約 123 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/443.html
唐書巻一百二十四 列伝第四十九 姚崇 奕 合 勗 宋璟 渾 姚崇字元之、陝州硤石人。父懿、字善懿、貞観中、為巂州都督、贈幽州大都督、謚文献。 崇少倜儻、尚氣節、長乃好学。仕為孝敬挽郎、舉下筆成章、授濮州司倉参軍。五遷夏官郎中、契丹擾河北、兵檄叢進、崇奏決若流、武后賢之、即拜侍郎。后嘗語左右:「往周興、來俊臣等数治詔獄、朝臣相逮引、一切承反。朕意其枉、更畀近臣臨問、皆得其手牒不冤、朕無所疑、即可其奏。自俊臣等誅、遂無反者、然則向論死得無冤邪?」崇曰:「自垂拱後、被告者類自誣。當是時、以告言為功、故天下號曰『羅織』、甚於漢之鉤黨。雖陛下使近臣覆訊、彼尚不自保、敢一搖手以悖酷吏意哉!且被問不承、則重罹其慘、如張虔勗、李安靜等皆是也。今賴天之霊、發寤陛下、凶豎殲夷、朝廷乂安、臣以一門百口保内外官無復反者。陛下以告牒置弗推、後若反有端、臣請坐知而不告。」后悅曰:「前宰相務順可、陷我為淫刑主、聞公之言、乃得朕心。」賜銀千兩。 聖暦三年、進同鳳閣鸞臺平章事。遷鳳閣侍郎、俄兼相王府長史、以母老納政歸侍、乃詔以相王府長史侍疾、月餘、復兼夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品。崇建言:「臣事相王、而夏官本兵、臣非惜死、恐不益王。」乃詔改春官。張易之私有請於崇、崇不納、易之譖於后、降司僕卿、猶同鳳閣鸞臺三品。出為霊武道大総管。 張柬之等謀誅二張、崇適自屯所還、遂参計議。以功封梁県侯、實封二百戸。戸遷上陽宮、中宗率百官起居、王公更相慶、崇獨流涕。柬之等曰:「今豈涕泣時邪?恐公禍由此始。」崇曰:「比與討逆、不足以語功、然事天后久、違舊主而泣、人臣終節也、由此獲罪甘心焉。」俄為亳州刺史。後五王被害、而崇獨免。歴宋、常、越、許四州。睿宗立、拜兵部尚書、同中書門下三品、進中書令。 玄宗在東宮、太平公主干政、宋王成器等分典閑厩、禁兵。崇與宋璟建請主就東都、出諸王為刺史、以壹人心。帝以謂主、主怒。太子懼、上疏以崇等惎間王室、請加罪、貶為申州刺史。移徐、潞二州、遷揚州長史。政條簡肅、人為紀徳于碑。徙同州刺史。 先天二年、玄宗講武新豊。故事、天子行幸、牧守在三百里者、得詣行在。時帝亦密召崇、崇至、帝方獵渭濱、即召見、帝曰:「公知獵乎?」對曰:「少所習也。臣年二十、居広成沢、以呼鷹逐獸為樂。張憬蔵謂臣當位王佐、無自棄、故折節讀書、遂待罪将相。然少為獵師、老而猶能。」帝悅、與倶馳逐、緩速如旨、帝歡甚。既罷、乃咨天下事、不知倦。帝曰:「卿宜遂相朕。」崇知帝大度、鋭于治、乃先設事以堅帝意、即陽不謝、帝怪之。崇因跪奏:「臣願以十事聞、陛下度不可行、臣敢辭。」帝曰:「試為朕言之。」崇曰:「垂拱以來、以峻法繩下。臣願政先仁恕、可乎?朝廷覆師青海、未有牽復之悔。臣願不倖邊功、可乎?比來壬佞冒觸憲網、皆得以寵自解。臣願法行自近、可乎?后氏臨朝、喉舌之任出閹人之口。臣願宦豎不與政、可乎?戚里貢献以自媚于上、公卿方鎮寖亦為之。臣願租賦外一絶之、可乎?外戚貴主更相用事、班序荒雜。臣請戚屬不任臺省、可乎?先朝褻狎大臣、虧君臣之嚴。臣願陛下接之以礼、可乎?燕欽融、韋月将以忠被罪、自是諍臣沮折。臣願群臣皆得批逆鱗、犯忌諱、可乎?武后造福先寺、上皇造金仙、玉真二観、費鉅百万。臣請絶道佛營造、可乎?漢以禄、莽、閻、梁亂天下、国家為甚。臣願推此鑒戒為万代法、可乎?」帝曰:「朕能行之。」崇乃頓首謝。翌日、拜兵部尚書、同中書門下三品。封梁国公。遷紫微令。固辭實封、乃停舊食、賜新封百戸。 中宗時、近戚奏度僧尼、温戸彊丁因避賦役。至是、崇建言:「佛不在外、悟之于心。行事利益、使蒼生安穩、是謂佛理。烏用姦人以汨真教?」帝善之、詔天下汰僧偽濫、髮而農者餘万二千人。 崇嘗於帝前序次郎吏、帝左右顧、不主其語。崇懼、再三言之、卒不答、崇趨出。内侍高力士曰:「陛下新即位、宜與大臣裁可否。今崇亟言、陛下不應、非虚懐納誨者。」帝曰:「我任崇以政、大事吾當與決、至用郎吏、崇顧不能而重煩我邪?」崇聞乃安。由是進賢退不肖而天下治。 開元四年、山東大蝗、民祭且拜、坐視食苗不敢捕。崇奏:「詩云:『秉彼蟊賊、付畀炎火。』漢光武詔曰:『勉順時政、勸督農桑。去彼螟蜮、以及蟊賊。』此除蝗誼也。且蝗畏人易驅、又田皆有主、使自救其地、必不憚勤。請夜設火、坎其旁、且焚且瘞、蝗乃可盡。古有討除不勝者、特人不用命耳。」乃出御史為捕蝗使、分道殺蝗。汴州刺史倪若水上言:「除天災者當以徳、昔劉聰除蝗不克而害愈甚。」拒御史不應命。崇移書誚之曰:「聰偽主、徳不勝祅、今祅不勝徳。古者良守、蝗避其境、謂脩徳可免、彼将無徳致然乎?今坐視食苗、忍而不救、因以無年、刺史其謂何?」若水懼、乃縱捕、得蝗十四万石。時議者喧譁、帝疑、復以問崇、對曰:「庸儒泥文不知變。事固有違經而合道、反道而適権者。昔魏世山東蝗、小忍不除、至人相食。後秦有蝗、草木皆盡、牛馬至相噉毛。今飛蝗所在充滿、加復蕃息。且河南、河北家無宿蔵、一不穫則流離、安危繋之。且討蝗縱不能盡、不愈於養以遺患乎?」帝然之。黄門監盧懐慎曰:「凡天災安可以人力制也!且殺蟲多、必戻和氣。願公思之。」崇曰:「昔楚王吞蛭而厥疾瘳、叔敖斷福乃降。今蝗幸可驅、若縱之、穀且盡、如百姓何?殺蟲救人、禍歸於崇、不以諉公也!」蝗害訖息。 於是、帝方躬万機、朝夕詢逮、它宰相畏帝威決、皆謙憚、唯獨崇佐裁決、故得專任。崇第賒僻、因近舎客廬。會懐慎卒、崇病痁移告、凡大政事、帝必令源乾曜就咨焉。乾曜所奏善、帝則曰:「是必崇畫之。」有不合、則曰:「胡不問崇?」乾曜謝其未也、乃已。帝欲崇自近、詔徙寓四方館、日遣問食飲起居、高醫、尚食踵道。崇以館局華大、不敢居。帝使語崇曰:「恨不處禁中、此何避?」久之、紫微史趙誨受夷人賕、當死。崇素親倚、署奏營減、帝不悅。時曲赦京師、惟誨不原。崇惶懼、上還宰政、引宋璟自代、乃以開府儀同三司罷政事。 帝将幸東都、而太廟屋自壞、帝問宰相、宋璟、蘇頲同對曰:「三年之喪未終、不可以行幸。壞壓之變、天所以示教戒、陛下宜停東巡、脩徳以答至譴。」帝以問崇、對曰:「臣聞隋取苻堅故殿以營廟、而唐因之。且山有朽壤乃崩、況木積年而木自當乎。但壞與行會、不縁行而壞。且陛下以関中無年、輸餉告勞、因以幸東都、所以為人不為己也。百司已戒、供擬既具、請車駕如行期。舊廟難復完、盍奉神主舎太極殿?更作新廟、申誠奉、大孝之徳也。」帝曰:「卿言正契朕意。」賜絹二百匹、詔所司如崇言、天子遂東。因詔五日一参、入閤供奉。 八年、授太子少保、以疾不拜。明年卒、年七十二。贈揚州大都督、謚曰文献。十七年、追贈太子太保。 崇析貲産、令諸子各有定分。治令曰: 比見達宦之裔多貧困、至銖尺是競、無論曲直、均受嗤詆。田宅水磑既共有之、至相推倚以頓廢。陸賈、石苞、古達者也、亦先有定分以絶後爭。 昔楊震、趙咨、盧植、張奐咸以薄葬、知真識去身、貴速朽耳。夫厚葬之家流于俗、以奢靡為孝、令死者戮尸暴骸、可不痛哉!死者無知、自同糞土、豈煩奢葬。使其有知、神不在柩、何用破貲徇侈乎?吾亡、斂以常服、四時衣各一稱。性不喜冠衣、毋以入墓。紫衣玉帶、足便於體。 今之佛經、羅什所譯、姚興與之對翻、而興命不延、国亦隨滅。梁武帝身為寺奴、齊胡太后以六宮入道、皆亡国殄家。近孝和皇帝發使贖生、太平公主、武三思等度人造寺、身嬰夷戮、為天下笑。五帝之時、父不喪子、兄不哭弟、致仁寿、無凶短也。下逮三王、国祚延久、其臣則彭祖、老聃皆得長齢、此時無佛、豈抄經鑄像力邪?縁死喪造經像、以為追福。夫死者生之常、古所不免、彼經與像何所施為?兒曹慎不得為此! 崇尤長吏道、處決無淹思。三為宰相、常兼兵部、故屯戍斥候、士馬儲械、無不諳記。玄宗初立、賓礼大臣故老、雅尊遇崇、毎見便殿、必為之興、去輒臨軒以送、它相莫如也。時承権戚干政之後、綱紀大壞、先天末、宰相至十七人、臺省要職不可数。崇常先有司罷冗職、脩制度、擇百官各當其材、請無広釋道、無数移吏。繇是天子責成于下、而権歸于上矣。 然資権譎。如為同州、張説以素憾、諷趙彦昭劾崇。及當国、説懼、潛詣岐王申款。崇它日朝、衆趨出、崇曳踵為有疾状、帝召問之、對曰:「臣損足。」曰:「無甚痛乎?」曰:「臣心有憂、痛不在足。」問以故、曰:「岐王陛下愛弟、張説輔臣、而密乘車出入王家、恐為所誤、故憂之。」於是出説相州。魏知古、崇所引、及同列、稍輕之、出攝吏部尚書、知東都選、知古憾焉。時崇二子在洛、通賓客饋遺、憑舊請託。知古歸、悉以聞。他日、帝召崇曰:「卿子才乎、皆安在?」崇揣知帝意、曰:「臣二子分司東都、其為人多欲而寡慎、是必嘗以事干魏知古。」帝始以崇私其子、或為隠、微以言動之。及聞、乃大喜、問:「安從得之?」對曰:「知古、臣所薦也、臣子必謂其見徳而請之。」帝於是愛崇不私而薄知古、欲斥之。崇曰:「臣子無状、橈陛下法、而逐知古、外必謂陛下私臣。」乃止、然卒罷為工部尚書。 崇始名元崇、以與突厥叱剌同名、武后時以字行。至開元世、避帝號、更以今名。三子:彝、、弈、皆至卿、刺史。 弈少脩謹。始、崇欲使不越官次而習知吏道、故自右千牛進至太子舎人、皆平遷。開元中、有事五陵、有司以鷹犬從、弈曰:「非礼也。」奏罷之。請治劇、為睢陽太守、召授太僕卿。後為尚書右丞。 子閎、居右相牛仙客幕府。仙客病甚、閎彊使薦弈及盧奐為宰相、仙客妻以聞、閎坐死、弈貶永陽太守、卒。 曾孫合、勗。合、元和中進士及第、調武功尉、善詩、世號姚武功者。遷監察御史、累轉給事中。奉先、馮翊二県民訴牛羊使奪其田、詔美原主簿朱儔覆按、猥以田歸使、合劾發其私、以地還民。歴陝虢観察使、終祕書監。 勗字斯勤。長慶初擢進士第、数為使府表辟、進監察御史、佐鹽鉄使務。累遷諫議大夫、更湖、常二州刺史。為宰相李徳裕厚善。及徳裕為令狐綯等譖逐、擿索支黨、無敢通勞問。既居海上、家無資、病無湯劑、勗数饋餉候問、不傅時為厚薄。終夔王傅。自作寿蔵於万安山南原崇塋之旁、署兆曰「寂居穴」、墳曰「復真堂」、中剟土為曰「化臺」、而刻石告後世。 宋璟、邢州南和人。七世祖弁為元魏吏部尚書。璟耿介有大節、好学、工文辭、舉進士中第。調上黨尉、為監察御史、遷鳳閣舎人。居官鯁正、武后高其才。張易之誣御史大夫魏元忠有不臣語、引張説為驗、将廷辯、説惶遽、璟謂説曰:「名義至重、不可陷正人以求苟免。縁此受謫、芬香多矣。若不測者、吾且叩閤救、将與子偕死。」説感其言、以實對、元忠免死。 璟後遷左臺御史中丞、會飛書告張昌宗引相工観吉凶者、璟請窮治、后曰:「易之等已自言於朕。」璟曰:「謀反無容以首原、請下吏明国法。易之等貴寵、臣言之且有禍、然激於義、雖死不悔。」后不懌、姚遽伝詔令出、璟曰:「今親奉徳音、不煩宰相擅宣王命。」后意解、許收易之等就獄。俄詔原之、敕二張詣璟謝、璟不見、曰:「公事公言之、若私見、法無私也。」顧左右歎曰:「吾悔不先碎豎子首而令亂国經。」嘗宴朝堂、二張列卿三品、璟階六品、居下坐。易之諂事璟、虚位揖曰:「公第一人、何下坐?」璟曰:「才劣品卑、卿謂第一何邪?」是時朝廷以易之等内寵、不名其官、呼易之「五郎」、昌宗「六郎」。鄭善果謂璟曰:「公奈何謂五郎為卿?」璟曰:「以官正當為卿。君非其家奴、何郎之云?」會有喪、告滿入朝、公卿以次謁、通礼意。易之等後至、促步前、璟舉笏揖唯唯。故積怨、常欲中傷、后知之、得免。然以数忤旨、詔按獄揚州、璟奏:「按州県纔監察御史職耳。」又詔按幽州都督屈突仲翔、辭曰:「御史中丞非大事不出使。仲翔罪止贓、今使臣往、此必有危臣者。」既而詔副李嶠使隴、蜀、璟復言:「隴右無變、臣以中丞副李嶠、非朝廷故事。」終辭。易之初冀璟出則劾奏誅之、計不行、乃伺璟家婚礼、将遣客刺殺之。有告璟者、璟乘庳車舎他所、刺不得發。俄二張死、乃免。 神龍初、為吏部侍郎。中宗嘉其直、令兼諫議大夫、内供奉、仗下與言得失。遷黄門侍郎。武三思怙烝寵、数有請于璟。璟厲答曰:「今復子明辟、王宜以侯就第、安得尚干朝政、獨不見産、禄事乎?」後韋月将告三思亂宮掖、三思諷有司論大逆不道、帝詔殊死、璟請付獄按罪、帝怒、岸巾出側門、謂璟曰:「朕謂已誅矣、尚何請?」璟曰:「人言后私三思、陛下不問即斬之、臣恐有竊議者、請按而後刑。」帝愈怒。璟曰:「請先誅臣、不然、終不奉詔。」帝乃流月将嶺南。會還京師、詔璟権検校并州長史、未行、又検校貝州刺史。時河北水、歳大饑、三思使斂封租、璟拒不與、故為所擠。歴杭、相二州、政清毅、吏下無敢犯者。遷洛州長史。 睿宗立、以吏部尚書、同中書門下三品。玄宗在東宮、兼右庶子。先是崔湜、鄭愔典選、為戚近干奪、至迎用二歳闕、猶不能給、更置比冬選、流品淆并、璟與侍郎李乂、盧從愿澄革之、銓総平允。 太平公主不利東宮、嘗駐輦光範門、伺執政以諷。璟曰:「太子有大功、宗廟社稷主也、安得異議?」乃與姚崇白奏出公主、諸王於外、帝不能用。貶楚州刺史、歴兗冀魏三州、河北按察使、進幽州都督、以国子祭酒留守東都、遷雍州長史。 玄宗開元初、以雍州為京兆府、復為尹。進御史大夫、坐小累為睦州刺史、徙広州都督。広人以竹茅茨屋、多火。璟教之陶瓦築堵、列邸肆、越俗始知棟宇利而無患災。召拜刑部尚書。四年、遷吏部兼侍中。 帝幸東都、次崤谷、馳道隘、稽擁車騎、帝命黜河南尹李朝隠、知頓使王怡等官。璟曰:「陛下富春秋、今始巡守、以道不治而罪二臣、繇此相飭、後有受其敝者。」帝遽命捨之。璟謝曰:「陛下向以怒責之、以臣言免之、是過歸於上而恩在下。姑聽待罪於朝、然後詔還其職、進退得矣。」帝善之。累封広平郡公。広人為璟立遺愛頌、璟上言:「頌所以伝徳載功也。臣之治不足紀、広人以臣當国、故為溢辭、徒成諂諛者。欲釐正之、請自臣始。」有詔許停。 帝嘗命璟與蘇頲制皇子名與公主號、遂差次所封、且詔別擇一美稱及佳邑封上。璟奏言:「七子均養、詩人所稱。今若同等別封、或母寵子愛、恐傷鳲鳩之平。昔袁盎引慎夫人席、文帝納之、夫人亦不為嫌、以其得長久計也。臣不敢別封。」帝歎重其賢。 皇后父王仁皎卒、将葬、用昭成皇后家竇孝諶故事、墳高五丈一尺。璟等請如著令、帝已然可、明日、復詔如孝諶者。璟還詔曰:「儉、徳之恭。侈、惡之大也。僭礼厚葬、前世所誡、故古墓而不墳。人子於哀迷則未皇以礼自制、故聖人制齊、斬、緦、免、衣衾棺槨、各有度数。雖有賢者、斷其私懐。衆皆務奢、獨能以儉、所謂至徳要道者。中宮若謂孝諶踰制、初無非者、一切之令固不足以法。貞観時嫁長樂公主、魏徴謂不可加長公主、太宗欣納、而文徳皇后降使厚謝。韋庶人追王其父、擅作酆陵、而禍不旋踵。国家知人情無窮、故為制度、不因人以搖動、不變法以愛憎。比來人間競務靡葬、今以后父重戚、不憂乏用、高大寢、不畏無人、百事官給、一朝可就、而區區屢聞者、欲成朝廷之政、中宮之美爾。儻中宮情不可奪、請準令一品陪陵墳四丈、差合所宜。」帝曰:「朕常欲正身紀綱天下、於后容有私邪?然人所難言、公等乃能之。」即可其奏。又遣使賚綵絹四百匹。 會日食、帝素服俟變、録囚多所貸遣、賑卹災患、罷不急之務。璟曰:「陛下降徳音、卹人隠、末宥輕繋、惟流、死不免、此古所以慎赦也。恐議者直以月蝕脩刑、日蝕脩徳、或言分野之變、冀有揣合。臣以謂君子道長、小人道銷。止女謁、放讒夫、此所謂脩徳也。囹圄不擾、兵甲不瀆、官不苛治、軍不輕進、此所謂脩刑也。陛下常以為念、雖有虧食、将轉而為福、又何患乎?且君子恥言浮於行、願動天以誠、無事空文。」帝嘉納。後以開府儀同三司罷政事。 京兆人権梁山謀逆、敕河南尹王怡馳伝往按。牢械充滿、久未決、乃命璟為京留守、覆其獄。初、梁山詭稱婚集、多假貸、吏欲并坐貸人。璟曰:「婚礼借索大同、而狂謀率然、非所防億。使知而不假、是與為反。貸者弗知、何罪之云?」平縱数百人。 十二年、東巡泰山、璟復為留守。帝将發、謂曰:「卿、国元老、別方歴時、宜有嘉謀以遺朕。」璟因一二極言。手制答曰:「所進當書之坐右、出入観省、以誡終身。」賜賚優渥、進兼吏部尚書。十七年、為尚書右丞相、而張説為左丞相、源乾曜為太子少傅、同日拜。有詔太官設饌、太常奏樂、會百官尚書省東堂。帝賦三傑詩、自寫以賜。二十年、請致仕、許之、仍賜全禄。退居洛。乘輿東幸、璟謁道左。詔榮王勞問、別遣使賜藥餌。二十五年卒、年七十五、贈太尉、謚文貞。 璟風度凝遠、人莫涯其量。始、自広州入朝、帝遣内侍楊思勗驛迓之、未嘗交一言。思勗自以将軍貴幸、訴之帝、帝益嗟重。璟為宰相、務清政刑、使官人皆任職。聖暦後、突厥默啜負其彊、数窺邊、侵九姓拔曳固、負勝輕出、為其狙撃斬之、入蕃使郝霊佺伝其首京師。霊佺自謂還必厚見賞。璟顧天子方少、恐後干寵蹈利者夸威武、為国生事、故抑之、踰年、纔授右武衛郎将、霊佺恚憤不食死。張嘉貞後為相、閲堂案、見其危言切議、未嘗不失聲歎息。六子:昇、尚、渾、恕、華、衡。 昇、太僕少卿。尚、漢東太守。渾、與李林甫善、歴諫議大夫、平原太守、御史中丞、東京採訪使。在平原、暴斂求進、至重取民一年庸、租。使東畿、薛稷甥女鄭寡而美、渾使河南尉楊朝宗聘而己納之、薦朝宗為赤尉。恕、以都官郎中為劍南採訪判官、数貪縱不法、陰養刺客。天宝中、渾、恕、尚並以贓敗、渾流高要、恕流海康、尚貶臨海長史。華、衡亦皆坐貪得罪。広徳中、渾起為太子諭徳、物議穢薄之、留死江嶺。昆弟皆荒飲俳嬉、而衡最險悖、広平之風衰焉。 賛曰:姚崇以十事要説天子而後輔政、顧不偉哉、而舊史不伝。観開元初皆已施行、信不誣已。宋璟剛正又過於崇、玄宗素所尊憚、常屈意聽納。故唐史臣稱崇善應變以成天下之務、璟善守文以持天下之正。二人道不同、同歸于治、此天所以佐唐使中興也。嗚呼!崇勸天子不求邊功、璟不肯賞邊臣、而天宝之亂、卒悼其害、可謂先見矣。然唐三百年、輔弼者不為少、獨前稱房、杜、後稱姚、宋、何哉?君臣之遇合、蓋難矣夫!
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/204.html
←巻八十二 列伝第七 徳宗に十一子があった。昭徳皇后は順宗皇帝を生み、帝は昭靖太子の子の李誼を取って第一子とし、また順宗の子の李謜を取って第六子とした。のこりの八王は、その母の氏と位について記録が失われている。 舒王李誼は、初めの名を謨といった。帝愛其幼、取為子。大暦十四年()に始めて舒王となり、通・虔・肅・資の四王とともに同じく封ぜられた。拜開府儀同三司、詔有司給奉稍、俄以軍興罷。謨於諸王最長、帝欲試以事、故拜涇原節度大使。時尚父郭子儀病篤、帝臨軒遣謨持詔往視。謨冠遠游冠、御絳袍、乘象輅四馬、飛龍士三百、国府官皆褶以従。子儀手叩頭謝恩。謨宣詔已、乃易服勞問還。 於是、李希烈反、招討使李勉戰不勝、奔宋州、朝廷大震。乃拜謨揚州大都督・荊襄江西沔鄂節度使・諸軍行營兵馬都元帥。改名誼。軍中以哥舒翰由元帥敗、而王所封同之、帝乃使徙王普。以兵部侍郎蕭復為統軍長史、湖南観察使孔巣父為行軍左司馬、山南東道節度行軍司馬樊沢為右、刑部員外郎劉従一・侍御史韋儹為判官、兵部員外郎高参掌書記、右金吾大将軍渾瑊為中軍虞候、江西節度使嗣曹王為前軍兵馬使、鄂岳團練使李兼副之、山南東道節度使賈耽為中軍兵馬使、荊南節度使張伯儀為後軍兵馬使、左神武軍使王价・左衛将軍高承謙・検校太子詹事郭曙・検校右庶子常愿為押衙。未及行、涇原兵反、誼従帝出奉天。朱泚攻城、誼昼夜伝勞諸軍不解帶。帝還京師、復故封揚州大都督如故。永貞元年(805)に薨去した。 通王李諶は、始めて王となると、開府儀同三司を拝命した。貞元九年(793)、宣武節度大使を領し、李万栄を留後とし、二年して河東にうつり、李説を留後としたが、いずれも宮中から出なかった。 虔王李諒は、王に封ぜられて開府儀同三司を拝命した。貞元二年(786)、蔡州節度大使を領し、呉少誠を留後とした。貞元十年(794)、朔方霊塩節度使に遷り、李欒を留後とした。翌年、横海軍節度使を領し、また徐州に遷った。程懐信・張愔を留後とした。宮中から出なかった。 粛王李詳は、性質は優れ、帝に愛された。建中二年(781)に薨去し、わずか四歳であった。帝は仏教の説を用いようとし、塔のみで墳をつくらなかったが、礼儀判官の李岧が非礼を諌めたから沙汰止みとした。詔して揚州大都督を追贈された。 文敬太子李謜は、帝に愛され、命により帝の子となった。貞元年間(785-805)初頭、諸王に先んじて邕王となった。義武軍・昭義軍の二軍の節度大使となり、張茂昭・王虔休を留後としたが、宮中から出なかった。貞元十五年(799)に薨去し、年十八で、追贈と諡があった。葬送の日、群臣は位次に並んで通化門の外で哭礼した。陵および廟に令・丞を置いたという。 資王李謙は、薨去した年が失われている。 代王李諲は、始め縉雲郡王となり。早く薨去すると、建中二年(781)に追って王となった。 昭王李誡は、貞元二十一年(805)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 欽王李諤は、順宗が即位すると、珍王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。 珍王李諴は、大和六年(832)に薨去した。 順宗に二十七子があった。荘憲皇后は憲宗皇帝および李綰を生み、張昭訓は李経を生み、趙昭儀は李結を生み、王昭儀は李緫・李約・李緄を生んだ。のこりの二十王は、母の氏と位について記録が失われ、四王は早く薨去し、官・諡が失われた。 郯王李経は、もとの名は渙といった。貞元四年、始め建康郡王となり、広陵・洋川・臨淮・弘農・漢東・晋陵・高平・雲安・宣城・徳陽・河東・洛交の十二郡王とともに同じく封ぜられた。二十一年、また均・漵・莒・密・郇・邵・宋・集・冀・和・衡・欽・会・珍・福・撫・岳・袁・桂・翼の二十王とともにみな王に進んだ。王となって二十九年、大和八年(834)に薨去した。 均王李緯は、初めの名を沔といった。洋川郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十三年、開成二年(837)に薨去した。 漵王李縦は、初めの名を洵といった。臨淮郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十二年、開成元年(836)に薨去した。 莒王李紓は、初めの名を浼といった。秘書監となった。弘農郡王となり、のちに王に進んだ。王たること二十九年、大和八年(834)に薨去した。 密王李綢は、初めの名を泳といった。漢東郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三年、元和二年(807)に薨去した。 郇王李緫は、初めの名を湜といった。少府監に任ぜられた。晋陵郡王となり、のちに王に進んだ。王たること四年、元和三年(808)に薨去した。 邵王李約は、初めの名を漵といった。国子祭酒となった。高平郡王となり、王に進んだ。王たること二年、元和元年(806)に薨去した。 宋王李結は、初めの名を滋といった。雲安郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。 集王李緗は、初めの名を淮といった。宣城郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。 冀王李絿は、初めの名を湑といった。太常卿となった。徳陽郡王となり、王に進んだ。王たること三十年、大和九年(835)に薨去した。 和王李綺は、初めの名を浥といった。河東郡王となり、王に進んだ。王たること二十八年、大和七年(833)に薨去した。 衡王李絢は、王たること二十二年、宝暦二年(826)に薨去した。 会王李纁は、王たること六年、元和五年(810)に薨去した。 福王李綰は、魏博節度大使をつとめた。咸通元年(860)、昇進して司空を拝命した。王たること五十七年、咸通二年(861)に薨去した。 珍王李繕は、初めの名を況といった。洛交郡王となり、のちに王に進んだ。薨去した年が失われている。 撫王李紘は、咸通初年、司空をつとめ、また司徒・太尉に進んだ。王たること七十三年、乾符三年(876)に薨去した。 岳王李緄は、王たること二十三年、大和二年(828)に薨去した。 袁王李紳は、王たること五十六年、咸通元年(860)に薨去した。 桂王李綸は、王たること十年、元和九年(814)に薨去した。 翼王李綽は、王たること五十八年、咸通三年(862)に薨去した。 蘄王李緝は、王たること六年、咸通八年(867)に薨去した。 欽王李績は、薨去した年が失われている。 憲宗に二十子があった。紀美人は李寧を生み、懿安皇后は穆宗皇帝を生み、孝明皇后は宣宗皇帝を生んだ。のこりの十七王は、みな後宮の生むところで、その母の号と氏について記録を逸している。 恵昭太子李寧は、貞元二十一年(805)、始め平原郡王となり、同安・彭城・高密・文安の四郡王とともに同じく封ぜられた。帝が即位すると、鄧王に進み、澧・深・洋・絳の四王とともに同じく封ぜられた。 於是国嗣未立、李絳等建言:「聖人以天下為大器、知一人不可獨化、四海不可無本、故建太子以自副、然後人心定、宗祏安、有国不易之常道。陛下受命四年、而子未建、是開窺覦之端、乖慎重之義、非所以承列聖、示万世。」帝曰:「善。」以寧為皇太子、更名宙、前以制示絳等。未幾、復初名。冊礼用孟夏、雨、不克、改用孟秋、亦雨、冬十月克行礼。明年に薨去し、年は十九であった。 澧王李惲は、始め同安郡王となり、のちに王に進んだ。恵昭太子李寧が薨去すると、吐突承璀は議して再び皇太子を立てようとし、意は李惲にあったが、帝は自ら穆宗を太子とした。帝が崩じた夜、吐突承璀は死に、王は殺され、秘して喪は発せられなかった。しばらくして告知し、廃朝すること三日であった。三子があった。李漢といい、東陽郡王となった。李源といい、安陸郡王となった。李演といい、臨安郡王となった。 かつて、李惲は名を寛といい、深王は察といい、洋王は寰といい、絳王は寮といい、建王は審といった。元和七年(812)、そろって今の名に改めた。 深王李悰は、始め彭城郡王となり、深王に進んだ。子の李潭は河内郡王となり、李淑は呉興郡王となった。 洋王李忻は、始め高密郡王となり、洋王に進んだ。大和二年(828)に薨去した。子の李沛は潁川郡王となった。 絳王李悟は、始め文安郡王となり、王に進んだ。敬宗が崩じ、蘇佐明らは詔を偽って王に軍国の事を領させた。王守澄らが文宗を立てると、王は殺された。二子があった。李洙は新安王となり、李滂は高平王となった。 建王李恪は、元和元年(806)に始めて封ぜられた。ときに淄青節度使の李師古が死に、その弟の李師道が符節を願ったから、李恪に詔して鄆州大都督・平盧軍淄青等州節度大使とし、李師道を留後としたが、宮中から出なかった。長慶元年(821)に薨去し、後嗣がなかった。 鄜王李憬は、長慶元年(821)に始めて王となり、瓊・沔・婺・茂・淄・衢・澶の七王とともに同じく封ぜられた。開成四年(839)に薨去した。子の李溥が平陽郡王となった。 瓊王李悅は、子の李津が河間郡王となった。 沔王李恂は、子の李瀛が晋陵郡王となった。 婺王李懌は、子の李清が新平郡王となった。 茂王李愔は、子の李潓が武功郡王となった。 淄王李恊は、開成元年(836)に薨去した。子の李澣が許昌郡王に、李渙が馮翊郡王になった。 衢王李憺は、子の李渉が晋平郡王となった。 澶王李㤝は、子の李濘が雁門郡王となった。 棣王李惴は、大中六年(852)に始めて王となり、彭・信の二王とともに同じく封ぜられた。咸通三年(862)に薨去し、後嗣がなかった。 彭王李惕は、乾寧年間に、韓建に石隄谷で殺された。後嗣がなかった。 信王李憻は、咸通八年(867)に薨去し、後嗣がなかった。 栄王李㥽は、咸通三年(862)に始めて王となった。広明年間(880-881)初年、司空に任ぜられた。子の李令平が王を嗣いだ。 合わせて八王は、その薨去した年について記録が失われている。 穆宗に五子があった。恭僖皇后は敬宗皇帝を生み、貞献皇后は文宗皇帝を生み、宣懿皇后は武宗皇帝を生んだ。のこりの二王は、その母の氏と位を失っている。 懐懿太子李湊は、若くして常に寛大で、決まりを守った。長慶元年(821)に始めて漳王となり、安王とともに同じく封ぜられた。 文宗即位、疾王守澄顓很、引支黨橈国、謀盡誅之、密引宰相宋申錫使為計。守澄客鄭注伺知之、以告、乃謀先事殺申錫。又以王賢、有中外望、因欲株聯大臣族夷之。乃令神策虞候豆盧著上飛變、且言:「宮史晏敬則・朱訓與申錫昵吏王師文圖不軌、訓嘗言上多疾、太子幼、若兄終弟及、必漳王立。申錫陰以金幣進王、而王亦以珍服厚答。」即捕訓等繋神策獄、榜掠定其辭。諫官群伏閤極言、出獄牒付外雜治。注等懼事洩、乃請下詔貶王。帝未之悟、因黜湊為巣県公、ときに大和五年(831)のことである。命中人持詔即賜、且慰曰:「国法當爾、無它憂!」八年(834)に薨去し、斉王を贈られた。注後以罪誅、帝哀湊被讒死不自明、開成三年(838)に追贈された。 安王李溶。初め楊賢妃が文宗の寵愛を得たが、晩年病がちとなると、妃は密かに王を立てて後嗣とするよう願い、密かに自ら地を安じた。帝と宰相の李珏が謀り、李珏は不可を言ったから、沙汰やみとなった。帝が崩ずると、仇士良が武宗を立て、自身の功績を重ねたいと考え、そこで李溶がかつて太子になろうとしたことを誣告し、殺された。 敬宗に五子があった。妃の郭氏は李普を生み、のこりの四王は、母の氏と位について失っている。 悼懐太子李普は、姿美しく性格は聡明であった。宝暦元年(825)に始めて晋王となった。文宗は我が子のように愛し、かつて後嗣にしようとした。大和二年(828)に薨去し、帝は悲嘆追悼してどうすることもできず、そのため憐れんで追贈を加えた。 敬宗の第二子の李休復は、文宗の開成二年(837)に梁王に封ぜられ、第三子の李執中は襄王となり、第四子の李言揚は紀王となり、第五子の李成美は陳王となった。李執中の子の李寀は楽平郡王となった。 陳王李成美。はじめ文宗は荘恪太子李永が薨去した。