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ハンナ・ガランド 〔初登場〕2023年6月 〔通過シナリオ〕花冷えに亡く季節 〔一人称〕ボク 〔特徴〕 ・奇病によりアブリルに入院することになった ・高身長 ・夢は霊媒師。幽霊に興味がある ・性格は好奇心旺盛で行動的。とことんやってみるまで諦めない ・名前の元ネタはドイツ空軍の ハンス・ヨアヒム・マルセイユとアドルフ・ガーランド。 〔関係したPC〕 ・日下部永茉(88) ハンナ・ガランドネタバレ注意!
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ドイツ空軍所属のウィッチ。長門の記憶にある対ゴジラ戦にチラッと登場したり、ウィッチの乱の際にも1コマ登場したりしているが、多分良く似た誰かなんじゃないだろうか。 プリンツ・オイゲンとの同調率が高かったため、同意の上コネクターとなる。もともと無類のシスコンだが、もはや誰でもいいからお姉ちゃんと呼んでもらいたいという、立派な病気レベルにまで至ってしまっている。なんでこんなになるまで放っておいたんだ!
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ゼロ戦 祝☆復活記念! しばらく弄ってなかったから、弄り方を忘れてしまったZE 現役選手 打順 名前 画像 守備 コメント 獲得タイトル 1 Do217 遊 Do17を大型化して強化した機体。世界初の対艦誘導ミサイルを装備したことでも有名。ドイツの化学力は世界一ィィィ! 首①盗① 2 Me262 右 世界初のジェット戦闘機。ドイツの化学力は世界一ィィィ! 3 Ju52 二 ストライクウィッチーズにも登場した輸送機。3発機のため、特徴的な外見。 4 Fw200 一 長距離哨戒爆撃機。ドイツにとって貴重な4発機で、哨戒任務から輸送船団爆撃に活躍。一部の機体は政府専用機にも。 5 Ju87 三 ドイツの誇る急降下爆撃機。ハンス・ルーデルの愛機。急降下中のダイブブレーキ音を聞くと、連合軍の兵士は震え上がったとか。 本①打① 6 Ju88 捕 恐らくドイツで一番有名な双発爆撃機。英本土空爆で活躍。急降下爆撃もできるけど、Ju87のような急角度ではダイブできない。 7 Ar234 中 世界初の実用ジェット爆撃機。ドイツの化学力は世界一ィィィ!のはずが、速度が速すぎてちっとも爆弾が命中しない&もともと偵察機として作られたので爆弾搭載量が不足していた。ようするに特別凄くなかった。 8 Me163 左 世界初のロケット戦闘機。ドイツの化学力は世界一ィィィ!なんだけど、航続距離が短すぎ。配備してある空港を避けられてThe end. タイトル表記 首=首位打者 本=本塁打 打=打点王 盗=盗塁王 赤字はマイナー 投手 順番 名前 画像 守備 コメント 獲得タイトル 9 Fw190 投 ドイツ空軍の主力戦闘機。大戦中期以降の、まさに看板。 奪② 10 Bf109 投 ドイツ空軍の主力戦闘機。ドイツ軍の快進撃を支えた。Me109表記でも問題ないけど、Bfのほうがカッコイイよね。 勝① タイトル表記 防=最優秀防御率 勝=最多勝 奪=最多奪三振 赤字はマイナー #region前回の在籍選手 野手 打順 名前 画像 守備 コメント 獲得タイトル 1 疾風 中 名前を大村に変えて、3冠王&本塁打の新記録達成! 首①本②打②盗① 2 陣風 三 首① 3 流星 捕 キラッ☆逆ガル翼が好きなんだよ。 首②本②② 4 銀河 一 本① 5 震電 左 打① 6 晴嵐 右 潜水空母最高や!潜水艦による弾道ミサイルの参考になったとか、ならないとか・・・ 本① 7 雷電 二 英名 サンダーバードってかっこよくね? 8 閃電 遊 日本版双胴の悪魔。白い悪魔じゃねーよ! タイトル表記 首=首位打者 本=本塁打 打=打点王 盗=盗塁王 赤字はマイナー 投手 順番 名前 画像 守備 コメント 獲得タイトル 9 烈風 投 艦上偵察機から艦上戦闘機に入れ替え。 防①奪③③ 10 彗星 投 翠星石とは一切関係ないそうです。 過去在籍選手 野手 隼 投手 彩雲 投 ストラトス4の登場人物ではないらしい。 防①勝①奪③ タイトル表記 防=最優秀防御率 勝=最多勝 奪=最多奪三振 赤字はマイナー はませんさんに作成していただき、その他諸々のページを参考にさせていただきました。 この場を借りて感謝の意を示したいと思います。 現れたネウロイの数今日の撃墜数 - 人 昨日の撃墜数 - 人いままでの芳佳ちゃんの総撃墜数 - 人 名前 コメント
