約 123 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/11.html
唐書巻一 本紀第一 高祖 高祖神堯大聖大光孝皇帝は、諱を淵、字を叔徳といい、姓は李氏で、隴西郡成紀の人である。その七世の祖の李暠は、晋末にあたって、秦州・涼州に拠って自ら王となり、涼の武昭王となった。李暠は李歆を生んだ。李歆は沮渠蒙遜のために滅ぼされた。李歆は李重耳を生んだ。李重耳は北魏の弘農太守となった。李重耳は李熙を生んだ。李熙は金門鎮将となって、武川に戍したため、家をここにとどめた。李熙は李天賜を生んだ。李天賜は幢主となった。李天賜は李虎を生んだ。李虎は、西魏のときに大野氏の姓を賜り、官は太尉にいたって、李弼ら八人とともに北周の建国を助けて西魏に代わるのに功績があり、みな柱国となって、「八柱国家」と号した。北周の閔帝が西魏から禅譲を受けたとき、李虎はすでに亡くなっており、その功績を追録して、唐国公に封じ、謚を襄といった。襄公は李昞を生んだ。李昞は唐公の位を襲封し、北周の安州総管・柱国大将軍となり、亡くなると、謚を仁といった。 仁公は高祖を長安で生んだ。高祖の体には三つの乳があり、性格は寛仁で、唐公の位を襲封した。隋の文帝(楊堅)の独孤皇后は、高祖の叔母であり、このために文帝と高祖はたがいに親愛しあった。文帝が北周の宰相となると、高祖は姓を李氏に復し、千牛備身となり、隋につかえて譙隴二州刺史となった。大業年間に、岐州刺史・滎陽樓煩二郡太守を歴任し、召されて殿内少監・衛尉少卿となった。煬帝が遼東(高句麗)を攻撃すると、高祖に懐遠鎮で食糧の運搬を監督させた。楊玄感が反乱を計画し、その兄弟たちで高句麗遠征に従軍した者たちがみな逃げかえると、高祖は真っ先に察知して上聞し、煬帝はにわかに軍を分けて、高祖を弘化留守として楊玄感を防がせ、詔により関右の諸郡の兵はみな高祖の節度を受けた。 このとき、隋の政治は荒廃し、天下は大いに乱れ、煬帝は妬みのために多くの大臣を殺戮した。嘗以事召高祖、高祖遇疾、不時謁。高祖有甥王氏在後宮、煬帝問之、王氏對以疾、煬帝曰:「可得死否?」高祖はこれを聞くとますますおそれて、酒におぼれて賄賂を取り態度をくらました。 十一年(615)、山西河東慰撫大使に任ぜられ、龍門の賊の母端兒を攻撃し、弓を七十発射てみな命中させ、賊が敗れ去ると、その死体を集めて京観を築き、その死体からことごとく矢を回収した。また絳州の賊の柴保昌を攻撃し、その衆数万人を降した。突厥が塞内を侵犯すると、高祖と馬邑太守の王仁恭がこれを撃ったが、隋兵は少なく、敵わなかった。高祖は精騎二千を選抜して遊軍とし、居處飯食隨水草如突厥、而射獵馳騁示以閒暇、別選善射者伏為奇兵。虜見高祖、疑不敢戰、高祖が乗じてこれを撃つと、突厥は敗走した。 十三年(617)、太原留守に任ぜられ、高陽の歴山飛と賊の甄翟兒を西河で攻撃し、これを破った。このとき、煬帝は江都で南遊し、天下には盗賊が蜂起した。高祖の子の李世民は隋の滅亡の必然を察知し、ひそかに豪傑と結び、亡命者を招きいれ、晋陽令の劉文静とともに大事を挙げることを計画した。計已決、而高祖未之知、欲以情告、懼不見聽。高祖は太原に留守し、晋陽宮監を領し、而所善客裴寂為副監、世民陰與寂謀、寂因選晋陽宮人私侍高祖。高祖過寂飲酒、酒酣從容、寂具以大事告之、高祖大驚。寂曰:「正為宮人奉公、事發當誅、為此爾。」世民因亦入白其事、高祖初陽不許、欲執世民送官、已而許之、曰:「吾愛汝、豈忍告汝邪?」然未有以發。而所在盜賊益多、突厥數犯邊、高祖兵出無功、煬帝遣使者執高祖詣江都、高祖大懼。世民曰:「事急矣、可舉事!」已而煬帝復馳使者赦止高祖、其事遂已。 このとき、劉武周が馬邑に起ち、林士弘が豫章に起ち、劉元進が晋安に起ち、みな皇帝を称した。朱粲が南陽に起ち、楚帝を号した。李子通が海陵に起ち、楚王を号した。邵江海が岐州に拠り、新平王を号した。薛挙が金城に起ち、西秦霸王を号した。郭子和が楡林に起ち、永楽王を号した。竇建徳が河間に起ち、長楽王を号した。王須抜が恒州・定州に起ち、漫天王を号した。汪華が新安に起ち、杜伏威が淮南に起ち、みな呉王を号した。李密が鞏に起ち、魏公を号した。王徳仁が鄴に起ち、太公を号した。左才相が斉郡に起ち、博山公を号した。羅芸が幽州に拠り、左難当が涇州に拠り、馮盎が高州・羅州に拠り、みな総管を号した。梁師都が朔方に拠り、大丞相を号した。孟海公が曹州に拠り、録事を号した。周文挙が淮陽に拠り、柳葉軍を号した。高開道が北平に拠り、張長愻が五原に拠り、周洮が上洛に拠り、楊士林が山南に拠り、徐円朗が兗州に拠り、楊仲達が豫州に拠り、張善相が伊州・汝州に拠り、王要漢が汴州に拠り、時徳叡が尉氏に拠り、李義満が平陵に拠り、綦公順が青・萊に拠り、淳于難が文登に拠り、徐師順が任城に拠り、蒋弘度が東海に拠り、王薄が斉郡に拠り、蒋善合が鄆州に拠り、田留安が章丘に拠り、張青特が済北に拠り、臧君相が海州に拠り、殷恭邃が舒州に拠り、周法明が永安に拠り、苗海潮が永嘉に拠り、梅知巌が宣城に拠り、鄧文進が広州に拠り、俚酋の楊世略が循州・潮州に拠り、冉安昌が巴東に拠り、甯長真が鬱林に拠って、号を別にする盗賊たちがしばしば山沢にたむろし集まった。而劉武周攻汾陽宮、高祖乃集将吏告曰:「今吾為留守、而賊據離宮、縱賊不誅、罪當死。然出兵必待報、今江都隔遠、後期奈何?」将吏皆曰:「国家之利可專者、公也。」高祖曰:「善。」乃募兵、旬日間得衆一万。副留守虎賁郎将王威・虎牙郎将高君雅見兵大集、疑有變、謀因禱雨晋祠以図高祖。高祖覺之、乃陰為備。 五月甲子、高祖及威・君雅視事、開陽府司馬劉政会告威・君雅反、即坐上執之。丙寅、突厥犯邊、高祖令軍中曰:「人告威・君雅召突厥、今其果然。」遂殺之以起兵。遣劉文静使突厥、約連和。 六月己卯、諸郡に檄文を伝え、義兵を称し、大将軍府を開いて、三軍を置いた。子の李建成を隴西公・左領軍大都督として、左軍を従わせた。李世民を燉煌公・右領軍大都督として、右軍を従わせた。李元吉を姑臧公として、中軍を従わせた。裴寂を長史とし、劉文静を司馬とし、石艾県長の殷開山を掾とし、劉政会を属とし、長孫順徳・王長諧・劉弘基・竇琮を統軍とした。倉庫を開いて窮乏するものにふるまった。 七月壬子、高祖杖白旗、誓衆於野、有兵三万、李元吉を太原留守とした。癸丑、發太原。甲寅、遣将張綸徇下離石・龍泉・文城三郡。丙辰、次霊石、營於賈胡堡。隋の虎牙郎将の宋老生が邑にあって、義師をはばんだ。丙寅、隋の鷹揚府司馬の李軌が武威に起ち、大涼王を号した。 八月辛巳、宋老生を霍邑で破った。丙戌、臨汾郡を下した。辛卯、絳郡で勝利した。癸巳、次龍門、突厥來來逆。 九月戊午、高祖は太尉を領し、加置僚佐。以少牢祀河、乃濟。甲子、次長春宮。丙寅、隴西公李建成と劉文静が永豊倉に駐屯し、潼関を守った。燉煌公李世民は渭北から三輔をめぐり、従父弟の李神通が鄠で起兵し、柴氏の妻は、高祖の女であり、また司竹で起兵して、みな李世民と合流した。郿の賊の丘師利と李仲文、盩厔の賊の何潘仁と向善思、宜君の賊の劉炅らはみな来降し、因略定鄠・杜。壬申、高祖次馮翊。乙亥、燉煌公李世民は阿城に駐屯し、隴西公李建成は新豊から霸上に趨った。丙子、高祖自下邽以西、所經隋行宮・苑、悉罷之、出宮女還其家。 十月辛巳、次長楽宮、有衆二十万。隋の留守の衛文昇らが代王楊侑を奉じて京城を守っていたので、高祖が使者を遣してこれを諭したが、返事がなかった。そこで城を包囲し、「隋の七廟および宗室に危害を加えた者がいれば、罪は三族におよぶ」と命令を下していった。丙申、隋の羅山令の蕭銑が自ら梁公を号した。 十一月丙辰、京城で勝利した。主符郎の宋公弼に命じて地図と帳簿を保護させた。法十二条を約し、殺人・強盗・背軍・叛乱にあたる者を死罪とした。癸亥、はるかな隋帝を尊んで太上皇とし、代王を立てて皇帝とした。大赦をおこない、義寧と改元した。甲子、高祖は京師に入り、朝堂にいたって、望闕而拜。隋帝は高祖に仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・大丞相・録尚書事を授け、唐王に進封した。武徳殿を丞相府として、下への指導を令といい、虔化門で政事をみた。 十二月癸未、隋の恭帝が唐の襄公(李虎)に追贈して景王とし、仁公(李昞)を元王とした。夫人の竇氏を唐国妃として、謚を穆といった。李建成を唐国世子とした。李世民を唐国内史として、秦国公に移封した。李元吉を斉国公とした。丞相府に長史・司録以下の官を置いた。趙郡公の李孝恭に山南を巡回させることとした。甲辰、雲陽令の詹俊に巴・蜀を巡回させることとした。 二年(618)正月丁未、隋帝が詔して、唐王が宮殿にのぼるときに帯剣する特権、入朝するときに小走りしない特権、拝謁するとき名乗らない特権を認め、前後羽葆・鼓吹を加えた。戊午、周洮が降った。戊辰、世子李建成を左元帥とし、秦国公李世民を右元帥として、東都の地を巡回させることとした。 二月己卯、太常卿の鄭元が樊・鄧を平定し、使者の馬元規が荊・襄を巡回することとした。 三月己酉、斉国公李元吉が太原道行軍元帥となった。乙卯、李世民が趙国公に徙封された。丙辰、隋の右屯衛将軍の宇文化及が太上皇を江都で弑し、秦王楊浩を立てて皇帝とした。呉興郡守の沈法興が丹陽に拠り、江南道総管を自称した。楽安の人の盧祖尚が光州に拠り、刺史を自称した。戊辰、隋帝が唐王の位を相国に進め、百揆を総べさせ、九錫を備え、唐国は丞相などの官を置き、四廟を立てた。 四月己卯、張長愻が降った。辛巳、停竹使符、班銀菟符。 五月乙巳、隋帝命唐王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕。甲寅、王徳仁が降った。戊午、隋帝が位をゆずり、以刑部尚書蕭造・司農少卿裴之隱奉皇帝璽紱於唐王、三讓乃受。 武徳元年(618)五月甲子、太極殿で皇帝の位についた。蕭造に命じて太尉を兼ねさせ、告于南郊、大赦をおこない、改元した。百官・庶人に爵一級を賜り、義師所過給復三年、其餘給復一年。郡を改めて州とし、太守を刺史とした。庚午、太白(金星)が昼に見えた。隋の東都留守の元文都と左武衛大将軍の王世充が越王楊侗を立てて皇帝とした。 六月甲戌、趙国公李世民が尚書令となり、裴寂が尚書右僕射・知政事となり、劉文静が納言となり、隋の民部尚書の蕭瑀・丞相府司録参軍の竇威が内史令となった。丙子、太白(金星)が昼に見えた。己卯、皇高祖を追謚して宣簡公といった。皇曾祖を懿王といった。皇祖を景皇帝といい、廟号を太祖とし、祖母の梁氏を景烈皇后といった。皇父を元皇帝といい、廟号を世祖とし、母の独孤氏を元貞皇后といった。妃の竇氏を穆皇后といった。庚辰、世子の李建成を立てて皇太子とし、李世民を封じて秦王とし、李元吉を斉王とした。癸未、薛挙が涇州を寇すると、秦王李世民を西討元帥とし、劉文静を司馬とした。太僕卿の宇文明達に山東を招慰させた。乙酉、隋帝を奉じて酅国公とし、詔曰:「近世時運遷革、前代親族、莫不夷絶。曆數有歸、實惟天命。興亡之效、豈伊人力。前隋蔡王智積等子孫、皆選用之。」癸巳、禁言符瑞者。辛丑、竇威が薨去した。黄門侍郎の陳叔達が判納言となり、将作大匠の竇抗が納言を兼ねた。 七月壬子、劉文静と薛挙が涇州で戦い、劉文静が敗れた。乙卯、郭子和が降った。庚申、隋の離宮を廃した。 八月壬申、劉文静を除名した。戊寅、約功臣恕死罪。辛巳、薛挙が亡くなった。壬午、李軌が降った。甲申、巖州刺史の王徳仁が招慰使の宇文明達を殺してそむいた。己丑、秦王李世民が西討元帥となり、薛仁杲を討った。庚子、隋の太常卿の高熲に上柱国・郯国公を、上柱国の賀若弼に国公を、司隸大夫の薛道衡に上開府・臨河県公を、刑部尚書の宇文に上開府・平昌県公を、左翊衛将軍の董純に柱国・狄道公を、右驍衛将軍の李金才に上柱国・申国公を、左光禄大夫の李敏に柱国・観国公を追贈した。諸遭隋枉殺而子孫被流者、皆還之。 九月乙巳、慮囚。始めて軍府を置いた。癸丑、銀菟符を改めて銅魚符とした。甲寅、秦州総管の竇軌が薛仁杲と戦い、敗れた。辛未、宇文化及が秦王楊浩を殺し、皇帝を自称した。 十月壬申朔、日食があった。己卯、李密が降った。壬午、朱粲が鄧州を陥落させ、刺史の呂子臧がここに死んだ。乙酉、邵江海が降った。己亥、盜が商州刺史の泉彦宗を殺した。辛丑、大閲。この月、竇抗が宰相を退いた。 十一月、竇建徳が王須抜を幽州で破り、王須抜は突厥に亡命した。乙巳、涼王の李軌がそむいた。戊申、禁獻侏儒短節・小馬庳牛・異獸奇禽者。己酉、秦王李世民が薛仁杲を破り、これを捕らえた。癸丑、行軍総管の趙慈景が蒲州を攻め、隋の刺史の堯君素が抵抗して戦い、趙慈景を捕らえた。癸亥、秦王李世民が捕らえた薛仁杲を献上した。 十二月壬申、李世民が太尉となった。丙子、蒲州の人が堯君素を殺し、その将の王行本を立てた。辛巳、鄭元が朱粲と商州で戦い、これを破った。乙酉、周氏陂にいった。丁亥、周氏陂から到着した。庚子、光禄卿の李密がそむき、処刑された。 この年、高開道が漁陽を陥落させ、燕王を号した。 二年(619)正月甲子、陳叔達が納言を兼ねた。「今から正月・五月・九月は死刑を行わず、屠殺を禁ずる」と詔した。丙寅、張善相が降った。己巳、楊士林が降った。 二月乙酉、初めて租・庸・調の法を定めた。令文武官終喪。丙戌、州置宗師一人。甲午、赦并・浩・介・石四州賈胡堡以北繋囚。閏月、竇建徳が邢州を陥落させ、総管の陳君賓を捕らえた。辛丑、竇建徳が宇文化及を聊城で殺した。朱粲が降った。壬寅、皇太子および秦王李世民と裴寂が畿県を巡視した。乙巳、御史大夫の段確が朱粲を菊潭でねぎらった。庚戌、微行、察風俗。乙卯、以穀貴、禁関内屠酤。左屯衛将軍の何潘仁が山賊の張子恵と司竹で戦い、ここに死んだ。丁巳、慮囚。庚申、驍騎将軍の趙欽と王娑羅が山賊と盩厔で戦い、ここに死んだ。丁卯、王世充が殷州を陥落させ、陟州刺史の李育徳がここに死んだ。 三月甲戌、王薄が降った。庚辰、蒋弘度・徐師順が降った。丁亥、竇建徳が趙州を陥落させた。丁酉、李義満が降った。 四月、綦公順が降った。庚子、并州総管・斉王の李元吉と劉武周が楡次で戦い、李元吉は敗れた。辛丑、朱粲が段確を殺してそむいた。乙巳、王世充が越王楊侗を廃し、皇帝を自称した。癸亥、伊州を陥落させ、総管の張善相を捕らえた。 五月庚辰、涼州の将の安修仁が李軌を捕らえて降った。癸未、曲赦涼・甘・瓜・鄯・肅・會・蘭・河・廓九州。 六月、王世充が越王楊侗を殺した。戊戌、周公と孔子の廟を国子監に立てた。庚子、竇建徳が滄州を陥落させた。丁未、劉武周が介州を陥落させた。癸亥、裴寂が晋州道行軍総管となった。離石胡の劉季真が叛き、石州を陥落させたので、刺史の王倹がここに死んだ。 七月壬申、徐円朗が降った。 八月丁酉、酅国公が薨去した。甲子、竇建徳が洺州を陥落させ、総管の袁子幹を捕らえた。 九月辛未、戸部尚書の劉文静を殺した。李子通が皇帝を自称した。沈法興が梁王を自称した。丁丑、杜伏威が降った。裴寂と劉武周が介州で戦い、裴寂が敗れ、右武衛大将軍の姜宝誼がここに死んだ。庚辰、竇建徳が相州を陥落させ、総管の呂がここに死んだ。辛巳、劉武周が并州を陥落させた。庚寅、太白(金星)が昼に見えた。竇建徳が趙州を陥落させ、総管の張志昂を捕らえた。乙未、京師で地震があった。梁師都が延州を寇し、鄜州刺史の梁礼がここに死んだ。 十月己亥、羅芸が降った。乙卯、華陰にいき、赦募士背軍者。壬戌、劉武周が晋州を寇すると、永安王李孝基および工部尚書の独孤懐恩・陜州総管の于筠・内史侍郎の唐倹がこれを討った。甲子、華山を祠った。この月、夏県の人の呂崇茂がそむいた。秦王李世民が劉武周を討った。 十一月丙子、竇建徳が黎州を陥落させ、淮安王李神通と総管の李世勣を捕らえた。 十二月丙申、華山で狩猟した。永安王李孝基が劉武周と下邽で戦い、敗れた。壬子、大風で木が抜けた。 三年(620)正月己巳、渭浜で狩猟した。戊寅、王行本が降った。辛巳、蒲州にいった。癸巳、蒲州から到着した。 二月丁酉、京師西南地有聲。庚子、如華陰。甲寅、独孤懐恩が反乱を計画し、処刑された。辛酉、検校隰州総管の劉師善が反乱を計画し、処刑された。 三月庚午、納言を改めて侍中とし、内史令を中書令とした。甲戌、中書侍郎の封徳彝が中書令を兼ねた。乙酉、劉季真が降った。 四月丙申、華山を祠った。壬寅、華陰から到着した。癸卯、関内の諸州で屠殺を禁じた。甲寅、秦王李世民が宋金剛と雀鼠谷で戦い、これを破った。辛酉、王世充が鄧州を陥落させ、総管の雷四郎がここに死んだ。壬戌、秦王李世民が劉武周と洺州で戦い、これを破り、劉武周は突厥に亡命した。并州に勝利した。 五月壬午、秦王李世民が夏県を屠った。 六月丙申、晋・隰・潞・并の四州で赦した。癸卯、詔隋帝及其宗室柩在江都者、為營窆、置陵廟、以故宮人守之。丙午、慮囚。子の李元景を封じて趙王とし、李元昌を魯王とし、李元亨を酆王とした。己酉、宮女五百人を出して、東征した将士のうち功績ある者に賜った。甲寅、顕州長史の田瓚が行台尚書令の楊士林を殺し、叛いて王世充についた。乙卯、瘞州縣暴骨。 七月壬戌、秦王李世民が王世充を討った。甲戌、皇太子が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。丙戌、梁師都が突厥・稽胡を導いて辺境を寇したので、行軍総管の段徳操がこれを破った。 八月庚子、慮囚。甲辰、時徳叡が降った。 九月癸酉、田瓚が降った。己丑、給復陜・鼎・熊・穀四州二年。 十月戊申、高開道が降った。己酉、楊仲達が降った。己未、隕石が東都に落ちた。 十二月己酉、瓜州刺史の賀抜行威がそむいた。 四年(621)正月辛巳、皇太子が稽胡を討った。 二月、竇建徳が曹州を陥し、孟海公を捕らえた。己丑、車騎将軍の董阿興が隴州でそむき、処刑された。乙巳、太常少卿の李仲文が反乱を計画し、処刑された。丙午、慮囚。丁巳、赦代州総管府石嶺之北。 三月、宜都郡王李泰を進封して衛王とした。庚申、慮囚。乙酉、竇建徳が管州を陥落させ、刺史の郭志安がここに死んだ。 四月壬寅、斉王李元吉が王世充と東都で戦い、敗れ、行軍総管の盧君諤がここに死んだ。戊申、突厥が并州を寇し、漢陽郡王李・太常卿の鄭元・左驍騎衛大将軍の長孫順徳を捕らえた。甲寅、子の李元方を封じて周王とし、李元礼を鄭王とし、李元嘉を宋王とし、李元則を荊王とし、李元茂を越王とした。丁巳、左武衛将軍の王君廓が張青特を破り、これを捕らえた。 五月壬戌、秦王李世民が竇建徳を虎牢で破り、これを捕らえた。乙丑、山東で竇建徳に欺かれ惑わされた者を赦した。戊辰、王世充が降った。庚午、周法明が降った。 六月庚寅、河南で王世充に欺かれ惑わされた者を赦した。戊戌、蒋善合が降った。庚子、営州の人の石世則がその総管の晋文衍を捕らえて、叛いて靺鞨についた。乙卯、臧君相が降った。 七月甲子、秦王李世民が捕らえた王世充を献上した。丙寅、竇建徳が処刑された。丁卯、大赦をおこない、給復天下一年、陜・鼎・函・虢・虞・芮・豳七州二年。甲戌、劉黒闥が貝州でそむいた。辛巳、戴州刺史の孟噉鬼がそむき、処刑された。 八月丙戌朔、日食があった。丁亥、皇太子が北境を安撫した。丁酉、劉黒闥が鄃県を陥落させ、魏州刺史の権威と貝州刺史の戴元祥がここに死んだ。癸卯、突厥が代州を寇し、行軍総管の王孝基を捕らえた。丁未、劉黒闥が歴亭を陥落させ、屯衛将軍の王行敏がここに死んだ。辛亥、深州の人の崔元遜がその刺史の裴晞を殺し、叛いて劉黒闥についた。兗州総管の徐円朗がそむいた。 九月、盧祖尚が降った。乙卯、淳于難が降った。甲子、汪華が降った。 この秋、夔州総管・趙郡王李孝恭が十二総管の兵を率いて蕭銑を討った。 十月己丑、秦王李世民が天策上将となり、司徒を領した。斉王李元吉が司空となった。庚寅、劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の盧士叡を捕らえ、また観州を陥落させた。癸卯、毛州の人の董燈明がその刺史の趙元愷を殺した。乙巳、趙郡王李孝恭が蕭銑を荊州で破り、これを捕らえた。 閏月乙卯、稷州にいった。己未、旧墅に幸した。壬戌、好畤で狩猟した。乙丑、九で狩猟した。丁卯、仲山で狩猟した。戊辰、清水谷で狩猟し、そのまま三原に幸した。辛未、周氏陂にいった。壬申、周氏陂から到着した。 十一月甲申、有事于南郊。庚寅、李子通が降った。丙申、李子通が反乱を計画し、処刑された。壬寅、劉黒闥が定州を陥落させ、総管の李玄通がここに死んだ。庚戌、州の人の周文挙がその刺史の王孝矩を殺し、叛いて劉黒闥についた。 十二月乙卯、劉黒闥が冀州を陥落させ、総管の麴稜がここに死んだ。甲子、左武候将軍の李世勣が劉黒闥と宋州で戦い、敗れた。丁卯、秦王李世民・斉王李元吉が劉黒闥を討った。己巳、劉黒闥が邢州を陥落させた。庚午、魏州を陥落させ、総管の潘道毅がここに死んだ。辛未、莘州を陥落させた。壬申、李元嘉を徐王に移封した。 五年(622)正月乙酉、劉黒闥が相州を陥落させ、刺史の房晃がここに死んだ。丙戌、殷恭邃が降った。丁亥、済州別駕の劉伯通がその刺史の竇務本を捕らえて、叛いて徐円朗についた。庚寅、東塩州治中の王才芸がその刺史の田華を殺して、叛いて劉黒闥についた。丙申、相州の人がその刺史の独孤徹を殺して、その州をもって叛いて劉黒闥についた。己酉、楊世略・劉元進が降った。 二月、王要漢が降った。己巳、秦王李世民が邢州に勝利した。丁丑、劉黒闥が洺水を陥落させ、総管の羅士信がここに死んだ。戊寅、汴州総管の王要漢が徐円朗を州で破り、周文挙を捕らえた。 三月戊戌、譚州刺史の李義満が斉州都督王薄を殺した。丁未、秦王李世民が劉黒闥と洺水で戦い、これを破り、劉黒闥は突厥に亡命した。蔚州総管の高開道がそむき、易州を寇し、刺史の慕容孝幹がここに死んだ。 四月、梁州野蠶成繭。冉安昌が降った。己未、甯長真が降った。戊辰、釋流罪以下穫麥。壬申、代州総管の李大恩が突厥と戦い、ここに死んだ。戊寅、鄧文進が降った。 五月、田留安が降った。庚寅、瓜州の人の王幹が賀抜行威を殺して降った。乙巳、荊州にこの年の田租を賜った。 六月辛亥、劉黒闥と突厥が山東を寇した。車騎将軍の元韶が瓜州道行軍総管となり、突厥に備えた。癸丑、吐谷渾が洮・旭・疊の三州を寇し、岷州総管の李長卿がこれを破った。乙卯、淮安郡王李神通が徐円朗を討った。 七月甲申、弘義宮を作った。甲午、淮陽郡王李道玄が河北道行軍総管となり、劉黒闥を討った。貝州の人の董該が定州をもって叛いて劉黒闥についた。丙申、突厥が劉武周を白道で殺した。遷州の人の鄧士政がそむき、その刺史の李敬昂を捕らえた。丁酉、馮盎が降った。 八月辛亥、隋の煬帝を葬った。甲寅、吐谷渾が岷州を寇し、益州道行台左僕射の竇軌がこれを破った。乙卯、突厥が辺境を寇した。庚申、皇太子が豳州道を出て、秦王李世民が秦州道を出て、突厥をふせいだ。己巳、吐谷渾が洮州を陥落させた。并州総管・襄邑郡王李神符が突厥と汾東で戦い、これを破った。戊寅、突厥が大震関を陥落させた。 九月癸巳、霊州総管の楊師道が三観山で突厥を破った。丙申、洪州総管の宇文歆がまた崇岡で突厥を破った。壬寅、定州総管の雙士洛と驃騎将軍の魏道仁がまた恒山の南で突厥を破った。丙午、領軍将軍の安興貴がまた甘州で突厥を破った。劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の馬匡武がここに死んだ。東塩州の人の馬君徳がその州をもって叛いて劉黒闥についた。 十月己酉、斉王李元吉が劉黒闥を討った。癸丑、貝州刺史の許善護が劉黒闥と鄃県で戦い、ここに死んだ。甲寅、観州刺史の劉君会が叛いて劉黒闥についた。乙丑、淮陽郡王李道玄が劉黒闥と下博で戦い、ここに死んだ。己巳、林士弘が降った。 十一月庚辰、劉黒闥が滄州を陥落させた。甲申、皇太子が劉黒闥を討った。丙申、宜州にいった。癸卯、富平北原で狩猟した。 十二月丙辰、万寿原で狩猟した。戊午、劉黒闥が恒州を陥落させ、刺史の王公政がここに死んだ。庚申、万寿原から到着した。壬申、皇太子が劉黒闥と魏州で戦い、これを破った。甲戌、また毛州で劉黒闥を破った。 六年(623)正月己卯、劉黒闥の将の葛徳威が劉黒闥を捕らえて降った。壬午、巂州の人の王摩娑がそむき、驃騎将軍の衛彦がこれを討った。庚寅、徐円朗が泗州を陥落させた。 二月、劉黒闥が処刑された。庚戌、温湯に幸した。壬子、驪山で狩猟した。甲寅、温湯より到着した。丙寅、行軍総管李世勣が徐円朗を破り、これを捕らえた。 三月、苗海潮・梅知巌・左難当が降った。乙巳、洪州総管の張善安がそむいた。 四月己酉、吐蕃が芳州を陥落させた。己未、故第を通義宮とし、元皇帝・元貞皇后を旧寝で祭った。京城で赦し、従官に帛を賜った。辛酉、張善安が孫州を陥落させ、総管の王戎を捕らえた。丁卯、南州刺史の龐孝泰がそむき、南越州を陥落させた。壬申、子の李元を封じて蜀王とし、李元慶を漢王とした。癸酉、裴寂が尚書左僕射となり、蕭瑀が右僕射となり、封徳彝が中書令となり、吏部尚書の趙恭仁が中書令を兼ね、涼州諸軍事を検校した。 五月庚寅、吐谷渾・党項が河州を寇し、刺史の盧士良がこれを破った。癸卯、高開道が奚をつれて幽州を寇し、長史の王説がこれを破った。 六月丁卯、突厥が朔州を寇し、総管の高満政がこれを破った。朔州で曲赦した。 七月丙子、沙州別駕の竇伏明がそむき、その総管の賀若懐廓を殺した。己亥、皇太子が北辺に駐屯し、秦王李世民が并州に駐屯し、突厥に備えた。 八月壬子、淮南道行台左僕射の輔公祏がそむいた。乙丑、趙郡王李孝恭がこれを討った。 九月壬辰、秦王李世民が江州道行軍元帥となった。丙申、渝州の人の張大智がそむいた。 十月丙午、広州都督の劉世讓を殺した。戊申、降死罪、流以下原之。己未、華陰にいった。張大智が降った。庚申、白鹿原で狩猟した。壬戌、右虞候率の杜士遠が高満政を殺し、朔州をもってそむいた。丁卯、突厥が和を請うた。 十一月壬午、張善安が黄州総管の周法明を襲って殺した。丁亥、華陰にいった。辛卯、沙苑で狩猟した。丁酉、伏龍原で狩猟した。 十二月壬寅朔、日食があった。癸卯、張善安が降った。庚戌、奉義監を龍躍宮とし、武功宅を慶善宮とした。甲寅、華陰から到着した。 七年(624)正月庚寅、鄒州の人の鄧同穎がその刺史の李士衡を殺した。 二月丁巳、釋奠于国學。己未、漁陽の部将の張金樹が高開道を殺して降った。 三月戊戌、趙郡王李孝恭が輔公祏を破り、これを捕らえた。己亥、李孝恭が越州都督の闞稜を殺した。 四月庚子、大赦をおこなった。班新律令。給復江州道二年・揚越一年。 五月丙戌、仁智宮を作った。 六月辛丑、仁智宮にいった。壬戌、慶州都督の楊文幹がそむいた。 七月己巳、突厥が朔州を寇し、総管の秦武通がこれを破った。癸酉、慶州の人が楊文幹を殺して降った。甲午、仁智宮から到着した。巂州で地震があり山が崩れ、遏江水。 閏月己未、秦王李世民・斉王李元吉が豳州に駐屯し、突厥に備えた。 八月己巳、吐谷渾が鄯州を寇し、驃騎将軍の彭武傑がここに死んだ。戊寅、突厥が綏州を寇し、刺史の劉大倶がこれを破った。壬辰、突厥が和を請うた。丁酉、裴寂が突厥に使いした。 十月丁卯、慶善宮にいった。辛未、鄠南で狩猟した。癸酉、終南山に幸した。丙子、謁樓觀老子祠。庚寅、囲川で狩猟した。 十二月丁卯、龍躍宮にいった。戊辰、高陵で狩猟した。庚午、高陵から到着した。太子詹事の裴矩が侍中を検校した。 八年(625)二月癸未、慮囚。 四月甲申、鄠にいき、甘谷で狩猟した。太和宮を作った。丙戌、鄠から到着した。 六月甲子、太和宮にいった。 七月丙午、太和宮から到着した。丁巳、秦王李世民が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。 八月壬申、并州行軍総管張瑾が突厥と太谷で戦い、敗れ、鄆州都督の張徳政がここに死に、行軍長史の温彦博が捕らえられた。甲申、任城郡王李道宗が突厥と霊州で戦い、これを破った。丁亥、突厥が和を請うた。 十月辛巳、周氏陂にいき、北原で狩猟した。壬午、龍躍宮にいった。 十一月辛卯、宜州にいき、西原で狩猟した。裴矩が宰相を退いた。庚子、同官で武を講じた。天策府司馬の宇文士及が権検校侍中となった。辛丑、李元を徙封して呉王とし、李元慶を陳王とした。癸卯、秦王李世民が中書令となり、斉王李元吉が侍中となった。癸丑、華池北原で狩猟した。 十二月辛酉、華池から到着した。庚辰、鳴犢泉で狩猟した。辛巳、鳴犢泉から到着した。 九年(626)正月甲寅、裴寂を司空とした。 二月庚申、斉王李元吉を司徒とした。壬午、有星孛于胃・昴。丁亥、孛于卷舌。 三月庚寅、昆明池に幸し、水戦を演習した。壬辰、昆明池より到着した。丙午、周氏陂にいった。乙卯、周氏陂より到着した。丁巳、突厥が涼州を寇し、都督・長楽郡王の李幼良がこれを破った。 四月辛巳、浮屠(仏陀)・老子の法を廃した。 六月丁巳、太白經天。庚申、秦王李世民が皇太子李建成・斉王李元吉を殺した。大赦をおこなった。浮屠・老子の法を復した。癸亥、秦王李世民を立てて皇太子とし、聴政させた。賜為父後者襲勳・爵、赤牒官得為真、免民逋租宿賦。己卯、太白(金星)が昼に見えた。庚辰、幽州都督・廬江郡王の李瑗がそむき、処刑された。癸未、赦幽州管内為瑗所詿誤者。 七月辛卯、楊恭仁が宰相を退いた。太子右庶子の高士廉が侍中となり、左庶子房玄齢が中書令となり、蕭瑀が尚書左僕射となった。癸巳、宇文士及が中書令となり、封徳彝が尚書左僕射となった。辛亥、太白が昼に見えた。甲寅、太白が昼に見えた。 八月丙辰、突厥が和を請うた。丁巳、太白が昼に見えた。壬戌、吐谷渾が和を請うた。甲子、皇太子が皇帝位についた。 貞観三年(629)、太上皇が大安宮に移り住んだ。九年(635)五月、垂拱前殿で崩じた。年は七十一。謚を太武といい、廟号を高祖といった。上元元年(674)、謚を神堯皇帝と改めた。天宝八戴(749)、神堯大聖皇帝と謚した。十三載(754)、神堯大聖大光孝皇帝と増謚した。 賛曰:自古受命之君、非有徳不王。自夏后氏以來、始傳以世、而有賢有不肖、故其為世、數亦或短或長。論者乃謂周自后稷至於文・武、積功累仁、其來也遠、故其為世尤長。然考於世本、夏・商・周皆出於黄帝、夏自鯀以前、商自契至於成湯、其間寂寥無聞、與周之興異矣。而漢亦起於亭長叛亡之徒。及其興也、有天下皆數百年而後已。由是言之、天命豈易知哉!然考其終始治亂、顧其功徳有厚薄與其制度紀綱所以維持者如何、而其後世、或寖以隆昌、或遽以壞亂、或漸以陵遲、或能振而復起、或遂至於不可支持、雖各因其勢、然有徳則興、無徳則絶、豈非所謂天命者常不顯其符、而俾有国者兢兢以自勉耶?唐在周・隋之際、世雖貴矣、然烏有所謂積功累仁之漸、而高祖之興、亦何異因時而特起者歟?雖其有治有亂、或絶或微、然其有天下年幾三百、可謂盛哉!豈非人厭隋亂而蒙徳澤、繼以太宗之治、制度紀綱之法、後世有以憑藉扶持、而能永其天命歟? 前巻 『新唐書』 次巻 - 『新唐書』巻一 本紀第一 巻二 本紀第二
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/37.html
漢代樊噲 曹参 呂雉 陳平 酈食其 周勃 周亜夫 劉徹 李広 衛青 司馬遷 李陵 桑弘羊 霍光 王檣 王莽 劉秀(文叔) 鄧禹(仲華) 呉漢(子顔) 賈復(君文) 耿弇(伯昭) 寇恂(子翼) 岑彭(君然) 馮異(公孫) 朱祐(仲先) 祭遵(弟孫) 景丹(孫卿) 蓋延(巨卿) 銚期(次況) 耿純(伯山) 臧宮(君翁) 馬武(子張) 劉隆(元伯) 馬成(君遷) 王梁(君厳) 陳俊(子昭) 杜茂(諸公) 傅俊(子衛) 堅鐔(子キュウ) 馬援(文淵) 班超 冒頓単于 徴側 徴弐 陰麗華 漢代 樊噲 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 78 95 38 7 69 護衛 B B C B C C ? BC.189 【ハンカイ】 前漢初期の武将。劉邦と同じ沛県の人で、劉邦とは妻が姉妹の義兄弟(樊カイが弟)になる。劉邦に仕えて武勲を挙げた。のちに舞陽侯となる。劉邦が咸陽を攻め落とした後、項羽の軍が函谷関で足止めされた。項羽は劉邦が、自分を出し抜いて王となる気だと思い、怒って殺そうとした。項伯・張良などの斡旋により、鴻門において弁明する機会が与えられた。樊カイは参乗として劉邦に付いていった。本営には劉邦と張良のみが中に入るのを許された。宴の席で、劉邦を暗殺しようとする剣舞が始まった。劉邦の危機を知った樊噲は、兵士が止めるのも聞かず本営の中に入り「祝勝の振る舞いがない!」と言った。その剣幕に剣舞は中止される。項羽は彼に大杯の酒と生の豚の肩肉を与えた。樊噲は酒を飲み干し、生のままの豚肉を平らげた。そして項羽に「咸陽を攻め落としたのは、出し抜こうとしたわけではなく、項羽の来るのを待っていたのだ」と釈明する。項羽はこれに黙り込んでしまう。劉邦と樊噲は脱出した。これらにより項羽は劉邦を討つ機会を失い、劉邦は虎口を脱する。その後、樊噲は対楚戦でも武勲を挙げ、漢王朝成立後は韓信を討つのにも功績を挙げる。樊噲は呂后の妹呂須を妻にしていたため、将軍のあいだでも王室の信頼が深かった。高祖の晩年に讒言によって捕らえられるが、高祖の死によって釈放される。その後、失意の中劉邦のあとを追うように没した。 曹参 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 82 71 80 85 77 精妙 A A B A B B ? BC190 【ソウシン】 沛出身。字は敬伯。 の獄掾で、かねて劉邦と交流があって蕭何とともに劉邦擁立を進め、一族すべてが従軍した。劉邦が漢王とされると建成侯に封じられ、関中平定後は右丞相として韓信に従って功を重ね、天下平定後は平陽侯に封じられて斉王劉肥の丞相に遷された。B193年に相国の蕭何が没するとその遺言で後任とされ、在任三年で没し、懿侯と諡号された。晩年は蕭何と不和だったが、自らその及ばないことを認め、相国就任後は祖法を遵守して内治安定に貢献した。 ちなみに後漢末に登場した曹操であるが、彼の実家は曹参を祖先とする家(曹無傷を祖先とする家であるという説もある)だったが、祖父・曹騰が宦官だった為、御家存続のために夏侯嬰の子孫だった曹嵩を養子に入れ、曹の姓を名乗るということになっている。 呂雉 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 7 3 86 81 24 言毒 C C C C C C ? BC180 【リョチ】 呂后。字は娥[女+句]。高祖劉邦の皇后。 劉邦が吏員だった頃からの伴侶であり、恵帝と魯元公主の生母。楚漢抗争の時期にはいちじ項羽によって捕虜とされるなど辛酸を嘗め、統一後は劉邦の側室の戚夫人とその子如意の抬頭に苦しんだ。韓信の捕縛や彭越の処刑を演出するなど謀略に長け、漢王朝初期の安定に少なからず貢献した。 恵帝が即位すると皇太后として垂簾政治を行なったが、高祖晩年の寵愛を独占した戚夫人母子を惨殺して恵帝の政務放棄を招いたため、皇帝のことを代行して呂氏の封建を強引に進め、劉氏を圧迫し、反対勢力の多くを弾圧したが、民間は安定していたという。恵帝が没すると、少帝恭・少帝弘を立てて垂簾政治を続けた。 呂后の死後は一族の呂産・呂録が畿内の軍権を握って実権を保ち、恵帝の治世後半から文帝即位までは呂后時代と呼ばれる。B180年に呂后が没すると、丞相陳平・太尉周勃らは禁軍の指揮権を呂産より奪い、斉王襄・朱虚侯章の兄弟と共に呂氏を鏖殺した。事後、代王恒が迎立され、少帝弘は廃弑された。 陳平 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 71 47 98 94 81 鬼謀 A C A C S C BC178 【チンペイ】 字は仲。秦末漢初の政治家・軍師。陽武戸版の人。魏咎・項羽などに仕官するが続かず、最終的には劉邦に仕える。項羽との戦いで危機に陥る劉邦を多くの献策で救った。劉邦の遺言により丞相となり、呂氏一族を誅殺。劉氏の地位を守った。張良と双璧をなす策士。 酈食其 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 38 20 84 92 80 論客 C C C C C C ? BC.203 【レキイキ】 漢の臣。B.C.208酈食其は劉邦と会見した。劉邦に陳留を襲って秦の貯蔵の粟を取ることを進言した。そこで酈食其は漢の陣営に迎え入れられた。B.C.207秦の丞相趙高は二世皇帝を殺すと、人を劉邦のところへやり、約束して関中の地を分け、 ふたりで王になろうと言った。劉邦は張良の計を用い酈食其と陸賈を秦将のもとへやって説得させこれを利益で釣って降し武関を急襲し、これを破った。劉邦はまた酈食其を斉王田広のところに遣って、漢の味方になるように説かせたので、田広は楚にそむいて漢と和睦し、ともに楚を討った。B.C.203韓信は蒯通の計を用い、不意を襲って斉を破った。田広は怒って酈食其を煮殺した。 周勃 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 82 84 67 64 77 急襲 A A B A C C ? BC.169 【シュウボツ】 前漢王朝の将軍。周勃は薄曲(葦で編んだ蚕の敷物)を織って生業とし、葬式のあるときには簾を吹いて楽人をつとめたが、沛の材官(武卒)として強弓を引いた。高祖は項羽を破ってから、疑心暗鬼にとりつかれたが、周勃がこれに従い、虜にした総数は相国1人、丞相2人、将軍および2000石の大官それぞれ3人、軍2人と城3つを降し、郡5つと県79を定め、 丞相・大将それぞれ1人に及ぶという。 周亜夫 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 88 86 75 71 80 急襲 A B A A C C ? BC.143 【シュウアフ】 前漢王朝の将軍。周勃の子。B.C.159冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した。文帝は周亜夫を将軍として細柳に、宗正劉礼を覇上に、祝玆侯徐悍を棘門に駐屯させて長安を守らせた。文帝は各陣営をめぐって兵をねぎらったが、周亜夫の陣の令は整っていた。文帝は「ああ、あれが本当の将軍というものだ。 さきの覇上(劉礼)や棘門(徐悍)とは比べものにならない」と感嘆。匈奴を追い払い、文帝に愛された。後、景帝の治世になると、これとソリが合わず揉めた。そして周亜夫は免ぜられた。しばらくして周亜夫は禁中に召されて食を賜わった。料理は大切りの肉だけで箸もなかった。周亜夫は箸を持ってくるように言うと、 景帝はこれを見ながら笑って「何か足らぬものでもあるのか」と言う。周亜夫は冠を脱いでお詫びしたが、景帝が席を立ったので周亜夫は小走りに退出。景帝はこれを目送りし、「あの不快そうな者は、臣ではない」と言う。3月、周亜夫の子が、父を葬るために尚方の工官が作った甲・楯を買い、人夫を雇って苦役させたが、銭をやらなかった。恨みに思った人夫はこの違法を上書した。景帝はこれを吏に下し、訊問させ、周亜夫は取調べを受けた。廷尉は厳しく取り締まり始めた。周亜夫は食事しないこと5日、血を吐いて飢え死んだ。 劉徹 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 70 51 88 91 94 心攻 B B B A C C BC156 BC87 【リュウテツ】 字は通。前漢の七代武帝。廟号は世宗。在位前141~前87。景帝の子。はじめ膠東王に封ぜられた。景帝後元三年(前141)、十六歳で即位した。当初は祖母の竇太皇太后に実権を握られた。自ら信任した儒者を太皇太后の怒りを買ったため退けたりした。祖母が崩ずると、次は王皇太后とその外戚の王氏・田氏が朝政を専断した。王皇太后が崩じると親政を開始した。対外政策では、従来の消極策を捨て、衛青や霍去病を登用して、匈奴を討たせ、北方に追いやった。東に楽浪郡ほか朝鮮四郡を置き、西に張騫を送って西域との交流を開いた。汗血馬を求めて、フェルガナ遠征まで行っている。内政面では、桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、塩や鉄を専売にし、均輸法・平準法を公布して物価を統制しようとした。しかし、相次ぐ外征のため、文帝・景帝時代の莫大な蓄積を食いつぶし、さらに財政を破綻させ、多くの新税を導入して、農民を窮乏化させた。晩年、武帝のもとで辣腕を振るった江充が、皇太子と対立し、武帝死後のことを恐れて、巫蠱事件をでっち上げて皇太子を冤罪に落とそうとした。皇太子は江充を討とうとして謀反の罪を着せられ、長安市街での戦いに敗れ、自殺した。後、武帝は皇太子を悼んで思子宮を造営した。末子の弗陵を後継者に定め、霍光・金日磾・上官桀の三人に後事を託して崩じた。 李広 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 90 97 71 27 89 飛将 A B S S C C ? BC119 【リコウ】 中国前漢時代の将軍。匈奴から飛将と恐れられた。呂布が飛将と称えられる起源は李広である。武帝の時代の紀元前129年、匈奴との戦いに敗れて捕虜となった。その後、脱出して長安に戻ったが、罪を問われ平民に落とされた。後、将軍として再び匈奴と戦うが戦果を得られず。紀元前119年の匈奴攻略の時には李広は高齢を理由に外されそうになった。李広はこれに猛抗議してようやく参戦が許された。しかし、前将軍であったのが、武帝の密命を受けた大将軍衛青によって搦手の軍に回された。李広は不服であったがそれに従い別方面から進軍したが、道に迷って匈奴との戦いに遅れた。衛青がそのことに対しての報告書を出そうと李広の部下を詰問したところで李広は、「成人してからこのかた匈奴と大小七十数回戦った。幸運にも衛青大将軍に従って単于の兵と戦える機会に恵まれながら、衛青がわしを後方の部隊に回したため道に迷って遠回りをする羽目になった。これが天命でなくてなんであろうか」と叫び、彼は自分の首を剣で斬り死んだ。 衛青 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 95 89 75 46 74 騎神 B B A S C C ? B.C.106 【エイセイ】 字は仲卿。幼少時を奴隷として過ごす。霍去病としばしば比較される武将である。紀元前129年から10余年にわたり、天才的騎馬戦術をもって七回にわたり匈奴族を撃破し、功績によって大将軍にまで昇進。しかしその後、功績・人気に勝る霍去病に完全に取って代わられることになる。 司馬遷 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 59 31 78 86 88 洞察 C C C C C C BC145 ? 【シバセン】 茂陵出身。字は子長。父の司馬談は左馮翊夏陽(陝西)出身で茂陵に移住し、太史令まで進んだ。成人してからは各地の名所旧蹟を巡り、伝説・碑史を収集し、父の死後、太史令とされてB104年に太初暦を完成させ、史記を起稿した。B99年に李陵を弁護したことで宮刑とされ、数年後に出獄して中書令となり、史記を完成させた。没年は武帝末~昭帝初期に比定される。 「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻、計52万6千5百字からなる「史記」は、宮刑という屈辱に耐える司馬遷の悲壮なる魂の結晶である。 史記の列伝の最初に伯夷叔斉を次に管仲と晏嬰とを置かれている。この四人は全て君主に対して強い諫言を行って、かつ君主に殺される事の無かった人たちである。これらの古人と自分、古の君主と武帝を引き比べて思う所があったのだろう。 李陵 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 88 94 82 27 85 弓神 B B S A C C ? BC.74 【リリョウ】 中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷の知人でもあり、その司馬遷が宦官となった原因を作った人物でもある。同時に親友の任安も李陵を弁護したために、武帝によって処刑された。匈奴に帰順した李陵はその地で左賢王として生涯を閉じた。 桑弘羊 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 15 8 87 96 68 徴税 C C C C C C BC.152 BC.80 【ソウコウヨウ】 洛陽の商家出身。算術に長け13歳で武帝の侍中とされ、財務官僚として認められてB119年に東郭咸陽・孔僅らと経済改革を企画立案し、以後、財務政策の中心となって均輸法を実施し、塩鉄専売・均輸平準法の施行を担当した。B100年には大司農令に進み、武帝の死に臨んで霍光・上官傑とともに遺詔を受け、御史大夫とされて政務の中心となったが、子弟の仕官を断られた事で霍光と不仲となった。B81年には塩鉄の専売と均輸平準法の存廃をめぐって賢良・文学らと激しく議論したが、一介の学士に過ぎない賢良・文学が熾烈に桑弘羊と論争しえた背景には霍光の支援があり、桑弘羊ら外朝勢力と霍光ら内朝勢力の政争が背景として伏在していたとされる。塩鉄会議の翌年、上官傑・燕王らと謀った簒奪が露見して誅殺された。 専売制、均輸平準法は財政を好転させ、軍費調達をも可能とした一方で庶民の負担は確実に増大し、運用者の恣意によって非難を受けたが、処刑後もその財務政策が継続されたのも事実であり、塩鉄会議の進行を記した『塩鉄論』が、霍光に代表される内朝側の人間によって記録された点には注意を要する。 霍光 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 61 39 92 97 88 仁政 C C C C C C BC68 【カクコウ】 漢代の政治家。兄の推挙で武帝の側近となり,武帝の死にさいし,大司馬大将軍に任ぜられた。前74年,昭帝は没した。後嗣がなかったため,武帝の孫・昌邑王を帝位に就けたが新帝は淫乱の所業が多く,漢朝の行く末を憂えた霍光は,わずか27日でこれを廃し,あらためて武帝の曾孫を擁立した。その功によって霍光は娘を宣帝の皇后にすえて外戚となり,一族はすべて高位高官に取りたてられた。政権を握ること20年にして病没。 王檣 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 16 9 65 64 96 C C C C C C ? ? 【オウショウ】 王昭君と呼ばれる。昭君は字。 荊州南郡(江陵)出身。匈奴の呼韓邪単于、復株累若?単于の時代の閼氏(単于の妻)。楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人。 前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)、王昭君が選ばれ、以後呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。しかしその後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣(遊牧民に多く見られるレヴィレート婚)に習い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻になって二女を儲けた。 伝承によると、元帝は、匈奴へ送る女性を、後宮の中の一番醜い女性を選ぶため、似顔絵帳の中の一番醜い女性を選ぶことにした。似顔絵絵師に賄賂を贈らなかった王昭君は、一番醜く描かれていたため、王昭君が選ばれた。皇帝に別れを告げるための式で、王昭君をはじめて見た元帝は、王昭君の美しさに目を奪われたが、いまさら無しにすることは出来ず、しぶしぶ手放したという。 王莽 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 36 49 86 60 68 C C C C C C BC45 23 【オウモウ】 皇后(孝元皇后)となった姑母の王政君の七光りで伯父達が侯爵に封ぜられ、高官に就いて裕福な暮らしを送る中で、父・王曼(おうまん)が早死にしたために候に封ぜられなかった王莽の一家のみが貧しく、王莽自身も苦学の末にようやく当時隆盛しつつあった儒学を修めた。 成人後は、叔父の王鳳、王商、王根の推挙と皇太后(孝元皇太后)となっていた姑母の王政君の引き立てで、順調に出世し、哀帝の在位期間を除き、国政の中枢に位置する事となる。その一方で、儒学と予言書に基づいた人気取りを目的とした政策で国民の絶大な支持を得、宰衡、安漢公、仮皇帝(摂皇帝)となった後、8年に漢を簒奪し新を興し、皇帝となった。尚、この時、太皇太后(孝元皇太后)として玉璽(伝国璽)を預かっていた王政君は、これを受け取りに来た王莽の使者に向かって、玉璽を投げつけ、散々に王莽を罵ったという。 王莽は周代の治世を理想としたが現実性がなかったため受け入れられなかった。また匈奴討伐や専売制の強化なども失敗し、新の財政は困窮した。 その後、漢の復興を望む農民反乱(赤眉の乱)などが続発し、王莽もその混乱の中で命を落とし、新は滅亡した。結果として後世から批判された王莽だが、当初は立派な善政をしこうという志を持っていたようである。しかし彼の理想とする政治は荒廃しきった国土で遂行するには到底不可能であった。次第に王莽は理想と現実の差に耐えられなくなり、さらに追い討ちをかけるように相次いで乱が起こったため疲れきった王莽はとうとう錯乱してしまった。晩年には政治を一切放棄して正体不明の神を信仰するようになったり、自分と一緒に呪文をとなえれば官位を与えると言いふらしたため、このおかげで総勢2000人もの人々が官位をもらったようである。このように晩年は完全に錯乱した王莽だが彼が成立させた官位制度の一部はその後も受け継がれたものもあり、一口に暴君だと言えない人物である。王莽死後、漢の一族の劉秀(光武帝)によって、漢朝が復興した。 (補足)中国史の流れをみると秦→前漢→後漢→三国時代→晋と分別されていることが多いが、一時的ながらも前漢と後漢の間に新王朝が成立していて「前漢→新→後漢→」となることに留意すること。 劉秀(文叔) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 95 74 94 91 95 洞察 A A A S B C BC.6 57 【リュウシュウ(ブンシュク)】 後漢の創始者。光武帝。 中国史上有数の皇帝と呼ばれる。 その器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集い、これら家臣は雲台二十八将と呼ばれる。 即位前後を問わず、戦場では軍頭で自ら得物を手に戦う勇士であり、度々諫言された。 赤眉軍を撃破して後、各地の群雄を次々と打倒。最後に蜀の公孫述を滅ぼし再統一に成功。 晩年は戦争を忌避して民衆の安寧を重んじ、疲弊した中華の復興に全力を尽くし、封禅の儀を実施。 翌年に崩御し、子の劉荘が第ニ代皇帝となった。 鄧禹(仲華) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 72 65 96 91 83 眼力 A B C B B C AD.2 AD.58 【トウウ(チュウカ)】 光武帝の学友・功臣で「雲台二十八将」の筆頭に序せられる。 卓越した人を見る目を持ち、賈復、銚期、呉漢、寇恂を推挙した。 また、自身も河北平定戦・長安侵攻戦・関中侵攻戦と活躍する。 劉秀が即位すると若干二十四にて位人臣を極める大司徒を拝命し百万の兵を率いるが、 征西では延岑に敗れ、赤眉軍との長安攻防戦にも敗戦を繰り返し大司徒の印綬を返上。 劉秀亡き後は、明帝の太傅を務め、賓客として遇された。 呉漢(子顔) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 94 95 76 52 75 疾走 S S A A C C ? AD.44 【ゴカン(シガン)】 光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第ニ位。 漁陽太守、彭寵の下にいたが、勇猛で知謀ありと鄧禹によって見出された。 幽州の突騎兵を率いて活躍し、劉秀が即位すると大司馬に任ぜられる。 平時は闘いに備え常に武具の手入れをしていて、数多くの戦いに転戦した。 忠義一途で光武帝からの信頼は厚く、命令違反も失策もあったが 自身が死ぬまでの二十年間もの間大司馬の要職にあった。 賈復(君文) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 88 97 69 64 76 威風 S A B A C C ? AD.55 【カフク(クンブン)】 光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第三位。 羽山にて挙兵、将軍を自称する。更始帝が即位すると、宗族の漢中王・劉嘉のもとで校尉となるが、 劉嘉の紹介で河北を攻略中の劉秀に仕えた。 勇猛果敢な将軍で闘ってはしばしば負傷したが一度も敗れたことがない不敗の猛将。 敵陣に深入りして危険を冒すため、光武帝は遠征の任務を与えず、常に身近に置いた。 河北攻略・河南平定戦に活躍、赤眉を滅ぼし左将軍となるが、天下が定まると将軍職を返上、 膠東侯に封じられ、鄧禹・李通とともに国政を諮問された。 耿弇(伯昭) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 96 80 97 75 89 虚実 S A S A B B AD.3 AD.58 【コウエン(ハクショウ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第四位。 上谷太守、耿況の嫡男。耿舒の兄。 河北で孤立する劉秀に帰順するように父に勧めて、自ら馳せ参じる。 二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまで、 武勇と謀略の硬軟取り合わせた用兵で全ての戦いに勝ち続けた常勝将軍。 天下統一後、将軍職を辞するが、天下の大事に議論が分かれた時には召されて計略を尋ねられた。 その虚実見られる徹底した計略戦は、後世、魏の曹操も絶賛したという。 寇恂(子翼) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 76 58 93 96 70 能吏 B B A C B C ? AD.36 【コウジュン(シヨク)】 光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第五位。 上谷の豪族。太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、 その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。 鄧禹の推薦で補給の拠点となる大郡の太守となり、 軍の食糧を供給し続けて前漢の名宰相蕭何に比肩される。 用兵や外交にも長け、文武の才を兼ねた。 宰相の才と評されるが、光武帝が天下統一する目前に病没する。 岑彭(君然) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 89 78 82 67 86 疾走 A A B B C S ? 35 【シンホウ(クンゼン)】 光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第六位。 新の棘陽県長。宛城を守り漢軍を苦しめるが劉縯に降伏を赦される。 劉縯亡き後、朱鮪の校尉となるが、後に劉縯の弟である劉秀軍に合流、河北平定に従軍する。 後に朱鮪の守る洛陽を攻め、朱鮪に信義を持って降伏を説得した。 規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開し、征南大将軍として荊州方面の平定に力を尽くす。 秦豊を滅ぼし、隗囂を拒み、公孫述討伐に活躍したが公孫述の刺客のため倒れた。 受けた恩義を決して忘れなかった信義の将軍で、その死には敵味方を問わず涙したという。 馮異(公孫) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 95 87 96 65 94 洞察 S S S A B C ? AD.34 【フウイ(コウソン)】 光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第七位。大樹将軍の異名を持つ。 王莽のもとで穎川郡を守っていたが、非凡な才を秘める劉秀を見抜いて降伏。 河内を守り、蘇茂・朱鮪の軍を撃破、赤眉戦では鄧禹と交代して大勝するなど大功を挙げた。 征西大将軍を拝命し、延岑を破り、長安を復興させ、蜀の公孫述の侵攻を退け、 西涼で反した隗囂を破った。隗囂の遺児、隗純を攻める軍中で病により陣没。 孫子兵法に通じ、謙虚で功を誇らず、進退は常識に適い、軍紀は整然であった。 朱祐(仲先) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 補佐 ? AD.48 【シュユウ(チュウセン)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第八位。 劉秀の親戚であり幼なじみで、また長安にともに留学した学友。 挙兵時からの古参で、昆陽の戦いから河北平定に奔走し、武勇優れた将軍として活躍した。 劉秀が皇帝に即位すると、建義大将軍を拝命、鄧奉、秦豊、延岑と戦い功を挙げる。 匈奴が攻めてくると南行唐に駐屯して防いだ。 祭遵(弟孫) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 明鏡 ? AD.33 【サイジュン(テイソン)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第九位。 穎川・穎陽出身。劉秀に容姿態度を気に入られて配下となる。 河北平定では軍紀の監察官として厳正に取り締まる。 将軍位に就いてからは軍紀厳正な部隊を率いて、鄧奉、彭寵、張遵、延岑と戦い破った。 隴西の隗囂と蜀の公孫述を防ぐ中、重病に罹り軍中に没した。 寡兵で敵を前に将軍が死亡したにも関わらず、士気高く敵を寄せ付けず棺で凱旋した。 光武帝は「祭征虜ほど国を思う臣下はいなかった」とたびたび嘆息したという。 景丹(孫卿) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 騎神 ? AD.26 【ケイタン(ソンキョウ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十位。 上谷郡の長史。太守である耿況の命で耿弇・寇恂と共に劉秀に帰属した。 精強な烏桓突騎を率いて王郎軍を討ち、河北平定に活躍する。 劉秀からの軍事の信頼度は高く、皇帝即位後、驃騎大将軍に任ぜられる。 櫟陽侯に封ぜられ五校を河南で討つが、翌年病死した。大司馬の呉漢と並び賞される実力者。 蓋延(巨卿) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD.39 【コウエン(キョケイ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十一位。 漁陽の護軍都尉。身長八尺の巨漢で三百斤の強弓を引く豪傑。 呉漢と共に謀って劉秀に帰順、河北の平定に貢献した。 劉秀が皇帝に即位すると虎牙将軍に任ぜられて、劉永・董憲を破り、 隗囂の病死後、西方の諸勢力を討ち平らげる。 銚期(次況) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 戟将 ? AD.34 【チョウキ(ジキョウ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十ニ位。 身の丈八尺二寸、凄まじい容貌だが慎み深く威厳を備えていた。 馮異が穎川で降った際に、節義ある者として推挙される。 鄧禹の属官として兵二千を授けられて、薊撤退戦や河北平定戦で活躍。 信義を重んじ、決して降城を略奪することがなかった。 太中大夫、衛尉を歴任、洛陽の治安を守るが、建武十年病死した。 光武帝は自ら銚期の遺体に服を着せ棺に収めたという。 耿純(伯山) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 仁政 ? AD.37 【コウジュン(ハクザン)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十三位。 定陶郡太守、耿艾の嫡子。河北に渡った劉秀と面会し、兵の規律が整然なのを見て帰順を決意。 信都で孤立する劉秀の下に従兄弟の耿訢、耿宿、耿植ら一族郎党を率いて、馳せ参じた。 河北平定戦や東郡、泰山平定戦などで大功ある知略優れた将軍であったが、 いち早く文官へと転身し東郡太守として民衆に慕われる。 臧宮(君翁) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD.58 【ゾウキュウ(クンオウ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十四位。 若くして亭長であったが、食客を率いて緑林軍に入り挙兵する。 緑林が南陽劉氏と連合すると、劉秀と共にし昆陽の戦いでも奮戦した。 河北平定戦・河内侵攻戦で活躍した。 のち、蜀の公孫述と戦い荊門を突破、沈水にて延岑と戦い大破し、 呉漢とともに公孫述をうち破り成都を平定する。 寡黙にして勤勉で、胆力のある勇将で生涯を将軍として生きた。 馬武(子張) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD.61 【バブ(シチョウ)】 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十五位。 盗賊集団である緑林軍の武将。人並外れた武勇を持つが、酒好きで度々事件を起こした。 更始帝派の謝躬の下にいたが、劉秀が謝躬を誅すと帰順。劉秀はこれを喜び左右に置いた。 攻める時は軍峰となり遮る者無く、破れた時は殿となり却って敵陣を陥れたという猛将。 明帝の時代にも、捕虜将軍となり、西羌を撃ち破る功を為した。 劉隆(元伯) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 屯田 ? AD.57 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十六位。 南陽の安衆侯・劉崇の宗室という名門出身。 更始帝の騎都尉となっていたが、河内で劉秀に帰参する。 統一戦で功があったが、不実申告の罪に坐して庶人とされる。 南越征伐では馬援の副将として復帰。徴弐を捕らえて斬った。 大司馬・呉漢が逝去しすると驃騎将軍として大司馬を代行し、 法に則って務めること八年、将軍の印綬を返上して、列侯として朝請を奉じた。 馬成(君遷) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 築城 ? AD.56 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十七位。 南陽棘陽の県吏。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、 官を棄て荷を背負い徒歩にて合流し、警備兵として従軍した。 