大臣はしばしば東宮をたてることを願い出たから、開成四年(839)、帝はそこで李成美を立てて皇太子としたが、儀礼が備わらないうちに帝が崩じてしまい、仇士良が武宗を立てると、邸においてかれを殺した。子の李儼は宣城郡王となった。 文宗に二子があった。王徳妃は李永を生み、後宮は李宗倹を生んだ。 荘恪太子李永は、大和四年(830)に始めて魯王となった。帝以王幼、宜得賢輔、因召見傅和元亮。元亮以卒史進、有所問、不能答。帝責謂宰相:「王可教、官属応任士大夫賢者、寧元亮比邪!」於是劇選戸部侍郎庾敬休兼王傅、太常卿鄭肅兼長史、戸部郎中李踐方兼司馬。六年、遂立為皇太子。帝承宝暦荒怠、身勤倹率天下、謂晋王生謹敏、欲引為嗣、会早く夭、故久不議東宮事。及太子立、天下属心焉。 開成三年(838)、詔宮臣詣崇明門謁朔望、侍讀偶日入對。太子稍事燕豫、不能壹循法、保傅戒告、憖不納。又母愛弛、楊賢妃方幸、数譖之。帝它日震怒、御延英、引見群臣、詔曰:「太子多過失、不可属天下、其議廃之。」群臣頓首言:「太子春秋盛、雖有過、尚可改。且天下本、不可輕動、惟陛下幸赦。」御史中丞狄兼流涕固爭、帝未決、罷。群臣又連章論救、意稍釋、詔太子還少陽院、以中人護視、誅倖昵数十人、敕侍讀竇宗直・周敬復詣院授経。然太子終不能自白其讒、而行己亦不加脩也。この年暴薨去し、帝悔之。 明年、下詔以陳王為太子、置酒殿中。有俳兒縁橦、父畏其顛、環走橦下。帝感動、謂左右曰:「朕有天下、返不能全一兒乎!」因泣下。即取坊工劉楚才等数人付京兆榜殺之、及禁中女倡十人斃永巷、皆短毀太子者。宰相楊嗣復等不及知、因言:「楚才等罪當誅、京兆殺之、不覆奏、敢以請。」翌日、詔京兆後有決死敕不覆者、亦許如故事以聞。 蒋王李宗倹は、開成二年(837)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 武宗に五子があり、その母の氏や位はみな伝わらない。 𣏌王李峻は、開成五年(840)に始めて王となった。 益王李峴は、会昌二年(842)に始めて王となり、兗・徳・昌の三王とともに同じく封ぜられた。 兗王李岐。 徳王李嶧。 昌王李嵯。そろってその薨去した年が失われている。 宣宗に十一子があった。元昭太后は懿宗皇帝を生み、のこりはみなその母の氏と位を失っている。 靖懐太子李渼は、会昌六年(846)に始めて雍王となり、夔・慶の二王とともに同じく封ぜられた。大中六年(852)に薨去し、詔があって追冊された。 雅王李涇は、大中元年(847)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 通王李滋は、会昌六年(846)に始めて夔王となり、慶王李沂とともに同じく封ぜられた。帝は初め詔して鄆王を十六宅におらせ、他の五王を大明宮の内院におらせたが、諌議大夫の鄭漳と兵部郎中の李鄴を侍読とし、五日に一度乾符門で謁して、王のために経を授けた。鄆王は即位して懿宗となると、罷めた。李滋を王に遷した。 昭宗の乾寧三年(896)、侍衛諸軍を領した。このとき、王行瑜を処刑し、李茂貞は怨み、兵で入覲したから、李滋と諸王に詔して安聖・奉宸・保寧・安化軍を分けて京師を守らせた。天子は太原に行こうとすると、韓建は道すがら出迎え、留めて華州に行った。韓建は王ら兵を有しているのを恐れ、人を派遣してお上に諸王が韓建を殺そうとしていると急変を告げ、帝を脅して河中に行幸させた。帝は驚き、韓建を召して説諭しようとしたが、病と称して入ることをよしとしなかった。李滋と睦王・済王・韶王・彭王・韓王・沂王・陳王に勅して韓建に謁して自ら弁明させようとしたが、韓建は軍中に留まり、上奏して、「内外は同じではなく、臣は私見を以てすべきではありません」と述べ、また「晋の八王は権勢をほしいままにし、ついには天下を滅ぼしました。願うところは十六宅に帰し、ことごとく兵を領するのを罷めさせることです」と述べたが、帝は許さなかった。韓建は兵で行在をとりまき、大将の李筠を誅殺するよう要請した。帝は恐れて李筠を斬って謝した。韓建は衛兵を追い払い、これより天子は孤独で弱体化した。 それより以前、帝は嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を李克用のもとに往還させたが、二王が帰還すると、韓建は憎んだ。また嗣覃王はかつて軍を率いて李茂貞を討伐したから、ここに弾劾して、「この頃兵は近隣に集結し、諸王はその禍いの階となっており、乗輿(昭宗)に下藩の地におらせようとしており、安穏することができません。臣はすでにその兵を解体するよう願ってきました。今、延王・覃王・丹王の三王はなお陰謀を企み国を危うくしています。願わくば誅殺されますように」と奏上したが、帝は「どうしてこのようになったのか」と言った。その後三日して、劉季述とともに詔を偽って兵で十六宅を攻めた。諸王はザンバラ髪で垣根を乗り越えて逃走し、ある者は屋根に登って大声で「陛下、私をお救いください」と叫んだ。韓建は十一王とその部下を石隄谷に連れて行って殺し、おもむろに謀反であると上聞したが、天下は冤罪だと思った。済王・韶王・彭王・韓王・沂王・陳王・延王・覃王・丹王の九王は、史書に世系を失っているという。 慶王李沂は、大中十四年(860)に薨去した。 濮王李沢は、大中二年(848)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 鄂王李潤は、大中五年(851)に始めて王となった。乾符三年(876)に薨去した。 懐王李洽は、大中八年(854)に昭・康の二王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。 昭王李汭は、乾符三年(876)に薨去した。 康王李汶は、乾符四年(877)に薨去した。 広王李澭は、大中十一年(857)に始めて王となり、衛王とともに同じく封ぜられた。乾符四年(877)に薨去した。 衛王李灌は、大中十四年(860)に薨去した。 懿宗に八子があった。恵安皇后は僖宗皇帝を生み、恭憲皇后は昭宗皇帝を生み、のこりの六王はその母の氏と位が亡失している。 魏王李佾は、咸通三年(862)に始めて王となり、涼王・蜀王の二王とともに同じく封ぜられた。 涼王李侹は、乾符六年(879)に薨去した。 蜀王李佶。 威王李侃は、咸通六年(865)に始めて郢王となり、咸通十年(869)威王に移封された。 吉王李保は、咸通十三年(872)に始めて王となり、睦王とともに同じく封ぜられた。王は兄弟の中で最も賢いとされた。当初、僖宗が崩ずると、王は最年長であったから、即位させようとしたが、楊復恭が単独で議して昭宗を後嗣とした。乾寧元年(894)、李茂貞らが兵をもって京師に入り、帝を廃して王を立てようと謀ったが、たまたま李克用が兵で王行瑜を駆逐したから、そこで沙汰止みとなった。 恭哀太子李倚は、初め睦王に封ぜられた。劉季述に殺され、天復年間(901-904)初頭に追贈された。 僖宗に二子があり、その母の氏や位について記録が失われた。 建王李震は、中和元年(881)に始めて王となった。 益王李陞は、光啓三年(887)に始めて王となった。ともに薨去した年が亡失している。 昭宗に十七子があった。積善皇后は李裕および哀皇帝を生み、のこりはみな母の氏と位を失伝している。 徳王李裕は、大順二年(891)に始めて王となった。帝が華州に行幸し、韓建が諸王の兵を奪うと、不安の念をいだき、そこで王・皇子でまだ王でなかった者を請うたが、すでにまた諸王は殺されており、そこで李裕を立てて皇太子とするとよう願い、四方に釈明した。時に乾寧四年(897)であった。劉季述らが帝を東宮内に幽閉すると、李裕を奉って皇帝位に即位させた。劉季述が誅殺されると、李裕は右軍に匿われたが、ある者が李裕を殺すよう願った。帝は、「太子は幼く、賊は無理やり即位させたのだから、何の罪があろうか」と言い、詔して少陽院に戻し、再び王とした。 朱全忠が鳳翔から帰還すると、王が成長し、優れて代表するような人物となったのを見て、李裕を嫌い、密かに崔胤に向かって、「王はすでに帝位を窺っており、親を滅ぼすような不義の者をどうして留めるべきか。公は宰相に任じられているのにどうして申し上げないのか」と言い、崔胤は従容として朱全忠の意のように申し上げたが、帝は許さなかった。他日、その事を朱全忠に語ると、朱全忠は、「これは国の大事です。臣はどうしてともにしましょうか。これは絶対に崔胤が臣を売ろうとしたのです」と言い、そのため免がれた。帝が洛陽に遷都すると、ある日、蒋玄暉に「徳王は朕の愛子である。朱全忠はどうして殺そうとするのか」と言い、涙を流し、自ら指を噛んで血を流した。蒋玄暉はそこで朱全忠に密告し、朱全忠は怒った。帝は弑され、蒋玄暉は酒を置いて諸王を九曲池に迎えたが、宴がたけなわとなると、全員が殺され、死体は水中に投棄された。 棣王李祤は、乾寧元年(894)に始めて王となり、虔・沂・遂の三王とともに同じく封ぜられた。 虔王李禊。 沂王李禋。 遂王李禕。 景王李秘は、乾寧四年(897)に始めて王となり、祁王とともに同じく封ぜられた。 祁王李祺。 雅王李禛は、光化元年(898)に始めて王となり、瓊王とともに同じく封ぜられた。 瓊王李祥。 端王李禎は、天祐元年(904)に始めて王となり、豊・和・登・嘉の四王とともに同じく封ぜられた。 豊王李祁。 和王李福。 登王李禧。 嘉王李祜。 潁王李禔は、天祐二年(905)に始めて王となり、蔡王李祐とともに同じく封ぜられた。 蔡王李祐。 賛曰:唐自中葉、宗室子孫多在京師、幼者或不出閤、雖以国王之、実與匹夫不異、故無赫赫過惡、亦不能為王室軒輊、運極不還、與唐倶殫。然則暦数短長、自有底止。彼漢七国・晋八王、不得其效、愈速禍云。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十一 列伝第六 『新唐書』巻八十二 列伝第七 巻八十三 列伝第八
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/126.html
資治通鑑巻第二十三 漢紀十五 孝昭皇帝上 始元元年(乙未、前八六) 1夏,益州夷二十四邑、三萬餘人皆反。遣水衡都尉呂辟胡募吏民及發犍爲、蜀郡奔命往撃,大破之。 1. 2秋,七月,赦天下。 2. 3大雨,至于十月,渭橋絶。 3. 4武帝初崩,賜諸侯王璽書。燕王旦得書不肯哭,曰:「璽書封小,京師疑有變。」遣幸臣壽西長、孫縱之、王孺等之長安,以問禮儀爲名,陰刺候朝廷事。及有詔褒賜旦錢三十萬,益封萬三千戸,旦怒曰:「我當爲帝,何賜也!」遂與宗室中山哀王子長、齊孝王孫澤等結謀,詐言以武帝時受詔,得職吏事,修武備,備非常。郎中成軫謂旦曰:「大王失職,獨可起而索,不可坐而得也。大王壹起,國中雖女子皆奮臂隨大王。」旦即與澤謀,爲姦書,言:「少帝非武帝子,大臣所共立;天下宜共伐之!」使人傳行郡國以搖動百姓。澤謀歸發兵臨菑,殺靑州刺史雋不疑。旦招來郡國姦人,賦斂銅鐵作甲兵,數閲其車騎、材官卒,發民大獵以講士馬,須期日。郎中韓義等數諫旦,旦殺義等凡十五人。會缾侯成知澤等謀,以告雋不疑。八月,不疑收捕澤等以聞。天子遣大鴻臚丞治,連引燕王。有詔,以燕王至親,勿治;而澤等皆伏誅。遷雋不疑爲京兆尹。 不疑爲京兆尹,吏民敬其威信。毎行縣、録囚徒還,其母輒問不疑:「有所平反?活幾何人?」即不疑多有所平反,母喜笑異於他時;或無所出,母怒,爲不食。故不疑爲吏,嚴而不殘。 4. 5九月,丙子,秺敬侯金日磾薨。初,武帝病,有遺詔,封金日磾爲秺侯,上官桀爲安陽侯,霍光爲博陸侯;皆以前捕反者馬何羅等功封。日磾以帝少,不受封,光等亦不敢受。及日磾病困,光白封,日磾臥受印綬;一日薨。日磾兩子賞、建倶侍中,與帝略同年,共臥起。賞爲奉車,建駙馬都尉。及賞嗣侯,佩兩綬,上謂霍將軍曰:「金氏兄弟兩人,不可使倶兩綬邪?」對曰:「賞自嗣父爲侯耳。」上笑曰:「侯不在我與將軍乎?」對曰:「先帝之約,有功乃得封侯。」遂止。 5. 6閏月,遣故廷尉王平等五人持節行郡國,舉賢良,問民疾苦、冤、失職者。 6. 7冬,無冰。 7. 始元二年(丙申、前八五) 1春,正月,封大將軍光爲博陸侯,左將軍桀爲安陽侯。 1. 2或説霍光曰:「將軍不見諸呂之事乎?處伊尹、周公之位,攝政擅權,而背宗室,不與共職,是以天下不信,卒至於滅亡。今將軍當盛位,帝春秋富,宜納宗室,又多與大臣共事,反諸呂道。如是,則可以免患。」光然之,乃擇宗室可用者,遂拜楚元王孫辟強及宗室劉長樂皆爲光祿大夫,辟強守長樂衞尉。 2. 3三月,遣使者振貸貧民無種、食者。 3. 4秋,八月,詔曰:「往年災害多,今年蠶、麥傷,所振貸種、食勿收責,毋令民出今年田租。」 4. 5初,武帝征伐匈奴,深入窮追,二十餘年,匈奴馬畜孕重墮殰,罷極,苦之。常有欲和親意,未能得。狐鹿孤單于有異母弟爲左大都尉,賢,國人郷之,母閼氏恐單于不立子而立左大都尉也,乃私使殺之。左大都尉同母兄怨,遂不肯復會單于庭。是歳,單于病且死,謂諸貴人:「我子少,不能治國,立弟右谷蠡王。」及單于死,衞律等與顓渠閼氏謀,匿其喪,矯單于令,更立子左谷蠡王爲壺衍鞮單于。左賢王、右谷蠡王怨望,率其衆欲南歸漢,恐不能自致,即脅盧屠王,欲與西降烏孫。盧屠王告之單于,使人驗問,右谷蠡王不服,反以其罪罪盧屠王,國人皆冤之。於是二王去居其所,不復肯會龍城,匈奴始衰。 5. 三年(丁酉、前八四) 1春,二月,有星孛于西北。 1. 2冬,十一月,壬辰朔,日有食之。 2. 3初,霍光與上官桀相親善。光毎休沐出,桀常代光入決事。光女爲桀子安妻,生女,年甫五歳,安欲因光内之宮中;光以爲尚幼,不聽。蓋長公主私近子客河間丁外人,安素與外人善,説外人曰:「安子容貌端正,誠因長主時得入爲後,以臣父子在朝而有椒房之重,成之在於足下。漢家故事,常以列侯尚主,足下何憂不封侯乎!」外人喜,言於長主。長主以爲然,詔召安女入爲婕妤,安爲騎都尉。 3. 四年(戊戌、前八三) 1春,三月,甲寅,立皇后上官氏,赦天下。 1. 2西南夷姑繒、葉楡復反,遣水衡都尉呂辟胡將益州兵撃之。辟胡不進,蠻夷遂殺益州太守,乘勝與辟胡戰,士戰及溺死者四千餘人。冬,遣大鴻臚田廣明撃之。 2. 3廷尉李種坐故縱死罪棄市。 3. 4是歳,上官安爲車騎將軍。 4. 五年(己亥、前八二) 1春,正月,追尊帝外祖趙父爲順成侯。順成侯有姊君姁,賜錢二百萬、奴婢、第宅以充實焉。諸昆弟各以親疏受賞賜,無在位者。 1. 2有男子乘黄犢車詣北闕,自謂衞太子;公車以聞。詔使公、卿、將軍、中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下以備非常。丞相、御史、中二千石至者並莫敢發言。京兆尹不疑後到,叱從吏收縛。或曰:「是非未可知,且安之。」不疑曰:「諸君何患於衞太子!昔蒯聵違命出奔,輒距而不納,春秋是之。衞太子得罪先帝,亡不即死,今來自詣,此罪人也!」遂送詔獄。天子與大將軍霍光聞而嘉之曰:「公卿大臣當用有經術、明於大誼者。」繇是不疑名聲重於朝廷,在位者皆自以爲不及也。廷尉驗治何人,竟得姦詐,本夏陽人,姓成,名方遂,居湖,以卜筮爲事。有故太子舍人嘗從方遂卜,謂曰:「子状貌甚似衞太子。」方遂心利其言,冀得以富貴。坐誣罔不道,要斬。 2. 3夏,六月,封上官安爲桑樂侯。安日以驕淫,受賜殿中,對賓客言:「與我婿飲,大樂!見其服飾,使人歸欲自燒物!」子病死,仰而罵天。其頑悖如此。 3. 4罷儋耳、眞番郡。 4. 5秋,大鴻臚廣明、軍正王平撃益州,斬首、捕虜三萬餘人,獲畜産五萬餘頭。 5. 6諫大夫杜延年見國家承武帝奢侈、師旅之後,數爲大將軍光言:「年歳比不登,流民未盡還,宜修孝文時政,示以儉約、寬和,順天心,説民意,年歳宜應。」光納其言。延年,故御史大夫周之子也。 6. 六年(庚子、前八一) 1春,二月,詔有司問郡國所舉賢良、文學,民所疾苦、教化之要,皆對:「願罷鹽、鐵、酒榷、均輸官,毋與天下爭利,示以儉節,然後教化可興。」桑弘羊難,以爲:「此國家大業,所以制四夷,安邊足用之本,不可廢也。」於是鹽鐵之議起焉。 1. 2初,蘇武既徙北海上,稟食不至,掘野鼠去草實而食之。杖漢節牧羊,臥起操持,節旄盡落。武在漢,與李陵倶爲侍中;陵降匈奴,不敢求武。久之,單于使陵至海上,爲武置酒設樂,因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚,故使來説足下,虚心欲相待,終不得歸漢,空自苦;亡人之地,信義安所見乎!足下兄弟二人,前皆坐事自殺;來時,太夫人已不幸;子卿婦年少,聞已更嫁矣;獨有女弟二人、兩女、一男,今復十餘年,存亡不可知。人生如朝露,何久自苦如此!陵始降時,忽忽如狂,自痛負漢,加以老母繋保宮。子卿不欲降,何以過陵!且陛下春秋高,法令無常,大臣無罪夷滅者數十家。安危不可知,子卿尚復誰爲乎!」武曰:「武父子無功德,皆爲陛下所成就,位列將,爵通侯,兄弟親近,常願肝腦塗地。今得殺身自效,雖斧鉞、湯鑊,誠甘樂之!臣事君,猶子事父也。子爲父死,無所恨。願勿復再言!」陵與武飲數日,復曰:「子卿壹聽陵言!」武曰:「自分已死久矣,王必欲降武,請畢今日之歡,效死於前!」陵見其至誠,喟然歎曰:「嗟乎,義士!陵與衞律之罪上通於天!」因泣下沾衿,與武決去。賜武牛羊數十頭。 後陵復至北海上,語武以武帝崩。武南郷號哭歐血,旦夕臨,數月。及壺衍鞮單于立,母閼氏不正,國内乖離,常恐漢兵襲之,於是衞律爲單于謀,與漢和親。漢使至,求蘇武等,匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴,常惠私見漢使,教使者謂單于,言:「天子射上林中,得雁,足有繋帛書,言武等在某澤中。」使者大喜,如惠語以讓單于。單于視左右而驚,謝漢使曰:「武等實在。」乃歸武及馬宏等。馬宏者,前副光祿大夫王忠使西國,爲匈奴所遮;忠戰死,馬宏生得,亦不肯降。故匈奴歸此二人,欲以通善意。於是李陵置酒賀武曰:「今足下還歸,揚名於匈奴,功顯於漢室,雖古竹帛所載,丹靑所畫,何以過子卿!陵雖駑怯,令漢貰陵罪,全其老母,使得奮大辱之積志,庶幾乎曹柯之盟,此陵宿昔之所不忘也。收族陵家,爲世大戮,陵尚復何顧乎!已矣,令子卿知吾心耳!」陵泣下數行,因與武決。 單于召會武官屬,前已降及物故,凡隨武還者九人。既至京師,詔武奉一太牢謁武帝園廟,拜爲典屬國,秩中二千石,賜錢二百萬,公田二頃,宅一區。武留匈奴凡十九歳,始以強壯出,及還,鬚髮盡白。霍光、上官桀與李陵素善,遣陵故人隴西任立政等三人倶至匈奴招之。陵曰:「歸易耳,丈夫不能再辱!」遂死於匈奴。 2. 3夏,旱。 3. 4秋,七月,罷榷酤官,從賢良、文學之議也。武帝之末,海内虚耗,戸口減半,霍光知時務之要,輕徭薄賦,與民休息。至是匈奴和親,百姓充實,稍覆文、景之業焉。 4. 5詔以鉤町侯毋波率其邑君長、人民撃反者有功,立以爲鉤町王。賜田廣明爵關内侯。 5. 元鳳元年(辛丑、前八〇) 1春,武都氐人反,遣執金吾馬適建、龍額侯韓增、大鴻臚田廣明將三輔、太常徒,皆免刑,撃之。 1. 2夏,六月,赦天下。 2. 3秋,七月,乙亥晦,日有食之,既。 3. 4八月,改元。 4. 5上官桀父子既尊,盛德長公主,欲爲丁外人求封侯,霍光不許。又爲外人求光祿大夫,欲令得召見,又不許。長主大以是怨光,而桀、安數爲外人求官爵弗能得,亦慚。又桀妻父所幸充國爲太醫監,闌入殿中,下獄當死;冬月且盡,蓋主爲充國入馬二十匹贖罪,乃得減死論。於是桀、安父子深怨光而重德蓋主。自先帝時,桀已爲九卿,位在光右,及父子並爲將軍,皇后親安女,光乃其外祖,而顧專制朝事,由是與光爭權。燕王旦自以帝兄不得立,常懷怨望。及御史大夫桑弘羊建造酒榷、鹽、鐵,爲國興利,伐其功,欲爲子弟得官,亦怨恨光。於是蓋主、桀、安、弘羊皆與旦通謀。 旦遣孫縱之等前後十餘輩,多繼金寶、走馬賂遺蓋主、桀、弘羊等。桀等又詐令人爲燕王上書,言光出都肄郎、羽林,道上稱蹕,太官先置。又引「蘇武使匈奴二十年不降,乃爲典屬國;大將軍長史敞無功,爲搜粟都尉;又擅調益莫府校尉。光專權自恣,疑有非常。臣旦願歸符璽,入宿衞,察姦臣變。」候司光出沐日奏之,桀欲從中下其事,弘羊當與諸大臣共執退光。書奏,帝不肯下。明旦,光聞之,止畫室中不入。上問:「大將軍安在?」左將軍桀對曰:「以燕王告其罪,故不敢入。」有詔:「召大將軍。」光入,免冠、頓首謝。上曰:「將軍冠!朕知是書詐也,將軍無罪。」光曰:「陛下何以知之?」上曰:「將軍之廣明都郎,近耳;調校尉以來,未能十日,燕王何以得知之!且將軍爲非,不須校尉。」是時帝年十四,尚書、左右皆驚。而上書者果亡,捕之甚急。桀等懼,白上:「小事不足遂。」上不聽。後桀黨與有譖光者,上輒怒曰:「大將軍忠臣,先帝所屬以輔朕身,敢有毀者坐之!」自是桀等不敢復言。 李德裕論曰:人君之德,莫大於至明,明以照姦,則百邪不能蔽矣。漢昭帝是也。周成王有慚德矣;高祖、文、景倶不如也。成王聞管、蔡流言,遂使周公狼跋而東。漢高聞陳平去魏背楚,欲捨腹心臣。漢文惑季布使酒難近,罷歸股肱郡;疑賈生擅權紛亂,復疏賢士。景帝信誅晁錯兵解,遂戮三公。所謂「執狐疑之心,來讒賊之口」。使昭帝得伊、呂之佐,則成、康不足侔矣。 5. 6桀等謀令長公主置酒請光,伏兵格殺之,因廢帝,迎立燕王爲天子。旦置驛書往來相報,許立桀爲王,外連郡國豪桀以千數。旦以語相平,平曰:「大王前與劉澤結謀,事未成而發覺者,以劉澤素誇,好侵陵也。平聞左將軍素輕易,車騎將軍少而驕,臣恐其如劉澤時不能成,又恐既成反大王也。」旦曰:「前日一男子詣闕,自謂故太子,長安中民趣郷之,正言雚不可止。大將軍恐,出兵陳之,以自備耳。我,帝長子,天下所信,何憂見反!」後謂羣臣:「蓋主報言,獨患大將軍與右將軍王莽。今右將軍物故,丞相病,幸事必成,征不久。」令羣臣皆裝。 安又謀誘燕王至而誅之,因廢帝而立桀。或曰:「當如皇后何?」安曰:「逐麋之狗,當顧菟邪!且用皇后爲尊,一旦人主意有所移,雖欲爲家人亦不可得。此百世之一時也!」會蓋主舍人父稻田使者燕倉知其謀,以告大司農楊敞。敞素謹,畏事,不敢言,乃移病臥,以告諫大夫杜延年;延年以聞。九月,詔丞相部中二千石逐捕孫縱之及桀、安、弘羊、外人等,並宗族悉誅之;蓋主自殺。燕王旦聞之,召相平曰:「事敗,遂發兵乎?」平曰:「左將軍已死,百姓皆知之,不可發也。」王憂懣,置酒與羣臣、妃妾別。會天子以璽書讓旦,旦以綬自絞死,後、夫人隨旦自殺者二十餘人。天子加恩,赦王太子建爲庶人,賜量謚曰刺王。皇后以年少,不與謀,亦霍光外孫,故得不廢。 6. 7庚午,右扶風王訢爲御史大夫。 7. 8冬,十月,封杜延年爲建平侯;燕倉爲宜城侯;故丞相征事任宮捕得桀,爲弋陽侯;丞相少史王山壽誘安入府,爲商利侯。久之,文學濟陰魏相對策,以爲:「日者燕王爲無道,韓義出身強諫,爲王所殺。義無比干之親而蹈比干之節,宜顯賞其子以示天下,明爲人臣之義。」乃擢義子延壽爲諫大夫。 8. 9大將軍光以朝無舊臣,光祿勳張安世自先帝時爲尚書令,志行純篤,乃白用安世爲右將軍兼光祿勳以自副焉。安世,故御史大夫湯之子也。光又以杜延年有忠節,擢爲太僕、右曹、給事中。光持刑罰嚴,延年常輔之以寬。吏民上書言便宜,輒下延年平處復奏。言可官試者,至爲縣令;或丞相、御史除用,滿歳,以状聞;或抵其罪法。 9. 10是歳匈奴發左、右部二萬騎爲四隊,並入邊爲寇。漢兵追之,斬首、獲虜九千人,生得甌脱王;漢無所失亡。匈奴見甌脱王在漢,恐,以爲道撃之,即西北遠去,不敢南逐水草;發人民屯甌脱。 10. 二年(壬寅、前七九) 1夏,四月,上自建章宮徙未央宮。 1. 2六月,赦天下。 2. 3是歳,匈奴復遣九千騎屯受降城以備漢,北橋余吾水,令可度,以備奔走;欲求和親,而恐漢不聽,故不肯先言,常使左右風漢使者。然其侵盜益希,遇漢使愈厚,欲以漸致和親。漢亦羈縻之。 3. 三年(癸卯、前七八) 1春,正月,泰山有大石自起立;上林有柳樹枯僵自起生;有蟲食其葉成文,曰「公孫病已立」。符節令魯國眭弘上書,言:「大石自立,僵柳復起,當有匹庶爲天子者。枯樹復生,故廢之家公孫氏當復興乎?漢家承堯之後,有傳國之運,當求賢人禪帝位,退自封百里,以順天命。」弘坐設妖言惑衆伏誅。 1. 2匈奴單于使犁汙王窺邊,言酒泉、張掖兵益弱,出兵試撃,冀可復得其地。時漢先得降者,聞其計,天子詔邊警備。後無幾,右賢王、犁汙王四千騎分三隊,入日勒、屋蘭、番和。張掖太守、屬國都尉發兵撃,大破之,得脱者數百人。屬國義渠王射殺犁汙王,賜黄金二百斤,馬二百匹,因封爲犁汙王。自是後,匈奴不敢入張掖。 2. 3燕、蓋之亂,桑弘羊子遷亡,過父故吏侯史呉,後遷捕得,伏法。會赦,侯史呉自出繋獄。廷尉王平與少府徐仁雜治反事,皆以爲「桑遷坐父謀反而侯史呉臧之,非匿反者,乃匿爲隨者也」,即以赦令除呉罪。後侍御史治實,以「桑遷通經術,知父謀反而不諫爭,與反者身無異。侯史呉故三百石吏,首匿遷,不與庶人匿隨從者等,呉不得赦。」奏請覆治,劾廷尉、少府縱反者。少府徐仁,即丞相車千秋女婿也,故千秋數爲侯史呉言;恐大將軍光不聽,千秋即召中二千石、博士會公車門,議問呉法。議者知大將軍指,皆執呉爲不道。明日,千秋封上衆議。光於是以千秋擅召中二千石以下,外内異言,遂下廷尉平、少府仁獄。朝廷皆恐丞相坐之。太僕杜延年奏記光曰:「吏縱罪人,有常法。今更詆呉爲不道,恐於法深。又,丞相素無所守持而爲好言於下,盡其素行也。至擅召中二千石,甚無状。延年愚以爲丞相久故及先帝用事,非有大故,不可棄也。間者民頗言獄深,吏爲峻詆;今丞相所議,又獄事也,如是以及丞相,恐不合衆心,羣下讙嘩,庶人私議,流言四布。延年竊重將軍失此名於天下也。」光以廷尉、少府弄法輕重,卒下之獄。夏,四月,仁自殺,平與左馮翊賈勝胡皆要斬。而不以及丞相,終與相竟。延年論議持平,合和朝廷,皆此類也。 3. 4冬,遼東烏桓反。初,冒頓破東胡,東胡餘衆散保烏桓及鮮卑山爲二族,世役屬匈奴。武帝出破匈奴左地,因徙烏桓於上谷、漁陽、右北平、遼東塞外,爲漢偵察匈奴動靜。置護烏桓校尉監領之,使不得與匈奴交通。至是,部衆漸強,遂反。 先是,匈奴三千餘騎入五原,殺略數千人;後數萬騎南旁塞獵,行攻塞外亭障,略取吏民去。是時漢邊郡烽火候望精明,匈奴爲邊寇者少利,希復犯塞。漢復得匈奴降者,言烏桓嘗發先單于塚,匈奴怨之,方發二萬騎撃烏桓。霍光欲發兵邀撃之,以問護軍都尉趙充國,充國以爲:「烏桓間數犯塞,今匈奴撃之,於漢便。又匈奴希寇盜,北邊幸無事,蠻夷自相攻撃而發兵要之,招寇生事,非計也。」光更問中郎將范明友,明友言可撃,於是拜明友爲度遼將軍,將二萬騎出遼東。匈奴聞漢兵至,引去。初,光誡明友:「兵不空出;即後匈奴,遂撃烏桓。」烏桓時新中匈奴兵,明友既後匈奴,因乘烏桓敝,撃之,斬首六千餘級,獲三王首。匈奴由是恐,不能復出兵。 4. 四年(甲辰、前七七) 1春,正月,丁亥,帝加元服。 1. 2甲戌,富民定侯田千秋薨。時政事壹決大將軍光;千秋居丞相位,謹厚自守而已。 2. 3夏,五月,丁丑,孝文廟正殿火。上及羣臣皆素服,發中二千石將五校作治,六日,成。太常及廟令丞、郎、吏,皆劾大不敬;會赦,太常轑陽侯德免爲庶人。 3. 4六月,赦天下。 4. 5初,杅冞遣太子賴丹爲質於龜茲;貳師撃大宛還,將賴丹入至京師。霍光用桑弘羊前議,以賴丹爲校尉,將軍田輪台。龜茲貴人姑翼謂其王曰:「賴丹本臣屬吾國,今佩漢印綬來,迫吾國而田,必爲害。」王即殺賴丹而上書謝漢。 樓蘭王死,匈奴先聞之,遣其質子安歸歸,得立爲王。漢遣使詔新王令入朝,王辭不至。樓蘭國最在東垂,近漢,當白龍堆,乏水草,常主發導,負水擔糧,送迎漢使;又數爲官吏卒所寇,懲艾,不便與漢通。後復爲匈奴反間,數遮殺漢使。其弟尉屠耆降漢,具言状。駿馬監北地傅介子使大宛,詔因令責樓蘭、龜茲。介子至樓蘭、龜茲,責其王,皆謝服。介子從大宛還,到龜茲,會匈奴使從烏孫還,在龜茲,介子因率其吏士共誅斬匈奴使者。還,奏事,詔拜介子爲中郎,遷平樂監。 介子謂大將軍霍光曰:「樓蘭、龜茲數反覆,而不誅,無所懲艾。介子過龜茲時,其王近就人,易得也;願往刺之以威示諸國。」大將軍曰:「龜茲道遠,且驗之於樓蘭。」於是白遣之。介子與士卒倶繼金幣,揚言以賜外國爲名,至樓蘭。樓蘭王意不親介子,介子陽引去,至其西界,使譯謂曰:「漢使者持黄金、錦繡行賜諸國。王不來受,我去之西國矣。」即出金、幣以示譯。譯還報王,王貪漢物,來見使者。介子與坐飲,陳物示之,飲酒皆醉。介子謂王曰:「天子使我私報王。」王起,隨介子入帳中屏語,壯士二人從後刺之,刃交匈,立死;其貴人、左右皆散走。介子告諭以王負漢罪,「天子遣我誅王,當更立王弟尉屠耆在漢者。漢兵方至,毋敢動,自令滅國矣!」介子遂斬王安歸首,馳傳詣闕,縣首北闕下。 乃立尉屠耆爲王,更名其國爲鄯善,爲刻印章;賜以宮女爲夫人,備車騎、輜重。丞相率百官送至橫門外,祖而遣之。王自請天子曰:「身在漢久,今歸單弱,而前王有子在,恐爲所殺。國中有伊循城,其地肥美,願漢遣一將屯田積穀,令臣得依其威重。」於是漢遣司馬一人、吏士四十人田伊循以填撫之。 秋,七月,乙巳,封范明友爲平陵侯,傅介子爲義陽侯。 臣光曰:王者之於戎狄,叛則討之,服則捨之。今樓蘭王既服其罪,又從而誅之,後有叛者,不可得而懷矣。必以爲有罪而討之,則宜陳師鞠旅,明致其罰。今乃遣使者誘以金幣而殺之,後有奉使諸國者,復可信乎!且以大漢之強而爲盜賊之謀於蠻夷,不亦可羞哉!論者或美介子以爲奇功,過矣! 5. 五年(乙巳、前七六) 1夏,大旱。 1. 2秋,罷象郡,分屬鬱林、牂柯。 2. 3冬,十一月,大雷。 3. 4十二月,庚戌,宜春敬侯王訴薨。 4. 六年(丙午、前七五) 1春,正月,募郡國徒築遼東、玄菟城。 1. 2夏,赦天下。 2. 3烏桓復犯塞,遣度遼將軍范明友撃之。 3. 4冬,十一月,乙丑,以楊敞爲丞相,少府河内蔡義爲御史大夫。 4.
