約 25,903 件
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/266.html
針葉樹の森は、真っ暗な夜闇に沈んで、密やかな寝息を立てている。 幹や枝葉の隙間から滲みだした濃い影が、はたはたと雨だれのように降り、 湿った大地に溜まっていた。 そんな中、2人の少女を乗せた自転車は、抗議するような悲鳴を放って停まった。 いい加減、ブレーキシューの交換時期なのだろう。どうにも止まりが悪い。 雛苺が鞄を抱えたまま、自転車の荷台から、身軽にすとんと飛び降りる。 それを待って、脚を踏ん張って車体を支えていた雪華綺晶も、サドルから腰を浮かせた。 アルプスから吹き下ろす冷風に晒されて、2人揃って身震いする。 ごしごしと二の腕を擦りながら、雪華綺晶は両の肩を竦め、顔を上げた。 彼女の眼差しの先には、廃屋かと疑いたくなるほど古びたログハウスが在る。 屋根の煙突から細く吐き出される白煙が、辛うじて、住まう者の気配を知らしめていた。 それにしても―― 雪華綺晶は、針葉樹に囲まれたログハウスのドアを凝視したまま、回想した。 さっき、雛苺が口にしていた、とある秘密結社の話を。 (よりによって、薔薇十字団ですって? あんなもの、ただの都市伝説でしょうに) まことしやかな噂話ほど、実のところ、アテにならないものだ。 人里離れて暮らす偏屈な人形師に、意地の悪い誰かが、悪意ある脚色を加えたのだろう。 きっと、その程度のこと。風聞には良くあることだと、彼女は自らを納得させた。 「あ……鞄は、私が持ちますわ。こうなったのも、私の失態ですから」 雪華綺晶は鞄を受け取ると、雛苺に扉を開けさせて、ログハウスに足を踏み入れた。 ここは、ただの工房――そう思い込んでいた彼女たちは、次の瞬間、 異様な光景に息を詰まらせ、言葉を失うこととなった。 夥しい数の人形が、一斉に、2人を無機質な瞳で見つめていたのだから。 第十話 『fragile』 ジュモー、ブリューを初め、製造元や大きさも様々なビスクドールが、 何十(或いは百を数えるほど)となく、壁に設えた棚に陳列されていた。 どの人形も抱っこしたくなるほど愛嬌たっぷりなのだが、こうも数が揃うと威圧的でさえある。 異様な雰囲気に圧されて、雪華綺晶たちは表情を堅くしていた。 かさ、かさ―― 開け放したドアから吹き込んだ風が、テーブルに広げられた新聞の端を巻き上げる。 ル・モンドだ。開かれていた紙面には、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、 ドイツの総選挙で第一党となったことが報じられていた。 ……だが、今は外国の政治についてなど、どうでもいい。 「何か、用なのかい?」 不意に、奥の部屋から問われて、娘たちは慌てた。 人形にばかり気を取られるあまり、注意が疎かになっていたらしい。 もし彼が黙ったままだったら、居ることにすら気づかなかったことだろう。 声のした方を窺い見れば、この家の主たる人形師の男性の背中が、目に留まった。 よほど作業に没頭したいらしく、振り返るどころか、手を止めようともしない。 「あの……お仕事中、失礼します」 雪華綺晶は人形師の背中に、丁寧に話しかけた。「お人形の修理を、お願いしたくて」 『人形』と耳にして、やっと人形師は作業の手を止め、徐に立ち上がった。 思いがけず大柄な男性だった。身長は2メートル近い。 「どれ? 見せてみて」 声の響きは若々しいが、なんとなく物憂げな口調。実際、億劫なのだろう。 そうガツガツ仕事をこなさずとも、生活には困らないらしい。いいご身分だ。 クセのある金髪を手櫛で撫でつけながら、男性が溜息まじりに振り返った。 その面差しは、意外なほど若い。お世辞抜きに、かなりの美青年だ。 人形師という職種から、もっと頑迷で厳つい中年の職人を思い描いていただけに、 彼の端正な顔立ちを目にするや、雪華綺晶たちは暫し見惚れてしまった。 落ち着いた物腰から察するに、歳の頃は30前後といったところか。 だが、雪華綺晶を見た瞬間、それまで鷹揚に構えていた青年の様子が一変した。 切れ長で涼しげな双眸を、いっぱいに開いて……明らかな動揺を浮かべている。 彼の青い双眸は、雪華綺晶に釘付けとなっていた。 「お…………おお……」 青年の半開きになった唇から、低い呻きが零れだす。 そして、2人の娘たちが訝しく思うよりも早く、彼は雪華綺晶に掴みかかっていた。 「ば……薔薇水晶っ!?」 突如として、全く面識のない者に迫られたら、誰であれ身を引くだろう。 それが、自分より遙かに身長が高く、腕力に勝る相手だったなら尚のこと。 「きゃぁ! イヤぁっ!」 ただでさえ華奢な雪華綺晶は、すっかり脅えて顔面蒼白となり、 さっきまで重そうに抱えていた鞄を、軽々と青年に叩きつけた。 しかし、鞄に胸を強打されようと、青年は決して、掴んだ彼女の腕を離さなかった。 「や、やめてなのっ! きらきーを苛めちゃダメなのよーっ!」 雛苺は小柄な体躯にも拘わらず、ガムシャラに青年の脚へと飛びかかる。 人形師の青年は動じず、憑かれたような眼で、雪華綺晶を凝視していた。 「きみは、薔薇水晶だ! 生まれ変わった、僕の大切な一人娘だ!」 衝撃の言葉を、口にした。ビクリ……と、雪華綺晶と雛苺が、身体を震わせる。 雛苺は、彼の言葉を胸裡で反芻しながら、怖々と話しかけた。 「ホントに……きらきーは、貴方の娘なの?」 青年は、ああ……と。返答とも溜息ともつかない呟きを放って、重々しく頷いた。 彼の青い瞳は、雪華綺晶の胸元に輝くペンダントを、ひたと見据えている。 「その、雪の結晶を象ったペンダント―― 薔薇水晶のために、僕が作ったものだ。 それこそ、きみが僕の娘であることの、なによりの証だよ」 「ウソ…………ですわ」ペンダントを手で覆い隠して、雪華綺晶は呟いた。 「私は、雪華綺晶! あなたなんて知らないっ! 薔薇水晶なんて……知らな……い」 その言葉は、しかし、徐々に尻すぼみとなってゆく。 コリンヌに出逢うまでの記憶がない。そのことが、断言を躊躇わせていた。 雪華綺晶は、かつて無いほどの頭痛に襲われ、頭を抱え、蹲ってしまった。 「き、きらきー?! 大変……お顔が真っ青なのよ。早く帰らなきゃ! お人形の修理代は、受け取るときに払いますなのっ」 二人の間に割って入った雛苺が、青年に睨みを利かせながら、雪華綺晶を連れ出す。 が、彼は追いかけてこなかった。遠ざかる娘たちを、悲しい眼で見送っていただけで。 小屋を出るなり、雪華綺晶は激しい頭痛に堪えきれず、その場に跪いて吐瀉した。 胃酸に喉を灼かれ、激しく咽せる彼女の背中を、泣きそうな顔した雛苺が撫でさする。 そんな2人を、季節風に揺さぶられた木々のざわめきが、不気味に取り巻く。 まるで、平凡な日常という砂上の楼閣が崩れゆく音のよう。 雪華綺晶は咽びながら、そんなことを思っていた。 第十話 終 【3行予告?!】 俯くまで、気づきもしなかった。どうしてだろう? 泣いてた―― 知ることは、人の望みの歓びを見つけることだと……ずっと信じていました。 識ることが、終わりの始まりだなんて……思いも寄らずに。 次回、第十一話 『Rescue me』
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/185.html
『君と、いつまでも』 柔らかな春の日射し。 桜舞う校庭を吹き抜ける風は、まだ冷たい。 今日から三年生。薔薇学園で過ごす最後の一年。 玄関前に、新しいクラス編成が貼り出されていた。 それを食い入るように見詰める私と、ジュン。 お互いの名前を見付けて、ほぼ同時に、吐息する。 僅かに白くなった息が、春風に流されて、消えた。 「また、貴方と同じクラスになったのだわ」 「本当に、ここまで来ると腐れ縁だよな」 まさか、三年連続で同級生になるなんて、思ってもみなかった。 腐れ縁……か。せめて『運命の悪戯』とかロマンチックなことを言って欲しい。 そういうところで、ジュンはデリカシーと言うものが無かった。 下駄箱に続く階段を登りかけて、ジュンは立ち止まり、振り返った。 「――いつまでも、一緒に居られるといいな」 よく見なければ気付かないほど小さな微笑み。 私は小走りに彼を追い掛けて、耳元で、そっと囁いた。 「ええ。これからも、ずっと――」 なにげない日常にも、よく見れば新しい発見がある。 その事に気付いたのは、休み時間の教室だった。 ジュンが眺めていた雑誌を、興味本位で覗き込んだ私は、 そのページに印刷されていた情景写真に、一瞬で惹き込まれていた。 海の底の写真。まるで、ギリシャの神殿を想わせる石筍の列。 こんな光景を目にしたのは、写真や映像を含めても、初めての事だ。 「どうしたんだ、真紅。ぼぅ……っとしちゃって」 「え? ああ、その写真が、あまりに素敵だったから、つい」 「これか? うん。確かに凄いよなぁ」 「そうね。竜宮城って、こんな感じなのかしら」 「……いつか、一緒に行ってみたいな」 いきなり妙な事を口走った私に微笑みかけて、彼は写真の説明をしてくれた。 どうやら外国の、海底に水没した鍾乳洞の写真らしい。 ――世界は広い。 素直にそう感じたとき、学校という空間が、如何にちっぽけな世界であるかを知った。 そして、少しだけ不安になった。 こんなに小さな世界ですら、私には広く思えるのに……。 学校を卒業して、世間に放り出されたとき、私は何をすればいいのだろう。 そもそも、何がしたいのだろうか? 自問すると、返ってくる答えは、ひとつだけ。 ――ジュンと一緒に居ること。 私の望むことは、ただ、それだけ。 ゴールデンウィークの直前、私とジュンは大喧嘩をした。 理由は、馬鹿馬鹿しいくらいに他愛ないこと。 今から振り返れば、そう思って笑い飛ばせるけれど、あの時は違った。 まあ、結局……連休半ばには寂しくなって、どちらからともなく仲直りしたけどね。 私たちは仲直りの際に、ひとつの誓いを交わした。 いつまでも、一緒に居るから。 これからも、ずっと側に居るわ。 その誓いどおりに、私たちは休日でも、都合を付けて会っていた。 普段の生活でも、なんとなく傍らに居る二人。 周囲の目には、恋人同士に映っているのだろうか。 私たちは、世間一般に言うようなカップルではない。 ジュンが告白してくれた事は一度として無いし、その逆も然り。 世俗的な通過儀礼を、私たちは経験していなかった。 でも、私たちは互いの気持ちを解っていたし、意志の疎通も完璧だった。 人の気持ちは、言葉にしなければ伝わらないなんて話は、ウソ。 分かり合おうとする想いさえあれば、気持ちは自然と通じるものなのだから。 二人の関係を例えるなら、影――だろうか。 私は彼の影。そして、彼は私の影。 境界は明瞭なようで、本当は全てがグレーゾーンなのかも知れない。 今更、側に居たいと願う必要もないほど、私たちは密接な関係を築いていた。 傍らに居ることが、呼吸するくらい、ごく自然なことだと思えるくらいに。 十八年の歳月が育んだ二人の絆は、多分……生涯、変わらない。 私も彼も、それで充分、満ち足りた気持ちになれた。 「ジュン。一緒に帰りましょう」 「ああ。帰ろうか」 ジュンはいつだって、笑いながら、私の願いを聞いてくれる。 ――それは、私も同じ。 彼が望むことなら、なんでも叶えてあげたいと思う。 見返りなんて、最初から求めてはいない。 いいや……それだと、語弊がある。 本当のところ、彼の笑顔を見る事こそが、私にとって最高の見返りだった。 一学期が終わり、明日から夏休みを迎えようと言う日、私たちの関係は少しだけ発展した。 と言っても、単に世俗的な通過儀礼を終えただけなのだけど。 私にとって、その日は人生最良の思い出となった。 そして、ジュンにとっても、そうであって欲しいと思った。 ――八月初頭に開催される、町内の夏祭り。 私たちは、誓いの指輪を交換した。 勿論、露天の安っぽい指輪である。 普通の高校生に買えるアクセサリーなんて、このくらいが限界。 けれど、売っていた指輪はどれも、素直で洒落たデザインをしていた。 左手の薬指に填めた、お揃いのチェインリング。 それを眺める度に、私は笑みを堪えることが出来ず、頬を緩めた。 ジュンは、そんな私の肩を、優しく抱き寄せてくれる。 いろんな露店を冷やかして回る間、彼はずっと、腕時計を気にしていた。 少しくらい、私の浴衣姿を褒めてくれてもいいのに……とか、ちょっと欲求不満。 「そろそろ、花火を打ち上げる時間だな」 「そうね。例の場所に行きましょう」 私たちは寄り添いながら、学園裏の城址公園に行き、例の場所に向かった。 子供の頃から来ている、花火を見るための、秘密の特等席。 周囲には、誰も居ない。 夜空を彩る大輪の花が、恥じらう二人の表情を、柔らかく照らし出す。 私たちは掌を合わせ、指を絡ませ合いながら……。 ――互いのファースト・キスを捧げ合った。 夏休みも半ばを過ぎた頃、私たちは二人きりで、海に行った。 世間では『夏を征する者は受験を征す』とか言われているけれど、私たちは気にしない。 受験に成功しようが、失敗しようが、一緒に居ることに変わりはなかったから。 照りつける太陽の下、私はパーカーを羽織って、パラソルの陰に隠れていた。 別に、肌が弱い訳ではない。 水着だって、今日のために気合いを入れて選んだほどだ。 しかし、なんと言うか……コンプレックス? 我ながら、実にくだらないと思うのだけれど、やはり他の娘たちのスタイルを見ると、 尻込みせずにはいられなかった。 「折角きたのに、泳がないのか、真紅?」 「……ええ。もう少し、波打ち際が静かになってからね」 「そっか。