統率力優れた将軍であり、淮南の李憲を平定する。 劉秀の親征に従い、群雄の一人である天水の隗囂も破っている。 以降は北辺の守備に従事。辺境の防塞設備を構築するなど働き続けた。 王梁(君厳) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD.38 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十八位。 漁陽郡の属吏で、更始帝によって彭寵が太守となると 同僚の蓋延・呉漢とともに合流して偏将軍を拝命した。 武勇優れた将軍として各地を転戦して活躍する。 予言書の影響で大司空に抜擢されるが、洛陽の運河増設工事を指揮に失敗、 辞職を願い出て済南太守となった。 陳俊(子昭) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD.47 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十九位。 南陽の郡吏。劉秀が河北を攻略するに及び、劉嘉の推薦によって、 曲陽の県令を辞し劉秀の下に参じた。 劉秀に従って流軍の銅馬・五校の糧食を絶って滅ぼし、強弩将軍を拝命する。 後に東方の重鎮として全権を委任され民政ぶりが民衆に歌い慕われた。 杜茂(諸公) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD. 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十位。 劉秀の河北攻略に合流し、中堅将軍として活躍。 冀州では中郎将・王梁とともに五校を討ち、大将三十数人を投降させた。 河南に転戦し、後に匈奴への防備に当たった。 傅俊(子衛) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 ? AD. 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十一位。 昆陽の戦いをともにした古参の将軍。劉秀が河北攻略を始めると 傅俊は賓客十数人とともに邯鄲で合流、潁川の兵士を率いて活躍した。 光武帝の信頼厚く、陰麗華を貴人として迎え入れる使者として立てられる。 のち、岑彭とともに、揚州攻略に当たって秦豊を破り平定した。 堅鐔(子キュウ) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 鉄壁 BC AD 光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十二位。 穎川の郡吏。劉秀が河北攻略を始めると堅鐔を推挙する者があり、 河北にて偏将軍となり、武勇の猛将として流軍の掃討・城攻めで活躍する。 鄧奉が反旗を翻し、宛城で孤立すると光武帝の親征まで一年にわたり守りきった。 戦いでは敵襲に対し常に先陣を務め、兵士の犠牲を最小限に抑えたという。 その後、左曹に任ぜられて、常に光武帝に従軍した。 馬援(文淵) 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 93 90 81 53 90 威風 A A B S C B BC14 AD49 【バエン】 茂陵出身。字は文淵。 戦国趙の馬服君趙奢の裔という。西漢代に馬通・馬何羅は武帝の巫蠱の乱平定に功があったが、後難を恐れて謀叛して誅殺され、西漢を通じて禁錮の家門とされた。 馬援は北地で多数の牧馬・私兵を擁して王莽に登用され、まもなく隴西の隗囂に属し、光武帝に仕えることを勧めた。隗囂はまもなく公孫述に通じて光武帝に背いたが、馬援は光武帝に従って羌族を平定し、35年の隗囂平定にも大きく貢献した。交趾の徴姉妹が太守の横暴に抵抗して挙兵すると、41年に伏波将軍とされて討伐し、2年で鎮圧して新息侯とされた。以後も匈奴・烏桓撃退に転戦し、48年には武陵五渓の蛮族討伐に自推して起用されたが、作戦途中で陣没した。陣中で虎賁中郎将梁松の無礼を窘めたことから恨まれて讒言され、梁松は舞陰公主を娶って驕勢であり、追従して馬援を糾弾する百官も多く、一切の官爵を剥奪された。後に冤罪であるとの上書があって赦され、馬援の子や孫はあらためて昇進・封侯された。 馬援の娘は皇太子妃とされており、明帝即位とともに皇后に立てられたが、政治的発言は控え、一族の登用・昇進を抑えるなど暦朝でも屈指の賢皇后と称され、馬氏による外戚の専横は起こらなかった。 班超 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 95 87 84 78 86 威圧 A A A A B C 32 102 【ハンチョウ】 班固の弟、班昭の兄、班彪の子。字は仲升。 弁・文章に優れたが、母の死後は西域経略に投じて73年の竇固の匈奴遠征に従軍し、伊吾攻略で認められて西域招撫を命じられた。[善β]善を手始めに、匈奴を背景とした諸国の背反に苦しみながらも疏勒・于[門+眞]など南路諸国を帰服させ、竇固の帰国後は勅命に背いて西域経略を続け、疏勒・莎車・亀茲・姑墨(アクス)・温宿(ウチュ=トゥルファン)などの離叛諸国・敵対諸国を征服した。 「虎穴にいらずんば虎児を得ず」の人口に膾炙した格言は、[善β]善に進駐する匈奴の大使節団を急襲する際、部下を鼓舞するために口にした言葉。91年には西域都護に任じられて亀茲に都護府を置き、以後も焉耆・危須(クルラ)・尉犂を降して西域五十余国を統轄し、副使の甘英を大秦国に派遣して直接交流を図り、99年にはクシャン朝の遠征軍を撃退するなど大功があって、定遠侯とされた。班昭の仲介で101年に帰国を許され、翌年に洛陽に入城して持病の胸疾で9月に没した。 以後の西域経営は人材を得ず、超の末子の勇の代にやや回復したのが例外で、その後まもなく諸国は離叛して匈奴に服した。 冒頓単于 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 97 98 84 49 95 騎神 B B S S C C ? BC.174 【ボクトツゼンウ】 頭曼単于の子として生まれた。当初は、父の後継者に立てられていた。しかし父の後妻が、男子を産み、頭曼の関心がこの異母弟に向けられると、冒頓は邪魔者扱いされ、月氏の元に人質として送られる。間もなく、頭曼は月氏が無礼であるとの理由で、月氏に戦争を仕掛ける。言うまでもなく、冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越してである。しかし、この危機を悟った冒頓は、間一髪のところで脱出に成功し、父のもとに逃亡する。その後、父との関係は悪化した。私兵を秘密裏に養成していた冒頓は紀元前209年にクーデターを起こし、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。父の殺害に当たっては、事前に私兵に対して、「自分が矢を放ったらすぐさま同じ方向に矢を放て」と命令して数回訓練しておき、父が通りかかったときに冒頓がそこに向けて矢を撃ったので、配下の私兵が大量の矢を浴びせたのである。単于即位後、東胡を滅亡させ、月氏を西方に逃亡させた。さらに、秦末の動乱とそれに続く楚漢戦争で中国全土が混乱している隙に、頭曼の代に、始皇帝が派遣した将軍・蒙恬によって奪われていた旧領土を回復した。紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせ、さらに白登山で劉邦の親征軍・32万を破り、漢と自らに有利な条件で講和した。これにより、約60年間、武帝が大規模な対匈奴戦争を開始するまで、匈奴は漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには成立したての漢王朝は対抗する手段を持たなかった。 徴側 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 88 72 81 58 90 鬼門 A B S B A S ? AD.43 徴弐 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 81 88 77 50 88 藤甲 B A S B A S ? AD.43 【チュンチャック】【チュンニ】 徴側・徴弐姉妹はハノイ郊外の富豪の家に生まれる。当時ベトナム北部は交趾と呼ばれ漢の圧政の元に支配されていた。40年、交趾太守に夫を処刑された徴側は妹の徴弐と共に挙兵、漢の支配下にあった65もの城を落とし王と称した。この乱に対し漢の光武帝は馬援を討伐の任に当たらせ大部隊を派遣した。そして43年、反抗も空しく徴姉妹の軍は壊滅し、姉妹は捕らえられ処刑されたとも自殺したとも言われる。徴姉妹はこの後ベトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祭る廟も多く造られた。 陰麗華 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 57 21 84 90 88 内助 C C C C C C 5 64 【インレイカ】 劉秀(光武帝)の妻。彼と同じ南陽郡(河南省)出身の豪族陰氏の娘。容姿は端麗で顔も美しく近所でも評判の美女であった。また幼いときから頭が良く、後の夫である劉秀もこの当時から陰麗華に対して好意を抱いていたようである。西暦23年に劉秀に嫁いでからは後漢の二代目皇帝になる劉荘(明帝)を産んだ。陰麗華は嫁いだ後も贅沢をせずに質素倹約につとめ、同時に自分の一族が国の政治に関与しないように努力するなど夫である劉秀を大いに助けた。このため二代目皇帝劉荘の妻である馬皇后(劉秀配下の名将馬暖の娘であり、彼女もまた夫のために尽くした賢夫人)とともに優れた皇后として称えられている。この200年後、三国志の舞台となる後漢末期は宦官が介入しすぎたために政治が大いに乱れたが、後漢皇帝一代目の劉秀、二代目皇帝の劉荘の時代は中国史上もっとも栄えた時代の一つである。 毛利元就は -- (名無しさん) 2013-06-29 21 43 09 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/408.html
唐書巻一百九十九 列伝第一百二十四 儒学中 郎余令 余慶 徐斉聃 堅 嶠 沈伯儀 路敬淳 敬潜 王元感 王紹宗 彭景直 盧粲 尹知章 張斉賢 柳沖 馬懐素 殷践猷 孔若思 季詡 至 郎餘令、定州新樂人。祖穎、字楚之。與兄蔚之倶有名。隋大業中、為尚書民曹郎、蔚之位左丞。煬帝語稱「二郎」。武徳時、楚之以大理卿封常山郡公、與李綱・陳叔達定律令。持節諭山東、為竇建徳所獲、脅以白刃、終不屈。賊平、以老乞身、謚曰平。 餘令博于学、擢進士第、授霍王元軌府參軍事。従父知年、亦為王友。元軌毎曰:「郎家二賢皆入府、不意培塿而松柏為林也。」徙幽州録事參軍。有為浮屠者、積薪自焚、長史裴煚率官屬将観焉、餘令曰:「人好生惡死、情也。彼違蔑教養、反其所欲、公當察之、毋輕往。」煚試廉按、果得其姦。 孝敬在東宮、餘令以梁元帝有孝徳伝、更撰後伝数十篇獻太子、太子嗟重。改著作佐郎、卒。 兄餘慶、為吏清而刻於法。高宗時、為萬年令、道無掇遺。累遷御史中丞、務謙謹下人、引御史坐與論議。吏部侍郎楊思玄倨貴、視選者不以礼、餘慶劾免其官。久之、出為蘇州刺史。坐累下遷交州都督。 驩州司馬裴敬敷與餘慶雅故、以事笞餘慶婢父、婢方嬖、譖敬敷死獄中。又裒貨無藝、民詣闕訴之、使者十輩臨按、餘慶謾讕、不能得其情。最後、広州都督陳善弘按之、餘慶自恃在朝廷久、明法令、輕善弘、不置對。善弘怒曰:「舞文弄法、吾不及君。今日以天子命治君、吾力有餘矣。」欲搒械之、餘慶懼、服罪。高宗詔放瓊州。會赦當還、朝廷惡其暴、徙春州。 始、餘慶治萬年、父知運嫌其酷、将杖之、餘慶避免。父歎曰:「国家用之矣、吾尚奈何!」及為御史中丞、復歎曰:「郎氏危矣!」以憂死。餘慶卒以貪殘廢。 徐斉聃字将道、湖州長城人、世客馮翊。梁慈源侯整四世孫。八歳能文、太宗召試、賜所佩金削刀。挙弘文生、調曹王府參軍。高宗時、為潞王府文学・崇文館学士、侍皇太子講、修書于芳林門。時姑為帝婕妤、嫌以恩進、故求出為桃林令。召為沛王侍讀、再遷司議郎、皆不就。累進西臺舎人。 咸亨初、詔突厥酋長子弟得事東宮、斉聃上書諫、以為:「氈裘冒頓之裔、解辮削、使在左右、非所謂『恭慎威儀、以近有徳』、『任官惟賢才、左右惟其人』之義。」又長孫忌以讒死、家廟毀頓、斉聃言於帝曰:「斉獻公、陛下外祖、雖後嗣有罪、不宜毀及先廟。今周忠孝公廟反崇飾踰制、恐非所以示海内。」帝寤、有詔復獻公官、以忌孫延主其祀。 斉聃善文誥、帝愛之、令侍皇太子及諸王屬文、以職樞劇、許間日一至。坐漏禁中事、貶蘄州司馬。又流欽州。卒、年四十四。睿宗時、贈礼部尚書。 子堅。 堅字元固、幼有敏性、沛王聞其名、召見、授紙為賦、異之。十四而孤、及壯、寛厚長者。挙秀才及第、為汾州參軍事、遷萬年主簿。 天授三年、上言:「書有五聽、令有三覆、慮失情也。比犯大逆、詔使者勘當、得實輒決。人命至重、萬有一不實、欲訴無由、以就赤族、豈不痛哉!此不足檢下之姦亂、適長使人威福耳。臣請如令覆奏、則死者無恨。又古者罰不逮嗣、故郤芮亂国而缺升諸朝、嵇康蒙戮而紹死于難、則於它親不復致疑。今選部広責逆人親屬、至無服者尚数十條。且詔書『與逆同堂親不任京畿、緦麻親不得侍衛』、臣請如詔書外、一切不禁、以申曠蕩。」 聖暦中、東都留守楊再思・王方慶共引為判官。方慶善礼学、嘗就質疑晦、堅為申釋、常得所未聞。屬文典厚、再思毎目為鳳閣舎人樣。與徐彦伯・劉知幾・張説與脩三教珠英、時張昌宗・李嶠總領、彌年不下筆、堅與説專意撰綜、條彙粗立、諸儒因之乃成書。累遷給事中、封慈源県子。 中宗怒韋月将、欲即斬之、堅奏盛夏生長、請須秋乃決、時申救者亦衆、得以搒死。俄以礼部侍郎為脩文館学士。 睿宗即位、授太子左庶子兼崇文館学士、脩史、進東海郡公、遷黄門侍郎。時監察御史李知古兵撃姚州渳河蛮、降之、又請築城、使輸賦傜。堅議:「蛮夷羈縻以屬、不宜與中国同法、恐勞師遠伐、益不償損。」不聽、詔知古發劍南兵築城堡、列州県。知古因是欲誅其豪酋、入子女為奴婢、蛮懼、殺知古。相率潰叛、姚・巂路閉不通者数年。 初、太平公主用事、武攸曁屢邀請堅、堅不許。又以妻岑羲女弟、固辭機密、轉太子詹事、曰:「吾非求高、逃禍耳。」羲敗、不染於惡、出為絳州刺史。数外徙、久乃遷秘書監・左散騎常侍。 玄宗改麗正書院為集賢院、以堅充学士、副張説知院事。帝大酺集賢、幔舎在百司上、説令掲大榜以侈其寵、堅見、遽命撤之、曰。「君子烏取多尚人!」従上泰山、以參定儀典、加光禄大夫。堅於典故多所諳識、凡七當譔次高選。卒、年七十餘、帝悼惜、遣使就弔、贈太子少保、謚曰文。 斉聃姑為太宗充容、仲為高宗婕妤、皆明圖史、議者以堅父子如漢班氏。 子嶠、字巨山。開元中為駕部員外郎・集賢院直学士、遷中書舎人・内供奉・河南尹。封慈源県公。父子相次為学士、自祖及孫、三世為中書舎人。 沈伯儀、湖州呉興人。武后時、為太子右諭徳。 初、太常少卿韋萬石議明堂大亨事、上言:「鄭玄説祀五天帝、王肅謂祀五行帝。貞観礼従玄、至顯慶礼祀昊天上帝、乾封詔書祀五天帝兼祀昊天、上元詔書従貞観礼・儀鳳初詔祀事一用周制。今應何樂?」高宗乃詔尚書省集諸儒議、未能定。於是大享參用貞観・顯慶二礼。垂拱元年、成均助教孔玄義奏:「嚴父莫大配天、天於萬物為最大、推父偶天、孝之大、尊之極也。易稱『先王作樂崇徳』、殷薦之上帝、以配祖・考』。上帝、天也。昊天之祭、宜祖・考並配、請以太宗・高宗配上帝於圓丘、神堯皇帝配感帝南郊。祭法:『祖文王、宗武王。』祖配上帝於圓丘、神堯皇帝配感帝南郊。祭法:『祖文王、宗武王。』祖、包武王以言也。知明堂以祖・考配、於二経合。」伯儀曰:「有虞氏禘黄帝而郊嚳、祖顓頊而宗堯。夏后氏禘黄帝而郊、祖顓頊而宗禹。殷人禘嚳而郊冥、祖契而宗湯。周人禘嚳而郊稷、祖文王而宗武王。鄭玄曰:『禘・郊・祖・宗、皆配食也。祭昊天圓丘曰禘、祭上帝南郊曰郊、祭五帝・五神明堂曰祖・宗。』此為最詳。虞夏退顓頊郊嚳、殷捨契郊冥、去取違舛、惟周得礼之序、至明堂始両配焉。文王上配五帝、武王下配五神、別父子也。経曰:『嚴父莫大於配天。』又曰:『宗祀文王於明堂、以配上帝。』不言嚴武王以配天、則武王雖在明堂、未斉於配、雖同祭而終為一主也。緯曰:『后稷為天地主、文王為五帝宗。』若一神而両祭之、則薦獻数瀆、此神無二主也。貞観・永徽礼實專配、由顯慶後始兼尊焉。今請以高祖配圓丘・方澤、太宗配南北郊、高宗配五天帝。」鳳閣舎人元萬頃・范履冰等議:「今礼昊天上帝等五祀、咸奉高祖・太宗兼配、以申孝也。詩昊天章『二后受之』、易『薦上帝、配祖・考』、有兼配義。高祖・太宗既先配五祀、當如舊。請奉高宗歴配焉。」自是郊・丘、三帝並配云。 伯儀歴国子祭酒・脩文館学士、卒。 路敬淳、貝州臨清人、父文逸、遇隋季大亂、闔門死於盜。文逸遁免、流離辛苦、自傷家多難、閉口不食、行者哀其窮、彊飲食之、更負以行、乃得脱。貞観末、官申州司馬。 敬淳少志学、足不履門。居親喪、倚廬不出者三年。服除、號慟入門、形容毀、妻不之識。後擢進士第。天授中、再遷太子司議郎兼脩国史・崇賢館学士。数受詔篹輯慶卹儀典、武后稱之。尤明姓系、自魏、推本其來、皆有條序、著姓略・衣冠系録等百餘篇。後坐綦連耀交通、下獄死。神龍初、贈秘書少監。 弟敬潜、少與敬淳斉名、歴懐州録事參軍、亦坐耀事繫獄、免死。後為遂安令。先是、令多死、敬潜欲辭、妻曰:「君不死獄而得全、非生死有命邪?」従之。到官、有梟嘯其屏、鼠数十走于前、左右驅之、擁杖而號、敬潜不為懼。久之、遷衛令、位中書舎人。 唐初、姓譜学唯敬淳名家。其後柳沖・韋述・蕭穎士・孔至各有撰次、然皆本之路氏。 王元感、濮州鄄城人。擢明経高第、調博城丞。紀王慎為兗州都督、厚加礼、敕其子東平王續往受業。天授中、稍遷左衛率府録事、兼直弘文館。武后時、巳郊、遂享明堂、封嵩山、詔與韋叔夏等草儀具、衆推其練洽。轉四門博士、仍直弘文館。 年雖老、讀書不廢夜。所撰書糾謬・春秋振滯・礼繩愆等凡数十百篇、長安時上之、丐官筆楮寫蔵秘書。有詔両館学士・成均博士議可否。祝欽明・郭山惲・李憲等本章句家、見元感詆先儒同異、不懌、数沮詰其言、元感縁罅申釋、竟不詘。魏知古見其書、歎曰:「五経指南也。」而徐堅・劉知幾・張思敬等惜其異聞、毎為助理、聯疏薦之、遂下詔褒美、以為儒宗。拜太子司議郎兼崇賢館学士。中宗以東宮官屬、加朝散大夫、卒。 元感初著論三年之喪以三十有六月、譏詆諸儒。鳳閣舎人張柬之破其説曰:「三年之喪、二十五月、由古則然。春秋僖公三十三年十二月『乙巳、公薨』。文公二年冬『公子遂如斉納幣』。左氏曰:『礼也。』杜預謂:『僖喪終是年十一月、納幣在十二月。』故謂之礼。公羊伝:『納幣不書、此何以書?譏。何以譏?三年之内不圖婚。』何休曰:『僖以十二月薨、未終二十五月、故譏云。』杜預推暦乙巳乃在十一月、経書十二月為誤。文公元年四月、葬僖公。伝曰:『緩。』夫諸侯之葬五月、若十二月薨、五月不得云緩、則十一月明甚。然二家所競、乃一月、非一歳、則二十五月、其一驗也。書稱成湯既沒、太甲元年曰:『惟元祀、十有二月、伊尹祀于先王、奉嗣王祗見厥祖。』孔安国曰:『湯以元年十一月崩。』此則明年祥、又明年大祥、故下言『惟三祀、十有二月朔、尹以冕服、奉嗣王歸于亳』。是十一月服除而冕。顧命:『四月哉生魄、王不懌。翌日乙丑、王崩。丁卯、命作冊度。越七日癸酉、伯相命士須材。』則成王崩至康王麻冕黼裳凡十日、康王始見廟。明湯崩在十一月。比殯訖、以十二月祗見其祖。顧命見廟訖『諸侯出廟門俟』、伊訓言『祗見厥祖、侯甸群后咸在』、則崩及見廟、周因於殷也、非元年前復有一歳、此二十五月之二驗。礼:『三年之喪、二十五月而畢、哀痛未盡、然而以是為斷者、送死有已、服生有節。』又曰:『期而小祥、食菜果。又期而大祥、有醯醬。中月而禫、食酒肉。』又曰:『再期之喪、三年。期之喪、二年。九月・七月之喪、三時。五月之喪、二時。三月之喪、一時。』此二十五月之三驗。儀礼:『期而小祥、又期而大祥、中月而禫、是月也、吉祭。』此二十五月之四驗。書・春秋・礼皆周公・尼父所定、敢問此可為法否?昔鄭玄以中月而禫者、内容一月、自喪至禫、凡二十七月。今既用之、而二十五月初無疑論。大抵子於親喪、有終身之痛、創巨者日久、痛深者愈遲、何歳月而止乎?故練而慨然、悲慕未盡、而踊擗之情差末。祥而廓然、哀傷巳除、而孤藐之懐更劇。此情之所致、寧外飾哉?故先王立其中制、使情文両稱、是以祥則縞帶素紕、禫則無不佩。夫去衰麻、襲錦縠、行道之人皆不忍、直為節之以礼、叵如之何。故仲由不能過制為姊服、孔鯉不能過期哭母、彼詎不懐?畏名教之嚴也。」當世謂柬之言不詭聖人、而元感論遂廢。 王紹宗字承烈、梁左民尚書銓曾孫。系本琅邪、徙江都云。少貧狹、嗜学、工草隸、客居僧坊、寫書取庸自給、凡三十年。庸足給一月即止、不取贏、人雖厚償、輒拒不受。 徐敬業起兵、聞其行、以幣劫之、稱疾篤。復令唐之奇彊遣、不肯赴、敬業怒、将殺之、之奇曰:「彼人望也、殺之沮士心、不可。」由是免。事平、大總管李孝逸表其節、武后召赴東都、謁殿中、褒慰良厚、擢太子文学。累進秘書少監、使侍皇太子。紹宗雅脩飾、當時公卿莫不慕悅其風、張易之兄弟亦頗結納。易之誅、坐廢、卒于家。 嘗與人書曰:「鄙夫書無工者、特由水墨之積習耳。常精心率意・虚神靜思以取之。呉中陸大夫常以余比虞君、以不臨寫故也。聞虞被中畫腹、與余正同。」虞、即世南也。 紹宗兄玄宗隠嵩山、號太和先生、伝黄老術。 彭景直、瀛州河間人。中宗景龍末、為太常博士。時獻・昭・乾三陵皆日祭、景直上言: 在礼、陵不日祭、宗廟有月祭、故王者設廟・祧・壇・墠、為親疏多少之殺。立七廟・一壇・一墠。曰考廟、曰王考廟、曰皇考廟、曰顯考廟、皆月祭。遠廟為祧、享嘗乃止。去祧為壇、去壇為墠。有禱祭之、無禱乃止。譙周曰:「天子始祖・高祖・曾祖・祖・考之廟、皆朔加薦、以象生時朔食、號月祭、二祧廟不月祭。」則古無日祭者。今諸陵朔・望進食、近古之殷事。諸節進食、近古之薦新。鄭玄曰:『殷事、月之朔・半、薦新奠也。』於儀礼、朔・半日、猶常日朝夕也、既大祥、即四時焉、此其祭皆在廟云。近世始以朔・望諸節祭陵寢、唯四時及臘、五享于廟。尋経質礼、無日祭於陵之文。漢時、京師自高祖下至宣帝、與太上皇・悼皇考陵旁立廟。園各有寢・便殿、故日祭諸寢、月祭諸便殿。貢禹以礼節煩数、白元帝願罷郡・国廟。丞相韋玄成等後因議七廟外寢園皆無復脩。議者亦以祭不欲数、宜復古四時祭於廟。劉歆引春秋外伝曰:『祖・禰日祭、曾・高月祀、二祧時享、壇・墠歳貢。』魏・晋以降、不祭墓。唐家擇古作法、臣謂宜罷諸陵日祭、如礼便。帝不従、因下詔:「有司言諸陵不當日進食。夫礼以人情為之沿革、何專古而泥所聞?乾陵宜朝晡進奠、昭・獻陵日一進、或所司乏于費、可減朕常膳為之。」 帝崩、葬定陵、有司議以和思皇后祔葬、后為武后所殺、不得其喪所、将以招魂合諸梓宮、景直曰:「招魂古無伝、不可。請如橋山蔵衣冠故事、納后褘衣、復寢宮、挙衣魂輅、告以太牢、内之方中、奉帝梓棺右、覆以夷衾。」衆當其言、制曰:「可。」景直後歴礼部郎中卒。 盧粲、幽州范陽人、後魏侍中陽烏五世孫。祖彦卿、亦善著書。粲始冠、擢進士第。神龍中、累遷給事中。時節愍太子立、韋后疾之、諷中宗以衛府封物給東宮、粲駁奏:「太子匕鬯主、歳時服用、宜取於百司。周礼、諸用財器、『歳終則會、唯王及太子不會』。今乃與諸王等夷、非所謂憲章古昔者。」詔可。 武崇訓死、詔墓視陵制、粲曰:「凡王・公主墓、無稱陵者、唯永泰公主事出特制、非後人所援比。崇訓塋兆、請視諸王。」詔曰:「安樂公主與永泰不異、崇訓於主當同穴、為陵不疑。」粲固執、以「陵之稱、本施尊極、雖崇訓之親、不及雍王、雍墓不稱陵、崇訓縁主而得假是名哉?」詔可。主大怒、出粲陳州刺史。粲曰。「苟所論得行、雖遠何憚!」開元初、為秘書少監。 其従父行嘉、仕為雍王記室、亦以学聞。 粲累封固安県侯、終邠王傅、謚曰景。 尹知章、絳州翼城人。少雖学、未甚通解、忽夢人持巨鑿破其心、内若劑焉、驚悟、志思開澈、遂明六経。諸生嘗講授者、更北面受大義。 長安中、擢定王府文学。遷太常博士。中宗時、或建言以涼武昭王為七廟始祖、知章議:「武昭遠世、非王業所因。」乃止。出為陸渾令、坐事、輒棄官去。時散騎常侍解琬亦罷歸、與知章潭思経術、挙訢訢然。張説表諸朝、擢礼部員外郎、轉国子博士。馬懐素緒定秘書、奏知章是正文字。 毎休沐、講授未始輟。於易・老・荘書尤県解。弟子貧者、賙給之。性和厚、人不見有喜慍。未嘗問産業、其子欲広市樵米為歳中計、知章曰:「如而計、則貧人何以取資?且吾尚應奪民利邪?」卒官。所注伝頗多行於時。門人孫季良等頌其徳、刻著東都国子監門外。 季良、偃師人、一名翌、仕歴左拾遺・集賢院直学士。 張斉賢、陝州陝人。聖暦初、為太常奉礼郎。 武后詔百官議告朔于明堂、讀時令、布政事、京官九品以上・四方朝集使皆列於廷。太常博士辟閭仁諝曰:「経無天子月告朔。唯玉藻:『天子聽朔南門之外。』周太宰:『正月之吉、布政於邦国都鄙。』干寶曰:『建子月告朔日也。』此玉藻聽朔同誼。今元日讀時令、合古聽朔事。獨鄭玄以秦制月令有五帝五官、因言『聽朔必以特牲告時帝及神、以文王・武王配』。其言非是。月令曰『其帝太昊、其神句芒』、謂宣令告人、使奉時務業、月皆有令、故云、非天子月朔以配帝祭也。告朔者、諸侯礼也、春秋:『既視朔、遂登臺。』玄又説人君月告朔於廟、其祭為朝享。魯自文公始不視朔・明非天子所行。玄謂告帝即人帝、神即重・黎・五官、不言天子拜祭。臣請罷告朔・月祭、以應古礼。」斉賢不韙其説、質曰:「穀梁氏稱『閏月、天子不告朔』、它月故告朔矣。左氏言魯『不告閏朔、為棄時政』、則諸侯雖閏告朔矣。周太史『頒朔于邦国』、玉藻『閏月、王居門』、是天子雖閏亦告朔。二家去聖不遠、載天子・諸侯告朔事、顯顯弗繆。今議者乃以太宰正月之吉、布治邦国、而言天子元日一告朔、殊失其旨。一歳之元、六官自布所職之典。干寶謂吉為朔、故世人繆吉為告、據繆失経、不得為法。議者又引左氏説、專在諸侯、不知玉藻與左説正同、而獨於天子言歳首一告、何去取之恣也!又謂時帝、五人帝也。玄於時帝包天人、故以文・武作配、是並告両五帝為不疑。諸侯受朔天子、蔵於廟。天子受朔于天、宜在明堂、故告時帝、配祖考。議者曰:『天子月告祭頒朔、則諸侯安得蔵之?故太宰歳首布一歳事、太史頒之也。』是不然、周太史『頒朔邦国』、是總頒十二朔於諸侯。天子猶月告者、頒官府都鄙也。内外異言之也。礼不可罷。」鳳閣侍郎王方慶又推言:「明堂、布政之宮、所以明天氣、統萬物也。漢儒以明堂・太廟為一、宗祀其祖、而配上帝。取宗祀曰清廟、正室為太室、向陽為明堂、建学為太学、圜水為辟雍、異名同事、古之制也。天子以正月上辛總受十二月政於南郊、還蔵于祖廟、月取一政、班之明堂。諸侯則受於天子、蔵之祖廟、月取一政、行之于国。王者以其礼告廟、謂之告朔。視月之政、謂之視朔。玉藻:『玄冕而朝日東門之外、聽朔南門之外。』鄭玄説:『明堂在国陽、就其時之堂而聽朔焉。卒事、宿路寢。』今元日通天宮受朝、有司遂讀時令・布政、古之礼也。舊説天子歳入明堂者十八:大享、一。月告朔、十二。四時迎氣、四。巡狩之歳、一。今議者唯許歳首一入、不以隘乎?陛下幸建明堂、遵用告朔事、若月一聽、則近于煩、毎孟月視朔、惟制定其礼、臣下不敢專。」成均博士呉楊吾等共言:「秦滅学、告朔礼廢。今用四孟月・季夏、至明堂告五時帝堂上、請兼如斉賢・方慶議。」不数歳、礼亦廢。 久之、斉賢遷博士。時東都置太社、礼部尚書祝欽明問礼官博士:「周家田主用所宜木、今社主石、奈何?」斉賢與太常少卿韋叔夏・国子司業郭山惲・尹知章等議:「春秋:『君以軍行、祓社釁鼓、祝奉以従。』故曰:『不用命、戮于社。』社稷主用石、以可奉而行也。崔霊恩曰:『社主用石、以地産最實歟!』呂氏春秋言『殷人社用石』。後魏天平中、遷太社石主、其來尚矣。周之田主用所宜木、其民間之社歟!非太社也。」於是舊主長尺有六寸、方尺七寸、問博士云何、斉賢等議:「社主之制、礼無伝。天子親征、載以行、則非過重。礼『社祭土、主陰氣』。韓詩外伝:『天子太社方五丈、諸侯半之。』五、土数。社主宜長五尺、以準数五。方二尺、以準陰偶。剡其上、以象物生。方其下、以象地體。埋半土中、本末均也。請度以古尺」云、又問:「社稷壇隨四方用色、而中不数尺、冒黄土、謂何?」斉賢等曰:「天子太社、度広五丈、分四方、上冒黄土、象王者覆被四方、然則當以黄土覆壇上。舊壇上不数尺、覆被之狹、乖於古。」於是以方色飾壇四面及陛、而黄土全覆上焉。祭牲皆太牢。其後改先農曰「帝社」、又立「帝稷」、皆斉賢等參定。 中宗即位、因武后東都廟改為唐朝、議滿七室、以涼武昭王為始祖。斉賢上議:「礼、天子七廟、尊始封君曰太祖、百代不遷、始祖無聞焉。殷自玄王至湯、周后稷至武王、皆出太祖後、合食有序。景皇帝始封唐、實為太祖、以世数近、故尚在昭穆。今乃上引武昭王為始祖、異乎殷・周之本・稷也。・稷興胙、景皇帝是也。昭王国不世伝、後嗣失守。景帝實始封唐、子孫是承。若近捨唐、遠引涼、不見其可。且魏不祖曹參、晋不祖司馬卬、宋不祖楚元王、斉・梁不祖蕭何、陳・隋不祖胡公・楊震、今謂昭王為祖、可乎?漢以周郊后稷、議欲郊堯、杜林以為周興自后稷、漢業特起、功不縁堯、卒不果郊。武徳初定、去昭王尤近、不託祖者、不可故也。今而立之、非祖宗意。景皇失位、神弗臨享、殆非詒厥孫謀者。」博士劉承慶・尹知章又言:「受命之君、王迹有淺深、代系有遠邇。祖以功、昭穆以親。有功者不遷、親盡者毀。今不宜以廟数未備、引當遷之主於昭穆上、苟充七室也。景皇帝既號太祖、以世淺猶在六室位、則室未當有七、非天子廟不當七也。大帝神主既祔、宣皇帝當遷。宣非始祖、又無宗號、親盡而遷、不可復立。請仍為六室。」詔宰相詳裁。於是祝欽明等上言:「博士等三百人為両説:斉賢等不祖武昭王、劉承慶等請遷宣皇帝。臣等欲皆可其奏。」詔可。俄以孝敬皇帝為義宗、列於廟為七室。西京太廟亦如之。 斉賢遷累諫議大夫、卒。 柳沖、蒲州虞郷人、隋饒州刺史荘曾孫。父楚賢、大業中為河北県長。高祖兵興、堯君素據郡固守、楚賢説曰:「隋之亡、天下共知。唐公名在圖籙、動以誠信、豪英景赴、天所賛也。君子見幾而作、俟終日邪?」君素不従、楚賢潜行自歸、授侍御史。貞観中、持節冊拜突厥、辭其遺不受。歴交・桂二州都督・杭州刺史、皆有名。 沖好学、多所研總。天授初、為司府寺主簿、詔遣安撫淮南、使有指、封河東県男。中宗景龍中、遷左散騎常侍、脩国史。 初、太宗命諸儒撰氏族志、甄差群姓、其後門冑興替不常、沖請改脩其書、帝詔魏元忠・張錫・蕭至忠・岑羲・崔湜・徐堅・劉憲・呉兢及沖共取徳・功・時望・国籍之家、等而次之。夷蕃酋長襲冠帶者、析著別品。會元忠等繼物故、至先天時、復詔沖及堅・兢與魏知古・陸象先・劉子玄等討綴、書乃成、號姓系録。歴太子賓客・宋王師・昭文館学士、以老致仕。開元初、詔沖與薜南金復加刊竄、乃定。 後柳芳著論甚詳、今刪其要、著之左方。芳之言曰: 氏族者、古史官所記也。昔周小史定繫世、辯昭穆、故古有世本、録黄帝以來至春秋時諸侯・卿・大夫名號繼統。左丘明伝春秋、亦言:「天子建徳、因生以賜姓、胙之土、命之氏。諸侯以字為氏、以謚為族。」昔堯賜伯禹姓曰姒、氏曰有夏。伯夷姓曰姜、氏曰有呂。下及三代、官有世功、則有官族、邑亦如之。後世或氏於国、則斉・魯・秦・呉。氏於謚、則文・武・成・宣。氏於官、則司馬・司徒。氏於爵、則王孫・公孫。氏於字、則孟孫・叔孫。氏於居、則東門・北郭。氏於志、則三烏・五鹿。氏於事、則巫・乙・匠・陶。於是受姓命氏、粲然衆矣。 秦既滅学、公侯子孫失其本系。漢興、司馬遷父子乃約世本脩史記、因周譜明世家、乃知姓氏之所由出、虞・夏・商・周・昆吾・大彭・豕韋・斉桓・晋文皆同祖也。更王迭霸、多者千祀、少者数十代。先王之封既絶、後嗣蒙其福、猶為彊家。 漢高帝興徒歩、有天下、命官以賢、詔爵以功、誓曰:「非劉氏王・無功侯者、天下共誅之。」先王公卿之冑、才則用、不才棄之、不辨士與庶族、然則始尚官矣。然猶徙山東豪傑以實京師、斉諸田、楚屈・景、皆右姓也。其後進拔豪英、論而録之、蓋七相・五公之所由興也。 魏氏立九品、置中正、尊世冑、卑寒士、権歸右姓巳。其州大中正・主簿、郡中正・功曹、皆取著姓士族為之、以定門冑、品藻人物。晋・宋因之、始尚姓巳。然其別貴賤、分士庶、不可易也。于時有司選挙、必稽譜籍、而考其真偽。故官有世冑、譜有世官、賈氏・王氏譜学出焉。由是有譜局、令史職皆具。過江則為「僑姓」、王・謝・袁・蕭為大。東南則為「呉姓」、朱・張・顧・陸為大。山東則為「郡姓」、王・崔・盧・李・鄭為大。關中亦號「郡姓」、韋・裴・柳・薛・楊・杜首之。代北則為「虜姓」、元・長孫・宇文・于・陸・源・竇首之。「虜姓」者、魏孝文帝遷洛、有八氏十姓、三十六族九十二姓。八氏十姓、出於帝宗屬、或諸国従魏者。三十六族九十二姓、世為部落大人。並號河南洛陽人。「郡姓」者、以中国士人差第閥閲為之制、凡三世有三公者曰「膏粱」、有令・僕者曰「華腴」、尚書・領・護而上者為「甲姓」、九卿若方伯者為「乙姓」、散騎常侍・太中大夫者為「丙姓」、吏部正員郎為「丁姓」。凡得入者、謂之「四姓」。又詔代人諸冑、初無族姓、其穆・陸・奚・于、下吏部勿充猥官、得視「四姓」。北斉因仍、挙秀才・州主簿・郡功曹、非「四姓」不在選。故江左定氏族、凡郡上姓第一、則為右姓。太和以郡四姓為右姓。斉浮屠曇剛類例凡甲門為右姓。周建徳氏族以四海通望為右姓。隋開皇氏族以上品・茂姓則為右姓。唐貞観氏族志凡第一等則為右姓。路氏著姓略、以盛門為右姓。柳沖姓族糸録凡四海望族則為右姓。不通歴代之説、不可與言譜也。今流俗獨以崔・盧・李・鄭為四姓、加太原王氏號五姓、蓋不経也。 夫文之弊、至于尚官。官之弊、至于尚姓。姓之弊、至于尚詐。隋承其弊、不知其所以弊、乃反古道、罷郷挙、離地著、尊執事之吏。於是乎士無郷里、里無衣冠、人無廉恥、士族亂而庶人僭矣。故善言譜者、繫之地望而不惑、質之姓氏而無疑、綴之婚姻而有別。山東之人質、故尚婚婭、其信可與也。江左之人文、故尚人物、其智可與也。關中之人雄、故尚冠冕、其達可與也。代北之人武、故尚貴戚、其泰可與也。及其弊、則尚婚婭者先外族・後本宗、尚人物者進庶孽・退嫡長、尚冠冕者略伉儷・慕榮華、尚貴戚者徇勢利・亡礼教。四者倶弊、則失其所尚矣。 人無所守、則士族削。士族削、則国従而衰。管仲曰:「為国之道、利出一孔者王、二孔者彊、三孔者弱、四孔者亡。」故冠婚者、人道大倫。周・漢之官人、斉其政、一其門、使下知禁、此出一孔也、故王。魏・晋官人、尊中正、立九品、郷有異政、家有競心、此出二孔也、故彊。江左・代北諸姓、紛亂不一、其要無歸、此出三孔也、故弱。隋氏官人、以吏道治天下、人之行、不本郷黨、政煩於上、人亂於下、此出四孔也、故亡。唐承隋亂、宜救之以忠、忠厚則郷黨之行修。郷黨之行修、則人物之道長。人物之道長、則冠冕之緒崇。冠冕之緒崇、則教化之風美、乃可與古參矣。 晋太元中、散騎常侍河東賈弼譔姓氏簿状、十八州百十六郡、合七百一十二篇、甄析士庶無所遺。宋王弘・劉湛好其書。弘毎日對千客、可不犯一人諱。湛為選曹、譔百家譜以助銓序、文傷寡省、王儉又広之、王僧孺演益為十八篇、東南諸族自為一篇、不入百家数。弼伝子匪之、匪之伝子希鏡、希鏡譔姓氏要状十五篇、尤所諳究。希鏡伝子執、執更作姓氏英賢一百篇、又著百家譜、広両王所記。執伝其孫冠、冠撰梁国親皇太子序親簿四篇。王氏之学、本於賈氏。 唐興、言譜者以路敬淳為宗、柳沖・韋述次之。李守素亦明姓氏、時謂「肉譜」者。後有李公淹・蕭穎士・殷寅・孔至、為世所稱。 初、漢有鄧氏官譜、應劭有氏族一篇、王符潜夫論亦有姓氏一篇。宋何承天有姓苑二篇。譜学大抵具此。魏太和時、詔諸郡中正、各列本土姓族次第為挙選格、名曰「方司格」、人到于今稱之。 馬懐素、字は惟白、潤州の丹徒の人である。江都に客となり、李善に師事し、貧しく財産はなかったから、昼は樵となり、夜はたちまち読書をし、遂に広く経史に通じた。選ばれて進士に及第し、また中文学優贍科となり、郿尉に補任された。功労を積んで、左台監察御史に移った。 長安年間(701-705)、大夫の魏元忠は張易之のために左遷させられて嶺表に流されることとなり、太僕の崔貞慎、東宮率の獨孤禕之は道の安全を祈ると、張易之は怒り、人をしてお上に急変を伝えさせ、崔貞慎らと魏元忠の謀反を告げた。武后は詔して懐素にこれを調査させ、使者をして厳しく迫らせたが、懐素は執行しながらも従わず、「崔貞慎は流人に餞(はなむけ)するのはまさに罪とすべきですが、謀反とするのにはあたりません。昔、彭越が謀叛の罪で誅殺されましたが、欒布はその死体のもとで奏上したにも関わらず、漢は罪に連座させませんでした。今、魏元忠の罪は彭越の比較にもなりませんから、餞した罪に連座させるべきではありません。また陛下は生殺与奪の権を握っておられるので、この罪を加えたいと思っても、自ら聖心によって処断すべきであって、既に臣に調査させているのですから、ただ陛下の法を守ることを知るのみなのです」と言い、武后は意を理解し、崔貞慎らはそこで罪を免れた。宰相の李迥秀は張易之の権勢を借り、誅求するのに法にかこつけたから、懐素は弾劾したが罷免され、礼部員外郎に転じた。十道使を以て江西の官吏たちの功績の有無によって官位をあげさげし、処罰するにも慈悲深かった。考功に遷ったが、調べるのに実際の才能を採用し、権貴に謁してへつらうことができなかった。中書舎人内供奉に抜擢され、修文館直学士となった。 開元年間(713-741)初頭、戸部侍郎となり、常山県公に封じられた。累進して昭文館学士を兼ねた。篤学で、手づからいまだかつて書籍を棄てたことはなかった。謙恭にして慎しみ畏れ、長者をたてた。玄宗は詔して褚无量とともに侍読とし、隔日で交代制とした。既に宮中の門に入り、肩輿で進み、あるいは行在が遠ければ、乗馬を許された。宮中で宴するのを見るごとに、帝は自ら送迎して師臣の礼をもってした。詔があって句校秘書となった。 当時、大量の書籍が詰め込まれており、どれも腐敗や虫損があり、題簽と書袋が一致しなかった。そこで懐素は意見を述べた。「願わくは紫微省に勤め黄門となり、博学の大儒らを招いて脱誤や誤謬を検討したいと存じます」。また「斉以前の古書については、すでに王侯の『七志』に詳細に記されています。近年の書目や過去の芸文志に遺漏した書籍を調査して王俊『七志』の続編を作り、宮中 の書庫に収めたいと思います」といった。詔が下り、許可された。まもなく馬懐素は秘書監に任命された。ついで国子博士の尹知章・四門助教の王直・直国子監の趙玄黙・陸渾丞の呉綽・桑泉尉の韋述・扶風丞の馬利徴・湖州司功参軍の劉彦直・臨汝丞の宋辞玉・恭陵令の陸紹伯・新鄭尉の李子釗・杭州参軍の殷践猷・梓潼尉の解崇質・四門直講の余欽・進士の王愜・劉仲丘・右威衛参軍の侯行果・邢州司戸の参軍袁暉・海州録事参軍の晁良・右率府冑曹参軍の毋煚・滎陽主簿の王灣・太常寺太祝の鄭良金らが召され書物の分類や編集が進められた。殷践猷の従弟の秘書丞の承業・武陟尉の徐楚璧がこの文字を正した。懐素は奏じて秘書少監の盧俌・崔沔を修図書副使とし、秘書郎の田可封・康子元を判官とした。しかし馬懐素はうまく著述を行えなかったので、なお分類が立てられなかった。懐素が亡くなると、帝は洛陽南城門で挙哀し、潤州刺史を贈り、謚して文といい、輿を賜って遺体は郷里に帰還し、葬儀は官費で行った。 懐素が亡くなると、秘書官に詔するとともに修書学士に命じて四部の書の校定原稿を作らせた。ところがそれぞれに意見が異なり統一がとれず、一年たっても完成しなかった。役人たちは作業への対応に疲弊し、太僕卿の王毛仲は手当の停止を奏上した。また詔して右常侍の褚无量・大理卿の元行沖に選任するにふさわしくない者を調べて辞めさせた。さらに褚无量らは「編纂に体系を与えるには、大儒による統括が必要です」と述べた。詔が下り元行沖に委ねられた。そこで毋煚・韋述・余欽に総緝の部分を、殷践猷・王愜に経を、韋述・余欽に史を、毋煚・劉彦直に子を、王灣・劉仲丘に集を編纂させ。開元八年(720)、『群書四録』が完成して献上された。学士には褒賞や昇進が加えられた者はいなかった。 元行沖は知麗正院となり、また陸紹伯・陸利徴・劉彦直・殷践猷・侯行果・李子釗・王直・毋煚・韋述・王灣・趙玄黙・余欽・鄭良金と朝邑丞の馮朝隠・冠氏尉の権寅献・秘書省校書郎の孟暁・揚州兵曹参軍の韓覃・王嗣琳・福昌令の張悱・進士の崔蔵之は校正して正書した。このため秘書省編集を止め、学士は皆清書を行った。 王愜・劉仲丘は老いて病となって郷里に帰った。陸紹伯は現官のまま死んだ。王直は岐王府記室参軍事で、趙玄黙は集賢直学士の職をもって退職した。陸利徴は出て山茌令となったものの、柔弱で治められず、免官となって家で死んだ。李子釗は連座して非人に任じられ、徳州長史で終わった。王欽は太学博士・集賢院学士となった。王灣は洛陽尉となり。鄭良金は右補闕・京兆府倉曹参軍事となった。権寅献は臨淮太守となった。孟暁は左補闕となった。韓覃は萊州別駕となったが、刺史が誣告されるのに連座し、遠方に流された。崔蔵之は膳部員外郎となった。翌年、将仕郎の梁令瓚を文学直書院とし、後に右率府兵曹参軍となったが罷免され、恒王府司馬で終わった。秘書省校書郎の源幼良は陸利徴に代わり、後に協律郎となって罷免された。 殷踐猷字伯起、陳給事中不害五世従孫。博学、尤通氏族・暦数・醫方。與賀知章・陸象先・韋述最善、知章嘗號為「五總龜」、謂龜千年五聚、問無不知也。初為杭州參軍、挙文儒異等科、授秘書省学士、用曹州司法參軍、兼麗正殿学士。以叔父喪、哀慟欧血而卒、年四十八。 少子寅、挙宏辭、為太子校書、出為永寧尉。吏侮謾甚、寅怒殺之、貶澄城丞。病且死、以母蕭老、不忍決。及斂、其子亮斷指剪髮置棺中、自誓事祖母如寅在。其後侍蕭疾、不脱衣者数年、有白燕巣其楣。後終給事中・杭州刺史。 踐猷弟季友、歴秘書郎、善畫。 従父仲容、終冬官郎中、有重名。子承業、以謹樸稱、歴太子左諭徳・右威衛将軍。 族子成己、晋州長史。初、母顔叔父吏部郎中敬仲為酷吏所陷、率二妹割耳訴、敬仲得減死。及成己生、而左耳缺云。 孔若思、越州山陰人、陳吏部尚書奐四世孫。祖紹安、與兄紹新早知名。陳亡、客居鄠、勵志于学。外兄虞世南曰:「本朝淪覆、吾分湮滅、有弟若此、知不亡矣。」紹安與孫萬寿皆以文辭稱、時謂「孫孔」。隋大業末。為監察御史。高祖討賊河東、紹安與夏侯端監軍、礼遇尤密。帝受禪、端先歸、拜秘書監。巳而紹安間道走長安、帝悅。擢内史舎人、賜宅一區・良馬二匹。 若思早孤、其母躬訓教、長以博学聞。有遺以褚遂良書者、納一巻焉、其人曰:「是書貴千金、何取之廉?」答曰:「審爾、此為多矣。」更還其半。擢明経、歴庫部郎中、常曰:「仕宦至郎中足矣。」座右置止水一石、明自足意。 中宗初、敬暉・桓彦範當国、以若思多識古今、凡大政事、必咨質後行。三遷礼部侍郎、出為衛州刺史。故事、以宗室為州別駕、見刺史、驁放不肯致恭。若思劾奏別駕李道欽、請訊状。有詔別駕見刺史致恭、自若思始。以清白擢銀青光禄大夫、賜絹百匹、累封梁郡公。開元七年卒、謚曰恵。 従父楨、第進士、歴監察御史、門無賓謁、時譏其介。高宗時、再遷絳州刺史、封武昌県子、謚曰温。 子季詡、字季和。永昌初、擢制科、授校書郎。陳子昂常稱其神清韻遠、可比衛玠、終左補闕。 若思子至、字惟微。歴著作郎、明氏族学、與韋述・蕭穎士・柳沖斉名。撰百家類例、以張説等為近世新族、剟去之。説子方有寵、怒曰:「天下族姓、何豫若事、而妄紛紛邪?」弟素善至、以實告。初。書成、示韋述、述謂可伝、及聞語、懼、欲更增損、述曰:「止!丈夫奮筆成一家書、奈何因人動搖?有死不可改。」遂罷。時述及穎士・沖皆撰類例、而至書稱工。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/16.html
唐書巻六 本紀第六 肅宗 代宗 肅宗文明武徳大聖大宣孝皇帝は、諱を亨といい、玄宗の第三子である。母は元献皇后楊氏といった。初めの名を嗣昇といい、陜王に封ぜられた。 開元四年(716)、安西大都護となった。性は仁孝で、学問を好み、玄宗はかれを最も愛して、賀知章・潘肅・呂向・皇甫彬・邢璹らを側近として侍読させた。 十五年(727)、名を浚とあらため、忠王に徙封され、朔方節度大使・単于大都護となった。 十八年(730)、奚・契丹が辺境を寇すと、肅宗を河北道行軍元帥とし、御史大夫李朝隠ら八総管の兵十万を派遣してこれを討伐させた。前線にあること二年、李朝隠らが奚・契丹を范陽の北で破り、肅宗は統帥の功により司徒に遷された。二十三年(735)、また名を璵とあらためた。 二十五年(737)、皇太子李瑛が廃されて死ぬと、明年、立って皇太子となった。官吏が冊礼を行うと、その儀に中厳・外辦があり、その服は絳紗であった。太子は「これは天子の礼である」といった。そこで公卿に下して議論させた。太師の蕭嵩と左丞相の裴耀卿が「外辦」を改めて「外備」とし、絳紗の衣を朱明の服とするよう請願したので、これに従った。二十八年(740)、また名を紹とあらためた。天宝三載(744)、また名を亨とあらためた。 安禄山が来朝すると、太子はかれに反相があると知り、罪によりこれを処刑するよう請願したが、玄宗は聞き入れなかった。安禄山はそむいた。 十五載(756)、玄宗が賊を避け、行して馬嵬に至り、父老が道を遮り太子を留めて賊を討たせるよう請うと、玄宗はこれを許して、寿王李瑁および内侍の高力士を派遣して太子を諭すと、太子はそこで帰還した。六月丁酉、渭北の便橋に到達したが、橋は絶たれており、水浜の居民を募ると三千人あまりを得て、渡りきることができた。潼関の敗残兵に遭遇し、賊となっていたから戦ったが、負傷する者が多く、発覚するまでにその他の者を収容して渡り、後軍の多くは水没した。夕方に永寿県に行き、吏民はしばしば牛酒を献上しに来た。新平郡太守の薛羽・保定郡太守の徐は賊が到達しようとしているときいて、皆城を捨てて逃げた。己亥、太子は保定に行き、薛羽・徐瑴を捕らえて斬った。辛丑、平涼郡に行き、牧馬牛羊を得て、兵は始めて勢いを取り戻した。朔方留後支度副使の杜鴻漸・六城水陸運使の魏少游・節度判官の崔漪・支度判官の崔簡金・関内塩池判官の李涵・河西行軍司馬の裴冕が朔方で太子を迎えて兵を治めた。庚戌、豊寧に行き、大河が険しいのを見て、ここで守ろうとしたが、たまたま大風が吹いたから、霊武に帰還した。 七月辛酉、霊武に到着した。壬戌、裴冕らが皇太子に皇帝の位につくよう請願した。甲子、霊武で皇帝の位につき、皇帝を尊んで上皇天帝といい、大赦し、至徳と改元した。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老に太守・県令を授けた。裴冕が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲戌、安禄山が扶風を寇し、太守の薛景仙がこれを破った。 八月辛卯、張巡が安禄山の将の李廷望と雍丘で戦い、これを破った。 十月辛巳朔、日食があった。癸未、彭原郡に行った。詔して御史・諫官が事を論じるにあたって先に大夫や宰相に報告することを禁じた。始めて売官し、僧尼を得度させた。房琯が招討西京・防禦蒲潼両関兵馬元帥となり、兵部尚書の王思礼がこれを補佐した。南軍を宜寿に入れ、中軍を武功に入れ、北軍を奉天に入れた。辛卯、河南節度副使の張巡が令狐潮と雍丘で戦い、これを破った。辛丑、房琯が中軍・北軍をもって安禄山の衆と陳濤斜で戦い、敗れた。癸卯、房琯がまた南軍をもって戦い、敗れた。この月、永王李璘を蜀郡に派遣して上皇天帝に朝させた。李璘がそむき、丹徒郡太守の閻敬之が李璘と伊婁埭で戦い、ここに死んだ。 十一月辛亥、河西で地震があった。戊午、崔渙が江南宣慰使となった。郭子儀が回紇を率いて安禄山と河上で戦い、これを破った。史思明が太原を寇した。 十二月、安禄山が魯・東平・済陰三郡を陥落させた。戊子、彭原郡を二年間免税とした。安禄山が潁川を陥落させ、太守の薛愿および長史の龐堅を捕らえた。 この年、吐蕃が巂州を陥落させ、嶺南溪の獠の梁崇牽が容州を陥落させた。 二載(757)正月、永王李璘が鄱陽郡を陥落させた。乙卯、安慶緒がその父の安禄山を弑した。丙寅、河西兵馬使の孟庭倫がその節度使の周佖を殺し、武威郡をもってそむいた。乙亥、安慶緒の将の尹子奇が睢陽郡を寇し、張巡がこれを破った。 二月戊子、鳳翔に行った。李光弼が安慶緒の衆と太原で戦い、これを破った。丁酉、関西節度兵馬使の郭英乂が安慶緒と武功で戦い、敗れた。安慶緒が馮翊郡を陥落させ、太守の蕭賁がここに死んだ。安慶緒の将の蔡希徳が太原を寇した。戊戌、庶人李璘が処刑された。庚子、郭子儀が安慶緒と潼関で戦い、これを破った。壬寅、河西判官の崔称が武威郡を落とし、孟庭倫が処刑された。甲辰、郭子儀が安慶緒と永豊倉で戦い、これを破り、大将の李韶光・王祚がここに死んだ。 三月辛酉、韋見素・裴冕が宰相を退いた。憲部尚書として致仕した苗晋卿が左相となった。 四月戊寅、郭子儀が関内・河東副元帥となった。壬午、戦死者を埋葬した。庚寅、郭子儀が安慶緒の将の李帰仁と劉運橋で戦い、これを破った。 五月癸丑、郭子儀が安慶緒の将の安守忠と清渠で戦い、敗れた。丁巳、房琯が宰相を退き、諫議大夫の張鎬が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 六月癸未、尹子奇が睢陽を寇した。丁酉、南充郡の民の何滔がその太守の楊斉曾を捕らえてそむいたので、剣南節度使の盧元裕がこれを破った。 七月己酉、太白が天を通過した。丁巳、安慶緒の将の安武臣が陜郡を陥落させた。 八月丁丑、長春宮が焼失した。甲申、崔渙が宰相を退いた。張鎬が河南節度使を兼ね、淮南の諸軍事を都統した。霊昌郡太守の許叔冀が彭城に逃れた。癸巳、大規模に閲兵した。 閏月甲寅、安慶緒が好畤を寇し、渭北節度使李光進がこれを破った。丁卯、広平郡王李俶が天下兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食の兵をもって安慶緒を討った。辛未、京畿採訪宣慰使の崔光遠が安慶緒と駱谷で戦い、これを破った。行軍司馬の王伯倫が苑北で戦い、ここに死んだ。 九月丁丑、安慶緒が上党郡を陥落させ、節度使の程千里を捕らえた。壬寅、広平郡王李俶が安慶緒と灃水で戦い、これを破った。癸卯、京師を奪回した。安慶緒が陜郡に逃れた。尚書左僕射の裴冕が太清宮・郊廟・社稷・五陵に告げ、百姓を宣慰した。 十月戊申、広平郡王李俶が安慶緒と新店で戦い、これを破り、陜郡を落とした。壬子、東京を奪回し、安慶緒は河北に逃れた。興平軍兵馬使の李奐が安慶緒の衆と武関で戦い、これを破り、上洛郡を落とした。吐蕃が西平郡を陥落させた。癸丑、安慶緒が睢陽を陥落させ、太守の許遠および張巡・鄆州刺史の姚誾・左金吾衛将軍の南霽雲はみなここに死んだ。癸亥、鳳翔を五年間免税とし、父老に官を授けた。太子太師の韋見素を派遣して上皇天帝を蜀郡に迎えた。丁卯、霊武から到着し、太廟で饗し、三日哭した。己巳、関内節度使王思礼が安慶緒と絳郡で戦い、これを破った。 十一月丙子、張鎬が、四鎮伊西北庭行営兵馬使の李嗣業・陜西節度使の来瑱・河南都知兵馬使の嗣呉王李祗を率いて河南の郡県を落とした。庚子、九廟の神主(位牌)をつくり、長楽殿に告享した。 十二月丙午、上皇天帝が蜀郡から到着した。甲寅、苗晋卿が中書侍郎・同中書門下平章事となった。戊午、大赦した。霊武で元より従っていた者、蜀郡で扈従した者で官三品以上は一子に官を授け、四品以下は一子に告身を出した。戦死者を祭り、その家は二年間免税とした。天下の租・庸を翌年は三分の一を免税とした。珠玉・宝鈿・平脫・金泥・刺繍を禁じた。諸州および官名を復した。蜀郡を南京とし、鳳翔郡を西京とし、西京を中京とした。潞州を五年間免税と、并州・鄧州・許州・滑州・宋州の五州、雍丘県・好畤県・奉先県は二年間免税とし、益州は三年間免税とした。文武官に階位・勲位・爵位を賜い、父老の八十以上に版授し、緋衣・銀魚を加え、民に五日宴会とした。広平郡王李俶が太尉となり、楚王に進封された。苗晋卿が侍中となり、崔円が中書令となり、李麟が同中書門下三品となった。子の南陽郡王李係を進封して趙王とし、新城郡王李僅を彭王とし、潁川郡王李僩を兗王とし、東陽郡王李侹を涇王とした。子の李僙を封じて襄王とし、李倕を王とし、李偲を召王とし、李佋を興王とし、李侗を定王とした。乙丑、史思明が降った。壬申、達奚珣らが処刑された。 乾元元年(758)正月戊寅、上皇天帝が宣政殿に御し、皇帝に伝国・受命の宝符を授け、冊号して光天文武大聖孝感皇帝といった。乙酉、宮女三千人を出した。庚寅、大規模に閲兵した。 二月癸卯、安慶緒の将の能元晧が淄州・青州をもって降り、能元晧を河北招討使とした。乙巳、上皇天帝に冊号をたてまつって聖皇天帝といった。丁未、大赦し、改元した。王朝に尽くして死んだ者および偽朝の命を拒んだ者に官位を追贈した。賊に陥された州は三年にわたって税を免除した。文武の官に階・爵を賜った。 三月甲戌、李俶を徙封して成王とした。戊寅、淑妃張氏を立てて皇后とした。 四月辛亥、神主を太廟に設置した。甲寅、太廟で朝享し、南郊を有事摂祭した。乙卯、大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜り、天下で租・庸ではないのに使役することを禁じ、貧窮の者に賑給し、寵臣に官爵を授け、京官九品以上、二王・三恪の一子に官を授けた。史思明が范陽節度副使の烏承恩を殺してそむいた。 五月戊子、張鎬が宰相を退いた。乙未、崔円・李麟が宰相を退いた。太常少卿の王璵が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、党項羌が辺境を寇した。 九月丙子、招討党項使の王仲昇が拓抜戎徳を殺した。庚寅、郭子儀が李光弼・李嗣業・王思礼・淮西節度使の魯炅・興平軍節度使の李奐・滑濮節度使の許叔冀・平盧兵馬使の董秦・鄭蔡節度使の季広琛を率いて安慶緒を討った。癸巳、大食・波斯が広州を寇した。 十月甲辰、成王李俶を立てて皇太子とした。大赦した。文武の官に階・爵を賜り、五品以上の子で、父の後継となる者に勲位を授けた。忠正孝友で東宮の官吏となりうる者を推挙した。 十一月壬申、王思礼が安慶緒と相州で戦い、これを破った。 十二月庚戌、戸部尚書の李峘が淮南・江東・江西節度使を都統した。丁卯、史思明が魏州を陥落させた。 二年(759)正月己巳、群臣が尊号をたてまつって乾元大聖光天文武孝感皇帝といった。郭子儀が安慶緒と愁思岡で戦い、これを破った。丁丑、九宮の貴神を祀った。戊寅、籍田を耕した。 二月壬戌、中書門下で囚人を再審した。 三月己巳、皇后が親蠶した。壬申、九節度使の軍が滏水で潰滅した。史思明が安慶緒を殺した。東京留守の崔円・河南尹の蘇震・汝州刺史の賈至が襄・鄧に逃れた。郭子儀が東京に駐屯した。丁亥、旱によって死罪を一等降し、流罪以下を再審した。流民で帰還した者を三年間免税とした。甲午、兵部侍郎の呂諲が同中書門下平章事となった。乙未、苗晋卿・王璵が宰相を退いた。京兆尹の李峴が吏部尚書となり、中書舎人の李揆が中書侍郎となり、戸部侍郎の第五琦と、ともに同中書門下平章事となった。丙申、郭子儀が東畿・山南東・河南等道諸節度防禦兵馬元帥となった。 四月庚子、王思礼が史思明と直千嶺で戦い、これを破った。壬寅、詔して常膳・服御を減じ、武徳中に作坊院で作成して蕃客に賜っていないもの、戎で祭祀の実施を待つものを停止させた。 五月辛巳、李峴を左遷して蜀州刺史とした。 七月辛巳、趙王李係が天下兵馬元帥となり、李光弼が副元帥となった。辛卯、呂諲が宰相を退いた。 八月乙巳、襄州防禦の将の康楚元・張嘉延がそむき、その刺史の王政を追放した。 九月甲子、張嘉延が荊州を陥落させた。丁亥、太子少保の崔光遠が荊襄招討・山南東道処置兵馬使となった。庚寅、史思明が東京および斉・汝・鄭・滑の四州を陥落させた。 十月乙巳、李光弼が史思明と河陽で戦い、これを破った。壬戌、呂諲が再び起用された。 十一月庚午、第五琦を左遷して忠州刺史とした。 十二月乙巳、康楚元が処刑された。史思明が陜州を寇し、神策軍将の衛伯玉がこれを破った。 上元元年(760)三月丙子、死罪を一等降し、流以下を釈放した。 四月戊申、山南東道の将の張維瑾がそむき、その節度使の史翽を殺した。丁巳、彗星が婁・胃に出現した。己未、来瑱が山南東道節度使となり、張維瑾を討った。 閏月辛酉、彗星が西方に出現した。甲戌、李係を徙封して越王とした。己卯、大赦し、改元し、文武の官に爵を賜った。太公望を追封して武成王とした。復死刑三覆奏。この月、大飢饉があった。張維瑾が降った。 五月丙午、太子太傅の苗晋卿が侍中となった。壬子、呂諲が宰相を退いた。 六月乙丑、鳳翔節度使の崔光遠が羌・渾・党項と涇・隴で戦い、これを破った。乙酉、またこれを普潤で破った。李光弼が史思明と懐州で戦い、これを破った。 七月丁未、聖皇天帝が西内に遷った。 十一月甲午、揚州長史の劉展がそむき、潤州を陥落させた。丙申、昇州を陥落させた。壬子、李峘と淮南節度使の鄧景山が劉展と淮上で戦い、敗れた。 この年、吐蕃が廓州を陥落させた。西原蛮が辺境を寇すると、桂州経略使の邢済がこれを破った。 二年(761)正月甲寅、降死罪、流以下原之。乙卯、劉展が処刑された。 二月己未、奴剌・党項羌が宝鶏を寇し、大散関を焚き、鳳州を寇し、刺史の蕭𢘽がここに死に、鳳翔尹の李鼎がこれを破った。戊寅、李光弼が史思明と北邙で戦い、敗れた。史思明が河陽を陥落させた。癸未、李揆を左遷して袁州長史とした。河中節度使の蕭華が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙酉、来瑱が史思明と魯山で戦い、これを破った。 三月甲午、史朝義が陜州を寇し、神策軍節度使の衛伯玉がこれを破った。戊戌、史朝義がその父の史思明を弑した。李光弼が副元帥を辞任した。 四月己未、吏部侍郎の裴遵慶が黄門侍郎・同中書門下平章事となった。乙亥、青密節度使の尚衡が史朝義と戦い、これを破った。丁丑、兗鄆節度使の能元皓がまたこれを破った。壬午、剣南東川節度兵馬使の段子璋がそむき、綿州を陥落させ、遂州刺史の嗣虢王李巨がここに死に、節度使の李奐(藩鎮)が成都に逃れた。 五月甲午、史朝義の将の令狐彰が滑州をもって降った。戊戌、平盧軍節度使の侯希逸が史朝義と幽州で戦い、これを破った。庚子、李光弼が河南道副元帥となった。剣南節度使の崔光遠が東川を落とし、段子璋が処刑された。 七月癸未朔、日食があった。 八月辛巳、殿中監の李国貞が朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭・河中節度使を都統した。 九月壬寅、大赦し、「乾元大聖光天文武孝感」の号を去り、「上元」の号を去り、元年を称し、十一月を歳首とし、月を斗をもって建辰とした。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老官に給付し、先に授けた者にも叙位した。四京の号を停めた。 元年建子月癸巳、曹州刺史の常休明が史朝義の将の薛㟧と戦い、これを破った。己亥、聖皇天帝を西内で朝享した。丙午、衛伯玉が史朝義と永寧で戦い、これを破った。己酉、太清宮で朝献した。庚戌、太廟および元献皇后廟で朝享した。 建丑月辛亥、南郊を有司摂祭した。己未、来瑱が史朝義と汝州で戦い、これを破った。乙亥、侯希逸が史朝義の将の李懐仙と范陽で戦い、これを破った。 宝応元年(762)建寅月甲申、靖徳太子李琮を追冊して皇帝とし、妃の竇氏を皇后とした。乙酉、王公妃主で殺害された者を葬った。丙戌、敬陵・恵陵が盗掘された。甲辰、李光弼が許州を落とした。吐蕃が和を請うた。戊申、史朝義が営州を陥落させた。 建卯月辛亥、大赦した。文武の官に階・爵を賜った。五品以上の清望と郎官・御史に、流人で行業あって憐愍を加えるべき者を推薦させた。鷹・鷂・狗・豹の貢納を停止させた。京兆府を上都とし、河南府を東都とし、鳳翔府を西都とし、江陵府を南都とし、太原府を北都とした。壬子、羌・渾・奴剌が梁州を寇した。癸丑、河東軍で乱が起こり、その節度使の鄧景山を殺して、都知兵馬使の辛雲京が節度使を自称した。乙丑、河中軍で乱が起こり、李国貞およびその節度使の荔非元礼を殺した。戊辰、淮西節度使の王仲昇が史朝義の将の謝欽讓と申州で戦い、敗れた。庚午、郭子儀が朔方・河中・北庭・潞州・儀州・沢州・沁州の節度行営を領知し、興平・定国軍兵馬副元帥となった。壬申、鄜州刺史の成公意が党項と戦い、これを破った。 建辰月壬午、大赦し、官吏で贈賄を受けた者で官庫に納めた者を許し、官を左遷された者、および流人で乱の鎮定に尽力した者を帰還させた。甲午、奴剌が梁州を寇した。戊申、蕭華が宰相を退いた。戸部侍郎の元載が同中書門下平章事となった。 建巳月庚戌、史朝義が沢州を寇し、刺史の李抱玉がこれを破った。壬子、楚州が国宝の玉十三を献定した。甲寅、聖皇天帝が崩じた。乙丑、皇太子が監国した。大赦し、元年を改めて宝応元年とし、正月を歳首にもどし、建巳月を四月とした。丙寅、閑厩使の李輔国と飛龍厩副使の程元振が皇后を別殿にうつし、越王李係・兗王李僩を殺した。この夜、皇帝は長生殿で崩じ、年は五十二であった。 代宗睿文孝武皇帝は、諱を豫といい、肅宗の長子である。母は章敬皇后呉氏といった。玄宗の諸孫は百人あまりいて、代宗が最も年長であり、嫡皇孫となった。聡明で寬厚、喜びや怒りを顔色に表さなかった。学問を好み記憶力がよく、易象に通じた。初めの名を俶といい、広平郡王に封ぜられた。 安禄山がそむき、玄宗が蜀に幸すると、肅宗は留って賊を討伐し、代宗は常に軍務に従った。 肅宗が即位すると、郭子儀らの兵が安慶緒を討ったが、勝利できなかった。肅宗は岐州にいた。至徳二載(757)九月、代宗は広平郡王として天下兵馬元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食らの兵二十万を率いて進討し、百官を朝堂に送り、宮廷を過ぎて下り、歩いて木馬門を出て、その後再度騎乗した。安西・北庭行営節度使の李嗣業を前軍とし、朔方・河西・隴右節度使の郭子儀を中軍とし、関内行営節度使の王思礼を後軍とし、香積寺に駐屯した。賊将の安守忠を破り、斬首すること六万級におよんだ。賊将の張通儒は長安を守っていたが、安守忠が敗れたのを聞くと、城を棄てて逃れたので、代宗はそのまま京城を落とし、王思礼を留めて苑中に駐屯させ、代宗は大軍を率いて東に向かった。安慶緒はその将の厳荘を派遣して陜州ではばませたが、代宗と郭子儀・李嗣業は陜西で戦い、これを大いに破ったので、安慶緒は河北に逃れ、代宗はそのまま東都を落とした。肅宗は京師に帰還した。十二月、楚王に進封された。 乾元元年(758)三月、成王に徙封された。四月、立って皇太子となった。それより以前、太子が生まれた年、豫州が嘉禾を献上したから、そこで瑞祥によって、名を豫と改めた。元年の称をやめ、月は斗によって建辰を名とした。元年建巳月、肅宗が重病となり、詔して皇太子が監国した。楚州が献上した国宝十三を定めて、そこで、「楚州は、太子が封じられたところであり、今天より宝が楚州に降った。ただちに建元すべきである」とし、そこで元年を宝応元年とした。 肅宗と張皇后は李輔国を憎み、謀をしようとして、太子を召して聞いてみたが、太子は許さず、そこで越王李係と謀った。肅宗は病が進行した。四月丁卯、皇后と李係は太子を召喚して宮中に入らせようとしたが、飛龍副使の程元振は謀の情報を得て、李輔国に密告した。李輔国は太子を止めて入らせず、兵を率いて入り、李係と兗王李僩を殺し、皇后を別殿に幽閉した。夕方、肅宗が崩じ、そこで太子を迎えて群臣を九仙門に謁見させた。翌日、喪を発した。己巳、皇帝位を柩前で即位した。癸酉、始めて聴政した。甲戌、奉節郡王李适が天下兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥を辞任した。乙亥、李适を進封して魯王とした。 五月壬午、李輔国が司空となった。庚寅、母を追尊して皇太后とした。丙申、李光弼が史朝義と宋州で戦い、これを破った。丁酉、大赦した。刺史の一子に官を授け、文武の官に階・爵を賜り、子で父の後継となる者を勲一等を昇進させた。民で租から逃げた者の旧債を免除した。子の益昌郡王李邈を進封して鄭王とし、延慶郡王李迥を韓王とした。