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/29049.html
登録日:2014/07/02 (水) 19 35 10 更新日:2023/09/13 Wed 17 56 29NEW! 所要時間:約 9 分で読めます ▽タグ一覧 V3 フェンシング リバーシブル 中国 中国雑技団 五郎丸歩 天挑五輪大武會 梁山泊 梁山泊十六傑 極!!男塾 泊鳳 男塾 目は口程に物を言う 瞑獄槃家 蒼傑 蜂 魁!!男塾 ま まさか奴等はあの……… 中国三千年の歴史にその名を轟かせ人びとに語りつがれる伝説的英雄・豪傑の集まり… そ その梁山泊か……………!? 梁山泊十六傑(りょうざんぱくじゅうろっけつ)とは魁!!男塾に登場する格闘集団の一つ。 目次 ★概要 ★メンバー■梁山泊三首領◆梁皇(りょうこう) ◆山艶(さんえん) ◆泊鳳(はくほう) ■副頭◆宋江将軍(そうこうしょうぐん) ■その他◆爺(じい) ◆酔傑(すいけつ) ◆蒼傑(そうけつ) ◆頭傑(とうけつ)&體傑(たいけつ) ◆蓬傑(ほうけつ) ★概要 紀元十一世紀、宋の時代に時の権力に反旗を翻し天下に受け入れられなかった豪傑・名将達が集い別天地をつくった。 彼らは自然の利をたくみにいかした一大要塞を築きあげいかなる大軍の攻撃をも撃破したという。 そこでは中国全土から終結した拳法家・武闘家達が昼夜問わず凄絶なる修業・研究を重ね、 やがてそれは「梁山泊馮翊拳」というひとつの新しい拳法の完成を見るに至った。 その秘技の数数と圧倒的な戦闘力は一人で兵士千人分に値すると畏怖された。 梁山泊の名は創始者である梁項・山珍・泊冥の三名の豪傑から一文字ずつとってつけられたものであり、 それを由来として最強の戦士三名を首領とし、その合議によって活動している。 決勝トーナメント準決勝の相手として登場。前大会まで三大会連続で優勝しており、今大会でも優勝候補の筆頭。 初戦から名勝負と名高い男爵ディーノの死闘で幕を開け、男塾と激戦を展開する。 最後に残った三首領の一人・梁皇が雷電を卑怯な手で倒し、それに怒った伊達に梁皇が倒され、男塾の勝利となった。 モチーフとなったのは言わずと知れた水滸伝なのだが、百八の宿星は存在せず、 元ネタから名前を持ってきたキャラは宋江将軍のみ(しかも原典の宋江はさえないチビで武術はからきしである。名前以外に類似性は全く無い)。 そもそも成り立ちからして水滸伝の物語と全然違っており、伝承とはまるっきり別物の集団である。なにより現代まで継続して存在しているという点が。 いろいろ美味しいキャラもいるのにそれらはガン無視して中国雑技団みたいなけったいな技ばかり使っていた連中であった。 好漢と卑劣漢の落差がやたら激しく、何よりも肝心の大将が男塾シリーズ屈指のドクズという特大のマイナス要素が入ってしまっている。しかも衒蜥流を除く他の対戦チームの大将には、梁皇とは真逆と言っていいほどに負けた際の潔さがあるため、マイナス要素に一層拍車がかかっている。これらの事情から、下馬評とは裏腹にファンからの評価はあまり高くない。 ★メンバー ■梁山泊三首領 梁山泊の伝統による三名の首領。今大会での三人の首領は実の兄弟である。 ◆梁皇(りょうこう) 三首領の一人で長兄。枯渇噴血霰の使い手。 冷酷かつ苛烈な人物で戦いに敗れた宋江将軍の首を切断した上投げ捨て、また実の弟である山艶の死体を崖から蹴り落としたほど。 勝利のために手段を選ばない性格でもあり、雷電との対決では猿宝から託された猿を猿質として雷電を倒し、伊達との勝負では負けそうになると、大会では禁止とされている銃器を使用してまで勝とうとした。最後はその非道ぶりに激怒した伊達により頭を貫かれ死亡した。 死亡した際、彼の本性を恐れていた爺は勿論、他の部下達でさえ悲しむ素振りを見せなかった。 (泊鳳は後に公式ガイドブックにて「兄者がこんな卑怯者だとは知らなかった。弟として恥ずかしいわい! 伊達よ、お主を恨みには思わんから気にせんでくれ。」と伊達へのフォローを発言している。) 今回の戦いぶりで幻滅したのか、元々そうだったのかは定かではないが、人望とカリスマ性は無いに等しい。また、上述の猿質や銃器使用を抜きにしても、使う技がどうにも小細工臭の漂うものばかりで今一つ強敵という感が無い。一体何故こんな奴が優勝候補チーム筆頭と呼ばれる梁山泊の首領なのか…。もっとも前大会までは今回とは別の三首領がチームを率いて戦っていたという可能性もあるが。 男塾の外道ランキングでも上位に食い込むクズ。得意技の枯渇噴血霰も要するに北斗の拳のマッド軍曹のアレだしねぇ… ●枯渇噴血霰(こかつふんけつせん) 梁山泊秘奥義。手を触れずに相手の体に穴を開け、噴水のように血を噴出させる。 その正体は噴血針を取り出し素早く投擲する技。 噴血針とは古代中国で用いられた医療器具で、現代でいうタンジェリン・カテーテル。 体内に打ち込みその浸透圧を利用することで体内にたまった悪い血や膿を排出させるのが本来の用途。 ●指錯刃(しさくじん) 梁山泊秘伝。指による真剣白刃取り。 ●髪針斃射(はっしんへいしゃ) 梁山泊奥義。髪の毛に仕込んだ針を発射する技。 ◆山艶(さんえん) 三首領の一人で次兄。中性的な美青年。鶻宙扇舞殺の使い手。 鶻宙扇舞殺で羅刹の指を切断する等、闘いを優位に進めるが羅刹の奥義・兜指愧破土錐龍により負傷。 しかし、奥義・凶獬面閶殺で兜指愧破土錐龍を破り羅刹に大ダメージを与える事に成功する。 だが、腕一本犠牲にする羅刹の勝利へのすさまじい執念でさらに逆転され敗北。最後には互いに「お前になら負けても悔いはなかった」と称えあった。 衣服が割烹着みたい。 ●鶻宙身(かっちゅうしん)の法(ほう) 数ある中国拳法秘奥義の中でも最高峰と言われる技。ある一点に着地する時、 全体重がかかる寸前に次の一点に素早く連続移動する事で一点あたりにかかる負荷を無に等しくすることができる。 この究極の身軽さを得るには指一本で倒立し、地に並べた卵を潰さずに移動するだけの修練が必要である。 実は対戦相手の羅刹も「妙活渡水の法」という似たような技を使う。 ●鶻宙扇舞殺(かっちゅうせんぶさつ) 梁山泊奥義。鶻宙身の法を応用した技で、空を舞う刃を仕込んだ扇の上を自在に飛び回り攻撃する。 ●凶獬面閶殺(きょうかいめんしょうさつ) 梁山泊奥義。煙幕を張り、その中で着物を逆にし後頭部に般若の面をつける。 その状態で相手に後ろを取ったと思わせ油断を誘い、攻撃する技。凶獬面閶殺の極意は関節までも逆にし、表裏逆にしても動きを可能とすること。 中国拳法屈指の奇襲策として知られ、秦代末期の李筴振(り・ばしぶる)と陳栄公による「紅原の決闘」が発祥とされている。 はるかに勝る技量を持つ陳に対し、李は己の甲冑を全て逆に着用し、油断し近づいてきた陳を一撃のもとに倒したと言う。 この噂はシルクロードを通じて西欧まで伝わり、現代英語で表裏自在を意味する「リバーシブル」の語源となった。 フェイント技だが、背後から襲いかかる相手へのカウンターとして用いるので卑怯者呼ばわりされずに済むという計算高さが光る。 ◆泊鳳(はくほう) 三首領の一人で末弟。赤丸ほっぺがチャームポイントの小生意気だが憎めないヤツ。下着はブリーフ派。 兄達より先に出発したにもかかわらず道に迷って男塾側の陣地に登場した。 若年ながら拳法の達人で體動察の法により完璧に相手の動きを見切る。 Jと戦い、アバラ骨をすべて叩き折った上で二度もダウンを奪うなど圧倒するが、ニューブロウ「スパイラル・ハリケーン・パンチ」により崖に吹き飛ばされて敗北。 敗北後、直前に「そのようなパンチが存在する訳はない」と愚弄したことを謝罪した。 七牙冥界闘で再登場し男塾に入学。第一の牙・魍魎塔と第四の牙・神拳寺で戦い勝利した。再登場したキャラの中で唯一、二回戦っている。 見た目通り「チビ」と言った奴は命はない。 ●體動察(たいどうさつ)の法(ほう) 肉体には運動を起こす時大脳から意思を伝達する運動神経の中継機能をもつ體動点がある。 この全身に張りめぐらされた體動点の変化を見極めることにより、相手の動きを完璧に見切ることができる。 ちなみに、目の回りには體動点が集中しており「目は口ほどにものを言う」というのはこのことを証明するものである。 ●掌羝破(しょうていは) 梁山泊奥義。気功法を使った掌底でその威力は岩をも砕く。シンプルだが強力な技。 アクロバティックな姿勢からのつるべ打ちでJの肋骨を粉砕し追い詰めた。 ●體透覉(たいとうき) 梁山泊秘奥義。自分の体に周囲と同じ風景を描き、同化する技。 一応、夕焼け空などの特別な状況下でないと上手くいかないようだが、相 当 無 理 が あ る。 ■副頭 ◆宋江将軍(そうこうしょうぐん) 梁山泊の守護神であり最強の戦士。 筋骨隆々におびただしい傷の顔と隻眼、関羽のような長い髭を携えた見るからに強そうな出で立ち。 強さだけでなく重傷を負った赤石にその素質を惜しみ、「素直に負けを認めれば命だけは助けよう」と言うなど器量の広い武人である。 (それだけに首領がアレなのが残念でならない…) まずは一陣千戮兵法で部下を指揮し戦うも、部下が一掃されると奥義・翹磁大撥界で赤石の斬岩剣を封じ窮地に陥れる。 しかし、最後は自らの体ごと刺し貫くという捨て身の戦法の前に敗れ去った。 「完璧な防御があってこそ完全な勝利がある」と語り、珍しく防御に重点を置いたキャラクター。(もちろん銛のような槍「金剛槍」を使った肉弾戦でも強い) 爺からは「その前には中国伝説上の鬼神・鍾馗でさえも泣いて命乞いをする」、赤石からは「あんたの強さは認めよう」、 そして伊達でさえも「かつてない恐ろしい敵」と敵味方問わず高く評価されていた。 『暁!! 男塾』では息子が登場している。 『極!!男塾』で、スサノヲの手により復活。宝竜黒蓮珠の阿們・吽們兄弟に圧勝した男爵ディーノと戦う。 超絶奥義・護狼真流でディーノをメッタ打ちにし、追い詰める。しかし、技の秘密である漢方薬拳を見破られ、逆にそれを利用されて倒された。 最後はディーノもまた致命傷を隠していた事を打ち明けられ、互いに讃え合いながら武人として二度目の生涯を閉じた。 ●轢鋲球(れきびょうきゅう) 梁山泊兵法奥義。三つの籠のような鉄球の中にそれぞれ人が入り、高速で回転しながらお互いをビリヤードのように反射させながら襲い掛かる。 古代中国戦乱の時代、屈指の名将と名高い氾公将軍が考案したといわれる機動兵法。 特に敵が大集団の時に威力を発揮し、天下分け目の決戦として知られた黄原の戦いでは氾公将軍自らが率いる轢鋲球三機で呉軍一千騎を大混乱に陥れたという。 この轢鋲球は平衡感覚の向上に最適であるため第二次大戦中、世界各国の空軍で飛行訓練方法として用いられた。 ●翹磁大撥界(きょうじだいはっかい) 梁山泊奥義。相手の武器に太極磁石粉を付着させ、自らは同極の太極磁石で出来た甲冑を身につけ磁力の壁で身を守る技。 構造は単純そのものだが、白兵戦では非常に理に適った強力な技。 勿論銃などの遠距離からの攻撃には成す術はない(矢ぐらいなら、鎧に吸い付けて防ぐ事は出来るだろう)が、 相手が赤石のような、剣や槍などの鉄を使った近接用の武器では、相手は完全に詰む。 唯一の弱点は太極磁石粉は血液と凝固しやすく、一定の量で凝固すると磁力を失ってしまう事。 正面を向いた状態で反発するのなら、相手が頑張って武器を持ってないと 猛スピードで武器が背中に回ってくる んじゃね?とかは言わない約束。一応、背中側から攻撃しても弾いていたし。(あと“素手で戦えばよくね?”や“桃の刀で戦えよ”や“砂鉄落としたいなら別に胸じゃなく腕とか貫くでいいだろ”とも言ってはいけない。) ●蓮鎖摯(れんさし) 梁山泊奥義。鋼糸網が仕込まれた鎖分銅で相手を拘束、反対側の苦無状の刃物で狙い撃ちにする。 ●護狼真流(ごろうまる) 梁山泊超絶奥義。奇妙な精神統一のポーズから、高速で鉄製のラグビーボールを蹴り出して攻撃する。 宋江はこの技に中国拳法の中でも最高峰の素早さを誇る『瞬噭刹駆』(藤堂兵衛の項目参照)を組み合わせ、自分で蹴りだしたボールを自分で受け止めるなどして攻撃した。 実は、この驚異的な素早さを得るため、さらに下記の漢方薬拳を組み合わせている(薬なしでは玉が重すぎてボテゴロがやっとであった)。 ●漢方薬拳(かんぽうやくけん) 二千年もの歴史を有する中国医術にあって、その核となる漢方薬の効能は広く知られている。 しかし、この奥義に使用される漢方薬は一般に用いられるものとは全く別物でありその目的は拳法者の肉体・戦闘能力を極限まで高めることにある。 もちろん、その製法は秘伝であり原料も特別なものが用いられる。 因みに、このような秘薬の代表的製造者は銅筒具(1851‐1955)であり、ドーピングは彼の名に由来する。 ■その他 ◆爺(じい) 梁山泊の実況兼解説者(笑) 杖を持ち、福禄寿みたいな運を呼びそうな姿をしている。恐らくは首領(特に泊鳳)のお目付け役のような存在と思われる。 淤凛葡繻十六闘神の予言者蜒琉菲的なポジ。かつては大武會に出場したことがあるらしい。若い頃は強かったのだろう。 ◆酔傑(すいけつ) 梁山泊の一番手。眼帯をつけたスキンヘッドの男。名前の通り酒を友とする。 奥義と名のつく技は使わないが、様々な武器を使って戦う。 男爵ディーノと戦い、地獄の魔術に翻弄され敗れる。その際、ふくみ針でだまし討ちを行い、ディーノに致命傷を負わせる。 しかし、最後はディーノの奥義・奇跡の杖に捕らえられ道連れとなり滝壺へ消えた。梁山泊初の欠員。 登場時のセリフから、対男塾までの闘いを一人で勝ち抜いていたようだが、爺からは「連れてくるべきではなかった」「器量も狭く腕も未熟な大酒喰らいのうつけ者」と評価されている。 『極!!男塾』で、スサノヲの手により復活し再登場。復活組の一番手として赤石と戦う。 今度は地穿鞭を海中に潜ませ攻撃したが通じず、そこであえて傷をうけ、その血で巨大鮫を引き寄せて赤石を襲わせるという策にでたが、 殺気を読まれて鮫は真っ二つにされてしまい、さらには切断された鮫の頭が脳天から直撃し、あえない最後となった。 赤石曰く「お前の脳味噌はサメより小さかったようだな」 ●地穿鞭(ちせんべん) 梁山泊に数多く伝わる武器の一つ。地面に打ち込み、地中から攻撃する。 つまりはドリル付きの触手みたいなもの。どういう原理なんだ!? 『極!!男塾』では「梁山泊秘技」と呼称している。 ●辣絹布(らっけんぶ) 酔傑が持つ旗で、梁山泊の紋章が織られている。ただの旗ではなく、非常に丈夫で飛び道具を払い落とすことができる。 ただし、燃えやすさこの上なしという弱点がある。 ◆蒼傑(そうけつ) 梁山泊の二番手。天下無双といわれた腕前を持つ弓使い。物静かな面差しの二枚目だが、顔にYを逆さにしたような大きな傷跡がある。 水滸伝でいうなら小李広・花栄のポジションか。 弓術における究極の決闘法『双条檄射』で月光と戦う。 奥義・光陰跳背殺で月光に大ダメージを与えるが、月光の奥義・散寇流星弾で腕を砕かれ自らの矢を受け倒れる。 直後に放った指撥透弾も防がれ死を覚悟するが纒欬針点で矢を抜かれ命を取り留めた。 この勝負は「男塾」でも屈指の名勝負として名高い。 七牙冥界闘で再登場し男塾に入学。 結団式ではウイリアム・テルのように虎丸の頭に乗せたトックリを打ち落とそうとしたが、酔っていたため失敗してしまった。 第一の牙・魍魎塔で一番手としてサムタンと戦い勝利した。 その後もそれなりに出番は多く、藤堂兵衛を怒りのあまり射殺そうとして桃から「塾長はどうなる」と止められるなどの一面もあった。 ●光陰跳背殺(こういんちょうはいさつ) 梁山泊闘弓術極奥義。地面に固定した弓の反動を使って矢と同時に飛び、矢よりも早く相手の背後に回りこみ拘束して命中させる技。 範馬勇次郎なら生身でやってのけそうである。 ●指撥透弾(しはつとうだん) 梁山泊闘弓術最終奥義。術至高の流派として名高い千弦流の開祖・弓 栄喚が編み出したという究極の秘技。 5本の指を弓に見立て細い羊の腸で作られた糸を弦とし、鯨のヒゲから削り出した矢4本を同時に放つ必殺技。 この技は暗殺術として最適のため時の皇帝・貴人の前では相手に向かって手を開く事は固く禁じられていた。 ●連射的(れんしゃてき) 一度に六本の矢を発射する。 ●驚奔砕(きょうほんさい) 奥義。矢を逆に構えて打ち、壁に反射させて命中させる。 ●双条檄射(そうじょうげきしゃ) 弓術における究極の決闘法。免許皆伝に挑戦する二人が十本ずつ矢を使い戦う。 その掟は厳しく両者の立つ枠の線から出れば命を絶たれ、引き分けとなった場合でもお互いに自決しなければならない。 なお、飛び道具なら弓以外でもなんでもOKらしく、月光はゴルフのような纏劾狙振弾で迎撃。 ◆頭傑(とうけつ)&體傑(たいけつ) この世で最凶の邪拳「瞑獄槃家」の使い手。體傑は指拳、頭傑は薙笙斬脚での攻撃を得意とする。 卍丸の師匠・厳 訕嶺を7年前、卑怯な手で殺した仇でもある。 …卍丸って10年間留年してたんだけど、なんで7年前に中国にいたんだろうか?(「十七年前」ならわかるが…。一旦戻って修行し直してたんだろうか?) 卍丸・虎丸を相手に冠硫双刻闘での勝負を挑む。まずは體傑が戦うが腕を磨いた卍丸に歯が立たず、負傷して離脱する。 続く頭傑との勝負の最中、かつて師匠にしたように體傑が虎丸を人質にとるが それを見越していた卍丸の奥義・龔髪斧大旋曲で脳天を真っ二つにされ體傑が死亡。 頭傑も同じく拳での戦いに敗れると、またも虎丸を人質に降伏を迫ったが、 実はいつでも自力で脱出することが出来たが卍丸の想いを汲んで人質に甘んじていただけだった虎丸に卍丸に向かって放り投げられる。 殺す価値もないと捨て置かれると今度は背後から攻撃しようとし、見かねた蒼傑に頭を射抜かれ粛清された。 ●千掌舞(せんしょうぶ) 瞑獄槃家奥義。連続で指拳を繰り出す。 ●奔睫旋裂球(ほんしょうせんれつきゅう) 瞑獄槃家秘奥義。またの名を殺人人間ゴマ。 先端に球体のついた棒を胴に装着し、コマのように回転して攻撃する。 ●薙笙斬脚(ていしょうざんきゃく) 瞑獄槃家奥義。刃のついた一本下駄のような武器。 ●跳蚤器(ちょうそうき) スプリングのようなもののついたヘルメット。これを被り、逆さまに地面に着地して恐るべき跳躍力を生み出す。 中国歴史史上のなみいる英雄・豪傑の中でも勇名をはせた東門慶将軍が発明したとされる。東門慶将軍は背が低かったが、 頭上からの攻撃と俊敏さを得られるこの跳蚤器によって大いなる戦果をあげた。 現代でも男子生誕の折、螺旋状に型どった麺を頭上にのせて勇敢に成長するよう祈願する風習があるがこの名残りである。 使い続けると頭がハゲるという呪われた奥義(ウソ)。 ●冠硫双刻闘(かんりゅうそうこくとう) 古来、拳の世界において2対2の遺恨試合のために考案された決闘法。 極硫酸の入った水時計のついた柱にどちらか一名を固定して人質とし、戦う。 水時計は3分立つと底が抜け、極硫酸が人質に降り注ぐため闘者は常に人質に注意しなければいけない。 水時計を回転させることでまた3分間は人質は安全となる。3分に一度両者が合意のうえ各自の人質を助けるため休憩するという手段でぶち壊しになるルールである。あと横にすればいいじゃんは禁句 今回の戦いでは虎丸と頭傑が人質役となったが、頭傑の錠は簡単に外せる様になっており、しかも中身は水であった。 『男塾外伝 赤石剛次』では天限羅漢武刀会(誤記ではない)二回戦で赤石と戦った兄弟がこれを提案。 赤石先輩は躊躇なく江戸川先輩を指名し、「男を見せる」と躍起になった江戸川先輩もこれに乗る。 最終的に敵兄弟が致命的にバカであったためにこの硫酸で命を落とす羽目になった。 ◆蓬傑(ほうけつ) 彊条剣と蜂を操る操蜂群拳の使い手。爺からは絶対の信頼を寄せられており、梁山泊でも屈指の実力者。男塾第二の助っ人・翔霍と戦う。 試合前に目にも止まらぬ彊条剣の高速突きで紙に「滅」の字を刻むが、その上に「自」の文字を刻まれるという皮肉で返される。 まずは彊条剣で戦うが翔霍の毒手に彊条剣の毒が通じず、奥の手の操蜂群拳を繰り出す。 一度は翔霍に追い詰められるが、操蜂群拳にて逆転。 今度は翔霍の方を追い詰めるが、女王蜂を捕らえられ自ら殺してしまい、それに怒った蜂の群れに逆に襲われ、翔霍の予告通り自滅した。 なお、一度追い詰められた際に負けを認めていれば、本当に命だけは助かっていたかもしれない。 ●彊条剣(きょうじょうけん) 幻の剣法と言われる剣技。西洋の剣法として盛んなフェンシングはヨーロッパが発祥とされているがその源流は中国秦代にさかのぼるという説がある。 この剣は針のように細く鋭利にとぎすまされている為わずかな力で素早く相手の急所を突くことができる。 これを中国拳法と融合させ必殺の武術として完成させたのがシュウ家二代目「邊真愚(へん・しんぐ)」でありフェンシングの名の由来であると言う。 蓬傑の剣は長さを自在に伸ばすことができ、先端からはカスリ傷でさえ三秒後には巨象でさえも全身の血管すべてを破裂させる猛毒が出る。 ●操蜂群拳(そうほうぐんけん) 三匹刺せば猛牛でさえ絶命させるという「金虎蜂」を調教し利用した殺人拳。これが暗殺の道具として用いられるのを恐れた古代の権力者は蜂を飼うのを厳禁とした。 ●奔棘襲銛(ほんきょくしゅうせん) 梁山泊奥義。銛の形に模した蜂の群に攻撃させる。群れは蓬傑の指示で「一の陣」から「四の陣」まで分裂して襲い掛かる。 ●旋回蜂陣(せんかいほうじん) 蜂の群れに相手の周囲を旋回させ追い詰める。 あ、これ知っとるぞ。追記・修正ちゅうやつじゃ。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] フフフ・・・我々男塾ファンは恐ろしい立て主を持ったものです。 押忍 充実の内容ごっつぁんです -- 名無しさん (2014-07-02 19 52 04) 宋江将軍様はJや羅刹、影慶(翔霍)と対戦したらどうやって闘ったんだろう。未だに気になる。 -- 名無しさん (2014-07-02 21 19 54) 首領がカスすぎるんだよなぁ…。 -- 名無しさん (2014-07-02 21 42 08) 確かに…梁皇は長男とはいえ山艶や泊鳳と比べると実力も魅力も見劣りしてしまう。雷電、猿、伊達に醜態晒しまくりだったし -- 名無しさん (2014-07-02 22 16 50) ↑3 たしか戦略の名人みたいなことを言われてたから、磁石粉以外にも何らかの防御手段を持っていたと見るべき。それがJ達に通用したかはともかく -- 名無しさん (2014-07-03 00 46 09) 玉石混交という言葉が似合う。なんか外道比率高めなんだけど、泊鳳や山艶、蒼傑みたいな敵ながらあっぱれというのもきちんといるし -- 名無しさん (2014-07-03 04 43 40) 実際の実力は大将の三兄弟よりも副頭の宋江将軍の方が上なんだろうな。間違いなく過去の天挑五輪3大会連続優勝の主力メンバーだろうし -- 名無しさん (2014-07-03 12 33 59) ↑「梁山泊は最強の戦士三人を常に首領とし~」って話があるから、三兄弟の方が強いんじゃないかな? -- 名無しさん (2014-07-03 19 00 22) 仮に粱皇が生き残っても弟や爺を含め粱山泊メンバーほとんどに白眼視されるだろうし、恐怖統治ができる程の飛び抜けた実力もないし粱山泊に居場所は無くなるだろうな‥さらに拳銃使ったことにより武術界でも鼻つまみものになりそうだ -- 名無しさん (2014-07-03 19 36 30) ↑↑「器ではない」と自ら辞退してそうではある。あと「暁」では割とイケメンな息子さんが出てきてたね -- 名無しさん (2014-07-03 19 42 43) ↑×2 むしろ何でそれまで弟達が梁皇を三首領と認めていたんだろう。長男の顔を立てるとは言ってもあの実力と品性ではとっくに見限られていてもおかしくなかったと思うけど -- 名無しさん (2014-07-03 19 54 49) ↑本性表したのは今回が初めてだったんじゃないかな? 公式ガイドブックじゃ泊鳳が「兄者がこんな卑怯者だとは知らなかった。弟として恥ずかしい」とコメントしてるし -- 名無しさん (2014-07-03 20 05 25) ↑「爺」はある程度梁皇の本性知ってたみたいだけど。あとこれはタブーかもしれないけど、宋江登場時には「首領が3人」の設定はまだ無かったように思える。宋江や爺が「お館様」と言ってるし。 -- 名無しさん (2014-07-03 20 59 04) フレイザードのような独自の魅力のすらない屑だったな、梁皇 -- 名無しさん (2014-07-03 21 29 18) 因みにGB版男塾は各勢力三人のチームバトル(例えば冥王島チームは豪毅、スパルタ、紫蘭)で梁山泊の大将は山艶であとは泊鳳と蒼傑。三首領なのにハブられた梁皇ェ・・・ -- 名無しさん (2014-07-03 21 38 13) 吐き気を催す邪悪タグ入れてもいいかな?もちろん梁皇のことだが -- 名無しさん (2014-07-03 22 52 38) ↑そんな詩的なもんじゃない。ただただ安いゲスだから、 -- 名無しさん (2014-07-04 02 14 57) 将軍と弟2人が誇り高き武人タイプだっただけに、最後に出てきた兄者のゲス野郎っぷりが際立つんだよなぁ -- 名無しさん (2014-07-04 23 06 05) 梁山泊十六傑といえば呉竜布。この作品と民明書房が話題に出る時に高確率で紹介される。 -- 名無しさん (2014-07-21 10 10 32) 因みに凶 #29548;面 #38326;殺は梁山泊奥義じゃなく秘奥義ね。 -- 名無しさん (2014-08-10 15 32 30) 宗、鄧、朱、ゼウス、ファラオ、豪毅と大将格は皆冷酷な一面こそあれど、素直に敗北を認めたり激励や感謝の言葉を投げかけたりとそれなりの器がある中で唯一の例外が梁皇 -- 名無しさん (2016-02-29 19 05 11) 藤堂兵衛だったら梁皇を気に入ってスカウトしたかも -- 名無しさん (2016-02-29 19 24 16) ぶっちゃけ梁皇の奥義って噴血針さえあれば誰でも使えそうな(初見のはずの雷電が投げても普通に効果を発揮した)程度のものだから梁皇の技量自体が全然大したこと無い。飛燕や宗嶺厳(と桃)が使えば梁皇より遥かに強力な使い手になるはず -- 名無しさん (2016-03-07 23 11 18) 梁皇は、銃を使用した際に「ルールなど知ったことか」と開き直っていたけど、いやいや使用した時点でお前の反則負けだろう。最も藤堂兵衛なら「構わん、面白いではないか」と黙認しそうだけど -- 名無しさん (2017-12-06 16 15 36) ↑2 鶴嘴千本にしても翔穹操弾にしても、一発当てれば即死に近いパフォーマンスが引き出せる上に、鉄板や硬化した筋肉も十全に破れる威力を備えている。対して噴血針は一発ぐらいじゃ失血死に持ち込めない上に、原理と材質上は血管か柔らかい部位を狙わないといけない(骨自体に当たっても効果が薄い)から、たぶん貰っても使わないと思う。 -- 名無しさん (2017-12-07 03 13 29) ↑5泊鳳とか山艶を倒した相手にも”負けても悔いがない”と敬意を表してたしな。部下はともかく尊敬できる方のアニキを(正々堂々の一騎打ちとはいえ)殺されても文句言わずに相手を激励するとか普通は出来んと思う -- 名無しさん (2017-12-11 18 23 51) ↑2更に言えば二つとも”弾は見せた上で相手に当てて見せる自信はある”技巧の賜物(無明透殺もあらかじめそれを投げることを伝えてる)のに対して噴血針や髪針斃射は相手が感知していないこと前提の闇討ち用の武器だしなぁ。卑怯上等の暗殺者とかならともかく組織を統べる頭領に相応しい武器化というと・・・ね・・・。 -- 名無しさん (2017-12-15 21 28 00) 凶獬面閶殺を古代に使ったのは「李 箸振」だった筈、記事がおかしいぞ。ちなみに「李 箸振」って中国人なのに訓読み・・・ -- 名無しさん (2019-07-15 15 39 53) 宋江将軍の甲冑に関しては内側が異極なら可能だろう。問題はむしろ磁石粉の方で、S極だけの磁石とかは近年理論上存在できると言われたが、この時代にあんな小型で存在したのは驚異としか言いようがない。 -- 名無しさん (2021-06-23 07 36 26) 泊鳳の「凄い達人」な感じが好き -- 名無しさん (2022-07-21 00 40 52) っというか何で雷電は梁皇に実質勝ってたなんて試合内容にしたんだろ?雷電が株を落とさず負けたのはいいんだがそれは別に大将戦でやらなくてもいいだろって話。(白星はないが)苦戦度合いでは随一なのに大将がカスなだけでチームまで評判落とすとか納得し難い… -- 名無しさん (2022-07-24 07 04 19) 酔傑、頭傑&體傑と(蓬傑も若干怪しい)卑劣漢が結構目立つのも梁皇が手段を問わず勝ってきた彼らを重宝していた(もちろん負ければポイ)カラにも思える -- 名無しさん (2023-09-13 17 56 29) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/131.html