確かに、あの人混みじゃあ泳ぐ気にならないよな」 だったら、何か飲み物とか買って来るよと言って、 ジュンは焼けた砂の熱さに飛び跳ねながら、海の家へと走っていった。 私は独り、読んでいた本を閉じて、沖合に目を向けた。 すると偶然にも、浮き輪にしがみついている子供の姿を見付けた。 明らかに、様子がおかしい。沖へ沖へと流されている。 このままでは、あの子が危ない。 咄嗟にそう判断した私は、パーカーを脱ぎ捨て、砂浜に走り出していた。 海に飛び込み、あの子を目指して、泳ぐ。 ひたすらに泳ぐ。 懸命に泳ぐ。 その子の元に辿り着いた私は、すぐさま異変に気付いた。 沖に流される速度が、尋常ではない。 見る見るうちに、砂浜から引き離されていく。 この時、私はまだ『離岸流』というものの存在を知らずにいた。 このままでは拙い。でも、どうしたら? 子供が掴まっている浮き輪は、二人が縋り付くには小さすぎる。 遠ざかる砂浜に目を遣ると、異変に気付いた他の海水浴客たちが、 こちらを指差して騒ぎ出していた。 その人混みの中から、浮き輪を手にした男性が飛び出し、こちらに向かって泳いでくる。 彼……ジュンだと、私には直ぐに判った。 ――いつまでも、一緒に これからも、ずっと―― 頭の中で繰り返される、あの言葉。リフレインと言うのだろう。 だが、安堵したのが悪かったのか、両脚が攣り、私は水底に沈み始めた。 苦しい。息が出来ない。 鼻腔に浸入した海水が、奔流となって喉や気管に流れ込んでくる。 ごめんなさい、ジュン。私……もうダメかも知れない。 そう思った矢先、私は力強く腕を引っ張られて、気付けば水面に浮かび上がっていた。 浮き輪を手渡されて、しがみつくと、私は激しく噎せ返った。 どのくらい、そうしていただろうか。 私が落ち着きを取り戻した時……周囲に、ジュンの姿は無かった。 私と、流されていた子供は、駆けつけたモーターボートに救助された。 けれど、ジュンが居ない。 彼は……ジュンは、何処に居るの? 何処に行ってしまったの? ずっと一緒に居るって、約束したのに……。 今朝だって、誓いの指輪を見せ合ったじゃない。 悪い冗談は、止めてちょうだい! ジュン……お願いだから、こんな意地悪は止して! 私を、これ以上、悲しませないで! お願いよ。ねえ、お願いだから……。 後になって聞いた話だと、私は半狂乱になって、地元警察や漁協の人たちに、 ジュンを探してくれるよう食ってかかっていたそうだ。 海上保安庁の職員も合流して、周辺海域の捜索が行われた結局―― ジュンが発見される事は、遂に、なかった。 それからの日々は、何を、どうしていたのか判らない。 勿論、今でも、当時の事を思い出せない。 記憶が、完全に抜け落ちていた。 私が、やっと自身の呟き声に気付いたのは、九月も末の事だった。 夏休みから……あの事故から、ずっと鬱ぎ込み、引き籠もっていたらしい。 食事のとき以外、部屋のドアは固く閉ざされたままだったと言う。 誕生日に、ジュンがプレゼントしてくれた手縫いのぬいぐるみを抱き締めて、 時に、小鳥が愛の歌をさえずる様に…… 時に、哀話を囁きかける様に…… ブツブツと独り言を喋っていたそうだ。 そして今朝、私は微睡みの中で、不意に気が付いた。 彼が会いに来られないなら、私が会いに行けば良いのだ、と言うことに。 何故、こんな簡単な事が、今まで思いつかなかったのだろう。 私は、すっかり人っ気の無くなった砂浜を訪れていた。 夏の日に、二人で来た砂浜―― 貴方は、なにか飲み物を買ってくるって、言ってたわね。 今度は私が、貴方のために、飲み物を買ってきてあげるわ。 「ねえ、ジュン……貴方は、なにが飲みたいのかしら?」 訊ねても、吹き抜ける風は、何も答えてくれなかった。 ――ジュン 私が愛した、最初で、最後の男性。 彼は今も、この海のどこかで眠り続けている。 だから、私が起こしに行くわ。 そして、また……二人、一緒に。 長月の西空が朱に染まりだした頃、私は、靴も服も身につけたまま、海に入った。 流石に、水は冷たい。 だけど、私の熱い想いを冷やすことなど、出来はしない。 いつまでも彼と一緒に居るためならば、私は灼熱の大地でも踏破してみせる。 凍てつく氷河でも、渡りきってみせる。 誰にも邪魔はさせない。 何者にも遮られはしない。 全ては、ジュンに出会うための、試練に過ぎないのだから。 一歩……また、一歩。 膝から太股へ……そして腰まで、水面に呑み込まれて行く。 どの辺りまで行けば、離岸流にぶつかるのだろう。 ああ、もう……歩いているのが、もどかしい。 いっそ、泳いでしまおうか。 そんな考えが思い浮かんだ矢先、私の身体が、ふっ……と流され始めた。 もう、泳いだ方が速そうだ。 服が肌に張り付いて、酷く泳ぎにくい。 それでも、私は平泳ぎの要領で、沖を目指した。 身体が、ますます軽くなっていく。 泳いでいると言うより、流されている感覚が、強くなっていった。 「やったわ、ジュン。このまま、貴方の所まで行くわ」 私は仰向けになって、潮流に身を委ねた。 右手に握り締めていた紅茶のペットボトルを、胸元に押し込む。 ここまで来て、折角のおみやげを落としたりしたら、彼に笑われちゃうわ。 さあ、私を彼の元に運んでちょうだい。 いつしか、空一面に星が瞬き始めていた。 なんて綺麗なのかしら。 そう呟きながら、私は夏祭りの夜に見た、花火を思い出していた。 二人が初めて、身も心もひとつになった、あの夜―― 私たちの関係が、これからも続いていくことに、何の疑いも抱いていなかった。 まだ、終わりじゃない。 これからも、続けていくのよ。 私たちの関係を―― 二人の人生を―― 私の頬を、涙が一粒、零れ落ちた。 嬉し涙なのか……悲しい涙なのか……よく、解らない。 瞼を閉じた私の身体は、静かに……ゆっくりと沈んでいった。 波の中で、私は、たゆとう。 なんとなく、揺りかごに寝かされていた赤ん坊の頃に還った様な気分がした。 とても、心地が良い。 「そろそろ、目を覚ましたらいかがですか、お嬢さん?」 唐突に話しかけられて、私の意識は一瞬にして目覚めた。 誰も居ないものと思っていたのに、いつの間に?! 振り返ると、タキシードを着た、ウサギ男が立っていた。 頭には小さなシルクハットを頂いている。 「初めまして、お嬢さん」 「貴方……誰なの?」 「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。 ワタシはただ、お嬢さんの要求を耳にして、お節介を焼きに来ただけです」 「お節介、ですって?」 自らを道化と名乗ったウサギは、こっくりと頷いた。 この道化ウサギは、どう言った素性の者なのだろう? 日常と……非現実? そもそも、ここは何処なの? 海の中かと思っていたけれど、どうも違う。 「私は、死んでしまったの?」 「そうとも言えるし、そうでないとも言える」 「訳が分からないのだわ。禅問答をしている暇はないの」 「せっかちですね。短気は損気というのを、ご存知無いですか?」 ああ言えば、こう言う。煩わしいウサギだ。 私には、貴方に構っている暇なんて無い。 ジュンを、探さなければならないんだから。 「どこを探すつもりですかな」 道化ウサギは、まるで私の心を読んだかのように薄笑いを浮かべた。 「ように……ではなく、ワタシには読めるのですよ。 ここは、非現実世界ですからね」 「……それなら、私の目的も解っているでしょう」 「勿論。だからこそ、道化の分を弁えず、アナタの前に現れたのですよ。 彼の居場所をお伝えするために……ね」 「っ! 貴方、ジュンが何処に居るのか、知っているのね?」 「この非現実世界の事ならば、何でも知っておりますよ」 私は、心の奥底から湧き出してくる感情を抑えることが出来なかった。 道化ウサギに縋り付き、あらん限りの声で、叫んでいた。 「教えてっ! ジュンの元へと、私を連れていって!」 その為に、私は此処まで来た。 ジュンに会う……ただ、それだけの為に。 道化ウサギは徐に頷き、指を鳴らした。 今度こそ、私は海の中を漂っていた。 けれど、相変わらず、非現実世界に居ることも理解していた。 何故って? だって……海の中でも、普段どおりに呼吸が出来るんだもの。 頭の中に、あの道化ウサギが話しかけてくる。 『彼の居場所は、アナタも既に知っているはずですよ』 (既に、知っている? いいえ……解らないわ) 『思い出しなさい。彼が、教室で眺めていた雑誌を』 突然に、私は思いだした。 休み時間の教室で、ジュンと眺めた、あの雑誌……。 確か、水没した鍾乳洞の写真が載っていた。 竜宮城って、こんな感じなのかしら。 いつか、一緒に行ってみたいな。 あの日、私と彼が交わした言葉。 あの時の事を、ジュンが今も忘れずにいてくれたのだとしたら―― 『行き先は決まりましたか? それでは、望みなさい。 願いが強ければ強いほど、より近くへと行けるでしょう』 願いの強さなら、誰にも負けない。 私は彼の側に行く。 絶対に、ジュンを見付けてみせる! 私の意識は、海中を駆け抜け、海底に眠る洞窟へと飛び込んでいた。 無秩序に立ち並ぶ石筍の間を、するりするりと泳いで行く。 真っ暗な筈なのに、洞窟の中は照明が当てられているかの様に明るかった。 もうすぐよ、ジュン。 私は、もうすぐ貴方の元に辿り着く。 暫く行くと、岩壁に突き当たった。ここで終わり? いいえ……彼は間違いなく、この先で、私を待っている。 左薬指のチェインリングが、私に、そう語りかけていた。 真上に泳いでいくと、不意に、水面を突き抜ける感触があった。 この鍾乳洞は、全てが水没している訳ではなく、所々に空気溜まりが有るのだ。 海中から陸に上がって、私は目の前に広がる光景に絶句した。 荘厳……それ以外に表現する言葉が見付からなかった。 何千年、何万年という歳月を費やして形作られた、鍾乳石の神殿。 神殿? いいえ、違うわ。ここは、大自然の作り出した夢幻の城。 此処こそが、竜宮城。 私と貴方が一緒に来たいと、願っていた場所。 私は、徐に歩き始めた。 ここに、ジュンが居る。早く……一秒でも早く、会いたい。 その衝動が、歩くスピードを、更に加速させる。 いつの間にか、私は走り出していた。 ――真紅。会いに来てくれたんだね。 彼の声。ずっとずっと聞きたかった、ジュンの優しい声。 「ええ。来たのよ、私。ジュンに会いに来たの」 だって、約束だもの。 いつまでも、一緒にいるって。 声のした方へ向かって、一心不乱に走り続ける。 ジュンは岩影に横たわって、駆け寄る私に穏やかな眼差しを向けていた。 「こんな恰好で、ごめんよ。なんだか、とても億劫なんだ」 「当然よ。こんな所に、一ヶ月も隠れていたんだもの」 「そっか……もう、そんなに経ってたんだな」 「貴方は酷い人なのだわ。 竜宮城に入り浸って、いつまでも、帰ってきてくれないんだから。 早く戻らないと、私がお婆さんになってしまうじゃないの」 「ははは……そう言えば、浦島太郎の伝説って、そんな話だったね。 竜宮城で三年を過ごす間に、地上では三百年が過ぎてた――って」 「ええ。でも、今なら間に合うわ。一緒に、戻りましょう」 そう言った私に、ジュンは頚を横に振って見せた。 「ごめん、真紅。それは出来ないんだ」 「そんなっ! 何故?! どうしてっ?!」 「なぜならば……僕はもう、竜宮城の食べ物を口にしてしまったから」 それが、どうしたと言うのだろう。 その程度の事で、何故、帰れなくなるのか? ……解らない……判らない……分からない。 「真紅。僕はね、もう……死んでしまってるんだよ」 聞いた瞬間、新手のブラックユーモアかと思ってしまった。 「ウソ…………よ、ね?」 私の問いに、ジュンは苦しげな表情を浮かべて、顔を背けた。 彼の姿がぼやけて、霧のように掻き消えた。 その後に残されていたのは、白骨死体。 右手の薬指には、夏祭りの夜、露天で買い揃えたチェインリングが填められていた。 間違いない。この人が、ジュン。 私の最愛の人。 涙が止まらなかった。再会できた歓びと、別れなければならない悲しみと、悔しさで。 私は胸元から紅茶のペットボトルを抜き出して、傍らに置いた。 「ジュン……このお茶ね、貴方のために買ってきたのよ」 私はジュンの頭蓋骨を拾い上げて、胸に抱いた。 会いたかった。心の底から、そう思う。 たとえ貴方が、どんな姿になろうとも……貴方を想う、私の気持ちは変わらない。 ジュン……世界の誰よりも、私は貴方を愛しています。 涙に濡れた頬を、ジュンの頭に擦り付ける。 ひんやりした、冷たい感触。 こんなにも冷え切ってしまったのね、貴方は。 だったら、私がこうして、暖めてあげる。 これからも、ずっと―― 私は、この上なく満ち足りた気分で、ジュンの頭を抱き締めていた。 道化ウサギが、姿を現すまでは。 「彼との再会は、果たせたようですね」 「何の用なの? 冷やかしに来たのなら、帰ってちょうだい。 私は今、とても幸せな気持ちなの。邪魔されたくないわ」 「ほう……それは、本人の意思を尊重しなければいけませんね。 しかし、本当にそれで良いのですか?」 「……くどいわね。なにが言いたいのかしら?」 「彼を連れ戻さなくて良いのですか? と、訊いているのですよ」 どういう事だろう。意味が、よく解らない。 「平たく言えば、彼を甦らせたくはありませんか……と言う事です」 「!! そんな事が、本当に?!」 「黄泉戸喫という言葉を、聞いたことはないですか?」 「? いいえ、無いわ」 「イザナギと、イザナミの話として有名なのですがね。まあ、良いでしょう。 彼は、さっき言っていましたね。竜宮城の食事を、口にした――と」 そう言えば、ジュンは確かに、そう言っていた。 