庶人王氏を追復して皇后とし、李瑛・李瑤・李琚はみなその封号を復した。 六月辛亥、廃皇后張氏・越王李係・兗王李僩をみな追って庶人とした。 七月乙酉、山南東道節度使の裴茙を殺した。癸巳、剣南西川兵馬使の徐知道がそむいた。 八月己未、徐知道が処刑された。辛未、台州の人の袁鼂がそむいた。乙亥、李适を徙封して雍王とした。 九月戊子、鳳州刺史の呂日将が党項羌と三嗟谷で戦い、これを破った。丙申、回紇に援軍を要請した。壬寅、大閲を実績した。癸卯、袁鼂が信州を陥落させた。 十月乙卯、温・明の二州が陥落した。詔して浙江の水旱で、百姓で重度の困窮する者を、州県が税を科すことを禁じ、民で疫病で死んで葬送できない者を埋葬した。辛酉、雍王李适が史朝義を討った。壬戌、李輔国が強殺された。癸酉、雍王李适が懐州を落とした。甲戌、史朝義を横水で破り、河陽・東都を落とし、史朝義の将の張献誠が汴州をもって降った。 十一月丁亥、史朝義の将の薛嵩が相・衛・洺・邢の四州をもって降った。丁酉、史朝義の将の張忠志が趙・定・深・恆・易の五州をもって降った。己亥、朔方行営節度使の僕固懐恩が朔方・河北副元帥となった。 十二月己酉、太府の左蔵庫が焼失した。戊辰、京城内外の露出した骨を埋葬した。甲戌、李光弼が袁鼂と衢州で戦い、これを破った。 この年、舒州人楊昭がそむき、その刺史の劉秋子を殺した。西原蛮が叛いた。吐蕃が秦・成・渭の三州を寇した。 広徳元年(763)正月癸未、京兆尹の劉晏が吏部尚書・同中書門下平章事となった。甲申、史朝義が自殺し、その将李懐仙が幽州をもって降り、田承嗣が魏州をもって降った。壬寅、山陵使・山南東道節度使の来瑱に罪があり、処刑された。 三月甲辰、山南東道兵馬使の梁崇義が南陽から襄州に入った。丁未、李光弼が袁鼂と戦い、これを破った。辛酉、至道大聖大明孝皇帝を泰陵に葬った。甲子、党項羌が同州を寇し、郭子儀が黄堆山でこれを破った。庚午、文明武徳大聖大宣孝皇帝を建陵に葬った。 六月、同華節度使の李懐譲が自殺した。 七月壬寅、群臣が尊号をたてまつって宝応元聖文武孝皇帝といった。壬子、大赦し、改元した。民で租から逃げた者の旧債を免除し、戸三丁に庸・調を一免除した。河北を三年間免税とした。回紇が行軍・駐屯した地をこの年免税とした。内外の官に階・勲・爵を賜った。功臣に鉄券を賜り、名を記録して太廟に納め、肖像を描いて凌煙閣に納めた。吐蕃が隴右の諸州を陥落させた。 八月、僕固懐恩がそむいた。 九月壬寅、裴遵慶が僕固懐恩を汾州で宣慰した。乙丑、涇州刺史の高暉が叛いて吐蕃についた。 十月庚午、吐蕃が邠州を陥落させた。辛未、奉天・武功を寇し、京師は戒厳をしいた。壬申、雍王李适が関内兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥となった。癸酉、渭北行営兵馬使の呂日将が吐蕃と盩厔で戦い、これを破った。乙亥、また盩厔で戦い、敗れた。丙子、陜州にいった。丁丑、華陰に行った。豊王李珙に罪があり、処刑された。戊寅、吐蕃が京師を陥落させ、広武郡王李承宏を立てて皇帝とした。辛巳、陜州に行った。癸巳、吐蕃は潰え、郭子儀が京師を奪回した。南山五谷の人の高玉がそむいた。 十一月壬寅、広州市舶使の呂太一がそむき、その節度使の張休を追放した。 十二月辛未、劉晏に上都を宣慰させた。甲午、陜州から到着した。乙未、苗晋卿・裴遵慶が宰相を退いた。検校礼部尚書李峴を黄門侍郎・同中書門下平章事とした。丙申、李承宏を華州に放逐した。吐蕃が松州・維州の二州を陥落させた。西原蛮が道州を陥落させた。 二年(764)正月丙午、詔して御史・諫官・刺史・県令となり得る者を推挙させた。乙卯、雍王适を立てて皇太子とした。癸亥、劉晏・李峴が宰相を退いた。右散騎常侍王縉を黄門侍郎、太常卿杜鴻漸を兵部侍郎・同中書門下平章事とした。郭子儀に河東副元帥を兼任させた。 二月辛未、僕固懐恩が朔方軍節度留後渾釈之を殺した。癸酉、太清宮で朝献した。甲戌、太廟で朝享した。乙亥、南郊で有司摂祭した。己丑、大赦した。内外の官に階・爵を賜った。武徳の功臣の子孫一人に官を賜った。成都・霊武で最小から従った三品以上の者に爵一級を、ほかは一階を加えた。宝応の功臣で三品以上の一子に官を賜い、爵一級を賜い、ほかは階・勲を二等加え、五品以上で父の後継となる者は勲を二等賜った。 三月辛丑、河南府を二年間免税とした。甲子、盛王李琦が薨去した。 四月甲午、螺鈿で珠や翠をつくることを禁じた。 五月、洛水が氾濫した。 六月丁卯、汾州に星が落ちた。 七月庚子、初めて青苗を税とした。己酉、李光弼が薨去した。 八月丙寅、王縉が侍中となり、河南・淮南・山南東道節度行営事を都統した。壬申、王縉が侍中を辞任した。癸巳、吐蕃が邠州を寇し、邠寧節度使の白孝徳が宜禄でこれを破った。 九月己未、剣南節度使の厳武が吐蕃と当狗城で戦い、これを破った。 この秋、蜮が出現した。 十月丙寅、吐蕃が邠州を寇した。丁卯、奉天を寇し、京師に戒厳をしいた。庚午、厳武が吐蕃の塩川城を落とした。辛未、朔方兵馬使の郭晞が吐蕃と邠西で戦い、これを破った。この月、突厥が豊州を寇し、守将の馬望がここに死んだ。 十一月乙未、吐蕃軍は潰え、京師は戒厳を解いた。河西節度使の楊志烈が僕固懐恩と霊州で戦い、敗れた。癸丑、袁鼂が処刑された。越州のこの年の田租の半分を免除し、温・台・明の三州を一年間免税とした。 十二月乙丑、高玉が処刑された。丙寅、多くの星が落ちた。 この年、西原蛮が邵州を陥落させた。 永泰元年(765)正月癸巳、大赦し、改元した。この月、歙州の人がその刺史の龐濬を殺した。 二月戊寅、党項羌が富平を寇した。庚辰、儀王李璲が薨去した。 三月庚子、雨が木に氷をつけた。庚戌、吐蕃が和を請うた。辛亥、大風のため木が抜けた。 四月己巳、春より雨が降らなかったが、この日雨が降った。 この夏、盩厔で穭麦が生えた。 七月辛卯、平盧・淄青兵馬使の李懐玉がその節度使の侯希逸を追放した。 八月庚辰、王縉が河南副元帥となった。僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項羌・渾・奴剌とともに辺境を寇した。 九月庚寅、百官に命じて浮屠の象を光順門で見させた。辛卯、太白が天を通過した。甲辰、吐蕃が醴泉・奉天を寇し、党項羌が同州を寇し、渾・奴剌が盩厔を寇し、京師は戒厳をしいた。己酉、苑に駐屯し、郭子儀は涇陽に駐屯した。丁巳、同華節度使の周智光が吐蕃と澄城で戦い、これを破った。周智光は鄜州に入り、その刺史の張麟を殺し、そのまま坊州を焚いた。 十月、沙陀が楊志烈を殺した。己未、吐蕃が邠州にいたり、回紇とともに辺境を寇した。辛酉、奉天を寇した。癸亥、同州を寇した。乙丑、興平を寇した。丁卯、回紇・党項羌が降伏を請うた。癸酉、郭子儀が吐蕃と霊台で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。 閏月辛卯、朔方副将の李懐光が霊州を落とした。辛亥、剣南西山兵馬使崔旰がそむき、成都を寇し、節度使の郭英乂は霊池に逃れ、普州刺史の韓澄がこれを殺した。癸丑、民財を納めて浮屠の供とした。 大暦元年(766)二月、吐蕃が遣使して来朝した。壬子、杜鴻漸が山南西道・剣南東西川・邛南・西山等道副元帥となった。 三月癸未、剣南東川節度使の張献誠が崔旰と梓州で戦い、敗れた。 七月癸酉、洛水が氾濫した。 九月辛巳、吐蕃が原州を陥落させた。 十一月甲子、大赦し、改元し、流民で本業に戻る者を三年間免税とした。 十二月己亥、彗星が瓠瓜より出た。癸卯、周智光がそむき、虢州刺史の龐充を殺した。 この冬、雪がなかった。鄭王李邈が天下兵馬元帥となった。 二年(767)正月丁巳、郭子儀が周智光を討った。己未、同華の将の李漢恵が同州をもって降った。甲子、周智光が処刑された。淮西節度使の李忠臣が華州に入った。戊寅、同・華の二州を二年間免税とした。 八月壬寅、駙馬都尉の姜慶初を殺した。 九月甲寅、吐蕃が霊州を寇した。乙卯、邠州を寇した。郭子儀が涇陽に駐屯し、京師は戒厳をしいた。乙丑、昼に星が南方に流れた。 この秋、桂州の山獠がそむいた。 十月戊寅、朔方軍節度使の路嗣恭が吐蕃と霊州で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。 十一月辛未、雨が木に氷をつけた。壬申、京師で地震があった。 三年(768)二月癸巳、商州兵馬使の劉洽がその刺史の殷仲卿を殺した。 三月乙巳朔、日食があった。 五月乙卯、斉王李倓を追号して皇帝とし、興信公主の女の張氏を皇后とした。癸亥、地震があった。 六月壬寅、幽州兵馬使の朱希彩がその節度使の李懐仙を殺して、留後を自称した。 閏月庚午、王縉が幽州盧龍軍節度使を兼ねた。 七月壬申、瀘州刺史楊子琳がそむき、成都を陷すと、剣南節度留後の崔寛がこれを破り、成都を落とした。楊子琳が夔州別駕の張忠を殺した。戊寅、吐蕃が遣使して来朝した。 八月己酉、吐蕃が霊州を寇した。丁卯、邠州を寇し、京師は戒厳をしいた。戊辰、邠寧節度使の馬璘が吐蕃と戦い、これを破った。庚午、王縉が河東節度使を兼ねた。 九月丁丑、済王李環が薨去した。壬午、吐蕃が霊州を寇し、朔方の将の白元光がこれを破った。壬辰、またこれを霊武を破った。戊戌、京師は戒厳を解いた。 十二月辛酉、涇原兵馬使の王童之が反乱を計画し、処刑された。 四年(769)正月甲戌、潁州刺史の李岵を殺した。 二月乙卯、杜鴻漸が副元帥を辞任した。丙辰、京師で地震があった。 三月、御史を派遣して商銭を税とした。甲戌、京兆のこの年の税を免税とした。 五月丙戌、京師で地震があった。 六月戊申、王縉が副元帥・都統を辞任した。 七月癸未、死罪を一等降して、流以下を釈放した。 十月丁巳、大霧。 十一月辛未、禁畿内弋獵。壬申、杜鴻漸が宰相を退いた。癸酉、元載を知門下省事とした。甲戌、吐蕃が霊州に寇し、朔方軍節度留後の常謙光がこれを破った。丙子、左僕射の裴冕が同中書門下平章事となった。癸巳、裴冕が河南・淮西・山南東道副元帥を兼ねた。 十二月戊戌、裴冕が薨去した。 この年、広州の人の馮崇道・桂州の人の朱済時がそむき、容管経略使の王翃がこれを破った。 五年(770)正月辛卯、鳳翔節度使の李抱玉が河西・隴右・山南西道副元帥となった。 三月癸酉、内侍監の魚朝恩に罪があり、自殺した。丙戌、昭陵の皇堂に光があり、このため京兆・関輔で赦した。 四月庚子、湖南兵馬使の臧玠がその団練使の崔灌を殺した。己未、彗星が五車に出現した。 五月己卯、彗星が北方に出現した。六月己未、彗星が消え去ったため、死罪は一等降し、流以下を釈放した。魏徴・王珪・李靖・李勣・房玄齡・杜如晦の後裔を録した。 この年、湖南の将の王国良がそむき、西原蛮とともに州県を寇した。 六年(771)二月壬寅、李抱玉が山南西道副元帥を辞任した。 三月、王翃が梁崇牽を破り、容州を落とした。 四月戊寅、藍田の西原の地を陥落させた。大𦅘錦・竭鑿・六破錦および文紗・呉綾を龍・鳳凰・麒麟・天馬・辟邪とすることを禁止した。 五月戊申、殿中侍御史の陸珽・成都府司録参軍事の李少良・大理評事の韋頌を殺した。 七年(772)二月庚午、江州江が氾濫した。 五月乙酉、大雨雹、大風のため木が抜けた。乙未、旱害のために大赦し、膳を減らし、楽を止めた。 この秋、幽州盧龍の将の李懐瑗がその節度使の朱希彩を殺し、経略軍副使の朱泚が留後を自称した。 十月乙亥、淮南が旱のため、租・庸を三分の二免除した。 十一月庚辰、巴・蓬・渠・集・壁・充・通・開の八州を二年間租・庸を免除した。 十二月丙寅、土が天より降り、長星が参より出現した。 八年(773)正月甲辰、詔して京官三品以上および郎官・御史に毎年刺史・県令を一人推挙させた。 五月辛卯、鄭王李邈が薨去した。壬辰、京師で大赦した。癸卯、死罪を一等降し、流以下を釈放した。 八月己未、吐蕃が霊州を寇し、郭子儀が七級渠でこれを破った。甲子、華州の屯田を廃して貧民に給した。 九月壬午、循州刺史の哥舒晃がそむき、嶺南節度使の呂崇賁を殺した。戊子、詔して京官五品以上・両省供奉官・郎官・御史に言上させた。 十月庚申、吐蕃が涇・邠を寇した。丙寅、朔方兵馬使の渾瑊が吐蕃と宜禄で戦い、敗れた。涇原節度使の馬璘が吐蕃と潘原で戦い、これを破った。 九年(774)二月辛未、徐州の兵が乱を起こし、その刺史の梁乗を追放した。 四月壬辰、大赦した。 十月壬申、信王李瑝が薨去した。乙亥、涼王李璿が薨去した。壬辰、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。 十年(775)正月丁酉、昭義軍兵馬使の裴志清がその節度使の薛㟧を追放し、叛いて田承嗣についた。壬寅、寿王李瑁が薨去した。戊申、田承嗣がそむいた。癸丑、田承嗣が洺州を陥落させた。乙卯、剣南西川節度使の崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。 二月乙丑、田承嗣が衛州を陥落させ、刺史の薛雄がここに死んだ。辛未、子の李述を封じて睦王とし、李逾を郴王とし、李連を恩王とし、李遘を鄜王とし、李造を忻王とし、李暹を韶王とし、李運を嘉王とし、李遇を端王とし、李遹を循王とし、李通を恭王とし、李逵を原王とし、李逸を雅王とした。丙子、河陽軍で乱が起こり、三城使の常休明を追放した。 三月甲午、陜州軍で乱が起こり、その観察使の李国清を追放した。 四月癸未、河東節度使の薛兼訓らが田承嗣を討った。昭義の五州を二年間免税とした。甲申、大雨雹、大風のため木が抜けた。 五月乙未、魏博の将の霍栄国が礠州をもって降った。甲寅、大雨雹、大風のために木が抜け、闕門が震えた。 六月甲戌、成徳軍節度使の李宝臣が田承嗣と冀州で戦い、これを破った。 七月己未、杭州で津波があった。 八月己丑、田承嗣が礠州を寇した。 九月壬寅、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。壬子、吐蕃が臨涇を寇した。癸丑、隴州を寇した。丙辰、李抱玉が義寧でこれを破った。丁巳、馬璘がまた百里城でこれを破った。 十月辛酉朔、日食があった。甲子、昭義軍節度使の李承昭が田承嗣と清水で戦い、これを破った。丙寅、貴妃独孤氏が薨去した。丁卯、追冊して皇后とした。 十一月丁酉、魏博の将の呉希光が瀛州をもって降った。丁未、嶺南節度使の路嗣恭が広州を落とし、哥舒晃が処刑された。 十一年(776)正月庚寅、田承嗣が降った。辛亥、崔寧が吐蕃と戦い、これを破った。 五月、汴宋都虞候の李霊耀がそむき、濮州刺史の孟鑑を殺した。 七月庚寅、田承嗣が滑州を寇し、永平軍節度使の李勉が敗れた。 八月甲申、淮西節度使の李忠臣と河陽三城使の馬燧と李勉が李霊耀を討った。 閏月丁酉、太白(金星)が昼に見えた。 九月乙丑、李忠臣と馬燧が李霊耀と鄭州で戦い、敗れた。 十月乙酉、中牟で戦い、これを破った。壬辰、李忠臣はまた西梁固でこれを破った。壬寅、淮南節度使の陳少淤が李霊耀と汴州で戦い、これを破った。丙午、田承嗣が兵をもって李霊耀を救援し、李忠臣が匡城でこれを破った。甲寅、李霊耀が処刑された。 十二年(777)三月庚午、田承嗣を赦した。辛巳、元載に罪があって処刑された。王縉を左遷して括州刺史とした。 四月壬午、太常卿の楊綰が中書侍郎となり、礼部侍郎の常衮が門下侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。癸巳、詔して諫官が意見封事を献上するのに期限を廃止し、側門にて論事する者は状に従って面奏させ、六品以上の官で言事を投書する者は添え書の記録を廃止した。丁酉、吐蕃が黎・雅の二州を寇し、崔寧がこれを破った。この月、金州の人の卓英璘がそむいた。 六月乙巳、卓英璘が処刑された。金州を二年間免税とした。丁未、旱のため、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。 七月己巳、楊綰が薨去した。丙子、詔して尚書・御史大夫・左右丞・侍郎に刺史に任命すべき者を推挙させた。 九月庚午、吐蕃が坊州を寇した。 この秋、黄河が氾濫した。 十一月壬子、山南西道節度使の張献恭が吐蕃と岷州で戦い、これを破った。 十二月丁亥、崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。 この年、恒・定・趙の三州で地震があった。冬、雪がなかった。 十三年(778)正月戊辰、回紇が并州を寇した。癸酉、河東節度留後の鮑防が回紇と陽曲で戦い、敗れた。 二月庚辰、代州刺史の張光晟が回紇と羊虎谷で戦い、これを破った。 四月甲辰、吐蕃が霊州を寇し、常謙光がこれを破った。 十月己丑、京畿で兵器を持って狩猟をおこなうのを禁じた。 この年、郴州の黄芩山が崩れた。 十四年(779)二月癸未、魏博節度使の田承嗣が亡くなり、その兄の子の田悦が留後を自称した。 三月丁未、汴宋の将の李希烈がその節度使の李忠臣を追放し、留後を自称した。 五月辛酉、不豫となり、詔により皇太子が監国した。この夕、皇帝は紫宸内殿で崩じ、年は五十三であった。 賛にいう、天宝の乱では、大賊が突如蜂起して、天子は出奔した。まさにその時、肅宗は皇太子として兵を統率して賊を討伐し、本当にその職を得たというべきである。しかし僖宗の時、唐の威徳は人にあり、綱紀はまだ崩れ去っていなかったが、天宝の時と比べてどうであろうか。しかし僖宗は蜀にあって、藩鎮らの兵を合力して、遂に黄巣を破って京師を回復した。上記のことから言うならば、肅宗は尊位に即位していなかったが、まあ賊を破ることができたのだ。思うに高祖より以来、三たび位を退いてその子に授けたが、一人睿宗のみ上は天戒を恐れて、誠心より発した。高祖・玄宗のようにどうしてその志があろうか。代宗の時、敵の勢力はまだあり、乱を平定して守成した。思うにまた中材の主であろう。 前巻 『新唐書』 次巻 巻五 本紀第五 『新唐書』巻六 本紀第六 巻七 本紀第七
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/438.html
唐書巻一百一十九 列伝第四十四 武平一 李乂 賈曾 至 白居易 行簡 敏中 武平一は、名は甄で、字(あざな)で世に知られた。潁川郡王武載徳の子である。博学で『春秋』に通じ、文章を巧みにした。武后の時、禍を恐れてあえて武氏と事を共にせず、嵩山に隠れて仏教を修行し、しばしば詔があったが応じなかった。中宗が復位した時、武平一は母の喪に服していたが、迫まられて召還されて起居舎人に任じられ、喪に服することを願ったが、聞き入れられなかった。景龍二年(708)、修文館直学士を兼任した。当時の天子は暗愚で君主の器ではなく、韋后は密通乱交し、外戚の勢いは盛んであった。武平一は重ねて直言して過失を責め、そこで自ら母系の一族郎党を抑えることを願い、上言した。「去年、熒惑が羽林に入り、太白が天を再度めぐり、太陽が欠け、月が大角を犯しました。臣は、災害というのはむやみに生じるわけではなく、上を見れば下は必ずそれに応じており、信は影や響きが形や声に応じるようなものだと聞いています。詩経に、「文王は慎み深く細かいことにも気を配り、天の神につかえ、その結果、周に多福をもたらした」とあります。陛下の資質は孝行で慈愛があり、外戚は外家に属しているのに、恩恵はあまねく獲得することになりました。臣もそのうちの一宗族で、階は三等にのぼり、家はしばしば侯となり、王侯貴族が乗る豪華な車に乗り、許氏・史氏・梁氏・鄧氏といった漢代の外戚ら遠い時代よりもさらにその恩恵が深いのです。恩崇は批評を重ねることになり、位が厚ければひび割れるのも速く、そのため月が満ちれば必ず欠け、太陽は日中に移動し続け、時は二度とやってこず、栄えるのは難しいのにしばらくすれば凋落するのです。昔、永淳年間(682-683)以降、王室は多難で、先聖は権に従い、そのため臣の家は宗室の子であるという理由によってひそかに分封を禄としていました。今上陛下が復辟され、本来なら退いて家や庭を守るべきであったのですが、再び恩寵をいただき、爵封ははじめのようになり、高位高官となって、遂に極みを超えたのです。だから陰気は陽をなぞらえ、黄河や洛河が氾濫したのです。昔、漢の王氏一族はおごりたかぶった時、梅福は上書しました。竇氏が専横を極めると、丁鴻は諫言を奉りました。また后妃の家は、恩寵は過分にも深く、一朝にして覆没させてしまえば、遂に生きている人間はいなくなってしまいます。願くば謙譲の時宜、長期の策を思い、長い時間をはかるのなら、親戚は全うするでしょう」と述べた。帝は慰めはげましたが、許さなかった。考功員外郎に遷った。 当時、太平公主・安楽公主はそれぞれ党派をたてて互いに排斥しあっており、貴族もせめぎあっていた。帝はこれを憂い、あつく和させたいと思い、武平一を訪ねた。そこで上書した。「病には四体があり、表面で跡が判明すれば対処はたやすく、内臓にあれば、症状が突然あらわれるから治すのが難しいのです。刑罰や政務が乖離していれば、それは四股の病と同じなのです。親族が権力を握れば猜疑心がおきてわだかまりがあり、内臓の病気と同じなのです。『書』に、「よく徳に優れた者を引き立て任用され、かれらを使って九族の間の親睦を計られた。九族がなごやかになると、次いで百姓の間を和らげた」とあり、『詩経』に、「隣人と仲良くつとめれば、親戚大いに楽しまん」とあります。これによって親族は和睦するのが最善であることを知るのです。この頃権力者や貴顕は疑って警戒しあい、表面上は融和しているようにみえてその内実は離間しており、怨みは親類に結び、疑っては骨肉に争いが生じるのです。栄達を求める者は、偽って忠誠を示しています。饒舌の輩たちは、いやしくも讒言や謀略をつくすのです。邸宅の中では敬い恐れるようにしながら、媼や宦官の側で私語しているのです。そのため訪問者は絶え、嫌疑を構えられ、親愛の情にそむき、党派が発生するのです。霜のような小さなものでも、積もると大きな氷になるのですから、小さな禍でも見過ごすことはできません。願わくばことごとく近親の貴人を召集し、内殿にて宴会し、和睦の意思を告げ、慈愛と慰労を仰せになられて、奸人を退け、讒言の道を塞ぐのです。もしそれでもなお止まなければ、そこで近きを棄てて遠きをはかり、慈愛を抑えて厳を示しされるのは、陛下のご命令なのです」と述べた。帝はその忠節をよしとしながらも、ついに用いることはなかった。 それより以前、崔日用は『春秋左氏伝』を諸侯や官僚に講義していた。ある日、学士を大いに集まったが、崔日用は武平一を責めて、「君の文章はもとより優れているが、もし経を述べたのなら、駄目なのだろう」と言った。その時崔湜・張説はもとより武平一がこれらを学んでいることを知っていたから、問答することを勧め、武平一はそこで疑っているところを言うよう求めた。崔日用は、「魯の三桓、鄭の七穆とはなんだ」と聞くと、「慶父・叔牙・季友が、桓公の三子である。孟孫氏は仲孫彘に到るまでおよそ九世で、叔孫舒・季孫肥まではおよそ八世だ。鄭の穆公には十一子あり、そのうち子然および子孔・士子孔の三族は滅び、子羽は卿にはならなかったから、だから七穆というのであり、子罕・子駟・子良・子国・子游・子印・子豊がそれである」と答えたから、一坐は驚き敬服した。武平一は崔日用に、「あなたは斉の桓公・楚の荘王の時のことを言っているが、諸侯が斉もしくは楚に属していたのはどれくらいであったのか。平公・霊王の時、諸侯が晋や楚に属していたのはどれくらいであったのか。晋六卿や、斉・楚の執政はどれくらいの人がいたのか」と問うと、崔日用は謝って、「私は知りません。あなたは知っているのですか」と聞くと、武平一はすべて答えて言って、言葉はとどまることはなかった。崔日用は、「私に弟子の礼をとらせてください」と言ったから、そこにいたすべての人が大笑いした。 後に両儀殿で宴し、帝は武后の兄の光禄少卿の武嬰に命じて監酒とした。武嬰は滑稽かつ敏捷で、学士に詔してこれをからかわせたが、武嬰はよく数人をあしらった。宴も盛り上がって酩酊となる中、胡人の襪子・何懿らが「合生」と唱えたが、歌声は浅くかつ穢わしく、そのため傲慢で気まま勝手となり、司農少卿の宋廷瑜の賜魚を奪い取ろうとした。武平一は上書して、「楽は天の和で、礼は地の秩序です。礼は地に配び、楽は天に応じるのです。そのため音は心を動かし、声は物を形作り、心によって楽は哀みとなり、物に感じて変化に応じるのです。楽が正しければ人民の風化は正しく、楽が誤っていれば政治や祭祀が誤っているので、先王たちが興廃に通じていた理由なのです。伏して考えてみますに、胡楽は声律をめぐらせ、もとより四夷の数を備えていますが、この頃日増しに放浪し、変わった曲や新しい唄は、哀しみを思いおこし淫靡に耽溺させます。王公から巷の人々に及ぶまで、妖しい伎をつかう胡人、街ゆく童や市井の子、あるいは妃や公主の容貌をいい、王公の名実を列挙するといい、歌を詠い舞き踊るのを、「合生」といっているのです。昔、斉が衰えると、「伴侶曲」が流行し、陳が滅びようとするとき、「玉樹後庭花」の曲がありました。急にはしって志を労したり、罪を軽んじて志を奢らせるような音楽は、すべて亡国の音なのです。礼において減損して進まなければ消衰し、楽が流れて本にかえらなければ放縦となるのです。臣が願いますところは、放蕩で速い音楽を退け、慎み深い音楽を崇ぶのなら、だいたい胡楽は、四夷の外にあるのですから、すべてなくなることでしょう。ましてや両儀殿・承慶殿は、陛下が朝政をとられ訴えを聴かれるところで、群臣を大饗するならまだしも、芸人どもによって荘重さが失われて国法を汚すのを受け入れることができません。もし聴政の暇に、いやしくも耳目を弄ばれるのでしたら、私の奏上の後に後宮でなされるとよいでしょう」と諌めたが、受け入れられなかった。 玄宗が即位すると、蘇州参軍に左遷され、金壇令に移された。武平一は中宗に寵愛され、当時宴にあずかったとはいえ、かつて詩頌によって戒めたが、しかしひときわ抜きん出ているのに自ら引き去ることができなかったから、流謫されたのである。流謫されても名声は衰えなかった。開元年間(713-741)の末に卒した。孫の武元衡・武儒衡は別伝がある。 李乂は、字は尚真で、趙州房子の人である。若くして父を失った。十二歳のとき、文章をつくるのに巧みで、中書令の薛元超が、「この子はまた海内に名をはせるだろう」と言った。進士・茂才異等に及第し、万年県の尉に任じられた。長安三年(703)、雍州長史の薛季昶に詔があって官吏で御史となるべく才能がある者を選ばせ、薛季昶は李乂を上聞したから、監察御史に抜擢された。弾劾奏上を忌諱することはなかった。景龍年間(707-710)初頭、葉静能が権勢をたのんでいるから、李乂はその邪なことを並べ立てたが、中宗は受け入れなかった。中書舎人・修文館学士に遷った。 帝は使者を江南に派遣して、所在地の財貨を出して捕らえられた魚を贖って放生しようとした。李乂は上疏して、「江南の魚には、衣食を助けることができる利があります。江湖に生きる魚は果てしなく、府庫の財には限りがあり、魚を救おうとすれば、民間を憂慮させる結果となります。また魚を生かそうと彼らを利させたところで、金銭を受けて取っても網は使う範囲はだんだん大きくなり、これを施せば、百倍に利益を得ようとさせるだけになります。もし贖うところの財貨を他に回せば、困窮の徭役は減り、恩沢は多くなるでしょう。」と述べた。 韋氏の変で、詔令が厳しく切羽詰まったが、多くは李乂が草稿を作成した。吏部侍郎に昇進し、知制誥となった。宋璟らとともに同典選事となったが、謁見を願い出て実行されなかった。当時の人は語って、「李下に蹊徑(小道)なし」と言った。黄門侍郎に改められ、中山郡公に封じられた。制勅に不都合があれば、ただちに反駁して糾した。寵臣が官位を求めた時に、睿宗は、「朕が物惜しみしているのではない。李乂に振り返ったときに官位の案件が通過できないと思ったからだ」と言った。金仙観・玉真観の建立をやめるよう諌めたが、帝は従わなかったものの寛容であった。太平公主が政務に干渉すると、李乂を自陣営に引き込もうとしたが、李乂は深く拒絶した。 開元年間(713-741)初頭、姚崇が紫微令となると、推薦されて侍郎となったが、表向きは人物に重みがあるため引き抜いたとされたが、内実は弾劾して誤りを糾す権を奪うためで、李乂を明白に恐れたからであった。しばらくもしないうちに刑部尚書に任命された。卒した時、年六十八歳であり、黄門監を追贈され、諡を貞といった。薄葬を遺言とし、郷里に戻ることはなかった。 李乂は温厚かつ正直で、国を治める要領を識っており、当時の人は宰相の器があると称した。葬送の日、蘇頲・畢構・馬懐素は参列し、哭して、「公のために歎くのでなければ、誰に歎くというのだろうか」と言った。李乂は兄の李尚一・李尚貞に仕えること、非常に孝順にして恭謹であり、またともに文章で名を現した。兄弟で一つの文集をつくり、『李氏花萼集』といい、李乂が著した部分が非常に多かった。李尚一は清源尉で、尚貞は博州刺史で終わった。 賈曾は、河南洛陽の人である。 父の賈言忠は、容貌魁偉で、母に仕えることは孝行者で知られ、万年県の主簿に任じられた。蓬莱宮の護役となったが、ある者がその厳格さに異議を申し立てたから、高宗は宮廷で詰問したが、弁舌は理路整然として詳細に述べたから、帝は優れた人物であると思い、監察御史に抜擢された。まさに遼東で事がおこり、使を奉って補給の任につき、帰還すると山川道里を奏上し、あわせて高麗を打ち破るべきの状を述べた。帝は、「諸将の人材はどうか」と聞くと、「李勣は旧臣で、陛下がご存知のところです。龐同善は闘将ではありませんが、軍律を厳に保っています。薛仁貴は剽悍なこと軍の筆頭であり、高偘は忠誠かつ果敢でありながら謀略にすぐれ、契苾何力の性格は冷静沈着で、前線を嫌うとはいえ、統率の才があります。しかしながら一日中心を細やかにして、身を忘れて国を憂いるのは、李勣に及ぶ者はおりません」と答え、帝はそうだと思って認め、多くの者も知見のある話だと思った。吏部員外郎に累進した。李敬玄が尚書を兼任すると、賈言忠は気概があり、選部をつかさどるにおよんで、部下となることはできず、邵州司馬に左遷された。武懿宗に嫌われると、獄に下されてほとんど死ぬ所であったが、建州司戸参軍に左遷されて、卒した。 賈曾は若い頃から有名で、景雲年間(710-712)、吏部員外郎となった。玄宗が皇太子となると、宮僚に選ばれ、賈曾を舎人とした。太子はしばしば使者を派遣して采女楽を、率更寺につかせて練習させたが、賈曾は諫めて、「楽をつくって徳を崇ぶことは、人と神が和することにあります。韶・夏の音楽には容があり、咸・英の音楽には節がありますが、女楽はそれらの間と同じではありません。昔、魯で孔子が用いられるとしばらく隆盛となり、戎に由余という賢臣があらわれると強勢となりましたが、斉・秦が女楽を魯・戎に遣わすと、そのため孔子は出ていき、由余は出奔しました。本当に艶めかしく淫らな音楽は、意思を喪失させ、聖賢の病の最も甚しいものとなるのです。殿下は聖賢の道を渇望するという美名がいまだにあらわれていないのに、伎楽を好むという噂が先に聞こえてきており、殷の啓王や周の成王誦を追い、堯、舜の偉業を継ぐ理由とはならないのです。余暇の間に私的に宴したり、後宮で伎楽を楽しんだりすることは、古にもまたありましたが、秘匿すべきものであり、人に示すことはありませんでした。ましてやこれを役人に検閲させ、群臣に明示するなんてことはありましたでしょうか。願わくば俳優や女子を退けられ、諸使者に採用されることを、一切止められますように」と述べた。太子は手ずから嘉答された。 にわかに中書舎人に抜擢されたが、職名(中書)が父の名(忠)と音が同じなのを避けたため任命を受けず、諫議大夫・知制誥に遷った。天子が親郊する際に、役人が皇地祇の位座を設けないことを議したが、賈曾は天地を合享し、古制のように従祀等の座を併設するように願った。睿宗は宰相・礼官議に詔して、すべて賈曾の願い出のようにさせた。開元年間(713-741)初頭、再び中書舎人に任命されたが、賈曾は固辞した。議する者が「中書」というのは曹司のことであり、官職名ではなく、名を避けても礼があれば憚りがないと言ったから、そこで職に就いた。蘇晋と同じく知制誥であったから、皆文章を称えて、当時の人は「蘇賈」と号した。後に連座して洋州刺史に左遷された。虔州・鄭州などの刺史を歴任し、礼部侍郎に遷って卒した。子は賈至である。 賈至は、字は幼鄰で、明経科に選ばれて及第し、官職について単父県尉となった。玄宗に従って蜀に行き、起居舎人・知制誥を拝命した。帝が帝位を譲位すると、適宜冊書を撰し、草稿を奉った。帝は、「昔、先天年間(712-713)の誥命は、そなたの父が文辞をつくったのだ。今ここに冊書をつくるよう命じたが、またそなたがこれをつくったのだ。両朝の盛大な儀式は、そなたの家の父子の手から出たものだ。美を継ぐというべきだろう」と言ったから、頓首し、嗚咽して涙を流した。中書舎人に任命された。 至徳年間(756-758)、将軍の王去栄が富平県令の杜徽を殺害したが、粛宗は新たに陝州を回復したばかりで、かつ王去栄の人材を惜しんだから、詔して死を聴し、流人として自ら贖わせることとした。賈至は諫めて、「聖人が乱を誅するのに、必ずまず法令を示し、礼義を崇びます。漢が始めて関内に入ると、法三章を約束し、殺人は死罪としましたが、古今普遍の基本法なのです。思うに将軍の王去栄は、朔方軍の偏将で、数千の兵士を率い、行列を整えることができず、私怨をはさんで県令を殺しましたのは、反抗不服従なのです。ある者は王去栄が防衛に秀で、陝州を新たに下したが、王去栄でなければ守ることは出来ないといいますが、臣はそうは思いません。李光弼は太原を守り、程千里は上党を守り、許叔冀は霊昌を守り、魯炅は南陽を守り、賈賁は雍丘を守り、張巡は睢陽を守っていますが、当初王去栄はいなかったのですが、賊が下すことができたとは聞いたことがありません。一つの才能だけで死を免れるのならば、彼は弓矢に卓越し、剣術は前に出る者はいませんが、能力をたのんで上官に背くのなら、どうやって彼を止めるのでしょうか。もしこの後で王去栄を棄てて、将来誅殺することがあれば、この法はただその一人だけのことではなく罪人を招くことになるのです。王去栄一人を惜しんで、十人の王去栄のような人材を殺すのなら、その傷は思うに大きくなるでしょう。その逆乱の人が、ここでは逆いているのにあそこで従うことがあるでしょうか。富平県で乱をおこして陝州で治めるなんてことがあるでしょうか。県令に背いているのに、君主に背かないということができるのでしょうか。律令は太宗の律令です。陛下は一人の士の小さな才能のために不可とするならば、それは祖宗の大法を廃することになるのです」と述べた。帝は群臣に議するよう詔し、太子太師の韋見素・文部郎中の崔器ら皆、次のように言った。「法は、天地の大典で、王者は敢えてもっぱらにすることはありません。帝王はほしいままに殺さず、小人がほしいままに殺すことができる者は、この権は人主に過ぎたるものなのです。開元年間(713-741)以前、あえてほしいままに殺すことはなかったので、朝廷を尊んだのです。今は国家が弱体している時なのです。太宗が天下を定めたように、陛下は王業を復活させようとしています。そのため王去栄は至徳の罪人ではなく、すなわち貞観の罪人なのです。その罪は祖宗が赦すところではありません。陛下はこれを変えるべきでしょうか」詔して裁可された。 蒲州刺史は河東に賊軍が頻繁に出現したから、出城・家々の五千屋を撤去し、賊が集まって防衛させないようにしたが、民は大いに騒動した。詔して賈至を派遣して慰撫させ、官が造営を補助して完成させたから、蒲州の人はおさまった。微罪に連座して、岳州司馬に左遷された。 宝応年間(762-763)初頭、召還されてもとの官職に復し、尚書左丞に遷った。楊綰が建言して古制によって、県令が孝廉を刺史に推挙し、刺史が天子・礼部に上奏する制度にするよう願い出た。詔して役人に議に参加させ、多くが楊綰の上言を肯定した。賈至が次のように議した。「晋から後、衣冠はさらに改められ、人は多く故郷を離れて客所におり、そのため官吏筋によって、その所在地に籍を入れられて定住しているのです。今、郷里によって人材を選抜してもまだ尽きることはありません。願わくば学校を広め、国子博士の数を増やし、十道大州に大学館を設置し、博士に詔してこれを掌握させ、生徒を招致したいと思います。故郷に居続ける者は、郷里が推挙します。流寓の者は、学校が推挙します」議ではさらに賈至の建議を付した。礼部侍郎、待制集賢院に転じた。 大暦年間(766-779)初頭、兵部侍郎に遷った。信都県伯に封じられ、京兆尹に昇進した。大暦七年(772)、右散騎常侍の職で卒した。年五十五歳。礼部尚書を追贈され、諡を文という。 白居易は、字は楽天で、先祖は太原の人である。北斉の五兵尚書であった白建が、その当時、功績を立てたので、韓城に田地を下賜されて、子孫は代々この土地に住んだ。また下邽に移った。父の白季庚は彭城の県令であったが、李正己が叛乱を起こした時に徐州刺史の李洧を説得して、朝廷側に帰順させた。次々と昇進し襄州別駕に抜擢された。 白居易の頭脳鋭敏さは人の追随を許さず、文章を作るのがうまかった。まだ成年に達していない頃に顧況に面会した。顧況は呉の人で、自分の才能を鼻にかけ、めったに後進を認めない人物であった。が、白居易自作の詩文を見て茫然自失の態で、「私は文章の道はとっくに断絶したものと思っていたが、今再びあなたのような後継者ができるとは。」と言った。貞元年間(785-804)に、進士の試験、続いて吏部の書判抜萃科を受けて、両試ともみごと合格し、秘書省校書郎に任命された。元和元年(806)制挙の対策に第二位で及第し、京兆府の盩厔県尉に任ぜられ、集賢院校理となった。その月中に召し出され翰林院に入り学士となり、官は左拾遺に昇進した。 元和四年(809)、憲宗は、大旱魃に見舞われたので勅を出し、税の免除をして災害を排除した。白居易は詔の文章がまだまだ周到でないと考え、天子に意見を申して、江淮両地方の課税を全面的に免除し、人民の流浪のうきめを救済することと、宮中の女官たちの解放とを乞うた。憲宗は快く意見を聴き入れた。この頃于頔が入朝して、自分がつれていた歌舞のできる女人全員を宮中に入れた。「これは普寧公主を息子の嫁にしたので献上したのだ」と、言う者もいた。于頔の寵愛の女ばかりであった。白居易は、「これらの女どもは本国に帰した方がよい。于頔に不正行為をやらせて天子にとり入るようなことをさせてはならない」との見解を表明した。李師道が自分の私有財産六百万銭を献上して、魏徴の孫の為にもとの邸を買い戻した。白居易は上奏して「魏徴は宰相に任命され、時の天子太宗は宮中用の材木を使用させ、魏徴の邸の正殿を建築されましたが、子孫は維持できませんでした。賢臣魏徴の子孫という理由で、陛下が買い戻しをされて下賜されるのが宜しいと存じます。李師道は臣下の者、手柄をさせるのは好ましくないと考えます」。天子は白居易の言葉に従った。河東節度使の王鍔が、宰相の位を授けられようとした。白居易は、「宰相は国家の人民の注目の的であり、重々しい人望と顕著な功績が無ければ任命するべきではありません。考えてみるに、王鍔は搾取の為にあらゆる手段をつくし、人民の疲弊も憐れまず、手にした財宝を税の「羨余」と称して献上しました。今もし天子が代償として官位を授与されますなら、国中の人はこれを聞いて、皆口を揃えて「陛下は王鍔の献金を受納されて宰相の位を与えられた」と、取りざたしましょう。諸道の節度使連中も、内密で計略をめぐらして、「王鍔などにひけをとってなるものか」と、先を争って人民から過酷な税を取りたてて、自分たちの欲望を達しようとするでしょう。所望する者全てに官位を与えれば国家の規律は大幅に破壊されますし、与えなければ不公平な行賞となりましょう。ものごとは一度失敗すると二度と取り返しがつきません」と考え、天子に申しあげたのであった。この頃、孫璹が宮中警備に功労があったということで、鳳翔節度使に抜擢された。張奉国が徐州を鎮定し、李錡を征伐して功績をたて金吾将軍に昇進した。白居易は天子に上言した。「孫璹を免職にして張奉国を昇進させることで、国家の忠臣たちの気もちを大いにひきしめていただきたい」。財務局関係で囚人となっている者があり、閺郷の獄に繋がれて、三度の恩赦にも浴さず、罪を許されなかった。白居易はまた上奏して、「父が死ぬとその子を閺郷の獄に捕らえ、夫が長く獄に繋がれていると妻は他家に再婚をしてしまって、これでは負債を弁償する時期など無く、拘禁の終わる期日も来ないというものです。こうした未決囚全員を赦免し釈放していただきたい」と上奏文を十数回提出し、ますます有名になった。 成徳節度使の王承宗が叛乱を興した時、天子は宦官の吐突承璀に詔を下し、軍隊を率いて出兵し叛乱軍の討伐を命じた。白居易は天子を諫めて、「唐朝の制度では、敵軍討伐の度毎に全権を将軍に委任し、事の成就を要求するのが恒例になっております。近年になって始めて宦官を都監として配置するようになりました。韓全義が西を討伐した時には賈良国が軍隊を監視し、高崇文が蜀討伐の時には、劉貞亮が軍隊を監視するといった状態です。また、国家が軍隊を動員しようとする大事の時に、宦官に専ら総軍隊を統轄させるなどという先例は、古来より無かったことです。禁軍である左右神策軍に行営節度使を設置していないとなると、吐突承璀は最高総指揮官であり、その上に諸軍招討処置使をも与えられました。これは実質的に全権委任の都統ということになりましょう。恐らく天下にこの真相が伝えられれば、必ずや朝廷を軽視するもとになります。後代にもまた、宦官を総指揮官に任命した事例は、陛下から始まったと伝えられましょう。陛下はおめおめとこの不名誉を蒙るのに耐えられましょうや。それはそれとして、劉済等やその他の諸将たちは、きっと吐突承璀の規律指揮の下に入るのを潔しとせず、心中面白くなくて戦功をたてようなどとはしないでしょう。これでは王承宗の姦邪を応援し、諸将の鋭気を殺ぐ結果になります」と。しかし天子は聴き入れなかった。 すでに軍は疲弊したが勝敗は決することはなく、白居易は上言した。「陛下が討伐に際して、もともとは吐突承璀を頼りにされ、他は盧従史・范希朝・張茂昭を頼りにされました。今、吐突承璀は進軍しましたが、決戦もしていないのに、すでに大将を失い、范希朝・張茂昭は数ヶ月来、賊の境界に入りましたが、その勢いは、想像しても知ることができる程度で、空しく一県だけを得たところで、そのまま軍を進めようとしません。うまくいくことはないでしょう。しばらく出兵を中止すべきです。そしてその害は四つあります。今、国庫の財産器物、人民の汗の結晶を使って河北の諸侯を援助して、ますます彼らを富貴強大にしています。それが一つ目です。河北の諸将は呉少陽が節度留後に任じる命を受けたのを聞けば、王承宗の討伐を願い出るでしょう。このような上奏が再び来たら、許さないわけにはいかないでしょう。そうすれば河北は合従し、その勢いはますます堅固となります。与奪は諸将次第となり、恩義や信頼は朝廷から出なくなります。それが二つ目です。今や天のめぐりはとっくに熱くなり、戦乱の気運が蒸しあがっています。たとえ身を惜しまない気持ちでも、やはりその苦しさに耐えるのは難しいことであります。また神策軍はまちの人を募っていて、戦いに慣れておらず、なかには逃げ出すもののいる有様で、諸軍も必ず動揺します。これが三つ目です。回鶻・吐蕃は常に偵察を送っており、王承宗の賊軍を討伐するだけなのに冬から夏になるまで、まったくまだ勝利を収めていません。そうであれば兵力の強弱や、費用の多少を彼らに一々知られてよいのでしょうか。こちらの準備がないのに付け込んで攻めてきたら、うまくその始末をつけることはできません。戦いが続いて災禍が生じれば、何が起こってもおかしくありません。それが四つ目です。このような事態がおこってから止めたところで、権威や統治能力を失うことになるのですから、ただ予防すべきであって、追って後悔すべきではないのです」と述べた。またたまたま王承宗が罪を請うたから、出兵はついに止めた。 後日、宮中で天子の面前において持論を頑強に主張し譲らなかった。天子はまだまだ納得しなかった。そこで白居易は天子の前に進み出て「陛下はまちがっておられます」と、申しあげたので、天子は顔色を変えてしまった。そして翰林学士の李絳に向かって、「あいつはこのわしが拾いあげて目をかけてやったのに、わしの意に従わず強引にかような事を申す。わしはもう我慢できぬ。きっとあいつを追放してやるぞ」と、仰せられたが、李絳は、「陛下は、言論の道を臣下のためにお開きになられました。だからこそ並み居る群臣どもが、思い切って政治の得失を論ずるようになったのです。もし今、白居易追放の処置をとられましたならば、それは臣下の言論の自由を禁止し、各自分で陰謀を計画させる結果となって、天子のご盛徳を輝かしいものとすることにはならないでしょう」と言上した。天子はやっと自分の誤ちに気づき、白居易に対する待遇は元通りであった。左拾遺の任期が終わり転任する時になって、天子は白居易の資産が乏しい上に家計も貧しいという理由で、白居易自身が次の任官の地位を選ぶことをされた。白居易は姜公輔の例に倣って学士のままで、京兆戸曹参軍を兼任して親への孝養を尽くしたいと願い出た。詔によって申し出が許可された。翌年、母の喪に服するため解任されたが、また入朝して左賛善大夫を拝命した。 この頃、凶漢が宰相武元衡を暗殺し、都長安市中が震えあがるという事件が起きた。白居易はまっ先に上疏して、直ちに盗賊を逮捕して国の恥を雪ぐべきことを要請、必ずやり遂げることを期さねばならないとした。ところが時の宰相は、白居易が東宮官にありながらこのような発言をするのは、越権行為だと悪んで、いい顔をしなかった。そこへ突然、「白居易の母は井戸に落ちて死んだのに、「新井篇」の詩を作ったりする奴で、言語は軽薄、実践行動の裏付けが無く、取るべきものがありません。」と、言い出す者があり、中央から出されて、州刺史になるはずであった。中書舎人の王涯が「一部を治めさせるなどもっての外です」と言上し、更に降されて江州司馬に貶謫の身となった。失意の身となったが、よく自分の境遇に順応して、仏教の道に心を預けて、身体のことなど忘れた境地にあるかのようだった。しばらく経って忠州刺史に転任し、また朝廷に入って尚書司門員外郎となり、次いで主客郎中の職にあって知制誥を兼任した。 穆宗は狩猟が好きであったが、白居易は「続虞人箴」をつくって批判した。「わが唐朝が天命を受けてより、すでに十有二代の聖天子を経たが、失敗をしないように戦々兢々として恐れ慎みつつ、歴代にわたって政務に心力を尽くしてこられた。従って、鳥は深く茂った林に生息することができ、敵も豊かに広がった草原で安住することができたし、春の狩猟や冬の狩猟など四季の狩猟にも、これら鳥獣の捕獲は王道にかなって行われた。その結果、鳥・獣や虫・魚は、それぞれにその生命を全うし、君臣や朝野も、やはり安らかな日々を送ることができた。ところで、むかし玄祖老子は、はなはだ明確にその教訓を述べている。「狩猟に駆けずり回る遊楽は、人間の心を発狂させるものだ」と。何によってこれを実証できるか、と言えば、夏の夷羿と太康とは、全くこの狩猟の遊びを自戒しなかったので、最後には滅亡してしまった。高祖が狩猟をしていた最中に、蘇世長は意見を言上して、「このたびの狩猟は、まだ十旬(百日)にも満たないので、とても躍り上がるほど楽しいとは思えません」と言ったところ、天子は胸中で直感的に自分の心の迷いに気付いて、これを契機として狩猟を中止された。また時代は降って宋璟の時に至り、やはり玄宗の狩猟を諌めたところ、玄宗は温顔をもって彼の諫言を聴き入れ、この臣下の忠言にも決して動揺立腹することはなかったが、やがて宋璟が恐縮して小走りに退出した時には、捕まえていた小鷹は掌中で窒息死していた。ああ、獣を野原で追いかけたり、馬に乗って路上を駆け抜けたりすることは、たしかに気持ちのよいことではあるが、しかし車馬がひっくりかえる危難は常に用心しておいた方がよい。国家の安全と危殆に深遠な思慮を行うのは、いにしえの賢聖の思いなのである。」 まもなく中書舎人に転任した。田布が節度使を拝命し、白居易は天子の使者として宣諭に赴いたが、田布は絹五百匹を贈り物にしたので、天子は詔を下し受納させようとした。白居易は辞退して、「田布は父の仇討ちもせず国家の恥をまだ雪辱しておらぬ身です。他人はかれに物質的援助をしてやるべきなのに、かえって田布から財物を受け取るのは道義に反することでとてもできかねます。諭問の使者がひっきりなしに来ますのに、もし誰にもかような贈り物をしていれば、逆賊どもが絶滅しないうちに、田布の財産は底をついてしまいましょう。」と。詔が下り、贈り物辞退の件が許可された。 この頃、河朔地方でまた叛乱が勃発し、諸道の軍隊を連合して討伐に出たが、ぐずぐずして一向に戦果があがらなかった。賊軍は弓高を奪い取り、食糧輸送路を断った。深州の包囲は、ますます急を告げる状態となり、白居易は意見を言上した。「兵が多ければ用いることは難しく、将が多ければ指揮が統一されません。魏博・沢潞・定・滄の四節度に詔して、それぞれの境界を守らせ、度支からの軍事補給を省くべきです。各道ごとに精兵三千を出して、李光顔に率いさせます。李光顔はもとからの鳳翔・徐・滑・河陽・陳・許の軍およそ四万を率い、賊に肉薄し、弓高県の兵糧の道を開いて、下博県の諸軍に合流させ、深州の包囲を解いて、牛元翼と合流させます。裴度に招討使を復職させ、使悉太原の全軍を統率させて西から敵の境界に迫り、すきを見て挟撃させます。呼び寄せ諭して、その心を動かせば、全部殺戮してしまう前に、自分から変え改めるでしょう。また李光顔は長く戦を経験して、以前から名声があり、裴度は人柄が忠実で勇気があります。一方面にあたらせれば、二人に匹敵する者はおりません」その当時、天子は放縦不法の行為が多く、執政者も無能な程度の低い者ばかりであった。賞罰も妥当性を欠き、賊臣を目の前に見ているだけで為す術も無い状態で、白居易は忠告を進言したけれども聴されなかった。そこで地方勤務を願い出て杭州刺史に遷った。始めて堤防を築き銭塘湖の水を止めて水量をあつめておき、その湖水を千頃の田の灌漑用に役立てた。また以前に李泌が掘った六個の井戸さらえをし、州民はその汲み水を飲料用して大事にした。しばらく経って太子左庶子に任命され、洛陽に分司し、また蘇州刺史を拝命したが、病気のため免官された。 文宗が即位し、秘書監として召され、次いで刑部侍郎に遷って、晋陽県男に封ぜられた。太和年間(827-835)初頭、李徳裕・李宗閔の二李の朋党争いが始まり、讒言の巧みな者たちがこの機会を逃さず、たがいにその権力の座を奪い合った。出処進退や毀誉褒貶などは短期間のうちに目まぐるしく移り変わった。楊虞卿は白居易と姻戚関係にあり、李宗閔と親交があったので、白居易は党派に縁ある者として排斥されるのを嫌って、病気と申し立て、一旦隠退し、洛陽に帰って来た。太子賓客に任命され、洛陽に分司し、一年経って河南尹を拝命、再び太子賓客となり洛陽に分司した。開成年間(836-840)初頭に同州刺史に起用されたが辞退、太子少傅となり、馮翊県侯に封を進められ、会昌年間(841-846)初頭に刑部尚書で致仕し、六年に歿す。享年七十五歳。尚僕右僕射を贈られる。宣宗は詩を贈って白居易の死に対し衰悼の意を表した。遺言により簡素な葬式を行い、朝廷に諡を賜わることを願い出なかった。 白居易は憲宗に知遇を得ていた時、何事にも直言しないことはなかった。政治の得失や弊害をほじくり出して除去しようとし、その意見の多くは聞き届けられた。けれども時の権力者の反感を買ってしまい、遂に排斥される目に遭った。蓄積した才能を実行に移せず、自分の気持ちを詩文や酒に発散させた。再び朝廷に返り咲きはしたが、又何れも幼い天子ばかりが続き傲慢な態度をとるので、以前にましてますます気に染まず、職務をうけても病気届けを出して官界を去り、終には政界での出世を遂げる意志を無くした。弟の白行簡や従祖弟の白敏中と仲が好く、洛陽の履道里に住居し、邸の中に沼をひき樹木を植え石造りの建物を建てた。香山に八節灘の開鑿事業をしたり、「酔吟先生」と自分で号し、その伝記を書いた。晩年は仏道への傾倒が特にひどく、何か月も精進生活をして、自ら、香山居士と名乗った。以前に、胡杲・吉皎・鄭拠・劉真・盧真・張渾・狄兼謨・盧貞らと集まって会合をしたが、どの人物も皆高齢者で、朝廷に出仕していない者ばかりで、世間の人は彼らの行跡を敬慕し、「九老の図」を画いた。 白居易は文章を作るのに精細切であったが、時を作るのが特にうまかった。最初の頃は、極度に政治の是非を糾し諌める詩を作った。多くなると、それより低いものでは、世俗の好尚に合う詩を作り、数千篇を数える。当時の知識階級の人たちは競争で白居易の詩を伝え、鶏林(新羅)の貿易商までが自分の国の大臣に白居易の詩を売り付けて、大体一篇につき一金の代価が支払われた。大臣の方も白居易の詩のひどい偽作は即座に見分けることができたという。当初は元稹と詩の応酬をし、そのため「元・白」と呼ばれ、元稹が歿して後、また劉禹錫とも名声を同じくし、「劉・白」と呼ばれた。生後七か月の頃、書物を開くことができ、乳母が「之」と「無(无)」の二字を指さして教えたが、以後は数百回試験されてもまちがえなかった。九歳で声律を暗記して、その秀れた詩文作製の才能は、天性そのもののようであった。従祖弟の白敏中が宰相となり、白居易のために諡をその筋に願い出て、諡を文という。後年、履道里の邸宅は、遂に寺院になり、洛陽や江州の人は白居易のために祠を建立した。 賛に言う。白居易は元和・長慶年間(806-824)にあって、元稹と並んで有名であった。特に詩に秀れており、その文章の方はまだ称讃を受けるほどではなく、作品の数の多いこと数千篇にものぼり、唐以来今までにこれほど多作の詩人はいなかった。自分で叙べてこう言っている。「賞賛あるいは諷刺に関係する時は、諷諭と呼び、人間の感情を詠いあげた作品を閑適と呼び、事物に触発されたものを感傷と呼ぶ。その他を雑律詩とする。」と。また非難もして、「世間の人が愛唱するのは雑律時ばかりで、彼らが尊重するのは私が軽視するものである。諷諭詩になると、考え方が激烈で表現が質朴であり、閑適詩は情緒が淡白で措辞が婉曲である。質朴と婉曲が重なれば人々から好まれないのも当然であろう。」と、今、彼の詩を見るとなるほど彼の言う通りである。そして杜牧はこう言っている。「繊細艶美で強さなどなく、思想厳正で高潔な人などの作るものではない。世間に流行しているのは、子の親たる者たちが口伝えに教えこむからで、こんな淫らな言葉が人の身体に浸透してしまったら、なかなか取り除けないであろうに」と。 一般の人が思いちがいをしている点を救うためには、一言ふれないわけにはいかない。白居易が政界に登場したての頃を回想してみるに、直言をすることで大いに気力旺盛であり、天子の面前でも誰憚ることなく論争し、功名を立てようと願っていた。中途で排斥されたこともあったが、初志は晩年になっても全然衰えなかった。李宗閔派全盛の時代、その日の出の勢いの如きものがあったが、とうとう最後まで李宗閔に属して立身出世をもくろむこともなく、節義を全うして、高潔そのものであった。それに反して元稹は、中途で危い橋を渡って宰相の地位を手に入れはしたが、名声の方はがた落ちになってしまった。それに比べて何と白居易は賢明だったことか。 白行簡は、字は知退で、進士に選ばれたが、盧坦に招かれ剣南東川府に赴いた。辞職すると白居易とともに忠州から入朝し、左拾遺を授けられた。累進して主客員外郎となり、韋詞に代わって判度郎中に任じられた。長慶年間(821-824)、振武営田使の賀抜志が歳末の営田を過重に報告したため、詔によって白行簡が調査し、実態がないことを暴いたため、賀抜志は恐れて自ら刺して自殺した。白行簡は賢く文辞に優れ、後学が慕い尊敬した。宝暦二年(826)に卒した。 白敏中は、字は用晦で、若くして家族を失ったが、親類の諸兄より学んだ。長慶年間(821-824)初頭、進士に及第し、義成節度使の李聴の幕府に招かれ、会見されると、深謀遠慮さを認められた。右拾遺に移り、殿中侍御史に改められ、符澈によって邠寧副使となり、符澈が卒すると政務に優れたことによって世に知られるようになった。御史中丞の高元裕の推薦によって侍御史となり、再び左司員外郎に転任した。武宗は白居易の名声を聞いて、召して用いたいと思った。この時、白居易は足が病気の後遺症で動けなかった。宰相の李徳裕が白居易が衰えて任にたえないと言い、そこで白敏中の文詞がその兄に類して、かつ見識があることから推薦した。そこで即日知制誥とし、翰林に召し入れて学士とし、承旨に昇進した。 宣宗が即位すると、兵部侍郎、同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎に遷り、刑部尚書を兼任した。李徳裕を貶しめるのに、白敏中が非常にその力にあったから、論じる者は譏り憎んだ。李徳裕は著書で「恩恵あるものに怨恨で報いるとは予測できたであろうか」と言っているが、思うに白敏中を指しているのであろう。尚書右僕射・門下侍郎を歴任し、太原郡公に封じられた。左司員外郎から、およそ五年で十三回昇進してこの地位に到った。 崔鉉が政務を輔弼するとようになると一人で専任したいと思うようになったが、白敏中が右席にいた。当時、党項(タングート)がしばしば辺境に侵入したから、崔鉉は大臣を鎮撫に用いるべきであると言い、天子はその言を受け入れ、そのため白敏中は司空・平章事兼邠寧節度・招撫・制置使を兼任した。それより以前、帝は万寿公主を愛し、士人に降嫁させようと思った。当時、鄭顥が進士に及第し、門閥であったから、白敏中は彼をその選にあてた。しかし盧氏と結婚していたのが発覚し、夫人を授けられようとしたから盧氏との結婚を取りやめ、心中にはこのことを根に持ったのだった。白敏中が外部に行くことになると、鄭顥の讒言をおそれ、自ら帝に訴えた。帝は、「朕はずっとこのことを知っていたぞ。もし鄭顥の言を用いたとするなら、どうしてお前を宰相に任じたりするだろうか」と言うと、左右を振り返って書が入った一つの函を取り出し、開いて見てみると、すべて鄭顥の上書であり、白敏中は安心した。任地に赴任することになると、帝は安福楼に御して餞とし、璽書を頒布して尉に説諭し、通天帯を賜った。護衛として神策兵を派遣し、幕府を開いて士を招き、その礼遇は裴度が淮西を討伐したときのようであった。寧州に行くと、諸将はすでに党項を破っており、白敏中は軍を説諭したが、皆、兵を辞めて業に戻りたいと願った。そこで南山より并河まで陣地をととのえ、一周千里となった。また蕭関をただして霊威路に通じ、使用したのは農耕具や武器であった。翌年、検校司徒となり、剣南西川節度使に遷り、騾軍(馬が少ないため騾馬を使った騎兵)を増やし、関や防壁の工事を完成させた。蜀を統治すること五年、功により兼太子太師を加えられ、荊南に遷った。 懿宗が即位すると、召されて司徒・門下侍郎に任命され、平章事(宰相)に返り咲いた。数ヶ月して足の病のため謁見にたえず、固く宰相の位を辞職することを求めたが許されず、宦官を慰労の使者として派遣し、別殿で対応させて、拝謁する必要はないとした。右補闕の王譜が奏上して、「白敏中の病は四ヶ月にもなり、陛下が朝廷に出御されて、他の宰相と語るも三刻もせず、ぼんやりとして天下の事を論じることができましょうか。願わくばその願いを許され、何もしない高官を寵愛するという譏りはなくなるでしょう」と述べたが、帝は怒り、王譜を陽翟令に排斥した。給事中の鄭公輿が救おうと上奏したが、聴されなかった。王譜は侍中の王珪の遠裔である。しばらくもしないうちに白敏中に中書令を加えられた。裴度より宰相は勲功によってその地位についたが、白敏中は恩沢によって昇進したのである。 咸通二年(861)、南蛮が辺境を騒がし、白敏中を召集して議させたが、左右に助けさせて昇殿することを許した。もとより固く免職を求めたから、そこで地方に出して鳳翔節度使に任命した。三度奏上して帰って墳墓を守ることを願ったから、東都留守に任じたが、あえて拝命せず、太傅で致仕を許された。詔書が到着する前に卒し、冊して太尉を贈られた。博士の曹鄴は病気でありながら地位を固辞しなかったこと、また諫臣を放逐し、威をたのんでほしいままにおこなったことを責め、諡して「醜」とした。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百一十八 列伝第四十三 『新唐書』巻一百一十九 列伝第四十四 巻一百二十 列伝第四十五
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/451.html
