本来ならば彼女の方がロヴィーサの教育係としては適任な筈だったのだが、優秀であるが故に既に教皇庁内でも重職を任されて多忙を極めているため、彼女の負担を増やしすぎないよう、日頃はヒューゴがロヴィーサの面倒を看ることになっていた。 「えー、でも、もうここの教皇庁も飽きてきちゃったしぃ……。ハルペルで、何があるの?」 「聖誕祭という、なんかよく知らんが偉い人が生まれたのを祝う祭があるらしい」 「え? お祭? お祭?」 途端にロヴィーサの目が輝き始める。 「祭りらしいな」 そう言いながら、ヒューゴは謁見の間に来る前に預けた自身の武具を受け取るために、大聖堂の隣に設置された倉庫へと向かうため、すたすたと歩き出すが、その後ろをロヴィーサがピョンコピョンコと跳ねながらついて来る。 「じゃあ、わたしも一緒に行く! 絶対行く!」 キラキラした瞳でヒューゴを見つめる。 「そうか、ついて来るのか、うーん……」 ヒューゴは3秒ほど考える。 「家に書き置きだけは残しとけよ。そんで、とっとと準備しとけ。すぐに出るぞ」 「大丈夫だよ。わたし、この子さえいればどうにかなるから」 そう言って彼女は頭の上の蛙を指差す。 「そうか。じゃあ、このまま行くか」 ヒューゴはそう言いながら、彼女と共に倉庫へ赴き、預けていた武具を受け取る。その中には、やや年代物の兜があった。元はリンドマン家の祖先がブレトランドに遠征した時に戦利品として奪ってきた代物らしいが、どういう由来の武具なのかは分からない。ただ、かなり精巧かつ頑丈に造られた名品であることは、日頃から愛用しているヒューゴが一番良く知っている。 そして、彼等はその日のうちに海路でハルペルに向かうことになった。なお、ロヴィーサからエリンへの書き置きには、行き先も目的も同行者名も書かずに、ただ一言「行ってきます」とだけ記されていたという。 2.1. 前日祭の朝 それから数日が経過し、レオン生誕祭の「一日目(前日祭)」の朝を迎える。アーノルドが気を引き締めて警備の任務のために館を出ようとしていた時、使用人が血相を変えて彼の前に走り込んできた。 「すみません、ゴーバン様を見ませんでしたか?」 「今は、剣の修行をしている時間では?」 「それが、どこにもいらっしゃらなくて……」 「あいつめ、またやりやがったか。この忙しい時に……」 ゴーバンが勝手に館を抜け出して街に遊びに出かけるのは「いつものこと」であり、いつも無事に帰って来ているので、そこまで目くじらを立てるほどのことでもないとアーノルドは考えている。今回も、おそらくは祭の見物のために抜け出したのだろう。特に仕事をさせようと思っていた訳でもないので、祭で羽を伸ばしたいならそれでも構わないのだが、問題は、今回の聖誕祭の裏で何か不穏の動きが展開されている可能性がある、ということである。 「クレア様からの預かり人だ。万一のことがあってはいけない。行動は自由にさせてもいいが、居場所は把握しておかなければならないだろう」 そう言って、アーノルドは部下の兵士に「ゴーバンを見つけ次第、自分に連絡するように」と伝える。その上で、彼は使い慣れた「伝家の籠手」を装着し、愛用の複合弓を背負いつつ、教皇庁からの使者を乗せた船が到着する予定の港へと向かった。 ****** その頃、ウルスラとラーヤの親娘は、助けた村の住人達と一緒に、馬車で現地へと向かいつつあった。そんな中、ウルスラは街道から少し離れた森林地帯のあたりから「混沌」の気配を感じ取る。これまで十年以上も混沌浄化の旅を続けてきた彼女は、混沌濃度の高まりによる空間の歪みに対して敏感になっていた。 「すみません、馬車を止めてもらえますか?」 「あ、はい。どうしました?」 「皆さんは先に街に向かって下さい。私は所用が出来ましたので」 そう言いつつ、ウルスラはラーヤと共に馬車を降り、その気配のする方へと向かって行くが、ウルスラは重装備なこともあって、あまり足は速くない。そして、そんな彼女が近付くにつれて、彼女が感じた「混沌の気配」が徐々に彼女から遠ざかっていき、彼女が最初に異変を感じ取った場所に到着した頃には、既にその地の混沌濃度は平常化していた。 「逃したというべきか、追い払えたというべきか……。どちらにせよ、これ以上は無駄のようね」「何があったんですか? お母様」 ウルスラが何も言わずに走り出したのに対し、ラーヤはここまで黙って付いて来ていた。 「あなたはまだ感じられなかったのかもしれないけど、混沌の気配よ」 「そうですか。じゃあやっぱり、気をつけないといけませんね」 すっかりお祭気分だったラーヤの顔が、少し引き締まる。 「大丈夫。あなたのことは私が守るから」 「お母様はむしろ、お祭りに来て下さった全ての方々を守らなければ。私も自分の身は私が守ります」 「そういうことは、この街の領主さんにお任せするわ。私は私の優先度が高いものを守る。私の中ではあなたが一番大切だから」 そう言われたラーヤが少し照れたような顔を浮かべると、ウルスラは笑顔で愛娘を見つめながら街道へと戻る。 「じゃあ、少し急ぎましょうか。せっかくの祭に遅れてしまうわ」 2.2. 教皇庁からの来訪者 アーノルドが港に到着すると、ほどなくして到着したイスメイアの船から、「見覚えのある年代物の兜」を装着した大柄な男が、のっしのっしと降りてくる様子が見える。その後ろを、ぴょんこぴょんこと付いてくる少女の姿もあったが、アーノルドの位置からは、その大男の陰に隠れて殆ど見えない。アーノルドはその大男が明らかに「旧知の人物」であることを確認しつつ、ひとまずは礼式通りに丁重に出迎える。 「ヒューゴ・リンドマン殿、はるばる教皇庁からの船旅、お疲れ様でした」 そう言われたヒューゴは、ここでようやく、今自分を出迎えている人物が旧友であることに気付く。 「ん? あぁ、アーノルドじゃないか。お前もこの町に来てたのか」 「何を言ってる? というか、知らなかったのか? 俺の実家はこの町だ」 「おぉ、そうだったのか! 全然知らなかったわ! ハッハッハ!」 実際には、おそらく前に話したことはあったと思うのだが、ヒューゴの性格上、覚えていないのも仕方がないとアーノルドは割り切っていた。出自にこだわらないのは、それはそれでヒューゴの美徳でもある。 「まさかノルドの貴族である君が来てくれるとはな」 これもまた、そんなヒューゴの「美徳」の賜物なのだろう。聖誕祭の開催地が「持ち回り制」になって以降、一般的に連合加盟国で開催する年は同盟諸国からの参加者は少なく、逆もまた同様である。現在は教皇直属の騎士とはいえ、いずれこのヴァンベルグに攻め込む可能性もあるノルドの海洋王エーリクの縁者が「教皇の使者」としてこの地を訪れるというのは、誰がどう見ても異例の人事である。 「誰も手が空いてなかったようでな。俺もこういう、あんまり楽しくもない任務は受けたくないんだが」 「教皇の代理人」としての大役を「楽しくもない」と言い切ってしまうあたり、やはりヒューゴの肝の座り方は尋常ではない。おそらくはその度胸の良さもまた、彼がこの任務に選ばれた要因の一つなのだろう。 「教皇庁務めも大変だな。とりあえず、身分証と書状は確認させてくれ」 そう言いながら、アーノルドは念入りにそれらが「本物」であることを確認する。本来なら、旧友に対してこのような措置は取りたくはないが、「クレア・ウィンスローからの手紙」の問題もある以上、どうしても慎重にならざるを得ない。 「お前は昔から堅物だもんな」 仕事熱心なアーノルドに対して、皮肉とも同情とも取れるような口調でヒューゴは呟く。 「これでも、少しは柔らかくなったつもりだがね」 アーノルドがそう答えたところで、ヒューゴの後ろから「頭上に蛙を乗せた少女」が、ひょっこりと顔を出した。 「なに? ヒューゴ、知り合いなの?」 「昔馴染みだ」 ヒューゴがそう答えると、この二人の様子から「おそらくこの少女はヒューゴの縁者だろう」と推測したアーノルドは、ひとまず端的に自己紹介する。 「今はここの領主を務めている、アーノルド・ハルペルだ」 「そう。わたしはロヴィーサ、この子はマヨリカ。よろしくね」 頭上の蛙を指差しながらロヴィーサはそう言いつつ、そのままアーノルドに問いかける。 「ねぇ、ここで一番美味しいものって、どこで売ってる?」 これに対して、アーノルドは少し考える。今日は世界各地から露天商が集まって来ており、様々な料理人達が店を構えてはいるが、さすがに各店の味についてまでは確認していない。ここは素直に「自分の街の名産品」を進めておくのが妥当であろう。もし彼女がヒューゴの親族なのだとしたら、海産物を主体とするこの街の食文化とも相性は良さそうである。 「そうだな……、ノルド産には及ばないかもしれないが、魚料理の店なら案内させようか?」 「じゃあ、 ニシンの塩漬け ある?」 「いや、それはちょっと……」 「ノルド産のニシンの塩漬け」は、極めて独特の匂いを放つ発酵食材であり、現地の人々以外が口にすることは滅多にない。 「なんだ、あんな旨いものを置いてないのか」 「ここ最近、食べてないんだよね」 ヒューゴとロヴィーサはそう言うが、その感性はノルド人以外にはあまり理解されない(なお、ノルド人の中でも南部の人々の舌には合わないという説もある)。 「すまんな。あれは輸入しようとしても色々と問題があって……。とりあえず、私は巡回任務があるから、露店街までは部下に案内させよう」 アーノルドがそう言って、兵士の一人をロヴィーサに紹介すると、彼女について行くかと思われたヒューゴは、アーノルドに向かってこう言った。 「では、俺はお前の巡回任務に同行しよう」 「おや? 教皇の代理人様に、そんなことをさせてもいいのか?」 「まぁ、どうせ『コレ』についての打ち合わせも必要だしな」 そう言いながら、ヒューゴは教皇からの書状が入った書簡筒を見せる。ロヴィーサに関しては、放っておいても大丈夫だと考えたらしい。 「なるほど。では、ひとまず侯爵様の元へ御案内させてもらうことにしよう」 そう言って、アーノルドとヒューゴはロヴィーサと別れて街の中心部へと向かう。もし、彼女が「海洋王エーリクの姪」だということをアーノルドが知っていれば、部下の兵士には祭が終わるまで彼女の護衛をそのまま命じただろうが、ヒューゴもロヴィーサ自身も何も言わなかった以上、当然、アーノルドや兵士がそこまで気付く筈もなく、ロヴィーサは露天商が立ち並ぶ大通りに着くや否や、案内役の兵士を放り出して一人で勝手に食べ歩きを始めるのであった。 2.3. 喧嘩の仲裁 やがてウルスラとラーヤがハルペルの街に到着すると、露天商の店先で言い争いをしている子供達がウルスラの目に入る。年の頃はおそらくラーヤと同じくらいの「バンダナを巻き、キュロットを履いた少年」と「頭の上に蛙を乗せた少女」であった。 「これ、俺が先に見つけたんだぞ!」 「違うわよ! わたしの方が早かったわよ!」 どうやら二人は屋台の前で「一品だけ残っていた珍しい果物」を取り合っているらしい。それだけならば「よくある光景」だが、果物を奪い合っている二人の動きを見ていると、明らかにそれは生身の人間の動きではなく、どうやら「ただの子供」ではないらしい。そんな二人の喧騒に、屋台主や周囲の人々が迷惑しているようだったので、ウルスラが一歩踏み込み、割って入る。 「こら、あなた達!」 「ん? なんだ、おばさん?」 少年が軽く睨みつけながらそう言い返すと、一瞬ウルスラの表情が強張るが、そんなことで怒っていたらキリがないと割り切り、冷静に問いかける。 「何を喧嘩してるの?」 「俺がコレ買おうとしたら、こいつが横取りしようとしたんだよ!」 「違うわよ! わたしの方が先に見つけたんだから! あんたの方が先に手をつけたかもしれないけど、わたしたちノルドの民はね、普通の人の三倍の視力があるんだから、遠くからでも見えたのよ!」 周囲の人々は「ノルド」という地名にざわつくが、彼女は気にせず二人に対して言い放つ。 「あなた達二人が喧嘩してるようなら、その果物、私が取っちゃうわよ」 そう言って、二人が奪い合っていた果物を、ひょいとウルスラが取り上げて、空に掲げる。 「あぁ? なんだよ! 返せよ!」 「ちょっとぉ! わたしのぉ!」 「ふふん、取れるもんなら、取ってみなさい」 ウルスラは笑顔で挑発しつつ、背を伸ばす。彼女は女性としては長身な部類であり、子供の身長では敵わない。 「くっ! 届かねぇ!」 「いけ、マヨリカ! じゃんぷ!」 意地でも奪い取りたいと思った二人は、自身の身体能力を高めようとして手の甲に「光を帯びや何か」を発現させようとする。ウルスラの後ろから二人の様子を見ていたラーヤは、すぐにそのことに気付いた。 (あれは、聖印!?) ラーヤはこれまで、自分と同世代で自分以外に聖印を持つ者を見たことがない。その状況に彼女が驚愕する中、屋台の店主がおずおずと、係争中の三人に声をかけた。 「あの、お客さん方、誰でもいいから、お代を……」 「あら、あなた達、お金も払って無かったの?」 「だから、これから払うつもりだったんだよ!」 そう言って少年は財布を取り出すためにキュロットのポケットに手を入れる。同じように少女もまた財布を探そうとするが、そんな二人をウルスラが制した。 「いいわ。じゃあ、私が払いましょう」 そう言って、ウルスラは店主に代金を支払いつつ、懐に忍ばせていた小型ナイフを取り出し、果物を半分に割って、二人に差し出す。二人とも、やや不本意そうな顔を浮かべながらも、 素直に受け取った。 「ありがとな、おばさん」 「今日のところは、これでいいわ。次は負けないから」 「喧嘩するなとは言わないけど、ほどほどにね」 ウルスラがそう言って二人を宥めていると、やがてその場に若い男性の声が響き渡る。 「もうすぐ中央広場で、我が劇団の公演『始祖君主レオン vs 竜王イゼルガイア 史上最大の決戦』が始まるよー!」 どうやら彼は旅芸人集団の一員らしい。その話を聞いた(つい数秒前まで喧嘩していた)少年と少女は、目を輝かせる。 「え? なんか面白そうだな、おい、行ってみようぜ!」 「どんな話なのかな?」 貰った果物を頬張りながら、二人は仲良く中央広場の方へと走り去って行く。なお、この二人はつい先刻出会ったばかりであり、友達でも何でもなかった筈なのだが、どちらもあまり細かいことは考えずに、好き勝手に行動する性格らしい(もっとも、少年の方はむしろ「今は難しいことを考えたくない」という心境だったが故の現実逃避、という側面もあるのだが)。 そんな二人のテンションに終始圧倒されていたラーヤは、彼等の後ろ姿を呆然と見送りつつ、母に問いかける。 「今の子達、ただの子供じゃないですよね……。多分、二人とも、私と同じように聖印を持ってる……。私と同じくらいの歳の子で、聖印を持ってる子が私以外にいるなんて……」 「そうね。色んな所を旅したけれど、そういう経験は今まで無かったわね」 ウルスラはそう呟く。そもそもラーヤの場合、同世代の子供と触れ合う機会自体が極端に少ないし、旅先で少し仲良くなりかけた子供がいても、すぐにウルスラと共にその地を立ち去ってしまうため、母親以外との間で、あまり深い人間関係が構築出来ていない(その点に関しては、ウルスラは少し負い目を感じていた)。 だからこそ、ラーヤはこの地で初めて「自分と似た力を持つ少年少女」を発見したことに、内心では少なからず刺激を受けていた。 (あの子達、どこから来たんだろう? このお祭の間に、また会えるかな……?) 2.4. 竜王の代役 その頃、ヒューゴはアーノルドに連れられて、今年の聖誕祭の総責任者であるヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルの元へと挨拶に向かおうとしていたが、そんな中、道端でヒューゴに見知らぬ男性が声をかけてきた。 「あんた! そのお偉いさんの護衛の人か何かかい?」 見たところ、その男性はただの一般人のようである。アーノルドが(警備のために武装しているとはいえ)この地の領主として「相応の装束」を見にまとっているのに対して、ヒューゴは露骨に武骨な重装備である上に、体格的にもヒューゴの方が一回り大きいため、そう見えてもおかしくはないだろう。 「そういうお前は何者だ?」 凄みのある態度でヒューゴがそう問い返すと、その男は少し怯えながら答える。 「俺は今、ここに来てる劇団の者なんだが、実はちょっと『巨大着ぐるみ』に入る予定だった奴が来れなくなっちゃって、代役を探してるんだ。これがあんたくらいの体格の人でないと動かせないくらい、馬鹿でっかい代物でさ……」 ヒューゴほどの体格の持ち主となると、確かにそうはいないだろう。しかも、その大きさの着ぐるみを動かすには、ただ背が高いだけでなく、相当な膂力が必要となる。機械技術が未発達のこの世界において、魔法や投影体の力に頼らずに「巨大生物」を表現するのは難しいようだ。 「とりあえず、怪物の役だから、別に台詞とかはないんだ。適当に暴れて、適当なところで倒れてくれればいいだけの役なんだが、どうだろう? やってもらえないだろうか?」 これに対して、ヒューゴはひとまずアーノルドに視線を向ける。ヒューゴが「教皇の書状の読み上げ」を担当するのは明日であり、アントニアへの事前挨拶にしたところで、別に急がなければならない状態ではない。 とはいえ、アーノルドとしては、まずこの男に対して言わなければならないことがある。 「領主であるこの私の護衛を引き抜こうとは、なかなかいい度胸をしているな」 実際には「護衛」ではないのだが、どちらにしても勝手に話を進められるのは問題であった。 「りょ、領主様でしたか……、これは失礼しました! し、しかし、もう人が沢山集まってるんです。今更中止には出来ません! どうか、何卒……」 「いや、まぁ、祭だからな。多少の無礼講は問題ない」 むしろ問題なのは、わざわざイスメイアから書状を届けに来てくれた「教皇の代理人」にそんなことをやらせて良いのか、ということである。これがヒューゴでなければ、アーノルドは即座に却下していただろうが、彼は旧友の気性を理解した上で、ひとまずその意思を確認する。 「で、お前、やってみる気はあるのか?」 「まぁ、年に一度のお祭りだからな。やってみようか」 予想通りの反応である。少なくとも、おとなしく来客用の高級宿で休養するよりは、自分の力を誰かに役立たせる方を選ぶであろうことは推察出来た。 「お前も見て行くか?」 「いや、俺はこれからやることが色々あるからな。一応、何かあった時のために伝令は一人残しておこう」 アーノルドがそう言うと、劇団員の男は深々と頭を下げて感謝の意を示しつつ、ヒューゴを中央広場裏に設置された天幕の奥へと連れて行く。そこで彼を待っていたのは、コートウェルズの支配者である「竜王イゼルガイア」の巨大着ぐるみであった。 ヒューゴはひとまず兜や鎧を脱いだ上で、その男に言われた通りにその着ぐるみを被り、そして動き方を指導される。日頃から重装備を着込んでいる彼でも動きにくいと感じさせるほどの重量感であり、おそらく普通の人間では歩くことすらままならないだろう。 「で、対戦相手はこの人です。この人が『始祖君主レオン』の役なので、出番になったら舞台に出て、この人を相手に適当に暴れて、盛り上がってきたところで倒れて下さい」 短時間で綿密な殺陣の打ち合わせをする時間はないと判断した彼等は、ひとまずその程度で良いと考えたらしい。 「うむ、分かった。適当に暴れて、盛り上がってきたら倒れればいいんだな」 ****** こうして、どうにか準備を整えた上で「始祖君主レオン vs 竜王イゼルガイア 史上最大の決戦」の幕が上がった。一般的な伝承としては、レオンには「魔法師ミケイロ」や「妖精女王テイタニア」などの仲間がいたと言われているが、聖印教会が発行する聖典においては、ミケイロは「レオンを裏切った悪人」として描かれ、テイタニアは「レオンに助けられた人間の姫君」であるとされている(どちらの伝承が正しいのかは、今となっては確かめようがない)。 そして、この寸劇はあくまでも「大衆向けの娯楽劇」なので、ただひたすらにレオンの強さと偉大さを伝えるための単純明快な英雄活劇(ヒーローショー)として仕立てられていた。レオンがコートウェルズの民を救うために島を訪れ、次々と襲い来る竜王の眷族(蛇人)達を倒し、そして「竜の巣」の奥地にまで辿り着いたところで、ヒューゴに声がかかる。 「じゃあ、お願いします」 そう言われたヒューゴは、全速力で舞台に飛び込み、そのままレオン役の劇団員に向かって、本気で殴りかかった。初めて身にまとった装備だったこともあり、全力を出さなければ竜王の凶暴さは表現出来ないと考えたようだが、レオン役の男は、まさか素人にここまでの動きが出来るとは思っていなかったようで、その「イゼルガイア」の一撃をまともに受けて舞台の外にまで吹き飛ばされ、柱に激突して倒れ込んでしまう。 「頑張れ! レオン!」 「立ち上がれ!」 観客達が声援を送る中、「レオン」は必死で舞台に戻ろうとするが、打ち所が悪かったのか、なかなか起き上がれない。 そんな中、興奮した様子の「バンダナとキュロットを見にまとった少年」が、観客席から舞台に飛び込んで来た。 「よし! じゃあ、今度は俺が相手だ!」 彼はそう言いながら聖印を掲げ、その聖印から「光の大剣」を作り出して、「イゼルガイア」に襲いかかる。 (お、おい、あれ、ガチの聖印じゃないのか!?) (まずい、あれを食らったら、さすがにタダでは済まんぞ) 舞台袖で劇団員達が焦燥の表情を浮かべるが、「イゼルガイア」は(相当な重装備で身体の自由が封じられていたにもかかわらず)神がかり的な動きでその一撃をかわす。 「こいつ、速い!」 少年がその動きに驚愕する中、今度は「頭に蛙を乗せた少女」が舞台上に乱入する。 「今度は私が相手よ!」 彼女はそう言うと同時に舞台上で頭上の蛙を巨大化させ、その蛙に飛び乗った上で高く跳び上がり、上空から角度をつけて「イゼルガイア」に向かって突撃すると、今度は「イゼルガイア」も避けきれずに直撃し、少しよろめく。 そして、皆の視線がそんな子供達に集中している間に、影で密かに治療を受けていた「レオン」が起き上がり、再び舞台に舞い戻る。 「ありがとう、子供達! 君達の勇気、見せてもらった! あとは任せろ!」 彼はそう言うと「イゼルガイア」に斬り掛かり、そして「イゼルガイア」は今度こそ素直に倒れる。観客からは拍手喝采が巻き起こり、こうして無事に公演は閉幕するのであった。 2.5. 小大陸の聖者達 一方、ウルスラとラーヤは、先刻での一件の後も、露天商の中に立ち並ぶ果物や水飴などの甘味系の屋台を回っていた。 「ラーヤ、何が食べたい?」 「じゃあ……、この焼き菓子を……」 「店員さん、それを二つ」 一見すると、娘のためにお菓子を買い与えている優しそうな母親の図だが(それはそれで間違いではなのだが)、実はウルスラ自身も相当な甘党であった。ウルスラは受け取った焼き菓子を娘に一つ手渡し、一緒にその味を堪能する。 「お、美味しい……」 初めて食べる独特の風味に、ラーヤは思わず感動する。若い頃から各地の焼き菓子を食べ歩いてきたウルスラにとっても、これはなかなかの上物であった。 「美味しいわね。さぁ、ラーヤ、次は何がいい?」 あっさりとたいらげた上で、次の屋台を探す。 「じゃあ、あそこの果物を……」 親娘でそんな食べ歩きをしばらく繰り返していたところで、後ろからウルスラに声をかける男性が現れる。 「ウルスラ殿、ではありませんか?」 買ったばかりの果物を頬張りながらウルスラが振り向くと、そこにいたのは眉目秀麗な一人の聖騎士であった(下図)。 彼の名はファルク・カーリン。ブレトランド南部を支配するヴァレフール伯爵領を支える七男爵の一人であり、眉目秀麗にして文武両道の「理想的な騎士」として名高く、同国における聖印教会派(特に女性)にとっての精神的支柱と言われている。 彼の本拠地であるイェッタは、ウルスラの故郷のフォーカスライトの隣に位置しており、ウルスラとは歳が近いこともあって、子供の頃から仲の良い幼馴染の一人である(親同士の間では密かに縁談が持ち上がったこともある)。ウルスラと会うのは十数年ぶりだが、それでも一眼見れば分かる程度には、昔の面影を残していた。 突然の再会に驚いたウルスラは、慌てて果物を飲み込もうとして、喉に詰まらせる。 「し、失礼しました」 なんとか呼吸を整えた彼女がそう言うと、ファルクはどこか安心した笑顔を見せる。 「いえいえ。やっぱり、ウルスラ殿ですよね? 実家を出てからもう十数年も帰っていないとロンギヌス殿から聞きましたが……」 「単に、見聞を広めるために各地を放浪しているだけです」 「そうですか。この街に来ているということは、あなたは信仰を捨てた訳ではなかったのですね?」 「どうでしょうか? もう昔ほど熱心ではありませんけれど」 もともと、ウルスラは混沌にはあまり良い印象は持っていなかったが、最近は「力そのものには善悪はなく、聖印も魔法も邪紋も、それが善か悪かは使う人の方の問題」という認識へと転じつつある。そのような意識の変化は、人によっては確かに「宗教的熱意の喪失」と解釈されることもあるだろう。 「信仰の形は人それぞれで良いと私は考えています。今のあなたの中で信じるものがあれば、それが信仰なのでしょう」 ファルクは笑顔でそう語る。彼自身も聖印教会の中では穏健派と言われており、魔法師や邪紋使いに対して特に敵愾心を抱いてはいない。実家の家風をある程度引き継がざるを得ないが故に契約魔法師などは雇ってはいないが、同僚の騎士達に仕える契約魔法師や、実家と袂を分かって隣国に亡命した邪紋使いの妹などとの間では良好な関係を築いている。 そんな会話を交わす二人の横で、ラーヤはポーっとした表情でファルクに見惚れていた。 「ラーヤ、こちらは、ファルク・カーリン様よ」 「あ……、は、は、は、はじめまして! ウルスラの娘、ラーヤと申します」 頰を赤らめつつ、ラーヤは深々と頭を下げる。 「あぁ、もうご結婚なされていたんですね」 「いいえ、私は未だ独り身よ」 ウルスラがそう答えると、余計なことを言ってしまったと察したファルクは、やや気まずい表情を浮かべる。 「もしかして、この子の父親のことが気になってるの?」 「あ、いえ、それは、人それぞれ色々ありますから、詮索するつもりはありません」 「相変わらず紳士なのね。面白くないけど」 もともとウルスラの方が年上ということもあり、いつの間にか彼女の口調は敬語ではなくなっていた。日頃は「流浪の聖騎士」として、旅先で出会う人々には一定の礼節をわきまえた態度で接している彼女であるが、久しぶりに再会した幼馴染を前にして、どこか「素」の部分が見え隠れしている。 そんな中、また別の青年が彼女達の前に現れた(下図)。 「ファルク殿、お知り合いですか?」 その青年の名はエルリック・エージュ。聖印教会内において「投影体の有効活用」を公的に認める集団である「月光修道会」が設立した「神聖学術院」の聖徒会長を務めている人物である。神聖学術院はアントリア中北部のバランシェの街に存在するが、エルリック自身はヴァレフール北西部のソーナーの村の出身であり、同村の現領主ダンク・エージュの異母弟にあたる。粗暴で知られる兄とは対称的な穏健かつ理知的な性格であり、軍師としての才覚には定評があった。 ソーナーの村はファルクの本拠地のイェッタとも近いため、エルリックはファルクとも親しい関係にあったようである。そんなエルリックに対して、ファルクは丁寧に幼馴染を紹介する。 「こちらはフォーカスライト大司教の姉君にあたられる方です」 「ほう、ロンギヌス様に姉君がおられたのですか」 エルリックはウルスラとは10歳以上離れていたこともあり、彼が物心ついた頃には既に彼女は教皇庁に留学中だったため、存在自体を知らなかったらしい。 「えぇ、まぁ、一応。家を出た身ではありますけど」 ウルスラとしては、もう「グレイ」の姓も名乗っていないので、あまり実家との関係を強調されるのは望ましくなかったのだが、ファルクの視点からはそのような紹介になってしまうのもやむを得ないと諦めていた。 「そうでしたか。はじめまして。エルリック・エージュと申します。実家はヴァレフールのソーナーの領主家で、今はアントリアの神聖学術院で聖徒会長を務めています。そちらは娘さんですか?」 「えぇ、そうです。ラーヤ、自己紹介しなさい」 そう促されたラーヤは、エルリックを見上げながら、またしてもやや顔を紅潮させつつ自己紹介する。 「はじめまして、ラーヤです。よろしくお願いします」 「よろしく、ラーヤさん」 優しそうな声色でエルリックは軽く会釈しつつ、彼女の「保護者」に向かって営業スマイルで語りかける。 「今、神聖学術院では、ちょうどラーヤさんくらいの年頃の子を対象に、新たな入学者を募集しています。この社会を構成している様々な仕組みから、新たな技術を作り出す試みまで、それぞれの学部ごとに幅広く様々な学問を学べます。よろしかったら一度、体験入学してみるのはいかがでしょうか?」 そんな彼の語り口調に対して、ウルスラはラーヤの反応を確認すると、どうやら興味深そうな顔で真剣に聞いてる様子である(もっとも、半分はエルリック個人に見とれてるような様子でもあったが)。 だが、そんな彼の勧誘トークに対して、少し離れたところから横槍を挟む声が響き渡る。 「おやめなさい!」 それは威厳に満ちた迫力ある女性の声であった。その声の主は頭上に聖印を輝かせながら、彼等の前に現れる(下図)。その巨大な聖印から発せられる圧倒的なオーラは、その場の空気を戦慄させるに十分な威圧感を漂わせていた。 「そのような幼子を邪(よこしま)な道に引きずりこむための場として、この神聖なる始祖君主の聖誕祭を利用するとは、看過出来ません」 厳しい表情でそう言い放ちつつエルリックに近付こうとする彼女に対して、道行く人々は思わずたじろぎながら道を開ける。 「おい、あれ、日輪の……」 「やべー奴が来たぞ、おい!」 周囲の人々は彼女を見ながら、小声でヒソヒソと囁き合う。彼女の名はイザベラ・サバティーニ。聖印教会の中でも特に激しく混沌を忌み嫌う「日輪宣教団」の創設者である。元来はエストレーラの辺境の村娘だったが、夫をエーラムの魔法師に殺された後、聖印に目覚めて入信し、以後、全ての混沌の利用を禁じるラディカルな主張を掲げて人望を集め、現在では次期教皇の有力候補の一人とまで言われている。しかし、その「過激な正論」に反発する者も多く、教団内でも敵は多い。 彼女はブレトランド中西部での神聖トランガーヌ建国にも大きな役割を果たし、現在は娘婿のリーベックを後継者として育成しつつ、大陸とブレトランドを行き来する生活を続けている。ブレトランド内においてはヴァレフールともアントリアとも敵対関係にあるが、教皇のお墨付きを得た上で築かれた国家という建前がある以上、両国の聖印教会の信徒達としては手出しがしにくい、非常に厄介な存在であった。 当然、混沌の有効利用を認める月光修道会とは最も激しい対立関係にあり、エルリックと彼女がこの場で鉢合わせてしまったことに対してファルクは思わず身構えるが、当のエルリックは、肩をすくめながら彼女に頭を下げる。 「邪な道と言われるのは心外ですが、確かに、今ここでお話しすべきことではなかったかもしれませんね。失礼致しました」 さすがに、この場で喧嘩はしない方が良いと判断したようで、ひとまず彼は空気を読んでその場を去って行く。イザベラはそんな彼を厳しい視線で見送りつつ、ラーヤと目線を合わせるように腰を屈めながら、彼女に対して語りかけた。 「小さなお嬢さん、あなたの道は、あなた自身で決めるべきことです。周りの大人は色々なことを言うでしょうが、何が真実なのか、何が正しいことなのか、それはあなたの中で見定めて下さい。周りの悪い大人達の甘言に惑わされてはなりません。この世界では、単に『便利だから』という理由で、この世界を乱そうとする悪い大人も沢山いますから」 そう言い残して、イザベラもまた立ち去って行く。ファルクもそんな彼女を見届けた後に、ウルスラとラーヤに軽く一礼した上で、ひとまずその場を後にした。緊張した空気がひと段落したところで、周囲の人々もようやく安堵の表情を浮かべる。 「あー、もう、冷や汗かいたぜ……」 「ブレトランドの揉め事を、こっちに持ち込まないでほしいよな」 街の人々がそんな会話を交わす中、唐突に色々言われてやや混乱した様子のラーヤの様子を悟ったウルスラが声をかける。 「ラーヤ、少し休憩しましょうか」 「そうですね……。あの、一つお伺いしたいのですが、さっきの最後に来られた女の人も、ブレトランドの方なのですよね?」 「そうだった筈よ」 厳密に言えば彼女の出自はエストレーラなのだが、そこまではウルスラも知らない。 「ブレトランドって、なんかこう、綺麗な人が多い土地柄なのかな……。そうか、だからお母様も美人なのね」 「大丈夫。きっとあなたも美人になるわ」 そんな会話を交わしつつ、ウルスラは二人で腰掛けられそうな座席のある店を探す。もっとも、正確に言えばラーヤの父親は血統的にはブレトランド人ではないのだが、そのことを知る者はウルスラ一人であった。 2.6. 不穏な兆候 ヒューゴと別れた後、再び巡回任務に戻ったアーノルドの前に、別の部署を担当している筈の部下の兵士が現れ、声をかける。 「あ、領主様、先程の件なのですが……」 アーノルドは確かにその兵士の顔には見覚えがあるが、「先程」と言えるようなタイミングで彼と会った記憶はない。不信に思ったアーノルドは問いかける。 「まず、お前の所属と名前を言え」 「あ、はい、第三連隊のマタイです」 アーノルドの記憶が間違っていなければ、その名前にも所属にも間違いはない。その物腰からも、特に不自然な様子は感じ取れなかった。その上で、彼はアーノルドに報告する。 「先程の件なのですが、あちらの区画には怪しい者はいませんでした」 そう言って、彼は北西方面の区画を指差すが、アーノルドはそんな指示を出した覚えはない。 「もう少し詳しい話を聞かせてもらおうか。お前はその指示をいつ受けたんだったか?」 「え? ついさっき、でしたよね?」 マタイと名乗ったその兵士はそう答えるが、この瞬間、アーノルドは事態を把握する。どうやら、「クレア・ウィンスローの手紙」にあった通り、誰かが「自分」に化けて、この町のどこかに潜伏して偽司令を出しているらしい。 「お前の所属を変更しよう」 アーノルドはそう言った上で「自分の偽物がいるらしい」ということを(公言しないようにと言い含めた上で)マタイに告げつつ、彼がその「偽アーノルド(推定)」から聞いた話を聞き出す。 マタイ曰く、どうやらその偽物(推定)は兵士達に「北西方面に怪しい人物がいるから調べろ」と通達しているという。しかし、アーノルドの認識の中では、そこは特に怪しい地区でもない。 (参加者の誰かに変装するかもしれないとは考えていたが……、まさかこの私自身にとは……) だが、街の警備の指揮系統を混乱させるためなら、確かにそれが一番有効ではある。しかも、今から探し回ったところで、既に別の人物に顔を変えている可能性がある。そうなると、特定は非常に困難であろう。 (迂闊だった……。最初にこの可能性を兵士達に伝えておけば……) アーノルドは後悔するが、今からでも打てる手はある。もし本当に「自分に化けた偽物」がいるとするならば、それは確かにクレアの手紙が正しかったことになるが、だからと言って「聖印を模倣出来る者もいる」という情報の信憑性が今の時点で保証された訳ではない。そう判断した彼は、ひとまず部下達に「自分を含めた君主から話を聞く時は、必ず聖印を確認するように」という連絡を回す。 兵士達にしてみれば、各国の要人達を相手に失礼な対応を強いられることになるが、事態が事態だけにやむを得ない。この方法で確実に偽物を見破れる保証もないが、それでも、何もしないよりは遥かにマシに思えた。 (その上で、問題はその侵入者の目的が何なのか……。北西区画に兵士達の目を向けた上で、別のところで何かを起こそうとしている? それとも、純粋な内部撹乱が目的か?) アーノルドは必死で思考を巡らせつつ、自分自身もまた「自分自身の偽物探し」のために、ひとまず各区域を早足で巡回して回ることにした。 2.7. 翻弄する幻影 ウルスラとラーヤが屋外席のある喫茶店で茶菓子を楽しんでいると、ウルスラの視界に、見覚えのある人物が映る。何か兵士達に指示を出していると思しきその人物は、彼女の記憶が確かならば、教皇庁時代に仲が良かった3歳年上の君主の筈である。堅物で知られる彼は、現在はこの街の領主となっていると聞いていた。 ひとまずラーヤにはその場に残るように言った上で、ウルスラは彼に声をかける。 「アーノルド様」 呼ばれた男は、振り返ると同時に恭しく挨拶した。 「いかが致しました、madame?」 そのアロンヌ訛りの口調に、ウルスラはやや違和感を感じつつ、相手が自分を認識していないことを認識する。 「忘れてしまいましたか? それとも、そんなに私は昔と変わってしまいましたか?」 これに対して、彼は一瞬間を空けた上で答える。 「いやー、申し訳ない。女性は会う度に美しくなっていく。以前にあなたと会った時の美しさとは異なる美しさを手に入れてしまったあなたのことを、今の私では判別することが出来ない」 堅物のアーノルドをちょっとからかってやろう、くらいの気持ちでいたウルスラは面食らう。明らかに、こんな台詞をベラベラと言い出すような人物ではなかった筈である。 「そうですか。ウルスラですよ。そういうあなた様も、随分変わったようですけど」 「まぁ、男も男で変わるものです。男子三日会わざれば、とも申しますし」 確かに、十年以上も経てば性格も雰囲気も変わるのが当然と言えば当然なのだが、それにしても変わりすぎではないか、というのが率直なウルスラの実感であった。 「あとで、ちょっとお時間よろしいでしょうか?」 「まぁ、今は私は勤務中ではありますが、なんとか時間を作ってお会い出来る機会を作りましょう」 そう言って彼がその場を離れようとしたところに、舞台出演を終えていつもの武装に着替え直したヒューゴが通りかかる(彼は、アーノルドから預けられた伝令兵にアーノルドを探すように頼み、その兵士の案内でここまで到達したのであった)。 「アーノルド、ここにいたか!」 そう言われたその男は、一瞬の沈黙の後に答えた。 「お久しぶりです。あなたも来て頂けたのですね?」 「来て頂けたというか、さっき会っただろうが。何言ってるんだ、お前?」 その反応に対して、「アーノルド」は明らかに焦燥した表情を浮かべる。だが、その不信な様子にヒューゴが気付く前に、ウルスラがヒューゴに語りかけた。 「もしやその声は……」 「ん?」 ヒューゴは首を傾げる。 「ヒューゴ様も忘れてしまったのですね?」 ウルスラが落胆して肩を落とすと、彼は途端に動揺した表情へと一変する。 「ど、ど、ど、どちら様ですか? こ、このようなお美しい方とは……」 ヒューゴは女性に免疫がない。故に、自分が忘却したせいで女性を落胆させたことに、激しく狼狽してしまったらしい。 「ヒューゴ様はお変わりありませんね。教皇庁でお世話になったウルスラですよ。エリン様と仲良くさせて頂いた者、と言った方が覚えているかもしれませんね」 ヒューゴの妹のエリンは、ウルスラとは同い年であったため、どちらかと言えば彼女の方がウルスラとは仲は良かった。そして、言われてようやくヒューゴは思い出す。 「おぉ、あのウルスラか!」 「えぇ。どうやら、忘れられやすいみたいですけど」 「忘れられやすいも何も、ひぃ、ふぅ……、もう十年以上会ってねえだろ?」 「もうそんなになりますか。アーノルド様と三人揃うなんて、本当にあの頃を思い出しますね」 ウルスラはそう言って「アーノルド」に視線を向けるが、彼が二人を置いてどこかに行こうとしているのが目に入る。だが、そんな彼の首根をヒューゴが掴んだ。 「あぁ、そうだな。久しぶりに三人揃ったんだ。久しぶりに話でもしようぜ」 「あ、 いや、まだ勤務中ですし」 「どうせ、この後でまた例の用事があるんだ。ちょっとここに残れや」 そう言って、強引に「アーノルド」を引きとめようとしているところに、「彼と同じ顔をした人物」が現れた。 (え!?) (どういうことだ!?) 当然のごとく、ウルスラもヒューゴも混乱する。だが、ウルスラはすぐに気付いた。「世の中には『混沌の力で姿を変える方法』が色々ある」ということに。 「私の名を騙る偽物め! まだその姿でいたとは、大した度胸だな!」 「後から来た方のアーノルド」がそう言い放つと、それに対して「前からいた方のアーノルド」も言い返す。 「そっちこそ、ついに見つけたぞ、この偽物め!」 だが、「前からいた方のアーノルド」はまだその身をヒューゴに拘束された状態のままである。ウルスラは「どちらかが偽物」であろうという推測に基づいた上で、「後から来た方のアーノルド」に近寄った。 「では、私はこちらを」 そう言ってウルスラは「後から来た方のアーノルド」に抱き付いた。 「待て! 何だ君は!?」 「大変失礼ですが、こうするのが一番早いかと」 そう言いながら彼女がアーノルドを羽交い締めにしようとする。どちらかが偽物なら、ひとまずどちらの身柄も拘束する必要があると考えたらしい。だが、ここで彼女を間近に感じたことで、「後から来た方のアーノルド」は彼女のことを思い出す。 「いや、待て、君はウルスラ殿、ウルスラ殿じゃないか! なぜ君がここに!?」 その反応を見て、ウルスラは「どうやら、こちらの方が本物らしい」と考えて、ひとまず素直に手を離す。 一方、「最初にいた方のアーノルド」は、先刻のヒューゴの状況から彼の性格を読み取った上で、自らの姿を「若く美しい金髪の女性」へと「変身」させると同時に、上目遣いで魅惑的な視線をヒューゴに向けた。突然の出来事に困惑したヒューゴが反射的に手を離してしまうと、「彼女」はそのまま走り去ろうとする。 「ヒューゴ! ……あのバカ!」 アーノルドは慌てて「彼女」の後を追いかけると、呆然としていたヒューゴも我に返った。 「お、おぉ、俺も行くぞ!」 ヒューゴもすぐに後を追う。一方、ウルスラは事態がよく把握出来なかった上に、(喫茶店の席でその様子をよく分からないままに眺めていた)ラーヤを置いていく訳にもいかなかったので、ひとまずその場に残ることにした。 ****** 路地裏へと逃げようとした「彼女」に対して、先に追いついたのはヒューゴであった。最初の出足こそ遅れたが、身体能力的にはアーノルドよりも彼の方が上のようである。「彼女」を壁際に追い詰めた上で、ジワリジワリと距離を詰める。 「お兄さん……、見逃してくれる訳にはいかないかな……?」 「彼女」は媚びるような態度でそう訴えるが、今度はヒューゴの表情も揺るがない。 「それは俺じゃなくて、領主であるアーノルドに言うことだな」 ヒューゴはそう言いながら大斧を構える。先程は唐突な変身で面食らってしまったが、相手が「領主に化けて行動する不信人物」だと分かった以上、いかに美しい女性の姿をしていようとも、ここで容赦する訳にはいかない。 だが、いかにヒューゴが理屈ではそう考えていても、「彼女」にはその「理屈」を超えた手段でこの場を乗り切る方法があった。「彼女」は内なる邪紋の力を発動させ、魅惑的な仕草でヒューゴの視線を引き寄せながら、少しずつ彼の心を支配していく。「幻影の邪紋使い」が持つ「変身」と並ぶもう一つの特技である「魅了」である。 「お兄さん、『あなたが探している人』はあっちにいるから、あっちに行きなさい」 そう言って「彼女」が「さっき来た道」を指し示すと、ヒューゴは虚ろな表情を浮かべながら、その道を引き返していく。その間に「彼女」は何処かへと姿を消してしまうのであった。 2.8. 十数年来の友誼 その後、ヒューゴは少し遅れて追いかけて来ていたアーノルドと遭遇したところで我に返るが、当然、そこから「彼女」を追い直そうとしたところで、間に合う筈がない。やむなく引き返してウルスラと合流したところで、先刻の経緯を確認した結果、やはり「あの人物」こそがこの街を混乱させようとしている侵入者であると確信する。 「はぁ、ヒューゴが女に弱いとは分かっていたが……」 「仕方ないだろ! いきなりだぞ! いきなり、さっきまでお前の顔だったのが、いきなり『綺麗なお姉さん』になってるんだぞ! びっくりするわ!」 「いや、責めている訳ではないんだ。二人とも、久しぶりに会えたというのに、すまない。警備の不行き届きだ」 「いや、こちらも、逃してしまってすまない」 アーノルドとヒューゴがそう言って肩を落とす。さすがにこの状況になると、あの侵入者も今後はまた「別の姿」へと姿を変えた上で行動することになるだろう。そうなると、ますます特定は難しい。ひとまずアーノルドが周囲の兵士達を集めて今の状況を説明すると、この周囲の地区を仕切っている部隊長がアーノルドに進言してきた。 「敵が既に街の中に潜んでいるなら、外の警備兵の何割かを内側の捜索に回しましょうか?」 「いや、人数を増やしたところで、顔を変える相手には意味がない。お前達は当初の持ち場でそのまま任務をまっとうしてくれ。誰かから指示を受けた時は、本人確認をしっかりするように。先程の様子を見る限り、記憶まで真似出来る訳ではないらしい。あと、君主が相手であれば、聖印を見せてもらうのも良いだろう」 ここまでの状況を踏まえた上で、ここで一番危険なのは、相手のペースに惑わされることであるとアーノルドは考えていた。今のところ「あの侵入者」以外に不審な報告は届いていないことから察するに、「あの侵入者」自身は陽動で、自分達の目を「彼(彼女)」に注目させることが目的であるように思えたのである。 その上で、彼はヒューゴとウルスラにも頭を下げた。 「申し訳ないが、お二人にも協力してほしい」 それに対して、先刻の失態の後ろめたさもあるヒューゴは黙って頷いたのに対し、ウルスラは悪戯っぽい笑顔を浮かべながら答える。 「アーノルド様、これは『かし1』になりますわよ」 その言葉に『貸し』と『菓子』の両方の意味が含まれていることをアーノルドは察する。 「分かった。ひとまず事件が解決したら、とびきりの珈琲と、お茶菓子を用意しよう。もちろん、そちらのお嬢さんにもだ」 アーノルドがラーヤを見ながらそう言うと、ウルスラも彼女に語りかける。 「そういう訳だから、やらなくちゃいけないことが出来たけれど……」 「足手まといでないなら、手伝いたいです」 「街で遊ばなくてもいいの?」 「でも今は、それより大変なことが起きてるんでしょう?」 ラーヤはまだ今の状況をよく分かってはいないが、大人達の深刻な様子から、なんとなく「緊急事態」が起きていることは察していた。 アーノルドとしては、こんな小さな子に手伝わせるつもりはなかったのだが、ウルスラの物言いから、彼女が「ただの子供」ではないことを察する。 「彼女は、君の娘さんなのかな?」 「えぇ。正真正銘、私の娘よ」 「聖印を持っているんだね?」 「もちろん、偽物ではないわ」 「あ、いや、それを疑っている訳ではないんだ」 アーノルドとしては、彼女が「ただの子供」かどうかを確認したかっただけなのだが、ラーヤは素直に聖印を掲げる。それが既に騎士級の聖印にまで達していることを確認したアーノルドは、改めてラーヤに向かってこう言った。 「よろしい。君のことを一人前の君主として扱わせてもらおう。どうか協力をお願いしたい」 「分かりました」 アーノルドとラーヤは互いにに深々と頭を下げつつ、再び顔を上げたところで、アーノルドが付言する。 「とはいえ、危ないと思ったらすぐに下がるように」 「大丈夫よ、何があっても私が守るから」 ウルスラが笑顔でそう言うと、アーノルドとヒューゴも笑みを浮かべる。 「あぁ、そうだな。ウルスラがいれば、何も心配することはないか」 「確かに」 二人はそんな言葉を交わしつつ、ラーヤが「自分が預かっている子供」と同い年くらいであることに気付く。二人は、もし彼(彼女)がこの場にいれば、きっと同じように「自分も手伝う」と言い出していただろう、などと思いを馳せていた。 ****** その頃、英雄活劇への乱入を通じて「戦友」意識を高めあっていた子供達は、そのまま二人で食べ歩きを始めていた。 「いやー、やっぱり、ロブスターはブレトランド産に限るな」 「何言ってるのよ。ノルドのザリガニの方が美味しいわよ」 そんな些細な言い争いを交わす中、二人の背後から、眼鏡をかけた長髪の男が近付いてくる。 「お二人共、まだお若いのに御立派な聖印をお持ちなのですね」 「ん? 誰だ、お前?」 「わたしたちに、何か用?」 眼鏡の男はニヤリと笑いながら、二人に対してこう言った。 「もしよろしければ、そのお力をぜひお貸し頂きたいと考えている所存です」 2.9. 西の姫君 その後、アーノルドはヒューゴ、ウルスラ、ラーヤの三人と共に、ひとまず街の要所を中心に、何か怪しげな事態が起きていないかと巡回を続けていたところ、一人の兵士が駆け込んで来た。 「あ、領主様!」 「何があった?」 アーノルドがそう答えると、兵士達は「アーノルドの命令通りに」こう言った。 「まずは、聖印を見せて下さい」 「あぁ、ハルペル家の聖印、しかと見るがいい」 そう言ってアーノルドが聖印を掲げるのを確認すると、彼にこう報告した。 「今、西門からランフォードのクレア・ウィンスロー様御一行が御到着されたようですが、御挨拶に向かわれますか?」 それを聞いたアーノルドは、少し迷いつつ、もはやこの時点で隠し立てすべきではないと考え、その兵士に対してこう言った。 「クレア様からは『今回の聖誕祭には来られなくなった』という手紙が届いている。もしかしたら、偽物かもしれない。私も出向くが、警戒して対応するよう、皆に伝えてくれ。ただし、各自の持ち場は決して離れないように」 実際のところ、「手紙を出したクレア」と「今来ているクレア」のどちらが偽物なのかは分からない以上、どうしても警戒は必要である。もし後者が偽物だった場合、これから西門で乱闘や追撃戦が発生する可能性もあるだろう。アーノルドはその危険性をウルスラ達三人にも伝えた上で、彼女等と共に西門へと向かうことにした。 ****** アーノルド達が西門に到着すると、そこではクレア・ウィンスロー(下図)の身分を門兵達が確認している作業中であった。兵士達がアーノルドの指示通りに彼女に聖印の提示を求めると、彼女は「子爵級の聖印」を掲げる。 その状況を確認した上で、アーノルドは三人の協力者と共にクレアの前に現れた。彼の面持ちから、クレアは何かを察する。 「随分と物々しい雰囲気ですね。何かあったのでしょうか?」 「そう仰られるということは、心当たりはそちらにはない、ということでしょうか?」 アーノルドがそう問い返すと、彼女はキョトンとした顔で更に問い返す。 「どういうことでしょうか?」 それに対して、アーノルドは「手紙」を彼女に見せた。 「この手紙を送ったのは、あなたではない、ということでよろしいですか?」 クレアはそれを受け取り、中身を確認する。 「はい。私ではありません。私の契約魔法師には予知能力などありませんし……」 「そうですか。大変失礼致しました。実は今、実際にこの手紙のように『何者かに化ける者』がこの街の中に潜入してしまったようなのです」 もし、この手紙に書いてあったことが全て真実なら、今、目の間にいるクレアもまた「聖印を偽造した侵入者」の可能性はあるのだが、アーノルドはあえてその可能性は切り捨て、彼女のことを「本物のクレア」であると確信していた。聖印を偽造する方法があるとは思えないし、聖印教会の信徒として、自分自身が「本物の聖印」を見間違える筈がないという確信も彼の中にはあったのかもしれない。 「ということは、どういうことなのでしょう? その侵入者のことを啓発する意図でこの手紙を書いたのであれば、この手紙の差出人に悪意はない、ということになりますが、なぜ私の名前を騙る必要があったのか……」 「えぇ。どうにもそこが解せない」 「子爵である私からの手紙という形にしないと聞いてもらえない、と思ったかもしれませんが、それが私からの手紙ではないと分かった時点で、かえって不信感を煽ることは分かる筈……」 「仰る通りです。そのような訳で、このような物々しい出迎えになてしまったことは申し訳なく思います」 「いえ、それは致し方のないことです。私達も気をつけましょう。幸い、今この街の中には混沌の力を用いる者はいない筈です。ということは、混沌の力を用いる者がいた時点で、その者を『危険人物』として特定することは可能でしょう」 「はい、その通りです」 「では、何か御協力出来ることがあればお申し出下さい」 「ありがとうございます」 クレアとのこのやり取りを通じて、この場にいる彼女がおそらく本物であると改めて確信したアーノルドは、ひとまず兵士達に彼女を宿まで案内させようとする。そして立ち去る直前に、クレアは一つ、重要なことを思い出した。 「そういえば、ここに来る途中で、ヴァンベルグ近辺にしては珍しく、『混沌』が収束しつつあるように思える場所がありました」 「そうなのですか!?」 「しかし、私達がそれを確かめに行こうとした時にはもう無くなっていました。自然に発生した混沌だったのか、誰かが人為的に何かを起こそうとしていたのかは分かりませんが……」 もし自然発生だとすれば、それが途中で自然に消滅したというのは、むしろ不自然である。だとすれば、誰かが人為的に混沌災害を引き起こそうとして、それがクレア達に見つかりそうになった時点で退散した、という可能性が高そうではある。 そして、この話を聞いたウルスラは、自分達がこの村に来る途中で見た光景を思い出す。 「そういえば、私達がこの街に来る時も混沌の気配を感じました」 「ウルスラも?」 「ごめんなさい、言い忘れていたわ」 ただし、ウルスラ達が見たのは村の南方であり、北西部からこの地を訪れたクレア達とは明らかに方角が異なる。 「アーノルド様が気になるなら、見回りでも何でも行って来るけど?」 「そうだな……。私は今、この街の警備から手を離せない。ウルスラが行ってくれるなら、本当に助かる」 「あぁ、じゃあ、俺もそっちに付いて行くわ」 ヒューゴも大斧を担ぎながらそう宣言すると、改めてアーノルドは二人に頭を下げる。 「再会したばかりなのに、こんなことになってしまって本当に申し訳ないが、二人に城壁外の探索をお願いする。私はこの中で、まだ『奴』が残っていないかどうか確認したい」 その上で、合流予定地として、ひとまずヒューゴ(教皇庁からの使者)用に与えられた高級宿の場所を指定する。ヒューゴはその場所を聞いた上で手元の筆記用具で書き留め、その紙片を手に持ちながら、ウルスラに問いかけた。 「お前の娘、借りていいか?」 「何する気!?」 唐突な申し出に対して、ウルスラは思わず娘を庇うような姿勢でそう叫ぶ。 「いや、連れがいてな。とりあえず、宿舎の場所を連絡しなくちゃいけないんだ。この街のどこかにいる筈なんだが……。まぁ、見つけるのは簡単だ。頭に蛙を乗っけてるからな」 それを言われて、ウルスラとラーヤはすぐに「果物屋にいた少女」のことを思い出す。 「あの子、あなたの連れだったの?」 「なんだ、もう会ってたのか?」 「ちょっとだけね。というか、あなた、あの子放っておいて大丈夫なの?」 「あぁ、あいつは一人でなんとかするだろう。それがノルド流だ。あ、でも、あの邪紋使いがいる状態で放っておくのもまずい気がするな……」 ヒューゴはそう呟きつつ、ロヴィーサを探して紙片を渡してもらうようにラーヤに頼もうとしたが、彼女はウルスラと一緒について行くと言ったので、ひとまずはアーノルドの部下の兵士に捜索を依頼することにした。 3.1. 謎の魔法陣 ヒューゴとウルスラはそれぞれアーノルドの部下から軍馬を借り、ラーヤはウルスラの軍馬に同乗した上で、まずは西門の外へと出向いて行った。 クレアが混沌の気配を感じたと言っていた場所を中心に両騎が駆け巡っていると、やがてヒューゴは、茂みの中で怪しげな人物の姿を発見する。やはりノルド人の視力は常人よりも優れているらしい。そして彼の目には、それが「魔法師が何らかの儀式をおこなっている様子」に見えた。 「魔法師かよ……。ウルスラ、あっちだ!」 彼がそう叫び、二騎が駆け寄って行こうとすると、彼等とその人物の間で混沌が収束し、そこに「風の障壁」が出現する。どうやら、元素魔法の使い手らしい。 だが、ヒューゴは気にせずそのまま「風の障壁」に向かって特攻する。結果、渦巻く鋭い鎌鼬によって彼の体は切り刻まれていくが、ヒューゴの聖印は自身が窮地に陥れば陥るほど聖印としての力を増す性質であるため、風圧によって妨げられながらも、彼はジリジリとその身を強化させながら近付いて行く。 一方、ウルスラは光の盾を作り出し、ラーヤを庇いながら突入する。彼女の聖印は防御の力に特化された聖印であり、風の壁が繰り出す烈風をもろともせず弾き飛ばす。そして、ラーヤは馬上で態勢を崩しながらも、自身の聖印の力でヒューゴの傷を癒していく。 これに対し、魔法師は火炎球の魔法をウルスラに向かって解き放った。この時点で魔法師により接近していたのはヒューゴだったのだが、ウルスラの放つ聖印の異様な輝きに目を奪われ(それもまた彼女の聖印の特性の一つである)、先に彼女を標的と定めたのである。だが、守りに特化した彼女の聖印の力によって、この魔法師の火炎魔法は完全に無効化されてしまう。 障壁が無意味である上に魔法攻撃も効かないことを理解した魔法師は、さすがに無勢を悟って、彼等に背を向けてこの場から走り去ろうとする。だが、ここでヒューゴとウルスラはこの魔法師が立ち去った場所から、奇妙な混沌の気配を感じ取った。どうやら彼はこの地に何か「仕掛け」をしたのではないかと考えたウルスラは、ラーヤと共にひとまずこの場に残り、その間にヒューゴが魔法師を追う。 「待て待て待て待て待てー!」 しかし、結局、その魔法師を捕らえることは出来ず、見失ってしまう。何の魔法を用いたのかまではヒューゴには分からなかったが、どうやらあらかじめ、いざという時のための「脱出手段」は整えていたらしい。 一方、その場に残ったウルスラとラーヤは、地表にうっすらと魔法陣のようなものが浮かび上がっていることに気付く。魔法師が去った後もその場に残り続けているところから察するに、何か時限式の魔法のようにも思えるが、よく見ると周囲の土が一度掘り返されたような形跡があり、この魔法陣の真下の地中に何らかの魔法装置が埋まっているようにも見える。 もしそうだとすると、掘り返してみたいところだが、仮に掘り起こして「魔法装置」を発見したとしても、魔法の力によってこの地中に固定されているのであれば、普通の方法では取り出せないだろう。下手にそれを動かそうとすると、爆発などを誘発する可能性もある。ウルスラは聖印教会の信徒ではあるが、これまでの長い放浪期間を通じて、魔法に関しても一定の知識を有していたため、このような事態に対しては慎重な対応が必要だと考えていた。 そんな中、やがてヒューゴが不機嫌そうな顔で戻って来る。 「逃げられた」 「……仕方ないわね」 「こういう時にアーノルドがいてくれればな……」 アーノルドは弓(複合弓)を得意とする君主である。本来、逃げる相手に追撃するのは彼の流儀に反することなのであるが、この状況ではそれもやむを得ぬと分かってくれるだろう。 「いないことを嘆いても仕方がないわ。それより、これを見てくれる?」 「これは?」 「魔法の装置のようなものらしいんだけど……」 ウルスラとしてはそれ以上のことは分からない。そして当然、十年以上教皇庁に務めていたヒューゴにも分かる筈がない。だが、ここで意外な人物が口を挟んだ。 「お母様、この魔法陣、お母様が持ってた『あの本』に書いてあったような……」 ラーヤである。彼女はウルスラが旅先で手に入れていた「魔法に関する専門書」を時折開いて読み込んでいたらしい。言われたウルスラは背中の鞄を開いてその本を取り出すと、ラーヤは記憶を頼りに「この魔法陣が描かれていた頁」を開く。 すると、そこに記されていたのは「地震を起こす魔法装置」に関する情報であった。どうやらそれは、いくつかの同じ装置を同時に起動させることで「その装置に囲まれた地域」で地震を発動する仕組みとなっているらしい。もともと干拓によって成り立っていた低地帯のハルペルでこれを発動させれば、おそらく街全体が海に沈むことになるだろう。 こんな小さな子供がこの魔法装置の正体を見抜けたことに感動したヒューゴは、思わずラーヤの頭を激しく撫で回す。 「さすがウルスラの娘だなぁ。すっげぇ教育してるんだな」 「え、えぇ、まぁ、ね……」 正直なところ、ウルスラとしてはラーヤにここまで教えた記憶はない。まさか自分が持っている専門書を、自分よりも娘の方が熟読しているとは考えてもいなかった。 更に詳しく読み進めてみたところ、やはりこの装置は地中に設置される仕様であり、一度設置すると魔法師以外ではその場から動かすことは出来ないが、外的衝撃を与えれば壊すことも可能であり、特に誘爆の危険性はないという。とはいえ、どこまで深く埋め込まれているかが分からないため、掘り起こすのにどれだけの時間がかかるのかは分からない。 とりあえずヒューゴがこの場に残って掘り進めつつ、ウルスラはラーヤを連れてアーノルドのところに報告に行くことにした。 3.2. 東の男爵 一方、街中の巡回に戻っていたアーノルドは、期せずしてゴーバンを発見する。より正確に言えば、彼の姿を見かけたゴーバンの方から声をかけてきた。 「なぁなぁ、アーノルド、俺、ユーミルに行っていいかな?」 ユーミルとは、ヴァンベルグから見て北東の方角に位置するバルレア半島の南東部の小国である。聖印教会の影響力が強いことで知られてはいるが、ヴァンベルグやヴァレフールが属している幻想詩連合とは対立する大工房同盟の一角を占める国である。 「……とりあえず、言いたいことは色々あるんだが、いきなり何を言い出すんだ?」 「いやー、さっきそこで『眼鏡のあんちゃん』に勧誘されてさぁ。俺の力が必要だって言われちまったんだよ」 得意気にそう語るゴーバンに対して、アーノルドは頭を抱える。アーノルドは、ゴーバンが言うところの「眼鏡のあんちゃん」には心当たりがあった。というよりも、ある程度国際情勢に通じた人物が今の話を聞けば、分からない筈がない。 「俺が、よく分かんない蛙女と喧嘩してたら、いきなり間に入って来てさ。なんか、俺達の聖印の力がすげーから、ユーミルに来ないかとか言われて……」 「蛙女」と聞いて、アーノルドの脳裏に一人の少女が思い浮かんだが、そのことについて確認する前に、まず言うべきことをゴーバンに伝える。 「私はクレア様から君を預かっているんだ。本当に行きたいなら、クレア様が帰って来てから許可を取るといい。だが、それまでは許可は出せないぞ」 「うーん、そうなのかぁ……」 ゴーバンが少し困った顔を浮かべる一方、そこから少し離れたところで「眼鏡のあんちゃん」と「頭に蛙を乗せた少女」が話をしている様子がアーノルドの視界に入る。どちらもゴーバンには見覚えのある人物であった。 (あれはヒューゴと一緒に来ていた少女……、なぜ彼女がゴーバンと一緒に?) アーノルドはそのことに気付くと同時に、その隣にいる「眼鏡のあんちゃん(下図)」が「予想通りの人物」であったことも確認する。 彼の名はユージーン・ニカイド。バルレア半島の東南部に位置するユーミル男爵領の国主である。極めて熱心な信仰心の持ち主であり、唯一神の名の下に「バルレアの瞳」を攻略することを悲願としているが、その一方で、戦力不足を補うために、部下達が独自の判断で魔法師や邪紋使いなどを雇うことを黙認する程度には現実主義的な側面も併せ持つ人物でもある(なお、眼鏡をかけたその風貌から知将然とした印象が強いが、実は槍を得意とする前線指揮官らしい)。 そんな彼に対して、「蛙の少女」ことロヴィーサは問いかける。 「で、ユーミルってどんなところ?」 「巨大な魔境と隣り合わせの小さな国です。だからこそ、あなたのような前途ある若者達の力を欲しているのですよ」 笑顔で人材勧誘に勤しむその様子を見て、アーノルドは表向き丁寧な物腰で割って入った。 「これはこれはユージーン様、ようこそお越しいただきました」 本来ならば、ユーミルは大工房同盟所属である以上、ヴァンベルグにとっては「敵国」なのだが、聖印教会主催の聖誕祭である以上、彼の参加を拒む理由はない。ただ、この式典を自国の戦力強化のための場として利用しようとするのであれば、看過する訳にはいかない(ノルド人と思しきロヴィーサはともかく、ゴーバンを同盟諸国に渡すのは大問題である)。彼はひとまずユージーンの意図を確かめるべく話を聞こうとしたが、それよりも先にユージーンの方から本音を語り始めた。 「さきほど、こちらの『二人の小さな勇者様』の猛々しい演武を見せて頂きましてね。このお二人は、あなたのお子様ですか?」 先刻の劇団公演への乱入のくだりを見ていなかったアーノルドとしては、ゴーバンとロヴィーサがどのような「演武」を披露していたのかは分からないが、ひとまずこの場は率直に答える。 「いえ、『さるお方』から預かっている縁です。ですので、私の一存でゴーバンをユーミルにお送りすることは出来ませんので、ご了承下さい」 「なるほど。そういうことならば、私も無理にお願いはしません。とはいえ、子供達の未来は子供達自身の手で切り開くものですから」 「えぇ、その通りです」 「我がユーミルは有望な若者をいつでも歓迎します。ところで、さきほどから警備兵の方々が妙に物々しい様子ですが……」 「はい、お騒がせしてすみません。少々問題が発生しまして、その対処に奔走しているところです」 アーノルドとしては、ここでユージーンにどこまで話して良いかは難しい問題である。同じ聖印教会の信徒である彼を疑うのは好ましくない発想だが、一部では「辣腕の謀将」とも噂される彼が、今回の件に裏で関わっている可能性も無いとは言えない。仮にそれが杞憂であったとしても、同盟所属の君主である彼に、どこまで内情を話しても良いかは微妙である。 そんなアーノルドの苦悩を察したのか、ユージーンは神妙な顔で語り始める。 「立場上、私に伝えられない機密もあるでしょう。それは致し方ないことかと存じます。しかし、我らは同じ唯一神に仕える者同士、ここはお互いに隠し事をすべきではないかと思いますが……。ちなみに、私もここに来る前に少々気になったことがありましてね」 その話を聞いたアーノルドは、少し迷いつつも、領主として答えるべき言葉で答える。 「今、この場で『同盟』や『連合』の違いなど些細なことかと私も思います。ですので、その件についてお聞きしたいのですが、まずはその前に、大変失礼かと存じますが、ユージーン様の聖印を見せて頂けないでしょうか?」 この状況において、まず最も憂慮すべき問題はそこである。それに対してユージーンはやや怪訝そうな表情を浮かべながら、手の甲をアーノルドの前に掲げる。 「東門の検問でも出しましたが、どうぞ御確認下さい」 そう言って出現させたのは、確かにユーミルの国主と思しき「男爵級聖印」であった。 「失礼致しました。万が一、『何者かの変装』ということがあってはなりませんので……」 「ということは、つまり、『怪しげな賊』の潜入情報が届いている、と?」 「その通りです」 ユージーンが本物であると確信出来た以上、この件に関しては、もはや隠し立てしている場合ではないと判断したアーノルドがそう答えると、ユージーンは眼鏡の下から鋭い眼差しを彼に向けつつ、話を続ける。 「その件についても詳しい話をお伺いしたいところなのですが、まずは私は私で話すべきことをお話ししましょう。それを聞いた上で、あなたも伝えるべきことがあるならば私にお伝え頂きたい。まさか、このような幼子がいる前で、人を謀るようなことはしませんよね? 聖印を持つ者として」 「えぇ、お互いそんなことはないだろうと信じていますよ」 キョトンとした顔のゴーバンとロヴィーサの横で、二人の君主が微妙な空気を醸し出す中、ユージーンは自分が見てきた「気になったこと」について語り始める。 「私は今回、中立国であるサンドルミアを経由して陸路で入国させて頂いたのですが、この街の近くまで来たあたりで、奇妙な魔法師風の男を見かけたのです。所属を聞こうとしたら即座に逃げようとしたので、その場で抹殺しました」 淡々とユージーンはそう語るが、異国の地で遭遇した「魔法師」を、正体も確かめぬまま独断で殺すことは、本来ならば大問題である。しかし、彼は特に悪びれる様子もない。 「わざわざこの聖誕祭の日に現れる魔法師など、ろくな者ではありませんからね」 「えぇ。それはやむをえぬことでしょう」 アーノルドもその判断には理解を示す。そもそもヴァンベルグでは国策として魔法師を雇っていない以上、君主も伴わずに単独行動している魔法師など、その時点で「不審人物」扱いされて当然である。もっとも、それでも異国人が独断で勝手に命を奪うことに問題がない訳ではないが、あえてアーノルドはその点については何も言わなかったため、そのままユージーンは話を続ける。 「その魔法師を倒した地には、奇妙な魔法陣が築かれていました。魔法師を倒した後もその場に残っていたため、嫌な予感がして、一応、部下の兵をその場に何人か残しています」 「なるほど……。ちなみに、その倒した魔法師の使っていた魔法の系譜は分かりますか?」 「あれはおそらく、元素魔法でしょうね」 ユージーンは魔法師嫌いではあるが、国主として最低限の知識は持っている。彼の中ではそれは「倒すべき怪物に関する知識」と同等程度には「必要な情報」であった。 「それでは、こちらも包み隠さず話しましょう」 アーノルドは「クレアを装った人物からの手紙があったこと」「幻影の邪紋使いと思しき者がアーノルドに化けて工作していたこと」「町の外の西方や南方でも怪しげな気配が漂っていたこと」を告げた上で、改めてユージーンに問いかける。 「まさかとは思いますが、ユージーン様が私と会ったのは今が初めてですよね?」 「え? えぇ、まぁ、そうですが」 どうやら、ユージーンは「アーノルドの偽者」には会っていないらしい。もっとも、別の誰かに化けた状態で彼に遭遇している可能性もあるのだが。 「貴重な情報、ありがとうございました、ユージーン殿。ひとまず、その兵士の方が待機している場所に、こちらからも人を派遣させて頂きます。もし、何か気付いたことがあれば、御一報をお願いします」 「分かりました」 そう言ってユージーンが去って行ったところで、真横で話を聞いていたゴーバンがアーノルドに問いかけた。 「よくわんないけど、この辺に悪い奴等が来てるのか?」 「そういうことだ。だから、もし何か危険なものを見つけたら、私に知らせてほしい」 そんな二人の会話に、ロヴィーサが割って入る。 「分かった。じゃあ、何かあったらこの子を使いに出すよ。それとも、この子を大きくしてジャンプさせた方がいいかな?」 そう言いながら、彼女は頭の上の蛙を指す。この発言から、彼女が「特殊な生き物を巨大化させて乗騎とする聖印の持ち主」であることをアーノルドは察した。 「なるほど……」 この少女が、ヒューゴからは「一人で放っておいても大丈夫」と判断され、ユーミルの国主からは「有用な人材」として勧誘する価値があると思われるような少女であるということを、アーノルドは改めて実感する。 「で、どんな人が怪しいの?」 「姿を変えることが出来る者が潜んでいるらしい。とにかく、一人で突っ込んだりはしないように。必ず、私に知らせてくれ」 アーノルドはそう言って二人に注意を促すが、どちらも「悪い奴等」が現れたことに対して、恐怖よりも好奇心の方が優っている様子である。このまま二人を勝手に行動させるのは危険と判断した彼は、ひとまずヒューゴが「合流場所」に指定していた彼の宿へと二人を連れて行くことにするのであった。 ****** その頃、町の北西部で一人「魔法陣」の下を掘り続けていたヒューゴは、やがて地中に埋められていた「硬い何か」に到達する。それは、ウルスラの持っていた専門書に書かれていた魔法装置本体の外観と極めてよく似ていた。どうやら、思っていたほど地中深くに封印されていた訳ではなかったようである。 「壊しても問題ないって言ってたよな。じゃあ……」 本来ならば、アーノルド達がここに来るのを待ってから対処法を考えるべきなのだが、自分一人で早々に解決出来るならばその方が早いとヒューゴは考えたようである。彼は大斧を振りかぶり、その魔法装置に振り下ろす。だが、何らかの力で外壁が強化されているようで、ビクともしない。 「これは、本気を出さないと無理のようだな」 彼はそう呟くと、改めて聖印を出現させ、その中に秘められた「何かを蹂躙する力」を全て大斧に注ぎ込んで、本気の一撃を叩き込んだ。 すると、装置を覆っていた魔法の力と思しき障壁が破壊され、そのまま中の装置に大斧の刃が直撃する。次の瞬間、魔法装置は完全に粉砕された。 「なかなか骨が折れたな。これがあといくつあるのか……」 とはいえ、当初の予定よりも早く事件の一端を(力付くで)解決した(と解釈した)ヒューゴは、ひとまずそのままハルペルへと帰還するのであった。 3.3. 合流と再会 その間に、ウルスラとラーヤは先にハルペルへ帰還して、ヒューゴの宿でアーノルドとの合流を待っていたのだが、結果的にはアーノルドがゴーバンとロヴィーサを連れてこの宿に来るのとほぼ同時に、ヒューゴもまたこの宿に到着することになった。 「そっか、おばちゃん、アーノルドの知り合いだったのか」 ウルスラと期せずして再開したゴーバンがそう呟く。ウルスラとしても、まさかこの少年の保護者がアーノルドだとは思わなかったのだが、彼との詳しい関係やゴーバンの出自については聞こうとはしなかった(同様に、他の者達も「ラーヤの父親」については誰一人詮索しようとはしなかった)。一方で、ロヴィーサがヒューゴの姪だという話もこの場で明かされ、それについてはアーノルドもウルスラも納得した表情を浮かべる。 その上で、それぞれが得た情報を共有しつつ、今後の対策について考える。今の時点ではまだ夕刻前だが、間も無く各国の主賓級の人々を集めた宴会が、街の中心部に建てられた聖講堂にて開催される予定である。その場にヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルもいる筈なので、まずはアーノルドとしては彼に現在の状況を報告した上で指示を仰ぐ義務がある。 一方、ヒューゴとウルスラはあくまでも「来客」なので、彼等には独自に行動する権利がある。取り逃がした元素魔法師や幻影の邪紋使いが今も何かを企んで暗躍していると考えると、一刻も早く動き出す必要があるように思えたヒューゴは、すっと立ち上がった。 「じゃあ、アーノルドが侯爵殿に報告に行ってる間に、東の方の装置は俺が壊しに行った方が良さそうだな。あれはかなりの強度だった。普通の武器で歯が立たんだろう」 更に言えば、その東の装置の近辺に配置されているのは(ノルドと同じ同盟所属の)ユーミルの兵士であることを考えると、ノルド人であるヒューゴが行った方が話は円滑に進むだろう。 その提案を聞いた上で、ウルスラもまた自分の為すべきことを考える。 「南の方も気になるけど……、そこまで硬いのなら、私では壊せるかどうか分からないわね……。それなら、私は街の中に侵入者した邪紋使いの方を探そうかしら。見つかる保証はないけど」 ウルスラ相手であれば、少なくとも「美女による色仕掛け」は通じないという意味で、これも適任と言えよう(もっとも、別の方法で相手を誘惑する方法も心得ている可能性は高いが)。アーノルドは、あの邪紋使いはあくまでも陽動の可能性が高いと考えてはいたが、かといって放置しておく訳にもいかない以上、もともと街の警備の戦力には含まれていなかったウルスラに任せるのが(街の戦力の分散を避けるという意味でも)一番妥当な選択肢とも言える。 「じゃあ、俺もその侵入者探しを手伝うぜ! 街の中にいる『怪しい奴』を探し出して、ぶっ倒せばいいんだよな?」 そう言ってゴーバンが手を挙げると、ロヴィーサとラーヤもそれに続く。 「わたしもやるー!」 「私も、手伝います!」 子供達が口々にそう言い出したので、ひとまずウルスラが彼等三人と共に街の調査に出ることにした。手分けした方が見つけやすいかもしれないが、さすがにそれは危険すぎると判断したのは当然の話である。 「ゴーバン、何度も言うが、一人で突っ走るんじゃないぞ」 「わーってるよ」 アーノルドがゴーバンにそう言い含めている横で、ヒューゴはロヴィーサをけしかける。 「ロヴィーサ、一人でイケるなら、ヤっちまえ!」 「もちろん! まぁ、一緒には行くけどね」 そんなやりとりを端で見ながら、ラーヤは自分の中で、よく分からない新鮮な感情が芽生えつつあることを実感していた。 (この子達、どんな聖印を使うんだろう……? 私よりも強いのかな……?) これまで彼女は「聖印を持つ自分」のことを「普通の子供とは違う特別な存在」だと思っていた(実際、それは極めて稀有な存在ではあるのだが)。だからこそ、この「同世代の君主」との邂逅に、不思議な高揚感を抱いていたのである。人間が、他人との比較の中で初めて「自己」という存在を認識する生き物であるとするならば、まさにこの出会いこそが彼女にとって「母親の補佐役としての自分」ではなく、「一人の君主としての自分」としての意識を確立させる最初の契機でもあった。 3.4. 聖者達の苦悩 アーノルドが聖講堂に到着した時、ヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルは「応接室」にてヴァレフールからの来客であるイェッタ男爵ファルク・カーリンとの会談中であった。その応接室の隣に設置された「待合室」には、ランフォード子爵クレア・ウィンスロー、ユーミル男爵ユージーン・ニカイド、神聖学術院の聖徒会長エルリック・エージュ、日輪宣教団の団長イザベラ・サバティーニといった面々が「次のアントニアとの会談の順番待ち」で待機している。 その状況を目の当たりにしたアーノルドは、頭を下げつつ来客達に懇願する。 「申し訳ありません、皆様方。緊急の用件なのです。お待ちのところ申し訳ございませんが、先に通しては頂けませんか?」 さすがに、そう言われてしまったら、誰もそこで異論を挟むつもりはない。まだ会談の途中であったファルクも素直に一旦隣の「待合室」へと退いた上で、応接室にはアーノルドとアントニアの二人だけが残された。 「来客を押しのけての報告ということは、相当な案件なのだろうな?」 突然乱入してきた臣下の領主を睨みつけながら、明らかに不機嫌そうな声色でアントニアはそう言った。 「えぇ。極めて重大な緊急事態です」 アーノルドは短くそう答えた上で、現在の状況(「侵入者」および「地震装置」の件)を説明すると、アントニアは猛々しく声を荒げる。 「なぜそれをもっと早く報告しなかった!」 「すみません、さきほど発覚したばかりなのです。緊急の対処が必要だと考え、現在、私の旧知の協力者に、東の魔法装置の破壊に向かってもらっています」 アーノルドがそう答えたところで、隣の応接室からザワついた声が聞こえてくる。あまり声量を下げずに説明していたため、どうやら扉の外にまで声が漏れていたらしい(緊急の用件と言われれば、耳を潜めて聞こうとするのは当然の話であろう)。 すぐに扉の向こう側からノックする音が響き、アントニアが入室を許可すると、扉の外にいた五人が神妙な表情で入って来る。 「僭越ながら、話を聞かせて頂きました」 ファルクがそう言って頭を下げた上で、最初に意見を陳情したのはエルリックである。 「領主様、そして侯爵様、ここはまず祭を中止して、住民の方々をこの場から避難させることを優先すべきではないでしょうか? 装置の一つを壊したとはいえ、それで発動が止められた保証はない以上、ここは最悪の事態を想定して行動すべきかと」 それに続いて、彼の「宿敵」であるイザベラも、この場は彼の意見に同調する。 「私も同感です。不本意な形ではありますが、魔法装置の正体が分からない状態で、既にその中の一つをこちらが壊しているのであれば、むしろ敵は予定を早めて動いて来る可能性もあります。早急に手を打たなければ!」 地震装置の発動がいつになるかは分からないが、今から住民と来訪者達の避難誘導を開始すれば、翌朝までには全員を干拓地の外にある高台へと退避させることは可能である。 だが、そんな二人に対して、ユージーンは異を唱えた。 「しかし、住民を混乱なく誘導するには相当な人手を割かなければならないでしょう。そのために人手を割くよりは、この情報は伏せたまま人々の混乱の発生を避けた上で、魔法装置の発動を止める方に全力を尽くすべきではないでしょうか?」 今のこの状況で動かせる戦力には限りがある。その戦力を全て魔法装置と侵入者への対策に集中させる方が、事件を解決する上で得策であるかのように彼には思えたのである。 その意見に対して、ヴァンベルグの国主にして今回の主催者でもあるアントニアは深く頷く。 「当然、今から中止などありえん。そもそも、その魔法装置なるものが本物かどうかも分からんのだろう。我々を混乱させることが奴等の目的なのだとしたら、ここで祭を中止にしてしまっては、奴等の思う壺ではないか。ここは我等君主の力を信じて、全力でその陰謀を止めるべきだ。聖印を持つ者が、魔法師などに屈してはならん!」 アントニアはそう言い放った。本来は「幻想詩連合」と「大工房同盟」という対立関係にある両国の国主が「解決優先策」で意見を一致させる一方で、犬猿の仲である筈の 「日輪宣教団」と「月光修道会」の二人が口を揃えて彼等とは真逆の「避難優先策」を唱えるというこの構図は、一見すると奇妙な状況のようにも見えるが、それは「国を預かる者」と「民に根ざす者」の意見の対立でもあった。 ここで弱腰の姿勢を見せれば、今後同じような形で国内各地で同じような工作を仕掛けてくる者が頻発する可能性がある。だからこそ、全力を以ってその陰謀を打ち砕かなければならないとアントニアやユージーンは考えていたが、イザベラやエルリックにしてみれば、そのような先々の懸念よりも、まず目の前の人命を確実に救うことの方が大切に思えたのである(くしくも二人共、本質的には「国と国の壁を超えて生きる人々の集団」の代表者でもあった)。 一方、「ヴァレフール内の一地方領主」であるファルクは、両者の意見に配慮しつつ、苦悶の表情を浮かべながら私見を語る。 「これは私が判断出来る問題ではありません。私としては人々の避難を優先すべきだと思っていますが、決定権は領主様および侯爵様にあると思います」 そして「形式的にはランフォード全土の君主ながらも、実質的にはその中の一地域のみの領主であるクレア」もまた、悩ましい顔を浮かべながら、今の自分の中のまとまらない心境をそのまま口にする。 「正直なところ、私にはどちらが良いのかは分かりませんが、私も国を背負う者として、『人が住むための土地を守ること』は大切だと思います。仮にここで人々の避難に成功したとしても、その後で『人々が暮らすべき土地』が無くなっては困ります。その意味では、やはり何としても魔法装置を止めるべきだとは思いますが……、人命が優先だという気持ちも分かります……」 実際のところ、クレアの本音としては「人命優先」と言いたかった。だが、もしそれでこの地が沈んだ場合、生き残った人々が路頭に迷うことになるのも、彼女としては耐え難い。少なくとも、祖国の民が飢えや貧困に苦しんでいるクレアとしては、ここで無責任に「土地が無くても人は生きていける」などと言える立場ではなかったのである。 同じ神を崇める者達が、それぞれの信念に基づいて意見を対立させる中、やがて彼等の目は、当然の如く「この街の領主」であるアーノルドへと注がれる。 「お前も、自分の土地をみすみす沈没させるという選択肢など、ありえんだろう?」 アントニアがそう問いかけるのに対し、イザベラが激しい口調で訴える。 「あなたが大切なのは、土地なのですか? 人なのですか?」 彼等からそんな激しい言葉を浴びせられたアーノルドは、一呼吸置いた上で、確固たる信念を込めた瞳で語り始める。 「まず、皆様にお詫びします。この事件がここまで大きくなってしまったのは、全て私の管理不行き届きの結果です。事態を収集させた後、いかなる形でも責任を取るつもりです。しかし、今、この地を預かる者として、相手がどのような手を打っているか把握出来てない以上は、相手を撃滅することは難しいと思います。ですので、今夜の催しを中止して、まず住民を避難させるための最善の手を打った上で、脅威を排除しなければならないと考えます」 すなわち、魔法装置を止めるために手は尽くすが、それと同等以上に優先すべき問題として、住民の避難を進めなければならない、ということである。当然、これに対しては「解決優先論」のユージーンが反論する。 「しかし、住民避難に戦力を割いて魔法装置への対処が遅れることによって、結果的に住民への被害が増える可能性はありますよ。もちろん、あくまで『可能性』の話ですが。 「おっしゃる通りです」 「我々が全力を尽くせば一切の被害が無くなる可能性がある。というよりも、私と侯爵様は、ここにいる者達が全力を尽くせば被害をゼロに出来ると信じている。あなたは、自分自身を含めた『聖印を持つ我等の力』を、そこまで信じることは出来ませんか?」 「そうですね……、我々聖印教会の君主は、魔法に関する知識が絶対的に足りなかった。今回の事件に関してはそう考えています。ですので、どこまで手を打っても、疑念を完全に晴らすことは出来ないと思います」 ある意味、それは君主としての完全な敗北宣言である。だからこそ、今後はもう二度と敗北しないための対策も必要となるという前提の上で、今はまずこの時点で、自分自身がその敗北の汚名を全て背負ってでも、この地の住民の命を守れる可能性がより高い道を選ぶべきだとアーノルドは考えていた。 その彼の強い決意を目の当たりにしたユージーンは一歩退き、そしてアントニアに視線を向ける。アントニアは険しい表情を浮かべつつ、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。 「分かった。お主を今回の警備責任者に任命したのはこの私だ。今回はお主の判断を受け入れよう。その上で、この地の住民達が住むところを失ったとしても、それはお主を任命した私の責任だ。彼等の移住先についても、私がどうにかしよう」 今年の聖誕祭の主催者として、アントニアが苦渋の表情でそう決断すると、イザベラとファルクが一歩踏み出して進言する。 「もし、住むところが足りないようであれば、いつでも我が神聖トランガーヌへお越し下さい。我が国は世界中のどんな国の人々でも受け入れることが国是ですので」 「我がヴァレフールも、同じ連合の同朋として、難民となってしまった方々を受け入れる準備はありますし、復興支援にも協力させて頂く所存です」 そんな二人とは対照的に、難民を受け入れたくても今は自国民の食料確保だけで手一杯の状態のクレアは、俯きながら歯痒い思いに身を震わせる。一方、大工房同盟の一員であるユージーンもまた、立場上この場で手を差し伸べる訳にはいかないため、空気を読んで目をそらしつつも、侯爵の決断を受け入れる姿勢を示す。 「皆様、ありがとうございます。必ず騒動を納めてみせます」 アーノルドはそう宣言した上で、ひとまずはこの場にいる君主達に住民への避難誘導への協力を要請する。無論、彼等はこの地の地理などには全く通じていないため、実質的にはアーノルドの部下が誘導することになるのだが、民衆達の動揺を抑えるためには、強力な聖印の持ち主である彼等の威光が必要であると考えたのである。 その上で、アーノルド自身はウルスラやヒューゴと合流した上で侵入者や魔法装置の調査に向かおうとしたのだが、そんな彼の強い決意が、ここで一つの奇跡を引き起こすことになる。 3.5. 英雄王の武具 避難誘導に関しての話し合いを諸侯達が始めたのを背に、アーノルドが部屋を出ようとした矢先、彼の両腕に装着された「籠手」が、突然「銀色」に輝き始めた。 「領主様、それは一体……?」 ファルクがそう問いかけるが、当のアーノルドにとっても初めて目の当たりにした現象であり、何も答えられない。そんな中、アーノルドの脳内に、何者かの声が響き渡った。 「幾百年ぶりであろうか……。これほどまでの聖印の持ち主の手に我が辿り着いたのは……」 アーノルドが周囲の者達を見渡したところ、誰もその声に気付いている様子はない。どうやらこれは自分だけに届いている声だと察したアーノルドは、そのまま心の中でその「謎の声」に対して問いかける。 「一体、あなたは……?」 「我が名はコンドール。英雄王エルムンドの『五つの銀甲』と呼ばれた武具の一つ。我は武具でありながらエルムンド様の聖印によって、聖印としての命を与えられた存在」 唐突に訳の分からない話を聞かされて、アーノルドは混乱する。彼は幼少期をブレトランドで過ごしていたため、当然「英雄王エルムンド」の存在は知っている。だが、「五つの銀甲」と言われても、それが何を意味しているのか、今ひとつよく分からない(もっとも、その意味を正確に知っている者は、ブレトランド人の中にも殆どいないのであるが)。 「言うなれば、我は『英雄王エルムンド様の従属聖印そのもの』のような存在。だが、エルムンド様亡き後、我が主となるべき聖印の持ち主に長らく出会えずにいた……。お主は、自分の全てを捨ててでも民を救いたいと考えている。ならば、お主は『我が力』を預けるに値する君主と言えよう」 「我が力とは一体……?」 アーノルドが心の中でそんな会話を繰り広げている中、傍目にはずっと黙っているように見る彼に対して、改めてファルクが問いかける。 「どうしました? 領主様?」 