資治通鑑巻第二十八 漢紀二十 孝元皇帝上 初元元年(癸酉、前四八) 1春,正月,辛丑,葬孝宣皇帝於杜陵;赦天下。 1. 正月辛丑 2三月,丙午,立皇后王氏,封后父禁爲陽平候。 2. 3以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民;貲不滿千錢者,賦貸種、食。 3. 4封外祖父平恩戴侯同産弟子中常侍許嘉爲平恩侯。 4. 5夏,六月,以民疾疫,令太官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。 5. 6關東郡、國十一大水,饑,或人相食;轉旁郡錢谷以相救。 6. 7上素聞琅邪王吉、貢禹皆明經潔行,遣使者征之。吉道病卒。禹至,拜爲諫大夫。上數虚已問以政事,禹奏言:「古者人君節儉,什一而税,亡它賦役,故家給人足。高祖、孝文、孝景皇帝,宮女不過十餘人,厩馬百餘匹。後世爭爲奢侈,轉轉益甚;臣下亦相放效。臣愚以爲如太古難,宜少放古以自節焉。方今宮室已定,無可奈何矣;其餘盡可減損。故時齊三服官,輸物不過十笥;方今齊三服官,作工各數千人,一歳費數巨萬,厩馬食粟將萬匹。武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,多藏金錢、財物,鳥獸、魚鱉凡百九十物;又皆以後宮女置於園陵。至孝宣皇帝時,陛下惡有所言,羣臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以内多怨女,外多曠夫。及衆庶葬埋,皆虚地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。唯陛下深察古道,從其儉者。大減損乘輿服御器物,三分去二;擇後宮賢者,留二十人,餘悉歸之,及諸陵園女無子者,宜悉遣;厩馬可無過數十匹,獨捨長安城南苑地,以爲田獵之囿。方今天下饑饉,可無大自損減以救之稱天意乎!天生聖人,蓋爲萬民,非獨使自娯樂而已也。」天子納善其言,下詔,令諸宮館希御幸者勿繕治;太僕減谷食馬;水衡省肉食獸。 臣光曰:忠臣之事君也,責其所難,則其易者不勞而正;補其所短,則其長者不勸而遂。孝元踐位之初,虚心以問禹,禹宜先其所急,後其所緩。然則優遊不斷,讒佞用權,當時之大患也,而禹不以爲言;恭謹節儉,孝元之素志也,而禹孜孜而言之,何哉!使禹之智足不以知,烏得爲賢!知而不言,爲罪愈大矣! 7. 8匈奴呼韓邪單于復上書,言民衆困乏。詔雲中、五原郡轉谷二萬斛以給之。 8. 9是歳,初置戊己校尉,使屯田車師故地。 9. 二年(甲戌、前四七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。樂陵侯史高以外屬領尚書事,前將軍蕭望之、光祿大夫周堪爲之副。望之名儒,與堪皆以師傅舊恩,天子任之,數宴見,言治亂,陳王事。望之選白宗室明經有行散騎、諫大夫劉更生給事中,與侍中金敞並拾遺左右。四人同心謀議,勸導上以古制,多所欲匡正;上甚郷納之。史高充位而已,由此與望之有隙。 中書令弘恭、僕射石顯,自宣帝時久典樞機,明習文法;帝即位多疾,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政,事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯爲人巧慧習事,能深得人主微指,内深賊,持詭辯,以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法;亦與車騎將軍高爲表里,議論常獨持故事,不從望之等。 望之等患苦許、史放縱,又疾恭、顯擅權,建白以爲:「中書政本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人之義。」由是大與高、恭、顯忤。上初即位,謙讓,重改作,議久不定,出劉更生爲宗正。 望之、堪數薦名儒、茂材以備諫官,會稽鄭朋陰欲附望之,上書言車騎將軍高遣客爲姦利郡國,及言許、史弟子罪過。章視周堪,堪白:「令朋待詔金馬門。」朋奏記望之曰:「今將軍規撫,雲若管、晏而休,遂行日昃,至周、召乃留乎?若管、晏而休,則下走將歸延陵之皋,沒齒而已矣。如將軍興周、召之遺業,親日昊之兼聽,則下走其庶幾願竭區區奉萬分之一!」望之始見朋,接待以意;後知其傾邪,絶不與通。朋,楚士,怨恨,更求入許、史,推所言許、史事,曰:「皆周堪、劉更生教我;我關東人,何以知此!」於是侍中許章白見朋。朋出,揚言曰:「我見言前將軍小過五,大罪一。」待詔華龍行汚穢,欲入堪等,堪等不納,亦與朋相結。 恭、顯令二人告望之等謀欲罷車騎將軍,疏退許、史状,候望之出休日,令朋、龍上之。事下弘恭問状,望之對曰:「外戚在位多奢淫,欲以匡正國家,非爲邪也。」恭、顯奏:「望之、堪、更生朋黨相稱舉,數譖訴大臣,毀離親戚,欲以專擅權勢。爲臣不忠,誣上不道,請謁者召致廷尉。」時上初即位,不省召致廷尉爲下獄也,可其奏。後上召堪、更生,曰:「繋獄。」上大驚曰:「非但廷尉問邪!」以責恭、顯,皆叩頭謝。上曰:「令出視事。」恭、顯因使史高言:「上新即位,未以德化聞於天下,而先驗師傅。即下九卿、大夫獄,宜因決免。」於是制詔丞相、御史:「前將軍望之,傅朕八年,無它罪過。今事久遠,識忘難明,其赦望之罪,收前將軍、光祿勳印綬;及堪、更生皆免爲庶人。」 1. 2二月,丁巳,立弟竟爲清河王。 2. 3戊午,隴西地震,敗城郭、屋室,壓殺人衆。 3. 4三月,立廣陵厲王子霸爲王。 4. 5詔罷黄門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴□池田假與貧民。又詔赦天下,舉茂材異等、直言極諫之士。 5. 6夏,四月,丁巳,立子驁爲皇太子。待詔鄭朋薦太原太守張敞,先帝名臣,宜傅輔皇太子。上以問蕭望之,望之以爲敞能吏,任治煩亂,材輕,非師傅之器。天子使使者征敞,欲以爲左馮翊,會病卒。 6. 7詔賜蕭望之爵關内侯,給事中,朝朔望。 7. 8關東饑,齊地人相食。 8. 9秋,七月,己酉,地復震。 9. 10上復征周堪、劉更生,欲以爲諫大夫;弘恭、石顯白,皆以爲中郎。 上器重蕭望之不已,欲倚以爲相;恭、顯及許、史子弟、侍中、諸曹皆側目於望之等。更生乃使其外親上變事,言「地震殆爲恭等,不爲三獨夫動。臣愚以爲宜退恭、顯以章蔽善之罰,進望之等以通賢者之路。如此,則太平之門開,災異之願塞矣。」書奏,恭、顯疑其更生所爲,白請考姦詐,辭果服;遂逮更生繋獄,免爲庶人。 會望之子散騎、中郎人及亦上書訟望之前事,事下有司,復奏:「望之前所坐明白,無譖訴者,而教子上書,稱引亡辜之詩,失大臣體,不敬,請逮捕。」弘恭、石顯等知望之素高節,不詘辱,建白:「望之前幸得不坐,復賜爵邑,不悔過服罪,深懷怨望,教子上書,歸非於上,自以托師傅,終必不坐,非頗屈望之於牢獄,塞其怏怏心,則聖朝無以施恩厚。」上曰:「蕭太傅素剛,安肯就吏!」顯等曰:「人命至重,望之所坐,語言薄罪,必無所憂。」上乃可其奏。冬,十二月,顯等封詔以付謁者,敕令召望之手付。因令太常急發執金吾車騎馳圍其第。使都至,召望之。望之以問門下生魯國硃雲,雲者,好節士,勸望之自裁。於是望之仰天歎曰:「吾嘗備位將相,年逾六十矣,老入牢獄,苟求生活,不亦鄙乎!」字謂雲曰:「游,趣和藥來,無久留我死!」竟飲鳩自殺。天子聞之驚,拊手曰:「曩固疑其不就牢獄,果然殺吾賢傅!」是時,太官方上晝食,上乃卻食,爲之涕泣,哀動左右。於是召顯等責問以議不詳,皆免冠謝,良久然後已。上追念望之不忘,毎歳時遣使者祠祭望之塚,終帝之世。 臣光曰:甚矣孝元之爲君,易欺而難寤也!夫恭、顯之譖訴望之,其邪説詭計,誠有所不能辨也。至於始疑望之不肯就獄,恭、顯以爲必無憂。已而果自殺,則恭、顯之欺亦明矣。在中智之君,孰不感動奮發以厎邪臣之罰!孝元則不然。雖涕泣不食以傷望之,而終不能誅恭、顯,才得其免冠謝而已。如此,則姦臣安所懲乎!是使恭、顯得肆其邪心而無復忌憚者也。 10. 11是歳,弘恭病死,石顯爲中書令。 11. 12初,武帝灰南越,開置珠崖、儋耳郡,在海中洲上,吏卒皆中國人,多侵陵之。其民亦暴惡,自以阻絶,數犯吏禁,率數年壹反,殺吏;漢輒發兵撃定之。二十餘年間,凡六反。至宣帝時,又再反。上即位之明年,珠崖山南縣反,發兵撃之。諸縣更叛,連年不定。上博謀於羣臣,欲大發軍。待詔賈捐之曰:「臣聞堯、舜、禹之聖德,地方不過數千里,西被流沙,東漸於海,朔南曁聲教,言欲與聲教則治之,不欲與者不強治也。故君臣歌德,含氣之物各得其宜。武丁、成王、殷、周之大仁也,然地東不過江、黄,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方,是以頌聲並作,視聽之類咸樂其生,越裳氏重九譯而獻,此非兵革之所能致也。以至於秦,興兵遠攻,貪外虚内而天下潰畔。孝文皇帝偃武行文,當此之時,斷獄數百,賦役輕簡。孝武皇帝厲兵馬以攘四夷,天下斷獄萬數,賦煩役重,寇賊並起,軍旅數發,父戰死於前,子斗傷於後,女子乘亭障,孤兒號於道,老母、寡婦飲泣巷哭,是皆廓地泰大,征伐不休之故也。今關東民衆久困,流離道路。人情莫親父母,莫樂夫婦;至嫁妻賣子,法不能禁,義不能止,此社稷之憂也。今陛下不忍悁悁之忿,欲驅士衆擠之大海之中,快心幽冥之地,非所以救助饑饉,保全元元也。詩云:『蠢爾蠻荊,大邦爲讎。』言聖人起則後服,中國衰則先畔,自古而患之,何況乃復其南方萬里之蠻乎!駱越之人,父子同川而浴,相習以鼻飲,與禽獸無異,本不足郡縣置也。顓顓獨居一海之中,霧露氣濕,多毒草、蟲蛇、水土之害;人未見虜,戰士自死。又非獨珠崖有珠、犀、玳瑁也。棄之不足惜,不撃不損威。其民譬猶魚鱉,何足貪也!臣竊以往者羌軍言之,暴師曾未一年,兵出不逾千里,費四十餘萬萬;大司農錢盡,乃以少府禁錢續之。夫一隅爲不善,費尚如此,況於勞師遠攻,亡士毋功乎!求之往古則不合,施之當今又不便,臣愚以爲非冠帶之國,禹貢所及,春秋所治,皆可且無以爲。願遂棄珠崖,專用恤關東爲憂。」上以問丞相、御史。御史大夫陳萬年以爲當撃,丞相於定國以爲:「前日興兵撃之連年,護軍都尉、校尉及丞凡十一人,還者二人,卒士及轉輸死者萬人以上,費用三萬萬餘,尚未能盡降。今關東困乏,民難搖動,捐之議是,」上從之。捐之,賈誼曾孫也。 12. 三年(乙亥、前四六) 1春,詔曰:「珠崖虜殺吏民,背畔爲逆。今廷議者或言可撃,或言可守,或欲棄之,其指各殊。朕日夜惟思議者之言,羞威不行,則欲誅之;狐疑辟難,則守屯田;通於時變,則憂萬民。夫萬民之飢餓與遠蠻之不討,危孰大焉?且宗廟之祭,凶年不備,況乎辟不嫌之辱哉!今關東大困,倉庫空虚,無以相贍,又以動兵,非特勞民,凶年隨之。其罷珠崖郡,民有慕義欲内屬,便處之;不欲,勿強。」 1. 2夏,四月,乙末晦,茂陵白鶴館災;赦天下。 2. 3夏,旱。 3. 4立長沙煬王弟宗爲王。 4. 5長信少府貢禹上言:「諸離宮及長樂宮衞,可減其太半以寬繇役。」六月,詔曰:「朕惟烝庶之饑寒,遠離父母妻子,勞於非業之作,衞於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衞,令就農。百宮各省費。條奏,毋有所諱。」 5. 6是歳,上復擢周堪爲光祿勳,堪弟子張猛爲光祿大夫、給事中,大見信任。 6. 四年(丙子、前四五) 1春,正月,上行幸甘泉,效泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒。 1. 五年(丁丑、前四四) 1春,正月,以周子南君爲周承休侯。 1. 2上行幸雍,祠五畤。 2. 3夏,四月,有星孛于參。 3. 4上用諸儒貢禹等之言,詔太官毋日殺,所具各減半;乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。令民有能通一經者。皆復。省刑罰七十餘事。 4. 5陳萬年卒。六月,辛酉,長信少府貢禹爲御史大夫。禹前後言得失書數十上,上嘉其質直,多採用之。 5. 6匈奴郅支單于自以道遠,又怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者乾江乃始等;遣使奉獻,因求侍子。漢議遣衞司馬谷吉送之,御史大夫貢禹、博士東海匡衡以爲:「郅支單于郷化末醇,所在絶遠,宜令使者送其子,至塞而還。」吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絶之義,今既養全其子十年,德澤甚厚,空絶而不送,近從塞還,示棄捐不畜,使無郷從之心,棄前恩,立後怨,不便。議者見前江乃無應敵之數,智勇倶困,以致恥辱,即豫爲臣憂。臣幸得建強漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。若懷禽獸心,加無道於臣,則單于長嬰大罪,必遁逃遠捨,不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送到庭。」上許焉。既到,郅支單于怒,竟殺吉等;自知負漢,又聞呼韓邪益強,恐見襲撃,欲遠去。會康居王數爲烏孫所困,與諸翕侯計,以爲:「匈奴大國,烏孫素服屬之。今郅支單于困在外,可迎置東邊,使合兵取烏孫而立之,長無匈憂矣。」即使使到堅昆,通語郅支。郅支素恐,又怨烏孫,聞康居計,大説,遂與相結,引兵而西。郅支人衆中寒道死,餘財三千人。到康居,康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王,康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。郅支數借兵撃烏孫,深入至谷城,殺略民人,驅畜産去。烏孫不敢追。西邊空虚不居者五千里。 6. 7冬,十二月,丁末,貢禹卒。丁已,長信少府薛廣德爲御史大夫。 7. 永光元年(戊寅、前四三) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。視畢,因留射獵。薛廣德上書曰:「竊見關東困極,人民流離。陛下日撞亡秦之鐘,聽鄭、衞之樂,臣誠悼之。今士卒暴露,從官勞倦,願陛下亟反宮,思與百姓同憂樂,天下幸甚!」上即日還。 1. 2二月,詔:「丞相、御史舉質樸、敦厚、遜讓、有行者,光祿歳以此科第郎、從官。」 2. 3三月,赦天下。 3. 4雨雪、隕霜,殺桑。 4. 5秋,上酎祭宗廟,出便門,欲御樓船。薛廣德當乘輿車,免冠頓首曰:「宜從橋。」詔曰:「大夫冠。」廣德曰:「陛下不聽臣,臣自刎,以血汚車輪,陛下不得入廟矣!」上不説。先驅光祿大夫張猛進曰:「臣聞主聖臣直。乘船危,就橋安,聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰:「曉人不當如是邪!」乃從橋。 5. 6九月,隕霜殺稼,天下大饑。丞相於定國,大司馬、車騎將軍史高,御史大夫薛廣德,倶以災異乞骸骨。賜安車、駟馬、黄金六十斤,罷。太子太傅韋玄成爲御史大夫。廣德歸,縣其安車,以傳示子孫爲榮。 6. 7帝之爲太子也,從太中大夫孔霸受尚書。及即位,賜霸爵關内侯,號褒成君,給事中。上欲致霸相位,霸爲人謙退,不好權勢,常稱「爵位泰過,何德以堪之!」御史大夫屢缺,上輒欲用霸;霸讓位,自陳至於再三。上深知其至誠,乃弗用。以是敬之,賞賜甚厚。 7. 8戊子,侍中,衞尉王接爲大司馬、車騎將軍。 8. 9石顯憚周堪、張猛等,數譖毀之。劉更生懼其傾危,上書曰:「臣聞舜命九官,濟濟相讓,和之至也。衆臣和於朝則萬物和於野,故簫韶九成,鳳皇來儀。至周幽,厲之際,朝廷不和,轉相非怨,則日月薄食,水泉沸騰,山谷易處,霜降失節。由此觀之,和氣致祥,乖氣致異,祥多者其國安,異衆者其國危。天地之常經,古今之通義也。今陛下開三代之業,招文學之士,優遊寬容,使得並進。今賢不肖渾殽,白黑不分,邪正雜糅,忠讒並進;章交公車,人滿北軍,朝臣舛午,膠戻乖剌,更相讒訴,轉相是非;所以營惑耳目,感移心意,不可勝載,分曹爲黨,往往羣朋將同心以陷正臣。正臣進者,治之表也;正臣陷者,亂之機也;乘治亂之機,未知孰任,而災異數見,此臣所以寒心者也。初元以來六年矣,按春秋六年之中,災異未有稠如今者也。原其所以然者,由讒邪並進也;讒邪之所以並進者,由上多疑心,既已用賢人而行善政,如或譖之,則賢人退而善政還矣。夫執狐疑之心者,來讒賊之口;持不斷之意者,開羣枉之門;讒邪進則衆賢退,羣枉盛則正士消。故易有否、泰,小人道長,君子道消,則政日亂;君子道長,小人道消,則政日治。昔者鯀、共工、驩兜與舜、禹雜處堯朝,周公與管、蔡並居周位,當是時,迭進相毀,流言相謗,豈可勝道哉!帝堯、成王能賢舜、禹、周公而消共工、管、蔡,故以大治,榮華至今。孔子與季、孟偕仕於魯,李斯與叔孫倶宦於秦,定公、始皇賢季、孟、李斯而消孔子、叔孫,故以大亂,汚辱至今。故治亂榮辱之端,在所信任;信任既賢,在於堅固而不移。詩云:『我心匪石,不可轉也,言守善篤也。易曰:『渙汗其大號』,言號令如汗,汗出而不反者也。今出善令未能逾時而反,是反汗也;用賢未能三旬而退,是轉石也。論語曰:『見不善如探湯。』今二府奏佞謅不當在位,歴年而不去。故出令則如反汗,用賢則如轉石,去佞則如撥山,如此,望陰陽之調,不亦難乎!是以羣小窺見間隙,縁飾文字,巧言醜詆,流言、飛文嘩於民間。故詩云:『憂心悄悄,慍於羣小,』小人成羣,誠足慍也。昔孔子與顏淵、子貢更相稱譽,不爲朋黨;禹、稷與皋陶傳相汲引,不爲比周,何則?忠於爲國,無邪心也。今佞邪與賢臣並交戟之内,合黨共謀,違善依惡,歙歙訿□,數設危險之言,欲以傾移主上,如忽然用之,此天地之所以先戒,災異之所以重至者也。自古明聖未有無誅而治者也,故舜有四放之罰,孔子有兩觀之誅,然後聖化可得而行也。今以陛下明知,誠深思天地之心,覽否、泰之卦,歴周、唐之所進以爲法,原秦、魯之所消以爲戒,考祥應之福。省災異之禍,以揆當世之變,放遠佞邪之黨,壞散險詖之聚,杜閉羣枉之門,方開衆正之路,決斷狐疑,分別猶豫,便是非炳然可知,則百異消滅而衆祥並至,太平之基,萬世之利也。」顯見其書,愈與許、史比而怨更生等。 是歳,夏寒,日靑無光,顯及許、史皆言堪、猛用事之咎。上内重堪,又患衆口之浸潤,無所取信。時長安令楊興以材能幸,常稱譽堪,上欲以爲助,乃見問興:「朝臣斷斷不可光祿勳,何邪?」興者,傾巧士,謂上疑堪,因順指曰:「堪非獨不可於朝廷,自州里亦不可也!臣見衆人聞堪與劉更生等謀毀骨肉,以爲當誅;故臣前書言堪不可誅傷,爲國養恩也。」上曰:「然此何罪而誅?今宜奈何?」興曰:「臣愚以爲可賜爵關内侯,食邑三百戸,勿令典事。明主不失師傅之恩,此最策之得者也。」上於是疑之。 司隸校尉琅邪諸葛豐始以特立剛直著名於朝,數侵犯貴戚,在位多言其短。後坐春夏繋治人,徙城門校尉。豐於是上書告堪、猛罪,上不直豐,乃制詔御史:「城門校尉豐,前與光祿勳、光祿大夫猛在朝之時,數稱言堪、猛之美。豐前爲司隸校尉,不順四時,修法度,專作苛暴以獲虚威;朕不忍下吏,以爲城門校尉。不内省諸己,而反怨堪、猛以求報舉,告按無證之辭,暴揚難驗之罪,毀譽恣意,不顧前言,不信之大也。朕憐豐之耆老,不忍加刑,其免爲庶人!」又曰:「豐言堪、猛貞信不立,朕閔而不治,又惜其材能未有所效,其左遷堪爲河東太守,猛槐里令。」 臣光曰:諸葛豐之於堪、猛,前譽而後毀,其志非爲朝廷進善而去姦也,欲比周求進而已矣。斯亦鄭朋、楊興之流,烏在其爲剛直哉!人君者,察美惡,辨是非,賞以勸善,罰以懲姦,所以爲治也。使豐言得實,則豐不當絀;若其誣罔,則堪、猛何辜焉!今兩責而倶棄之,則美惡、是非果何在哉! 9. 10賈捐之與楊興善。捐之數短石顯,以故不得官,稀復進見;興新以材能得幸。捐之謂興曰:「京兆尹缺,使我得見,言君蘭,京兆尹可立得。」興曰:「君房下筆,言語妙天下;使君房爲尚書令,勝五鹿充宗遠甚。」捐之曰:「令我得代充宗,君蘭爲京兆,京兆,郡國首,尚書,百官本,天下眞大治,士則不隔矣!」捐之復短石顯,興曰:「顯方貴,上信用之;今欲進,第從我計,且與合意,即得入矣!」捐之即與興共爲薦顯奏,稱譽其美,以爲宜賜爵關内侯,引其兄弟以爲諸曹;又共爲薦興奏,以爲可試守京兆尹。石顯聞知,白之上,乃下興、捐之獄,令顯治之,奏「興,捐之懷詐偽,更相薦譽,欲得大位,罔上不道!」捐之竟坐棄市,興髡鉗爲城旦。 臣光曰:君子以正攻邪,猶懼不克。況捐之以邪攻邪,其能免乎! 10. 11徙清河王竟爲中山王。 11. 12匈奴呼韓邪單于民衆益盛,塞下禽獸盡,單于足以自衞,不畏郅支,其大臣多勸單于北歸者。久之,單于竟北歸庭,民衆稍稍歸之,其國遂定。 12. 二年(己卯、前四二) 1春,二月,赦天下。 1. 2丁酉,御史大夫韋玄成爲丞相;右扶風鄭弘爲御史大夫。 2. 3三月,壬戌朔,日有食之。 3. 4夏,六月,赦天下。 4. 5上問給事中匡衡以地震日食之變,衡上疏曰:「陛下躬聖德,開太平之路,閔愚吏民觸法抵禁,比年大赦,使百姓得改行自新,天下幸甚!臣竊見大赦之後,姦邪不爲衰止,今日大赦,明日犯法,相隨入獄,此殆導之未得其務也。今天下俗,貪財賤義,好聲色,上侈靡,親戚之恩薄,婚姻之黨隆,苟合徼幸,以身設利;不改其原,雖歳赦之,刑猶難使錯而不用也,臣愚以爲宜壹曠然大變其俗。夫朝廷者,天下之楨幹也。朝有變色之言,則下有爭鬥之患;上有自專之士,則下有不讓之人;上有克勝之佐,則下有傷害之心;上有好利之臣,則下有盜竊之民;此其本也。治天下者,審所上而已。教化之流,非家至而人説之也;賢者在位,能者布職,朝廷崇禮,百僚敬讓,道德之行,由内及外,自近者始,然後民知所法,遷善日進而不自知也。詩曰:『商邑翼翼,四方之極。』今長安,天子之都,親承聖化,然其習俗無以異於遠方,郡國來者無所法則,或見侈靡而放效之;此教化之原本,風俗之樞機,宜先正者也。臣聞天人之際,精祲有以相蕩,善惡有以相推,事作乎下者象動乎上,陰變則靜者動,陽蔽則明者晻,水旱之災隨類而至。陛下祗畏天戒,哀閔元元,宜省靡麗,考制度,近忠正,遠巧佞,以崇至仁,匡失俗,道德弘於京師,淑問揚乎疆外,然後大化可成,禮讓可興也。」上説其言,遷衡爲光祿大夫。 5. 6荀悅論曰:夫赦者,權時之宜,非常典也。漢興,承秦兵革之後,大愚之世,比屋可刑,故設三章之法,大赦之令,蕩滌穢流,與民更始,時勢然也。後世承業,襲而不革,失時宜矣。若惠、文之世,無所赦之。若孝景之時,七國皆亂,異心並起,姦詐非一;及武帝末年,賦役繁興,羣盜並起,加以太子之事,巫蠱之禍,天下紛然,百姓無聊,人不自安;及光武之際,撥亂之後:如此之比,宜爲赦矣。 6. 荀悦が論じて曰く:それ大赦なるものは便宜上の措置にあり、常なる典範にあらず。漢が興ったときは秦の兵革の後を承けた後であり、大愚の世のため、多くの者が身に重罪を負い、法に則ればことごとく民衆を誅殺しなければならなかった。ゆえに三章の法を設けてこれに令して大赦し、汚いものを洗い流して民とともに新しい時代を始めたのである。時の勢いとしてこうするべきだったのだ。しかし後世に至り、この制度を承けて襲して革(あらた)めずにいたならば、時宜を失していただろう。もし、恵帝、文帝の世に大赦が無かったならば、景帝の世で七国の乱があったときに、皆、異心沸き起こって奸詐は一つどころではなかっただろう。武帝の末年になると、賦役が繁雑に興されて群盗が沸き起こった。加えて皇太子の事件をもって巫蠱の禍があり、天下は紛然となった。百姓は頼るものとてなく、人々は皆、自ずと不安となった。光武帝の際には混乱の後を承けて前世になぞらえ、かくの如くにして大赦すること宜しきを得たのである。 7秋,七月,隴西羌彡姐旁種反,詔召丞相韋玄成等入議。是時,歳比不登,朝廷方以爲憂,而遭羌變,玄成等漠然,莫有對者。右將軍馮奉世曰:「羌虜近在竟内背畔,不以時誅,無以威制遠蠻,臣願帥師討之!」上問用兵之數,對曰:「臣聞善用兵者,役不再興,糧不三載,故師不久暴而天誅亟決。往者數不料敵,而師至於折傷,再三發調,則曠日煩費,威武虧矣。今反虜無慮三萬人,法當倍,用六萬人。然羌戎,弓矛之兵耳,器不犀利,可用四萬人。一月足以決。」丞相、御史、兩將軍皆以爲:「民方收斂時未可多發,發萬人屯守之,且足。」奉世曰:「不可。天下被饑饉,士馬羸耗,守戰之備久廢不簡,夷狄有輕邊吏之心,而羌首難。今以萬人分屯數處,虜見兵少,必不畏懼。戰則挫兵病師,守則百姓不救,如此,怯弱之形見。羌人乘利,諸種並和,相扇而起,臣恐中國之役不得止於四萬,非財幣所能解也。故少發師而曠日,與一舉而疾決,利害相萬也。」固爭之,不能得。有詔,益二千人。於是遣奉世將萬二千人騎,以將屯爲名,典屬國任立、護軍都尉韓昌爲偏裨,到隴西,分屯三處。昌先遣兩校尉與羌戰,羌虜盛多,皆爲所破,殺兩校尉。奉世具上地形部衆多少之計,願益三萬六千人,乃足以決事。書奏,天子大爲發兵六萬餘人。八月,拜太常弋陽侯任千秋爲奮武將軍以助之。冬,十月,兵畢至隴西,十一月,並進,羌虜大破,斬首數千級,餘皆走出塞。兵未決間,漢復發募士萬人,拜定襄太守韓安國爲建威將軍,未進,聞羌破而還。詔罷吏士,頗留屯田,備要害處。 7.
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/363.html
←巻五十九 志第四十九 范子計然十五巻范蠡問、計然答。 尹都尉書三巻 氾勝之書二巻 崔寔四民月令一巻 賈思協斉民要術十巻 宗懍荊楚歳時記一巻 杜公贍荊楚歳時記二巻 杜台卿玉燭宝典十二巻 王氏四時録十二巻 戴凱之竹譜一巻 顧烜銭譜一巻 浮丘公相鶴経一巻 堯須跋鷙擊録二十巻 相馬経三巻 伯楽相馬経一巻 徐成等相馬経二巻 諸葛潁種植法七十七巻 又相馬経六十巻 甯戚相牛経一巻 范蠡養魚経一巻 禁苑実録一巻 鷹経一巻 蠶経一巻 又二巻 相貝経一巻 武后兆人本業三巻 王方慶園庭草木疏二十一巻 孫氏千金月令三巻孫思邈。 李淳風演斉民要術巻亡。 李邕金谷園記一巻 薛登四時記二十巻 裴澄乗輿月令十二巻国子司業。貞元十一年上。 王涯月令図一軸 李綽秦中歳時記一巻 韋行規保生月録一巻 韓鄂四時纂要五巻 歳華紀麗二巻 右農家類十九家、二十六部、二百三十五巻。失姓名六家、王方慶以下不著録十一家、六十六巻。 燕丹子一巻燕太子。 邯鄲淳笑林三巻 裴子野類林三巻 張華博物志十巻 又列異伝一巻 賈泉注郭子三巻郭澄之。 劉義慶世説八巻 又小説十巻 劉孝標続世説十巻 殷芸小説十巻 劉斉釈俗語八巻 蕭賁辨林二十巻 劉炫酒孝経一巻 庾元威座右方三巻 侯白啓顔録十巻 雑語五巻 戴祚甄異伝三巻 袁王寿古異伝三巻 祖沖之述異記十巻 劉質近異録二巻 干宝搜神記三十巻 劉之遴神録五巻 梁元帝妍神記十巻 祖台之志怪四巻 孔氏志怪四巻 荀氏霊鬼志三巻 謝氏鬼神列伝二巻 劉義慶幽明録三十巻 東陽疑斉諧記七巻 呉均続斉諧記一巻 王延秀感応伝八巻 陸果繋応験記一巻 王琰冥祥記一巻 王曼潁続冥祥記十一巻 劉泳因果記十巻 顔之推冤魂志三巻 又集霊記十巻 徴応集二巻 侯君素旌異記十五巻 唐臨冥報記二巻 李恕誡子拾遺四巻 開元御集誡子書一巻 王方慶王氏神通記十巻 狄仁傑家範一巻 盧公家範一巻盧僎。 蘇中枢亀鏡一巻 姚元崇六誡一巻 事始三巻劉孝孫・房徳懋。 劉睿続事始三巻 元結猗犴子一巻 趙自造化権輿六巻 通微子十物志一巻 呉筠両同書一巻 李涪刊誤二巻 李匡文資暇三巻 炙轂子雑録注解五巻王叡。 蘇鶚演義十巻 又杜陽雑編三巻字徳祥、光啓中進士第。 柳氏家学要録二巻柳珵。 盧光啓初挙子一巻字子忠、相昭宗。 劉訥言俳諧集十五巻 陳卓異記一巻憲・穆時人。 裴紫芝続卓異記一巻 薛用弱集異記三巻字中勝、長慶光州刺史。 李玫纂異記一巻大中時人。 李亢独異志十巻 谷神子博異志三巻 沈如筠異物志三巻 古異記一巻 劉餗伝記三巻一作国史異纂。 牛肅紀聞十巻 陳鴻開元升平源一巻字大亮、貞元主客郎中。 張薦霊怪集二巻 陸長源辨疑志三巻 李繁説纂四巻 戴少平還魂記一巻貞元待詔。 牛僧孺玄怪録十巻 李復言続玄怪録五巻 陳翰異聞集十巻唐末屯田員外郎。 鄭遂洽聞記一巻 鍾前定録一巻 趙自勤定命論十巻天宝秘書監。 呂道生定命録二巻大和中、道生増趙自勤之説。 温畬続定命録一巻 胡璩譚賓録十巻字子温、文・武時人。 韋絢劉公嘉話録一巻絢、字文明、執誼子也、咸通義武軍節度使。劉公、禹錫也。 戎幕閑談一巻 趙璘因話録六巻字沢章、大中衢州刺史。 袁郊甘沢謠一巻 温庭筠乾子三巻 又採茶録一巻 段成式酉陽雑俎三十巻 廬陵官下記二巻 康軿劇談録三巻字駕言、乾符進士第。 高彦休闕史三巻 盧子史録巻亡。 又逸史三巻大中時人。 李隠大唐奇事記十巻咸通中人。 陳劭通幽記一巻 范攄雲溪友議三巻咸通時、自稱五雲溪人。 李躍嵐齋集二十五巻 尉遅枢南楚新聞三巻並唐末人。 張固幽閑鼓吹一巻 常侍言旨一巻柳珵。 盧氏雑説一巻 桂苑叢譚一巻馮翊子子休。 樹萱録一巻 会昌解頤四巻 松録一巻 芝田録一巻 玉泉子見聞真録五巻 張讀宣室志十巻 柳祥瀟湘録十巻 皇甫松酔郷日月三巻 何自然笑林三巻 焦璐窮神秘苑十巻 裴鉶伝奇三巻高駢従事。 劉軻牛羊日暦一巻牛僧孺・楊虞卿事。檀欒子皇甫松序。 補江総白猿伝一巻 郭良輔武孝経一巻 陸羽茶経三巻 張又新煎茶水記一巻 封演続銭譜一巻 右小説家類三十九家、四十一部、三百八巻。失姓名二家、李恕以下不著録七十八家、三百二十七巻。 趙嬰注周髀一巻 甄鸞注周髀一巻 張衡霊憲図一巻 又渾天儀一巻 王蕃渾天象注一巻 姚信昕天論一巻 石氏星経簿讚一巻石申。 虞喜安天論一巻 甘氏四七法一巻甘徳。 劉表荊州星占二巻 劉叡荊州星占二十巻 天文集占三巻 祖之天文録三十巻 韓楊天文要集四十巻 高文洪天文横図一巻 呉雲天文雑占一巻 陳卓四方星占一巻 又五星占一巻 天文集占七巻 孫僧化等星占三十三巻 史崇十二次二十八宿星占十二巻 庾季才霊台秘苑一百二十巻 逄行珪玄機内事七巻 論二十八宿度数一巻 五星兵法一巻 黄道略星占一巻 孝経内記星図一巻 周易分野星国一巻 李淳風釈周髀二巻 又乙巳占十二巻 天文占一巻 大象元文一巻 乾坤秘奧七巻 法象志七巻 太白会運逆兆通代記図一巻淳風與袁天綱集。 武密古今通占鏡三十巻 大唐開元占経一百一十巻瞿曇悉達集。 董和通乾論十五巻和、本名純、避憲宗名改。善暦算。裴冑為荊南節度、館之、著是書云。 長慶算五星所在宿度図一巻司天少監徐昇。 黄冠子李播天文大象賦一巻李台集解。 王希明丹元子歩天歌一巻 右天文類二十家、三十部、三百六巻。失姓名六家、李淳風天文占以下不著録六家、一百七十五巻。 劉向九章重差一巻 徐岳九章算術九巻 又算経要用百法一巻 数術記遺一巻甄鸞注。 張丘建算経一巻甄鸞注。 董泉三等数一巻甄鸞注。 夏侯陽算経一巻甄鸞注。 甄鸞九章算経九巻 又五曹算経五巻 七曜本起暦五巻 七曜暦算二巻 暦術一巻 韓延夏侯陽算経一巻 又五曹算経五巻 宋泉之九経術疏九巻 劉徽海島算経一巻 又九章重差図一巻 劉祐九章雑算文二巻 陰景愉七経算術通義七巻 信都芳器準三巻 黄鍾算法四十巻 劉歆三統暦一巻 四分暦一巻 推漢書律暦志術一巻 劉洪乾象暦術三巻闞沢注。 乾象暦三巻 楊偉魏景初暦三巻 何承天宋元嘉暦二巻 又刻漏経一巻 虞梁大同暦一巻 呉伯善陳七曜暦五巻 孫僧化後魏永安暦一巻 李業興後魏甲子暦一巻 後魏武定暦一巻 宋景業北斉天保暦一巻 北斉甲子元暦一巻 王琛周大象暦二巻 馬顕周甲寅元暦一巻 周甲子元暦一巻 劉孝孫隋開皇暦一巻 又七曜雑術二巻 李徳林隋開皇暦一巻 張冑玄隋大業暦一巻 又玄暦術一巻 七曜暦疏三巻 劉焯皇極暦一巻 趙河西壬辰元暦一巻 河西甲寅元暦一巻 劉智正暦四巻薛夏訓。 姜氏暦術三巻 崔浩律暦術一巻 暦日義統一巻 暦日吉凶注一巻 朱史刻漏経一巻 宋景刻漏経一巻 李淳風注周髀算経二巻 又注九章算術九巻 注九章算経要略一巻 注五経算術二巻 注張丘建算経三巻 注海島算経一巻 注五曹孫子等算経二十巻 注甄鸞孫子算経三巻 釈祖沖之綴術五巻 皇極暦一巻 傅仁均大唐戊寅暦一巻 唐麟徳暦一巻 麟徳暦出生記十巻 王孝通緝古算術四巻太史丞李淳風注。 算経表序一巻 南宮説光宅暦草十巻 瞿曇謙大唐甲子元辰暦一巻 大唐刻漏経一巻 王勃千歳暦巻亡。 謝察微算経三巻 江本一位算法二巻 陳従運得一算経七巻 魯靖新集五曹時要術三巻 邢和璞潁陽書三巻隠潁陽石堂山。 僧一行開元大衍暦一巻 又暦議十巻 暦立成十二巻 暦草二十四巻 七政長暦三巻 心機算術括一巻黄栖巌注。 宝応五紀暦四十巻 建中正元暦二十八巻 曹士蒍七曜符天暦一巻建中時人。 七曜符天人元暦三巻 龍受算法二巻貞元人。 長慶宣明暦三十四巻 長慶宣明暦要略一巻 宣明暦超捷例要略一巻 邊岡景福崇玄暦四十巻岡稱処士。 大衍通元鑑新暦三巻貞元至大中。 大唐長暦一巻 都利聿斯経二巻貞元中、都利術士李彌乾伝自西天竺、有璩公者訳其文。 陳輔聿斯四門経一巻 右暦算類三十六家、七十五部、二百三十七巻。失姓名五家、王勃以下不著録十九家、二百二十六巻。 『黄帝問玄女法』三巻 『黄帝用兵法訣』一巻 『黄帝兵法孤虚推記』一巻 『黄帝太一兵暦』一巻 『黄帝太公三宮法要訣』一巻 『太公陰謀』三巻 また『陰謀三十六用』一巻 『金匱』二巻 『六韜』六巻 『当敵』一巻 『周書陰符』九巻 『周呂書』一巻 田穰苴『司馬法』三巻 『魏武帝注孫子』三巻 又『続孫子兵法』二巻 『兵書接要』七巻 孫武。 『孟氏解孫子』二巻 『沈友注孫子』二巻 『賈詡注呉子兵法』一巻 呉起。 『呉孫子三十二壘経一巻 伍子胥『兵法』一巻 黄石公『三略』三巻 又『陰謀乗斗魁剛行軍秘』一巻 『成氏三略訓』三巻 『張良経』一巻 『張氏七篇』七巻 張良。 魏文帝『兵書要略』十巻 宋高祖『兵法要略』一巻 司馬彪『兵記』十二巻 孔衍『兵林』六巻 葛洪『兵法孤虚月時秘要法』一巻 梁武帝『兵法』一巻 梁元帝『玉韜』十巻 劉祐『金韜』十巻 蕭吉『金海』四十七巻 陶弘景『真人水鏡』十巻 『握鏡』三巻 王略『武林』一巻 許子『新書軍勝』十巻 楽産『王佐秘書』五巻 後周の斉王憲『兵書要略』十巻 隋高祖『新撰兵書』三十巻 解忠鯁『龍武玄兵図』二巻 『新兵法』二十四巻 『用兵要術』一巻 『太一兵法』一巻 『兵法要訣』一巻 『承神兵書』八巻 『兵機』十五巻 『兵書要略』十巻 『用兵撮要』二巻 『兵春秋』一巻 『獣闘亭亭』一巻 『玉帳経』一巻 『三陰図』一巻 『兵法雲氣推占』一巻 『武徳図五兵八陣法要』一巻 李靖『六軍鏡』三巻 員半千『臨戎孝経』二巻 李淳風『県鏡』十巻 『李筌注孫子』二巻 また『太白陰経』十巻 『青囊括』一巻 『杜牧注孫子』三巻 『陳皥注孫子』一巻 『賈林注孫子』一巻 『孫鐈注呉子』一巻 裴行倹『安置軍営行陣等四十六訣』一巻 李嶠『軍謀前鑑』十巻 郭元振『定遠安辺策』三巻 呉兢『兵家正史』九巻 李処祐『兵法』 開元年間(713-741)左衛中郎将で、詔を奉って撰述した。巻数は亡佚した。 鄭虔『天宝軍防録』巻数は亡佚した。 劉秩『止戈記』七巻 『至徳新議』十二巻 董承祖『至徳元宝玉函経』十巻 李光弼『統軍霊轄秘策』一巻 一本には『武記』とする。 裴守一『軍誡』三巻 『裴子新令』二巻 裴緒。 韓滉『天事序議』一巻 韋皋『開復西南夷事状』十七巻 范伝正『西陲要略』三巻 王公亮『兵書』十八巻 長慶元年(821)撰上した。商州刺史。 『行師類要』七巻 燕僧利正『長慶人事軍律』三巻 李渤『禦戎新録』二十巻 李徳裕『西南備辺録』十三巻 杜希全『新集兵書要訣』三巻 張道古『兵論』一巻 字は子美、景福年間(892-893)に進士に及第した。 右、兵書類は二十三家、六十部、三百一十九巻である。姓名を失ったのは十四家、李筌以下で著録しなかったのは二十五家、一百六十三巻である。 史蘇沈思経一巻 焦氏周易林十六巻焦贛。 京氏周易四時候二巻京房。 又周易飛候六巻 周易混沌四巻 周易錯卦八巻 逆刺三巻 費氏周易逆刺占災異十二巻費直。 又周易林二巻 崔氏周易林十六巻崔篆。 鄭玄注九宮行碁経三巻 管輅周易林四巻 又鳥情逆占一巻 張滿周易林七巻 許氏周易雑占七巻許峻。 尚広周易雑占八巻 武氏周易雑占八巻 魏伯陽周易参同契二巻 又周易五相類一巻 徐氏周易筮占二十四巻徐苗。 伏曼容周易集林十二巻 伏氏周易集林一巻 杜氏新易林占三巻 梁運周易雑占筮訣文二巻 虞翻周易集林律暦一巻 郭璞周易洞林解三巻 梁元帝連山三十巻 又洞林三巻 郭氏易脳一巻 周易立成占六巻 易林十四巻 周易新林一巻 易律暦一巻 周易服薬法一巻 易三備三巻 又三巻 易髓一巻 周易問十巻 周易雑図序一巻 周易八卦斗内図一巻 又三巻 周易内卦神筮法二巻 周易雑筮占四巻 老子神符易一巻 孝経元辰二巻 推元辰厄命一巻 元辰章三巻 元辰一巻 雑元辰禄命二巻 湴河禄命二巻 孫僧化六甲開天暦一巻 翼奉風角要候一巻 王琛風角六情訣一巻 又推産婦何時産法一巻 九宮行碁立成一巻 禄命書二巻 遁甲開山図一巻 劉孝恭風角鳥情二巻 又禄命書二十巻 鳥情占一巻 風角十巻 九宮経解三巻 婚嫁書二巻 登壇経一巻 太一大游暦二巻 大游太一暦一巻 曜霊経一巻 七政暦一巻 六壬暦一巻 六壬択非経六巻 霊宝登図一巻 梁主榮光明符十二巻 推二十四氣暦一巻 太一暦一巻 曹氏黄帝式経三十六用一巻 玄女式経要訣一巻 董氏大龍首式経一巻 桓公式経一巻 宋琨式経一巻 六壬式経雑占九巻 雷公式経一巻 太一式経二巻 太一式経雑占十巻 黄帝式用常陽経一巻 黄帝龍首経二巻 黄帝集霊三巻 黄帝降国一巻 黄帝斗暦一巻 太史公万歳暦一巻司馬談。 