約 59,687 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html
気が付いたら文末が欠落していましたので補修しました。ご迷惑をおかけしました。 雑誌「潮」1971年11月号 特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか 《私記》私は自決を命令していない "極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい 赤松 嘉次 元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営 《私記》私は自決を命令していない怒号のアラシの出迎え 出撃を中止した背景には 曲解された"軍命令" 住民の集結すら知らない 住民を惨殺したというが 投降までのいきさつ 投降時、村に三つの色分け なぜ現地調査をしないのか 【写真】渡嘉敷島へ転進まえの筆者(当時23歳) 怒号のアラシの出迎え 「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」 「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」 耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。 戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。 ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。 それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。 日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。 私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。 いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。 現在出回っている、おびただしい数の沖縄戦記物の多くは、一九五三年にまとめられた『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会編)の記録をパラフレーズしている。この記録は、当時の村長だった米田惟好氏(のぷよし、旧姓、古波蔵=こはぐら)を中心に編まれたものである。 出撃を中止した背景には 昭和ニ十年三月二十一日から、米軍は大空爆と艦砲射撃を加え、山は、二日も三日も燃えつづけ、火は夜空をこがした。ところが、海上挺進隊の隊長だった「赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した」(中野好夫.新崎盛暉著『沖縄問題二十年』岩波新書)という。 私たちの海上挺進隊は、ベニヤばりのモーターポートに120キログラム爆雷二個を積み米軍船団を夜襲、体当たりを敢行する特殊部隊だった。慶良間に三隊(座間味、阿嘉の両島に第一、第二戦隊がいた)、沖縄本島に三隊の、計六戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二十五歳だった私を長に、十六~十八歳の特別幹部候補生百四名で編成(開戦時には病気、事故などで百名を割っていた)百隻の○レ(マルレ)艇を有していた。 出撃準傭から船舶自沈にいたるまでの状況を、戦闘中、基地勤務隊の辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』に追ってみよう。 【写真】戦闘のさなか渡嘉敷島で記した『陣中日誌』 【引用者註】これは戦闘中塹壕の中で書き綴ったものではない。後1970年に、元本部付特幹兵谷本小次郎氏が中心となって書き直したものである。「ある神話の背景」もそう説明している。 「三月二十五日晴、暁と共に敵機の来襲を受く。〇九三〇敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入、我が地上陣地、基地設備に織烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地等に於いて夜のとばりを待つ、一七〇〇頃より敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去……二〇〇〇戦隊長(赤松)出撃を考慮し、独断各(中)隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に『敵情判断如何』と打電。……二一三〇船舶団本部より『敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし』との返電あり」 (引用者注)上記は、原本である辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』ではない。原本は以下のとおり 三月二十五日 晴 於 渡嘉志久 一、敵機常時在空三○―四○機主目標ヲ基地設備並ニ地上陣地ニ対シ爆弾焼夷弾投下銃撃モ加フ 敵機動部隊ハ巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻 慶良間海峡侵入 我ガ地上陣地並ニ基地設備ニ対シ猛烈ナル艦砲ヲ加フ 船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸後渡嘉志久本部ニ来隊セラル 二、転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス 勤ム隊主力整備隊一部並ニ水上勤ム隊ノ主力ハ船舶團長ノ意考ニ依リ渡嘉敷島ニ残留敵ヲ邀撃ニ訣ス 二二:二○部隊全員ヲ以テ舟艇泛水ノ作業を実施ス 珍しい条件付きのこの本部命令は、ちよっと類がない。だが、この命令下令は、当時のことを記した軍関係の本(自衛隊保存)にも出ている。私どもが故意に、もしくは無意識的に、無線を誤読したわけではない。「戦隊長は命令を協議の上、本島転進に決し……残り2/3の泛水作業を決行……折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町茂大佐以下十五名敵戦艦の中を突破……上陸」 ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。 「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」 以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。 (引用者注)この日の記述も陣中日誌原本ではまったく違う 三月二十六日 晴 於 渡嘉志久 旭沢 一、渡嘉志久基地全舟艇ノ泛水並ニ出撃準備着手スルモ泛水作業悪ルク泛水ニ五時間ヲ要シ出発準備完了ハ払暁ニ近ク然モ敵駆逐艦、魚雷艇慶良間海峡ニ遊弋シ那覇転進ハ不可能ノ状態トナレハ部隊ハ他日ヲ期シ涙ヲ呑ンデ三中隊ノ二艇ヲ残シ全舟艇ヲ渡嘉志久湾ニ自沈ス 二、阿波連基地ニアル第一中隊ハ泛水ハ阿波連湾内ニ敵駆逐艦並ニ魚雷艇アリテ泛水不能ナリ 三、 敵機常時二○ー三○爆撃並ニ渡嘉志久湾ニハ敵舟艇数隻ヲ以テ艦砲射撃ヲナス攻撃目標ハ自沈舟艇、地上陣地、棲息設備ニシテ猛烈ヲ極ム 四、戦隊本部旭沢ニ転移ス、船舶団長、基地隊長鈴木少佐外一名那覇帰隊ノタメ舟艇二ヲ以テ出発ス 中島少尉、竹島候補生、操舵手トシテ 整備隊下士官一、兵一ハ助手トナリ出発ス 五、損害 人員 戦死者 水勤隊軍夫 二名 負傷者 三島候補生 一名 曲解された"軍命令" 次にこれまでの戦記によると、その後私は、「上陸したアメリカ軍を地上において撃減する戦法に出る、と宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった、部隊の集結場所への集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである」(上地一史著『沖縄戦史』時事通信社)という。 二十六日夜、大町大佐を渡嘉志久の基地から送り出したあと、私たちは山の反対斜面に本部の移動計画を立て、寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が「上陸はたぶん明日だ」と本部の移動を伝えると「では住民は? 往民はどうなるんですか」という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで「部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。 住民の集結すら知らない しかし、村当局が、部隊の背後に隠れるのが、もっとも上策だと判断したのも、とうぜんだろう。村では、まえまえから集結する計画もあったのではないかと思われるフシもある。もちろん米軍上陸前に出撃してしまう隊長に、上陸後の村民の処置など相談する必要はなかったのであるが……。 二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。『陣中日誌』を開くと―― 「三月二十八日 小雨 晴 夜雨、昨二十七日上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し……昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地召集隊の一部、支給しありたる手榴弾を以って家族と共に自決す。……小雨の中、敵弾激しく、住民の叫び阿修羅の如く陣地彼方に於いて自決し始めたる模様。(註=自決は翌日判明したるものである) 【引用者註】はてさて、「住民の叫び阿修羅の如く」は翌日聞こえてきたのであろうか? それに、「住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆しておきながら、「住民の結集すらしらない」というのは、「われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた」ことになるのだろうか? 【引用者註】この日の陣中日誌原本では、自決に関する記述は一切無い。詳しくは、赤松隊「陣中日誌」改竄の一端参照。 三月二十九日 曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された、昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決後、判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽し得ない情景であった」とある。 【引用者註】これは、完全に自己撞着である。赤松元大尉が曽野綾子に語ったこととも矛盾している。