太祖武皇帝,沛國譙人也,姓曹,諱操,字孟德,漢相國參之後。〈嵩生太祖。 太祖武皇帝は、沛國譙人なり。姓は曹、諱は操、字は孟德、漢の相國參の後なり。 太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也 〉惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」〈 年二十,舉孝廉爲郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,〈 〉徵拜議郎。〈〉 光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷爲濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓污狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然。 久之,徵還爲東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。〉 頃之,冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。〈〉 金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,衆十餘萬,天下騷動。徵太祖爲典軍校尉。會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后 〉卓未至而進見殺。卓到,廢帝爲弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖爲驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。〈 〉出關,過中牟,爲亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,爲請得解。〈《世語》曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之。〉卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,〈《世語》曰:陳留孝廉衞茲以家財資太祖,使起兵,衆有五千人。〉是歲中平六年也。 初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、〈《英雄記》曰:馥字文節,潁川人。爲御史中丞。董卓舉爲冀州牧。于時冀州民人殷盛,兵糧優足。袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵爲國,何謂袁、董!」馥自知言短而有慙色。子惠復言:「兵者凶事,不可爲首;今宜往視他州,有發動者,然後和之。冀州於他州不爲弱也,他人功未有在冀州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。〉豫州刺史孔伷、〈《英雄記》曰:伷字公緒,陳留人。張璠《漢紀》,載鄭泰說卓云:「孔公緒能清談高論,噓枯吹生。」〉兖州刺史劉岱、〈岱,劉繇之兄,事見《吳志》。〉河內太守王匡、〈《英雄記》曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發彊弩五百西詣京師。會進敗,匡還鄉里。起家,拜河內太守。謝承《後漢書》曰:匡少與蔡邕善。其年爲卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖并勢,共殺匡。〉勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、〈《英雄記》曰:瑁字元偉,玄族子。先爲兖州刺史,甚有威惠。〉山陽太守袁遺、〈遺字伯業,紹從兄。爲長安令。河間張超甞薦遺于太尉朱儁,稱遺「有冠世之懿,幹時之量。其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔。」事在超集。《英雄記》曰:紹後用遺爲揚州刺史,爲袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳。」語在文帝《典論》。〉濟北相鮑信〈信事見子《勛傳》。〉同時俱起兵,衆各數萬,推紹爲盟主。太祖行奮武將軍。 二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。卓兵彊,紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂,大衆已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足爲患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。一戰而天下定矣,不可失也。」遂引兵西,將據成臯。邈遣將衞茲分兵隨太祖。到熒陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖爲流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。 太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因爲謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之衆臨孟津,酸棗諸將守成臯,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益爲疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊爲諸君耻之!」邈等不能用。 太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。〈《魏書》曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劔殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。〉至銍、建平,復收兵得千餘人,進屯河內。 劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。 袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞爲帝,太祖拒之。〈《魏書》載太祖荅紹曰:「董卓之罪,暴於四海,吾等合大衆興義兵,遠近莫不響應,此以義動故也。今幼主微弱,制於姦臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向。」〉紹又甞得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。〈《魏書》曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹復使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵彊,二子已長,天下羣英,孰踰於此?」太祖不應。由是益不直紹,圖誅滅之。〉 二年春,紹、馥遂立虞爲帝,虞終不敢當。 夏四月,卓還長安。 秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。 黑山賊于毒、白繞、眭固等〈眭,申隨反。〉十餘萬衆略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表太祖爲東郡太守,治東武陽。 三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。〈《魏書》曰:諸將皆以爲當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。〉毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。〈《魏書》曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其衆留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡爲寇。〉 夏四月,司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕、郭汜等殺允攻布,布敗,東出武關。傕等擅朝政。 青州黃巾衆百萬入兖州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊衆百萬,百姓皆震恐,士卒無鬬志,不可敵也。觀賊衆羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略爲資,今不若畜士衆之力,先爲固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果爲所殺。〈《世語》曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」〉鮑信等亦謂之然。信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。遂進兵擊黃巾於壽張東。信力戰鬬死,僅而破之。〈《魏書》曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。賊尋前進。黃巾爲賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,衆乃復奮,承間討擊,賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太一同,似若知道,今更迷惑。漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。」太祖見檄書,呵之罪,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輙禽獲,賊乃退走。〉購求信喪不得,衆乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號爲青州兵。 袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。 四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。 下邳闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。 是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東。 興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,爲陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。〈《世語》曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以爲劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定冀州,劭時已死。韋曜《吳書》曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。〉夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。〈孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣。〉 會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能爲也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。〈袁暐《獻帝春秋》曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏爲反閒,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。〉未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促爲攻具,進復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。 秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,爲其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兖州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。 是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。 二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布復從東緍與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。〈《魏書》曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其龍車,追至其營而還。〉布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兖州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,爲其衆所殺,兖州平,遂東略陳地。 是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。 建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。 太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。 汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,衆各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,〈《獻帝春秋》曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。〉奉別屯梁。太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。〈《獻帝紀》曰:又領司隷校尉。〉洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖爲大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。〈張璠《漢紀》曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言於帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠於朝廷,然天道深遠,幸勿多言。」〉 天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。於是以袁紹爲太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。〈《魏書》曰:自遭荒亂,率乏糧穀。諸軍並起,無終歲之計,饑則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北,軍人仰食桑椹。袁術在江、淮,取給蒲蠃。民人相食,州里蕭條。公曰:「夫定國之術,在於彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也。」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛。於是州郡例置田官,所在積穀。征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下。〉 呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得衆心,終不爲人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」 張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其衆。 二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,爲流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。〈《魏書》曰:公所乘馬名絕影,爲流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。《世語》曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。〉公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。〈《世語》曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。〉 袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,爲布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。 公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛爲繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數爲繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。〈《魏書》曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。〉表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。 三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。〈《獻帝春秋》曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。〉公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破繡必矣。」到安衆,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險爲地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公爲遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」 呂布復爲袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備爲順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌狶各聚衆。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附于海以委焉,分琅邪、東海、北海爲城陽、利城、昌慮郡。 初,公爲兖州,以東平畢諶爲別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,爲之流涕。旣出,遂亡歸。及布破,諶生得,衆爲諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以爲魯相。〈《魏書》曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自爲之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,爲庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以爲公外託公義,內實離異,深懷怨望。臣松之以爲楊彪亦曾爲魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。〉 四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率衆降,封爲列侯,還軍敖倉。以魏种爲河內太守,屬以河北事。 初,公舉种孝廉。兖州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走越、北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。 是時袁紹旣并公孫瓚,兼四州之地,衆十餘萬,將進軍攻許,諸將以爲不可敵,公曰:「吾知紹之爲人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以爲吾奉也。」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率衆降,封列侯。十二月,公軍官渡。 袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。〈《獻帝春秋》曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」《魏武故事》曰:岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯。《魏略》曰:王忠,扶風人,少爲亭長。三輔亂,忠饑乏噉人,隨輩南向武關。值婁子伯爲荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等仵逆擊之,奪其兵,聚衆千餘人以歸公。拜忠中郎將,從征討。五官將知忠甞噉人,因從駕出行,令俳取冢間髑髏繫著忠馬鞍,以爲歡笑。〉 廬江太守劉勳率衆降,封爲列侯。 五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也。今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必爲後患。〈孫盛《魏氏春秋》云:荅諸將曰:「劉備,人傑也,將生憂寡人。」臣松之以爲史之記言,旣多潤色,故前載所述有非實者矣,後之作者又生意改之,於失實也,不亦彌遠乎!凡孫盛製書,多用左氏以易舊文,如此者非一。嗟乎,後之學者將何取信哉?且魏武方以天下勵志,而用夫差分死之言,尤非其類。〉袁紹雖有大志,而見事遟,必不動也。」郭嘉亦勸公,遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博。備走奔紹,獲其妻子。備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降。昌狶叛爲備,又攻破之。公還官渡,紹卒不出。 二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延於白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。使張遼、關羽前登,擊破,斬良。遂解白馬圍,徙其民,循河而西。紹於是渡河追公軍,至延津南。公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。」公曰:「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道。諸將以爲敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜、良。醜、良皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。 八月,紹連營稍前,依沙塠爲屯,東西數十里。公亦分營與相當,合戰不利。〈習鑿齒《漢晉春秋》曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。〉時公兵不滿萬,傷者十二三。〈臣松之以爲魏武初起兵,已有衆五千,自後百戰百勝,敗者十二三而已矣。但一破黃巾,受降卒三十餘萬,餘所吞并,不可悉紀;雖征戰損傷,未應如此之少也。夫結營相守,異於摧鋒決戰。本紀云:「紹衆十餘萬,屯營東西數十里。」魏太祖雖機變無方,略不世出,安有以數千之兵,而得逾時相抗者哉?以理而言,竊謂不然。紹爲屯數十里,公能分營與相當,此兵不得甚少,一也。紹若有十倍之衆,理應當悉力圍守,使出入斷絕,而公使徐晃等擊其運車,公又自出擊淳于瓊等,揚旌往還,曾無抵閡,明紹力不能制,是不得甚少,二也。諸書皆云公坑紹衆八萬,或云七萬。夫八萬人奔散,非八千人所能縛,而紹之大衆皆拱手就戮,何緣力能制之?是不得甚少,三也。將記述者欲以少見奇,非其實錄也。按《鍾繇傳》云:「公與紹相持,繇爲司隷,送馬二千餘匹以給軍。」本紀及《世語》並云公時有騎六百餘匹,繇馬爲安在哉?〉紹復進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,衆大懼。時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以爲「紹悉衆聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至彊,若不能制,必爲所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。 孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,爲刺客所殺。 汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。 袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然衆少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「却十五日爲汝破紹,不復勞汝矣。」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。〈《曹瞞傳》曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」旣入坐,謂公曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」公曰:「尚可支一歲。」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!」公曰:「向言戲之耳。其實可一月,爲之柰何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備。」聞者信以爲然,皆自若。旣至,圍屯,大放火,營中驚亂。大破之,盡燔其糧穀寶貨,斬督將眭元進、騎督韓莒子、呂威璜、趙叡等首,割得將軍淳于仲簡鼻,未死,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍。將士皆怛懼。時有夜得仲簡,將以詣麾下,公謂曰:「何爲如是?」仲簡曰:「勝負自天,何用爲問乎!」公意欲不殺。許攸曰:「明且鑒於鏡,此益不忘人。」乃殺之。〉紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珎寶,虜其衆。〈《獻帝起居注》曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,爲說命錄之數。又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立。』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敘與紹書云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重。便欲送璽,會曹操斷道。』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至於此。輙勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」〉公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。〈《魏氏春秋》曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況衆人乎!」〉冀州諸郡多舉城邑降者。 初,桓帝時有黃星見於楚、宋之分,遼東殷馗〈馗,古逵字,見三蒼。〉善天文,言後五十歲當有真人起於梁、沛之閒,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。 六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,復收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,爲都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。 七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,爲天下除暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授上田,官給耕牛,置學師以教之。爲存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使以太牢祀橋玄。〈襃賞令載公祀文曰:「故太尉橋公,誕敷明德,汎愛博容。國念明訓,士思令謨。靈幽體翳,邈哉晞矣!吾以幼年,逮并堂室,特以頑鄙之姿,爲大君子所納。增榮益觀,皆由獎助,猶仲尼稱不如顏淵,李生之厚歎賈復。士死知己,懷此無忘。又承從容約誓之言:『殂逝之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹痛勿怪!』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯爲此辭乎?匪謂靈忿,能詒己疾,懷舊惟顧,念之悽愴。奉命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其尚饗!」〉進軍官渡。 紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。 八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚、尚夜遁。夏四月,進軍鄴。五月還許,留賈信屯黎陽。 己酉,令曰:「《司馬法》『將軍死綏』,〈《魏書》云:綏,却也。有前一尺,無却一寸。〉故趙括之母,乞不坐括。是古之將者,軍破於外,而家受罪於內也。自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也。其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵。」〈《魏書》載庚申令曰:「議者或以軍吏雖有功能,德行不足堪任郡國之選,所謂『可與適道,未可與權』。管仲曰:『使賢者食於能則上尊,鬬士食於功則卒輕於死,二者設於國則天下治。』未聞無能之人,不鬬之士,並受祿賞,而可以立功興國者也。故明君不官無功之臣,不賞不戰之士;治平尚德行,有事賞功能。論者之言,一似管窺虎歟!」〉 秋七月,令曰:「喪亂已來,十有五年,後生者不見仁義禮讓之風,吾甚傷之。其令郡國各修文學,縣滿五百戶置校官,選其鄉之俊造而教學之,庶幾先王之道不廢,而有以益於天下。」 八月,公征劉表,軍西平。公之去鄴而南也,譚、尚爭冀州,譚爲尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,〈《魏書》曰:公云:「我攻呂布,表不爲寇,官渡之役,不救袁紹,此自守之賊也,宜爲後圖。譚、尚狡猾,當乘其亂。縱譚挾詐,不終束手,使我破尚,徧收其地,利自多矣。」乃許之。〉公乃引軍還。冬十月,到黎陽,爲子整與譚結婚。〈臣松之案:紹死至此,過周五月耳。譚雖出後其伯,不爲紹服三年,而於再朞之內以行吉禮,悖矣。魏武或以權宜與之約言;今云結婚,未必便以此年成禮。〉尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其衆降,封爲列侯。〈《魏書》曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠。曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也。欲使我攻尚,得以其閒略民聚衆,比尚之破,可得自彊以乘我弊也。尚破我盛,何弊之乘乎?」〉 九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚復攻譚,留蘇由、審配守鄴。公進軍到洹水,由降。旣至,攻鄴,爲土山、地道。武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道。夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還。尚將沮鵠守邯鄲,〈沮音菹,河朔閒今猶有此姓。鵠,沮授子也。〉又擊拔之。易陽令韓範、涉長梁岐舉縣降,賜爵關內侯。五月,毀土山、地道,作圍壍,決漳水灌城;城中餓死者過半。秋七月,尚還救鄴,諸將皆以爲「此歸師,人自爲戰,不如避之」。公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,臨滏水爲營。〈《曹瞞傳》曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」。公大喜,會諸將曰:「孤已得冀州,諸君知之乎?」皆曰:「不知。」公曰:「諸君方見不久也。」〉夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營。未合,尚懼。故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,爲圍益急。尚夜遁,保祁山,追擊之。其將馬延、張顗等臨陣降,衆大潰,尚走中山。盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮。八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。〈孫盛云:昔者先王之爲誅賞也,將以懲惡勸善,永彰鑒戒。紹因世艱危,遂懷逆謀,上議神器,下干國紀。荐社汙宅,古之制也。而乃盡哀於逆臣之冢,加恩於饕餮之室,爲政之道,於斯躓矣。夫匿怨友人,前哲所恥,稅驂舊館,義無虛涕,苟道乖好絕,何哭之有!昔漢高失之於項氏,魏武遵謬於此舉,豈非百慮之一失也。〉 初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以爲何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之衆,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。」〈《傅子》曰:太祖又云:「湯、武之王,豈同上哉?若以險固爲資,則不能應機而變化也。」〉 九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼并之法,百姓喜恱。〈《魏書》載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼并;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,爲逋逃主。欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、緜二斤而已,他不得擅興發。郡國守相明檢察之,無令彊民有所隱藏,而弱民兼賦也。」〉天子以公領冀州牧,公讓還兖州。 公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河閒。尚敗,還中山。譚攻之,尚奔故安,遂并其衆。公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。譚懼,拔平原,走保南皮。十二月,公入平原,略定諸縣。 十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。〈《魏書》曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷。〉下令曰:「其與袁氏同惡者,與之更始。」令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之於法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封爲列侯。初討譚時,民亡椎冰,〈臣松之以爲討譚時,川渠水凍,使民椎冰以通舩,民憚役而亡。〉令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:「聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無爲吏所獲。」民垂泣而去;後竟捕得。 夏四月,黑山賊張燕率其衆十餘萬降,封爲列侯。故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。〈《續漢書》郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡。〉秋八月,公征之,斬犢等,乃渡潞河救獷平,烏丸奔走出塞。 九月,令曰:「阿黨比周,先聖所疾也。聞冀州俗,父子異部,更相毀譽。昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;第五伯魚三娶孤女,謂之撾婦翁;王鳳擅權,谷永比之申伯;王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白爲黑,欺天罔君者也。吾欲整齊風俗,四者不除,吾以爲羞。」冬十月,公還鄴。 初,袁紹以甥高幹領并州牧,公之拔鄴,幹降,遂以爲刺史。幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。遣樂進、李典擊之,幹還守壺關城。十一年春正月,公征幹。幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之。 秋八月,公東征海賊管承,至淳于,遣樂進、李典擊破之,承走入海島。割東海之襄賁、郯、戚以益琅邪,省昌慮郡。〈《魏書》載十月乙亥令曰:「夫治世御衆,建立輔弼,誡在面從,詩稱『聽用我謀,庶無大悔』,斯實君臣懇懇之求也。吾充重任,每懼失中,頻年已來,不聞嘉謀,豈吾開延不勤之咎邪?自今已後,諸掾屬治中、別駕,常以月旦各言其失,吾將覽焉。」〉 三郡烏丸承天下亂,破幽州,略有漢民合十餘萬戶。袁紹皆立其酋豪爲單于,以家人子爲己女,妻焉。遼西單于蹋頓尤彊,爲紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞爲害。公將征之,鑿渠,自呼沲入泒水,〈泒音孤。〉名平虜渠;又從泃河口〈泃音句。〉鑿入潞河,名泉州渠,以通海。 十二月春二月,公自淳于還鄴。丁酋,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆爲列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。〈《魏書》載公令曰:「昔趙奢、竇嬰之爲將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流聲。吾讀其文,未甞不慕其爲人也。與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,羣士不遺其力,是以夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬。追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍於陳、蔡者,庶以疇荅衆勞,不擅大惠也。宜差死事之孤,以租穀及之。若年殷用足,租奉畢入,將大與衆人悉共饗之。」〉 將北征三郡烏丸,諸將皆曰:「袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能爲尚用?今深入征之,劉備必說劉表以襲許。萬一爲變,事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備,勸公行。夏五月,至無終。秋七月,大水,傍海道不通,田疇請爲鄉導,公從之。引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃壍山堙谷五百餘里,經白檀,歷平岡,涉鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等,將數萬騎逆軍。八月,登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。公車重在後,被甲者少,左右皆懼。公登高,望虜陳不整,乃縱兵擊之,使張遼爲先鋒,虜衆大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸及遼西、北平諸豪,棄其種人,與尚、熙奔遼東,衆尚有數千騎。初,遼東太守公孫康恃遠不服。及公破烏丸,或說公遂征之,尚兄弟可禽也。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還,〈《曹瞞傳》曰:時寒且旱,二百里無復水,軍又乏食,殺馬數千匹以爲糧,鑿地入三十餘丈乃得水。旣還,利問前諫者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以爲常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」〉康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。諸將或問:「公還而康斬送尚、熙,何也?」公曰:「彼素畏尚等,吾急之則并力,緩之則自相圖,其勢然也。」十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。 十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。〈肄,以四反。三蒼曰:「肄,習也。」〉漢罷三公官,置丞相、御史大夫。夏六月,以公爲丞相。〈《獻帝起居注》曰:使太常徐璆即授印綬。御史大夫不領中丞,置長史一人。《先賢行狀》曰:璆字孟平,廣陵人。少履清爽,立朝正色。歷任城、汝南、東海三郡,所在化行。被徵當還,爲袁術所劫。術僭號,欲授以上公之位,璆終不爲屈。術死後,璆得術璽,致之漢朝,拜衞尉太常;公爲丞相,以位讓璆焉。〉 秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂降,備走夏口。公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始。乃論荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將文聘爲江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩、鄧義等。〈衞恒《四體書勢序》曰:上谷王次仲善隷書,始爲楷法。至靈帝好書,世多能者。而師宜官爲最,甚矜其能,每書,輙削焚其札。梁鵠乃益爲版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書。於是公欲爲洛陽令,鵠以爲北部尉。鵠後依劉表。及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以勤書自効。公甞懸著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官。鵠字孟皇,安定人。魏宮殿題署,皆鵠書也。皇甫謐《逸士傳》曰:汝南王儁,字子文,少爲范滂、許章所識,與南陽岑晊善。公之爲布衣,特愛儁;儁亦稱公有治世之具。及袁紹與弟術喪母,歸葬汝南,儁與公會之,會者三萬人。公於外密語儁曰:「天下將亂,爲亂魁者必此二人也。欲濟天下,爲百姓請命,不先誅此二子,亂今作矣。」儁曰:「如卿之言,濟天下者,舍卿復誰?」相對而笑。儁爲人外靜而內明,不應州郡三府之命。公車徵,不到,避地居武陵,歸儁者一百餘家。帝之都許,復徵爲尚書,又不就。劉表見紹彊,陰與紹通,儁謂表曰:「曹公,天下之雄也,必能興霸道,繼桓、文之功者也。今乃釋近而就遠,如有一朝之急,遙望漠北之救,不亦難乎!」表不從。儁年六十四,以壽終于武陵,公聞而哀傷。及平荊州,自臨江迎喪,改葬于江陵,表爲先賢也。〉益州牧劉璋始受徵役,遣兵給軍。十二月,孫權爲備攻合肥。公自江陵征備,至巴丘,遣張憙救合肥。權聞憙至,乃走。公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。備遂有荊州、江南諸郡。〈《山陽公載記》曰:公船艦爲備所燒,引軍從華容道步歸,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。羸兵爲人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚衆。軍旣得出,公大喜,諸將問之,公曰:「劉備,吾儔也。但得計少晚;向使早放火,吾徒無類矣。」備尋亦放火而無所及。孫盛異同評曰:案吳志,劉備先破公軍,然後權攻合肥,而此記云權先攻合肥,後有赤壁之事。二者不同,吳志爲是。〉 十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍。秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥。辛未,令曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存卹撫循,以稱吾意。」置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。 十五年春,下令曰:「自古受命及中興之君,曷甞不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也,曾不出閭巷,豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定,此特求賢之急時也。『孟公綽爲趙、魏老則優,不可以爲滕、薛大夫』。若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣於渭濵者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之。」冬,作銅爵臺。〈《魏武故事》載公十二月己亥令曰:「孤始舉孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐爲海內人之所見凡愚,欲爲一郡守,好作政教,以建立名譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選舉,違迕諸常侍。以爲彊豪所忿,恐致家禍,故以病還。去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名爲老,內自圖之,從此却去二十年,待天下清,乃與同歲中始舉者等耳。故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以泥水自蔽,絕賔客往來之望,然不能得如意。後徵爲都尉,遷典軍校尉,意遂更欲爲國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。而遭值董卓之難,興舉義兵。是時合兵能多得耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,儻更爲禍始。故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦復不過三千人,此其本志有限也。後領兖州,破降黃巾三十萬衆。又袁術僭號於九江,下皆稱臣,名門曰建號門,衣被皆爲天子之制,兩婦預爭爲皇后。志計已定,人有勸術使遂即帝位,露布天下,荅言『曹公尚在,未可也』。後孤討禽其四將,獲其人衆,遂使術窮亡解沮,發病而死。及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但計投死爲國,以義滅身,足垂於後。幸而破紹,梟其二子。又劉表自以爲宗室,包藏姧心,乍前乍却,以觀世事,據有當州,孤復定之,遂平天下。身爲宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。今孤言此,若爲自大,欲人言盡,故無諱耳。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王。或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿。齊桓、晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也。論語云『三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也。昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣,對曰:『臣事昭王,猶事大王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隷,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不敢辱先人之教以忘先王也。』孤每讀此二人書,未曾不愴然流涕也。孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信者矣,以及子桓兄弟,過於三世矣。孤非徒對諸君說此,也常以語妻妾,皆令深知此意。孤謂之言:『顧我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之。』孤此言皆肝鬲之要也。所以勤勤懇懇敘心腹者,見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故。然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵爲人所禍也。旣爲子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得爲也。前朝恩封三子爲侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以爲榮,欲以爲外援,爲萬安計。孤聞介推之避晉封。申胥之逃楚賞,未甞不捨書而歎,有以自省也。奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也。然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至於邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也。」〉 十六年春正月,〈《魏書》曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植爲平原侯,據爲范陽侯,豹爲饒陽侯,食邑各五千戶。〉天子命公世子丕爲五官中郎將,置官屬,爲丞相副。太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。 是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關,公勑諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰。」秋七月,公西征,〈《魏書》曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」〉與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西爲營。公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,〈《曹瞞傳》曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起。張郃等見事急,共引公入船。河水急,北渡,流四五里,超等騎追射之,矢下如雨。諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。公大笑曰:「今日幾爲小賊所困乎!」〉循河爲甬道而南。賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,爲浮橋,夜,分兵結營於渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許。九月,進軍渡渭。〈《曹瞞傳》曰:時公軍每渡渭,輒爲超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙爲城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。臣松之案《魏書》:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!〉超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。旣罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。〈《魏書》曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可爲木行馬以爲防遏。」公然之。賊將見公,悉於馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「爾欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後大觀。又列鐵騎五千爲十重陣,精光耀日,賊益震懼。〉他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉衆南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。連車樹柵,爲甬道而南,〈臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也。」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。〉旣爲不可勝,且以示弱。渡渭爲堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不爲營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使自安而不爲備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變化,固非一道也。」始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。公荅曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其衆雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,爲功差易,吾是以喜。」 冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民人。〈《魏略》曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終。〉十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安。 十七年春正月,公還鄴。天子命公贊拜不名,入朝不趨,劔履上殿,如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衞國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。 冬十月,公征孫權。 十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。詔書并十四州,復爲九州。夏四月,至鄴。 五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公爲魏公〈《續漢書》曰:慮字鴻豫,山陽高平人。少受業於鄭玄,建安初爲侍中。虞溥《江表傳》曰:獻帝甞特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權。」慮舉笏曰:「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦。公以書和解之。慮從光祿勳遷爲大夫。〉曰: 朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷于唐、衞。當此之時,若綴旒然,〈《公羊傳》曰:「君若贅旒然。贅猶綴也。」何休云:「旒,旂旒也。以旒譬者,言爲下所執持東西也。」〉宗廟乏祀,社稷無位;羣凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,即我高祖之命將墜于地。朕用夙興假寐,震悼于厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,〈文侯之命曰:「亦惟先正。」鄭玄云:「先正,先臣。謂公卿大夫也。」〉其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育丞相,保乂我皇家,弘濟于艱難,朕實賴之。今將授君典禮,其敬聽朕命。 昔者董卓初興國難,羣后釋位以謀王室,〈《左氏傳》曰:「諸侯釋位以間王政。」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室。」〉君則攝進,首啟戎行,此君之忠于本朝也。後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之,以寧東夏,此又君之功也。韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物,天地鬼神於是獲乂,此又君之功也。袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也。迴戈東征,呂布就戮,乘轅將返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也。袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃其衆,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,〈詩曰:「致天之屆,于牧之野。」鄭玄云:「屆,極也。」鴻範曰:「鯀則殛死。」〉俾我國家拯於危墜,此又君之功也。濟師洪河,拓定四州,袁譚、高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也。烏丸三種,崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也。劉表背誕,不供貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也。馬超、成宜,同惡相濟,濵據河、潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也。鮮卑、丁零,重譯而至,箄于、白屋,請吏率職,此又君之功也。君有定天下之功,重之以明德,班敘海內,宣美風俗,旁施勤教,恤慎刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也。 朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩衞王室,左右厥世也。其在周成,管、蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登爲侯伯,錫以二輅、虎賁、鈇鉞、秬鬯、弓矢,大啟南陽,世作盟主。故周室之不壞,繄二國是賴。今君稱丕顯德,明保朕躬,奉荅天命,導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,〈盤庚曰:「綏爰有衆。」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其衆也。」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾。」率,循也。俾,使也。四海之隅,日出所照,無不循度而可使也。〉功高于伊、周,而賞卑於齊、晉,朕甚恧焉。朕以眇眇之身,託于兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉。今以冀州之河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原凡十郡,封君爲魏公。錫君玄土,苴以白茅;爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公、毛公入爲卿佐,周、邵師保出爲二伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領冀州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。 以君經緯禮律,爲民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。君勸分務本,穡人昏作,〈盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞。」鄭玄云:「昏,勉也。」〉粟帛滯積,大業惟興,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。君敦尚謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞。君翼宣風化,爰發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居。君研其明哲,思帝所難,官才任賢,羣善必舉,是用錫君納陛以登。君秉國之鈞,正色處中,纖豪之惡,靡不抑退,是用錫君虎賁之士三百人。君糾虔天刑,章厥有罪,〈「糾虔天刑」語出《國語》,韋昭注曰:「糾,察也。虔,敬也。刑,法也。」〉犯關干紀,莫不誅殛,是用錫君鈇鉞各一。君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千。君以溫恭爲基,孝友爲德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。魏國置丞相已下羣卿百寮,皆如漢初諸侯王之制。往欽哉,敬服朕命!簡恤爾衆,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命!〈後漢尚書左丞潘勗之辭也。勗字元茂,陳留中牟人。《魏書》載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也。漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,刱定王業,其功至大,吾何可比之?」前後三讓。於是中軍師王凌、謝亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜將軍華鄉侯劉勳、建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉展、建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程昱、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、都亭侯薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍國明亭侯曹洪、中領軍萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸等勸進曰:「自古三代,胙臣以土,受命中興,封秩輔佐,皆所以襃功賞德,爲國藩衞也。