万歳暦祠二巻 任氏千歳暦祠二巻 挙百事要略一巻 張衡黄帝飛鳥暦一巻 太一飛鳥暦一巻 太一九宮雑占十巻 九宮経三巻 堪輿暦注二巻 殷紹黄帝四序堪輿一巻 地節堪輿二巻 伍子胥遁甲文一巻 信都芳遁甲経二巻 葛洪三元遁甲図三巻 許昉三元遁甲六巻 杜仲三元遁甲一巻 榮氏遁甲開山図二巻 遁甲経十巻 遁甲囊中経一巻 遁甲推要一巻 遁甲秘要一巻 遁甲九星暦一巻 遁甲万一訣三巻 三元遁甲立成図二巻 遁甲立成法三巻 遁甲九宮八門図一巻 遁甲三奇三巻 陽遁甲九巻 陰遁甲九巻 遁甲三元九甲立成一巻 白沢図一巻 武王須臾二巻 師曠占書一巻 東方朔占書一巻 淮南王万畢術一巻 楽産神枢霊轄十巻 柳彦詢亀経三巻 柳世隆亀経三巻 劉宝真亀経一巻 王弘礼亀経一巻 荘道名亀経一巻 蕭吉五行記五巻 又五姓宅経二十巻 葬経二巻 王璨新撰陰陽書三十巻 青烏子三巻 葬経八巻 又十巻 葬書地経一巻 墓書五陰一巻 雑墓図一巻 墓図立成一巻 六甲冢名雑忌要訣二巻 郭氏五姓墓図要訣五巻 壇中伏尸一巻 胡君玄女彈五音法相冢経一巻 百怪書一巻 祠経一巻 解文一巻 周宣占夢書三巻 又二巻 孫思邈亀経一巻 又五兆算経一巻 亀上五兆動搖経訣一巻 福禄論三巻 李淳風四民福禄論三巻 又玄悟経三巻 太一元鑑五巻 占燈経一巻 注鄭玄九旗飛変一巻 三元経一巻 太一枢会賦一巻玄宗注。 崔知悌産図一巻 呂才陰陽書五十三巻 広済陰陽百忌暦一巻 大唐地理経十巻貞観中上。 袁天綱相書七巻 要訣三巻 陳恭釗天宝暦二巻天宝中詔定。 趙同珍壇経一巻 黎幹蓬瀛書三巻 賈唐七聖暦一巻 李遠龍紀聖異暦一巻 竇維鋈広古今五行記三十巻 濮陽夏樵子五行志五巻 禄命人元経三巻 楊龍光推計禄命厄運詩一巻 王希明太一金鏡式経十巻開元中詔撰。 僧一行天一太一経一巻 又遁甲十八局一巻 太一局遁甲経一巻 五音地理経十五巻 六壬明鏡連珠歌一巻 六壬髓経三巻 馬先天宝太一霊応式記五巻 李鼎祚連珠明鏡式経十巻開耀中上之。 蕭君靖遁甲図開元僕寺主簿、奉詔撰。巻亡。 司馬驤遁甲符宝万歳経国暦一巻驤與弟裕同撰。 曹士蒍金匱経三巻 馬雄絳囊経一巻雄稱居士。 李靖玉帳経一巻 李筌六壬大玉帳歌十巻 王叔政推太歳行年吉凶厄一巻 由吾公裕葬経三巻 孫季邕葬範三巻 盧重元夢書四巻開元人。 柳璨夢雋一巻 右五行類六十家、一百六十部、六百四十七巻失姓名六十五家、袁天綱以下不著録二十五家、一百三十二巻。 郝沖・虞譚法投壺経一巻 魏文帝皇博経一巻 大小博法二巻 大博経行碁戯法二巻 鮑宏小博経一巻 博塞経一巻 雑博戯五巻 隋煬帝二儀簿経一巻 范汪等注碁品五巻 梁武帝碁評一巻 碁勢六巻 圍碁後九品序録一巻 竹苑仙碁図一巻 周武帝象経一巻 何妥象経一巻 王褒象経一巻 王裕注象経一巻 今古術芸十五巻 名手画録一巻 李嗣真画後品一巻 礼図等雑画五十六巻 漢王元昌画漢賢王図 閻立徳画文成公主降蕃図 玉華宮図 闘雞図 閻立本画秦府十八学士図 凌煙閣功臣二十四人図 范長寿画風俗図 酔道士図 王定画本草訓誡図貞観尚方令。 檀智敏画游春戯芸図振武校尉。 殷・韋忝画皇朝九聖図 高祖及諸王図 太宗自定輦上図 開元十八学士図開元人。 董萼画盤車図開元人、字重照。 曹元廓画後周北斉梁陳隋武徳貞観永徽等朝臣図 高祖太宗諸子図 秦府学士図 凌煙図武后左尚方令。 楊昇画望賢宮図 安禄山真 張萱画少女図 乳母将嬰兒図 按羯鼓図 鞦韆図並開元館画直。 談皎画武恵妃舞図 佳麗寒食図 佳麗伎楽図 韓幹画龍朔功臣図 姚宋及安禄山図 相馬図 玄宗試馬図 寧王調馬打毬図大梁人、太府寺丞。 陳宏画安禄山図 玄宗馬射図 上黨十九瑞図永王府長史。 王象画鹵簿図 田琦画洪崖子橘木図徳平子、汝南太守。 竇師綸画内庫瑞錦対雉闘羊翔鳳游麟図字希言、太宗秦王府諮議・相国録事参軍、封陵陽公。 韋鶠画天竺胡僧渡水放牧図鑾子。 周昉画撲蝶・按箏・楊真人降真・五星等図各一巻字景玄。 張彦遠歴代名画記十巻 姚最続画品一巻 裴孝源画品録一巻中書舎人、記貞観・顕慶年事。 顧況画評一巻 朱景玄唐画断三巻会昌人。 竇蒙画拾遺巻亡。 呉恬画山水録巻亡。恬一名玢、字建康、青州人。 王琚射経一巻 張守忠射記一巻 任権弓箭論一巻 上官儀投壺経一巻 王積薪金谷園九局図一巻開元待詔。 韋珽碁図一巻 呂才大博経二巻 董叔経博経一巻貞元中上。 李郃骰子選格三巻字中玄、賀州刺史。 右雑芸術類十一家、二十部、一百四十二巻。失姓名八家、張彦遠以下不著録一十六家、一百一十七巻。 何承天并合皇覧一百二十二巻 徐爰并合皇覧八十四巻 劉孝標類苑一百二十巻 劉杳寿光書苑二百巻 徐勉華林遍略六百巻 祖孝徴等修文殿御覧三百六十巻 虞綽等長洲玉鏡二百三十八巻 諸葛潁玄門宝海一百二十巻 張氏書図泉海七十巻 要録六十巻 検事書一百六十巻 帝王要覧二十巻 文思博要一千二百巻 目十二巻右僕射高士廉・左僕射房玄齢・特進魏徴・中書令楊師道・兼中書侍郎岑文本・礼部侍郎顔相時・国子司業朱川奢・博小劉伯荘・太学博士馬嘉運・給事中許敬宗・司文郎中崔行功・太常博士呂才・秘烏丞李淳風・起居郎褚遂良・晋王友姚思廉・太子舎人司馬宅相等奉詔撰、貞観十五年上。 許敬宗搖山玉彩五百巻孝敬皇帝令太子少師許敬宗・司議郎孟利貞・崇賢館学士郭瑜顧胤・右史董思恭等撰。 累璧四百巻 又目録四巻許敬宗等撰、龍朔元年上。 東殿新書二百巻許敬宗・李義府奉詔於武徳内殿修撰。其書自史記至晋書刪其繁辞。龍朔元年上、高宗製序。 欧陽詢芸文類聚一百巻令狐徳棻・袁朗・趙弘智等同修。 虞世南北堂書鈔一百七十三巻 張大素策府五百八十二巻 武后玄覧一百巻 三教珠英一千三百巻 目十三巻張昌宗・李嶠・崔湜・閻朝隠・徐彦伯・張説・沈佺期・宋之問・富嘉・喬侃・員半千・薛曜等撰。開成初改為海内珠英、武后所改字並復旧。 孟利貞碧玉芳林四百五十巻 玉藻瓊林一百巻 王義方筆海十巻 玄宗事類一百三十巻 又初学記三十巻張説類集要事以教諸王、徐堅・韋述・余欽・施敬本・張烜・李鋭・孫季良等分撰。 是光乂十九部書語類十巻開元末、自秘書省正字上、授集賢院修撰、後賜姓斉。 劉秩政典三十五巻 杜佑通典二百巻 蘇冕会要四十巻 続会要四十巻楊紹復・裴徳融・崔瑑・薛逢・鄭言・周膚敏・薛廷望・于珪・于球等撰、崔鉉監修。 陸贄備挙文言二十巻 劉綺荘集類一百巻 高丘詞集類略三十巻 陸羽警年十巻 張仲素詞圃十巻字繪之、元和翰林学士・中書舎人。 元氏類集三百巻元稹。 白氏経史事類三十巻白居易。一名六帖。 王氏千門四十巻王洛賓。 于立政類林十巻 郭道規事鑑五十巻 馬幼昌穿楊集四巻判目。 盛均十三家貼均、字之材、泉州南安人、終昭州刺史。以白氏六帖未備而広之、巻亡。 竇蒙青囊書十巻国子司業。 韋稔瀛類十巻 応用類対十巻 高測韻対十巻 温庭筠学海三十巻 王博古修文海十七巻 李途記室新書三十巻 孫翰錦繡谷五巻 張楚金翰苑七巻 皮氏鹿門家鈔九十巻皮日休、字襲美、咸通太常博士。 劉揚名戚苑纂要十巻 戚苑英華十巻袁説重修。 右類書類十七家、二十四部、七千二百八十八巻。失姓名三家、王義方以下不著録三十二家、一千三百三十八巻。 皇甫謐皇帝三部鍼経十二巻 張子存赤烏神鍼経一巻 黄帝鍼灸経十二巻 黄帝雑注鍼経一巻 黄帝鍼経十巻 玉匱鍼経十二巻 龍銜素鍼経并孔穴蝦図三巻 徐叔嚮鍼灸要鈔一巻 黄帝明堂経三巻 黄帝明堂三巻 楊玄注黄帝明堂経三巻 黄帝内経明堂十三巻 黄帝十二経明堂五蔵図一巻 曹氏黄帝十二経明堂偃側人図十二巻 秦承祖明堂図三巻 明堂孔穴五巻 秦越人黄帝八十一難経二巻 全元起注黄帝素問九巻 霊宝注黄帝九霊経十二巻 黄帝甲乙経十二巻 黄帝流注経一巻 三部四時五蔵辨候診色経一巻 経十巻 又二巻 徐氏経訣三巻 王子顒経二巻 歧伯灸経一巻 雷氏灸経一巻 五蔵訣一巻 五蔵論一巻 賈和光鈴和子十巻 王冰注黄帝素問二十四巻 釈文一巻冰号啓元子。 楊上善『注黄帝内経明堂類成』十三巻 又『黄帝内経太素』三十巻 甄権経一巻 鍼経鈔三巻 鍼方一巻 明堂人形図一巻 米遂明堂論一巻 右明堂経類一十六家、三十五部、二百三十一巻。失姓名十六家、甄権以下不著録二家、七巻。 神農本草三巻 雷公集撰神農本草四巻 呉氏本草因六巻呉普。 李氏本草三巻 原平仲霊秀本草図六巻 殷子厳本草音義二巻 本草用薬要妙九巻 本草病源合薬節度五巻 本草要術三巻 療疽耳眼本要妙五巻 桐君薬録三巻 徐之才雷公薬対二巻 僧行智諸薬異名十巻 薬類二巻 薬目要用二巻 四時採取諸薬及合和四巻 名医別録三巻 呉景諸病源候論五十巻 巣氏諸病源候論五十巻巣元方。 徐嗣伯雑病論一巻 又徐氏落年方三巻 彭祖養性経一巻 張湛養生要集十巻 延年秘録十二巻 秦承祖薬方四十巻 呉普集華氏薬方十巻華佗。 葛洪肘後救卒方六巻 梁武帝坐右方十巻 如意方十巻 陶弘景集注神農本草七巻 又効験方十巻 補肘後救卒備急方六巻 太清玉石丹薬要集三巻 太清諸草木方集要三巻 隋煬帝敕撰四海類聚単方十六巻 王叔和張仲景薬方十五巻 又傷寒卒病論十巻 阮河南方十六巻阮炳。 尹穆纂范東陽雑薬方一百七十巻范汪。 胡居士治百病要方三巻胡洽。 徐叔嚮雑療方二十巻 又體療雑病方六巻 脚弱方八巻 解寒食方十五巻 阮河南薬方十七巻 褚澄雑薬方十二巻 陳山提雑薬方十巻 謝泰黄素方二十五巻 孝思雑湯丸散方五十七巻 謝士太刪繁方十二巻 徐之才徐王八代効験方十巻 又家秘方三巻 范世英千金方三巻 姚僧垣集験方十巻 陳延之小品方十二巻 蘇游玄感伝屍方一巻 又太一鉄胤神丹方三巻 兪氏治小兒方四巻 兪宝小女節療方一巻 僧僧深集方三十巻 僧鸞調氣方一巻 龔慶宣劉涓子男方十巻 甘濬之療疽金瘡要方十四巻 甘伯斉療疽金瘡要方十二巻 雑薬方六巻 雑丸方一巻 名医集験方三巻 百病膏方十巻 雑湯方八巻 療目方五巻 寒食散方并消息節度二巻 婦人方十巻 又二十巻 少女方十巻 少女雑方二十巻 類聚方二千六百巻 種芝経九巻 芝草図一巻 諸葛潁淮南王食経一百三十巻 音十三巻 食目十巻 盧仁宗食経三巻 崔浩食経九巻 竺暄食経四巻 又十巻 趙武四時食法一巻 太官食法一巻 太官食方十九巻 四時御食経一巻 抱朴子太清神仙服食経五巻 沖和子太清璿璣文七巻 太清神丹中経三巻 太清神仙服食経五巻 太清諸丹薬要録四巻 京里先生金匱仙薬録三巻 神仙服食経十二巻 神仙薬食経一巻 神仙服食方十巻 神仙服食薬方十巻 服玉法并禁忌一巻 寒食散論二巻 葛仙公録狐子方金訣二巻 狐子雑訣三巻 明月公陵陽子秘訣一巻 黄公神臨薬秘経一巻 黄白秘法一巻 又二十巻 葛氏房中秘術一巻 沖和子玉房秘訣十巻張鼎。 本草二十巻 目録一巻 薬図二十巻 図経七巻顕慶四年、英国公李勣・太尉長孫无忌・兼侍中辛茂将・太子賓客弘文館学士許敬宗・礼部郎中兼太子洗馬弘文館大学士孔志約・尚薬奉御許孝崇胡子彖蔣季璋・尚薬局直長藺復珪許弘直・侍御医巣孝倹・太子薬蔵監蔣季瑜呉嗣宗・丞蔣義方・太医令蔣季琬許弘・丞蔣茂昌・太常丞呂才賈文通・太史令李淳風・潞王府参軍呉師哲・礼部主事顔仁楚・右監門府長史蘇敬等撰。 孔志約本草音義二十巻 蘇敬新修本草二十一巻 又新修本草図二十六巻 本草音三巻 本草図経七巻 甄立言一作権。本草音義七巻 又本草薬性三巻 古今録験方五十巻 孟詵食療本草三巻 又補養方三巻 必效方十巻 宋俠経心方十巻 崔氏纂要方十巻崔行功。 崔知悌骨蒸病灸方一巻 王方慶新本草四十一巻 又薬性要訣五巻 袖中備急要方三巻 嶺南急要方二巻 針灸服薬禁忌五巻 李含光本草音義二巻 陳蔵器本草拾遺十巻開元中人。 鄭虔胡本草七巻 孫思邈千金方三十巻 又千金髓方二十巻 千金翼方三十巻 神枕方一巻 医家要妙五巻 楊太僕医方一巻失名。天授二年上。 衛嵩医門金宝鑑三巻 許詠六十四問一巻 段元亮病源手鏡一巻 伏氏医苑一巻伏適。 甘伯宗名医伝七巻 王超仙人水鏡図訣一巻貞観人。 呉兢五蔵論応象一巻 裴璡五蔵論一巻 劉清海五蔵類合賦五巻 裴王廷五色傍通五蔵図一巻 張文懿蔵府通元賦一巻 段元亮五蔵鏡源四巻 喩義纂療疽要訣一巻 瘡腫論一巻 沈泰之疽論二巻 青溪子万病拾遺三巻 又消渇論一巻 脚氣論三巻 李暄嶺南脚氣論一巻 又方一巻 脚氣論一巻蘇鑑・徐玉等編集。 鄭景岫南中四時摂生論一巻 蘇游鉄粉論一巻 陳元北京要術一巻元為太原少尹。 司空輿發焰録一巻図父、大中時商州刺史。 青羅子道光通元秘要術三巻失姓、咸通人。 乾寧晏先生制伏草石論六巻晏封。 江承宗刪繁薬詠三巻鳳翔節度要籍。 玄宗開元広済方五巻 劉貺真人肘後方三巻 王燾外台秘要方四十巻 又外台要略十巻 徳宗貞元集要広利方五巻 陸氏集験方十五巻陸贄。 賈備急単方一巻 薛弘慶兵部手集方三巻兵部尚書李絳所伝方。弘慶、大和河中少尹。 薛景晦古今集験方十巻 元和刑部郎中、貶道州刺史。 劉禹錫伝信方二巻 崔玄亮海上集験方十巻 楊氏産乳集験方三巻楊帰厚、元和中、自左拾遺貶鳳州司馬・虢州刺史。方九百一十一。 鄭注薬方一巻 韋氏集験独行方十二巻韋宙。 張文仲隨身備急方三巻 蘇越群方秘要三巻 李継皋南行方三巻 白仁敍唐興集験方五巻 包会応験方一巻 許孝宗篋中方三巻 梅崇獻方五巻 姚和衆童子秘訣三巻 又衆童延齢至宝方十巻 孫会嬰孺方十巻 邵英俊口歯論一巻 又排玉集二巻口歯方。 李昭明嵩台集三巻 陽膳夫経手録四巻 厳亀食法十巻震之後、鎮西軍節度使譔子也。昭宗時宣慰汴寨。 右医術類六十四家、一百二十部、四千四十六巻。失姓名三十八家、王方慶以下不著録五十五家、四百八巻。
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/133.html
資治通鑑巻第三十 漢紀二十二 孝成皇帝上之上 建始元年(己丑、前三二) 1春,正月,乙丑,悼考廟災。 1. 2石顯遷長信中太僕,秩中二千石。顯既失倚,離權,於是丞相、御史條奏顯舊惡;及其黨牢梁、陳順皆免官,顯與妻子徙歸故郡,憂懣不食,道死。諸所交結以顯爲官者,皆廢罷;少府五鹿充宗左遷玄菟太守,御史中丞伊嘉爲雁門都尉。司隸校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚,知顯等顓權擅勢,大作威福,爲海内患害,不以時白奏行罰,而阿諛曲從,附下罔上,懷邪迷國,無大臣輔政之義,皆不道!在赦令前。赦後,衡、譚舉奏顯,不自陳不忠之罪,而反揚著先帝任用傾覆之徒,妄言『百官畏之,甚於主上』;卑君尊臣,非所宜稱,失大臣體!」於是衡漸懼,免冠謝罪,上丞相、侯印綬。天子以新即位,重傷大臣,乃左遷尊爲高陵令。然羣下多是尊者。衡嘿嘿不自安,毎有水旱,連乞骸骨讓位。上輒以詔書慰撫,不許。 2. 3立故河間王元弟上郡庫令良爲河間王。 3. 4有星孛于營室。 4. 5赦天下。 5. 6壬子,封舅諸吏、光祿大夫、關内侯王崇爲安成侯;賜舅譚、商、立、根、逢時爵關内侯。夏,四月,黄霧四塞,詔博問公卿大夫,無有所諱。諫大夫楊興、博士駟勝等對,皆以爲「陰盛侵陽之氣也。高祖之約,非功臣不侯。今太后諸弟皆以無功爲侯,外戚未曾有也,故天爲見異。」於是大將軍鳳懼,上書乞骸骨,辭職。上優詔不許。 6. 7御史中丞東海薛宣上疏曰:「陛下至德仁厚,而嘉氣尚凝,陰陽不和,殆吏多苛政。部刺史或不循守條職,舉錯各以其意,多與郡縣事,至開私門,聽讒佞,以求吏民過,譴呵及細微,責義不量力;羣縣相迫促,亦内相刻,流至衆庶。是故郷黨闕於嘉賓之歡,九族忘其親親之恩,飲食周急之厚彌衰,送往勞來之禮不行。夫人道不通則陰陽否隔,和氣不興,未必不由此也。詩云:『民之失德,乾□侯以愆。』鄙語曰:『苛政不親,煩苦傷恩。』方刺史奏事時,宜明申敕,使昭然知本朝之要務。」上嘉納之。 7. 8八月,有兩月相承,晨見東方。 8. 9冬,十二月,作長安南、北郊,罷甘泉、汾陰祠,及紫壇偽飾、女樂、鸞路、騂駒、龍馬、石壇之屬。 9. 二年(庚寅、前三一) 1春,正月,罷雍五畤及陳寶祠,皆從匡衡之請也。辛巳,上始郊祀長安南郊。赦奉郊縣及中都官耐罪徒;減天下賦錢,算四十。 1. 2閏月,以渭城延陵亭部爲初陵。 2. 3三月,辛丑,上始祠后土於北郊。 3. 4丙午,立皇后許氏。後,車騎將軍嘉之女也。元帝傷母恭哀後居位日淺而遭霍氏之辜,故選嘉女以配太子。 4. 5上自爲太子時,以好色聞;及即位,皇太后詔采良家女以備後宮。大將軍武庫令杜欽説王鳳曰:「禮,一娶九女,所以廣嗣重祖也。娣侄雖缺不復補,所以養壽塞爭也。故后妃有貞淑之行,則胤嗣有賢聖之君;制度有威儀之節,則人君有壽考之福。廢而不由,則女德不厭;女德不厭,則壽命不究於高年。男子五十,好色未衰;婦人四十,容貌改前;以改前之容侍於未衰之年,而不以禮爲制,則其原不可救而後徠異態;後徠異態,則正後自疑,而支庶有間適之心。是以晉獻被納讒之謗,申生蒙無罪之辜。今聖主富於春秋,未有適嗣,方郷術入學,未親后妃之議。將軍輔政,宜因始初之隆,建九女之制,詳擇有行義之家,求淑女之質,毋必有聲色技能,爲萬世大法。夫少戒之在色,小卞之作,可爲寒心。唯將軍常以爲憂!」鳳白之太后,太后以爲故事無有;鳳不能自立法度,循故事而已。鳳素重欽,故置之莫府,國家政謀常與欽慮之,數稱達名士,裨正闕失;當世善政多出於欽者。 5. 6夏,大旱。 6. 7匈奴呼韓邪單于嬖左伊秩訾兄女二人;長女顓渠閼氏生二子,長曰且莫車,次曰囊知牙斯;少女爲大閼氏,生四子,長曰雕陶莫皋,次曰且麋胥,皆長於且莫車,少子咸、樂二人,皆小於囊知牙斯。又它閼氏子十餘人。顓渠閼氏貴,且莫車愛,呼韓邪病且死,欲立且莫車。顓渠閼氏曰:「匈奴亂十餘年,不絶如發,賴蒙漢力,故得復安。今平定未久,人民創艾戰鬥。且莫車年少,百姓未附,恐復危國。我與大閼氏一家共子,不如立雕陶莫皋。」大閼氏曰:「且莫車雖少,大臣共持國事。今捨貴立賤,後世必亂。」單于卒從顓渠閼氏計,立雕陶莫皋,約令傳國與弟。呼韓邪死,雕陶莫皋立,爲復株累若鞮單于。復株累若鞮單于以且麋胥爲左賢王,且莫車爲左谷蠡王,囊知牙斯爲右賢王。復株累單于復妻王昭君,生二女,長女雲爲須卜居次,小女爲當於居次。 7. 三年(辛卯、前三〇) 1春,三月,赦天下徒。 1. 2秋,關内大雨四十餘日。京師民相驚,言大水至;百姓奔走相蹂躪,老弱號呼,長安中大亂。天子親御前殿,召公卿議。大將軍鳳以爲:「太后與上及後宮可御船,令吏民上長安城以避水。」君臣皆從鳳議。左將軍王商獨曰:「自古無道之國,水猶不冒城郭;今政治和平,世無兵革,上下相安,何因當有大水一日暴至,此必訛言也!不宜令上城,重驚百姓。」上乃止。有頃,長安中稍定;問之,果訛言。上於是美壯商之固守,數稱其議;而鳳大慚,自恨失言。 2. 3上欲專委任王鳳,八月,策免車騎將軍許嘉,以特進侯就朝位。 3. 4張譚坐選舉不實,免。冬,十月,光祿大夫尹忠爲御史大夫。 4. 5十二月,戊申朔,日有食之。其夜,地震未央宮殿中。詔舉賢良方正能直言極諫之士。杜欽及太常丞谷永上對,皆以爲後宮女寵太盛,嫉妒專上,將害繼嗣之咎。 5. 6越巂山崩。 6. 7丁丑,匡衡坐多取封邑四百頃,監臨盜所主守直十金以上,免爲庶人。 7. 四年(壬辰,前二九) 1春,正月,癸卯,隕石於亳四,隕於肥累二。 1. 2罷中書宦官。初置尚書員五人。 2. 3三月,甲申,以左將軍樂昌侯王商爲丞相。 3. 4夏,上悉召前所舉直言之士,詣白虎殿對策。是時上委政王鳳,議者多歸咎焉。谷永知鳳方見柄用,陰欲自托,乃曰:「方今四夷賓服,皆爲臣妾,北無熏葷、冒頓之患,南無趙佗、呂嘉之難,三垂晏然,靡有兵革之警。諸侯大者乃食數縣,漢吏制其權柄,不得有爲,無呉、楚、燕、梁之勢。百官盤互,親疏相錯,骨肉大臣有申伯之忠,洞洞屬屬,小心畏忌,無重合、安陽、博陸之亂。三者無毛髮之辜,竊恐陛下捨昭昭之白過,忽天地之明戒,聽晻昧之瞽説,歸咎乎無辜,倚異乎政事,重失天心,不可之大者也。陛下誠深察愚臣之言,抗湛溺之意,解偏駁之愛,奮乾剛之威,平天覆之施,使列妾得人人更進,益納宜子婦人,毋擇好醜,毋避嘗字,毋論年齒。推法言之,陛下得繼嗣於微賤之間,乃反爲福;得繼嗣而已,母非有賤也。後宮女史、使令有直意者,廣求於微賤之間,以遇天所開右,慰釋皇太后之憂慍,解謝上帝之譴怒,則繼嗣蕃滋,災異訖息!」杜欽亦仿此意。上皆以其書示後宮,擢永爲光祿大夫。 4. 5夏,四月,雨雪。 5. 6秋,桃、李實。 6. 7大雨水十餘日,河決東郡金堤。先是清河都尉馮逡奏言:「郡承河下流,土壤輕脆易傷,頃所以闊無大害者,以屯氏河通兩川分流也。今屯氏河塞,靈鳴犢口又益不利,獨一川兼受數河之任,雖高增堤防,終不能洩。如有霖雨,旬日不霽,必盈溢。九河故跡,今既滅難明,屯氏河新絶未久,其處易浚;又其口所居高,於以分殺水力,道里便宜,可復浚以助大河,洩暴水,備非常。不豫修治,北決病四、五郡,南決病十餘郡,然後憂之,晩矣!」事下丞相、御史,白遣博士許商行視,以爲「方用度不足,可且勿浚。」後三歳,河果決於館陶及東郡金堤,氾濫兗、豫,入平原、千乘、濟南,凡灌四郡、三十二縣,水居地十五萬餘頃,深者三丈;壞敗官亭、室廬且四萬所。 冬,十一月,御史大夫尹忠以對方略疏闊,上切責其不憂職,自殺。遣大司農非調調均錢谷河決所灌之郡,謁者二人發河南以東船五百□叟,徙民避水居丘陵九萬七千餘口。 7. 8壬戌,以少府張忠爲御史大夫。 8. 9南山羣盜傰宗等數百人爲吏民害。詔發兵千人逐捕,歳餘不能禽。或説大將軍鳳,以「賊數百人在轂下,討不能得,難以示四夷;獨選賢京兆尹乃可。」於是鳳薦故高陵令王尊,征爲諫大夫,守京輔都尉,行京兆尹事。旬月間,盜賊清;後拜爲京兆尹。 9. 10上即位之初,丞相匡衡復奏:「射聲校尉陳湯以吏二千石奉使,顓命蠻夷中,不正身以先下,而盜所收康居財物,戒官屬曰:『絶域事不覆校。』雖在赦前,不宜處位。」湯坐免。後湯上言:「康居王侍子,非王子。」按驗,實王子也。湯下獄當死。 太中大夫谷永上疏訟湯曰:「臣聞楚有子玉得臣,文公爲之仄席而坐;趙有廉頗、馬服,強秦不敢窺兵井陘;近漢有郅都、魏尚,匈奴不敢南郷沙幕。由是言之,戰克之將,國之爪牙,不可不重也。蓋君子聞鼓鼙之聲,則思將帥之臣。竊見關内侯陳湯,前斬郅支,威震百蠻,武暢西海,漢元以來,征伐方外之將,未嘗有也。今湯坐言事非是,幽囚久繋,歴時不決,執憲之吏欲致之大辟。昔白起爲秦將,南拔郢都,北坑趙括,以纖介之過,賜死杜郵;秦民憐之,莫不隕涕。今湯親秉鉞席捲,喋血萬里之外,薦功祖廟,告類上帝,介冑之士靡不慕義。以言事爲罪,無赫赫之惡。周書曰:『記人之功,忘人之過,宜爲君者也。』夫犬馬有勞於人,尚加帷蓋之報,況國之功臣者哉!竊恐陛下忽於鼙鼓之聲,不察周書之意,而忘帷蓋之施,庸臣遇湯,卒從吏議,使百姓介然有秦民之恨,非所以厲死難之臣也!」 書奏,天子出湯,奪爵爲士伍。會西域都護段會宗爲烏孫兵所圍,驛騎上書,願發城郭、敦煌兵以自救;丞相商、大將軍鳳及百寮議數日不決。鳳言:「陳湯多籌策,習外國事,可問。」上召湯見宣室。湯撃郅支時中寒,病兩臂不屈申;湯入見,有詔毋拜,示以會宗奏。湯對曰:「臣以爲此必無可憂也。」上曰:「何以言之?」湯曰:「夫胡兵五而當漢兵一,何者?兵刃樸鈍,弓弩不利。今聞頗得漢巧,然猶三而當一。又兵法曰:『客倍而主人半,然後敵。』今圍會宗者人衆不足以勝會宗。唯陛下勿憂!且兵輕行五十里,重行三十里,今會宗欲發城郭、敦煌,歴時乃至,所謂報讎之兵,非救急之用也。」上曰:「奈何?其解可必乎?度何時解?」湯知烏孫瓦合,不能久攻,故事不過數日,因對曰:「已解矣!」屈指計其日,曰:「不出五日,當有吉語聞。」居四日,軍書到,言已解。大將軍鳳奏以爲從事中郎,莫府事壹決於湯。 10. 河平元年(癸巳、前二八) 1春,杜欽薦犍爲王延世於王鳳,使塞決河。鳳以延世爲河堤使者。延世以竹落長四丈,大九圍,盛以小石,兩船夾載而下之。三十六日,河堤成。三月,詔以延世爲光祿大夫,秩中二千石,賜爵關内侯、黄金百斤。 1. 2夏,四月,己亥晦,日有食之。詔公卿百僚陳過失,無有所諱。大赦天下。光祿大夫劉向對曰:「四月交於五月,月同孝惠,日同孝昭,其占恐害繼嗣。」是時許皇后專寵,後宮希得進見,中外皆憂上無繼嗣,故杜欽、谷永及向所對皆及之。 上於是減省椒房、掖廷用度,服御、輿駕所發諸官署及所造作,遺賜外家、羣臣妾,皆如竟寧以前故事。皇后上疏自陳,以爲:「時世異制,長短相補,不出漢制而已,纖微之間未必可同。若竟寧前與黄龍前,豈相放哉!家吏不曉,今壹受詔如此,且使妾搖手不得。設妾欲作某屏風張於某所,曰:『故事無有。』或不能得,則必繩妾以詔書矣。此誠不可行,唯陛下省察!故事,以特牛祠大父母,戴侯、敬侯皆得蒙恩以太牢祠,今當率如故事,唯陛下哀之!今吏甫受詔讀記,直豫言使後知之,非可復若私府有所取也。其萌牙所以約制妾者,恐失人理。唯陛下深察焉!」上於是采谷永、劉向所言災異咎驗皆在後宮之意以報之,且曰:「吏拘於法,亦安足過!蓋矯枉者過直,古今同之。且財幣之省,特牛之祠,其於皇后,所以扶助德美,爲華寵也。咎根不除,災變相襲,祖宗且不血食,何戴侯也!傳不雲乎:『以約失之者鮮』,審皇后欲從其奢與?朕亦當法孝武皇帝也。如此,則甘泉、建章可復興矣。孝文皇帝,朕之師也。皇太后,皇后成法也。假使太后在彼時不如職,今見親厚,又惡可以踰乎!皇后其刻心秉德,謙約爲右,垂則列妾,使有法焉!」 2. 3給事中平陵平當上言:「太上皇,漢之始祖,廢其寢廟園,非是。」上亦以無繼嗣,遂納當言。秋,九月,復太上皇寢廟園。 3. 4詔曰:「今大辟之刑千有餘條,律令煩多,百有餘萬言;奇請,它比,日以益滋。自明習者不知所由,欲以曉喩衆庶,不亦難乎!於以羅元元之民,夭絶亡辜,豈不哀哉!其議減死刑及可蠲除約省者,令較然易知,條奏!」時有司不能廣宣上意,徒鉤摭微細,毛舉數事,以塞詔而已。 4. 5匈奴單于遣右皋林王伊邪莫演等奉獻,朝正月。 5. 二年(甲午、前二七) 1春,伊邪莫演罷歸,自言欲降:「即不受我,我自殺,終不敢還歸。」使者以聞,下公卿議。議者或言:「宜如故事,受其降。」光祿大夫谷永、議郎杜欽以爲:「漢興,匈奴數爲邊害,故設金爵之賞以待降者。今單于屈體稱臣,列爲北籓,遣使朝賀,無有二心。漢家接之,宜異於往時。今既享單于聘貢之質,而更受其逋逃之臣,是貪一夫之得而失一國之心,擁有罪之臣而絶慕義之君也。假令單于初立,欲委身中國,未知利害,私使伊邪莫演詐降以卜吉凶,受之,虧德沮善,令單于自疏,不親邊吏;或者設爲反間,欲因而生隙,受之,適合其策,使得歸曲而責直。此誠邊境安危之原,師旅動靜之首,不可不詳也。不如勿受,以昭日月之信,抑詐諼之謀,懷附親之心,便!」對奏,天子從之。遣中郎將王舜往問降状,伊邪莫演曰:「我病狂,妄言耳。」遣去。歸到,官位如故,不肯令見漢使。 1. 2夏,四月,楚國雨雹,大如釜。 2. 3徙山陽王康爲定陶王。 3. 4六月,上悉封諸舅:王譚爲平阿侯,商爲成都侯,立爲紅陽侯,根爲曲陽侯,逢時爲高平侯。五人同日封,故世謂之「五侯」。太后母李氏更嫁爲河内苟賓妻,生子參;太后欲以田□分爲比而封之。上曰:「封田氏,非正也。」以參爲侍中、水衡都尉。 4. 5御史大夫張忠奏京兆尹王尊暴虐倨慢,尊坐免官;吏民多稱惜之。湖三老公乘興等上書訟:「尊治京兆,撥劇整亂,誅暴禁邪,皆前所稀有,名將所不及;雖拜爲眞,未有殊絶褒賞加於尊身。今御史大夫奏尊『傷害陰陽,爲國家憂,無承用詔書意,『靖言庸違,像龔滔天。』」源其所以,出御史丞楊輔,素與尊有私怨,外依公事建畫爲此議,傅致奏文,浸潤加誣,臣等竊痛傷。尊修身潔己,砥節首公,刺譏不憚將相,誅惡不避豪強,誅不制之賊,解國家之憂,功著職修,威信不廢,誠國家爪牙之吏,折衝之臣。今一旦無辜制於仇人之手,傷於詆欺之文,上不得以功除罪,下不得蒙棘木之聽,獨掩怨讎之偏奏,被共工之大惡,無所陳冤訴罪。尊以京師廢亂,羣盜並興,選賢徴用,起家爲卿。賊亂既除,豪猾伏辜,即以佞巧廢黜。一尊之身,三期之間,乍賢乍佞,豈不甚哉!孔子曰:『愛之欲其生,惡之欲其死,是惑也。』『浸潤之譖不行焉,可謂明矣。』願下公卿、大夫、博士、議郎定尊素行!夫人臣而『傷害陰陽』,死誅之罪也;『靖言庸違』,放殛之刑也。審如御史章,尊乃當伏觀闕之誅,放於無人之域,不得苟免;及任舉尊者,當獲選舉之辜,不可但已。即不如章,飾文深詆以訴無罪,亦宜有誅,以懲讒賊之口,絶詐欺之路。唯明主參詳,使白黑分別!」書奏,天子復以尊爲徐州刺史。 5. 6夜郎王興、金句町王禹、漏臥侯兪更舉兵相攻。牂柯太守請發兵誅興等。議者以爲道遠不可撃,乃遣太中大夫蜀郡張匡持節和解。興等不從命,刻木象漢吏,立道旁,射之。 杜欽説大將軍王鳳曰:「蠻夷王侯輕易漢使,不憚國威,恐議者選耎,復守和解;太守察動靜有變,乃以聞。如此,則復曠一時,王侯得收獵其衆,申固其謀,黨助衆多,各不勝忿,必相殄滅。自知罪成,狂犯守尉,遠臧温暑毒草之地;雖有孫、呉將,賁、育士,若入水火,往必焦沒,智勇亡所施。屯田守之,費不可勝量。宜因其罪惡未成,未疑漢家加誅,陰敕旁郡守尉練士馬,大司農豫調谷積要害處,選任職太守往。以秋涼時入,誅其王侯尤不軌者。即以爲不毛之地,無用之民,聖王不以勞中國,宜罷郡,放棄其民,絶其王侯勿復通。如以先帝所立累世之功不可墮壞,亦宜因其萌牙,早斷絶之。及已成形然後戰師,則萬姓被害。」大將軍鳳於是薦金城司馬臨邛陳立爲牂柯太守。 立至牂柯,諭告夜郎王興,興不從命;立請誅之,未報。乃從吏數十人出行縣,至興國且同亭,召興。興將數千人往至亭,從邑君數十人入見立。立數責,因斷頭。邑君曰:「將軍誅無状,爲民除害,願出曉士衆!」以興頭示之,皆釋兵降。金句町王禹、漏臥侯兪震恐,入粟千斛、牛羊勞吏士。立還歸郡。 興妻父翁指,與子邪務收餘兵,迫脅旁二十二邑反。至冬,立奏募諸夷,與都尉、長史分將攻翁指等。翁指據厄爲壘,立使奇兵絶其饟道,縱反間以誘其衆。都尉萬年曰:「兵久不決,費不可共。」引兵獨進。敗走,趨立營。立怒,叱戲下令格之。都尉復還戰,立救之。時天大旱,立攻絶其水道。蠻夷共斬翁指,持首出降,西夷遂平。 6. 三年(乙未、前二六) 1春,正月,楚王囂來朝。二月,乙亥,詔以囂素行純茂,特加顯異,封其子勳爲廣戚侯。 1. 2丙戌,犍爲地震,山崩,壅江水,水逆流。 2. 3秋,八月,乙卯晦,日有食之。 3. 4上以中秘書頗散亡,使謁者陳農求遺書於天下。詔光祿大夫劉向校經傳、諸子、詩賦,歩兵校尉任宏校兵書,太史令尹咸校數術,侍醫李柱國校方技。毎一書已,向輒條其篇目,撮其指意,録而奏之。 4. 5劉向以王氏權位太盛,而上方向詩、書古文,向乃因尚書洪範,集合上古以來,歴春秋、六國至秦、漢符瑞、災異之記,推跡行事,連傅禍福,著其占驗,比類相從,各有條目,凡十一篇,號曰洪範五行傳論,奏之。天子心知向忠精,故爲鳳兄弟起此論也;然終不能奪王氏權。 5. 6河復決平原,流入濟南、千乘,所壞敗者半建始時。復遣王延世與丞相史楊焉及將作大匠許商、諫大夫乘馬延年同作治,六月乃成。復賜延世黄金百斤。治河卒非受平賈者,爲著外繇六月。 6. 四年(丙申、前二五) 1春,正月,匈奴單于來朝。 1. 2赦天下徒。 2. 3三月,癸丑朔,日有食之。 3. 4琅邪太守楊肜與王鳳連昏,其郡有災害,丞相王商按問之。鳳以爲請,商不聽,竟奏免肜,奏果寢不下。鳳以是怨商,陰求其短,使頻陽耿定上書,言「商與父傅婢通;及女弟淫亂,奴殺其私夫,疑商教使。」天子以爲暗昧之過,不足以傷大臣。鳳固爭,下其事司隸。太中大夫蜀郡張匡,素佞巧,復上書極言詆毀商。有司奏請召商詣詔獄。上素重商,知匡言多險,制曰:「勿治!」鳳固爭之。夏,四月,壬寅,詔收商丞相印綬。商免相三日,發病,歐血薨,謚曰戾侯。而商子弟親屬爲駙馬都尉、侍中、中常侍、諸曹、大夫、郎吏者,皆出補吏,莫得留給事、宿衞者。有司奏請除國邑;有詔:「長子安嗣爵爲樂昌侯。」 4. 5上之爲太子也,受論語於蓮勺張禹,及即位,賜爵關内侯,拜爲諸吏、光祿大夫,秩中二千石,給事中,領尚書事。禹與王鳳並領尚書,内不自安,數病,上書乞骸骨,欲退避鳳;上不許,撫待愈厚。六月,丙戌,以禹爲丞相,封安昌侯。 5. 6庚戌,楚孝王囂薨。 6. 7初,武帝通西域,罽賓自以絶遠,漢兵不能至,獨不服,數剽殺漢使。久之,漢使者文忠與容屈王子陰末赴合謀攻殺其王;立陰末赴爲罽賓王。後軍候趙德使罽賓,與陰末赴相失;陰末赴鎖琅當德,殺副已下七十餘人,遣使者上書謝。孝元帝以其絶域,不録,放其使者於縣度,絶而不通。 及帝即位,復遣使獻謝罪。漢欲遣使者報送其使。杜欽説王鳳曰:「前罽賓王陰末赴,本漢所立,後卒畔逆。夫德莫大於有國子民,罪莫大於執殺使者,所以不報恩,不懼誅者,自知絶遠,兵不至也。有求則卑辭,無慾則驕嫚,終不可懷服。凡中國所以爲通厚蠻夷,愜快其求者,爲壤比而爲寇。今縣度之厄,非罽賓所能越也;其郷慕,不足以安西域;雖不附,不能危城郭。前親逆節,惡暴西域,故絶而不通;今悔過來,而無親屬、貴人,奉獻者皆行賈賤人,欲通貨市買,以獻爲名,故煩使者送至縣度,恐失實見欺。凡遣使送客者,欲爲防護寇害也。起皮山,南更不屬漢之國四、五,斥候士百餘人,五分夜撃刁斗自守,尚時爲所侵盜。驢畜負糧,須諸國稟食,得以自贍。國或貧小不能食,或桀黠不肯給,擁強漢之節,餒山谷之間,乞丐無所得,離一、二旬,則人畜棄捐曠野而不反。又歴大頭痛、小頭痛之山,赤土、身熱之阪,令人身熱無色,頭痛嘔吐,驢畜盡然。又有三池盤、石阪道,狹者尺六七寸,長者徑三十里,臨崢嶸不測之深,行者騎歩相持,繩索相引,二千餘里,乃到縣度。畜墜,未半坑谷盡靡碎;人墮,勢不得相收視;險阻危害,不可勝言。聖王分九州,制五服,務盛内,不求外;今遣使者承至尊之命,送蠻夷之賈,勞吏士之衆,渉危難之路,罷敝所恃以事無用,非久長計也。