この『従軍日誌』が後から書かれ、「様々な戦史」との辻褄合わせに苦心したものであることが窺われる。 【引用者追記】「従軍日誌」の原本をみれば、このような表現は一切無く、1970年段階の創作であることは明らかである。 さまざまな戦記にあるごとく、私が、自決に失敗した住民が軍の壕へ近づくと、壕の入り口で立ちふさがり、軍の壕に入るなとにらみつけたかどうか。 第一、当夜、私は住民と顔を合わせていない。前述のごとく集結していたことすら知らなかったのだ。この「住民を自決から救えなかった手ぬかり」は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている。 三月二十一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食をともにし、今日までの協力を感謝し、さらにこんごの協力を要請したのである。しかし、両者の意思疎通をはかるため、早くからこのような機会をもつぺきであったと反省している。 自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書) 糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、部落民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。 私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。 「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。 集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編) 住民を惨殺したというが 第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。 それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。 男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。 第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調ぺに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。 投降までのいきさつ 「八月十五日、アメリカ軍は降伏勧告のピラを飛行機から撤いた。古波蔵惟好村長は意を決して集団で投降することにし、住民たちは栄養失調で疲弊し切った体を励ましあって下山してきたが、赤松隊は依然として投降勧告に応じなかった。新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名は再びアメリカ軍の命令で投降勧告に行った。捕えられぬよう用心しながら勧告文を木の枝に結びつけて帰るつもりだったが、与那嶺、大城の二人は不幸にも捕えられて殺された」(『沖縄県史』前同) このくだりも重要な問題を含んでいる。まず村長以下住民が投降したのは、八月十二、三日の両日だったのである。だから、十五日まで村長が投降しないでいたかのように書いているのは、事実に反する。間題の二人が歩哨線に引っかかったのは十六日の朝だった。歩哨兵に誰何され逃亡しようとして射殺されたもようである。(じつは、この二名の射殺の件は、つい最近耳にしたのである) 【写真】陸軍情報隊長・塚本保次大佐による投降勧告 ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。 十五日夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云のことぱが聞かれた。 十六日払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こせという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。 ついで十八日、私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。 すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくして二十四日の武装解除の調印のはこびとなった。 【写真】米軍との間に交わした武装解除調印式の文書 村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。 投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。 ただ三十余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二十四日の武装解除まで軍と行動をともにされ、戦後、他の村民との間になにかミゾができたかに聞く。 投降時、村に三つの色分け 結局、村には投降の時点において三つの集団ができたのだ。米軍の後方にいた伊江島の住民、十二日に投降したグループ、八月二十四日まで軍とともにあったグルーブ。 伊江島の住民の処刑のどきは、村長も取り調べの現場にいて「おまえら日本人のくせに何だ」と詰間していた。それが、戦後いっしょに生活しなくてはならなくなったあたりにも問題がありそうだ。 八月二十四日、米軍に武装解除された部隊を涙を流して送ってくれた村の人々、昨年三月慰霊祭に旧部隊のものを暖かく迎え、夜のふけるのを忘れて語り合い、なかには、島に行げなかった私に、わざわざみやげ物を持って那覇まで会いにきてくれた村民に、私はあの島の戦史や巷の戦記物にあるような憎しみや、悪意を見いだしえないのである。 沖縄のある友人からの手紙は、 「私も四月三日に渡嘉敷島に渡り、島の人々が"あのこと"に対し、どのような反響を見せるか、ただ注意深く見守っておりましたが、島の人には誰一人として貴殿に反意を持つものがいなかったことは、那覇でのあの騒ぎと対照した場合、いかにもおかしい気がして……。 ある人が村長に対し、なぜ赤松さんをご案内して来なかったのか、と詰めよる人さえあったのです。それも一人ではありません。数多くの人々がいっていたと村長はいっていました。(以下略)」 また先日、戦後のあるとき渡嘉敷で小学校長をやっていた人が、わざわざ私のところを訪ねてきて、 「赤松さんは集団自決の命令は出してない筈だ。軍が持つほとんどすぺての衛生材料(薬包帯等)を、集団自決に失敗した人たちのために使っているのだから。自分で下命しておき、そんな親切を見せるはずはないものですよ」といってくれたのである。 私の許には同様の趣旨の村民、あるいは村関係者からの手紙が数多くよせられているが、ここでは、そのひとつ当時女子青年団長だった伊礼蓉子さん(那覇市在住)の真心こもる所信を、ご紹介するにとどめておこう。 「赤松さまのことが話題にのぼる度に、ゆがんで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。 最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろと風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松さまの冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのだと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったことは、私たちをはじめ渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」 なぜ現地調査をしないのか 村当局が戦記を村の公文書としてまとめた段階では、当事者にも、私個人をあれほどの"極悪人"に仕立てる心算はなかっただろう。ところが戦記が、マスコミの目にとまるや、事態はあれよあれよというまに急旋回、つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。 ことに、左翼系の書物に、その煩向がとくに顕著だった。思想が異なり、時代のすう勢も変わったから、元陸士五十三期生の男が誹謗されるのも、運命かもしれない,いたしかたがないというものである。 だが間題は、その方法である。村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ピレをつけて、さも現揚にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激をおぼえる。 兵士の銃を評論家のベンにたとえれぱ、事情は明白だ。ペソも凶器たりうる。「三百数十人」もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないのか。 戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。彼らの書物を孫引きして、得々として"良心的"な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしてみたい。 日本の良識を代表するといわれるA新聞に「丸々とふとった赤松大尉は女を従えて傲然と壕から出てきた」と書かれたこともある。当時の部下が皆知っているように、私は今よりもっとやせ、年齢も25だったから壕に女を連れこむほどの"才覚"は、みじんも持ち合わせてなかったのである。 以上を私の強弁、居なおり、傲慢ととる方もあろう。だが、ぬれぎぬをかぶられっ放しだった者には、これくらいの強腰がないと、かえって自己弁護も怯懦のいいわけととられかねないのである。 島の方々に対しては、心から哀悼の意をささげるとともに、私が意識したにせよ、しないにせよ、海上艇進隊隊長としての「存在」じたいが、ひとつの強力な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない、このことを、旧軍人として心から反省するにやぶさかでないむね申し添えておきたい。 船を失った私が、任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ長く米軍を拘束しようとしたことが、あるいは卑怯なように思われ、村民にも持久防御の辛酸をなめさせてしまったことを、深くお詫びしておきたい。 どうか私のいうことも信じてほしい。私も戦争中から戦後の今日にいたるまで、戦争という巨大な"罪過"のただなかで苦しめられ、痛めつけられてきた人間なのである。ここに述べるのは、私の血の叫びであるといえば、読者諸兄は、やはり眉をひそめられるであろうか。 (編集部=文中引用してある書簡は、すぺて筆者が保管してあるものです) 潮1971年11月号特集index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/686.html