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HEIDEMARIE-W SCHNAUFER 所属 カールスラント空軍第1夜間戦闘航空団第4飛行隊 階級 大尉 身長 158cm 年齢 15歳(1944年) 誕生日 2月16日 通称 「サン・トロンの幻影」 使い魔 白隼 固有魔法 『夜間視能力』 使用機材メッサーシャルフ Bf110G-4 使用武器MG42 MG151/20 その他カールスラント最強(=世界最高)のナイトウィッチで、1944年末時点で100機に迫る撃墜数の全てが夜間戦闘によるもの。 作中の撃墜数ベースによる四強(エーリカ・ハルトマン、マルセイユ、ルーデル、シュナウファー)のうちの一角。 カールスラント南方、ガリアとの国境に程近いカルフ出身。 幼少時に魔法力が発現、夜目が利いた事からナイトウィッチとしての将来を嘱望されていた。幼少時には夜間視能力の制御ができず、常に薄暗い屋内での生活を余儀なくされた。 10歳でウィッチ養成機関に入校し、能力の制御を含めた教育を施される。夜間視能力の暴発はなくなったが、以前に傷めた視神経は魔法治療でも回復せず、かなり度の強い眼鏡を常用している。 飛行適正も高く、養成学校ではすぐに飛行ウィッチ候補生として飛行訓練を受けた。 卒業と同時に少尉任官され第1夜間戦闘教練航空団に配属、Bf110を受領してナイトウィッチとしての本格訓練を受け、その後正式に同部隊第2飛行隊に配属された時は、飛行技量の優秀さとナイトウィッチとしての能力の高さから既に飛行隊本部付き戦技将校に任命されていた。 実戦でも夜戦で活躍し、特に八木・宇田式呪術陣と組み合わせたリヒテンシュタイン式魔導針に基づく新技術を使用してからは、ネウロイを遠距離から捕捉する事が可能となり、撃墜数は急上昇していった。 人付き合いが苦手な割には指揮能力が高く、大尉に昇進すると同時に第1夜間戦闘航空団第4飛行隊の司令となる。 後に撃墜100機を達成し少佐に昇進、カールスラント最年少の戦闘航空団司令となる。 孤独な幼少期の反動からか、引っ込み思案で繊細。同世代の友人がおらず、遊んだり羽目を外したりした経験がないため、生活は抑制されている。だが同世代の友人を求める気持ちは強く、特にナイトウィッチに対してはそれが顕著である。 早期よりウィッチとしての教育を受けていた事から、どこか自分はこうあるべきという型にはめる事が多い。 所属部隊では、その神秘的な雰囲気や一生懸命さ、それにいつも困っている様子から、上官や部下を問わず人気が高いが、本人はそれに気付いていない。 車が苦手。 大型ネウロイを取り逃がした事からベルギカ領サン・トロンにおける幽霊ウィッチ騒動の発端を作り、調査に訪れたヴィルケ中佐、バルクホルン大尉、ハルトマン中尉、レンナルツ曹長と共に対象の大型ネウロイを共同撃墜。(キミとつながる空) 魔導針を利用したナイトウィッチ同士の交信により、ロマーニャでの夜間高高度偵察訓練従事中にQSLカードを交換した第501統合戦闘航空団のリトヴャク中尉と交友がある。(秘め歌コレクション 2) 声優 植田佳奈 イメージモデル ハインツ=ウォルフガング・シュナウファー (1922-1950)通称 「サン・トロンの幽霊(The Night Ghost of St. Trond)」 撃墜数 121(ドイツ空軍夜間第一位)全てのスコアが夜戦仕様Bf110での夜間戦闘によるもので、西側連合軍機の撃墜数ではハンス=ヨアヒム・マルセイユ、ハインツ・ベーアに続いてドイツ空軍第三位(121機)。 1945年2月21日には、1日に合計9機のイギリス空軍の重爆撃機を撃墜(未明に2機、夜間に19分で7機)。 その他二次大戦開戦2ヶ月後の1939年11月1日、17歳で空軍に入隊すると飛行学生時より技量を認められ、卒業後少尉任官しNJG1に配属されると同時に飛行隊本部付きの戦技将校を拝命していた。 1944年6月22日に84機目の戦果を挙げ、既に戦死していたザイン=ウィトゲンシュタイン(83機)を抜いてヘルムート・レントに次ぐ夜戦スコアNo.2となる。同10月9日、史上2人目となる夜戦スコア100機を達成。 同10月16日、この功績により宝剣付柏葉騎士鉄十字章を授章。 同11月4日、少佐に進級しNJG4司令に栄転。22歳の航空団司令はドイツ空軍で最年少。 終戦後は家業のワイン商を継ぐが、1950年7月13日、ワイン買い付けのため訪れたフランス・ボルドーで自動車事故に遭い、7月15日に収容先の病院で死去。 出典 世界の航空歩兵シリーズ/キミとつながる空/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集
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62: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 45 30 <倉崎グループ> 倉崎グループ(ドイツ語:Kurasaki-Gruppe)とは1930年代半ばから第二次大戦終結までおもにドイツで活動した日本人技術者・軍人の総称。 名前の由来はそのなかでも中心的存在として活動していた倉崎重蔵から。 (始まり) 1936年に締結された日独伊防共協定締結後、日本側からドイツに日本人技術者と一部軍人を研究等のため留学させたいという申し出により、1937年より始まった日独人材交流計画で日本からドイツにやってきたのが倉崎重蔵以下の技術者20名前後と陸海軍の軍人10名が始まりである。 