使者業已受節,可至皮山而還。」於是鳳白從欽言。罽賓實利賞賜賈市,其使數年而壹至云。 7. 陽朔元年(丁酉、前二四) 1春,二月,丁未晦,日有食之。 1. 2三月,赦天下徒。 2. 3冬,京兆尹泰山王章下獄,死。 時大將軍鳳用事,上謙讓無所顓。左右嘗薦光祿大夫劉向少子歆通達有異材,上召見歆,誦讀詩賦,甚悅之,欲以爲中常侍;召取衣冠,臨當拜,左右皆曰:「未曉大將軍。」上曰:「此小事,何須關大將軍!」左右叩頭爭之,上於是語鳳,鳳以爲不可,乃止。 王氏子弟皆卿、大夫、侍中、諸曹,分據勢官,滿朝廷。杜欽見鳳專政泰重,戒之曰:「願將軍由周公之謙懼,損穰侯之威,放武安之欲,毋使范雎之徒得間其説。」鳳不聽。 時上無繼嗣,體常不平。定陶共王來朝,太后與上承先帝意,遇共王甚厚,賞賜十倍於它王,不以往事爲纖介;留之京師,不遣歸國。上謂共王:「我未有子,人命不諱。一朝有它,且不復相見,爾長留侍我矣!」其後天子疾益有瘳,共王因留國邸,旦夕侍上。上甚親重之。大將軍鳳心不便共王在京師,會日食,鳳因言:「日食,陰盛之象。定陶王雖親,於禮當奉籓在國;今留侍京師,詭正非常,故天見戒,宜遣王之國。」上不得已於鳳而許之。共王辭去,上與相對涕泣而決。 王章素剛直敢言,雖爲鳳所舉,非鳳專權,不親附鳳,乃奏封事,言:「日食之咎,皆鳳專權蔽主之過。」上召見章,延問以事。章對曰:「天道聰明,佑善而災惡,以瑞異爲符效。今陛下以未有繼嗣,引近定陶王,所以承宗廟,重社稷,上順天心,下安百姓,此正議善事,當有祥瑞,何故致災異!災異之發,爲大臣顓政者也。今聞大將軍猥歸日食之咎於定陶王,建遣之國,苟欲使天子孤立於上,顓擅朝事以便其私,非忠臣也。且日食,陰侵陽,臣顓君之咎。今政事大小皆自鳳出,天子曾不壹舉手,鳳不内省責,反歸咎善人,推遠定陶王。且鳳誣罔不忠,非一事也。前丞相樂昌侯商,本以先帝外屬,内行篤,有威重,位歴將相,國家柱石臣也,其人守正,不肯屈節隨鳳委曲;卒用閨門之事爲鳳所罷,身以憂死,衆庶愍之。又鳳知其小婦弟張美人已嘗適人,於禮不宜配御至尊,托以爲宜子,内之後宮,苟以私其妻弟;聞張美人未嘗任身就館也。且羌、胡尚殺首子以蕩腸正世,況於天子,而近已出之女也!此三者皆大事,陛下所自見,足以知其餘及它所不見者。鳳不可令久典事,宜退使就第,選忠賢以代之!」 自鳳之白罷商,後遣定陶王也,上不能平;及聞章言,天子感寤,納之,謂章曰:「微京兆尹直言,吾不聞社稷計。且唯賢知賢,君試爲朕求可以自輔者。」於是章奏封事,薦信都王舅琅邪太守馮野王,忠信質直,知謀有餘。以王舅出,以賢復入,明聖主樂進賢也。上自爲太子時,數聞野王先帝名卿,聲譽出鳳遠甚,方倚欲以代鳳。章毎召見,上輒辟左右。時太后從弟子侍中音獨側聽,具知章言,以語鳳。鳳聞之,甚憂懼。杜欽令鳳稱病出就第,上疏乞骸骨,其辭指甚哀。太后聞之,爲垂涕,不御食。上少而親倚鳳,弗忍廢,乃優詔報鳳,強起之;於是鳳起視事。 上使尚書劾奏章:「知野王前以王舅出補吏,而私薦之,欲令在朝,阿附諸侯;又知張美人體御至尊,而妄稱引羌胡殺子蕩腸,非所宜言。」下章吏。廷尉致其大逆罪,以爲「比上夷狄,欲絶繼嗣之端,背畔天子,私爲定陶王。」章竟死獄中,妻子徙合浦。自是公卿見鳳,側目而視。 馮野王懼不自安,遂病;滿三月,賜告,與妻子歸杜陵就醫藥。大將軍鳳風御史中丞劾奏「野王賜告養病而私自便,持虎符出界歸家,奉詔不敬。」杜欽奏記於鳳曰:「二千石病,賜告得歸,有故事;不得去郡,亡著令。傳曰:『賞疑從予,』所以廣恩勸功也;『罰疑從去,』所以愼刑,闕難知也。今釋令與故事而假不敬之法,甚違『闕疑從去』之意。即以二千石守千里之地,任兵馬之重,不宜去郡,將以制刑爲後法者,則野王之罪在未制令前也。刑賞大信,不可不愼。」鳳不聽,竟免野王官。時衆庶多冤王章譏朝廷者,欽欲救其過,復説鳳曰:「京兆尹章,所坐事密,自京師不曉,況於遠方!恐天下不知章實有罪,而以爲坐言事。如是,塞爭引之原,損寬明之德。欽愚以爲宜因章事舉直言極諫,並見郎從官,展盡其意,加於往前,以明示四方,使天下咸知主上聖明,不以言罪下也。若此,則流言消釋,疑惑著明。」鳳白行其策焉。 3. 4是歳,陳留太守薛宣爲左馮翊。宣爲郡,所至有聲跡。宣子惠爲彭城令,宣嘗過其縣,心知惠不能,不問以吏事。或問宣:「何不教戒惠以吏職?」宣笑曰:「吏道以法令爲師,可問而知;及能與不能,自有資材,何可學也!」衆人傳稱,以宣言爲然。 4. 二年(戊戌,前二三) 1春,三月,大赦天下。 1. 2御史大夫張忠卒。 2. 3夏,四月,丁卯,以侍中、太僕王音爲御史大夫。於是王氏愈盛,郡國守相、刺史皆出其門下。五侯羣弟爭爲奢侈,賂遺珍寶,四面而至,皆通敏人事,好士養賢,傾財施予以相高尚;賓客滿門,競爲之聲譽。劉向謂陳湯曰:「今災異如此,而外家日盛,其漸必危劉氏。吾幸得以同姓末屬,累世蒙漢厚恩,身爲宗室遺老,歴事三主。上以我先帝舊臣,毎進見,常加優禮。吾而不言,孰當言者!」遂上封事極諫曰:「臣聞人君莫不欲安,然而常危;莫不欲存,然而常亡;失御臣之術也。夫大臣操權柄,持國政,未有不爲害者也。故書曰:『臣之有作威作福,害於而家,凶於而國。』孔子曰:『祿去公室,政逮大夫,』危亡之兆也。今王氏一姓,乘硃輪華轂者二十三人,靑、紫、貂、蟬充盈幄内,魚鱗左右。大將軍秉事用權,五侯驕奢僭盛,並作威福,撃斷自恣,行汚而寄治,身私而托公,依東宮之尊,假甥舅之親,以爲威重。尚書、九卿、州牧、郡守皆出其門,管執樞機,朋黨比周;稱譽者登進,忤恨者誅傷;游談者助之説,執政者爲之言,排擯宗室,孤弱公族,其有智能者,尤非毀而不進,遠絶宗室之任,不令得給事朝省,恐其與己分權;數稱燕王、蓋主以疑上心,避諱呂、霍而弗肯稱。内有管、蔡之萌,外假周公之論,兄弟據重,宗族磐互,歴上古至秦、漢,外戚僭貴未有如王氏者也。物盛必有非常之變先見,爲其人微象。孝昭帝時,冠石立於泰山,僕柳起於上林,而孝宣帝即位。今王氏先祖墳墓在濟南者,其梓柱生枝葉,扶疏上出屋,根挿地中,雖立石起柳,無以過此之明也。事勢不兩大,王氏與劉氏亦且不並立,如下有泰山之安,則上有累卵之危。陛下爲人子孫,守持宗廟,而令國祚移於外親,降爲皁隸,縱不爲身,奈宗廟何!婦人内夫家而外父母家,此亦非皇太后之福也。孝宣皇帝不與舅平昌侯權,所以全安之也。夫明者起福於無形,銷患於未然,宜發明詔,吐德音,援近宗室,親而納信,黜遠外戚,毋授以政,皆罷令就弟,以則效先帝之所行,厚安外戚,全其宗族,誠東宮之意,外家之福也。王氏永存,保其爵祿,劉氏長安,不失社稷,所以褒睦外内之姓,子子孫孫無疆之計也。如不行此策,田氏復見於今,六卿必起於漢,爲後嗣憂,昭昭甚明。唯陛下深留聖思!」書奏,天子召見向,歎息悲傷其意,謂曰:「君且休矣,吾將思之。」然終不能用其言。 3. 4秋,關東大水。 4. 5八月,甲申,定陶共王康薨。 5. 6是歳,徙信都王興爲中山王。 6.
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/134.html
資治通鑑巻第三十一 漢紀二十三 孝成皇帝上之下 陽朔三年(己亥、前二二) 1春,三月,壬戌,隕石東郡八。 1. 2夏,六月,穎川鐵官徙申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歴九郡。遣丞相長史、御史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。 2. 3秋,王鳳疾,天子數自臨問,親執其手涕泣曰:「將軍病,如有不可言,平阿侯譚次將軍矣!」鳳頓首泣曰:「譚等雖與臣至親,行皆奢僭,無以率導百姓,不如御史大夫音謹敕,臣敢以死保之!」及鳳且死,上疏謝上,復固薦音自代,言譚等五人必不可用;天子然之。初,譚倨,不肯事鳳,而音敬鳳,卑恭如子,故鳳薦之。八月,丁巳,鳳薨。九月,甲子,以王音爲大司馬、車騎將軍,而王譚位特進,領城門兵。安定太守谷永以譚失職,勸譚辭讓,不受城門職;由是譚、音相與不平。 3. 4冬,十一月,丁卯,光祿勳於永爲御史大夫。永,定國之子也。 4. 四年(庚子、前二一) 1春,二月,赦天下。 1. 2夏,四月,雨雪。 2. 3秋,九月,壬申,東平思王宇薨。 3. 4少府王駿爲京兆尹。駿,吉之子也。先是,京兆有趙廣漢、張敞、王尊、王章、王駿,皆有能名,故京師稱曰:「前有趙、張,後有三王。」 4. 5閏月,壬戌,于永卒。 5. 6烏孫小昆彌烏就屠死,子拊離代立;爲弟日貳所殺。漢遣使者立拊離子安日爲小昆彌。日貳亡阻康居;安日使貴人姑莫匿等三人詐亡從日貳,刺殺之。於是西域諸國上書,願復得前都護段會宗;上從之。城郭諸國聞之,皆翕然親附。 6. 7谷永奏言:「聖王不以名譽加於實效;御史大夫任重職大,少府宣達於從政,唯陛下留神考察!」上然之。 7. 鴻嘉元年(辛丑、前二〇) 1春,正月,癸巳,以薛宣爲御史大夫。 1. 2二月,壬午,上行幸初陵,赦作徒;以新豐戲郷爲昌陵縣,奉初陵。 2. 3上始爲微行,從期門郎或私奴十餘人,或乘小車,或皆騎,出入市里郊野,遠至旁縣甘泉、長楊、五柞,鬥雞、走馬,常自稱富平侯家人。富平侯者,張安世四世孫放也。放父臨,尚敬武公主,生放,放爲侍中、中郎將,娶許皇后女弟,當時寵幸無比,故假稱之。 3. 4三月,庚戌,張禹以老病罷,以列侯朝朔、望,位特進,見禮如丞相,賞賜前後數千萬。 4. 5夏,四月,庚辰,薛宣爲丞相,封高陽侯;京兆尹王駿爲御史大夫。 5. 6王音既以從舅越親用事,小心親職。上以音自御史大夫入爲將軍,不獲宰相之封,六月,乙巳,封音爲安陽侯。 6. 7冬,黄龍見眞定。 7. 8是歳,匈奴復株累單于死,弟且糜胥立,爲搜諧若鞮單于;遣子左祝都韓王呴留斯侯入侍,以且莫車爲左賢王。 8. 二年(壬寅、前一九) 1春,上行幸雲陽、甘泉。 1. 2三月,博士行大射禮。有飛雉集於庭,歴階登堂而雊;後雉又集太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎將軍之府,又集未央宮承明殿屋上。車騎將軍音、待詔寵等上言:「天地之氣,以類相應;譴告人君,甚微而著。雉者聽察,先聞雷聲,故月令以紀氣。經載高宗雊雉之異,以明轉禍爲福之驗。今雉以博士行禮之日大衆聚會,飛集於庭,歴階登堂,萬衆睢睢,驚怪連日,逕歴三公之府,太常、宗正典宗廟骨肉之官,然後入宮,其宿留告曉人,具備深切;雖人道相戒,何以過是!」後帝使中常侍晁閎詔音曰:「聞捕得雉,毛羽頗摧折,類拘執者,得無人爲之?」音復對曰:「陛下安得亡國之語!不知誰主爲佞諂之計,誣亂聖德如此者!左右阿諛甚衆,不待臣音復諂而足。公卿以下,保位自守,莫有正言。如令陛下覺寤,懼大禍且至身,深責臣下,繩以聖法,臣音當先誅,豈有以自解哉!今即位十五年,繼嗣不立,日日駕車而出,失行流聞;海内傳之,甚於京師。外有微行之害,内有疾病之憂,皇天數見災異,欲人變更,終已不改。天尚不能感動陛下,臣子何望!獨有極言待死,命在朝暮而已。如有不然,老母安得處所,尚何皇太后之有!高祖天下當以誰屬乎!宜謀於賢智,克己復禮,以求天意,繼嗣可立,災變尚可銷也。」 2. 3初,元帝儉約,渭陵不復徙民起邑;帝起初陵,數年後,樂霸陵曲亭南,更營之。將作大匠解萬年使陳湯爲奏,請爲初陵徙民起邑,欲自以爲功,求重賞。湯因自請先徙,冀得美田宅。上從其言,果起昌陵邑。 夏,徙郡國豪桀貲五百萬以上五千戸於昌陵。 3. 4五月,癸未,隕石於杜郵三。 4. 5六月,立中山憲王孫雲客爲廣德王。 5. 6是歳,城陽哀王雲薨;無子,國除。 6. 三年(癸卯、前一八) 1夏,四月,赦天下。 1. 2大旱。 2. 3王氏五侯爭以奢侈相尚。成都侯商嘗病,欲避暑,從上借明光宮。後又穿長安城,引内灃水,注第中大陂以行船,立羽蓋,張周帷,楫棹越歌。上幸商第,見穿城引水,意恨,内銜之,未言;後微行出,過曲陽侯第,又見園中土山、漸台,像白虎殿。於是上怒,以讓車騎將軍音。商、根兄弟欲自黥、劓以謝太后。上聞之,大怒,乃使尚書責問司隸校尉、京兆尹,知成都侯商等奢僭不軌,藏匿姦猾,皆阿縱,不舉奏正法;二人頓首省戸下。又賜車騎將軍音策書曰:「外家何甘樂禍敗!而欲自黥、劓,相戮辱於太后前,傷慈母之心,以危亂國家!外家宗族強,上一身浸弱日久,今將一施之,君其召諸侯,令待府捨!」是日,詔尚書奏文帝時誅將軍薄昭故事。車騎將軍音藉稿請罪,商、立、根皆負斧質謝,良久乃已。上特欲恐之,實無意誅也。 3. 4秋,八月,乙卯,孝景廟北闕災。 4. 5初,許皇后與班婕妤皆有寵於上。上嘗游後庭,欲與婕妤同輦載,婕妤辭曰:「觀古圖畫,賢聖之君皆有名臣在側,三代末主乃有嬖妾。今欲同輦,得無近似之乎!」上善其言而止。太后聞之,喜曰:「古有樊姫,今有班婕妤!」班婕妤進侍者李平得幸,亦爲婕妤,賜姓曰衞。其後,上微行過陽阿主家,悅歌舞者趙飛燕,召入宮,大幸;有女弟,復召入,姿性尤醲粹,左右見之,皆嘖嘖嗟賞。有宣帝時披香博士淖方成在帝后,唾曰:「此禍水也,滅火必矣!」姊、弟倶爲婕妤,貴傾後宮。許皇后、班婕妤皆失寵。於是趙飛燕譖告許皇后、班婕妤挾媚道,祝詛後宮,詈及主上。冬,十一月,甲寅,許後廢處昭台宮,後姊謁等皆誅死,親屬歸故郡。考問班婕妤,婕妤對曰:「妾聞『死生有命,富貴在天。』修正尚未蒙福,爲邪欲以何望!使鬼神有知,不受不臣之訴;如其無知,訴之何益!故不爲也。」上善其對,赦之,賜黄金百斤。趙氏姊、弟驕妒,婕妤恐久見危,乃求共養太后於長信宮。上許焉。 5. 6廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,簒囚徒,盜庫兵;自稱山君。 6. 四年(甲辰、前一七) 1秋,勃海、清河、信都河水湓溢,灌縣、邑三十一,敗官亭、民捨四萬餘所。平陵李尋等奏言:「議者常欲求索九河故跡而穿之。今因其自決,可且勿塞,以觀水勢;河欲居之,當稍自成川,跳出沙土。然後順天心而圖之,必有成功,而用財力寡。」於是遂止不塞。朝臣數言百姓可哀,上遣使者處業振贍之。 1. 2廣漢鄭躬等黨與浸廣,犯歴四縣,衆且萬人;州郡不能制。冬,以河東都尉趙護爲廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人撃之,或相捕斬除罪;旬月平。遷護爲執金吾,賜黄金百斤。 2. 3是歳,平阿安侯王譚薨。上悔廢譚使不輔政而薨也,乃復成都侯商以特進領城門兵,置幕府,得舉吏如將軍。 魏郡杜鄴時爲郎,素善車騎將軍音,見音前與平阿侯有隙,即説音曰:「夫戚而不見殊,孰能無怨!昔秦伯有千乘之國而不能容其母弟,春秋譏焉。周、召則不然,忠以相輔,義以相匡,同己之親,等己之尊,不以聖德獨兼國寵,又不爲長專受榮任,分職於陝,並爲弼疑,故内無感恨之隙,外無侵侮之羞,倶享天祐,兩荷高名者,蓋以此也。竊見成都侯以特進領城門兵,復有詔得舉吏如五府,此明詔所欲寵也。將軍宜承順聖意,加異往時,毎事凡議,必與及之。發於至誠,則孰不説諭!」音甚嘉其言,由是與成都侯商親密。二人皆重鄴。 3. 永始元年(乙巳、前一六) 1春,正月,癸丑,太官凌室火。戊午,戻后園南闕火。 1. 2上欲立趙婕妤爲皇后,皇太后嫌其所出微甚,難之。太后姊子淳於長爲侍中,數往來通語東宮;歳餘,乃得太后指,許之。夏,四月,乙亥,上先封婕妤父臨爲成陽侯。諫大夫河間劉輔上書,言:「昔武王、周公,承順天地以饗魚、鳥之瑞,然猶君臣示氐懼,動色相戒。況於季世,不蒙繼嗣之福,屢受威怒之異者虖!雖夙夜自責,改過易行,畏天命,念祖業,妙選有德之世,考卜窈窕之女,以承宗廟,順神祇心,塞天下望,子孫之祥猶恐晩暮!今乃觸情縱欲,傾於卑賤之女,欲以母天下,不畏於天,不愧於人,惑莫大焉!里語曰:『腐木不可以爲柱;人婢不可以爲主。』天人之所不予,必有禍而無福,市道皆共知之,朝廷莫肯壹言。臣竊傷心,不敢不盡死!」書奏,上使侍御史收縛輔,繋掖庭秘獄,羣臣莫知其故。於是左將軍辛慶忌、右將軍廉褒、光祿勳琅邪師丹、太中大夫谷永倶上書曰:「竊見劉輔前以縣令求見,擢爲諫大夫,此其言必有卓詭切至當聖心者,故得拔至於此;旬月之間,收下秘獄。臣等愚以爲輔幸得托公族之親,在諫臣之列,新從下土來,未知朝廷體,獨觸忌諱,不足深過。小罪宜隱忍而已,如有大惡,宜暴治理官,與衆共之。今天心未豫,災異屢降,水旱迭臻,方當隆寬廣問,褒直盡下之時也,而行慘急之誅於諫爭之臣,震驚羣下,失忠直心。假令輔不坐直言,所坐不著,天下不可戸曉。同姓近臣,本以言顯,其於治親養忠之義,誠不宜幽囚於掖庭獄。公卿以下,見陛下進用輔亟而折傷之暴,人有懼心,精鋭銷耎,莫敢盡節正言,非所以昭有虞之聽,廣德美之風!臣等竊深傷之,惟陛下留神省察!」上乃徙繋輔共工獄,減死罪一等,論爲鬼薪。 2. 3初,太后兄弟八人,獨弟曼早死,不侯;太后憐之。曼寡婦渠供養東宮,子莽幼孤,不及等比,其羣兄弟皆將軍、五侯子,乘時侈靡,以輿馬聲色佚游相高。莽因折節爲恭儉,勤身博學,被服如儒生;事母及寡嫂,養孤兄子,行甚敕備;又外交英俊,内事諸父,曲有禮意。大將軍鳳病,莽侍疾,親嘗藥,亂首垢面,不解衣帶連月。鳳且死,以托太后及帝,拜爲黄門郎,遷射聲校尉。久之,叔父成都侯商上書,願分戸邑以封莽。長樂少府戴崇、侍中金渉、中郎陳湯等皆當世名士,咸爲莽言,上由是賢莽,太后又數以爲言。五月,乙未,封莽爲新都侯,遷騎都尉、光祿大夫、侍中。宿衞謹敕,爵位益尊,節操愈謙,散輿馬、衣裘振施賓客,家無所餘;收贍名士,交結將、相、卿、大夫甚衆。故在位更推薦之,游者爲之談説,虚譽隆洽,傾其諸父矣。敢爲激發之行,處之不漸恧。嘗私買侍婢,昆弟或頗聞知,莽因曰:「後將軍朱子元無子,莽聞此兒種宜子,爲買之」。即日以婢奉朱博。其匿情求名如此! 3. 4六月,丙寅,立皇后趙氏,大赦天下。 皇后既立,寵少衰。而其女弟絶幸,爲昭儀,居昭陽捨,其中庭彤朱而殿上髹漆;切皆銅沓,黄金塗;白玉階;壁帶往往爲黄金釭,函藍田璧、明珠、翠羽飾之。自後宮未嘗有焉。趙後居別館,多通侍郎、宮奴多子者。昭儀嘗謂帝曰:「妾姊性剛,有如爲人構陷,則趙氏無種矣!」因泣下心妻惻。帝信之,有白後姦状者,帝輒殺之。由是後公爲淫恣,無敢言者,然卒無子。 光祿大夫劉向以爲王教由内及外,自近者始,於是採取詩、書所載賢妃、貞婦興國顯家及孽、嬖亂亡者,序次爲列女傳,凡八篇,及采傳記行事,著新序、説苑,凡五十篇,奏之,數上疏言得失,陳法戒。書數十上,以助觀覽,補遺闕。上雖不能盡用,然内嘉其言,常嗟歎之。 4. 5昌陵制度奢泰,久而不成。劉向上疏曰:「臣聞王者必通三統,明天命所授者博,非獨一姓也。自古及今,未有不亡之國。孝文皇帝嘗美石槨之固,張釋之曰:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』夫死者無終極,而國家有廢興,故釋之之言爲無窮計也。孝文寤焉,遂薄葬。棺槨之作,自黄帝始。黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、周公,丘□皆小,葬具甚微;其賢臣孝子亦承命順意而薄葬之。此誠奉安君父忠孝之至也。孔子葬母於防,墳四尺。延陵季子葬其子,封墳掩坎,其高可隱。故仲尼孝子而延陵慈父,舜、禹忠臣,周公弟弟,其葬君、親、骨肉皆微薄矣。非苟爲儉,誠便於體也。秦始皇帝葬於驪山之阿,下錮三泉,上崇山墳,水銀爲江、海,黄金爲鳧、雁,珍寶之臧,機械之變,棺槨之麗,宮館之盛,不可勝原。天下苦其役而反之,驪山之作未成,而周章百萬之師至其下矣。項籍燔其宮室、營宇,牧兒持火照求亡羊,失火燒其臧槨。自古至今,葬未有盛如始皇者也。數年之間,外被項籍之災,内離牧豎之禍,豈不哀哉!是故德彌厚者葬彌薄,知愈深者葬愈微。無德寡知,其葬愈厚。丘隴彌高,宮廟甚麗,發掘必速。由是觀之,明暗之效,葬之吉凶,昭然可見矣。陛下即位,躬親節儉,始營初陵,其制約小,天下莫不稱賢明;及徙昌陵,增卑爲高,積土爲山,發民墳墓,積以萬數,營起邑居,期日迫卒,功費大萬百餘,死者恨於下,生者愁於上,臣甚愍焉!以死者爲有知,發人之墓,其害多矣;若其無知,又安用大!謀之賢知則不説,以示衆庶則苦之,若苟以説愚夫淫侈之人,又何爲哉!唯陛下上覽明聖之制以爲則,下觀亡秦之禍以爲戒,初陵之模,宜從公卿大臣之議,以息衆庶!」上感其言。 初,解萬年自詭昌陵三年可成,卒不能就;羣臣多言其不便者。下有司議,皆曰:「昌陵因卑爲高,度便房猶在平地上;客土之中,不保幽冥之靈,淺外不固。卒徒工庸以巨萬數,至然脂火夜作,取土東山,且與谷同賈,作治數年,天下遍被其勞。故陵因天性,據眞土,處勢高敞,旁近祖考,前又已有十年功緒,宜還復故陵,勿徙民,便!」秋,七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言『昌陵三年可成』,作治五年,中陵、司馬殿門内尚未加功。天下虚耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成,朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣』。其罷昌陵,及故陵勿徙吏民,令天下毋有動搖之心。」 5. 6初,酇侯蕭何之子孫嗣爲侯者,無子及有罪,凡五絶祀。高后、文帝、景帝、武帝、宣帝思何之功,輒以其支庶紹封。是歳,何七世孫酇侯獲坐使奴殺人,減死,完爲城旦。先是,上詔有司訪求漢初功臣之後,久未省録。杜業説上曰:「唐、虞、三代皆封建諸侯,以成太平之美,是以燕、齊之祀與周並傳,子繼弟及,歴載不墮。豈無刑辟、繇祖之竭力,故支庶賴焉。跡漢功臣,亦皆割符世爵,受山河之誓;百餘年間,而襲封者盡,朽骨孤於墓,苗裔流於道,生爲愍隸,死爲轉屍。以往況今,甚可悲傷。聖朝憐閔,詔求其後,四方忻忻,靡不歸心。出入數年而不省察,恐議者不思大義,徒設虚言,則厚德掩息,吝簡布章,非所以示化勸後也。雖難盡繼,宜從尤功。」上納其言。癸卯,封蕭何六世孫南□長喜爲酇侯。 6. 7立城陽哀王弟俚爲王。 7. 8八月,丁丑,太皇太后王氏崩。 8. 9九月,黑龍見東萊。 9. 10丁巳晦,日有食之。 10. 11是歳,以南陽太守陳咸爲少府,侍中淳於長爲水衡都尉。 11. 二年(丙午、前一五) 1春,正月,己丑,安陽敬侯王音薨。王氏唯音爲修整,數諫正,有忠直節。 1. 2二月,癸未夜,星隕如雨,繹繹,未至地滅。 2. 3乙酉晦,日有食之。 3. 4三月,丁酉,以成都侯王商爲大司馬、衞將軍;紅陽侯王立位特進,領城門兵。 4. 5京兆尹翟方進爲御史大夫。 5. 6谷永爲涼州刺史,奏事京師,訖,當之部,上使尚書問永,受所欲言。永對曰:「臣聞王天下、有國家者,患在上有危亡之事而危亡之言不得上聞。如使危亡之言輒上聞,則商、周不易姓而迭興,三正不變改而更用。夏、商之將亡也,行道之人皆知之。晏然自以若天有日,莫能危,是故惡日廣而不自知,大命傾而不自寤。易曰:『危者有其安者也,亡者保其存者也。』陛下誠垂寬明之聽,無忌諱之誅,使芻蕘之臣得盡所聞於前,羣臣之上願,社稷之長福也!元年,九月,黑龍見;其晦,日有食之。今年二月己未夜,星隕;乙酉,日有食之。六月之間,大異四發,二二而同月。三代之末,春秋之亂,未嘗有也。臣聞三代所以隕社稷、喪宗廟者,皆由婦人與羣惡沈湎於酒;秦所以二世十六年而亡者,養生泰奢,奉終泰厚也。二者,陛下兼而有之,臣請略陳其效。 建始、河平之際,許、班之貴,傾動前朝,熏灼四方,女寵至極,不可上矣;今之後起,什倍於前。廢先帝法度,聽用其言,官秩不當,縱釋王誅,驕其親屬,假之威權,從橫亂政,刺舉之吏莫敢奉憲。又以掖庭獄大爲亂阱,榜棰C170於砲烙,絶滅人命,主爲趙、李報德復怨。反除白罪,建治正吏,多繋無辜,掠立迫恐,至爲人起責,分利受謝,生入死出者,不可勝數。是以日食再既,以昭其辜。 王者必先自絶,然後天絶之。今陛下棄萬乘之至貴,樂家人之賤事,厭高美之尊號,好匹夫之卑字,崇聚僄輕無義小人以爲私客,數離深宮之固,挺身晨夜,與羣小相隨,烏集雜會,飲醉吏民之家,亂服共坐,流湎□葉嫚,溷淆無別,黽勉遁樂,晝夜在路,典門戸、奉宿衞之臣執干戈而守空宮,公卿百僚不知陛下所在,積數年矣。 王者以民爲基,民以財爲本,財竭則下畔,下畔則上亡。是以明王愛養基本,不敢窮極,使民如承大祭。今陛下輕奪民財,不愛民力,聽邪臣之計,去高敞初陵,改作昌陵,役百乾溪,費擬驪山,靡敝天下,五年不成而後反故。百姓愁恨感天,饑饉仍臻,流散冗食,餧死於道,以百萬數。公家無一年之畜,百姓無旬日之儲,上下倶匱,無以相救。詩云:『殷監不遠,在夏後之世。』願陛下追觀夏、商、周、秦所以失之,以鏡考己行,有不合者,臣當伏妄言之誅! 漢興九世,百九十餘載,繼體之主七,皆承天順道,遵先祖法度,或以中興,或以治安;至於陛下,獨違道縱欲,輕身妄行,當盛壯之隆,無繼嗣之福,有危亡之憂,積失君道,不合天意,亦以多矣。爲人後嗣,守人功業如此,豈不負哉!方今社稷、宗廟禍福安危之機在於陛下,陛下誠肯昭然遠寤,專心反道,舊愆畢改,新德既章,則赫赫大異庶幾可銷,天命去就庶幾可復,社稷、宗廟庶幾可保!唯陛下留神反覆,熟省臣言!」 帝性寬,好文辭,而溺於燕樂,皆皇太后與諸舅夙夜所常憂;至親難數言,故推永等使因天變而切諫,勸上納用之。永自知有内應,展意無所依違,毎言事輒見答禮。至上此對,上大怒。衞將軍商密擿永令發去。上使侍御史收永,敕過交道厩者勿追;御史不及永,還。上意亦解,自悔。 6. 7上嘗與張放及趙、李諸侍中共宴飲禁中,皆引滿舉白,談笑大噱。時乘輿幄坐張畫屏風,畫紂醉踞妲己,作長夜之樂。侍中、光祿大夫班伯久疾新起,上顧指畫而問伯曰:「紂爲無道,至於是虖?」對曰:「書云:『乃用婦人之言』,何有踞肆於朝!所謂衆惡歸之,不如是之甚者也!」上曰:「苟不若此,此圖何戒?」對曰:「『沈湎於酒』,微子所以告去也。『式號式呼』,大雅所以流連也。詩、書淫亂之戒,其原皆在於酒!」上乃喟然歎曰:「吾久不見班生,今日復聞讜言!」放等不懌,稍自引起更衣,因罷出。 時長信庭林表適使來,聞見之。後上朝東宮,太后泣曰:「帝間顏色瘦黑。班侍中本大將軍所舉,宜寵異之;益求其比,以輔聖德!宜遣富平侯且就國!」上曰:「諾。」上諸舅聞之,以風丞相、御史,求放過失。於是丞相宣、御史大夫方進奏「放驕蹇縱恣,奢淫不制,拒閉使者,賊傷無辜,從者支屬並乘權勢,爲暴虐,請免放就國。」上不得已,左遷放爲北地都尉。其後比年數有災變,故放久不得還。璽書勞問不絶。敬武公主有疾,詔徽放歸第視母疾。數月,主有瘳,後復出放爲河東都尉。上雖愛放,然上迫太后,下用大臣,故常涕泣而遣之。 7. 8邛成太后之崩也,喪事倉卒,吏賦斂以趨辦,上聞之,以過丞相、御史。冬,十一月,己丑,冊免丞相宣爲庶人,御史大夫方進左遷執金吾。二十餘日,丞相官缺,羣臣多舉方進者;上亦器其能,十一月,壬子,擢方進爲丞相,封高陵侯。以諸吏、散騎、光祿勳孔光爲御史大夫。方進以經術進,其爲吏,用法刻深,好任勢立威;有所忌惡,峻文深詆,中傷甚多。有言其挾私詆欺不專平者,上以方進所舉應科,不以爲非也。光,褒成君霸之少子也,領尚書,典樞機十餘年,守法度,修故事,上有所問,據經法,以心所安而對,不希指苟合;如或不從,不敢強諫爭,以是久而安。時有所言,輒削草蒿,以爲章主之過以姦忠直,人臣大罪也。有所薦舉,唯恐其人之聞知。沐日歸休,兄弟妻子燕語,終不及朝省政事。或問光:「温室省中樹,皆何木也?」光嘿不應,更答以它語,其不洩如是。 8. 9上行幸雍,祠五畤。 9. 10衞將軍王商惡陳湯,奏「湯妄言昌陵且復發徙;又言黑龍冬出,微行數出之應。」廷尉奏「湯非所宣言,大不敬。」詔以湯有功,免爲庶人,徙邊。 上以趙后之立也,淳於長有力焉,故德之,乃追顯其前白罷昌陵之功,下公卿,議封長。光祿勳平當以爲:「長雖有善言,不應封爵之科。」當坐左遷巨鹿太守。上遂下詔,以常侍閎,侍中、衞尉長首建至策,賜長、閎爵關内侯。 將作大匠萬年佞邪不忠,毒流衆庶,與陳湯倶徒敦煌。 初,少府陳咸,衞尉逢信,官簿皆在翟方進之右;方進晩進,爲京兆尹,與咸厚善。及御史大夫缺,三人皆名卿,倶在選中,而方進得之。會丞相薛宣得罪,與方進相連,上使五二千石雜問丞相、御史,咸詰責方進,冀得其處,方進心恨。陳湯素以材能得幸於王鳳及王音,咸、信皆與湯善,湯數稱之於鳳、音所,以此得爲九卿。及王商黜逐湯,方進因奏「咸、信附會湯以求薦舉,苟得無恥。」皆免官。 10. 11是歳,琅邪太守朱博爲左馮翊。博治郡,常令屬縣各用其豪桀以爲大吏,文、武從宜。縣有劇賊及它非常,博輒移書以詭責之,其盡力有效,必加厚賞;懷詐不稱,誅罰輒行。以是豪強懾服,事無不集。 11. 三年(丁未、前一四) 1春,正月,己卯晦,日有食之。 1. 2初,帝用匡衡議,罷甘泉泰畤,其日,大風壞甘泉竹宮,折拔畤中樹木十圍以上百餘。帝異之,以問劉向,對曰:「家人尚不欲絶種祠,況於國之神寶舊畤!且甘泉、汾陰及雍五畤始立,皆有神示氐感應,然後營之,非苟而已也。武、宣之世奉此三神,禮敬敕備,神光尤著。祖宗所立神祇舊位,誠未易動。前始納貢禹之議,後人相因,多所動搖。易大傳曰:『誣神者殃及三世。』恐其咎不獨止禹等!」上意恨之,又以久無繼嗣,冬,十月,庚辰,上白太后,令詔有司復甘泉泰畤、汾陰后土如故,及雍五畤、陳寶祠、長安及郡國祠著明者,皆復之。 是時,上以無繼嗣,頗好鬼神、方術之屬,上書言祭祀方術得待詔者甚衆,祠祭費用頗多。谷永説上曰:「臣聞明於天地之性,不可惑以神怪;知萬物之情,不可罔以非類。諸背仁義之正道,不遵五經之法言,而盛稱奇怪鬼神,廣崇祭祀之方,求報無福之祠,及言世有仙人,服食不終之藥,遙興輕舉、黄治變化之術者,皆姦人惑衆,挾左道,懷詐偽,以欺罔世主。聽其言,洋洋滿耳,若將可遇,求之,蕩蕩如係風捕景,終不可得。是以明王距而不聽,聖人絶而不語。昔秦始皇使徐福發男女入海求神采藥,因逃不還,天下怨恨。漢興,新垣平、齊人少翁、公孫卿、欒大等皆以術窮詐得,誅夷伏辜。唯陛下距絶此類,毋令姦人有以窺朝者!」上善其言。 2. 3十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍;徒李潭、稱忠、鍾祖、訾順共殺並,以聞,皆封爲侯。 3. 4十二月,山陽鐵官徙蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍;經郡國十九,殺東郡太守及汝南都尉。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢爲大司農。 4. 5故南昌尉九江梅福上書曰:「昔高祖納善若不及,從諫如轉圜,聽言不求其能,舉功不考其素,陳平起於亡命而爲謀主,韓信拔於行陳而建上將;故天下之士雲合歸漢,爭進奇異,知者竭其策,愚者盡其慮,勇士極其節,怯夫勉其死。合天下之知,並天下之威,是以舉秦如鴻毛,取楚若拾遺,此高祖所以無敵於天下也。孝武皇帝好忠諫,説至言,出爵不待廉、茂,慶賜不須顯功,是以天下布衣各厲志竭精以赴闕廷,自衒鬻者不可勝數,漢家得賢,於此爲盛。使孝武皇帝聽用其計,昇平可致,於是積屍暴骨,快心胡、越,故淮南王安縁間而起;所以計慮不成而謀議洩者,以衆賢聚於本朝,故其大臣勢陵,不敢和從也。方今布衣乃窺國家之隙,見間而起者,蜀郡是也。及山陽亡徒蘇令之羣,蹈藉名都、大郡,求黨與,索隨和,而亡逃匿之意,此皆輕量大臣,無所畏忌,國家之權輕,故匹夫欲與上爭衡也。 士者,國之重器;得士則重,失士則輕。詩云:『濟濟多士,文王以寧。』廟堂之議,非草茅所言也。臣誠恐身塗野草,屍並卒伍,故數上書求見,輒報罷。臣聞齊桓之時,有以九九見者,桓公不逆,欲以致大也。今臣所言,非特九九也,陛下距臣者三矣,此天下士所以不至也。昔秦武王好力,任鄙叩關自鬻;繆公行伯,由余歸德。今欲致天下之士,民有上書求見者,輒使詣尚書問其所言,言可採取者,秩以升斗之祿,賜以一束之帛,若此,則天下之士,發憤懣,吐忠言,嘉謀日聞於上,天下條貫,國家表裏,爛然可睹矣。 夫以四海之廣,士民之數,能言之類至衆多也;然其俊桀指世陳政,言成文章,質之先聖而不繆,施之當世合時務,若此者亦無幾人。故爵祿束帛者,天下之砥石,高祖所以厲世摩鈍也。 孔子曰:『工欲善其事,必先利其器。』至秦則不然,張誹謗之罔以爲漢驅除,倒持泰阿,授楚其柄。故誠能勿失其柄,天下雖有不順,莫敢觸其鋒,此孝武皇帝所以闢地建功,爲漢世宗也。 今陛下既不納天下之言,又加戮焉。夫鳶鵲遭害,則仁鳥增逝,愚者蒙戮,則智士深退。間者愚民上疏,多觸不急之法,或下廷尉而死者衆。自陽朔以來,天下以言爲諱,朝廷尤甚,羣臣皆承順上指,莫有執正。何以明其然也?取民所上書,陛下之所善,試下之廷尉,廷尉必曰『非所宜言,大不敬,』以此卜之,一矣。故京兆尹王章,資質忠直,敢面引廷爭,孝元皇帝擢之,以厲具臣而矯曲朝;及至陛下,戮及妻子。且惡惡止其身,王章非有反畔之辜而殃及室家,折直士之節,結諫臣之舌。羣臣皆知其非,然不敢爭,天下以言爲戒,最國家之大患也! 願陛下循高祖之軌,杜亡秦之路,除不急之法,下無諱之詔,博覽兼聽,謀及疏賤,令深者不隱,遠者不塞,所謂『辟四門,明四目』也。往者不可及,來者猶可追。方今君命犯而主威奪,外戚之權,日以益隆。陛下不見其形,願察其景!建始以來,日食、地震,以率言之,三倍春秋,水災亡與比數,陰盛陽微,金鐵爲飛,此何景也?漢興以來,社稷三危:呂,霍,上官;皆母后之家也。親親之道,全之爲右,當與之賢師良傅,教以忠孝之道。今乃尊寵其位,授以魁柄,使之驕逆,至於夷滅,此失親親之大者也。自霍光之賢,不能爲子孫慮,故權臣易世則危。書曰:『毋若火,始庸庸。』勢陵於君,權隆於主,然後防之,亦無及已!」上不納。 5.