徃者天下崩亂,羣凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言。明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已來,未有若此功者。昔周公承文、武之迹,受已成之業,高枕墨筆,拱揖羣后,商、奄之勤,不過二年,呂望因三分有二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國。周公八子,並爲侯伯,白牡騂剛,郊祀天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也。逮至漢興,佐命之臣,張耳、吳芮,其功至薄,亦連城開地,南面稱孤。此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制。今比勞則周、呂逸,計功則張、吳微,論制則齊、魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也。且列侯諸將,幸攀龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡心,下失冠帶至望,忘輔弼之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也。」於是公勑外爲章,但受魏郡。攸等復曰:「伏見魏國初封,聖朝發慮,稽謀羣寮,然後策命;而明公久違上指,不即大禮。今旣虔奉詔命,副順衆望,又欲辭多當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也。昔齊、魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績。今魏國雖有十郡之名,猶減於曲阜,計其戶數,不能參半,以藩衞王室,立垣樹屏,猶未足也。且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是爲,願明公恭承帝命,無或拒違。」公乃受命。《魏略》載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郎署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達。會董卓作亂,義當死難,故敢奮身出命,摧鋒率衆,遂值千載之運,奉役目下。當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領。賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其間。陛下加恩,授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也。口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永無憂責。不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊、魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據。歸情上聞,不蒙聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰偪迫。伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜退,令就初服。今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩。天威在顏,悚懼受詔。」〉 秋七月,始建魏社稷宗廟。天子娉公三女爲貴人,少者待年於國。〈《獻帝起居注》曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納娉,介者五人,皆以議郎行大夫事,副介一人。〉九月,作金虎臺,鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月,分魏郡爲東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、六卿。〈《魏氏春秋》曰:以荀攸爲尚書令,涼茂爲僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔爲尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽爲侍中。〉 馬超在漢陽,復因羌、胡爲害,氐王千萬叛應超,屯興國。使夏侯淵討之。 十九年春正月,始耕籍田。南安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平。淵與諸將攻興國,屠之。省安東、永陽郡。 安定太守毌丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人徃。善人難得,必將教羌、胡妄有所請求,因欲以自利;不從便爲失異俗意,從之則無益事。」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請爲屬國都尉。公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳。」〈《獻帝起居注》曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將宂從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二人,與漢公卿並升殿宴。〉 三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠。〈《獻帝起居注》曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。〉 秋七月,公征孫權。〈《九州春秋》曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王道備矣。往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九。今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇山之阻,難以威服,易以德懷。愚以爲可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功者勸,而天下知制矣。然後漸興學校,以導其善性而長其義節。公神武震於四海,若修文以濟之,則普天之下,無思不服矣。今舉十萬之衆,頓之長江之濵,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈而敵心未能服矣。唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝。」公不從,軍遂無功。幹字彥材,北地人,終於丞相倉曹屬。有子曰玄。〉 初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚衆枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。 公自合肥還。 十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法。〈《曹瞞傳》曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中。歆壞戶發壁,牽后出。帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也。」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是乎!」遂將后殺之,完及宗族死者數百人。〉 十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。乙未,令曰:「夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也。陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱燕。由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣。」又曰:「夫刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之。其選明達法理者,使持典刑。」於是置理曹掾屬。 二十年春正月,天子立公中女爲皇后。省雲中、定襄、五原、朔方郡,郡置一縣領其民,合以爲新興郡。 三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。夏四月,公自陳倉以出散關,至河池。氐王竇茂衆萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之。西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。〈《典略》曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州。章爲督軍從事。遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸。會涼州宋揚、北宮玉等反,舉章、遂爲主,章尋病卒,遂爲揚等所劫,不得已,遂阻兵爲亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣。劉艾《靈帝紀》曰:章,一名元。〉秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。賊見大軍退,其守備解散。公乃密遣解𢢼、高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。公軍入南鄭,盡得魯府庫珍寶。〈《魏書》曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞。〉巴、漢皆降。復漢寧郡爲漢中;分漢中之安陽、西城爲西城郡,置太守;分錫、上庸郡,置都尉。 八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。 九月,巴七姓夷王朴胡、賨邑侯杜濩舉巴夷、賨民來附,〈孫盛曰:朴音浮。濩音戶。〉於是分巴郡,以胡爲巴東太守,濩爲巴西太守,皆封列侯。天子命公承制封拜諸侯守相。〈孔衍《漢魏春秋》曰:天子以公典任于外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故《司馬法》曰『賞不逾日』者,欲民速覩爲善之利也。昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍祭酒李文爲河東太守,來歙又承制拜高峻爲通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也。其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已。況君秉任二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行蕃甸之外,失得在於斯須之間,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也。自今已後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相獎勵,勿有疑焉。」〉 冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。〈《魏書》曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。臣松之以爲今之虛封蓋自此始。〉 十一月,魯自巴中將其餘衆降。封魯及五子皆爲列侯。劉備襲劉璋,取益州,遂據巴中;遣張郃擊之。 十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中。〈是行也,侍中王粲作五言詩以美其事,曰:「從軍有苦樂,但問所從誰。所從神且武,安得久勞師?相公征關右,赫怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西牧邊地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」〉 二十一年春二月,公還鄴。〈《魏書》曰:辛未,有司以太牢告至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以爲祠廟上殿當解履。吾受錫命,帶劔不解履上殿。今有事于廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也。又臨祭就洗,以手擬水而不盥。夫盥以絜爲敬,未聞擬向不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也。又降神禮訖,下階就幕而立,須奏樂畢竟,似若不愆,烈祖遲祭,不速訖也。故吾坐俟樂闋送神乃起也。受胙納神以授侍中,此爲敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于神,終抱而歸也。仲尼曰『雖違衆,吾從下』,誠哉斯言也。」〉三月壬寅,公親耕籍田。〈《魏書》曰:有司奏:「四時講武於農隙。漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士爲八陣進退,名曰乘之。今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名,下承漢制。」奏可。〉夏五月,天子進公爵爲魏王。〈《獻帝傳》載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎襃崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延于子孫,庶姓之與親,豈有殊焉。昔我聖祖受命,刱業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣。歷世承平,臣主無事。世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異姓諸侯王之位。朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,羣兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約。當此之際,唯恐溺入于難,以羞先帝之聖德。賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙焉。君勤過稷、禹,忠侔伊、周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之固辭,故且懷志屈意,封君爲上公,欲以欽順高義,須俟勳績。韓遂、宋建,南結巴、蜀,羣逆合從,圖危社稷,君復命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖。曁至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區宇。蓋唐、虞之盛,三后樹功,文、武之興,旦、奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以聖哲之君,事爲己任,猶錫士班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以荅神祇慰萬方哉?今進君爵爲魏王,使使持節行御史大夫、宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至十。君其正王位,以丞相領冀州牧如故。其上魏公璽綬符冊。敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命。」魏王上書三辭,詔三報不許。又手詔曰:「大聖以功德爲高美,以忠和爲典訓,故刱業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著。稷、契載元首之聦明,周、邵因文、武之智用,雖經營庶官,仰歎俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊,寤寐慨然,自忘守文之不德焉。今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心,而訓後世也。其抑志撙節,勿復固辭。」《四體書勢序》曰:梁鵠以公爲北部尉。《曹瞞傳》曰:爲尚書右丞司馬建公所舉。及公爲王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。建公名防,司馬宣王之父。臣松之案《司馬彪序傳》,建公不爲右丞,疑此不然,而王隱《晉書》云趙王篡位,欲尊祖爲帝,博士馬平議稱京兆府君昔舉魏武帝爲北部尉,賊不犯界,如此則爲有徵。〉代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。天子命王女爲公主,食湯沐邑。秋七月,匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國。八月,以大理鍾繇爲相國。〈《魏書》曰:始置奉常宗正官。〉 冬十月,治兵,〈《魏書》曰:王親執金鼔以令進退。〉遂征孫權,十一月至譙。 二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。 夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。五月,作泮宮。六月,以軍師華歆爲御史大夫。〈《魏書》曰:初置衞尉官。秋八月,令曰:「昔伊摯、傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興。蕭何、曹參,縣吏也,韓信、陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載。吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸,然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀。今天下得無有至德之人放在民間,及果勇不顧,臨敵力戰;若文俗之吏,高才異質,或堪爲將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各舉所知,勿有所遺。」〉冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕爲魏太子。 劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。 二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,〈《魏武故事》載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌久未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」〉必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。〈《三輔決錄注》曰:時有京兆金禕字德禕,自以世爲漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,爲丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人爲內應,射必中肩。必不知攻者爲誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂爲文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,必竟以創死。《獻帝春秋》曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟爲羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。《山陽公載記》曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。衆人以爲救火者必無罪,皆附左;王以爲「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。〉 曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。 夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。〈《魏書》載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興于外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」〉 六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上爲壽陵,因高爲基,不封不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣爲兆域,使足相容。」 秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。 冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。 二十四年春正月,仁屠宛,斬音。〈《曹瞞傳》曰:是時南陽間苦繇役,音於是執太守東里襃,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共戮力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。〉 夏侯淵與劉備戰於陽平,爲備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平。備因險拒守。〈《九州春秋》曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」〉 夏五月,引軍還長安。 秋七月,以夫人卞氏爲王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。 九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。〈《世語》曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。〉 冬十月,軍還洛陽。〈《曹瞞傳》曰:王更脩治北部尉廨,令過於舊。〉孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。〈《魏略》曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運久已盡,歷數久已終,非適今日也。是以桓、靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生注望,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以爲虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」《魏氏春秋》曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害爲百姓所歸者,即民主也。今殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,爲天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施於有政,是亦爲政』。若天命在吾,吾爲周文王矣。」《曹瞞傳》及《世語》並云桓階勸王正位,夏侯惇以爲宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及至王薨,惇追恨前言,發病卒。孫盛評曰:夏侯惇恥爲漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,《世語》爲妄矣。〉 二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。 庚子,王崩于洛陽,年六十六。〈《世語》曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。《曹瞞傳》曰:王使工蘇越徙美棃,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以爲不祥,還遂寑疾。〉遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」謚曰武王。二月丁卯,葬高陵。 〈《魏書》曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手爲節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陣,意思安閑,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列爲名將;其餘拔出細微,登爲牧守者,不可勝數。是以刱造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,甞於南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不爲之法則,皆盡其意。雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。攻城拔邑,得靡麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分豪不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。〉 〈《傅子》曰:太祖愍嫁娶之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。〉 〈張華《博物志》曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華他、甘陵甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。〉 〈《傅子》曰:漢末王公,多委王服,以幅巾爲雅,是以袁紹、崔豹之徒,雖爲將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以爲帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。〉 〈《曹瞞傳》曰:太祖爲人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賔客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡恱大笑,至以頭沒柸案中,肴膳皆沾洿巾幘,其輕易如此。然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活。初,袁忠爲沛相,甞欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兖州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家。忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之。甞出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相付,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤爲軍帥,不可自殺,請自刑。」因援劔割髮以置地。又有幸姬常從晝寢,枕之卧,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖卧安,未即寤,及自覺,棒殺之。常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆,太祖謂主者曰:「特當借君死以猒衆,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐,皆此之類也。〉 評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任筭,不念舊惡,終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/21.html
唐書巻七十六 列伝第一 后妃上 太穆竇皇后 文徳長孫皇后 徐賢妃 王皇后 則天武皇后 和思趙皇后 韋皇后 上官昭容 肅明劉皇后 昭成竇皇后 王皇后 貞順武皇后 元献楊皇后 楊貴妃 唐制では、皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があって、これを夫人とした。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛があって、これを九嬪とした。婕妤・美人・才人がおのおの九人いて、合わせて二十七人、これを世婦に代えた。宝林・御女・采女がおのおの二十七人いて、合わせて八十一人、これを御妻に代えた。自餘六尚、分典乘輿服御、皆有員次。後世改復不常。開元時、以后下復有四妃非是、乃置恵・麗・華三妃、六儀、四美人、七才人、而尚宮・尚儀・尚服各二、参合前號、大抵踵周官相損益云、然則尚矣。 礼本夫婦、詩始后妃、治乱因之、興亡係焉。盛徳之君、帷薄嚴奧、裏謁不忏于朝、外言不内諸閫、関雎之風行、彤史之化修、故淑範懿行、更為内助。若夫豔嬖之興、常在中主。笫裯既交、則情與愛遷。顏辭媚熟、則事為私奪。乘易昏之明、牽不斷之柔、險言似忠、故受而不詰、醜行已效、反狃而為好。左右附之、憸壬惎之、狡謀鉗其悟先、哀誓楗於寵初、天下之事已去、而恬不自覺、此武・韋所以遂簒弑而喪王室也。至於楊氏未死、玄乱厥謀。張后制中、肅幾斂衽。吁、可嘆哉!中葉以降、時多故矣、外有攻討之勤、内寡嬿溺之私、群閹朋進、外戚勢分、后妃無大善惡、取充職位而已、故列著于篇。 高祖太穆順聖皇后竇氏は、京兆郡平陵の人である。父の竇毅は、北周にあって上柱国となり、武帝の姉の襄陽長公主をめとって、隋に入って定州総管・神武公となった。 后生、髪垂過頸、三歳與身等。讀女誡・列女等伝、一過輒不忘。武帝愛之、養宮中、異它甥。時突厥女為后、無寵、后密諫曰:「吾国未靖、虜且彊、願抑情撫接、以取合従、則江南・関東不吾梗。」武帝嘉納。及崩、哀毀同所生。聞隋高祖受禪、自投牀下、曰:「恨我非男子、不能捄舅家禍。」毅遽掩其口、曰:「毋妄言、赤吾族!」常謂主曰:「此女有奇相、且識不凡、何可妄與人?」因畫二孔雀屏間、請昏者使射二矢、陰約中目則許之。射者閲数十、皆不合。高祖最後射、中各一目、遂歸於帝。 始、元貞太后羸老有疾、而性素嚴、諸姒娣皆畏、莫敢侍。后事之、獨怡謹盡孝、或淹月不釋衣履。工為篇章規誡、文有雅體。又善書、與高祖書相雜、人不辨也。崩於涿郡、年四十五。 帝在煬帝時、多畜善馬、后見曰:「上性楽此、盍以献?徒留之速罪、無益也。」不聽、頃果坐譴。帝後見隋政乱、多妄誅殛、乃為自安計、数奏鷹犬異駒、煬帝果喜、擢位将軍。因泣謂諸子曰:「早用而母言、得此久矣!」帝有天下、詔即所葬園為寿安陵、謚曰穆。及祔献陵、尊為太穆皇后。 始、太宗生、有二龍之符、后於諸子中愛視最篤。後即位、過慶善宮、覽観梗欷、顧侍臣曰:「朕生於此、今母后永違、育我之徳不可報。」因號慟、左右皆流涕。乃享后于正寢。它日幸九成宮、夢后若平生、既悟、然不自勝。明日、詔有司大發倉賑貧瘠、以為后報焉。上元中、益謚太穆神皇后。 太宗文徳順聖皇后長孫氏は、河南郡洛陽の人である。その先祖は魏の拓抜氏であり、のちに宗室の長となったため、長孫と号した。高祖父の長孫は、大丞相・馮翊王となった。曾祖父の長孫裕は、平原公となった。祖父の長孫兕は、左将軍となった。父の長孫晟は、字を季といい、渉書史、趫鷙曉兵、隋につかえて右驍衛将軍となった。 后喜圖伝、視古善惡以自鑒、矜尚礼法。晟兄熾、為周通道館学士。嘗聞太穆勸撫突厥女、心誌之。毎語晟曰:「此明睿人、必有奇子、不可以不圖昏。」故晟以女太宗。后歸寧、舅高士廉妾見大馬二丈立后舍外、懼、占之、遇坤之泰。卜者曰:「坤順承天、載物無疆。馬、地類也。之泰、是天地交而万物通也、又以輔相天地之宜。繇協歸妹、婦人事也。女處尊位、履中而居順、后妃象也。」時隱太子釁已構、后内盡孝事高祖、謹承諸妃、消釋嫌猜。及帝授甲宮中、后親尉勉、士皆感奮。尋為皇太子妃、俄為皇后。 性約素、服御取給則止。益観書、雖容櫛不少廃。與帝言、或及天下事、辭曰:「牝雞司晨、家之窮也、可乎?」帝固要之、訖不對。後廷有被罪者、必助帝怒請繩治、俟意解、徐為開治、終不令有冤。下嬪生豫章公主而死、后視如所生。媵侍疾病、輟所御飲藥資之。下懷其仁。兄忌、於帝本布衣交、以佐命為元功、出入臥内、帝将引以輔政、后固謂不可、乘間曰:「妾託體紫宮、尊貴已極、不願私親更據權于朝。漢之呂・霍、可以為誡。」帝不聽、自用忌為尚書僕射。后密諭令牢讓、帝不獲已、乃聽、后喜見顏間。異母兄安業無行、父喪、逐后・忌還外家。后貴、未嘗以為言。擢位将軍。後與李孝常等謀反、将誅、后叩頭曰:「安業罪死無赦。然向遇妾不以慈、戸知之。今論如法、人必謂妾釋憾於兄、無乃為帝累乎!」遂得減流越巂。太子承乾乳媼請增東宮什器、后曰:「太子患無徳與名、器何請為?」 従幸九成宮、方屬疾、會柴紹等急變聞、帝甲而起、后輿疾以従、宮司諫止、后曰:「上震驚、吾可自安?」疾稍亟、太子欲請大赦、汎度道人、祓塞災會。后曰:「死生有命、非人力所支。若修福可延、吾不為惡。使善無效、我尚何求?且赦令、国大事、佛・老異方教耳、皆上所不為、豈宜以吾乱天下法!」太子不敢奏、以告房玄齡、玄齡以聞、帝嗟美。而群臣請遂赦、帝既許、后固爭止。及大漸、與帝決、時玄齡小譴就第、后曰:「玄齡久事陛下、預奇計祕謀、非大故、願勿置也。妾家以恩澤進、無徳而祿、易以取禍、無屬樞柄、以外戚奉朝請足矣。妾生無益於時、死不可以厚葬、願因山為、無起墳、無用棺槨、器以瓦木、約費送終、是妾不見忘也。」又請帝納忠容諫、勿受讒、省遊畋作役、死無恨。崩、年三十六。 后嘗采古婦人事著女則十篇、又為論斥漢之馬后不能檢抑外家、使與政事、乃戒其車馬之侈、此謂開本源、恤末事。常誡守者:「吾以自檢、故書無條理、勿令至尊見之。」及崩、宮司以聞、帝為之慟、示近臣曰:「后此書可用垂後、我豈不通天命而割情乎!顧内失吾良佐、哀不可已已!」謚曰文徳、葬昭陵、因九嵕山、以成后志。帝自著表序始末、掲陵左。上元中、益謚文徳聖皇后。 太宗賢妃徐恵は、湖州長城の人である。生五月能言、四歳通論語・詩、八歳自曉屬文。父孝徳、嘗試使擬離騷為小山篇曰:「仰幽巖而流盼、撫桂枝以凝想。将千齡兮此遇、荃何為兮獨往?」孝徳大驚、知不可掩、於是所論著遂盛伝。太宗聞之、召為才人。手未嘗廃巻、而辭致贍蔚、文無淹思。帝益礼顧、擢孝徳水部員外郎、恵再遷充容。 貞観末、数調兵討定四夷、稍稍治宮室、百姓勞怨。恵上疏極諫、且言:「東戍遼海、西討崑丘、士馬罷耗、漕饟漂沒。捐有盡之農、趨無窮之壑。圖未獲之衆、喪已成之軍。故地廣者、非常安之術也。人勞者、為易乱之符也。」又言:「翠微・玉華等宮、雖因山藉水、無築構之苦、而工力和僦、不謂無煩。有道之君、以逸逸人。無道之君、以楽楽身。」又言:「伎巧為喪国斧斤、珠玉為蕩心酖毒、侈麗纖美、不可以不遏。志驕於業泰、體逸於時安。」其剴切精詣、大略如此。帝善其言、優賜之。帝崩、哀慕成疾、不肯進藥、曰:「帝遇我厚、得先狗馬侍園寢、吾志也。」復為詩・連珠以見意。永徽元年卒、年二十四、贈賢妃、陪葬昭陵石室。 恵之弟斉聃、斉聃子堅、皆以学聞、女弟為高宗婕妤、亦有文藻、世以擬漢班氏。 高宗廃后王氏は、并州祁県の人で、魏の尚書左僕射の王思政の孫である。従祖母同安長公主以后婉淑、白太宗以為晋王妃。王居東宮、妃亦進冊、擢父仁祐陳州刺史。帝即位、立為皇后。仁祐以特進封魏国公。母柳、本国夫人。仁祐卒、贈司空。 初、蕭良娣有寵、而武才人貞観末以先帝宮人召為昭儀、俄與后・良娣爭寵、更相毀短。而昭儀詭險、即誣后與母挾媚道蠱上、帝信之、解魏国夫人門籍、罷后舅柳奭中書令。李義府等陰佐昭儀、以偏言怒帝、遂下詔廃后・良娣皆為庶人、囚宮中。后母兄・良娣宗族悉流嶺南。許敬宗又奏:「仁祐無他功、以宮掖故、超列三事、今庶人謀乱宗社、罪宜夷宗、仁祐應斲棺、陛下不窮其誅、家止流竄、仁祐不宜引庇廕宥逆子孫。」有詔盡奪仁祐官爵。而后及良娣俄為武后所殺、改后姓為「蟒」、良娣為「梟」。 初、帝念后、間行至囚所、見門禁錮嚴、進飲食竇中、惻然傷之、呼曰:「皇后・良娣無恙乎?今安在?」二人同辭曰:「妾等以罪棄為婢、安得尊稱耶?」流涙嗚咽。又曰:「陛下幸念疇日、使妾死更生、復見日月、乞署此為『回心院』。」帝曰:「朕即有處置。」武后知之、促詔杖二人百、剔其手足、反接投釀罋中、曰:「令二嫗骨醉!」数日死、殊其尸。初、詔旨到、后再拜曰:「陛下万年!昭儀承恩、死吾分也。」至良娣、罵曰:「武氏狐媚、覆至此!我後為猫、使武氏為鼠、吾當扼其喉以報。」后聞、詔六宮毋畜猫。武后頻見二人被髪瀝血為厲、惡之、以巫祝解謝、即徙蓬萊宮、厲復見、故多駐東都。中宗即位、皆復其姓。 高宗則天順聖皇后武氏は、并州文水の人である。父の武士は、外戚伝に見える。文徳皇后崩、久之、太宗聞士女美、召為才人、方十四。母楊、慟泣與訣、后獨自如、曰:「見天子庸知非福、何兒女悲乎?」母韙其意、止泣。既見帝、賜號武媚。及帝崩、與嬪御皆為比丘尼。高宗為太子時、入侍、悅之。王皇后久無子、蕭淑妃方幸、后陰不悅。它日、帝過佛廬、才人見且泣、帝感動。后廉知状、引内後宮、以撓妃寵。 才人有權数、詭變不窮。始、下辭降體事后、后喜、数譽於帝、故進為昭儀。一旦顧幸在蕭右、寖與后不協。后性簡重、不曲事上下、而母柳見内人尚宮無浮礼、故昭儀伺后所薄、必款結之、得賜予、盡以分遺。由是后及妃所為必得、得輒以聞、然未有以中也。昭儀生女、后就顧弄、去、昭儀潛斃兒衾下、伺帝至、陽為歡言、發衾視兒、死矣。又驚問左右、皆曰:「后適來。」昭儀即悲涕、帝不能察、怒曰:「后殺吾女、往與妃相讒媢、今又爾邪!」由是昭儀得入其訾、后無以自解、而帝愈信愛、始有廃后意。久之、欲進號「宸妃」、侍中韓瑗・中書令來濟言:「妃嬪有数、今別立號、不可。」昭儀乃誣后與母厭勝、帝挾前憾、實其言、将遂廃之。長孫无忌・褚遂良・韓瑗及濟瀕死固爭、帝猶豫。而中書舍人李義府・衛尉卿許敬宗素險側、狙勢即表請昭儀為后、帝意決、下詔廃后。詔李勣・于志寧奉璽綬進昭儀為皇后、命群臣及四夷酋長朝后肅義門、内外命婦入謁。朝皇后自此始。 后見宗廟、再贈士至司徒、爵周国公、謚忠孝、配食高祖廟。母楊、再封代国夫人。家食魏千戸。后乃製外戚誡献諸朝、解釋譏譟。於是逐忌・遂良、踵死徙、寵煽赫然。后城宇深、痛柔屈不恥、以就大事、帝謂能奉己、故扳公議立之。已得志、即盜威福、施施無憚避、帝亦儒昏、舉能鉗勒、使不得專、久稍不平。麟徳初、后召方士郭行真入禁中為蠱祝、宦人王伏勝發之、帝怒、因是召西台侍郎上官儀、儀指言后專恣、失海内望、不可承宗廟、與帝意合、乃趣使草詔廃之。左右馳告、后遽従帝自訴、帝羞縮、待之如初、猶意其恚、且曰:「是皆上官儀教我!」后諷許敬宗構儀、殺之。 初、元舅大臣怫旨、不閲歳屠覆、道路目語、及儀見誅、則政歸房帷、天子拱手矣。群臣朝・四方奏章、皆曰「二聖」。毎視朝、殿中垂簾、帝與后偶坐、生殺賞罰惟所命。當其忍斷、雖甚愛、不少隱也。帝晩益病風不支、天下事一付后。后乃更為太平文治事、大集諸儒内禁殿、譔定列女伝・臣軌・百僚新誡・楽書等、大氐千餘篇。因令学士密裁可奏議、分宰相權。 始、士娶相里氏、生子元慶・元爽。又娶楊氏、生三女:伯嫁賀蘭越石、蚤寡、封韓国夫人。仲即后。季嫁郭孝慎、前死。楊以后故、寵日盛、徙封栄国。始、兄子惟良・懷運與元慶等遇楊及后礼薄、后銜不置。及是、元慶為宗正少卿、元爽少府少監、惟良司衛少卿、懷運淄州刺史。它日、夫人置酒、酣、謂惟良曰:「若等記疇日事乎?今謂何?」對曰:「幸以功臣子位朝廷、晩縁戚屬進、憂而不栄也。」夫人怒、諷后偽為退讓、請惟良等外遷、無示天下私。繇是、惟良為始州刺史。元慶、龍州。元爽、濠州、俄坐事死振州。元慶至州、憂死。韓国出入禁中、一女国姝、帝皆寵之。韓国卒、女封魏国夫人、欲以備嬪職、難於后、未決。后内忌甚、會封泰山、惟良・懷運以岳牧來集、従還京師、后毒殺魏国、歸罪惟良等、盡殺之、氏曰「蝮」、以韓国子敏之奉士祀。初、魏国卒、敏之入弔、帝為慟、敏之哭不對。后曰:「兒疑我!」惡之。俄貶死。楊氏徙酇・衛二国、咸亨元年卒、追封魯国、謚忠烈、詔文武九品以上及五等親與外命婦赴弔、以王礼葬咸陽、給班劍・葆仗・鼓吹。時天下旱、后偽表求避位、不許。俄又贈士太尉兼太子太師・太原郡王、魯国忠烈夫人為妃。 上元元年、進號天后、建言十二事:一・勸農桑、薄賦徭。二・給復三輔地。三・息兵、以道徳化天下。四・南北中尚禁浮巧。五・省功費力役。六・廣言路。七・杜讒口。八・王公以降皆習老子。九・父在為母服斉衰三年。十・上元前勳官已給告身者無追覈。十一・京官八品以上益稟入。十二・百官任事久、材高位下者得進階申滯。帝皆下詔略施行之。 蕭妃女義陽・宣城公主幽掖廷、幾四十不嫁、太子弘言于帝、后怒、酖殺弘。帝将下詔遜位于后、宰相郝處俊固諫、乃止。后欲外示寬裕、劫人心使歸己、即奏言:「今群臣納半俸・百姓計口錢以贍邊兵、恐四方妄商虚實、請一罷之。」詔可。 儀鳳三年、群臣・蕃夷長朝后于光順門。即并州建太原郡王廟。帝頭眩不能視、侍醫張文仲・秦鳴鶴曰:「風上逆、砭頭血可愈。」后内幸帝殆、得自專、怒曰:「是可斬、帝體寧刺血處邪?」醫頓首請命。帝曰:「醫議疾、烏可罪?且吾眩不可堪、聽為之!」醫一再刺、帝曰:「吾目明矣!」言未畢、后簾中再拜謝、曰:「天賜我師!」身負繒宝以賜。 帝崩、中宗即位、天后稱皇太后、遺詔軍国大務聽参決。嗣聖元年、太后廃帝為廬陵王、自臨朝、以睿宗即帝位。后坐武成殿、帝率群臣上號冊。越三日、太后臨軒、命礼部尚書攝太尉武承嗣・太常卿攝司空王徳真冊嗣皇帝。自是太后常御紫宸殿、施慘紫帳臨朝。追贈五世祖後魏散騎常侍克己為魯国公、妣裴即其国為夫人。高祖斉殷州司馬居常為太尉・北平郡王、妣劉為王妃。曾祖永昌王諮議参軍・贈斉州刺史儉為太尉・金城郡王、妣宋為王妃。祖隋東郡丞・贈并州刺史・大都督華為太尉・太原郡王、妣趙為王妃。皆置園邑、戸五十。考為太師・魏王、加實戸滿五千、妣為王妃、王園邑守戸百。時睿宗雖立、實囚之、而諸武擅命。又謚魯国公曰靖、裴為靖夫人。北平郡王曰恭肅、金城郡王曰義康、太原郡王曰安成、妃従夫謚。太后遣冊武成殿使者告五世廟室。 於是柳州司馬李敬業・括蒼令唐之奇・臨海丞駱賓王疾太后脅逐天子、不勝憤、乃募兵殺揚州大都督府長史陳敬之、據州欲迎廬陵王、衆至十万。楚州司馬李崇福連和。盱眙人劉行舉嬰城不肯従、敬業攻之、不克。太后拜行舉游撃将軍、擢其弟行實楚州刺史。敬業南度江取潤州、殺刺史李思文、曲阿令尹元貞拒戰死。太后詔左玉鈐衛大将軍李孝逸為揚州道行軍大総管、率兵三十万討之、戰于高郵、前鋒左豹韜果毅成三朗為唐之奇所殺。又以左鷹揚衛大将軍黑齒常之為江南道行軍大総管、并力。敬業興三月敗、伝首東都、三州平。 始、武承嗣請太后立七廟、中書令裴炎沮止、及敬業之興、下炎獄、殺之、并殺左威衛大将軍程務挺。太后方怫恚、一日、召群臣廷讓曰:「朕於天下無負、若等知之乎?」群臣唯唯。太后曰:「朕輔先帝踰三十年、憂勞天下。爵位富貴、朕所與也。天下安佚、朕所養也。先帝棄群臣、以社稷為託、朕不敢愛身、而知愛人。今為戎首者皆将相、何見負之遽?且受遺老臣伉扈難制有若裴炎乎?世将種能合亡命若徐敬業乎?宿将善戰若程務挺乎?彼皆人豪、不利於朕、朕能戮之。公等才有過彼、蚤為之。不然、謹以事朕、無詒天下笑。」群臣頓首、不敢仰視、曰:「惟陛下命。」 久之、下詔陽若復辟者。睿宗揣非情、固請臨朝、制可。乃冶銅匭為一室、署東曰「延恩」、受干賞自言。南曰「招諫」、受時政失得。西曰「申冤」、受抑枉所欲言。北曰「通玄」、受讖歩祕策。詔中書門下一官典領。 太后不惜爵位、以籠四方豪桀自為助、雖妄男子、言有所合、輒不次官之、至不稱職、尋亦廃誅不少縱、務取實材真賢。又畏天下有謀反逆者、詔許上變、在所給輕伝、供五品食、送京師、即日召見、厚餌爵賞歆動之。凡言變、吏不得何詰、雖耘夫蕘子必親延見、稟之客館。敢稽若不送者、以所告罪之。故上變者天下、人人屏息、無敢議。 新豐有山因震突出、太后以為美祥、赦其県、更名慶山。荊人兪文俊上言:「人不和、疣贅生。地不和、堆阜出。今陛下以女主處陽位、山變為災、非慶也。」太后怒、投嶺外。 詔毀乾元殿為明堂、以浮屠薛懷義為使督作。懷義、鄠人、本馮氏、名小宝、偉岸淫毒、佯狂洛陽市、千金公主嬖之。主上言:「小宝可入侍。」后召與私、悅之。欲掩、得通籍出入、使祝髪為浮屠、拜白馬寺主。詔與太平公主婿薛紹通昭穆、紹父事之。給厩馬、中官為騶侍、雖承嗣・三思皆尊事惟謹。至是護作、士数万、巨木率一章千人乃能引。又度明堂後為天堂、鴻麗嚴奧次之。堂成、拜左威衛大将軍・梁国公。 始作崇先廟于西京、享武氏。承嗣偽款洛水石、導使為帝、遣雍人唐同泰献之、后號為「宝圖」、擢同泰游撃将軍。於是汜人又上瑞石、太后乃郊上帝謝況、自號聖母神皇、作神皇璽、改宝圖曰「天授聖圖」、號洛水曰永昌水、圖所曰聖圖泉、勒石洛壇左曰「天授聖圖之表」、改汜水曰廣武。時柄去王室、大臣重将皆撓不得逞、宗室孤外無寄足地。於是、韓王元嘉等謀舉兵唱天下、迎還中宗。琅邪王沖・越王貞先發、諸王倉卒無應者、遂敗。元嘉與魯王靈夔等皆自殺、餘悉坐誅、諸王牽連死滅殆盡、子孫雖嬰褓亦投嶺南。太后身拜洛受圖、天子率太子・群臣・蠻夷以次列、大陳珍禽・奇獸・貢物・鹵簿壇下、礼成去。 永昌元年、享万象神宮、改服冕、搢大圭、執鎮圭、睿宗亞献、太子終献。合祭天地、五方帝・百神従、以高祖・太宗・高宗配、引魏王士従配。班九條、訓百官。遂大饗群臣。號士周忠孝太皇、楊忠孝太后。以文水墓為章徳陵、咸陽墓為明義陵。太原安成王為周安成王、金城郡王為魏義康王、北平郡王為趙肅恭王、魯国公為太原靖王。 載初中、又享万象神宮、以太穆・文徳二皇后配皇地祇、引周忠孝太后従配。作曌・・・・囝・○・・・・・・十有二文。太后自名曌。改詔書為制書。以周・漢為二王後、虞・夏・殷後為三恪、除唐屬籍。拜薛懷義輔国大将軍、封鄂国公、令與群浮屠作大雲經、言神皇受命事。春官尚書李思文詭言:「周書武成為篇、辭有『垂拱天下治』、為受命之符。」后喜、皆班示天下、稍圖革命。然畏人心不肯附、乃陰忍鷙害、肆斬殺怖天下。内縱酷吏周興・來俊臣等数十人為爪吻、有不慊若素疑憚者、必危法中之。宗姓侯王及它骨骾臣将相駢頸就鈇、血丹狴戸、家不能自保。太后操奩具坐重幃、而国命移矣。 御史傅游藝率関内父老請革命、改帝氏為武。又脅群臣固請、妄言鳳集上陽宮、赤雀見朝堂。天子不自安、亦請氏武、示一尊。太后知威柄在己、因大赦天下、改国號周、自稱聖神皇帝、旗幟尚赤、以皇帝為皇嗣。立武氏七廟于神都。尊周文王為文皇帝、號始祖、妣姒曰文定皇后。武王為康皇帝、號睿祖、妣姜曰康恵皇后。太原靖王為成皇帝、號嚴祖、妣曰成莊皇后。趙肅恭王為章敬皇帝、號肅祖、妣曰章敬皇后。魏義康王為昭安皇帝、號烈祖、妣曰昭安皇后。祖周安成王為文穆皇帝、號顯祖、妣曰文穆皇后。考忠孝太皇為孝明高皇帝、號太祖、妣曰孝明高皇后。罷唐廟為享徳廟、四時祠高祖以下三室、餘廃不享。至日、祀上帝万象神宮、以始祖及考妣配、以百神従祀。盡王諸武。詔并州文水県為武興、比漢豐・沛、百姓世給復。以始祖為徳陵、睿祖為喬陵、嚴祖為節陵、肅祖為簡陵、烈祖為靖陵、顯祖為永陵、章徳陵為昊陵、明義陵為順陵。 太后雖春秋高、善自塗澤、雖左右不悟其衰。俄而二齒生、下詔改元為長寿。明年、享神宮、自制大楽、舞工用九百人、以武承嗣為亞献、三思為終献。帝之為皇嗣、公卿往往見之、會尚方監裴匪躬・左衛大将軍阿史那元慶・白澗府果毅薛大信・監門衛大将軍范雲仙潛謁帝、皆腰斬都市、自是公卿不復上謁。 有上封事言嶺南流人謀反者、太后遣攝右台監察御史万国俊就按、得實即論決。国俊至廣州、盡召流人、矯詔賜自盡、皆號哭不服、国俊驅之水曲、使不得逃、一日戮三百餘人。乃誣奏流人怨望、請悉除之。於是太后遣右衛翊府兵曹参軍劉光業・司刑評事王徳寿・苑南面監丞鮑思恭・尚輦直長王大貞・右武衛兵曹参軍屈貞筠、皆攝監察御史、分往劍南・黔中・安南等六道訊鞫、而擢国俊左台侍御史。光業等亦希功于上、惟恐殺人之少。光業殺者九百人、徳寿殺七百人、其餘亦不減五百人。太后久乃知其冤、詔六道使所殺者還其家。国俊等亦相踵而死、皆見有物為厲云。 太后又自加號金輪聖神皇帝、置七宝于廷:曰金輪宝、曰白象宝、曰女宝、曰馬宝、曰珠宝、曰主兵臣宝、曰主藏臣宝、率大朝會則陳之。又尊其顯祖為立極文穆皇帝、太祖為無上孝明皇帝。延載二年、武三思率蕃夷諸酋及耆老請作天樞、紀太后功徳、以黜唐興周、制可。使納言姚護作。乃大裒銅鐵合冶之、署曰「大周万国頌徳天樞」、置端門外。其制若柱、度高一百五尺、八面、面別五尺、冶鐵象山為之趾、負以銅龍、石鑱怪獸環之。柱顛為雲蓋、出大珠、高丈、圍三之。作四蛟、度丈二尺、以承珠。其趾山周百七十尺、度二丈。無慮用銅鐵二百万斤。乃悉鏤群臣・蕃酋名氏其上。 薛懷義寵稍衰、而御醫沈南璆進、懷義大望、因火明堂、太后羞之、掩不發。懷義愈很恣怏怏。乃密詔太平公主擇健婦縛之殿中、命建昌王武攸寧・将作大匠宗晋卿率壯士撃殺之、以畚車載尸還白馬寺。懷義負幸昵、氣蓋一時、出百官上、其徒多犯法。御史馮思勗劾其姦、懷義怒、遇諸道、命左右歐之、幾死、弗敢言。默啜犯塞、拜新平・伐逆・朔方道大総管、提十八将軍兵撃胡、宰相李昭徳・蘇味道至為之長史・司馬。後厭入禁中、陰募力少年千人為浮屠、有逆謀。侍御史周矩劾状請治驗、太后曰:「第出、朕将使詣獄。」矩坐台、少選、懷義怒馬造廷、直往坐大榻上、矩召吏受辭、懷義即乘馬去。矩以聞、太后曰:「是道人素狂、不足治、力少年聽窮劾。」矩悉投放醜裔。懷義構矩、俄免官。 太后祀天南郊、以文王・武王・士與唐高祖并配。太后加號天冊金輪聖神皇帝。遂封嵩山、禪少室、冊山之神為帝、配為后。封壇南有大槲、赦日置雞其杪、賜號「金雞樹」。自制升中述志、刻石示後。改明堂為通天宮、鑄九州鼎、各位其方、列廷中。又斂天下黃金作大儀鐘、不克。久之、以崇先廟為崇尊廟、礼視太廟、旋復崇尊廟為太廟。 自懷義死、張易之・昌宗得幸、乃置控鶴府、有監、有丞及主簿・録事等、監三品、以易之為之。太后自見諸武王非天下意、前此中宗自房州還、復為皇太子、恐百歳後為唐宗室躪藉無死所、即引諸武及相王・太平公主誓明堂、告天地、為鐵券使藏史館。改昊陵署為攀龍台。久視初、以控鶴監為天驥府、又改奉宸府、罷監為令、以左右控鶴為奉宸大夫、易之復為令。 神龍元年、太后有疾、久不平、居迎仙院。宰相張柬之與崔玄暐等建策、請中宗以兵入誅易之・昌宗、於是羽林将軍李多祚等帥兵自玄武門入、斬二張于院左。太后聞變而起、桓彦範進請伝位、太后返臥、不復語。中宗於是復即位。徙太后上陽宮、帝率百官詣観風殿問起居、後率十日一詣宮、俄朝朔・望。廃奉宸府官、遷東都武氏廟于崇尊廟、更號崇恩、復唐宗廟。諸武王者咸降爵。是歳、后崩、年八十一。遺制稱則天大聖皇太后、去帝號。謚曰則天大聖后、祔乾陵。 會武三思蒸韋庶人、復用事。於是大旱、祈陵輒雨。三思訹帝詔崇恩廟祠如太廟、齋郎用五品子。博士楊孚言:「太廟諸郎取七品子、今崇恩取五品、不可。」帝曰:「太廟如崇恩可乎?」孚曰:「崇恩太廟之私、以臣準君則僭、以君準臣則惑。」乃止。及韋・武黨誅、詔則天大聖皇后復號天后、廃崇恩廟及陵。景雲元年、號大聖天后。太平公主奸政、請復二陵官、又尊后曰天后聖帝、俄號聖后。太平誅、詔黜周孝明皇帝號、復為太原郡王、后為妃、罷昊・順等陵。開元四年、追號則天皇后。太常卿姜建言:「則天皇后配高宗廟、主題天后聖帝、非是、請易題為則天皇后武氏。」制可。 中宗和思順聖皇后趙氏は、京兆郡長安の人である。祖父の趙綽は、武徳年間、戦功があって、右領軍将軍に終わった。父の趙は、高祖の常楽公主をめとった。 帝為英王、聘后為妃。高宗於公主恩尤隆。武后不喜、乃幽妃内侍省。自定州刺史・駙馬都尉貶括州、絶主朝謁、隨之官。妃既囚、扃鍵牢謹、日給飼料。衛者候其突煙数日不出、披戸視之、死腐矣。以寿州刺史與主預越王事、死。神龍元年、追謚妃曰恭皇后、贈左衛大将軍。中宗崩、蕆陵事、韋庶人不臣、不得祔、有司加上尊謚、以后祔定陵。 中宗庶人韋氏は、京兆郡万年の人である。祖父の韋弘表は、貞観年間に曹王府典軍となった。 帝が東宮にあったとき、后は選ばれて妃となった。嗣聖初年に、立って皇后となった。俄與帝處房陵、毎使至、帝輒恐、欲自殺。后止曰:「禍福何常、早晩等死耳、無遽!」及帝復即位、后居中宮。 是時、上官昭容與政事、方敬暉等将盡誅諸武、武三思懼、乃因昭容入請、得幸於后、卒謀暉等誅之。初、帝幽廃、與后約:「一朝見天日、不相制。」至是與三思升御牀博戲、帝従旁典籌、不為忤。三思諷群臣上后號為順天皇后。乃親謁宗廟、贈父玄貞上洛郡王。左拾遺賈虚己建言:「非李氏王者、盟書共棄之。今復国未幾、遽私后家、且先朝禍鑒未遠、甚可懼也。如令皇后固辭、使天下知後宮謙讓、不亦善乎?」不聽。神龍三年、節愍太子舉兵敗。宗楚客率群臣請加號「翊聖」、詔可。禁中謬伝有五色雲起后衣笥、帝圖以示諸朝、因大赦天下、賜百官母・妻封號。太史迦葉志忠表上桑條歌十二篇、言后當受命、曰:「昔高祖時、天下歌桃李。太宗時、歌秦王破陣。高宗歌堂堂。天后世、歌武媚娘。皇帝受命、歌英王石州。后今受命、歌桑條韋、蓋后妃之徳專蠶桑、共宗廟事也。」乃賜志忠第一區、綵七百段。太常少卿鄭愔因之被楽府。楚客又諷補闕趙延禧離釋桑條為九十八代、帝大喜、擢延禧諫議大夫。 於是昭容以武氏事動后。即表增出母服。民以二十三為丁、限五十九免。五品而上母・妻不繇夫・子封者、喪得用鼓吹。数改制度、陰儲人望。稍寵樹親屬、封拜之。昭容與母及尚宮賀婁等多受金錢。封巫趙隴西夫人、出入禁中、勢與上官埒。繇是墨敕斜封出矣。三年、帝親郊、引后亞献。明年、正月望夜、帝與后微服過市、彷徉観覽、縱宮女出游、皆淫奔不還。国子祭酒葉靜能善禁架、常侍馬秦客高醫、光祿少卿楊均善烹調、皆引入後廷。均・秦客蒸於后、嘗喪免、不歴旬輒起。 帝遇弑、議者讙咎秦客及安楽公主。后大懼、引所親議計、乃以刑部尚書裴談・工部尚書張錫輔政、留守東都、詔将軍趙承福・薛簡以兵五百衛譙王重福、與兄温定策、立温王重茂為皇太子、列府兵五万分二営屯京師、然後發喪。太子即位、是為殤帝。皇太后臨朝、温総内外兵、檢護宮省。族弟濯・播、宗子捷・璿、璿甥高崇及武延秀、分領左右屯営・羽林・飛騎・万騎。京師大恐、伝言且革命。播・璿入軍中、鞭督万騎欲立威、士怨不為用。俄而臨淄王引兵夜披玄武門入羽林、殺璿・播・崇於寢、斧関叩太極殿、后遁入飛騎営、為乱兵所殺。斬延秀・安楽公主。分捕諸韋・諸武與其支黨、悉誅之、梟后及安楽首東市。翌日、追貶為庶人、葬以一品礼。 上官昭容は、名を婉兒といい、西台侍郎の上官儀の孫である。父の上官廷芝は、上官儀とともに武后のときに死んだ。母の鄭氏は、太常少卿鄭休遠の姉であった。 婉兒始生、與母配掖廷。天性韶警、善文章。年十四、武后召見、有所制作、若素構。自通天以來、内掌詔命、掞麗可観。嘗忤旨當誅、后惜其才、止黥而不殺也。然群臣奏議及天下事皆與之。 帝即位、大被信任、進拜昭容、封鄭沛国夫人。婉兒通武三思、故詔書推右武氏、抑唐家、節愍太子不平。及舉兵、叩肅章門索婉兒、婉兒曰:「我死、當次索皇后・大家矣!」以激怒帝、帝與后挾婉兒登玄武門避之。會太子敗、乃免。婉兒勸帝侈大書館、增学士員、引大臣名儒充選。数賜宴賦詩、君臣賡和、婉兒常代帝及后・長寧安楽二主、衆篇並作、而采麗益新。又差第群臣所賦、賜金爵、故朝廷靡然成風。當時屬辭者、大抵雖浮靡、然所得皆有可観、婉兒力也。鄭卒、謚節義夫人。婉兒請降秩行服、詔起為婕妤、俄還昭容。帝即婉兒居穿沼築巖、窮飾勝趣、即引侍臣宴其所。是時、左右内職皆聽出外、不何止。婉兒與近嬖至皆営外宅、人穢夫爭候門下、肆狎昵、因以求劇職要官。與崔湜乱、遂引知政事。湜開商山道、未半、因帝遺制、虚列其功、加甄賞。韋后之敗、斬闕下。 初、鄭方妊、夢巨人畀大稱曰:「持此稱量天下。」婉兒生踰月、母戲曰:「稱量者豈爾邪?」輒啞然應。後内秉機政、符其夢云。景雲中、追復昭容、謚恵文。始、従母子王昱為拾遺、昱戒曰:「上往囚房陵、武氏得志矣、卒而中興、天命所在、不可幸也。三思雖乘釁、天下知必敗、今昭容上所信、而附之、且滅族!」鄭以責婉兒、不従。節愍誅三思、果索之、始憂懼。及草遺制、即引相王輔政。臨淄王兵起、被收。婉兒以詔草示劉幽求、幽求言之王、王不許、遂誅。開山初、裒次其文章、詔張説題篇。 睿宗肅明順聖皇后劉氏。祖父の劉徳威には、もともと伝がある。儀鳳中、帝在藩、納為孺人、俄為妃。生寧王・寿昌代国二公主。帝即位、為皇后。會帝降號皇嗣、復為妃。長寿二年、為戸婢誣與竇徳妃挾蠱道祝詛武后、並殺之宮中、葬祕莫知。景雲元年、追謚肅明皇后。 睿宗昭成順聖皇后竇氏。曾祖父の竇抗、父の竇孝諶には、もともと伝がある。 后婉淑、尤循礼則。帝為相王、納為孺人。即位、進徳妃。生玄宗及金仙・玉真二公主。與肅明同追謚、並招魂葬東都之南、肅明曰恵陵、后曰靖陵、立別廟曰儀坤以享云。帝崩、追稱皇太后、與肅明祔橋陵。后以子貴、故先祔睿宗室。肅明以開元二十年乃得祔廟。 初、太常加謚后曰「大昭成」。或言:「法宜引『聖真』冠謚、而曰『大昭成』、非也。以單言配之、應曰『聖昭』若『睿成』。以復言配之、應曰『大聖昭成』・『聖真昭成』。」又引太穆皇后始謚穆、及高祖崩、合帝謚曰太穆、追增太穆神皇后。文徳皇后始謚文徳、及太宗崩、合謚文徳聖皇后。又援范曄著漢光烈等為比。太常謂:「曄以帝號標后謚、是史家記事體、婦人非必與夫同也。入廟稱后、繋夫。在朝稱太、繋子。『文母』、生號也。『文王』、既沒謚也。周公豈以夫従婦乎?漢法不可以為據。」制曰「可」。天宝八載制詔、自太穆而下六皇后、並增上「順聖」二謚云。 玄宗皇后王氏は、同州下邽の人である。梁の冀州刺史の王神念の子孫である。帝が臨淄王となると、召されて妃となった。将清内難、預大計。先天元年、立為皇后。久無子、而武妃稍有寵、后不平、顯詆之。然撫下素有恩、終無肯譖短者。帝密欲廃后、以語姜。漏言、即死。后兄守一懼、為求厭勝、浮屠明悟教祭北斗、取霹靂木刻天地文及帝諱合佩之、曰:「後有子、與則天比。」開元十二年、事覺、帝自臨劾有状、乃制詔有司:「皇后天命不祐、華而不實、有無将之心、不可以承宗廟・母儀天下、其廃為庶人。」賜守一死。 始、后以愛弛、不自安。承間泣曰:「陛下獨不念阿忠脫紫半臂易斗麵、為生日湯餅邪?」帝憫然動容。阿忠、后呼其父仁皎云。繇是久乃廃。當時王諲作翠羽帳賦諷帝。未幾卒、以一品礼葬。後宮思慕之、帝亦悔。宝應元年、追復后號。 玄宗貞順皇后武氏は、恒安王武攸止のむすめであり、幼くして宮殿に入った。帝即位、寖得幸。時王皇后廃、故進冊恵妃、其礼秩比皇后。 初、帝在潞、趙麗妃以倡幸、有容止、善歌舞。開元初、父兄皆美官。及妃進、麗妃恩亦弛、以十四年卒、謚曰和。生太子瑛。而皇甫徳儀生鄂王、劉才人生光王、皆藩邸之舊、後愛薄、而妃乃專寵。封所生母楊鄭国夫人、弟忠国子祭酒、信祕書監。将遂立皇后、御史潘好礼上疏曰:「礼、父母讎、不共天。春秋、子不復讎、不子也。陛下欲以武氏為后、何以見天下士!妃再従叔三思也、従父延秀也、皆干紀乱常、天下共疾。夫惡木垂蔭、志士不息。盜泉飛溢、廉夫不飲。匹夫匹婦尚相擇、況天子乎?願慎選華族、稱神祇之心。春秋:宋人夏父之會、無以妾為夫人。斉桓公誓葵丘曰:『無以妾為妻。』此聖人明嫡庶之分。分定、則窺競之心息矣。今人間咸言右丞相張説欲取立后功圖復相、今太子非恵妃所生、而妃有子、若一儷宸極、則儲位将不安。古人所以諫其漸者、有以也!」遂不果立。 妃生子必秀嶷、凡二王・一主、皆不育。及生寿王、帝命寧王養外邸。又生盛王・咸宜太華二公主。後李林甫以寿王母愛、希妃意陷太子・鄂光二王、皆廃死。會妃薨、年四十餘、贈皇后及謚、葬敬陵。 玄宗元献皇后楊氏は、華州華陰の人である。曾祖父の楊士達は、隋の納言となった。天授年間、武后の母の党として、楊士達を追封して鄭王とし、父の楊知慶は太尉となった。 帝在東宮、后以景雲初入宮為良媛。時太平公主忌帝、而宮中左右持兩端、纖悉必聞。媛方娠、帝不自安、密語侍讀張説曰:「用事者不欲吾多子、奈何?」命説挾劑以入、帝於曲室自之。夢若有介而戈者環鼎三、而三盡覆。以告説、説曰:「天命也!」乃止。生男、是為肅宗。 帝即位、為貴嬪。其姊、節愍太子妃也。初、肅宗生、卜云:「不宜養。」乃命王皇后舉之。后無子、撫肅宗如所生。後又生寧親公主、乃薨。説以舊恩、故子得尚寧親。肅宗即位、至徳二載、太上皇自蜀誥有司「其議尊稱」、遂上冊謚。宝應末、祔泰陵。 玄宗貴妃楊氏は、隋の梁郡通守の楊汪の四世の孫である。徙籍蒲州、遂為永楽人。幼孤、養叔父家。始為寿王妃。開元二十四年、武恵妃薨、後廷無當帝意者。或言妃姿質天挺、宜充掖廷、遂召内禁中、異之、即為自出妃意者、丐籍女官、號「太真」、更為寿王聘韋詔訓女、而太真得幸。善歌舞、邃曉音律、且智算警穎、迎意輒悟。帝大悅、遂專房宴、宮中號「娘子」、儀體與皇后等。 天宝初、進冊貴妃。追贈父玄琰太尉・斉国公。擢叔玄珪光祿卿、宗兄銛鴻臚卿、錡侍御史、尚太華公主。主、恵妃所生、最見寵遇。而釗亦寖顯。釗、国忠也。三姊皆美劭、帝呼為姨、封韓・虢・秦三国、為夫人、出入宮掖、恩寵聲焰震天下。毎命婦入班、持盈公主等皆讓不敢就位。台省・州県奉請託、奔走期會過詔敕。四方献餉結納、門若市然。建平・信成二公主以與妃家忤、至追内封物、駙馬都尉獨孤明失官。 它日、妃以譴還銛第、比中仄、帝尚不御食、笞怒左右。高力士欲驗帝意、乃白以殿中供帳・司農酒餼百餘車送妃所、帝即以御膳分賜。力士知帝旨、是夕、請召妃還、下鑰安興坊門馳入。妃見帝、伏地謝、帝釋然、撫尉良渥。明日、諸姨上食、楽作、帝驟賜左右不可貲。由是愈見寵、賜諸姨錢歳百万為脂粉費。銛以上柱国門列戟、與錡・国忠・諸姨五家第舍聯亙、擬憲宮禁、率一堂費緡千万。見它第有勝者、輒壞復造、務以侈相夸詡、土木工不息。帝所得奇珍及貢献分賜之、使者相銜於道、五家如一。 妃毎従游幸、乘馬則力士授轡策。凡充錦繡官及冶瑑金玉者、大抵千人、奉須索、奇服祕玩、變化若神。四方爭為怪珍入貢、動駭耳目。於是嶺南節度使張九章・廣陵長史王翼以所献最、進九章銀青階、擢翼戸部侍郎、天下風靡。妃嗜荔支、必欲生致之、乃置騎伝送、走数千里、味未變已至京師。 天宝九載、妃復得譴還外第、国忠謀於吉温。温因見帝曰:「婦人過忤當死、然何惜宮中一席廣為鈇鑕地、更使外辱乎?」帝感動、輟食、詔中人張韜光賜之。妃因韜光謝帝曰:「妾有罪當万誅、然膚髪外皆上所賜、今且死、無以報。」引刀斷一繚髪奏之、曰:「以此留訣。」帝見駭惋、遽召入、礼遇如初。因又幸秦国及国忠第、賜兩家鉅万。 国忠既遙領劍南、毎十月、帝幸華清宮、五宅車騎皆従、家別為隊、隊一色、俄五家隊合、爛若万花、川谷成錦繡、国忠導以劍南旗節。遺鈿堕舄、瑟瑟璣琲、狼藉于道、香聞数十里。十載正月望夜、妃家與廣寧主僮騎爭闤門、鞭挺讙競、主堕馬、僅得去。主見帝泣、乃詔殺楊氏奴、貶駙馬都尉程昌裔官。国忠之輔政、其息昢尚万春公主、暄尚延和郡主。弟鑑尚承栄郡主。又詔為玄琰立家廟、帝自書其碑。銛・秦国早死、故韓・虢與国忠貴最久。而虢国素與国忠乱、頗為人知、不恥也。毎入謁、並驅道中、従監・侍姆百餘騎、炬蜜如晝、靚妝盈里、不施幃障、時人謂為「雄狐」。諸王子孫凡婚聘、必先因韓・虢以請、輒皆遂、至数百千金以謝。 初、安祿山有邊功、帝寵之、詔與諸姨約為兄弟、而祿山母事妃、來朝、必宴餞結歡。祿山反、以誅国忠為名、且指言妃及諸姨罪。帝欲以皇太子撫軍、因禪位、諸楊大懼、哭于廷。国忠入白妃、妃銜塊請死、帝意沮、乃止。及西幸至馬嵬、陳玄礼等以天下計誅国忠、已死、軍不解。帝遣力士問故、曰:「禍本尚在!」帝不得已、與妃訣、引而去、縊路祠下、裹尸以紫茵、瘞道側、年三十八。 帝至自蜀、道過其所、使祭之、且詔改葬。礼部侍郎李揆曰:「龍武将士以国忠負上速乱、為天下殺之。今葬妃、恐反仄自疑。」帝乃止。密遣中使者具棺槨它葬焉。啓瘞、故香囊猶在、中人以献、帝視之、悽感流涕、命工貌妃於別殿、朝夕往、必為鯁欷。 馬嵬之難、虢国與国忠妻裴柔等奔陳倉、県令率吏追之、意以為賊、棄馬走林。虢国先殺其二子、柔曰:「丐我死!」即并其女刺殺之、乃自剄、不殊、吏載置于獄、問曰:「国家乎?賊乎?」吏曰:「互有之。」乃死、瘞陳倉東郭外。 賛曰:或稱武・韋乱唐同一轍、武持久、韋亟滅、何哉?議者謂否。武后自高宗時挾天子威福、脅制四海、雖逐嗣帝、改国號、然賞罰己出、不假借群臣、僭於上而治於下、故能終天年、阽乱而不亡。韋氏乘夫、淫蒸于朝、斜封四出、政放不一、既鴆殺帝、引睿宗輔政、權去手不自知、戚地已疏、人心相挻、玄宗藉其事以撼豪英、故取若掇遺、不旋踵宗族夷丹、勢奪而事淺也。然二后遺後王戒、顧不厚哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十五下 表第十五下 『新唐書』巻七十六 列伝第一 巻七十七 列伝第二