彼らは日本で提案したものの、上層部の無見識無理解、技術力不足などを理由に日本で没になった各種設計図、戦術、理論に関する書類を丸々持ってきており、留学した企業やドイツ軍に対して提案し、大きな衝撃を与えた。 特に開発が始まったばかりだったジェットエンジンとレーダーにおいて大きな影響を与えた。 63: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 46 00 (主な影響) メッサーシュミット社では倉崎重蔵の知識量に衝撃を受け、当時設計中だったBf109の改良型の設計に関わらさせ、Me210の設計主任として設計させた。 BMWは開発中だったBMW801とBMW003エンジンの設計に関して日本人技術者の協力により想定以上のスピードで開発に成功、これがなければ戦中の独本土防空戦は数倍の被害を食らっていたといわれる。 テレフンケン社は日本人技術者の持ち込んだ短波方向探知機とレーダーの設計開発に影響を受け、38年にはKLG(Kurzwellenrichtungsdetektor:短波方向探知機)の開発量産に成功。 このシステムによりグラーフ・シュペーは捜索中の英艦隊を先に発見し追跡を躱すことに成功、大型であったためUボートには搭載されなかったものの、水上艦に搭載され多くの輸送船を潜水艦から守ったことで知られる。 レーダー開発では39年にリヒテンシュタインとウルツブルグレーダーを開発、43年までに航空機用のNK(Notwendiges Kampfradar:要撃戦闘用レーダー)と爆撃照準用のBZ(Bombenzielradar:爆撃照準用レーダー)を、警戒用レーダーとしてFUMG-41フレイヤを開発。高い精度と信頼性により防空戦で活躍した。 64: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 46 34 軍では、いくらスペイン内戦での実戦経験があるとはいえ、現在進行形で中国で戦っている日本軍の航空機運用や陸軍や海軍のノウハウを得るため受け入れるがそこで日本側から各種新戦術を得ることになる。 陸軍では日本から来た陸軍将校による大規模な夜間強襲戦術や新たな砲兵運用システムを即座に導入。また日本側から教えられた戦略、縦深突破戦術と縦深防御はドイツ軍内部で大きな反響を呼び、電撃戦を中心としながらもこの戦術を歩兵閥は積極的に取り入れた。また対ゲリラ戦術なども積極的に取り入れた。 海軍では水雷戦術や砲術に関して日本側からの影響を受け、建造中であったティルピッツの設計を一部変更して間接防御を追加するなどした。 空軍は日本からの影響を最も濃く受け、まず一撃離脱一辺倒だった戦術に機織り機動と呼ばれる編隊戦闘戦術を取り入れたことにより、ドックファイトにおける不利を補ったほか、夜間戦闘戦術「ザーメ・ザウ」と「ヴィルテ・ザウ」を取り入れ、大規模な夜間対地攻撃部隊の創設を提言するなど夜間戦闘では日本側の影響が濃かった。 そのほかに対爆撃機編隊戦術「シュトルム・イェーガー」や上方背面垂直攻撃戦術はコンバットボックスを打ち破るのに重宝された。 また空戦戦術の体系化にも関与、爆撃機部隊の編隊飛行法「Kampfbox」などを提案した。 これら戦術は当時ドイツ空軍の訓練パイロットだったものに特に強い影響を与え、特にヘルマン・グラーフはこれら戦術を使い「ヤンキーキラー」の異名で恐れられたほか、世界第3位のエースパイロットギュンター・ラル氏も戦後の著書でこれら戦術がなければ多くの戦友を失っていたと書いている。 これら以外にも多くの影響をドイツなどに与えた。 65: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 47 04 (その他) そのほかにこのグループには変人も多かったとされ、中には「邪気眼」なるものを持っていたという技師もいたほか、ナチスの魔の手から多くのユダヤ人女性を救い戦後、諸国の中の正義の人を授与されたものも存在する。 このグループの強い影響を受けたドイツ空軍ではよく日本人が描いていた絵を機体に描くことが流行したという。 彼らの薫陶を受けた多くの軍人は戦後、日本を訪れ、ゴードン・ゴロプやヘルマン・グラーフを初めとする一部はそのまま帰化し新生ドイツ空軍と日本国防空軍の交流を支えた。 彼らの影響を受けたのは戦闘機パイロットだけでなく爆撃機パイロットも影響を受けており、スツーカ大佐として知られるハンス・ウルリッヒ・ルーデルは戦後、日本空軍で対地攻撃の専門家として教鞭を振ったほか、自伝で「どういうわけか日本人は私のことを気にかけてくれた。」と書いている。 戦後多くの戦前~戦中期のドイツを描いた作品では日本の変人技術者が主人公やユダヤ人女性を救うといった役柄で多く登場したりする。 またこのグループの代名詞的存在である倉崎重蔵は某パンツじゃないから(ryにおいて彼をモデルにした倉科重子というキャラが登場する。 66: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 49 29 はいいかがでしょうか? ちょっと遊んでみました。 別に倉崎と「自重?なにそれくえるの?」な奴しかいない(偏見)転生者ならこのぐらいやりそう。 ちなみにゴロプさんとグラーフさんの人生滅茶苦茶変わってます