「黄泉戸喫とは、その地に縛られてしまうこと。 彼はもう、竜宮城から抜け出せなくなっているのですよ」 「だとしたら、甦らせるなんて不可能じゃないの!」 からかわれている気がして、私は声を荒げた。 しかし、道化ウサギは目を細めて、私が持ってきた紅茶のペットボトルを指差した。 「あれが、役に立つのですよ。現実世界との繋がりを、取り戻すためにね」 「この紅茶を、どうしようと言うの?」 「彼の亡骸に振りかけなさい。そして、願うだけ。簡単な事でしょう」 「……確かに。でも、解せないわね」 「何がです?」 「なぜ、貴方が、そこまでお節介を焼くのか……と言う事よ」 問われて、道化ウサギは頭を掻いた。 そして「今度のお嬢さんは、また勘の良い娘ですね」と苦笑混じりに呟く。 「それについては、いずれ……話すことも有るでしょう。 ですが、今は彼の件を急いだ方が良いですよ」 言われるまでもない。 私は骨を並べ直して、紅茶をまんべんなく振りかけた。 ジュンの亡骸が、ふたたび光を取り戻す。 「…………真……紅? 僕は、一体――」 「っ! ジュン! ジュンっ!」 私は、いまだ朧気なジュンの身体を、両腕でしっかりと包み込んだ。 まだ冷たい。でも、待ってて。きっと温もりを取り戻してあげるから。 「さあ、早く行きなさい。カウントダウンは始まっています。 鬼ごっこの鬼は、一秒だって待ってはくれませんよ」 「解ったわ。ジュン! 私の手を掴んで! いつまでも、ずっと――」 「ああ。行こう。ずっと一緒に!」 私の左手に、ジュンの右手が重ねられ、しっかりと繋がれた。 安物のチェインリングが、再び、二人を結び付けた。 私はジュンの手を握り締めて、来た道を辿り、出口へと向かった。 背後に、何だか判らないけれど、恐ろしい者の気配を感じる。 もの凄いスピードで、追いすがってくる。 思わず振り返ろうとした私を、ジュンが叱責した。 振り返っちゃダメだ。前だけを見て、逃げ続けるんだ。 そうだ。後ろに有るのは、悲しい過去だけ。 私たちは前だけを見て、幸せな未来に向かって、進み続けなければいけない。 ――僕には、君が居る 私には、貴方が居る―― その想いを胸に、私たちは光の溢れる世界へと飛び出していった。 潮風のにおいと、潮騒のざわめき。 目を覚ましたとき、私は見たこともない磯に横たわっていた。 身体を起こして、辺りを見回す。 何処なの、此処は? それに、ジュンは何処に? 彼が居た痕跡は、無い。まさか、全て夢だったの? 左手に、繋いだ手の感触が残っている。 でも、あれは……非現実世界でのこと。強く願えば、なんでも叶う世界。 「また、こんな喪失感を抱かせるなんて……。 ジュン。貴方は、本当に酷い人なのだわ」 後から後から、涙が溢れてきた。 こんな夢なら、いっそ、見ないままの方が良かった。 こんな想いをするくらいなら、いっそ、ここに来なければ良かった。 私は泣きながら、磯を歩き始めた。 足元は起伏に富んでいて、とても歩きづらい。 涙で目が霞んでいたせいか、私は蹴躓き、ごつごつとした岩場に倒れそうになった。 ――危ないっ! そう思った瞬間、私は力強い腕に、抱き留められていた。 私を支えてくれたのは―― 「危なかったな。気を付けないとダメだぞ」 「ジュンっ! 貴方……今まで何処にっ!」 「ちょっと、飲み物を買いに行ってきたんだよ。約束だっただろ?」 あの日の約束を、ずっと憶えていたなんて……。 「でもさぁ、行ったは良いけど、財布を持ってなかったんだよな」 「…………バカ。貴方って、本当に――」 その後の台詞は、声が詰まってしまって、巧く言えなかった。 けれど、私も彼も、この一言だけは、しっかりと伝え合っていた。 『君と、いつまでも』 幸せな二人の様子を、道化ウサギは崖の上から見下ろしていた。 その表情は、我が子を見守る父親のように優しい。 道化ウサギは指を鳴らして「お幸せに」と呟くと、突風と共に消えた。 彼が、最後に使った魔法の効果だろうか。 朝日の中で抱き合い、口付けを交わす二人のチェインリングは、 ひときわ輝きを増していた。
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/265.html
――明けて、1933年。 1月の冷えた空気は、音をよく響かせる。広い室内に、四つの音が余韻を引いた。 悲痛な声は短く、物の砕ける音は長く―― 柱時計の振り子と、ミストラルと呼ばれる季節風に揺れる窓の音が、それらを包み込む。 雪華綺晶が、己が主である少女の部屋を、掃除しているときのコトだった。 いつものように、サロンから聞こえるピアノの旋律に聴き入るあまり、つい―― 「あぁ……どうしましょう……」 コリンヌが大切にしている人形を清掃中、うっかり、床に落としてしまったのだ。 18世紀ごろの著名な錬金術師の手によるモノらしく、その造形は精巧の極致。 眩い銀色の髪に、寂しげな目元、なめらかな光沢を放つ肌の質感……そして、黒い翼。 逆十字をあしらった黒いドレスと相俟って、なんともデカダンな美しさを醸している。 無垢な幼女のようで、完熟した妖女にも見える面差しは、畏怖の念すら抱かせた。 だが、いま床に投げ出された人形の身体は、有り得ないカタチに折れ曲がっている。 落下の衝撃で、ビスク製の胴体部分が、割れてしまったようだ。 雪華綺晶が、震える手で人形の上半身を持ち上げると、がしゃり―― パーツを繋いでいたゴム紐が切れて、腰から下が、細かい破片と共に床へと抜け落ちた。 本当に、どうしたらいいのか。とても素人の手に負える代物ではない。 兎にも角にも、修理なんて証拠隠滅の手段を考えるより先に、コリンヌに謝らなければ。 壊してしまった人形を胸に抱いて、雪華綺晶は重い脚を引きずり、サロンを訪れた。 「まあ!」ひたすら平謝りする雪華綺晶の手から、人形を奪い取ったコリンヌは、 目に涙を溜めて、唇を震わせた。「そんな……二葉さんに戴いた、お人形が――」 第九話 『キヲク』 もし、大好きな人からプレゼントされた、大切な品を壊されてしまったら―― 雪華綺晶は唇をキュッと噛んで、無意識の内に、胸元のペンダントを握り締めた。 悲しいに決まっている。代わりの物が用意できようと、できまいと。 たとえ修理しても、本人にとって、その価値は著しく失われてしまうのだから。 見た目は元どおり。だけど、それは最早、からっぽの器……。 たくさんの思い出が詰まっていた宝箱では、もうないのだ。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」 人形を抱いて啜り泣くコリンヌを前に、雪華綺晶はただただ俯いて、 壊れた蓄音機のように、謝罪の言葉を繰り返すことしか出来なかった。 いっそ、思いっ切り強く、頬を引っ叩いてもらえたら―― 百万の罵詈雑言を、コリンヌが容赦なく浴びせてくれたのなら―― ある意味、まだ救われたかも知れない。完全悪として、裁かれるのであれば。 けれど、コリンヌはさめざめと泣き濡れるだけだった。 一言たりとも、雪華綺晶を責めようとはしなかった。 なぜ? 過ちは人の常、許すは神の業……とでも? 痛罵されないことで、雪華綺晶の忸怩たる想いは胸につっかえたまま、 フラストレーションを溜め込み、際限なく膨張してゆく。 無言が続けば続くほど、内側から圧迫される胸の痛みも増して、雪華綺晶は苦悶に喘いだ。 かちゃり。ドアノブが回され、雛苺が不安そうな顔を覗かせたのは、 いたたまれなくなった雪華綺晶が、今まさに逃げだそうとした矢先だった。 「コリンヌお嬢様……どうしたの? なにか、あったの?」 察しの良い娘だ。ピアノの演奏が不自然に止んだので、心配になったのだろう。 彼女の登場によって、浮いていた雪華綺晶の踵は、再び床を踏みしめた。 逃げだす機会を逸したからではない。雛苺なら助けてくれると、思ったからだ。 今の雪華綺晶は、コリンヌを宥め慰める言葉を、持っていなかった。 もし持っていたとしても、それを口にすることなど出来はしなかっただろう。 ――でも、長く住み込みで奉公してきた雛苺ならば、或いは……。 雛苺は、ことこと靴を鳴らして、泣き崩れているコリンヌの元へと歩み寄った。 そして、彼女の腕に抱かれた人形に気づくと、口元に手を当てて息を呑んだ。 「お人形さんが……壊れちゃったのね?」 「ごっ、ごめんなさいっ! 私の過失で――」 「……うぃ」 もはや条件反射的に謝る雪華綺晶に、雛苺は『任せて』と言わんばかりに頷くと、 コリンヌの隣りに屈み込んで、彼女の背中を撫でながら囁きかけた。 「そんなに悲しまないで。お嬢様が泣いてたら、きらきーも、ヒナも、 お人形さんだって、とっても哀しくなっちゃうのよ?」 「雛…………苺」 「それにね、このままじゃ、その子も可哀相なの。 壊れたところから、大切な思い出が流れだしちゃうのよ」 「……でも…………このお人形は――」 「解ってるの。このビスクドールは、もう作られてないのよね? ちゃんと修理できる職人さんは、もう居ないかも知れない――って」 それは、コリンヌの誕生日にプレゼントを手渡すとき、二葉が語っていたことだ。 この人形を、懇意にしているアンティークドールショップで偶然にも見つけた彼は、 店主に頼み込んで譲り受けた――とのコトだった。 どれだけ大枚をはたいたかは、一度として口にしなかったけれど。 まあ、とにかく。修復できるものなら、いくら払ってでも、元どおりにしたい。 本音を滲ます眼差しのコリンヌに、雛苺は「へへー」と、自信ありげに笑いかけた。 「実は、ヒナねぇ~……すっごい人形師さんを知ってるのよー。 その人なら、きっと直してくれるのっ。さ、ヒナにその子を預けて」 いつもなら、この軽いノリと根拠に乏しい自信に、不安をもよおしていただろう。 しかし、現状では雛苺に従ってみるより他ない。 コリンヌはハンカチで目元を拭うと、愛娘を託すように、そっと人形を差し出した。 ~ ~ ~ 鄙びた田園風景の中を、山に向かって風のように走り抜ける、一台の自転車。 額に汗を滲ませながらペダルを漕ぐのは、髪をポニーテールに束ねた雪華綺晶。 その後ろには、人形を納めた鞄を抱えた雛苺が座って、時折、指示を出している。 「ねえ、雛苺さん。貴女どうして、その職人さんを知っていましたの?」 雪華綺晶の、至極もっともな疑問を受けて、雛苺は照れ笑いを浮かべた。 なんでも子供の時分に、やはり貴重な人形を壊してしまったことが、あったそうだ。 その際に修理を依頼したのが、これから会う人物なのだと言う。 「ホントかウソか、ヒナには解らないんだけど…… 山奥に隠棲してるその人はね、とある秘密結社のメンバーだって噂されてるのよ」 随分とオカルトめいた話だが、あのビスクドールを修理するには、 そういった分野の知識も必要かも知れない。何しろ、普通の人形ではないのだから。 流れゆく景色を、なにげなく眺めていた雪華綺晶は、ふと―― 「あら?」郷愁めいた感情に、胸の奥が騒ぐのを感じた。 私は、この風景をよく見ていた……そんな気がする、と。 第九話 終 【3行予告?!】 人は悲しいぐらい忘れてゆく生き物。愛される喜びも、寂しい過去も―― コリンヌお嬢様のためにも、お人形さん、綺麗に直してもらいたいのよ。 ……うよ? どうかしたの……きらきー? 次回、第十話 『fragile』
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/167.html
始業のチャイムが、校舎に静寂をもたらす。 医薬品のニオイが仄かに香る部屋に、翠星石は独り、取り残されていた。 保健室の周囲には、教室がない。 さっきまで居た保健医も、今は所用で出かけたきり。 固いベッドに横たわり、青空を眺める翠星石の耳に届くのは、風の声だけだった。 「蒼星石――」 青く澄みきった高い空を横切っていく飛行機雲を、ガラス越しに眺めながら、呟く。 胸裏を占めるのは、妹のことばかりだった。 「あの夜……蒼星石の気持ちを受け止めていれば、良かったですか?」 でも、それは同情しているだけではないのか。 可哀相だからと哀れみ、抱き寄せて、よしよしと頭を撫でてあげるのは容易い。 今までだって、ずっと……蒼星石が泣いていれば、そうしてきた。 しかし――ふと、自分の内に潜んでいる冷淡な翠星石が、疑問を投げかける。 お姉さんぶって、妹を慰めながら、優越感に浸っていたのではないか? 同情や哀れみとは、目下の者に対して向けられる感情なのだ。 保護者という立場の自分に酔いしれて、妹を見下していなかったと、どうして言えよう。 そんな自分の過保護が、結果的に、蒼星石の自立を妨げているのだとしたら……。 ――突き放すことも、愛情のカタチ。 それが、翠星石なりに考え、悩み、導き出した、とても浅はかな答えだった。 第十二話 『君がいない』 けれど……突き放すのは、こんなにも痛くて、苦しいこと。 今回のことで、翠星石も身にしみて解った。 自分と蒼星石は、良くも悪くも近すぎるのだ、と。 双子の姉妹という、互いの半身を共有しているかのような、密接な関係。 それを引き剥がすのだから、痛みは相手ばかりでなく、自分にも降りかかる。 しかも、竹を割るようにはスパッといかない。 メキメキと軋めきながら、ぐずぐずと裂けていくのだ。 断面に、無数の醜いささくれを刻みながら―― 下手をすれば、どちらか……或いは二人とも、生きながら死んでしまうだろう。 蒼星石のためを想えばこその、苦渋の選択だったのに、 それが妹のココロを傷付け、殺してしまうかも知れないなんて、愚の骨頂ではないか。 (こんな苦しい想いまでして、いま、無理に別れる必要があるです?) 自問自答。翠星石の青すぎる決意は、揺らいでいた。 