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/128.html
資治通鑑巻第二十五 漢紀十七 中宗孝宣皇帝上之下 地節三年(甲寅、前六七) 1春,三月,詔曰:「蓋聞有功不賞,有罪不誅,雖唐、虞不能以化天下。今膠東相王成,勞來不怠,流民自佔八萬餘口,治有異等之效。其賜成爵關内侯,秩中二千石。」未及徴用,會病卒官。後詔使丞相、御史問郡、國上計長史、守丞以政令得失。或對言:「前膠東相成偽自增加以蒙顯賞。」是後俗吏多爲虚名云。 1. 2夏,四月,戊申,立子奭爲皇太子,以丙吉爲太傅,太中大夫疏廣爲少傅。封太子外祖父許廣漢爲平恩侯。又封霍光兄孫中郎將雲爲冠陽侯。霍顯聞立太子,怒恚不食,歐血,曰:「此乃民間時子,安得立!即后有子,反爲王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食,保、阿輒先嘗之,後挾毒不得行。 2. 3五月,甲申,丞相賢以老病乞骸骨;賜黄金百斤、安車、駟馬,罷就第。丞相致仕自賢始。 3. 4六月,壬辰,以魏相爲丞相。辛丑,丙吉爲御史大夫,疏廣爲太子太傅,廣兄子受爲少傅。 太子外祖父平恩侯許伯,以爲太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子,國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅、少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,示陋,非所以廣太子德於天下也。」上善其言,以語魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣由是見器重。 4. 5京師大雨雹,大行丞東海蕭望之上疏,言大臣任政,一姓專權之所致。上素聞望之名,拜爲謁者。時上博延賢俊,民多上書言便宜,輒下望之問状;高者請丞相、御史,次者中二千石試事,滿歳以状聞;下者報聞,罷。所白處奏皆可。 5. 6冬,十月,詔曰:「乃者九月壬申地震,朕甚懼焉。有能箴朕過失,及賢良方正直言極諫之士,以匡朕之不逮,毋諱有司。朕既不德,不能附遠,是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯,久勞百姓,非所以綏天下也。其罷車騎將軍、右將軍屯兵。」又詔:「池□未御幸者,假與貧民。郡國宮館勿復修治。流民還歸者,假公田,貸種食,且勿算事。」 6. 7霍氏驕侈縱橫。太夫人顯,廣治第室,作乘輿輦,加畫,繡絪馮,黄金塗;韋絮薦輪,侍婢以五采絲輓顯遊戲第中;與監奴馮子都亂。而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,多從賓客,張圍獵黄山苑中,使倉頭奴上朝謁,莫敢譴者。顯及諸女晝夜出入長信宮殿中,亡期度。 帝自在民間,聞知霍氏尊盛日久,内不能善。既躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,今大夫給事中,他人壹間女,能復自救邪!」後兩家奴爭道,霍氏奴入御史府,欲蹋大夫門;御史爲叩頭謝,乃去。人以謂霍氏,顯等始知憂。 會魏大夫爲丞相,數燕見言事;平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山領尚書,上令吏民得奏封事,不關尚書,羣臣進見獨往來,於是霍氏甚惡之。上頗聞霍氏毒殺許後而未察,乃徙光女婿度遼將軍、未央衞尉、平陵侯范明友爲光祿勳,出次婿諸吏、中郎將、羽林監任勝爲安定太守。數月,復出光姊婿給事中、光祿大夫張朔爲蜀郡太守,羣孫婿中郎將王漢爲武威太守。頃之,復徙光長女婿長樂衞尉鄧廣漢爲少府。戊戌,更以張安世爲衞將軍,兩宮衞尉、城門、北軍兵屬焉。以霍禹爲大司馬,冠小冠,亡印綬;罷其屯兵官屬,特使禹官名與光倶大司馬者。又收范明友度遼將軍印綬,但爲光祿勳;及光中女婿趙平爲散騎、騎都尉、光祿大夫,將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡、越騎、羽林及兩宮衞將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。 7. 8初,孝武之世,征發煩數,百姓貧耗,究民犯法,姦軌不勝,於是使張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深、故之罪,急縱、出之誅。其後姦猾巧法轉相比況,禁罔浸密,律令煩苛,文書盈於幾閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駁,或罪同而論異,姦吏因縁爲市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。 廷尉史鉅鹿路温舒上書曰:「臣聞齊有無知之禍而桓公以興,晉有驪姫之難而文公用伯。近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文爲太宗。繇是觀之,禍亂之作,將以開聖人也。夫繼變亂之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者昭帝即世無嗣,昌邑淫亂,乃皇天所以開至聖也。臣聞春秋正即位、大一統而愼始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,以應天意。臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,絶者不可復屬。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』今治獄吏則不然,上下相驅,以刻爲明,深者獲公名,平者多後患,故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歳以萬數。此仁聖之所以傷也,太平之未洽,凡以此也。夫人情,安則樂生,痛則思死,棰楚之下,何求而不得!故囚人不勝痛,則飾辭以示之;吏治者利其然,則指導以明之;上奏畏卻,則鍛練而周内之。蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以爲死有餘辜。何則?成練者衆,文致之罪明也。故俗語曰:『畫地爲獄,議不入;刻木爲吏,期不對。』此皆疾吏之風,悲痛之辭也。唯陛下省法制,寬刑罰,則太平之風可興於世。」上善其言。 8. 9十二月,詔曰:「間者吏用法巧文浸深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之!今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其爲置廷尉平,秩六百石,員四人。其務平之,以稱朕意!」於是毎季秋後請讞時,上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號爲平矣。涿郡太守鄭昌上疏言:「今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,姦吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末,政衰聽怠,則廷平將召權而爲亂首矣。」 9. 10昭帝時,匈奴使四千騎田車師。及五將軍撃匈奴,車師田者驚去,車師復通於漢;匈奴怒,召其太子軍宿,欲以爲質。軍宿,焉耆外孫,不欲質匈奴,亡走焉耆,車師王更立子烏貴爲太子。及烏貴立爲王,與匈奴結婚姻,教匈奴遮漢道通烏孫者。 是歳,侍郎會稽鄭吉與校尉司馬喜,將免刑罪人田渠犁,積穀,發城郭諸國兵萬餘人與所將田士千五百人共撃車師,破之;車師王請降。匈奴發兵攻車師;吉、喜引兵北逢之,匈奴不敢前。吉、喜即留一候與卒二十人留守王,吉等引兵歸渠犁。車師王恐匈奴兵復至而見殺也,乃輕騎奔烏孫。吉即迎其妻子,傳送長安。匈奴更以車師王昆弟兜莫爲車師王,收其餘民東徙,不敢居故地;而鄭吉始使吏卒三百人往田車師地以實之。 10. 11上自初即位,數遣使者求外家;久遠,多似類而非是。是歳,求得外祖母王媼及媼男無故、武。上賜無故、武爵關内侯。旬月間,賞賜以巨萬計。 11. 四年(乙卯、前六六) 1春,二月,賜外祖母號爲博平君;封舅無故爲平昌侯,武爲樂昌侯。 1. 2夏,五月,山陽、濟陰雹如雞子,深二尺五寸,殺二十餘人,飛鳥皆死。 2. 3詔:「自今子有匿父母、妻匿夫、孫匿大父母,皆勿治。」 3. 4立廣川惠王孫文爲廣川王。 4. 5霍顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,發揚大將軍過失。又,諸儒生多窶人子,遠客饑寒,喜妄説狂言,不避忌諱,大將軍常讎之。今陛下好與諸儒生語,人人自書對事,多言我家者。嘗有上書言我家昆弟驕恣,其言絶痛;山屏不奏。後上書者益黠,盡奏封事,輒使中書令出取之,不關尚書,益不信人。又聞民間讙言『霍氏毒殺許皇后』,寧有是邪?」顯恐急,即具以實告禹、山、雲。禹、山、雲驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散、斥逐諸婿,用是故也。此大事,誅罰不小,奈何?」於是始有邪謀矣。 雲舅李竟民善張赦,見雲家卒卒,謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉、執金吾,捕張赦等。後有詔,止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。然惡端已見,久之猶發,發即族矣,不如先也。」遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避!」 會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔:「雲、山不宜宿衞,免就第。」山陽太守張敞上封事曰:「臣聞公子季友有功於魯,趙衰有功於晉,田完有功於齊,皆疇其庸,延及子孫。終後田氏簒齊,趙氏分晉,季氏顓魯。故仲尼作春秋,跡盛衰,譏世卿最甚。乃者大將軍決大計,安宗廟,定天下,功亦不細矣。夫周公七年耳,而大將軍二十歳,海内之命斷於掌握。方其隆盛時,感動天地,侵迫陰陽。朝臣宜有明言曰:『陛下褒寵故大將軍以報功德足矣。間者輔臣顓政,貴戚太盛,君臣之分不明,請罷霍氏三侯皆就第;及衞將軍張安世,宜賜幾杖歸休,歸存問召見,以列侯爲天子師。』明詔以恩不聽,羣臣以義固爭而後許之,天下必以陛下爲不忘功德而朝臣爲知禮,霍氏世世無所患苦。今朝廷不聞直聲,而令明詔自親其文,非策之得者也。今兩侯已出,人情不相遠,以臣心度之,大司馬及其枝屬必有畏懼之心。夫近臣自危,非完計也。臣敞願於廣朝白髮其端,直守遠郡,其路無由。唯陛下省察。」上甚善其計,然不召也。 禹、山等家數有妖怪,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、蛙,可以此罪也。」謀令太后爲博平君置酒,召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定,未發,雲拜爲玄菟太守,太中大夫任宣爲代郡太守。會事發覺,秋,七月,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得;禹要斬,顯及諸女昆弟皆棄市;與霍氏相連坐誅滅者數十家。太僕杜延年以霍氏舊人,亦坐免官。八月,己酉,皇后霍氏廢,處昭台宮,乙丑,詔封告霍氏反謀者男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上、史高皆爲列侯。惲,丞相敞子;安上,車騎將軍日磾弟子;高,史良娣兄子也。 初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜必侮上。侮上者,逆道也,在人之右,衆必害之。霍氏秉權日久,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」乃上疏言:「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封,人爲徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其灶直突,傍有積薪,客謂主人:『更爲曲突,遠徙其薪,不者且有火患。』主人嘿然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,餘各以功次坐,而不録言曲突者。人謂主人曰:『郷使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。今論功而請賓,曲突徙薪無恩澤,焦頭爛額爲上客邪?』主人乃寤而請之。今茂陵徐福,數上書言霍氏且有變,宜防絶之。郷使福説得行,則國無裂土出爵之費,臣無逆亂誅滅之敗。往事既已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦發灼爛之右。」上乃賜福帛十匹,後以爲郎。 帝初立,謁見高廟,大將軍光驂乘,上内嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳霍氏之禍萌於驂乘。後十二歳,霍後復徙雲林館,乃自殺。 班固贊曰:霍光受襁褓之托,任漢室之寄,匡國家,安社稷,擁昭,立宣,雖周公、阿衡何以加此!然光不學亡術,闇於大理;陰妻邪謀,立女爲後,湛溺盈溢之欲,以增顛覆之禍,死財三年,宗族誅夷,哀哉! 臣光曰:霍光之輔漢室,可謂忠矣;然卒不能庇其宗,何也?夫威福者,人君之器也。人臣執之,久而不歸,鮮不及矣。以孝昭之明,十四而知上官桀之詐,固可以親政矣,況孝宣十九即位,聰明剛毅,知民疾苦,而光久專大柄,不知避去,多置親黨,充塞朝廷,使人主蓄憤於上,吏民積怨於下,切齒側目,待時而發,其得免於身幸矣,況子孫以驕侈趣之哉!雖然,向使孝宣專以祿秩賞賜富其子孫,使之食大縣,奉朝請,亦足以報盛德矣;乃復任之以政,授之以兵,及事叢釁積,更加裁奪,遂至怨懼以生邪謀,豈徒霍氏之自禍哉?亦孝宣醞釀以成之也。昔椒作亂於楚,莊王滅其族而赦箴尹克黄,以爲子文無後,何以勸善。夫以顯、禹、雲、山之罪,雖應夷滅,而光之忠勳不可不祀;遂使家無□類,孝宣亦少恩哉! 5. 6九月,詔減天下鹽賈。又令郡國歳上繋囚以掠笞若瘐死者,所坐縣、名、爵、里,丞相、御史課殿最以聞。 6. 7十二月,清河王年坐内亂廢,遷房陵。 7. 8是歳,北海太守廬江朱邑以治行第一入爲大司農,勃海太守龔遂入爲水衡都尉。先是,勃海左右郡歳饑,盜賊並起,二千石不能禽制。上選能治者,丞相、御史舉故昌邑郎中令龔遂,上拜爲勃海太守。召見,問:「何以治勃海,息其盜賊?」對曰:「海瀕遐遠,不沾聖化,其民困於饑寒而吏不恤,故使陛下赤子盜弄陛下之兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪,將安之也?」上曰:「選用賢良,固欲安之也。」遂曰:「臣聞治亂民猶治亂繩,不可急也;唯緩之,然後可治。臣願丞相、御史且無拘臣以文法,得一切便宜從事。」上許焉,加賜黄金贈遣。乘傳至勃海界,郡聞新太守至,發兵以迎。遂皆遣還。移書敕屬縣:「悉罷逐捕盜賊吏,諸持鍺、鉤、田器者皆爲良民,吏毋得問;持兵者乃爲賊。」遂單車獨行至府。盜賊聞遂教令,即時解散,棄其兵弩而持鉤、金且,於是悉平,民安土樂業。遂乃開倉廩假貧民,選用良吏尉安牧養焉。遂見齊俗奢侈,好末技,不田作,乃躬率以儉約,勸民務農桑,各以口率種樹畜養。民有帶持刀劍者,使賣劍買牛,賣刀買犢,曰:「何爲帶牛佩犢!」勞來循行,郡中皆有畜積,獄訟止息。 8. 9烏孫公主女爲龜茲王降賓夫人。絳賓上書言:「得尚漢外孫,願與公主女倶入朝。」 9. 元康元年(丙辰、前六五) 1春,正月,龜茲王及其夫人來朝;皆賜印綬,夫人號稱公主,賞賜甚厚。 1. 2初作杜陵。徙丞相、將軍、列侯、吏二千石、訾百萬者杜陵。 2. 3三月,詔以鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮,赦天下。 3. 4有司復言悼園宜稱尊號曰皇考;夏,五月,立皇考廟。 4. 5冬,置建章衞尉。 5. 6趙廣漢好用世吏子孫新進年少者,專厲強壯蜂氣,見事風生,無所迴避,率多果敢之計,莫爲持難,終以此敗。廣漢以私怨論殺男子榮畜,人上書言之,事下丞相、御史按驗。廣漢疑丞相夫人殺侍婢,欲以此脅丞相,丞相按之愈急。廣漢乃將吏卒入丞相府,召其夫人跪庭下受辭,收奴婢十餘人去。丞相上書自陳,事下廷尉治,實丞相自以過譴笞傅婢,出至外第乃死,不如廣漢言。帝惡之,下廣漢廷尉獄。吏民守闕號泣者數萬人,或言:「臣生無益縣官,願代趙京兆死,使牧養小民!」廣漢竟坐要斬。廣漢爲京兆尹,廉明,威制豪強,小民得職,百姓追思歌之。 6. 7是歳,少府宋疇坐議「鳳皇下彭城,未至京師,不足美」,貶爲泗水太傅。 7. 8上遷博士、諫大夫通政事者補郡國守相,以蕭望之爲平原太守。望之上疏曰:「陛下哀愍百姓,恐德之不究,悉出諫官以補郡吏。朝無爭臣,則不知過,所謂憂其末而忘其本者也。」上乃征望之入守少府。 8. 9東海太守河東尹翁歸,以治郡高第入爲右扶風。翁歸爲人,公廉明察,郡中吏民賢、不肖及姦邪罪名盡知之。縣縣各有記籍,自聽其政;有急名則少緩之。吏民小解,輒披籍。取人必於秋冬課吏大會中及出行縣,不以無事時。其有所取也,以一警百。吏民皆服,恐懼,改行自新。其爲扶風,選用廉平疾姦吏以爲右職,接待以禮,好惡與同之;其負翁歸,罰亦必行。然温良謙退,不以行能驕人,故尤得名譽於朝廷。 9. 10初,烏孫公主少子萬年有寵於莎車王。莎車王死而無子,時萬年在漢,莎車國人計,欲自托於漢,又欲得烏孫心,上書請萬年爲莎車王。漢許之,遣使者奚充國送萬年。萬年初立,暴惡,國人不説。 上令羣臣舉可使西域者,前將軍韓增舉上黨馮奉世以衞候使持節送大苑諸國客至伊循城。會故莎車王弟呼屠征與旁國共殺其王萬年及漢使者奚充國,自立爲王。時匈奴又發兵攻車師城,不能下而去。莎車遣使揚言「北道諸國已屬匈奴矣」,於是攻劫南道,與歃盟畔漢,從鄯善以西皆絶不通。都護鄭吉、校尉司馬喜甏皆在北道諸國間,奉世與其副嚴昌計,以爲不亟撃之,則莎車日強,其勢難制,必危西域,遂以節諭告諸國王,因發其兵,南北道合萬五千人,進撃莎車,攻拔其城。莎車王自殺,傳其首詣長安,更立它昆弟子爲莎車王。諸國悉平,威振西域,奉世乃罷兵以聞。帝召見韓增曰:「賀將軍所舉得其人。」 奉世遂西至大宛。大宛聞其斬莎車王,敬之異於它使,得其名馬象龍而還。上甚説,議封奉世。丞相、將軍皆以爲可,獨少府蕭望之以爲:「奉世奉使有指,而擅矯制違命,發諸國兵,雖有功效,不可以爲後法。即封奉世,開後奉使者利以奉世爲比,爭逐發兵,要功萬里之外,爲國家生事於夷狄,漸不可長。奉世不宜受封。」上善望之議,以奉世爲光祿大夫。 10. 二年(丁巳、前六四) 1春,正月,赦天下。 1. 2上欲立皇后,時館陶主母華婕妤及淮陽憲王母張婕妤、楚孝王母衞婕妤愛幸。上欲立張婕妤爲后;久之,懲艾霍氏欲害皇太子,乃更選後宮無子而謹愼者。二月,乙丑,立長陵王婕妤爲皇后,令母養太子;封其父奉光爲邛成侯。後無寵,希得進見。 2. 3五月,詔曰:「獄者,萬民之命。能使生者不怨,死者不恨,則可謂文吏矣。今則不然。用法或持巧心,析律貳端,深淺不平,奏不如實,上亦亡由知,四方黎民將何仰哉!二千石各察官屬,勿用此人。吏或擅興徭役,飾廚傳,稱過使客,越職踰法以取名譽,譬如踐薄冰以待白日,豈不殆哉!今天下頗被疾疫之災,朕甚愍之,其令郡國被災甚者,毋出今年租賦。」 3. 4又曰:「聞古天子之名,難知而易諱也;其更諱詢。」 4. 5匈奴大臣皆以爲「車師地肥美,近匈奴,使漢得之,多田積穀,必害人國,不可不爭」,由是數遣兵撃車師田者。鄭吉將渠犁田卒七千餘人救之,爲匈奴所圍。吉上言:「東懷去渠犁千餘里,漢兵在渠犁者少,勢不能相救,願益田卒。」上與後將軍趙充國等議,欲因匈奴衰弱,出兵撃其右地,使不得復擾西域。 魏相上書諫曰:「臣聞之:救亂誅暴,謂之義兵,兵義者王;敵加於己,不得已而起者,謂之應兵,兵應者勝;爭恨小故,不忍憤怒者,謂之忿兵,兵忿者敗;利人土地、貨寶者,謂之貪兵,兵貪者破;恃國家之大,矜民人之衆,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅。此五者,非但人事,乃天道也。間者匈奴嘗有善意,所得漢民,輒奉歸之,未有犯於邊境;雖爭屯田車師,不足致意中。今聞諸將軍欲興兵入其地,臣愚不知此兵何名者也!今邊郡困乏,父子共犬羊之裘,食草萊之實,常恐不能自存,難以動兵。『軍旅之後,必有凶年,』言民以其愁苦之氣傷陰陽之和也。出兵雖勝,猶有後憂,恐災害之變因此以生。今郡國守相多不實選,風俗尤薄,水旱不時。按今年計子弟殺父兄、妻殺夫者凡二百二十二人,臣愚以爲此非小變也。今左右不憂此,乃欲發兵報纖介之忿於遠夷,殆孔子所謂『吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之内也』。」上從相言,止。遣長羅侯常惠將張掖、酒泉騎往車師,迎鄭吉及其吏士還渠犁。召故車師太子軍宿在焉耆者,立以爲王;盡徙車師國民令居渠犁,遂以車師故地與匈奴。以鄭吉爲衞司馬,使護善阜善以西南道。 5. 6魏相好觀漢故事及便宜章奏,數條漢興已來國家便宜行事及賢臣賈誼、晁錯、董仲舒等所言,奏請施行之。相敕掾史按事郡國,及休告,從家還至府,輒白四方異聞。或有逆賊、風雨災變,郡不上,相輒奏言之。與御史大夫丙吉同心輔政,上皆重之。 丙吉爲人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絶口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。會掖庭宮婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功,章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知状。掖庭令將則詣御史府以視吉,吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹,督笞汝,汝安得有功!獨渭城胡組、淮陽郭征卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦状。詔吉求組、征卿;已死,有子孫,皆受厚賞。詔免則爲庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩而終不言,上大賢之。 6. 7帝以蕭望之經明持重,議論有餘,材任宰相,欲詳試其政事,復以爲左馮翊。望之從少府出爲左遷,恐有不合意,即移病。上聞之,使侍中成都侯金安上諭意曰:「所用皆更治民以考功。君前爲平原太守日淺,故複試之於三輔,非有所聞也。」望之即起視事。 7. 8初,掖庭令張賀數爲弟車騎將軍安世稱皇曾孫之材美及征怪,安世輒絶止,以爲少主在上,不宜稱述曾孫。及帝即位而賀已死,上謂安世曰:「掖庭令平生稱我,將軍止之,是也。」上追思賀恩,欲封其塚爲恩德侯,置守塚二百家。賀有子蚤死,子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書指,欲封之,先賜爵關内侯。安世深辭賀封;又求損守塚戸數,稍減至三十戸。上曰:「吾自爲掖庭令,非爲將軍也。」安世乃止,不敢復言。 8. 9上心忌故昌邑王賀,賜山陽太守張敞璽書,令謹備盜賊,察往來過客;毋下所賜書。敞於是條奏賀居處,著其廢亡之效曰:「故昌邑王爲人,靑黑色,小目,鼻末鋭卑,少鬚眉,身體長大,疾痿,行歩不便。臣敞嘗與之言,欲動觀其意,即以惡鳥感之曰:『昌邑多梟。』故王應曰:『然。前賀西至長安,殊無梟;復來,東至濟陽,乃復聞梟聲。』察故王衣服、言語、跪起,清狂不惠。臣敞前言:『哀王歌舞者張脩等十人無子,留守哀王園,請罷歸。』故王聞之曰:『中人守園,疾者當勿治,相殺傷者當勿法,欲令亟死。太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡,終不見仁義如此。」上乃知賀不足忌也。 9. 三年(戊午、前六三) 1春,三月,詔封故昌邑王賀爲海昏侯。 1. 2乙未,詔曰:「朕微眇時,御史大夫丙吉,中郎將史曾、史玄,長樂衞尉許舜,侍中、光祿大夫許延壽,皆與朕有舊恩,及故掖庭令張賀,輔導朕躬,修文學經術,恩惠卓異,厥功茂焉。詩不云乎:『無德不報』,封賀所子弟子侍中、中郎將彭祖爲陽都侯,追賜賀謚曰陽都哀侯,吉爲博陽侯,曾爲將陵侯,玄爲平台侯,舜爲博望侯,延壽爲樂成侯。」賀有孤孫霸,年七歳,拜爲散騎、中郎將,賜爵關内侯。故人下至郡邸獄復作嘗有阿保之功者,皆受官祿、田宅、財物,各以恩深淺報之。 吉臨當封,病;上憂其不起,將使人就加印紼而封之,及其生存也。太子太傅夏侯勝曰:「此未死也!臣聞有陰德者必饗其樂,以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾也。」後病果愈。 張安世自以父子封侯,在位太盛。乃辭祿,詔都内別藏張氏無名錢以百萬數。安世謹愼周密,毎定大政,已決,輒移病出。聞有詔令,乃驚,使吏之丞相府問焉。自朝廷大臣,莫知其與議也。嘗有所薦,其人來謝,安世大恨,以爲「舉賢達能,豈有私謝邪!」絶弗復爲通。有郎功高不調,自言安世,安世應曰:「君之功高,明主所知,人臣執事,何長短而自言乎!」絶不許。已而郎果遷。安世自見父子尊顯,懷不自安,爲子延壽求出補吏,上以爲北地太守;歳餘,上閔安世年老,復征延壽爲左曹、太僕。 2. 3夏,四月,丙子,立皇子欽爲淮陽王。皇太子年十二,通論語、孝經。太傅疏廣謂少傅受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆。』今仕宦至二千石,官成名立,如此不去,懼有後悔。」即日,父子倶移病,上疏乞骸骨。上皆許之,加賜黄金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿故人設祖道供張東都門外,送者車數百兩。道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息爲之下泣。 廣、受歸郷里,日令其家賣金共具,請族人、故舊、賓客,與相娯樂。或勸廣以其金爲子孫頗立産業者,廣曰:「吾豈老悖不念子孫哉!顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以爲贏餘,但教子孫怠墮耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者衆之怨也,吾既無以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與郷黨、宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人悅服。 3. 4穎川太守黄霸使郵亭、郷官皆畜雞、豚,以贍鰥、寡、貧、窮者;然後爲條教,置父老、師帥、伍長,班行之於民間,勸以爲善防姦之意,及務耕桑、節用、殖財、種樹、畜養,去浮淫之費。其治,米鹽靡密,初若煩碎,然霸精力能推行之。吏民見者,語次録繹,問它陰伏以相參考,聰明識事,吏悄不知所出,咸稱神明,豪厘不敢有所欺。姦人去入它郡,盜賊日少。霸力行教化而後誅罰,務在成就全安長吏。許丞老,病聾,督郵白欲逐之。霸曰:「許丞廉吏,雖老,尚能拜起送迎,正頗重聽何傷!且善助之,毋失賢者意!」或問其故,霸曰:「數易長吏,送故迎新之費,及姦吏因縁,絶簿書,盜財物,公私費耗甚多,皆當出於民。所易新吏又未必賢,或不如其故,徒相益爲亂。凡治道,去其泰甚者耳。」霸以外寬内明,得吏民心,戸口歳增,治爲天下第一,征守京兆尹。頃之,坐法,連貶秩;有詔復歸穎川爲太守,以八百石居。 4. 四年(己未、前六二) 1春,正月,詔:「年八十以上,非誣告、殺傷人,它皆勿坐。」 1. 2右扶風尹翁歸卒,家無餘財。秋,八月,詔曰:「翁歸廉平郷正,治民異等。其賜翁歸子黄金百斤,以奉祭祀。」 2. 3上令有司求高祖功臣子孫失侯者,得槐里公乘周廣漢等百三十六人,皆賜黄金二十斤,復其家,令奉祭祀,世世勿絶。 3. 4丙寅,富平敬侯張安世薨。 4. 5初,扶陽節侯韋賢薨,長子弘有罪繋獄,家人矯賢令,以次子大河都尉玄成爲後。玄成深知其非賢雅意,即陽爲病狂,臥便利,妄笑語,昏亂。既葬,當襲爵,以狂不應召。大鴻臚奏状,章下丞相、御史案驗。案事丞相史乃與玄成書曰:「古之辭讓,必有文義可觀,故能垂榮於後。今子獨壞容貌,蒙恥辱爲狂癡,光曜晻而不宣,微哉子之所托名也!僕素愚陋,過爲宰相執事,願少聞風聲;不然,恐子傷高而僕爲小人也。」玄成友人侍郎章亦上疏言:「聖王貴以禮讓爲國,宜優養玄成,勿枉其志,使得自安衡門之下。」而丞相、御史遂以玄成實不病,劾奏之,有詔勿劾,引拜;玄成不得已,受爵。帝高其節,以玄成爲河南太守。 5. 6車師王烏貴之走烏孫也,烏孫留不遣。漢遣使責烏孫,烏孫送烏貴詣闕。 6. 7初,武帝開河西四郡,隔絶羌與匈奴相通之路,斥逐諸羌。不使居湟中地。及帝即位,光祿大夫義渠安國使行諸羌;先零豪言:「願時度湟水北,逐民所不田處畜牧。」安國以聞。後將軍趙充國劾安國奉使不敬。是後羌人旁縁前言,抵冒度湟水,郡縣不能禁。 既而先零與諸羌種豪二百餘人解仇、交質、盟詛。上聞之,以問趙充國,對曰:「羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻撃,勢不壹也。往三十餘歳西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。匈奴數誘羌人,欲與之共撃張掖、酒泉地,使羌居之。間者匈奴困於西方,疑其更遣使至羌中與相結。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然爲之備。」後月餘,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲撃善阜善、敦煌以絶漢道。充國以爲「狼何勢不能獨造此計,疑匈奴使已至羌中,先零、罕、幵乃解仇作約。到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵,豫爲備敕,視諸羌毋令解仇,以發覺其謀。」於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。 7. 8是時,比年豐稔,穀石五錢。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/425.html