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269: 新人艦長 :2017/11/17(金) 17 20 51 ヴァハト・アム・ラインシリーズ2話「ヴァハト・アム・ライン:ポーデンプラッテ」投下します 270: 新人艦長 :2017/11/17(金) 17 21 21 航空部隊による夜間攻撃というものは今に始まった物ではない。 古くはww1中に飛行船による空襲に始まり、航空機による空襲などに変わっていき1944年現在では少なくとも艦船攻撃やピンポイント攻撃ができないことはないレベルまで上がっていた。 だがそれでも危険性が高いことや専用の機材や訓練が必要ということで大々的に行われるものではなかった。 なのでまさか西部戦線全域の飛行場と後方の物資集積所に大規模な夜間攻撃――しかもご丁寧にレーダーに対するジャミングやチャフをばら撒いて――を予想できたものはいなかった。 「逃げるのは敵だ!逃げないのはよく訓練された敵だ!」 「サーチ&デストロイ!サーチ&デストロイ!」 「ヒャッハー!汚物は消毒だ―!」 「ホント戦争は地獄だぜフゥハハハーハァー!」 無線で叫びまくるのは日本から来た夜間航空攻撃の専門家から直々に教えられその影響をもろに受けたドイツ空軍夜間対地攻撃戦闘団「エルベ」のパイロットたちである。(なお日本人の影響をもろに受けたせいで痛い子飛行隊の別名がある) ヴァンパイア飛行隊の異名を持つこの夜間攻撃に特化した部隊はその他部隊とともに各地でチャフをばら撒きながらフランスやオランダ、ベルギーに侵入、大混乱に陥る連合軍航空隊を尻目に各地の飛行場、物資集積所、橋、司令部、を爆撃していった。 この空襲でドイツ空軍は約80機の航空機を喪失するが200機以上の敵機を地上破壊、飛行場の各種設備を破壊ししばらくの間燃料や弾薬、パイロット不足で飛び上がれないようにし、10以上の物資集積所と20以上の橋を破壊又は被害を与え補給や部隊の移動を阻害、初動の反撃や増援の移動に大きな影響を与えることになる。 さらに翌日より昼間はあらゆる高度で米英機相手に有利に立ち回れる新型機フォッケウルフTa152とFw190により制空権をほぼ失った。 この状況を最大限に利用すべくドイツ空軍はさらに手札を切る。 マーケットガーデンやノルマンディーのように多数の輸送機がフランスへ侵入するとパラシュートを落として逃走、パラシュートの下には兵士のようなものを確認した。 これを空挺部隊と判断した連合軍は各地で大パニックを起こした。 報告は北はオランダ、南はスイス国境、西はパリ郊外、東はメッツという広い地域で報告された。 これにより連合軍司令部はドイツ軍の反攻先を判別できず、最も可能性の高いとされたメッツ方向の第3軍に警報を発し、予備部隊を第3軍の方へ送ることにした。 そこへ凶報が舞い込む。 アルデンヌ地域の前線へ大規模な砲撃を確認。バストーニュに敵空挺部隊の降下を確認 連合軍司令部にとってそれは恐ろしいことであった。 4年前のトラウマだけでなくこのときアルデンヌとその両隣にいたのは戦力の低下した再編中の部隊と新兵ばかりの部隊しか存在せず、補給や装備も非常に劣悪な部隊しか存在しなかった。 さらに大混乱で予備部隊の多くを第3軍に送るよう指示を出した直後、後方のインフラは一部が破壊、多くの地点で制限がかかっていた。 バストーニュに降りた空挺1個大隊は街にいた弱体な米1個大隊を3時間の戦闘で制圧。 死者20名負傷者180名を出すも約500人の捕虜――その中には歩兵師団の高級将校が複数存在していた――百数十台の車両と約1個師団分の補給物資、各種機密物資を確保した。 その後周辺を確保し増援の空挺部隊を受け入れ陣地を構築、撤退してきた米軍を攻撃し大戦果を挙げることになる。 この功績を受け作戦後降下猟兵部隊を率いていたラムケ大将とフォン・デア・ハイテ大佐は前者は柏葉・剣・ダイヤモンド付き騎士鉄十字賞を後者は柏葉・剣付き騎士鉄十字賞を授与された。 初動で交通の要所たるバストーニュをドイツ軍に奪われた連合軍の対応はさらに後手に回ることになる。 陸上では連合軍に対して猛烈な攻撃が開始された。 真夜中に夜が明けるまでの数時間、ソ連流の猛砲撃を行い翌朝、戦車部隊が前進した頃には前線部隊の大半が戦意を喪失。降伏した。 戦車部隊の進軍は順調で、特に主力のSS装甲師団と第5装甲軍はその日のうちにサン・ヴィト、バストーニュに到達した。 連合軍部隊の反撃は低調で、極稀に激しい抵抗を見せる部隊がいるがその大半は戦車部隊の砲撃で黙らせ進軍した。 かくしてヨーロッパのレイテと呼ばれるととなる西部戦線最後の大攻勢は幕を開けた 271: 新人艦長 :2017/11/17(金) 17 23 17 いかがでしょうか? なんか短いけど気にしてません。 次回は陸戦の話です。