http //www.vill.tokashiki.okinawa.jp/tokadata/de_4/data/iseki016.htm ▲史跡・遺跡メニューへ 《 戻る 次へ 》 戦跡碑 (マップNo.P) 戦跡碑碑文 ここに記すのは、昭和20年(1945年)この島に於いて戦われた激しい戦闘と、島民の死の歴史である。 大東亜戦争の最後の年の3月23日より、この渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。山は燃え続け、煙は島を包んだ。当時島にあったベニヤ板張りの船を利用した、夜間攻撃用の特攻船艇部隊は、出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令をうけた。こうして、当時、島にあった海上艇進三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。 3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌28日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。死期が近づくと人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、まだ辛うじて呼吸を続けている人の目に、早くもハエが卵を生みつけた。 315名の将兵のうち18名は栄養失調のために死亡し、52名は、米軍の攻撃により戦死した。 昭和20年8月23日、軍は命令により降伏した。 「8月20日、第一中隊前進陣地ニ於テ、各隊兵器ヲ集積シ、遥カ東方皇居ヲ拝シ兵器訣別 式ヲ行ウ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海、周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カニ遊戈或イハ碇泊中ナリ、唯、茫然、戦ヒ既ニ終ル」 (陣中日誌より)昭和54年3月 曾野 綾子選 ▲史跡・遺跡メニューへ 《 戻る 次へ 》
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2340.html
沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index 次のものを資料として・・・・ 次のものを資料として・・・・この作品のために次のものを資料として使わせて頂きました。 (ここに列挙されてない重要な資料) この作品のために次のものを資料として使わせて頂きました。 『沖縄』比嘉春潮・霜多正次・新里恵二著 岩波新書 『沖縄ノート』大江健三郎著 岩波新書 『沖縄問題二十年』中野好夫・新崎盛暉著 岩波新書 『沖縄』饒平名智太郎(よへなちたろう)著 三一新書 『沖縄・この現実』石田郁夫著 三一書房 『沖縄教職員会』関 広延著 三一書房 『沖縄奪還 68~ 70』波照間洋著 三一書房 『沖縄・本土復帰の幻想』吉原公一郎著 三一書房 『沖縄戦記・鉄の暴風』沖縄タイムス社刊 『日米最後の戦闘』米国陸軍省編・外間正四郎訳 サイマル出版会 『沖縄戦史』上地一史著 時事通信社 『沖縄県史』8沖縄戦通史 琉球政府 9沖縄戦記録I 琉球政府 『沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 327 『渡嘉敷島住民集団自決の真相』石田郁夫『サンデー毎日』五十周年記念特集号 『沖縄は日本兵に何をされたか』『潮』昭和四十六年十一月号 『那覇に感ず』島尾敏雄 朝日新聞昭和四十五年五月十五日夕刊 『慶良聞戦況報告書』渡嘉敷村 『慶良問戦況報告書」座間味村 『慶良間列島・渡嘉敷島村の戦闘概要』昭和二十八年三月二十八日 渡嘉敷村遺族会 『秘録沖縄戦史』山川泰邦著 沖縄グラフ社 『悲劇の沖縄戦』浦崎 純『太陽』昭和四十五年九月号 平凡社 陣中日誌 星雅彦エッセイ 沖縄タイムス 昭和四十五年四月三日付 崎原恒新氏エッセイ『鎮魂』 琉球新報 昭和四十五年四月二十八日付 『沖縄戦記』戸次(べつき)寛(未発表) 『手記』赤松嘉次(未発表) 『修親』第十五巻第六号 昭和四十七年六月号 『旧陸軍刑法』昭和二十六年十一月 陸幕法務課 『サン=テグジュペリ 愛と死』ジュール・ロワ著 山崎庸一郎訳 晶文社 328 『思考と行動における言語』S・I・ハヤカワ著 大久保忠利訳 岩波現代叢書 『非政治的人間の考察』トーマス・マン著 前田敬作・山口知三訳 筑摩書房 『 OKINAWA, Victory in the Pacific 』Nichols Shaw TUTTLE 『こわれたパーソナリティ』カール・メニンジャー 草野栄三良・小此木啓吾訳 日本教文社 (ここに列挙されてない重要な資料) 沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/644.html
被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 ソース:http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen3.html 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その1 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」についてア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について(1)同(1)(赤松命令説の発端)について (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)についてア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)についてア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について (5)「ある神話の背景」の信用性についてア まず、「ある神話の背景」によれば、 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 ウ なお、「ある神話の背景」は、 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 6 同6(自決命令の言い換え)について(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 7 同7(「陣中日誌」)について 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について(1)同(1)について (2)同(2)について 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 11 同11(「神話の背景」以後)について(1)同(1)について (2)同(2)について (3)同(3)について 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について 1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について (1)渡嘉敷島における集団自決の経緯 ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や 星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。 イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。 そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13-197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示したのである。 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。 そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11-279頁~287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9-768頁~769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。 以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。 しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、 「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人) とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。 筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。 しかも、「集団自決を追って」は、 「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」 とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17-208頁中段。なお赤松大尉自身 「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2-217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。 このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから 「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」 と言って見ていたとされる人物であり(乙9-768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について (1)同(1)(赤松命令説の発端)について 渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。 (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。 しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。 すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁~227頁)。 