「……この籠手に封じられている何かが、私に話しかけているようなのです」 未だによく分からない状態のままアーノルドが答えると、イザベラは鋭い瞳で問い質す。 「まさかとは思いますが……、それは『オルガノン』と呼ばれる存在ですか?」 「オルガノン」は混沌の産物である以上、もしそうだとしたら、イザベラとしてはそれをこの場で滅殺処分しなければならない。 「分かりません。しかし、私達の聖印と同じ力を感じます」 アーノルドがそう答えると、周囲の人々も困惑する。だが、確かにこの場にいる誰もが、その籠手から放たれる輝きが「聖印」の光に近いことは実感する。 そんな中、今度はユージーンが、眼鏡に手をかけながら問いかけた。 「そもそも、その武具はどこで手に入れたものですか?」 「我が家に代々伝わる存在です。今までは、単に『使い勝手の良い武具』としか考えていなかったのですが……」 この場にいる者達が全員困惑する中、エルリックがこの「銀色の籠手」を見て、ふと何かを思い出したかのような表情を浮かべつつ、アーノルドに問いかける。 「領主様、あなたの一族はもともとブレトランドの貴族だったと伺っていますが、間違いはないですか?」 「はい。この籠手もブレトランド時代から伝わる物だと聞いています」 それを確認した上で、エルリックは半信半疑の心境で語り始めた。 「ブレトランドに伝わる英雄王エルムンドの叙事詩の中に、このような一節があります。 『七つの聖印携えて 六つの輝石の加護を受け 五つの銀甲身に纏い 四つの異能を従えて 三つの令嗣に世を託し 二つの神馬の鞍上で 一つの宝剣振り翳し 全ての希望を取り戻す かの者の名はエルムンド ブレトランドの英雄王』 この一節の中にある『五つの銀甲』が何を意味しているのかは長らく不明のままでしたが、もしかしたらその籠手が、その一つなのかもしれません」 その説明は、確かにアーノルドに語りかけている「籠手と思しき声」の話と合致する。だが、果たしてそのような伝説級の武具が、なぜ自分のような中流以下の貴族家に伝わっていたのか? そしてなぜそれが今になってこのような輝きを放つようになったのか? アーノルドとしては不可解なことが多すぎる。 アーノルドが困惑する中、先刻のアーノルドの問いかけに対して「籠手」が答えた。 「我には、混沌から人々を守るための二つの力が備わってる。一つは、混沌の存在を感知する力。そしてもう一つは、混沌と戦う聖印の加護を受けし者達に秘められた潜在能力を極限まで引き出す力だ」 「それは一体、どういう……?」 「使ってみれば分かる。少なくとも今、お主はこの街を救うために『混沌』と戦おうとしているのであろう? ならば、我がお主をその混沌の蔓延る場へと誘ってやろう」 その言葉に対して、アーノルドは半信半疑の心境ながらも、今のところ他に手掛かりもないため、ひとまず街の住人達の避難指示は他の君主達に任せて、その籠手の導きに従って聖講堂の外へと走り出して行く。そんな彼の腕に装着された状態のまま、銀の籠手は屋外に出た瞬間に「何か」 を感じ取る。 (どうやら、我が同胞達も目覚めたようだな) その「心の声」はアーノルドには聞こえなかった。もっとも、仮に聞こえていたとしても、この時点ではその言葉の意味が彼に分かる筈もなかった。 ****** 同じ頃、ウルスラは子供達と共に「侵入者」を探していたが、やはり何の手がかりもない状態で「怪しい人物」を探すというのは、かなり無理がある。先刻まで広場で公演を開いていた劇団の人々をはじめとする旅芸人の者達は「奇妙な装束」自体が(彼等にとっての)「正装」であるし、この機にレオンの姿を模した鎧や装束を身にまとうような形での「仮装」を楽しむ者もいる以上、何をもって「怪しい」と考えるかの基準が難しい。 (まずいわね……、こうしている間にも、また何かを仕掛けているかもしれない。早くなんとかしないと……。これだけ多くの人達を海の底に沈めるなんて、絶対に許してはならないわ!) ウルスラがそんな強い危機感と使命感を心に抱いていると、彼女は背中に背負った荷物袋から、何か「特別な力」を感じり、思わず足を止める。 「どうしたんですか、お母様?」 「ちょっと待ってね。少し、気になることが……」 鞄を一旦下ろして、その中を調べると、日頃は使っていない「実家から預かっていた伝家の長靴」が、銀色に光っているのを発見する。 (え? なに? 今までこんなことって……) ウルスラはこの長靴に関しては「先祖代々伝わる由緒正しい聖なる武具」だとは聞いていたが、その正式な由来までは知らされていない。 彼女がそれを手に取ると、彼女の心の中に何者かの声が響き渡った。 「我はエルムンド様の用いていた『五つの銀甲』の一つ、ドーディー。鞄越しとはいえ、お主の高貴なる魂は我に伝わった。お主を我が力の後継者として認めよう」 唐突な出来事に当然のごとくウルスラは困惑する。ブレトランド貴族家出身である彼女は当然、英雄王の叙事詩に登場する「五つの銀甲」という言葉は知っているが、それはあくまでも「叙事詩の中にのみ登場する概念」であり、本当に実在するものなのかどうかすら怪しいと彼女は考えていた。だが、これまで古ぼけた年代物の武具でしかなかったこの長靴は今、確かに「銀色」に光っている。 彼女は心の中でその声に対して問いかけた。 「どういうこと? あなたはこの靴そのものに宿った意思?」 「そうだ。我はエルムンド様の聖印によって魂を与えられた存在。そして我には『混沌を探し出す力』と『聖印の加護を受けた者の身体を守る力』が備わっている。混沌災害からこの地を守ろうとしている今のお主には、いずれも必要な力であろう?」 そう言われても今ひとつ現実味のない話であったが、手がかりがない今の状況においては、試してみる価値はありそうに思えた。 「どうすればその力を使えるの?」 「我を身につけよ。さすれば、お主の望む時にいつでも我が力はお主が発動出来る」 ウルスラとしては、もうこの長靴は自分では履かずに、いずれラーヤに譲るつもりであった。だが、今のラーヤの身体ではまだ足の大きさも合わないし、何よりこのような「得体の知れない力」をいきなり幼い愛娘に試させる訳にはいかない。 ひとまずウルスラはその場に腰を下ろし、靴を履き替える。 「お母様、その長靴、そんな色でしたっけ?」 「……色々あるのよ」 ラーヤからの問いかけに対して、ひとまず今はそう答えるしかない。一方で、ゴーバンとロヴィーサは初めてみるその長靴の輝きに目を奪われる。 「うわー、かっけー!」 「なにそれ!? きれー!」 そんな二人の感嘆の声を聞きながら、ウルスラは「銀の長靴」を装着し、そして感覚を研ぎ澄ませる。すると、確かにここから少し離れた街の一角から「混沌」の気配が感じられた。 「みんな、賊を捕まえたいのなら、ついて来なさい!」 そう言って彼女は走り出す。何が起きたのかも分からないまま、三人の子供達は彼女を追いかけるのであった。 ****** 一方、東門の外に出て、街の北東部の方面へと向かっていたヒューゴは、無事にユーミルの軍服を着た兵士達を発見する。どうやら彼等もまた既に地中を掘り起こし、北西部でヒューゴが発見したのと同じ形状の「魔法装置」を見つけ出していたらしい。 彼はユージーンから話を聞いていることを伝えた上で、背中に背負った大斧を振りかぶる。 「よし、じゃあ、やるか!」 「これ、本当に壊して大丈夫なんですか?」 「怖いなら、下がってろ」 そう言われた兵士達が素直にその場から退散すると、ヒューゴは先刻と同じ要領で大斧を振り下ろす。 (アーノルドの街を、沈める訳にはいかねぇんだよ!) 強い決意と共に聖印の力を込めて振り下ろしたその一撃で、魔法装置は一瞬にして粉砕される。そして次の瞬間、ヒューゴの頭上から、ヒューゴの心に謎の声が響き渡る。 「我は聖兜アーウィン。英雄王エルムンド様によって生み出されし『五つの銀甲』の一つにして……」 「な、なんだ? おい!?」 ヒューゴは周囲を見渡すが、既にユーミルの兵士達は退散した後であり、この場には誰もいない。ただ、自分の頭上に何か違和感を感じた彼が一旦「実家から託されたブレトランド伝来の兜」を脱ぐと、それが銀色に光っていることに気付く。 「どういうことだ? お前が話しかけているのか?」 「そうだ。お主はその武を持って人々を救おうと決意した。その心意気に我が心が呼び起こされ、数百年ぶりに、エルムンド様から賜ったこの魂を目覚めさせるに至ったのだ。さぁ、『我が力』を受け取るが良い」 銀色に輝く鎧はヒューゴの心にそう語りかけるが、生粋のノルド人である彼はそもそもエルムンドの名前すら知らず、「五つの銀甲」という言葉など知る筈もない。 「よく分かんねえけど、お前、何か特別な力を持っているのか?」 「あぁ。我が力を以ってすれば、この世に蔓延る『混沌』の気配を察知し、そして『混沌と戦うために必要な心の力』を『聖印の加護を受けし者達』に授けることが出来る」 「……やっぱり、よく分かんねえな。まぁ、いいや。とりあえず、混沌の気配が分かるなら、教えてくれ。今、俺が壊したやつと同じような装置が、この辺りにあるかどうか」 「造作もない。では、我をもう一度装着せよ」 銀の兜に言われたヒューゴは、言われた通りにかぶり直し、そして神経を集中させる。すると、この地から南に向かった方角に、極めて強い混沌の気配を感じる。だが、それは一つだけではなく、いくつもの気配が折り重なった状態であるように思えた。 「どういうことだ?」 ヒューゴが心の中で問い掛けると、兜は答える。 「魔法装置と思える気配が一つ。その周囲に、巨大な魔法生物の気配がいくつも感じられる。そしておそらく、それを操っている魔法師も……」 その話を聞いたヒューゴは、判断に迷う。今の状況を考えると、少しでも早く叩き潰しておきたいところだが、いかに「一対多数」の戦いを得意とするヒューゴといえども、得体の知れない敵の集団相手にあえて一人で飛び込むのは得策とは言えない。また、もし仮に戦力的にはヒューゴ一人で十分な程度の敵であったとしても、ハルペルに来て以来二度にわたって敵に逃げられた前科があるヒューゴとしては、どちらにしても一人で解決出来る問題ではないように思えた。 「しゃーねーな。一旦街に戻るか」 こうして彼は、ただでさえ人目を引きやすい巨漢の上に銀色に輝く兜をかぶった「この上なく目立つ姿」のまま、堂々と街へと帰還するのであった。 3.6. 侵入者の正体 ウルスラは銀の長靴の探知能力を頼りに街の中を探索を続けていたが、そんな中、彼女は街中で「ファルク」の姿を見かける。「彼」は多くの貴婦人達に囲まれて愛想を振りまいている様子であったが、そんな「ファルク」を目の当たりにしたウルスラに対して、長靴はこう言った。 「あの男から混沌の気配を感じる」 そう言われたウルスラは改めて「ファルク」を凝視すると、確かにその姿そのものは「ファルク本人」にしか見えないが、その物腰がどこか「先刻会った時のファルク」とは異なっているように見える。端的に言って、自分を取り巻く貴婦人達への態度や口振りなどが、どこか「軽薄」そうな印象に見えた。 「ファルク様」 ひとまずウルスラはそう言って近付いてみる。 「おや? たしかウルスラ様でしたかな?」 「ファルク」はそう答えるが、この反応から、ウルスラはこの長靴の推測が正しいことをほぼ確信する。 「少しお話をしたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」 そう言って更に近付こうとするが、それに対して彼を取り巻く女性陣が立ちはだかる。 「あなた、どなたですの?」 「抜け駆けなんて、許しませんよ」 そんな彼女達に対して、ウルスラはあえて挑発するような口調で言い放つ。 「別にいいでしょう? 彼は私の許嫁みたいなものなのですから」 実際、子供の頃にはそのような話が無かった訳でもないのだが、その発言を聞いて、その場にいる「ファルク」を含めた全員が驚愕の表情を浮かべる。 「え? ちょっと、どういうこと、ファルク様?」 「いえ、私は神にこの身を捧げた立場ですので、そのような……」 そんな喧騒が巻き起こる中、後方からその様子を眺めていたラーヤもまた、ウルスラの言葉を真に受けて困惑していた。 (え? この人、私の新しいお父さんになるの?) 嬉しいような複雑なような感情に少女が囚われていたところで、道の反対側からアーノルドが現れる。どうやら彼も「籠手」の助言に従って、この場まで辿り着いたらしい。彼は聖印を掲げつつ、その場にいいる人々に向かって叫ぶ。 「その者は、ファルク・カーリン殿ではない。真っ赤な偽物である!」 その声に女性達は困惑しつつも、アーノルドの掲げた聖印から、彼自身が「この街の本物の領主」であることを察した女性達は、ひとまず「ファルク」から離れる。 (私の嘘が台無しじゃない。ま、いいけど) ひとまず「ファルク」の周囲から貴婦人達が離れたのを確認した上で、ウルスラは聖印を掲げて、「ファルク」の視線を自分に集中させる。それに対抗すべく、「ファルク」もまた幻影の邪紋の力を発動させてウルスラの視線を奪うことで、互いに周囲の状況が見えない状態に陥っていた。 こうなると、必然的に「仲間」がいる方が優勢となる。ウルスラ以外の者達が視界から消えてしまった状態の「ファルク」に対して、アーノルドは聖印の力で炎をまとわせた矢を命中させ、その装甲を焼き落とすように削り取っていく。さすがにこの状況では逃げるしかないと判断した「ファルク」は、ウルスラを邪紋の力で自分から離れるように誘導することで、なんとかこの場から脱出を試みようとする。 だが、ここでロヴィーサは先刻ヒューゴに言われていた教えを思い出していた。 (敵を見つけたら、まず退路を断て) この街に来て以来、二度に渡って敵に逃げられていたヒューゴとしては、まずそれが彼女に伝えるべき忠告であった(一人で倒せるならヤっちまえ、とは言っていたが、仲間がいる状態なら、取り囲むように戦う方が賢明であることはヒューゴにも分かっていた)。ロヴィーサは即座に蛙を巨大化させた上で、それに乗った状態で「ファルク」の反対側に回り込むことで、逃げ道を塞ぐ。 その直後に、ゴーバンは光の大剣を作り出し、全力の一撃で斬り掛かる。 「ファルクは、お前みたいな奴じゃねぇ!」 故郷の知人を馬鹿にされたような気分になっていたゴーバンの一撃は、深々と「ファルク」の身体に突き刺さる。彼の聖印は「投影体」や「邪紋使い」を相手にした時にこそ本領を発揮する。この一撃で「ファルク」が苦悶の表情を浮かべていることこそが、彼が「偽物」である証明でもあった。 だが、その「ファルク」は、血反吐を吐きながらも、ニヤリと笑ってゴーバンに語りかける。 「よろしいのですか、ゴーバン様。私は『ジャック様の直参』です。私を斬れば、あなたのお爺様に害が及びますよ」 それを聞いたゴーバンは、露骨に動揺した表情を浮かべる(この発言の意味についてはブレトランド風雲録6を参照)。 「し、しらねーし! あんなジジイがどうなろうが、お、俺の知ったことじゃ……」 その様子を見たアーノルドは直感的に、この男にこれ以上喋らせるのはまずいと判断し、先刻の攻撃の際に「ファルク」の身体に打ち込んだ聖印の鎖で彼を縛り上げる。その激痛で「ファルク」の表情は更に歪むが、ここで「彼」はその姿を「ゴーバン」へと変身させた上で、ゴーバン自身に絡みつく。 「なっ! お前……」 ゴーバンが困惑する中、傍目にはどちらが本物か分からない状態になってしまうが、「銀甲」を装備している状態のアーノルドとウルスラには、どちらが「混沌の産物」なのかはすぐに判別出来る。アーノルドは「籠手」の導きに従い、即座に「偽物」の方にとどめの一矢を放つ。その直後、「彼」の体を構成していた邪紋は破壊され、そのまま絶命した。 その傍らでは、色々な意味で困惑した状態のゴーバンが、光の大剣を握ったまま、呆然と立ち尽くす。 「ゴーバン、すまないな。何か『後味の悪い思い』をさせたようで」 「いや、それはいいんだけどさ……、その、アーノルド、お前……、ウチのじっちゃんとは親戚じゃないよな?」 唐突に奇妙なことを問われたアーノルドだが、少なくとも彼が知る限り、ゴーバンの実家との間で縁戚関係はない筈である(アーノルド自身が「ケネスの娘」との縁戚を望んでいた過去はあるが、決して内縁関係を結ぶような不義理は犯していない)。 「あぁ、特に繋がりはない筈だが?」 「そっか、それなら大丈……、あ、いや、もう別に、どうでもいい! どうでもいいんだ!」 ゴーバンはその発言の意味を説明せぬまま、自分で自分を納得させようとする。この場にいる他の者達は誰一人として状況が理解出来なかったが、無理に彼から事情を聞き出そうとはしなかった(この顛末がもたらした影響についてはブレトランド風雲録10を参照)。 一方、誰かが怪我をしたら治癒の聖印の力を発動させようと構えていたラーヤは、無傷でこの戦いを終えられたことに安堵しつつ、光の大剣や巨大蛙を駆使して戦う同年代の子供達の活躍に素直に感動していたが、その一方で、ゴーバンの虚ろな表情が少し気になっていた。 3.7. 大人達と子供達 こうして、どうにか最大の難敵であった「幻影の邪紋使い」を倒した彼等であったが、話を聞き出す前に殺してしまったこともあり、結局、彼が何者で、どのような陰謀に基づいて行動していたのか、魔法師や魔法装置のことを知っているのかどうかなど、何一つ情報が分からない状態のままであった。 そんな中、「街の北東部の魔法装置」の破壊を終えたヒューゴが合流し、互いに現在の状況を説明し合う。そしてこの時、それぞれの「伝家の武具」が銀色に輝きながら奇妙な力を発揮するようになっていたことにも気付くが、今はこの武具の正体を調べるよりも、まずは一刻も早く残りの魔法装置を破壊することに専念すべきだという考えで一致する。 そして三人が揃って同時に「銀甲の探知能力」を行使した結果、南方に巨大な混沌の気配が集まりつつあることを察する。「一対多数の戦い」を得意とするヒューゴですら「一人では厳しい」と考えて協力を仰ぐほどの敵ではあったが、アーノルドとしては当初の予定通り、街の警備兵達は住民達の避難誘導の作業から引き剥がすべきではないと考えた上で、あくまでもこの件は自身とヒューゴとウルスラの三人だけで解決すべき、という結論に至った(今から兵を編成し直す時間も惜しい、という考えもある)。 その上で、アーノルドはゴーバンにこう言った。 「ゴーバン、君には、住民の避難の指示を頼みたい」 実際のところ、そのような作業にゴーバンが向いているとは思えない。だが、強大な敵との決戦に彼を連れて行くことは、どうしてもアーノルドには出来なかった。ゴーバンは薄々その配慮を察していたが、今の自分では足手まといになるであろうことも分かっていたため、内心で悔しい思いをしながらも、素直に頷く。 「分かった。それが今、俺に出来ることなら……。そっちにまた誰か敵が出て来るかもしれないしな」 「あぁ。その時は、皆を守ってやってくれ」 そんな会話を交わす中、ここでラーヤが珍しく自分から手を挙げる。 「私も、そっちに行きます。街の皆さんの避難誘導に協力させて下さい」 彼女はここまでずっと母親の近くにいたが、大人達の雰囲気から、ここから先の戦場では、歴戦の君主と思しき彼等にとっても相当に危険な戦いが待ち構えていることは推察していた。ウルスラは何があっても自分を守ってくれると言ってくれているが、それでも、今のラーヤとしては母の足を引っ張るようなことはしたくない。それよりは、避難時の混乱で怪我をするかもしれない住民達の支援の方が自分には適任と考えたのだろう。 また、それと同時に、彼女の中ではゴーバンの様子が気になっていた、という理由もある。先刻の戦いの際、彼が繰り出した光の大剣の一撃にラーヤは感動を覚えると同時に、その直後に敵の言葉を聞いて以降の彼の挙動が、どうしても不安に思えたのである。 (彼の中で何があったのかは分からないけど、誰かが彼を支えなきゃいけないような気がする。このまま放っておいたら、何か危険な道に進んでしまいそうな……) そんな想いをラーヤが内側に秘めていたことに気付いていたか否かは不明だが、ウルスラはその娘の宣言を素直に受け入れる。娘が自分から離れて行動することに不安が無いと言えば嘘になるが、それでも、娘が自分から「やりたいこと」や「やるべきこと」を見つけ出して動き出すのであれば、それを妨げるつもりは毛頭無い。 「頼むわね」 ウルスラは笑顔で娘にそう耳打ちする。出来れば自分もそちらに回ってラーヤを守りたい気持ちもあるが、おそらく自分が参戦しなければ、南方に出現しつつある混沌群は浄化しきれないであろうことを、彼女は銀の長靴を通じて実感していた。 そして、もう一人の少女もまた、少し考えた上で自らの意思を表明する。 「わたしも、ここに残って一緒に誘導するわ」 「いいのか? ロヴィーサ」 「うん。それに、この子がいれば信号弾として便利でしょ」 ロヴィーサは頭の蛙を指差しながら、ヒューゴに対してそう答える。確かに、彼女の蛙の跳躍力を利用すれば、人々を導く上での目印にもなるだろう。また、人々の頭上を飛び越えて移動することが出来る彼女の能力は、他にも様々な局面で役に立ちそうではある。 そしてロヴィーサもまた、出来たばかりの「喧嘩友達」が先刻の戦いの途中から元気を失っていることが気掛かりだった、という裏事情もある。 (何があったのかは知らないけど、寂しい時は誰かが近くで元気付けてあげなきゃね) そんな彼女なりの気遣いを知ってか知らずか、ヒューゴは姪御を素直に激励する。 「じゃあ、言ったからには結果を出せよ!」 「もちろん。ちゃんと無事に避難させるよ。生きてさえいれば、もしこの街が無くなっちゃっても、みんなノルドに連れて帰ればいいしね」 国際関係の事情など何も理解していないロヴィーサは、笑顔でそう語る。氏族社会のノルドで大量の難民を受け入れた場合、果たして彼等にまともな市民権が与えられるかどうかは怪しいところであるが、ひとまずアーノルドとしてはその発言を聞き流しつつ、子供達三人を自身の直属の従属君主達に預けた上で、ヒューゴ、ウルスラと共に「混沌の気配」が漂う街の南方へと向かって、軍馬を走らせるのであった。 3.8. 子供達の群像 子供達三人は、アーノルドの部下に連れられて、ひとまず他の兵士達と合流するために村の広場へと向かうことになった。その途上、ラーヤはふとゴーバンに問いかける。 「あなたは、ブレトランドの人なのですか?」 「ん? あ、あぁ。そうだぜ。アーノルドから聞いたのか?」 「そうではないですが、なんだかファルクさんと知り合いだったようですし」 「おぉ、まぁ、そうだな。知り合いっちゃあ知り合いだな」 とはいえ、あまり自分の出自について深くは語りたくないゴーバンとしては、ここで微妙に話をそらす。 「そういや、お前のかーちゃん、『ファルクの婚約者みたいなもの』だとか言ってたけど、あれ、本当なのか?」 「分かりません。でも、もし本当に、あんな素敵な人が私の『新しいお父さん』になってくれるなら、それもいいかなって……」 「ケッ、女はみんなファルクが好きだよなぁ。まぁ、確かにカッコいいけどよぉ」 そんな中、横で話を聞いていたロヴィーサが、デリカシーのない質問をラーヤに投げかける。 「『新しいお父さん』ってことは、『前のお父さん』はどうしたの?」 「それも分かりません。まだ生きているのかどうかも……」 「ふーん。他に家族は? 兄弟とか、いないの?」 「いません。私はずっとお母様と二人で旅してきました」 「えぇ!? たった二人で? ずっと? それって、寂しくないの?」 「私の中ではそれが普通だったので、別に……」 「ふーん、そういうものなのか。わたしには『おねーちゃん』が三人いるんだけど、最近は全然会えてなくて寂しいわ。そういえば、あんたはどうなの?」 急に話を振られたゴーバンは、複雑な表情で答える。 「俺は、姉ちゃんが一人と、弟が一人……」 そう言いかけたところで、ゴーバンの中で「何か」が思い出されたようで、その目に怒りの感情が宿り始めたことにロヴィーサは気付いた。 (あ、これは聞いちゃダメなやつだったかな?) ロヴィーサには子供ながらの無神経さはあるが、相手の反応を見た上で、聞いてはいけないことはもう二度と聞かないようにする程度の学習能力は持ち合わせている。すかさず彼女は話題を変えた。 「あんたのその光の剣ってさ、誰から作り方を習ったの?」 「別に、誰からって訳でもねーよ。俺が『カッコいい剣が欲しい』と願ったら、出てきたんだ」 「すごいじゃない! まるで絵本に出てくる英雄みたい!」 ロヴィーサのこの言葉は、半分はゴーバンを励ます意図での「おだて文句」ではあったが、残り半分は確かに彼女の本音でもあった。聖印から剣を作り出すという姿は、子供心にカッコ良く思えるのは当然の話である。 「そ、そうか……、まぁ、その、まだまだ英雄には全然届かないんだけどさ……、でもまぁ、ありがとな」 これまであまり同世代の子供(ましてや少女)に褒められることがなかったゴーバンは、ロヴィーサの無邪気な笑顔を目の当たりにして頬を少し赤らめる。そんな照れた自分を隠すように、彼は今度はラーヤに問いかけた。 「そういえば、お前のかーちゃんも『光の盾』を作れるよな。あれって、お前も出来るのか?」 「私には出来ません。ただ、お母様も、あの力に目覚めたのは最近だと言っていたので、もしかしたら私もいずれは作り出せるようになるのかもしれません」 「そうか。まぁ、俺の父ちゃんも、爺ちゃんも、俺とは全然違う聖印の力の使い手だったからな。結局、人それぞれなのかもしれないけど」 ゴーバンはそう言いながら、祖父ケネスのことを思い出して再び心を乱しかけるが、今はそのことは忘れようと自分に言い聞かせる。一方、そんな二人の会話を聞いていたロヴィーサは、首を傾げながら呟いた。 「んー、でも、わたしの家族は全員、私と同じような聖印の力を使う君主だよ」 「では、皆さんがその……、蛙さんに乗っているのですか?」 「いやいや、そうじゃないんだけどね。クジラとか、フクロウとか、ウミガメとか……」 そこまで聞いたところで、ゴーバンが割って入る。 「フクロウに乗れるってのは、ちょっとカッコいいな」 なお、その「梟姫」が彼の故郷にとっての脅威の一人であることに、ゴーバンはまだ気付いていない(ブレトランド風雲録5参照)。 「わたしのマヨリカだって、カッコいいし、カワイイよ」 「そうかぁ? 正直、それだったら普通に馬の方が……」 「ひっどーい! せっかく、この一件が終わったら、一度くらい一緒に乗せてあげようと思ってたのに」 「別にいいよ。なんかヌメヌメしてて乗り心地悪そうだし」 「じゃあ、ラーヤちゃん、代わりに一緒に乗る?」 「え? えぇ、まぁ、その、機会があれば……」 ラーヤは別に蛙が特別苦手という訳でもないが、特に可愛いとも格好いいとも思えない、というのが本音であった。ただ、それ以上に、同い年の子供に「ラーヤちゃん」と呼ばれたのが新鮮で、そのことへの戸惑い(と嬉しさ)の感情の方が強かった。 「やめといた方がいいぜ。そいつ、ぜってー無茶苦茶な乗り方するからな。お前みたいなトロそうな奴が乗ったら、振り落とされて怪我するぞ」 そんな憎まれ口を叩くゴーバンであったが、その表情は少し「本来の彼」に戻りつつあるように思えた。ロヴィーサはそのことを確認しつつ、笑顔で反論する。 「いやだなぁ、わたし別にそんな乱暴な乗り方しないよ」 「お前の基準で考えるんじゃねーよ。お前みたいなガサツな女のペースに、そんなひ弱そうな奴がついていける訳ねーだろ」 それに対し、今度はラーヤが珍しく声を荒げた。 「私は別にトロくはないし、ひ弱でもありません! これでも、今までずっとお母様と一緒に世界各地を旅して、混沌と戦ってきた身です。甘く見ないで下さい!」 日頃の物腰は「清楚なお嬢様」のような雰囲気だが、実際のところ、君主としては彼女が一番の「現場育ち」である。だからこそ、君主としての自負心は、実は彼女が一番高かった。 ゴーバンはそんな彼女の(母親にすら滅多に見せない)「強気な表情」に一瞬驚き、それまでなんとなく見下していた彼女から放たれる「歴戦の君主」のようなオーラにやや圧倒される。彼自身、自分の「実戦経験不足」に関しては自覚していただけに、自分よりも軟弱そうに思えていた彼女のこの発言には痛いところを突かれたような気分になり、自分の中の負けず嫌いな心が反発を始める。 「つっても、どうせ、あの強そうなかーちゃんの後ろで隠れてただけだろ?」 「確かに、いつもお母様が守ってくれてましたけど、それでも、大人の人達と一緒に、何度も混沌災害と戦ってきたんです。蛙さんに乗ることくらいのことで怖がったりはしません」 なお、別に「乗りたい」とも言ってはいないのだが、ロヴィーサは嬉しそうな顔でラーヤに後ろから抱きつく。 「じゃあ、今度一緒に乗せてあげるね。こんな怖がってる弱虫のことなんか置いといて」 「別に怖がってねーよ! 興味ないって言ってるだけだよ!」 そんな口論を交わしつつ、ゴーバンがいつの間にかすっかり本来の元気を取り戻したことに、ロヴィーサもラーヤも内心で安堵していた。 ****** やがて、子供達は警備兵達の本体と合流した上で、それぞれの聖印の力を駆使して避難民の誘導に協力する。 ゴーバンは光の大剣を掲げて道標としつつ、列を乱して駆け出そうとする者達を威圧することで、その場の秩序を保った。 ラーヤはすぐに動けそうにない怪我人や病人を聖印の力で癒すことで、どうにか自力で歩ける程度にまで回復させていく。 ロヴィーサは巨大蛙に騎乗した状態で様々な建物の屋根の上を飛び移りつつ、各地の兵士達の間での連絡役を買って出た。 彼等の活躍もあって、当初の予定よりもスムーズに来客や住民達の高台への移動は進行していく。なお、この間に魔法師や邪紋使いによる襲撃は一切発生しなかった。どうやらアーノルドの推測通り、街の中で撹乱行動を起こしていたあの邪紋使いは、ただの陽動にすぎなかったようである。 3.9. 戦場を包む光 三つの「銀甲」に導かれながら、南方の「混沌の気配が漂う地点」にまで到達したアーノルド、ヒューゴ、ウルスラの三人の前に現れたのは、巨大な人型の魔法兵器達と、それを操る一人の壮年の男性と思しき魔法師であった。ヒューゴとウルスラが街の西方で発見した魔法師とは明らかに別人だが、羽織っているローブなどの雰囲気から、おそらくは同じ一派ではないかと推測される。 巨大な人型兵器達に守られながら、魔法師は三人に向かって淡々と語り始める。 「思ったよりも早く反応されてしまったようですね。おかげで、また設置し直さなければならない。まったく、あいつも、もう少し上手く撹乱してくれれば良かったものを……」 それに対して、アーノルドは単刀直入に訴えた。 「今すぐ設置を中止して、投降してもらおうか。そうすれば、場合によっては命は助かるかもしれないぞ」 ここで嘘でも「命は助ける」と明言したりはしないあたりが、彼の誠実さではある。無論、その誠実さが交渉においては仇になることもあるのだが、この局面においては、どのような言い方をしたとしても、結果は変わらなかった。 「エーラムの御仁が相手であれば、まだ交渉の余地はあるのでしょうが、あなた方は頭が硬すぎる。とてもではないが、命の保証をしてくれるとは思えませんな」 実際、この見解はほぼ正解である。よほどのことがない限り、(アーノルドはともかく)アントニアは「魔法師の工作員」の助命など、認めはしないだろう。そして、この彼の発言から、この人物は「エーラムの魔法師」ではない、ということは推測出来る。その上で、ここまで大掛かりな作戦を組織的に遂行出来る者達がいるとすれば、その正体はおそらく「あの闇魔法師組織」であろうということは推測出来た。世界中から聖印教会の要人達がハルペルに集まっているというこの状況は、「あの闇魔法師組織」にとって、この街を海に沈めるという暴挙を決行する上での、十分すぎるほどの動機となる。 そのことを踏まえた上で、アーノルドは言い放った。 「そちらから見れば、そうだろうな。そして、こちらから見ても、混沌の力を使って国を乱す者は『魔法師』などと言える者ではない。それはもはや『混沌災害』だ。話し合いが通じないというのなら、容赦は出来ない。いいんだな?」 「こちらも先を急いでいますのでね。早々に終わらせて頂きますよ」 魔法師はそう答えるや否や、魔法詠唱を始める。それに対し、ヒューゴの兜とウルスラの長靴が、それぞれの持ち主の聖印に呼応するように、神々しい光を周囲に放ち始めた。 「ちっとは役に立てよ」 ヒューゴがそう呟いた直後、周囲の空間が不思議な光に包まれる。魔法師はその現象に違和感を感じつつも大規模な攻撃魔法を放ったが、その一撃はウルスラの聖印の力によって彼女一人に集中し、そして彼女の長靴の力によって、完全に無効化される(ただし、その魔法がもたらす副作用としての心身への疲労感や身体の自由を奪うような影響までは止められなかった)。 その直後、アーノルドは矢の雨を敵全体に向かって降り注ぎつつ、戦場全体の状況を統御しながら、ヒューゴやウルスラに攻撃の機会を与えるが、大きく振りかぶったヒューゴの攻撃はあと一歩のところでかわされてしまう。その直後に巨大人型兵器がヒューゴやウルスラに襲いかかるが、彼等の攻撃は全く通用しない。正確に言えば、直撃している筈なのにまるで傷を与えられていないのである。しかも、この一連の攻防において明らかに聖印の力を多用している筈の三人の君主達の気力がまるで尽きる気配もない。間違いなく、これは兜と長靴の効果であった。 魔法師がその状況に困惑する中、アーノルドの全力斉射によってゴーレム達は一掃され、そして魔法師も深手を負う。 (なんなんだ、この光は? この空間そのものが、聖印によって歪められているのか……?) さすがにこれはまともに戦える状況ではないと気付いた魔法師は、なんとかこの戦場を脱出しようとするが、全力で駆け込んだヒューゴとアーノルドの追撃を受け、最後はウルスラが作り出した光の盾によって殴り潰され、そのまま命を落とす。 結局、この人物が何者だったのかは分からないままであったが、こうして、街の周囲に発生していた混沌群の中でも最大の脅威を祓うことに彼等は成功したのである。 4.1. 侯爵の裁定 その後、三人は銀甲の導きに従って、夜が明けるまでに残りの装置を全て(主にヒューゴが)破壊するに至る。その頃までには街の人々の避難は予定通りにほぼ全て完了していた。その上で、改めて銀甲の力で周囲の状況を再確認しつつ、最終的に地震の兆候も混沌の兆候も完全に消滅したと判断したアーノルドは、アントニアにその旨を報告した上で、住民達と来客達を再び街へと帰還させる。それが完了したのは、その日(二日目)の夕刻頃であった。 当然、本来ならば最も盛り上がる筈の当日祭の企画の大半は中止となり、何ヶ月も前から用意していた諸々の準備は全て無駄になった。一応、それでも形式的に簡素な形での式典は執り行い、ヒューゴによる「教皇による御言葉の(代理人による)読み上げ」も粛々とおこなわれたが、この日の「楽しい催し物」のために世界各地から訪れた人々の多くは、落胆を隠せない様子であった。 そして翌日の後日祭(三日目)は当初の予定通りに開催されたものの、既に人々の大半が疲労困憊状態だった上に、事件の発生によって早期に帰国する人々が参加を取りやめた人々も多かったため、当初の想定通りの盛り上がりとは程遠い形で閉幕することになる。当然、この間もアーノルド達は魔法師達の生き残りの動向を最後まで警戒し続けてきたが、結果的には何も発生することなく、無事に全三日の日程を終えることとなった。 その結果を踏まえた上で、三日目の夜、アントニアはアーノルドを呼び出し、険しい表情で今の心境を率直に語り始める。 「結果的に言えば、お主の進言通りに民を避難させたことは無駄に終わった。お主の進言を聞き入れたことで、この日のために人々が準備していた努力の結晶も全て無駄になった訳だ」 「責任は全て私にあります」 粛々と、どんな処罰も受け入れる覚悟でアーノルドはそう答える。その態度を目の当たりにしつつ、アントニアは険しい表情を変えぬまま話を続けた。 「とはいえ、お主がいなければ、そもそも止めることも出来なかっただろう。その功績は、無駄な避難を強行させた罪を補って余りある。私としては、今回の雪辱を胸に、来年の開催予定地として再び立候補するつもりだ。実現出来るかどうかは分からんが、来年が駄目なら再来年もある。いずれにせよ、次の聖誕祭があった時に、今度こそ務めを果たせ。それまで領主の座を降りることは許さぬ」 「身にあまる寛大な処分、本当にありがとうございます」 アーノルドは深々と頭を下げると、アントニアはそれ以上何も言わぬまま街を去って行く。現実問題として、教皇庁の中には「もう二度とあんな危険な街で開催など出来るか」という声も上がるだろうが、アントニアとしては、むしろ今回の戦いの過程で領主であるアーノルドが「混沌を感知出来る籠手の力」を手に入れたことを強調し、「次回以降はどの都市よりも安全に開催出来る」と主張することで、再誘致を目指したいと考えていた。 なお、ヒューゴとウルスラが今回の件の解決において大きな役割を果たしたことについては、一部の人々にのみ伝える程度に留めておいた。ウルスラとしては(諸々の理由から)自分の存在をあまり大きく取り沙汰されたくないという個人的事情があったし、ノルド人であるヒューゴにこの街が助けられたというのは連合の一員として体面が良くないという政治的事情もあった。そしてヒューゴ自身もまた、今回の一件において功績を誇れると思えるほどに活躍出来たという意識もなかった(特に最後の戦いにおいて本領を発揮出来なかったことを悔やんでいた)ため、ことさらに吹聴するつもりもなかった。 4.2. 母と娘 同じ頃、ウルスラとラーヤはアーノルドによって斡旋された宿屋にて、この三日間の警備の疲れを癒していた。 「無事に終わって本当に良かったですね、お母様」 ラーヤは笑顔でそう語りかけるが、ウルスラの表情は今ひとつ浮かない様子であった。 「でも、あなたが祭を楽しめなかったのは残念だわ」 「いえ、十分楽しかったです。私の他にもすごい力を持ってる子達がいるのも分かりましたし。私がお母様から引き継ぐと言われてた長靴が、私が思ってた以上にすごいものだということも分かりました。今までは、ただの綺麗な装飾品だと思ってたんですけど、お母様としては、相当な覚悟でそれを私に引き継がせようとしてくれてたんですね」 実際には、ウルスラもそんなことは知らなかった。 「そんなに重く受け止めなくていいわ。あなたに全部背負わせるつもりはないから」 「そうですね。そもそも、私がその力にふさわしいかどうかも、まだ分からないですし」 「大丈夫よ、あなたならきっと」 そんな会話を交わしつつ、ウルスラはふと問いかける。 「あなたはこれからどうする? 」 この街で知り合ったエルリックが紹介してくれた「神聖学術院」に行くという道もある。せっかく知り合った「友人」のいる「この街」や「教皇庁」で暮らすという道もある。今までずっと母親と二人だけの旅を続けてきた彼女であったが、そろそろ「自分自身の道」を探し始めてもいいのではないか、とウルスラには思えてきたのである。 「うーん……」 ラーヤはしばし熟考する。その上で、少し恥ずかしそうな顔を浮かべながら、結論を出した。 「……まだもう少し、お母様と一緒にいたいかな」 「分かったわ。あなたの好きにしなさい。でももし、これから先、どこかの街に留まりたいと思ったなら、いつでも言いなさい」 ウルスラは、どこか安心したような笑顔でそう答える。「親離れ」にも「子離れ」にも、まだもう少し時間がかかりそうである。 一方、ラーヤの方も母親に対して「言わなければならないこと」があった。 「お母様も、誰か『いい人』を見つけたら、私のことは気にせず、いつでも一緒になってくれていいですからね」 唐突にそう言い出した娘に対して、ウルスラは苦笑しながら答える。 「そうね……。『あの人』以上の人に出会えたらね」 「『あの人』って、ファルク様のことですか?」 どうやらラーヤは、まだ「一昨日の嘘」が気になっているらしい。 「いいえ。あの人よりも、もっとカッコいい、あなたの本当のお父さんのことよ」 「私の本当のお父さんって、まだ生きているのですか?」 「いつか、その話も出来るといいわね」 そんな会話を交わしつつ、今はまだ語るべき時ではない、とウルスラは改めて考えていた。その父親の名を知ることは、今後、娘を大きな陰謀の渦に巻き込む可能性がある。少なくとも彼女が自分の出自とどう向き合って行くべきかを判断出来るだけの自我が確立されるまでは、伝えるのは危険であるように思えた。 十年以上前に別れて以来一度も会っていない彼女の父親は、風の噂によれば、現在、コートウェルズにて「紅蓮の翼竜」を駆り、竜王イゼルガイアと戦っているという。一部では最も皇帝聖印に近い男とも噂されるかつての恋人のことを思い出しながら、ウルスラは(今回の一件でも自分の身を守ってくれた)彼から譲り受けた鎧を丹念に手入れするのであった。 4.3. 叔父と姪 翌日、ヒューゴとロヴィーサは教皇庁への帰還の船に乗る。 「いやー、 面白かったぁ。まぁ、わたしはあんまり活躍出来なかったけどね」 「何言ってるんだ、イゼルガイアにかました飛び蹴りは、見事だったぞ」 「え? なんでそれ知ってるの?」 「なんでだろうな」 「あ、後ろの方で見てたのか。ヒューゴが前の方にいたら、後ろの子が見えないもんね」 そんな会話を交わしつつ、ロヴィーサは今回の一件を振り返る。 「でも、凄かったなぁ。あの二人。ゴーバンって子の光の剣もカッコ良かったし、例の魔法装置を正体を見破ったのはラーヤって子なんでしょ? そのお母さんも強かったし。あと、領主様の炎の弓矢も……」 興奮気味にそう語りながら、ロヴィーサはふとヒューゴの兜に視線を向ける。 「そういえば、なんで急に光り出したの? その兜」 「なんかよく分からんが、すげー武具だったらしい。帰ったらエリンに聞いてみよう。あいつは俺より頭いいし」 一応、兜は何度もヒューゴに「英雄王エルムンドとの思い出」を語ろうとしていたのだが、そもそもブレトランドとは直接的な縁のないヒューゴには、何度聞いてもその話は今ひとつピンと来なかったようである。 ****** 後日、二人が教皇庁に帰還すると、行方不明だった「ノルドから預かった姫君」が無事に帰ってきたことに、人々は安堵する。もっとも、大半の人々は「ヒューゴが連れ出したのではないか」と予想はしていたようだが。 「よぉ、エリン。今帰ったぞ」 ロヴィーサを肩で担ぎながらエリンの部屋を訪れたヒューゴに対して、当然のごとくエリンは怒りの形相で出迎える。 「連れて行くなら、せめて、ちゃんと手紙くらい書き残しておきなさいよ!」 「あれ? お前、書いてなかったのか?」 「ううん、ちゃんと書いたよ」 「『行ってきます』だけで分かる訳ないでしょ! というか、それはあなたが書くべきことでしょ、ヒューゴ!」 「そうか? まぁ、無事に帰って来れたんだから、いいじゃねえか」 呑気な兄と姪のそんな様子を目の当たりにして、エリンはがっくりと肩を落とす。 「はぁ、私だって本当は行きたかったのに……」 ボソッと彼女はそう呟く。もし、ここで「現地でウルスラに会った」ということを伝えたら、彼女と仲の良かったエリンはより一層怒ることになるだろう。その意味でも「銀甲」の話を彼女に聞くのは、もう少し後にした方が無難そうである。 4.4. 保護者と御曹司 それから数日後、聖誕祭(および避難騒動)の後片付けも終わり、街が平穏を取り戻した頃、ゴーバンは領主の館の一室にて、どこか殊勝な表情でアーノルドに語りかける。 「結局、よく分かんなかったけど、あんた、結構すげーやつなんだな」 「そんなことはない。君が正しく育てば、私を超える領主になることだって、十分出来るさ」 「まだ俺は、心も体も未熟だということがよく分かった。あと、この街がいつ沈むかも分からない危険なところだってこともな」 「そうだな」 「だから、本当はとっとと師匠の後を追いかけたかったけど、もうしばらくここで修行させてもらうよ。あんたに助けてもらった借りもあるし」 アーノルドにしてみれば、今回の一件ではむしろゴーバンに助けられた立場だったのだが、ゴーバンの中では、あの「偽ファルク」との戦いの際に「みっともないところを見せた」という気持ちが強かったようである。だからこそ、今後再びこの街を襲ってくる者達が現れた時に、この街を守ることに尽力することで、今回の(ゴーバンの中での)汚名を返上する心算であった。 「ところでさ、手紙って、書いたらどこに出せばいいんだ?」 「ん? 使用人にでも渡してくれれば、こちらで発送の手続きはしておくが」 「そっか。いや、そろそろ母ちゃんに手紙出した方がいいのかな、って思って」 ゴーバンの「母ちゃん」と聞いて、アーノルドの脳裏には子供の頃の記憶が一瞬蘇るが、特に感情を表に出すこともなく、そのまま淡々と答える。 「あぁ、そうだな。安心させてやるといい」 「ここの領主のアーノルドってのがすげー奴だってことも伝えておくから」 「そうか、ありがとう」 それから数ヶ月後、実際に彼の母(未亡人)がこの街に挨拶に来て、アーノルドは二十数年ぶりに「初恋」と再会することになるのだが、それはまた別の物語である。 「で、ところで、その籠手は何だったんだ?」 「あぁ、これはブレトランドの英雄王エルムンド様の使われていた武具だったらしい」 アーノルドはあっさりとそう答える。結局、今回の戦いではその真の力(君主達の限界能力の解放)を発動させるには至らなかったが、それでもこの籠手の持つ混沌感知能力が無ければ事件を解決出来なかったことは間違いない以上、そこまで特殊な力を持つこの籠手が、それほどまでに由緒ある逸品だということにも、今のアーノルドならば素直に納得出来る。 「え? なんでそれをあんたが? てか、それ、本来俺が持っておくべきものじゃね?」 ゴーバンは英雄王エルムンドの直系の子孫である。また、剣を持って前線に立つ機会が多いという意味でも、弓術使いのアーノルドよりも防具の必要性は高いだろう。 「確かにそうだ。だから、お前がこれを欲しいというのなら、次の継承者はお前ということにすることも出来るが、どうする?」 「どうするって、そんなもん、欲しいに決まってんだろ! だってよぉ、トオヤはいくら言ってもあの剣くれねーし、せめて俺にもなんか同じくらいすげーもんが……」 「そうか。じゃあ、ゴーバン、君が私を超える騎士になったら譲る。約束するよ」 「分かった。俺はあんたを超える。あんたよりも、トオヤよりも、クレア師匠よりも強くなって、そして、おとう……」 そこまで言いかけたところで、ゴーバンは口をつぐむ。「この話」は人に聞かせるべきではないと思っているらしい。 「……俺は、全てを取り戻す」 強い決意を込めた瞳でそう語るゴーバンの様子から、アーノルドは一抹の不安を感じつつも、彼がこれから先も道を誤らぬよう、「保護者」として正しく導いていかなければならない、と改めて実感するのであった。 時系列上の続編:【ブレトランド風雲録】第10話(BS45)「和平会談」 シリーズ内の続編:【ブレトランドの光と闇】第7話(BS47)「星々の瞬き」 グランクレスト@Y武
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ホットランドの小ネタ ウォーターサーバーですべての水を捨てると、Pルートで地上に行く前に木が生え始めるもちろんアンダインには水をあげてね 持ち物がいっぱいの状態でホットドッグを買うと、頭に乗せてくれる マフェット戦でスパイダースイーツを食べるとすぐ終わるいせきで買えるものでいい ホテルの客室があるエリアの右下を進んでいくと看板がある よごれたエプロンが落ちている上のエリアのさらに上に行ける(↑の看板が誘導している) カラータイルの緑を踏まないとメタトンのコメントが少し変わる メタトンEXはぼうきれに反応する メタトンEXはなぞのカギに反応する メタトンEX戦での「ポーズをとる」は、ダメージを受けているほど視聴率が上がる メタトンEX戦でグラマーバーガーを食べると視聴率が上がる メタトンEX戦で装備を変えると視聴率が上がる メタトンEX戦でメタトンEXのハートを攻撃しなくても手足が取れる 不殺の状態で審判を受けたあと、ゲームを再起動してまた審判を受ける…を繰り返すと、サンズの部屋の鍵がもらえるサンズの部屋でさらに鍵が手に入るが、それはパピルスとサンズの家の裏で使える アズゴア戦でバタースコッチパイを食べるとアズゴアのATKとDEFが下がる ▲上へ 名前
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第3話(BS32)「革命の闘士」( 1 / 2 / 3 / 4 ) 1.1. 生きている価値 「あなたの力、もう必要ないというのなら、私に貸して。少なくとも、私には、あなたの力が必要。そしてこの世界のためにも、あなたの力は必要。だから、あなたが次の道を見つけるまで、この世界のために、そして私のために、その力を貸して」 かつて、自分自身を救ったその彼女の声で、アシュレイ・ハンター(下図)は目を覚ました。彼は秘密結社「パンドラ革命派」に所属する魔法師である。歳は23。魔法の力で弓矢を召喚して操ることを得意とする亜流(山吹の流派)の静動魔法師である。 「パンドラ革命派」とは、ブレトランド・パンドラ内の四派閥の一つであり、エーラムによる実質的な世界支配体制の打破を目指す集団である。エーラムがこの世界の秩序管理の名の下で不当な知的独占を続け、魔法開発の名の下で様々な人々の人生を狂わせてきたことを彼等は批判し、反エーラム思想を民衆に広げるための啓蒙活動と、来るべきエーラムとの全面戦争に向けての戦力拡充工作を続けている。 彼等の大半は、数年前にエーラムの魔法大学において発生した、魔法師協会の改革を求める学生運動の参加者達であり、アシュレイもまたその一員であった。彼は幼少期に君主同士の勢力争いに巻き込まれる形で故郷を失った経験があるからこそ、君主を魔法師が支えるエーラム主導の爵位制度に対して、どこか不信感を抱いていたのである。だが、当時はまだアシュレイはエーラムの世界管理体制そのものを否定する考えではなかったため、彼等の中の急進派がパンドラへと身を投じて行く動きには加わらず、まっとうに魔法大学を卒業し、ヴァレフールの七男爵の一人であるイアン・シュペルターに仕える契約魔法師となった。 だが、彼の学友にして好敵手であったキース・クレセントが、契約相手となったヴァレフール伯爵家のトイバル・インサルンドによって処刑されたことが、彼の中で大きな転機となる。この事件以降、彼は君主やそれを支えるエーラムという存在そのものに絶望し、契約相手であったイアンとも決別した上で(この時、イアンを殺そうとして返り討ちにあった際の火傷の後が、彼の顎から左腕にかけて残っている)、学生時代の友人達を通じて、パンドラへと身を投じることになる。当初は、聖印を持つ者やエーラムの関係者を見境なく惨殺する過激派部隊の一員として、パンドラ内でもその扱いを持て余される程の存在であった。 しかし、半年前に仇敵トイバルの戦死(ブレトランドの英霊6参照)を聞かされたことで、彼は人生の目標を見失ってしまう。その結果、それまで自分が繰り返してきた殺戮の正当性にも疑問を持つようになり、一時は自ら命を絶とうとまで考えるほどに精神的に追い込まれていた。そんな彼を救ったのが、パンドラ革命派の女闘士ミオ・ローゼンブルクであった(下図)。 彼女は影と幻影の邪紋の使い手であり、その両目に「異界の猫の眼球」を移植されたことで夜でも自由に行動することが可能な視力を手に入れた、まさに「隠密・暗殺」の専門家である。彼女はこれまで、任務のために多くのエーラムの要人を殺してきた英雄であり、パンドラ内の邪紋使い達の中でも多くの者達が彼女のことを師と仰ぐほどの人望の持ち主でもある。 そんな彼女が、自暴自棄になりかけていたアシュレイにかけた上述の言葉が、彼に新たな生きる希望を与えた。彼女の言葉によって、それまで過去にとらわれていたアシュレイは、初めて積極的に未来を見据えた生き方が可能になり、以後は彼女の任務を後方から魔法で支援する役割を担うようになる。かつては自分の湧き上がる衝動だけを理由に見境なく殺人を繰り返していたアシュレイであったが、ミオという「光」を見出して以降は、「エーラムの権威を利用して悪政を敷く君主」を倒し、世界を少しでもより良くすることを、新たな人生の目標として掲げるようになったのである。 だが、彼等がいかなる理想を掲げようとも、パンドラの行動は、「エーラムによる世界秩序」を是と考える者達にとっては、悪行以外の何物でもない。彼等の活動を封じるべく、ブレトランド内におけるエーラムの魔法師達の一部は、「パンドラ狩り」と称して、パンドラの関係者と思しき市井の者達を次々と捕らえていく。 その中でも特に中心的な役割を果たしていたのが、ヴァレフール騎士団長(ヴァレフール反体制派の中心人物)ケネス・ドロップスの契約魔法師ハンフリー・カサブランカであった。彼はヴァレフール領内でパンドラに協力している疑いのある一般市民達を次々と捕らえ、様々な脅迫・拷問の末にパンドラの情報を割り出し、彼等の拠点を次々と潰していった。一般市民の中に反エーラム思想を広げようと草の根活動を続ける革命派にとっては、まさに仇敵である。 そんな状況を打破すべく、先日、ミオは独断でハンフリーの本拠地であるアキレスへと潜入した(直接的な動機は、彼女が世話になっていたアキレスの一般市民の老夫婦が、彼の手で捕まり、拷問の末に命を落としたことが原因らしい)。彼女は巧みに城内へと忍び込み、見事ハンフリーの暗殺に成功したのが、その直後に囚われてしまった。契約魔法師を殺されたケネスは激怒し、アキレスの広場でミオを公開処刑にすると宣言する。これは実質的にパンドラ革命派への挑戦状でもあった。 この状況に対し、革命派としては、それが自分達を捕らえるための罠だと分かっていても、黙って見過ごす訳にはいかない。すぐさま彼等はミオを奪還することを宣言した張り紙を各地に広め、全面対決の機運が高まっていた。 当然、この状況において、アシュレイの心境も穏やかではない。現在、ミオを処刑しようとしているアキレスの領主ケネスは、くしくも、アシュレイの仇敵であったトイバルの元側近である。その点を抜きにしても、「彼女無くして今の自分は無い」と考えていたアシュレイとしては、今すぐにでも行動を起こしたい衝動に突き動かされていた。 ちなみに、ここはパンドラ革命派の拠点として用いられている「移動式住居」の中の一室である。パンドラの魔法技術によって造られたこの建物は、外からその存在を察知することが容易ではなく、また、魔法師達の力によって他の場所に移転させることも可能であり、その所在地を悟られぬよう、常にブレトランド各地を転々と移動している。その内側には構成員の一人一人に簡素な寝室が与えられており、その中の一室で目覚めたアシュレイが、静かに上述の夢の余韻に浸っていたところに、扉をノックする音が聞こえてきた。 アシュレイが扉を開けると、そこには一人の男が立っていた。 「あんたが、アシュレイさんだろ? ミオからこの手紙を預かっているんだ。『私が戻ってこなかったら、この手紙をアシュレイに渡して』と言われてな」 そう言って、男は一通の手紙をアシュレイに差し出す。この男の名はジェームス。地球人の投影体であり、同じパンドラでも「楽園派」と呼ばれる別の派閥に所属する身であるが、その見た目が「通常のブレトランド人」に近く、一般市民の中に紛れるのに適しているため、諜報員・工作員として楽園派や均衡派からの依頼を受けることもある(初出はブレトランドの英霊6)。そのため、ミオとも個人的に顔見知りの関係であった。 「ミオから、ですか?」 アシュレイはそう言いながら手紙を受け取り、その場で中身を確認する。それは、確かにミオの筆跡による手紙であった。 『あなたに相談せず、一人で勝手に行動してしまって、ごめんなさい。私にはどうしても、ハンフリーが許せなかった。でも、これは私の個人的な感情。暴走だということも分かっている。だからこそ、あなたを巻き込む訳にはいかない。私に何があっても、あなたはあなたの道を見失わないで。もし私が失敗して捕まったら、ボスは私の救出を考えるでしょうけど、それはあなたが止めて。私の身勝手な暴走のために、革命派の大義を見失うようなことはやめて。 大局よりも私怨を優先した私のことは、もう仲間だと思わなくていいから』 そう書かれた手紙を読み終わったアシュレイは、それを静かに畳む。 「話は、それだけですか?」 「今のところはな。そういえば、あんたらのボスが、緊急会議を開くみたいなことを言ってたから、そのうちあんたにも招集命令がかかるんじゃないか?」 「そうですか、ありがとうございます」 「まぁ、俺も彼女には色々と世話になったからな。どうにかしてほしいところではあるが」 そう言って、ジェームスは退室する。アシュレイは手紙を机の中にそっとしまいつつ、再び静かに一人物想いに耽っていると、やがて、ジェームスが言っていた通り、革命派の首脳陣から、招集がかかる。用件は「ミオ救出作戦に関する作戦会議」とのことである。 (ここで彼女を見捨てたら、今度こそ、私は生きている価値がない!) そう自分に言い聞かせながら、彼はすぐに身支度を整え、会議場へと向かうのであった。 1.2. その名はオブリビヨン とある国の、とある戦場にて、一仕事終えた一人の少女(下図)が、不機嫌そうな顔で飯を喰らっていた。彼女の名はニーア。16歳。姓はない。というよりも、分からない。彼女は幼い頃に、唯一の肉親であった「姉」と生き別れて以来、感情のみを行動原理に、感覚のみを頼って、戦場で死体漁りをしながら一人で生きてきた。 その過程で、やがて彼女は「混沌」を喰らい、「武器の邪紋」の力に目覚める。「悪魔の刃」と呼ばれる異界の大剣をその身と一体化させ、その力で近付く者達を排除しながら、自らの「縄張り」を作って生活していたところで、とある傭兵団に遭遇し、その力を見込んだ団長に勧誘されて、その一団に加わった。 その団長の名は、ヴァライグ。そして傭兵団の名は、オブリビオン。その構成員の大半は邪紋使いであり、どこからともなく戦場に現れ、自らの力を指揮官に売り込んだ上で、好き勝手に暴れるだけ暴れて去って行くその性質から、凶悪な戦闘狂集団と言われている。 現在、ニーアはそんなオブリビヨンの中で、部隊長の任に就いている。と言っても、別にそれは彼女が望んだ地位ではない。そもそも、彼女は他のオブリビヨンの者達ほど戦闘に飢えている訳でもなく、むしろ無用な戦闘は好まない。だが、今の彼女には戦うことしか出来ることがないため、彼女が安定して「食事」を得るためには、結果的にこの傭兵団の中に居続けることが最も確実な方法だったのである。そんな中で、彼女がその力を振るって戦果を挙げ続けた結果、気付いた時には「部隊長」の地位を与えられていたのである。 彼女は部隊長として、団長であるヴァライグからの命令には従うが、決して今のオブリビヨンのやり方を好んでいる訳ではない。あくまでも、自分が飯を喰らい続けるための、自分が生き残るための契約として、彼等に従っているだけであり、組織や指導部への忠誠心など欠片もなく、彼等に隷属するつもりもない。相手がどんな人物であろうが、常に自分と相手は対等だと考えている(それ以前に、そもそも社会的な上下関係などを理解していない)。 彼女の行動原理は「喰うこと」と「生き残ること」だけである。彼女の中では、そのための行動は全て正しく、それ以外のために何かをする気はサラサラなく、人間らしい感情そのものが欠落した存在であった。 そんな彼女が一仕事終えて、これから部隊を率いてオブリビヨンに帰ろうとしていたところに、一人の伝令兵が到着した。どうやら、彼女一人にだけ「個別依頼」が届いたらしい。依頼主は、ブレトランドの秘密結社「パンドラ革命派」である。 元来、オブリビヨンは自らの意思でその力を様々な権力者の元に売り込みに行くことで「仕事」を得ることを生業としており、誰かからの依頼を受け付けてはいない(そもそも、依頼を受けるための「窓口」自体が存在しない)。だが、彼等は一部のパンドラ系の組織とは密な関係を保っており、例外的に彼等からの依頼だけは、このような形で受け入れることもある。今回は、先方からの指名により、ニーア一人だけに依頼したい、という内容であった。 「『上』に話は通ってんのか?」 ぶっきらぼうな口調で彼女がそう問うと、伝令兵も淡々と応える。 「あぁ、一応、ヴァライグ殿の許可は取ってある。即座に、ブレトランドのパンドラ革命派の元へと赴き、彼等の指示に従え、とのことだ」 この伝令兵も、年齢的にはニーアよりかなり年上ということもあり、立場的にはかなり上な筈のニーアに対して、このような口調で返す。ニーアは別に、それを咎める気もなかった。彼女の中では人間関係において「上」も「下」もなく、そもそも「敬語」なるものの概念もよく分かっていなかった。 一方で、彼女の副官のアクセルは、特に誰から命じられたという訳でもなく、上官であるニーアに対して、へりくだった口調で問いかける。 「なんで隊長だけなんスかねぇ? 少数精鋭の任務、ってことですかい?」 「知るか。お前らが使えねえからだろ?」 ニーアにそう言われて、アクセルは一瞬、表情を歪ませたものの、そのまま会話を続ける。 「正直、少数精鋭での隠密系の任務なら、隊長より俺の方がよっぽど向いてると思うんスけどねぇ。まぁ、でも、隊長でないと出来ない特別な任務があるってんなら、仕方ないッスけど」 実際、アクセルは邪紋使いの中でも「影」と呼ばれる系譜の能力者であり、あえて部隊を率いずに単独で仕事をこなす必要がありそうな任務だとしたら、普通は彼の方が適任な筈である。ニーア一人に任せられる仕事があるとしたら、その怪力を生かした破壊工作くらいだろうか。 「まぁ、俺達は次の仕事場に行きますわ。命があったら、また会いましょうや、隊長」 「あぁ、お互いにな」 そう言って、彼女は部下達と別れ、一人、指定された合流場所へと向かって歩き去って行く。その手には、食いかけの昼飯が無造作に握られたままであった。 1.3. 咎人の仁義 パンドラ革命派は基本的には闇魔法師の組織であるが、その組織を構成している者達の中には、何の力も持たない一般人もいれば、彼等に協力する邪紋使いや投影体もいる。彼等の参加動機は様々である。革命派の反エーラム思想に共鳴した者もいれば、個人的な友誼や恩義に基づいて参戦する者もいるし、ただ単に「他に行き場がないから」という理由で、成り行きで加わることになった者もいる。 「革命」とは、必ずしも皆が同じ方向を向いた上で実現する現象では無い。厳密に思想を共有出来る者達だけの組織へと純化させたところで、世の中を変えることなど、いつまで経っても出来はしない。それ故に、革命派内においても「エーラムを打倒した後の新世界」の青写真はバラバラであるし、その下で戦う者達の意識も、決して統一されているとは言えない。だが、「革命」を起こすためには、それで良いのである。世の中を動かすためには「本来、力を合わせることが出来ない立場の人々」を、無理矢理にでも糾合する必要がある。だからこそ、彼等は呉越同舟のままでもひとまず「革命派」を立ち上げ、そして異なる理念を掲げる他のパンドラの勢力とも、「反エーラム」の一点のみを共通項として、一定の友好関係を保っていたのであった。 そんな中、革命派の本拠地である移動式住居の「一階」に存在する詰所において、下っ端の構成員達が不穏な噂話を交わしていた。どうやら、ここ数日の間に、アキレス近辺のパンドラの活動拠点が、次々と潰されているらしい。 「結局、ハンフリーが死んでも、状況は全然改善してねーよ」 「あれじゃねーか? ミオが、俺達の情報を漏らしたんじゃねーか? ったく、ろくでもねー女だな」 ガラの悪そうな一般構成員の男性達が、酒を飲みながらそんな話をしていると、詰所の隅で魔道書を読んでいた「フードを深く被った細身の男(下図)」が、本をパタンと閉じて机に置き、すっと立ち上がる。彼は腰につけている二本の細剣を床に突き刺し、そこに魔力を溜め込むと、その剣先が埋まった床から「細い植物の蔦のような何か」(以下、「蔦」と表記)が出現し、その男達に向かって地を這うように広がり、やがて彼等の足を絡め取っていく。突然のことに彼等が気付いた時には、その全身が完全に蔦に巻きつかれ、身動きが取れない状態になっていた。 「な、何しやがる、てめぇ!」 「男が、フラれた女の悪口を言うものでは無い。身の程が知れる」 フードの男はそう言い放った。実際、彼等は以前、ミオを口説こうと言い寄ったものの、全く相手にもされなかった者達である。 「べ、別に、フラれたから文句言ってる訳じゃねーし! た、ただ、俺は、あの女が生意気で気に入らなかっただけだし!」 「なれば、なおさら許せんな。ミオは我の窮地を救い給うた女だ。そんな理由で彼女の悪口を言うことは、我が許さん!」 そう言って、フードの男が彼等の耳元に細剣を突き刺そうとするが、その直前に、後方から一人の男の声が響き渡った。 「やめなさい」 アシュレイである。日頃は、このような場所に現れるような男では無いが、かつて「殺人鬼」と言われていた頃の悪名の高さから、下っ端の構成員達にもその顔は知られていた。 「元から、本気でやっていた訳ではない」 フードの男が、そう言って二本の細剣を腰に戻すと、男達は蔦から解放される。アシュレイは、ミオの陰口を叩いていたその男達をギロッと睨みつつ、フードの男にこう告げた。 「あなたに招集がかかっていますよ」 アシュレイは、そのことを彼に伝えるために、この場に足を運んだのである。要件は、彼と同じ「ミオ救出作戦」の会議への出席であった。 「承知した。どちらに行けば良い?」 「第3会議室です。一緒に行きましょう」 そう言われた彼は、アシュレイと並んでその詰所を出る。会議室へと向かう途中、徐々に冷静さを取り戻しつつ、隣を歩くアシュレイに一礼した。 「止めて頂いたこと、感謝する」 アシュレイはそんな彼に対して、あえて何も言わないまま、ポンポンと彼の肩を叩き、そのまま会議室へと向かった。 このフードの男の名は、アバン。そのフードの下には「長く尖った耳」が隠されている。彼の正体は「エルフ」と呼ばれる異界の投影体であるが、日頃はフードでその顔を隠しているため、その正体を知る者は組織の中にもほとんどいない。そして、その顔には「咎人の証」である刺青が彫られているので、日頃はそれも化粧でごまかしている。 彼は、この世界に投影される前から、荒みきった人生を送っていた。エルフ界において「咎人」扱いされている一族に生まれた後、両親に捨てられ、結果的にその後で一族そのものが滅んだことで、その一族の最後の一人となり、厳しい迫害の中で、教育も施しも受けることなく、たった一人で生きてきた。他人の喋る口の動きを見て言語を習得し、やがて自力で魔法の力を身につけたものの、他人とまともに交わることが出来ず、他人のぬくもりを欲しながら、一人孤独な生活を続けていたのである。 そんなアバンがこの世界に「投影体」として出現したのは、半年前のことである。当然のごとく、彼はこの世界においても「人との接し方」が分からない。当初、彼はこの世界では投影体が迫害されていることを知らずに、ありのままの姿で近くの村に入った結果、魔物扱いされて石を投げられて追い出された経験から、それ以降はフードでその耳を隠し、「この世界の住人」のフリをしつつも、相変わらず、孤独な人生を送っていた。 だが、そんな彼にとっての転機が訪れる。それが、ミオとの出会いであった。パンドラの一員である彼女は、投影体の中にも「人間に対して友好的な者達」がいることを知っている。彼女は任務の過程で偶然アバンと出会い、彼の正体を知った上で、彼のことを一人の「この世界の住人」として暖かく迎え入れてくれた。彼女は、この世界のことを何も分かっていなかったアバンに「世界はこんなに楽しいんだよ」と教えてくれた。そして彼女との付き合いで多くを学んだ彼は、彼女を追ってパンドラへと参加することになる。 なお、アバンは、パンドラと敵対している勢力の存在は知っているが、彼の中では、パンドラが世間から悪い目で見られているということは、あまり実感出来ていない。というのも、彼は元々、人々からの罵声を浴びせられ続けて育ったため、人々から罵詈雑言を浴びせられても、それを「挨拶」程度にしか認識出来ていないのである。彼にとって、パンドラは「自分を受け入れてくれた初めての組織」であり、ミオは「自分を救ってくれた恩人」である。だからこそ、ミオの救出作戦ということであれば、協力しない訳にはいかなかった。 2.1. 生き別れの姉 そんな二人が向かおうとしていた第3会議室では、彼等よりも先に到着した「オブリビヨンからの派遣傭兵」であるニーアを、パンドラ革命派の首領であるキラ・アッカーミヤ(下図上段)と、その側近のアンドロメダ(下図下段)が出迎えていた。 キラは、元来はエーラムの魔法大学において将来を嘱望されていた優等生であったが、やがて「皇帝聖印(グランクレスト)不要論」や「協会所蔵の知的財産の一般開放」といったラディカルな改革案を掲げる学生運動の指導者となったことで、教員達から「危険思想家」とみなされ、記憶剥奪の上での退学を命じられるが、エーラム内に潜んでいたパンドラの工作員の手によって、記憶を消される前に脱走に成功し、故郷のブレトランドへと帰還して、「パンドラ革命派」を結成するに至った。 なお、彼は元来は元素魔法師であるが、その左半身には邪紋が埋め込まれている。これは、元来は副官にして親友でもあったナッシュ・キャンサーの身体に刻まれていた「悪魔の模倣者」の邪紋であったが、彼の死後、パンドラの特殊技術により、その邪紋を自らの身体へと移植した結果、「魔法師にして邪紋使い」という特殊な異能者となったのである。 「ニーア殿、御助力、感謝する」 キラがニーアにそう言うと彼女は無造作に飯を喰らいながら答えた。 「構わねえよ、固くすんな」 そう言われたキラは、彼女が「そういう生き方の人間」だと理解した上で、対等な口調に切り替えて、本題に入る。 「お前の姉であるミオが、我々パンドラの仇敵である魔法師を討ち果たしながらも、運悪く敵に捕まってしまった。そこで、お前を呼んだということだ」 そう言われたニーアは、一瞬奇妙な表情を浮かべる。彼女には、確かに「生き別れの姉」がいる。だが、その姉に関する情報を、彼女は何も知らない。なぜ、姉の方が自分の存在を認知していたのか? 認知した上で、なぜ今まで自分に会いに来ようともしなかったのか? なぜ彼女が捕まった今、自分が呼び出されたのか? ニーアの中では理解出来ないことだらけであったが、ひとまず、彼女は「最初に確認すべきこと」を率直に問いかけた。 「へー、姉貴が捕まったんだ。で、あたしはどうしたらいいんだ? 姉貴を助ける方か? それとも、とどめを刺す方か?」 想定外の彼女のこの反応に、キラもアンドロメダも一瞬戸惑うが、すぐにキラが答える。 「ミオが我々の機密をもらすことはありえない。だから、とどめを刺すという選択肢は、最初からありえない。そもそも、殺すつもりなら、お前を呼ぶ必要もないだろう」 「そうかい」 ニーアはそう呟きつつ、何か意味ありげに下を見る。そんな彼女の態度に対して、隣にいたアンドロメダが思わず口を挟む。 「あんた、姉さんが捕まってるというのに、それでいいの?」 アンドロメダには、自分とそっくりな風貌の双子の姉がいる(なお、アンドロメダ自身は「男性」である)。彼はその姉に対して、偏愛と言っても良いほどの強い愛情を抱いているが(詳細はブレトランド戦記7参照)、そんなことをニーアが知る筈もない。ニーアは彼の言い方に強い苛立ちを感じながら、彼を睨みつける。 「逆に聞くけどよ、今までずっと一人で生きてきた人間が、『自分には家族なんていない』と思っていた人間が、急に『姉がいる』と知らされて、そいつに対していきなり『親愛の情』を持てると思うか? あいつが今まで、どんな活躍をしてきたのかは知らねえが、あいつがあったかい飯を食ってる間に、こっちは冷たい泥を食ってた。あいつがフカフカのベッドで寝ている間に、こっちは死体を枕に寝ていた。恨みこそすれ、親愛の情なんて、向ける意味はねえな」 そう言い放ったニーアに対して、アンドロメダは呆れた口調で言い返す。 「あんた、本当に何も知らないんだね、ミオのこと。あの娘はフカフカのベッドで寝てたりなんてしてないし、おそらくあんたの方がよっぽどいいモン食ってるよ。てか、少なくとも、食ってる量はあんたの方が絶対多いよ」 ミオが細身の引き締まった体型であるのに対し、ニーアは、身長こそ低いものの、体格的には少女とは思えぬほどの筋肉質な体型であり、その身体を維持するには、相応の「食事」が必要となることは、誰の目にも明らかであった。そして実際、今も彼女はアンドロメダの話を聞き流しながら、飯を喰らい続けている。 「確かに『量』には自信があるが、『質』がいいとは思えねえな」 「あの娘はね、この世界のために、自分の持てるものを全て捨ててきた。女としての幸せも全て投げ捨てて……」 「そりゃあんたの勝手な感傷だろ。あたしには意味がないことだ。あんたは仕事の話をすればいい。それはあたしの大事なメシの種だ」 そう言いながら大量の飯を平らげたニーアに対し、更に何か言おうとしたアンドロメダであったが、彼を遮るように間に入ったキラが、こう告げる。 「分かった。じゃあ、今はお前は何も分からなくていい。ただ、これだけは言っておく。ミオはずっと、お前に会いたがっていたぞ」 それに対して、ニーアは何も言わなかった。その直後、アシュレイとアバンが到着すると、キラは三人に簡単に自己紹介をさせた上で、作戦会議を始めるのであった。 2.2. 陽動と潜入 キラは三人に対して、ミオが捕まっているアキレスの地図を見せながら話を始める。 「ケネスは、ミオを公開処刑にすると言っている。おそらくこれは我々を炙り出すための罠だ」 「でしょうね」 アシュレイは淡々と応える。わざわざそのようなことを公言する理由は、他に考えられない。 「だが、それが罠だと分かった上で、ここで彼女を見捨てるという選択肢は俺達にはない。そこで、作戦を単刀直入に言おう。『お前達三人』以外の我々『主力部隊』は、これから報復として、ケネスの孫であり、次期ヴァレフール伯爵候補であるゴーバン・インサルンドの誘拐作戦を決行する。これは、あくまでも『陽動』だ。しかし、『我々がこの作戦を本気で決行しようとしている』という情報が、既に奴等の耳には届いている」 つまり、「ゴーバンを人質に取った上で、ミオとの人質交換に持ち込もうとしている」という誤情報を彼等に掴ませた上で、彼等の目をそちらに向かわせる、という策である。ケネス達は、仮にこれが陽動作戦であることを察していたとしても、無視することは出来ない。ゴーバンは彼等の旗印である以上、それをパンドラに奪われることだけは絶対に許してはならない以上、一定の戦力を彼の警護に割かねばならないのである。 「我々、革命派の主力部隊は、その誘拐作戦に向かう。その上で、『まだ奴らに顔が知られていないお前達』に、ミオの救出任務にあたってほしい」 アシュレイは後方からの支援任務が中心であったが故に、あまり表舞台に出たことがない。アバンはパンドラの内部の者達ですら殆どその素顔を知らない。ニーアに至っては、そもそもパンドラの人間ではない。確かに、潜入任務を果たすには適した人選と言えよう。 「今のところ、アキレスは厳戒態勢だ。外から入るのは難しい。だが、あの町には我々に協力してくれている市民がいる。その市民の家の地下に、ここから瞬間転移で繋がる魔法陣が設置されているので、そこを辿って街の中に侵入することは出来る。ただし、その魔法陣を通れるのは少人数が限界であり、部隊を率いて突入するのは不可能だ。そこで、少数精鋭部隊としてのお前達に任せたい」 ちなみに、ミオによって殺されたハンフリーは召喚魔法師であり、現在は彼の部下を中心とした「投影体部隊」が憲兵隊として町の警備にあたっている。ケネス傘下の騎士団の精鋭部隊は、現在のヴァレフール国内の冷戦状況(その原因はブレトランドの英霊6を参照)故に、「体制派」との決戦に備えて、両勢力の境界線の近辺に派遣されているため、アキレスの守りは彼等のような「非正規軍」に任せざるを得ない状態なのである(もともと、「パンドラ狩り」においては、一般市民の自宅へのガサ入れなどの「汚れ仕事」が多いため、あえてそのような「嫌われ役」を彼等にやらせてきた、という側面もある)。 今回のアシュレイ達の任務は、あくまでもミオの救出であり、まともに彼等の相手をする必要はないが、仮に遭遇してしまったとしても、各個撃破すればどうということはない。部隊として組織された兵団が相手となると、いかに精鋭と言えども三人では分が悪いが、指揮系統が混乱した状態での戦いに持ち込めば、十分に勝機はある。つまり、街中を守る憲兵隊や、牢獄を管理する衛兵達を、陽動部隊を利用しながら撹乱・分散させることで、極力正面衝突を避けるための戦術が必要となる。 その上で、問題は、牢獄に設置されているであろう鍵や罠を突破するにはどうすれば良いか、という点であるが、キラがその点についての説明を始めると、アンドロメダの陰から、一人の小柄な妖精の少女が姿を現した(下図)。 「ウチの名前はフェイエン。鍵開けのスペシャリストや。ただ、鍵開け以外は出来へんから、戦闘は期待せんどいてな」 どうやら彼女は、アンドロメダによって使役されている小妖精らしい。その口調が、彼女の一族の方言なのか、あるいは彼女固有の言い回しなのかは明らかではない。 「今みたいに、ウチは誰かの『影』の中に入り込むことが出来るから、とりあえず、隊長はんの『影』に入っておけばええかと思うんやけど、隊長はんって、誰?」 この時点で、まだそれは決まっていなかった。だが、キラは即座に決断を下す。 「アシュレイだろうな」 現実問題として、他に適任はいない。部隊指揮官としての経験に関してはニーアの方が豊富だが、オブリビヨンとしての彼女に出来ることは、「壊すこと」と「殺すこと」だけである。冷静な判断が必要となる今回の任務を任せられるのは、アシュレイ以外にはありえなかった。 「ほな、あんさんの影に入らせて頂きますわ。とりあえず、鍵穴の前まで来たら、呼んでな。大抵の鍵は開けられると思うけど、さすがに魔法の鍵とかになると、そうもいかんかもしれへん。そん時は、堪忍な」 そう言って、彼女はアシュレイの影の中へと消えて行く。魔法の鍵に関しては、解呪の魔法で無効化することも出来るが、アシュレイにはその能力は無い。とはいえ、いざとなったら扉ごとぶち壊せばいいだろう、とニーアは考えていた。 その上で、最後にキラは、魔法陣が設置されている家に住んでいる「協力者」についての情報を彼等に伝える。 「その家の主人の名は、リチャード・モア。以前はエーラムで魔術を学ぼうとしていたこともあるが、今はただの一般市民だ。最近、妻のキャンディスとの間に子供が生まれたばかりの若夫婦だから、迷惑をかけないようにな。戦いには巻き込むなよ」 アシュレイは、その男とは面識がある。学生運動時代に何度か顔を合わせた程度だが、誠実で真面目そうな男であった。妻はエーラム出身ではないが、夫の思想を理解して、自分たちに協力してくれているという。ここ最近、アキレス近辺においてパンドラの協力者達が次々と吊るし上げられていく中、それでも危険を冒して協力し続けてくれている彼等は、今のパンドラにとっては貴重な存在であった。 2.3. 恩義と報酬 「他に質問は?」 キラがそう言って周囲を見渡すと、アシュレイが問いかける。 「作戦指揮官として、一つ確認させてもらいたいのですが、最も優先すべきものは『彼女の命』ということでよろしいのですか?」 それに対してキラは、鋭い眼光でアシュレイの瞳を見つめながら答えた。 「そうだな。ただ、より正確に言うなら『彼女とお前達の命』だ。彼女を救出するのは、彼女が『功労者』だからではない。彼女が『俺達の仲間』だからだ、そして、お前達も『俺達の仲間』だ」 「分かりました、全力を尽くします」 アシュレイがそう言いながら微妙に笑みを見せる中、ふとニーアが手を挙げる。 「話の腰を折って悪いんだけどさ、てか、そもそもさっきの話の半分も理解出来てないんだけどさ、今回の作戦ってのは、要は『姉貴を助ける』って話なんだよな?」 何気なくニーアはそう言ったが、ここでアシュレイとアバンは思わずニーアを凝視する。彼女は先刻の自己紹介の際に、「オブリビヨンから派遣された傭兵」であることしか語っていない。アシュレイもアバンも、以前にミオから「妹がいる」という話を聞いたことはある。だが、彼女がもしミオの妹なら、普通、最初の自己紹介の時点で最初に話すべきことではないのか? 逆に、もしそのことを隠したい何らかの事情があるのなら、このようなタイミングで、ここまでサラッとあっさり話したりするだろうか? 二人がやや困惑している中、そのままニーアが語り続ける。 「派手に行動したらよ、姉貴の処刑が早まったりして、助けられなくなったりするんじゃねえのか?」 「そう、だから、そうならないように、素早くやってもらう必要がある。手筈としては、夜中に俺達がゴーバンの館を吸収し、その混乱の最中にお前達に牢獄に突入してもらう訳だが、その際に注意すべきことは……」 キラがそう言って作戦の詳細を説明しようとすると、それを遮るようにニーアが口を挟む。彼女が聞きたかった答えは、「それ」ではなかった。 「OK、OK、分かった、もう少し簡単に言おうか。作戦が成功したらとか、失敗したらとかじゃなくて、もし『不測の事態』が起きて、私達が全身全霊を尽くして、それでもなお姉貴が殺された場合、金はどうなるんだ?」 その言い分に対して、アンドロメダがピクッと反応して何かを言おうとしたが、横からキラが彼を制しながら答える。 「当然、金は支払う。その場合は、失敗するような作戦を立案した俺の責任だからな」 「OK。なら、言うことはない」 涼しい顔でそう言いのけるニーアに対して、アバンは小声で「チッ、金の亡者め」と吐き棄てつつ、真顔でニーアに言い放つ。 「この作戦の結果如何によって、彼女の運命が決するんだ。そのような態度はいただけない」 そう言って、アバンは腰の剣に手をかける。それに対して、ニーアはちょっと意外そうな顔を見せた。 「へぇ、そういうことを言う奴もいるんだ。お前、姉貴の何なんだ?」 「貴様こそ、ミオとはどういう関係だ?」 「どういう関係もねえよ、ただ知りてえと思っただけだよ、質問に質問で返すなよ。なぁ、兄弟、これから一緒に仕事をするんだ、お互いのことは知っておきたいとは思わねえか?」 ここで彼女が「二人称」として「兄弟」という言葉を使ったことで、アバンはかえって混乱する。もしかしたら、「姉貴」というのは実の姉のことではないのかもしれない、とアバンは思いつつ、ここで自分の立ち位置を隠す必要もないため、素直に答える。 「彼女は私の命の恩人だ。彼女があればこそ、今の私がある。恩人のために尽くすのは、『この世界』でも同じではないのか?」 そう言った直後、アバンは「この世界」と言ってしまったことに気付き、はっとした顔をする。彼は過去の諸々の経験から、見知らぬ者の前では「投影体」であることを極力隠したいと考えていたのであるが、ニーアは彼のそんな素振りを特に気にする様子もなく聞き流し、アシュレイに視線を向ける。 「へー。じゃあ、リーダーはどう思ってる?」 「どう、とは?」 「なんでこの任務を受けたのか。金のためじゃないとしたら、何なんだよ?」 「私はパンドラの人間ですから、指示があればその通りに動くだけですよ」 アシュレイは淡々とそう答える。それが、自分の本心を他人に知られたくないからなのか、彼自身が自分の本心を理解出来ていない(もしくは認めたくない)のか、あるいはただ単に、そう答えておいた方が無駄な言い争いにならなくて良いと考えたからなのかは分からない。だが、ニーアはその答えに対して満足した表情を浮かべる。 「OK、その方がいいな。シンプルで分りやすい。私からは、以上だ。出来ればこれ以上、難しい話は遠慮してもらいたいな。腹が減ってかなわん」 「そうですね。では、ミオ救出特殊部隊、アキレスに向けて出発することにしましょう」 アシュレイがそう言うと、ニーアとアバンは黙って頷く。キラは、「アキレスのリチャード宅へと繋がる魔法陣を開くための時空魔法師」は間もなく到着すると告げた上で、その前に必要な物品を用意しておけ、と伝えて去っていく。その傍らではアンドロメダが「ねぇ、キラ。本当にあのメンバーでいいの?」などと問い掛けていたが、キラは特段心配している様子はなかった。その根拠がどこにあるのかは分からなかったが、その「勝機」を独特の嗅覚で感じ取ることが出来ることこそが、彼がこの組織の長である所以なのかもしれない。 2.4. 調達と相談 キラとアンドロメダが会議室から出た後、三人が反対側の扉から外に出ようとした時、待っていたかのように彼等の前に、アタッシュケースを持った一人の男が現れた。ジェームスである。 「やっぱり、あんたらがその任務を担うことになったか。まぁ、ミオがわざわざ手紙を渡すほどだから、なんらかの『特別な関係』なんじゃないかと思ったがね」 ジェームスはニヤリと笑いながらそう言ったが、それに対してアシュレイが全く無反応であるのを確認した上で、素直に本題に入る。 「とりあえず、あんた達に餞別を渡したい」 そう言って、彼が左手に持っていた地球製のアタッシュケースを開くと、その中には「魔法薬」が敷き詰められていた。見た目はエーラム製の魔法薬と似ており、その中身もほぼ同じであるが、実際にはパンドラの魔法師達の手で作り出した「模造品」である。 「とはいえ、俺は楽園派の人間だからな。ここで横流し出来るのは『三つ』が限界だ。好きなのを選んで持って行きな。武運を祈っているぞ」 「横流し」ということは、楽園派か、他の派閥か、あるいはパンドラ外の交易相手の誰かが、この行為の結果として不利益を被ることになる訳だが、アシュレイ達としては、くれると言われた物を拒む理由もない。戦略的に、どの薬が必要となるか、アシュレイは三人の戦力特性を考えながら吟味し始める。 一方、戦略的なことはリーダーに任せれば良いと考えていたニーアは、その横で、おもむろに背伸びをしながら、アバンの肩に手をかけた。この時、身長差的に無理のある体勢であったが故に、アバンのローブが着崩れそうになり、フードが外れかかったが、アバンはそれを慌てて戻す。ニーアはそんなアバンの不自然な動きは一切気にせず、そのまま彼に語りかけた。 「なぁ、兄弟、怒らせたのなら悪かった。別に喧嘩を売ってる訳じゃないんだ。これから一緒に仕事をやる以上、仲良くやろうや」 「あ、あぁ、そうだな。私も少し嫌味な言い方をしてしまった。すまない」 「そう、仲がいいのが一番だ。その方が仕事はうまくいく。リーダー、頭を使うのは任せた。私をうまく活用してくれ」 ニーアにそう言われたアシュレイは、黙々と薬を選定し終えた上で、最終的に選んだ薬を二人に渡すと、ジェームスは満足した表情で去って行く。 そんな彼を見送りつつ、アシュレイは廊下を歩きながら傍らの二人に話しかけた。 「突入前に、敵の陣容などの下調べをしておきたいところですが……」 「もっと簡単な方法があるぜ。殴り込んで、そのまま真っ直ぐ行って、罠も壊して、姉貴を取り戻す。以上だ」 ニーアが得意気にそう言うと、アバンが呆れ顔で指摘する。 「我々は『少数精鋭』だぞ。力押しは効かん」 「ダメかー」 「少人数には少人数なりのやり方があるということだ。私は隠密には長けている。私一人ならば、先に忍び込んで、色々と諜報することも可能だとは思うが……」 アバンはそう主張するが、実際のところ、自分の「正体」を隠した状態のままでは、具体的な作戦立案は難しく、それ以上のことは言えない。アバンがそんな「歯切れの悪さ」を露呈しているのを目の当たりにしつつ、アシュレイは改めてニーアに問いかける。 「なるほど。では、あなたは?」 「私? じゃあ、新しいアイデアなんだけどさ、こいつが前の方でチョロチョロするんだろ? その間に私が真っ直ぐ行って、敵を倒して、罠も壊して、姉貴を取り戻して、終わり。完璧」 そんな彼女に対して、アバンは苛立ちを隠しきれない。 「貴様は、考える脳がないのか?」 「ダメかー」 ひとまず、ニーアには作戦立案も隠密工作も難しいらしい、ということを改めて実感しつつ、アシュレイはふと改めて彼女に問いかける。 「ところで、あなたはオブリビヨンの一員としては、顔は割れてるのですか?」 今回の潜入作戦は、基本的には「顔が割れていないこと」を前提とした人選であるが故に、あえて(血統的には「縁者」なのかもしれないが)組織的に「部外者」の彼女を採用したのであるが、そもそも「オブリビヨンのニーア」としての知名度如何では、作戦の立て方(戦力としての彼女の使い方)も変わってくる。 「そんなこともないと思うぜ。まだ入ってから、それほど日も経っていないしな」 実際のところ、「自分の知名度」というものは、本人にはよく分からないものである。ただ、彼女に限らず、オブリヨンの者達に関して言えば、その顔を見た者の大半は殺されているため、手配書のようなものが出回ることも少ない。 一方で、アバンは日頃からフードで顔を隠しているため、そもそも他人に顔を見せることが滅多にないので、素顔を知られていることはまずない。だが、アバンとしては、人前に堂々と素顔(主に耳)を晒す気はない。