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/141.html
*資治通鑑巻第六十 ** 漢紀五十二 ** 孝獻皇帝乙 初平二年(辛未、一九一) 1.春、正月、辛丑、天下に赦令を下した。 2.関東諸将はつぎのように議した:以って朝廷が幼沖であるため、董卓に於いて迫られ、遠く(函谷)関(桃林)塞から隔てられてしまい、関塞とは、函谷関、桃林塞のことを謂う也。存否を知らない、幽州牧の劉虞は、宗室の賢であるから、共に立てて主と為そうと欲している、と。曹操曰く:「吾等が兵を挙げ而して遠近からこの響きに応じない者が莫かった所以というのは、義を以って動いたが故にほかならない也。今幼主が微弱であって、姦臣に於いて制されているが、これは昌邑が亡国之釁を有したことに非ず(同じことではない)、昌邑、昌邑王賀のことを謂う也。而して(それなのに)一旦にして改めること易ければ(易々と改めたなら)、天下は其れ孰くにか之に安んぜんか!諸君が北面しようとも、我は自ずと西に向かわん。」幽州は北に在り、長安は西に在った、故に曹操は然るように云ったのである。韓馥、袁紹は書を以って袁術に与えて曰く:「帝は孝靈の子に非ず、欲依絳、灌誅廃少主、迎立代王故事、大司馬である劉虞を奉じて帝と為そう。」袁術は陰ながら不臣之心を有していたため、国家が長君を有することは不利であるとして、乃ち外は公義に託して以って之を拒んだ。袁紹は復たも袁術に書を与えて曰く:「今西の名には幼君が有るが、血脈之属が無い、謂帝は靈帝の子に非ずと謂うことである也。(そのうえ)公卿以下は皆事を(事えることで)董卓に媚びているのだから、安んぞ復た信ず可けんや!但だ当に兵を使って往きて関要に駐屯させるべし、皆自ずと蹙死することだろう。(そうしておいて)東に聖君を立てたなら、太平は冀う可く、何ぞ疑い有る如きであろうか!又室家(我らの家)は戮に見えたのだ、子胥を念じず(#念じないではおれない?)、伍子胥が能く父兄之讎に報いたことを謂う也。復た北面す可きでないか乎?」以って袁隗等を殺した(命令)が帝に於いて出されることに為ったことをいっている。袁術は答えて曰く:「聖主は聡叡であらせられ、周(王朝)の成(王)之質がある、賊の董卓が危乱之際に因って、百寮を威服したが、此は乃ち漢家が小厄之会にあっただけのこと、それなのに乃ち今上を『無血脈之属』だと云うなど、豈に誣としないものだろうか乎!又曰く『室家は戮に見えたのだから、復た北面す可し』とは、此は董卓が為した所である、豈に国家がなしたところだろうか哉!慺慺たらんか(この我が)赤心、志は董卓を滅ぼすに在るのだ、其の他のことなど識らんわ!」韓馥、袁紹は竟に故の楽浪太守である張岐等を遣わして齎議して劉虞に尊号のことを上させた。劉虞は張岐等に見えると、厲色して之を叱して曰く:「今天下は崩乱し、主上は塵を蒙っている、吾は重恩を被っており、未だ国の恥を清め雪ぐこと能わないでいる。諸君は各々が州郡に拠っているのだから、宜しく共に力して王室に心を尽くすべきであるのに、而して反って逆しまに謀を造り以って相垢汙とするのか邪!」固く之を拒んだ。韓馥等は又劉虞に尚書事を領して、承制封拜をおこなうよう請うたが、復たも聴きいれず、匈奴に奔らんことを欲した以って自ら(彼らとの関係を)絶とうとしたのである。(そこで)袁紹等は乃ち止めた。 3.二月、丁丑、董卓を太師とし、位は諸侯王の上にあることとした。 4.孫堅は屯(営)を梁の東に移したところ、董卓の将の徐栄に敗れる所と為った、そこで復た散卒を収めると進んで陽人に駐屯した。賢曰く:梁県は、河南郡に属する、今の汝州県である。陽人聚の故城は、梁県の西に在る。董卓は東郡太守の胡軫を遣わして歩騎五千を督させ、呂布を以って騎督と為して之を撃たせた。胡軫と呂布は相得ないなか、孫堅が出撃してきて、之を大いに破ると、其の都督華雄を梟した。或るひとが袁術に謂いて曰く:「孫堅が若し雒(洛陽)を得たなら、復た制す可からず、此は狼を除いて而して虎を得るようなことを為すことです也。」袁術は之を疑い、軍糧を運ばなかった。孫堅は夜に馳せて袁術に見えると、陽人は魯陽を去ること百余里である。地に畫して校を計って曰く:「(わたしが)身は出ずるとも顧みないことの所以は、上は国家の為に賊を討ち、為、于偽翻。下は将軍の家門がおこなう私讎を慰めんとしているのです。この孫堅は董卓と骨肉之怨みが有るのではありません也、而しながら将軍は浸潤之言を受けいれ、浸潤之譖は、論語に出ている。還って相嫌疑なさっている、何ででしょう也?」袁術は踧踖すると、不自安貌。即ち(即座に)軍糧を調発した。孫堅が屯に還ったところ、董卓が将軍の李傕を遣わして孫堅を説きにきていた、与(孫堅と)和親せんと欲しており、孫堅に子弟を刺史、郡守に任じるよう(任じてもらいたい者)疏すことを令していた、之を用いるよう上表することを許したのである。孫堅は曰く:「董卓は天に逆い無道である、今汝三族を夷して四海に懸示しなければ、則ち吾は死すとも瞑目せず、豈に将に与して乃ち和親しようか邪!」乃、汝也。復た軍を大谷に進めた、雒(洛陽/雒県)から距ること九十里である。賢曰:大谷口は、故の嵩陽の西北八十五里に在る、北に出ると雒陽故城に対する、張衡の東京賦に云う「盟津は其後ろに達し、大谷は其の前を通る」とあるのが是である也。距、至也。董卓は自ら出てくると、孫堅と諸陵の間に於いて戦った、董卓は敗走すると、澠池に卻屯し、陝に於いて兵を聚めた。孫堅は進んで雒陽に至ると、呂布を撃ち、復た破って走らせた。孫堅は乃ち宗廟を掃除し、太牢を以って祠ると、城の南にある甄官の井中に於いて伝国璽を得た。甄官署の井の中である也。晉職官志では:少府に属するものに甄官令が有る、而しながら続漢志には之が無い、蓋し他の署に於いて属されたものだろう、未だ專官を置かなかったとみえる也。甄官は、琢石、陶土之事を掌る。後に建安元年に袁術が璽を奪うことに為った張本。璽、斯氏翻。兵を分けて新安、澠池の間に出ると以って董卓への要とした。董卓は長史の劉艾に謂いて曰く:「関東の軍は何度も敗れたため矣、皆孤<わたし>を畏れていて、能く為すこと無い也。惟だ孫堅のみが小戇(小癪な奴)で、頗る能く人を用いるから、当に諸将に語って、之を忌むよう知ら使めよう。語、牛倨翻。下に同じ。孤は昔周慎と金城に於いて辺章、韓遂を西征したことがあった、孤は張温に語って、求引所将兵為慎作後駐(将いる所の兵を引きつれて周慎には後駐を作らせるよう求めたが)、張温は聴きいれなかった。張温は又孤を使って先零の叛いた羌を討たせようとした、孤は其の克てないことを知っていたが而しながら止むを得ず、遂行することにし、別部司馬の劉靖に歩騎四千を将いさせて安定に駐屯させ留めたのだが以って声勢を為そうとしたのである。叛羌は(われらの)帰る道をせんと欲したが、は、即ち截字である。孤が小撃すると輒ち開けた、これは安定に兵が有るのを畏れた故であった也。虜が謂うには安定には当に数万人がいるとしていた、但だ劉靖だけとは知らなかったのである也。而して孫堅は周慎に随い行くと、周慎に求先ず万兵を将いて金城を造らんことを求め、使って周慎には二万を以って後駐を作るよう謂った。辺章、韓遂は周慎が大兵であることを畏れ、敢えて軽んじて孫堅と戦おうなどとはせず、而して孫堅の兵は以って其の運道を断つに足るものだった。兒曹が其の言を用いたなら、涼州は或いは能く定められたろう也。張温は既に孤を用いること能わず、周慎も又孫堅を用いること能わず、卒用(用を卒して)敗走したのである。孫堅は以佐軍司馬所見略与人同、固自為可。言其才可用也。但無故従諸袁兒(但たんに故無く諸袁兒に従っているからには/諸袁兒に従う故が無い)、終には亦た死すことになろう耳!」乃ち東中郎将の董越を使って澠池に駐屯させ、中郎将の段煨を華陰に駐屯させ、中郎将の牛輔を安邑に駐屯させ、姓譜では:牛(氏)は本もとは殷から(自り)のもので、周が微子を宋に於いて封じた、其の裔で司寇であった牛父が長丘に於いて狄に敗れて、之に死したため、其の子孫は王父の字を以って氏と為したのである。其の余りの諸将を諸県に布在させると、以って山東から(の攻撃を)禦がせた。牛輔は、董卓之である也。董卓は引いて長安に還った。孫堅は諸陵を脩塞する(修繕して塞ぐと)、軍を引きつれて魯陽に還った。 5.夏、四月、董卓が長安に至ると、公卿は皆車下に迎え拝した。董卓は抵手すると御史中丞の皇甫嵩に謂いて曰く:「義真よ、怖未乎?」皇甫嵩は、字を義真という。怖は、普布翻。皇甫嵩は曰く:「明公は徳を以ってして朝廷を輔け、大慶が方じて至ったのですから、何ぞ之を怖れること有りましょう!若し刑に淫することに以って逞しくするなら、将に天下の皆が懼れることになりましょうから、豈に独り嵩のみでしょうか(怖れることになりましょうか)乎!」考異に曰く:范書の皇甫嵩伝及び山陽公載記に記してある皇甫嵩の語は此とは同じでない、今は張璠漢紀に従う。董卓の党は董卓を尊ぶこと太公に比さんとして、尚父と称しようと欲した、董卓は以って蔡邕に問うと、蔡邕は曰く:「明公には威徳がありますから、誠に為すこと巍巍たるものです、然りながら之を太公に比しますと、愚かしい意ではありますが以為<おもえらく>は未だす可きことではありません、宜しく関東を須らく平定されて、車駕を旧<もと>の京に還反なさいまして、然る後に之を議すことにいたしましょう。」董卓は乃ち止めた。董卓は司隸校尉の劉囂を使って民のなか子で不孝を為したもの、臣で不忠を為したもの、吏で不清を為したもの、弟で為すに順わなかった者について吏に籍させて、皆身は誅し、財物は官に没収することにした。是に於いて更めて相誣引しあい、更、工衡翻。冤死した者は以って千を数えることになった。百姓は囂囂として、道路では以って目くばせしあった。囂、五羔翻。韋昭曰:「不敢発言、以目相眄而已。」 6.六月、丙戌、地震があった。 7.秋、七月、司空の种拂が免じられた。光禄大夫で済南出身の淳于嘉を司空とした。太尉の趙謙が罷めた。太常の馬日磾を太尉とした。 8.かつて、何進は雲中出身の張楊を遣わして并州に還して兵を募らせていた。たまたま何進が敗れたため、張楊は上党に留まると、衆を有すること数千人となった。袁紹は河内に在ったことから、張楊は往きて之に帰すと、南単于の於扶羅に与して(と)漳水に駐屯した。濁漳水は上党の長子を出て而して東に鄴を過ぎる、鄴は則ち韓馥が居った所である也。韓馥は豪傑の多くが袁紹に帰心したことを以って、之を忌むと。陰ながら其の軍糧を貶節し、其の衆を離散させ使もうと欲した。韓馥の将である麴義が叛くに会い、姓譜では:漢に平原出身の鞠譚が有った、其の子の閟が難を避けて、改めて曰く麴氏としたのである、後に遂に西平での著姓と為った。韓馥はこれと戦い而して敗れた、袁紹は因ってこれと義を相結んだ。袁紹の客だった逢紀が袁紹に謂いて曰く:「将軍は大事を挙げんとするに而して人に資給を仰いでいます、仰、牛向翻。一州に拠らなければ、以って自ら全うすること無いでしょう。」袁紹は曰く:「冀州の兵は強い、なのに吾が士は飢え乏しい、設不能辦、無所容立。」逢紀曰く:「韓馥は庸才です、可密かに公孫瓚と要し(待ち伏せし)要、読みは曰く邀。使って冀州を取らせることにします、韓馥は必ずや駭懼するでしょうから、因って弁士を遣わして禍福を陳べることを為させれば、為、于偽翻。韓馥は迫られること倉卒に於いてでありますから、必ずや遜讓せんことを肯んずることでしょう。」袁紹は之を然りとし、即ち書を以って公孫瓚に与えた。公孫瓚は遂に兵を引きつれて而して至ると、外は董卓を討つことに託しながら而して陰では韓馥を襲わんことを謀った、韓馥はこれと戦ったが不利であった。董卓が入関するに会うと、袁紹は軍を延津に還した、続漢志では、酸棗県の北に延津が有るとしている。外甥であった陳留出身の高幹及び韓馥が親しくしている所であった潁川出身の辛評、荀諶、郭図等を使って韓馥に説かせて曰く:「公孫瓚は燕、代之卒を将いて勝ちに乗じて南にやって来ました、而して諸郡は之に応じ、其の(鋭)鋒には当たる可くもありません。袁車騎は軍を引きつれて東に向かい、河内から延津に至る、為に東に向かう。其の意は未だ量る可からざるものあります也、竊いますに将軍は之に危うきを為すでしょう!」韓馥は懼れて、曰く:「然則為之柰何?」荀諶曰く:「君は自ら仁容衆を料るに天下が附く所を為すのは、袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「危うきに望んで決を吐き、吐決とは吐奇決策を謂う也。智勇は人に過ぎること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「世に恩徳を布き、天下の家で其の恵みを受けること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」荀諶曰く:「袁氏は一時之傑であり、将軍の資のうち三つが如かざる勢いでありますからには、久しく其の上に処すなら、処、昌呂翻。彼は必ずや将軍の下に為ろうとしないでしょう也。夫れ冀州は、天下之重資であります也、彼が若し公孫瓚と并力して之を取らんとするならば、危亡は立って而して待つ可きものでしょう也。夫れ袁氏は、将軍之旧であります、且つ同盟を為していますからには、謂同盟討董卓。当今之計として、若し冀州を挙げて以って袁氏に譲られたなら、彼は必ずや将軍に徳を厚くすることでしょう、公孫瓚も亦た之と爭うこと能わないでしょう矣。是こそ将軍が讓賢之名を有して、而して身は泰山に於けるように安んずることです也。」韓馥は性は恇怯であったため、因って其の計を然りとしてしまった。恇、去王翻。韓馥の長史である耿武、別駕の閔純、治中(従事)の李歴は聞くや而して諫めて曰く:考異に曰く:九州春秋は「耿彧」と作る、今は范書、魏志、袁紀に従う。又范書では、騎都尉の沮授が諫めたとあり、李歴が無い、今は魏志、袁紀に従う。「冀州は帯甲百万、穀は十年を支えます。袁紹は孤客窮軍しており、我が鼻息を仰ぎますこと、鼻息、気一出入之頃也。鼻気嘘之則温、吸之則寒、故云然。醫書云:血為脈、気為息、脈息之名自是而分。呼吸者、気之橐籥。動応者、血之波瀾。其経以身寸度之、計十六丈二尺。一呼脈再動、一吸脈再動、呼吸定息脈五動、閏以大息則六動。一動一寸、故一息脈行六寸、十息六尺、百息六丈、二百息十二丈、七十息四丈二尺。計二百七十息、漏水下二刻尽十六丈二尺、営周一身。百刻之中得五十営。故曰脈行陽二十五度、行陰二十五度也。息者以呼吸定之、一日計一万三千五百息。呼吸進退既遲於脈、故一日一夜方行尽十六丈二尺経絡、而気周於一身、大会於風府。脈属陰、陰行速、猶太陰一月一周天。息属陽、陽行遲、猶太陽一歲一周天。如是則応天常度。「閏」、当作「間」。譬えるなら股掌之上に在る嬰兒の如きもの、其の哺乳を絶てば、餓え殺す可くも立てられましょう、柰<あなた>は何でまた州を以って之を与えようと欲するのです!」韓馥曰く:「吾は袁氏の故吏である、且つ才は本初に如かず、徳を度<はか>って而して讓るのは、度、徒洛翻。古人が貴ぶ所だ、諸君は独り何で(気に)病むのだ焉!」是に先んじて、韓馥の従事である趙浮、程渙は強弩万張を将いて孟津に駐屯していたが、先、悉薦翻。将、即亮翻。之を聞くや、兵を率いて馳せて還ってきた。時に袁紹は朝歌の清水に在ったが、水経に拠ると、清水は河内の脩武県を出て、獲嘉、汲県を巡って而して河に(于)入るもので、朝歌には至らない。惟だ淇水が則ち朝歌を巡るだけである耳。蓋し俗に亦た淇水を清水と為して呼ぶのであろう。九州春秋に拠れば、袁紹は時に朝歌の清水口に在った、趙浮等は孟津から東に下って、則ち両軍は皆大河を舟行して而して鄴に向かった也。清水口は即ち淇口である、南岸が即ち延津である。趙浮等は後に従って来た、船は数百艘、衆は万余人、兵を整え鼓して、夜に袁紹の営を過ぎたため、袁紹は甚だ之を惡んだ。惡、烏路翻。趙浮等は到ると、韓馥に謂いて曰く:「袁本初の軍には斗糧が無く、各々は已に離散しはじめております、張楊、於扶羅が新たに附いたと雖も、未だ肯用を為すこと肯えず、敵するに足りません也。小従事等(わたしたち従事ら)は請いますのは以って兵を見えて之を拒ましめんことです、見、賢遍翻。旬日之間には、必ずや(袁紹の軍は)土崩瓦解することでしょう。明将軍には但だ当に閤を開き枕を高くしておくだけです、枕、職任翻。何をか憂い何をか懼れるのです!」韓馥は又聴きいれなかった、乃ち避位すると、出て中常侍の趙忠の故舍に居し、子を遣わして印綬を送ると以って袁紹に讓った。袁紹が将に至らんとしたとき、従事十人が爭って韓馥を棄てると去ろうとしたが、独り耿武、閔純のみが刀を杖にして之を拒んで、禁ずること能わなかったため、乃ち止めた。袁紹は皆之を殺した。袁紹は遂に冀州牧を領すると、承制して韓馥を以って奮威将軍と為したが、而しながら将御する所無く、将、即亮翻。将御、猶言統御也。亦た官属も無かった。袁紹は広平出身の沮授を以って奮武将軍と為すと、広平県属鉅鹿郡。沮、千余翻、又音諸、姓也、黃帝史官沮誦之後。使って諸将を監護させ、寵遇すること甚だ厚かった。監、古銜翻。魏郡出身の審配、鉅鹿出身の田豊は並んで以って正直であったため不得志於韓馥に於いて、袁紹は田豊を以って別駕と為し、審配を治中と為し、及んで南陽出身の許攸、逢紀、潁川出身の荀諶を皆謀主と為した。袁紹は河内出身の朱漢を以って都官従事と為した。袁紹が都官従事を置いたのは、則ち猶も司隸校尉を領していたからである也。(ニセクロ注:後漢書百官志に拠ると都官従事と名づけられた従事はただ司隸校尉のみが置く従事職である。そのためこの注がある)朱漢は先に韓馥が(自分に)為した所が不礼であったため、且つ袁紹の意に徼迎せんと欲し、徼、一遙翻。兵を発して韓馥の第を囲守すると、拔刃して屋に登った、韓馥は走って樓に上った、上、時掌翻。(朱漢は)韓馥の大兒を収め得ると、その両脚を槌でうち折った。折、而設翻。袁紹は立って朱漢を収めると、之を殺した。(しかし)韓馥は猶も憂怖していたため、従って袁紹のところから索去し、怖、普布翻。索、山客翻。往きて張邈に依った。後に袁紹が使いを遣わして張邈に詣でさせてきたが、計議する所有って、張邈と耳語した。耳語、附耳而語也。韓馥は坐上に在ったが、坐、徂臥翻。謂為見図、何も無かったのだが、起って溷に至ると、書刀を以って自殺した。溷、戸困翻。圊とは也、廁のことである也。時に雖已に紙が有ったと雖も、猶も多くは刀筆を用いて書した、故に書刀を有していたのである。鮑信は曹操に謂いて曰く:「袁紹は盟主と為ったが、権に因って利を專らにし、将に自ら乱を生んでいる、是は復た一つ董卓があるということだ也。復、扶又翻。若し之を抑えんとしても、則ち力は制すること能わず、祗したとして以って遘難することだろう。遘、与構同。難、乃旦翻。且つは大河之南に規って以って其の変を待つ可きだ。」曹操は之にった。黒山、于毒、白繞、眭固等十余万が東郡を衆略するに会うと、王肱は禦ぐこと能わなかった。曹操は兵を引きつれて東郡に入ると、白繞を濮陽に於いて撃ち、之を破った。眭、息為翻。濮、博木翻。袁紹は因って曹操を上表して東郡太守と為すと、東武陽を治めさせた。東武陽県は、東郡に属する。応劭は曰く:県は武水之陽に在る。水経註に曰く:武水は即ち漯水である。賢曰く:故城が今の魏州莘県の南に在る。守、式又翻。 9.南単于が張楊を劫して以って袁紹に叛き、黎陽に於いて駐屯した。董卓は張楊を以って建義将軍、河内太守と為した。 10.太史が望気して、当に大臣で戮死する者が有るべしと言ったため。董卓は人を使って衛尉の張温が袁術に与して交わり通じていると誣させた、冬、十月、壬戌、市に於いて張温を笞殺し以って之に応じさせた。張温は西征之時に於いて董卓を斬ること能わずして、反って董卓の手に於いて死すことになった、哀れむ可きかな也巳。 11.青州黄巾が勃海を寇した、衆三十万は、黒山と合わさろうと欲した。公孫瓚は歩騎二万人を率いて東光の南に於いて逆撃し、之を大破した、斬首すること三万余級であった。賊は其の輜重を棄てて、重、直用翻。奔走して河を渡った。公孫瓚は其の半ばが之を済薄したことに因って、賊は復た大いに破られた、死者は数万、流れた血で水が丹となり、言水為之丹也。収め得た生口は七万余人、車甲財物は勝算す可からざるものがあり、威名は大いに震わされた。 12.劉虞の子の劉和は侍中と為っており、帝は東帰せんことを思うと、劉和を使って偽わって董卓から逃し、潛かに武関を出して劉虞に詣でさせ、兵を将いて來迎するよう令した。考異に曰く:范書の劉虞伝では、「劉虞は田疇を使って長安に使いさせた、時に劉和は侍中と為ると、因って遣わして武関に従い出させた。」魏志の公孫瓚伝を按ずるに、但だ天子が帰ろうと思ったと云っているだけで、因って田疇が至ったとは云っていない也。若爾、当に劉和に田疇と倶に還るよう令したのだとしたら、武関を出るのに応じなかったであろう。又田疇は未だ還っていないうちに、劉虞は已に死んでいたのである。劉虞が死んだのは初平四年冬に在った、界橋の戦は三年春に在った。范書は誤っている也。劉和は南陽に至ると、袁術は劉虞に利して援けと為そうとし、劉和を留めて遣わさず、兵を(あつめて)倶に西に至らんことを許し、劉和に書を為して劉虞に与えるよう令した。劉虞は書を得ると、数千騎を遣わして劉和に詣でさせた。公孫瓚は袁術に異志有ることを知っていたため、之を止めようとしたが、劉虞は聴きいれなかった。公孫瓚は袁術が聞いて而して之を怨みはしないかと恐れ、亦た其の従弟である公孫越に千騎を将いさせて遣わし袁術に詣でさせた、下同。而して陰ながら袁術に劉和を執らえて、其の兵を奪うよう教えた、是ゆえに劉虞、公孫瓚は有隙(関係が冷却することとなった)。劉虞は先に公孫瓚と有隙(関係が冷却しており)、是に至って而して隙は愈深(益々深まることになったのである)。劉和は袁術から逃れて北に来ると、復た袁紹の為に留められる所となった。是時関東の州、郡は務相兼并以自強大、袁紹、袁術も亦た自ら離貳した。袁術は孫堅を遣わして董卓を撃たせたが未だ返らなかったうちに、袁紹は会稽出身の周昂を以って豫州刺史と為し、孫堅の(いた)陽城を襲って奪った。陽城県は、潁川郡に属する。孫堅は豫州刺史を領して、陽城に駐屯した。孫堅は歎じて曰く:「同じく義兵を挙げたのは、将に社稷を救わんとしてのことであったのに、逆賊が垂破するや而して各々が此の若きこととなってしまった、吾は当に誰と戮力すべきなのか乎!」兵を引きつれて周昂を撃つと、之を走らせた。袁術は公孫越を遣わして孫堅をが周昂を攻めるのを助けさせたところ、公孫越が流矢の中る所と為って死んでしまった。中、竹仲翻。公孫瓚は怒って曰く:「余の弟が死んだのは禍が袁紹に於いて起ったからだ。」遂に出軍して磐河に駐屯した、上書して袁紹の罪惡を数えあげ、数、所具翻。兵を進めて袁紹を攻めた。冀州の諸城の多くが袁紹に叛いて公孫瓚に従った、袁紹は懼れて、以って佩びていた所の勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に授けると、之を郡に遣わしたが、而しながら公孫範は遂に袁紹に背いて、勃海の兵を領すると以って公孫瓚を助けた。背、蒲妹翻。公孫瓚は乃ち自ら其の将帥の厳綱を署して冀州刺史と為し、田楷を青州刺史と為し、単経を兗州刺史と為すと、単、音、姓也。姓譜:周卿士単襄公之後。又郡、県守、令の悉くを改めて置いた。初め、涿郡出身の劉備は、中山靖王之後であった也、蜀書が云うには:劉備は、中山靖王である劉勝の子であった陸城亭侯である劉貞之後である。然るに祖父以上から、世系は攷す可からざるものであった。少なきより孤りで貧しく、母と以って履を販売して業を為した、少、詩照翻。身長は七尺五寸、手を垂らすと膝の下にき、自らを顧みると其の耳を見ることができた。言其有異相也。大志を有して、語言は少なく、喜びあるいは怒っても色に於いて形とならなかった。少、詩沼翻。嘗て公孫瓚と盧植に同じく師事した、是ゆえに往きて公孫瓚に依ったのである。公孫瓚は劉備を使って田楷に与させたところ青州を徇するのに功が有ったため、因って以って平原相と為した。劉備は少なきより河東出身の関羽、涿郡出身の張飛と相友となり。少、詩照翻。関羽、張飛を以って別部司馬と為すと、部曲を分けて統めさせた。劉備と二人は寝るにも則ち(寝室)を同じくし、恩は兄弟の若きであり、而して稠人広坐、坐、徂臥翻。終日にわたり侍立して、劉備に随って周旋し、艱險を避けなかった。常山出身の趙雲が本郡の吏兵を将いて公孫瓚に詣でた、為、于偽翻。将、即亮翻。公孫瓚曰く:「聞くと貴州の人は皆袁氏を願っているとのことだが、願下当有従字。君は何でまた独り迷って而して能く反してきたのかね乎?」趙雲は曰く:「天下は、、許容翻。衆語喧嘵之貌。未だ孰れか是なるかを知りません、民に倒県之厄が有ったため、鄙州は論議しまして、仁政が在る所に従うことにしたわけで、不為忽袁公、私明将軍也。」為、劉備は見えると而して之を奇とし、深く接納を加えたため、趙雲は遂に劉備に従って平原に至ると、劉備の為に騎兵を主<つかさど>った。劉備の事は此に始まる。 13.かつて、袁術が南陽を得るや、戸口は数百万であった、而しながら袁術は奢淫肆欲して、徴斂すること度無く、斂、力贍翻。百姓は之に苦しんで、稍稍として離散していった。既に袁紹とのあいだに隙が有り(関係が冷却しており)、各々が党援を立てて以って相謀を図った。袁術は公孫瓚と結び而して袁紹は劉表と連なり、豪傑の多くが附くこと袁紹に於いてであった。(その様子に)袁術は怒って曰く:「豎不吾従而従吾家奴乎!」袁山松書に拠ると、袁紹は、司空であった袁逢の子であり、出て伯父である袁成の後となった、故に袁術は然るように云ったのである。又公孫瓚と書して曰く:「袁紹は袁氏の子に非ず。」袁紹は聞くと大怒した。袁術は孫堅を使って劉表を撃たせ、劉表は其の将である黄祖を遣わして樊、鄧之間に於いて逆戦させた、鄧県は、南陽郡に属した。樊城は、周の仲山甫之邑である、漢水の北に在る。杜佑は曰く:樊城は、今の襄州安養県である。劉曰く:鄧城県は、漢之鄧県であり、古の樊城である也:宋は改めて安養県とした。天寶元年に改めて臨漢県と為した。貞元二十一年に県を古の鄧城に移して、乃ち改めて鄧城県と為したのである。孫堅は之を撃破して、遂に襄陽を囲んだ。劉表は夜に黄祖を遣わして潛めて兵を出発させ、黄祖は兵を将いて還らんと欲して、孫堅は逆にこれと戦って、黄祖は、竄峴山中に敗走した。峴山去襄陽十里。孫堅は勝ちに乗じて、夜に黄祖を追ったところ、黄祖の部曲の兵が竹木の間に従って孫堅を暗射して、之を殺した。孫堅が孝廉に挙げた所の長沙出身の桓階が劉表に詣でて孫堅の喪を請うたところ、劉表は義として而して之を許した。孫堅の兄の子であった孫賁が其の士(を率いて袁術に就き、袁術は復た孫賁を(上)表して豫州刺史と為した。袁術は是ゆえに劉表に勝つこと能わなかったのである。 14.かつて、董卓が入関すると、朱を留めて雒陽を守らせていた、而して朱は潜かに山東諸将と通謀し、董卓に襲われる所と為ることを懼れ、荊州に出奔した。董卓は弘農出身の楊懿を以って河南尹と為したところ。朱が復た兵を引きつれて雒に還ると、楊懿を撃ち、之を走らせた。朱は河南が殘破していて資する所無いことを以って、乃ち東して中牟に駐屯すると、書を州郡に移して、董卓を討つ帥を請うた。徐州刺史の陶謙が朱のことを行車騎将軍に上(表)して、上、時掌翻。精兵三千を遣わして之を助けさせ、余りの(他の)州郡も亦た給する所有った。陶謙は、丹陽の人である。丹陽県は、丹陽郡に属する、今の潤州県である。朝廷は以って黄巾が徐州を寇乱したため、陶謙を用いて刺史と為したのである。陶謙は至るや、黄巾を撃って、大いに破って之を走らせたため、州境は晏然となったのである。 15.劉焉は益州に在って陰ながら異計を図った。沛の人である張魯は、祖父の張陵以来より世に五斗米道を為しており、張陵が即ち今で謂う所の天師というものである也。後魏寇謙之祖其道。蜀にて客居していた。張魯の母は鬼道を以ってして常に劉焉の家を往来しており、劉焉は乃ち張魯を以って督義司馬と為し、洪氏隸釋に曰く:劉焉は蜀に在って、督義司馬、助義、褒義校尉を創置した。劉表は荊州に在って、亦た綏民校尉を置いた。漢が衰えるや、諸侯は命して、率意して各々が官属を置いたのである。張脩を以って別部司馬と為すと、これと兵を合わせて漢中太守の蘇固を掩殺して、斜谷閣を断絶し、斜谷は、漢中の西北に在る、今は興元府の西北から斜谷路に入る、鳳州界に至ること百五十里、棧閣は二千九百八十九間を有し、板閣は二千八百九十二間である。郡国志に曰く:褒城県の北に褒谷が有り、北口が曰く斜で、南口が曰く褒である、長さは四百七十里、同じ一つの谷を為している。両山は高く峻しく、中間の谷道は、褒水が流れる所で、曹操は斜谷道は五百里の石穴を為したものであるというのは此であったかと謂っている也。余りは班志に拠るが、斜水は衙嶺山から出て、北は郿に至って渭(水)に入る。褒水も亦た衙嶺を出て、南は南鄭に至って沔(水)に入る、則ち褒、斜は同じ一つの谷を為すと雖も、而しながら衙嶺で乃ち其の水を分けている処なのである也。漢の使いを殺害した。劉焉は上書して言うに「米賊が道を絶ったため、復た通じるを得ません」。又他事に託して州中の豪強である王咸、李権等十余人を殺害し、以って威刑を立てた。犍為太守の任岐及び校尉の賈龍は此ゆえに兵を起こして劉焉を攻めたが、劉焉は任岐、賈龍を撃殺した。劉焉の意は漸いに盛んとなり、乗輿車具千余乗を作るようになったため、劉表は「劉焉は子夏に似て西河に在って聖人を疑うこと有る」之論を上(表)した。礼記弓:曾子責子夏曰:吾与子事夫子於洙、泗之間、退帰老於西河之上、使西河之人疑汝於夫子、而罪一也。表蓋言焉在蜀僭擬、使蜀人疑為天子也。上、時掌翻。時に劉焉の子の劉範が左中郎将と為っており、劉誕は治書御史と為っており、続漢志に曰く:治書侍御史は二人、秩六百石である、法律に明らかな者を掌選して之に為す。凡そ天下の諸讞疑事は、掌るに法律を以ってして其の是非に当たらせる。蔡質曰く:御史を高第から選んで之を補う。胡広曰く:宣帝が宣室に御幸したおり、斉居して而して決事したが、御史二人に治書するよう令した、治書御史とは此れに起こるのである。劉璋は奉車都尉と為っていて、皆帝に従って長安に在った、惟だ小子で別部司馬の劉瑁だけが素より劉焉に随っていたのである。帝は劉璋を使って劉焉を曉喩させようとしたが、劉焉は劉璋を留めると遣わさなかった。 16.公孫度の威は海外にまで行われ、中国の人士で乱を避けてきた者の多くが之に帰すことになった、北海出身の管寧、邴原、王烈は皆往くと依ったのである焉。管寧は少なき時に華歆と友と為っていた、嘗て華歆と共に菜を鋤して、地に金が有るのを見た、管寧は揮鋤して顧りみず、瓦石(を見るの)と異ならなかった、華歆は捉えて而して之を擲った、人は是を以って其の優劣を知ったのである。邴原は遠くに遊学に行き、八九年して而して帰った、師友は以って邴原が飲酒しないため、米肉をして之を送ることに会った。邴原曰く:「本より能く飲酒するのですが、但だ以って思を荒ませ業を廃れさせるため、故に之を断っていただけです耳。今当に遠く別れるにあたるわけですから、一つ飲燕するも可でしょう。」是に於いて共に坐して飲酒したが、終日しても醉わなかった。管寧、邴原は倶に操尚を以って称えられた、公孫度は館を虚しくして以って之を候した。管寧は既に公孫度に見えると、乃ち山谷に於いて廬をむすんだが、時に難を避けてくる者の多くが郡の南に居した、而しながら管寧は独り北に居し、還る志が無いことを示した、後に漸いに來て之に従った、旬月して而して邑が成った。管寧は公孫度に見える毎に、語るのは唯だ経典のみで、世事には及ばなかった。山に還ると、詩、書を講じることを専らにし、習俎豆、非学者無見也。是ゆえに公孫度は其の賢に安んじ、民は其の徳に化した。邴原は性は剛直で、清議するに以って格物したため、格、正也。公孫度は以って下心あったため之に不安となった。管寧は邴原に謂いて曰く:「潛む龍は以って徳が成るのに見えないとか。乾:初九、潛龍勿用。孔子曰:君子以成徳為行、潛之為言也、隱而未見、行而未成、是以君子弗用。言いたいのは其の時に非ざれば、皆禍い之道を招いてしまうということだ也。」密かに邴原を遣わして逃がし帰らせた、公孫度は之を聞くと、亦た復して追わせなかった也。王烈の器業は人に過ぎ、少なき時に名は聞こえること邴原、管寧之右に在った。名声所至曰聞。於教誘、郷里に牛を盗んだ者が有り、主が之を得ると、盗(人)は罪を請うて、曰く:「刑戮是れ甘きゆえ、王彦方には知らせ使めないよう乞う也!」とした王烈は、字を彦方という。王烈は聞くと而して人を使って之に謝させると、布一端を遣わした。布帛六丈を曰く端という、一に曰く八丈が曰く端であると。按ずるに古には二丈を以って端と為した。遺、于貴翻。或るひとが其の故を問うと、王烈曰く:「盗(人)は吾が其の過ちを聞くことを懼れた、是は惡を恥じるという心が有るからだ、既に惡を恥じるのを知ったのだから、則ち心が将に生じたことだろう、故に布を与えて以ってを為さんとするのを勧めたのだ也。」後に路に於いて剣を遺した(そのままにしてしまった)老父が有って、行道一人見而守之(その盗人であった男は道を一人で行っていたため落ちている剣(剣が遺されたままなの)を見ると而して、之を(誰かがもっていかないように)守った)、暮れるに至って、老父は(用事を終えて)還ってくると、尋ねて(剣を遺したままであったことに気づいて尋ねまわり)劍を得たが、之を(男がずっと道で遺されていた剣を守っていたことを)怪しみ、事を以って王烈に告げた、王烈が使って推し求めさせたところ、推、尋也。乃ち先に牛を盗んだことがあった者であった也。諸(様々な人で)訟の曲直を争うこと有る人は将に之を王烈に於いて質そうとしていたが(このことが広まると)、質、正也。或るひとは塗に至って而して反り、或るひとは廬を望んで而して還り、皆相推すに直を以ってして、推は、移である也。前書の韓延寿伝に、以って田を相移したとある。即ち此の義(意義)である也。敢えて王烈に之を(自分たちの訴訟のことを)聞かせ使もうとはしなかった。公孫度は以って長史と為そうと欲したが、王烈は之を辞すと、商賈と為って(商売を為すと)以って自らを穢し、乃ち免れたのである。 三年(壬申、一九二) 1.春、正月、丁丑、天下に(大)赦した。 2.董卓は牛輔を遣わし兵を将いさせて陝に駐屯させた、牛輔は校尉である北地出身の李傕、張掖出身の郭汜、武威出身の張済に歩騎数万を将いさせて分遣すると中牟に於いて朱儁を撃破し、傕、古岳翻。汜、音祀、又孚梵翻。因って陳留、潁川諸県を掠し(略奪し)、過ぎる所で殺虜をおこない遺されたものなど無かった。初、荀淑には孫が有った曰く(名を)彧といい、少なくして才名を有した、少、詩照翻。何顒は見えるや而して之を異として、曰く:「王佐才である也!」天下が乱れるに及び、荀彧は父老に謂いて曰く:「潁川は四戦之地です、言其地平、四面受敵。宜しく之を亟避されんことを。」郷人は多くが土(郷里の地)を懐かしんで去ること能わなかったため、荀彧は独りで宗族を率いて去ると韓馥に依ることにした。袁紹が已に韓馥の位を奪う事態に会うと、荀彧を待するに上賓之礼を以ってしたのである。しかし荀彧は袁紹を度<はか>ってみて終に大業を定めること能わないとし、度、徒洛翻。また曹操には雄略が有ると聞いたため、乃ち袁紹のところを去って曹操に従った。曹操はかれと語ると、大いに悦び、曰く:「吾が子房だ也!」といい之を張良に比したのである。以って奮武司馬と為した。曹操は初めて兵を起こすと奮武将軍と為った、故に荀彧を以って奮武司馬と為したのである。其の郷人で留まった者は、多くが李傕、郭汜等に殺される所と為った。 3.袁紹は自ら出ると公孫瓚を拒み、公孫瓚と界橋南二十里に於いて戦った。水経では:大河が瀆に右して東北へむかい鉅鹿郡広宗県の故城の南を巡る、又東北へむかい界城亭の北を巡る、又東北へむかい信都郡武強県故城の東を巡る。此が蓋し河瀆の上に於いて橋を作ったものだろう。註は又た云うに:清河の東北は界城亭の東を巡ると、水上に大梁が有る、之を界城橋と謂う。賢曰く:今の貝州宗城県の側には古の界城が有る、此の城は枯漳水に近く、界橋は当に此の水上に在ったのだろう。杜佑曰く:界橋は貝州宗城県の東に在る。公孫瓚の兵は三万、其の鋒は甚だ鋭かった。袁紹は麴義に令して精兵八百を領させると先ず登らせ、強弩千張が之を夾んで承った。公孫瓚は其の兵が少なかったため軽んじ、騎を縦にして之に騰った。麴義の兵は楯の下に伏して動かずにおり、未だ十数歩に至らずして、一時に同じく発し、讙呼は地を動かした、讙、許元翻。公孫瓚軍は大敗した。其(公孫瓚)の所置した冀州刺史の厳綱を斬り、考異に曰く:九州春秋は「劉綱」と作る。今は范書、魏志に従う。甲首千余級を獲た。追って界橋に至ると、公孫瓚は兵を斂して戦いに還ってきたが、麴義は復た之を破り、復、扶又翻。遂に公孫瓚の営に到って、其の牙門を抜くと、賢曰く:真人水鏡経に曰く:凡そ軍が出るに始まるや、必ず堅きを完うせんよう令するものだ。若し折れること有れば、将軍は不利となる。牙門旗の竿は、軍之精である也、即ち周礼の司職に云う「軍旅会同置旌門」というのが是である也。余りの衆は皆走ってしまった。初め、兗州刺史の劉岱と袁紹、公孫瓚は連和しており、袁紹は妻子に令して劉岱の所に居らせていた、公孫瓚も亦た従事の范方に騎を将いさせて遣わすと劉岱を助けた。及公孫瓚が袁紹軍を撃破するに及び、劉岱に語って袁紹の妻子を遣わすよう令し、語、牛倨翻。別に范方へ敕して:「若し劉岱が袁紹の家を遣わしてこないなら、騎を将いて還ってこい!吾は袁紹を定めてから、将に劉岱に於いて兵を加えん。」劉岱と官属は議したが、日を連ねても決まらなかった、東郡出身の程昱が智謀を有していると(劉岱は)聞いたため、召して而して之(について)を問うた。程昱曰く:「若し袁紹という近い援けを棄てて而して公孫瓚という遠い助けを求めるなら、此は越に於いて人を仮りて以って溺れた子を救わんとする説でしょうな也。言勢不能相及也。越人習水、故以為能救溺。溺、奴歷翻。夫れ公孫瓚は袁紹之敵に非ず也、今は袁紹軍を壊したと雖も、壞、音怪。然るに終には袁紹が禽える所と為るでしょうな。」劉岱は之に従った。范方は其の騎を将いて帰ったが、未だ至らずして而して公孫瓚は敗れた。 4.曹操は頓丘に軍すると、頓丘県は、東郡に属した。師古曰く:丘名を以って県とした也。丘一成為頓丘、謂うに一頓にして而して成ったからだという也。或いは曰く:成は、重である也、一重之丘ということである也。于毒等は東武陽を攻めた。曹操は兵を引きつれて西して入山し、于毒等の本屯を攻めた。于毒等は時に魏郡を掠しており、西山にて駐屯していた。諸将は皆武陽を救わんことを請うた。曹操は曰く:「使って賊に我が西していると聞かせよう而して(賊が)還ったなら、武陽(の囲み)は自ずと解けよう也。(賊が)還らなければ、我能敗其本屯、虜不能拔武陽必矣。」とすると敗、蒲邁翻。遂に行った。于毒は之を聞くと、武陽を棄てて還った。曹操は遂に眭固及び匈奴の於扶羅を内黄に於いて撃つと、内黄県は魏郡に属す。陳留に外黄が有る、故に「内」を加えるのである。皆之を大破した。 5.董卓は其の弟の董旻を以って左将軍と為し、兄の子の董璜を中軍校尉と為すと、皆兵事を典じさせた、宗族の内外は並んで朝廷に列した。董卓に侍る妾が懷抱している中子は皆封侯され、以って金紫を玩んだ。董卓の車服は天子のそれに僭擬し、三台をも召し呼び、三台は:尚書台、御史台、符節台のことである也。晉書に曰く:漢官では:尚書が中台を為し、御史が憲台を為し、謁者が外台を為した、是が謂うところの三台である。尚書以下は皆自ら董卓の府を詣でて啓事した。又郿に於いて塢を築いた、英雄記に曰く:郿は長安を去ること二百六十里。漢書では、郿の、音は媚で、地名である。高さ厚さは皆七丈、穀を積んで三十年の儲えを為し、自ら云うには:「事が成らば、天下に雄拠せん。成らずば、此を守れば以って畢老するに足る。」董卓忍於誅殺、諸将が言い語るに蹉跌する者有れば、蹉、倉何翻。跌、徒結翻。便じて前に於いて戮させたため、人は聊生しなくなった。司徒の王允は司隸校尉の黄琬、僕射の士孫瑞、尚書の楊瓚と董卓を誅することを密謀した。中郎将の呂布は、弓馬を便じ、膂力は人に過ぎた、膂、脊骨也。董卓は自ずと以って人を遇するのに無礼となり、行止は(行動するのに)常以布自、甚だ之を愛信して、誓いをして父子と為った。然るに董卓の性は剛褊であったため、嘗つて卓の意を小失すると、董卓は手戟を抜いて呂布に擲った、手戟は、小さな戟で、便於撃刺者。呂布は拳で捷して(素早く祓って)、勇力為拳、迅疾為捷。之を避け、而して容を改めて顧謝したため、董卓の意は亦た解けた。呂布は是ゆえに陰ながら董卓を<於>怨むことになった。董卓は又呂布に中閣を守ら使めたところ、而して(呂布はその)傅婢を<於>私したため、益すます自ずと安んじなくなった。王允は素より呂布を待していたため、呂布は王允に見えると、自陳卓幾見殺之状(董卓に幾ばくもなく殺される状態になっていると自ら陳べたため)、幾、居希翻。王允は因って以って誅卓之謀(董卓を誅さんとする謀のこと)を呂布に告げ、使って内応を為させようとした。呂布曰く:「父子の如ければ何ぞ(そんなことを)できようか?」(王允)曰く:「君自らの姓は呂であって、本より骨肉に非ず。今や死を憂いて暇さない(休まる時が無い)でいるのに、何ぞまた父子と謂うのか?(董卓が)戟を擲った時には、豈に(何処に)父子の情が有っただろうか邪!」というと呂布は遂に之を許した(内応することを約束した)。夏、四月、丁巳、帝は疾が新愈すること有ったため、未央殿で大会することになった。蕫卓は朝服で乘車して而して入った、魏の祕書監である秦靜は曰く:漢氏は秦が改めた六冕之制を承り、朝服には玄冠、絳衣を倶<とも>にする而已<のみ>とした。晉名では曰く五時の朝服という。四時の朝服というのが有り、又朝服というのが有る。陳兵が夾道して、営自<よ>り宮に至り、左は歩(兵)右は騎(兵)で、に駐屯して周した、、作答翻。令呂布等扞前後。王允は士孫瑞を使って自ら詔を書くと以って呂布に授けさせ、尚書僕射に自ら詔を書かせ使むのは、其が泄れることを懼れたからである也。呂布は同郡出身で騎都尉の李肅に令し考異に曰く:袁紀では「李順」と作る、今は范書、魏志に従う。勇士の秦誼、陳等十余人と偽って士の服を著わし(着用し)、著、陟略翻。北掖門内を守りながら以って蕫卓を待った。蕫卓が入門すると、李肅は戟を以って之を刺した。刺、七亦翻。下同。蕫卓は衷甲していたため、(戟の刃は)入らず、衷甲とは、内に於いて甲を被ったうえで、而して衣を甲の上に加える(重ね着する)ことをいったのである。臂を傷つけられて、車から墮ちた、顧みて大いに呼んで曰く:呼、火故翻。「呂布よいずこに在るか!」呂布曰く:「詔が有る賊臣を討てとさ!」蕫卓は大いに罵って曰く:「庸狗めが、敢えて是の如きまねをするのか邪!」呂布は(その)声に応えて矛を持って蕫卓を刺し、兵を趣かせて之を斬った。趣、読曰促。主簿の田儀及び蕫卓の倉頭が前にでて其の尸に赴いたため、呂布は又之を殺した、凡そ殺した所は三人であった。呂布は即ち懷中の詔版を出すと以って吏士に令して曰く:「詔は蕫卓を討てというだけだ耳、余りについては皆問わない。」吏士は皆正立して動かず、大いに万歳を称えた。百姓は道に於いて歌い舞い、長安中が士女で其の珠玉や衣装を売って酒肉を市し相慶びあう者たちで、填は満ち街じゅうで肆された。弟の蕫旻、蕫璜等及び宗族の老弱なもので郿に在ったものは、皆其の下に斫射する所と為って死んだ。射、而亦翻。蕫卓の尸が市に於いて曝された、暴、薄木翻、又薄報翻。天の時<季節>は熱くなり始めており、蕫卓は素より充分肥えていたため、脂が地に於いて流れた、尸を守っていた吏が大いに炷を為すと、炷、燈也、燼所著者。蕫卓の臍の中に之を然りとして置いた、光明は曙に達し、是の如きにして日を積んだ。諸々袁(家の)門生が董氏之尸<しかばね>を聚めて、焚いて灰にすると之を路に於いて揚げてしまった(ばらまいてしまった)。塢中に有ったのは金二三万斤、銀八九万斤、錦綺奇玩は積むと丘山の如しであった。王允を以って録尚書事とし、呂布は奮威将軍と為り、仮節をえて、儀は三司に比すこととなり、奮威将軍は始めは漢の元帝に於いて用任千秋為之。沈約曰く:呂布が奮武将軍と為り、儀は三司に比した、とあるのは儀同三司の猶しということである也。温侯に封じられ、温県は、河内郡に属す、周の大夫である蘇忿が生まれた邑である。共に朝政を秉すことになった。朝、直遙翻。董卓が死すや也、左中郎将で高陽侯の蔡邕は王允の坐に在ったが、高陽県は、涿郡に属する。又陳留の圉県には高陽亭が有る。坐、徂臥翻。之を聞いて驚き歎じた。王允は勃然として、之を叱して曰く:「董卓は国の大賊であって、漢室を幾亡させんとしたのだ、幾、居希翻。君は王臣と為っているのだから、疾を同じくするを宜う所であるというのに、而して其の私遇を懐かしみ、反って相傷痛した、豈に(董卓と)共に逆しまを為していないなどとできようか哉!」即ち収めて廷尉に付けた。蔡邕は謝して曰く:「身は不忠と雖も、古今の大義について、耳は厭聞とする所です、口は常に玩ぶ所のものですから、豈に当に国に背いて而して董卓を嚮したといえましょうか也!背、蒲妹翻。願わくば黥首刖足にとどめられんことを、漢史を継ぎ成したいのです。」初め、蔡邕は朔方に徙されると、徒中から上書して、続漢書諸志を乞うた、蓋し其の学ぶ所志す所とは此に在ったのである。士大夫の多くが之を矜救しようとしたが、得ること能わなかった。太尉の馬日磾は王允に謂いて曰く:「伯喈は曠世に逸才たるものです、蔡邕は、字を伯喈という。漢事について多くを識っておりまして、当に(漢の)後史を続成すれば、一代の大典と為るべきものでしょう。而しながら坐して徴に至った所で、之を誅するのなら、無乃失人望乎!」王允曰く:「昔武帝は司馬遷を殺さず、作ら使めたため謗書(誹謗の書)が後世に於いて流布することになった。賢曰く:凡そ史官が事を記すさい、惡は必ず書くものだ。司馬遷が記した所は但だ是れ漢家不之事については、皆謗りを為しただけである也、(それは)独り武帝之身を指すに非ず、即ち高祖が家令之言、武帝が算緡榷酤之類が是であると謂う也。班固は集に云う:史遷(史祖たる司馬遷は?)は書を著して一家之言を成したが、至っては以って身は刑に陥った。故に微文譏刺して、当世を貶損したのであり、義士に非ざることである也。今を方ずるに国祚は中衰しており(中途で衰えており)、中、竹仲翻。戎馬が郊に在るのだから、佞臣に筆を執るよう令す可きではない、(その佞臣が)幼主の左右に在って既に聖徳にとって益無いことになっているのだし、復た吾が党に其の訕議を蒙らせさせ使むことになる。」復、扶又翻。馬日磾は退くと而して人に告げて曰く:「王公は其れ後が無いだろう乎!人は、国之紀というもの也。制作は、国之典というもの也。紀を滅して典を廃するなど、其れ能く久しからんか乎!」蔡邕は遂に獄中で死んだ。初め、黄門侍郎の荀攸と尚書の鄭泰、侍中の种輯等は謀して曰く:「董卓は驕忍にして親無し、強兵を資していると雖も、その実は一匹夫であるのみ耳、直ちに刺殺するも可である也。」刺、七亦翻。考異に曰く:魏志は云う、「荀攸と何顒、伍瓊は謀を同じくした。」按ずるに何顒、伍瓊は死して已に久しい、恐らくは誤りであろう。事は垂就して而して(発)覚し、荀攸は収められて獄に繋がれ、鄭泰は袁術のところへ逃奔した。荀攸は言語飲食するに自若としており、董卓が死ぬのに会って、(危機から)免れるを得たのである。 6.青州黄巾が兗州を寇したため、(刺史の)劉岱は之を撃とうと欲した、済北相の鮑信は諫めて曰く:「今賊は衆百万であって、百姓は皆震え恐いており、士卒には志が無いようすです、敵す可きではありません也。然るに賊軍には輜重が無く、唯鈔略を以って資と為しているだけ、重、直用翻。今は士衆之力を蓄えるに若かず、先ず守りを固めんことを為しましょう。彼が戦わんと欲しても得られず、攻めんとして又能わざれば、其の勢いは必ずや離散しましょう、然る後に精鋭を選び、要害に拠って之を撃てば、破ることも可(能)です也。」劉岱は従わず、遂にこれと戦ったが、果たして殺される所と為った。曹操の部将であった東郡出身の陳宮は曹操に謂いて曰く:「州には今や主が無く、而して王命は断絶しています、わたくし宮は州中の綱紀を説かんことを請います、綱紀、即謂州別駕及治中諸従事也。説、輸芮翻。下同。明府には尋ね往きて之に(州に)牧たりてから、牧之、謂為州牧。之を資として以って天下を収めましょう、此が霸王之業というものです也。」宮は因って往くと別駕、治中を説いて曰く:「今天下は分裂しており而して州には主が無い。曹東郡は、命世之才です也、若し迎えて以って州に牧たりせば、必ずや生民を寧んじることでしょう。」鮑信等も亦た以って然りと為し、乃ち州吏の万潛等と東郡に至って、曹操を迎えて兗州刺史を領させた。曹操は遂に兵を進めて黄巾を寿張の東に於いて撃ったが、利がなかった。賊の衆は精悍であり、悍、下罕翻、又侯旰翻。曹操の兵は寡なく弱かったた、曹操は撫循激勵し、賞罰を明らかにして設けると、間を承して奇を設け、間、古莧翻。晝夜会戦した、戦っては輒ち禽獲あったため、賊は遂に退走した。鮑信は戦死し、曹操は其の喪を購い求めたが得られず、乃ち木を刻んで鮑信の状の如きとし、祭って而して哭した焉。京兆出身の金尚を以って兗州刺史と為し、将之に部(するもの)を将いらせるようにと詔あったが、曹操は之を逆撃したため、金尚は袁術のところに奔った。後に為すことだが建安二年に金尚は袁術に於いて屈しなかった張本。 7.五月、大赦があった。征西将軍の皇甫嵩を以って車騎将軍と為した。 8.かつて、呂布は王允に勧めて董卓の部曲を尽く殺そうとしたが、王允曰く:「此の輩には罪は無い、不可である。」としたため呂布は董卓の財物を以って公卿、将校に班賜したいと欲したが、王允は又従わなかった。王允は素より劍客を以って呂布を遇しており、呂布は其の功労を負っていたため、多く自ずと(董卓を)伐したことを誇ることになった、既に意望を失ったため、漸いに相平らかでなくなった。王允は性が剛稜であって惡を疾んでいた、余りで稜と謂うのは、方稜ということである也。剛稜というのは、猶も剛方なことを言う。初め董卓を懼れていたため、故に之が下に節を折ったのである。董卓が既に殲滅されてしまうと、自ずと復た難を患うことは無いと謂い、自ずと頗る驕傲となった、以是下不甚附之。王允は始め士孫瑞と議したとき、特に詔を下して董卓の部曲を赦すようにしてはどうかとなった、既に而して疑って曰く:「部曲は其の主に従っただけのこと耳。(主に従ったことを罪として)今若し之を惡逆と名づけてそのうえで而して之を赦すというのでは、恐らくは自ずと疑いを深くさせ使むに適ってしまうだろうから、以って之を安んずる所に非ざるものだ也。」として乃ち止めてしまった。又悉く其の軍を罷めるよう議したところ、或るひとが王允に説いて曰く:「涼州の人は素より袁氏を憚り而して関東を畏れていました、今若し一旦兵を解いて関を開けば、必ずや人人は自ずと危うくなることでしょう。皇甫義真どのを以って将軍と為して、其の衆を就領させ、因って陝に留まらせ使めて以って之を安撫させる可きです。」王允曰く:「然らず。関東で義兵を挙げたところの者たちは、皆吾が徒である也、今若し險を距って陝に駐屯すれば、涼州は安んじると雖も、而して関東之心を疑わせてしまう、不可である也。」陝、失冉翻。時に百姓が訛言して当に涼州人は悉く誅されてしまうとしたため、董卓の故の将校らは遂に轉じて相恐れ動き(動揺し)、皆兵を擁して自ら守り、更めて相謂いあって曰く:「蔡伯喈は但たんに董公が親しく厚くしたことを以って尚も従坐したのだ。今既に我曹を赦さず而して解兵せ使めんと欲している、今日兵を解いたなら、明日には当に復た魚肉と為るべきことだろう矣。」呂布は李肅を使って陝に至らせると、詔を以って牛輔を誅するよう命じた、牛輔等は逆らって李肅と戦い、李肅は敗れて、弘農に走ったため、呂布が之を誅殺した。牛輔は恇怯して守りを失い、営中にて故も無く自ら(勝手に)驚くに会った、牛輔は走らんと欲し、左右に殺される所と為った。李傕等は(陝に)還ってくると、傕等自陳留、潁川還也。牛輔は已に死んでしまっていた、李傕等は依る所も無く、使いを遣わして長安に詣でさせると赦しを求めた。王允曰く:「一歳に再赦するのは不可である。」として許さなかった。李傕等は益々懼れ、為す所も知らず、各々解散して、間行して郷里に帰ろうと欲したところ、間、古莧翻。討虜校尉で武威出身の賈詡が曰く:「諸君が若し軍を棄てて単行するなら、則ち一亭長でも能く君を束ねることだろう矣。長、知両翻。相率いて而して西するに如かず、以って長安を攻めて、董公の為に報仇せん、為、于偽翻。事が済んだなら、国家を奉じて以って天下を正そう。若し其が合わずば、不合とは、事が済まなかったことを謂う、本々の計とは合わなかったということである也。走ったとしても未だ晩(遅い)ということにはならないだろう也。」李傕等は之を然りとすると、乃ち相与して盟を結び、軍を率いること数千、晨夜(昼夜分かたず)西行した。王允は以って胡文才、楊整脩が皆涼州の大人であったことから、賢曰く:大人とは、大家豪右のことを謂う。又曰く:大人とは、長老之称で、之を尊んだ事を言う也。召すと使って東させ、之を解釋させようとしたが、温顔を以って仮借することもなく、謂いて曰く:「関東の鼠子は、何をか為さんと欲しているのだ邪?卿らは往きて之を呼びつけたまえ!」是に於いて二人は往くや、その実は兵を召して而して還ってくることになったのである。李傕は道に随って兵を収めてきたため、比して長安に至ると、比、必寐翻、及也。已に十余万となっており、董卓の故の部曲である樊稠、李蒙等と合わさって長安城を囲んだ、城は峻しく攻めるに不可であったため、之を守ること八日となった。考異に曰く:魏志は十日と云う、今は范書に従う。呂布軍に有った叟兵が内で反して、賢曰く:叟兵とは即ち蜀兵のことである也。漢代には蜀は叟と為したと謂う。六月、戊午、李傕の衆を引きこみ城に入れた、放たれた兵は虜掠した。呂布はこれらと城中で戦ったが、勝てず、数百騎を将いて以って董卓の頭を馬の鞍に繋ぐと出て走った、青瑣門の外で馬を駐めると、瓘曰く:青瑣とは、戸の辺が青鏤であったからである也。一に曰く:天子の門内は眉格再重を有す、裏は青畫するため曰く瑣である。王允を招いて同じくして去ろうとした。王允曰く:「若し社稷之靈を蒙ったなら、上は国家を安んじるのが、吾之願いであった也。其が獲られない如きなれば、則ち身を奉って以って之に死なん。朝廷は幼少であらせられ、朝廷とは、天子のことを謂う也。我を恃んでいる而已<のみ>である、難に臨んで茍免するのは、吾の忍ばぬところである也。難、乃旦翻。力に努めたまえ関東諸公に謝してくれ、勤んで以って国家の為に念じてくれと!」太常の种拂曰く:「国の為の大臣であるからには、不能禁暴禦侮、使白刃向宮、去将安之!」遂に戦って而して死んだ。李傕、郭汜は南宮掖門に駐屯し、太僕の魯馗、馗、音逵。大鴻臚の周奐、臚、陵如翻。城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎を殺し、頎、音祈。吏民で死んだ者は万余人となり、狼籍は道に満ちた。王允は帝を扶<たす>けて宣平門に上り兵を避けた、三輔黄図に曰く:長安城の東面にある北頭門は宣平門と号する。上、時掌翻。李傕等は城門に於いて下がって地に伏せて叩頭したため、帝は李傕等に謂いて曰く:「卿等は兵を放って縦横しているが、何をか為さんと欲しているのだ乎?」橫、戸孟翻。李傕等は曰く:「(われらが)董卓(さま)は陛下に於いて忠でありましたのに、而しながら故無く呂布に殺される所と為りました、臣等は董卓(さま)の為に報讎せんとしているのでして、為、于偽翻。敢えて逆しまを為そうとしているのではありません也。事が畢わったなら廷尉に詣でて罪を受けんことを請います。」李傕等は門樓を囲むと、共に(上)表して司徒の王允が出てくるように請い、「太師に何ぞ罪あったか?」と問うたため王允は窮蹙して、乃ち下りて之に見えた。己未、天下に赦すと、李傕を以って揚武将軍と為し、郭汜を揚烈将軍と為し、揚武将軍は建武之初めに於いて始まった、馬成が之に為った。揚烈将軍は蓋し是時に於いて始まったのだろう。樊稠等は皆中郎将と為った。李傕等は司隸校尉の黄琬を収めると、之を殺した【章:甲十一行本「殺」上有「下獄」二字。乙十一行本同。】。初め、王允は同郡出身の宋翼を以って左馮翊と為し、王宏を右扶風と為していた、王允は、太原の人である。李傕等は王允を殺したいと欲していたが、二郡が患いを為すことを恐れて、乃ち先ず宋翼、王宏を徴した。王宏は使いを遣わして宋翼に謂いて曰く:「郭汜、李傕は我ら二人が外に在ることを以って、故に未だ王公を危うくしないでいるのだ、危、謂殺也。今日徴に就いたなら、明日には倶に族(滅)されていよう、計将安出?」宋翼曰く:「禍福は量るに難いと雖も、量、音良。然るに王命である、避けるのは得られない所だ也!」王宏曰く:「関東では義兵で鼎が沸きたつようで、董卓を誅そうと欲していた、今や董卓は已に死んでおり、其党は与易制(制するに与し易い)耳。易、以豉翻。挙兵して共に李傕等を討つにあたり、山東に与して相応じるが若きならん、此が禍を転じて福を為す計というものだろう也。」宋翼が従わなかったため、王宏は独立すること能わず、遂に倶に徴に就いた。甲子、李傕は王允及び宋翼、王宏を収めると、之を并殺した。王允の妻子も皆死んだ。王宏は命に臨んで詬して曰く:詬、許候翻、又古候翻、怒って罵しること也。「宋翼は豎儒でしかなく、大計を議すに不足だった!」賢曰:豎者とは、賤劣にして僮豎が如きを言う。李傕は王允を市に於いて尸としたが、敢えて収めようとする者とて莫かったため、故吏で平陵令であった京兆出身の趙戩が官を棄てて(王允の尸を)収めると而して之を葬った。戩、子踐翻。始め、王允は自ら董卓を討ったという労を専らにし、士孫瑞はその功を(王允に)帰して侯としなかった、故に(士孫瑞は)難に於いて免れるを得たのである。難、乃旦翻。臣光(※この資治通鑑の著者である司馬光)は曰く:易は称える「労謙君子有終吉」と、易繫辞曰:労而不伐、有功而不徳、厚之至也。語以其功下人者也。徳言盛、礼言恭。謙也者、致恭以存其位者也。程頤註曰:有労而能謙、又須君子行之、有終則吉。夫楽高喜勝、人之常情。平時能謙、固已鮮矣、況有功労可尊乎!雖使知謙之、勉而為之、若矜負之心不忘、則不能常久、欲其有終不可得也。惟君子安履謙順、故久而不変、乃所謂有終則吉也。士孫瑞は功を有するも伐せられず、以って其の身を保った、可不謂之智乎(之を智と謂わない可きであろうか)! 9.李傕等は賈詡を以って左馮翊と為し、之を侯としようと欲したが、賈詡曰く:「此は救命之計です、何の功を有するのでしょう!」として固辞して受けなかった。又以って尚書僕射と為そうとしたが、賈詡曰く:「尚書僕射は、官之師長で、長、知両翻。天下が所望するもの、この賈詡の名は素より重くないのですから、以って人が服する所に非ざることでしょう也。」として乃ち以って尚書と為った。 10.呂布は武関自り南陽に奔ると、袁術は之を待遇すること甚だ厚かった。呂布は自ずと袁氏に於いて功を有することを恃むようになり、謂殺董卓為袁氏報仇也。兵を恣にして鈔掠した。鈔、楚交翻。袁術は之に患い、呂布は自ずと安んじなくなったため、去って河内に於いて張楊に従うことになった。李傕等は呂布を購い求めること急であったため、呂布は又逃げて袁紹のところに帰した。 11.丙子、前将軍の趙謙を以って司徒と為した。 12.秋、七月、庚子、太尉の馬日磾を以って太傅と為し、録尚書事とした。磾、丁奚翻。八月、車騎将軍の皇甫嵩を以って太尉と為した。 13.詔あって太傅の馬日磾、太僕の趙岐が杖節して関東を鎮撫することになった。 14.九月、李傕を以って車騎将軍、領司隸校尉、仮節と為した。郭汜は後将軍と為り、樊稠は右将軍と為り、張済は驃騎将軍と為り、皆侯に封じられた。驃、匹妙翻。李傕、郭汜、樊稠は朝政を筦することになり、筦、与管同。張済は(外に)出て弘農に駐屯することになった。 15.司徒の趙謙が罷めた。 16.甲申、司空の淳于嘉を以って司徒と為し、光祿大夫の楊彪は司空、録尚書事と為った。 17.かつて、董卓は入関すると、韓遂、馬騰を説いてかれらと共に山東を図ろうとし、説、輸芮翻。韓遂、馬騰は衆を率いて長安に詣でた。董卓が死ぬに会うと、李傕等は以って韓遂を鎮西将軍と為して、遣わすと金城に還させ。馬騰を征西将軍と為して、遺して郿に駐屯させた。晉書の職官志に曰く:四征は漢代に於いて起った、四鎮通於柔遠。 18.冬、十月、荊州刺史の劉表が使いを遣わしてきて貢獻してきた。そこで以って劉表を鎮南将軍荊州牧と為し、成武侯に封じた。成武県は、前漢では山陽郡に属しており、後漢では済陰郡に属している。 19.十二月、太尉の皇甫嵩が免じられ、光祿大夫の周忠を以って太尉と為すと、録尚書事に参じさせた。 20.曹操は黄巾を追って済北に至ると、之を悉く降し、済、子礼翻。降、戶江翻。戎卒三十余万、男女百余万口を得たため、其の精鋭である者を収めて、青州兵と号した。降る所の者は青州黄巾であった也、故に青州兵と号したのである。曹操は陳留出身の毛玠を辟招して治中従事と為したところ、毛玠は曹操に於いて言いて曰く:「今や天下は分崩しておい、乘輿は播蕩をうけ、生民は廃業してしまい、饑饉あって流亡し、公家には経歳之儲けが無く、百姓には安固之志が無く、以って持久するに難いものあります。夫れ兵が義なる者は勝ち、魏相が嘗て引いたのは是言である。位を守るには財を以ってするものです、易大伝に曰く:何をか以って人を聚めんか、曰く財である。何をか以って位を守らんか、曰く仁である。宜しく天子を奉じて以って臣ならざるに令し、脩め耕し植えることで以って軍資を蓄える、操之所以芟雄者、在迎天子都許、屯田積穀而巳。