以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 太田良博自身、 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 としている(225頁)。 イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について 原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。 しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。 (5)「ある神話の背景」の信用性について また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。 ア まず、「ある神話の背景」によれば、 「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。 しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、 「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11-14頁) のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。 安仁屋教授も 「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11-14頁~15頁) としている。 ウ なお、「ある神話の背景」は、 渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。 しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24-210~212頁 曽野証言68~71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。 前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。 6 同6(自決命令の言い換え)について (1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について 原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。 まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9-768頁~769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。 古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。 原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。 (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。 また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」 と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。 7 同7(「陣中日誌」)について 原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。 しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。 なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18-131頁)。 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について (1)同(1)について 原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。 (2)同(2)について 不知。 なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。 しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。 11 同11(「神話の背景」以後)について (1)同(1)について 「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。 (2)同(2)について 「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。 「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。 (3)同(3)について 「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく 「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」 と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。 このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。 以 上 戻る | index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1116.html
通039 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(2)原告らの主張 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について 第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等 第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等a 赤松大尉の手記(a) (「住民の処置は頭になかった」)* (b) (赤松によるマスコミ批判)* b 「ある神話の背景」(甲B18) c 「陣中日誌」(甲B19) d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) e 知念証人及ぴ皆本証人の各証言(a) (知念証言)* (b) (皆本証言)* f 照屋昇雄の供述 g 徳平秀雄の供述 a 赤松大尉の手記 (a) (「住民の処置は頭になかった」)* 自決命令を出したとされる赤松大尉は,「私は自決を命令していない」と題する手記を執筆し,次のとおり,自決命令を出していないと明言する(甲B2)。すなわち, 「二十六日夜」「私たちは」「寝ていると,十時過ぎ,敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が『上陸はたぶん明日だ』と本部の移動を伝えると『では住民は?住民はどうなるんですか』という。正直な話,二十六日に特攻する覚悟だった私には,住民の処置は頭になかった。そこで,『部隊は西山のほうに移るから,住民も集結するなら,部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。これが軍命令を出し,自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。」 「二十七日,米軍の上陸開始,二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは,集結した住民の姿も見えなかった。」(甲B2・216,217頁)。 ※「二十七日,米軍の上陸開始」というが、赤松隊において誰がどう現認したのか、原告弁護団も赤松手記も、誰も説明していない。 (b) (赤松によるマスコミ批判)* 赤松大尉は,座間味村がまとめた「座間味戦記」が「マスコミの目にとまるや」 「つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに,赤松という大隊長が,極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。」「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば,事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば,資料の質を問い,さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか」 「戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに,なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。彼らの書物を孫引きして,得々として“良心的”平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」 と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。 b 「ある神話の背景」(甲B18) 「ある神話の背景」によれば,「鉄の暴風」の記述は,当事者に対する取材も信用に足る証拠もないまま,著者の偏見と風聞に基づいて書かれたものであり,それが他の文献等に引用されることによって,赤松大尉の自決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち,軍の自決命令により座間味,渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であり,これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概要」には「鉄の暴風」と酷似する表現、文章が多数見られ,偶然の一致ではあり得ず,引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られる。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが,「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは,「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから,記載から外したものである(甲B18・48頁)。