そして、パンドラの本部内ならまだしも、フードで顔を隠した男が街中を歩いていたら、それはそれで目を引いてしまうだろう。 そうなると、基本的には「市井に紛れる形での聞き込み調査」は難しい。出来れば、先に潜入した上で、街の状況を確認したかったところだが、アシュレイ自身も含めて、「偽装」や「聞き込み」が得意な人員はこの中にはいない。 実はアシュレイとしては、出来ればミオを奪回した後、もし敵に見つかったままの逃走となった場合、そのままリチャードの家へと飛び込むのは彼とその家族を危険に晒すことになるので、自力でアキレスの外へ逃走した方が良いと考えていた。そのために、街の中で外へと突破するのに適した警備の薄い地区がどの辺りになるかを確認したいと考えていたのである。 だが、この三人の中にそういった形での情報収集に長けた人物がいないのであれば、ひとまず、それについては現地に行ってリチャード本人に確認した方が良いだろう、という判断に至る。そのためには、夜の作戦決行時間よりも前に、少しでも早めに現地へと転移して、リチャードと接触して現地の情報を彼から聞き出す必要があるとアシュレイは判断し、ニーアとアバンもその方針を受け入れたのであった。 3.1. 潜入開始 こうして、まだ陽が落ちるよりも前に、アシュレイ、ニーア、アバンの三人は、革命派の本拠地から魔法陣を通じて、アキレス市内のリチャードの家の地下へと転送される。薄暗いその地下室に、階段を降りてくる足音が響き渡る。三人がそちらに目を向けると、そこには若い男性の姿があった。 「革命派の皆さんですか?」 その声に、アシュレイは聞き覚えがあった。紛れもなく、リチャードの声であると確信した彼は、一歩前に出て、廊下の上から入ってくる光の下に自身の身を晒す。 「お久しぶりです」 「これはアシュレイ殿、ご無沙汰しております。そちらの方々は初めてですね? リチャード・モアと申します。当初のお話だと、陽が落ちた後にこちらに来られると伺っていたのですが……」 「事前に、出来る準備はしておきたいと思いまして」 「なるほど、確かにそうですね。それでは、こちらへどうぞ」 リチャードはそう言って、三人を階段の上に続く「一階」へと案内する。だが、この時点で、アシュレイとアバンは若干の「違和感」を感じていた。この家の中に、リチャード以外の人の気配がしないのである。そして、家の中がそこはかとなく荒んでいる様子に見える。 一方、ニーアはそんな様子を全く気にもとめずに、本能のままに思ったことを口にする。 「腹減ったぁ。食いモン置いてねえか?」 「あ、すみません、ちょっと、その、今は、えーっと、どこにあったかな?」 そう言って、リチャードは台所を探そうとするが、どこか不慣れな様子に見える。思わず、アバンが問いかけた。 「リチャード殿、お主には確か妻と娘がいたのでは?」 「あ、は、はい、その、妻は、えーっと、今、じ、実家に、行ってまして……」 その様子は、明らかに挙動不審であるように思えたアシュレイは、更に問い詰める。 「では、その実家は何処に?」 「それは、その、隣町の、あ、そうそう、妻の父にですね、その、孫の顔を、見せに……」 明らかに、リチャードの目は泳いでいる。 「で、飯はどこだ?」 「あ、すみません、今、その、家内がいないので、どこに何があるか……」 「いいよ、自分で探すから」 ニーアはそう言いながら勝手に「家探し」を始める。そんな様子にリチャードが戸惑っているのを横目に、アバンはアシュレイに対して、「何か異変が起きているのでは?」ということを目配せで伝え、アシュレイは黙って頷く。 アシュレイの記憶にある限り、リチャードの妻のキャンディスはエーラムとは無関係の一般市民であるが、旦那の理念に賛同して積極的に協力してくれていた筈であり、夫婦仲も睦まじかった。二人の間で何らかの仲違いが起きたとは考え難い。本当にただの一時的な実家帰りの可能性も無くは無いが、リチャードの様子自体が明らかに不審である。 この状況下に置いて、アシュレイがどうしようかと迷いつつ、改めてリチャードを注視してみると、彼はリチャードの周囲から「何か奇妙な気配」を感じる。同様に、彼の様子を観察していたアバンは、その影の辺りに何かがいるような印象を受ける。そして、それまで何も気付いていなかったニーアは、突然、リチャードの影から、「アシュレイの影の中にいるフェイエン」と同じような気配が隠れているのを、本能的に感じ取った。 「キナくせえな」 ニーアはそう言いながら、リチャードを振り向く。 「テメェ、何を隠してやがる?」 「い、いや、隠すも何も、私は、皆さんを、その……」 シドロモドロな様子のリチャードに対し、ニーアが更に近付いていく。ようやく彼女も「何か」に気付いたと察したアバンはアシュレイに目配せして、二人はこっそりと「逃げ道」を塞ぐように立ち位置を変える。 すると、リチャードの影から突然、「明らかに投影体と思しき何か」が出現して、ニーアに襲いかかった。 (あれは……、ホブゴブリン?) それは、ティル・ナ・ノーグ界と呼ばれる異世界の住人「ゴブリン」の上位種と言われる種族である。その性質は凶暴で、通常は人間と共存出来る者達ではないが、何らかの契約あるいは脅迫によって人間(主に魔法師)に従属する者もいる。 そのホブゴブリンは巨大な棍棒をニーアに向けて振り下ろそうとする。しかし、それよりも先にアバンによって生み出された蔦がホブゴブリンの体に巻きつき、間髪入れずにアシュレイが瞬時に「幻想弓」を造り出して魔法の矢を放ち、ホブゴブリンの体に突き刺さった。それでも、ホブゴブリンは怯まずにニーアに対して棍棒で襲いかかるが、アバンが即座に二人の間に「水の壁」を造り出し、その衝撃を軽減する。 「サンキュー、魔法使い!」 ニーアはアバンに対してそう言うと、邪紋の力で異界の大剣を腕と一体化させた上で、ホブゴブリンをその大剣の一振りで真っ二つに斬り裂いた。 ちなみに、アバンが用いたのはエルフ界の魔法なので、彼はこの世界で言うところの「魔法師(メイジ)」ではないが、彼のことを「魔法使い」と呼ぶのは、間違いではない(もっとも、ニーアの知性では、そもそもそのような細かい違いなど理解出来ないであろうが)。 3.2. 異形の憲兵隊長 ホブゴブリンが倒された直後、リチャードは腰が抜けたようにその場に倒れ、困惑しながらも、土下座のような体制で頭を床に擦り付ける。 「申し訳ございませんでした!」 それに対して、アバンはフードの奥から鋭い視線を向ける。 「どういうことか、説明してもらおうか?」 「実は、私の正体が憲兵隊に発覚し、妻と娘を連れ去られてしまいまして、『パンドラの者達が来たら、罠に嵌めるように誘導しろ』と言われておりました」 つまり、今のホブゴブリンは、リチャードを命令通りに行動させるための「監視役」として、彼の影の中に潜っていたらしい 「また『家族』か!」 ニーアは苦虫を噛み潰したような表情でそう叫びながら、拳を壁に叩きつける。その直後、すぐに冷静さを取り戻し、二人に問いかける。 「こいつのこと、どうする?」 今の話を聞く限り、リチャードは家族を人質に取られてやむなく敵に協力していた、ということになるが、その話が本当かどうかは分からない。また、仮に本当だったとしても、組織を裏切り、自分達を罠に嵌めようとしていたことは、紛れもない事実である。リチャードはそのことを自覚した上で、彼らに対してこう言った。 「近辺の仲間の居場所を奴らに密告したのは俺です。だから、俺のことは裏切り者として処分してくれていい。でも、妻と娘だけは、助けては頂けないでしょうか? 二人を連れて行ったのは、浅黒い肌をしたエルフで、『ナブリオ』という名の、この辺りの区画を取り仕切る憲兵隊のリーダーです」 ナブリオという名前には、アバンはエルフ界時代に聞き覚えがある。エルフの中でもダークエルフと呼ばれる一族の一人で、姑息で、残忍で、身勝手で、非常に評判が悪い男であり、エルフ界の中において嫌われやすい存在であるダークエルフ一族の評判を、更に悪くしているような男であった。 アシュレイ達は彼の話を聞きながら、部屋の周囲を確認するが、今のところ、特に誰かが潜んでいるような気配は感じられない。どうやら、見張りはこの倒されたホブゴブリンだったようである。故に、おそらくこのホブゴブリンの死(それに伴うリチャードの再造反)はこの時点では敵には発覚していないと思うが、彼等が何らかの形で定期的に連絡し合っていたのであれば、このまま放置しておけば、いずれはこの状況が敵に伝わることになるだろう。 「とりあえず、私達をどう罠に嵌めるつもりだったのか、聞かせて下さい」 アシュレイのその問いに対するリチャードの返答によると、憲兵隊としては「パンドラの者達に『牢獄に案内する』と伝えた上で、憲兵隊の待ち受けているところに連れて行って、不意打ちで一網打尽にする計画」だったらしい。 「つまり、こちらの動きはバレているということか。ならば、力技で行くしかないな」 アバンがそう言うと、ニーアは自分の出番とばかりに嬉しそうな表情を浮かべる。そして、アシュレイも同意した。 「ここは、早めに動いたことが幸いしたようです。向こうが準備を整える前に、奇襲をしかけましょう」 そう言った上で、彼はリチャードにこう言った。 「すみませんが、あなたを処罰する代わりに、この件をパンドラに伝えて下さい。上空空襲部隊も対策を練られているかもしれませんし」 「上空空襲? それは何ですか?」 「分からないならいいです。とにかく伝えて下さい。それが伝わってなければ、次会った時にあなたを殺します」 「わ、分かりました」 そう言って、リチャードは地下室の魔法陣を通って、革命派の本部へと向かおうとするが、それに対して、ニーアが不機嫌そうな顔で異論を述べる。 「待てよ、アイツが裏切ったらどうするんだよ? また妻子可愛さにパンドラを罠に嵌めようとするかもしれないぞ」 だが、アバンとアシュレイはその可能性を否定した。 「見たところ、そこまで策謀を巡らせられる奴でもないだろう」 「正直、裏切らない確信はないですが、もともと危ない橋を渡っているのです。ここで更に危ない橋を渡るくらい、どうということはないですよ」 その言い分に対して、ニーアはまだ不服そうである。確かに、リチャードが裏切るという確信がニーアの中にあった訳ではないが、逆に言えば、この状況下において、リチャードを殺さないことにメリットがあるとも思えなかったのである。 「リーダーがやらないなら、私がやってもいいぜ。リチャードを始末して、不安要素を排除してから、牢獄に突入すべきじゃねーか?」 「その時間も惜しいだろう。コイツがどこまで正確に事情を伝えてくれるかは分からないが、最悪、コイツを送りつけることによって、こっちの異変を本部が察知してくれればそれでいい」 アバンは冷静にそう答える。実際のところ、ここで彼がパンドラの本部に行って誤情報を伝えたところで、当初の予定とは異なる状況が発生していることはすぐに分かるのだから、本部の人々がそのまま言うことを鵜呑みにするとも思えない。 ニーアはその説明に対して、ひとまず納得させられつつも、どこか不機嫌な様子で、近くにあった食卓を蹴り飛ばした。 「まったく、どいつもこいつも!」 ニーアは混乱していた。彼女は、ここにいる者達が皆、「自分の生存」以外のことばかり考えていることが理解出来なかったのである。 「わりぃ、とりあえず、頭は冷えた」 どうやら彼女は、熱しやすく冷めやすい性格らしい。そんな彼等のやりとりを見ていたリチャードは、ここでふと思い出したかのように彼等に付言する。 「おそらく、ここに魔法陣があることを知っているのは、ナブリオ隊だけだと思います。奴はこの機にパンドラの人々を捕らえて、手柄を立てようとしていたので……」 その説明に対して、今度は真っ先にニーアが納得した表情を見せる。 「なるほど。手柄を独り占めするために、上には言ってない可能性もあるのか」 ニーアはこれまでの人生経験から、そのような利己的な人間の感性はすぐに理解出来るらしい。そしてアバンもまた、エルフ界におけるナブリオの言動を思い返してみると、確かにその説明には合点がいくように思えたがのだが、自分がエルフだということを明かしたくない以上、そのことを口にする訳にはいかなかった。 「信用してもらえるかどうかは分かりませんが、俺は憲兵隊の場所も知ってます。アイツらは、俺が完全に屈服していると思ってるから、皆さんが憲兵隊を出し抜こうと思っているのであれば、何か俺に命じてくれれば、今からでも皆さんのために協力はしたい。その上で、俺の処分は好きにしてくれればいい」 リチャードがそう言ったのに対し、ニーアとアバンは黙ってアシュレイを見る。もし、本当にまだ敵の本部にこちらの情報が伝わっていないのであれば、ここで立てるべき作戦もまた変わってくる。 「とりあえず、ナブリオの存在は厄介です。まずは、彼をどうにかしましょう」 こうして、彼等はリチャードの処分を後回しにした上で、ここで一計を案じることにした。 3.3. 反撃の一手 それからしばらくした後、リチャードが憲兵隊の本部から、ナブリオを自宅へとつれて来た。リチャードは、床に広がる(ホブゴブリンの)血痕の横に、縄で縛られた状態でニーアが倒れている様子を、ナブリオに見せる。 「おぉ、よくやった、よくやった。ん? そういえば、アイツはどうした?」 アイツとは、ホブゴブリンのことであろう。それに対して、リチャードはニーアを指差してこう告げる。 「今は、そいつの影の中に入っています」 そう言われたナブリオが、屈んでニーアに近付こうとした瞬間、縛られた状態のニーアの身体の邪紋の中から大剣が出現し、彼女はロープを引きちぎり、そのまま彼女はその大剣でナブリオに斬りかかろうとする。 だが、彼女の刃が彼を引き裂くよりも先に、勝負は決した。彼女が剣を振り上げたと同時に、ナブリオの足元から突然現れた蔦が彼の体を縛り上げ、その直後に家具の影から放たれた魔法の矢で体を貫かれた結果、ナブリオは、何が起きたのか分からないような表情のまま、その場に崩れ落ちたのである。 「やれば出来るじゃねーか」 ニーアがそう言って剣を収める一方で、ナブリオは倒れた状態のまま苦悶の表情を浮かべつつ、必死に声を絞り出す。 「リ、リチャード! これは一体、どういう……」 「貴様は、罠に嵌められたのだ」 そう言って部屋の物陰から現れたのは、アバンである。それと同時に、反対側からアシュレイも現れる。 「聞き覚えがあるな、その声……」 ナブリオがそう反応したのに対し、アバンは吐き捨てるように呟く。 「チッ、同族の面汚しが」 彼は小声で言ったつもりだったが、その声は周囲の者達全員に伝わっていた。 「そうか、あの呪われた『白き子』か」 ナブリオが納得した表情を浮かべる一方で、アバンはアシュレイに対して進言する。 「リーダー、こいつは殺してしまっても構わんだろう」 「そうですね」 アシュレイはそう呟きながら、チラッとナブリオを見る。 「ま、待て、お前達の要求は何だ? 俺に出来ることならば、何でも協力はする。お前達の悪いようにはしない!」 それに対して、ニーアは大剣を掲げながら問いかけた。 「とりあえず、こいつの家族はどこにいるか教えてもらおうか?」 「ウチの憲兵隊の詰所の地下室の一角だ。階段を降りて、左から二番目の扉の奥にいる。鍵は俺が持ってる。俺の懐の中にある。だから……」 「そうか、それさえ分かればいい。私はもうお前に用はない」 ニーアはそう言って、いつでも大剣を振り下ろせる体勢に入る。 「そ、それでお前達はそもそも一体……、そ、そうだ、思い出した! お前達、『あの女』を助けにきたんだろう!?」 「あの女」とは、ミオのことであろう。ここは、あえてこのままナブリオに勝手に喋らせておいた方がいいだろうと判断したアシュレイは、あえて何も答えずに放置する。 「俺を助けてくれるなら、重要な情報を教えてやる!」 アシュレイが黙っているので、ひとまずアバンが応答することにした。 「まぁ、聞いてやろう」 「あの女、今はもうあの牢獄にはいないぞ」 「では、どこに?」 「アイツはなぁ、色仕掛けで看守を籠絡しやがったんだ。今は看守の私宅で囲われている。今、牢獄にいるのは、看守が用意した、アイツの偽物だ」 この言い分に対して、ニーアは肩をすくめながら口を開く。 「やっぱりな、ただじゃ死なねえ女なんだよ、あいつは。助ける必要なんか、初めから無かったのさ」 今のニーアが何を思ってそう言っているのか、ナブリオに推測する余裕は無い。彼は構わず、そのまま喋り続けた。 「その看守の男は、カナールという奴なんだが、今はそいつの家で、しっかりすっぽりな関係ってやつよ。ったく、あんないい女を独り占めしやがって。自分が捕まえた訳でもないのに」 下衆な本性を隠そうともせずに、ナブリオは更に説明を続ける。 「あの女が、このまま『こっち側』に寝返るつもりなのか、それとも、隙を見て寝返ろうとしているのかは分からん。ただ、あの女には『劫罰の首輪』が嵌められている。その鍵をカナールが持っている限り、奴から逃げることは出来んだろう」 「劫罰の首輪」とは、エーラムが産み出した罪人用の首輪である。持ち主が「締まれ」と念じると締まる仕組みであり、それを解除することが出来るのは、エーラムの中でも相当に高位の魔法師のみであると言われている(詳細は『グランクレスト・リプレイ ノートリアス 霧覆う魔境の島』参照)。 仮にナブリオが言っていることが全て本当だとして、そのカナールという看守が、現状、どのような思惑で彼女を囲っているのかは分からない。楽しむだけ楽しんだ上で殺すつもりなのかもしれないし、何らかの形で彼女を処刑したように見せかけた上で、このまま密かに自分の愛妾として囲い続ける策があるのかもしれない。あるいは、彼女に完全にパンドラを裏切る気がある、とカルーナが判断したのであれば、パンドラ壊滅に協力することを条件に、彼女の助命をアキレスの領主であるケネスに願い出る可能性もある(ケネスがそれを受け入れるかどうかは不明だが)。ただ、少なくとも今の時点では、看守であるカナールの個人的な私欲に基づく独断で彼女を連れ出しているだけだろう、というのがナブリオの憶測であるらしい。 「正直言えば、俺はあの女のことはどうでもいいと思ってる。俺をこの世界に呼び出したのはハンフリーの旦那だし、俺達は旦那の下で好き勝手やらせてもらった。だが、旦那が殺されたところで、別にそれほど困っている訳でもないし、この国自体にもそれほど執着がある訳でもない」 そう言った上で、ナブリオは媚びるような視線でアシュレイを見上げる。 「だから、今からアンタ達が俺を雇ってくれるなら、それなりに役に立つぜ。少なくとも、こんな、女房を取られて敵の言いなりになるような腰抜けよりは、よっぽどな」 これに対して、アシュレイは懐からナイフを取り出し、アバンに手渡そうとするが、アバンはそれを固辞する。 「そのナイフは必要ない。私にはこれがある」 アバンはレイピアを引き抜き、一閃と共に、ナブリオの首を胴体から斬り落とした。 「クッ、貴様らのような存在が……!」 アバンがそう吐き捨てるのをニーアは微妙な表情で眺めつつ、彼女は二人に対して問いかける。 「なぁ、もういいんじゃねーか?」 「何がだ?」 アバンに問い返されると、ニーアは呆れたような、あるいは怒りをかみ殺しているような口調で答える。 「姉貴はもう牢から出てて、これから先も上手いことやってくんだろ? アイツは昔からそういうヤツなんだよ。何が『会いたい』だ、ふざけやがって」 ニーアは、自分自身が何に対して怒っているのかもよく分からないまま語り続けた。 「もうさ、姉貴は誰にも殺されねーよ。アイツはアイツで、上手いことやれるよ。寝返ったなら寝返ったで、『上』にそう報告すればいいだけだろ? もうこんなくだらないことに命を使ってられるかよ。このままリチャードの家族を助け出して、それでハッピーエンド。とっとと帰ろうぜ」 言いたい放題言うニーアに対して、アバンはまともに反論しても無駄だと判断し、「彼女の価値観」に合わせて忠告する。 「それでは、お前に報酬は入らないと思うがな」 「じゃあ、いいよ。報酬はいらねぇ」 その反応に対して、今度はアシュレイが意外そうな顔を見せる。 「ほう?」 「もう関わってらんねーんだわ。これ以上、私の人生に関わってくるんじゃねーよ、あの女。クソ鬱陶しい」 そんな個人的な感傷に捉われているニーアをひとまず放置した上で、アシュレイはアバンに対して問いかける。 「どう思いました? 今の話を聞いて」 「まず、個人的に言わせてもらえば、この男の言うことは信用ならない。だが、下手な嘘をつけば殺されてしまうような段階で、嘘を言えるようなタマでもないだろう。確かに、ミオは今は看守の元にいるのかもしれない。だが、さっきの話はあくまで、あのゲスの視点から見た上での話だ。ミオが自ら望んでそいつに従っているとも限らんだろう。ましてや、そのような首輪を付けられているのであれば、何を命令されても、逆らうことは出来ない。助けるべき状況であることには何も変わらないと思うが……、私はあくまで、リーダーに従うだけだ」 「そうですね。私も、まだ判断するには早いと思います。作戦は続行します」 作戦指揮官がそう言ったのに対し、ニーアは視線を逸らしながら答える。 「そうかよ……」 「作戦がある以上は、従ってもらう」 アバンがそう言ったのに対し、横からアシュレイが口を挟む。 「それは隊長の台詞です」 「これは失礼した」 「クソ鬱陶しい……」 ニーアは露骨に不機嫌そうな顔を浮かべながらも、それ以上は何も反論しない。そして、三人がそんな会話を交わす中、それまで口を挟んで良いものか分からず黙っていたリチャードがおもむろに口を開いた。曰く、もともとミオ救出のための下調べをしていた彼は、看守であるカナールの私宅の場所も把握しているらしい。この状況下において、彼が裏切る可能性は限りなく低いと判断した彼等は、素直に彼からその位置を聞き出すことにした。 3.4. 作戦指揮官の判断 リチャードからカナールの私宅に関する情報を聞き終えたところで、今度はアシュレイがアバンに再び問いかける。 「ところで、アバンさん、先ほどの方とはどのような御関係で?」 「同族」と言っていたのを、アシュレイは聞き逃していなかった。それに続けて、ニーアも思い出したかのように口を開く。 「あの『耳長』か」 それに対して、アバンは諦めたような口調で答えた。 「そうだな……。出来ることなら、私のことは伏せておきたかったんだが、さっきの話を聞かれてしまっていたのであれば、仕方ない」 そう言って、彼はフードを外し、その下に隠されていた長い耳を露わにした(下図)。 「私は見ての通り、この世界の人間ではない。奴と同じ『エルフ』と呼ばれる一族だ。その中でも、私は奴と同じような『浅黒い肌の一族』に生まれたのだが、なぜか私だけ、このように肌の色が違ってな。そのせいで、物心ついた頃には捨てられていたんだ」 結果的に言えば、彼は捨てられたことによって彼はその一族の滅亡時に命を落とさずに済んだ訳だが、ここで、ピクッとニーアが反応する。アバンが天涯孤独の身であることを知ったことで、どこか自分と通じるものを感じたのかもしれない。 そして彼は、自分がこの世界に投影されてからも「人との接し方」が分からぬまま苦悶の人生を続け、その先にミオと出会って救われるまでの経緯を語った上で、改めて自分の姿をよく見えるように二人の前に晒す。 「奇特な外見だろう? この化粧の下にも、醜い『罪人の印』が隠れているのだ」 そう言い終えた彼に対して、アシュレイは軽く微笑みを見せる。 「相変わらず、お人好しですね、あの人は」 「リーダーも、ミオに助けられたクチなのか?」 「まぁ、そんなところです」 そんな二人の会話に対して、ニーアは驚いた表情を見せる。 「姉貴が、お前らを助けたのか?」 「昔、ちょっと、人生の目標を見失ったことがありましてね。その時に、色々と優しくしてもらいました。本当に彼女は、私の恩人です」 「ミオ殿は、やはり、どこまで行ってもミオ殿なのだな」 二人がそう言って笑顔を浮かべると、ニーアは彼等に対して、真顔で問いかけた。 「なるほど、お前らが、なんでこの依頼に対して協力的なのかがよく分かった。だが、アイツがお前らが思ってるような女じゃなかったら、どうする? たとえばアイツに、生き別れの妹がいて、十何年も迎えに来ようとも、探そうともしなかったような女だったら?」 その言い方から、それが(少なくともニーアの中では)「たとえ話」ではないことは、アシュレイにもアバンにも容易に想像がついた。二人がそれに対してどう答えるべきか言葉を選んでいる間に、ニーアは畳み掛けるように言葉を重ねる。 「ろくでもないヤツだよ、お前らが思ってるような女じゃない。それだけは間違いない。今だって、捕まったフリして寝返ったり。人の恩義なんか一つも考えていないような奴だ。期待した分、後で私達が割りを食うだけだぞ。それでも命なんか賭ける覚悟なんてあるのか? 自分の生存以上に、あの女の命が大事か?」 「私はあの時、彼女に声をかけられていなかったら、今生きてはいない」 「彼女がどのような人であれ、私が助けられたのは事実です。それだけは確かですよ」 二人がはっきりそう答えると、ニーアは悟ったような表情を見せる。 「そうか、じゃあ、さっきの『やめる』って話はナシだ。なおさら確かめたくなった。お前らのことは助けたくせに、なんで私のことは助けなかったのか」 実際のところ、その辺りの事情に関しては、アシュレイもアバンも詳細を知らない以上、なんとも言えない。とはいえ、ニーアが救出に対して再び前向きな姿勢に転じたのであれば、彼等としても、今は何も言うことはなかった。 「まずは、さっさとリチャードの家族とやらを助けることにしようか。アイツも、自分の生存よりも家族の方が大事だと思っているらしいからな」 ニーアがそう言ったところで、アシュレイは二人に対して一つ提案する。 「その件ですが、リチャードさんには申し訳ないですが、一つ小細工をしたくなってきました」 「ほう?」 「リーダー、あんまりエグいのはナシだぜ」 ニーアがどこまでエグいことを想像していたのか不明であるが、それに対してアシュレイは淡々と説明を続ける。 「いえ、大したことではありません。ただ、救出のタイミングをギリギリまで遅らせたいだけです」 「詳しく聞かせてもらえるか?」 アバンがそう問うと、アシュレイは頷きながら詳細を語り始める。 「少数精鋭部隊としての特質を活かしたいのです。そのために、今すぐにではなく、空襲部隊が決行するタイミングまで待った上で、リチャードさんの奥さんと娘さんをまず助けます。こちらは、指揮官のナブリオがいないので、あっさり終わるでしょうが、すぐに騒ぎになることは間違いありません。しかし、むしろこれを呼び水とした上で、屯所に人を集めさせた上で、その隙にカナールの私宅を狙います」 つまり、リチャードの家族救出という想定外のミッションを、本命のミオ救出のための布石として利用させてもらう、という作戦である。 「逆にここで急いでリチャードさんの家族を救出しに行くと、我々が中に侵入しているという事実だけを敵に知らせることになります。一時的に敵を混乱させることにはなるでしょうが、我々が作戦を決行する夜の時点で警戒が厳しくなっている可能性があるでしょう」 その説明を聞いたニーアは、自分にはそれが適切な作戦かどうかを判断出来ないと考え、隣のアバンに問いかける。 「耳長は、どう思う?」 「その言い方はやめてほしい。私がこんな容姿であることは、本来ならば誰にも知られたくなかったのだ」 「そうかぁ? カッコいいと思うけどな」 そう言われたアバンは、目線をそらしながらフードを被り直す。 「そう言ってもらえるのは嬉しいがな」 二人がそんなやりとりをしている中、アシュレイは話を続けた。 「ただ、この作戦には一つだけ穴があります。リチャードさんの奥さんと娘さんが、その間に殺されてしまう可能性がある、ということは問題です」 人質として監禁している以上、ナブリオの命令がなければ、部下達は彼女達を殺すことは出来ないだろう。だが、ナブリオがリチャード宅から戻ってこないことに対して、憲兵隊の者達が異変を感じたならば、その時点で何らかの作戦変更が起きる可能性はある。とはいえ、そこであえて人質を殺す必要があると彼等が判断するに至るとも考え難い。少なくとも、ナブリオの生死が確認されるまでは、独断で殺すことは出来ない筈である。 とはいえ、ナブリオがなかなか帰ってこないことに対して、部下達が不審に思って、リチャード宅に足を運ぶ可能性はある。その点に関しては、リチャードに「もう既にホブゴブリンと一緒に、捕虜を連れて帰った筈」などと言ってごまかしてもらうしかないだろう。リチャードの本音としては、一刻も早く妻子の救出に向かってほしいところではあったが、そこまで要求出来る立場ではないことは彼自身がよく分かっていた。そうなると、今の彼に出来ることは、ナブリオがまだ生きていると憲兵隊に思わせるような「演技」を心がけることしかない。 一方で、アシュレイとしては、看守であるカナールの家に本当にミオがいるかどうかを確かめたい、という思惑もある。そこで、ひとまずアシュレイ達三人は、作戦決行の前に、リチャードから聞いた「カナールの私宅」を調査することにした。アシュレイがニーアの傷を魔法で治療し、気付け薬で精神力も回復させた上で、三人は人目につかない道を選びながら、現地調査へと向かう。 3.5. 気まずい再会 リチャードの指示通りに三人が街の一角へと向かうと、看守のカナールの私宅と思しき建物を発見する。少しずつその建物へと三人が近付いていく過程で、アシュレイは微かに開いた一階の窓から見える部屋の奥に、一人の女性らしき姿を発見した。完全に特定出来るほどはっきりと見えた訳ではないが、そのシルエットはミオに似ており、その首には「首輪」らしきものが嵌められていた。 「リーダー、何か見えたのか?」 アバンがそう問いかけると、アシュレイは小声で答える。 「それらしき人影が見えました。とりあえず、私はもう少し近付いてみます。もし、見つかったら、私に構わずこの場から立ち去って下さい。いざという時に追手を撒くには、私も一人で逃げた方が都合がいいです」 実際、応戦するならばともかく、逃げるだけなら一人の方が逃げやすいとも言える。ただ、それは相手が「撒ける程度の追手」だった時の話であり、状況によっては応戦せざるをえなくなる可能性もあるだろう。その場合は、どう考えても三人の方が適切である。その選択肢を最初から排除して良いかどうかは微妙な問題だが、まだ作戦の序盤段階である以上、今は極力、衝突は避けたいところではある。 「水臭いこと言うなよ、と言いたいところだが、私も自分の生存の方が大事なんでな」 ニーアがそう言ったのに対し、アバンは別の選択肢を提示する。 「私であれば、魔法を使えば身を隠して近付くことも出来なくはないが……」 アバンの用いる「エルフ界の魔法」は効果の割に精神力の消耗が激しい。そのことを知っているアシュレイは、ここは力を温存するように伝えた上で、やはり自分一人で近付くことにした。 彼が窓の内側をはっきり覗ける位置まで近付くと、その女性が明らかにミオであることを確信する。その部屋は寝室で、彼女はベッドの横で鎖に繋がれて拘束されていた。その周囲に人はいないようだが、エーラム出身のアシュレイが知る限り、劫罰の首輪は、その場にいない状態においても「ここから動くな」といった形での命令を下すことが出来る(それに逆らった時点で、首が締まる)ため、この状況から連れ出すのは、どちらにしても難しいだろう。 アシュレイが窓をノックすると、それを見たミオは驚愕し、それに続いて、困惑と気まずさの折り混ざったような表情を浮かべつつ、窓際に近付いてくる。 「今晩、救出に来ます。準備をお願いします」 アシュレイは、窓越しのミオに伝わる程度のギリギリの小声でそう言った上で、すぐにそこから立ち去ろうとする。 「ま、待って。手紙は、届いてないの?」 「手紙は見ました。『私の好きに生きるように』と書いてありましたので」 特に悪びれる様子もなくアシュレイがそう言うと、ミオは諦めたような顔を浮かべる。 「そっか……。私がそれに対してどうこう言える立場じゃないわね。でも、私がここにいることに気付いたということは……」 そこまで言いかけてから、ミオは目線をそらす。 「ごめん、一つだけ言わせて……」 少し間を空けてから、彼女は若干頬を紅潮させながら言った。 「あなたには、知られたくなかった」 様々な意味での「羞恥」の感情が込められたその言葉から、アシュレイは彼女の状況を概ね察しつつ、それと同時にアシュレイの中で「よく分からない感情」が湧き上がってくる。だが、この時点では彼にはまだ、その自分の感情の正体が、よく分かっていなかった。 「必ず迎えに来ます」 彼はそう告げた上で、その場から去り、二人の元へと戻る。 「姉貴はどうだった?」 「やはり、劫罰の首枷の効果で拘束されているようなので、先にカナールが持っている『鍵』を回収する必要があります。我々は救助に行く、ということは伝えたので、やるだけのことはやってくれるでしょう。彼女は一流ですから」 それ以上の会話の内容は、アシュレイは伝えなかった。特に秘匿する必要があると感じた訳ではなかったが、伝える必要があるとも思えなかったようである。 「OK、じゃあ、あたしらはあたしらの仕事をしようか」 「そうだな」 「はい」 その後、アシュレイとニーアは一旦帰還する一方で、アバンがしばらくそのまま精霊の力を用いてその場を確認していると、中年の騎士風の男が家に入ろうとするのが見える。家に到達するまでは疲れたような表情を見せていたが、家に入る瞬間、下卑た笑いを浮かべながら中に入って行った。アバンはその様子を舌打ちしながら確認しつつ、ひとまず合流してアシュレイにその旨を伝えるのであった。 3.6. 逆襲の狼煙 陽が落ちて、夜となり、彼等はリチャードから聞いた情報を頼りに、ナブリオ隊の詰所へと辿り着いた(なお、それまでの間に、憲兵隊がリチャード宅に確認に来ることはなかった)。 「ようやくウチの出番やな」 そう言って、アシュレイの影からフェイエンが出てくると、彼女はあっさりと鍵を開け、再び影の中へと戻る。三人が中へ入ろうとすると、内側から兵達の声が聞こえてきた。 「おっせーなぁ、隊長。何やってんだろうなぁ、まったく」 「なぁ、もういい加減さぁ、あの女ヤッちまわね? どうせ任務が終わったら、旦那共々殺しちまうんだしさぁ」 「でもなぁ、『任務が終わるまで楽しみに取っとけ』って隊長言ってたからなぁ」 そんなやり取りをしていると、突然、彼等の足元から蔦が現れて、その身を縛り上げる。まだアシュレイは攻撃命令を出していなかったが、アバンが独断先行で魔法を放ったのである。そして、アシュレイはそれに対して、特に止める気も咎める気もなかった。 「な、なんだこれ!?」 「敵襲? 敵襲か!?」 その攻撃を逃れた者達が外へ逃れようとするのをアシュレイが幻想弓で射掛けて、間髪入れずにニーアが大剣を振り払った結果、一瞬にしてその場にいた兵達は殲滅される。まだ他の場所に彼等の仲間が残っている可能性を考慮しつつ、ひとまず彼等がそのまますぐに詰所の地下室へと向かうと、そこには妙齢の女性と、幼子の姿があった。女性は困惑しながらも、すぐに状況を把握する。 「パ、パンドラの皆さん、ですよね? 夫は、夫は無事なんでしょうか?」 そう問われた三人であったが、答えたのはその中の「パンドラではない者」であった。 「あんたの旦那は、家で待ってる。とっとと行ってやりなよ」 「あ、ありがとうございます!」 そう言って、彼女は幼子を抱いてその場から走り去っていく。その様子を確認した上で、アシュレイは詰所にあった油を見つけると、それを屯所にかけた上で、火をつけた。すぐに火は建物全体へと伝わり、大きな煙が立ち込める。 「どうした!?」 「何があった!?」 周囲の人々が混乱し、警備兵達が集まってくる。この時点で、彼等は街の中に「潜入部隊」がいることに気付くが、まもなく空襲部隊が到着する筈である。その時点で、彼等は「潜入部隊」が囮で、空襲部隊が本命であると誤解するだろう。この街の兵達は、この時点から、アシュレイの手のひらの上で踊り始めることになる。 3.7. 異界の飛空艇 その頃、アキレスの上空には、五機の「謎の飛行物体」が近付きつつあった。それらは「女性の上半身のような姿」を形取った奇妙な飛空挺である。当然、本来のこの世界の産物ではない。異界からの投影体である。 それぞれの「船」の中には、パンドラ革命派の急襲部隊の者達が乗り込んでいた。彼等はここから、異界の投影装備を用いて、降下作戦を開始する予定であった。 その中の一つの船に乗り込んでいたアンドロメダは、その船の「船長室」に相当する区画にいた、一人の巻き髪の少女に声をかける。 「今回は、協力してくれてありがとね。あなた達『リップ・タイプ』……、あ、いや、ごめん、『リープ・タイプ』だったっけ?」 そう問われた少女は、手に持っている一升瓶に入った酒を飲みながら、ほろ酔いの表情でフラフラと体を揺らしながら答える。 「どっちでもいいよ。どっちも正解だ」 「そう。とにかく、あなた達『リップ・タイプ』がいなければ、今回の作戦は成り立たなかった。あなた達の協力には、『革命派』一同、深く感謝しているわ」 「まぁ、困った時はお互い様だよ。あたしら『楽園派』も、この後で大一番が待ってるんだ。そん時には、あんた達の力を借りさせてもらうことになる」 「もちろん、全力で協力させてもらうわ。ブレトランド・パンドラの存亡に関わる大勝負になるのは間違いないしね」 「よろしく頼むぜ」 ほろ酔いの少女はそう言いながら、ニヤリと笑う。彼女は、この「船」の「頭脳体」であり、この船は彼女の意のままに動かすことが可能である。他の五隻にも、彼女と同様の頭脳体が同乗してしていた(厳密に言えば、そのうちの一隻には「双子のような姿」の二人が乗っているので、頭脳体の数は六人である)。 彼女達はパンドラ楽園派の一員であり、仲間達の間では「オルガノン」の一種だと思われているが、もともと彼女達は「投影元の世界」においてこのような形状の宇宙船として造られた存在であり、ヴェリア界を介して擬人化されたオルガノンとは、本質的には別物である。 「そういや、こないだブドーカンから聞いたんだけどさ、あんたらの仲間の一人に『シアン』って奴がいるよな?」 唐突に、ほろ酔いの少女がそう問いかけた。正確に言えば、彼は「革命派」でも「楽園派」でもない、ブレトランド・パンドラ内における特異な立場の魔法師なのだが、この少女はそこまで詳しい事情は知らないらしい。そして、アンドロメダも、そこはあえて細かく訂正する必要はないと考えていた。 「えぇ、いるわよ。彼がどうかした?」 「この世界では『シアン』ってのは、男の名前なのか?」 「さぁ? あの人以外に『シアン』という名前の知り合いはいないから、それが一般的なのかどうかは分からないわ。あなたの元いた世界では、『シアン』は女性の名前なの?」 「うーん、向こうの世界で私が知ってる『シアン』も一人しかいないから、本来はどっちの名前なのかは、よく分からない。あいつも、一応、女だけど、男みたいな奴だったしな」 正直なところ、彼女の中でも、別に「シアン」が男性名でも女性名でも、どちらでも良かった。ただ、この世界に来て、懐かしい戦友と同じ名前の人物の存在を知ったことで、少し昔を思い出したくなっただけである。 「まぁ、それを言ったら、私の『アンドロメダ』ってのも、本来は異界の姫様の名前らしいけどね。名付け親になってくれた異界人が、私と姉さんがそっくりだったから、『女の子の双子』だと勘違いして付けた名前らしいけど」 ちなみに、ブレトランドにも「アンドロメダ」という地名があるが、それも異界の姫が語源なのかどうかは定かではない。 「さぁ、そろそろ到着だ。思う存分、暴れてきな!」 ほろ酔い少女はそう言って、一升瓶に残っていた酒を一気に飲み干すと、アンドロメダに目配せをする。アンドロメダは笑顔でその場を立ち去り、そして仲間達と共に、降下作戦のための投影装備「ハンググライダー」を身につけるのであった。 3.8. 困惑する街 「パンドラだ!」 「空からパンドラが攻めてきたぞ!」 アキレスの夜空から舞い降りつつある革命派の闘士達を見上げながら、虚をつかれたアキレスの兵士達の困惑の叫び声が響き渡る。街の中に潜伏していると思しき刺客を捉えようと躍起になっていた彼等は、「上」という想定外の方角からの敵襲に、完全に我を失っていた。 しかも、彼等は幻影の魔法を用いて、その数を実数よりも何倍にも多く見えていた。地上から弓や魔法で応戦しようにも、その大半が幻影をすり抜け、その中の数少ない「本物」が放つ魔法によって、次々と街の防衛拠点が破壊されていく。 そんな中、看守カナールの私宅へと向かおうとしていたアシュレイ達であったが、アバンは混乱する街の人々の中で、カナールの姿を発見する。どうやら彼は、牢獄の方面へと向かっているらしい。 「隊長、カナールだ!」 アバンがそう告げると、先に反応したのはニーアであった。 「姉貴はどこだ?」 「多分、まだ奴の家の中だろう。救い出すなら、今が好機かと」 アバンはそう言ったが、アシュレイは即座にそれを否定する。 「いえ、まずカナールを倒しましょう」 「姉貴は放っとくのかよ!?」 「まず、奴が持っている『鍵』を手に入れなければ、連れ出すことは出来ません」 「クッソ、しゃーねえな!」 彼等は走るカナールを追いかけつつ、人影から、気付かれないように襲撃しようとしたが、間一髪のところで気付かれてしまった。 「な、なんだ貴様ら!」 自分に武器を向けて近付いて来る者達に対して、カナールはそう言いながら聖印を掲げ、剣を抜く。それに対して、アシュレイは黙ってニヤッと笑い、その傍らでニーアはアバンに問いかけた。 「人違いじゃねえよな?」 「大丈夫な筈だ」 「よし、じゃあ、ぶっ殺すか!」 彼女はそう言って剣を構える。そして、この状況下で、戦いを長引かせれば敵が増えることは必至である以上、瞬殺しなければならないと判断したアバンは、レイピアを二本突き刺して、全力で蔦をカナールの足元から発生させて、その身を縛り上げる。 それに合わせて、アシュレイもまた全力で幻想弓の矢を叩き込んだ。 (貴様には、報いを受けてもらう!) これまでにない程の本気のアシュレイの一撃を受けたカナールは、深手を負いつつも、まだ倒れはしない。街の往来での襲撃となったため、当然、衆目の注目を浴びるが、一般市民達は恐怖のあまり、すぐにその場から慌てて逃げ去る。 カナールは必死で蔦を身体から剥がしながらアバンに接敵するが、次の瞬間、ニーアの大剣がカナールに向かって振り下ろされる。 「わりぃな兄弟、ちょっと耐えろよ!」 ニーアはそう言って、全力でアバンごとカナールを脳天から叩き割るように大剣を振り下ろす。アバンは水の精霊の壁を作って身を守りつつ、アシュレイからも防御魔法を放たれたことで、アバンは結果的に傷を受けずに済んだ。一方で、カナールもまた、その斬撃を直撃してもまだ崩れない。さすがに、重要犯罪人の監獄の警備を任されているだけの人物ではある。 だが、それに続いて、残る力を全て振り絞って放たれたアバンの蔦がカナールの身体を縛り上げたところに、アシュレイがとどめの炎の矢を打ち込んだことで、遂に彼は力尽きた。 「な、何なんだ貴様等……」 そう言いながら、彼はその場に、仰向けに倒れ込む。 「ハッ、だらしない。お前なんかに、姉貴が殺せるか!」 ニーアはそう言って、倒れているカナールの懐へと手を伸ばすと、特殊な形状の「鍵」を見つける。 「いいモン持ってるな」 「そ、その鍵は……、そうか、貴様等、パンドラの……」 「これでお前には用はない」 ニーアはそう言って、剣をカナールの心臓に突き刺す。この状況で、既に立ち上がる気力を失っていた彼を殺すことに必然性はなかったが、彼女は何の迷いもなく本能的に刃を突き立てた。自分の生存のため以外の目的で他人の命を奪ったのは、実は彼女にとってはこれが初めてだった。だが、自分自身をそこまで突き動かした衝動の原因を、まだ彼女は自覚していない。 3.9. それぞれの事情 その後、街の兵士達が集まってくる前にその場から走り去った三人は、そのままカナールの私宅に向かう。家の前まで来たところで、アシュレイの影から現れたフェイエンが扉の鍵を開け始める。その間に、ニーアは手にしていた「首枷の鍵」を、アシュレイに向かって投げた。 「これで姉貴を助けてやってくれ」 アシュレイがそれを受け取ったのを確認すると、彼女は扉に対して背を向ける。 「そうか、見張り役になってくれるのか」 アバンがそう言うと、彼女は頷いた。 「あぁ、そうだな。それでいい」 実際のところ、ニーアとしては、ここで「姉貴」に対して、どんな顔で会えば良いのかが分からなかったのである。やがてフェイエンが解鍵を終えると彼女は再びアシュレイの影の中へと戻った上で、アシュレイとアバンは家の中へと入る。そして、昼間と同じ寝室へと向かうと、そこには昼間と同じように、鎖に繋がれた状態のミオがいた。近くで見ると、かなりやつれているように見える。ここで何をさせられていたのかは不明だが、少なくとも、まともな生活を送らせてもらっていた訳ではなかったらしい。 「あ、あなた達、本当に……」 「ようやく、恩を返す時が来たようだな」 そう言いながら、アバンは笑みを見せる。一方で、アシュレイの影からフェイエンが飛び出して、ミオを繫いでいる鎖の鍵を開け始めた。 「恩なんて……、少なくとも私は、あなた達に命をかけてもらうようなことはしていない……」 彼女はそう言ったところで、窓の外に目を向けた。 「外が騒がしいけど……、もしかして、あなた達以外にも?」 「全員総出です」 アシュレイがそう言うと、彼女はボロボロと涙を流し始めた。 「どうして……、どうして私なんかのために……。ボスにも何も言わずに勝手に行動した私なんかのために……」 「皆、助けたいからですよ、行きましょう」 そう言って、アシュレイはカナールから奪った「鍵」を見せる。そして同時に、フェイエンによる鎖鍵の解鍵も終わり、再びアシュレイの影へと戻った。 「ありがとう。私にもまだ、生きて、やらねばならないことがある、ということね」 そう言って、ミオは二人と共に家から出ようとする。だが、その頃、入口で気付け薬を飲みながら見張りをしていたニーアの前に、見覚えのある男達が姿を現していた。彼女の副官であるアクセル率いるオブリビヨンの邪紋兵団である。 「よぉ、何の用事だ?」 ニーアがそう問うと、アクセルは下卑た笑みを浮かべる。 「やっぱり、隊長の任務は『こっち側』だったんですね」 そう言う彼等は、どうやらヴァレフール陣営から「対パンドラ用の戦力増強」のために雇われていたようである。より正確に言えば、おそらく彼等の方からヴァレフール側に自らを売り込んだのであろう。それがオブリビヨンの流儀である。その契約が、パンドラからのニーアの派遣要請よりも前に上層部の間で決まっていたことなのかどうかは分からなかったが、ニーアとしては、それは別にどちらでも良かった。 「なるほどな。なんとなーく、馬鹿なあたしでも、この状況は分かるぜ」 「まぁ、仕事がブッキングすることなんざね、よくあることですよ。それに、この状況なら、あんたも俺も遠慮なく戦える。あんたを倒せば、俺は晴れて隊長に昇格だ」 「お前はあたしより弱かったから副隊長なんだ。意味は分かってるか?」 「じゃあ、本当にそうかどうか、試してみましょうか? まぁ、楽しみましょうや、俺達は、オブリビヨンなんですから」 「図に乗るなよ、お前等なんか、一度たりとも仲間だと思ったことはねぇ。ここであたしに食われて、あたしの生きる糧となりな」 そう言ってニーアが大剣を構えたところで、アシュレイ達が部屋の奥から入り口へと到着する。 「なんか、まずい人が来てるみたいですね、ニーアさん」 その声がアシュレイのものだということはニーアにはすぐに分かったが、今、この状態で後ろを振り向く余裕はない。彼女は状況を確認出来ないまま問いかける。 「姉貴はどうした? こっちは任せろと言った筈だ」 「そっちは、もう片付きました」 アシュレイがそう言うと、その隣にいるミオが声を掛ける。 「ニ、ニーア……? ニーアなの? どうして……? あなた、オブリビヨンにいるって……? じゃあ、オブリビヨンも協力してくれてるの?」 さすがに、この状況で、目の前にいる敵の正体にまで彼女が気付ける筈もない。 「足手まといは下がってろ!」 ニーアがそう言ったのに対し、さすがにミオも、現状では正面から戦える体力は残っていないため、一歩後方に退く。だが、その足音が「一人分」しかなかったことに気付いたニーアは、今度はアシュレイとアバンに向かって言い放った。 「お前等もだ! こいつらは私の敵だ。私の因縁だ。オブリビヨンは前から気に入らなかった。お前等は、その女を連れて、どこへでも逃げろ!」 それに対して、アバンはこう言った。 「ミオが万全の状態ならば、お前と共に戦おうとするだろう。そうだよな?」 ミオは頷きながら答える。 「せっかく出会えた妹を、ここで失う訳にはいかないわ。私にも、ほんの少しだけだけど、まだ戦う気力は残っている」 そう言って、彼女は後方から邪紋の力を発動させようとする。 「とっとと帰れ!」 そう叫ぶニーアに対して、アバンが再び口を開く。 「さすがにそんな状態のミオを戦わせる訳にはいかないので、ここは私達が代わりに戦う」 彼がそう言うと、アシュレイも頷いた。 「そうですね。私達はここに来る前に、盟主に確認をとりました。万が一の時は誰を優先すべきかを。『全員帰って来い』と言われましたからね。全員、生きて帰りますよ。いいですね?」 「お節介焼きが……。死ぬんじゃねえぞ。そんなら最後まで付き合え。行くぞ、兄弟!」 ニーアはそう言うと、自分の部下であった兵士達を威嚇するように、大剣を地面に叩きつけて大穴を空ける。 「お前等に戦い方を教えてやったのは、このあたしだ。楯突こうってんなら、さっきも言った通り、『糧』になってもらおう。それで構わんな?」 その威力に、思わず敵兵は威圧される。実際、ニーアは彼等の手の内は全て知り尽くしており、彼等の実力では自分には遠く及ばないことを知っている。だが、それはあくまでも彼等個人の話であり、「集団」となった彼等に対して一人で戦ったことはない。ひとまずは、彼等の闘志を挫くことで、その統率を崩して乱戦に持ち込む必要があることを、彼女は本能的に察していた。 そんな彼女を支援すべく、まずアバンの渾身の力を込めた蔦が邪紋兵団の兵達全体を絡め取り、そのまま搾り上げる。だが、さすがに集団が相手となると、アバン一人の力ではその威力にも限度がある。兵達はそれをあっさりとふりほどき、そのままの勢いでニーアに襲いかかる。 「死ねや、ニーア!」 そう叫んだアクセルを筆頭に、兵達が凄まじい勢いでニーアに対して次々と斬りかかった結果、さすがの彼女も防ぎきることは出来ず、一度は致命傷を受けてその場に倒れ込んでしまう。だが、その直後に彼女の体に混沌の力が凝集していった結果、彼女はゆっくりと立ち上がった。 「さぁすが隊長ぉ、そうでねぇとなぁ〜」 「どうした?、声が震えてるぞ。そんなに怖いなら、寝かしつけてやる」 ニーアがそう言って大剣を振り払うと、その圧倒的な斬撃によって兵達は次々と倒れていくが、まだアクセルは余裕を見せている。そこにアシュレーが幻想弓の矢を射掛けるものの、兵達に守られたアクセルには届かない。再びアバンが蔦を絡ませて絞め上げていくが、それでも彼等はまだ闘志を失わなかった。 「この死に損ないがぁ!」 そう言って再びニーアに向かって踏み込むアクセル達であったが、足元にアシュレイが一矢を打ち込んだことで微妙に陣形が崩れ、ニーアは華麗にその突撃を避ける。その直後、アシュレイが全ての魔力を注ぎ込んだ矢を放つと、アクセルを守っていた兵達は全滅し、アクセル自身も、膝から崩れ落ちた。 「隊長、あんた、新しい居場所を見つけたようですな……」 そう言って、アクセルは微かな笑みを浮かべながら突っ伏して、そのまま息絶える。 「もとから、お前等のことは『居場所』だとは思ってねえけどな」 ニーアがそう言い捨てた直後、ミオがニーアに駆け寄った。 「ニーア、大丈夫? というか、あなた、そもそもいつから邪紋を……」 その彼女の声がニーアに届く前に、ニーアは気を失ってその場に倒れる。彼等は三人がかりでニーアを背負ってリチャード宅へと向かうと、そのまま魔法陣に突入し、リチャードおよびその妻子共々パンドラの本拠地へと移転し、魔法陣を閉じる。リチャード達としても、ナブリオ隊の生き残りが魔法陣のことを「上」に伝えている可能性がゼロではない以上、あの家はもはや放棄するしかないと判断していた。 一方、上空からのキラ率いる陽動部隊もまた、「陽動部隊」としての任務をきっちりと終わらせ、あっさりと撤収する。あわよくば本気でゴーバンを攫おうかとするほどの勢いではあったが、さすがにそれを許さないほどの防備が城の近辺に固めていたことを察した彼等は、欲を出さずに当初の予定通りの任務に終始したのであった。 4.1. 騎士団長の決断 「完敗、だな」 全てが終わった後、アキレスの領主にしてヴァレフール騎士団長を務めるケネス・ドロップスは、そう呟いた。腹心であった契約魔法師の仇を討つために仕組んだパンドラ壊滅作戦は、あまりにも惨めなほどに失敗した。多くの犠牲を出し、何も得ることがないまま、下手人のミオを奪われた。どさくさ紛れに「更なる戦果」を求めて本気でゴーバンを誘拐しようとした敵の一団こそ退けることは出来たものの、全体としては言い訳の仕様がないほどの惨敗である。 「パンドラ程度なら、雇われ兵でどうにか出来ると思った私の慢心が敗因だな。騎士団長が聞いて呆れる。すまんな、ハンフリー、お前の無念を晴らしてやることが出来ずに……」 だが、今の彼には、ここで感傷に浸っている暇はない。ヴァレフールの伯爵位継承権を巡る争いはまだ続いている。パンドラ相手に大失態を犯したことは事実だが、それを理由に騎士団長の座を退く訳にはいかない。今、自分がここで一線を退けば、副団長グレンを初めとする聖印教会派の勢力が更に強くなる。そうなれば、これまで築き上げてきたヴァレフールとエーラムとの友好関係にヒビが入る可能性がある。 ケネスが懸念しているのは、それだけではない。グレン達は聖印教会の人脈を利用して、ブレトランド全体での和議をも実現しようとしている。そのために、グレンは側近のファルクを頻繁に日輪宣教団率いる神聖トランガーヌへと派遣することで友好関係を築きつつ、自身の孫をアントリアの月光修道会主催の神聖学術院に留学させたまま彼等との関係を保とうとするなど、様々な施策を巡らせていた(この詳細は「ブレトランドの光と闇」四話にて語られる予定)。 だが、実際にアントリアや神聖トランガーヌとの和議が実現した場合、次に待っているのは、大工房同盟の軍事大国ノルドによる本格的な侵略であろう、とケネスは考えていた。今はまだ、ブレトランド内での「代理戦争」という形で状況は収まっているが、もしアントリアが「同盟の手駒」としての役割を果たさなくなれば、ノルド侯爵エーリクは自分自身の手でブレトランドを直接傘下に収めるための軍を派遣する可能性がある。 すなわち、「ブレトランド内の和議」は「ブレトランド外との全面戦争」をもたらす恐れがあるからこそ、安易に平和を構築するよりも、程良い小競り合い程度の対立関係を維持しておく方がヴァレフールにとっても、ブレトランド全体にとっても得策、というのがケネスの戦略である。だからこそ、その戦略に賛同しないグレン派にヴァレフールの主導権を握らせる訳にはいかない。幻想詩連合やエーラムとの関係を維持した上で、聖印教会や大工房同盟を巧みに牽制しつつ均衡状態を保つという外交術が可能なバランス感覚の持ち主は、今のヴァレフールには自分以外にはいない、と彼は考えていた。 とはいえ、今回の敗北によって、自分の求心力が急低下することは避けられないだろう。ハンフリーの遺産とも言うべき投影体中心の傭兵部隊もその大半が壊滅した。このまま国内の冷戦状態が継続すれば、更なる状況の悪化は必至である。ヴァレフールを立て直すためには、早急にこの国内冷戦に終止符を打った上で、一刻も早く「次世代の後継者」を育成し、自分の後を託す準備を整えなければならない。この内乱を終わらせるために、自分が背負い切れるだけの「業」を背負う覚悟は、既にケネスの中では固まっている。自分達の世代が引き起こした怨讐は全て自分が片付けることを前提とした上で、その後の未来を託せる人物が、今のこの国には必要なのである。そう考えた彼は、側近の従者にこう告げた。 「トオヤの謹慎を解く。チシャを連れて、アキレスに出仕するように命じよ」 それは、このヴァレフール、そしてブレトランド全体をも巻き込む、新たなる風雲の時代の始まりでもあった。 4.2. 内通者の処分 ミオ奪還の成功に沸きかえる革命派の本部において、一人浮かない顔をしていたのはリチャードである。結果的に作戦は成功したものの、彼の密告によって、アキレス近辺の拠点が潰されたのは事実であり、その責任の重さは彼自身が痛感していた。 アシュレイはひとまず事実をそのまま伝えたのに対し、アバンは「結果的に、リチャードのおかげで効率良く使命を達成出来た」ということをキラに上申する。それに対して、キラが導き出した結論は、以下の通りであった。 「それは、あくまでも結果論にすぎん。だが、俺は最初に言ったよな。俺達がミオを助けるのは、ミオが功労者だからではない。ミオが仲間だからだ、と。その意味で、当然、俺達に協力してくれる一般市民達も、俺達の仲間だ。だから、リチャードの妻と娘を助けに行ったお前達の判断は正しいし、そのために敵に従わざるをえなかったリチャードを責めることも出来ん。とはいえ、これ以上、リチャードをパンドラに関わらせる訳にはいかない。どこかで新たな人生を歩める方法を斡旋すべきだろう」 それに対して、リチャードは、自分の身体に邪紋を刻むことでパンドラのために役立ちたい、と主張するが(パンドラには、それが可能な魔法師が一人いる)、キラはそれを拒絶した。 「少なくとも、お前の妻と娘はそれを望んではいないだろう。もうお前は十分、俺達のために尽くしてくれた。あとは家族のために、お前の残りの人生を捧げてやれ」 そう言われて、リチャードは複雑な表情を浮かべながらも、黙って同意した。その様子を横で見ていたアシュレイは、傍らにいるニーアに問いかける。 「どう思います? 邪紋使いさん」 「いいと思うぜ、邪紋なんて、ろくなもんじゃねぇ。戦う力なんて、無いほうがいいさ。あいつらは、あれでいいんだ」 彼女はそう言った上で、キラに問いかけた。 「ところでよ、出来れば、あたしを仲間に加えてくれねえか?」 ニーアとしては、オブリビヨンから派遣されてこの任務に参加したものの、今回の戦いで、結果的に彼女は自分の部下達を皆殺しにすることになった。とはいえ、彼女がオブリビヨンに帰還したところで、誰も彼女を咎める者はいないだろう。それぞれに与えられた任務が衝突して、結果的に同胞達を惨殺したところで、それはオブリビヨンの一員として、何も間違った行動ではない。だが、もはや彼女自身の中に、今更オブリビヨンに戻りたいという気持ちはサラサラ無かった。 実際のところ、これまで戦うことと食べることしか考えてなかったニーアには、革命派の面々の掲げる理念が正しいのかどうかはさっぱり分からない。ただ、現状で特に他に行くアテもない彼女が、ひとまずこの場に居座ろうと考えるのは、彼女にとっては自然な発想であった。 「それはもちろん、大歓迎だ。というか、もともと、俺としてはそのつもりだったしな。ミオも喜ぶだろう」 キラがそう答えると、やや苦めの顔を浮かべるニーアであったが、キラの傍に立つアンドロメダが、軽く口を挟む。 「あんたもいい加減、素直になった方がいいわよ。姉さんが自分の近くにいるということが、どれほど幸せなことか。私は今、会いたくても会えない立場なんだから。あのバカのせいで」 最愛の姉を奪ったグリースの召喚魔法師のことを思い浮かべつつ、アンドロメダがそう語るが、ニーアは更に眉間にしわを寄せる。 「うるせーな。お前とあたしを重ねんなよ。それと、仲間にならせてもらって恐縮なんだが、あたしはあんたらの下につく訳じゃねぇ。あんたらからの依頼があれば受けるが、あたしは誰にも隷属しねぇ」 「つまり、個人的な傭兵契約、ということかな?」 キラがそう問い返すと、ニーアはニヤリと笑って答える。 「そう捉えてくれるなら、あんたはなかなかいい奴だ」 「まぁ、いいだろう。ただ、お前がその気になれば、いつでも『本当の意味での仲間』として迎えるつもりだ。少なくとも、俺もミオも、それを願っている」 「それはありがたいね。『仲間』ってやつに、ちょっとは興味が湧いてきたところだ」 こうして、市民リチャードとその家族がパンドラを去る一方で、邪紋使いニーアはオブリビヨンを脱退し、パンドラ革命派の客将となった。後日、キラはオブリビヨンにその旨を書状で通達したが、オブリビヨンの団長ヴァライグからは、特にこれといった返事はなかったらしい。ニーアは彼等にとっても重要な戦力の一人だった筈だが、ヴァライグの中では、その程度のことは、特に気にとめるほどの話でもなかったようである。 4.3. 「恩人」への想い その後、ミオは改めて、今回の作戦の中心人物であった三人に対して、個人的に会う機会を作ってもらうことにした。まず最初に訪問したのは、アバンの私室である。 「ごめんなさい、そして、ありがとう。私としては、皆を危険に遭わせたくなかったけど、でも、せっかく皆に助けてもらった命だから、これから先も皆のために使いたいと思う」 彼女は決意を込めてそう言った上で、彼女の中にあるもう一つの感情も露わにする。 「でも、あなたには、あまり無理はさせたくない。もちろん、それはあなただけじゃないけど」 今回の任務を通じて、アバン達に相当危険な橋を渡らせてしまったからこそ、彼女はそう言わざるをえなかったのだが、アバンはその言葉をそのまま切り返した。 「それは、皆がミオに対して思っていることと一緒ですよ。ミオは十分、皆のために尽くしてきた訳ですし、ミオももう少し、自分の幸せについて考えた方がいいんじゃないですか?」 任務中のアバンは、ミオを含めた全ての人々に対して淡々としたぶっきらぼうな口調で話していたが、任務外ではこのような「穏やかで丁寧な喋り方」になるらしい。それに対して、ミオは少し考えた上で答える。 「私の幸せか……。私は、今こうして皆と戦えていることが、すごく幸せだけどね。あなたはそうは感じないの?」 「そうですね。初めはあまり良く思っていなかったニーアさんとも仲良くなれましたし」 どうやら口調に引きずられるような形で、ニーアに対しても無意識のうちに「さん」付けになっているようである。そしてミオは、彼女の名を聞くと、複雑な表情を浮かべる。ミオはパンドラに帰還して以来、まだニーアと、まともに会話が出来ていない状態であった。 「ニーアは私のことを避けてるみたいだけど、彼女、私のこと、やっぱり嫌ってるのかな?」 「それは、どうでしょう?」 「そもそも、もう長いこと会ってなかったし。確かに、好かれる理由は何も無いんだけど、嫌われる理由も分からないというか……」 困惑するミオに対し、アバンは自分の思うところをそのまま伝える。 「そうですね、私の印象としては、ニーアさんは『姉』という存在を持て余してしまっているだけのように思えます。私やアシュレイや他の皆に対してそうしたように、あなたの方から彼女の懐に飛び込んでしまえば、きっと仲良く出来ると思いますよ」 実際のところ、アバンには「家族との正しい接し方」は分からない。だが、今の彼にとって、ミオは家族同然、あるいはそれ以上の存在である。家族愛というものを理解していない自分にそこまでの感情を抱かせてくれたミオが、実の妹を振り向かせることが出来ない筈がない、と彼は確信していた。 「分かったわ、ありがとう」 そう言って、ミオはアバンの部屋を去って行く。彼の助言を胸に、妹の本音を聞き出そうと心に誓って。 4.4. 「姉」への想い パンドラに加わったばかりのニーアには、まだ「個室」が与えられていない。そんな彼女が、現在の拠点の設置されている土地の近辺の野原で、一人暇を持て余して無心で空を眺めていたところに、仲間から彼女の居場所を聞きつけたミオが現れた。 「ニーア、その、えーっと、……」 ミオが、何から話せば良いのか分からずに戸惑っていると、ニーアの方から声をかけた。心なしか、その表情は少し笑っているように見える。 「よぉ、体調はどうだ?」 「私は大丈夫。それより、あなたの方はどうなの?」 「あたしは何ともねーよ」 実際、帰還した時点ではニーアの方が満身創意であったが、もともと体力だけが取り柄で生きてきた彼女にとっては、あの程度は「寝てれば勝手に治る傷」であった。その様子を見て安堵したニーアは、改めて、意を決してニーアに問いかけた。 「あなた、やっぱり、私の生き方を軽蔑してる?」 それに対して、ニーアは目線をそらしながら訥々と語り始める。 「別に、あんたのことが嫌いって訳じゃない。ただ、あたしは今まで、誰も仲間になんかなっちゃくれない環境で生きてきた。今更あんたみたいなのが出てきて、どうすりゃいいか分からないだけだ。でもまぁ、あんたが他の奴らに尊敬されてるって聞いたから、あんたのことを嫌いになれそうにない。ただ、それを踏まえた上で、あんたに一つ頼みがある」 少し間を空けて、彼女はこう言った。 「これ以上、あたしの中に入ってくんな」 それに対して、ミオは少し考えた上で、ニーアを見つめてながら答える。 「分かったわ。それが今のあなたの気持ちなら、私はそれを受け入れる。でも、私があなたの中に入っていくことが許されなくても、あなたが私の中に入ってくることは、私はいつでも歓迎するから」 「あたしはようやく強くなったんだ。姉さん、あんたの存在を認めると、あたしはまた弱くなっちまう」 「そうかしら? 少なくとも、あなたがどうかは分からないけど、私はアシュレイやアバンやボスや皆と共に戦えることで、皆の中に入っていけることで、私は強くなれたと思っている」 「気に食わねえなぁ……。悩んできたことを、ズバリそのまま言っちまう。嫌な奴だ……」 そう言って、ニーアはミオに抱きついた。 「……なんで、捜してくれなかったんだよ!」 「捜したわよ! 一生懸命、捜したけど……、でも、そうね。言い訳ね。見つけられなかったのは、私の落ち度だわ。ごめんなさい」 実際、ミオはこれまで、ニーアの居場所を探すための情報を集め続けていた。そんな彼女の耳に、「ニーアがオブリビヨンにいるらしい」という情報がキラ経由で届いたのは、彼女がハンフリー暗殺へと向かう直前の時期だったのである。そのタイミングで実の妹に会うことで、決意が鈍ってしまうことを恐れた彼女は、キラがオブリビヨンからニーアを引き抜くための工作を考案している最中に、単身アキレスに乗り込むことになったのである。だが、そんな事情を一からニーアに説明したところで、それはニーアの中では言い訳にしかならないだろう、と察したミオは、それ以上何も言わないままニーアを抱きしめる。 ニーアは、そんなミオの腕の中で、無言のまま、自分でも気付かぬうちに、涙を流し始めた。その涙の意味をニーア自身が理解するには、まだ、もう少し時間が必要であった。 4.5. 「一番大切な人」への想い それから数刻後、現在の拠点の近くの海沿いの崖の上で、アシュレイが一人で物思いに耽っているところに、一人の小柄な妖精のような姿の少女が現れる。 「隊長はん、こないなところで、何してはるの?」 「あぁ、ちょっと風に当たりたくて」 彼がそう言うと、その少女はおもむろに問いかけた。 「ほな、隊長はん、今回のことで、ちょっと聞きたいことあるんやけど、ええかな?」 「何ですか?」 「隊長はん、その、ミオはんのこと、どない思うてはるの? 隊の人等が言うてたんよ。今回の任務の時の隊長はんは、目の色が違うたって」 「誰が言ってんですか、それ?」 「いろんな人やね。ジェームスはんとか」 「そうですね……、彼女は私にとって『特別な人』ですから、いつも以上に気持ちが入っていたのかもしれませんね」 「特別ってのは、どういう意味で?」 「それは勿論……、彼女は私が本当に困っていた時に、助けてくれた人ですから」 「ほんまにそれだけ?」 「何が言いたいんですか?」 「いや、気のせいやったらええんやけどね。まぁ、でも、そやね……」 その少女がそう言いかけたところで、それまで「フェイエン」だと思われていたその少女の姿が突然、「ミオ」の姿へと変わった。ミオが「幻影」の邪紋使いでもあることをようやく思い出したアシュレイが、驚愕のあまり動揺した表情を浮かべる中、ミオは語り続ける。 「まぁ、でも、そうよね。分かってるわ。あなたの中での私が『それ以上の存在』ではない、ということは。あなたはそういう人だし。それに、やっぱり、私みたいな『汚れた身体』の人間は、あなたには釣り合わないわよね」 その独白をアシュレイは背中で聞きつつ、おもむろに弓を出し、上空に向かう鳥に向けて、あまり意味もなく弓を構える。 「それ以上の存在、と言われても、正直、困ります。私には、何というか、その、あなたは、私にとって……、『一番大切な人』です」 自分でも何を言ってるのかよく分からないような口調で、アシュレイがそう言うと、ミオは呆れたような、諦めたような表情を浮かべる。 「……ズルいわよね、男って。じゃあ、一つ、これだけ聞かせて」 「ん? 何です?」 「あなた、私が、生き延びるために、脱出するために、どんな手を使おうとしていたか、察しはついているんでしょう?」 その言葉に対して、アシュレイは再び動揺した様子を見せつつも、何も答えない。 「それを知った時、どう思った?」 アシュレイは、一度引いていた弓を元に戻しつつ、少し考えた上で、答えた。 「忘れました。あなたが生きていたことが嬉しかったので、忘れました」 その言葉に、ミオは肩をすくめながら、笑顔を見せる。 「いいわ。多分、それがあなたのいいところだから。忘れてくれた方が、私も嬉しいし。そうね、これから先も、よろしくお願いするわ。私にとってもあなたは『一番大切な人』だから」 一方、そんな二人の様子を、近くの小屋の陰から覗いていたアバンは、悩ましい表情を浮かべている。 「あー、もう、そうじゃない、そうじゃないのに、隊長ぉぉぉ」 そんな彼を、後ろからニーアが蹴り上げた。その傍らには「本物のフェイエン」もいる。 「まごまごしてんな。出ろ!」 「いや、今出たらダメでしょ」 「うっせー、お前が行け」 「いやー、誰が行っても変わらんと思うよ」 そんな舞台裏の様相など露知らず、ミオはアシュレイに対して、こう言った。 「そういえば、『鍵』の件だけど、それ、そのままあなたが持っててくれていいわ」 「いや、何言ってるんですか? これで外せるでしょう?」 そう言って、アシュレイは懐から取り出した鍵をミオの首元に当てようとするが、適切な鍵穴が見つからない。どうやら、この鍵は「鍵」の形状こそしているものの、実は首枷を外すための道具ではないらしい。 「この首枷を外すには、エーラムの魔法師の力が必要らしいわ。つまり、今のパンドラの技術では外せないのよ。だから、あなたが持ってて」 「自分が持ってた方が安全でしょう?」 「私が持ってたら、どこかで誰かに盗られるかもしれないでしょう? 私、一回ヘマやってるんだから」 「……分かりました。では、私が預かっておきます」 アシュレイがそう言って鍵を再び懐にしまうと、後ろの小屋から物音がする。どうやら、身体を乗り出して状況を見物しようとした三人が、身を崩して倒れてしまったらしい。二人の視界に入ってしまった三人は、気まずそうな表情を浮かべる。 「あ、すみません、すぐに戻りますんで」 「邪魔するつもりはねーよ」 「心配せんでも、その鍵はウチでは外せんからね」 何を心配する必要があるのかも分からないまま、三人は再び小屋の陰へと去って行く。そんな彼等をアシュレイが呆然と見送る中、ミオは彼に対して、首輪をあえて彼に見せつけるような姿勢になりながら、満面の笑顔でこう言った。 「じゃあ、これから先も、よろしくお願いね。私のご主人様♪」 時系列順の続編:【ブレトランド風雲録】第1話(BS33)「思い出の残照」 シリーズ内の続編:【ブレトランドの光と闇】第4話(BS39)「月光の煌めき」 グランクレスト@Y武
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第2話(BS31)「日輪の輝き」( 1 / 2 / 3 / 4 ) 1.0. 枢機卿と宣教団 ブレトランド中西部に位置する「神聖トランガーヌ枢機卿領」は、かつてトランガーヌ子爵と呼ばれたヘンリー・ペンブローク(下図)が、2年前にアントリアに敗れて大陸へ亡命した後、聖印教会の中でも特に急進派と呼ばれる「日輪宣教団」と手を組み、世界中から集められた信徒達の力を結集した大兵団によって、旧領の一部を奪還して建国された宗教国家である。 日輪宣教団とは、聖印教会の中でも特に激しく混沌を嫌う人々の集団であり、投影体や投影装備のみならず、邪紋使いや魔法師の存在すらも認めない、徹底した混沌排斥主義を掲げる組織である。指導者は、エストレーラ出身のイザベラ・サバティーニ(下図)という女性であり、当初は辺境の一司祭に過ぎなかったが、その圧倒的なカリスマによって急速に支持者を増やし、今では次期教皇候補の一人と呼ばれるほどの地位にまで昇りつめている。 「混沌の産物に頼る生き方を続ける限り、人は永遠に混沌から逃れることは出来ない」という彼女の主張が「正論」であることは、多くの者達が認めている。だが、それは「正論」であるが故に、現実に混沌に頼った生活をしている人々の心を動かすことは出来ない。そんな葛藤を抱えながらも、彼女達は反エーラム勢力の急先鋒として、世界中の魔法師や邪紋使い、そして彼等の力を利用する君主達との闘争を続けている。 だが、そんな彼女達に支えられた神聖トランガーヌは今、一つの難題を抱えていた。一ヶ月前、国主であるヘンリー・ペンブローク枢機卿が重病に倒れ、生死の境をさまよう中、未だにその後継者が定まっていないのである。彼には「聖印を継げる子供」がいない。聖印教会の教義的には、枢機卿の座の後継者が血縁者である必要はないが、現実問題として、日輪宣教団自体がトランガーヌの民から見れば「よそ者」であるからこそ、民の支持を繋ぎ止めるために、ペンブローク家の血筋を引く者が継承することで、旧トランガーヌ子爵領との連続性を強調する必要があった。 ペンブローク家の支流と言われる有力貴族家のうち、現在の神聖トランガーヌにおいて現役の騎士を排出しているのは、「カーディガン家」と「ウェルシュ家」の二家のみである。故に、このどちらかの当主がその後継者となるべき、というのが国内の大半の人々の認識であったが、この国の目指すべき方向性(特に日輪宣教団との関係)に関する認識の差異も相まって、複雑な対立構造が形成されていた。 1.1. 悩める青年当主 カーディガン家の現当主は、ネロ・カーディガン(下図)という名の、若き青年騎士である。2年前の旧トランガーヌ崩壊時に、先代当主である父を亡くした彼は、当時18歳にしてその家名を継ぎ、ヘンリーと共に大陸へと落ち延び、彼と共に聖印教会に帰依した上で、日輪宣教団と共にこの地を奪還するに至った。現在の立場上、エーラムの爵位制度からは外れているが、実質的には「男爵」級の聖印の持ち主である。見た目はまだ少年のような小柄な体格ではあるが、長剣と細剣を同時に操るその二刀流の剣技の使い手として知られており、旧子爵領崩壊後、大陸へと亡命したヘンリーを、最も間近で守り続けた功労者でもあった。 現状において、旧トランガーヌ子爵家以来の譜代の家臣達の中では、ヘンリーの後継者としては、ネロが最有力候補とみなされている。それは、旧トランガーヌ崩壊時に行方不明となっているヘンリーの妻ジェーンがネロの叔母であり、現時点では血縁的に最もヘンリーに近い血筋の人物だからである。また、旧トランガーヌ子爵領の崩壊以降、常にヘンリーと共に苦楽を共にしてきた身であるが故の「連帯感」もまた、多くの他の側近達からは高評価であった。 一方、ブレトランドにおける聖印教会の「聖地」フォーカスライトを治める大司教、ロンギヌス・グレイ(下図)もまた、ネロのことを後継者として特に強く推していた。フォーカスライトは、旧三国鼎立時代においては「三国いずれにも属さぬ中立地帯」として、聖印教会の信徒達が集う宗教都市であったが、現在は、なし崩し的に神聖トランガーヌに編入されている。 フォーカスライトの地には、聖印教会成立以前の時代から「あらゆる混沌を寄せ付けぬ特殊な結界」が存在しており(その起源には諸説あり、英雄王エルムンド、あるいはファーストロード・レオンの遺産であるとも言われている)、それ故に、この地を治めるグレイ家は、ヴァレフールとトランガーヌの緩衝地帯的な立地も相まって、両国から一目置かれる独立勢力としての地位を保っていた。数十年前に聖印教会が結成された際に、当時のこの地の領主(ロンギヌスの祖父)がその教義に共鳴して初代教皇の傘下に加わり、「大司教」の称号を賜ったことで、以後は実質的にブレトランドにおける聖印教会信徒達の頂点に立つ存在となったのである。 もっとも、聖印教会の教義解釈は人の数だけ存在するとも言われており、フォーカスライト大司教の解釈を受け入れない信徒もブレトランドの中には多い。それでも、様々な宗派の人々との折り合いをつけながら、どうにか「大司教」としての権威を保ってきたロンギヌスであったが、半年前の神聖トランガーヌによる侵攻・編入以降、その地位は徐々に揺らぎつつある。 そんな彼が、ダーンダルクの王城の廊下で、ばったりとネロに遭遇した。 「これはこれは殿下、お久しぶりです。私はヘンリー陛下の慰問のために参上したところです」 ロンギヌスはそう言って、ネロに対して恭しく頭を下げる。「枢機卿」である現在のヘンリーへの敬称は、一般的には(上位聖職者への敬称としての)「猊下」であるが、ロンギヌスはあえて現在でも(子爵時代と同様に)「陛下」と呼んでいる。これは、彼の中ではあくまでヘンリーは今でも「世俗権力者」であり、自分と同じ「聖職者」の枠組の中に位置付けるべき存在ではない、という意図が込められている。 「ところで、ご存知ですかな? 世間では、イザベラ様の御息女と、ネロ殿下もしくはリーベック殿下との御婚約の噂がある、ということを」 ロンギヌスが意味深な声色でそう問いかけると、ネロは、明らかに動揺した表情を浮かべる。 「そ、そうでしたか。それは、その……、知りませんでした」 ひとまず、ネロはそう答えたが、実際のところ、知らない筈はない。むしろ、この問題こそが、今のネロにとっての最大の悩みであった。 現在の神聖トランガーヌを支える日輪宣教団の団長であるイザベラ・サバティーニには、ブリジットという名の一人娘がいる。歳はネロよりも1つ下の19歳。彼女とネロが結ばれることこそが、旧トランガーヌ子爵家譜代の家臣と、大陸からイザベラを信奉してこの地に渡ってきた日輪宣教団員との融和のためにも最適の道である、と考える人々は多かった。 だが、一方で、ブリジットにはもう一人の花婿候補がいた。その男の名は、リーベック・ウェルシュ。カーディガン家と並ぶもう一つの「ペンブローク家の支流」に相当する名家の当主であり、歳もネロと同じ20歳である。彼の父は熱心な聖印教会の信徒であったこともあり、彼は幼少期からイスメイアの教皇庁に留学していたため、結果的に旧トランガーヌの崩壊時に難を逃れることとなり、対アントリア戦で戦死した父に代わって家名を継ぐことになった。その後、亡命したヘンリー達が聖印教会へと帰依する際の橋渡し役も担当することになったのも彼である。 現状、このネロとリーベックの二人が、実質的にヘンリーの後継者候補の双璧と言われていた。旧トランガーヌ以来の家臣の中ではネロを推す声が強いが、日輪宣教団の人々は、教皇庁で長年修行したリーベックこそが枢機卿の座に相応しいと考え、実質国論が二分されている状態である(正確に言えば、第三の候補として「ヘンリーの庶子」の存在に目をつけ、その人物に帰還を促そうとしていた勢力もいたのだが、結局、彼等の望みは実現せぬまま、その主導者達は命を落とすことになった。詳細はブレトランドの遊興産業6を参照)。 「無論、こういったことは御本人様の御意向が第一とは思いますが、私個人としては、この国を継げる方は、ネロ様を置いて他にはおらぬと思っております故、ネロ様とブリジット様との御婚儀が、この国のためには一番ではないかと」 そう言われたネロは、更に困惑の表情を深めるが、気にせずロンギンスは語り続ける。 「リーベック様には申し訳ないですが、トランガーヌの民の大半にとっては、血統的にも立場的にも、ネロ様こそが後継者に相応しいと考えております。おそらくリーベック様では、トランガーヌの民はついてきません。それに……」 ここで彼は、声のトーンを下げる。 「日輪宣教団の暴走を止められるのも、ネロ様だけでしょう。このまま彼等の偏った教義解釈にこの国を委ねて良いとお思いですか? おそらく陛下も、内心では彼等のことを快く思ってはいない筈です。何せ陛下は今、実の息子と対立する立場ですし、色々と心をお痛めでしょう」 現在、ヘンリーの長男であるジュリアンは、日輪宣教団の教義的には存在すらも許されない邪紋使いとなって、対立するグリース子爵の下で匿われている(詳細はブレトランド戦記7を参照)。過激派の日輪宣教団の意向に従い続ける限り、ヘンリーは息子とは対立し続けなければならない定めを背負っているのである。 「私も聖印教会の信徒である以上、神の御意志は尊重すべきかと思います。しかし、だからこそ、やみくもに敵を増やすだけの日輪宣教団にこの国を任せておくべきではないと考えています」 二代目教皇ハウルからは「神聖トランガーヌ枢機卿」としてのヘンリーに、ブレトランドを「邪悪なエーラムと手を組む君主達」の手から取り戻すように命令が下されている。それ故に、ロンギヌスとしては、その方針に協力しない訳にはいかない。ただ、その行きすぎた暴走は止めなければならない、と考えていたのである。その考え自体に対しては、ネロも理解を示していた。 「私としても、いたずらに敵を増やすのはどうかと思います。私が聖印教会の教えに共感出来たのは、少しでも多くの民を混沌から救いたいという気持ちからであり、信者以外の人々との間で争いを生むためではありませんから」 ネロがそう答えると、ロンギヌスは「我が意を得たり」と言いたそうな顔を見せる。 「全くもってその通りです。やはりあなたは、この国にとって必要なお方だ。ブリジット殿との婚儀に関しては無理強いは致しませぬが、どちらにしても、あなたが今後、この国の中核となって下さることを期待しています」 「期待されているのであれば、私もその期待には応えなければなりませんね。それが、私の役割でしょうから」 よく言えば客観的な、悪く言えばどこか他人事のような口調でネロがそう受け流すと、ひとまず「言いたいこと」を言い切ったロンギヌスは満足した様子でその場から去って行く。 実際のところ、ネロとしては、この国を自分が背負うことになった場合、進むべき方向性がまだ見えないままであった。というのも、彼は、聖印教会の人々の言うことには一定の理解を示しつつも、彼等の教義の中で、一つだけ腑に落ちない点があったのである。 (聖印もまた、混沌から生まれたものではないのか?) ファーストロード・レオンは、混沌核を自らの手で作り変えることで、「最初の聖印」を作り出した。その後も、同じような形で自力で聖印を作り出した者達の記録は残っている。ならば、「混沌の力を使う魔法師や邪紋使い」と「聖印の力を使う君主」は、本質的には同じではないのか? そんな疑問が、彼の中ではうっすらと浮かんでいたのである。だが、彼はこの仮説を、本格的に理論として確立しようという気はない。現実問題として、聖印教会の人々の協力によって、この国を奪還することが出来たのは事実である以上、彼等の信仰に水を差すような言論を声高に振り翳すことは、この国にとって望ましくないと彼自身が考えていたからである。故に、彼はこの仮説を、誰にも伝えないまま封印していた。 そして、彼にとってのもう一つの悩みは「ブリジット姫」と「リーベック卿」である。現状、彼の中でこの二人は「共にこの国の未来を支える仲間」である。その上で、前者との間で「それ以上の関係」を望むべきなのか、そのために後者と争うべきなのか、彼の中では、まだ気持ちが定まらないままであった。 そんな複雑な心境を抱えながら、ネロはダーンダルクの王城の一角に位置する、軍務用の会議室へと向かっていく。この後、ネロはその会議室に於いて、まさに「その二人」との会談が待っていたのだが、ロンギヌスがそのことを知った上で、このような話をもちかけてきたのかどうかは分からない。ただ、嫌なタイミングで聞きたくない話を聞かされたネロの足取りは、どこか憂鬱な様子であった。 1.2. 敬虔なる貴公子 一方、もう一人の「後継者候補」であるリーベック・ウェルシュ(下図)もまた、ネロ達との会談のために、ダーンダルク城の会議室へと向かっていた。風貌的には、眼鏡をかけて、長めの髪を後ろで結いあげた、爽やかな雰囲気の優男であるが、その内に秘めたる本質は苛烈にして果断であり、過去には幾多の「混沌を身に宿した者達」を、年齢・性別・社会的立場を問わず、その手で「浄化」し続けてきた、聖印教会の中でも特にラディカルな信徒の一人である。その聖印はネロと同等の「男爵級」であり、教団内の「実行部隊」の中でも屈指の実力派と言われていた。 そんな彼の前に、彼よりもやや年上の、一人の騎士が姿を現わした。 「おぉ、そちらにおわしますは、リーベック殿下ですか?」 そう言って声をかけてきた男の名は、フランク・シュペルター(下図)。彼は、元来はヴァレフールの七男爵家の一つであるシュペルター家の次男坊であったが、聖印教会への信仰心が強く、それ故に、実兄が投影体の少女と恋仲になったことに憤慨して出奔し、日輪宣教団の教義に感銘を受けて神聖トランガーヌへと馳せ参じた人物である。故に、彼は旧トランガーヌ子爵家派にとっても、日輪宣教団にとっても「外様」ではあったが、実質的には後者に近い立場であった。 「あぁ、フランク殿。いかがなさいましたか?」 「本日は、我が領内の施政に関する定時報告のために参上致しました」 フランクの上司であるジニュアールは、ヘンリーの子爵時代からの側近である。それ故に、今でもヘンリーからの信頼は厚いが、彼は旧子爵領崩壊後に、一度アントリアに降伏して所領を安堵された後に、神聖トランガーヌの建国時に謀反を起こして馳せ参じるという「二度の裏切り」の前科を持つ人物のため、日輪戦教団側が警戒し、フランクを「お目付役」として副官に任命することになった。それ故に、彼の「定時報告」とは、実質的には「領主の監査報告」でもある(逆に言えば、外様でありながらも、そこまでの任務を任される程度には、宣教団側からのフランクへの信頼は厚かった)。 「それはご苦労様です」 「そういえば、風の噂で、リーベック様は近々ブリジット様と御婚儀を結び、正式にヘンリー猊下の後継者となられるとお伺いしたのですが……」 そう言われたリーベックは、ひとまず社交的な笑顔を浮かべつつ答える。 「まぁ、今は状況が状況ですからね。そのような噂が流れるのも致し方ないことだと思います」 「ということは、まだ本決まりではない、と?」 「もちろんです。御令嬢自身の御意志もあるでしょうし、何より今は私自身が、神にこの身を捧げている立場ですしね」 イスメイアの教皇庁の教義の中にも、日輪宣教団の団則にも、聖職者の妻帯を禁じる規定はない。ただ、修行の身であることを理由に自主的に色欲を断つ若者もいる。この点に関して、リーベックがこれまでどのような青春時代を歩んできたのかについては、不明な点が多い。そして今、彼自身がその「御令嬢」に対してどのような想いを抱いているのかについても、様々な憶測は流れているものの、誰もはっきりとした確信は持てずにいた。 「そうですか。私は、リーベック殿下こそが、この国を継ぐに相応しいと考えている次第です。教皇庁で神の正しき教えを学んだ殿下であればこそ、きっとこの国を、あるべき方向へと導いて下さると信じています」 それは、まさに日輪宣教団の信徒としての彼の本音であり、実質的にこの国を支える「外来の宣教団」の人々の大半は、より教会と深い繋がりのあるウェルシュが後継者となることを望んでいた。 ただ、そんなフランクにはもう一つ、国家や教団の未来とは別次元で、「一人の男性」として、リーベックに対して言いたいこともあった。 「とはいえ、もし、リーベック様の中に、既に心に決めた方がおられるなら、そのお心を大切にすべきかと思います。己の恋心を偽って生きるのは、それはそれで、人の道に反するおこないですから」 フランクが唐突にこのようなことを言い出した背景には、まさに今、彼自身が「一人の女性」に対して強い恋心を抱いていたからなのだが、そんな事情など知る由もないリーベックは、当然のことながら、やや怪訝そうな表情を浮かべる。 「先ほど申し上げた通りです。私は神に仕える身であり、まだそういったことは……」 「まぁ、ごゆっくり考えて頂ければよろしいかと思います。ただ、私はネロ殿下のことはよく存じませんが……、カーディガン家には、投影体の血が混ざった『呪われた血筋』である、という噂もあります」 フランクがそう口にすると、リーベックがやや険しい表情をみせるが、それに気付かずフランクは話し続ける。