二事乃玠発其謀也。此の如きなれば、則ち霸王之業も成る可きことでしょう也。」曹操は其の言を納れると、使いを遣わして河内太守の張楊に詣でさせた、塗<みち>を仮してもらって西して長安に至ろうと欲したのである。張楊は聴きいれなかった。定陶出身の董昭は張楊に説いて曰く:説、輸芮翻。「袁、曹は一家を為すと雖も、勢いからして久しくすることないでしょう。曹は今は弱いと雖も、然るに実に天下之英雄というものです也、当に故して之と結ぶべきです。故というのは、結交之因ということである也、事に因って而して之と結ぶことを謂う。況んや今や縁が有るわけですから、宜しく其の上事を通じさせ、上、時掌翻。下同。并表して之を薦めておきましょう、若し事が成ること有るなら、深分を永く為すことになりましょう。」分、扶問翻、契分也。張楊は是に於いて曹操の上事を通じさせ、仍ち表して(朝廷に)曹操を薦めた。董昭は曹操の為に書を作って李傕、郭汜等に与えたが、為、于偽翻。それには各々の軽重に随って殷勤を致したのである。李傕、郭汜は曹操の使いに見えると、以為<おもえらく>関東は自ら天子を立てんと欲しているのだから、今曹操が使命を有すると言えども、其は誠実に非ざるとして、使、疏吏翻。曹操の使いを留めんことを議した。黄門侍郎の鍾繇は李傕、郭汜を説いて曰く:「今を方じますに英雄が並び起ち、各々が命を矯めて制を専らにしています、唯だ曹兗州のみが乃ち王室に心よせているだけですのに、而して其の忠款にたいして逆なことをすれば、将來之望に副える所以に非ずというものです也!」李傕、郭汜は乃ち厚く加えて報答した。当に是時、董昭は河内に在り、鍾繇は長安に在って、曹操が使うこと能わざるものであった操也、而しながら各々は曹操の為に地に道した、蓋し其の雄略を聞き、先ず效用を為して以って自ら結ばんとしたのである也。鍾繇は、鍾皓の曾孫である也。鍾皓見五十三巻桓帝建和三年。 21.徐州刺史の陶謙が諸守相と共に奏記し、朱儁を推して太師と為そうとし、守、式又翻。相、悉亮翻。因って檄を牧伯に移して、以って同じくして李傕等を討ち、天子を奉迎しようと欲した。李傕は太尉の周忠、尚書の賈詡の策を用いて、朱儁を入朝するようにと徴するに会ったため、朱儁は乃ち陶謙の議を辞して而して徴に就き、太僕に復為した。 22.公孫瓚は復たも兵を遣わして袁紹を撃とうとし、龍湊に至ったところ、龍湊は、地名である、平原の界(境界線)に在る。漢晉春秋では袁紹が公孫瓚に与えた書を載せており曰く:「龍河之師、羸兵前誘、大兵未済、而足下膽破衆散、不鼓而敗。」とあるから則ち龍湊は蓋し河の津であるのだろう也。袁紹の書を詳しく味わうと、龍湊は勃海界に在ると宜べている。又袁譚は龍湊に軍したところ、曹操が之を攻めて、平原を抜いたため、走って南皮を保ったとあるから、蓋し平原界に在ったことになろう也。復、扶又翻。下同。袁紹は之を撃破した。公孫瓚は遂に幽州に還ると、敢えて復た出ようとはしなかった。 23.揚州刺史で汝南出身の陳温が卒すると、袁紹は袁遺に揚州を領せ使まそうとした。袁術が之を撃破したため、遺走して沛に至り、兵に殺される所と為った。袁術は下邳出身の陳瑀を以って揚州刺史と為した。考異に曰く:獻帝紀では、「四年、三月、袁術は陳温を殺し、淮南に拠った。」とあり魏志の袁術伝が云うには:「袁術は陳温を殺して、其の州を領した。」とある裴松之が按ずるには:英雄記では、陳温が病死していること自り、袁術に殺される所と為らなかった。九州春秋は曰く:「初平三年、揚州刺史の陳禕が死んだため、袁術は以って陳瑀に揚州を領させた。」とある蓋し陳禕は当に陳温と為すべきもので、実は以って三年に卒したのであろう、今は之に従う。 四年(癸酉、一九三) 1.春、正月、甲寅朔、日食が有った。 2.丁卯、天下に赦した。考異に曰く:袁紀では、五月丁卯に赦したとある。今は范書に従う。 連破之。術走九江、揚州剌史陳瑀拒術不納。術退保陰陵、集兵於淮北、復進向壽春。瑀懼、走歸下邳、術遂領其州、兼稱徐州伯。李傕欲結術爲援、以術爲左將軍、封陽翟侯、假節。 3.曹操は甄城に軍していた。袁術は劉表が逼る所を為したため、兵を引きつれて封丘に駐屯したところ、黒山の別部及び匈奴の於扶羅が皆之に附いた。曹操は袁術軍を撃破し、遂に封丘を囲んだ。袁術は襄邑に走り、又寧陵に走った。曹操は追撃すると、之を連破した。袁術は九江に走ったが、揚州刺史の陳瑀は袁術を拒んで納れなかった。袁術は退いて陰陵を保つと、兵を淮北に於いて集め、復た進んで寿春に向かった。陰陵、寿春の二県は、皆九江郡に属する。寿春は、揚州刺史の治所である。復、扶又翻。陳瑀は懼れ、走って下邳に帰ったため、袁術は遂に其の州を領し、徐州伯を兼称した。李傕は袁術と結んで援けと為そうと欲し、袁術を以って左将軍と為し、陽翟侯に封じて、陽翟県は、潁川郡に属する。仮節をあたえた(節を仮した)。 4.袁紹は公孫瓚が所置した青州刺史の田楷と連戦すること二年、士卒は疲れ困じ、糧食は並んで尽き、百姓を互いに掠したため、野には青草とて無かった。袁紹は其の子袁譚を以って青州刺史と為し、田楷はこれと戦ったが、勝てなかった。趙岐が関東へ和解させに来たことに会い、公孫瓚は乃ち袁紹と和親し、各々は兵を引きつれて去ることになった。 5.三月、袁紹は薄落津に在った。続漢志では、安平国の経県の西に漳水津が有って、薄落津という名になっている。鉅鹿郡の癭陶県には薄落亭が有る。水経註では、漳水は鉅鹿県の故城の西を巡る、その水には故の津が有る、之を薄落津と謂うとのことである。魏郡の兵が反して、黒山賊の于毒等数万人と共に鄴城を覆すと、其の太守を殺した。袁紹は還って斥丘に駐屯した。斥丘県は、鉅鹿郡に属する。賢曰く:故城は今の相州成安県東南に在る。十三州志に云うには:土地は斥鹵であったため、故に斥丘と云うのである。 6.夏、曹操は軍を定陶に還した。 7.徐州の治中(従事)であった東海出身の王朗及び別駕で琅邪出身の趙昱は刺史の陶謙に説いて曰く:「諸侯を求めるには勤王に如くは莫いでしょう、左伝にある晉大夫孤偃之言である。説、輸芮翻。今天子が西京に越在しておりますから、宜しく使いを遣わして奉貢されんことを。」陶謙は乃ち趙昱を遣わして章を奉じさせるため長安に至らせた。詔あって陶謙を拝して徐州牧とし、安東将軍が加えられ、溧陽侯に封じられた。溧陽県は丹陽郡に属する。以って趙昱は広陵太守と為り、王朗は会稽太守と為った。是時、徐方の百姓は殷盛であり(甚だ盛んとなっており)、古語では多くが州のことを為して方と謂った、故の八州八伯は之を方伯と謂う。書に曰く「惟此陶唐、有此冀方」、詩に曰く「徐方不庭」というのが是である也。穀は実ること差豊であったため、流民の多くが之に帰した。而して陶謙は讒邪を信用し、忠直を疏遠としたため、遠、于願翻。刑政は治まらず、是ゆえに徐州は漸乱した(次第に乱れることになった)。許劭が地を広陵に避けてきた(避難先の地として広陵にやってきた)、陶謙は之を礼すること甚だ厚かったが、許劭は其の徒に告げて曰く:「陶恭祖は外づらは声名を慕っているが、内では真には正しからず、陶謙、字恭祖。吾を待(遇)すること厚いと雖も、其の勢いは必ずや薄くならん。」として遂に之から去っていった。後に陶謙は果たして諸寓士を捕らえることになったため、人は乃ち(許劭の)其の先識(先見の明)に服したのである。 8.六月、扶風に大雨雹があった。雨、于具翻。 9.華山が崩れ裂けた。華、戶化翻。 10.太尉の周忠が免じられ、太僕の朱儁を以って太尉と為し、録尚書事とした。 11.下邳(出身)の闕宣は衆数千人を聚めると、賢曰く:風俗通に曰く:闕とは、姓である也、闕党童子之後を承ったのである。縱橫家に闕子が有り書を著した。天子を自称した。陶謙は之を撃殺した。考異に曰く:范書の陶謙伝では「閻宣」と作る。今は魏志の武紀及び陶謙伝に従う。魏武紀にも又た曰く:「陶謙と闕宣は挙兵を共にし、泰山の華、費を取って、任城を掠した。」陶謙伝も亦た云う:「陶謙は始めにこれと合従し、後には遂に之を殺して、其の衆を并した。」按ずるに陶謙は徐州を有してそれに拠っており、義に託して勤王せんとしたのだ、何でまた闕宣の数千之衆に藉して而して之に与して合従したということがあろうか!蓋し陶謙の別将が闕宣と共に曹嵩を襲ったのだろう、故に曹操は此を以って陶謙の罪と為して而して之を伐しただけである耳。 12.大雨があり、昼夜わたること二十余日、民居が漂沒することになった。 13.袁紹は出軍して朝歌の鹿腸山に入り、于毒を討った、囲み攻めること五日、之を破ると、于毒及び其の衆万余級を斬った。袁紹は遂に山を尋ねて北に行き、進んで諸賊の左髭丈八等を撃つと、皆之を斬った。又劉石、青牛角、黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根等を撃つと、復た斬ること数万級であり、皆其の屯壁を屠ってしまった。遂に黒山賊の張燕及び四営屠各、鴈門烏桓と常山に於いて戦った。張燕の精兵は万を数え、騎は千匹を数えた。袁紹と呂布は張燕を共撃して、連戦すること十余日、張燕の兵は死傷すること多かったと雖も、袁紹軍も亦た疲れたため、遂に倶に退くことになった。呂布の将士は多くが暴橫であったため、袁紹は之に患わされ、呂布は因って雒陽に還らんことを求めた。袁紹は承制して以って呂布をして司隸校尉を領させると、壮士を遣わして呂布を送らせ、而して陰ながら之を図った。呂布は人を使って帳の中で鼓箏させると、説文では:箏は、楽である也、鼓絃にして竹身である。十三絃であり、蒙恬が造る所である。一説には:秦人は義が薄く、父子は瑟を争って而して之を分けたため、因って以って名と為したのであるという。按ずるに箏制は瑟と同じである、瑟は二十五絃であり而して箏は十三絃である、故に然るように云ったのである。風俗通では:箏は、秦声で、五絃、筑身である。箏者は、上は天を圓象するという、下平象地、中空準六合、絃柱十二擬十二月、乃仁智之器也。今并、涼二州箏形如瑟、不知誰改也。釋名:箏、施絃高、箏箏然、音爭。密かに亡去した、送った者は夜起きると、帳<とばり>を斫<こわ>し皆壊れるを被った。明くる旦、袁紹は呂布が尚も在ることを聞き、懼れると、城を閉じて自ら守った。呂布は軍を引きつれて張楊のところに復帰した。 14前太尉曹嵩避難在琅邪、其子操令泰山太守應邵迎之。嵩輜重百餘兩、陶謙別將守陰平、士卒利嵩財寶、掩襲嵩於華、費間、殺之、並少子德。秋、操引兵撃謙、攻拔十餘城、至彭城、大戰、謙兵敗、走保郯。初、京、雒遭董卓之亂、民流移東出、多依徐土、遇操至、坑殺男女數十萬口於泗水、水爲不流。操攻郯不能克、乃去、攻取應、睢陵、夏丘、皆暑之、雞犬亦盡、墟邑無復行人。 14.前の太尉の曹嵩は難を避けて琅邪に在った、難、乃旦翻。其の子の曹操が泰山太守の応劭に之を迎えるよう令した。曹嵩の輜重は百余両となっており、陶謙の別将が陰平を守っており、士卒は曹嵩の財寶を利そうとして、曹嵩を華、費の間に於いて掩襲すると、之を殺した、曹操は兵を引きつれて陶謙を撃ち、十余城を攻め抜くと、彭城に至って、大いに戦った、陶謙の兵は敗れ、走って郯を保つことになった。初、京、雒は董卓之乱に遭って、民は流れ移ること東に出て、多くが徐土に依った、曹操が至るに遇って、男女数十万口が泗水に於いて坑殺され、水は為に流れなかった。曹操は郯を攻めたが克つこと能わず、乃ち去ると、取慮、睢陵、夏丘を攻め、三県皆属下邳国。皆之を屠ったため、雞犬も亦た尽き、墟邑(廃墟となった邑)には行きかう人が復することとて無くなったのである。 15.冬、十月、辛丑、京師に地震があった。 16.天市にて星が孛すこと有った。孛、蒲內翻。 17.司空の楊彪が免じられ。丙午、太常の趙温を以って司空と為し、録尚書事とした。 18.劉虞と公孫瓚は相能くしないこと積みましていった、公孫瓚が何度も袁紹と相攻めあったため、数、所角翻。下同。劉虞は之を禁じたが、できなかったため<不可>、而して其の稟仮を稍節した。公孫瓚は怒り、節度を屢違すると、又復たも百姓を侵犯した。劉虞は制すること能わず、乃ち驛使を遣わして章を奉じると其の暴掠之罪を陳べたため、公孫瓚も亦た劉虞が糧を稟して周しないでいる(からだ)と上(表)した。上、時掌翻。(劉虞と公孫瓚の)二奏が交馳し、互いに相毀<こわ>すこと非ざるものであったため、朝廷は違いに依った而已<のみ>であった(劉虞からの奏上には劉虞に都合よいように対応し、公孫瓚からの奏上には公孫瓚に都合よいように対応するだけとして、それぞれの利害の調整や矛盾に対処しようとはしなかった)。依違(違いに依る)とは、甲の奏上は則ち甲に依って而して乙と違えたものとし、乙の奏上は則ち乙に依って而して甲と違えたものとして、決然之是非が無いことを言う也。公孫瓚は乃ち小城を薊城の東南に築くと以って之に居したため、薊県、属広陽国、幽州牧所治也。薊、音計。劉虞は何度も会わんことを請うたが、公孫瓚は輒ち病と称して応じなかった。劉虞は其が終に乱を為すことを恐れ、乃ち所部している兵を合わせて十万人を率いると以って之を討たんとした。時に公孫瓚の部曲は放たれ散って外に在ったため、(公孫瓚は)倉卒として城の東を掘ってそこから走らんと欲した。卒、与猝同。劉虞の兵は伍を部すること無く、戦を習っていなかった、又民の廬舍を愛して、敕して焚燒することを聴きいれず、軍士を戒めて曰く:「余人は傷つけること無かれ、殺すのはただ伯珪一人而已<のみ>とせよ。」としたため公孫瓚は、字を伯珪という。(城を)攻め囲んだが下せなかった。公孫瓚は乃ち鋭い士数百人簡募すると(選り抜いて募ると)、風に因って火を縦とし、直ちに之に衝突したため、劉虞の衆は大いに潰えることになった。劉虞と官属は北して居庸に奔ったが、居庸県は、上谷郡に属する。胡嶠曰く:幽州自り西北へむかうと居庸関に入る。宋祁曰く:唐(代)の媯州懷戎県の東南五十里には居庸塞が有る、東は盧龍、碣石に連なり、西は太行、常山に属する、実に天下之險というものである。公孫瓚は之を追って攻めること、三日、城が陷ちたため、劉虞と并妻子を執らえて薊に還ったが、猶も使って州の文書を領させていた。会するに詔あって使者の段訓が遣わされてきたがそれは劉虞の封邑を増し、督六州事とすること。公孫瓚を拝して前将軍とし、易侯に封ずるということであった。易県は、前漢のころは涿郡に属していた、後漢では省かれていた。公孫瓚は乃ち劉虞は前に袁紹等に与して尊号を称そうと謀ったと誣し、段訓を脅して劉虞及び妻子を薊の市に於いて斬った(斬らせた)。故の常山相であった孫瑾、掾の張逸、張瓚等は相与して劉虞に就き、公孫瓚を罵って口を極め、然る後に死を同じくした。公孫瓚は劉虞の首を京師に於いて伝えようとしたが、故吏の尾敦が路に於いて劉虞の首を劫してきて、之を帰葬した。賢曰く:尾は、姓。敦が、名である。余が按ずるに古に尾生というものが有った。劉虞は以って恩厚かったため衆心を得ており、北州の百姓で幽州に流入してきたものや旧<もと>は籍を幽州に著していたもの(流旧)で痛惜しないものは莫かった。流というのは、他州の人で幽州に流入した者のことである也。旧というのは、旧<もと>幽州に籍を著していた者のことである也。初め、劉虞は使いを遣わして章を奉らせに長安へ詣でさせようと欲した、而しながら其の人(を得るのが)難しいところであった、衆咸が曰く:「右北平出身の田疇は、年二十二ですが、年は少ないと雖も、少、詩照翻。奇材を有していること然るものです。」劉虞は乃ち礼を備えると、以って掾と為すことで請うた。車騎を具えて将に行かせようとするに、田疇は曰く:「今道路は阻絶しており、寇虜が縱横としておりますから、官と称して使を奉じてゆけば、為衆所指。願わくば以って私行せん、期すのは於得達而已(ただ役目を達成するに於けるだけです)。」劉虞は之に従った。田疇は乃ち自ら家客二十騎を選ぶと、倶に西関を上って、塞を出ると、北山を傍らにして、傍、は歩浪翻。西関は、即ち居庸関のことである。北山とは、即ち陰山のことである。直ちに(直接)朔方へ趣き、間道を循にして長安に至って致命(命を果たした)。詔で田疇を拝して騎都尉と為した。田疇は以って天子が塵を蒙って未だ安からざるに方じているため、以って佩を荷し寵に栄する可きではないとして、荷、下可翻。固辞して受けなかった。報(劉虞からの手紙に対する返答)を得ると、馳せて還ったが、比至(もうすぐ至ろうとしたところで)、劉虞は已に死んでいたため、田疇は劉虞の墓に謁し祭すると、章表を陳べ発っし、章表、当依下文作章報。哭泣してから而して去った。公孫瓚は怒って、田疇を獲んとして購い求めて、謂いて曰く:「汝は我に報いるために章を送ろうとしなかった、何ゆえであるか也?」田疇曰く:「漢室が衰頽して、人が異心を懐くなか、唯だ劉公のみが忠節を失わなかったのです。報われた章が言わんとする所は、将軍に於いては未だ美<うま>しからず、恐らくは聞いて楽しむ所には非ざるもの、楽、音洛。故に進まなかったのです也。且つ将軍は既に無罪之君を滅ぼしているわけで、又義を讎守せんとする臣たるこの田疇は、恐らくは燕、趙之士が皆将に東海を踏んで而して死のうとも、将軍に従うこと有ることは莫い者です也。」公孫瓚は乃ち之を釋した。田疇は北して無終へ帰ると、無終県は、右北平郡に属す、春秋のころにあった無終子之国で、田疇は蓋し其の県の人なのであろう。宋白曰く:無終は、唐が薊州玉田県と為したところである。宗族及び他の附従する者数百人を率いて、地を掃いて(清め)而して盟して曰く:「君の仇に報いなかったからには、吾は以って世に(於いて)立つ可からず!」遂に徐無山中に入ると、徐無県は、右北平郡に属する、徐無山が有る。深險に営し敞地を平らげて而して居し、躬耕して以って父母を養ったため、百姓は之に帰し、数年間にして五千余家に至った。田疇は其の父老に謂いて曰く:「今都邑が衆成されたというのに、而して相統一すること莫く、又法制が無いまま以って之を治めんとすれば、治、直之翻。恐らくは久しく安んじてゆく道に非ずというもの。この田疇に愚計が有ります、願わくば諸君と共に之を施したいとおもうが、よろしいでしょうか(可)乎?」皆曰く:「可!」としたため田疇は乃ち約束を為して、相殺傷、犯盗、諍訟する者は、諍、読曰爭。晉王沈釋時論:闟茸勇敢於饕諍。韻平声。その軽重に随って罪に抵てるものとし、重い者は死に至るものとして、凡そ一十余條をつくった。又制して婚姻嫁娶之礼を為すと、学校で講授之業を与えた、衆に於いて班行すると、衆皆は之に便じ、道に至って遺されたものを拾うことなくなったのである。北辺は翕然として其の威信に服し、烏桓、鮮卑は各々が使を遣わして饋を致してきたため、田疇は悉く撫納すると、寇を為さないようにと令した。 19.十二月、辛丑、地震があった。 20.司空の趙温が免じられた。乙巳、衛尉の張喜を以って司空と為した。 翻訳者:ニセクロ
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/402.html
唐書巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 叛臣上 僕固懐恩 周智光 梁崇義 李懐光 陳少游 李錡 僕固懐恩は、鉄勒部の人である。貞観二十年(646)、鉄勒九姓の大首領が衆を率いて降伏し、分けて瀚海・燕然・金微・幽陵などの九都督府に置き、別に蕃州をなし、僕骨歌濫抜延を右武衛大将軍・金微都督とし、訛って僕固氏とし、乙李啜を生み、乙李啜は懐恩を生み、代々都督を世襲した。 懐恩は戦闘をよくし、戎の事情に通暁し、部族には謹厳に接した。安禄山が叛くと、朔方節度使の郭子儀に従って賊を雲中に討ってこれを破った。薛忠義を背度山に破り、七千騎を殺し、薛忠義の子を捕虜とし、馬邑を下した。進軍して李光弼と合流し、常山・趙郡・沙河・嘉山で戦い、史思明を敗走させた。粛宗が即位すると、郭子儀とともに霊武に赴いた。当時、同羅(トンラ)部落が叛き、安禄山は北進して朔方を攻略したから、郭子儀は懐恩を率いて迎撃した。懐恩の子の僕固玢は戦うも敗れて敵に降伏し、しばらくして脱走して帰還したが、懐恩は怒り、叱責してこれを斬ったから、将士は震えあがり、皆ことさらに死力を尽くして戦い、遂にその敵を破り、馬・橐它・器械を鹵簿すること非常に多かった。帝はまた詔して燉煌王承寀とともに回紇に使して援軍を要請し、回紇は命を聞き入れた。至徳二載(757)、郭子儀に従って馮翊・河東を下し、賊将の崔乾祐を敗走させ、潼関を襲撃して破った。賊将の安守忠・李帰仁と苦戦すること二日、王師は敗北した。懐恩は渭水に至ったが舟がなく、馬の鬣(たてがみ)にしがみついて逃れ、敗残兵を収容して河東に帰還した。郭子儀は鳳翔に赴き、李帰仁は精兵をもって迎撃すること三度、郭子儀は懐恩をして王升・陳回光・渾釈之・李国貞の五将軍とともに白渠の下に兵を伏せ、賊は伏兵に遇って敗走した。また清渠で戦ったが不利で、引き挙げて帰還した。 当時、回紇(ウイグル)は葉護・帝得をして四千騎を援軍とし、南蛮(南詔)・大食等の兵もまた相次いで至った。帝はそこで広平王(後の代宗)に詔して元帥とし、懐恩をして回紇の兵を率いさせ、広平王に従って香積寺の北で戦った。賊は一軍を営の左に伏せたが、懐恩は馳せて急襲し、首を斬って残す者はなく、賊は気を阻まれた。合戦すると、回紇で賊を挟撃し、戦が最高潮になると、兜を脱いで矛を引っ提げて直ちに陣に突入し、十人あまりを殺し、多くは驚いて靡き、また李嗣業と合流して苦闘して全力を尽くし、賊軍は総崩れになって大敗した。たまたま日暮となり、懐恩は広平王に見えて、「賊は必ず城を棄てて逃げます。願わくは壮騎二百をお借りできれば、安守忠と李帰仁らを縛って麾下に連れて参ります」と言った。広平王は、「将軍は戦い疲れている。しばらく休まれよ。明るくなったら将軍とともにこれを計ろう」と言ったが、答えて、「安守忠らは皆天下の驍賊で、彼らはたびたび勝っていましたが、今回は敗れています。これは天が我に与えたことなのです。どうして逃がしてよいのでしょうか?また軍を再集結させてしまえば、必ずや我の患いとなります。後悔したとしても及ばないのです」と言ったが、広平王は従わなかったから固く願った。夕を通して応酬すること四五回であった。明け方、偵察が戻ってきて、安守忠らははたして逃げ去っていた。また広平王に従って賊を新店で破った。両京(長安・洛陽)を回復してとくに功ありとされ、詔して開府儀同三司・鴻臚卿を加えられ、豊国公に封じられ、封二百戸を賜った。 郭子儀に従って安太清を破り、懐州・衛州の二州を下し、相州を攻め、愁思岡で戦い、常に先鋒となり、勇ましさは軍中に冠たるものであった。乾元二年(758)、朔方行営節度使を拝し、大寧郡王に進封された。 懐恩の人となりは雄々しく重厚で寡黙であり、応対すればゆったりしているが、剛毅で決断力があって上に逆うこともあった。始め偏裨(副将)の地位であっても、意見が合わなければ、相手が主将であっても必ずくじいて詰った。その麾下は皆蕃人・漢人の強兵で、功を恃んで多く不法なことをしたが、郭子儀の軍政は寛容であった。李光弼が郭子儀に代わると、懐恩は副将となった。李光弼は河陽を守って懐州を攻め、安太清を降伏させた。また子の僕固瑒は戦いをよくし、儀同三司(懐恩)の将兵を用いて、深く侵入するごとに多くを殺し、賊はその勇を憚って、「猛将」と号した。安太清の妻は美しく、僕固瑒は奪って帷幕に拉致した。李光弼はこれを帰すよう命じたが、聞き入れず、兵士で守らせた。騎馬で走らせて七人を射殺し、妻を奪って安太清に返還した。懐恩は怒って、「閣下は賊のために官兵を殺したのですか?」と言ったが、李光弼は法を厳格に保ち、少しも耳を貸さなかった。これより以前、軍を汜水で合流させたが、朔方将の張用済が遅れて来たのを纛(旗)の下で斬った。懐恩は心に李光弼を憚り、自ら張用済を誅殺したが、常に憂えて楽しむことはなかった。李光弼が史思明と邙山で戦うと、命令を聞かず、そのため王師は敗北して潰滅した。帝はその功績を思って、召喚して工部尚書とし、寵愛して礼を殊にあつくした。代宗が即位すると、隴右節度使を拝したが、まだ任地に行く前に、朔方行営節度に改められ、郭子儀の副将となった。 それより以前、粛宗は寧国公主を毘伽闕可汗(ビルゲ・カガン)に降嫁させたが、また末子のために婚姻を求め、そのため懐恩の娘をその妻とした。その末子が即位し、登里可汗(テングリ・カガン)と号し、懐恩の娘を可敦とした。宝応元年(762)、帝は回紇の兵を招集しようとしたが、登里可汗はすでに史朝義に誘われて、軍十万を率いて国境を侵犯し、関中は大いに震えた。帝は殿中監の薬子昂を遣わしてこれを労い、可汗は懐恩およびその母の面会を請い、詔あって許可の旨を答えた。懐恩は行くのを嫌がったが、帝は鉄券を賜い、手づから詔して強いて派遣したから、行った。可汗と太原で会い、可汗は大いに喜び、遂に和を請い、史朝義を討つのを助け、即ち兵を引き上げて陝州に駐屯し、軍は出撃の時期を待った。 ここにおいて雍王(後の徳宗)は元帥として中軍を率い、懐恩は同中書門下平章事に拝して副将となり、左殺(シャド。回紇の官職名)を先鋒とした。時に諸節度使は皆兵を合流させ、黄水に進んだが、賊は防壁をつくって自ら固守した。懐恩は西原に陣を敷き、多く旗旝を立て、突騎をして回紇とともに次第に南に進出し賊の左を取り囲み、旗を挙げるに応じて、賊の壁を破り、賊の死者は数万に及んだ。史朝義は精鋭の騎兵十万を擁して援軍し、根を埋めて決戦し、短兵が接敵すると、殺したり捕虜となる者が相当の数に及んだ。魚朝恩は射生軍五百人に矢を集中射撃させ、賊は多く死んだが、陣は堅く侵入できなかった。馬璘は怒り、単騎で旗を持って直進し、二つの盾を奪うと、賊は辟易とし、大軍はこれに乗じて進入し、軍は混乱を止められず、史朝義は敗れ、斬首は一万六千級、捕虜四千人あまり、降伏する者は三万人にのぼった。石榴園・老子祠に転戦し、賊は再び敗れ、自ら互いに逃げて踏まれて死に、尚書谷を埋めて大量に満たした。史朝義は軽騎兵で逃走した。懐恩は進軍して東都・河陽を収め、府庫を封じて、私とするところはなかった。賊に置かれていた許叔冀・王伷らを釈放し、衆は皆安堵した。回紇を留めて河陽に駐屯し、僕固瑒および北庭兵馬の将の高輔成をして一万騎で北に逐い、懐恩は常に賊を圧迫して侵入した。鄭州に至って、再戦して再び勝利し、賊帥の張献誠は汴州とともに降り、滑州を下した。史朝義は衛州に至って、その党の田承嗣・李進超・李達盧とともに合流し、軍勢は四万あり、黄河によって戦った。僕固瑒は援軍して岸を上って肉薄し、賊の党は潰滅して敗走した。進んで昌楽に進出し、史朝義は逃れ、偽帥の李達盧は降伏し、薛嵩・李宝臣は相州・衛州・深州・定州などの九州を挙げて献上した。史朝義は貝州に至り、その党の薛忠義を得て、軍勢三万を率いて僕固瑒から臨清を防衛した。賊の気は盛んで、僕固瑒は兵をまとめてその先鋒を挫き、高彦崇・渾日進・李光逸をして三度伏兵を設けて待機させ、賊が半ば渡ると伏兵を発してこれを攻撃し、史朝義は敗走した。その時軽騎兵が至ると、僕固瑒は急速前進してはせ参じ、大いに下博県で戦い、賊は背水の陣を敷き、軍は急襲すると賊は大いに崩れ、死体を積んで流れを蔽って下っていった。史朝義は退いて莫州を守った。ここにおいて都知兵馬使の薛兼訓・郝廷玉、兗鄆節度使の辛雲京が軍に合流して城下に至り、史朝義と田承嗣はしばしば戦いを挑んだが勝てず、前線で偽党の敬栄が斬られた。史朝義は恐れ、残衆を率いて幽州に逃れた。王師は追撃し、史朝義はさらに平州に逃げたが、自ら縊死し、河北は平定された。懐恩と諸将は皆兵を止め、功によって尚書左僕射兼中書令・河北副元帥・朔方節度使に遷り、封戸四百を加えられた。 それより以前、帝は詔があって、ただ史朝義の罪のみ取り、その他一切を赦した。そのため薛嵩・張忠志・李懐仙・田承嗣は懐恩を見て皆叩頭し、力に効って伍することを願った。懐恩は自ら功績が高く、かつ賊は平定されて勢いが軽くなり、寵を保つことができないとみて、そこでことごとく河北を割いて大鎮に分けて授けるよう願い、密かにその心と結んで助けとなろうとしたから、薛嵩らはついに拠って患いとなったと言われる。 しばらくもしないうちに、太子少師を加えられ、戸五百、第一区を増し、一子に五品官を与えた。詔して回紇を護って帰国させ、太原を通過しようとしたが、辛雲京は心内では懐恩を嫌っており、また懐恩と回紇が親しかったから、可汗に襲わせようとしていると思い、閉関して敢えて軍を労わなかった。懐恩はすでに父子が新たに功を立て、河朔を挙げて拾遺するが如くであったから、名は諸将の遠く甚しきにも出ていて、そのため辛雲京が拒んでいるのに大いに怒り、上表してその顛末を奉った。にわかに軍を汾州に向け、配下の将の李光逸に兵で祁州を守らせ、李懐光を晋州に拠らせ、張如岳を沁州に拠らせ、高暉ら十人あまりは自身に従えた。監軍の駱奉先は辛雲京より帰るところで、辛雲京はすでにその勢力とあつく結んでおり、よって懐恩と可汗に申して状に反すること明白であることを約した。駱奉先は懐恩のもとを過ぎ、堂を昇って母を拝した。母は譲って、「もし我が子と兄弟の契りを約してくれれば、今どうして自ら辛雲京と親しくされますか?そうなのでしたら前事は勿論、今から初めのようにしてください」と言い、酒宴してたけなわとなり、懐恩は舞った。駱奉先は厚く幣を納めた。懐恩は未だ酬いるにおよばず、奉先はしばらくして辞去したが、懐恩はそこで左右の者を遣わしてその馬を隠し、駱奉先は己に謀があることを疑い、夜陰に乗じて逃げ帰り、懐恩は驚き、その馬を追跡した。駱奉先が帰還すると、具さに懐恩が反くの状を奏上し、懐恩もまた辛雲京・駱奉先の誅殺を請うたが、詔して両者を和解させた。懐恩が潞州を通過すると、李抱玉は金や馬を贈り、懐恩もこれに贈答した。にわかに李抱玉が表立って懐恩と私的結びつくことになった。 広徳年間(763-764)初頭、進んで太保を拝し、一子に三品を、一子に四品官を与え、封戸五百を増やした。僕固瑒は一子に五品官を与え、封戸百を得た。よって鉄券を賜り、名を太廟に蔵(おさ)め、肖像画を凌煙閣に描いた。また僕固瑒を検校兵部尚書・朔方行営節度使とした。しかし懐恩は晴れ晴れとせず、また性格は強固で、讒言のために屈するのをよしとせず、自ら釈明することもなかったが、そこで陳情を上書して、「臣は代々もとは夷人で、幼い頃より上皇(玄宗)に用いられました。安禄山の乱では、臣は部将として決死に難を鎮め、天の采配のおかげで神威があり、強胡に勝って滅ぼしました。史思明が謀叛を継続すると、先帝は臣に兵を委ねられ、国の仇を雪(そそ)ぐことを誓い、攻城野戦、身は士卒に先んじ、兄弟は戦陣で死に、子や一族は軍で死にました。九族の内、十人のうち一人も生き残らず、そして生き残った者も満身創痍でした。陛下は龍潜(即位以前)の時、親しく軍を統べられ、臣は麾下でお仕えし、臣は愚かながら尽くしました。この時しばしば微功がありましたが、すでに李輔国に讒言され、しばらくして家を壊されました。陛下が即位すると、誹謗されていることを知り、遂に独見の明を開かれ、多くの者たちの口をふさぎ、臣を汧州・隴州に抜擢され、臣を朔方節度使に任じられました。魂が離れても体に戻り、骨が朽ちても肉が再生しました。先日、回紇が辺境に侵入し、士人には名案が浮かばず、京師は震撼しましたが、陛下は臣に詔して太原に至らせて労問させ、臣に一切の処置を許し、よって可汗と計議することができ、道を分けて兵を用い、東都(洛陽)を回復し、燕・薊を掃蕩しました。当時可汗は洛陽にあって、魚朝恩のために疑われて阻まれ、すでに歓心を失いました。臣が回紇に護送すると、辛雲京は城を閉じて出ず、隠れて掠奪したから、蕃夷は怨んで怒り、いよいよ多種多様なことを縫い合わせ、そこで国に帰すことができました。臣は汾州に帰り、兵馬を休息させ、辛雲京はまた一つも連絡することなく、臣は弾劾奏上されることを恐れ、そのため誹謗を構え、異端を起こしました。陛下は明察を垂れられず、忠直の臣を使おうとして、讒言する邪悪の党に陥られたのは、臣が悲しみのあまり胸を打ち、血の涙を流すことになった原因です。しかし臣には罪が六つあり、死を逃れるところがありません。むかし、同羅が叛き、河曲が騒動し、兵は包囲を解かなかった時、臣は老母を顧みず、先帝を行在に従い、兵を募って賊を討ち、同羅を殲滅しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の一つめです。子の玢を斬って兵士たちに号令しましたが、天性の愛を棄てたことで、臣が国に忠ならざる、罪の二つめです。二人の娘を遠く嫁がせ、国のために和親し、合従して脅威を除きましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の三つめです。また子の瑒とともに身をもって戦陣に赴き、国家を安んじることを志しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の四つめです。河北に新たに設けた諸鎮は、皆精兵を掌握していますが、臣がこれを安定させ、叛けば平定しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の五つめです。回紇と和睦し、勝って中原を定め、玄宗・粛宗の二朝にわたった国土回復は、陛下をして忠と孝をつとめて二つとも全うされましたが、これは臣が国に忠ならざる罪の六つめです」と述べた。また、「来瑱を誅殺されましたが、その罪を暴かないことは、天下が疑いをなしています。四方の奏請は、陛下は皆驃騎(程元振)と協議したといっていますが、可否は宰相から出ませんでした」と述べた。詞にはおごり很みがあり、帝は一度ならずともあきたりず、かつその後悔を欲し、そのため心を人に託して待った。宰相の裴遵慶に詔して本人に詔旨を説諭し、よってその去就を察することとした。 裴遵慶がやってくると、懐恩はその足に抱き着いて、泣いて訴えた。裴遵慶は帝が疑っていないからと言い、そこで入朝を勧めた。懐恩は許諾したが、副将の范志誠は諫めて、「互いに信じあえないようになってしまったのに、どうして何が起こるかわからない朝廷に行こうとするのですか。閣下だけ来瑱・李光弼を見ていないのですか?二臣は功が高かったのに賞されず、来瑱はすでに誅殺されてしまいました」と言った。懐恩はそこで止めとした。一子をして宿衛させようとしたが、范志誠は固く止めた。御史大夫の王翊は回紇に懐恩を戻させようとしたが、懐恩は回紇と通交しているのが漏れることを恐れて、よって留って遣さなかった。そこで僕固瑒に辛雲京を攻めさせ、辛雲京は敗れ、次に楡次を攻めた。 それより以前、帝が陝州に行幸したが、顔真卿は詔を奉って懐恩を召喚することを請うた。ここに至って、帝は往かせようとしたが、辞退して、「臣は前に行くことを請うたのは、その時であったからで、今では無意味でしょう!」と言った。帝はその理由を聞くと、「最近、陛下は狄(吐蕃)を陝州に退避されましたが、臣が懐恩を見ますに、戦い方の善悪を責めて、職務の責を問うて走らさなければ、そのために懐恩は来朝して、賊を討つのを助け、その言葉は恭順であったでしょう。今陛下は、長安を都とし、懐恩は進んで勤王せず、退いて衆にも説かず、その言葉をねじ曲げているのですから、絶対に来ないでしょう!」と答えた。「それならどうするか?」と聞くと、「今、懐恩が叛いていると言っている者は、ただ辛雲京・李抱玉・駱奉先・魚朝恩の四人だけで、ほかは盛んにそのゆがめられた真実を言っているだけです。しかし懐恩の将士は、皆郭子儀のもと部下で、陛下がもし郭子儀に代わらせれば、たとえ叛こうが従おうが、必ず互いに率いて帰ってきます」と言ったから、これに従った。 郭子儀が河中に至ると、僕固瑒は楡次を攻めたが、陥すことができないでいるうちに、兵を祁州に追撃し、その緩慢さを責めて鞭うったから衆は怒った。この夕方、副将の焦暉・白玉らが僕固瑒の首を斬り、朝廷に献上した。懐恩は聞いて母に告げると、母は、「私はお前に背いてはならないと戒めてきましたが、国家の酬いはお前には浅くはないのに、今衆は謀叛し、禍はまた私に及んでいますが、どうしてなのか?」と言ったが、懐恩は再拝して出て言ったから、母は刀を引っ提げて追って、「私は国のためにこの賊を殺し、その心を取って軍中に謝せん」と言ったから懐恩は逃げて、そこで部下三百人とともに北は黄河を渡り、霊武(寧夏省寧夏県南)に逃げた。次第に亡命してきて軍は復興した。帝はその勲功を思って、罪を加えず、詔してその母を輦車に載せて京師に帰らせ、厚く賜物をし、長生きして死んだ。また詔を下して懐恩に太保兼中書令・大寧郡王に任じたが、その他の官位は罷免した。 懐恩はもとより憎んで改めることができず、ついに吐蕃を誘って十万で辺塞に侵入し、豊州の守将は戦死した。進んで涇州・邠州を攻略し、来瑱の墓を祭った。涇水を渡り、邠寧節度使の白孝徳はこれを防いだが、その軍は潰滅し、懐恩は、「さきに皆我が子となったが、叛いたから他人のために私が死においやってしまった」と泣いた。奉天に侵入すると、郭子儀が防衛したから撤退した。永泰元年(765)、帝は天下の兵の集めて防御させた。懐恩は諸蕃を誘い合せて二十万を号して入寇し、吐蕃は北道より醴泉に迫り、奉天を動揺させた。任敷・鄭廷・郝徳は東道より奉先に入寇し、同州を窺った。羌・渾・奴剌は西道より進んで盩厔を攻略し、鳳翔に行った。京師は震撼した。詔して郭子儀を涇陽に駐屯させ、渾日進・白元光を奉天に駐屯させ、李光進を雲陽に駐屯させ、馬璘・郝廷玉を便橋に駐屯させ、董秦を東渭橋に駐屯させ、駱奉先・李日越を盩厔に駐屯させ、李抱玉を鳳翔に駐屯させ、周智光を同州に駐屯させ、杜冕を坊州に駐屯させ、帝は六軍を御して苑中に駐屯し、詔を下して親征した。懐恩は鳴沙に至ると、病が甚しくなり、帰還して霊武で死に、部下はその遺体を火葬した。部将の張韶・徐璜玉はその軍を定めることができず、皆前立って死んだ。范志誠は衆を統率して涇陽に侵入した。その時、諸駐屯地では防壁を固くし、大雨が降り、谷は流れて潰え、賊は進むことができなかった。吐蕃は既に持久戦となり、また回紇と序列を争い、さらに互いに疑い、先に進むことがかなわず、そのため家々を焼いて、男女数万を駆けて去った。周智光は澄城で迎撃してこれを破り、馬牛や軍の資材を収容すること万を数えた。回紇はそこで郭子儀に詣でて降伏し、吐蕃を攻撃して自分ら捧げることを願い出た。郭子儀は兵を分けてこれに従い、その衆を涇州で破った。任敷は敗走し、羌・渾は李抱玉に詣でて降伏した。 それより以前、懐恩が功績を立てた時、一族の内で王事に死んだ者は四十六人。命を拒むに及んで、兵士は甲冑を緩めなかったことはおよそ三年であった。帝は心に忍び、しばしば詔を下して、未だに懐恩が叛いたとは言わなかった。死んでから彼のために落胆して、「懐恩は叛いたのではない。左右のために誤っただけなのだ!」と言った。にわかに懐恩の従子の僕固名臣が千騎とともに降伏した。大暦四年(769)、懐恩の幼女を冊して崇徽公主とし、回紇に嫁がせたといわれる。 周智光は、幼い頃は卑賎の身で、その先祖・系譜は失われており、騎射をもって従軍し、兵卒より副将となった。 魚朝恩が陝州を鎮とすると、互いに昵懇となり、しばしば称えて推薦したから、累進して同州・華州の二州節度使となった。 永泰元年(765)、吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌の衆十万あまりが奉天を入寇したが、智光は澄城で迎撃して破り、駱駝・馬を得て軍費を贖うこと万を数え、北に追撃して鄜州に至った。もとより杜冕と仇敵で、当時、杜冕は坊州に駐屯していたが、家は鄜州、智光は侵入して刺史の張麟を殺し、杜冕の宗属八十人を殺害し、民家三千軒に放火して去った。朝廷は召喚したが、恐れて赴かなかった。さらに杜冕に詔して梁州に使させて仇を避けさせ、来るよう願ったが、のけぞりかえっていて命令を聴かず、不逞の徒数万を集めて、ほしいままに略奪してその欲を甘やかし、結んで固守した。陝州監軍の張志斌および前虢州刺史の龐充を殺した。それより以前、張志斌は陝州より入奏したが、智光は傲慢にも礼をなさず、張志斌はこれを責めたから、怒って、「僕固懐恩はどうして叛いたのか?皆つまらない輩が力で押さえつけようと弄んだのが禍となったのだ。私はもとより叛いていないが、今はお前のために叛こう!」と言って、ついに叱って張志斌を斬り、その肉を帳下で饗宴した。当時、崔円が淮南より方物百万を納めたが、その半ばを掠奪した。天下の奉献物や船舶で輸送した糧食は、奪って自身のもとに留めた。士で調を貢納するために西に行かなければならない者はどう責められるのかを恐れたが、間道から同州を逃げる者は、部将を派遣して捕らえて斬った。代宗はいまだその罪が暴かれていないときに、中使の余元仙に命じて詔をもって尚書左僕射に任命した。詔を受けると怒って、「私には大功があるが、お上は平章事を与えられず、かつ同州・華州の地は狭く、支えとするには足りない。もし陝州・虢州・商州・鄜州・坊州の五州を加えられれば相応だろう」と語り、よって、「私の子どもたちはみな二百斤の弓をひき、万人の敵たる者である。天子を挟んで諸侯に命令するのに、智光でなければ誰がふさわしいというのか?」といい、そこで大臣を謗って罪を並べ立てたから、余元仙は震汗した。おもむろに絹百匹を贈って遣わした。自ら生祠を立て、その部下に祈祷させた。 大暦二年(767)、帝は郭子儀に詔して密かに謀った。同州・華州の路は閉鎖され、詔書は通ることができなかったから、そこで郭子儀の婿の趙縦を召して口詔を授け、書帛を蜜壺の中に隠し、家僕を遣わして間道を走って詔を伝えた。郭子儀は詔を得ると、討伐を宣言したが、実行される前に、その衆は大いに離反し、部将の李漢恵は同州より郭子儀に降伏した。そこで智光を澧州刺史に貶し、百人を随身させることを許したが、将吏の罪は一切不問とした。ついで部下に斬首され、また子の周元耀・周元幹も斬って来献してきた。詔して首を皇城の南街にさらした。判官の邵賁・別将の蒋羅漢もともに誅殺された。勅して役人に詳細に太清宮・太廟・七陵に告げさせた。 それより以前、淮西の李忠臣が入朝して、潼関に行ったとき、智光が叛いたのを聞いて、兵を率いてこれを討った。智光が敗れると、李忠臣は華州に入って大掠奪を行い、赤水より潼関にいたるまでの畜産・財物はすべて尽きてしまい、官吏は衣服や紙を自弁し、連日食べられない事態となった。 梁崇義は、京兆長安の人である。枡で計るのを市で生業としていたが、力が強く鉄鉤を真っすぐにできた。後に羽林射生となり、来瑱に仕えた。寡言であった。来瑱が襄陽より京師に入朝すると、諸将を分けて福昌・南陽を守らせた。来瑱が誅殺されると、守兵は潰えたが、梁崇義は南陽より衆をまとめて襄州に帰還した。李昭と薛南陽は互いに長となるのを譲っていたが、軍衆は、「梁卿でなければ駄目だ」と言ったから、ついにその軍を統率し、李昭と薛南陽を殺し、脅して軍衆の心を制した。代宗はよって節度使に任命した。七州の兵二万を挙げて、田承嗣・李正己・薛嵩・李宝臣と互いに助け合い、首尾結託した。しかし梁崇義のみ地は狭く兵が少なかったため、法令は最も遵守し、時々兵士にあっては自ら振舞い、襄・漢の間の人は教義を知った。朝廷はしばしばあつく入朝を勧めたが、「来公(来瑱)は大功がありましたが、宦官の讒言を恐れ、逡巡してお召しを辞退しました。代宗が即位されますと、駕を待たずに入朝しましたが、そこで殺されました。私の罪は大罪ですが、どうしてお上に謁見したいと思うのでしょうか」と返答した。 建中元年(780)、李希烈は討伐を願い、梁崇義は恐れて、部隊を整理した。郭昔なる者が変事を上奏したが、徳宗は示すのには信頼をもってすることとし、郭昔を遠方に流刑とし、金部員外郎の李舟に詔して諭旨させた。それより以前、劉文喜が叛くと、李舟は詔を奉って涇州に入ったが、にわかに劉文喜の部下が劉文喜を斬って奏上した。それを周囲は李舟が軍を全滅させて将を殺したと言ったため、叛いた側にいた者たちが皆これを憎んだ。李舟がやってくると、入朝を梁崇義に勧めたが、梁崇義は喜ばなかった。翌年、遣使して諸道を慰撫したが、李舟もまた梁崇義の所に行ったものの、ついに内に入れることをよしとせず、他の使者に代えるよう願った。さらに給事中の盧翰に命じて往かせたが、梁崇義はますます不安となり、跋扈すること甚しく、諌める者は多く死んだ。朝廷は疑っていないことを天下に示すため、そこで同中書門下平章事に任命し、妻と子にことごとく賞を与え、鉄券を賜い、その将の藺杲を抜擢して鄧州刺史とし、御史の張著を遣わして手詔をもって梁崇義を召喚した。梁崇義は兵士たちに弓矢をいっぱいに引き絞り、そこで命を受けた。藺杲は詔を奉ったが敢えて赴かず、梁崇義に詣でて自ら報告した。梁崇義は対面すると泣いて見せたから、遂に詔を拒んだ。 帝は李希烈に命じて諸道の兵を率いて討伐させた。梁崇義は先んじて江陵を攻め、黔州・嶺州と通じようとしたが、四望で敗れて帰還した。途中、李希烈が臨漢に駐屯させた兵千人あまりを殺害すると、李希烈は怒り、兵を率いて漢によって上った。梁崇義は翟崇暉・杜少誠に蛮水で戦わせ、敗れて北は涑口に至ったが、ここでも大敗し、二将は降伏し、李希烈はこれを厚遇したから、部下の降伏した兵に襄陽を従わせると、百姓を安堵させた。梁崇義は防壁を閉ざしたが、守る者は関を斬って逃亡したから止めることができず、そこで妻と井戸に行って死に、首は京師に伝送された。李希烈はその親族および軍で臨漢の役に従った者三千人を誅殺した。 梁崇義の孫の梁叔明は、李納に養われ、後に劉悟に従って昭義将となったが、劉従諌が死ぬと、使節として派遣されたが、詔によって誅殺された。 李懐光は、渤海靺鞨の人であり、本姓は茹氏である。父の茹常は幽州に移って、朔方節度使の部将となり、多くの戦いに参加して李姓を賜り、さらに名を嘉慶とした。 李懐光は軍にあって、功労を積んで開府儀同三司に至り、都虞候となった。勇猛で敢えて誅殺をし、親族であっても法を犯せば、誅殺を避けることはなかった。節度使の郭子儀は仁に厚く、軍法には詳しくなく、綱紀を李懐光に委ねたから、軍中は李懐光を畏れた。たまたま母の喪となり、復帰すると邠州・寧州・慶州の都将を兼任した。徳宗が郭子儀を副元帥から罷免すると、部下の兵を諸将に分割し、そのため李懐光は検校刑部尚書となり、寧州・慶州・晋州・絳州・慈州・隰州などの州節度使となった。軍を率いて長武を城とし、原州(甘粛省平涼県東四十里)によって根拠地とし、涇水に臨み、吐蕃の重要路を抑え、これより吐蕃は敢えて南侵することはなかった。建中年間(780-783)初頭、楊炎は原州を城としたいと思い、李懐光をして涇原の帥を兼任させ、その功を遂げた。原州の宿将の史抗・温儒雅らは、郭子儀の麾下であったから、かつては李懐光の同僚であり、その部下にいると、心は鬱々としたから、李懐光は罪によってこれを誅殺し、ここによって涇軍は畏れた。劉文喜は軍が李懐光を恐れているため、遂に叛した。詔して朱泚とともに討伐して平定し、検校太子少師を加えられた。翌年、朔方節度使に移り、実封戸四百となり、よって邠寧を領した。 当時、馬燧・李抱真は田悦を討伐したが勝てず、李懐光に詔して朔方の兵一万五千で合流させた。李懐光は魏州に至ると、まだ陣を敷く前に、朱滔らとともに連篋山で戦い、賊のために敗れ、田悦は水を決壊させて軍に浴びせ、馬燧らは退いて魏県に駐屯した。ついで同中書門下平章事に昇進し、戸二百を増やした。朱滔らと互いに持久戦となり、しばらく戦わなかった。 帝が奉天に巡狩すると、李懐光は軍を率いて命に奔走し、まさに雨降って泥濘になると、軍士を励ましてますます道を進み、蒲津より河を越えて、朱泚の軍を醴泉で破った。まさに奉天に至ろうとするとき、先に副将の張韶を遣わし蝋で上表文を隠し、賊に従って城を攻め、城塁を叩いて「私は朔方の使だ」と呼び、縄にしがみついて登り、身に数十本の矢が当たった。その時帝は包囲されて窮地に陥っていたから、これを聞いて喜び、そこで張韶を城の上で叫ばせ、人心は安堵した。また賊を魯店で破り、朱泚は包囲を解いて撤退した。累進して副元帥・中書令を加えられた。 李懐光は人となりは荒く片意地を張っており、「宰相(盧𣏌)は謀議して背き違っており、度支(趙賛)は重税を課し、京兆尹(王翃)は兵糧に刻薄であったから、天下の乱はすべてこのせいなのである。私はお上に謁見して、かつこれを誅殺することを要請する」と主張した。ある者が王翃に告げたから、王翃らは謀って、「李懐光に大功があり、お上が訪ねて得失によってその発言を受け入れられるなら、なんと危険なことではないか」と述べ、ついに盧𣏌に告げ、盧𣏌はそこで帝に説いて、「李懐光の兵威はすでに猛威をふるい、逆賊は肝を冷やしており、勝利に乗じて一挙に賊を滅ぼすべきです。今入朝させれば、必ず宴で労って留まらせてしまうことになり、すると賊は残党を集結させることができ、ついには何もできなくなってしまいます」と述べた。帝は実情がわからず、よってその通りにしてしまった。そこで李懐光に勅して便橋に駐屯させ、諸将を督戦して討伐に出発させた。李懐光は自ら千里をめぐって艱難に赴いたのに、姦臣のために排斥疎外されて入朝することができないから、大変怒って恨み、撤退して咸陽に駐屯した。翌日、李晟と陳涛斜で合流したが、防壁の防備が出来ていないのに、賊が大挙して押し寄せた。李晟は李懐光に説いて、「賊は宮苑(長安)を保っており、これを攻撃するのは本当に難しい。今あえて陣地を離れて、公とともに肉薄して戦えば、これは天が賊を公のために賜っているように勝利をおさめるでしょう」と言ったが、李懐光は、「我が軍の馬はまだ秣にありつけてなく、兵士は食事もないのに、速やかに戦うべきなのか。しばらく我が勇を養ってこれを待とう」と言ったから、李晟はやむを得ず壁を閉ざして出撃しなかった。李懐光はしばしば盧𣏌らの罪を暴き、帝はそこで盧𣏌と趙賛・白志貞を左遷した。また宦官の翟文秀を弾劾奏上し、帝はまたこれを殺して懐光を慰撫した。しかしますます自ら疑い、立て籠もって固守すること八旬(八十日)、出て戦わず、しばしば詔して進軍させようとしたが、隙を伺って解囲し、密かに朱泚と連絡した。 それより以前、崔漢衡を派遣して吐蕃に援軍を求めたが、尚結賛(シャンギェルツェン)は、「我が法では、進軍するのに大臣が兵を率いるのを信としている。今、制書には李懐光の署名がないから、先に進むことはできない」と述べた。帝はそこで翰林学士の陸贄に命じて懐光のもとに赴かせて協議したが、懐光は三つの不可を述べて、「吐蕃の舎人の馬重英は長安を陥落させたが、賛普は焼き払わなかったことを責めていた。今吐蕃が来るならば、必ず宿願をほしいままにするだろう。これが一つめの不可である。彼らは兵五万を率いると言っているが、すでにその人を用いれば、それは漢士と同じであり、もし我を迎えて賞を厚くするとすれば、どうやってこれをするというのか。二つめの不可である。虜人(吐蕃)が来たからといって、義はまず用いず、兵を収めて自ら固守することとなる。成功と失敗を見るならば、王師が勝てば功績は分かつことになり、敗ければ変乱を謀られ、狡猾で偽りが多いから信じてはならない。三つめの不可である」と言って、ついに署名するのをよしとしなかった。また陸贄を罵って「お前はどうして良いと思っていたのか」と言った。 興元元年(784)、詔して太尉を加え、鉄券を賜ったが、李懐光はかっとなって怒って、「だいたい人臣が叛くのを疑っているときは鉄券を賜っている。今懐光に授けるのは、これは叛かせたいということなのか」と言い、地面に叩きつけた。当時、部将の韓游瓌の将兵が奉天を守っており、李懐光は韓游瓌に反乱を約束し、韓游瓌はこれを上奏密告した。数日して、また密書を送ったが、門番がこれを捕らえた。また将の趙升鸞が奉天に間諜し、趙升鸞は渾瑊に密告して、「李懐光は達奚承俊を遣わして乾陵に放火し、私に内応させて、乗輿(徳宗)を脅かそうとしています」と伝えた。渾瑊はその姦計を暴き、帝に梁州への行幸が決定することを願った。帝は渾瑊に戒厳させ、戒厳が終わる前に、帝は西門より出て、詔して戴休顔に奉天を守らせようとした。李懐光は将軍の孟廷宝・恵静寿・孫福を遣わして軽騎兵を率いて南山に急行させ、糧料使の張増と遭遇した。三人は謀って、「我々が属しているのは反乱側となっていると聞いているから、軍を緩めるのに越したことはない。彼が怒れば、ただ我が将ではなかったというのに過ぎないだけだ」と言い、張増をして軍をあざむかせて、「これより東は、我々は糧食があるから食するべきだ」と言って、孟廷宝らは引き上げて東に行き、兵士をほしいままにさせて大いに掠奪したから、百官は遂に駱谷に入った。帝を追跡するまでには及ばなかったから、帰還して李懐光に報告すると、李懐光は怒って、ことごとくその兵を罷免した。李懐光はそこで李建徽・陽恵元らの軍を奪い、好畤に駐屯したが、その配下はだんだん背いていった。朱泚は始め李懐光を憚っていたが、ここに至って李懐光を臣下扱いしたいと思った。李懐光は怒り、絶交を宣言し、ますます不安となり、そこで兵を率いて涇陽・三原・富平を掠奪し、遂に河中に行き、張昕を留めて咸陽を守らせた。しかし孟渉・段威勇は兵を擁して李晟に降伏し、韓游瓌は張昕を殺して、邠州に帰還した。戴休顔は奉天より軍に「李懐光が叛いた」と号令し、そこで城を守った。 詔があって李懐光を太子太保とし、その麾下で功績が高い者一人を選んでその兵を統率させることを許した。しかし李懐光は詔を奉らなかった。李懐光は河中に至り、同州・絳州の二州を取り、駐屯して軍を展開させた。京師が平定されると、給事中の孔巣父・宦官の啖守盈に命じて李懐光を召喚しようとしたが、全員李懐光の軍中で殺害され、ここにおいて武器を修理して守りを厳しくした。帝はそこで渾瑊を派遣して討伐させた。度支はその軍への扶持米の年間給付を止めることを要請したが、帝は、「朔方軍はしばしば功績がある。どうして李懐光が命を拒むからといって、軍が恩を被らないことがあっていいのだろうか」と言い、役人に詔して別に貯えていた絹や銭を、事態が平定されてから給付することとした。渾瑊は同州を破り、軍を駐屯させたが進むことができず、しばしば李懐光のために敗北を喫した。帝は河東節度使の馬燧を威名が明らかであるから、そこで副元帥に任命し、渾瑊および鎮国の駱元光・邠寧の韓游瓌・鄜坊の唐朝臣に兵を合流させて討伐に進発させた。馬燧は絳州を陥落させ、諸軍は遂に河中を包囲した。 貞元元年(785)八月、朔方の部将の牛名俊が李懐光を斬って、首を伝送して献上した。年五十七歳であった。帝はその功績を思い、詔して一子に継承を許し、荘園・邸宅一区を賜い、葬礼するのを聴(ゆる)し、妻の王氏は澧州に移した。それより以前、李懐光が死ぬと、その子の李琟はその弟を皆殺しにして死に、そのため李懐光には後嗣がいなかった。貞元五年(789)、詔して、「昔の功績を思うことは、仁の大いなることである。興亡や継承断絶は、義の至ることである。昔、蔡叔度が周王室を乱したが、周はその子を封じている。韓信は違反したが、漢はその妻子に爵位を与えた。侯君集は従わなかったが、太宗はその祭祀を存続させた。先王の道、烈祖の教えを考えるに、皆刑罰で徳をたすけ、人をして向かうべきところに向かわせた。先に盗臣が密かにおこり、朕は近郊に巡狩し、懐光は早くから千里を駆け、君命に従って行在に奔走し、雷鳴の威を仮り、虎狼の衆を破った。守節のまま終わることなく、密かに禍根を構えた。死罪を加えるところで、自ら災禍を招き、孤魂は帰るところがなく、これを思えば落ち込み呆然とするのだ。外孫の燕に姓李氏を賜い、名を承緒とし、左衛率府冑曹参軍として懐光の後を継がせなさい」と述べた。よって銭百万を賜い、田を墓の側に置き、祭祀の備えとした。妻の王氏を帰還させ、養わせたという。 陳少游は、博州博平の人である。幼い頃より老子・荘子の書を習い、崇玄館の学生となり、諸儒の推薦で都講となった。妬む者があって大衆に答えさせ、熱心に質問して、それで少游を屈させようとした。少游が講座に上ると、音は清弁に語り、典拠には広く通じ、問者は言葉につまったが、陳少游の答えは余裕があり、大学士の陳希烈はその才能を高く評価した。進士に及第し、南平令に補され、治世に名声があった。累進して侍御史・回紇糧料使に遷り、検校職方員外郎充使を加えられ、検校郎官は少游のときより始まった。僕固懐恩が奏上して河北副元帥判官となり、晋州・鄭州の二州刺史に遷った。 少游は臨機応変にたけ、いたるところですべて仕事が出来、権勢や寵愛の者に賄賂を贈り、このためしばしば昇進した。李抱玉が上表して沢潞節度副使となり、陳鄭節度留後となった。永泰年間(765-766)、復奏して隴右行軍司馬となり、桂管観察使に抜擢された。陳少游は遠く去ることを楽しまず、近くの藩鎮に移ろうと窺った。当時、宦官の董秀に寵があり、枢密の事を司っており、少游はそこでその郷里に宿泊し、休暇に侍って入謁し、世間話のついでに諂って董秀に、「七郎の親族はどのくらいいますか。月にどれほど費していますか」というと、董秀は謝して、「一族は非常に多く、年間に常に百万以上を使っています」と言った。少游は、「本当にこのようでしたら、俸給が入ってきたとしても数日の費用としても不足で、ただちに外から入ってくる分からしばしば充当しなければなりません。私は不才の身でありますが、私一人の歳入が銭五千万あります。今その半分を充て、まずここに入れさせてください」と言った。董秀は大いに喜び、陳少游とあつくよしみを結んだ。陳少游はそこで泣いて、「嶺南は猖獗の地で、生還できずお顔を拝見できなくなることを恐れています」と言った。董秀はにわかに、「公の美才は、当然遠くに出すべきではありません。少し待ってください」と言い、当時、陳少游はすでに賄賂を元載の子の元仲武に納め、ここにおいて内外からはさらに推薦され、宣歙池観察使に改められた。大暦五年(770)、浙東に移り、潁川県子に封じられ、淮南節度使に移った。 謀略を喜び、小さな恵みを与え、群吏を職に任じた。三度藩鎮を統率しているが、すべて天下の富裕のところであり、そのため貿易を要求して日を空しくすることはなく、財宝を積むこと億万の巨額となった。それより以前、元載と結んで、金帛を毎年だいたい十万緡を賄賂で贈った。また宦官の駱奉先・劉清潭・呉承倩および董秀に仕え、そのためよくその信任を得ることが久しかった。後に元載が過度の専横から疑われるのを見て、陳少游もまた疎んじた。元載の子の元伯和は揚州に流謫されたが、陳少游は表向きでは親しくし、陰ではその罪を奏上したから、代宗はこれを忠とした。建中年間(780-783)初頭、朝廷は経費が充当できず、始めて本道の税銭千に二百を増やし、塩一斗に税百銭を加えることを願い、度支はよって諸道も同様に増税することを願った。李納は命を拒み、陳少游は出兵して徐州・海州などの州を収めたが、にわかに放棄して撤退して盱眙に駐屯した。検校尚書左僕射に累進し、封戸三百を賜り、同中書門下平章事を加えられた。当時の宰相関播・盧𣏌と少游は旧友であったから、そのためにわかに高官を兼任したのである。 徳宗が奉天に行幸すると、度支汴東両税使の包佶は揚州にいて、儲えるところの財賦八百万緡をまさに京師に運ぼうとしていたが、陳少游の真意は朱泚の勢いが盛んになることであり、すみやかに平定されることではなかったから、その財を脅し取ろうと思い、判官の崔䪻をして包佶のところに就いて帳簿を求めて、二百万緡を借りようとしたが、包佶は勅命ではないから拒否した。崔䪻は怒って、「君はよく、劉長卿となることができるか、そうでなければ、崔衆となるか」と言った。劉長卿はかつて租庸使に任じられ、呉仲孺のために囚えられた。崔衆は李光弼を侮って殺されたから、そのため崔䪻はそう言ったのである。包佶は陳少游に謁して、諌止しようと思ったが、語ることができず、そこで遣わし去り、ここにおいて財用はことごとく陳少游のために掠奪された。包佶は白沙に逃げ、陳少游は幕中の房孺復を遣わして包佶を召喚したが、包佶は驚いて逃げて長江を渡り、妻子を公文書の中に伏せて隠したから免れた。包佶には防御の兵三千人があり、高越・元甫をして将としていたが、陳少游は彼らを奪った。よく包佶に随う者は、上元年間(760-761)に至ると、また韓滉のために留められた。包佶はただ諸史を率いて江州・鄂州に行き、上表文を蝋壺の中に隠して上聞した。たまたま陳少游の使が到着し、帝はその事を詰問すると、辞して知らないと言った。当時、禍いは激しくなって終結が難しく、帝は制することができなかったから、そこで、「陳少游は、国の守臣で、包佶の財を取って、他の盗みを防いだだけで、どうして傷つけられようか」と言った。遠近の者はこれを聞いて、みな帝はその要を得たと言った。陳少游はこれを聞いて、はたして満足して疑わなかった。 李希烈は汴州を陥落させ、江淮を襲うと宣言したから、陳少游は恐れ、参謀の温述を遣わして送款して、「豪州・寿州・舒州・廬州はすでに刃をかくして鎧を巻いていて、これは君命である」と言った。また巡官の趙詵をして鄆州に行かせ、厚く李納と結んだ。李希烈は帝号を僭称し、将の楊豊を遣わして偽赦をもたらして陳少游に送らせた。寿州刺史の張建封は警備してこれを得て、楊豊を斬り、偽赦を行在に送った。たまたま包佶が入朝しており、具さに陳少游が財賦を脅したことを申し上げた。陳少游は恥じ、上表して取るところは軍費に充てたと言い、賠償を願った。しかし州府は敗れてしまい、賠償することができず、そこで腹心の官吏とともに重税の法を設けたから、民は皆苦んだ。劉洽が汴州を取ると、李希烈の偽起居注を得て、「某月日、陳少游が上表して帰順した」と書かれていた。陳少游は聞いて、恥じ入りのあまり病死した。年六十一、太尉を贈られた。 賛にいわく、僕固懐恩は賊と百戦し、一族で唐のために死んだものは四十六人にもいたり、遂に燕・趙を一双して埃すらあますことなく、功績は高く、威光は重くなった。患いを防ぐことができず、誤った考えを心に根差し、その所を得ることなくたやすく発して、はたしてお上を犯した。惜しいことだ。その母は刀を抜いて賊を追っており、烈婦というべき人である。李懐光は一万人もの軍を率い、天子の難を救ったが、ただ讒言する人のために阻まれ、腹を立てて道理に背いては自ら帰ることなく、身と首は断ち切られ、しかも讒人もまた憎まれたのだから、所謂「四国交乱す(四方の国々さえも乱す)」(詩経)という者である。 李錡は、淄川王李孝同の五世の孫である。父李国貞の蔭位のため鳳翔府参軍となる。貞元年間(785-805)初頭、遷って宗正少卿となった。かつて宗正卿の李幹と争い、李錡は直言のため座らず、徳宗は双方留め置いた。雅王傅より出て杭州・湖州の二州刺史となった。またに李斉運に仕え、李錡は賄賂でよしみを結び、居ること三年、潤州刺史・浙西観察・諸道塩鉄転運使に遷った。多くの奇宝を積み、毎年献上して、徳宗と昵懇になった。李錡はそのため恩を恃んで驕り横柄となり、天下の輸送は特権を得てこれを専らにした。そのため朝廷に仕える者に李錡は利を以て交わり、ほかは皆密かによしみを通じる幸運を求め、国の財政は日々損耗していった。浙西布衣の崔善貞は徳宗に上書してその罪を暴いたが、帝は崔善貞を拘束して李錡に賜い、李錡はあらかじめ大穴を掘って、崔善貞が来ると縛ったまま穴の中に生き埋めにしたから、聞く者は極めて憤慨した。 李錡は思い通りになって憚るところなく、久しく安住の計略をはかり、そこでますます兵を募って、弓のうまい者を選んで一部隊をつくり、「挽硬随身」と号し、胡・奚の雑類で大髭の者を一将とし、「蕃落健児」と号し、皆李錡の腹心で、給料は十倍で、李錡を号して「仮父」といい、そのため喜んでその用をなした。帝はここにおいて鎮海軍を復活し、李錡を節度使とし、城鉄転運の担当から罷免した。錡は節度使となることを喜んで、その特権が失われたことを忘れていたが、にわかに驕ること日々甚だしくなり、部下は死んでも恩賞は軍を越えることはなく、また迫って良家を汚すことになるから、幕僚は力の限り諫めたが聞かず、にわかに逃げ去った。 憲宗は即位すると、藩鎮に遠慮しなかったから、頑固な者も次第に入朝してきた。李錡は不安となり、また再三入朝を願った。詔があって尚書左僕射を拝命し、御史大夫の李元素がこれに代った。中使が駅路から労問し、兼ねてその軍を慰撫した。李錡は判官の王澹を推薦して留後とした。しかし李錡に入朝の意思はなく、病と称して引き延ばしにして行かなかった。王澹と中使がしばしば赴いたが、李錡は喜ばず、王澹が政務の引継ぎ処理するのに乗じて、親兵をそそのかして王澹殺害をはかった。よって冬服を給付する日に李錡は幄中に座し、挽硬随身兵・蕃落健児兵に自らを守らせ、王澹と中使が入謁すると、出てきて、軍は刃を持って罵り、王澹を殺して食べた。監軍使遣牙将の趙琦が説諭にきたが、これもまた食べた。兵に中使の首を繋がせたが、李錡は表向き驚き、つきそって縛めを解いて、そこで別館に拘禁した。蕃落健児兵は薛頡が司った。挽硬随身兵は李鈞が司った。また公孫玠・韓運が分割してほかの軍を統率した。部屋に五剣あって、管内の鎮将に授けて、五州の刺史を殺させようとした。別将の庾伯良に兵三千人を属させ石頭城を築城し、謀って長江の左岸に拠った。 常州刺史の顔防はその客の李雲の謀を用い、詔を偽って招討副使と称し、鎮将の李深を殺し、檄文を蘇州・杭州・湖州・睦州の四州に伝えて同じく錡を討伐させた。湖州の辛秘もまた鎮将の趙惟忠を殺した。蘇州の李素は鎮将の姚志安のために拘束され、舷上に釘打ち、錡に献上しようとしたが、李錡は敗れたため免れた。 憲宗は淮南節度使の王鍔を諸道行営兵馬招討処置使とし、中官の薛尚衍を都監招討宣慰使とし、宣武・武寧・武昌・淮南・宣歙・江西・浙東の兵を発して、宣州・杭州・信州の三州より進撃、討伐した。それより以前、李錡は宣州が富裕であったから、四院随身兵馬使の張子良・李奉仙・田少卿を遣わして兵三千人を領して宣州・歙州・池州に分けて下ったが、李錡の甥の裴行立は謀に預かっていたとはいえ、帰順したいと思い、そのため互いに兵を撤退することを約束して李錡を捕らえることとし、裴行立はまさに内応しようとした。張子良らはすでに行軍していたが、その薄暮、軍中を諭して、「僕射(李錡)が叛いた。官軍の精兵が四方から迫り、常州・湖州の鎮将は首を街路に晒され、勢いは衰えてまさに敗れて、我らはいたずらに死のうとしている。禍転じて福を願うにこしたことがない」と述べ、部衆は大いに喜び、遂に軍を返して城に向かった。裴行立は火を挙げると内外は混乱し、裴行立は牙門を攻めた。李錡は大いに驚き、左右の者が「城外に兵馬が来ました」と言うと、李錡は「誰なのか」といい、「張中丞(張子良)です」と答えた。李錡は非常に怒り、「門外の兵は誰なのか」というと、「裴侍御(裴行立)です」といった。李錡は嘆いて「裴行立もまた私に叛いたのか」と言い、裸足で女楼の下に逃げた。李鈞は兵三百を率いて庭院に走り出て白兵戦となり、裴行立の兵もその中に突出して、李鈞を斬って、首を城下に運んだ。李錡はこれ聞いて一族をあげて慟哭した。張子良は監軍の命によって日暮れに城中に道理にそむくことと従うことの良し悪しを諭し、かつ李錡の身を拘束して朝廷に帰順することを呼びかけたから、左右の者は李錡を捕らえて幕で包み、すがって城から出した。李錡は尚書左僕射として召喚されていたが、数日して叛いたとの報告が来ると、詔を下して官爵を削り、翌日敗れて京師に送られた。神策兵は長楽駅より護衛して宮中に至り、帝は興安門に御して罪を問うたが、答えて「張子良が臣を唆して叛いたので、臣の思いではありません」と言ったが、帝は、「お前は宗室だから節度使となったのに、張子良を斬ってその後に入朝できなかったのか」と言うと李錡は答えられなかった。その日、子の李師回とともに城の西南で腰斬された。年六十七。死体は数日して、帝は黄衣を二襲出して、庶人の礼によって葬った。 張子良を抜擢して検校工部尚書・左金吾将軍とし、南陽郡王に封じ、名を奉国と賜った。田少卿を検校左散騎常侍・左羽林将軍とし、代国公に封じた。李奉仙を検校右常侍・右羽林将軍とし、邠国公に封じた。裴行立を泌州刺史とした。王澹に給事中を、趙琦に和州刺史を、崔善貞に睦州司馬を贈位した。錡の属籍を削って、従弟の宋州刺史の李銛、通事舎人の李銑、従子の李師偃を嶺南に流刑とした。 賛にいわく、『論語』に「出納の吝(やぶさ)かなる、これを有司と謂う(どうせ与えねばならぬのに、出し惜しみをするのが吝である。そしてそれが官僚というものである)」とあるが、これは賎しんでいうのである。徳宗は朱泚を平定したが、京師の府蔵は消耗して尽きてしまい、諸道は始めて経費を助け奉ることがあったので、詔書もまた往々として天下にお示しになったのである。人主が細々と理財すると、下でも有司がそれと行う事となり、天下は無事となったにもかかわらず、賦税を徴収することはなお休まざるがごとしであった。剣南の韋皋・江西の李兼は「日進」・「月進」と称し、杜亜・劉蕡・王緯および李錡が毎年進奉し、その寵愛を固め、号して「賦外の羨余」と称した。また帝の意に托して庫物を盗んだ。しかしそのうち献上したのはわずかに十のうち二や三ほどで、ほかは皆横領したのである。江南・淮南は、物力は大いにつき、人々は衰弱して生を忘れるほどであった。貞元年間(785-805)以後、宦官は物を都下で市場とし、これを「宮市」といい、符牒を持たず、口に詔命を含んで、勝手に縑を取り、紅布を嫌ってこれを紫布と交換し、その売価が倍であったら、勝手に裂いて値段に見合わせた。市の良貨は皆逃げ去って出さず、市場で商店を並べられるものは、ただ粗雑・粗悪品のみであった。また辺境より馳せて来て禁中に入る者は、つきて車輦するところで、売る者が不平をいえば、よって共に殴って笞うった。兵卒や女奴、名馬や工車、びくびくとして常に捕らえられることを恐れた。しかし徳宗は前後左右を佞臣に蔽われていたから実態を知ることがなかった。そのため崔善貞は李錡の不正を論じたものの、徳宗はついに李錡が塩鉄の利益を独占しているのを知らず、李錡は兵を養って謀叛をはかり、かつて徴税吏の吝嗇に及ばないことはるかに超えていたのだ。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 『新唐書』巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 巻二百二十四下 列伝第一百四十九下