唐書巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 楊思勗 高力士 程元振 駱奉先 魚朝恩 竇文場 霍仙鳴 劉貞亮 吐突承璀 馬存亮 厳遵美 仇士良 楊復光 唐制:内侍省官有内侍四、内常侍六、内謁者監・内給事各十、謁者十二、典引十八、寺伯・寺人各六。又有五局:一曰掖廷、主宮嬪簿最。二曰宮闈、扈門闌。三曰奚官、治宮中疾病死喪。四曰内僕、主供帳鐙燭。五曰内府、主中蔵給納。局有令、有丞、皆宦者為之。 太宗詔内侍省不立三品官、以内侍為之長、階第四、不任以事、惟門閤守禦・廷内掃除・稟食而已。武后時、稍增其人、至中宗、黄衣乃二千員、七品以上員外置千員、然衣朱紫者尚少。玄宗承平、財用富足、志大事奢、不愛惜賞賜爵位。開元・天宝中、宮嬪大率至四万、宦官黄衣以上三千員、衣朱紫千餘人。其稱旨者輒拜三品将軍、列戟于門。其在殿頭供奉、委任華重、持節伝命、光焰殷殷動四方。所至郡県奔走、獻遺至万計。脩功徳、市禽鳥、一為之使、猶且数千緡。監軍持權、節度返出其下。於是甲舍・名園・上腴之田為中人所名者半京畿矣。肅・代庸弱、倚為扞衛、故輔国以尚父顯、元振以援立奮、朝恩以軍容重、然猶未得常主兵也。徳宗懲艾泚賊、故以左右神策・天威等軍委宦者主之、置護軍中尉・中護軍、分提禁兵、是以威柄下遷、政在宦人、挙手伸縮、便有輕重。至慓士奇材、則養以為子。巨鎮彊藩、則爭出我門。 小人之情、猥險無顧藉、又日夕侍天子、狎則無威、習則不疑、故昏君蔽於所昵、英主禍生所忽。玄宗以遷崩、憲・敬以弑殞、文以憂僨、至昭而天下亡矣。禍始開元、極於天祐、凶愎參會、黨類殲滅、王室從而潰喪、譬猶灼火攻蠹、蠹盡木焚、詎不哀哉!跡其殘氣不剛、柔情易遷、則無上、怖則生怨、借之權則專、為禍則迫而近、緩相攻、急相一、此小人常勢也。噫!梟狐不神、天與之昏、末如亂何。故取中葉以来宦人之大者之篇。 楊思勗、羅州石城人。本蘇氏、冒所養姓。少給事内侍省、從玄宗討内難、擢左監門衛将軍、帝倚為爪牙。開元初、安南蛮渠梅叔鸞叛、號黒帝、挙三十二州之衆、外結林邑・真臘・金隣等国、據海南、衆號四十万。思勗請行、詔募首領子弟十万、與安南大都護光楚客繇馬援故道出不意、賊駭眙不暇謀、遂大敗、封尸為京観而還。十二年、五溪首領覃行章亂、詔思勗為黔中招討使、率兵六万往、執行章、斬首三万級、以功進輔国大将軍、給禄俸・防閤。從封泰山、進驃騎大将軍、封虢国公。邕州封陵獠梁大海反、破賓・横等州、思勗又平之、禽大海等三千人、討斬支黨皆盡。瀧州蛮陳行範自稱天子、其下何游魯號定国大将軍、馮璘南越王、破州県四十。詔思勗發永・道・連三州兵、淮南弩士十万、襲斬游魯・璘於陣。行範走盤遼諸洞、思勗悉衆窮追、生縛之、阬其黨六万、獲馬金銀鉅万計。卒、年八十餘。 思勗鷙忍、敢殺戮、所得俘、必剥面・剺腦・褫髮皮以示人、将士憚服、莫敢視、以是能立功。内給事牛仙童納張守珪賂、詔付思勗殺之。思勗縛于格、箠慘不可勝、乃探心、截手足、剔肉以食、肉盡乃得死。 楚客者、楽安人、後歴桂州都督致仕、封松滋県侯。 高力士、馮盎曾孫也。聖暦初、嶺南討撃使李千里上二閹兒、曰金剛、曰力士、武后以其彊悟、敕給事左右。坐累逐出之、中人高延福養為子、故冒其姓。善武三思、歳餘、復得入禁中、稟食司宮臺。既壯、長六尺五寸、謹密、善伝詔令、為宮闈丞。 玄宗在藩、力士傾心附結、已平韋氏、乃啓屬内坊、擢内給事。先天中、以誅蕭・岑等功為右監門衛将軍、知内侍省事。於是四方奏請皆先省後進、小事即專決、雖洗沐未嘗出、眠息殿帷中、徼倖者願一見如天人然。帝曰:「力士當上、我寢乃安。」當是時、宇文融・李林甫・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝等雖以才寵進、然皆厚結力士、故能踵至将相、自餘承風附會不可計、皆得所欲。中人若黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓莊・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・邊令誠等、並内供奉、或外監節度軍、脩功徳、市鳥獸、皆為之使、使還、所裒獲、動巨万計、京師甲第池園・良田美産、占者什六、寵與力士略等、然悉藉力士左右輕重乃能然。肅宗在東宮、兄事力士、它王・公主呼為翁、戚里諸家尊曰、帝或不名而呼将軍。 力士幼與母麥相失、後嶺南節度使得之瀧州、迎還、不復記識、母曰:「胸有七黒子在否?」力士袒示之、如言。母出金環、曰「兒所服者」、乃相持號慟。帝為封越国夫人、而追贈其父広州大都督。延福與妻、及力士貴時故在、侍養與麥均。金吾大将軍程伯獻約力士為兄弟、後麥亡、伯獻縗絰受弔。河間男子呂玄晤吏京師、女国姝、力士娶之、玄晤擢刀筆史至少卿、子弟仕皆王傅。玄晤妻死、中外贈賻送葬、自第至墓、車徒背相望不絶。 始、李林甫・牛仙客知帝憚幸東都、而京師漕不給、乃以賦粟助漕、及用和糴法、数年、国用稍充。帝齋大同殿、力士侍、帝曰:「我不出長安且十年、海内無事、朕将吐納導引、以天下事付林甫、若何?」力士對曰:「天子順動、古制也。税入有常、則人不告勞。今賦粟充漕、臣恐国無旬月蓄。和糴不止、則私蔵竭、逐末者衆。又天下柄不可假人、威權既振、孰敢議者!」帝不悅、力士頓首自陳「心狂易、語謬當死」。帝為置酒、左右呼万歳。由是還内宅、不復事。加累驃騎大将軍、封渤海郡公。於来廷坊建佛祠、興寧坊立道士祠、珍樓宝屋、国貲所不逮。鍾成、力士宴公卿、一扣鍾、納礼銭十万、有佞悅者至二十扣、其少亦不減十。都北堰灃列五磑、日僦三百斛直。 有袁思藝者、帝亦愛幸、然驕倨甚、士大夫疏畏之、而力士陰巧得人譽。帝初置内侍省監二員、秩三品、以力士・思藝為之。帝幸蜀、思藝遂臣賊、而力士從帝、進斉国公。帝聞肅宗即位、喜曰:「吾兒應天順人、改元至徳、不忘孝乎、尚何憂?」力士曰:「兩京失守、生人流亡、河南漢北為戰區、天下痛心、而陛下以為何憂、臣不敢聞。」從上皇還、進開府儀同三司、實封戸五百。 上皇徙西内、居十日、為李輔国所誣、除籍、長流巫州。力士方逃瘧功臣閣下、輔国以詔召、力士趨至閤外、遣内養授謫制、因曰:「臣當死已久、天子哀憐至今日、願一見陛下顏色、死不恨。」輔国不許。宝應元年赦還、見二帝遺詔、北向哭歐血、曰:「大行升遐、不得攀梓宮、死有餘恨。」慟而卒、年七十九。代宗以護衛先帝勞、還其官、贈揚州大都督、陪葬泰陵。 初、太子瑛廢、武惠妃方嬖、李林甫等皆屬壽王、帝以肅宗長、意未決、居忽忽不食。力士曰:「大家不食、亦膳羞不具耶?」帝曰:「爾、我家老、揣我何為而然?」力士曰:「嗣君未定耶?推長而立、孰敢爭?」帝曰:「爾言是也。」儲位遂定。天宝中、邊将爭立功、帝嘗曰:「朕春秋高、朝廷細務付宰相、蕃夷不龔付諸将、寧不暇耶?」對曰:「臣間至閤門、見奏事者言雲南数喪師、又北兵悍且彊、陛下何以制之?臣恐禍成不可禁。」其指蓋謂禄山。帝曰:「卿勿言、朕将圖之。」十三年秋大雨、帝顧左右無人、即曰:「天方災、卿宜言之。」力士曰:「自陛下以權假宰相、法令不行、陰陽失度、天下事庸可復安?臣之鉗口、其時也。」帝不答。明年禄山反。力士善揣時事勢候相上下、雖親昵、至當覆敗、不肯為救力、故生平無顯顯大過。議者頗恨宇文融以来權利相賊、階天下之禍、雖有補益、弗相除云。 程元振、京兆三原人。少以宦人直内侍省、遷内射生使・飛龍厩副使。張皇后謀立越王、元振見太子、發其姦、與李輔国助討難、立太子、是為代宗。拜右監門衛将軍、知内侍省事。帝以藥子昂判元帥行軍司馬、固辭、乃以命元振、封保定県侯。再遷驃騎大将軍・邠国公、盡總禁兵。不踰歳、權震天下、在輔国右、凶決又過之、軍中呼十郎。 王仲昇者、初為淮西節度使、與襄州張維瑾部将戰申州、被執。賊平、元振薦為右羽林大将軍兼御史大夫。将軍兼大夫由仲昇始。裴冕與元振忤、乃掎韓穎等罪貶施州。来瑱守襄・漢有功、元振嘗諉屬、不應、因仲昇共誣殺瑱。同華節度使李懐讓被構、憂甚自殺。素惡李光弼、数媒蝎以疑之。瑱等上将、冕・光弼元勳、既誅斥、或不自省、方帥繇是攜解。 広徳初、吐蕃・党項内侵、詔集天下兵、無一士奔命者。虜扣便橋、帝倉黄出居陝、京師陷、賊剽府庫、焚閭衖、蕭然為空。於是太常博士・翰林待詔柳伉上疏曰:「犬戎以数万衆犯関度隴、歴秦・渭、掠邠・涇、不血刃而入京師、謀臣不奮一言、武士不力一戰、提卒叫呼、劫宮闈、焚陵寢、此将帥叛陛下也。自朝義之滅、陛下以為智力所能、故疏元功、委近習、日引月長以成大禍、群臣在廷無一犯顏回慮者、此公卿叛陛下也。陛下始出都、百姓填然奪府庫、相殺戮、此三輔叛陛下也。自十月朔召諸道兵、盡四十日、無隻輪入関者、此四方叛陛下也。内外離叛、雖一魚朝恩以陝郡力、陛下獨能以此守社稷乎?陛下以今日勢為安耶?危耶?若以為危、豈得高枕不為天下計?臣聞良醫療疾、當病飲藥、藥不當疾、猶無益也。陛下視今日病何繇至此乎?天下之心、乃恨陛下遠賢良、任宦豎、離間将相而幾于亡。必欲存宗廟社稷、獨斬元振首、馳告天下、悉出内使隸諸州、獨留朝恩備左右、陛下持神策兵付大臣、然後削尊號、下詔引咎、率徳勵行、屏嬪妃、任将相。若曰『天下其許朕自新改過乎、宜即募士西與朝廷會。若以朕惡未悛耶、則帝王大器、敢妨聖賢、其聽天下所往』。如此而兵不至、人不感、天下不服、請赤臣族以謝。」疏聞、帝顧公議不與、乃下詔盡削元振官爵、放歸田里。帝還、元振自三原衣婦衣私入京師、舍司農卿陳景詮家、圖不軌。御史劾按、長流溱州、景詮貶新興尉。元振行至江陵死。 時又有駱奉先者、亦三原人、歴右驍衛大将軍、数從帝討伐、尤見倖、広徳初、監僕固懐恩軍者。奉先恃恩貪甚、懐恩不平、既而懼其譖、遂叛。事平、擢奉先軍容使、掌畿内兵、權焰熾然。永泰初、以吐蕃数驚京師、始城鄠、以奉先為使、悉毀県外廬舍、無尺椽。累封江国公、監鳳翔軍、大暦末卒。 魚朝恩、瀘州瀘川人。天宝末、以品官給事黄門、内陰黠、善宣納詔令。至徳初、監李光進軍。京師平、為三宮検責使、以左監門衛将軍知内侍省事。九節度圍賊相州、以朝恩為観軍容・宣慰・處置使。観軍容使自朝恩始。史思明攻洛陽、朝恩以神策兵屯陝。洛陽陷、思明長驅至硤石、使子朝義為游軍。肅宗詔鋭兵十万循渭而東以済師。朝恩按兵陝東、使神策将衛伯玉與賊将康文景等戰、敗之。洛陽平、徙屯汴州、加開府儀同三司、封馮翊郡公。宝應中、還屯陝。代宗避吐蕃東幸、衛兵離散、朝恩悉軍奉迎華陰、乘輿六師乃振、帝徳之、更號天下観軍容・宣慰・處置使、專領神策軍、賞賜不涯。 朝恩資小人、恃功岸忽無所憚。僕固瑒攻絳州、使姚良據温、誘回紇陷河陽。朝恩遣李忠誠討瑒、以霍文場監之。王景岑討良、王希遷監之。敗瑒於万泉、生擒良。高暉等引吐蕃入寇、遣劉徳信討斬之。故朝恩因麾下数克獲、竊以自高。是時郭子儀有定天下功、居人臣第一、心媢之、乘相州敗、醜為詆譖、肅宗不内其語、然猶罷子儀兵、留京師。代宗立、與程元振一口加毀、帝未及寤、子儀憂甚。俄而吐蕃陷京師、卒用其力、王室再安。故朝恩内慚、乃勸帝徙洛陽、欲遠戎狄。百僚在廷、朝恩從十餘人持兵出、曰:「虜数犯都甸、欲幸洛、云何?」宰相未對、有近臣折曰:「敕使反耶?今屯兵足以捍寇、何遽脅天子棄宗廟為?」朝恩色沮、而子儀亦謂不可、乃止。 朝恩好引輕浮後生處門下、講五経大義、作文章、謂才兼文武、徼伺誤寵。永泰中、詔判国子監、兼鴻臚・礼賓・内飛龍・閑厩使、封鄭国公。始詣学、詔宰相・常參官・六軍将軍悉集、京兆設食、内教坊出音楽俳倡侑宴、大臣子弟二百人、朱紫雜然為附学生、列廡次。又賜銭千万、取子銭供秩飯。毎視学、從神策兵数百、京兆尹黎幹率銭勞從者、一費数十万、而朝恩色常不足。 凡詔會群臣計事、朝恩怙貴、誕辭折愧坐人出其上、雖元載辯彊亦拱默、唯礼部郎中相里造・殿中侍御史李衎酬詰往返、未始降屈、朝恩不懌、黜衎以動造。又謀将易執政以震朝廷、乃會百官都堂、且言:「宰相者、和元氣、輯群生。今水旱不時、屯軍数十万、饋運困竭、天子臥不安席、宰相何以輔之?不退避賢路、默默尚何賴乎?」宰相俛首、坐皆失色。造徙坐從之、因曰:「陰陽不和、五穀踴貴、皆軍容事、宰相何與哉!且軍拏不散、故天降之沴。今京師無事、六軍可相維鎮、又屯十万、饋糧所以不足、百司無稍食、軍容為之、宰相行文書而已、何所歸罪?」朝恩拂衣去、曰:「南衙朋黨、且害我。」會釋菜、執易升坐、百官咸在、言鼎有覆餗象、以侵宰相。王縉怒、元載怡然。朝恩曰:「怒者常情、笑者不可測也。」載銜之、未發。 朝恩有賜墅、観沼勝爽、表為佛祠、為章敬太后薦福、即后謚以名祠、許之。於是用度侈浩、公壞曲江諸館・華清宮樓榭・百司行署・将相故第、收其材佐興作、費無慮万億。既数毀郭子儀、不見聽、乃遣盜發其先、子儀詭辭自解、以安衆疑。久之、讓判国子監・鴻臚礼賓等使、加内侍監、徙封韓、增實封百戸。俄兼検校国子監。 初、神策都虞候劉希暹魁健能騎射、最為朝恩昵信、以太僕卿封交河郡王。兵馬使王駕鶴獨謹厚、亦封徐国公。希暹諷朝恩置獄北軍、陰縱惡少年横捕富人付吏考訊、因中以法、録貲産入之軍、皆誣服冤死、故市人號「入地牢」。又万年吏賈明観倚朝恩捕搏恣行、積財鉅万、人無敢發其姦。朝廷裁決、朝恩或不預者、輒怒曰:「天下事有不由我乎!」帝聞、不喜。養息令徽者、尚幼、為内給使、服綠、與同列爭忿、歸白朝恩。明日見帝曰:「臣之子位下、願得金紫、在班列上。」帝未答、有司已奉紫服于前、令徽稱謝。帝笑曰:「小兒章服、大稱。」滋不悅。 元載乃用左散騎常侍崔昭尹京兆、厚以財結其黨皇甫温・周皓。温方屯陝、而皓射生将。自是朝恩隠謀奧語、悉為帝知。希暹覺帝指、密白朝恩、朝恩稍懼、然見帝接遇未衰、故自安而潛計不軌。帝遂倚載、決除之、懼不克、載曰:「陛下第專屬臣、必済。」朝恩入殿、嘗從武士百人自衛、皓統之、而温渥兵在外。載乃徙鳳翔尹李抱玉節度山南西道、以温代節度鳳翔、陽重其權、寔内温以自助。載又議析鳳翔之郿與京兆、以鄠・盩厔及鳳翔之虢・宝與抱玉、而以興平・武功・鳳翔之扶風天興與神策軍、朝恩利其土地、自封殖、不知為虞也。郭子儀密白「朝恩嘗結周智光為外應、久領内兵、不早圖、變且大」。載留温京師、未即遣、約與皓共誅朝恩。謀定、以聞、帝曰:「善圖之、勿反受禍!」方寒食、宴禁中、既罷、将還營、有詔留議事。朝恩素肥、毎乘小車入宮省。帝聞車聲、危坐、載守中書省。朝恩至、帝責其異圖、朝恩自辨悖、皓與左右禽縊之、死年四十九、外無知者。帝隠之、下詔罷観軍容等使、增實封戸六百、内侍監如故。外咸言「既奉詔、乃投縊」云。還尸於家、賜銭六百万以葬。 帝懼軍亂、進劉希暹・王駕鶴並兼御史中丞。又下詔尉曉将士、獨希暹自知同惡、言不遜、駕鶴白發之、遂賜死。而賈明観兼得幸於載、故載奏隸江西、使立功自贖、路嗣恭搒殺之。所厚礼部尚書・礼儀使裴士淹・戸部侍郎判度支第五琦皆坐貶。 竇文場・霍仙鳴者、始並隸東宮、事徳宗、未有名。自魚朝恩死、宦人不復典兵、帝以禁衛盡委白志貞、志貞多納富人金補軍、止收其庸而身不在軍。及涇師亂、帝召近衛、無一人至者、惟文場等率宦官及親王左右從。至奉天、帝逐志貞、并左右軍付文場主之。興元初、詔監神策左廂兵馬、以王希遷監右、而馬有麟為左神策軍大将軍、軍額由此始。 帝自山南還、兩軍復完、而帝忌宿将難制、故詔文場・仙鳴分總之、廢天威軍入左右神策。是時、竇・霍權振朝廷、諸方節度大将多出其軍、臺省要官走門下、丐援影者足相躡。衛士朱華以按摩得幸文場、參慮補置、索賕数万緡、而藩鎮贈遺累百鉅万、略士妻女無所憚、詔殺之于軍。其隆赫如此。 久之、置護軍中尉・中護軍各二員、詔文場為左神策護軍中尉、仙鳴為右、焦希望為左神策中護軍、張尚進為右。中尉・護軍自文場等始。後仙鳴移病、帝賜十馬、令諸祠祈解。後稍愈、已而暴死、帝疑左右進毒、捕詰小使問状、誅数十人、贈開府儀同三司、以内常侍第五守亮代之。文場擢累驃騎大将軍。時監察御史崔薳行囚于軍、吏為具酒食、薳欲悅媚之、故不拒。文場劾奏、詔流薳遠方。文場年老致仕卒。 其後楊志廉・孫栄義為左右中尉、招權驕肆、與竇・霍略等。帝晩節聞民間訛語禁中事、而北軍捕太学生何竦・曹壽繋訊、人情大懼、司業武少儀上書「有如罪不測、願明示四方」。俄得釋。是時宦官復盛矣。 希望者、涇陽人、歴明威将軍、贈洪州都督。尚進、河東人、歴忠武将軍、贈開府儀同三司。志廉、弘農人、歴左監門衛大将軍。栄義、涇陽人、歴右武衛大将軍。並贈揚州大都督。 劉貞亮、本倶氏、名文珍、冒所養宦父、故改焉。性忠彊、識義理。平涼之盟、在渾瑊軍中、會虜變、被執且西、俄而得歸。出監宣武軍、自置親兵千人。貞元末、宦人領兵附順者益衆。 會順宗立、淹痼弗能朝、惟李忠言・牛美人侍。美人以帝旨付忠言、忠言授之王叔文、叔文與柳宗元等裁定、然後下中書。然未得縱欲、遂奪神策兵以自彊、即用范希朝為京西北禁軍都将、收宦者權。而忠言素懦謹、毎見叔文與論事、無敢異同、唯貞亮乃與之爭。又惡朋黨熾結、因與中人劉光琦・薛文珍・尚衍・解玉・呂如全等同勸帝立広陵王為太子監国、帝納其奏、貞亮召学士衛次公・鄭絪・李程・王涯至金鑾殿草定制詔。太子已立、盡逐叔文黨、委政大臣、議者美其忠。 高崇文討劉闢、復為監軍。初、東川節度使李康為闢所破、囚之。崇文至、闢歸康求雪、貞亮劾以不拒賊、斬之、故以專悍見訾。遷累右衛大将軍、知内侍省事。元和八年卒、贈開府儀同三司。 憲宗之立、貞亮為有功、然終身無所寵假。呂如全歴内侍省内常侍・翰林使、坐擅取樟材治第、送東都獄、至閿郷自殺。又郭旻醉觸夜禁、杖殺之。五坊朱超晏・王志忠縱鷹人入民家、搒二百、奪職、繇是莫不慴畏。 吐突承璀字仁貞、閩人也。以黄門直東宮、為掖廷局博士、察察有才。憲宗立、擢累左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使、封薊国公。 王承宗叛、承璀揣帝鋭征討、因請行。帝見其果敢自喜、謂可任、即詔承璀為行營招討處置使、以左右神策及河中・河南・浙西・宣歙兵從之。内寺伯宋惟澄・曹進玉為館驛使:自河南・陝・河陽、惟澄主之。京・華・河中至太原、進玉主之。又詔内常侍劉国珍・馬朝江分領易・定・幽・滄等州糧料使。於是諫官李鄘・許孟容・李元素・李夷簡・呂元膺・穆質・孟簡・獨孤郁・段平仲・白居易等衆對延英、謂古無中人位大帥、恐為四方笑。帝乃更為招討宣慰使、為御通化門慰其行。承璀御衆無它遠略、為盧從史侮狎、踰年無功、賴中詔擿使執從史、而間遣人説承宗上書待罪、乃詔班師、還為中尉。平仲劾承璀輕謀弊賦、損国威、不斬首無以謝天下。帝不獲已、罷為軍器莊宅使。尋拜左衛上将軍、知内侍省。 會劉希光納羽林大将軍孫銭二十万緡求方鎮、有詔賜死、跡絓承璀、故令出監淮南軍。纖人太子通事舍人李渉投匭言承璀等冤状、於是孔戣知匭事、閲其副、不受、即表其姦、逐為峽州司倉參軍。然帝於承璀殊厚、會李絳在翰林、苦論其過、故決遣之。帝後欲還承璀、為罷絳宰相、召為内弓箭庫使、復左神策中尉。惠昭太子薨、承璀請立澧王、不從。常飾一室蔵所賜詔敕、地生毛二尺、惡之、躬糞除瘞之。踰年帝崩、穆宗銜前議、殺之禁中。敬宗時、左神策中尉馬存亮論其冤、詔許子士曄收葬。宣宗時、擢士曄右神策中尉。 是時、諸道歳進閹兒、號「私白」、閩・嶺最多、後皆任事、當時謂閩為中官區藪。咸通中、杜宣猷為観察使、毎歳時遣吏致祭其先、時號「敕使墓戸」。宣猷卒用群宦力徙宣歙観察使。 馬存亮字季明、河中人。元和時、累擢左神策軍副使・左監門衛将軍、知内侍省事、進左神策中尉。軍所籍凡十餘万、存亮料柬尤精、伍無罷士、部無冗員。 敬宗初、染署工張韶與卜者蘇玄明善、玄明曰:「我嘗為子卜、子當御殿食、我與焉。吾聞上晝夜獵、出入無度、可圖也。」韶毎輸染材入宮、衛士不呵也。乃陰結諸工百餘人、匿兵車中若輸材者、入右銀臺門、約昏夜為變。有詰其載者、韶謂謀覺、殺其人、出兵大呼成列、浴堂門閉。時帝撃毬清思殿、驚、将幸右神策。或曰:「賊入宮、不知衆寡、道遠可虞、不如入左軍、近且速。」從之。初、帝常寵右軍中尉梁守謙、毎游幸。兩軍角戲、帝多欲右勝、而左軍以為望。至是、存亮出迎、捧帝足泣、負而入。以五百騎往迎二太后、比至、而賊已斬関入清思殿、升御坐、盜乘輿餘膳、揖玄明偶食、且曰「如占」。玄明驚曰:「止此乎!」韶惡之、悉以宝器賜其徒、攻弓箭庫、仗士拒之、不勝。存亮遣左神策大将軍康藝全・将軍何文哲宋叔夜孟文亮、右神策大将軍康志睦・将軍李泳尚国忠、率騎兵討賊、日暮、射韶及玄明皆死。始賊入、中人倉卒繇望仙門出奔、内外不知行在。遲明、盡捕亂黨、左右軍清宮、車駕還。群臣詣延英門見天子、然至者不十一二、坐賊所入闌不禁者数十人、杖而不誅、賜存亮實封戸二百、梁守謙進開府儀同三司、它論功賞有差。存亮於一時功最高、乃推委權勢、求監淮南軍。代還、為内飛龍使。大和中、以右領軍衛上将軍致仕、封岐国公、卒贈揚州大都督。 存亮逮事徳宗、更六朝、資端畏、善訓士、始去禁衛、衆皆泣。唐世中人以忠謹稱者、唯存亮・西門季玄・厳遵美三人而已。 遵美父季寔、為掖廷局博士。大中時、有宮人謀弑宣宗。是夜、季寔直咸寧門下、聞變、入射殺之。明日、帝勞曰:「非爾、吾危不免。」擢北院副使、終内樞密使。 遵美歴左軍容使、嘗歎曰:「北司供奉官以胯衫給事、今執笏、過矣。樞密使無聽事、唯三楹舍蔵書而已、今堂状帖黄決事、此楊復恭奪宰相權之失也。」蓋疾時中官肆横云。後從昭宗遷鳳翔、求致仕、隠青城山、年八十餘卒。 仇士良字匡美、循州興寧人。順宗時得侍東宮。憲宗嗣位、再遷内給事、出監平盧・鳳翔等軍。嘗次敷水驛、與御史元稹爭舍上聽、撃傷稹。中丞王播奏御史・中使以先後至得正寢、請如舊章。帝不直稹、斥其官。元和・大和間、数任内外五坊使、秋按鷹内畿、所至邀吏供餉、暴甚寇盜。 文宗與李訓欲殺王守澄、以士良素與守澄隙、故擢左神策軍中尉兼左街功徳使、使相糜肉。已而訓謀悉逐中官、士良悟其謀、與右神策軍中尉魚弘志・大盈庫使宋守義挾帝還宮。王涯・舒元輿已就縛、士良肆脅辱、令自承反、示牒于朝。於時莫能辨其情、皆謂誠反、士良因縱兵捕、無輕重悉斃兩軍、公卿半空。事平、加特進・右驍衛大将軍、弘志右衛上将軍兼中尉、守義右領軍衛上将軍。 李石輔政、稜稜有風岸、士良與論議数屈、深忌之、使賊刺石於親仁里、馬逸而免。石懼、辭位、士良益無憚。 澤潞劉從諫本與訓約誅鄭注。及訓死、憤士良得志、乃上書言:「王涯等八人皆宿儒大臣、願保富貴、何苦而反。今大戮所加已不可追、而名之逆賊、含憤九泉。不然、天下義夫節士、畏禍伏身、誰肯與陛下共治耶?」即以訓所移書遣部将陳季卿以聞。季卿至、會石遇盜、京師擾、疑不敢進。從諫大怒、殺季卿、騰書于朝。又言:「臣與訓誅注、以注本宦豎所提挈、不使聞知。今四方共伝宰相欲除内官、而兩軍中尉聞、自救死、妄相殺戮、謂為反逆。有如大臣挾無将之謀、自宜執付有司、安有縱俘劫、横尸闕下哉?陛下視不及、聽未聞也。且宦人根黨蔓延在内、臣欲面陳、恐横遭戮害、謹修封疆、繕甲兵、為陛下腹心。如姦臣難制、誓以死清君側。」書聞、人人伝観。士良沮恐、即進從諫検校司徒、欲弭其言。從諫知可動、復言:「臣所陳繋国大體、可聽、則宜洗宥涯等罪。不可聽、則賞不宜妄出。安有死冤不申、而生者荷禄?」固辭。累上書、暴指士良等罪。帝雖不能去、然倚其言差自彊。自是鬱鬱不楽、兩軍毬獵宴會絶矣。 開成四年、苦風痺、少間、召宰相見延英、退坐思政殿、顧左右曰:「所直学士謂誰?」曰:「周墀也。」召至、帝曰:「自爾所況、朕何如主?」墀再拜曰:「臣不足以知、然天下言陛下堯・舜主也。」帝曰:「所以問、謂與周赧・漢獻孰愈?」墀惶駭曰:「陛下之徳、成・康・文・景未足比、何自方二主哉?」帝曰:「赧・獻受制彊臣、今朕受制家奴、自以不及遠矣!」因泣下、墀伏地流涕。後不復朝、至大漸云。 始、樞密使劉弘逸薛季稜・宰相李楊嗣復謀奉太子監国、士良與弘志議更立、不從、乃矯詔立潁王為皇太弟、士良以兵奉迎、而太子還為陳王。初、莊恪太子薨、楊賢妃謀引安王、不克。武宗已立、士良發其事、勸帝除之以絶人望、故王・妃皆死。士良遷驃騎大将軍、封楚国公、弘志韓国公、實封戸三百。俄而・嗣復罷去、弘逸・季稜誅矣。 帝明斷、雖士良有援立功、内實嫌之、陽示尊寵。李徳裕得君、士良愈恐。會昌二年、上尊號、士良宣言「宰相作赦書、減禁軍縑糧芻菽」以搖怨、語兩軍曰:「審有是、樓前可爭。」徳裕以白帝、命使者諭神策軍曰:「赦令自朕意、宰相何豫?爾渠敢是?」士乃怗然。士良惶惑不自安。明年、進観軍容使、兼統左右軍、以疾辭、罷為内侍監、知省事。固請老、詔可。尋卒、贈揚州大都督。 士良之老、中人挙送還第、謝曰:「諸君善事天子、能聽老夫語乎?」衆唯唯。士良曰:「天子不可令閑暇、暇必観書、見儒臣、則又納諫、智深慮遠、減玩好、省游幸、吾屬恩且薄而權輕矣。為諸君計、莫若殖財貨、盛鷹馬、日以毬獵聲色蠱其心、極侈靡、使悅不知息、則必斥経術、闇外事、万機在我、恩澤權力欲焉往哉?」衆再拜。士良殺二王・一妃・四宰相、貪酷二十餘年、亦有術自将、恩礼不衰云。死之明年、有發其家蔵兵数千物、詔削官爵、籍其家。 始、士良・弘志憤文宗與李訓謀、屢欲廢帝。崔慎由為翰林学士、直夜未半、有中使召入、至祕殿、見士良等坐堂上、帷帳周密、謂慎由曰:「上不豫已久、自即位、政令多荒闕、皇太后有制更立嗣君、学士當作詔。」慎由驚曰:「上高明之徳在天下、安可輕議?慎由親族中表千人、兄弟群從且三百、何可與覆族事?雖死不承命。」士良等默然、久乃啓後戸、引至小殿、帝在焉。士良等歴階数帝過失、帝俛首。既而士良指帝曰:「不為学士、不得更坐此。」乃送慎由出、戒曰:「毋泄、禍及爾宗。」慎由記其事、蔵箱枕間、時人莫知。将沒、以授其子胤、故胤惡中官、終討除之、蓋禍原於士良・弘志云。 楊復光、閩人也、本喬氏。有武力、少養於内常侍楊玄价家、頗以節誼自奮、玄价奇之。宣宗時、玄价監鹽州軍、誣殺刺史劉皋。皋有威名者、世訟其冤。稍遷左神策軍中尉、譖去宰相楊收、權寵震時。 復光有謀略、累監諸鎮軍。乾符初、佐平盧節度使曾元裕撃賊王仙芝、敗之。招討使宋威撃仙芝於江西、復光在軍、請判官呉彦宏約賊絳、仙芝遣将尚君長自縛如約。威疾其功、密請僖宗誅之、故仙芝怨、復引兵叛。後天子寤威階禍、罷之、以兵與復光、乃進禽徐唐莒。王鐸為招討、復光仍監軍。鐸之棄荊南也、山南東道節度使劉巨容定其地、以忠武別将宋浩領荊南、泰寧将段彦謨佐之。復光父嘗監忠武軍、而浩已為大将、見復光、少之、不為礼、彦謨亦居浩下、遂有隙。復光曰:「胡不殺之?」彦謨引慓士撃殺浩、復光以客常滋假留後、而奏浩罪、薦彦謨為朗州刺史。詔鄭紹業為荊南節度使、以復光監忠武軍、屯鄧州、遏賊右衝。帝西幸、召紹業見行在、復光更引彦謨為荊南節度使。彦謨紿行邊、詣復光、以黄金数百兩為謝。其後忠武周岌受賊命、嘗夜宴、召復光、左右曰:「彼既附賊、必不利公、不如毋行。」復光固往、酒所語時事、復光泣曰:「丈夫所感、獨恩與義耳、彼不顧恩義・規利害、何丈夫哉!公奮匹夫封侯、乃捐十八葉天子、北面臣賊、何恩義利害昧昧耶?」岌流涕曰:「吾力不足、陽合而陰離之、故召公計。」因持杯盟曰:「有如酒!」即遣子守亮斬賊使于伝舍。秦宗權據蔡州叛、岌・復光以忠武兵三千入見之。宗權即遣部将王淑持兵万人從。復光定荊・襄、師次鄧、淑逗遛、復光斬之、并其軍為八、以鹿宴弘・晋暉・張造・李師泰・王建・韓建等為之将、進攻南陽。賊将朱温・何勤逆戰、大敗、遂收鄧州、追北藍橋。會母喪、班師。俄起為天下兵馬都監、總諸軍、與東面招討使王重栄并力定関中。朱温守同州、復光遣使鐫諭、温以所部降。方賊之彊、重栄憂不知所出、謂復光曰:「臣賊邪、且負国。拒戰邪、則兵寡、柰何?」復光曰:「李克用與我世共患難、其為人、奮不顧身、比数召未即至者、由太原道不通耳、非忍禍者。若諭上意、彼宜必来。」重栄曰:「善。」白王鐸以詔使至太原、克用兵乃出。京師平、以功加開府儀同三司・同華制置使、封弘農郡公、賜號「資忠輝武匡国平難功臣」。卒河中、贈観軍容使、謚曰忠肅。 復光御下有恩、軍中聞其死、皆慟哭、而麾下多立功者。諸子為将帥数十人、守宗亦為忠武節度使。 賛曰:楚鄖公辛不敢讎君而忘父冤、昭愍之世、兩軍寵遇有厚薄、而卒用存亮夷難、功莫及者。自古忠臣出於疏斥不用蓋多矣、存亮豈通記書道理之人邪、何其識君臣大誼明甚?不尸大勞、畏權處外、又愈賢矣。與夫書「龍蛇」之詩者、何其小哉!