もしかしたら、今更だったのかも知れないし、時期尚早なのかも知れない。 まだ若いのだし、いま暫く、成り行きを見守っても、いいのではないのか。 「……これ以上、蒼星石を苦しめるのも可哀想です。 蒼星石が心から懺悔するなら……しゃ~ねぇから、勘弁してやるですよ」 精一杯の強がりを口にして、勇気を奮い立たせた翠星石は、携帯電話で妹にメールした。 たった一言、自分の素直な想いを。 今は授業中だけれど、蒼星石も同じ想いならば、すぐに返信をよこすハズだ。 しかし、待てど暮らせど、送った気持ちは戻ってこない。 気付いていないの? それとも、無視されているの? 過度の期待をしていただけに、翠星石の落胆も時の経つにつれて大きくなっていった。 ――授業中の教室。 先生が、チョークで黒板を引っ掻きながら、頻りに何かを捲したてている。 その声は、蒼星石の頭に何秒と滞らずに、耳を素通りしていく。 彼女のココロは今、ここに無かった。 (大丈夫なのかなぁ) 息苦しさを覚えて、蒼星石はペンを置くと、ネクタイの結び目に手を遣った。 翠星石が保健室で休んでいると、水銀燈に聞かされてから、胸騒ぎが収まらない。 指先で喉元を広げることで、やっと人心地つけたものの、不安は薄れなかった。 叶うならば、今すぐにでも保健室に行きたい。 いっそ、仮病でも使って、抜け出してしまおうか。 そんな発想が頭をよぎるのと同時に、蒼星石は携帯電話でメールを送ることを思いついた。 (こんな簡単な方法を、なんで気付かなかったんだろう) どういう手段であれ、まずは自分の気持ちを伝えなければ始まらない。 それに対して返信をするかどうかは、翠星石の問題だ。 蒼星石は、教師と周囲の目を気にしながら、ブレザーのポケットに手を差し入れた。 だが、指先は求める物を捉えない。他のポケットも探ってみたが、結果は同じ。 事ここに至って、蒼星石は携帯電話を家に忘れてきたことを悟った。 バッテリーが切れかかっていたから、充電したまま、机に置きっぱなしだったのだ。 往々にして、物事の歯車が噛み合わないときは、こんなものだろう。 何をしても巧くいかない。ムリをすればギアが噛んで、耳障りな悲鳴をあげる。 微かな溜息を吐いて、蒼星石は気の抜けた緋翠の瞳を、黒板に向けた。 (早く、会いに行きたいよ――) 保健室のベッドに横臥したまま、翠星石は鬱々と、携帯電話を玩ぶ。 ストラップのマスコット人形を、振り子みたいにブラブラさせる。 市販品の、ありふれたストラップだけれど、蒼星石とお揃いで買った物だ。 彼女たちを繋ぐ、一本の糸。それらが合わさり束になって、絆は紡がれ続ける。 その絆を信じて、翠星石はただ一心に、メールの着信を待ち侘びていた。 「…………なにグズグズしてるですか、蒼星石」 溜まり続ける鬱憤が、少しだけ、彼女の可愛らしく突き出された桜色の唇から零れ出る。 その苛立ちは、しかし、妹に対してではなく―― 「なんで、応えてくれないです?」 自分で突き放しておきながら、会いたくて堪らない。 そんな身勝手で愚かしい自分に対して、募らせた感情だった。 イライラが解消されないまま、どうしようもなく情緒が不安定になっていく。 いっそ、髪を掻き乱して大声で叫び、暴れてやろうかとすら思う。 だが、翠星石が衝動的な暴力を解放する前に、保健医が戻ってきた。 その手に、彼女の荷物を携えて。 ――担任の先生に許可をもらってきたから、今日は帰りなさい。 保健医に薦められるまま、翠星石は帰宅することを選んだ。 未だに着信のない携帯電話を、一度だけ握り締めて……カバンに押し込む。 けれど、真っ直ぐ家路に就くことを拒む、重く沈んだココロ。 当て所なく漂い続ける翠星石の足は、やがて、ある場所を目指し始めていた。 幼い姉妹が、突然の夕立を避けるため身を寄せ合った、あの公園へと―― 待ちわびていた終了のチャイムが鳴ると、どの教室も一様に騒がしさを取り戻す。 蒼星石は、教科書やノートを片づけもせずに、椅子を蹴立てて廊下に出た。 念のため、保健室に向かう前に姉のクラスを覗いてみたが、彼女の姿はない。 そして、カバンも……。 (荷物を持って、保健室に? それとも、具合が悪すぎて、早退しちゃったの?) 可能性は高い。近くにいた女生徒をつかまえて訊くと、そうだと言う。 この学校に、もうキミがいない。 そう思った途端、蒼星石はいい知れない虚脱感を覚えて、肩を落とした。 会いたかったのに―― ちゃんと向き合って、きちんと謝りたかったのに―― (どうしてキミは、ボクが捕まえようとすると、逃げてしまうのさ) あと少し、腕を伸ばす努力が足りないと言うのか。 あと少し、追いつく気持ちが弱いと、嘲笑うのか。 そっちがその気ならば、もう形振り構わず追いかけて、絶対に捕まえるまでだ。 教室に戻った蒼星石を出迎えた水銀燈は、翠星石に会えたのか訊ねようとして、口を噤んだ。 蒼星石は自覚していなかったが、そのくらい、険しい表情をしていたのだ。 無言でカバンに荷物を詰め込む彼女を見つめながら、水銀燈は肩を竦めた。 「追いかけるのね、あの子を」 言って、財布から二枚の千円札を抜き取ると、蒼星石に握らせた。 「これで、ケーキでも買ってくと良いわ」 美味しいお菓子でも手土産にして、早く仲直りしちゃいなさい、という意味なのだろう。 躊躇して、お金を返そうとする蒼星石に対し、水銀燈は苛立たしげに吐き捨てる。 「いいから、早く行きなさいよ。なんなら、強制退去させてあげましょうか?」 「……解った。キミの気持ち、ありがたく受け取っておくよ」 蒼星石はカバンを手にして、勢いよく走り出した。 最愛の姉、翠星石の元へと。 思い出の公園に近付くに連れて、翠星石の足取りは、なぜか重くなっていった。 (蒼星石! 蒼星石っ! 蒼星石ぃ!) ココロの中で妹への想いが膨れ上がった分だけ、体重も増したかの様だ。 学校を出てから、もう十回はメールを送った。留守録にも何度か、メッセージを吹き込んだ。 でも、一度として返事は無い。どうして? 悲しみで、胸が張り裂けそう。 苦しくて、息が詰まって……軽い吐き気すら覚えている。 片側、三車線ある幹線道路で、ちょっと長めの信号待ち。 翠星石は、横断歩道の先にある歩行者用信号に、ちらと視線を向けた。当分、青になりそうもない。 その緋翠の瞳に飛び込んできた人影は、夢か現か、幻か。 向かいの歩道を駆け抜け、ケーキ屋に飛び込んだ女の子は、紛れもなく蒼星石だった。 「あっ! 蒼せ――」 その瞬間、翠星石には、蒼星石のことしか見えなくなっていた。 妹の名を呼んで、衝動的に横断歩道へと躍りだしていた。 やっと会える喜びに、表情を輝かせながら―― 第十二話 おわり 三行で【次回予定】 擦れ違っていた姉妹は、再び巡り会うための、一歩を刻んだ。 けれど、互いのベクトルは未だ、異なる方角を向いたまま。 姉妹と親友たち。彼女らの想いが辿り着く先は―― 次回 第十三話 『痛いくらい君があふれているよ』
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/273.html
『彼女』は、相も変わらず霧雨そぼ降る夜空を見上げ、瞼を細めた。 急がないと。夜が明ける前に戻れなければ、スケジュールが台無しになる。 「うゅ……お、終わった……のよ」 「そう。ご苦労さま」 いつまた暴力を振るわれるかと怯える雛苺に、『彼女』は、ねぎらいの言葉を向けた。 掘り返された柩は、きちんと蓋をされ、埋め戻されている。 その仕事ぶりを確かめて、『彼女』は満足げに頷き、血塗れの顔をニタリと歪めた。 「とりあえず、手と顔を洗って、着替えた方がいいわ。あなた、泥だらけよ」 「は、はいなの」 「ふふ……いい返事ねぇ。聞き分けのイイお利口さんって、好きよぉ」 そんな安っぽい褒詞を、額面どおりに受け取ることなど、雛苺にはできない。 涙ぐんだ双眸を、グッと見開いて、『彼女』の一挙一動を警戒していた。 実に健気なものだ。言いなりにはなるが、魂まで売り渡す気はないらしい。 ――ならば、それ相応に利用するだけ。用が済んだら、処分すればいい。 『彼女』は雛苺の頬を両手で挟むと、顔を近づけ、鼻先を触れ合わせた。 「さっきは手荒な真似して、ごめんなさいねぇ。でも解って。仕方なかったのよ。 あなたが私を手伝ってくれる限り、もう危害は加えない。約束するわぁ」 この世は持ちつ持たれつ、でしょ? 聖女のような無垢を、『彼女』は満面に貼りつけている。 けれど、それは事実上の脅迫。 秘密を知った弱者に許される選択肢は、言いなりになるか、抗って殺されるか。 雛苺が選んだのは、したたかに生き残る道だった。 たとえ、『彼女』の傀儡になり果てるとしても。 第十五話 『All along』 家の裏手にある井戸の前で、『彼女』たちは、生まれたままの姿になった。 そして、寒さに震えながら、肌や髪にこびりついた血泥を冷水で洗い流した。 真夜中とは言え、どこで、誰が見ているか分からない。 血泥に塗れた姿で、フォッセー邸の周りを彷徨くわけには、いかなかったのだ。 荊や内臓がはみ出してこないよう、傷口にタオルを当て、コルセットで締めあげる。 仕上げに、タンスにあった薔薇水晶の服を着て、『彼女』の準備は完了。 血で汚れた二人の服や下着などは、残らず暖炉に放り込んで、燃してしまった。 寝室の床ばかりは、拭いている暇などないので、そのままにせざるを得なかったが。 「さあ、急いで帰るわよ」 現在、午前3時――ここに来るときは、道に迷って2時間を費やした。 迷わなければ、1時間半くらいで戻れるだろうか。 最悪、2時間を要したとして、午前5時。ギリギリのラインだ。 なんとしても、夜明け前に。『彼女』は、今夜に拘っていた。 「善は急げ……ってねぇ」 ~ ~ ~ ぬかるんだ道はタイヤを取られやすく、こと夜中ともなれば、かなり走りづらい。 それでも4時半には、どうにか、寝静まるフォッセー邸に帰り着けた。 朝の早い使用人たちも、まだ起き出していないようだ。 「穴掘りまでしたから、疲れたでしょう。あなたは、もう休んでいいわ」 「……うい。あのぉ――」 「なぁに」 「き……きらきーは、寝ないの?」 「ちょっと用事を済ませてから、ね。解るでしょう?」 ちょっとした用事。雛苺は、それを小用――つまり、トイレのことだと独り合点した。 『彼女』の機嫌を損ねないためにも、余計な詮索はしない。 雛苺は素直に、使用人部屋に戻った。 お利口さん。遠ざかる背中に囁いて、踵を返した『彼女』が向かった先は―― ドアノブを握り、音を立てないように回す。施錠は、されていない。 些細なことも含め、『彼女』は、すべてを知っていた。部屋の位置も、なにもかも。 いまや、この身体は『彼女』の意のまま。記憶もまた、かくの如し。 薄くドアを押し開け、真っ暗な室内へと、滑るように身体を滑り込ませる。 いかにも若い娘の部屋らしい仄かな薫香に、鼻先をくすぐられた。 後ろ手にドアを閉ざし、身動きを止めて、耳をそばだてる。 ベッドの中で規則ただしく繰り返される健やかな寝息は、途切れる気配がない。 ここまでは順調。ほくそ笑んで、『彼女』はドアの鍵をかけた。 シャツのボタンを外し、前をはだけて、コルセットを外す。 湿ったタオルを捨てると、腹の裂け目から、凝固しかけた血が、どろり……。 それに続いて、黒い荊も、不快な疼痛を生みながら、ずるずると這い出してきた。 (もうすぐよ。この気持ち悪さも、もう暫くの辛抱だわ) 『彼女』は、擦り足でベッドに近づき、無防備に眠る娘を見おろした。 コリンヌ・フォッセー。資産家の一人娘。16歳の可憐な少女。 容姿も、境遇も、教養も、文句の付けようがない。 父を探すための広い人脈さえも、おまけで付いてくる。まったくもって申し分ない。 「この瑞々しい身体さえ、手に入れれば――お父様に会いに行ける」 バケモノ植物に寄生されて、もうすぐ腐り落ちるジャンク。 こんな身体に、未練などあろうものか。 『彼女』はベッドに上がり――コリンヌの腹に跨って、両腕で肩を押さえつけた。 黒い荊が、『彼女』の意を汲んだように少女の両脚を束ねる。 腕に巻き付いた荊は、そのまま左右に伸びて、ベッドの足に結びついた。 さながら、コリンヌは十字架に固定された状態だった。 棘に肌を刺される痛みと、胸苦しさが、少女に速やかな覚醒を促す。 コリンヌは目を覚まし、馬乗りになっている人影を目にして、喉を鳴らした。 「うっふふふ……こんばんわぁ。お目覚め?」 「その声っ!」 『彼女』を突き飛ばそうとして、腕も脚も動かせないことに気づき、コリンヌは戦慄した。 「なんの真似なの、これは! ふざけないで! すぐに放し――」 怯えを隠し、人を呼ぶ目的もあって、コリンヌは語気を強めた。 ――が、乙女の柔らかな唇は、『彼女』の唇で塞がれ、貪るように蹂躙される。 コリンヌは、せめてもの抵抗とばかりに首を振って暴れ、噛みつこうとした。 それを寸前で躱した『彼女』は、見せつけるように、濡れた唇を舐めた。 「んふ。気が強いのねぇ。その方が、征服する愉しみがあって面白いけどぉ」 「どうして……こんな」 「私のものにしたいからよ。あなたの全てが欲しいの」 「なっ、なに言って――」コリンヌが、上擦った声をあげる。 『彼女』の口振りと、この状況から、卑猥な想像が頭をよぎったのだろう。 まさか『意識の器』としての身体を欲しているだなんて、夢にも思わなかったに違いない。 「いいでしょ? ねぇ……私に、ちょうだぁい」 「や、やめなさい! やめてっ」 「いやぁよ。もう時間がないもの。もう……我慢できなぁい」 「や……っ! ダメっ、ダメぇっ!」 暴れるコリンヌを組み敷いて、『彼女』は少女の白い首筋に、舌を這わせた。 自由になった両手で、イヤイヤをする頭を押さえ付け、そして―― コリンヌの細い喉に吸いつき、唾液でヌラつく歯を、焦らすように食い込ませていく。 「あっ! あ、あっ……ぉ、ぁおっ、ぅおっ、ぁおおおぉっ!」 少女らしからぬ獣のような叫びが、『彼女』を昂らせ、理性を麻痺させる。 コリンヌの下半身に絡められた『彼女』の白い脚は、獲物を締める大蛇のようでもあった。 第十五話 終 【3行予告?!】 もしも、あなたと会えずにいたら……。私は、何をしてたでしょうか―― あなたと過ごした日々は、私の存在そのもの。 だから、誰にも汚させない。私自身のためにも。 次回、第十六話 『出逢った頃のように』