そして,これらの3つの資料は,米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず,同月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18・49頁)。 ※そもそも、「昭和20年3月26日米軍が慶良間列島に上陸」は、沖縄第32軍の司令部電によるものである。また、そもそも赤松隊が特攻舟艇出撃を中止せざるをえなくなった大きな理由として、赤松自身に拠れば(「ある神話の背景」によれぱ)、米軍侵攻に関する船舶団内の御認識、お門違いの「命令」によるものだった。 「ある神話の背景」によれぱ,上記神話が生まれた背景は,次のとおりである。すなわち,生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるという立場上,事件について説明責任を免れない古波蔵村長が,遺族からの怨嵯の目から逃れ,責め苦を少しでも軽くするために,元村長としての責任を負担するよりも,集団自決を命じた下手人として赤松大尉を選び,非難を向けた。このことは,古波蔵村長の,赤松大尉や安里巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や,事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫性のない説明などからも窺われる。 大城将保は,昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24)において,「曽野綾子氏は,それまで流布してきた赤松事件の“神話"に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」「今のところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない。」と評価している。 c 「陣中日誌」(甲B19) 赤松隊が作成した陣中日誌によれば,自決命令があつた形跡は全くなく,「三月二十九日」「悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣したるもの約二百名」(甲B19・13頁)とあるように,赤松隊が集団自決があったことを知ったのも,昭和20年3月29日になってからであった。 d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) 沖縄出身の作家である上原正稔は,集団自決を目撃した米軍兵士グレン・シアレスの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲B44)。上原正稔は,その取材過程において,赤松大尉が自決命令を出しておらず,金城武徳,大城良平,安里巡査,知念証人らの供述または証言から,赤松大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。上原正稔は,取材の結果,「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり,自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず,赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認した。 e 知念証人及ぴ皆本証人の各証言 (a) (知念証言)* 知念証人は,赤松大尉の側近として常に赤松大尉の側にいた者であるところ,赤松大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。 (b) (皆本証言)* 皆本証人は,第三戦隊においては昭和20年3月23日の空襲と艦砲射撃が始まるまで陸上戦を予想していなかったと証言しているところ(皆本証人調書2,15頁),陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ず,同月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けたとする金城証人の証言は虚偽である。 そして,皆本証人は, 集団自決の起こった3月28日は午前1時頃に主力部隊と合流したこと(皆本証人調書10頁), 同日午前3時頃赤松大尉の下に報告に行ったが,自決命令に関する話は一切なかったこと(同10頁), 翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けたこと(同12頁), 赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが,8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも,赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(同12頁)を証言している。 f 照屋昇雄の供述 照屋昇雄は,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして,渡嘉敷島での聞き取り調査について,「1週聞ほど滞在し,100人以上から話を聞いた」ものの,「軍命令とする住民は一人もいなかった」と供述し,赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で,「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため,軍による命令ということにし,自分たちで書類を作」り。その書類を当時の厚生省に提出した旨供述している(甲B35)。 g 徳平秀雄の供述 渡嘉敷島の郵便局長であった徳平秀雄は, 「恩納川原に着くと,そこは,阿波連の人,渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって,艦砲,迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ,わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ,そこに当っていました。そこでどうするか,村の有カ者たちが協議していました。村長,前村長,真喜屋先生に,現校長,防衛隊の何名か,それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも,そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと,主張した人もいました。特に防衛隊は,閾うために,妻子を片づけようではないかと,いっていました。防衛隊とは云っても支那事変の経験者ですから,進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は,持って来た手榴弾を,配り始めていました。」 「そういう状態でしたので,私には,誰かがどこかで操作して,村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」 と供述している(乙9・765頁)。 徳平秀雄の供述によれば、渡嘉敷村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況が明らかとなっており,軍や赤松大尉の命令など全く語られていない。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2267.html
戦隊長殿!ジブン達は一体、何処へ向えばイイのでありますか? 3月25日渡嘉敷島で受信したという「転進命令」の怪 赤松嘉次「戦隊長」が証言する「行き先」がクルクル変るので、防衛省公式戦史すら分裂症に陥ったまま放置されています。もちろん特幹生たちの霊は、戦隊長が伝達する軍命令の転進先がクルクル変るので、64年経っても冥土へ出発することすら出来ず、未だに渡嘉志久の浜に留まっているのでしょうか。 1、1945辻版『陣中日誌』では 「転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス」 2、1945日録の大本営作戦部『戦況手簿』では、 「一、慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進部隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス」 3、1946.1赤松嘉次提出『戦史資料』では、 命令の要旨 「状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」 4、1946.3『殉国日記』に寄せた赤松嘉次著『渡嘉敷戦斗ノ概要』では、 「軍命令ならびに団長の意向に依り途中の敵を撃破しつつ本島に転進し本島に於て海上作戦を行ふに決す」 5、1946.3中島幸太郎氏が書き写して『殉国日記』に収録した、赤松氏自宅在『部隊長戦場日記』では、 「軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)ニ対シ那覇ニ転進会合ヲ受領ス」 ここまでは、転進先は那覇もしくは本島なのに、赤松氏は1966年ごろ防衛研修所戦史部の聴取を受けたとき、突如として転進命令の行く先を「糸満附近」だと強く主張した模様です。 戦史部はそれに折れたのでしょうか。戦史叢書では以下のように「糸満」を主説とし、「那覇」説を注記で記した副説としています。 6、1968「戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦」では、 赤松戦隊長は軍司令部に渡嘉敷島の情況を報告すると共に今後の処置について問い合わせたところ、二十五日夜軍司令部から『敵情判断不明、戦隊は情況有利ならざるときは本島糸満附近に転進せよ、転進の場合は糸満沖にて電灯を丸く振れ』の指示電報があった。 注:軍司令官は既述のように二十五日午前慶良間列島に米軍が上陸したとの報(誤報)を受けており、二十五日慶良間の海上挺進戦隊に転進を命じた。 大本営陸軍部第二課の戦況手簿は二十五日の情況欄に『慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進戦隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス』と既述している。 これは「公刊戦史」ですから、爾後、多くの著作物において主説である「糸満転進」が無意識に引用されているものと思われます。 なお戦史叢書の「慶良間列島の戦闘」全体を読めば、この25日の無電による「軍司令部による転進命令」を聞いたのは、軍司令部に問い合わせをした第三戦隊のみだったと理解できます。 さて、このように「糸満転進」命令説を押し通した赤松氏は、その後はどうしたのでしょうか? 7、1970年の赤松隊の戦友会谷本伍長がまとめた『海上挺進第三戦隊陣中日誌』では、 二一三○ 船舶団本部より下記命令を受領。 「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は懐中電灯を丸く振れ船舶工兵之を誘導収容す。」 なんと、転進先は何の説明も無く「糸満」から「那覇」に戻されてしまったのです。こっそりと、だともいえます。これでは、大本営の記録を引っ込めまでして赤松氏を尊重し、敢えて「糸満」を主説とした公刊戦史編集者の面目丸つぶれです。 というか、同一人物の記憶と主張がこれ程クルクル変る例はめったに無いのではないでしょうか? しかもこれは、渡嘉敷島にいた海上挺進第三戦隊そして配属部隊の将兵の運命を決めた軍司令部命令に関することです。もちろん、玉砕を迫られた女性、子供、老人たちの運命までが、僅か25歳の司令官のシビアリティーのない記憶によって差配されていたことを思うと、余りにも痛ましいとしか申し上げようがありません。 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1785.html