実際のところ、宮廷内ではそのような噂は前々から密かに広がっていた。 「猊下の御嫡男であるジュリアン殿下が聖印を継げない体質となってしまったのも、母君であるジェーン様の血統故だったのではないか、とも言われています。もしその噂が本当なら、たとえネロ殿下が高潔な人格のお人であっても、そのような血筋の方の許にブリジット様を嫁がせる訳にはいかないでしょう」 彼がそこまで言い終わると、リーベックはしかめた表情のまま、冷たく言い放つ。 「カーディガン家の名を貶めることは、そのままウェルシュ家の名を貶めることに繋がります」 リーベックの中では、カーディガン家もウェルシュ家も同じペンブロークの一族であり、ネロは彼にとって、イスメイアへの留学以前からの大切な知己である。後継者争いのために、そのような噂を流布することは、たとえそれが自分のためを思った言動であっても、彼としては許し難いことであった。 「これは失礼致しました。ただ、現実問題として、この世界には、体質的に『混沌を招きやすい人物』がいるとも言われております。ネロ様がそのような方ではないと思いたいところではありますが、とはいえ、ブリジット様も大切なイザベラ様の御息女ですし、出来ればより正統な、より高貴な血筋の方の元に嫁がれるのが、あの方のためなのではないかと」 そう言って、余計な発言で不興を買ってしまったことを後悔しながら、フランクは足早にその場を立ち去る。そんな彼のことを、リーベックはやや難しい顔を浮かべながら見送りつつ、会議室へと歩を進めるのであった。 1.3. 日輪の聖女 そんな二人と共に、この国の未来を担う存在と言われているブリジット・サバティーニ(下図)は、ダーンダルクの城下町に新たに築かれた日輪宣教団の本拠地となる聖堂内に存在する母イザベラの私室に呼び出されていた。ブリジットは、見た目はまさに深窓の令嬢のような「麗しき姫君」であるが、彼女もまたネロやリーベックと同等の強力な聖印の持ち主であり、特に「味方を守る能力」に関しては、現在の日輪宣教団の中でも屈指の実力者であると言われている。 ブリジットの父(イザベラの夫)はエストレーラの辺境の村民であったが、まだブリジットが幼かった頃に、現地の領主の契約魔法師であったエーラムの魔法師の気まぐれな施策によって、理不尽な形で命を落としている。その後、イザベラは女手一つでブリジットを育てつつ、やがて聖印の力に覚醒し、聖印教会に入門した後、混沌の即時使用禁止を主張する苛烈な教義解釈で同志を増やし、教団内で確固たる地位を確立するに至った。現在の彼女は、神聖トランガーヌと教皇庁の間を行き来する日々である。 そんなイザベラが先日、ブリジットに「神聖トランガーヌ東部のエフロシューネの近隣の森で頻発している混沌災害を浄化するための出撃命令」を通達した。エフロシューネの混沌災害は、神聖トランガーヌの成立以前から未解決のままの難題であった。かの地は、元来は風光明媚で豊かな土地だったが、約1年前から混沌災害が出現し始めたらしい。 そして、その出撃部隊の指揮官に任命されたのが、ブリジット、ネロ、リーベックの三人である。この人選に「特別な意味」が込められていることは、多くの人々が内心で察していたところであるが、ひとまずはそのことには触れないまま、イザベラは愛娘に出陣を命じる。 「エフロシューネの領主のマーグ殿は猊下からの信頼厚き御方。御力になって差し上げなさい」 ちなみに、マーグもまた、タレイアの領主ジニュアールと同様、旧子爵領崩壊後に一度はアントリアに降った後、ヘンリーの帰還に応じて再離反した身である。ただ、彼は旧子爵領時代から聖印教会の信徒であり、以前から契約魔法師も持たない身だったこともあり、日輪宣教団とも今のところは友好的な関係を保っているようである。 「分かりました。お母様」 「ところで、猊下が重病なのはご存知ですね? もし万が一、猊下が天に召されることになった時に備えて、そろそろ後継者を決めねばなりません。今のところ、猊下の一族の中で後継者候補とみなされているのは、カーディガン家のネロ殿と、ウェルシュ家のリーベック殿のお二人です。どちらも、今回あなたと共に討伐部隊を率いる予定の方々ですが、今のところ、あなたとしては、どちらが国主に相応しいと思いますか?」 ブリジットは子供の頃からイスメイアで修行していたため、同じように幼少期から同地に留学していたリーベックとは幼馴染に近い関係である。一方で、ネロは2年前にイスメイアに亡命してきて以来、気の合う友人として交友を重ねてきた(なお、この時にネロやヘンリーを教皇やイザベラに引き合わせる橋渡し役を果たしたのが、リーベックであった)。 故に、彼女は確かに二人のことを最も良く知る人物の一人と言っても良いだろう。とはいえ、国主としてどちらが相応しいかと問われても、「あるべき国主の姿」自体がまだ自分の中で確立されていないブリジットとしては、答えようがなかった。 「私が、そのようなことを考える立場にいるとは思えません」 「今のところはそうでしょうね。では、質問を変えましょう。あなたも、もう19です。私があなたの歳の時には、もうあなたを産んでました。もし、あなたの伴侶にするとすれば、どちらが相応しいと思いますか?」 現実問題として、この後継者問題と絡めて、自分と彼等二人のどちらかとの縁談を(本人達の意向を無視して)進めようとする動きがあることは、ブリジットも知っている。彼女としては、二人に対して、憎からず想う心がない訳ではない。しかし、この二人のどちらかと結ばれる未来像、というものが、まだ今の彼女の中では、現実感のある話とは思えなかった。それ故に、彼女はやや顔を膨らせながら、不機嫌そうに答える。 「お母様はズルいです。私にこのような立場を強要しておきながら、そのようなことを聞くのですか?」 そう言われたイザベラは、複雑な表情を浮かべつつ、真剣な口調で話を続ける。 「無論、あの二人のどちらかでなければならない訳ではありません。もし他に『この方』という人がいるのなら、それでも良いでしょう。例えば、今回の赴任先であるエフロシューネのマーグ殿はあなたとも歳が近いですし、あるいは、その途上にあるタレイアのジニュアール殿も、少し歳は離れてはいますが、今は独り身です。あなたにはまだ精神が少々幼いようですから、年上の人に導いてもらった方が良いかもしれませんしね」 イザベラがブリジットのことを「幼い」と評する理由は、彼女の「趣味」である。ブリジットは子供の頃からぬいぐるみが好きで、今でもその私室には沢山のぬいぐるみが並べられている。ただ、彼女が「かわいい」と思う基準はやや常人とズレているようで、その中には(普通の人から見ると)「不気味な投影体」のようなデザインの代物も多い。 「また、あなたの伴侶となる人が、必ずしもこの国の国主である必要はないと思います。しかし、おそらくその方が、この国はまとまるでしょう。無論、あなたにその覚悟が無いというのであれば、その立場を強要するつもりはありません」 ブリジットは、膨れた顔から真剣な顔に戻って答える。 「私の身はもう既に、神の導きのままに存在しているものです。この国が、神の降臨される国であるとするならば、私はこの国を支えるためにこの身を捧げることに、いささかの躊躇もありません」 彼女は毅然とした態度でそう言い放つ。ただ、そんな言葉とは裏腹に内心では「19歳の乙女」としての心も捨てきれずにいた。実は彼女の中では、密かに憧れを抱いている人物がいたのである。その人物の名は、ヴァレフールの七男爵の一人、ファルク・カーリン。ヴァレフール内の聖印教会派の代表格の一人である。 現在、神聖トランガーヌとヴァレフールは緩やかな中立関係である。ヴァレフール内では、神聖トランガーヌのことを「アントリア以上に危険な存在」として敵視する者達もいるが、神聖トランガーヌ側は、まずはグリースおよびアントリアとの戦いを優先する立場であるため、ヴァレフールに対して敵対的な姿勢を取るつもりはない。 それ故に、ヴァレフールの北西部国境を守るファルクとの間で友好関係を築くために、ヘンリーは、フォーカスライト大司教ロンギヌスの仲介を通じて、彼と頻繁に交友を重ねている。その過程で幾度か彼と顔を合わせることになったブリジットは、その端正な顔立ちと優雅な気品溢れる物腰に、純粋に一人の女性として恋心を抱いていた。 出自は平民の娘とはいえ、現在のブリジットであれば、男爵位を持つファルクとも釣り合いは取れるであろうし、ブリジットがファルクに嫁ぐことでヴァレフール内に味方を増やすことは、大局的な戦略としては悪くない。ただ、それはヴァレフール側にとっては大きな「爆弾」を抱え込むことにもなるため、そう易々と受け入れられる道ではない。おそらく、そのことはブリジットも察していたであろうし、それに加えて「この人の妻になることは、幾多の女性を敵に回す覚悟が必要」だということも直感的に感じ取っていたため、少なくともブリジットの方から、積極的にファルクに対して「それらしい態度」を取ることはなかった。 そんな彼女の本心に気付いているのか否かは不明だが、これ以上問い詰めても望ましい答えは引き出せないであろうと察したイザベラは、改めて話を本筋に戻す。 「分かりました。では、此度の任務が『あなたの進むべき道』を神が示して下さる良き機会となることを私は願っています」 彼女がそう言うと、ブリジットは黙って一礼して、部屋を出て行く。娘に重い責務を負わせてしまうことに対して、イザベラの中にも躊躇や後悔が無い訳ではない。だが、この世界を正すために、聖印の力を授かる立場に生まれた者には、相応の責務がある。たとえ娘であっても、その宿命から逃れさせる訳にはいかない。イザベラは自分自身にそう言い聞かせながら、静かに娘の背中を見送るのであった。 2.1. 黄昏の城下町 この日の夕刻、ダーンダルクの王城の軍務様会議室では、翌日のエフロシューネへの出陣に向けて、ネロ、リーベック、ブリジットの三人による作戦会議が開かれる予定であったが、開始予定の刻限の時点で、部屋の中にいたのは、ネロとリーベックの二人だけである。彼等は、ブリジットが遅れている理由が、「いつもの店」に寄り道しているからではないかと考え、自ら彼女を探しに行くことにした。 その「いつもの店」とは、城下町の一角に存在する「珍しい動物のぬいぐるみ」を売ってる玩具店である。その店で取り扱われている商品は、いずれもブレトランドの各地に出現したと言われる「異世界からの投影体」をモデルとしたぬいぐるみばかりであり、神聖トランガーヌ建国時には、その存亡が危ぶまれたが、それらがあくまでも「投影体を模したぬいぐるみ」であり、「ぬいぐるみの投影体」ではないことが確認されたことで、かろうじて営業を許されて現在に至る。 ネロとリーベックが店内に入ると、そこには顔を綻ばせて「異形のぬいぐるみ」を物色しているブリジットの姿があった。 「あぁ、かわいい……」 思わずそんな独り言を漏らす彼女の背後から、リーベックが声をかける。 「これ以上、ベッドを狭くして、どうするつもりだい?」 そう言われたブリジットは、ビクッと反応して、恐る恐る振り返る。 「やぁ、リジー」 リーベックは、ブリジットのことをそう呼んでいる。彼は公の場では誰に対しても礼節を重んじるスタンスだが、幼馴染であるブリジットに対しては、このような態度で接している。そしてまたブリジットにとっても、彼は貴重な「対等に語り合える存在」であった。 一方、その傍らに立つネロは、やや呆れた口調で問いかける。 「それでも変装しているつもりですか?」 ブリジットとしても、さすがに今の自分の立場で「投影体のぬいぐるみ」を愛でることが体面上望ましくないことは分かっているようで、自分の身分がバレないよう、一番地味な服を着て「庶民」のフリをしてはいるのだが、いかんせん、全体的な雰囲気は全く隠せていない。 「せめて、髪型くらいは変えないとね」 リーベックが苦笑しながらそう付言すると、ブリジットは会議の時間を過ぎてしまっていたことに気付き、二人に謝罪しつつも、横目で一つのぬいぐるみ(下図)に対して、物欲しそうな視線を向ける。それは、赤い武者鎧を纏った白猫(のような何か)の姿であり、口の部分から火を模した布が飛び出ている。それは数百年前にブレトランドに現れたと言われる「火を呼ぶ猫(俗称:火呼にゃん)」がモデルなのだが、そこまでの知識は彼女にはない。ただ、純粋に「かわいいから欲しい」と思っているだけのようである。 「イザベラ様には黙っておいてあげるよ」 リーベックが優しい笑顔でそう言うと、ブリジットはパッと顔が明るくなり、そのぬいぐるみに手を伸ばす。すると、店主の眼鏡の奥の瞳がキラッと光った。 「お嬢ちゃん、よかったら、こっちの巨大黒蜥蜴や光の巨人の人形もあるけど……」 「さすがに、一つだけだよ」 リーベックがすぐさまそう言って釘を刺すと、ブリジットは残念そうな顔をしながらも、白猫(?)のぬいぐるみを店主に差し出す。 「やっぱり、この猫ちゃんにします」 こうして、彼女はお目当ての品を手に入れると、嬉しそうにそれを手に抱えながら、「すみません、ご迷惑をかけしました」と言って、持って帰ろうとする。 「見つからないように、しまった方がいいと思うよ」 「あぁ、そうですね」 リーベックにそう言われた彼女は、ぬいぐるみを鞄の中の下の方に押し込みつつ、ちらっとそれを見て、改めて嬉しそうな表情を浮かべる。そんな二人の様子を、ネロは複雑な表情を浮かべながら、ただ黙って見ていた。 ****** その後、城に戻る途中で、おもむろにブリジットが二人に語りかける。 「こんな楽しい日も、ひとまずは今日でおしまいですね」 おそらくは彼女自身、そのことが分かっていたからこそ、その前にせめてもの「癒し」が欲しくなって、あの店に立ち寄ったのだろう。 「そうだね。明日からは、しばらく忙しくなりそうだ 「我々は聖印を持つ者である以上、それは仕方のないことかと」 二人の王子は、対照的な表情と口調でそう語る。しかし、二人が内心では同じ決意を抱いていることは、ブリジットにも分かっていた。 「えぇ、もちろん、その通りですね」 「まぁでも、僕達には、神のお導きがある訳だから、混沌に負けることなど、絶対にありえないさ」 リーベックがそう言うと、ブリジットは改めて力強く頷く。 「そうですね。このような平和な時間を、もっと多くの人に味わってもらうことこそが、私達の使命ですからね」 彼女がそう言うと、二人も同意を示す。ただ、ネロの中では、今でも「神」への疑念がない訳ではない。それ故に、敬虔な信徒であるリーベックやブリジットとの間には、どこか「温度差」が生まれていた。そして、そのことがまた「婚約問題」とも関わって、ネロの中にどこかモヤモヤとした感情が広がっていく。 (混沌さえ無ければ、こんな思いを抱くこともないのにな……) ネロは内心、そう呟いた。ただ、結果的にはこの混沌に対する明確な嫌悪感という点においてだけは、彼は二人と心を同じくすることが出来ていたのである。 2.2. 真夜中は別の顔 その後、出撃に向けての夕刻の打ち合わせはつつがなく終わり、三人はそれぞれ自室へと帰還する。そして陽が落ちて、夜の街の灯が広がり始める頃、リーベックの部屋から、一人の「美女」が姿を現す(下図)。それは、リーベックの「もう一つの姿」である。 その「変身」は聖印の力ではなく、ましてや混沌の力である筈も無い。純粋な「化粧」と「異性装」である。眼鏡を外し、髪を下ろし、町娘風の装束に着替えた彼は、完全に別人と化していた。彼は同性愛者でもなければ、性的なアイデンティティが身体と異なる訳でもない。ただ単に、純粋に一つの「趣味」として、「日頃の自分とは異なる自分」を演じて、夜の町を徘徊する。それは、敬虔な信徒として、真面目一筋に生きてきた彼にとっての、ほんのささやかな「戯れ」の時間であった(なお、彼がこの趣味に目覚めた契機は、かつて任務に失敗して敵軍に捕まった際に、とある幻影の邪紋使いに弄ばれたことだったのだが、その邪紋使いの正体については、彼は未だに知らない)。 ちなみに、「この状態」の時の彼は「レベッカ」と名乗っている。ダーンダルクの夜の酒場街ではそれなりに顔の通る存在となっているが、当然、その正体を知る者はいないし、絶対に知られる訳にはいかない。そんなスリルを楽しみながら、この日も「彼女」は行きつけの酒場へと足を運ぶ。すると、そこにはこの町では見慣れない(しかし、つい先刻会ったばかりの)一人の騎士が、激しい喧騒を巻き起こしていた。 「貴様、いい加減なこと言ってんじゃねぇぞ!」 その怒号の主は、フランク・シュペルターである。王城内で出会った時の彼とは別人のような荒れた口調で、酒場の客に対して怒鳴り散らしていた。 「いや、その、確実な話ではないんですけど、私の目には、その方の服は、その、異界の方々の装束であるように見える訳でして……」 酒場の客は怯えながらそう答える。どうやらフランクは「かつてタレイアの街で出会って一目惚れした女性」が描かれた絵を見せて「この人を知らないか」と聞いて回っていたらしい(その女性の正体についてはブレトランド八犬伝5を参照)。 「あの方が投影体の筈がないだろう! 全く、どいつもこいつもいい加減なコト言いやがって!」 どうやら彼は、他の場所でも様々な人々から同様の反応を返されてきたらしい。レベッカがそんな彼の様子を酒場の入口の外側から見ていると、その入口付近に繋がれている一匹の短毛の大型犬が、「彼女」に近付いてきた。吠える様子もなく、素直に彼女になつこうとしている様子である。 「ちょっと、静かにしててね」 そう言いながら、レベッカがその犬を撫でていると、酒場の中からフランクが怒りの形相を浮かべながら出てきた。 「もういい! お前らでは話にならん!」 そう言って彼は、レベッカの方へ近付いてきた。すると、その犬が嬉しそうな顔でフランクに近付いていく。 「これはお嬢さん、ウチのジョンが粗相をしていたようで」 どうやら、この犬はフランクの飼い犬らしい。フランクが自分の正体には気付いていないことを確信しつつ、レベッカは笑顔で答える。 「あぁ、いえ。可愛らしいワンちゃんですね。ところで、何か揉め事でも」 「実は、人探しをしておりまして、このような装束の女性を見たことはありませんか?」 そう言って見せてきたその絵に描かれていた女性の装束は、レベッカの目にも、明らかに異界の代物であるように見える(なお、フランクは名家出身ということもあって、芸術にもそれなりに造詣が深く、人並み以上に絵心はある)。ただ、ここで同じ反応を見せても、フランクが荒れるだけだろうと考えたので、ひとまずは無難な回答に止める。 「変わった服を着ていますね」 「そうなのです。海の向こうの、東の方から来たと仰っていたのですが、東国に詳しい者がこの辺りにはいないようで」 「しかし、東の国から来た旅人さんとなると、旅の目的を終えたら、帰ってしまうのではないでしょうか? だとしたら、会いに行くのは……」 「そういえば、今は何か任務があるというようなことを仰っていた。そうか、もしかしたら、もうブレトランドにはおられぬのかもしれんのか。しかし、せっかく今、私はこの神の国で働ける立場を得た以上、この国を去る訳にはいかないし……。生きていればいずれ会えると、信じても良いものだろうか……」 酒に酔っているせいか、一人で勝手に盛り上がりながらも勝手に困惑している彼に対して、レベッカは笑顔で言葉をかける。 「大丈夫です。きっと神様は、良き出会いにあなたを導いて下さいます」 その「良き出会い」が「彼女との再会」であるとは言っていないのだが、フランクの側は、勝手にそう解釈したようである。 「これは見知らぬお嬢さん、ありがとうございます」 そう言って、少しだけ機嫌を直したフランクは、そのまま犬をつれて立ち去っていった。 「まぁ、知らないのは罪ではないからね」 フランクのことを見送りながら、レベッカは小声で密かにそう呟く。仮に彼の想い人が投影体であったとしても、彼がそうとは知らずに勝手に想いを寄せているのであれば、それはレベッカの中では「罪」ではない。もし万が一、彼がその女性と再会し、そしてその女性が投影体と発覚した場合、その時点で彼がどうするかは、彼の「信仰心」次第であろうが、今の時点でそれを推測しても意味はないだろう(ちなみに、もしレベッカがこの時点で「ジョン」の正体に気付いていた場合、非常に「厄介な事態」を引き起こしていた可能性があるのだが、幸いにもその「最悪の展開」は免れた)。 そして、彼女は改めて酒場に足を踏み入れると、カウンターに座って酒場主に声をかける。 「こんばんは、おじさま」 「おぉ、これはいつものお嬢さん。今日は何にするかい?」 「オレンジジュースをお願いします」 彼女はこの店でも、それなりに常連である。 「そういえば、知ってるかい? ここの王子様とお姫様が混沌討伐だか魔物討伐だかに行くってことで、酒場の中でも盛り上がっていてねぇ。これは一種の婚前旅行なんじゃないか、なんて言い出す奴もいるくらいで」 酒場主にそう言われたレベッカは、内心苦笑しながら話を続ける。 「でも、王子様は二人いるんでしょう?」 「そうそう、そこが問題なんだよ。姫様は一体、どちらをお選びになるのか。いやー、結構ねぇ、それは街の人達の間でも色々と意見があってねぇ」 「じゃあ、おじさまは、どっちの王子様が相応しいと思ってるの?」 まさか、その王子様本人に問われていると気付く筈もなく、酒場主は素直に思案を巡らせる。 「そうだなぁ……。正直、俺は、ウェルシュの王子様に関しては良く知らないからなぁ。とはいえ、今、この街も色々ややこしい状態になってる。大陸から来た人達と、本来のトランガーヌの民と、その両者の架け橋となりうるのがどちらか、と考えると、それは難しい問題だ。というか、あんたはどう思う?」 「うーん……」 さすがにこれについては、どう答えるべきか、レベッカとしても判断が難しい。彼女が返答に迷っていると、酒場主は更に困らせる質問を投げかける。 「と言うよりも、むしろ、アレだな。姫の相手として相応しいかどうか、よりも、アンタ自身としては、どっちの王子様が好みだい?」 「そうねぇ……、まぁ、私も、あの二人の王子様について、よく知ってる訳ではないわ。特にウェルシュの王子様は、こちらに馴染みのある方ではないし、ネロ様も一度はこの地を去った身だしね。まだお二人とも若いから、目立った勲(いさおし)を立てている訳ではないでしょう。でも、今回のエフロシューネの討伐の結果次第で、それも自ずと見えてくるんじゃないかしら」 そんな当たり障りのない回答でごまかすと、酒場主もそれに素直に納得した表情を浮かべる。 「そうだな。そういう意味では、今回の出陣は、ちょっと見ものではある。ちなみに、姫様の方も、実は隠れファンが多くてな」 「まぁ、私達の聖女様だしね」 これについては、レベッカ(というよりもリーベック)としても素直に納得した心境でそう答える。ちなみに、実はブリジットの方も、ちょくちょくお忍びでこの酒場には顔を出しており、「レベッカ」とも面識がある。 「だから、今回の募兵においても、この機会に俺もひと旗あげて、姫様にいいとこ見せよう、と考えてる奴もいるらしい。まぁ、そう簡単にはいかないだろうけどな」 「王子様も、ライバルが多くて大変ね」 他人事のようにレベッカがそう呟くと、酒場主が何かを思い出したような顔を浮かべる。 「あ、そういえば、姫様がアンタに会いたいと言ってたよ。今夜あたり、出撃前にそろそろまた来るんじゃないかな?」 ちなみに、当然のことながら、ブリジットも「レベッカ」の正体は知らない。彼女の中では純粋に「酒場で自分に対して物怖じせずに話し相手になってくれる女性」でしかない。 「じゃあ、もう少しここで待ってよっと」 レベッカはそう呟きながら、酒場主から出されたオレンジジュースをゆっくりと口元へと運ぶのであった。 2.3. 人としての感情 その頃、城内のロビーでは、ネロとブリジットが遭遇していた。 「ネロさん、おつとめ、ご苦労様です」 「おや、ブリジット姫ですか」 「明日の準備の方はよろしいですか?」 「今、ひと段落したところです」 そんな事務的な会話を交わしつつつ、ブリジットは突然、申し訳なさそうな顔を見せる。 「夕方は、変なところを見せてしまってゴメンなさい」 それが、ぬいぐるみ屋の一件のことであることは、ネロにもすぐに分かった。 「別に、姫様が悪いことをしていた訳ではないですし、咎められることではありませんよ。私達は『聖印を持つ者』ではありますが、それ以前に『人間』なのですから、人として、楽しいと思うことを楽しまなければならないのです」 これは、ネロの中での君主としての信念である。とはいえ、彼自身が日頃から質素すぎる生活を送っているため、あまり説得力はないのであるが、それでも、ネロにはっきりとそう断言してもらえたことで、ブリジットは少し安堵したような表情を浮かべる。 「そうですよね。私も、このような立場の者として担ぎ上げられてはいますけど、人並みに楽しいことを楽しみたいという気持ちはあるんですよね」 ブリジットはそう言いながら、また別の何かを思い出したかのように、少し頬を紅く染めながら、ネロに問いかける。 「町に流れている『噂』はご存知です?」 「な……、なんのことでしょう?」 明らかに動揺した様子でネロがそう答えると、ブリジットも彼の内心を察する。 「ご存じのようですね。私を、ネロ様かリーベック様か、どちらかと婚約を結ばせるという話のことを」 そう言って、ネロの反応を見るブリジットであったが、彼は、困惑しているのか、あるいは、まんざらでもないのか、よく分からないような素振りを見せながら、そのまま無言を貫く。その沈黙に先に耐えかねたブリジットが、そのまま語り続けた。 「私としては、今回の魔境の浄化作戦の後で、お二人のどちらかと婚約することになっても、それはそれで構わないと思っています。それが、この国の、ひいてはこの小大陸の、全ての人々のためになると思うからです」 それは、あくまでも「立場上の話」であることに力点を置いた主張であり、それに対して、ネロは少しだけ残念そうな表情を浮かべる。 「そうですね。それが私達の『立場』であり、聖印を持つ者としての……」 彼はそこから続けて何かを語っていたが、小声になってしまいブリジットにはよく聞こえなかった。ただ、それは、あえて訊き返さなくても良いことなのだろう、ということは彼女にも分かっていた。 「ネロさんが、そういう志でいて下さるのであれば、私としても安心です。明日からの作戦、頑張りましょうね」 彼女はそう言って、にっこりと笑う。 「そうですね。民のために頑張らなければ」 ネロはそれに加えて何か言いたいが、その一言が出てこないまま、言葉に詰まって黙ってしまう。そんな彼を置いて、ブリジットは去って行った。 (私は、彼女に何を言いたかったのだろう……) ネロの中では、ブリジットに対しては、間違いなく「一人の人間として」伝えたい気持ちがある。だが、「君主としての自分」の中に「彼女と共にこの国を支えていく未来像」への疑念がある状態では、その気持ちを表に出すことが出来ないままでいた。 自分自身が自分の中の「人としての感情」を把握出来ないまま、ネロは残された王城のロビーで、一人苦悩を続けることになる。 2.4. 姫の本音 その後、ブリジットは夜の城下町へと、お忍びで足を運ぶことにした。先刻、二人に注意されたこともあり、目立たない黒系の服を着て、髪をまとめて帽子の中に入れるなど、それなりの工夫を施した上で、行きつけの酒場へと向かう。ネロに言われた通り、君主としての使命を果たす前に、人として、やりたいことをやりきっておこうと考えたのであろう。ブリジットの中では、なんとなく、この日に酒場に行けば、「彼女」に会えるのではないか、「彼女」に対してであれば、自分の本音を曝け出せるのではないか、と考えていたのである。 そして、その予感は的中した。ブリジットが行きつけの酒場に入ると、そこには「レベッカ」の姿があった。レベッカの方もすぐに彼女に気付くと、すぐにブリジットに対して、「こっちこっち」と手招きをする。この時点で、レベッカはカウンター席から、(ブリジットが来た時に二人で話がしやすいように)端の方のテーブル席へと移動していた。 ブリジットがそのテーブル席に着くと同時に、レベッカはブリジットの帽子を取って、髪をいじり始める。 「あぁ、何するんですか!?」 「相変わらず、お忍びがなってないわ」 「こ、これでも頑張ったんですよ」 「こんなに上まできっちり襟を止めていると、見るからにいいとこのお嬢様みたいじゃないの」 レベッカはそう言いながら、ブリジットの服を着崩させ、よりラフな風貌へと変装させる。 「ほら、可愛くなった」 満足気にレベッカにそう言われたブリジットは、少し赤くなりながら、小声で語りかける。 「ありがとう。レベッカ、ちょっと話を聞いてもらっていい?」 「うん。なあに?」 「街の噂は知ってるわよね?」 「どこもかしこも、あなたのことで持ちきりよ」 本当はそれは「自分のこと」でもあるのだが、あくまでもここは「レベッカ」として、他人事のように振る舞う。 「このままいけば、噂通りに、私は二人のどちらかと結婚することになると思う。でも、レベッカ、本当は私、普通の子みたいに、本当の恋をしてみたかった……。今日もお母様が私に、二人のことをどう思うか、と聞いてきたの」 「で、なんて答えたの?」 「私は今まで、そういうことを考えないように、考えないように、って、ずっと気持ちを押し殺してきたから、何も答えられなかった。だけど……、本当は私にも、憧れている人がいるのよね」 突然そう言われたレベッカは、内心の動揺を表に出さないようにしつつ、話を続ける。 「そんな人がいるなんて、初耳なんだけど」 「だって、人に聞かれたら困るし。私、そういう立場でもないから。でも、レベッカのことを信用して言うね。私……、ヴァレフールのファルク・カーリン様に憧れてるの」 頬をより一層赤らめながらそう語るブリジットに対して、レベッカは苦笑いを浮かべる。 「それは……、二人の王子様には荷が重い話ね」 ファルク・カーリンという人物が、いかに人間としても男性としても魅力的か、という話は、聖印教会に身を置く者であれば、知らぬ者はいない。唐突に出現した「強力すぎる恋敵」の名前を聞かされて、「レベッカの中のリーベック」自身もまた、苦笑いを浮かべざるをえなかった。 「でも、私とファルク様では、立場も国も違うし、到底私の気持ちが通じるとは思えないわ。だから、このことは、あなたに伝えたことで、もうおしまいにするつもり」 ブリジットが、精一杯「すっきりした表情」を見せようとしているのを目の当たりにさせられたレベッカは、しばらく考えた上で、「レベッカ」として伝えるべき言葉を紡ぎ出す。 「私は、いいと思うわ。そうやって、『女の子の幸せ』を求めるあなただって、あなたな訳だし。そういうあなたを素敵だと思う人もいると思う」 それに対して、ブリジットもまた、少し考えた上で、改めて「すっきりした表情」を作りながら答える。 「うん、ありがとう。でも、もう、私は私一人だけの存在ではないから。私を慕ってくれる皆さんの期待に応えなきゃいけないと思うから」 すると、レベッカはポンと彼女の肩を叩く。 「力が入りすぎよ。まぁ、難しいことは考えないで、とりあえず、無事に帰ってきてくれることだけ考えてくれれば、私はそれでいいわ」 ブリジットはそう言われて、ようやく本当に安堵した表情を浮かべながら、コクリと頷く。 「そうね。ありがとう。やっぱり、レベッカと話していると、自分の気持ちが整理出来るわ」 その純粋な笑顔に対して、レベッカは内心で浮かび上がる「彼女を騙していることによる罪悪感」を抑えつつ、どうにか笑顔で答える。 「じゃあ、明日も早い訳だし、今日はこれでお開きにしましょうか」 「そうね。あ、そうだ、レベッカ、これ」 そう言って、ブリジットは小さい「ぬいぐるみ」を一つ渡す。それは、どの世界から来たかも分からないと言われる「巨大ゴリラ」を模した人形である(ただし、大きさは掌サイズである)。 「これ、私が好きなぬいぐるみなんだけど……」 「……相変わらず、あなたの趣味は分からないわ」 さすがに、レベッカとしては、そこまで話を合わせる気はないらしい。 「えぇ!? あなたなら、共感してくれると思ったのに」 「まぁ、でも、リジーがくれたものだからね。大事にする」 彼(彼女)はレベッカの状態の時でも「リジー」と呼んでいるのだが、声色を変えているためか、それで正体が気付かれることはなかった。 「じゃあ、また話を聞いてね」 「もちろん。だから、ちゃんと帰ってきて、話してね。あなたに神のご加護がありますように」 そう言って、レベッカはゴリラを懐に入れ、やがて二人は酒場を後にするのであった。 2.5. 王子二人 その後、王城の近くにレベッカが戻ってきた時点で、今度はネロと遭遇する。 「おや、お嬢さん。こんなところで何を?」 一応、ネロも「レベッカ」とは面識がある。無論、その正体は知らない。 「あら、こんばんは。夜のお散歩です」 そう言って、いつも通りに適当にやり過ごそうとするが、若干動揺して声が上ずっていることは、本人も気付いていた。先刻の姫との会話における罪悪感を、まだ引きずっていたようである。その不自然さに気付かれる前に、あえてレベッカは自分からネロに対して話題を振る。 「明日、エフロシューネへの遠征に行かれるんですよね?」 「えぇ、それが私の役割でもありますし、混沌で苦しんでいる人々を少しでも多く救うことが、私の使命ですから」 定型文のような口調でそう答えるネロに対して、レベッカはあえて突っ込む。 「その割には、難しい顔をなさるのですね」 その一言に、ネロは自分の中の様々な感情を見透かされたようで、やや動揺しつつ、つい本音が出てしまう(おそらくは、彼もまたブリジットと同様に、誰かに自分の気持ちを伝えたいという感情が湧き上がっていたのだろう)。 「私には、聖印を持つ君主としてというより、一人の人間として、守りたい人がいるのです」 日頃、このようなことを口にすることがないネロの突然の述懐に、レベッカは少し驚いた顔をしながら問いかける。 「あのお姫様ですか?」 「……こういう言い方をすると、バレてしまいますね」 そう言われたレベッカは、若干ムッとしたような顔を見せる。 「それなら、迷うことなんてないじゃありませんか。あなたがお姫様のことを守りたいと思っているなら、その通りに行動すればいいのに、どうしてそんな顔をされているのですか?」 「姫様も言っていましたが、我々には君主としての身分もあります。今の私と姫との関係は、今のままでは、『人と人』としてではなく、『君主と君主』としての関係になってしまう。それが少し寂しいのです。それが私達の役割と言ってしまえば、それまでかもしれませんが」 思いがけず友人の本音を聞いてしまったレベッカは、それに対して「リーベック」として反応したい気持ちを抑えて、あくまでもレベッカという別人格として振る舞い続ける。 「それは、私のような町娘には分からないかもしれませんけど、そのようなことで悩んでいるようでは、姫様の心は射止められませんよ。何せあなたには、ライバルが多いのでしょう?」 そう話しているレベッカ自身がまさにそのライバルだということに気付かないまま、ネロは自分の中の思いを打ち明け続ける。 「私個人としては言いたいことがあっても、君主としては言えないこともあるのです。あなたには、難しい話かもしれませんけど」 「そうですか」 「レベッカ」はまだ怒った様子のままであったが、そのままネロは自分の考えを語り続ける。 「どちらにしても、私が出来ることは、戦場で姫様を守ること。それしかありませんから」 そう言って話を終わらせようとするネロに対して、レベッカはこう告げる。 「神は、あなたがた君主に力を与えてくださいます。けれど、その使い方を決めるのは、そして人生をどう歩むかを決めるのは、他ならぬあなた自身なのですよ。そこに、君主としての使命はありません」 そう言って、彼女は踵を返し、背を向けながら最後に声をかえて去って行く。 「では、ネロ様、明日の遠征、あなたに神のご加護がありますように」 ****** その後、ネロが隊舎の方に点検に向かおうとすると、彼に向かって一人の兵士が小走りに近づいて来た。 「ネロ様、ちょっとよろしいですか?」 「何かあったのですか?」 ネロは兵隊に対しても、このような口調である。 「実は、この度の遠征に向けての募兵した者達の身辺調査をしてみたところ、ちょっと『変な奴』が混ざってまして。いや、害のある奴じゃないんですが……」 「どういうことですか?」 ネロが小首を傾げながら、その兵士について行くと、兵舎の奥から、顔を傷を持つ小柄な少女が姿を現わす(下図)。 「だ、だから言ってるじゃないっすか! オレ、男っすから! もう18っすから! 普通に戦えますから!」 「とりあえず、本人はこう言ってるんですけど……」 どう見ても、まだ未熟な少女である。一兵士として戦力になるかと言われれば(彼女が見た目通りの能力しか持たない者なのであれば)、難しいだろう。 「多分、何かの手違いで審査を通してしまったのでしょうが、こちらも一度通してしまった手前、どうにも扱いに困っていて。このままウチの隊に入れてしまって良いものかどうか……」 ちなみに、この兵士はネロの直属の部隊である。少し考えた上で、ネロはこう提案した。 「まぁ、配属するとすれば……、姫様の部隊が良いのではないでしょうか? 一人くらい、こういう者がいた方が、姫様の気持ちが和むでしょうし?」 「なるほど。よし、ケリィ、お前は姫様の部隊に配属だ」 「わ、分かったっす。姫様を守る騎士になればいいっすね。頑張るっす!」 そう言って決意を新たにする少女であったが、ネロは内心では「姫の強さを目の当たりにすればいい」と考えていた。ブリジットは、見た目こそ「まだぬいぐるみが手放せない幼い少女」であるが、聖印の力を掲げて戦う時の彼女の実力は、ネロやリーベックにもまったく引けを取らない。その強さを目の当たりにして、心が折れるか、奮起するかは、この少女次第であろう。 ****** その頃、ネロと別れて「リーベックの部屋」に戻った「レベッカ」は、変装を解き、ベッドに横たわって、一人呟く。 「僕は、卑怯だな……」 自らの正体を偽ることで、ブリジットも、ネロも、本来ならば自分が知ることが出来ない筈のことまで話してくれた。その罪悪感に苛まれつつ、自分が今回の任務で、「リーベック」として二人に対してどう接するべきかを、彼は一人静かに考えていた。 2.6. 湖岸都市に潜む影 翌日、三人はそれぞれの舞台を率いて、エフロシューネに向けて出陣する。ブリジットの部隊には、昨夜ネロ隊から転属した少女(であることを隠した兵士)のケリィが加わっていた。 「姫様、よろしくお願いします」 「えぇ、あなたの力、頼りにさせて頂きます」 そんなやり取りを交わしつつ、三部隊は進軍を開始した。ダーンダルクとエフロシューネの間には湖が存在しており、その湖を囲むように「北回り」と「南回り」の街道が存在するが、現在、北回りの街道の途中に位置するクラカラインの町が巨大な魔境と化して通行不可能な状態となってしまっているため、南回りのタレイアの町経由の街道で向かうことになった。通常の進軍速度では、エフロシューネまで二日を要するため、タレイアでひとまず一泊する方針である。 そして、タレイアまでの道中は特に何の問題なく、無事に同地に到着する。だが、この町に入り、ひとまず挨拶のために領主の館へと向かおうとした矢先、多くの町の住人達が「王子様」と「お姫様」を一目見ようと彼等の周囲に人だかりを作る中、その群集達の中に紛れていた「赤髪の少女」の姿を発見したネロは、その彼女が「自分の記憶にある一人の少女」と酷似していることに気付く。 (あれは確か、子爵様の侍従の……) それがネロの見間違いでなければ、その少女は、子爵時代のヘンリーの侍従の一人である。名は、クローディア・シュトライテン。ダーンダルクの落城以降の彼女の行方については、ネロは聞いたことがない。以前の彼女は金髪に近い髪色であり、当時に比べて背も伸びているため、最初は分からなかったが、その表情や素振りは、彼の記憶の中のクローディアと完全に一致していた。 しかも、彼女はただの侍従ではない。「影」の能力を駆使する邪紋使いである。かつての彼女は、ヘンリーへの忠義心の厚い公儀隠密的な存在であったが、日輪宣教団の守護者となった今のヘンリーとは、もはや相容れない立場である。その彼女がこの神聖トランガーヌ領内にいるということは、他国の密偵として潜り込んでいる可能性が高いだろう。グリースか、ヴァレフールか、アントリアか、最悪の場合、闇魔法師組織パンドラに雇われている可能性もある。かつての仲間を敵として疑うのは偲びないが、彼女にしてみれば、裏切ったのはヘンリー達の方である。居場所を無くした彼女がどの陣営に与していたとしても、文句を言えた立場ではない。 (今すぐ、彼女を追いかけなければならない気もするが、ここで彼女を止めようとすると、騒動になる。そして、おそらく「影」の能力者である彼女には、あっさりと逃げられる……) 客観的に見て、ネロとしてはそう判断せざるをえなかった。更に言えば、日輪宣教団の教義への信仰、および「かつての仲間」である彼女個人への認識・感情に関して、ネロは他の二人とは明らかに「温度差」がある。もし仮に、ここで彼女の捕縛に成功したとしても、その処遇を巡って対立や混乱が発生する可能性もあるだろう。 (ここは、事を荒立てるべき時ではない。人と人が無駄に争うべきではない) そう判断した彼は、ひとまず、彼女のことを密かに横目で確認しようとすると、どうやら彼女は、町の「東側」の入り口へと向かおうとしているように見える。その先にあるのは、まさに彼等が今向かおうとしているエフロシューネであった。 そこからは様々な憶測が可能であるが、どう推理したところで、どこまでいっても「憶測」でしかない。やむなく、彼はあえて誰にも言わずに、立ち去る彼女を見送るのであった。 ****** その後、彼等は無事にタレイアの領主の館へと到着する。領主のジニュアール・リーオ(下図)は、笑顔で彼等を出迎えた。 「ようこそ我が町へ。本日はごゆっくりお休みになった上で、明日以降の戦いに備えて下さい」 「お心遣い、痛み入ります」 三人を代表してリーベックがそう言いつつ、三人同時に軽く一礼する。 「エフロシューネの領主のマーグは、我が長年の盟友です。彼は子供の頃からあの村で生まれ育った身ですし、あの村のことは彼が一番分かっています。ですので、現地では彼の指示に従って行動して下さい」 「分かりました」 リーベックが改めてそう答える。本来なら、ネロも一緒に何か言葉を添えるべきだったかもしれないが、この状況において彼は、先刻のクローディアの件が気になったままで、その動揺を隠すので精一杯の状態であった。 ****** その後、ひとまず町の兵舎を間借りする形で兵士達が腰を落ち着けると、若い兵士達の一部 は、翌日に備えて軽く鍛錬を始める。そんな中に、ケリィの姿があったが、彼(彼女?)がいくら「剣の稽古つけてくれよ」と他の兵士達に言って回っても、皆、どの程度の加減で相手をすれば良いのか分からず、やりにくそうな雰囲気が漂っている。 そんな中、様子を見に来たブリジットが、鎧姿でケリィの前に現れた。 「稽古をしているなら、私もご一緒してよろしいですか?」 ケリィは、予想だにしなかった大物の登場に、思わず直立不動で敬礼する。 「姫様! きょ、恐縮です! オレ、姫様みたいな、才色兼備の立派な騎士になりたいんです! あ、いや、オレ、男ですし、その、姫様みたいな、ってのは、ちょっと違うかもしれないですけど……。なんというか、その、姫様みたいな優雅な騎士になりたいというか、いや、その、別に貴族でもないんですけど……」 「その心意気を神は見ていますよ。きっと、神のお導きがあります」 ブリジットはそう言って、訓練用の剣と盾を持って、稽古をつける。彼女は「味方を守ること」に特化した聖印の持ち主であり、当然、一対一においても、その守りはまさに鉄壁である。ケリィがどれだけ必死に彼女に一太刀浴びせようとしても、全く歯が立たない。 「す、すごいです! 姫様! やはり、私のような平民では、聖印を持つ姫様をお守りすることは出来ないのでしょうか?」 「確かに、あなた方の力は、それほど強いものではないかもしれません。しかし、神は見てくれています。強い心を持つ者の元に、聖印が発現するのです」 「そ、そうっすよね。頑張っていれば、オレもいつかは……」 「えぇ」 そんな会話を交わす二人の様子を、少し遠目でリーベックは微笑ましく見ている。その傍らにはネロもいるが、彼の中では二人の会話を聞いて、再び「あの疑念」が湧き上がってくる。 (しかし、聖印も本来は……) 当然、この場でそんなことを口にするつもりはない。だからこそ、その「誰にも言えない疑念」がいつまで経っても彼の脳裏から消えないままでいた。だが、ここで、そんな彼の悩みを一瞬で吹き飛ばすような一言が、ケリィの口から飛び出す。 「ところで姫様、他の兵士の人達が言ってたんですけど、姫様、近々結婚されるんですか?」 あまりにも空気を読まないその発言に、周囲の兵士達も凍りつくが、当の「姫様」は、笑顔で答える。 「神のお導きがあれば、そうなるかもしれませんね」 ひとまず無難に彼女がそう返すと、ケリィは一応納得したような顔を見せつつ、話を続ける。 「なるほど。いや、実はですね、このタレイアの街には、とっておきのデートスポットがあるんですよ。湖の近くに、蛍がよく出る場所がありまして。夜にそこに行くと、すごくロマンティックな光景になるんだと、私の……、あ、いや、オレの、その、女友達が言ってました」 その会話は、当然「二人」にも聞こえていた。 「あなたは、この辺りには詳しいんです?」 「はい。子供の頃、この辺りに住んでいたこともあったので」 「じゃあ、道案内をお願いしてもいいですか?」 リーベックは、そわそわしながら、そんな二人のやりとりに目を向けている。彼女が、ここで「誰と」行くことを想定しているのか、気にならない筈がない。 「いや、でも、俺なんかが姫様と一緒に行くのは申し訳ないというか」 「そうですか」 「とりあえず、簡単な場所をお教えします」 そう言って、ケリィは簡単なメモ書きをブリジットに渡す。そのメモ書きを書いている間、ブリジットは明らかに「ちょっと行ってみたいな」と言いたそうな顔をしていた。 それを察知したリーベックが、いち早く彼女に近付く。 「楽しそうな話をしてるね。ちょっと行ってみるかい、リジー?」 言われたブリジットは、素直に嬉しそうな笑顔を笑顔をみせる。 「そうですね、リックさん。そのような綺麗な場所があるなら」 「リック」とは、彼女がリーベックを呼ぶ時の愛称である。「さん」付けではあるが、このように、互いに略称で呼び合っている辺りからも、二人の親密さが伺える。そんな二人との間に、再び微妙な距離感を感じていたネロであったが、そんな彼に対してもブリジットは声をかける。 「ネロさんも一緒に行きませんか?」 この発言に対して、リーベックは内心色々と思うところがあっただろうが、その感情は一切表に出さず、ネロの反応を見る。すると、彼は少しだけ考える間を空けつつも、明朗に答えた。 「はい、行きます」 ネロとしては、先刻、「他国の間者かもしれない人物」の存在を見てしまった以上、二人だけに行かせるのも危険だという気持ちもある。無論、彼自身、自分の中でそれ以外の感情が湧き上がっていることも自覚はしていたが、あくまでも「二人の警護が目的」と、内心で自分に言い聞かせていた。 「じゃあ、三人で行こうか」 リーベックは爽やかな笑顔でそう言うと、ブリジットもネロも頷き、ひとまず、この場はそれぞれの旅荷物を置くために、与えられた客室へと向かうことにした。 ****** こうして、リーベックがタレイアの館の中にあてがわれた客室へと向かおうとする中、突然、「謎の声」がリーベックの耳に届く。 「あれ? なんで君がここにいるの?」 それは、どこか子供じみた口調だったが、明らかに成人男性の声である。しかも、リーベックには、その声に聞き覚えがあった。ただ、それが誰の声かまでは思い出せない。そして、その声がどこから聞こえているのかも分からない。明らかに、この廊下の中のどこかに身を潜めていることは分かるのだが、その場所までは特定出来ない。 「誰だ!?」 「僕の声に聞き覚えがないのか。じゃあ、ここは君を頼るべきではないかな」 思わせぶりな口調でそう語る「謎の声の主」に対して、リーベックは警戒心を強めつつも、平静を装いながら問いかける。 「僕に用があるのかい?」 「まぁ、君でなくても良かったんだけどね。君は、ここの領主様とは親しい関係かい?」 「少なくとも、敵対するような間柄ではない。協力関係と言ったところかな」 「協力関係、か……」 そこで会話が途切れる。そして、その声の主がどこかに去ろうとしていることを、その口調からリーベックは感じ取っていた。 「待ってくれ。君の声、どこかで聞いたことがあるような気がするんだが……」 「まぁ、いいや。やめておこう。この国は色々とややこしそうだからね。やっぱり、ここは僕が直接行くべきかな。人伝にすべきことでもない。正直、僕はあまり彼とは顔を合わせたくなかったのだけど」 そう言い残して、その廊下から、その「謎の誰か」の気配は消えた。リーベックは顔をしかめながら、ため息をつく。「自分のことを知っている誰か」がこの館のどこかに潜んでいるという状況は、なんとも心地の悪い状況ではあったが、今の自分にはどうすることも出来ず、そして、その人物の目的も分からない以上、あまり他人に公言して良いかどうかも分からない、そんな、なんとも悩ましい状況であった。 ****** そして、そんな彼の苦悩など気にせず、その声の主は「懐かしい友人」と偶然出会ったことで、ちょっとした感慨に浸っていた。 (そうか、結局、彼はあのまま立派に「教会の騎士」になったんだね。じゃあ、「今の僕」とは、もう相容れぬ関係、ということなんだな。「あいつ」と同じように……) リーベックと出会ったのは、まだリーベックが幼少期に騎士見習いとして、混沌に侵された様々な地を遍歴していた頃。その頃の自分は、まだ何者でもなかった。その後、エーラムへの入門と挫折を経て、諸々の経緯の末に「今の力」を手に入れた。聖印教会の者達からは決して許容されない「混沌」の力を。 (さて、これから僕は、どんな顔をして「あいつ」に会えばいいのかな。姉さんの手紙を渡したら、即帰りたいところだけど、一応、その反応を伝えてあげないといけないだろうし……) そんな想いを抱きながら、彼は一人、この街の領主の私室へと視線を向けつつ、まだこの時間帯の領主は公務中のため一人になることはないだろうと察して、ひとまずは「勝手知ったるこの館」の現状を確認しようと、他の「顔見知り」の元へと足を運ぶのであった(彼の正体についてはブレトランド八犬伝5参照)。 2.7. 蛍の光 その後、改めて合流した三人は、ケリィに手渡されたメモ書きを元に、「蛍が見える湖岸」へと向かう。既に陽は落ち、月光に照らされた道を進む彼等であったが、王子二人はそれぞれに「自分だけが知っている『謎の侵入者』の存在」のことが気になって、どこか厳しい顔つきになっていた。 「お二人とも、このような場所は楽しくないですか?」 「あぁ、すまない。ちょっと考え事をしていて」 「最近、考えなければならないことが多くて」 二人がそう言うと、ブリジットは安心して笑顔を浮かべる。そして、その途上、ネロとブリジットは、彼等三人を尾行するように、誰かがついて来ているのに気付いた。どうやら、それは彼等の部下の兵士達のようである。 (むしろ、彼等がいてくれた方が安全でいいか) ネロは内心そう思いつつ、ブリジット共々、彼等のことを「見て見ぬ振り」をしながら、やがて彼等はその湖岸へと辿り着いた。そこでは、この小大陸では珍しい蛍達が飛び交い、今まで見たことがないような美しい光景が広がっている。 「ダーンダルクは海辺の町だけど、タレイアにはこんな景色もあるんだね」 リーベックがそう呟くと、ブリジットも相槌を打つかのように答える。 「そうですね。こんなに沢山の蛍が飛んでいる幻想的な風景、初めて見ました」 すると、そんな彼女の発言に対して、ネロは反射的に自分の中で湧き上がった「素直な考え」を口にする。 「幻想的、という表現が正しいかどうかは分かりませんね。彼等は確かに生きているのですから」 そんな彼の発言にたいして、後方で出歯亀をしていたネロ隊の兵士達は「いや、隊長、そこでかけるべき言葉は、それじゃないでしょう」と言いたげな雰囲気を醸し出していたが、リーベックはそんな彼に合わせて言葉を繋ぐ。 「まぁ、そうだね。彼等も『生きとし生けるもの』だからね」 その一言で、(一瞬崩れかけた)「ロマンティックな雰囲気」がかろうじて保たれたことに後方の兵士達が安堵する中、ブリジットは改めて蛍を眺めながら、その想いを口にする。 「まるで、星が動いているようですね」 そう言いながら、彼女は空を見上げた。そこには確かに、岸辺に広がる蛍の光景とどこか似た雰囲気を漂わせた、綺麗な星空が広がっている。 「うん、色々な風景を見てきたけど、ここは特別に綺麗だ」 「これからもずっと、こういう風景を見られるような、そういう生き方が出来ればいいんですけどね」 素直に彼女に話を合わせて感慨を語るリーベックに対して、ネロは彼女の感動に共感しながらもどこかその感動に浸りきれない様子である。そんな中、リーベックが「先手」を打った。 「僕は、特にリジーと一緒に来れて良かったよ」 そう言われたブリジットは、顔が赤面しそうになるのを必死に耐えつつ答える。 「私も、『お二人』と一緒にこういうところに来れて、嬉しいです」 あくまでもその口調からは「二人との友情」が強調されている。これに対して、ネロも何か言いたかったが、リーベックが隣にいる状態では、彼は何も言えなかった(ちなみに、リーベックの方は、これでもまだ少しネロに遠慮したつもりであった)。 「そろそろ遅くなりますし、戻りましょうか」 「そうだね。あまり遅くなると、兵舎の皆も心配するだろうし」 二人の王子がそう言うと、ブリジットもそれに同意して、三人は帰路につく(当然、出歯亀していた面々も、彼等の後に続いて帰還する)。 その途上、夜道が暗かったせいか、ブリジットが川辺で滑って、転びそうになってしまう。 「きゃっ!」 即座に、それをネロが身を挺して支えた。 「姫様、大丈夫ですか?」 「ごめんなさい、ネロさん」 「あ、いえ、私は大丈夫です、はい」 転んだ当人のブリジット以上に動揺した様子で、結果的に彼女に抱きつかれる形になったネロがそう答える。その隣では、リーベックは内心穏やかではない心境ではあったが、それを表に出すことはなく、前を向きながら声をかける。 「もう足元も暗いからね。気をつけなきゃ」 「そうですね」 ブリジットはネロに寄りかかった姿勢のまま、そう答える。この状況で、ネロは何かを言おうとしていたが、結局、何の言葉も出てこなかった。その状況を見て、後方で出歯亀を続けていたネロ隊の兵士達が何を思っていたのかは、定かではない。 2.8. それぞれの夜 こうして、無事に帰還した三人が、それぞれの自室へと戻る。すると、帰還した直後のネロの部屋に、ケリィが訪ねてきた。 「あ、あの、俺、隊長に認めてもらった上で、この隊に入れてもらえて、だから、その、俺、隊長にはすごく感謝してるんです。だから、俺、隊長のこと、応援してます」 どうやら、出歯亀していた兵士達の中に彼(彼女?)もいたらしい。だが、ネロはケリィが何の話をしているのか分かったような分からないような心境のまま、一言だけ答えた。 「ま、まぁ、うん、頑張る」 その一言を聞くと、ケリィは自分が「差し出がましいこと」を言ってしまったことを改めて認識し、少し頬を赤らめながら、慌ててその部屋から立ち去って行くのであった。 ****** 一方、リーベックは先刻の「謎の声の主」について思い出そうとするが、やはり、何も思い出せない。ただ、その声を聞いたのは、もう随分昔であるようにも思えるので、おそらく、現在の神聖トランガーヌに与する人物ではないと推測するのが自然である。そうなると、必然的に「敵」である可能性が高い、という結論に行き着く。 その上で、先刻の会話内容から察するに、その「敵と思しき誰か」はこの地の領主と接触しようとしていたように思える。その接触が成功したのか否かは不明だが、この状況から察するに、領主であるジニュアールが、何か「後ろ暗いこと」を隠している可能性は十分にあり得るだろう。 そう考えた彼は、自室で密かに「レベッカ」の姿となり、ジニュアールに関する街の人々の噂を 聞くため、夜の城下町へと繰り出して行った。この街でこの姿となるのは初めてであるが、少なくとも「首都から派遣された貴族」としてよりは、「女性の旅人」の姿の方が話が聞きやすいであろうと判断したのである。 そして実際、いくつかの酒場を転々として話を聞いた結果、色々と「不穏な噂」の存在を知ることになる。ジニュアールは数年前に奥方を病気で失い、それ以降は独り身なのであるが、どうやらアントリア支配下の時代に、当時彼と契約していた女魔法師と内縁の関係になっているのでは、という噂があったらしい。一応、神聖トランガーヌ建国時に彼が馳せ参じた時点で、その女魔法師とは契約を解除して追放したと申告していたが、その後の彼女の行方を知る者はいない。そして、現体制になって以降も、一向に誰か後妻を迎えようとする気配も見せないことから、実はまだその女魔法師に未練があるのではないか、と噂する者もいるという(彼はまだ若く、亡き妻との間にも子はいないので、普通の貴族ならば再婚の道を探るのが自然である)。 更にそれに加えて、ジニュアールには「自らの身に邪紋を刻んで勘当された異母兄」がいるという話もある。現在は傭兵としてアントリアに仕えており、表面上はこの地には足を踏み入れていないようであるが、今でも裏で何らかの接点があるのではないか、と勘ぐる者もいた(この「異母兄」の現状に関してはブレトランドの遊興産業5を参照)。 いずれもあくまで「噂」にすぎず、明確にジニュアールが他国と通じているという確証はない。ただ、疑うべき状況証拠がこれだけ揃っている以上、リーベックとしては、今後は彼に対して一定の警戒心を持って接しなければならない、と確信する。 ****** その頃、夜の街に「レベッカ」が出現していることなど露知らず、ブリジットは改めてジニュアールに、宿の提供への御礼を述べるために、彼の私室を尋ねる。すると、その扉の奥から、かすかに「話し声」が聞こえる。どうやら「先客」がいるらしい。彼女は出直すべきかどうか少し考えつつ、ひとまず扉をノックする。 すると、部屋の中から、一瞬にしてその「先客」の気配が消えたことをブリジットが感じ取り、その次の瞬間、扉を開いてジニュアールが姿を現わす。 「おや、これは姫様、どうなされました?」 彼の背後の部屋の中には、一切人影が見えない。もしかしたら、部屋の奥に誰かが潜んでいるのかもしれないが、さすがにここで領主の私室を捜査する権限はブリジットにはない。 「あの、正式なご挨拶がまだだと思ったので」 「いえ、こちらとしては、ただ一夜の宿を提供しているだけの立場ですので、そこまでお気になさる必要はありません。姫様は明日に備えて、ごゆっくり、お休み下さい」 「お心遣い、感謝致します」 そう言って改めてブリジットが頭を下げると、ジニュアールは何かを思い出したかのような表情を浮かべる。 「そういえば、蛍を見に行かれたそうで」 「はい。とても美しい光景でした」 「このようなことをお伺いするのも失礼かと思いますが……、『皆様で』行かれたのですか?」 ジニュアールとしても、彼女達の関係に突っ込むことが不躾であることは百も承知であるが、それがこの国の方向性に大きく関わる問題である以上、無関心ではいられない。 「えぇ、私と『あの二人』の三人で」 その答えを聞いたジニュアールは、少々複雑そうな表情を見せる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、今度はブリジットの方から問いかけた。 「ジニュアール様は、どなたかと見に行ったことはあるのですか?」 「えぇ。亡き妻とはよく行ったものです。私と妻との思い出の場所でもありますし……」 少し遠い目をしながらそう呟きつつ、彼は真剣な表情で改めてブリジットに語りかける。 「これは、私の様な、中途半端な風見鶏が言えた立場ではありませんし、姫様が真に受ける必要もない話ではありますが、出来れば、心の片隅に入れておいて下さい」 そう前置きした上で、やや視線をそらしながら、婉曲的に話を始める。 「この世界で生きて行くためには、どこかで誰かを切り捨てなければならないこともあると思います。実際、私は結果的に、二度にわたって主君を裏切ることをになりました。本来の主君の元に戻ってこれたこと、今は後悔はしておりません。ヘンリー様と共に大陸に行かなかったことを後悔する気持ちはありますが、結果的にそこで私がアントリアの軍門に降ったことで、この街の平和を維持出来たことも事実です。姫様もこれから先、そういった決断を迫られることもあると思います。二人の中からどちらかを選ばねばならないこともあるでしょう」 やや回りくどい言い方ではあったが、彼の言いたかったことは、概ねブリジットも理解した。 「御炯眼、恐れ入ります。私も、自分の立場をわかっているつもりです。ですので、そのような決断をしなければならないことは、ずっと心の中にあります」 「出過ぎたことを申し上げました」 「いえいえ。私はジニュアール様がヘンリー様の元に戻ってきて下さったことは、それ以前のことも含めて、神のお導きだと思います」 ブリジットは、胸の前で手を握り、神に対して祈るような姿勢を見せながらそう語る。一方、ジニュアールの方は、神聖トランガーヌの建国以前は、聖印教会とは無縁の騎士であった。今は教会に対して従順な姿勢を示してはいるものの、今の彼の中でどこまで強い信仰心が備わっているのかは定かではない。だが、この瞬間、彼は素直に彼女の言葉を受け入れる。 「そうですね。所詮、我々は神の掌の上でなければ、生きていけない存在なのかもしれません。せめてその中で、後悔しない生き方をしていきたいものです」 おそらく、それは彼の中での本音である。神とは果たして何者なのか? そもそも神が実在するのか? もし仮に実在するとして、人は神に対してどのような姿勢を示すべきなのか? ジニュアールには分からない。ただ、この「神に仕える聖女」の言葉に対して、うっすらとそのような感慨を抱いていたのである。 「このような時間に失礼致しました」 ブリジットがそう言ってその場を去ろうとすると、ジニュアールはやや苦笑しながら忠告する。 「そうですね。私も今は男鰥(やもめ)ですから、姫様が夜中に私の部屋を訪問されるということは、あらぬ疑いをかけられぬとも限りません」 ブリジットは言われて初めてそのことに気付きつつ、ひとまずこの場は微笑みを返した上で、 静かに自分の客室へと戻っていった。 2.9. 湖岸領主の憂鬱 翌朝、三人はそれぞれに複雑な想いを抱きながらも無事に起床し、出立の準備を進める。その一方で、ジニュアールはその三人を見送るために彼等の前に姿を現わすが、この時、彼の脳裏では、昨夜の「ブリジットの前に自室を訪問していた来客」との会話が思い出されていた。 ****** 「姉さんは元気だよ。でも、妊婦を放り出して平気な顔してる父親のことが気になって、なかなか寝付けない日もあるみたいだけどね」 「……今の私が何を言っても、言い訳にしかならないだろうな」 「僕にとってはね。でも、もしかしたら、寂しくて仕方がない姉さんは、言い訳でもいいから、夫の言葉が聞きたいのかもしれない。お腹の中の子供もね」 「元気な子を産んでほしい。そして、幸せになってほしい。そう伝えてくれ」 「この期に及んでも、まだ他人事のようなことを言って、今の立場にしがみつく気かい? 僕がその気になれば、いつでもこの秘密を口外して、君の居場所を奪うも出来るのに」 「お前は、そんなことはしないだろう?」 「まぁ、姉さんが望まないことはしないよ。それに、君がこの『歪な国』と心中したいなら、それを止めてやる義理も僕にはない」 ****** そこでジニュアールが何かを言おうとした瞬間、ブリジットが扉を叩いたため、その「先客」は姿を消し、そして彼女が去った後も、再び現れることはなかった。おそらく、そのまま館の外へと退散したのであろう。「影」の邪紋使いである彼にとっては、それは造作もないことである。 もっとも、仮にブリジットの来訪が無かったとしても、おそらく、ジニュアールはその客人に対して、それ以上の何かを告げることは出来なかったであろう。その意味で、彼はブリジットの来訪で彼との会話が途切れたことに、内心では感謝していた。その上で、ブリジットに対して自分が言ったことを思い出すと、徐々に自虐的な感情が湧き上がってくる。 (私のような不埒者が、どの面下げて「男女の問題」に口を出していたのだろう……。まったく、我ながら、おこがましいにも程がある……) 心の内側ではそんな自省の念に苛まれつつ、平静を装いながら三人を見送ろうとするジニュアールに対して、昨日と同様、リーベックが代表して挨拶する。 「我々の魔境討伐のために力を貸して下さったことに感謝します」 そう言った上で、リーベックは昨日の「噂」を思い出しつつ、冷たい笑顔を浮かべながら語り続ける。 「神は見ていらっしゃる。我々の成したことに対して、誉れを与えることもあれば、罰を与えることもあるでしょう。『神聖トランガーヌ』を支える一員として、この美しい街と良き関係を築いていきたいと考えています」 そんな彼の表情と口調から、何らかの疑惑を抱かれていることをジニュアールは察していたが、もはやそれは「二度の裏切りを経験した領主」にとっては、「いつものこと」であった。 「そうですね。私もこれから先も、ヘンリー様や『ヘンリー様の後継者となられる方々』と共に、この国を守っていきたいと考えています」 彼のその言葉に対して三人は静かな会釈で返答し、そしてエフロシューネに向けて出立する。その後ろ姿を、湖岸領主は複雑な心境で見送っていた。 (神よ、もし本当に存在するのならば、どうかあの前途ある若者達に「悔いなき道」を示したまえ。そして、私に対して、相応の罰を与え給え……) これまで、本気で神を信じる気持ちにはなれなかった彼の中で、初めてこのような感情が芽生えつつあった。それが、彼等に感化されたが故なのか、それとも、純粋な彼の内発的自省によるものなのか、今の彼には、まだ分からなかった。 3.1. 森の町の領主 そして、この日の夕刻、討伐隊は無事にエフロシューネに到着し、この地の領主であるマーグ・ヴァーゴ(下図)が彼等を出迎えた。 「皆様、我が町のためにご足労頂き、感謝致します」 彼は穏やかな笑顔でそう言った上で、そのまま彼等に対して、今後の討伐作戦についての具体的な方針を提案する。 「あの森の構造は非常に複雑ですので、初めて来られた方がいきなり足を踏み入れるのは非常に危険です。よって、皆様には、我々が森の調査に行く間の町の警備をお願いしたいと思います。そうして頂ければ、我々としても、全力で森の調査に向かうことが出来ますので」 この申し出に対して、当然のことながら、三人は怪訝そうな顔を浮かべる。互いに顔を見合わせつつ、まずはリーベックが口を開いた。 「おや? 私達が伺っていた話では、魔境の討伐に手を貸す、という任務だった筈ですが」 「えぇ。イザベラ様からは、その様なお達しがありましたが、皆様はこの国の未来を背負う方々ですので、不用意に危険な前線に立っていただく訳にもいきません。皆様に後方を守って頂くことで、結果的に我々の魔境討伐を手助け頂けることになりますので、その意味では、皆様の御助力は無駄ではありません」 丁重な口調でマーグはそう答えるが、要約すれば、それは「魔境は自分達が討伐するから、手出し無用」ということである。これは、彼等がイザベラから命じられていた任務内容とは、明らかに合致しない以上、リーベックとしては即座に了承出来る話ではない。 「その話は、イザベラ様には通っているのでしょうか? 我々はイザベラ様の命令でこの地に赴いているのです。あなたの仰ることよりも、イザベラ様の命令を優先する義務があります」 「とはいえ、この地の領主は私です。郷に入りては郷に従え、という言葉もありましょう。不用意に前線に立って命を落とされては、それこそ私の立場もありません」 「まさか、神の御加護を受けた我々日輪の者を、その程度の災厄に打ち負かされる存在だとお思いですか? それは神への冒涜です」 「神のご加護があろうとも、敗れる時は敗れます。半年前の対グリース戦のことをお忘れではないでしょう? あの戦いでは、Dr.エベロを始めとする多くの同胞を失いました」 マーグの口調は穏やかだが、そこには明確に、領主として、彼等が魔境へ足を踏み入れることを拒む姿勢が示されている。それに対して、今度はネロが疑問を呈した。 「では、なぜ我々に出兵を要請されたのですか?」 「いえ、こちらから要請した訳ではありません。イザベラ様の方から御助力のお申し出があり、こちらもその御助力を『不要』と言えるほど芳しい状況ではないので、お受けすることにしました。ただ、来て頂いた方々に無駄死にはしてほしくないのです」 「先程から、その危険性を繰り返し強調されていますが、あなたはそこまで『無駄死に』を警戒する理由は何なのでしょうか?」 「我々は一年かけてもこの魔境を浄化出来ていない。それだけでも、十分にその危険性は理解して頂けるでしょう」 一応、マーグの言っていることには、一定の筋は通っている。だが、ここまで強硬な姿勢を見せることに対して、三人共どこか違和感を感じていた。そんな中、リーベックが再び口を開く。 「なるほど。ですが、我々にはイザベラ様への報告の義務があります。我々を町の警護にだけ回したとあっては、イザベラ様のあなたへの心証も悪くなるでしょうし、とりあえず、魔境に関して今分かっていることだけでも教えて頂きたいのですが」 「そうですね。では、簡単に御説明致しましょう」 マーグはそう言うと、三人を自身の館に招いた上で、森の地図を見せながら「事情」を伝える。曰く、1年ほど前から森の中核のあたりに「巨大な混沌核」が発生し、その混沌核の周辺が「魔境」に近い状況と化しているらしい。しかも、その魔境内では方向感覚が狂わされるため、その混沌核を浄化しようとこの街の警備兵が近付いても、なかなか近づくことが出来ない。それに加えて、聖印を持たない者では、そもそも足を踏み入れることも出来ないという。 このマーグの説明に対して、三人は一応は納得した姿勢を見せるが、それでも「魔境に入らないでほしい」という彼の申し出をそのまま受け入れることには、やはり難色を示す。とはいえ、どちらにしても既に夕刻を過ぎており、今から足を踏み入れると夜になるので、ひとまずこの日は、三部隊に与えられた宿舎で休養することになった。 その上で、三人の指揮官はひとまずブリジット用の客室に集まる形で、密かに対応を協議する。リーベックとしては、自分自身の手で真実を確かめるために、夜陰に紛れてこっそり森に足を踏み入れるという選択肢もあったが、さすがに見知らぬ土地の魔境に「夜」に足を踏み入れるのは危険すぎることは分かっていたし、マーグの申し出を一方的に無視して行動することで彼との対立を生み出すことは望ましくないと考え、ひとまず自重する。 一方、ブリジットは、マーグが何か隠しているのではないか、という疑念を抱く。ただ、マーグは聖印教会内では昔から敬虔な信者として評判は高く、かつては同じ信徒でありながらも魔法師と契約していた叔父のサミュエル(現在は信仰を捨て、グリース傘下の領主)とは対照的に、極めて信仰心の強い人物と言われており、統治者としての評価も高い。ただ、基本的に温和な性格故に、日輪宣教団の過激な教義とは合わないところもある、とも言われている。 そのことを踏まえた上で、ひとまずマーグに対しては、これからネロが改めてその真意を確かめに行くことにした。おそらく、立場的に一番近いネロが相手の方が、マーグの本音を聞き出しやすいのではないか、という配慮である。 一方で、リーベックとブリジットは、先刻の時点では顔を出していなかった、マーグの副官である老将ガルブレイスのところに、事情を聴きに行こうと考える。ガルブレイスは現在60歳。一度は聖印を返上して引退した身であったが、マーグに請われて副官として復帰した歴戦の強者であり、軽佻浮薄を嫌う頑固者ながらも、若き兵士達からの信頼も厚く、「親父殿」などと呼ばれて親しまれている。彼が聖印教会に対してどのような感情を抱いているかは不明であるが、ひとまず、話を聞いてみる価値はあると彼等は考えていた。 3.2. 古参の老将 先に面会が実現したのは、リーベックとブリジットの方であった。ガルブレイス(下図)は、二人と顔を合わせると同時に、深々と頭を下げる。 「わざわざ御足労頂いたのに、申し訳ない」 自分の三倍もの年齢の老将に頭を下げられたリーベックは、恐縮した姿勢を見せつつも、すぐに話の本題へと切り込んでいく。 「私も聖印を持つ者として、この地の混沌について、もう少し詳しく知りたいと思っている次第です。マーグ殿も立派な君主ではあると思いますが、前線で主に戦っているあなたの方が、より深く分かっているのではないかと思いまして」 そう言われたガルブレイスは、少し間を置いた上で、訥々と語り始める。 「そうですな。マーグ殿は騎士としても優秀な方ではありますが、どちらかと言えば、彼は統治者としても武人としても、まだ甘い。じゃが、儂はその『甘さ』が好きでしてな」 老将はそう前置きした上で、唐突に話の流れとは無関係な質問を投げかける。 「むしろ私も、あなた方、日輪宣教団の方々にお聞きしたい。なぜ、『神の国』を築く地として、トランガーヌを選ばれた? 御力を貸す相手は、ヘンリー様でなくても良かったのでは?」 実際のところ、この地を選んだのはこの二人ではない。実質的には、リーベックがネロを介してヘンリーとイザベラや教皇を引き合わせたことが契機ではあったが、最終的に彼等への協力を決めたのはイザベラであり、彼女の真意については娘のブリジットでも分からない。二人がどう答えるべきか考えている間に、老将は更に質問を重ねる。 「確かにこの地域は、昔からブレトランドの中では聖印教会の信者が一番多い。じゃが、全ての民があなた方の教義に従っている訳ではない。あなた方としては、教義を受け入れない民をどうなさるおつもりで、この地に来られた? 人の心を無理矢理にでも変えられると思って、この地に来られたのか? 無骨者故、物言いが粗野なのは御容赦頂きたいが、あなた方がこの地に本気で神の国を築くつもりなら、避けては通れぬ問題ではあるまいか?」 なぜ、このタイミングで彼がこのような問いを投げかけてきたのかは分からないが、聖印教会の一員として、聞かれたからには答えない訳にはいかない。 「それについては、私がお答えした方がよろしいでしょうね」 そう言って、ブリジットが前に出る。 「私達、日輪宣教団は、混沌の力を嫌っています。それは我々だけでなく、一般の民の方々にも分かって頂けることでしょう。この地の混沌災害しかり、お隣のクラカラインもそうですし、サロメの村もそうでした。混沌を祓わなければ、平和に見えるどの地、どの場所でも、同じような災害が起こってしまう。私達はそれを止めたいというのが根本にあります」 そう言って隣のリーべックを見ると、彼もはっきり頷く。これについては、ガルブレイスも異論はなかった。 「それ自体は、全ての君主が同じ事を考えているであろう、と儂は信じている」 そう、この点については問題ない。問題は、ここからである。 「今の人々の生活の中に混沌の産物が沢山紛れていることは、もちろん承知しております。ですが、それらも、その中に混沌の欠片を含んでいるのであれば、やはり、混沌災害の元になってしまう可能性はどうしても残っていることになります。民の皆さんは、その事実を知らない、と私は考えています。もしくは、知っていても、自分にまではその災害は及ばないだろうと考えているのではないでしょうか。そういった方々を導くことが、私達の役目だと思います。勿論、知らない方々全員に、知識を持てだとか、考えを押し付けるつもりはありません。そういった方々を全てまとめて救うのが、私達の役目だと考えているのです。ですので、そのために、混沌があれば浄化する。ただ、それだけを考えています」 「そこまでは儂も分からんではない。儂も、一刻も早く混沌は無くすべきだと思っている。問題は『人のために混沌を使う者』だ。それが危険だということは儂も分かる。出来ることなら、全ての人が聖印を持ち、混沌の力に頼らず、全て聖印で解決出来るのであれば、その方が良いと思う。じゃが、現実問題として、何十年も戦場に立ってきた者として言わせて貰えば、魔法師や邪紋使いの戦友も儂にはいた。彼等なくして混沌と戦えたかは分からん。じゃが、まぁ、そこは良いとしよう。百歩譲って、聖印だけで混沌を消し去ることは可能であったとしよう。その上で、これまで人の世を守るためにその力を使い続けてきた、魔法師や邪紋使い、更に言うならば友好的な投影体、彼等の存在をも、あなた方は抹消すべきとお考えか?」 まさにこの点こそが「日輪宣教団の君主」と「それ以外の君主」の最大の分水嶺であり、聖印教会の中においてさえ、意見は割れている。混沌殲滅主義の極北と言われる日輪宣教団の次期当主と目されている彼女もまた、この点については幾多の信者達と論争を交わしてきた。 「これはあくまでも私の考えでしかないですが、私は、今まで混沌との戦いに力を貸してくれた人達の心まで踏み躙ろうとは思いません。ですが、その力は危険なもの。それは同意して頂けると思います。ですので、今後は我々聖印を持つ者だけが力を使い、それ以外の力を持つ方々は、その力を一生封印して、他の一般の方々と同じように静かに生活してもらえるのであれば、それで構わないと思います」 この点に関しては、ブリジットはイザベラよりも穏健派である。イザベラは、魔法師や邪紋使いに対しての不信感が強く、「力を封印する」と言っても信用せず、多くの者達を極刑に処してきた。だが、そのような徹底した方針が多くの人々の反発を招いてきたことを間近で見てきたブリジットは、より多くの人々に教義を理解してもらうために、ある程度の「妥協」は必要だと考えているようである。 「ただ、投影体の方々については……、彼等は混沌による『影』でしかありません。魂すらも、この世界に本当にあるものかどうかは分かりません。そのような存在を、『表向きの姿』に惑わされて浄化をせずにいるのであれば、それは魔境をずっと放置することと同じ事だと思います」 実際、ブリジットも、投影体達の「表向きの姿」を愛らしいと思う心はある(それ故の「ぬいぐるみコレクション」である)。しかし、だからと言って、その存在を許して良い訳ではない。この点に関しては、ブリジットは明確に「感情」と「信念」を分離させた上で両立していた。 そこまで話した上で、ブリジットは一旦下がって、リーベックの方を見ると、今度は入れ替わるように彼が前に出て語り始める。 「我々の教典は、その大元は共通ですが、その解釈は一人一人に委ねられています。ですので、姫と解釈が異なることが多少はあるでしょうが、御容赦下さい」 実際のところ、リーベックの教義解釈はブリジットとの間でも若干の相違があり、実質的には彼女以上にイザベラに近い。彼はかつて、力に目覚めたばかりの幼い邪紋使いを、その場で迷わず「浄化」した過去を持つことでも知られている。 「混沌は、言うならば『甘美なる毒』です。扱うには便利ですが、人の世を蝕むものです。いかに優れた邪紋使いであろうとも、最後は混沌にその身を奪われ、無垢な人々に害を為す存在となるでしょう。我々はそれを許してはなりません。ですから、混沌の力を進んで使うのであれば、私はそれを許そうとは思わない。たとえそれが幾人もの民に恨まれることになろうとも、それが神の思し召しであるならば、その恨みを背負い続ける覚悟は私には出来ています」 そう言い切ったリーベックの瞳に、その言葉以上の強い信念をガルブレイスは感じ取る。その上で、老将は徐々に話題を「本題」へと戻していく。そして、徐々にその語り口が、当初の「お客様への対応口調」から、「対等な君主への論戦口調」へと変わっていく。 「なるほど。教団の中でも様々な考えがある、と。まぁ、そうであろうな。結局、この世界で何が真実なのかは、我々には分からん。最終的には、それぞれの信じた道を進むしかないのであろう。それを踏まえた上で、お主らに問いたい。イザベラ殿の望みは『この地から混沌災害が無くなること』。それでよろしいか?」 彼が語るところの「この地」というのが、エフロシューネなのか、あるいはトランガーヌやブレトランド全体を指しているのか、非常に解釈しにくい文脈ではあるが、ひとまずリーベックは「エフロシューネ」を指しているものだと判断した上で答える。 「少なくとも、そのために私達を派遣した以上、その点は間違いないでしょう」 「であるならば、あの混沌のことは我等に任せて頂きたい。今、その可能性がようやく見えてきたところなのだ。いや、正確に言えば、その可能性は前からあったが、マーグ殿はその道を選ぶことを躊躇された。その道が、最終的にこの神聖トランガーヌに対して害を与えるかもしれない、と考えたからだ。じゃが、少々、状況が変わった。この状況を我々に任せてくれれば、状況が変わる可能性が出来た。なので、しばし待ってもらいたい」 「しばしとは、いかほど?」 「そうじゃのう……、三日だ。もっとも、あくまでこれは儂が言ってるだけじゃから、後でマーグ殿とまた改めて相談する必要はあるがな」 この瞬間、リーベックもブリジットも、「マーグが何かを隠している」という憶測が正しかったことを確信する。そして、彼等が「自分達に黙って何かを進めようとしている」と知った上で、その行動を看過することは出来ない。リーベックはそのまま追求を続ける。 「さすがに、その内容を聞かずに頷けというのは、無理がありましょう」 「そうか。じゃが、全てを知ることが、世の中を平和に導く道とは限らぬぞ」 「先程も申し上げたでしょう。私は恨まれる覚悟は出来ています」 「お主が恨まれるだけで済むのならば良いのだがな。儂も余計な血は流したくない」 「余計な血」とは、果たして誰の血なのか。誰によって流される血なのか。この文脈においては、様々な解釈が可能である。 「なおさら、その話を聞かずに帰る訳にはいかなくなりました」 リーベックはその眼鏡の奥の眼光を鋭く煌めかせながら、一歩も引かない姿勢を見せる。この後、彼等は更なる押し問答を続けることになるが、結局、ガルブレイスからこれ以上の情報を引き出すことは出来なかった。 3.3. 忠義と教義 その頃、マーグの執務室にネロが行こうとしていたところに、タレイアで見かけた「赤髪のクローディア」が、マーグの執務室へと向かっているのが見える。 「ちょっと、よろしいですか?」 「何か?」 そう答えた彼女の声は、やはり、ネロの記憶の中のクローディアの声と似ている。 「私の記憶違いでなければ良いのですが、私はあなたに見覚えがあるのです」 「人違い、という可能性はありませんか? どなたかと勘違いされている、とか?」 「もしかしたら、あなたはただの一般人かもしれないし、私の知っている人ではないのかもしれませんが、あなたから話を聞かなければ、それは判断出来ません」 「何を聞きたいのです?」 「なぜ、あなたがここにいるのか? あなたが、変装してこの神聖トランガーヌにいる理由です」 婉曲的な言い方ながらも、いきなり本筋の質問を投げかけてきたネロに対して、彼女は少し間を置いた上で、静かに口を開く。 「『変装』ですか……。逆にお伺いします。では、あなたはこの町に何をしに来られたのですか?」 質問に答えずに、全く関係のない質問を投げかけてきたことから、少なくとも彼女がただの一般人ではないことを確信した上で、ネロは素直に答える。 「私はこの地の民を混沌による苦痛から解放しに来たのです」 「それならば、私が誰かを詮索しない方が、誰にとっても幸せな道に繋がると思います」 この返答の意図は不明である。だが、おそらくこの物言いからして、彼女がクローディア本人か、少なくとも彼女と関係のある人物である可能性が高いことは推測出来る。 「誰にとっても、ですか……。それは、私が神聖トランガーヌに属する者だから、ですか?」 ネロがそう問いかけると、今度は彼女は即答する。 「あなたがどこの所属であろうと、あなたがこの町の浄化を目指すのであれば、私がこの地にいることは、あなたの目的にも合致する。この町の人々も、この地から混沌が無くなることを願っている。それで良いのでは?」 「残念ながら、今のあなたのその姿からは、それが正しい道なのかは分からないのです」 「あなたの中では、私は『あなたの知っている誰か』であり、その認識はどうあっても変えてはもらえない、ということですか?」 「記憶違いかもしれませんね。しかし、それでもあなたがここで何をしているかは、問わねばなりません」 あくまでもはぐらかそうとする彼女に対して、ネロは徹底して正論で問い詰める。このような実直な姿勢に関しては、実は彼もリーベックとあまり変わらない。 「分かりました。しかし、私がここでそれを話して良いかどうかを決定する権限は、私にはないのです。その話をするのであれば、もういっそのこと、二人で一緒に領主様のところに行きませんか? もしかしたら、あなたがいることによって、話が上手く進む可能性もある」 「そうですね。私もそう思っていたところです」 こうして、二人は揃ってマーグの執務室へと赴く。すると、「その二人」の組み合わせを目の当たりにしたマーグは、驚いた様子を見せる。 「マーグ様、申し訳ございません。こちらの方が、私のことを『この人の知っている誰か』である、と決めつけてかかっているようで」 「仮にそうでなかったとしても、私の立場からすれば、あなたがここで何をしているのか、聞かねばならぬのです」 そんな二人の問答を目の当たりにしたマーグは、薄々「事情」を理解する。 「まぁ、そうですね。今、ここにいるのが『あなた一人』なのであれば、この話をしても良いのかもしれません。どちらにしても、ごまかしきれるかどうかは分からない。ならば、せめてあなたには、真実を話しておいた方が良いでしょう」 マーグがそう言うと、「赤毛の少女」に目配せをすると、彼女はその赤毛を頭からむしり取り、その下から異なる色の長い髪がバサッと広がる。それは確かに「ネロが知っているクローディア」の姿であった(下図)。彼女がそのまま無言でマーグに視線を向け続けている状態において、マーグはネロに問いかける。 「では、まず一つお伺いしたい。あなたは今、聖印教会に対して、どれくらいの強い気持ちで、その教義に帰依しているのですか?」 それは今のネロにとって、一番答えにくい質問である。答えたくない、というよりも、どう答えれば良いのか、彼自身が分かっていない。その心境を表情から読み取ったマーグは、質問の争点を切り替える。 「いや、言い方が悪かったかもしれない。どの程度の混沌まで、あなたは浄化すべきだと考えていますか? たとえば、あなたにとって最も大切な人が混沌にまみれてしまった場合、あなたはその状況でも、その『最も大切な人』を殺せますか?」 これはこれで「答えにくい質問」であることには変わりない。だが、これに答えないことには話が進まないであろうことを察したネロは、言葉を選びながら回答する。 「殺すという表現を用いるのであれば、確かに、私はそういう人を殺すことは出来ないかもしれません。しかし、私はそういった人々を『混沌の苦痛から救う』ために、これまで剣を振るってきました」 歯切れの悪い回答であるが、ここまで抽象化された仮定の話に対しては、ネロとしては、それ以上のことは言えない。 「では、そのような状況があったとして、その人を混沌の苦痛から救うための『殺す以外の方法』を、あなたは探しますか? それとも、安易に殺しますか?」 「それは……、今まで思いもつかなかったことです。そのような方法が本当にあるのだとしたら、私はそれを捜し求めようと思います。しかし、それが今、私の近くにあるとは思えない」 「あるかどうかは分かりません。しかし……」 マーグは少し間を開ける。彼にとってもこの場は、言葉を選びながら交渉しなければならない局面であった。 「誤解無きように言っておきますが、私は今も昔も聖印教会の信者です。その私があえて言いますが、本当に神がいることを証明することは、誰にも出来ません。それでも私は神の存在を信じています。ならば、それと同じように、今の時点で見つからない道を探すことも、自分の信念として、それを信じることは出来るのではないですか? 私はそれは聖典の教義と両立出来ることだと考えています」 「それはそうかもしれない。しかし、その結果として、今まさに混沌の被害に遭っている人々の救助が遅れることになってしまうのではないですか?」 「その可能性もあります。ですから、最終的には聖印を持つ者それぞれの判断、ということになるでしょう。その上で、一つお伺いしたい。あなたにとって大切な人、大恩ある人、守らなければならないと思い続けてきた人、誰でも構いません、その人を救いたいと願い、その可能性を模索すること、それは悪ですか?」 