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/208.html
―卯月の頃 その3― 【4月20日 穀雨】 パフェの食べ過ぎで、お腹を壊してから三日後のこと。 今日は、木曜日。明日を乗り切れば、やっと待ちわびた週末である。 だが、もっと待ち遠しかったのは、五月の大型連休の方だった。 就職組は着慣れないリクルートスーツに身を包み、ゴールデンウィークも関係なく、 会社回りにてんてこ舞いの日々を送っている。 真紅や、巴は、目下のところ就職活動中だった。 景気が上向いてきたとは言え、女子大生の就職は、なかなか大変らしい。 一方、翠星石と雛苺は大学院への進学を決意して、鋭意勉強中である。 試験の実施は、今月末。もう一週間も猶予が無い。 二人は朝から研究室に籠もり、机に向かって、最後の追い込みをかけていた。 そんな、ちょっとピリピリした空気が漂うなか―― ふと、教科書と睨めっこしていた雛苺が、顔を上げて翠星石に話しかけた。 「……翠ちゃん、そろそろ時間じゃないの?」 「ん? あぁ、ホントですぅ」 言われて、丸い壁掛け時計を見上げると、約束の時間が迫っていた。 教科書やノートを広げたまま、席を立つ翠星石。 「ちょっと行ってくるですぅ。戻ってきたら、一緒にお昼にするですよ」 翠星石は研究室を出て、二階上にある、別の研究室に向かった。 今朝方、そこの教授に呼び止められて、今ぐらいの時間に来るよう言われたのだ。 「なにやら話があるみたいですけど……何ですかねぇ?」 まるっきり、見当が付かなかった。 かの研究室とは、せいぜい新歓コンパの時に同席するくらいの縁だ。 これといって、頻繁な交流があるワケでもない。 4年になってからは、その教授の講義を履修していないので、関連がない。 仲のいい友人は在籍しているけれど、その繋がりで声を掛けるとも考え難い。 「それなのに、どうし――わひゃっ!」 あれこれと思案に暮れながら、足元を気にせず階段を昇っていたため、 思いっ切り――且つ、豪快に――蹴躓いてしまった。 腕を突き出すのが遅れたから、ものの見事に胴体着陸。 顔は腕で庇ったものの、階段の角に、脇腹と両脚のスネをぶつけてしまった。 「ひぃぃ…………い、痛ぇですぅ~」 痛いのと情けないのとで、視界が涙で滲んだ。 脇腹と両脚の激痛に襲われて、すぐには立ち上がれなかった。 誰かに助け起こしてもらいたい。 しかし、こんな、みっともない姿を見られるのは恥ずかしい。 胸中に渦巻く葛藤に苦しみ始めた直後、クスクスと含み笑う声と、 ペタペタと階段を下りてくるサンダルの足音が、翠星石の耳に飛び込んできた。 「あ~らら、派手に転んじゃったわねぇ。大丈夫?」 若い女性の声が、翠星石に訊ねてきた。 (大丈夫なワケねぇです!) そう怒鳴ろうとして、翠星石は、んぐっ……と言葉を呑み込んだ。 気遣ってくれた人に対して、八つ当たりしても仕方がない。 相手の女性は降りてくると、脇に屈んで、翠星石を抱え起こしてくれた。 薄手の服越しに、彼女の掌の温かさが伝わってくる。 「あ…………す、すまねぇですぅ」 翠星石は、羞恥に顔を赤らめて俯いた。 脇腹に残る女性の手の温もりが、翠星石の鼓動を加速する。 (なに、ドキドキしてるですか……。 私って、こんなにスキンシップに弱かった……です?) 実際、蒼星石や祖父母以外の他人と触れ合うコトには、慣れていなかった。 だからこそ、些細な接触でも、過敏に反応してしまうのだろう。 いつから、こうなってしまったのか……。 本当は、もっと、みんなと触れ合いたいのに。 俯いたままの翠星石に、相手の女性は、落ち着きのある声音で話しかけた。 「貴女……翠星石ちゃんよね?」 「ふぇ? は、はいですぅ」 驚いて顔を上げた翠星石の前には、メガネを掛け、髪を結い上げた女性の姿。 学生たちに、みっちゃんと呼ばれて親しまれている講師の先生だった。 大学の講義は、教授や助教授ばかりでなく、講師や助手も受け持つ。 みっちゃんも、週に数コマを受け持つ講師である。 大人しげな風貌に反して、成績の評価は非常――あるいは非情――に厳しく、 彼女の担当する教科は、単位を取るのが難しいことでも有名だった。 みっちゃんは、なだらかな顎の線を指でなぞりながら、 メガネの奥で、つぶらな黒い瞳を輝かせた。 「会えて、よかったわ。 約束の時間に来てくれないから、すっぽかされたかと思っちゃった」 「? どういうコトです? 私は――」 「ウチの教授に呼ばれたんでしょ? アレってね、実は、あたしが伝言を頼んだのよ」 「……教授を使いっ走りにしたですか!?」 なんて畏れ多いコトをするのだろうか。翠星石は、あんぐりと口を開けた。 みっちゃん……やはり、徒者ではない。敵に回すとコワイ相手だ。 「じゃあ、私に用事があるのは、みっちゃんです?」 「ええ、そうよ。とりあえず、ウチの研究室に来なさい。 詳しい話は、そこでするから」 「解ったですぅ」 みっちゃんの後ろに付いて、歩き出そうと足を踏み出した途端、 翠星石はスネに激痛を感じて呻き、蹌踉めいてしまった。 下り階段の方へ落ちそうになる翠星石を、みっちゃんが慌てて抱き留める。 思いがけず、みっちゃんの顔が間近に迫って、翠星石はビクッと身体を震わせた。 「ケガしてるのかな? だったら、治療もしなきゃあね」 みっちゃんは優しげに微笑んで、悪戯っぽくウインクする。 翠星石は、彼女の顔をまともに見る事ができずに、プイッとそっぽを向いた。 「はうぅ~。か、勝手にしやがれ……ですぅ」 みっちゃんに連れられて訪れた研究室で、スネの擦り傷に絆創膏を貼ってもらい、 翠星石はコーヒーを御馳走になっていた。 お昼時というコトもあって、研究室には誰も居ない。 みっちゃんと翠星石の、二人っきり。 「わ、私に話って……な、な、なんなの……です?」 緊張した面持ちの翠星石。訊ねた声音も、硬い。 それも、そのはず。 翠星石は、みっちゃんについての怪しいウワサを耳にしていた。 可愛い娘は目を付けられて、お持ち帰りされてしまうとか―― 酒に酔うと、デビルマンレディーに豹変するとか―― 胡散臭そうな翠星石の眼差しに気付かないのか、みっちゃんはコーヒーを啜って、 徐に、本題を切り出した。 「ねえ、翠星石ちゃん。貴女、ゴールデンウィークって、暇?」 「え? 暇……と言えば、まあ……暇ですぅ」 「本当に? それは良かったわあ」 みっちゃんの瞳が、ギラリと光る。 それは、獲物を見付けた猛禽の眼だった。 「実はね……連休中、あたしと一緒に旅行してくれないかなぁ~、なぁんて」 「なっ! なんですとぉー?!」 二人で旅行?! 翠星石は、その言葉に、なにやら危険な香りを嗅いだ気がした。 (あの噂が本当なら、私はお持ち帰りされて……にゃんにゃん、されちまうです?) 想像して、ガタガタと身震いする翠星石を見て、みっちゃんは失笑した。 「あはははっ。翠星石ちゃん、なんか誤解してるわね」 「は、はぁ? じゃあ、一体――」 翠星石はワケが解らず、苛ついた声を上げた。 そんな彼女を、みっちゃんが「まあまあ」と、両手で宥める。 「ごめんね。ちょっと、言い方が紛らわしかったかな~」 「一体、どういうコトです? ちっとも話が見えねぇですぅ」 「実はねぇ、連休中に、外国の大学へ出かける用事ができちゃって。 その手伝いを、翠星石ちゃんに頼みたいってワケよ」 「? どうして私ですか。この研究室の学生を連れていけば――」 こういう場合、研究室に在籍する修士課程や博士課程の学生を動員するのが普通だ。 よその研究室から、それも学士ですらない翠星石を借り受けるなんて、異常である。 みっちゃんは、ちょっと頬を膨らませて、大仰に肩を竦めた。 「み~んな、都合が悪いんですって。信じらんないわよね。 仕方ないから独りで行こうと思ってた時、教授に、コレを見せられたのよ」 言って、みっちゃんが差し出したのは、翠星石が春休み前に提出したレポートだった。 苦労して纏めたのに、あっさり受理されて、拍子抜けした記憶が甦ってくる。 「このレポート、凄く良いわ。あたしが成績を付けるなら、間違いなく『優』ね」 「……あ、ありがとです」 「うん。それでね、貴女に手伝ってもらえないかなあって。 渡航費用は、こっちで持つから……どうかしら?」 これも、いい経験かも知れない。費用の心配をせずに済むのも魅力的だった。 連休までには進路のこともカタが付いているし、海外旅行を愉しむ気分で行くも良し。 「具体的に、どこの国へ行くです?」 「ああ、それはね――」 みっちゃんの口から紡ぎ出された国の名と、大学名は、翠星石も良く知っていた。 なにしろ、蒼星石の留学先だったのだから。 なんという偶然だろう。まさしく、千載一遇のチャンスではないか。 巧くすれば、蒼星石に会える。会いたい! なんとしてでも! 翠星石は、もう躊躇うことなく、力強く頷いていた。 「それなら、こっちからお願いするです! ぜひ、私を連れてって欲しいですぅ!」 「えっ? 本当に良いの? やったあ♪ これで荷物持――げふんげふん」 「……いま、なんて言いかけたです?」 「気のせいよ。ねぇねぇ、それより、もう一人くらい都合つかないかな?」 「もう一人ですか。うぅ~ん……雛苺なら、もしかしたら誘えるかも、です」 「よし、採用決定! 絶対に連れてきて。良い? 絶対よ?」 みっちゃんは翠星石を、ずびしっ! と指差して『絶対』を繰り返した。 いつになく強引な態度に辟易したが、翠星石は、それでも構わなかった。 蒼星石に会うためなら、このくらいの労力は、苦労の内に入らない。 (蒼星石……いま、会いに行きます、ですぅ) 翠星石は、グッと拳を握って、遠い異国に居る妹に想いを馳せた。
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/263.html
―長月の頃― 【9月8日 白露】 月が変わったとは言え、まだまだ残暑の厳しい9月の初め。 部屋の窓を全開にしても、吹き込んでくる風は、若い柔肌に汗を誘う。 エアコンのない柴崎家にあっては、尚のこと。 風の通りのよい二階に居ても、陽光照りつける日中は、決して涼しくはなかった。 「うぁ~。あっちぃですぅ~」 白露と言えば、二十四節気のひとつ。 いよいよ秋の気配が強くなり、野原にも露が降り始める頃を指している。 ――のだが。 「あーもう。暦の上じゃ秋なんですから、もちっと涼しくなりやがれってんですー」 「まぁた、無茶苦茶なことを」 だらしなく椅子にもたれて、ウチワで首筋を扇ぎながらブチブチ言う姉に、 蒼星石は溜息まじりの苦笑を漏らす。 そして、スーツケースに荷物を詰めていた手を休め、翠星石と目を合わせて続けた。 「キミは髪が長すぎるから、余計に暑く感じるんじゃないの? 思い切って、ボクみたいに短くしてみたらいいのに」 「やーですぅ。髪は女の子にとって、特別な意味を持つものなのですから。 切るとしても、それなりに踏ん切りのつけられる理由がなきゃダメですぅ」 「まあ……そうだよねぇ」 変身願望と言うものは、男女の別なく、誰もがココロに描く憧れである。 筋骨隆々とか、頭脳明晰とか、容姿端麗とか…… それは大概において、本人のコンプレックスの裏返しなのだが、では―― いざ、その夢を実現させるために、躊躇いなく行動できる人間は、何人いるだろうか? もしくは、夢かなうまでの長い努力を、不屈の精神で継続できる人間は、何人いる? おそらく、なんのキッカケも無しに動ける者は、殆ど居ないだろう。 なぜならば、誰しも自分を変えることには、多少なりとも抵抗を感じるからだ。 今まで形づくってきた自己の価値観とか、生活スタイルとか…… 慣れた人生に浸り、守りながら生きるほうが、よっぽど楽だと知っているから。 自分を変えてみたい欲求はある。でも、自業自得というリスクは背負いたくない。 だから、誰か――あるいは何か――の強い後押しを、ひっそりと待っているのだろう。 失敗しても、その責任を転嫁できる口実の登場を。 蒼星石にも、やはり、そんな口実を探していた時期があった。 それもこれも、翠星石の存在があったればこそだ。 いつも。いつでも。 この世に産まれ落ちる前から、彼女たちは2人で1人―― そそっかしいくて、泣き虫だけれど……ここ一番では頼りになるお姉ちゃん。 蒼星石にとって、翠星石はアイドルのような、憧れの存在だった。 だから、仕種も、容姿も、服装も、すべてにおいて翠星石の真似をして。 もう1人の翠星石を演じるだけで、蒼星石は満足だった。 その気持ちが揺らぎ始めたのは、中学生に上がって間もない頃。 蒼星石の身体に、女の子としての変化が表れだすにつれて、 彼女のココロにもまた、不可思議な感情が生まれていた。 それは奇妙な――そうとしか喩えようのない、胸のざわめき。 いままで心地よく思えていた姉の存在が、徐々に疎ましくなり始めて―― 姉と同じであることに、肌のざらつく気持ち悪さを感じるようになっていた。 何故、そんな風に思ったのか、いまの蒼星石には解っている。 