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933 :New ◆QTlJyklQpI:2012/04/26(木) 02 23 59 支援SS ~矢は放たれたり~ 1943年某日、ドーバー海峡を偵察していたモスキート爆撃機の偵察機型は迎撃を受ける事になった。 それまでも迎撃を受けたが持ち前の逃げ足でBf109やFw190を振り切っていたが今回の相手はともかく早かった。 銃撃を受けながらも何とか帰還した乗員は「機体の前後にプロペラのある機体だった」と証言し、 英国諜報部はドイツ第三帝国の新型機として最優先で情報を集める事になった。 「これが”プファイル(矢)”か・・・・」 「はい、見た目は奇抜ですが彼の日本機と渡り合うことは十分可能です」 数日後ヒトラー総統の前で、その新鋭機はお披露目された。 ドルニエ社製Do335双発戦闘機。 元はエンジンを串型に配置する特許を得ていたドルニエ社が開発していた爆撃機であった。 しかし、日本によってこの機体は全く別の用途に使われることになる。 独ソ戦の最中もドイツは総統の肝いりで日本への諜報活動を行ってきた。 そして日本の主力機である烈風(隼)、飛燕のスペックを知ることによってドイツ空軍に激震が走ることになった。 時速670km/hを超え、飛燕に至っては700km/h近い性能を有するとなれば既存のBf109やFw190では 対抗不可能。第一、独ソ戦の最中であり既存機体の改修より量産が最優先されているため空軍は新型機の開発に舵を切った。 しかし、新型として期待されていたMe309は新機軸を取り入れ過ぎ、予定より低性能も相まって失敗と見なされてしまった。 新型機の開発が絶望視された時にドルニエ社の双発爆撃機案に注目が集まった。 双発機にしてはその形状もあって良好な運動性能に2基のエンジンによる高馬力・・・・戦闘機仕様の開発命令は即座に出された。 こうして史実に比べ小型化されたが良好な性能を持つDo335戦闘機が誕生した。 時速は高オクタン燃料を積めば780km/hを超え、30mmモーターカノンと20mm機関砲4門の攻撃力を備えた当機は 対地攻撃型のD型やターボプロップ化したG型、ジェット化したK型など様々なバリエーションを持ってドイツ空軍の 最強のレシプロ機として君臨し、英国を震撼させることになる。 「ところで・・・コストはもう少しなんとかならんのか?」 「はい・・・唯でさえエンジンを2基積んでおりますから」 最近コスト面での事を気にし始めた総統はコスト面に目をつむってDo335の増産させるか既存の機体でコストを取るかで 大いに悩むことになるのであった。 余談 「こっちの機体は何かね?えらく大きい砲を積んでるが」 「それは高高度迎撃用に50mm機関砲を搭載したものです。装甲も増やしたせいで高高度での飛行に支障が」 「ふむ・・・・これを対戦車攻撃機に出来ないか?」 かくして、ヒトラーの命令により魔王の愛機となるD型が製造されることになった。
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ZSU-37対空自走砲は、ソ連軍が初めて開発した本格的な装軌式対空車両である。 独ソ開戦の1941年以来、強力なT-34中戦車やKV-1重戦車を投入してドイツ軍を驚かせたソ連軍機甲部隊も、制空権をドイツ空軍が握っている内は、地上攻撃機による空からの攻撃に多大な出血を強いられ続けてきた。 1941~44年の間のソ連軍戦車の損失の内の6%、月平均約90両の戦車がドイツ空軍機の餌食になっていたのである。 こうした状況下、1942年頃よりT-60やT-70等の軽戦車をベースとした、12.7mm連装重機関銃や20mm機関砲を搭載する対空戦車の開発が構想されてきたが、同年末、T-70軽戦車の派生型であるSU-76M対戦車自走砲をベースに、37mm対空機関砲M1939を搭載する対空戦車の開発計画がスタートし、1943年中に試作車が完成して、試験も実施された。 本車は、SU-76M対戦車自走砲の戦闘室部分に、73.8口径37mm対空機関砲M1939を1門搭載したオープン・トップ式の全周旋回砲塔を設置したもので、操砲に最低3名の乗員を要した。 主砲の37mm対空機関砲M1939は、スウェーデンのブーフォス社製の40mm対空機関砲をベースに開発されたもので、HVAP(高速徹甲弾)を使用した場合、砲口初速960m/秒、発射速度は毎分80発であった。 垂直方向の最大射程は6,700m、水平方向の最大射程は9,500mで、砲の俯仰角は-5~+85度となっていた。 しかし、問題は電動式の砲塔旋回装置で、バッテリやモータの力が弱く、対空戦闘に必要な迅速な旋回速度がなかなか得られなかった。 このため、本車の対空戦闘能力はあまり高いものではなかったようである。 それでも、本車はZSU-37対空自走砲として制式化され、スヴェルドロフスクの第37工場で1944年後半に量産が開始された。 生産は1946年まで続けられたが、前述の欠点をなかなか克服できないため、約数百両程度の生産に留まったといわれる。 ZSU-37対空自走砲は、成功した車両とはいえなかったが、戦後も1950年代まで使用が続けられた。 <ZSU-37対空自走砲> 全長: 5.25m 全幅: 2.745m 全高: 2.18m 全備重量: 11.5t 乗員: 6名 エンジン: GAZ-203 直列6気筒液冷ガソリン×2 最大出力: 170hp/3,600rpm 最大速度: 45km/h 航続距離: 360km 武装: 73.8口径37mm対空機関砲M1939×1 装甲厚: 7~30mm 我が部隊には移管された10両程が第12大隊に配備され予備・訓練車両として運用されている。