「その方法は人それぞれでしょうが、人を救うこと自体は悪ではないでしょう」 この回答を引き出した時点で、マーグは「言質を取った」と確信し、一つの決断を下す。 「分かりました。では、それを踏まえた上で、あなたにこちらの状況をお話ししましょう」 そう言った上で、マーグは言いにくそうな表情を浮かべながら、しかし、はっきりとした口調で、ネロに対してこう告げる。 「端的に申し上げますと、今、ここで起きている混沌災害の原因となっているのは、ジェーン様です」 ジェーンとは、ネロの叔母であり、現トランガーヌ枢機卿ヘンリー・ペンブロークの妻である。2年前の首都落城以来行方不明と言われているが、まさかこの場でその名前が出てくるとは予想だにしていなかったネロは、驚愕の表情を浮かべる。一方、その「予想通りの反応」を目の当たりにしたマーグは、そのまま話を続ける。 「あの方は、ダーンダルクの攻防戦において、両軍の魔法師達の手によって王城内の混沌濃度が急上昇した際に、その身に混沌を宿してしまったのです。あなたもカーディガン家の方なら、噂には聞いたことがあると思います。カーディガン家の者は混沌を招きやすい、と。それがなぜなのかは分かりません。あなたがそうなのかも分かりません。しかし、稀にそのような方があなたの一族の中にいらっしゃることは事実です」 確かに、その噂はネロも聞いたことはあるし、陰口としてカーディガン家と対立する貴族家の間で流布されていることは知っている。だが、本当にそのような人物が自分の身内から生まれるとは、全く想定していなかった。 「しかし、あの方はその身に混沌を宿してもなお、理性を失わなかった。その身は、もはや邪紋使いと呼ぶのも憚られるほどに『混沌化』してしまったにもかかわらず、理性を維持したまま、混乱するダーンダルクを脱出し、このエフロシューネの森に身を隠されたのです」 エフロシューネの地を選んだ理由は、彼女を守っていた侍従隊の従騎士達の中に、マーグの縁者がいたからである。その縁者を通じてマーグを森へと呼び出し、事情を説明した。マーグは聖印教会の信者ではあるが、邪紋使いなどに対しても(その力の使用をあまり快くは思わないが)寛大な姿勢を示してきたため、彼ならば見逃してくれると考えたのであろう。 そして実際「『人としての心』は残っているが、人前に姿を出せる状態ではない」というジェーンの状況を知ったマーグは、彼女がその森に身を潜めていることを隠した上で、彼女を元に戻す方法を模索することになる(なお、マーグがアントリアに従順な姿勢を示した一つの理由には、「自分がこの地の領主としての立場を維持することで、ジェーンを守らなければ」という使命感もあったのだが、そのことは口には出さなかった)。 だが、結局、その解決法が見つからないまま、徐々に時が経つにつれて、ジェーンの精神状態が乱れ始めた。暗い森の奥で一人孤独な日々を送り続けることによって、徐々に心までもが混沌に侵され始めてしまったのである。その結果、彼女の周囲の混沌濃度が高まり、小規模の混沌災害が少しずつ森の近辺で頻発するようになっていく。 マーグは自らの聖印の力でその混沌災害を押さえ込みつつ、ジェーンの心の平穏を保つために、いつか愛する家族(ヘンリー、エレナ、ジュリアン)と再会出来る日が来ることを信じて、彼等の帰還を待ち続けるよう説得を続けてきた。そんな中、その愛する夫ヘンリーを旗印とする日輪宣教団による反抗が開始されたのである。 「私はあなた方を責めるつもりはありません。ヘンリー様のこの地を取り戻すための、仇敵アントリアを倒すための苦肉の策だったのでしょう。しかし、その結果として、あの方は、もう二度とヘンリー様の前には出られなくなってしまった。その絶望感があの方の心を更に蝕み、更なる混沌濃度の上昇をもたらしてしまったのです」 ここまでの話を聞いた上で、ようやくネロは理解した。マーグがこのことをイザベラに対して隠し続けた理由も。そして、ジェーンの甥である自分だけに対してであれば話しても良い、と判断した理由も。だが、話はここで終わりではない。 「今あの方は森の奥で御自身の力を押さえ込んでいる状態です。この状況を打開するための方策はないものかと思案を巡らせていたところに、この方が現れました」 そう言って、マーグはクローディアを指す。彼は、クローディアが現在、神聖トランガーヌと交戦中の隣国グリースに仕えていることを説明した上で、ネロにこう告げた。 「当初この方は、ジェーン様をグリースが引き取ると仰ったのです」 現在、グリースはヘンリーとジェーンの間に生まれた長男であるジュリアンを匿っている。彼はヘンリーの亡命中にその身に邪紋を刻まれてしまったため、もはや神聖トランガーヌには足を踏み入れることは出来ず、ジェーンがこの地に居続ける限りは会うことも出来ない。だが、ジェーンの身柄をグリースが引き取れば、(ジェーンの状態次第ではあるが)一緒に暮らすことも出来る。そうなれば、ジェーンの精神状態も安定するのではないか、という提案である。 そして、ここでようやくクローディアが口を開く。 「しかし、マーグ殿はそれをお認めにならなかった。それはジュリアン様だけでなく、ジェーン様までもがグリースの手に渡ることにより、トランガーヌの民の心がグリース側に傾くことを危惧したからでしょう。こちらとしては『ジェーン様を引き取った後も、その存在は隠す』と申し上げたのですがね。まぁ、ウチの子爵様やトーニャ様の言うことなど信用出来ないと言われたら、それはそうかもしれませんが」 淡々とした口調で彼女はそう語る。マーグがそう判断せざるを得なかったのは、彼の中での神聖トランガーヌへの忠誠心の強さ故でもあり、その背景には、彼が同国建国以前からの敬虔な信者であったことも影響しているであろう(もし、この地の領主がジニュアールであった場合は、おそらく二つ返事でこの「王妃を救うための裏取引」に応じていた筈である)。 「そこで、こちらはもう一つ、見返りの条件を出したのです。ジェーン様を引き取らせて頂けるなら、これをお渡しする、と」 クローディアはそう言いながら、懐から「薬瓶のような何か」を出す。この国の有力貴族家の出身であり、自国の産業にも詳しいネロは、その正体が一目で分かった。 「それは……、ヴィット!?」 ヴィットとは、メガエラの近辺の森で採れる薬草を原材料とした特殊な薬であり、主に大陸で頻発する「黒死病」という伝染病の特効薬として知られている。 「既にご存知かどうかは分かりませんが、私の情報源が間違っていなければ、ヘンリー様を苦しめている病気の正体は、黒死病です」 クローディアはそう断言し、それに対してマーグは神妙な表情で頷く。これまで、ヘンリーの病気の正体は公的には一切発表されていなかったが、その正体が黒死病ということであれば、ネロも納得は出来る。現状、黒死病はどのような聖印の力を以ってしても治すことは出来ない。そして唯一の特効薬であるヴィットは、その力の根源が混沌にあると言われており、日輪宣教団の教義においては、その使用は認められていないのである。 「つまり、この薬があれば、ヘンリー様は助かります。私としては、我が村の森を焼き払おうとしたあなた方にこれを渡すことは反対したいところなのですが」 クローディアが言うところの「我が村」とはメガエラのことなのだが(厳密に言えば、現在のメガエラはもはや「村」というよりは「町」と呼ぶべき規模にまで発展しているのだが、彼女は今までの慣習から、ついそう呼んでしまっている)、現在の彼女がメガエラの領主に仕えていることを知らないネロとしては、この発言の意味は伝わっていない(詳細はブレトランドの英霊1を参照)。しかし、構わずクローディアはそのまま話し続ける。 「この薬を使わなければ、ヘンリー様は間も無くお亡くなりになられます。そして、この薬を使えば、病状は快復するでしょうが、『トランガーヌ枢機卿としてのヘンリー様』は、この世からいなくなるでしょう。あの方は筋を通される方です。自らがこの『混沌の産物』によって助かったことを知れば、自主的に今の地位からは退かれる筈です。私としては、今の主人であるティファニア様に仇なすヘンリー様をこの手で倒すつもりでいましたが、ティファニア様もそこまでは望んでおられません」 つい勢いで、言わなくてもいいことまで口走ってしまっているクローディアであるが、ネロにとっては、現在の彼女の立場など気にならなくなる程の衝撃的な事実の前に、ただひたすら呆然と棒立ち状態となる。そして、そんな彼に対して、マーグはこう言い放った。 「結論を言いましょう。私としては、この薬を使ってヘンリー様を助けたい。そして、出来ることならばジェーン様もグリースにお送りしたい」 聖印教会の信徒であるマーグは、苦渋の表情を浮かべながらそう言った。主君を救うため、たとえ教会から破門されることになろうとも、どのような神罰を受けることになろうとも、あえて「混沌の薬」を手に入れるための裏取引を決意したのである。 ネロはその決意の重さを理解しながらも、「今の自分の立場において果たすべきこと」を改めて考えた上で、慎重に言葉を選びながら語り始める。 「あなた方の考えは分かりました。先ほども言った通り、人を救うための方法は人それぞれです。その上で私の考えを申し上げますが、私としては、混沌に苦しんでいるジェーン様をそのままにして放っておく訳にはいきません。ですので、『彼女の魂を解放すること』を見逃しては頂けないでしょうか?」 ネロの中では、身内であるジェーンを助けたい気持ちは強い。だが、仮にジェーンをグリースに引き渡したとしても、それは「混沌化を遅らせること」に繋がるだけで、根本的な解決にはならない(そして、根本的に解決する手段は、今のところ見つかっていない)。ならば、これ以上苦しむ彼女を放置するよりも、自らの手で彼女を「浄化」することこそが、本当の意味で彼女を救う道なのではないか、というのが、今の彼の中で導き出した苦渋の決断であった。 「救える可能性を模索することよりも、今この場であの方を楽にする方が望ましい、と?」 「それが望ましいと言える根拠がどこにあるのかは分かりませんが、私はそう思うのです」 湧き上がる様々な感情を抑えながら、ネロはそう答える。人として、どちらの考えが正しいのかは分からないが、少なくとも今のネロの立場としては、そう言わざるを得ないのである。そして、マーグもまた、彼女の身内であるネロがそう言い切った以上、これ以上の原理的論戦を続けるつもりはなかった。 「分かりました。それがあなたの信念であるならば、少なくともそれは私の信念とは相容れられない。しかし、我々がここで争うことは、ヘンリー様にとっても、ジェーン様にとっても、望むべきことではない。ならば……」 マーグはしばらく逡巡しつつも、精一杯の「妥協案」を提示する。 「ここは、あなた方にひとまずお任せします。しかし、我々はそれに協力は致しません。我々もここで一年間手をこまねいていた以上、我々だけに任せろとは言えないのも事実。ですから、あなた方がジェーン様を浄化するというのであれば、止めはしません。しかし、それに失敗した場合、我々は我々のやり方でジェーン様をお助けさせて頂く。その上で、我等のおこないを、国家への反逆、もしくは神への冒涜と糾弾したいのであれば、そうなさるがいい。それが、ヘンリー様やこの国のためになるとお考えであれば、我々は甘んじてその裁きを受けましょう」 そこまでの覚悟を聞かされたネロは、あえて視線をそらしながら、答える。 「私はただ、どこかで偶然ジェーン様のことを知ってしまっただけです」 つまり、ネロとしては「マーグ達が『混沌化したジェーン』を匿っていた」という事実を公にするつもりはない、ということらしい。マーグとしては、別に口封じをするつもりはなかったが、そうしてもらえるのであれば、その方が望ましいことは間違いない。 「その上で、我々がジェーン様を『浄化』することに関しては、黙認して下さるということで、よろしいのですか?」 「あなた方がその道を行くのであれば、止める気はありません。私はジェーン様に大恩ある身ではありますが、ジェーン様との繋がりはあなたの方が近い。そのあなたがそうなさるのであれば、ジェーン様も納得されるでしょう」 それぞれに思うところがありながらも、ようやく話がまとまりかけたところで、一人話題の外に置かれていたクローディアが口を挟む。 「ということは、私との交渉は決裂、ということですか?」 そう言って、彼女が薬壜を懐に戻そうとすると、マーグがすぐに答える。 「いえ、まだ彼等が成功するとは限りません。彼等が失敗した場合は、我々はあなたと共に『当初の計画』を実行させて頂きます。次の『第二討伐隊』が来る前に」 マーグとしては、ネロ達が失敗することを望んでいるとは言えない。だが、失敗した後の「次善の策」を用意することは、この地の統治者として、筋の通った措置と言って良いだろう。ネロも、その点については何も言うつもりはなかった。だが、そのネロに対して、クローディアはあえて問いかける。 「で、あなた方が成功した場合、この薬は必要ないですか? 私としては、どちらでも良いのですが」 本来ならば、ネロ達がジェーンを殺すのであれば、その時点で、薬を引き渡すための条件は破綻することになる。だが、結果的にこの薬でヘンリーが命を取り留めるのであれば、それだけでも神聖トランガーヌを混乱させることにも繋がる以上、敵国であるグリースにしてみれば、本来の交換条件を無視してでも彼等に渡すことには意味がある。 ネロの記憶にある限り、クローディアは本来、このような「相手の精神をえぐるような交渉」をもちかけるような少女ではなかった。昔は隠していただけで、これが彼女の本性なのか。時が経つにつれて彼女の性格が変わっていったのか。あるいは、彼女に対してグリース内の誰かが「余計な入れ知恵」をしたのか。 いずれにせよ、ここは明確に意思を示さねばならない局面だと判断したネロは、苦渋の表情を浮かべながらも答える。 「ヘンリー様のことを、助けられるならば助けたいです。しかし、その薬によって病気を治すことは、助けることにはならないと私は考えています」 「分かりました。あなたの信念がそうなのであれば、私はそれで構いません。もし、別の方法であの方が息を吹き返したら、その時は『私の本来の力』の見せ所ですから」 「暗殺術」の専門家である彼女は、鋭い視線を向けながらそう告げる。かつてはネロと共にヘンリーを守る立場だった筈の彼女と、なぜここまで道を違えることになってしまったのか。やるせない思いを抱えながら、ネロは彼女とマーグに背を向けて、ひとまずこの会談の場から立ち去っていくのであった。 3.4. 信念の戦旗 こうして、ネロとマーグの間での「裏交渉」が成立したことで、マーグはひとまず部下の伝令を通じて、副官であるガルブレイスに「話をしたい」という旨を伝える。その結果、リーベックとの「終わりなき押し問答」は、一旦打ち切られることになった。 その上で、リーベックとブリジットは納得のいかない心境ながらもひとまず宿舎へと戻り、ネロと合流する。ネロとしては、さすがにこの二人に事情を話す訳にもいかないので、「領主殿が混沌浄化を自分達に任せてくれた」ということだけは伝えたが、なぜ急にそうなったのか、リーベックとしては釈然としないので、再びガルブレイスに話を聞きに行くことになった。ブリジットも、先刻のリーベックの様子から、彼が交渉の過程で暴走して衝突に発展する可能性を危惧して、再び彼について行く。 こうして、ガルブレイスとの問答の第二幕が開くことになったが、老将は先程よりはすっきりした表情で彼等の前に姿を現した。 「マーグ殿と話し合った結果、ひとまずお主らに任せてみよう、ということになった。マーグ殿も仰っていたが、やはり我々も一年手をこまねいていたのは事実だからな」 それに対して、リーベックは少し怪訝な顔で問いかける。 「ですが、あなた方にも十分に混沌を祓うだけの力はある筈です。一年、手をこまねいていたのには、それなりの理由があるのでしょう?」 「そうだ。だから儂としても、出来れば危険なあの場所に行かせたくはないのじゃが、それでもお主らが行くというのであれば、若い者達に道を譲る。まぁ、マーグ殿も十分若いがな」 実際、マーグも世代的にはネロやリーベックと殆ど変わらない。それ故に、ガルブレイスはそのマーグの決断を優先することにした。それでこの場を丸く収めようと考えていたのだが、リーベックとしては、やはり「何かを隠されたままの状況」には納得が出来ない。 「あなたは、多くの血が流れるのは嫌だと仰いましたね。それは私も同意見です。だからこそ、裏に何があるのか分からないまま、混沌のみを排除して、それが果たして民のためになるのか。私には分かりません。私は全てを聞いた上で、自分の為すべきことを判断したいと考えている。そのために、詳細を教えては下さいませんか?」 「詳細か……。何を聞きたい? ここに混沌がある。それを倒す。それがお主ら日輪宣教団の信念ではないのか?」 「なぜマーグ様が、浄化出来る筈の混沌を、一年以上も放置していたのかという理由です。マーグ様が敬虔な信者であることは私も存じています。ですので、彼が民に害を為す混沌を放置することなど、ありえない筈なのです」 「つまり、マーグ殿は『あえて混沌を放置していた』と、お主は考えているのじゃな?」 「何かしら、放置せざるをえない理由があるのだとしか思えません。そうでないとするならば、彼はただの反逆者です」 「失敗した者を反逆者呼ばわりとは、トランガーヌも随分と恐ろしい国になったものじゃのう。儂も失敗したことなど、いくらでもあるぞ。それに、そこまで言うならば、なぜクラカラインはいつまで経っても浄化されぬ? サロメの混沌も、我々は何年も解決出来ないままであった。魔境の大きさの違いはあれども、我々がこの森の問題を解決出来ずにいる期間はたかだか一年。どこまで浄化に手こずれば反逆者になるのか? そこに明確な基準はあるのか? お主の中では、クラカラインはあと何年浄化出来なければ、反逆者扱いになる?」 「クラカラインは大きな魔境です。現状、我々にはそれを浄化出来るだけの力が無いと私は考えている。しかし、エフロシューネの魔境はあなたとマーグ様の力があれば浄化出来るのでは?」 実際のところ、クラカラインの魔境が浄化されないのは、その規模の問題ではなく、グリース・アントリアの二正面作戦を避けるための戦略的措置として放置されているのではないか、という憶測が強いのであるが、リーベックはその可能性については言及しなかった。彼の中で、そのような可能性自体を完全に否定しているのか、話を横道にそらさないためにあえて触れなかったのか、ガルブレイスには判断がつかなかった。 とはいえ、ガルブレイスとしても、クラカラインの現状についてはよく分かっていないし、本当に「浄化しようと思えば出来る程度の魔境」なのかどうかの確信もない。だが、それに関しては、リーベックにとってのエフロシューネもまた同様であった。 「この森の魔境を見てもいないのに、よくそのようなことを言えるのう」 「まぁ、そうですね。とはいえ、実際のところ、本気で浄化しようと思っても出来なかったのであれば、あなた方はその程度の器だった、というだけのことだ」 「それでいい。もう儂は既に一度隠居した身であるしな」 あっさりと、そう言ってリーベックの挑発を受け流す老将であったが、それでも若き日輪の志士は、引き下がることはなかった。 「しかし、それでも私は信じたいのです。神があなた方に聖印を与えた以上、あなた方は相応の器の持ち主ではある筈。だからこそ知りたいのです。ここまであなた方を苦戦させた原因を。この地で何が起きているのかを。神の名の下に、包み隠さず真実を話して下さい」 その語気に押されて、ガルブレイスは理解した。自分が真実を話さない限り、リーベックはこの問答を終わらせる気がないことを。ここで自分が真実を話せば、マーグとネロがようやく導き出した「妥協的合意」が水泡に帰してしまうかもしれないが、ここで彼の追求をかわしきる術が、もはやガルブレイスには残されていなかったのである。 「分かった。そこまで言うのであれば、全てを話そう。ただし、全てを話した上で、お主が我等を反逆者と断じるのであれば、我々は武器を持ってお主らと戦う。ヘンリー様が死ねと仰るのであれば我々はいつでも死ぬ覚悟は出来ているが、いかに子爵家に連なる身であろうとも、今のお主らの命令に従うことは出来ん」 そう断った上で、ガルブレイスは全てを語った。ジェーンの現状も、ヘンリーの病気の正体も、そして、二人を助ける道を模索するために、マーグがグリースと裏取引しようとしていることも。それを聞いたリーベックは、内心で湧き上がる感情を抑えながら、冷静な口調で問いかける。 「つまり、あなた方は、混沌に侵されたジェーン様を、こんな言い方はしたくありませんが、グリースに売り渡そうとして、その代償に手に入れた『混沌によって汚された薬』で、枢機卿猊下を救おうとした、ということですか?」 「その通りだ。それが許せぬというのであれば、儂は今この場で、お主らの首を撥ねる」 ガルブレイスはそう言って、本気の殺気を込めた眼光でリーベックを睨みつける。今、この部屋の中にいるのは、ガルブレイス、リーベック、ブリジットの三人だけである。ガルブレイスの中で、若造相手であれば二対一でも勝てるという確信があったのかは分からない。あるいは、ここで死ぬならそれも本望と考えていたのかもしれない。だが、そんな老将に対して、リーベックは淡々と冷たい口調で語り始める。 「安心して下さい。あなた方は反逆者などではありません。混沌の力に唆され、一年もの長きに渡って、この町の民を混沌の脅威に晒し続けた、ただの腑抜けです」 そう言い放ったリーベックの言葉をガルブレイスは表情を変えずに受け止める。そしてリーベックは徐々に語気を強めながら、自らの内なる信念を爆発させる。 「その程度の者達に国主を名乗る資格はありません。自らの決断が生み出す誹りを飲み下すことも出来ぬような君主ならば、それは君主とは言えない。皇帝聖印に至ることなど、出来る筈もない。ならば、私がやってみせる!」 この瞬間、リーベックの背後に「ミュルミドーン」の戦旗(フラッグ)が出現した。戦旗とは、聖印を持つ者の精神が「確固たる道」に辿り着いた時に出現すると言われる。その旗に描かれた紋章はその持ち主の本質を表すと言われており、彼の戦旗に描かれたミュルミドーンの紋章は「自己の目的を実現させるための強い信念」を意味している。 戦旗を現出させた君主は、通常の君主よりも「格上」の存在と見做されることが多く、それ故に、戦旗を生み出すことを一つの到達目標と考える君主も多い。だが、今のリーベックは、自らの戦旗を現出させたことへの感慨よりも、ガルブレイス達への怒りの感情の方が勝っていた。 「ジェーン様を浄化することは、あの方を殺めてしまうことになるでしょう。ヴィットを受け取らなければ、トランガーヌ卿の回復の見込みもほぼ無いと言っても過言ではありません。それによって私を恨む者も当然いるでしょう。それを飲み下す覚悟もないようなあなた方に、私は『反逆者』などという肩書きを与える気もありません」 このように、ガルブレイス達がジェーンを浄化出来なかったことの原因を「誹りを飲み下す覚悟」の有無の問題として語るリーベックに対して、ガルブレイスは呆れた口調で言い放つ。 「お主はどこまでいっても『自分の誇り』のことしか考えておらぬようじゃの。まぁ、若いうちはそれでも良かろうが」 マーグと共に、既に二度も「裏切り者」の誹りを受け続けた老将にとっては、もはや自分の体面など、どうでもいいことである。むしろ、他人の行動原理をそのような基準のみで測ろうとすること自体、リーベック自身が「自分の体面」にこだわっている(「混沌を放置することによって受ける誹り」を恐れている)ことの証左であるかのように、この老将には思えた(実際のところは、リーベックの発言には「自分自身からの自分への誹り」をも飲み下す覚悟、という意味も込められており、対外的な体面だけにこだわっていた訳ではなかったのだが)。 「我等にとっては、もはや自分の名誉や誇りなど、どうでもいい。我等はただ、目の前で苦しんでいる者を救うために最善の道を探す。それをお主らが諦めて、浄化という『安易な道』を選ぶのであれば、それで良い。儂がそれをどうこうするつもりはない。お主と儂が歩むのは、異なる道なのじゃろう。じゃが、お主が言った通り、一年間どうにも出来なかったことは我々の失態。無能とでも何とでも罵るがいい」 話が噛み合ってないことを互いに察しつつ、リーベックとしても、これ以上の問答を続けても不毛だと考えたのか、話を本筋に戻す。 「混沌は、いつか必ず人々に害を成します。少なくとも、そのような状態のジェーン様を一秒も長く放置しておく訳にはいかないのです。この町の民のためにも」 「分かった。ならば、好きにするがいい。ただ、儂はお主らの武運は祈らんぞ。お主らが失敗して、我等のやり方でジェーン様をお救いする道を、まだ諦めてはいないからな。じゃが、道を塞ぐ気もない。若人達は、若人達の道を行け」 「勿論です。私がこの魔境に敗れる程度の者なのであれば、あなたが言ったことの方が正しいのでしょう。ですが、私は決して負けません。神の御加護は、いつも私の後ろにある」 そう言ってガルブレイスを一睨みした上で、リーベックは踵を返し、部屋から立ち去ろうとする。このやりとりを、ブリジットは彼の後ろでずっと無言で聞いていた。もし、何か問題が起きたら、リーベックを止める気でいたが、彼女の中では、リーベックの言動の中で「止めなければならないこと」は何一つなかった。彼の発言は苛烈ではあったが、その主張はブリジットの理念とも完全に合致していたのである。 そんな彼女に対して、リーベックは部屋から去る直前に、一言こう告げる。 「リジー、これが僕の覇道だ。僕は、神聖トランガーヌを背負うだけの覚悟は、十分に出来ている」 そう言って、リーベックが部屋から出て行くが、あえてブリジットは彼の後を追わず、その場に残った。どうやら彼女としても、ガルブレイスに対して何か言いたいことがあるらしい。 「お主は一言も話さなんだが、それで良かったのか? 大陸の姫君よ」 「私は、いえ、私達、 大陸からの遠征軍は、この地の人々にとっては所詮、他人です。そのくらいの立場はわきまえています。その上で、私は、あなた方の気持ちも分かる。ですが、それでも、リーベックさんの判断に同意します」 「では、一つだけ聞きたい。もし『彼』が、巨大な混沌に飲まれた場合、お主はどうする?」 そう言われたブリジットは、穏やかな笑顔ではっきりと断言する。 「その時は私が、責任を持って彼を『浄化』しますよ」 彼女の笑顔の目に宿った「強い信念」を目の当たりにしたガルブレイスは、諦めたような納得したような苦笑を浮かべつつ、目線をそらしながら独り言のように呟く。 「そこまで覚悟が決まっているのであれば、もう儂は何も言わん。ただ、儂は、そこまでいい切れぬマーグ殿の方が、人間として好きなだけだ。あとはもう、好き嫌いの問題でしかない」 そう言って背を向けたガルブレイスに対して、ブリジットは「では、失礼します」と告げて、そのまま部屋を出て行く。 こうして、ネロとマーグの裏交渉は破綻した。この後、ガルブレイスから真実を引き出した、という旨をリーベック達から聞かされたネロは、もはや何も言わなかった。色々と思うところはあったが、まず今は、翌日の混沌征伐に専念すべき、と自分に言い聞かせていたのである。大恩ある叔母にして、主君の最愛の妻でもあるジェーンを、この手で浄化するために。 3.5. 悪魔の群れ 翌日、微妙に異なる想いを抱く三人の若き指揮官は、エフロシューネの森の奥地で広がりつつある魔境へと向けて、進軍を開始する。 マーグ達は「魔境の奥へは部隊を連れては行けない」と言っていたが、実際のところ、魔境の中に入っても、兵士達に特に異変が起きたようには見えなかった。どうやら、あれはネロ達に魔境への進軍を諦めさせるための方便だったようである。実際のところ、エフロシューネの警備兵達も森に足を踏み入れることを禁じられていたが、それも「真相」を知られないための措置だったのであろう。 だが、そんな中でリーベックは、この空間の中では通常の方向感覚が意味を成さなくなっていることに気付く。 「『道に迷いやすい森』という話は、どうやら嘘ではないようだ。はぐれないように、僕についてきて」 彼がそう言うと、ネロとブリジットも彼に従って部下達と共に魔境の中を慎重に探索していく。すると、やがて後方から、何か魔物の気配が近付いてくることにネロが気付いた。どうやら、ディアボロス界から投影された下級悪魔達のようである。しかも、相当な数のように思えた。 ネロはすぐさま皆に戦闘隊形を取るように命じ、それに応える形でリーベックは自らの「戦旗」を掲げる。そして、聖印の力によって辺り一面を照らし出し、周囲の混沌の力を弱めつつ、自ら悪魔達の前に特攻し、その掌から聖なる光弾を放つことで、次々と悪魔達を撃ち抜いていく。彼の聖印は、混沌を浄化する能力に特化された聖印であり、武器を持たずとも混沌を打ち破ることが出来る。まさに、聖印教会の信徒に相応しい聖印の持ち主であった。 だが、その反面、彼は「守り」には長けていない。すぐさま悪魔達が彼に向けて反撃の炎を打ち込むが、それでも彼は、まさに「神懸かり的な動き」でそれらを避け続ける。今の彼は、戦旗を出現させたことの高揚感故か、本来の力以上の何かに支えられているかのようであった。 それでも、さすがに全ての炎を避けきることは出来ない。二発の炎弾が軽装の彼を捉えようとした時、そのうちの片方をブリジットが守りの聖印を掲げて庇う。鉄壁の防御を誇る彼女の聖印の前には、地獄の業火を以ってしても火傷一つ負わせることは出来ない。 「その程度の炎では、我々をくじくことは出来ません」 彼女がそう言い放つ一方で、残りの一発を直撃させたリーベックは、その身を炎に包まれ、相応の深手を負う。だが、それでも彼は気丈に叫んだ。 「その程度か、悪魔め!」 こうして、友が必死で体を張って戦っているのを目の当たりにして、ネロの戦意が燃え上がらない筈がない。彼は自らの二本の剣に聖なる炎を宿して踏み込み、その双剣で悪魔達を次々と斬り捨てていく。彼の聖印は剣技を極めることに特化された聖印であり、どんな相手であろうとも、近接戦においては圧倒的な強さを発揮する。そして、彼が悪魔達を屠っていく度に、部下の兵士達の指揮も否応なしに高まり、徐々に悪魔達は劣勢へと追い込まれていく。 こうして、ネロの双剣とリーベックの光弾、更に途中からはそこにブリジットの「盾を武器として用いる戦技」も加わり、悪魔達は完全に殲滅され、その身を構成していた混沌の欠片は三人の聖印によって吸収されていく。それなりに味方の損害もあったが、全体を通してみれば、鮮やかな大勝利であった。 「す、すごいです、姫様!」 ケリィは思わずそう叫ぶ。初めての実戦としてはかなりの強敵であったが、結局、彼女自身はほぼ何もしないまま、ブリジットを初めとする周囲の者達がケリィを守るような陣形を形成したことで、結果的により強固な防御陣となって、悪魔の攻撃を防ぎきるに至った。 「これも神のお導きです」 笑顔でそう語るブリジットに対して、ケリィは瞳を輝かせながら問いかける。 「私も……、私も信じていれば、いつか聖印や戦旗を持てるのでしょうか?」 「そうですね。精進して下さい」 ブリジットとしても、それ以上のことは言えない。現実問題として、神がどのような人物に対して聖印や戦旗を与えるのかは、彼女にも分からないのである。 その傍らで、序盤の先行故に最も深い手傷を負ったリーベックは、治療器具を用いて自らの傷口を塞ぎつつ、助けてくれたブリジットに頭を下げる。 「ごめんね、リジー。ちょっと先走ってしまった」 「いえいえ、気にしないで下さい。これが私の役割ですから」 こうして、二人は仲睦まじい姿を(おそらくは無自覚に)周囲に見せつけていたが、今のネロは、その二人の様子すらも気にならなかった。彼の中では、この後に待ち受けている「もっと辛い現実」に直面した時のことを考えるだけで精一杯だったのである。 3.6. 解放のための刃 その後も、彼等は魔境の森の構造に戸惑いつつも進軍を続けるが、その過程で、ネロにとって聞き覚えのある「声」が、彼の耳に届く。 「陛下……、エレナ……、ジュリアン……、今、いずこに……」 それは、確かにジェーンの声であった。戸惑いながらも、彼等がその声のする方向に向かうと、やがて巨大な「化け物」の姿が彼等の眼に入る。その身体は獅子のような骨格だが、背中から巨大な蝙蝠のような翼を生やし、更に不気味な無数の毒針を持つ尾が生えている。しかし、その首の先にある「顔」は、間違いなくジェーンの顔であった。 更に、その周りに「首のない騎士のような姿をした何か」が四体、彼女を取り囲むように立っている。その鎧の形状から察するに、おそらくはジェーンを守って死んだ侍従隊の騎士達の成れの果てであろう。彼女を守るためにあえて混沌に身を委ねたのか、死してその身を混沌に取り込まれたのか、あるいは、混沌化した彼女を守るために冥界から蘇ったのかは分からないが、いずれにしても、討伐隊にとって「浄化しなければならない存在」であることは間違いない。 そして、近付いてくる足音に気がついた「彼女」は、ネロに視線を向ける。 「あなたは……、ネロ? そこにいるのは、ネロ、ですか?」 「お久しぶりです、ジェーン様」 「なぜ、あなたがここに?」 「あなたを『混沌の苦しみ』からお救いするためです」 張り裂けそうな気持ちを押し殺しながら、ネロはそう告げる。 「では、あなたは、マーグ殿の代わりに来てくれたのですか? マーグ殿は私をジュリアンのところへ連れて行って下さると仰った。そうすれば、私の心は元に戻ると。そういうことでよろしいですか?」 そう言われて、ネロの決意は揺らぐ。かつてのジェーンは、一族の中でも特に心優しき人徳者として知られていた。それ故にヘンリーに見初められ、良妻賢母として、国民に敬愛される子爵夫人となった。その彼女の変わり果てた姿を前にして、様々な思いがネロの心に去来する。 だが、ここで方針を覆す訳にはいかない。自分の中の迷いを断ち切るため、自分に言い聞かせるように、一呼吸置いてから、伝えるべき言葉を必死で絞り出す。 「マーグ様の仰った方法とは、少し違いますが……」 「それは、どういうことでしょう」 「あなたはこれ以上、苦しむ必要も、悩む必要もないのです」 辛そうな顔を浮かべつつそう伝えるネロの様子から、ジェーンは「事情」を察する。 「……ネロ、あなたは昔から、優しい子でしたね。そして、マーグ殿もそうでした。マーグ殿から話は伺っています。今のあなた方がどのような立場にいるのかも。そして陛下も陛下で今、必死で戦っていらっしゃる。この地を護るべき君主として……」 全てを悟ったかのような口調で、彼女はそのまま語り続けた。 「私は陛下の足を引っ張りたくはない。一度は自ら命を絶つ決意もしました。でも、マーグ殿はそんな私に言いました。最後まで希望を捨ててはならない、と。私のわがままに付き合わせてしまって、本当に悪いと思っている。でも、私は最後まで希望は捨てない。だから、あなたが連れて行ってくれないのであれば、私は今から、ジュリアンの元へと向かいます」 そう言って彼女は立ち上がると、四体の「かつて騎士であったと思しき何か」が、彼女の周囲を守るように取り囲む。 「でも、今の私が、この国と、陛下と、そして子供達にとって害を為す存在なのであれば、私を今ここで止めてほしい。あなたの信念に基づいて、私をこの場で討ちなさい」 どう答えるべきか分からず、ネロが逡巡していると、その両隣の二人が声をかける。 「ネロ」 「ネロさん」 最初は名前だけを呼び、ネロの反応を見るが、それでもまだ彼の中では「迷い」が断ち切れない。そんな彼の心境を察してか、リーベックが語りかける。 「僕は君の信条に口を出すつもりはない。ただ、あの方を救うと決めたのなら、それを貫くべきだと思う。僕は自分の信条に従う」 そう言って、リーベックは戦旗を掲げる。そんな友の姿を目の当たりにして、遂にネロも決断を下した。 「私としては、あなたには、これ以上、あなた自身を苦しめないでほしい。だからこそ、私は あなたを止めます!」 そう言って、ネロは全力でジェーンに向かって踏み込もうとするが、それより先に、彼女の尾が反射的に跳ね上がり、その無数の毒針を以って討伐隊全体に襲いかかる。だが、その攻撃は全てブリジットがその身を挺して庇いきった。彼女はまだ平気な顔をしてはいるが、明らかに消耗しており、毒がその身に入り込んでいることも分かる。 一方、周囲の「首のない騎士達」がジェーンを庇おうとするのを見たリーベックは、まずはその周囲の壁を崩すために、光弾を彼等に向かって次々と放ち、その包囲網を崩していく。 そんな中、ネロはまっすぐにジェーンに向かって踏み込んだ。ここは自分自身の手で決着をつけなければならない、そう決意したのだろう。その剣先にはまだ迷いが見られたが、それでも、彼の双剣は確かにジェーンを捉えた。そして持てる全ての聖印の力を、その一対の刃に注ぎ込む。 だが、その渾身の連撃を受けても、ジェーンは倒れなかった。我が子に会いたいという一心で、ギリギリのところで彼女は踏みとどまる。 そして次の瞬間、周囲の騎士達がネロに向かって一斉に斬りかかった。ジェーンへの斬撃に全てを賭けたネロには、その連撃を避けきるだけの集中力は残されていない。しかも、あまりにも急速に先行しすぎたが故に、ブリジットの聖印による守護の力さえも届かない距離となっていた。それでも、かろうじてどうにか一刀だけはかわしたが、残りの三本の剣がネロの身体を貫き、彼はその場に前のめりに倒れ込む。 「ネロさん!」 後方で戦線を展開していたブリジットはそう叫びながら一気にネロの元へと走り出すと、自らの身体を蝕む毒の苦しみをもろともせず、ジェーンに向かって走り込み、自らの盾を武器としてジェーンに目掛けて叩き込む。その衝撃は、既にボロボロの状態だったジェーンの身体の中心部に位置する混沌核を崩壊させるほどの威力であった。 「ごめんなさいね、ネロ……、最後まで……」 そう言いながら、ジェーンは消滅する。そして、彼女の周囲を取り囲んでいた首なし騎士達も含めた全ての魔境が消滅していく。倒れていたネロも、かろうじて立ち上がり、リーベックに抱えられながら、無事にその森から帰還するのであった。 4.1. それぞれの未来像 こうして、エフロシューネの混沌災害は収束し、彼等は帰還することになった。問題は、今後のこの町をどうするかである。 リーベックとしては、マーグとガルブレイスが長期にわたって混沌を放置したことを理由に、彼等に今後もこの地の領主を任せ続けるべきではないと考えていたが、今の自分達にそこまでの権限がないことも分かっていたので、ひとまず全てをヘンリーやイザベラに報告した上で、彼等の判断に委ねるべきと主張する。 ネロとしては、マーグとの約束を違えることになってしまうが、彼等の秘密会談とは別次元で、リーベックがガルブレイスから真実を聞き出してしまった以上、彼が報告すべきと主張するのを止めることは出来ない。そして、ガルブレイスもマーグも、今更隠し立てをする気もなかった。 「今回の一件については、全て上に報告させてもらう。ただ、あなた方も、ヘンリー様やジェーン様への忠誠心があったからこその判断だったことは分かっている。だから、信じてはもらえないかもしれないが、私としてはあなた方のことを特別悪く報告するつもりはない」 帰還したリーベックがマーグとガルブレイスに対してそう告げると、マーグは黙って頷いてその方針を受け入れる一方で、ガルブレイスはそっけない態度で答える。 「我等の忠誠心は、あくまでも我等の自己満足のためのもの。わざわざ配慮してもらう必要はない。この国にとって、我等にまだ利用価値があると判断されれば、今後もお仕えすることを許されるであろうし、その価値がないと判断されれば、首を撥ねられる。それだけのことだろう」 複雑な感情を押し殺しながら老将がそう言い放つと、今度はリーベックの傍らにいたブリジットが口を開く。彼女としては、この機会に、自分達の理念を正しくマーグやガルブレイスにも理解してほしいと考えていた。 「これから私は、世界中から日輪の人々を集め、この地の浄化に協力してもらうつもりです。エフロシューネだけではなく、クラカラインを初めとするこのブレトランドの全ての魔境を浄化するために」 ガルブレイスはその言葉を聞いて、少しだけ表情を和らげる。 「そうじゃな。結果的にそれでこの地が平和に収まるのであれば、儂はもう何も言うことはない。もう一度聖印を返上して、隠遁生活に戻っても構わん。というよりも、戻るべきなのであろうな。おそらく儂がいつまでも今の地位にいたら、いつか再びお主らと衝突することになる」 だが、そんな老将の言葉に対して、年若き上官が苦言を呈する。 「ここでそう仰るのは、少し卑怯ではありませんか? ガルブレイス卿。この国が今、歪な構造になっていることは、誰もが知っていることです。大陸から来た方々の力が無ければ、この国は成り立たなかった。しかし、大陸から来た人々と、この地の人々との間で、どうしてもまだ埋められない溝があるのも事実。私も陛下から隠遁しろと言われれば隠遁するつもりですし、聖印を返上しろと言われればするつもりです。しかし、今の時点で若人だけに責任を押し付けるのは、まだ時期尚早かと。やめるのであれば、私もやめますよ。私の居場所が今のトランガーヌにないというのであれば、これ以上この地位に居続ける理由もない」 苦笑を浮かべながらそう語ったこの町の領主の言葉を受けて、ネロもまた、自分の思いを素直に述懐する。 「この国の中に様々な考えの人がいることは仕方がないことですし、それはそれで当然のことだと思います。国としての一定の方向性を示すことは必要ですが、全ての人の考えを完全に統一することは出来ない。肝心なのは、人がそれぞれに自分の考えに基づいた人生を生きられるようにすることだと、私は考えています」 そのために何が必要なのか、そのために自分が出来ることは何なのか、まだネロの中では答えが出ていない。しかし、そのために必要な何かを探し求めていかなければならない、という意識は、ネロの中でうっすらと固まりつつあった。 そんな若者達の様子を眺めながら、老将は再び口を開く。 「いずれは、お主らがこの国を引き継いでいくことになるだろう。その上で、もし我々が必要ないと考えた場合は、この地の領主をお主らのいずれかに継いでほしいと思う。これは、お主らが魔境に行っている間に、マーグ殿と話し合って決めたことだ」 それに対して答えたのは、リーベックであった。 「分かりました。ですが、今はそれを決定する権利は我々にはありません」 「じゃが、いずれその決定権は、お主らの誰かが握ることになるのじゃろう?」 「その時は、自分達の頭で考えて、然るべき決断をします。神は力を与えてはくれますが、その力の使い方を決めるのは、私達自身なのですから」 そう言い残して、彼等はこの「森の町」を後にする。それぞれの中で、この国の、そしてこの世界の目指すべき道を思い描きながら。 4.2. 湖畔の誓い 討伐隊は往路と同じ経路でダーンダルクへと帰還するため、必然的に帰路において再び湖岸都市タレイアに立ち寄ることになる。そしてこの町に到着した時点で、リーベックは密かにブリジットに「今夜、あの蛍の見える湖畔に晩に一人で来てくれ」と伝えた。 その日の夜、言われた通りにブリジットがその場所へと赴くと、そこにはリーベックが一人で待っていた。 「どうしたんです、リックさん?」 「リジー、来てくれたんだね」 「改まって、あんな手紙を出すなんて」 「今回の討伐騒動を通じて、少し考えたことがあったんだ」 彼は、自分の聖印を見つめながら、これまでの人生を思い出しつつ、これから先の人生に向けての想いを語り始める。 「僕は、教皇様の元で修行した、日輪宣教団の人間だ。僕がこの国を継ぐことになったら、当然、反感を持つ者も現れると思う。中にはおそらく、僕が今の枢機卿を殺したとなじる者もいるだろう。実質、それは間違っていないしね」 彼としては、黒死病やヴィットのことを隠すつもりはない。無論、国の体面のために隠蔽すべきと国や教団の重鎮達が判断した場合は、彼等の意見を尊重する可能性もあるが。 「だけど、僕はそういった非難も全て受け入れて、その上で混沌に抗っていこうと決めた。悪しき力に頼らない、正しい方法でこの国の全てを背負って、この小大陸、いや、世界に覇を唱えようと、僕は決めたんだ」 そう言って、彼はブリジットの前に跪く。 「リジー、いや、ブリジット・サバティーニ、どうか私の傍を、共に歩いてはくれませんか?」 「傍らを共に歩く」という言葉の意味を噛み締めながら、ブリジットは数秒にわたって沈黙する。やがて、リーベックはおもむろに立ち上がった。 「すぐに答えてくれとは言わない。君にも思うところはあるだろう。それに、さっき僕が話した覇道は生易しいものではないと思う。僕自身でも、それを達成出来るか不安に思うからこそ、君に傍を歩いてほしいのだけど、その決断のために時間が必要なら、僕は待つよ、いつまででも」 そう言って、彼はその場を立ち去ろうとする。 「待って」 ブリジットは、必死で声を絞り出した。 「リック、ずるいです。自分の言いたいことだけ言って。私の話を聞いてくれないんです?」 リーベックは少し困った顔を浮かべながら、改めて彼女に向き合う。 「もちろん、聞くとも」 しかし、ブリジットはなかなか言葉が出てこない。再び沈黙が続く中、今度は涙がボロボロと溢れてくる。これには、さすがにリーベックも動揺した。 「なんで、泣くんだよ……」 「リックは本当にずるいです」 彼女の言わんとすることが分からず、リーベックは混乱する中、ブリジットもまた混乱した状態のまま、自分の中の「まとまらない気持ち」を、そのまま言葉にする。 「今、私の中にもいろんな気持ちがあるの。でもそれが、どれが私の本当の気持ちなのか、それとも、全部神の導きなだけなのか、今はなにも分からないんです。だから、少し、今はこのままでいさせて下さい」 そのまま泣き続けるブリジットに対して、リーベックは困惑しながらも、黙って彼女の隣で立ち続けた。そして、やがて彼女が泣き止んだところで、「焦らなくていいから」と告げて、二人は街へと戻っていく。 ****** そして、客室に帰ったリーベックは、一人、手紙を書く。「リーベック」として伝えるべき言葉を伝えきった彼は、今度は「レベッカ」として、ブリジットに伝えなければならない言葉を文字にしたためた。彼は、それをダーンダルクの「いつもの酒場」の酒場主に匿名で届けるよう、部下の兵士に託す。 「『あのお嬢さんが来たら、渡してくれ』と酒場主に伝えてほしい」 そう言って手紙を部下に渡した後、再び部屋に帰った彼は(日頃はほぼ使うことがない)腰に下げた護身用の短刀を握りしめ、一括りに結い上げている長い髪をばっさりと切り落とした。 「卑怯な真似は、もうしない」 彼はそう呟きつつ、同じ館に滞在する友のことが脳裏に浮かぶ。 「これであいつが、好きな人に想いも伝えられないような腰抜けなら、僕の相手にはならない」 誰に対してでもなく、彼はそう言い放ち、そして静かに就寝の床についた。 4.3. 協調の戦旗 同じ頃、館に戻ってきたブリジットの前に、今度はネロが訪れた。 「ネロさん、どうしたんです?」 涙の跡を見られないように気を配りながら、ブリジットがそう問いかけると、彼はこれまで見せたことのない「決意」を込めた表情で語り始める。 「僕は君に、どうしても伝えなければならないことがあって、ここに来たんだ」 その口調は、いつもの「誰に対しても他人行儀なネロ」とは明らかに違う。2年前のダーンダルクの陥落以降の激動の中で、ずっと表に出さずにいた「素の自分」となって、これまでずっと心に秘めていた想いを、彼は打ち明けた。 「ここから帰ったら、リーベックと僕のどちらかが、この国を引っ張っていくことになるだろう。もし僕が、国を引っ張っていくことになったら、ブリジットに傍にいてほしいんだ」 ここまでは、先刻のリーベックとほぼ同じ言葉である。まるで示し合わせたかのような展開にブリジットは困惑するが、そこから先の言葉は、全く異なっていた。 「今回のことでも分かったように、同じ神聖トランガーヌの一員と言っても、人それぞれ、考え方も信念も違う。それを完全に統一させることは出来ない。だけど、混沌に対して立ち向かっていく姿勢は変わらない。だから、信念がバラバラな民達を、頑張ってまとめていかなければならない」 確固たる自身の信念に向けて突き進む覚悟を固めたリーベックとは対照的に、ネロは多くの異なる信念の人々を尊重しつつ、一つの国としてまとめていく必要性を説く。無論、それはそれで、決して容易な道ではない。 「でも、それを為すためには、言ってしまえば、僕は弱いんだ。僕は自分の中でさえ、はっきりした信念がまだ定められずにいる。だから、もしかしたら僕は、時には自分のことだけで精一杯になってしまうかもしれない。そんな時に、僕を支えてくれる人が必要なんだ。そして、出来ればその役目を担うのは、君であってほしいんだ、ブリジット」 覇道を進むために自らが強くあらねばならないことを誰よりも強く自覚するリーベックとは対照的に、ネロは、自分の弱さを自覚している。自覚しているからこそ、他人を必要とする。他人を必要とするからこそ、他人の信念を尊重しなければならないことが分かっている。それはある意味で、苛烈すぎる母の思想が混乱を引き起こしてきたが故に一定の寛容さの必要性を実感してきたブリジットの思想とも、どこか通じる理念でもあった。 「僕の心はまだまとまっていない。でも、今はまだそんな僕だからこそ、バラバラな民の心をまとめていくことが出来るかもしれないし、そうしなければならないと思っている。今回のことで、それが僕の果たすべき役割だと、はっきり分かったんだ」 ネロがそう言い切った瞬間、彼の背後に、リーベックとは異なる紋章が刻まれた戦旗が出現する。その紋章の名は「ライトスタッフ」。様々な才を持つ人々をまとめ上げる君主の手に現れる と言われている。 ブリジットは、その戦旗の輝きに圧倒されつつ、眩しそうな瞳でネロを見ながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。 「ネロさん、あなたのお気持ちは、とても嬉しいです。でも、この場ですぐに答えを出せる訳ではないので、少し、時間を頂けませんか?」 「もちろん。正直言って、僕自身、もっと自分の心に向き合う必要はあるから。返事はいつでもいいよ」 それを聞いて、ブリジットは頷き、ネロは戦旗をおさめ、ゆっくりと部屋から立ち去っていく。ブリジットはそんな彼を見送りながら、「彼等」の決意の重さを改めて受け止めた上で、自分もまた「決断」を下さねばならない時が近付いていることを実感する。 ****** 部屋に帰ったネロは、自分自身に言い聞かせるために、改めて自らの想いを口に出した。 「この国のために、僕はもっと頑張らなければならないんだ。たとえブリジットの心が得られなかったとしても、それが僕の果たすべき役割だから」 やり方は違えども、ほぼ同じ想いを友が抱いていることを知らずに、彼もまた、一人静かに眠りにつくのであった。 4.4. 二つの継承 翌日、彼等はダーンダルクに無事到着し、病床の(意識があるかどうかも不明な)ヘンリーの傍らに、イザベラや他の重臣達も立ち並ぶ形で集まった謁見の間へと召集され、「一通りの顛末」を全て報告する。 ヘンリーの側近である旧トランガーヌ時代からの重鎮達は一様に重苦しい表情を浮かべ、イザベラの側近である日輪宣教団側の幹部達も、表立ってその結果を賞賛して良いものか分からず、微妙な表情を浮かべる。 しばしの沈黙を経て、最初に口を開いたのは、この討伐作戦の立案者であるイザベラだった。 「三人共、ご苦労をかけました。大変な任務を押し付けてしまったようですね」 それに対して、リーベックは「三人だからこそ出来た、という気はします」と返す。そして、ブリジットは一歩歩み出て、周囲を見渡しながら宣言した。 「お母様、そしてこの場にいる皆様、私は今回の浄化の任務を通じて、決意を新たにしました。皆さんには、その私の決意表明の証人になって頂きたいと思います」 突然の申し出に、その場の空気が静まり返る。これまでの彼女は、どうしても母親の影に隠れがちな存在であり、公の場で彼女が自分の意思を表明することは少ない。その彼女が、この重臣達が立ち並ぶ中で何かを宣言するということは、それはこの国の未来に関わる重要な話なのであろうと、誰もが予感していた。 「まず、これは、私個人の行動です」 そう言って彼女は自らの聖印を現出させると、それをリーベックに向かって掲げる。 「私の聖印を受け取って下さい」 その行動に重臣達はざわめくが、イザベラは黙ってその様子を見守る。ただ、イザベラの表情から、それがイザベラの指示ではなく、ブリジット自身の独断であろうことは、その場にいる者達にも推測が出来た。 「分かりました」 リーベックは彼女の聖印を受け取り、自らの聖印と融合させた上で、改めて受け取った聖印と同じ規模の「従属聖印」を作り出し、それをブリジットに返す。 その「儀式」を完了したところで、ブリジットは周囲の人々に対して改めて語り始める。 「私は今回の任務を通じて、リーベックさんの覚悟を知りました。そしてそれは、私達の神のお導きに沿うものだと確信したのです。私達の目標は、皇帝聖印を現出させ、神の平和な世界を築くことです。リーベックさんなら、それが出来る、そう私は確信致しました」 そう言いながら、ブリジットはイザベラに視線を向ける。 「ですので、私達は今後、リーベックさんの下で戦うべきではないかと思っています」 リーベックが本気で皇帝聖印を目指すのであれば、彼を「トランガーヌの枢機卿」という地位に縛り付けることは望ましくない、とブリジットは考えていた。それ故に、あえて彼を「一国の主」ではなく「国の枠組みを超えた組織の指導者」に据えることで、彼を一国の利害から解き放たれた「究極的な理想の体現者」へと昇華させるべきだと彼女は考えたのである。 この唐突な娘の申し出に対して、母は内心では面食らいつつも、表面上は落ち着いた表情を維持しながら、その意図を改めて確認する。 「つまり、『私の後継者』をリーベック殿にすべきである、と」 「そうです」 「あなたではなく?」 「はい」 このブリジットの申し出は、ここにいる誰もが予想だにしない提案であった。皆、ブリジットが日輪宣教団の団長の座を継ぐことは既定路線だと考えていたのである。だが、彼女はリーベックの目指す理想が、自分が求める理想とほぼ完全に合致していることを確信した上で、あえて自身の聖印をリーベックに捧げ、その従属騎士となる道を選び、なおかつ自分の継ぐべき地位を彼に与えるべきと宣言した。しかも、母親に一切の相談もせずに、である。 イザベラは、まだ幼い子供だと思っていた一人娘から、ここまで確固たる強い意志が示されたことに対して複雑な想いを抱きながらも、ひとまずは、その決断を尊重すべきと判断した。 「分かりました。もともと私も、出自はただの村娘です。血筋云々を言える立場ではありませんし、言うつもりもありません。ひとまずそれは、あなたの意見として聞き入れましょう」 日輪宣教団はイザベラが設立した組織であり、団長の継承権については明確に定めていない以上、実質的にはイザベラがその決定権を握っていると誰もが考えている。だからこそ、イザベラはこれから見極めなければならない。リーベックが本当に自身の後継者にふさわしいかどうかを。そしてそれは、一朝一夕で決められる話ではないことも皆が理解していた。ただ、リーベックの思想がイザベラに極めて近いことは皆が理解していたし、実力的にも格的にも、彼女が認めれば異論を挟む者は少ないであろうことも予想出来る。 それ故に、イザベラの側近達はこの瞬間から、リーベックに対して様々な想いを込めた視線を向ける。一方で、「期待していた言葉」とは全く別次元の宣言を聞かされたヘンリーの側近達が困惑していると、ブリジットは更に「話の続き」を語り始める。 「その上で、あくまでも私個人の意見ですが、トランガーヌの地を治めるのは、ネロ様がふさわしいと思います」 あえてここで彼女は「ネロさん」ではなく「ネロ様」と呼んだ。 「今の彼には、私達、日輪宣教団のような確固たる覚悟はありません。ですが、それは逆に、あらゆる民の考えを受け入れられるということでもあります。彼の戦旗を見て下さい」 彼女がそう言うと、ネロは昨夜の時点で彼女の前で現出させたライトスタッフの戦旗を掲げる。その存在を知らされていなかったリーベックも含めて、その場にいる人々は驚愕と感銘が織り交ざったような表情を浮かべる。 「この戦旗は、あらゆる者の才を、生かすべきところで生かせることを示す戦旗です。この戦旗を現出させたネロ様であれば、この地を治めることも可能だと思うのです」 彼女がそう言い終わると、イザベラが再び口を開いた。 「なるほど、それがあなたの判断ですか。お二方はどうです? あなた方自身に、その志はありますか?」 ネロとリーベックの様子から、彼等もまた、ブリジットから事前に通達された訳でもなく、この時点ではじめて「彼女の考え」を聞かされたであろうことが、イザベラには読み取れていた。 これに対して先に答えたのは、リーベックの方である。 「私は、このような場では主観的にものを言うべきではないと思うので、私個人の希望はこの場では捨て置いて頂きたいと思います。しかし、その大役を私にお任せ頂けるのであれば、私は全身全霊を以てその役をまっとうしたいと思います。たとえいかなる困難があれど、私は聖印教会の一員として、この場にいる皆さんと、自分自身と、ご令嬢と、そして何より、神に誓います」 はっきりとした口調でそう答えると、イザベラはようやく、軽く笑顔を見せる。 「その決意、心強く思います。そしてブリジット、あなたは私に、早く引退しろと、そう言いたいのですね?」 「い、いえ、そういったつもりでは……」 「まぁ、いいでしょう。どちらにしても、私もこれから教皇庁での仕事も増えることになります。今まで、私の名代はあなたに任せてきましたが、これから先は、正式にリーベック殿を日輪宣教団のブレトランド支部長に任命させて頂きましょう。私も、リーベック殿であれば、私の後継者にふさわしいと考えています。早く私を引退させてくれるくらいの気概で、励んで頂きたい」 現状において、日輪宣教団のほぼ全ての戦力がブレトランドに集中している以上、「ブレトランド支部長」となることは、実質的に宣教団の実行部隊の大半をその傘下に収めることを意味する。最終決定権はイザベラが掌握し続けるにしても、現実問題として確かにイザベラの不在期が増えつつある現状においては、「実質的な団長代行」と言っても差し支えない立場であろう。 「光栄です」 リーベックが短くそう答えると、今度はネロが口を開いた。 「仲間として戦ってくれたブリジット嬢がそこまで言ってくれたのです。そこまでの大役であったとしても、私は引き受けさせて頂きます。そのための、この戦旗です」 とはいえ、現状のブリジットには、枢機卿の継承者を指名する権利など、ある筈もない。「日輪宣教団の後継者としてのブリジット」がネロと婚約でもするというのであれば、それは確かに「新旧のトランガーヌを束ねる存在」としてのネロを後継者とすべきという主張の正統化に繋がるだろうが、ブリジットがその「後継者」の立場を放棄してしまった以上、この発言自体には、まさに「一個人の意見」以上の価値はない。 だが、現実問題として、リーベックが日輪宣教団の後継者となるのであれば、そのリーベックに「トランガーヌ枢機卿」としての地位をも与えることに対して、伝統的なトランガーヌの旧臣達は断固として反対するであろうし、聖印教会側の人間からも、そこまで彼に権力を集中させることを危惧する人々が出てくるだろう。その意味で、先刻のブリジットの宣言をイザベラが受け入れた時点で、事実上、ネロを枢機卿とする以外の選択肢は、ほぼ絶たれていたのである。 それでも、これが「日輪の後継者候補ですらなくなった一人の女騎士」の提案だけで決められる問題ではないことは明白であり、重臣達の間で騒然とした空気が漂う中、それまで病床に臥せっていたヘンリーが、おもむろに上半身を起こし始めた。 「猊下、大丈夫なのですか?」 主治医の者達が驚く中、ヘンリーは落ち着いた口調で答える。 「あぁ、話は全て聞かせてもらった……。ネロ、こちらに来てくれるか?」 そう言われたネロが近づくと、ヘンリーは自らの聖印を取り出し、ネロの前に差し出す。 「私が不甲斐ないばかりに、この国を混乱に陥れてしまって、申し訳なかった。だが、あとは、お前達、次の世代の好きにすればいい。私はこれから、ジェーンの元へ往く。すまなかったな、最後まで頼りない国主で」 間近で目の当たりにしたネロは、今のヘンリーが、聖印の力によって強引に「最期の力」を振り絞って話していることが分かる。 「猊下、ご安心下さい。たとえこの地が混乱していても、『集うべき旗』があれば、人は一つの方向へ向かうことが出来ます」 そう言って、ネロが聖印を受け取ると、ヘンリーは憑き物が落ちたかのような安らかな表情となり、そのまま静かに永遠の眠りに就く。薄れゆく意識の中でヘンリーの脳裏に流れる走馬灯の中には、家族達の姿が映っていた。ジェーン、エレナ、ジュリアン、そして(偶然にも「彼女」と同じ名を持つ)ヘンリーにとっての「初めての女性」と、その間に生まれてしまった「もう一人の息子」……。そんな思い出に浸りながら、初代トランガーヌ枢機卿ヘンリー・ペンブロークの魂は、静かにこの世界から何処かへと旅立っていった。 そして次の瞬間、イザベラが周囲の人々に向かって、声高に宣言する。 「皆様、よろしいか? 今ここで確かに猊下は『御遺志』を示された。そして私も、私の後継者となるブレトランド支部長を任命させて頂いた。異論のある方は?」 誰も何も言わない。言える筈もない。それぞれに内心で思うところはあっただろうが、ヘンリー自身の手で「継承の儀」がおこなわれた以上、そこに口を挟める者は誰もいなかった。 「では、これから神聖トランガーヌは、新たな時代を迎える。志半ばで天に召されたヘンリー猊下と、新たに枢機卿に任命されたネロ猊下、そして、私に代わってブレトランドの日輪宣教団を束ねることになったリーベック卿に対して、静かに敬礼を願いたい」 そのイザベラの言葉が響き渡ると同時に、皆が一斉に、無言で(それぞれの流儀での)「敬礼」をおこなう。こうして、「神聖トランガーヌ」と「日輪宣教団」は、新たなる指導者を迎え、それぞれの「第二章」への幕が、静かに開くことになったのである。 4.5. ただ一つの席 その日の夜、ようやく重責から解放されたブリジットが、最後に残された「もう一つの決断」を下すための精神的な後押しを求めて、「いつもの酒場」に赴くと、酒場主から「レベッカからの手紙」を渡された。 「訳あって、この地を去らねばならなくなりました。あなたに黙って出て行くことになってしまうことをお許し下さい。ですが、あなたであれば、きっと任務を果たして無事にこの街に帰ってくると信じています。これから先は、あなたの信じる道を、あなたの力で選んで下さい。どのような道を選ぼうとも、神はあなたに御加護を与えてくれます」 その手紙を読み終えたブリジットは、そっと折り畳んで、その胸元にしまう。 「レベッカ、ありがとう。あなたは、ずっと、いつまでも、私の友達」 そう呟きながら、彼女は王城へと向かう。「彼等」の想いに応えるために。 ****** 夜更けのダーンダルク城の中庭に、ブリジットと、そして彼女に呼び出された二人の王子が集まっていた。ネロの姿を確認したリーベックは、彼が「腰抜け」ではなかったことを察して、少し嬉しそうな顔をする。 「今日は色々なことがありました。私達自身も混乱していると思うのですが、先に、はっきりさせておきたいと思って……」 まず、彼女はネロの方を見て、頭を下げる。 「ネロ、ごめんなさい」 その意図を理解したネロは、込み上げる様々な感情を抑えながら、穏やかな口調で答えた。 「ブリジット、頭を上げてよ」 言われた通りにブリジットが頭を上げると、ネロは笑顔で彼女に「今の自分の率直な想い」を伝える。 「僕は君から、十分すぎるほど勇気をもらった。たとえ場所や立場が離れることになっても、君が言ってくれたことは忘れないだろう。その勇気のおかげで、君主として立つことが出来る。本当に、ありがとう」 「気持ちにきちんと答えられる訳ではないですけど、今まで通り、色々な形で手助けはさせて頂きたい。それが私の心からの想いです」 ブリジットはそう答えた上で、今度はリーベックの方を見る。 「リーベック、私で良ければ、あなたの伴侶にして頂けますか?」 リーベックはにっこり笑いながら、 「君以外にはいない」 と言って手を差し伸べ、彼女はその手をそっと握る。 ブリジットの中では、二人の間に「優劣」をつけることは出来なかった。ただ、「自分が共に人生を歩む相手を選ばなければならない」と考えた時に、最終的には「より自分に近い価値観」を共有出来る相手を選ぶことを決意した。彼女はリーベックの信念が理解出来るからこそ、「己の信念をまっとうするために、一人で全てを背負って孤高の道を歩もうとするリーベック」のことを(彼と同じ目線で、彼の隣に立って)支えられるのは自分しかいない、そして彼のことを生涯をかけて支え続けたい、と心の底から願ったのである。加えて、彼と一緒にいる時の自分が、他の誰と一緒にいる時よりも「自然体の自分」を曝け出せることもまた、重要な要因であった。 そんな二人を複雑な想いで見つめながら、ネロは静かにその場から立ち去って行く。彼はリーベックとは対照的に、自らの弱さを自覚した上で、全てを自分一人で背負うのではなく、多くの人々の力を頼る道を選んだ。ネロには「他人を信じて頼ることが出来る強さ」がある。だからこそ、ブリジットは彼のことを信頼して「王」に推挙した。だが、皮肉なことに、そのような「多くの人々と手を結ぶことが出来るネロ」であるが故に、結果的に、自分の手を彼女一人に握ってもらうことだけは出来なかった。それはブリジットからの「自分が一人で支えなくても、ネロは(自分を含めた)皆から支えられる存在になれる」という絶大な信頼を勝ち取ったことの証明でもある。しかし、その結果として失われたものは、ネロの中では「国主の地位」では埋め合わせにならないほどの「唯一無二の価値」であった。 だが、それでも、自分の思いを伝えた上でのこの結果に対して、ネロの中で後悔はない。明日から彼はトランガーヌ枢機卿として、この矛盾と混乱に満ち溢れた国を背負っていかなければならない。今の自分には個人としての感傷に浸っている余裕はない、そう自分に言い聞かせていた。 ****** 一方、そんな「三人」のやりとりを、偶然立聞きしてしまった「顔に傷を持つ少女」がいたのだが、そのことに気付いた者は誰もいなかった。 (隊長さん、いえ、枢機卿猊下、あなたにはきっと、もっとふさわしい相手がいる筈です。だって、もし私が姫様の立場だったら、間違いなくあなたのことを……) そこまで想いを巡らせた上で、彼女は自分の頬を両手で平手打ちにする。 (バカ! 何言ってんだ! 俺は男だ! そう生きると決めたんだろ!) 自分の中で自分にそう言い聞かせながら、その「自称:少年兵」は夜の城の警備を続ける。たとえ自分が「姫様」のような存在にはなることは出来なくても、いつか力をつけて、彼を支えられるような存在になれればいい、そんな希望を小さな胸に抱きながら、静かに彼の背中を見送るのであった。 【ブレトランドの光と闇】第3話(BS32)「革命の闘士」 グランクレスト@Y武
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ダグラス・カートランド 出典:サイレントヒル3 年齢/性別:50代後半/男性 外見:白髪交じりの短い頭髪と髭、壮年男性としては立派な体格を持つ白人男性。 黒のソフト帽によれよれの背広、膝丈までの濃い茶色のロングコートを着ている。 環境:1992年アメリカ、元刑事の私立探偵。妻とは10年前に離婚し、息子にも死なれている。 性格:落ち着いた物腰と、強い意志を併せ持つ"タフガイ"。 能力:刑事としての射撃、格闘などの技術、及び探偵行を通じての観察力など。 口調:男性的だが粗暴ではなく、しっかりとした口調。一人称は"私"、二人称は名前か、"君" など。 交友:ゲーム中にて、依頼主のクローディア・ウルフと接点があり、またヘザー・モリスと協力関係にある。 備考:『サイレントヒル3』 ゲーム中、クローディアの依頼によりヘザーを探し出し、それを切欠にした異変でヘザーの父、 ハリー・メイソンが死亡。ヘザーを保護し、共に車でサイレントヒルへと向かう途上より。
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第1話(BS29)「均衡の調停者」( 1 / 2 / 3 / 4 ) ※注:本記事の前にブレトランドの英霊4を読んでおくことを、強く推奨します。 1.1. 危険な縁談 パンドラ・均衡派、それは、ブレトランド・パンドラを構成する四つの派閥の一つである。彼等は、混沌の力を利用して作られた現在の文明を維持するために、皇帝聖印の成立を防ぐことを第一目標とする者達の集団であり、その実現の可能性のある人物の覇道を妨げ、この世界を現在の「聖印と混沌による均衡状態」のまま存続させることを至上命題に掲げている。彼等の思想に密かに共感し、陰ながら協力する者達は各国内に潜んでおり、一部の君主や、エーラムの上層部の中にも、現在の既得権益を守るために、彼等に手を貸す者は少なくないとも言われている。 現在、その均衡派を率いているのは、グリース子爵ゲオルグ・ルードヴィッヒの側近の自然魔法師マーシー・リンフィールド(下図)である。彼女は「先読みの一族」と呼ばれる自然魔法師の家系の末裔であり、彼女達はパンドラ結成以前から、密かにこのブレトランドにおける「三王家による均衡体制」を維持すべく、様々な手段を講じて「統一への機運」を未然に阻止することで、この小大陸の平和を守り続けてきた。 だが、そんな彼女達の陰ながらの努力も、一人の英傑の登場によって打ち砕かれた。2年前、アントリア子爵の座を簒奪したダン・ディオードによるトランガーヌ侵略は、ブレトランドの勢力バランスを大きく崩した。「このまま彼を放置していたら、いずれ皇帝聖印にまで達してしまう」という強い危機感を抱いたマーシーは、自らの正体を隠した上で、流浪の騎士ゲオルグ・ルードヴィッヒと手を組み、新興国家「グリース」を建国することで、ダン・ディオードの覇道を阻止するための防波堤を築くという強硬策に打って出る(ブレトランド戦記・簡易版参照)。 その後、聖印教会・日輪宣教団による神聖トランガーヌ建国、およびクラカラインでの魔境発生に加えて、ダン・ディオード自身が突如コートウェルズへと出征したことで、現在はアントリアによる進撃は一段落している。だが、ダン・ディオードの留守を任された彼の庶子であるマーシャル・ジェミナイは、相次ぐ連戦で疲弊していたアントリアを着実に立て直しつつあり、未だブレトランドの天秤は、大きく北に傾いた状態が続いていた(下図参照)。 一方、マーシーにはもう一人、「いずれ皇帝聖印に到達するかもしれない人物」として危険視している君主が、ブレトランドの外にいた。それは、アントリアの侵攻を初期の頃から支援し続けていた、大陸北部の半島国家のノルドを率いる海洋王エーリクである。ダン・ディオードとエーリクは、いずれも野心家であり、最終的にはどこかで両者が衝突する機会が訪れるとマーシーは予想しているが、それまでに両者が大量の聖印を集めていれば、その勝者は皇帝聖印により近付くことになる。だからこそ、なるべく早い段階で両者の間に楔を打ち込まなければならない、とマーシーは考えていたが、彼女のその企みは、アントリアの筆頭魔法師ローガン・セコイアの巧みな外交手腕によって、ことごとく阻止されてきた。 そして先日、マーシーにとって極めて憂慮すべき謀略が発覚した。ダン・ディオードの庶子にして現在はアントリア子爵代行を務めるマーシャルと、海洋王エーリクの姪にしてノルド海軍第四艦隊を率いるカタリーナとの間での縁談が浮上したのである(下図参照)。このまま放っておけば、両国の絆は更に強まり、その覇道を止めることは一層困難になる。そう考えた彼女は、アントリアの首都スウォンジフォートに潜伏する二人の工作員に対して、この縁談の阻止を命じた。 そのうちの一人の名は、カイナ・メレテス(下図)。17歳の時空魔法師である。彼女はエーラムの名門メレテス家の一員であり、当初は「この世界を救うために、立派な君主を補佐する」という強い使命感に燃える魔法学生であった。しかし、一門の先輩であるヒュース・メレテスに誘われる形で実地研修のために訪問したグリースで、君主であるゲオルグの粗暴な態度や唯我独尊な姿勢に絶望し、「聖印の力に溺れた君主による皇帝聖印の実現」という最悪の未来を予見してしまったことで、エーラムの契約魔法師制度に疑問を感じ始めていたところを、同国を陰で操る立場にあったマーシーによって勧誘され、パンドラ・均衡派へと導かれることになったのである。 マーシーから、ゲオルグは「ダン・ディオードという猛毒を制するための小毒」であると説明された彼女は、その「より大きな猛毒」を監視するために、もう一人の先輩であるクリスティーナ・メレテスを頼ってアントリアへと赴き、ダン・ディオードと契約を結ぶ。だが、その直後に彼はコートウェルズへと出征したため、まともな任務を与えられないまま手持ち無沙汰になっていたカイナは、筆頭魔法師ローガンの計らいにより、大工房同盟から派遣された銀十字旅団の団長ニーナ・ヴェルギス(詳細は後述)の補佐官に就任することになった。 そして、くしくもこのニーナ・ヴェルギスが、まもなく実施される予定の「マーシャルとカタリーナのお見合い」の会場の護衛を務めることになったため、マーシーは今回の「妨害工作員」として、このカイナを指名することになったのである。 マーシーからの暗号文を受け取ったカイナは、冷めた瞳でその文意を理解し、その任務達成のために必要な手段を講じ始める。 (今の私の立場ならば、妨害する手段はいくらでもある。だが、あまり派手に動けば、私の仕業だと露見してしまい、今の立場が維持出来なくなる。そうなると、今後の調査に支障が出てしまうだろう。それに加えて、我々パンドラが縁談を妨害しようとしている、という企みが明らかになると、逆に彼等はより結束を強めてしてしまうかもしれない……) 状況的に、かなりの難題である。この状況をどうにかするためには、おそらく自分一人の力だけではなく、周囲の者達を上手く利用する必要があるだろう。時を読み、人心を統御することを本分とする時空魔法師である彼女にとって、まさに腕の見せ所であった。 そして、この暗号文とほぼ同時に、銀十字旅団の団長であるニーナから、カイナを含めた主要団員達に招集命令がかけられた。おそらくは、この縁談の警備に関する打ち合わせだろう。カイナは様々な思案を巡らせながら、その会場へと向かうのであった。 1.2. 代行閣下の思惑 一方、もう一人の工作員の名は、ユーナ・アスター(下図)。歳はカイナと同じ17歳。彼女は「影」の邪紋使いであり、現在はアントリア子爵代行マーシャルの侍従を務めている。パンドラに所属している者達の中には、その思想に共鳴して積極的に加わる者もいるが、中には、止むに止まれぬ事情で協力を余儀なくされている者達もいる。カイナが前者であるのに対して、ユーナは典型的な後者であった。彼女はアントリア内陸部のバラッティーの孤児院で育ち、やがて邪紋の力に目覚め、裏社会で犯罪に手を染めつつ、「情報屋」として生活していた。しかし、「パンドラ」の情報に踏み込んだ時に、逆に彼女にとって致命的な(自身の恩人である孤児院の人々に関する)「弱み」を握られてしまい、以後、彼等への協力を強要されるようになったのである。 そんな彼女は今、非常に悩ましい立場にあった。彼女はマーシーの命令により、アントリアに仕官という形で潜伏し、そして「子爵代行マーシャルの侍従」という要職に就くことに成功したが、アントリアを立て直すために寝る間も惜しんで働き続ける彼のことを、当初は表面上支えつつ監視する立場だった筈が、いつしか一人の男性として、本気で愛するようになってしまっていたのである。本来ならば、マーシーからの指令次第では、自分自身の手でマーシャルを殺さなければならなくなるかもしれない、そんな立場でありながら、監視対象である彼に心惹かれている現状は、彼女にとって苦痛でしかなかった。 このような葛藤に悩む現在の彼女にとって、今回のマーシーからの指令は、なんとも複雑な心境にさせられる内容であった。為政者としてのマーシャルにとってはおそらく朗報であろう「大国の姫君との縁談」を、自分自身の手で妨害するという行為に対して、ユーナとしては心苦しい気持ちはある。だが、それと同時に、一人の女性として、マーシャルが他の女性と結ばれることは耐え難いという感情も、彼女の中には確かに芽生え始めていた。 一方、そんな彼女の想いなど露知らず、当のマーシャル(下図)本人は、スウォンジフォート城内の私室にて、国内各地から届けられる報告書に一通り目を通すという日課の業務に従事していた。そして、彼はその作業が一段落した時点で、突如、天井に向かって声をかける。 「ユーナ、いるか?」 すると、天井ではなく、クローゼットの中から彼女は現れた。 「なんでしょう? マーシャル様」 「今日は、そっちだったか」 「影」の能力を持つ彼女は、ほぼ常にマーシャルの近辺に潜んでいる。天井、床下、窓の外、箱の中、どこに彼女が隠れているかは、マーシャルにも知らされていない。故に、マーシャルは常に勘で方向を決めて声をかけるしかないのだが、大抵はいつも外れている。 「既に聞いていると思うが、現在、ノルドの『鯨姫』と私の間での縁談がまとまりつつある」 「鯨姫」とは、縁談相手であるカタリーナの通称である。彼女は馬ではなく、シロナガスクジラに騎乗して戦う「海の騎士」であるため、そう呼ばれていた。歳は17。先日16になったばかりのマーシャルよりも1歳年上であり、同じ王族騎士でも、マーシャルの本分が後方からの軍団指揮であるのに対し、彼女は前線で敵味方の注目を浴びながら戦う特攻隊長であった。 「そうですか、マーシャル様もついにご結婚を」 ひとまずユーナは、知らない振りをしてそう答える。マーシーからの暗号文によって一通りの情報は得ていたが、ここはそう反応しておいた方が無難と判断したのであろう。 「実際のところ、ローガン卿に勝手に進められたような縁談なので、その意味ではやや不本意ではあるが、悪い話ではない。これから先、アントリアが安定的発展を遂げていくためには、ノルドとの協力は不可欠。だから、私としては何としてもこの縁談を成功させるつもりだ」 落ち着いた口調で彼はそう語る。その語り口は、とても16歳の若年騎士には見えない。あくまでも、自分自身の縁談を「外交におけるカードの一つ」としてしか考えていない様子が伺える。 「だが、婚約するにあたって、こちらが下手に出る様なことがあってはならない。アントリアがノルドから属国扱いされることのないよう、鯨姫の方から、私とどうしても結婚したい、という気分にさせねばならん。だが、私の周りには女性が少ないからな。『女心』というものを掌握するために、ユーナの意見を聞きたい」 マーシャルの母は彼が幼少期に病死しており、昨年までは父の名も知らされないまま、母の兄である騎士団長バルバロッサ・ジェミナイの手で育てられた。バルバロッサは同性愛者であるが故に妻はいなかったため、マーシャルの実質的な「家族」は養父であるバルバロッサしかいない。そして、騎士学校時代から「国を支える立派な騎士になる」という目標に向けて、一心不乱に勉学に励んでいた彼は、基本的に「色恋事」とも無縁な生活を送ってきた。 「一応、女性が好むという文学を読んでみたが、どれもこれも悲恋モノばかりで、どうにも参考にならん。より実用的と言われている若者向けの指南書の類いも読んでみたが、あまりにも下品すぎて、王族相手には使えそうにない。やはり、座学では恋愛術は学べないようだな」 ちなみに、彼が読んだ書物の中で最も「最悪」という評を下したのは「地球」から投影された『源氏物語』と呼ばれる異界文書であった。一人の美男子が、同時に何人もの女性に手を出すその展開に対して、彼は「吐き気がする」という感想を漏らしている。 彼がこのような「十代の男性とは思えぬほどの禁欲的性癖」となってしまったのは、彼の実父であるダン・ディオードが、マーシャル以外にも幾人もの「婚外子」を各地に作っていたという乱行への反発である(詳細はブレトランドの英霊4を参照)。そんな実父を反面教師としているが故に、いつしか彼は、恋愛や性欲に対して、禁欲的すぎるほどに禁欲的になってしまったようである。 そんな彼であるからこそ、ユーナとしても、おいそれと自分の感情を表に出す訳にはいかない。一般的な君主であれば、結婚は外交上の道具と割り切りつつ、その裏で密かに妾を囲うことは珍しくもないが、マーシャルはそのような行為には及びそうにない。だからと言って、卑しい邪紋使いの身である自分と彼が正式な夫婦となれる可能性はほぼ皆無である。だからこそ、もし、マーシャルがユーナの恋心に気付いたら、おそらく彼女を自分の傍から遠ざけることになるだろう。それは「パンドラとしてのユーナ」にとっても、「女性としてのユーナ」にとっても、絶対に避けなければならない事態であった。 ユーナが心の奥底でそんな想いを秘めながら黙ってマーシャルの話に耳を傾けていると、やがて彼は、机の上に一枚の図面を広げる。それは、巨大な「異界の船」の船内図であった。 「これが、今回の見合い会場となる船だ」 この船の名は「ノルマンディー号」。大工房同盟所属の豪商アルフ・リングサーケルが所有する、異界の豪華客船である。この世界ではまだ開発されていない「蒸気機関」を動力としており(その燃料は、混沌の力によって無尽蔵に補填されている)、二千人以上の乗客を収容出来る超大型船舶であった。 「この船内で女性をエスコートするとなると、どのようなコースが良いと思う?」 見たところ、この船の中には、様々な「娯楽施設」がある。食堂やカフェはもちろん、庭園、礼拝堂、展示場、劇場、映写室、水泳場、体操場、球技場など、様々な需要に応じたスポットが用意されており、確かに、王侯貴族のデートコースに相応しい会場と言えるだろう。ちなみに、航路はこのスウォンジフォートからノルドまでの二泊三日の旅となる。この船の本来の最高速度を用いれば一晩でも到着出来る距離ではあるのだが、あくまでも「お見合いクルーズ」のための乗船のため、あえてゆったり航行する予定らしい。 ユーナとしては、マーシーからの「縁談阻止」の命令に従う上でも、自分の中の「他の女性に奪われたくない」という衝動に従う上でも、本来ならばここで「失敗しそうなエスコート案」を提示すべきである。だが、あまりに見え透いた愚案を紹介しても、マーシャルは採用しないであろうし、最悪の場合、自分の魂胆が見抜かれてしまう可能性もある。結局、どう答えれば良いか迷いながら、素直に思いついたことをそのまま言葉にしてみることにした。 「そうですね……。女の子なら、やっぱり、星の綺麗な夜の甲板の上で、というのが良いかと思いますが、さすがに警護の都合上、見晴らしが良い場所というのも、あまりよろしくないかも……、あ、いえ、そういう時こそ、マーシャル様をお守りするのが、私の役目ですよね。安心して下さい。どんな状況でも、私がお守りしますから」 内心動揺した心境のまま、自分の考えがまとまっていない状態で話し始めたため、何が言いたいのか分からない発言になってしまったが、マーシャルはそんな彼女のシドロモドロな受け答えに対して、思わず苦笑を浮かべる。 「まぁ、それはいいが、あまり表には出ては来るなよ。護衛が女性というのは、『あらぬ誤解』を生む可能性があるからな」 マーシャルは、自分自身の恋愛に関して無頓着であるが故に鈍感でもあるが、一般的な女性の嫉妬心や猜疑心の在り方に関しては、一般教養程度の知識はある。そうでなければ、そもそも人心を掌握する立場である国家元首代行の任を務めることは出来ないだろう。 「とはいえ、星が見える甲板というのは、確かに日が落ちた後の時間帯のコースとしては、有効かもしれん。もっとも、やはり鯨姫自身の好みが分からないことには、何が有効手なのかを判断するのは難しいな」 マーシャルは軽く首を捻りながらそう呟く。「パンドラとしてのユーナ」にとっても、「女性としてのユーナ」にとっても、マーシャルに「縁談を進める上での有効手」を発見されることは、あまり望ましい話ではない。だが、それでも彼女としては、自分の目の前でマーシャルが悩んでいる状態で、黙っていることは出来なかった。 「分かりました。そういうことなら、私が鯨姫に関する情報を調べておきましょう」 「そうしてもらえると助かる。今のところ、白狼騎士団はラピスの混沌災害の後始末のために出払っているから、今、このスウォンジフォートにいる者達の中で、彼女と面識がある者がいるとすれば……、銀十字旅団の面々くらいだろうな」 「では、その辺りから探りを入れてみます」 そう言って、ユーナはマーシャルの前から立ち去った。これで良かったのかどうかは分からないが、ひとまず彼女は、パンドラの同胞であるカイナとの方針確認のための接触問いう目的も兼ねて、銀十字旅団の詰所へと向かうことになった。 1.3. 護衛任務 こうして、ユーナが銀十字旅団の詰所へと向かっていた頃、団長であるニーナ・ヴェルギス(下図)は、旅団内の主要メンバーを集めて、「ノルマンディーお見合い作戦」のための打ち合わせを始めていた。 ニーナは、かつては幻想詩連合の一角を占める大国アロンヌの聖印教会に仕える女騎士だったが、味方の裏切りで敵に捕らえられ、聖印を奪われて火刑に処されようとした瞬間、邪紋の力に覚醒し、異界の女騎士「ジャンヌ・ダルク」のレイヤーとなった女性である。 その後、彼女は大陸各地を転々としつつ、自分と同じように「帰る場所を失った者達」を仲間に加えていくうちに、いつしか「銀十字旅団」と呼ばれる傭兵団を結成することになる。やがて大工房同盟の盟主であったヴァルドリンドの先代大公と盟約を結んだ後、大陸各地で「大工房同盟諸国を支援する独立武装集団」として、勇名を轟かせることになる。そして、2年前にアントリア支援のためにノルド経由で白狼騎士団と共にブレトランドへと派遣され、対トランガーヌ戦で活躍して、旧トランガーヌ子爵領の居城であるダーンダルク城の管理を任されるまでに至るが、翌年の聖印教会軍の侵攻を止められず、敗走を余儀なくされた。 その後はしばらく閑職に回されていたが、今回の「お見合い会場」となる豪華客船「ノルマンディー号」の警護役として、彼女達が任命されることになった。これは、ニーナがかつて大陸にいた頃にこの船のオーナーと面識があったが故の縁故人事であったが、ニーナとしては、敗戦の汚名を返上するためにも、ここは絶対に失態が許されない場面であった。 「今回の護衛任務、総員、厳戒態勢で臨め。船内に怪しい者を見つけたら、すぐに報告せよ」 彼女のその声に、カイナを含めた銀十字旅団の面々は、並々ならぬ決意を感じる。ニーナはアントリアにおいては「客席将軍」の立場であり、そもそも君主ではなく邪紋使いなのであるが、実質的にはアントリアにおける四人の男爵(バルバロッサ、アドルフ、ファルコン、ジン)と同格の「名誉男爵」級の扱いとなっている。これはダン・ディオードの実力主義思想を反映した措置であり、カイナをニーナの補佐役として任命したのも、(エーラムの規則としては)魔法師と契約を結ぶことが出来ないニーナに対してカイナを「擬似契約魔法師」のような形で貸し与えることで、彼女を「君主」に匹敵する存在として遇するという意図が込められていた。 「ただし、あまりに厳戒態勢すぎる雰囲気になってしまうのもよろしくない。マーシャル様とカタリーナ様の気持ちを盛り上げるために、極力『二人きり』の状況を演出する必要があるだろう。とはいえ、万が一のことがあってはならん。常に遠方から監視する役も必要となる。誰か、立候補する者は?」 ニーナがそう問いかけるが、それに対して、しばしの沈黙が流れる。 (なかなか難しいことを仰る) カイナは内心でそう呟く。そして、それは他の者達も同様であった。一歩間違えば、縁談破綻の責任を取らされかねない立場ということもあって、ひとまず皆、牽制し合いながら周囲の出方を窺っている様子である。 そんな重い空気の中、ひとまずカイナがニーナに対して問いかけた。 「我々以外に護衛はいるのですか?」 「当然、ノルドからは姫様の護衛の兵達も乗船する。アントリア側からも、マーシャル様の侍従兵達は乗船することになるだろう。それに加えて、今回はローガン卿も同船される予定だ。ノルドには色々と人脈のあるお方だからな」 「あの方ですか……」 パンドラ・均衡派にとって、ダン・ディオードの懐刀と言われるローガンは、まさに宿敵である。彼はマーシーやカイナと同じ時空魔法師であり、これまでマーシーが仕組んだ様々な「アントリア・ノルド離反策」は、そのほぼ全てが彼の手によって未然に封じられてきた。彼が乗船するとなると、それだけで、今回の縁談阻止作戦も難航を極めることは容易に想像出来る。 