姉に憧れながらも、姉とは違う存在になりたいと…… 翠星石の半身なんかじゃない、本当の自分自身になりたかったのだ、と。 自分のことを『ボク』と言うようになったのも。 姉と同じくらい長かった髪を、スッパリと短くしたのも。 すべては、あの思春期の頃に、蒼星石が望んで変えた姿だった。 「――うん。やっぱり、姉さんは、そのままの方がいいよ」 「ですぅ。ずぅっと伸ばしてきた、自慢の髪ですからねぇ。 今となっちゃあ、私のトレードマークみてぇなもんですぅ」 「確かにね。真紅や雪華綺晶たちみたいに、髪の長い娘は何人か知ってるけど、 姉さんほどは目立ってないかなぁ」 「ふふーん。自画自賛じゃねーですけど、これぞ究極の女の子ってヤツですかねぇ」 「いや、それ……まんま自画自賛でしょ」 やれやれ、と。 蒼星石は頭を振って、またスーツケースに服を詰め始めた。 彼女は明日、朝の便で、オディールと一緒に、留学先に戻る予定だ。 それが、もがいて、あがいた結果に、自分で選んだ道。 姉の半身ではない、蒼星石という、1人の女の子としての生き様だから。 黙々と旅支度を調える妹の横顔を、翠星石は眺めていた。 その眼差しは、やはり寂しげだ。 別れは、いつだってココロに空虚な穴を穿つ。 その隙間が埋まる分だけ、人は涙を流し、あるいは言葉を費やすのだろう。 「蒼星石――」 呼びかけた声は重く。 こんな滅入った気分ではダメだと、翠星石はウチワを放り投げて、破顔した。 「蒼星石だって、も少し髪を伸ばせば、カワイイ女の子になるですよ。 子供の頃は、私と同じくらい長くしてたじゃねーですか」 「小学校までは、ね」 双子の姉と同じことをする――それが、幼少の蒼星石には、当たり前のことだった。 彼女のことが大好きだったから。 翠星石のようになりたいと、本気で思っていたから。 でも……。 どんなに真似したって、蒼星石は、翠星石にはなれない。 鏡に写る姿は、夢の偶像。所詮、影は影。 「一度、ショートに慣れちゃうとさ、このほうが楽になっちゃって。 ロングにすることは、当分ないと思うなぁ」 「ふぅん……勿体ねぇですぅ」 「ま、気が向いたらね」 あらかた荷物をしまい終えると、蒼星石は両腕に体重を載せ、 二度、三度と押し込むようにスーツケースを閉じた。 「さて、と――こんなトコかな」 蒼星石は、汗の滲んだ額を手の甲で拭いながら、翠星石に笑顔を向けた。 「姉さん。ちょっと、散歩にでも行かない?」 「はぁっ? なに言い出すですか。この炎天下に、わざわざ……」 「だからこそ、だよ。日本の夏を、しっかり憶えておきたくてね」 勿論、それだけの目的ではない。 今朝方から、ずっと眉を曇らせっぱなしの翠星石を、元気づけたかったのだ。 それは、もうすぐ訪れる別れの時を、より残酷なものにするだけかも知れないけれど…… それでも―― やはり、この世でたった独りの、双子のお姉ちゃんだから。 手を差し伸べずには、いられなかった。 姉妹は、お揃いの麦わら帽子をかぶって、近所の公園へと向かった。 子供の頃からの、お決まりの遊び場だ。 9月というのに、焼けたアスファルトから陽炎が、ゆら、ゆら。 まっすぐに続く道の先に、逃げ水が見える。 でも、生き物たちは確実に、季節の移ろいを知っているらしい。 真夏には、夜中でも喧しく鳴いていたセミの声も、すっかり疎らだ。 代わって目に付くのが、トンボの群。 キラキラと光を跳ね返すマンホールを、水たまりと勘違いしているのか、 つがいのアキアカネが、頻りに尻尾でチョンチョンと突っついていた。 「なんだか、不思議な感じがするね」 蒼星石は立ち止まると、麦わら帽子のつばに指をかけて、まっすぐに前を見つめた。 隣を行く翠星石も、怪訝そうな面持ちながら、妹と同じ所作をする。 「なにが、です?」 「いや……この道って、こんなに狭かったかなぁって。 以前はもっと街全体が、広く感じられたものだけれど」 「うーん? 私は毎日のコトですから、代わり映えしないですけどぉ」 「気のせいなのかな。ボクには、世界が縮んだように感じられるよ」 どうして、そう思えるのだろうか。 海外で暮らすようになって、蒼星石の精神面も、世界規模に広がったから? それとも、ただ久しぶりだから、錯覚しているだけ? 考えてみても、よく解らない。 どちらとも言いきれないなら、多分、どちらも正解なのだろう。 蒼星石は、そう結論づけて、また歩き始めた。 公園に着くと、蒼星石の錯覚は、さらに増した。 ジャングルジムなどの遊具の数々、遊歩道の幅、公衆トイレなどの建物―― いずれも、記憶の中にあるものより、ずっと小ぶりだった。 そう感じるのは、周りの樹木が大きく育ったからだけではあるまい。 「蒼星石ぃ~。どこか、木陰のベンチで休むですぅ~」 間延びした声に振り返れば、汗をビッショリかいた翠星石の、恨めしそうな顔。 だから散歩なんてイヤだったのに! と、目が物語っている。 「わ、凄いね。姉さんって、そんなに汗っかきだったっけ?」 麦茶の飲み過ぎなんじゃないのと茶化しながら、蒼星石は自分のハンカチで、 翠星石の顔を拭いてあげた。 「公園のベンチだと、蚊がいるよ。 そうだ。あの喫茶店、まだやってるの? 久しぶりに行ってみたいんだけど」 「まだ潰れてないです。それじゃ、さっさと行くですよ!」 クーラーの効いた店内を思い浮かべたらしく、翠星石は蒼星石の手を掴むなり、 スカートの裾を翻しながら、勢いよく駆け出した。 その喫茶店は、2人が高校生の頃、よく寄り道した思い出の場所だった。 白崎というマスターとも、すっかり顔なじみで、よくサービスしてもらっていた。 ドアを開けば、カウベルの音が出迎えてくれる。 それを聞きつけて、カウンターの中に居た黒髪の青年が顔を上げ、にっこりと目を細めた。 この店のマスター、白崎だ。 「いらっしゃ……おや? これはこれは、珍しいお客さんだ」 「こんにちわ、マスター。ご無沙汰してます」 姉妹が窓辺のテーブルに着いてすぐに、白崎がお冷やのグラスを持ってきた。 グラスをお気がてら、彼は蒼星石を見て、ふむ……と唸った。 「暫く逢わない内に、すっかり大人びたねぇ」 「え? そう……かな?」 「見違えましたよ。どうです、留学先の居心地は?」 「相変わらず、言葉の壁には悩まされっぱなしですけど、やっと慣れてきたかなって感じで」 「いい経験だね。そういう苦労は、自由に立ち回れる若い内にこそ、しておくべきだよ」 などなど。白崎と蒼星石は、懐かしさもあってか、和やかに話を弾ませる。 面白くないのは、ひとり放っておかれている翠星石である。 そんな2人の会話に、イライラと口を挟んだ。 「世間話は、大概にするですよ! さっさと注文を訊きやがれってんです」 「おっと、これは失礼。お客が少なくて、暇してたものでね。 それでは、お嬢様がた。ご注文をどうぞ」 それから夕暮れまで、涼しい喫茶店で快適な時間を過ごして。 帰宅の途中、オレンジ色に染まる町を並んで歩きながら、翠星石は、 「さっきは、みっともない真似しちまったですね」 言って、右隣を行く妹の手を、ギュッと握った。 蒼星石は「ん?」という顔をして、翠星石の様子を窺う。 「それって、マスターに文句を言ったことかい?」 「――ですぅ」 「大して気にしてないと思うけど。あの人、かなり図太い神経してそうだし」 「……そうですけどぉ」 「今度また行ったときに、謝ればいいじゃない。さ、帰ろうよ」 「は、はいですぅ」 交わされた言葉は、それっきり。 2人は手を繋いだまま、夕日を背に受け、足元から伸びる長い影を眺めて歩いた。 子供の頃から、ずっと……そうしてきたように。 その夜には、蒼星石とオディールの送別会が、ささやかに催された。 若い娘が3人もいると、場の雰囲気も、自然と若々しくなる。 そこに、酔った祖父・元治がテンションの高い冗談を連発するものだから、 パーティーは笑顔(苦笑も含めた)の絶えない賑やかさだった。 でも―― やはり、その席でも、翠星石はココロから笑えずにいた。 時間は容赦なく過ぎていって、日付を変える。 明かりを消した部屋に、ごそごそと響く衣擦れ。 翠星石はベッドの上から、床に敷いた布団に横たわる人影に、囁きかけた。 「蒼星石……もう寝ちゃったですか?」 「……ううん、起きてるよ。なかなか眠れなくてね」 「私もです」 言うが早いか、翠星石は起き出して、蒼星石の隣に添い寝した。 そして、こつん……と、妹の右肩に額を当てる。 蒼星石は、掛けていたタオルケットを脇に除けて、寂しがりな姉と向き合った。 「やれやれ。ホントに甘えんぼだね、キミは」 「なっ! 子供扱いすんじゃねーですよ」 ムキになって言い返すものの、いつもの翠星石らしい勢いはない。 夜闇の中で、そっと伸ばした手を、蒼星石の手に重ねて。 お互いの鼻先がくっつくくらいの距離で、静かに、息を混ぜ合わせるように、囁く。 「仕方ないですよ。蒼星石が、また遠くに行ってしまうと思うと―― こうして触れ合えなくなると思うと、胸が切なくて、堪らなくなるです」 その声も、だんだんと嗚咽まじりになってゆく。 泣き虫で、怖がりで、すぐ妹の背に隠れてしまう女の子。 それなのに、ここぞという時は、迷わず蒼星石の腕を引っ張ってくれた、お姉ちゃん。 いつだって翠星石は、精神的に背伸びをしてまで、蒼星石のことを気にかけてくれていた。 まるで、亡くなった母親の代わりを、務めようとするかの如くに。 「蒼星石は、頑固で意地っ張りで……いつも独りで進んでいってしまうから。 こうして、いつも手を繋いでいないと見失ってしまいそうで……とても怖いのです」 翠星石は一度すすり上げて、妹の頬を、愛おしげに撫でた。 そんな姉の手の上に、さっきとは反対に、蒼星石の手が重ねられる。 「でも、私には、蒼星石を引き留めるコトはできないです。 だって――貴女は決して、自分で決めた道から逃げたりしないから。 そして、そんな蒼星石こそが、私の大好きな蒼星石なんですから」 大好き―― 翠星石の唇から紡がれるその一言が、いままで、どれほどの勇気を与えてくれたことか。 遠い異郷にあって、どれだけココロの支えになっていたことか。 不意に、目頭が熱くなるのを感じた蒼星石は…… 頬に触れていた姉の手を、壊れ物を扱うように優しく握り、そっと引き剥がした。 「ありがとう、姉さん。いつでも、ボクを信じてくれて」 「当たり前です。どんなことがあっても、私は蒼星石の味方ですよ」 「優しいね、キミは。大好きだよ……翠星石」 彼女のことを名前で呼んだのは、何年ぶりだろうか。 蒼星石は、自分でも驚くくらい素直な気持ちで、姉の名を口にして―― ――胸にこみ上げる想いに従って、翠星石の額に口づけていた。 「あ…………蒼星石……イヤ」 「イヤだった?」 「だって……その……おでこだけ……なんて」 尻すぼみな翠星石の声を聞いて、蒼星石は口元を綻ばせた。 恥ずかしがりながらも、大胆なことを言う彼女が、なんとも可愛らしい。 「じゃあ、次は――」 囁いて……蒼星石は、もう一度、顔を近づけた。 夜闇の中、ふたつの影が重なり合う。 今度は、翠星石が文句を言うことはなかった。 彼女の唇は、蒼星石によって、しっかりと塞がれていたから。 「あーあ、行っちゃったのよー」 雛苺は、額に手を翳しながら、蒼穹の彼方へ消えゆく機影を見つめている。 その隣で、翠星石も同じポーズを取っていた。 旅立つ蒼星石とオディールを、空港まで見送りに来たのは、雛苺と翠星石だけ。 祖父母は時計店のことがあるし、友人たちも、なかなか都合がつかず。 それでも、友人たちは昨夜の内に電話で見送りに行けないことを謝ると同時に、 エールを送ってくれていた。 「翠ちゃん、またお正月まで寂しくなるけど、クヨクヨしてばかりじゃダメなのよ」 「クヨクヨなんて、するワケねーです」 「え~? 泣きたいときは、ガマンしなくてもいいのよ。 さあ! ヒナの胸に、どーんと飛び込んでこいなのっ!」 大まじめな顔で言う雛苺。対する、翠星石の返事は素っ気ない。 「おバカ苺。私は、おめーみたいな泣き虫とは違うですぅ」 「ふぅん。二度目ともなると、強くなるのね~。 去年はもう、周りの迷惑も気にしないで、泣きじゃくってたのに~」 「うっせーです」 むぎぎ……。 やおら、翠星石は雛苺の両の頬を摘んで、顔が変わるほど捻りあげた。 「ふ、ふいひゃん! いひゃい! いひゃい!」 「いーっひっひっひっ! おバカなこと言った罰ですぅ」 「ひゃ、ひゃめてなのーっ!」 「しゃーねぇですね。このくらいで勘弁してやるですか」 翠星石の魔手から解放されるや、涙目の雛苺が猛然と食ってかかってきたが、 そんなものは、どこ吹く風。 再び、晴れ渡った空を、振り仰いだ。 蒼星石を乗せた飛行機は、とっくに見えなくなってしまったけれど…… しかし、翠星石は悲しくなかった。 本当に想いが繋がっていれば、確かなものなど必要ない。 どれほどの時間、どれほどの距離が2人を引き離そうとも、信じていられる。 それが、解っていたのだから。 「蒼星石……次も、その次も……きっと元気に帰ってくるですよ。 私も、おじじ達も、みんなが待ってるですから」 祈るように呟いて、踵を返す。 ふくれっ面の雛苺が立ちふさがるが、キニシナイ。 たちまち彼女のアタマを小脇に挟み込んで、翠星石は歩き出した。 じゃれあう乙女たちの背中を、爽やかな風が、優しく押す。 それは仄かに、季節の変わり目を匂わせていた。
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/180.html