目次 戻る 通2-037 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (2)控訴人らの主張 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について (原)第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等 (判決本文p79~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等a 赤松大尉の手記(a) (「住民の処置は頭になかった」)* (b) (赤松によるマスコミ批判)* b 「ある神話の背景」(甲B18) c 「陣中日誌」(甲B19) d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) e 知念証人及び皆本証人の各証言(a) (知念証言)* (b) (皆本証言)* f 照屋昇雄の供述 g 徳平秀雄の供述 a 赤松大尉の手記 (a) (「住民の処置は頭になかった」)* 自決命令を出したとされる赤松大尉は, 「私は自決を命令していない」と題する手記を執筆し, 次のとおり, 自決命令を出していないと明言する(甲B2)。すなわち, 「二十六日夜」「私たちは」「寝ていると, 十時過ぎ, 敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が 『上陸はたぶん明日だ』 と本部の移動を伝えると 『では住民は?住民はどうなるんですか』 という。正直な話, 二十六日に特攻する覚悟だった私には, 住民の処置は頭になかった。そこで, 『部隊は西山のほうに移るから, 住民も集結するなら, 部隊の近くの谷がいいだろう』 と示唆した。これが軍命令を出し, 自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。」 「二十七日, 米軍の上陸開始, 二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは, 集結した住民の姿も見えなかった。」(甲B2・216,217頁)。 ※「二十七日,米軍の上陸開始」というが、赤松隊において誰がどう現認したのか、原告弁護団も赤松手記も、誰も説明していない。 ※ チャンネル桜の特集「爆弾!」スペシャル - 沖縄集団自決の真実(平成20年2月16日 放送)には、皆本元中尉、知念元少尉、金城武徳の3氏が米軍上陸地点でその「目撃談」を語る録画シーンがあるが、3人が3人とも米軍上陸を目撃してはおらず、伝聞情報を語るかインタビュアーの井上氏の決め付けにうなずくのみであるのが、まことに不自然であった。 (b) (赤松によるマスコミ批判)* 赤松大尉は, 座間味村がまとめた「座間味戦記」が 「マスコミの目にとまるや」 「つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに, 赤松という大隊長が, 極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。」 「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば, 事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば, 資料の質を問い, さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか」 「戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに, なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。彼らの書物を孫引きして, 得々として“良心的”平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」 と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。 b 「ある神話の背景」(甲B18) 「ある神話の背景」によれば, 「鉄の暴風」の記述は, 当事者に対する取材も信用に足る証拠もないまま, 著者の偏見と風聞に基づいて書かれたものであり, それが他の文献等に引用されることによって, 赤松大尉の自決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち, 軍の自決命令により座間味, 渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であり, これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概要」には「鉄の暴風」と酷似する表現, 文章が多数見られ, 偶然の一致ではあり得ず, 引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られる。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが, 「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは, 「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから, 記載から外したものである(甲B18・48頁)。そして, これらの3つの資料は, 米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず, 同月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18・49頁)。 ※そもそも、「昭和20年3月26日米軍が慶良間列島に上陸」は、沖縄第32軍の司令部電によるものである→「沖縄戦負兵日記 三月二十六日」。また, そもそも赤松隊が特攻舟艇出撃を中止せざるをえなくなった大きな理由として、赤松自身は(「ある神話の背景」によれぱ), 米軍侵攻に関する船舶団内の誤認、お門違いの「命令」によるものだったとしている。また、米軍の艦砲射撃の中で壕に篭っていた住民たちが3月26日を米軍の上陸の日と思い込んでいたであろう事は、金城武徳氏の手記からも十分推察できる。金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』 「ある神話の背景」によれぱ, 上記神話が生まれた背景は, 次のとおりである。すなわち, 生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるという立場上, 事件について説明責任を免れない古波蔵村長が, 遺族からの怨嵯の目から逃れ, 責め苦を少しでも軽くするために, 元村長としての責任を負担するよりも, 集団自決を命じた下手人として赤松大尉を選び, 非難を向けた。このことは, 古波蔵村長の, 赤松大尉や安里巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や, 事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫性のない説明などからも窺われる。 大城将保は, 昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24)において, 「曽野綾子氏は, それまで流布してきた赤松事件の“神話"に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」 「今のところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない。」 と評価している。 c 「陣中日誌」(甲B19) 赤松隊が作成した陣中日誌によれば,自決命令があつた形跡は全くなく, 「三月二十九日」「悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣したるもの約二百名」(甲B19・13頁) とあるように, 赤松隊が集団自決があったことを知ったのも, 昭和20年3月29日になってからであった。 d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) 沖縄出身の作家である上原正稔は, 集団自決を目撃した米軍兵士グレン・シアレスの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲B44)。上原正稔は, その取材過程において, 赤松大尉が自決命令を出しておらず, 金城武徳, 大城良平, 安里巡査, 知念証人らの供述または証言から, 赤松大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。上原正稔は, 取材の結果, 「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり, 自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず, 赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認した。 e 知念証人及び皆本証人の各証言 (a) (知念証言)* 知念証人は, 赤松大尉の側近として常に赤松大尉の側にいた者であるところ, 赤松大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。 (b) (皆本証言)* 皆本証人は, 第三戦隊においては昭和20年3月23日の空襲と艦砲射撃が始まるまで陸上戦を予想していなかったと証言しているところ(皆本証人調書2, 15頁), 陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ず, 同月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けたとする金城証人の証言は虚偽である。 そして, 皆本証人は, 集団自決の起こった3月28日は午前1時頃に主力部隊と合流したこと(皆本証人調書10頁), 同日午前3時頃赤松大尉の下に報告に行ったが, 自決命令に関する話は一切なかったこと(同10頁), 翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けたこと(同12頁), 赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが, 8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも, 赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(同12頁)を証言している。 f 照屋昇雄の供述 照屋昇雄は, 昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして, 渡嘉敷島での聞き取り調査について, 「1週聞ほど滞在し, 100人以上から話を聞いた」 ものの, 「軍命令とする住民は一人もいなかった」 と供述し, 赤松大尉に 「命令を出したことにしてほしい」 と依頼して同意を得た上で, 「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため,軍による命令ということにし,自分たちで書類を作」り, その書類を当時の厚生省に提出した旨供述している(甲B35)。 g 徳平秀雄の供述 渡嘉敷島の郵便局長であった徳平秀雄は, 「恩納川原に着くと, そこは, 阿波連の人, 渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって, 艦砲, 迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ, わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ, そこに当っていました。そこでどうするか, 村の有カ者たちが協議していました。村長, 前村長, 真喜屋先生に, 現校長, 防衛隊の何名か, それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも, そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと, 主張した人もいました。特に防衛隊は, 閾うために, 妻子を片づけようではないかと, いっていました。防衛隊とは云っても支那事変の経験者ですから, 進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は, 持って来た手榴弾を, 配り始めていました。」 「そういう状態でしたので, 私には, 誰かがどこかで操作して, 村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」 と供述している(乙9・765頁)。 徳平秀雄の供述によれば, 渡嘉敷村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況が明らかとなっており, 軍や赤松大尉の命令など全く語られていない。 目次 戻る 通2-037 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/511.html
防衛庁防衛研究所蔵《衛生・医事関係資料》の調査概要 Ⅱ 調査資料の概要と性格 Ⅱ 調査資料の概要と性格1 「金原節三業務日誌(未作成)」 2 「陸軍省業務日誌摘録(未作成)」 3 「金原資料(未作成)」 4 大塚文郎「備忘録」(未作成)(複製)13冊 5 「麻生資料(未作成)」について 調査対象資料は次の4種である。 1 「金原節三業務日誌(未作成)」 (以下「金原日誌原本」とする)15冊 この「金原日誌原本」は、戦後、金原氏が学校長を務めた陸上自衛隊衛生学校(東京都世田谷区三宿)に所蔵されていたものであり、記述は昭和12年8月3日より、昭和18年9月11日までである(昭和15年7月25日より昭和16年6月21日までほぼ1カ年は欠落している)。96年に防衛研究所図書館に移され、現在、他の資料とともに整理中である。 2 「陸軍省業務日誌摘録(未作成)」 (以下「金原日誌摘録」とする)35冊 前編(昭和14・3・12-昭和16・11・19 医事課員時代) 後編(昭和16・11・20-昭和18・9・11 医事課長時代) 本「摘録」は、戦後、金原氏自身が「金原日誌原本」をもとに筆記されたものである。箇条書き風の「日誌原本」を文章化したものが「日誌摘録」といえるが、「日誌摘録」の記述は正確に原本の内容を反映しているものと認められる。ただし、「日誌原本」の記述は昭和12年8月からであるが、摘録は昭和14年3月より始まっている。 なお、この「金原日誌摘録」は、吉見義明氏が『戦争責任研究』第1号において「陸軍中央と『従軍慰安婦』政策-金原節三『陸軍省業務日誌摘録』を中心に-」と題して、日誌摘録中の慰安婦関係記述を紹介している(以下「吉見論文」とする)。 「金原日誌原本」(および「日誌摘録」)の中心内容は、医務局内の課内会報(課内会議)、陸軍省内の課長会報、局長会報の模様の速記である。従って、医事・衛生関係の記事のみならず、それぞれの会報に出席した軍務局長、軍務課長、軍事課長、兵務局長ら陸軍省の主要課長・局長の発言を生々しく伝えており、その点でも貴重な史料である。なお「日誌原本」は陸軍用罫紙にペン書きであり、「日誌摘録」は原稿用紙にペン書きである。 3 「金原資料(未作成)」 陸上自衛隊衛生学校に所蔵されていた「金原日誌原本」以外の金原氏の手許資料である。金原氏が医事課に在職中に手元に集まった公文書類と手書きの私文書類から成るが、双方とも陸軍中央の医事業務の一端を伝えるものとして貴重である。本資料類も96年に防衛研究所に移管され、なお整理中であるが、以下のように分類することができる。 [公文書類] 7冊 「大臣訓示等綴」(陸軍衛生に関する大臣訓示・指示・上奏案など/昭和14-17年) 「指示綴」(軍医部長会議における部長指示、現地軍指示など/昭和14-17年) 「健兵対策資料綴」(「関東軍軍医部通報」昭和12年7月、「国軍保育現況ノ一端ニ就テ」昭和16年5月など) [私的文書類] 7冊 「業務日誌」と題する大学ノートにボールペン書きの覚え(3冊)(戦後、「日誌摘録」作成の資料のため日記を基に作成した覚えと思われる。期間は昭和15-16年のみ) 「スマトラからビルマへ自昭和一九・一〇・一-至昭和二〇・二・一九」(回想録の原稿。大学ノートにペン書き。昭和49年執筆) 「個人的陣中日記」(No.1)(昭和18年9月、近衛第2師団軍医部長としてスマトラ転出以後の日誌。ノートにペン書。記述は医事課時代に比べて簡単で回想記に近い。復員に際して連合軍より公務に関する書類の廃棄命令が出されたため、個人的体験のみ記述した、との但し書きがある) 「陣中日記 ビルマ」(No.2)(第15軍軍医部長時代。同上) 「陣中日記 ビルマからタイへ」(No.3)(同上) 4 大塚文郎「備忘録」(未作成)(複製)13冊 「備忘録」とあるが、日誌風のメモ(昭和18年10月15日-昭和20年9月23日)であり、「金原日誌原本」に比べて箇条書きがさらに簡単である。大塚氏は、「金原日誌摘録」に相当するものを残されていないため、きわめて判読が困難である。本備忘録の原本は、大塚氏によって昭和30年代に防衛研修所戦史室に一時貸与され、戦史室では複製を作成して返却したが、その後大塚氏は、元部下の求めに応じて貸与したが、元部下の死亡によって所在不明となっている。従って、複製(湿式コピー)のみしか残されていないため、判読困難な部分が多い。 因に故大塚氏は「備忘録」以外の資料を遺された形跡はない。 以上の資料類で、慰安婦問題に関する政府調査の際に、調査対象となったのは「金原日誌摘録」のみであった。政府調査の時点では、「日誌原本」および「金原資料」は陸上自衛隊衛生学校が所蔵し、大塚氏の「備忘録」は個人委託資料のため政府調査の対象から外されていたものと考えられる。 5 「麻生資料(未作成)」について 軍医として上海派遣軍の兵站病院で慰安婦の検診にあたった故麻生徹男氏の記録であり、防衛研究所に所蔵されているものは一部の複製である。 「麻生資料」のほとんどは、麻生徹男『上海より上海へ』(石思社、1993年)として刊行済みのものであるが以下は有益である。 「花柳病ノ積極的予防」(昭和14年6月26日) 「陣中日誌」(昭和13年10月23日-昭和15年12月10日) 本書には、慰安所や慰安所規則等の現場写真が含まれており、内容的にも刊行資料のなかでは最も信頼できるものの1つである 《衛生・医事関係資料》の調査概要index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1093.html