カイナが思い悩んでいると、ふと、「誰か」に肩を叩かれた様な気配を感じた。次の瞬間、彼女の手には一本の「ペン」が握られている。これは、パンドラの盟友であるユーナのペンであった。これは、ユーナがこの場に身を隠して忍び込んでいることを伝えるための合図である。 「そうか……」 カイナは静かに呟く。そして、おもむろに手を挙げた。 「相解った。私が勤めさせて頂こう」 この「相解った」は、実質的にはニーナとユーナの双方に対しての発言である。身を潜めているユーナは静かに見えない場所で頷き、ニーナはやや驚いたような表情を浮かべる。 「ほう、魔法師殿か。大丈夫か? さすがに、一人で任せる気は無いが」 ニーナとカイナは、年齢的にも軍歴的にもニーナの方が遥かに上ではあるが、あくまでも「ダン・ディードからの借り物」という扱いである以上、ニーナは彼女のことを「対等なパートナー」として遇している。 「いや、私一人でも別に構わない。私は時を操る者。私であれば、お二人の縁談を成功させるために必要なタイミングを見計らった上で、的確な判断を下すことが出来る。この縁談、必ず成功させてみせよう」 「なるほどな。確かに、間近で監視する者達の司令塔としては、適任なのかもしれない。とはいえ、有事の際には実働部隊も必要だ。マーシャル様の護衛とも連携した上で、適切な護衛体制を築く必要があるだろう」 彼女がそう言うと、今度は団員達の中から、若い男性の声が聞こえた。 「おい、ニーナ」 そう言って、異界の装束に身を纏った小柄な少年(下図)が声をかける。彼の名は、ヨウ。この銀十字旅団の一員である。しかし、見た目は14歳程度のただの少年だが、その正体は人間ではない。彼は「中華」と呼ばれる異世界にその本体が存在する「神」の投影体なのである。 「ん? どうした?」 「オレ様も参加してやる」 ヨウは日頃から、自らが「神」であると公言している。と言っても、本当にそうなのかどうかを確かめる術は、この世界の住人にはない。ただ、彼の持つ投影体としての能力は、確かに「神」の片鱗を感じさせる代物ではある。その実力故に、彼はこの銀十字旅団の一員として加わることを認められた。ただ、あくまでも一兵卒としてであり、今のところ、彼のことを「崇めるべき神」だと思っている者は、団員の中にはいない。 「おぉ、そういえば、お前はノルド出身だったな。姫様とも面識はあるのか?」 「多少はな」 ニーナにそう言われて、得意気にヨウはそう言い放つ。彼は2年前、ノルドに投影体として出現したものの、特に何の目的もなくフラフラしてたところでカタリーナと出会い、その庇護下に入った。その後、ノルド経由でブレトランドに遠征することになった銀十字旅団に加わり、それなりの戦功を重ねて今に至るが、特に旅団の中で責任ある立場に就こうともせず、平時に於いては昼行灯のような生活を送っている。そんな彼が、珍しく「やる気」を見せたことに対して、ニーナも他の団員達も、意外そうな表情を浮かべていた。 「分かった。そういうことならば、確かにお前が適任だろう。ただ、お前の腕が立つことは知っているが、粗相はするなよ。私程度の者であれば良いが、王族である姫様相手に、無礼な態度を取ってはならんぞ」 「誰に向かって言っている?」 「『上官である私に対して、そういう態度を取る奴』に向かって言っているんだ」 銀十字旅団は、傭兵団ではあるが、その規律は弱く、どちらかと言えば「冒険者ギルド」に近い雰囲気である。だが、そんな中でも、団長であるニーナに対して、まだ加わって2年程度の新参かつ若輩者であるヨウがこのような口を利くのは、やや異様な光景である。ニーナとしては「異界の神である以上、この世界の道理が理解出来なくても仕方がない」と割り切っているが、さすがにそこまでの寛容さを、異国の姫君に対してまで求めるのは非常識であろう。 そして、この状況に対して、カイナはやや眉をひそめながら口を開いた。 「私にこいつの手綱を握れと言うのですか、団長?」 カイナが監視役の司令塔となり、ヨウにも同じ任務を与えるということは、実質的にはそういうことになるだろう。 「そうだ。まぁ、使い方次第だが、使える奴ではあるからな」 「確かに、実力は認めますが……」 カイナはパンドラの一員である以上、投影体と手を組むこと自体に嫌悪感はない。とはいえ、自らを「神」と名乗るこの不遜な少年を、扱いにくいと考えるのは当然である。ただ、ノルドの姫君と彼が面識があるのなら、マーシーから託された縁談破綻の指令を果たす上で、上手く利用出来る可能性もある。 「それに、実は今回の航海では、カタリーナ様からの御希望により、あえて『危険な海域』を通ることになった」 唐突にそう言いだしたニーナに対して、カイナは当然のごとく首を捻る。 「それはまた何故?」 「おそらく、途中で海の怪物と遭遇することを期待した上で、マーシャル様の騎士としての力量を測ろうと考えているのだろう」 そう言われたカイナは、そのような遊戯感覚で聖印の力を使わせようとする姿勢に対して、内心では密かに侮蔑の念を抱いていた。自身の聖印の力を他人と比べ、競い合おうとする傾向の強い君主は、カイナの中では最も忌むべき存在である。 「だが、マーシャル様はあくまでも指揮官。お一人で怪物と戦うのはその御本分ではない。何か危険な投影体が現れた時は『マーシャル様の指揮の下で、周囲にいる者達が撃退すること』。それが、カタリーナ様に好印象を与える上での最善手であろう。だからこそ、『戦力として使える奴』を、常にマーシャル様の近くに置いておくのは悪くない」 ニーナにそう言われて、カイナも渋々納得する。確かに、海上でもし怪物が出現した場合を想定するならば、神の力を持つヨウは、十分に戦力として期待出来るであろう。逆に言えば、マーシャルやカタリーナが「命がけの戦闘」に巻き込まれることになった場合、ヨウという戦力を自分の指揮下に置いておくことは、この縁談を破綻させる上での「選択肢」がそれだけ広がることにも繋がる。もっとも、それは彼が素直にカイナの言うことに従えば、の話ではあるが。 「あと、先程も言った通り、今回は宰相のローガン殿も御同行される予定だが、正直、あの方にはあまり関わらん方が良い。航海中、何か不可解な行動を取るかもしれんが、放っておけ。下手に勘ぐりすると、自分の身が危なくなる。薄気味の悪い方だが、少なくとも、アントリアにとって不利益となるようなことはしない筈だ」 「そうですか、分かりました」 カイナはニーナに対してそう答えたが、裏任務の都合上、状況によっては、そうも言っていられなくなることもあるだろう。無論、不用意に踏み込めば、こちらの動きを察知されることになるかもしれないが、もしかしたら、既に自分達の動きを読まれている恐れもある。様々な可能性を考慮しつつ、高度な柔軟性を維持しながら対応するしかない。 「では総員に、万が一の場合に備えて、船酔いの薬を配布する。乗船時に飲むのを忘れるなよ。あと、古参兵達は分かっているだろうが、ノルマンディー号は、異界の船だ。そう簡単に沈むことはないし、これまで事故を起こしたこともないが、何が起きるか分からんのが船旅というもの。いざという時のために、乗客全員分の脱出艇も用意してある。御二人の身の安全が第一だが、お前達自身も、自分の身は自分できっちり守れ。以上、解散!」 彼女がそう言うと、団員達はそれぞれに部屋を後にする。ダーンダルクでの落城以降、まともに活躍の場が与えられずに鬱積がたまっていた団員達は、久しぶりの大仕事に向けてそれぞれに気合を入れている様子である。無論、何事も起きなければ、それに越したことはない。ただ、ブレトランドだけではなく、この世界全体の軍事バランスを左右するかもしれない縁談だけに、様々な者達がその妨害に乗り出してくる可能性は、彼等の中でも十分に考慮されていた。ただ、その獅子身中の虫が、既にこの部屋の中にまで入り込んでいることにまで気付いている者は、少なくともこの時点では誰もいなかった。 1.4. 確認と警戒 こうして、カイナが打ち合わせを終えて部屋を後にすると、自室へと向かう廊下の途中で、すっとユーナが背後から姿を表す。 「久しぶりね、ユーナ。いつぞやのケーキ屋以来かしら?」 カイナは、会議中の緊迫した表情そのままに、口調だけをやや和らげたような雰囲気で、同い年の盟友に対して声をかけた。 「そうね、あのケーキは、なかなか私好みだったわ」 ユーナの方は、自然な笑顔で答える。実はこの二人は、同じパンドラ・均衡派の工作員の同胞であると同時に、甘党仲間でもある。二人は定期的な情報交換も兼ねて、スウォンジフォートの様々な菓子屋やケーキ屋を食べ歩く仲でもあった。 「あらそう? 私はちょっと物足りなかったけど、あなたの好みに合ったのなら良かったわ」 カイナはそう言って、ペンをユーナに返す。前述の通り、このペンは、ユーナが「自分が近くにいること」を彼女に伝えるために頻繁に用いている、一種の暗号のような小道具であった。 「大変なことになってしまいましたね」 ユーナが複雑な表情でそう言うと、カイナは厳しい顔付きのまま答える。 「あなたは、マーシャル子爵代行の護衛として、今回の任務に入るのよね?」 「そうなるわ。そちらの部隊と、いろいろな意味で協力して、うまく『私達が』動けるように調整してくれることを期待してる」 マーシャルの護衛隊と、船全体の警護隊が連携をするのは当然である。彼女達二人は、表向きはその連携の枠内にありながらも、実際にはその状況下において、マーシーからの密命を果たさなければならない。だからこそ、ユーナは「私達」の部分を強調して、そう言った。 「えぇ、分かっているわ。でも、あのヨウという男には気をつけなさい。あいつの力は強力よ。下手に動かれると、私達の計画にも支障が出かねないわ。以前、あいつの正体を確かめようと、時空魔法を用いたことがあったけど、読み切れなかった。あれは、相当な潜在能力だわ」 カイナは深刻な表情でそう語る。ヨウは見た目は彼女達よりも幼く見えるが、投影体に関して言えば、それは能力を見極める上で、何の参考にもならない。 「やはり、神様の力は伊達ではない、ということ?」 「そうね。今回の仕事において、あいつがどう出るかは予想不能すぎるから、気をつけた方がいいわ」 カイナは淡々とそう答える。ユーナとしては、ヨウから鯨姫に関する情報を聞き出すという選択肢も考えていたが、その話を聞かされると、迂闊に接触しない方がいいような気もする。そもそも、何が目的で行動するのが分からないのが「神」という存在である以上、本当のことを話してくれる保証もないだろう。もっとも、それが偽情報なら偽情報で、結果的に縁談破綻に繋がる可能性もあるのだが、ユーナの中ではマーシャルに恥をかかせたくない、という気持ちもある以上、より確実な情報源を他で探した方が良いのではないか、と思えてきた。 ユーナがそんな悩みを浮かべた表情を見せる中、カイナの中では、前々からユーナに対して抱いていた疑問が再燃する。同世代の女性として、あまり個人の私的領域にまで踏み込む気はなかったが、今回の指令を遂行するにあたっては、もしかしたらユーナの中の感情が、一つの鍵になるかもしれないと思えたのである。 (ここは、確認しておいた方が良いかもしれないわね) そう考えたカイナは、時空魔法師の一部だけが使える特殊な分析眼の力を発動させ、ユーナの表情や動作を凝視する。カイナはその視覚を更に詳細に脳内解析することで「過去から現在に至るまでのユーナの変遷」を瞬時に読み取ろうとした。無論、いかに魔法師といえども、人間の脳の処理速度には限界がある。故に、彼女のこの能力で判別出来るのは、事前に一つの「仮説」を想定した上で、その仮説を否定する要因が見つかるか否か、という程度の内容である。そして、ここでカイナが「ユーナはマーシャルに対して恋心を抱いているのではないか?」という仮説に基づいてユーナを解析した結果、カイナは瞬時にその仮説が「正解」であることを確信した。 (やっぱり、そうなのね。だとしたら、その感情を捨てずに持ち続けていてもらった方が良いのかもしれないわね。パンドラにとっても、彼女自身にとっても) カイナとしては、この件についてユーナに問い質す気はない。あくまでも「今後の作戦を立てる上での一つの判断材料」程度に留めた上で、会話を続ける。 「マーシー様から命令を受け取ってから、下準備をする時間もない以上、正直、出たとこ勝負にならざるをえないわ。その意味では、こういう時に不確定要素の強いヨウという男がいれば、突破口にはなるかもしれないけど……、とりあえず、お互いに頑張りましょう」 カイナにそう言われて、ユーナも静かに同意する。ともあれ、やはり不確定要素に頼るのは危険だと判断したユーナは、ひとまず王城を出て、「別の情報源」をあたることにした。 1.5. 下町の噂 王城の外に出たユーナは、スウォンジフォートの下町の居酒屋へと向かう。そして、先刻までの深刻そうな表情を捨てて、陽気な表情を装いながら入店した。 「やっほー、マスター、また飲みに来たよ」 彼女が元気にそう声をかけると、酒場の主人も笑顔で答える。 「おぉ、ファラ。何か最近、面白い話はあるか?」 「ファラ」とは、彼女が下町で用いている偽名である。ここでは彼女は「代行閣下の護衛」でも、「公儀隠密」でも、「パンドラの工作員」でもなく、一人の「冒険者」を装って活動している。それが、「情報屋」としての彼女のもう一つの顔であった。 「ノルドに関して、ちょっと聞きたいことがあってさ。あの国の『カタリーナ姫』さんについて、何か知ってる?」 「あぁ、噂の『鯨姫』か。あれだろ? 今度マーシャル様と結婚することになった、っていう」 「まだ正式に決定した訳じゃないけどね」 その言い回しから、ファラ(ことユーナ)がやや不機嫌であることを、酒場の主人は察する。 (ははぁ、こいつも、マーシャル様に憧れてたクチかな) 実際のところ、若く優秀で(母親譲りの)端正な顔立ちのマーシャルは、アントリアの女性達の間でも人気は高く、彼が結婚すると聞いて気落ちしている女性も少なくない、という噂もある。そして、ユーナとしても、別に「ファラ」としての自分がマーシャルに密かに懸想しているということを知られたところで、何ら困る必要はない以上、ここでは自分の感情が顔に出るのを押し殺す必要もなかった。 酒場主はそんなファラ(ことユーナ)を微笑ましく思いながら、彼女に安い麦酒を出しつつ、知っている限りの情報を伝える。彼女は士官以前は「情報屋」として生きていたこともあり、今でも様々な事情に精通しているため、互いに必要な情報がある時は、こうして助け合うのが通例であった。 「まぁ、鯨姫に関しては、色々と噂は聞いて入るよ。子供の頃から、活発な『おてんば姫』だったらしいな。好奇心旺盛で、負けず嫌いで、しょっちゅう城を抜け出して遊び回って、家臣達を困らせていたらしい。勉学はあまり得意な方ではなかったらしいが、特に暗愚という話も聞いたことはない。直観力や洞察力に優れて居るという話も聞く」 ちなみに、彼女の「鯨姫」という異名の由来となっている愛騎(愛鯨)のジョセフィーヌは、カタリーナが子供の頃に出会った「親友」らしい。本来は体長20メートル以上の巨体だが、彼女の聖印の力によって「小型化」された上で、長期間陸上にいても平気なように皮膚が特殊加工されており、いつも肌身離さず持ち歩いているという。 また、祖国ノルドへの愛着は強いが、その一方で、自由奔放に生きる「海賊」に憧れており、その中でも特に、アントリアと友好関係にある「鮮血のガーベラ」を率いる女海賊アクシアのことを強く尊敬している、とも言われている。その意味では、輿入れして「一国の王妃」としての立場に素直に収まるような女性ではないのではないか、と危惧する声もあるが、それでも彼女が今回の縁談に前向きな姿勢を示しているのは、その「尊敬するアクシア姐さん」とアントリア子爵ダン・ディオードが懇意な関係にあることも影響しているのかもしれない。 なお、彼女は気さくな人柄であるが故に、ノルドの内外の様々な男性から「人気」はあるが、さすがに王族ということもあり、あまり気楽に男性との交際が許される立場ではなく、少なくとも公式には、恋人らしき人物がいたという情報はないらしい。稀に、身の程知らずに彼女に求婚する男性は現れるものの、全員あっさりと「玉砕」したらしく、本格的な縁談も、今回が初めてであるという。 「つまり、明朗活発で、これと言って悪い噂もない、人気者のお姫様、ということね」 「まぁ、そういうことだな。正直、マーシャル様と相性が良いのかどうかは分からんが、もしこの縁談が実現したら、なかなか面白い夫婦になるんじゃないか、と俺は思ってる。冷静沈着で堅物なマーシャル様とは真逆のタイプだからこそ、互いに惹かれ合う部分もあったりするんじゃないか、なんてな。いや、まぁ、あくまで俺の勝手な推測だが」 酒場主は、話の途中でユーナの表情が更に曇りつつあるのを面白がりながら、そう語る。とはいえ、それはユーナの中で当初想定していたイメージと概ね合致していたため、彼女としてはそれほど大きな衝撃はない。そのようなタイプの姫君が、マーシャルと相性が良いかどうかは分からない。酒場主のいう通り、確かに「意外にお似合いの夫婦」になるのかもしれない。 ただ、今の彼女は「パンドラの一員」として、それを止めなければならない。そう、あくまでも「パンドラの一員」として、「仕方なく」それを止めなければならない。彼女はそう自分に言い聞かせつつ、酒場主に軽く礼を言って、静かに店を出て行くのであった。 1.6. 読み取れぬ真意 その頃、銀十字旅団の宿舎の中では、一度は自室に帰ったヨウが、改めてニーナの部屋を訪れていた。 「ニーナ、一つ聞きたいことがあるんだが」 「何だ?」 「さっきの話、カタリーナは乗り気なのか?」 ヨウが、先刻の忠告にもかかわらず「カタリーナ」と呼び捨てにしていることにニーナは眉を潜めるが、どうせ言っても聞かないであろうと諦めた上で、素直に質問に答える。 「それは分からん。ただ、年齢的には御結婚しても良い歳であるし、相手としてもマーシャル様であれば、悪くない話だと私は思うがな」 ニーナは大工房同盟全体を守ることを信条とする騎士(のレイヤー)であリ、アントリアとノルドに対しては、どちらも同じくらいの愛着と親交の情を抱いている。そんな彼女の視点から見て、「アントリア子爵の非嫡出の息子」と「ノルド侯爵の姪」の縁組は、格的にもちょうど「釣り合う関係」の様に思えた。 「つまり、お前は『アイツの想い』は知らない、ってことなんだな?」 ニヤリと笑いながらそう問いかけるヨウに対して、ニーナの脳裏には「嫌な予感」がよぎる。だが、ひとまず彼女は素直に淡々と答えた。 「そうだな。それを確認するための、今回の『お見合い』ということになる」 彼女がそう答えた直後、外から部屋の扉を叩く音が聞こえる。ニーナが入室を許可すると、扉を開けて入ってきたのは、カイナであった。 「団長、失礼致します。この乗員名簿の件なのですが……」 カイナは、当日の人員配置について詳しく確認しようと団長の部屋を訪れたのだが、入った瞬間、ヨウと目が合い、やや顔をしかめる。 (なんでこいつが……) ヨウに対して警戒の視線を送りながら、カイナはひとまずニーナへの確認事項を済ませようとする。カイナとしては、具体的に船の中のどの施設に誰が配置しているのかを一通り把握しておきたかったのだが、そのために一番必要な「当日のスケジュール」に関する情報が、現時点でまだニーナの元に届いていなかったため、ニーナとしてもやや返答に困った。 「正直、マーシャル様がどうエスコートするかはまだ決まっていないので、どこに誰を配置するかについては、当日になってみないと分からん。無論、お二人の会話の流れで決まることもあるだろうから、臨機応変に対応する必要はあるのだが、出来れば、マーシャル様側の方針だけでも、早めに決めて頂きたいものだ」 「そういえば、マーシャル様に関して、今まで『浮いた話』を聞いたことがありませんね」 「まぁ、あの方は今まで仕事一筋の人だったからな。特に子爵代行に就任してからは、色恋事にうつつを抜かしている暇も無かったのだろう。その意味では、正直、少し心配ではある」 ただ、それについては、ニーナもあまり人のことは言えない。現在24歳の彼女は、当然、これまでの人生の中で、それなりの数の男性から求愛されたことはあったが、あくまでも「聖女のレイヤー」としての生き方に誇りを持っている彼女は、これまで経験したどんな男性からのアプローチに対しても、心の底から受け入れる気持ちにはなれなかった。その意味では「有効な女性の口説き方」について、助言出来る立場でもない。 とはいえ、平民出身で、今は邪紋使いという「呪われた立場」でもあるニーナとは異なり、マーシャルの場合は、庶子とはいえ実質的に現子爵の嫡男扱いである以上、「良き縁組」をして、「世嗣ぎ」を残してもらわなければ困る。立場の違いを考えれば、この点に関して、ニーナには「自分のことを棚に上げる権利」があると言って良いだろう。だが、当のマーシャルは「実父の過去」を知ってしまったことで、彼を反面教師として過剰に意識するあまり、より女性に対して慎重になってしまっているという側面もある。 「そうなんだよ。クッソ真面目なんだよな、アイツ」 ここで突然、ヨウが横から二人の間に割り込んできた。それに対して、カイナが怪訝そうな表情で問いかける。 「ヨウ、あなた、マーシャル様と面識はあったっけ?」 「ん? 風の噂、風の噂」 飄々とした言い回しでそう答えるヨウに対して、カイナは内心「こいつ、いい加減なことを言ってるな」などと思っているが、実際のところ、アントリア国民の大半は、今のマーシャルに対して、同じような感慨を抱いている。騎士学校時代のマーシャルは、無駄に敵を作らないようにするために、あえて昼行灯を演じていたこともあったが、実父の「無責任な国政放棄」を経て国家元首代行となった後のマーシャルに対しては「生真面目で厳格な執政者」としてのイメージが国民の間でも浸透している。そして、それは概ね彼の本質に合致した評判でもあった。 「で、ヨウ、先程、小耳に挟んだけど、向こうの姫様とは面識があるのかしら?」 「まぁ、あるっちゃあ、あるよなぁ」 得意気な表情を浮かべながら、意味深な言い回しで語るその態度に、カイナは若干の苛立ちを感じつつも、表には出さずに淡々と語りかける。 「その詳しい経緯は聞かないけど、こちらとしても、向こうの姫様がどういう性格の方なのか分からなくて、どういう行動に出るか分からないから、護衛がやり辛いところではあるのよね。その点、あなたなら何か知っているんじゃないか、と期待しているんだけど」 そう言われたヨウは、顔を綻ばせながら、なぜか身振り手振りも交えつつ答える。 「性格? まぁ、一言で言うなら、アレだな。やんちゃで、うるさくて、ギャーギャー騒ぐ、ジャジャ馬だな」 「そう。でも、あなた、そう言いながらも、何か嬉しそうね」 カイナはそう言いつつ、このヨウの素振りから、彼が姫に対して「特別な感情」を抱いているのではないか、という仮説が浮かび上がり、先刻のユーナの時と同じように、時空魔法師独自の特殊な分析眼を用いて、彼の真意を看破しようとする。 だが、その試みは失敗した。ニーナが混沌の力を用いてヨウの深層心理を分析しようとした瞬間、彼の身体を構成する混沌が拒絶反応を示し、彼女の分析を妨害してきたのである。 (これは…………、異界の自然律?) エーラムでの教養課程において、彼女は学んだことがある。一部の投影体の中には、本人が無意識のうちに自身の周囲の混沌に独特な波動を発生させ、周囲の人々の集中力を妨げる特異体質の者達がいる、と。どうやら、この「神」を名乗る少年は、その一人であるらしい。 そしてこの時、ヨウは自分の心がカイナによって分析されようとしていたことに気付いてはいなかったが、彼女の最後の言葉から、彼女が「余計なこと」に気付こうとしているのかもしれない、と考え、カイナに対して不敵な笑みを浮かべながら、詰め寄る。 「お前の目にどう見えたかは知らないけどな、オレ様は何千年も生きて来た神だ。たかが数十年程度の命しか持たない人間の尺度で、このオレ様の考えを理解しようとしても、無駄だぜ? 余計なコトを勘ぐってる暇があったら、黙って仕事に専念しな」 そう言われたカイナは、その彼の言葉に込められた異様な雰囲気に飲まれて、これ以上彼にそのことを追及しようとする気力が、徐々に失せていく。そして、カイナは今ひとつ釈然としない感情を残しながらも、次第に「ヨウの本音」に対する興味そのものが薄れて、黙ってニーナの部屋を後にするのであった。 1.7. 船上遊戯 この日の夜、ユーナは下町で集めた鯨姫に関する一通りの情報を、マーシャルに対して報告する。マーシャルとしても、概ね事前に集めた姫の情報に基づくイメージと一致していたので、納得したような表情を浮かべる。 なお、それと同時にユーナは、カイナの友人経由で集めた「女性向けの恋愛小説」の類いもマーシャルに手渡したが、それについては「あまり役に立たないと思う」という理由で、マーシャルは一読もしなかった(実際、それは「恋愛が失敗しそうな内容」という方向性で集めた小説だったので、マーシャルのその判断は正しかった訳だが)。 その上で、ユーナはマーシャルに対して「私なんかが言うのはおこがましいとは思うのですが」と前置きした上で、自身の「一番知られたくない本音」を悟られない範囲で、「臣下としての自分の考え」を彼に伝える。 「私としては、アントリアとしての利益よりも、マーシャル様には、御自身の幸せのための結婚をしてほしいな、と思っています」 だが、そんな彼女の(様々な相反する想いが同時に込められた)言葉に対して、マーシャルは眉ひとつ動かさず、いつも通りの冷静な口調で、淡々と答える。 「今の私にとっては、このアントリアが栄えることこそが、私の幸せだ。そのための今回の縁談でもある。勿論、あまりにも御し難い姫であった場合は、この話を受ける気はないが」 「結構な『おてんば姫』のようですが……」 「大丈夫だ。騎士団の荒くれ者共を御するのも、昔からやってきたことではあるからな」 それとこれとを一緒にして良いかどうかは微妙な問題だが、マーシャルがここまで割り切っているなら、自分が何を言っても無駄だろうとユーナは諦めた。 「さて、そのような姫君を楽しませるということならば……、身体を動かす遊戯にでも興じてもらった方が、機嫌はよくなるかもしれんな」 ちなみに、このノルマンディー号の甲板には「テニスコート」がある。ブレトランドは(地球におけるブリテンと同様)テニスが盛んな土地でもあり、マーシャルにも一定の心得はあった。 「おそらく、映写室や劇場の類には、あまり好みでは無さそうだしな。あとは、お互いの理解を深めるために、カフェで紅茶と茶菓子でも口にしながらじっくりと語り合う、という方向性も考えはしたが……」 マーシャルがそう言ったところで、ユーナは突然、目の色が変わる。 「茶菓子!? いいですね、そうしましょう! あぁ、でも、私がこっそり隠れている中でマーシャル様達だけが食べるというのも……、あ、いや、そういう話ではないですね。失礼しました!」 またしても、会話の途中で本題と関係ないことを口走ってしまったユーナが赤面しながら動揺する中、マーシャルは一瞬だけ口元を緩ませつつ、すぐに冷静な表情に戻る。 「まぁ、菓子も好みは色々あるからな。あの半島の人々の趣向は分からん。やたら塩辛くて臭いの強い飴を好む人々が多いという噂も聞くが、そのような味覚の姫君相手に、何を出せば良いのかは、さっぱり見当がつかない」 ちなみに、その菓子を常備している魔法師がアントリアに少なくとも一人いるのだが、さすがに自身と直接的な面識もない南方国境の男爵の契約魔法師の事まで知り尽くしているほど、マーシャルも千里眼ではなかった。 「とりあえずは、テニスコートにお誘いするのが一番無難な案のように思えるのだが、とはいえ、私と姫が一対一でテニスをしても、おそらく私では姫の相手にならないだろうからな……」 一般的には、男性は女性に対して身体能力で負けることは恥ずべきことだとされているが、聖印や邪紋という、常人の限界を凌駕した特殊な力を有する人々の間では、男女の体力差など、もはや誤差程度の意味しか持たない。指揮能力に特化した聖印使いであるマーシャルが、前線で戦うことを本業とする聖印使いであるカタリーナを相手に、一対一で勝てる筈はないし、マーシャルもそのことを別段恥とも思っていない。とはいえ、自分を相手にカタリーナが圧勝したところで、それがこの縁談を成功に導く方向に進めることには繋がらないだろう。 「いっそのこと、ダブルスという手もあるか。お前が誰かと組んで、私と姫のペアと戦うというのは、どうだろうか?」 唐突に想定外の提案を出されたユーナは、やや困惑する。 「私が、誰かと、ですか? うーん、カイナさんは、そういうのは苦手そうだし……、誰か他の侍従の中で使えそうなのがいればいいのですが……」 「まぁ、あくまでも選択肢の一つだ。一応、考えておいてくれ。とりあえず、私は明日に備えて、もう寝ることにする」 マーシャルにそう言われると、ユーナは、まだ言いたいことが心の中には残っていたものの、今の時点で彼に何を伝えても、それは誰にとっても事態を好転させることには繋がらないと判断し、ひとまずこの場は素直に立ち去ることにした。 「分かりました。どうかごゆっくり、お休みなさいませ、マーシャル様」 1.8. 月下の翼 それから数刻後の真夜中、銀十字旅団の一室で、一人の少年が窓から月を見上げつつ、異界の酒が注がれた杯を傾けていた。その酒の名は「紹興酒」。「神」としての彼がいた世界で、人間達が好んで飲んでいた酒の一種である。 彼は、2年前にノルドにいた頃の記憶を紐解きながら、月下の夜に、当時の彼を受け入れてくれた「鯨姫」の笑顔を思い浮かべる。 「まだこのオレ様にも、チャンスがあるってことだな」 自身の中に去来する様々な感情を抑えつつ、静かにそう呟いた彼の背後には、月明かりによって形作られた、彼自身の影が映っていた。だが、それは「人」の姿をした今の彼とは明らかに異質の、一対の「翼」を広げた巨大な鳥のような姿であった……。 2.1. 鯨姫の来訪 こうして、それぞれの様々な思惑が交差する中、「船上お見合い会」の当日が訪れた。早朝にスウォンジフォートに停泊したノルマンディー号という巨大な「鉄の塊」を目の前にして、アントリアの民は驚愕する。ダン・ディオードによる簒奪以降、質素倹約を是とする国風が定着しつつある国民にとっては、その存在はあまりに衝撃的であった。 当然、国民の中には「異国の姫の接待」のために豪華客船を借り入れることに内心不満を抱く者もいたが、多くの国民は、ここまでの巨大船を動員出来る現在のアントリアの威光に畏敬と誇りを感じ、それ以上に純粋な好奇の心持ちでその様子を眺めていた。 そんな中、ノルドからの定期就航便に乗って、テンガロンハットとレザージャケットに身を包んだ「鯨姫」ことカタリーナ・リンドマン(下図)と、ノルドの宮廷魔法師の一人であるデクスター・メッサーラという名の眼鏡をかけた初老の魔法師が到着した。その背後には、彼女達の護衛の兵達が控えている。 そんな彼女達を出迎えるマーシャル達に対して、カタリーナは左腕に鯨のジョセフィーヌを抱えた状態のまま、右手を差し出した。 「初めまして、マーシャル卿。私がノルド第四艦隊提督の、カタリーナ・リンドマンよ。今回の縁談、前向きに検討させて頂くつもりではあるけど、とりあえず、よろしく」 あまり格式にこだわらない、ノルド流のざっくばらんな態度でそう言ったカタリーナに対して、マーシャルはやや硬めの表情でその右手を握り返す。 「アントリア子爵代行、マーシャル・ジェミナイです。色々と至らぬ点もあると思いますが、どうかご容赦のほどを」 その言葉遣いは丁重だが、あまり謙った雰囲気は作らず、堂々とした姿勢でマーシャルはそう言うと、そのままカタリーナの傍らに立ち、ノルマンディー号へと案内する。その周囲を双方の護衛の兵達が取り囲んで警護する中、ユーナは少し離れたところから、心の中の様々な感情を押し殺しながら、その二人を眺めていた。 「ところで、最近、アントリアの沿岸部で大規模な魔境が発生したと聞いたけど、それはどうなったのかしら?」 「ラピスの件に関しては、無事に解決しました。当方には優秀な君主も邪紋使いも大勢おりますし、現在は貴国からお借りしている白狼騎士団が、各地に散らばったその魔境の残党を討伐しているところです。ノルドの方はいかがですか?」 「国内は安定しているけど、今は各地の同盟諸国の支援で手一杯の状態ね。本当は、今日は伯父上様も御同席して、マーシャル様がどのような方なのかを見極めたかったようだけど、残念ながら、そこまでの余裕はなかったわ」 「そうですか。では、あなた自身が海洋王殿の代わりに、私の存在価値を見極める役回り、ということになるのですね」 「えぇ。同じ『大工房同盟の未来を担う者』として、期待しているわよ、代行閣下」 カタリーナが、まさに値踏みするような視線を向けながらマーシャルに対してそう言ったのに対し、マーシャルもまた、内心で彼女に対する「値踏み」を始めている。 (粗野な物言いではあるが、少なくとも馬鹿ではなさそうだな) 彼女を「自分と対等な関係の人生のパートナー」と考えるのであれば、それは望ましい話である。あまりにも御し難いほどに非常識な女性との婚姻は、先代アントリア子爵とダン・ディオードのような末路を招くことにもなりかねない。「公私共にマーシャルを支えられるだけの実力を伴った妻」が手に入るのであれば、それはマーシャルにとってもアントリアにとっても大きな利益となろう。 だが、あまりに優秀すぎる配偶者は、時として自分自身を追い詰める可能性もある。逆の視点に立って考えてみれば、先代アントリア子爵にとってのダン・ディオードもまた、その典型例といえよう。無論、客観的に見れば、知略に富んだマーシャルの寝首をかくなど、辺境の、戦場で戦うことだけに特化した君主であるカタリーナに出来るとは考えにくいが、ダン・ディオードもまた、結婚前はただの「混沌を祓うだけの生活を続ける流浪の君主」だったことを思えば、相手の力量を自分自身の目で見極めるまでは、あらゆる可能性を排除すべきではない。 そして、智謀や力量以上に重要な問題は「価値観」である。先代アントリア子爵ロレインは、多くの人々にとっては「浪費癖の激しい暗君」であり、質実剛健な気風のダン・ディオードとも相容れられない価値観の女性であったが、一方で、芸術や文化の大切さを理解した一部の上流階級の人々にとっては、ロレインは決して悪い主君ではなかった。国を治める者として、国を導く方向性を明確化する必要がある以上、自分と相容れられない価値観の配偶者に、横から口出しされることは、国を乱す要因にもなる。王妃が「特に自己主張することのない、貞淑で物静かな女性」であれば特に問題はないが、少なくともこの姫は、そのような枠に収まる器ではない。ならば、自分と同じ道を歩める価値観の女性かどうかを、ここで確かめる必要があるだろう。 「で、今日はどんな趣向で楽しませて頂けるのかしら?」 あまり緊迫した雰囲気になるのも良くないと判断したのか、カタリーナがマーシャルに対して、軽く挑発するような笑顔でそう問いかけると、マーシャルもまた、やや表情を緩めつつ答える。 「そうですね。この船には遊技施設などもございますし、姫様は体を動かすのがお好きと聞いておりますので、もしよろしければ、球技や水泳などを楽しんで頂くことも可能です」 「球技といえば、ブレトランドは『テニス』の発祥の地だったわね」 「はい、私も多少は心得がございます」 そんな二人のやり取りを遠目で眺めていたユーナは、マーシャルが一人の女性に対してここまで親しく接している様子を初めて目の当たりにして、言い様のない「悔しさ」を噛み締めていた。 少なくともユーナの目には、マーシャルのカタリーナに対する態度は「まんざらでもない様子」に見える。マーシャル自身が「あくまで政略結婚」と割り切った上で鯨姫との縁談を進める限りにおいては、ユーナもそこまで心を乱されることはなかったかもしれない。だが、もしマーシャルがカタリーナと本気で愛し合うような関係になれば、今の「一人で国を背負い続ける重圧に耐え続けているマーシャル」を憂うユーナにとって、喜ばしいという気持ちと同時に、その相手が自分ではないことへの絶望感が湧き上がってくる。 「マーシャル様には、幸せな結婚をしてほしい」という想いは、確かにユーナの中にはある。だが、それと同時に「出来れば、その相手が自分であれば……」という絶望的な希望を完全に捨て去ることが出来るほど、ユーナも大人ではなかった。 ユーナがそんな二律背反な感情(とパンドラとしての現在の立場)の板挟みで悩んでいる中、突然、彼女の耳元に、それまで静かに警護を続けていたカタリーナの護衛兵達の中から、ちょっとした喧騒が聞こえてきた。ノルマンディー号に付設された階段を登って乗船する二人を眺め続けることが少し辛くなってきたユーナは、彼等の警護は他の侍従の者達に任せて、ひとまずその喧騒のする方向へと向かうことにした。 2.2. 旧友の異変 ここで、少し時は遡る。ノルマンディー号の近辺で警護する銀十字旅団の隊列に加わりながら、彼等と向かい合うように並び立つカタリーナの護衛隊の中に怪しげな人物がいないかどうかを確認しようとしていたヨウは、その護衛隊の中に、見知った若者がいることに気付いた。 彼の名はハウディ。歳を聞いたことはないが、十代後半の若者であり、ヨウがノルドで姫の庇護下にあった頃から、姫の護衛を務めていた兵士の一人である。聖印もなければ、邪紋を刻んでもいない、ごく普通の人間であるが、投影体であるヨウのことを、特に差別も警戒もせずに接してくれた友人の一人であった。そして、彼もまた、カタリーナ姫に対して、ほのかに「憧れ」を抱いていたようにも思えた。 だが、2年ぶりにヨウの目に映ったハウディの様子は、明らかにどこかおかしい。前に見た時と比べて、やや虚ろな表情をしているようにも見える。それが気になったヨウは、思わず声をかけてみた。 「おい、ハウディ、お前、ちょっと顔色悪そうだけど、大丈夫か?」 すると、彼は首を傾げながら逆に問い返す。 「誰だ、お前?」 「『誰だ』って、忘れてんじゃねーよ、オレ様だよ、オレ様!」 普通は、ここまで強烈な個性の人物を、忘れることはないだろう。だが、そう言われたハウディは、誰も予想出来ないようなリアクションを返す。 「あ、あぁ、そうだったな。お前は『オレサマ』だ」 どうやら彼は「オレサマ」を固有名詞として認識したらしい。だが、ブレトランドにもノルドにも、それは人物名として明らかに不自然であり、このハウディの返答は、まともな反応とは思えない。 「な、何言ってんだ、お前? ヨウだよ、ヨウ」 「あぁ、うん、そうだ。お前は『ヨウ』だ」 ようやく意図が通じたようにも聞こえるが、やはり、何かがおかしい。明らかにこのハウディとの会話には違和感がある。そう思ったヨウは、更に問い詰める。 「お前……、病気か何かか?」 「いや、オレは、別に何も……」 どうにも噛み合わない会話が続く中、そのやりとりを少し離れたところから見ていたカイナが割って入った。 「ヨウ、何をしているの?」 「何かコイツ、調子悪そうだから、今日は帰らせてやれよ。こんなんじゃ、いても役に立たねーぞ」 「ノルドの兵士? 帰らせてやれと言っても、既にブレトランドまで来てしまっている以上、今更どうしようもないでしょう」 カイナはそう言いつつも、「ヨウがそう言うのならば、何かあるのかもしれない」と思い、ハウディの身体を凝視すると、彼の身体全体から、強い混沌の気配を感じ取った。少なくとも、それは普通の人間が醸し出す雰囲気ではない。 「ヨウ、あなた、彼と知り合いなのよね?」 「あぁ、オレは昔、ノルドにいたからよ。で、こいつ、ハウディっていうんだけど、スッゲー顔色悪いだろ? どこかで休ませることとか出来ないのかよ」 「それは、私に言われても……」 すると、さすがにこのまま放置しておくのもまずいと思ったのか、ハウディの周囲の同僚の兵士が割り込んで来た。 「あぁ、大丈夫大丈夫。こいつ、ちょっと『身の程知らずなこと』をやらかして、それでちょっと凹んでるだけだから」 そう言って、彼等はハウディの腕を引っ張って、その場から立ち去ろうとする。 「おい、身の程知らずって、何だ? 何かやったのか?」 「いや、まぁ、そこはほら、色々あったんだよ」 ちなみに、この腕を引っ張っている男もまた、ハウディ同様、ヨウがノルドにいた頃に面識のあった人物である。ただ、向こうはヨウのことを(そのあまりのインパクト故に)覚えていたようだが、ヨウの方は、さほど親しくもなく、そしてあまり印象に残る人物ではなかったので、名前までは思い出せなかった。 こうしてハウディがやや強引に連れ去られようとしているのを、やや呆気にとられつつ眺めながら、カイナはヨウに小声で問いかける。 「ねぇ、ヨウ? 彼は、あなたと同類なのかしら?」 「同類って、何だ?」 「彼は『あなたと同じような存在』なのかしら?」 カイナが見た限り、ハウディの身体からは、投影体であるヨウと同じくらい、強い混沌の力が感じられた。ただ、その割には「ただの一般兵」としか思えないような風貌だったので、そこに強い違和感を感じていたのである。 「いや、オレの元いた世界には、あんな奴はいなかったぞ」 ヨウと親しかったことから、もともと同じ世界から来た人間なのかもしれない、とも思っていたカイナであったが、どうやらそうではないらしいと分かり、得意の分析眼を用いて、去り行くハウディの様子から、彼が「本当にハウディという名の存在なのか?」という仮説を検証してみる。すると、明らかにその仮説を立証するに足りない諸要素が次々と浮かび上がってくる。どうやら、彼は「本来のハウディ」とは別の誰かが、「ハウディ」の名を騙って、このカタリーナの護衛隊の中に紛れ込んだ存在らしい。 (警戒すべき対象ね) 彼女は内心そう思いつつも、ひとまずこの場は何も気付かない振りをして、去っていく彼を見送る。純粋に護衛としての任務を最優先するなら、このことは当然、ニーナに報告すべきであろう。だが、彼女の目的はあくまでも「縁談の破綻」である。状況によっては、このような「侵入者」の存在が、状況を好転させることに繋がるかもしれない。そう考えたカイナは、ひとまず彼をそのまま泳がせておいた方が得策であろうと判断した。 「ヨウ、あんまりここで長々と油を売ってないで、持ち場に戻りなさい」 「へいへい」 そう言ってヨウが銀十字旅団の隊列の中へと戻る一方で、カイナが彼等よりも一足先に乗船するためにノルマンディー号へと向かおうとしたその時、彼女の目の前に突然、ユーナが現れる。 「何かあったの?」 ユーナは、先刻のヨウとハウディ(らしき誰か)のやり取りが耳に入り、マーシャルの護衛を中断して、密かに駆け込んできたのである。 「ちょっと変なのがいるわ。何というか、『人』じゃない」 カイナはそう言いつつ、ユーナに詳細を説明する。カイナの解析能力の正確さを理解しているユーナは、すぐにその説明で得心したらしい。 「つまり、その『ハウディ』は、本物のハウディではない、ってことね?」 「えぇ、それは間違いないわ。その上で、気になることは二つ。『彼は何者なのか?』そして『彼を潜り込ませたのが誰なのか?』ということ」 この世界には、邪紋や魔法の力によって、姿を変えることが出来る者達がいる。どちらの場合においても、その正体を見極めるのは非常に難しいし、もしかしたら、異界の投影体の中にも、そのような能力を持った者がいる可能性もある。いずれにしても、彼一人だけの思惑で潜入しているとは考えにくい。おそらく誰かが裏で何かを企んでいると想定するのが妥当であろう。 そのことを踏まえた上で、ユーナは冷静にこの状況を分析する。 「そうね、どちらも気になるところだけど、でも、これはもしかしたら、私達にとっては好機かもしれない。彼が船の中で何か事件を起こしてくれるなら、結果的にお見合いどころではなくなるかもしれないし。その意味では、泳がせておくのも一つの手かもしれないけど……、やっぱり、危険すぎるかしらね」 ユーナとしては、自分自身で今のこの状況を壊す方法が見つからなかったため、そのような形で「外部からの乱入者」に状況を掻き乱してほしい、というのが本音でもあった。ただ、不確定すぎる要素に頼りすぎるのは危険、という考えも彼女の中には当然ある。そして、カイナの方もほぼ同じ考えであった。 「確かに、事件を起こしてくれるのは別に構わないのだけど、問題なのは、あなたの主様も、あの姫様も『聖印持ち』だということよ。『聖印持ち』ってのは、何らかの逆境が起きたとしても、それを跳ね返す可能性がある。もしかしたら、『吊り橋効果』のような形で、逆に結束が強まることになるのかもしれない。それは『あなた』にとっても本意ではないでしょう?」 ユーナの「本音」を既に見抜いているカイナがそう言うと、ユーナはその『あなた』を強調した意図を測りかねながらも、ひとまずは頷く。 「そうね。『私達の目的』にとっては、好ましくないかもしれないわね」 ユーナとしては、あくまで「私達」の目的であることを強調するしかない。そんな二人の小声のやり取りを少し離れたところで見ていたヨウが、再びカイナに近付いてきた。 「おーい、カイナ!」 「何かしら、ヨウ?」 「テメェ、人に油売るなとか言っといて、こんなところで何かコソコソしてんじゃねーよ!」 「私は防衛上の観点から、こちらの方と打ち合わせをしていただけよ。あなたと違って、無駄話をしていた訳じゃないわ」 そう言いつつ、カイナはヨウにユーナのことを、そしてユーナにヨウのことを紹介する。もっとも、ユーナは昨日の会議の場に忍び込んでいたので、実はヨウのことは知っていたのであるが、ここはあくまでも「知らなかった体裁」で自己紹介をする。 「あなたが、噂に聞く『異界の神様』のヨウさんですね。お初にお目にかかります。ユーナ・アスターと申します」 そんな無難な挨拶を交わそうとするユーナに対して、カイナは蔑むような目でヨウを見ながら、ユーナに対して言い放った。 「敬語を使うような相手ではないわ」 「あぁ?」 ヨウが顔をしかめながら下から睨みつけるが、カイナは顔色一つ変えずに語り続ける。 「だってこの人、神様然としたものを全く感じないのだもの。神様なら、もっとしっかりしなさい」 「へぇ、喧嘩売ってるんだ。あのなぁ、カイナ、いいことを教えてやろう。『仏』の連中は、人間がどんなに悪いことをしても救おうとしてくれるが、『神様』は、祟るぜ。大事に扱うんだな」 「仏」とは、ヨウが元いた世界における、神と並ぶもう一つの「超然的存在(?)」のことであるが、カイナやユーナには何のことだか分かる筈もない。とはいえ、カイナとしては、もう今更、神に祟られようがどうなろうが、気にするつもりはない。 「で、ユーナと言ったな。オレはヨウだ。よろしく」 そう言ってヨウが手を差し出すと、ユーナも素直にその手を握る。 「はい、よろしくお願いします」 ユーナとしては、ハウディにしても、ヨウにしても、今のこの状況を覆せる可能性のある人物には、色々な意味で期待したいと考えている。得体の知れないこの少年に、どこかすがるような気持ちでその手を握っていた。一方で、ほぼ同じ心境ながらも、カイナはあくまでもも冷淡な視線でヨウを見下ろしながらユーナに告げる。 「まぁ、こんな奴だけど、実力はあるから」 「えぇ、そうみたいですね。近くにいるだけで、何か特別な力を感じます」 それは社交辞令ではなく、確かにヨウの周囲から発せられている特殊な混沌の波動であったのだが、混沌そのものに関する知識には乏しいユーナには、その正体は分からない。 「では、ヨウ、あなたにも伝えておきましょうか。さっきの彼、ハウディと言ったかしら?」 「あぁ、ハウディな。あいつ、いい奴だろ? まぁ、今日は調子悪そうだったけど」 「あれ、『人間』じゃないわ」 「へぇ……、そっか」 ヨウが妙にあっさりした返答だったことに、カイナは意外そうな表情を浮かべる。 「前、あなたが会った時は、彼は人間だったのでしょう?」 「んー、でも、オレ、あいつに『お前、人間か?』なんて聞いたことないからな」 「あら? あなた達投影体は、互いに相手を見て、投影体かどうか分かるものではないの?」 「んなもん、分かんねーよ」 この辺り、まだ「友好的な投影体」と接した経験の少ないカイナもまた、投影体全般に対して、やや正確な知識に欠けている。もともと時空魔法師とは、どちらかというと「対怪物戦闘」よりも「対人間外交」に適した系譜の魔法師であるため、投影体に関する科目は、エーラムの課程の中でも他の学科に比べると、あまり多くはない。 そして、こうなるとカイナの中で「想定すべき可能性」が一つ増えた。もしかしたらあのハウディは、今回の護衛よりも遥か以前からノルドの中で暗躍していたという仮説も、少なくとも今の時点では成立する。 「そう。いずれにせよ、彼が何か理由があって、あなたがいた頃から『人間のふり』をしていたのか、あるいは、『今の彼』が『以前の彼』とは別人になっているのか、どちらにしても、警戒しておくに越したことはないわ」 「そうかぁ?」 「というか、ハウディだけじゃないかもしれない。今回の件、ちょっとキナ臭くなってきたような気がする。あなたの仕事への姿勢に対して特に文句を言う気はないけれど、もう少し気合を入れておく必要があるとは思うわよ」 「気合ねぇ。オレ様は、やると決めた時は、本気でやるぜ!」 「まぁ、それでいいと思うけど、警戒はしておくべきよ、とだけ言っておくわ。別に、無視してくれても構わないけどね」 そう言って、カイナはノルマンディー号の方へ向かって行く。そしてユーナもまた、「マーシャル様の警護に戻ります」と言って、その場を立ち去るのであった。 2.3. 昼食会 こうして、カイナやユーナの中で様々な疑惑が広がる中、彼女達やヨウを乗せたノルマンディー号はスウォンジフォートを出航し、ノルドへと向かう。各員が船酔いの薬を飲んで警戒に当たる中、航海は順調に進み、やがて昼食の時間を迎えた。 この日のメインディッシュは、ブレトランド名物のロブスター料理である。どちらかと言えば南部のヴァレフールで漁獲される食材ではあるが、それをあえてこの場で出すことで、今やアントリアこそが「ブレトランド全体の盟主」であることを示そうという意図を込めた、宮廷魔法師ローガンによる発注である。 ただ、この会食の場に、(相手方の宮廷魔法師であるデクスターはカタリーナの傍らに待機していたが)ローガン自身は姿を現さなかった。船内一の広さを持つ一等客用の食堂のテーブルの上に、マーシャルとカタリーナの二人だけの料理が並び、少し離れた場所から、銀十字旅団の面々を中心とする衛兵達が立ち並ぶ。その中にはカイナとヨウの姿もあったが、ユーナだけは、あえてその身を隠して潜入し、「いつ何が起きても瞬時に動ける位置」で待機していた。 ブレトランド小大陸は、一般的なアトラタン大陸諸国に比べると、食文化という点では決して恵まれた環境ではないが、ノルドはそれに輪をかけて、食材そのものが乏しい土地柄である。カタリーナは高級ロブスターを口にして満足そうな表情を浮かべつつ、ふと思い出したかのように、マーシャルに問いかけた。 「そういえば、あなたのお父上は、竜王イゼルガイアの討伐のため、コートウェルズに出征中だと聞いたけど」 そう言われたマーシャルは、一瞬、眉間にシワを寄せる。 「えぇ、そのようですね」 まるで他人事のような言い方にカタリーナは違和感を感じつつ、そのまま話を続ける。 「あなたも、途中までは同行していたと聞いたけど、違うのかしら?」 「えぇ。それをあのア……、あ、いや、父上が、『龍退治が忙しくて、手が離せなくなった』と言い出したので、私がアントリアの統治を引き継ぐことになりました」 その言い方に何か引っかかるものを感じたカタリーナは、更に踏み込んで質問してみた。 「あなたは、君主にとって重要なのは、『国を治めること』と『混沌を退治すること』の、どちらだと思う?」 そう問われたマーシャルは、周囲に一般兵達がいることに若干躊躇しながらも、ここはあえて「本音」で答えることにした。これから先、自分と人生を共にする可能性のある女性である以上、この点についての「価値観」は、明確に示しておく必要がある。 「どちらも必要でしょう。ただ、少なくとも今、アントリアには救うべき民がいる。隣国の民を救うのも重要かもしれませんが、私は『アントリア子爵』を名乗る者であるならば、今のアントリアの民を助ける方を優先すべきだと思っています」 「ということは、あなたはお父上の選択を、あまり好ましく思っていないのかしら?」 マーシャルは一瞬間を開けつつも、淡々と答える。 「そこは、ご想像にお任せします。むしろ、あなたはどちらを優先するのが正しいとお思いですか?」 そう切り返されたカタリーナは、あっさりと即答した。 「私は、コートウェルズの人々が困っているというのであれば、それを助けに行ったあなたの父上の判断は立派だと思うわ。そして、それはあなたが『自分の不在時のアントリアを任せられる人物』だと思えたからこその判断だったのでは?」 「では、そういうことにしておきましょう」 マーシャルとしては、まだ言いたいことがなかった訳ではないが、「公の場」において、これ以上、この話題を広げるべきではないと考え、あっさりと話を打ち切った。 カタリーナはそんなマーシャルの態度から、彼とダン・ディオードが「普通の親子関係」ではないことを薄々察しつつ、ふと視線を彼の背後の兵達へと向ける。すると、その中に「見知った顔」がいることに気付いた。 (あら、ヨウ? どうしてここに?) その瞬間、ヨウもまた、彼女と目が合ったことに気付く。そして、それは彼の傍らに立っていたカイナも同様であった。 (あまり、余計なことはしてくれるなよ) カイナはヨウに対して目でそう訴えかけようとするが、ヨウは気にせず、カタリーナに対して、密かにウィンクして見せる。そして、さすがに今度ばかりはカイナの目をごまかすことは出来なかった。 (こいつ、やはり姫様のことを……?) カイナの中で、一度は封印されていたヨウへの「疑念」が再発する。だが、もしかしたらそれは、この状況を覆す上での最大の「切り札」になるかもしれない。様々な思惑を抱え込みながら、カタリーナは静かにヨウへの監視を続けるのであった。 2.4. 接待要員 その後、二人は「あまり相手の『プライベートな領域』に踏み込まない程度の他愛ない雑談」を交わしつつ、一通り食事を終えたところで、カタリーナがマーシャルに向かって提案した。 「じゃあ、せっかく甲板に球技場があるのだから、ちょっと遊ばせてもらおうかしら」 「では、私と姫でダブルスを組んでテニスをする、というのは如何でしょう?」 マーシャルにそう言われたカタリーナは、純粋に楽しそうな表情を浮かべる。 「あら、いいわね。『初めての共同作業』ってこと?」 「そういうことになりますかね。私も、足を引っ張らないように頑張りますので」 「分かったわ。じゃあ、一旦、部屋に戻って着替えてくるから」 「それならば、この船に備え付けの、専用のテニスウェアをお届けしましょう」 マーシャルがそう言って部下の兵に視線を送ると、その兵はすぐに駆け出して行く。その様子を横目に見ながら、カタリーナが食堂を出たのを確認すると、マーシャルもまた静かに自室へと向かう。 そして、マーシャルが食堂を出るタイミングで、ユーナは彼の前に姿を表した。 「マーシャル様、お疲れ様でございます」 「あぁ、どうやら思っていたより、話が通じそうな姫様のようだ」 どうやらマーシャルの中では「道理も通じないような北の蛮族の女武者」である可能性も考慮されていたらしい。最初の期待度が低かった分、それなりに好印象を抱いている様子がうかがえる。そして、ユーナにとってそれは、なんとも悩ましい状況であった。 「マーシャル様はこれから、姫様とテニスをなさいますか?」 「あぁ、そうだな。姫様がやる気になっているようだし」 「では、私がお相手を務めた方がよろしいでしょうか?」 「そうしてもらえると助かる。ほどほどに姫に気持ちよく勝たせるようにな」 そう言われたユーナは、ひとまずマーシャルの側から離れて、自分自身のダブルスの相手を探すことにしたのだが、正直なところ、内心やや困っていた。当初は、パートナーとしてヨウを誘おうかとも思っていたのだが、先刻の様子を見る限り、そのような「接待テニス」を任せられそうな人物ではないように思える。 もっとも、パンドラとしての今の彼女の目的を果たすためには、ここでヨウが空気を読まずにマーシャル相手に圧勝するのは、むしろ「望ましい展開」の筈である。だが、ユーナの心情的には、兵士達の目の前でマーシャルに恥をかかせるような行為は、どうしても避けたかった。 (そうなると、カイナさんかしら……。でも、彼女、そもそも運動自体が苦手そうだし……) あくまでも「負けること」が目的である以上、別にさほど得意である必要はないのだが、あまりにも歯ごたえのなさすぎる相手でも、それはそれで姫君は満足しないだろう。ユーナは色々と考えた上で、おそらくこの船に乗っている中で最も優れた身体能力の持ち主であるニーナが適任なのではないかと考えて、甲板の上で全体の警備状況を確認していた彼女の元へと赴く。 「ニーナ団長、私とダブルスを組んで頂けませんか!?」 「……お前は何を言っているんだ?」 突然言われたニーナは困惑しつつ、一通りの話を聞くと、一瞬納得した様子を見せながらも、やや困ったような表情を浮かべる。 「そういうことなら、私がやっても構わんが、ただ、私は基本的に『加減』が苦手だぞ」 どうやら彼女もあまり「接待」には向かない性格らしい。どうやらそれは、彼女がイメージするところの「聖女ジャンヌ・ダルク」としての生き方に反する行為のようである。そして、その様子が目に入ったカイナが、ユーナに近付いてきた。 「ユーナ、団長と何を?」 「あぁ、ちょうど良かった、カイナさん、テニスはお得意ですか?」 「テニス? まぁ、遊び程度なら……」 こうして、どうにかパートナーを見つけたユーナは、急ぎ足でカイナを連れて、球技場の横に併設された更衣室へと駆け込んで行くのであった。 2.5. 姫と神 一方、その頃、侍女達を連れて自室へと向かうカタリーナの前に、密かに先回りして待機していたヨウが現れる。 「久しぶりじゃねーの、カタリーナ」 突然そう言って声をかけてきた ヨウに対して、侍女達は露骨に嫌な顔をするが、彼女達がヨウに対して何か言おうとする前に、カタリーナが口を開いた。 「あぁ、やっぱり、ヨウだったのね」 「元気そうで良かったぜ」 このやりとりを見て、侍女達の中の一人が、このヨウのことを思い出す。彼が二年前まで、姫様の「友人」として頻繁に彼女の前に現れる少年であったことを。その頃と比べて、彼の外見が全く変わっていないことにやや違和感を感じてはいたが、少なくとも彼が「姫様に害を為そうとする人物ではない」ということを知っていたその侍女は、周囲の者達を制して、ひとまずここは姫の意思を尊重するように目で訴える。 異国の王子との縁談という緊張必須の環境の中で、久しぶりに再会した旧友との会話を楽しむことくらいは、大目に見ても良いだろう、というのがその侍女の判断であった。無論、それが「男性」であることは大問題ではあるのだが、見た目が明らかに「子供」ということもあって、他の侍女達もそこまで強く警戒はしていない様子である。 「あなたも、急にいなくなって、どうしたのかと思ってたけど、元気そうで何よりだわ。あなたは今、この銀十字旅団にいるの? 今回の私達の縁談のために来てくれた、ってこと?」 「一応、そういうことになってるな」 明らかに思わせぶりな雰囲気を漂わせたヨウの態度がやや気になりながらも、それが「言えない事情」なのだとしたら、触れない方がいいのかもしれない、と考えたカタリーナは、彼がアントリアにいるということを前提に、前々から疑問に思っていたことを質問してみることにした。 「ところで、マーシャル卿について、あなたの知ってることを教えて欲しいんだけど、あの人、どういう人?」 「いやー、オレはそこまで詳しくは知らないな」 「なんか、同性愛者だという噂もあるけど、どうなの?」 「マジかよ!?」 「育ての父がそういう趣向の方で、御本人も美男子の割に女性の影が見えないということで、そんな風説も流れてるみたいだわ」 実際、そのような噂はアントリア国内の一部においても広がっているし、マーシャル自身もその手の噂の存在は知ってはいたが、あえて声高に否定しようとはしなかった。彼はもともと、実父よりも養父であるバルバロッサのことを深く尊敬しており、養父がそのような趣向の人物であるからこそ、同性愛に対して偏見も差別意識もない。故に、そのような疑惑が広がったところで、彼の中ではそれは侮辱でも中傷でもないし、そもそも自分の性的趣向を公的に表明する義務もない以上、わざわざ相手にする必要もないと考えていたようである。 「ふーん。別にいいんじゃねーの? 本人の好きにさせときゃ」 「いや、あくまで噂だけどね。本当かどうかは分からないけど」 「まぁ、オレの知人にも何人かいるしな」 「そうなの?」 「だってオレ、神様だからな。神の中には、性別にこだわらない奴なんて、いくらでもいるよ」 より正確に言えば、状況に応じて性別が変わる神もいれば、そもそも性別があるのかどうかもよく分からない神も沢山いる。男と女という区分を絶対視する人間達とは、根本的に別次元の存在なのである。 そんな会話を交わしつつ、ヨウは唐突に姫君の耳元に近付いて囁いた。 「今夜、二人で会えるか?」 その言葉はカタリーナ以外の者には聞こえていない。だが、次の瞬間、さすがに見かねた侍女が割って入る。 「ちょっとアナタ、いくらなんでも慣れ慣れしすぎますわよ!」 「なんだよ、うるせーな。なんもしねーよ」 ヨウは手を広げて、隠し武器の類いを持っていないことを示すが、さすがにそれで済む問題ではない。ただ、この時、カタリーナはやや戸惑いつつも、そこまで嫌がっている様子ではないように見えた。そして彼女は、唐突に視線をそらしながら問いかける。 「ねぇ、ヨウ? この船で一番星が綺麗に見えそう場所って、どこだと思う?」 この船は蒸気機関で動いているため、風上の方にいなければ、煙で夜空が見えなくなってしまう。今の風の流れからして、おそらく船先の方が見易そうであることはヨウにも想像はついた。 「なんだお前、星が見たいのか?」 「そうね。夜の海風を感じながら星を見上げる。それが、私達ノルドの民にとって、一番の心の安らぎなのよ」 それに対して、ヨウはもう一度カタリーナの耳元に近付こうとするが、今度は露骨に警戒する侍女達に妨げられて、近付けない。さすがに、ここで力付くで除外する訳にも行かなかった。 「だから、なんもしねーよ、ホラ」 「あなたにその気がなくても、誤解を生むような行動は困るんです」 「誤解って、何の誤解だよ」 さすがにこれ以上はまずいと思ったのか、カタリーナは再び視線をそらしながら、独り言のように呟いた。 「やっぱり、船先のあたりの方かしらね。今の風の流れからして」 どうやら、カタリーナは最初から「答え」は分かっていたらしい。分かった上で、あえてそう聞いたのは、「そういうこと」なのだろうとヨウは解釈し、一人密かにほくそ笑む。 「それじゃあね、ヨウ。船の警護、よろしく頼むわよ」 そう言って、カタリーナは去って行く。侍女達は彼女を取り囲みつつ、「軽率な言動は謹んで下さい」などと小言を言っていたが、カタリーナはあまり気にしていない様子である。そして、ヨウもひとまず満足した様子で、その場から静かに立ち去るのであった。 2.6. 船上のテニスコート それからしばらくして、甲板の球技場に、テニスウェアに着替えたマーシャルとカタリーナが登場する。 「姫は、前衛でお好きなように攻めて下さい。逃した球は、私が返します」 「分かったわ。でも、後衛の方が体力は使うものだと聞いたけど、大丈夫なの?」 「それは、姫がどれだけ後衛に『出番』を与えて下さるか次第です」 「なるほどね。じゃあ、出番は無いかもしれないけど、後で文句は言わないでよ」 それに相対するは、ユーナとカイナのペアであった。 「とりあえず、私はどうしたらいいのかしら?」 「カイナさんは、前衛に立って『返せそうな球』にだけ反応して下さい。それ以外は、私がどうにかしますから」 実際のところ、肉体強化系でもないタイプの魔法師であるカイナに、カタリーナの球が止められるとは思えない。実質的に「2対1」になることを覚悟の上で、ユーナは全ての打球を拾い続ける覚悟であった。 「ザ・ベスト・オブ・ワンセット・マッチ、カタリーナ、サービス・プレイ」 主審がそうコールすると、カタリーナはユーナ達のコートに対して、矢のような打球を打ち込んだ。それに対して、最初のレシーブ選手となったユーナはかろうじて返球するものの、すぐにダッシュして前に詰めてきたカタリーナが、すぐさまカイナに向かってスマッシュを打ち込む。当然、カイナの本来の反射神経では、それに反応出来る筈もない。だが、「間に合わない」と思った瞬間、彼女は時空魔法を用いて、ほんの一瞬だけ、時を巻き戻す。 (ボールが飛んでくるのは、あの位置ね) それを把握した彼女は、すぐさま打球の落下予定地点へと移動し、ラケットに当てることに成功する。 (私のスマッシュを、返した!?) カタリーナが驚愕の表情を浮かべる。だが、ラケットの芯を外れたその打球は、力無く相手コートに戻るのが精一杯で、その場に走り込んだマーシャルによって、ユーナとカイナの双方の死角となる絶妙なコースへと叩き込まれる。 「15-0」 主審のコールによって、会場が沸きかえる。結果的に、一番盛り上がる形で最初のポイントを「獲得させた」ことにユーナは安堵していたが、この展開で、カタリーナの目が本気に変わった。 「思ったより、やるじゃない」 そう言った彼女は、そこから立て続けにサービスエースを連発し、あっさりと第一ゲームを獲得する。対して、カイナは最初のポイントこそ時空魔法を使ってどうにか対応したものの、さすがにそう何度も使い続けられるほどの精神力は持ち合わせていない。結局、途中からは体力も尽きて、ろくに反応も出来ないまま、マーシャル・カタリーナ組の圧勝で試合は終わった。 「マーシャル様、カタリーナ様、良い試合でした。お二人とも、素晴らしい腕前です」 ユーナは笑顔で二人を讃える。その横で、精魂尽き果てたカイナは、息を乱しながらユーナに謝罪した。 「ハァ、ハァ……、足を、引っ張って、しまって……、ハァ、ハァ……、すみません……」 「いえ、カイナ、よく頑張ったわ」 実際、ユーナとしては、カイナが時空魔法まで使って全力で対応してくれるとは思っていなかったので、これは大善戦である。本来の彼女達の使命を考えれば、いっそ全く盛り上がらないまま惨敗して、姫様を退屈な気分にさせる、という選択肢もあったのだが、慣れない「テニス」という舞台に引きずり出されたことで、そこまで考える余裕がなかった様である。 「まぁ、さすがに魔法師の方では、体力的に無理があったわよね。誰か、次、私達に挑む人はいないかしら?」 どうやら、カタリーナとしては、やはりまだ物足りなかったらしい。そして彼女はここで、ニーナに視線を向ける。カタリーナの目から見ても、明らかにニーナこそが「一番歯ごたえのありそうな相手」であるように見えたが、それに対して、カイナがフラフラの足取りでニーナの前に行き、彼女の両肩を掴み、荒れた息のまま小声で語る。 「団長……、ハァ、ハァ……、あなたは、ダメ、ですよ……」 「あ、あぁ、そうだよな、分かっている」 身体能力的に考えれば、ニーナが本気を出せば、おそらく2対1でも圧勝出来るほどの実力差がある。しかも、彼女は基本的に「接待」が苦手なことは、彼女自身も分かっていた以上、さすがにこの挑発に乗る訳にはいかなかった。 本来のカイナの立場にしてみれば、別にここでニーナが二人を圧倒的力でねじ伏せて、二人のムードを盛り下げるという展開も決して悪くはなかった筈なのだが、既に息が上がって酸欠気味の今の彼女は、本来の冷静な判断力も失われてしまっていた様である。 すると、ここで観客席から、一人の少年の声が響き渡る。 「じゃあ、オレ様を混ぜてもらおうかな」 そう言って、ヨウがテニスコートに飛び降りてきた。 「あら、ヨウ、あなたが相手だったら、確かに楽しめそうね」 そう言って笑顔を見せるカタリーナに対して、傍らのマーシャルが問いかける。 「見たところ、銀十字旅団の団員の様ですが、姫と面識のある者でしたか?」 「えぇ、彼、昔、ノルドにいたことがあってね」 彼女がそう答えている間に、ヨウはカイナに声をかける。 「カイナ、オレと組めるか? 組めるよな?」 「今の、私の、この状況……、見て……、それを…………、言う……?」 まだ彼女は肩で息をしている。誰がどう見ても、二試合目が出来る状態ではなかった。 「そっちの人の方が、まだ体力はあるんじゃない?」 「え? ユーナ、だっけ? まぁ、オレはそれでもいいけど」 ヨウがカイナに声をかけたのは、単純に、ユーナよりも付き合いが長いだけの話である。彼としては、「自分一人でも勝てる」という自信があったので、別にペアの相手は誰でも良かった。 「私ですか? 姫様のご指名とあらば……」 「それに、あなた、さっきの試合でも結構いい筋してたと思うというか……、まだ、本気出してないんじゃない?」 どうやら、自分達があくまでも「接待テニス」をしていたということは、カタリーナにはバレていたらしい。無論、ユーナが本気を出したところで、カタリーナに勝てる保証はなかったのだが、まかり間違って、自分の打球をマーシャルが返球し損なう、といった展開が発生することだけは避けたいと思っていた彼女としては、やはり本気を出す訳にはいかなかったのである。 こうして、「マーシャル・カタリーナ組」と「ヨウ・ユーナ組」による第二試合がおこなわれることになった。最初のサーブ権は、コイントスの結果、今回もカタリーナが担当する。 (ヨウさん、空気読んで下さいよ……) ユーナは必死でヨウに対して目でそう訴えかけるが、ヨウは全く気付いていない。状況的に言えば、ここでヨウが「いい雰囲気」を潰すことは、彼女の目的としては悪くないのだが、ユーナとしては、マーシャルに恥をかかせることは避けたかった。 そして、カタリーナの放った閃光のようなサーブに対して、ヨウが本気で打とうとする構えを見せるが、ここでユーナは、影の邪紋の力を発動し、姿を消した自身がヨウと打球の間に割って入ってその軌道を変える形で妨害しようと試みる。だが、そんな彼女の妨害工作よりもヨウの動きの方が一歩早く、彼はその打球をラケットの真芯でジャストミートすると、後衛のマーシャルの真横に、彼が一歩も動けないほどの速度のパッシングショットを決めた。 「やるわね、ヨウ。あなたと会うのは久しぶりだったけど、昔と何も変わってないようで、ちょっと安心したわ」 そう語るカタリーナは、自分の渾身のサーブをあっさりと返されたことに少し悔しそうな表情を見せながらも、それ以上に楽しそうな様子であった。一方、全く反応出来なかったマーシャルの方は、サバサバした表情を浮かべている。もともと彼は、自分は肉体労働者ではないと思っているので、テニスで誰かに負けたとしても、別段悔しいとは思わない。ただ、目の前に現れたこの少年が一体何者なのかが気になっている様子ではあった。 周囲は、この状況に対して微妙な空気が流れるが、ここで、傍で観戦していたノルド側の魔法師のデクスターが割って入る。 「姫様、そろそろ、ジョセフィーヌ様のお食事のお時間です」 彼はそう言うと、テニスコートの脇のベンチの上で寝そべっていた(小型化された)シロナガスクジラのジョセフィーヌを指差す。 「あら、そうだったわね。じゃあ、もうちょっと続けたかったけど、今日のところはこの辺りにしておきましょうか」 「食用魚の類いであれば、この船の中にも貯蓄はありますが」 「いや、この子、生の方が好きだから。それに、遊泳もさせてあげないとね」 そう言って、彼女はベンチに置いていたジョセフィーヌを抱え上げ、テニスコートをを去って行く。そして、残されたマーシャルは、反対側のコート場で勝ち誇った顔を浮かべるヨウに目線を向けた。 2.7. 王子と神 「お前、名前は?」 マーシャルはそう問いかける。カタリーナは彼のことを「ヨウ」と呼んでいたが、ブレトランドでは一般的な名前ではないため、それが彼の本名なのか略称なのか、この時点ではマーシャルには判別出来なかった。 「オレ様の名前は、ヨウだ」 彼がそう答えると、その不遜な態度を見かねたカイナが止めに入ろうとするが、まだ足元がふらついていた彼女よりも先に、今回はユーナが動いた 「待って下さい、ヨウ。相手は王族ですよ。いくらあなたが、元の世界では神様だったとはいえ、さすがにその口の利き方は……」 「何か問題あったか?」 ケロッとした顔でヨウがそう言っている横で、マーシャルは納得したような表情を浮かべる。 「そうか、お前が噂に聞く『異界の神』か」 「噂になってたかどうかは、オレ様は知らないけどな」 「一兵卒の分際で、自分は神だと言って踏ん反り返っている奴が銀十字旅団にいる、という噂は聞いたことがある」 マーシャルは冷めた口調でそう語りつつ、ヨウに向かって一歩近付いた上で、真剣な表情で言い放った。 「だが、異界の神よ、ここはあくまで我々『ヒト』の世界だ。この世界に居たければ、居続けることは構わん。だが、この世界の流儀には従ってもらう」 「だから、従ってるじゃねーか」 「少なくとも、姫様に対してあまり無礼な物言いをすることは、アントリアの品位を貶めることになる」 緊迫した空気が広がる中、ここで、カイナが息を整えつつ、残されていた僅かな気力を振り絞って、ヨウの様子から、彼の真意を看破しようとする。ここで彼女が検証しようとしたのは「ヨウはマーシャルに危害を及ぼす気があるか?」という仮説であったが、またしてもその分析は失敗する。どうやら、神の真意を測るのは、並大抵のことではないらしい。 やむなく彼女は、ユーナに対して「いざという時は取り押さえろ」というアイコンタクトを送る。ユーナもその意を察して、ヨウの動きを注視するが、彼は特に怪しげな動作を見せることなく、センターネットの向こう側にいるマーシャルに向かって語り始める。 「それは重々承知している。ただ、神様ってのは、人間様をわざわざ助けてやろうとする奴は少なくてな。ここは人間の国だから、お前達が好きなようにすれば良い。だがな、オレ様は二年ちょっと前にここに来たばかりなんだ。つまり、お前達の時間感覚で言うところの、つい昨日、いや、今日の朝くらいに来たばかり、ということだ」 地球にいて幾千年の時を「神」として過ごしてきた彼にとっては、2年という年月は、その程度の価値でしかない、ということらしい。 「だから、お前達の流儀もよく分からん。ただ、お前が不快に感じたというのなら、謝ろう。すまなかった」 あっさりと謝罪する姿勢を見せたことに、マーシャルはやや意外な表情を浮かべつつ、彼の中ではこの「異界の神」に対して、ある一つの疑念が生まれ始めていた。 (私が以前に聞いた情報では、銀十字の「異界の神」は、何事にもやる気を見せない自堕落な少年だと聞いていた。だが、先程のこいつは、明らかに本気になって向かってきた。日頃は昼行灯を装っている者が本気になる時は、それだけ「大切な何か」がかかっている時。ということは、まさかこいつは、姫のことを……) ここまで考えた上で、これ以上はただの下衆の勘ぐりかもしれないと思い直したマーシャルは、いつも通りの淡々とした口調で、ヨウに対して釘を刺す。 「私はどうでもいい。結果的に、姫が喜んでいたようだからな。だが、今後は余計なことをするなよ」 そう言って、マーシャルもコートから去って行く。ユーナは大事にならなかったことに安堵しつつ、マーシャルの後を追って行った。そして、ようやく普通に歩ける程度に体力が回復したカイナは、ヨウに声をかける。 「とりあえず、実害が発生しなくて良かったわ」 「実害ってなんだよ。俺だってなぁ、礼儀正しく接してくれた奴には、それなりの誠意を持って対応するぜ」 どうやらヨウとしては、自分のことを「神」と認めた上での発言であれば、たとえ上から目線であろうと、それは「礼儀正しい態度」と認識するらしい。 「そうですか。それならそれで良いのですが」 「まぁ、何が言いたいのかは分からないけど、とりあえず、久々のテニス、楽しかったー!」 ヨウのそんな呑気な態度にカイナは呆れつつも、ここでヨウが「いい雰囲気」をぶち壊してくれたことが、結果的に自分達の目的にも繋がっていることにも気付いていた。自分やユーナは、今後もアントリアへの潜入捜査を続けなければならない以上、彼のように好き勝手に暴れて二人の仲を妨害することは出来ない。その意味では、今回のようなヨウの「乱入」は、結果的に彼女達にとっての「助け舟」でもある。 ただ、ここで全面的にヨウを利用して良いものかどうか、まだカイナの中には疑念があった。他人の心を読むことも出来る時空魔法師であるからこそ、その真意看破の奥義が通用しないこの「異界の神」に関しては、最後まで自分達の望む方向へと利用し続けることが出来る自信が無かったのである。理論派であるが故に、イレギュラーな存在に対しては慎重にならざるを得ない彼女の完璧主義が、事態の好転を妨げてしまっている、そんな皮肉な状況であった。 2.8. 代行閣下の困惑 「マーシャル様、さっきはすみませんでした」 自分の客室へと帰還する廊下の途上、結果的にマーシャルに恥をかかせてしまったユーナは、そう言って深く謝罪する。だが、誰がどう見ても、あの場面でユーナには何の落ち度もないことは明白であった。 「それは仕方ない。あの程度の球を打ち返せなかった私の責任だしな。ただ……、一つ、気になることがある」 マーシャルはそう言いながら、ヨウのことを思い出しつつ、独り言のように語り始めた。 「昔、とある国の姫君が、婚約者がいたにもかかわらず、どこの馬の骨とも知らぬアホとの間に子供を作った、という話があってな」 マーシャルが、公的な場以外で「アホ」という言葉を用いるのは、大抵の場合、それは「実父」であるダン・ディオードのことを指す。そして、かつては情報屋でもあったユーナは、ダン・ディオードにはマーシャル以外にも様々な女性との間に子供がいるらしい、という噂は聞いたことがあった。 「私の気のせいかもしれないが……、どうもあのヨウという男、そのアホと同じ匂いを感じる」 ヨウの圧倒的な自信に満ち溢れた唯我独尊な姿勢は、確かに、どこか彼の実父と通じる部分があるのかもしれない。そして、マーシャルが「実父の話」をしている時は、決まって不機嫌な状態になっていることを知っているユーナが、必死で話題を逸らそうと考えていた時に、後方から、カイナが二人を追いかけてきた。 「マーシャル様、この後のご予定は?」 彼女にそう問われると、マーシャルは少し冷静さを取り戻しつつ答える。 「ニーナが言うには、今夜は危険な海域に入るらしいからな。もしかしたら、何か投影体と遭遇するかもしれない。私も久しぶりの運動で体力を消耗してしまったからな。姫が鯨の遊泳に出かけている間は、少し休むつもりだ。お前も、今のうちに英気を養っておけ」 多少顔色は良くなったとはいえ、ユーナが疲弊しているのは一目瞭然である。正直、任務中にテニスで疲労することになるとは、彼女にとっても全くもって想定外の事態であった。 「それはそれとして、マーシャル様は、先程の御会食とテニス、楽しかったですか?」 ユーナにそう言われると、マーシャルは少し間を開けた上で、自分の中で考えをまとめながら答え始める。 「そうだな……。正直に言わせてもらえば、『アイツ』と打ち合った時の方が、テニスとしては楽しかったかもしれん。実際のところ、お前達は『接待』としての態度が見え透いていた。無論、それが悪いとは言わん。私がそうしろと言ったのだからな」 そう言いながら、マーシャルの中で再び、「アイツ」の顔が思い浮かぶ。 「正直、今回の縁談に関しては、もし万が一、姫の周囲に過去の男の影があったとしても、状況によっては見逃してもいいかと思っていたのだが……、アイツと『あのアホ』が被って見えてしまうと、どうもそうは言っていられない気がする。アイツに『あのアホ』と同じことをやらせる訳にはいかないからな」 彼としては、自分の異母兄と同じような境遇の『息子』を作られる訳にはいかない。カタリーナがそのような軽率な行動を取る女性だとは思いたくはないが、ヨウを見ていると、言いようのない不安が込み上げてくる。もしかしたらそれは、実父を意識しすぎるが故の被害妄想なのかもしれないし、あるいは一人の男性としての純粋な「嫉妬」なのかもしれない。マーシャル自身もその感情の正体がよく分からないまま、今までに体験したことのない今のこの状況に、やや困惑し始めていた。 2.9. 募る想い それから間もなくして、カタリーナは甲板にジョセフィーヌと共に現れると、ジョセフィーヌの「小型化の封印」を解いて海に投げ込み、その背中に飛び乗る。そして、ジョセフィーヌの好きな海洋生物がいると思しき場所を探して、彼女と共に海域へと赴き、自由に「食事」をとらせる。これが彼女とジョセフィーヌの「日課」であった。 そんな彼女を、甲板から黙ってヨウが見つめていると、先刻ハウディを連れて行った「名前を覚えていないノルド時代の顔見知り」が、声をかけてきた。 「なぁ、お前、まだ諦めてないのか?」 「な、何の話だよ」 ヨウはそう言いながら、それまでカタリーナへと向けられていた目線を急に逸らし、やや動揺した様子を見せる。 「いや、別にいいけどさ……。ハウディの奴もな、今回の姫様の縁談が出てきたことで、いてもたってもいられなくなったみたいで……、結局、あえなく『玉砕』しちまったんだよ」 遠い目をしながら彼はそう語る。どうやら、ハウディの様子がおかしかったのは、その「玉砕」が原因である、とこの男は言いたいらしい。 「それ以来、ずっと気が抜けてしまった様子でな……。正直、見てられんのだよ。あんまり、夢は見ないほうがいいぞ」 「夢? オレ様は、夢なんて見てねーぜ」 そう言い張るヨウに対して、彼は深くため息をつく。 「まぁ、いいけどな……。ただ、俺はその場にはいなかったが、お前、テニスコートで『やらかした』らしいな」 「やらかしたって何だよ。楽しかったぞ」 ヨウのその態度から、結局、この男はどこまでが「確信犯」で、どこからが「天然」なのかが分からない、と考えた彼は、改めてもう一度、深いため息をついた。 「あのな、一つだけ言っておこう。『姫様は、誰にでも優しい』、この言葉を忘れるな。あの方に憧れを抱くのは、男として当然の感情ではあるが……」 「憧れとか、何の話だよ。俺様が? あの女に? 憧れだと!?」 「……一応、昔馴染みの一人して、忠告はしたぞ」 そう言って、彼は去って行く。もうこれ以上、ヨウに何を言っても無駄だと考えたのだろう。 「まったく、何の話だったんだよ。訳分かんねーな」 自分に対してそう言い聞かせるように、ヨウは呟いた。そして、ふと周囲を見渡すと、遠くから自分のことを監視する人々の気配に気付く。それはカイナの命令でヨウを監視する銀十字旅団の面々と、彼等と同様にヨウを危険視するカタリーナの護衛の兵達であった。 「みーんな、ピリピリしちゃってさ。何だってんだよ」 そんな独り言を呟きながら、改めて「海で楽しそうにはしゃいでいるカタリーナ」に視線を戻す。すると、彼女はヨウの視線に気付いたようで、一瞬、彼に向かって手を振った。すると、今度はヨウは、思わず顔を背ける。カタリーナはそんな彼の態度に首をかしげる。そしてヨウ自身も、なぜ、そうしたのかは分からなかった。 その後、カタリーナが船に戻ると、周囲の者達は姫に対して改めて「あまり誤解を招くような態度は謹んで下さい」と進言するが、相変わらず、彼女はどこ吹く風の様子であった。 3.1. 星空の下で その後、ユーナとカイナが自分の客室で仮眠を取っている間に、マーシャルとカタリーナの夕食会は滞りなく終わり、やがて1日目の夜を迎える。満天の星空が広がる中、ヨウが一人、船先へと向かうと、そこにはカタリーナの姿があった。 当然、彼女の周囲には、遠方から監視している護衛がいる。だが、気にせずヨウは彼女にそのまま近付いて行った。 「本当に綺麗ね、この海から見る星は」 彼女は無邪気な笑顔でそう答えつつ、遠方の護衛に聞き取れない程度の小声で、ヨウに問いかけた。 「で、わざわざ私を呼び出して、話したいことって、何なの?」 そう問われたヨウは、率直に「本題」を切り出す。 「この縁談、お前は乗り気なのか?」 「悪くない話だとは思うわ。私はノルドの姫でもあると同時に……」 「だーかーらー、そういう政治的な話を取っ払って、お前自身はどう思ってるのか、ってオレ様は聞いてるワケ」 そう言われた彼女は、改めて星空を見上げながら、呟くように答える。 「そうね、とりあえず、今日1日会って話してみた限り、悪い人じゃないと思う。まだ『この人でいい』と即断出来る程じゃないけど、私は嫌いじゃないわよ、あの人」 「どーだか。てゆーか、お前、いつもギャーギャーうるさいのに、あんな物静かで馬鹿真面目な男と合うのかよ」 「むしろ、私の手綱を上手く取ってくれるかもしれないわね、ああいうタイプの人の方が」 そう言いつつ、カタリーナはヨウに対して切り返す。 「で、あなたはどうなの? ブレトランドに来て、誰か『いい人』でも見つけた? 銀十字の団長さんとか、結構美人だと思うけど。あと、あの一緒にダブルスやってた娘も、なんかいい娘そうじゃない? あの魔法師さんも真面目そうなカンジだし。あなたも、ああいう真面目なタイプの人に手綱を取ってもらった方がいいんじゃないの?」 まくしたてるようにそう問いかけるカタリーナであったが、ヨウは一笑に伏す。 「奴らに、オレ様の手綱が取れると思っているのか?」 「確かに、ちょっと難しいかもしれないわね」 「だろ?」 「そうね。あなたの手綱を取れるとしたら……」 彼女がそう言いかけたところで、遠方で彼女を取り巻く衛兵達がざわつき始めた。彼等の後方から、マーシャルが現れたのである。 「私の部下がまた粗相をしておりませんか、姫君?」 いつも通りの淡々とした口調だが、あまり機嫌は良くなさそうである。 「まず、私はノルドの方々の流儀を良く分かっていないので、念のためお伺いしたいのですが、ノルドでは、夫婦でも恋人でもない男女が夜に二人で出歩くことは、一般的なことなのですか?」 明らかに皮肉の籠ったその言い方であったが、それを茶化すようにヨウが口を挟む。 「二人じゃねーだろ。今、三人になっただろ」 「今は、な」 「なーんだ、王子様も星を見に来たのかよ」 明らかに挑発する態度を取り続けるヨウの傍から、さすがにカタリーナも状況を察して、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、ヨウを庇うような仕草でマーシャルの前に割って入る。 「ごめんなさいね。確かに、ちょっと非常識だったかもしれない。よく、供の者達にも言われるわ。私は気楽に男性に接しすぎるって。でも、心配しなくても大丈夫よ。この子は私にとっては『弟』みたいなものだから」 あくまでも「男」ではなく、「弟」だと言われたことに、ヨウは内心穏やかではなかったが、ひとまずここはその点については聞かなかったことにした上で、彼女に対して語りかける。 「『誰に対しても気安く接する』って、別にいいじゃねーか、カタリーナ。それがお前なんだから。そんなことを、そんな暗い顔で話すなよ」 そんなヨウの態度に対して、マーシャルは内心「誰のせいで、そんな暗い顔をさせていると思っているんだ」と憤りつつも、あくまで平静を装いながらカタリーナに語りかける。 「確かに、それが姫君の魅力なのでしょう。それ故に多くの人々の心を惹きつけるという噂を聞いたことはありますし、実際にお会いしたことで、私もその魅力を実感しました。しかし、あなたはどうやら、周囲の人々を『惹きつける』と同時に、周囲の人々を『勘違いさせる』傾向もあるようだ。もう少し、御自分の周囲に対する影響力を考えるべきでは?」 婉曲な言い回しで紳士的に進言するマーシャルであったが、それに対してカタリーナは、あえて直球で、「今、思ったこと」をそのまま口にする。 「あら? それはもしかして、妬いてくれているのかしら?」 そう言われたマーシャルは、一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべるが、すぐに冷静さを取り戻しつつ、彼もまた素直に「今、思っていること」をそのまま答えた。 「そうですね、そうかもしれません。なにせ私は今まで、余計な恋愛事とは無縁な生活を送ってきましたから、正直、今の私の中のこの感情が、どのようなものなのか、私自身もよくわかっておりません」 このように答えるのが、この場において正解なのかどうかは分からない。だが、カタリーナから投げ込まれた、あまりにも直球すぎる質問に対しては、あえてそのまま包み隠さず返した方が良いように思えたのである。この辺り、マーシャルは理論派であると同時に、自分が未知の領域の問題に対しては、下手に長考するよりも直観力を信じて即断出来る性格の持ち主でもあった。 そしてマーシャルは、そのまま「今の自分の中にある感情」を、包み隠さず語り続ける。 「それに、あなたは彼のことを『弟』だと言ったが、あなたが敬愛する女海賊アクシアには、その昔、年下の恋人がいたことがある、という話をご存知ではありませんか? 最初は『弟分』だと思っていても、いつの間にかそのような感情を芽生えさせてしまうこともある。