茨の蔦は、想像していた以上に太く、複雑に入り乱れている。 しかも、異常な早さで再生するから、始末が悪い。 一本の蔦を丹念に切り、取り除いていく間に……ほら、別の蔦が伸びてくる。 その繰り返しで、なかなか前に進めなかった。 すっかり夜の帳も降りて、降り注ぐ月明かりだけが、辺りを青白く照らすだけ。 翠星石は薄暗い茨の茂みに目を遊ばせ、蒼星石の手元を見て、またキョロキョロする。 彼女の落ち着きのなさは、不安のあらわれに違いない。 (早く、こんな茨の園を抜け出して、安心させてあげなきゃ) 焦れて、無理に切ろうとした鋏の刃が滑り、跳ねた茨が蒼星石の肌を傷付けた。 「痛ぃっ!」 しんと静まり返った世界に、蒼星石の小さな悲鳴が、よく響いた。 それを聞きつけて、翠星石は表情を曇らせ、蒼星石の隣に寄り添う。 「大丈夫……です?」 「あ、うん。平気だよ、姉さん。ちょっと、棘が刺さっただけだから」 「でもぉ……血が出てるです。それに、毒があったら、どうするですか」 蒼星石の手を、翠星石の柔らかな両手が、労るように優しく包む。 そして、徐に引き寄せるなり、彼女はそっと……傷口に舌を這わせた。 温かく濡れた感触に、蒼星石のココロと傷口は、ジンジンと痺れていくのだった。 ~もうひとつの愛の雫~ 第20話 『悲しいほど貴方が好き』 ――ふと、疑問が生まれる。 ここは死後の世界。肉体という意識の器を捨てた者たちが、集う場所。 翠星石も、蒼星石も、既に身体を失って、魂だけの存在のハズだ。 それなのに、なぜケガをして、血が流れるのだろう。 どうして、翠星石の温もりを感じられるのだろう。 なんで、こんなにも胸が痛いのだろう。 キツネに摘まれた気分とは、こういうコトかと、蒼星石は首を捻った。 しかし、いつまでも茫漠と物思いに耽っている暇はない。 刈られた茨の蔦が、また勢いを取り戻して、今しも彼女たちを搦め捕ろうとしている。 早く、こんなところを抜け出さなければ。 「ありがと。もう平気だから」 血が止まっても、翠星石は飽くことなく、傷口を舐め続けていた。 気遣ってくれるのは嬉しいのだが、これでは作業を再開できないので、 蒼星石は名残惜しく思いつつ、姉の髪を指で梳いて制止した。 「……ホントですぅ?」 「こんな程度のコトで、ウソなんか吐かないよ」 翠星石は上目遣いに訊ねながらも、蒼星石の手を離した。 その表情が、あまりに心細そうなので、蒼星石は頬を緩めると、 棘が刺さった方の手を彼女のアタマに遣って、くしゃくしゃっと髪を乱した。 「ぁん。な、なにするです」 「論より証拠って言うからね。ほら、ちゃんと動かせてるでしょ?」 「わ、解ったですから……やめるですぅ!」 やっぱり、姉さんは姉さんだね。 目をつり上げ、頬を膨らませて不機嫌を露わにする姉を見つめながら、 蒼星石は微かな安堵を覚えていた。 その後、茨を刈る作業を再開した姉妹は、やっとの思いで砂浜まで辿り着いた。 かなり注意していたつもりだが、服に覆われていなかった柔肌には、 幾条もの引っ掻き傷が紅い線となって刻まれて、腫れあがっている。 「姉さん。ケガの方は、平気?」 「大したコトはないですけどぉ……ヒリヒリするですぅ。 また、あそこを通らなきゃならねぇですか?」 「しょうがないよ。どうやら、この砂浜は、あの茨で囲われてるみたいだし」 無意識の海で洗浄された霊魂ならば、茨は何の障害でもないのだろう。 つまりは、異邦人を立ち入らせない為の、防護壁なのかも知れない。 潮騒に負けないくらい大きな溜息を吐いた翠星石は、さも憂鬱そうに項垂れ、 ぺたりと座り込んでしまった。茨の群生を抜けるだけで、ドッと気疲れしたらしい。 「とりあえず、姉さんは休んでていいよ。ボクは、少し歩いてくるから」 「……気をつけるですよ」 歩き出す背中に、翠星石のか細い声が、縋り付いてくる。 それは蒼星石の身体に染み込んで、ずっと谺していた。 今夜は月が明るい。僅かな砂の起伏にも、濃い影が寄り添っている。 これなら『眩い光輪を放つピンク色の結晶』は、すぐに見つかるかも。 そんな楽観を胸に、蒼星石は砂浜に眼を落として、歩いた。 しかし、波打ち際を三往復し終える頃には、考えの甘さを痛感していた。 成果は皆無。記憶のカケラどころか、ゴミすらも打ち上げられていない。 肩を落として彼女が戻ると、膝を抱えて海を眺めていた翠星石は―― ぼんやりと蒼星石の方に顔を向けた。 「疲れた顔してるですね? 無理せず、ひと休みするです」 「……もうちょっと探してみるよ」 「意地張るなです。妹だって言うなら、姉の言うこと聞きやがれですぅ」 翠星石に腕を掴まれ、引っ張られた途端、蒼星石の膝がカクンと折れた。 砂浜を歩くのも、意外に疲れるものらしい。 ほーら見たことかと、目に物言わせる姉に、蒼星石も根負けした。 「やれやれ、強引なところは相変わらずだね」 「素直に言うこと聞かねぇからです」 隣に腰を降ろした蒼星石に、彼女は蓮っ葉な口振りと裏腹な、可愛い笑みを向けた。 ……が、矢庭に、その笑顔が曇る。 翠星石は膝を抱え直して、また、暗い海に瞳を彷徨わせた。 「どうしたのさ、姉さん。そんな顔しないでよ」 「ごめんなさいです。でも……海を見てたら、なんだか――」 「記憶のカケラだったら、ボクがきっと、見つけてあげるってば」 「そうじゃないですよ。記憶が戻らないコトが、心配なんじゃなくって、 思い出してしまうコトが、不安なのです」 よく意味が解らなくて、蒼星石は問い返した。 翠星石は、暫くの間、言葉を探して……徐に、唇を開いた。 「何か……とても忌まわしい過去があって、いつもソレに苦しめられてて―― 逃げ出したかったから、この海に記憶を捨てたのだとしたら…… だったら――いっそ忘れたままの方が幸せなのかと……そう思ったです」 「そんな……よしてよ。そんな寂しいこと言わないで。 ボクとの思い出さえも、キミにとっては忌むべき記憶だったって言うの?」 「そうは言わないですけどぉ……でも、やっぱり……ですぅ」 このままでは、一向に埒があかない。 蒼星石は、言い淀む翠星石の頬を両手で挟んで、ぐいと自分の方に向き直らせた。 「そんなに不安なら、ボクが、おまじないをしてあげる。 目を閉じて、力を抜いて……気を楽にしてね」 「? こうです?」 怪訝な面持ちながら、翠星石は言われるがままに、瞼を閉ざした。 「そのまま、じっとしててね」 そっと囁いて、蒼星石は――――静かに、互いの唇を触れ合わせた。 翠星石が、ひぅっ! と息を呑んだけれど、キニシナイ。 しっかりと姉の顔を挟み込んで逃がさず、二度、三度と、彼女の可憐な唇を啄んだ。 いわゆる、ショック療法のつもりだったが、果たして結果は……。 「強引なコトして、ごめんね。どう? 不安じゃなくなった?」 蒼星石に訊ねられても、翠星石は顔ばかりか耳まで真っ赤に染めて、上の空。 これで、少しは思い出してくれたらいいけど。蒼星石は、密かに期待した。 ぽぉっと目を泳がせる翠星石が、譫言のように呟いた。 「……バカぁ。こんな……もっと…………不安に……なっちまうですぅ」 「えぇ? どうしてさ?」 「だって……記憶のカケラを取り戻したら、私は私じゃなくなるかも知れないですよ? それなのに、蒼星石のコトを……になったら……別れが辛くなるじゃねぇですか。 いつ離ればなれになるか……それを思うと切なくて……怖くなるですぅ」 「なにそれ。もぉ、ワガママだなぁ」 呆れたように苦笑って、蒼星石は涙ぐむ姉の髪を撫でながら、再び彼女の唇を吸った。 ――悲しいほど姉さんが好き。 胸が張り裂けそうなほど切ない気持ちは、もう止められない。止める気もない。 「たとえ、キミが別人になったとしても、ボクの想いは変わらないよ。 いつだって姉さんの側にいて、キミの記憶を、ボクとの思い出で満たしてあげる」 二枚貝の貝殻は、この世にたったひとつの組み合わせしか無いという。 また、光の波長は常に、緑と青の領域が隣り合っている。 翠星石と蒼星石もまた、生まれながらにして、そんな奇跡の一対だった。 どこまでも、ずっと一緒に寄り添うのが自然の摂理ならば、 死をも厭わず姉を追いかけてきた蒼星石の行動もまた、自然に則ったと言えよう。 そして、摂理は変わらない。この世界が、存在し続ける限り―― 二人のシルエットが、折り重なるようにして、柔らかな砂浜に横たわった。 四肢を絡ませ合い、汗ばむ白い肌にスコールのようなキスの雨を降らせ、 愛の痕である小さな痣を、点々と刻みつけながら…… 少しずつ…… 一枚ずつ…… 生まれたままの姿へと、還っていった。 「姉さん……ボクは、キミを汚してしまいたい。 無垢なキミのココロが、ボクの色に染まりつくすまで、メチャクチャにしたい」 「……えっち」 「えっちな妹は、嫌い?」 「大っ嫌いです。だから――――」 姉の眦から溢れる涙は、畏れか、悦びか…… 後者であって欲しいと切望する蒼星石の前で、翠星石は濡れた唇を震わせた。 「この気持ちを覆してしまうほどに―― 死ぬほど貴女を大好きになるくらい、私を汚してください……ですぅ」 臆病な翠星石にしては、珍しく大胆な発言だった。 大嫌いと前置くところが、ひねくれ者の彼女らしいけれど。 蒼星石はクスッと微笑んで、翠星石の白い首筋に、鼻を埋めた。 「……うん。大好きだよ……姉さん」 「ゃんっ……そ……ぉせい……せきぃ」 ……。 想いのままに愛の雫を流した二人は、砂の上に並んで、気怠そうに寝転がっていた。 火照りの収まらない肌を撫でゆく海風が、なんとも気持ちいい。 満たされた悦びに、二人ともウットリと目を細めたまま、星空を見上げていた。 「はぅ……なんだか暑くて、汗が止まらねぇですぅ」 「そうだね。ボクも、さっきからずっと、身体が熱いままだよ」 言って、蒼星石は仰向けの姿勢から、横臥へと寝返りを打つ。 コトの最中、翠星石に引っ掻かれた背中が、汗に浸みて、ちょっと痛い。 肌にまとわりつくベタベタ感と、砂のザラザラ感が、疎ましくて…… 蒼星石は「そうだ!」と半身を起こすや、笑顔で切り出した。 「折角だし、このまま泳いじゃおうよ、姉さん」 ~もうひとつの愛の雫~ 第20話 おわり 三行で【次回予定】 ふとした思いつきが、物事を大きく変えることは間々ある。 泳ごう――その提案がもたらすのは、事態の好転か。 それとも……。 次回 第21話 『瞳閉じて』
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/38.html
『理想郷 ~イーハトーブ~』 東北自動車道を、北に向かって、ひた走るバイクが一台。 運転するのは、ジュン。 そして、彼の後ろに乗っているのは、翠星石。 栗色の長い髪を肩の前に回し、両腕で、しっかりとジュンにしがみついている。 時速百キロ以上の速度で疾駆する単車に乗っているのは、慣れない者にとって、 想像以上に恐ろしい事だ。 翠星石も、御多分に漏れず、緊張に身を強張らせていた。 二人を乗せた単車は、安積P.A(パーキング・エリア)へと滑り込んでいく。 朝早く家を出てから、何度目かの休憩である。高速道路に乗ってからは三度目になる。 翠星石もホッとしたのか、彼女の腕から力が抜けるのを、ジュンは感じた。 駐車場の隅に単車を停めて、二人は窮屈なヘルメットを脱ぎ、吐息した。 「疲れただろ、翠星石?」 頭を掻いて髪の乱れを直しながら、ジュンは朗らかに笑った。 翠星石が、ちょっと唇を突き出しながら、拗ねたように応じる。 「解ってるなら、も少し小刻みに休憩しやがれですぅ」 「ははっ……悪い。でも、目的地まで、まだ遠いからさぁ。それに、新幹線じゃなく バイクで行きたいって言い出したのは、翠星石だろう?」 「う……でも、それは……ジュンに……ですぅ」 抱き付いていたかったから――なんてコトは、口が裂けても言えない。 頬を染め、俯く彼女の頭を、ジュンは優しく叩いた。 「ゴメンな。次からは、短めに休憩を入れるよ。さあ、冷たい物でも飲んでこようぜ」 二人が目指しているのは、岩手。宮沢賢治と理想郷イーハトーブ(花巻市)が有名だ。 或いは、柳田国男と遠野物語の世界か。目的地までは、まだ遠い……。 やっとの思いで、予約を入れていた宿に着いた頃には、すっかり日が傾いていた。 腰を伸ばして、深呼吸をする二人。 「んん~。やっぱり、空気が澄んでるですぅ」 「そうだなあ。思えば遠くへきたものだ……って、つくづく感じるよ」 「それにしても、雰囲気の良い宿ですね。鄙びた感じが、特に郷愁を誘うですぅ」 「歴史の長い宿だからな。一年前から予約してる客も居るそうだ」 「ほへ~」と、感心半分、呆れ半分な声を出して、翠星石は再び、宿泊する宿を見上げた。 ちょっと、おどろおどろしい気配がする。 けれど、それが却って、いかにも民話の郷と言った趣を醸し出している。 来て良かった……心から、そう思った。 「早いとこ記帳を済ませちゃおう。行こうぜ、翠星石」 「はいですぅ」 記帳を済ませ、美味しい料理に舌鼓を打ち、ゆったりとした温泉で旅疲れを癒す。 たったそれだけの事なのだが、ジュンも、翠星石も、非常に満ち足りた気分になった。 こんなに優雅な気持ちになれたのは、久しぶりだ。 二人が通されたのは、離れの部屋。母屋で行われている宴会の喧噪も、殆ど届かない。 浴衣姿の二人は、肩を寄せ合って、満天の星空を見上げていた。 ロマンチックな語らいを愉しんでいた時、急に、翠星石が驚いた様な声を上げた。 「翠星石? どうかしたのか?」 「んん? 今……誰かが、私の髪を引っ張ったです」 「あ、そういや言い忘れてたっけ。あのな、翠星石。実はなあ――」 「なな、なんで……そんな怖い声で話しやがるですか」 「この部屋って、座敷ワラシが出るという部屋なんだ」 遠野の夜空に「なんですとぉー?!」という絶叫が木霊していた。 ――その夜。 並んで敷かれた二組の布団で、ジュンと翠星石は就寝していた。 