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46 :名無しさん:2015/07/29(水) 00 12 53 そういえば春の目覚め作戦……と思い 大勢に影響の無い範囲で4レスかけて捏造してみる ※戦後夢幻会支援ネタSS ・ 春の目覚め作戦 春の目覚め作戦(独:Operation Fruhlingserwachen)は、 第二次世界大戦末期の1945年1月1日から3月6日にかけて ハンガリー戦線において行われたドイツ軍による大規模な撤退作戦。 総統命令第53号の下、実施されたニコラウス作戦やラインの守り作戦と並ぶ三大作戦の一つ。 ブダペスト大撤退とも呼ばれる。 作戦の背景 1944年末に発令されたドイツ国家及び国民の存続に向けた指令、所謂総統命令第53号の下、 東部戦線においてはニコラウス作戦(クールラント脱出)を、 そして西部戦線においてラインの守り作戦(アルデンヌ攻勢)を相次いで開始したドイツ軍であったが、 この春の目覚め作戦に関しては本来、構想段階ではコンラート作戦と呼ばれており、 これらとは別途に、若干の期間を置いて行われるはずのものであった。 1944年11月末当時、東欧最大規模を誇る大都市ブダペストは、 ソ連及びルーマニアの連合軍によるブダペスト攻勢のよって、半包囲下に置かれていた。 しかし当初、ソ連側が企図していたブダペストを完全包囲する目論見は、 アドルフ=ヒトラーの一声によって急遽、ブダペスト=ウィーン間の連絡線に展開させられていた ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団によって数度阻まれ、 さらに増援として現れたドイツ軍やハンガリー軍部隊の徹底的な固守や ソ連軍とルーマニア軍との連携不足が重なった結果、半包囲という中途半端な結果に行き着いていた。 しかし、この状況を良しとしなかったソ連軍は改めてこの連絡線を確実に切断すべく、 攻勢に参加していた各部隊の動きを一時的に止め、部隊を再編成すると共に物資を集積。 12月29日前後を目処に攻勢を再開する計画を立てた。 だが、この一時的な攻勢の停止は、ドイツ側に転機を促した。 アドルフ=ヒトラーは、このソ連軍の一時的な停止を攻勢限界に達したためによるものと認識。 この好機を利用し、半包囲状態のブダペストを放棄し、戦線全体を再編成することを決めた。 これにより、ドイツ側も戦力の再編成を行い、そしてソ連軍よりも規模が少なかったことから 彼らよりも早くその再編成をほぼ終えることに成功。 そして先述した二作戦との兼ね合いから、1月半ばに脱出作戦を行うことを決定する。 これは異なる方面で複数の大作戦を同時展開することは、 当時追い込まれたドイツの体力的に難しいという判断によるものだった。 だがしかし、そこに凶報が齎された。 間隙を縫い、強行偵察を敢行した空軍機がソ連軍の物資集積を確認。 それは近いうちに、ソ連軍による再攻勢が行われることを意味していた。 47 :名無しさん:2015/07/29(水) 00 13 27 作戦の前倒し 齎された情報に対し、アドルフ=ヒトラーは作戦開始の前倒しを決断を下した。 この決断にドイツ国防軍上層部は当初、準備が完全に整わない状態での前倒しに反対の意を示したが 「この攻撃には、非常に明確な目的、すなわちブダペストに残る友軍と 市民の救出という目的が存在する。ここに伴う威信の問題は存在しない。 今この瞬間に行かねば、彼らは露と消える。だからこそ今行くことが重要なのだ」 という言葉に圧され、前倒しを承認したとされる。 結論から言えば、このヒトラーの考えは正しかった。 事実、ソ連軍は当初予定していた12月29日の攻勢再開こそ ニコラウス作戦やそれに付随した陽動作戦への対応を理由に遅らせていたが、 それでも年明け間もなく攻勢を再開するつもりであったとされていたためだ。 この作戦の前倒しにより、オーストリア方面に大量の空軍機が掻き集められた。 元々、作戦の開始に備えて航空機用の弾薬の集積は進んでおり、部隊だけが無い状態であった。 しかし、修正発動されたラインの守り作戦が予定よりも好調に進んでいたことから、 ヒトラーは空軍部隊の転進を決断。作戦地域の防空に必要となる最低限の部隊を残し、 ドイツ空軍に残されていた余力ほぼ全てをオーストリアへと集中させた。 