だからこそ、あまり軽率な言動は謹んで頂きたい。たとえそれが、私の狭量な猜疑心や独占欲に基づく被害妄想であったとしても、生涯の伴侶となる女性に対して、その程度のことを要求する権利は、私にはある筈です」 重い空気が広がる中、ようやくこの甲板に、仮眠を終えたユーナとカイナが到着する。遠方から三人の様子が目に入った二人は、この「明らかに危険な取り合わせ」を見て、驚愕する。 (マーシャル様!?) (あいつ、一体何を!?) だが、ここで彼女達は、彼等よりも更に遠方から、謎の気配を感じ取る。そして、それは他の護衛の者達も、そしてマーシャル達もまた同様であった。 3.2. 海の魔物 「お二人とも、お下がり下さい! 投影体です!」 真っ先にそう言って動いたのは、ユーナである。彼女は瞬時にマーシャルの側へと駆け寄り、海に向かって武器を構える。彼女はその視線の先に、巨大な投影体が迫りつつあることを実感していた。 いつもならば、マーシャルは素直にその言に従っていただろう。生粋の指揮官である彼は、無闇に前線に出て功を争うような性格ではない。だが、この瞬間の彼は、いつもとはやや様子が異なっていた。 「投影体が現れた時に、君主が退く理由があるか? 人々に害を為す投影体を鎮めるのが君主の役目。そうですな、カタリーナ姫?」 それが、「こう言えば、カタリーナの自分への好感度が上がるだろう」と考えた上での発言だったのか、それとも、純粋に彼の中で「カタリーナに、自分が活躍する姿を見せたい」という感情が芽生えていたからなのかは分からない。だが、結果的にその発言は「カタリーナが求めていた発言」だったのは確かである。 「当然ね」 彼女はそう言って、ジョセフィーヌの封印を解除させて海に向かって投げこもうとするが、ここでヨウが突然、彼女の左腕を掴む。その結果、カタリーナは体勢を崩し、ジョセフィーヌは小型状態のまま彼女の手からこぼれて、甲板の上を転がって行く。遠方で離れて監視していたカタリーナの侍女がそのジョセフィーヌを拾い上げたのを確認すると、彼女はヨウに問いかけた。 「どうしたの?」 「お前は、下がってろ」 「は?」 「だーかーらー、オレ様が何とかするって言ってんだよ!」 そんなヨウの「勝手な言動」にマーシャルは一瞬苛立ちながらも、直後に冷静さを取り戻し、カタリーナに向かって言い放つ。 「カタリーナ姫、この船の管轄は我がアントリアにあります故、この航海中は、私の指示に従って頂きます」 「そこまで言うなら、お手並み拝見させて頂くわ」 彼女はそう答えると、その傍らにいたヨウは(身長差を補うために)近くにあった荷台に乗って、カタリーナの頭を撫でる。 「大事な話の途中だから、お前に怪我されちゃ困るっつーの。たまには、甘やかされなよ」 ヨウはそう言うと荷台から飛び降り、ユーナ達が見つめる海域に向かって、剣を構える。それは「炎薙ぎの神剣」と呼ばれる、異界の剣であった。 だが、この時点ではまだその投影体と船との間の距離は遠く、剣が届くような状態ではない。そして、魔法師であるカイナは、その遠目に見える投影体の正体を、冷静に分析していた。 「あれはおそらく、巨大蛸の類いの怪物です。並の船ならば、巻きつかれて沈められてしまうでしょう。これほど船であればその心配はないとは思いますが、それでも近付かれれば、一定の被害が出る可能性は高い。その前に、鎮めてしまいましょう」 そう言って、カイナはその「巨大蛸と思しき怪物」に向けて雷撃の魔法の詠唱を始める。すると、彼女の背後でヨウとマーシャルが、それぞれに「神の力」と「聖印の力」をカイナに注ぎ込んだ。 (な、何? この力? 今までに感じたことがない、圧倒的な「何か」が、私の中から湧き上がってくる……) グリースでの研修以来、君主全般に対して嫌悪感を抱いていたカイナは、これまで「聖印の力」を自身に注いでもらう機会を、意図的に避け続けていた。そして、日頃は本気を出すことがないヨウの持つ「神の力」をその身に受けることもまた、彼女の中では初めての体験である。 (倒せる! 今のこの私の力なら、どんな怪物でも!) 二つの異質な力によって増幅された彼女の雷撃は、一直線に巨大蛸を貫き、そして次の瞬間、その混沌核が崩壊し、その身体を構成していた混沌は四散していく。 「す、すげぇ、あんな巨大な投影体を、一撃で……」 「あのカイナって小娘、口先だけの奴かと思ってたけど、ここまでの実力だったのか……」 衛兵達が次々と感嘆の声を上げる。実際には、自分一人の力で倒した訳ではない(しかも、自分が忌み嫌う聖印の力による補助を受けていた)カイナとしては、内心複雑な心境ではあったが、ここで「マーシャルの支援のおかげ」ということを強調しすぎるのも、それはそれで、姫の前で彼の株を上げてしまうことになる気がする。とはいえ、投影体を船に近付かせる前に撃破出来たことで、結果的にその混沌核を聖印に浄化・吸収させずに済んだ(聖印の成長を妨げることが出来た)という意味では、彼女にとっても悪くない結果であったとも言える。 「マーシャル様、ありがとうございます。ヨウ、あなたも力をくれたのね」 色々な感情を抑えつつ、彼女はひとまず両者に礼を述べると、ヨウは得意気に答える。 「当たり前だ。オレ様を誰だと思ってる」 そんな彼等の傍らで、出番が無いまま終わってしまったユーナは、やや拍子抜けした様子ではあったが、ひとまずマーシャルの身に危険が及ばずに済んだことには、安堵していた。 一方、結果的にヨウと共闘することになったマーシャルは、彼の「他人を補助する力」が、想像以上に強力であることを実感する。 (これほどの力の持ち主、やはり、そう易々と手放す訳にもいかないな……) 「アントリアを統べる者」として、自分がここで下すべき決断は何なのか、ということを、勝利に沸く甲板の中で、彼は密かに考え始めていた。 3.3. 重ならぬ心 「お見事ね。あなたは、マーシャル様の契約魔法師なの?」 カタリーナは、カイナに対して問いかける。本来ならば、先刻のテニスの時点で聞くべき話ではあったが、あの時は勝負に夢中で、そこまで頭が回らなかったようである。 「いえ、私はダン・ディオード様と契約した上で、今は銀十字旅団に出向中の身です」 「ふーん、なんだか、ちょっとややこしい立場の人なのね。でも、どちらにしても、アントリアには、混沌を瞬殺出来るほどの人達がいくらでもいる、と言ってたマーシャル卿の言葉が本当だということは、よく分かったわ」 カタリーナがそう言うと、ヨウは横から、彼女の腕を掴む。 「続き、しようぜ」 「え?」 「だーかーらー、星空見学!」 そう言われたカタリーナは、それまで隠れていた衛兵達が表に出ているこの状況を考慮しつつ、ヨウに対して小声で問いかける。 「あなたは本当に、星空を見ることが目的なの?」 「そりゃそうだろ。ただ、まぁ、正確に言うとだな……」 ヨウはそう言いながら一瞬、視線をそらしつつ、そして再び、彼女の目を見て、やや気まずそうな表情で続ける。 「……星空を見て喜ぶ、お前の顔が見たかったんだよ」 その言葉に対してカタリーナが反応する前に、その二人の間で醸し出されつつある空気に対して、マーシャルが何か言おうとするが、その動きを察知したヨウが、彼に向かって言い放った。 「オレ様は、こいつのことが好きなんだよ! ギャーギャーギャーギャーうるさいし、おてんばで、扱いきれる気がしねーけど、笑うとスッゲー可愛いんだよ! だから、お前らが好き合ってんならともかく、中途半端な状態で結婚しようってんなら、俺はゼッテーこいつを渡さない! だから、テメエは身を引くんだな!」 その言葉は、甲板上にいた全ての者達の耳に響き渡る。 (お、お前、一体なんてことを……!) カイナは、内心激しく動揺する。だが、状況によっては、これで事態は彼女達に取って都合の良い方向に動くかもしれない。黙って状況を見守る中、マーシャルはゆっくりと口を開いた。 「そうだな。今の言葉、よく分かった。つまり、私も姫を手に入れるためには、『本気』にならなければならない、ということだな」 どうやら、売り言葉に買い言葉のような形で、マーシャルの心に火をつけてしまったようである。「これは、逆に最悪の結末を迎えるかもしれない」と考えたユーナは、ここで思わず声を荒げる。 「マーシャル様、冷静に! ここはまず、カタリーナ様の『返答』を待ってからです」 その進言が、ユーナにとって正解なのかどうかは分からない。だが、今の彼女としては、そう言わざるをえなかった。 そして、結果的に「返事」を促されることになってしまったカタリーナは、呆れ顔でヨウに向かい合う。 「あなた、よくこんな場で、そんなことが言えるわね」 「うっせーな、オレ様だって、すっげー恥ずかしいんだよ!」 実際、今の彼の顔は、これまで見たことがないほどに赤面している。この場にいる誰も、ここまで激しく動揺した彼の姿を見たことがある者はいなかった。 「ハウディにもそれくらいの侠気があれば、私も少しは本気で考えたかもしれないけどね……」 ボソッとカタリーナはそう呟きつつ、ヨウに対して、真剣な面持ちで問いかける。 「ヨウ、あなたは、政治的な話を取っ払って、と言ったわよね。じゃあ、あなたは、私を今のこの場所から、奪い去って行ける?」 「なんだ、そんなこと聞いてんのかよ」 ヨウはそう言うと、サッと両手を広げる。 「さぁ、来るなら来いよ」 彼は満面の笑みでそう告げる。だが、それに対して、カタリーナは哀しそうな瞳で答えた。 「私は行けないわ。今、私が行ったら、あなたは確実に死ぬ。少なくとも今のあなたに、これだけ多くの人達から私を連れて逃げ去れるだけの力はない。私はあなたを殺したくはない。だから、私を連れ去るだけの力量もない今のあなたに、私はついて行く訳にはいかない」 この船には現在、精鋭揃いの銀十字旅団に加えて、(今のこの甲板上にはいないが)ローガンやデクスターといった高位の魔法師達も同船している。ましてや、ここが船の上であり、脱出用の小舟の管理も銀十字旅団が担当していることを考えれば、誰がどう見ても、このカタリーナの判断に異論を挟める余地はないだろう。 だが、このカタリーナの返答は、一つの「逃げ」でもある。彼女自身がヨウのことを一人の男性として愛しているのか否かは、この答えからは読み取れない。それは、彼女自身もまた、自分の気持ちが分かっていなかったからである。突然のヨウの告白に対して、心を揺さぶられる気持ちが全く無い訳では無い。だが、それがマーシャルからの言葉だった場合にも、同じように(あるいはそれ以上に)心を動かされていたかもしれない。 しかし、いずれにせよこの状況において、彼女にとって最も重要だったのは「自分にとってのヨウが、弟なのか? 恋人なのか?」という問題をはっきりさせることよりも、「自分のせいでヨウが死ぬ未来だけは絶対に避けたい」という絶対的な意志を貫徹することであった。だからこそ、彼女はこう言うしかなかったのである。 そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、甲板全体に重い沈黙が広がる。そんな中、突然の凶声が響き渡った。 「そこまでだ、カタリーナ!」 3.4. 乱入者 「何奴!」 ユーナが声のした方向に向かってそう言いながら武器を構えると、そこにいたのは、朝の時点とは別人のような表情を浮かべた、ハウディの姿であった。そして、その腕の中には、カタリーナの手からこぼれ落ち、侍女が拾った筈のジョセフィーヌが、首元に剣を突き立てられる形で抱え込まれている。その横では、その侍女が腹を押さえて蹲りながら倒れていた。 「ジョセフィーヌ! いつの間に!?」 カタリーナがそう叫ぶとハウディはジョセフィーヌを抱えたまま、海に向かって飛び上がる。すると、その彼の落下した先には、いつの間にか小舟が用意されていた。小舟に飛び乗った彼は、カタリーナに対して改めて叫ぶ。 「カタリーナ、こいつの命が惜しかったら、聖印を捨てて、俺と一緒に来い! 俺はもう昔の俺とは違う。パンドラ様が、俺に力をくれたんだ!」 勝ち誇った様にハウディがそう言うと、ユーナとカイナは思わず顔を見合わせる。 「パンドラ……、ですって……?」 ユーナは小声でそう呟く。マーシーからの指令の中には、こんな計画は入っていない。この男がノルドの軍に所属していることを考えれば、大陸系のパンドラによる仕業なのかもしれない。パンドラは地域ごとにそれぞれ全く異なる思惑で行動しているため、正直、この状況では、彼にその「力」を与えた者が何者で、彼に何をやらせようとしているのか、全く特定が出来ない。 「ふざけんなよ、お前! ジョセフィーヌに何かしようとしたら、カタリーナが泣くだろうが! お前、そんなんで好きだのどーだのって、ほざくんじゃねーよ!」 ヨウは怒りに任せて、旧友に向かってそう叫ぶ。一方、周囲のカタリーナの兵達は、怒りよりも先に困惑に支配されていた。 「なぁ、おい、ハウディって、あんな奴だったか?」 「パンドラってことは、あいつ、洗脳されてるんじゃ……」 そんな混乱が広がる中、その横でカイナは、彼の一連の言動の不自然さを分析した結果、ようやくその正体を特定するに至っていた。 (ホムンクルス、か……) それは、高位の錬成魔法師によって作り出される人造人間である。その能力は千差万別であり、どこまで自律的に行動出来るかも個体によって全く異なる。カイナがそれに気付けたのは、メレテス家の先達であるヤヤッキーという錬成魔法師が「自分の理想の女子高生を作る」と息巻いてホムンクルスの勉強をしていたのに付き合わされていた過去の記憶が、断片的に彼女の脳裏に残っていたからであろう。 会話そのものがたどたどしかった朝の時点とは明らかに様子が異なるが、おそらくそれは、この数時間の間に、船に忍び込んでいた誰かが、彼の「脳」の部分に手を加えたのだろう。あるいは、もう一つの可能性としては、今は遠隔操作によって誰かの意のままに動かせるタイプのホムンクルスなのかもしれない。ただ、いずれにしても、その黒幕を突き止めることは、今この場にいるカイナの中では、比較的優先順位の低い問題であった。むしろ重要なのは、ここで彼女がどう立ち回るべきか、である。彼のこの行動がどのような思惑によるものであるにせよ、この縁談を破綻させるためには、今この瞬間こそが、千載一遇の好機であることは間違いない。 だが、カイナがそこで方針を固める前に、彼女にとって予想外の事態が勃発した。カタリーナが、自身の聖印を出現させ、それをマーシャルの前に差し出したのである。 「しばらく、これを預かっていてもらえるかしら?」 それに対して、カタリーナの部下達は止めようとするが、それよりも前に、最も近くにいたユーナが割って入った。 「ダメです、カタリーナ様!」 君主が聖印を誰かに預けた場合、それを返してもらった時点で、自動的に預けていた相手の「従属君主」となってしまう。この場合、それを断ち切る権利はマーシャル側にしか無くなるので、マーシャルが彼女との結婚を望んでいるのであれば、その関係を断ち切ることはないだろう。そこまで強固な繋がりを、このような場で既成事実的に作られることは、ユーナとしては看過し難い行為であった。 そして、一歩遅れて、カイナも彼女を止めに入る。 「お待ち下さい。あの者の危険度が分からないのですか?」 「大丈夫よ、あんな奴、聖印が無くても、自力の私の力だけでなんとかなるから。パンドラから力を授かったとか言ってるけど、どうせハッタリよ」 どうやら、カタリーナは、あの「ハウディ」の正体がホムンクルスであることには気付いていないようである。というよりも、おそらくこの状況において、そのことに気付いているのはカイナだけであろう。だが、それでも、彼が何らかの特殊な力を持っている可能性は十分にあり得る。それを「ただのハッタリ」と決めつけるのは、さすがに早計すぎるように思えた。 「それに、あいつは『私』を欲しがってるんだから、少なくとも『私』を殺すつもりはないでしょう? だったら、仮にあいつに特別な力があったとしても、いくらでも付け入る隙は見つかるわ」 「しかし……」 なおもカイナはカタリーナを止めようとする。ただ、それは、もはやパンドラの一員としての思惑に基づいた行動ではない。この状況でカタリーナが聖印を手放せば、この後に発生するであろう救出作戦の段階において、どさくさ紛れに彼女を亡き者にする好機でもあるし、あのホムンクルスを操る者の思惑次第では、勝手に彼女を殺してくれる可能性もある。だが、カイナはそんな「パンドラの一員としての使命」すらも忘れるほど、この時点で激しく動揺していたのである。 (この姫君は、どうして自分の聖印を、こんなにもあっさりとマーシャル様に差し出そうとするの……? 君主は、何よりも聖印にこだわる筈なのでは……?) カイナは、自分の中で思い描いていた「現実の君主」に対する認識が、再び崩れようとしていることに、動揺していた。それはつまり彼女にとっては「自分がパンドラに協力する理由」そのものを崩しかねないほどの衝撃だったのである。 そんな錯乱した状態の彼女が、どんな言葉でどう止めるべきか分からずに思考が停止してしまっている中、今度はヨウがカタリーナに向かって叫んだ。 「だーかーらー、お前は引っ込んでろって!」 「心配ないわ。あいつは所詮、こんな公衆の面前で告白してくれるような度胸もない奴だもの」 そう言われたヨウは、自分のやったことを思い出し、思わず目を背ける。その間に、再びユーナが割って入った。 「カタリーナ様、あなたの御覚悟は分かりました。では、私にもその御覚悟を手伝わせて頂けないでしょうか?」 ユーナは、自身の邪紋を見せる。そして、彼女のその立ち振る舞いから、彼女が「影」の邪紋使いであることはカタリーナにも察しがついた。つまり、ユーナが本気になれば、ハウディに気付かれずに彼の船に飛び乗り、その首を掻っ切ることも可能、ということである(無論、それは相手が「ただの人間」であれば、という前提の上での話だが)。 「私はあいつを許せない。『身分違いの恋』までは良いでしょう。ですが、その愛する人の大切な物を人質に取るなんて、ゲスの極みです。あいつだけは私は許せない」 彼女もまた、今はパンドラの一員としての立場や使命よりも、純粋に一人の人間としての義憤に駆られていた。そんな彼女に対して、カタリーナは小声で答える。 「分かったわ。でも、どちらにせよ、あいつの注意を逸らすための囮は必要よね?」 彼女がそう言うと、再びヨウが割って入る。 「だーかーらー、お前は引っ込んでろって言ってるだろ! まだ話は終わってねーんだ。怪我されたら、困る!」 「彼が話をしているのは、私よ。私と彼の問題だわ、これは」 そう言い切った上で、彼女は強い決意を持った表情で語る。 「確かに、マーシャル卿の言った通りだったかもしれない。私の中途半端な態度が彼を暴走させてしまったのだとしたら、これは私の責任だわ」 実際には、ホムンクルスである以上、彼女の責任ではない可能性が高い。だが、そのことを知る者はカイナのみである。そして上述の通り、カイナはここで「真実」を告げるべきかどうかを判断出来るような精神状態ではなかった。 「早く来い、カタリーナ! 聖印なんか無くたって、俺が一生可愛がってやるからよ!」 明らかに口調も性格も別人となってしまっているハウディのそんな叫び声に対して、真実を知っているカイナ以外の者達が困惑する中、そのカイナは、どこか虚ろな目をしながら、カタリーナに対して再び問いかける。 「あなたは、なぜそんな簡単に、君主の証たる聖印を捨てることが出来るのですか?」 「捨てるとは言ってないわ。彼に預けるだけよ」 「しかし、それでは、あなたを守る力は無くなる筈だ!」 「さっきも言ったでしょ。あの程度の男、聖印がなくても大丈夫よ」 ここで、マーシャルが割って入る。 「しかし、私があなたから聖印を預かったとして、それをあなたに素直に返す保証はどこにあります?」 無論、現実問題として、ここでマーシャルが彼女の聖印を騙し取れば、ノルドとアントリアの全面対立を招くことになる以上、マーシャルとしては、そのような暴挙を選ぶつもりは更々ない。だが、極論を言ってしまえば、もし仮にこの時点でのアントリアが幻想詩連合に寝返ることを密かに企んでいたのであれば、どちらにしてもノルドとは対決することになる以上、カタリーナに聖印を返すことを拒むことも十分にあり得る(少なくともマーシャルがカタリーナの立場であれば、そこまでの可能性も考慮には入れるだろう)。 にもかかわらず、既に二人の縁談がまとまった後ならともかく、今の段階で彼女がここまで思い切った決断を下したことには、マーシャルも内心驚いていた。 「その通りです! あなたには君主としての義務がある筈です! 君主としての力に取り憑かれている筈です! そうでしょう!?」 完全に錯乱した状態のカイナは、本来ならば決して口にすべきではない「自分の心の中の君主観」を思わずに口に出してしまう。カタリーナはそんな彼女の暴言に関しては聞き流しつつ、マーシャルの目を見て、笑顔で答える。 「あなたは、そんな騙し討ちをする人ではないでしょう?」 だが、カタリーナはそう言った直後、やや自虐気味な表情を浮かべた。 「だけど、正直、私はハウディがあんなことをする男だとは思わなかった。だから、もしかしたら、私には人を見る目がないのかもしれない。それでも、出来ればもう少し、信じさせてほしいな。あなたのことも、ヨウのことも」 そんなカタリーナの言葉に、カイナは一瞬、「パンドラとしての自分」が飲み込まれそうになるのを感じる。だが、ここで彼女はもう一度、冷静さを取り戻して、カタリーナに問いかけた。 「もう一つ、質問させて頂きたい。あなたは、人質になっているのが、あなたの愛する鯨だから、命を賭けるのですか? あれがもし、ただの無垢の民だった場合は?」 「私が原因で無垢の民がそんな状況になったなら、私は命を賭ける。それが、力を持つ者の、君主としての責務だと思っている」 はっきりとした口調でそう言い放ったカタリーナに対して、マーシャルはいささか呆れた表情を浮かべながら、諭すような口調で語りかけた。 「あなたはいささか、責任感に欠ける御方のようだ。あなたがいなくなって困るのは、あなたの鯨や無垢の民だけではない。少なくともここに二人ほど、あなたがいなくなって困る男がいるということくらいは、分かっておいて頂きたい」 そう言いつつ、マーシャルはユーナに目で促す。すると、彼女はその意を察し、その姿を消した。それを確認した上で、マーシャルは小舟に乗ったハウディに対して、大声で叫ぶ。 「ハウディとやら、今から私が姫の聖印を預からせてもらう。その目でよく見ていろ!」 そう言って、マーシャルは甲板の端にまでカタリーナを呼び寄せる。そしてカタリーナが改めて聖印を取り出し、マーシャルに渡そうとした瞬間、小舟の上でその様子を凝視していたハウディは、突然、背中から何かが突き刺さるのを感じる。 「な……、こ、これは……」 一瞬にして彼の背後にまで回り込んだユーナの戦針に貫かれた彼は、思わず抱えていたジョセフィーヌを海へと落とし、ジョセフィーヌはその小型化された状態のまま、泳いで小舟から離れていく。だが、ハウディはよろめきながらも、再びジョセフィーヌを捕らえるために小舟を動かそうとした。 「仕留め損ねましたか……。誰か、私に構わず打って下さい!」 ユーナのその声に応じて、戦場にいたヨウが剣を夜空に向かって掲げると、そこから突然、天変地異のような激しい炎が巻き起こる。それはまさに「神の業炎」であった。闇夜を照らすその紅蓮の炎は、ハウディが乗っていた小舟を丸ごと焼きつくす。間一髪のところで避けたユーナが、ジョセフィーヌを連れてノルマンディー号へと戻るその背後で、ハウディの身体は小舟と共に完全に燃え尽きていた。そう、もはや彼がホムンクルスであるということを証明出来るような死体すら残らぬほどに……。 3.5. 三人の結論 ジョセフィーヌを抱えてユーナが甲板へと戻ると、カタリーナは真っ先に彼女へと駆け寄り、愛鯨を受け取る。 「ありがとう。命がけで助けに行ってくれて」 「いえ、これは半分、私の独断専行のようなもの。申し訳ありませんでした、カタリーナ様、マーシャル様」 恐縮しながらそう答えるユーナを見ながら、カタリーナは先刻のユーナの発言を思い出す。明らかに「接待」する気持ちしか感じられなかったテニスの時とは異なり、ハウディに対して本気で憤っていたユーナに対して、カタリーナは一つの疑惑が生まれていたのである。 「ところで、あなた、もしかして……、あ、いや、いいわ」 そう言って、カタリーナはユーナから目をそらす。自分の中の「何か」を察されたような気がしたユーナであったが、そのことについて自分から掘りかえす気もない以上、何も言わなかった。 そしてカタリーナはマーシャルの目を見つめながら、それまでの口調から一転して、彼女の中の最大限の礼節をを込めた言葉で宣言する。 「マーシャル卿、申し訳ないですが、今回の縁談、辞退させて頂きます」 その言葉によって、甲板上の空気が一瞬にして凍りつく。 「私はあなたが仰る通り、自分の周囲の人々の気持ちを軽んじていた様です。今後、私があなたの許に嫁ぐことで、今回の様な事態を再燃させることになるかもしれません。少なくとも、今回のような暴走を招くことを予見できなかったのは、明らかに私の不徳です。自分の日頃の態度が、周囲の人々にどの様な影響を与えるのかも理解出来ていない今の私では、あなたの妻として不釣り合いでしょう」 実際には「今回の事態」を引き起こしたハウディの正体はホムンクルスであり、その暴走は、少なくとも直接的には彼女の言動が原因である訳ではないことを、カイナだけは分かっていた。だが、当然、カイナとしては、ここでその「真実」を告げるつもりもなく、そして「証拠」である彼の死体は海の藻屑と消えてしまった以上、そもそもその真実を立証すること自体、既にほぼ不可能な状態になっていた。 これに対して、マーシャルは(その内心は不明だが)顔色一つ変えないまま、いつも通りの冷静な面持ちでその言葉を受け入れた。 「分かりました、カタリーナ姫。幸いなことに、今の私もほぼ同じ意見です。あなたは、一国の王妃となるには、あまりにもお優しすぎる。そして、自分の身を軽んじすぎる。それは一人の君主としては、この上ない美徳でしょう。しかし、私は自分のことを大切に出来ない方に、我が妻になってほしいとは思えません。あなたのような清らかな心の王妃が、その清らかさ故に命を落とすようなことがあれば、残された家族だけでなく、国民全体が悲しみに包まれることになる。私はそんな悲しみを、国民に背負わせたくはありません」 マーシャルはそう語ったが、実際のところ、これについてはマーシャルも、あまり人のことを言えた立場ではない。彼は日頃から、自分の身を削る覚悟で政務に没頭しすぎている。客観的に見れば彼こそが、「自分の身を軽んじすぎる君主」そのものである。しかし、だからこそ、せめて妻となる女性には、自分の死後も子供達や国民のことを守り続ける存在であって欲しい、と彼は願っていた。それは、幼くして母を亡くしたマーシャルだからこそ無意識のうちに抱き続けていた、彼にとっての究極的なエゴイズムなのかもしれない。 「過分なお言葉、痛み入ります。せっかくこのような機会を頂いたのに、私が精神的に未熟なばかりに……」 カタリーナがそう返そうとしたところで、ヨウが割り込んできた。 「別に、お前はそのままでいいんじゃねーか? ていうか、別にそんな申し訳なく思う必要もないだろ。どうせおまえら、好き合って結婚しようとしてた訳じゃないんだし」 「お前と好き合ってる訳でもないがな」 空気を読まずに入り込んできた異界の神に対して、人間の王子は冷たくそう言い放つ。実際、先刻の状況から、ヨウもまたそのことを自覚していたからこそ、彼の言葉は深く突き刺さる。 「これから好き合うからいいんだよ、細かいことは!」 そう言って強がるヨウの様子を見て、一矢報いたような気持ちになったマーシャルは、余裕を込めた微笑を浮かべながら、挑発するような口調で語りかける。 「しかし、先程言った通り、今のお前の力では、姫を連れ去ることは出来ない。だが、お前が合法的に彼女を娶る方法はあるぞ」 「なんだよ、それ」 「お前がこれから、今回の縁談を破綻させた責任を取って、アントリアのために貢献し、ニーナ将軍以上の、そしてこの私以上の名声を得て、姪御を嫁がせる価値のある男だとノルドの海洋王に認めさせるだけの存在になれば良い。それだけのことだ。お前が本当に『神』ならば、造作もないことだろう? 正直、私はお前ごときと一人の女性を取り合うことに興味はない。だから、お前が本気で彼女を手に入れるためにそこまでする気があるのなら、お前と姫との結婚を妨げる気はない」 そう言われたヨウは、不敵に笑いながら、挑発し返すような口調で答える。 「そんな生温い気持ちで身を引くような心構えなら、どっちにしても渡せねえな」 だが、そんな彼の不遜な態度を、マーシャルは余裕の表情で受け流した。 「安心しろ。どちらにしても、私はもう、姫にはフラれた身だ。そして私の中にも、もう未練はない。つい先刻までは、彼女を伴侶にしても良いと思い始めていた。だが、残念がら、姫はやや短慮にすぎる。そして、あまりにも優しすぎる。あまりにも優しすぎる方は、私の伴侶にはふさわしくない。もっとも、お前が彼女の伴侶にふさわしいとも、私は思っていないがな」 そう言って、再びヨウを煽ろうとしたマーシャルだったが、もはや今のヨウはそんな煽りすら不要なほどに、既にその心は最高潮に高揚していた。 「少なくとも、お前よりは相応しいな。単純で、どうしようもないお人好しで、本当に馬鹿なんじゃないかと思う時もあるけど、そこがあいつの魅力だと思っているからな」 「ならば、その魅力に釣り合う男になってみろ。この私も、海洋王も認めるほどのな」 「上等じゃねーか!」 「そうなれば私も、姫とノルド第四艦隊を丸々私の傘下に収められることになる。それはアントリアにとって大きな利益になるだろう」 「いいだろう、その話、乗ってやろう。後で撤回とか言い出すなよ」 「お前がそこまで上り詰めることが出来ればな」 「誰に向かって言っている?」 「期待しないで待っているぞ、異界の神よ」 こうして、カタリーナ自身の意向を確認せぬまま、マーシャルとヨウの間で、勝手に「協定」が結ばれていた。そんな二人の様子を、カタリーナは最初は戸惑いながら、途中からはやや苦笑混じりに眺めていたが、特に口を挟むつもりはなかった。少なくとも今の自分がこの場で何か言うよりも、このまま放っておいた方が、誰にとっても丸く収まる未来に繋がるような、そんな気がしたのである。 3.6. 王子と影 こうして、ヨウとの「奇妙な協定」を結んだマーシャルは、今回の(自身に取って初めての)「お見合い」の顛末を振り返りながら、一人静かに自分の客室へと戻ろうとする。その途上で、ふと思い出したように呟いた。 「ユーナ、いるんだろう?」 「はい、勿論ここに」 そう言って、彼女は突如、マーシャルの隣に現れた。だが、その唐突な登場にも、マーシャルは特に驚く様子を見せない。 「私の『失恋』を横で見ていた感想はどうだ?」 「いえ、最後の、あの神に対して言い放った言葉、マーシャル様の信念が込もっていて、私はとてもカッコイイと思いました」 ユーナとしては、これで自分にとっての「裏の使命」と「自分の想い」が同時に成し遂げられて、この上なく幸福な面持ちであった。そして、あの状況でヨウを手玉に取るような言い回しに、改めて惚れ直していたのも事実である。 「まぁ、今回は縁がなかったと言うべきかな。もう少し、私も『女性の気持ち』というものを理解出来るようにならねばならんのだろう。正直、今の私には、なぜあのような男が『選択肢』に含まれるのかすら分からん。だが、少なくともあの姫は、『私』を見る時と『あいつ』を見る時に、『同じ目』をしていた。それは、私の勘違いかな?」 マーシャルは、自分のことを特別色男だと思ったことはない(実際には、相当な美男子であるのだが)。だが、それでも、ヨウのような「常識知らずで短慮で粗暴な少年(の姿をした神)」よりは、遥かに自分の方が格上だろうと思っていたようである。それ故に、そんな彼と自分が「同格」扱いだったことには、怒りというよりも、むしろ戸惑いを感じていた。 (やはり、女性というものは、奴や「あのアホ」のような「自分勝手で粗野な男」に惹かれるものなのだろうか……?) 内心そう思いながらも、さすがにそこまでは口に出せずにいたマーシャルに対して、ユーナは穏やかな微笑みを浮かべながら答える。 「おそらく、それは勘違いではないと思います。でも、それは、カタリーナ姫独自の感性です。あの姫は確かに、すべての人に対して優しすぎるのでしょう。だから、マーシャル様に対しても、あの『神』に対しても、分け隔てない視線で見ていたのだと思います。しかし、おそらく、これから先、マーシャル様自らが心から伴侶にしたいと思える女性を見つけた時には、その女性は、決してそのような反応にはなりません。マーシャル様だけを『特別な目』で見守り続けることになる筈です。私は、そう信じています」 少なくとも、今の自分には、そう言い切る権利はある。ユーナは自信を持ってそう語ったが、その想いに気付かぬマーシャルには、やはりそれは彼女の「気休め」の言葉にしか聞こえなかったようである。だが、今の彼にとっては、それが「気休め」であると割り切った上で聞いた言葉であっても、それなりに心には響いたようで、少し表情が和らぐ。 「そんな女性が現れれば良いがな。少なくとも、私は今、国を預かる身だ。次世代を育てねばならない責務もある。血統を残していく必要もあるだろう。だから、このまま独身であり続ける訳にもいかないが、現状では、私が腹を割って話せる女性も少ない。だから、これから先も、また折を見て相談に乗ってもらうぞ」 「えぇ、お任せ下さい。と言っても、マーシャル様はまだお若いのですから、考える時間はいくらでもあります。周囲の声に流されるのではなく、マーシャル様御自身の手で、その女性を探し出してあげて下さい」 以前のユーナであれば、ここで「自分の想いに気付いてほしい」という「夢」を抱くことはなかっただろう。だが、先刻のヨウの告白の場面を目の当たりにして、「もしかしたら、自分も『夢』を見ても良いのかもしれない」という気分が、ほんの少しだけ生まれ始めていた。もっとも、そのことを彼女自身が自覚しているかどうかは、まだ微妙な段階であったのだが(そして、マーシャルの異母弟に「ダン・ディオードと影の邪紋使いの間に生まれた子供」がいることをユーナが知るのは、もう少し先の話である)。 3.7. 姫と魔法師 その頃、甲板に残っていたカタリーナとヨウの前に、マーシャルと入れ違いで、ニーナとデクスターが到着していた。二人とも、深夜の警護に専念するために、この時間帯はちょうど休眠中だったようである。 兵士達から話を聞いたニーナはヨウに対して烈火のごとく激怒したが、ヨウは全く悪びれるつもりもなく、そんな彼の様子を見て、ニーナは「もはやアントリアには、我々の居場所はないかもしれない……」という絶望感に苛まれていた。 一方、デクスターに対してはカタリーナが必死に頭を下げ、デクスターは呆れつつも諦めた様な表情で、どこか遠くを眺めていた。 「私の一存で縁談を断ってしまった以上、もうこの船に乗っている訳にもいかないわよね……」 「お待ち下さい姫様! 姫様はジョセフィーヌがいるから良いでしょうが、我々はここで小舟で放り出されても困ります!」 カタリーナと侍女達の間でそんなやりとりが交わされている中、明らかに憔悴した様子のカイナが近付いてきた。 「カタリーナ姫、よろしいでしょうか?」 今の彼女は、結果的に「パンドラとしての使命」を果たせた筈なのだが、「自分の進むべき道」を見失いつつある今の彼女にとっては、それはもはや大した問題ではなくなってしまっていた。 「何かしら?」 カタリーナ自身も、さすがに責任を感じてやや気落ちしている状態であったが、自分以上に(なぜか)疲れ切った様子のカイナの様子が、逆に気になったようである。 「もう一度、聞きます。あなたにとって、君主の力とは、何なのですか?」 なぜあえて彼女がこのようなことを聞くのか、カイナの正体を知らない今のカタリーナには、分かる筈もない。もっとも、カイナの正体を知っていたところで、彼女の答えは変わらないだろう。 「人々を守るための力。それ以上でもそれ以下でもないわ」 カタリーナがはっきりとそう答える。しかし、カイナはその答えに納得しきれない顔で、更に質問を加える。 「今のあなたにとってはそうなのでしょう。しかし、あなたは才能のある方だ。いずれあなたは聖印を更に成長させ、より大きな力を手に入れるようになる。そうなった時に、あなたはまた同じことを言えますか? 私はこれまでに見たことがあります。聖印の力に溺れる君主を。己の力と欲望のみに目を向けて、力を民衆に振りかざし、己の欲望を満たす、醜い醜い君主を。あなたは、今以上の力を手に入れた後でも、今のまま優しくいられますか? 誰かのために自分の力を振るうことが出来ますか?」 明らかに語気のない声ながらも、その言葉に彼女の中での「信念のような何か」を感じ取ったカタリーナは、どう答えるべきか迷う。 「私が『出来る』と言っても、あなたは信用してくれない? 納得してくれない?」 「言葉だけなら何とでも言えます。それでも、今、私を納得させることが出来るのは、言葉でしょう」 「そうね。じゃあ……」 カタリーナはそう言いながら、ふと何かを思いついたような表情を浮かべる。 「あなた、さっき、ダン・ディオード陛下の契約魔法師と言っていたわね。だったら、あの方にはあなたの他にも、何人もの魔法師がいらっしゃるわよね?」 「えぇ、ローガン様を筆頭に、何人も。あれだけの力を持つ君主ですから」 「あなたが私を信用出来ないというのなら、あなた自身が私を監視するのはどう?」 唐突すぎる提案に、周りで聞いていた者達が一様に驚きの表情を浮かべる。だが、それを提案されたカイナは(少なくとも表面上は)冷静にその言葉を受け止めていた。 「……私に、あなたの契約魔法師になれ、と?」 「もちろん、ダン・ディオード陛下がそれを認めれば、だけどね。それが無理なら、外交官としてノルドに駐留する、という形でも良いわ」 無論、彼女自身、かなり図々しい提案をしているのは分かっている。自分の意思で縁談を破綻させた上で、魔法師を一人引き抜くというのは、あまりにも虫が良すぎる話であろう。「沢山いるなら、一人くらい欠けても大丈夫かな?」などという発想自体が、誰の目から見ても、失礼極まりない話である。だが、そんな非礼や非常識を承知の上で、彼女はこういった。 「あなたのその力は、きっとノルドでも役立てると思う。そして、私が道を踏み外しそうになったら、あなたが私を止めてくれればいい」 ここまで好き勝手に思ったことを言ってのける姫君を目の当たりにして、カイナもまた、心の箍が外れたようで、自分の中の本音を、そのままカタリーナに向かってぶちまける。 「こちらからも提案があります。契約という形でも、外交官という形でも構いませんが、私に、もう一度『君主への希望』を持たせて下さい。それが絶対条件です。混沌の世界を終わらせる、皇帝聖印に到達するくらいの気概を見せて欲しい」 唐突にスケールの大きすぎる話を持ち出されたカタリーナは、やや苦笑しながらも、素直な言葉で答える。 「そうね……。皇帝聖印に到達する約束は出来ない。でも、あなたに希望を持たせる約束は出来る。それでいい?」 そう言われたカイナは、まだどこか上の空の様子のまま「私は……」と何かを言いだそうとするが、それ以上の言葉が出てこなかった。そして、どちらにしても、これ以上のことは、二人だけの話し合いで決められる問題ではなかったため、ひとまずこの日の夜は、それぞれに自分の客室へと帰還することになったのである。 3.8. 宮廷魔法師達の憂鬱 やがて、ニーナ達もまたヨウを連れて(厳重連行して)甲板から去り、わずかな護衛の兵達が海上に向けて注意を払う中、ノルドの宮廷魔法師の一人であるデクスターは、空を見上げながら、兵達に聞こえない程度の小声で「独り言」を呟き始めた。 「今回は、色々と想定外の要素が多すぎましたな、ローガン卿」 すると、誰もいない筈の彼の傍から、どこか薄気味悪い声が彼の耳に届いた。 「申し訳ない。想定外の状況に焦って、貴公に相談する間もなく、『計画』を前倒しで進めてしまった。そして、結果的にそれが、裏目に出てしまったようだ」 それは紛れもなく、アントリアの筆頭魔法師ローガンの声である。高位の時空魔法師である彼にとっては、自らの身を透明化することなど、造作もない。彼は今夜の甲板での一部始終を、最初から最後まで全て隠れた状態のまま、観察していたのである。 今回の縁談は、両国の結びつきを強化したいと考えていたこの二人の企みであり、そしてこの二人こそが、「ハウディ事件」の首謀者であった。彼等はカタリーナの気持ちを確実にマーシャルへと傾けるために、古典的な「仕込み」を用意していたのである。 当初の予定では、二日目の夜の時点で、カタリーナにとっての「大切なもの」を「暴走した彼女の部下(のフリをしたホムンクルス)」に奪わせ、それを「マーシャルの指揮の下でアントリア軍が奪還する」というシナリオであった。要は、マーシャルの「見せ場」を演出することが目的だったのである。確実に成功させるためには、マーシャルにも事前に通告しておくべきだったが、彼の性格上、「そんな幼稚な茶番が成功するとは思えない」と言われると判断して、あえて彼に黙ったまま、密かに計画を進めていたのである。 ちなみに、「本物のハウディ」は、数日前にカタリーナに告白して丁重に断られた時点で、「もう姫の側にはいられない」と言って除隊届けを出したところで、ちょうどこの計画を考案中だったデクスターによって殺され、エーラムから安価で購入した「失敗作のホムンクルス」と入れ替えられていた。このホムンクルスは、高位の錬成魔法師が手を加えることによって、外見や人格まで自由に調整出来るものの、(ヨウとの会話で露呈したように)やや知能に難があるため、廃棄寸前だった代物であり、今回の「捨て石」としては最適の素材であった(最悪、捕まってもその正体を自白させられることはない。そして、失っても価格的にさほど痛くはない)。 そして、パンドラはこの計画には一切無関係である。誰かに罪をなすりつける時は、ひとまず「パンドラの陰謀」ということにしておくのが一番無難だと考えた上で、あのセリフを「ハウディ」に言わせただけのことであった(当初、デクスターが提案したのは「連合の工作員」という設定だったが、それはそれで何か一つ間違えると「嘘」が見抜かれる恐れがあるとローガンが考えた結果、正体も目的も不確定な「パンドラ」の方が辻褄が合わせやすい、という結論に至ったのである)。 だが、ヨウという想定外の乱入者の登場により、カタリーナ周辺の雰囲気が奇妙な方向に進みつつあったため、その流れを変えるために、ローガンが当初の予定を前倒しして、あのタイミングでハウディを投入したのである。結果、「マーシャルの部下の手によるジョセフィーヌの奪還」という形で、どうにかその計画自体は成功するものの、そこで姫が出した結論は、完全に想定外であった。 デクスターは、空を見上げた状態のまま、改めて小声で呟く。 「まさか姫が、『自分に勝手に横恋慕していた男の暴走』までも自分の責任と考えてしまうとは……。姫の性格を読み違えておりましたな。せめてハウディの死体が残っていて、彼が偽物だということを示すことが出来れば、あそこまで姫が自責の念にとらわれることもなく、素直にマーシャル卿への恩義を感じて終わりだったであろうが……」 「いや、デクスター卿、それだけではない。その直前の時点で、あのヨウという男が余計なことを言い出したせいで、姫を『自分が他人を勘違いさせやすい』という気持ちにさせてしまっていたことが、あの結論を導く上での布石となってしまっていたのだ。その意味では、結果的に最悪のタイミングでハウディを投入してしまった、私の失態であろう」 「いや、私もその状況であれば、同じ判断を下したと思う。だから、私には貴公の判断を責めることは出来ん。我々は、神の気まぐれに振り回されたのだ。そう思って諦めるしかあるまい」 そして、その「神」を野放しにしていたという点では、ノルドもアントリアも同罪である。故に、ここはお互いに遺恨を残さず、黙って反省の念を共有することが、両国の友好親善を願うこの二人にとっての、最善の選択肢であった。 (とはいえ、あの場で険悪な空気を広げることなく、あの『神』を手駒として今後も使い続けられる環境を咄嗟に作り出したマーシャル様の裁定はお見事であった。お父上とは真逆の性格だが、その才覚は紛れもなく、今のアントリアにとって必要な存在。これから先も、その命尽きるまで、我が国のために働いて頂きますぞ、代行閣下) その姿を隠したまま、ローガンは一人静かにそんな感慨に耽りつつ、彼は静かに、デクスターと共に甲板から去って行くのであった。 4.1. 新たなる渡航計画 翌朝、朝日と共にカイナは目覚めた。あまりにも多くの出来事がありすぎた昨日を改めて振り返りつつ、少し冷静さを取り戻した彼女は、時空魔法師の奥義とも言うべき「予言」の能力を駆使して、ニーナの未来を垣間見ようとする。果たして、彼女は本当に「聖印の力に溺れた君主」にならずに、今のままの彼女でいられるのか、どうしてもそれが気になったのである。 結果、ニーナの脳裏に映ったのは、おそらく今から数年後、すっかり「大人の女性」となったカタリーナが、民を守るために聖印を掲げ続ける姿であった。その傍らに誰か男性の姿があるようにも見えたが、それが誰なのかまでは分からない。そして、彼女達の後方に控える、彼女と同い年くらいの女性の魔法師の姿がいるようにも見えたが、それが自分なのかどうかも、確認は出来なかった。 無論、予言とはあくまでも不確定なものであり、本当にこのような未来が彼女の先にあるのかどうかは分からない。だからこそ、カイナは彼女の覇道を、どのような形であれ、最後まで見届ける必要がある、という決意を固め、正式にカタリーナの許への転属を申請するために、彼女と共に現在の出向先の責任者であるニーナと、その出向を命じたローガンの元へと向かう。 唐突な申し出にニーナは困惑したが、個人的見解として「カイナを失うのは惜しいが、我々と親しい者がノルドにいるのは悪くない」と語り、ローガンも「外交官として派遣するなら問題はない」という方針を提示する。二人とも、自分の失態でノルドとの関係が悪化することを危惧していたため、この提案はむしろ大歓迎であった。 ただ、カタリーナとしては、出来れば「アントリアからの外交官」としてではなく、「自分の契約魔法師」として迎え入れたい、という気持ちもあったため、この航海が終わった後、カイナと共に、コートウェルズに出征中のダン・ディオードに、カイナの契約解除を直訴しに行きたい、と提案する。さすがに、そうなると今度はカタリーナの親元の許可を得る必要も出てくるため、その件に関しては、ひとまず今の時点では保留、という結論に至った。 自分と契約を結ぶために、危険なコートウェルズにまで赴こうとするカタリーナの誠意にカイナは恐縮しつつ、そこまで一人の君主に求められていることに、今まで感じたことがない幸福感をほのかに感じ始めていた。もしかしたら、それは錯覚なのかもしれない。仮に今の時点でその感情が本物だとしても、時が経てばそれは崩れてしまうものなのかもしれない。だが、それでも、カタリーナの覇道を見届けることによって、自分の中の「君主像」がもう一度塗り変わる可能性に賭けてみたいという気持ちは、確かに今のカイナの中で着実に芽生えていた。 4.2. 代行閣下の憂鬱 そして、この提案は当然、マーシャルの元にも伝えられる。本来ならば、カタリーナが自ら提案に行きたかったところではあるが、さすがに彼女も、今の時点で面と向かってマーシャルに対して「あなたの国の魔法師を一人下さい」と言い出すのは憚られたようで、ローガンを介しての通達となった。 とはいえ、マーシャルとしては、特にその提案に対して異論もなかった。彼の中ではむしろ、アントリアの統治者として、ヨウがやってのけた無礼千万な行為の数々へのお詫びが「魔法師一人」で済むなら安いものだと考えていたようである。 そして、ノルド側がそれで逆に恩義を感じてくれるのであれば、ニーナやヨウを公的に処罰する必要もなくなるので、願ったりな提案でもあった。彼の構想の中では、銀十字旅団には、対聖印教会戦の再戦の可能性に備えて、この護衛任務の終了後、魔境化したクラカラインの北東に位置する公益拠点アグライアへと派兵させる方針であった(より正確に言えば、アグライアに彼女達を派遣することによって、聖印教会の中で発生しつつあると言われるクラカライン浄化の動きを牽制することが主目的である)。さすがに、ヨウに関しては全くのお咎めなしという訳にもいかないが(少なくとも、表面上はしばらく謹慎にする程度の措置は必要だろう)、基本的には、その罪は戦場での働きによって償ってもらう、という方針である。 (帰ったら、こき使ってやるからな。覚悟しておけよ、異界の神) 内心ではそんな思いを抱きつつ、ひとまずマーシャルとしては、残された一泊二日のクルーズに関しては、今更中止するのも体面が悪いので、残りの日程は、一人の隣国の君主同士として、純粋に交友を深めるという方針で、ゆっくり航海を楽しむ、という体裁で乗り切ることにした。 「とはいえ、さすがに少し、気まずいと言えば気まずいな。少なくとも、あいつと姫が一緒にいるところを、あまり見たくないという気持ちもある。これは、まだ私の中で、姫への未練が残っているということだろうか?」 マーシャルは、自分に与えられたこの船内の最高級客室のソファーに腰掛けながら、傍に立つユーナに対してそう問いかける。彼の中では、もう完全にカタリーナへの「芽生えかけた気持ち」は封印した筈である。むしろ、今回の一件を通じて、自身の結婚相手としてカタリーナがふさわしくないことが明らかになった以上、彼女をヨウと結婚させるという「もう一つの選択肢」に辿り着くことが出来たという意味では、結果的にこれで良かったとも思っている。だが、その「結論」に対して、まだどこか、釈然としない気持ちが彼の中に残っていたのも事実であった。 「マーシャル様は、『未練』というよりは、『責任』を感じているのではありませんか? 『アントリアとノルドの結びつきを強化するという役割』を果たせなかったことに対して」 ユーナにそう言われると、マーシャルは少しぎこちない笑顔を浮かべる。 「そうだな、そういうことにしておこう」 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、マーシャルは少しずつ、気力を取り戻していく。 「気まずいままでもいかん。せめて最後まで、エスコート役としての役目を果たさせてもらうことにしよう。ひとまずは、趣向を変えて、映写室にでも誘うことにしようか。何か、彼女の気に入るような映像作品があるかもしれない」 そう言って、マーシャルはカタリーナの部屋へと向かう。一方、ユーナは「パンドラとしての自分」が通すべき「筋」のために、険しい表情を浮かべながら、同い年の「同僚」の部屋へと向かうのであった。 4.3. 闇に生きる者達 ひとまずカタリーナと別れて、自室に戻ろうとしていたカイナは、その途上の廊下で、背後に「殺気」を感じた。そして、それが誰の殺気なのかも、すぐに理解した。 「あなたがノルドに行くということは、パンドラを抜ける、ということですか?」 首筋に針を突きつけた状態で、ユーナはそう問いかける。だが、カイナも当然、そう指摘されることは想定していた。特に動じることもなく、淡々と彼女は答える。 「まだそうなった訳ではないわ。ただ、あの姫様がどんな道を歩むのかを見てみたいという気持ちはある。もしかしたら、パンドラにとって危惧すべき存在になるかもしれない。それなら、今のうちに監視出来る状態にしておくのもアリでしょう」 それは紛れもなく、彼女にとっての「本音」である。実際、彼女としてはまだ、全面的にカタリーナを信用した訳ではない。「信用したい」という気持ちがあるのは事実だが、今後のカタリーナの動向次第では、パンドラ・均衡派の一員として、場合によっては彼女を誅することすら厭わなくなるだろう。 「そうですか、それを聞いて安心しました」 ユーナはそう言って、針を取り下げる。もっとも、それは逆に言えば、カタリーナ次第では、いずれパンドラを裏切ることになる可能性も否定はしていないことになるのであるが、ひとまずユーナとしては、今の時点でそこまで追求するつもりはなかった。 もっとも、仮にカタリーナが心の底から信用出来る君主だったとしても、彼女が本気で皇帝聖印を目指さない限り、均衡派の魔法師であることと、彼女の側に仕えておくことは、決して矛盾しない。更に言えば、仮に彼女が本気で皇帝聖印を目指していたとしても、マーシーから「実現出来る可能性のある人物である」と認定されない限りは、彼女を支援し続けることを躊躇する必要もない(マーシーがゲオルグに仕えているのも、同じ理由である)。その意味では、今のところ、カイナとマーシーが本格的に対立する可能性は、あまり高いとは言えないだろう。 「それでも、ごめんなさいね、急に、勝手に決めてしまって。あなたにもきっと、迷惑をかけることになると思う」 「そうね。マーシー様には、私から上手くいっておきますよ。それにしても、前とは全然違う目をするようになりましたね、カイナ」 魔法の力で相手を厳密に記号情報化して「詳細に分析する」ことを得意とする「理論派」カイナとは対照的に、幼い頃から裏社会で生きてきた「実践派」のユーナは、直感的に相手の「目の雰囲気」から、相手の気持ちや人格を「ふんわりと理解すること」に長けている。その彼女から見て、カイナの瞳から感じ取れる雰囲気は、明らかに昨日までとは異なっていた。もっとも、その変化を具体的にどう表現すべきなのか、そしてそれが良いことなのかどうかまでは、今のユーナには分からなかったが。 「最終的にどうなるかは、また何年か後に話すことになると思うけどね」 「えぇ、しばらくあなたとケーキを食べに行けないのは残念だわ。ともかく、おめでとう、カイナ。これからも、あっちで頑張ってね」 そう言って、ユーナは手を差し出す。 「ありがとう。あなたも、いつまでも『想い人』に想いを告げられないようじゃダメよ。ストレスを溜め込むのは、ほどほどにね。食に逃げるのもダメよ。甘いものはほどほどに取らないと」 「……運動するからいいもん」 カイナに「知られたくないこと」まで知られてしまっていることについては聞かなかったことにした上で、ユーナは柄にもなく拗ねるような口調でそう言い放つ。どうにか「任務」を終え、重圧から解放された彼女達は、ただの町娘のようなそんな会話を楽しんでいた。 「また、『あの神様』が何かしでかすかもしれないけど、あなたはマーシャル様の護衛なんだから、銀十字旅団で何か起きても、あなたが巻き込まれることもないでしょう」 「えぇ、マーシャル様は、ちょっと鈍いけど、頼りになる人ですから」 こうして、微妙にかみ合っていない(単に、互いに言いたいことを言ってるだけ)の会話を繰り返しつつ、やがて二人はカイナの客室の前へとたどり着く。 「じゃあ、いずれまた会う時もあるだろうし、今は別れの言葉は言わないわ」 そう言って、カイナは客室の扉を閉める。出来ることなら、次に会う時もまた「利害が一致した立場」のまま再会したい、そんなささやかな願いを胸に抱きながら、ユーナはその部屋の前から立ち去って行くのであった。 4.4. 神と姫と王子 そして、マーシャルの客室と並ぶこの船内のもう一つの最高級客室の前では、一人の「神」が、躊躇しながらその部屋の扉を叩いた。 「開けるぜ」 そう言って、彼は客室の扉を開けると、そこには彼の想い人が一人、涼しげな顔でベッドに腰掛けている。神は、言いにくそうに視線を外しながら、訥々と語り始めた。 「あの、そのだな……、悪かったな……。君主としてのお前の立場にとっては……、この縁談が上手くいかなかったのは、決して、いいことじゃ、なかったんだろう?」 「そう思ってるんだら、あんなこと言うんじゃないわよ、まったく」 カタリーナは心底呆れた表情で、ヨウに対して言い放つ。 「う、うっせーな、黙っていられねーだろ、バーカ」 ヨウは昨夜と同様に頬一面を紅潮させながら、そう言い返す。そして、そんな彼を見て、思わずカタリーナには笑顔が溢れた。 「そうね。正直、そう言ってくれたことは嬉しかった。少なくとも、マーシャル卿は、そこまで言ってくれなかったし。もっとも、出会って1日も経たないうちにあんなこと言い出すような人がいたら、それはそれで私も信用出来ないけどね」 そう考えると、彼女の中では、やはりマーシャルに対して罪悪感がこみ上げてくる。どちらにしても、彼と自分は性格的に合わなかったのかもしれないが、それを確かめる時間すらも与えないままに断ってしまったのは、さすがに身勝手すぎると自覚していた。だが、あの状況下で自分がどう言い繕っても、今の自分が「一国の王妃にふさわしくない女性」であるという「自他共に認める評価」だけは、覆すことは不可能であるように思えたのである。 その上で、彼女は気持ちを切り替えつつ、真剣な表情を浮かべながら、ヨウの想いに対する「今の時点での返答」を伝える。 「でも、結論は昨日言った通りよ。あなたの想いが本物なのであれば、私は待っているわ。あなたがこの世界においても、元の世界にいた時と同じように、人々から崇められるような存在、人々を導ける存在、人々を守れる存在になったと、私も伯父上も認められるようになったら、その時は……」 カタリーナはそこまで口にした上で、それ以上断言して良いのかどうか、一瞬戸惑う。彼女の中に、ヨウに対して惹かれる気持ちは確かにある。しかし、それがヨウだからなのか、他の誰かが同じ状況で同じことを言ったら、同じように心が揺らいでしまうのか、まだ今の時点で彼女の中では確証が持てない。もしかしたら、自分は「他人を誤解させている」のではなく、純粋に自分自身が「軽薄な女」なのかもしれない。そんな想いが彼女の中で湧き上がる中、そこから先の言葉を遮るように、ヨウが口を開いた。 「当然だ! オレ様、すっげー恥ずかしかったんだぞ。あんな公衆の面前で。もうちょっと言うべきタイミングとかもあった筈なのに……」 徐々に小声になっていく。この会話の流れから微妙に外れた発言ではあったが、むしろ、発言を途中で流してくれたことが、今のカタリーナにとってはありがたかった。 「本当にね」 「仕方ねーだろ、あの時は、そうするしか無かったんだから」 「まぁ、でも、おかげで分かったわ、あなたの気持ちは」 「あ、それと、一個訂正な。『弟』だとか言ってたけど、オレのこと何歳だと思ってるんだ?」 そう言われたカタリーナは、すました笑顔で答える。 「少なくとも、この世界に来てからのあなたは、まだ『2歳』よね?」 想定外の答えに、ヨウは一瞬、言葉に詰まる。 「……こ、この世界に来てからは、な」 「だとすると、あなたが今の私くらいの歳になる頃には、私はもう三十過ぎてるのよね。それで釣り合うかしら? 私は別にいいけど」 「いや、だから、俺はもう既に数千歳だから! もう歳なんか覚えてないくらいだから!」 「まぁ、あなたの元いた世界と、この世界では、時間の進み方も年の数え方も違うだろうから、単純に比べることは出来ないんだろうけど」 「だから、弟扱いするなよ、バーカ! 1年や2年なんて、瞬きのような一瞬だ。だから、その、準備して待ってるんだな」 実年齢はともかく、その会話内容は、明らかに「姉」と「弟」である。そんな二人の会話は、(客室のドアが開け放したままであったため)外の廊下にまで届いており、そして、その廊下から、カタリーナにとってのもう一人の「年下の男性」が姿を表す。 「むしろ、その1年や2年の間に、お前がその大言壮語にふさわしいだけの実績を上げられていられるかどうかの方が問題だと、私は思うがな」 冷めた瞳でそう言い放つマーシャルに対して、ヨウは不敵な笑みを浮かべて言い返す。 「目標は高い方がいいだろ? 5年、10年、20年かけて上に上り詰めるなんて、そんな呑気なこと言ってられっかよ」 「そうだな、あまり姫を待たせるのではないぞ」 「だから、誰に向かってモノを言ってるんだ、オレ様だぞ?」 相変わらずの喧嘩腰の姿勢でマーシャルを睨みつけるヨウであったが、そんな彼の言い分を聞き流しつつ、マーシャルは真剣な表情で端的に語りかける。 「だがな、異界の神よ。一つ、覚えておけ。この世界では、『神』よりも『人』の方が偉い」 「なんだ? この世界には、神がいないのか?」 「神がいると言ってる連中はいるがな。だが、『あいつらが言っている神』と『お前』は、おそらく別物だ。いずれにせよ、神のために人がいるのではない。人のために神がいるのだ」 「違うな。オレ様は、人が生まれるよりもずっと前からオレ様として存在していて……」 そんな二人の「弟のような誰か」のやり取りを眺めながら、なぜか再び笑みが溢れてきたカタリーナは、二人に向かって提案する。 「よし、じゃあ、今日は、この船の中の残りの施設を一通り回ろっか。とりあえず、話の続きはカフェでお茶でも飲みながら、ってことで。ブレトランドには、有名なお茶の産地があるのでしょう?」 「えぇ、ソリュートの紅茶は、大陸諸国でも愛されている商品です。実は、ちょうどこのクルーズが終わった後、私はそこに視察に行くつもりでして。当然、この船のカフェにも、常備させています。お茶菓子も、それなりに用意しありますので、ご自由にお楽しみ下さい」 この瞬間、マーシャルの近辺で「誰か」が反応したような気がしなくもないが、おそらくは気のせいであろう。三人は、マーシャルの案内に従って、カフェへと向かうことになった。 「ちなみに、カタリーナ、お前は、俺が何の神だか知ってるのか?」 「そういえば、聞いてなかったわね」 「俺様は、元の世界では『朱雀』と呼ばれていた。火の神様だ。このオレ様がいるんだから、お前は絶対に、幸福になれるぜ」 「朱雀」とは、ヨウの本体が存在する中華世界において「四神」と呼ばれる「東西南北」を守護する神の中の一つであり、類似する別の世界では「鳳凰」あるいは「火の鳥」などと呼ばれる存在に近い。時代にもよるが、幸運をもたらす存在として崇められることもあり、そして実際、彼のこの世界における最大の潜在能力は、「幸運」を運ぶ力であった。 「火の神と海の姫か。相性が良いのかどうか、よく分からんな」 「だーかーらー!」 そんな「神」と「王子」の会話を眺めつつ、「姫」はどこか不思議な充足感を満喫していた。そして、ヨウがもし本当に「幸運」をもたらす力があるのなら、その力を私だけのためでなく、もっと多くの人々のために使って欲しい、そう願いながら、彼等の成長を静かに見守りつつ、自分自身も成長しなければならない、と改めて決意したカタリーナであった。 時系列順の続編:【ブレトランドの遊興産業】最終話(BS30)「代行閣下のお茶会」 シリーズ内の続編:【ブレトランドの光と闇】第2話(BS31)「日輪の輝き」 グランクレスト@Y武
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第6話(BS30)「代行閣下のお茶会」( 1 / 2 / 3 / 4 ) 1.1. 義父からの手紙 モラード地方の南西部に位置するソリュートの村は、この地方でしか産出されない独特の「紅茶」の産地として知られている。その起源は諸説あり、異界の投影体(地球人?)がもたらしたとも言われているが、定かではない。 現在、この村で領主を務めているのは、デイモン・アクエリアスという名の20歳の騎士である(下図)。彼はブレトランド北中部のバラッティーの孤児院で育てられた身であったが、10年前に老将ジン・アクエリアス男爵の養子に迎え入れられ、聖印を与えられた上で、アントリア騎士団の一員となり、2年前のトランガーヌ侵攻戦で功績を挙げて、この地の領主の座を勝ち取るに至った。 彼の聖印には、一人で多くの者達を相手に戦うことに特化された能力が備わっており、その聖印を持つ者は、大軍を単騎で一掃する修羅のごとき戦いぶりから、一般には「殺戮者(マローダー)の聖印」と呼ばれ、恐れられている。それに加えて、彼は戦場では毒矢を多用するなど、一般的な騎士道精神からは程遠い戦術を好むことから、「名門アクエリアス家には相応しくない」「所詮は下賤な出自の拾われ子」などと揶揄されることもあるが、本人は意に介していない。 彼が戦場で毒矢を用いてまで敵を容赦なく殺戮するのは、あくまで「少しでも多くの味方を生かすための戦術」であり、決して殺戮そのものが目的な訳でもなく、戦争を早く終わらせるための手段にすぎない。平時の彼は極めて温厚な性格で、為政者としての評判も決して悪くはなく、この村の領主に赴任して以来、村のことを理解するために、紅茶についての日々の勉強も欠かしたことはなかった。 そんな彼の元に、この日、義父であるジン(下図)からの手紙が届いた。義父とは言っても、実質的には祖父と孫と言った方が良いほどに年齢差が開いているのであるが、ジンの実の息子達は既に全員他界しており、現時点でジンの直系の血族は孫娘のフィオナしかいない。つまり、デイモンは家系図上は現時点でジンの聖印(男爵)を受け継ぐ有力候補の一人であり、実際、ジンも彼のことを実の息子同然に扱っている。 「本日、マーシャル子爵代行閣下と筆頭魔法師のローガン卿が、我がエストに御到着された。どうやら、これからソリュートの視察へと向かうらしい。せっかくなので、マーシャル様をお迎えすることになったこの機会に、ソリュートで『茶会』を開こうと思う。私と、我が街を訪問中の魔法師のカルディナ・カーバイト殿と共に、明日ソリュートへと向かうので、それまでに準備を進めておくように」 手紙にはそう記されていた。アントリア子爵ダン・ディオードの出征(ブレトランドの英霊4参照)以来、その代役として国政を任されているマーシャル(下図)は、連戦で疲弊した国力を立て直すために、国内各地の統治状況を視察して回っている。その手法は(不正隠蔽などを防ぐために)「抜き打ち方式」であることが多く、今回も、その来訪は直前まで知らされていなかったようである(実際のところ、マーシャルとしても、その直前の「ノルドの姫君との船上お見合い」の展開次第では、取りやめる可能性もあった)。 ジンもデイモンも、自身の統治状況に特に後ろ暗いことはないので、そのような形での視察自体はさほど問題ない。急遽「歓迎の茶会」を開くことも、それほど難しい話ではない。だが、ジンには一つ、懸念事項があった。それは、ジンの契約魔法師である時空魔法師のフィネガン・アーバスノットが、気がかりな「予言」を提示していたことである。 「フィネガンが言うには、どうやら今、先代のソリュート領主であるルビール・クローマの気配が、ソリュートに近付きつつあるらしい」 ジンからの手紙には、そう記されていた。ルビール・クローマとは、2年前の侵攻戦で旧トランガーヌ子爵領が崩壊するまで、この地の領主だった人物である。戦後は行方不明となっていたが、どうやら当時のトランガーヌ子爵ヘンリー・ペンブロークと共に大陸に逃れていたようで、現在はヘンリーと共に日輪宣教団の力を借りて建国した新国家「神聖トランガーヌ枢機卿領」の武官の一人として名を馳せている。 彼は亡命以前から聖印教会の一員であり、その影響で、現在でもこの地の人々の中には聖印教会の信者が多い。もっとも、当時の彼は日輪宣教団のような「ラディカルな混沌廃絶主義者」ではなく、(異界産説故に)混沌の力が宿っているとも噂されている紅茶の育成も、むしろ積極的に推進する立場であったのだが、現在の彼がどのような思想に染まっているのか(あるいは、染まったフリをして教団の力を利用しているのか)は不明である。 いずれにせよ、神聖トランガーヌがモラード地方の奪還を目指していることは明白である以上、ルビール自身がソリュートの近辺に潜伏しているとすれば、それは由々しき事態である。この村の聖印教会の人々は、今のところ、神聖トランガーヌにも日輪宣教団にも与する姿勢は示していないが、ルビールは決して評判の悪い領主ではなかったが故に、内心では複雑な感情を抱いている村人も多いであろうことは、容易に想像出来る。 現状、クラカラインの魔境化により、アントリア・神聖トランガーヌ間の戦線は膠着化しているが、もし海路を通じて彼等がソリュートを急襲した場合、戦局は大きく変わることになるだろう。そのための「布石」として、ソリュートを彼等が内側から崩壊させようとしているのであれば、それは何としても防がなければならない。 そんな緊迫した状況下で、マーシャルがソリュートの視察に訪れたというのは、一見すると「不運な巡り合わせ」のようにも思えるが、ジンはそう考えてはいなかった。ジンは「偶然ではなく、マーシャル側もその動きを察知した上で、あえてこの『旧トランガーヌの残党が怪しい動きを見せているタイミング』で視察に踏み切った」と考えていたのである。ジンがそう考えたのは、アントリアの筆頭魔法師であるローガンの最近の言動から、ある一つの「望ましくない仮説」が導き出されたからである。 「どうやらローガン卿は、お主が神聖トランガーヌと通じているのではないかと疑っているフシがある。明日、我々と共に視察団がそちらに到着するまでに『余計な不安要素』は排除しておくように」 それがジンからの忠告である。デイモンにしてみれば、そのような疑いをかけられること自体が不本意であったが、ローガン達がそう考えている(と予想される)のには理由があった。それは、デイモンと非常に親しい関係にある「旧トランガーヌ時代から聖印教会のソリュート教区の司教を務めている隻眼の女性」の存在である。 その司教の名は、マリアンヌ(下図)。彼女はデイモンよりも2歳年上で、彼と同じバラッティーの孤児院出身であった。彼女は10年前にデイモンがアクエリアス家の養子となった後、孤児院の院長に勧められる形で聖印教会に入信し、紆余曲折を経て5年前(まだトランガーヌ子爵領が健在だった頃)からこの村の司祭を務めている。眼帯姿故に初対面の人には警戒されやすいが、極めて温厚かつ慈悲深い人物として、村の人々からの人望は厚い。 彼女は2年前のアントリアによるトランガーヌ侵攻の時点では中立の立場を保ったため、その地位を戦後も保証された。その後、この地の領主として就任したデイモンは、孤児院時代の縁もあって、村の方針に関して彼女に相談することが多い(その背景には、彼の「契約魔法師」はあまり政務向きではない、という事情もあるのだが、その点については後述)。そして、ローガンは独自の情報源から「マリアンヌが神聖トランガーヌの者達と密通している」という噂を嗅ぎつけているらしい、ということが、ジンからの手紙に記されていた。 デイモンとしては、家族同然の関係であるマリアンヌが自分を裏切るような行為に走るとは到底考えにくいのであるが、いずれにせよ、彼女のみならず、自分自身にも疑いをかけられているのであれば、領主として、真実を確認する必要がある。そのことを視野に入れつつ、まずは、茶会の準備を進めるべく、村の要人達を自身の館へと招集することにした。 (父上の取り越し苦労であれば良いのだがな……) そう思いながら、彼は村を支える「三人の要人」宛の召集令状を使用人達に手渡す。この時、既に自身の運命が大きな転換点を迎えようとしていることに、まだ彼は気付いてはいなかった。 1.2. 焼き討ち計画 その頃、村のはずれにある「紅茶畑」では、一匹の「猫に似た姿の妖精」(下図)が、大陸からの来訪者を出迎えていた。 この妖精の名は、シュニャイダー。妖精界の投影体の中でも、ケット・シーと呼ばれる種族に分類される一族である。体格的には人間の子供程度の大きさであり、日頃は二足歩行で、手(前足)の肉球を器用に用いて道具も使えるため、大抵の人間(の子供)と同等の行動が可能であり、それに加えて妖精ならではの独自の能力も持ち合わせている。 シュニャイダーがこの世界に最初に現れたのは、今から36年前。どのような経緯で出現したのか、元の世界で何をしていたのか、本人もよく覚えていない。ただ、何となく、今のこの世界で「楽しく生きていたい」と思った彼(一応、男性らしい)は、当時の領主(ルビールの父親)の契約魔法師から「無害な投影体」であるというお墨付きを貰った上で、村の茶畑の一角の管理人を任されるようになった。やがて、彼の栽培した紅茶の品質の高さが評判となり、今では村一番の大茶畑主となっている。 あまり人間関係には執着しない性格のようで、2年前の戦争の結果、この村の支配者が変わった時も、彼は特に動じることなく、新領主となったデイモンをそのまま受け入れた。自分と茶畑が戦火に巻き込まれることさえなければ、誰が領主であっても問題ないと考えているようである。一方で、(自分自身が「異形の存在」であることをどこまで自覚しているかは不明だが)様々な「珍しいもの」に興味を示す好奇心旺盛な側面もあり、近隣のエルマの村の契約魔法師であるエステル・カーバイト(ブレトランドの遊興産業4参照)が「面白魔境動画」を披露しに来た時には、興味津々でその映像を見入っていたこともあった。 この日、そんな彼の元を訪れていたのは、ローレンス・アップルゲートという名の、新進気鋭の行商人である(下図)。 彼は大陸を拠点としつつ、頻繁にブレトランドにも足を運んでいる若手の敏腕商人で、最近はこのソリュートの紅茶に目をつけ、シュニャイダーとの間で「ブレトランド外での販売に関する独占契約」を結び、大陸各地に売り歩いている。 「シュニャイダー様、ご機嫌はいかがでしょうか?」 「うむ。上々だニャ」 商人らしく腰の低い口調で問いかけるローレンスに対して、シュニャイダーは「ケット・シー界訛りのアトラタン語」で、やや尊大な態度で答える。彼は人間界における社交辞令などについては今ひとつ理解しておらず、誰が相手でもこのような「ぞんざいにして方言丸出しの口調」で話しているのであるが、不思議と人に嫌われることは少ない。やはりそれは、ケット・シーという特異な存在であるが故の人徳(猫徳?)なのだろうか。 「実は当方では、そろそろシュニャイダー様の畑の紅茶のブランドマークを作ろうかと考えておりまして」 「ほうほう」 「どの様なデザインにしましょうか? 似顔絵になさいますか? お腹の渦巻き模様になさいますか? 手形になさいますか?」 シュニャイダーの体毛は、独特の渦巻き模様を描くような模様が描かれている。地球では、彼と同じような体毛を持つ猫達を「アメリカンショートヘア」と呼ぶらしいが、この世界では特に明確な呼称はない。 ともあれ、ブランドマークの件に関しては、急に問われたシュニャイダーとしては即断は出来なかったので、ひとまず保留とした上で、ローレンスはやや神妙な面持ちで「本題」を語り始める。 「ところで、実は最近、ちょっと気になる噂がありまして」 「ふむ、何ニャ?」 「このあたりで『巨大な混沌核を持つ投影体』が出現しようとしている、という噂が流れているのです。あ、いや、まぁ、あなた自身も投影体ではあるのですが」 「そうだニャ」 シュニャイダーも、投影体の中には、この世界の人間達に害を為す者が多いことは知っている。それ故に、(自分を含めた)投影体全般を敵視したり警戒したりする風潮が人間達の間にあることは理解していた。現実問題として、彼の茶畑に害を為す投影体が出現することも珍しくないため、そのような形で投影体全体が危険視されやすい風潮自体も、やむを得ないことと考えていたようである。 「とりあえず、友好的な投影体であれば良いのですが、そうかどうかは分かりません。そして、その噂を信じた聖印教会の信者達の中で、この茶畑を襲撃しようという計画があるらしいのです」 つまり、この茶畑こそが混沌の発生原因であり、「危険な巨大投影体」が出現する前に、この茶畑を殲滅しなければならないという噂が、一部の聖印教会員達の間で広がっている、ということらしい。それは、上述の通り、この地の茶畑に異界起源説があることが根拠なのだが、少なくともエーラムの公式見解に従う限り、そのような仮説を裏付けるような根拠はない。だが、そもそもエーラムの権威そのものを認めない立場である聖印教会の信者の一部には、そのような噂をそのまま真に受けている人々がいるようである。 「それは困るニャ!」 「どうやら、そのような風説を流しているのは、このソリュートの司教区の信徒達ではなく、南方の神聖トランガーヌの過激派の面々ようなのですが……」 「なんだニャ、私が一生懸命育てた畑を、全く!」 「えぇ、私もそのようなことをされては困ります。とりあえず、領主様とも相談した上で対策を考えるべきかと」 「そうだニャ。では、今から領主様のところに行くニャ」 シュニャイダーはそう言って、一旦自宅(を兼ねた管理小屋)へと戻ると、ちょうどそのタイミングで、デイモンからの召集令状も届いていた。厳密に言えばシュニャイダーはこの村の役人ではないが、村の経済の根幹を支える存在である以上、重要な案件の際には意見を伺うために呼び出されることが多い。彼はこれ幸いとばかりに、そのまま領主の館へと直行するのであった。 1.3. 聖女の疑惑 同じ頃、村の中心部でこの村のために働き続けている一人の少女の元にも、ほぼ同じ内容の召集令状が届いていた。その人物の名は、シーナ・アスター(下図)。年齢的にはシュニャイダーの(この世界内での年齢の)半分にも及ばない、わずか15歳の少女である。 彼女は村の中では「治癒師」と呼ばれる医療職を務めており、村の診療所の責任者として、怪我や病気に悩む村の人々を助けている。だが、実はその正体は「毒」を操る邪紋使いであり、本来は「敵対する人物を体内から蝕む能力」を駆使することに長けた邪紋の持ち主の筈なのだが、彼女はその力を真逆の方向へと利用して「精神や体調の不調を癒す力」へと転換させることを得意とする。 君主や魔法師達の中には、傷や病気を癒す能力を駆使する者達もいるが、この村の領主と契約魔法師はどちらもそのような能力の持ち主ではなかったため(魔法師に至っては、そもそも「魔法らしい魔法」を使わない人物なのだが、その点については後述)、結果的に、シーナのような存在が村内で重宝されることになった。 ちなみに、実は彼女もまた、領主のデイモンや司教のマリアンヌと同じ、バラッティーの孤児院の出身である。数年前、諸々の経緯を経て邪紋の力に目覚めた彼女は、まだ子爵代行に就任する以前のマーシャルと出会い、彼に対して「特別な感情」を抱いた結果、彼の側近となることを夢見てアントリアに士官する。そして彼が子爵代行に就任した直後に、念願叶って彼の直属の部下となるが、その後の彼の施政下において、同門のデイモンが領主を務めていた縁もあり、数ヶ月前から駐在武官(実質的には医療班)として、この村へと派遣されることになったのである。 シーナは現在でも立場上はあくまで「マーシャル直属の武官」であり、デイモンの臣下ではないが、幼馴染ということもあり、マリアンヌ同様、彼からの信頼は厚い。そして、実は彼等にはもう一人、同じ孤児院出身で、現在のアントリアに仕えている武官がいた。この日、デイモンからの召集令状を受け取った直後のシーナの元に、その人物(下図)が訪ねてきたのである。 「元気そうね、シーナ」 日頃はあまり見せない穏やかな微笑みを浮かべながら、その人物はシーナに対してそう語りかけた。彼女の名はユーナ・アスター。シーナの実の姉である。二人は共に同じ孤児院で育ったが、故あってユーナは幼少期の時点で一人孤児院を抜け出し、裏社会で情報屋として生きるようになり、その過程で「影」の邪紋に目覚めた後、紆余曲折を経て、現在はマーシャルの身辺警護を担当している(そんな彼女にはもう一つの「裏の顔」もあるのだが、それについてはブレトランドの光と闇1を参照)。 シーナが「毒使い」の邪紋に目覚めたのは、姉のユーナが孤児院を抜け出した後であり、その後の士官に至るまでの経緯も全く異なるのであるが、偶然にも、同時期にマーシャルの直属の邪紋使いとなったことで、再会を果たすことになった(もっとも、その巡り合わせは、もしかしたら偶然ではなかったのかもしれないが)。その後、シーナがこの地に派遣されるようになってからは、今回が初めてのユーナの訪問である。 「お姉ちゃん、久しぶり」 「こっちに来て、どう? 少しは慣れた?」 「うん、村の人達にもよくしてもらってるし。こっちは大丈夫だよ。お姉ちゃんの方は?」 「まぁ、こっちも色々あったけどね。とりあえず、マーシャル様の縁談は、御破綻になったわ」 「マーシャル閣下がノルドの姫君とお見合いするらしい」という情報は、スウォンジフォートから遠く離れたこの地にも伝わっていたが、その結果はまだアントリアの民の殆どには知らされていない。つい先日まで、ユーナはそのお見合い会場となった豪華客船に同船し、その顛末を最後まで見届けた上で、マーシャルやローガンと共にノルドから直行でエストへと赴き、そして今、単身でこのソリュートに到着したばかりである。まさに「誰も知らない最新情報」であった。 ちなみに、主君の良縁が破綻したにもかかわらず、そう語るユーナの口調は、どこか嬉しそうだった。そして、その報告を聞いたシーナもまた、心底嬉しそうな表情を浮かべる。 「そう、よかった」 端から聞けば、明らかに不敬な発言であるが、それを咎める者はこの場には誰もいない。実はこの姉妹は、くしくも二人揃って、マーシャルへの「身分違いの慕情」を胸に秘めている。姉は妹の想いを察しており、妹も姉の気持ちには気付いている。ただ、妹は自分の想いをあまり隠そうとはしていないが故に、自分の気持ちが姉に気づかれていることは分かっているが、姉の方は、自分の気持ちが妹に見抜かれていることには気付いていない(より正確に言えば、姉自身が、自分の中の気持ちを正しく自覚出来ていない、と言った方が良いのかもしれない)。その上で、妹の方は、姉の気持ちを理解しながらも、「譲る気はない」という強い決意に満ちていた。 「それはそれとして、ちょっと気になる話があってね」 姉のユーナはそう言うと、周囲に人がいないことを確認しながら、妹のシーナに語りかける。エストに到着した彼女が、マーシャルに先行してこの村に足を踏み入れたのは、一つ、確認すべき案件があったからである。 「この村に、私達と同じ孤児院出身の、シスター・マリアンヌっているわよね」 「先生のこと?」 ユーナは、マリアンヌのことをそう呼んでいる。前述の通り、マリアンヌは聖印教会の司教であり、これまで自身の聖印の力で多くの村人達を救ってきた。医療そのものに関する知識も豊富なため、シーナにとっては「頼れる先達」であり、自然と「先生」と呼ぶようになった。 聖印教会の教義的には、シーナのような「混沌の力を利用する邪紋使い」は好ましい存在ではないのだが、実際のところ、邪紋使いの大半は、本人の意思と関係なくその身に邪紋を刻んでしまう者が多いこともあり、マリアンヌは「邪紋使いであること」そのものが悪だとは考えていない。むしろ、シーナを初めとする多くの邪紋使いのことを「不運にも混沌にその身を汚されてしまった、かわいそうな存在」と認識した上で、庇護の対象と考えている。 この点では、マリアンヌは同じ聖印教会の中でも、明らかに日輪宣教団とは異なる教派の信者であり、シーナからも素直に尊敬の対象とされているようである。そして、ユーナの方も、マリアンヌに対して特に悪い感情は抱いていない。その上で、ユーナは妹に対して、こう告げた。 「あの人、『先代トランガーヌ子爵の隠し子』なんじゃないか、という噂があるのよ」 ユーナが言うところの「先代トランガーヌ子爵」とは、現在の神聖トランガーヌ枢機卿ことヘンリー・ペンブロークのことである(厳密に言えば「現トランガーヌ子爵」は存在しないので、「最後のトランガーヌ子爵」と言った方が正確かもしれない)。 ヘンリーには、正妻ジェーンとの間にエレナとジュリアンという二人の子供がいるが、エレナは魔法師の素養を見込まれてエーラムに留学して以降の消息が知れず(その現状はブレトランドの英霊7やブレトランドの遊興産業4などを参照)、ジュリアンは「聖印を受け取れない体質」であるが故に後継者とはみなされないまま、現在は邪紋使いとなって、グリース子爵ゲオルグの庇護を受けている(その経緯はブレトランド戦記7参照)。すなわち、現時点では「ヘンリー直系の後継者」が不在であり、誰を次期枢機卿候補にするかを巡って、神聖トランガーヌの国論は割れていた。 そんな中、「ヘンリーが若い頃に『臣下の妻』を孕ませて、生まれた子供を孤児院に出した」という噂が一部で流れており、その「生まれた子供」がマリアンヌなのではないか、という怪情報を、アントリアの筆頭魔法師であるローガン傘下の諜報部隊が掴み、その真相を確かめるべく、ユーナを先行してこの地に派遣した、とのことである。 実際のところ、ユーナの記憶では、子供の頃、孤児院の人々が、マリアンヌの「母親」の生存を仄めかすような話をしているのを聞いたことがある(「孤児院」においては、それは明らかに異例の状況である)。また、マリアンヌは(過去のとある事件の結果、現在は片目を失った姿となってしまったが)、孤児院育ちの割には気品のある顔立ちであり、「実はやんごとなき家の令嬢」と言われても納得出来る話であるように、ユーナには思えた。 その上で、アントリア内の聖印教会信者(特に、アントリア騎士団内のアドルフ・エアリーズ副団長の傘下の人々)の中には、もしマリアンヌがヘンリーの娘であるならば、彼女を(神聖トランガーヌ勢力の切り崩しのために)マーシャルの花嫁候補としても良いのではないか、と考える人もいる、とユーナは語る。 「えぇ!? そ、それは……」 「まぁ、さすがにシスターの方が5歳も年上だから、実現はしないとは思うんだけどね。むしろ、デイモンさんの方がシスターとは歳が近いのだから、あの二人がくっついてくれた方が自然なんじゃないかと私は思うんだけど」 これは、マーシャルやローガンの意思を無視した、ユーナの完全な独断的妄想である。とはいえ、デイモンのソリュート領主就任当初から「領民達との良好な関係を築くためには、あの二人が結ばれるのが一番なのでは?」との声は村の内外から出ていたし、そもそもデイモンの領主抜擢自体、マリアンヌとの婚姻を期待した上での施策ではないのか、という噂もあったほどである(実際には、二人とも全く「その気」はない様だが)。 「分かったわ。そうなれば、マーシャル様の縁談は無くなるのね? やり方はさっぱり分からないけど、頑張ってみたいと思う」 シーナはそう答えるが、さすがにユーナもこの点に関してはそこまでシーナに期待してはいない。むしろ、より深刻な問題として、ローガンから聞かされた「シスター・マリアンヌに関する危険性」について、ユーナは語り始める。 「実際のところ、シスターがもし本当にその血筋の人だとしたら、神聖トランガーヌの人が黙ってはいないと思うから、少し警戒した方がいいと思う。彼女は、私達邪紋使いや魔法師を皆殺しにするような人ではないと思うけど……」 「うん、あの人は、優しい人だからね。私にも、邪紋を使わない治療の仕方とか、色々と教えてくれたし」 マリアンヌの本音としては、それは「出来れば邪紋の力を使って欲しくない」という気持ちの現れでもある。マリアンヌ自身、混沌を人為的に利用することに関して、やはり、あまり快く思ってはいない。その上で、その利用を控えようと考えない人々に対しては、自分の考えを強制するよりも、「混沌を使わなくても生きていく選択肢」を提示した上で、自主的にその使用を控えることを促そうとするのが、彼女の流儀である。とはいえ、現実問題として邪紋を用いた方が、より多くの人々を効率的に救えることは明白であるため、シーナとしても(マリアンヌの考えは理解しつつも)どうしても必要な時は、邪紋の力を用いることを控える気はない。 「そうね。でも、彼女の血統を利用しようとする神聖トランガーヌの過激派の人達が、彼女に密かに接触してくる可能性はあるわ。そうなったら、何が起きるかは分からない。明日には、マーシャル様やローガン様もこの村に来るから、その時までにもし何か怪しげな動きがあったら、すぐに私に教えて。私は村の広場の南側の宿に部屋を取ってるから」 そう言って、ユーナは妹の家を後にする。そんな姉の姿を見送りながら、シーナは先刻までの緊迫した会話の時とは一変して、幸せそうな笑顔を浮かべながら、ボソッと独り言を呟く。 「そうかぁ、明日、マーシャル様が来るのかぁ」 その表情をユーナが見たら、あまりの緊張感の無さに呆れるかもしれない。だが、常にマーシャルの傍に居られるユーナとは異なり、シーナにとっては、約1年ぶりの再会である。その喜びを押し殺せと言われても、それは15歳の少女には酷な話であろう。心なしか小躍りするような足取りで、彼女は召集令状に従って、領主の館へと向かうのであった。 1.4. 倉庫荒らし 一方、そんなシーナと共にこの村を支える、もう一人の「15歳の少女」(下図)は、領主の館内の一室にいながら、まだ召集令状に手をつけていない状態であった。 彼女の名は、ハルナ・カーバイト。デイモンの契約魔法師である。元々は宝石細工師の家に生まれた彼女は、指先を怪我することが多かった父を助けるために、治療の技術を身につけようと生命魔法師を志すが、生来の素養に恵まれなかったのか、なぜか治癒魔法が今一つ身につかず、そんな状況の中で自分に出来ることを探し求めた結果、生命魔法科の中でも特殊な「治癒よりも(主に自身の)身体強化」を極めた「常盤学派」の道へと進むことになる。 