正確には、ジュンだけが、健やかな寝息を立てている。 翠星石はと言えば、座敷ワラシの話を聞いてから、すっかり眠気を失っていた。 真っ暗な部屋の中で、まんじりともせず、遠い遠い夜明けを待っていた。 ふと、物音がして、翠星石はビクリと肩を震わせた。 耳を澄ますと……何かが……畳の上を這う音がする。 しかも……徐々に、近付いてくる。 (!! いひぃいぃ――――っ!!) 声にならない悲鳴を上げて、翠星石は隣の布団に潜り込み、ジュンにしがみついた。 「んあ? な、なにすんだよ……翠星石?」 「でででで、出たですっ! 座敷ワラシですうっ!」 「ホントかよ? 落ち着けって、翠星石。それって、凄くラッキーな事なんだぞ」 「え? そ、そうなのですか?」 「うん。出会えない人は、何泊しても出会えないんだって。とにかく――」 潜り込んでいた布団から、そぉ~っと顔を出すジュンと、翠星石。 すると、目の前に小さな子供が立っていて、二人は思いっ切りビクッ! としてしまった。 が、それも最初だけのこと。よくよく見ると、その子は二人の良く知る人物に似ていた。 「……なんだか……蒼星石の小さい頃に、似てるですぅ」 「翠星石も、そう思った? 実は、僕も……」 そう思ったら、ちっとも怖くなくなってしまった。 座敷ワラシは黙ったまま、お手玉や、あやとりの紐を差し出してくる。 一緒に遊ぼ? という事なのだろう。ジュンと翠星石は小さく微笑むと、一晩中、座敷ワラシと戯れていた。 翌朝、目が覚めると、二人は別々の布団に、きちんと収まっていた。 夜明けまで、座敷ワラシと遊んでいて……それから雑魚寝した筈だが、 詳しいことは何一つ、憶えていなかった。 朝食の席で、翠星石は思い切って、ジュンに話を切りだした。 「ねえ、ジュン。昨夜のこと……憶えてるですか?」 「昨夜の? ああ、座敷ワラシと遊んだことか?」 事も無げに、さらりと言ってのけるジュン。 あまりに浮き世離れした事なので、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか? いや、そうではない。ジュンの眼差しは、正気を保っている者の眼だった。 徐に、ジュンが口を開く。 「あの部屋で座敷ワラシに出会うと、幸福になれるって言い伝えがあるんだ」 「幸福ですか? 例えば、どんなです?」 「宿の案内書きでは、ある男性は一人で宿泊中にワラシ様と出会って、 総理大臣になったそうだぜ。どうやら社会的な成功を、収めるみたいだな」 「ふぅん? じゃあ、男女二人の場合は、どうなるです?」 「さあ? どうなるんだろうな? 案内書きには載ってないけど――」 「もしかしたら…………幸せな家庭を……」 ごにょごにょと呟く翠星石に、ジュンが「ん?」と訊き返すと、 彼女は真っ赤な顔をして「なんでもねぇですぅ!」と、ムキになって否定した。 なんで翠星石が怒っているのか訳が解らず、ジュンは頸を傾げ、頭を掻いていた。 ――それから数日間、二人は単車に乗って、遠野の旅を満喫したのだった。 そして、帰宅。 旅の疲れがドッと出て、翠星石は着替えなどを詰めたナップザックを降ろすなり、 玄関先で、靴も脱がずに寝転がってしまった。 「姉さんってば、行儀が悪いよ?」 出迎えにきた蒼星石が、腰に両手を当てて、だらしない姉の態度を、呆れ顔で見下ろしている。 その光景が、あの宿での出来事と重なる。 布団から顔を覗かせた時、翠星石とジュンを見下ろしていた、座敷ワラシと。 「そう言えば……蒼星石に、お土産があるですぅ」 「え? ホントに? なになに?」 嬉々として翠星石の脇に両膝を着いた蒼星石に、ザックの中から取り出した人形を差し出す。 それは、ジュンと翠星石が、遠野で材料を調達して創った、手作りのぬいぐるみだった。 「? この、ぬいぐるみ……ボクに似てなぁい?」 「気のせいです。それは、座敷ワラシを模した、ぬいぐるみですぅ」 「そうなんだ? でも、ありがとう。二人の手作りなんでしょ?」 「……見た目で分かるですか?」 「そりゃあ解るよ。ボクは、姉さん達のこと、応援してるんだからね。 いつも見守ってるから、かな? 二人の考えとか、仕種が、なんとなく解るんだよ」 二人には、幸せになって欲しいから―― そう言って、蒼星石は気恥ずかしそうに、階段を駆け上っていった。 (ジュンと、二人で……幸せな家庭を築けたら……) 幸福な未来に想いを馳せながら、翠星石は微睡みの中へと落ちていった。 終わり 第一回 職人企画に乗り遅れた際の即興SS。
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/322.html
「今年も、見れなかったね」 夜空を見上げながら、君は呟いたんだ。 つまらなそうに。でも、ちょっとだけ嬉しそうに。 そんな天の邪鬼ぶりが、いかにも君らしくて…… あの時、僕が浮かべた苦笑いに、君は気づいていただろうか。 「うん。結局、晴れなかったな」 僕も、隣に佇む彼女に倣って、想いを虚空に放った。 病院の屋上から、どんよりと曇った夜空へと。 「折角、ここまで天体望遠鏡を担いできたってのにさ。とんだ草臥れもうけだ」 「ごくろうさま」 彼女――柿崎めぐは、いつになく優しい笑顔を作った。 自然に生まれただろう微笑なのに、僕には、それが文字どおりの作り物に見えた。 やっぱり、天の川を見ることができなかったから、フラストレーションを持て余しているのかな。 そのときの僕は、まだ人間的に幼稚で、そんな野暮な見立てしかできなかった。 「ねえ、知ってる? ここ数年、七夕の夜は曇ってばかりなのよ」 「そうだっけ? 去年は曇ってたって憶えてるけどさ」 「去年も、一緒に見ようとしたものね」 そう。だから、はっきりと憶えていたんだ。 水銀燈を……共通の友人を介して知り合った僕らが、初めてデートっぽい事をした記念日だったから。 あれから、もう1年が経ってるなんて、つくづく不思議な気分がしたものさ。 そして同時に、こうして1年後も一緒にいられる奇跡に、感謝してもいたよ。 「本当に、残念だよ」 僕は心から、口惜しく思っていた。めぐに天の川を見せてあげられないことを。 まあ、昨今の日本は夜空が明るすぎて、見える星の数は、高が知れてるけど。 それでも、好きな女の子のささやかな願いさえ叶えられないのは、男として辛い。 吐息混じりに言った僕の左手を、君は、そっと握ってくれたよね。 そして、静かに肩を寄せてくれた。 冷えてゆく夜気の中で、君がくれた温もりを、この左肩はいまも憶えている。 「でも……これはこれで、いいと思わない?」 「どうしてさ。柿崎だって、楽しみにしてたじゃないか」 「そりゃあね、見られるに越したことはないわよ」 「だったら、なおさら――」 「言わないで」 繋いだ君の手に、ほんの僅か、力が込められた。 「もう、いいのよ。これで、いいの」 だって、と。君は嘲るように、鼻を鳴らした。 『類は友を呼ぶ』と言うけれど、その仕種は、水銀燈とよく似ていたよ。 いまなら解る。それが、センチメンタルなことを言う照れ隠しだったんだと。 「なにが、だって――なんだ?」 「1年に一度きりの、恋人たちの逢瀬だもの。そっとしておいてあげたいじゃない」 「……まあ、な。野次馬に邪魔されたくないだろうし」 恋人と呼べる人を得てから、めぐは変わったし、僕も変わった。 自分たちが幸せになって初めて、心から他人を思いやれる余裕が生まれたんだろう。 あるいは、もう僕らは、それが長く続かないだろうことを悟っていたのかもしれない。 だからこそ、変わらなければならなかったんだ。残された日々を、素敵に過ごすために。 「織姫と彦星も、今頃は再会して、触れ合える喜びを満喫してるかもな」 「その言い方……なんか、やらしいね」 「邪推しすぎだっつーの。って言うかさ、そういう発想自体、やらしいと思うぞ」 「あははっ。そうだよね……私、やらしいなぁ」 朗らかに笑う君を見ていたら、胸に募る想いを止められなくなって。 僕は、めぐを抱きしめて、その薄い唇を塞いでいた。 つきあいだしてから1年目にして、初めてのキスだった。 奥手すぎるにも程があるよな、まったくさ。今日日の高校生だって、もっと積極的だろう。 しかも、僕としては、文字どおりのファーストキスだったんだぜ。 正直、不安で胸が潰れそうだったよ。上手にできているのかさえ、解らなかったし。 それに……君はものすごく強く、僕の左手と服を握りしめていたからね。 まるで、全身全霊をもって、僕の想いを受け止めようとするみたいに。 「初めて……だったの」 めぐは、離れたばかりの唇を指でなぞりながら、はにかんだ。 僕もだよ。そう言ってしまいたくなる衝動を、すんでの所で抑えつけた。 男が言うセリフじゃないよな、なんて……ケチなプライドかもしれないけど。 そのくらいは、カッコつけさせて欲しかったんだ。めぐ……君の前ではね。 「桜田くんに逢えて、よかった」 君は、後に言ったよね。 いいムードなのに、恥ずかしがって気の利いたことも言えない僕に痺れを切らしてたと。 まったくもって、弁明のしようがないよ。 僕は、君が水を向けてくれるまで、キッカケさえ見出せないほどウブだったんだ。 それにしては、いきなりキスだなんて、思い切ったことをしたもんだけどさ。 案ずるより産むが易し。けだし名言だよなあ。 「僕も、そう思ってる。柿崎と出逢えて、よかったって。 でも…………もう、やめないか」 「……なにを?」 僕が切り出すなり、笑っていた君の瞳に、険しい光が宿った。 君の想いの強さを測りたくて、誤解させるようなことを、わざと言ったんだ。 あのときは、ごめん。ちょっと意地悪が過ぎたよな。 僕は、焦らすように長い沈黙を並べた。 そして君も、黙りこくっていた。僕の瞳を、ぐっと睨み付けたまま。 見つめ合ったまま夜明けを迎えるのも悪くなかったけれど、君の身を案じて、僕は口を開いた。 「やめるっていうのは、その……そういう意味じゃなくてさ」 「じゃあ、どういう意味? はっきり言ってよ。ぐずぐずしたのは嫌いなの」 「つまり、他人行儀なのは、もうやめようってこと。 僕らは恋人同士なんだよな? だったら、名前で呼び合っても、いいんじゃないか」 そう告げたときの、君のポカンとした顔ったら、傑作だったよ。 どうしてカメラを持ってこなかったのかと、本気で悔やんだくらいさ。 だけど……結果的には、よかったのかもしれない。 呆気に取られた君の表情は、美しいまま、僕の記憶に焼き付けられたから。 「なぁに、今更。ばかみたい」 「ホントにね、我ながら、ばかみたいだって思うけどさ。やっぱりイヤなんだよ。 親しみが感じられないって言うか、よそよそしいって言うか」 「ふぅん……そこ、拘るんだ?」 拘るに決まってる。好きな女の子のことなら、なおさらじゃないか。 もはや開き直って、僕は君の痩身を掻き抱いた。 「大好きだ。柿…………めぐ」 人の習慣は、そうそう変えられるものじゃないらしい。 慌てて言い直したことで、却って、君の失笑を買ってしまった。 「まったく。そんな調子で、大丈夫なのかしら」 「あ、当ったり前だろ。いまのは練習だからノーカンな」 「ずるいのね」 「キニシナイったら、キニシナイ」 歌うように茶化して、仕切り直し。 僕は、抱きしめたままだった君の耳元に、そっと囁いた。 「大好きだ、めぐ」 「……私も。大好きよ、ジュン」 どうして、君は一度目でさらっと言えてしまったのかな。女の子だから? それとも……独りきりのときは、僕を名前で呼んでくれていたのかな――なんてね。 いまでもね、ちょっと自惚れては、独りでニヤついているんだよ。 ▼ ▲ あれから、ずいぶんと月日が流れたよ、めぐ。 君と僕が、とんでもなく遠く隔てられてから、もう7年が経ってしまったんだ。 17歳だった僕は24歳になって、駆け出しの社会人さ。 1年に一度、この七夕の夜に、僕はここを訪れる。 めぐが入院していた、有栖川大学病院の屋上に、天体望遠鏡を担ぎながら。 あの頃とは比べ物にならないほど高性能の望遠鏡だ。 「よく続くものねぇ。ホぉント、呆れるわ」 僕の傍らで、腕組みしながら吐息するのは、めぐの一番の親友だった女の子。 いまでは立派な看護士になって、有栖川大学病院に勤務する水銀燈だ。 僕が、毎年こうしてここに来られるのも、彼女の協力あってのこと。 「水銀燈には、感謝してるよ。言葉じゃ安すぎるくらいにね」 「あっそ。別に、興味ないわぁ」 まーた始まった。 昔から素直じゃなかったけれど、最近は、ひねくれ度合いが増してる気がする。 僕は苦笑しながら、水銀燈へと向き直った。 「今年は、すっきりと晴れて見られそうだよ、天の川」 「……そう」 水銀燈は、ふっと長い睫毛を伏せた。「めぐにも、見せてあげたかったわね」 それは、言わずもがな。だからこそ、言うべきではない。 「一緒に見ないか」 「……えっ?」 「見て欲しいんだ、誰かに」 「私は――」 言い淀んだセリフをかなぐり捨てるように、水銀燈は望遠鏡を覗き込んだ。 そして、「綺麗ね」と。 同じ感想は、繰り返されたとき、湿り気を帯びていた。 三度目はなくて―― 身を翻し飛び込んできた水銀燈を、僕はしっかりと胸で受け止めた。 それから、憚ることない彼女の嗚咽に紛れて、僕も少しだけ泣いた。 星の川が流れる夜空の下で。 僕たちは、涙の川を流し続けていた。 めぐ―― 僕らもいつか、織姫と彦星のように再会できると、信じてるよ。 ただ……それは、断言できないけれど、まだずっと先の話になると思う。 もしかしたら、寂しさに負けて、君の親友と浮気をしてしまうかもしれないけどさ…… そのときは、赦してくれよな……めぐ。 『七夕の季節に君を想うということ』