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/425.html
唐書巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 楊思勗 高力士 程元振 駱奉先 魚朝恩 竇文場 霍仙鳴 劉貞亮 吐突承璀 馬存亮 厳遵美 仇士良 楊復光 唐制では、内侍省の官に内侍四名、内常侍六名、内謁者監・内給事がそれぞれ十名、謁者十二名、典引十八名、寺伯・寺人がそれぞれ六名あった。また五局あり、一は掖廷局といい、女官に関する一切の帳簿を司った。二は宮闈局といい、大小の門の戸締まりを司った。三は奚官局といい、宮中の疾病や死亡・喪送を司った。四は内僕局といい、出御の際の供奉・馬・燭の管理を司った。五は内府局といい、倉庫の出納を司った。局に令・丞があり、すべて宦官が就任した。 太宗は詔して内侍省に三品官を立てず、内侍をその長とし、階は第四品までで、政治については任命せず、ただ門の守備・庭内の掃除・配膳のみであった。武后の時、やや増員し、中宗に到ると、黄衣はそこで二千人で、七品以上の員外に千人を設置し、しかし朱紫を着るものもなお少なくなっていった。玄宗は平和な時代を継承すると、財用して豊かとなり、志は大いに奢り、賞や爵位を賜うことについて愛惜しなかった。開元・天宝年間(713-756)、宮嬪は大いに大体四万人にもなり、宦官の黄衣以上で三千人、朱紫を着る者は千人あまりであった。その内使節として派遣された者はたちまち三品将軍となり、戟を門に並べた。その宮殿にあって供奉し、委ねて高貴な人々に任せ、節を持って命令を伝え、威光の光焰は大きな音が鳴り響いて四方を動かした。至るところの郡県は奔走し、献上したり派遣したのは一万にも至った。功徳を修し、市場で禽鳥を売り、一たびこの使いをなれば、なお数千緡があるかのようであった。監軍が権力を持ち、節度は返ってその下に出た。ここに一級の邸宅、名庭園、肥沃な田は宦官のために、所有者は半ば京畿に戻っている。粛宗・代宗は庸弱で、権力者を頼って守りとし、そのため李輔国は尚父となって有名となり、程元振は援けて奮い立ち、魚朝恩は軍容の職で重じられたが、しかしなおもまだ常に兵を司ることができたわけではなかった。徳宗は朱泚の賊を過去の教訓とし、そのため左右神策軍・天威軍などを分割して宦官に委ねてるのが大半となり、護軍中尉・中護軍を送って、分けて禁兵をひっさげ、これによって権威・権力は下に遷り、政治は宦官にあり、手をあげて伸縮させ、たよるに軽重があった。勇士・優秀な人材を集めて養って子とした。強大な藩鎮であっても、争そうように自門から出た。 小人の情は、みだりに険呑となっていとおしんで大切にすることはなく、また昼も夜も天子に侍り、昵懇となって天子の権威がなくなり、宦官から習えば疑うことはなく、そのため暗君は昵懇となって覆い隠され、英主が出ると災いはたちまちにあらわれた。玄宗は遷されて崩じ、憲宗・敬宗は弑逆されて命を落とし、文宗は憂憤となり、昭宗に至っては天下が滅んだのである。災いは開元年間(713-741)から天祐年間(904-907)まで、野蛮で固執する者が集まった。党類が殲滅されると、王室も宦官の命運に従って壊滅し、あたかも火を焚いて木の中にいる虫を焼き、虫が全滅して木もまた焼けるようなもので、なんと哀しいことではないだろうか。その残った気は弱く、温柔な感情は遷りやすく、あなどってお上などないも等しく、怖れると怨みが生じ、天子の権を借りて専横し、災いとなって迫って近づき、情勢が緩むと互いに攻め合い、急変になるとあれこれ一致し、これは小人のいつもの情勢である。ああ、梟雄や狐は神ではなく、天はこの暗いのを共にし、果ては乱のようになるのである。そのため唐の中葉以来の宦官で大物を集めて篇とした。 楊思勗は、羅州石城県の人である。もとは蘇氏で、養父の姓を名乗った。若くして内侍省に給事し、玄宗に従って宮廷の難事を平定し、左監門衛将軍に抜擢され、帝は頼って爪牙とした。開元年間(713-741)初頭、安南の蛮酋の梅叔鸞が叛き、黒帝と号し、三十二州の衆をあげて、外は林邑・真臘・金隣などの国と結び、海南により、軍勢四十万を号した。楊思勗は派遣されることを願い、詔して首領の子弟十万を募り、安南大都護の光楚客とともに馬援の故道より不意をついて出撃し、賊は驚いて謀する余裕がなく、遂に大敗し、死体を封じて京観を築いて帰還した。開元十二年(724)、五渓の首領の覃行章が叛乱をおこすと、楊思勗に詔して黔中招討使とし、兵六万を率いて行かせ、覃行章を捕らえ、斬首三万級を得て、功績によって輔国大将軍に昇進し、俸禄・防閤(護衛の官)を給付された。泰山の封禅に従い、驃騎大将軍に昇進し、虢国公に封ぜられた。邕州封陵の獠の梁大海が叛き、賓州・横州などの州を破ったが、楊思勗がまた平定し、梁大海ら三千人を捕らえ、支党を討伐して斬り、皆殺しとした。瀧州の蛮の陳行範が天子を、その部下の何游魯は定国大将軍を、馮璘は南越王を自称し、州県四十を破った。楊思勗に詔して永州・道州・連州の三州の兵と、淮南の弩士十万を動員し、襲撃して何游魯・馮璘を敵陣で斬った。陳行範は盤遼の諸洞に逃走したが、楊思勗は全軍で猛追し、捕虜とし、その与党六万を穴埋めとし、馬や金銀を鹵獲は巨万であった。卒したとき、年八十歳ばかりであった。 楊思勗は凶悪・残忍で、殺戮をあえてし、捕虜を得ると、必ず顔面を剥ぎ、脳を切り裂き、髪や皮膚を剥ぎ取って人に示し、将兵は恐れ従ったが、あえて見る者はおらず、これによってよく功績を立てた。内給事の牛仙童が張守珪の賄賂を受け取り、詔して楊思勗にあずけて殺させた。楊思勗は牛仙童を格子に縛り付け、鞭打って痛ましさに耐えられず、心臓をえぐり、手足を切り、肉を削って食べ、肉がつきてようやく死ぬことができた。 光楚客は、楽安の人で、後に桂州都督を経て致仕し、松滋県侯に封ぜられた。 高力士は、馮盎の曾孫である。聖暦年間(698-700)初頭、嶺南討撃使の李千里が二人の去勢児を奉った。一人は金剛といい、もう一人は力士といい、武后はその明敏さから、勅して左右の給事とした。罪に連座して追放され、宦官の高延福の養子となり、そのためその姓を名乗った。武三思と親しく、一年ほどで再び宮中に入ることができ、司宮台で食事を給された。壮年となると、伸長六尺五寸で、慎重かつ緻密で、よく詔令を伝えたから、宮闈丞となった。 玄宗が王子であったとき、高力士は心を傾けて結びつき、韋氏が平定されると、そこで奏上して内坊に属させ、内給事に抜擢された。先天年間(712-713)、蕭至忠・岑羲らを誅殺した功績によって右監門衛将軍、知内侍省事となった。ここにあちこちから来る奏請はすべてまず高力士が閲覧してから後で上進し、小事はただちに専決された。休暇であっても宮中から出たことがなく、宮殿帷中で休息・睡眠し、稀なる幸運を願う者は一度でも高力士に面会したいと願うことは、天の人のようであった。帝は「力士が当直なら、私は寝る時に安心だ」と言っていた。この当時、宇文融・李林甫・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝らは才能によって寵遇されていたとはいえ、全員が厚く高力士と結びつき、そのためあとにくっついて将相となることができ、そのほかなびいて付会していたものは数えきれないほどであり、全員が望みを得られたのであった。宦官では黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓荘・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠らのように、ともに宮中で供奉し、ある者は外で節度使の監軍となり、功徳を修し、鳥獣を買い求め、全員がその使となり、帰還すると、集め獲られたものは、ややもすれば巨万となり、京師の邸宅・池園・良田・美産で、占有するものは十のうち六にもおよび、寵は高力士と大体同じようなものであったが、しかし全員が高力士の側近の地位をかりて推し量った。粛宗が東宮であったとき、高力士を兄としてつかえ、他の王・公主は「翁」と呼び、縁戚の諸家では尊んで「㸙(とうさん)」と呼び、帝はある時は名で呼ばず「将軍」と呼んだ。 高力士は幼なくして母麦氏と生き別れになり、後に嶺南節度使が母を滝州で探し出し、出迎えたが、覚えていなかった。母は「子どもには胸に七のホクロがあった」と言ったから、高力士は肌脱ぎになってみると、言った通りであった。母は金の環を出し、「子どもがつけていた」と言うと、お互いに同じのを持っていたから慟哭しあった。帝は高力士のために母を越国夫人に封じ、その父に広州大都督を追贈した。高延福と妻は、高力士が偉くなっても健在であり、侍って養うことは実母麦氏と同じようであった。金吾大将軍の程伯献が高力士と義兄弟となることを約束し、後に麦氏が亡くなると、程伯献は髪を被って弔いを受けた。河間の男子の呂玄晤は京師で役人となり、娘は国一番の美女で、高力士はこの娘を娶り、呂玄晤は一小役人から少卿に出世し、子弟は全員王傅となった。呂玄晤の妻が死ぬと、内外の人々は葬礼にやって来て、邸宅から墓へ至るまで、車馬の列が途切れなかった。 それより以前、李林甫・牛仙客は帝が東都への行幸を嫌がっているのを知っていたが、京師への運送は給されていなかったから、そこで年貢をとりたてて運送を助け、和糴の法を用いるようになった。数年して、国庫は徐々に充実していった。帝は大同殿で祭祀を行い、高力士は近侍した。帝は「我々は長安を出ないことは十年になろうとしており、海内は無事で、朕は道家の養生の呼吸法を行い、天下の事は李林甫に預けようと思う。どうか」と言うと、高力士は「〝天子は順をもって動く〟と言いますように、古からの制度です。税収は常にあるから、人々には労いの言葉をかけていません。今年貢で運送物が満たされていますが、臣は国家には十か月の蓄えとてないことを恐れています。和糴を止めなければ、私蔵は尽き果て、商売する者が多くなります。また天下の権力は人に与えてはなりません。権力を威にして勢力を振るい、どうしてあえて議論することがありましょうか」と答えたが、帝は不快に思ったから、高力士は頓首して自ら陳謝して、「精神がおかしくなっていました。言い誤りは死に値します」と言った。帝は酒宴を設け、左右の者は万歳を叫んだ。これによって内宅に帰り、再び同じようなことはしなかった。驃騎大将軍を加えられ、渤海郡公に封ぜられた。来廷坊に仏寺を建立し、興寧坊に道観を建立し、美楼や宝閣で、国がもたらしたものは及ばないほどであった。鐘が完成すると、高力士は公卿と宴し、一度鐘を叩くと、礼銭十万を納め、高力士に阿諛追従する者は二十回叩き、少ない者でもまた十回を下回らないほどであった。都北の灃水の堰に五つの碾磑を並べ、毎日三百斛に対応した。 袁思芸なる者がおり、帝はまた寵愛していたが、しかし傲慢で慎まず、士大夫は疎んじて恐れ、高力士は密かに巧みに人の名声を得た。帝は始めて内侍省監に二員を置き、秩三品とすると、高力士・袁思芸をそれに叙任した。安禄山の叛乱のため帝が蜀に逃れると、袁思芸は遂に賊の臣下となったが、高力士は帝に従ったから、斉国公に進封した。帝は粛宗の即位を聞いて、「我が子はまさに天に応じて人を従わせるだろう。至徳と改元したのは、孝を忘れないからだろうか。その上何の心配があろうか」と喜んだが、高力士は「両京は守りを失って陥落し、生ける者は流浪し、河南漢北は戦場となり、天下は心を痛めていますが、陛下は何の心配もないと考えられているようでしたら、臣はあえて聞かなかったことにします」と言った。上皇が帰還すると、開府儀同三司に昇進し、実封戸五百となった。 上皇が西内(宮城・太極宮)に移ると、十日ほどして、李輔国に誣告され、除籍されて、巫州に長流となった。高力士はその時功臣閣におこりの発作のため席をはずしていたが、李輔国は詔によって召還し、高力士は走って宮殿の外に到り、太監から流謫の制書を授けられると、「臣は本来死ぬべき身でありますが、長い事行きながらえており、天子の哀憐は今日に至っています。願わくば、陛下の顔色を一見させていただければ、死んでも恨みません」と言ったが、李輔国は許さなかった。宝応元年(762)、赦免によって帰還したが、玄宗・粛宗二帝の遺詔を見て、北に向かって慟哭して血を吐き、「大行皇帝があの世に登られたのに、梓宮にすがることもできない。死んでも恨みが残る」と言い、慟哭して卒した。年七十九歳。代宗は先帝を護衛した労によって、その官位を戻し、揚州大都督を追贈し、泰陵に陪葬した。 それより以前、太子李瑛が廃せられると、武恵妃は寵愛により、李林甫らは皆寿王に心を寄せ、帝は粛宗が年長であったものの、思いを決せず、居ながらにして気がふさいで食事ができなかった。高力士は、「旦那様がお食べにならないのは、食事に何か不具合がございましたか」と言うと、帝は「お前は、私の家老ではないか。私がどうしてこのようになっているのかわからないのか」と言うと、高力士は「後継ぎがまだ定まっていないからですか。年長を立てればいいのです。どうしてあえて言う事がありますか」と言うと、帝は「お前の言う通りだな」と言い、儲君の位は遂に定まった。天宝年間(742-756)、辺境の将軍が功績を争っており、帝はかつて「朕は年をとって、朝廷の細かい仕事は宰相にまかせ、蕃夷が恭順しなければ諸将にまかせている。どうして暇がないことがあろうか」と言うと、「臣が時間のあるときに宮中の門に行ってみると、奏事する者がいて雲南でしばしば軍を失ったと言上しており、また北兵は剽悍で強いのですが、陛下はどうやって抑えるのでしょうか。臣は災いがおこるのではないかとの心配をしないわけにはいきません」と答え、それは安禄山を指していたのだという。帝は「お前は言うことではない。朕の将軍が考えることだ」と言った。天宝十三載(754)秋に大雨となり、帝は左右を振り返ったが誰もおらず、そこで「天が災いしている。お前の考えを言ってみよ」と言ったから高力士は、「陛下が宰相に権力を与えてから、法令は行われず、陰陽は度を失い、天下の事はどうして再び安穏とすることがありましょうか。臣は口をつぐんで言いませんが、その時だからです」と言ったが、帝は答えなかった。翌年、安禄山が叛乱をおこした。高力士はよく時勢の上下を推し量り、昵懇となっているとはいえ、傾国敗亡にあたっても、救うことに力をつかうことをよしとせず、そのため普段からあきらかな大過がなかった。議する者は宇文融以来、権力と蓄財は賊と同じようなものであり、天下の禍いへの階段を登り、よいこともあったとはいえ、除くことがなかったことを非常に恨んだという。 程元振は、京兆三原県の人である。若くして宦官となって内侍省につとめ、内射生使・飛龍厩副使に遷った。張皇后が越王を即位させようと謀ると、程元振は太子に謁見して、その奸計を暴き、李輔国とともに助けて国難を討伐し、太子を即位させた。これが代宗となった。右監門衛将軍、知内侍省事を拝命した。帝は薬子昂を元帥行軍司馬に任じたが、固辞し、そこで程元振を任命し、保定県侯に封じた。再び驃騎大将軍・邠国公に遷り、ことごとく禁軍を統括した。一年後、権勢は天下を震わせ、李輔国の近くにあって、凶悪さはそれを上回るものであった。軍中では十郎と呼ばれた。 王仲昇は、初め淮西節度使となり、襄州の張維瑾の部将と申州で戦ったが、捕虜となった。賊が平定されると、程元振は推薦して右羽林大将軍兼御史大夫とした。将軍が大夫を兼任するのは王仲昇から始まった。裴冕は程元振にさからい、そこで韓穎らの罪をひいて施州に貶した。来瑱は襄・漢を守って功績があり、程元振はかつて自分の功績とするよう求めたが、応じることはなく、そこで王仲昇とともに誣告して来瑱を殺した。同華節度使の李懐譲と関係が悪化し、李懐譲は非常に心配して自殺した。もとより李光弼を憎んで、しばしばサソリをとりもったとして嫌疑をかけた。来瑱らは上将で、裴冕・李光弼は元勲であったが、既に誅殺・排斥され、ある者は自ら反省せず、藩鎮らはこれによって心離れすることとなった。 広徳年間(763-764)初頭、吐蕃・党項が領内に侵入し、詔して天下の兵を召集したが、一兵士とて命を捨てて参じる者はいなかった。敵は便橋に迫り、帝はあわてて嫠居・陝県に出て、京師は陥落し、賊は府庫を掠奪し、宮殿や街を焼き払い、騒然として空虚と化した。ここに太常博士・翰林待詔の柳伉が上疏して、「犬戎が数万の軍で関中を犯し隴西にわたり、秦州・渭州を経て、邠州・涇州を掠奪し、刃を血塗らずして京師に入り、謀臣は一言も奮わず、武士は一戦も力せず、兵卒をひっさげて大声をあげ、宮殿を掠奪し、陵墓を焼き払いましたから、これは将帥が陛下に叛いているのです。史朝義が滅んでから、陛下は智力のよくするところによっていますが、そのため元より功績のある者を疎んじ、近習に委ね、日月が過ぎるにつれ大禍となり、群臣は朝廷にあって一人とてあえて君主の威厳を侵すような者はおりませんが、これは公卿が陛下に叛いているのです。陛下は始めて都を出て、百姓は勢いづいて府庫を奪い、互いに殺戮しあい、この関中も陛下に叛いているのです。十月朔日より諸道の兵を召集して、四十日になろうとしていますが、一隻の輸送船とて関に入るものはなく、これは天下四方が陛下に叛いているのです。内外が離叛し、一人の魚朝恩が陝郡で力をつくしたといっても、陛下一人がこれによって社稷を守ることができるでしょうか。陛下は今日の勢いによって安んずることができるでしょうか。なんと危ういことでしょうか。もし危ういとわかっているのに、どうして高枕を得て天下の計とすることができましょうか。臣は良医が病気を治療するとき、病にあたって薬を飲み、薬で病にあたらないのは、なお無益だからだと聞いています。陛下は今日の病を見て何によってここに至ったのでしょうか。天下の心は、陛下が賢良を遠ざけ、宦官を任用し、将軍を離間して危うく滅ぼされかけたことを恨んでいます。必ず宗廟社稷を存続させようと思うのでしたら、一人程元振の首を斬って、天下に急告し、ことごとく内使を出して諸州に属させ、一人魚朝恩を留めて左右に備え、陛下は神策兵を大臣に授け、その後に尊号を削り、詔を下して咎を引き、率先して徳を励行させ、嬪妃を公の場から覆い隠し、将軍を任じるのです。もしくは「天下は朕が自ら新たに過を改めるのを許すだろうか。ただちに兵士を募って西は朝廷と合流すべきである。もし朕の悪行が改悛されなければ、帝王の大器は、あえて聖賢を妨げず、天下往くところを聴す」と仰せられるのです。このようにしても兵がやって来ず、人々は感じ入らず、天下が服さなければ、臣の一族を皆殺しにして謝してください」と述べ、帝は公議を共にしなかったことを反省し、そこで詔を下して程元振の官爵をすべて削り、田舎に放ち帰した。帝が帰還すると、程元振は三原から婦人の衣服を着て密かに京師に入り、司農卿の陳景詮の家に留まり、大それたことを意図した。御史の弾劾調査により、溱州に長流となり、陳景詮は新興県の尉に貶された。程元振は江陵に到着して死んだ。 当時、また駱奉先なる者がおり、また三原の人で、右驍衛大将軍を経て、しばしば帝に従って討伐し、非常に寵遇された。広徳年間(763-764)初頭、僕固懐恩の軍の監軍となった。駱奉先は寵遇を恃んで非常に貪欲であり、僕固懐恩とは不仲で、僕固懐恩は駱奉先の讒言を恐れて、ついに叛いた。平定されると、駱奉先を軍容使に抜擢し、畿内の兵を掌握させ、権勢はさらに燃え上がった。永泰年間(765-766)初頭、吐蕃がしばしば京師を脅かしたから、鄠(陝西省鄂県)に城塞を築き、駱奉先が使となり、ことごとく県外の家々を壊し、小さな小屋すら残らなかった。江国公に封ぜられ、鳳翔軍の監軍となり、大暦年間(766-779)末に卒した。 魚朝恩は、瀘州瀘川県の人である。天宝年間(742-756)末、品官によって給事黄門となり、心の内は陰険かつ狡猾であったが、詔令の宣命をよくした。至徳年間(756-758)初頭、李光進の監軍となった。京師が平定されると、三宮検責使に任じられ、左監門衛将軍知内侍省事となった。九節度使が賊を相州で包囲すると、魚朝恩を観軍容・宣慰・処置使とした。観軍容使は魚朝恩から始まった。史思明が洛陽を攻撃すると、魚朝恩は神策兵で陝州に陣を敷いた。洛陽が陥落すると、史思明は長駆して硤石に到着し、子の史朝義を遊軍とした。粛宗は詔して精兵十万で渭水を迂回して東は軍を増援させた。魚朝恩は兵を陝州の東に留め、神策の将の衛伯玉に賊将の康文景らと戦わせ、破った。洛陽が平定されると、移動して汴州に陣を構えた。開府儀同三司となり、馮翊郡公に封ぜられた。宝応年間(762-763)、戻って陝州に駐屯した。代宗は吐蕃の侵攻を避けて東に行幸し、衛兵は離散したが、魚朝恩は全軍で華陰県にお出迎えし、乗輿の六軍はそこで勢力を立て直し、帝は恩義に感じ、改めて天下観軍容・宣慰・処置使と号し、神策軍を統括させ、賞や賜い物は数え切れなかった。 魚朝恩の性格は小人で、功績をたのんでたちまち憚ることはなかった。僕固瑒が絳州を攻撃し、姚良に温県を根拠地として、回紇を誘引して河陽を陥落させた。魚朝恩は李忠誠を派遣して僕固瑒を討伐し、霍文場を監軍とした。王景岑に姚良を討伐させ、王希遷を監軍とした。僕固瑒を万泉で破り、姚良を捕虜とした。高暉らが吐蕃を誘引して侵攻し、劉徳信を派遣して討伐して斬った。そのため魚朝恩は麾下によってしばしば勝利を収め、心の中では次第に尊大になっていった。この当時、郭子儀が天下を定めた功績があり、人臣第一の功があり、心の中で妬み、相州の敗北に乗じて、醜聞を誣告し、粛宗は心の中ではその言葉を信じていなかったが、それでも郭子儀を軍から罷免し、京師に留めた。代宗が即位すると、程元振とともに一層讒言を加えたが、帝はまだ悟らず、郭子儀は非情に憂慮した。にわかに吐蕃が京師を陥落させると、ついに郭子儀の力を用い、王室は再び安泰となった。そのため魚朝恩は心の中で恥じ入り、そこで帝に洛陽への遷都を勧め、戎狄から遠ざかろうとした。百官が朝廷にあって、魚朝恩は十人あまりを従えて兵とともに出てきて、「敵はしばしば都の郊外を侵犯しているから、洛陽に行幸しようと思う。どうか」と言うと、宰相は答えなかったが、近臣がその雰囲気を断ち切って「勅使は叛かれたか。今防衛兵は敵の侵攻を防ぐのに充分であるのに、何を根拠にして天子を脅して宗廟を捨てようとするのか」と言うと、魚朝恩は顔面蒼白となり、郭子儀もまた反対意見を述べたから、沙汰止みとなった。 魚朝恩は軽薄で浮ついた若年者を好んで門下に引き連れ、五経大義を講じ、文章をつくり、才能は文武を兼ねると自称し、寵遇を誤って伺っていた。永泰年間(765-766)、詔して判国子監、兼鴻臚・礼賓・内飛龍・閑厩使となり、鄭国公に封ぜられた。始めて太学に視学すると、宰相・常参官・六軍の将軍に詔してことごとく召集し、京兆府で食を設け、内教坊から音楽の俳優を出して宴会の補助とし、大臣の子弟二百人、朱紫の衣が雑然として学生に付し、席次ごとに廡に並んだ。また銭千万を賜い、子銭を取って秩飯に供した。視学するごとに、神策兵数百を従え、京兆尹の黎幹が従事する者に銭を与えていたから、一回あたり数十万を費やしたが、魚朝恩の顔色を伺ったからいつも不足していた。 おおよそ詔があって群臣と会して事をはかると、魚朝恩は貴顕をたのんで、根拠のない妄言で議論のために着座している人を侮辱して、見下すような偉そうな態度をとり、元載のように弁論に秀でた人であっても押し黙らせ、ただ礼部郎中の相里造・殿中侍御史の李衎が問答を繰り返し、屈服せず、魚朝恩は喜ばず、李衎を斥け相里造を移動させた。また謀って宰相を代えて朝廷を震わせようとし、そこで百官を都堂に集め、そして「宰相は、元気(宇宙自然の気)を調え、一切の生き物を集めるものだ。今は思いがけず水は旱りとなり、軍は数十万もの駐屯し、運送は尽きて困窮している。天子が臥せって席を安んじておられないのに、宰相はどうやって輔弼するのか。賢人が仕える道を退避せず、黙々と何を頼っているのか」と言うと、宰相は蕭俛を筆頭に、着座している者は全員顔色が青ざめた。相里造は着座して従っていたが、そこで「陰陽が調わず、五穀の価格が上昇しているのは、すべて軍容閣下(魚朝恩)の政治で、宰相に何の関わりがありましょうか。また軍事力は分散しておらず、そのため天は澱みを降らせています。今京師は無事で、六軍は藩鎮に相連なることができています。また十万もの軍が駐屯して、兵糧が不足しているからといって、百官の年俸もないのは、軍容閣下が実行したことで、宰相は文書を作成したのみで、何の罪を帰するところがありましょうか」と述べたから、魚朝恩は衣を払って去り、「南衙(官人)の朋党もまた私を害している」と言った。釈菜となり、『易』をもって講座にのぼり、百官は全員居並んでいる中、「鼎」(『周易』下経)の餗(そく)を覆えすの象(君公からの贈り物である鼎中のご馳走をひっくりかえす重職者の無才徳)ありと言い、これによって宰相の尊厳をおかした。王縉は怒ったが、元載は笑っていた。魚朝恩は「怒った者は普通の精神であるが、笑った者は測ることができない」と言っていた。元載は心の中では恨んでいたが、発覚しなかった。 魚朝恩は別荘を賜り、美しい沼は清新な立地であり、上表で仏寺とし、章敬太后の冥福を祈るため、そこでそこで章敬太后の諡から章敬寺と名付けるよう願い、許された。ここで費やした費用は莫大なものとなり、公のものは曲江の諸館・華清宮の楼榭・百官の官衙・将相のもと邸宅を取り壊し、その材料を収容して建造の補助とし、ざっと万億を費やした。すでにしばしば郭子儀を謗っていたが、聴かれることはなかったから、盗賊に郭子儀の先祖の墳墓を盗掘させた。郭子儀は偽って自ら弁解し、これによって人々の疑いを静めた。しばらくして、判国子監・鴻臚礼賓等使を辞退して譲り、内侍監を加えられ、韓国公に移封され、実封百戸を増加された。にわかに検校国子監を兼任した。 それより以前、神策都虞候の劉希暹はたくましく強くて騎射をよくし、最も魚朝恩と昵懇かつ信任を得ており、太僕卿となって交河郡王に封ぜられた。兵馬使の王駕鶴は一人謹み深く温厚で、同じく徐国公に封ぜられた。劉希暹は魚朝恩に仄めかして獄を北軍に設置し、密かに悪少年を勝手気まままにあつかって富裕者を捕らえて吏に渡して尋問し、そこで獄中では法によって、財産を記録して軍に編入し、全員を誣告して冤罪で死に追いやり、そのため市中の人々は「入地牢」と号した。また万年県の吏の賈明観は魚朝恩の権勢をたのんで捕物を恣意的に実行し、巨万の財を積み、人々はその悪事をあえて暴くものはいなかった。朝廷の裁決で、魚朝恩がある時関与しなかったことがあり、たちまちに「天下の事は私を経ないものがあるのか」と怒ったが、帝は聞いて喜ばなかった。養子に魚令徽なる者がおり、まだ幼かったが、内給使(従五品相当官)となり、緑衣(六品・七品の衣)を着用し、同列と争って怒り、帰って魚朝恩に報告した。翌日帝に謁見して「臣の子の位は下で、願わくば金紫を得て、班位は上列にありたいのです」と言ったが、帝が返答する前に、役人がすでに紫服を御前に奉り、魚令徽は感謝の意を申し上げた。帝は笑って「小僧に章服とは、大いに適っているな」と言ったが、ますます喜ばなかった。 元載はそこで左散騎常侍の崔昭を用いて京兆尹とし、厚く財力によってその与党の皇甫温・周皓と結びついた。皇甫温は陝州に駐屯し、周皓は射生将であった。これより魚朝恩は密かに謀を企てたが、すべて帝の知るところとなった。劉希暹は帝の意図を悟り、密かに魚朝恩に報告し、魚朝恩はようやく恐れるようになった。しかし帝に謁見しても接待・待遇はいまだ衰えず、そのため安心して密かに大それたことを計画するようになった。帝は遂に元載をたより、魚朝恩を除こうと決意したが、恐れてできず、元載は「陛下はただ専ら臣の言う通りになされば、必ずうまくいきます」と言った。魚朝恩は宮殿に入った。かつて武士百人を従えて自衛していたが、周皓がこれを統括し、皇甫温が兵を掌握して外部にいた。元載はそこで鳳翔尹の李抱玉を移して山南西道節度使とし、皇甫温を代って鳳翔節度使とし、表向きは魚朝恩の権力を尊重し、実際には皇甫温を内部に引き込んで自らの助けとした。元載はまた議して鳳翔の郿県を分けて京兆に属させ、鄠県・盩厔県および鳳翔の虢県・宝鶏県を李抱玉に与えて、興平県・武功県・鳳翔の扶風県・天興県を神策軍に与え、魚朝恩はその土地を利して、自ら利財したが、欺かれているのを知らなかった。郭子儀は密かに「魚朝恩はかつて周智光と結んで外応しており、長らく宮中の兵を領しています。速やかに計画を実行しなければ、変事はまた大きくなりますぞ」と申し上げた。元載は皇甫温を京師に留め、まだ派遣できていなかったから、周皓と共に魚朝恩を誅殺することを盟約した。謀が定まると、上奏し、帝は「うまく計画を実行せよ。かえって災いを受けてはならんぞ」と言った。当時、寒食節で禁中では宴会が行われ、それが終わると将軍たちは軍営に帰っていったが、詔があって議事があるとして留めた。魚朝恩はもとより太っていて、そのたびに小車に乗って宮省に入っていた。帝は車の先触れの声を聞いてかしこまって座り、元載は中書省を守った。魚朝恩が到着すると、帝は魚朝恩の謀反計画を責めたが、魚朝恩は自ら弁明して非常識な言動をとって傲慢であったから、周皓は左右の者と共に捕らえて絞殺した。死んだ時、年四十九歳。外部に知る者はなかった。帝は隠蔽して、詔を下して観軍容等使を罷免し、実封戸六百を増やし、内侍監はもとの通りとした。外部では皆が「既に詔を奉って、自ら縊死した」と言っていたという。死体は家に帰り、銭六百万を賜って葬った。 帝は軍乱を恐れ、劉希暹・王駕鶴を昇進させてともに兼御史中丞とした。また詔を下して将兵を諭し慰めたが、ただ劉希暹は自らが同じく憎まれているのを知っていたから、言動は不遜であり、王駕鶴が暴いて言上したから、遂に死を賜った。しかし賈明観は元載の厚遇も得ていたから、そのため元載は奏上して江西に赴任させ、功績を立てさせて自ら贖罪させようとしたが、路嗣恭は賈明観を杖殺してしまった。魚朝恩と親しかった礼部尚書・礼儀使の裴士淹、戸部侍郎判度支の第五琦は連座して貶された。 竇文場・霍仙鳴は、始めともに東宮に属し、徳宗に仕えたが、まだ名があがってなかった。魚朝恩が死んでから、宦官は再び兵を司らず、帝は禁衛をすべて白志貞に委ね、白志貞は多く富裕者から賄賂を納めて兵士を別に集めて補ったが、その賃金を自身に収めるだけで、兵士は実際に存在していなかった。涇州の軍が叛乱をおこすと、帝は近衛兵を召集したが、一人もやって来る者はおらず、ここに竇文場らは宦官および親王を率いて左右に従った。奉天に到着すると、帝は白志貞を追放し、あわせて左右軍を竇文場に授けて将とした。興元年間初頭(784)、詔して監神策軍左廂兵馬とし、王希遷を監右神策軍都知兵馬使とし、馬有麟を左神策軍大将軍とし、軍額はこれより始まった。 帝は山南より帰還すると、両軍もまた完うした。しかし帝は宿将を嫌って制することが難しく、そのため竇文場・霍仙鳴に詔して指揮させ、天威軍を廃止して左右神策軍に編入させた。この時、竇文場・霍仙鳴の権勢は朝廷に振るい、諸地方の節度使は多くはその軍から出て、台省の要職にある者は門下をはしり、援助を願う者は相継いで足を運んだ。衛士の朱華なる者は按摩によって竇文場の厚遇を得て、計画に参与し、賄賂数万緡を求めて、藩鎮は巨万の額を贈り、兵士の妻女を奪って憚ることなかったから、詔して軍中で殺害した。その勢いが盛んであることはこのようであった。 しばらくして、護軍中尉・中護軍をそれぞれ二人置き、竇文場に詔して左神策護軍中尉とし、霍仙鳴を右神策護軍中尉とし、焦希望を左神策中護軍とし、張尚進を右神策中護軍とした。中尉・護軍は竇文場らから始まった。後に霍仙鳴が病となると、帝は十馬を賜い、諸祠に快癒を祈らせた。後に少し癒えたが、にわかに死んだから、帝は左右の者が毒を飲ませたのではないかと疑い、小使を捕らえて尋問し、数十人が誅殺され、開府儀同三司を追贈され、内常侍の第五守亮に代わらせた。竇文場は驃騎大将軍となった。当時、監察御史の崔薳が軍に捕縛のために赴き、吏が崔薳に酒食を供すると、崔薳は媚びて喜ばせようとし、そのため供を拒まなかった。竇文場は弾劾奏上し、詔して崔薳を遠方に流した。竇文場は年老いて致仕して卒した。 その後、楊志廉・孫栄義が左右中尉となり、権力を弄んで驕り勝手にすることは、竇文場・霍仙鳴とほぼ同じであった。帝は晩年、民間が禁中の事を流言するのを聞いて、北軍に太学生の何竦・曹寿を捕らえさせて尋問させ、人心は大いに恐れたから、司業の武少儀が「罪があるかどうかは判断しにくいので、全国に基準を明示していただきたい」と上書した。にわかに釈放された。この当時、宦官は再び盛んであった。 焦希望は、涇陽の人で、明威将軍を経て、洪州都督を追贈された。張尚進は、河東の人で、忠武将軍を経て、開府儀同三司を追贈された。楊志廉は、弘農の人で、左監門衛大将軍に任じられた。孫栄義は、涇陽の人で、右武衛大将軍に任じられた。同じく揚州大都督を追贈された。 劉貞亮は、本姓は倶氏で、名は文珍である。宦官であった養父の姓を名乗ったため、改名したのである。性格は忠義心が強く、義理を知った。吐蕃との平涼の盟約のとき、渾瑊の軍中にあったが、変事にあって捕虜となり、捕らえられて西に連行されたが、にわかに帰還できた。京師から出されて宣武軍の監群となり、自ら親兵千人を置いた。貞元年間(785-805)末、宦官が兵を領して従わせる者がますます多くなった。 順宗が即位すると、長らく病に臥せって朝政をとることができず、ただ李忠言・牛美人が侍るだけであった。牛美人は帝の意向を李忠言に授け、李忠言はこれを王叔文に授け、王叔文は柳宗元らとともに裁定し、その後に中書省に下した。しかしまた勝手気まままにしようとしてもできず、遂に神策兵を奪って自らの権力を強化しようとし、そこで 范希朝を登用して西北禁軍都将とし、宦官の権力を自身の手に収めようとした。しかし李忠言はもとより慎重で慎み深く、王叔文に会うごとに共に議論したが、あえて意見を異にすることはなく、ただ劉貞亮が王叔文と争ったのである。また朋党が強く結びつくことを嫌い、そこで宦官の劉光琦・薛文珍・薛尚衍・薛解玉・呂如全らとともに同じく帝に勧めて広陵王を立てて太子監国とするよう勧め、帝はその奏上を受け入れ、劉貞亮は学士の衛次公・鄭絪・李程・王涯を呼び寄せ金鑾殿で詔の草稿をつくった。太子が即位すると、王叔文の党派をことごとく追い払い、政治を大臣に委ね、議する者はその忠義をよしとした。 高崇文が劉闢を討伐すると、また監軍となった。それより以前、東川節度使の李康が劉闢に敗北すると捕らえられた。高崇文がやって来ると、劉闢は李康を帰還させて自らの罪を雪ぐことを求めたが、劉貞亮は賊を防がなかったことを弾劾し、李康を斬り、そのため専断凶暴ぶりが恨まれた。右衛大将軍、知内侍省事に昇進した。元和八年(813)卒し、開府儀同三司を追贈された。 憲宗が即位すると、劉貞亮は功績があったのに、死んでしまって恩寵によって地位を手にすることができなかった。呂如全は内侍省内常侍・翰林使を経て、勝手に樟材を伐採して邸宅に使ったのを罪とされ、東都の獄に送られるところを、閿郷に到着したところで自殺した。また郭旻は酔って夜間外出の禁令に触れ、杖殺された。五坊の朱超晏・王志忠は鷹匠を民家に入れたから、杖二百となり、職を奪い、これより恐れない者はいなかった。 吐突承璀は、字は仁貞で、閩の人である。黄門となって東宮に仕え、掖廷局博士となり、細かいところまで見逃さないことに才能があった。憲宗が即位すると、左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢され、薊国公に封ぜられた。 王承宗が叛くと、吐突承璀は帝が征討の意思を先鋭にしていることを察して、そこで行くことを願った。帝はその果敢で自ら喜んでいるのを見て、任命すべきであると言い、そこで吐突承璀に詔して行営招討処置使に任じ、左右神策および河中・河南・浙西・宣歙の兵を従わせた。内寺伯の宋惟澄・曹進玉を館駅使とし、河南・陝・河陽より宋惟澄の担当とした。京師・華州・河中から太原までを曹進玉の担当とした。また内常侍の劉国珍・馬朝江に詔して易・定・幽・滄等州糧料使を分領させた。ここに諌官の李鄘・許孟容・李元素・李夷簡・呂元膺・穆質・孟簡・独孤郁・段平仲・白居易らは集まって延英殿で対面し、古より宦官を司令官の位にしたことはなく、全国に笑われるのを恐れると述べた。帝はそこで改めて招討宣慰使に任じ、彼らのために通化門に御してその行軍を慰めた。吐突承璀は軍を統率したが他に遠略とてなく、盧従史に侮られ、一年しても功がなく、宦官の持ってくる詔に頼り、暴いて盧従史を捕縛させ、合間に人を派遣して王承宗に上書を奉って罪を待つよう述べ、そこで詔して軍を帰し、戻って中尉となった。段平仲は吐突承璀を弾劾し、軽挙な謀で軍費を費やし、国威を損じたとして、斬首せずに天下に謝るような方法はないとした。帝はやむを得ず、罷免して軍器荘宅使とした。ついで左衛上将軍、知内侍省を拝命した。 たまたま劉希光が羽林大将軍孫璹の銭二十万緡を納めて、孫璹の藩鎮の地位を求めたが、詔によって死を賜り、吐突承璀はその係累であったから、そのため京師から出されて淮南軍の監軍となった。纖人太子通事舎人の李渉が目安箱に投書を行って吐突承璀らの冤罪を訴え、ここに孔戣 は目安箱のことを司っており、その写しを閲覧したが受諾せず、そこで吐突承璀の邪まさを上表し、追放して峽州司倉参軍とした。しかし帝は吐突承璀に対してとくに厚いものがあったが、当時李絳が翰林にあって、非常にその過を論じたから、追放を決定して送り出すこととなったのである。帝は後に吐突承璀を戻そうとし、彼のために李絳の宰相職を罷免し、召還して内弓箭庫使とし、左神策中尉に復職させた。恵昭太子が薨ずると、吐突承璀は澧王を皇太子とするよう願ったが、聞き入れられなかった。常に一室に賜った詔勅を収蔵していたが、地面から毛が二尺ほど生えてきて、これを嫌って自ら清掃して埋めてしまった。一年後、帝が崩ずると、穆宗は先の皇太子に関する議を恨みに思い、吐突承璀を禁中で殺害した。敬宗の時、左神策中尉の馬存亮がその冤罪を論じ、詔して子の吐突士曄に埋葬を許した。宣宗の時、吐突士曄を抜擢して右神策軍中尉とした。 この当時、諸道は毎年閹児(去勢した男児)を進上し、「私白」と号しており、閩(福建)・嶺(広東)が最も多く、後に皆朝廷に仕えたから、当時は閩を「中官区薮(宦官密集地)」と呼んだ。咸通年間(860-874)、杜宣猷が観察使となると、毎年吏を派遣してその先祖の祭祀を行い、当時は「勅使墓戸」と号した。杜宣猷はついに宦官たちの力を用いて宣歙観察使に遷った。 馬存亮は、字は季明で、河中の人である。元和年間(806-820)、抜擢されて左神策軍副使・左監門衛将軍、知内侍省事となり、左神策中尉に昇進した。軍は登録されている人員でおよそ十万あまりいたが、馬存亮が掌握しているのは最も精兵を選り分けて、伍(分隊)に兵士を辞める者はおらず、部隊には余剰人員がいなかった。 敬宗が即位した当初、染署工の張韶が占い師の蘇玄明と親しく、蘇玄明は「私はかつて君を占ったところ、君は御殿で食事をしようとしており、私と一緒だった。私はお上が昼夜狩猟をしていて、出入には際限がないと聞いているから、やるべきだ」と言い、張韶は染材を運ぶたびに宮中に入っていたから、衛兵は咎め立てしなかった。そこで密かに諸工百人あまりと結託し、兵を車中に隠して材料を運んでいるようにし、右銀台門に入り、闇夜に実行することを約束した。その荷物を積み込んでいる者に、張韶の謀が発覚したから、その人を殺し、兵を出して大声で整列するよう叫び、浴堂門を閉じた。その時、帝は清思殿で撃毬しており、驚いて、右神策軍に行幸しようとした。ある者が、「賊が宮中に入っており、多いのか少ないのかすらわかりません。道は遠くて心配ですから、左軍に入るのにこしたことがありません。近くて迅速だからです」と述べたから、これに従った。それより以前、帝は常に右軍中尉の梁守謙を寵遇し、ことあるごとに行幸した。両軍が角力で競い合うと、帝は多くは右軍の勝利を望み、左軍は望みの通りにしていた。ここに至って、馬存亮は出迎え、帝の足にすがりついて泣き、背負って宮中に入った。五百騎で恭僖皇太后・懿安太皇太后の二太后を迎えた。ここに至って、賊はすでに関を突破して清思殿に入り、御座にあがり、乗輿のあまりものの膳を盗み、蘇玄明を呼んで一緒に食事をし、「占いの通りだったな」と言った。蘇玄明は「これからどうするんだ」と言い、張韶は憎んで、ことごとく宝器をその徒に賜い、弓箭庫を攻撃し、儀仗兵が防御したから勝てなかった。馬存亮は左神策大将軍の康芸全、将軍の何文哲・宋叔夜・孟文亮、右神策大将軍の康志睦・将軍の李泳・尚国忠を派遣し、騎兵を率いて賊を討伐させ、日暮れに、張韶および蘇玄明を射て皆死んだ。始めて賊が入ると、宦官の倉庫番兵は望仙門から逃げ出し、宮中の内も外も行在がどこにいるかわからなかった。夜明けになると、ことごとく乱党を捕らえ、左右の神策軍は宮中を清め、車駕は帰還した。群臣は延英門に詣でて天子に謁見したが、しかしやって来た者は十人中、一・二人にすぎず、賊が侵入したとき、咎めて禁じなかった者数十人を罪に問い、杖に笞打ったが殺さず、馬存亮に実封戸二百を賜い、梁守謙を開府儀同三司に昇進させ、他の論功・賞はそれぞれ等級があった。馬存亮は同時代では功績が最も高かったが、そこで権勢を他人に任せ、自身は淮南軍の軍監とするよう求めた。交替して帰還すると、内飛龍使となった。大和年間(827-835)、右領軍衛上将軍の地位をもって致仕し、岐国公に封ぜられ、卒すると揚州大都督を追贈された。 馬存亮は仕えたのは徳宗から、六人の帝にわたり、性格は端正で畏まり、兵士の訓練をよくし、始めて禁衛を去ると、軍は全員泣いた。唐代の宦官で忠謹で称えられた者は、ただ馬存亮・西門季玄・厳遵美の三人であった。 厳遵美の父の厳季寔は、掖廷局博士となった。大中年間(847-860)、宮人で宣宗を謀殺しようとした者がいた。この夜、厳季寔は咸寧殿の門下で宿直し、変事を聞くと、宮中に入って宮人を射殺した。翌日、帝は労って「お前でなければ、私は危うく免れないところであった」と言い、北院副使に抜擢され、内枢密使で終わった。 厳遵美は左軍容使に任命された。かつて「北司(宦官)の供奉官は胯衫(ももばかま)で給事していたが、今、笏を持っているのはやりすぎだ。枢密使は政務を許されることはなく、ただ三本柱の家で書を隠しているだけであったが、今は堂で勅詔を決済しているようなものだ。これは楊復恭が宰相の権を奪って失われたのだ」と嘆き、思うに当時の宦官が専横していたのを憎んだのだという。後に昭宗に従って鳳翔に遷り、致仕を求め、青城山に隠居し、年八十歳あまりで卒した。 仇士良は、字は匡美で、循州興寧県の人である。順宗の時、東宮に侍ることができた。憲宗が即位すると、再び内給事に遷り、京師から出されて平盧・鳳翔等の軍の監軍となった。かつて敷水駅に行き、御史の元稹と宿舎を争って上聞し、元稹を殴打して負傷させた。中丞の王播は御史・中使が先着によって正寝を利用できるとし、昔の制度の通りとするよう願った。帝は元稹を正しいとはせず、その官を斥けた。元和・大和年間(816-835)、しばしば内外五坊使に任じられ、秋は畿内の鷹を調査し、至るところで吏は迎えて食事を供えさせ、強盗よりもひどいものであった。 文宗は李訓とともに王守澄を殺そうとし、仇士良はもとより王守澄と険悪であったから、左神策軍中尉兼左街功徳使に抜擢し、互いに侵食しあった。その後李訓はすべての宦官を駆逐しようと謀ったが、仇士良はその謀を悟り、右神策軍中尉の魚弘志・大盈庫使の宋守義は帝を連れて宮殿に戻った。王涯・舒元輿も捕縛されると、仇士良はほしいいままに脅かし辱め、反乱を自白させ、朝廷に示した。この時、その事情を弁護する者はおらず、全員は本当に背いたのだと言っており、仇士良はそこで兵を放って捕らえ、身分の上下なくことごとく両神策軍の手にかかり、公卿は半ば空席となった。事件が平定されると、特進・右驍衛大将軍を、魚弘志は右衛上将軍兼中尉、宋守義は右領軍衛上将軍となった。 李石が宰相となると、気性などが厳しく角が立ってしまう性格で、仇士良は李石と論議してしばしば屈服させられたから、深く嫌い、賊に李石を親仁里で刺させようとしたが、李石の馬の足が速かったから免れた。李石は恐れ、宰相職を辞したから、仇士良はますます憚ることはなかった。 沢潞節度使の劉従諌はもとより李訓と鄭注を誅殺することを約束していた。李訓が死ぬと、仇士良が思い通りにしていることを憤慨し、そこで上書して、「王涯たち八人は全員声望のある博学の大臣で、富貴を保つことを願っているのに、何を苦しんで叛くのでしょうか。今大殺戮を加えられているのですから、さらに追い打ちをかけるべきではないのに、逆賊とされており、あの世で憤慨しているでしょう。そうでなければ、天下の節義ある者は、災いを恐れて身を隠し、誰があえて陛下とともに治めるというのでしょうか」と述べ、そこで李訓から送られた書簡を部将の陳季卿を派遣して上聞させた。陳季卿が到着すると、李石が盗賊に遭遇したところで、長安は騒動となり、疑ってあえて進上しなかった。劉従諌は大いに怒り、陳季卿を殺し、書簡を朝廷に進上した。また「臣は李訓と鄭注を誅殺しようとしましたが、鄭注はもとより宦官に支配されているところであり、聞き及ばせませんでした。今、天下は共に宦官を除こうとして、両軍の中尉が聞いて、自らを死から救ったものの、みだりに殺戮して、反逆としていると言っていると伝えています。大臣が謀反ではない謀をするようなことがあれば、自ら命じて役人に行わせるのですから、どうして勝手に侵犯掠奪して、死体を宮殿下に横たえることがありましょうか。陛下は実際に見ておらず、上奏も届いておりません。また宦官が支党を蔓延して宮中に根を張り、臣が謁見して陳述しようにも、殺戮されるのを恐れるのです。ですから謹んで封地を強くし、兵士を鍛錬して、陛下の腹心となります。奸臣は制御するのが難かったとしても、死をもって君側を清らかにすることを誓います」と上書し、このことを人々は手にとって回覧した。仇士良は恐れ、そこで劉従諌を検校司徒に昇進させ、その発言をやめさせようとした。劉従諌はこのような動きがあることを知って、また上言して、「臣が申し上げたところは、国の大礼につながるものであって、お聞きになられるのでしたら、ただちに王涯らの罪を寛大に赦免すべきです。お聞きになられないのでしたら、賞はみだりに出すべきではありません。どうして死んだ者の冤罪が申し上げられないのに、生きている者が禄を担えましょうか」と述べて固辞した。上書を重ねて、仇士良らの罪を暴いて指し示した。帝は仇士良を除くことはできなかったとはいえ、その発言にたよっていくぶん自らの立場を強くできた。これより鬱々として楽まず、両神策軍では撃毬・狩猟・宴会が行われなかった。 開成四年(839)、文宗は中風に苦しみ、しばらくして宰相を召集して延英殿で謁見し、退いて思政殿に御座して、側近に向かって、「直学士は誰がいるか」と言うと、「周墀がおります」と答えたから召し寄せた。帝は、「これより例えるなら、朕はどの主のようであるか」と尋ね、周墀は再拝して、「臣はよくわかっているわけではありませんが、しかし天下は陛下のことを堯・舜のような主であると言っています」と答えたが、帝は「尋ねた理由は、周の赧王・漢の献帝とはどちらが勝るだろうかということだ」と言った。周墀は驚いて、「陛下の徳は、周の成王・康王、漢の文帝・景帝でもまだ比べるには足りません。どうして自ら二主と比べられるのでしょうか」と言うと、帝は、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制を受けているが、今朕は家奴に制を受けている。私は遠く及ばないのだ」と言い、涙を流したから、周墀も地に伏して涙を流した。後に再び朝廷に復することなく、重病になったといわれる。 それより以前、枢密使の劉弘逸・薛季稜、宰相の李珏・楊嗣復が太子を監国に任じ奉ろうとはかり、仇士良は魚弘志とともに議して改めて別人を立てようとしたが、李珏は従わなかった。そこで詔を偽って潁王を立てて皇太弟とし、仇士良は兵で迎え、太子を戻して陳王とした。それより以前、荘恪太子が薨ずると、楊賢妃は安王を皇太子にしようと謀したが、うまくいかなかった。武宗が即位してから、仇士良はその事を暴露し、帝に彼らを除いて人望を絶えさせ、そのため王・妃は皆死んだ。仇士良は驃騎大将軍に遷り、楚国公に封ぜられ、魚弘志は韓国公に封ぜられ、実封戸三百となった。にわかに李珏・楊嗣復は罷免されて去り、劉弘逸・薛季稜は誅殺された。 帝は明敏かつ果断で、仇士良の援助によって即位した功績があったとはいえ、内心では嫌っており、表向きは尊寵していた。李徳裕が重用されると、仇士良はいよいよ恐れた。会昌二年(842)、尊号を奉り、仇士良は「宰相が赦書をつくっているが、禁軍の衣服・兵糧を減らした」と言い、恨みを揺り動かし、両神策軍に「詳細はどうなっているのか、楼前で抗議すべきだ」と語ったから、李徳裕はこの事を帝に申し上げ、使者に命じて神策軍に「赦は朕の意から出させたもので、宰相が何を預かり知ろうか。かれこれどうするのか」と諭したから、兵士はそこで落ち着いた。仇士良は疑惑で自ら安心することができなかった。翌年、観軍容使に昇進し、統左右軍を兼任したが、病によって辞職し、罷免されて内侍監、知省事となった。強く老のため辞職を願い、詔して裁可された。間もなく卒し、揚州大都督を追贈された。 仇士良が老いると、宦官はこぞって邸宅へと見送りしたから、感謝して、「諸君はよく天子に仕えよ。よく老夫の言葉を聞くか」と尋ねると、皆が承諾した。仇士良は、「天子を暇にさせてはならない。暇になったら必ず読書して、儒臣に会う。そうするとまた諌言を受け入れて、深慮遠謀を知るから、遊びは減り、行幸しなくなり、我が部下の恩は薄いから権勢を振えなくなる。諸君のために計るなら、財貨を貯えず、盛んに鷹や馬をし、毎日撃毬・狩猟・狩猟・色ごとにその心を惑わせ、極めて贅沢にふけらせ、楽しませて休む暇を与えなければ、必ず政経の術を斥け、外の事に暗くなるから、万機は我々が差配すればよい。恩沢・権力はここに役目についてくるだろう」と言うと、全員が再拝した。仇士良は二王・一妃・四宰相を殺害し、貪欲かつ残酷であること二十年あまり、また術によって自ら将となり、恩礼は衰えなかったという。死の翌年、その家の兵物数千物を暴き、詔して官爵を削り、その家を没収した。 それより以前、仇士良・魚弘志は文宗が李訓とともに謀ったことに憤慨し、しばしば帝を廃位しようと思った。崔慎由が翰林学士になると、夜に宿直してまだ半ばにもならないうちに、宦官に召され、秘殿にやって来ると、仇士良らが堂上に座って、帷帳に集まって、崔慎由に向かって、「お上は病気になられてから長い間となり、即位してから、政令は多く宮中を荒らしているから、皇太后の制があって、改めて嗣君を立てることとなった。学士(崔慎由)よ、詔の作成を担当せよ」と言ったから、崔慎由は驚いて、「お上の高明の徳は天下にあって、どうして軽々しく論議できましょうか。崔慎由に親族は男系女系で千人、兄弟・従兄弟で三百おりますが、どうして一族滅亡の事に関わることができましょうか。死んだとしても命令を承ることはありません」と言ったから、仇士良らは黙ってしまい、しばらくすると後の戸が開き、引き入れられて小殿にやって来ると、帝がここにいた。仇士良らは階を経て帝の過失を数え上げると、帝は首をうなだれていた。仇士良は帝を指さして「学士でなければ、改めてここに座ることはできなかったな」と言い、そこで崔慎由を送って出し、「漏らすなよ。災いはお前の一族に及ぶぞ」と戒め、崔慎由はその事を書いて、箱を枕の間に隠し、当時の人々は知らなかった。没しようとするとき、その子の崔胤に授け、そのため崔胤は宦官を憎んで、終に討伐して排除したのは、思うに仇士良・魚弘志が元となった災いであったのだといわれる。 楊復光は、閩の人であり、本は喬氏である。武勇があり、若くして内常侍の楊玄价の家に養われ、非常に節誼によって自ら発奮し、楊玄价は優れた人物だと思った。宣宗の時、楊玄价は塩州軍の監軍となり、誣告して刺史の劉皋を殺した。劉皋は威名がある者で、世間ではその冤罪を訴えた。しばらくして左神策軍中尉に遷り、讒言して宰相の楊収を辞任させたから、権力・恩寵は同時代を震撼させた。 楊復光には謀略があり、累進して諸鎮の監軍となった。乾符年間(874-879)初頭、平盧節度使の曾元裕を補佐して賊の王仙芝を討伐し、これを破った。招討使の宋威が王仙芝を江西で攻撃すると、楊復光も軍中にあって、部下の呉彦宏に賊の投降を約束するよう願い、王仙芝は将の尚君長を派遣して自ら縛って約束のようにした。宋威はその功績を憎んで、密かに僖宗に誅殺を要請し、そのため王仙芝は怨み、再び兵を率いて叛いた。後に天子は宋威が災いを引き起こしたことを悟り、罷免し、兵を楊復光に与え、そこで進撃して徐唐莒を捕らえた。王鐸が招討使となると、楊復光は監軍となった。王鐸が荊南を放棄するや、山南東道節度使の劉巨容がその地を平定し、忠武軍の別将の宋浩が荊南を領すると、泰寧軍の将の段彦謨が補佐した。楊復光の父楊玄价がかつて忠武軍の監軍であったとき、宋浩はすでに大将となっていたから、楊復光に会うと、若いと見て不礼であった。段彦謨もまた宋浩の部下として辱められたから、遂に関係が悪化した。楊復光は「どうして殺さないのか」と言ったから、段彦謨は勇敢な兵士を率いて宋浩を撃ち殺し、楊復光は客人の常滋を仮留後として、宋浩の罪を奏上し、段彦謨を推薦して朗州刺史とした。鄭紹業に詔して荊南節度使とし、楊復光を忠武軍の監軍とし、鄧州に陣を敷き、賊の右翼を遮った。帝が西に行幸すると、鄭紹業を召還して行在で謁見し、楊復光は改めて段彦謨を推薦して荊南節度使とした。段彦謨は辺境に行くと偽って、楊復光に詣でて、黄金数百両で謝礼とした。その後忠武軍の周岌が賊の任命を受け、かつて夜宴すると、楊復光を召還したが、側近に向かって、「彼はすでに賊に付したが、必ず公に利することはない。行かないのにこしたことはない」と言い、楊復光は行くことを拒み、酒席で時勢を語ると、楊復光は「漢たる者が感動するものは、ただ恩と義だけで、彼は恩義を顧みず利害をはかるのは、どこが漢なのだろうか。公は匹夫の侯を封じられるのに揺り動かされて、十八代の天子を捨て、北面して賊の臣下となるとは、どうして恩義・利害に対して深く暗愚なのだろうか」と言って泣くと、周岌は涙を流して「私には力不足で、表向きは迎合しているが心の中では離れようと思っている。だから公を呼んで謀ったのだ」と言い、そこで杯を持って盟して「酒のようにあれ」と言い、そこで子の楊守亮を派遣して賊使を伝舎で斬った。秦宗権が蔡州で叛くと、周岌・楊復光は忠武軍の兵三千人で蔡に入って会見した。秦宗権はそこで部将の王淑を派遣して兵一万人を率いさせて従った。楊復光は荊州・襄州を平定し、軍は鄧州に行き、王淑が逗留すると、楊復光は斬り、その軍を併合してから八部隊に分け、鹿宴弘・晋暉・張造・李師泰・王建・韓建らをその将とし、南陽に進攻した。賊将の朱温・何勤が迎撃してきたが、大いに破り、遂に鄧州を収め、追撃して藍橋に逃走させた。その時、母の喪にあい、軍を帰還させた。にわかに天下兵馬都監に起用され、諸軍を総括し、東面招討使の王重栄ととともに力を合わせて関中を平定した。朱温は同州を守っていたが、楊復光は使者を派遣して戒めて説得したから、朱温は率いている部隊とともに投降した。その時賊が強くなり、王重栄はどうしていいかわからないから心配し、楊復光に向かって、「賊の臣下となれば、また国が敗北するだろう。戦って防いでも、兵が少ない。どうすればいいか」と言うと、楊復光は、「李克用は我らと代々苦難と共にしてきましたが、その人となりは、奮戦して身を顧みず、この頃しばしば召寄せてもまだ来ることがないのは、太原の道が不通だからだけであり、災いを忍んでいるわけではありません。もし上意を諭すならば、彼は必ず来るでしょう」と言ったから、王重栄は「よろしい」と言った。王鐸に申し上げて詔使を太原に派遣し、李克用の兵はそこで出撃した。京師は平定されると、功績によって開府儀同三司・同華制置使となり、弘農郡公に封ぜられ、「資忠輝武匡国平難功臣」の号を賜った。河中で帥し、観軍容使を追贈され、諡を忠粛という。 楊復光は部下を御して恩があり、軍中はその死を聞いて、皆慟哭した。麾下で功績を立てる者が多かった。諸子で将帥となったのは数十人で、楊守宗もまた忠武軍節度使となった。 賛にいわく、楚の鄖公闘辛は、あえて君主を仇とはせず、父の冤罪を忘れ、昭王・愍王の時代、両軍に寵遇されて厚かったり薄かったりした。ついに馬存亮を用いて難を平定し、功績は及ぶ者がいないほどであった。古より忠臣は疎外・排斥されて用いられない者が思うに多かったが、馬存亮はどうして儒家の諸書や道理に通じた人であったであろうか。どうして馬存亮が君臣の正道を知っていたのがはなはだ明らかなのであろうか。死体ほどに無様な寝姿を見せるほどの大労は無く、権力を恐れて外部にあるのも、またいよいよ賢者なのである。孔子と一緒に「龍蛇」の詩を書した者は、どうして功績が小さいといえるだろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百六 列伝第一百三十一 『新唐書』巻二百七 列伝第一百三十二 巻二百八 列伝第一百三十三