魔法師として当初目指していた志を達成出来なかったことへの悔いは今でもあるが、そんな今の彼女に新たな道を示したのが、現在の師匠である「放蕩魔法師」カルディナ・カーバイトである。エーラム内では「魔法師としては一流だが、指導者としては三流以下」となどと揶揄されるカルディナではあるが、そんな彼女の自由奔放な生き方は、幼き日のハルナに強い希望を与えた。 そして、カルディナから借りた 異界文書 に載っていた「ベルトの力で変身して戦う異界の英雄」の存在を知ったハルナは、生命魔法と基礎魔法を複合的に応用することで、自分自身がその「異界の英雄」のような存在となる道を切り開くことに情熱を傾けるようになる。およそ魔法師とも思えぬような(むしろ一部の邪紋使いのような)目標を掲げる彼女に対して、周囲の者達の反応は冷ややかであったが、カルディナはそんなハルナの「こだわり」を優先し、自由にやりたいようにやらせた結果、同い年のフレイヤ(ブレトランドの遊興産業4参照)と共に、弱冠13歳で常盤学科を卒業し、デイモンと契約して現在に至る。 ちなみに、彼女の魔法の発動体は、宝石細工師である父の「最高傑作」のアクセサリであり、それをベルトに翳すことで、彼女は「変身」する。ちなみに、この「変身」自体が戦場などにおいて特に何かの役に立つという訳でもない。純粋に、彼女は「カッコいいから」という理由だけで、その姿を模しているだけである。 そんなハルナが、領主の館の一角に与えられた自身の研究室にて、新たな「変身魔法」の開発にいそしんでいると、彼女のベルトに装着されているタクトに、外部から何者かの通信が入った。ベルトからタクトを抜いてその通信を受けると、そこから聞こえてきたのは、彼女の師匠であるカルディナ(下図)の声であった。 「おぉ、ハルナ、元気か?」 「あ、先生! はい、元気です! でも最近、強化変身の魔法の開発が上手くいかなくて……」 「そうか。それは、ヴィジュアルの問題なのか? 性能の問題なのか?」 「両方です」 そう言いながら、ハルナは肩を落とす。もっとも、何がどう問題なのかは、彼女以外の誰にも分からない。ハルナが目指す「異界の英雄」の理想像がどこにあるのかが、彼女自身にしか分からない以上、他の者としても、助言の仕様がないのである。 「なるほどな。ちなみに、私はさっき、エストの街でマーシャル殿と出くわしてな。今、マーシャル殿とテニスに興じているところだ。あの方にしては珍しく、このような遊びに対して、妙にやる気になったみたいでな」 そう語るカルディナの声の向こう側から、ラケットでボールを打つ音が聞こえてくる。どうやら、マーシャルを相手に右手でラケットを持ってラリーしつつ、左手でタクトを持って通話しているらしい。ちなみに、エストには、テニス発祥の地と言われるブレトランドの中でも、特に大きなテニスコートがあることで有名である。 「あと、さっきここの領主の御老公にも会ってな。ちょうどこれからマーシャル殿と一緒にソリュートに行って茶会を開くとのことだから、私もご相伴にあやかることにした」 「そうなんですか。じゃあ、先生もこっちにくるんですね! 強化魔法の開発、手伝って下さい」 「分かった。その代わり、一番いい茶葉を頼むぞ」 「大丈夫ですよ。ウチではニャンコ先生がすごく頑張って紅茶を作ってますから」 ハルナはシュニャイダーのことを「ニャンコ先生」と呼んでいる。その呼称も「異界文書に載っていた誰か」が語源なのかどうかは、定かではない。 こうして、二人がタクトを通じてそんな会話を交わしている中、突然、ハルナの研究室を荒々しく開く音が響き渡った。 「大変です!」 そう言って扉を開けたのは、館の使用人である。通常、契約魔法師の部屋にノックも無しに入室することはありえない。だが、そんな「常識」をも忘れるほど、彼は気が動転していた。 「なんですか? 今、先生と会話中なんですけど」 「倉庫に貯めていた茶葉が、何者かに荒らされています!」 「は!?」 思わず、ハルナも大声をあげる。すると、タクトの向こう側からも、カルディナが反応した。 「どうした? 今、茶葉がどうとか聞こえたが……」 「だ、大丈夫です、多分!」 そう言って、ハルナは師匠との通信を切り、その使用人に案内されながら、領主の館の敷地内に設置された「茶葉の倉庫」へと向かう。すると、この村で醸造して出荷間近だった茶葉の箱が荒らされて、茶葉の中でも一番品質が良いと言われる「先端部分」が切り取られていた。 絶句するハルナに対して、倉庫の警備員達は、焦燥した様子で弁明する。 「少なくとも、我々の警備は万全だった筈です。それでも入り込めるとしたら、何か特殊な能力を持つ者か、あるいは猫くらいしか……」 彼は特に深い意味もなく「猫」という言葉を用いたが、この村の住人であれば、そこからは自然とシュニャイダーの顔が思い浮かぶ。 「でも、さすがにニャンコ先生が自分で荒らすってことはありえないし……。厳重な警備をかいくぐって侵入出来る能力者だとしたら……、『影』の邪紋使いくらいかしら」 ちなみに、実はハルナには一人、「影の邪紋使い」の友人がいる。それはシーナの姉のユーナである。ハルナは極度の甘党で、以前にスウォンジフォートを訪問した際、城下町のケーキ屋で知り合って意気投合した関係であった。しかし、ハルナはまだ、ユーナがここに来ていることは知らないし、仮に知っていたとしても、彼女のことを疑いはしないだろう。 ハルナが倉庫の前で呆然としていたところで、デイモンから派遣された使用人により、召集令状が彼女にも届けられた。どうやら、彼女が魔法の研究に専念していた状況であったが故に、部屋に入るのをためらって、部屋の近くで待機していたところで、このような事態が勃発し、慌てて彼女を追って倉庫まで来たらしい。 「とりあえず、あなた達は警備を続けて。私はマスターのところに報告に行ってきます」 そう言って、彼女は召集令状に指定されたデイモンの執務室へと向かう。恩師に対して誠意を持って「おもてなし」をするためにも、一刻も早くこの事件を解決しなければならない。彼女は強い決意を持って、「マスター」の元へと歩を進めるのであった。 2.1. 連動仮説 こうして、領主であるデイモンの執務室に、契約魔法師のハルナ、駐在武官のシーナ、茶畑の管理人のシュニャイダーが集められた。もっとも、形式的には「集められた」ことになっているが、実際のところは、召集令状が無かったとしても、三人は「それぞれの事情」により、デイモンの元に自主的に足を運ぶことになったであろう。だが、そんな事情など知る由も無いデイモンは、ほぼ同時に到着した三人に対して、伝えるべき現状を語り始める。 「先刻、父上から届いた手紙によると、明日、マーシャル代行閣下がソリュート村を視察に訪れるらしい。その上で、この機にこの地で茶会を開きたいということなのだが、その前に、解決しなければならない問題があるようだ」 そう言って、彼は「神聖トランガーヌの一員となった先代領主ルビールが、この村に近付きつつあること」「デイモンとマリアンヌが、神聖トランガーヌと繋がっているのではないかと疑われていること」を伝える。すると、その説明がひと段落したところで、デイモンがそのための対策を講じる話をしようとした瞬間、ハルナが口を挟んだ。 「あ、あの、マスター、ちょっといいですか?」 領主の話を途中で遮るのは無礼だとは思いつつも、ハルナとしては、茶会の話が出た時点で、一刻も早く「あのこと」を伝えなければならない、と判断したようである。そんな彼女の深刻な表情を見て、傍に立つシーナが不安そうに問いかける。 「どうしたんですか、ハルナさん?」 「そのお茶会を開くために必要な倉庫の茶葉が、荒らされて……」 「ニャ、ニャンだってー!?」 ハルナの言葉に対して、シュニャイダーが真っ先に大声を上げる。茶畑の管理人としては、当然の反応であろう。それに対して、デイモンは比較的落ち着いた口調で答えようとする。 「そうなんですか? まぁ、明日のお茶会に関しては、一番良質の茶葉を人数分用意出来れば、それで良いのですが……」 「その『一番良質な部位』が切り取られてたんです!」 「えぇ!?」 さすがに、そう聞かされたデイモンも、思わず声を上げる。その横ではシーナが呆然とした表情を浮かべ、そしてシュニャイダーは怒りに震えていた。 「そ、それは……」 「戦争ニャ!」 どうやら、シュニャイダーにとっては、茶葉泥棒は「宣戦布告」に等しい行為らしい。 「そうなると、私への疑いを晴らすと同時に、一刻も早くその茶葉荒らしの犯人も探さなければならないな……」 「もしかしたら、その神聖トランガーヌ側から送り込まれた尖兵の仕業かもしれませんね。もしそうなら、まとめて捕まえてしまえば、マスターの疑いも晴れて、一石二鳥なのですが」 思案を巡らせるデイモンに対して、ようやく少し落ち着いたハルナが、そんな仮説を提示する。ただ、神聖トランガーヌは過激な聖印絶対主義を掲げており、その傘下には魔法師も邪紋使いも投影体もいない以上、「厳重な倉庫への潜入」といった「小技」が出来る者がいるのか、という疑問もある。 「そうニャ! 吊るし上げニャ! 火あぶりニャ!」 シュニャイダーはそう言って怒りを爆発させつつ、この流れで思い出したかのように、ローレンスから聞かされた「巨大な投影体の出現の噂」と「神聖トランガーヌの一派による焼き討ち計画」のことを伝える。 「……ということで、私の畑が燃やされるかもしれないニャ! これは由々しき事態ニャ!」 その説明を聞いたデイモンは、納得したような表情を浮かべる。 「なるほど。既にその神聖トランガーヌからの尖兵達がこの地に入り込んでいるなら、茶葉荒らしの件も彼等の仕業である可能性が高そうですね」 「そうだニャ! そいつかもしれないニャ! とりあえず、防御を固めるニャ!」 「だとしたら、これを解決すれば一石三鳥ですね、マスター!」 こうして、デイモン、シュニャイダー、ハルナの三人が、この三つの事案が連動しているという仮説に基づいて事件の解決への道を模索し始めている中で、シーナだけは一人、複雑な表情を浮かべていた。彼女としては、幼馴染で親しい関係にあるマリアンヌが、これらの一連の事件に関わっているとは思いたくないし、おそらくデイモンもそう考えてはいないだろうことは、彼の様子から伺える。 しかし、もしここでシーナが、姉から聞かされた「マリアンヌ御落胤説」を彼等に告げた場合、マリアンヌへの疑惑が急速に高まることになるだろう。マーシャルの身を案じるシーナとしては、彼の来訪中にこの地で騒乱が起きる事態は避けたいと考えてはいたものの、マリアンヌと衝突するような事態も起きて欲しくない。結局、彼女はこの場では、その「不安要素」としてのマリアンヌの疑惑を口にすることは出来なかった。 2.2. 調査開始 こうして、翌日の茶会に向けて、デイモン達は村で発生した(あるいは発生しつつある)諸々の事件についての調査を開始する。 まず、シーナは茶葉荒らしの実行犯を特定するために、村に滞在している姉のユーナの知恵を借りることにした。ユーナは潜入能力に長けた「影」の邪紋使いである以上、「厳重な倉庫に忍び込む方法」に関しても、何か心当たりがあるのではないか、と考えたのである(理論上は、ユーナによる仕業、と考えることも出来なくはなかったが、さすがにシーナは実の姉を疑うような性格ではなかった)。 宿を訪れたシーナが一通りの事情をユーナに伝えると、ユーナはしばし熟考した上で、いくつかの仮説を提示する。 「私のような『影』の邪紋使いか、あるいは『幻影』の邪紋使いなら、警備の目をごまかして侵入することは出来るかもしれない。でも、神聖トランガーヌが関わっているのだとしたら、どちらも可能性は低そうね」 無論、神聖トランガーヌ内の思想も過激派一辺倒では無いので、尖兵として邪紋使いを利用する可能性も無い訳では無いし、それ以前の問題として、そもそも神聖トランガーヌ側の仕業だと決まった訳でも無い。 ただ、ここで彼女は「猫くらいしか通れそうに無いほど厳重な警備」を、「聖印」の力で突破する一つの方法を思いつく。それは、つい先日、彼女が船上で遭遇した「鯨姫」の能力である。 「聖印を使う人達の中には、自分の乗騎となる動物を小型化する能力を持っている人もいるわ。だから、聖印教会の人達なら、小型化した動物を潜入させることも可能なのかもしれない」 もっとも、小型化した動物に、そこまで器用なことをさせられるのかどうかは、その能力について精通している訳ではないユーナには判別がつかない。 「なるほどね。分かったわ、ありがとう、お姉ちゃん」 シーナはそう言って、ひとまず領主の館へと帰還する。これが解決の手がかりに繋がるかどうかは分からないが、少なくとも聖印教会が関わっていた仮説を裏付ける一つの根拠は手に入ったと言える。もっとも、シーナにしてみれば、それはマリアンヌへの疑惑を強める根拠でもあったので、結果的に尚更複雑な心境にさせられることになった訳であるが。 ****** 一方、ハルナは倉庫の近辺の人々から、事件が起きたと思しき時間帯の情報を聴き集めていたところ、幾人かの者達から、興味深い目撃証言を聞き出すに至る。いずれもはっきり形状が見えた訳ではないが、村の中で「奇妙な小動物」を見た者達がいるらしい。 (誰かが小動物に姿を変えていたのか、小動物を使役していたのか、あるいは、小動物そのものが犯人なのか……) 色々な可能性を考慮に入れつつ、倉庫近辺を中心に、その小動物の痕跡が残っていないかを調べようかと考えたが、その前に、ひとまず領主の館へと帰還することにした。実際のところ、彼女はそう言った「物理的な痕跡」を探す作業には自信がなかったのである。 (多分、こういうのはニャンコ先生にお願いする方が得策よね) ****** その間に、デイモンは「この地域に出現すると言われている巨大な混沌核」に関して、村に伝わる文献などを中心に色々と調べてみたが、少なくとも過去にそこまで大規模な混沌災害が起きたという記録は見つからず、これといった手がかりには辿り着けなかった。 (こうなると、実際に混沌の高そうな場所を調査するしかない。そうなると、それはむしろハルナさんの領域ですね) デイモンはそう結論付けて、ひとまず文献の精査を取りやめる。普通に考えれば、このような文献確認もむしろ魔法師の領域なのだが、ハルナは(同い年のフレイヤ同様)座学に弱く、ほぼ実技試験の成績のみで卒業試験を突破した「実践型魔法師」のため、デスクワーク自体が得意ではない(故に、デイモンは「毒使いの殺戮者」という周囲の評価とは裏腹に、日頃は大量の書類の山と地道に戦う日々を送っていた)。とはいえ、村の近辺の混沌の散布状況などを確認するとなると、さすがにそれはハルナに任せるしかなかった。 ****** そして、シュニャイダーは村の猫達を相手に聞き込み調査を実行してみたのだが、残念ながら、こちらもこれといった情報には辿り着けなかった。少なくとも、野良猫界隈の中で、茶葉に手を出した者はいないようだが、特に怪しげな者が村に入ってきた様子も確認出来なかった。もっとも、彼等はあくまでも「ただの猫達」であり、人間基準で見た時に多少奇妙な風貌であっても、それが「異形の存在」なのかどうかを判断する基準を持たない。ましてやシュニャイダー(ケット・シー)という「自分達と似て非なる存在」を長年自然に受け入れてきた野良猫達にしてみれば、そもそも何が「怪しい存在」なのかを判別するのも難しいだろう。 (結局、ただの世間話だけで終わってしまったニャ……) 心の中でそう呟きながら、トボトボと一人、失意のまま帰還するシュニャイダーであった。 ****** こうして、一旦再合流した彼等は、状況を確認した上で、それぞれの得意分野を再考慮しつつ、担当者を替えて次の捜査段階へと移行する。デイモンとシュニャイダーは倉庫近辺の足跡の捜索、ハルナは村の近辺の森林地帯の混沌の気配の調査、そしてシーナはマリアンヌへの聞き込みへと向かうのであった。 2.3. 聖女とチーズケーキ シーナがマリアンヌの教会に様子を見に行くと、マリアンヌはいつも通り、体調を崩した村の人々の診療や、悩み相談に応じていた。邪紋使いの身ということもあり、シーナは恐る恐る礼拝堂に足を踏み入れると、一仕事終えて休憩していたマリアンヌは、笑顔で問いかける。 「あら、シーナさん。今、領主様達が何か慌ただしく動いてるみたいですけど、どうかしましたか?」 どうやら、ハルナが村民達を相手に聞き込み活動をしていることが、マリアンヌの耳にも伝わってきたらしい。 「えぇ、その、ちょっと色々ありまして……。ところで先生、最近、何か聖印教会の方で、変な動きがあったりしないでしょうか?」 そう問われたマリアンヌは、少し小首をかしげながら答える。 「うーん、まぁ、皆さんにとっての『変な動き』と言えば、『神聖トランガーヌの存在そのもの』が変な動き、ということになるでしょうね」 「そう言った過激派の人達が、この辺りで何か活動しているというような話は?」 「確かに、そういった噂は色々あるみたいですね」 マリアンヌは淡々とそう答えるが、シーナは直感的に、彼女の口ぶりから「何かを隠しているような様子」を感じ取る。しかし、そこにどう切り込めば良いか分からない。 そんな中、一人の中年女性が礼拝堂に現れた。彼女は料理上手で評判な村の主婦の一人である。その掌の上には「黄褐色の菓子のような何か」を乗せた皿があった。ほのかに漂う匂いから、それがチーズケーキの類いだということをシーナは察する。 「マリアンヌ様、こちらでよろしいでしょうか?」 女性がそう言うと、マリアンヌは笑顔で頭を下げる。 「ありがとうございます」 「でも、どうしたんですか? 急にチーズケーキが欲しいだなんて」 「実は前々から一度、食べてみたいと思ってまして。でも、今は仕事中なので、後でいただきますね」 そう言いながら、教会の敷地内に位置する彼女の自宅(小屋)へと運んでいく。シーナの記憶では、マリアンヌはあまり甘い物を好む性格ではない。その様子にシーナが微妙な違和感を覚えていると、礼拝堂を出たその中年女性が、別の主婦らしき女性達と雑談している声が聞こえる。 「あら、あなたも頼まれたの? 私もついこないだ、チーズケーキを差し入れに持ってきたばかりなのよ。まぁ、司祭様にはいつもお世話になってるし、そんなに手間がかかるものでもないから、別にいいんだけど」 「そういえばここ最近、司祭様の様子がちょっとおかしいわよね。何か気を病んでいるような……。もしかして、その気苦労を解消するためのチーズケーキなのかしらね」 「そうね。甘いものに逃げたくなる時って、確かにあるものね」 彼女達の話を耳にしたシーナは、マリアンヌの「気苦労」の要因の可能性に思考を巡らせ、そして、「嫌な予感」が徐々に募っていく。 (まさか先生が……、いや、でも、まさか……) 「否定したい仮説」が自分の中で広がっていくのを実感しながら、ひとまずシーナは教会を後にする。なんとか「最悪の展開」だけは避けたいと考えつつも、そのためにどうすれば良いかが分からずに苦悶するシーナであった。 2.4. 異形の痕跡 一方、その間にデイモンとシュニャイダーが倉庫の周辺の諸々の痕跡をくまなく捜査した結果、二人は「見たことがない小型生物」の足跡を発見する。おそらくは「小型犬」か「猫」程度の大きさだと推測されるが、明らかに普通の動物の足型とは異なる、何らかの異形の存在であろうことはすぐに分かった。更に、その足跡の近辺には「茶葉の欠片」と思しき粉末も散見される。 二人がその足跡と粉末を追っていくと、やがてそれは、村の教会へと続いていき、最終的には、教会の敷地内にある小屋へと繋がっていく。それは「マリアンヌの私室(自宅)」であった。ちなみに、彼女は独身であり、その小屋には彼女以外には誰も住んでいない筈である。少なくとも、デイモンの知る限りは。 「さすがに、ここでいきなり踏み込むのは早計ですかね。もう少し、容疑を裏付けるような情報を集める必要があるでしょう」 「そういうことなら、任せるニャ!」 そう言って、シュニャイダーは教会の近辺の猫達を集めて、「茶葉を咥えた奇妙な動物」を見た者がいないかどうかを確認しようとしたが、残念ながら、一件も目撃情報は見つからなかった。正確に言えば、どうやら事件が起きたと思しき昨夜の時点では、誰もこの辺りにはいなかったらしい。 「うーん、どうにも今日は不調だニャ……」 そう言ってシュニャイダーは肩を落とす。とはいえ、見つからないものは仕方がない。デイモンとしても、ここで彼のことを責める気はサラサラ無かった。 ****** こうして皆がそれぞれに村の中での事件の調査を進める中、森へ向かう筈のハルナは、その前に村の酒場に立ち寄っていた。状況によっては、調査の過程で巨大な(危険な?)投影体と遭遇するかもしれないと考えた彼女は、自分の中でのテンションを上げるために、まずは一杯ひっかけることにしたのである(ちなみに、まだ昼間である)。 なお、彼女は15歳であるが、この世界では飲酒年齢に関する明確な基準はなく、この村にも特に固有の規制はない。故に、誰に酒を出して良いかは酒場主の自己判断という形になるのだが、さすがに契約魔法師としてこの地に赴任しているハルナを「酒も飲めない子供」扱いすることは憚られたのか、いつの間にか彼女はこの店の常連客となっていた。 ちなみに、彼女は別に酒に強い訳ではない。まだ身体が未成熟なこともあるが、少し酒を飲んだだけで、すぐに酔っ払う。だが、彼女はむしろ、その「酔っ払って気が強くなった状態」の方が、魔法の成功率が高い(本人談・未実証)ため、契約相手であるデイモンも、そんな彼女の酒癖については、ひとまず黙認しているのが現状である。 「さぁ、気合入ったし、張り切って行くわよー!」 酒場を出たハルナは一人で勝手にそう叫びながら、村の近辺の中でも比較的混沌濃度が高いことで知られる森林地帯へと足を運ぶ。その中でも特に投影体の発生率が高いと言われている区域を中心に、「混沌の流れ」をくまなく調査した結果、どうやら森の一角に、既に何か「巨大な混沌核を持つ投影体」が出現したような形跡があることに、彼女は気付く。おそらくは数日前だと推測されるが、正確な時期までは分からない。 「今のところ、これと言った混沌災害の報告がないということは、ここに出現したのは、友好的な投影体? いや、でも、まだ今の段階でそう決め付けるのは早計かしら?」 そんな独り言を呟きながら、ハルナはひとまず村へと帰還する。この時点で一度、酒は抜けかけていたが、帰還後の報告前に、彼女は再び酒場へと足を運ぶのであった。 2.5. 様々な可能性 こうして、再び領主の館へ合流した彼等は、それぞれの調査報告をまとめる。この時点で、時は既に夕刻に差し掛かっていた。 「どうやら、もう『巨大な混沌核を持つ投影体』は、出現した後みたいだわ。でも、今のところ、近隣の村でも、特に大きな投影体による被害は出てないのよね?」 「えぇ、特に話は聞いていないですね」 酒の匂いを漂わせながら、領主に対して「タメ口」でそう語るハルナの報告に対して、デイモンはそう答える(ほろ酔い状態の時のハルナのこのような態度に対しては、デイモンとしては、あえて正す気もなかった)。とはいえ、今の時点ではまだ何らかの形で「潜伏」している状態かもしれないので、油断は禁物であろう。 続いて、今度はシーナが口を開く。 「マリアンヌさんは、なぜか分からないけど、村の人達にチーズケーキを頼んでたみたいだわ。あと、最近、顔色が悪いみたいだけど……」 どこか言いにくそうな口調でシーナがそう伝えると、ハルナが「何かを閃いたような顔」を浮かべて、デイモンに問いかける。 「マスター、マリアンヌさんは、昔からチーズケーキが好きだった訳ではないのよね?」 「そうですね。特別好物だったという話は聞いたことがないかな」 そう言われたハルナは、ニヤリと笑う。 「だとしたら、結論は一つね。オトコよ、オトコ。新しいオトコが出来たに違いないわ。早速、そのオトコのツラを拝みに行きましょうよ!」 「いや、男に食べさせるなら、普通、自分で作って食べさせるのでは?」 デイモンがそう指摘すると、ハルナは呆れたような顔を浮かべる。 「だから、そのおばちゃん達に作らせたチーズケーキを『自分で作った』と言って出すのよ」 「なるほど……、その発想はなかった」 「マスター、ダメよ、そんなんじゃ。少しはそういうことにも興味を持って。マスターもいずれは誰かと結婚するんだから」 「しかし、それを理解出来るようになったら、イヤな性格の男になるだけでは?」 「その辺を分かった上で、気付かないフリをしてあげられるのが、いい男ってやつよ、マスター」 酒の勢いで勝手に決め付けて盛り上がっているハルナに対して、シーナが横から口を出す。 「ハルナちゃん、ちょっと落ち着いて」 「シーナも一緒に見に行きましょうよ。興味あるでしょ?」 「うーん……、食べさせる相手が『男』ならいいんだけどね……」 シーナのその思わせぶりな言い方を、今度はデイモンが気にかける。 「彼女に関して、何か疑わしいことがありましたか?」 それに対して、シーナはまだ「例の噂」について言い出せずに、そのまま口籠る。すると、話の流れを気にせず、ハルナが再びデイモンに問いかけた。 「マスターは何か、分かったのかしら?」 「倉庫の近くに『よく分からない生き物の足跡』があったので、それを調べてみたら、教会内のマリアンヌの自宅に繋がっていました」 「それなら、尚更マリアンヌさんの家を調べる名目が出来たじゃない。すぐ行きましょうよ」 もはや、何が主目的なのかもよく分からなくなっているハルナがそう促すと、デイモンもやや迷いながらも同意する。 「まぁ、彼女が体調不良ということならば、確かにそれも気になるし、直接聞きに行ってみる必要はあるかな」 「全員で行く必要はないでしょ。何人かが彼女を呼び出して話を聞いてる間に、他の誰かが忍び込めばいいわ」 「なぜ、忍び込むことが前提に?」 「オトコの顔を拝むためよ」 さすがにそろそろ、酒に酔っている時のハルナの相手は面倒だと内心でデイモンが思い始めている辺りで、シーナが割って入る。 「ハルナちゃん、落ち着いて(二回目)」 「マスターは気にならないの? 幼馴染なんでしょ。友達の恋路を冷やかすことで関係を盛り上げてやるのも、友達の役目よ」 「あの、ハルナちゃん、落ち着いてね(三回目)。でも、デイモンさんが先生とは一番歳が近い訳だから、直接話を聞いてみるなら、デイモンさんがいいと思うわ」 「そーよ、そーよ」 そう言われたデイモンは、(ハルナのことは無視しつつ)シーナの意見には一理あるとは思いつつも、確認の意味を込めてシーナに問いかける。 「でも、幼馴染という意味ではシーナも同じですし、医療方面で一緒に仕事をすることも多い訳だから、今はむしろ私よりも彼女に親しいのでは?」 「私は、邪紋を刻んでしまったことで、少し壁が出来てしまっているから……」 「なるほど。確かに、今の彼女は聖印教会の司祭である以上、そこはお互いに色々あるでしょうね。では、私が聞いてみましょう」 「じゃあ、よろしく、デイモンさん。あと、ハルナちゃんはコレ」 そう言って、シーナはハルナに水を渡す。ハルナがそれを口にすると、少しずつ、彼女の顔色が「平常時」に近付いていく。 「あ、ちょっと、酔いが覚めてきました……。えーっと、マスター、マリアンヌさんのところに行くんですね。よろしくお願いします」 「あれ? ハルナちゃんも行くんじゃニャかったのかニャ?」 シュニャイダーにそう言われると、ハルナは呆れたような口調で答える。 「いやだなぁ。せっかくマリアンヌさんに『いい人』が出来たなら、あんまり大勢で自宅に押しかけたら、迷惑じゃないですか」 どうやらハルナは、酔ってる間の記憶や意識が残っているのかどうかが微妙なようである。とはいえ、もしマリアンヌが何らかの陰謀に加担していた場合、領主一人で彼女に対面させて良いかどうかは、微妙な問題である。 「じゃあ、私が一緒に行くニャ」 シュニャイダーがそう言うと、ハルナとシーナもそれに同意した上で、彼女達はマリアンヌ以外に村内に間者と思しき人物がいないかどうかの調査へと向かうことになった。 2.6. 夜の待ち人 陽が落ちた頃、教会の敷地内にあるマリアンヌの自宅へと向かおうとしたデイモンとシュニャイダーは、その教会の礼拝堂の前で、一人の若い女性と思しき人物が、誰かが来るのを待っているのに気付く。この時、シュニャイダーはその人物の姿に違和感を覚え、じっくりと凝視した結果、その「正体」を見破ることに成功する。 「あれは……、女装しているが、前の領主の配下だった男ニャ。確か、名前はギュンターとか言ったニャ」 シュニャイダーの記憶によれば、ギュンターは先代領主ルビールの側近の騎士見習いであった。歳はおそらくハルナやシーナと同世代の少年であり、2年前に比べて多少は背が伸びたようだが、それでも小柄な体格のため、一目見ただけでは女性であることを疑いようがないほどに完璧に擬態している。それをシュニャイダーが見破れたのは、おそらく妖精特有の感性故であろう。あるいは、「夜」である今の時間帯の方が、その猫的な感性が研ぎ澄まされているのかもしれない。 「正体を隠してこの村に来ているということは、何かを企んでいることニャ」 「なるほど……。確かに、それは怪しいですね。これは、ハルナやシーナにも来てもらった方が良いかもしれません」 デイモンはそう言いながら、ハルナとシーナに対して「教会に来るように」という旨を記した手紙を書き、それをシュニャイダーに託す。シュニャイダーは周囲のにいた猫を呼び寄せて、それを二人に届けるように指示した。 そして、やはり夜の方が猫達は活発になるようで、すぐにその手紙はハルナとシーナへと届けられ、四人はあっさりと合流を果たす。なお、この時点で、まだ「女装したギュンターと思しき人物」は、教会の前で一人立ち続けていた。 「もし、彼が内通者だった場合、どうも誰か人を待っているようなので、他にも仲間がいるのかもしれません」 デイモンはそう言った上で、シーナとハルナをその場に「監視役」として残した上で、デイモンとシュニャイダーは、当初の予定通り、まずは同じ敷地内のマリアンヌの自宅へと向かうことにした。 「こちらで何かあったら、『赤い信号弾』を打ちましょうか?」 ハルナがデイモンにそう問いかける。彼女が言うところの「信号弾」とは、空中に浮かび上がらせる「映像」のことである。これは、彼女のアイデンティティである「変身」の際に用いる幻影魔法の応用であった(なお、余談だが、エルマにいる彼女の姉弟子が作り出す「無声映画」も、その原理は同じである)。 「それは目立つので、『身の危険があった時』だけでいいです。それ以外の時にどうするかは、そちらの判断に任せます」 「いざという時のために『伝令猫』も残していくニャ。手紙を書いて渡してくれれば、私のところまで届けてくれるニャ」 「分かりました」 こうして非常時の確認を済ませた上で、デイモンとシュニャイダーがマリアンヌの家へと向かうが、二人が着いた時点では、屋内に明かりが灯っている様子はない。既に陽が落ちているとはいえ、普通ならば、まだ就寝するような時間ではなかった。ちなみに、教会の窓からも光は漏れておらず、まだ中に人がいるようには見えない。 ひとまずデイモンがマリアンヌの家の扉を叩いてみるが、返事がない。居留守を使っている可能性もないとは言えないので、念のため、デイモンが扉に耳を当てて聴覚に神経を集中させていると、彼の傍らに立つシュニャイダーの方が、その自宅の中から「人ではない何か」の気配を感じ取った。 「これは……、投影体の気配ニャ」 彼はそう断言する。マリアンヌの中では、投影体は「不幸にもこの世界に呼び込まれてしまった魂の迷い子」という位置付けであり、人に危害を与えないならば、討伐の対象とは考えていない。それ故に、彼女が何らかの投影体を自宅の中に匿っている可能性は、十分に考えられるだろう。問題は、それが「人に害をもたらす投影体」なのかどうか。より正確に言えば「この村に害を為そうとする意図を持つ投影体」なのかどうか、である。 しかも、シュニャイダーの直感が間違っていなければ、その投影体からは、かなり強大な混沌の力が感じ取れる。もしかしたら、ハルナが言っていた「森で出現した巨大な混沌核の投影体」なのかもしれない。しかし、だとしたら、なぜその投影体を彼女が庇うのかが不明であるし、もしかしたら、逆に彼女を襲うことを目的に忍び込んでいる投影体の可能性もある。 いずれにせよ、家主であるマリアンヌが不在の状態で、無断で踏み入って良い状態ではないと判断したデイモンは、シュニャイダーと共に、しばらくその小屋の前で彼女の帰還を待つことにした。 2.7. 近付く真相 一方、その頃、ハルナとシーナが見張っていた礼拝堂の前に、マリアンヌが到着した。と言っても、教会の敷地の構造上、彼女の自宅に行くには礼拝堂の前を通らなければならない。そして、彼女の様子から察するに、どうやら彼女はギュンターに会うためにこの場に現れた訳ではなく、自宅に行く途中で「遭遇してしまった」ような状態に見えた。 ハルナとシーナが近寄って聞き耳を立てる中、マリアンヌは「気の乗らない声」で、ギュンター(推定)に対して声をかける。 「『また』ですか」 そう言われたギュンターは、真剣な表情で語り始める。その声は、女装しているにもかかわらず、明らかに「男性」であることを隠そうとしない声であった。どうやら彼は、自分の正体を明かした上で、マリアンヌに対して何らかの「交渉」を持ちかけているらしい。 「もう時間がないのです。あなたが説得すれば、きっと耳を傾けてくれる筈だ。このままでは、あなたが決断するよりも前に、この村にいることが出来なくなりますよ」 「ですが、私にはやはり、それが『正しい道』とは思えないのです」 「茶畑襲撃は、今回の計画の中ではあくまで陽動ですが、彼等の中では本気です。決して、脅しで言ってるだけではありません」 どうやら、やはり彼は「その筋」の者らしい。話の本題はまだよく分からないものの、少なくとも、聞こえてくる単語から推測する限り、これはただ事ではないと判断したハルナは、懐から筆記用具を取り出し、デイモンとシュニャイダーに「マリアンヌが来た」と書いて、シュニャイダーがこの場に残していた「伝令猫」に渡す。その間にも、二人の会話は続いていた。 「ヘンリー様には、どうしても世継ぎが必要なのです。お世継ぎを連れ帰れば、『今回の作戦』は中止にしてくれると約束して下さいました。あの方は、確かに昔とは変わってしまいましたが、今でも、約束を違えるようなことは絶対にしません」 「分かっています。ですが……、せめて今夜一晩、考えさせて下さい」 「……明日の朝が、限界ですよ」 そう言って、ギュンターがこの場から立ち去ると、ハルナが彼の後を追おうとする。そんな彼女に対して、シーナは心配そうに声をかけた。 「一人で大丈夫?」 「安心して、私は『仮面の騎手』よ」 それは、ハルナが敬愛する「異界の英雄達」の総称である。シーナはその言葉が意味するものはよく分からなかったが、ひとまずハルナを信じて見送ることにした。 「死ぬような無茶だけはしないでよね。死んだら、治せないから」 「大丈夫よ。私が強いことは知ってるでしょ」 「うん、信じてる」 「あなたの方こそ、気をつけてね。あなたは、あんまり戦闘能力がないんだから」 そう言って、ハルナが彼の後を追って行ったのを確認したシーナは、デイモン達の到着を待たずに、独自の判断で、マリアンヌの前に姿を現した。 「あら、シーナさん、どうしました?」 涼しい顔のマリアンヌにそう言われたシーナは、恐る恐る彼女に語りかける。シーナとしては、マリアンヌとデイモンが接触して「最悪の事態」が発生する前に、出来ればそれを止めたいと考えていたのである。 「あの、すいません、今の話、聞いてました……」 そう言われたマリアンヌは「今、自分がギュンターに対して話したこと」を思い出しながら、真剣な顔で問いかける。 「あなた、どこまで事情を把握してる?」 彼女のその声色は、明らかにいつもの「穏やかな慈悲深き聖女」とは異なっていた。一人の「年下の幼馴染」に対して、やや高圧的とも取れるような口調で、片目に鋭い眼光を宿しながら、そう問いかける。 「噂程度ですが……、あなたが、ヘンリー・ペンブローク氏の隠し子かもしれない、という話は伺っています」 そう言われたマリアンヌは、思わずその方目を大きく見開き、拍子抜けしたような表情を浮かべる。 「あ……、そ、そうなんだ……。そうか、そういう噂が流れてるのね……」 「どういうことですか?」 「とりあえず、はっきり言っておくけど、それはただの根も葉もない噂よ。いや、正確に言えば、『葉』くらいはあるかもしれないけど……、少なくとも私の身体には、ペンブローク家の血なんて、一滴も入っていないわ」 幼馴染口調のまま、彼女はそう言って否定する。微妙に含みを残した言い回しではあったが、少なくとも、その言葉に嘘があるようには、シーナには思えなかった。 「じゃあ、なんであのギュンターという男は、あなたの所に?」 「それは……」 マリアンヌがどう答えるべきか迷って言葉を選んでいるところで、デイモンとシュニャイダーがこの場に現れる。これに対して、マリアンヌは再び「村の司祭」の顔に戻りつつも、デイモンに向かって、真剣な表情で問いかけた。 「あなた達も『事情』は知っているのですか?」 「何の話かな?」 デイモンは首を傾げながら、素直にそう答える。実際、彼はマリアンヌの「出自の噂」については、誰からも聞かされていない。マリアンヌは警戒心を緩めぬまま、質問を続ける。ちなみに、デイモンもマリアンヌから見れば「年下の幼馴染」ではあるが、さすがに相手の「領主としての立場」を考慮してか、口調は崩さない(逆にデイモンは、歳の近い幼馴染であるマリアンヌに対しては、他の者達に対してよりも「くだけた口調」で話す)。 「私に話があって、ここに来たのですよね?」 「あぁ、この村の紅茶の茶葉の倉庫が荒らされたという話を聞いてね。その倉庫から続く『奇妙な動物の足跡』が、君の家の近くまで続いていたから、ちょっと事情を聞きたいんだ」 そう言われたマリアンヌは、納得と安心が織り交ざったような顔を浮かべる。 「なるほど。その件については、隠し事をする気はありません。一応、先程『お詫びの品』を、倉庫の警備の方に届けたところなのですが……、それで済む問題でもないですしね」 「お詫びの品?」 「それは御帰還頂いてから確認して下さい。その前に、会ってほしい者がいます」 そう言って、マリアンヌは三人を自宅の小屋へと案内する。デイモン達は今ひとつ事態を把握出来ないまま、彼女に従ってその小屋へと向かうのであった。 2.8. 仮面と翼 一方、その頃、ギュンターの尾行を続けていたハルナは、徐々に彼が村の外へと出て行こうとしていることに気付く。 (こいつを捕まえることが出来れば、マスターの疑いを晴らすことが出来るわ。でも、村の中で騒動を起こすと、厄介なことになるかも) そう考えていた彼女は、あえてギュンターが村の外に出たところで、後ろから声をかける。 「あなた、ちょっと待ちなさい」 そう言われたギュンターは、静かに振り向きながら、女性のような声色で答える。 「私が何か?」 「女性のフリしてんじゃないわよ。あなた、オトコノコでしょ? 正体を現しなさい!」 ギュンターは少し間を開けつつ、平静を装いながら答える。 「この国では、男が女性のような姿をしてはいけない、という法律でもあるのですか?」 「さぁね。でも、あなた、この村で不審な行動をしてたじゃない。とりあえず、私と一緒に来てくれるかしら?」 そう言いながら、ハルナは腰のベルトに手をかける。自分の身体を強化する魔法と、自分の体に覆い被せるような形で幻影を見せる魔法を用いて、「見た目の姿」を変える。それは彼女が長年憧れ続けた、あの「仮面の騎手(魔法師)」の姿であった。 「変身!」 生命魔法師ハルナ・カーバイトは、改造人間ではない。彼女に異界文書を与えたカルディナは、世界征服に興味がない、ただの堕落教師である。ハルナ・カーバイトは純粋な自己満足のために、変身し続けるのだ! だが、彼女がマントを翻してその変身ポーズを決めている間に、ギュンターは懐から「何か」を取り出し、次の瞬間、その「何か」が「天馬」の姿に変わる。彼は聖印によって特別な力を与えられた幻影馬を、聖印の力で小型化していたのである。それはまさに、ユーナが話していた(鯨姫と同じ)「自分の乗騎を小型化する聖印の能力」出あった。 「ペ、ペガサス!?」 ハルナは思わずそう叫ぶ。それもまた、異界文書の別の号に記されていた幻獣(?)の姿にそっくりであった。 「やるじゃない……。さぁ、ショータイムよ!」 彼女は気を取り直して、そう言いながら「魔法(によって強化された身体)」の力で戦うためのポーズを決めたが、ギュンターはそんな彼女を無視して、天馬に跨って夜空へと飛び去って行く。この場にデイモンがいれば、毒矢で追撃することも出来ただろうが(あるいは、一般的な魔法師であれば、何らかの攻撃魔法で叩き落とすことも出来たかもしれないが)、肉弾戦でしか戦うことしか出来ないハルナには、どうすることも出来なかった。 「ちょ、ちょっと、ズルいわよ、そんなの!」 そんな彼女の叫び声もむなしく、あっさりとギュンターは宵闇の中へとその姿を消して行く。こうして、マスターの汚名を晴らすために強い覚悟を持って捕縛を試みようとしていたハルナは、激しい失意に打ちのめされながら、泣く泣く教会へと戻るのであった。 2.9. 紅い衝撃 村のはずれでそんな追撃戦(?)が発生していたことなど露知らず、マリアンヌによって彼女の自宅へと案内された三人は、彼女が部屋の明かりをつけた瞬間、その部屋の中に「 紅い体毛の犬のような何か 」がいることに気付く。一見すると「垂れ耳の小型犬」のように見えるが、その「耳」の部分が、茶葉のような形をしている。 突如部屋に現れた「見知らぬ三人(その中でも特にシュニャイダー)」に対して、その「犬らしき何か」は警戒し、唸り声をあげながら威嚇しようとするが、マリアンヌがすぐにたしなめる。 「こら、アールくん、ダメでしょ」 どうやら、それがこの動物の名前らしい。ちなみに「アール」とは、ブレトランドの方言で「伯爵」を意味する言葉でもある(他の地方では「カウント」と呼ばれることが多いが、これは君主としての「功績」を意味する評価単位と同語源とも言われる)。 「この子はおそらく、投影体でしょう。先日、森で倒れていて、うわごとのように『チーズケーキが食べたい』と言っていたのです」 どうやら人語を解する犬らしい、ということにデイモン達は少し驚きつつ、彼女の話をそのまま聞き続ける。 マリアンヌ曰く、彼女はひとまず彼(?)を家に連れてきて、村の人に頼んでチーズケーキを作ってもらって、食べさせたところ、元気になったという。そして「お礼」のつもりで、アールは「村の倉庫にある茶葉」の中でも「一番上質な部分」を奪い取った上で、マリアンヌの眼の前で「奇妙な行動」を始めたらしい。 「とりあえず、実際に見てもらった方が早いと思います。アールくん、やってみて」 「うん、分かった」 アールはそう答えると、マリアンヌの自室に置いてあった茶葉の束を口に含み、そして次の瞬間、体をブルブルを震わせると、その身体からの体毛の間から、食べた量と同じくらいの茶葉の欠片が抜け落ちるように現れた。 驚いた三人がその「こぼれ落ちた茶葉」に顔を近付けると、そこからは、本来の茶葉の香りに加えて、何か特殊なフレーバーを付加させたような、独特の匂いが漂っていることが分かる。 「どうやらこの子は、『紅茶の妖精』なのか、あるいは『紅茶のオルガノン』なのか、正確なところはよく分からないですが、いずれにせよ『自分の体内に含んだ茶葉』に、『独特の香り』を付加させることが出来る力を持っているようなのです」 「これは、いい茶葉だニャ」 紅茶の専門家であるシュニャイダーが、そう言ってお墨付きを与えると、マリアンヌも少し安堵した表情を浮かべる。とはいえ、さすがに村の茶葉を勝手に盗んだことは大問題なので、先刻、アールが作り出した「フレーバー付きの茶葉」を、荒らした茶葉の倉庫の門番のところに届けに行っていたらしい。マリアンヌとしては、当初は今夜の時点でデイモンを訪問して直接話す予定であったが、結果的に彼等と行き違いになってしまったため、門番達には「詳しい話は明日、領主様に直接お話しします」と言伝していたようである。 ちなみに、この時点で三人は勘付いていたが、この「アールという名の犬のような何か」は、見た目は小型犬程度の大きさだが、その身体からは、相当に強い混沌の力が感じ取れる。おそらくは、彼こそが「森に出現した、巨大な混沌核を持つ投影体」なのであろう。今のところは(「善意の茶葉荒らし」はあったものの)積極的に人に害を為そうとする様子はなく、マリアンヌになついているように見える。 彼女としては、アールが元気になったところで、この世界において守らなければならないルールを教え込んだ上で、いずれ村の人々(特に、教会によく足を運ぶ子供達)に紹介しようと考えていたのだが、その前に茶葉荒らしをやってしまったことでバツが悪くなってしまった上に、最近になって「聖印教会の過激派信徒」が村に潜入しつつあるという状況から、今の時点ではあまり堂々と公にすべきではないと考えていたようである。 「じゃあ、これで茶葉荒らしの件は解決だね。それで、さっきマリアンヌが言ってた『事情』というのは、これとはまた別件なのかな?」 デイモンにそう言われたマリアンヌは、観念したような表情を浮かべる。 「申し訳ございませんが、あなたと二人だけで話をさせて頂けませんか?」 彼女がそう言うと、その決意の重さを察したシーナは、シュニャイダーとアールを連れて、小屋の外に出る。シュニャイダーの方も、既にアールの作り出すフレーバー茶葉の方に興味を引かれていたので、部屋に残るマリアンヌとデイモンのことを気にする様子もなく、あっさりとそのまま彼と共に扉の外に出たのであった。 3.1. 子爵家の末裔 三人(一人と二匹?)が外に出たのを確認すると、マリアンヌはデイモンの前で、うやうやしく片膝をついて傅くような姿勢を示す。 「あなたがどこまで事情をご存知かは知りませんが、あなたは、前トランガーヌ子爵ヘンリー・ペンブローク様と、我が母ブリジット・テイラーとの間に生まれた、御落胤です」 彼女の突然の告白に対して、デイモンは当然のごとく困惑する。その反応を確認しつつ、マリアンヌはそのまま話を続けた。 「つまり、私とあなたは、父親違いの姉弟、ということになります。ヘンリー様はまだ御后のジェーン様と御婚約されるよりも前に、臣下であった我が父フレディ・テイラーの妻ブリジットに恋心を抱き、若気の至りで『そのような関係』に至り、そしてあなたがお生まれになられました。とはいえ、さすがに人妻との不義密通を表沙汰にする訳にもいかない、と判断されて、遠いアントリアの孤児院に預けることになったのです」 デイモンとしては、自分の両親が誰なのか、ということに関して、全く考えなかった訳ではない。だが、孤児院の人々からは「孤児院の前に捨てられていた子供」としか聞かされていなかったため、彼はこれまで、ずっとその言葉を信じて生きてきた。 無論、マリアンヌが言っていることが本当だと確信出来る根拠はない。だが、冷静に考えてみれば、飛び抜けて優秀という訳でもなかった幼少期の自分が、突然、名門アクエリアス家の養子に迎えられたことも、これが真実ならば、確かに辻褄が合う。老獪な策謀家としても知られるジンだけに、デイモンの出自を知った上で、そのような「特殊な家系」の血筋の少年を養子に迎えることで、色々な形での「利用価値」を見出したのであろう。 「しかし、その後、我が父が突発性の病気で急死し、不運にもその時に『聖印を託せる者』が近くにいなかったため、その聖印が失われ、我が家はお取り潰しとなりました。母は大陸の親戚の家を頼ることになり、私には『デイモンのことを近くで見守るように』と言い残して、あなたと同じ孤児院に私を預けることになったのです。そして、それは私自身の望みでもありました」 その後、デイモンがアクエリアス家に養子に迎えられたことで、「もう自分の役割は終わった」と判断した彼女は、聖印教会に入信し、やがてソリュートの司祭に迎えられることになる。その地にデイモンが派遣されたのも、おそらくはジンの中で何らかの思惑があったからであろうが、再び自分が異父弟を見守れる立場となったという意味では、彼女の中では素直に喜ばしい巡り合わせであった。だが、神聖トランガーヌの出現により、状況は複雑化していく。 「現在、ヘンリー様には『聖印を継ぐことが可能なお世継ぎ』がいません。そして、これはまだあまり知られてはいない情報ですが、実は今、ヘンリー様は体調を崩しており、一刻も早く後継者を決めなければならない状態にあるそうです」 一応、旧トランガーヌ子爵家には、「本家」に相当するペンブローク家以外にも、「分家」としての「カーディガン家」と「ウェルシュ家」と呼ばれる二つの支流が存在し、現在、それぞれが後継者候補を立てているのだが、どちらも「決め手」に欠ける状態であるらしい(詳細は次話参照)。そこで、国を割らずに後継者を定めるためには、たとえ不義密通の子であっても、ヘンリーの実子を連れてくるのが一番と考えた人々が、必死の捜索の末に「御落胤」としてのデイモンの存在を突き止め、彼を神聖トランガーヌへと連れ帰るため、旧知の人脈を利用してマリアンヌを通じての説得を試みようとしているらしい。 「私としては、出来ればあなたには、ヘンリー様の後継者となって頂いた上で、神聖トランガーヌを実質的に支配している日輪宣教団の暴走を止めて頂きたいと考えています。聖印教会の中には、私のように、魔法師や邪紋使いや投影体の人達とも、殺し合わずに共存する道を探そうとしている人々もいます。おそらく、神聖トランガーヌの内側にも、そのような人々はいるでしょう。あなたが二代目の『神聖トランガーヌ枢機卿』となり、あの国の人々に歯止めをかけるような施策を採って頂ければ、きっとそれが、このブレトランド全体にとって、最も望ましい未来をもたらしてくれるのではないか、と私は考えています」 あまりにもスケールの大きすぎる期待をかけられたデイモンは、さすがに即答は出来ずに絶句する。そんな彼の様子を察してか、マリアンヌは更に語り続けた。 「ただ、それはあなたにとって、荊の道です。おそらく今の立場の方が、あなたにとっては幸せな人生でしょう。有能な人材に恵まれたこともあり、領民の方々もあなたの統治には満足しています。ここで、ジン様の後継者候補として、一人の地方領主としての責務を果たされる方が、あなたにとっては安泰な生き方だと思いますし、そうあって欲しいと願っている私がいることも確かです。ですが、それと同時に、出来ることなら、あなたには『本当の唯一神様の正しき教え』を導くための伝導者になって欲しい、と考えている私もいます」 もし、デイモンが野心家であれば、おそらく二つ返事で神聖トランガーヌへの帰還を決断しただろう。だが、彼がそのような人物ではないことは、マリアンヌが一番良く知っている。戦場での残忍とも思えるような戦いぶりとは裏腹に、平時の彼は至って温厚な「まっとうな為政者」である。だからこそ、この村の領主であり続ける方が皆にとって幸せであるようにも思える一方で、彼であれば神聖トランガーヌをも御することが出来るかもしれない、という期待もある。それ故に、マリアンヌとしても判断に迷っていたのである。 「また、それと並行して、この村を巻き込んだ一つの計画が進行しつつあります。私が入手した情報によれば、間もなく、マーシャル様がこの地にいらっしゃるということで、この地の先代領主ルビール様が、そのマーシャル様を闇討ちしようと企み、まずはそのための陽動策として、茶畑を焼き討ちにしようと考えているのです」 より正確に言えば、もともと、この地の茶畑を「混沌の産物」と考える過激派の信徒は存在していた。ルビールは、そんな彼等を扇動して茶畑を襲わせ、村が混乱している隙に、自分達が宿敵アントリアの指導者であるマーシャルを亡き者にしよう、と考えているらしい。この村の元領主であるルビールは地理的な特性に精通している以上、潜伏場所も、闇討ちに適した場所も、おそらくはデイモンやマリアンヌ以上に熟知している。 デイモン達ですら昨日までは知らなかったマーシャルの来訪を、彼等がどのような情報源から知ることになったのかは不明であるが(おそらくは誰か内通者が潜んでいたのであろう)、既にそのための準備は、村の近辺の何処かで着々と進行中らしい。 「ただ、その具体的な作戦手順までは、私には知らされていません。しかし、さすがに私としては、この村にとって大切な茶畑が燃やされてしまうのは偲びないです。そんな私の気持ちを見越した上でのことなのかは分かりませんが、彼等は『ヘンリー様の御落胤を連れてくるなら、焼き討ちも闇討ちも中止する』と言っています」 おそらくそれは、マリアンヌだけではなく、デイモンの心情に訴えかける上での交換条件(という名の脅し)でもあるのだろう。 「無論、あなたが神聖トランガーヌへ行くということは、結果的に、この地の方々を裏切ることになってしまう。だから、無理にとは言えません。しかし……」 マリアンヌは言葉に詰まるが、言いたいことはデイモンには分かっていた。ここでデイモンが彼等の言うことに従えば、この地が戦場になることは避けられるし、この地にとって大切な茶畑を守ることが出来る。とはいえ、それはあくまでも彼等が本当にその約束を守ることが前提であり、今のところ、そう確信出来るだけの保証はない。 「その作戦は、いつ決行される予定なんだい?」 「明日の茶会が開かれている最中、ということだそうです」 それ故に、明日の朝までに決断を下さなければならない、とギュンターはマリアンヌに伝えていたのである(もっとも、そのことまではデイモンはシーナからも聞かされていない)。 「ちょっと、考えさせてくれ」 そう言って、デイモンはしばし一人で黙考する。唐突に知らされた真実と、唐突に訪れようとしている村の危機を前に、彼は今、重大な決断を迫られていた。 3.2. 御落胤の決意 「逃げられたー! 実力なら、絶対に私の方が勝ってるのに! ペガサス取り出して逃げるなんて、卑怯よ!」 マリアンヌの家の外では、ハルナがそう言いながら、変身した姿のまま現れ、千鳥足でシーナとシュナイダー(とお茶犬)に近付いてきた。 「まぁ、頑張ったんだニャ、これでも飲むニャ」 よく事情が分からないまま、シュニャイダーがそう言って酒を渡すと、ハルナはそれをゴクゴクと一気飲みする(見た目には現在の彼女の口元は仮面状に閉じられているが、あくまでも偽装映像なので、実際にはこの状態でも口を開いて飲食することは可能である)。その上で、ハルナは二人に問いかけた。 「で、何かあったんですか?」 「マリアンヌが『二人で大事な話がある』と言ったので、外に出たニャ。つまりは『そういうこと』だニャ」 「あの、シュニャイダーさん、男女の仲というのは、そんな単純なものでは……」 勝手に決め付けるシュニャイダーに対してシーナがツッコミを入れている中、ほろ酔い半泣き状態になったハルナは、小屋の扉に手をかけようとする。 「マスターにぃ、この私のぉ、失態をぉ、報告してきますぅ」 「そういうことなら、私も一緒に行くニャ」 「あ、待って下さい。今開けちゃダメですよ。中で大事な話をしてるんですから!」 そう言って、慌ててシーナが止めようとして扉に近付いたところで、中の二人の話し声が聞こえてきた。 ****** しばしの熟考の後、遂にデイモンは決断を下す。 「残念だけど、私は神聖トランガーヌを継ぐことは出来ない。父上が私を養子にしてくれたのは、何らかの損得勘定があってのことだろうが、どんな思惑があったにせよ、拾ってくれた恩は返したい。だから、父上を裏切って神聖トランガーヌに行くことは、私には出来ない」 ここで言うところの「父上」とは、ヘンリーではなく、ジンのことである。やはり彼の中では、突然「実父」の存在を明かされても、「今の自分の父は、あくまでもジン」という思いの方が強いらしい(それが仮に、何らかの政略上の駒として利用されることを前提とした上での関係であったとしても)。 「ただ、聖印教会の、日輪宣教団の暴走を止めることには、尽力したい。だから、いずれアントリア子爵か代行閣下の協力を得た上で、あの国の内側にいる穏健派の人々を切り崩して、こちらの味方に取り込むための旗印として、私の出自を有効活用することは出来ると思う。それではダメかな?」 つまり、あくまでも「トランガーヌ子爵家の血を引くアントリアの騎士」として、外側から神聖トランガーヌの暴走を止める、というのが、彼の提案である。実際、デイモンがその出自を明らかにすれば、対トランガーヌ政策におけるアントリア側の選択肢は広がることになるだろう。無論、あくまでもそれは、ジンやマーシャルやダン・ディオードがその方針に同意することが前提の話なので、現時点で確約することは出来ないのであるが、状況によっては「自身の出自」を、かの地の再平定のために利用することをも厭わない、というのが、彼の示した決意であった。 これに対して、マリアンヌがどう答えるべきか迷っているところで、入口の扉が開く。 「話は聞かせてもらったニャ!」 「マスター、一生ついていきます!」 「ごめんなさい、聞くつもりはなかったんですけど……」 そう言って、三者三様の表情で、扉の外から三人が入ってくる。その奥には、よく分かっていないキョトンとした表情のアールもいた。 もっとも、この三人も、話の途中からしか聞いていないので、あまり正確に状況を把握している訳ではない。ただ、この村に何らかの重大な危機が近付いており、その状況を打開するために、デイモンが何か「重大な決断」を下したということまでは、何となく雰囲気から察していた。 そして、そんな彼女達の様子を見た上で、マリアンヌは静かに口を開く。 「分かりました。今のあなたには、彼女達のような心強い味方がいる。彼女達を捨ててまで神聖トランガーヌの内側に入り込むよりも、彼女達と、そして私と共に、外側から切り崩す道を選んだ方が、賢明なのかもしれませんね」 諦めたような、それでいて少しホッとしたような表情を浮かべながら、マリアンヌはそう答える。少なくとも、これはこれで「彼女が望んでいた答えの選択肢の一つ」ではあったらしい。だが、次の瞬間、彼女は再び真剣な顔つきに戻る。 「ただ、そうなると、次の問題は、茶畑の焼き討ちとマーシャル様の暗殺を、いかにして防ぐか、ということです」 「え? ちょっと待って下さい。マーシャル様の暗殺って……」 シーナが思わず声を荒げる。どうやら、その辺りのくだりまで聞かれていた訳ではないらしい、ということを把握したマリアンヌは、改めて異父弟に問いかける。 「この方々に、全ての事情をお話した方が良いでしょうか?」 「そうだね。その方が話は早いだろう」 デイモンとしては、実父であるヘンリーの元へ赴いて玉座を継ぐことよりも、(少なくとも今は)彼女達と共に一人の地方領主として生きて行く道を選んだのである。こうなった以上、彼女達とは完全に「運命共同体」であり、ここで隠し事をする理由は何もなかった。 3.3. 逆襲撃作戦 「マスターの出自に、そんな秘密があっただなんて」 「正直、私もまだ驚いてるよ」 「人間もなかなか、エグイことをするニャ」 デイモンの出生の秘密に対して、ハルナとシュニャイダーがそんな反応を見せる中、シーナもまたそれに対して驚きつつも、彼女の関心はより喫緊の案件の方へと向いていた。 「それで、マーシャル様を襲おうとしているのは?」 「元領主のルビール様に率いられた特殊部隊です。ギュンターも、おそらくその実働部隊の一人でしょう」 マリアンヌはそう説明した上で、それと同時並行で、茶畑襲撃のための陽動部隊も既にこの地に潜伏しているらしい、ということも伝える。そして、戦略的には陽動とはいえ、あくまでもその茶畑襲撃部隊の人々自身は「本気」であり、その総戦力も作戦も不明である以上、片方だけに戦力を集中させる訳にもいかない。彼等が既にこの地域に潜伏しているとすれば、それほどの大部隊ではない筈だが、少数精鋭の聖印持ち集団の可能性もある。せめて敵の潜伏場所が分かれば、先手を打って殲滅することも出来るが、マリアンヌもそこまで信用されてはいなかったようで、彼等の居場所までは聞かされていない。 ここでデイモン達が採り得る一つの選択肢は、明日の朝の時点で教会を訪れるであろうギュンターを捕らえて、潜伏場所を吐かせる、という作戦である。しかし、ギュンターは昔からルビールに対しては極めて強い忠誠心を抱いていた少年なので、いくら拷問されても口を割らないだろう、というのがマリアンヌの予想であった。 もう一つの選択肢として、デイモンが彼等に協力するふりをしてギュンターに同行し、それを尾行して潜伏場所を探す、という道もある。しかし、ギュンターにはペガサスがある以上、尾行しようにも、途中で撒かれる可能性が高い。 ならば、デイモンがギュンターに同行して彼等の潜伏先まで行った上で、そこから抜け出して、こちらに情報を伝える、という道もあるが、デイモンは潜入捜査などには長けておらず、仮に脱出に成功したとしても、デイモンが他の面々と合流する前に、騙されたことに気付いた尖兵達が暴走して、茶畑や村を襲撃する可能性もある。 こうして彼等が様々な選択肢について議論している中、ハルナが一つの奇策を思いついた。 「私がマスターの姿に変身して潜入する、というのはどうでしょう?」 彼女の「変身(映像)魔法」を使えば、やろうと思えばどんな姿にも擬態することは出来る。神聖トランガーヌには魔法に詳しい者が少ないので、騙せる可能性は高いだろう。脱出する時も、その変身魔法を多用すれば抜け出すことは可能である(無論、その分、彼女の精神力は磨り減ることになる訳だが)。ただし、さすがに聖印までは偽装することは出来ないので、もし彼等から聖印の提示を要求された場合などは、何らかの形で上手くごまかす必要はあるだろう。 その上で、内部から彼女が状況を確認した上で、他の者達はいつでも部隊を率いて出撃出来る状態で待機しつつ、彼女が内側から「信号弾(映像魔法)」を空中に放ってその場所を提示することで、現地に突入する、というのが彼女の提案である。今のところ、これに勝る良案は思いつかなかったので、デイモンは(危険な任務をハルナに任せてしまうことに躊躇しつつも)彼女のこの提言を受け入れることにした。 とはいえ、その殲滅作戦にどれだけの時間がかかるかは分からないので、翌日の昼に茶会を開くのは難しいだろう。そう考えたハルナは、ひとまずエストにいるカルディナにタクトを用いて連絡して、茶会の延期を進言してもらうように説得を試みることにした。ただ、さすがに今の時点で、デイモンの出自まで伝える訳にはいかないので、情報源については伏せた上で「近くに神聖トランガーヌ系の工作兵がいるらしい」ということだけを伝えると、カルディナは淡々とした口調で答える。 「そうか。確かに、そういうことなら、代行閣下を危険な目に遭わせる訳にはいかんな。しかし、私が行かなくても、お前達だけで解決出来るのか?」 「はい、解決してみせます」 ハルナはそう言い切った。実際のところ、この作戦に関わっているのが「現在ソリュートの近辺に潜伏中の部隊」だけではない可能性もある以上、カルディナには、エストでマーシャル達の近くにいてもらった方が、いざという時には安心であろう。 「分かった。とはいえ、詳しい事情を言えないとなると、ローガン殿あたりからは『1日遅らせる間に、何か良からぬことを企んでいるのではないか』などと疑われる可能性もあるから、何か、延期するための別の名目が必要となるだろう……。ならば仕方ない。私は今から代行閣下の周囲の関係者と酒を飲み潰して、全員二日酔いにしてみせよう」 「ありがとうございます。その代わり、こちらに着いたら、最高の茶会を準備します」 こうして、師匠の機転(?)でマーシャル達の足止めの目処がついた彼等は、翌日に向けての準備を進める。 そんな中、シーナはこの村の宿屋に滞在中のユーナの元を訪れ、彼女にはエストに戻って、マーシャル達の警護をする様に懇願する。これも、別働隊が直接エストへと向かう可能性を考慮した上での配慮であった。 「お願いね、姉さん」 「分かったわ。あなたも無茶はしないで」 そう言って、ユーナは夜の街道をひた走り、エストへと帰還する。こうして彼等は、作戦決行に向けての手筈を着々と整えていくのであった。 3.4. 潜入工作 翌朝、宣言通りにギュンターが教会の前に現れると、マリアンヌと「デイモンの姿に偽装したハルナ」が彼を出迎える。そしてデイモンことハルナは、ギュンターに「自分が神聖トランガーヌ枢機卿の座を継ぐ」ということを、はっきりと宣言した。 「よくぞ決意して下さいました、デイモン殿下。では、ひとまず村はずれまで移動した上で、そこから私のペガサスで、ルビール様の元へご案内致します」 「あぁ、相解った」 そう言って、彼女はデイモンのフリをしたまま、ギュンターに密着するようにペガサスの背中の後部に座る。その立ち振る舞いは、本物のデイモンよりも王族の風格が漂っており、逆にデイモンを良く知る者が見れば、一発で「明らかに何かがおかしい」ということに気付いたであろうが、ギュンターは「本物」のことを良く知らないので、素直にそのまま彼がデイモンだと信じ込まされたまま、彼(彼女)と共にペガサスで飛び去って行くことになった。 その途上で、デイモン(ハルナ)は神聖トランガーヌの現状についても聞かされる。日輪宣教団と譜代の家臣達との間での軋轢があること、世継ぎ候補が定まらずに混乱していること、ヘンリーの病状が非常に危険な状態であることなどを聞かされつつ、やがて二人を乗せたペガサスは、潜伏場所に到着した。 そこは、村の南西部に広がる陵地帯の沿岸部にほど近い一角にひっそりと存在する、小さな空洞であった。その入口部分が偽装されているため、遠目にはその存在に気付くことは出来ない。このような(まさに文字通りの)「穴場」の存在に二年間気付けなかったのは、デイモンやハルナにとっての失態かもしれないが、それまで領地経営経験など皆無であったこの二人にとっては、村の内部をまとめるだけで手一杯であり、その外側の自然構造まで正確に調査するだけの余力が無かったのも、致し方ないことであろう。 彼等が空洞の前に現れると、中から、旧トランガーヌ子爵家(ペンブローク家)の紋を刻んだ鎧に身を包んだ、一人の中年騎士が彼等を出迎える。 「ルビール様、こちらがデイモン殿下です」 「お初にお目にかかる、ルビール殿」 「はじめまして、デイモン殿下。あなたの御帰還を我々一同、心待ちにしておりました。まさか、私に代わってこの村の領主となられたお方が、ヘンリー様の御落胤だったとは。これもきっと、唯一神様のお導きでしょう」 ルビールは、満面の笑みでそう答える。おそらく内心では複雑な思いもあるだろうが、少なくとも、今の神聖トランガーヌを立て直す上で、デイモンという旗印が必要だと本気で考えているであろうことをその様子から伺いつつ、ハルナは「彼等が期待しているであろう理想のデイモン」をイメージしながら答える。 「この地は素晴らしい村であった。若輩の私でも難なく村の経営が出来たのは、ルビール殿の時代の統治が行き届いていたが故であろう」 「恐れ入ります。まぁ、あの地にはマリアンヌもおりますしな」 「そういえば、マリアンヌに聞いたのだが、今回の襲撃に際して、陽動作戦として茶畑を焼こうとする者達の中には、極めて強硬な姿勢の者達もいるとか」 「はい。しかし、今回の作戦の指揮権はあくまで私にあります。殿下が御帰還を決意された以上、我等はこのまま兵を引きますし、我等の案内がなければ、彼等は茶畑の場所すら正確に把握出来ていませんので、少なくとも今回は、彼等だけで暴走して茶畑を焼く心配はありません。しかし、今後、アントリアの手からこの地を奪還するために、本格的に戦うことになった際に茶畑がどうなるかは、今後の殿下次第です。殿下が我々をどう導くかにかかっている、と言えるでしょう」 そう語るルビールの口調から察するに、やはり彼としても、長年自らの手で育てた村の茶畑を襲わせることは不本意であったらしい。本来は彼も、民を守るために混沌と戦うことを生き甲斐とする、一人のまっとうな君主である。アントリア軍による侵攻さえなければ、きっと今もソリュートの地で、民に慕われる領主として称えられていたであろう。巡り合わせ次第では、ハルナの契約相手となっていた可能性もある(聖印教会の信徒の中にも、魔法師と契約している者が全くいない訳ではない)。 だが、今のハルナにとっては、彼は間違いなく「倒さねばならない敵」である。このまま彼等が本国へと撤退するのであれば、一時的に村の危機は回避出来るし、その途上でハルナが隙を見て逃げ出すことも出来るだろう。だが、それでは結局、一時しのぎにしかならない。騙されたと分かった彼等の再来襲を防ぐためにも、ここでケリをつけなければならないのである。 彼女が見たところ、連れてきている兵達はそれほど大部隊ではなく、ルビールとギュンター以外は、少なくとも騎士級の聖印の持ち主はいないようである(茶畑襲撃隊の指揮官は、微弱な聖印しか持たない一般工作兵らしい)。これならば、今からハルナがこの潜伏地の場所を「信号弾」を用いてデイモン達に伝えた上で、彼等と合流して急襲すれば、十分に勝機はあるだろう。 そのためには、まず、彼女自身がルビールやギュンターの視界の外へと移動する必要がある。ハルナはそのための一計を案じた。 「そうか。では早速、彼等に対して、私の力を見せる必要があるな。彼等は今、どこにいる?」 「この空洞から少し離れたところにある、別の空洞におります。今から御案内致しましょう」 「いや、ここは一つ、私一人で、彼等の前で話をさせてはもらえないか?」 「それでも構いませんが、我等の仲介無しで大丈夫ですかな? 彼等の中には、殿下に対して不信感を抱いている者や、本当にヘンリー様の御子なのかどうかさえも疑っている者もおります」 「案ずるな。私は確かにペンブローク家の血を受け継いでいる。神聖トランガーヌ枢機卿の地位を引き継ぐ者として、これが私の第一歩なのだ。ここは私に一人でやらせてくれ。あくまでも、貴殿達の後ろ盾がない状態で、私一人で説得出来ないようでは意味がない。だから、彼等の駐屯場所を教えてくれれば、私が一人で行く。案内も無用だ」 デイモン(ハルナ)がそう言うと、ルビールは納得した上で、焼き討ち部隊の兵達のいる場所への行き方を伝える。本来なら、ここで無理を言ってでも誰かにデイモン(ハルナ)を監視させるべきだったのであるが、この時点で、彼は、完全にハルナの演技に騙されてしまっていた。ハルナが「彼等が待ち望んでいたであろう理想の君主像」を見事に演じきったことで、彼等はすっかりデイモン(ハルナ)のことを信じ切ってしまっていたのである。 こうして、見事に彼等の監視を逃れて「一人」になるタイミングを得た彼女は、密かにその駐屯地へと向かう道を外れて、空に向かって信号弾を放つ。そして、ペガサスの飛び去った方角からおおよその位置を想定しつつ待機していたソリュートの部隊が、一斉にその信号弾の方向へと向かって進軍を開始し、彼女はその空洞から密かに姿を消したのであった。 3.5. 突入 ルビールとギュンターが、「デイモン」が行方不明となったことに気付くまでにそれほど時間はかからなかった。だが、混乱した彼等が事態を正確に把握するよりも早く、彼等の前にデイモン(本物)によって率いられたソリュート軍が姿を現わす。その中には、既に「仮面の騎手」の姿へと変身し直した上で合流したハルナの姿もあった。 「で、殿下!? 我等を謀ったのですか!?」 混乱するルビール達に対して、ソリュート軍は容赦なく襲いかかる。ハルナはシュニャイダーを背負いながら、彼の導きに従い、ギュンターに向かって強烈な「飛び蹴り」を炸裂させた。 「昨日のお返しよ! ライダァァァァァァキィィィィィィック!」 その渾身の一撃を受けたギュンターは、その衝撃が鎧を貫通して自分の体を内側から破壊していくのを感じる。それは、常盤の生命魔法師ならではの、まさに「必殺技」であった。しかし、それでもギュンターは必死の形相でハルナの前に立ちはだかる。 「まだ倒れないの? しつこい男は、嫌われるわよ」 「やはり、貴様とは戦わずに逃げたのは正解だったか……。だが、ここはもはや退ける状況ではないようだな!」 そう言いながら、彼は一歩下がって体勢を立て直しつつ、槍を構えて軽装のハルナの体を貫こうとする。かろうじてハルナは急所を外すが、それでも相当な深手を負った。だが、その直後にシュニャイダーの力によって心身を更に強化されたハルナが、再びギュンターに襲いかかる。彼女は突撃してきたギュンターの胸倉を左手で掴み、今度は右手の拳で彼の体を貫いたのである。先刻の飛び蹴りで既に内臓器官の一部をも破壊されていたギュンターの身体が、その一撃を耐えきることは不可能であった。 「いい拳だ。やはり、俺の判断は間違ってはいな……」 言い終えられないまま、ギュンターはそのまま落命する。結局、彼は最後まで、自分が案内した「デイモン」の正体が彼女であったことには気付けなかったようである。 一方、本物のデイモンの率いるソリュート軍本隊の毒矢攻撃によって、周囲の兵達は次々と倒れていく。それでもなんとか生き残った者達がハルナを襲うが、彼女はそれらの攻撃を全てかわしていく。最終的にはルビール率いる敵の隊も彼女を標的に定めるが、それすらもシュニャイダーの妖精としての力を借りることで、どうにか避けきることに成功し、その直後、シーナが邪紋の力を用いて、ギュンターに貫かれたハルナの身体の傷を癒す。 「お願い、マーシャル様を傷つけようとする者達を、やっつけて!」 「ありがとう。シーナ。これで、もう一蹴りイケるわ」 そう言って、ハルナは今度はルビールに対して再び「飛び蹴り」を仕掛ける。しかも今度は、シュニャイダーの力を借りた上での、前後から連続で往復キックである。だが、ルビールは屈強な兵達に守られていることもあって、それでも致命傷には至らない。 「マスター、私は巻き込んでもらっても大丈夫です。止めを!」 ハルナはそう言って、デイモンに「自分もろとも毒矢を放つこと」を大声で進言する。デイモンは、彼女ならば避けてくれるであろうことを信じて、全力で全ての聖印の力を注ぎ込もうとしたが、次の瞬間、彼女の背中に掴まっていたシュニャイダーが、体勢を崩してその場に倒れ落ちてしまったのを目の当たりにする。 (ここで、このまま全力で聖印の力を開放すれば、確実にルビールは倒せるだろう。だが……) デイモンが、本当の意味で「殺戮者」と呼ばれるような騎士であれば、迷わず全力で打っただろう。しかし、彼はここで味方を巻き込んでまで敵を殲滅することを優先するような指揮官ではなかった。 矢を放つ直前、デイモンは注ぎ込もうとした聖印の力を半減させた状態で光矢を放つ。その結果、シュニャイダーは避け切れずにその攻撃の巻き添えを食らってしまうが、力を弱められていたこともあり、一命は取り留め、その直後にシーナが邪紋の力でその傷口を塞ぐ。 だが、威力が弱められたことで、ルビール隊もまた完全な壊滅は免れた。そして彼等は、今度こそハルナを倒すべく彼女に襲いかかるが、シュニャイダーとシーナの力で、どうにかハルナも彼等の猛攻を耐えきる。 「私は、マスターを支えなきゃいけないんだ!」 ハルナはそう叫びながら、必死で攻撃を受け切り、そして「最後の飛び蹴り」をルビールに直撃させて彼の息の根を止め、更にシュニャイダーの支援により、そのままの勢いで残された歩兵部隊をも壊滅させることに成功する。 こうして、神聖トランガーヌから送り込まれた尖兵達は(マーシャル暗殺部隊も茶畑襲撃部隊も共に)尋問すべき捕虜すら確保出来ないほどに、完膚無きまでに全滅させられた。ある意味、それは「殺戮者」としてのデイモンの評判を更に広めることにもなりかねない結果であったが(実際には、その大半はハルナによって殺された者達なのであるが)、デイモンとしては、今更そのようなことを気にするつもりはなかった。村を守るために敵を確実に殲滅することは、彼の中では「領主としての、まっとうな責務」なのである。 「みんな、ありがとう。みんなの力がなければ、私、戦い続けられなかったよ」 「ハルナちゃん、お疲れ」 「お疲れだニャー」 「すみません、さっきは弓矢で……」 「まぁ、仕方ないニャ」 こうして、皆が互いの健闘を讃え合う中、少し離れたところで待機していたマリアンヌとアールも、笑顔で彼等を祝福する。 (それが、あなたの選んだ道なのですね。ならば私はあなたを今後も支え続けます。たとえ、同じ神を信じる者達と、真っ向から戦うことになったとしても) 彼女は心の中で密かにそう誓いながら、アールと共に静かに村へと帰還するのであった。 4.1. 代行閣下の到着 その後、アールは改めて皆に謝罪した上で、シュニャイダーの下で「フレーバーティー製作係」として働くことになった。もともと、投影体であるシュニャイダーによって管理されていたこともあり、その味付けに「新たな投影体」が加わることに対して異論を述べる者は、この村にはいなかった。 一方、カルディナによる「飲み潰し作戦」は見事に成功したようで、マーシャル達の来訪は一日延期され、その間にデイモン達が急ピッチでお茶会の用意を進めた結果、どうにか(新作のフレーバーティーをもラインナップに含めた形で)前夜の時点で無事に準備を完了する。 こうして翌日、マーシャル、ローガン、ジン、カルディナを中心とする一行はソリュートに到着し、デイモン達も総出で彼等を出迎える。ソリュート側からは、デイモン、ハルナ、シーナ、シュニャイダーが接待役として同席し、交易商のローレンスもまた、その場に招かれることになった(一方で、マリアンヌは教会での業務を理由に欠席し、ユーナもまた「護衛」としての任に徹するため、あえて「来賓」としての同席はしなかった)。 領主の館の一角に設けられた茶会の席に皆を案内した上で、デイモンはマーシャルに対して、ひとまず自身の出自の件は伏せつつ、「敵の存在に気付いたハルナによる潜入捜査でアジトを突き止めた」ということにした上で、「村に近づきつつあった神聖トランガーヌの尖兵」を倒したことを報告する。 その報告を聞いたマーシャルは、まず真っ先に、シーナに対してねぎらいの言葉をかけた。 「どうやら、私がここにお前を派遣したことは、間違いではなかったようだな」 「そう言って頂けたこと、嬉しく思います。マーシャル様、こちらが、この地で取れた茶葉になります」 そう言って、彼女はマーシャルにシュニャイダーの茶葉を紹介すると、給仕の者達がその茶葉を用いた紅茶を入れていく。甘党のハルナが角砂糖を惜しみなく紅茶に入れていくのに対し、シーナは砂糖は入れずにミルクティーにするなど、それぞれの好みに合わせて紅茶を楽しむ中、ローレンスは、本来はアール用に頼まれて準備していたベイクドチーズケーキを「茶菓子」として提供する。 そして、アールによって香料(?)が加えられた新作の茶葉を試飲したカルディナは、その風味を絶賛する。 「うむ、素晴らしいな、この香り。これならば、今すぐにでも市場に出せる品質だ。とりあえず、フェルガナにも土産に買っていってやるか」 そう言われたシュニャイダーとローレンスは、満足気な顔を浮かべる。 「この紅茶のブランドマークには、アール殿の肉球も一緒に入れることにしましょうか」 「うむ、仕方ないニャ」 そんな話題で盛り上がる中、マーシャルは今度はデイモンに対して語りかけた。 「これから先、再び聖印教会がこの地を狙いに来ることもあるだろう。シスター・マリアンヌは貴殿の幼馴染だと聞いたが……」 「はい、彼女が聖印教会の一員であることは確かですが、彼女はこの村に危害を加えるようなことは絶対にありません。それは断言致します。今後、過激派が襲撃するようなことがあれば、我々と共に力を合わせて、この村を守ってくれることでしょう」 実際、今回の戦いにおいても、マリアンヌはいざとなったらいつでも参戦出来るように、後方に控えていた。あえて彼女を前線には出さなかったのは、おそらくデイモンなりの彼女への配慮だったのであろうが、今でも彼女とは固い信頼関係で結ばれていることは、今回の一件を通じて、彼も実感していた。 一方、そんなマーシャルに対して、突然、カルディナが横から「空気を読まない質問」を投げかける。 「ところでマーシャル殿、先日のお見合いは結局、どうなったのだ?」 それに対して、傍らで控えていたユーナがビクッと反応するが、マーシャルは淡々と応える。 「あれについては、色々あった訳ですが、わたしもまだ若輩ですから、別に焦る必要もないと考えています。魔法師殿の中にも、30を過ぎても独り身のままお仕事に専念されている方もいる訳ですし」 「うむ。その切り返し、さすがはダン・ディオード殿の御子息だな」 実際には仕事ではなく私欲に専念している三十路の女魔法師は、苦笑を浮かべながら、自分の約半分の年齢の子爵代行のその「度胸」に、素直に感服する。 こうして、一瞬ヒヤリとしたこの場の空気が再び和み始めたあたりで、今度はシーナがマーシャルに問いかけた。 「マーシャル様、最近は御多忙と聞き及んでおりますが、お身体は大丈夫でしょうか?」 「あぁ、心配ない。それに今は私よりも、この国の方が病んでいる。まず、この国をなんとかしなければな。ここまであっさりと侵入を許すということは、海上警備が足りないということであるし、それはこの地域だけの問題でもない。だが、全国の沿岸地域の警備を強化出来るだけの人材も、彼等を雇い育てるだけの資金も足りない。この状況を改善するためには、やはり経済の立て直しが何よりも重要だ。だからお前にも、このモラード地方の地域経済の更なる活性化のために、これから先も尽力してくれることを期待している」 「分かりました。でも、もし、マーシャル様御自身が私の力が必要になったら、いつでも呼び戻して下さいね。私はこれから先も、いつまでも、あなたを誠心誠意支え続けますから」 「分かった。そう思ってくれるなら、今はこの地の発展に努めてくれればいい」 ここでマーシャルは、改めて出席者全体に対して語り始める。 「我が父君は、華美贅沢を嫌う人であった。それ故に、その施政下においては、娯楽産業全般に対して規制をかけ、国全体に閉塞的な空気が流れていた。しかし、やはり国が成り立つためには、大衆のための娯楽文化は必要だ。この地域のような形で大衆文化が発達することで、初めて民の心は潤い、民の心が潤ってこそ、国を支える心も芽生える」 それに対して、皆を代表するような形で、デイモンが答える。 「もちろんです、アントリアの他の地域に負けないような、立派な文化を育て上げてみせます」 「では、それを期待しているぞ」 マーシャルにそう言われたデイモンはひとまず安堵しつつ、ふと義父であるジンに視線を向ける。ジンはどこか思わせぶりな表情を浮かべており、もしかしたら「自分が自分の出自に気付いたこと」に彼もまた気付いたのかもしれないようにデイモンには思えたが、今はまだ、そのことを話すべき時ではないと考えたデイモンは、あえて何も言わなかった。 いずれ自分が、南トランガーヌの平定に向けて、その出自を利用しなければならなくなることがあるかもしれない、という覚悟を密かに抱きつつ、今はひとまず、この村のために尽力することに邁進することが、今の自分のやるべきことだと考えていた。 一方、そんな真剣な話題で盛り上がっている中、ハルナは、密かに紅茶にウイスキーでも混ぜていたのか、なぜか酔っ払い状態になり、隣に座るカルディナに絡んでいた。 「強化魔法が上手くかからないんですよぉ」 「分かった、分かった。じゃあ、今夜、練習相手にクモ怪人でも召喚してやるから」 「ありがとうございますぅぅ。もしかしたら、新しいヴィジョンが見えるかもしれません」 そんな彼女達を横目に、シュニャイダーはシュニャイダーで、自分の茶葉の講釈を始める。 「ウチは、高い高級茶も、安くて美味い茶も、どちらも沢山取り揃えているから、いっぱい買うニャ!」 そんな和やかな雰囲気の中、やがて静かに茶会は幕を降ろすのであった。 4.2. 放蕩魔法師の親心 翌日、マーシャル達がエスト経由でスウォンジフォートへと帰還するために村を去る一方で、カルディナもまた一通りの任務(という名の放蕩三昧)を終えたことに満足し、エーラムへの帰還を決意する。その前に、買えるだけの茶葉を買い込んでおこうと村を散策していた時に、偶然、彼女はマリアンヌと遭遇する。 「あなたは確か……、ハルナさんのお師匠様でしたか?」 「そうだ。そういう貴殿は、その礼服から察するに、この村の司祭様かな?」 「はい、マリアンヌと申します」 隻眼の聖女はそう言って深々と頭を下げる。だが、その様子が明らかに儀礼的なもので、内心では自分に対してあまり良い感情を抱いていないことを察したカルディナは、ニヤリと笑いながら、あえて挑発的な言葉を投げかけてみることにした。 「私のような『己の快楽のために混沌を利用する魔法師』は、お主達からしてみれば、最も忌むべき存在だろうな」 「そうですね。しかし、それでも唯一神様があなたのような存在を生かしているのであれば、それはあなたにも『この世界で為すべきこと』があるからだと思います。どんな猛毒でも、存在そのものが悪であるとは思いません」 いきなり「猛毒」扱いされたカルディナは、むしろ面白がって、もう少し話を続けてみたくなってきた。 「毒を以て毒を制することも必要、ということか。そう言えば、ここの領主様も『毒使いの騎士』らしいな。しかし、それはお主らの教義と矛盾するのではないか? 私のような存在すらも看過するのであれば、それはもはやエーラムの方針と大差ないぞ」 「綺麗事だけでは、世の中は成り立ちませんから」 そう言いながら、マリアンヌは自分の眼帯に手をかける。もしかしたら、彼女のこの信念は、彼女が片目を失うことになった過去と関係しているのかもしれない。 「ですが、綺麗事が無くなってしまっては、それはそれで世の中が成り立ちません。人が社会を築いて生きて行くためには『目指すべき理想』は必要なのです。そして、混沌をこの世界から無くすという理想が、この世界を生きる人々にとっては必要であり、そのためには『あなたのような存在を忌む心』が必要なのです。たとえあなたの存在が必要悪であったとしても、世界中があなたのような人ばかりになってしまっては、世の中は成り立ちませんから」 「そうだろうな。その点に関しては、私も異論はない。ただ、人々には『楽しむ心』も必要ではないか? 理想だけでは息苦しくて、何のために生きているのか分からなくなるぞ」 「えぇ、その通りです。だからこそ、この地の人々は『魔法の力に頼らない形で、日々の楽しみを得る道』を模索しているのです。もっとも、この村の紅茶も元は異界からもたらされた代物とも言われていますし、現在開発中の新商品も混沌の力を利用した代物であることは事実ではありますが、いずれは、混沌のない世界でも十分満足出来るだけの娯楽を作り出せると、私は信じています。人間は、混沌に頼らなくても生きていけるだけの潜在能力はあるという理想を説き続けることこそが、我々司祭の使命ですから」 「そうかもしれん。だが、残念だが、私は気が短いのでな。そこまでの技術が確立されるまで待つことは出来んのだ。だから、今使える全ての力を以て、全力で『今』を楽しむ。もし、それを阻む者が現れれば、たとえそれがウチのガキ共が世話になっている人々であろうとも、容赦はせぬぞ」 冗談半分の口調ながらも、どこか本気が混ざった声色でカルディナがそう言うと、マリアンヌもそれに対して一切動じることなく答える。 「私も、あなたのそのような道を認めることは出来ません。しかし、無駄な殺生をすることは、それ以上に認められないことです。だから私は、あなたのような方と無駄な争いを繰り広げることがないよう、『あなたのような方を、あなたの魔法の力に頼らなくても満足させられる文化』を生み出そうとしているこの地の人々を、私はこれからも応援していきたいのです」 「なるほどな。この地の遊興産業の発展が、相容れぬ我等を共存へと導く唯一の道、ということか。なかなか面白いことを言う」 「唯一かどうかは分かりません。しかし、その可能性を秘めた道であることは確かでしょう」 「そうだな。そういうことなら、今後も、ウチのハルナをよろしく頼む。もしかしたら、他の村のガキ共も世話になる時が来るかもしれんが、その時も、出来れば、邪険にせずに助けてやってくれ。多分、アンタだったら、あいつらとも共存出来そうな気がするからな」 カルディナはそう言って、ソリュート村を、そしてモラード地方を後にする。本来は、純粋に自分自身がこの地の遊興産業を楽しむことが主目的であったが、今回の一連の旅路を通じて彼女が感じ取った最大の喜びは、諸々の事件を通じて実感した「弟子達の成長」であった。それは、カルディナの中で、なけなしの「親心」が今頃になって芽生えてきたことの証左でもあったのだが、彼女自身はそのことに気付いてはいない。 次に彼女がこの地を訪れるのが、いつになるかは分からない。だが、きっとその時までに、六人の弟子達は更なる成長を遂げているだろう。そんな彼等に再び会える日を心待ちにしつつ、彼女は大量の土産袋を背負いながら、満足顔でエーラムへの帰路に着くのであった。 (ブレトランドの遊興産業・完) 【ブレトランドの光と闇】第2話(BS31)「日輪の輝き」 グランクレスト@Y武
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