これと平行して、大方の再編成を終えていたフレッター=ピコ軍集団が 巧みな欺瞞と偽装の上、ブダペスト=ウィーン間の連絡線近くに布陣した。 この軍集団はドイツ第六軍とハンガリー第二軍、 そしてドイツ側に残されていた貴重な予備兵力であった空軍野戦集成軍(*1)から構成されていた。 特に第六軍は今や、ドイツ側にとって貴重な実働装甲兵力となった第四SS装甲軍団及び第三装甲軍団。 また空軍野戦集成軍には、先の戦いでソ連軍による連絡線の遮断を防ぎ、 その功績から再編に際して惜しげもなく最新装甲兵器が供給されて再編成を完了したばかりの ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団が含まれていた。 これらが糾合したフレッター=ピコ軍集団は、ハンガリー戦線における有力な装甲軍集団と化していた。 またブダペストから友軍と“市民”を撤退させる、という命令骨子の下、 ハンガリー第二軍の戦意もにわかに高揚した状態であったとされる。 そして来る1月1日未明。 オーストリア方面から大量の航空機が離陸し、ハンガリー上空へと相次いで侵入した。 目標は事前の偵察にて判明していたソ連側の航空基地と物資集積場であった。 48 :名無しさん:2015/07/29(水) 00 14 17 経過 このドイツ空軍の急襲に対し、ソ連軍は有効な反撃を行うことができなかった。 本来、防空のために同方面へ展開していたソ連軍の戦闘機部隊は、 補充のために後方へ一時戻ったところを東部戦線でドイツ軍が発動した ニコラウス作戦への対応を目的に急遽転出を強いられていた。 また同時期、西部戦線でもドイツ軍による大規模な攻勢が起こったという情報が 齎されていたことからハンガリー方面でも同時に逆襲を行う余力は無いだろうという見通しにより、 攻勢再開に備えた対地攻撃機部隊の進出が優先され、 転出した戦闘機部隊の穴を埋める新たな戦闘機部隊の補充が後回しにされていたためだ。 ハンガリー上空に侵入したドイツ空軍の攻撃部隊は、この間隙を見事に突いた形となった。 ドイツ空軍の攻撃部隊は戦闘機によるわずかな迎撃を掻い潜り、 急襲の影響で散発的な対空砲火を嘲笑うかのように次々と航空基地や物資集積場を焼き払った。 また、手隙となった一部の部隊は余勢を駆って 前線のソ連軍部隊を手当たり次第に攻撃し、ソ連軍全体に大きな混乱を齎した。 そしてこの混乱の隙を突いて、第六軍とハンガリー第二軍が連絡線から半包囲網を押し返すように ソ連軍前線部隊に対する攻撃を開始。 ソ連軍は直ちに反撃を行い、一時は攻撃を押し留められるかに見えたが 物資集積場を襲撃されていたことで各所で弾薬や燃料の不足が巻き起こり、 また動きの良い部隊ほどドイツ空軍による集中攻撃に晒されたことで反撃は急速に鈍化していった。 さらに脆弱であったルーマニア軍部隊を空軍野戦集成軍所属の ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団が突破、壊走させたことを皮切りに 同軍団とハンガリー軍が取り残されたソ連軍三個師団を逆包囲して殲滅する場面すら見られ、 ドイツ軍往時の電撃戦を思い出させるような様相を呈した。 加えて包囲から逃れるべく、ソ連軍は幾つかの重装備を投棄しており、 鹵獲されたこれら重装備を以降の防衛戦でドイツ軍やハンガリー軍が有効利用したという資料が残っている。 この攻撃によって、半包囲網を押し返したドイツ軍は戦線を整える傍ら、 ブダペスト市内に残っていた第9SS山岳軍団の撤退を開始した。 また撤退の際、あらかじめ市内西部への限定疎開の名目で集められていたブダペスト市民も伴われており、 徴用された民間車両に加え、馬車や荷車まで動員した根こそぎ撤退となった。 二ヶ月という作戦期間中、根こそぎ撤退によって五〇万人近い民間人が ハンガリー西部やオーストリアへと避難していった。 この一連の大撤退を、ソ連軍は前半を弾薬と燃料の不足によって見送らざるを得ず、 後半は地形に沿って効果的に再配置された第9SS山岳軍団や頑強に抵抗するハンガリー第二軍。 さらには春先、にわかに生じた泥濘によって阻害され、大撤退を成功させてしまうこととなった。 そして3月6日、ドイツ軍とハンガリー軍はブダペスト周辺からの撤退を完了。 ハンガリー西部における防衛線の再構築をもって、作戦終了を宣言した。 49 :名無しさん:2015/07/29(水) 00 15 20 その後 春の目覚め作戦の成功は、連合軍に大きな衝撃を齎し、 特にソヴィエト連邦の指導者であったヨシフ=スターリンを激昂させ、 彼にドイツ本土侵攻、そしてヒトラーの身柄確保を目的としたベルリン突入を固執させる一因となった。 この固執によって、ハンガリー方面のソ連軍は戦力の補充がほとんど行われず、 それどころか逆に戦力を引き抜かれ、ブダペスト攻勢以前の規模を取り戻すことは無かった。 引き抜かれずに留め置かれた部隊によって散発的な攻撃こそ行われたものの、 いずれも腰を据えたドイツ軍に影響を及ぼせず、終戦までそれ以上の変化を齎すことができなかった。 