index08 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について index (contents) 第3・4 争点4(真実性の有無)について index第3・4(1) 被告らの主張第3・4(1)ア 背景事情 第3・4(1)イ 座間味島について 第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について 第3・4(2)原告らの主張第3・4(2)ア 真実性の証明の対象となる命令 第3・4(2)イ 援護法適用のための捏造 第3・4(2)ウ 座間味島について 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について 第3・4(1) 被告らの主張 第3・4(1)ア 背景事情 第3・4(1)ア(ア) (海上挺進戦隊配傭と総動員体制)* 第3・4(1)ア(イ) (村と住民側の態勢)* 第3・4(1)ア(ウ) (軍官民共生共死、玉砕と捕虜の禁止)* 第3・4(1)ア(エ) (隊長による自決命令)* 第3・4(1)イ 座間味島について 第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等 a 「鉄の暴風」(乙2) (a) (成立と内容)* (b) (神戸新聞記事に関して)* b 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収) c 「秘録沖縄戦史」(乙4) d 「沖縄戦史」(乙5) e 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(乙6) f 「秘録沖縄戦記」(乙7) g 「沖縄県史第8巻」(乙8) h 「沖縄県史.第10巻」(乙9) i 米軍の慶良間列島作戦報告書 j (住民証言の記録)* k (小括)* 第3・4(1)イ(イ) 原告ら主張の文献,見解等に対する反論 a 原告梅澤の陳述書について b 昭和60年7月30日付け神戸新聞について c 大城将保主任専門員の見解について d 宮村幸延の証言について e 「母の遺したもの」について f 住民の手記について 第3・4(1)イ(ウ) 座間味村の公式見解と原告梅澤の対応 a (沖縄タイムスの照会)* b (宮村盛永の「自叙伝」について)* 第3・4(1)イ(エ) 援護法適用のための捏造について 第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について 第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等 a 「鉄の暴風」(乙2) b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争新崎 新崎盛暉編」所収) c 「秘録 沖縄戦史」(乙4) d 「沖縄戦史」(乙5) e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) f 「秘録沖縄戦記」(乙7) g 「沖縄県史第8巻」(乙8) h 「沖縄県史第10巻」(乙9) i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付けタ刊)」(乙12) l 「渡嘉敷村史」(乙13) m 米軍の慶良間列島作戦報告書 n (以上の文献等からも)* 第3・4(1)ウ(イ) 原告ら主張の文献等に対する反論 a 「ある神話の背景」について b 「陣中日誌」について c 「沖縄戦ショウダウン」について d 照屋昇雄の供述について 第3・4(1)ウ(ウ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者について 第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて a (古波蔵村長の供述について)* b (富山兵事主任の供述について)* 第3・4(1)ウ(オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について 第3・4(1)ウ(カ) 自決命令を記載していた文献の絶版等について 第3・4(1)ウ(キ)(安里巡査の説明と星雅彦記者の記事)* 第3・4(1)ウ(ク) 証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について a (皆本証言について)* b (知念証言について)* 第3・4(2)原告らの主張 第3・4(2)ア 真実性の証明の対象となる命令 第3・4(2)イ 援護法適用のための捏造 第3・4(2)イ(ア) (捏造を裏付ける証言や文献)* a (「母の遺したもの」の記述)* b (照屋昇雄供述)* c (その他)* 第3・4(2)イ(イ) (被告ら主張に対する反論)* a (援護法適用の経緯)* b (援護課文書等に対する疑義)* c (軍命という風説はもともとあった)* 第3・4(2)ウ 座間味島について 第3・4(2)ウ(ア) 集団自決は盛秀助役の命令で行われたこと 第3・4(2)ウ(イ) 被告ら主張の文献に対する反論 a 「鉄の暴風」について (a) (記述の信用性)* (b) (神戸新聞記事に関して)* b 「座間味戦記」について c 「秘録 沖縄戦史」等について (a) (諸文献の淵源)* (b) (諸文献は口裏合わせ)* d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について 第3・4(2)ウ(ウ) 自決命令を否定する文献,見解等 a 原告梅澤の陳述書等 b 昭和60年7月30日付け神戸新聞(甲B9) c 大城将保の見解 (a) (沖縄史料編集所紀要における記述)* (b) (大城本人の記述や証言であること)* d 宮村幸延の「証言」 (a) (親書の手交)* (b) (梅澤が語る経緯)* e 「母の遺したもの」(甲B5) f 住民の手記 (a) (沖縄県史第10巻より)* (b) (被告らの手記引用について)* 第3・4(2)ウ(エ) 座間味村の公式見解と原告梅澤の対応について a (「鉄の暴風」の記述にかんして)* (a) (座間味村の虚偽回答は当然である)* (b) (沖縄タイムス社の応答について)* b (宮村盛永の「自叙伝」について)* c (沖縄タイムス社に対する梅澤発言について)* 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について 第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯 a (原告らによる再構成:3月23日~27日朝)* b (原告らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)* c (原告らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")* d (原告らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)* e (原告らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)* f (原告らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)* 第3・4(2)エ(イ) 手榴弾の交付について a (曽野綾子の証言によれば)* b (小峰園枝の証言) 第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論 a (文献間の関係)* b 「鉄の暴風」について c 「戦闘概要」について d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について 第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等 a 赤松大尉の手記 (a) (「住民の処置は頭になかった」)* (b) (赤松によるマスコミ批判)* b 「ある神話の背景」(甲B18) c 「陣中日誌」(甲B19) d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) e 知念証人及ぴ皆本証人の各証言 (a) (知念証言)* (b) (皆本証言)* f 照屋昇雄の供述 g 徳平秀雄の供述 第3・4(2)エ(オ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者が不在であること 第3・4(2)エ(カ) 自決命令の言い換え a (古波蔵村長の供述について)* b (富山兵事主任の供述について)* 第3・4(2)エ(キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計 第3・4(2)エ(ク) 自決命令を記載していた文献の絶版等 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/valkyria2/pages/14.html
本スレテンプレ [#f625aeb9] 1 [#bb1c2fc9] 2 [#s3e6e839] 3 [#b90ece51] 本スレテンプレ 1 【タイトル】戦場のヴァルキュリア2 ガリア王立士官学校 【発売日】2010年1月21日発売 【ジャンル】アクティブ・シミュレーションRPG 【プレイ人数】1人 (アドホック通信プレイ2〜4人) 【CERO】B 【発売/開発】SEGA 【価格】UMD版 6090円/ダウンロード版 5400円 (税込) ■公式サイト http //valkyria2.jp/ ■公式ブログ http //ameblo.jp/val-log/ ■陣中日誌 http //blog.valkyria.jp/ ■まとめwiki http //alphawiki.net/valkyria2/ ■前スレ 【PSP】戦場のヴァルキュリア2 -第25陣- http //jfk.2ch.net/test/read.cgi/handygrpg/1264932609/ 次スレは 950が立てること ※反応がない場合は 970がお願いします 2 ■関連スレ 【PS3】戦場のヴァルキュリア-第114陣- http //schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gamesrpg/1264842297/ 【PSP】戦場のヴァルキュリア2攻略スレ http //schiphol.2ch.net/test/read.cgi/handygover/1263899231/ 3 ■よくある質問 Q.どのキャラ使えばいい? A.最初は好きに使って雰囲気をつかめばいいよ Q.ポテンシャルによっては発動しても弱くなるんだけど A.そのキャラごとのストーリー進めるとある程度デメリットのポテンシャルは解決される Q.欲しい単位取れないんだけど A.ミッション受ける前に□ボタンを押して取れる単位が見れる もしくはブリーフィング中に情報タブで見れる Q.キャライベント出るやつと出ないやつがいるんだけど A.パス入れて出したキャラはイベント無し Q.クラスメイトイベントが起きないんだけど A.該当キャラの戦闘中の行動回数(初期配備もカウント)で発生 Q.初級or上級修了証が手に入らないんだけど A.初級なら3月以降、上級なら8月以降のミッションでランダム入手 Q.リーダーの任命ってどうすればいいの? A.クラス編成で□ボタンを押してください Q.鹵獲武器って何? A.名前付きのmobが落とす武器。 強かったりそれなりだったり差は大きいけども入手しておいて損はない。 ちなみに1度目は設計図を落とすので2回目以降に入手可能。 基本的に2種類持っています Q.2週目ってあるの?引き継ぎ要素は? A.2週目はなく、以下の要素がクリア後に追加 ・ストーリーミッション含む全ミッションが受けられる ・キャラ、ミッション、イベント追加あり ・就寝時に月送りが可能 ・開発レベルMAX なお、新規スタートでのハードモードなどは今のところ確認されていない。 Q.前作の「戦場のヴァルキュリア」とのセーブデータ連動がうまくいかない A.PS3に繋いでセーブデータを移す もしくはPSPのPS3\SAVEDATA\BLJM60063-PLAY-** に入れる