しかし一方のドイツ側も逆攻勢を行うような余力は無く、防衛線の維持に終始。 その結果、ハンガリー戦線はドイツ軍の無条件降伏まで存続し、 彼らはオーストリアやハンガリー西部へと進出してきたアメリカ軍に投降した。 ブダペストの惨劇 ブダペスト大撤退開始時点で、ブダペストとその周辺には八〇万人もの民間人が存在していたとされる。 そしてこのうち、三〇万人の民間人が避難を拒否するなどして、ブダペスト市内へと残った。 彼らに配慮する形で2月末にはドイツ側はブダペストの無防備都市宣言を行い、 これはソ連側にも繰り返し通達された。しかしながら、この通達をソ連側は欺瞞と判断。 ブダペストに進駐したソ連軍は市内掃討と称し、ブダペストとその周辺でドイツ軍の捜索を行った。 この過程で残った三〇万人の民間人は、ソ連軍による苛烈な暴力に晒されたとされる。 ケーニヒスベルクやベルリンにおいては、民間人の撤退が成功。 またウィーンなどは終戦まで固守されたことから、ブダペストで起こった一連の出来事は 大きく取り沙汰され、ブダペストの惨劇として世界に知られることとなった。 なお、惨劇の情報を知ったハンガリー軍は以降、ソ連側からの降伏勧告を 断固として拒否する決意を固め、終戦まで戦意を維持したまま、ハンガリー西部の維持に貢献した また戦後、社会主義国家となったハンガリーにおいては 冷戦期間を通して多数の反体制、反共抵抗勢力が活動することになるが 彼らは抵抗に際して「我々は抵抗せねばならない。ブダペストを思い出せ」と口を揃えていたとされる。 *1 : 空軍野戦師団のうち、戦闘に耐えうる部隊を集成したもの。 国防陸軍のそれと比較して装備は貧弱であり、訓練不足も目立っていたとされるが ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団を中心に、春の目覚め作戦と以降の防衛戦で活躍した。 一方、戦闘に耐えないと判断され、集成軍に配置されなかった空軍野戦師団の多くは ドイツ本土での防衛に配置されたものの、ほとんど戦うことなく西部の連合軍に降伏している。
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ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel)とは、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人。急降下爆撃機Ju 87 シュトゥーカで歴史上で最も多くの戦車を撃破した撃墜王ならぬ「戦車撃破王」である。フォッケウルフ Fw190での地上支援や空戦もかなりの回数があり、エースの条件とされる「敵機を5機以上撃墜」も満たしている為、第二次世界大戦のドイツ空軍を代表するエース・パイロットの一人にも数えられる。 戦車519輌、軍用車800台以上撃破し、そのために出撃回数を増やすために書類を偽造し、何度も撃墜され、時には負傷し、右足を失ったり、彼のために設けられたといってもいい黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章をヒトラーから受け取り、さらにヒトラーは彼の戦死を恐れ再三地上勤務に移るよう要請した。そのため彼は勲章を受け取る条件として二度と後方勤務を要請しないよう言ったという。 また、その突出した戦果から敵国ソ連の指導者スターリンに「ソ連人民最大の敵」とまで言わせたという。 あまりにも伝説級の人物だったので、今日、あの嘘八百百科事典のアンサイクロペディアでさえ事実しか書けないという事態にまで陥ったという。 東方Project風に言えば「アンサイクロペディアに嘘を書かせない ネタ集 ジェリコのラッパ Ju-87スツーカについている威嚇用のサイレン。急降下時に発生した風切り音がそのように聞こえただけだという説もある。もともとジェリコのラッパとは旧約聖書の預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパのことで、この音でジェリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。 37mm砲 ルーデルが乗っていたJu-87のG型の両翼に対戦車用としてついていた機関砲、重量がかさんで操縦性が劣悪だったという。 「ガーデルマンが来い」 極度の仕事好きであったルーデルを入院させるのは不可能だとして、ニコニコ動画についたタグ。「病院が来い」の派生。 376km/h スツーカの最高時速。第二次大戦期の戦闘機の平均的な速力は500km/hぐらいで、非常に遅い機体でよく餌食にされたといえる。だがルーデルは一度も戦闘機に撃墜されたことはないという。 「休んではいられない!すぐに出撃だ!」 負傷して6週間の入院を言い渡されたが8日で病院を抜け出し出撃したこともあるという。 バトロイでの戦績 総出撃回数:12回 撃破車両数(勝利数に応じて増加):51台 被撃墜回数(凡退するたびに増加):6回 負傷回数(出場停止になるたびに増加):3回 獲得勲章:1回